あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん

[HOME] [ワード検索] [過去ログ] [管理画面] [設定画面]
2018/07/17(Tue)  1762  〈1977年日記 9〉
 
                  1977年5月14日

 和田 芳恵さんから、新刊の「暗い流れ」を頂戴する。
 私は文壇作家の先輩をほとんど知らない。むろん面識はある大家はいるが、日頃、文壇人の集まりに顔を出したこともない。だから和田さんは、私の知っている唯一の文壇作家ということになる。
 和田さんの小説は、いつも練達の職人の仕事という感じで、ひたすら感嘆する。和田さんは、どういうものか私に好意をもって、本を贈ってくださるのだった。

 今日、コネコが死んだ。母親はシロ。うまれて2カ月。シロが子を生んで2日後に、ルミも、この子とおなじような白いメスを生んだ。だから、コネコたちは、まるで兄弟のように育った。
 このコネコは、なかなか活発で、この数日、ミルクを飲むようになっていた。昨日、ミルクをやったが、とてもよく飲んだ。そのあと、肉のアブラミをすこし食べさせた。これがよくなかったらしい。私が殺したようなもので、気分がよくない。
 庭の隅に埋葬してやる。

 夜、仕度して新宿に行く。
 予報では、今夜から海も山も大荒れになる。それを承知のうえで登山を計画したのだが、目的地は高尾に変更した。
 この日、10番線に集合したのは――安東 つとむ、「日経」の吉沢 正英、石井秀明、田中、中村、工藤。これに、大久保、原田、奥原、妹尾の4人。みんながすぐにうちとけて、今夜の登山にわくわくしていた。

 真夜中に登山するもの好きはいない。しかも、台風が接近している。
 私はわざとそういう悪条件の登山をみんなに経験させたかった。むろん、万全の準備をととのえている。初心者向きのコ−スを選んだ。
 10時15分から行動開始。暗いコ−スをひたすら歩きつづける。気温がぐんぐん下がってくる。みんなが黙々と歩きつづける。
 少し平坦な道にさしかかると、私は夜空を見上げ、山の稜線をたしかめ、闇の彼方に目を向ける。何も見えない。フラッシュライトの光を吸い込んだ闇からは、深い奥行きと、ぼうっとした輪郭が感じられるばかり。風が強くなって、いい知れぬうそ寒い恐怖にとらわれそうだった。
 深夜、コ−ス中腹の茶屋に着いた。茶屋は戸を閉めてカギをかけてある。外のテ−ブルに集まって、お茶を沸かしたり、各自、簡単な食事をとる。私はコッヘルでウドンを茹でて食べた。夜中に熱い肉ウドンを食べるのが私のスタイルになっている。
 1時半から4時まで睡眠をとる。寒いので、みんながテ−ブルに突っ伏して寝たが、私は茶屋の入口の近くに断熱シ−トを敷き、アノラックに新聞紙をつめて横になった。
 風が出てきた。みんな、一睡もできなかったらしい。

 闇はかぎりなく濃く深かった。あたりのもののすべてが形を崩され、影に変えられている。その影たちはくろぐろとした静寂(しじま)にそびえている。そこは、昼間のハイキングコ−スではなく、風雨の予感がみなぎった世界だった。無数の音が、梅雨前線にのみ込まれながら、刻々に危険な夜と化してしまったのだ。
 4時15分から、歩きはじめた。私は、気温の低下と、みんなの健康状態、疲労度に注意しながら、ときどき声をかけてやる。小仏峠に出たとき、とうとう雨が降りはじめた。

 雨のなか、きついコ−スを歩くのはあまり楽しくない。はじめての登山で、こんな風雨にさらされたら、誰しも二度と山に登ろうとは思わないだろう。しかし、私は、こんな平凡なハイキング・コ−スでも、歩き方によっては、別の楽しみが生まれると思っている。

 やがて夜明け。
 それは異様になまなましく、非現実めいた光景だったが、山ぜんたいに灰色の朝がひろがり、さらにはどしゃぶりに近い雨が降りそそぎ、容赦なく私たちを追い立てた。

 11時、私たちは美女谷温泉に着いた。みんなが歓声をあげた。
 ほかに誰ひとり客がいない。入浴する。学生たちも山麓の朝風呂をよろこんでいた。歩いているときは無口だった学生たちも、入浴したあとはすっかり上機嫌になっていた。
 こんな登山は誰ひとり経験したことがなかった。

 帰りの電車ではみんなが眠っていた。新宿に着いたのは3時過ぎ。

 この日、私はもう一つ、大事な仕事があった。
 宮 林太郎さんの出版紀念会だった。私はみんなと別れたあと、時間をつぶさなければならない。映画を見ようか。しかし、うっかりすると、眠りこけてしまうかも知れない。喫茶店でコポオのエッセイを読んだ。暇つぶしに。

 出版紀念会は盛会だった。出席者のほとんどは私の知らない同人雑誌作家ばかりだった。高齢の方が多い。私は、登山スタイルのまま出席したので気がひけたが、若杉 慧、佐藤 愛子のいるテ−ブルに案内された。おふたりは、私にもわけへだてなく話しかけてくれた。あとは、ほとんど知らない人たちばかりだったが、「小説と詩と評論」の森田 雄蔵さんがいたので挨拶した。
 閉会してから、別のテ−ブルに、友人の若城 希伊子さん、庄司 肇さんがいたことを知った。おふたりといっしょに「ポポロ」に寄って話をしたが、若城さん、庄司さんが相手なので、気づまりなことはなかった。若城さんと別れたあと、庄司さんは木更津に住んでいらっしゃるので、帰りは千葉までずっと話をつづけた。
 千葉で酒でも酌もうか、と思ったが、さすがに疲れていたので、千葉で失礼した。

2018/07/13(Fri)  1761 〈1977年日記 8〉

                1977年5月13日

 午後1時から、「東和」で「サスペリア」(ダリオ・アルジェント監督)の試写があるので、これを見たかったのだが、「牧神」の原稿(「アリス・ガ−ステンバ−グ」)に手こずったため、東京に出かけたのは2時過ぎ。
 「サスペリア」は、サ−カムサウンド・怪奇映画。「日比谷」、「渋谷東宝」、「スカラ座」の公開なので、「東宝」はよほど自信があるらしい。
 「ルノワ−ル」で、萩原君に原稿をわたした。このあと、「自由国民社」の鈴木君に会う。編集長(山本さん)と相談した結果、私は4本書くことになった。

 何を書くか、いろいろ話しあったせいで半端な時間になってしまった。試写は見逃すし、原稿は1本だけ。気分を変えるつもりで、「CIC」に寄ってポスタ−をもらうことにした。映画のポスタ−はサイズが大きいので、近くの「新評社」に寄って紐をもらった。映画の配給会社で、気に入ったポスタ−をせしめ、別の出版社でしっかり包装してもらう作家なんて、あまりいないだろうな。私は、あまり気にしない。斉藤 節郎君が、早川君を紹介してくれた。
 銀座の宵。さまざまな人の流れ。恋人たち。お互いにまだ気がつかない恋もある。お互いに感じているのに、気がつかないふりをしている恋もある。臆病な、それをはっきり口にしない恋。つまりは、私の恋。
 「イエナ」で本を買う。歩いて「ロ−リエ」に寄って、買ってきた本のフラップ。ざっと眼を通しただけで、おもしろそうな本の匂いがする。

2018/07/10(Tue)  1760 〈1977年日記 7〉
 
                1977年5月9日(木)

 快晴がつづく。
 本、雑誌など多数届いた。
 「二見書房」の長谷川君から電話。仕事の依頼。
 1時半、めずらしく「花輪」のおばさん(須藤 みさお)がきてくれた。わざわざ棟上げのお祝いにきてくれたのだった。義母、かおるの妹。ほんとうに純朴で、近所つきあいもせず、まるで少女のまま大人になってしまったようなお人柄。人見知りがはげしく、何につけ遠慮がちな老婦人。私が百合子につれられて挨拶に行ったときは、あわてて奥の部屋に逃げ込んで、百合子が何度か押し問答をして、やっと出てきたが、私の顔も正視せず、三つ指をついて頭を畳にすりつけるような老婦人だった。そのおばさんが、はるばるお
祝いにきてくれたのだから、こちらとしても恐縮するばかり。

 倉橋 由美子さんから新刊の「迷宮」を贈られたので、読後、お礼申し上げるつもり。


               1977年5月10日(金)

 百合子、大宮に行く。
 百合子は、いつも体調がすっきりしないので、私が与野の高原君に連絡して、大宮で待
ち合わせ、付添いを依頼する。
 11時45分、百合子といっしょに家を出たが、駅に着いてから、ガス湯沸かし器をつ
けっぱなしにしたような気がした。タクシ−で家に戻る。ガスは消してあった。待たせて
おいたタクシ−で駅に戻ったが、つまらない事で時間をロスした。
 途中までいっしょだったが、百合子と別れて、私は葛西に向かった。
 竹内君のマンションに寄って、お子さんと対面。可愛いお嬢さん。
 「山ノ上」(ホテル)で、「二見書房」の長谷川君に会う。仕事の話をすすめる。そこに、桜木 三郎君がきてくれた。桜木君は「プレイボ−イ」(5月24日号)に、アナイス・ニンの記事を書いてくれた。感謝。
 桜木君と話をしているところに、アメリカでエリカと会ってくれた松浦 ゆかりという少女がきてくれた。ゆかりさんは、エリカに、スラックスをプレゼントしてくれたのだった。すらりとした長身の美少女だった。桜木君がひやかす。
 「先生はいいですね、あんな美少女のガ−ルフレンドがいるんだから」

 大学の講義。
 熱心な学生が多いので、私の講義もうまく行く。こういうときの昂揚感は、芝居の演出をしていて、初日の幕をあげた瞬間、あ、この芝居、うまく行くぞ、と確信するときの気分に似ている。私の講義を聞きにくる石本や、安東夫妻も、私の気分に影響されて、いろいろと私の講義の内容を話しあう。
 工藤 淳子と食事をしながら話すことにして歩きだしたところで、鈴木 君枝と会った。ついでのことに、鈴木 君枝もつれて行くことにした。

 百合子は無事に与野に着いて、浦和の「北越銀行」から送金した。大宮に寄って、私の両親に会って、挨拶。そのまま、帰宅。
千葉に帰ってきてすぐに、「千葉銀行」から連絡があったという。
 「千葉銀行は、このところかなり気を使っているみたい」
 百合子がにんまりしてみせる。


