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2019/05/18(Sat)  1805〈1977年日記 52〉
 
         1978年1月3日(火)
 午後、めずらしく相野 毅君が年始にきた。

 私は、初仕事。
 5時、東京に。7時、NHKに着到(ちゃくとう)。
 和泉 雅子、根本 順吉のおふたりと対談。和泉 雅子は美しい女優さんだった。占いに興味があるという。私は、しばらくルネサンスの占星術の話などをする。
 和泉 雅子。若い女優にありがちな、相手の関心をたえず自分に向けさせようとするコケットリ−が見える。

 鼎談の録音を終えた。スタジオの控室で自分の出番を待っている若い女優が、帰ろうとする私に目礼した。森下 愛子という若い女優だった。和泉 雅子と私の対談をずっと聞いていたらしい。

 最近の「プレイボ−イ」の読者(60000人)の投票。「キュ−ト・ガ−ル・ベスト」――ドラマ女優、モデルをふくめて、人気のある女の子のベスト。

 1位、木之内 みどり。2位、夏目 雅子、3位が、同数で、ピンク・レディ−、山口 百恵。以下、10位まで――アグネス・ラム、岡田 奈々、竹下 景子、秋吉 久美子、岩崎 宏美、榊原 郁恵。

 和泉 雅子は、トップ・30にも入っていない。
 森下 愛子は、29位。この女優は、最近、「プレイボ−イ」や「ドンドン」の、タイツ姿のフォトで人気が出はじめている。

 NHKのタクシ−で帰宅するはずだったが、首都高速が凍結したという。仕方がない。お茶の水に出る。総武線も、幕張=新検見川間で故障が起きたとか。お茶の水は混雑してごった返していた。
「山ノ上」のバ−でひとりで新年を祝う。
 帰宅、12時過ぎ。

          1978年1月4日(水)
 田中 英道さんから賀状。「イザベッラ・デステ」に関して本を書く予定という。
 いよいよイザベッラを射程内におさめたのか。

 いつかイザベッラ・デステについて書きたいと思ってきた。資料も集めている。しかし、田中さんのようにすぐれた評論家に先を越されたら、こちらは何も書けなくなるだろう。
 田中さんの「イザベッラ・デステ」の完成を祈る。そのうえで、まだ何ごとか書くべきことが残っているかどうか考えよう。

 「テレビ朝日」から電話。出演交渉。「朝の美術散歩」。テ−マは、フランドル派の画家、ハンス・メムリンク。
 フランドル派の画家についてほとんど知らない。プロデュ−サ−に、その旨をつたえた。それでも、会っていただけないか、という。
 フランドルは、いわゆるフランダ−ス、ブラバント、ハイナウト、リエ−ジュ地方を含む。中世、文書の装飾がはじまったことから、絵画がはじまる。
 1400年代までは、絵画として見るべきものもない。リンブルク兄弟、メルヒョ−ル・ブレ−デルラムといった職人画家がギルドに登場する。
 ク−ベルト・ファン・アイク、ヤン・ファン・アイクがあらわれて、はじめてフランドル派の画家とされる。マイステル・フレマルは、ハイナウト出身、彼の門弟、トゥルナイのギエル・ファン・デル・ワイデンあたりをあげておけばいい。
 このファン・デル・ワイデンの影響をうけたのが、ル−ヴァンのデイエリク・バウト、フル−ジュのハンス・メムリンク、ゲントのフ−ゴ−・ファン・デル・ゲスということになる。
 私の知っていることは、せいぜいこんなところ。
 中世の生活を語れば、いくらかでも責任は果たせるかも知れない。

 年頭に決心したのだが――今年は、イタリア・ルネサンスについて、なんらかのモノグラフィ−を書くつもり。歴史をたどるのではない。その時代に生きた人々を描きだす。具体的には、1434年から、約60年に及ぶ時期の研究だが――むろん、私にとっては、たいへんな仕事になる。
 1934年、フィレンツェ。コジモ・デ・メデイチが覇権をにぎる。1942年、アルフォンソ・ダラゴンが、ナポリで権力をにぎる。1450年、ミラ−ノで、フランチェスコ・スフォルツァが権力をにぎる。一方、ロ−マにあった教会は、ロマ−ニャの諸都市(コム−ネ)や封建領主たちを支配下におさめる。
 この時代に、たとえばメディチ家の人々はどう生きたのか。考えるだけでも、私の手にあまるのだが。
 まあ、正月の酒に酔いながら、壮大な夢をみるのも楽しい。

          1978年1月6日(金)
 昨夜、新橋演舞場で公演していた「新派」の舞台で、花柳 喜章が亡くなった。享年、54歳。

 新派は2日から初春公演が始まったが、喜章は、昼の部、「源氏物語」で「紀伊守」を演じ、3日からは喜劇、「浮気の手帖」の主役(インスタント食品会社の社長)を演じていた。劇場は、1500人の観客で満員だった。
 幕が開いて、10分ばかり、「社長」が秘書にお小言を並べているところで、不意に頭が揺れ、うしろに倒れたという。死因は心不全というが、脳血栓かも知れない。
 観客は、そういう演出と思って舞台を見ていたが、喜章が動かないので、ざわめきはじめ、劇場側も異変に気がついて、いそいで照明を消して緞帳を下ろした。
 俳優の安井 昌二が、幕の前に出て、
 「花柳が急病になりましたので、これから救急車で病院にまいります」
 と口上を述べた。
 舞台で倒れて、そのまま逝っちまった役者は、「戦後」では喜章がはじめてじゃないだろうか。観客ははじめて事情を知ってざわめいたが、それでも、しずかに退場しはじめたという。

 私が、喜章を見たのは、3,4回だけだった。父の章太郎が亡くなったあと、「新派」を脱退したり舞い戻ったりして、どうも落ちつかない役者だった。昨年、章太郎十三回忌に出て、「新派」の中軸になるものとばかり思っていた。未完成のまま、亡くなったのは、本人としても残念だったはずである。

 喜章の代役は、明日から菅原 謙次。

          1977年1月7日(土)
 賀状がまだ届いている。
 「日本きゃらばん」を読む。庄司 肇の「幻の街」がいい。

 庄司 肇さんは、医師(眼科)だが、「文芸首都」出身。平易な文体で、小説はだいたい身辺雑記に近い。しかし、この作品は、なにかしら大きな発展の萌芽を感じさせる。庄司さんもまた、作家として大きく変わりつつあるのか。

         1977年1月8日(日)
 アントワ−ヌ・ポロ−を読む。
 いい本だった。フランスではこういう思想家がつぎからつぎに出てくる。
 カイヨワの「メドゥサの仲間たち」も、いい本。仮面について見事な言及があった。

 少しづつ、ルネサンス関連の資料を読みはじめる。
 とにかく、読むべき本が多い。

          1977年1月9日(月)
 「サンケイ」、四方 繁子さん。「共同通信」、戸部さんから督促。

 今年も走りつづけなければならない。
 自分の前に立ちあらわれてくるさまざまなテ−マを、デッサンかクロッキ−のようにとりあげる。そのなかには、文芸時評や、試写で見た映画の紹介や、楽しいアヴァンチュール、政治や社会についての考察、そんなものがふくまれる。どんなに短い枚数でも、読者の内面を刺激するように――私のものを読んだときから、しばらくは頭から離れないような文章をつきつける。発表する場所はどこでもいい。私のとりあげる内容がどんなにおもしろいものか、手を変え、品を変え、書いて行きたい。
 どういう状況でも、私は散歩者であって、なおかつ冒険者でありたいのだ。

 若城さんに、電話で年賀を伝える。この電話に鈴木 八郎が出た。ふたりは、本当の親友なので、鈴木君が電話に出ても不思議ではない。
 声帯を手術したため、機械を使ってしゃべる。テレビのSF映画に出てくる宇宙人のような声だった。話すことは、例によって洒脱、滑稽。江戸時代だったら、鈴木 八郎はきっと有名な文人になれたと思う。

