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2017/09/20(Wed)  1726
 
 私は書いたのだった。

 「フリッツィには喜劇のセンスがあって、サマー・シアタで『引退した女たち』という芝居に出たが、この舞台では準主役を演じていた。明るい演技を見せていたという。しかし、ブロードウェイも大きく変わりつつあった。かつてのような軽妙なエスプリをきかせたコメディ・ド・サロン、ブールヴァールの大衆演劇の土台は、あたらしいメロドラマ、空疎なイデオロギーをドラマタイズしただけの左翼劇によって掘り崩されようとしていた。フリッツィがブロードウェイの舞台に出られる可能性はなかった」と。

 つい最近、まったく偶然に、オクスフォ−ド・オペラ辞典を手にした。日頃、まったく手にすることのない本だが、「フリッツィ・シェッフ」の項目を引いてみた。20行。その最後の4行を訳してみよう。

    「オペレッタ、ミュジカル・コメディ−に転向して、ブロ−ドウェイで『ボッカ
    チォ』、『ジロフレ・ジロフラ』、『マドモアゼル・モデスト』、さらには著名
    なストレ−ト・プレイ、『毒薬と老嬢』に出演した。

 これを読んで驚いた。私は迂闊にも――「フリッツィがブロードウェイの舞台に出られる可能性はなかった」と書いたからである。

 『毒薬と老嬢』は、1941年、ブロ−ドウェイで大ヒットしたジョゼフ・ケッサリングの喜劇で、ヘレン・ヘイズが主演している。
 私たちには、フランク・キャプラの映画(1948年9月/公開)で知られているだろう。ケ−リ−・グラント主演。ワキには、レイモンド・マッセイ、ジャック・カ−スン、ピ−タ−・ロ−レなどが出ていた。
 「戦後」のフランスでもこの芝居は、ルイ・ジュヴェの本拠だった「アテネ」で上演され、ジュヴェの『シャイヨの狂女』と交代しているし、「コメディ−・フランセ−ズ」を脱退したジャン・ルイ・バロ−が、マドレ−ヌ・ルノ−といっしょに劇団を発足させた「マリニ−劇場」で、この芝居が上演されている。
 まさかフリッツィ・シェッフが、『毒薬と老嬢』に出たとは知らなかった。私の想像では、おそらくヘレン・ヘイズが巡業に出なかったので、フリッツがトゥア−に出たのではないか。
 たかが一本の喜劇に出たからといって、芸術家としてのフリッツィ・シェッフの評価が変わるわけではないが、私は自分の不勉強を恥じたのだった。

 私は書いたのだった。
「1903年に『メトロポリタン』をしりぞいたフリッツィには、録音する機会は一度もなかったと思われる」と。
 ところが、フリッツィの声を聞くことができるのだった。吉永 珠子が教えてくれたのだが、YOU TUBEに、「キス・ミー・アゲイン」が収録されているのだった!
 私は、このときも自分の不勉強を恥じたが、現在の私たちがフリッツィを聞くことができると知って狂喜したのだった。
 私のようなアナログ人間にとっては、想像もできないことだったが。

ニューヨークに行ったことがある。フリッツィが住んでいた西五十五丁目150にも行ってみた。あたりの雰囲気はすっかり変わってしまったらしく、十九世紀のニューヨークのおもかげは残っていなかった。しかし、その街角に立ってフリッツィ・シェッフのことを考えるだけで幸福な気分になったことを思い出す。

2017/09/09(Sat)  1725
 
「メトロポリタン」を去ったフリッツィに、アメリカのライト・オペラの世界、ヴィクター・ハーバートの世界がひろがった。フリッツィにたいへんな成功がやってくる。とくに『マドモアゼル・モディスト』には「キス・ミー・アゲイン」という曲が入っていて、フリッツィが歌って非常な成功をおさめた。
 これ以後フリッツィはこの曲を歌いつづけた。これが彼女のテーマソングになり、トレードマークになった。フリッツィ・シェッフが宿泊しているホテルの食堂に姿を見せると、ホテル側はいつもこの曲を演奏して迎えたという。
 やがて、映画と呼ばれる「第七芸術」が大衆を熱狂させる。フリッツィのような過去の「女神」が時代に適応できなくなるのは当然だったのか。

 フリッツィの前に貧困が待ち受けていた。だが、フリッツィのほんとうのすばらしさは挫折と失意の時期からはじまる。

1954年4月8日、ニューヨークで亡くなった。

2017/08/14(Mon)  1724
 
 オペラの歌姫、フリッツィ・シェッフのことを書いたことがある。
 「フリッツィ・シェッフ」を書いた当時、私は『ルイ・ジュヴェ』という評伝を書きはじめていた。完成まで10年もかかった仕事だが、途中はまったく先が見えない状態で、悪戦苦闘を続けていた。

 私のコレクションで、もっとも古いものは、1904年のジェラルディン・ファーラーや、1905年のエマ・イームズ、1906年のアデリナ・パッティなどがある。
 1910年代のアメリタ・ガリ・クルチや、若き日のロッテ・レーマン、あるいはメルバでさえCDになっている。

 私は書いたのだった。
 「1903年に『メトロポリタン』をしりぞいたフリッツィには、録音する機会は一度もなかったと思われる」と。当時、ネリー・メルバが彗星のようにあらわれ、ローザ・ポンセルや、ガリ・クルチが輝きをましている時期に、すでに流星のように飛び去ったスターのレコ−ドが出るはずもなかった。
 当時の制作状況から考えてフリッツィのレコードが作られた可能性はほとんどない。私は、そういう歌姫の非運を思って、フリッツィの時代の、オペラ、オペレッタという芸術の衰退という偶然と個性的なシンガーの運命を重ねて、短い評伝めいたものを書いたのだった。

 プルースト、ヴァレリーよりも八歳下。イサドラ・ダンカンよりも一歳年下。演出家のジャック・コポオと同年。ルイ・ジュヴェより八歳上。
 フリッツィのデビューは、1897年のフランクフルト。

 世紀末のミュンヘン。つまりはシュニッツラー、若き日のツヴァイク、クリムト、やがてエゴン・シーレ。さらには、これも画家を志しながら貧窮に苦しみ、自分を認めようとしない世間とユダヤ人に憎悪を抱いて彷徨していた無名の青年、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン。
 フリッツィは10代でウィーン、ミュンヘンきっての「女神」として君臨する。