               1977年5月11日(土)

 つぎの登山計画。メンバ−。

 石井 秀明、林 恵子、高瀬 悦子、大久保 清、栗林、妹尾 とき江。以上、電話。
 伊藤 康子、石井 謙、和田 実、諸橋君たちに電報。

 「二見書房」の長谷川君に、原稿。

 原 耕平君、原稿の依頼。10枚、25日。

 吉沢 正英君から電話。「白い家の少女」を褒めていた。ジョデイ・フォスタ−という少女が気に入ったからだろう、とからかってやる。この少女には何かがある。
 松島 義一君(集英社)から電話。6月、ロンドン、マドリ−ド、パリ、フィレンツェ、コペンハ−ゲンに行くという。パリで、中上 健次と会う予定。私はパリに行ったら、古賀 協子に会うようにすすめた。

 松山 俊太郎さんから電話。小栗 虫太郎のこと。戦争中に出版されたジュ−ル・ヴェルヌの「神秘島物語」のこと。松山さんは、「ユリイカ」(ヴェルヌ特集)に寄せたエッセイで、この小説を昭和18年に読んだと書いている。「国会図書館」の目録には、昭和20年(1945年)に、「神秘の島」という題名で出版の記録がある。ところが昭和18年には記載がないので松山さんは不審に思ったという。私が松山さんにハガキを寄せたので、この電話はその返礼。松山さんは、国学院大学で英語を教えるという。

 倉橋 由美子さんに礼状。

 「暗い旅」をめぐって、江藤 淳がいいがかりをつけて、盗作問題に発展したとき、私は倉橋 由美子さんに同情した。「暗い旅」が、ミッシェル・ビュト−ルの「心変わり」を模倣したと指摘した江藤 淳の内面には、やはりねじくれた劣等感がからみついているだろう。
 「暗い旅」は翻訳もある作品と類似した部分はあるにしても、作家自身が模倣したと認めているのだから、盗作などと呼ぶべきではない、と考える。私は何も発言しなかったが、暗黙に倉橋さんへの支持はつたわっていたと思う。

 シャトル、エリカから電話。百合子のアメリカ行きの日程をつたえる。

 私もアメリカに行きたい。できれば、アナイスを訪問したいと思う。しかし、つぎからつぎに仕事に追われている現状ではアメリカ行きは無理だろう。

2018/07/07(Sat)  1759 〈1977年日記 6〉
 
                1977年5月8日(水)

 新築の家の上棟式。
 百合子は朝から準備に追われている。大工たちは、朝8時から正午過ぎ、1時まで仕事をつづけて、ようやく棟をあげた。
 さすがに深い感慨があった。百合子の実家からいろいろな援助をうけた。家の新築を考えて、何度も施工者とやりあいながら、今日、ついに上棟式をむかえた。
 親族の一番乗りは須藤 泰清君。新婚のきぬ子さんをつれてお祝いにきてくれた。泰清君は、百合子の従弟にあたる。しばらく雑談をしたが、やがて、婦公、湯浅 泰仁、かおる夫妻が到着した。
 ふたりも上棟を心からよろこんでくれた。婦公は、おれの娘は断じて三文文士なぞと結婚させないと宣言して最後まで百合子と対立したが、周囲、とくに百合子の姉、小泉 賀江の説得に譲歩して、私と百合子の結婚にあえて異を唱えなくなった。
 その後、この家の新築を計画したのは、百合子の英断による。百合子は、このとき、「集英社」版の筆耕をすべて自分の手でやってくれたのだった。
 上棟式にいろいろな人が集まってくれた。
 2時頃、これも新婚の柴田 裕夫妻がきてくれた。私たちが月下氷人をつとめたカップルだった。結婚式の写真を届けてくれたので、百合子とふたりでよろこびあった。
 上棟式がはじまって、酒宴になる。歌を披露する連中もいる。私は、およそ社交的ではないので、こういう酒席はあまりありがたくないのだが、施主としてできるだけ神妙な顔をしていた。
 酒宴がたけなわの頃、いろいろな人から電話があった。思いがけない電話もあった。
 西島 大が千葉にきている、という。上棟式と知って、電話で祝意を述べただけで失礼するという。せっかくきてくれたのだから、百合子に会ってほしいと答えた。

 西島 大は、私と同期の友人で、内村 直也先生の弟子。「青年座」の創立メンバ−のひとりだった。私は、「青年座」で、西島 大の一幕ものを演出して、演出家としてデビュ−したが、その後、「青年座」が下北沢に稽古場を移したとき、「青年座」演出部を退いた。千葉から下北沢に通うことは、当時の私には無理だったからである。
 その後、西島 大は、映画のシナリオ作家として成功した。さらに、テレビ・ドラマ、ラジオ・ドラマを書いて、この10年、「青年座」をささえてきた。
 この日も、テレビ・ドラマのヒット・シリ−ズ、「西部警察」のシナリオを書くために、成田空港を視察しての帰りという。私が、千葉に住んでいることを思い出して、電話してきたのだった。

 私は旧知の西島 大と再会できることをよろこんだ。
 西島 大は、もともと小柄だったが、アゴヒゲをたくわえて、ちょっと、ヴエトナムのホ−・チンミンに似てきたようだった。
 西島 大はこれも旧知の女優、高橋 みつえといっしょだった。高橋 みつえは、内村先生が始めた「芸術協会」で、百合子と同期だった。百合子は、「芸術協会」を出てNHK、「文化放送」、「ラジオ東京」のドラマ、クイズの司会などに起用された。しかし、私と結婚したため、芸能界を去ったが、高橋 みつえは入れ違いにTBSと契約して、ドラマに出るようになった。美貌だったが、女優としては大成しなかった。
 昨年(1976年)から、銀座のバ−のママになっているという。
 私は西島 大と、百合子は高橋 みつえと話をつづけた。お互いに共通の友人だった矢代 静一や、山川 方夫の話が出た。
 西島 大は、こんなことをいった。
 「お互いに偉くなれなかったな、けっきょく」
 西島 大は、「青年座」付属の「俳優養成所」の所長になっていたが、本業の戯曲は上演されなかった。テレビでは、いろいろヒット・シリ−ズの台本を書いたが、所詮はシナリオ作家としてしか見られない。そんな自分を卑下して、自嘲めいたいいかたをしたらしい。
 私は、「そうだね」と答えた。

 西島 大がこういういいかたをしたのは、私に対するひそかな優越感のせいだった。テレビでヒット・シリ−ズの台本を書いているので、私に対して優越感をもちながら、こういういいかたをする。なぜかねじくれた劣等感がからみついている。
 (その後、何度か西島 大に会ったが、いつもきまって、「お互いに偉くなれなかったな、けっきょく」というのだった。 後記)
 私はにやにやしながら、いつも話題を変えた。私は才能のない作家だったが、自分を文学落伍者(リテ・ラテ)だと思ったことはない。もともと西島 大と競争するつもりもなかった。
 百合子もみつえといろいろ話をしていたが、お互いのあいだに流れた時間が埋められるはずもなかった。いろいろと浮名を流している銀座の雇われマダムと、たいして才能もないもの書きの女房に共通の話題があるはずもなかった。
 この日の、西島 大、高橋 みつえの来訪は、私と百合子の間で二度と話しあうことはなかった。

 義母、湯浅 かおる、義姉、小泉 賀江のふたりは、夜の8時まで残ってくれた。わが家の周囲でも、いろいろと変化が起きようとしている。この日、かおる、賀江、百合子が相談しあって、賀江の娘、小泉 まさ美もまぜて、女たちがそろってアメリカに行くことになった。エリカがアメリカに留学しているので、女たち5人のアメリカ珍道中ということになる。

2018/07/04(Wed)  1758 〈1977年日記 5〉
 
                1977年5月7日(火)

 ジュ−ル・ヴェルヌ。少年時代に、ヴェルヌを耽読した。
 とにかくヴェルヌはおもしろかった。ヴェルヌの何が私を魅きつけたのか。
 従姉のカロリ−ヌを愛した少年は、サンゴの首飾りを手に入れて贈ろうと考え、ひそかに家出を決行して「コラリ−号」に乗り込む。残念ながら、家につれ戻された少年は、母にむかって「ぼくはもう空想の中でしか旅をしない」といったという。
 少年時代の私は自殺を考えたことはあったが、家出など空想もしなかった。実現できない空想は、はじめから考えない少年だったに違いない。あるヴェルヌの研究者は、この事件に、後年のヴェルヌの作品の構造にかかわるカギがひそんでいるという。たとえば、マルセル・モレは、Coralie が Coraline の、そしてCorail とColier をアナグラムと見ている。こういう暗合から、ヴェルヌの現実の船旅への憧憬があった、というより、言葉の暗示への執着と、それがもつナゾへの挑戦という、より強い感情につき動かされたのではないか、という。
 へえ、そうなのか。少年時代の私が、ヴェルヌに熱中したのは、アナグラムに対する好み、ある言葉からすぐにべつの言葉を類推する性癖――ようするに、無意識にせよヴェルヌに似た傾向があったせいかも知れない。
 千葉に移ってきた頃、地名の「新検見川」に Hemingway、稲毛を Ingeと読む、アナグラムめいた趣向を考えて、メモに書きつけていた。私はアナグラムに特殊なこだわりがあって、カザノヴァのアナグラムなどを見ると、何とか自分の手で解いてみたいと思う。我ながらバカげた願いだが。

 「映画ファン」の萩谷さんに、原稿、書評2本をわたす。萩谷さんは、大学に在学中、「近代映画社」でアルバイトをしていたが、卒業後そのまま編集者として残った。おとなしい才媛といった感じ。映画ジャ−ナリストなのに、仕事が忙しくて、あまり映画を見る暇がないという。中田先生は、作家として小説を書きながら、芝居を見たり、コンサ−トに行ったり、映画の批評を書いたりして、多方面で仕事をなさっていますね。どうすれば、そんなふうに活動できるんですか。
 こういう質問にどう答えればいいのか。返事ができなかった。

 夜、「無法松の一生」(稲垣 浩監督)を見た。板東 妻三郎。
 戦争中に見たこともあって、この映画を見ているうちに、園井 恵子が広島で被爆して亡くなったことを思い出した。そして、丸山 定夫も。

