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2021/03/14(Sun)  1897
 
 私は、あい変わらずキャサリン・マクフィーのファンである。ただし、キャサリンは、日本ではほとんど知られていない。残念ながら、このまま知られずに終わるかも知れない。
 キャサリン・マクフィーはTVミュージカル、「SMASH」に主演して、「マリリン・モンロー」を演じた女優。このときから彼女に注目してきた。

 たとえば、「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」というジャズ・クラシックがある。
 タイトルは「惚れっぽい私」と訳されていて、それなりにいい訳だと思う。

 ジャズ・スタンダードだが、ふつうのシンガーが歌うと、いかにも「惚れっぽい私」といった蓮っぱな女の、けだるい、安っぽい女の歌になる。

 キース・ジャレットがこの曲を演奏すると、そうしたいじましさが消えて、なんともいえない優雅さがあらわれて、しかも、「ついムキになるのよね、私って」とつぶやくようなおんなのあやしいムードが立ちこめてくる。

 キース・ジャレットの「スタンダーズ」に選ばれている「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」を、たまたまキャサリン・マクフィーが歌っている。

 キャサリンを聞いたとき、おや、これは、と思った。

 これを聞きながら、現実に恋多き女、キャサリン・マクフィーの人生を重ねてしまうのだが、しかし、キャサリンの「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」は、キースの演奏に劣らない魅力があふれている。このことは、現在のキャサリンが、ついに「スタンダード」を歌う段階に達したことを意味する。

 キャサリンの前作、「ヒステリア」のラテン・テイストに、つい失望したことも影響している。

 このアルバムを聞いたとき、キャサリンも、人並みにスタンダードを歌うようになったのか、という感慨があった。少し落ち目になったミュージシャンが、人気回復のために安易にスタンダードを取り上げ、簡単にCDをリリースすることが多い。
 しかし、この「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」は、キャサリンの場合、ジャズ・クラシックへの回帰が、そのまま、自分の「現在」を見つめることにつながっている。
 あえていえば、女優として、ミュージシャンとして、さまざまに模索を繰り返してきたキャサリンが、いまや、スタンダードを歌うグレードに達している。    

 スタンダードを歌うのは、それなりにグレードの高い、品格の高いミュージシャンにしか許されないのだ。
 私の考えは間違っているだろうか。

2021/03/07(Sun)  1896

 コロナ・ウイルスで、外出も自粛していた時期、私は、ほとんど読書しなかった。理由はある。外出自粛で新刊書も買えなかったからである。それに、私の親しい友人たちの本が出版されなくなった。

 仕方がない。前に読んだ本を見つけて読み返そう。

 そうして読んだ本のなかに、あらためて感銘を受けた評伝がいくつかあった。

 その一冊は、第一次世界大戦後のロシア革命と、その後のソヴィエト、ヨーロッパの裏面史を彩ったロシア貴族の女性の評伝だった。1981年出版。非常に優れた評伝で、日本では、1987年に翻訳が出版された。翻訳も信頼できるものだった。

 訳者は、あとがきで、

    私事で恐縮だが、大きな関心をもつ時代の歴史の裏側に埋もれていた興味ある事
    実が次々に明らかにされるので、私はこのしごとを実に楽しく進めることができ
    た。この興味を広くみなさんと分ちあいたい思いでいっぱいである。
    なお調べが十分でなかったところもあるので、人名や地名の誤記については御教
    示を仰ぎたい。

 という。

 この翻訳を読みながら、人名の誤記の多さに驚いた。

    ル・サロメ                 ルー 
    クリストファー・イシェルウッド       イシャーウッド 
    マルガリータ・ゴーチェ           マルグリート  
    バークレイ・ド・トーリ           バルクレイ
    ボルジノ                  ボロジノ
    アルトゥール・ランソン           アーサー
    アルバート・トマ              アルベール
    セオドル・ルーズヴェルト          シアドー
    バジル・ザハロフ              ベイジル
    ラルッサ                  ラルース 
    クロード・ファーラー            ファーレル

 これで、半分。
 私の記憶がおかしいのかも知れないが、原文が「ル・サロメ」とあっても、私なら「ルー・アンドレアス・サロメ」とするだろう。
 クリストファー・イシェルウッドは「クリストファー・イシャーウッド」とする。

 せっかくいい訳なのに、私の知っている人名が違っていると、どうしてもひっかかる。
 この訳者はクロード・ファーレルの「海戦」を読んだことがないにしても、デュマ・フィスの「椿姫」も読んだことがないらしい。
 
 「百科事典」のラルッサには驚かされた。
 
 ドロップを舐めていて、ガリッと、砂利を噛んだような気分になる。

2021/02/28(Sun)  1895
 
 (つづき)
 宿帳に書いてくれた人たちの中には、のちに作家になったひと、翻訳家になったひと、残念なことに早世したひと、いろいろだが、今になってみると、それぞれ違った運命をひたむきに生きたといえるだろう。

 なぜ一冊のノートにこんなものを書かせたのか。その目的はすでに述べたが、もっと違った理由もある。

 翻訳家をめざす人たちは、当然ながら、外国語ができる。しかも、翻訳家を目指して勉強する意欲をもっている。外国語を理解して翻訳するということは誰にも許されることではない。つまり、それだけでも有用な資質だろう。

 私は、この人たちにさまざまなジャンルの作品を読ませた。

 純文学はもとより、ミステリー、ホラー、SF、ロマンス小説、ときにはポーノグラフィックな作品まで。フィクションを翻訳したいと希望する人でも、ノン・フィクションなどに取り組むことで、プロになる機会をつかむことが多い。

 だいたい3週間〜4週間で、一つのジャンルの短編を読むことにしていた。なるべく多様なジャンルの作品を読み、自分の「現在」の語学力で訳すことが新人の訳者には必要と考えたからである。大学の英文科、とくに女子大の英文科で、一流作家の作品を読んできたからといって、「ニューヨーカー」スタイルの短編を訳せるとはかぎらない。
 おなじように、フォークナーを読んできたからといって、ダウン・イーストの喜劇的なヤンキーの伝統を描いた作品をうまく訳せるだろうか。

 私以外の先生たちは、いずれも有名な教育者ばかりで、その講義もすぐれたものだったと思われる。ただし、その先生がたが教えたことは、ご自分が専門とするすぐれた作家の作品をテキストにして、講読を行うことに尽きていた。ある優れた先生は、ご専門のポオの作品をとりあげて、ポオの解釈を教えつづけられた。

 私は、こうした講義に危惧をもっていた。それぞれのクラスの大半が出身大学のクラスでそういう講義を受けてきているだろう。私のクラスにしても、大半の受講者は女性だったが、大学の教室で、ブロンテ姉妹や、ディッケンズ、ブラウニングあたりから、レベッカ・ウェスト、カーソン・マッカラーズなどを読んでいる。なかにはイタリア・ルネサンスに関する専門的な本を読んでいて、私に著作を批判した才女もいた。
 語学力のレベルだけでいえば、私のクラスの人たちは一流大学の学生以上のハイ・レベルだったといってよい。

 しかし、女子大の英文科を優秀な成績で卒業したからといって、そのまますぐに翻訳家になれるだろうか。どこの出版社が、彼女の翻訳書を出してくれるだろうか。

 私のクラスの生徒たちは、だいたいが語学的に優秀な人が多かった。しかし、実際に翻訳したものを拝見すると、それは女子大の優等生の翻訳に過ぎない程度のものが多かった。
 私は、そういう訳をいつも「女子大優等生の翻訳」として褒めることにしていた。むろん、半分は皮肉で。

 私の「宿帳」に書かれた字をみただけで、私はかなりの程度まで、その人の才能や、文学的な適応性、志向とか、好みまでわかる。これに関しては、かなり自信をもっている。
 字の上手へたではない。
 その人の精神上の事像を、そのなかに含めて文学的なプロダクティヴィテイー、さらには外国の小説、エッセイを読むことで、どこまで自分のクリエーティヴな天分がひらめいているか。
 わずかな記述からも、その人の思考の明確さ、かなりの炯眼、透徹が見てとれる。

