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  「天井桟敷の人々」 Date: 2009-09-02 (Wed) 

 今は廃刊してしまった「シネモンド」や「レクラン・フランセーズ」を眺めていると、思いがけなく、遠い日の記憶がよみがえってくる。
 人並みにたくさんの映画をみてきた。
 もうほとんど忘れている。題名だけはおぼえていても内容をまるっきり忘れてしまった映画が多い。
 心に残った映画でも公開当時の印象は、あとになって、演出や、俳優女優のことにくわしくなった知識とは、およそ異質のものだったと思う。
 私は、フェーデルの「外人部隊」や、「女だけの都」、クレールの「巴里の屋根の下」、「巴里祭」、デュヴィヴィエの「望郷」、「舞踏会の手帳」、シュナールの「罪と罰」といった映画に感動してきた。こうした映画が私の将来を決定したといえば、いい過ぎだろうが、絶大な影響を受けたことは間違いない。
 はるか後年、映画批評を書くようになってから、「東宝東和」の川喜多 かしこ女史を見かけることがあった。面識のない私は、黙って女史に頭をさげるだけで通り過ぎるのだが、心のなかでは――あなたが見せてくださった映画のお蔭で、私は作家になろうと思ったのですよ、と声をかける。

 現在の私とは全然別な世界に、遠い日の記憶がある。少年の私は何も知らず、スクリーンにあらわれるものを、そのまま信じることができた。映画はあくまで映画だった。

 敗戦直前に、勤労動員が解除されて大学に戻った。勤務先の大工場が爆撃され、破壊されてしまったので、大学に戻るしかなかった。
 戦争が終わって授業が再開された。
 私は、まあ真面目な学生だったが、教室にはほとんど出なかった。生意気ざかりでもあったが、栄養失調で、毎日、微熱が続いていた。
 それに、大学の教室は、もはや私の世界ではなかった。たとえば、唐木 順三や、亀井 勝一郎のつまらない講義を無理して聞くというのは、不自然に自分を抑制して努力することだった。それに、戦後すぐから原稿を書いて、少しでも収入を得なければならなかった。
 大学は勉強する場所ではなかった。つい数週間前まで、皇国の精神とか、八紘一宇などというご託をたれていた教授が、新生日本の道とか、民主主義の理念を説くような風景に虫酸が走った。苦痛をこらえながら、そんな連中の抗議をうけなければならぬ義理はなかった。
 映画を観た。ひとりで、あるいは親しい仲間たちと、映画ばかり観ていた。

 戦後すぐに、それまでのミリタリズム映画の上映が禁止されたため、ほんの一時期だったが、戦前の旧作フィルムがどっと上映されたことがある。
 今でもおぼえているのは、まだ無名時代のグレタ・ガルボが出演した「喜びなき街」(G・W・パプスト監督)を見たことだった。この映画のラストシーンに、ワンショットだが、ガルボよりももっと無名のマレーネ・ディートリヒが出ていた。
 とにかく娯楽に飢えていた。
 ソヴィエト映画の「愉快な連中」という喜劇、いわゆる新経済政策(ネップ)時代の映画で、硬直した官僚主義や、革命後の人民のみじめな生活を風刺した喜劇に驚嘆したこともあった。ソヴィエト映画もずいぶん見たが、丸の内のソヴィエト代表部の試写室で、ワンダ・ワシレフスカヤ原作の「虹」や、ドストエフスキー原作の「罪と罰」などを見たことを思い出す。しかし、ほとんどのソヴィエト映画に私は感心しなかった。

 大森に住んでいたので、東口にできた映画館によく行った。当時、省線といった国電(今のJR)がすぐ前を走っているような場所で、線路の土手に雑草が生い茂っていた。
 ある晩、アメリカ兵が二人、その土手に若い娘を引きずり込んで強姦した。女の子が悲鳴をあげて助けを求めていても、誰もどうすることもできなかった。ほとんど失神している女の子のスカートが剥ぎとられて、夕闇のなかで白い足がぼうっと見えていたことを思い出す。
 このとき見た映画は、どうしても思い出せない。鈴木 澄子主演のお化け映画、「狂恋女師匠」だったような気もするのだが、館内はこの事件で騒然としていた。強姦したアメリカ兵が逃げたあとで警官が二、三人駆けつけてきたり、観客たちのほとんどが外に出たために映画の上映が遅れたり、みんなが昂奮していた。やがて映画がはじまったが、スクリーンを見ていながら、下半身をむき出しにして倒れていた若い娘のイメージが離れなかった。

 映画を観ては、ひどく疲れて寝込んだ。戦時中、工場医にかるい肺浸潤と診断されたが、戦後の混乱のなかで、微熱がとれない。盗汗(ねあせ)もひどかった。食料も薬もなかったし、休養もとれなかった。私の周囲でも、同年代の若者、若い娘たちがつぎつぎに肺結核で亡くなっていた。
 やっと病院は見つかったが、気胸療法を受けるために、埼玉県の大宮から神奈川県の保土ヶ谷の、それも丘の上にあった療養所に通うような状況だった。
 ある日、担当の医師が、何度目かのX線写真を見て、
 「これはいかん、すぐに手術したほうがいい」
 といった。
 戦後になって、父はもと勤めていたオランダの会社、「ロイヤル・ダッチ・シェル」に戻るつもりだったが、アメリカ系の会社がぞくぞくと復活しているのに、「シェル」の復活は遅れた。そのため、父の収入では私の入院などはじめから不可能だった。
 入院しなければならないことはわかっていたが、手術を受けるつもりはなかった。保土ヶ谷からの帰り、上野から浅草に出た。
 どうせ死ぬのなら、せめて見たい映画を見ておこう。
 封切られたばかりの映画を見るつもりだった。大勝館で切符を買った。貧しい学生だった私は、どんなに見たい映画でも封切館で見ることはなかった。たいていが、二番館、三番館に落ちて、二本立て、三本立てになってから見るのだった。大勝館の切符は、すでに雑文を書きはじめていた私にとって、5枚分の原稿料と同額だった。

 このとき見たのは、マルセル・カルネの「天井桟敷の人々」だった。

 偶然に知りあった女に惹かれ、永い歳月、ひたすらその女の愛を求めながらついに報われることのない道化師の哀しさが、二十代になったばかりの私にわかるはずはなかった。

 しかし、映画館を出たときの私は、眩暈のようなものを感じつづけていた。戦争で死ななかった私だが、肺結核で死ぬに違いない。死ぬことは怖ろしくなかったが、このときの私は、せめてもう少し生きていたい、と思った。
 歩きながら私の頬に涙が流れていた。



注・  『私の一本の映画』(キネマ旬報社・編/1982年刊)に発表したもの。
    今回、すこし手直しして、「中田 耕治ドットコム」に収録する。


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