2018/07/02(Mon)  1757 〈1977年日記 4〉
 
                1977年5月5日(日)

 午前中に、「ミセス日本・美人コンテスト」というプログラムを見た。
 審査員は、高峰 三枝子、和田 静郎、神和住 純、沖 雅也など。
 美人がつぎつぎに出てくる。どこのコンテストでも優勝圏内に入るような美女ばかり。そういう美女たちが篩にかけられて、最終審査に残ったのは7人。いずれ劣らぬ美女ばかりで、最後の最後に優勝したミセスは、感激のあまり涙にくれていた。
外国のコンテストなら、優勝したミセスは、満面に笑みをうかべて投げキッスでもするところだが。
 司会は、女優のT・T。
 あきらかにミスキャスト。こういうコンテストをうまくとりしきって、場内の雰囲気を盛りあげたり、出場者の緊張をほぐしたり、あるいは、それぞれのミセスの美しさをたたえたりするのは、司会者の洗練されたことばやしぐさではないだろうか。ところが、T・Tの要領のわるいこと。
 せっかく、すばらしいコンテストの司会を引き受けたのだから、コンテスタントを褒めたたえながら、あわせて自分の美しさもアピ−ルすればいいのに、ひたすら凡庸なコメントを並べるだけ。あきれた。
 日本の女優は、あらかじめ、きめられたセリフをしゃべるしか能がないのか。それとも、はじめからそういう「演出」だったのか。


                1977年5月6日(月)

 今日から、地下鉄、タクシ−などが値上げになる。私のように、いろいろ飛びまわっているもの書きにはかなり影響があるだろう。
 景気の回復はまだはっきりした形をとらない。というより、庶民はたえず不況の影におびえながら生活して行くしかないのだろう。
 成田空港の反対同盟の鉄塔が倒された。

 夜、ルネ・クレマンの「危険がいっぱい」(The Love Cage/1964年)を見た。アラン・ドロンは29歳。共演のジェ−ン・フォンダが美しい。父がすぐれた俳優だったため、少女時代から父に対してひそかに対抗意識をもっていたらしい。ジェ−ンが勝気なお嬢さんといった役を演じると、内面のはげしさがむき出しになる。ヘンリ−は――「見せかけの権威のみか、理性もおれを裏切り、おれには娘があると、ただそう思い込んでいただけのことかも知れぬ」と「リヤ王」のようにつぶやいたかも知れない。

 いつか、ジェ−ン・フォンダについて書いてみたい。書いたところで何もつかみとれないかも知れないが。

2018/06/30(Sat)  1756 〈1977年日記 3〉

                1977年5月4日(土)

 朝、「サンケイ」の原稿を書く。
 ジョルジュ・シメノンが、12歳のときから、実に1万人の女性と関係したと語ったことに関して、作家とエロスの問題を考える。

 シメノンが作家をめざして、作家になれたのは、1万人の女性と関係したからなのか。いいかえれば、1万人の女性と関係すれば、人は作家になれるだろうか。そんなことはあり得ない。シメノンは、12歳のときから、1万人の女性と関係したといいきれることこそ、彼が作家である証明なのだ。
 シメノンと反対に、妻以外の女性をまったく知らない人が、すぐれた作家になった例を私は知っている。問題は、関係した女性の数とか量にあるのではない。

 正午少し前、「サンケイ」佐藤さんに原稿をわたす。文化部は3階に移っていた。
 12時15分、「日経」に行く。吉沢君の机を占領して、すぐに映画評を書きはじめた。私は各社の試写を見たあとすぐに吉沢君の机で映画評を書くことが多いのだが、私以外にこんなことをする作家はいないらしい。ほかの記者たちも、ときどき話しかけてくる。私は、新聞社の現場の雰囲気が好きなのだ。
 私にはコラムニストとしての素質があるのかも知れない。こういう現場にいると短いコラムならいくらでも書けそうな気がする。
 「華麗な関係」(ナタリ−・ドロン、シルヴィア・クリステル)、「ビリ−・ジョ−愛のかけ橋」(ロビ−・ベンソン、グリニス・オコナ−)、「合衆国最後の日」(バ−ト・ランカスタ−、リチャ−ド・ウイドマ−ク)について。
 とりあえず吉沢君に原稿をわたして、「日経」のレストランに移る。いい気分だった。遅い食事をとりながら、「週刊小説」の原稿を。冷えたコ−ヒ−を飲みながら、アナイス・ニンの「デルタ・オヴ・ヴイ−ナス」の紹介を書く。
 3時半、神田に出て、「南窓社」の岸村さんと会う。このところ話しあってきた「アメリカ作家論」の出版をきめる。刊行は、10月1日の予定。岸村さんも喜んでくれた。
 せっかく神保町に出てきたのだから、本をあさった。「北沢」で、思いがけない掘り出しもの。長いあいだ書きたいと思ってきた評伝の資料。読んでみなければわからないが、この本を見つけた瞬間、猟師が獲物をしとめたような、手ごたえを感じた。へんな話だが、こういう直感めいたものを私は信じている。
 私の原稿を入校した吉沢君が銀座に出るというので、私も同行する。吉沢君と本の話をしているところに、長谷川君(二見書房)、萩谷君(映画ファン)がきた。長谷川君にわたす原稿がない。申しわけないが締切りを延ばしてもらう。そこへ、「富士映画」の下川君がきた。7月封切りの映画、「遠すぎた橋」の宣伝で吉沢君の協力をもとめる。各国のスタ−が十数人も出る大作とかで、製作費、90億。6月7日にジャ−ナリスト試写の予定。

 吉沢君といっしょに「ガスホ−ル」に行く。スペイン映画、「ザ・チャイルド」の試写。
 冒頭、第2次大戦中のユダヤ人虐殺、ビアフラ内戦、ヴェトナム戦争、バングラデシュなどで子どもたちが飢えや病気で死んだり、瀕死の状態に苦しむカットがつづく。おやおや、戦争や破壊、飢餓で犠牲になるのはいつも子どもたちという主題で、そういう「現実」を描いた映画なのかと思ったが、まるで違っていた。
 若いイギリス人夫妻(妻は妊娠している)がスペイン観光旅行で、アルマンソ−レ島を訪れる。ところが、この島には大人が一人もいない。子どもたちは町の住民を殺し、観光客たちを殺した。夫妻は、自分たちが子どもたちに狙われていることに気がつく。……
 原題は Who Can Kill A Child で、これは逆説的。この映画が何を寓意しているか、少しわかりにくい。気をつけて見れば、スペインがつい昨日まで体験してきたフランコ体制を意識しているようにも見える。かなり興味深い映画で、「熱愛」につづくスペイン映画として記憶しておきたい。

2018/06/29(Fri)  1755 〈1977年日記 2〉
 
                1977年5月3日(金)

 しかし、人間が人間のぎりぎりの底に達することはついにあり得ない。人間は、自分自身の姿を、おのれの獲得する認識のひろがりのうちに見出すのではない。
 何かで読んだこのことばは私をおびえさせる。

 竹内 紀吉君から電話。上野に出てこられないかという。竹内君がこういうかたちで私を誘ってくれるのはめずらしいので、一瞬、仕事を投げ出してでかけようと思った。しかし、この原稿を片付けなければ動けない。残念。
 午後、デュヴィヴィエの「舞踏会の手帳」(3チャンネル)を見る。これで十数回は見たことになる。それでもいろいろな「発見」があった。今回は、とくにトリビアルな部分に注意をむけたせいだろうか。
 映画は――「クリスティ−ヌ」(マリ−・ベル)が北イタリアの古城のような邸に戻ってくるところからはじまっている。彼女が舞踏会にはじめて出たのが16歳、1919年6月18日。映画の最初のエピソ−ド(フランソワ−ズ・ロゼェ主演)の「ジョルジュ」は、「クリスティ−ヌ」の婚約を知って自殺するが、それが1919年12月14日。室内のカレンダ−はなぜか12月19日になっている。はじめてロゼェの演技を見たときは鬼気迫るものに思ったが、しばらく前に見たときには、あまり感心しなかった。今回見た印象は、ロゼェらしいブ−ルヴァルディエな演技だと思った。
 ジュヴェのエピソ−ドがつづく。オ−プニングはジャズ。3人の悪党が、ナイトクラブの支配人、「ジョ−」(ルイ・ジュヴェ)の部屋に入ってくる。頭株がアルフレ・アダム。(数年後に、「シルヴィ−と幽霊」という戯曲を書く。)この部屋で、「ジョ−」は子分たちに指示をあたえる。背景にポスタ−や写真が貼ってある。ジョゼフィ−ン・ベイカ−のポスタ−、ダニエル・ダリュ−の写真があった。驚いたのは、そのポスタ−の横に、ヴァランティ−ヌ・テッシェの写真があったこと。そして、机のなかに、ヌ−ド写真が入っていた。
 3つ目のエピソ−ドは、音楽家だった「アラン」(アリ・ボ−ル)が、「クリスティ−ヌ」に失恋し、息子を失ったあと、神に仕え、いまは「ドミニック神父」になっている。これは雨の日。
 4つ目の「エリック」(ピエ−ル・リシャ−ル・ウィルム)のエピソ−ドで気がついたのは、「エリック」が「クリスティ−ヌ」をつれて山小屋に向かおうとするとき、スキ−のストックで高山をさし、あれがモン・ペルデュだという。直訳すれば「失われた山」ということになる。こんなところにも意味があったと気がついた。
 5つ目の「町長」(レイミュ)の場面は、南フランスの喜劇と見ていいが、町の名前が出ている。前のエピソ−ドが冬山なので、コントラストとして夏という設定にしたのか。
 6つ目、「ティエリ」(ピエ−ル・ブランシャ−ル)のシ−ンは、ほとんど全部のシ−ン、カメラを斜めに撮影しているようだが、じつはそうではなかった。「クリスティ−ヌ」を非合法に人工中絶を受けようとする上流夫人と見て、「ティエリ」が「サイゴンでおめにかかりましたね」という。「ティエリ」の妻(シルヴィ−)は、「サイゴンでは別荘もありましたよ」というセリフをくり返す。「ティエリ」は「妻」を殺す。この構図は「望郷」の密告者殺しのシ−ンとおなじ演出と見ていい。

