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2007年07月 アーカイブ

2007年07月24日

マリリン・モンロー・オークション

私は「マリリン・モンロー展」なるものを企画したことがある。
 ある年の十一月、千葉で「国民文化祭 ちば」が開催される予定になっていた。(この文化の「国体」は、第一回が東京都、つづいて熊本、兵庫、埼玉、愛媛の順で開催され、この年は千葉で行われたのだった。その後もひきつづき各県もちまわりで、毎年おこなわれている。)
 千葉県下でも、さまざまなイベントが計画されていたが、その一環として、「国際映像祭」が千葉市で開催され、映画監督のリュック・ベンソン、作家の遠藤周作さんの講演などが予定されていた。(これは実現しなかった)。
「国際映像祭」のイベントの一つとして、私の「マリリン・モンロー展」が企画に入ったのだった。
 ただし、千葉県の「国民文化祭」なのに、なぜマリリン・モンローなのか、といった反対があったらしい。

 私としては、マリリンに関するさまざまな資料、写真などの展示のほかに、日本の芸術家によるマリリン・モンローを主題とする制作を展示する。友人の画家、スズキ シン一をはじめ、安芸 良、小林 正治、人形作家の浜 いさを、イラストの兎森かのん、といった芸術家たちの協力を得て、当時としては絢爛たる「マリリン」がずらりと並んだ。
 スズキシン一は、生涯、マリリン・モンローしか描かなかった特異な画家だった。この画家は、当時、百万体のマリリン・モンローを描きつづけていた。「国民文化祭」の観客も、彼が描きつづけているマリリンの鮮烈なエロスと、ひたすらマリリンに固執する特異な芸術家の制作にショックを受けたようだった。
 当時、私が教えていた女子美大の女子学生たちの協力で、彼女たちの「マリリン」がいっせいに登場した。なかなか壮観だった。おなじマリリンでも、八十年代までのマリリンとはずいぶん発想が違う。プラスチックで等身大のマリリンのヌードを作った女の子もいるし、日本画で江戸の娘風俗のマリリンを描いた女の子もいる。具象派あり、ポップアートあり、大きなプラスチックにマリリンの写真数十枚を封じ込めたり、数十頁のマンガで「マリリンの生涯」を描いたり、無数のゴマ粒でマリリンを描いたり。グロテスクなマリリン、可愛いマリリン、とにかくマリリンだらけだった。
 こうして「マリリン展」に参加してくれた女の子たちがそれぞれマリリンに関心を寄せていると知ってうれしかった。
 とにかく、みんなが意欲的な作品を寄せてくれたのだった。
「マリリン・モンロー展」のために、絵を描いてくれた女子学生のひとりが「マリリンって可愛いから好き」といった。なかには「先生はいいわねえ。生きているときのマリリンさんを見て育ってきたんでしょ」というお嬢さんもいた。
 直接マリリンに会ったこともない。それにファンでさえもなかった。ただ、私はマリリンを軽蔑の眼で見なかっただけなのだ。
 なにしろろくに予算もなかったため、はじめに予想した成果は得られなかったが、私としては地元で「マリリン・モンロー展」を実現できただけでもうれしいことだった。

 なぜマリリン・モンローなのか。
 どんな人物の評価であれ、いつも一定不変の性質をもつことはない。マリリンにしても例外ではなかった。いうまでもなく、かつてマリリンは、セックス・シンボルと呼ばれた女優だった。マリリン・モンロー自身もそういうイメージに傷ついた。
 ウーマン・チャイルド、つぎつぎに男から男を遍歴した性的にだらしない女、いわば娼婦としてのイメージがつきまとっていた。マリリンは軽蔑されてきた。だが、そうした軽蔑には、いつもひそかな羨望がまつわりついていた。
 しかし、もはやこういうイメージは払拭されている。マリリンの死後、彼女に対する評価はドラマティックに変化する。
 やがて、マリリンは、こうした負のイメージから脱却して、「優しい女」になったし、ときには「闘う女」、ウーマン・リブの先駆者とさえ見られるようになった。
 私にとってそんなマリリンはどうでもいい。マリリンは、高慢な心のいやしさ、他人を差別するような人間のみにくさに傷つき、終生それを嫌いつづけた女なのである。

 スターとしてのマリリンはもはや歴史のなかに組み込まれている。しかし、歴史というものは不思議なもので、マリリンのような有名な女優でも、スターリンのような独裁者でも、共産主義のような思想、人民、教義、なんであれ、時代の推移につれて、かならず評価も変化する。歴史は、そのときそのときには曖昧に見えながら、いつしかはっきりした裁断をくだすものなのだ。

 今回、このHPをはじめるにあたって、これまで集めてきたマリリンに関する資料、マリリン・グッズの一部をオークションに出すことにした。
 大部分はそれほどめずらしいものではないかも知れないが、資料にはもはや入手もむずかしいものもある。
 マリリンに関心をもってくださる方々の手にわたればこれに過ぎるよろこびはない。

マリリンの魅力

 マリリンはいつまでもすばらしい魅力を見せている。
 ただし、その魅力はセックス・アピールに集中しているわけではない。そう単純にはいい切れない。なぜだろうか。
 めいめい、ご自分の恋愛を考えてごらんなさい。きみたちは、恋人を好きになったとき、相手の不明瞭な部分に惹かれたり、または明瞭な部分に惹かれたりする。それが恋愛というものではありませんか。

