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2019/09/08(Sun)  1813〈1977〜78年日記 60〉

         1978年3月6日(月)
 買ってきた本をつぎつぎに送っている。
 アメリカ銀行の支店(通称バンカメ)で、チョコレート色の煉瓦作りのビル。その2軒先が少し引っ込んだ路地の奥に郵便局がある。窓口は、若い娘で、ジーン・クレインに似た、ほっそりした、なかなか美形の娘がひとり。
 今朝も郵便局に行くつもりだったが、あいにく小銭がない。朝のバークリーの郵便局では、100ドル紙幣を出しても受けとらない。この時間では「バンク・オヴ・アメリカ」も開いていない。
 シャタックまで歩いて、「クロッカー・バンク」で100ドルを両替した。
 ここまできたら、いっそのこと、シスコから本を送ったほうがいい。小包を抱えて「バート」で、シヴィックセンターに。ここにも大きな郵便局がある。
 ひとつは航空便、二つを船便で。

 こんどは、エリカに、またひとりでシスコに行くとつたえた。
 エリカは、私が、シスコで若いコールガールでもひろったのではないか、と疑っているらしい。

 シャタックからバス。このバスは、シスコのミッション・ストリート、トランス・ベイ・ターミナルに着く。

 ここの「ホームズ」は、オークランドの「ホームズ」より、ずっと規模も小さい。

 そのあと、ブロードウェイに出て、「シテイライツ」に寄る。
 植草 甚一さんが喜びそうな本がある。

 夜、「UCパシフィック」で、エルンスト・ルビッチュの「アン・ブーリン」(1920年)を上映すると知って、あわてて見に行った。
 コトルバスを見たほどの感動はないが、「結婚哲学」からあとのルビッチュのサイレント映画を見ていないので、ぜひ見ておきたかった。
 ルビッチュは、1920年、メァリ・ピックフォードに招かれてハリウッドに移ったのだから、「アン・ブーリン」(1920年)はドイツで撮ったものか。
 ヒロインの「アン・ブーリン」は、いうまでもなく「一千日のアン」だから、これが見られるのはうれしかった。
 主演は、なんと、エミール・ヤニングス。「アン」はヘニー・なんとか。
 途中から、かなり退屈した。観客もせいぜい50人程度。

 この「UCパシフィック」は、映画館ではなく、「UCB」(カリフォーニア大・バークリー分校)付属の映画ライブラリーで、収容人数は、約120だが、理想的な小劇場だった。「東和」第二試写室程度のゆったりした椅子で、長時間の鑑賞も苦にならない。大学の管理下に置かれていて、運営はすべて学生にまかされている。日替わりで、収蔵作品を上映してゆくシステムだが、そのレパートリーは、毎月、パンフレットで発表される。私が2月の「異聞猿飛佐助」の上映を知ったのも、このパンフレットを読んだからだが、3月に小津 保次郎の「浮草」の上映が予告されていた。

 もう一つ。
 この「UCパシフィック」の壁面に、美術品が陳列されていて、私が通ったときには、19世紀の版画展をやっていた。
 ロートレック、ゴーギャン、ミュシャの版画が、いとも無造作に並べられている。これにも驚かされた。日本で専用の付属映画館をもっている大学はないだろう。さらに、大学自体のコレクションで、ロートレック、ゴーギャン、ミュシャほかの版画を並べられる大学はないだろうと思う。
 マリリン・モンローの死後、彼女が集めたイタリアの舞台女優、エレオノーラ・ドゥーゼの遺品を、ワシントン大学に寄贈したとつたえられたが、やはり、芸術に対する観念が、日本人とは違う。

      1978年3月7日(火)
 10時半、バークリーの郵便局に行って本を送ったあと、ドワイトウェイの角の「スープ・キチン」で朝食をとろうとしたら、食事は終わったという。ちょっと困った。
 仕方がない。ヴェトナム料理の店に行こうか。
 この店の主人が日本人で、大沢君という若者だが、すぐに食事を作ってくれた。
 英語しか話さないというので、もっぱら英語で話した。なぜ日本語を話さないのかと聞いてみた。日本語がおかしな発音になっているので、できるだけ話さないようにしているという。それだけバークリー暮らしが長いということか。
 日本語は読める。陸奥 宗光の本を読んでいるという。むずかしい本なのに。好感の持てる人だった。

 夜、「愛のコリーダ」(大島 渚監督)を見た。
 たまたま、2本立てで、「チュルキシュの悦び」というオランダ映画をやっていた。これが、なかなかいい映画だった。
 「愛のコリーダ」の途中で、観客から、しきりに失笑や罵声があがった。スクリーンに向かって、「Japanese girl can’t fuck!」とどなったやつがいる。私は、映画として、「愛のコリーダ」を駄作と見た。観客たちは、ぞろぞろ席を立って、あっという間に館内はガラ空きになった。
 大島 渚は、この映画をみずから傑作と自負していたが、ポルノとしてもまったく低いレベルの映画だった。

     1978年3月8日(水)
 朝、5時に眼がさめた。
 雨が降っている。このところ、雨が降っている。クラムのマンガを読む。
 10時頃、郵便局に行き、本を送った。

 午後は快晴。
 カメラを持ち出して、おなじアパートに住んでいる黒人の娘(8歳ぐらい)の写真を撮った。あとで送ってやるつもり。
 べンヴエニュから、ドワイトウェイ、チャニングウェイ、ここからボディッチにもどって写真を撮った。
 夜、「バート」の近く、「カマ」KAMA という中国人の店で食事。エリカにいわせると、この店はまずいという。しかし、私はこの店が気に入って、何度か寄ったことがある。
 7時過ぎ、「ACT 2」にいった。
 「コーマ」(マイケル・クライトン監督)を見た。これは、まだ試写も見ていない。
 マイケル・クライトンの病院スリラー。ボストンの病院に勤務することになった女医「スーザン」(ジュヌビェーヴ・ビジョルド)は、「ハリス」外科部長(リチャード・ウイドマーク)の病棟で、昏睡状態の患者の発生率が以上に高いことに気がつく。外科部長が臓器をとり出して、外国に売りさばいている、おそろしい真相を知った「スーザン」自身に、病院全体の魔手が伸びてくる。……
 気もちのわるいスリラーだった。こういう映画を見たときは、「あくね」に行って、小川 茂久と飲むのだが、アメリカには「あくね」のような店がない。

    1978年3月9日(木)
 「あくね」のことなどを思い出したせいか、女の夢を見た。しばらく女の肌にふれていないせいだろうか。
 アメリカにきて、日本の女の夢を見るというのは不思議だった。

 アメリカに住んでみたいと思う。バークリーに住んでみたい。アメリカでもいちばん安全な町のような気がする。バークリーのたたずまいは「いちご白書」や「卒業」の、ロケーション撮影で見ることができる。
 ただし、この町には、若い女性だけをねらう強姦魔が出没するという。バークリーは、バートの駅を中心に、南北に分割されたような恰好で、大学のある北側の地区は裕福な人たちが住む地域だが、南のダウンタウンは貧困家庭の住宅地区になっている。強姦魔は、このダウンタウンに住んでいて、もっぱら北の女たちを襲うという。
 バークリーは、この地区だけのローカルなテレビ局があって、強姦された女性がわるびれずにテレビに出て、強姦魔の特徴などをのべて、女性たちに警戒を訴えることも多い。

 バークリーの警察官は、全員女性で、学園都市らしい秩序がたもたれている。イヌはほとんどが放し飼いで、中心部の店に入る際だけ、店の前にリードをつけたイヌがつながれている。

 住むなら、バークリーがいい。

    1978年3月10日(金)・
 「フェニシアン・レストラン」に行く。
 そのあと、自然食品を栽培(むしろ、培養というべきか)している「グリーン・スプローター」という店。ここで、プラスティックの器具。
 帰りに道にこぼれている街路樹の実をひろう。千葉に戻ったら、庭に植えてみよう。

 夕方、エリカといっしょに、「UCB」に行く。
 「ビルマの竪琴」(市川 崑監督)見た。
 映画については書かない。個人的なことを書く。この映画には、私が「俳優座」の養成所で教えた生徒たちがたくさん出ている。その役者たちのことを思い出すと、なつかしさがあふれてくる。そんな私の感傷とは別に、観客の反応が心に残った。前にすわっている白人の若者が、映画の途中で肩をふるわせていた。日本人の留学生らしい女の子の2人連れも泣いていた。エリカの話では、隣りの黒人の若者も泣いていたという。
 私は、竹山 道雄がこの作品を書いた頃の「近代文学」の人たちの反応を思い出していた。

 原稿を書かない生活が続いている。なにしろ、パーティーに行くのでもないかぎり、旅行者なのだから、原稿を書くこともない。
 「バーバレラ」(ロジェ・バディム監督)を見た。もう、何度も見た映画なので、とりたてて書くこともない。
 深夜、ウィスキーを飲みながら、テレビ映画を見た。ヘレン・ヘイズ、マーナ・ロイ、シルヴィア・シドニー、ミルドレッド・ダンノック。オバアサンばかり。それでも、みんな楽しそうにハネまわっている。こういうドラマを見ると、やはり映画や舞台の女優たちの層の厚みを感じる。日本のテレビで、オバアサン4人のドラマを企画しても、すぐに却下されるだろう。だいいち、ヘレン・ヘイズ級の名女優がいない。マーナ・ロイのようにお色気を振りまく老女がいない。シルヴィア・シドニーのように、ヨタヨタしていても、イキのいい啖呵が切れるほどの女優がいない。ミルドレッド・ダンノックのように、主役は張れないが、ワキにいるだけで、主役の女優がかすんでしまうほどの存在感のある老女優がいない。
 このまま、ブロードウェイにもって行っても、半年はもつようなコメディーだった。これも、タイトルはわからない。テレビをつけたらやっていたので。こういう女優たちをつかって、「シャイヨの狂女」でも演出したら楽しいだろうな。

    1978年3月11日(土)・
 アシュビーで、フリー・マーケットがあるはずなので、エリカが車で送ってくれた。ところが、アシュビーには誰もいない。
 少し前の私なら、自分のドジに腹をたてて、それこそ不運をかこちながら帰るところだが、今の私は、すっかりアメリカに感化されている。

 エリカと別れて、「ビブリオマニア」で、本を探した。
 イーディス・パターソン・メイヤーという人の「イザベッラ・デステ」を見つけた。
 帰宅。エリカはいない。
 入浴しながら、イーディスさんの本を読みはじめた。読みはじめて、ああ、これはイケケない、と思った。この著者は、伝記、「アルフレッド・ノーベル」、カナダ/アメリカの関係史、伝記「オリヴァー・ウェンデル・ホームズ」などを書いている。
 しかし、この「イザベッラ・デステ」は、ジューリア・カートライトの名著に遠く及ばない。
 ついでにいうと、私にとって、正座して読書するのは、読書法のなかでもっとも拙劣な方法なのだ。どうすれば、いちばん効率がいいかというと、バスタブにお湯を半分ばかり入れて、両足を頭の高さにあげて浴槽の上に乗せる。いわば、半身浴で、本を片手に読む。脳の血行がスムーズになって、よく頭に入る。(と信じているだけだが。)
 劇評家のエリック・ベントリーは、入浴しながら、タイプライターで原稿を書いていたが、私の場合は、原稿用紙が濡れるので、入浴しながら原稿を書くことはない。

 入浴しながら読んだので、これ以上、イーディスさんの本の悪口は書かない。

    1978年3月12日(日)
 朝、ドワイトウェイからすぐ北に向かって歩く。
 プロスペクトからヒルサイドの付近は、落ちついた雰囲気の高級住宅地がつづく。
 バークリーで、石を投げると、ノーベル賞の受賞者に当たるといわれているが、このあたりには偉い科学者たちが住んでいるらしい。
 ヒルサイドから、すぐに山道になる。

 坂をのぼって行くと、アメリカマツの茂みにおおわれた丘が間近に見えはじめた。松なのに、空に向かって高く延びて、バークリー大学のヒンターランドになっている。
 ただの丘陵地帯なので、別にむずかしいコースではない。
 山道にさしかかってすぐ、私の眼の前に、大型犬ほどの動物があらわれた。こんなところに動物がいるとは思わなかった。その動物は、ちょっと私を見てから、さっと身をひるがえして姿を消した。
 シカの子だった。街を一歩でると、野性の鹿に出会えるのだった。

 この前歩いたコースとは別だが、エリカの部屋から見た感じでは、1時間で登れるはずだったが、道がくねくねと山腹をとり巻いているので、頂上まで1時間45分もかかった。千葉県のヘグリ郡にある山の2倍くらいの高さだろう。
 肩にさげたズダ袋から、パンを出して、朝食。

 日本に帰ったら、また登山をはじめよう。
 私の不在中、安東や、吉沢君は、山に登っているだろうか。
 大気は澄みわたって、シスコの全景がすばらしかった。

 12時15分、帰宅。

 エリカといっしょに外出。
 エリカの友人、「スイちゃん」(高橋のぶ子)のアパーに寄る。
 「スイちゃん」は、近くサンディエゴに移る、という。一瞬、「スイちゃん」(高橋のぶ子)のアパーを借りて、私ひとりで、しばらくバークリーに住んでみようか、と思った。むろん、とうてい不可能な計画だが。
 帰国して、原稿をつぎつぎに書かなければならない。

 その帰り、驚くべきことを経験した。

 エリカといっしょにエレベーターに乗った。先客がいた。背丈が高く、がっしりした体格だった。私は、その人の顔を見た。
 顔がない!
 のっぺらぼうで、目も鼻もない。そこに刻みつけたように横一文字に、口らしいものがついている。
 一瞬、恐怖が私の内面に走った。

 目はついている。細く切れた線のようになって。鼻はまったく隆起した部分がなく、平らにくずれている。唇もない。ただ、口とおぼしき部分からわずかに歯が突き出しているので、口とわかるのだった。
 小泉 八雲の短編に、すれ違った女が振り向くと、その顔がのっぺらぼうだったという名作がある。
 あの短編をそのまま現実に見たような気がした。
 エレベーターが、1階に着くまで、私はエリカのわきに立ちつくしていた。

 エリカの話では、バークリーでも、有名な「怪人」という。
 太平洋戦争で、海軍の艦艇に配属された兵士らしい。戦闘で、燃料庫か機関部に被弾して、高熱の水蒸気で顔を焼かれたのか。整形手術でもまったく復元できなかったらしい。
 「怪人」は、たまに買い物に出かける以外、外出もしないとか。
 エリカは、何度か、この人物に出会ったという。

 戦傷者として、生涯、年金の給付を受けているので、仕事は何もしていない。

 私は、いまさらながら戦争の犠牲になった人の運命を思った。

    1978年3月13日(月)
 10時、「キチン・コーナー」に寄ってみた。古沢君と英会話。

 エリカが、車でシスコの夜景を見に行くという。私は、シスコの夜景なんか見たくないといった。それよりも、「オクスフォード」で、食事をしよう、といった。
 もうじき東京に帰るのだから、娘とせめてディナーをとりたいと希望しても、父親としては当然だろう。
 こんな些細なことが、またしてもエリカとケンカする遠因になった。

 けっきょく、私が折れて、シスコの夜景を見にゆくことになった。
 ところが、エリカの車の運転なので、気が気ではない。ひどく乱暴な運転で、事故を起こさなければいいと思った。
 アシュビーまで出たとき、
 ――おい、とめてくれ。
 と、声をかけたが、エリカは車を止めなかった。
 ――とめろよ。
 ――どうして?
 ――いや、映画を見たいんだ。
 押し問答になった。
 けっきょく、私は車をおりた。しばらく歩いていると、エリカが車で追ってきた。
 また口論になった。
 こうなると、お互いにこれまでたまりにたまった鬱憤を思いきり吐き出すことになった。エリカと衝突すると、たちまち全面戦争になる。

 エリカと私がこじれた気分のまま、ベンヴェニュ(アパート)に戻っても、不快な気分が残るだけだろう。

 映画を見たいといったのは、ただの口実で、そんなことより、エリカからすぐに離れたかった。エリカの運転におそれをなしたことも事実だったが。
 今夜、見るとすればジャック・ターナーの映画だけだった。昔、名監督といわれたモーリス・トゥールヌールの息子で、日本に輸入もされないB級の恐怖映画ばかり撮っている。だから、そんな気分でホラー映画を見てもおもしろいはずはない。

 映画を見た。「プシィキャット」で、ダーティー・ムーヴィーを。

    1978年3月14日(火)
 朝、最後の小包をデューラント/テレグラフの郵便局にもって行く。

 ジーン・クレインに似た、ほっそりした美人はいなかった。
 「KAMA」に行って朝食。
 いつも愛想よくサーヴィスしてくれた中国人の娘もいなかった。ジーン・クレインに会えなかったし、中国人の美少女にも会えなかった。もうこの店にくることもない。

 シスコで、最後の買い物。たいしたものも買えない。お土産、ボロ・タイ(Bolotie)など。
 つるしのレイン・コート。これは、自分用に。
 「アルバトロス」で、「二見書房」、長谷川君のためにホラーを10冊。
 ショー・ケースに、イーディス・ウォートンの「イタリアのヴィラと庭園」の初版本が麗々しく飾ってあった。めずらしい本だが、値がわからない。聞いてみた。100ドル。少し前に見つけたら、買ったかも知れないが、今となってはあきらめるしかない。

 バークリーにもどった。
 「スイちゃん」がきてくれた。エリカといっしょに、丘陵を車で案内してくれることになった。私は、何度か登ったことがあるのだが、それは黙っていた。

 エリカが運転することになった。
 よく晴れた日。

 日曜日に登った山から二つ先のピークに出た。さらに、ワイルド・キャット・ヴァレーに向かう。遠くに小さな湖、さらに、もう一つ、それよりは大きな湖が見えた。

 オークランド。

 「ホーリー・ネームズ」の下の店(セーフウェイのある場所)に出た。去年、はじめてエリカといっしょにオークランドにきたとき、ここに立ち寄ったことを思い出した。
 ここで、落ちついた感じの店に寄って、コーヒー。

 昨日とちがって、エリカとはお互いのわだかまりがなくなっている。
 最後に、親子の対立も知らずに仲介してくれた恰好の「スイちゃん」に感謝した。

 今回のアメリカ旅行は、それなりに収穫もあった。コトルバスを見た感動。「怪人」。
 ワイルド・キャット・ヴァレー。エリカの「CACC」(カリフォーニア・芸術/工芸大学)、そしてオークランドの黒人の美少女。サクラメント。いろいろとネタを仕入れた。なんといっても、毎日、原稿に追われて、疲労困バイすることもなかった。

 「デューラント・ホテル」の前からリムジンで、国際空港に向かう。エリカは、「スイちゃん」の車で、追いかけることになった。
 リムジンに乗り合わせた日本人の若者が、あたりをはばからず、ブロークンな英語でしゃべっていた。

 8時半、税関の検査を通って、待合室に出た。しばらくしてエリカたちが、やってきた。免税店で、百合子に香水を買う。ここで注文すると、ホノルルでわたしてくれるシステムだった。
 9時、空港のカフェテリアにもどって、エリカ、「スイちゃん」といっしょに食事をした。
 10時10分。機内に入った。44G。
 10時50分、離陸。

 さよなら、バークリー。さよなら、エリカ。

      1978年3月15日(水)
 ホノルル着、2時15分。
 空港で何か買いたいと思ったが、この時間では免税店も開いていない。香水は受けとった。
 3時50分、離陸。
 隣りの乗客は、きびきびした若者だった。ダニエル君。中野に友人がいるので、彼を頼って、東京で仕事を探すという。
 朝食が出たが、あまり食べられない。
 「ベアーズ特訓中」を見た。つまらない映画。

    1978年3月16日(木)
 朝、6時12分、羽田に着陸。

 タクシーで、千葉に。

 百合子が迎えてくれた。

2019/08/04(Sun)  1812〈1977〜78年日記 59〉
 
      1978年3月1日(水)
 12時、バークリーからシスコに。

 パウェルに出て、「オクスフォード・ホテル」に泊まることにした。
 901号室。

 昼間なのに、薄暗いホテルの廊下。人影はなかった。まるで、スリラー映画そっくり。

 ホテル暮らしもわるくない。それだけアメリカの生活にもなれてきたということか。

 シャワーを浴びて、ビアー。テレビを見る。

 アカデミー賞のノミネーション。
 優秀作品賞。
 「アニー・ホール」(ウディ・アレン監督)、「グッバイ・ガール」(ハーバート・ロス監督)、「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)、「愛と喝采の日々」(ハーバート・ロス監督)

 アメリカにきて、テレビでアカデミー賞のノミネーションの発表を見て、東京で見た映画をいろいろと思い出す。なんとなく不思議な気分になる。
 オレが映画評を書いた作品が、アカデミー賞にノミネートされているなあ。それだけで、今回のアカデミー賞が、なんとなく身近なものに感じられる。
 北アルプスを歩きながら、前に登ったときは、ここでメシにしたっけ、とか、ふと、人の気配を感じて、あたりを見まわすと、若いカップルがコースをそれて、高山植物のなかで抱きあってキスしていたり。
 そんなとき、チェッ、うまくやってやがる、と舌打ちする思いと、そういえば、このコースは、Y.K.といっしょに登ったっけ、と思うと、なつかしさがひろがってくる。アカデミー賞のノミネートは、そんな思いに似ていた。

 監督賞。
 ウディ・アレン、スティーヴン・スピルバーグ「未知との遭遇」、フレッド・ジンネマン、ジョージ・ルーカス、ハーバート・ロス、「愛と喝采の日々」。

 主演女優賞。
 「愛と喝采の日々」のアン・バンクロフト。シャーリー・マクレーン。
 「ジュリア」のジェーン・フォンダ。
 「アニー・ホール」のダイアン・キートン。
 「グッバイ・ガール」のマーシャ・メースン。

 助演女優賞。
 「愛と喝采の日々」のレスリー・ブラウニー。
 「グッバイ・ガール」のクィン・カミングス。
 「未知との遭遇」のメリンダ・ディロン。
 「ジュリア」のヴァネッサ・レッドグレーヴ。
 「ミスター・グッバーを探して」のチューズデイ・ウェルド。

 ノミネートされた映画はほとんど全部見ている。(外国語映画・部門の、イスラエル映画、フランス映画、ギリシャ映画は見ていない)。「未知との遭遇」が最優秀作品にノミネートされなかったのは意外だが、他の映画も「スター・ウォーズ」に並んだのが不運だった。
 「グッバイ・ガール」は、ニール・サイモンが、夫人、マーシャ・メースンのために書いたコメディ。いい映画だが、ほかの作品に較べると小ぶりで、アカデミー賞は無理だろう。「愛と喝采の日々」よりは、「ジュリア」のほうがいい。「ハメット」をやったジェースン・ロバーズがいい。「ジュリア」のヴァネッサ・レッドグレーヴが、すばらしかった。
 単発としては、「アニー・ホール」がダークホースかも。
 どの映画が最優秀作品に選ばれるのか、女優の誰が主演女優賞をとるのか。ヴァネッサ・レッドグレーヴが、「ジュリア」をやって、最後に私たちにいたましい思いをもたらす。女優としてどれほどの苦労や精進があったのか。父が名優で、スタニスラフスキーの影響を受けたからといって、ヴァネッサの芸が出てくるわけではない。
 おなじように、「リリアン」を演じて映画にサスペンスフルな緊張をみなぎらせたジェーン・フォンダが、ヴァネッサとおなじシーンで、なぜかひるんだり、どう演じてもヴァネッサに押されていたのはなぜなのか。

 「アニー・ホール」のダイアン・キートンにしても、たしかに独特の「女」を見せていた。自分でも会心の演技を見せつけている、と思ったに違いない。しかし、自分でも最高のインスピレーションを実現したと思ったとき、それこそがウディ・アレンの「演出」だったのではないか。ウディ・アレンでなければ、あの「アニー・ホール」は存在しないだろう。とすれば、名演技とは何なのか。

 「アルバトロス」に行って、本をあさった。
 この前は思いがけない「発見」があった。
 映画のパンフレットに、「異聞猿飛佐助」の上映が出ていた。今週は、なんと「侍ニッポン」(岡本 喜八監督)と、「座頭市」(三隅 研次監督)をやっている。
 アメリカで、「座頭市」をやっているのか。驚いたなあ。
 日本映画に対する関心がひろがっている。これは喜んでいいが、どういう評価をされているのか。


        1978年3月2日(木)
 少し、冷静になってからも、アメリカで「異聞猿飛佐助」を見そこなったことが残念だった。もっと早くアメリカにきていれば、見られたかも知れない。
 今日も、私にとっては思いがけない「発見」があった。

 コトルバスの公演がある!

 この記事を見た瞬間、チケットを買うためにホテルを飛び出した。

 14丁目、ハリスン、「ホームズ」で、サンフランシスコ・オペラハウスのアドレスを聞いた。
 いろいろな思いが、私の内面につぎつぎによぎって行く。

 坂道を歩きつづけた。似たようなビルや家屋がつづいて、やがて海に向かって眺望がひろがり、サンフランシスコの大きな空の下に、淡いグリーン、ブルー、ときどきピンク、さまざまな屋根の家並みが、どこまでも続いているように見えた。

 私は、知らない通りを早足で歩いた。人の流れにさからって歩いている。自分の内面に吹きあがってくるものにうながされて歩いている。
 そして、オペラハウスの前に立った。

 私は、コトルバスのチケットをにぎりしめていた。

 もし、東京にいたら、まずどこに行くだろうか。つまらないことを考えるものだ。このときの私は、「日経」や「サンケイ」のデスクを思い出した。

 私は、コトルバスのファンなのだ。ルーマニア出身。
 マリア・カラス、レナータ・テバルディほどの歌手ではないが、レナータ・スコット、カーティア・リッチャレッリなどに比肩する存在なのである。いや、それ以上の実力をもっているシンガーなのだ。
 ニューヨークに行って、ミュージカルやオペラを見るつもりだったが、シスコに、コトルバスがきているというのは、何という僥倖だろう。

 とにかく、一度、バークリーにもどって、着替えよう。まさか、革ジャンを着て、オペラを聞きに行くわけにいかない。

      1978年3月3日(金)
 コトルバスの印象は、ひどく小柄だったこと。
 あの小柄な女性が、まさに「マルグリート」として、私の前に登場したのだった。

 東京にいたら、会う人会う人みんなに、コトルバスの舞台のすばらしさを吹聴するだろう。コトルバスの「ラ・トラヴィアータ」を見たことは、生涯の喜びになった。
 「ヴィオレッタ」のサロンで、「楽しい杯でワインを味わおう」を歌いだした瞬間から私は、コトルバスに魅了された。驚くほど小柄で、華奢なドゥミ・モンデーヌだった。

 「アルフレード」や、「ジョルジュ」、「ドウフォール男爵」、みんな、どうでもよかった。
 東京にいたら、すぐにエッセイを書いて発表するところだが、今は何も書かない。書く必要がない。
 東京にいたら、すぐに「サンケイ」の服部君か、四方さんに、エッセイを書くから、スペースをあけておいて、と連絡するところだが。

 「サンケイ」や「日経」の文化部。それほど人数は多くないが、記者たちの出入りが忙しくなって、電話で原稿の口述を受けたり、短いコメントをとったり、ときには何かのニュースが入って騒然としたり、あわただしく飛び出して行く。そんな中で、私は原稿を書く。
 これがアカデミー賞のノミネーションか何かのイヴェントだったら、吉沢君か青柳君が、私の予想を聞きにくるだろう。しかし、コトルバスの公演を知らせても、誰も関心を寄せないだろうな。

      1978年3月4日(土)
「オクスフォード」、チェックアウト。

 グレイハウンドに乗る。

 ただ、広大な平原がつづく。平原には違いないが、むしろ荒涼としている。
 バスは、ひたすら長い道路を走りつづける。バスの左右にひろがる灰色の荒野。やがて、その中を、ひとすじの川が、水面(みのも)をにぶく光らせながら流れている。地図がないので、名前もわからないが、日本なら1級河川と認定されるほどの川だった。しかし、流れていると思うのは、それが川だと思うからで、旅行者の目には実際に流れているのが見えるわけではなかった。
 このあたりに、明治初年の日本人移民が住みついたのではないだろうか。ただの荒れた平野がつづくばかりで、バスとの距離がより遠くなると、ただ灰色の不透明な風景になって離れて行く。
 アメリカの広大さを、いまさらながら思い知らされた。

 はるかな地平に向かって、空と雲と。
 アメリカは広い。そんなことはわかりきっているが、百年も昔、こんな場所に移住してきた日本人は、どういう思いでこの荒野をさすらっていたのか。

 「オールド・サクラメント」。着いてみて、荒れ果てた都会の寂しさに気がついた。
 バスを下りて、まず、ホテルをさがした。
 ホテルはバス停に近い「シャント・クレール」。名前が気に入って、ここにきめた。
 ただし、このホテルは、まったくの安宿だった。

 街を歩いても、何もない。

 こういう町に、日本人移民が住みついて、わずかな田畑を耕したり、零細な商店を経営して、少しづつ土地に馴染んでいったのだろう。私の遠縁の中田 直吉は、この地で暴漢に襲われて、殺されたという。どういう思いで、当時、僻鄒(へきすう)のサクラメントにたどり着いたのか。

 かつてはさぞや立派だったと思われる映画館があった。
 上映していたのは、「いくたびか美しく燃え」(ガイ・グリホン監督)。ジャクリーヌ・スーザンのベスト・セラー。
 映画プロデューサー、「マイク」(カーク・ダグラス)は、裕福な女性、「ディー」(アレクシス・スミス)と結婚している。娘の「ジャニュアリー」(デボラ・ラフィン)は作家の「トム」と愛しあっている。だが、「ディー」は、女優の「カルラ」(メリナ・メルクーリ)と、レズ関係。従弟(ジョージ・ハミルトン)に、「ジャニュアリー」を誘惑させ、夫の目をくらまそうとする。
 コトルバスを見たあとなので、この映画の印象は薄いものになった。映画に舞台の迫力を求めるほうがおかしいけれど。

      1978年3月5日(日)
 バークリーに戻った。

 エリカが、はげしい剣幕で
 ――どこに行ってた?
 と、私に詰問する。

 私が連絡しなかったので、バークリー警察に行って相談したという。エリカは、シスコで一人歩きをするなんて危険きわまる。強盗にぶつかって殺される旅行者だってめずらしくない。
 刑事は、私の氏名、職業を聞いて、英語は話せるのか、と聞いたらしい。エリカは、大学の教授で、英語はしゃべれる、と答えた。
 刑事は、にやにやして、あまり心配しないほうがいい、といったそうな。

 私は、いちおう旅なれているつもりだが、危険な場所には立ち寄らない。
 エリカは――たとえ、10ドル、20ドルしか持っていなくても、その10ドル、20ドルほしさに人殺しをするような連中がいる、という。それはその通りなので、こちらも反論できない。

 けっきょく、エリカがあとでバークリー警察に行って、捜索願いを撤回することになった。

 午後になってエリカも、やっと機嫌を直した。午後から、バークリーで親しくなった友だちの「エイコ」さんのところに遊びに行くという。

 テレグラフに出て、百合子のためにお土産を探した。腕輪を見つけた。気に入ったが、こんなものは日本ではアクセサリーとして使えない。そこで、指輪を買った。
 百合子には何もプレゼントしたことがない。なにしろ、結婚したとき、500円しかなかった貧乏作家で、原稿料を稼ぐためにあくせくしていた。指輪を買う余裕もなかった。
 その私が、アメリカにきて本を買いあさっているのだから、変われば変わるものだと思う。百合子に手紙を出しておこう。私の捜索願いのてんまつも。