 この映画の上映時間は144分。戦後の「巴里の空の下セ−ヌは流れる」の、112分と較べてずっと長尺だった。オ−プニング(友人にすすめられて「クリスティ−ヌ」が舞踏会の「手帳」の人々の再訪を決心するまで)が15分ある。
 ジュヴェのエピソ−ドが8分程度。アリ・ボ−ルのエピソ−ドが10分。ピエ−ル・リシャ−ル・ウィルムのエピソ−ドは7分。ピエ−ル・ブランシャ−ルのエピソ−ドが10分。

 「クリスティ−ヌ」は最後に古城に戻るが、「ジェラ−ル」が湖の対岸に住んでいたことを知って、その遺児、「ジャック」(ロベ−ル・リナン)と会う。その「ジャック」をはじめての舞踏会につれて行くエンディングが5分。

 この映画を見るたびに、どういうものか私自身の青春を思い出す。
 デュヴィヴィエの「望郷」と「舞踏会の手帳」は、私の青春と切り離せない。いまからみれば、甘い、感傷的な作品に違いないが。
 なつかしい名優たち。ロゼェも、ジュヴェも、ピエ−ル・ブランシャ−ルも、みんな鬼籍に入っている。アリ・ボ−ルは44年にナチの強制収容所で亡くなったし、ロベ−ル・リナンは、反ナチ抵抗派として銃殺された。マリ−・ベルも死んだのか。

 夜、原稿(7枚)を書く。9時55分、微震。

2018/06/28(Thu)  1754 〈1977年日記 1〉
 
             1977年5月1日(水)

 久しぶりに山登り。まだ完全に復調したわけではないので、奥多摩の楽なハイキングコ−スを選んだ。
 午前8時、新宿駅。いつものように、10番線。吉沢(正英)、安東つとむ、由利子、工藤、Y.T.中村、鈴木のほかに、あたらしいメンバ−として、桜木三郎、飯田、坂牧、島崎、下沢たちが参加した。
 この顔ぶれを見て、安東、吉沢君とコ−スをきめる。わずか30秒。久しぶりの登山なのだから、もう少しむずかしいコ−スを選んでもいいけれど、はじめての人もいるのだから、初心者コ−スを選ぶことにした。
 安東、吉沢のふたりはベテランなので、私が「棒ノ嶺」といっただけで、すぐにこのコ−スを選んだ理由や、下山のコ−ス、全体の所要時間も了解する。日頃から私のメソッドを知っているので何も指示する必要はない。
 まず御嶽をめざす。よく晴れているので、はじめて山に登るメンバ−も、うきうきしている。
 怱岳から棒ノ嶺。Y.T.が疲労しなければいいのだが。
 夕暮れ、名栗に下りて、ビ−ル、ラ−メン。
 帰京、8時30分。
 久しぶりのハイキングだったので、この程度のコ−スなのに疲労をおぼえたが、私の内部には、いちおう満足できた、私なりの感情の昂揚があった。


               1977年5月2日(木)

 眼がさめた。熟睡したあとの爽やかな気分。疲れはとれていた。時計を見ると、6時過ぎ。

 午前中から、電話が多い。長谷川君(二見書房)、萩原君(牧神社)、萩谷君(映画ファン)など。岸村さん(南窓社)に、会う日時を変更してもらう。
 今日、読んだもの。植草 甚一さんの「J.J氏の男子専科」。虫明 亜呂無の解説。中村 光夫の「雲をたがやす男」。「七七年 推理小説代表作選集」、斉藤 栄の「河童殺人事件」。
 ヘラルドで「テンタクルズ」(オリヴァ−・ヘルマン監督)の特別試写。
 こんな映画に、ヘンリ−・フォンダが出ている。ときどき、驚くようなことがある。「センチネル」を見たときは、エヴァ・ガ−ドナ−と、ア−サ−・ケネデイ−が出ていた。

 夜、チャプリンの「独裁者」を見た。これで3度目。私は、チャプリンの徹底した反ファシズムの姿勢に敬意をもっているが、純粋に映画として見た場合、チャプリンはこの映画あたりから衰退を見せていると思う。ただし、誰もそんなことをいわない。

2018/06/26(Tue)  1753
 
 本もあまり読まなくなっている。
 しばらく前に鈴木 彩織が贈ってくれたアマンダ・リンドハウトの「人質460日」を読み直した。2008年、ソマリアで、イスラムの武装グループに誘拐されたカナダの女性ジャーナリストの手記。なまなかな小説よりも、はるかに迫力のあるドキュメント。武装グループは莫大な身代金を要求するが、カナダ政府は救出にうごかない。アマンダの家族たちは資金調達のために必死に動く。

 アマンダは、低劣で、野卑なイスラム過激派に監禁され、拷問され、女性として最大の苦痛を強いられる。監視にあたった無知な少年たちにレイプされつづける。救出されたあと、PTSD(ストレス障害)の治療を受けて少しづつ回復して行くが、自分を庇おうとしてくれた無名のイスラム女性を思い起こしてイスラムを許す心境になる。

 鈴木 彩織は「あとがき」で――
 「怒りや憎しみを乗り越えようと決意した彼女がたどり着いた境地には、わたしたちを瞠目させ、争いが絶えない世界にも希望はあるのかもしれないと感じさせる光がある。」
 という。
 私は、鈴木 彩織に深い敬意をおぼえるが、日本のジャーナリストが、シリアで「イスラム国」に拘束され、処刑されたことを忘れない。この後藤 健二さんが「文芸家協会」の一員と知って、イスラム過激派に憎悪をおぼえた。
 私は――どれほど崇高な理念があろうと、宗教、政治の名のもとに行われる拉致、誘拐、拷問、そして惨殺死体の状況をネットに流すような行動を許さない。

 私が忌みきらう人たち。現代史にその名を刻まれている「偉人」たち。

 たとえば、スタ−リン。ポル・ポト。チャウシェスク。ホ−ネッカ−。こうした人々の名をあげて行けばきりがない。ときどきこうした小さな独裁者たちの末路を思い出す。

2018/06/24(Sun)  1752
 
 秋晴れ。ふと、昨年の出来事が胸をかすめる。

 私の家にはネコのひたいほどの庭がある。
 そんな庭にしては、いささか場違いな大きさの菩提樹が一本植えてあった。
 イタリアからひろってきた小さなタネを、帰国後に、ちいさな鉢に植えたところ、思いがけず小さな芽を出した。少し大きくなったところで、庭に植え直した。

 やがて、この木はわが家の庭に威容をほこる大きさになった。そのまま伸ばせば、かなり高くなったにちがいない。しかし、都会のまんなかで、数十メートルの高さの樹木にすることができるはずもない。毎年、植木職人にきてもらって上に伸びる枝をおさえた。
 ヴィラ・ボルゲ−ゼからひろってきたので、この樹を見ていると、イタリアの思い出に重なって、いろいろなことを考えたものだった。

 数年前、この木に大きなサルノコシカケが生えてきた。別に不思議なことではない。
 やがて、幅が15センチほど、長さが25センチほどの、堂々たるキノコになったが、木の幹におおきなクロワッサンがしがみついているようだった。

 何年にもわたってそのまま放置しておいたのだが、サルノコシカケができた頃から、菩提樹の幹の内部に少しずつ空洞ができてきたらしい。この木は風雨にさらされつづけた。やがて幹の樹皮がすこしづつ破れ、老いぼれた姿をさらしはじめた。
 さらに数年たって、手でふれるだけで、樹皮が幹からはがれるようになった。

 やがて、われとわが身をささえきれなくなって、いつ倒れるかわからない状態になった。

 「旦那、これは切ったほうがいいよ」
 植木職人のオジサンがいった。
 ある日、日曜日だったが、朝から植木屋が入った。1本の菩提樹を切り倒す作業だが、軽トラックではなく、起重機を乗せた2トン・トラックで、職人が4人がかりで作業にかかった。
 まず、大きくひろがった枝を切り落とし、太い幹をいくつかに分けて切ってから、最後に根元から斜めに切った。わずか1本の木なのに、作業は夕方までかかった。
 空がきゅうにひろくなったようだった。

 いままでそこにあったものが、きゅうになくなった。
 かつての日々、活気にみちあふれていた。毎年、あたらしい芽が根元からわかわかしい枝をまっすぐ伸ばしてきた。切っても切っても出てくるのだった。ところが、その樹木が、まるではじめからそこにはなかったかのように消えてしまった。
 そこにあるべきものが、なくなってしまったのが、自分でも納得できないようだった。
 切り株を見ているだけで、私にとってのイタリアが永遠にカラッポなものになってしまったような、喪失感のようなものをおぼえた。
 こんな些細な出来事のあと、私は何も書く気がなくなった。自分でも思いがけないことで、このブログを書くのを一時やめたのだった。

2018/06/18(Mon)  1751
 
 昨年からしばらく、休筆をつづけていた。友人に手紙も書かなかったし、ブログさえ書く気が起きなかった。
 「孤独に耐えて生きて行く」といった、しっかりした信念があったわけではなくて、ただ、何もする気がなく、本を読んだり、昔見た映画を見直したり。
 ようするに、毎日、無為に過ごしていたのだった。

 私がブログを書かなくなったのは――悼亡、喪に服しているために書かなくなったわけではなく、そもそも書こうという意欲が消えたからだった。親しい知人たちも、そんな私の状況を察して、暑中見舞いも遠慮しているようだった。
 中には、私の沈黙を心配して、手紙で「しゃきっとしなければと」と忠告してくれた人もいる。そうしたことばをありがたく頂戴しながら、毎日、無為に過ごしていた。
 そして、11月、私を励ます意味で、これまで私をささえてくれた人びと、少数だが、私の「現在」に期待してくれている人びとが集まってくれた。私は、これでなんとか元気になれたような気がする。

 何かを書こうという気力がなくなったことは事実だが、それと同時に、記憶力がひどく衰えたような気がする。(あるいは、それが原因かも?)
 よく知っているはずの人名が出てこない。

 知っている漢字が書けない。

 ここまでくると、私の記憶喪失は、サフランでも飲まなければいけないかも。
 高齢で、血液や尿のAGE濃度が高い人は、脳の認知機能の喪失がだんだん加速化するおそれがある。さらには、アルツハイマ−病の患者たちの脳内もAGEが高いことが多い、そうな。(ついでに言及するのだが、神崎 朗子の訳は名訳だった。)

    マイケル・グレガ−著、神崎 朗子訳
   「食事のせいで、死なないために」(病気別編)
    NHK出版 2017.8.25刊 P.125

 このブログは、忘れたことを思い出して書くことにしよう。あるいは、何かを忘れる前に、書きとめておくことにするか。

2018/06/07(Thu)  1750 原 民喜 (6)
 