 1901年に「メトロポリタン」に登場した。デビューは「フィデリオ」の「マルツェリン」。「メトロポリタン」での彼女のヒットは『ラ・ボエーム』の「ミュゼッタ」だった。「メトロポリタン」に登場したア−ティストとしては、1903年にエンリコ・カルーソー、1907年にマーラー、1908年にシャリアピンがいる。フリッツィは天性の美貌と、絶大な器量にめぐまれた「女神」のひとりだった。

 1903年4月22日のコンサートで、『連隊の娘』第一幕の「マリー」を歌っているが、これが「メトロポリタン」での最後の公演になった。

2017/07/28(Fri)  1723
 
 戦後の私は、アメリカの文学に関心をもったが、その対象はミステリ−に限ったわけではなかった。
まだ、ポケットブックもろくに買えない頃、サローヤン、ハメット、ヘミングウェイにつづけて、私が読みつづけた作家がホレース・マッコイだった。
 もう誰も知らない作家だが――最近、常盤 新平の訳が再刊された。常盤 新平にこの作家を読ませたのは私だった。
 文学、人生、社会について何も知らなかった私が、この作家を読むことでようやく自分の内部に測鉛をおろした、そんな感じだった。ようするに、あたらしい世界を発見させてくれた作家のひとり。

 私がホレース・マッコイをはじめて読んだのは1946年の冬だったと思う。戦後のこの時期に、アンドレ・ジッドがホレース・マッコイを読んでいた。このことを知った私は大きな「衝撃」を受けた。そればかりではなく、やがてサルトルやカミュも読んでいたことを知った。このあたりのことは『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第一章)で、ふれておいた。

 ホレース・マッコイから、蕪村のことばを思い出す、というのは突飛だが、

    発句集はなくてもありなんかし。世に名だたる人の発句集出て、日来(にちらい)
    の聲誉を減ずるもの多し。況んや凡々の輩をや。

 ホレース・マッコイは『廃馬を射つ』以後、「日来(にちらい)の聲誉を減ずるもの」しか書けなかった作家だった。しかし、わずか1冊でも、すばらしい作品を残したことを祝福してやりたい。そんなふうに思わせる作家だった。

2017/07/21(Fri)  1722
 
 思いがけず身につまされる事実をしらされる。

 75歳以上の高齢ドライヴァ−は、運転免許の更新で、認知機能検査を受ける。2015年に検査を受けた163万人の調査で――認知症、認知機能の低下のおそれがあると判定された人は、年齢とともに増加している。84歳では、じつに50%を超えている、という。(「読売」2017年1月20日)

 認知症のおそれがある人は、約5万4千人。    3・3%
 認知機能の低下のおそれは、約50万人。    30・8%
 問題なし         約107万人。   65・9%

 認知症、認知機能の低下のおそれ――年齢別では、
                 75歳で   29・8%
                 80歳で   36・2%
                 84歳で   50・1%
                 90歳で   63・1%
                 95歳で   78・7%

 ようするに、加齢とともに認知能力が低下している。

 私は高齢者なので、当然、認知症、認知機能の低下のおそれがある。おそれどころか、高い蓋然性があるだろう。
 老いぼれの私の俳句好きも、認知症、認知機能の低下のせいかも。

    顔撫でて とても冷たし 鼻頭   梅 笑

          (私の歳時記・12)

2017/07/08(Sat)  1721

 戦後すぐの昭和20年(1945年)から21年冬にかけて、日本の山村を訪れたアメリカ人ジャーナリストがいた。敗戦直後、日本の国内情勢が混乱をきわめていた時期で、あるジャーナリストが来日したことなど、誰の記憶にも残っていないだろう。

 このジャーナリストは、東京を中心に、関東、中部を熱心に歩きまわったらしい。
 栃木、那須の、ある村を訪れたとき、たまたま雪が降ってきた。淡雪だったらしく、すぐに溶けてしまった。
 彼が出発するときに、宿の主人が宿帳か何かを出して、記念に署名をもとめた。
 そのアメリカ人はこころよく応じて、「それでは日本の歌を書きましょう」といって、二行詩らしいものを書きつけた。むろん、英語である。

    The Snow Came To The Garden
         But Not For Long

 このアメリカ人は、自作に自分の名前を詠み込んでいる。ずいぶん粋な話ではないか。

 作者はエドガー・スノウ。
 スノウは日本の誰かの句を思い出して書いたのだろうか。では、誰の? これまた見当もつかない。
 スノウ自身は、訪日前に俳句の本に眼を通していたに違いない。
 (無謀を承知で)あえて意訳すれば、

    淡雪の庭に降りては消えにけり
    いまし降る雪はつづかぬ庭にして
    降りながら庭に小雪のとどまらず

 いい訳ではない。どうしても理が勝ちすぎる。なによりも、名前を詠み込んでいる酒脱な趣向が出せない。

 スノウは日本を去った直後、半年にわたってソヴィエトに滞在して、ルポルタージュを書いた。これは「サタデイ・イヴニング・ポスト」に発表されたが、敗戦直後の私たちが読む可能性は絶無だったはずである。まして18歳の私が知るはずもなかった。

 スノウは、このルポルタージュを書いたために、アメリカでは左翼として攻撃されたが、皮肉なことに、当時のソヴィエトは、スノウを悪質な反共主義者として入国を禁止している。

 私は左翼ではないので、スノウの著作をほとんど知らない。しかし、敗戦直後に日本の田舎の宿屋に泊まって、わざわざ俳句を詠んだスノウに親しみをおぼえる。
 この句に、敗戦にうちひしがれている日本人を思いやる気もちが含まれているような気がする。深読みだが。スノウは、ジャーナリストとして日本の運命を見きわめようとしていたのかも知れない。

            (私の歳時記・11)

2017/06/30(Fri)  1720
 
 歩いて5分の距離に公園がある。さして大きな公園ではないが、古代の蓮、大賀ハスで知られている。
 このハスは、毎年、初夏の公園でうつくしい花を開く。

 公園には、ハトや、カラス、スズメなどが棲みついている。
 池に小さな島があるのだが、もともとは土に杭を打って盛土した浮島で、松などが植えられている。冬は雪にそなえて、何十本もの縄がかけられる。雪吊りである。

 この島にカモメ、オシドリなどの渡り鳥がやってくる。
 池に並ぶ杭や、島の岸辺に群れをなして羽を休め、冬の日ざしを浴びている。

 俳句の季題にも、初カラス、初スズメなどがある。

    門の木の 阿房鴉も 初声ぞ       一 茶

    大雪の はたとやみけり 初鴉      月 嶺

    鱈(タラ)架けの雪に 鴉が黙りゐる   亜 浪

    初雀 一つ遊べる 青木かな       春 草

 公園を歩いていての一句。

    浮島や 雪吊り松の 初あかり     耕 治

          (私の歳時記・10)

