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2019/10/27(Sun)  1818〈1977〜78年日記 65〉
 
        1978年6月1日(木)
 奇妙な夢をみた。
 もともと、あまり夢を見ないのだが、おそらくエロスに関係がある。

       1978年6月2日(金)
 10時から、翻訳。吉行 淳之介から依頼されたフイリップ・アリンガムを訳した。
 吉行 淳之介編、「酒の本」。私は、吉行さんの依頼で、なんとH・L・メンケンも訳している。

 H・L・メンケンは、日本で訳されたことがあるのだろうか。戦前の「研究社」、「英語研究」あたりで、対訳のかたちでメンケンが紹介されたり、訳されたことはあったと思われる。しかし、「戦後」、メンケンのエッセイを訳したのは、おそらく私が最初ではないだろうか。
 吉行さんは――いささか微醺を帯びたアメリカのご老体が、粋な語り口で、若き日の酔虎伝を語ったものと見て、訳者に私を起用なさったのかも知れない。
 禁酒法に対して猛烈に反対しただけに、大酒を食らって、酔いにまかせて原稿を書きとばしていたジャーナリストと見られがちだが――じっさいは、節度をこころえた愛酒家だった。
 ビール、ドイツ・ワイン、クラレットが好きだったが、度を過ごして大酒したことのない酒豪だった。
 メンケンが若手の新聞記者だった頃、ある日、火事の現場に急行した。消防署勤務の医者が、
 ――アルコールというやつは、興奮剤じゃなくて、じつは鎮静剤なんだよ。こんな冬
    の夜、火事のネタをとっているとき、キュッと一杯やったら、からだが暖まるよ
    うな気がする。ところがどっこい、ほんとはサカサマなんだ。

 後年、メンケンは書いている。

    その医者のことばは、今もなお、心のなかにしみついている。だから、私は夜に
    しか、アルコールを口にしない。私の才能をふるい立たせるためではなく、仕事
    を終えたあとの昂奮を静めるために。長年にわたって、私はグラス一杯のビール
    をあおって原稿を書いたことなどまったくない。私の文章は、高尚な紳士淑女の
    みなさんがたには、酔いどれの書いたものに見えるかも知れないが、どうしてど
    うして、ウィリアム・ディーン・ハウェルズよろしく、まるっきりシラフ、いと
    もおごそかに書いたものである。

 ウィリアム・ディーン・ハウェルズは、1837〜1920年 偉い作家、批評家だったが、私たちにとってはメンケン以上に遠い存在になってしまった。たいていのもの書きは、死んでしまえばすぐに忘れられるから仕方がないが。

 それにしても、吉行さんに頼まれたH・L・メンケンは私にとっては手ごわい相手だった。うまく訳せなかったのは、残念だったが。

         1978年6月3日(土)
 「伊勢丹」、「ドラン展」。
 私はドランにあまり関心がない。ピカソ、マティス、ブラックなどと比較した場合、なぜか魅力が感じられない。ただし、あまり注目されないが、ドランのヌードに、すばらしいものがある。千葉の「川村美術館」で、そんなドランの1枚を見て、私は魂を奪われたような思いがした。このヌードのドランはまさに天才と呼ぶにふさわしいきらめきを見せていた。これに比肩するものは、上野で見た、エゴン・シーレの1枚、パリで見たモジリアーニの1枚だけだった。これに較べれば、やや劣るのだが、ヴァン・ドンゲンの1枚。

 今回の「ドラン展」では、「二人の女」を見ることができた。この絵を見て、私はドランのことだけでなく、女のエロスについて考えはじめていた。

 片手を頭の上にかざして立つ女。その前に身をかがめ、その女の下腹部に両手をあてて、しなだれかかるもうひとりの女。二人の女は、おそらくレズビエンヌだろう。
 この絵には、ドランがやむを得ず隠していた、何か秘密めいたものがあるように思われた。
 まるっきりの妄想だが、この二人の女のポージングは、レオナルド・ダヴィンチの「聖アンナ母子」のポーズを逆にしたような気がする。(ただし、幼児のイエスは消してあるとして)。
 この次は、「ローランサン展」をやるらしい。これも、ぜひ見るつもり。

 「山ノ上」で、「講談社」、徳島 高義、清水 孝一さん。徳島さんに原稿をわたす。しばらく雑談。吉行 淳之介のこと。
 「世界文化社」、井上 博君に原稿。待たせてしまった。
 6時20分、Y.Kを待っていたところに、吉沢君がきた。3人で「グランプリ」を見た。ノルウェイの人形アニメーション。原題、「The Punch Clufe GRAND PRIX」。(これは、ブロマイドに書いてあった通りに写したので、スペルは間違っているかも知れない)。ストーリーは単純だが、子どもの心理をよくとらえている。日本でも人形アニメは作られはじめたが、不必要にさわがしかったし、ジケッと感傷的だったりする。このノルウェイ人形アニメは、さわやかにユーモラスで、人形の動きに無理がない。見ておいてよかった。
 吉沢君が、神田駅の近くの小料理の店に案内してくれた。

 Y.K.と。

       1978年6月4日(日)
 今頃になってバークリーから送ったスプラッターが届いた。船便なので、手荒に扱われたのか、壊れていた。通関量が100円。税関の検査で壊れたのか。これでは使いものにならないが、タネだけは無事だった。
 百合子と散歩。プランター、腐葉土を買ってきた。
 エリカが送ってほしいというので、百合子といっしょに浴衣を選んでやる。

 私は、浴衣を着た夏の女を見ると胸がときめく。
 今の若い女の子が身につけている、薄くてさっぱりしたシュミーズ・ドレスも、むき出しのセクシーさより、ぐッとくるエロティシズムを感じさせるが、浴衣は江戸の女たちが自然に身につけたエロティシズムの極致だと思う。
 「スケスケの服がはやっているので、下着のおしゃれも大切ね」と、女たちはいう。
 しかし、浴衣は透けるから下着をつけなければいけない、という考えかたとは無縁だろう。昔の女が美しかったのは、お腰一枚で、くりっとしたヒップ・ラインを見せたからだろう。
 ノーブラという考えかたも、ほんらい浴衣には必要がない。女の乳房はある程度大きくなければならない、という男の論理が、こういう考えかたのうしろ側にある。ペチャパイだろうと、Gサイズだろうと、女の胸もとの美しさを見せることができるのは浴衣だけといっていい。

      1978年6月5日(月)
 4時、やっと原稿を書く。すぐに仕度して、「山ノ上」に。
 「世界文化社」、井上君にわたす。
 6時半、神保町からタクシーで新宿に。「コンボイ」(サム・ペキンパー監督)の試写。
 トレイラー・トラックのドライヴァー、「ラバー」(クリス・クリストファーソン)は保安官、「ライル」(アーネスト・ボーグナイン)に睨まれている。たまたま、警察のおとり捜査にひっかかり、「ライル」に罰金をとられるが、トラックで逃走する。ドライヴァー仲間に無線で呼びかけ、州内からぞくぞくとトラックが集結する。「コンボイ」は、ほんらい護送船団の意味だが、「トラック野郎」といった含みになる。
 警察側とトラック軍団のカー・チェイスは迫力があるが、「ガルシアの首」や「わらの犬」などに比較すべくもない空虚な大作。
 私は、サム・ペキンパーのすさまじい暴力描写や、極度に緊張したシーンにスロー・モーションを使う演出や、暴力描写とコントラストをなす悲哀にみちた詩情といったものが好きなのだが、「コンボイ」には、そんなものはなかった。

        1978年6月6日(火)
朝からいろいろと電話。

 12時半、千葉駅に急いだ。駅の裏に当たる中村酒店の前に出たとき、特急が入ってきた。これに乗らなければ「山ノ上」で会う約束に間に合わない。
 それでも、足を早めて駅に向かった。乗れそうもないのだが。
 プラットフォームに出たとき、意外なことに、この特急が7番線にいた。私は走った。開いたドアから飛び乗ったとたん、ドアが閉まった。
 ラッキーだなあ。
 空いている席に腰をおろした。すぐに、背後から車内検札の車掌がきた。特急券、1000円。
 車掌が前の席に移動した。3列ほど前の席に外国人がすわっていた。車掌が寄って行って話しかけた。通じない。車掌が困った顔で何か説明する。まったく通じない。しばらく押し問答がつづいた。中年、赤ら顔に口ひげのラテン系の外人だった。その外人も自分の身に何かよからぬことが起こったらしい、と困った顔で、車掌を睨みつけていた。
  ――手つだってあげようか。
 私は車掌に声をかけた。車掌は、ほっとした顔になった。
   ――できますか。
 何ができますか、なのか。車掌は、「英語ができますか」といったのではなく、私が通訳を買って出たので、「お願いできますか」というつもりで、こういったらしい。
 私は、この列車が「特急」なので、きみは別に運賃を払う必要がある、と英語でいった。相手は、英語がわからないという。イタリア語ならできるという。
イタリア語で説明した。なんとか通じたらしい。ただ、どうして特急券を買わされるのか、納得できないようすだった。
 アルゼンチン人という。
 車掌が、私のところにきて、礼をいった。
   ――どこの国の人ですか。
   ――アルゼンチンの人。イタリア語しかできないそうです。
 東京駅についたとき、私はアルゼンチン人といっしょに5〜6番線に出た。浜松町に行くというので、少し話をした。時間があったら、もう少し話をしたかったが、私は、すぐ次の駅で下りなければならなかった。

 「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見書房」の長谷川君に会う。いっしょに「20世紀フォックス」に行く。「結婚しない女」(ポール・マザースキー監督)の試写。
 「エリカ」(ジル・クレイバーグ)は「マーティン」(マイケル・マーフイー)と結婚して16年目。夫が浮気をしたため、勤務先の画家、「ソウル」(アラン・ベイツ)と不倫な関係に入る。ところが「マーティン」は、浮気相手(リサ・ゴーマン)と別れたといって、「エリカ」に復縁をせまる。「エリカ」はこれを拒否して、「結婚しない女」として生きてゆく決心をする。
 この原作は、杉崎 和子女史が訳して「二見」から出している。杉崎さんとしては、あまり気ののらない仕事だったらしいが、それでも、ケート・ショパンよりは読まれるだろう。これをきっかけに、存分にいい仕事をなさいますように。

 「山ノ上」。長谷川君と別れて、すぐに、「サンリオ」の佐藤君と、若い編集者(名前失念)と会う。このとき、「二見」がアナイス・ニンの「デルタ・オヴ・ヴィーナス」をとったという。「サンリオ」の佐藤君から聞いた。
 誰の訳で? 青木 日出夫という。やっぱり、そうか。
 アナイスの遺作、「デルタ・オヴ・ヴィーナス」は、ポールの依頼で、私と杉崎さんが「実業之日本」に出版を交渉した。ずいぶん努力したつもりだったが、アナイスのエージェント、ガンサー・スタールマンが、あらたに「ユニ・エージェンシー」と交渉することになった。このとき、青木 日出夫が出てきた。青木君は「ユニ」の幹部だから、「デルタ」の出版権の獲得に動くのは当然だが、交渉の途中で、自分としては「デルタ」を訳す意向はない、と私たちに明言したのだった。
 ところが、「二見」にアナイスを売り込んだとき、「デルタ」の翻訳も自分でやることにしたのだろう。
 私と杉崎さんは、アナイスの「日記」の出版が目的だったので、「デルタ」は、そのカードだったが、「二見」が「日記」を出版するとは考えられない。
 長谷川君は、当然、この経緯を知っていたが、私には伏せておいたのだろう。
 青木君が交渉すると知ったとき、結果がこうなると予想していたので、それほどショックはなかったが、これで「日記」はどこでも出せないのが残念だった。

 「講談社」、徳島 高義さんに原稿をわたす。吉行 淳之介、井伏 鱒二のこと。

 「山ノ上」で、杉崎女史に会う。

 「鶴八」に行く。今夜は、私なりの送別会のつもり。
 杉崎さんは、アメリカには1年契約で行くことになる。桜美林大学はやめるらしい。惜しいなあ。9年間も在籍したのに。

      1978年6月9日(金)
 「ワーナー」で、「グッバイ・ガール」(ハーバート・ロス監督)を見るつもりだったが、二日酔い。
 百合子が起こしてくれたときは、2時半。

 4時半、「ジャーマン・ベーカリー」で、「ほんやく」の若い女性編集者に会う。

 「山ノ上」。Y.K.とデート。

        1978年6月10日(土)
 平賀 源内・輪講。

        1978年6月11日(月)
 何時も試写ばかり見ているので、劇場で映画を見ることがなくなってしまった。たまには、身銭を切って、映画館に足を運んで、普通の観客として映画を見ることも必要だろう。
 「スバル座」で、「ザ・ビートルズ/グレイテスト・ストーリー」をやっている。私は「ビートルズ」ゼネレーションではないが、ハンター・ディヴィスの評伝を訳したことがある。小笠原 豊樹と共訳したのだが、このおかげで、いわば人間としての「ビートルズ」を知ることになった。
 「日劇文化」で、ベルイマンの「沈黙」をやっている。これも、じつは見逃している。
 「テアトル銀座」で、「太陽がいっぱい」と「カサブランカ」の2本立て。これが最後のロードショー。
 「岩波ホール」で、エジプト映画、「ナイルのほとりの物語」。(フセイン・カマール監督)。これは高野 悦子さんが、現地で見て、日本での公開をきめたらしい。高野さんの選んだものなら、まず間違いはないだろう。
 新作なら、「白き氷河の果てに」かな。カラコルム、K2登攀のドキュメント。

 どれを見てもいい。というより、どれを選んでも、1週間は幸福に過ごせるだろう。そんなことを考えた。ただし、今日も、「メディチ家」に没頭したから、妄想に終わったのだが。

 夜、「テレ朝」、「動く標的」(ジャック・スマイト監督)。
 ポール・ニューマン、ジュリー・ハリス。ロス・マクドナルド。
 「動く標的」は私の訳ではないが、ロス・マクドナルドは、私がつぎつぎに訳して、ミステリーから足を洗ったあと、小笠原 豊樹がロス・マクドナルドの訳者になった。それが奇縁で、私は小笠原君とハンター・ディヴィスの「ビートルズ」を共訳したのだった。

 小笠原君とはその後まったく交渉がなかったが、共訳者に私を選んでくれたことを今でも感謝している。

          1978年6月12日(月)

 夕方、5時14分、宮城県を中心に大きな地震。
 震源、宮城県沖、100キロ、深さ40キロ。マグニチュード、7.5。
 各地で、家屋の倒壊、火災、貨車の脱線、停電、電話網の麻痺が起きている。宮城県では、仙台を中心に、死者、負傷者が多数。死者、22名。行方不明、1。各地の負傷者、365。
 千葉でも、震度4。
 新幹線、東北線、首都圏の国電などが、一時ストップした。成田空港も、地震の影響で13分間閉鎖された。

 1964年(昭和39年)の新潟地震と同程度の大地震という。

 私は、両親が関東大震災を経験しているので、地震には敏感になった。震度3程度の地震でも、昌夫も宇免も、すぐに戸や窓を開け、避難の用意をする。震度4の地震の場合は、裸足で外に飛び出したこともある。
 近所の人たちが、そんな二人を笑っていたが、昌夫も宇免も、
 「地震のおそろしさを知らないからだ」
 といっていた。
 私も、妹の純子も、地震に恐怖を感じるようになった。

         1978年6月13日(火)
 中国の文人、郭 沫若が亡くなった。

 12時半、「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見」の長谷川君に会う。
 「二見」が「デルタ・オヴ・ヴィーナス」をとったことは口にださなかった。長谷川君が口外しない以上、私から言及すべきではない。
 「ワーナー」で、「グッバイ・ガール」(ハーバート・ロス監督)を見た。
 原作は、ニール・サイモン。去年、結婚していた女優、マーシャ・メイスンのために書いた芝居。いつも男にグッバイされてばかりの「ポーラ」(マーシャ・メイスン)には、10歳の娘、「ルーシー」(クィン・カミングス)がいる。帰宅すると、「ボーイフレンド」から別れの手紙がとどく。そこに、ルーム・シェアしたからといって、失業中の役者、「エリオット」(リチャード・ドレイファス)がころがり込む。

 マーシャ・メイスンは、いい女優だと思う。

 試写室で、どこかで会った女性編集者を見かけた。村永 大和君の出版記念会で会った「短歌研究」の編集者だった。歩きながら話をした。私とは、ミリューが違うので二度と会うことはないだろう。ちょっと、残念な気がした。
 「山ノ上」で、「集英社」の新福君に会う。校正を直す。たまたま、永田君がいっしょにきた。永田君にこれ以上迷惑をかけるわけにいかない。「メデイチ家」は、この夏に完成させると約束した。
 果たして、自分でも完成できるかどうかわからない。しかし、約束した以上、実現しないわけにはいかない。なにしろ、大作なので、これを書いているあいだ、雑文が書けない。当然、収入が激減する。映画評はつづけるが、たぶん週1本というペースになる。

 夜、「日経」小ホールで、ソヴィエト映画、「ドン・キホーテ」(グレゴリー・コージンツェフ監督)をやる。
 私は、シャリアピンの「ドン・キホーテ」G・W・パプスト監督)を見ているので、この「ドン・キホーテ」も見たかった。場所も「日経」なので、吉沢君に頼めば、入れてもらえるだろう。
 シャリアピンの「ドン・キホーテ」は、私にとっては、貴重な作品だった。まず、シャリアピン最初にして最後の出演作品だったから。パプストもシャリアピンも、この映画を撮ったあと、すぐに亡命している。さて、つぎに、新人、ミレイユ・バランが「ドルシネア」に起用されたこと。私は、周回遅れのミレイユ・ファンだった。
 だが、私は試写を断念した。

 講義のあと、安東夫妻、鈴木 和子、石井、中村たちと、「平和亭」に行く。
 今年の夏、できれば、ガラン谷をめざしたい。しかし、この谷は、きわめて危険な登山になるので、途中でべース・キャンプを張るかも知れないと話す。

        1978年6月14日(水)
 朝、松山 俊太郎さんに電話。しばらくぶりだった。

 「日経・ショッピング」、鈴木さん、インタヴュー。
 「双葉社」、北原 清君、「小説推理」に移ったという。吉田 新一君は、「週刊大衆」編集長に。このところ、「週刊大衆」の落ち込みはひどい。記事に新味がなかった。「アサヒ芸能」と似たような状態なので、大幅な人事異動ということになったらしい。

       1978年6月15日(木)
 「メディチ家」。

 「日経」、吉沢君から電話。「春秋社」の佐藤君に、私の連載の話をしてくれたらしい。吉沢君は、私が大作にとりかかっていることを知っているし、すくなくとも、1年は収入が激減すると見ているのだろう。私の作家生活が不安定なので、こういう仕事を探してくれた。感謝。
 吉沢君の電話のあと、すぐに「春秋社」の佐藤君から電話。明日、「山ノ上」で会うことにする。
 「三笠書房」の三谷 喜三夫君から電話。「オーメン」続編の件。これは、ことわったほうがいいのだが、三谷君にはいろいろと恩義があるのでことわれなかった。
 「三笠書房」の「秘戯」は、5刷。

 「オーメン」(リチャード・ドナー監督/1976年)はヒットした。脚色はデヴィッド・セルツァー。主演、グレゴリー・ペック、リー・レミック。76年10月、公開。
 すぐに続編が作られた。「オーメン2 ダミアン」は、ドン・テイラー監督/脚色はおなじデヴィッド・セルツァー。ウィリアム・ホールデン、リー・グラント。78年 2月、公開。(81年に、第3作、91年に、TV映画が作られて、日本では劇場公開された。さらに、2006年に、第1作がリメイクされたが、出演者が新人だったこともあって、失敗している。 後記)

 4時、「二見」の長谷川君に会う。

       1978年6月16日(金)
 朝から原稿を書きつづける。スピード・アップする。
 夏日になった。
 3時から、「フェイク」の試写があるのだが、疲れているので、残念だが予定を変更。百合子が、いろいろ仕度をととのえてくれた。

 東京駅。雑踏のなかで、本多 秋五さんを見かけた。挨拶したかったが、そろそろラッシュアワーなので、遠慮する。それに、本多さんが、明治に行くことはわかっていた。
 お茶の水。改札を出たところで、声をかける。
 本多さんは、なつかしそうに、私の挨拶に応えてくれた。
 近くの「ジロー」に寄ろう、という。めずらしいことだった。

    本多 秋五  八高で、平野 謙、藤枝 静男を知る。東大国文科、卒。プロレ
    タリア科学研究所に入り。山室 静を知る。
    トルストイの「戦争と平和」に没頭して、戦後、1947年、「「戦争と平和」
    論」を出した。

 私は、戦後の「近代文学」から出発したが、この時期、本多 秋五さんととくに親しかったわけではない。本多さんも、とくに私に注目していたわけではない。げんに、「物語 戦後文学史」(1958年〜63年)に私は登場していない。私は、本多さんのお人柄に深い敬意をはらっていたが、文学的には、無縁といってよかった。ただし、平野さんが明治の文学部に本多さんを招いたので、そのつながりで本多さんに親しみを感じていた。

 いろいろな話題が出た。といっても、戦後の一時期の「近代文学」の思い出にかかわるとりとめのないはなしばかりだったが。
 「ジロー」を出て、明治の前まで、話は尽きなかった。吉郎坂で別れた。ここから、「山ノ上」まで、歩いて1分の距離であった。

 「集英社」文庫の編集者に、「あとがき」をわたした。
 「春秋社」の佐藤 憲一君、初対面だが、すぐにうちとけた。連載は7月から。1回は、12枚程度。それでも、毎月、収入が保証されるようなものだから、ありがたい。
 「双葉社」の北原 清君。これも久しぶりだった。私の担当で、散々迷惑をかけた編集者のひとり。久しぶりだったので、話がはずんだ。
 「双葉社」は、堤 任君が、労務担当主任になったという。吉田 新一君が「週刊大衆」に移った。その他、かなり大規模な人事異動が行われたらしい。
 私は、「週刊大衆」に長編を書いたとき、まったくやる気のない編集者が担当したため、こちらも書く気が起きなかったことを話した。仕事は最小限、そのくせ会社の福祉施設を利用してテニスばかりしている編集者だった。

      1978年6月18日(日)
 朝、5時、百合子に起こされた。いつもなら、自分で起きるのだが、昨日いっぱい、「メディチ家」にかかっていたので、5時に起きられるかどうか自信がなかった。
 百合子は、私を起こして、また眠ってしまった。
今日は、安東たちが参加しないので、ボンベ、コッヘルを用意した。
 7時半、新宿。吉沢君の姿が見えない。今日はひとりか。8時16分発の電車に乗った。吉沢君が乗ってきたが、私に気がつかない。ザックを置いて、プラットフォームに出た。私を探しているらしい。私は車内で、席を変えて、吉沢君のザックを棚にのせてやった。
 発車1分前に、吉沢君が戻ってきた。私がこないので、ザックをとりにもどったらしい。私を見て安心したようだった。
 お互いに、笑顔になる。
 9時半から歩きだしたが、暑くなってきた。これは、マズったか。
 頂上に出る峠で小休止すべきだったのに、吉沢君が、
  ――(このまま)行きますか?
 と訊いたので、うなづいてしまった。

 どうも、いつもと違うような気がする。
 高気圧が、張り出してきたのか。暑さが、私たちの行動に影響している。こういう日の山行は注意しなければいけない。

 関東はカラ梅雨で、この山も晴れ、時々曇り、と判断した。しかし、蒸し暑い。

 峠から頂上までがキツかった。私は、3度も足をとめた。吉沢君も、ふらつきながら歩いている。
 2時、頂上。
 見ると、吉沢君が蒼白になっている。熱射病の初期。すぐに水を飲ませる。日蔭にマットを敷いて寝かせた。タオルに水をかけて、首のまわりに巻き付けてやった。
  ――少し、寝ていたほうがいい。
 私も、新聞紙をひろげて横になった。そのまま寝込んでしまった。
 眼がさめたのは、4時。

 この暑さのなか、じっと立ちつくしていることも耐えがたい。すぐに、ティーを沸かして、角砂糖を放り込み、吉沢君に飲ませた。
  ――下りよう。

 やがて、夕日が落ちて行く。太陽の沈む光景は厳粛で、まるで何かの儀式のようで、私たちの山行の終わりが、こうした荘厳さでしめくくられることに、私は挫折感をおぼえた。吉沢君もおなじことを感じていたようだった。
こんな山行ははじめてだった。とにかくバテた。
 (あとで知ったのだが、福島の市民マラソンに参加したランナーが、四十数名も倒れ、17名が病院にかつぎ込まれた。20日、朝、青年2人が死亡。太平洋高気圧が日本からアメリカまで張り出して、その強さは16年ぶりという。猛暑。東京は、31.6度)

 いつかまた、このコースを歩いてやる。こんどは失敗しないからな。
 麓でラーメンをすすりながら、心に誓った。

       1978年6月21日(水)
「メディチ家」。少しづつ、自信をもって書き進めている。

 「週刊サンケイ」長岡さん。「日経」、吉沢君。原稿の依頼。
 4時、中村君に、「夕刊フジ」の書評を届けてもらう。
 この日、風が強い。台風の影響出、総武線にまた架線事故があったらしい。

    ひと抱えのバラを わたくしのために買う

 イラストレーターのやまぐち・はるみの句。何かで目についた。
 やまぐち・はるみは、「パルコ」、「マンズ・ワイン」、森 英恵のランジェリーのアド・イラストレーションで知られている。この俳句は月並みだが、月並みだっていい。

       1978年6月22日(木)
 暑い。台風は、熱帯性低気圧に変化した。

    暑いので、夕方、出かけることにする。

 俳句じゃないからね。イヒヒヒ。

 昨日、尾上 多賀之丞が亡くなった。人間国宝、90歳。明治20年生まれ。
 母の宇免は、多賀之丞もよく見ていたが、私はあまり見ていない。つまり、菊五郎(六代目)を見ていないということになる。それでも、「盛綱」や「三婆」の多賀之丞は見ている。
 明治、大正、昭和、三代を女形で通した。何しろ芸歴が長い。初舞台から、相手をつとめたことがなかったのは、団十郎(九代目)、菊五郎(五代目)、左団次(初代)の三人だけというから、すごい。
 私は、ずいぶん前に多賀之丞を見た。で、どうだったか。
 うまい役者かどうか、どこがうまいのかわからなかった。

 8時、「山ノ上」。「二見」の長谷川君に会う。
 吉沢君がきた。先日の山行。お互いに失敗を笑いあう。しばらくして、船坂 裕君。
 みんなで「あくね」に行く。
 9時半、松山 俊太郎さんがきた。
 松山さんと会うのはじつに久しぶりだが、相変わらず怪気炎をあげていた。
 横溝 正史が「メディチ家犯罪史」という本を書いているという。驚いた。ぜひ、拝借したい、と申し入れる。

       1978年6月23日(金)
 日活映画、「恋の狩人」、「牝猫の匂い」、「愛のぬくもり」、「女高生芸者」の4本がワイセツに当たるとして、製作責任者、監督6人と映倫審査員3人が幇助罪に問われた事件の判決が、東京地裁で開かれ、全員、無罪になった。

 この裁判は、警察権力の不当な干渉としての性格を強く帯びていた。この判決では、「性行為などを直接描写するのではなく、本件のようにそれを連想させるだけの場面がワイセツに当たるかどうかの判断は、原則として映倫審査の判断を尋ねるべき」とする。これは当然だが、「性行為など」とあるのは、解釈が拡大されるおそれがある。
 現在の検察が、性表現の変化や、一般の性意識の変化について無知であり、不当な弾圧をみせていることは非難されてしかるべきと考える。

 D・H・ロレンスの「チャタレー夫人」(伊藤 整訳)をワイセツとした最高裁の判決は、なんと大正7年6月の大審院判決にもとずくものという。こんな判例が、その後も生きづづけ、「悪徳の栄え」、「四畳半襖の下張」、「壇の浦夜合戦記」などの古典をことごとく有罪に追い込んでいる。
 先進国がポーノグラフィーの解禁に踏み切り、日本でも、性表現に対する観念、価値観、認識が大きく変化した。にもかかわらず、時代錯誤の判決だけがオバケのように生きのびて、私たちに大きな制約、屈辱感、ひいては表現の自由の侵害をあたえているのは恥としかいえない。
 日活映画の性表現などをワイセツとするのはあたらない。すでに先進国で実現しているように、やがてわが国もまた、ポーノグラフィーが全面的に解禁されるだろう、と私は考える。

 夜、10時、「テレ朝」で、「紳士は金髪がお好き」(ハワード・ホークス監督)を見た。マリリンの映画は、もう何回も見ている。「ローレライ」(マリリン・モンロー)、「ドロシー」(ジェーン・ラッセル)の歌、踊りは、だいたい頭に入っている。今回は、1928年、パラマウントの映画とどう違うのか、考えてみた。28年のヴァージョンは「ローレライ」(ルース・テイラー)、「ドロシー」が(アリス・ホワイト)。むろん、私は見ていない。今後も、見る可能性は絶無だろう。しかし、1928年ヴァージョンのどういう部分で、ハワード・ホークスがマリリンを「ローレライ」に起用したのか、想像できるのだが。

      1978年6月24日(土)
 「メディチ家」は、ようやく、4章あたり。

 この作品は、どうしても夏の間に「集英社」にわたさなければならない。
 ほんとうは、どこかで連載できれば、助かるのだが。私は編集者に知り合いがほとんどいない。しかも、ルネサンスに関心をもつ編集者はまずいないだろう。こういうものを連載させてくれる場所はないものか。

 「山ノ上」。「翻訳技術協会」、森井 春樹さん。聞いたことのない組織だが、翻訳者を養成する機関で、12クラスあり、1クラス、30名。私に、半年間、講義をしてほしいという。
 翻訳者を養成することはできないわけではない。僣越ながら、中田耕治を講師に招くのはいちおう妥当な人選に違いない。中田耕治さんは、長年、俳優、女優のタマゴを相手にしてきたし、大学でも教えている。いちおう適任にちがいない。
 だが、難点が二つある。
 半年間、私の講義を聞いても翻訳家になれない。人を育てるということは、はるかに時間がかかる仕事なのだ。

 あいにく現在の私はまったく時間的な余裕がない。個人的なことだが――今年はエリカがアメリカから帰ってくる。裕人が進学する。

 仕事が重なっている。「メディチ家」の書き下ろしがある。これだけでも眼がくらみそうだが、「サンリオ」、「二見書房」、さらに「三笠書房」の「オーメン 2」と、目白押しに仕事が待っている。
 若い頃の中田先生は、いささかエナージェティックだったが、いまや、疲労困バイ、疲怠、ドバの如し。

 森井さんにお断わり申しあげたが、それなら、講演でも、という。しばらく考えた。大森で、ルネサンスの講義をしたことを考えれば、ずっと楽だろうと思う。けっきょく、9月2日に講演することで承知した。

 中村 継男に頼んで、吉沢君に連絡をとってもらう。
 「集英社」、桜木 三郎君。
 「少年ジャンプ」の編集者なので、多忙をきわめている。それなのに、私を相手に、長いことつきあってくれた。帰りは、桜木君がハイヤーを呼んでくれた。

       1978年6月28日(水)
 雨がつづいている。
 ひたすら、「メディチ家」にとりかかっている。ルネサンスの名家に生きた女たちの人生など、誰か読んでくれるのだろうか。
 私の仕事はずいぶん特殊なものなのだ。私の内面の問題がからみあっているはずなのだから。もっとも、誰も気がつかないかも知れない。

 「面白半分」(8月号)で、山本 容朗がこんなことを書いていた。

    吉行(淳之介)さんに「夏の休暇」という作品がある。少年が父とその愛人らし
    い若い女性と火山のある島へ行く話だが、この作家を語る場合はずせない小説の
    一つだと思う。
    ご当人から、この夜聞いたところによると、「この若い女性」は完全なフィクシ
    ョンだという。実際は両親と三宅島へ行ったのだ。同じ題材で、父親や女性の立
    場から、つまり外側から書いたのが「島へ行く」と「風景の中の関係」の二作品
    だが、ある評論家は「風景の中の関係」は、彼の少年時の記憶の底にある、父や
    大人の性にまつわる原風景をえがいている」と評した。「父の若い愛人が作りも
    の」ということになると、この論評はどうなるのでしょうか。」

 この評論家というのは、私のことだろう。しかし、山本 容朗というもの書きの低劣さに驚いた。「父の若い愛人が作りもの」ということになると、この論評はどうなるのでしょうか。」と、揶揄めいたいいかたをしているが、まるで鬼の首でもとったようなどや顔がいやしい。この若い女が作りものであろうとなかろうと、吉行は、三宅島へ行ったことを小説に書くことで、少年の記憶の底にある、父や大人の性をからめて書きたかったのだろう。私が、少年の性にまつわる原風景を描いたと見たことのどこが間違っているのか。

 山本 容朗は、文壇のゴシップをあさって生きている虫けらのごときもので、文壇には昔からこの種の寄生虫(パラサイト)が棲息している。

 夜、森井 春樹さんから電話。2カ月、講義してもらえないかという。申し訳ないが、お断り申し上げた。ほんとうに時間がないので。
 吉沢君に「スター・ウォーズ」の映画評を送る。

       1978年6月29日(木)
 思いがけない夢。
 和田 芳恵さんのこと。「メディチ家」を読んでほしいと思う気もちが、在りし日の和田さんの姿をよみがえらせたのか。
 しばらく、茫然としていた。5時過ぎ。
 あとで考えたのは――最近出たはかりの和田さんの「雪女」の印象が心に残ったらしいこと。最後の作品、「逢いたいひと」が、「マリア」、「Y.K」のことと重なったのではないか、という気がした。

 ビアンカ・ブォナヴェンチェリと、その娘、ペッレリーナ。おもしろくなってきた。

 中世の封建社会のように、高度に発達した社会では――ギルドのメンバーは、物質的利益の増大ではなく、伝統的な生活水準を満足させるだけのものを求めて努力した。ルネサンスでは、これは富の獲得と収益になった。そして、過剰な消費があらわれる。

       1978年6月30日(金)
 晴れ。不快指数が高い。夜明け。
 入浴して、もう一度、寝てしまった。起きたのは、8時半。

 午前中。「共同通信」、戸部さんから電話。思いがけず、柴田 錬三郎の訃報。追悼文の依頼。午後1時に電話で送る。

    柴田 錬三郎 (1917〜78年) 慶応大、予科、21歳で、「十円紙幣」
    を「三田文学」に発表。1940年、支那文学科、卒。戦時中、台湾南方で航海
    中、撃沈され、奇蹟的に救助された。戦後、「日本読書新聞」の復刊に尽力。1
    949年、文筆業に入り、1951年、「イエスの裔(すえ)」で直木賞。その
    後、「眠狂四郎」のシリーズなどで、空前のベストセラー作家になった。
    今朝、2時45分、肺性心のため、新宿区信濃町の慶応病院で死去。61歳。

 私は、戦後、作家論めいたものをはじめて書いたが、「新小説」で、私を痛罵したのが柴田 錬三郎だった。それ以来、柴田 錬三郎を敬遠してきたが、その後、慶応系の文学者の集まりに顔を出すようになって、いくらか親しくなった。それだけの関係で、追悼文を書くのはどうか、と思ったが、大衆文学の批評家など、どこにもいないので、戸部さんも困ったのではないか。できれば尾崎 秀樹あたりに依頼したかったはずだが、すでにほかの新聞に先を越されて、私に白羽の矢を立てたのだろう。
 1時5分、戸部さんに原稿を送った。
 とにかく、私は律儀なもの書きなのである。

 柴田 錬三郎は、昨年9月、大病をして、一時休筆した。当時、「週刊文春」で、長編、「復讐四十七士」を連載中だった。
 何しろ、大流行作家だったから、極度の過労で倒れたらしい。「週刊文春」の長編は中断したが、「読売」の「曲者時代」は大詰めをむかえて、休載できなかった。自分でも病院で書きつづけるつもりで、大きなバッグに資料をつめ込んで都内の病院に入院した。
 ところが、入院した直後に、昏睡状態に陥った。連載は1日分だけ余裕があったという。24時間、昏睡状態だったが、柴田 錬三郎は意識を回復した。
 翌日から、最終回までの15日分を、作家はベッドで書き続けた。

 午前中は、点滴。その効果があらわれる午後から執筆。1回分、書き終わると、ぐったりして寝込む。熱が39度にあがる。また点滴。熱が下がるとまた原稿用紙にペンを走らせる。
 こういう悪戦苦闘がつづいて、ついに新聞連載は完結した。

 こういう流行作家の生活は、私などの想像を絶しているが、それでも自分の作品を何とか完結させようと必死に書きつづけた柴田 錬三郎には頭がさがる。
 入院生活は、ほとんど9か月におよんだが、この6月、退院したと聞いた。
 それでも、1カ月後に、白玉楼中の人となった。

 午後1時5分、「共同通信」、戸部さんに柴田 錬三郎・追悼を電話で送る。

 柴田 錬三郎の逝去に蔽われてしまったが、本多 顕彰(あきら)が亡くなった。英文学者、批評家。享年、79歳。
 私はこの批評家に面識がなかった。しかし、本多さんの書くものはよく読んできた。翻訳もすぐれたものが多かった。
 いつも、端正な文章で、おだやかに作品の月旦を書いていた。ほかの批評家のように、するどい裁断、分析をこころみるのではなく、批評する側の教養の深さ、判断の基準が、イギリスの批評家のように、重厚ながら、おだやかに迫ってくる。否定的な批評をする場合でも、相手に深傷(ふかで)を負わせないあたりが、本多さんの「芸」だったと思われる。むろん、私などが影響を受けようはずもなかったが。

 夜、10時、「TBS」で、「悪魔の追跡」(ジャック・スターレット監督)。
 ピーター・フォンダ、ウォーレン・オーツの主演。
「ロジャー」(ピーター・フォンダ)と「フランク」(ウォーレン・オーツ)は、それぞれ妻を同伴して、大型ワゴンで旅行中。偶然、オカルト宗教団体の儀式で行われた殺人を目撃したため、行く先々で危険にさらされる。私の好きな映画。


   *作家の日記77〜78年 完*

2019/10/13(Sun)  1817〈1977〜78年日記 64〉

       1978年5月2日(火)
 朝、6時半、江古田に。
 昨夜、よく眠っていないので、電車の中で眠った。
 8時25分、江古田に着いた。すぐに胃カメラの検査。
 胃カメラによる検査が不快なものと、こだまさんから聞いていた。胃カメラを飲んだあと、食道に痛みが残るとも、小泉(義兄)先生から聞いていた。カメラはうまく嚥下できたが、胃の各部位を撮って、カメラをひき揚げるときが不快で、一度は胃液が咽喉まで逆流して、咳き込むと、咽喉が痙攣した。担当の医師が、声を荒げて、
 ――大丈夫だ! 我慢しろ!
 と怒鳴りつける。
 胃の検査で、胃が良好な状態の場合は、担当医が落ちついた声で、
 ――大丈夫ですよ。
 と声をかけてくれるそうな。ところが、大丈夫だ! 我慢しろ! などと、どなられると、一種の直観めいたものがはたらく。ひょっとすると、悪性なのかも。むろん、そんなふうに感じるのは、こちら側の猜疑心なのだが。

 江古田から池袋に出た。胃が不快だったし、肩に麻酔の注射を打たれているので、どうも調子がよくない。
 レストラン。スパゲッティ、ミルクセーキ。

 NHK、山田 卓さんに会う。「コロンバン」。
 山田さんは――マリリン・モンローの資料を読めば読むほど、彼女の輪郭が曖昧になってくる、という。しばらく話をする。

 地下鉄でお茶の水に。

 「誠志堂」、「松村」、「岩波」と歩いて本を買う。「地球堂」。バークリーで撮ったポートレートの引き伸ばし。葬式に使えるように。

 「集英社」、新福君に会う。
 10年前の仕事が文庫化されるのだが、今回は新福君が担当している。ヒロインの内面にひそんでいる喪失感、痛み、怒り、孤独感、あきらめ、心の揺れ、そして、かすかな希望。そんな一つひとつが、私の訳でじゅうぶんに出せているかどうか。私としては最低の仕事のひとつ。

 大学の講義。
 「中田パーティー」がきている。
 平野さんの葬儀のとき、私がいっしょにお焼香をした女子学生がきている。いつもなら、「中田パーティー」のメンバーと、「平和亭」あたりに行くのだが、この女子学生が私に会いにきたので、みんなと別れて「あくね」に行く。
 小川 茂久は、帰ったあと。
 この女子学生は、平野さんの講義を受けていた。卒業したあと、茨城県の高校の先生になった。Y.K.さん。どうも、女子学生にしては、落ちついていると思った。
 いろいろ話がはずんで、最終電車にやっと間にあった。

       1978年5月6日(土)
 「メディチ」、第三章。

 夜、アーサー・ヘイリーの「マネー・チェンジャーズ」を見た。
 以前、レオン・ユリス原作の「QB Z」とおなじようにベストセラーのテレビ映画化で、5時間に及ぶ大作だった。ようするに、短いパッケージ・ドラマに食傷した視聴者に、しっかりした企画で、規模の大きなドラマを、ベスト・キャストで見てもらうというもの。私の想像では、「スター・ウォーズ」、「未知との遭遇」などに対抗したドラマだが、結果としては、ハリウッドの大作映画のテレビ版というだけに終わっている。

       1978年5月7日(日)
 庭師の大塚さん夫婦がきてくれた。
 「サンシュウ」、「ぐみ」、「ライラック」を植えてもらう。私が、バークリーでひろってきた種は、なんとか根がついて、小さな木のかたちになった。

       1978年5月8日(月)・
 体調がよくない。昨日は蕁麻疹が出た。
 エドナ・オブライエン、校正。
 バークリー、エリカの隣人で、黒人の男の子に写真を送ってやったのだが、お礼の返事がきた。きっと、母親が書いたものだろう。
 「Y.K」から手紙。

       1978年5月9日(火)
 午後、「練馬総合病院」に行く。
 胃カメラ、検査の結果を聞く。さいわい無事だった。担当の向田医師が、
 ――大丈夫ですね。なんともありません。
 といったので、ほっとした。
 この一ヵ月、腹痛があったり、胃がやけたり、どうも不調だった。これで、後顧の憂いなく仕事に専念できる。
 地下鉄で、飯田橋に。タクシーをつかまえようとしたが、ひどい混雑だった。歩くか。
雨模様で、湿度が高く、汗がにじむ。
「地球堂」で、写真を受けとる。バークリーで、エリカが撮ってくれたものの引き伸ばし。古書展。最近、古書の値あがりがはげしい。

 「山ノ上」、「二見」の長谷川君。

 大学。関口 功に会う。久しぶりだった。私と同じ時間に、ヘミングウェイをよんでいるという。「フランシス・マコーマー」。
 私のクラスは、あい変わらず出席者が多いが、それでも五月病のせいで、だんだん少なくなってくる。
 講義のあと、国井 ますみ、小村 ふみ子が待っていた。Y.Kが、少し離れた位置で、目礼する。私が声をかければ、また終電になってしまう。

       1978年5月10日(水)
 イタリアのモロ前首相の遺体が、9日、ヴェネツィア広場付近で発見された。過激派、「赤い旅団」によって処刑されたもの。死後、10〜24時間が経過している。
 この事件は、西ドイツのシュライヤー事件とならんで、歴史に残るだろう。
 「赤い旅団」は、イタリア最大の過激派グループで、メンバーは200〜400名程度だが、60年代の大学闘争の残存分子といわれる。イタリアは、過激派のテロ行為が猖蠍(しょうけつ)をきわめているが、これもデモクラシー社会に内在する矛盾の一つに違いない。イタリア社会の若年層に失業者が多く、経済的な混乱に乗じた暴力と見てよい。キリスト教民主党の体質にも問題がある。

       要 修 正
 モロ前首相の遺体発見のニューズは、ヨーロッパ各国に甚大な衝撃をあたえた。ローマでは、市民が自発的に抗議デモを起こし、各地で抗議デモ、ストライキが起きている。
 「赤い旅団」は、60年代の学生運動の落し子で、彼らの戦略は、体制の中核を襲撃し、右翼勢力を政治の舞台にひきずり出し、プロレタリアートの自覚をうながし、内戦にもち込み、革命をめざすという。こうした理論構築が、どこまで有効なのか。都市ゲリラ化した過激派の運動が、とにかく前首相を殺害し得たことは、イタリア社会の脆弱な体質を物語っている。
 私は、イタリアの現状にますます大きな関心をもつようになっている。

 午後1時、「アートコーヒー」で、「二見」の長谷川君。すぐに「ヤクルトホール」に行く。
 「サタデー・ナイト・フィーバー」(ジョン・パダム監督)。

 田中 小実昌、吉行 淳之介が見にきていた。

 ブルックリンに住んでいる「トニー」(ジョン・トラボルタ)は、塗装屋の職人だが、土曜日の夜は、ディスコに行って踊りまくる。3週間後に開かれるダンス・コンテストに出るために、「ステファニー」(カレン・リン・ゴーニー)

 「ニューヨーク・マガジン」76年6月に出た実話の映画化。

 車のなかで、推薦文を書いて、「二見」の長谷川君にわたす。
 「中央公論」のすぐ前の喫茶店で、「集英社」の新海君に校正。
 そのあと、「中央公論」の春名 章さんに会って、新しい仕事のリストをわたす。
 ここから、NHKに。
 山田 卓、平松両氏とうちあわせ。本間 長世先生がきた。
 6時45分頃から、ビデオの撮影。

6時、「山ノ上」。Y.K.に会う。

 「あくね」に行く。
 平田 次三郎さんがいた。平田さんは、「近代文学」の同人だったし、私も親しくしていただいた。すっかり老け込んでいる。
 声がかれて、何をしゃべっているのかわからない。
 10時半まで、平田さんにつきあった。

       1978年5月11日(木)・
 10日、バッキンガム宮殿は、マーガレット王女と、スノードン卿が離婚に同意したと発表した。
 エリザベス女王の実妹であるマーガレットは、12年間の結婚生活のあと、76年3月から、スノードン卿との別居生活に入っていた。イギリス法では、2年間別居すれば、双方の合意のもとで離婚の申請ができる。離婚手続きが簡単になり、費用は16ポンドですむ。マーガレットは、離婚のために別居したらしい。それより先、マーガレットは、ポップ・シンガー、ロディ・ルウェリンと情交関係にはいったらしく、この数カ月、ジャーナリズムからはげしい批判を受けていた。マーガレットは、このシンガー(30歳)と逢瀬を楽しむため、カリブ海のムスティーク島に豪奢な別荘を建てた。この3月、大衆紙、「ザ・サン」が、水着姿のふたりの写真を発表したため、世論が悪化した。王女のスキャンダルは、バッキンガムにとっては頭の痛い問題になる。マーガレット王女は、年額、5万5000ポンドの歳費を支給されているが、イギリス議会は王室の歳費値上げ案が提出される時期で、労働党議員が、このスキャンダルを持ち出して、値上げ案に反対することは必至だった。
 マーガレットの居城、ケンジントン・パレスは、「王女に再婚の予定はない」と発表。
 スノードン卿は、「われわれはコメントする立場にない」と弁明した。
 ルウェリンも、王女と結婚する可能性はないと見られている。
 私は、マーガレット王女のスキャンダルに関心はない。ただ、今後、スノードン卿はどうなるのか。貴族の身分は保証されるだろうが、ふたりの間に生まれたリンレイ子爵が、スノードン卿を襲爵するのだろうか。
 イギリスに革命が起きるとか、王制の廃止といった事態が起きる可能性はきわめて低い。しかし、マーガレット王女のスキャンダルは、イギリス史に翳りを落とすことになることは確実と思われる。