 「映画ファン」、高田君、菅沼君から電話。

2019/05/01(Wed)  1804 〈1977年日記 51〉
 
     1978年1月1日(日)
 新年。

    誰やらの 形に似たり 今朝の春      芭蕉

 前夜、つまり大晦日、安東たちがきてくれた。「紅白歌合戦」を見たあと、みんなで今年はどこの山に行くか、勝手な計画を話しあった。
 元日の電車は、終日、うごいている。できれば奥多摩に行く予定だったが、犬吠崎か九十九里の海岸で、初日の出を見てもいい。ところが、雨になったので、またしても予定を変更した。
 映画、「八十日間世界一周」を見てしまった。

 昨日のつづき。一日じゅう、みんなで遊ぶことにしよう。

 夜明け。
 寒いが、崇高なまでに輝いている大地や、屋根、庭木にみなぎる新年の朝(あした)。かすかに紅をさしたような御来光の美しさにみとれて、茫然と見つめていた。
 応接間の机を動かして、フロアに炬燵を置いて、花札をやったり、ポ−カ−をやったり。短い時間のようだったし、長い時間のようでもあった。
 みんなのなかで、元旦の時間がとまっているようでもあった。

 百合子は迷惑がらずに、みんなをもてなした。といっても、屠蘇を祝って、正月料理をいただいた程度のおもてなしだが。しかし、ほとんどがこうした風習を知らないので、ものめずらしさもあって、神妙に年始の作法にしたがっている。
 あとは、また無礼講。

 安東たちが帰ったのは、夕方の6時。途中で、東松山の鷹野家が、年始にきたので、いっしょに千葉神社に参詣した。百合子は、そのまま通町に行く。例年、湯浅家は、年始の客が多いので、百合子が通町に手つだいに行くことになっている。
 みんなで、ゲ−ムセンタ−で遊んだ。
 鷹野一家を送ったあと、夜の9時過ぎ、通町、湯浅家に年始に行く。
 二部屋、襖を外した大広間に、酒盃が山のように盃洗に重なっていた。さすがに、客が帰ったあとの寂しさが、ただよっている。
 私は、義姉、小泉 賀江、百合子と雑談したが、そのあと、遠縁の池田 豊弥君と話が弾んだ。外語卒。中国語の達人。想像もつかない経歴の人で、その話も波瀾万丈だった。
豊弥君も、はじめて通町の年始にきて、客の帰った大広間にひとり残っていたので私が話相手になったので助かったらしい。

2019/04/30(Tue)  1803〈1977年日記 50〉
 
          1977年12月28日(土)
 池が完成した。

 ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
 あとは、正月明けにようすを見にくる。
 仕事収めなので、酒をふる舞う。

 下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
 ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
 下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。

          1977年12月29日(日)
 どうしても、東京に出かけなければならないため、1時に家を出た。
 「日経」、吉沢君のデスクで、原稿を書く。
 いつも、いろいろな記者が、忙しく動いているのだか、さすがに年末なので、少しだけ、落ちついている。文化部のデスクで、原稿を書く作家はいない。おそらく、私だけだろうと思う。私の場合、おもに映画評を書くので、試写を見たらすぐに書いたほうがいい。
 私は、「戦後」すぐに、「時事新報」のコラムを書きはじめたせいか、新聞のデスクで、記者たちと雑談しながら原稿を書くのが好きなのだ。
 文化部、青柳 潤一、竹田 博志君が、挨拶にくる。みんな、吉沢君の同僚記者である。

 おみやげに、イギリスのウイスキ−をわたしてやる。みんなが、よろこんでくれた。

 神田に出た。
 正月中に読む本はある。
 「悪魔の種子」、「キャンデ−はだめよ」、「34歳のミリアム」、「朝までいっしょに」、「緑の石」、「血と金」、「砂漠のバラ」。これだけで7冊。しかし、2日もあれば読めるだろう。
 「あくね」に行く。小川に会う。この日で「あくね」の年内営業は終わり。

 あとで、矢牧 一宏、内藤 三津子のおふたりがくるはずだったが、会えなかった。

 帰宅。最後にショックが待っていた。

 百合子が、私の顔をみるなり、
 ――「イジケ」が死んだのよ。
 という。
 「イジケ」は、「チャッピ」の生んだメスで、性格的にイジケているので、「イジケ」という名をつけた。駐車場の内部で死んでいた、という。
 酔いがさめた。
 私は、「イジケ」を特別に可愛がっていたわけではない。ただ、いつもイジケて、私の膝にも寄ってこなかった。私が、ほかのネコを抱いてやっているうちに、なんとなく私のそばに寄ってくる。その首をつまんで、抱きしめてやると、やっと安心して、抱かれている。そんなネコだった。
 しかし、どういうものだろう。今年は、我が家のネコがつぎつぎに非業の死を遂げた。

 「チャッピ」が病死したあと、「シロ」が失踪した。エリカがつれてきたネコで、今、我が家にいるネコたちの、母親。そのあと、私が、いちばん可愛いがっていた「シロ」(「シロ」の子の「ルミ」が生んだオス)が交通事故で不慮の死を遂げた。その「シロ」より、1シ−ズン遅れて生まれた、目の青い、これも可愛いコネコ、これも病死した。
 そして、「イジケ」である。計、5匹。迷信深い人なら、カツぐところだ。
 歳末ぎりぎりになって、こんなことになるなんて。
 「イジケ」を埋葬してやる。私の家の庭には、すでに何匹もネコが埋められている。今では、それぞれのネコを思い出すこともないが、それでも、それぞれの死を思うと、涙がにじむ。

          1977年12月30日(月)
 つごもり。
 今年、最後の短編を書く。
 最初の一行が書ければ、あとはなんとかなる。

 やっと書いた。

 あまり、できがよくないのはわかっている。
 夕方、5時、「れもん社」、三浦 哲人君がとりにきてくれた。

 やはり疲れたらしく、眠ってしまった。
 眼がさめたので、テレビをつけたら、「お熱いのがお好き」(ビリ−・ワイルダ−監督)をやっていた。解説、虫明 亜呂無。つい見てしまった。

           1977年12月31日(火)
 大つごもり。

 この日記をつけはじめて、だいたい毎日、おもに身辺のことを書いてきた。日記をつけないと、それが気になって、何も書くことがなくても、映画のことを書くような習慣がついてしまった。

 この一年は、どういう年だったか。

 厚生省。日本人の平均寿命、女性は77歳。男性、72歳と発表した。

 村山 知義、長沼 弘毅、石子 順造、吉田 健一、今 東光、内藤 濯、和田 芳恵、稲垣 足穂、海音寺 潮五郎。この方々が逝去した。
 面識があったのは、和田さんだけだが、それでも、この人たちの仕事は心に残っている。和田さんが、最後のご本、「自伝抄」を送ってくださったことは忘れない。

 ジョルジュ・クル−ゾ−、ジョ−ン・クロフォ−ド、ロベルト・ロッセリ−ニ、エルヴィス・プレスリ−、グル−チョ・マルクス、レオポルド・ストコフスキ−、マリ−ア・カラス、ビング・クロスビ−、チャ−リ−・チャプリン。
 みんな、亡くなっている。
 プレスリ−については、「共同通信」で。チャプリンについては、「日経」で、コメントを発表した。
 ほかの人たちについては、何も語ることなく終わるだろうが、これらの人々の仕事を知らなかったら、私自身の「現在」はあり得なかったと思う。ジョ−ン・クロフォ−ドに対しては、いささか反感めいた思いがあるのだが、それでもこの女優の映画も私の一部になっているだろう。

 部屋を片づける。一年分の埃がたまっているので、片づけるのはたいへんなのだ。
 安東 つとむ、由利子、鈴木 和子がきてくれた。もっと早くきてくれれば、片づけをてつだってもらうところだが、一日早い年始回りになった。
 百合子はよろこんで、三人をもてなしている。なにしろ、しょっちゅう人がくるので、時ならぬ来訪者にいつも対応しなければならない。作家の女房というのも楽ではないのに、いつも笑顔を忘れない。
 しかし、安東たちがきてくれたのはうれしかった。大晦日に知人といっしょに新年をむかえることは一度もなかった。
 百合子もまじえて、たあいもない話をしながら、酒宴になった。