2017/06/16(Fri)  1719
 
 暇つぶしに、女流の句にあたって見た。いい句が多い。

      雪降るや 小鳥がさつく竹の奥     多代

      初雪や 松のしずくに残りけり     千代

      草の戸や 雪ちらちらと夕けぶり    よし女

      雪ふんで 山守の子の来たりけり    なみ

      雪ひと日 祝いごとある出入りかな   はぎ女

 ほとんどが江戸の女流ばかり。現代の、中村 汀女を並べてみよう。

      雪しづか 愁なしとはいへざるも    汀 女

 私も、ときどき俳句を詠む。もとより、老いのわざくれ。去年は、

      立冬に 九十翁の立ち眩(くら)み

 今年はろくな俳句もできない。

      (私の歳時記・9)

2017/06/04(Sun)  1718
 
 冬の公園。
 たくさんの渡り鳥が、池に羽を休めている。

 そればかりか、カラスやハトもこの公園をわがもの顔で縄張りをひろげている。

 私の歩いている公園とは関係がないけれど、

    冬ざれや 小鳥のあさる韮畠       蕪 村

    冬ざれや 水田あたりの 夕烏      迂 呆

    銀(しろがね)のうみ渡(わたる)もや 冬の月  抱 一

 いずれも冬の名句だと思う。
 「抱一」は、むろん、酒井 抱一だが、この句からまったく別の句を思い出す。

    月影や 光あまねく 夏の海       輝 元

 戦国武将、毛利 輝元が、大阪夏の陣に出兵したときの句という。輝元は、関が原の戦いでは、西軍の総大将だったが、大阪の陣では、徳川 家康に加担した。武将としての輝元に関心のない私だが、この句は、スケ−ルの大きいいい句。

     (私の歳時記・8)

2017/05/28(Sun)  1717
 
 小説を読んでいて、すばらしい自然描写にぶつかることがある。

    外では雪が弱まり、ときおり紙吹雪のような雪片がはらりはらりと通りに舞い
    落ちていたが、いつしかぱたりとやんでしまった。向かいの建物の御影石と煉瓦
    が、まぶしい冬の陽射しを受けてキラキラ光る。みれば雲の切れ間から光線の束
    が射しこんで、まるで天が祝ってくれているようだった。言っておくが嘘はこれ
    っぽっちも書いてはいない。

 ブラッドフォ−ド・モロ−作、谷 泰子訳、『古書贋作師』(創元推理文庫・2016.6.24.刊行) P.177.原題は「The Forgers」。

 コナン・ドイルなど、有名作家のご真筆を偽造する「贋作師」Forger が後頭部を殴打され、両手首を切断された状態で発見される。二月の雪しぐれと日照時間の短さのせいで初動捜査が遅れる。
 現場には、リンカ−ンのような政治家や、マ−ク・ト−ウェン、チャ−ルズ・ディッケンズなどの直筆の手紙、生原稿、稀覯本などが散乱している。おびただしいコナン・ドイルの書簡なども。

 小説の語り手は、「贋作師」Forger自身。

 その「贋作」を咎めて、正体をあばくという脅迫の手紙が届く。差し出し人は、なんと「ヘンリ−・ジェ−ムズ」だった。そればかりではなく、ほかの有名作家の手跡を模倣した脅迫状が届く。題名の『贋作師』は複数のForgersである。

 この本の書評をするつもりはない。谷 泰子の訳がいい。この作品に描かれるニュ−ヨ−ク州の冬、そしてアイルランドの南部のはげしいあらしなど、小説の雰囲気にぴったりした自然描写。私は、谷 泰子の訳に感心したのだった。
 イエ−ツの詩の一節が使われて、小説のおそろしいム−ドを予感させるあたり、この作家の文学的な教養の深さがしのばれるようだった。

 俳句を思い出した。イエ−ツに関係はないのだが。

    木枯らしや 沖よりさむき 山の切れ      其 角

    虎落笛(もがりぶえ)しきりに星の飛ぶ夜かな  耳 洗

    さびしさの底ぬけてふる しぐれかな      丈 草

 私の思い描く時雨や、あらしは、こんなところだが。

      (私の歳時記・7)

2017/05/22(Mon)  1716
 
 澁澤さんのエッセイから、一昔前の万世橋、昌平橋界隈を思い出した。
 もう誰も知らない昔話。

 このあたり、昔はスジカエと呼ばれていた。筋違と書く。江戸っ子のまき舌では、スジカイになる。筋違橋(スジカイはし)、筋違御門(スジカエごもん)のあった土地で、このあたりは神田見附。原っパが広がっていて、八小路原(ハチこうじはら)、八辻の原(ヤツつじのハラ)と呼ばれていた。
 すぐ先に須田町、秋葉原(あきバッパラ)がひろがっている。

 今は、もう秋葉原(あきはばら)の電気街、あるいは、AV、ポルノ専門のビルなどが建っている。

 昔は、ここを起点にして、日本橋、内神田、小川町、柳原土手、外神田、下谷、湯島、本郷など、それぞれに道が通じていた。おそらく、徳川政権の戦略上の要衝だったと思われる。
 こんな川柳がある。

     須田町で見れば なるほど筋違(スジカイ)だ

     筋違(スジカエ)を出ると左に 直ぐな道


 それぞれの道が、筋違橋に対して斜めにむすばれていたので、スジカイと呼ばれたらしい。今でも、地下鉄の「お茶の水」まで、ゆるやかな坂になっているが、壕割りの南側(これも名前が消えてしまったが、江戸では紅梅町という)には忍者屋敷が連なっていた。

 ただし、後ろの句には別な含意があるので、注意しよう。

 神田川から昌平橋か筋違御門を通ればすぐに八辻ノ原だが、この界隈は盛り場で、酒や料理を出す茶店、屋台が並んでいた。当然、辻講釈、祭文語り、砂絵といった大道芸人が集まるし、今のAKB48の遠い先祖のような綺麗どころがしゃなりしゃなりと歩いていた。うっかり読むと気がつかないが――「左にまっ直ぐな道」は、かなり意味シンなのである。