 1955年、マーガレット王女は、ピーター・タウンゼント大佐との結婚を断念した。
 それから5年、1960年、マーガレットは、アントニー・アームストロング・ジョーンズ(スノードン卿)と結婚した。当時、29歳。この結婚はイギリスじゅうが祝福したといっていい。やがて一男一女に恵まれたが、一昨年から、夫妻の不和がつたえられるようになった。
 マーガレットとスノードン卿は別居した。

 現在、30歳になるロディ・ルウェリンが、はじめてマーガレット王女と出会ったのはスコットランドにある王女の友人の別荘で、王女は17歳年下のロディと「わりなき仲」になった。ロディの父は上流階級出身、オリンピックに出場して馬術のゴールド・メダリスト。ロディは、スノードン卿とおなじイートン校に入ったが、大学には進まず、造園技師になったり、今年の2月、王女の後援で、ロック歌手としてレコードを出すような経歴。
 マーガレット王女のロマンスに関心はないが、日記に書き留めておくのは、いつかこの宮廷悲劇は、劇化されるのではないかと予想する。どういう形で舞台化されるかわからないが、イギリスの輝かしい社交劇、風俗劇の伝統に、マーガレットの恋愛はかっこうのものになると予想する。その時代の名女優なら、きっとやってみたい劇になるだろう。
 私の妄想の一つだが。

      1978年5月12日(金)
 午前中、「中間小説時評」を書く。
 書き上げないうちに、戸部さん。来訪。少し待っていただく。
 百合子が食事を出した。お子サンがネコをほしがっているとか。家じゅうの壁に、「ネコを飼え」というビラを貼っている。
 わが家では、ネコの「ルミ」が子を生んだばかりなので、もらい手があったら、ネコの子をさしあげるのだが、まだ目も開けないコネコなので、黙っていた。

 夜、テレビで「大脱走」(ジョン・スタージェス監督/1963年)を見た。
 1942年、北ドイツ。
ドイツの捕虜収容所から集団で脱走した連合軍兵士たち。251人。
スティーヴ・マックィーン、ジェームズ・ ガーナー< チャールズ・>ブロンソン、ジェームス・コバーン。
原作は、ポール・ブリックヒル、脚色がジェームズ・クラベル、W・R・バーネットだったことなど、誰も気にかけない。
 アクションものは、こういうふうに、つぎからつぎにサスペンスを追って行くのが本領だろう。

       1978年5月13日(土)
 午後3時。大川 修司、宇尾 房子、児玉 品子さん。
 水谷 不倒の「平賀源内」を読む。

 夜、百合子といっしょに、料亭「さざえ」に行く。
 義母、湯浅 かおるを囲んで、小泉 隆、賀江夫妻と私たち、5人で会食。
 明日が母の日だが、1日早い祝宴。あわせて、義姉、小泉 賀江の誕生日なので。

       1978年5月14日(日)
 やや曇り、全体としては晴れ。
 朝の「美術散歩」で「レオナルド・ダヴィンチ」を見た。

 「メディチ家」にまつわる悲劇を考える。

 イタリア・ルネサンスを研究する上で、「メディチ家」の研究は欠くべからざるものだが、ほとんどはメディチ家の支配形態の叙述に終始している。私は、それぞれの時代にいきた「メディチ家」の人々の人生を追ってみたい。
 たとえば、ビアンカ。
 ビアンカ・カッペロ・ボナヴェントウリ。

      1978年5月15日(月)
 1847年版の「ロレンツォ・デ・メディチ」を読む。
 これほどの本が、19世紀に書かれていたことに驚嘆した。
 ブルクハルトと比較してみた。当時、ブルクハルト、29歳。イタリアに旅行している。彼がゲーテやヴィンケルマンのいう古典的な世界に大きく転回した時期だが、おなじ時期に、こういう篤実な学者がメディチ家の研究に没頭していた。
 翌年、「共産党宣言」が発表される。フランスの二月革命、ドイツの三月革命。
 この「ロレンツォ・デ・メディチ」が書かれたのは、はるか以前のことで、ファブローニの研究にあきたらなかった著者が、ハーグ版の「メディチ家編年史」を入手して、勇躍、「ロレンツォ・デ・メディチ」に着手したという。
 19世紀の史学の、わかわかしい息吹きが感じられて、うれしかった。これに対して、現代の、たとえば、去年出版されたヘールの著作などは、ずっとすっきりまとまっているが、よくいえば冷静、わるくいえば感動のない研究に過ぎない。

       1978年5月16日(火)
 「中田ファミリー」。安東夫妻、鈴木 和子、工藤 敦子、石井 秀明、中村 継男たちと、テレビの見られる店を探した。なかなか見つからない。
 三崎町のスナック。NHK、「歴史と文明」シリーズ、「美の墓碑銘・マリリン・モンロー」を見た。野坂 昭如、塩野 七生などが出ていた。
 マリリンについては、あまり「発見」はない。

 「あくね」に寄る。

       1978年5月17日(水)
 「メディチ家」ノート。

 いつか発表したいと思う。しかし、発表できる場所がない。

       1978年5月18日(木)
雨。コイが1尾、死んだ。残念。このコイは尾腐れ病にかかっていたので、クスリをつけて、隔離したのだが、手遅れだったらしい。

 チャプリンの遺体が発見された。
 レマン湖畔の墓地に眠るチャプリンの遺体が、なにものかに盗まれて行方不明になっていたが、17日、スイス警察当局は、柩を発見、犯人(2名と見られる)を逮捕したと発表した。

 「メディチ家」ノート。

 山本 由鷹、大畑 靖、スズキ シンイチさんから手紙。
 スズキ シン一は、博多人形を送ってくれた。昨日は、北海道の早川 平君が、スズランを送ってくれた。

 いい友人に恵まれたことをありがたく思う。

 いい友人といえば――今 日出海が「芸術新潮」に、「メディチ家」に関するモノグラフィーを発表していたことを思い出して、「県立」の司書、渋谷 哲成君をわずらわせて、調べてもらった。竹内 紀吉君の友人。
 すぐに調べてくれたが――この連載は6回で打ち切られているという。
 不評だったのか。あるいは、編集者が「メディチ家」に興味がなかったのか。

 今 日出海さんには面識がない。しかし、戦時中、空襲にそなえて、本の整理をする要員として、斉藤 正直先生から、頼まれて、渋谷・金王町の今さんの邸宅に寝泊まりして、今さんの蔵書を片っぱしから読みあさった。
 この時期のことは、「おお季節よ 城よ」に書いたが、今 日出海さんに会う機会があったら、お礼を申しあげたかった。
 はるか後年、私は、ある女子大の教壇に立ったが、このとき、今 日出海さんのお嬢さんが教授だったので、戦時中の今さんの邸宅のようすなどを話したことがあった。
 今さんが手がけようとした「メディチ家」について、今、私が調べはじめている。なんとなく、縁(ゆかり)のようなものをおぼえている。

 夜、百合子がきゅうに腹痛を起こした。嘔吐。顔が青ざめている。
 すぐに、小泉 賀江に連絡した。
 義兄、小泉 隆が往診してくれた。
 今日の百合子は、銀行に行ったり、近所の石橋家の葬儀に出たり、いろいろあって、胃が食べ物を受けつけなかったらしい。
 私は、ずっと夜明けまで起きていた。

       1978年5月20日(土)・
 曇り。
 成田空港は、今日、厳重な警戒体制のもとで開港する。

 ローマ。18歳以上の女性が、本人の意志で、妊娠3か月以内の人工中絶を受けることを認める法案が上院を通過した。賛成、160。反対、148。
キリスト教民主党ほか右派が反対したが、社会党、共産党が賛成し、4月14日、賛成、308。反対、275で、下院を通過している。ヴァチカンの反応はまだ出ていない。下院で、この法案が通過したとき、ヴァチカンは――この法案の承認は殺人にひとしい深刻な結果を生じるとして、反対を表明している。

 午後1時、「千葉文学賞」の選考。
 峰岸 義一、恒松 恭助、北町 一郎、荒川 法勝、山本さん。そして私。庄司 肇さんは欠席。
 文学賞の審査は、おもしろいもので、こんなものでも、いろいろと心理的な駆け引きがあらわれる。
 庄司さんが一位に推した花森 太郎の作品は、私も入選作と見ていたが、ほかの審査員の支持が得られずに落ちた。もし、庄司さんが出席していれば落ちなかったろう。
 帰宅。

       1978年5月21日(日)
 安東たちが山に行っているはずなので、残念。
 アメリカから帰って、私はかなり変わったような気がする。もとのように、忙しい毎日をすごしているのだが、大作を手がけはじめて、ますます時間がなくなってきた。

 「メディチ家」ノート。
 パッツイ家の陰謀を調べているのだが、こんなに有名な事件なのに、パッツイ家の資料がない。マキャヴェッリの「フィレンツェ史」を読み返す。ケントの「フィレンツェの名家」を調べたが、パッツイ家の事件にふれていない。
 こういうときは、まるで登山中にガスに巻かれて動きがとれなくなる状態に似ている。

 北ノ湖、若三杉の優勝決定戦を見た。私の予想通り。
 北ノ湖は、どうも好きになれない。しかし、現在の角界で、実力は最高。昨日、若三杉に負けたが、これは北ノ湖が負けてやったと思われる。
 今日は、輪島を破り、優勝決定戦にのぞんで、若三杉を一蹴した。
 ほんとうなら、昨日、若三杉に勝ってもいい相撲だったが、自分が負ければ、若三杉が横綱に昇進する。輪島後の相撲の人気をもりたてようという意図がありありと見える。しかも、自分の12回の優勝を果たした。
 こういう北ノ湖に、私は徹底したリアリストを見る。

       1978年5月22日(月)
 下沢 ひろみから電話。水疱瘡にかかったので、休んでいるという。驚いて安東 由利子にたしかめると、昨日の登山は中止したという。おやおや。リーダーが休むと、みんなの士気も衰えるらしい。
 藤枝 静男さんが平野 謙さんを悼むエッセイを読んで、深い感動をおぼえた。

 ヴェトナムから脱出した華僑系難民が5万7000人に達した。(「大公報」)トンキン湾に面する自治区・北海市では、クワンニン省各地から1000隻以上の漁船に乗った華僑が、2,3日から10数日も海上を漂流して北海市にたどり着いた難民が、今月5日現在、8000人に達している。
 雲南省の河口、ヤオ族自治区でも、華僑系難民の数は、毎日1000人、多い日は1900人に達している。

 中国では、一般大衆が見られない映画が、この数カ月に、ペキンの党幹部のためにひそかに上映されているという。政府高官、人民解放軍幹部、その家族たちは、文化省によって用意された外国映画を鑑賞している。こうした映画は、「浮気なカロリーヌ」、「スター・ウォーズ」など。高級幹部は、「ある愛の詩」(「ラブストーリー」)といったベストセラーも読む。中国語訳が、内部参考用として少部数出版されているといわれている。

       1978年5月23日(火)
 成田空港では、今日からすべての国際便が離着陸をはじめる。機動隊1万人が警備に当たっている。過激派は、地下ケーブルを切断したり、送電用鉄塔を倒すといった無差別テロに移った。

 正午過ぎ、「伊勢丹」。「美の巨匠展」を見る。私がパンフレットに原稿を書いたので、受付で、安斉 はる子さんの名をいえば、パンフレットを用意してくれるはずだったが、今日が最終日なので、受付につたえていなかったらしい。

 3時半、「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見」の長谷川君に会う。一緒に「東和」で、「ホワイト・バッファロー」(J・リー・トンプソン監督)を見た。
 「ワイルド・ビル・ヒコック」(チャールズ・ブロンソン)は、白い巨大な野牛を追っていたが、同じ獲物をねらうインディアンの長「クレイジー・ホース」(ウィル・サンプスン)と出会う。ふたりは協力して、この野牛と闘う。
 みながら、この映画はイケないと思う。「コンボイ」(サム・ペキンパー監督)、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)、「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)、「サタデー・ナイト・フィーバー」(ジョン・パダム監督)とそろったところに、チャールズ・ブロンソンでは、とても対抗できない。
 キム・ノヴァクが出ているが、見るかげもない。

 Y.Kとデート。

       1978年5月24日(水)
 「週刊ポスト」、富田君、明日、インタヴュー。
 「翻訳協会」、原稿依頼。
 「毎日」、インタヴュー。西村 寿行のこと。

 気晴らしにカメのエサを買いに行く。
 たまたま、イモリを見つけた。形はグロテスクだが、可愛い。飼ってみようと思った。

       1978年5月25日(木)
 いつものように、草花、木に水をやろうとおもって、池をみると、10尾いたはずのイモリが2尾しかいない!
 あわてて探したところ、池のまわりの植え込みの根のあたりにひそんでいた。すぐにつかまえて池に戻した。
 思ったより頭のいいやつらだった。逃げられても惜しい気はしない。ただ、庭のどこかにいてくれればいい。

 マーガレット王女、スノードン卿と正式に離婚。


       1978年5月26日(金)
 昨日も快晴。今日は夏に近い。

 「メディチ家」1章、ノート。
 これで書きはじめるつもり。しかし、ジャーナリズムとは無縁の仕事なので、不安な出発になる。一応、「集英社」の松島 義一君に話をもちかけたが、100枚の原稿と聞いてひるんだらしい。小説なら100枚でも掲載するのだが、私の仕事は「文学」ではないと見ているらしい。

 3時、「東和」第二。「ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー」の試写。これはすばらしい。全編、アフリカの象牙海岸で撮影したもので、みごとな映像美だった。内容は、コメディ・タッチの反戦映画。もっとも、こういっただけでは、この映画のすばらしさはまったく伝わらない。
 先日、「東和」で、「ホワイト・バッファロー」を見て失望しただけに、この映画なら、他社の大作のなかでも輝きを失わない……かも。あとで、考えることにしよう。

 神保町に出て、本を漁る。「北沢」で2冊。ある枢機卿の記録。1509〜1514年。つまり、ジューリオ2世からレオ10世の時代。たちまち貧乏になった。大学の教授で、必要な本を全部大学の図書館に買わせて、本は自分の研究室に運ばせているやつがいるが、私の場合、必要な本は全部自分で集めなければならないので、いつもピイピイしている。
 もの書きで、私ほど貧乏な作家はいないだろう。

 「世界文化社」、井上 正博君から、今川 義元の資料を。

 「あくね」に。ひさしぶりに、小川 茂久に会う。少し飲んでいるうちに、小川が意外なことをいい出した。
 ――きみ、専任になる気はないか。
 ――センニンって?
 ――文学部の専任。
 ――ああ、そっちか。専任の講師ってことか。
 ――いや、講師じゃないほう。
 ――平野 謙さんが亡くなられたので、空席ができたためか。
 ――そうじゃないんだ。
 平野 謙さんが亡くなられた空席を埋める、といのではなく、教授会で、私の名が出てきている、という。その前に、私が引き受けるかどうか、私の意向をたしかめておきたい、という。
 ――そんなに、もったいぶった話じゃねえだろ。お前さんがいうなら、なんでも引き
    受けてやるさ。
  ――たいへんだよ、実際に教授になったら。
  ――(教室に出る)時間は多いのか。
  ――5コマだよ。
  ――つまり、毎日、出講ということになるね。
 私は、大学に勤務することになったら、小さいコラムをいくつか整理すればいい、と思った。5コマのうち、1コマは、自分がやりたいテーマ、たとえばプランタジネットの「モード」について1年かけて、講義したいと思った。「モード」の母は、スコットランド王の娘で、イングランドのサクソンの後裔。こういう血が、中世の女を作った。「モード」は「マティルダ女王」。母も「マティルダ」。
 ――だけど、ほかにいろいろと時間をとられるよ。教授会にも出ないかんし」
 教授会か。ポストをめぐっての争いや、中傷、了見の狭い連中が偉そうな顔をしてのさばっているだろう。退屈な風景だな、と思った。
 オレみたいな男に、つとまるかどうか。
  ――平野 謙さんが亡くなって空席を埋める話とは無関係として、要するに、文学部
    が弱体化するから、新しく立て直すということなのか。
  ――まあ、そういうことだね。
 小川がいった。
 先日、私の起用の当否をめぐって、「弓月」で唐木 順三が、大木 直太郎先生をはげしく問詰したとき、偶然だが、小川が私といっしょにあのやりとりを聞いていた。小川は、最後まで何もいわなかったが、私が屈辱にまみれていたことを見届けていたはずだった。その後も、私と小川のあいだで、あのときのことはいっさい話題に出なかったが、小川は私に同情したに違いない。
 私は、もう一つ、小川に訊いてみた。
  ――話はわかったが、もう1人の平野(仁啓)さんはどうなんだ? あの人は、オレの起用に反対だろう。
 平野 仁啓さんは、斉藤 正直先生と同期で、戦時中は、「批評」の同人だった。文壇批評家を志望していたが、戦後は、日本文学の研究者として、文学部の先生になっている。私は、大学で会うこともなかったが、唐木 順三と親しい仁啓さんが、私の起用をこころよく思っていないだろうことは想像がついた。
 小川は、私が仁啓さんの名をあげたので、少し口をへの字にまげて、
  ――まあね。
 そして、ケッケッケッと笑った。

 こういう話は、もっと具体的になってから考えたほうがいい。これまでにも、似たような話が浮かびあがっては消えていったことは何度もある。私は、何度も失望したものだった。私は、あきらめのいい男になっている。この話も、たまたま酒の座興として聞いておこう。

 帰宅。
 作家、野呂 邦暢さんから礼状。私の批評に対して。拙作、「私小説」(「宝島」)を読んだという。

       1978年5月27日(土)
 ほぼ快晴。
 スズキ シン一さんに電話。夫人が出たので、先日送っていただいた博多人形の礼をいう。

       1978年5月28日(日)
 快晴。4時半に起きる。
 6時半、新宿に。
 8時10分前、新宿駅。誰もあらわれない。ひとりで、甲府に行く気になった。そこに、石井 秀明、続いて吉沢 正英。8時16分発の急行に乗ったとき、安東夫妻、工藤敦子。
 先日、安東 つとむがリーダーで、悪戦苦闘したあげく、ビヴァークした山を今日は突破しようということになった。みんなは、失敗した山をもう1度やるのは、おもしろくなさそうだったが、私はぜひ登ってみたかった。
 10時15分、奥多摩から始発のバスで、10時半、倉戸口に。10時36分、出発。
 10時49分、神社に着いて水の補給。暑いので、みんなの調子がよくない。私もひさしぶりの登山なので、疲労を心配していた。
 11時、やはり、調子がわるい。
 工藤 敦子、不調。安東 つとむも。11時半、小休止。こんな調子では心もとないが、やむを得ない。
 11時45分、また歩きだす。このときから、いつものペースをとり戻した。12時25分、倉戸山。昼食、オートミール、ビスケット、ミルク。あまり食欲がない。
 1時45分、出発。2時「中田小屋」跡。しばらくぶりで行ってみたが、跡形もなかった。この小屋跡の前の道から左に入ることにした。むろん、地図上に破線もない。小石、岩のザレ場をまっしぐらに下りてゆく。
 安東 つとむが、どうも前にきた道と違う、という。しかし、もとの道に戻るのもシャクなので、そのまま進んだ。
 谷が迫ってきて、通れない。ここで高巻き。やっと尾根にとりついた。しばらくして、また断崖。その上の、比較的、安定した場所を通り、三つばかり、尾根を越えた。
 途中で、旧道らしいものを発見したので、それを辿ってゆく。
 滝のある沢に出た。
 4時、ここで小休止。
 このあたりなら、安東パーティーが、ビバークしたのも無理はない。むずかしいコースだった。安東は、明日はどうしても休むわけにはいかない。吉沢君にしても、工藤 敦子にしてもおなじだろう。早くルートを発見しなければならない。
 吉沢君、石井君、安東君にルート・ファインディングを頼む。それぞれ別の方角に、10〜15分進んで、ルートの「発見」とは関係なく引き返してくる。
 吉沢君が、ルートを「発見」して戻ってきた。吉沢君の報告から、そのルートは石井君の「発見」したルートとぶつかると判断できた。みんなで、安東君を呼び戻す。
 安東君は、この前、ビバークした地点を発見したという。

 時間がない。私たちは、吉沢君のルートをたどった。
 カヤの木がつづく。この道をたどって、5時45分、麓の部落に着く。
 みんな、ほっとした顔になった。
 5時54分のバス。1日、4本。これが最終だった。
 みんなが、私の判断をよろこんでいた。

 奥多摩に戻ったのは、6時40分。

 6時21分、奥多摩から立川行きに乗る。

 疲労はなかった。久しぶりに、おもしろい山行をしたという充実感があった。
 帰宅、10時45分。
 百合子に、山の話をする。
 きっと、昂揚していたにちがいない。

       1978年5月29日(月)
 「メディチ家」を書きつづける。

 杉崎女史から手紙。アメリカ行きが迫っている。
 剣持さんから、電話。原稿の依頼。「週刊サンケイ」、長岡さん、電話。「社会思想社」、督促。
 Y.K.が原稿を送ってきた。小説のごときもの。


       1978年5月30日(火)
 小雨。
 「社会思想社」、小栗 虫太郎、解説、10枚。
 「山ノ上」で、「二見」の長谷川君に、サローヤン。
 「社会思想社」、浦田さんに、原稿をわたす。

 安東 由利子と「山ノ上」で会って、倉戸の話をしながら、「日経」の原稿を書く。まだ書き終えないうちに、吉沢君がきた。私が「山ノ上」にいると見当をつけて、やってきたという。
  ――山のルート・ファインディングみたいに、カンがいいね。
  ――先生に鍛えられましたからね。
 吉沢君が、ニヤニヤする。

 「平和亭」で、Y.K.に小説の話をしているところに、小川がきた。Y.K.は、私と話をしたいらしく、帰らない。やっと、帰ったので、小川と飲む。小川は、Y.K.を私のあたらしい「恋人」と見たらしい。

       1978年5月31日(水)
 晴。
 朝、いつものように、バークリーの植物に水をやり、さかなにエサをやる。
 百合子がきた。

 午後、表のツタの葉をきっていると、若い人が寄ってきて
  ――つきますか?
 と訊く。ツタを植えたので、根がつくか、という意味だった。
  ――たぶん、つくでしょう。
 と、答えた。ひどく、なれなれしい人だが、近くに住んでいる板倉さんだった。
  ――このつぎ、本を持ってきますから、サインしていただけますか。
 という。
 板倉さんは、私のデザインした門扉を眺める。たいていの人は、このデザインを見て驚く。なにしろ、女のヌードなので。門扉は、どこでも見かける普通のものだが、これに横座りの女の大きなヌードが付けてある。
 普通の門扉では、玄関まで見えてしまうのだが、門の外側が大胆なヌード。大きな鉄板にデッサンを描いて、それを切ったもの。色は黒。片方の乳房が、ドアノブに重なっているので、それに気がつくと誰も玄関を見ない。
 近くの女子校の生徒たちは、はじめてこの扉に気がつくと、キャアキャアいいながら、足をとめたり、笑いだしたりする。
 しばらくすると、誰もさわがなくなる。
 板倉さんは、私のデザインした門扉を褒めてくれた。

 昨日、送ってきたアーサー・ヘイリーの「ルーツ」を読み始める。
 大畑 靖君から礼状。山本 由鷹君が批評を寄せてくれたという。
 杉崎女史に電話。アメリカ行きは、8月末になったという。

2019/10/06(Sun)  1816〈1977〜78年日記 63〉
 
       1978年4月18日(火)
 公労協。スト、2日目。
 国鉄ダイヤがマヒしている。

 中国・ヴェトナム国境で戦闘が行われている模様。スウェーデン放送の香港特派員がつかんだニュース。
 ヴェトナム外務省の高官は、
  ――国境付近で何が起きているかあきらかにできないが、中国との領土紛争は南シナ
    海の西沙、南沙群島ばかりではなく、陸上地域にもある。
 と言明した。

 北京の日本大使館は、尖閣諸島の領海侵犯事件に関する外交レベルでの話し合いを申し入れた。
 海上保安庁の調べによると、尖閣諸島の周辺海域の中国漁船団は、領海外に集結、漂泊をつづけている。

 この事件は、中国・ヴェトナムの武力衝突とも、微妙に関連しているとみていい。


                        1978年4月21日(木)
 2時、銀座「サンバード」で、「集英社」、新海君に会う。校正を受けとる。

 3時、「サンバード」のすぐ前のリッカー・ビル、「CIC」で「初恋」(ショーン・ダーリング監督)を見た。映画としては、小味なものだが、私は興味をもった。原作は、ハロルド・ブロドキー。脚色、ジョーン・スタントン・ヒッチコック。
 この映画の試写を見たとき、試写室にいたのは、私ともうひとり、どこかの雑誌編集者だけだった。
 その内容を書きとめておく。

 誰もいない練習場で、学生の「エルジン」(ウィリアム・カット)がひとり黙々とサッカーの練習をしている。バックに、キャット・スティーヴンスの「チャイルド・フォー・ア・デイ」――「もう幼い日々は過ぎているが、まだ新しい日々はこない」という歌詞が流れている。
 「エルジン」が翌日の試験にそなえて、自室で勉強していると、隣室で、友人、「デイヴィッド」と「シェリー」が性の営みの最中で、「シェリー」があられもない声をあげている。ところが、「デイヴィッド」のステデイだった「フェリシア」がやってくる。「シェリー」はあわてて、窓から逃げ出して、裸のまま「エルジン」の部屋に入ってくる。隣室で、「デイヴィッド」と「フェリシア」がセックスをはじめるのを聞いた「シェリー」は、「エルジン」をベッドに誘おうとするが、「エルジン」は試験を理由に「シェリー」の誘惑を退ける。
 翌日、「デイヴィッド」は窮地を救ってくれたことを恩に着て、自分と「フェリシア」、「エルジン」と「シェリー」のダブル・デートを計画する。「エルジン」はあまり気が進まなかったが、「シェリー」をエスコートして、町のイタリアン・レストランに行く。テーブルについたとき、偶然、この店にやってきた中年の男と、若い娘、「キャロライン」を目にする。
 その夜、「シェリー」は「エルジン」の部屋に入ると、ドレスを脱ぎ捨てて、セックスをもとめるが、「エルジン」は応じない。自尊心を傷つけられた「シェリー」は、「エルジン」を罵倒して去ってゆく。
 「エルジン」は、大学のコーヒー・ショップでアルバイトしている。教授の注文を受けたとき、別のテーブルについている「キャロライン」に気がつく。イタリアン・レストランで見かけた娘だが、「エルジン」が話しかけても相手にしない。おまけに、「キャロライン」がもっている「ボヴァリー夫人」にうっかりコーヒーのシミをつけてしまう。「キャロライン」は、しきりに謝る「エルジン」に閉口して去って行くが、そのテーブルの紙のマットに、「キャロライン」のアドレスが残されていた。
 その夜、新刊の「ボヴァリー夫人」を手に、「エルジン」は「キャロライン」の部屋を訪れる。こうして、ふたりの交際が始まったが、「エルジン」は「キャロライン」とおなじ教授の講座にも出ることにした。

 ある日、「キャロライン」に誘われてコンサートに行く。その会場で、いつか「キャロライン」をエスコートしていた中年の男とその夫人に会う。「キャロライン」が紹介してくれたが、その態度にぎごちないものを感じた「エルジン」は、「キャロライン」とその男のあいだに何かがあると直観した。
 コンサートの帰り、「キャロライン」は、不意に、「エルジン」の部屋で一夜を過ごしたいという。肉体的に交渉をもつという意味ではなく、ひとりで夜を過ごす孤独に耐えられないから、という「キャロライン」の気もちを理解した「エルジン」は、服を着たまま「キャロライン」と抱きあって寝る。

 夜が明ける。
 「キャロライン」が感謝をこめてキスしたことから、若いふたりは自然に肉体の悦びをたしかめあう。

 セックスのあと、「キャロライン」は、幼いとき動物園で見たラクダの話をする。「冬、そのラクダは雪が降りしきるなかで、口を開けて雪を舌に受けていた」と。
  ――ラクダは雪を見たことがあったのかしら。バクトリアって、どこにあるのか知ら
    ないけれど、ラクダは雪を思い出していたのかも知れないし、もしかすると、生
    まれて初めての経験だったかも知れない。初めてのようで、それでいて、もう既
    に知っているような感じ――それが今のわたしの気もちよ。
 「エルジン」は、「キャロライン」が処女ではないことを知った。「エルジン」自身は、こういう気分になったのは初めてだ、と彼女にいう。しかし、彼女が、あの中年の男の愛人だろうという疑いが強くなってくる。

 週末、「キャロライン」が、田舎の自宅に「エルジン」を招いた。「エルジン」は、オートバイで出発するが、たどり着いた先は驚くほど広大な邸宅だった。「キャロライン」が少女時代を過ごした部屋で、ふたりは抱きあう。「エルジン」が、「キャロライン」に求婚すると、「キャロライン」は笑う。

 「キャロライン」は、庭の木立の奥に建つ広大な自宅と、寸分違わないミニチュアの家に「エルジン」を案内する。このミニチュアの家は、少女の頃に「キャロライン」に贈られたプレゼントだった。そのミニチュアの家の中で、「エルジン」は「キャロライン」の体を求めるが、「キャロライン」は不意に、泣き声になって、彼を拒む。
 そのようすから、7年前に亡くなったと聞いた彼女の父が、このミニチュアの家で自殺したらしいと「エルジン」は悟った。

 この大邸宅で過ごしたあと、「エルジン」は大学に戻らなければならない。仕度をしているところに、電話がかかってくる。電話に出た「キャロライン」の表情が翳って、「エルジン」は何があったのかと心配する。
 帰りの車内で、「キャロライン」は、「もうお互いに会うのをよしましょう」という。そのやりとりで、電話をかけてきたのは、あの中年の男、顧問弁護士の「ジョン・マーチ」だった。「エルジン」は、「キャロライン」が「ジョン」と結婚する意志を固めたものと思って、道路脇にとめた車から飛び出す。そして、オートバイに乗って、「キャロライン」の大邸宅から去って行く。

 このときから、「エルジン」の生活は一変して、ただ空虚な時間にさいなまれる。むなしさの果てに、すべてを忘れようとして、酒におぼれる。そんな夜に、何度も「キャロライン」と行ったバーで、「キャロライン」と「ジョン」の姿を見かける。「キャロライン」は彼を避けようとするが、「エルジン」はわざと「ジョン」の前に姿をあらわして、いやみたっぷりに     バーを飛び出す。
 自室に戻ったとき、「デイヴィッド」の帰りを待っていた「シェリー」を見つけて部屋に誘い込む。彼女を抱くが、快感のさなかに、「キャロライン」の名を口にしてしまう。しらけた「シェリー」は傷つけられて外にとび出す。

 「キャロライン」をあきらめきれない「エルジン」は、ついに意を決して、弁護士の「ジョン・マーチ」に会いに行く。「ジョン」と対決するつもりだったが、「ジョン」の苦しげな口ぶりから、「ジョン」は妻と離婚する意志がないこと、離婚を匂わせたのは「キャロライン」の心をつなぎとめるためだったことに気がつく。「ジョン」は、「キャロライン」が「エルジン」を選んだとしても、それは「キャロライン」の選択であって、あくまでも「キャロライン」の自由を尊重するという。

 数日後、夜中に「キャロライン」が「エルジン」の部屋にやってくる。「ジョン」と別れてきたのだった。「エルジン」は彼女を抱く。

 しかし、「キャロライン」にもう一度裏切られるのではないかという不安が、「エルジン」をとらえている。彼女に結婚をせまったが、「キャロライン」はイエスと答えない。
 ――とにかく、こうしてあなたのところに戻ってきたんだから、それでいいんじゃない。
 ――それでは、また不安定な関係をつづけることにしかならないだろう。
 このやりとりで、「キャロライン」はまたしても去って行く。

 ある日、「デイヴィッド」は「シェリー」と結婚することを「エルジン」に告げる。「シェリー」が「エルジン」とセックスしたことも承知の上で。「エルジン」は心から「デイヴィッド」を祝福する。

 ある日、キャンパスの木立にいた「エルジン」は、大学に戻ってきた「キャロライン」を見る。彼女を送ってきたのは弁護士の「ジョン」で、ふたりの親しげなようすを見てしまう。

 「エルジン」は、「キャロライン」が歩いてくるのを待ちうける。彼女をつかまえて、結婚してくれ、という。しかし、「キャロライン」は苦しげに答えをしぶる。「エルジン」は思わず、彼女に Slut という言葉を浴びせてしまう。

 最後のシークェンスは、駅。「キャロライン」は帰郷する。駅まで送ってきた「エルジン」は、「キャロライン」とほとんど口をきくこともなくなっている。
 「キャロライン」は汽車に乗り込むとき、「エルジン」と抱擁する。
 ――もう、二度と会えないみたいね。
 「キャロライン」の顔に悲しみがあふれる。
 列車が去って行く。車中の「キャロライン」の目に涙があふれる。

 「エルジン」は、真冬の動物園に行く。ラクダの檻の前に立っていると、飼育係の老人が通りかかる。
 「エルジン」は、バクトリア産のラクダのことを訊く。
  ――バクトリアってノは、アジアのどこかだろ。雪が降るかどうか知らないけどね。
    でも、ラクダは雪が降っても平気なのさ。順応するんでね。
 ラクダは口を開けて、降ってくる雪を口に受けようとする。「エルジン」はそれを見ている。そして、動物園を去って行く。

 これが、映画のストーリー。
 映画としては、それほど傑作というわけではない。しかし、若い学生の恋愛を描いて、愛に傷つく姿をよくとらえている。「卒業」や「ある愛の詩」などとおなじ恋愛映画と見ていいが、私がこの映画に惹かれたのは、恋をする男の心理に共感できるから。しかも、年齢的に、若い男女の愛を阻む弁護士の「ジョン」に近い。

 ウィリアム・カットは、「キャリー」(ブライアン・デ・パルマ監督)で、「キャリー」(シシイ・スペイセク)をプロム(卒業パーテイー)に誘う同級生を演じて認められた若い俳優。しかし、まだ知名度も低いので、この映画は、公開されなかった。
 この映画を見たのは、「CIC」の宣伝部、そして試写を見にきた新聞・雑誌の映画担当の編集者数人だけだろう。
 映画が公開されないのだから、誰もとりあげるはずはない。したがって、誰も知らないまま、永久に忘れられてしまう。私にしても、試写のときにわたされるかんたんなシノプシスさえもっていない。
 主演女優の名前さえ知らない。

 この映画の映像の美しさ。ところどころに女性監督らしいみごとな演出が見られる。
 「エルジン」と「キャロライン」が、はじめて肉体の悦びを知る場面。夜が明ける。抑制のきいた美しい場面。

 私は、この映画を見て、感動とまではいかないが、いい映画だと思った。おなじ青春映画でも、「ルシアンの青春」(ルイ・マル監督)や、「激しい季節」(バレリオ・ズルリーニ監督)などに比較すれば、どうしても見劣りする。
 (この映画は、日本では公開されなかった。おそらく、フロップと予想されたのだろう。スーパー・インポーズまでいれながら公開されない映画もある。むろん、宣伝もしないままなので、題名さえ知らないまま永久に消えてしまう。 後記)

 私は、この映画が公開されなかったことを残念に思う。せめて、ストーリーだけでも書いておくことにしよう。

       1978年4月22日(土)
 快晴。
 池のコイが弱っている。白点病のサカナたちを隔離しておいたのだが、コイを池に戻したところ、腹を上にして苦しみはじめたので、急いで井戸水に移した。池には、十数尾だけ放してある。助けてやりたいのだが、経過を見るしかない。

 佐伯 彰一さんから、「評伝 三島由紀夫」を頂戴した。私も、評伝めいたものを書きつづけているので、佐伯さんの評伝には関心をもっている。

 高階 秀爾さんが、パリから私の書評の礼状を。
 先輩の批評家たちが、つぎつぎにいい仕事をしている。

 竹内 紀吉君が「私のアメリカン・ブルース」を届けてくれた。間違いや誤植を見つける。

       1978年4月23日(月)
 今日は、宮坂家(私の父、昌夫の異父弟、宮坂 与之助)の次男、宮坂 秀男君と、滝沢 景子さんの結婚式。
 9時半、三河島に。私鉄ストのため、駅は混雑している。
 11時10分、荒川区民館に着く。
 宮坂家の当主、宮坂 広志君に挨拶。秀男君と景子さんの幸福な姿。

 じつは、今日は、私と百合子の結婚記念日。

     1978年4月24日(火)
 朝、6時半、家を出る。
 お茶の水に出て、地下鉄。池袋から西武線で、江古田に。
 「練馬総合病院」に入院する。6階、606号室。個室で、清潔で、いかにも病室といった感じの部屋。
 人間ドック。

 採血。血沈。つづいて、午前中に、糖分を1ccずつ3回、飲まされた。血糖負荷試験のためと、肝機能検査のための採血。

 看護婦さんが、つぎつぎにやってくる。

 食事は、ちょっとしたホテル並みのメニュで驚いた。

    ご飯――ちらし。(お刺身、3切れ。タマゴ焼き。キューリの漬物。シイタケ
    の甘煮。ノリ)
    お吸い物――(タマゴ、ネギ)
    お采――ホタテ貝。刻んだネギを散らしたものにミカンを一房。トマト1個に
    キューリのつけあわせ。おトーフの煮つけ。キューリとアスパラガスの酢の物。
    菜。赤ショーガ。

 おいしくいただいた。

 午後4時15分、頭部、鼻部のレントゲン撮影。この間に、担当の医師の回診があって、血圧の測定。

 あとは、所在なく、ベッドに引っくり返って寝ているだけ。仕方がない。絵でも描くか。画用紙に、鉛筆でデッサン。

 夜食がすごい。

    サカナのフライに、キャベツとキューリのつけあわせ。これにスミレのような紫
    色の小さな花が添えてある。シイタケ、ポテト、凍みドーフの煮つけ。
    サカナとリンゴのつけあわせ。白身のサカナ、キューリで和えたもの。モヤシの
    おひたし。甘ミソ。
    デザート――缶詰のミカンと、レタス、キャベツの甘酢和え。イチゴにホィッ
    プしたクリームをかけたもの。

 夜、テレビで「新幹線大爆破」を見た。9時、消灯なので、音を小さくして見たが、電気紙芝居。

 明日、胆嚢の撮影のためらしい白い錠剤を7時、8時に、グリーンの錠剤を9時に服用した。
 深夜、フランソワーズ・ロゼェの自伝を読む。

        1978年4月25日(水)
 朝食はヌキ。
 9時15分、胆嚢、胃の透視。
 10時半、泌尿器の検査。これは、どうもまいりましたな。
 11時半、オーディオメーターによる聴力検査。
 フランソワーズ・ロゼェを読み終えた。

    昼食――トリ肉とシイタケのホイル焼き。ユバを挟んだタマゴ焼き。ナスの煮
    つけ。ゴボウ、昆布、切り干しの煮つけ。ニンジン、ダイコンの煮つけ。上にカ
    ツのフレークがのせてある。大きなサカナの煮物。ジャガイモとニンジンの煮つ
    けが添えてある。ピーマンの肉づめ。キャベツ、トマト、シソの佃煮。赤ショー
    ガと野菜の煮物。デザートはパイナップル。

 午後、肺活量、体重、身長、胸囲の測定。

 耳鼻咽喉科、眼科の検査も終わった。蕁痲疹が出たので、皮膚科で診察を受けた。
 この科の医師は、30代後半の女医さんだった。カルテに記載されている名前を見て、不思議そうに、
  ――中田 耕治さん……あのハードボイルドを書くひとですか?
  ――はい。そんなことになっています。
 そばにいた看護婦さんたちが、にわかに興味をもったようだった。

 この女医さんのデスクの前の壁に、モディリアーニの「アリス」のポスターが貼ってあつた。
  ――めずらしい絵ですね。ぼくも、パリで、ボードに印刷したモディリアーニを買い
    ました。大切にしていたのですが、あとで好きになった女の子にやってしまいま
    した。
 みんなが笑った。私は軽薄な男で、すぐに調子にのって、女性たちの関心を買おうとするところがある。

 フランソワーズ・ロゼェの自伝を読み終わった。フランスが降伏したとき、ロゼェもパリを脱出したが、大変な苦労をしたらしい。
 この本を読んでしまったので、もう読む本がない。

    夜食――メダマ焼き。これに、ホーレンソウ、トマトが添えてある。サカナの
    白身を、白、黒のゴマで固めて、かるく油で揚げたもの。これにキャベツの煮つ
    けを添えて。フキ、ニンジン、トーフの煮つけ。キューリ、ワカメの酢のもの。
    お刺し身、6切れ。キューリ、ナスの漬物。トマトを綺麗に切りわけて、マヨネーズ。
    おすまし(フ、小松菜)。ウメボシ、1つ。
    デザートはイチゴ、砂糖。

       1978年4月26日(木)
 朝、胃液の検査。

    昼食――ビーフステーキ! スパゲッテイのトマト・ピューレいため。キュー
    リ、サラダ。イセエビ! キューリ添え。白身のサカナ、キャベツ、レモン、ト
    マト、紫の花が添えてある。カボチャを煮たもの。サカナとウドのヌタ。コンニ
    ャク、ニンジン、ネリモノの煮つけ。ダイコンオロシにイクラをのせて。ナンテ
    ンの葉を皿にして、枝の部分にチョコッと置いてある。
    アスパラガスにカツオブシをかけて。タクアン、菜ッパ、ミソ。白ミソのオミオ
    ツケ。
    デザートはイチゴ、パイナップル。ティー!