 1977年(昭和52年)、何が流行ったか。

 「母さん、ぼくの帽子、どうしたでしょうね」。これは、角川映画、森村 誠一原作の映画のコマ−シャルから。この宣伝費だけで、4億5千万円。森村 誠一フェアに5億という。これだけの金をかけて、この流行語ができたと思えば安いものだろう。
 もう一つ、これも映画から。「天は我らを見放した」。「八甲田山」で、北大路 欣也が、雪中行軍で、暴風雪で遭難したときのセリフ。

 ――先生、あの原稿、どうしたでしょうね。
 ――書けなかったよ。ごめんね。天は我らを見放した。
 こんなふうに使う。

 ――先生、原稿、これっきり、もうこれっきりですか。
 ――それは、去年の流行語だろ。

 大つごもりなのに、たあいのない話をしてはみんなで笑った。

 これも流行語だが、「ル−ツ」。10月に「テレ朝」が放送したドラマのタイトル。私は、いろいろな小説を読んできたが、この名詞にぶつかったことは、ほとんどない。ところが、このドラマのおかげで、何かの起源に関して、すぐに「ル−ツ」という言葉が使われるようになった。「紅白」を見たあと、「八十日間世界一周」(マイケル・アンダ−ソン監督)を見た。3時頃、さすがに眠くなってきた。
 広間に寝具を出して、安東たちを寝させた。私たちは、2階の寝室に。
 これで、私の1977年は終わった。

2019/04/30(Tue)  1802〈1977年日記 49〉
 

           1977年12月23日(月)
 寒い日。
 午前中から、メディチ家のノ−ト。

 あい変わらず、本、雑誌がたくさん届いてくる。
 伊藤 昌子さんから、原稿が届いた。吉沢 正英君から、「真夜中の向こう側」(チャ−ルズ・ジャロット監督)の試写の日程。春の公開作品だが、師走になって試写に力を入れはじめたのか。
 試写室通いをしていると、その映画が当たるか当たらないか、試写の予定からでも想像がつくようになってきた。
 「三笠書房」、三谷君から電話。

 夜、岳父から、池田さんのご母堂の病状をつたえてきた。
 義弟、湯浅 太郎に、私から知らせた。その一方、すぐに小泉 まさ美に連絡して、「並木」にいる太郎と、義母、湯浅 かおるを迎えにやる。
 太郎と、義母、湯浅 かおるが、小泉家にきたら、百合子も、いっしょに同行させることになった。

          1977年12月24日(火)
 深夜2時、岳父(湯浅 泰仁)から電話。
 池田 美代さんの死去をつたえてきた。予期していたことだったが、親族の死なので、にわかに忙しくなった。すぐに、これも親族の杉本 周悦につたえた。
 美代さんは、享年、82歳。陸軍中将夫人。

 臨終に当たって、
 ――このひとも後生がいいわねえ、クリスマスの日に死ぬなんて。
 と放言した親族がいたという。

 この夜、通夜が行われた。私も出席した。小泉 隆、賀江夫妻の隣りにひかえた。
 美代さんの甥にあたる池田 豊弥さんと話をする。このひとは、厚生省の麻薬取締官で、まさに快男児といってよかった。大麻に関して、最近、「小説宝石」で小堺 昭三のインタヴュ−をうけたという。私が映画で見たフレンチ・コネクションや、東京ル−トのことなどをきくと、何でも答えてくれた。

          1977年12月25日(水)
 池田家、葬儀。

 25日が一般のお通夜で、27日が葬儀という。格式を重んじて、そうきめたらしい。

 夜、「日経」の吉沢君から電話。チャ−リ−・チャプリンの訃報。すぐに感想を口述する。明日の朝刊に出る。

 チャプリンの死因は、老衰という。臨終にはウ−ナが付添い、ジェラルディンほか子や孫、8人が見まもったという。葬儀も家族葬ということらしい。

          1977年12月26日(木)
 テレビ、チャプリンの「キッド」を見た。
 解説、荻 昌弘。最初に、チャプリンに哀悼をささげたが、その眼に涙をうかべていた。やはり、深い感慨があったのだろう。

 私の個人的な意見。
 「殺人狂時代」以後の作品のチャプリンは、やはり衰えを感じさせる。
 芸術家の晩年。どういう晩年を生きるのか。

 チャプリンが、20世紀有数の芸術家だったことは疑いもない。
 だが、チャプリンの場合も、映画監督という仕事が、老年の演出家にとっては、困難な仕事になったのではないだろうか。
 「戦後」のアメリカが、チャプリンにその天才のじゅうぶんな展開を許さなかったことは否定できないが。

         1977年12月27日(金)
 池田 美代、葬儀。

 百合子は、連日、池田家に行って、美代さんの葬儀の準備に奔走している。従妹の内山夫人が動けないので、いろいろな雑事まで、百合子が引き受けたらしい。このため、昼になって、美容院に行く時間がなくなってしまった。
 葬儀は、宗胤寺で行われた。この日、快晴。
 これまでの私は、お葬式に出ても、遺族にモゴモゴお悔やみを申し上げたあと、そそくさとお焼香をして辞去する。葬儀に出られない場合は、お通夜に出て、列席の方々に、ヘコヘコ頭をさげて、お葬式に出られないお詫びを申し上げて失礼する。
 もっと忙しいときは、お香典を、妻や親しい知人に託して、義理をはたす。
 そんなことで済ませてきたが、今回は、百合子の大伯母に当たるオバアサンの葬式なので、百合子といっしょに近親者として、弔問の方々の挨拶を受ける側なので、まことに居心地がよくない。
 葬儀そのものは、ご多忙中の参列者の方々のために、厳粛、かつパンクチュアリ−に式次第が進行する。お坊さまによる読経は、まことに、音斗りょうりょうたるもので、どうもふつうのホトケさまの法要の何倍も「ありがたい」ものだったらしい。百合子は身じろぎもせずに控えているが、私は、はなはだ不謹慎ながら、死者と生者の別れの儀式は、できるだけ、生者のタイム・スケジュ−ルにあわせていただきたい、と願っている。
 足がしびれ、すわっている感覚がなくなってきて、ようやくゴングが鳴って、木魚のリズムが聞こえたときは、サッカ−の、ロスタイムに入ったような気がした。

 人の死さえも、こちらの都合にあわせるなど、まことに無礼千番と心得てはいるが、読経につづいてのお焼香になってありがたいと思った。やっと席から立てるからであった。

 葬式の挨拶は、きまりきったことしかいえないので、口にするのもはばかられるのだが、読経が終わったあと、居並ぶ親族が、口をそろえて、故人は身勝手な一生を過ごしてきたが、まったく後生のいい人だといいあう。

 岳父(湯浅 泰仁)の実姉なので、各地の名士からの弔電が多数。

 葬儀のあと、百合子といっしょに帰宅した。疲れた。

 夜、ひとりで飲んだ。チャプリン追悼の意味で。

          1977年12月28日(土)
 池が完成した。

 ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
 あとは、正月明けにようすを見にくる。
 仕事収めなので、酒をふる舞う。

 下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
 ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
 下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。

2019/04/11(Thu)  1801〈1977年日記 48〉
 
            1977年12月2日(水)
 女優、望月 優子が亡くなった。

    もともとは喜劇女優だったが、昭和29年、木下 恵介の「日本の悲劇」で「毎
    日コンク−ルの主演女優賞を受けてから、演技派の女優になり、昭和33年に、
    今井 正の「米」でブル−・リボン主演女優賞を受けた。
    46年、参院選で、大量に得票して、参議院議員になったこともある。

 私は、ム−ラン・ル−ジュ、古川 ロッパの一座にいた頃の望月 優子を見たことがある。慶応出身の作家で、「サンケイ」の記者、鈴木 重雄の夫人。三島 雅夫を中心に結成された劇団、「泉座」が旗揚げ公演に、ア−サ−・ミラ−の「みんなわが子」を選んだ。そして、翻訳を私に依頼してきた。
 私の「みんなわが子」訳は戯曲の訳としては最低だった。稽古の段階で、私は、自分の翻訳が舞台では使いものにならないことを思い知らされた。
 演出家、菅原 卓が手を入れた。この訳はのちに菅原 卓訳として「早川書房」から出ている。)この芝居に、望月 優子が出たので、口をきくようになった。ある日、稽古場で、望月 優子が私をつかまえて、