 竹原 陽子さんは、私と会ってから、私の旧作、「おお 季節よ 城よ」を読んでくださった。私が、自作のなかで、原 民喜についてふれていると知ったからだった。私としては、ただ恐縮するばかりだが、竹原さんはわざわざ古書を探してくださったという。そして入手なさった本に新聞の切り抜きが入っていたという。前の持ち主が、私の本を読んで、たまたま関連する新聞記事を見つけたものらしい。
 私は、自作の書評など気にしたこともない。ところが、竹原さんのお手紙を拝見して、少し気になったので、できればコピ−をお送り願えないだろうか、と電話した。
 竹原さんはその記事を送ってくださった。

    戦中から戦後にかけての、多彩な女性たちとの出会いと別れを赤裸々に回想した
    自伝的小説である。戦争中、文科の学生だった著者は、勤労動員で埼玉県の農家
    に手伝いに行き、少女に誘われて初めて女を知り、現実の衝撃に言いようのない
    不安を覚える。
    戦争が終わり、飢えと混乱の中での生活が始まる。貪欲(どんよく)に本を買い
    あさり、映画やレコ−ドに新しい時代の息吹を吸収する著者。その一方で、行き
    ずりの女、娼婦、女優などとのかかわり、大切なのは欲望であって所有ではない、
    という人生観がこうした体験から生まれてくる。熱き時代の生がリアルに再現
    されている。(オ−ル出版・一、五〇〇円)

 書評というほどの内容ではない。せいぜい新刊紹介といった記事だが、鉛筆で、日時がメモしてあった。竹原さんは、平成2年11月18日、「日経」の文化面に出たと推測している。
 「おお 季節よ 城よ」は、平成2年9月15日/刊行なので、出版されて2か月後に、この新刊紹介が出たことになる。その読者が、たまたまこの記事を切り抜いて、本に挟んでおいたものだろうか。私は、そのことに感動した。私の作品を読んでくれた読者がいる、それはそれでうれしいことだったが、私が感動したのはもう少し違うことの「発見」にあった。

 じつに28年後に、著者としての私が読んだこの短い記事は、私にとっては貴重なものになった。
 竹原 陽子さんの推測通り、「日経」(平成2年11月18日)の記事なのだが、この記事を書いた記者は、当時、「日経」の文化部にいた吉沢 正英に違いない。
 私はこの記事を目にしてしばらくは声を失った。

 私は、かなり長期間、「日経」の映画批評を担当していた。私のコラムを担当してくれたのが吉沢 正英君だった。
 私のコラムはゆうに100本を越えたはずで、一部では注目されたと思われる。吉沢君と私は、ただの執筆者と編集者という関係から始まったが、やがてお互いに登山に熱中していることがわかって、いっしょに山に登るようになった。
 私は、けっこう多忙だった。もの書きとして原稿を書きながら、大学で講義をつづけていた。その間に、映画の試写室を飛びまわったり、芝居小屋通いもあって、毎週、登山をするスケデュ−ルは立てられなかったが、2週間に1度は天候のいかんにかかわらず登山するときめていた。
 吉沢君と新宿駅で落ち合う。プラットフォ−ムの立ち話でその日のコ−スを決める。いわゆるカモシカ山行なので、ふつうの登山者に会わないコ−スばかり。いざとなったら、ツェルト頼りにビバ−ク・野宿はもとより覚悟。豪雨・豪雪でも、ひたすら歩く。帰りは、麓のどこかで一杯やるか、鄙びた店で一膳メシにありつく。できれば、鄙びた温泉で汗を流して、夜ふけの田舎道を鉄道の駅まで。
 そんな登山をつづけた。やがて、登山のグル−プができたが、いっしょに行きたい希望者がいれば、その人のレベルにあわせて、北アルプス、南アルプスから、秩父、高尾まで。お互いひねくれ者なので有名な山はなるべく避けて、あまり知られていないが、地図に破線もなくて、実際にはけっこうむずかしい山に登ったり。

 吉沢君は沢登りが好きで、むずかしい沢を見つけると、自分ひとりの山行で何度も通って、いろいろなヴァリエ−ション・ル−トをたどるのだった。
 吉沢 正英は私の親友のひとりになった。

 今年の1月24日、群馬県の草津白根山が噴火して、火口に近いスキ−場で、訓練していた陸軍の兵士1人が噴石に当たって死亡した。ほかの隊員7名、スキ−客4名が負傷。ロ−プウェイの山頂駅付近に、一時、80名がとり残され、自衛隊、警察などによって救助された。そんな記事を読んだとき、私はすぐに吉沢君を思い出した。
 私は吉沢君といっしょに、夏の草津白根を縦走したことがあったが、ちょうどこの噴火した火口近くでバテた。すっかり疲労して山頂にたどりついた。吉沢君は、あまり疲れたようすも見せなかった。
 しばらくして、この山で、火山性の有毒ガスのため、登山者が落命する事故が起きたことを思い出す。

 吉沢君の記事を見たとき――なぜか、原 民喜、加藤 道夫、江藤 淳、それぞれ特別な死を選んだ人たちのことを思い出した。さらには山川 方夫、田久保 英夫、桂 芳久たちのことが走馬灯のように頭をかすめた。吉沢君が慶応出身だったせいだろうか。

 何事も宿世(すくせ)の因縁なりかし、と悟りすました顔をするわけではないが、竹原 陽子さんからお手紙をいただいて、いろいろな人のことを思い出すことができた。

 あれから数十年、もはや老いさらばえた私の肩にも、原 民喜がそっと手を置いてくれた重みが残っている。

2018/06/06(Wed)  1749 原 民喜 (5)
 
竹原 陽子さんのおかげで――またしても別のことを思い出した。

 これまた野木 京子さん、竹原 陽子さんの来訪を受けたからこそ思い出したのだが、これまたザンキの念がからみついている。

 ある日、原 民喜から、ある本の書評を依頼されたのだった。西脇 順三郎が、戦後はじめて出版したもので、内容は古代ユダヤ思想史といったものだった。
 原 民喜は慶応の英文科で、西脇 順三郎の薫陶を受けている。恩師が「戦後」最初に出した著作を書評でとりあげるのは、「三田文学」の編集者としては当然だったに違いない。問題は、別のことにある。なぜ、私に書評を依頼してきたのか。
 この本はたいへんに難しい内容で、かけ出しの私などが書評できるはずもないものだった。
 書評はわずか数枚だが、どうして私ふぜいを選んだのだろうか。そんな疑問は私から離れなかったのだが、これがきっかけでユダヤに関する資料を読みはじめたのだった。読めば読むほど、私の手にあまるものと思い知った。

 ついに書評の締切りを延期してもらった。そして、私がぐずぐずしているうちに、原さんが亡くなったのだった。
 この失態は、私の内面にいいわけできない重さとして残った。
 野木さん、竹原さんの来訪のおかげで、原さん、若杉さん、そして西脇 順三郎のことまで思い出すことができた。
 おふたりに心から、お礼を申しあげたい。

2018/06/03(Sun)  1748 原 民喜 (4)
 
 1951年(昭和26年)3月16日、佐々木 基一の自宅で、原 民喜の葬儀が行われた。
 当時、私は、肺結核にかかっていた。毎日、寝たり起きたりの生活だったが、この葬儀に列席するため、阿佐ヶ谷にむかった。
 私が、佐々木さんのお宅に向かって歩いていたときのことも、『おお季節よ 城よ』のなかに書きとめておいた。

   原の葬儀に出るために、阿佐ヶ谷の駅からぼんやり歩いていたとき、前方からきた
   若杉 彗(作家)が私の数歩前で立ちどまって帽子をとり、
   「このたびは原君がほんとうに不幸なことになりました」
   と丁寧に挨拶した。それまで若杉 彗と言葉をかわしたこともなかった。こちらが
   まるっきり無名に近い存在なので、若杉 彗が私を誰か別人と見間違えたのではな
   いかとも思った。それとも私を「近代文学」の同人と知っていて挨拶してくれたの
   だろうか。私は深く頭をさげた。言葉は出なかった。ずっと年長の若杉 彗がわざ
   わざ挨拶してくれたことに感動したのだった。 (「冬にしあらば」)

 原の葬儀では、柴田 錬三郎、埴谷 雄高が弔辞をささげ、藤島 于内が、原さんの詩を朗読した。私は、佐々木さんのお宅の前の路地に立って、ひそかに涙を流した。

 原 民喜の葬儀の日、作家の若杉 彗がわざわざ私に挨拶してくれた理由は、このときから私にとっては不明のままだった。

 私は若杉 彗と直接面識がなかった。私のめざしていた方向とは、全く無縁の作家だったから、若杉さんと会う機会もないまま、原 民喜の葬儀の日、この作家が私に挨拶してくれたこともいつしか忘れてしまった。

 これも数十年という歳月をへだてて、野木 京子さん、竹原 陽子さんの来訪を受けた。おふたりと別れたあと、あの原 民喜の葬儀の日、若杉 彗がわざわざ私に挨拶してくれた理由を考えてみた。
 そして、何か思い出すかも知れないと思って古い写真を探してみた。

 なにしろ古い話である。1949年(昭和24年)頃、私は埼玉県大宮市に住んでいた。
 当時、1948年(昭和23年)頃、埼玉県の文化行政の部門が県内の文化人を集めて、懇親会のような行事をもったことがあった。ほとんど無名にひとしい私が招かれた理由は知らない。
 この集まりに埼玉在住の文化人が多数出席したが、県庁側から、20代の若い女性が派遣されて、いろいろと対応してくれた。のちに歌人として知られる大西 民子女史だった。
 このときの記念写真が出てきた。

 いちばん若輩だった私は、埼玉県在住の文化人とはまったく交流がなかった。この席で、私に声をかけてくれたのは、詩人の秋谷 豊さんだった。その後も、秋谷さんは若輩の私に何度か手紙をくれたことがある。
 この集まりで、大西さんは作家の竹森 一男さんを紹介してくれた。大西さんが若杉さんに紹介してくださったのではなかったか。失礼な話だが、当時の私は竹森さんの作品も若杉さんの作品も読んだことはなかった。なにしろ、頭のなかに、ドストエフスキ−、ジッド、ヴァレリ−しかなかった。はじめから、文壇などとまったく関係がないまま、もの書きになろうとしていた青二才にすぎなかった。