 とても食べきれない。4品は手をつけなかった。
 しかし、こういうお食事が「にんげんドック」に必要なのか。

 食事のあと、検査の結果の説明を聞く。

 ある程度、予想はしていたが――胃、十二指腸とつながるあたりにポリープがある。胃カメラで検査ということになった。
 私は動揺していたか。
 血圧はTTTだけが高い。高血圧、高脂肪であることはたしかだが、胃のポリープが悪性のものでないことを祈るしかない。

 「山ノ上」、ひとりで乾杯する。

 今日は、国労、動労のストライキで、私鉄は大混雑だった。私としてはラッシュアワーを避けなければならなかった。時間をつぶすために、上野の「西洋美術館」で、「ボストン美術館展」を見た。ティントレットの「アレッサンドロ・ファルネーゼ」が見たかった。

 このあと、「都美術館」に行ったところ、「日経」、文化部の竹田君に会った。彼と一緒に、「春陽展」を見た。
 武田君を誘ったが、車を待たせてあるという。

 美術担当の記者ともなれば、ハイヤーで動くのか。そう思ったら、東郷 青児が亡くなったので動いているらしい。
  ――へえ、いつ亡くなったの?
  ――先生、ご存じじゃなかったんですか。一昨日、熊本で急死なさったんですよ。
 昨日は、入院していたともいえないので、黙っていた。二科の巡回展の準備で熊本に行って、ホテルで心臓発作を起こしたという。
 いつだったか、俳優の石坂 浩二が、東郷 青児の推薦で二科に入選した。石坂は私の劇団の研究生だったからよく知っているが、本名、武藤 平吉君。たいへん多才で、いい芝居を書いたり、いい絵を描いた。そのまま絵を描いていれば、東郷 青児ぐらいの画家になれたに違いない。私は、武田君にそんなことを話した。

 彼と別れて、もうひとつ、「国際美術展」を見た。これは、現代ハンガリー美術展だった。どれもこれも、おとなしい絵ばかりだった。共産圏の現代美術は、どうしてこうもつまらない絵しか描けないのか。

       1978年4月27日(金)
 中村 真一郎の「夏」を読みはじめた。中村さんが贈ってくれたので。美しい手蹟で、献呈 中田耕治君と書いてある。中村さんの字は、まさに達筆というべきもの。

 初老期にさしかかった作家、「私」が、十数年前、40代の頃の女性遍歴、恋愛を回想する。王朝文化では、個人の人生を、四季の移ろいになぞらえる伝統がある。そこで、作家の人生も四季に見立てて「夏」とする。三年前に書いた「四季」の第二部に当たるので「夏」という。
 この作品では、平安時代の「小柴垣草子」、鎌倉時代の「とはずがたり」を織り込んだ第7章、「にいまくら」のエロティシズムと、愛をめぐる考察が圧巻といえる。
 読んでいるうちに、

    Kは、若い頃に、ジードがやはり日記のなかであったか、「毎日、一度は死を考
    える」と書いていたのを読んで、この誠実さを表看板にしている作家も、この言
    葉に関する限り怪しいものだと思っていたのは、自分の若さからくる傲慢さに他
    ならなかったのだ、と述懐していた」と。

 これを読んで、小説とは関係がないことを考えた。
 私は、これまで「毎日、一度は死を考え」ながら生きてきた。弟、達也が亡くなったときから身についた習慣で、その後、戦争で何度も死にかけたし、戦後も、死んでもおかしくない病気で苦しんだこともある。死は私にとって親しい観念だったが――ジッドがおなじことを書いていたとは知らなかった。そういう自分のネクロフィラスな性格が、ジッドと共通していると知って愕然とした。
 いくら、ジッドを尊敬してきたエピゴーネンだったとしても、毎日、死ぬことを考えるところまで似なくてもいいだろう。「毎日、一度は死を考える」ところまで、私はジッドを模倣してきたのか、と思うと恥ずかしい気がした。
 現在も、人間ドックで精密検査を受けて、胃にポリープが見つかって、死がこれまでよりずっと身近なものになっている。
 「毎日、一度は死を考える」ジッドを否定的に見ることを「自分の若さからくる傲慢さ」と見ない。もう、そんな年齢でもない。

 真一郎さんも、ようやく大作家への道を歩みはじめたのかも知れぬ。ふと気がつくと――吉行 淳之介も、「夕暮れまで」で40代なかばの中年の男と、22歳の「処女」の2年半の「関係」を描いている。
 作家の老残を描いた作品など珍しくもないが、結城 信一の「空の細道」なども、死にまつわる幻想を描いて鮮烈だった。いろいろな作家たちが、それぞれの方向をめざして歩きはじめているような印象がある。
 私も、あたらしい戦場にのぞんでいる。

       1978年4月28日(土)
 午後、「読売新聞」、八尋 一郎さん、来訪。「本居宣長」についてのエッセイをわたす。
 「夏」はまだ読み終えない。私としては、めずらしい遅さ。
 この小説で、もう一つ興味をもったのは、主人公が京都で知りあつたコール・ガールとの交渉。そして1年後に再会した時の幻滅。(220〜238ぺージ)

 夜、「日経」、吉沢君に原稿を電話で。

        1978年4月29日(日)・
 和田 芳恵さんのご令室、和田 静子さんから、遺作集、「雀いろの空」をいただく。
 丸谷 才一さんから、「日本文学史早わかり」、眉村 卓さんから「ぬばたまの・・」を贈られる。
 中村 真一郎さんに、礼状。読後感を。

        1978年4月30日(月)
 和田 静子さん、丸谷 才一さんに礼状。

 メディチ家に関する本を書きつづける。

2019/09/29(Sun)  1815〈1977〜78年日記 62〉

       1978年4月2日(土)
 朝、5時に起きた。寒い。
 久しぶりで、「グループ」みんなで散歩。例によって、新宿駅。吉沢君、石井 秀明と会う。安東夫妻は、少し遅れた。
 ――久しぶりだから、温泉にしよう。
 これで決まり。御嶽から大岳。散歩といっても、地図に破線のない場所を選んだ。
 大岳までは普通のハイキングコースだが、12時に食事。
 高宕山の先は、ほとんど人が通らない。したがって、道は荒れていない。下りばかりだが。変化があっておもしろい。
 春の華やかな日ざしが山肌を這っている。私たちは夏に大きなプランを立てているので、この程度のコースは、あくまでその準備にすぎない。
 バークリーの丘陵地帯をあるいたことを思い出す。

 帰宅したのも早く、7時には、千葉に着いていた。
 山を下りる途中で、10センチばかりのツゲと、あまり見たことのないサンシュウの枝をとってきた。
 百合子に、小さな鉢に植えてもらう。
 夜は雨になった。

       1978年4月3日(日)
 池の水を少し放流して、雨水が入るようにした。
 この池は、百合子の設計。写真でルネサンスの庭園を見て、気に入った池をモデルにしたもの。といっても、直径、わずか2メートル半、深さ、60センチ、コンクリートの円形の池。円周をレンガにしただけ。「ルネサンスの庭園」というのは、むろん冗句(ジョーク)。それでも、金魚、コイなどを入れてある。

 山でとってきたツゲと、サンシュウを、百合子が鉢植えにしてくれた。バークリーでひろってきた木の実も植えた。

 午後、百合子が、平野 謙さんの訃報を教えてくれた。

    平野 謙 1907〜78 評論家 八高時代に、本多 秋五、藤枝 静男と知
り合う。東大文学部社会学科に入学、左翼の運動に参加。転向後、美学科に再入学。
    昭和11年、(1926年)、同人誌「批評」に参加、作家論で注目された。
    1946年、「近代文学」の創立メンバー。中野 重治を相手に「政治と文学」
    論争。自ら「平批評家」と称したが、膨大な「文芸時評」(昭和38年/196
    3年)がその代表作。
    1961年〜62年、「純文学論争」を起こした。
    「さまざまな青春」で、野間文芸賞、1977年、芸術院恩賜賞を受けた。

 小川 茂久に電話したが、不在。

 深夜、「ガリバー」の原稿を書いているところに、小川から電話。小川も、平野さんとは親しかった。しばらく、雑談。一昨年、平野さんが手術を受けたとき、大学は休講なさったが、小川からそのあたりの事情を聞いたことを思い出した。
 いっしょに葬儀に行くことにした。

       1978年4月4日(月)
 午後2時。「ジャーマン・ベイカリー」で、「レモン」、広瀬さんに原稿をわたす。
 池上君に、校正を。

 吉沢君と食事しながら、平野さんの思い出。夜、もう一度吉沢君と会うことにした。

 小田急線、喜多見駅。小川 茂久に会う。
 外に出たとき、偶然だが、「筑摩書房」の原田 奈翁雄君、「明治」の大野 順の両君に会う。原田君は、私の1期後輩。彼の「恋人」だったYさんが、私と同期だったので、お互いによく知っているのだが、この日、はじめてことばを交わした。Yさんと私が親しかったことは、小川 茂久も知らない。

 平野邸には、多数の人が弔問に訪れていた。どんどん押しかけてくる感じだった。「河出」の藤田 三男が、受付できりきり舞いしていた。
 つぎつぎに有名作家や、批評家がやってくる。井上 靖の姿もあった。
 たまたま、坂本 一亀に会った。ここで坂本さんと会っても、別に不思議ではない。私は、「近代文学」で、坂本 一亀に会っている。「文芸」の編集長になってから、坂本一亀とはきわめて親しくなった。「文芸」の同人雑誌評は、私ひとりが匿名で書いていた。「文学界」の林 富士馬、駒田 信二、久保田 正文さん4人の批評家たちに、ひとりで対抗したのだから、かなり苦労した。
 坂本 一亀は、そこまで私を信頼してくれたのだった。もっとも、こんな仕事を頼めるのは私しかいなかったせいもある。

 室内に白い幕をめぐらして、弔問客は廊下をまわって焼香する。たいへんな数の文学者がつめかけて、ごった返している。
 廊下の左側に、これも白い幕を張った部屋があって、親しい友人が沈痛な表情で集まっている。
 埴谷 雄高さんの声が聞こえた。私は、その部屋に「近代文学」の人々がきていると思ったが、どこから入っていいのかわからない。
 お焼香をすませて、外に出た。そのあたりに居合わせた人たちに挨拶する。
 各社、文化部の記者たちも集まっていた。

 小川が、私の腕をとって先に立って歩き出した。
 このままでは、動きがとれなくなる、と見て、人々の流れから私をつれ出してくれたのだった。外に出た。駅に戻る途中、野口 富士男さん、青山 光二さんに挨拶した。

 寿司屋に寄った。小川と飲みながら、平野さんの思い出を語りあう。
 平野さんを明治の文学部の教授に招くことになった経緯(いきさつ)。まだ学生だった私が舟橋 聖一先生に直談判して、平野さんを文学部に招いてもらった。このことを知っているのは、斉藤 正直と小川くらいのものだろう。

 小川は、中村 光夫、中村 真一郎、さらに「明治」の先生たちがくるはずなので、しばらく時間をつぶすことになった。私は仏文科ではないし、とくに中村 光夫の顔を見るのも不愉快なので、小川と別れてお茶の水に向かった。

 「あくね」で、吉沢君に会う予定だった。
 駿河台下に向かっていると、女の子が声をかけてきた。
 ――先生。卒業できたわ。
 私のクラスにきていた石川 幸子だった。出席日数が足りないとかで、卒業できるかどうか、ぎりぎりまでわからなかった。それが、やっと卒業できたという。
 ――よかったな。
 ――ありがと。だけど、先生のクラス、今年も出るからね。いやな顔しないで。
 ――お祝いしてやろうか。
 ――「あくね」でショ。どうせなら、クラブ、つれてって。
 ――今夜はダメ。
 石川 幸子は、けらけら笑って去って行った。

 「あくね」で、原稿を書いていると、「福音館」の遠藤君がきて、アメリカから無事に帰国したことを祝福して飲もうという。久しぶりに会ったからうれしい、という。
 吉沢君がきてくれた。原稿をわたした。

 帰宅。終電。

       1978年4月6日(水)
 アメリカから、たてつづけに本が届いてくる。どうしてこんな本を買ったのか、自分でもわからない本もある。買いたかった版画を思い出した。アンディ・ウォーホルの「マリリン・モンロー」。旅費を全部使えば買えないわけではなかったが、まだ、どこに行くかきめてなかったので、あきらめた。
 「集英社」、桜木 三郎君から電話。
 「週刊現代」、入江 潔君から電話。明日、会うことにする。

 沼田 馨君が、「双葉社」をやめた。「漫画アクション」の編集者だった。
 私に、マンガのオリジナル・ストーリーを依頼してきたので、「ケルンに愛の墓碑銘を」というストーリー」を書いた。
 沼田君は、いつも誠実で、私にとってはありがたい編集者だった。

 沼田君は、登山が好きで、いつも一人で行動していた。私は、それを知って、登山にさそうようになった。安東、吉沢、石井たちのレベルなら、沼田君もよろこんで参加してくれたはずだったが、もっと低いレベルの初心者が多かった。それでも沼田君は、みんなをサポートしてくれたのだった。

 私は、安東たちを呼んで、沼田君を囲む集まりをもちたいと思った。せめて、沼田君をねぎらってやりたい。
 しかし、沼田君の都合がつかなかった。
 故郷(青森県八戸)に帰って、父君のやっている特定郵便局の業務を引き継ぐという。
 父君が老齢に達したため、介護しなければならなくなったらしい。

       1978年4月7日(木)
 夕方、5時。「山ノ上」。
 「週刊現代」、入江君、インタヴュー。
 「九芸出版」の伊藤 康司君がきた。ピーター・ボグダノヴィッチの「ジョン・フォード」。武市 好古の「ヒップ・ステップ・キャンプ」をもらう。
 安東 つとむ、鈴木 和子がきたので、入江君、伊藤君に紹介する。伊藤君はそのまま帰ったが、入江君は、安東、鈴木と、「弓月」に行く。ここですっかり意気投合して、話かはずんだ。
 「あくね」に移った。小川 茂久がきた。
 私もかなり酔っていた。ブランデー、2杯。
 10時過ぎ、「あくね」を出たが、入江君は、すっかりご機嫌で、
 ――先生、寿司を食べましょう。おごります。
 そこで、神田駅前に行く。
 寿司を食べたのだが、外に出ると、
 ――先生、ラーメン、食べましょう。おごります。
 という。安東 つとむ、鈴木 和子も笑い出した。
 入江君は、すっかり楽しくなって、私たちと別れたくなかったらしい。

      1978年4月8日(金)
 快晴。あらゆる木々が芽ぶきはじめ、あざやかな色彩をまき散らしている。いのちの芽ぶき。生きてあることのありがたさ。

 朝、6時に起きて、池のコイとキンギョにエサをやり、リンゴを小さく切って、月桂樹の小さなトゲの枝に突き刺しておく。何のトリか知らないのだが、黒っぽいコトリがやってきてついばむ。

 種村 季弘さんから手紙。私がエッセイで、種村 季弘さんの仕事にふれたので、その礼状。

    思えば小生の伝記作法などは中田さんをはじめとする先輩諸士の方法的コラージ
    ュにすぎなかったことを嫌というほど悟らされました。そして多分、御高著の細
    部を読み落としていたのではなかったかと、あの早きにすぎたブランヴィリエ侯
    爵夫人を読み返しているところです。

 ありがとう、種村さん。あなたのお仕事は、他の追随を許さないものです。はじめから、誰の「方法的コラージュ」などというものではない。
 したがって、「あの早きにすぎたブランヴィリエ侯爵夫人」という表現には、いささかのアイロニーが含まれているものと心得ます。

 それでも、あなたが「ブランヴィリエ侯爵夫人」を読んでくださったことを心からうれしく思っています。

 今、書いている「評伝」は、種村さんの「カリオストロ」に劣らぬ大きな仕事になるだろう。

      1978年4月9日(木)
 もう、桜が咲いた庭の木の芽もゆたかに息吹いている。塀のツタが葉を出しはじめた。
 このツタは、母、宇免が残して行ったもので、私が塀に伸ばしている。仙台の地震で、ブロック塀が倒れて死傷者が出たという。私は、ツタを這わせれば、地震が起きても倒壊だけは防げると考えた。
 S・B・クライムズの「ヘンリー八世」を読む。資料としては、すぐれている(と思う)のだが、評伝としてはおもしろくない。学者が書く評伝は、どうしてこうおもしろくないのか。
 本の整理。アメリカから送った本がたくさん届いたため、なんとか書棚におさめなければならない。
 映画の資料は、段ボールにつめ込む。自作の短編、発表できなかったエッセイ、その他。いずれ、みんな焼き捨てるつもり。
 ヴェトナムの地図(航空用)が出てきた。アメリカ空軍のもの。こんな地図は、誰ももっていないだろう。しばらく保存しておく。

 ルイス・キャロルは、42歳になったとき、自分がやろうと思っている文学的な仕事が多いので、文学以外の仕事(たとえば、数学、写真など)をすべて断念したという。
 しかも、42歳で in my old age と書いている。
 この日記に、オレが、in my old age と書いたら、みんなが笑うだろうな。

       1978年4月10日(月)
 こんな記事が目についた。

    北ヴェトナムは、150万人という国力に不相応の軍隊、官僚の非能率、ルーズ
    さのために、多くの食料、消費物資が不足し、多くの必需品が南ヴェトナムから
    密輸されている。
    ハノイから20キロ離れたゾンビエン地区の農業合作社の管理人の月収は約30
    ドン。自転車1台を国営商店で買うには1カ月分の収入が必要だし、自由市場で
    買うには、3年分の収入を当てなければならない。ただし、実際に自転車が買え
    るとしての話だが。
    南北ヴェトナムでは、(戦争が終わった)現在でも、別々の通貨を使用していて
    、北ではアメリカ・ドル、1ドルの公式レートが、2.4ドン。旅行者のレート
    で、3.65ドン。
    南ヴェトナムでは、公式レートが1ドル=2.82ドン。南のドンは、価格が低
    下したが、それでも北の1ドンに対して、1.25ドン。

    ホーチミン(旧サイゴン)では、北のドンを南のドンと交換することもできない。
    南のドンは、北ヴェトナムでは、公式の支払い手段と認められていないが、ヤ
    ミ市場では、自由に買い物もできるし、交換もできる。

    北ヴェトナムでは、一般市民の食事も切りつめられている。公式には、1人1日、
    1200カロリー。「国連食糧農業機構」(FAO)の規定する最低生活を維
    持する食料のほぼ半分が保証されているにすぎない。

    北では鶏肉、1キロ、16ドン。農業合作社の管理人の月収の半分以上。マメ、
    1キロ、10ドン。生活物資はきびしい配給制で、砂糖は、子どもにかぎって、
    1か月に100グラムが配給される。乳幼児には、このほかにミルクが月に、1.2
    リットルの配給がある。農民には、砂糖の配給はないが、都市生活者には、
    1月に500グラムの配給がある。肉は、1人あたり、年に4キロ。

    南ヴェトナムでは、食料の配給制が導入されているが、肥沃なメコン・デルタを
    ひかえているだけに、配給カードの役割は北に較べてずっと小さい。

    北ヴェトナムでは、官僚主義が大きな社会問題になっている。
    航空券1枚を買うにも、いろいろな書類を書かされたり、いろいろな窓口を歩か
    されたり、神経がヒリヒリする。窓口にふんぞり返っているお役人さまは、並ん
    でいる市民などどこ吹く風とおしゃべりに花を咲かせていたり、付箋がベタベタ
    貼りつけられた山のような書類にのんびりサインをしたり。

    ヴェトナム全体としては、建築資材や食糧が不足しているのだが、各地の港湾施
    設には、セメントや小麦粉が放置されたままになっている。ときには雨ざらしに
    なっている。
    南ヴェトナムは、外観といい客観的な状況といい、北ヴェトナムとはまったく違
    う国家に見える。たとえば、南では2000万人の住民が200万台のテレビを
    もっているのに、北ヴェトナム、3000万人の所有するテレビの台数は、わず
    かに5万台。
    南ヴェトナムの相対的な繁栄にもかかわらず、ハノイは、「南はできるだけ早く
    北を規範にして、社会主義に移行すべきだ」と主張している。

    北ヴェトナムの工場は国有化され、中央集権的な計画制度のもとに稼働している。
    しかし、南ヴェトナムでは、商業資本は国有化されたものの、工場は国有、私
    有、あるいは両者の混合か合作社のかたちで運営されている。

    南ヴェトナムの農民は、自発的に農業合作社に参加するように勧誘されているが、
    革命事業に参加した多くの中農層が合作社への算すを拒んでいる。農業集団化
    を早めようとすれば、深刻な軋轢を生じるだろう。

    ユーゴースラヴィアの記者団の観察では――北の政治、経済、社会制度のすべ
    てが、急速に南に移植されつつあるが、ときには南ヴェトナムの特殊性がまった
    く無視されている印象を受けた。

    南ヴェトナムの高官の多くも、北の出身者に交代させられている。これはハノイ
    の決定である。南ヴェトナムの革命指導者、旧南ヴェトナム解放戦線すらも、重
    要性を失いつつある。一部の推定によれば――ヴェトナム共産党の党員数は、
    全国総計で160万人だが、南ヴェトナムの党員数は、10万人という。

 ながい引用になった。

 北ヴェトナムの食料、消費物資の不足は、1930年代からすでに恒常化していたとみていい。したがって、これはヴェトナムの結果ではなく、むしろ遠因と見る。私は、ヴェトナム南北の経済的な格差が、「戦争」の動機として作用したと見ている。
 北では食料、消費物資が不足し、多くの必需品が南ヴェトナムから密輸されていることも事実だろう。多数の商人が、非合法なブラック・マーケットを支配しているし、市民のあいだでも、物々交換や、単純な闇取引が行われているものと見ていい。これは、やがて、政治に対する批判、経済政策に対する不服従を生む。

 ホーチミン(旧サイゴン)では、北のドンを南のドンと交換することもできない。南のドンは、北ヴェトナムでは、公式の支払い手段と認められていない。
 革命が官僚主義という鬼子をうむとは、レーニンもホーチミンも想像しなかったに違いない。だが、その官僚主義こそ革命を生むのだ。
 わずか10万人の意志が3000万人を支配する。官僚主義が生まれないはずはない。
 ヴェトナム戦争は終わった。しかし、ヴェトナム人民の苦悩はここにはじまる。

 「双葉社」を退いた沼田 馨君に、登山の写真を送る。

       1978年4月11日(火)
 曇り。

 NHKから、今日のインタヴューの予定を変更したい、といってきた。
 「九芸出版」、伊藤君。「共同通信」、戸部さん。「淡路書房」、渡辺さん。「アサヒ・カルチャー・センター」から電話。いよいよ、本格的な戦線復帰になる。
 アメリカから帰ったときは、雑文を書かない決心をしたが、現実には編集者を困らせることになるし、義理もある。

 午後、去年植えたツタを移し換える。

 夜、テレビ。「オールスターものまね王座決定戦」を見た。いろいろな歌手が、それぞれ趣向をこらして、別の歌手の真似をする。つまらない番組だが、それぞれの歌手の才能、個性、スポンタネな声質、いろいろなことが見えてくる。
 香坂 みゆき。自分の歌はダメだが、ものまねは才能がある。榊原 郁恵は、疲れている。清水 由貴子、荒木 由美子も、山口 百恵をやったが、これは本人の個性が出すぎた。このレベルでは、浅野 ゆう子、荒木 由美子、松本 ちえ子たちが、全体によくない。
 ずーとるびが「カナダからの手紙」。これはおかしかった。原田 信二をやった研 ナオ子と、双璧。ものまねも、選んだ歌手の特徴をあえてグロテスクに誇張したほうがうまく行く。マイムなどとおなじかもしれない。
 2回戦。
 ずーとるびの新井が、河島 英五。狩人が、森 進一。角川 博が、三波 春夫を。研 ナオ子は、「よいとまけの唄」を。
 その他。残ったのは、狩人。角川 博。田川 陽介。西条 秀樹。
 ここまで聞いて、飽きてきた。
 私は、歌謡曲、流行唄が好きだが、個々の曲よりも、むしろその唄を歌う歌手の表情というか、その曲を自分のものにしてゆくプロセスを見るのが好きらしい。ものまねだっておなじことだが、どうも違う。

 こういうところはなかなか説明できない。

 羽左衛門が「菊畑」の「虎蔵」をやった。これを見た正宗 白鳥が、
 ――自分がかつて見た五代目(菊五郎)の虎蔵以上であっても、けっしてそれ以下で
   はない」と激賞したという。
 五代目も羽左衛門も「虎蔵」は見たことがない。(六代目は見ている。)だから、白鳥の意見がただしいかどうかわからない。しかし、芝居通なら、白鳥の感嘆はすぐに理解できたに違いない。
 たかが、ものまねだが、このテレビを見ていて、角川 博、田川 陽介に感心しなかった。西条 秀樹が、「あんたのバラード」で、優勝した。まあ、世良 公則以上であっても、けっしてそれ以下ではない――ほどではなかったが。

      1978年4月12日(水)
 午後2時、青山斎場に行く。
 故・平野 謙さんの葬儀。

 外にたくさんの人があふれていた。
 若い女性が立っている。私のクラスにきている女子学生だった。
 声をかけてやると、平野さんの講議をとっていたという。斎場にきたが、有名な文学者がたくさん列席しているので気おくれして、外でうろうろしていた、という。
 ――じゃ、中に入れるように、ぼくの隣りにいなさい。
 この女性は、高校の国文の教師だが、名前は知らない。しかし、どこかの大学を出てから、明治の二部(夜間)にきて平野さんの講議に出ていた。ついでに、私の講義も聞いていたらしい。

 最初に、本多 秋五さんの挨拶。誰もが、平野さんと本多さんの長い交遊を思ったはずだが、最後に本多さんが、平野さんの著書を挙げた。文学上の盟友を失った悲しみに、万感、胸に迫ったらしく声が途切れた。満場、寂として声なく、胸を打つ情景だった。

 「集英社」、文庫の山崎君が、私を見て、すぐに挨拶にきた。
 会葬者の行列ができて、私の前に、針生 一郎、関根 弘がいた。その前に、瀬戸内寂聴、中島 河太郎、中野 重治など。さすがに、平野さんの交遊関係らしく、たくさんの作家、批評家が列席している。
 平野さんの大きな写真を見ながら、「近代文学創刊の頃」を思い出した。

 外に出ると、中村 真一郎さんが声をかけてきた。めざとい真一郎さんのことだから、私が若い女の子、それも作家志望の女性をつれていると見たらしい。たぶん、先日、小川 茂久と会ったとき、私の話が出たに違いない。
 私は、同道した女子学生の名前もしらない。だから、真一郎さんに紹介もしなかった。
 (この女性とは、その後、親しくなった。 後記)

 5時半、「山ノ上」。「朝日カルチャーセンター」の蒲生 真理子さんと会う。
 夏のレクチュアについて。この夏の私は、自分でも大きな仕事をしようと思っている。
「朝日カルチャーセンター」のレクチャーは、ありがたい話だが、ここにきて、引き受けたら、かならず仕事に影響する。
 蒲生 真理子さんも、あとに引かない。困った顔をするので、つい引き受けてしまった。8月から9月、毎週、金曜日の夜、6時半〜8時半。

 「サンリオ」、若月 敏明君と会う。レズリー・ウォーラーの新作の翻訳。ついさっき「朝日カルチャーセンター」の話を引き受けてしまったばかりなので、「サンリオ」の仕事を引き受けてもいいのだが、この夏の私は、現在とりかかっている大作に全力をあげている予定なので、少し考えさせていただく。
 「深夜叢書」、斉藤 慎爾君。「演出ノート」出版の件。
 私の演出したテネシー・ウィリアムズ、レズリー・スティーヴンス、ムロジェク、ジャスドヴィッツなどを中心に、克明にノートをとってある。できれば、そのまま出したいのだが、これとは、別に、フランスのルイ・ジュヴェ、シャルル・デュラン、ジョルジュ・ピトエフたちの「演出論」を書いてみたい。こんな本を出してくれる出版社はないので、斉藤 慎爾君と話をした次第。斉藤君ならこんな本でも出してくれそうな気がする。

 斉藤 慎爾君の話では――私が音楽の本も出したいといっていたという。

 そんな話をしているところに、菅沼、大内のふたりが、「山ノ上」にきた。斉藤 慎爾君が帰ったので、ふたりをつれて「弓月」に。
 その後、「あくね」に行く。
  ここに、斉藤 正直、唐木 順三、両先生。
 私は、唐木 順三に対して含むところがあるので、無視する。

       1978年4月13日(木)
 私は、個人的な私怨を書くつもりはない。しかし、日記に書いておく分にはかまわないだろう。

 「弓月」は、夕方、5時頃から店をはじめる。

 江戸っ子の老人と、山形、庄内生まれで、気のつよいオバサンがやっていた居酒屋だった。ふたりのあいだに、30代後半のひとり娘がいた。「かるら」さんというめずらしい名前だったが、美人で親孝行、未婚だった。

 「弓月」は、土間に木のテーブルを並べただけの居酒屋だが、土間つづきの奥に5,6人の客が入れる四畳半の和室。冬はその部屋だけ障子が立てられて、火鉢が置かれる。この部屋は、靴を脱いであがるため、何かの集まりの流れで、二次会に使われたり、親しい仲間が2.3人で、他の客と顔を合わせずに飲んだりする。
 小川 茂久は、よくこの部屋で友人の誰かれと飲むことがあったが、私は小川と一緒でも、この部屋を使ったことがなかった。

 小川 茂久は、この店の常連客で、4時頃から店に入って酒を飲みはじめる。いろいろと店の手つだいをしてやったり、客の誰かれと親しく話をしたり。私のように、小川に会うために「弓月」に通っている客もいる。

 「弓月」は、私にとって忘れられない思い出がある。

 ある日、私は小川 茂久と口明けの「弓月」にいた。4時過ぎで、ほかに客はいないはずだった。ところが、思いがけず、先客がいて、四畳半の和室に入っていた。
 障子が立てられていたので、先客は私たちが入ったことに気がつかなかったらしい。
 客は、文学部の大木 直太郎先生と、唐木 順三教授だった。

 しばらくして、思いがけないことを耳にした。
 ――なんだって、あんなやつを呼んだんだい。
 唐木 順三がいった。
 「あんなやつ」といのは、中田 耕治という講師のことだった。

 大木先生は、中田 耕治が優秀な講師であるとして、陳弁につとめられた。唐木は、助手のOを講師にすべきであったと主張した。私は、大木先生の蹤慂(しょうよう)によって、講師をひき受けたのだが、まさか唐木が私に反対していたとは知らなかった。

 自分のことが、こうして論じられている。「弓月」の四畳半の密談なので、いやでも耳に入ってくる。小川は、無言で、席を変えようとしたが、私は動かなかった。
 屈辱感と、怒りがあった。
 と同時に、私のためにあらぬ非難をあびせられている大木先生に対して、申し訳ない思いがあった。

 私が講師になった当時、明治の文学部の先生は、ほとんどが東大、東京教育大の出身者で占められていた。明治出身の先生は、大木 直太郎、斉藤 正直、青沼先生をふくめて、6名。私が講師になって7名という状態だった。
 大木先生としては、私を講師に呼んだのは、明治出身者をふやしたかったせいもあったと思われる。

 唐木は、ねちねちした口調で、大木先生を問詰していた。

 私の目に涙があふれてきた。

 私も、文学者のはしくれだったから、私にたいする批判は、甘んじて受けよう。それは、もの書きとしての覚悟だろう。しかし、私を大学に招いたことで、大木先生を糾弾するのは不当ではないか。しかも、これを学内の派閥争いにしようとしている。唐木は、大木さんに教務主任を辞任するように迫っているのだった。これはもはや文学者としての批判とは思われない。

 私は、もともと文学者の確執に興味がない。しかし、この日から唐木は私の不倶戴天の敵になった。

 売られたケンカなら、いくらでも相手になってやる。しかし、私相手に啖呵を切るならまだしも、大木 直太郎を窮地に追い込むのは許せない。

 その後、小川はこのときのことに関して、まったく口外しなかった。私もふれなかった。しかし、小川が、私に同情したことは間違いない。唇を噛みしめて、涙を流している私に、黙って酒を注いでくれたのだった。

 今夜の私が、唐木に挨拶もしなかったので、斉藤 正直も唐木に対する私の敵意に気がついたはずだった。唐木に対する私怨は消えないものになった。

       1978年4月14日(金)
 4時に起きる。小説を書かなければならないので。
 10時半、完成。ほっとした。
 「山ノ上」。渡辺 安雄さんに原稿をわたす。
 本戸 淳子さん。いっしょに、「ワーナー」に。
 「オー!ゴッド」(カール・ライナー監督)を見た。
 スーパーの野菜売り場主任(ジョン・デンバー)のところに、トボけたジイサマ(ジョージ・バーンズ)がやってくる。人間は破滅に向かっているので自分が救済にきた、というご託宣。カルト宗教の風刺。このなかで、ジイサマが「エクソシスト」をやり玉にあげ、「少女に悪魔がとり憑く映画があったが、少女がフロアにオシッコをもらしたのでウケただけじゃないか。それなら、カミさまが映画に出てきたっておかしくないだろう」という。これはおもしろかった。
 このあと、「ルノワール」で、しばらく雑談。
 本戸さんが帰ったあと、「フォックス」で、「愛と喝采の日々」(ハーバート・ロス監督)を見た。
 「ディーディー」(シャーリー・マクレーン)と「エマ」(アン・バンクロフト)は、同じバレエ団で、ライヴァルどうしだった。「エマ」の勧めで、「ディーディー」の娘、「エミリア」(レスリー・ブラウン)が、「エマ」のバレエ団に入って、「ユーリー」(ミハイル・バリシニコフ)と愛しあう。
 この映画はアカデミー賞の候補になったが、私にとっては、いろいろと考えることができた。アン・バンクロフトの芝居は、「卒業」の「ミセス・ロビンソン」と、どう違うのか。バレエ映画として、「赤い靴」、「ホフマン物語」以上のものなのか。芸能界の裏話に母ものを重ねたような内容だが、アーサー・ローレンツは、いつから、こういう器用なシナリオを書くようになったのか。
 ミハイル・バリシニコフは、はじめて見たが、さすがに世界最高のバレエ・ダンサーらしい動きを見せている。レスリー・ブラウンは、若き日のヴィヴィアン・リー、「赤い靴」のモイラ・シャアラー、今のジェニー・アガターに似た美人だが、リュドミラ・チェリーナのように、バレリーナ/映画スターになれるかどうか。
 そんなことばかりアタマをかすめる。
 私の結論。この映画は、アカデミー賞をとれない。主演女優賞もとれない。残念だが、レスリー・ブラウンは、映画界には残らないだろう。私の予想が当たるかどうか。

 めずらしく、「すばる」の編集長、水城 顕といっしょに富島 健夫が、「あくね」にきた。富島君は、「河出」時代に知りあったが、当代切っての流行作家になっている。流行作家になったとたんに、文壇の大家みたいな口のききかたをするようになった。

      1978年4月15日(土)
 1時半、竹内 紀吉君が迎えにきてくれた。

 「文化会館」で講演。盛況。
 「小林秀雄と本居宣長」。

 私のグルーピイがきている。石井 秀明、中村 継男、菅沼 珠代、安東 由利子、工藤 惇子、宮崎 等たち。

 中村 継男、宮崎 等は帰ったが、あとはみな、わが家にきた。

 百合子は、「中田組」のみんなが居心地よくすごせるように気をくばっている。いつだったか、歌手の***が遊びにきたときも、彼女は百合子とすっかり気があって、いっしょにブランデーを飲みながら、身辺のことを話しあっていた。

 あとで、安東 つとむ、鈴木 和子が合流する。7時過ぎに、竹内 紀吉君かきたので、みんながよろこんだ。竹内君も、もう「中田組」のみんなとは旧知の間柄のように、いろいろと話をする。とくに、小林秀雄について。

       1978年4月16日(日)
 本日天気晴朗なれど、風強し。

 3時半、桜木 三郎、ソノ夫妻が、お嬢さん2人をつれて、挨拶にきてくれた。可愛い女の子たち。真紀子ちゃんは、目下のところ、恐竜に関心があるという。理恵ちゃんは、目鼻だちのしっかりした美人だった。
 桜木君は、あい変わらず多忙な毎日を送っているらしいが、たまたま暇ができたので、久しぶりに挨拶にきてくれたもの。

 楽しい一日になった。

 桜木君一家が帰ってから、10時からNHKの「若い広場」を見た。桜木君が、本宮ひろ志を担当しているので。この番組に、本宮 ひろ志が出てくる。
 現在の日本のマンガの実態をうかがうことができた。
 女流マンガ家のなかには、竹宮 恵子のように、25歳で、大家と見られる人もめずらしくない。
 桜木君の話では、「集英社」のマンガだけで、実質、60億の売上げ。本宮 ひろ志のマンガもベストセラーで、実収、10億ぐらい。
 現在の出版状況で、純文学などははじめから比較にならないが、こうしたマンガのおかげで出版されているようなものだろう。

 「サンデー・タイムズ」の記事。

    「ジャッカルの日」で知られている作家、フレデリック・フォーサイスは、72
    年、ナイジェリア内戦で敗退した、ビアフラの人々のために、新しい国家建設の
    ため、赤道ギニア領、マシアス・エングエマ島(旧名・フェルナンド・ポー島)
    を占領する計画を立てた。この計画の実行のため、作家は10万ポンドの私財を
    投じ、武器を調達し、兵士を募った。この傭兵部隊がスペイン南部の港から出発
    する直前、スペイン政府が介入したため、計画は失敗に終わった。

 世界的な流行作家ともなると、考えることが違う。
 それにしても、10万ポンドの私財なんて、日本のマンガ家の収入の10分の1にみたない。

 私のような貧乏作家には想像もつかない話だが。

       1978年4月17日(月)
 曇り。やや肌寒い日。昨日は風が強かったが、今日は小雨がときどき降っている。

 10時半、NHK/教養、山田 卓さん、来訪。5月放送の「マリリン・モンロー」の打合せ。

 2時過ぎ、「サンケイ」、四方 繁子さんに、原稿を電話で。

 アメリカから、怪奇・恐怖小説が届いた。シスコの「アルバトロス」で買ったもの。なつかしいサン・フランシスコ。

 思いがけない電話。松山 俊太郎さん。小栗 虫太郎・解説について。
 松山さんはご自身が非常な博識家なのに、私のことを買いかぶっている。私のことを博識と思って、話の途中で、つぎつぎに思いもよらないことを話したり、私に訊いたりする。はじめ、わざと意地のわるい質問をあびせてくるのかと思ったものだが、そうではなく、私が当然知っているものと思ってお訊きになるらしい。こちらは、ただ恐縮するばかり。
 私が、たとえばコリン・ウィルソンの博識にさして驚かないのは、身近に、澁澤 龍彦、種村 季弘、そして松山 俊太郎がいるからである。
 小栗 虫太郎に関して、いろいろと訊かれたが、ごくありきたりな返答しかできなかった。申しわけない。

       1978年4月18日(火)
 曇り、のち雨。夜、9時過ぎから強風。

 1時半、水道橋。「地球堂」にフィルムの現像を依頼した。「北沢」。「チューダー朝の女性たち」。キャスリーンの部分だけを読む。ギャレット・マッティンリからの引用が多いが、それなりによくまとめてある。

 「泰文社」に寄るつもりはなかったのだが、外を通りかかったとき、主人と目があってしまった。素通りするのも気がひけて、つい立ち寄った。本を買う。
 3時、「サンリオ」の若月 敏明君に会って、仕事の話をする。アナイス・ニンの話も。あまり、アテにはならない。

 新年度、最初の講義。教室いっぱいに学生がつめかけている。女子も多い。
 いきいきした空気があふれている。中田ファミリーの顔も見えた。

 しかし、すぐに5月病にかかって、出席者は半減する。私は、小人数のほうがいい。
 例によって、いろいろな質問が出た。
 ――先生は、おいくつですか。
    女子学生が訊いた。みんなが笑った。
 ――いくつに見える?
 ――38ぐらいですか。
    また、みんなが笑った。
 ――先生は結婚なさっているんですか。
 これで、またみんなが笑った。
 この学生は、私の小説を読んだらしい。それで、私が結婚しているかどうかたしかめたかったらしい。私の結婚には道ならぬ色恋沙汰が描かれているからだろう。
 ――作家なんて、いつも妄想にふけっているキャラクター障害か、アルコール中毒だ
   からね。結婚しているかどうか、ときどき忘れちゃうんだよ。

 帰りは、いつものように、安東夫妻、工藤、中村、下沢、石井たち。及川という聴講生も誘って「丘」に行く。この及川さんは、2年前にも前期だけ私の講義を聞いたという。そういえば、いつもひっそりと後ろの席にいた女の子だった。

2019/09/22(Sun)  1814〈1977〜78年日記 61〉
 
      1978年3月16日(木)
 やはり、時差ボケで、寝る時間がおかしくなっている。バークリーに着いたときとおなじ状態。千葉に帰って、7時に寝てしまった。
 起きたのは11時。食事をして、また寝てしまった。
 甥の松村 信之がきた。春休み、姫路の両親(大三郎、純子)のところで過ごしたが、仙台に帰る途中、寄ってくれたらしい。私がアメリカから帰ってきたばかりと知って驚いていた。
 来年、東北大を卒業したあと、高校の教師になるか、大学院に残るか、どちらかきめなければならないという。
 信之にアメリカ土産と、お小遣いをやる。うれしそうな顔。

 「図書新聞」、大輪 盛登君から電話。
 アメリカから帰ったばかりで眠いというと、ひどく恐縮していた。
 種村 季弘の「カリオストロの大冒険」を中心にして、評伝を書くという問題をエッセイに。ちょうど、そんなことを考えていたので引き受ける。
 大輪 盛登君は、私がミステリーの批評をはじめた頃から、早川 淳之助君といっしょに私を応援してくれたひとり。

       1978年3月18日(土)
 まだ、睡眠時間がバラバラ。朝、4時半に眼がさめてしまった。夜明けにバークリーの丘陵地帯を歩いたことを思い出す。

 姫路から、松村 純子、かおるが上京するまで、信之は千葉に残る予定だったが、アルバイトがあるとかで、仙台に帰って行った。
 信之が帰って、30分後に、純子、かおるがきた。みんなで残念がった。
 純子は、このところ体調がよくないので、人間ドックに入って精密検査を受けるという。かおるは、来年、就職する予定。信之も、かおるも、しっかりした性格で、松村家は安泰。

 「夕刊フジ」、平野 光男さんから電話。原稿の依頼。
 ――ろそろ帰ってきたんじゃないか、と思って。アハハ。
 「れもん」、原稿。
 時差ボケなどといっていられない。しかし、バークリーのことばかり思い出す。
 夜、7時に寝てしまった。10時半に起きて、原稿を書く。1時間で眠くなる。3時に起きて、すぐに別の原稿を書く。時差のせいで、脳が混乱しているらしい。いや、からだがもとの生活に戻ろうとしているのに、精神はバークリーに残っているせいだろう。
 ジーン・クレインに似た、ほっそりした、郵便局の美人。フォーチュン・クッキーをたおやかに掌につつんで、割ってくれた中国人の娘。

 深夜なのに、ヘリコプターが上空を飛んでいる。何か起こったのか。成田空港にジェット燃料の輸送が始まって、過激派のテロを警戒しているのか。
 成田はまだ開港していないが、交通、燃料、宿泊施設など、すべての面で、問題は山積している。ホテルは三つがオープンしている。あと二つがオープンする予定。室数、2000室。しかも、このうち、1500室は航空会社のクルーや、旅行業者の客用に長期契約で抑えられている。さて、残りは、500室。ふつうの観光客の利用を見込んでも、宿泊費が高過ぎる。
 朝の便で成田を出発するとして、カウンターの手続き、通関に2時間、つまり7時までかかる。千葉からでさえ1時間かかるのだから、朝、出国する人は、6時に家を出なければならない。東京から成田に出る人は、4時起き。それがいやなら、千葉か空港近くのホテルで1泊しなければならない。不都合な話だ。
 帰国の場合も、夜の9〜10時に、到着便が集中したらどうするのか。気象条件によっては、到着が遅れた場合、東京には出られなくなる。千葉に住んでいる私の場合、タクシーを利用するからいいが、普通のツーリストにとっては、ずいぶん迷惑な話だろう。
 シスコや、バークリーの、堂々たる安ホテルを思い出す。

       1978年3月19日(日)
 亡き母、宇免の三回忌。

 百合子は、朝から、いろいろな仕度に追われている。
 私も、百合子にいわれて「そごう」で買い物。
 昨日からの雨は、10時過ぎにあがった。雨はやんだが、曇りで、うすら寒い日になった。

 湯浅 かおる(百合子の母)。
 義兄、小泉 隆、賀江夫妻。杉本 周悦。
 中田 まき代(亡父、中田 昌夫の従妹)、鷹野 昌子(西浦 勝三郎の三女。私の従妹)。西浦 満寿子(宇免の弟、勝三郎の妻)、洋子。
 高原 恒一(宇免の隣人)、鵜沼 こま(宇免の母、西浦 あいの友人)。

 親族たち、そして親しい友人たち。

 私が挨拶する。
 そのあと、会食。百合子が、メニュを考えて、千葉の老舗のレストランからわざわざ届けさせたもの。
 こういう追善の集まりには、口上書に配りもの、手拭いとか、扇面などを添えて、一同に配るのが礼儀らしいのだが、百合子はそのあたりまで気にかけているようだった。

 後年、百合子は、宇免について書いている。

    早口ではっきり物を言う人だから、きつい性格と思われがちだが、決してそうで
    はなく、さっぱりとして物事にこだわらず、裏表のない、素直な人だった。昌夫
    が亡くなったあと、埼玉県大宮の自宅に一人住まいになるので、心配した耕治と
    百合子が、千葉に来てくれるように頼むと、長く住みなれた土地やたくさんの友
    達に未練を残さず、あっさりと千葉に引っ越してくれた。百合子は宇免と、足か
    け六年ほど嫁と姑として暮らしたが、ただの一度も喧嘩したこともなく、いい思
    い出だけを残してくれた。

 みんなが、それぞれ宇免の思い出を語りあったが、楽しい雰囲気になった。

 夜、みんなが帰ったあと、昌子が残った。10時頃、鷹野君が迎えにきた。埼玉県東松山まで帰るので、鷹野君が車で迎えにきてくれたのだった。

 みんなが帰って、疲れが出たらしく眠ってしまった。こんなことは初めてだった。

       1978年3月20日(月)
 朝、4時に起きた。

 「日経」、吉沢君の電話。久しぶりに元気な声をきく。
  午後、東京に。
 できれば映画を見ようと思ったが、遅くなったので、水道橋。「地球堂」にフィルムをあずけ、その後「南窓社」に行く。岸村さん、不在。
 「集英社」、「文庫」の山崎君に会う。「シャーロック・ホームズ」の文庫化は、来年になるらしい。
 私としては、ウィリアム・サローヤンを、「コバルト文庫」に入れたいのだが。編集部の新海君に紹介された。眉目秀麗な美男子だった。
 「二見書房」に寄るつもりで歩きはじめたが、うっかりして「潮出版社」のほうに出てしまった。
 「二見書房」、長谷川君に会って、堀内社長に挨拶する。お選別を頂いたので。しばらく、アメリカの話をする。

 「山の上」。吉沢君と飲む。
 とくに、シスコで見た「スター・ウォーズ」。バークリーで見そこなった「異聞猿飛佐助」のこと。

       1978年3月21日(火)
 朝、「ユリイカ」、特集「埴谷 雄高」を読む。
 この特集に、私も短いエッセイを寄せている。「埴谷雄高は、当時の私がもっとも尊敬した一人だった」と書いたが、これは偽りではない。ただし、この尊敬は、埴谷さんの存在感に対する畏敬に根ざしたもので、埴谷さんの文学、とくに「死霊」に感動したわけではなかった。いつ終わるとも知れぬ長編を書き続けていることに圧倒されたが、その内容は私の理解のおよばぬものだった。
 埴谷さんの影響は、私に於いて、別の領域にあらわれた。「フランドル画家論抄」や、ドストエフスキー論がそれで、私の出た「テレ朝」のハンス・メムリング解説には、あきらかに「フランドル画家論抄」が響いているだろう。
 私が中世、あるいはフランドル画家に関心をもったきっかけは、じつは埴谷さんの訳にあった。その意味で、埴谷さんの存在は、私にとってありがたいものだった。

 竹内 紀吉君、安東 つとむに電話。26日に講演することをつたえた。
 ――に行ってもいいですか。
 ――けれど、大したことをしゃべるわけじゃないから。
 ――が何をお話になるのか、みんな興味津々ですよ。
 ――な話なんかないよ。アメションだもん。

       1978年3月23日(水)・
 午前中、快晴。午後、曇り。夕方から雷鳴をともなう雨。

 松村 純子、かおるは、11時半に帰った。純子は、大宮の家の処分がやっと解決したのだった。私は駅まで送ったが、これで、しばらく純子たちと会う機会もなくなる。

 帰りに、通町の岳父を訪問、帰国の挨拶。しばらくアメリカの話など。

 バークリーの大沢君に、友松 円諦、鈴木 大拙の本、4冊。エリカに、アラン・シリトー、サリンジャーなど、7冊を送る。

 武谷 祐三君が、「本郷出版社」を離れたとつたえてきた。残念。はじめから、あまり期待しなかったが、これで、「演出ノート」の出版は消えた。
 日本の出版ジャーナリズムは、エージェントがいないため、著者と編集者の暗黙の了解で本の出版がきまったりする。その編集者が、なんらかの事情で出版社を離れると、それまでの著者との約束はホゴになってしまう。こうした場合、著者の側は、「文芸家協会」に仲介してもらうとか、違約金をもらうとか、なんらかの補償があってもいいのではないか。

 仕方がない。原稿はいずれ焼き捨てることにしよう。

       1978年3月24日(木)
 NHK、「スタジオ102」。神田 日勝の絵を見た。解説、宗 左近。
 この画家の「自画像」(昭和45年)が出てきたが、私は「独立展」で見た。このときは少しショックを受けた。
 狭い部屋の壁に、新聞紙が貼りつけてある。その壁を背に、男がひとり、うずくまるようにすわって、正面をじっと凝視している。男の足もとに、フランス人形が投げ出されている。タバコの吸殻を放り込んだ紙袋、缶詰の空カン。リアリズムで描かれているが、何か荒涼とした心象風景と見えた。
 初めて見たとき、ほんものの新聞紙を貼ってあるものと見たが、実は全部、画家が自分の手で描いたものと知って驚いた。見出しから記事まで、丹念に、というか、ひたすらオブセッシヴに描いている。この執念に、この画家の魂のあげる息吹きを感じて、ただ茫然と眺めていた。
 宗 左近の解説で、神田 日勝はこの絵を遺作として出品したことを知った。この画家は、北海道の帯広近郊の農村で生まれて、絵を描きつづけ、32歳の若さで亡くなった。絶筆、「馬」は腰の部分まで描いて、未完成のまま残されている。
 この一枚の絵を見て、画家のすさまじい孤独を感じたが、その生涯については何も知らなかった。何も知らなかったほうが、純粋に画家の「自画像」として見ることができたと思う。

 1時、久しぶりに「東和」に行く。「カタストロフ」の試写。ところが、1時になっても試写が始まらない。映写室に行ってみたが、要領を得ない。試写室にもどった。私以外にも、この試写を見にきた人が3人。
 1時20分に試写が始まった。
 私のカン違いだったのか。「東和」としては、3時から試写を始める予定だったらしい。試写が終わったとき、川喜多 かしこさんが、試写室にきていた。何か手違いがあって、私たちが試写にきている、と宣伝部がご注進に及んだらしい。
 試写室の外に、淀川 長治ほか、かなり多くの人が待っていた。
 何があったのかわからずに、外に出た。