 1889年、トマス・エジソンが動く絵(ムーヴィング・ピクチュア)の開発に成功して、はじめて活動写真、つまり映画(ムービー)が登場して以来、無数のスターがスクリーンを彩ってきた。
 映画の影響力は絶大なものだった。それだけに、どういう国でも、社会的な防衛本能から映画の影響をおそれる人たちがいた。シカゴでは1907年、ニューヨークでは1909年に映画の検閲が始まっている。当時のニューヨークの検閲機関は、「長過ぎるラブ・シーン……ピッタリからだを密着させてのダンス」に眉をひそめた。
「肉体の誇示、犯罪の描写、いやらしい、または暗示的な行為、不当な暴力、劣情を抑制するのではなく喚起するような行為は、道徳の二重基準(ダブル・スタンダード)、欲望充足のための安易な手段を恒久化する傾きがある」として検閲を強化した。
 1913年には、53本の映画が上映禁止、401本の作品がその一部を削除されている。今の私たちが見れば別にどうといった映画ではない。ただ、映画はいつの時代でもこうした社会的な禁遏(きんあつ)と隣りあわせに作られてきたのだった。
 映画の影響力の一つはスターという存在によるものだった。スターは作られる。ハリウッドの歴史は、それぞれの時代に君臨したスターの歴史になった。ハリウッドの歴史は、セクシュアルなスターの歴史だった。
 メアリ・ピックフォード、リリアン・ギッシュなどの清純派のスターから、ルイーズ・ブルックスのような「宿命の女」(ファム・ファタル)、クララ・ボウのようなセクシーな女優たち。今ではもう誰の記憶にも残っていないたくさんの美女たち。
 クララ・ボウは「イット女優」と呼ばれた。「イット」は誰でも知っている代名詞だが、二十年代には性的魅力、セックス・アピールという意味で使われた。この「イット」は、あたらしい女性たちの性的な解放と自立の象徴でもあったが、あくまで女の性(セクシュアリティー)女らしさ(フェミニニティー)を強烈に押し出して、男の関心を惹きつけるための武器でもあった。だが、現在、誰がクララ・ボウをセクシーな女優として記憶しているだろうか。
 女優が衣裳を脱ぎすてて美しい裸身をさらけ出す一方、できるだけ美しく着飾らせることも必要になる。セシル・B・デミルは、いつも映画のなかで、女優たちにつぎからつぎに美しい衣裳を着させた。そして、女優が豊満な腿や胸もとを見せる入浴シーンを「発明」した。
 セダ・バラは「悪女」としてスクリーンで美しい脚線美を見せつけ、ベッドに腰を下ろして、いとも優美な指先でストッキングを巻きおろして見せたり、ヒップ・フラスク、あるいはヘビー・ペッティングを見せた。
 マリリンは、こうした女優たちのすべてを体現していた。かつてマリリンがどんなにつよい非難にさらされたか、今になっては想像もつかないけれど、マリリンをおとしめることで優越感にひたった人たちが、たくさんいたことも事実なのである。
 だが、マリリンを非難したことばはすべて消え去ってしまった。いまの私たちは、マリリンがすべてをあたえてくれたと思っている。そういう思いが、マリリンをああも比類ない女優にしたのではなかったか。
 マリリンは少女時代にいろいろと不幸な経験をしている。女としての不幸も。なにしろ大不況、社会改革、そして戦争の時代だった。このことも注意していいだろう。貧困から這いずりあがってスターになった彼女は、アメリカの「機会と成功」の夢を実現したひとりだった。
 みなさん、めいめい自分の青春を思い出してごらんなさい。青春とは、なぜかいろいろと間違いをおかして生きることではないか。しかし、すぐに間違いをおかすことさえできない生きかたに変わってしまうものだ。マリリンは自分の人生でずいぶん間違いをおかして生きなければならなかった女優だった。ところが、今もって女としてわるびれずに青春を生きているといっていい。生前の彼女を非難した人々のことばなど、まるでうけつけない姿で。だからこそ、マリリンは時代を超えて私たちの「現在」にすばらしい魅力をつたえている。
 このマリリンは、じつはみなさんの「現在」なのではないだろうか。

マリリン


 1989年、トマス・エジソンが動く絵(ムーヴィング・ピクチュア)の開発に成功して、はじめて活動写真、つまり映画(ムービー)が登場して以来、無数のスターがスクリーンを彩ってきた。
 映画の影響力は絶大なものだった。それだけに、どこの国でも、社会的な防衛本能から映画の影響をおそれる人たちがいた。
 シカゴでは1907年、ニューヨークでは1909年に映画の検閲が始まっている。当時のニューヨークの検閲機関は、「長すぎるラブ・シーン……ピッタリからだを密着させてのダンス」に眉をひそめた。
「肉体の誇示、犯罪の描写、いやらしい、または暗示的な行為、不当な暴力、劣情を抑制するのではなく喚起するような行為は、道徳の二重標準(タブル・スタンダード)、欲望充足のための安易な手段を恒久化する傾きがある」という理由で検閲を強化している。
 1913年には、53本の映画が上映禁止、401本の作品がその一部を削除されている。私の見たことのない映画ばかりだが、おそらく今の私たちが見れば別にどうといった映画ではないだろう。ただ、私は考える。映画はいつの時代でもこうした社会的な禁遏(きんあつ)と隣りあわせに作られてきたということを。

 映画の影響力の一つはスターという存在によるものだった。スターは作られる。ハリウッドの歴史はそれぞれの時代に君臨したスターの歴史になった。
 同時に、ハリウッドの歴史は、セクシュアルなスターの歴史だった。
 メアリ・ピックフォード、リリアン・ギッシュなどの清純派のスターから、ルイーズ・ブルックスのような「宿命の女」(ファム・ファタル)、クララ・ボウのようなセクシーな女優たち。今ではもう誰の記憶にも残っていないたくさんの美女たち。
 クララ・ボウは「イット女優」と呼ばれた。「イット」は誰でも知っている代名詞だが、二十年代には性的魅力、セックス・アピールという意味で使われた。この「イット」は、あたらしい女性たちの性的な解放と自立の象徴でもあったが、あくまで女の性(セクシュアリティー)、女らしさ(フェミニニティー)を強烈に押し出して、男の関心を惹きつけるための武器でもあった。
 女優が衣裳を脱ぎすてて美しい裸身をさらけ出す一方、できるだけ美しく着飾らせることも必要になる。セシル・B・デミルは、いつも映画のなかで、女優たちにつぎからつぎに美しい衣裳を着させた。彼は女優が豊満な腿や胸もとをちらりとみせる入浴シーンを「発明」した。
「悪女」セダ・バラはスクリーンで美しい脚線美を見せつけ、ベッドに腰をおろして、いとも優美な指先でストッキングを巻きおろしたり、ヒップ・フラスク、あるいはヘビー・ペッティングを見せた。
 マリリンは、こうした女優たちのすべてを体現していた。かつてマリリンがどんなにつよい非難にさらされたか、今となっては想像もつかないほどだが、マリリンをおとしめることで女性の「女らしさ」(セキシネス)を侮辱し、さらに、いじめ、差別、いわれのない優越感にひたった人たちがたくさんいたことも事実なのである。