 ハガキを書く。

 テレビ。「アウトフィット」。ロバート・デュヴァル、カレン・ブラック。テレビ・ドラマではなく、テレビ映画。(日本のVシネマだろう)
 またまた無知をさらけ出すようだが、アメリカにきてはじめて気がついた。日本では公開されないアメリカ映画が無数にある。(日本語のスーパーインポーズがついて)試写の結果、公開されない映画もあるが、そうではなくて――はじめから日本には未輸入のままアメリカだけで公開される映画が山ほどある。
 この「アウトフィット」もそのひとつ。カレン・ブラックがいい。

 テレビ映画は、英語のブラッシ・アップのつもりで見ている。

2019/07/28(Sun)  1811〈1977〜78年日記 58〉
 
        1978年2月22日(月)
 いよいよ出発の日。
 原稿はほとんど書き終えたので、気分的に落ちついていられる。
 昼、「シュメイカー・コレクション」のカタログの原稿を書く。主に、フランドル派の画家を中心に、アンドレア・デル・サルト、グィド・レニなど。1月に、「テレ朝」で、フランドル派の画家について話をしたが、それが役に立った。
 小川 茂久に原稿を。坂本 一亀にわたす原稿。これで、やっと肩の荷がおりた。
 仕度をする。百合子がついていてくれた。家を出て、池田家のあたりまで百合子が見送ってくれた。しばしの別れ。
 5時、「山ノ上」。
 「共同通信」、戸部さんに原稿。
 もう1人、安斉さんに、フランドル派の原稿をわたした。しばらく雑談。このつぎは、「ルネサンス展」を企画したいという。
 駿河台下からタクシー。

 カウンターで、ボーディングの手続き。41A。

 時間があるので、「大和」でお寿司を食べた。ほかの店が混んでいたので、「大和」を選んだわけではない。

 税関を通ったのが、9時15分。
 免税店で、「ハイライト」、1カートン。本を1冊。

 予定より10分遅れ。10時40分、離陸。

 機内食。

 映画、「ディック・アンド・ジェーン」を見た。ジェーン・フォンダ主演。
 どうも見たような映画だった。ああ、試写で見たっけ。英語だけで見たかった。
 映画を見はじめて気がついたのだが、私の席の2列前にスチュワーデスの席があって、映画のスクリーンがよく見られない。なるほど、安い席には安くする理由があるのか。
 仕方がない。眠ることにしよう。

        1978年2月22日(月)
 朝、5時。
 アナウンスメントがあって、あと2時間で、サン・フランシスコに着く。
 よく眠れなかったせいか、少し疲れていた。時差のため、アメリカ時間で正午。
 雲海を飛んでいる。ときどき強く揺れる。
 食事が出た。タン、ヌードル、スープ。あまり食欲がない。

 2時18分、サン・フランシスコ、着。

 税関はかんたんに通してくれた。

 まわりにいるのは白人ばかり。
 ああ、アメリカだなあ。
 つまらないことを考える。バスで、ダウンタウン・バス・ターミナルまで。
 1ドル40セント。

 積木のように、淡いブルーやグリーンの家並みがスロープにびっしり並んでいるのもなつかしい風景だった。

 「ベルヴュー・ホテル」は、ゲァリー/ティラーにあるので、ターミナルから歩いて行ける。中級ホテルのくせに、お高くとまっているような感じ。ただし、落ちついた雰囲気はある。
 715号室。老人のボーイにチップをやり、入浴。
 ベッドにひっくり返った。

 5時半、ドアをノックして、エリカがはいってきた。
 久しぶりに親子の対面だが、お互いに、ハグするわけでもないし、握手するわけでもない。しばらく、千葉の百合子、賀江たちの話をする。

 ――とにかく、外に出よう。

 サン・フランシスコ名物の市電に乗る。急な坂道をガタガタ走っているボギー車だった。白人、黒人、アジア系、アフリカ系、雑多な人種、みな乗り込みで、けっこう混んでいたが、吹きっさらしの風が冷たい。

 ノブ・ヒルからすぐのパウエル・ストリートと、マーケット・ストリートがぶつかるあたりがシスコの中心で、銀行、デパート、華やかなブティックなどが密集している。この広場の下に、バート(湾岸高速鉄道)のパウエル駅があるので、観光客も多い。
 サン・フランシスコ名物のケーブルカーの発着地点になっている。
 坂を下りてきたケーブルカーは、ここで方向転換するのだが、ものめずらしさに惹かれた観光客が集まって、まるでお祭りさわぎのようになる。

 ワシントン・ストリートを右折して、ハイドに入ると、ケーブルカーは、上り坂、下り坂のストリートを走るようになり、プリバートとクロスしたあたりで、突然、海が見えてくる。

 ランバートの角で眺望がひらける。
 春の遅いシスコの湾内の、海の色はまだ冷たい冬の色をたたえていた。
 遠くアルカトラスが見える。訪れる者もいない刑務所の島。
 すべてがカリフォーニアの沈黙のなかにあった。太陽の光だけが春らしいきらめきを届けてくる。
 ベイ・フリッジも美しいカーヴを見せていた。

 この季節のフィッシャーマンズ・ワーフは、落ちついているようだった。エリカは、観光客などがあまり知らない、裏通りをいろいろと知っていた。
 あまり裕福な人たちのいないさびれたホテルの区域や、それと道一つへだてたチャイナタウンの入口や、もっとずっと奥の中華料理の店なども知っていた。
 語学を習得するために通っているスクールに、中東、東南アジア、南米からきた若者がいて、いろいろな場所に住んでいる。むろん、日本人もいて、エリカは世界じゅうの若者たちと友達になっている。
 とりあえず、「フィッシャーマンズ・ワーフ」で食事ということになった。

 「フィッシャーマンズ・グロットー」に入った。
 ここも有名な店らしく、客が混んでいたが、禿げ頭のボーイが席を見つけてくれた。
 チャウダー。これが、おいしかった。井戸で水を酌む手桶に似たバケットいっぱいアサリをつめ込んである。カリフォーニア・ワイン。
 日本人なので、アサリはよく食べているのだが、とても食べきれない量だった。
 ふたりで食べて、30ドル。たいして贅沢でもないし、まずしい食事でもない。ボーイにチップ、3ドル。
 「ワーフ」から少し歩いた。途中で新聞を買う。
 チェスナットの「ACT 21」で、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)をやっている。
 せっかく、アメリカにきたのだから、記念にこの映画を見てもいい。
 タクシーで、チェスナットに行く。2ドル10セント。
 チェスナットの通りを歩いたり、「パンケーキ・ハウス」で、コーヒーを飲んで、時間をつぶす。

 「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)。
 遠くはるかな銀河の彼方。帝国の独裁の軛(くびき)をやぶろうとする「レイア姫」(キャリー・フイッシャー)は、帝国の攻撃衛星、デス・スターの機密データを入手するが、帝国軍に逮捕され、「ダース・ベーダー」に拷問される。姫の命令をうけたロボット、R2D2とC〜3POが逃走する。
 一方、「ルース・スカイウォカー」(マーク・ハミル)は、かつて銀河共和国の騎士だったオビ・ワン・ケノービ(アレック・ギネス)に会いに行く。「スカイウォカー」は、ロボットたちといっしょに、密輸船の「ハン・ソロ船長」(ハリソン・フォード)の密輸船に乗り込み、「レイア姫」を救出する。反乱軍は、「ダース・ベーダー」攻撃に向かう。
 最後に、難攻不落のデス・スター攻撃。最後の、ミサイル・ロケットと戦うシーンは迫力があった。観客が、キャーキャーいってよろこんでいる。
 「スカイウォカー」のワン・ポイント攻撃が成功する瞬間は、劇場じゅうが息をのんだ。

 ジョン・ウイリアムズの音楽がスゴい。
 私がこの作曲家の音楽を知ったのは、「億万長者と結婚する法」だった。マリリン・モンローを「研究」していたからだが、そのときからこの作曲家に注目したなどということは、まったくない。しかし、「ジェーン・エア」や「ポセイドン・アドベンチャー」なども作曲しているのだから、才能のある作曲家なのだろう、程度。
 その後、「ジョーズ」もこの作曲家と知って、はじめて、ジョン・ウイリアムズに、関心をもった。
 その後、「屋根の上のヴァイオリン弾き」、「ジョーズ」で、アカデミー賞を受けた。

 私は、別のことに注意した。「スター・ウォーズ」併映のカートゥーン(短編マンガ)だった。(タイトルはおぼえていない。)
 宇宙のどこかに、小さなジャガイモみたいな星がある。その星にロケットが飛来して、着地する。降りてきたのは、宇宙服をきたメガネの小男。
 つづいて、少し遅れてもう1台のロケットがやってきて、日本人のロケットとモメる。これが、アメリカのロケット。何かしようとする度に、日本人のロケットに先を越される。日本人は、この星の領有権を主張するために、ブリキのような旗を建てる。これが日章旗。
 最後に、アメリカ人が頭にきて、日本人をロケットごとその星から蹴おとしてしまう。めでたしめでたし。子どもたちが、キャーキャーいって拍手する。

 このマンガは、日本人に対する侮辱を描いている。
 アメリカの子どもたちが、こうした侮日的なマンガを見せられていることを知って、不快な気がした。この週だけ「スター・ウォーズ」と併映されるのではないだろう。全米で、「スター・ウォーズ」と併映されているかも知れない。
 アメリカ人の内面に、日本に対する警戒がひそんでいるということは、私たちも考えておく必要があるだろう。

 外に出たときは、もうすっかり夜になっていた。
 22番街行きのバスに乗って、乗換え、テイラー・ストリートに戻った。
 「ベルヴュー」のバーで、水割り。3ドル。
 エリカに、泊まって行くか、ときいた。
 うん、泊まってもいい、というので、部屋に戻った。エクレアを食べながら、また千葉のこと、百合子のこと、「小泉のおばチャマ」のことなど。
 映画を見たせいか、疲れた。

       1978年2月23日(火)
 朝、7時に眼がさめた。
 熟睡。気分は爽快だった。
 エリカと話しているうちに、このホテルを引き払って、バークリーに移ったほうがいい、という。
 エリカの部屋に泊めてもらえば、ホテルの費用はかからない。ただし、エリカといっしょにいれば、一度や二度は衝突して口論になる、と覚悟しておいたほうがいい。
 いろいろ話をした結果、バークリーに移ることにした。
 そうときまれば早いほうがいい。
 「ベルヴュー」、チェックアウト。40ドル85セント。

 「オクスフォード」の1階のレストランで朝食にしたかったが、あいにく、11時から営業なので、向かい側のイタリアン・レストランで、朝食。3ドル85セント。
 「オクスフォード」の2軒先、「ドルトン・ホテル」の隣りの本屋、「マクドナルド」に寄る。この前、ここにきたときは、フランシスコ・ボルジァの資料などを買った。今回は、ローラ・モンテスの資料。あまり、めぼしいものはない。「アルバトロス」にも寄りたかったが、荷物があるのであきらめる。

 コンコード行きの地下鉄(バート)に乗る。途中、マッカーサーで乗り換え。何もかも、この前の旅行とおなじなので、なつかしさ、落ちついた感じだった。
 それでも、この前はシャタック通りしか知らなかったが、今回のバークリーは、落ちついた大学の街という印象を受けた。UCB(カリフォーニア大学・バークリー分校)は、地下鉄の駅からしばらく歩く。ベンヴェヌートの通りに出る。エリカはこの通りに住んでいる。
 2階。外からガレージに入るので、実際には3階といった感じ。エレベーターはある。部屋は2LDK。細長いキッチン、トイレット、バスルーム。エリカのような留学生には手頃な物件だろう。
 エリカは、私がアメリカにくるので、室内を整理したという。壁に、浮世絵や、大きな虹の切り抜き、ボーイ・フレンドの「ケヴィン」が撮った天文台の写真などが貼ってある。エリカの描いた水彩も。
 エリカとふたりで過ごしたことはない。エリカが、アメリカで元気にすごしていることがうれしかった。

 午後、ひとりでバークリーを歩く。(あとで、これが日課になった。)

 バークリーは美しい街で、ほとんどの街路に、さまざまな樹々、花々が植えられている。朴、木蓮、名前がわからないのだが、センリョウ、マンリョウに似た実をつけている木々、アメリカスギ、たくさんの植物が、この街に落ちついた雰囲気をもたらしている
 「ヒルガス」地区で、サクラに見紛う花(おそらく、アンズかアマンド)が、咲きみだれていた。それが今、風に散っている。

 私は、雑草のなかを横切り、わずかな灌木をわけて、展望台とおぼしき場所まで歩いた。灌木のあいだから、このあたりの、小高い丘陵からのゆるやかな起伏が見渡せる。
 ベンヴェヌートの通りが、ひっそりと息づいている。
 雲の切れ目から、陽射しがバークリーのアップタウンに照りつけて、大学の建物が金色に光った。あんなに小さな建物のなかに、ノーベル賞の学者たちがひしめいていると思うと、何か非現実めいたことに思えた。

 エリカの話。土曜日は、テレグラフの通りで、若い人たちの手作りの露店が並ぶという。それを見に行った。その露店の一つ、革バンドを売っている。バックルの一つが、スコルピオだったので、革バンドにつけてもらって買った。
 サッター通り、UCBの構内から出て、すぐのストリート。大学の教科書、参考書を売っている本屋で、スタンフォード大・教授、ヘンリー・アンスガー・ケリー著、ヘンリー8世の離婚を扱った資料。近くの書店、「コデイー」で、カリフォーニア大、J・J・セドリスブルック著、「ヘンリー8世」。そのあと、「シェイクスピア」で、メキシコ征服に関する資料など。
 今回、私としては、ニューヨークで、芝居とミュージカルを見るつもりだったが、エリカが泊めてくれるのなら、バークリーで、いろいろと資料を買うことにしてもいいと思った。
 エリカのアパートに帰って、すぐに本の荷作り。みんな、船便で送ることにする。
 時差ボケで、昼過ぎになると眠くなる。

 夕方、シスコに出るつもりでアパートを出たが、ドワイト・ウエイで下りたところに古書店があるので、寄ってみた。なんのことはない。昼間、立ち寄った「シェイクスピア」だった。たいして期待しなかったのだが、ヒレア・ベロックの評伝、「ウルジー」を見つけた。

 また別の古書展を見つけたので、寄ってみた。ここでは、クレメンテ・フュゼロの「ボルジア家」を見つけた。そればかりか、グレゴロヴィウスの「ルクレツィア・ボルジア」も見つけた。29ドル。

       2018年2月26日(日)晴、曇り
 朝、眼がさめたのが5時。まだ、からだがなれないせいか、こんな時間に眼がさめてしまう。エリカは隣りの部屋で眠っている。
 エリカを起こしたくないので、昨日、買ったグレゴロヴィウスを読む。途中で眠ってしまった。起きたのは11時半。

 エリカが、フリー・マーケットにつれて行くというので、ジーンズに着替えてバスに乗った。オークランドから、トンネルを越して、アラメダのドライヴイン・シアター。ここで、いろいろな人ががらくたを並べて売っている。日本の骨董市のようなもの。
 帰りに、オークランドで、「ウィンザー・カナディアン」というウイスキーを買った。8ドル65セント。雑誌、「ハスラー」、タバコを2カートン。これで2Oドル。
 バークリーは、町の条例でアルコール類の販売が禁止されている。パブのような店もないし、レストランでも酒類はいっさい出さない。だから、当地の左党は、市外で買ってくる。持ち込みは禁止されていないので。

 アメリカでは、毎日が「発見」の連続だが――
 UCBのパンフで、私の小説の映画、「異聞猿飛佐助」(篠田 正浩監督)をやっていることを「発見」した。え、マジかよ。驚きがあった。

 「THE SAMURAI SPY」by MASAHIRO SHINODA

 まさか、アメリカで「異聞猿飛佐助」を上映しているとは思わなかった。
 私自身、この「異聞猿飛佐助」は、公開直前に、「松竹」の試写室で見ただけだった。「異聞猿飛佐助」を撮ったあと、篠田 正浩は「松竹」と対立して、やがて、「松竹」を離れた。その後、「異聞猿飛佐助」は、日本では二度と上映されることがなかった。

 ところが、この映画は1週間前に上映されたのだった。
 惜しいことをした。残念。
 アメリカにきたばかりで、いきなりパンチを食ったような気がした。もっとも、私が残念がっても仕方がないが。

      2018年2月27日(月)晴、曇り
 昨日より早く眼がさめた。

 ベンヴェニュの北に、低い丘陵がつづいている。UCB(バークリー)からつづいている雑木林と、緩やかに傾斜した谷間から、細い道が大学付属の原子力研究所のほうにつづいている。その山道は、アメリカ松と、徐々に高くなってゆく山肌を見せて、行く手でおおきく弧を描いてまがり、さらに先の高原にむかっている。
 規模からいえば、高尾山から御岳に向かうハンキング・コースに近い。アメリカにきてまで山登りをするのは酔狂だが、この丘陵地帯を見てから、どうしても登ってみようと思った。

 太陽がまだ登っていない。東から北に伸びた丘陵に、低い雲がひしめいている。しかし、雨になりそうな雲ではなかった。
 旅行中なので、登山靴ではなかったが、往復たかだか1.2時間の散歩なので、革靴でも歩けるだろうと判断した。

 ゆるやかな山道。
 水分を吸収した草の緑が、まぶしいほどあざやかだった。日本の雑草と違ってどこかたけだけしい感じで、昇る朝日を反射して、美しいオパール色をみせる。ポール・グリーンの芝居のタイトルを思い出した。「昇る太陽に跪づけ」。
 こんなタイトルを連想するのも、何かを見て、すぐに英語を思いうかべるおかしな習慣のせいだろう。
 山道も、日本の低い山のコースと違って赤い色だった。
 山肌に精気がみなぎって、この丘全体が、かがやいている。
 私は、バークリー背後の丘陵がつぎつぎに変貌してゆく姿に、胸の高鳴りを抑えることができなかった。このまま、昇る太陽に跪づいて、カリフォーニアの大自然に溶け込んでしまいたい。
 ただし、高尚なことを考えたわけではない。
 おにぎりを作って、もってくればよかった。

 帰りに、松ボックリをひろった。これも、日本の松ボックリと違って、三倍ほども大きい。これを日本に持ち帰ろうか。

      2018年2月28日(火)晴れ。
 バークリーの郵便局。
 ここの窓口は、どうかすると人の行列が外の路地にずらりと並ぶこともある。9時頃がピークらしい。
 10時半になると、閑散として、局員がのんびりしゃべっている。
 一個だけ航空便にするつもりだったが、うっかりして二個とも航空便にしてしまった。35ドル。
 いつも2,3人、女性が受付けにいるが、黒人の女は、ひどく権高に応対する。ほかに、長髪で、いくらかスガ目の若い男。もう1人は、30代、制服をきっちり着こなして、レイバーンをかけた、ややトウの立ったプレイボーイ。
 「ロゴス」で、アレッティーノ、ベネデット・クローチェを見つけた。「モー」で、バピーニ。イタリア系の学生が読んだものだろうか。

 明日、またバークリーから船便で送ることになる。

2019/07/21(Sun)  1810〈1977〜78年日記 57〉
 
        1978年2月16日(木) 。
 成田空港の上空には、常時、乱気流があって、着陸の際、機体がはげしく揺れるなど、安全性に問題があるという。
 空港の滑走路、4000メートルが、ほぼ南北に延びていて、その日の風向きによって、一方からの向かい風で発進する。冬は北風。乱気流の影響をもっとも強く受けるのは南側からの着陸の場合という。
 新設空港が成田にきまったとき、用地に関して、当時の自民党の有力者たちが利権がらみで動いた。成田ときまったとき、パイロットから気象条件がわるいという指摘があったらしい。今頃になって問題になっている。

 ムハメッド・アリがスピンクスに敗れた。

 10年も前のこと、ヴェトナム戦争で召集されたムハメッド・アリは、戦争反対を表明し、徴兵を忌避した。そのため、全米コミッションからタイトルを剥奪されたばかりか、試合に出ることも妨害された。その結果、2年間もリングから追放されていた。
 選手としての全盛期に、試合に出られなかったムハメッド・アリに対する制裁は、実質的には人種差別だった。
 その後、ムハメッド・アリは復活して、74年、タイトル奪還に成功した。私は、ムハメッド・アリの傲岸不遜なキャラクターが好きではなかったが、それでも、彼のボクシングはずいぶん見てきた。今回は、スピンクスという選手を知らなかったため、たぶんムハメッド・アリが勝つと思って試合を見なかった。
 失敗したなあ。

        1978年2月17日(金) 。
 3時、「CIC」で、「恐怖の報酬」(ウィリアム・フリードキン監督)を見た。
 いうまでもなく、クルーゾーの「恐怖の報酬」(53年)のリメイク。製作費は、フリードキン映画のほうが、はるかに大きいだろう。
 油田で火災が発生したが、消火の手段がない。300マイル離れた製油所から、トラックで消火用のニトログリセリンを現場にはこぶことになる。
 食い詰めた男たちが、金につられて、ニトログリセリンの輸送に応募する。
 オリジナルでは、イヴ・モンタン、シャルル・ヴァネル、フォルコ・ルリ、ピーター・ヴァン・ダイク。それぞれ強烈な個性の俳優たちがドライヴァーを演じていた。
 フリードキンの映画では、ロイ・シャイダー、フランシスコ・ラバルたちが演じたが、まるでB級アクション映画の俳優たちにしか見えない。監督の力量が違うと、こうも低俗な映画しか作れないのか、と感心する。
 映画が終わって、最後のクレジットに、れいれいしく、「アンリ・ジョルジュ・クルーゾオにささぐ」と出てきた。おもわず、失笑した。
 フリードキンとしては、先人の仕事に敬意を表したつもりだろうが、わるい冗談にしか見えない。

 吉沢君が、最近のつかこうへいの芝居について話してくれた。「ひもの話2」と「出発」(俳優座劇場)。つかこうへいが田中 邦衛を使っているそうな。クセのある役者だが、つかこうへいなら、うまく動かしてるんだろう?
 ――そうでもないみたいです。なかなかいうことを聞かないらしくて。
 ――見に行けばよかったな。
 芝居の入りはいいらしい。

        1978年2月18日(金)
 パスポートを受領した。

 午後から、小説。

 10時から、「夜の蝶」(吉村 公三郎監督)を見た。
 京 マチ子、山本 富士子主演。「松竹」の伝統を守りながら、良質な風俗劇として評判になった映画。銀座のバーが描かれているが、今では、どこの土地にもある程度の内装で、昭和の高度経済成長の変化が見られる。当時、銀座のバーは200軒。
 数寄屋橋、尾張町の風景が出てくるが、車の往来も少ないし、ネオンサインもわびしい。

        1978年2月20日(日) 。
2時近く、地震。震度/3程度。
 震源地、宮城県沖、震度/6.8。仙台、盛岡など、震度/4。仙台では、重傷者、1人。東京、銚子、震度/3。

 大阪の大手プレハブ・メイカー、「永大産業」が合板部門と信用不安のため倒産し、更生法を申請した。負債総額、1800億円で、50年8月の「興人」の倒産に匹敵するできごとらしい。
 これまで、「大和銀行」、「協調融資銀行」が支援をつづけてきたが、ここにきて見放した。その背後に何があるのか。
 大蔵省、日銀などは、恐慌を回避するためには企業の倒産もやむを得ないと判断したらしい。

        1978年2月21日(月)
 さすがに、疲労している。

 「ガリバー」、三浦君から電話があったが、原稿は書けそうもない。はじめて、ことわった。
 この前、アメリカに行ったときは、オスカー・ワイルドを訳していたが、半分だけ内藤 三津子さんにわたして、あとはアメリカで、毎日訳したっけ。

 1時、河合君に会った。意外に時間がかかったため、約束の2時半に、「阪急」の都築君に会えなかった。
 3時15分、航空券を受けとる。
 5時半、「山ノ上」。本田 喜昭さんに、原稿をわたす。「二見書房」、長谷川君が、社長、堀内 俊宏さんからの餞別を届けてくれた。ありがたく頂戴した。
 吉沢君を待たせて、その場で原稿を書く。
 杉崎 和子女史がきた。
 長谷川君、吉沢君も、みんな顔なじみ。

 杉崎さんは、ケイト・ショパンの「めざめ」にサインして贈ってくれた。杉崎さんとしては、はじめての翻訳。
 長谷川君、吉沢君と別れて、杉崎さんと、三崎町に向かった。
 「平和亭」で食事。杉崎さんは、背水の陣のつもりで、アメリカの大学で講義する決心らしい。ヘンリー・ミラーにインタヴューする予定。
 いろいろな話題が出た。杉崎さんは、私が、少年時代に批評家として登場して、翻訳家としてもベストセラーを出しつづけ、演出家としても仕事をつづけ、作家としても認められている。すべて順風満帆に見えるという。
 私は驚いた。現実の私は、挫折ばかりくり返してきた。批評家としては、大衆文学に足を踏み込んだために、純文学系の批評を書く機会がない。翻訳家としても、ミステリーの翻訳をしたために、純文学系の作家の翻訳の依頼はない。演出家としては、一度も失敗しなかったが、役者たちの内紛で劇団を解散したため、劇場費だけでなく、美術、照明費、一部の俳優、女優たちに出演料の支払い、とにかくひとりで負債を引き受けた。いそいで小説2本を書いて、この印税で穴埋めした。作家としても、ほんとうに書きたいものは書けず、注文をこなしているポットボイラー。大学の講師をつとめているが、お鳥目は、スズメの涙。
 ――作家の敵は何だと思いますか。
 ――さあ、わかりません。何でしょうか。
    杉崎さんが私を見る。
 ――酒と税金です。


        1978年2月22日(月)
 午後、「小泉のおばチャマ」がきてくれた。
 私たちにとっては、小泉 賀江は恩人のひとり。貧乏作家の私をいつも応援してくれたのは小泉 賀江だった。結婚当初、住む場所もなかった私たちに、一戸建ての平家を貸してくれたのも賀江だったし、百合子が肩身の狭い思いをしないですむように心くばりをしてくれた。
 賀江は、アメリカ行きに何かお餞別をくれるという。いちおう辞退したが、エリカにも何かおみやげを、という。
 百合子といっしょに「そごう」に行く。
 コート、ズボン、下着など。「小泉のおばチャマ」のおかげで、どうやら、私の赤ゲット旅行の仕度がととのった。
 留守中、エリカから電話。こちらからかけた。
 養命酒をもってきてほしい、という。エリカは、私に似て小柄なので、アメリカではいつも子ども扱いらしい。養命酒を飲んで、少し肥りたいという。

2019/07/14(Sun)  1809〈1977〜78年日記 56〉
 
        1978年2月1日(水)
 一度、映画の試写を見そびれると、なかなか見るチャンスがない。吉沢君から何度も連絡をうけていた「真夜中の向う側」(チャールズ・ジャロット監督)も、「ボビー・デアフィールド」(シドニー・ポラック監督)も、なかなか見られない。
 3時、「ワーナー」で、「ボビー・デアフィールド」を見た。 エリヒ・マリア・ルマルクの原作、シドニー・ポラックの演出なので、期待はしたのだが。
 フォーミュラ・ワンのチャンピオン・レーサー、「ボビー」(アル・パチーノ)が、事故を起こした友人をスイスの療養所に見舞う。ここで、不思議な女、「リリアン」(マルト・ケラー)に声をかけられる。翌日、「リリアン」はミラーノに帰る「ボビー」の車に同乗する。
 マルト・ケラーは「ブラック・サンデー」で見たとき、大柄で、魅力もあって、しっかりした演技力のある女優と見えたが、この映画ではどうやらミス・キャスト。ルマルクが描こうとしたミステリアスな魅力はない。たぶん、「凱旋門」(ルイス・マイルストーン監督/1948年)のイングリッド・バーグマンが、ルマルクのヒロインのプロトタイプだろうと思うのだが。
 F1レースの緊張と、フィレンツェや、コモ湖の静寂な風景のコントラスト。はじめは、浮薄なflirt に見える「ボビー」と「リリアン」の、背後に迫ってくる、ぬきさしならぬ孤独な翳り。ルマルクのテーマだろう。
 「ボビー」と同棲している「リディア」(アニー・デュプレ)は、前作、「花のスタヴィスキー」で、ジャン・ポール・ベルモンドと共演したが、じつに典雅な美貌の女優だった。この映画では、アニー・デュプレとマルト・ケラーを入れ換えたほうがよかった。そのあたりシドニー・ポラックも考えたに違いないが、女優の差し換えはしなかった。そのあたりに興味がある。暇があったら、そのあたりを調べたいところだが。

 6時、「山ノ上」で、大川 修司と。

 「あくね」に行く。

        1978年2月2日(木)
 竹内 紀吉君が、わざわざ国会図書館から借り出してくれた小酒井不木全集の第一巻を読む。
 この巻は、殺人論、科学より見たる犯罪と探偵、毒と毒殺の3部からなっている。いずれも大正期に書かれたものだが、現在でも基本的な資料としての価値を失っていない。
 ミステリー作家は、こうした先人の残した研究を読むほうがいい。
 現代の薬理学のレベルからすればもの足りないところはあるにしても、小酒井 不木がどんなに熱心に毒物を研究していたか感動するだろう。

 私は、小酒井 不木を読んで、ブランヴィリエ侯爵夫人について書いてみたいと思いはじめている。

        1978年2月3日(金)
 「ガリヴァー」の原稿を書く。
 5時半、「山ノ上」。「集英社」、永田 仁志君。熱心な編集者で、何とかして私に何か書かせようとしている。私としても彼の熱意に応えたいのだが。4月から、なんとか原稿をわたすことにする。
 「ガリヴァー」、三浦君に原稿をわたす。すぐに、こちらは次の仕事をきめた。
 7時、飯田橋の東京大神宮で、村永 大和君の「ビニールハウスの獣たち」の出版記念会。こうした出版記念会には、ほとんど出ないのだが、村永 大和君は私のクラスで講義を聞いてくれたひとり。
 盛会だった。それはいいのだが、加藤 守雄が祝辞をのべている間、歌詠みとおぼしい女どもが、ベシャクシャしゃべりつづけていた。さすがに司会者がたしなめたが、歌人という連中、とくに、短歌雑誌に投稿するオバサンたちの低俗なことに驚かされた。
 飯島 耕一さんを見かけたので、挨拶する。村永君に祝意を述べて退散する。

 寒い。「あくね」に寄って、小川 茂久と話をした。

        1978年2月4日(土)
 ヨーロッパ。水銀で汚染されたオレンジが市場に出回っている。西ドイツでは、シュレスウィヒホルシュタイン、ヘッセン、バーテンビュルテンベルグ、バイエルン、西ベルリンの各州で、汚染されたオレンジが発見された。
 アメリカ国務省は、この事件をパレスチナ・テロリストの犯行と見て、きわめて卑劣なテロ行為と非難した。