 これも久しぶりに「フォックス」に行く。
 「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)の試写。リリアン・ヘルマンの自伝の映画化。劇作家、「リリアン・ヘルマン」(ジェーン・フォンダ)は、ハード・ボイルドのミステリー作家、「ダシール・ハメット」(ジェースン・ロバーズ)と同棲している。「ハメット」は、「リリアン」をはげまして、文学的に助言したり、政治的にもナチス反対の立場をとっていた。
 「ジュリア」(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)は、「リリアン」の少女時代からの親友。ユダヤ系の富豪の娘。イギリスで医学を専攻し、ウィーンで、フロイトの精神医学を学ぶ。ウィーン滞在中に、反ファシズムの地下運動に参加している。
 モスクワの国際演劇祭に招かれた「リリアン」は、「ジュリア」の頼みで、ベルリンの反ナチの組織に運動資金を届けることになって、パリから国際列車に乗り込む。その運動資金、50000ドルをひそかにドイツに持ち込む。
 ジェーン・フォンダとヴァネッサ・レッドグレイヴが共演しているのだから、圧倒的な迫力がある。「リリアン」は、「ジュリア」と再会する。しかし、「ジュリア」は睡眠中に、ナチの秘密警察の手にかかって殺害される。

 今年の最高の映画だった。私は、リリアン・ヘルマンを訳したことがあるし、ダシール・ハメットも訳したことがある。そんなこともあって、この二人が事実上の夫婦関係だったことに関心があった。
 ヴァネッサは、父のマイケルが名優で、イギリスきってのメソッド派。それかあらぬかヴァネッサは、スタニスラフスキー直系の冷徹な演技を見せる。ジェーンほどの女優でも、舞台で鍛えたヴァネッサの前に出ると影が薄い。これは驚くべきものだった。
 「ジュリア」は、もともとジェーン・フォンダがやる予定だったらしい。フレッド・ジンネマンも、ジェーンの「ジュリア」でシナリオの改稿をつづけた。途中で、ジェーンが「リリアン」の役をやりたいといい出した。プロデューサー、リチャード・ロスは、ジェーンを「リリアン」にして、急遽、ヴァネッサ・レッドグレイヴを「ジュリア」に起用したらしい。
 ロスは、「追憶」(シドニー・ポラック監督)の共同プロデューサーだったはずで、「追憶」と「ジュリア」が、どこか似た雰囲気をもっているだろう。そのあたり、この映画を批評するポイントになる。ただし、「追憶」のバーブラ・ストライサンドは、ヴァネッサに遠く及ばないけれど。

 吉沢君ならどう見るだろうか。
 私にとっては、別の問題がある。この映画を新聞のコラムで短く紹介するのはむずかしい。いい映画を見たあと、いつもおなじことを考える。アメリカの批評家だったら、一面全部つかって、この映画を批評するだろうな。
 ルルーシュの「続・男と女」は、旧作、「男と女」の退屈なリメイクもの、「コンボイ」のサム・ペキンパーはもはや形骸だけ。「サタデイ・ナイト・フィーバー」は、「アメリカン・グラフィティー」程度の新味はあるもののただのダンス・フィーバー。そんななかで、「スター・ウォーズ」のような巨大なテクノロジーSFが登場している。「ジュリア」は、「スター・ウォーズ」に拮抗できるわずかな映画と見ていい。
 しかし、私のコラムではそこまで書けない。残念だが。

 6時、「山ノ上」。安東 つとむ、石井 秀明、鈴木 和子と会った。みんなと無事に再会できたので、「共栄堂」で食事。みんなが私の帰国を待っていたという。「弓月」で飲む。
 「弓月」でいちおう散会。お茶の水駅前で、安東 由利子、工藤 敦子、松本と会う。またまた、みんなを引き連れて、「丘」に行く。
 偶然だったが、「河出」、坂本 一亀、「光風社」、豊島さんに会った。坂本 一亀は、私の恩人のひとり。豊島さんは、豊島 与志雄先生の令息。やはり、私に好意をもってくれたひとり。女の子たちを引き連れてくり込んだので、驚いたようだった。

 千葉に戻ったとき、月蝕がはじまった。11時33分から皆既月食。

       1978年3月25日(金)
 高階 秀爾の「歴史のなかの女たち」を読む。

 池で飼っている金魚の一尾が、どうも白点病らしいことに気がついた。すぐに隔離して、クスリをつけてやったが、うまくいくかどうか。

      1978年3月26日(金)
 快晴。
 正午、竹内 紀吉君が迎えにきてくれた。司書の渋谷 哲成君、宇尾 房子さん(「日本きゃらばん」同人)が同乗していた。宇尾さんは「文芸首都」出身で、庄司 肇さんの雑誌に小説を発表している。
 茂原。竹内君の案内で、喫茶店で、コーヒーを飲みながら雑談する。宇尾さんは、私の講演に興味をもって、わざわざ聞きにきてくれたのだった。
 会場は茂原図書館。規模は小さいが、感じのいい図書館だった。

 1時半、講演。出席者は少ない。25名。私のグルーピーもふくめて。
 テーマは、谷崎 潤一郎。

 講演は、うまくいった。

 終わったあと。質問。
 老婦人が――最近、若い人の自殺が多い。これは、かつて日本の美風だった道徳の頽廃によるものではないか、という。私は、こういう意見があまり好きではない。
 私の答え。若い人の自殺率は、今後ますます増加するものと思われる。だからといって、それは道徳の頽廃によると見るわけにはいかないだろう。経済的な不況によるものかも知れないし、前途に希望がもてないと若い人が考える、何か漠然とした絶望感がひろがっているせいかも知れない。
 いつの時代でも、先行の世代は、後ろの世代に道徳の頽廃を見てきた。敗戦直後の日本の道徳の頽廃を、私たちは見てきた。それに較べれば、今の「頽廃」など多寡が知れている。
 私としては、道徳という論点よりも、自殺は自分自身に対する他殺なのであって、殺人が許されない罪である以上、若い人に「殺してはならない」という倫理を説いたほうがいい。
 そうでないかぎり、自殺は今後ますます増加するだろう、と答えた。

 つづいて、若い人が――どうすれば、外国語をマスターできるのか、という質問。
 これも、私の嫌いな質問。ほんとうは答えられない。
 ある日、「近代文学」の集まりで、平野 謙が、中村 真一郎に、
  ――きみはいいなあ。外国語ができるからなあ。
    と、いった。これは、平野さんの本心だったに違いない。
  ――フランス語なんて、かんたんに勉強できますよ。半年もあればマスターできます
    からね。
    すぐ近くにいた私は、これを聞いて、中村さんにひそかに反感を持った。こちら
    は、フランス語の動詞さえ頭に入らないのに、半年でマスターできるなどとよく
    もいえるものだ。まるで自分に語学習得の天分があると自慢しているようなもの
    ではないか。
 後年の私は、翻訳家としても仕事をつづけるようになったが、あのときの中村さんのことばは、あながち荒唐無稽なものではなかった、と思うようになっている。自分の経験に照らしても、英語など半年もあればマスターできる、と思うようになった。
 むろん、その方法論めいたものはあるけれど。

 3人目は――谷崎源氏と谷崎作品について。

 これも、即座に答えられる質問ではない。

 帰りに、竹内君が、茂原から一宮に連れていってくれた。芥川 龍之介が泊まった旅館があって、そこに記念碑が建っているという。作家が泊まっただけで、記念碑が建つのか。海に出たとき、風が立って、もう春の海だった。旅館の近くの魚屋で、タイラ貝、サザエを買う。
 帰宅したとき、安東夫妻、甲谷 正則、鈴木 和子、石井 秀明、工藤 惇子たちが待っていた。みんなが私の講演会にきてくれたのだった。つまりは、サクラということになる。期せずして、私の家に集まってくれたらしい。みんな、正月を私の家で迎えた連中ばかり。

 百合子は、私の収入が増えるに応じて、私の周囲の人々をもてなす機会が多くなった。不時の来客にはなれている。その人数によって、すぐに大まかに接待の手順をきめる。お茶だけということはない。かならず和菓子を添えて出す。ときには、かなりの出費になることもある。それでも、文句ひとついわずに、いつも笑顔で、アルコール、食事、なんでもそろえてくれる。
 冷蔵庫も3つあるので、編集者や、テレビ・クルーが入っても、困らない。
 今日は、私の買ってきたタイラ貝、サザエを料理したので、皆がうれしがって、ビールで乾杯。

 新婚当時、私たちは、たいへんな貧乏暮らしだった。
 ろくに食べるものもなくて、庭で作った赤カブやソラマメを食べながら、私の原稿を整理したり、月末、千円札一枚もなくて、百合子が実家の母に金をせびりに行ったり、いつも百合子に、肩身の狭い思いをさせたものだった。

 それでも百合子はめげなかった。

 百合子はいつも私をささえてくれた。口に出すことはなかったが、現在の私があるのは、ひとえに百合子のおかげなのである。

 今日も、私の帰国を祝う会になってしまったが、百合子は嫌な顔をみせずに、みんなをもてなしてくれた。

      1978年3月27日(土)
 午後3時、「図書新聞」、編集の見習いみたいな女の子が原稿をとりにきてくれた。
 名前を聞くのを忘れたが、短大卒。アルバイトで「図書新聞」に。
 原稿は、「カリオストロ」の評伝を中心に評伝という表現形式を論じたもの。
 コリン・ウィルソンを読む。
 「一枚の地図」、半分ばかり読む。私のエッセイも載っている。

       1978年3月28日(日)
 雨。こういう日はどうも気分がよくない。不快というのではないが、なんとなく鬱陶しい。あまり元気がないので、1時からの試写はキャンセル。

 新聞のニューズ。

 エドアール・ジャン・アンパン男爵。さる1月に、過激派によって誘拐された大富豪。
「アンパン=シュネデール財閥」の会長。40歳。
 26日夜10時、(日本時間、27日未明)、パリ・オペラ座の前で釈放された。
 犯人一味は、1700万スイス・フラン(約20億円)のランサムを要求していたが、これは犯人側に支払われてはいないという。
 パリ警視庁の発表では、犯人側にランサムをわたす交渉が成立したが、これを受取にきた5人と銃撃戦になり、犯人のひとり、アラン・カイヨル(35歳)が負傷、逮捕された。26日、ラジオを通じて、仲間に男爵の身柄を解放するよう呼びかけたため、仲間がこれに応じた、という。

 さながら、フレンチ・ノワールの世界だな。
 私は、オペラ座を思い出したが、アンパン男爵が、どのあたりで解放されたのか見当もつかない。

 3時、「CIC」で、「海流の中の島々」(フランクリン・J・シャフナー監督)を見た。ヘミングウェイだからね、見ないわけにはいかないさ。
 戦時中の西インド諸島。ドイツのUボートが出没している。その動きを警戒している画家「ハドスン」(ジョージ・C・スコット)のところに、元妻2人と、息子3人がやってくる。次男は父に対して、反抗的だが、マーリンの釣りをおしえられてから、父を理解しはじめる。皆が帰ったあと、初婚の妻(クレア・ブルーム)が長男の戦死をつたえにくる。ヘミングウェイの自伝的な作品の映画化で、ポーリーン・ファイファー、マーサ・ゲルホーンたちとヘミングウェイ自身の「関係」もかくや、と思わせる。しかし、映画としては、たいしたことはない。
 ジョージ・C・スコットは、「パットン将軍」でアカデミー賞を受けたが、それを拒否した。その気概は認めよう。しかし、スコットは、「海流の中の島々」のヘミングウェイよりも「パットン将軍」でもやっていたほうがいい。

 6時、安斉女史と会う。いろいろな企画を話す。
 大川 修司に説得されて、バレエの台本を書くことになった。これも勉強だなあ。

 この日、バークリーから送った本、10冊ずつ、朝と夕方に届いた。オークランドの「ホームズ」で買ったもの。これからしばらく、この本たちとつきあって行く。

 帰宅して、百合子から思いがけない知らせを聞いた。鈴木 武樹が亡くなったという。まさか。いそいで、夕刊のオービチュアリを読む。もう一つ、驚きが待っていた。
 三枝 康高が亡くなったという。またしても、びっくりした。丸茂 ジュンの父君である。ただし、面識はない。
 鈴木夫人に当てて弔電を打ってやりたいが、こんなに遅く、電報がとどいたら、かえって迷惑だろう。それにしても、鈴木 武樹が亡くなるとは。

       1978年3月29日(日)
 朝、鈴木 勘也君から電話。
 鈴木 武樹の訃報。
 私が「近代文学賞」を受けたとき、鈴木 武樹、鈴木 勘也両君といっしょに、赤坂のバーで、ささやかな祝宴を開いた。百合子もいっしょだった。鈴木 勘也は、私より一期、後輩。「犀」の同人。
 今は、青山学院大の事務系の仕事をしている。

 弔電。電話で弔文を送ったが、声がふるえた。

 鈴木 武樹を紹介してくれたのは小川 茂久だった。
 鈴木君は、なぜか、親しくしてくれた。彼も圭角の多い人物だったから、不器用な生きかたをしている私のことを気にかけてくれたのかも。
 著書、訳書をいつも送ってくれた。
 私が、キャスターをやっていたテレビに出てもらったこともある。

 いつの正月だったか、中村 真一郎さんのお宅に伺ったことがある。
 批評家の菅野 昭正、西尾 幹二、 作家の北 杜夫、水上 勉、その他、「秩序」や「犀」の若い人たちが多数集まっていた。私は、小川 茂久につれられて出席したのだが、この席で、鈴木 武樹と、西尾 幹二が、論争した。

 「秩序」の同人たち、とくに、菅野 昭正が、ふたりの間に入って仲裁したが、激烈な論争で、二人とも譲らなかった。
 けっきょく、西尾 幹二が席を蹴って退出したが、たまたま私の横を通り抜けようとしたとき、低い声で、
 ――もう二度と、こんなところにくるものか。
 とつぶやいた。私に向かっていったのではなく、はげしい怒りをこめて自分にいい聞かせたものらしい。そして、だれにも挨拶せずに帰って行った。

 このときの論争のテーマが何だったのか私は知らない。

 小川 茂久が鈴木 武樹を紹介してくれたのは、それから後のことだった。私は、鈴木君と親しくなったが、西尾 幹二との論争については、ついぞ話題にしたことがなかった。若い批評家どうしの論争に驚かされただけのことだったが。
 心から、ご冥福を祈る。

 今日から、東ドイツのグリム童話映画祭がある。東ドイツ文化省・後援。日比谷。
 とくに、今日は「白雪姫」を上映するので、ディズニーの「白雪姫」と比較する意味でも、見にゆくつもりだった。
 しかし、鈴木 武樹に追悼の思いをこめて外出しない。

 夜、「日経」、吉沢君に電話で送稿。

       1978年3月30日(月)
 午後、「サンケイ」。文化部、四方さんに挨拶。「夕刊フジ」、金田さんの前のデスクで書評を書く。書き終えるのを待っていたように、金田さんが私を誘ってくれた。神田駅前の店。いろいろ話をした。
 金田さんは、「サンケイ」でもトップクラスの文壇通。彼の目に、私など、何でもござれの便利屋(ファクトテム)に見えているだろう。むろん、他人がどう見ようと構わないが。
 2時半、「サンバード」で、「DONDON」の池上君に会う。校正を受けとる。
 これは、すぐには見る時間がない。
 3時、「CIC」で、「原子力潜水艦浮上せず」(デイヴィッド・グリーン監督)を見る。
 原潜「ネプチューン」が、タンカーと接触、深さ、450メートルの海底に沈む。「ゲイツ大佐」(ジョン・キャラダイン)が開発した深海潜水艇「スナーク」が、「ネプチューン」の位置を確認し、救助艇で原潜艦長(チャールトン・ヘストン)たちを無事に救出する。原題は Gray Lady down。どうも、ひっかけだなあ。

 ハイ、みなさん、よかったですねェ。(淀川 長治ふうに)。

       1978年3月31日(火)
 曇り。
 午前中、三隅 研次の「丹下左膳」を見た。
 大河内 伝次郎、高峰 三枝子。
 書こうとおもえばいくらでも書けるが、何も書かない。

 バークリーから本がつぎつぎに届いてくる。グリゴロヴィウスの「ルクレツィア・ボルジア」があった。

2019/09/08(Sun)  1813〈1977〜78年日記 60〉

         1978年3月6日(月)
 買ってきた本をつぎつぎに送っている。
 アメリカ銀行の支店(通称バンカメ)で、チョコレート色の煉瓦作りのビル。その2軒先が少し引っ込んだ路地の奥に郵便局がある。窓口は、若い娘で、ジーン・クレインに似た、ほっそりした、なかなか美形の娘がひとり。
 今朝も郵便局に行くつもりだったが、あいにく小銭がない。朝のバークリーの郵便局では、100ドル紙幣を出しても受けとらない。この時間では「バンク・オヴ・アメリカ」も開いていない。
 シャタックまで歩いて、「クロッカー・バンク」で100ドルを両替した。
 ここまできたら、いっそのこと、シスコから本を送ったほうがいい。小包を抱えて「バート」で、シヴィックセンターに。ここにも大きな郵便局がある。
 ひとつは航空便、二つを船便で。

 こんどは、エリカに、またひとりでシスコに行くとつたえた。
 エリカは、私が、シスコで若いコールガールでもひろったのではないか、と疑っているらしい。

 シャタックからバス。このバスは、シスコのミッション・ストリート、トランス・ベイ・ターミナルに着く。

 ここの「ホームズ」は、オークランドの「ホームズ」より、ずっと規模も小さい。

 そのあと、ブロードウェイに出て、「シテイライツ」に寄る。
 植草 甚一さんが喜びそうな本がある。

 夜、「UCパシフィック」で、エルンスト・ルビッチュの「アン・ブーリン」(1920年)を上映すると知って、あわてて見に行った。
 コトルバスを見たほどの感動はないが、「結婚哲学」からあとのルビッチュのサイレント映画を見ていないので、ぜひ見ておきたかった。
 ルビッチュは、1920年、メァリ・ピックフォードに招かれてハリウッドに移ったのだから、「アン・ブーリン」(1920年)はドイツで撮ったものか。
 ヒロインの「アン・ブーリン」は、いうまでもなく「一千日のアン」だから、これが見られるのはうれしかった。
 主演は、なんと、エミール・ヤニングス。「アン」はヘニー・なんとか。
 途中から、かなり退屈した。観客もせいぜい50人程度。

 この「UCパシフィック」は、映画館ではなく、「UCB」(カリフォーニア大・バークリー分校)付属の映画ライブラリーで、収容人数は、約120だが、理想的な小劇場だった。「東和」第二試写室程度のゆったりした椅子で、長時間の鑑賞も苦にならない。大学の管理下に置かれていて、運営はすべて学生にまかされている。日替わりで、収蔵作品を上映してゆくシステムだが、そのレパートリーは、毎月、パンフレットで発表される。私が2月の「異聞猿飛佐助」の上映を知ったのも、このパンフレットを読んだからだが、3月に小津 保次郎の「浮草」の上映が予告されていた。

 もう一つ。
 この「UCパシフィック」の壁面に、美術品が陳列されていて、私が通ったときには、19世紀の版画展をやっていた。
 ロートレック、ゴーギャン、ミュシャの版画が、いとも無造作に並べられている。これにも驚かされた。日本で専用の付属映画館をもっている大学はないだろう。さらに、大学自体のコレクションで、ロートレック、ゴーギャン、ミュシャほかの版画を並べられる大学はないだろうと思う。
 マリリン・モンローの死後、彼女が集めたイタリアの舞台女優、エレオノーラ・ドゥーゼの遺品を、ワシントン大学に寄贈したとつたえられたが、やはり、芸術に対する観念が、日本人とは違う。

      1978年3月7日(火)
 10時半、バークリーの郵便局に行って本を送ったあと、ドワイトウェイの角の「スープ・キチン」で朝食をとろうとしたら、食事は終わったという。ちょっと困った。
 仕方がない。ヴェトナム料理の店に行こうか。
 この店の主人が日本人で、大沢君という若者だが、すぐに食事を作ってくれた。
 英語しか話さないというので、もっぱら英語で話した。なぜ日本語を話さないのかと聞いてみた。日本語がおかしな発音になっているので、できるだけ話さないようにしているという。それだけバークリー暮らしが長いということか。
 日本語は読める。陸奥 宗光の本を読んでいるという。むずかしい本なのに。好感の持てる人だった。

 夜、「愛のコリーダ」(大島 渚監督)を見た。
 たまたま、2本立てで、「チュルキシュの悦び」というオランダ映画をやっていた。これが、なかなかいい映画だった。
 「愛のコリーダ」の途中で、観客から、しきりに失笑や罵声があがった。スクリーンに向かって、「Japanese girl can’t fuck!」とどなったやつがいる。私は、映画として、「愛のコリーダ」を駄作と見た。観客たちは、ぞろぞろ席を立って、あっという間に館内はガラ空きになった。
 大島 渚は、この映画をみずから傑作と自負していたが、ポルノとしてもまったく低いレベルの映画だった。

     1978年3月8日(水)
 朝、5時に眼がさめた。
 雨が降っている。このところ、雨が降っている。クラムのマンガを読む。
 10時頃、郵便局に行き、本を送った。

 午後は快晴。
 カメラを持ち出して、おなじアパートに住んでいる黒人の娘(8歳ぐらい)の写真を撮った。あとで送ってやるつもり。
 べンヴエニュから、ドワイトウェイ、チャニングウェイ、ここからボディッチにもどって写真を撮った。
 夜、「バート」の近く、「カマ」KAMA という中国人の店で食事。エリカにいわせると、この店はまずいという。しかし、私はこの店が気に入って、何度か寄ったことがある。
 7時過ぎ、「ACT 2」にいった。
 「コーマ」(マイケル・クライトン監督)を見た。これは、まだ試写も見ていない。
 マイケル・クライトンの病院スリラー。ボストンの病院に勤務することになった女医「スーザン」(ジュヌビェーヴ・ビジョルド)は、「ハリス」外科部長(リチャード・ウイドマーク)の病棟で、昏睡状態の患者の発生率が以上に高いことに気がつく。外科部長が臓器をとり出して、外国に売りさばいている、おそろしい真相を知った「スーザン」自身に、病院全体の魔手が伸びてくる。……
 気もちのわるいスリラーだった。こういう映画を見たときは、「あくね」に行って、小川 茂久と飲むのだが、アメリカには「あくね」のような店がない。

    1978年3月9日(木)
 「あくね」のことなどを思い出したせいか、女の夢を見た。しばらく女の肌にふれていないせいだろうか。
 アメリカにきて、日本の女の夢を見るというのは不思議だった。

 アメリカに住んでみたいと思う。バークリーに住んでみたい。アメリカでもいちばん安全な町のような気がする。バークリーのたたずまいは「いちご白書」や「卒業」の、ロケーション撮影で見ることができる。
 ただし、この町には、若い女性だけをねらう強姦魔が出没するという。バークリーは、バートの駅を中心に、南北に分割されたような恰好で、大学のある北側の地区は裕福な人たちが住む地域だが、南のダウンタウンは貧困家庭の住宅地区になっている。強姦魔は、このダウンタウンに住んでいて、もっぱら北の女たちを襲うという。
 バークリーは、この地区だけのローカルなテレビ局があって、強姦された女性がわるびれずにテレビに出て、強姦魔の特徴などをのべて、女性たちに警戒を訴えることも多い。

 バークリーの警察官は、全員女性で、学園都市らしい秩序がたもたれている。イヌはほとんどが放し飼いで、中心部の店に入る際だけ、店の前にリードをつけたイヌがつながれている。

 住むなら、バークリーがいい。

    1978年3月10日(金)・
 「フェニシアン・レストラン」に行く。
 そのあと、自然食品を栽培(むしろ、培養というべきか)している「グリーン・スプローター」という店。ここで、プラスティックの器具。
 帰りに道にこぼれている街路樹の実をひろう。千葉に戻ったら、庭に植えてみよう。

 夕方、エリカといっしょに、「UCB」に行く。
 「ビルマの竪琴」(市川 崑監督)見た。
 映画については書かない。個人的なことを書く。この映画には、私が「俳優座」の養成所で教えた生徒たちがたくさん出ている。その役者たちのことを思い出すと、なつかしさがあふれてくる。そんな私の感傷とは別に、観客の反応が心に残った。前にすわっている白人の若者が、映画の途中で肩をふるわせていた。日本人の留学生らしい女の子の2人連れも泣いていた。エリカの話では、隣りの黒人の若者も泣いていたという。
 私は、竹山 道雄がこの作品を書いた頃の「近代文学」の人たちの反応を思い出していた。

 原稿を書かない生活が続いている。なにしろ、パーティーに行くのでもないかぎり、旅行者なのだから、原稿を書くこともない。
 「バーバレラ」(ロジェ・バディム監督)を見た。もう、何度も見た映画なので、とりたてて書くこともない。
 深夜、ウィスキーを飲みながら、テレビ映画を見た。ヘレン・ヘイズ、マーナ・ロイ、シルヴィア・シドニー、ミルドレッド・ダンノック。オバアサンばかり。それでも、みんな楽しそうにハネまわっている。こういうドラマを見ると、やはり映画や舞台の女優たちの層の厚みを感じる。日本のテレビで、オバアサン4人のドラマを企画しても、すぐに却下されるだろう。だいいち、ヘレン・ヘイズ級の名女優がいない。マーナ・ロイのようにお色気を振りまく老女がいない。シルヴィア・シドニーのように、ヨタヨタしていても、イキのいい啖呵が切れるほどの女優がいない。ミルドレッド・ダンノックのように、主役は張れないが、ワキにいるだけで、主役の女優がかすんでしまうほどの存在感のある老女優がいない。
 このまま、ブロードウェイにもって行っても、半年はもつようなコメディーだった。これも、タイトルはわからない。テレビをつけたらやっていたので。こういう女優たちをつかって、「シャイヨの狂女」でも演出したら楽しいだろうな。

    1978年3月11日(土)・
 アシュビーで、フリー・マーケットがあるはずなので、エリカが車で送ってくれた。ところが、アシュビーには誰もいない。
 少し前の私なら、自分のドジに腹をたてて、それこそ不運をかこちながら帰るところだが、今の私は、すっかりアメリカに感化されている。

 エリカと別れて、「ビブリオマニア」で、本を探した。
 イーディス・パターソン・メイヤーという人の「イザベッラ・デステ」を見つけた。
 帰宅。エリカはいない。
 入浴しながら、イーディスさんの本を読みはじめた。読みはじめて、ああ、これはイケケない、と思った。この著者は、伝記、「アルフレッド・ノーベル」、カナダ/アメリカの関係史、伝記「オリヴァー・ウェンデル・ホームズ」などを書いている。
 しかし、この「イザベッラ・デステ」は、ジューリア・カートライトの名著に遠く及ばない。
 ついでにいうと、私にとって、正座して読書するのは、読書法のなかでもっとも拙劣な方法なのだ。どうすれば、いちばん効率がいいかというと、バスタブにお湯を半分ばかり入れて、両足を頭の高さにあげて浴槽の上に乗せる。いわば、半身浴で、本を片手に読む。脳の血行がスムーズになって、よく頭に入る。(と信じているだけだが。)
 劇評家のエリック・ベントリーは、入浴しながら、タイプライターで原稿を書いていたが、私の場合は、原稿用紙が濡れるので、入浴しながら原稿を書くことはない。

 入浴しながら読んだので、これ以上、イーディスさんの本の悪口は書かない。

    1978年3月12日(日)
 朝、ドワイトウェイからすぐ北に向かって歩く。
 プロスペクトからヒルサイドの付近は、落ちついた雰囲気の高級住宅地がつづく。
 バークリーで、石を投げると、ノーベル賞の受賞者に当たるといわれているが、このあたりには偉い科学者たちが住んでいるらしい。
 ヒルサイドから、すぐに山道になる。

 坂をのぼって行くと、アメリカマツの茂みにおおわれた丘が間近に見えはじめた。松なのに、空に向かって高く延びて、バークリー大学のヒンターランドになっている。
 ただの丘陵地帯なので、別にむずかしいコースではない。
 山道にさしかかってすぐ、私の眼の前に、大型犬ほどの動物があらわれた。こんなところに動物がいるとは思わなかった。その動物は、ちょっと私を見てから、さっと身をひるがえして姿を消した。
 シカの子だった。街を一歩でると、野性の鹿に出会えるのだった。

 この前歩いたコースとは別だが、エリカの部屋から見た感じでは、1時間で登れるはずだったが、道がくねくねと山腹をとり巻いているので、頂上まで1時間45分もかかった。千葉県のヘグリ郡にある山の2倍くらいの高さだろう。
 肩にさげたズダ袋から、パンを出して、朝食。

 日本に帰ったら、また登山をはじめよう。
 私の不在中、安東や、吉沢君は、山に登っているだろうか。
 大気は澄みわたって、シスコの全景がすばらしかった。

 12時15分、帰宅。

 エリカといっしょに外出。
 エリカの友人、「スイちゃん」(高橋のぶ子)のアパーに寄る。
 「スイちゃん」は、近くサンディエゴに移る、という。一瞬、「スイちゃん」(高橋のぶ子)のアパーを借りて、私ひとりで、しばらくバークリーに住んでみようか、と思った。むろん、とうてい不可能な計画だが。
 帰国して、原稿をつぎつぎに書かなければならない。

 その帰り、驚くべきことを経験した。

 エリカといっしょにエレベーターに乗った。先客がいた。背丈が高く、がっしりした体格だった。私は、その人の顔を見た。
 顔がない!
 のっぺらぼうで、目も鼻もない。そこに刻みつけたように横一文字に、口らしいものがついている。
 一瞬、恐怖が私の内面に走った。

 目はついている。細く切れた線のようになって。鼻はまったく隆起した部分がなく、平らにくずれている。唇もない。ただ、口とおぼしき部分からわずかに歯が突き出しているので、口とわかるのだった。
 小泉 八雲の短編に、すれ違った女が振り向くと、その顔がのっぺらぼうだったという名作がある。
 あの短編をそのまま現実に見たような気がした。
 エレベーターが、1階に着くまで、私はエリカのわきに立ちつくしていた。

 エリカの話では、バークリーでも、有名な「怪人」という。
 太平洋戦争で、海軍の艦艇に配属された兵士らしい。戦闘で、燃料庫か機関部に被弾して、高熱の水蒸気で顔を焼かれたのか。整形手術でもまったく復元できなかったらしい。
 「怪人」は、たまに買い物に出かける以外、外出もしないとか。
 エリカは、何度か、この人物に出会ったという。

 戦傷者として、生涯、年金の給付を受けているので、仕事は何もしていない。

 私は、いまさらながら戦争の犠牲になった人の運命を思った。

    1978年3月13日(月)
 10時、「キチン・コーナー」に寄ってみた。古沢君と英会話。

 エリカが、車でシスコの夜景を見に行くという。私は、シスコの夜景なんか見たくないといった。それよりも、「オクスフォード」で、食事をしよう、といった。
 もうじき東京に帰るのだから、娘とせめてディナーをとりたいと希望しても、父親としては当然だろう。
 こんな些細なことが、またしてもエリカとケンカする遠因になった。

 けっきょく、私が折れて、シスコの夜景を見にゆくことになった。
 ところが、エリカの車の運転なので、気が気ではない。ひどく乱暴な運転で、事故を起こさなければいいと思った。
 アシュビーまで出たとき、
 ――おい、とめてくれ。
 と、声をかけたが、エリカは車を止めなかった。
 ――とめろよ。
 ――どうして?
 ――いや、映画を見たいんだ。
 押し問答になった。
 けっきょく、私は車をおりた。しばらく歩いていると、エリカが車で追ってきた。
 また口論になった。
 こうなると、お互いにこれまでたまりにたまった鬱憤を思いきり吐き出すことになった。エリカと衝突すると、たちまち全面戦争になる。

 エリカと私がこじれた気分のまま、ベンヴェニュ(アパート)に戻っても、不快な気分が残るだけだろう。

 映画を見たいといったのは、ただの口実で、そんなことより、エリカからすぐに離れたかった。エリカの運転におそれをなしたことも事実だったが。
 今夜、見るとすればジャック・ターナーの映画だけだった。昔、名監督といわれたモーリス・トゥールヌールの息子で、日本に輸入もされないB級の恐怖映画ばかり撮っている。だから、そんな気分でホラー映画を見てもおもしろいはずはない。

 映画を見た。「プシィキャット」で、ダーティー・ムーヴィーを。

    1978年3月14日(火)
 朝、最後の小包をデューラント/テレグラフの郵便局にもって行く。

 ジーン・クレインに似た、ほっそりした美人はいなかった。
 「KAMA」に行って朝食。
 いつも愛想よくサーヴィスしてくれた中国人の娘もいなかった。ジーン・クレインに会えなかったし、中国人の美少女にも会えなかった。もうこの店にくることもない。

 シスコで、最後の買い物。たいしたものも買えない。お土産、ボロ・タイ(Bolotie)など。
 つるしのレイン・コート。これは、自分用に。
 「アルバトロス」で、「二見書房」、長谷川君のためにホラーを10冊。
 ショー・ケースに、イーディス・ウォートンの「イタリアのヴィラと庭園」の初版本が麗々しく飾ってあった。めずらしい本だが、値がわからない。聞いてみた。100ドル。少し前に見つけたら、買ったかも知れないが、今となってはあきらめるしかない。

 バークリーにもどった。
 「スイちゃん」がきてくれた。エリカといっしょに、丘陵を車で案内してくれることになった。私は、何度か登ったことがあるのだが、それは黙っていた。

 エリカが運転することになった。
 よく晴れた日。

 日曜日に登った山から二つ先のピークに出た。さらに、ワイルド・キャット・ヴァレーに向かう。遠くに小さな湖、さらに、もう一つ、それよりは大きな湖が見えた。

 オークランド。

 「ホーリー・ネームズ」の下の店(セーフウェイのある場所)に出た。去年、はじめてエリカといっしょにオークランドにきたとき、ここに立ち寄ったことを思い出した。
 ここで、落ちついた感じの店に寄って、コーヒー。

 昨日とちがって、エリカとはお互いのわだかまりがなくなっている。
 最後に、親子の対立も知らずに仲介してくれた恰好の「スイちゃん」に感謝した。

 今回のアメリカ旅行は、それなりに収穫もあった。コトルバスを見た感動。「怪人」。
 ワイルド・キャット・ヴァレー。エリカの「CACC」(カリフォーニア・芸術/工芸大学)、そしてオークランドの黒人の美少女。サクラメント。いろいろとネタを仕入れた。なんといっても、毎日、原稿に追われて、疲労困バイすることもなかった。

 「デューラント・ホテル」の前からリムジンで、国際空港に向かう。エリカは、「スイちゃん」の車で、追いかけることになった。
 リムジンに乗り合わせた日本人の若者が、あたりをはばからず、ブロークンな英語でしゃべっていた。

 8時半、税関の検査を通って、待合室に出た。しばらくしてエリカたちが、やってきた。免税店で、百合子に香水を買う。ここで注文すると、ホノルルでわたしてくれるシステムだった。
 9時、空港のカフェテリアにもどって、エリカ、「スイちゃん」といっしょに食事をした。
 10時10分。機内に入った。44G。
 10時50分、離陸。

 さよなら、バークリー。さよなら、エリカ。

      1978年3月15日(水)
 ホノルル着、2時15分。
 空港で何か買いたいと思ったが、この時間では免税店も開いていない。香水は受けとった。
 3時50分、離陸。
 隣りの乗客は、きびきびした若者だった。ダニエル君。中野に友人がいるので、彼を頼って、東京で仕事を探すという。
 朝食が出たが、あまり食べられない。
 「ベアーズ特訓中」を見た。つまらない映画。

    1978年3月16日(木)
 朝、6時12分、羽田に着陸。

 タクシーで、千葉に。

 百合子が迎えてくれた。

2019/08/04(Sun)  1812〈1977〜78年日記 59〉
 
      1978年3月1日(水)
 12時、バークリーからシスコに。

 パウェルに出て、「オクスフォード・ホテル」に泊まることにした。
 901号室。

 昼間なのに、薄暗いホテルの廊下。人影はなかった。まるで、スリラー映画そっくり。

 ホテル暮らしもわるくない。それだけアメリカの生活にもなれてきたということか。

 シャワーを浴びて、ビアー。テレビを見る。

 アカデミー賞のノミネーション。
 優秀作品賞。
 「アニー・ホール」(ウディ・アレン監督)、「グッバイ・ガール」(ハーバート・ロス監督)、「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)、「愛と喝采の日々」(ハーバート・ロス監督)

 アメリカにきて、テレビでアカデミー賞のノミネーションの発表を見て、東京で見た映画をいろいろと思い出す。なんとなく不思議な気分になる。
 オレが映画評を書いた作品が、アカデミー賞にノミネートされているなあ。それだけで、今回のアカデミー賞が、なんとなく身近なものに感じられる。
 北アルプスを歩きながら、前に登ったときは、ここでメシにしたっけ、とか、ふと、人の気配を感じて、あたりを見まわすと、若いカップルがコースをそれて、高山植物のなかで抱きあってキスしていたり。
 そんなとき、チェッ、うまくやってやがる、と舌打ちする思いと、そういえば、このコースは、Y.K.といっしょに登ったっけ、と思うと、なつかしさがひろがってくる。アカデミー賞のノミネートは、そんな思いに似ていた。

 監督賞。
 ウディ・アレン、スティーヴン・スピルバーグ「未知との遭遇」、フレッド・ジンネマン、ジョージ・ルーカス、ハーバート・ロス、「愛と喝采の日々」。

 主演女優賞。
 「愛と喝采の日々」のアン・バンクロフト。シャーリー・マクレーン。
 「ジュリア」のジェーン・フォンダ。
 「アニー・ホール」のダイアン・キートン。
 「グッバイ・ガール」のマーシャ・メースン。

 助演女優賞。
 「愛と喝采の日々」のレスリー・ブラウニー。
 「グッバイ・ガール」のクィン・カミングス。
 「未知との遭遇」のメリンダ・ディロン。
 「ジュリア」のヴァネッサ・レッドグレーヴ。
 「ミスター・グッバーを探して」のチューズデイ・ウェルド。

 ノミネートされた映画はほとんど全部見ている。(外国語映画・部門の、イスラエル映画、フランス映画、ギリシャ映画は見ていない)。「未知との遭遇」が最優秀作品にノミネートされなかったのは意外だが、他の映画も「スター・ウォーズ」に並んだのが不運だった。
 「グッバイ・ガール」は、ニール・サイモンが、夫人、マーシャ・メースンのために書いたコメディ。いい映画だが、ほかの作品に較べると小ぶりで、アカデミー賞は無理だろう。「愛と喝采の日々」よりは、「ジュリア」のほうがいい。「ハメット」をやったジェースン・ロバーズがいい。「ジュリア」のヴァネッサ・レッドグレーヴが、すばらしかった。
 単発としては、「アニー・ホール」がダークホースかも。
 どの映画が最優秀作品に選ばれるのか、女優の誰が主演女優賞をとるのか。ヴァネッサ・レッドグレーヴが、「ジュリア」をやって、最後に私たちにいたましい思いをもたらす。女優としてどれほどの苦労や精進があったのか。父が名優で、スタニスラフスキーの影響を受けたからといって、ヴァネッサの芸が出てくるわけではない。
 おなじように、「リリアン」を演じて映画にサスペンスフルな緊張をみなぎらせたジェーン・フォンダが、ヴァネッサとおなじシーンで、なぜかひるんだり、どう演じてもヴァネッサに押されていたのはなぜなのか。

 「アニー・ホール」のダイアン・キートンにしても、たしかに独特の「女」を見せていた。自分でも会心の演技を見せつけている、と思ったに違いない。しかし、自分でも最高のインスピレーションを実現したと思ったとき、それこそがウディ・アレンの「演出」だったのではないか。ウディ・アレンでなければ、あの「アニー・ホール」は存在しないだろう。とすれば、名演技とは何なのか。

 「アルバトロス」に行って、本をあさった。
 この前は思いがけない「発見」があった。
 映画のパンフレットに、「異聞猿飛佐助」の上映が出ていた。今週は、なんと「侍ニッポン」(岡本 喜八監督)と、「座頭市」(三隅 研次監督)をやっている。
 アメリカで、「座頭市」をやっているのか。驚いたなあ。
 日本映画に対する関心がひろがっている。これは喜んでいいが、どういう評価をされているのか。


        1978年3月2日(木)
 少し、冷静になってからも、アメリカで「異聞猿飛佐助」を見そこなったことが残念だった。もっと早くアメリカにきていれば、見られたかも知れない。
 今日も、私にとっては思いがけない「発見」があった。

 コトルバスの公演がある!