 マリリンはいまでもすばらしい魅力を見せている。
 日本では未公開だったが、バーバラ・スタンウィック、ロバート・ライアンが主演した「熱い夜の疼き」(フリッツ・ラング監督)のマリリンは、明るい夏の太陽の日ざしを受けて、わかわかしい水着で海辺を走っていた。ほのかに汗ばんだピンク色の素肌が匂いたつような、なめらかで、かたくひきしまった白い肢体は彫刻のような陰影を帯びていた。
 オムニバス「人生模様」で、チャールズ・ロートンのホームレスに声をかけるしがない街娼をやっていた。小さなシークェンスだったが、このマリリンはドキッとするほど美しかった。安香水や、ファンデーション、口紅といった匂いではなく、娼婦の、むせ返るような体臭と、同時に、マフで包んだ手から腕にかけて羞恥をただよわせ、清純な可憐さが輝いていた。
「荒馬と女」のマリリンはいたましいほどやつれていた。肌が異様に荒れて、マリリン自身の内面の荒廃さえ想像させた。ラストシーンに近く、荒れた砂漠のなかで、残酷な男たちにむかって泣き叫ぶ姿は、ぎらぎらする太陽のはげしい直射のように私の眼に灼きついた。
 マリリンは少女時代にいろいろと不幸な経験をしている。女としての不幸も。なにしろ大不況、社会改革、そして戦争の時代だった。このことも注意していいだろう。貧困から這いずりあがってスターになった彼女は、アメリカの「機会と成功」の夢を実現したひとりだった。こうして、マリリンは二十世紀の神話、伝説になった。
 ただし、私はそんなふうに見たことは一度もない。そして、彼女の魅力はセックス・アピールに集中していたわけではない。
 いまさらマリリンについて何を語る必要もないが、私にとって映画のなかのマリリンは、女としてわるびれずに青春を生き、やがてはいやはての人生を生きている。彼女を非難した人々のことばなど、まるでうけつけない姿で。
きみたちも、めいめい自分の青春を思い出してみるといい。青春はなぜか間違いをおかして生きることだが、たちまちのうちに、間違いをおかすことさえできない生きかたに変わってしまうものだ。
めいめい自分の恋愛を考えてみればいい。恋人を好きになったとき、相手の不明瞭な部分に惹かれたり、または明瞭な部分に惹かれたりする。それが恋愛というものだろう。
だからこそ、マリリンは時代を超えて、私たちの「現在」にすばらしい魅力をつたえている。
 このマリリンは、まさにきみたちの「現在」ではないだろうか。
 

ルイ・ジュウヴェに関するノオト

俳優としてのルイ・ジュウヴェは我々の持つ最大の俳優の一人である。
                         ——ジュウル・ロマン
 
                    ☆

「コメディアンの省察」といふ演劇論集は、私をある夢想に誘ひ込む。もしジュウヴェの事情と環境とが異ってゐて、しかもその機会がより大きかったならば、彼は俳優としてと同様に文学者として偉大であったらう。さうしたことが充分起り得たに違ひないといふ夢想は、私には奇矯ではなくむしろ自然と感じられる。私がジュウヴェを、偶然が彼を置いた時代より外の時代に於て想像するとしたら、例へばドストエフスキー、ボオドレェル、フロウベェルより二百年以前に生誕したとすれば、彼はその詩人的・寓話的精神を以て、もう一人のinimitable(模倣を許さぬ)ラ・フォンテェヌであったらう。彼はラ・フォンテェヌと同様に「各種の百幕の手広い劇、そしてその舞台は全世界」と自己を定義することも、多数のヴォカブルで、一つの総体としての新しい— —言語に対して未知な——しかも呪詛的に響く語を生かす詩人であることも、共に可能であったと考へられるから。このやうな私の夢想は、ジュウヴェに軽妙な、時に最も辛辣な寓話作者の話術と、ヴォカブルの光輝に極度の敏感さを示す詩人の詩を発見する。そしてこの話術と詩は相即するもので、その均衡は破綻することなく、単に一方のみ強調されることなく、自己表現の為に渾然と融合し統一されるべきものであることをも。