 明治6年、筋違御門の石垣を利用して、あたらしい橋がかけられた。これは、明治天皇の東京(当時は、トウケイと発音されたらしい)遷都後の世情安泰を願って、万代(ヨロズヨ)橋と命名された。
 万世橋とかわったのは、天皇を「万世一系」とする国民感情と無縁ではない。

 この橋は、石のア−チが二つつながっていた。片方が「太鼓橋」、もう片方が「メガネ橋」と呼ばれた。
 明治39年に、神田川の上流に鉄橋がかけられて、石橋は姿を消す。昌平橋は、明治6年の洪水で流失し、この39年にようやく再建された。

 おかしな話だが、私は中学生のときから「戦後」にかけてほとんどを神田で過ごしてきた。それこそ古代史の化石のような人間なので、このあたりのたたずまいはまだ記憶にとどめている。
 JRのお茶の水駅の東口、昌平橋から、神田川にかかる地下鉄の線路を見下ろすと、もう誰も知らない江戸の風景がわずかに見えてくるような気がするのだった。

    寒月や 我ひとり行く 橋の音   太 祇

          (私の歳時記・6)

2017/05/14(Sun)  1715
 
 ある日、渋澤 龍彦が、たまたま買ったばかりのフランス語の本を見せてくれた。そのことを、私が座談会でしゃべっている。

 中田  いつかご自分の買った本を見せてくれた。ぼくなんか読めない本だけど、渋沢
    さん、それはそれはうれしそうなの。中世の秘蹟か何かの研究書だったけど、そ
    の本を手にしてることがもううれしくってたまらないの。ぼくまで、うれしくな
    ってくるようで、ああいう渋沢さんはすばらしいなあ。
 高橋(たか子) 子供が自分のもっているオモチャを、友達に喜んで見せるように、ニ
    コニコしてお見せになりますね。
 中田  お人柄というより、何か純潔なんだなあ。ぼくが(渋沢邸の)壁にかけてある
    絵を見ていると、それがうれしいみたい。ぼくは好奇心がつよいので、無遠慮に
    ジロジロ見るんだけど、渋沢さんはそういう無遠慮が恥ずかしくなるほど、やさ
    しいんだ。
 種村(季弘) 垣根を作ってここからこっちに寄せつけないということは、全然しませ
    んね。

 この座談会は、高橋 たか子、種村 季弘、四谷 シモンのお三方、私が司会役だった。(別冊新評『渋澤龍彦の世界』昭和48年10月刊)
 渋沢邸で私の見た絵は、葛飾 北斎。大きな女陰から男が外に出ている有名な一枚。

 人生にはさまざまな偶然がある。澁澤 龍彦と出会えたことは、ほんとうにありがたいことだった。彼の慫慂がなかったら、私の仕事のいくつかは書かれないままで終わったはずである。

 鎌倉の澁澤さんの墓のすぐ近くに磯田 光一の墓がある。
 私は、澁澤さんの墓に詣でたときは、かならず磯田君の墓前に詣でることにしていた。

    年々に 思いおこすや 初しぐれ

                (私の歳時記・5)

2017/05/10(Wed)  1714
 
 渋沢 龍彦に「神田須田町の付近」というエッセイがある。
 書き出しは――


    いまは路面電車は廃止されて通っていないが、かつて都電が東京の街をはしって
    いたころ、神田須田町の停留所は都電の交又点に位置していて、よく乗換のため
    に乗ったり降りたりしたものであった。戦前には、近くに広瀬中佐の銅像が立っ
    ていて、子どもの私は電車で通るたびに、ちらりと窓から銅像を眺めなければ気
    がすまなかったものである。

 少年時代の渋沢さんは、滝野川に住んでいた。

 滝野川といっても、駒込の近くだったから、都電はいつも神明町の車庫前から乗って、千駄木町から池ノ端、上野に出て、万世橋、そして須田町というコ−ス。
 私は、本所に住んでいたから、柳島から出る都電で、押上か業平橋から須田町行きに乗って、上野広小路から、黒門町、万世橋、そして須田町に出る。
 須田町で渋谷行きに乗り換えて、駿河台下まで。約5分。

 こんな文章を読むと、なつかしさがこみあげてくる。
 渋沢さんは書いていないが――広瀬中佐の銅像が立っていたのは、須田町のひとつ手前の万世橋だった。

 明治37年(1904年)2月、日露戦争が起きた。
 2月24日、日本海軍は、第一回、旅順港閉塞作戦を行う。つづいて3月26日、ふた
たび旅順港閉塞作戦を行ったが、海軍少佐、広瀬 武夫が戦死した。
 広瀬は最後に撤収しようとした部下の杉野兵曹長の所在がわからなくなって、船艙に降
りようとして被弾、即死した。中佐に昇進する。
 広瀬中佐の銅像は、上部に中佐が仁王立ちになり、下から兵曹長が見上げているポ−ズ
のもの。敗戦後すぐに処分された。

 中学生の私も電車で通るたびに、電車の窓からこの銅像をかならず眺めたものである。

 少年時代、私は渋沢君とおなじ路線の電車に乗ったわけではないが、一度ぐらい須田町
ですれ違ったことはなかったか。そんな、たあいのない空想が楽しい。

    三月や 冬のけしきの 桑一本      丈 草

                (私の歳時記・4)

2017/05/02(Tue)  1713
 
 私のメモ。

 トランピ−の「ねこ撫で声」のおかげで、イヌとネコの飼育の実態調査に話が移る。

 現在の日本でのペット飼育数は、昨年10月現在で、

     イヌ      987万8千匹
     ネコ      984万7千匹

 イヌのほうが、わずかにネコを上回っている。
 この10年で、ネコの飼育数は、だいたい横這いに近い。これに対して、イヌは、2008年にピ−クに達したが、4分の3に減少している。
 ペットを飼う世代の高齢化や、男女の共働きの増加、変化の影響が見られる。
 犬種も、そのときどきの流行や、建築、住宅事情によって変化して、大型犬が減少し、チワワ、トイ・プ−ドルといった小型犬が増える傾向にあるという。

 平均寿命は、

     イヌ   14・36歳
     ネコ   15・05歳

 この調査は、ペットフ−ド協会による。(「読売」17.1.18)

 犬と猫の出てくる俳句は、たくさんある。昔から、イヌ派とネコ派がせめぎあっていたのかも知れない。

    御火たきや 犬も中々 そぞろ顔      蕪 村

    永き日を 寝てばかりゐる 盲犬      鬼 城

    春雨や 障子を破る 猫の顔        方 丈

    寝て起きて 大欠伸して 猫の戀      一 茶

 「春雨に降り込められて徒然なる日、障子を破って猫が顔を出すのは、俳味横溢して面白い。」と柴田 宵曲はいう。蕪村のイヌの表情も、鬼城のめしいた老犬のあわれも、一茶のネコも、まさに俳味横溢しているだろう。