 私は、若杉さんがどういう作家なのか知らないまま、ありきたりの挨拶を述べただけだったはずで、それ以後もまったく交渉がなかった。(後年、若杉さんは「エデンの海」を書いてベストセラ−作家になる。)しかし、若杉さんのほうは、若輩の私をおぼえていてくださったのだろう。
 このときの記念写真を見つけた。数十名の列席者が並んでいるなかに、若杉さんの姿があった。私は、場違いな催しにまぎれ込んでしまったピエロといった恰好で、大西 民子女史の近くに立っている。

 これではっきりした。
 若き日の私が、若杉さんと面識があったということ。原 民喜の葬儀の日に、若杉さんは、トボトボと歩いている私を見て、声をかけてくださったに違いない。
 この日の若杉さんの礼節は、私には忘れられないものになった。その後、私は、知遇を得た作家、批評家たちの葬儀に出て、面識のある人に会ったときは、かならずこちらから挨拶するようにつとめた。これも若杉さんから教えていただいたことだった。

2018/05/29(Tue)  1747 原 民喜 (3)
 
 映画、「微塵光 原民喜の世界」(宮岡 秀行監督)のなかで、私はつぎのようにしゃべっている。(野木 京子・採録)

   広い部屋でね、三十人ほどの人が談笑なさっていたんですけれども、会の途中、も
   うそろそろおしまいになるかなという頃に、部屋の隅にいらした原さんがおひとり
   でね、他の人はだいたい椅子に座ってお話をなさったり、ケ−キとかティ−とかを
   召し上がっていたんだけれども、原さんおひとりが立っていらして、それで、私か
   ら見て右手の列のテ−ブルの後ろをゆっくりお歩きになって、それでどなたかの後
   ろに立たれたんですね。本来そこはね、僕はいま考えると、遠藤 周作がね、いつ
   も座る席だったような気がする。(中略)それでどなたかの後ろに立たれて、肩に
   ね、両手を置かれるんですね。そうすると、なんていいますかね、大人がね、赤ん坊
   をあやすような恰好になるわけです。それで、私は、おお、原さんはそういう形で
   ね、なんというか、親しみを表していらっしゃるのかなあと思って、そのときはで
   すよ、瞬間的に思っただけなんだけれども。それは、私は内村(直也)さんとお話
   をしていたときに、いつの間にか私の後ろに立たれて、それで同じように、両手を
   私の肩にそっ−と置かれるんですね。わたくしは普段そういうことをされたことが
   (ないので)、おや、どうしたのかな、と思ったぐらいで、それもすぐ離れるんじゃなくて、ど
   のくらいですかね、たぶん五分ぐらいはね、だから随分そういう時間としては長い
   んですね、私の肩に両手を置かれて、それで私自身は途中から不思議なことをする
方だなと思いました。(中略)
   すっとまた私から離れて、私の左前のかなり、(中略)十人くらいおいたところに
   いた詩人のね、藤島宇内(うだい)という詩人がおりましたけれども、藤島の後ろ
   に立たれて、また同じように両手でね、肩を撫でるんじゃなくて、肩に両手をほん
   とうに添える感じで置かれてたんですね。私は、原さんが藤島とね、特にお親しい
   のかなという気もしたけれど、同時に、ああいう形で親愛の情をお示しになるとい
   うのは不思議だなあという気がしました。そのときはね、そのまま終わりましたけ
   れども、程なくして原さんの訃を知りまして……

 それから一週間か十日のちに、原 民喜は自殺している。

 あれから数十年、もはや老いさらばえた私の肩にも、原 民喜がそっと手を置いてくれた感触が残っているような気がする。

2018/05/27(Sun)  1746 原 民喜 (2)
 
 これもまたザンキの至りだが、私は、自作、「おお季節よ 城よ」のなかで、原 民喜についてふれている。

 原さんが自殺する十日ばかり前に、「三田文学」の集まりがあって、この席で、私は原 民喜に会っている。(「おお季節よ 城よ」のなかでは、「三週間ばかり前に」原 民喜に会っている、と書いているが、今回、竹原さんの「年譜」を拝見して、私が原 民喜に最後に会ったのは原さんが自殺する十日ばかり前だったと思うようになった。)

 この集まりの出席者は、慶応出身の文学者ばかりだった。
 私は慶応出身ではなかったが、内村 直也、遠藤 周作と親しかったおかげで、「三田文学」の集まりによく出席していた。出席者はいつも30人から40人、いずれも名だたる作家、評論家が多かったが、とてもいい雰囲気で、私のような「よそもの」も肩身の狭い思いをしないですんだ。
 堅苦しい集まりではなく、各自が自由にテ−ブルを移って、それぞれが小さなグル−プに分かれて語りあう明るい雰囲気の集まりだった。
 ふと、気がついたのだが、原さんが片隅にいた誰かの後ろに立って、その両肩に手をおいていた。(原さんが誰の肩に手を置いたのか、おぼえていない。)

    やがて、めいめいがテ−ブルから離れて、小さなグル−プに別れはじめたが、そ
    れまで片隅にいた原 民喜がいつの間にか私のところに寄ってきた。そのまま黙
    って私の左の肩に手をかけた。
    原 民喜は寡黙というより失語症と言ったほうが適切なほど無口で、こうした集
    まりでも人の話を黙って聞いているだけだった。私が眼をあげたとき、原は私の
    顔を見ずにそのまま私の左の肩にそっと手を置いていた。不思議なことをするな
    あ、と私は思った。ことさら私に用事があるふうでもなかった。ただ黙って私のう
    しろにきて、肩に手をかけて、私が近くにいた誰かと話をしているのを聞いてい
    るだけだった。

原さんが私の肩に手をかけていたのは、ほんの三、四分だったに違いない。そのまますっと離れると、七、八人おいて、別のテ−ブルにいた誰かの後ろに立った。
 やはり、静かに両手をその肩にそっと乗せているのだった。

 その人は詩人の藤島 宇内だった。

2018/05/25(Fri)  1745 原 民喜 (1)
 
 思いがけない人の来訪をうけた。

 詩人の野木 京子さん、そして広島在住の竹原 陽子さんのおふたり。

 野木 京子さんは、「H氏賞」を受けた詩人で、原 民喜に関するエッセイを書いているひと。私のクラスにいて、しばらく勉強なさった。
 竹原 陽子さんは、「原民喜 全詩集」(岩波文庫)に、綿密、詳細な原民喜略年譜を作成している研究家である。
 おふたりとも熱心な原 民喜研究家なので、私が生前の原 民喜と面識があったため、何か原 民喜にかかわりのある話でもあれば聞きたいということだった。
 私の話など、原 民喜研究に役立つとも思えないのだが、できればおふたりの熱意に応えたいと思った。

 まず、原 民喜の経歴を説明しておこう。

    1905年(明治38年)、広島に生まれた。詩人、作家。
    1932年(昭和7年)、慶応大英文卒。
    1933年(昭和8年)、永井 貞恵と結婚した。「戦後」、評論家として知ら
    れる佐々木 基一の姉にあたる。永井 貞恵は1944年(昭和19年)、肺結
    核が悪化して亡くなった。
    翌年、1945年(昭和20年)8月、広島で原爆被災。この体験が「夏の花」
    に描かれている。
    1951年(昭和26年)3月13日、自殺した。享年、45歳。

 彼の「墓碑銘」を引用しておこう。

         遠き日の石に刻み
             砂に影おち
         崩れ墜つ 天地のまなか
         一輪の花の幻

 私は広島に行ったときこの「墓碑銘」を前にして、在りし日の原さんを偲んだことがあった。大きな記念碑が立ち並ぶなかに、ひどく小ぶりな「墓碑」は詩人の声を私たちにつたえている。

 野木 京子さん、竹原 陽子さんの来訪については、もう少し説明が必要かも知れない。
 じつは、昨年、「微塵光 原民喜の世界」(宮岡 秀行監督)というドキュメンタリ映画が制作されたが、その映画の中で、私も原 民喜の思い出を語っている。(2017年5月・公開)
 このドキュメンタリをごらんになった竹原さんは、旧知の野木 京子さんを介して、私に連絡なさったのだった。

若い頃の私は、原 民喜が編集していた「三田文学」に原稿を書くことが多かった。というより、原 民喜が書く機会をあたえてくれたのだった。
 当時の原 民喜にあてた私の手紙数通が、広島市の中央図書館に残されているとかで、竹原さんはわざわざそのコピ−を私にわたしてくださった。
 最初のハガキに昭和22年(1947年)10月19日の消印があり、35銭の切手が貼ってある。じつに、70年の歳月をへだてて、若き日の私自身のハガキを見たことになる。

 自分のハガキを目にしたとき、私はほとんど狼狽した。
 まったく無名なのに、歴史ある「三田文学」に文芸時評を書くという、おのれの無恥、驕慢にあきれた。これはもう身のほど知らずとしかいいようがない。
 そうした恥ずかしさと重なって、当時の私が考えもしなかった、無名の私にあえて原稿を書かせてくれた原 民喜に迷惑をかけてしまった、そんな思いが押し寄せてきた。穴があったら入りたい気分であった。

2018/05/21(Mon)  1744
 
 悼亡、一年。

 悼亡(とうぼう)というのは、妻を喪った夫の服喪をさす。もう、誰も知らない死語だが、この1年、私にとっては、まさしく悼亡(とうぼう)の期間だった。

 桜の開花の予想がつたえられてすぐに、関東甲信は、山沿いを中心に雪になった。
 お彼岸に雪が降るというのはめずらしい。
 21日の気温は、奥多摩で2度。宇都宮、4・8度。都心が、6・6度。
 翌日、私の住んでいる近くの公園で、わずかながら桜が咲いているのを見た。

    1年(ひととせ)の喪あけに見たり 初さくら


 ふと、思い出したのだが・・・桜が咲いているのに雪が降るという話から、幕末、井伊大老が水戸浪士に襲われて暗殺された桜田門外の変(安政7年、1860年)を思い出した。この3月3日、時ならぬ雪が降っていたそうな。
 歌舞伎役者の団蔵は、この暗殺事件を知っていそいで外出、惨劇の現場を見に行った、という。

