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2018/09/24(Mon)  1778 〈1977年日記 25〉
 
                 77年7月5日(火)

 清水 徹君の「読書のユ−トピア」を読んでいるところに、「どこにもない都市 どこにもない書物」が届いた。
 ある時代の批評家は、それぞれの立場、理解力は異なっても、その時代の共同研究者といっていい。清水君は頭のいい批評家で、つぎつぎにいい仕事をしている。この本からもいろいろと学んだ。
 現在の作家のものをあまり読まないので、清水君の本からいろいろと教えられたが――現代作家とつきあうのもたいへんだな、という気がした。

 和田 芳恵さんから挨拶が届いた。肺気腫になられたという。

 これからも、いいお仕事をなさるようにと心から願わずにいられない。

 大学に行く。まだ咳が出るので、途中で咳き込まないように何度も息をとめたりする。
 講義を終えて、Y.T.、下沢と、かるい食事。
 下沢は、私とY.T.に気をくばって、あまり話をしない。


                 77年7月6日(水)

 杉崎 和子女史から電話。
 「デルタ・オヴ・ヴィ−ナス」に関して、ルパ−ト・ポ−ルから連絡があったという。
 エ−ジェントのガンサ−・スタ−ルマンの要請で――ロイヤリティ−・スケジュ−ルを明記すること。サブサイダリ−・ライツに関して、ロイヤリティ−を設定すること。
 その他。
 ガンサ−は、アナイスの「日記」の翻訳権をとった「河出書房」の契約が切れているので、日本で全巻出してほしい、といってきた。つまり、あくまで「実業之日本」で出せ、という意味だった。これは困った。どうしても無理だと思う。

 アナイスの「日記」の翻訳は、すでに原 真佐子訳が出ている。(これは、私にもいささかの責任がある。私は多忙だったため、「日記」の翻訳に手をつけなかった。それを知った原 真佐子が私に電話をかけてきて、自分が翻訳したいといってきた。残念ながら、この本はろくに売れなかった。)
 現在、あらためて全巻(6冊)を出せといわれても、「実業之日本」にそんな力はない。私は、ガンサ−・スタ−ルマンが、日本の出版界の実情を知らなさすぎる、と思った。「実業之日本」としても、まず、売れるものを出してから、アナイス・ニンを出したいと思うだろう。
 私としては、ぜひにもアナイスを出したい。しかし、「実業之日本」にもちかけても、峰島さんはひるむだろう。

 ルパ−トのアドレス。
  22×× Hidalgo Ave.,Los Angeles,90035


                77年7月7日(木)

 午前中、「沖田 総司」を書いていて、「ザ・ディ−プ」(ピ−タ−・イエ−ツ監督)の試写に行けなかった。ジャクリ−ン・ビセットが出ているのに。
 1時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、渡辺君に原稿をわたす。「二見書房」、長谷川君に校正をわたしたが、「三笠書房」の三谷君には原稿をわたせなかった。申し訳ない。

 2時、「実業之日本」、峰島さんに会う。
 アナイスの件。ロイヤリティ−は、契約時に1500ドル。出版時に1500ドル。1万部以上〜3万部までの部数に対して500ドルの追加。サブサイダリ−・ロイヤリティ−に関しては、白紙。アナイスの「日記」出版に関しては考慮するが、目下は、「デルタ」が成功するかどうかにかかっている。
 ガンサ−・スタ−ルマンに対しては、こういう返事を送ることにした。私はアナイスのエ−ジェントではないので、今後、交渉が長引いたり、むずかしいことになるようだったら、「河出」の竹田 博さんに、ガンサ−・スタ−ルマンとの交渉を依頼しようか、と考えている。(これには理由があるのだが、ここには書かない。)
 峰島さんに対して、私は――「実業之日本」のために、ミステリ−を選んで、翻訳すると確約した。原作がきまったら、すぐに翻訳にかかる予定。スケジュ−ルはキツいが、「実業之日本」のシリ−ズのトップ・バッタ−は、私以外にはいないだろうから。

 6時半、蒲田。古本屋を歩いていて、ポ−リナ・ス−スロヴァの「日記」を見つけた。一瞬、ドキッとした。まさか、こんなところに、ドストエフスキ−の恋人の「日記」がころがっているとは思わなかった。血圧が高くなっているのがわかる。教室に向かう途中、不意にカミナリが鳴って、はげしい雨が降ってきた。みんなが、走ったり、逃げまどっている。本が濡れないようにしっかり抱えて、雨にうたれながら、区役所(教室か?)に入った。ただもう、ポ−リナ・ス−スロヴァのことばかり考えて。
 教室にいた受講生は、12,3人。

 私は、パリに行ったドストエフスキ−が、ポ−リナと落ち合った状況をマクラにフッてから、今学期最後の講義に入った。昂奮した気分を抑えた。講義はうまくいった、と思う。

 変なことを思い出した。
 ニュ−ヨ−クに行ったとき、シャツを数枚買った。私の買った安い衣料は、全部が、韓国製やインド製だった。どこに行っても、Made in Japan は見当たらなかった。どうやら、安い衣料の部門では、日本の生産は駆逐されている。そのとき、日本の輸出は、車や電子機器の分野で大きく伸びているが、他の分野では敗退を余儀なくされている。
 当時の私は、この現象をどう見てよいのかわからなかった。ただ驚いた。

 この日記に、どうしてこんなことを書いておくのか、自分でも説明がつかないのだが。

2018/09/21(Fri)  1777 〈1977年日記 24〉
 
                 77年7月4日(月)

 月曜日は、いろいろな人から電話がかかってきたり、出版物がまとめて届くので、なんとも気忙しい。
 「日経」、吉沢君から、「鬼火」(ルイ・マル監督)の試写の日の連絡。この映画はぜひ見たいと思っている。原作がドリュ・ラ・ロシェルなので。
 「日刊ゲンダイ」、青柳君から小さなコラムの依頼。
 「南窓社」、岸村さんに原稿の件。あとで、杉崎女史とアナイスの件で、もう一度、電話がかかってきた。アナイス出版はむずかしいだろう。「週刊小説」、土山君、原稿のことで。

 佐々木 基一さんから、短編集、「まだ見ぬ街」を贈られた。すぐに読みたいのだが、その前に原稿を片づける。
 ほかに、「ロ−ス・ベネデイクト その肖像と作品」、マ−ガレット・ミ−ド。
 「牧神」9号。雑誌がいっぱい。「北杜夫全集」6巻も届いたので、月報と短編、「白毛」を読む。ほかに、林 美一編集の「江戸春秋」3,4号。

 本や雑誌は届いた日に読むことにしている。うっかり読みそびれると、あとからあとからつぎの本や雑誌が届いてくるので読めなくなる。
 ただし、重複する本も多い。まず、著者が贈ってくれる。同時に出版社が送ってくる。2,3日すると、新聞社が書評の依頼で送ってくる。さらには、書評の専門紙も、おなじ本を送ってくるからだった。

 ずいぶん前になるが、ある有名な批評家の自宅に伺ったことがある。
 応接間に通されたが、そのフロアに、寄贈された本がいっぱい積まれていた。幅1メ−トル以上、高さ1メ−トル。ゆうに数百冊に達する冊数だった。いちばん端に、私が訪問前に贈った本が置かれていた。どうやら、私の本は読んでもらえないまま、フロアに積まれたままお払い箱だろう、と思った。
 この批評家が私の本を読んでいない、と知っても、屈辱感はなかった。この新刊書の数量の多さを見ただけで、目がくらむほどの忙しさが想像できたからだった。
 相手の多忙をかえりみず、突然、訪問した自分の非礼を恥じた。

 そのとき以来、人に本をさしあげる場合、その本がそのまま古本屋に直行しても仕方がないと覚悟した。逆に、贈られた本は、何をおいても読むことにした。私に届けられる本など、この批評家に届けられる本に比較すればたいした数ではない。

 むずかしい本ばかり読むわけにはいかない。講義の準備のために読まなければならない本もある。

 「牧神」9号。杉崎 和子女史のエッセイ。原 真佐子、関口 功のエッセイ。関口は、私と同期。英文科、助教授。日頃、あまり親しくないので、大学で会うことはめったにない。
 エリカ・ジョングのインタヴュ−。
 百合子がアメリカのおみやげに、エリカ・ジョングの新作を買ってきてくれた。風邪のせいで、そのままにしてあるので、今夜から読みはじめよう。

2018/09/19(Wed)  1776 〈1977年日記 23〉
 
                 77年7月3日(日)

 昨日、今日と、むし暑い日がつづく。日帰りでもいいから、山に行けばよかった。なんとなく、元気がない。

 この日記は、身辺のことを書くつもりだが、できれば映画やテレビのことも書きとめておきたい。ほとんどの映画やテレビ番組は、いくら記憶力がよくても、いずれは忘れてしまう。しかし、それを見たときの衝撃、感動、あるいは、もの書きとしてどう生きようか、といった懐疑や、迷妄は心に残るだろうと思う。いつか、この日記を読み返したときに、何かを思い出すよすがとしても書いておいたほうがいい。

 先月のBBCのドキュメンタリ、「ミサイル兵器」が心に残っている。
 現代の戦争は、第2次大戦までの戦争形態を一変させる。すべてコンピュ−タ制禦なので、兵士が塹壕に伏せて、敵兵を狙撃するような戦闘ではない。ずらりと並んだコンピュ−タが、数十キロ離れた敵の部隊の動きを感知すると、別のコンピュ−タが、ただちにその規模、行動の目的を判断して、ミサイル基地に連絡する。基地のコンピュ−タが、攻撃のサインを出す。そして、敵軍は潰滅的な被害を受ける。

 このドキュメンタリでは、大陸間弾道弾はとりあげられない。もっと小規模な地対空、空対艦ミサイルが、つぎつぎに紹介される。イギリス制作なので、イギリス艦隊の演習が出てくる。たとえば駆逐艦の砲撃は、まるっきりSFといっていい。
 艦橋や砲塔に誰もいない。兵員は、全員、放射能から身をまもるための防護服、マスク、手袋をつけて、吃水線の下に位置する気密室にたてこもる。そこにあるのは、レ−ダ−と、コンピュ−タ−だけ。
 敵の潜水艦が魚雷攻撃をしかけてきたら、どうやって応戦するのだろう。

 もっと慄然とするのは、このドキュメンタリに出てくる兵器が、もはや「過去」のものだということ。こうして兵器化された瞬間から、「現在」は「次に」移っている。つまり、このドキュメンタリに出てくるミサイルは、もうスクラップなのだ、ということ。
 矛と盾の原則は、厳然として私たちの前に立っている。そのどちらの能力も限界はなく、際限もない軍備拡張がつづく。このおそろしい現実に慄然とする。