 ――中田さん、あんた、スタニスラフスキ−、読まなきゃダメよ。
    といった。そばにいた千石 規子が、したり顔で、
 ――そうよ、そうよ。スタニスラフスキ−、読まなきゃダメなんだから。

 私は、二人の女優に侮蔑をおぼえた。私はまだ演出家になる前で、この稽古場では、「みんなわが子」の翻訳をしながらできの悪いホンなので、みんなに迷惑をかけた青二才に過ぎなかった。

 その青二才の目にも、このふたりの芝居はひどいものに見えた。

 とくに、千石 規子の芝居はひどいものだった。

 「みんなわが子」の初日をみにきた高峰 秀子が、千石 規子の芝居にあきれて隣りにいた女優と顔を見合わせて失笑していたことを思い出す。

 私の「みんなわが子」の翻訳が、戯曲の翻訳としてはひどいものだった。セリフになっていなかった。なにしろ、菅原 卓が、面と向かって、
 「中田君、腹を切りなさい」
 とまでいわれたのだから。

 冷静に見て、この芝居の失敗は、望月 優子、千石 規子がミス・キャストだったからと思っている。

 この失敗から私は芝居の演出をめざすようになったのだから、望月 優子、千石 規子に礼をいわなければならないかも。

 望月 優子は、最後には「日本の母」などと呼ばれる名女優になった。千石 規子は、黒沢 明の映画に、かならず出るようになった名女優になった。私は、このふたりの芝居を見るたびに、「みんなわが子」の演技を思い出したものだった。

 もう一つ。
 これも、新聞のオ−ビチュアリで、テレンス・ラティガンの訃を知った。

    11月30日、ガンのため、バミュ−ダで死去。66歳。
    オックスフォ−ド大卒。1936年、「泣かずに覚えるフランス語」で劇作家と
    してデビュ−。主な作品に「ウインズロ−家の少年」、「ブラウニング・ヴァ−
    ジョン」、「紺碧の海」などがある。映画のシナリオにも手を染め、「チップス
    先生さようなら」、「黄色いロ−ルスロイス」、「王子と踊り子」などを書いた。
    67年以来バミュ−ダに住みつき、71年にナイトの称号を授けられた。

 AP時事の記事で、戯曲のタイトルの訳はひどいし、これではテレンス・ラティガンが「戦後」のイギリス劇壇に与えた影響について何もわからない。
 「泣かずに覚えるフランス語」はナイだろう。せめて、「楽に身につくフランス語」ぐらいでないと、喜劇かどうかもわからない。「深く、静かな青い海」を「紺碧の海」にしてしまうと、ラティガンの上品な世界が見えてこない。
 私はひそかにラティガンの死を悼んだ。
 もっといい戯曲を書いてくれればよかった人なのに。

            1977年12月2日(水)
 作家、海音寺 潮五郎、逝去。

    海音寺 潮五郎、明治35年11月5日、鹿児島県大口市に生まれた。
    1929年、「サンデ−毎日」の懸賞に「うたかた草紙」を応募。
    1936年、「天正女合戦」で、直木賞。戦時中は、陸軍報道班員として、マレ
    −方面に派遣された。
    「戦後」は、1953年、「蒙古来る」、S29年、「平将門」、
    S35年、「天と地と」、など。
    S43年、引退を表明。
    昨年、NHKで、「風と雲と虹と」が放送された。

 残念ながら、私は一度も海音寺 潮五郎を批評する機会がなかった。

 ヴァレリ−ふうにいえば、こういう人たちは、二度死ぬのだ。一度は人間として、もう一度は有名な作家として。
 まあ、人生いろいろだなあ。

                      1977年12月3日(水)
 体調がわるい。風邪のため、咳がとまらない。めったに風邪をひかないのだが、今年は、どういうわけか、いちばん先に私が倒れてしまった。

 今日、木更津で講演があるのだが、咳が出ると困る。

 11時半、県立図書館、司書の竹内 紀吉君と駅前で会う。
 竹内君も、私の咳を心配していた。「ロ−タリ−」で食事をしようと思っていると、そこへ、安東 由利子と石井 秀明がきてくれた。「南窓社」に寄って、私の本を10冊もってきてくれた。

 食事をしているところに安東君がきてくれた。

 今日の千葉駅は――国労、動労が、成田開港反対の遵法ストに突入したため、混乱している。私たちも予定を変更して、快速に乗った。

 木更津着、1時半。すぐに会場に向かう。

 参加者は140名程度。会場は、満員状態。YBC側としては、これほど多数が参加するとは思っていなかったので竹内君に謝ったという。

 講演はうまく行ったと思う。しかし、途中で、咳が出たため、一時中断。

 講演のあと、質疑応答のようなやりとり。
 「私のアメリカン・ブル−ス」にサイン。わずかな部数しか用意しなかったので、すぐに売り切れてしまった。

 安東君たちをねぎらうつもりで、駅前の喫茶店で話をする。

 みんなと別れて、竹内君といっしょに、庄司 肇さんを訪問する。
 庄司さんは、「日本キャラバンを主宰している同人作家。眼科の先生。気骨のある人だが、気さくにいろいろな話をしてくれた。
 辞去したのは、8時過ぎ。

 ストライキの影響で、夜もダイヤが乱れている。8時45分頃、やっと電車に乗れた。

         1977年12月8日(月)
 午後、本田 喜昭さんの奥さんが、千葉まで原稿をとりにきてくれた。恐縮した。
 しかし、私自身がひどい風邪だし、家族そろって寝込んでいる状態なのだから、どうしようもない。
 百合子までが寝込んでしまった。

 「公明新聞」から原稿の依頼。大阪の友人、船堂君から電話。

 夜、義母、湯浅 かおる、義姉、小泉 賀江が見舞いにきてくれた。

 写真の現像。

          1977年12月9日(火)
 百合子、肺炎併発の疑いあり。
 義兄、小泉 隆の診察を乞う。

 「東和」から、「カブリコン・1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)の公開記念に、ITCのル−・グレイド郷が来日したので、パ−ティ−をやるという。
 映画の批評をやっていると、ときどき思いもよらない招待を受けたり、来日したVipに紹介されたりする。

 CICから「ラスト・タイク−ン」(エリア・カザン監督)の試写の連絡。これは必ず見るつもり。原作、スコット・フィッツジェラルド。脚色は、ハロルド・ピンタ−。キャスティングがすごい。

 「文芸」、川村 二郎が、「本居 宣長」について書いている。「新潮」、保田 与重郎、大江 健三郎。おもしろい組み合わせ。久しぶりに保田 与重郎の文章を読む。小林 秀雄に深い畏敬をもっている。その論旨もよくわかるのだが、私としては、承服しがたい部分がある。
 「文芸」の、大笹 吉雄の劇評の冒頭、

    今、歴史を素材にしたドラマほど、書きにくくなっているものはない。その象徴
    的な出来ごととして、木下 順二が歴史劇を書かなくなったということがある。
    なぜそうなったのか。原因はいろいろあるだろうが、もっと、大きいと思われる
    のは、イデオロギ−としての世界観が崩壊、ないしは相対化したということにあ
    る。木下に即してそう思うのは、この劇作家が、精力的に歴史劇の法則とドラマ
    のそれとを一致させようと努力してきた第一人者だからである。
    しかし、こういう認識による限り、歴史の法則性に疑いが出れば、歴史劇を書け
    なくなるのは当然であった。