 じつは、ある時期まで、ある劇団の俳優養成所で、若い俳優、女優志望者たちを相手に講義や演出をつづけてきた経験が役に立ったのかも知れない。

 若い人の才能をいち早く発見して、育てる、その才能を誘掖することは、ただの教育の域を越えている。

2021/02/21(Sun)  1894
 
 たいせつな宝物がある。「宿帳」という。ただし、私がいうのではない。
 私のクラスに集まった、若い、優秀な女人たちがひそかに「宿帳」と呼んでいた。

 ほとんど半世紀、一冊のノートを持ち歩いていた。当時、私は、東京の大学と相模原の女子大の先生をやっていたが、もう一つ、東京は神田にあった翻訳家養成を目的とする学校の講師をつとめていた。

 神田の翻訳学校、私のクラスでは授業の最初の日にノートをさし出して、自分の氏名と、一行でもいいから何か書くことを「義務」とすることにしていた。

 自分のクラスの生徒にいきなり「義務」を強制する先生はいないだろうと思う。たいていの生徒は驚いて、拒否反応を見せるのがつねだった。

 ノートをスルーする生徒もいたが、それでも、これが教育者(エデュカテュール)としての私の「訓練」と判断して、しぶしぶながら私の要望に応えてくれる人もいた。

 ほとんどの生徒たちは、一行から数行、何か書く。自分の名前をサインして、ノートを隣りの生徒にまわすのが習慣になった。

 じつはこのノートには私なりの目的があった。できるだけ早く出席者の名前をおぼえること。
 あわせてその筆跡をみて、その「生徒」の文学的な資質、ひいては性格や、適性、志向性などを判断すること。
 あえていえば筆跡学のようなものでもあった。

 手もとにある1冊をここにとりあげてみよう。ただし、筆者に無断で。

    ジャーマン・ベーカリーで かもめのお話をしました。
    ’小説の解釈、劇の解釈は自由である’という言葉の重さを
    考えたく思います。(R.K.)                             

 「かもめ」は、むろん、チェーホフのドラマ。何を話したのか内容はおぼえてもいない。

 おそらくチェーホフの戯曲が話題になったのだろう。
 このノートでは、タイトルにカギかっこがついていない。このことから、私は何を読んだのか。
 ノートのはじめのぺージにこれを書いてくれたR.K.さんは、のちに評判になるTVシリーズのノベライズを手がけたり、有名な人形劇団で演出助手をつとめたりする。
 優秀な劇作家になった。

    第一章をお渡ししてしまいました。
    書いているというか(ワープロを)打っていると、ああ、早く終わらないか……
    と今から思ってしまいます。 (M.N.) 

    最近、大学時代の先生のお宅にお邪魔を致しました。79才にして、ピアノのお
    稽古を始められ、震える指でシューベルトをきかせて頂き、私も生きる勇気がわ
    いて参りました。 (T.T.)

    このお店はいつもお客様がいませんねえ。
    お仕事、頑張ってください。 (I.O.)

    地方にいるころ、こんな先生に教えてもらえたら、と思っていた、その「先生」
    に、現実にお目にかかることができ、本当に夢みたいです。 (F.U.)
                          
    今朝4時に起きて、机に向かいました。苦しんでいた原稿の導入部が決まり産道
    がひらけました。
    今は朝から小雨。昨年5月から続いた講義「ルネサンスを生きた女性たち」の最
    終日。お忙しいなかを本当にありがとうございました。 (N.T.)

    山ノ上ホテルは、学校の先生のおめでたい結婚式でにぎわっております。
    先生をからかう生徒の笑顔。眼鏡の奥の、先生の幸福な瞳。
    春を感じるひとときです。(F.U.)

    いつもお世話になるばかりで心苦しくおもっています。
    これからもどうぞよろしくおねがいします。 (Y.K.)

    皮肉で楽しい御講義は、私の人生のたのしみです。末永くよろしく。(H.K)
                                       
    成瀬 己喜男、観ました。
    「メトロポリス」、観ました。
    川島 雄三の「接吻泥棒」、観ました。
    映画を観ているのが一番しいあわせ。 (M.N.)

    いつも冷や汗をかいています。
    自分の力のなさをいつもみせつけられ、素晴らしい刺激をうける毎週金曜日です。
    これからもどうぞお見捨てなく。(R.M.)

    翻訳の入口で迷っている私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。(F.I.)
 
    もう4月だというのに、寒くて嫌なお天気です。
    ひどいかぜをひいてしまいました。どうもさえない毎日です。
    頭、スッキリ、気分、スッキリして新たに出発したいものです。
    4月に入ったらすぐ私の本がでるのですね。だからといって、何も変わることは
    ないし、はっきりいって自分が小説家といえるとは、まだ思っていません。
    これをひとつの区切りにして気分一新してがんばろうと思うのです。(I.O)

 これは「宿帳」の最初から数ぺージの引用である。名前は伏せた。

 あえていえば、この「宿帳」は私の日記の代用品であった。私のノートは、いつごろからか「宿帳」と呼ばれることになった。
   (つづく)

2021/02/14(Sun)  1893
 
 コロナ・ウイルスがようやく艾安(がいあん)に向かいはじめた頃、ふと心をかすめる詩の一節があった。

     獨往 路難盡   どくおう みち 尽きがたく
     窮陰 人易傷   きゅういん 人は いたみやすし 

 唐の詩人、崔 署(さいしょ)詩の一節。以下、拙訳。

     一人旅する よるべなさ 
     冬も終わるか 心身にしみる寒さよ

 崔 署(さいしょ)については何も知らない。

 たいして才能もないままにもの書きを志した蒙鈍(もうどん)の身にして、そろそろ決着がついてもおかしくない頃合い。おまけにコロナ・ウイルスなどという不吉な災いが時代を覆いつくしているとなれば、崔 署の思いがおのずから重なってきてもさして不思議ではない。

2021/02/07(Sun)  1892
 
 男と女。
 
 いろいろなことばがある。

   ブロンドの女の汗は、おれたちの汗とは違うのだ。
                  ゴア・ヴィダル 1978年 

   純潔(貞淑)は、性的倒錯のもっとも不自然なもの。
                  オルダス・ハクスリー 1973年

   女たちはたいていトラブルのもとだ。不感症だったりニンフォマニアだったり。
   スキゾだったり、アルコールにおぼれたり。どうかすると、その全部だったり。
   自分をきれいに包装した贈り物のように包んでみせる。ところが、中身は自家製
   の爆弾だったり、毒入りのケーキだったり。               
                   ロス・マクドナルド  

   日記をつけるのは、よき女である。わるい女にはそんな暇もない。
                    タルラ・バンクヘッド

   セックスは、ディナーをとるようなものさ。出されたご馳走をジョークにしたり、
   ときにはおニクを一所懸命パクついたり。
                    ウディ・アレン 1965年 

 コロナ・ウイルスのおかげで、ほとんど本を読まなくなっている。そのかわり、私は、こんなことばをかき集めるようになった。

2021/01/31(Sun)  1891
 
 作家の常盤 新平は、まだ無名の頃、私の家によく遊びにきた。
 私が結婚したばかりの頃、三日も四日も泊まっていたことがある。これは、彼の「遠いアメリカ」に出てくる。

 その常盤 新平は、やがて、早稲田に移り住むのだが、その前は、なんと埴谷 雄高さんの家の間借り人だった。
 埴谷さんは、いうまでもなく戦後文学を代表する作家だが、「戦後」すぐに「死霊」を書きはじめた。この頃は、まだ「死霊」第一部(1946〜48)の連載をはじめたばかりで、作家としては広く世に知られた存在ではなかった。
 後年、埴谷さんは、安保闘争を中心に展開された政治論、スターリン批判などで、若い世代に思想的な影響を与えることになるが、「戦後」まもない時期には、生活のため、自宅の一部を学生の下宿に貸していたに違いない。

 私は、常盤 新平が、埴谷 雄高さんの間借り人だったと知って驚いた。

 埴谷さんも、間借り人だった学生が、後年、直木賞をもらう作家になるなど想像もしていなかったに違いない。常盤 新平は、この時期の埴谷さんについて何も書いていないと思う。彼が、間借り人だった時期は半年ばかりだった。

 もう一つ。やはり、今となっては、私以外の誰も知らないことを思い出した。

 埴谷さんは、若い頃、左翼の機関紙「農民闘争」の編集をしたことが知られている。むろん、非合法活動もつづけていたが、治安維持法によって裁判を受け、一年半も服役した。出所後に、ドストエフスキーを読み、大きな影響を受けた。