 大老暗殺の翌日は、雪もやみ、すばらしい快晴になったので、江戸市民は雪月花をいっときに楽しんだらしい。

 この話は伊原 青々園の本で読んだ。

 つまらない話だがなぜか心に残っている。というより、私はこんな話が好きなので、心にとめたものらしい。

2018/05/11(Fri)  1743 ダニエル・ダリュー【3】
 
 ダニエル・ダリューが、百歳まで生きたこと。これが、ダリュー以外の誰にもあり得なかった宿命だったと私は考える。

 こういういいかたでは何もいったことにならない。それを承知で書いたのだが、なんとか、みなさんにつたえたいことであった。

 ふと、思い出したことがある。

 これも、もう誰もおぼえているはずはないが――「戦前」の浄瑠璃の名人、摂津大掾(だいじょう)がこんなことをいっていた。
 この名人が七十歳になって、やっと「忠臣蔵」九段目の「本蔵」が、「少しは語れるようになった」と語ったという。

 浄瑠璃にかぎらず、芸事の修行はたいへんにきびしいものだろうと思う。
 九段目の「本蔵」が、どういう役なのか、私の知るところではない。ただ、この話は、母の宇免(うめ)から聞いた。私の母は歌舞伎が好きで、いろいろな役者の話を知っていた。自分でも、琴、三味線の稽古はかかさず、いちおう名とりになった。
 摂津大掾が「本蔵」を「少しは語れるようになった」と語るまでに、じつに数十年という年期を入れていたことになる。
 少年の私は何もわからなかったにちがいない。母の宇免(うめ)が、なぜ、こんな話を聞かせたのか。これも忖度(そんたく)のかぎりではない。

 ダニエル・ダリューがジャン・ギャバンと共演した映画、たしか「シシリアン」だったと思うが、あのときのダリューは、70代になっていたのではないか。ギャバンは、世間的には車の修理工場の経営者だが、じつはマフィアの親分。ダリューは共演といってもワキにまわって、ギャバンの古女房をやっていた。
 映画のラストで、ギャバンは強盗事件の主犯としてパリ警察に検挙される。刑務所に送られたら、まず終身刑になる。それを知りながら黙って見送るダリュー。その一瞬のまなざしに、私は胸さわぎのようなものを感じた。

 70代になったダニエル・ダリューが、そのまなざしの翳りひとつで、こういう古女房の役を「少しはやれるようになった」と語っているような気がしたのだった。

 これで、私のいいたいことが「少しはわかっていただけた」ろうか。

   (イラストレーション 小沢ショウジ)

2018/05/04(Fri)  1742 ダニエル・ダリュー【2】
 
 「戦前」のダニエル・ダリューは、「うたかたの恋」で絶大な人気を得た。ところが、この絶頂期に、離婚というスキャンダルのなかで、突然、引退を表明する。
 ナチス・ドイツのパリ占領で、戦時中に、マルセル・シャンタル、ギャビー・モルレイなど、ダニエル・ダリューの先輩にあたるスターたちが感傷的な「母性愛もの」、家庭悲劇で活躍したが、ダリューのような美貌の女優がエクラン(銀幕)に登場する可能性がなくなった。賢明なダリューは、こうした時代の変化を見てとったのかも知れない。
 マルセルやギャビーたちは、戦後のはげしい「変化」に適応できず、エクラン(銀幕)から去ってゆく。
 その間隙を見届けたように、ダニエル・ダリューは、離婚したアンリ・ドコワン監督の「毒薬事件」(日本未公開)で復活する。この映画は、ルイ14世時代の有名な毒殺魔、ヴォワザン夫人の犯罪をあつかっている。私は、おなじルイ14世の時代に、やはり有名な毒殺魔だったブランヴィリエ侯爵夫人の評伝を書いたことがあるので、ずっと後年になってからビデオで見た。この映画でダニエル・ダリューは、妖艶なヴィヴィアンヌ・ロマンスと共演しているが、ダリューの美貌は「うたかたの恋」よりもさらに輝きをましているようだった。

 「戦前」のフランスの映画女優としては、エドウィージュ・フィエール、アナベラ、ヴィヴィアンヌ・ロマンス、ミレイユ・バラン、マリア・カザレス、シモーヌ・シモン、コリンヌ・リュシェールなど、すばらしい女優が輩出している。それぞれが個性的で、美しい女優たちだった。
 しかし、たおやかな魅力からいえば、ダニエル・ダリューに比肩するほどの女優はいない。ハリウッド女優、グレタ・ガルボは際だって美貌だったが、ダニエル・ダリューはガルボのように冷たい、高貴な美貌ではなく、もっと洗練されたパリジェンヌといった感じがあった。後年のダリューがシャンソンに進出した時の人気も、ブルジョアから庶民までダリューの歌に惹かれたからではなかったか。

ダニエル・ダリューにつづく世代のスターたち、オデット・ジョワイユ、シモーヌ・シニョレ、フランソワーズ・アルヌール、ダニー・ロバン、ブリジット・バルドー、ミレイヌ・ドモンジョやジェーン・フォンダなど、それぞれフランスを代表する映画女優といっていいが、やはり、「戦前」から「戦後」にかけてダニエル・ダリューに比肩できるところまでは誰ひとり到達していないだろう。

 たとえば、ダニー・ロバンは、いかにも「戦後」のパリジェンヌといった感じの青春スターだった。彼女の映画の主題歌は、いつもヒロインのダニーの印象と切り離せないものだった。「フルフル」では、ダニー・ロバン自身がテーマを歌っている。「巴里野郎」(55)では、カトリーヌ・ソバージュの「パリ・カナイユ」がヒットしている。
 「アンリエットの巴里祭」で、ダニー・ロバンがヴデット(人気女優)になった頃から、ダニエル・ダリューは、「赤と黒」、「輪舞」、「チャタレイ夫人の恋人」など、ハリウッドにも進出した。

 ハリウッドに進出したフランスの女優としては、クローデット・コルベール、アナベラ、そしてジャンヌ・モローなどを思い出す。クローデットは、モーリス・シュヴァリエ、シャルル・ボワイエとともに「戦前」のハリウッド黄金期の大スターだが、ダニエル・ダリューは、クローデットほどの成功をおさめたわけではない。アナベラにいたっては、フランスの女優というより、まるっきりアメリカ人の女性に変貌していた。
 しかし、ダニエル・ダリューは、おのれの身を処することにおいて、アナベラ、ジーナ・ロロブリジーダなどよりはるかに賢明だったといえるだろう。

 ことばで女優の美しさを説明しようとするのは、愚かしい企てにすぎない。老齢に達してからのダニエル・ダリューの出演作についてほとんど知らない。だから、女優としてのダニエル・ダリューを論じることができないのだが、「戦前」から「戦後」にかけて、初期の「不良青年」から晩年に近い「シシリアン」(だったか)まで、他の追随をゆるさない女優として生きたダリューが、百歳まで生きたことに深い感動をおぼえる。

 女優という生きかたは、かなしいものだと思う。
 私はフランス映画のファンにすぎないが、遠くはるかなジョゼット・アンドリオから、現在のイザベル・ユッペール、オドレイ・トトゥ、イザベル・アジャーニまで見てきた。
 しかし、ほとんどの女優は、つきつめていえば、一途(いちず)に女優、またはスターだったにすぎない。
 こういういいかたでは、何もいったことにならないのを承知でいえば、ダニエル・ダリューが、終生みせていた、あの美貌と、そのマスク(顔)の美しさにもかかわらず、あのたおやかでのびやかな美しさを、はたして誰が出していたか。たとえば、ガルボにしても、わずかに「クリスティナ女王」の数カットで、見せているだけといっていい。
 だが、ダリューの訃報に接して、ことさら悲愴がってみせる必要はない。

 もう一つ、あえて書きとめておこう。それは――百歳まで生きたことが、ダリュー以外の誰にもあり得なかった宿命だったと私は考える。サイレント映画の最後の生き残りだったリリアン・ギッシュの死も私を感動させたが、ダリューの死も、この世のものならぬ美として私の胸に感動を喚び起したのだった。

     (イラストレーション 小沢ショウジ)

2018/04/27(Fri)  1741 ダニエル・ダリュー【1】
 
 2018年1月。

 久しぶりにブログを再開したが――とりあえず、書きたいことを書くことにしよう。

 まず、ダニエル・ダリューの追悼から。

   ダニエル・ダリューさん 100歳(仏女優) AFP通信によると、10月
   17日に仏北部ボワルロワの自宅で死去。1917年、仏南西部ボルドー生まれ。
   14歳で映画デビューし、「うたかたの恋」(36年)などで人気女優の地位を
   築いた。米国でも活躍し、「赤と黒」(54年)や「ロシュフォールの恋人
たち」(67年)などの話題作に次々に出演した。晩年まで女優を続け、出演作は100本を越える。 
<読売> 2017.10.20.夕刊

 ダニエルほどの女優の訃報なので、当然、誰かが追悼を書くだろうと思った。ところが、これは私の読み違えだったらしく、ダニエル追悼の記事はどこにも出なかった。
 かつて比類ない美貌で知られたダニエルだったが、さすがに、百歳を越える天寿をまっとうした老女優を今の誰がおぼえているだろうか。今の60代以下の人々は追悼どころか、ダニエルの映画さえ見たことがないだろう。

 戦前のフランス映画を代表する名女優を選べといわれたら、私の世代なら、まず、フランソワーズ・ロゼェ、アルレッティ、マリー・ベルあたりをあげるだろう。ロゼェは、まさに名女優のひとりで、現在でもDVDで「外人部隊」、「舞踏会の手帳」など、その演技を見ることができる。この2本に、やはり名女優のマリー・ベルが出ている。「コメディ・フランセーズ」出身だが、戦後、「マリー・ベル劇場」をひきいて、ラシーヌなどを演じた。非常な美貌だった。
 アルレッティは「天井桟敷の人々」、「北ホテル」で知られている。戦後、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」に出て、イギリスのヴィヴィアン・リー、ブロードウェイのジェシカ・タンディを凌駕する名演技と称賛された。
 私の想像だが――おそらく、ヴィヴィアンやジェシカを凌駕する演技だったに違いない。アルレッティのもっている娼婦性、そして天性のエロティスムは、ヴィヴィアンのもたないものだったし、ジェシカにも無理だろうと想像する。