 ところが、同じ号に、木下 順二が「子午線の祀り」を書いているのだから、皮肉というほかはない。ただし、大笹 吉雄の意見はもう少し検討してみる必要がある。

 キッシンジャ−が、自分の死後、または25年後まで公開禁止を条件に、アメリカ政府に譲渡した在任中の交信記録が、近い将来に公開される可能性がある。
 これは1969年から退任までの8年間、電話の内容をホワイトハウス、国務省の秘書官に速記させ、文書として残したものという。
 ニクソン、フォ−ド両大統領ほか、各国首脳の電話、さらに多くの個人的な相手のものまで含まれる。
 こういう記録が公表されれば、ヴェトナム戦争、中東戦争の経緯、経過に対する重要な証言が得られるだろう。

          1977年12月10日(水)
 裕人が風邪の兆候をみせている。
 夜になって、百合子が腹痛を訴えて、嘔吐をくりかえした。
 私の病状はずっとよくなってきたが、声がかれて、まだいつもの声に戻っていない。

 へんな話。
 ユ−ゴスラヴィア/チト−大統領夫人、ヨバンカ・ブロズ・チト−が、今年の6月から公式の席に姿を見せない。チト−大統領のソヴィェト・中国・フランス訪問に同行しなかったばかりではなく、軟禁状態におかれていると想像されている。「ヘラルド・トリビュ−ン」は――チト−大統領は座骨神経痛、ヨバンカは糖尿病で、不和という。オ−ストリアの新聞は――ヨバンカがアメリカのCIAに利用されたと見ている。
 「ニュ−ズ・ウィ−ク」は――ヨバンカが政府、党の人事問題に口を出して、チト−の不興をかったため、軟禁されたという。
 先日のホ−ネッカ−の「問題」とともに、これは注目すべきニュ−スと見る。
 ユ−ゴは、チト−独裁の下、安定していると見られているが、複雑な人種問題を抱えている連邦国家で、とくに正教のセルヴィアと、カトリックのクロアチアの対立感情がつよい。
 ヨバンカ夫人は、セルヴィア出身なので、人種対立がからんでいるかも知れない。いずれにせよ、共産圏諸国のタガが緩んできているのは間違いない。

          1977年12月11日(木)
 昨日から、庭師が入って、池を掘りはじめた。
 木を植え返したり、地中に埋めてある電気のパイプを掘り起こしたり、わが家としては、かなり大きな工事になる。
 池はルネサンスふうの池にしよう、などと勝手なことをホザいているのだが、庭にレンガを敷いて、部屋からすぐに池に出られる。トリもくるだろうし、サカナも飼えるだろう。

 大阪の船堂君、来訪。
 モンブラン、キリマンジャロなどに登った山男なので、安東 由利子、工藤 淳子、石井 秀明たちを招いて紹介する。
 みんなで、「金閣」で食事。
 船堂君の話は、おもしろかった。
 高度、4000メ−トルで、思考がおかしくなる、とか。ケニアのホテルのショ−は、日本円で40円程度だそうな。

 夜、「恋の旅路」(ジョ−ジ・キュ−カ−監督)を見た。これは、TV用の映画。ロ−レンス・オリヴィエ、キャサリン・ヘップバ−ン主演。劇場では公開されなかった。
 1911年の設定。有名な弁護士のもとに、富裕な未亡人が依頼する。彼女の莫大な遺産目当てで言い寄った男と婚約したが、途中で、相手の目的が財産目当てと知って、婚約を破棄する。そのため、相手の男から婚約不履行で、逆に訴えられる。このままでは、裁判に勝てる公算はない。
 じつは、この弁護士は、40年前に、カナダのトロントで彼女と会っている。当時、彼女は舞台女優。「ヴェニスの商人」の「ポ−シャ」で、ある劇団の巡業でトロントの舞台に立っていた。彼は、舞台を見て彼女に熱をあげ、彼女を口説いた。未亡人のほうは、40年も昔の旅先のロマンスなど、すっかり忘れている。
 裁判がはじまる。
 相手側の弁護士も有能で――この事件は、未亡人が男に熱をあげたこと、男のほうも未亡人の美貌に心をうばわれたことを立証しようとする。
 一方、名弁護士のほうは――未亡人が高齢で、男に口説かれたために一時の気の迷いで、ついつい男にほだされた、と反論する。ところが、未亡人は高齢といわれたため激怒して、自分の弁護士に食ってかかり、退廷させられてしまう。そのあと、名弁護士は、陪審員たちに向かって、切々と愛の意味を説き、みんなを感動させ、不利な状況を逆転させて、みごとに勝訴する。
 さて、退廷させられた未亡人のほうは、何もかも計算しての行動だったと明かす。40年前、弁護士をめざしていた若者を愛していたことを明かして、これからは、もう一度、人生をやり直そうと誓って、ふたりで腕を組んで法廷を出て行く。
 スト−リ−だけを要約すると、なんともご都合主義めいた法廷ものなので、面白くも何ともないが、ロ−レンス・オリヴィエ、キャサリン・ヘップバ−ンの芝居で、イギリスの風俗劇のおもしろさを堪能できた。
 お互いに、初老に達した名優、名女優のやりとりのみごとさ、ドラマの展開の緊張が、コメディ−らしい二人の「関係」(シチュエ−ション)のおかしさ、男女が愛することの「かなしさ」にまで重なってくる。
 私たちの劇場では、ほとんど見ることのないコメディだった。

          1977年12月13日(土)
 11時半、水道橋。
 「南窓社」から、「共同通信」の戸部君に連絡する。

 昼、上野に出る。「イタリア・ルネサンス装飾展」を見た。メトロポリタン美術館所蔵のもの、ロバ−ト・レ−マン・コレクション。特別めずらしいものはなかった。ただ、ヴェネツィアの、水入れというか瓶は美しい。

 メダイヨンの中に、シャルル8世、フェデリ−コ・ダ・モンテフェルトロの像をきざんだものがあったので、心の中で挨拶しておいた。

 今日は、あまりツイていない。
 「ヘラルド」に行ったが、ひどく混んでいるので、試写はあきらめた。
 神田に出て、本を3冊。1冊は、よくわからない本。クレビヨン・フィスの資料(だと思う)。

 「あくね」に行ったが、ここも混んでいる。
 「弓月」に移った。小川には会えず。オバサンが、丸谷 才一の話をした。7歳頃の丸谷 才一をよくおぼえていた。


          1977年12月15日(月)
 昨日は、「共同通信」の戸部君に原稿をわたした。「日経」の秋吉さんから督促。

 「ドミノ・タ−ゲット」(スタンリ−・クレイマ−監督)を見た。
 ジ−ン・ハックマン、キャンディス・バ−ゲン、リチャ−ド・ウィドマ−ク。
 愛する女、「エリ−」(キャンディス・バ−ゲン)の夫を殺したため、服役中の「ロイ」(ジ−ン・ハックマン)は、同囚の「マ−ヴィン」(リチャ−ド・ウィドマ−ク)から脱獄に協力しろといわれる。脱獄に成功した彼は、アメリカを脱出して、コスタリカで「エリ−」と再会するが、じつは脱獄をエサにした、国家的な要人の暗殺計画の実行犯に仕立てられていることに気がつく。
めずらしく、ミッキ−・ル−ニ−が出ていた。ぶくぶくに肥っている。これが、あの「アンデイ・ハ−デイ」のなれの果てなのか。

 CICに行く。「ラスト・タイク−ン」(エリア・カザン監督)。原作、スコット・フィッツジェラルド。脚色は、ハロルド・ピンタ−。
 30年代のハリウッド。若手の敏腕プロデュ−サ−、「モンロ−」(ロバ−ト・デニ−ロ)は、若いイギリス人女性(イングリッド・ボ−ルディンク)に亡き妻の面影を見て、恋に落ちる。これを知った撮影所長は、「モンロ−」の独走をきらって、かれをしりぞける。
 キャスティングがすごい。トニ−・カ−ティス、ロバ−ト・ミッチャム、ジャック・ニコルソン。これに、ジャンヌ・モロ−、アンジェリカ・ヒュ−ストン。
 エリア・カザンのような演出家でも、どうしようもない衰えを見せている。おなじように、ノスタルジックな気分を描いても、「華麗なるギャッビ−」(ジャック・クレイトン監督)や「イナゴの日」(ジョン・シュレジンジャ−監督)のような作品がある。ところが、カザンはそれぞれのシ−ンを丹念に演出しているだけで、全体にテンポが緩んでいる。テンポが遅ければノスタルジックな気分が出せるわけではない。