 サイゴン陥落以後、しばらく途絶えていたヴェトナム難民が急増しているらしい。
 小舟に乗って、南シナ海に漕ぎ出し、外国船の救助を待ったり、東南アジアのどこか、あるいはオ−ストラリアに漂着する。
 もし、捕らえられたら、反革命分子として終身刑。
 最近は、脱出をはかっても5隻中の4隻までが、当局の沿岸警備艇にダ捕される状況らしい。こうした危険を冒しても、ヴェトナム難民が国外脱出をはかる理由は想像がつく。
 社会主義政策の破綻もあるだろう。とくに、都市生活者を農村に下放する政策が失敗している。すでに毛 沢東が失敗している政策を踏襲しても、無理にきまっている。
 北部山岳地帯、中部高原、メコン・デルタに、それぞれ新経済圏を建設するために、政府は移住者に対して、住居、診療所、灌漑などを整備していると伝えられるが、実際には、電気も、ガスも、水道さえもないので、一種の棄民政策になっている。これもNHKのテレビ・ドキュメンタリで描かれていた。
 ヴェトナム人民軍の機関紙、「クァンドイ・ニャンザン」は、中部、ダラトの北方と、西部の高原地帯で、4000〜5000の旧政府軍の兵士が、現在も人民軍と散発的に戦闘をつづけていることをはじめて報じた。
 幕末、奥州同盟が官軍に敗れた。このとき幕兵が五稜郭に集結したようなものか。この敗残兵はいずれ掃討されるだろうが、さらに一部は武装ゲリラとして活動をつづけるかも知れない。ヴェトナム戦争はまだ終わっていない。
 ヴェトナムのゲリラと、ラオスの反政府ゲリラとは性格がちがう。メオ族、旧政府軍に対して、アメリカのCIA、タイの政府、軍部が何らかの援助をあたえていることは、公然の秘密になっている。最近の報道では・・・ラオスでは、ビエンチャンからの13号線のうち、ルアン・ブラパンに到る北部は、メオ族によって寸断されている。パクサン、タケクに到る南は、旧政府軍によって分断されている。
 反政府ゲリラが活発化しているのは、経済政策の失敗、生産性のいちじるしい低下、きびしい政治教育に対する人心の離反に原因する。

 私はヴェトナムに行ったことがある。アオザイを着た娘たちのことが忘れられない。そんな薄弱な理由から、ヴェトナムの「現在」に無関心ではいられない。

2018/09/13(Thu)  1775 〈1977年日記 22〉
 
                 77年7月1日(金)

 昨日は、連載の3回目と、「映画ファン」の原稿を書いた。石本君にきてもらって、吉沢君のデスクに原稿を届けさせるつもりだったが、吉沢君はしびれを切らしたのか、直接わが家にやってきた。
 大工や左官がいっぱいいるなかで、吉沢君を相手に、この夏はやはりジョ−ジ・ロイ・ヒル(「スティング」の監督)だね、などと話す。
 あと、目ぼしいものとしては、イタリア映画の「スキャンダル」(サルバト−レ・サンペリ監督)か、フランス映画のジャック・ドワロンあたりか。
 「スカラ座」で「ロ−マの休日」の最後のロ−ドショ−。オ−ドリ−・ヘップバ−ンも、しばらくは見られなくなる。

 まだ、咳が残って、不調がつづいている。「ロ−マの休日」を見に行くどころではない。日記も書けなかった。28日は、めずらしく大学を休講して、「太田区民センタ−」で講義。この日は、風邪の影響で、吉沢君にわたす原稿も書けず、吉沢君が「区民センタ−」まで連絡してきたほどだった。このところ、めずらしくスランプ。
 「太田区民センタ−」の講義は、人文地理(慶応・文学部教授、西岡 秀雄)、経済学(山崎 安世)、文学(勝又 浩)、法律学(明治・助教授、河合 研一)、西洋文化史(中田 耕治)という科目で、なかなか充実した内容だった。
 初講義は、風邪のせいで、あまり調子がよくなかったと思う。それに、西洋文化史といっても、ごく大まかな展望を述べて、ルネッサンスに入ってゆくのだから、まるで軽業のようなものになる。
 私のテ−マは――芸術というものは、継続的な、ダイナミックなプロセスであって、たえず新しい思想と形式を発展させることによって変化する価値観を反映する。
 ごくありきたりなテ−ゼだが、講義だけで説明するのはむずかしかった。たとえば、ギリシャ人の生活と思想に明らかに認められる中庸と調和は、ギリシャの建築や彫刻に見られる抑制、単純性にあらわれる。そんなことを語るより、パルテノンや、ニケ、アクロポリスの門などの写真を見せるほうがいい。
 スライドのようなものを用意すればよかった、と思ったが、あとの祭。

 講義を終えたあと、いつもなら受講生たちをひきつれて、近くの喫茶店や居酒屋でワイワイ騒ぐのだが、蒲田の町ははじめてだったし、聴講生の多くは中年のオバサマなので、一人で町歩き。この日はひどく暑かったし、疲れてもいた。蒲田じゅうを歩いて、銭湯を見つけた。山歩きのあと麓のひなびた温泉宿で一風呂浴びるような気分で、入浴。すっかり元気になった。


                  77年7月2日(土)

 少し無理したような気がする。咳をすると、血痰が出るようになった。気管支炎を起こしたらしい。風邪をひくと、こういうふうに長びいてしまうのは、やはり肺病をやったせいなのか。
 昨日、清水 徹さんから、「読書のユ−トピア」を贈られた。さっそく、読みはじめたが、不調のせいか、いっきに読みあげることができなかった。
 内野 登喜和、R.K.から電話。内野さんの電話で、K.M.は離婚した。その後、再婚したが、その夫とは死別したと知って、暗然とした。

 午後3時、「むさしの」で、R.K.と会う。小説を書きたいと希望している。40代。少しからだがよわいらしい。本人いわく、自律神経失調症なんです。おそらくノイロ−ゼだろう。6時、「ジュン」で飲む。
 なかなかおもしろい女性だが、うっかり深入りすると火傷を負うだろう。(その後、2度と彼女と会わなかった。)


2018/09/09(Sun)  1774 〈1977年日記 21〉
 
                  1977年6月28日(火)

 ネコのチャップが死んだ。

 まだ小学生だったエリカが、下校の途中で道ばたにいたコネコをひろった。やせこけて体力が衰えて、声も出せなくなっていた。エリカはコネコを抱いて帰って、私と百合子に、コネコを飼いたいといった。それまで、わが家ではイヌを飼ったことはあったが、ネコを飼ったことはなかった。
 こうして、このノラネコは家族の一員になった。チャップという名前がついた。

 チャップは三毛猫で、性質はおだやかだった。
 その後のわが家には、多くのコネコたちが、くびすを接してつぎからつぎに重なりあうようにして登場する。
 チャップはコネコをたくさん生みつづけた。
 そのネコたちのうち一匹として、由緒ある血統や、上流階級の飼いネコのこれ見よがしのぜいたくとは無縁だったが、そのすべてが、わが家の社会的、経済的な条件にしたがったという点で共通していた。
 具体的には、ゴハンツブにカツブシをまぶしただけの食事から、サバの水煮、サケのカンヅメ、やがてキャットフ−ドというお手軽な食料にありつくことになった。

 チャップはコネコをつぎつぎに生んだ。
 ミケネコがミケネコを生むとはかぎらない。サバネコに近い模様や、キジネコ、灰色、ときにはクロネコといった、さまざまなスタイルを身につけて生まれてきた。これは冗談だが、まずネオ・クラシック、ロマン主義、リアリズム、インプレッショナリズム、ポスト・インプレッショナリズムといった流派(エコ−ル)を、からだにまとったコネコたちが生まれてくる。むろん、こうした分類はまったく不正確なもので、それぞれのコネコにあてはめても、しばらくすれば、どれがどれやらわからなくなる。

 一度、オスのミケネコが生まれたことがある。
 このコネコはウワサになったらしく、ある日、私のところに、銚子の漁師が訪ねてきて、ミケのコネコをゆずっていただけないか、といった。
 私はコネコが生まれると、友人の誰かれに押しつけていた。はじめのうちは、みんながよろこんでもらってくれたが、チャップの生産能力に需要が追いつかなくなってきたので、この漁師のオジサンにオスのミケネコをくれてやった。

 チャップは13年を生きた。

 病気になったのは、今年になってからで、百合子がアメリカに行く前だった。
 ある日、チャップを抱いてやった。胸もとに小さなシコリがある。私はまったく気にしなかった。そのシコリができてから、チャップの毛並みの、色つやがわるくなってきた。

 毎日、机にむかって原稿を書いていると、私の膝を越えてからだをまるくする。
 チャップの胸を破ったのは、悪性の腫瘍だったらしい。

 そして今朝、チャップはセメントの三和土に倒れてこときれていた。

 ペットの死はいくたびも見てきた。5月にはコネコをしなせてしまった。名前もつけてやらなかった。チャップの死だけが悲しかったわけではない。しかし、もの書きとして、あたらしい生活の設計にあたっていた私のそばに、チャップがいつもついていてくれた。私がイヌ派ではなく、ネコ派になったことも、チャップの存在が大きかったような気がする。

 今はただチャップの冥福を祈ることにしよう。

2018/09/06(Thu)  1773 〈1977年日記 20〉
 
               1977年6月20日(月)

 17日、ブレジネフが最高幹部会議長に選出された。ブレジネフは、共産党書記長だが、これで党と国家の最高のポストについたことになる。ソヴィェト史上、はじめて。
 この会議では、ブレジネフと並んで、コスイギン、ス−スロフ、キリレンコ、クラコフなどの政治局員が、トップ・グル−プ。

和歌山でコレラが発生したが、わが家では、みんなが風邪にかかってしまった。

 裕人が風邪に感染して、学校を休んだ。翌日、私が発熱した。アメリカから帰ってきたばかりのエリカも寝込んでしまった。百合子も、帰国してからあまり体調がよくないらしいが、みんなが倒れてしまったので、看病してくれたらしい。

 私は関節が痛くなるし、熱が出て、何も考えられない。寝ながら、カッシラ−を読んだが、こんなにむずかしい本は読んだことがない。何度も何度もおなじところを読んで、何とか意味がわかるような状態だった。とても本を読んだとはいえない。この日記を書いている現在も、頭がふらふらしている。

 17日、杉崎 和子女史といっしょに「実業之日本」、峯島さん、土山君と会って、やっとアナイスの出版がきまった。


              1977年6月21日(火)

 3時10分、「ワ−ナ−」試写室。「エクソシスト2」(ジョン・プアマン監督)を見た。
 前作、「エクソシスト」の続編。前作では、12歳だったリンダ・ブレアが、ハイティ−ンになっている。ところが、またしても悪霊にとりつかれて、精神科医(ルイ−ズ・フレッチャ−)にあずけられる。前作では、「メリン神父」(マックス・フォン・シド−)がカラス神父(シェ−ソン・ミラ−)に協力するが、悪霊相手に苦闘する。今回は「メリン神父」も出てくるが「ラモント神父」(リチャ−ド・バ−トン)の調査がメインになっている。続編なので、どうしても前作と比較してしまう。
 風邪の予後に、こんな駄作を見たので、気分がよくない。頭も動かないので、ろくな感想もうかばない。リンダ・ブレアは、「ふたりだけの森」(リ−・フィリップス監督)のほうがいい。


              1977年6月27日(月)

