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  福岡 徹の作品 Date: 2006-08-27 (Sun) 
 

 福岡 徹の作品集は、『未来喪失』と『鬼の手』を読んだ。
 『鬼の手』はもとより鬼手仏心にちなんだもので、医家としての福岡 徹の信条による。医師として研究を命じられたころのことを書いた「新・糞尿譚」を読んで、この作家の資質に関心をもった。
 むろん、「未来喪失」にも医師としての観察が随所に働いている。
 人工受精をうけにおとずれた人妻に、自分の精液を注入する。その結果、彼女は妊娠するが、そのときから医師の内部に人間的な感情が育ちはじめる。医師として、自分の子をこの世に送り出すという罪の意識、その人妻に対するひそかな愛、さらには彼の子どもから父と呼ばれるであろう人妻の夫に対するいらだたしい嫉妬。
 この作品は、福岡 徹の人間に対する愛情と追求を、ほぼ遺憾なくしめした作品で、医師だった彼らしい主題設定だった。
 この作品が、人倫上、背徳的といえる内容をもちながら、主人公の内面に深い凝視をむけ、従来の医家小説のようにトリヴィアルな部分に対する執着におぼれず、冷静に書き進めている。
 むろん、私といえども、この作品のすべてに感心したわけではない。
 たとえば馴染みの芸妓との交情について・・・・「女と寝ながら、粘液の混合にはほとんど関心を示さない。そうしたことが二人の間でなされなかった訳ではないが、それは多く通いはじめの頃のことだ」という。
 こういう部分はプレシオジテというべく、いささか老獪ないいかたというべきだろう。現実の福岡 徹の遊びかたをいくらか見てきたせいか、そこまで韜晦する必要はないという気がする。
 これは、この作家の精神の低さにもつながっている。
 『「いや、現在の世界では家も女もない。自分の子のためにはどんなことでも為なければなりません。……われわれは自分の子を認識する最後の人間かも知れませんから……」 林はこう言いながら、女が男を恐れた時代は過ぎ、逆の恐怖の時代となったのを感じた。そして最も根本的な人間関係が、当事者の知らぬ間に、くつがえされる現代というものを考えた。』
 ここまでくると、この作家の思想はひどく浅薄なものといわざるをえない。
 せっかくの作品の密度を犠牲にしてまでも、なにやら深刻な感慨、そのくせ実質の希薄な思想を主人公に語らせることで、福岡 徹は作家としての弱さを露呈したと思う。
 福岡 徹の主観がしばしば独善的で、読者のことも考えずに、あくまで自分の内面に設定した範疇に引き込まなければ承知しないところがある。そうなると、つよい牽引力とひろがりが相殺しあう部分がめだって、人間の、なぜかたしかな基盤、実質といったものが消えうせる。つまりは、小説に出てくる人間をささえるたしかな手ごたえが欠落してしまう。
 『鬼の手』の5編のなかでは「淑子の手記」が、いちばん重量感があった。戦後の現実を側面からとらえながら、女の生きかた、ヒロインの内面にひそむきびしさ、清潔さを描こうとしている。私はほかの作品との関連からみて、福岡 徹の作品系列の重心を変えるかも知れないと見たのだった。
 手記という形式をとって、「淑子」という若い娘の一種の感情教育を描いているのだが、その生きかたを肯定することで、作家が見かけだけの安寧に蔽われた日常のありかたに疑惑をむけている。
 彼女が「極めて短いもの、既に終ったもの」として自分の生をとらえ、十五年という歳月を経て、ある恋愛の始まりと終わりを書きとどめているという設定には、おそらく福岡 徹の「ほろび」の意識が投影していたと見る。

 この作品の冒頭に、
 「彼らの哲学は他人用なのだ。ぼくには自分用のものが一つあればそれでいい」
 というルソオのことばが置かれている。そして、末尾には、
 「哀れにも無力なる人間よ! おまえは語法、音声とかいうやつをもちいて、おしゃべりし、片言をならべ、神とか、天とか、地とか、化学とか、哲学とかを定義してのけるくせに、一人の裸女が……いや、一個のプラム・プディングがあたえるよろこびにいたっては、その言葉ではことこまかに言いあらわせないのだ」
 というフロ−ベルのことばが引用されている。
 自作のオ−プニング、エンディングにれいれいしく異国のえらい人のことばを掲げるというのは、どうも気恥ずかしいかぎりだが、あえて試みるというあたりが福岡 徹の身上(しんしょう)だった。
 一種の序詞というか、主題の提示として、大作家や思想家のことばや、箴言といった短いエピグラフをつける。これはめずらしいことではない。『未来喪失』の4編にも、ラ・ロシュフ−コ−ほかの言葉が主題の提示というかたちで掲げられているのだが、こうした臆面のなさ、強引さに、福岡 徹の主観がしばしば独善的で、あくまで自分の内面にカテゴライズしたものを承認させようとする姿勢があったと思う。それが、彼を作家たらしめたものだったことを認めたうえで、いまの私にはなんとも微笑ましく見えるのだが。
 福岡 徹の内面には、他人の思想への決定的な訣別があった。彼が本質的に観念性のつよい作家だったことを物語っている。だが、はたして「裸女」や「プラム・プディング」があたえてくれる「よろこび」を語ることがあったのか。

 福岡 徹の作品では「新・糞尿譚」を愛読した。題名から想像がつくように、ウンコの物語である。
 もともと私たち日本人は、性に対して不寛容でありながら、排泄物に対してはそれほどめくじらを立てない。ロシアの作家が胃袋と食欲について語ると、きまってユ−モリストという名声を得ることができる。それとおなじ程度に、我が国でウンコについて語る作家はパンタグリュエル的な評判をかちとることができるだろう。
 火野 葦平、開高 健、『スカトロジア』の山田 稔につづいて、福岡 徹の「新・糞尿譚」が、この輝かしい系列のなかに入るだろう。むろん、ウンコそれ自体をあつかったというより青春の回想として、異彩、いや、異臭をはなっている。
 「制作」 1968年4月

注・  福岡 徹の作品では、『軍神』がもっとも重要なものだが、私がこれを書いた当時、まだ発表されていなかった。
    福岡 徹は、本名、富安 徹太郎。産婦人科の医師で、「文芸首都」から出発した。「日本きゃらばん」の庄司 肇、「城砦」の三浦 隆蔵たちと文学的に親しかった。
    私は千葉に住んでいたので、「千葉日報」記者の遠藤 寛夫の紹介で知りあったと思う。
    福岡 徹が亡くなったとき、私は友人として弔辞をささげている。


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