                     ☆

 詩人は自己の表現しようとする主観について、自己にのみ持つことを許容された独自な観念を持つように努力するものだ。それは一つの言語——即ち諸型態の一体系 ——を創造することの前提であって、公式ではない。嘗て誰に依っても表現されなかったところのものを、言語に依って創造するといふ体制に於て、精神は瞬間瞬間に生起する無限に多様な附帯的観念を統整しようとする。その場合、言語の喚想力のみが単独に価値を持つ事実が、詩人をして言語に対する尊厳を保証させるのだ(それは決して文章論的な関係でなく、リトムのアルモニー法則に依る征服の関係である)。この詩人の言語の尊厳の保証は、俳優にとって演技に対する尊厳の保証にも等しいであらう。何故なら詩人にとって言語は素材であるやうに、俳優にとって演技は「自己表現の為」の言語であるから。演技は物真似(ミミイク)或いは黙劇(パントマイム)を除いて、言語を必要とする。それは自己に固有な情念を以て、俳優が観客と自己に緊密な靱帯を設定する為に、役立つ最大の演劇的要素である。従って詩人に於て見られる言語の尊厳の保証は、俳優にとっても要求されなければならない。
 ルイ・ジュウヴェは、この言語の尊厳の保証が、舞台に於いてシネ・クヮ・ノンであることを力強くしかも的確に指摘する。「ジャン・ジロォドゥの成功は何に由来するか? 演劇的言辞の魔術的な蠱惑力に。それ以外の理由はない」と。ジロォドゥの成功は、おそらくジュウヴェの演出力と彼を統帥とする一座の演技力に大半を負ふのであるが、彼は謙虚にその省察力を示すだけだ。そして彼の語る演劇的言辞とは、言語の日常性を脱却して作られる& #8212;—摩滅した金属を改鋳するやうに——詩的言語と本質的に差異はないことを、魔術的な蠱惑力といふ規定で術現されてゐる。これは、舞台に於て俳優に依って発声されることを使命とする言語は、律動的原理と力学的原理を同時に持たなければならないことを職業的コメディアンとして知悉していなければ、考察し得ぬ第一原理であらう。観客に訴へる目的で使用される要素として、舞踊・衣裳・書割・次第に巧妙さと複雑さを増す機械装置がある。そして上演される劇そのものの持つ力があり、それに依って直接な且つ磁力的な反応を観客に起させることを目的とする表情・工夫に富める身振りなどの俳優の演技がある。しかしそれらの多様な要素にもまして台詞は最も重要な因子である。それが凡庸な劇作家の手で演劇的生命を損失した台詞であるか、或は俳優が言語に対して詩人のやうでなく、それを演劇的言辞として通用させるのに失敗したとしたらどうであらうか。
 コメディアン(この言葉の厳密な意味に於て)に要求される声の表現力——声楽家がするやうな声の訓練・発声法・自己の音域の正確な知悉・台詞廻し(ディクション)・朗誦法(デクラマション)に依って獲得される——に依って、脚本に含まれている発声・抑揚・継続を生かすべき俳優の職能は、ジャック・コポオのヴィュゥ・コロンビェ座に於て強調された。従って彼自身コポオの最も忠実な協力者であったジュウヴェが、俳優として言語の実質を更新しようとしたのは極めて正当であった。「俳優の堂々さ」とコクランの言ふところのものは、言語のうちに封じ込まれた宇宙力を、詩人のやうに顕現し得る能力に他ならない。措弁法と韻律学が新しき威厳を獲得する時、それに生命を付与する為の法則は、常に詩人にとってのみならず俳優にとっても、精神が自己に課すべき抵抗であらう。「舞踏会の手帖」(ジュリアン・デュヴィヴィエ)の第二の挿話に於て、ジュウヴェはコメディ・フランセエズの座付俳優(ソシエテエル)であるマリィベルと共に、ポォル・ヴェルレェヌの《Dans le vieux parc solitaire et glace……》を朗誦した。あの感動的な朗誦に於て、ジュウヴェは脚韻と区切りを尊重するに止らず、その音響・旋律・節奏・陰翳・色彩を、詩人にも比すべき態度で表現したのである。
 
                     ☆

「ジャン・ジロォドゥの作品を上演した経験のあるわれわれすべてにとっては、観客がのびのびした、絶えず感動した緊張状態にあるのを初めて見、且つ感じたこと、そしてまた詩人のみが与え得る呪禁の秘法によって、劇場全体が陶然たる沈黙に酔ふのを身に沁みて味わったことは、一つの啓示でもあり思ひがけぬ収穫でもあったのである。」とルイ・ジュウヴェが言ふ時、劇作家と俳優との関係についてのコポオの卓抜な意見を想起しなければならない。

(中略)

 ジュウヴェの「コメディアンの眺めたボォマルシェ」「ベックの悲運」「ユウゴォと演劇」などの文章は、寓話的と言ってもよいであらう。寓話作者はつねに正義の人でなければならない。(ここでイタリヤ、エチオピヤ紛争の為、惹起されたアドワ爆撃の惨事に「正義と平和のために」と題する宣言が発せられ、それにクロオデルやモォリアックと共に署名した彼や、フランス共産党の機関誌「ユマニテ」の演劇欄執筆者としての彼を知ることが無益ではないことを語って置かう。)

                     ☆
  
ジュウヴェは古典作品としてモリエェルの作品とプロスペル・メリメの「聖体秘蹟の四輪馬車」などを上演目録に数へているに過ぎない。モリエェルについては、そのforce comivue の研究を主要な目的としたのであらう。メリメについては、ヴィュウ・コロンビエ座の成功を踏襲したのであらう。「これらの作家達(モリエェル、シェクスピヤ、ラシーヌなど)は学者の手に依って神格を賦与される以前、同時代の人々に新鮮な驚きと、喜びと、神秘とを与へたに違ひないのだ。作品のかかる久遠な新鮮さをわれわれ演劇人はみづからの中に再生させ、それを観客に伝へなければならぬ。」この言葉こそ「演劇は単に職業たるに止らず、一種の情熱だ」と確信する天才の言葉である。職業的愚劣に関してラインハルトや恐らくサッシャ・ギトリに対する非難は激しくしかし表面は喜劇的に語られている。外国作品を上演しない理由も、彼が、因襲的なものへの愛着に制肘されたり、外国作品といふ一種事大主義的な先入的観念を持たないからである。ガストン・バティやジョルジュ・ピトエフとは此処に決定的な差がある。「恋人達よ、幸福な恋人達よ、旅をしたいと思し召ならほど近いほとりがよろしうござる。」と言ったラ・フォンテェヌに何と酷似しているではないか。私はサント・ブゥヴがこの寓意にラ・フォンテェヌの創作態度を見たやうに、ジュウヴェにもその態度を見る。寓話、それをVisionaireの世界とのみ見るなら大きな誤謬だ。何故ならこの世界は、人間的であり、精神の世界でありその世界に充溢するものは魂の最低音部から発する沈痛な響きであるから。自己を表現しようとする俳優の本来の目的に叶ふ為に、彼のPersonageやその基本的構造の属性は厳密に追求されなければならない。それに依って沈痛な響きを発し、未知の観客に対する彼の個性の影響力が問題となるのだ。最後に冒頭にかかげた作家の言葉で彼を飾らう。「彼ジュウヴェの光彩陸離たる優越は何に基づくのか? それは内面の天稟、精神のそれである。」といふ言葉で。