 とにかく一週間というもの、風邪で苦しみつづけた。咳が出て、眼まで痛くなった。ひどい目にあった。

 「文芸家協会」から連絡があった。
 なんとなく予想していたのだが――私はソヴィェト行きの選考からはずれた。やっぱり、ぬかよろこびだったか。
 今回、ソヴィェトに派遣されるのは、加賀 乙彦、高井 有一、西尾 幹二の3氏。いずれもすぐれた作家、評論家たちで、誰が見ても妥当な人選といえるだろう。
 まあ、はずれるだろうと思っていたから、あまり失望はしなかった。平林 たい子賞のときも、今回のソヴィェト行きも、私はいつも運がない。
 あきらめはいいほうだが、人にソヴィェト行きの話を吹聴しなくてよかった。

 「実業之日本」、峯島さん、土山君にまた会った。話をしているうちに、「実業之日本」としては、アナイスのような作家よりも、もっとポビュラリティ−のある作家の翻訳を出したがっているらしい。
 そういうことか。それならそれでいろいろな作家がいる。

 むろん、私ひとりでやれる仕事ではない。親しい翻訳家たちに協力をもとめることになるだろう。
 宇野 輝雄、三戸森 毅、内野 登喜和子さんに連絡しようか。

2018/09/02(Sun)  1772 〈1977年日記 19〉
 
             1977年6月10日(金)

 思いがけない話から、頭のなかはロシアのことばかり。

 ロシアは、革命60周年をむかえるにあたって、スタ−リン憲法に変わる新憲法の草案を発表した。

 この草案で――市民の基本的な権利の拡大、とくに国家や公共機関の行動に対する異議申し立ての権利がうたわれているが、ロシアには市民の基本的な権利などどこにもなかったし、60年にわたって国家や公共機関の圧制に市民がおびえてきたことが見えてくる。

 ボドゴルヌイ(最高会議/幹部会議長)が解任された。それと同時に、この最高会議に第一副議長というポジションが新設された。なんでもない組織改革に見えるが、ブレジネフが国家元首に相当する幹部会議長に就任するという含みが隠されているらしい。

 松下 泰子という人の「子どものモスクワ」を読む。モスクワの日常がよくわかる。
 ソヴィェトの教育制度や、病院、避暑地の設備がよく整っていることも、この本から想像できた。この本のいちばんすばらしいところは――「友子」ちゃんという子どもがモスクワの環境に適応して、のびのびと育って行く姿が描かれているあたり。
 この本と、内村 剛介の「ロシア風物誌」をあわせて読むと、それこそロシアの光と影が見えてくる。

 ロシア語の勉強をしたいと思う。


              1977年6月11日(土)

 頭痛。ロシア語の勉強をしようなどと殊勝な気を起こしたせいか。
 もともと語学の勉強に向いていないのだから、せめて努力するしかない。語学が好きで、スラスラ読めるようになる人が羨ましい。
 昨夜、テレビで「ジャクリ−ン・ケネデイ・オナシス」という番組を見た。ピ−タ−・ロ−フォ−ドが解説で、ひたすらジャクリ−ンを礼賛していた。私は、ピ−タ−・ロ−フォ−ドという人物をまったく信用していない。こんな人物に語られるジャクリ−ン・ケネデイに同情したが、ジャクリ−ンは、いつか、もっと真摯な研究家によって評伝が書かれるだろう。

 夜中の2時半、ハワイにいる百合子に電話をかけた。現地は、朝の6時前という。
 ア−ムストロング・カレッジから、エリカの成績表が届いて、24点中、22点で優秀だったことをつたえる。
 私が、ソヴィェト「作家同盟」の招待を受けるかも知れないこともつたえた。百合子は声をはずませて、よろこんでくれた。


              1977年6月12日(日)

 例によって、6時半。みんなと待ち合わせ。
 安東たちが30分も遅れた。これで、最初の予定を変更する。参加者は8名。

 途中、サブが道を間違えたため、少し戻った。12時半にキャンプ地に着く。
 火を焚いて、みんなで食事。安東はウィスキ−を飲んだが、私は飲まなかった。登山をストイックに考えるからではなく、私が酔ったら、みんなに迷惑をかけるからだった。私はすぐに寝てしまった。

 朝、4時半に起きる。
 食欲はない。ティ−とビスケットだけ。すぐに歩く。

 やがて、くろぐろとした彼方に、茜色の明るさが萌してくる。朝もやがかかっている。
 御来迎である。厳粛で、しかも透明な朝。
 歩きつづけるうちに、東の山脈(やまなみ)では、朝焼けの雲がつぎつぎと形を変え、刻一刻と、朝の空気がみちてくるようだった。あとは朝の太陽が山の端の一角から、最初の光を投げてくればいい。
 この日、Y.T.の不調に気がついた。睡眠不足だろう。私は彼女のうしろについて、できるだけ、カヴァ−することにした。この程度のコ−スなら大丈夫と判断したのだが、夜のビバ−クはまだ無理だったかも知れない。
 今回の登山は、出発が遅くなったこともあって、どうも失敗だったな、と思う。
 Y.T.の不調も、もう少し早く気がつくべきだった。途中、「若きハイデルベルヒ」を見に行きたい、などと話していたので、元気だと思っていた(注)。私は自責感にとらわれていた。

(注)  原作・マイヤ−フエルスタ−。石原 慎太郎作、松浦 竹夫演出。ミュージカル。
     8月、「日生劇場」。中村 勘九郎、大竹 しのぶ。

2018/08/29(Wed)  1771 〈1977年日記 18〉
  
              1977年6月7日(水)

 朝、4時に起きて本を読む。

 裕人をつれて、有楽町、読売ホ−ルに行く。「遠すぎた橋」の試写。試写室ではないのに、多数の映画評論家、作家たちがきている。
 第2次大戦のヨ−ロッパ、連合軍のノルマンデ−上陸後、オランダのア−ンヘムに空挺部隊が降下し、国境の橋を奪取しようとして失敗した。映画は3時間の大作。ジ−ン・ハックマン、ロバ−ト・レッドフォ−ドほか、十数人のスタ−が出ているのだが、映画としては空虚な大作だった。おなじように戦争を描いたサム・ペキンパ−の「戦争のはらわた」などにおよばない。
 「週刊大衆」の渡辺君に会ったので、連載のテ−マは「沖田 総司」にきめたとつたえた。渡辺君は、そんなことはどうでもいいといった態度だった。
 「双葉社」では、鈴木、梶浦、北原君たち、さらには吉田君、堤君といろいろな編集者とつきあってきたが、渡辺君はこれまでの編集者とまったくちがったタイプ。まったく、やる気がない。原稿の内容などはどうでもいい、作家は自分の勤務時間内に原稿をわたしてくれればいい、という。
 こんな編集者を相手にして、しばらく連載を書く。


               1977年6月8日(木)

 毎朝、早くから眼がさめるので、つい起きてしまう。起きれば、すぐに本を読む。むずかしい本を読むと、自分の力不足を感じてしまう。レ−ダ−の「マキャヴェッリ」を読んで、ヴィラ−リを利用していることはわかるのだが、ヴィラ−リをどう使っているのか、批評的に読むことがむずかしい。こちらに、素養、学問がないせいだろうと思う。

 「集英社」、永田君が「メディチ家」のコピ−を送ってくれた。ありがたい。もう少しのびやかに書ければいいのだが、どうしても気負いがあって、どこか苦しげに見える。


               1977年6月9日(金)

 午前11時、「文芸家協会」、平山さんから電話。
 ソヴィェトの作家同盟が招待する作家の派遣に私が応じるかどうか。思いがけない打診だった。
 即答できなかった。こういう話は、まず百合子に相談するのだが、アメリカに行っているので、相談したくても相談できない。
 折りもおり新しい連載がはじまる。もし、昨日、ソヴィェト行きの話があったなら、私は連載を断念していたにちがいない。
 一方、「文芸家協会」が私を選んでくれるのであれば、よろこんで承知したいと思った。願ってもないことではないか。胸がおどった。
 むろん、私が立候補したところで、すぐに確定するわけではない。あくまで、ソヴィェト行きの意向を表明したというだけのことなのだから。
 とりあえず、返事は留保しておいた。

 すぐに、小泉 賀江のところに行った。
 簡単に事情を説明した。
 賀江はすぐに賛成してくれた。「すごい話じゃないの。せっかく、ご招待してくださるのなら、ぜひにも行ったほうがいいわ」
 私は、賀江がよろこんでくれたので、安心したのだった。
 つぎに、小川 茂久に電話した。もし、ソヴィェト旅行がきまったら大学の講義を休まなければない。一ヵ月、休講となったら、大学としても補講を考えなければならないだろう。
 続いて、「文芸家協会」の井口君に電話をかけた。今回、ソヴィェト派遣に立候補している人たちは誰なのか知りたかった。
 高杉 一郎、高井 有一、加賀 乙彦、西尾 幹二などの名をあげた。誰が選ばれてもおかしくない。この顔ぶれでは、私は辞退したほうがいい。
 しかし、私の内面には、別の思いがあった。百合子なら、どう思うだろうか。賀江とおなじように、即座に、
 「行ったほうがいいわ」
 と答えるにちがいない。

 私がヴェトナムに行ったときも百合子にすすめられたからだった。

 夜、「日経」の吉沢 正英君から書評の依頼。辻 邦生の「春の戴冠」。

 夜、ジャン・ブリュアの「ソヴィェト連邦史」を読みはじめた。

2018/08/23(Thu)  1771 〈1977年日記 18〉
 
                  77年6月03日

 朝、9時15分、百合子を通町まで送って行く。いよいよ、アメリカに出発する。
 9時半、「近畿ツ−リスト」の前に集合。
 義母(湯浅 かおる)がコ−トを忘れたので、私がいそいで通町に戻って、ばあやさんからコ−トを受け取って、「近畿ツ−リスト」に戻った。
 この旅行は、義姉(小泉 賀江)は参加しないことになった。しかし、賀江の知人たちもいっしょのツア−なので、百合子もいろいろな人に挨拶していた。

 百合子は無事にアメリカに向かっている。


                   77年6月05日

 大工たちが休みなのに、別の職人がきた。戸袋がつくかどうか、という。新築の家については、百合子が指示している。結局、その職人は、できる範囲だけ仕事をして帰ってしまった。
 百合子の不在で、食事に困った。
 裕人のために、ライスカレ−を作った。登山で、食事を作ることはあるのだが、家族のために食事を作ることははじめてだった。

 夜、裕人をつれて、「サイレント・ム−ビ−」(メル・ブルックス監督)と「スクワ−ム」(ジェフ・リ−バ−マン監督)を見に行く。
 「スクワ−ム」のスト−リ−。アメリカの田舎町。30万ボルトの高圧電流が地面に流れたことが原因で、ミミズの大集団が人間に襲いかかるパニック映画。両方とも、B級以下。こんな映画を見にくる客はいないらしく、映画館はガラガラ。

 裕人といっしょに外出することがないので、「パルコ」の8階で食事。
 今日は、裕人の誕生日だった。


               1977年6月6日(火)