 この記事を見た瞬間、チケットを買うためにホテルを飛び出した。

 14丁目、ハリスン、「ホームズ」で、サンフランシスコ・オペラハウスのアドレスを聞いた。
 いろいろな思いが、私の内面につぎつぎによぎって行く。

 坂道を歩きつづけた。似たようなビルや家屋がつづいて、やがて海に向かって眺望がひろがり、サンフランシスコの大きな空の下に、淡いグリーン、ブルー、ときどきピンク、さまざまな屋根の家並みが、どこまでも続いているように見えた。

 私は、知らない通りを早足で歩いた。人の流れにさからって歩いている。自分の内面に吹きあがってくるものにうながされて歩いている。
 そして、オペラハウスの前に立った。

 私は、コトルバスのチケットをにぎりしめていた。

 もし、東京にいたら、まずどこに行くだろうか。つまらないことを考えるものだ。このときの私は、「日経」や「サンケイ」のデスクを思い出した。

 私は、コトルバスのファンなのだ。ルーマニア出身。
 マリア・カラス、レナータ・テバルディほどの歌手ではないが、レナータ・スコット、カーティア・リッチャレッリなどに比肩する存在なのである。いや、それ以上の実力をもっているシンガーなのだ。
 ニューヨークに行って、ミュージカルやオペラを見るつもりだったが、シスコに、コトルバスがきているというのは、何という僥倖だろう。

 とにかく、一度、バークリーにもどって、着替えよう。まさか、革ジャンを着て、オペラを聞きに行くわけにいかない。

      1978年3月3日(金)
 コトルバスの印象は、ひどく小柄だったこと。
 あの小柄な女性が、まさに「マルグリート」として、私の前に登場したのだった。

 東京にいたら、会う人会う人みんなに、コトルバスの舞台のすばらしさを吹聴するだろう。コトルバスの「ラ・トラヴィアータ」を見たことは、生涯の喜びになった。
 「ヴィオレッタ」のサロンで、「楽しい杯でワインを味わおう」を歌いだした瞬間から私は、コトルバスに魅了された。驚くほど小柄で、華奢なドゥミ・モンデーヌだった。

 「アルフレード」や、「ジョルジュ」、「ドウフォール男爵」、みんな、どうでもよかった。
 東京にいたら、すぐにエッセイを書いて発表するところだが、今は何も書かない。書く必要がない。
 東京にいたら、すぐに「サンケイ」の服部君か、四方さんに、エッセイを書くから、スペースをあけておいて、と連絡するところだが。

 「サンケイ」や「日経」の文化部。それほど人数は多くないが、記者たちの出入りが忙しくなって、電話で原稿の口述を受けたり、短いコメントをとったり、ときには何かのニュースが入って騒然としたり、あわただしく飛び出して行く。そんな中で、私は原稿を書く。
 これがアカデミー賞のノミネーションか何かのイヴェントだったら、吉沢君か青柳君が、私の予想を聞きにくるだろう。しかし、コトルバスの公演を知らせても、誰も関心を寄せないだろうな。

      1978年3月4日(土)
「オクスフォード」、チェックアウト。

 グレイハウンドに乗る。

 ただ、広大な平原がつづく。平原には違いないが、むしろ荒涼としている。
 バスは、ひたすら長い道路を走りつづける。バスの左右にひろがる灰色の荒野。やがて、その中を、ひとすじの川が、水面(みのも)をにぶく光らせながら流れている。地図がないので、名前もわからないが、日本なら1級河川と認定されるほどの川だった。しかし、流れていると思うのは、それが川だと思うからで、旅行者の目には実際に流れているのが見えるわけではなかった。
 このあたりに、明治初年の日本人移民が住みついたのではないだろうか。ただの荒れた平野がつづくばかりで、バスとの距離がより遠くなると、ただ灰色の不透明な風景になって離れて行く。
 アメリカの広大さを、いまさらながら思い知らされた。

 はるかな地平に向かって、空と雲と。
 アメリカは広い。そんなことはわかりきっているが、百年も昔、こんな場所に移住してきた日本人は、どういう思いでこの荒野をさすらっていたのか。

 「オールド・サクラメント」。着いてみて、荒れ果てた都会の寂しさに気がついた。
 バスを下りて、まず、ホテルをさがした。
 ホテルはバス停に近い「シャント・クレール」。名前が気に入って、ここにきめた。
 ただし、このホテルは、まったくの安宿だった。

 街を歩いても、何もない。

 こういう町に、日本人移民が住みついて、わずかな田畑を耕したり、零細な商店を経営して、少しづつ土地に馴染んでいったのだろう。私の遠縁の中田 直吉は、この地で暴漢に襲われて、殺されたという。どういう思いで、当時、僻鄒(へきすう)のサクラメントにたどり着いたのか。

 かつてはさぞや立派だったと思われる映画館があった。
 上映していたのは、「いくたびか美しく燃え」(ガイ・グリホン監督)。ジャクリーヌ・スーザンのベスト・セラー。
 映画プロデューサー、「マイク」(カーク・ダグラス)は、裕福な女性、「ディー」(アレクシス・スミス)と結婚している。娘の「ジャニュアリー」(デボラ・ラフィン)は作家の「トム」と愛しあっている。だが、「ディー」は、女優の「カルラ」(メリナ・メルクーリ)と、レズ関係。従弟(ジョージ・ハミルトン)に、「ジャニュアリー」を誘惑させ、夫の目をくらまそうとする。
 コトルバスを見たあとなので、この映画の印象は薄いものになった。映画に舞台の迫力を求めるほうがおかしいけれど。

      1978年3月5日(日)
 バークリーに戻った。

 エリカが、はげしい剣幕で
 ――どこに行ってた?
 と、私に詰問する。

 私が連絡しなかったので、バークリー警察に行って相談したという。エリカは、シスコで一人歩きをするなんて危険きわまる。強盗にぶつかって殺される旅行者だってめずらしくない。
 刑事は、私の氏名、職業を聞いて、英語は話せるのか、と聞いたらしい。エリカは、大学の教授で、英語はしゃべれる、と答えた。
 刑事は、にやにやして、あまり心配しないほうがいい、といったそうな。

 私は、いちおう旅なれているつもりだが、危険な場所には立ち寄らない。
 エリカは――たとえ、10ドル、20ドルしか持っていなくても、その10ドル、20ドルほしさに人殺しをするような連中がいる、という。それはその通りなので、こちらも反論できない。

 けっきょく、エリカがあとでバークリー警察に行って、捜索願いを撤回することになった。

 午後になってエリカも、やっと機嫌を直した。午後から、バークリーで親しくなった友だちの「エイコ」さんのところに遊びに行くという。

 テレグラフに出て、百合子のためにお土産を探した。腕輪を見つけた。気に入ったが、こんなものは日本ではアクセサリーとして使えない。そこで、指輪を買った。
 百合子には何もプレゼントしたことがない。なにしろ、結婚したとき、500円しかなかった貧乏作家で、原稿料を稼ぐためにあくせくしていた。指輪を買う余裕もなかった。
 その私が、アメリカにきて本を買いあさっているのだから、変われば変わるものだと思う。百合子に手紙を出しておこう。私の捜索願いのてんまつも。

 ハガキを書く。

 テレビ。「アウトフィット」。ロバート・デュヴァル、カレン・ブラック。テレビ・ドラマではなく、テレビ映画。(日本のVシネマだろう)
 またまた無知をさらけ出すようだが、アメリカにきてはじめて気がついた。日本では公開されないアメリカ映画が無数にある。(日本語のスーパーインポーズがついて)試写の結果、公開されない映画もあるが、そうではなくて――はじめから日本には未輸入のままアメリカだけで公開される映画が山ほどある。
 この「アウトフィット」もそのひとつ。カレン・ブラックがいい。

 テレビ映画は、英語のブラッシ・アップのつもりで見ている。

2019/07/28(Sun)  1811〈1977〜78年日記 58〉
 
        1978年2月22日(月)
 いよいよ出発の日。
 原稿はほとんど書き終えたので、気分的に落ちついていられる。
 昼、「シュメイカー・コレクション」のカタログの原稿を書く。主に、フランドル派の画家を中心に、アンドレア・デル・サルト、グィド・レニなど。1月に、「テレ朝」で、フランドル派の画家について話をしたが、それが役に立った。
 小川 茂久に原稿を。坂本 一亀にわたす原稿。これで、やっと肩の荷がおりた。
 仕度をする。百合子がついていてくれた。家を出て、池田家のあたりまで百合子が見送ってくれた。しばしの別れ。
 5時、「山ノ上」。
 「共同通信」、戸部さんに原稿。
 もう1人、安斉さんに、フランドル派の原稿をわたした。しばらく雑談。このつぎは、「ルネサンス展」を企画したいという。
 駿河台下からタクシー。

 カウンターで、ボーディングの手続き。41A。

 時間があるので、「大和」でお寿司を食べた。ほかの店が混んでいたので、「大和」を選んだわけではない。

 税関を通ったのが、9時15分。
 免税店で、「ハイライト」、1カートン。本を1冊。

 予定より10分遅れ。10時40分、離陸。

 機内食。

 映画、「ディック・アンド・ジェーン」を見た。ジェーン・フォンダ主演。
 どうも見たような映画だった。ああ、試写で見たっけ。英語だけで見たかった。
 映画を見はじめて気がついたのだが、私の席の2列前にスチュワーデスの席があって、映画のスクリーンがよく見られない。なるほど、安い席には安くする理由があるのか。
 仕方がない。眠ることにしよう。

        1978年2月22日(月)
 朝、5時。
 アナウンスメントがあって、あと2時間で、サン・フランシスコに着く。
 よく眠れなかったせいか、少し疲れていた。時差のため、アメリカ時間で正午。
 雲海を飛んでいる。ときどき強く揺れる。
 食事が出た。タン、ヌードル、スープ。あまり食欲がない。

 2時18分、サン・フランシスコ、着。

 税関はかんたんに通してくれた。

 まわりにいるのは白人ばかり。
 ああ、アメリカだなあ。
 つまらないことを考える。バスで、ダウンタウン・バス・ターミナルまで。
 1ドル40セント。

 積木のように、淡いブルーやグリーンの家並みがスロープにびっしり並んでいるのもなつかしい風景だった。

 「ベルヴュー・ホテル」は、ゲァリー/ティラーにあるので、ターミナルから歩いて行ける。中級ホテルのくせに、お高くとまっているような感じ。ただし、落ちついた雰囲気はある。
 715号室。老人のボーイにチップをやり、入浴。
 ベッドにひっくり返った。

 5時半、ドアをノックして、エリカがはいってきた。
 久しぶりに親子の対面だが、お互いに、ハグするわけでもないし、握手するわけでもない。しばらく、千葉の百合子、賀江たちの話をする。

 ――とにかく、外に出よう。

 サン・フランシスコ名物の市電に乗る。急な坂道をガタガタ走っているボギー車だった。白人、黒人、アジア系、アフリカ系、雑多な人種、みな乗り込みで、けっこう混んでいたが、吹きっさらしの風が冷たい。

 ノブ・ヒルからすぐのパウエル・ストリートと、マーケット・ストリートがぶつかるあたりがシスコの中心で、銀行、デパート、華やかなブティックなどが密集している。この広場の下に、バート(湾岸高速鉄道)のパウエル駅があるので、観光客も多い。
 サン・フランシスコ名物のケーブルカーの発着地点になっている。
 坂を下りてきたケーブルカーは、ここで方向転換するのだが、ものめずらしさに惹かれた観光客が集まって、まるでお祭りさわぎのようになる。

 ワシントン・ストリートを右折して、ハイドに入ると、ケーブルカーは、上り坂、下り坂のストリートを走るようになり、プリバートとクロスしたあたりで、突然、海が見えてくる。

 ランバートの角で眺望がひらける。
 春の遅いシスコの湾内の、海の色はまだ冷たい冬の色をたたえていた。
 遠くアルカトラスが見える。訪れる者もいない刑務所の島。
 すべてがカリフォーニアの沈黙のなかにあった。太陽の光だけが春らしいきらめきを届けてくる。
 ベイ・フリッジも美しいカーヴを見せていた。

 この季節のフィッシャーマンズ・ワーフは、落ちついているようだった。エリカは、観光客などがあまり知らない、裏通りをいろいろと知っていた。
 あまり裕福な人たちのいないさびれたホテルの区域や、それと道一つへだてたチャイナタウンの入口や、もっとずっと奥の中華料理の店なども知っていた。
 語学を習得するために通っているスクールに、中東、東南アジア、南米からきた若者がいて、いろいろな場所に住んでいる。むろん、日本人もいて、エリカは世界じゅうの若者たちと友達になっている。
 とりあえず、「フィッシャーマンズ・ワーフ」で食事ということになった。

 「フィッシャーマンズ・グロットー」に入った。
 ここも有名な店らしく、客が混んでいたが、禿げ頭のボーイが席を見つけてくれた。
 チャウダー。これが、おいしかった。井戸で水を酌む手桶に似たバケットいっぱいアサリをつめ込んである。カリフォーニア・ワイン。
 日本人なので、アサリはよく食べているのだが、とても食べきれない量だった。
 ふたりで食べて、30ドル。たいして贅沢でもないし、まずしい食事でもない。ボーイにチップ、3ドル。
 「ワーフ」から少し歩いた。途中で新聞を買う。
 チェスナットの「ACT 21」で、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)をやっている。
 せっかく、アメリカにきたのだから、記念にこの映画を見てもいい。
 タクシーで、チェスナットに行く。2ドル10セント。
 チェスナットの通りを歩いたり、「パンケーキ・ハウス」で、コーヒーを飲んで、時間をつぶす。

 「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)。
 遠くはるかな銀河の彼方。帝国の独裁の軛(くびき)をやぶろうとする「レイア姫」(キャリー・フイッシャー)は、帝国の攻撃衛星、デス・スターの機密データを入手するが、帝国軍に逮捕され、「ダース・ベーダー」に拷問される。姫の命令をうけたロボット、R2D2とC〜3POが逃走する。
 一方、「ルース・スカイウォカー」(マーク・ハミル)は、かつて銀河共和国の騎士だったオビ・ワン・ケノービ(アレック・ギネス)に会いに行く。「スカイウォカー」は、ロボットたちといっしょに、密輸船の「ハン・ソロ船長」(ハリソン・フォード)の密輸船に乗り込み、「レイア姫」を救出する。反乱軍は、「ダース・ベーダー」攻撃に向かう。
 最後に、難攻不落のデス・スター攻撃。最後の、ミサイル・ロケットと戦うシーンは迫力があった。観客が、キャーキャーいってよろこんでいる。
 「スカイウォカー」のワン・ポイント攻撃が成功する瞬間は、劇場じゅうが息をのんだ。

 ジョン・ウイリアムズの音楽がスゴい。
 私がこの作曲家の音楽を知ったのは、「億万長者と結婚する法」だった。マリリン・モンローを「研究」していたからだが、そのときからこの作曲家に注目したなどということは、まったくない。しかし、「ジェーン・エア」や「ポセイドン・アドベンチャー」なども作曲しているのだから、才能のある作曲家なのだろう、程度。
 その後、「ジョーズ」もこの作曲家と知って、はじめて、ジョン・ウイリアムズに、関心をもった。
 その後、「屋根の上のヴァイオリン弾き」、「ジョーズ」で、アカデミー賞を受けた。

 私は、別のことに注意した。「スター・ウォーズ」併映のカートゥーン(短編マンガ)だった。(タイトルはおぼえていない。)
 宇宙のどこかに、小さなジャガイモみたいな星がある。その星にロケットが飛来して、着地する。降りてきたのは、宇宙服をきたメガネの小男。
 つづいて、少し遅れてもう1台のロケットがやってきて、日本人のロケットとモメる。これが、アメリカのロケット。何かしようとする度に、日本人のロケットに先を越される。日本人は、この星の領有権を主張するために、ブリキのような旗を建てる。これが日章旗。
 最後に、アメリカ人が頭にきて、日本人をロケットごとその星から蹴おとしてしまう。めでたしめでたし。子どもたちが、キャーキャーいって拍手する。

 このマンガは、日本人に対する侮辱を描いている。
 アメリカの子どもたちが、こうした侮日的なマンガを見せられていることを知って、不快な気がした。この週だけ「スター・ウォーズ」と併映されるのではないだろう。全米で、「スター・ウォーズ」と併映されているかも知れない。
 アメリカ人の内面に、日本に対する警戒がひそんでいるということは、私たちも考えておく必要があるだろう。

 外に出たときは、もうすっかり夜になっていた。
 22番街行きのバスに乗って、乗換え、テイラー・ストリートに戻った。
 「ベルヴュー」のバーで、水割り。3ドル。
 エリカに、泊まって行くか、ときいた。
 うん、泊まってもいい、というので、部屋に戻った。エクレアを食べながら、また千葉のこと、百合子のこと、「小泉のおばチャマ」のことなど。
 映画を見たせいか、疲れた。

       1978年2月23日(火)
 朝、7時に眼がさめた。
 熟睡。気分は爽快だった。
 エリカと話しているうちに、このホテルを引き払って、バークリーに移ったほうがいい、という。
 エリカの部屋に泊めてもらえば、ホテルの費用はかからない。ただし、エリカといっしょにいれば、一度や二度は衝突して口論になる、と覚悟しておいたほうがいい。
 いろいろ話をした結果、バークリーに移ることにした。
 そうときまれば早いほうがいい。
 「ベルヴュー」、チェックアウト。40ドル85セント。

 「オクスフォード」の1階のレストランで朝食にしたかったが、あいにく、11時から営業なので、向かい側のイタリアン・レストランで、朝食。3ドル85セント。
 「オクスフォード」の2軒先、「ドルトン・ホテル」の隣りの本屋、「マクドナルド」に寄る。この前、ここにきたときは、フランシスコ・ボルジァの資料などを買った。今回は、ローラ・モンテスの資料。あまり、めぼしいものはない。「アルバトロス」にも寄りたかったが、荷物があるのであきらめる。

 コンコード行きの地下鉄(バート)に乗る。途中、マッカーサーで乗り換え。何もかも、この前の旅行とおなじなので、なつかしさ、落ちついた感じだった。
 それでも、この前はシャタック通りしか知らなかったが、今回のバークリーは、落ちついた大学の街という印象を受けた。UCB(カリフォーニア大学・バークリー分校)は、地下鉄の駅からしばらく歩く。ベンヴェヌートの通りに出る。エリカはこの通りに住んでいる。
 2階。外からガレージに入るので、実際には3階といった感じ。エレベーターはある。部屋は2LDK。細長いキッチン、トイレット、バスルーム。エリカのような留学生には手頃な物件だろう。
 エリカは、私がアメリカにくるので、室内を整理したという。壁に、浮世絵や、大きな虹の切り抜き、ボーイ・フレンドの「ケヴィン」が撮った天文台の写真などが貼ってある。エリカの描いた水彩も。
 エリカとふたりで過ごしたことはない。エリカが、アメリカで元気にすごしていることがうれしかった。

 午後、ひとりでバークリーを歩く。(あとで、これが日課になった。)

 バークリーは美しい街で、ほとんどの街路に、さまざまな樹々、花々が植えられている。朴、木蓮、名前がわからないのだが、センリョウ、マンリョウに似た実をつけている木々、アメリカスギ、たくさんの植物が、この街に落ちついた雰囲気をもたらしている
 「ヒルガス」地区で、サクラに見紛う花(おそらく、アンズかアマンド)が、咲きみだれていた。それが今、風に散っている。

 私は、雑草のなかを横切り、わずかな灌木をわけて、展望台とおぼしき場所まで歩いた。灌木のあいだから、このあたりの、小高い丘陵からのゆるやかな起伏が見渡せる。
 ベンヴェヌートの通りが、ひっそりと息づいている。
 雲の切れ目から、陽射しがバークリーのアップタウンに照りつけて、大学の建物が金色に光った。あんなに小さな建物のなかに、ノーベル賞の学者たちがひしめいていると思うと、何か非現実めいたことに思えた。

 エリカの話。土曜日は、テレグラフの通りで、若い人たちの手作りの露店が並ぶという。それを見に行った。その露店の一つ、革バンドを売っている。バックルの一つが、スコルピオだったので、革バンドにつけてもらって買った。
 サッター通り、UCBの構内から出て、すぐのストリート。大学の教科書、参考書を売っている本屋で、スタンフォード大・教授、ヘンリー・アンスガー・ケリー著、ヘンリー8世の離婚を扱った資料。近くの書店、「コデイー」で、カリフォーニア大、J・J・セドリスブルック著、「ヘンリー8世」。そのあと、「シェイクスピア」で、メキシコ征服に関する資料など。
 今回、私としては、ニューヨークで、芝居とミュージカルを見るつもりだったが、エリカが泊めてくれるのなら、バークリーで、いろいろと資料を買うことにしてもいいと思った。
 エリカのアパートに帰って、すぐに本の荷作り。みんな、船便で送ることにする。
 時差ボケで、昼過ぎになると眠くなる。

 夕方、シスコに出るつもりでアパートを出たが、ドワイト・ウエイで下りたところに古書店があるので、寄ってみた。なんのことはない。昼間、立ち寄った「シェイクスピア」だった。たいして期待しなかったのだが、ヒレア・ベロックの評伝、「ウルジー」を見つけた。

 また別の古書展を見つけたので、寄ってみた。ここでは、クレメンテ・フュゼロの「ボルジア家」を見つけた。そればかりか、グレゴロヴィウスの「ルクレツィア・ボルジア」も見つけた。29ドル。

       2018年2月26日(日)晴、曇り
 朝、眼がさめたのが5時。まだ、からだがなれないせいか、こんな時間に眼がさめてしまう。エリカは隣りの部屋で眠っている。
 エリカを起こしたくないので、昨日、買ったグレゴロヴィウスを読む。途中で眠ってしまった。起きたのは11時半。

 エリカが、フリー・マーケットにつれて行くというので、ジーンズに着替えてバスに乗った。オークランドから、トンネルを越して、アラメダのドライヴイン・シアター。ここで、いろいろな人ががらくたを並べて売っている。日本の骨董市のようなもの。
 帰りに、オークランドで、「ウィンザー・カナディアン」というウイスキーを買った。8ドル65セント。雑誌、「ハスラー」、タバコを2カートン。これで2Oドル。
 バークリーは、町の条例でアルコール類の販売が禁止されている。パブのような店もないし、レストランでも酒類はいっさい出さない。だから、当地の左党は、市外で買ってくる。持ち込みは禁止されていないので。

 アメリカでは、毎日が「発見」の連続だが――
 UCBのパンフで、私の小説の映画、「異聞猿飛佐助」(篠田 正浩監督)をやっていることを「発見」した。え、マジかよ。驚きがあった。

 「THE SAMURAI SPY」by MASAHIRO SHINODA

 まさか、アメリカで「異聞猿飛佐助」を上映しているとは思わなかった。
 私自身、この「異聞猿飛佐助」は、公開直前に、「松竹」の試写室で見ただけだった。「異聞猿飛佐助」を撮ったあと、篠田 正浩は「松竹」と対立して、やがて、「松竹」を離れた。その後、「異聞猿飛佐助」は、日本では二度と上映されることがなかった。

 ところが、この映画は1週間前に上映されたのだった。
 惜しいことをした。残念。
 アメリカにきたばかりで、いきなりパンチを食ったような気がした。もっとも、私が残念がっても仕方がないが。

      2018年2月27日(月)晴、曇り
 昨日より早く眼がさめた。

 ベンヴェニュの北に、低い丘陵がつづいている。UCB(バークリー)からつづいている雑木林と、緩やかに傾斜した谷間から、細い道が大学付属の原子力研究所のほうにつづいている。その山道は、アメリカ松と、徐々に高くなってゆく山肌を見せて、行く手でおおきく弧を描いてまがり、さらに先の高原にむかっている。
 規模からいえば、高尾山から御岳に向かうハンキング・コースに近い。アメリカにきてまで山登りをするのは酔狂だが、この丘陵地帯を見てから、どうしても登ってみようと思った。

 太陽がまだ登っていない。東から北に伸びた丘陵に、低い雲がひしめいている。しかし、雨になりそうな雲ではなかった。
 旅行中なので、登山靴ではなかったが、往復たかだか1.2時間の散歩なので、革靴でも歩けるだろうと判断した。

 ゆるやかな山道。
 水分を吸収した草の緑が、まぶしいほどあざやかだった。日本の雑草と違ってどこかたけだけしい感じで、昇る朝日を反射して、美しいオパール色をみせる。ポール・グリーンの芝居のタイトルを思い出した。「昇る太陽に跪づけ」。
 こんなタイトルを連想するのも、何かを見て、すぐに英語を思いうかべるおかしな習慣のせいだろう。
 山道も、日本の低い山のコースと違って赤い色だった。
 山肌に精気がみなぎって、この丘全体が、かがやいている。
 私は、バークリー背後の丘陵がつぎつぎに変貌してゆく姿に、胸の高鳴りを抑えることができなかった。このまま、昇る太陽に跪づいて、カリフォーニアの大自然に溶け込んでしまいたい。
 ただし、高尚なことを考えたわけではない。
 おにぎりを作って、もってくればよかった。

 帰りに、松ボックリをひろった。これも、日本の松ボックリと違って、三倍ほども大きい。これを日本に持ち帰ろうか。

      2018年2月28日(火)晴れ。
 バークリーの郵便局。
 ここの窓口は、どうかすると人の行列が外の路地にずらりと並ぶこともある。9時頃がピークらしい。
 10時半になると、閑散として、局員がのんびりしゃべっている。
 一個だけ航空便にするつもりだったが、うっかりして二個とも航空便にしてしまった。35ドル。
 いつも2,3人、女性が受付けにいるが、黒人の女は、ひどく権高に応対する。ほかに、長髪で、いくらかスガ目の若い男。もう1人は、30代、制服をきっちり着こなして、レイバーンをかけた、ややトウの立ったプレイボーイ。
 「ロゴス」で、アレッティーノ、ベネデット・クローチェを見つけた。「モー」で、バピーニ。イタリア系の学生が読んだものだろうか。

 明日、またバークリーから船便で送ることになる。

2019/07/21(Sun)  1810〈1977〜78年日記 57〉
 
        1978年2月16日(木) 。
 成田空港の上空には、常時、乱気流があって、着陸の際、機体がはげしく揺れるなど、安全性に問題があるという。
 空港の滑走路、4000メートルが、ほぼ南北に延びていて、その日の風向きによって、一方からの向かい風で発進する。冬は北風。乱気流の影響をもっとも強く受けるのは南側からの着陸の場合という。
 新設空港が成田にきまったとき、用地に関して、当時の自民党の有力者たちが利権がらみで動いた。成田ときまったとき、パイロットから気象条件がわるいという指摘があったらしい。今頃になって問題になっている。

 ムハメッド・アリがスピンクスに敗れた。

 10年も前のこと、ヴェトナム戦争で召集されたムハメッド・アリは、戦争反対を表明し、徴兵を忌避した。そのため、全米コミッションからタイトルを剥奪されたばかりか、試合に出ることも妨害された。その結果、2年間もリングから追放されていた。
 選手としての全盛期に、試合に出られなかったムハメッド・アリに対する制裁は、実質的には人種差別だった。
 その後、ムハメッド・アリは復活して、74年、タイトル奪還に成功した。私は、ムハメッド・アリの傲岸不遜なキャラクターが好きではなかったが、それでも、彼のボクシングはずいぶん見てきた。今回は、スピンクスという選手を知らなかったため、たぶんムハメッド・アリが勝つと思って試合を見なかった。
 失敗したなあ。

        1978年2月17日(金) 。
 3時、「CIC」で、「恐怖の報酬」(ウィリアム・フリードキン監督)を見た。
 いうまでもなく、クルーゾーの「恐怖の報酬」(53年)のリメイク。製作費は、フリードキン映画のほうが、はるかに大きいだろう。
 油田で火災が発生したが、消火の手段がない。300マイル離れた製油所から、トラックで消火用のニトログリセリンを現場にはこぶことになる。
 食い詰めた男たちが、金につられて、ニトログリセリンの輸送に応募する。
 オリジナルでは、イヴ・モンタン、シャルル・ヴァネル、フォルコ・ルリ、ピーター・ヴァン・ダイク。それぞれ強烈な個性の俳優たちがドライヴァーを演じていた。
 フリードキンの映画では、ロイ・シャイダー、フランシスコ・ラバルたちが演じたが、まるでB級アクション映画の俳優たちにしか見えない。監督の力量が違うと、こうも低俗な映画しか作れないのか、と感心する。
 映画が終わって、最後のクレジットに、れいれいしく、「アンリ・ジョルジュ・クルーゾオにささぐ」と出てきた。おもわず、失笑した。
 フリードキンとしては、先人の仕事に敬意を表したつもりだろうが、わるい冗談にしか見えない。

 吉沢君が、最近のつかこうへいの芝居について話してくれた。「ひもの話2」と「出発」(俳優座劇場)。つかこうへいが田中 邦衛を使っているそうな。クセのある役者だが、つかこうへいなら、うまく動かしてるんだろう?
 ――そうでもないみたいです。なかなかいうことを聞かないらしくて。
 ――見に行けばよかったな。
 芝居の入りはいいらしい。

        1978年2月18日(金)
 パスポートを受領した。

 午後から、小説。

 10時から、「夜の蝶」(吉村 公三郎監督)を見た。
 京 マチ子、山本 富士子主演。「松竹」の伝統を守りながら、良質な風俗劇として評判になった映画。銀座のバーが描かれているが、今では、どこの土地にもある程度の内装で、昭和の高度経済成長の変化が見られる。当時、銀座のバーは200軒。
 数寄屋橋、尾張町の風景が出てくるが、車の往来も少ないし、ネオンサインもわびしい。

        1978年2月20日(日) 。
2時近く、地震。震度/3程度。
 震源地、宮城県沖、震度/6.8。仙台、盛岡など、震度/4。仙台では、重傷者、1人。東京、銚子、震度/3。

 大阪の大手プレハブ・メイカー、「永大産業」が合板部門と信用不安のため倒産し、更生法を申請した。負債総額、1800億円で、50年8月の「興人」の倒産に匹敵するできごとらしい。
 これまで、「大和銀行」、「協調融資銀行」が支援をつづけてきたが、ここにきて見放した。その背後に何があるのか。
 大蔵省、日銀などは、恐慌を回避するためには企業の倒産もやむを得ないと判断したらしい。

        1978年2月21日(月)
 さすがに、疲労している。

 「ガリバー」、三浦君から電話があったが、原稿は書けそうもない。はじめて、ことわった。
 この前、アメリカに行ったときは、オスカー・ワイルドを訳していたが、半分だけ内藤 三津子さんにわたして、あとはアメリカで、毎日訳したっけ。

 1時、河合君に会った。意外に時間がかかったため、約束の2時半に、「阪急」の都築君に会えなかった。
 3時15分、航空券を受けとる。
 5時半、「山ノ上」。本田 喜昭さんに、原稿をわたす。「二見書房」、長谷川君が、社長、堀内 俊宏さんからの餞別を届けてくれた。ありがたく頂戴した。
 吉沢君を待たせて、その場で原稿を書く。
 杉崎 和子女史がきた。
 長谷川君、吉沢君も、みんな顔なじみ。

 杉崎さんは、ケイト・ショパンの「めざめ」にサインして贈ってくれた。杉崎さんとしては、はじめての翻訳。
 長谷川君、吉沢君と別れて、杉崎さんと、三崎町に向かった。
 「平和亭」で食事。杉崎さんは、背水の陣のつもりで、アメリカの大学で講義する決心らしい。ヘンリー・ミラーにインタヴューする予定。
 いろいろな話題が出た。杉崎さんは、私が、少年時代に批評家として登場して、翻訳家としてもベストセラーを出しつづけ、演出家としても仕事をつづけ、作家としても認められている。すべて順風満帆に見えるという。
 私は驚いた。現実の私は、挫折ばかりくり返してきた。批評家としては、大衆文学に足を踏み込んだために、純文学系の批評を書く機会がない。翻訳家としても、ミステリーの翻訳をしたために、純文学系の作家の翻訳の依頼はない。演出家としては、一度も失敗しなかったが、役者たちの内紛で劇団を解散したため、劇場費だけでなく、美術、照明費、一部の俳優、女優たちに出演料の支払い、とにかくひとりで負債を引き受けた。いそいで小説2本を書いて、この印税で穴埋めした。作家としても、ほんとうに書きたいものは書けず、注文をこなしているポットボイラー。大学の講師をつとめているが、お鳥目は、スズメの涙。
 ――作家の敵は何だと思いますか。
 ――さあ、わかりません。何でしょうか。
    杉崎さんが私を見る。
 ――酒と税金です。


        1978年2月22日(月)
 午後、「小泉のおばチャマ」がきてくれた。
 私たちにとっては、小泉 賀江は恩人のひとり。貧乏作家の私をいつも応援してくれたのは小泉 賀江だった。結婚当初、住む場所もなかった私たちに、一戸建ての平家を貸してくれたのも賀江だったし、百合子が肩身の狭い思いをしないですむように心くばりをしてくれた。
 賀江は、アメリカ行きに何かお餞別をくれるという。いちおう辞退したが、エリカにも何かおみやげを、という。
 百合子といっしょに「そごう」に行く。
 コート、ズボン、下着など。「小泉のおばチャマ」のおかげで、どうやら、私の赤ゲット旅行の仕度がととのった。
 留守中、エリカから電話。こちらからかけた。
 養命酒をもってきてほしい、という。エリカは、私に似て小柄なので、アメリカではいつも子ども扱いらしい。養命酒を飲んで、少し肥りたいという。

2019/07/14(Sun)  1809〈1977〜78年日記 56〉
 
        1978年2月1日(水)
 一度、映画の試写を見そびれると、なかなか見るチャンスがない。吉沢君から何度も連絡をうけていた「真夜中の向う側」(チャールズ・ジャロット監督)も、「ボビー・デアフィールド」(シドニー・ポラック監督)も、なかなか見られない。
 3時、「ワーナー」で、「ボビー・デアフィールド」を見た。 エリヒ・マリア・ルマルクの原作、シドニー・ポラックの演出なので、期待はしたのだが。
 フォーミュラ・ワンのチャンピオン・レーサー、「ボビー」(アル・パチーノ)が、事故を起こした友人をスイスの療養所に見舞う。ここで、不思議な女、「リリアン」(マルト・ケラー)に声をかけられる。翌日、「リリアン」はミラーノに帰る「ボビー」の車に同乗する。
 マルト・ケラーは「ブラック・サンデー」で見たとき、大柄で、魅力もあって、しっかりした演技力のある女優と見えたが、この映画ではどうやらミス・キャスト。ルマルクが描こうとしたミステリアスな魅力はない。たぶん、「凱旋門」(ルイス・マイルストーン監督/1948年)のイングリッド・バーグマンが、ルマルクのヒロインのプロトタイプだろうと思うのだが。
 F1レースの緊張と、フィレンツェや、コモ湖の静寂な風景のコントラスト。はじめは、浮薄なflirt に見える「ボビー」と「リリアン」の、背後に迫ってくる、ぬきさしならぬ孤独な翳り。ルマルクのテーマだろう。
 「ボビー」と同棲している「リディア」(アニー・デュプレ)は、前作、「花のスタヴィスキー」で、ジャン・ポール・ベルモンドと共演したが、じつに典雅な美貌の女優だった。この映画では、アニー・デュプレとマルト・ケラーを入れ換えたほうがよかった。そのあたりシドニー・ポラックも考えたに違いないが、女優の差し換えはしなかった。そのあたりに興味がある。暇があったら、そのあたりを調べたいところだが。

 6時、「山ノ上」で、大川 修司と。

 「あくね」に行く。

        1978年2月2日(木)
 竹内 紀吉君が、わざわざ国会図書館から借り出してくれた小酒井不木全集の第一巻を読む。
 この巻は、殺人論、科学より見たる犯罪と探偵、毒と毒殺の3部からなっている。いずれも大正期に書かれたものだが、現在でも基本的な資料としての価値を失っていない。
 ミステリー作家は、こうした先人の残した研究を読むほうがいい。
 現代の薬理学のレベルからすればもの足りないところはあるにしても、小酒井 不木がどんなに熱心に毒物を研究していたか感動するだろう。

 私は、小酒井 不木を読んで、ブランヴィリエ侯爵夫人について書いてみたいと思いはじめている。

        1978年2月3日(金)
 「ガリヴァー」の原稿を書く。
 5時半、「山ノ上」。「集英社」、永田 仁志君。熱心な編集者で、何とかして私に何か書かせようとしている。私としても彼の熱意に応えたいのだが。4月から、なんとか原稿をわたすことにする。
 「ガリヴァー」、三浦君に原稿をわたす。すぐに、こちらは次の仕事をきめた。
 7時、飯田橋の東京大神宮で、村永 大和君の「ビニールハウスの獣たち」の出版記念会。こうした出版記念会には、ほとんど出ないのだが、村永 大和君は私のクラスで講義を聞いてくれたひとり。
 盛会だった。それはいいのだが、加藤 守雄が祝辞をのべている間、歌詠みとおぼしい女どもが、ベシャクシャしゃべりつづけていた。さすがに司会者がたしなめたが、歌人という連中、とくに、短歌雑誌に投稿するオバサンたちの低俗なことに驚かされた。
 飯島 耕一さんを見かけたので、挨拶する。村永君に祝意を述べて退散する。

 寒い。「あくね」に寄って、小川 茂久と話をした。

        1978年2月4日(土)
 ヨーロッパ。水銀で汚染されたオレンジが市場に出回っている。西ドイツでは、シュレスウィヒホルシュタイン、ヘッセン、バーテンビュルテンベルグ、バイエルン、西ベルリンの各州で、汚染されたオレンジが発見された。
 アメリカ国務省は、この事件をパレスチナ・テロリストの犯行と見て、きわめて卑劣なテロ行為と非難した。

 午後、「タヒチの男」(ジャン・ポール・ベルモンド主演)を見た。仕事をする気にならないので。
 ジャン・ポール・ベルモンドを主役にして、1348年のペストの災厄を背景に、マキャヴェッリの喜劇、「クリーツィア」を撮ったらおもしろいだろうなあ。フィレンツェはこの恐るべき疫病で、人口が三分の一まで減少したと推定されている。その中で、もっとも被害が多かったのは、最下層の労働者、織工たちという。ジャン・ポール・ベルモンドは、生き残った織工たちをひきいて……
 監督は? フェデリコ・フェリーニがいい。
 女優は? アニー・デュプレーだな。レスリー・キャロンか、フランソワーズ・アルヌール。

        1978年2月5日(日)
 午前中、「メディチ家」のノート。

 ドウソンの「中世キリスト教と文化」。ロスの「ユダヤ人の歴史」。山田 稔の「スカトロジア」。私は山田 稔という人に興味をもっている。「VIKING」の同人だが、関西ではなく、東京の文学者たちと交流したほうがいい。

 夜、「個人生活」を見た。
 ほんの1場面だが、アラン・ドロンの母親役で、マドレーヌ・オズレイが出ている。ルイ・ジュヴェの「恋人」だった女優。すっかり、オバアサンになっている。

  ――マドレーヌ・オズレイ Madeleine Ozeray
    1910年、ベルギー、ブイヨン・シュル・スモア生まれ。早くから舞台女優を
    めざし、ブリュッセルで、コンセルヴァトワールの生徒になり、首席で卒業。デ
    ュパルク劇場で初舞台。レイモン・ルーローの劇団に参加。パリに「青年の病気」
    で巡演。ルイ・ジュヴェに認められ、「アテネ座」に入った。数々の名舞台に
    出演した。戦時中は、パリを脱出、南アメリカを巡業したが、ルイ・ジュヴェと
    別れた。戦後は、舞台に復帰できず、映画に出ていた。
    映画は、「ある夜の若い娘」でデビュー。「リリオム」(1934年)、「罪と
    罰」(35年)、「旅路の果て」(39年)、「追想」(75年)など。

 マドレーヌの回想、「いついつまでも、ムッシュー・ジュヴェ」を読んだとき、この女優さんのことが気になった。おもしろい、というか、あらゆる意味で、興味ある女優。

        1978年2月6日(月)
 別府、マラソンで、宗 茂(旭化成)が、2時間9分5.4の日本最高記録で、優勝した。世界歴代2位。弟の宗 猛(旭化成)も、2時間12分48秒で、この大会、2位。モスクワ・オリンピックに向けて、快記録が生まれた。

 今日、東京に出かけたかったのだが、明日、総武線が順法闘争に入るので、予定を変更した。
 午後、小川 茂久から電話。今日、総武線が運休のおそれがあって、私が東京に出るかどうかたしかめたかったのかと思った。そうではなく、船山 馨の本の批評の依頼だった。なんだ、そんなことか。「弓月」で飲みながら、話せばすむのに。
 坂本 一亀(かずき)が、私を名さしで、小川に頼んできたという。
 ――そうかあ。一亀(いっき)さんの頼みじゃ、断れねえや。
 小川は、ケッケッケッと笑った。

 「二見」、長谷川君に電話。印税の件。
 池上君の電話。校正は、3月20日頃。よかった。旅行から戻って、校正を見ればいい。
 渡辺さんから、小説のタイトルの件。考えてない。書くのも忘れていた。

 この日、「メディチ家」、ノート。

        1978年2月7日(火)
 総武線は順法闘争に入ったので、フォックスの「ターニング・ポイント」を見るのはあきらめた。
 「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見書房」の長谷川君と会う。「フォックス」に行っても間に合わない。「東和」に行く。
 「ボーイズ・ボーイズ」(ドン・コスカレリ監督)をもう一度見ることになってしまった。長谷川君の話では、「二見書房」が翻訳権をとったという。偶然だが、長谷川君にとってはこの試写を見られて好都合だったことになる。

 3時半、「阪急交通」の都築君に会う。安い航空会社にきめた。なにしろ、貧乏作家だから安い飛行機を選ばなければならない。「交通公社」では、22万1千円。こちらの方がずっと安い。都築君に感謝している。
 6時、「山ノ上」。
 「マリア」と会う。久しぶりだった。

 ――「いかに美しい丘陵の曲線も、女性のその下に性器のある陰部の曲線ほど美しくはない」。

 ゲーテ。ただし、ゲーテが、いつ、何処でこんなことをいったのか知らない。ノートしておく。

        1978年2月8日(水)
 「阪急交通」の都築君から電話。パスポートの期限をたしかめてほしい、という。すぐに調べたところ、意外にも去年いっぱいで切れている。
 いそいで、戸籍抄本、住民票を用意して「宇佐美」で写真を撮った。
 通町、「大百堂」に寄って、義母、湯浅 かおるに挨拶。ついでに、アメリカのエリカに電話をかけて、24日、シスコ着にきめた。
 ホテルも、ハイヤット・リージェンシーではなく、格下のベル・ヴューに変更する。

 夜、「昼顔」(ルイス・ブニュエル監督)を見た。前に見たときは、素晴らしい傑作に見えたのだが、意外につまらない。幻想が重ねられているのだが、ヒロインの「ベル・ド・ジュール」(カトリーヌ・ドヌーヴ)の内面の説明になっていない。あるいは、ただの説明で、浅薄な心理学めいた解説に終わっている。

        1978年2月9日(木)
 寒い日。
 パスポートの申請に行く。面倒だが、仕方がない。

 「木曜スペシャル」で、ハリウッド・スターのサーカスを見た。アメリカの建国2OO年の記念イヴェント。いろいろなスターたちが、マジックや曲芸を演じている。司会は、ライザ・ミネッリ。
 私が驚嘆したのは、アニー・デュプレの空中ブランコだった。私の好きな女優。つい最近、「ボビー・デアフィールド」を見たばかりなので、この女優の美しさ(ナタリー・ドロンに似ている)が心に残っているが、むずかしい空中ブランコをやりぬいたので、感嘆した。

 ピーター・フォンダが、クラウディア・カルディナーレと組んで、ボックス・マジック。クラウディアが立ったまま、ボックスに入って、片手、片足の先を穴から出す。ピーターが、そのボックスに、大きなナイフをグサグサ刺し込む。しかも、ボックスの胴の部分を、外してしまう。胴抜きマジックというのか。クラウディアは、頭の部分と、腰から下の部分だけになってしまう。三つにわかれたボックスをもとのようにもどす。と、そのボックスから、にこやかな笑みをうかべたクラウディア・カルディナーレが出てくる。これは大受けだった。

 デヴィッド・ジャンセンが、リンダ・ウォーターと組んで、ナイフ投げ。

 カレン・ブラックが、誰かと組んでマジックをやった。カレンがベッドに横になる。
 そのまま宙に浮く。カヴァーをかけられる。そのカヴァーをとると、カレンの姿は一瞬で消えている。よくあるマジックだが、このあとのトウィストがいい。大きなガラスのケースが舞台に押し出される。そのケースの中には何もない。これに、カヴァーをかける。さっと、カヴァーが宙を舞う。と、カレンが、ガラスのケースの中に入っている。
 これもウケた。

 そのあと、ジェーン・バーキンが、ローラースケートの曲芸をやったが、彼女は緊張と恐怖に顔をひきつらせていた。足がふるえている。見ている私まで緊張した。

        1978年2月10日(金)
 「サンケイ」本紙にエッセイ。「週刊サンケイ」に書評。

 この前、文化部の四方 繁子さんのデスクに寄ったとき、偶然、山谷 えり子に会った。放送ジャーナリスト、山谷 親平のお嬢さん。「サンケイ」、婦人面で原稿を書いている。私は、女子大在学中の頃の彼女と知りあった。まさか、「サンケイ」のデスクで会うとは思わなかった。

 アンパン・シュネデール事件に関して。
 イヴ・モンタンがパリ警視庁の尋問を受けた。むろん、容疑者としてではない。
 撮影のないときは、週に2、3度、ポーカーをやったという。
 アンパン事件は、迷宮入りの感じか濃くなって、警視庁は、男爵が出入りした高級カジノとその常連たち、富裕層の12名から、解決の手がかりがつかもうとしたらしい。
 イヴ・モンタンは、犯人たちを「卑劣きわまる輩(やから)」と非難した。

 「山ノ上」。「マリア」が待っていた。デート。

        1978年2月11日(土)
 ちょっと元気がない。
 「メディチ家」ノート。全力をあげてこういう仕事をしていると、ほかの原稿を書く余裕がなくなる。

        1978年2月13日(月)
 午前中、「共同通信」、戸部さん。ちょうど、原稿を書いている途中だったので、少し待ってもらう。

 戸部さんが帰ったあと、すぐに小説を書きはじめる。2本、書く予定なので。
 アメリカ行きが迫っているので、原稿に追われている。

        1978年2月14日(火)
 「ユナイト」の試写を見る予定だったが、小説、2本目の残り。
 2時、「二見書房」、長谷川君、「淡路書房」の渡辺さんに、新橋の「アート・コーヒー」で会う約束をした。渡辺さんに原稿をわたす。

 長谷川君といっしょに、「CIC」に行く。
 「テレフォン」(ドン・シーゲル監督)を見る。
 ソヴィエトは、アメリカに51人のスパイを送り込んでいる。電話で、特定の言葉を話したときは、破壊活動をするようにプログラミングされている。
 KGBの「ダルチムスキー」(ドナルド・プレゼンス)がひそかにアメリカに入国、破壊活動をはじめる。デタント時代に、そうした行動が明るみにでれば、アメリカの感情に影響する。そこで、KGBの「ボルゾフ少佐」(チャールズ・ブロンソン)が、「ダルチムスキー」殺害のため、アメリカに潜入する。

 都築 道夫が、若い女性同伴できていた。お互いにかるく会釈しただけ。

 長谷川君と、「帝国ホテル」の喫茶室で話す。
 5時半、「山ノ上」。「ユリイカ」の若い編集者(名前、失念)感じのいい人だった。1時間で、原稿を書くと約束した。帰ってもらう。6時半に原稿をわたした。
 石川君と会う。「バラライカ」で食事。
 「あくね」。谷長 茂さんと飲む。(ゲオルギューの「25時」の翻訳者。)3月に、フランスに行く予定という。

        1978年2月15日(水)晴。
 昨日、私の不在中に電話をかけてきた編集者、田中君。私の講義をきいたという。電話で、原稿の依頼。締切りを聞いてから引き受けた。
 本田 喜昭さんから電話。これも、締切りを聞いてから引き受けた。出発までには書けるだろう。

 雪が降ってきた。

2019/07/7(Sun)  1808〈1977年日記 55〉
 

         1978年1月24日(火)
 塚本 邦雄のエッセイ。田歌の異本にふれて、
 「異本とはダブル・イメージ、トリプル・イメージをもたらしてくれる巫覡(ふげき)にほかならぬ」という。

    若い者の立ち会いと香の濡れ色は見よいものやれ、香の濡れ色はな紅梅は濡れて
    見事や女性は濡れて踊るぞ

 これが、広島の田歌では、最後の「女性は濡れて踊るぞ」が「女性は濡れて劣るぞ」となっているそうな。わずか一字の違いで、意味が変わってしまう。この田歌から、塚本邦雄は、べージュに近い香色を思い描き、紅梅には劣るが濡れ手も踊りやまぬ女を連想して楽しい、という。
 私は、塚本 邦雄と違うことをイメージするが、ここには書かない。

 1時、中央図書館に行って、また松本 清張を調べた。その場で、原稿を書く。
 5時半、「山ノ上」。「至文堂」の金澄君に原稿をわたす。「NP出版」の内田君にも。もうひとり、鈴木君を待ったが、こなかった。
 「弓月」で、小川 茂久、岡崎 康一と会う。岡崎君は、この春、ロンドン留学がきまっている。
 いいご機嫌で、「あくね」に移る。

         1978年1月26日(木)
 「日経ショッピング」、「公明新聞」のコラム。
 水道橋。「地球堂」に寄って、パネルを。すぐに「山ノ上」に。

 「ショッピング」、秋吉君。「公明」、名前を失念した。「映画ファン」のアルバイトの女の子。みんなに原稿をわたす。
 「小鍛冶」で、岡田と。外で待っていると、彼女が外に出ようとする姿が見えた。

 「テアトル・エコー」。
 ジョン・ボウエンの「トレヴァー」。1968年初演。「コーヒー色のレース」(1幕)と一緒に上演された。この二つのドラマは、基本的におなじ装置を使って、同じ俳優が演じることを想定しているのだが、「テアトル・エコー」は、「トレヴァー」だけ。
 ロンドン。ヴィクトリア朝の建物がアパートになっている。
 最上階に、「ジェーン」(安田 恵美子)、「セアラ」(森沢 早苗)が住んでいる。たまたま、「セアラ」の両親がロンドン観光のついでに、娘に会いにくる。両親は、「セアラ」が若い男と婚約して、すでに同棲していると思っている。実際は、そんなこともないため、話の辻褄をあわせるため、「セアラ」はパブで知りあった若い役者に、「トレヴァー」という架空のフィアンセの役をやらせようとする。
 そこまではよかったが、「ジェーン」の両親もロンドンに出てきたついでに、娘の婚約者に会いたいというので、こんどは「ジェーン」があわてる。
 「セアラ」の両親がきている。「トレヴァー」を紹介したばかりのところに、「ジェーン」の両親が押しかけてきたため、苦し紛れに「ジェーン」も「トレヴァー」を婚約者と紹介してしまう。このため、話がおかしくなって、つぎつぎに混乱が起きてしまう。

 要するに、「キプロク喜劇」だが、イギリスの風俗喜劇らしい、際どいエロティシズム満載、いささか悪趣味なくすぐり。笑った。
 ジョン・ボウエンは、1924年生まれ。私より、3歳上。
 出演者は、新人を起用しているが、やはりヘタ。私は、「新劇場」の女優たちを思いうかべた。なつかしい女の子たち。

 岡田をつれて、恵比寿駅前の炉端焼きで、食事。

 恵比寿は、思い出の深い町。Y.Kと。

      1978年1月27日(金)
 新聞記事から。

 カリフォーニア、サンタ・バーバラ。白血病に苦しみ、死期を悟った7歳の少年が、看病している母親に頼んで、生命維持装置の酸素ボンベのコックを閉じてもらって、安楽死をとげた。
 この少年は、ブラジルの外交官、クラウディオ・デ・ムーラ・カストロ夫妻の息子、エドワルド少年。昨年から白血病を発症した。みずからの死期が近いと知って、
 ――ぼくはとても苦しい。死んで天国に行けば、この痛みと苦しみは消える。僕は、
   8月12日、7歳の誕生日までは生きられるように神さまに祈った。誕生日のあ
   と、1週間ぐらいには死にたい。
 という遺書を書いた。
 それから4カ月以上も、酸素マスクをつけながら生きたエドワルド少年は、今年の元日、母に向かって、
 ――ママ、酸素を切って。もう、いらないから。
 と訴えた。
 カストロ夫人は、
 ――わたしは、酸素ボンベのコックを閉じました。あの子は、わたしの腕をつかみ、
   顔をほころばせて、「イッツ・タイム」とつぶやき、そのまま逝きました。
 と語った。

 この記事を読んで、胸を打たれた。
 暗然たる思いと、同時に、エドワルド少年の優しさに涙した。
 霜山 徳爾(上智大教授)が、コメントしている。
 「7歳の少年が安楽死をするというケースは、初めて聞くことで、ただ驚くばかりだ。まだ、7歳では死の概念もない。子供にとって、それが死に到る病とは考えないのがふつうだ」
 という。
 しかし、そうだろうか。7歳には7歳の死の概念があるのではないか。私のような者でも、8歳(満7歳)のとき<死にたい>と思ったことがある。今でも、そのときの状況は心から離れない。そのときの私に、私なりの死の概念がなかったのだろうか。