 午後、「タヒチの男」(ジャン・ポール・ベルモンド主演)を見た。仕事をする気にならないので。
 ジャン・ポール・ベルモンドを主役にして、1348年のペストの災厄を背景に、マキャヴェッリの喜劇、「クリーツィア」を撮ったらおもしろいだろうなあ。フィレンツェはこの恐るべき疫病で、人口が三分の一まで減少したと推定されている。その中で、もっとも被害が多かったのは、最下層の労働者、織工たちという。ジャン・ポール・ベルモンドは、生き残った織工たちをひきいて……
 監督は? フェデリコ・フェリーニがいい。
 女優は? アニー・デュプレーだな。レスリー・キャロンか、フランソワーズ・アルヌール。

        1978年2月5日(日)
 午前中、「メディチ家」のノート。

 ドウソンの「中世キリスト教と文化」。ロスの「ユダヤ人の歴史」。山田 稔の「スカトロジア」。私は山田 稔という人に興味をもっている。「VIKING」の同人だが、関西ではなく、東京の文学者たちと交流したほうがいい。

 夜、「個人生活」を見た。
 ほんの1場面だが、アラン・ドロンの母親役で、マドレーヌ・オズレイが出ている。ルイ・ジュヴェの「恋人」だった女優。すっかり、オバアサンになっている。

  ――マドレーヌ・オズレイ Madeleine Ozeray
    1910年、ベルギー、ブイヨン・シュル・スモア生まれ。早くから舞台女優を
    めざし、ブリュッセルで、コンセルヴァトワールの生徒になり、首席で卒業。デ
    ュパルク劇場で初舞台。レイモン・ルーローの劇団に参加。パリに「青年の病気」
    で巡演。ルイ・ジュヴェに認められ、「アテネ座」に入った。数々の名舞台に
    出演した。戦時中は、パリを脱出、南アメリカを巡業したが、ルイ・ジュヴェと
    別れた。戦後は、舞台に復帰できず、映画に出ていた。
    映画は、「ある夜の若い娘」でデビュー。「リリオム」(1934年)、「罪と
    罰」(35年)、「旅路の果て」(39年)、「追想」(75年)など。

 マドレーヌの回想、「いついつまでも、ムッシュー・ジュヴェ」を読んだとき、この女優さんのことが気になった。おもしろい、というか、あらゆる意味で、興味ある女優。

        1978年2月6日(月)
 別府、マラソンで、宗 茂(旭化成)が、2時間9分5.4の日本最高記録で、優勝した。世界歴代2位。弟の宗 猛(旭化成)も、2時間12分48秒で、この大会、2位。モスクワ・オリンピックに向けて、快記録が生まれた。

 今日、東京に出かけたかったのだが、明日、総武線が順法闘争に入るので、予定を変更した。
 午後、小川 茂久から電話。今日、総武線が運休のおそれがあって、私が東京に出るかどうかたしかめたかったのかと思った。そうではなく、船山 馨の本の批評の依頼だった。なんだ、そんなことか。「弓月」で飲みながら、話せばすむのに。
 坂本 一亀(かずき)が、私を名さしで、小川に頼んできたという。
 ――そうかあ。一亀(いっき)さんの頼みじゃ、断れねえや。
 小川は、ケッケッケッと笑った。

 「二見」、長谷川君に電話。印税の件。
 池上君の電話。校正は、3月20日頃。よかった。旅行から戻って、校正を見ればいい。
 渡辺さんから、小説のタイトルの件。考えてない。書くのも忘れていた。

 この日、「メディチ家」、ノート。

        1978年2月7日(火)
 総武線は順法闘争に入ったので、フォックスの「ターニング・ポイント」を見るのはあきらめた。
 「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見書房」の長谷川君と会う。「フォックス」に行っても間に合わない。「東和」に行く。
 「ボーイズ・ボーイズ」(ドン・コスカレリ監督)をもう一度見ることになってしまった。長谷川君の話では、「二見書房」が翻訳権をとったという。偶然だが、長谷川君にとってはこの試写を見られて好都合だったことになる。

 3時半、「阪急交通」の都築君に会う。安い航空会社にきめた。なにしろ、貧乏作家だから安い飛行機を選ばなければならない。「交通公社」では、22万1千円。こちらの方がずっと安い。都築君に感謝している。
 6時、「山ノ上」。
 「マリア」と会う。久しぶりだった。

 ――「いかに美しい丘陵の曲線も、女性のその下に性器のある陰部の曲線ほど美しくはない」。

 ゲーテ。ただし、ゲーテが、いつ、何処でこんなことをいったのか知らない。ノートしておく。

        1978年2月8日(水)
 「阪急交通」の都築君から電話。パスポートの期限をたしかめてほしい、という。すぐに調べたところ、意外にも去年いっぱいで切れている。
 いそいで、戸籍抄本、住民票を用意して「宇佐美」で写真を撮った。
 通町、「大百堂」に寄って、義母、湯浅 かおるに挨拶。ついでに、アメリカのエリカに電話をかけて、24日、シスコ着にきめた。
 ホテルも、ハイヤット・リージェンシーではなく、格下のベル・ヴューに変更する。

 夜、「昼顔」(ルイス・ブニュエル監督)を見た。前に見たときは、素晴らしい傑作に見えたのだが、意外につまらない。幻想が重ねられているのだが、ヒロインの「ベル・ド・ジュール」(カトリーヌ・ドヌーヴ)の内面の説明になっていない。あるいは、ただの説明で、浅薄な心理学めいた解説に終わっている。

        1978年2月9日(木)
 寒い日。
 パスポートの申請に行く。面倒だが、仕方がない。

 「木曜スペシャル」で、ハリウッド・スターのサーカスを見た。アメリカの建国2OO年の記念イヴェント。いろいろなスターたちが、マジックや曲芸を演じている。司会は、ライザ・ミネッリ。
 私が驚嘆したのは、アニー・デュプレの空中ブランコだった。私の好きな女優。つい最近、「ボビー・デアフィールド」を見たばかりなので、この女優の美しさ(ナタリー・ドロンに似ている)が心に残っているが、むずかしい空中ブランコをやりぬいたので、感嘆した。

 ピーター・フォンダが、クラウディア・カルディナーレと組んで、ボックス・マジック。クラウディアが立ったまま、ボックスに入って、片手、片足の先を穴から出す。ピーターが、そのボックスに、大きなナイフをグサグサ刺し込む。しかも、ボックスの胴の部分を、外してしまう。胴抜きマジックというのか。クラウディアは、頭の部分と、腰から下の部分だけになってしまう。三つにわかれたボックスをもとのようにもどす。と、そのボックスから、にこやかな笑みをうかべたクラウディア・カルディナーレが出てくる。これは大受けだった。

 デヴィッド・ジャンセンが、リンダ・ウォーターと組んで、ナイフ投げ。

 カレン・ブラックが、誰かと組んでマジックをやった。カレンがベッドに横になる。
 そのまま宙に浮く。カヴァーをかけられる。そのカヴァーをとると、カレンの姿は一瞬で消えている。よくあるマジックだが、このあとのトウィストがいい。大きなガラスのケースが舞台に押し出される。そのケースの中には何もない。これに、カヴァーをかける。さっと、カヴァーが宙を舞う。と、カレンが、ガラスのケースの中に入っている。
 これもウケた。

 そのあと、ジェーン・バーキンが、ローラースケートの曲芸をやったが、彼女は緊張と恐怖に顔をひきつらせていた。足がふるえている。見ている私まで緊張した。

        1978年2月10日(金)
 「サンケイ」本紙にエッセイ。「週刊サンケイ」に書評。

 この前、文化部の四方 繁子さんのデスクに寄ったとき、偶然、山谷 えり子に会った。放送ジャーナリスト、山谷 親平のお嬢さん。「サンケイ」、婦人面で原稿を書いている。私は、女子大在学中の頃の彼女と知りあった。まさか、「サンケイ」のデスクで会うとは思わなかった。

 アンパン・シュネデール事件に関して。
 イヴ・モンタンがパリ警視庁の尋問を受けた。むろん、容疑者としてではない。
 撮影のないときは、週に2、3度、ポーカーをやったという。
 アンパン事件は、迷宮入りの感じか濃くなって、警視庁は、男爵が出入りした高級カジノとその常連たち、富裕層の12名から、解決の手がかりがつかもうとしたらしい。
 イヴ・モンタンは、犯人たちを「卑劣きわまる輩(やから)」と非難した。

 「山ノ上」。「マリア」が待っていた。デート。

        1978年2月11日(土)
 ちょっと元気がない。
 「メディチ家」ノート。全力をあげてこういう仕事をしていると、ほかの原稿を書く余裕がなくなる。

        1978年2月13日(月)
 午前中、「共同通信」、戸部さん。ちょうど、原稿を書いている途中だったので、少し待ってもらう。

 戸部さんが帰ったあと、すぐに小説を書きはじめる。2本、書く予定なので。
 アメリカ行きが迫っているので、原稿に追われている。

        1978年2月14日(火)
 「ユナイト」の試写を見る予定だったが、小説、2本目の残り。
 2時、「二見書房」、長谷川君、「淡路書房」の渡辺さんに、新橋の「アート・コーヒー」で会う約束をした。渡辺さんに原稿をわたす。

 長谷川君といっしょに、「CIC」に行く。
 「テレフォン」(ドン・シーゲル監督)を見る。
 ソヴィエトは、アメリカに51人のスパイを送り込んでいる。電話で、特定の言葉を話したときは、破壊活動をするようにプログラミングされている。
 KGBの「ダルチムスキー」(ドナルド・プレゼンス)がひそかにアメリカに入国、破壊活動をはじめる。デタント時代に、そうした行動が明るみにでれば、アメリカの感情に影響する。そこで、KGBの「ボルゾフ少佐」(チャールズ・ブロンソン)が、「ダルチムスキー」殺害のため、アメリカに潜入する。

 都築 道夫が、若い女性同伴できていた。お互いにかるく会釈しただけ。

 長谷川君と、「帝国ホテル」の喫茶室で話す。
 5時半、「山ノ上」。「ユリイカ」の若い編集者(名前、失念)感じのいい人だった。1時間で、原稿を書くと約束した。帰ってもらう。6時半に原稿をわたした。
 石川君と会う。「バラライカ」で食事。
 「あくね」。谷長 茂さんと飲む。(ゲオルギューの「25時」の翻訳者。)3月に、フランスに行く予定という。

        1978年2月15日(水)晴。
 昨日、私の不在中に電話をかけてきた編集者、田中君。私の講義をきいたという。電話で、原稿の依頼。締切りを聞いてから引き受けた。
 本田 喜昭さんから電話。これも、締切りを聞いてから引き受けた。出発までには書けるだろう。

 雪が降ってきた。

2019/07/7(Sun)  1808〈1977年日記 55〉
 

         1978年1月24日(火)
 塚本 邦雄のエッセイ。田歌の異本にふれて、
 「異本とはダブル・イメージ、トリプル・イメージをもたらしてくれる巫覡(ふげき)にほかならぬ」という。

    若い者の立ち会いと香の濡れ色は見よいものやれ、香の濡れ色はな紅梅は濡れて
    見事や女性は濡れて踊るぞ

 これが、広島の田歌では、最後の「女性は濡れて踊るぞ」が「女性は濡れて劣るぞ」となっているそうな。わずか一字の違いで、意味が変わってしまう。この田歌から、塚本邦雄は、べージュに近い香色を思い描き、紅梅には劣るが濡れ手も踊りやまぬ女を連想して楽しい、という。
 私は、塚本 邦雄と違うことをイメージするが、ここには書かない。

 1時、中央図書館に行って、また松本 清張を調べた。その場で、原稿を書く。
 5時半、「山ノ上」。「至文堂」の金澄君に原稿をわたす。「NP出版」の内田君にも。もうひとり、鈴木君を待ったが、こなかった。
 「弓月」で、小川 茂久、岡崎 康一と会う。岡崎君は、この春、ロンドン留学がきまっている。
 いいご機嫌で、「あくね」に移る。

         1978年1月26日(木)
 「日経ショッピング」、「公明新聞」のコラム。
 水道橋。「地球堂」に寄って、パネルを。すぐに「山ノ上」に。

 「ショッピング」、秋吉君。「公明」、名前を失念した。「映画ファン」のアルバイトの女の子。みんなに原稿をわたす。
 「小鍛冶」で、岡田と。外で待っていると、彼女が外に出ようとする姿が見えた。

 「テアトル・エコー」。
 ジョン・ボウエンの「トレヴァー」。1968年初演。「コーヒー色のレース」(1幕)と一緒に上演された。この二つのドラマは、基本的におなじ装置を使って、同じ俳優が演じることを想定しているのだが、「テアトル・エコー」は、「トレヴァー」だけ。
 ロンドン。ヴィクトリア朝の建物がアパートになっている。
 最上階に、「ジェーン」(安田 恵美子)、「セアラ」(森沢 早苗)が住んでいる。たまたま、「セアラ」の両親がロンドン観光のついでに、娘に会いにくる。両親は、「セアラ」が若い男と婚約して、すでに同棲していると思っている。実際は、そんなこともないため、話の辻褄をあわせるため、「セアラ」はパブで知りあった若い役者に、「トレヴァー」という架空のフィアンセの役をやらせようとする。
 そこまではよかったが、「ジェーン」の両親もロンドンに出てきたついでに、娘の婚約者に会いたいというので、こんどは「ジェーン」があわてる。
 「セアラ」の両親がきている。「トレヴァー」を紹介したばかりのところに、「ジェーン」の両親が押しかけてきたため、苦し紛れに「ジェーン」も「トレヴァー」を婚約者と紹介してしまう。このため、話がおかしくなって、つぎつぎに混乱が起きてしまう。

 要するに、「キプロク喜劇」だが、イギリスの風俗喜劇らしい、際どいエロティシズム満載、いささか悪趣味なくすぐり。笑った。
 ジョン・ボウエンは、1924年生まれ。私より、3歳上。
 出演者は、新人を起用しているが、やはりヘタ。私は、「新劇場」の女優たちを思いうかべた。なつかしい女の子たち。

 岡田をつれて、恵比寿駅前の炉端焼きで、食事。

 恵比寿は、思い出の深い町。Y.Kと。

      1978年1月27日(金)
 新聞記事から。

 カリフォーニア、サンタ・バーバラ。白血病に苦しみ、死期を悟った7歳の少年が、看病している母親に頼んで、生命維持装置の酸素ボンベのコックを閉じてもらって、安楽死をとげた。
 この少年は、ブラジルの外交官、クラウディオ・デ・ムーラ・カストロ夫妻の息子、エドワルド少年。昨年から白血病を発症した。みずからの死期が近いと知って、
 ――ぼくはとても苦しい。死んで天国に行けば、この痛みと苦しみは消える。僕は、
   8月12日、7歳の誕生日までは生きられるように神さまに祈った。誕生日のあ
   と、1週間ぐらいには死にたい。
 という遺書を書いた。
 それから4カ月以上も、酸素マスクをつけながら生きたエドワルド少年は、今年の元日、母に向かって、
 ――ママ、酸素を切って。もう、いらないから。
 と訴えた。
 カストロ夫人は、
 ――わたしは、酸素ボンベのコックを閉じました。あの子は、わたしの腕をつかみ、
   顔をほころばせて、「イッツ・タイム」とつぶやき、そのまま逝きました。
 と語った。

 この記事を読んで、胸を打たれた。
 暗然たる思いと、同時に、エドワルド少年の優しさに涙した。
 霜山 徳爾(上智大教授)が、コメントしている。
 「7歳の少年が安楽死をするというケースは、初めて聞くことで、ただ驚くばかりだ。まだ、7歳では死の概念もない。子供にとって、それが死に到る病とは考えないのがふつうだ」
 という。
 しかし、そうだろうか。7歳には7歳の死の概念があるのではないか。私のような者でも、8歳(満7歳)のとき<死にたい>と思ったことがある。今でも、そのときの状況は心から離れない。そのときの私に、私なりの死の概念がなかったのだろうか。

          1978年1月29日(土)
 レオン・ユリスの「QB Z」という映画を見た。
 超大作。上映時間、6時間。ストーリーを要約しておく。

 ポーランドの強制収容所に入れられた医師が、収容者の医療に当たっているが、ナチスの生体実験に加担し、ユダヤ人の去勢手術をしたという疑惑を持たれている。この医師は、戦後、イギリスに亡命して、後にサーの称号を与えられている。
 これが、メイン・プロット。

 もう一つは――ユダヤ人として育った作家。映画のシナリオでも、アカデミー賞を2度も得た作家が、父の死で、ユダヤ人としての自覚をもち、大作をかく。この作品のなかで、ナチスの強制収容所で去勢手術に当たった医師の名をあげ、名誉棄損で訴えられる。
 法廷で、この強制収容所で何があったのか、はげしい論争がくり広げられる。
 ここまでの上映が、第二部まで。(「第三部」の上映は、29日。)
 出演者が、多数。
 例えば、レスリー・キャロン。はじめは、強制収容所で医師に協力する看護婦だが、「戦後」は老婆になっている。リー・レミックは、作家に恋をする上流夫人、「戦後」は、裁判に協力する貴族の未亡人、というふうに。この「作家」が、レオン・ユリスということになる。

 夜、「チップス先生 さようなら」を見た。テレンス・ラティガンの脚色。
 ブリット(イギリス人)の堅苦しい性格、そのうしろ側に隠されている、地味ながら、ヒューマンな心ばえ。ピーター・オトゥールは、才能、容姿、演技、どれをとっても秀抜で、こういう俳優こそ名優といっていい。
 午後、柴田 裕、悦子夫妻がきてくれた。
 2月に仙台に出張するので、作並(温泉)に泊まるという。近く、悦子さんの友人が、米子で結婚する。裕君が米子まで、悦子さんを送って行って、その夜は、倉敷で泊まるという。
 幸福そうな二人を見ていると、こちらまで幸福になる。

 原 耕平君から、電話。遅ればせながら新年の挨拶。彼も、私たちが月下氷人をつとめた一人。

             1978年1月30日(月)
 ずっと、エドワルド少年のことが胸を離れない。

 深谷 和子(学芸大・助教授)という人が、エッセイを書いている。

 この安楽死について、テーマは二つある、という。

 一つは、安楽死の是非論。これについては、日本では結論がでていない、として論じない。
 もう一つは、(かりに安楽死を認めたとしても)、子どもたちにこうした重大な決定をまかせていいのかどうか。

 この先生は、子どもの臨床心理学の立場から、幼い子どもたちにとっての死の概念とそれをめぐる判断の問題に入る。私などにも納得できる明快な論旨だった。

    しかし通常の自殺とエドアルド坊やの自殺(安楽死)とは話はまた別であろう。
    子どもの判断(決定)とくに生命の尊厳にかかわるような重大事についての判断
    が、おとなと同じくらいに尊重されるべきだとするならば、三歳の子どもに喫煙
    や飲酒だって時には認めなければならなくなる。
    しかしこの場合重要なのは、おそらくそれが「子どもが望んだから母親がコック
    を閉じた」というような単純な状況だったとは考えられない点だ。そこにいたる、
    病に対する二人の戦いには、第三者の想像を絶するものがあったに違いない。
    そしてあの日、「コックを閉じて」と坊やが言った時、同時に母親の判断もそこ
    にあったのだろう。
    それにしても、七歳の子どもの最後の望みが死であり、親としてもはやそれしか
    贈る物を持ち合わせなかったということ――それはわたしたちおとなの胸に、
    永遠につきささったままの悲しみであろう。

 私は、七歳の子どもの最後の望みが死であるような小説を書く作家ではない。書こうと思ったところで、書けるはずもない。だが、母親がコックを閉じたとき、顔をほころばせて、「イッツ・タイム」とつぶやき、そのまま逝った少年のことを考えることはできる。
 エドワルド少年のことを考えることで、自分の内部に何が起きるか、それはわからないが、そのときの私に何かあたらしいものをもたらさないといえるだろうか。

 「ロータス」。本田 喜昭さんの紹介で、雑誌の編集者、渡辺 康雄さんに会う。三流雑誌だが、渡辺さんの人柄がよかった。小説を書く約束をした。
 「日経」に行く。「未知との遭遇」(スティーヴン・スピルバーグ監督)の試写がある。今日は、吉沢君は別行動らしい。試写は川本さんが行くことになったらしく、「日経」の車で「有楽座」に行く。

「未知との遭遇」については、「日経」以外にも、エッセイを書く予定。ここには書かない。エドアルド坊やの自殺と、この映画の幼い少年の姿が重なってくる。

 「有楽座」は、たいへんな混雑だった。長い行列ができている。新聞各紙が、つぎつぎに乗りつけてくる。川本さんが先に下りて、ドアを開けてくれたので、恐縮した。まるで、VIP扱いだった。放送人の木島 則夫が、行列のなかから、こっちを見ていた。この試写に誰か有名人がきたのか、たしかめようとしたらしい。
 「コロンビア」の宣伝部が総出で、招待客の応対をしている。
 新聞記者たちは、すぐに劇場の中に入ってゆくので、私も首尾よくもぐり込んだ。映画批評家たちも、前の席に集まっている。
 久しぶりで、劇場に興奮した気分が渦を巻いている。

 スティーヴン・スピルバーグの来日が噂されていたが、スピルバーグはこなかった。

            1978年1月31日(火)
 「自由国民」、田岡さんから、督促。申しわけない。昨夜、スピルバーグの映画の試写を見たので、書けなかったともいえないし。
 「レモン」も督促。
 杉崎女史から電話。
 ――もう、(日本に)いらっしゃらないか、と思って電話したんです。
 ――まだ、動きがとれないんです。
 ――先生は、いつもお忙しすぎるのよ。
 ――いや、才能がないから、原稿が書けないんですよ。
 杉崎女史は、9月、ロサンジェルスの大学に招聘されて、日本文学の講義をするとのこと。
 竹内 紀吉君が、小酒井 不木を届けてくれた。さっそく拝読。引例は豊富だが、残念ながらそれほど充実した内容ではなかった。小酒井先生を貶めるつもりはない。あの時代に、これほどのことを試みた小酒井 不木に深い敬意をおぼえた。

 夕方、義母、湯浅 かおる、来訪。百合子と三人で、夜食をともにする。そのあと、百合子が送って行った。戻ってきた百合子は、太郎たちと麻雀。私は原稿を書く。

 武谷君と電話で、「演出ノート」の出版をきめた。

 パリ。ヨーロッパ有数の富豪、エドワール・ジャン・アンパン男爵が過激派に誘拐されて、1週間になる。
 この事件に関心はない。しかし、アンパン男爵が、16区アヴェニュ・フォッシュ33番地のマンションに住んでいると知って、にわかに興味がわいた。私が訪問したジャン・ラウロ博士の自宅が、すぐ近くにある。ラウロ博士は、戦時中は、海軍中佐で、「戦後」はドゴール大統領の歯の主治医で、レジョン・ドヌールを受けている。私は、岳父、湯浅 泰仁が、歯科医師会の副会長だったため、ラウロ博士夫妻が来日したとき、通訳をつとめた。
 私がフランスに行ったとき、ラウロ邸を表敬訪問したが、住所がアヴェニュ・フォッシュ30番地だった。アヴェニュ・フォッシュは、パリでも最高級の住宅地で、パルク・モンソォの近く。私はモーパッサンの胸像を仰ぎ見ながら、永井 荷風もこの胸像を仰ぎ見たのか、と思うと、いささか感慨をもよおしたことを思い出す。
 アンパン男爵の名は、日本人にはおかしい響きだが、Empain と書く。アンパン=シュネデール財閥の当主。アンパン男爵のランサムは、史上最高の25〜50億フランといわれている。

 もうひとつ。
 ダミアの訃報。
 「暗い日曜日」はもっていたはずなので、原稿を書いたら、探してみよう。

 あとでダミアを聞いた。シャンソンのコンピレーションで、ついでにリュシエンヌ・ボワイエ、イヴェット・ジロー、コラ・ヴォケール、エディト・ピアフも聞いた。
 なつかしいパリの歌姫たち。過ぎ去った時代の。

2019/06/30(Sun)  1807〈1977年日記 54〉
 

         1978年1月17日(火)
 昨日、「日本ジャーナル」の原稿を書いたため、疲れている。
 今日は、内山歯科に行くつもりだったが、これも中止。
 3時に、試写を見るつもりだったが、これもやめた。
 5時半、「山ノ上」で、大川 修司に会う。「闘牛」の「演出ノート」を作るための準備。大川は、舞台監督をやってくれたが、きわめて有能だった。
 6時、菅沼がきてくれたので、「ジャーナル」の池上君に渡す原稿をあずける。
 大川君と「平和亭」に行く。「徳恵大曲」を飲む。
 その後、「鶴八」で、日本酒を。大川は酒豪で、いくら飲んでも酔わない。
 「あくね」に寄って、先日の借りを返す。

         1978年1月18日(水)
 雪が降った。

 松波郵便局から原稿を送る。

 「中世の職人たち」を読んだ。
 これから読むもの。「フィレンツェの流浪者」、「NRF小説集」。

         1978年1月19日(木)
 午後、県立中央図書館に行く。司書の渋谷(しぶたに)君に助けてもらって、松本 清張を調べた。この作家の年譜がない。仕方がない。「松本清張の世界」(「文春」)を借りた。そのまま、東京に。
 「日経」。青柳 潤一君に原稿をわたした。吉沢君は不在。試写だろうと思う。
 「山ノ上」で、内田君に会う。かつて、学生として私の講義を聞いた人だが、いまは、PR誌の編集者。私は、大学で講義を聞いてくれた編集者の依頼は、かならずアクセプトしている。私に原稿を頼んでくるのだから、きっと何か事情があってせっぱ詰まっているのだろうと考えるから。

 「東京新聞」の「海外文化の潮流」というコラム。引用しておく。

    政治に対する黙従ないしは麻痺感覚が広がるにつれて、作家のなかにもはっきり
    と区別できる立場が目立ってきた。一つは、倦怠と挫折のなかで酒と女に耽溺し、
    希望のない日常を茶化し、読者にマゾ的な享楽をあたえるポルノ的通俗小説の
    台頭である。P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルなどの若手作家が
    矢継早に登場して、苦悩を一時的に忘れさせてくれる「ベッドのうえの眠り薬」
    を提供していると。

 もう一方の立場を代表するのは、ケニヤ文学界の大御所、グギ・オ・ジオンゴ(1938年生まれ)である、とつづく。
 これを書いた人は、ロマン・ロランなどを訳している立命館大学の助教授。
 失笑した。きっとまじめな方なのだろう。ご自分が間違ったことを書いていることに、まったく気がついていない。

 ケニヤ文学の「現在」に「P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルなどの若手作家が矢継早に登場した」などという事実はない。そもそも、P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルは、ケニヤ人ではない。しかも、「若手作家」どころか、いずれも老練な、いまや「大家」といってもいいほどの存在なのだ。
 P・チェーニイは、もう30年以上も前に登場しているし、J・H・チェイスは、「ミス・ブランディッシュの蘭」で日本でもよく知られている。
 そして、グギ・オ・ジオンゴを「ケニヤ文学界の大御所」と呼ぶのも、どうかと思う。まだ、やっと40代に入ったばかりの作家なのだから。わが国の場合でいえば、菊地 寛が「文壇の大御所」と呼ばれるようになったのは、昭和に入ってからと見ていい。たとえば、「卍」を書いた谷崎 潤一郎は40代に入ったばかりで「文壇の大御所」と呼ばれたろうか。


         1978年1月20日(金)
 「二見書房」、長谷川君、来訪。
 高校生、大学生向きの「英語・学習本」の件。え、冗談だろ?
 ――いいえ、本気でお願いしています。
 ――それじゃ、池田君の企画だな、きっと。
 長谷川君の話では、あくまで高校生、大学生向きだが、若いサラリーマンも関心をもつような「英語入門」を期待しているという。一応、教科書ふうな構成だが、テキストは、市販のポーノグラフィーで、訳例をつける。
 ――そんな教科書があったら、オレが読みたいよ。
 できるだけ早く、「二見書房」に行く約束をした。

 夜、「イブの総て」(ジョゼフ・L・マンキウィッツ監督/1950年)を見た。
 もう、何度も見ている映画だが、今回は、マリリンをよく見ることにした。
 やはり、「発見」があった。ここには書かないが。

         1978年1月21日(土)
 今朝、私の出た「ハンス・メムリンク」を見た。百合子もいっしょに。

 ――そんなにわるいデキじゃなかったわ。
 テレビで「ハンス・メムリンク」を見た百合子がいった。

 この一年、私は混迷してきた。何か書きたい。そう思いながら、何を書いていいか、わからない。書くべきことはいちおう見えていながら、準備に手間どっている。ロココにまで、目くばりをしていた。
 百合子は、そういう私を見ても何もいわなかった。ただ、私が苦しんでいたことを、誰よりも知っている。
 風邪だって、今年は、私が先にひいてしまった。インフルエンザが大流行している。先週だけで、児童、生徒の患者数、13万を越えたらしい。昨年、流行したB香港型よりも、今年のA香港型は、いっきにひろがって、猛威をふるう。
 そればかりか、これとは別の、新型ソ連風邪が拡大しているらしい。

 夕方、百合子と一緒に「柳生一族の陰謀」を見に行く。

 錦之助のセリフの拙劣なこと。驚くより、あきれた。百合子がいうには――ひと昔前の、市川 右太衛門、片岡 千恵蔵のディクションとおなじだが、時代の変化で、錦之助の場合、セリフのディクションがひどくこっけいな感じになる。
 ――要するに、歌舞伎役者のセリフまわしが、いまの映画にあわなくなっているって
ことかしら。
  ――昔の、小太夫、芝鶴、扇雀が、スクリーンでしゃべっているようなものだよ。
   本人は、その滑稽さにまったく気がついていない。
  ――監督さんは気がついていないのかしら。
  ――深作は、錦之助のセリフについては何も「演出」しなかったんだろう。なにしろ
    大スターだから、セリフを直すなんて、おそれ多くて、監督だってできない。は
    じめからわかっているさ。だから、ワキは、新劇のベテランで固めた。みんな、
    錦之助の芝居なんか、はじめから相手にしていないんだよ。
 ――誰か錦之助に教えてやればいいのに。
 ――これからも、自分のディクションのひどさに気がつかずに、ああいう芝居を続け
    て行くんだろうな。どこの撮影所だって、スターさんはそんなものだよ。

        1978年1月23日(金)
 「オブザーヴァー」の記事。

 サウジアラビア王家にいる3000人の王女のひとり、「ミシャ」王女、23歳は、ベイルート留学中に、平民の青年と恋仲になった。昨年の夏、これが本国につたわり、帰国を命じられた。この若者は、サウジアラビアの駐ベイルート大使の従弟ともいう。
 「ミシャ」王女は、帰国後、父親と同年代の王族の一人と結婚するように命じられた。王女は、あきらめきれず、その秋、髪を短くきって男装して、ジェッダ空港から、恋人と共に密出国しようとしたが逮捕された。
 「ミシャ」の祖父、ムハマド・ビン・アブドル・アジス王子は、ハリド国王の実弟。王女は、祖父に、恋人の命だけは助けてほしいと嘆願したが、退けられた。
 ハリド国王は、死刑の命令書の署名を拒否し、ふたりの最終処分は、ムハマド王子の判断にまかせた、という。
 「ミシャ」王女は、家名をけがし、道ならぬ恋に走ったとして、ジッダの市場で銃殺され、恋人は首を刎ねられた。