 大正時代と元禄の句を並べたのは優劣をきめるわけではない。
 「戦後」すぐの中村 汀女の句もあげておこう。

    恋猫に 思ひのほかの月夜かな

 この句に、1948年の敗戦日本の性風俗を重ねて読むのは私だけだろうナ。

                               (私の歳時記・3)

2017/04/24(Mon)  1712
 
  私のメモ。

17年1月21日(土)、ドナルド・トランプが、アメリカ合衆国第45代大統領に就任した。日本では、時差のため、深夜過ぎにライブで放送された。私はドナルドにほとんど関心がないのだが、オバマの就任式とどれほど違うのか見届けたかったので、この放送を見た。
 就任直後に、ドナルドは「アメリカ・ファ−スト」を語り、外交・経済において国益をなによりも重視する立場を鮮明にした。
 その演説は16分間、じつにわかりやすい内容で、ドナルドの頭脳の単純さがつよく印象された。このグ−フィ−・プレジデントは、「アメリカ・ファ−スト」、アメリカ、アメリカを30回もくり返している。いい気なものだ。
 「グ−フィ−」が、アメリカの労働者の一部の雇用を確保することは間違いないが、アメリカ人全般の家庭に恩恵をもたらすことはない。早晩、「グ−フィ−」に対する失望や反感がひろがってくるだろう。

    死んだかとおもへば戻る 男猫       五 明

 五明は、蕪村と同時代の俳人。

    いずれもの ねこ撫で声に としの暮れ   嵐 雪

                             (私の歳時記・2)

2017/04/18(Tue)  1711 私の歳時記 1
 
 以下は、私のささやかなメモのようなものである。
 しばらくブログに何も書かなかったので、今年になってから、思いつくままに書きつづけていた。(2017年1月21日、前書き)

 2017年1月20日(日本時間で21日)、ドナルド・トランプが、アメリカ大統領に就任した。その得意や思うべし。
 Trump’s Triumphである。

 おなじ日、トランプの就任に抗議する「女性の行進」が、おなじワシントンで行われた。参加者は、マドンナ、スカ−レット・ヨハンソンをはじめ、約50万人。反トランプのデモは、全米各地のみならず、ロンドン、ベルリンなど、70カ国以上、全部で670カ所で開催されたという。

 反トランプ感情について――数年前まで何も知らなかったが――ふと思い出したことがある。

 私の好きなTVミュ−ジカル、「SMASH」の第9話、「Hell On Earth」に、「シュ−バ−ト劇場」の舞台ミュ−ジカルが出てくる。ヒロインの一人、「アイヴィ−」がコ−ラスガ−ルとしてショ−に出ているのだが、その歌詞に――「共和党だろうが、民主党だろうが、死ねば誰もが『最後の審判』にかけられる」。ジャンヌ・ダ−クは火刑になったし、ナポレオンは失脚した。「ドナルド・トランプ」だって、ビジネスに失敗して、「最後の審判」にかけられるかも知れない、という内容。

 トランプが、大統領選挙に出馬する前の2013年のこと。私は、このミュ−ジカルで、ブロ−ドウェイの反トランプ感情について知ったのだった。

 トランプの発言は、世界的に大きな反響を喚び起こしている。私がひそかに注目しているのは、ドイツのトランプに対する反応である。「ビルト」は、「トランプの登場によって、世界は極度に複雑化する」という見方をとり、国家主義の悪夢がトランプ政権との信頼関係を構築する障害になると指摘している。
 (私もまったく同感である。トランプの登場は、いろいろな点で、アドルフ・ヒトラ−の政権掌握に似ている。後記)

 トランプの就任の翌日、ドイツのコブレンツで、極右政党、「ドイツのための選択肢」(AfD)のフラウケ・ペトリ−共同党首が、移民受入れ停止や、人種差別を昂言している。こうした発言から、ヒトラ−の登場した時代をつよく思い出すのは、私ひとりだろうか。

 ひょっとすると、ドナルドは自分をヒトラ−の再来と認識しているかも。少なくとも自分がアメリカ皇帝に即位したぐらいに思っているかも知れない。

 トランプの閣僚人事をながめるだけで、この大統領の「グ−フィ−」ぶりが見えてくる。これまでのアメリカの歴史のなかで、トランプほど、大富豪や、実業家、金融機関のトップを閣僚に起用した大統領はない。これは大いに注目していいと思う。国務長官に、石油の「エクソン・モ−ビル」の会長、兼CEO(最高経営責任者)、レックス・ティラ−ソンを起用したのも、その一例。
 令嬢、イバンカの夫、ジャレッド・カシュナ−を、大統領上級顧問としてホワイト・ハウス入りをさせた。露骨なネポティスモ(親族優遇)というべきだろう。

 ただし、残念ながらトランプはアメリカ合衆国「初代」皇帝にはなれない。

 1859年から1880年まで、アメリカ合衆国には皇帝が実在している。ジョン・エブラバム・ノ−トンである。皇帝の即位は、「サンサランシスコ・ブレティン」(1859年9月17日)に、「勅命」によって公表されている。
 したがって、トランプは、「初代」にはなれない。(笑)

    はる寒く 葱の折れ伏す畠かな      太 祇

 トランプにはまったく関係がないが、そんな句を思い出す。

    春寒し 風に暮れたる 藪の月      蘇 山

  
                 (私の歳時記・1)

2017/03/30(Thu)  1710
 
 私のブログ、アクセス数が10万に達した日、私としてはめずらしい集まりに出席したのだった。

 じつは「日本推理作家協会」主催の「土曜サロン」で講師をつとめた。
 この土曜サロンは「日本探偵作家クラブ」の頃に江戸川 乱歩が中心になってはじめられた「土曜会」が前身だが、「推理作家協会」になってからは南青山で「土曜サロン」として現在、年6回、開催されている。
 石井 春生さんをはじめ事務局の方々にお世話をいただいた。

 テ−マは私の任意ということなので、私がミステリ−の翻訳をはじめた「戦後」のミステリ−の状況や、翻訳についての回想といったことにしていただいた。
 いまから、70年近くも昔の話なので、あまり興味をもつ人もいないだろう。当時、ミステリ−の翻訳をはじめていた人たちのほとんどが鬼籍に入っている。したがって、もう誰の記憶にもないようなことを話す程度なら許されるかも知れない。