 この時期、埴谷さんは、当局の監視下に置かれていたが、当局の尾行をふり切って逃げた。このとき、埴谷さんを助けたのは、長谷川 泰子だったという。

 長谷川 泰子といっても、もう誰も知らない。当時、若い詩人だった中原 中也の「恋人」だが、その女性を、親しい友人、小林 秀雄に奪われる。
 小林 秀雄は、やがて泰子から去る。というより逃亡する。中也は、今ひとたび自分のもとに戻ってくるように願うのだが、泰子はそれを拒否する。

 埴谷さんは、まさにそのとき、司直の追求をのがれようとして泰子に匿われたという。

 こんな話も、もう、その時代の暗さ、緊迫した空気が想像できなくなっている私たちには、ほとんど意味もわからなくなっているのだが。

2021/01/24(Sun)  1890
 
 メェ・ウエスト(1892年〜1980年)、女優。

 5歳でボードヴィルで初舞台。「ベイビー・ヴァンプとして知られた。1926年、ブロードウェイに進出、「SEX」という自作の戯曲を演出、上演。大スキャンダルを起こした。警察は、公然ワイセツの容疑で、10日間、拘束した。翌年、「ドラッグ」という芝居で同性愛を扱い、警察はブロードウェイ上演を禁止しようとした。

 美人ではない。しかし、もっともエロティックなスターのひとり。巨乳で、むっちりした肥りじし、いつも男の心胆をふるえあがらせるようなセリフを浴びせる。

 ハリウッドに移り、映画で強烈な存在感を見せはじめ、映画のセリフで、セックスや、恋愛について、するどい皮肉やジョークを連発して、検閲や、警察の取締りを揶揄したり、挑発した。セリフは全部、自分で書いた。シナリオも自分で書き直した。
 大不況の時代の空気を反映して、メェ・ウエストのセリフは、アメリカじゅうに流布して、大衆に支持された。「ヒトに見られながらヤルより、自分で見ながらヤルほうがずっといいわ」。
 「あたしの人生で男の数なんかどうでもいいのよ、あたしの男の人生であたしがどんだけってこと」。

 メェ・ウエストは、30年代のセックス・シンボルだった。と同時に、セックス・シンボルとしての自分をパロディして見せる。いまでも残っている名セリフは、「ねえ、いつかあたしントコにきてよ」 Come up and see me sometime など。

 1935年、メェ・ウエストはハリウッドで最高の出演料スターだった。

 「戦後」、自分の映画のキャリアーが終わったとみて、ハリウッドから引退。
 そのまま、ブロードウェイにもどり、ミュージカルの女王になった。出処進退を誤らなかった大スターのひとり。

 1962年、マリリン・モンローが亡くなったとき、メェ・ウエストがいった。

    女優というものは感じやすい楽器と思われている。アイザック・スターンは、自
    分のヴァイオリンを大切にあつかっているわ。みんなが寄ってたかって、そのヴ
    ァイオリンを足蹴にして、どうするのよ。

 メェ・ウエストが、後輩のセックス・シンボルの死を悼んだことば。

 「ねえ、あんた、あたしは独身だよ。そんなふうに生まれついてきたからね。結婚なんか考えもしなかった。だって、自分の趣味をあきらめなきゃならないもの。大好きな趣味って――男だからね。」(1979年)

 亡くなる1年前のことば。

2021/01/17(Sun)  1889
 
 暑い日がつづいていた。

 本を読む気になれない。暇つぶしに、短い格言めいたものを読むことにしよう。有名人のインタヴューから拾ったり、気になった片言隻句。

 たとえば、アルフレッド・ヒチコック。

    彼女たちは、ほんとうのレディに見える。なりゆき次第で、寝室ではタイガーに
    なる。ブロンドの女は、いざとなったらいともおしとやかにやってのける。
   
 私は、キム・ノヴァクや、ティッピィ・ヘドレンを思い出しながら、こんなことばを読む。ふたりとも、ヒチコックがきらいになって、映画から去って行った女優。

     娼婦はレディのように、レディは娼婦のようにあつかえ。 

 これはウィルソン・マイズナーのことば。(ヒチコックとは無関係だが。)

 ヒチコックの演出にはいつもそんな態度が感じられたっけ。

2021/01/10(Sun)  1888
 
 昨夏、女優のオリヴィア・デ・ハヴィランドが亡くなった。104歳。
 東京生まれ。ハリウッドきっての美女だったが、あまり関心がなかった。妹のジョーン・フォンテーンのほうが、もう少し知っている。そのジョーン・フォンテーンとは不仲で、お互いに女優になってから、義絶状態でほとんど交渉もなかったらしい。

 大正7年の新聞に、オリヴィア/ジョーンの母親のインタヴュー記事が載っていた。この女性も美人で、バレリーナ、音楽家だった。この記事を調べようと思ったが、コロナ・ウイルスの自粛で図書館にも入れないのであきらめた。

 「風と共に去りぬ」、「女相続人」も見なかった。

 1934年、女子大生の頃、マックス・ラインハルトの「真夏の夜の夢」で「ハーミア」の役に抜擢された。翌年、おなじ役でワーナーと契約。少女スターになった。(この映画に、ミッキー・ルーニーがいたずらっ児の妖精をやっている。)
 ごく普通の美人女優だったから、エロール・フリンの海賊映画のヒロインばかりやらされていた。
 「風と共に去りぬ」の「メラニー」をやって、ようやく大スターへの道を歩みはじめる。私たちがオリヴィアに注目したのは「戦後」の「蛇の穴」あたりから。日本で、あまり有名にならなかったのは、「戦後」イギリスの映画や、ヨーロッパ映画に出ることが多かったためだろう。

 妹のジョーン・フォンテーンのほうも、はじめはB級映画ばかりに出ていたが、「断崖」あたりから、演技力のしっかりした女優として知られた。おとなしい姉さんと違って、自家用機のパイロット、気球のチャンピオン、マグロ釣り、全米ゴルフ、室内装飾の専門家といった「外向的」な活動で知られた。
 
 この姉妹の仲のわるさはジャーナリズムの話題になったが、おそらく少女時代に両親が離婚したためではないか、と思う。
 家族の愛情などというものは、一種の形式的な義務のようなものだ。そんなものを無視してはじめて、そんなものがあることに気がつく。少女時代に両親が離婚したときから、オリヴィアは父に同情し、ジョーンは母親に親しみをおぼえるようになったのかも知れない。

 私は、残念ながら、オリヴィア・デ・ハヴィランドのような女優に関心がなかったし、ジョーン・フォンテーンにも女優としての魅力を感じなかった。ただ、オリヴィア・デ・ハヴィランドが、100歳を越える長寿をまっとうしたことに感動した。

2021/01/03(Sun)  1887

 デカルトのことば。

 コギト・エルゴ・スム。

 これは誰でも知っている。

 ヴァレリーは、これをいい変えた。

   ときに、私は考える。ゆえに、ときに私は在る、と。(「レオナルド・ダ・ヴィン
   チ」の補注)

 あの謹厳なヴァレリーが、まじめな顔をしてこんなことをいったのだろうか。ヴァレリーの真意をはかりかねたが、あとあと、思わず笑いだした。
 そのときから、デカルトのことばを思い出すと、いつもにやにやしたものだ。やっぱり、ヴァレリーはすごい。

 これを、「ときどき、私は考える。ゆえに、ときどき、私は在る」、と訳したらどうだろうか。

 今の私は、「たまには、私も考える。ゆえに、たまに、私は在るだろう」と考える。

 これを読んだ誰かが、あとあと、思い出してはにんまりしてくれるといいのだが。

2020/12/25(Fri)  1886 マルセル・マルソー 3
 
 私はすぐに教室にもどった。学生に本日の授業は中止して、フランスのマルセル・マルソーという役者の公演を「見学」に行く。希望者はこれから私といっしょにすぐに劇場にむかうこと。
 学生たちのなかには、そのまま帰ってしまったものもいた。
 こうして、私たちはゾロゾロそろって校外に出た。駿河台下から丸の内まで、歩いてもたいした距離ではない。まるで、小学校生徒の遠足のようにうきうきした気分で歩いて行った。

 予想した通り、劇場は――多目的ホールといった程度で、小規模のピアノ・リサイタル、あるいは、小編成の管弦楽団の公演などに使われる規模のものだった。

 キャパシティーは300。観客席はやっと三分の一程度、閑散とした雰囲気だった。

こんな小さなコヤも埋まらないのか。
 私たちが席についてから、しばらくして、女子大生らしい集団がやってきた。おそらく主催者側が、急遽、手配をしたらしい。劇場に華やかな雰囲気がひろがってきた。
 この劇場に近い大学、たとえば、共立女子大、文化学院あたりの教務課に連絡したものだろうと私は想像した。劇場は、開演5分前にほとんど埋まった。