          1978年1月29日(土)
 レオン・ユリスの「QB Z」という映画を見た。
 超大作。上映時間、6時間。ストーリーを要約しておく。

 ポーランドの強制収容所に入れられた医師が、収容者の医療に当たっているが、ナチスの生体実験に加担し、ユダヤ人の去勢手術をしたという疑惑を持たれている。この医師は、戦後、イギリスに亡命して、後にサーの称号を与えられている。
 これが、メイン・プロット。

 もう一つは――ユダヤ人として育った作家。映画のシナリオでも、アカデミー賞を2度も得た作家が、父の死で、ユダヤ人としての自覚をもち、大作をかく。この作品のなかで、ナチスの強制収容所で去勢手術に当たった医師の名をあげ、名誉棄損で訴えられる。
 法廷で、この強制収容所で何があったのか、はげしい論争がくり広げられる。
 ここまでの上映が、第二部まで。(「第三部」の上映は、29日。)
 出演者が、多数。
 例えば、レスリー・キャロン。はじめは、強制収容所で医師に協力する看護婦だが、「戦後」は老婆になっている。リー・レミックは、作家に恋をする上流夫人、「戦後」は、裁判に協力する貴族の未亡人、というふうに。この「作家」が、レオン・ユリスということになる。

 夜、「チップス先生 さようなら」を見た。テレンス・ラティガンの脚色。
 ブリット(イギリス人)の堅苦しい性格、そのうしろ側に隠されている、地味ながら、ヒューマンな心ばえ。ピーター・オトゥールは、才能、容姿、演技、どれをとっても秀抜で、こういう俳優こそ名優といっていい。
 午後、柴田 裕、悦子夫妻がきてくれた。
 2月に仙台に出張するので、作並(温泉)に泊まるという。近く、悦子さんの友人が、米子で結婚する。裕君が米子まで、悦子さんを送って行って、その夜は、倉敷で泊まるという。
 幸福そうな二人を見ていると、こちらまで幸福になる。

 原 耕平君から、電話。遅ればせながら新年の挨拶。彼も、私たちが月下氷人をつとめた一人。

             1978年1月30日(月)
 ずっと、エドワルド少年のことが胸を離れない。

 深谷 和子(学芸大・助教授)という人が、エッセイを書いている。

 この安楽死について、テーマは二つある、という。

 一つは、安楽死の是非論。これについては、日本では結論がでていない、として論じない。
 もう一つは、(かりに安楽死を認めたとしても)、子どもたちにこうした重大な決定をまかせていいのかどうか。

 この先生は、子どもの臨床心理学の立場から、幼い子どもたちにとっての死の概念とそれをめぐる判断の問題に入る。私などにも納得できる明快な論旨だった。

    しかし通常の自殺とエドアルド坊やの自殺(安楽死)とは話はまた別であろう。
    子どもの判断(決定)とくに生命の尊厳にかかわるような重大事についての判断
    が、おとなと同じくらいに尊重されるべきだとするならば、三歳の子どもに喫煙
    や飲酒だって時には認めなければならなくなる。
    しかしこの場合重要なのは、おそらくそれが「子どもが望んだから母親がコック
    を閉じた」というような単純な状況だったとは考えられない点だ。そこにいたる、
    病に対する二人の戦いには、第三者の想像を絶するものがあったに違いない。
    そしてあの日、「コックを閉じて」と坊やが言った時、同時に母親の判断もそこ
    にあったのだろう。
    それにしても、七歳の子どもの最後の望みが死であり、親としてもはやそれしか
    贈る物を持ち合わせなかったということ――それはわたしたちおとなの胸に、
    永遠につきささったままの悲しみであろう。

 私は、七歳の子どもの最後の望みが死であるような小説を書く作家ではない。書こうと思ったところで、書けるはずもない。だが、母親がコックを閉じたとき、顔をほころばせて、「イッツ・タイム」とつぶやき、そのまま逝った少年のことを考えることはできる。
 エドワルド少年のことを考えることで、自分の内部に何が起きるか、それはわからないが、そのときの私に何かあたらしいものをもたらさないといえるだろうか。

 「ロータス」。本田 喜昭さんの紹介で、雑誌の編集者、渡辺 康雄さんに会う。三流雑誌だが、渡辺さんの人柄がよかった。小説を書く約束をした。
 「日経」に行く。「未知との遭遇」(スティーヴン・スピルバーグ監督)の試写がある。今日は、吉沢君は別行動らしい。試写は川本さんが行くことになったらしく、「日経」の車で「有楽座」に行く。

「未知との遭遇」については、「日経」以外にも、エッセイを書く予定。ここには書かない。エドアルド坊やの自殺と、この映画の幼い少年の姿が重なってくる。

 「有楽座」は、たいへんな混雑だった。長い行列ができている。新聞各紙が、つぎつぎに乗りつけてくる。川本さんが先に下りて、ドアを開けてくれたので、恐縮した。まるで、VIP扱いだった。放送人の木島 則夫が、行列のなかから、こっちを見ていた。この試写に誰か有名人がきたのか、たしかめようとしたらしい。
 「コロンビア」の宣伝部が総出で、招待客の応対をしている。
 新聞記者たちは、すぐに劇場の中に入ってゆくので、私も首尾よくもぐり込んだ。映画批評家たちも、前の席に集まっている。
 久しぶりで、劇場に興奮した気分が渦を巻いている。

 スティーヴン・スピルバーグの来日が噂されていたが、スピルバーグはこなかった。

            1978年1月31日(火)
 「自由国民」、田岡さんから、督促。申しわけない。昨夜、スピルバーグの映画の試写を見たので、書けなかったともいえないし。
 「レモン」も督促。
 杉崎女史から電話。
 ――もう、(日本に)いらっしゃらないか、と思って電話したんです。
 ――まだ、動きがとれないんです。
 ――先生は、いつもお忙しすぎるのよ。
 ――いや、才能がないから、原稿が書けないんですよ。
 杉崎女史は、9月、ロサンジェルスの大学に招聘されて、日本文学の講義をするとのこと。
 竹内 紀吉君が、小酒井 不木を届けてくれた。さっそく拝読。引例は豊富だが、残念ながらそれほど充実した内容ではなかった。小酒井先生を貶めるつもりはない。あの時代に、これほどのことを試みた小酒井 不木に深い敬意をおぼえた。

 夕方、義母、湯浅 かおる、来訪。百合子と三人で、夜食をともにする。そのあと、百合子が送って行った。戻ってきた百合子は、太郎たちと麻雀。私は原稿を書く。

 武谷君と電話で、「演出ノート」の出版をきめた。

 パリ。ヨーロッパ有数の富豪、エドワール・ジャン・アンパン男爵が過激派に誘拐されて、1週間になる。
 この事件に関心はない。しかし、アンパン男爵が、16区アヴェニュ・フォッシュ33番地のマンションに住んでいると知って、にわかに興味がわいた。私が訪問したジャン・ラウロ博士の自宅が、すぐ近くにある。ラウロ博士は、戦時中は、海軍中佐で、「戦後」はドゴール大統領の歯の主治医で、レジョン・ドヌールを受けている。私は、岳父、湯浅 泰仁が、歯科医師会の副会長だったため、ラウロ博士夫妻が来日したとき、通訳をつとめた。
 私がフランスに行ったとき、ラウロ邸を表敬訪問したが、住所がアヴェニュ・フォッシュ30番地だった。アヴェニュ・フォッシュは、パリでも最高級の住宅地で、パルク・モンソォの近く。私はモーパッサンの胸像を仰ぎ見ながら、永井 荷風もこの胸像を仰ぎ見たのか、と思うと、いささか感慨をもよおしたことを思い出す。
 アンパン男爵の名は、日本人にはおかしい響きだが、Empain と書く。アンパン=シュネデール財閥の当主。アンパン男爵のランサムは、史上最高の25〜50億フランといわれている。

 もうひとつ。
 ダミアの訃報。
 「暗い日曜日」はもっていたはずなので、原稿を書いたら、探してみよう。

 あとでダミアを聞いた。シャンソンのコンピレーションで、ついでにリュシエンヌ・ボワイエ、イヴェット・ジロー、コラ・ヴォケール、エディト・ピアフも聞いた。
 なつかしいパリの歌姫たち。過ぎ去った時代の。

2019/06/30(Sun)  1807〈1977年日記 54〉
 

         1978年1月17日(火)
 昨日、「日本ジャーナル」の原稿を書いたため、疲れている。
 今日は、内山歯科に行くつもりだったが、これも中止。
 3時に、試写を見るつもりだったが、これもやめた。
 5時半、「山ノ上」で、大川 修司に会う。「闘牛」の「演出ノート」を作るための準備。大川は、舞台監督をやってくれたが、きわめて有能だった。
 6時、菅沼がきてくれたので、「ジャーナル」の池上君に渡す原稿をあずける。
 大川君と「平和亭」に行く。「徳恵大曲」を飲む。
 その後、「鶴八」で、日本酒を。大川は酒豪で、いくら飲んでも酔わない。
 「あくね」に寄って、先日の借りを返す。

         1978年1月18日(水)
 雪が降った。

 松波郵便局から原稿を送る。

 「中世の職人たち」を読んだ。
 これから読むもの。「フィレンツェの流浪者」、「NRF小説集」。

         1978年1月19日(木)
 午後、県立中央図書館に行く。司書の渋谷(しぶたに)君に助けてもらって、松本 清張を調べた。この作家の年譜がない。仕方がない。「松本清張の世界」(「文春」)を借りた。そのまま、東京に。
 「日経」。青柳 潤一君に原稿をわたした。吉沢君は不在。試写だろうと思う。
 「山ノ上」で、内田君に会う。かつて、学生として私の講義を聞いた人だが、いまは、PR誌の編集者。私は、大学で講義を聞いてくれた編集者の依頼は、かならずアクセプトしている。私に原稿を頼んでくるのだから、きっと何か事情があってせっぱ詰まっているのだろうと考えるから。

 「東京新聞」の「海外文化の潮流」というコラム。引用しておく。

    政治に対する黙従ないしは麻痺感覚が広がるにつれて、作家のなかにもはっきり
    と区別できる立場が目立ってきた。一つは、倦怠と挫折のなかで酒と女に耽溺し、
    希望のない日常を茶化し、読者にマゾ的な享楽をあたえるポルノ的通俗小説の
    台頭である。P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルなどの若手作家が
    矢継早に登場して、苦悩を一時的に忘れさせてくれる「ベッドのうえの眠り薬」
    を提供していると。

 もう一方の立場を代表するのは、ケニヤ文学界の大御所、グギ・オ・ジオンゴ(1938年生まれ)である、とつづく。
 これを書いた人は、ロマン・ロランなどを訳している立命館大学の助教授。
 失笑した。きっとまじめな方なのだろう。ご自分が間違ったことを書いていることに、まったく気がついていない。

 ケニヤ文学の「現在」に「P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルなどの若手作家が矢継早に登場した」などという事実はない。そもそも、P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルは、ケニヤ人ではない。しかも、「若手作家」どころか、いずれも老練な、いまや「大家」といってもいいほどの存在なのだ。
 P・チェーニイは、もう30年以上も前に登場しているし、J・H・チェイスは、「ミス・ブランディッシュの蘭」で日本でもよく知られている。
 そして、グギ・オ・ジオンゴを「ケニヤ文学界の大御所」と呼ぶのも、どうかと思う。まだ、やっと40代に入ったばかりの作家なのだから。わが国の場合でいえば、菊地 寛が「文壇の大御所」と呼ばれるようになったのは、昭和に入ってからと見ていい。たとえば、「卍」を書いた谷崎 潤一郎は40代に入ったばかりで「文壇の大御所」と呼ばれたろうか。


         1978年1月20日(金)
 「二見書房」、長谷川君、来訪。
 高校生、大学生向きの「英語・学習本」の件。え、冗談だろ?
 ――いいえ、本気でお願いしています。
 ――それじゃ、池田君の企画だな、きっと。
 長谷川君の話では、あくまで高校生、大学生向きだが、若いサラリーマンも関心をもつような「英語入門」を期待しているという。一応、教科書ふうな構成だが、テキストは、市販のポーノグラフィーで、訳例をつける。
 ――そんな教科書があったら、オレが読みたいよ。
 できるだけ早く、「二見書房」に行く約束をした。

 夜、「イブの総て」(ジョゼフ・L・マンキウィッツ監督/1950年)を見た。
 もう、何度も見ている映画だが、今回は、マリリンをよく見ることにした。
 やはり、「発見」があった。ここには書かないが。

         1978年1月21日(土)
 今朝、私の出た「ハンス・メムリンク」を見た。百合子もいっしょに。

 ――そんなにわるいデキじゃなかったわ。
 テレビで「ハンス・メムリンク」を見た百合子がいった。

 この一年、私は混迷してきた。何か書きたい。そう思いながら、何を書いていいか、わからない。書くべきことはいちおう見えていながら、準備に手間どっている。ロココにまで、目くばりをしていた。
 百合子は、そういう私を見ても何もいわなかった。ただ、私が苦しんでいたことを、誰よりも知っている。
 風邪だって、今年は、私が先にひいてしまった。インフルエンザが大流行している。先週だけで、児童、生徒の患者数、13万を越えたらしい。昨年、流行したB香港型よりも、今年のA香港型は、いっきにひろがって、猛威をふるう。
 そればかりか、これとは別の、新型ソ連風邪が拡大しているらしい。

 夕方、百合子と一緒に「柳生一族の陰謀」を見に行く。

 錦之助のセリフの拙劣なこと。驚くより、あきれた。百合子がいうには――ひと昔前の、市川 右太衛門、片岡 千恵蔵のディクションとおなじだが、時代の変化で、錦之助の場合、セリフのディクションがひどくこっけいな感じになる。
 ――要するに、歌舞伎役者のセリフまわしが、いまの映画にあわなくなっているって
ことかしら。
  ――昔の、小太夫、芝鶴、扇雀が、スクリーンでしゃべっているようなものだよ。
   本人は、その滑稽さにまったく気がついていない。
  ――監督さんは気がついていないのかしら。
  ――深作は、錦之助のセリフについては何も「演出」しなかったんだろう。なにしろ
    大スターだから、セリフを直すなんて、おそれ多くて、監督だってできない。は
    じめからわかっているさ。だから、ワキは、新劇のベテランで固めた。みんな、
    錦之助の芝居なんか、はじめから相手にしていないんだよ。
 ――誰か錦之助に教えてやればいいのに。
 ――これからも、自分のディクションのひどさに気がつかずに、ああいう芝居を続け
    て行くんだろうな。どこの撮影所だって、スターさんはそんなものだよ。

        1978年1月23日(金)
 「オブザーヴァー」の記事。

 サウジアラビア王家にいる3000人の王女のひとり、「ミシャ」王女、23歳は、ベイルート留学中に、平民の青年と恋仲になった。昨年の夏、これが本国につたわり、帰国を命じられた。この若者は、サウジアラビアの駐ベイルート大使の従弟ともいう。
 「ミシャ」王女は、帰国後、父親と同年代の王族の一人と結婚するように命じられた。王女は、あきらめきれず、その秋、髪を短くきって男装して、ジェッダ空港から、恋人と共に密出国しようとしたが逮捕された。
 「ミシャ」の祖父、ムハマド・ビン・アブドル・アジス王子は、ハリド国王の実弟。王女は、祖父に、恋人の命だけは助けてほしいと嘆願したが、退けられた。
 ハリド国王は、死刑の命令書の署名を拒否し、ふたりの最終処分は、ムハマド王子の判断にまかせた、という。
 「ミシャ」王女は、家名をけがし、道ならぬ恋に走ったとして、ジッダの市場で銃殺され、恋人は首を刎ねられた。

 「事実」だけを記載しておく。

2019/06/15(Sat)  1806〈1977年日記 53〉
 

         1977年1月10日(火)
 風が強く、寒い日。

 1時、「東和」で、「ボーイズ・ボーイズ」(ドン・コスカレリ監督)を見た。
 「ケニー」(ダン・マッキャン)は、仲間の「ダグ」、「シャーマン」と遊んでいる。彼の悩みは、愛犬の「ボビー」の病気と、ワルの「ジョニー」にいじめられること。愛犬は、獣医の手で、安楽死される。残ったのは、「ジョニー」との対決。
 どこでも見かける地方都市の日常の、ローティーンの少年たち。
 しかし、この街の背景に、死が翳りを落としている。愛しているイヌを、獣医の手で安楽死させるシーン。死んだような街を、ただ歩いている老人。この映画には、ヴェトナム戦争後の、しらじらとしたアメリカが露呈している。
 ドン・コスカレリは、23歳。製作、脚本、撮影、編集、何もかも自分でやったらしい。ときどきでてくるアンファン・テリブルのひとり。問題は――彼がこのまま10年、20年と、映画の仕事をつづけていけるかどうか。

 六本木に行く。「テレ朝」のプロデューサー、小島 閑さん、チーフの戸田さんに会う。正直にフランドル派について、ほとんど知らないとつたえた。ふたりも予期していたらしい。メムリンクのドキュメンタリをみせてもらった。
 キリスト教初期に殉教した聖女を中心にした構成を考えているらしい。

 六本木は、私にとってはなつかしい街である。「俳優座」の養成所の講師をしていたから。私の愛した「アルクメーヌ」はどうしているだろう。「シュザンヌ」は? そして、「ブランチ」は、どこに行ってしまったのか。
 せっかく六本木にきたので、本をあさったが、欲しい本もなかった。

 寒い日。
 スズキ シン一の個展(東銀座)を見に行きたかったが、凍えそうなのであきらめた。六本木で陶器の人形を買う。
 「山の上」で食事。
 このホテルも、私にとっては青春の一部。若い頃、このホテルの前を通ると、カンヅメになった作家たちが出入りしていた。高見 順、山本 健吉、平林 たい子たち。
 いつか、このホテルで仕事をするもの書きになりたい、と思ってきた。その私が、今では、毎日のようにこのホテルに立ち寄っている。私の仕事の大半は「山の上」で書いたものばかり。
 夜、「弓月」。安東夫妻、工藤 惇子、鈴木 和子、石井 秀明、菅沼 珠代たち。
 みんなと別れて「あくね」。
 小川 茂久と。

         1977年1月12日(木)
 「共同通信」、戸部さんの原稿を書いていた。戸部さんに原稿をわたしてほっとしたところに、「テレビ朝日」の撮影班がきた。スタッフが多い。これを見た戸部さんは、私を売れっ子作家とカン違いしたらしい。他社の編集者がつめかけているし、私の指定する場所に、つぎからつぎに編集者がくるので。
 戸部さんは撮影を見ていたかったらしいが、撮影のスタッフが多いので、あわてて帰った。
 「テレビ朝日」の戸田さんが私に質問する。これに私が答える形式。
 なんとか恰好はついた。
 撮影班が帰ったのは、4時近く。
 6時頃、友人の飯島君、来訪。1月1日に、母堂が亡くなられたという。
 飯島家は、代々、医家。飯島君は、「大映」の脚本部に入ったが、1本も映画化されないまま退職。その後は、高等遊民のように暮らしている。
 飯島家は、千葉の名家なので、葬儀はたいへんだったらしい。

         1977年1月13日(金)
 出かける仕度をしているとき、「自由国民社」の田岡さんから電話。至急、お目にかかりたいという。こういう場合、誰か有名人に依頼していた原稿をスッポかされて、急遽、代役を立てなければならなくなった、そこで、中田 耕治を思い出したということに違いない。
 私は、12時半に、新橋で、中村 継男と会う約束がある。こういう場合、連絡のとりようがない。

 特急。12時35分、新橋着。
「ナイル」で「自由国民社」の田岡さんと会う。原稿、2本。やっぱり、そういうことか。引き受ける。田岡さんは、ほっとしたようだった。私を、そんなに多忙とは見ていないらしい。
 ――これから、どちらに?
 ――銀座で、映画を見るつもりです。
 田岡さんの原稿を引き受けて、すくに「アート・コーヒー」で、中村 継男とあって、試写室に行く予定だった。しかし、田岡さんと会ったため、「ワーナー」の試写に遅れた。これは残念だった。見たかったのは、「ボビー・ディアフィールド」(シドニー・ポラック監督)。アル・パチーノ、マルト・ケラー。私のご贔屓、アニー・デュプレーが出ているので、ぜひ見たかったのだが、あきらめた。
 中村君をつれて、画廊めぐり。林 宏樹という写真家の個展がよかった。少し遅い食事をとる。
 3時から、「東和」第二試写室で、「白夜」(ロベール・ブレッソン監督)を見た。むろん、中村君もいっしょに。中村君は映画のタイトルも知らずに試写を見たので、映画よりも、有名な作家や映画批評家がつめかけている試写室の雰囲気に感動したらしい。
 6時、「山ノ上」で、武谷 祐三君と会う。長編の打合せ。中村君が帰ったあと、菅沼がきた。
 そのあと、菅沼を連れて、「あくね」に行く。小川 茂久と会う。
 ――お、今夜は別な女の子とごいっしょか。
 ――山おんなだよ。
 小川はケッケッケッと笑う。
 私が、しょっちゅう違う女の子をつれて、「あくね」や「弓月」に姿を見せるので、みんなが私を「女好き」と見ている。中には、私がつれて歩いている女の子と「タンドル・コネサンス」(get into her pants)と見るやつがいる。それも、ひとりではなく、複数。
 ある集まりで、私が10人ばかりの女の子といっしょに話をしていると、しばらく見ていた新聞記者が、私に寄ってきて、耳もとで、
  ――みんなとヤッたんですか?
 と訊いた。何のことだろう? 私が、けげんな顔をしていると、
  ――だから、この女性たち、全部をモノにしたんですか?
 思わず笑ってしまった。まるで、ドンファンではないか。誰ひとり口説いたこともないのに。

 私には、いつも女性に対する親しみ(アフェクション)がある。そういう女たちを、いつも「恋人」と呼ぶことにしていた。エロティックな関心がないとはいわない。もともと「俳優座」の養成所や、幾つかの劇団で、若い女優たち、あるいは、演出部、美術、音楽、衣装係の女性たちに囲まれて過ごしてきた。私のアフェクションは、身辺にいつも協力者として女性を配置する習性というか、いつも、たくさんの女性をはべらせていたせいかも知れない。

 帰宅。もう、映画に食傷しているのに、テレビで、「天国への階段」を見てしまった。ディヴィッド・ニーヴン、キム・スタンリー。
 若い頃に、この映画を見た。今、この映画を見ることは、自分の青春時代を見ることにほかならない。
 内村 直也先生に、この映画の話をして、ぜひ見に行ってください、とすすめた。この映画を見た内村さんは、大きな刺激を受けたらしい。その後、私がすすめた映画はかならず見るようになった。思い出のひとつ。

         1977年1月14日(土)
 昨日、「あくね」に行く前に、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとってきた。Y.K.と山に登ったときのスナップ。去年の暮れ、書斎を片づけたとき、未現像のカラーフィルムを見つけた。暮れだったので現像に出さなかった。
 韮崎からサワラ池に出て、山荘に一泊。翌日、甘利から御所山に登ったときのもので、山頂付近で撮ったショット。
 Y.K.は、汗を拭くために、タオルを胸に当てた。
 ――誰も見てやしないよ。シャツを脱いで、からだを拭いたほうがいい。
 Y.K.は、わるびれず、シャツを脱いでからだを拭いた。

         1978年1月15日(日)
 昨日、伊豆で地震。死者、10名。行方不明者、15名。
 今日も、各地で余震が続いている。暖かい日で、夕方から風が出てきた。何の根拠もないのだが、地震があったらいやだな、と思う。地震予知連絡会が、東大地震研究所で、緊急会議を開き、今後の見通しなどを検討した。それによると、14日のマグニチュード7の地震以後続いている余震は、大島の西の近海付近、伊豆半島中部でも発生し、二つのグループにわかれているという。
 マグニチュード7の地震では、余震域は直径30〜40キロに及ぶという。伊豆では群発地震がしばしば起きているが、今回の震源は5キロ前後の直下型なので、最大震度 5の強震が起きるおそれがある、という結論だった。

 私は地震に対する警戒心が強い。父母から、関東大震災の恐怖を聞かされてそだったせいもある。戦災も何度も体験しているので、地震や火事に対する警戒心が強いのだろう。

2019/05/18(Sat)  1805〈1977年日記 52〉
 
         1978年1月3日(火)
 午後、めずらしく相野 毅君が年始にきた。

 私は、初仕事。
 5時、東京に。7時、NHKに着到(ちゃくとう)。
 和泉 雅子、根本 順吉のおふたりと対談。和泉 雅子は美しい女優さんだった。占いに興味があるという。私は、しばらくルネサンスの占星術の話などをする。
 和泉 雅子。若い女優にありがちな、相手の関心をたえず自分に向けさせようとするコケットリ−が見える。

 鼎談の録音を終えた。スタジオの控室で自分の出番を待っている若い女優が、帰ろうとする私に目礼した。森下 愛子という若い女優だった。和泉 雅子と私の対談をずっと聞いていたらしい。

 最近の「プレイボ−イ」の読者(60000人)の投票。「キュ−ト・ガ−ル・ベスト」――ドラマ女優、モデルをふくめて、人気のある女の子のベスト。

 1位、木之内 みどり。2位、夏目 雅子、3位が、同数で、ピンク・レディ−、山口 百恵。以下、10位まで――アグネス・ラム、岡田 奈々、竹下 景子、秋吉 久美子、岩崎 宏美、榊原 郁恵。

 和泉 雅子は、トップ・30にも入っていない。
 森下 愛子は、29位。この女優は、最近、「プレイボ−イ」や「ドンドン」の、タイツ姿のフォトで人気が出はじめている。

 NHKのタクシ−で帰宅するはずだったが、首都高速が凍結したという。仕方がない。お茶の水に出る。総武線も、幕張=新検見川間で故障が起きたとか。お茶の水は混雑してごった返していた。
「山ノ上」のバ−でひとりで新年を祝う。
 帰宅、12時過ぎ。

          1978年1月4日(水)
 田中 英道さんから賀状。「イザベッラ・デステ」に関して本を書く予定という。
 いよいよイザベッラを射程内におさめたのか。

 いつかイザベッラ・デステについて書きたいと思ってきた。資料も集めている。しかし、田中さんのようにすぐれた評論家に先を越されたら、こちらは何も書けなくなるだろう。
 田中さんの「イザベッラ・デステ」の完成を祈る。そのうえで、まだ何ごとか書くべきことが残っているかどうか考えよう。

 「テレビ朝日」から電話。出演交渉。「朝の美術散歩」。テ−マは、フランドル派の画家、ハンス・メムリンク。
 フランドル派の画家についてほとんど知らない。プロデュ−サ−に、その旨をつたえた。それでも、会っていただけないか、という。
 フランドルは、いわゆるフランダ−ス、ブラバント、ハイナウト、リエ−ジュ地方を含む。中世、文書の装飾がはじまったことから、絵画がはじまる。
 1400年代までは、絵画として見るべきものもない。リンブルク兄弟、メルヒョ−ル・ブレ−デルラムといった職人画家がギルドに登場する。
 ク−ベルト・ファン・アイク、ヤン・ファン・アイクがあらわれて、はじめてフランドル派の画家とされる。マイステル・フレマルは、ハイナウト出身、彼の門弟、トゥルナイのギエル・ファン・デル・ワイデンあたりをあげておけばいい。
 このファン・デル・ワイデンの影響をうけたのが、ル−ヴァンのデイエリク・バウト、フル−ジュのハンス・メムリンク、ゲントのフ−ゴ−・ファン・デル・ゲスということになる。
 私の知っていることは、せいぜいこんなところ。
 中世の生活を語れば、いくらかでも責任は果たせるかも知れない。

 年頭に決心したのだが――今年は、イタリア・ルネサンスについて、なんらかのモノグラフィ−を書くつもり。歴史をたどるのではない。その時代に生きた人々を描きだす。具体的には、1434年から、約60年に及ぶ時期の研究だが――むろん、私にとっては、たいへんな仕事になる。
 1934年、フィレンツェ。コジモ・デ・メデイチが覇権をにぎる。1942年、アルフォンソ・ダラゴンが、ナポリで権力をにぎる。1450年、ミラ−ノで、フランチェスコ・スフォルツァが権力をにぎる。一方、ロ−マにあった教会は、ロマ−ニャの諸都市(コム−ネ)や封建領主たちを支配下におさめる。
 この時代に、たとえばメディチ家の人々はどう生きたのか。考えるだけでも、私の手にあまるのだが。
 まあ、正月の酒に酔いながら、壮大な夢をみるのも楽しい。

          1978年1月6日(金)
 昨夜、新橋演舞場で公演していた「新派」の舞台で、花柳 喜章が亡くなった。享年、54歳。

 新派は2日から初春公演が始まったが、喜章は、昼の部、「源氏物語」で「紀伊守」を演じ、3日からは喜劇、「浮気の手帖」の主役(インスタント食品会社の社長)を演じていた。劇場は、1500人の観客で満員だった。
 幕が開いて、10分ばかり、「社長」が秘書にお小言を並べているところで、不意に頭が揺れ、うしろに倒れたという。死因は心不全というが、脳血栓かも知れない。
 観客は、そういう演出と思って舞台を見ていたが、喜章が動かないので、ざわめきはじめ、劇場側も異変に気がついて、いそいで照明を消して緞帳を下ろした。
 俳優の安井 昌二が、幕の前に出て、
 「花柳が急病になりましたので、これから救急車で病院にまいります」
 と口上を述べた。
 舞台で倒れて、そのまま逝っちまった役者は、「戦後」では喜章がはじめてじゃないだろうか。観客ははじめて事情を知ってざわめいたが、それでも、しずかに退場しはじめたという。

 私が、喜章を見たのは、3,4回だけだった。父の章太郎が亡くなったあと、「新派」を脱退したり舞い戻ったりして、どうも落ちつかない役者だった。昨年、章太郎十三回忌に出て、「新派」の中軸になるものとばかり思っていた。未完成のまま、亡くなったのは、本人としても残念だったはずである。

 喜章の代役は、明日から菅原 謙次。

          1977年1月7日(土)
 賀状がまだ届いている。
 「日本きゃらばん」を読む。庄司 肇の「幻の街」がいい。

 庄司 肇さんは、医師(眼科)だが、「文芸首都」出身。平易な文体で、小説はだいたい身辺雑記に近い。しかし、この作品は、なにかしら大きな発展の萌芽を感じさせる。庄司さんもまた、作家として大きく変わりつつあるのか。

         1977年1月8日(日)
 アントワ−ヌ・ポロ−を読む。
 いい本だった。フランスではこういう思想家がつぎからつぎに出てくる。
 カイヨワの「メドゥサの仲間たち」も、いい本。仮面について見事な言及があった。

 少しづつ、ルネサンス関連の資料を読みはじめる。
 とにかく、読むべき本が多い。

          1977年1月9日(月)
 「サンケイ」、四方 繁子さん。「共同通信」、戸部さんから督促。

 今年も走りつづけなければならない。
 自分の前に立ちあらわれてくるさまざまなテ−マを、デッサンかクロッキ−のようにとりあげる。そのなかには、文芸時評や、試写で見た映画の紹介や、楽しいアヴァンチュール、政治や社会についての考察、そんなものがふくまれる。どんなに短い枚数でも、読者の内面を刺激するように――私のものを読んだときから、しばらくは頭から離れないような文章をつきつける。発表する場所はどこでもいい。私のとりあげる内容がどんなにおもしろいものか、手を変え、品を変え、書いて行きたい。
 どういう状況でも、私は散歩者であって、なおかつ冒険者でありたいのだ。

 若城さんに、電話で年賀を伝える。この電話に鈴木 八郎が出た。ふたりは、本当の親友なので、鈴木君が電話に出ても不思議ではない。
 声帯を手術したため、機械を使ってしゃべる。テレビのSF映画に出てくる宇宙人のような声だった。話すことは、例によって洒脱、滑稽。江戸時代だったら、鈴木 八郎はきっと有名な文人になれたと思う。

 「映画ファン」、高田君、菅沼君から電話。

2019/05/01(Wed)  1804 〈1977年日記 51〉
 
     1978年1月1日(日)
 新年。

    誰やらの 形に似たり 今朝の春      芭蕉

 前夜、つまり大晦日、安東たちがきてくれた。「紅白歌合戦」を見たあと、みんなで今年はどこの山に行くか、勝手な計画を話しあった。
 元日の電車は、終日、うごいている。できれば奥多摩に行く予定だったが、犬吠崎か九十九里の海岸で、初日の出を見てもいい。ところが、雨になったので、またしても予定を変更した。
 映画、「八十日間世界一周」を見てしまった。

 昨日のつづき。一日じゅう、みんなで遊ぶことにしよう。

 夜明け。
 寒いが、崇高なまでに輝いている大地や、屋根、庭木にみなぎる新年の朝(あした)。かすかに紅をさしたような御来光の美しさにみとれて、茫然と見つめていた。
 応接間の机を動かして、フロアに炬燵を置いて、花札をやったり、ポ−カ−をやったり。短い時間のようだったし、長い時間のようでもあった。
 みんなのなかで、元旦の時間がとまっているようでもあった。

 百合子は迷惑がらずに、みんなをもてなした。といっても、屠蘇を祝って、正月料理をいただいた程度のおもてなしだが。しかし、ほとんどがこうした風習を知らないので、ものめずらしさもあって、神妙に年始の作法にしたがっている。
 あとは、また無礼講。

 安東たちが帰ったのは、夕方の6時。途中で、東松山の鷹野家が、年始にきたので、いっしょに千葉神社に参詣した。百合子は、そのまま通町に行く。例年、湯浅家は、年始の客が多いので、百合子が通町に手つだいに行くことになっている。
 みんなで、ゲ−ムセンタ−で遊んだ。
 鷹野一家を送ったあと、夜の9時過ぎ、通町、湯浅家に年始に行く。
 二部屋、襖を外した大広間に、酒盃が山のように盃洗に重なっていた。さすがに、客が帰ったあとの寂しさが、ただよっている。
 私は、義姉、小泉 賀江、百合子と雑談したが、そのあと、遠縁の池田 豊弥君と話が弾んだ。外語卒。中国語の達人。想像もつかない経歴の人で、その話も波瀾万丈だった。
豊弥君も、はじめて通町の年始にきて、客の帰った大広間にひとり残っていたので私が話相手になったので助かったらしい。

2019/04/30(Tue)  1803〈1977年日記 50〉
 
          1977年12月28日(土)
 池が完成した。

 ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
 あとは、正月明けにようすを見にくる。
 仕事収めなので、酒をふる舞う。

 下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
 ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
 下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。

          1977年12月29日(日)
 どうしても、東京に出かけなければならないため、1時に家を出た。
 「日経」、吉沢君のデスクで、原稿を書く。
 いつも、いろいろな記者が、忙しく動いているのだか、さすがに年末なので、少しだけ、落ちついている。文化部のデスクで、原稿を書く作家はいない。おそらく、私だけだろうと思う。私の場合、おもに映画評を書くので、試写を見たらすぐに書いたほうがいい。
 私は、「戦後」すぐに、「時事新報」のコラムを書きはじめたせいか、新聞のデスクで、記者たちと雑談しながら原稿を書くのが好きなのだ。
 文化部、青柳 潤一、竹田 博志君が、挨拶にくる。みんな、吉沢君の同僚記者である。

 おみやげに、イギリスのウイスキ−をわたしてやる。みんなが、よろこんでくれた。

 神田に出た。
 正月中に読む本はある。
 「悪魔の種子」、「キャンデ−はだめよ」、「34歳のミリアム」、「朝までいっしょに」、「緑の石」、「血と金」、「砂漠のバラ」。これだけで7冊。しかし、2日もあれば読めるだろう。
 「あくね」に行く。小川に会う。この日で「あくね」の年内営業は終わり。

 あとで、矢牧 一宏、内藤 三津子のおふたりがくるはずだったが、会えなかった。

 帰宅。最後にショックが待っていた。

 百合子が、私の顔をみるなり、
 ――「イジケ」が死んだのよ。
 という。
 「イジケ」は、「チャッピ」の生んだメスで、性格的にイジケているので、「イジケ」という名をつけた。駐車場の内部で死んでいた、という。
 酔いがさめた。
 私は、「イジケ」を特別に可愛がっていたわけではない。ただ、いつもイジケて、私の膝にも寄ってこなかった。私が、ほかのネコを抱いてやっているうちに、なんとなく私のそばに寄ってくる。その首をつまんで、抱きしめてやると、やっと安心して、抱かれている。そんなネコだった。
 しかし、どういうものだろう。今年は、我が家のネコがつぎつぎに非業の死を遂げた。

 「チャッピ」が病死したあと、「シロ」が失踪した。エリカがつれてきたネコで、今、我が家にいるネコたちの、母親。そのあと、私が、いちばん可愛いがっていた「シロ」(「シロ」の子の「ルミ」が生んだオス)が交通事故で不慮の死を遂げた。その「シロ」より、1シ−ズン遅れて生まれた、目の青い、これも可愛いコネコ、これも病死した。
 そして、「イジケ」である。計、5匹。迷信深い人なら、カツぐところだ。
 歳末ぎりぎりになって、こんなことになるなんて。
 「イジケ」を埋葬してやる。私の家の庭には、すでに何匹もネコが埋められている。今では、それぞれのネコを思い出すこともないが、それでも、それぞれの死を思うと、涙がにじむ。

          1977年12月30日(月)
 つごもり。
 今年、最後の短編を書く。
 最初の一行が書ければ、あとはなんとかなる。

 やっと書いた。

 あまり、できがよくないのはわかっている。
 夕方、5時、「れもん社」、三浦 哲人君がとりにきてくれた。

 やはり疲れたらしく、眠ってしまった。
 眼がさめたので、テレビをつけたら、「お熱いのがお好き」(ビリ−・ワイルダ−監督)をやっていた。解説、虫明 亜呂無。つい見てしまった。

           1977年12月31日(火)
 大つごもり。

 この日記をつけはじめて、だいたい毎日、おもに身辺のことを書いてきた。日記をつけないと、それが気になって、何も書くことがなくても、映画のことを書くような習慣がついてしまった。

 この一年は、どういう年だったか。

 厚生省。日本人の平均寿命、女性は77歳。男性、72歳と発表した。

 村山 知義、長沼 弘毅、石子 順造、吉田 健一、今 東光、内藤 濯、和田 芳恵、稲垣 足穂、海音寺 潮五郎。この方々が逝去した。
 面識があったのは、和田さんだけだが、それでも、この人たちの仕事は心に残っている。和田さんが、最後のご本、「自伝抄」を送ってくださったことは忘れない。

 ジョルジュ・クル−ゾ−、ジョ−ン・クロフォ−ド、ロベルト・ロッセリ−ニ、エルヴィス・プレスリ−、グル−チョ・マルクス、レオポルド・ストコフスキ−、マリ−ア・カラス、ビング・クロスビ−、チャ−リ−・チャプリン。
 みんな、亡くなっている。
 プレスリ−については、「共同通信」で。チャプリンについては、「日経」で、コメントを発表した。
 ほかの人たちについては、何も語ることなく終わるだろうが、これらの人々の仕事を知らなかったら、私自身の「現在」はあり得なかったと思う。ジョ−ン・クロフォ−ドに対しては、いささか反感めいた思いがあるのだが、それでもこの女優の映画も私の一部になっているだろう。

 部屋を片づける。一年分の埃がたまっているので、片づけるのはたいへんなのだ。
 安東 つとむ、由利子、鈴木 和子がきてくれた。もっと早くきてくれれば、片づけをてつだってもらうところだが、一日早い年始回りになった。
 百合子はよろこんで、三人をもてなしている。なにしろ、しょっちゅう人がくるので、時ならぬ来訪者にいつも対応しなければならない。作家の女房というのも楽ではないのに、いつも笑顔を忘れない。
 しかし、安東たちがきてくれたのはうれしかった。大晦日に知人といっしょに新年をむかえることは一度もなかった。
 百合子もまじえて、たあいもない話をしながら、酒宴になった。

 1977年(昭和52年)、何が流行ったか。

 「母さん、ぼくの帽子、どうしたでしょうね」。これは、角川映画、森村 誠一原作の映画のコマ−シャルから。この宣伝費だけで、4億5千万円。森村 誠一フェアに5億という。これだけの金をかけて、この流行語ができたと思えば安いものだろう。
 もう一つ、これも映画から。「天は我らを見放した」。「八甲田山」で、北大路 欣也が、雪中行軍で、暴風雪で遭難したときのセリフ。

 ――先生、あの原稿、どうしたでしょうね。
 ――書けなかったよ。ごめんね。天は我らを見放した。
 こんなふうに使う。

 ――先生、原稿、これっきり、もうこれっきりですか。
 ――それは、去年の流行語だろ。

 大つごもりなのに、たあいのない話をしてはみんなで笑った。

 これも流行語だが、「ル−ツ」。10月に「テレ朝」が放送したドラマのタイトル。私は、いろいろな小説を読んできたが、この名詞にぶつかったことは、ほとんどない。ところが、このドラマのおかげで、何かの起源に関して、すぐに「ル−ツ」という言葉が使われるようになった。「紅白」を見たあと、「八十日間世界一周」(マイケル・アンダ−ソン監督)を見た。3時頃、さすがに眠くなってきた。
 広間に寝具を出して、安東たちを寝させた。私たちは、2階の寝室に。
 これで、私の1977年は終わった。

2019/04/30(Tue)  1802〈1977年日記 49〉
 

           1977年12月23日(月)
 寒い日。
 午前中から、メディチ家のノ−ト。

 あい変わらず、本、雑誌がたくさん届いてくる。
 伊藤 昌子さんから、原稿が届いた。吉沢 正英君から、「真夜中の向こう側」(チャ−ルズ・ジャロット監督)の試写の日程。春の公開作品だが、師走になって試写に力を入れはじめたのか。
 試写室通いをしていると、その映画が当たるか当たらないか、試写の予定からでも想像がつくようになってきた。
 「三笠書房」、三谷君から電話。

 夜、岳父から、池田さんのご母堂の病状をつたえてきた。
 義弟、湯浅 太郎に、私から知らせた。その一方、すぐに小泉 まさ美に連絡して、「並木」にいる太郎と、義母、湯浅 かおるを迎えにやる。
 太郎と、義母、湯浅 かおるが、小泉家にきたら、百合子も、いっしょに同行させることになった。

          1977年12月24日(火)
 深夜2時、岳父(湯浅 泰仁)から電話。
 池田 美代さんの死去をつたえてきた。予期していたことだったが、親族の死なので、にわかに忙しくなった。すぐに、これも親族の杉本 周悦につたえた。
 美代さんは、享年、82歳。陸軍中将夫人。

 臨終に当たって、
 ――このひとも後生がいいわねえ、クリスマスの日に死ぬなんて。
 と放言した親族がいたという。

 この夜、通夜が行われた。私も出席した。小泉 隆、賀江夫妻の隣りにひかえた。
 美代さんの甥にあたる池田 豊弥さんと話をする。このひとは、厚生省の麻薬取締官で、まさに快男児といってよかった。大麻に関して、最近、「小説宝石」で小堺 昭三のインタヴュ−をうけたという。私が映画で見たフレンチ・コネクションや、東京ル−トのことなどをきくと、何でも答えてくれた。

          1977年12月25日(水)
 池田家、葬儀。

 25日が一般のお通夜で、27日が葬儀という。格式を重んじて、そうきめたらしい。

 夜、「日経」の吉沢君から電話。チャ−リ−・チャプリンの訃報。すぐに感想を口述する。明日の朝刊に出る。

 チャプリンの死因は、老衰という。臨終にはウ−ナが付添い、ジェラルディンほか子や孫、8人が見まもったという。葬儀も家族葬ということらしい。

          1977年12月26日(木)
 テレビ、チャプリンの「キッド」を見た。
 解説、荻 昌弘。最初に、チャプリンに哀悼をささげたが、その眼に涙をうかべていた。やはり、深い感慨があったのだろう。

 私の個人的な意見。
 「殺人狂時代」以後の作品のチャプリンは、やはり衰えを感じさせる。
 芸術家の晩年。どういう晩年を生きるのか。

 チャプリンが、20世紀有数の芸術家だったことは疑いもない。
 だが、チャプリンの場合も、映画監督という仕事が、老年の演出家にとっては、困難な仕事になったのではないだろうか。
 「戦後」のアメリカが、チャプリンにその天才のじゅうぶんな展開を許さなかったことは否定できないが。

         1977年12月27日(金)
 池田 美代、葬儀。

 百合子は、連日、池田家に行って、美代さんの葬儀の準備に奔走している。従妹の内山夫人が動けないので、いろいろな雑事まで、百合子が引き受けたらしい。このため、昼になって、美容院に行く時間がなくなってしまった。
 葬儀は、宗胤寺で行われた。この日、快晴。
 これまでの私は、お葬式に出ても、遺族にモゴモゴお悔やみを申し上げたあと、そそくさとお焼香をして辞去する。葬儀に出られない場合は、お通夜に出て、列席の方々に、ヘコヘコ頭をさげて、お葬式に出られないお詫びを申し上げて失礼する。
 もっと忙しいときは、お香典を、妻や親しい知人に託して、義理をはたす。
 そんなことで済ませてきたが、今回は、百合子の大伯母に当たるオバアサンの葬式なので、百合子といっしょに近親者として、弔問の方々の挨拶を受ける側なので、まことに居心地がよくない。
 葬儀そのものは、ご多忙中の参列者の方々のために、厳粛、かつパンクチュアリ−に式次第が進行する。お坊さまによる読経は、まことに、音斗りょうりょうたるもので、どうもふつうのホトケさまの法要の何倍も「ありがたい」ものだったらしい。百合子は身じろぎもせずに控えているが、私は、はなはだ不謹慎ながら、死者と生者の別れの儀式は、できるだけ、生者のタイム・スケジュ−ルにあわせていただきたい、と願っている。
 足がしびれ、すわっている感覚がなくなってきて、ようやくゴングが鳴って、木魚のリズムが聞こえたときは、サッカ−の、ロスタイムに入ったような気がした。

 人の死さえも、こちらの都合にあわせるなど、まことに無礼千番と心得てはいるが、読経につづいてのお焼香になってありがたいと思った。やっと席から立てるからであった。

 葬式の挨拶は、きまりきったことしかいえないので、口にするのもはばかられるのだが、読経が終わったあと、居並ぶ親族が、口をそろえて、故人は身勝手な一生を過ごしてきたが、まったく後生のいい人だといいあう。

 岳父(湯浅 泰仁)の実姉なので、各地の名士からの弔電が多数。

 葬儀のあと、百合子といっしょに帰宅した。疲れた。

 夜、ひとりで飲んだ。チャプリン追悼の意味で。

          1977年12月28日(土)
 池が完成した。

 ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
 あとは、正月明けにようすを見にくる。
 仕事収めなので、酒をふる舞う。

 下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
 ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
 下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。