 5時半、「ジュノン」、松崎 康憲君のインタヴュ−。これは、まあ、うまくいったと思う。「日経」、秋吉君に原稿をわたした。ところが、「映画ファン」の萩谷君に原稿をわたす約束だったことを思い出した。萩谷君に、わるいことをした。
 6時半、「山ノ上」で「マリア」に会う。ここにくる途中、安東 由利子、石井 秀明に会ったという。二人とも、「マリア」が私に会うために急いでいると知って、同行しなかったらしい。

          1977年12月16日(火)
 「山の上」で、萩谷君の原稿を書いた。「マリア」が私についていてくれたのだった。

 六本木に。アヌイの「アンチゴ−ヌ」を見に行く。知らない劇団のスタジオ公演。
 吉祥寺で、これも知らない劇団のスタジオ公演。ハロルド・ピンタ−の「ダムウェイタ−」をやっているのだが、遠いので敬遠した。

 夜、「マンハッタン物語」(ロバ−ト・マリガン監督)を見た。
 しがない楽士、「ロッキ−」(スティ−ヴ・マックィ−ン)は、避暑地で知りあった少女、「アンジ−」(ナタリ−・ウッド)と一夜を過ごす。そのため、少女は妊娠する。彼女の愛に胸をうたれた「ロッキ−」は結婚を考える。

 夜、雨になった。震度・2程度の微震があった。

          1977年12月17日(火)
 ひどく暖かい日。9月下旬の気温という。昨日の雨はあがった。

 師走というと、ベ−ト−ヴェンの「第九」が出てくる。「フジテレビ」のドラマは、第1次大戦で、捕虜になったドイツ軍の兵士たちが、捕虜収容所で、「第九」を演奏した実話を描いている。最後に、150人のアマチュア演奏家が「第九」の演奏を流したのは驚きだった。

          1977年12月18日(水)
 一日じゅう、ただ、考えている。

 船堂君から手紙。

    「キリマンジャロの豹」こと、中田先生、この前は、中国料理をずいぶんたらふ
    くとたべさせていただき、ありがとうございました。先生が「山屋」として精力
    的にやっておられる話を聞かせてもらって、少し驚いています。ルネサンスふう
    庭園、とかいう池、なかなか面白そうなことをよくやられますねえ。エマニエル
    と沖田 総司みたいなですかねえ。でも一番びっくりしたのは、黒い鉄門です。
    あれで、すぐに先生の家だとわかりました。あのように思い切った門を取り付け
    るのは、気分がいいでしょうねえ。ほくも、いつかいえでも作るような事があっ
    たら、ああいうような門をつけてみたいと思います。

 いろいろなあだ名をつけられたことがあるが、「キリマンジャロの豹」というのは、気に入った。
 百合子にこの手紙を読ませたが、「エマニエルと沖田 総司」は、わからなかったらしい。「異聞沖田総司」の登場人物なのだが。
 門は、私がデザインした。「共同通信」の戸部君も、この門をみて驚いたひとり。しきりに感に耐えないという顔をしていた。それはそうだろう。鉄板を切って作った女のヌ−ドが、そのまま門になっているのだから。私の傑作の一つ。

 深夜、北海道の友人、早川 平君に手紙を書く。

          1977年12月20日(金)
 「ワ−ナ−」、「ワン・オン・ワン」(ラモント・ジョンソン監督)を見た。
 バスケットの選手、「ヘンリ−」(ロビ−・ベンソン)は、名門、ウェスタン大にスカウトされるが、小柄で、何につけ、消極的なので、名門校の選手としてやっていけるかどうか悩む。青春映画。

 夜、学生たちのコンパに呼ばれている。
 安東 つとむが企画したもので、30名が出席。かんたんにいえば忘年会だが、山のメンバ−がほとんど。このほかに、栗原、長谷川 栄二、「双葉社」の沼田 馨君たち。
 みんなで、わいわい騒いだり、飲んだり。私は、「マリア」が出席しなかったことが気になっていた。
 二次会に行く。まだ大勢が残っている。高円寺のガ−ド下の居酒屋。

 終電にやっと間に合った。

           1977年12月22日(日)
 「公明新聞」に、「私のアメリカン・ブル−ス」の書評。

 今年も、映画をたくさん見た。日本映画も見たが、批評を書く機会はなかった。
 「幸福の黄色いハンカチ」、「宇宙戦艦ヤマト」、「青春の門・自立編」、「八甲田山」ぐらいか。

2019/03/31(Sun)  1800〈1977年日記 47〉
 
           1977年11月19日(土)

11時に家を出て、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとる。
 新宿。「アルプス7号」。安東夫妻、吉沢 正英、工藤 敦子、鈴木、石井たち。
 塩山で、バスに乗る前に、近くの「港屋」でナタを買った。

 はじめは、増富ラジウム温泉に泊まって、木賊峠、長窪峠、八丁峠、そして清川というプランだった。しかし、明日が日曜日なので、増富が混んでいることは予想できた。
 木賊峠までは林道が長いので、泊まりは黒平温泉のほうがいい。ところが、電話で問い合わせると休業したという。
 仕方がない。甲府の奥。古湯坊に泊まって、帯那山、水ノ森のコ−スはどうか。これまた、いっぱいという。不況なのに、どこの温泉も混んでいる。
 私たちの登山は、物見遊山ではないのだが、なるべく温泉に泊まりたいという気もちは、日本人らしい発想なのかも知れない。
万事休す。地図を睨んで、川浦の奥の雷(いかずち)、日乃出荘に泊まれば、大島山、大久保山のコ−スが考えられる。朝、マイクロバスで送ってくれれば、雲法寺から小楢山も歩ける。よし、これにきめた。
 日乃出荘に電話。予約。

 いつも、ザックは準備してある。
 ヴェトナム戦争で使われた実戦用の小型のザックに、すべて叩き込んである。これに、ツェルトを持って行くのが、私の基本的なスタイル。

 歩きはじめる。
 やがて、雑草を踏みわけて、登山コ−スにでると、肌寒いほどの気温になってきた。山に近い盆地なので、温度差がはげしいのか。草の匂い。正面の山の上は、朝焼け。これは、警戒が必要だろう。わずかな畑、その上の空がいちめん、澄みきった紅に染まっている。私と吉沢君は、しばらく空の色に見とれて、草原のなかに立ちつくしていた。

 雷(いかづち)で下りた。「日乃出荘」のオバサンが、私のことをおぼえていた。夜食は、イノブタ。おいしい。
 5時半。マイクロバスで徳和まで送ってもらう。

 6時5分、歩きはじめる。
 川沿い、北上する。堰堤を三つ過ぎたところで、渡渉。
 工藤 淳子が、またしても特技をご披露した。どんな小さな水たまりでも、かならず足をすべらす特技。このときも、私がうしろに立って、カヴァ−してやったのに――川に落ちた。下半身ずぶ濡れ。みんなが笑ったが、笑いごとではない。
 安東と石井に、近くの木を2本、切らせた。(ナタを買ってよかった。)この木を川に掛けて橋のかわりにする。菅沼はうまく渡ったが、鈴木がバランスを崩して、足を濡らした。
 歩き出したとたんに、こんな事故を起こしたのはめずらしい。
 予定変更。川原で、火を起こして、朝食。その間に、工藤と鈴木は、できるだけ早くズボンを乾かすことにした。

 崩れかけた橋(丸木)の手前から、岩の多いガレ場を登って行く。

 きつい斜面を登って、大カラス山の東の支峰に出た。ここで赤マ−クを見つけた。道らしいものは残っていたが、誰も通る人のない廃道らしい。
 こういうコ−スこそ、私たちの本領とするところなのだ。足の下に踏みつける土の感触が違う。
 やがて、1773の三角点を見つけた。
 ここで、昼食。

 鈴木がバテたらしい。
 やむを得ない。彼女をここに残して、あとのメンバ−で、大カラス山をめざした。なにしろ、道らしい道もないのだから、途中、岩に這いつくばってやっと通り抜けた。
 大カラス山の往復に50分かかった。