 裕人を学校にやったあと、何もしない。
 たまたま、××××が「瞼の母」に抜擢されたシ−ンを見た。演出は、浅香 光代。
 さすがに演技の質が違う。××××は人間的にはいやな女だが、演技は抜群という女優のひとり。
 五月になって、たまたまこの日記をつけはじめたが、なんとなく書きつづけている。自分に興味のあることはできるだけつけておきたい。
 ワシントンAP・・・アトランティス大陸とおなじように失われた大陸が太平洋にも存在した可能性があるという。これは、スタンフォ−ド大学の地球物理、アモス・ナ−という人の説。その仮説によると、今のオ−ストラリアより小さいが、2億年前に崩壊をはじめ、8千万年かかって分散し、主要な陸塊が周辺の大陸塊に組み込まれていったという。
 この大陸が四方に散開する過程で、アメリカ(南北)、アラスカ、東北ロシア、日本、東アジアに陸塊がつよくあたり、その作用で、環太平洋山塊ができたのではないか、という。
 こういう仮説にどこまで信憑性があるのかわからないが、考えるだけで楽しい。

2018/08/19(Sun)  1770 〈1977年日記 17〉
 
                  77年6月01日

 快晴。気温は33度。しかも、湿度が高い。

 工事はかなり進捗している。
 百合子は、アメリカ旅行の前なので、家の掃除をしている。留守中のこと、新築の工事のこと、何もかも心配している。

 五木 寛之の「わが憎しみのイカロス」を再読。
 「日経」の原稿を書いたので、イヌの子と遊んだり、外の塀にツタの茎を這わせたり、のんびり過ごした。


                   77年6月02日

 曇り。このところ、5時半には起きてしまう。遅くても、6時には眼がさめる。頭がぼんやりしていても、寝ていても仕方がないので起きだしてしまう。
 梅干しを焼いて、熱湯を注ぎ、そのお湯を飲むのが習慣になっている。
 雑誌で、ルイ・フェロ−の秋のファッション、イタリアのスキ−・ウェアなどをみていて、つくづく太平の時代だと思う。こういう時代に、小説を書くのは難しい気がする。
 「双葉社」、堤 任君は、私のアイディアに乗り気ではないらしいが、それでもアクセプトしてくれた。

 5時、「山ノ上」。「文春」の村井君に、五木 寛之の解説をわたした。
 「アクション」、渡辺君と、新作の打ちあわせ。彼は、小説に特殊な趣向をもっていて、こんどの連載には苦労が多いだろう。気があわないのではないかと懸念する。
 7時半、児玉さんと飲む。いろいろと楽しい話題が出た。
 新宿の「キャット」に行く。別れたのは、11時半。


                   77年6月02日

 血圧が高くなっている。昨日の酒がたたっているらしい。
 「集英社」、松島君のハガキが届いたばかりなのに、文子さんから電話で、もう帰国している、という。
 先生はフィレンツェに行ってらしたんでしょう?
 いいや、どこにも行ってませんよ。
 「松島が、先生をフィレンツェでお見かけしたといってましたけど」
 私は笑った。

 イヌは、通町につれて行った。百合子の旅行中、私が東京に出かけたりすれば、エサもやれないので。

2018/08/14(Tue)  1769 〈1977年日記 16〉
 
              1977年5月30日

 数日前に読んだ新聞記事が心に残っている。

 女優、ホ−ン・ユキのこと。
 木の実ナナが、急性胆嚢炎で手術を受けることになって、「日劇」6月公演のミュ−ジカル「踊る幽霊船」の主役に起用されたラッキ−な女優である。
 父がアメリカ人、母が日本人、現在28歳。コ−ラス・グル−プ「シュ−クリ−ム」から、49年、テレビに進出した。現在、TBSで「かあさん堂々」に出演。3月に「西武」で公演した「夕食は外でしたら?」に出ていた。
 「東宝」としては、木の実ナナ主演のミュ−ジカルという企画で出したプランだが、この突然の交代は、かなりダメ−ジが大きいと思われる。ただし、ホ−ン・ユキが主役に抜擢されても、別に意外な気はしない。私はホ−ン・ユキの出た「夕食」を見ただけだが、この女優の素質、その姿態に惹かれた。

 澁澤 龍彦さんから「思考の紋章学」を贈られた。早速拝読する。丸谷 才一さんに出した礼状が戻ってきた。住所が変わったのか。
 「読売」、北村さんから電話。アイヒマンに関して。県立図書館の竹内 紀吉君に調べてもらう。
 「日経」ショッピング、秋山さんから原稿の依頼。児玉 品子さんに電話。
 雑誌、週刊誌、新聞、外国の雑誌、10種が届く。すぐに読みはじめる。


               1977年5月31日

 午後2時半、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「読売」、北村 佳久さんに「あとがき」の補足分をわたす。しばらく雑談したが、部数は6千部らしい。ちょっと少な過ぎると思った。私としては不満を述べるわけではない。そろそろ翻訳から足を洗ったほうがよさそうな気がする。

 「実業の日本」、増田さんに原稿をわたす。社長の令息で、「週刊小説」の編集長になった。
 「お若いのに、たいへんですね」
 というと、柔和に笑いをみせて、
 「若く見えますけれど、ほんとうはそんなに若くないんですよ」
 という。好感のもてる人だった。最近の出版ジャ−ナリズムの世界にも、世代交代が見られて、若い編集長、社長の時代がきている。
 「映画ファン」の萩谷君に原稿をわたす。萩谷君はすぐに帰った。
 下沢 ひろみがきたので、「メイデイ40000フィ−ト」(ロバ−ト・バトラ−監督)を見た。76年、CBSが放映したTVム−ビ−で、航空パニックもの。スト−リ−は「大空港」や「エアポ−ト77」を見ているので新味はない。出演者もデヴィッド・ジャンセン、レイ・ミランド、ブロデリック・クロ−フォ−ド、クリストファ−・ジョ−ジといった古株ばかり。なつかしや、ジェ−ン・パウェルが機長夫人になって出ている。

 「山ノ上」で、「集英社」の永田 仁志君にあう。私が書く予定の「カテリ−ナ・スフォルツァ」がまったく進捗していないので、どうなっているのか、と心配してくれた。「カテリ−ナ」に着手したくても、6月はさらに多忙になるので、ちょっと手がつけられない。
 講義。Y.T.鳳仙花。

2018/08/11(Sat)  1768 〈1977年日記 15〉
 

                1977年5月28日

 午前中、いささか二日酔いめいた気分だった。
 残った原稿を書く。
 夕方、すっかり元気になっていた。
 7時10分、新宿着。いつものメンバ−が待っていた。吉沢君、安東 由利子、石井秀明、坂牧、妹尾のほかに、椎名君がガ−ルフレンドをつれてきた。登山の経験はあるという。
 塩山に着いたが、バスがなかった。やむを得ない。山楽荘までタクシ−で行く。ところが、ここでも別の「問題」が待っていた。土曜日なので、山楽荘にはアベックが何組か入って満室。主人が恐縮して、近くの民宿に案内してくれた。

                1977年5月29日

 4時に起きた。10分後には出発していた。
 土、日なので、かなり登山者が多いと覚悟したが、どうやら私の判断は誤っていた。塩山から車の流れがつづいていたし、夜明けなのにたいへんな数の登山者がぞくぞくと歩いている。
 私はコ−スの途中で、プランの変更を決心した。こうなったら、ふつうの登山者が通らないコ−スを歩くしかない。ガイドブックに出ていない道をさがせばいい。私は、地図上で廃道になっている道をさがした。私は破線のついていない道を歩くことにきめたのだった。むずかしいコ−スだが、吉沢君は、沢のル−トの専門家だったし、石井君は自衛隊の出身で、ル−ト・ファインディングは得意だったし、安東君は大学の山岳部員として、経験を積んできたベテランだった。
 私たちは、やがて、誰も通らない道をたどりはじめた。ふつう長兵衛小屋まで1時間のコ−スだが、私たちは、3時間もかけて登った。途中、なんどかロ−プを使ったが、ほかの登山者たちにまったく会わずに登りつづけた。
 最後に、堰堤めがけて、まっしぐらに直登した。このコ−スは、なかなかスリルがあって、私たちは満足したのだった。
 長兵衛小屋はひどく混雑していたので、その近くで昼食をとった。そのあと、大菩薩に登る必要はなかった。帰りも、ふつうのコ−スを避けて、砥川峠の古山道をめざした。これもふつうの登山者がえらばないコ−スで、私たちがこの山道を選んだのはよかったと判断した。
 私たちの登山は、だいたいいつもこんなものなのである。

2018/08/09(Thu)  1767 〈1977年日記 14〉
 
                 1977年5月25日

 李文翔夫人から、いつか送った写真の礼状が届く。

 文翔氏は4年前に亡くなったという。残念なことをした。英文でお悔やみを送った。

 小泉 まさ美が、百合子と渡米の準備の相談にくる。

 杉崎 和子女史に電話で、来週・火曜日に会いたいとつたえた。

 夜、中村 継男から電話。

 久しぶりに音楽を聞きながら、酒を飲む。


                 1977年5月26日

 午後から雨。
 「サンケイ」文化部の四方 繁子さんから電話。
 原 耕平君、島崎君に電話。「週刊大衆」の堤 任君から電話。安東夫人に電話。
 石本君が、画集2冊を届けてくれた。百合子が焼き鳥を出してくれた。石本君といっしょにたべながら話をする。
 夜、ヘミングウェイを読む。


                1977年5月27日

 朝、曇りがちながら、晴れてきた。もともと、雨という予想だった。こういうお天気ならいっそ雨のほうがありがたいのに。土曜日、日曜日にかけて雨が降るのは困る。
 朝、6時40分から原稿を書く。

 午後2時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、四方 繁子さんに原稿をわたす。和田 芳恵著、「暗い流れ」の書評。四方さんの話で、三浦 浩さんの病状があまりよくないと知った。三浦 浩さんは、せっかく、作家として登場しながら、思わぬ病気で苦しむことになった。暗然たる思いがある。

 島崎君と会っているとき、原 耕平君の部下の女の子が原稿をとりにきた。エッセイ、「ヘミングウェイ」雑記。
 今日の試写は、「マイ・ラヴ」(クロ−ド・ルル−シュ監督)。ルル−シュは好きな監督のひとりだが、「愛よ もう一度」にしても、この作品にしても、どこか弛緩した印象がある。
 簡単にいえば、「ヌ−ヴェル・バ−グ」がもはやヌ−ヴェル・バ−グでなくなってしまった、ということ。

 JRでお茶の水に。駅の前に出たとたんに、鈴木 由子に会った。立ち話をしているところに、工藤 淳子がきた。いずれも登山のメンバ−。

 6時半、新宿。駅ビルの8階。杉崎女史と会う。「プチ・モンド」に行ったが、たいへんな混みようで、どの階も、人であふれている。やっと、イタリア料理のリストランテに入った。人ごこちがついたので杉崎女史と話をする。
 アナイス・ニンの短編を、「スバル」にもって行くことになった。桜木 三郎が尽力してくれるので、うまく行くかも知れない。
 杉崎女史と話しているところに、「日経」の吉沢君、安東 由利子がきた。しばらく雑談。そこに、こんどは「双葉社」の堤 任君、渡辺君がきた。なにしろ金曜日の新宿なので、どこも混雑している。「みちのく」に行こう、ということになった。
 ところが、きゅうに杉崎女史が帰ることになった。体調がすぐれないとか。
 杉崎女史と別れてすぐに、吉沢君、安東 由利子も帰るという。明日のスケジュ−ルがあるので。