 こうした女優たちのなかで、とりわけ美貌をうたわれたのは、ダニエル・ダリューとミッシェル・モルガンだった。
 ダニエルは、14歳で「ル・バル」に出た。当然ながら私は見ていない。はじめてダニエルを見たのは「不良青年」で、パリの裏町に住む若い娘。水兵のようなパンタロン、斜めにベレをかぶり、タバコをくわえて、まっすぐに目をむける。ひどく粋(シック)で、ぞくぞくするほどエロティックな香気が立ちこめていた。あまりの美貌に見とれて、映画の内容をおぼえていない。
 20歳で、映画監督のアンリ・ドコワンと結婚。ドコワンの「暁に祈る」に出たダリューは、「娘役」(ジュヌ・プルミエール)としてのみずみずしさが、スクリーンにみなぎっていた。この時期のダニエルの代表作は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子と、男爵令嬢の悲恋を描いた「うたかたの恋」(36年)だった。貴族のなかでは身分の低い男爵令嬢は、はじめはただ可憐な少女として登場する。少女は何か気に入らないことがあると、口を尖らせてすねるようにしゃべる。ダリューはブルーの眸をした美少女だが、このあどけない魅力は他の女優のもたないものだった。ダリュー、天性のものだが、そこに女優としての「工夫」があった。
 うまく説明がつかないのだが、世阿弥のことばを思い出す。「得たるところあれど、工夫なくてはかなはず。得て工夫をきわめたらんは、花に種を添へたらんがごとし」。

 「うたかたの恋」は、戦後、ハリウッドでリメークされた。おなじアナトール・リトヴァクの演出で、ダニエルのやった「男爵令嬢」をオードリー・ヘップバーンが演じているが、おなじ監督の作品とは思えないほど平凡な映画になった。オードリーの作品でも、まったくの駄作だった。オードリーの演技も空回りするだけで、その「工夫」はダニエルに遠くおよばない。

 「うたかたの恋」のダニエルの魅力、「得て工夫をきわめたらん」はそれほどにも大きいものだった。

   (イラストレーション 小沢ショウジ)

2018/04/20(Fri)  1740
 
 はるかな過去の、それも1本か2本の映画に出ただけのスタ−レットを思い出す。
 それは、現実に経験した男女の愛とおなじで、たまゆらのいのちの極みにいたる高揚と、そのあとの凋落、あるいは下降といったプロセスがつづく。しかし、そのスタ−レットを思い出す。それも、どうかすると、思いがけないかたちでよみがえってくる。
 たとえば、「ベティ・ブル−」。

 ジャン・ジャック・ベネックスの「ベテイ・ブル−/愛と激情の日々」に主演したベアトリス・ダル。
 「ベティ・ブル−」は、このはげしくも切ない愛の物語のヒロインだった。海辺のバンガロ−で出会った男に、ただひたすら愛をささげる若い女。しかも、「ヌ−ベル・バ−グ」の女優にふさわしく強烈な個性の輝きを見せていた。
 当時(1987年)、ベアトリス・ダルは、20歳。パリで、<パンク>として生きていたが、ある写真家と知り合いモデルになった。
 たまたま、映画監督になったばかりのジャン・ジャック・ベネックスが、その写真をみた。

 映画監督はベアトリスのカリスマティックな魅力に惹かれた。
 「ふつうの人が苦心して身につける演技を、生まれながら身につけている。逆にいえば、カメラの前で何もしなくても、ベアトリスの魅力がふきあがってくる。」

 映画監督の直観通り、ベアトリスは、情熱的で、しかもみずからの情熱に傷ついて、最後に破滅にいたる悲劇的な「女」を演じた。

 「60代まで女優をつづけても、「ベティ・ブル−」ほどすばらしい役を演じるチャンスは二度とないでしょう。「彼女」は私にそっくり。希望も要求も多すぎて、自分でも抑えられない女。私自身は、撮影中に結婚したけれど、「ベティ1740」の心情は手にとるように理解できるような気がします。」

 だが、ベアトリスは消えてしまった。

 ブリジット・バルド−が登場したあと、フランスのヌ−ベル・バ−グに、さまざまな個性(つまりは、美)をもった女優たちがつきつぎにエクランを飾った。
 クロ−ド・シャブロルが「二重の鍵」で起用したベルナデット・ラフォン。「いとこ同志」で登場させたジュリエット・メニエル。
 エドワ−ル・モリナロの「殺(や)られる」に出たエステラ・ブラン。
「赤と青のブル−ス」のマリ−・ラフォレ。
 ゴダ−ルの「恋人のいる時間」のマ−シャ・メリル。

 なぜ、1本か2本の映画に出ただけのスタ−レットを忘れないのか。
 私の内面にこの美少女たちへの妄執めいた思いが重なっているだけではない。
 もうひとつ、1本か2本の映画に出ただけで消えて行った美少女たちに対する哀惜の思いがあった。

 私の映画批評には、いつもそんな思いがひそんでいたのかも知れない。

2018/04/13(Fri)  1739
 
 歳末、ピーター・チャン監督の「ラヴソング」を見た。中国の改革開放が始まった時期、大陸から香港に出稼ぎにきた若者と、少し前に香港にきた女の出会いと別れ、再会を描いたもの。背景に、テレサ・テンの歌が流れる。「黎明」(レオン・ライ)と「曼玉」(マギ−・チャン)主演。私の好きな映画だった。
 マギ−・チャンは、私の好きな映画女優だった。

 その後で、「李安」(アン・リ−)の「ラスト、コ−ション」LUST,CAUTION(色・戒)を見た。1942年、上海。汪 精衛の南京政府が成立した時期。香港で抗日運動をはじめた大学生たちが、南京政府の高官の暗殺を計画する。戦争の過酷な時代に翻弄された青春を描いている。封切られた当時見て強い印象を受けたが、その内容はほとんど忘れてしまった。あらためて見直して、いい映画だと思った。
 主演は「梁 朝偉」(トニ−・レオン)と「湯唯」(タン・ウェイ)。このふたりのコイタス・シ−ンは、まさしく香港映画が勢いをもっていた時代に重なる。「湯唯」も美少女だったが、香港映画ではその美質が生かせず、残念ながら女優として伸びなかった。

 アン・リ−の「ラスト、コ−ション」は、私の好きな香港映画だった。「湯唯」(タン・ウェイ)は林 青霞(リン・チンジャ)と並んで、いちばん好きな美少女になった。
 その後、アン・リ−はハリウッドに進出して、「推手」や「ウェディング・バンケット」などを作るが、いずれも「ラスト、コ−ション」にはおよばない。

 湯唯(タン・ウェイ)のようにスクリ−ンに登場しただけでその美しさを輝かせながらその後、消えてしまったスタ−レットたち。

 ジュリアン・デュヴィヴィエの映画、「わが青春のマリアンヌ」(55)で、ヒロインに起用されたマリアンヌ・ホルトという少女である。古城に飾られた美少女にあこがれた少年の前に、その肖像画にそっくりの美少女、「マリアンヌ」があらわれる。その少女は、少年が夢見た幻想なのか、それともほんとうに実在しているのか。

 ハリウッドでも、1作か2作出ただけで消えてしまった美少女たちがいる。ただし、私の内面に、何かを刻みつけなから消えてしまった美少女たちにかぎるけれど。

 名前が思い出せないのだが、エドワ−ド・G・ロビンソンが主演した「赤い家」という映画に出た美少女。残念なことに、この映画に出ただけで消えてしまった。
 そして、「ロリ・マドンナ戦争」。
 牧草地の所有権をめぐって、隣家どうしが対立して、はげしい銃撃戦になる。この「フュ−ド」に美少女がまき込まれる。この美少女の名前も思い出せないのだが、この映画だけで消えたと思った。ずっと後年に、カ−ト・ラッセルの近未来ホラ−に出ていたが、もう、かつての香気(フレグランス)は消えていた。この少女も私の記憶に鮮明に残っている。

 老いさらばえて、はるかな過去の、それも1本か2本の映画に出ただけのスタ−レットを思い出す。こうなると、妄執めいたものになるが、いつか小説を書くときに、そんな美少女を頭に思い描いて書こうと思った。ただし、そんな小説を書く機会は一度もなかったのだが。

2018/04/6(Fri)  1738
 
 ブログ再開で、久しぶりに文章を書いてみて、なんとか書きつづけられそうな気がしてきた。とにかく書きつづけることはできるだろう。
 私のブログは、かなりの部分を親しい友人たちとの友情に負っている。
 とりとめのないブログながら、最近の、私のいろいろな経験にもとづく物語のささやかなエピソ−ドなのだ。
 さて、そこで、またしても映画の閑談。

 クリスマス。たまたまテレビをつけた。
 映画をやっていた。ワン・カット見た瞬間に、ジョン・ヒューストンの「黄金」とわかった。映画もラストで、仲間を裏切って、ロバに黄金の砂嚢を積んで逃亡をはかったボガートが、原住民たちに殺される。その原住民たちは、市場でロバを売ろうとして、警察に突き出される。ボガートを追った仲間ふたり(ウォルター・ヒューストン、ティム・ホルト)は、自分たちが採取した砂金の砂嚢が、無知な原住民に破られて、金がすべて風に散ってしまったことを知らされる。これまでの苦労がすべて無に帰したのだ。
 ウォルター・ヒューストンが、突然、腹をかかえて哄笑する。その笑いは何を意味しているのか。若いティム・ホルトには理解できない。ウォルタ−は笑い続ける。ラストは、砂嚢が風に吹かれて、みるみるうちに砂に埋まってゆく。
 わずかなシ−ンを見ただけで、いろいろなことが押し寄せてくる。

 俳優のホセ・ファーラーが、「黄金」のウォルター・ヒューストンについて、

    もとより現在の俳優のなかで、もっとも偉大な名優のひとり……
    彼を見るたびに、ほかのどんな名優よりも腹のそこにずっしり落ちる。

 といっていたっけ。

 「黄金」のラスト・シーンを見て、私はすぐに、スタンリー・キュブリックの「現金に体を張れ」のラスト・シーンを思い出した。競馬場の売上を強奪した犯人が、空港から逃げようとする。現金をつめたトランクが滑走路に落ちて、数万ドルの紙幣が風に吹かれて散乱する。
 あの頃の映画のラスト・シーンには、いつも空虚な気分がみなぎっていたような気がする。あえていえば、「戦後」の空虚な気分の反映だったのかも知れない。

 わずかなカットを見ただけで、つぎからつぎにいろいろと思い出す。それが、けっこうおもしろい。


SunBoard - Remodel SunClip Ver1.24