2019/04/11(Thu)  1801〈1977年日記 48〉
 
            1977年12月2日(水)
 女優、望月 優子が亡くなった。

    もともとは喜劇女優だったが、昭和29年、木下 恵介の「日本の悲劇」で「毎
    日コンク−ルの主演女優賞を受けてから、演技派の女優になり、昭和33年に、
    今井 正の「米」でブル−・リボン主演女優賞を受けた。
    46年、参院選で、大量に得票して、参議院議員になったこともある。

 私は、ム−ラン・ル−ジュ、古川 ロッパの一座にいた頃の望月 優子を見たことがある。慶応出身の作家で、「サンケイ」の記者、鈴木 重雄の夫人。三島 雅夫を中心に結成された劇団、「泉座」が旗揚げ公演に、ア−サ−・ミラ−の「みんなわが子」を選んだ。そして、翻訳を私に依頼してきた。
 私の「みんなわが子」訳は戯曲の訳としては最低だった。稽古の段階で、私は、自分の翻訳が舞台では使いものにならないことを思い知らされた。
 演出家、菅原 卓が手を入れた。この訳はのちに菅原 卓訳として「早川書房」から出ている。)この芝居に、望月 優子が出たので、口をきくようになった。ある日、稽古場で、望月 優子が私をつかまえて、

 ――中田さん、あんた、スタニスラフスキ−、読まなきゃダメよ。
    といった。そばにいた千石 規子が、したり顔で、
 ――そうよ、そうよ。スタニスラフスキ−、読まなきゃダメなんだから。

 私は、二人の女優に侮蔑をおぼえた。私はまだ演出家になる前で、この稽古場では、「みんなわが子」の翻訳をしながらできの悪いホンなので、みんなに迷惑をかけた青二才に過ぎなかった。

 その青二才の目にも、このふたりの芝居はひどいものに見えた。

 とくに、千石 規子の芝居はひどいものだった。

 「みんなわが子」の初日をみにきた高峰 秀子が、千石 規子の芝居にあきれて隣りにいた女優と顔を見合わせて失笑していたことを思い出す。

 私の「みんなわが子」の翻訳が、戯曲の翻訳としてはひどいものだった。セリフになっていなかった。なにしろ、菅原 卓が、面と向かって、
 「中田君、腹を切りなさい」
 とまでいわれたのだから。

 冷静に見て、この芝居の失敗は、望月 優子、千石 規子がミス・キャストだったからと思っている。

 この失敗から私は芝居の演出をめざすようになったのだから、望月 優子、千石 規子に礼をいわなければならないかも。

 望月 優子は、最後には「日本の母」などと呼ばれる名女優になった。千石 規子は、黒沢 明の映画に、かならず出るようになった名女優になった。私は、このふたりの芝居を見るたびに、「みんなわが子」の演技を思い出したものだった。

 もう一つ。
 これも、新聞のオ−ビチュアリで、テレンス・ラティガンの訃を知った。

    11月30日、ガンのため、バミュ−ダで死去。66歳。
    オックスフォ−ド大卒。1936年、「泣かずに覚えるフランス語」で劇作家と
    してデビュ−。主な作品に「ウインズロ−家の少年」、「ブラウニング・ヴァ−
    ジョン」、「紺碧の海」などがある。映画のシナリオにも手を染め、「チップス
    先生さようなら」、「黄色いロ−ルスロイス」、「王子と踊り子」などを書いた。
    67年以来バミュ−ダに住みつき、71年にナイトの称号を授けられた。

 AP時事の記事で、戯曲のタイトルの訳はひどいし、これではテレンス・ラティガンが「戦後」のイギリス劇壇に与えた影響について何もわからない。
 「泣かずに覚えるフランス語」はナイだろう。せめて、「楽に身につくフランス語」ぐらいでないと、喜劇かどうかもわからない。「深く、静かな青い海」を「紺碧の海」にしてしまうと、ラティガンの上品な世界が見えてこない。
 私はひそかにラティガンの死を悼んだ。
 もっといい戯曲を書いてくれればよかった人なのに。

            1977年12月2日(水)
 作家、海音寺 潮五郎、逝去。

    海音寺 潮五郎、明治35年11月5日、鹿児島県大口市に生まれた。
    1929年、「サンデ−毎日」の懸賞に「うたかた草紙」を応募。
    1936年、「天正女合戦」で、直木賞。戦時中は、陸軍報道班員として、マレ
    −方面に派遣された。
    「戦後」は、1953年、「蒙古来る」、S29年、「平将門」、
    S35年、「天と地と」、など。
    S43年、引退を表明。
    昨年、NHKで、「風と雲と虹と」が放送された。

 残念ながら、私は一度も海音寺 潮五郎を批評する機会がなかった。

 ヴァレリ−ふうにいえば、こういう人たちは、二度死ぬのだ。一度は人間として、もう一度は有名な作家として。
 まあ、人生いろいろだなあ。

                      1977年12月3日(水)
 体調がわるい。風邪のため、咳がとまらない。めったに風邪をひかないのだが、今年は、どういうわけか、いちばん先に私が倒れてしまった。

 今日、木更津で講演があるのだが、咳が出ると困る。

 11時半、県立図書館、司書の竹内 紀吉君と駅前で会う。
 竹内君も、私の咳を心配していた。「ロ−タリ−」で食事をしようと思っていると、そこへ、安東 由利子と石井 秀明がきてくれた。「南窓社」に寄って、私の本を10冊もってきてくれた。

 食事をしているところに安東君がきてくれた。

 今日の千葉駅は――国労、動労が、成田開港反対の遵法ストに突入したため、混乱している。私たちも予定を変更して、快速に乗った。

 木更津着、1時半。すぐに会場に向かう。

 参加者は140名程度。会場は、満員状態。YBC側としては、これほど多数が参加するとは思っていなかったので竹内君に謝ったという。

 講演はうまく行ったと思う。しかし、途中で、咳が出たため、一時中断。

 講演のあと、質疑応答のようなやりとり。
 「私のアメリカン・ブル−ス」にサイン。わずかな部数しか用意しなかったので、すぐに売り切れてしまった。

 安東君たちをねぎらうつもりで、駅前の喫茶店で話をする。

 みんなと別れて、竹内君といっしょに、庄司 肇さんを訪問する。
 庄司さんは、「日本キャラバンを主宰している同人作家。眼科の先生。気骨のある人だが、気さくにいろいろな話をしてくれた。
 辞去したのは、8時過ぎ。

 ストライキの影響で、夜もダイヤが乱れている。8時45分頃、やっと電車に乗れた。

         1977年12月8日(月)
 午後、本田 喜昭さんの奥さんが、千葉まで原稿をとりにきてくれた。恐縮した。
 しかし、私自身がひどい風邪だし、家族そろって寝込んでいる状態なのだから、どうしようもない。
 百合子までが寝込んでしまった。

 「公明新聞」から原稿の依頼。大阪の友人、船堂君から電話。

 夜、義母、湯浅 かおる、義姉、小泉 賀江が見舞いにきてくれた。

 写真の現像。

          1977年12月9日(火)
 百合子、肺炎併発の疑いあり。
 義兄、小泉 隆の診察を乞う。

 「東和」から、「カブリコン・1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)の公開記念に、ITCのル−・グレイド郷が来日したので、パ−ティ−をやるという。
 映画の批評をやっていると、ときどき思いもよらない招待を受けたり、来日したVipに紹介されたりする。

 CICから「ラスト・タイク−ン」(エリア・カザン監督)の試写の連絡。これは必ず見るつもり。原作、スコット・フィッツジェラルド。脚色は、ハロルド・ピンタ−。キャスティングがすごい。

 「文芸」、川村 二郎が、「本居 宣長」について書いている。「新潮」、保田 与重郎、大江 健三郎。おもしろい組み合わせ。久しぶりに保田 与重郎の文章を読む。小林 秀雄に深い畏敬をもっている。その論旨もよくわかるのだが、私としては、承服しがたい部分がある。
 「文芸」の、大笹 吉雄の劇評の冒頭、

    今、歴史を素材にしたドラマほど、書きにくくなっているものはない。その象徴
    的な出来ごととして、木下 順二が歴史劇を書かなくなったということがある。
    なぜそうなったのか。原因はいろいろあるだろうが、もっと、大きいと思われる
    のは、イデオロギ−としての世界観が崩壊、ないしは相対化したということにあ
    る。木下に即してそう思うのは、この劇作家が、精力的に歴史劇の法則とドラマ
    のそれとを一致させようと努力してきた第一人者だからである。
    しかし、こういう認識による限り、歴史の法則性に疑いが出れば、歴史劇を書け
    なくなるのは当然であった。

 ところが、同じ号に、木下 順二が「子午線の祀り」を書いているのだから、皮肉というほかはない。ただし、大笹 吉雄の意見はもう少し検討してみる必要がある。

 キッシンジャ−が、自分の死後、または25年後まで公開禁止を条件に、アメリカ政府に譲渡した在任中の交信記録が、近い将来に公開される可能性がある。
 これは1969年から退任までの8年間、電話の内容をホワイトハウス、国務省の秘書官に速記させ、文書として残したものという。
 ニクソン、フォ−ド両大統領ほか、各国首脳の電話、さらに多くの個人的な相手のものまで含まれる。
 こういう記録が公表されれば、ヴェトナム戦争、中東戦争の経緯、経過に対する重要な証言が得られるだろう。

          1977年12月10日(水)
 裕人が風邪の兆候をみせている。
 夜になって、百合子が腹痛を訴えて、嘔吐をくりかえした。
 私の病状はずっとよくなってきたが、声がかれて、まだいつもの声に戻っていない。

 へんな話。
 ユ−ゴスラヴィア/チト−大統領夫人、ヨバンカ・ブロズ・チト−が、今年の6月から公式の席に姿を見せない。チト−大統領のソヴィェト・中国・フランス訪問に同行しなかったばかりではなく、軟禁状態におかれていると想像されている。「ヘラルド・トリビュ−ン」は――チト−大統領は座骨神経痛、ヨバンカは糖尿病で、不和という。オ−ストリアの新聞は――ヨバンカがアメリカのCIAに利用されたと見ている。
 「ニュ−ズ・ウィ−ク」は――ヨバンカが政府、党の人事問題に口を出して、チト−の不興をかったため、軟禁されたという。
 先日のホ−ネッカ−の「問題」とともに、これは注目すべきニュ−スと見る。
 ユ−ゴは、チト−独裁の下、安定していると見られているが、複雑な人種問題を抱えている連邦国家で、とくに正教のセルヴィアと、カトリックのクロアチアの対立感情がつよい。
 ヨバンカ夫人は、セルヴィア出身なので、人種対立がからんでいるかも知れない。いずれにせよ、共産圏諸国のタガが緩んできているのは間違いない。

          1977年12月11日(木)
 昨日から、庭師が入って、池を掘りはじめた。
 木を植え返したり、地中に埋めてある電気のパイプを掘り起こしたり、わが家としては、かなり大きな工事になる。
 池はルネサンスふうの池にしよう、などと勝手なことをホザいているのだが、庭にレンガを敷いて、部屋からすぐに池に出られる。トリもくるだろうし、サカナも飼えるだろう。

 大阪の船堂君、来訪。
 モンブラン、キリマンジャロなどに登った山男なので、安東 由利子、工藤 淳子、石井 秀明たちを招いて紹介する。
 みんなで、「金閣」で食事。
 船堂君の話は、おもしろかった。
 高度、4000メ−トルで、思考がおかしくなる、とか。ケニアのホテルのショ−は、日本円で40円程度だそうな。

 夜、「恋の旅路」(ジョ−ジ・キュ−カ−監督)を見た。これは、TV用の映画。ロ−レンス・オリヴィエ、キャサリン・ヘップバ−ン主演。劇場では公開されなかった。
 1911年の設定。有名な弁護士のもとに、富裕な未亡人が依頼する。彼女の莫大な遺産目当てで言い寄った男と婚約したが、途中で、相手の目的が財産目当てと知って、婚約を破棄する。そのため、相手の男から婚約不履行で、逆に訴えられる。このままでは、裁判に勝てる公算はない。
 じつは、この弁護士は、40年前に、カナダのトロントで彼女と会っている。当時、彼女は舞台女優。「ヴェニスの商人」の「ポ−シャ」で、ある劇団の巡業でトロントの舞台に立っていた。彼は、舞台を見て彼女に熱をあげ、彼女を口説いた。未亡人のほうは、40年も昔の旅先のロマンスなど、すっかり忘れている。
 裁判がはじまる。
 相手側の弁護士も有能で――この事件は、未亡人が男に熱をあげたこと、男のほうも未亡人の美貌に心をうばわれたことを立証しようとする。
 一方、名弁護士のほうは――未亡人が高齢で、男に口説かれたために一時の気の迷いで、ついつい男にほだされた、と反論する。ところが、未亡人は高齢といわれたため激怒して、自分の弁護士に食ってかかり、退廷させられてしまう。そのあと、名弁護士は、陪審員たちに向かって、切々と愛の意味を説き、みんなを感動させ、不利な状況を逆転させて、みごとに勝訴する。
 さて、退廷させられた未亡人のほうは、何もかも計算しての行動だったと明かす。40年前、弁護士をめざしていた若者を愛していたことを明かして、これからは、もう一度、人生をやり直そうと誓って、ふたりで腕を組んで法廷を出て行く。
 スト−リ−だけを要約すると、なんともご都合主義めいた法廷ものなので、面白くも何ともないが、ロ−レンス・オリヴィエ、キャサリン・ヘップバ−ンの芝居で、イギリスの風俗劇のおもしろさを堪能できた。
 お互いに、初老に達した名優、名女優のやりとりのみごとさ、ドラマの展開の緊張が、コメディ−らしい二人の「関係」(シチュエ−ション)のおかしさ、男女が愛することの「かなしさ」にまで重なってくる。
 私たちの劇場では、ほとんど見ることのないコメディだった。

          1977年12月13日(土)
 11時半、水道橋。
 「南窓社」から、「共同通信」の戸部君に連絡する。

 昼、上野に出る。「イタリア・ルネサンス装飾展」を見た。メトロポリタン美術館所蔵のもの、ロバ−ト・レ−マン・コレクション。特別めずらしいものはなかった。ただ、ヴェネツィアの、水入れというか瓶は美しい。

 メダイヨンの中に、シャルル8世、フェデリ−コ・ダ・モンテフェルトロの像をきざんだものがあったので、心の中で挨拶しておいた。

 今日は、あまりツイていない。
 「ヘラルド」に行ったが、ひどく混んでいるので、試写はあきらめた。
 神田に出て、本を3冊。1冊は、よくわからない本。クレビヨン・フィスの資料(だと思う)。

 「あくね」に行ったが、ここも混んでいる。
 「弓月」に移った。小川には会えず。オバサンが、丸谷 才一の話をした。7歳頃の丸谷 才一をよくおぼえていた。


          1977年12月15日(月)
 昨日は、「共同通信」の戸部君に原稿をわたした。「日経」の秋吉さんから督促。

 「ドミノ・タ−ゲット」(スタンリ−・クレイマ−監督)を見た。
 ジ−ン・ハックマン、キャンディス・バ−ゲン、リチャ−ド・ウィドマ−ク。
 愛する女、「エリ−」(キャンディス・バ−ゲン)の夫を殺したため、服役中の「ロイ」(ジ−ン・ハックマン)は、同囚の「マ−ヴィン」(リチャ−ド・ウィドマ−ク)から脱獄に協力しろといわれる。脱獄に成功した彼は、アメリカを脱出して、コスタリカで「エリ−」と再会するが、じつは脱獄をエサにした、国家的な要人の暗殺計画の実行犯に仕立てられていることに気がつく。
めずらしく、ミッキ−・ル−ニ−が出ていた。ぶくぶくに肥っている。これが、あの「アンデイ・ハ−デイ」のなれの果てなのか。

 CICに行く。「ラスト・タイク−ン」(エリア・カザン監督)。原作、スコット・フィッツジェラルド。脚色は、ハロルド・ピンタ−。
 30年代のハリウッド。若手の敏腕プロデュ−サ−、「モンロ−」(ロバ−ト・デニ−ロ)は、若いイギリス人女性(イングリッド・ボ−ルディンク)に亡き妻の面影を見て、恋に落ちる。これを知った撮影所長は、「モンロ−」の独走をきらって、かれをしりぞける。
 キャスティングがすごい。トニ−・カ−ティス、ロバ−ト・ミッチャム、ジャック・ニコルソン。これに、ジャンヌ・モロ−、アンジェリカ・ヒュ−ストン。
 エリア・カザンのような演出家でも、どうしようもない衰えを見せている。おなじように、ノスタルジックな気分を描いても、「華麗なるギャッビ−」(ジャック・クレイトン監督)や「イナゴの日」(ジョン・シュレジンジャ−監督)のような作品がある。ところが、カザンはそれぞれのシ−ンを丹念に演出しているだけで、全体にテンポが緩んでいる。テンポが遅ければノスタルジックな気分が出せるわけではない。

 5時半、「ジュノン」、松崎 康憲君のインタヴュ−。これは、まあ、うまくいったと思う。「日経」、秋吉君に原稿をわたした。ところが、「映画ファン」の萩谷君に原稿をわたす約束だったことを思い出した。萩谷君に、わるいことをした。
 6時半、「山ノ上」で「マリア」に会う。ここにくる途中、安東 由利子、石井 秀明に会ったという。二人とも、「マリア」が私に会うために急いでいると知って、同行しなかったらしい。

          1977年12月16日(火)
 「山の上」で、萩谷君の原稿を書いた。「マリア」が私についていてくれたのだった。

 六本木に。アヌイの「アンチゴ−ヌ」を見に行く。知らない劇団のスタジオ公演。
 吉祥寺で、これも知らない劇団のスタジオ公演。ハロルド・ピンタ−の「ダムウェイタ−」をやっているのだが、遠いので敬遠した。

 夜、「マンハッタン物語」(ロバ−ト・マリガン監督)を見た。
 しがない楽士、「ロッキ−」(スティ−ヴ・マックィ−ン)は、避暑地で知りあった少女、「アンジ−」(ナタリ−・ウッド)と一夜を過ごす。そのため、少女は妊娠する。彼女の愛に胸をうたれた「ロッキ−」は結婚を考える。

 夜、雨になった。震度・2程度の微震があった。

          1977年12月17日(火)
 ひどく暖かい日。9月下旬の気温という。昨日の雨はあがった。

 師走というと、ベ−ト−ヴェンの「第九」が出てくる。「フジテレビ」のドラマは、第1次大戦で、捕虜になったドイツ軍の兵士たちが、捕虜収容所で、「第九」を演奏した実話を描いている。最後に、150人のアマチュア演奏家が「第九」の演奏を流したのは驚きだった。

          1977年12月18日(水)
 一日じゅう、ただ、考えている。

 船堂君から手紙。

    「キリマンジャロの豹」こと、中田先生、この前は、中国料理をずいぶんたらふ
    くとたべさせていただき、ありがとうございました。先生が「山屋」として精力
    的にやっておられる話を聞かせてもらって、少し驚いています。ルネサンスふう
    庭園、とかいう池、なかなか面白そうなことをよくやられますねえ。エマニエル
    と沖田 総司みたいなですかねえ。でも一番びっくりしたのは、黒い鉄門です。
    あれで、すぐに先生の家だとわかりました。あのように思い切った門を取り付け
    るのは、気分がいいでしょうねえ。ほくも、いつかいえでも作るような事があっ
    たら、ああいうような門をつけてみたいと思います。

 いろいろなあだ名をつけられたことがあるが、「キリマンジャロの豹」というのは、気に入った。
 百合子にこの手紙を読ませたが、「エマニエルと沖田 総司」は、わからなかったらしい。「異聞沖田総司」の登場人物なのだが。
 門は、私がデザインした。「共同通信」の戸部君も、この門をみて驚いたひとり。しきりに感に耐えないという顔をしていた。それはそうだろう。鉄板を切って作った女のヌ−ドが、そのまま門になっているのだから。私の傑作の一つ。

 深夜、北海道の友人、早川 平君に手紙を書く。

          1977年12月20日(金)
 「ワ−ナ−」、「ワン・オン・ワン」(ラモント・ジョンソン監督)を見た。
 バスケットの選手、「ヘンリ−」(ロビ−・ベンソン)は、名門、ウェスタン大にスカウトされるが、小柄で、何につけ、消極的なので、名門校の選手としてやっていけるかどうか悩む。青春映画。

 夜、学生たちのコンパに呼ばれている。
 安東 つとむが企画したもので、30名が出席。かんたんにいえば忘年会だが、山のメンバ−がほとんど。このほかに、栗原、長谷川 栄二、「双葉社」の沼田 馨君たち。
 みんなで、わいわい騒いだり、飲んだり。私は、「マリア」が出席しなかったことが気になっていた。
 二次会に行く。まだ大勢が残っている。高円寺のガ−ド下の居酒屋。

 終電にやっと間に合った。

           1977年12月22日(日)
 「公明新聞」に、「私のアメリカン・ブル−ス」の書評。

 今年も、映画をたくさん見た。日本映画も見たが、批評を書く機会はなかった。
 「幸福の黄色いハンカチ」、「宇宙戦艦ヤマト」、「青春の門・自立編」、「八甲田山」ぐらいか。

2019/03/31(Sun)  1800〈1977年日記 47〉
 
           1977年11月19日(土)

11時に家を出て、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとる。
 新宿。「アルプス7号」。安東夫妻、吉沢 正英、工藤 敦子、鈴木、石井たち。
 塩山で、バスに乗る前に、近くの「港屋」でナタを買った。

 はじめは、増富ラジウム温泉に泊まって、木賊峠、長窪峠、八丁峠、そして清川というプランだった。しかし、明日が日曜日なので、増富が混んでいることは予想できた。
 木賊峠までは林道が長いので、泊まりは黒平温泉のほうがいい。ところが、電話で問い合わせると休業したという。
 仕方がない。甲府の奥。古湯坊に泊まって、帯那山、水ノ森のコ−スはどうか。これまた、いっぱいという。不況なのに、どこの温泉も混んでいる。
 私たちの登山は、物見遊山ではないのだが、なるべく温泉に泊まりたいという気もちは、日本人らしい発想なのかも知れない。
万事休す。地図を睨んで、川浦の奥の雷(いかずち)、日乃出荘に泊まれば、大島山、大久保山のコ−スが考えられる。朝、マイクロバスで送ってくれれば、雲法寺から小楢山も歩ける。よし、これにきめた。
 日乃出荘に電話。予約。

 いつも、ザックは準備してある。
 ヴェトナム戦争で使われた実戦用の小型のザックに、すべて叩き込んである。これに、ツェルトを持って行くのが、私の基本的なスタイル。

 歩きはじめる。
 やがて、雑草を踏みわけて、登山コ−スにでると、肌寒いほどの気温になってきた。山に近い盆地なので、温度差がはげしいのか。草の匂い。正面の山の上は、朝焼け。これは、警戒が必要だろう。わずかな畑、その上の空がいちめん、澄みきった紅に染まっている。私と吉沢君は、しばらく空の色に見とれて、草原のなかに立ちつくしていた。

 雷(いかづち)で下りた。「日乃出荘」のオバサンが、私のことをおぼえていた。夜食は、イノブタ。おいしい。
 5時半。マイクロバスで徳和まで送ってもらう。

 6時5分、歩きはじめる。
 川沿い、北上する。堰堤を三つ過ぎたところで、渡渉。
 工藤 淳子が、またしても特技をご披露した。どんな小さな水たまりでも、かならず足をすべらす特技。このときも、私がうしろに立って、カヴァ−してやったのに――川に落ちた。下半身ずぶ濡れ。みんなが笑ったが、笑いごとではない。
 安東と石井に、近くの木を2本、切らせた。(ナタを買ってよかった。)この木を川に掛けて橋のかわりにする。菅沼はうまく渡ったが、鈴木がバランスを崩して、足を濡らした。
 歩き出したとたんに、こんな事故を起こしたのはめずらしい。
 予定変更。川原で、火を起こして、朝食。その間に、工藤と鈴木は、できるだけ早くズボンを乾かすことにした。

 崩れかけた橋(丸木)の手前から、岩の多いガレ場を登って行く。

 きつい斜面を登って、大カラス山の東の支峰に出た。ここで赤マ−クを見つけた。道らしいものは残っていたが、誰も通る人のない廃道らしい。
 こういうコ−スこそ、私たちの本領とするところなのだ。足の下に踏みつける土の感触が違う。
 やがて、1773の三角点を見つけた。
 ここで、昼食。

 鈴木がバテたらしい。
 やむを得ない。彼女をここに残して、あとのメンバ−で、大カラス山をめざした。なにしろ、道らしい道もないのだから、途中、岩に這いつくばってやっと通り抜けた。
 大カラス山の往復に50分かかった。

 帰りは、夕方4時55分のバスに乗らなければならない。道は、東御殿の先から荒れ果てている。松を切り倒したあたりから、道ではない斜面を下ることにした。
 大久保山の下からできるだけ東の尾根をたどり、徳和をめざした。

 午後、4時にバス停についた。期せずして、拍手がおきた。
 久しぶりに、おもしろい山行になった。

 ――おれたちって、スゴいんじゃね?」
    だれかがいった。
 ――だれも登らない山を登るって、おもしろいですね。
    私はいった。
――バスに乗れなかったら、ここでビバ−クするぞ」

 久しぶりに、おもしろい山行になったので、みんなが笑った。

         1977年11月21日(月)

 埴谷 雄高さんから「蓮と海嘯」をいただいた。

 夜、「スロ−タ−・ハウス」(ジョ−ジ・ロイ=ヒル監督)。
 中年の検眼士が、時空を越えて、さまざまな場所に出没する。現在のSFがどういう状況なのか、ほとんど知らないのだが、カ−ト・ヴォネガットの小説は、これからの文学の一つの指標と見ていい。

 昨日、新聞で、フランスの俳優、ヴィクトル・フランサンが亡くなったことを知った。私は、この役者についてほとんど知らない。「旅路の果て」で老俳優をやったヴィクトル・フランサンを思い出す。
 「運命の饗宴」の第3話、貧しい作曲家(チャ−ルズ・ロ−トン)が、コンサ−ト・ホ−ルで自作を指揮することになる。妻(エルザ・ランチェスタ−)がやっとのことでタキシ−ドを見つけてくる。作曲家は指揮をするのだが、タキシ−ドが破れて、失笑を買う。
そのとき、会場にいた名指揮者が、自分の席でタキシ−ドを脱いで、貧しい作曲家に、指揮をつづけるように指示する。この名指揮者をヴィクトル・フランサンがやっていた。
 その後、エロ−ル・フリンの西部劇、「サン・アントニオ」(デヴィッド・バトラ−監督)で、あの美髯を剃り落として、悪役をやっていたヴィクトル・フランサンに胸を衝かれたことを思い出す。

         1977年11月22日(火)

 芥川 龍之介を読む。

    夏目先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は過去に於いて、十二分に仕事をさ
    れた人である。が、先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、その頃或転機の
    上に立ってゐられたやうだから。すべての偉大な人のやうに、五十歳を期して、
    更に大踏歩を進められやうとしてゐたから。

 「校正の后に」という文章の一節。
 漱石の死を悼む真情はよくあらわれているが、なんとなく空疎な感じがある。おそらく、忽卒のうちに書かれたためだろう。
 それはともかく、五十歳を期して、更に大踏歩を進めようとするのは、漱石のような大作家にかぎったわけではない。
 私は、しがない「もの書き」だが、それでも、五十歳を期して、いささかあらたな歩みを模索している。

 武谷君と仕事の話。長編を書くことになった。これも一つの「転機」というべきか。

 5時。「南窓社」の岸村さん。アナイスの小説を出してくれないかと相談する。「実業之日本」には、アナイスを出す気がないのだから、私としては、「南窓社」あたりに話をもって行くしかない。またしても杉崎女史は失望するだろう。どうして、これほど苦労させられるのか。

 「あくね」。小川 茂久と。

 小川は、私と違って、かぎりなく酒を愛している。しかし、彼はおよそエピキュリアンではない。一見、そんなふうに見えるのは、じつは彼が一種の宿命観をもっているせいではないかと思う。
 1945年、もはや敗戦必至の状況で、小川は招集を受けた。

    「三月九日夜半から十日未明にわたるすさまじい東京大空襲を、大森で見聞して
    いたし、六月二十三日の沖縄守備軍全滅の報道も知っていたので、入隊の時には
    、戦い利あらず、一命を落しに行くようなものだと覚悟した。諦め易い質の私は
    その忍び寄る死に対して、まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった。

 こうした一種、ニル・アドミラリの姿勢は、私にもある程度、共通しているはずだが、小川は表面こそ「まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった」ように見えながら、現実には、人いちばいきびしい正義観をもっていた。たとえば、戦争責任者に対する彼の眼は苛烈だった。
 文学に対しても、彼の内面は繊細で、柔軟だった。
 いつも、ほのぼのとしたおもむきをたたえながら、内面に機知をわすれない。

 お互いに、たいした事を話題にするでもなく、ひたすら酒を飲みしこる。こうして、私は小川 茂久と三十年も過ごしてきた。そのことを人生の幸福と思っている。

         1977年11月23日(水)・

 快晴。無為。

 「毒物」について。しばらく勉強するつもり。
 たいへんな領域だと思う。(ずっとあとになって、このときの知識が「ブランヴィリエ侯爵夫人」を書くのに役立った。 後記)

 和田 芳恵さんのエッセイに、柴田 宵曲のことばがあった。

    私は五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むことにしている。学者や批
    評家が、長いあいだに、多くの作品を篩に書けているから、無駄な苦労をしない
    ですむ。

 和田さんは、柴田 宵曲の影響を受けたという。
 岩波文庫で宵曲を読んだだけだが、和田 芳恵さんのエッセイを読んで、あらためて読み直してみようと思った。
 できれば私も「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むこと」をこころがけようと思う。

         1977年11月24日(木)・

 快晴。ただし、寒い。
 国電ストは、6時半から平常に戻ったが、混乱は避けがたい。それにしても、国労、動労は、どうしてこういう無意味なストを打ち出すのか。

 昨日のロンドン、円相場は、1ドル=239円38銭。
 円相場は9月末から上昇をつづけ、10月6日に、260円。28日に250円。ここにきて、230円に突入した。
 国内の不況は、先月の、菅原君、小野君、内藤君、三人の話でもわかったが、これから日本はどうなって行くのか。

         1977年11月25日(金)・

 先日の登山で、めずらしく石井 秀明がバテた。どうやら風邪気味だったらしい。
 今は、私が風邪をひいている。手の肘、膝のうしろ、ヒカガミのあたり、痛いほどではないが、キヤキヤした感じ。

 「ビリ−・ザ・キッド」(サム・ペキンパ−監督)を見た。
 アウトロ−の世界に、奔放に生きて、最後にみずから進んで友人の手にかかる、「ビリ−・ザ・キッド」(クリス・クリストファ−スン)。一方、開拓者の時代の終わりを測々として感じながら、どこまでも旧友、「ビリ−・ザ・キッド」を追いつめて行く保安官、「パット・ギャレット」(ジェ−ムス・コバ−ン)の対決と友情の物語。
 ほんとうにいい映画だが、サム・ペキンパ−の映画としては、一昨年の「ガルシアの首」のほうがいい。こういうことは、短い映画評では、なかなかつたえられない。
 サム・ペキンパ−は、メキシコが好きで、多分、メキシコの女も好きなのだろう。「ガルシアの首」に、イセラ・ベガを出したように、この映画で、カテイ・フラ−ドを出している。「真昼の決闘」(フレッド・ジンネマン監督/1952年)のカテイは美女だったが、この映画では、中年のオバサン。女優として、いい年のとりかたをしている。
 音楽はボブ・ディラン。しかも、ボブは、この映画に出ている。芝居をしているわけではない。ただ、クリス・クリストファ−スンのそばに、ムスッとした顔つきで立っているだけ。それだけで存在感がある。

 できるだけ安静にする。しかし、夜になって、37度9分。

         1977年11月26日(土)

 連日、ドル安、円高がつづいている。日銀が介入して1ドル=240円。ここまで円高というのは、異常事態で、このままでは世界じゅうで円がスペキュレ−ンの対象になるおそれがある。

 中国。「人民日報」が、この21日に座談会をひらいて、茅盾、劉 白羽、謝冰心、李 李などが出席。ここでも――江 青たちは、劉 少奇批判を口にしながら、党指導の社会主義文芸路線を毛 沢東の思想と対立する反社会主義的なものときめつけたという。

         1977年11月27日(日)
 風邪のため、一日じゅう寝ていた。
 関節、とくに肘が痛む。発熱。本を読む気が起きない。

         1977年11月28日(月)

 「白鯨」を読みはじめた。
 田中 西二郎訳。田中さんが、署名して贈ってくださった。
 「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読む」つもり。


         1977年11月29日(火)

 しかし、ひどい目にあった。咳をすると、とまらなくなる。肋骨にヒビが入ったように、痛い。痰を吐いたあとも、ゼロゼロしたものが胸に残る。声が出ない。出ても、自分の声とは思えない。とにかく、ひどい目にあった。
 「小泉内科」で注射してもらった。
  原稿は何も書けない。
 「日経」の原稿だけは書いた。

 貧乏作家なので、ついつい雑文ばかり書いている。収入は安定しているので、いつまでもポット・ボイラ−をつづけなくていい。もう少し仕事をセ−ヴしよう。
 そろそろ、念願の大きな仕事にとりかかったほうがいい。

2019/03/22(Fri)  1799〈1977年日記 46〉
 
          1977年11月13日(日)

 レオポルド・ストコフスキ−が亡くなった。95歳。
 残念なことに、ストコフスキ−のレコ−ドをもっていない。だから、思い出のなかのストコフスキ−の演奏を思い出す。(ストコフスキ−が指揮したディアナ・ダ−ビンをもっていたはずだが、これも探し出せなかった。残念。)

 久しぶりで山歩き。
 「マリア」がいっしょなので、ぐっとレベルを落として、低い山を選んだ。相模湖から明王峠に出て、陣馬山というコ−ス。初歩のコ−スだが、相模湖から逆に歩くコ−スは、誰も通らない。あまり低すぎてつまらないが、誰も通らないだけに、ピクニックにはいい。明王峠から陣馬は、人が多いので、別のコ−スに。

 相模湖から、やや冷たい風が吹いてくる。あたりに人影はない。
 峠に出て、一服する。

 「マリア」は、落ちついた足どりでついてくる。何度か山歩きをつづけて、ハイキングの楽しさがわかってきたのか。

 途中で、姫谷に出ることにした。林道まで、たかだか1800メ−トル。だが、このコ−スも楽しかった。じつは、私の目的は、二色鉱泉だったが、休業しているというので、姫谷に変更したのだった。
 姫谷で、シカの刺し身、イノシシ鍋を食べた。
 「マリア」はひるまずに、イノシシ鍋をつついている。これまで一度も食べたことのないものでも、おいしい味はおいしいのだ。
 帰り、高尾で乗り換えたのだが、電車のなかで、思いがけず、知り合いに会った。以前、「あくね」にいた女の子だが、寺山 修司の劇団、「天井桟敷」の研究生だった。
 「ネスカフェ」のCMを歌っているマデリン・ベルに似たハスキ−な声。
 「マリア」を見て、
 −−先生、お楽しみね。
 もともと、青白い顔で、暗い影のある女の子だったが、すっかり健康な感じになっていた。今は幼稚園の保母さんになっている、とか。

         1977年11月14日(月)

 内村 直也先生、藤枝 静男さんから、「私のアメリカン・ブル−ス」受贈の礼状。
 藤枝さんは――埴谷 雄高さんの話では、サルバド−ル・ダリに、バルトロンメオ・ヴェネトの絵にわざわざ髭をつけて「自画像」と題した絵があると書いてきた。この絵は私も見たことがある。藤枝さんは、全集(「筑摩書房」)の月報に、ヴェネトとダリの絵を並べてみたい、という。
 内村さんは――(私がとりあげている)ア−サ−・ミラ−、テネシ−・ウィリアムズは、アメリカ現代戯曲の最高峰。これ以後の劇作家は完成品とはいえない、という。こういういいかたは、内村さんに特徴的なものだが、私の意見では、ミラ−、ウィリアムズ以後の劇作家にもすぐれた人はいるし、ウィリアムズにしても、もう完成した劇作家とはいえないと思う。

 テレビで、マニラのホテル・フィリピナス焼亡のニュ−ズ。これには驚いた。

 マニラ滞在中、このホテルに泊まっていた。マニラで知りあった、ス−サン、キテイ、名前も知らないオジイサンのタクシ−・ドライヴァ−のことを思い出した。

 マニラに行ったのもまったくの偶然だった。

――あなたは疲れているのよ。しばらく、旅行でもしてみたら。
    ある日、妻の百合子がいった。
 ――どこへ?
 ――行ってみたい場所よ。ひとりで。

 百合子がすすめてくれたのだった。
 当時、私は、ある週刊誌の仕事を終わっていた。これは、私のはじめての挫折といっていい。しばらく立ち直れなかった。つぎの仕事にとりかかる気力もなかった。そのくせ、毎日、雑文を書くのに追われていた。多忙だった。これは当時も今も変わらない。
 外国に行ってみよう、という衝動的な思いつきが、それからあとの、慌ただしい出発に結びついた。

 サイゴンに行った。この「旅」は私に大きな変化をもたらした。

 その帰り、マニラに向かった。

 当時、フィリッピンは、マルコス政権の時代で、ヴィェトナム戦争の影響を受けていた。フィリッピン全土は、ヴィェトナムとおなじように夜間外出禁止(カ−フュ−・タイム)だった。
 ある日、私は、松林につつまれたマニラ郊外のナイトクラブに行った。その帰り、カ−フュ−・タイムになってから、マニラのホテルに帰ることになった。パスポ−トをホテルに預けてあるので、戒厳令下のフィリッピンでは、外国人にはいろいろと不都合な事態が起きることも予想されたのだった。
 たまたま、老人の運転するボロ・タクシ−に乗った。途中、この老人とほとんど口をきかなかった。

 マニラ市街に入ってから、老運転手は、私の空腹を察したらしく、自宅に寄って何か食べさせてあげよう、といった。
 オジイサンの家は、平屋で、貧しい暮らし向きだった。コンクリ−トの三和土(たたき)に、机が一つ、木の椅子が二つ。これほど貧しい生活は――東京の、空襲で焼け出された当時の私の生活に似ていた。

 オジイサンは、クロワッサンとバタ−、コ−ヒ−だけの夜食をふる舞ってくれた。

 このとき、オジイサンは、戦争中のマニラで、日本軍が無差別に市民を銃殺したことを話してくれた。そのことばに、怒りはなかった。ただ、たんたんと、そうした事実があったことを話しただけだった。
 戦争の記憶は遠くなったにしても、マニラの市民たちのあいだでは、まだまだ反日感情が強いと聞いていた。
 しかし、オジイサンのことばに怒りはなかった。

 私は異国に旅をしていることで、考えが単純になり過ぎていたのかも知れない。土地の変化や、時の移ろいは、自分で想像する以上に、私の思考や意識を変化させているに違いない。そう考えると、無差別にマニラ市民を銃殺した日本の兵士たちの狂気を、この老人が私にむかって非難しても当然だった。
 しかし、オジイサンは、ただ、おだやかな口ぶりで、1945年にそうした事実があったと話しただけだった。この老人の話は私の内面にえぐりつけられた。
 人間の犯してきた愚行の、最悪の狂気も、この見知らぬ国の暑さの中で私がずっと見つづけてきた、いわば既知のもののようだった。

 翌日、私は、マニラからバギオに向かった。ここで、幼い少年たちと知りあったが、これも貧しい子どもたちだった。私は、この少年たちから、何かを教えられたような気がした。
 ホテル・フィリピナスのことから、いろいろなことを思い出した。

         1977年11月15日(火)

 ホテル・フィリピナスは全焼した。

 7階建てのビルには、窓が黒く焼けて、日の廻りが早かったことがわかる。悪いことに、マニラは、13日の夜から季節はずれの台風に襲われて、消火作業が遅れたらしい。死者、42人。

 午後1時半。「サンバ−ド」で、杉崎 和子女史に会う。杉崎さんは、アナイス・ニンの一周忌に会合をもつことになり、その準備にとりかかっている。このために「牧神社」の菅原 孝雄君に会うことにしたのだった。菅原君はなかなかこなかった。しびれを切らしてこちらから電話をかけた。やっぱり、約束の時間を間違えていたことがわかった。
 このときの話は、「アナイス・追悼」の会場、会費をどうするか。

 「あくね」。小川 茂久と飲む。お互いに話をするわけでもない。盃が空になると、酒を注ぐ。そのくり返し。
 思い出したように、小川がいう。
 ――「こんどの真一郎さん、読んだかい?」
 ――「読んだよ」
 ――「どうだった?」
 私は感想を述べる。小川 茂久は黙って聞いている。中村 真一郎は、お互いに少年時代からの知りあいなので、よく話題になった。「こんどの」というのは、その時期の「文学界」だったり、「群像」だったり、「そのときの」作品を意味する。
 しばらくして、小野 二郎が内藤 三津子女史といっしょにきた。私は、すっかり酔っていた。
 「あくね」のママが、しきりに内藤女史にからむ。こういうとき、私としてはほんとうに困る。どうしていいかわからないので。

           1977年11月16日(水)

ストコフスキ−が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。

 マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリの自宅で心臓発作で逝去。享年、53歳。

 私は、センチメンタルな男かも知れない。いや、センチメンタルな男なのだ。
 この日はマリア・カラスばかり聞いていた。

 夜、「マリア」から電話。その応対を百合子が聞いていた。
 彼女が私にひどくなれなれしい口をきくので、百合子が、
 「どうして、あんな口をきくのかしら」
 と、私をなじった。

           1977年11月17日(木)

 前夜から、風雨がつよい。雨は午前中も降りつづき、10時頃は、あたりが暗くなった。キンモクセイが全部倒れてしまった。可哀そうに。

 池袋、「西武美術館」で、「ソビエト映画 三大巨匠展」をやっている。
 ソヴイェトの映画は好きではない。しかし、見ておく必要はあるだろう。エイゼンシュタイン、プドフキン、もう一人は誰だろう?
 ついでに、ファッション・ショ−を見ようか。ニュ−・フォ−マルと毛皮のファッション・ショ−、ゲストに今野 雄二。これは、19日、1時と3時。

 池袋に行くのなら、すぐに山の帰り、ついでに「西武美術館」に寄ろうと考える。何でも登山に結びつけて考える習性がついている。池袋なら、秩父に行けばいい。
 久しぶりに単独行を考えた。

 いつも、グル−プで行動する。行き先だけは、当日の天候とにらみあわせて、私がきめる。あとは臨機応変に、みんなで意見を述べる。行き先はきまっても、現地に行ってから、きゅうにコ−スを変更することもめずらしくない。
 単独行の場合は、自分で何もかもきめるので、いつもより綿密にプランを考えることになる。

             1977年11月18日(金)

 小林 秀雄の「本居宣長」が出た。

 伊勢、松坂にあって、思想家として生きた本居宣長は、古典に、人生の意味を匡し、道の学問を究めた。小林 秀雄が、「新潮」に11年連載したまま、今まで出版しなかったもの。
 これは、ぜひ読んでおきたい。

 本屋に行った。
 棚に、「本居宣長」が並べてある。棚の前に、母子づれが寄って行った。母子の話のようすから、男の子は中学1年生らしいことがわかった。
 男の子は、どうしても「本居宣長」を読みたいと思った。ただ、自分では買えない値段なので、母にせがんで買ってもらうことにした。それだけのことだったが、もし私が、中学生だったら、母、宇免は「本居宣長」を買ってくれるだろうか、と思った。
 4000円の本である。中学生には、おそらく読みこなせない本とわかっていて、なおかつ、母、宇免は「本居宣長」を買い与えてくれるだろうか。
 宇免だったら、なんのためらいもなく、私にこの本を買い与えたに違いない。理由はまったく薄弱なもので、たとえ読みこなせない本とわかっていても、息子が読みたいといったのなら、即座に買い与えたに違いない。
 私は母に本を買ってほしいとせがんだことは一度もない。(子どもの頃の話。)欲しい本は自分のお小遣いで買って読んだ。その私が母に買ってほしいとせがんだのなら、たとえ自分の食事を抜いてでも買い与えてくれたと思う。

 その男の子は「本居宣長」を抱えてカウンタ−に行った。
 希望がかなえられた少年は顔を輝かせていた。

 私はこの母子の姿を見て胸を打たれた。いい光景だった。

 夜、「キャバレ−」(ボブ・フォッシ−監督)を見た。
 あらためて、ライザ・ミネッリに感心した。しかし、テレビなので、ラストはライザが「キャバレ−」を歌うシ−ンで終わっていた。映画では、カメラがステ−ジから客席に引くと、その客のなかに親衛隊の将校や、ナチのメンバ−がいる。それで、この時代の恐怖がまざまざと感じられる「演出」だった。
 テレビでは、それが全部カットされている。そのため、ただのミュ−ジカルのハッピ−・エンドに変わっていた。
 テレビでこの映画を見た人は、「キャバレ−」に、ハッピ−・ゴ−・ラッキ−なものしか見なかったにちがいない。

2019/03/16(Sat)  1798〈1977年日記 45〉
 
              1977年11月1日(火)
 「南窓社」に行く。「私のアメリカン・ブル−ス」が出た。
 出版の話があって、今日まで少し時間がたってしまったが、それでも「南窓社」の岸村 正路さんと出会えたことは、幸運としかいいようがない。彼の励ましや助言がなかったら、この本は世に出ることはなかった。

 できたばかりの「私のアメリカン・ブル−ス」を手にとってみる。装丁にジェ−ン・フォンダの写真を使ったが、思ったほどわるくない。うれしかった。自分で装丁して自分で満足しているのだから、世話ァねえや。

 岸村 正路さんが、モ−ゼルを用意してくれた。ありがたい心づくし。ほかの出版社で、本を出したとき、こんなおもてなしをうけたことはない。編集を担当してくれた松本 訓子、藤平 和良おふたりといっしょに乾杯する。おふたりにも心から感謝している。

 私がこの本を書いたのは、自分の好きな作家を選ぶことで、いちおう私の「アメリカ」にケリをつけたかったからだ。ア−サ−・ミラ−も、テネシ−・ウィリアムズも、自分の演出で上演できた。オニ−ルや、今のオフ・ブロ−ドウェイの劇作家たちも、いつか演出してみたかった。残念ながら、その機会はなかった。そして、演出家としての私のキャリア−は終わっている。それでも、これまで書けなかった問題をこの本で書こうとした。うまく書けたかどうかは別として。

 内村 直也、荒 正人、埴谷 雄高さん、庄司 肇さんに、「南窓社」から本を送ってもらう。いずれも、私にとっては大切な恩人なのだから。

 「ロ−タス」で待たせておいた「マリア」に、「私のアメリカン・ブル−ス」にサインして贈る。彼女も喜んでくれた。本を抱きしめて感激しているので、私までうれしくなった。