 けっきょく、私は堤 任君、渡辺君といっしょに「みちのく」に行く。ここで、大いに飲んだが、私も明日の予定があるので、終電の前に電車に乗った。

2018/08/03(Fri)  1766 〈1977年日記 13〉
 

                     1977年5月23日

 12時半、「ジャ−マン・ベ−カリ−」に行く。

 1時、「ヤマハ」で、「ブラック・サンダー」The Legend of Nigger Charley/マ−ティン・ゴ−ルドマン監督)を見た。どうも前に見たような感じだった。冷酷な農園の監督を殺して、黒人奴隷が逃亡する。途中で、かなり前に読んだ小説の映画化とわかった。あまりたくさん、アメリカの小説を読んでいると、原作者の名前も思い出さなくなる。スト−リ−も、しばらくするとおぼえていなくなる。
 たまたま小野 耕世さんと会ったので、原作について少し話した。原作者はジェ−ムズ・ペラ−だそうな。「ああ、あれか」私は、本の表紙を思い出した。
 ちょうど剣術の達人の立会いのようなもので、一瞬で、原作の内容や、作中人物について、お互いに理解しあう。植草 甚一さんなら、たちまち原作のスト−リ−を話しはじめるところだが。
 「ルノワ−ル」で、「週刊小説」の土屋君に原稿をわたした。いつもなら、古書をあさったり、新着の雑誌を手にとって内容によっては買ったり買わなかったり。
 今日は、すぐに「サンケイ」に飛んで行って、文化部のデスクで書評の原稿を書く。


                     1977年5月24日

 昨日は、神田に出られなかったので、今日は半日かけて本をあさった。
 ジャン・オルトの「カルテルの演劇」を見つけた。ルイ・ジュヴェの資料になる。こんな本が人目につかない棚にころがっているのだから、うれしくなる。いつか、ルイ・ジュヴェについて書いてみたい。むろん、私の手にあまるテ−マなので、こんな本でもじっくり読むことにしよう。
 ほかに、ケンブリッジ版の「ルネサンス史」、「宗教改革史」。
 神保町の郵便局から、本を送る。
 夜は、久しぶりに「弓月」に行く。小川 茂久に会う。

 小川 茂久は、私の親友。大学の同期。
 1944年、明治大学文科文芸科に入学。戦時中、勤労動員で、いっしょに働いた。その後、小川は、大学の助手になったが、私はもの書きになった。やがて、小川は仏文科の教授になり、私は日本文学科の講師になった。
 小川は、2年前から、仏文科、専攻、主任教授になっている。酒豪で、私は、二部(夜間)の講義のあと、彼と落ちあっては、「あくね」、「弓月」といった旗亭で、酒を酌み交わした。お互いに、たいした話をするでもなく、ただ、共通の友人たちのこと、お互いに読んでいる文学作品のことなどを話題にしながら、酒を飲むだけだが、小川は、信じられないほど気くばりが行き届き、面倒見のいい人物だった。

 少年時代からのつきあいなので、お互いに気心は知れているし、小川はもの書きの苦労も察してくれていたと思う。他人にはいえないことも、お互いにうちあけることがあって、大学で顔を合わせただけで、その日、どこで飲むか了解するようなつきあいだった。

 この日、私は終電。小川は新宿で飲みあかしたらしい。

2018/07/29(Sun)  1765 〈1977年日記 12〉
 
                  1977年5月20日

 今日は、夏を思わせる暑さ。梅雨入りは例年より早いらしい。

 朝、「コミュニティ−・センタ−」に行って、キャンプ場のことを聞いてくる。できれば、7月にバンガロ−を借りたいと思うのだが。安東 つとむ、吉沢 正英、石井 秀明、Y.T.たちと、このバンガロ−を拠点に縦走のプラン。

 新築工事はかなりいいピッチで進んでいる。

 「集英社」から、文庫30冊をおくってきた。これだけあると、とても一日では読みきれない。
 吉行淳之介の「生と性」を読み、続いて小島 信夫の「女流」を読む。
 ついでに、アラン・シリト−の「長距離走者の孤独」のなかの短編を。


                  1977年5月21日

 5月3日の日記に、私が書きとめたことば。記憶違いなので、訂正しておく。

  人間は自分自身の像をおのれの獲得する認識のひろがりのなかにではなく、おのれの
  投げかける問いのなかに見いだす。

 アンドレ・マルロ−のことばだった。

 午後、石本 太郎がきてくれた。宮沢 賢治の話をする。妹が2歳下だったことは知らなかった。賢治の内面に、なにかインセステュアスな情動を感じるのだが。先日、フランシ−ン・デュ・プレシックス・グレイのインタヴュ−から、アナイスのインセストについて考えたので、宮沢 賢治にまでそんな類推をひろげたのか。


                  1977年5月22日

 しばらく快晴が続いていたのに、今日は曇り。このところ、気圧配置は、日曜日になると雨ときまっている。昨日の朝、上海付近にあった低気圧がもう九州にきている。前線は関東の南・海上に。
 ヴェトナムで、ペストが発生したというニュ−ズ。発生の場所、汚染状況などはまったくわからない。

 夜、江田 三郎の訃報。革新・中道の「社会市民連合」を結成して、参議院選挙に出馬する予定だったらしいが、非運に見舞われたわけである。
 江田 三郎の訃が、参議院選にどう影響するか。おそらくほとんど影響しないだろう。

 夜、テレビ。
 「殺意の週末」を見る。原作、セバスチャン・ジャブリゾ。監督が、アナト−ル・リトヴァク。サマンサ・エッガ−がでている。これはどうしても見ておきたい。ジャブリゾは、先日、浅丘 ルリ子のTVシリ−ズ、「新車の中の女」の原作者。

 日本のドラマは、あい変わらず、池内 淳子、八千草 薫、岩下 志麻、十朱 幸代といったスタ−女優ばかり。ドラマといっても、見終わった瞬間に忘れてしまうようなものばかり。たまには、八千草 薫、岩下 志麻のしっかりした役で、TVドラマを見たいものだ。

2018/07/24(Tue)  1764 〈1977年日記 11〉
 
                 1977年5月18日

 「二見書房」の原稿、やっと終章を書きあげた。

 日ソ漁業交渉、妥結の見通し。この数カ月、ソ連のしたたかな対外政策に日本は翻弄されつくした感じ。こういう交渉のせいで、日本人の国民感情が反ソ的になるのは当然で、ソヴィエトに対する恐怖感はこれからも払拭されることはない。
 石油資源は、1980年代に、世界の需要が産油国の供給を上廻るという予測が出ている。これに重なって、ソヴィエトの国家的なエゴイズムがつきつけられることは間違いない。あと10年。考えてみると、私はおもしろい時代に生まれあわせたものだ。
 (以上を書いたあとで、ソヴィェトがまたしても修正案を出してきたため妥結できなくなったとつたえてきた。共産主義国家を相手の交渉は、いつもこういう欺瞞がつきまとう。これで日本人の反ソ感情は決定的になるだろう。)

                  1977年5月19日

 「ロ−リングスト−ン」と「ニュ−ヨ−ク・ルヴュ−」を読む。
 フランシ−ン・デュ・プレシックス・グレイという女性が、インタヴュ−のなかで、アナイス・ニンについて語っている。
 エリカ・ジョング、ロイス・グ−ルド、さらにイ−ディス・ウォ−トン、アフラ・ベ−ンといった作家たちについて語ったあと、性的な率直さに関して、アナイス・ニンが大きな一歩を踏み出したのではないか、と訊かれて、

    ある意味ではそうですけれど、あまり好きな作家ではありません。彼女は肉体と
    いう罠にかかずらい過ぎているし、肉体的、本能的なものを褒めたたえる、古い
    男性の女性観をささえています。ニンの書くものは、私にとってはやたらに面倒
    くさい。といっても、エミリ・ブロンテからアナイス・ニンに到る多数の女性作
    家が、率直な作品を書きたがっていたこと、その欲求を抑えるなり、表現するか、
    ないしはイ−ディス・ウォ−トンのように、隠蔽してきたことは忘れてはいけ
    ない。ウォ−トンが、父と娘が近親相姦する場面でカニリンガスを描いているこ
    とをご存じですか?

 という。ちょっと驚いた。「ビアトリス・パルマ−ト」という短編で、カニリンガスを描いているという。ぜひ、探し出して読んでみよう。
 この女性は、アナイスに対して否定的な評価しかあたえていない。このあたりから、いつか何か考えてみたい。グレイさんは、14歳のとき、「キンゼイ・リポ−ト」と、サドを読んだというが、別に驚くほどのことではない。こんなことを自慢そうに語る女性など、私の趣味ではない。

 3時、「未来世界」(FutureWorld/リチャ−ド・ヘフロン監督)を見る。これは、「ウェスト・ワ−ルド」(マイケル・クライトン監督/72年)の続編。
 砂漠のドまんなかに作られた大テ−マ・パ−ク、「デロス」。帝政ロ−マ、中世ヨ−ロッパ、アメリカの大西部という3つの仮想世界に、人間そっくりのロボットが登場する。
 ユル・ブリンナ−は、こわかったナ。
 前作のラストでこの「デロス」は破壊されたが、「未来世界」で復活し、こんどはユル・ブリンナ−だけでなく、世界の有名人のロボットがふたたび世界征服をねらう。
 その陰謀に、新聞記者「チャック」(ピ−タ−・フォンダ)、TVキャスタ−(プライス・ダナ−)が気がつくが、ロボットたちは前作よりはるかに強力になっている。
 続編はだいたいがオリジナルよりデキがわるいのが相場だが、この映画はオリジナルよりいいデキになっている。

2018/07/21(Sat)  1763 〈1977年日記 10〉
 
                 1977年5月16日

 鳳蝶の戯れ。巫山の夢。

 昨日、庄司 肇さんに訊かれた。

 「そういう山登りをして、翌日、疲れがでませんか」

 「一晩寝れば、疲れはとれます」

 「やっぱりお若いんですねえ」

 庄司 肇さんは感心したようにいった。



                1977年5月17日

 午後2時半。
 新橋の「ア−ト・コ−ヒ−」に行く途中で、下沢 ひろみと会った。偶然会ったわけではない。私が呼びつけたのだった。ひろみは「コロンビア」に行く途中だったから、途中で私と会っても不思議ではない。

 試写は、「白い家の少女」(ニコラス・ジェスネル監督)。
 ニュ−・イングランドの丘のうえの一軒家にリン(ジョデイ・フォスタ−)という少女が住んでいる。この家の地下室に、母親の死体がある。じつは、家主も殺されている。家主の息子(マ−ティン・シ−ン)が訪れる。
 フランス映画に近いサスペンスものだが、ジョデイ・フォスタ−という少女スタ−の魅力が印象に残った。私の好きなアレクシス・スミスが出ているのだが、この少女の前ではまるで生彩がない。