ルイ・ジュヴェ(「夏が好き」より)

 もう十年も前になる。久しぶりに大きな評伝に着手しようと思った。
 その年のクリスマス・イヴ、私にとって眼のくらむような感動があった。このとき、はじめて書きはじめる決心がついたのだった。
 私が描いたのは、いまではもはや忘れられた舞台芸術家の生涯だった。ルイ・ジュヴェという。もう誰も知らない俳優だった。ルイ・ジュヴェは、クリスマス・イヴに生まれているが、そんなことまでが私にはうれしい暗合のように思えた。
 それから数年、ひたすらこの俳優の生涯を追いつづけた。

 評伝を書くためにはまず彼の生きた時代をしらなければならない。まず、徹底した資料の読み込みからはじまる。あらためて世紀末から二十世紀前半にかけての戯曲を読み返した。これも、ほとんどがすでに忘却の淵に沈んだ台本ばかり。さらには、ジロドゥーやアヌイなどを中心に読み返したのだが、若い頃にはまるで気がつかなかったいろいろな発見があって楽しかった。
 完成までに、それからもいくたびか夏が過ぎた……。

 いまの私は、ルイ・ジュヴェが亡くなった年齢をとうに越えている。しかし、この芸術家に対する敬愛はいささかも薄れてはいない。私が十年の歳月をかけて書いた俳優、ルイ・ジュヴェの人生も、思えば悽愴、苛烈なものだった。
 ルイ・ジュヴェは、真夏の八月に亡くなっている。

『ルイ・ジュヴェ』という仕事(メチエ)

 評伝というかたちで『ルイ・ジュヴェとその時代』を書いた動機や理由について、べつに説明する必要はない。もともとジュヴェの肖像を描くつもりはなかった。
 ただし、俳優=演出家が日本ではどんなに間違った見方をされてきたか、それだけは訂正してやろう。そう思ったのだった。
 ジャン・ジュネの「女中たち」の上演を見たサルトルが、ジュネにむかって、ひどい芝居だったと語ったという。日本ではサルトルの放言が、まるで神託のようにつたえられた。本庄桂輔は、「ジュヴェはこの劇の上演によって、戦後の新しい波に触れたわけであるが、彼がジロドゥーの世界をひらいたように、戦後の新しい演劇を理解できたかどうかは疑問である」という。また、安堂真也によれば、戦後のジュヴェの仕事を要約して、「ジロドゥーとコポオとピトエフに先立たれ、方向を失ったジュヴェはモリエールに戻って独自の『ドン・ジュアン』と『タルチュフ』を上演、神への瞑想を主題とするに至る。ジュネやサルトルの演出が失敗に終ったのも、グレアム・グリーンの上演を考えたのも先輩のコポオの晩年に再び近づいたためかもしれない」という。
 私の胸には、遠い日本でこうした見方にさらされているジュヴェに対する憐憫と、このまま誤解されて終ってしまうかも知れない芸術家を本来の位置に戻したいという思いがあった。私が書きたかったのは、ジュヴェのように、仕事が成功すればするほど、(つまり、自分の仕事に対する認識が深くなっていけばいくほど)自分の芸術に対する認識が深くなってゆくことを認識する芸術家は少ない、ということだった。
 ジュヴェはモリエールとおなじように舞台の成功をめざして、そのためにおびただしい犠牲を払いつづけ、しかも堅忍不抜と見える姿勢を崩さなかった。芸術家は失敗をおそれてはならない。ときには、むしろ昂然たる気概をもって失敗こそをめざすべきなのだ。そういうことを教えてくれたのは、ほかならぬジュヴェだった。
 私がジュヴェから学んだことは、じつに大きい。彼の舞台はいつも時代の感性を刺激して、お客さんに、果てしなくおのれのありようをみずからに問いたださせるような舞台だった。彼の芝居を見る前と見てしまったあとの客の内面に、言葉にならないような思いが日に日に大きくなっていくような舞台を作る。ジュヴェはそういう舞台を作ろうとしてきた。それこそがほんとうの芸術の創造ということなのだ。そういうジュヴェに惹かれつづけ、彼の仕事をくわしく知りたいと思いつづけ、いつかそういうジュヴェについて語りたいと思ったのも当然だろう。
 ジュヴェは方向を見失ったのではない。たえず新しい方向を模索しつづけた。私はそういうジュヴェにいつも感動してきたのだった。


          −−早稲田演劇博物館 「劇場に生きる——舞台人ルイ・ジュヴェ」パンフレット(2003年)

補遺

『地獄の機械』はデザイナーのクリスチャン・ベラールと演出家ルイ・ジュヴェとのコラボレーションで、1934年にコメディ・デ・シャン=ゼリゼ劇場で上演された。ルイ・ジュヴェ、ジャン・ピエール・オーモンは、台本作家を勤めるコクトーといっしょに、ソフォクレス原作『オイディプス』の完全上演をした。彼の的確な言葉遣い、簡潔な転換、役柄同士が揺れながら進む対立関係などで、古典の焼き直しは大成功をおさめた。多少分かりにくかったにもかかわらず、この作品は大衆に気に入られ現代劇の名作に数えられることになった。

「ジャン・コクトー展」(サヴァリン・ワンダーマン・コレクション)2005-2006 カタログ p.19
「至高の芸術家」トニー・クラーク (訳者名 記載なし)