 「事実」だけを記載しておく。

2019/06/15(Sat)  1806〈1977年日記 53〉
 

         1977年1月10日(火)
 風が強く、寒い日。

 1時、「東和」で、「ボーイズ・ボーイズ」(ドン・コスカレリ監督)を見た。
 「ケニー」(ダン・マッキャン)は、仲間の「ダグ」、「シャーマン」と遊んでいる。彼の悩みは、愛犬の「ボビー」の病気と、ワルの「ジョニー」にいじめられること。愛犬は、獣医の手で、安楽死される。残ったのは、「ジョニー」との対決。
 どこでも見かける地方都市の日常の、ローティーンの少年たち。
 しかし、この街の背景に、死が翳りを落としている。愛しているイヌを、獣医の手で安楽死させるシーン。死んだような街を、ただ歩いている老人。この映画には、ヴェトナム戦争後の、しらじらとしたアメリカが露呈している。
 ドン・コスカレリは、23歳。製作、脚本、撮影、編集、何もかも自分でやったらしい。ときどきでてくるアンファン・テリブルのひとり。問題は――彼がこのまま10年、20年と、映画の仕事をつづけていけるかどうか。

 六本木に行く。「テレ朝」のプロデューサー、小島 閑さん、チーフの戸田さんに会う。正直にフランドル派について、ほとんど知らないとつたえた。ふたりも予期していたらしい。メムリンクのドキュメンタリをみせてもらった。
 キリスト教初期に殉教した聖女を中心にした構成を考えているらしい。

 六本木は、私にとってはなつかしい街である。「俳優座」の養成所の講師をしていたから。私の愛した「アルクメーヌ」はどうしているだろう。「シュザンヌ」は? そして、「ブランチ」は、どこに行ってしまったのか。
 せっかく六本木にきたので、本をあさったが、欲しい本もなかった。

 寒い日。
 スズキ シン一の個展(東銀座)を見に行きたかったが、凍えそうなのであきらめた。六本木で陶器の人形を買う。
 「山の上」で食事。
 このホテルも、私にとっては青春の一部。若い頃、このホテルの前を通ると、カンヅメになった作家たちが出入りしていた。高見 順、山本 健吉、平林 たい子たち。
 いつか、このホテルで仕事をするもの書きになりたい、と思ってきた。その私が、今では、毎日のようにこのホテルに立ち寄っている。私の仕事の大半は「山の上」で書いたものばかり。
 夜、「弓月」。安東夫妻、工藤 惇子、鈴木 和子、石井 秀明、菅沼 珠代たち。
 みんなと別れて「あくね」。
 小川 茂久と。

         1977年1月12日(木)
 「共同通信」、戸部さんの原稿を書いていた。戸部さんに原稿をわたしてほっとしたところに、「テレビ朝日」の撮影班がきた。スタッフが多い。これを見た戸部さんは、私を売れっ子作家とカン違いしたらしい。他社の編集者がつめかけているし、私の指定する場所に、つぎからつぎに編集者がくるので。
 戸部さんは撮影を見ていたかったらしいが、撮影のスタッフが多いので、あわてて帰った。
 「テレビ朝日」の戸田さんが私に質問する。これに私が答える形式。
 なんとか恰好はついた。
 撮影班が帰ったのは、4時近く。
 6時頃、友人の飯島君、来訪。1月1日に、母堂が亡くなられたという。
 飯島家は、代々、医家。飯島君は、「大映」の脚本部に入ったが、1本も映画化されないまま退職。その後は、高等遊民のように暮らしている。
 飯島家は、千葉の名家なので、葬儀はたいへんだったらしい。

         1977年1月13日(金)
 出かける仕度をしているとき、「自由国民社」の田岡さんから電話。至急、お目にかかりたいという。こういう場合、誰か有名人に依頼していた原稿をスッポかされて、急遽、代役を立てなければならなくなった、そこで、中田 耕治を思い出したということに違いない。
 私は、12時半に、新橋で、中村 継男と会う約束がある。こういう場合、連絡のとりようがない。

 特急。12時35分、新橋着。
「ナイル」で「自由国民社」の田岡さんと会う。原稿、2本。やっぱり、そういうことか。引き受ける。田岡さんは、ほっとしたようだった。私を、そんなに多忙とは見ていないらしい。
 ――これから、どちらに?
 ――銀座で、映画を見るつもりです。
 田岡さんの原稿を引き受けて、すくに「アート・コーヒー」で、中村 継男とあって、試写室に行く予定だった。しかし、田岡さんと会ったため、「ワーナー」の試写に遅れた。これは残念だった。見たかったのは、「ボビー・ディアフィールド」(シドニー・ポラック監督)。アル・パチーノ、マルト・ケラー。私のご贔屓、アニー・デュプレーが出ているので、ぜひ見たかったのだが、あきらめた。
 中村君をつれて、画廊めぐり。林 宏樹という写真家の個展がよかった。少し遅い食事をとる。
 3時から、「東和」第二試写室で、「白夜」(ロベール・ブレッソン監督)を見た。むろん、中村君もいっしょに。中村君は映画のタイトルも知らずに試写を見たので、映画よりも、有名な作家や映画批評家がつめかけている試写室の雰囲気に感動したらしい。
 6時、「山ノ上」で、武谷 祐三君と会う。長編の打合せ。中村君が帰ったあと、菅沼がきた。
 そのあと、菅沼を連れて、「あくね」に行く。小川 茂久と会う。
 ――お、今夜は別な女の子とごいっしょか。
 ――山おんなだよ。
 小川はケッケッケッと笑う。
 私が、しょっちゅう違う女の子をつれて、「あくね」や「弓月」に姿を見せるので、みんなが私を「女好き」と見ている。中には、私がつれて歩いている女の子と「タンドル・コネサンス」(get into her pants)と見るやつがいる。それも、ひとりではなく、複数。
 ある集まりで、私が10人ばかりの女の子といっしょに話をしていると、しばらく見ていた新聞記者が、私に寄ってきて、耳もとで、
  ――みんなとヤッたんですか?
 と訊いた。何のことだろう? 私が、けげんな顔をしていると、
  ――だから、この女性たち、全部をモノにしたんですか?
 思わず笑ってしまった。まるで、ドンファンではないか。誰ひとり口説いたこともないのに。

 私には、いつも女性に対する親しみ(アフェクション)がある。そういう女たちを、いつも「恋人」と呼ぶことにしていた。エロティックな関心がないとはいわない。もともと「俳優座」の養成所や、幾つかの劇団で、若い女優たち、あるいは、演出部、美術、音楽、衣装係の女性たちに囲まれて過ごしてきた。私のアフェクションは、身辺にいつも協力者として女性を配置する習性というか、いつも、たくさんの女性をはべらせていたせいかも知れない。

 帰宅。もう、映画に食傷しているのに、テレビで、「天国への階段」を見てしまった。ディヴィッド・ニーヴン、キム・スタンリー。
 若い頃に、この映画を見た。今、この映画を見ることは、自分の青春時代を見ることにほかならない。
 内村 直也先生に、この映画の話をして、ぜひ見に行ってください、とすすめた。この映画を見た内村さんは、大きな刺激を受けたらしい。その後、私がすすめた映画はかならず見るようになった。思い出のひとつ。

         1977年1月14日(土)
 昨日、「あくね」に行く前に、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとってきた。Y.K.と山に登ったときのスナップ。去年の暮れ、書斎を片づけたとき、未現像のカラーフィルムを見つけた。暮れだったので現像に出さなかった。
 韮崎からサワラ池に出て、山荘に一泊。翌日、甘利から御所山に登ったときのもので、山頂付近で撮ったショット。
 Y.K.は、汗を拭くために、タオルを胸に当てた。
 ――誰も見てやしないよ。シャツを脱いで、からだを拭いたほうがいい。
 Y.K.は、わるびれず、シャツを脱いでからだを拭いた。

         1978年1月15日(日)
 昨日、伊豆で地震。死者、10名。行方不明者、15名。
 今日も、各地で余震が続いている。暖かい日で、夕方から風が出てきた。何の根拠もないのだが、地震があったらいやだな、と思う。地震予知連絡会が、東大地震研究所で、緊急会議を開き、今後の見通しなどを検討した。それによると、14日のマグニチュード7の地震以後続いている余震は、大島の西の近海付近、伊豆半島中部でも発生し、二つのグループにわかれているという。
 マグニチュード7の地震では、余震域は直径30〜40キロに及ぶという。伊豆では群発地震がしばしば起きているが、今回の震源は5キロ前後の直下型なので、最大震度 5の強震が起きるおそれがある、という結論だった。

 私は地震に対する警戒心が強い。父母から、関東大震災の恐怖を聞かされてそだったせいもある。戦災も何度も体験しているので、地震や火事に対する警戒心が強いのだろう。

2019/05/18(Sat)  1805〈1977年日記 52〉
 
         1978年1月3日(火)
 午後、めずらしく相野 毅君が年始にきた。

 私は、初仕事。
 5時、東京に。7時、NHKに着到(ちゃくとう)。
 和泉 雅子、根本 順吉のおふたりと対談。和泉 雅子は美しい女優さんだった。占いに興味があるという。私は、しばらくルネサンスの占星術の話などをする。
 和泉 雅子。若い女優にありがちな、相手の関心をたえず自分に向けさせようとするコケットリ−が見える。

 鼎談の録音を終えた。スタジオの控室で自分の出番を待っている若い女優が、帰ろうとする私に目礼した。森下 愛子という若い女優だった。和泉 雅子と私の対談をずっと聞いていたらしい。

 最近の「プレイボ−イ」の読者(60000人)の投票。「キュ−ト・ガ−ル・ベスト」――ドラマ女優、モデルをふくめて、人気のある女の子のベスト。

 1位、木之内 みどり。2位、夏目 雅子、3位が、同数で、ピンク・レディ−、山口 百恵。以下、10位まで――アグネス・ラム、岡田 奈々、竹下 景子、秋吉 久美子、岩崎 宏美、榊原 郁恵。

 和泉 雅子は、トップ・30にも入っていない。
 森下 愛子は、29位。この女優は、最近、「プレイボ−イ」や「ドンドン」の、タイツ姿のフォトで人気が出はじめている。

 NHKのタクシ−で帰宅するはずだったが、首都高速が凍結したという。仕方がない。お茶の水に出る。総武線も、幕張=新検見川間で故障が起きたとか。お茶の水は混雑してごった返していた。
「山ノ上」のバ−でひとりで新年を祝う。
 帰宅、12時過ぎ。

          1978年1月4日(水)
 田中 英道さんから賀状。「イザベッラ・デステ」に関して本を書く予定という。
 いよいよイザベッラを射程内におさめたのか。

 いつかイザベッラ・デステについて書きたいと思ってきた。資料も集めている。しかし、田中さんのようにすぐれた評論家に先を越されたら、こちらは何も書けなくなるだろう。
 田中さんの「イザベッラ・デステ」の完成を祈る。そのうえで、まだ何ごとか書くべきことが残っているかどうか考えよう。

 「テレビ朝日」から電話。出演交渉。「朝の美術散歩」。テ−マは、フランドル派の画家、ハンス・メムリンク。
 フランドル派の画家についてほとんど知らない。プロデュ−サ−に、その旨をつたえた。それでも、会っていただけないか、という。
 フランドルは、いわゆるフランダ−ス、ブラバント、ハイナウト、リエ−ジュ地方を含む。中世、文書の装飾がはじまったことから、絵画がはじまる。
 1400年代までは、絵画として見るべきものもない。リンブルク兄弟、メルヒョ−ル・ブレ−デルラムといった職人画家がギルドに登場する。
 ク−ベルト・ファン・アイク、ヤン・ファン・アイクがあらわれて、はじめてフランドル派の画家とされる。マイステル・フレマルは、ハイナウト出身、彼の門弟、トゥルナイのギエル・ファン・デル・ワイデンあたりをあげておけばいい。
 このファン・デル・ワイデンの影響をうけたのが、ル−ヴァンのデイエリク・バウト、フル−ジュのハンス・メムリンク、ゲントのフ−ゴ−・ファン・デル・ゲスということになる。
 私の知っていることは、せいぜいこんなところ。
 中世の生活を語れば、いくらかでも責任は果たせるかも知れない。

 年頭に決心したのだが――今年は、イタリア・ルネサンスについて、なんらかのモノグラフィ−を書くつもり。歴史をたどるのではない。その時代に生きた人々を描きだす。具体的には、1434年から、約60年に及ぶ時期の研究だが――むろん、私にとっては、たいへんな仕事になる。
 1934年、フィレンツェ。コジモ・デ・メデイチが覇権をにぎる。1942年、アルフォンソ・ダラゴンが、ナポリで権力をにぎる。1450年、ミラ−ノで、フランチェスコ・スフォルツァが権力をにぎる。一方、ロ−マにあった教会は、ロマ−ニャの諸都市(コム−ネ)や封建領主たちを支配下におさめる。
 この時代に、たとえばメディチ家の人々はどう生きたのか。考えるだけでも、私の手にあまるのだが。
 まあ、正月の酒に酔いながら、壮大な夢をみるのも楽しい。

          1978年1月6日(金)
 昨夜、新橋演舞場で公演していた「新派」の舞台で、花柳 喜章が亡くなった。享年、54歳。

 新派は2日から初春公演が始まったが、喜章は、昼の部、「源氏物語」で「紀伊守」を演じ、3日からは喜劇、「浮気の手帖」の主役(インスタント食品会社の社長)を演じていた。劇場は、1500人の観客で満員だった。
 幕が開いて、10分ばかり、「社長」が秘書にお小言を並べているところで、不意に頭が揺れ、うしろに倒れたという。死因は心不全というが、脳血栓かも知れない。
 観客は、そういう演出と思って舞台を見ていたが、喜章が動かないので、ざわめきはじめ、劇場側も異変に気がついて、いそいで照明を消して緞帳を下ろした。
 俳優の安井 昌二が、幕の前に出て、
 「花柳が急病になりましたので、これから救急車で病院にまいります」
 と口上を述べた。
 舞台で倒れて、そのまま逝っちまった役者は、「戦後」では喜章がはじめてじゃないだろうか。観客ははじめて事情を知ってざわめいたが、それでも、しずかに退場しはじめたという。

 私が、喜章を見たのは、3,4回だけだった。父の章太郎が亡くなったあと、「新派」を脱退したり舞い戻ったりして、どうも落ちつかない役者だった。昨年、章太郎十三回忌に出て、「新派」の中軸になるものとばかり思っていた。未完成のまま、亡くなったのは、本人としても残念だったはずである。

 喜章の代役は、明日から菅原 謙次。

          1977年1月7日(土)
 賀状がまだ届いている。
 「日本きゃらばん」を読む。庄司 肇の「幻の街」がいい。

 庄司 肇さんは、医師(眼科)だが、「文芸首都」出身。平易な文体で、小説はだいたい身辺雑記に近い。しかし、この作品は、なにかしら大きな発展の萌芽を感じさせる。庄司さんもまた、作家として大きく変わりつつあるのか。

         1977年1月8日(日)
 アントワ−ヌ・ポロ−を読む。
 いい本だった。フランスではこういう思想家がつぎからつぎに出てくる。
 カイヨワの「メドゥサの仲間たち」も、いい本。仮面について見事な言及があった。

 少しづつ、ルネサンス関連の資料を読みはじめる。
 とにかく、読むべき本が多い。

          1977年1月9日(月)
 「サンケイ」、四方 繁子さん。「共同通信」、戸部さんから督促。

 今年も走りつづけなければならない。
 自分の前に立ちあらわれてくるさまざまなテ−マを、デッサンかクロッキ−のようにとりあげる。そのなかには、文芸時評や、試写で見た映画の紹介や、楽しいアヴァンチュール、政治や社会についての考察、そんなものがふくまれる。どんなに短い枚数でも、読者の内面を刺激するように――私のものを読んだときから、しばらくは頭から離れないような文章をつきつける。発表する場所はどこでもいい。私のとりあげる内容がどんなにおもしろいものか、手を変え、品を変え、書いて行きたい。
 どういう状況でも、私は散歩者であって、なおかつ冒険者でありたいのだ。

 若城さんに、電話で年賀を伝える。この電話に鈴木 八郎が出た。ふたりは、本当の親友なので、鈴木君が電話に出ても不思議ではない。
 声帯を手術したため、機械を使ってしゃべる。テレビのSF映画に出てくる宇宙人のような声だった。話すことは、例によって洒脱、滑稽。江戸時代だったら、鈴木 八郎はきっと有名な文人になれたと思う。

 「映画ファン」、高田君、菅沼君から電話。

2019/05/01(Wed)  1804 〈1977年日記 51〉
 
     1978年1月1日(日)
 新年。

    誰やらの 形に似たり 今朝の春      芭蕉

 前夜、つまり大晦日、安東たちがきてくれた。「紅白歌合戦」を見たあと、みんなで今年はどこの山に行くか、勝手な計画を話しあった。
 元日の電車は、終日、うごいている。できれば奥多摩に行く予定だったが、犬吠崎か九十九里の海岸で、初日の出を見てもいい。ところが、雨になったので、またしても予定を変更した。
 映画、「八十日間世界一周」を見てしまった。

 昨日のつづき。一日じゅう、みんなで遊ぶことにしよう。

 夜明け。
 寒いが、崇高なまでに輝いている大地や、屋根、庭木にみなぎる新年の朝(あした)。かすかに紅をさしたような御来光の美しさにみとれて、茫然と見つめていた。
 応接間の机を動かして、フロアに炬燵を置いて、花札をやったり、ポ−カ−をやったり。短い時間のようだったし、長い時間のようでもあった。
 みんなのなかで、元旦の時間がとまっているようでもあった。

 百合子は迷惑がらずに、みんなをもてなした。といっても、屠蘇を祝って、正月料理をいただいた程度のおもてなしだが。しかし、ほとんどがこうした風習を知らないので、ものめずらしさもあって、神妙に年始の作法にしたがっている。
 あとは、また無礼講。

 安東たちが帰ったのは、夕方の6時。途中で、東松山の鷹野家が、年始にきたので、いっしょに千葉神社に参詣した。百合子は、そのまま通町に行く。例年、湯浅家は、年始の客が多いので、百合子が通町に手つだいに行くことになっている。
 みんなで、ゲ−ムセンタ−で遊んだ。
 鷹野一家を送ったあと、夜の9時過ぎ、通町、湯浅家に年始に行く。
 二部屋、襖を外した大広間に、酒盃が山のように盃洗に重なっていた。さすがに、客が帰ったあとの寂しさが、ただよっている。
 私は、義姉、小泉 賀江、百合子と雑談したが、そのあと、遠縁の池田 豊弥君と話が弾んだ。外語卒。中国語の達人。想像もつかない経歴の人で、その話も波瀾万丈だった。
豊弥君も、はじめて通町の年始にきて、客の帰った大広間にひとり残っていたので私が話相手になったので助かったらしい。

2019/04/30(Tue)  1803〈1977年日記 50〉
 
          1977年12月28日(土)
 池が完成した。

 ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
 あとは、正月明けにようすを見にくる。
 仕事収めなので、酒をふる舞う。

 下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
 ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
 下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。

          1977年12月29日(日)
 どうしても、東京に出かけなければならないため、1時に家を出た。
 「日経」、吉沢君のデスクで、原稿を書く。
 いつも、いろいろな記者が、忙しく動いているのだか、さすがに年末なので、少しだけ、落ちついている。文化部のデスクで、原稿を書く作家はいない。おそらく、私だけだろうと思う。私の場合、おもに映画評を書くので、試写を見たらすぐに書いたほうがいい。
 私は、「戦後」すぐに、「時事新報」のコラムを書きはじめたせいか、新聞のデスクで、記者たちと雑談しながら原稿を書くのが好きなのだ。
 文化部、青柳 潤一、竹田 博志君が、挨拶にくる。みんな、吉沢君の同僚記者である。

 おみやげに、イギリスのウイスキ−をわたしてやる。みんなが、よろこんでくれた。

 神田に出た。
 正月中に読む本はある。
 「悪魔の種子」、「キャンデ−はだめよ」、「34歳のミリアム」、「朝までいっしょに」、「緑の石」、「血と金」、「砂漠のバラ」。これだけで7冊。しかし、2日もあれば読めるだろう。
 「あくね」に行く。小川に会う。この日で「あくね」の年内営業は終わり。

 あとで、矢牧 一宏、内藤 三津子のおふたりがくるはずだったが、会えなかった。

 帰宅。最後にショックが待っていた。

 百合子が、私の顔をみるなり、
 ――「イジケ」が死んだのよ。
 という。
 「イジケ」は、「チャッピ」の生んだメスで、性格的にイジケているので、「イジケ」という名をつけた。駐車場の内部で死んでいた、という。
 酔いがさめた。
 私は、「イジケ」を特別に可愛がっていたわけではない。ただ、いつもイジケて、私の膝にも寄ってこなかった。私が、ほかのネコを抱いてやっているうちに、なんとなく私のそばに寄ってくる。その首をつまんで、抱きしめてやると、やっと安心して、抱かれている。そんなネコだった。
 しかし、どういうものだろう。今年は、我が家のネコがつぎつぎに非業の死を遂げた。

 「チャッピ」が病死したあと、「シロ」が失踪した。エリカがつれてきたネコで、今、我が家にいるネコたちの、母親。そのあと、私が、いちばん可愛いがっていた「シロ」(「シロ」の子の「ルミ」が生んだオス)が交通事故で不慮の死を遂げた。その「シロ」より、1シ−ズン遅れて生まれた、目の青い、これも可愛いコネコ、これも病死した。
 そして、「イジケ」である。計、5匹。迷信深い人なら、カツぐところだ。
 歳末ぎりぎりになって、こんなことになるなんて。
 「イジケ」を埋葬してやる。私の家の庭には、すでに何匹もネコが埋められている。今では、それぞれのネコを思い出すこともないが、それでも、それぞれの死を思うと、涙がにじむ。

          1977年12月30日(月)
 つごもり。
 今年、最後の短編を書く。
 最初の一行が書ければ、あとはなんとかなる。

 やっと書いた。

 あまり、できがよくないのはわかっている。
 夕方、5時、「れもん社」、三浦 哲人君がとりにきてくれた。

 やはり疲れたらしく、眠ってしまった。
 眼がさめたので、テレビをつけたら、「お熱いのがお好き」(ビリ−・ワイルダ−監督)をやっていた。解説、虫明 亜呂無。つい見てしまった。

           1977年12月31日(火)
 大つごもり。

 この日記をつけはじめて、だいたい毎日、おもに身辺のことを書いてきた。日記をつけないと、それが気になって、何も書くことがなくても、映画のことを書くような習慣がついてしまった。

 この一年は、どういう年だったか。

 厚生省。日本人の平均寿命、女性は77歳。男性、72歳と発表した。

 村山 知義、長沼 弘毅、石子 順造、吉田 健一、今 東光、内藤 濯、和田 芳恵、稲垣 足穂、海音寺 潮五郎。この方々が逝去した。
 面識があったのは、和田さんだけだが、それでも、この人たちの仕事は心に残っている。和田さんが、最後のご本、「自伝抄」を送ってくださったことは忘れない。

 ジョルジュ・クル−ゾ−、ジョ−ン・クロフォ−ド、ロベルト・ロッセリ−ニ、エルヴィス・プレスリ−、グル−チョ・マルクス、レオポルド・ストコフスキ−、マリ−ア・カラス、ビング・クロスビ−、チャ−リ−・チャプリン。
 みんな、亡くなっている。
 プレスリ−については、「共同通信」で。チャプリンについては、「日経」で、コメントを発表した。
 ほかの人たちについては、何も語ることなく終わるだろうが、これらの人々の仕事を知らなかったら、私自身の「現在」はあり得なかったと思う。ジョ−ン・クロフォ−ドに対しては、いささか反感めいた思いがあるのだが、それでもこの女優の映画も私の一部になっているだろう。

 部屋を片づける。一年分の埃がたまっているので、片づけるのはたいへんなのだ。
 安東 つとむ、由利子、鈴木 和子がきてくれた。もっと早くきてくれれば、片づけをてつだってもらうところだが、一日早い年始回りになった。
 百合子はよろこんで、三人をもてなしている。なにしろ、しょっちゅう人がくるので、時ならぬ来訪者にいつも対応しなければならない。作家の女房というのも楽ではないのに、いつも笑顔を忘れない。
 しかし、安東たちがきてくれたのはうれしかった。大晦日に知人といっしょに新年をむかえることは一度もなかった。
 百合子もまじえて、たあいもない話をしながら、酒宴になった。

 1977年(昭和52年)、何が流行ったか。

 「母さん、ぼくの帽子、どうしたでしょうね」。これは、角川映画、森村 誠一原作の映画のコマ−シャルから。この宣伝費だけで、4億5千万円。森村 誠一フェアに5億という。これだけの金をかけて、この流行語ができたと思えば安いものだろう。
 もう一つ、これも映画から。「天は我らを見放した」。「八甲田山」で、北大路 欣也が、雪中行軍で、暴風雪で遭難したときのセリフ。

 ――先生、あの原稿、どうしたでしょうね。
 ――書けなかったよ。ごめんね。天は我らを見放した。
 こんなふうに使う。

 ――先生、原稿、これっきり、もうこれっきりですか。
 ――それは、去年の流行語だろ。

 大つごもりなのに、たあいのない話をしてはみんなで笑った。

 これも流行語だが、「ル−ツ」。10月に「テレ朝」が放送したドラマのタイトル。私は、いろいろな小説を読んできたが、この名詞にぶつかったことは、ほとんどない。ところが、このドラマのおかげで、何かの起源に関して、すぐに「ル−ツ」という言葉が使われるようになった。「紅白」を見たあと、「八十日間世界一周」(マイケル・アンダ−ソン監督)を見た。3時頃、さすがに眠くなってきた。
 広間に寝具を出して、安東たちを寝させた。私たちは、2階の寝室に。
 これで、私の1977年は終わった。

2019/04/30(Tue)  1802〈1977年日記 49〉
 

           1977年12月23日(月)
 寒い日。
 午前中から、メディチ家のノ−ト。

 あい変わらず、本、雑誌がたくさん届いてくる。
 伊藤 昌子さんから、原稿が届いた。吉沢 正英君から、「真夜中の向こう側」(チャ−ルズ・ジャロット監督)の試写の日程。春の公開作品だが、師走になって試写に力を入れはじめたのか。
 試写室通いをしていると、その映画が当たるか当たらないか、試写の予定からでも想像がつくようになってきた。
 「三笠書房」、三谷君から電話。

 夜、岳父から、池田さんのご母堂の病状をつたえてきた。
 義弟、湯浅 太郎に、私から知らせた。その一方、すぐに小泉 まさ美に連絡して、「並木」にいる太郎と、義母、湯浅 かおるを迎えにやる。
 太郎と、義母、湯浅 かおるが、小泉家にきたら、百合子も、いっしょに同行させることになった。

          1977年12月24日(火)
 深夜2時、岳父(湯浅 泰仁)から電話。
 池田 美代さんの死去をつたえてきた。予期していたことだったが、親族の死なので、にわかに忙しくなった。すぐに、これも親族の杉本 周悦につたえた。
 美代さんは、享年、82歳。陸軍中将夫人。

 臨終に当たって、
 ――このひとも後生がいいわねえ、クリスマスの日に死ぬなんて。
 と放言した親族がいたという。

 この夜、通夜が行われた。私も出席した。小泉 隆、賀江夫妻の隣りにひかえた。
 美代さんの甥にあたる池田 豊弥さんと話をする。このひとは、厚生省の麻薬取締官で、まさに快男児といってよかった。大麻に関して、最近、「小説宝石」で小堺 昭三のインタヴュ−をうけたという。私が映画で見たフレンチ・コネクションや、東京ル−トのことなどをきくと、何でも答えてくれた。

          1977年12月25日(水)
 池田家、葬儀。

 25日が一般のお通夜で、27日が葬儀という。格式を重んじて、そうきめたらしい。

 夜、「日経」の吉沢君から電話。チャ−リ−・チャプリンの訃報。すぐに感想を口述する。明日の朝刊に出る。

 チャプリンの死因は、老衰という。臨終にはウ−ナが付添い、ジェラルディンほか子や孫、8人が見まもったという。葬儀も家族葬ということらしい。

          1977年12月26日(木)
 テレビ、チャプリンの「キッド」を見た。
 解説、荻 昌弘。最初に、チャプリンに哀悼をささげたが、その眼に涙をうかべていた。やはり、深い感慨があったのだろう。

 私の個人的な意見。
 「殺人狂時代」以後の作品のチャプリンは、やはり衰えを感じさせる。
 芸術家の晩年。どういう晩年を生きるのか。

 チャプリンが、20世紀有数の芸術家だったことは疑いもない。
 だが、チャプリンの場合も、映画監督という仕事が、老年の演出家にとっては、困難な仕事になったのではないだろうか。
 「戦後」のアメリカが、チャプリンにその天才のじゅうぶんな展開を許さなかったことは否定できないが。

         1977年12月27日(金)
 池田 美代、葬儀。

 百合子は、連日、池田家に行って、美代さんの葬儀の準備に奔走している。従妹の内山夫人が動けないので、いろいろな雑事まで、百合子が引き受けたらしい。このため、昼になって、美容院に行く時間がなくなってしまった。
 葬儀は、宗胤寺で行われた。この日、快晴。
 これまでの私は、お葬式に出ても、遺族にモゴモゴお悔やみを申し上げたあと、そそくさとお焼香をして辞去する。葬儀に出られない場合は、お通夜に出て、列席の方々に、ヘコヘコ頭をさげて、お葬式に出られないお詫びを申し上げて失礼する。
 もっと忙しいときは、お香典を、妻や親しい知人に託して、義理をはたす。
 そんなことで済ませてきたが、今回は、百合子の大伯母に当たるオバアサンの葬式なので、百合子といっしょに近親者として、弔問の方々の挨拶を受ける側なので、まことに居心地がよくない。
 葬儀そのものは、ご多忙中の参列者の方々のために、厳粛、かつパンクチュアリ−に式次第が進行する。お坊さまによる読経は、まことに、音斗りょうりょうたるもので、どうもふつうのホトケさまの法要の何倍も「ありがたい」ものだったらしい。百合子は身じろぎもせずに控えているが、私は、はなはだ不謹慎ながら、死者と生者の別れの儀式は、できるだけ、生者のタイム・スケジュ−ルにあわせていただきたい、と願っている。
 足がしびれ、すわっている感覚がなくなってきて、ようやくゴングが鳴って、木魚のリズムが聞こえたときは、サッカ−の、ロスタイムに入ったような気がした。

 人の死さえも、こちらの都合にあわせるなど、まことに無礼千番と心得てはいるが、読経につづいてのお焼香になってありがたいと思った。やっと席から立てるからであった。

 葬式の挨拶は、きまりきったことしかいえないので、口にするのもはばかられるのだが、読経が終わったあと、居並ぶ親族が、口をそろえて、故人は身勝手な一生を過ごしてきたが、まったく後生のいい人だといいあう。

 岳父(湯浅 泰仁)の実姉なので、各地の名士からの弔電が多数。

 葬儀のあと、百合子といっしょに帰宅した。疲れた。

 夜、ひとりで飲んだ。チャプリン追悼の意味で。

          1977年12月28日(土)
 池が完成した。

 ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
 あとは、正月明けにようすを見にくる。
 仕事収めなので、酒をふる舞う。