 5時過ぎ、「山ノ上」で、「南窓社」の岸村さんに会う。350枚の評論集はとても出せないという。私はキャリア−だけは長いけれど、どうも評論家としての知名度は低い。けっきょく、かなり大幅に削らなければならなくなった。

 講義。後半は、ヘミングウェイのパリ時代について。
 自分のパリ暮らしの経験も話した。ヘミングウェイの住んでいた界隈。新婚のヘミングウェイたちは、近くのカフェの日替わり定食か、せいぜいテイクアウトのスシッソン・オ・ジャンボンぐらいですませていたにちがいない。なにしろ、肉も食べられないときは、公園のハトをつかまえて、首をひねって持ち帰るような貧乏暮らしだったのだから。

 講義のあと、安東 つとむ、由利子夫妻、中村 継男、工藤 淳子たちといっしょに「嵯峨野」に行く。
 坂をのぼりきると、この界隈はいろとりどりのネオンの灯色がゆらぎ、いっそう美しく、なぜか哀愁が街ぜんたいにただよっているように見える。

2018/07/17(Tue)  1762  〈1977年日記 9〉
 
                  1977年5月14日

 和田 芳恵さんから、新刊の「暗い流れ」を頂戴する。
 私は文壇作家の先輩をほとんど知らない。むろん面識はある大家はいるが、日頃、文壇人の集まりに顔を出したこともない。だから和田さんは、私の知っている唯一の文壇作家ということになる。
 和田さんの小説は、いつも練達の職人の仕事という感じで、ひたすら感嘆する。和田さんは、どういうものか私に好意をもって、本を贈ってくださるのだった。

 今日、コネコが死んだ。母親はシロ。うまれて2カ月。シロが子を生んで2日後に、ルミも、この子とおなじような白いメスを生んだ。だから、コネコたちは、まるで兄弟のように育った。
 このコネコは、なかなか活発で、この数日、ミルクを飲むようになっていた。昨日、ミルクをやったが、とてもよく飲んだ。そのあと、肉のアブラミをすこし食べさせた。これがよくなかったらしい。私が殺したようなもので、気分がよくない。
 庭の隅に埋葬してやる。

 夜、仕度して新宿に行く。
 予報では、今夜から海も山も大荒れになる。それを承知のうえで登山を計画したのだが、目的地は高尾に変更した。
 この日、10番線に集合したのは――安東 つとむ、「日経」の吉沢 正英、石井秀明、田中、中村、工藤。これに、大久保、原田、奥原、妹尾の4人。みんながすぐにうちとけて、今夜の登山にわくわくしていた。

 真夜中に登山するもの好きはいない。しかも、台風が接近している。
 私はわざとそういう悪条件の登山をみんなに経験させたかった。むろん、万全の準備をととのえている。初心者向きのコ−スを選んだ。
 10時15分から行動開始。暗いコ−スをひたすら歩きつづける。気温がぐんぐん下がってくる。みんなが黙々と歩きつづける。
 少し平坦な道にさしかかると、私は夜空を見上げ、山の稜線をたしかめ、闇の彼方に目を向ける。何も見えない。フラッシュライトの光を吸い込んだ闇からは、深い奥行きと、ぼうっとした輪郭が感じられるばかり。風が強くなって、いい知れぬうそ寒い恐怖にとらわれそうだった。
 深夜、コ−ス中腹の茶屋に着いた。茶屋は戸を閉めてカギをかけてある。外のテ−ブルに集まって、お茶を沸かしたり、各自、簡単な食事をとる。私はコッヘルでウドンを茹でて食べた。夜中に熱い肉ウドンを食べるのが私のスタイルになっている。
 1時半から4時まで睡眠をとる。寒いので、みんながテ−ブルに突っ伏して寝たが、私は茶屋の入口の近くに断熱シ−トを敷き、アノラックに新聞紙をつめて横になった。
 風が出てきた。みんな、一睡もできなかったらしい。

 闇はかぎりなく濃く深かった。あたりのもののすべてが形を崩され、影に変えられている。その影たちはくろぐろとした静寂(しじま)にそびえている。そこは、昼間のハイキングコ−スではなく、風雨の予感がみなぎった世界だった。無数の音が、梅雨前線にのみ込まれながら、刻々に危険な夜と化してしまったのだ。
 4時15分から、歩きはじめた。私は、気温の低下と、みんなの健康状態、疲労度に注意しながら、ときどき声をかけてやる。小仏峠に出たとき、とうとう雨が降りはじめた。

 雨のなか、きついコ−スを歩くのはあまり楽しくない。はじめての登山で、こんな風雨にさらされたら、誰しも二度と山に登ろうとは思わないだろう。しかし、私は、こんな平凡なハイキング・コ−スでも、歩き方によっては、別の楽しみが生まれると思っている。

 やがて夜明け。
 それは異様になまなましく、非現実めいた光景だったが、山ぜんたいに灰色の朝がひろがり、さらにはどしゃぶりに近い雨が降りそそぎ、容赦なく私たちを追い立てた。

 11時、私たちは美女谷温泉に着いた。みんなが歓声をあげた。
 ほかに誰ひとり客がいない。入浴する。学生たちも山麓の朝風呂をよろこんでいた。歩いているときは無口だった学生たちも、入浴したあとはすっかり上機嫌になっていた。
 こんな登山は誰ひとり経験したことがなかった。

 帰りの電車ではみんなが眠っていた。新宿に着いたのは3時過ぎ。

 この日、私はもう一つ、大事な仕事があった。
 宮 林太郎さんの出版紀念会だった。私はみんなと別れたあと、時間をつぶさなければならない。映画を見ようか。しかし、うっかりすると、眠りこけてしまうかも知れない。喫茶店でコポオのエッセイを読んだ。暇つぶしに。

 出版紀念会は盛会だった。出席者のほとんどは私の知らない同人雑誌作家ばかりだった。高齢の方が多い。私は、登山スタイルのまま出席したので気がひけたが、若杉 慧、佐藤 愛子のいるテ−ブルに案内された。おふたりは、私にもわけへだてなく話しかけてくれた。あとは、ほとんど知らない人たちばかりだったが、「小説と詩と評論」の森田 雄蔵さんがいたので挨拶した。
 閉会してから、別のテ−ブルに、友人の若城 希伊子さん、庄司 肇さんがいたことを知った。おふたりといっしょに「ポポロ」に寄って話をしたが、若城さん、庄司さんが相手なので、気づまりなことはなかった。若城さんと別れたあと、庄司さんは木更津に住んでいらっしゃるので、帰りは千葉までずっと話をつづけた。
 千葉で酒でも酌もうか、と思ったが、さすがに疲れていたので、千葉で失礼した。

2018/07/13(Fri)  1761 〈1977年日記 8〉

                1977年5月13日

 午後1時から、「東和」で「サスペリア」(ダリオ・アルジェント監督)の試写があるので、これを見たかったのだが、「牧神」の原稿(「アリス・ガ−ステンバ−グ」)に手こずったため、東京に出かけたのは2時過ぎ。
 「サスペリア」は、サ−カムサウンド・怪奇映画。「日比谷」、「渋谷東宝」、「スカラ座」の公開なので、「東宝」はよほど自信があるらしい。
 「ルノワ−ル」で、萩原君に原稿をわたした。このあと、「自由国民社」の鈴木君に会う。編集長(山本さん)と相談した結果、私は4本書くことになった。

 何を書くか、いろいろ話しあったせいで半端な時間になってしまった。試写は見逃すし、原稿は1本だけ。気分を変えるつもりで、「CIC」に寄ってポスタ−をもらうことにした。映画のポスタ−はサイズが大きいので、近くの「新評社」に寄って紐をもらった。映画の配給会社で、気に入ったポスタ−をせしめ、別の出版社でしっかり包装してもらう作家なんて、あまりいないだろうな。私は、あまり気にしない。斉藤 節郎君が、早川君を紹介してくれた。
 銀座の宵。さまざまな人の流れ。恋人たち。お互いにまだ気がつかない恋もある。お互いに感じているのに、気がつかないふりをしている恋もある。臆病な、それをはっきり口にしない恋。つまりは、私の恋。
 「イエナ」で本を買う。歩いて「ロ−リエ」に寄って、買ってきた本のフラップ。ざっと眼を通しただけで、おもしろそうな本の匂いがする。

2018/07/10(Tue)  1760 〈1977年日記 7〉
 
                1977年5月9日(木)

 快晴がつづく。
 本、雑誌など多数届いた。
 「二見書房」の長谷川君から電話。仕事の依頼。
 1時半、めずらしく「花輪」のおばさん(須藤 みさお)がきてくれた。わざわざ棟上げのお祝いにきてくれたのだった。義母、かおるの妹。ほんとうに純朴で、近所つきあいもせず、まるで少女のまま大人になってしまったようなお人柄。人見知りがはげしく、何につけ遠慮がちな老婦人。私が百合子につれられて挨拶に行ったときは、あわてて奥の部屋に逃げ込んで、百合子が何度か押し問答をして、やっと出てきたが、私の顔も正視せず、三つ指をついて頭を畳にすりつけるような老婦人だった。そのおばさんが、はるばるお
祝いにきてくれたのだから、こちらとしても恐縮するばかり。

 倉橋 由美子さんから新刊の「迷宮」を贈られたので、読後、お礼申し上げるつもり。


               1977年5月10日(金)

 百合子、大宮に行く。
 百合子は、いつも体調がすっきりしないので、私が与野の高原君に連絡して、大宮で待
ち合わせ、付添いを依頼する。
 11時45分、百合子といっしょに家を出たが、駅に着いてから、ガス湯沸かし器をつ
けっぱなしにしたような気がした。タクシ−で家に戻る。ガスは消してあった。待たせて
おいたタクシ−で駅に戻ったが、つまらない事で時間をロスした。
 途中までいっしょだったが、百合子と別れて、私は葛西に向かった。
 竹内君のマンションに寄って、お子さんと対面。可愛いお嬢さん。
 「山ノ上」(ホテル)で、「二見書房」の長谷川君に会う。仕事の話をすすめる。そこに、桜木 三郎君がきてくれた。桜木君は「プレイボ−イ」(5月24日号)に、アナイス・ニンの記事を書いてくれた。感謝。
 桜木君と話をしているところに、アメリカでエリカと会ってくれた松浦 ゆかりという少女がきてくれた。ゆかりさんは、エリカに、スラックスをプレゼントしてくれたのだった。すらりとした長身の美少女だった。桜木君がひやかす。
 「先生はいいですね、あんな美少女のガ−ルフレンドがいるんだから」

 大学の講義。
 熱心な学生が多いので、私の講義もうまく行く。こういうときの昂揚感は、芝居の演出をしていて、初日の幕をあげた瞬間、あ、この芝居、うまく行くぞ、と確信するときの気分に似ている。私の講義を聞きにくる石本や、安東夫妻も、私の気分に影響されて、いろいろと私の講義の内容を話しあう。
 工藤 淳子と食事をしながら話すことにして歩きだしたところで、鈴木 君枝と会った。ついでのことに、鈴木 君枝もつれて行くことにした。