エロス


 ルネサンスの結婚はどういうものだったか。

 ルネサンスの結婚は、だいたい政略結婚がふつううだった。花婿が未成年だったり(ボルジア家のホーフレと、ナポリの王女、サンチャ・ダラゴーナの場合)、花嫁が極端に若かったり(武将プロスペロ・コロンナとヴィットーリア・ゴンザーガの場合)、現代の結婚とはずいぶん違っている。
 若い娘たちは、いつも母親か、それに準ずる保護者の眼の届くところにいなければならなかった。十七歳以上に達した処女は、いかなる男とも口をきいてはならない。
 この時代きっての教養人だったバルダッサーレ・カスティリョーネは、若い娘はすべからく何も考えない無知のままでいなければならないとした。なぜなら、若い娘の純潔こそ大事で、何も考えなければ純潔でいられるからという。ひどい話である。
 時代は遅れるが、モリエールの「女房学校」の「アルノルフ」はいう。
「私の理想の女は薄ノロの女ですよ。音韻とは何なのか知らないような女。音韻さがし(スコルピオ)で遊ぶとき<こんどは何にしますか>と訊かれて<クリーム・パインよ>と答えてくれていい。つまり、まったく無知な女。ありていにいってしまえば、神さまにお祈りができて、私を愛してくれて、針仕事ができたら、それでたくさんじゃありませんか」と。
 ルネサンスの女性観もこれに近い。
 ただし、階級差はある。
 若い娘の誘拐が頻発して、とくにジェノアで多かった。掠奪結婚の名残りともいえるが、同時に、こうした娘たちの無知につけ込んで牛馬のように売りとばす、ひどい場合は強姦したあと娼婦に仕立てあげる、といった事件も多かった。
 都市部でも娘たちにとって危険は多かったが、これが田舎になると危険はさらに大きかった。娘たちはさまざまな誘惑、とくに性的な凌辱をともなう危険にさらされていた。
 農村で歌われた民謡は、しばしば春歌であって、性行動の自由、あるいは途方もない淫佚(いんいつ)ぶりが、ときにはおおらかに、ときには露骨に表現されていることからも想像できよう。貧しい娘たちの生活、性行動は、中世初期の娘たちとそれほど変わらなかった。相続する土地もなかったし、政治的、経済的な基盤も影響もないため、しばしば結婚する必要もなかった。まして政略結婚などまるで無関係だった。
 貧しい娘たちは結婚前にいくら男に身をまかせようと非難されなかったから、誘いかける男がいれば平気で身を委ねた。むろん、結婚すればたいていの女は貞節を守った。結婚できればいいほうで、娘たちの多くは修道院にやられたり、フランス語でいう「快楽の娘たち」(フィーユ・ド・ジョア)になった。
 ジェノアの娘たちは失恋すると、神信心や貞節に戻るのでほかのイタリア都市の女たちよりもずっと躾がいいという。つまり恋をしているあいだは、神も信じないし、貞節でもないという意味が隠されている。
 現代の私たちは、結婚は男性、女性ともに精神的に惹かれあい、ただしい和合がなければならないと信じている。ところが、ルネサンスの結婚にはそうした結婚はほとんど見られない。それでいて、男も女もじつにいきいきと生きている。ひょっとすると私たちの考えている結婚という制度や、婚姻形態は、ほんとうは病み弱まった、想像力のない、衰弱しきったものではないか、という思いがけない考えも出てくる。
 半分は冗談だが。

傭兵隊長があらわれたのはなぜ?

 
 中世のイタリアでは、戦争が絶えなかった。
 たくさんの都市国家にわかれて、宗教上の対立や、経済的な理由で、まるで微粒子がぶつかりあうように、小ぜりあいや、全面戦争をくり返していた。一つの砦、一本の橋をめぐって、ときには女が犯されたことが原因で、戦争が起きた。
 戦争で死ぬやつは運(フォルチュナ)に見放されただけ。抜け目のないやつ、利口なやつは富む、という考えがひろまった。そこで戦争で稼ごうというやからが登場する。戦争をうけおう職業ができた。
 荒くれた気風が一般的だったから、腕の立つ男のまわりに戦国浪人が集まってグループを作る。頭領株の男は、自分と部下たちまる抱えで、一定の期間、一定の軍資金で、雇主に貸し出す。これが傭兵のはじまりだった。
 雇料をコンドッタという。傭兵隊長はコンドッティエリ。戦国浪人というと、わたしたちは、塙(ばん)団右衛門とか、後藤 又兵衛、宮本 武蔵といった豪傑を連想しがちだが、イタリアの傭兵はもっと営利本位の戦闘集団だった。
 自分の感情や、友情なんか、はじめから度外視している。正義感もないし、祖国への忠誠心もいっさい抜き。あくまで自分たちに金を払ってくれる人のために働く。もっと多く払ってくれる相手がいればいつでも乗り換える。隊長は、商品とおなじように、雇主、買い手ののぞむ数量と品種の兵士を提供する。
 たとえば、ガスコ−ニュ人は勇敢、スイス人は雇主に忠実、イギリス人は知謀にすぐれ、スペイン人は豪快といった評判が立ち、それで値段もきめられる。
 傭兵隊長の戦術(アルテ・デ、グェ−ラ)は、じつは、節約、能率、収益、最大の之順を意味した。戦争になれば、略奪、強姦、殺戮は日常茶飯事で、すぐれた傭兵隊長を雇ったほうが勝つ。傭兵の質のよしあしによって、1527年のロ−マの劫略のような悲惨な結果が起きる。
 ルネッサンス・イタリアの君主たちは、大多数が傭兵隊長あがりといってよい。マラテスタ家、バリオ−ニ家、ベンティヴォ−リョ家、スフォルツァ家、あのエステ家も、傭兵隊長から僣主になったのである。
 「歴史読本」臨時増刊 (2000.1月)

メディチ家が登場したのはなぜ?