 下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
 ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
 下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。

2019/04/11(Thu)  1801〈1977年日記 48〉
 
            1977年12月2日(水)
 女優、望月 優子が亡くなった。

    もともとは喜劇女優だったが、昭和29年、木下 恵介の「日本の悲劇」で「毎
    日コンク−ルの主演女優賞を受けてから、演技派の女優になり、昭和33年に、
    今井 正の「米」でブル−・リボン主演女優賞を受けた。
    46年、参院選で、大量に得票して、参議院議員になったこともある。

 私は、ム−ラン・ル−ジュ、古川 ロッパの一座にいた頃の望月 優子を見たことがある。慶応出身の作家で、「サンケイ」の記者、鈴木 重雄の夫人。三島 雅夫を中心に結成された劇団、「泉座」が旗揚げ公演に、ア−サ−・ミラ−の「みんなわが子」を選んだ。そして、翻訳を私に依頼してきた。
 私の「みんなわが子」訳は戯曲の訳としては最低だった。稽古の段階で、私は、自分の翻訳が舞台では使いものにならないことを思い知らされた。
 演出家、菅原 卓が手を入れた。この訳はのちに菅原 卓訳として「早川書房」から出ている。)この芝居に、望月 優子が出たので、口をきくようになった。ある日、稽古場で、望月 優子が私をつかまえて、

 ――中田さん、あんた、スタニスラフスキ−、読まなきゃダメよ。
    といった。そばにいた千石 規子が、したり顔で、
 ――そうよ、そうよ。スタニスラフスキ−、読まなきゃダメなんだから。

 私は、二人の女優に侮蔑をおぼえた。私はまだ演出家になる前で、この稽古場では、「みんなわが子」の翻訳をしながらできの悪いホンなので、みんなに迷惑をかけた青二才に過ぎなかった。

 その青二才の目にも、このふたりの芝居はひどいものに見えた。

 とくに、千石 規子の芝居はひどいものだった。

 「みんなわが子」の初日をみにきた高峰 秀子が、千石 規子の芝居にあきれて隣りにいた女優と顔を見合わせて失笑していたことを思い出す。

 私の「みんなわが子」の翻訳が、戯曲の翻訳としてはひどいものだった。セリフになっていなかった。なにしろ、菅原 卓が、面と向かって、
 「中田君、腹を切りなさい」
 とまでいわれたのだから。

 冷静に見て、この芝居の失敗は、望月 優子、千石 規子がミス・キャストだったからと思っている。

 この失敗から私は芝居の演出をめざすようになったのだから、望月 優子、千石 規子に礼をいわなければならないかも。

 望月 優子は、最後には「日本の母」などと呼ばれる名女優になった。千石 規子は、黒沢 明の映画に、かならず出るようになった名女優になった。私は、このふたりの芝居を見るたびに、「みんなわが子」の演技を思い出したものだった。

 もう一つ。
 これも、新聞のオ−ビチュアリで、テレンス・ラティガンの訃を知った。

    11月30日、ガンのため、バミュ−ダで死去。66歳。
    オックスフォ−ド大卒。1936年、「泣かずに覚えるフランス語」で劇作家と
    してデビュ−。主な作品に「ウインズロ−家の少年」、「ブラウニング・ヴァ−
    ジョン」、「紺碧の海」などがある。映画のシナリオにも手を染め、「チップス
    先生さようなら」、「黄色いロ−ルスロイス」、「王子と踊り子」などを書いた。
    67年以来バミュ−ダに住みつき、71年にナイトの称号を授けられた。

 AP時事の記事で、戯曲のタイトルの訳はひどいし、これではテレンス・ラティガンが「戦後」のイギリス劇壇に与えた影響について何もわからない。
 「泣かずに覚えるフランス語」はナイだろう。せめて、「楽に身につくフランス語」ぐらいでないと、喜劇かどうかもわからない。「深く、静かな青い海」を「紺碧の海」にしてしまうと、ラティガンの上品な世界が見えてこない。
 私はひそかにラティガンの死を悼んだ。
 もっといい戯曲を書いてくれればよかった人なのに。

            1977年12月2日(水)
 作家、海音寺 潮五郎、逝去。

    海音寺 潮五郎、明治35年11月5日、鹿児島県大口市に生まれた。
    1929年、「サンデ−毎日」の懸賞に「うたかた草紙」を応募。
    1936年、「天正女合戦」で、直木賞。戦時中は、陸軍報道班員として、マレ
    −方面に派遣された。
    「戦後」は、1953年、「蒙古来る」、S29年、「平将門」、
    S35年、「天と地と」、など。
    S43年、引退を表明。
    昨年、NHKで、「風と雲と虹と」が放送された。

 残念ながら、私は一度も海音寺 潮五郎を批評する機会がなかった。

 ヴァレリ−ふうにいえば、こういう人たちは、二度死ぬのだ。一度は人間として、もう一度は有名な作家として。
 まあ、人生いろいろだなあ。

                      1977年12月3日(水)
 体調がわるい。風邪のため、咳がとまらない。めったに風邪をひかないのだが、今年は、どういうわけか、いちばん先に私が倒れてしまった。

 今日、木更津で講演があるのだが、咳が出ると困る。

 11時半、県立図書館、司書の竹内 紀吉君と駅前で会う。
 竹内君も、私の咳を心配していた。「ロ−タリ−」で食事をしようと思っていると、そこへ、安東 由利子と石井 秀明がきてくれた。「南窓社」に寄って、私の本を10冊もってきてくれた。

 食事をしているところに安東君がきてくれた。

 今日の千葉駅は――国労、動労が、成田開港反対の遵法ストに突入したため、混乱している。私たちも予定を変更して、快速に乗った。

 木更津着、1時半。すぐに会場に向かう。

 参加者は140名程度。会場は、満員状態。YBC側としては、これほど多数が参加するとは思っていなかったので竹内君に謝ったという。

 講演はうまく行ったと思う。しかし、途中で、咳が出たため、一時中断。

 講演のあと、質疑応答のようなやりとり。
 「私のアメリカン・ブル−ス」にサイン。わずかな部数しか用意しなかったので、すぐに売り切れてしまった。

 安東君たちをねぎらうつもりで、駅前の喫茶店で話をする。

 みんなと別れて、竹内君といっしょに、庄司 肇さんを訪問する。
 庄司さんは、「日本キャラバンを主宰している同人作家。眼科の先生。気骨のある人だが、気さくにいろいろな話をしてくれた。
 辞去したのは、8時過ぎ。

 ストライキの影響で、夜もダイヤが乱れている。8時45分頃、やっと電車に乗れた。

         1977年12月8日(月)
 午後、本田 喜昭さんの奥さんが、千葉まで原稿をとりにきてくれた。恐縮した。
 しかし、私自身がひどい風邪だし、家族そろって寝込んでいる状態なのだから、どうしようもない。
 百合子までが寝込んでしまった。

 「公明新聞」から原稿の依頼。大阪の友人、船堂君から電話。

 夜、義母、湯浅 かおる、義姉、小泉 賀江が見舞いにきてくれた。

 写真の現像。

          1977年12月9日(火)
 百合子、肺炎併発の疑いあり。
 義兄、小泉 隆の診察を乞う。

 「東和」から、「カブリコン・1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)の公開記念に、ITCのル−・グレイド郷が来日したので、パ−ティ−をやるという。
 映画の批評をやっていると、ときどき思いもよらない招待を受けたり、来日したVipに紹介されたりする。

 CICから「ラスト・タイク−ン」(エリア・カザン監督)の試写の連絡。これは必ず見るつもり。原作、スコット・フィッツジェラルド。脚色は、ハロルド・ピンタ−。キャスティングがすごい。

 「文芸」、川村 二郎が、「本居 宣長」について書いている。「新潮」、保田 与重郎、大江 健三郎。おもしろい組み合わせ。久しぶりに保田 与重郎の文章を読む。小林 秀雄に深い畏敬をもっている。その論旨もよくわかるのだが、私としては、承服しがたい部分がある。
 「文芸」の、大笹 吉雄の劇評の冒頭、

    今、歴史を素材にしたドラマほど、書きにくくなっているものはない。その象徴
    的な出来ごととして、木下 順二が歴史劇を書かなくなったということがある。
    なぜそうなったのか。原因はいろいろあるだろうが、もっと、大きいと思われる
    のは、イデオロギ−としての世界観が崩壊、ないしは相対化したということにあ
    る。木下に即してそう思うのは、この劇作家が、精力的に歴史劇の法則とドラマ
    のそれとを一致させようと努力してきた第一人者だからである。
    しかし、こういう認識による限り、歴史の法則性に疑いが出れば、歴史劇を書け
    なくなるのは当然であった。

 ところが、同じ号に、木下 順二が「子午線の祀り」を書いているのだから、皮肉というほかはない。ただし、大笹 吉雄の意見はもう少し検討してみる必要がある。

 キッシンジャ−が、自分の死後、または25年後まで公開禁止を条件に、アメリカ政府に譲渡した在任中の交信記録が、近い将来に公開される可能性がある。
 これは1969年から退任までの8年間、電話の内容をホワイトハウス、国務省の秘書官に速記させ、文書として残したものという。
 ニクソン、フォ−ド両大統領ほか、各国首脳の電話、さらに多くの個人的な相手のものまで含まれる。
 こういう記録が公表されれば、ヴェトナム戦争、中東戦争の経緯、経過に対する重要な証言が得られるだろう。

          1977年12月10日(水)
 裕人が風邪の兆候をみせている。
 夜になって、百合子が腹痛を訴えて、嘔吐をくりかえした。
 私の病状はずっとよくなってきたが、声がかれて、まだいつもの声に戻っていない。

 へんな話。
 ユ−ゴスラヴィア/チト−大統領夫人、ヨバンカ・ブロズ・チト−が、今年の6月から公式の席に姿を見せない。チト−大統領のソヴィェト・中国・フランス訪問に同行しなかったばかりではなく、軟禁状態におかれていると想像されている。「ヘラルド・トリビュ−ン」は――チト−大統領は座骨神経痛、ヨバンカは糖尿病で、不和という。オ−ストリアの新聞は――ヨバンカがアメリカのCIAに利用されたと見ている。
 「ニュ−ズ・ウィ−ク」は――ヨバンカが政府、党の人事問題に口を出して、チト−の不興をかったため、軟禁されたという。
 先日のホ−ネッカ−の「問題」とともに、これは注目すべきニュ−スと見る。
 ユ−ゴは、チト−独裁の下、安定していると見られているが、複雑な人種問題を抱えている連邦国家で、とくに正教のセルヴィアと、カトリックのクロアチアの対立感情がつよい。
 ヨバンカ夫人は、セルヴィア出身なので、人種対立がからんでいるかも知れない。いずれにせよ、共産圏諸国のタガが緩んできているのは間違いない。

          1977年12月11日(木)
 昨日から、庭師が入って、池を掘りはじめた。
 木を植え返したり、地中に埋めてある電気のパイプを掘り起こしたり、わが家としては、かなり大きな工事になる。
 池はルネサンスふうの池にしよう、などと勝手なことをホザいているのだが、庭にレンガを敷いて、部屋からすぐに池に出られる。トリもくるだろうし、サカナも飼えるだろう。

 大阪の船堂君、来訪。
 モンブラン、キリマンジャロなどに登った山男なので、安東 由利子、工藤 淳子、石井 秀明たちを招いて紹介する。
 みんなで、「金閣」で食事。
 船堂君の話は、おもしろかった。
 高度、4000メ−トルで、思考がおかしくなる、とか。ケニアのホテルのショ−は、日本円で40円程度だそうな。

 夜、「恋の旅路」(ジョ−ジ・キュ−カ−監督)を見た。これは、TV用の映画。ロ−レンス・オリヴィエ、キャサリン・ヘップバ−ン主演。劇場では公開されなかった。
 1911年の設定。有名な弁護士のもとに、富裕な未亡人が依頼する。彼女の莫大な遺産目当てで言い寄った男と婚約したが、途中で、相手の目的が財産目当てと知って、婚約を破棄する。そのため、相手の男から婚約不履行で、逆に訴えられる。このままでは、裁判に勝てる公算はない。
 じつは、この弁護士は、40年前に、カナダのトロントで彼女と会っている。当時、彼女は舞台女優。「ヴェニスの商人」の「ポ−シャ」で、ある劇団の巡業でトロントの舞台に立っていた。彼は、舞台を見て彼女に熱をあげ、彼女を口説いた。未亡人のほうは、40年も昔の旅先のロマンスなど、すっかり忘れている。
 裁判がはじまる。
 相手側の弁護士も有能で――この事件は、未亡人が男に熱をあげたこと、男のほうも未亡人の美貌に心をうばわれたことを立証しようとする。
 一方、名弁護士のほうは――未亡人が高齢で、男に口説かれたために一時の気の迷いで、ついつい男にほだされた、と反論する。ところが、未亡人は高齢といわれたため激怒して、自分の弁護士に食ってかかり、退廷させられてしまう。そのあと、名弁護士は、陪審員たちに向かって、切々と愛の意味を説き、みんなを感動させ、不利な状況を逆転させて、みごとに勝訴する。
 さて、退廷させられた未亡人のほうは、何もかも計算しての行動だったと明かす。40年前、弁護士をめざしていた若者を愛していたことを明かして、これからは、もう一度、人生をやり直そうと誓って、ふたりで腕を組んで法廷を出て行く。
 スト−リ−だけを要約すると、なんともご都合主義めいた法廷ものなので、面白くも何ともないが、ロ−レンス・オリヴィエ、キャサリン・ヘップバ−ンの芝居で、イギリスの風俗劇のおもしろさを堪能できた。
 お互いに、初老に達した名優、名女優のやりとりのみごとさ、ドラマの展開の緊張が、コメディ−らしい二人の「関係」(シチュエ−ション)のおかしさ、男女が愛することの「かなしさ」にまで重なってくる。
 私たちの劇場では、ほとんど見ることのないコメディだった。

          1977年12月13日(土)
 11時半、水道橋。
 「南窓社」から、「共同通信」の戸部君に連絡する。

 昼、上野に出る。「イタリア・ルネサンス装飾展」を見た。メトロポリタン美術館所蔵のもの、ロバ−ト・レ−マン・コレクション。特別めずらしいものはなかった。ただ、ヴェネツィアの、水入れというか瓶は美しい。

 メダイヨンの中に、シャルル8世、フェデリ−コ・ダ・モンテフェルトロの像をきざんだものがあったので、心の中で挨拶しておいた。

 今日は、あまりツイていない。
 「ヘラルド」に行ったが、ひどく混んでいるので、試写はあきらめた。
 神田に出て、本を3冊。1冊は、よくわからない本。クレビヨン・フィスの資料(だと思う)。

 「あくね」に行ったが、ここも混んでいる。
 「弓月」に移った。小川には会えず。オバサンが、丸谷 才一の話をした。7歳頃の丸谷 才一をよくおぼえていた。


          1977年12月15日(月)
 昨日は、「共同通信」の戸部君に原稿をわたした。「日経」の秋吉さんから督促。

 「ドミノ・タ−ゲット」(スタンリ−・クレイマ−監督)を見た。
 ジ−ン・ハックマン、キャンディス・バ−ゲン、リチャ−ド・ウィドマ−ク。
 愛する女、「エリ−」(キャンディス・バ−ゲン)の夫を殺したため、服役中の「ロイ」(ジ−ン・ハックマン)は、同囚の「マ−ヴィン」(リチャ−ド・ウィドマ−ク)から脱獄に協力しろといわれる。脱獄に成功した彼は、アメリカを脱出して、コスタリカで「エリ−」と再会するが、じつは脱獄をエサにした、国家的な要人の暗殺計画の実行犯に仕立てられていることに気がつく。
めずらしく、ミッキ−・ル−ニ−が出ていた。ぶくぶくに肥っている。これが、あの「アンデイ・ハ−デイ」のなれの果てなのか。

 CICに行く。「ラスト・タイク−ン」(エリア・カザン監督)。原作、スコット・フィッツジェラルド。脚色は、ハロルド・ピンタ−。
 30年代のハリウッド。若手の敏腕プロデュ−サ−、「モンロ−」(ロバ−ト・デニ−ロ)は、若いイギリス人女性(イングリッド・ボ−ルディンク)に亡き妻の面影を見て、恋に落ちる。これを知った撮影所長は、「モンロ−」の独走をきらって、かれをしりぞける。
 キャスティングがすごい。トニ−・カ−ティス、ロバ−ト・ミッチャム、ジャック・ニコルソン。これに、ジャンヌ・モロ−、アンジェリカ・ヒュ−ストン。
 エリア・カザンのような演出家でも、どうしようもない衰えを見せている。おなじように、ノスタルジックな気分を描いても、「華麗なるギャッビ−」(ジャック・クレイトン監督)や「イナゴの日」(ジョン・シュレジンジャ−監督)のような作品がある。ところが、カザンはそれぞれのシ−ンを丹念に演出しているだけで、全体にテンポが緩んでいる。テンポが遅ければノスタルジックな気分が出せるわけではない。

 5時半、「ジュノン」、松崎 康憲君のインタヴュ−。これは、まあ、うまくいったと思う。「日経」、秋吉君に原稿をわたした。ところが、「映画ファン」の萩谷君に原稿をわたす約束だったことを思い出した。萩谷君に、わるいことをした。
 6時半、「山ノ上」で「マリア」に会う。ここにくる途中、安東 由利子、石井 秀明に会ったという。二人とも、「マリア」が私に会うために急いでいると知って、同行しなかったらしい。

          1977年12月16日(火)
 「山の上」で、萩谷君の原稿を書いた。「マリア」が私についていてくれたのだった。

 六本木に。アヌイの「アンチゴ−ヌ」を見に行く。知らない劇団のスタジオ公演。
 吉祥寺で、これも知らない劇団のスタジオ公演。ハロルド・ピンタ−の「ダムウェイタ−」をやっているのだが、遠いので敬遠した。

 夜、「マンハッタン物語」(ロバ−ト・マリガン監督)を見た。
 しがない楽士、「ロッキ−」(スティ−ヴ・マックィ−ン)は、避暑地で知りあった少女、「アンジ−」(ナタリ−・ウッド)と一夜を過ごす。そのため、少女は妊娠する。彼女の愛に胸をうたれた「ロッキ−」は結婚を考える。

 夜、雨になった。震度・2程度の微震があった。

          1977年12月17日(火)
 ひどく暖かい日。9月下旬の気温という。昨日の雨はあがった。

 師走というと、ベ−ト−ヴェンの「第九」が出てくる。「フジテレビ」のドラマは、第1次大戦で、捕虜になったドイツ軍の兵士たちが、捕虜収容所で、「第九」を演奏した実話を描いている。最後に、150人のアマチュア演奏家が「第九」の演奏を流したのは驚きだった。

          1977年12月18日(水)
 一日じゅう、ただ、考えている。

 船堂君から手紙。

    「キリマンジャロの豹」こと、中田先生、この前は、中国料理をずいぶんたらふ
    くとたべさせていただき、ありがとうございました。先生が「山屋」として精力
    的にやっておられる話を聞かせてもらって、少し驚いています。ルネサンスふう
    庭園、とかいう池、なかなか面白そうなことをよくやられますねえ。エマニエル
    と沖田 総司みたいなですかねえ。でも一番びっくりしたのは、黒い鉄門です。
    あれで、すぐに先生の家だとわかりました。あのように思い切った門を取り付け
    るのは、気分がいいでしょうねえ。ほくも、いつかいえでも作るような事があっ
    たら、ああいうような門をつけてみたいと思います。

 いろいろなあだ名をつけられたことがあるが、「キリマンジャロの豹」というのは、気に入った。
 百合子にこの手紙を読ませたが、「エマニエルと沖田 総司」は、わからなかったらしい。「異聞沖田総司」の登場人物なのだが。
 門は、私がデザインした。「共同通信」の戸部君も、この門をみて驚いたひとり。しきりに感に耐えないという顔をしていた。それはそうだろう。鉄板を切って作った女のヌ−ドが、そのまま門になっているのだから。私の傑作の一つ。

 深夜、北海道の友人、早川 平君に手紙を書く。

          1977年12月20日(金)
 「ワ−ナ−」、「ワン・オン・ワン」(ラモント・ジョンソン監督)を見た。
 バスケットの選手、「ヘンリ−」(ロビ−・ベンソン)は、名門、ウェスタン大にスカウトされるが、小柄で、何につけ、消極的なので、名門校の選手としてやっていけるかどうか悩む。青春映画。

 夜、学生たちのコンパに呼ばれている。
 安東 つとむが企画したもので、30名が出席。かんたんにいえば忘年会だが、山のメンバ−がほとんど。このほかに、栗原、長谷川 栄二、「双葉社」の沼田 馨君たち。
 みんなで、わいわい騒いだり、飲んだり。私は、「マリア」が出席しなかったことが気になっていた。
 二次会に行く。まだ大勢が残っている。高円寺のガ−ド下の居酒屋。

 終電にやっと間に合った。

           1977年12月22日(日)
 「公明新聞」に、「私のアメリカン・ブル−ス」の書評。

 今年も、映画をたくさん見た。日本映画も見たが、批評を書く機会はなかった。
 「幸福の黄色いハンカチ」、「宇宙戦艦ヤマト」、「青春の門・自立編」、「八甲田山」ぐらいか。

2019/03/31(Sun)  1800〈1977年日記 47〉
 
           1977年11月19日(土)

11時に家を出て、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとる。
 新宿。「アルプス7号」。安東夫妻、吉沢 正英、工藤 敦子、鈴木、石井たち。
 塩山で、バスに乗る前に、近くの「港屋」でナタを買った。

 はじめは、増富ラジウム温泉に泊まって、木賊峠、長窪峠、八丁峠、そして清川というプランだった。しかし、明日が日曜日なので、増富が混んでいることは予想できた。
 木賊峠までは林道が長いので、泊まりは黒平温泉のほうがいい。ところが、電話で問い合わせると休業したという。
 仕方がない。甲府の奥。古湯坊に泊まって、帯那山、水ノ森のコ−スはどうか。これまた、いっぱいという。不況なのに、どこの温泉も混んでいる。
 私たちの登山は、物見遊山ではないのだが、なるべく温泉に泊まりたいという気もちは、日本人らしい発想なのかも知れない。
万事休す。地図を睨んで、川浦の奥の雷(いかずち)、日乃出荘に泊まれば、大島山、大久保山のコ−スが考えられる。朝、マイクロバスで送ってくれれば、雲法寺から小楢山も歩ける。よし、これにきめた。
 日乃出荘に電話。予約。

 いつも、ザックは準備してある。
 ヴェトナム戦争で使われた実戦用の小型のザックに、すべて叩き込んである。これに、ツェルトを持って行くのが、私の基本的なスタイル。

 歩きはじめる。
 やがて、雑草を踏みわけて、登山コ−スにでると、肌寒いほどの気温になってきた。山に近い盆地なので、温度差がはげしいのか。草の匂い。正面の山の上は、朝焼け。これは、警戒が必要だろう。わずかな畑、その上の空がいちめん、澄みきった紅に染まっている。私と吉沢君は、しばらく空の色に見とれて、草原のなかに立ちつくしていた。

 雷(いかづち)で下りた。「日乃出荘」のオバサンが、私のことをおぼえていた。夜食は、イノブタ。おいしい。
 5時半。マイクロバスで徳和まで送ってもらう。

 6時5分、歩きはじめる。
 川沿い、北上する。堰堤を三つ過ぎたところで、渡渉。
 工藤 淳子が、またしても特技をご披露した。どんな小さな水たまりでも、かならず足をすべらす特技。このときも、私がうしろに立って、カヴァ−してやったのに――川に落ちた。下半身ずぶ濡れ。みんなが笑ったが、笑いごとではない。
 安東と石井に、近くの木を2本、切らせた。(ナタを買ってよかった。)この木を川に掛けて橋のかわりにする。菅沼はうまく渡ったが、鈴木がバランスを崩して、足を濡らした。
 歩き出したとたんに、こんな事故を起こしたのはめずらしい。
 予定変更。川原で、火を起こして、朝食。その間に、工藤と鈴木は、できるだけ早くズボンを乾かすことにした。

 崩れかけた橋(丸木)の手前から、岩の多いガレ場を登って行く。

 きつい斜面を登って、大カラス山の東の支峰に出た。ここで赤マ−クを見つけた。道らしいものは残っていたが、誰も通る人のない廃道らしい。
 こういうコ−スこそ、私たちの本領とするところなのだ。足の下に踏みつける土の感触が違う。
 やがて、1773の三角点を見つけた。
 ここで、昼食。

 鈴木がバテたらしい。
 やむを得ない。彼女をここに残して、あとのメンバ−で、大カラス山をめざした。なにしろ、道らしい道もないのだから、途中、岩に這いつくばってやっと通り抜けた。
 大カラス山の往復に50分かかった。

 帰りは、夕方4時55分のバスに乗らなければならない。道は、東御殿の先から荒れ果てている。松を切り倒したあたりから、道ではない斜面を下ることにした。
 大久保山の下からできるだけ東の尾根をたどり、徳和をめざした。

 午後、4時にバス停についた。期せずして、拍手がおきた。
 久しぶりに、おもしろい山行になった。

 ――おれたちって、スゴいんじゃね?」
    だれかがいった。
 ――だれも登らない山を登るって、おもしろいですね。
    私はいった。
――バスに乗れなかったら、ここでビバ−クするぞ」

 久しぶりに、おもしろい山行になったので、みんなが笑った。

         1977年11月21日(月)

 埴谷 雄高さんから「蓮と海嘯」をいただいた。

 夜、「スロ−タ−・ハウス」(ジョ−ジ・ロイ=ヒル監督)。
 中年の検眼士が、時空を越えて、さまざまな場所に出没する。現在のSFがどういう状況なのか、ほとんど知らないのだが、カ−ト・ヴォネガットの小説は、これからの文学の一つの指標と見ていい。

 昨日、新聞で、フランスの俳優、ヴィクトル・フランサンが亡くなったことを知った。私は、この役者についてほとんど知らない。「旅路の果て」で老俳優をやったヴィクトル・フランサンを思い出す。
 「運命の饗宴」の第3話、貧しい作曲家(チャ−ルズ・ロ−トン)が、コンサ−ト・ホ−ルで自作を指揮することになる。妻(エルザ・ランチェスタ−)がやっとのことでタキシ−ドを見つけてくる。作曲家は指揮をするのだが、タキシ−ドが破れて、失笑を買う。
そのとき、会場にいた名指揮者が、自分の席でタキシ−ドを脱いで、貧しい作曲家に、指揮をつづけるように指示する。この名指揮者をヴィクトル・フランサンがやっていた。
 その後、エロ−ル・フリンの西部劇、「サン・アントニオ」(デヴィッド・バトラ−監督)で、あの美髯を剃り落として、悪役をやっていたヴィクトル・フランサンに胸を衝かれたことを思い出す。

         1977年11月22日(火)

 芥川 龍之介を読む。

    夏目先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は過去に於いて、十二分に仕事をさ
    れた人である。が、先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、その頃或転機の
    上に立ってゐられたやうだから。すべての偉大な人のやうに、五十歳を期して、
    更に大踏歩を進められやうとしてゐたから。

 「校正の后に」という文章の一節。
 漱石の死を悼む真情はよくあらわれているが、なんとなく空疎な感じがある。おそらく、忽卒のうちに書かれたためだろう。
 それはともかく、五十歳を期して、更に大踏歩を進めようとするのは、漱石のような大作家にかぎったわけではない。
 私は、しがない「もの書き」だが、それでも、五十歳を期して、いささかあらたな歩みを模索している。

 武谷君と仕事の話。長編を書くことになった。これも一つの「転機」というべきか。

 5時。「南窓社」の岸村さん。アナイスの小説を出してくれないかと相談する。「実業之日本」には、アナイスを出す気がないのだから、私としては、「南窓社」あたりに話をもって行くしかない。またしても杉崎女史は失望するだろう。どうして、これほど苦労させられるのか。

 「あくね」。小川 茂久と。

 小川は、私と違って、かぎりなく酒を愛している。しかし、彼はおよそエピキュリアンではない。一見、そんなふうに見えるのは、じつは彼が一種の宿命観をもっているせいではないかと思う。
 1945年、もはや敗戦必至の状況で、小川は招集を受けた。

    「三月九日夜半から十日未明にわたるすさまじい東京大空襲を、大森で見聞して
    いたし、六月二十三日の沖縄守備軍全滅の報道も知っていたので、入隊の時には
    、戦い利あらず、一命を落しに行くようなものだと覚悟した。諦め易い質の私は
    その忍び寄る死に対して、まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった。

 こうした一種、ニル・アドミラリの姿勢は、私にもある程度、共通しているはずだが、小川は表面こそ「まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった」ように見えながら、現実には、人いちばいきびしい正義観をもっていた。たとえば、戦争責任者に対する彼の眼は苛烈だった。
 文学に対しても、彼の内面は繊細で、柔軟だった。
 いつも、ほのぼのとしたおもむきをたたえながら、内面に機知をわすれない。

 お互いに、たいした事を話題にするでもなく、ひたすら酒を飲みしこる。こうして、私は小川 茂久と三十年も過ごしてきた。そのことを人生の幸福と思っている。

         1977年11月23日(水)・

 快晴。無為。

 「毒物」について。しばらく勉強するつもり。
 たいへんな領域だと思う。(ずっとあとになって、このときの知識が「ブランヴィリエ侯爵夫人」を書くのに役立った。 後記)

 和田 芳恵さんのエッセイに、柴田 宵曲のことばがあった。

    私は五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むことにしている。学者や批
    評家が、長いあいだに、多くの作品を篩に書けているから、無駄な苦労をしない
    ですむ。

 和田さんは、柴田 宵曲の影響を受けたという。
 岩波文庫で宵曲を読んだだけだが、和田 芳恵さんのエッセイを読んで、あらためて読み直してみようと思った。
 できれば私も「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むこと」をこころがけようと思う。

         1977年11月24日(木)・

 快晴。ただし、寒い。
 国電ストは、6時半から平常に戻ったが、混乱は避けがたい。それにしても、国労、動労は、どうしてこういう無意味なストを打ち出すのか。

 昨日のロンドン、円相場は、1ドル=239円38銭。
 円相場は9月末から上昇をつづけ、10月6日に、260円。28日に250円。ここにきて、230円に突入した。
 国内の不況は、先月の、菅原君、小野君、内藤君、三人の話でもわかったが、これから日本はどうなって行くのか。

         1977年11月25日(金)・

 先日の登山で、めずらしく石井 秀明がバテた。どうやら風邪気味だったらしい。
 今は、私が風邪をひいている。手の肘、膝のうしろ、ヒカガミのあたり、痛いほどではないが、キヤキヤした感じ。