 こうして、マルセル・マルソーを見たのだった。

 イタリア中世のコメディア・デッラルテ以来の伝統芸を身につけた創造的なマイム、ミミックリーだった。この日の私は、スタンダップ・コメディアンではなく、俳優のマイムという肉体表現がどれほど創造的であるかを見届けた。それは、まさにテアトラリザシォンの基本ともいうべきものだった。

 どちらが優れているか、という技術上の問題はさておいて、ジャン・ルイ・バローが、夫人、マドレーヌ・ルノーと、一緒に舞台の名優として知られているのに対して、マルセル・マルソーは、いつも単身、ひたすらマイムだけで、人間の残酷さ、冷たさ、おかしさ、笑いを描きだす。

 私はそれまで一度も見たことのない「芸」を見たのだった。

 チャプリンと、バローの、中間に立っている。フランスのエスプリ。
 チャーリーのようにすばらしい喜劇役者のもつ動きと、熱、すばやい反射作用、躍動するトーン。そのなかに、対象とする「ダビデ」と「ゴリアテ」のコントラスト。
 私は、その一つひとつに笑いながら、マルセル・マルソーが、笑っているわたくしたちに対する適度なシニスムを感じたのだった。マイムを演じることは、一瞬々々に、その瞬間の自分自身を発見すること。

 現在の大型サーフボードほどのボード1枚を立てるだけで、右に「ゴリアテ」、左に「ダビデ」。そのボードに身を隠す。つぎの一瞬に「ダビデ」と「ゴリアテ」が、マルソーの内部において置換する。まるで、吉原の幇間が見せる「芸」のようだ。

 しかも、マルソーの内部には、多数の登場人物がいる。
 カロの描く絵の女たち、クリシーやその近郊のパリ・ミュゼット。犬を散歩させるブルジョアの奥さん。カーパと短剣で牛に立ち向かってゆく闘牛士。

 私は、それまで一度も見たことのない「芸」を見たのだった。サイレント映画とおなじようにことばはない。しかし、まったく無言(ムエット)なのに、その「芸」は、はるかに雄弁だった。
 私は、マルセル・マルソーのマイムに感動した。  

 舞台が終わって、カーテンコールがつづく。
 マルソーは、声を出すことはない。しかし、アンコールもマイムで――東京での初日が成功に終わったことに、心からの感謝を表現していた。

 
観客は心からマルセル・マルソーに称賛の拍手を送った。マルセル・マルソー自身も、東京の初日が想像以上の成功裡に終わったことに感激していたと思う。何度も何度も、拍手にうながされて、最後には満面の笑顔で舞台ハナに出てきて、即興のマイムで観客に挨拶を送った。

 おそらくマルセル・マルソーは、東京の初日、無料で招待された観客がほとんどだったことは知らなかったに違いない。むろん、これは私の推量、忖度(そんたく)にすぎないが、主催者側は、前売りのチケットが売れず、思わぬ不入りをマルセル・マルソーに知られまいとして、いわばラスト・リゾートとして、劇場にちかい距離の大学をさがして、観客をかき集めるという苦肉の策に出たものだろう。

 当然、このことはマルセル・マルソーにも伏せたのではないかと思う。

 後年、ブロードウェイで毎晩のように芝居を見たが、しばしば劇場の前でティケットを売っている若い男女をみかけた。「フリンジ」(オフ・ブロードウェイ)の芝居で、自分たちも舞台に出ている役者たちだったのだろう。
 そういう光景を見たとき、私はマルセル・マルソーの東京初日を思い出した。

 その後のマルセル・マルソーは、日本でもひろく知られるようになって、二・三度、東京で公演している。私はチケットを買って見に行った。このときのマルセル・マルソーは、世界的に有名なマイム役者になっていた。いつも満員で、劇場が観客を無料で動員することもなかったはずである。

 マルセル・マルソーの東京初演のことなど、このブログで書かないほうがいいと思った。しかし、こうして書いておけば、「戦後」の私たちのフランス演劇に対する無知がいくらかでも想像できるかも知れない。
 私たちの「戦後」にこんな風景があったことも。

2020/12/23(Wed)  1885 マルセル・マルソー2
 
 ある時期から私は明治大学の文学部の講師をつとめていた。
 プレゼミと「小説研究」というクラスで、私としては、アメリカの大学にある「創作コース」Creative writing course のような講義をめざしていた。
 まだ全国の大学で学園紛争が起きるようなことはなく、私のクラスは、いつも4、50人の学生が出席していた。
 当時の私は、生活のために翻訳を続けていたが、一方で、「俳優座」養成所でアメリカの劇作家を中心に講義をつづけ、やがて演出家をめざしていた。したがって、「小説研究」と称して、学生たちに小説創作を中心にした講義をしようというプランは、あながち不自然なものではなかった。
 ただし、この企ては私の能力の及ぶところではなく結果としては失敗に終わった。

 ある日、教務課から急に連絡があった。
 日頃、教務課から呼び出されることなどなかったので、さては自分の行状に落ち度でもあったか、学生たちがなんらかの理由で私の講義をボイコットしようとしているのか、などと心配しながら教務課に急いだ。

 思いがけない話があった。
 当日、ある劇場で、マルセル・マルソーというフランスの役者が公演するのだが、チケットの売れ残りがあるので、劇場側から大学生を無料で招待したいと打診してきた、という。ただし、開幕まで時間が迫っておりまして。
 この話はほかの教室、法学部、経済学部や、商科の学生ではなく、文学部、それも私の「小説研究」に話があったという。

 大学側としては、変則な授業の一環として、見学というかたちでこの提案を受けるかどうか、中田先生は「俳優座」の講師もなさっているお方なので、ご相談もうしあげます。
 先生のご判断によりますが、その日の講義を中止して、クラス全員で劇場に行っていただけないか、という。

 私はマルセル・マルソーという俳優を知らなかった。
 パントマイムの役者という。マルセル・マルソーは、はっきりいって、日本ではまったく知られていない。

 思いがけない話を聞いて驚いたが、私はすぐに承諾した。

 チケットが売れなかった理由は――マルセル・マルソーの知名度が低かったこともあるが、会場の地理的な場所のせいもあった、と思われる。
 公演といっても、現在の「三菱一号館美術館」の近くのビルなどではなく、財界人の講演や、規模の小さいシンポジウムなどが行われるようなコヤだった。      

2020/12/21(Mon)  1884 マルセル・マルソー1
 
 たくさんの舞台を見てきた。
 ある舞台に、それなりに忘れられない、強い感動がある。だが、舞台で演じられた「芸」に感動したこととは、べつの感動があって、忘れられないものになった舞台もある。
              
 マルセル・マルソー。

 おそらくは、もう誰もおぼえていないフランスのパントマイム役者。

 パントマイムについて語ろうというわけではない。
 ただ、マルセル・マルソーは、エチエンヌ・ドクルー、ジャン・ルイ・バロー、ジャック・タティと並んで、コトバに頼らない純粋のマイム、ミミックリーで、優美なドラマを現出した役者だったことだけでいい。
 サーカスの道化だって、パントマイムで観客を笑わせるぐらいの「芸」を身につけている。

 ジャン・ルイ・バローのマイムは、映画、「天井屋敷の人々」で見せたように、マイムでひとつの物語をみせる。これに対して、マルセル・マルソーは、先輩のマイム役者の資質の、ある若干のものを、おのれの内部に発展させたひとり。
 バローのマイムが、優美な情景を描くのに対して、マルソーは短いが、もう少し起承転結をもった寸劇を展開する。たとえば「ダビデとゴリアテ」のようなレパートリーで。

 私がマルセル・マルソーを見たのは、まったく偶然だった。

2020/12/14(Mon)  1883
 

 この年(令和2年)、1月25日、メモをとっていた。

    中国、武漢市の新型コロナ・ウィルスのニューズ。武漢市は交通が遮断され、封鎖
    都市に指定されて、「ペスト」並の厳戒体制がとられている。今後、各地で、感
    染が急速に拡大すると懸念されている。すでに韓国でも感染者が出たし、日本で
    もついに2例の感染症患者が出た。
    中国、「人民日報」は、コロナ・ウィルスによる新型肺炎の感染が、1287人
    とつたえた。もっとも深刻な武漢市では、24日に15人が死亡し、国内の死者
    は計41人。新型肺炎は、ついにアメリカ、フランス、ネパールに波及した。フ
    ランスの感染者は3名。アメリカ、シカゴで感染確認、2名。