 
 名家、メディチ家も、中世にはフィレンツェの北、ムジェッロの谷に住む農民だった。 そのなかに、草根木皮の薬を作って、民間療法をはじめた者がいたらしい。医者=メディコからメディチという名ができた。(ただし、歴史学者のなかには、これに反対の意見をもつ人もいる。)現在でも、フランス語、英語のMedicinは、メディコに関係がある。
 メディチ家の紋章には八つの丸い玉がついているが、これはピロ−レという錠剤をかたどっている。メディチ家の守護聖人は、民衆に医療をほどこした聖タミア−ノだった。
 フィレンツェに出たメディチ家は、武器を作ったり、金貸しをやって富を築いていった。中世末期には、ポポロ・グラッソ(肥った市民)とよばれる大商人たちの仲間入りをしていた。政治には、かかわらないようにしていたが、もともと古い家柄ではないので、ポポロ・ミヌ−ト(賤民)とよばれる下層の人々の支持を受けた。
 メディチ家がフィレンツェで頭角をあらわしたのは、ジョヴァンニ・デ・メディチが、親戚の経営した小さな銀行を引き受けて、1393年に独立してから。このかんに、イギリス国王に軍資金を融資した大銀行が軒並み倒産したのに、メディチ銀行は小さいために地道に経営をつづけ、ついにはロ− マ教皇の銀行家にまでのしあがって行く。
 メディチ家が損をしたのは一度だけ。教皇ジュ−リオ23世をハイデルベルグの牢獄から出すために3万8千デュカ−トという巨額な貸付けをしたが、これが焦げついた。
 ジョヴァンニの子、コジモ・デ・メディチが政権をにぎると、ヨ−ロッパ最高の大貴族になった。その権勢は、各国の皇帝、国王をはるかにしのいでいた。父のジョヴァンニが残した遺産は18万フロリンだったが、コジモは慈善事業や、公共事業だけで、40万フロリンを使った。
 コジモがロレンツォ・デ・メディチに残した遺産は、現在の貨幣価値に換算して、ロックフェラ−財閥の約七倍といわれている。
 メディチ家は、その後、300年にわたってフィレンツェを支配する。

高級娼婦が多かったのはなぜ?

 
 ルネッサンス・イタリアの女たちが、性的に奔放で、乱倫をきわめていたと見るのは、はっきり間違いだし、間違いではないにしても、かなり一面的にすぎるだろう。大多数は貞淑な女たちだったし、性にかかわりなく生きた女たちも多い。
 私などが関心をもつ女たち、たとえばルクレツィア・ボルジア、コスタンツァ・アマレッタ、はっきり色情狂だったラウラ・ファルネ−ゼといったエロティックな女たちは、例外的な存在と見てよい。
 そのかわり、ルネッサンスの娼婦たちは、その数、性風俗において、ほかの時代の娼婦たちに比較しても異彩を放っている。
 娼婦の階級差もきびしいもので、ヴェネツィアでは、下級の娼婦をコルテザ−ネ・テッラ・ミノ−ル・ソルテと呼んだ。マイナ−な種類の淫売という意味で、日本流にいえば端女郎からドヤ街の女まで。
 高級遊女は、コルテザ−ネ・ファモッセ。この女たちは、いずれも名だたる美女ぞろいといってよい。ヴェネツィア派の巨匠たちが描いた絵で、その美貌がいまにつたえられている。
 ヴェネツィアは、毎日が祝祭のようなもので、当時として世界一、淫靡な都会だった。なにしろ二世紀のちに、カザノヴァが登場する街である。
 コルテジア−ナは、もともと宮廷(コルテ)の女という意味だったが、こういう呼びかたにふさわしいのはロ−マの女だった。
 日本の太夫のように、たくさんの侍女、男衆をひきつれて、まるで宮殿のような住まいを構え、相手にする男たちは、王侯貴族、枢機卿、大商人、銀行家といった人たちだった。酒席の話題は豊富で、プラトン主義の哲学、ダンテの『神曲』や、ペトラルカ、タッソ−といった詩人を論じるし、ラテン語、ギリシャ語、なかにはトルコ語、グルジア語まで話す才女も多かった。
 トゥルリア・ダラゴ−ナは、アラゴン王家の血筋をひくお姫さまだったが、『まったき愛の無限について』という本の著者だったが、彼女と同衾する男は、その性技のたくみさに魂も天翔(あまが)けるといわれた。

万能人が輩出したのはなぜ?


 
 中世にくらべれば、ルネッサンスの時代ははるかに高揚した気分が見られる。
 フィレンツェの隆盛を代表するロレンツォ・デ・メディチの時代は、まさにハイ・ルネッサンスとよばれるにふさわしい最盛期だった。
 この時期、ルネッサンスによって、はじめて人間が血肉を得た、といわれる。
 ルネッサンスの人びとには、独立の人(ウォモ・シンゴラ−レ)、個の人(ウォモ・ユニコ)、他に抜きん出ようとする野望が共通していた。
 自分は他人とは違うのだ。こういう気もちは、君主も、傭兵隊長も、芸術家も、女たち、乞食、みんなに共通していた。女は、自分と寝る男がほかの女とは違うからだだといってくれるように、セックスにもいそしんだ。
 ミラ−ノのルドヴィ−コ大公は、愛妾、チェッチ−リアに暇をくれた(別れた)とき、「この女性(にょしょう)、性技、天下第一等」という証明書を書いてやった。
 こんなふうに、いつもシンゴラ−レであろうとして、ユニコをめざして、他に抜きん出ようという野望は、政治、経済、外交、戦術にもあらわれる。
 フランチェスコ・スフォルツァ大公は、臨終の床で、
 「もし三方に敵あらば、最初の敵と和を結び、つきの敵と休戦し、さてつぎなる敵に打ちかかり滅ぼすべし」と、遺言した。
 銀行家も、商人も、経済戦争をつづけて、自分だけは生き残ろうとした。芸術家も、レオナルド・ダヴィンチをはじめ、いろいろな分野に手を染めて、ほかの芸術家に負けない仕事をするのが理想だった。ダヴィンチ、ミケランジェロ、もっとあとのベッリ−ニまで、ひとしなみにこの理想を追い求めた芸術家なのである。
 だが、こうした気概のうしろには、ロレンツォ・デ・メディチの詩にあるように、
    きたらむ時を な怖れそ。
    乙女うるわし 恋人うれし
    何思うべき 今日より先を
 といった、どこか悲哀が迫ってくる予感がただよっていた。
 万能人(ウォモ・ウニヴェルサ−レ)は、こうした時代に、不屈の気概をもって生きた人たちのことで、ダヴィンチほかの少数者だけをいうわけではない。

錬金術がさかんになったのはなぜ?