 「土曜サロン」での私の講演は、戦前から日本の推理小説を読みつづけてきた少年が、「戦後」になって、文学批評をめざしながら、ミステリ−をはじめ、ひいては、SFから怪奇小説、歴史小説などの翻訳をつづけたことを中心に、「戦後」のある時期までのアメリカのミステリ−の変化を述べることになった。

 正直にいって、当日、私自身は健康状態に懸念があった。なにしろ老いぼれのもの書きなのだから。
 とにかく足もともおぼつかないので、親しい友人2人にお願いして同行していただくていたらくであった。

 付添ってくださったのは、旧知の作家、山口 路子さん。そして翻訳家の田栗 美奈子さんのおふたりだった。
 山口さんは、美術関係の著作に、『美神(ミュ−ズ)の恋〜画家に愛されたモデルたち』、小説『軽井沢夫人』、『ココ・シャネルという生き方』をはじめ、オ−ドリ−・ヘップバ−ン、エディト・ピアフ、ジャクリ−ン・ケネディなどのライト・レヴュ−、最近作は『マリリン・モンロ−の言葉』などで知られている。
 田栗さんは、高名な翻訳家で、デイヴ・ペルザ−の『Itと呼ばれた子』、ジョン・バクスタ−の評伝『ウディ・アレン・バイオグラフィ−』、マイケル・オンダーチェの『名もなき人たちのテーブル』など。
 私の講演のあと、出席者の質問でも、おふたりに発言していただいた。これも、私にとって大きな喜びになった。

 残念なこともある。「土曜サロン」の当日、これも翻訳家の青木 悦子さんに再会できるはずだった。
 実をいえば、この「土曜サロン」の集まりで私がレクチュアする話は青木 悦子さんが打診してきたのだった。私が、「土曜サロン」に出席するときめたのは、悦っちゃんに再会できることを、ひそかに楽しみにしたからだった。その青木 悦子が欠席という。ほんとうに残念なことだった。

 さいわい、なんとか話を終えて、いろいろな質問にも答えることができたのだった。
 ただし、全体に蕪雑なレクチュアに終始したことをお詫びしたい。わざわざ足を運んでくださった方々に、ろくな話もできなかったが、熱心に聞いて頂いたことに感激している。これが、私の最初にして最後のレクチュアになったが、生涯の思い出を頂戴したと思っている。

 この3月18日(土)は、私にとって忘れることのできない一日になったのだった。

 じつは、私のブログ、アクセス数が10万に達した日、そして私としては生涯最後となる「土曜サロン」の集まりに出席した日、私は、おのれの人生でもっとも過酷な時間のさなかにあった。
 付添いのおふたりにも伏せていたが、この日のできごとのすべてが、夢のようだった。それもひどく悪い夢で、レクチュアしながらも、おそろしい、まがまがしい夢にうなされているようだった。

 講演を終わって、「推理作家協会」の作家たち、事務局のかたがたの見送りを受けながら、黄昏の表参道を往来する車を眺めながら、私はしばらく佇ちつくした。もう何も考えられなくなった私は、自分を待っている運命の前に、おののきながら立ちつくすよりほかなかった。

 3月23日(木)、午後8時40分、妻の百合子が亡くなった。

2017/03/20(Mon)  1709
 
 3月のある日、田栗 美奈子から電話があった。このブログ、アクセス数がついに十万の大台を突破したことを知らせてくれたのだった。自分でも信じられないアクセス数であった。

 もうすでに書いたことだが、私のブログ、「中田 耕治ドットコム」は、偶然にはじまったのだった。
 私にブログを書くことをすすめてくれたのは、田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりで、何も知らない私のためにいろいろと準備してくれたのだった。一方で側面から私を助けてくれたのは、真喜志 順子だった。この三人のお力添えに、あらためて感謝している。
 これほど長い期間にわたって、ブログを書きつづけるとは考えもしなかったが、そのときそのときに私の内面にあったテ−マを書きとめておくことは、けっこうたのしい作業になった。

 ブログを書きはじめた時期の私は、今ほど老いぼれてはいなかった。アクセス数など、考えもしなかった。ただ、私のブログは、一日きざみで自分の老いを見つめてゆくものになったはずである。
 もう数年前だが、友人の人形作家、浜 いさをが、私のブログを読んでくれたが、
 「地味だなあ!」
 といった。
 むろん、軽蔑のことばではなく、私のブログの貧しさに心から驚いたようだった。

 私自身が内向的で地味な性格なのだから、ブログが地味でも仕方がない。おのれの鬱屈した思いを文章にしたつもりもなかった。あるいは、自分の日々の感情を克明に記録すれば、アナイス・ニンの「日記」のような日記になったかも知れないが、はじめからそんな意図はなかった。
 ただ、未知の誰かが私のブログを読んでくれるかも知れない。そんな期待はあった。
 個人的に面識はなくても、私と似たような文学的な好みをもっている人たち、あるいは、個人的に私と親しい友人たちにあてた近況報告のようなものを発信するだけでよかった。
 だから、ときどき、私の知らない不特定多数の読者がこのブログを読んでいてくれると知って驚いたり、喜んだりしたものだった。

 「中田耕治ドットコム」には、自分の心をかすめるものごとについて、書きつづけた。
 今にして思えば――田栗 美奈子と、吉永 珠子のおふたりが私の目をブログというあたらしい世界に向けてくれたのは、当時の私が何も書かなくなることを心配してのことではなかったか。
 私は、おふたりの好意をありがたく思っている。
 ブログのアクセス数が10万に達しようとしている。それをわがことのように喜んで、声をはずませて知らせてくれた田栗 美奈子と、吉永 珠子に感謝している。

2017/03/06(Mon)  1708
 
 どういうものかブログを書く気にならない。何か書いても、どうもおもしろくない。
 別にスランプというわけではない。画家のマグリットは、アトリエももたず、キッチンで絵を描くような日々を過ごしていたという。彼が描いていたのは、誰も描くはずのない、奇妙な絵ばかりだった。

テレビ。これまで一度も見たおぼえがない筬という漢字を覚えた。ノ−ベル賞の授賞式に、ストックホルム大学の学生組合が、会場に旗を立てて参加する。歴史ある旗だが、これが傷んできたので、ストックホルム大学が日本の職人に新しく織らせることを依頼した。