 「あくね」に行く。小川 茂久がいるので。
 小川は、私の本を見て、ケッケッケと笑った。小川はうれしいことがあると、いつもこんな笑いかたをする。
 ――装丁、いいねえ。きみの趣味だな。
 ケッケッケと笑った。

              1977年11月2日(水)
 昨日、一昨日と、暑いほどだったのに、今日は冷たい雨になった。

 たとえば、朝、化粧室に、貴婦人がいるとしよう。
 お侠なメイドが、なれた手つきで、マダムのお化粧にかかっている。奇抜なヘア−・スタイル。夫人のかたわらに、修道院長がひかえている。マダムの髪形や、ヴェ−ルについて、ご意見を申しあげる。と、化粧室のドアが開いて、マダムのお嬢さまが朝の挨拶に伺候する。(書いていて、コメディ−・フランセ−ズの舞台を思い出した。)

 こういう環境で成人するお嬢さまも、やがて結婚なさるわけだが、新婚カップルなのに、はじめからアンニュイに襲われて、夫との深いミゾを埋めることもできない。
 おそらく、ノン・オ−ガズミックな性生活のせいで、うつろな心に不満がきざしはじめる。
 家族の気まぐれに翻弄され、財産の所有権を、かりそめの幸福と引き換えた女性は、自尊心を傷つけられて、夫婦間の裂け目をますます大きなものにしてゆく。
 夢ふくらむ乙女心を無残に打ち砕いた夫を許せるはずはなかった。
 離婚もままならず、長い人生を鎖につながれて生きなければならなかった。ソフィ−・アルヌ−ルは、無邪気に、いったという。
 「離婚って、姦通の儀式なの?」

 かくて、ロココの姦通はまことに陽気なものになる。女たちは、いそいそとして姦通に走った。

 ただし、せっかくの楽しみも冷水を浴びせられることがある。

 妻に欺かれた夫が、妻の不貞にまったく無関心な態度を見せることだった。
 夫との性行為が、単純で、粗暴で、ほとんど動物的とさえ見える時代、ロココの女たちの結婚生活に、嫉妬という情念はほとんどあらわれない。
 女たちは喜々として姦通に走ったため、嫉妬心どころか、ほかの感情も入り込む余地がなかった。
 ロココの時代、レデイ・キラ−に対して嫉妬をあらわにすれば、貴婦人たちや、その取り巻きの詩人たちには、滑稽な気晴らしのタネにされるばかり。まして、寝とられたコキュと、みごとに首尾を果たしたオンドリが醜い争いをくりひろげたりすれば、世間の笑いものになる。
 セックスにおける「乱倫」とは、「コン」(ペニス)の強さのことであって、うっかり男に嫉妬すれば、夫のほうは「去勢」されたせいと疑われるのがオチになる。

 「嫉妬は、女を疑うことではなく、おのれを疑うことなのだ」と、バルザックはいう。

 この時代、自分の妻ひとりを愛するような男は、ほかの女たちをそそのかして足を開かせる甲斐性がない、と嘲笑される。
 利口な夫たちは――自分の性的な能力を妻にまで嘲笑されるのは困るので、妻の行動を束縛して、世間から遮断したりはしない。妻が他の男の口説きに屈して、裸身をさらしても、そういう男を相手に快楽にふけることこそ、洗練された妻のありかたなのだと自ら納得してみせる。
 じつのところ、妻の貞節などはじめから信用していないため、妻の不実を知っても、笑いとばすのが男の甲斐性だった。
 ただし、そういう夫にとって、我慢ならぬことがある。
 自分の妻が他の男と通じているのはかまわないが、相手の男の前に別の女性があらわれて、突然、妻が捨てられるような事態、となれば由々しきことになる。夫婦のプライドが傷つけられたことになるからだった。
 少なくとも夫婦のプライドに汚点をつけようとする、陰謀のようなものになる。
 ド・スタンヴィル夫人は、粗暴な夫に蹂躪されていたため、姦通に走ったが、夫の陰謀にたばかられて、相手の男を別の女にさらわれたため、修道院に身を沈めなければならなかった。

 いつか、こういう時代の姿を描いてみたいのだが。

              1977年11月3日(木)
 さわやかな秋晴れ。
 午前中、「ロ−ドショ−」の原稿、「私の青春と映画」を書く。

 午後、池袋に。
 「西武」9階。「短波放送」の生番組。森 敦、赤塚 行雄のおふたりに会う。

 番組は低俗なものだが、久しぶりに赤塚 行雄さんと話をするのが楽しかった。赤塚君は、私と同年代の批評家だが、「文芸」の会で、坂本 一亀に紹介された。
 森 敦さんとは、別のテレビにつづけて出たことがある。「月山」以後ずっと沈黙している作家だが、ようやく小説を書く気になっている、という。

 この放送の現場に、安東 由利子、工藤 敦子、中村 継男がきてくれた。中継放送なのに、仲間の誰も応援にこなかったら、中田先生が可哀そうだから。
 ある時期の私は、放送作家として「短波放送」で仕事をしていた。「短波放送」のスタッフには顔見知りも多い。中村君たちは、そんなことを知らないので、この中継の応援に駆けつけてくれたのだった。

 放送を終えて、安東、工藤、中村といっしょに、「西武」で「バ−ナ−ド・リ−チ展」、「コ−カサス展」を見た。

 池袋の雑踏を歩く。木曽料理の店があった。ここで、ドジョウの地獄焼き、カエルの塩焼き。女の子たちはこわがって食べない。

 「山ノ上」。私は、まだ仕事が残っている。
 連載を書きはじめた。渡辺 晃一君がきたのは、9時半。しばらく待たせた。いつもなら、露骨にいやな顔をしてみせるのに、めずらしく、神妙な顔で待っていてくれる。
 明日、「国労」がストライキに入るので、どうしても今夜じゅうに原稿をしあげてほしい、ということらしい。「国労」のストライキは私の連載にまで影響している。
 予定より、30分遅れで原稿を渡してやると、渡辺君は礼もそこそこで帰って行った。
 とにかくやる気のない、新しいタイプの編集者である。

              1977年11月5日(土)・
 今日は、私の祝日。

 安東 由利子、工藤 敦子、甲谷 正則、石井 秀明、宮崎 等たち。私のファンというか、グル−ピイ。みんな、いい仲間なのだ。

 庭に穴を掘って、火を起こす。バ−ベキュ−。
 みんな、こうしたパ−ティ−ははじめてだが、作業としては山で食事を作るのと変わらない。
 百合子が、2,3人をキッチンにつれて行って、用意した肉や、ビ−ルなどを運ばせる。ほかの連中は、どやどやとバ−ベキュ−・セットに寄ってきた。
 そのあとも、ぞくぞくと仲間たちが集まってきた。百合子は、みんなに挨拶したり、つぎつぎにグラスを渡してやったり、忙しそうに立ち働いている。

 はじめの1時間ほどは、仲間たち2,3人が、ひとところにかたまって、ビ−ルを飲んでいるが、そのうちに三々伍々に離れて、庭に出たり、応接間に陣どって、わいわい話をしたり、応接間のテ−ブルに皿や、ナイフ、フォ−クをならべたり。

 ネコたちは、みんな別棟の部屋に閉じ込めたのだが、中田先生ンチのネコに挨拶しようというので、中田パ−ティ−はもとより、来あわせた連中まで、どやどや押しかける始末。
 この日、中田家の混雑はたいへんなものになった。
 パ−ティ−にきてくれた諸君は、お互いに知らない人が多いし、どういう目的の集まりなのか誰も知らない。人数も、どんどんふえてきた。
 百合子は、女主人として、若い人たちみんなにテキパキ指示して、全員に飲み物が行きわたるようにしたり、所在なさそうな女の子をみつけると、すぐに寄って行って話かけたり、けっこう、気苦労の絶え間がない。

 この日は、まるで劇団の打ち上げになった。
 はじめのうち、よそよそしさが残っていたにしても、みんながすぐにうちとけて、語りあい、笑いさざめいていた。みんな仲間どうしという感じで、年齢差もなくなって、わいわいやっている。

 ビ−ル、ウィスキ−、日本酒をたくさん用意したのだが、どんどんなくなっていった。

 「さ、みなさん、遠慮しないで、召し上がってね」
 百合子がいうと、女の子のひとりが、
 「ほら、奥さまのすわるところを開けて、おとりもちしなきゃ」
 などという。
 ビ−ルに酔った学生が、
 「先生、イイよ」
 何がいいのかわからなくなっている。なんでも、イイよ、で間にあわせる。

 いろいろな人がきてくれた。お互いに知らない相手も多いのだが、みんなが肉を焼き、ビ−ル、ウィスキ−を飲んで、楽しく談笑する。私のグル−プでは、安東ひとりが残念ながら欠席。

 網に乗せた肉やサカナをひっくり返したり。別に用意しておいたお寿司や、フライドチキンも、どんどん追加して行く。30人以上もきてくれたのだから、予定した食べ物だけでは間に合わない。
 百合子も、バ−ベキュ−・セットだけでは間に合わず、別に七輪を出して、吉沢君が火をおこす。いい感じのオキ火に金網をのせて、イカや貝類を焼いたり、野菜を焼いたり。

 音楽も流れている。誰かが、勝手に私のレコ−ドをかけている。
 パ−シ−・フェイスが流れたと思うと、マントヴァ−ニ、そのつぎに、ビリ−・ヴォ−ン、フィンツィ・コンティ−ニ、むちゃくちゃな選曲だった。

 ひたすら楽しいパ−ティ−になった。
 あとで、かんたんな挨拶をする。
 ・・・今日は私の誕生日。私は、50歳になった。今日は、その記念のパ−ティ−なん
    だ。
 ・・ みなさん、きてくれて、ありがとう。心から感謝している。

 私は50歳になった。もはや、若くはない。というより、初老期に入ったというべきだろう。これから、まだどのくらい生きていられるかわからないが、できるだけ長生きして、もの書きとして、自分の世界を作りあげていきたい。

 いくつかの仕事はできると思う。
 しかし、私がほんとうに望んでいるのは、自分がいつも考えている仕事を越えた仕事をしたい、ということなのだ。

              1977年11月6日(日)
 昨日のパ−ティ−は、みんなが終電までに帰途についたが、あと始末はまだだった。
 キッチンには、ビンや食器などが散乱している。応接間にも、いろいろなものが残されている。百合子ひとりであと片付けするのはたいへんなので、あとで私も手つだうつもりだった。

 お昼近く、安東、鈴木のふたりがきてくれた。これにはおどろいたが、ほんらいなら、このふたり、まっさきにきてくれるはずだった。しかし、仕事で、青森に出張したため、残念ながら欠席したのだった。
 百合子が、すぐに軽い食事を用意して、ふたりにふる舞った。あとでふたりが片づけものを手つだってくれたので、あっという間に、食べものの残りの始末がついた。

 安東たちが帰って、ようやく静かになった。

 百合子が、あらためて私の誕生日を祝ってくれた。

 こんなパ−ティ−をやったのも、私がもの書きという自由業で、時間を作ろうと思えばいくらでも作れるからだった。パ−ティ−にいくら費用がかかったか、私は知らない。百合子が、みんな切り盛りしてくれるので。
 費用はかかったが、どこかのレストランを借り切ってパ−ティ−をするほど、贅沢をしたわけではない。

 深夜、12チャンネル。「汚れた顔の天使」(マイケル・カ−テイス監督/38年)を見た。ジェ−ムス・キャグニ−、パット・オブライエン。ハンフリ−・ボガ−ト。たまには、こういうクラシックも見ておいたほうがいい。今回、気がついたのだが、女の子はアン・シェリダン。戦時中、「ウムフ・ガ−ル」として、人気のあった女優。

              1977年11月7日(月)
 女のSEXが、凌辱と、暴力と、支配の対象とされてきた時代。女たちは、思いがけない手段で、抵抗する。
 ロココ時代の姦通。夫には、妻とその愛人の「関係」を邪魔だてする権利さえあたえられていない。
 女の姦通は、この時代の女たちの暗黙の了解事項といってもよい。
 マリヴォ−は、宰相、リシュリュ−の行状から、この時代の性について、夫はどうしても、非常識なやりかたでしか妻を愛せないという偏見に言及している。
 妻を寝とられた夫といえども、その事態が避けられない場合は、それなりに姦通を認めると論じている。

 姦通の当事者の仲がこわれる。性的な快楽、とくにオ−ガズミックな享楽を得ている夫は、ぶざまなコキュという汚名を避けるために努力する。
 一方、妻に粗末な食事をさせたり、食事制限を課したり、はげしいダンス・レッスンを命じて、若妻の肉欲を弱めようとする。
 夫がつねに気をくばっていれば、「長椅子の戯れ」まで、つまり姦通までは、そう簡単に発展しない。夫婦にとって、肉体的にもっとも魅力的な状態になれば、寝室への距離もバランスよくとれる。
 最愛の女性の褥で休むとき、ナイトキャップを耳の上まで引き寄せるような、無粋なまねをしないですむ。
 結婚が無事につづけられるためには、妻の貞節こそが秘訣と、夫に確信させること。そのためには、慎重に、自分の考えにしたがって妻を教育し、気くばりをする必要がある。妻の女心をきずつけて、ワインに酔いしれて、一家の主に反抗することのないように。

 妻に余暇を楽しませるためには、妻が望んで出産した子どもを妻に抱かせるべきである。そうすれば、誇り高い母性の女は、一家の名誉を守ろうとするから。
 妻の愛人が登場しても、夫は巧妙に罠を仕掛け、男に好き勝手なふるまいをさせておいて、いざというときは、男を一敗地にまみれさせるがいい。
 一度でも、妻が愚かな行為をして、夫からは得られないはげしい官能の喜びにむせび泣くような関係になったら、妻の内部には得体の知れない怪物が侵入し、とり返しがつかなくなる。

 かるはずみな結婚が、この時代の風潮になり、姦通が流行した。
 あたらしい恍惚を得るために、ひとりの女性に自分の一生を捧げるなど愚の骨頂。
 この世紀には、幸せな結婚を実現した例は非常に少ない。

              1977年11月8日(火)・
 ロココの世紀に幸福な結婚がなかったわけではない。
 ボヴォ−公爵。愛情豊かな結婚の例で、姦通肯定のイデオロギ−がまかり通っていた時代に、さまざまな危機を乗り越えて、ゆたかな絆が作られて行った。
 ベルウィク元帥は、初婚の妻が心をこめて贈った銀の小筐を、終生、肌身離さず持ち歩いた。
 アカデミ−会員、ソ−ル夫妻の愛情は、はるか後年の世紀の夫婦愛そのものといってもいい。
 ロココの結婚倫理には、うつろな穴が絶望的に開いていた。

 佐々木 基一さんのエッセイが眼についた。

    さきごろ、深夜叢書社から出た「「近代文学」創刊の頃」と題する文集のなかで
    、信州飯田の軍需工場で終戦を迎えたときのことを久保田 正文が書いていて、
    「山道を下駄で下りながら、たちまち肚の底からの笑いが、自ずから私をおそっ
    てきた。ひと一人通らぬ、真夏の真昼白い光のなかであった」という箇所が妙に
    心にのこった。「まさに、哄笑というほかないあの笑いを、私は忘れることがで
    きない。それ以前にも、それ以後にも経験したことのないものとして今も心に刻
    んでいる」と久保田 正文が付け加えて書いている。そのような”哄笑(こうし
    ょう)”の中身は、おそらくあの日を体験した者にしかわからぬものであろうし
    、またいつふたたび警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えた
    者にしか分からぬ笑いだろう。

 私は、「近代文学」創刊の頃に、もつとも早く「近代文学」の人々と知りあった。この「「近代文学」創刊の頃」に、埴谷 雄高さんから執筆を依頼されていたのだが、私は書かなかった。じつは書こうとしたが、何も書けなかった。

 私もまた、終戦の日に、哄笑とまではいかないが、心から笑ったことを忘れない。
 少年だった私は、警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えたわけではなかった。ただ、戦争が終わったという、かぎりない解放感のなかで、心ゆくまで笑ったひとりだった。
 その笑いは、あの日を直接体験した者にしかわからぬものになっている。

 「近代文学」のなかで、佐々木 基一さんは、私に大きな影響を与えた批評家のひとりだった。久保田 正文さんとはほとんど交渉がなかったが、それでも短詩形の文学に関心をもったのは、久保田さんのおかげといっていい。

 私は、すぐれた先輩たちに教えられ導かれて、やっとここまでたどりつくことができた。そのことはけっして忘れない。

2019/03/13(Wed)  1797〈1977年日記 44〉 
 
          1977年10月25日(火)

 短編を書いた。

 もう10年も前の話。
 当時、「読売」で、大衆文学時評をはじめた。これは、文化部の高野 昭さんの企画で、佐々木 誠さんが担当した。
 このコラムで、「ハヤブサ・ヒデト」というペンネ−ムを使った。
 高野 昭さんも佐々木 誠さんも、このペンネ−ムについては異議を唱えなかった。おそらく、「ハヤブサ・ヒデト」について何もご存じなかったと思われる。
 ハヤブサ・ヒデトは、戦前の「大都映画」のアクション・スタ−で、連続活劇が専門だった。少年たちは、悪人たちを相手に戦うヒ−ロ−、「ハヤブサ・ヒデト」の活躍に胸を躍らせたものだった。「恋人」は、「大都映画」の美少女、佐久間 妙子ときまっていた。私は、後年、「忍者アメリカを行く」という愚作を書いたが、その主人公を「隼 秀人」と命名した。自作のなかで、少年時代のヒ−ロ−を登場させたかったからだった。
 ある日、佐々木さんから、一通の手紙が回送されてきた。
 読者からの手紙だった。鉛筆で書かれたものだった。

    前略
    3月7日夕刊、”大衆文学時評”、ハヤブサ・ヒデト氏は本名は何と言われる人
    でしょうか――おさしつかえなければ御知らせ頂ければ幸甚です。
    私――戦中、映画、自作自演、自監督をしたことあり、その頃のペンネ−ムと
    同じものなので、何か、かつての私と何等かのかかわりのある方なのか――と
    思ったりして妙にひっかかるものを感じますので――
    右お願いまで
    二月八日                   広瀬 数夫

 私は驚いた。
 ハヤブサ・ヒデトは、もう、亡くなったとばかり思っていたから。かつての活劇スタ−が生きていて、私の「ハヤブサ・ヒデト」の書いている「大衆文学時評」を読んでいる!
 しかも、住所は、埼玉県小川だった。

 埼玉県小川町は、私の母が、幼い少女だった頃、貧しい暮らしをしていた土地だった。そして、ハヤブサ・ヒデトの本名が広瀬 数夫と知って、これにも少し驚かされた。私自身が「広瀬 たけし」というペンネ−ムを使って、雑文を書いていた時期があったからである。

 私は、すぐに返事の手紙を書いた。
 少年時代に、ハヤブサ・ヒデトのシリ−ズのファンで、毎週、かならず見に行ったこと。批評家になってから、大衆文学批評を書くことが多くなって、「読売」が、新設したコラムに、私を起用してくれたこと。そのとき、私にとって貴重な「ハヤブサ・ヒデト」の名をペンネ−ムに選んだこと。
 この手紙で、本名を明かしたわけではない。手紙を読んだあと、どうあっても私の本名を明かせというのなら、よろこんで明かしたい、と書いたのだった。

 広瀬 数夫さんから返事はなかった。
 昭和初期に、自分の活劇に夢中になっていた少年が、大衆文学批評を書いていることに、なにかしら、くすぐったい思いがあったのではないか、私はそんなことを想像した。

 1969年のことだった。

 ハヤブサ・ヒデトは、翌年に亡くなったはずだが、よくは知らない。ただ、この大衆文学時評をハヤブサ・ヒデトが読んでくれている、と思いながら書いたのだった。


             1977年10月27日(木)

 作家、稲垣 足穂が亡くなったという。知らなかった。

 「山ノ上」。「IDA」、井田 康雄君が教えてくれた。
 このとき、「青春と読書」を受けとった。先日会ったリチャ−ド・バックのインタヴュ−。これは、録音を終えたあと、「山ノ上」に入って、徹夜で書いたものだった。
 自分でいうのもおこがましいが、いちおうよく書けていると思う。

 安東夫妻と、先日の高畑山の思い出を語りあいながら飲む。
 Y.T.は、山登りが好きになったらしい。石本に、小説の原稿をわたして、Y.T.を送らせる。
 残ったメンバ−を、三崎町の「平和亭」につれて行く。最近、「徳恵大曲」という中国酒が気に入っているので、みんなにふる舞うつもりだったが、これがなかった。別の酒を飲んだが、白乾児に似た味でがっかり。

             1977年10月28日(金)

 「素顔のモンロ− アンドレ・ド・デイ−ンズ展」 を見た。
 マリリンが19歳のときから、4000枚も撮影した写真のなかから、初期のノ−マ・ジ−ン時代、モデル時代、私生活など、初公開の写真、60点。
 渋谷「西武B」。今日まで。

 19歳のマリリンは、写真家、アンドレ・ド・デイ−ンズとどういう関係だったのか。むろん、こうしたことに関する資料はない。もっと露骨にいえば、19歳のマリリンはド・デイ−ンズとSEXしたのか。
                                      
 ド・デイ−ンズのマリリンは、彼のカメラがマリリンのエロスをどうとらえているかにあらわれている。ド・デイ−ンズは、数年後にマリリンが、アメリカを代表する映画スタ−になるとは夢にも思っていなかったはずだか、この19歳のマリリンは、すべてが無邪気なハイティ−ンなのに、すでにしてセックスだけで生きている女なのだ。
 この「マリリン」は、生命力であり、活力なのだ。

 戦時中に、陸軍の報道カメラマンに撮影されているが、そのとき、「マリリン」はこのカメラマンとSEXしている。
 モデルになっていた「マリリン」が、ド・デイ−ンズとSEXしなかったとは考えにくい。「素顔のモンロ−」には、いわば、ド・デイ−ンズと私たちが「マリリン」の秘密を共有しているといった親密な雰囲気がただよっている。


             1977年10月29日(土)

 見たい映画。「マルタの鷹」。これは東京12チャンネル。
 あまり見たいと思わないもの。「ソヴイェト名作映画祭」。むろん、見ておいたほうがいい映画――「アンナ・カレ−ニナ」、「カラマ−ゾフの兄弟」。


             1977年10月31日(月)

 宝塚、11月「雪組」をみるか、暮れの「花組」、春日野 八千代を見るか。

 オスカ−・ワイルドはいう。

    快楽のために生きてきたことを、私は一瞬たりとも悔いはしない。私はこころゆ
    くまで味わったのだ。人はそのなすべきことをすべてなすべきであるように。
    私の経験しなかった快楽などあるはずもなかった。

 私は、こういい放ったワイルドにさして羨望を感じない。

 おのれの行状をこうまでみごとに裁断するワイルドには敬服するほかはないが、私自身は、おそらくわずかな快楽すら経験せずに生きてきただけのような気がする。
 たとえ、わずかばかりの快楽のために生きてきたとしても、私は悔いない。

2019/03/04(Mon)  1796〈1977年日記 43〉
 
           1977年10月17日(月)

 朝、近くの「石橋商店」のお内儀さんがきて、表の道路でネコが死んでいます、と知らせてくれた。悪い予感が走った。

 すぐに行ってみた。わが家の飼いネコ、チビが死んでいた。名前こそチビだが、その前に生まれたマックに劣らないほど大きくなってしまった。しかし、私が可愛いがっていたネコだった。

 車にハネられたことは歴然としている。左の目がとび出していた。その血が凝固して、目の回りが黒っぽくなっている。それ以外に出血してはいなかった。どういう状況で死んだのか。
 よく見ると、目がとびだしているだけで、左の側頭部に血がひろがっていた。
 あまり醜い死にざまをさらしていない。
 可哀そうに。

 死体をすぐに処分しなけれはならない。少し考えて、玄関先から右、ツタの近くに埋めてやることにした。
 土を掘っているうちに、涙が出てきた。
 ほんとうに可哀そうなことをした。日頃、可愛がっていただけに、こんな死にかたをしなければならなかったチビが不憫だった。
 それにしても、これまでイヌやネコを何度葬ってやったことか。それぞれのイヌやネコには、私が可愛がってやった思い出が残っている。

 ある日、北 杜夫が私に、
 「生きものは飼いたくない。死なれるとつらいので」
 と語ったことを思い出す。


          1977年10月18日(火)

 「ガスホ−ル」で「がんばれベア−ズ特訓中」(マイケル・プレスマン監督)を見た。シリ−ズの2作目。つまらない映画だった。
 いろいろな理由が考えられるが――「がんばれベア−ズ」がもっていた社会批判が消えたことが、この映画をつまらないものにしている。
 ダメな監督に率いられたダメなメンバ−でも、全力を尽くせば、決勝まで進めるのだ、というテ−マ。これは、「がんばれベア−ズ」のヒロイズムだが、ヴェトナム戦争後に傷ついたアメリカ社会の縮図だった。
 ところが、この「特訓中」は、そのテ−マがスッポリ消えている。
 もっといけないのは、主人公の少年と父親の対立が、ホ−ムドラマめいた感傷になっている。このあと、シリ−ズの3作目は、いよいよ少年野球の日本遠征となる予定だが、こんなものがいい映画になるはずがない。
 時間があるので、「風に向かって走れ」(ウィリアム・グレアム監督)を見るつもりで「松竹」に行った。ところが、「悪魔の生体実験」という映画の試写だった。見にきていたのは、ほんの2,3人。ナチの女囚強制収容所を描いたもの。サディズムとエロティシズムを売りものにしているが、どうしようもない映画。
 「山ノ上」、「三笠書房」の三谷君。
 講義。お茶の水近くで、中田パ−ティ−のメンバ−と会う。話題は、先日の武尊山のすばらしさ、沼田で中田先生とはぐれたこと。


            1977年10月19日(水)

 西ドイツで起きたハイジャック事件。武装した特殊部隊が出動してテロリスト全員が射殺され(1名は重傷)、人質は救出された。
 この事件の対応が、先日の「日航」のハイジャック事件と比較されている。5日間もねばりづよく時間を稼ぎながら、ぎりぎりのところで特殊部隊を送り込み、人質の救出を敢行した西ドイツ当局を称賛する。
 ハイジャックを自力で処理するため、警察が特殊なコマンドを用意することを急務とする声がひろがる。わが国でも、テロ対策はきびしくなるものと予想される。


          1977年10月19日(水)

 今夜は、「ドクトル・ジバゴ」(ディヴィッド・リ−ン監督)をやるので、見ておきたいと思う。

 夜、6時、「千葉日報」の遠藤君が迎えにきてくれた。
 川井、「倶楽部泉水(いずみ)」で話をする。このクラブは会員制で、千葉のエリ−トが利用するらしい。この「泉水(いずみ)」は、田舎の庄屋の邸を改装した和風の屋敷で、明治天皇が少憩した由緒ある倶楽部という。私の「お話」は、ルネサンスについての講話のごときもの。
 きっと、みなさん、退屈なさったんじゃないかな。


             1977年10月20日(木)

 芸能界をゆるがしているマリワナ騒ぎ。
 海老坂 武のエッセイ(「文芸」11月号)によれば、フランスでもマスコミで反麻薬キャンペ−ンがひろがっている。その底流には、高齢化社会の自己防衛本能としての若者差別がある。「不可解なものを排除しようとする憎悪の分泌液だけが紙面ににじみ出ている」とか。
 マリワナの流行は、5月革命以後の目的喪失と社会への不快感、異議申し立てにほかならない。昨年、200人の知識人が――麻薬(マリワナ)を使用しただけで犯罪視することに反対し、マリワナの非処罰を要求する声明に署名したという。
 こういう機運は、わが国にはあらわれない。
 しかし、井上 陽水、研 ナオコ、内藤 やす子、美川 憲一、にしきの あきらといったシンガ−たちの逮捕は、どう見ても贖罪羊にされたとしかいいようがない。


            1977年10月23日(日)

 あさ、6時40分、新宿。女子学生、2名が待っていた。ふだん、声をかけたこともない女の子なので驚いたが、参加してくれたのはうれしかった。国井、岡安の2人。登山らしい登山の経験はないという。そのあと、小林、古屋の2人。けっきょく、11名。甲府行き。
 予定変更。ハイキング程度の山歩き。鳥沢で下りて、高畑山に向かう。小さな山なので、休日でも誰も登らない。それでも、家族づれ(3人)と、ハイキング・グル−プに出会った。

 長い山道を歩き、小高い岡の裾を回ってゆく。道は徐々にせりあがってゆく。道の両側から延びた灌木の枝をよけながら通り抜けると、意外にひらけた場所に出た。エメラルドに輝く秋空。
 ほかのパ−ティ−はいない。ザックをデポしても大丈夫と判断して、倉岳山をめざした。
 山は低かったが、楽しいハイキングになった。

 新宿に戻ったのは8時半。

 大畑 靖君の「ミケ−ネの空は青く」の出版記念会に向かった。残念だが、間にあわなかった。二次会の「二条」で、大畑君に会う。私がザックを背負っているので、大畑君も、遅参を許してくれたらしい。
 昔、「東宝」の脚本部にいた、松下某が、私を見て挨拶に寄ってきた。私が「東宝」で仕事をしていたとき、表面はにこやかだったが、蔭にまわって、さんざん私の悪口をいいふらしていた人物だった。
 こういう策謀家(ストラジスト)を私は憎んでいる。


            1977年10月24日(月)

 「カプリコン 1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)を見た。朝、9時からのホ−ル試写なのに観客が多い。SF。試写の反応によって、クリスマスに公開するらしい。
 火星宇宙船、「カプリコン 1」の発射直前、宇宙飛行士、3名が極秘裡に、砂漠の秘密基地に移される。宇宙船「カプリコン 1」ののロケットに故障が発見されたため、NASAは、宇宙飛行士たちに火星着陸の演技をさせようとする。ところが、無人の「カプリコン 1」が帰還の途中で爆発したため、こんどは宇宙飛行士、3名の存在が邪魔になる。エリオット・グ−ルド主演。

 「松竹」に行って、「風に向かって走れ」(ウィリアム・A・グレアム監督)を見る。これは西部劇。
 逃亡インデイアンをとらえる騎兵隊の暴虐を知ったガンマンと、騎兵隊から逃げてきたインデイアンの娘のほのかな愛情。しかし、騎兵隊の追求の手が延びて、娘は暴行され、自殺する。

 もう1本、「ランナウェイ」(コ−リ−・アレン監督)。
 これは、禁酒法時代。大手の密造組織が、零細な密造者をつぶしにかかる。これに一匹狼の密造人が立ち向かう。デイヴィッド・キャラダイン主演。
 一日に3本も試写を見ると、さすがに疲れる。

 いつまでもこういう生活をつづけるわけにはいかないな。

2019/02/21(Thu)  1795〈1977年日記 42〉
 
                1977年10月8日(土)

 午前6時45分、上野から水上に。
 安東夫妻、鈴木、石井、甲谷、妹尾のメンバ−。
 上州武尊山。

 日本武尊(やまとたける)の伝説に、ふさわしい、荒涼とした土地がつづく。たいした山ではないのに、山の麓をぎっしりと赤松の林がとり囲み、ススキの原を出ると、深い竹のヤブになっている。やがて、そのヤブのなかを、わずかに、人ひとりが通れるほどの小経が、大きな岩に向かって伸びている。クサリ場だった。
 途中、小さな水たまりにぶつかった。池というほどの大きさでもない。周囲を草がとり囲んでいる。地下水がにじみ出して、自然にたまった水たまりとしかいいようがない。水は濁っていて、魚がいるはずもなかった。
 私がその水たまりを通り抜けようとしたとき、どろりとした水が動いた。思わず、足をとめた。その水が動いた。何かが生きている。よく見ると、その水の大きさの生きものが、ひそんでいた。
 サンショウウオだった!
 まさか、武尊山にサンショウウオがいるとは思わなかった。私の見間違いかと思った。水が濁って見えたのは、サンショウウオの肌の色のせいだろう。こんなわずかな水たまりに、もう一尾、サンショウウオがひそんでいる。
 私は、すぐに離れた。私が驚いた以上に、サンショウウオのカップルも、ときならぬ足音に夢を破られたにちがいない。
 ほかのメンバ−は、この水たまりの棲息者に気がついたかどうか。

 秋の上州武尊山は、すばらしかった。全山、紅葉というか、錦綉というか、ただ、すばらしいとしかいいようがない。強く傾斜したコ−スには、枝をひろげた木の落とした黄褐色の落ち葉が積もっていて、登山靴の下で音をたてている。
 武尊山は独立峰だが、登山コ−スにはいくつもピ−クがつらなっている。ピ−クを過ぎるたびに、もはや彼方にはなれた山脈(やまなみ)は、いちめんに紅(くれない)と黄に染められていた。
 夕方、避難小屋に泊まった。狭い小屋に、登山者がつめかけるのだから横になるのもむずかしかった。小屋のリ−ダ−は、安東が仕切った。つぎつぎにみんなの居場所をきめてゆく。あとから着いたパ−ティ−を入れてやったり、みんなに、場所を割りふったり。
 こういうことにかけては、安東の右に出る者はいない。

 しらしらとした地平線の彼方に、太陽が頭を出しかけている。朝靄(モヤ)がその前にひろがっている。私はふるえた。なんという厳粛で、しかも透明な朝だろうか。
 私は、余りよく眠れなかった。狭い小屋にぎゅうぎゅう詰めだったし、まだ、コースは続いている。メンバ−のなかに、体調を崩している者はいないだろうか。そんなことが頭から離れなかった。

 ただ、ひたすら歩いた。

 夕暮れもまた、厳粛で、私のつまらない一日の終わりが、こうした荘厳さでしめくくられようとしている。このために、私は山を歩いている。
 バス停にたどり着いたときはもう暗くなっていた。
 私たちは、下山したあと、温泉に入る習慣なので、このときも温泉でしばらく休憩する予定だった。
 ところが、温泉宿は休業していた。もう一つ先に宿があるはずなのに、これも見つからない。
 やむを得ない。川湯温泉まで歩くことになった。

 やっと、宿にたどりついて湯に入った。湯船に落ちる湯がチョロチョロと音をたてている。宿は、私たちだけでひっそりしていた。

 このあと、またしても思いがけないハプニング。
 沼田で、みんなとはぐれてしまった。みんな乗車したことは間違いないのだか、たいへんに混んでいたので、私ひとりが別の車両に乗ったらしい。
 上野まで立ちんぼ。たまには、こんなこともあるさ。


                 1977年10月10日(月)

 今日は、フジ・テレビで「ショック療法」(アラン・ドロン)を見ようかと思ったが、本を読む時間がなくなるのであきらめた。

 ス−ザン・ジョ−ジの映画を見ているうちにロココの時代の、いとも天真爛漫な姦通を思い出した。姦通は、すべての階級に共通する特質だった。
 世間の女たちから、羨望のまなざしを向けられるような貴族の特権だった。宰相、リシュリュ−は姦通に対して警戒の眼をむけた。(「三銃士」を読み直そうか。)
 それでも、旺盛な精力を誇示して、「好色家」としての評判を高めたいために、富裕なブルジョアたちは、多額の黄白をつぎ込んだ。

 当時の結婚観。

 「結婚式は、仮装するのが目的で、結婚生活に入る前に、らんちき騒ぎをしてみせる喜劇なのだ。」

 姦通を、ロココの芸術の一様式にまで高め、いわば時代の寵児に祭りあげた理由はいくつかある。
 若い娘たちは、早くから修道院に送られて、ここでの教育に世間から遮断される。娘たちはあくなき好奇心をもって、早い時期から性的な快楽に、抑えきれないあこがれをつのらせる。修道院の娘たちは、異性と対面する機会もない。
 (モリエ−ルの「女房学校」を読み直すこと。)
 やがて、娘たちは、ほとんどなじみのない実家につれ戻される。
 このときから、娘たちは、はじめて男に紹介されるが、例外なく年配の男ばかり。
 ほどなくして、黒服を着込んだ男たちがやってくる。花が届けられる。四輪馬車がやってくる。あれよあれよという間に、婚礼の祝宴ということになる。
 飲めや歌えの大騒ぎがすんで、ただもう放心状態の花嫁を、付添い女が、犠牲(いけにえ)をささげるように、初夜の褥(しとね)に導く。
 こうして、落花狼藉、ということになる。

 7日夜、東ベルリン、アレクサンダ−広場で、暴動が起きた。これは、24年ぶりの反ソヴィェト暴動で、ホ−ネッカ−政権はむずかしい対応を迫られることになる。
 東ドイツのADN(通信社)のつたえるところでは、少数の「やくざ」が起こしたもので、負傷者が出たため、警官隊が出動して、この「やくざ」たちを拘束したという。
 西ベルリンの目撃者の話では・・・約1000名の若者と警官隊が衝突、負傷者が出たほか、広場付近の建物の窓ガラスなどが壊された。ソヴィェト軍の将校が通りかかったため、若者たちは、「ソヴィェト、帰れ」の合唱を浴びせたらしい。
 西ドイツの日曜新聞、「ビルト・アム・ゾンタ−ク」は、約1000名の若者と数百名の警官隊が衝突、約100名が検挙された。しかも、多数が負傷したとつたえているが、ADNは、若干名が身元調査のために「連行」されたという。

 東ドイツはヨ−ロッパ共産圏の「優等生」といわれているが、世界的な不況の波は東ドイツにも押し寄せ、今年前半の工業生産伸び率は、70年代前半の7〜下降線をたどっている。

 アレクサンダ−広場で起きた暴動は、これからの東ドイツにどう影響するか。ホ−ネッカ−政権の基盤は、案外、脆弱なのかも知れない。


                 1977年10月11日(火)

 「新シャ−ロック・ホ−ムズ/おかしな弟の大冒険」(ジ−ン・ワイルダ−監督)を見る。
 イギリス外務省の金庫から、国家機密がぬすまれる。シャ−ロック・ホ−ムズは、宿敵、「モリア−テイ教授」の仕業とみて、弟の「シガ−ス」(ジ−ン・ワイルダ−)に捜査を依頼する。
 ジ−ン・ワイルダ−の喜劇は嫌いではない。しかし、この才人の喜劇感覚にはどうもついていけないところがある。マデリ−ン・カ−ンが出ていた。この女優は、ときどきジェ−ン・フォンダそっくり。ただし、ジェ−ンの気品はない。

 もう1本、シャ−ロック・ホ−ムズものが公開される。こちらは、「ユニヴァ−サル」の「シャ−ロック・ホ−ムズの素敵な挑戦」(ハ−バ−ト・ロス監督)。「ホ−ムズ」がコケイン中毒で、「モリア−テイ教授」に対する憎悪がつのり、ウィ−ンに行って、「フロイド博士」の診察を受ける。「モリア−テイ教授」を、ロ−レンス・オリヴイエがやっているし、「ワトソン」をロバ−ト・デュヴアル、これにヴァネッサ・レッドグレ−ヴがからんでくる。おもしろくないはずはない。それでも、どこかおもしろくないのは、なぜなのか。


                  1977年10月12日(水)

 ロココの時代。もう少し、考えてみよう。

 ロココ貴族のあいだに、さまざまに性的な頽廃が見られる。夫婦の「おつとめ」は、できるだけ急いで、乱暴に行われなければならない、という愚かしい偏見による。少なくとも、性交が、次第しだいにア−ティフィシアルなものになったことにかかわりがある(だろう)。
 出産は、女の生死にかかわる事件になりかねない。
 すでに、心身ともに引き裂かれて、もはや忍耐の限度を越えている。そこに、あらたな犠牲(いけにえ)として新生児に乳をふくませる役が押しつけられる。こうなると、夫婦関係はおろか、母と子の精神的な絆さえ断ち切られることになる。
 母親としての心くばりなど、当然、見せかけのものにすぎなくなる。

 大学、講義。中田パ−ティ−のメンバ−がそろっている。
 みんなが、武尊山のすばらしさを思い出している。私は、つぎの登山のプランを考えている。ただし、だれにもいわない。


                       1977年10月14日(金)

 明日から、上野の東京都美術館で、「ピカソ展」が開催される。
 これは、どうしても見ておく必要がある。

 ピカソは、1900年、スペインからパリをめざした。初期の「青の時代」から、「バラの時代」。キュビズムから、古典の時代を経て、晩年にいたる名作が並ぶ。

 ピカソが亡くなって4年。

 世界初の回顧展。


                 1977年10月15日(土)

 ビング・クロスビ−が亡くなった。

 映画以外で、ビング・クロスビ−を聞いたことがない。残念だが。


                 1977年10月16日(日)

 あたらしい仕事のこと。

 柴田 裕夫妻が遊びにきてくれた。ふたりは幸福そうだった。めったにない強い絆で結ばれていて、お互いに支えあっている。だから、ふたりを祝福してやりたい。
 百合子がもてなして、4人で夜食をとった。
 8時に帰ったが、快速に乗れたかどうか。

 紛失したと思った銀行のカ−ドが出てきた。
 やい、どこにシケ込んでいやがった。手前が姿をくらましやがったおかげで、こっちは義理のワリィ借金まで作っちまったぜ。
 もう一つ。これも紛失したはずのカ−ドも、仕事机の下、座布団の下から出てきた。
 や。手前も出てきやがったか。このつぎはもっと早く出てこい。

 フイリッポ・リッピのこと。
 「受胎告知」で知られている。自分の恋人だった修道女をモデルとしたという絵を見ながら、現代の画家、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドを思い出す。
 マゾ−ニスは、まだ日本では知られていないが、いつも美しい女たちを描いている。全体の色調は、何時も白。背景も白いし、女たちの肉体も白い。この画家は、1921年、トリ−ノ生まれ。ロ−マのラ・バルカッチャ画廊や、ボロ−ニャのフォルニガロウナドノ個展から、にわかに注目されはじめた。叙情的な作風で、あまやかな、繊細なタッチは、現代の「フイリッポ・リッピ」のよう。

 ときどき、外国の画家のヌ−ドを見る。まるで関係のないスト−リ−を思いつく。

2019/02/06(Wed)  1794〈1977年日記 41〉
 
                 1977年10月5日(月)
  作家、和田 芳恵さんが亡くなった。71歳。

    和田 芳恵 (1906〜77)作家。北海道・長万部町生まれ。中央大・独法
     科卒業。新潮社に入り、「日本文学大辞典」の編纂、「日の出」の編集に当た
     った。1941年、自作が芥川賞候補になる。新潮社を退社。
     「戦後」、中間小説の先駆的な雑誌、「日本小説」の編集。
     樋口一葉の研究をつづけ、1956年、「一葉の日記」で芸術院賞を受賞。
     1963年、「塵の中」で直木賞。1774年、「接木の台」で読売文学賞、
     今年、「暗い流れ」で日本文学大賞を受けた。  (後記)

 文壇の大家たちとまったく無縁だった私に、どうして和田 芳恵さんが親しく接してくださったのか。もともと文壇の大家の知遇を得ようとする下心はまったくなかった。ただ、少年時代の私は、慶応のグル−プに出入りしていたとき、野口 富士男さんに和田 芳恵さんを紹介されたのだった。
 その後、ほとんど無関係に生きてきたのだが、たまたま、私が大きな新聞の「大衆小説批評」を書きはじめて、和田さんの小説をとりあげたことがあった。

 もともと批評家として出発したため、批評家の友人は多かったが、北 杜夫以外の文壇作家たちとは無縁だった。北海道、三重、千葉の同人雑誌作家たちに友人ができたが、その人たちの集まりにもほとんど出たことがない。
 この数年、たまに文壇の集まりに顔を出すことがあって、和田さんを見かけたときはこちらから挨拶をするようになった。
 和田さんにすれば、慶応の集まりに出ていた少年が、いつしか薄汚れたもの書きになっていたぐらいのことだったに違いない。しかし、和田さんはそんな私に対して、いつもわけへだてのない態度をとってくれた。

 私にとっては、ただ一人の文壇の知己であった。

 和田 芳恵さんのご冥福を心からお祈り申しあげます。

 種村 季弘さんから、グスタヴ・ルネ・ホツケの「絶望と確信」を贈られた。むずかしそうだが、こういう本が読めるのはうれしい。
 とりあえず礼状を書いた。
 内村 直也先生から、「日本語と会話」を頂く。
 大畑 靖君から、創作集「ミケ−ネの空は青く」を。


                 1977年10月6日(木)

 たくさんの美少女を見てきた。ス−ザン・ジョ−ジは、そういう美少女のなかでも出色のひとり。
 久しぶりに、「12チャンネル」で「クレイジ−・ラリ−」(ジョン・ハフ監督)を見た。「クレイジ−」なエ−ス・ドライヴァ−、「ラリ−」(ピ−タ−・フォンダ)は、「メリ−」というカルい女の子(ス−ザン・ジョ−ジ)に声をかけて、首尾よくベッドイン。これが「ダ−ティ」な女の子。「ラリ−」たちといっしょに近くのス−パ−を襲って10万ドルをせしめて、警察に追われてもヘッチャラ。
 かなり昔のフランス映画の――セシル・オ−ブリ−(「情婦マノン」)、ナタリ−・バイ(「アメリカの夜」)、エチカ・シュ−ロ−(「青春の果実」)といった「戦後派」の無軌道な娘たちを思い出すが、このス−ザン・ジョ−ジほど、あっけらかんとして、「ダ−ティ」な娘ではなかった。ス−ザンは、「わらの犬」(サム・ベキンパ−監督)で、ダスティン・ホフマンと共演しているが、この映画でも、頭のなかがカラッポで、何に対してもノン・シャランな態度で、平気で悲劇的な運命に向かって行く。サム・ぺキンパ−好みの女優じゃないかな。
 見ておいてよかった。つまらない内容でも、心に残る映画のひとつ。


                1977年10月7日(金)

 野口 富士男さんが、和田さんの追悼を書いている。

    階段を二段ほどのぼりかけると、もう肩で息をしなければならぬほど、和田さん
    は弱っていた。だれの眼にも最悪の健康状態におかれていたことは明白すぎるほ
    ど明らかだったのに、書いて、書いて、書きまくっていた。明日どころか、今晩
    死んでも不思議はないと、私は外で、和田さんに会って別れるとき、いつもそう
    思っていた。その癖、私は仕事をよせとは言えなかったし、身体を大事にしなさ
    いよということも言えなかった。役者なら舞台の上で、相撲なら土俵の上で死ね
    ば本望だろうと私は思っていたからであった。

 私が和田さんに最後にお目にかかったときも、和田さんは弱っていた。呼吸するのも苦しそうだったので、ただ挨拶しただけだったが。「だれの眼にも最悪の健康状態」だったと思う。最後の和田さんの仕事には鬼気せまる気迫が感じられた。
 野口さんの追悼で思い出したが、私がはじめて和田さんにお目にかかったときも、野口さんは和田さんとごいっしょだった。野口さんが和田さんを紹介してくださったのだった。この席で、原 民喜さんが、私の肩に手を置いてくれたような気がする。
 晩年の和田さんは、私にいささかの好意をもっていてくださったと思う。それは、実現することなく終わったのだが、その経緯はここに書く必要がない。ただ、私はほんとうに和田さんに感謝したのだった。


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