 「ビリ−・ザ・キッド」(サム・ペキンパ−監督)を見た。
 アウトロ−の世界に、奔放に生きて、最後にみずから進んで友人の手にかかる、「ビリ−・ザ・キッド」(クリス・クリストファ−スン)。一方、開拓者の時代の終わりを測々として感じながら、どこまでも旧友、「ビリ−・ザ・キッド」を追いつめて行く保安官、「パット・ギャレット」(ジェ−ムス・コバ−ン)の対決と友情の物語。
 ほんとうにいい映画だが、サム・ペキンパ−の映画としては、一昨年の「ガルシアの首」のほうがいい。こういうことは、短い映画評では、なかなかつたえられない。
 サム・ペキンパ−は、メキシコが好きで、多分、メキシコの女も好きなのだろう。「ガルシアの首」に、イセラ・ベガを出したように、この映画で、カテイ・フラ−ドを出している。「真昼の決闘」(フレッド・ジンネマン監督/1952年)のカテイは美女だったが、この映画では、中年のオバサン。女優として、いい年のとりかたをしている。
 音楽はボブ・ディラン。しかも、ボブは、この映画に出ている。芝居をしているわけではない。ただ、クリス・クリストファ−スンのそばに、ムスッとした顔つきで立っているだけ。それだけで存在感がある。

 できるだけ安静にする。しかし、夜になって、37度9分。

         1977年11月26日(土)

 連日、ドル安、円高がつづいている。日銀が介入して1ドル=240円。ここまで円高というのは、異常事態で、このままでは世界じゅうで円がスペキュレ−ンの対象になるおそれがある。

 中国。「人民日報」が、この21日に座談会をひらいて、茅盾、劉 白羽、謝冰心、李 李などが出席。ここでも――江 青たちは、劉 少奇批判を口にしながら、党指導の社会主義文芸路線を毛 沢東の思想と対立する反社会主義的なものときめつけたという。

         1977年11月27日(日)
 風邪のため、一日じゅう寝ていた。
 関節、とくに肘が痛む。発熱。本を読む気が起きない。

         1977年11月28日(月)

 「白鯨」を読みはじめた。
 田中 西二郎訳。田中さんが、署名して贈ってくださった。
 「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読む」つもり。


         1977年11月29日(火)

 しかし、ひどい目にあった。咳をすると、とまらなくなる。肋骨にヒビが入ったように、痛い。痰を吐いたあとも、ゼロゼロしたものが胸に残る。声が出ない。出ても、自分の声とは思えない。とにかく、ひどい目にあった。
 「小泉内科」で注射してもらった。
  原稿は何も書けない。
 「日経」の原稿だけは書いた。

 貧乏作家なので、ついつい雑文ばかり書いている。収入は安定しているので、いつまでもポット・ボイラ−をつづけなくていい。もう少し仕事をセ−ヴしよう。
 そろそろ、念願の大きな仕事にとりかかったほうがいい。

2019/03/22(Fri)  1799〈1977年日記 46〉
 
          1977年11月13日(日)

 レオポルド・ストコフスキ−が亡くなった。95歳。
 残念なことに、ストコフスキ−のレコ−ドをもっていない。だから、思い出のなかのストコフスキ−の演奏を思い出す。(ストコフスキ−が指揮したディアナ・ダ−ビンをもっていたはずだが、これも探し出せなかった。残念。)

 久しぶりで山歩き。
 「マリア」がいっしょなので、ぐっとレベルを落として、低い山を選んだ。相模湖から明王峠に出て、陣馬山というコ−ス。初歩のコ−スだが、相模湖から逆に歩くコ−スは、誰も通らない。あまり低すぎてつまらないが、誰も通らないだけに、ピクニックにはいい。明王峠から陣馬は、人が多いので、別のコ−スに。

 相模湖から、やや冷たい風が吹いてくる。あたりに人影はない。
 峠に出て、一服する。

 「マリア」は、落ちついた足どりでついてくる。何度か山歩きをつづけて、ハイキングの楽しさがわかってきたのか。

 途中で、姫谷に出ることにした。林道まで、たかだか1800メ−トル。だが、このコ−スも楽しかった。じつは、私の目的は、二色鉱泉だったが、休業しているというので、姫谷に変更したのだった。
 姫谷で、シカの刺し身、イノシシ鍋を食べた。
 「マリア」はひるまずに、イノシシ鍋をつついている。これまで一度も食べたことのないものでも、おいしい味はおいしいのだ。
 帰り、高尾で乗り換えたのだが、電車のなかで、思いがけず、知り合いに会った。以前、「あくね」にいた女の子だが、寺山 修司の劇団、「天井桟敷」の研究生だった。
 「ネスカフェ」のCMを歌っているマデリン・ベルに似たハスキ−な声。
 「マリア」を見て、
 −−先生、お楽しみね。
 もともと、青白い顔で、暗い影のある女の子だったが、すっかり健康な感じになっていた。今は幼稚園の保母さんになっている、とか。

         1977年11月14日(月)

 内村 直也先生、藤枝 静男さんから、「私のアメリカン・ブル−ス」受贈の礼状。
 藤枝さんは――埴谷 雄高さんの話では、サルバド−ル・ダリに、バルトロンメオ・ヴェネトの絵にわざわざ髭をつけて「自画像」と題した絵があると書いてきた。この絵は私も見たことがある。藤枝さんは、全集(「筑摩書房」)の月報に、ヴェネトとダリの絵を並べてみたい、という。
 内村さんは――(私がとりあげている)ア−サ−・ミラ−、テネシ−・ウィリアムズは、アメリカ現代戯曲の最高峰。これ以後の劇作家は完成品とはいえない、という。こういういいかたは、内村さんに特徴的なものだが、私の意見では、ミラ−、ウィリアムズ以後の劇作家にもすぐれた人はいるし、ウィリアムズにしても、もう完成した劇作家とはいえないと思う。

 テレビで、マニラのホテル・フィリピナス焼亡のニュ−ズ。これには驚いた。

 マニラ滞在中、このホテルに泊まっていた。マニラで知りあった、ス−サン、キテイ、名前も知らないオジイサンのタクシ−・ドライヴァ−のことを思い出した。

 マニラに行ったのもまったくの偶然だった。

――あなたは疲れているのよ。しばらく、旅行でもしてみたら。
    ある日、妻の百合子がいった。
 ――どこへ?
 ――行ってみたい場所よ。ひとりで。

 百合子がすすめてくれたのだった。
 当時、私は、ある週刊誌の仕事を終わっていた。これは、私のはじめての挫折といっていい。しばらく立ち直れなかった。つぎの仕事にとりかかる気力もなかった。そのくせ、毎日、雑文を書くのに追われていた。多忙だった。これは当時も今も変わらない。
 外国に行ってみよう、という衝動的な思いつきが、それからあとの、慌ただしい出発に結びついた。

 サイゴンに行った。この「旅」は私に大きな変化をもたらした。

 その帰り、マニラに向かった。

 当時、フィリッピンは、マルコス政権の時代で、ヴィェトナム戦争の影響を受けていた。フィリッピン全土は、ヴィェトナムとおなじように夜間外出禁止(カ−フュ−・タイム)だった。
 ある日、私は、松林につつまれたマニラ郊外のナイトクラブに行った。その帰り、カ−フュ−・タイムになってから、マニラのホテルに帰ることになった。パスポ−トをホテルに預けてあるので、戒厳令下のフィリッピンでは、外国人にはいろいろと不都合な事態が起きることも予想されたのだった。
 たまたま、老人の運転するボロ・タクシ−に乗った。途中、この老人とほとんど口をきかなかった。

 マニラ市街に入ってから、老運転手は、私の空腹を察したらしく、自宅に寄って何か食べさせてあげよう、といった。
 オジイサンの家は、平屋で、貧しい暮らし向きだった。コンクリ−トの三和土(たたき)に、机が一つ、木の椅子が二つ。これほど貧しい生活は――東京の、空襲で焼け出された当時の私の生活に似ていた。

 オジイサンは、クロワッサンとバタ−、コ−ヒ−だけの夜食をふる舞ってくれた。

 このとき、オジイサンは、戦争中のマニラで、日本軍が無差別に市民を銃殺したことを話してくれた。そのことばに、怒りはなかった。ただ、たんたんと、そうした事実があったことを話しただけだった。
 戦争の記憶は遠くなったにしても、マニラの市民たちのあいだでは、まだまだ反日感情が強いと聞いていた。
 しかし、オジイサンのことばに怒りはなかった。

 私は異国に旅をしていることで、考えが単純になり過ぎていたのかも知れない。土地の変化や、時の移ろいは、自分で想像する以上に、私の思考や意識を変化させているに違いない。そう考えると、無差別にマニラ市民を銃殺した日本の兵士たちの狂気を、この老人が私にむかって非難しても当然だった。
 しかし、オジイサンは、ただ、おだやかな口ぶりで、1945年にそうした事実があったと話しただけだった。この老人の話は私の内面にえぐりつけられた。
 人間の犯してきた愚行の、最悪の狂気も、この見知らぬ国の暑さの中で私がずっと見つづけてきた、いわば既知のもののようだった。

 翌日、私は、マニラからバギオに向かった。ここで、幼い少年たちと知りあったが、これも貧しい子どもたちだった。私は、この少年たちから、何かを教えられたような気がした。
 ホテル・フィリピナスのことから、いろいろなことを思い出した。

         1977年11月15日(火)

 ホテル・フィリピナスは全焼した。

 7階建てのビルには、窓が黒く焼けて、日の廻りが早かったことがわかる。悪いことに、マニラは、13日の夜から季節はずれの台風に襲われて、消火作業が遅れたらしい。死者、42人。

 午後1時半。「サンバ−ド」で、杉崎 和子女史に会う。杉崎さんは、アナイス・ニンの一周忌に会合をもつことになり、その準備にとりかかっている。このために「牧神社」の菅原 孝雄君に会うことにしたのだった。菅原君はなかなかこなかった。しびれを切らしてこちらから電話をかけた。やっぱり、約束の時間を間違えていたことがわかった。
 このときの話は、「アナイス・追悼」の会場、会費をどうするか。

 「あくね」。小川 茂久と飲む。お互いに話をするわけでもない。盃が空になると、酒を注ぐ。そのくり返し。
 思い出したように、小川がいう。
 ――「こんどの真一郎さん、読んだかい?」
 ――「読んだよ」
 ――「どうだった?」
 私は感想を述べる。小川 茂久は黙って聞いている。中村 真一郎は、お互いに少年時代からの知りあいなので、よく話題になった。「こんどの」というのは、その時期の「文学界」だったり、「群像」だったり、「そのときの」作品を意味する。
 しばらくして、小野 二郎が内藤 三津子女史といっしょにきた。私は、すっかり酔っていた。
 「あくね」のママが、しきりに内藤女史にからむ。こういうとき、私としてはほんとうに困る。どうしていいかわからないので。

           1977年11月16日(水)

ストコフスキ−が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。

 マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリの自宅で心臓発作で逝去。享年、53歳。

 私は、センチメンタルな男かも知れない。いや、センチメンタルな男なのだ。
 この日はマリア・カラスばかり聞いていた。

 夜、「マリア」から電話。その応対を百合子が聞いていた。
 彼女が私にひどくなれなれしい口をきくので、百合子が、
 「どうして、あんな口をきくのかしら」
 と、私をなじった。

           1977年11月17日(木)

 前夜から、風雨がつよい。雨は午前中も降りつづき、10時頃は、あたりが暗くなった。キンモクセイが全部倒れてしまった。可哀そうに。

 池袋、「西武美術館」で、「ソビエト映画 三大巨匠展」をやっている。
 ソヴイェトの映画は好きではない。しかし、見ておく必要はあるだろう。エイゼンシュタイン、プドフキン、もう一人は誰だろう?
 ついでに、ファッション・ショ−を見ようか。ニュ−・フォ−マルと毛皮のファッション・ショ−、ゲストに今野 雄二。これは、19日、1時と3時。

 池袋に行くのなら、すぐに山の帰り、ついでに「西武美術館」に寄ろうと考える。何でも登山に結びつけて考える習性がついている。池袋なら、秩父に行けばいい。
 久しぶりに単独行を考えた。

 いつも、グル−プで行動する。行き先だけは、当日の天候とにらみあわせて、私がきめる。あとは臨機応変に、みんなで意見を述べる。行き先はきまっても、現地に行ってから、きゅうにコ−スを変更することもめずらしくない。
 単独行の場合は、自分で何もかもきめるので、いつもより綿密にプランを考えることになる。

             1977年11月18日(金)

 小林 秀雄の「本居宣長」が出た。

 伊勢、松坂にあって、思想家として生きた本居宣長は、古典に、人生の意味を匡し、道の学問を究めた。小林 秀雄が、「新潮」に11年連載したまま、今まで出版しなかったもの。
 これは、ぜひ読んでおきたい。

 本屋に行った。
 棚に、「本居宣長」が並べてある。棚の前に、母子づれが寄って行った。母子の話のようすから、男の子は中学1年生らしいことがわかった。
 男の子は、どうしても「本居宣長」を読みたいと思った。ただ、自分では買えない値段なので、母にせがんで買ってもらうことにした。それだけのことだったが、もし私が、中学生だったら、母、宇免は「本居宣長」を買ってくれるだろうか、と思った。
 4000円の本である。中学生には、おそらく読みこなせない本とわかっていて、なおかつ、母、宇免は「本居宣長」を買い与えてくれるだろうか。
 宇免だったら、なんのためらいもなく、私にこの本を買い与えたに違いない。理由はまったく薄弱なもので、たとえ読みこなせない本とわかっていても、息子が読みたいといったのなら、即座に買い与えたに違いない。
 私は母に本を買ってほしいとせがんだことは一度もない。(子どもの頃の話。)欲しい本は自分のお小遣いで買って読んだ。その私が母に買ってほしいとせがんだのなら、たとえ自分の食事を抜いてでも買い与えてくれたと思う。

 その男の子は「本居宣長」を抱えてカウンタ−に行った。
 希望がかなえられた少年は顔を輝かせていた。

 私はこの母子の姿を見て胸を打たれた。いい光景だった。

 夜、「キャバレ−」(ボブ・フォッシ−監督)を見た。
 あらためて、ライザ・ミネッリに感心した。しかし、テレビなので、ラストはライザが「キャバレ−」を歌うシ−ンで終わっていた。映画では、カメラがステ−ジから客席に引くと、その客のなかに親衛隊の将校や、ナチのメンバ−がいる。それで、この時代の恐怖がまざまざと感じられる「演出」だった。
 テレビでは、それが全部カットされている。そのため、ただのミュ−ジカルのハッピ−・エンドに変わっていた。
 テレビでこの映画を見た人は、「キャバレ−」に、ハッピ−・ゴ−・ラッキ−なものしか見なかったにちがいない。

2019/03/16(Sat)  1798〈1977年日記 45〉
 
              1977年11月1日(火)
 「南窓社」に行く。「私のアメリカン・ブル−ス」が出た。
 出版の話があって、今日まで少し時間がたってしまったが、それでも「南窓社」の岸村 正路さんと出会えたことは、幸運としかいいようがない。彼の励ましや助言がなかったら、この本は世に出ることはなかった。

 できたばかりの「私のアメリカン・ブル−ス」を手にとってみる。装丁にジェ−ン・フォンダの写真を使ったが、思ったほどわるくない。うれしかった。自分で装丁して自分で満足しているのだから、世話ァねえや。

 岸村 正路さんが、モ−ゼルを用意してくれた。ありがたい心づくし。ほかの出版社で、本を出したとき、こんなおもてなしをうけたことはない。編集を担当してくれた松本 訓子、藤平 和良おふたりといっしょに乾杯する。おふたりにも心から感謝している。

 私がこの本を書いたのは、自分の好きな作家を選ぶことで、いちおう私の「アメリカ」にケリをつけたかったからだ。ア−サ−・ミラ−も、テネシ−・ウィリアムズも、自分の演出で上演できた。オニ−ルや、今のオフ・ブロ−ドウェイの劇作家たちも、いつか演出してみたかった。残念ながら、その機会はなかった。そして、演出家としての私のキャリア−は終わっている。それでも、これまで書けなかった問題をこの本で書こうとした。うまく書けたかどうかは別として。

 内村 直也、荒 正人、埴谷 雄高さん、庄司 肇さんに、「南窓社」から本を送ってもらう。いずれも、私にとっては大切な恩人なのだから。

 「ロ−タス」で待たせておいた「マリア」に、「私のアメリカン・ブル−ス」にサインして贈る。彼女も喜んでくれた。本を抱きしめて感激しているので、私までうれしくなった。

 「あくね」に行く。小川 茂久がいるので。
 小川は、私の本を見て、ケッケッケと笑った。小川はうれしいことがあると、いつもこんな笑いかたをする。
 ――装丁、いいねえ。きみの趣味だな。
 ケッケッケと笑った。

              1977年11月2日(水)
 昨日、一昨日と、暑いほどだったのに、今日は冷たい雨になった。

 たとえば、朝、化粧室に、貴婦人がいるとしよう。
 お侠なメイドが、なれた手つきで、マダムのお化粧にかかっている。奇抜なヘア−・スタイル。夫人のかたわらに、修道院長がひかえている。マダムの髪形や、ヴェ−ルについて、ご意見を申しあげる。と、化粧室のドアが開いて、マダムのお嬢さまが朝の挨拶に伺候する。(書いていて、コメディ−・フランセ−ズの舞台を思い出した。)

 こういう環境で成人するお嬢さまも、やがて結婚なさるわけだが、新婚カップルなのに、はじめからアンニュイに襲われて、夫との深いミゾを埋めることもできない。
 おそらく、ノン・オ−ガズミックな性生活のせいで、うつろな心に不満がきざしはじめる。
 家族の気まぐれに翻弄され、財産の所有権を、かりそめの幸福と引き換えた女性は、自尊心を傷つけられて、夫婦間の裂け目をますます大きなものにしてゆく。
 夢ふくらむ乙女心を無残に打ち砕いた夫を許せるはずはなかった。
 離婚もままならず、長い人生を鎖につながれて生きなければならなかった。ソフィ−・アルヌ−ルは、無邪気に、いったという。
 「離婚って、姦通の儀式なの?」

 かくて、ロココの姦通はまことに陽気なものになる。女たちは、いそいそとして姦通に走った。

 ただし、せっかくの楽しみも冷水を浴びせられることがある。

 妻に欺かれた夫が、妻の不貞にまったく無関心な態度を見せることだった。
 夫との性行為が、単純で、粗暴で、ほとんど動物的とさえ見える時代、ロココの女たちの結婚生活に、嫉妬という情念はほとんどあらわれない。
 女たちは喜々として姦通に走ったため、嫉妬心どころか、ほかの感情も入り込む余地がなかった。
 ロココの時代、レデイ・キラ−に対して嫉妬をあらわにすれば、貴婦人たちや、その取り巻きの詩人たちには、滑稽な気晴らしのタネにされるばかり。まして、寝とられたコキュと、みごとに首尾を果たしたオンドリが醜い争いをくりひろげたりすれば、世間の笑いものになる。
 セックスにおける「乱倫」とは、「コン」(ペニス)の強さのことであって、うっかり男に嫉妬すれば、夫のほうは「去勢」されたせいと疑われるのがオチになる。

 「嫉妬は、女を疑うことではなく、おのれを疑うことなのだ」と、バルザックはいう。

 この時代、自分の妻ひとりを愛するような男は、ほかの女たちをそそのかして足を開かせる甲斐性がない、と嘲笑される。
 利口な夫たちは――自分の性的な能力を妻にまで嘲笑されるのは困るので、妻の行動を束縛して、世間から遮断したりはしない。妻が他の男の口説きに屈して、裸身をさらしても、そういう男を相手に快楽にふけることこそ、洗練された妻のありかたなのだと自ら納得してみせる。
 じつのところ、妻の貞節などはじめから信用していないため、妻の不実を知っても、笑いとばすのが男の甲斐性だった。
 ただし、そういう夫にとって、我慢ならぬことがある。
 自分の妻が他の男と通じているのはかまわないが、相手の男の前に別の女性があらわれて、突然、妻が捨てられるような事態、となれば由々しきことになる。夫婦のプライドが傷つけられたことになるからだった。
 少なくとも夫婦のプライドに汚点をつけようとする、陰謀のようなものになる。
 ド・スタンヴィル夫人は、粗暴な夫に蹂躪されていたため、姦通に走ったが、夫の陰謀にたばかられて、相手の男を別の女にさらわれたため、修道院に身を沈めなければならなかった。

 いつか、こういう時代の姿を描いてみたいのだが。

              1977年11月3日(木)
 さわやかな秋晴れ。
 午前中、「ロ−ドショ−」の原稿、「私の青春と映画」を書く。

 午後、池袋に。
 「西武」9階。「短波放送」の生番組。森 敦、赤塚 行雄のおふたりに会う。

 番組は低俗なものだが、久しぶりに赤塚 行雄さんと話をするのが楽しかった。赤塚君は、私と同年代の批評家だが、「文芸」の会で、坂本 一亀に紹介された。
 森 敦さんとは、別のテレビにつづけて出たことがある。「月山」以後ずっと沈黙している作家だが、ようやく小説を書く気になっている、という。

 この放送の現場に、安東 由利子、工藤 敦子、中村 継男がきてくれた。中継放送なのに、仲間の誰も応援にこなかったら、中田先生が可哀そうだから。
 ある時期の私は、放送作家として「短波放送」で仕事をしていた。「短波放送」のスタッフには顔見知りも多い。中村君たちは、そんなことを知らないので、この中継の応援に駆けつけてくれたのだった。

 放送を終えて、安東、工藤、中村といっしょに、「西武」で「バ−ナ−ド・リ−チ展」、「コ−カサス展」を見た。

 池袋の雑踏を歩く。木曽料理の店があった。ここで、ドジョウの地獄焼き、カエルの塩焼き。女の子たちはこわがって食べない。

 「山ノ上」。私は、まだ仕事が残っている。
 連載を書きはじめた。渡辺 晃一君がきたのは、9時半。しばらく待たせた。いつもなら、露骨にいやな顔をしてみせるのに、めずらしく、神妙な顔で待っていてくれる。
 明日、「国労」がストライキに入るので、どうしても今夜じゅうに原稿をしあげてほしい、ということらしい。「国労」のストライキは私の連載にまで影響している。
 予定より、30分遅れで原稿を渡してやると、渡辺君は礼もそこそこで帰って行った。
 とにかくやる気のない、新しいタイプの編集者である。

              1977年11月5日(土)・
 今日は、私の祝日。

 安東 由利子、工藤 敦子、甲谷 正則、石井 秀明、宮崎 等たち。私のファンというか、グル−ピイ。みんな、いい仲間なのだ。

 庭に穴を掘って、火を起こす。バ−ベキュ−。
 みんな、こうしたパ−ティ−ははじめてだが、作業としては山で食事を作るのと変わらない。
 百合子が、2,3人をキッチンにつれて行って、用意した肉や、ビ−ルなどを運ばせる。ほかの連中は、どやどやとバ−ベキュ−・セットに寄ってきた。
 そのあとも、ぞくぞくと仲間たちが集まってきた。百合子は、みんなに挨拶したり、つぎつぎにグラスを渡してやったり、忙しそうに立ち働いている。

 はじめの1時間ほどは、仲間たち2,3人が、ひとところにかたまって、ビ−ルを飲んでいるが、そのうちに三々伍々に離れて、庭に出たり、応接間に陣どって、わいわい話をしたり、応接間のテ−ブルに皿や、ナイフ、フォ−クをならべたり。

 ネコたちは、みんな別棟の部屋に閉じ込めたのだが、中田先生ンチのネコに挨拶しようというので、中田パ−ティ−はもとより、来あわせた連中まで、どやどや押しかける始末。
 この日、中田家の混雑はたいへんなものになった。
 パ−ティ−にきてくれた諸君は、お互いに知らない人が多いし、どういう目的の集まりなのか誰も知らない。人数も、どんどんふえてきた。
 百合子は、女主人として、若い人たちみんなにテキパキ指示して、全員に飲み物が行きわたるようにしたり、所在なさそうな女の子をみつけると、すぐに寄って行って話かけたり、けっこう、気苦労の絶え間がない。

 この日は、まるで劇団の打ち上げになった。
 はじめのうち、よそよそしさが残っていたにしても、みんながすぐにうちとけて、語りあい、笑いさざめいていた。みんな仲間どうしという感じで、年齢差もなくなって、わいわいやっている。

 ビ−ル、ウィスキ−、日本酒をたくさん用意したのだが、どんどんなくなっていった。

 「さ、みなさん、遠慮しないで、召し上がってね」
 百合子がいうと、女の子のひとりが、
 「ほら、奥さまのすわるところを開けて、おとりもちしなきゃ」
 などという。
 ビ−ルに酔った学生が、
 「先生、イイよ」
 何がいいのかわからなくなっている。なんでも、イイよ、で間にあわせる。

 いろいろな人がきてくれた。お互いに知らない相手も多いのだが、みんなが肉を焼き、ビ−ル、ウィスキ−を飲んで、楽しく談笑する。私のグル−プでは、安東ひとりが残念ながら欠席。

 網に乗せた肉やサカナをひっくり返したり。別に用意しておいたお寿司や、フライドチキンも、どんどん追加して行く。30人以上もきてくれたのだから、予定した食べ物だけでは間に合わない。
 百合子も、バ−ベキュ−・セットだけでは間に合わず、別に七輪を出して、吉沢君が火をおこす。いい感じのオキ火に金網をのせて、イカや貝類を焼いたり、野菜を焼いたり。

 音楽も流れている。誰かが、勝手に私のレコ−ドをかけている。
 パ−シ−・フェイスが流れたと思うと、マントヴァ−ニ、そのつぎに、ビリ−・ヴォ−ン、フィンツィ・コンティ−ニ、むちゃくちゃな選曲だった。

 ひたすら楽しいパ−ティ−になった。
 あとで、かんたんな挨拶をする。
 ・・・今日は私の誕生日。私は、50歳になった。今日は、その記念のパ−ティ−なん
    だ。
 ・・ みなさん、きてくれて、ありがとう。心から感謝している。

 私は50歳になった。もはや、若くはない。というより、初老期に入ったというべきだろう。これから、まだどのくらい生きていられるかわからないが、できるだけ長生きして、もの書きとして、自分の世界を作りあげていきたい。

 いくつかの仕事はできると思う。
 しかし、私がほんとうに望んでいるのは、自分がいつも考えている仕事を越えた仕事をしたい、ということなのだ。

              1977年11月6日(日)
 昨日のパ−ティ−は、みんなが終電までに帰途についたが、あと始末はまだだった。
 キッチンには、ビンや食器などが散乱している。応接間にも、いろいろなものが残されている。百合子ひとりであと片付けするのはたいへんなので、あとで私も手つだうつもりだった。

 お昼近く、安東、鈴木のふたりがきてくれた。これにはおどろいたが、ほんらいなら、このふたり、まっさきにきてくれるはずだった。しかし、仕事で、青森に出張したため、残念ながら欠席したのだった。
 百合子が、すぐに軽い食事を用意して、ふたりにふる舞った。あとでふたりが片づけものを手つだってくれたので、あっという間に、食べものの残りの始末がついた。

 安東たちが帰って、ようやく静かになった。

 百合子が、あらためて私の誕生日を祝ってくれた。

 こんなパ−ティ−をやったのも、私がもの書きという自由業で、時間を作ろうと思えばいくらでも作れるからだった。パ−ティ−にいくら費用がかかったか、私は知らない。百合子が、みんな切り盛りしてくれるので。
 費用はかかったが、どこかのレストランを借り切ってパ−ティ−をするほど、贅沢をしたわけではない。

 深夜、12チャンネル。「汚れた顔の天使」(マイケル・カ−テイス監督/38年)を見た。ジェ−ムス・キャグニ−、パット・オブライエン。ハンフリ−・ボガ−ト。たまには、こういうクラシックも見ておいたほうがいい。今回、気がついたのだが、女の子はアン・シェリダン。戦時中、「ウムフ・ガ−ル」として、人気のあった女優。

              1977年11月7日(月)
 女のSEXが、凌辱と、暴力と、支配の対象とされてきた時代。女たちは、思いがけない手段で、抵抗する。
 ロココ時代の姦通。夫には、妻とその愛人の「関係」を邪魔だてする権利さえあたえられていない。
 女の姦通は、この時代の女たちの暗黙の了解事項といってもよい。
 マリヴォ−は、宰相、リシュリュ−の行状から、この時代の性について、夫はどうしても、非常識なやりかたでしか妻を愛せないという偏見に言及している。
 妻を寝とられた夫といえども、その事態が避けられない場合は、それなりに姦通を認めると論じている。

 姦通の当事者の仲がこわれる。性的な快楽、とくにオ−ガズミックな享楽を得ている夫は、ぶざまなコキュという汚名を避けるために努力する。
 一方、妻に粗末な食事をさせたり、食事制限を課したり、はげしいダンス・レッスンを命じて、若妻の肉欲を弱めようとする。
 夫がつねに気をくばっていれば、「長椅子の戯れ」まで、つまり姦通までは、そう簡単に発展しない。夫婦にとって、肉体的にもっとも魅力的な状態になれば、寝室への距離もバランスよくとれる。
 最愛の女性の褥で休むとき、ナイトキャップを耳の上まで引き寄せるような、無粋なまねをしないですむ。
 結婚が無事につづけられるためには、妻の貞節こそが秘訣と、夫に確信させること。そのためには、慎重に、自分の考えにしたがって妻を教育し、気くばりをする必要がある。妻の女心をきずつけて、ワインに酔いしれて、一家の主に反抗することのないように。

 妻に余暇を楽しませるためには、妻が望んで出産した子どもを妻に抱かせるべきである。そうすれば、誇り高い母性の女は、一家の名誉を守ろうとするから。
 妻の愛人が登場しても、夫は巧妙に罠を仕掛け、男に好き勝手なふるまいをさせておいて、いざというときは、男を一敗地にまみれさせるがいい。
 一度でも、妻が愚かな行為をして、夫からは得られないはげしい官能の喜びにむせび泣くような関係になったら、妻の内部には得体の知れない怪物が侵入し、とり返しがつかなくなる。

 かるはずみな結婚が、この時代の風潮になり、姦通が流行した。
 あたらしい恍惚を得るために、ひとりの女性に自分の一生を捧げるなど愚の骨頂。
 この世紀には、幸せな結婚を実現した例は非常に少ない。

              1977年11月8日(火)・
 ロココの世紀に幸福な結婚がなかったわけではない。
 ボヴォ−公爵。愛情豊かな結婚の例で、姦通肯定のイデオロギ−がまかり通っていた時代に、さまざまな危機を乗り越えて、ゆたかな絆が作られて行った。
 ベルウィク元帥は、初婚の妻が心をこめて贈った銀の小筐を、終生、肌身離さず持ち歩いた。
 アカデミ−会員、ソ−ル夫妻の愛情は、はるか後年の世紀の夫婦愛そのものといってもいい。
 ロココの結婚倫理には、うつろな穴が絶望的に開いていた。

 佐々木 基一さんのエッセイが眼についた。

    さきごろ、深夜叢書社から出た「「近代文学」創刊の頃」と題する文集のなかで
    、信州飯田の軍需工場で終戦を迎えたときのことを久保田 正文が書いていて、
    「山道を下駄で下りながら、たちまち肚の底からの笑いが、自ずから私をおそっ
    てきた。ひと一人通らぬ、真夏の真昼白い光のなかであった」という箇所が妙に
    心にのこった。「まさに、哄笑というほかないあの笑いを、私は忘れることがで
    きない。それ以前にも、それ以後にも経験したことのないものとして今も心に刻
    んでいる」と久保田 正文が付け加えて書いている。そのような”哄笑(こうし
    ょう)”の中身は、おそらくあの日を体験した者にしかわからぬものであろうし
    、またいつふたたび警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えた
    者にしか分からぬ笑いだろう。