 それから、10カ月。悪夢のようなコロナ・ウィルス禍はつづいている。このメモを見
ると、まさか、これほどの災厄になるなどと予想もしていなかったことに気がつく。

 この頃、コッポラの「地獄の黙示録」(完全版)を見た。

 日本で公開されたヴァージョンでは前線の兵士慰問に派遣された「プレイボーイ」のバニーガールのシークェンス後半、レイプ・シーン、フランス人のゴム農園の家族のヴェトナム戦争批判のシークェンスがカットされていた。私は、そんなことも知らなかった。この映画をめぐって、いろいろな批評が出たが、大岡 昇平が、私の批評をとりあげてくれたことを思い出す。

 今、あらためて見直すと、完全版のカットが、「地獄の黙示録」批評に大きな歪みを与えたことがわかる。少なくとも、私の評価に影響を及ぼした。

 もう一つ、この映画のマーロン・ブランドの演技は、アカデミー賞(最優秀男優賞)に値しないという感じをもった。
 マーロン・ブランドは、「波止場」(54年)でアカデミー賞(最優秀男優賞)をもらっているし、「ゴッドファーザー」(72年)でもアカデミ賞(最優秀男優賞)を受けたが、彼は受賞を拒否した。「地獄の黙示録」では、アメリカ最高の俳優と評判になった。
 しかし、私は、やはり「ゴッドファーザー」の「ドン・コルネオーネ」のほうがずっといいと思う。

 そういえば、敗戦後の日本で、「運命の饗宴」(デュヴィヴィエ監督)が公開されたとき、W・C・フィールズの出たエピソードが全部カットされて公開されたことを思い出す。むろん、当時の日本人は誰ひとりそんなことを知らないまま見たことになる。
 だが、こんなことにも当時のアメリカの対日占領政策の裏が見えてくる。

 私が、このことを知ったのは、ずっと後年になってからだったが、検閲は現在のフェイクニューズとおなじなのだ。

2020/12/11(Fri)  1882
 
 エルンスト・グレーザーの小説を読む気になったのは、第1次世界大戦が起きた時代の、ドイツ側の状況を知りたかったからだった。
 緒戦の高揚した気分がさめると、少年たちの世代にだんだん厭戦気分がひろがって、それがユダヤ人種に対する差別や迫害に形を変えて行く。
 現在の新型コロナウイルスの感染拡大にそのまま重なるような部分もあった。

    戦争のことなど殆ど忘れてしまった。戦死者のおそろしい数字にも慣れてしまっ
    た。当然のことだと思ふようにもなった。
    ハムを略奪することは、ブカレストの陥落よりも、もっと面白かった。そして一
    俵の馬鈴薯は、メソポタミアでイギリス軍を全部捕虜にしたよりも、もっと大切
    になった。 

    戦死は依然として私達の町を襲っていた。牧師は戦死の光栄を歌いつづけた。私
    達は沢山な寡婦を見るのも慣れてきたが、彼等に会うと、丁寧にお辞儀しながら、
    その数が増してゆくのにおののいた。
    また、一人の婦人が、守備よく夫の死骸を戦地から迎えて、町の墓地に埋葬する
    ような場合には、私達は沈黙と真面目さを装って柩車の後についていった。
    私達は個別に訪問して、使い残した僅かばかりの新しく発行された戦時公債に応
    募するように勧誘状をくばったりした。婦人達はそれに応募した。公債の応募が
    多ければ多いほど、夫達も早く帰国してくれるだろうと思ったのである。

    戦争というものは、恐ろしい災厄だということがずっと前からわかっていた。戦
    線の兵士たちでさえ、負傷したときはうれしがった。もはや、人々の間には、一
    致団結というものがなくなっていた。飢餓がそれをきれいに破壊してしまった。

    誰も彼も、隣人が自分よりも食料品を沢山もっていないか、疑い深い目で詮索し
    た。出征をまぬがれるためにあらゆる手段を用いたものは、ごまかしやと言っ
    て嘲られた。けれども、彼等自身がやはり生きていたいからそうしただけだ。

 この小説が私の関心を喚び起こしたのは、これが1930年に書かれていることにある。やがて――ドイツに、ナチスが出現する。ヒトラーが、1933年の総選挙で第一党になる。フォン・ヒンデンブルグ元帥は、ヒトラーを首相に任命する。

 ミュンヘン・プッチ(一揆)から10年、ヒトラーが合法的に政権を握る。

 2020年は、おそらく歴史的に大きな転形期、社会的な激変の時代、気候の変化もふくめて文明の危機さえ予想される時代のはじまりとなる。

 エルンスト・グレーザーの小説など、もはや誰も読まないだろう。(ドイツ文学の優秀な翻訳家が改訳して、小説のタイトルを変えれば、まだ読まれる可能性はあるだろうが、そんな人はいないだろう。)

2020/12/09(Wed)  1881
 書庫に残っている本をさがして、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を見つけた。ほかによむものもないので読みはじめた。1920年代の、ドイツ反戦小説。ルマルクの「西部戦線異常なし」とほぼ同時期に書かれたもの。

 ルマルクの「西部戦線異状なし」は、昭和4年(1929年)秦 豊吉訳で、中央公論から出た。たしか、翌年、ベストセラーになったもの。翌昭和5年(1930年)には、当局の忌避にふれ、反戦小説として発禁になった。
 グレーザーの「1902年級」は、ルマルクの小説がベストセラ−になったので、すかさず翻訳されたと思われる。清田 龍之助訳。昭和5年6月、萬里閣書房刊。7月には6版が出ているので、ベタセラ−になったのか。

 この小説は、20世紀初頭に、固陋な学校教育をうけた世代、この時代にティーネイジャーだった世代を描く。
 カイザー・ウィルヘルム2世のドイツ帝国の繁栄のかげに、ユダヤ人に対するはげしい差別、蔑視がひろがっている。「私」はユダヤ人の少年と親しくなって、国家、社会の矛盾に目覚めはじめる。この部分はドイツ的な教養小説と見ていいが、おなじ世代のツヴァイクの遺作、「昨日の世界」のほうがずっとすぐれている。

 小説の後半は、第1次大戦の体験。西部戦線、ヴェルダン、ヴォーズで、英仏連合軍と死闘をくりかえし、国内には飢餓と爆撃の恐怖から厭戦気分がひろがってゆく。「私」は、恋人の少女の空爆死を見届ける。

 この小説について、トーマス・マンは、

    非凡な作だ。真理を愛する心と人生を洞察する力とが一貫している。

 という。おなじく、エリヒ・マリア・ルマルクは、

    洞察力の鋭さはただに文学として価値あるのみならず、我らが時代の歴史として
    大切な記録だ。

 そうな。また、アルノルト・ツヴァイヒは、

    この一巻を通読した者はみな一様にいふであらう。何故今までこれを読まないで
    いただろう。

 この本の箱(ブックケース)に印刷されたものをそのまま記録したのだが、私はこの人たちの推薦を妥当とは見ない。作品自体が残念ながらもはや死んでいる。

 私がそう思ったのは――日本語訳で読んだせいかもしれない。清田 龍之助の翻訳(昭和5年)がよくない。あらためて、ある時代の文学作品の翻訳のむずかしさについて考えさせられた。

 ほとんどの翻訳は、よくいって10年から15年しかもたない。鮮度が落ちる。
 読者層も変わってくる。

 時代によって、小説の読者の好みが変化すると見ていいのだが、ある時代の一般的な教育レベルによって読者の趣味がどこまで変化するか。
 私は、ゆとり教育などという教育方針によって、読書力が低下したと見ている。そういう教育を受けた世代は小説を読む習慣をもたないし、かつての良識ある、よき趣味(ボン・グウ)に目もくれないのは当然で、それまでの読者層が失われたと思う。