 
 ロ−マ帝国が滅亡して、ギリシャ人、アラビア人がイタリアに流れ込んできたが、ここに科学の基礎が生まれた。
 占星術がイタリアにつたえられたのは、ビザンチンの学者、プレト−がフィレンツェで講義してからだが、錬金術はそれより先にエジプトからつたえられた。
 これが、やがて気象の研究や、植物の生成の観察など、さらに医学、天文学、植物学、鉱物学などに発展してゆく。
 錬金術は、先史時代からあって、鉱物や、金属の精錬にまつわる魔術を得意とした部族が、神聖な森に集まって、踊ったり祈ったりする秘儀から起こった。この錬金術の秘法に、ルネッサンスの人びとの強烈な欲望が重なった。
 いつの時代でもおなじだが、宝石が珍重され、金が欲望の対象となった。
 宝石は、人間の手にかからない自然の生んだ神秘だった。その神秘に憧れる気もちが、さまざまな護符や、幸運の指輪、金属のメダルなどの流行を生み、さらには人間の手で、この神秘を生み出そうという夢をもたらした。
 これが一方では、手相学、骨相学などにつながり、また、一方では、不老不死の秘法の探究に発展してゆく。
 水銀を凝固させて純金にする、とか、ほかの卑金属から金を作る技術がある、と信じられていた。そのためには「賢者の石」が必要なのだ。その「賢者の石」は、エリクサ(連金薬)とか第五元素と呼ばれているが、その精製は秘中の秘だった。ヴァチカンにも、この研究に熱中したロ−マ教皇がいる。
 『ロミオとジュリエット』に出てくる修道士は、ジュリエットに秘薬をあたえるが、あれも錬金術の一つと見てよい。
 トレヴィ−ソ伯は、「賢者の石」の発見に夢中になって、城も領地も売りとばし、ついに最高の秘法を発見したが、うれしさのあまり、病気になって乞食同然の死にかたをした。死んだとき、口から金の塊を吐いたという。

「モナリザ」の「モデル」は?


 
 ル−ヴル美術館でも、ダヴィンチの「モナリザ」だけは、特別にガラス・ケ−スで保護されている。それまで写真や画集で見てきたものと違って、実物の「モナリザ」はほんとうに世界最高の作品だと思った。絵の美しさに感動したが、想像していたよりずっと小さな絵だったことにも驚かされた。「モナリザ」を見たあとでは、巨大な「ナポレオンの戴冠」にも、ル−ベンスの連作にも心を動かされなかった。
 「モナリザ」のモデルについては、いろいろな説がある。
 私ごときにはモデルが誰なのかわからない。もっとも注目すべき説は、田中英道氏の研究で、「モナリザ」のモデルを、マントヴァ侯夫人、イザベッラ・デステとしている。
 イザベッラは、ルネッサンスきっての才媛だったが、ダヴィンチに自分の肖像画を描かせようとしながら、どうしても描いてもらえなかった。
 義弟の愛人、チェッチ−リア・ガッレラ−ニがダヴィンチに肖像画を描いてもらったと聞いたイザベッラは、半分口惜しまぎれに、ぜひ見せてほしいといった。
 ベルガミ−ニ伯夫人になっていたチェッチ−リアは、その絵はあんまり私に似ていないけれど、自分が愛に溺れていた娘時代ではなくなっているからです、と答えた。
 つまり、娘時代の私はダヴィンチが描いたとおりの美女だったというわけである。
 イザベッラはむかついたらしい。じつは、肖像画を描くつもりだったダヴィンチはイザベッラの横顔のデッサンを描いている。これもたいへんな傑作だが、中年にさしかかって、肥満しかけたイザベッラが描かれている。それがまたイザベッラには気に入らなかったらしい。
 ダヴィンチはそういうイザベッラが嫌いだったらしく、とうとう肖像画を描かずにフランスに去って、皇帝、フランソワ一世につかえた。1519年、フランスで亡くなっている。

ミケランジェロはゲイだった?

 
 ミケランジェロが男色者だったことは有名だろう。彼の生涯には女性の影が落ちていない、という。
 晩年、ヴィット−リア・コロンナに対する深い愛情も、肉欲とは関係のない純愛だったといわれている。はたして、ミケランジェロの生涯に、女に対する性愛がまったくなかったのだろうか。
 ミケランジェロ自身がいうように、「わたしは生涯愛せずには少しも過ごすことはできなかった」という、ルネッサンスのおとこの強烈な欲望が女性にまったく向けられなかった、とは思えない。彼の処女作と見ていい詩に、
    愛の神キュピッドよ、そなたの激情に誇らしく立ち向かうことのできた過去、
    わたしは幸福に生きてきた。しかし、いまは、ああ、わたしの胸は
    涙にぬれている、そなたの力が身にしみて
 とか、
    わたしをあなたにことさら惹きつけるのは誰だろう。
    ああ、ああ、しっかりとしばりつけられながら、
    それでもわたしが自由とは
 という。(1504年)
 作家、ア−ヴィング・スト−ンは、メディチ家の令嬢、コンテッシ−ナに対する愛を想像しているが、それを裏づける資料はない。ただ、私は、1520年から27年まで、ミケランジェロがあまり仕事に手をつけなかった不毛な時期に、女色にふけったのではないか、と見ている。
 ロマン・ロランは、「ミケランジェロの作品には愛が欠けている」といったが、これも私としては疑問で、じつは、ある女性に対する恋の苦悩に身を灼いていたのではないか。
 うまれついてのホモセクシャルと見るよりも、むしろバイセクシャルだったし、コンパルシヴな女体探究者だったとみていいのではないかと思う。若い男性に対するつよい関心は、1530年以後からで、初老にさしかかってからだったと考えているのだが。

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