 私は、「近代文学」創刊の頃に、もつとも早く「近代文学」の人々と知りあった。この「「近代文学」創刊の頃」に、埴谷 雄高さんから執筆を依頼されていたのだが、私は書かなかった。じつは書こうとしたが、何も書けなかった。

 私もまた、終戦の日に、哄笑とまではいかないが、心から笑ったことを忘れない。
 少年だった私は、警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えたわけではなかった。ただ、戦争が終わったという、かぎりない解放感のなかで、心ゆくまで笑ったひとりだった。
 その笑いは、あの日を直接体験した者にしかわからぬものになっている。

 「近代文学」のなかで、佐々木 基一さんは、私に大きな影響を与えた批評家のひとりだった。久保田 正文さんとはほとんど交渉がなかったが、それでも短詩形の文学に関心をもったのは、久保田さんのおかげといっていい。

 私は、すぐれた先輩たちに教えられ導かれて、やっとここまでたどりつくことができた。そのことはけっして忘れない。

2019/03/13(Wed)  1797〈1977年日記 44〉 
 
          1977年10月25日(火)

 短編を書いた。

 もう10年も前の話。
 当時、「読売」で、大衆文学時評をはじめた。これは、文化部の高野 昭さんの企画で、佐々木 誠さんが担当した。
 このコラムで、「ハヤブサ・ヒデト」というペンネ−ムを使った。
 高野 昭さんも佐々木 誠さんも、このペンネ−ムについては異議を唱えなかった。おそらく、「ハヤブサ・ヒデト」について何もご存じなかったと思われる。
 ハヤブサ・ヒデトは、戦前の「大都映画」のアクション・スタ−で、連続活劇が専門だった。少年たちは、悪人たちを相手に戦うヒ−ロ−、「ハヤブサ・ヒデト」の活躍に胸を躍らせたものだった。「恋人」は、「大都映画」の美少女、佐久間 妙子ときまっていた。私は、後年、「忍者アメリカを行く」という愚作を書いたが、その主人公を「隼 秀人」と命名した。自作のなかで、少年時代のヒ−ロ−を登場させたかったからだった。
 ある日、佐々木さんから、一通の手紙が回送されてきた。
 読者からの手紙だった。鉛筆で書かれたものだった。

    前略
    3月7日夕刊、”大衆文学時評”、ハヤブサ・ヒデト氏は本名は何と言われる人
    でしょうか――おさしつかえなければ御知らせ頂ければ幸甚です。
    私――戦中、映画、自作自演、自監督をしたことあり、その頃のペンネ−ムと
    同じものなので、何か、かつての私と何等かのかかわりのある方なのか――と
    思ったりして妙にひっかかるものを感じますので――
    右お願いまで
    二月八日                   広瀬 数夫

 私は驚いた。
 ハヤブサ・ヒデトは、もう、亡くなったとばかり思っていたから。かつての活劇スタ−が生きていて、私の「ハヤブサ・ヒデト」の書いている「大衆文学時評」を読んでいる!
 しかも、住所は、埼玉県小川だった。

 埼玉県小川町は、私の母が、幼い少女だった頃、貧しい暮らしをしていた土地だった。そして、ハヤブサ・ヒデトの本名が広瀬 数夫と知って、これにも少し驚かされた。私自身が「広瀬 たけし」というペンネ−ムを使って、雑文を書いていた時期があったからである。

 私は、すぐに返事の手紙を書いた。
 少年時代に、ハヤブサ・ヒデトのシリ−ズのファンで、毎週、かならず見に行ったこと。批評家になってから、大衆文学批評を書くことが多くなって、「読売」が、新設したコラムに、私を起用してくれたこと。そのとき、私にとって貴重な「ハヤブサ・ヒデト」の名をペンネ−ムに選んだこと。
 この手紙で、本名を明かしたわけではない。手紙を読んだあと、どうあっても私の本名を明かせというのなら、よろこんで明かしたい、と書いたのだった。

 広瀬 数夫さんから返事はなかった。
 昭和初期に、自分の活劇に夢中になっていた少年が、大衆文学批評を書いていることに、なにかしら、くすぐったい思いがあったのではないか、私はそんなことを想像した。

 1969年のことだった。

 ハヤブサ・ヒデトは、翌年に亡くなったはずだが、よくは知らない。ただ、この大衆文学時評をハヤブサ・ヒデトが読んでくれている、と思いながら書いたのだった。


             1977年10月27日(木)

 作家、稲垣 足穂が亡くなったという。知らなかった。

 「山ノ上」。「IDA」、井田 康雄君が教えてくれた。
 このとき、「青春と読書」を受けとった。先日会ったリチャ−ド・バックのインタヴュ−。これは、録音を終えたあと、「山ノ上」に入って、徹夜で書いたものだった。
 自分でいうのもおこがましいが、いちおうよく書けていると思う。

 安東夫妻と、先日の高畑山の思い出を語りあいながら飲む。
 Y.T.は、山登りが好きになったらしい。石本に、小説の原稿をわたして、Y.T.を送らせる。
 残ったメンバ−を、三崎町の「平和亭」につれて行く。最近、「徳恵大曲」という中国酒が気に入っているので、みんなにふる舞うつもりだったが、これがなかった。別の酒を飲んだが、白乾児に似た味でがっかり。

             1977年10月28日(金)

 「素顔のモンロ− アンドレ・ド・デイ−ンズ展」 を見た。
 マリリンが19歳のときから、4000枚も撮影した写真のなかから、初期のノ−マ・ジ−ン時代、モデル時代、私生活など、初公開の写真、60点。
 渋谷「西武B」。今日まで。

 19歳のマリリンは、写真家、アンドレ・ド・デイ−ンズとどういう関係だったのか。むろん、こうしたことに関する資料はない。もっと露骨にいえば、19歳のマリリンはド・デイ−ンズとSEXしたのか。
                                      
 ド・デイ−ンズのマリリンは、彼のカメラがマリリンのエロスをどうとらえているかにあらわれている。ド・デイ−ンズは、数年後にマリリンが、アメリカを代表する映画スタ−になるとは夢にも思っていなかったはずだか、この19歳のマリリンは、すべてが無邪気なハイティ−ンなのに、すでにしてセックスだけで生きている女なのだ。
 この「マリリン」は、生命力であり、活力なのだ。

 戦時中に、陸軍の報道カメラマンに撮影されているが、そのとき、「マリリン」はこのカメラマンとSEXしている。
 モデルになっていた「マリリン」が、ド・デイ−ンズとSEXしなかったとは考えにくい。「素顔のモンロ−」には、いわば、ド・デイ−ンズと私たちが「マリリン」の秘密を共有しているといった親密な雰囲気がただよっている。


             1977年10月29日(土)

 見たい映画。「マルタの鷹」。これは東京12チャンネル。
 あまり見たいと思わないもの。「ソヴイェト名作映画祭」。むろん、見ておいたほうがいい映画――「アンナ・カレ−ニナ」、「カラマ−ゾフの兄弟」。


             1977年10月31日(月)

 宝塚、11月「雪組」をみるか、暮れの「花組」、春日野 八千代を見るか。

 オスカ−・ワイルドはいう。

    快楽のために生きてきたことを、私は一瞬たりとも悔いはしない。私はこころゆ
    くまで味わったのだ。人はそのなすべきことをすべてなすべきであるように。
    私の経験しなかった快楽などあるはずもなかった。

 私は、こういい放ったワイルドにさして羨望を感じない。

 おのれの行状をこうまでみごとに裁断するワイルドには敬服するほかはないが、私自身は、おそらくわずかな快楽すら経験せずに生きてきただけのような気がする。
 たとえ、わずかばかりの快楽のために生きてきたとしても、私は悔いない。

2019/03/04(Mon)  1796〈1977年日記 43〉
 
           1977年10月17日(月)

 朝、近くの「石橋商店」のお内儀さんがきて、表の道路でネコが死んでいます、と知らせてくれた。悪い予感が走った。

 すぐに行ってみた。わが家の飼いネコ、チビが死んでいた。名前こそチビだが、その前に生まれたマックに劣らないほど大きくなってしまった。しかし、私が可愛いがっていたネコだった。

 車にハネられたことは歴然としている。左の目がとび出していた。その血が凝固して、目の回りが黒っぽくなっている。それ以外に出血してはいなかった。どういう状況で死んだのか。
 よく見ると、目がとびだしているだけで、左の側頭部に血がひろがっていた。
 あまり醜い死にざまをさらしていない。
 可哀そうに。

 死体をすぐに処分しなけれはならない。少し考えて、玄関先から右、ツタの近くに埋めてやることにした。
 土を掘っているうちに、涙が出てきた。
 ほんとうに可哀そうなことをした。日頃、可愛がっていただけに、こんな死にかたをしなければならなかったチビが不憫だった。
 それにしても、これまでイヌやネコを何度葬ってやったことか。それぞれのイヌやネコには、私が可愛がってやった思い出が残っている。

 ある日、北 杜夫が私に、
 「生きものは飼いたくない。死なれるとつらいので」
 と語ったことを思い出す。


          1977年10月18日(火)

 「ガスホ−ル」で「がんばれベア−ズ特訓中」(マイケル・プレスマン監督)を見た。シリ−ズの2作目。つまらない映画だった。
 いろいろな理由が考えられるが――「がんばれベア−ズ」がもっていた社会批判が消えたことが、この映画をつまらないものにしている。
 ダメな監督に率いられたダメなメンバ−でも、全力を尽くせば、決勝まで進めるのだ、というテ−マ。これは、「がんばれベア−ズ」のヒロイズムだが、ヴェトナム戦争後に傷ついたアメリカ社会の縮図だった。
 ところが、この「特訓中」は、そのテ−マがスッポリ消えている。
 もっといけないのは、主人公の少年と父親の対立が、ホ−ムドラマめいた感傷になっている。このあと、シリ−ズの3作目は、いよいよ少年野球の日本遠征となる予定だが、こんなものがいい映画になるはずがない。
 時間があるので、「風に向かって走れ」(ウィリアム・グレアム監督)を見るつもりで「松竹」に行った。ところが、「悪魔の生体実験」という映画の試写だった。見にきていたのは、ほんの2,3人。ナチの女囚強制収容所を描いたもの。サディズムとエロティシズムを売りものにしているが、どうしようもない映画。
 「山ノ上」、「三笠書房」の三谷君。
 講義。お茶の水近くで、中田パ−ティ−のメンバ−と会う。話題は、先日の武尊山のすばらしさ、沼田で中田先生とはぐれたこと。


            1977年10月19日(水)

 西ドイツで起きたハイジャック事件。武装した特殊部隊が出動してテロリスト全員が射殺され(1名は重傷)、人質は救出された。
 この事件の対応が、先日の「日航」のハイジャック事件と比較されている。5日間もねばりづよく時間を稼ぎながら、ぎりぎりのところで特殊部隊を送り込み、人質の救出を敢行した西ドイツ当局を称賛する。
 ハイジャックを自力で処理するため、警察が特殊なコマンドを用意することを急務とする声がひろがる。わが国でも、テロ対策はきびしくなるものと予想される。


          1977年10月19日(水)

 今夜は、「ドクトル・ジバゴ」(ディヴィッド・リ−ン監督)をやるので、見ておきたいと思う。

 夜、6時、「千葉日報」の遠藤君が迎えにきてくれた。
 川井、「倶楽部泉水(いずみ)」で話をする。このクラブは会員制で、千葉のエリ−トが利用するらしい。この「泉水(いずみ)」は、田舎の庄屋の邸を改装した和風の屋敷で、明治天皇が少憩した由緒ある倶楽部という。私の「お話」は、ルネサンスについての講話のごときもの。
 きっと、みなさん、退屈なさったんじゃないかな。


             1977年10月20日(木)

 芸能界をゆるがしているマリワナ騒ぎ。
 海老坂 武のエッセイ(「文芸」11月号)によれば、フランスでもマスコミで反麻薬キャンペ−ンがひろがっている。その底流には、高齢化社会の自己防衛本能としての若者差別がある。「不可解なものを排除しようとする憎悪の分泌液だけが紙面ににじみ出ている」とか。
 マリワナの流行は、5月革命以後の目的喪失と社会への不快感、異議申し立てにほかならない。昨年、200人の知識人が――麻薬(マリワナ)を使用しただけで犯罪視することに反対し、マリワナの非処罰を要求する声明に署名したという。
 こういう機運は、わが国にはあらわれない。
 しかし、井上 陽水、研 ナオコ、内藤 やす子、美川 憲一、にしきの あきらといったシンガ−たちの逮捕は、どう見ても贖罪羊にされたとしかいいようがない。


            1977年10月23日(日)

 あさ、6時40分、新宿。女子学生、2名が待っていた。ふだん、声をかけたこともない女の子なので驚いたが、参加してくれたのはうれしかった。国井、岡安の2人。登山らしい登山の経験はないという。そのあと、小林、古屋の2人。けっきょく、11名。甲府行き。
 予定変更。ハイキング程度の山歩き。鳥沢で下りて、高畑山に向かう。小さな山なので、休日でも誰も登らない。それでも、家族づれ(3人)と、ハイキング・グル−プに出会った。

 長い山道を歩き、小高い岡の裾を回ってゆく。道は徐々にせりあがってゆく。道の両側から延びた灌木の枝をよけながら通り抜けると、意外にひらけた場所に出た。エメラルドに輝く秋空。
 ほかのパ−ティ−はいない。ザックをデポしても大丈夫と判断して、倉岳山をめざした。
 山は低かったが、楽しいハイキングになった。

 新宿に戻ったのは8時半。

 大畑 靖君の「ミケ−ネの空は青く」の出版記念会に向かった。残念だが、間にあわなかった。二次会の「二条」で、大畑君に会う。私がザックを背負っているので、大畑君も、遅参を許してくれたらしい。
 昔、「東宝」の脚本部にいた、松下某が、私を見て挨拶に寄ってきた。私が「東宝」で仕事をしていたとき、表面はにこやかだったが、蔭にまわって、さんざん私の悪口をいいふらしていた人物だった。
 こういう策謀家(ストラジスト)を私は憎んでいる。


            1977年10月24日(月)

 「カプリコン 1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)を見た。朝、9時からのホ−ル試写なのに観客が多い。SF。試写の反応によって、クリスマスに公開するらしい。
 火星宇宙船、「カプリコン 1」の発射直前、宇宙飛行士、3名が極秘裡に、砂漠の秘密基地に移される。宇宙船「カプリコン 1」ののロケットに故障が発見されたため、NASAは、宇宙飛行士たちに火星着陸の演技をさせようとする。ところが、無人の「カプリコン 1」が帰還の途中で爆発したため、こんどは宇宙飛行士、3名の存在が邪魔になる。エリオット・グ−ルド主演。

 「松竹」に行って、「風に向かって走れ」(ウィリアム・A・グレアム監督)を見る。これは西部劇。
 逃亡インデイアンをとらえる騎兵隊の暴虐を知ったガンマンと、騎兵隊から逃げてきたインデイアンの娘のほのかな愛情。しかし、騎兵隊の追求の手が延びて、娘は暴行され、自殺する。

 もう1本、「ランナウェイ」(コ−リ−・アレン監督)。
 これは、禁酒法時代。大手の密造組織が、零細な密造者をつぶしにかかる。これに一匹狼の密造人が立ち向かう。デイヴィッド・キャラダイン主演。
 一日に3本も試写を見ると、さすがに疲れる。

 いつまでもこういう生活をつづけるわけにはいかないな。

2019/02/21(Thu)  1795〈1977年日記 42〉
 
                1977年10月8日(土)

 午前6時45分、上野から水上に。
 安東夫妻、鈴木、石井、甲谷、妹尾のメンバ−。
 上州武尊山。

 日本武尊(やまとたける)の伝説に、ふさわしい、荒涼とした土地がつづく。たいした山ではないのに、山の麓をぎっしりと赤松の林がとり囲み、ススキの原を出ると、深い竹のヤブになっている。やがて、そのヤブのなかを、わずかに、人ひとりが通れるほどの小経が、大きな岩に向かって伸びている。クサリ場だった。
 途中、小さな水たまりにぶつかった。池というほどの大きさでもない。周囲を草がとり囲んでいる。地下水がにじみ出して、自然にたまった水たまりとしかいいようがない。水は濁っていて、魚がいるはずもなかった。
 私がその水たまりを通り抜けようとしたとき、どろりとした水が動いた。思わず、足をとめた。その水が動いた。何かが生きている。よく見ると、その水の大きさの生きものが、ひそんでいた。
 サンショウウオだった!
 まさか、武尊山にサンショウウオがいるとは思わなかった。私の見間違いかと思った。水が濁って見えたのは、サンショウウオの肌の色のせいだろう。こんなわずかな水たまりに、もう一尾、サンショウウオがひそんでいる。
 私は、すぐに離れた。私が驚いた以上に、サンショウウオのカップルも、ときならぬ足音に夢を破られたにちがいない。
 ほかのメンバ−は、この水たまりの棲息者に気がついたかどうか。

 秋の上州武尊山は、すばらしかった。全山、紅葉というか、錦綉というか、ただ、すばらしいとしかいいようがない。強く傾斜したコ−スには、枝をひろげた木の落とした黄褐色の落ち葉が積もっていて、登山靴の下で音をたてている。
 武尊山は独立峰だが、登山コ−スにはいくつもピ−クがつらなっている。ピ−クを過ぎるたびに、もはや彼方にはなれた山脈(やまなみ)は、いちめんに紅(くれない)と黄に染められていた。
 夕方、避難小屋に泊まった。狭い小屋に、登山者がつめかけるのだから横になるのもむずかしかった。小屋のリ−ダ−は、安東が仕切った。つぎつぎにみんなの居場所をきめてゆく。あとから着いたパ−ティ−を入れてやったり、みんなに、場所を割りふったり。
 こういうことにかけては、安東の右に出る者はいない。

 しらしらとした地平線の彼方に、太陽が頭を出しかけている。朝靄(モヤ)がその前にひろがっている。私はふるえた。なんという厳粛で、しかも透明な朝だろうか。
 私は、余りよく眠れなかった。狭い小屋にぎゅうぎゅう詰めだったし、まだ、コースは続いている。メンバ−のなかに、体調を崩している者はいないだろうか。そんなことが頭から離れなかった。

 ただ、ひたすら歩いた。

 夕暮れもまた、厳粛で、私のつまらない一日の終わりが、こうした荘厳さでしめくくられようとしている。このために、私は山を歩いている。
 バス停にたどり着いたときはもう暗くなっていた。
 私たちは、下山したあと、温泉に入る習慣なので、このときも温泉でしばらく休憩する予定だった。
 ところが、温泉宿は休業していた。もう一つ先に宿があるはずなのに、これも見つからない。
 やむを得ない。川湯温泉まで歩くことになった。

 やっと、宿にたどりついて湯に入った。湯船に落ちる湯がチョロチョロと音をたてている。宿は、私たちだけでひっそりしていた。

 このあと、またしても思いがけないハプニング。
 沼田で、みんなとはぐれてしまった。みんな乗車したことは間違いないのだか、たいへんに混んでいたので、私ひとりが別の車両に乗ったらしい。
 上野まで立ちんぼ。たまには、こんなこともあるさ。


                 1977年10月10日(月)

 今日は、フジ・テレビで「ショック療法」(アラン・ドロン)を見ようかと思ったが、本を読む時間がなくなるのであきらめた。

 ス−ザン・ジョ−ジの映画を見ているうちにロココの時代の、いとも天真爛漫な姦通を思い出した。姦通は、すべての階級に共通する特質だった。
 世間の女たちから、羨望のまなざしを向けられるような貴族の特権だった。宰相、リシュリュ−は姦通に対して警戒の眼をむけた。(「三銃士」を読み直そうか。)
 それでも、旺盛な精力を誇示して、「好色家」としての評判を高めたいために、富裕なブルジョアたちは、多額の黄白をつぎ込んだ。

 当時の結婚観。

 「結婚式は、仮装するのが目的で、結婚生活に入る前に、らんちき騒ぎをしてみせる喜劇なのだ。」

 姦通を、ロココの芸術の一様式にまで高め、いわば時代の寵児に祭りあげた理由はいくつかある。
 若い娘たちは、早くから修道院に送られて、ここでの教育に世間から遮断される。娘たちはあくなき好奇心をもって、早い時期から性的な快楽に、抑えきれないあこがれをつのらせる。修道院の娘たちは、異性と対面する機会もない。
 (モリエ−ルの「女房学校」を読み直すこと。)
 やがて、娘たちは、ほとんどなじみのない実家につれ戻される。
 このときから、娘たちは、はじめて男に紹介されるが、例外なく年配の男ばかり。
 ほどなくして、黒服を着込んだ男たちがやってくる。花が届けられる。四輪馬車がやってくる。あれよあれよという間に、婚礼の祝宴ということになる。
 飲めや歌えの大騒ぎがすんで、ただもう放心状態の花嫁を、付添い女が、犠牲(いけにえ)をささげるように、初夜の褥(しとね)に導く。
 こうして、落花狼藉、ということになる。

 7日夜、東ベルリン、アレクサンダ−広場で、暴動が起きた。これは、24年ぶりの反ソヴィェト暴動で、ホ−ネッカ−政権はむずかしい対応を迫られることになる。
 東ドイツのADN(通信社)のつたえるところでは、少数の「やくざ」が起こしたもので、負傷者が出たため、警官隊が出動して、この「やくざ」たちを拘束したという。
 西ベルリンの目撃者の話では・・・約1000名の若者と警官隊が衝突、負傷者が出たほか、広場付近の建物の窓ガラスなどが壊された。ソヴィェト軍の将校が通りかかったため、若者たちは、「ソヴィェト、帰れ」の合唱を浴びせたらしい。
 西ドイツの日曜新聞、「ビルト・アム・ゾンタ−ク」は、約1000名の若者と数百名の警官隊が衝突、約100名が検挙された。しかも、多数が負傷したとつたえているが、ADNは、若干名が身元調査のために「連行」されたという。

 東ドイツはヨ−ロッパ共産圏の「優等生」といわれているが、世界的な不況の波は東ドイツにも押し寄せ、今年前半の工業生産伸び率は、70年代前半の7〜下降線をたどっている。

 アレクサンダ−広場で起きた暴動は、これからの東ドイツにどう影響するか。ホ−ネッカ−政権の基盤は、案外、脆弱なのかも知れない。


                 1977年10月11日(火)

 「新シャ−ロック・ホ−ムズ/おかしな弟の大冒険」(ジ−ン・ワイルダ−監督)を見る。
 イギリス外務省の金庫から、国家機密がぬすまれる。シャ−ロック・ホ−ムズは、宿敵、「モリア−テイ教授」の仕業とみて、弟の「シガ−ス」(ジ−ン・ワイルダ−)に捜査を依頼する。
 ジ−ン・ワイルダ−の喜劇は嫌いではない。しかし、この才人の喜劇感覚にはどうもついていけないところがある。マデリ−ン・カ−ンが出ていた。この女優は、ときどきジェ−ン・フォンダそっくり。ただし、ジェ−ンの気品はない。

 もう1本、シャ−ロック・ホ−ムズものが公開される。こちらは、「ユニヴァ−サル」の「シャ−ロック・ホ−ムズの素敵な挑戦」(ハ−バ−ト・ロス監督)。「ホ−ムズ」がコケイン中毒で、「モリア−テイ教授」に対する憎悪がつのり、ウィ−ンに行って、「フロイド博士」の診察を受ける。「モリア−テイ教授」を、ロ−レンス・オリヴイエがやっているし、「ワトソン」をロバ−ト・デュヴアル、これにヴァネッサ・レッドグレ−ヴがからんでくる。おもしろくないはずはない。それでも、どこかおもしろくないのは、なぜなのか。


                  1977年10月12日(水)

 ロココの時代。もう少し、考えてみよう。

 ロココ貴族のあいだに、さまざまに性的な頽廃が見られる。夫婦の「おつとめ」は、できるだけ急いで、乱暴に行われなければならない、という愚かしい偏見による。少なくとも、性交が、次第しだいにア−ティフィシアルなものになったことにかかわりがある(だろう)。
 出産は、女の生死にかかわる事件になりかねない。
 すでに、心身ともに引き裂かれて、もはや忍耐の限度を越えている。そこに、あらたな犠牲(いけにえ)として新生児に乳をふくませる役が押しつけられる。こうなると、夫婦関係はおろか、母と子の精神的な絆さえ断ち切られることになる。
 母親としての心くばりなど、当然、見せかけのものにすぎなくなる。

 大学、講義。中田パ−ティ−のメンバ−がそろっている。
 みんなが、武尊山のすばらしさを思い出している。私は、つぎの登山のプランを考えている。ただし、だれにもいわない。


                       1977年10月14日(金)

 明日から、上野の東京都美術館で、「ピカソ展」が開催される。
 これは、どうしても見ておく必要がある。

 ピカソは、1900年、スペインからパリをめざした。初期の「青の時代」から、「バラの時代」。キュビズムから、古典の時代を経て、晩年にいたる名作が並ぶ。

 ピカソが亡くなって4年。

 世界初の回顧展。


                 1977年10月15日(土)

 ビング・クロスビ−が亡くなった。

 映画以外で、ビング・クロスビ−を聞いたことがない。残念だが。


                 1977年10月16日(日)

 あたらしい仕事のこと。

 柴田 裕夫妻が遊びにきてくれた。ふたりは幸福そうだった。めったにない強い絆で結ばれていて、お互いに支えあっている。だから、ふたりを祝福してやりたい。
 百合子がもてなして、4人で夜食をとった。
 8時に帰ったが、快速に乗れたかどうか。

 紛失したと思った銀行のカ−ドが出てきた。
 やい、どこにシケ込んでいやがった。手前が姿をくらましやがったおかげで、こっちは義理のワリィ借金まで作っちまったぜ。
 もう一つ。これも紛失したはずのカ−ドも、仕事机の下、座布団の下から出てきた。
 や。手前も出てきやがったか。このつぎはもっと早く出てこい。

 フイリッポ・リッピのこと。
 「受胎告知」で知られている。自分の恋人だった修道女をモデルとしたという絵を見ながら、現代の画家、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドを思い出す。
 マゾ−ニスは、まだ日本では知られていないが、いつも美しい女たちを描いている。全体の色調は、何時も白。背景も白いし、女たちの肉体も白い。この画家は、1921年、トリ−ノ生まれ。ロ−マのラ・バルカッチャ画廊や、ボロ−ニャのフォルニガロウナドノ個展から、にわかに注目されはじめた。叙情的な作風で、あまやかな、繊細なタッチは、現代の「フイリッポ・リッピ」のよう。

 ときどき、外国の画家のヌ−ドを見る。まるで関係のないスト−リ−を思いつく。

2019/02/06(Wed)  1794〈1977年日記 41〉
 
                 1977年10月5日(月)
  作家、和田 芳恵さんが亡くなった。71歳。

    和田 芳恵 (1906〜77)作家。北海道・長万部町生まれ。中央大・独法
     科卒業。新潮社に入り、「日本文学大辞典」の編纂、「日の出」の編集に当た
     った。1941年、自作が芥川賞候補になる。新潮社を退社。
     「戦後」、中間小説の先駆的な雑誌、「日本小説」の編集。
     樋口一葉の研究をつづけ、1956年、「一葉の日記」で芸術院賞を受賞。
     1963年、「塵の中」で直木賞。1774年、「接木の台」で読売文学賞、
     今年、「暗い流れ」で日本文学大賞を受けた。  (後記)

 文壇の大家たちとまったく無縁だった私に、どうして和田 芳恵さんが親しく接してくださったのか。もともと文壇の大家の知遇を得ようとする下心はまったくなかった。ただ、少年時代の私は、慶応のグル−プに出入りしていたとき、野口 富士男さんに和田 芳恵さんを紹介されたのだった。
 その後、ほとんど無関係に生きてきたのだが、たまたま、私が大きな新聞の「大衆小説批評」を書きはじめて、和田さんの小説をとりあげたことがあった。

 もともと批評家として出発したため、批評家の友人は多かったが、北 杜夫以外の文壇作家たちとは無縁だった。北海道、三重、千葉の同人雑誌作家たちに友人ができたが、その人たちの集まりにもほとんど出たことがない。
 この数年、たまに文壇の集まりに顔を出すことがあって、和田さんを見かけたときはこちらから挨拶をするようになった。
 和田さんにすれば、慶応の集まりに出ていた少年が、いつしか薄汚れたもの書きになっていたぐらいのことだったに違いない。しかし、和田さんはそんな私に対して、いつもわけへだてのない態度をとってくれた。

 私にとっては、ただ一人の文壇の知己であった。

 和田 芳恵さんのご冥福を心からお祈り申しあげます。

 種村 季弘さんから、グスタヴ・ルネ・ホツケの「絶望と確信」を贈られた。むずかしそうだが、こういう本が読めるのはうれしい。
 とりあえず礼状を書いた。
 内村 直也先生から、「日本語と会話」を頂く。
 大畑 靖君から、創作集「ミケ−ネの空は青く」を。


                 1977年10月6日(木)

 たくさんの美少女を見てきた。ス−ザン・ジョ−ジは、そういう美少女のなかでも出色のひとり。
 久しぶりに、「12チャンネル」で「クレイジ−・ラリ−」(ジョン・ハフ監督)を見た。「クレイジ−」なエ−ス・ドライヴァ−、「ラリ−」(ピ−タ−・フォンダ)は、「メリ−」というカルい女の子(ス−ザン・ジョ−ジ)に声をかけて、首尾よくベッドイン。これが「ダ−ティ」な女の子。「ラリ−」たちといっしょに近くのス−パ−を襲って10万ドルをせしめて、警察に追われてもヘッチャラ。
 かなり昔のフランス映画の――セシル・オ−ブリ−(「情婦マノン」)、ナタリ−・バイ(「アメリカの夜」)、エチカ・シュ−ロ−(「青春の果実」)といった「戦後派」の無軌道な娘たちを思い出すが、このス−ザン・ジョ−ジほど、あっけらかんとして、「ダ−ティ」な娘ではなかった。ス−ザンは、「わらの犬」(サム・ベキンパ−監督)で、ダスティン・ホフマンと共演しているが、この映画でも、頭のなかがカラッポで、何に対してもノン・シャランな態度で、平気で悲劇的な運命に向かって行く。サム・ぺキンパ−好みの女優じゃないかな。
 見ておいてよかった。つまらない内容でも、心に残る映画のひとつ。


                1977年10月7日(金)

 野口 富士男さんが、和田さんの追悼を書いている。

    階段を二段ほどのぼりかけると、もう肩で息をしなければならぬほど、和田さん
    は弱っていた。だれの眼にも最悪の健康状態におかれていたことは明白すぎるほ
    ど明らかだったのに、書いて、書いて、書きまくっていた。明日どころか、今晩
    死んでも不思議はないと、私は外で、和田さんに会って別れるとき、いつもそう
    思っていた。その癖、私は仕事をよせとは言えなかったし、身体を大事にしなさ
    いよということも言えなかった。役者なら舞台の上で、相撲なら土俵の上で死ね
    ば本望だろうと私は思っていたからであった。