 帰りは、夕方4時55分のバスに乗らなければならない。道は、東御殿の先から荒れ果てている。松を切り倒したあたりから、道ではない斜面を下ることにした。
 大久保山の下からできるだけ東の尾根をたどり、徳和をめざした。

 午後、4時にバス停についた。期せずして、拍手がおきた。
 久しぶりに、おもしろい山行になった。

 ――おれたちって、スゴいんじゃね?」
    だれかがいった。
 ――だれも登らない山を登るって、おもしろいですね。
    私はいった。
――バスに乗れなかったら、ここでビバ−クするぞ」

 久しぶりに、おもしろい山行になったので、みんなが笑った。

         1977年11月21日(月)

 埴谷 雄高さんから「蓮と海嘯」をいただいた。

 夜、「スロ−タ−・ハウス」(ジョ−ジ・ロイ=ヒル監督)。
 中年の検眼士が、時空を越えて、さまざまな場所に出没する。現在のSFがどういう状況なのか、ほとんど知らないのだが、カ−ト・ヴォネガットの小説は、これからの文学の一つの指標と見ていい。

 昨日、新聞で、フランスの俳優、ヴィクトル・フランサンが亡くなったことを知った。私は、この役者についてほとんど知らない。「旅路の果て」で老俳優をやったヴィクトル・フランサンを思い出す。
 「運命の饗宴」の第3話、貧しい作曲家(チャ−ルズ・ロ−トン)が、コンサ−ト・ホ−ルで自作を指揮することになる。妻(エルザ・ランチェスタ−)がやっとのことでタキシ−ドを見つけてくる。作曲家は指揮をするのだが、タキシ−ドが破れて、失笑を買う。
そのとき、会場にいた名指揮者が、自分の席でタキシ−ドを脱いで、貧しい作曲家に、指揮をつづけるように指示する。この名指揮者をヴィクトル・フランサンがやっていた。
 その後、エロ−ル・フリンの西部劇、「サン・アントニオ」(デヴィッド・バトラ−監督)で、あの美髯を剃り落として、悪役をやっていたヴィクトル・フランサンに胸を衝かれたことを思い出す。

         1977年11月22日(火)

 芥川 龍之介を読む。

    夏目先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は過去に於いて、十二分に仕事をさ
    れた人である。が、先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、その頃或転機の
    上に立ってゐられたやうだから。すべての偉大な人のやうに、五十歳を期して、
    更に大踏歩を進められやうとしてゐたから。

 「校正の后に」という文章の一節。
 漱石の死を悼む真情はよくあらわれているが、なんとなく空疎な感じがある。おそらく、忽卒のうちに書かれたためだろう。
 それはともかく、五十歳を期して、更に大踏歩を進めようとするのは、漱石のような大作家にかぎったわけではない。
 私は、しがない「もの書き」だが、それでも、五十歳を期して、いささかあらたな歩みを模索している。

 武谷君と仕事の話。長編を書くことになった。これも一つの「転機」というべきか。

 5時。「南窓社」の岸村さん。アナイスの小説を出してくれないかと相談する。「実業之日本」には、アナイスを出す気がないのだから、私としては、「南窓社」あたりに話をもって行くしかない。またしても杉崎女史は失望するだろう。どうして、これほど苦労させられるのか。

 「あくね」。小川 茂久と。

 小川は、私と違って、かぎりなく酒を愛している。しかし、彼はおよそエピキュリアンではない。一見、そんなふうに見えるのは、じつは彼が一種の宿命観をもっているせいではないかと思う。
 1945年、もはや敗戦必至の状況で、小川は招集を受けた。

    「三月九日夜半から十日未明にわたるすさまじい東京大空襲を、大森で見聞して
    いたし、六月二十三日の沖縄守備軍全滅の報道も知っていたので、入隊の時には
    、戦い利あらず、一命を落しに行くようなものだと覚悟した。諦め易い質の私は
    その忍び寄る死に対して、まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった。

 こうした一種、ニル・アドミラリの姿勢は、私にもある程度、共通しているはずだが、小川は表面こそ「まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった」ように見えながら、現実には、人いちばいきびしい正義観をもっていた。たとえば、戦争責任者に対する彼の眼は苛烈だった。
 文学に対しても、彼の内面は繊細で、柔軟だった。
 いつも、ほのぼのとしたおもむきをたたえながら、内面に機知をわすれない。

 お互いに、たいした事を話題にするでもなく、ひたすら酒を飲みしこる。こうして、私は小川 茂久と三十年も過ごしてきた。そのことを人生の幸福と思っている。

         1977年11月23日(水)・

 快晴。無為。

 「毒物」について。しばらく勉強するつもり。
 たいへんな領域だと思う。(ずっとあとになって、このときの知識が「ブランヴィリエ侯爵夫人」を書くのに役立った。 後記)

 和田 芳恵さんのエッセイに、柴田 宵曲のことばがあった。

    私は五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むことにしている。学者や批
    評家が、長いあいだに、多くの作品を篩に書けているから、無駄な苦労をしない
    ですむ。

 和田さんは、柴田 宵曲の影響を受けたという。
 岩波文庫で宵曲を読んだだけだが、和田 芳恵さんのエッセイを読んで、あらためて読み直してみようと思った。
 できれば私も「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むこと」をこころがけようと思う。

         1977年11月24日(木)・

 快晴。ただし、寒い。
 国電ストは、6時半から平常に戻ったが、混乱は避けがたい。それにしても、国労、動労は、どうしてこういう無意味なストを打ち出すのか。

 昨日のロンドン、円相場は、1ドル=239円38銭。
 円相場は9月末から上昇をつづけ、10月6日に、260円。28日に250円。ここにきて、230円に突入した。
 国内の不況は、先月の、菅原君、小野君、内藤君、三人の話でもわかったが、これから日本はどうなって行くのか。

         1977年11月25日(金)・

 先日の登山で、めずらしく石井 秀明がバテた。どうやら風邪気味だったらしい。
 今は、私が風邪をひいている。手の肘、膝のうしろ、ヒカガミのあたり、痛いほどではないが、キヤキヤした感じ。

 「ビリ−・ザ・キッド」(サム・ペキンパ−監督)を見た。
 アウトロ−の世界に、奔放に生きて、最後にみずから進んで友人の手にかかる、「ビリ−・ザ・キッド」(クリス・クリストファ−スン)。一方、開拓者の時代の終わりを測々として感じながら、どこまでも旧友、「ビリ−・ザ・キッド」を追いつめて行く保安官、「パット・ギャレット」(ジェ−ムス・コバ−ン)の対決と友情の物語。
 ほんとうにいい映画だが、サム・ペキンパ−の映画としては、一昨年の「ガルシアの首」のほうがいい。こういうことは、短い映画評では、なかなかつたえられない。
 サム・ペキンパ−は、メキシコが好きで、多分、メキシコの女も好きなのだろう。「ガルシアの首」に、イセラ・ベガを出したように、この映画で、カテイ・フラ−ドを出している。「真昼の決闘」(フレッド・ジンネマン監督/1952年)のカテイは美女だったが、この映画では、中年のオバサン。女優として、いい年のとりかたをしている。
 音楽はボブ・ディラン。しかも、ボブは、この映画に出ている。芝居をしているわけではない。ただ、クリス・クリストファ−スンのそばに、ムスッとした顔つきで立っているだけ。それだけで存在感がある。

 できるだけ安静にする。しかし、夜になって、37度9分。

         1977年11月26日(土)

 連日、ドル安、円高がつづいている。日銀が介入して1ドル=240円。ここまで円高というのは、異常事態で、このままでは世界じゅうで円がスペキュレ−ンの対象になるおそれがある。

 中国。「人民日報」が、この21日に座談会をひらいて、茅盾、劉 白羽、謝冰心、李 李などが出席。ここでも――江 青たちは、劉 少奇批判を口にしながら、党指導の社会主義文芸路線を毛 沢東の思想と対立する反社会主義的なものときめつけたという。