 チャイナ・コロナウイルスの世界的な感染のさなかに、1920年代の、ドイツ反戦小説を読む。まったく偶然だが、これからの小説、翻訳の可能性まで考えてしまった。

2020/12/05(Sat)  1880
 
 これは、前に書いたと思うが、コロナ・ウイルスの感染拡大で、ヨーロッパが大きな被害を受けはじめていた4月、テレビで見たわずかな光景が心を打った。

 イタリア・ミラーノ。外出禁止令が出たために、市中には誰ひとり姿をみせていない。

 私が、イタリアで見たのは、まったく違うミラーノだった。誰ひとり市民の姿がない。絵ハガキのようなショットのなかに、ただひとり、有名な歌手が立っている。
 
 ボッチェッリだった。

 まるで、死の街と化したようなミラーノ。
 だれひとり観客のいない大聖堂の広場で、ボッチェッリが「アヴェ・マリア」ほか5曲を独唱した。それをニューズとして流している。

 時間としては、ほんの数分だろうと思う。
 久しぶりにボッチェッリを見たが、容貌はすっかり老人で、別人のようだった。
 私は、そのボッチェッリの姿に、感動した。歌よりも何よりも、ボッチェッリがまったくの無観客の広場に立っている。そのことに胸を衝かれた。このとき、ボッチェッリの胸に何がよぎっていたのか。

 これもテレビで見たのだが、「封鎖都市・ヴェネツィア」。2月、カルナバーレで賑わうヴェネツィアは、コロナ・ウイルスについて誰ひとり知らない。この時期の感染者、ゼロ。死者、ゼロ。
 だが、突然、コロナ・ウイルスの感染爆発が起きる。カルナバーレも、あと2日を残して中止される。こんな事態は、ヴェネツィア人のかつて知らない異常な事態だという。

 ボッチェッリのシークェンスにつづいて――南米コロンビアで、男女の外出禁止。これもコロナウイルスの感染拡大を防ぐため。ボゴタ市内のショット。公園の広場、男たちが2、3人、ベンチでぼんやりしている。
 ボゴタ在住で、私のブログを読んでくれた日本人がいた。なつかしい思い出のひとつ。

 2020年4月。日本人女性で、ミュージカル、「ミーン・ガールズ」の舞台に立っていたリザ・タカハシの証言。
 ブロードウェイは、「アラジン」、「プロム」などを公演していた劇場すべてが中止。2月には、まだオーディションが2,3あったが、3月から皆無になった、という。

 私は、ブロードウェイで、ストレート・プレイやミュージカルを観に、夜の雑踏のなか劇場までいそいだことを思い出した。そのブロードウェイに、ほとんど人の姿がなかった。私は暗然とした。

 ブロードウェイでさえこうなのだから、西海岸の劇場、公共劇場、各地を動いているトゥアー公演も、ほとんどが公演中止に追い込まれているだろう。
 こういう状況で、いちばん先に生活に困るのは、いつも多数の舞台関係者、芸術家たちなのだ。
 その後、感染はますますひろがって、大統領選の1カ月前に、トランプ大統領も感染するような事態を迎えた。
 2020年10月10日、ブロードウェイの劇場は、すべての公演中止を、来年5月30日まで、延長することが決定された。今年3月中旬にはじまった劇場閉鎖は、ついに1年以上におよぶことになった。
                  
 ブロードウェイの関係者は、およそ9万7千人。経済効果は、年に148億ドル。日本円にして、約1兆5600億円。
 この災厄は、アメリカ演劇史に残るだろう。

2020/12/01(Tue)  1879
 
 「モンテーニュ通りのカフェ」(ダニエル・トンプソン監督)を見た。
 ひょっとして、「日経」の記者だった吉沢 正英といっしょに見た映画だったかも知れない。

 先輩の宮 林太郎さんはこの映画を見なかったと思う。
 パリが好きで、私を相手にパリのことを倦むことなく語りつづけた人だった。そういう人にこそ、この映画を見せたかった。

 エッフェル塔、ジョルジュ・サンク、シャンゼリゼ。私は、オテル・リッツからヘミングウェイ、アヴェニュ・モンテーニュからジュヴェの「シャイヨの狂女」を想像しながら見た。       
 この映画に出ている俳優、女優たちを私はまったく知らないのだが、ヒロインの「ジェシカ」をやったセシール・ド・フランスがいい。それに、女優の「カトリーヌ」のヴァレリー・ルメルシェが、映画のなかで舞台劇のフェイドーをやっている。これで、セザール賞の助演女優賞。アメリカの映画監督、シドニー・ポラック、ノン・クレジットで、ミシェル・ピコリが出ている。ついでながら、ジュリエット・グレコが、再婚した相手。

 この映画に出ているクロード・ブラッスールは、父がピエール・ブラッスール、母がオデット・ジョワイユー。これだけでも、私にはうれしい映画。

 テレビで美少女を見た。トラウデン直美という日独ハーフ。京都生まれ、京都育ち。引っ込み思案の美少女が、13歳からグラヴィア・モデル。父は京都大でドイツ語、文学を教えている。14歳、同志社国際高校に入学。引っ込み思案で英語がしゃべれなかったのがコンプレックス。慶応、法科に入学。「CanCan」の専属モデル。ファッション・モデルになる。スキニー・パンツが苦手。報道系の番組のキャスターとして登場する。ネットで買ったバッグ。消せるボールペン1本。イヴ・サン・ローランの口紅1本。リップ・クリーム。クロエの財布。コストコのカード。所持金、3万円。質実な性格。「くろ谷さん」の絶景。花柄の古着。キラキラしているようで、しっとりした感じ。値段も半額。食レポ。
 「天下一品」のブタ重。そして、マッシュポテトをおかずにして白飯にまぜるドイツふうの和食。
 こういう番組はあまり見ないのだが、この少女のキャラクターがおもしろい。
 午後、これも美少女、アリーナ・ザギトワのドキュメント。ザギトワは、19年12月、突然、選手活動を休止すると発表した。私も残念に思ったひとり。当時、15歳のアンナ・シェルバコワ、アレクサンドラ・トルソワ、16歳のアリョーナ・コストルナヤが登場して、ザギトワはふるわなかった。日本では、浅田 真央引退のあと、やはり17歳の紀平 梨花が登場している。
 ザギトワは、かるがると4回転をこなす年下の選手に敗れて、12月のグランプリでは最下位に沈んだ。平昌の冬季オリンビックで優勝したザギトワとしては、屈辱的な敗北だったに違いない。

 久しぶりにテレビで見るザギトワは美少女だった。内面の苦悩は見せないが、自分でも明るくふるまっている。それが、かえっていたいたしかった。メドベージェワのようにカナダに移ってスケートをつづける選手もいるが、若いだけに、輝かしい未来が待っているだろう。人生はスケートだけではない。といより、スケートから始まった人生と思えばいい。

2020/11/29(Sun)  1878
 
 礒崎 純一著、「龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝」を読みはじめた。
 すごい大作で、読み終えるのに、3日もかかってしまった。思いがけないことに、私の名前は7カ所出ている。澁澤君と同時代に生きただけに、少年時代から「戦後」すぐの彼の環境に、どこか重なりあうような気がした。むろん、私の身勝手な思い込みだが。

 私が澁澤君の交誼を得たのは「血と薔薇」からだが、礒崎 純一は、

    それまでの澁澤の交友関係からみてめずらしい部類に入るのは、植草甚一、中田
    耕治、堀口大学、杉浦明平、高橋鐡、川村二郎、倉橋由美子、野坂昭如、武智鉄
    二といったところか。特に、中田耕治と植草甚一を執筆者に選んだことを、澁澤
    は得意に思っていたらしい。  (P.277)

 と書いている。
 わずかな記述だが、これだけでも、「血と薔薇」の時代がよみ返ってきて、感慨をあらたにした。なつかしい澁澤君。

 私は、ある時期からまったく文壇のひとびとと交遊しなくなった。(できれば、いつか、その事情についてブログに書くつもりだが)。

 いつも孤立していた私などは、澁澤君の交友関係からみてめずらしい部類に違いない。逆に、澁澤君が、私を「血と薔薇」に誘ってくれたおかげで、この評伝に登場する種村 季弘、松山 俊太郎、加藤 郁也といった当代きっての特異な文学者たちを知ることができた。