 私が和田さんに最後にお目にかかったときも、和田さんは弱っていた。呼吸するのも苦しそうだったので、ただ挨拶しただけだったが。「だれの眼にも最悪の健康状態」だったと思う。最後の和田さんの仕事には鬼気せまる気迫が感じられた。
 野口さんの追悼で思い出したが、私がはじめて和田さんにお目にかかったときも、野口さんは和田さんとごいっしょだった。野口さんが和田さんを紹介してくださったのだった。この席で、原 民喜さんが、私の肩に手を置いてくれたような気がする。
 晩年の和田さんは、私にいささかの好意をもっていてくださったと思う。それは、実現することなく終わったのだが、その経緯はここに書く必要がない。ただ、私はほんとうに和田さんに感謝したのだった。

2019/02/01(Fri)  1793〈1977年日記 40〉
 
               1977年10月1日(土)

 石川 啄木の日記、「ロ−マ字日記」を読んだ。
 最近の私は「日記」をつけているので、この日記を読んで考えるところがあった。
 一人の若者が貧しさに苦しみ続けている。詩人として、ジャ−ナリズムの片隅に生きながら、自分の世界を築こうとしている。
 詩人は娼婦との交渉を赤裸々につづっているのだが、こうした秘密をロ−マ字にしなければならなかった啄木に同情する。

 やたらに忙しいので、日記を書くのをついついわすれてしまう。書きとめておきたいことどもは多いのだが、本も読まなければならない。最近は、英語よりも、イタリア語、フランス語の本を読むことが多くなった。

 10年前も忙しかった。あい変わらず、多忙な日々がつづいている。

 1967年を思いだしたが――週刊誌の連載は1本だけ。ほかに雑誌連載が2本、その間に、ジェ−ムズ・M・ケ−ンの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」と、A・E・ホッチナ−の「パパ・ヘミングウェイ」の翻訳をつづけていた。そのほかに、ラジオの台本を数本、別の週刊誌に読み切りを。
 当時の私は、その程度の仕事をこなすだけでもたいへんだった。からだがいくつあっても足りない。

 「闘牛」の演出。そのあと、レパ−トリ−がきまるまで、研究生を中心にサロ−ヤンの稽古をつづけていたっけ。
 あとは、「文芸」に毎月、同人雑誌評を書き、さらには「新劇場」に戯曲を書く予定だった。その間に、K.M.とのflirtも。
 けっこう、忙しかったなあ。

 今は、あの頃に較べれば、映画を見ようとおもえばいくらでも見られるし、時間をやりくりして、芝居も見たり。コンサ−トに行く機会は少なくなったが、LPを聞くこともできる。

 ときどき、思ったものだ。

 このまま走りつづけて、オレはどこにたどり着くのだろうか、と。

                         
              1977年10月2日(日)
 アメリカの作家、リチャ−ド・バックのインタヴュ−。

 10時、「パレス・ホテル」に行く。
 「IDA」、井田 康雄君と、通訳の田草川 美紗子さんが待っていた。挨拶する。田草川さんは若い女性だが、通訳専門のベテラン。
 私だけでも、インタヴュ−できるのだが、「かもめのジョナサン」の著者は、世界的な名声を得ている作家なので、通訳の専門家についていてもらったほうがいい。

 リチャ−ド・バックの部屋に向かった。

 「かもめのジョナサン」の著者は、アメリカ人らしく、気さくなタイプで、かなり長身。毛糸のプルオ−ヴァ−のセ−タ−、上にブル−のジャケット。眼が青く、鼻のわきに小さな豆粒のようなホクロ。口にひげ(ムスタッシュ)をたくわえている。

 私はリチャ−ド・バックの処女作、「王様の空」の訳者としてインタヴュ−するだけだが、井田 康雄君がいろいろと私の経歴を説明すると、ほんらいの私とはかけ離れたイメ−ジの人物になったような気がする。
 それはそうだろう。小説を書きとばし、批評家としても少しは知られている。しかも、ルネサンスを研究している。芝居の演出家だったこともある。マリリン・モンロ−について、モノグラフィーを書いている。こう説明されれば、誰だって、混乱した、バラバラなイメ−ジをもつだろう。
 私は、笑いながら、
 「ようするに、アジア的な混沌を体現しているだけです」
 といった。
 リチャ−ドは笑った。
 これでお互いにうちとけたと思う。

 インタヴュ−は、一問一答で私の質問にリチャ−ドが答える形式で進められた。したがって、対談というより、リチャ−ドの発言をひき出すかたちになった。このインタヴュ−は、「青春と読書」に発表される。だから、あくまでも若い読者のためのインタヴュ−でいいと判断したのだった。

 ただ、原稿の締切りが明日の午前中なので、速記をおこした原稿が夜中に届いたら、私がすぐにインタヴュ−の記事にまとめる。つまり、徹夜の作業になるだろう。

 最後に、リチャ−ドが「イリュ−ジョン」の日本版にサインしてくれて、ついでに絵を描いてくれた。


              1977年10月3日(月)
 日本航空、ハイジャック事件。

 「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、3日午前0時13分(現地時間・2日午後9時13分)、バングラデシュ/ダッカ空港を離陸、クウェ−トに向かった。

 3日午後11時20分(現地時間・2日午後4時20分)、アルジェリア/ダル・エル・ベイダ空港に着陸。現地の政府当局と、犯人側の交渉がはじまった。

 4日午前1時、犯人5名、日本から釈放された犯人6名が投降。最後の人質、19名(日本人17名)は解放された。
 先月28日、ボンベイ上空でハイジャックされた事件は、134時間ぶりにようやく終結した。

 この事件は、テロ事件として歴史に残るだろう。

 「日航」、ハイジャック事件ばかりだったので、誰の注意も惹かないニュ−スを書きとめておく。

 ロ−トレアモンの写真が発見されたという。ジャック・ルフレ−ルという、まだ若い医学生。その写真は、ロ−トレアモンが1859〜62年まで在籍したタルプ中学で同級生だったジョルジュ・ダセットのお嬢さんのアルバム。
 このダセットは、ロ−トレアモン(イジド−ル・デュカス)の親友で、「マルドロ−ルの歌」の初版に出てくるという。その後の版では、ダセットの名がすべて消えて、タコやコウモリになっているそうな。

 私は、ロ−トレアモンについては、ほとんど何も知らない。だから、写真の発見がロ−トレアモンの理解にどれほど役に立つか何も知らない。それでも、ロ−トレアモンの肖像なら、ぜひ拝顔の栄に浴したいと思う。

2019/01/14(Mon)  1792 〈1977年日記 39〉
 
             1977年9月21日(水)
 原稿を書くペ−スが遅くなっている。
 今日は、石本がきてくれたが、「山と渓谷」の原稿がかけなかったので、そのまま帰ってもらった。

 雑文ばかり書いていてもどうしようもないのだが。

             1977年9月21日(水)
 夜、「シシリアン」を見た。フレンチ・ノワ−ル。ジャン・ギャバン、アラン・ドロン。ジャン・ギャバンは、もう老齢といっていいのだが、俳優としては、円熟の境地にたっしている。これは驚くべきものだと思う。

             1977年9月22日(木)
 朝、「山と渓谷」の原稿を書く。
 石本がきてくれたので、そのまま待たせて、「日経」の原稿を1本書く。
 原 耕平君が、原稿の依頼にくる。
 5時、「週刊大衆」、渡辺君に原稿。

 バ−に飾ってあった絵が全部はずしてある。裕人が、ここにステレオを持ち込んだので、絵をかざる場所がなくなった。これからは、書庫で仕事をしようか。
 冬の書庫は寒いだろう。しかし、書庫に、スト−ヴ、小型テレビ、電話をいれれば、仕事場になる。

             1977年9月23日(金)
 疲れている。腰の痛みはなくなったが、それでも右足になんとなく不安がある。
 午前中、児玉さんに、電話をかけたが、不在。
 午後は、仕事があるのに、何もする気にならない。大相撲を見ただけ。
 夜、テレビで映画を見た。途中から見たので、題名がわからない。トレヴア−・ハワ−ド、リタ・ヘイワ−ス、マルチェロ・マストロヤンニたちが出ている。
 国際的な麻薬組織を追う各国の警察の捜査活動を描いたもの。リタ・ヘイワ−スの疲れきった顔に驚いた。
 たとえばアルツハイマ−症などで、少しづつ知力が失われて行って、それまでの自分がだんだん自分でなくなってゆく。
 身近な人が誰なのかわからなくなる。おだやかな性格だったのに、やたらに怒りっぽくなったり、自分でも気がつかないうちに、自分らしさがなくなってしまう。
 正常な人の場合でも、よく見られる現象だが、これが女優の場合だったら、たいへんな苦しみになる。リタの場合でいえば、「ギルダ」だった頃の自分は、もう現在の自分ではない。それでは、いつの時代の自分なのか。
 女優は、別人になってしまった自分が、「ギルダ」としての自分を見せることに恐怖をおぼえないだろうか。そういう自分に気がつかないはずはない。周囲にどう見られるかわかっていながら、なおも女優であろうとする。それは、虚栄心だろうか。
 私は、「巴里の空の下」に出たシルヴィ−や、「望郷」に出たフレェルをみたとき、美貌を誇った女優がいつしか老女になってしまう残酷さに、胸を打たれたことがあった。
 いつか、そんなことを考えてみたいと思っている。

 あとで、新聞で、「悪のシンフォニ−」というタイトルで、テレンス・ヤング監督と知った。国際的に知られた俳優がたくさん出ているのは、国連が後援したためらしい。


              1977年9月24日(土)
 与野の高原君が、亡母、中田 宇免の焼香にきてくれた。

 ご近所に彫刻家が住んでいる。吉原 和夫さん。
 彼が、「新制作」に入選したという。
 午後2時半、上野。「新制作展」に行く。
 この「新制作展」で、友人、高橋 清さんの新作も見た。例によって、球体に、陰陽を形象したもの。

 吉原 和夫さんの彫刻は、巨大な木彫のヌ−ド。両手両膝をついて、四つん這いのポ−ズ。ひどく不自然な姿勢だった。この木彫のすぐ近くに、ほとんどおなじポ−ズの石の彫刻があった。若い彫刻家はモデルにこういうポ−ズを強制するのだろうか。もっとも、この彫刻なら、モデルを使う必要もない。
 吉原さんは才能はあるのだが、この木彫を見るかぎり、人気のある彫刻を作る気はないらしい。
 「新制作展」のあと、「ミュンヘン近代美術展」を見た。こちらは、ストゥック、カンディンスキ−など。ただし、これとは別に心に残る作品もあった。ハ−バ−マンという画家の小品は、パスキンに似た色調と、モデルのポ−ジングで、私の好きなタイプのヌ−ドだった。私は、どういう国の美術館に行っても、小品でも1枚か2枚、自分の好きな作品を見つける。たいていの場合、カタログの隅っこに、短い解説が出ている程度の芸術家だが、有名な画家の大作ばかり見るよりも、こういう小品を発見すると、かえってその国の美術界のようすが想像できる様な気がする。
 ハ−バ−マンという画家については何もわからない。しかし、ミュンヘンという都会の片隅で、こういう絵を描いていた画家がいたと思うだけでうれしくなる。

              1977年9月25日(日)
 百合子が歯痛で苦しんでいる。
 前から「大百堂」に治療を頼んでいたのに、治療に応じてくれなかった。このため、百合子は歯科医の娘なのに、虫歯を放置していた。
 内山歯科に行ったのだが、処置がわるかったのか、歯齦が腫れて、さらに頬までひろがって顔半分がふくれあがった。日頃の美女が、おバケになってしまった。
 冗談をいっている場合ではない。百合子が苦しんでいるのを見ていると、こちらまで苦しくなる。
 内山歯科に相談に行った。たまたま、外出しようとしていた内山 清春先生と、歯科の前で会ったので百合子の病状を告げた。
 内山さんは、私の岳父、湯浅 泰仁の教室にいて、しばらく「大百堂」の代診をつとめた。やがて、百合子の従妹と結婚したので、私にとっても親戚にあたる人だが、豪放磊落といった性格。明日、一番に診察してもらうことになった。

              1977年9月26日(月)
 百合子の病状はいくらかよくなってきたが、顔の腫れはひかない。痛みのせいで、夜も眠れなかったらしい。夜中に、ピリン系の睡眠薬、「ビラビタ−ル」を1錠。
 このため、手首や踵にかゆみがあらわれた。外から見ても発赤している。
 百合子にとっては、まだ、つらい試練がつづいている。

 昨日、内山歯科からの帰り、「そごう」の「東北物産展」で買ってきた福島のお菓子、アワビ弁当がおいしかった。
 百合子は、朝から内山歯科に行った。付き添ってやるつもりだったが、ひとりで行くといって出かけた。途中で、誰かと会うのがいやだったのか。

 「日経」、吉沢君。ラザ−ル・ベルマン(ソヴィェトのピアニスト)の演奏会に誘ってくれた。ピアノのヴィルトゥオ−ゾなのだから、ぜひ聞きに行きたい。
 しかし、百合子のことが心配なので断った。
 吉沢君はもとは音楽担当だったから、いい演奏家をよく聞いている。レコ−ドのコレクションも。

              1977年9月26日(月)
 日本の過激派、「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、今日の午後、バングラデシュ/ダッカ空港に強行着陸した。

              1977年9月28日(水)
 ミケランジェロ。
 ラウレンティア−ナ図書館の設計を依頼された。
 「建築は私の本領ではありませんが、最善をつくしましょう」
 このことばに、ルネサンスの芸術家の自負、野心、堂々たる気概がこめられている。
 建築だけを見ても――創造的であろうとする姿勢には、いつもさまざまなかたちで試行錯誤をくり返してきたミケランジェロの生きかたが重なっている。
 今は美術館になっているが、ヴァザ−リの造ったウフィッツイ宮殿は、ルネサンス建築の最高の作品だろう。ここに現代イタリア・デザインのア−ムチェア、ソファ、タピッスリを置いても少しも不調和に見えない。

 たとえば、サンドロ・キア、エンツィオ・クッキ、フランチェスコ・クレメンティといった芸術家の仕事を考える。いずれも、今や中堅から大家の列に並びつつある人たちで、トランス・アヴァンギャルドと呼ばれている。
 この人たちの仕事や評価はまださだまってはいないが、シンプルな背景にグロテスクで具象的なイメ−ジを配置する「ニュ−・イメ−ジ・ペインティング」とおなじ傾向のものとみられている。
 エンツィオ・クッキの作品に――ムンクふうの表情をもった男や女たちの顔が、黒い太陽に向かって流れてゆく、そんなイメ−ジのものがあった。今の時代の緊張、不安といったものを感じさせた。
 フランチェスコ・クレメンティのヌ−ドは、どこかフランシス・ベ−コンを思わせるグロテスクなもの、これも時代の暗い状況を反映しているのか。
 私は、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドが好きなのだが、日本では見られない。

2019/01/03(Thu)  1791 〈1977年日記 38〉
 

                  1977年9月20日(火)

 東京に出て、吉沢君と会う。「ヤマハ・ホ−ル」で、「おかしな泥棒 ディック&ジェ−ン」(テッド・コッチェフ監督)の試写を見ることにした。
 「ディック」(ジョ−ジ・シ−ガル)と「ジェ−ン」(ジェ−ン・フォンダ)は、ごく平均的な夫婦で、ささやかな幸福な家庭をもっている。子どもはひとり。ところが、「ディック」が失業する。たちまち、ささやかな幸福も雲散霧消してしまう。これを解決するために、二人が実行するのは、泥棒稼業だった。
 ジェ−ン・フォンダが、ホ−ム・コメデイをやるのだから、きっとおもしろいだろうと思った。たしかに、演技力はあるし、女として魅力もある。しかし、ジェ−ンが、いくら熱演しても、こういう「役」は、ジェ−ンには向かない。テッド・コッチェフの演出も、昔のRKOのコメデイのような、軽快なタッチでもあればまだしも、まるでコメデイ向きではない。例えば、ドジを踏んでも、本人はいつも我関せずといった顔をしている、それが、観客の笑いを喚ぶアイリ−ン・ダンのような、女優なら自然に出せるのに、ジェ−ン・フォンダがやると、「あたしなら、こういう女になれるわ」といったドヤ顔になる。
 ジェ−ンは、いつも自分の表情や、筋肉の動きを統制する。ある瞬間に表情や筋肉を自在に働かせて、「役」を自分の意のままにふる舞う。だから、観客をとらえて、自分のほうに引き寄せようとする。「ジェ−ン」はいつも、明るい、愛情をこめたまなざしで「ディック」を見つめる。「あたしは、こういう女なのよ」。これが、ジェ−ン・フォンダなのだ。だから、笑える部分でも、ほとんど笑えない。

 ジェ−ン・フォンダが、最高に「ジェ−ン・フォンダ」だったのは、ロジェ・バディムと結婚していた頃の「バ−バレラ」あたりだろう。悲劇的でありながら、おかしい喜劇女優だった。アイリ−ン・ダンは、ふつうの女優としては最高のレベルにたっしているが、名女優ではない。ジェ−ン・フォンダは、別の次元で、名女優といっていい。

 外に出たとき、雨が降っていた。台風が接近している。

 「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「南窓社」の松本さんから、校正を受けとる。
 そのあと、三崎町の写真屋で、写真を受けとって、本をあさった。
 ガリレオの研究、イタリア、フィレンツェの名家の研究、ボ−マルシェの評伝など。
 帰宅。ジョン・ト−ランドの「最後の100日」を読みはじめた。「ル−ツ」(社会思想社)が送られてきた。これはすぐに読む必要はない。


                        1977年9月21日(水)

 午後2時半、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「月刊時事」の編集者に原稿をわたす。この原稿は、先日、特急のなかで書いたもの。
 下沢君といっしょに「ワ−ナ−」に行く。「ビバ・ニ−ベル」(ゴ−ドン・ダグラス監督)を見た。バイクのスタント・レ−サ−、「イ−ビル・クニ−ベル」(本人)が出ている。このところ、いい映画を見ていないので、少し期待して見たのだが、これがどうにも挨拶のしようがない。昔、「新興キネマ」が、子ども向けに「ハヤブサ・ヒデト」のシリ−ズを作ったが、あのシリ−ズのはるかなる果てにこの映画がある、と思えば、それなりに楽しいだろう。
 こんな映画の試写を見にくる人はいないだろうと思ったら、意外や意外、田中 小実昌が見にきていた。私に気がついたコミさんは、おトボケ顔で、
 「ねえ、中田さん、お通夜に、お香典をもって行ってもいいだろうか」
 と聞く。
 何かあらぬことを言いだして、私をカツぐのではないか、と思った。
 「これから、行くの、お通夜に?」
 「うん、今 東光さんがイケなくなっちゃったんだ」
 え、今 東光が亡くなったのか。
 「そりゃ、たいへんだ、お香典はもって行ったほうがいい」
 私は答えた。
 私としては――知人が亡くなった知らせを受けて、さっそくの弔問にお香典を持参するのは、ひかえたほうがいい、なぜなら、急な事態に、先方は祭壇さえかざっていないコトもあるだろうし、親戚、縁者でごったかえしている最中に、挨拶もそこそこにお香典をだせば、とりまぎれたりすることもある。
 むしろ会葬のときに、御香典を霊前に供えるほうがいい、と考えている。
 医師で、同人作家として小説を書いていた三浦 隆蔵さんの訃を知らされたとき、私は、すぐに花輪を贈る手配をして、ご自宅に急行した。このときは、お香典はいかほど包むものかわからなかった。
 ただ、コミさんが、いつものようにラフなスタイルだったので、できれば喪服に近い恰好のほうがいいよ、といった。新聞記者、編集者が押しかけているはずだから。
 田中 小実昌は、私の意見を聞くと、
 「ありがと。助かったよ」
 といって、すぐに、近くの「松阪屋」に入って行った。おそらく、御仏前の上包みを買いに行ったのだろうと思う。

 日比谷公園まで、歩いた。銀杏の実がびっしりついていた。
 もう秋だなあ。
 暮れかかるビルの空に、長い影がひろがりはじめていた。

 6時、「山ノ上」で、画家のスズキ シン一に会った。下沢君を紹介して、3人で、ホテルのテンプラを食べた。
 スズキ シン一は、マリリン・モンロ−のヌ−ドしか描かない芸術家だった。私は、偶然、彼の個展を見て、たまたま、テレビに出たとき、彼の画業を紹介した。そのときから、親友になったのだった。
 この夏、彼は、エジプトに旅行した。そのおみやげに、カイロで、エジプトのガウンのような服を買った。それを私にプレゼントしてくれた。私は、酒に酔った勢いで、その服を着た。
 時間が遅かったので、下沢君を帰して、スズキ シン一といっしょに、駿河台下のバ−、「あくね」に行った。

 私がエジプトの服を着ているので、「あくね」のみんなが、驚いたり、笑ったりした。いつも私についてくれる「順子」も、ママも傍に寄ってきて、みんなでワイワイさわいだ。こちらにご光来くださった方は、エジプトのカイロ大学のえらい教授先生だぞ、と紹介した。
 みんなが信じなかった。
 前に、スズキ シン一をこのバ−につれてきたことがあって、そのとき、画家と紹介したことを忘れていた。

2018/12/24(Mon)  1790 〈1977年日記 37〉

              1977年9月14日(水)

 13日、レオポルド・ストコフスキ−が亡くなった。95歳。

 1882年、ロンドン生まれ。ポ−ランド系ブリット(英国人)。23歳で、アメリカに移住、10年後、アメリカに帰化した。
 指揮者として成功したのは、1912年、フィラデルフィア管弦楽団の嘱託指揮者になってから。40年代には、NBC交響楽団、ニュ−ヨ−ク・フィルの指揮者として、世界的に知られた。
 私は、ストコフスキ−が出た映画、「オ−ケストラの少女」(ヘンリ−・コスタ−監督/1937年)を見ている。父、昌夫がつれて行ってくれたのだった。私は9歳になっていたので、映画の内容はわかった。 ただし、この映画で、ストコフスキ−がノン・タクトでやった音楽が何だったのか、知らなかった。
 戦後になって、「オ−ケストラの少女」が再上映されたとき、リストやチャイコフスキ−だったことを知った。
 これも戦後になって、公開されたアニメ−ション・ミュ−ジカル、「ファンタジア」(1940年)は、ストコフスキ−がフィラデルフィア管弦楽団をひきいていた。戦後も、10年たってからの公開だったので、私もいくらか音楽にくわしくなっていた。
 ストコフスキ−の指揮にあまり興味がなかったので、彼が来日して、読売日響、日本フィルを指揮したときも聞きに行かなかった。

 それでも、彼のヒンデミットや、ストラヴィンスキ−を聞いたし、彼が「恋人」グレタ・ガルボと結婚するというゴシップが気になったりした。「オ−ケストラの少女」は、父の思い出と、ディアナ・ダ−ビンという少女に対する淡いあこがれと、みごとな銀髪をふりたてて指揮をとるストコフスキ−の姿が重なって、私にとっては忘れられない映画になった。

 そのストコフスキ−が亡くなったのか。


              1977年9月17日(土)

 ストコフスキ−が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。
 マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリで心臓発作で亡くなった。享年、53歳。

 私の好みは、いつも世間の人と反対らしく、マリア・カラスに対しても、絶対的な尊崇をもっていない。カラスと並ぶプリマドンナ、レナ−タ・テバルディと比較するわけではないが、マリア・カラスを聞いたあとで、レナ−タを聞くと、なぜかほっとするときがある。レナ−タを聞いたあとで、マリア・カラスを聞くと、ああ、これは別世界なのだ、と納得するのだが。

 カラスが、ジュゼッペ・ステファノを相手に復活して、世界各国でリサイタルを開いたが、さすがにかつての声は戻らなかった。
 1970年、「王女メディア」(パオロ・パゾリ−ニ監督)に出たカラスには驚嘆した。オペラ歌手なのだから、演技がうまいのは当然だが、この映画のカラスは、名演技などといったレベルではなく、すさまじい迫力を見せた。
 私の勝手な妄想のなかでは、サラ・ベルナ−ルとエレオノ−ラ・ドゥ−ゼを合体させて、さらに、マリ−・ベルとヴァランティ−ヌ・テッシェを加え、それに、ファニ−・アルダン、ジャクリ−ヌ・ビセットといった女優をかきまぜて、やっと、「王女メデイア」のカラスのレベルになる。
 いろいろなオファ−を受けていたカラスが、そのいくつかを実現していたら、どれほど貴重なものになったことか。

 わずかながらカラスのCDをもっている。「ラ・ノルマ」でも聞こうか。せめて、カラスを聞こうというのは、われながらさびしい、かなしいことだが、思い出には、いつもわずかながら、さびしい、かなしいものがまざっている。

マリア・カラスの訃報は、かんがえないことにして……

 この日、久しぶりに山歩き。メンバ−は、安東、吉沢、石井、鈴木、菅沼の5名。
 原稿は、石本に届けてもらった。

 黒磯からバスで、大丸温泉に行く。
 夕方から歩いた。峰ノ茶屋の尾根にとりついたときは、もう日が暮れていた。懐中電灯を頼りに山道を辿って、三斗小屋に着いたのは7時。

 隣りの部屋で、東北日大高の0Bの一行が宴会をはじめた。12時過ぎて、みんなが出かけたので、安心したが、3時頃、戻ってきた。みんなが酔っていて、一人はヘドを吐く始末。さすがに私もたまりかねて、外にでてどなりつけてやった。

 朝、4時に出発の予定だったが、5時に変更した。前の晩、小屋の近くにテントを張った女子高生3人と、高校生3人は、国体に出る訓練をしているという。引率していた福島岳連のリ−ダ−のオジサンとしばらく話した。オジサンも、昨夜の日大高の0Bたちの乱行に眉をひそめていた。
 こちらが出発というとき、まるで土佐犬のような大型のメスのイヌが私たちに寄ってきた。
 「おい、一緒に行くか」
 と声をかけると、ことばがわかったらしく、シッポを振って走りまわった。

 睡眠不足なので、はじめはきつかった。熊見曽根をたどって、三本槍にでる途中まで、ずっと霧だった。霧雨。
 須立山から甲子に下る道は、雨に濡れて、すべりやすく、けっこう苦労させられた。

 坊主沢の避難小屋は、前にきたときは、荒れ果てていたが、行政の手が入ったらしく、しっかりした小屋に建て替えられていた。登山者のマナ−が悪かったのだろう。

 甲子温泉に着いたのか4時。旅館で入浴させてもらう。これも、前にきたときは、薄汚れていたのに、すっかり温泉ホテルふうになっていたのでおどろいた。
 ずっとついてきたイヌと別れた。
 イヌは、そのままどこかに行ってしまったが、夜道を戻るのかも知れない。あのイヌの足なら、ほんの2時間もあれば、三斗小屋に戻るのではないか。
 帰りはうまくすわれたが、さすがに疲れた。


              1977年9月19日(月)

 私は、じつはセンチメンタルな男なのかも知れない。
 マリア・カラスばかり聞いていた。

 パスカル・ペレのサッカ−を2度見た。これだって、さびしい、かなしいものがまざっている。
 最初の試合、ラスト1分前に、ペレが、みごとなバナナ・シュ−トをきめた。これは、みごととしかいいようがない。しかし、日本チ−ムも、「コスモス」も、この試合がペレの引退試合と知っているので、最後に、ペレ一世一代の花道を作ってやる「演出」に見えた。私の猜疑心によるものだろうか。
 観客は、みごとなバナナ・シュ−トをきめたペレを讃えて、熱狂的に拍手喝采したが、私はかすかに、このプレイは、はじめからこういうシナリオだったような気がしたのだった。むろん、それならそれでかまわないけれど。

 なにしろ、センチメンタルな男かも知れないので。

2018/12/17(Mon)  1789 〈1977年日記 36〉
 
              1977年9月11日(日)

 ロ−マ。
 昨日、ロ−マのアメリカ−ナ・イタリア銀行の金庫室が破られ、保管されている金品ケ−ス200個が荒らされた。被害の総額は100万ドル(約2億7千万円)を越える模様。
 怪盗は、この週末、銀行の隣りのラウンドリ−から侵入、鉄の扉をバ−ナ−で切断した。まるで、映画、「黄金の7人」だなあ。
 今年になってイタリアでは、巨額な金庫破りが4件も起きている。ミラ−ノで550万ドル。アスティで、120万ドル。
 先月には、シチ−リアで、銀行に侵入しようとしていた5人組が、あと一歩というところで、警察に逮捕された。
 こうなると、さっそく喜劇仕立てのシノプシスを書いて、企画に提出してもおかしくないね。しかし、監督は? 田中 喜八? 冗談だろ。


              1977年9月12日(月)

 人間の結婚制度は、一夫一婦を原則としてきたが、実際の性交は乱脈な野放し状態だった。それでも、過酷な生活環境によって、人間は生きるための戦いをさまたげない程度に、性欲もひかえめなものにした。
 ただし、先史時代の部族社会でさえ、人口の急増にともなって、ある程度制限したうえで、性的な放埒を認めなければならなかった。
 男のグル−プが女のグル−プ全員の支配権をもつ「集団結婚」の名残りは「初夜権」として、最近まで存在していた。

 カトリック、サクラメントとしての結婚は、キリスト紀元、13世紀まではまだ万全のものではなかった。(ルネサンスのプラトニズム、ピエトロ・ベンボ、カスティリョ−ネを読むこと。)理論的には、不義密通を賛美することもできた。
 ロココの時代になって――セックスを自由に謳歌したが、これは、貴族社会が、原始社会の乱交(オ−ジ−)に逆戻りした、と見ていい。

 一夫一婦婚のかたちは、女性の権利を否定するロ−マ法と、売買によって結婚を成立させるチュ−トン族の実利主義とが奇妙に調和しあって、さまざまな人種間で、ごくかぎられた期間にめざましい発展をとげた。チュ−トン系は、強力なエネルギ−で、自分たちの法律を実行して行く。

 マドンナとしての女性、巫女、あるいは母としての「女」は、無教養な集団という汚名を着せられて、その地位はひたすら貶められた。
 結婚は、性欲の処理、出産によって子孫繁栄をはかるという二つの「契約」だったが、長い歳月のあいだに、こうした観念も変化しはじめた。

 ロココの時代には、夫の身分によって経済的な安定が得られる妻を、夫の継承者とするといった、国家の先導によって、結婚の形態に歪みが生じた。
 そして、ほとんど病的なまでに貧困をおそれるあまり、しみったれた倹約がひろがった。その結果、国民の力が萎えた。この時代、家族の資産を分割させまいとして、子どもの相続を故意に制限することもめずらしくなかった。

 一夫一婦婚の基盤が崩れはじめた一方、新時代に向けて、まったく新しい、究極の主張があらわれる。かんたんにいえば、男は威風堂々たるパシャになるのか、それとも、女房の尻に敷かれるあわれな亭主になり果てるのか。

 官能的な快楽追求の時代は幕を閉じる。

 それに代わる形態が、二つの特質を見せて、次の世代で実行されてゆく。

 若者の性欲は、友情ある結婚で浄化される。
 夫婦はつねにお互いの人格を尊重しあう一身同体、一旦緩急にあたっては、力をあわせて立ち向かう。
 あのエピクロス的なモンテ−ニュが、夫婦の理想的な相(すがた)としてすでに思い描いていた。

 フランス・ロココの結婚の歴史は、フランス史のなかでも、もっとも天真爛漫な姦通の歴史だった。


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