 百合子は無事に与野に着いて、浦和の「北越銀行」から送金した。大宮に寄って、私の両親に会って、挨拶。そのまま、帰宅。
千葉に帰ってきてすぐに、「千葉銀行」から連絡があったという。
 「千葉銀行は、このところかなり気を使っているみたい」
 百合子がにんまりしてみせる。


               1977年5月11日(土)

 つぎの登山計画。メンバ−。

 石井 秀明、林 恵子、高瀬 悦子、大久保 清、栗林、妹尾 とき江。以上、電話。
 伊藤 康子、石井 謙、和田 実、諸橋君たちに電報。

 「二見書房」の長谷川君に、原稿。

 原 耕平君、原稿の依頼。10枚、25日。

 吉沢 正英君から電話。「白い家の少女」を褒めていた。ジョデイ・フォスタ−という少女が気に入ったからだろう、とからかってやる。この少女には何かがある。
 松島 義一君(集英社)から電話。6月、ロンドン、マドリ−ド、パリ、フィレンツェ、コペンハ−ゲンに行くという。パリで、中上 健次と会う予定。私はパリに行ったら、古賀 協子に会うようにすすめた。

 松山 俊太郎さんから電話。小栗 虫太郎のこと。戦争中に出版されたジュ−ル・ヴェルヌの「神秘島物語」のこと。松山さんは、「ユリイカ」(ヴェルヌ特集)に寄せたエッセイで、この小説を昭和18年に読んだと書いている。「国会図書館」の目録には、昭和20年(1945年)に、「神秘の島」という題名で出版の記録がある。ところが昭和18年には記載がないので松山さんは不審に思ったという。私が松山さんにハガキを寄せたので、この電話はその返礼。松山さんは、国学院大学で英語を教えるという。

 倉橋 由美子さんに礼状。

 「暗い旅」をめぐって、江藤 淳がいいがかりをつけて、盗作問題に発展したとき、私は倉橋 由美子さんに同情した。「暗い旅」が、ミッシェル・ビュト−ルの「心変わり」を模倣したと指摘した江藤 淳の内面には、やはりねじくれた劣等感がからみついているだろう。
 「暗い旅」は翻訳もある作品と類似した部分はあるにしても、作家自身が模倣したと認めているのだから、盗作などと呼ぶべきではない、と考える。私は何も発言しなかったが、暗黙に倉橋さんへの支持はつたわっていたと思う。

 シャトル、エリカから電話。百合子のアメリカ行きの日程をつたえる。

 私もアメリカに行きたい。できれば、アナイスを訪問したいと思う。しかし、つぎからつぎに仕事に追われている現状ではアメリカ行きは無理だろう。

2018/07/07(Sat)  1759 〈1977年日記 6〉
 
                1977年5月8日(水)

 新築の家の上棟式。
 百合子は朝から準備に追われている。大工たちは、朝8時から正午過ぎ、1時まで仕事をつづけて、ようやく棟をあげた。
 さすがに深い感慨があった。百合子の実家からいろいろな援助をうけた。家の新築を考えて、何度も施工者とやりあいながら、今日、ついに上棟式をむかえた。
 親族の一番乗りは須藤 泰清君。新婚のきぬ子さんをつれてお祝いにきてくれた。泰清君は、百合子の従弟にあたる。しばらく雑談をしたが、やがて、婦公、湯浅 泰仁、かおる夫妻が到着した。
 ふたりも上棟を心からよろこんでくれた。婦公は、おれの娘は断じて三文文士なぞと結婚させないと宣言して最後まで百合子と対立したが、周囲、とくに百合子の姉、小泉 賀江の説得に譲歩して、私と百合子の結婚にあえて異を唱えなくなった。
 その後、この家の新築を計画したのは、百合子の英断による。百合子は、このとき、「集英社」版の筆耕をすべて自分の手でやってくれたのだった。
 上棟式にいろいろな人が集まってくれた。
 2時頃、これも新婚の柴田 裕夫妻がきてくれた。私たちが月下氷人をつとめたカップルだった。結婚式の写真を届けてくれたので、百合子とふたりでよろこびあった。
 上棟式がはじまって、酒宴になる。歌を披露する連中もいる。私は、およそ社交的ではないので、こういう酒席はあまりありがたくないのだが、施主としてできるだけ神妙な顔をしていた。
 酒宴がたけなわの頃、いろいろな人から電話があった。思いがけない電話もあった。
 西島 大が千葉にきている、という。上棟式と知って、電話で祝意を述べただけで失礼するという。せっかくきてくれたのだから、百合子に会ってほしいと答えた。

 西島 大は、私と同期の友人で、内村 直也先生の弟子。「青年座」の創立メンバ−のひとりだった。私は、「青年座」で、西島 大の一幕ものを演出して、演出家としてデビュ−したが、その後、「青年座」が下北沢に稽古場を移したとき、「青年座」演出部を退いた。千葉から下北沢に通うことは、当時の私には無理だったからである。
 その後、西島 大は、映画のシナリオ作家として成功した。さらに、テレビ・ドラマ、ラジオ・ドラマを書いて、この10年、「青年座」をささえてきた。
 この日も、テレビ・ドラマのヒット・シリ−ズ、「西部警察」のシナリオを書くために、成田空港を視察しての帰りという。私が、千葉に住んでいることを思い出して、電話してきたのだった。

 私は旧知の西島 大と再会できることをよろこんだ。
 西島 大は、もともと小柄だったが、アゴヒゲをたくわえて、ちょっと、ヴエトナムのホ−・チンミンに似てきたようだった。
 西島 大はこれも旧知の女優、高橋 みつえといっしょだった。高橋 みつえは、内村先生が始めた「芸術協会」で、百合子と同期だった。百合子は、「芸術協会」を出てNHK、「文化放送」、「ラジオ東京」のドラマ、クイズの司会などに起用された。しかし、私と結婚したため、芸能界を去ったが、高橋 みつえは入れ違いにTBSと契約して、ドラマに出るようになった。美貌だったが、女優としては大成しなかった。
 昨年(1976年)から、銀座のバ−のママになっているという。
 私は西島 大と、百合子は高橋 みつえと話をつづけた。お互いに共通の友人だった矢代 静一や、山川 方夫の話が出た。
 西島 大は、こんなことをいった。
 「お互いに偉くなれなかったな、けっきょく」
 西島 大は、「青年座」付属の「俳優養成所」の所長になっていたが、本業の戯曲は上演されなかった。テレビでは、いろいろヒット・シリ−ズの台本を書いたが、所詮はシナリオ作家としてしか見られない。そんな自分を卑下して、自嘲めいたいいかたをしたらしい。
 私は、「そうだね」と答えた。

 西島 大がこういういいかたをしたのは、私に対するひそかな優越感のせいだった。テレビでヒット・シリ−ズの台本を書いているので、私に対して優越感をもちながら、こういういいかたをする。なぜかねじくれた劣等感がからみついている。
 (その後、何度か西島 大に会ったが、いつもきまって、「お互いに偉くなれなかったな、けっきょく」というのだった。 後記)
 私はにやにやしながら、いつも話題を変えた。私は才能のない作家だったが、自分を文学落伍者(リテ・ラテ)だと思ったことはない。もともと西島 大と競争するつもりもなかった。
 百合子もみつえといろいろ話をしていたが、お互いのあいだに流れた時間が埋められるはずもなかった。いろいろと浮名を流している銀座の雇われマダムと、たいして才能もないもの書きの女房に共通の話題があるはずもなかった。
 この日の、西島 大、高橋 みつえの来訪は、私と百合子の間で二度と話しあうことはなかった。

 義母、湯浅 かおる、義姉、小泉 賀江のふたりは、夜の8時まで残ってくれた。わが家の周囲でも、いろいろと変化が起きようとしている。この日、かおる、賀江、百合子が相談しあって、賀江の娘、小泉 まさ美もまぜて、女たちがそろってアメリカに行くことになった。エリカがアメリカに留学しているので、女たち5人のアメリカ珍道中ということになる。

2018/07/04(Wed)  1758 〈1977年日記 5〉
 
                1977年5月7日(火)

 ジュ−ル・ヴェルヌ。少年時代に、ヴェルヌを耽読した。
 とにかくヴェルヌはおもしろかった。ヴェルヌの何が私を魅きつけたのか。
 従姉のカロリ−ヌを愛した少年は、サンゴの首飾りを手に入れて贈ろうと考え、ひそかに家出を決行して「コラリ−号」に乗り込む。残念ながら、家につれ戻された少年は、母にむかって「ぼくはもう空想の中でしか旅をしない」といったという。
 少年時代の私は自殺を考えたことはあったが、家出など空想もしなかった。実現できない空想は、はじめから考えない少年だったに違いない。あるヴェルヌの研究者は、この事件に、後年のヴェルヌの作品の構造にかかわるカギがひそんでいるという。たとえば、マルセル・モレは、Coralie が Coraline の、そしてCorail とColier をアナグラムと見ている。こういう暗合から、ヴェルヌの現実の船旅への憧憬があった、というより、言葉の暗示への執着と、それがもつナゾへの挑戦という、より強い感情につき動かされたのではないか、という。
 へえ、そうなのか。少年時代の私が、ヴェルヌに熱中したのは、アナグラムに対する好み、ある言葉からすぐにべつの言葉を類推する性癖――ようするに、無意識にせよヴェルヌに似た傾向があったせいかも知れない。
 千葉に移ってきた頃、地名の「新検見川」に Hemingway、稲毛を Ingeと読む、アナグラムめいた趣向を考えて、メモに書きつけていた。私はアナグラムに特殊なこだわりがあって、カザノヴァのアナグラムなどを見ると、何とか自分の手で解いてみたいと思う。我ながらバカげた願いだが。

 「映画ファン」の萩谷さんに、原稿、書評2本をわたす。萩谷さんは、大学に在学中、「近代映画社」でアルバイトをしていたが、卒業後そのまま編集者として残った。おとなしい才媛といった感じ。映画ジャ−ナリストなのに、仕事が忙しくて、あまり映画を見る暇がないという。中田先生は、作家として小説を書きながら、芝居を見たり、コンサ−トに行ったり、映画の批評を書いたりして、多方面で仕事をなさっていますね。どうすれば、そんなふうに活動できるんですか。
 こういう質問にどう答えればいいのか。返事ができなかった。

 夜、「無法松の一生」(稲垣 浩監督)を見た。板東 妻三郎。
 戦争中に見たこともあって、この映画を見ているうちに、園井 恵子が広島で被爆して亡くなったことを思い出した。そして、丸山 定夫も。

2018/07/02(Mon)  1757 〈1977年日記 4〉
 
                1977年5月5日(日)