 今や、これらの人々のことごとくが鬼籍に入っている。

2020/11/22(Sun)  1877
 
 コロナ・ウイルスの災厄が拡大の一途をたどっていた2020年夏。

 ミレッラ・フレーニの訃報を知った。84歳。            

 オペラ歌手としても異例の高齢で、70代になっても歌いつづけていたひとり。

 私はミレッラよりもテバルデイやコソットのほうが好きだったが、それでもミレッラはよく聞いた。「ラ・ボエーム」の「ミミ」だけでも10回は聞いた。

 ミレッラはマリア・カラス以後のオペラを代表し得たと思う。ともあれ、こうして私たちの生きている船の航路からまたひとりの芸術家が姿を消した。

 このブログを書きはじめた頃の私は幸福だったし、けっこう多忙だった。頭の中にはいろいろと書きたいことがいっぱいあった。
 ところが、コロナ・ウイルスの感染者数が、世界的にひろがるにつれて、もの書きとしての自分の過去、たいした作品も書けなかった自分の思い出ばかりが気になるようになった。
 妻と死別したあと、それに続くごたごた、さらに、私が作家としてなんとかやっていけるようになるまで、私と亡妻、百合子をいつも応援してくれた義姉、小泉 賀江が他界したこと、こうした思い出がひしめきあって押し寄せてきた。
 大げさにいえば、寝てもさめても心にひしめきあっているようだった。

 いつもそんな状態だっただけに、「SHAR」の仲間たちや、渡辺 亜希子から、ヴァレンタイン・チョコレートをもらったのはうれしかった。

    先月、寒中見舞で安東さんのことを知り、本当に驚きました。
    安東さんと初めてお会いしたのは、先生の授業の時でした。
    大学卒業後はネクサスのイベントでお会いする程度でしたが、前のイメージのま
    まだったので、今回のことは言葉を失いました。中田先生はどれたけショックだ
    ったろうと思い、心配しています。(後略)

 ありがとう、亜希子さん。本人も不治の病と覚悟していただけに安東君の訃にショックを受けたわけではない。ところが私は安東君追悼の文章も書けなくなっている。

 このことのほうがショックだった。

 なにしろ老齢の作家なのだから、創造力が枯渇するのは当然というもので、それは仕方がない。しかし、ブログを再開したとき、自分の書くものが、やたらに長いものになっていることにあきれた。かつての集中力がなくなっている。

 それに気がついたせいか、このブログも書けなくなってしまった。われながら不甲斐ない次第としかいいようがない。この文章もその例。

 毎日、コロナ・ウイルスのニューズを気にしながら、音楽を聞いたり、DVDで、昔みた映画を見直したりしていた。そのため、このブログも、音楽や古い映画のことが多くなっている。

 何しろ、新刊の本が読めない。行きつけの古本屋は廃業してしまった。図書館も閉鎖されている。
 そんなとき、岸本 佐知子が贈ってくれた、ショーン・タンの絵本や、リディア・ベルリンの短編集、エッセイ集、「ひみつのしつもん」を、何度も読み返した。おなじ著者のおなじ本をこれほど熱心にくり返して読み返したことはない。

 ミレッラ・フレーニが亡くなったので、CDを聞いて彼女を偲ぶつもりだが、今日はビデオもCDも探せないので、せめて明日、「椿姫」を聞くことにしよう。

2020/11/12(Thu)  1876 東山 千栄子(4)
 
 俳優の「芸談」を読む。                          
 「戦後」、いろいろな女優が「芸談」を残している。たとえば、水谷 八重子(といっても現在の水谷 八重子ではなく、守田 勘弥<十四世>の夫人だった水谷 八重子の)「ふゆばら」という随筆。杉村 春子の「楽屋ゆかた」、高橋 とよの「パリの並木路を行く」、柴田 早苗の「ひとりも愉し」、映画スターだった入江 たか子の「映画女優」といった随筆。
 もう、誰も知らない女優たちの著作で、おそらくゴーストライターの書いたものも含まれている。内容的には、読むに耐えないものもある。

 そのなかで、東山 千栄子の「新劇女優」は、自分の手で書きつづった文章で、この女優の誠実さが感じられる随筆だった。
 何度かくり返して読んだ。

     私たちのうちのある型の俳優は、役をうけとったときに、どの場処をどう生か
     してどのように効果をあげるべきかということを敏感に計算して、そこから
     出発します。ある型の人たちは、まず自分の方に役をひきよせます。自分の持
     っている個性的な素材でいかに処理して行くかというところに表現の出発点を
     おくのです。けれども、私はそのどっちのみちからもはいっていけないやっか
     い(傍点)な型に属しているらしく、いつでも永字八法からのお手習いです。
     全体を全体としてうけとり、全体として処理して行く――それが、私の不
     器用な、唯一の方法です。
     私は、私としてもっとも誠実な道を進んで行くほかはないのです。
     劇場というところは、誠実をわかち合うための場処――そう私は信じていま
     す。今日、私たちにもっとも必要なものの一つではないでしょうか?

 私は、こういう東山 千栄子が好きだった。こういうことばは、やはりたくさんの舞台でたくさんの「役」を演じてきた女優のたじろがない自負心、と同時に、三十なかばになって、はじめて舞台女優をめざしながら、いつも初心を忘れなかった東山 千栄子の孤独さえ感じるのだ。

 このブログを書いているときに、女優、竹内 結子の訃を知った。このとき、私は、東山 千栄子のエッセイの結びのことばを思い出した。

     今度の稽古中の悲しい出来ごとは、公演を九日前にひかえての堀阿佐子さんの
     突然の自殺でした。あの方がはじめて舞台を踏まれた時から私は文学座で存じ
     上げていますだけに、私は悲しさをひしひしと感じるのです。どうぞこの「フ
     ィガロの結婚」が成功してせめてあの方の霊を慰めてあげることが出来たなら
     ば……そう心にいのりながら私は毎日の舞台を踏んでいるのでございます。

 1949年5月、ボーマルシェの「フィガロの結婚」がピカデリー劇場で上演された時期に書かれた。堀 阿佐子は「文学座」の若い女優で、「戦後」もっとも属目されていた女優であった。私は堀 阿佐子と直接のかかわりはまったくなかったが、彼女が自死を選んだ若干の事情は知っていた。むろん、ここには書かないが。

 「戦後」、まだまだ混乱が続いていた時期で、毎日のように悲惨で、陰惨な事件がつづいていた。そうした混乱のさなかに自殺した堀 阿佐子の死を「俳優座」の東山 千栄子が悼んでいる。

 いまさらながら東山 千栄子の誠実に胸を打たれる思いがあった。

 コロナ・ウイルスという災厄のなかで、私たちは、三浦 春馬、藤木 孝、竹内 結子の死を知らされた。このひとたちが、東山 千栄子を知っていたら。
 
 もとより、愚かな思いと承知している。だが、私はひそかにつぶやくのだ。
 俳優や女優は、「役」として以外に死を選んではならぬ、と。

2020/11/08(Sun)  1875 東山 千栄子(3)
 
 はじめて東山 千栄子が復活したのは、戦後すぐ(1945年12月)の「桜の園」だった。東山 千栄子の「ラネーフスカヤ」である。戦後の私は、3度の戦災で、ひどく窮乏していたから、「桜の園」東劇公演の印象は、まるではじめて「宝塚」でも見たような、まるで夢でも見たような気がする。その後の「桜の園」の印象と重なりあったせいか、全体の印象もぼうっとしているが、東山 千栄子のラネーフスカヤだけは、あまり何度も見たせいか、照明のゼラチン・ペーパーを何枚も重ねたように、その印象がくっきりと浮かびあがる。

 そうなると、たとえば、岸 輝子の「カーロッタ」はどうだったか、とか、何幕何場の楠田 薫はどうだったか、三戸部 スエとは、ここでどう動いていたっけ、などといろいろと思い出す。

 戦後の翌年の3月、ゴーゴリの「検察官」の東山 千栄子もよく覚えている。それも、へんなことで。

 幕があがって、市長夫妻が町の名士たちと登場する。和気藹々とした雰囲気でそれぞれが大きな食卓につく。ここで、皇帝陛下の「検察官」が、何の前ぶれもなく、この小さな街の視察にやってくることが知らされて一同に衝撃が走る場面だが、食卓にむかって、10人ばかりが腰をおろす。

 最後に若い俳優が席につくのだが――椅子がない。
 大道具方の手違いだったのか。
 その俳優は自分の居どころがわからないので、ウロウロと椅子の位置に目を投げる。
 みんなが着席しているのに、若い俳優ひとりが立ち往生している。出トチリである。