 日本の職人は、じっくり研究して、まず、この生地の糸が山繭であることをたしかめる。しかも、この糸は、4本で撚糸をして、これを金に染めて織りあげるのだが、横糸に縦糸を織るときに職人が筬ベラを使って布に仕立ててゆく。この作業をじつに1万4千回くり返す、という。
 日本の職人のわざに、ストックホルム大学側も感嘆していた。むろん、私は日本の匠(たくみ)の技に感動したのだった。

    おさ【筬】織機の付属具。タテ糸の位置を整え、ヨコ糸を織り込むのに用いる。
     竹の薄い小片を櫛の歯のように列(つら)ね、長方形のワクにいれたもの
    (竹筬)であったが、今は銅または真鍮の偏平な針金で製したものを多く用いる。

 「広辞苑」の説明。これだけの説明で、執筆者の苦心がよくわかる。ただし、一読してすぐに「おさ」の形状がわかるわけではない。竹ベラの片面を櫛の歯のようにして、糸をしごく道具と説明したほうがわかりやすい。
 一つ、勉強になった。さらに、「広辞苑」の説明で、別の項目、「おさ」の意味を知っ
た。

   おさ【訳語】外国語を通訳すること。また、その人。通訳。通事。通弁。〈霊
   異記(上)訓釈〉

 私は、翻訳家のはしくれだが、通訳はできない。通訳めいたことは何度か経験したが、いつも冷や汗ものだった。
 通訳を「おさ」というのか。「広辞苑」のおかげで、また一つ、勉強になった。

2017/02/13(Mon)  1707
 
 夜、テレビ。リ−マン・ショックで失業し、YouTubeで日本の椎茸栽培に関心をもっているアメリカのオジサン、ジェレミ−・マックアダムズ。現在、栽培の原木2000本で、ささやかながら椎茸を近隣にひろめようとしている。テレビ東京の番組が、このオジサンを日本に招待する。日本の椎茸栽培で10年連続で農林・水産大臣賞を受けた大分の農家、小野 九州男さんに紹介する。小野さんの栽培の原木は3万5000本〜4万本。春秋に収穫して、最高の品質の椎茸は、2万円の高値で売られている。オジサンは実地に小野さんの指導を仰ぐ。
 ポ−ランドで弓道の修行をしている女子大生を招待したり、アメリカで錦鯉を飼っている女子高生を招待して、新潟の業者の鯉の飼育を見学させたりする番組で、私は毎週この番組を見ている。今回も、原木を立てた椎茸栽培で、自然光をいかに採り入れるかを体験するために、杉の枝を間引いて光を調節するなど、日本人の知恵を惜しみなくアメリカの農家のオジサンに教えている。日本の伝統や文化が、こうしたかたちで外国人に理解されてゆくことに感動した。
  (16.10.28/金)

2017/01/23(Mon)  1706
 
 俳優、平 幹二郎が亡くなった。享年、82歳。自宅の浴室で倒れたという。
 ヒラミキは「俳優座」の養成所で私のクラスに出ていたので、その頃から知っているが、仲代 達矢ほど身近にいたわけではない。後年の「鹿鳴館」や、「王女メディア」などは見ているので、いい俳優だと思っていた。
 演出家の蜷川が亡くなって、ヒラミキが亡くなった。私はまったく無関係な世界ながら、うたた感慨を催す。

 「やっぱり長生きするってスゴいことなのよ」と、家人がいう。
 「そうかも」と私は答える。お互いに、ヨタヨタしている老夫婦の対話。

 夜、平 幹二郎の出ているDVDを見たかったが、一本ももっていない。その代わりというわけではないが、「SMASH」9話、「Hell on Earth」を見た。私の好きなシ−ンを。
 舞台で失敗した「アイヴィ−」を追って「カレン」がブロ−ドウェイの雑踏を行く。

 ふたりがジンを飲んで、ほろ酔いで、ブロ−ドウェイの雑踏のなかで歌う。私が、いちばん好きなシ−ン。

 あの雰囲気が、かつて「俳優座」養成所のあった六本木に似ているのだった。あのブロ−ドウェイの雑踏も、「アイヴィ−」や「カレン」のようにまだ無名の女優たちがあふれていた宇田川町界隈に似ているような気がして。

 いつの時代でも、芝居の世界は「Hell on Earth」なのだ。

2017/01/09(Mon)  1705
 
 いよいよ最後に、ベスト・スリ−。

 (3) 松茸の土瓶蒸し  在日外国人がもっとも気に入った日本食のベストテンに、カツオのたたきを選んだことに、私は感動した。
    そして、三位に松茸の土瓶蒸しを選んでいる。戦後、外国人の日本理解がここまで到達しているのは驚きだった。
    しかも、出汁はカツオ、という。

 (2)栗ごはん  栗ヨ−カンもあわせて。ようするに、クリが好きということだろう。パリで食べた石焼きマロンもおいしかったが、外国人が栗ごはんをおいしいと思うのは、まぜごはんをおいしいと思う味覚のせいだろう。もう少し時間がたてば、「落ち栗や明日は秋なき山の鐘」(多代)とか、「落ち栗をひろうて近く乳母が里」(まさ子)といった風情も理解してもらえるかも知れない。
    もっとも、それより早く日本人のほうが、そんな心情を理解できなくなっているだろう。ハロウィ−ンに仮装をして渋谷にくり出す群衆の雑踏をみれば、私のいいたいことは想像できるだろう。日本人の「オバケ好き」はおもしろいが、ことのついでに、(栗ヨ−カン)のTreat(おもてなし)でもしてやったらどうだろうか。

 さて、いよいよベスト・ワンが登場する。

 (1)サンマの塩焼・大根おろし  サンマにフリ塩。浸透圧でうまみが出る。今年は夏の異常気象や、中国漁船の乱獲の影響で、サンマも不漁だったらしい。おかげで、こちとら庶民はサンマもろくに食べられなくなっている。それでも、外国人が大根おろしでサンマをいただくなんざ、外国人も和食の魅力に気がつきはじめた、どころではない。えらくイキな話だねえ。

 このリストを見ていて、つくづく私は日本人でよかったなあ、と思う。

 ただし、まだ外国人の手の届かない食べ物があるらしい。たとえば、

    アンコウの味知らぬなり フグト汁    つた女

2016/12/28(Wed)  1704
 
 在日外国人に簡単なアンケ−ト形式で、気に入った日本食のベスト・テンを選んでもらうテレビの企画。そのベスト・トウェンティ−に興味をもったので、かんたんなコメントをつけて書きとめておく。これから、ベスト・テン。