 午前中に、「ミセス日本・美人コンテスト」というプログラムを見た。
 審査員は、高峰 三枝子、和田 静郎、神和住 純、沖 雅也など。
 美人がつぎつぎに出てくる。どこのコンテストでも優勝圏内に入るような美女ばかり。そういう美女たちが篩にかけられて、最終審査に残ったのは7人。いずれ劣らぬ美女ばかりで、最後の最後に優勝したミセスは、感激のあまり涙にくれていた。
外国のコンテストなら、優勝したミセスは、満面に笑みをうかべて投げキッスでもするところだが。
 司会は、女優のT・T。
 あきらかにミスキャスト。こういうコンテストをうまくとりしきって、場内の雰囲気を盛りあげたり、出場者の緊張をほぐしたり、あるいは、それぞれのミセスの美しさをたたえたりするのは、司会者の洗練されたことばやしぐさではないだろうか。ところが、T・Tの要領のわるいこと。
 せっかく、すばらしいコンテストの司会を引き受けたのだから、コンテスタントを褒めたたえながら、あわせて自分の美しさもアピ−ルすればいいのに、ひたすら凡庸なコメントを並べるだけ。あきれた。
 日本の女優は、あらかじめ、きめられたセリフをしゃべるしか能がないのか。それとも、はじめからそういう「演出」だったのか。


                1977年5月6日(月)

 今日から、地下鉄、タクシ−などが値上げになる。私のように、いろいろ飛びまわっているもの書きにはかなり影響があるだろう。
 景気の回復はまだはっきりした形をとらない。というより、庶民はたえず不況の影におびえながら生活して行くしかないのだろう。
 成田空港の反対同盟の鉄塔が倒された。

 夜、ルネ・クレマンの「危険がいっぱい」(The Love Cage/1964年)を見た。アラン・ドロンは29歳。共演のジェ−ン・フォンダが美しい。父がすぐれた俳優だったため、少女時代から父に対してひそかに対抗意識をもっていたらしい。ジェ−ンが勝気なお嬢さんといった役を演じると、内面のはげしさがむき出しになる。ヘンリ−は――「見せかけの権威のみか、理性もおれを裏切り、おれには娘があると、ただそう思い込んでいただけのことかも知れぬ」と「リヤ王」のようにつぶやいたかも知れない。

 いつか、ジェ−ン・フォンダについて書いてみたい。書いたところで何もつかみとれないかも知れないが。

2018/06/30(Sat)  1756 〈1977年日記 3〉

                1977年5月4日(土)

 朝、「サンケイ」の原稿を書く。
 ジョルジュ・シメノンが、12歳のときから、実に1万人の女性と関係したと語ったことに関して、作家とエロスの問題を考える。

 シメノンが作家をめざして、作家になれたのは、1万人の女性と関係したからなのか。いいかえれば、1万人の女性と関係すれば、人は作家になれるだろうか。そんなことはあり得ない。シメノンは、12歳のときから、1万人の女性と関係したといいきれることこそ、彼が作家である証明なのだ。
 シメノンと反対に、妻以外の女性をまったく知らない人が、すぐれた作家になった例を私は知っている。問題は、関係した女性の数とか量にあるのではない。

 正午少し前、「サンケイ」佐藤さんに原稿をわたす。文化部は3階に移っていた。
 12時15分、「日経」に行く。吉沢君の机を占領して、すぐに映画評を書きはじめた。私は各社の試写を見たあとすぐに吉沢君の机で映画評を書くことが多いのだが、私以外にこんなことをする作家はいないらしい。ほかの記者たちも、ときどき話しかけてくる。私は、新聞社の現場の雰囲気が好きなのだ。
 私にはコラムニストとしての素質があるのかも知れない。こういう現場にいると短いコラムならいくらでも書けそうな気がする。
 「華麗な関係」(ナタリ−・ドロン、シルヴィア・クリステル)、「ビリ−・ジョ−愛のかけ橋」(ロビ−・ベンソン、グリニス・オコナ−)、「合衆国最後の日」(バ−ト・ランカスタ−、リチャ−ド・ウイドマ−ク)について。
 とりあえず吉沢君に原稿をわたして、「日経」のレストランに移る。いい気分だった。遅い食事をとりながら、「週刊小説」の原稿を。冷えたコ−ヒ−を飲みながら、アナイス・ニンの「デルタ・オヴ・ヴイ−ナス」の紹介を書く。
 3時半、神田に出て、「南窓社」の岸村さんと会う。このところ話しあってきた「アメリカ作家論」の出版をきめる。刊行は、10月1日の予定。岸村さんも喜んでくれた。
 せっかく神保町に出てきたのだから、本をあさった。「北沢」で、思いがけない掘り出しもの。長いあいだ書きたいと思ってきた評伝の資料。読んでみなければわからないが、この本を見つけた瞬間、猟師が獲物をしとめたような、手ごたえを感じた。へんな話だが、こういう直感めいたものを私は信じている。
 私の原稿を入校した吉沢君が銀座に出るというので、私も同行する。吉沢君と本の話をしているところに、長谷川君(二見書房)、萩谷君(映画ファン)がきた。長谷川君にわたす原稿がない。申しわけないが締切りを延ばしてもらう。そこへ、「富士映画」の下川君がきた。7月封切りの映画、「遠すぎた橋」の宣伝で吉沢君の協力をもとめる。各国のスタ−が十数人も出る大作とかで、製作費、90億。6月7日にジャ−ナリスト試写の予定。

 吉沢君といっしょに「ガスホ−ル」に行く。スペイン映画、「ザ・チャイルド」の試写。
 冒頭、第2次大戦中のユダヤ人虐殺、ビアフラ内戦、ヴェトナム戦争、バングラデシュなどで子どもたちが飢えや病気で死んだり、瀕死の状態に苦しむカットがつづく。おやおや、戦争や破壊、飢餓で犠牲になるのはいつも子どもたちという主題で、そういう「現実」を描いた映画なのかと思ったが、まるで違っていた。
 若いイギリス人夫妻(妻は妊娠している)がスペイン観光旅行で、アルマンソ−レ島を訪れる。ところが、この島には大人が一人もいない。子どもたちは町の住民を殺し、観光客たちを殺した。夫妻は、自分たちが子どもたちに狙われていることに気がつく。……
 原題は Who Can Kill A Child で、これは逆説的。この映画が何を寓意しているか、少しわかりにくい。気をつけて見れば、スペインがつい昨日まで体験してきたフランコ体制を意識しているようにも見える。かなり興味深い映画で、「熱愛」につづくスペイン映画として記憶しておきたい。

2018/06/29(Fri)  1755 〈1977年日記 2〉
 
                1977年5月3日(金)

 しかし、人間が人間のぎりぎりの底に達することはついにあり得ない。人間は、自分自身の姿を、おのれの獲得する認識のひろがりのうちに見出すのではない。
 何かで読んだこのことばは私をおびえさせる。

 竹内 紀吉君から電話。上野に出てこられないかという。竹内君がこういうかたちで私を誘ってくれるのはめずらしいので、一瞬、仕事を投げ出してでかけようと思った。しかし、この原稿を片付けなければ動けない。残念。
 午後、デュヴィヴィエの「舞踏会の手帳」(3チャンネル)を見る。これで十数回は見たことになる。それでもいろいろな「発見」があった。今回は、とくにトリビアルな部分に注意をむけたせいだろうか。
 映画は――「クリスティ−ヌ」(マリ−・ベル)が北イタリアの古城のような邸に戻ってくるところからはじまっている。彼女が舞踏会にはじめて出たのが16歳、1919年6月18日。映画の最初のエピソ−ド(フランソワ−ズ・ロゼェ主演)の「ジョルジュ」は、「クリスティ−ヌ」の婚約を知って自殺するが、それが1919年12月14日。室内のカレンダ−はなぜか12月19日になっている。はじめてロゼェの演技を見たときは鬼気迫るものに思ったが、しばらく前に見たときには、あまり感心しなかった。今回見た印象は、ロゼェらしいブ−ルヴァルディエな演技だと思った。
 ジュヴェのエピソ−ドがつづく。オ−プニングはジャズ。3人の悪党が、ナイトクラブの支配人、「ジョ−」(ルイ・ジュヴェ)の部屋に入ってくる。頭株がアルフレ・アダム。(数年後に、「シルヴィ−と幽霊」という戯曲を書く。)この部屋で、「ジョ−」は子分たちに指示をあたえる。背景にポスタ−や写真が貼ってある。ジョゼフィ−ン・ベイカ−のポスタ−、ダニエル・ダリュ−の写真があった。驚いたのは、そのポスタ−の横に、ヴァランティ−ヌ・テッシェの写真があったこと。そして、机のなかに、ヌ−ド写真が入っていた。
 3つ目のエピソ−ドは、音楽家だった「アラン」(アリ・ボ−ル)が、「クリスティ−ヌ」に失恋し、息子を失ったあと、神に仕え、いまは「ドミニック神父」になっている。これは雨の日。
 4つ目の「エリック」(ピエ−ル・リシャ−ル・ウィルム)のエピソ−ドで気がついたのは、「エリック」が「クリスティ−ヌ」をつれて山小屋に向かおうとするとき、スキ−のストックで高山をさし、あれがモン・ペルデュだという。直訳すれば「失われた山」ということになる。こんなところにも意味があったと気がついた。
 5つ目の「町長」(レイミュ)の場面は、南フランスの喜劇と見ていいが、町の名前が出ている。前のエピソ−ドが冬山なので、コントラストとして夏という設定にしたのか。
 6つ目、「ティエリ」(ピエ−ル・ブランシャ−ル)のシ−ンは、ほとんど全部のシ−ン、カメラを斜めに撮影しているようだが、じつはそうではなかった。「クリスティ−ヌ」を非合法に人工中絶を受けようとする上流夫人と見て、「ティエリ」が「サイゴンでおめにかかりましたね」という。「ティエリ」の妻(シルヴィ−)は、「サイゴンでは別荘もありましたよ」というセリフをくり返す。「ティエリ」は「妻」を殺す。この構図は「望郷」の密告者殺しのシ−ンとおなじ演出と見ていい。

 この映画の上映時間は144分。戦後の「巴里の空の下セ−ヌは流れる」の、112分と較べてずっと長尺だった。オ−プニング(友人にすすめられて「クリスティ−ヌ」が舞踏会の「手帳」の人々の再訪を決心するまで)が15分ある。
 ジュヴェのエピソ−ドが8分程度。アリ・ボ−ルのエピソ−ドが10分。ピエ−ル・リシャ−ル・ウィルムのエピソ−ドは7分。ピエ−ル・ブランシャ−ルのエピソ−ドが10分。

 「クリスティ−ヌ」は最後に古城に戻るが、「ジェラ−ル」が湖の対岸に住んでいたことを知って、その遺児、「ジャック」(ロベ−ル・リナン)と会う。その「ジャック」をはじめての舞踏会につれて行くエンディングが5分。

 この映画を見るたびに、どういうものか私自身の青春を思い出す。
 デュヴィヴィエの「望郷」と「舞踏会の手帳」は、私の青春と切り離せない。いまからみれば、甘い、感傷的な作品に違いないが。
 なつかしい名優たち。ロゼェも、ジュヴェも、ピエ−ル・ブランシャ−ルも、みんな鬼籍に入っている。アリ・ボ−ルは44年にナチの強制収容所で亡くなったし、ロベ−ル・リナンは、反ナチ抵抗派として銃殺された。マリ−・ベルも死んだのか。

 夜、原稿(7枚)を書く。9時55分、微震。


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