 若い俳優がうろたえているのは、観客にもわかった。はじめは、誰しもそういう演出なのだろうと思ってみている。しかし、1秒、2秒、3秒と、時間がたって、さらに数秒も過ぎれば、この役者がなんらかの事情でトチったばかりか、そのトチリで芝居の流れがとまったことぐらい、観客にも見えてくる。
 ありえないトチリだった。
 観客席の私は、自分までがあわてふためいて椅子をさがしている役者になったように、息をのんでみていた。同情する、とか、軽蔑するといった感情ではなく、この役者がどうしていいか、冷や汗をかきながら必死にうろたえている姿を見ていた。「必死にうろたえている」というのもおかしな表現だが、私自身が「必死にうろたえて」いた。
 
 さらに数秒たった。
 と、食卓の中央に座った東山 千栄子(市長夫人)が、席から立ちあがって、その役者に優雅に会釈しながら、羽飾りのついたやや大ぶりの扇を動かした。隣りにいた俳優が、腰を動かして、若い俳優を着席させた。つまり、一つの椅子にふたりが着席したことになる。この役者は、若い役者より先輩だが、まだ中堅俳優ともいえない永井 智雄だった。

 ようやく、ドラマが動きはじめた。とりとめのない思い出だが、私の内面に、この舞台の東山 千栄子の姿が刻みつけられている。

 コロナ・ウイルスのニューズの氾濫している新聞に、東山 千栄子を詠んだ俳句が載っていた。この俳句から、これまたとりとめのないことを書く。

2020/11/05(Thu)  1874 東山 千栄子(2)
 東山 千栄子は、明治23年、千葉生まれ。

 父は、千葉地方裁判所の所長だった。のちに、朝鮮の京城高等法院長になる。
 千栄子は、10歳のとき、母方の寺尾家の養女になる。養父は、当時、東大で、国際法の教授だった。
 明治36年、千栄子は、麹町の富士見高等小学校2年のとき、学習院の入学試験を受けた。1年の合格者のなかに千栄子の名前はなく、2年に編入された。千栄子を1年に合格させたのでは、学力があり過ぎて、他の生徒がこまることを心配して、とくに2年に編入されたという。

 当時の学習院は、下田 歌子が校長だった。

 学習院女学部は、上流の子女ばかりで、小笠原流の作法、西洋料理の食べ方、ダンスなどをきびしく躾けられた。母の希望で、フランス語、華道、琴などを習った。

 18歳で結婚。貿易商だった夫にしたがってモスクワに移る。20代の8年間に、帝政ロシアの最後の日々を過ごしたことは、その生涯に決定的な意味をもった。モスクワ芸術座の芝居や、オペラ、バレエ、イタリアの絵画などに親しむ。小山内 薫を知る。

 帰国して、「築地小劇場」の「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー/大正13年)を見て、女優になろうと決心する。36歳。小山内 薫に相談して、研究生に合格する。同期に、滝沢 修、伊達 信、岸 輝子(のちに、千田 是也夫人)、村瀬 幸子がいた。

 東山 千栄子は、ほかの女優と違ったところがある。女優になりたいと思って「築地小劇場」の研究生になったのが、そろそろ中年に近い年齢だったこと。その前に、ロシアのモスクワで、たくさん芝居を見ていたこと、フランス語、ロシア語に堪能だったこと。
 体型が大柄で、ややでっぷりしていたこと。生まれつきアルト系の、どちらかといえば、甘ったるい、歌うような声だったこと。
 こういう女優は、岸 輝子や、村瀬 幸子などのもたないものだった。

 女が女優として生きることが恥ずべきことと思われた時代に、はじめから別格の、名流夫人の登場といった感じがあった。それだけに、ヨーロッパ、アメリカの芝居を、東山 千栄子ほど多数演じた女優はいないだろう。
 
 オニール、ボーマルシェ、シェイクスピア、イプセン。

 「築地小劇場」の観客は、東山 千栄子の芝居を見ることによって、かなりの程度、外国の劇作家の仕事を勉強してきたはずである。その意味で、東山 千栄子は、彼女より前の世代の女優たち、松井 須磨子、藤沢 蘭奢、沢 モリノなどより、ずっと有利な条件で女優として出発している。

       
 なにかのことで、ふと東山 千栄子を思い出すことがある。
 そういうときの私の内面には、千田 是也、小沢 栄(栄太郎)といった幹部たちよりも、少し格下の松本 克平、信 欣三、永井 智雄、浜田 寅彦、田島 義文たち。女優としても、岸 輝子、村瀬 幸子よりも、赤木 蘭子、楠田 薫、三戸部 スエたちの思い出がよみ返ってくる。
 いつもその中心に東山 千栄子がいた。まるで東山 千栄子を触媒にして、つぎつぎにほかの人たちを思い出すようだった。

 なつかしい俳優たち、女優たち。もう、誰もこの人たちのことをおぼえていないだろう。だが、こういう人たち、それぞれが舞台のうえでかがやいていた。その思い出の中心に東山 千栄子がいるのだった。

2020/11/01(Sun)  1873 東山 千栄子(1)
 
 新聞にこんな一句が載っていた。俳人の長谷川 櫂の解説がついている。

      東山千栄子のやうな 衣被(きぬかつぎ)    今井 聖  

     チェーホフ「桜の園」のラネーフスカヤ、小津 安二郎「東京物語」の母親。
     たたずめばグランドピアノ、歩けば白い帆を張った帆船のように優雅だった。
     衣被(きぬかつぎ)を前にして往年の名優を懐かしんでいるのだ。句集「九月
     の明るい坂」から。

 衣被(きぬかつぎ)は、里芋の子を茹でたもの。指をそえて、少し力をいれると里芋の皮がつるりと剥けて、白い実が飛び出してくる。季語としては、秋。

 女優の名前がそのまま俳句に詠み込まれているめずらしい例。女優が愛されて、ここまで表現されていることに感動した。
 ゆくりなくも、この句とは関わりなく東山千栄子のことを偲んだ。

 1952年(昭和27年)、私は「俳優座」養成所の講師になった。内村 直也先生の推輓による。当時、日本は講和条約が成立して、日本人の海外旅行も自由になったばかりだった。ラジオ・ドラマの「えり子とともに」で、人気を得ていた内村さんは、1TI(国際演劇協会)の日本代表として、リドで開催される「劇作家会議」に出席することになった。ひきつづいて、「ユネスコ」の「世界芸術家会議」に日本代表として出席するため、後任の「俳優座」養成所の講師に私を推薦したのだった。内村さんは、主にアメリカ、イギリスの現代劇をとりあげて講義なさっていた。
 この頃、イギリスのプリーストーリーの「夜の来訪者」を訳していたはずである。これも、内村さんの代表作のひとつになる。

 一方、私は、「戦後」すぐに批評を書きはじめたが、まともな批評家にもなれず、ミステリーの翻訳をしたり、民間放送の仕事、ラジオ・ドラマや録音構成というドキュメンタリーや雑文などを書きつづけていたが、まるっきり才能のない文学青年だった。
 芝居はよく見ていたが、現実の舞台については何も知らない。「俳優座」で知っていたのは、青山 杉作だけで、それも私のラジオ・ドラマを演出した演出家というだけの関係だった。要するに、私は何も知らないまま、「俳優座」養成所の講師になったのだった。
 何も知らないだけに、「俳優座」養成所で、若い俳優志望者にどういう訓練をするのかぜひ見ておきたかった。(このときの経験は、後年、大学や「バベル」で教えるエデュカチュールとしての私を作りあげたと思っている。)

 講師になってすぐに、東山 千栄子に紹介された。紹介してくれたのは、千田 是也だった。                         

 当時、御殿場に住んでいた東山さんは、劇団には週に一度、顔を出す程度だったのではないか。この日は、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」の稽古があって劇団にきたのではないかと思う。
 「こちらは、今度、養成所で講義をお願いした中田先生です」
 千田 是也が紹介すると、東山 千栄子はにこやかな微笑を見せて、
 「若い先生でいらっしゃいますのね。養成所のほうでいろいろお世話になりますが、どうぞ、よろしくお願い申し上げます」                
 私はあわててお辞儀をした。このときの私は、ほんとうにラネーフスカヤ夫人に会ったような気がしたのだった。

 「俳優座」養成所で、若かった私は、臆面もなく、イギリスの風俗喜劇から、アメリカの30年代のミュージカル、「戦後」のアーサー・ミラー、テネシー・ウィリアムズあたりの戯曲について「講義」をつづけた。

 残念ながら東山 千栄子とは、舞台や放送の仕事でつきあう機会はなかった。


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