一月九日のこと 原民喜旧居あとへ

 


「瓦やレンガ、石畳や井戸! 熱線で焼けたのか赤黒く変質した地層など、まるで遠い昔の遺跡のようです」

一月七日、広島の友人からふいにメールが届き、私の心は震えた。広島平和記念公園に平和記念資料館、別名原爆資料館がある。その耐震補強工事にともない、資料館敷地内の発掘調査が始まっていることがメール文に記されていた。友人は資料館のガイドをしている熊谷由利子さん。地盤は深さ一、五メートルまで丁寧に掘られ、地層から、家々の遺構や地盤が出てきているという。彼女は、私が昔書いた詩を引用してくれ、メール文をこう続けた。

「地表には生きている人の時間

地下には死んでしまった人の時間が

断面にそって並んでいる

本当に、本当にこの詩の通り。七十年前の断面が見えるんです。時空を超えたヒロシマ」

 昨年末手元に届いていた中国新聞でも、発掘調査についての記事を見つけた。記事には、牛乳店跡から「乳酸菌」「全乳」と印字されたたくさんの牛乳瓶、焼けて真っ黒になったおびただしい木材、神戸商業大のメダルなども出土したと書かれていた。

 平和記念公園へ行かれた方はご存じのとおり、広々とした美しい公園だ。だがその地下には、中島地区と呼ばれた、原爆で壊滅した町が沈んでいる。瓦礫の上に盛り土をして作られた公園なのだ。昔、私が広島に住んでいたとき、地面の下の、熱線に焼かれた瓦やお茶碗の欠片などへ心を近づけ、原爆が落ちてきた空からの圧力と地下からの力に挟まれそうになりながら公園を歩いた。それらが埋まっていた地層の、一メートルほど上を私は歩いていたのだ。だが、石畳や井戸や土間が(その後の知らせでは、被爆した銭湯「菊の湯」も)出現するとは、思ってもみなかった。「パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ(原民喜「ギラギラノ破片ヤ)」がまさに七十年後の現実世界に出てきた。地面の下の真実が、決して忘れるな、と、割れた野の隙間から姿を顕わし、こちらに迫ってきたことに私はおののいた。

 熊谷さんからのメールは、シンクロニシティ、あるいは前触れとして私のところに飛んできたのだろうか。その直後、今度は映画作家の宮岡秀行さんから連絡が届いた。二日後の一月九日、千葉の、原民喜が戦前住んでいた旧宅を一緒に探して、その様子を映像に撮りたいという。二日後とはずいぶん急ではないか。だが、民喜が妻貞恵さんと過ごした、トポスと呼んでいい場所へ行けるのなら、私もどうしても行きたい。さまざまな思いが私の心に流れ込んだ。原民喜被爆地点の幟町や民喜詩碑を幾度も訪ねたこと、広島花幻忌の会発行の「雲雀」に宮岡さんと往復書簡を書いたこと、電話で話した広島花幻忌の会の、今は亡くなられた海老根勲さんの声、民喜甥の原時彦さん、研究者の竹原陽子さんたちと原家疎開先の八幡村を歩いたこと、昨年出た民喜の二冊の書物『原民喜全詩集』と『幼年画』を繰り返し読んだことなどを思い出し、私の頭は爆発しそうになった。

 民喜が昭和九年から、昭和十九年の貞恵さんの病死を経て、二十年一月まで住んでいたのは、現在の千葉市中央区登戸【ルビ:のぶと】だ。私は横浜市の南端に住んでいるので、東京湾の縁をぐるりと移動することになり、千葉はけっこう遠い。千葉まで行くのだったら、もしも時間があったら、千葉市にお住まいの、私の恩師の中田耕治先生もお訪ねしたい。中田先生は戦後すぐの時期に「三田文学」に何本も原稿を書かれ、「三田文学」の編集をしていた民喜に幾度も会われていた。以前、戦後の原民喜について、話してくださったことがあった。勇気を出して中田先生にも会いに行こう。

 私は前夜、興奮して眠れなかった。やがて眠ることをあきらめ、『定本 原民喜全集』を拾い読みして夜を過ごしたが、その後、始発電車に乗って、千葉へ行った。登戸の町内で、車で来た宮岡さんと落ち合う。