 (10) 焼きイモ  草箒で落ち葉を掃く。いくらかうず高くつもった落ち葉のなかに、サツマイモを2.3本、投げ込んで、火をつける。「煙らせて炊き捨てしワラや今朝の冬」(つた女)。ホコホコした焼きイモができている。今はもうそんな風景もみられなくなった。

 (9)牡蠣  パリ。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、あるいは、アナイス・ニン、ヘンリ−・ミラ−の描いたパリ。私の知っているパリは――現在のように、高層ビルが立ち並ぶプラス・ディタリーや、戦後の大統領の名をいただいたヴァンサン・オリオ−ルの高架線のシュヴァルレ、ナショナルの新しいビジネス街のパリではない。パリは変わった。だが、かわらないものもある。
    カキ。ノルマンデ−のカキが壊滅的な被害をうけたとき、日本からヒロシマのカキが送られたことを思いだす。

 (8) 焼ナス  長ナスの漬物が好きだが、焼ナスはあまり好きではない。「秋風に花の散りける茄子かな」(とき)。赤ミソが好きだが、白ミソはあまり好きではない。何か関係があるのかな。

 (7)イクラ  スジコのほうがいい。むろん、バラバラのイクラも好きだが、スジコを口に入れて、スジの部分から粒々をしごき落とすのがいい。粒々だけなら、キャビアのほうがいい。

 (6)里芋の煮物  子イモの六方剥き、火にかけてアク抜き。ミソ汁はマゴイモを選ぶ。キヌカツギもおいしい。

 (5) ぎんなん  土瓶蒸し。いろいろな具のなかにいて、ギンナンは、翡翠だったり、トパ−ズだったり。

 (4)カツオのたたき  それも、9月の戻り鰹、ワラで焼いたもの。在日外国人がもっとも気に入った日本食のベストに、カツオのたたきを選んでいる。このことに私は感動した。

2016/12/22(Thu)  1703
 
 ブログを書く気にならない。何か書いても、どうもおもしろくない。      
                                      
 何を書いてもおもしろくないときは、どうすればいいのか。          
                                      
 対症療法は、いくつもある。                        
 おいしそうなことを書けばいい。あとになって、読み返す楽しみが生まれるかも知れないから。                                
 旅行者だけでなく、在日外国人に簡単なアンケ−ト形式で、気に入った日本食のベスト・テンを選んでもらうテレビの企画を見た。そのビリング、というか、ベスト・トウェンティ−を記述しておこう。逆順で。                  
                                      
 (20)ししゃも――これからの季節、酒の肴に最高だねえ。私は、大学の講義のあと、親友の小川 茂久といっしょに、駿河台下の居酒屋、「弓月」で、酒を酌み交わすのが習慣だった。お互いに何を語り合うわけでもない。親しい友人と酒を飲む。これほど楽しいことはなかった。小川は、いつも湯豆腐、私はシシャモときまっていた。

 (19)舞茸――マイタケにヒジキ、エダマメ、鳥肉のまぜゴハン。(好みによっては、エリンギも)これを、オニギリにする。味のベ−スは醤油。けっこうおいしい。「ハツタケの香に降り出すこさめかな」(智月)

 (18) おはぎ――オハギはどうして「おはぎ」なのだろうか。もともと萩のもちだが、接頭語をつけたのは、日本人のこころばえに違いない。多分。ボタモチが、もともとの牡丹餅の語感を失ったのと何か関係があるのか。私は、オハギが好きなのだが。

 (17)自然薯・とろろ――ヤマノイモ、ナガイモ、ツクネイモ。麦とろで有名な東海道、丸子宿のトロロを食べたことがあった。その後、鈴鹿のイセイモのトロロを食べて、鈴鹿のトロロのほうが、ずっとおいしい気がした。

 (16)サバ――サバは、おいしいサカナだが、カツオの生き腐れとおなじで、腐敗が早い。前の日に冷凍して、翌朝、新聞紙、ビニ−ルにくるんで、登山する。山頂で、これを焼いて食べるのだが、とてもおいしい。大根の切れっぱしか、ダイコンオロシももって行く。醤油はビニ−ルのフィルム缶に入れて。こんなコトも昭和の登山スタイルになってしまったなあ。

 (15) カボチャの煮もの――あまり好きではない。戦争が終わって、ひどい食料難がやってきた。田舎に買い出しに行ったが米が買えずに、カボチャを二個売ってもらった。そのときの苦い思い出がのこっている。

 (14)蓮根――私の大好きなテンプラは、レンコン。あるホテルのテンプラ屋に通いつめたことがある。私の顔を見ると、すぐにレンコンを出してくれるようになった。そのホテルのバ−に行くと、バ−テンダ−はきまってフロ−ズン・ダイキリを出してくれるように。

 (13) 鮭の塩焼き――今では、「お茶漬のもと」といった インスタント食材があるけれど、シャケの塩焼きはけっこう奥が深い。石狩川の河口の近くで、お婆さんが焼いてくれたシャケのおいしかったこと。

 (12)たきこみごはん――野菜でもサカナや肉、何でも炊き込みごはんは好き。ダイコンメシは、うれしくないけれど。

 (11)干し柿――柿の皮を剥き、ワラの紐に通して、軒(のき)に下げる。毎日、寒風にさらされているうちに、白い粉がふきはじめる。すっかり干し上がる前にもぎとって食べてみる。あまくなっている。母に叱られても、干し柿の盗み食いはやめられなかった。

2016/12/20(Tue)  1702
 
 今年の夏、ふと思いついて、エンリコ・カル−ゾ−を聞いてみた。(CARUSO SINGS AVERDI・RCA/BMG)100年も前の録音。メゾ・ソプラノは、エルネスティ−ヌ・シュ−マン=ハインク。カル−ゾ−はたしかに不世出のテナ−だが、今の私にはピンとこない。そこで、「トロヴァト−レ」を聞き終えてすぐに、おなじ「トロヴァト−レ」をプラシド・ドミンゴできいてみた。ズビン・メ−タ指揮。(RCA)やはり、圧倒的にドミンゴのほうがいい。とくに相手がレオンティン・プライスで、声の輝きがすばらしい。ついでに、ミルンズ、コッソットでも聞きなおしてみた。
 音楽の違いばかりではなく、カル−ゾ−とドミンゴを聞き較べる。カル−ゾ−とミルンズ、コッソットとドミンゴを聞き較べる。エルネスティ−ヌとコッソットを聞き較べる。こんなことが、いとも簡単にできてしまうことにいまさらながら感心した。


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