 この登戸のどこに旧宅があったのか。今は丸山アパートという建物になっているらしい。

 『定本 原民喜全集』の解説に、民喜の友人、長光太がこのような文を書いていた。

 「原民喜は遥か千葉の海岸の登戸へひっこむ。/登戸の住まいは電鉄の小さな駅から近く、畑や草原の道を、名のとおり登戸の高台からの降り口をちょっと下って、左手にはいったとこにあった。はいって行くと端書の地形図どおり、二軒長屋が向かいあってひろ目の路地が中庭のようにあり、左側の奥の玄関が原民喜の住まいである」

 今は畑も草原もない住宅の密集地だ。だが驚いたことに、地理的に、まさに長光太の文のとおりに路地があった。京成電鉄の小さな駅「新千葉」から、ちょっと下ってすぐ左手に、車が入れない小さな道がある。そこを曲がってみると、ぽっかり中庭のような路地だ。「丸山アパート」の表示は路地のどこにもない。だが路地奥の左側に小さなマンションがあり、お住まいの方が、この建物は以前丸山アパートという名前だったと教えてくださった。

 ここなのだ。なんともいいがたい感動に襲われた。ここで民喜は貞恵さんと暮らしたのだ。そして広島での幼年時代を、記憶の地下室へ下りてゆくように克明に思い出しつつ、『幼年画』をはじめ一連の作品を書き続けた。病気の貞恵さんを看病し、そして失い、「小さな庭」などの連作詩を書き、傷心のうちに昭和二十年一月広島に引き揚げるまで住んでいた場所。

 このぽっかりと開かれた路地全体が、「小さな庭」のように私には感じられた。ここでの穏やかな暮らしが(深い悲しみに終わったけれども、それでもひとつの明るい記憶として)、戦後の原民喜の心に光をあて続け、彼を支えていたのではないか。そのような思いを持った。

 長光太の文には、民喜の家のすぐ下の海へ、水着を着たまま海水浴へ行った楽しい思い出も描かれている。埋め立てられ、昔の海岸線も今は交通量の激しい国道で、国道の向こうも住宅地が広がり、海の気配ははるかに遠い。「千葉海岸の詩」は旧宅近くの、今は既に存在しない海岸で書かれた詩なのだろうか。

 登戸での撮影のあと、中田耕治先生のお住まい近くまで移動した。民喜が亡くなる少し前、「三田文学」の集まりで最後に会われたときの様子を先生は話してくださった。ここには書かないが、そのとき先生から伺ったお話には深く胸を打たれた。

 その後、稲毛海浜公園でも撮影し、合流した若い文化財研究者とともに慶応大学三田キャンパスへ移動した。「三田文学スペシャルイベント 朗読とお話 原民喜を読む」。村松真理さんと吉増剛造さんの対話は、非常にスリリングだった。昨年刊行された岩波文庫『原民喜全詩集』は、私には本当にうれしい本だった。薄い詩集だが、これほど大きな詩集を読むのは初めてだった。この配列で編纂された民喜詩集を読みたいと、私はずっと思っていたのだ。「夏の花」が妻の墓を訪れるところから始まるように、「原爆小景」の一連の作品も、その下には、貞恵さんとの生活の、幸せと嘆きの記憶の光が射し込んでいるはずだ。読者は、静かな悲しみに満ちた詩篇群を読んだあと「原爆小景」が始まることに、その異様な世界に、激しい衝撃を受ける。これが、原民喜が意図的に構成していた世界だったのだ。

 私は昨年「現代詩手帖」年鑑号に、原民喜は未来の詩人である、と記した。今の私たちのそれなりの喜怒哀楽の生活が、いずれくる壊滅の日以降を支える光になるのかもしれないという、いびつな、予感めいたおののきがある。無論、そのような壊滅などは来ないことを望むしかないが、いずれにしても、原民喜の文学には、未来の私たちをずっと支える力があるように思える。

 一月九日は、私には忘れることのできない、長く、深い一日となった。

 

 

「三田文学」125号に掲載