         1977年11月27日(日)
 風邪のため、一日じゅう寝ていた。
 関節、とくに肘が痛む。発熱。本を読む気が起きない。

         1977年11月28日(月)

 「白鯨」を読みはじめた。
 田中 西二郎訳。田中さんが、署名して贈ってくださった。
 「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読む」つもり。


         1977年11月29日(火)

 しかし、ひどい目にあった。咳をすると、とまらなくなる。肋骨にヒビが入ったように、痛い。痰を吐いたあとも、ゼロゼロしたものが胸に残る。声が出ない。出ても、自分の声とは思えない。とにかく、ひどい目にあった。
 「小泉内科」で注射してもらった。
  原稿は何も書けない。
 「日経」の原稿だけは書いた。

 貧乏作家なので、ついつい雑文ばかり書いている。収入は安定しているので、いつまでもポット・ボイラ−をつづけなくていい。もう少し仕事をセ−ヴしよう。
 そろそろ、念願の大きな仕事にとりかかったほうがいい。

2019/03/22(Fri)  1799〈1977年日記 46〉
 
          1977年11月13日(日)

 レオポルド・ストコフスキ−が亡くなった。95歳。
 残念なことに、ストコフスキ−のレコ−ドをもっていない。だから、思い出のなかのストコフスキ−の演奏を思い出す。(ストコフスキ−が指揮したディアナ・ダ−ビンをもっていたはずだが、これも探し出せなかった。残念。)

 久しぶりで山歩き。
 「マリア」がいっしょなので、ぐっとレベルを落として、低い山を選んだ。相模湖から明王峠に出て、陣馬山というコ−ス。初歩のコ−スだが、相模湖から逆に歩くコ−スは、誰も通らない。あまり低すぎてつまらないが、誰も通らないだけに、ピクニックにはいい。明王峠から陣馬は、人が多いので、別のコ−スに。

 相模湖から、やや冷たい風が吹いてくる。あたりに人影はない。
 峠に出て、一服する。

 「マリア」は、落ちついた足どりでついてくる。何度か山歩きをつづけて、ハイキングの楽しさがわかってきたのか。

 途中で、姫谷に出ることにした。林道まで、たかだか1800メ−トル。だが、このコ−スも楽しかった。じつは、私の目的は、二色鉱泉だったが、休業しているというので、姫谷に変更したのだった。
 姫谷で、シカの刺し身、イノシシ鍋を食べた。
 「マリア」はひるまずに、イノシシ鍋をつついている。これまで一度も食べたことのないものでも、おいしい味はおいしいのだ。
 帰り、高尾で乗り換えたのだが、電車のなかで、思いがけず、知り合いに会った。以前、「あくね」にいた女の子だが、寺山 修司の劇団、「天井桟敷」の研究生だった。
 「ネスカフェ」のCMを歌っているマデリン・ベルに似たハスキ−な声。
 「マリア」を見て、
 −−先生、お楽しみね。
 もともと、青白い顔で、暗い影のある女の子だったが、すっかり健康な感じになっていた。今は幼稚園の保母さんになっている、とか。

         1977年11月14日(月)

 内村 直也先生、藤枝 静男さんから、「私のアメリカン・ブル−ス」受贈の礼状。
 藤枝さんは――埴谷 雄高さんの話では、サルバド−ル・ダリに、バルトロンメオ・ヴェネトの絵にわざわざ髭をつけて「自画像」と題した絵があると書いてきた。この絵は私も見たことがある。藤枝さんは、全集(「筑摩書房」)の月報に、ヴェネトとダリの絵を並べてみたい、という。
 内村さんは――(私がとりあげている)ア−サ−・ミラ−、テネシ−・ウィリアムズは、アメリカ現代戯曲の最高峰。これ以後の劇作家は完成品とはいえない、という。こういういいかたは、内村さんに特徴的なものだが、私の意見では、ミラ−、ウィリアムズ以後の劇作家にもすぐれた人はいるし、ウィリアムズにしても、もう完成した劇作家とはいえないと思う。

 テレビで、マニラのホテル・フィリピナス焼亡のニュ−ズ。これには驚いた。

 マニラ滞在中、このホテルに泊まっていた。マニラで知りあった、ス−サン、キテイ、名前も知らないオジイサンのタクシ−・ドライヴァ−のことを思い出した。

 マニラに行ったのもまったくの偶然だった。

――あなたは疲れているのよ。しばらく、旅行でもしてみたら。
    ある日、妻の百合子がいった。
 ――どこへ?
 ――行ってみたい場所よ。ひとりで。

 百合子がすすめてくれたのだった。
 当時、私は、ある週刊誌の仕事を終わっていた。これは、私のはじめての挫折といっていい。しばらく立ち直れなかった。つぎの仕事にとりかかる気力もなかった。そのくせ、毎日、雑文を書くのに追われていた。多忙だった。これは当時も今も変わらない。
 外国に行ってみよう、という衝動的な思いつきが、それからあとの、慌ただしい出発に結びついた。

 サイゴンに行った。この「旅」は私に大きな変化をもたらした。

 その帰り、マニラに向かった。

 当時、フィリッピンは、マルコス政権の時代で、ヴィェトナム戦争の影響を受けていた。フィリッピン全土は、ヴィェトナムとおなじように夜間外出禁止(カ−フュ−・タイム)だった。
 ある日、私は、松林につつまれたマニラ郊外のナイトクラブに行った。その帰り、カ−フュ−・タイムになってから、マニラのホテルに帰ることになった。パスポ−トをホテルに預けてあるので、戒厳令下のフィリッピンでは、外国人にはいろいろと不都合な事態が起きることも予想されたのだった。
 たまたま、老人の運転するボロ・タクシ−に乗った。途中、この老人とほとんど口をきかなかった。

 マニラ市街に入ってから、老運転手は、私の空腹を察したらしく、自宅に寄って何か食べさせてあげよう、といった。
 オジイサンの家は、平屋で、貧しい暮らし向きだった。コンクリ−トの三和土(たたき)に、机が一つ、木の椅子が二つ。これほど貧しい生活は――東京の、空襲で焼け出された当時の私の生活に似ていた。

 オジイサンは、クロワッサンとバタ−、コ−ヒ−だけの夜食をふる舞ってくれた。

 このとき、オジイサンは、戦争中のマニラで、日本軍が無差別に市民を銃殺したことを話してくれた。そのことばに、怒りはなかった。ただ、たんたんと、そうした事実があったことを話しただけだった。
 戦争の記憶は遠くなったにしても、マニラの市民たちのあいだでは、まだまだ反日感情が強いと聞いていた。
 しかし、オジイサンのことばに怒りはなかった。

 私は異国に旅をしていることで、考えが単純になり過ぎていたのかも知れない。土地の変化や、時の移ろいは、自分で想像する以上に、私の思考や意識を変化させているに違いない。そう考えると、無差別にマニラ市民を銃殺した日本の兵士たちの狂気を、この老人が私にむかって非難しても当然だった。
 しかし、オジイサンは、ただ、おだやかな口ぶりで、1945年にそうした事実があったと話しただけだった。この老人の話は私の内面にえぐりつけられた。
 人間の犯してきた愚行の、最悪の狂気も、この見知らぬ国の暑さの中で私がずっと見つづけてきた、いわば既知のもののようだった。

 翌日、私は、マニラからバギオに向かった。ここで、幼い少年たちと知りあったが、これも貧しい子どもたちだった。私は、この少年たちから、何かを教えられたような気がした。
 ホテル・フィリピナスのことから、いろいろなことを思い出した。

         1977年11月15日(火)

 ホテル・フィリピナスは全焼した。

 7階建てのビルには、窓が黒く焼けて、日の廻りが早かったことがわかる。悪いことに、マニラは、13日の夜から季節はずれの台風に襲われて、消火作業が遅れたらしい。死者、42人。

 午後1時半。「サンバ−ド」で、杉崎 和子女史に会う。杉崎さんは、アナイス・ニンの一周忌に会合をもつことになり、その準備にとりかかっている。このために「牧神社」の菅原 孝雄君に会うことにしたのだった。菅原君はなかなかこなかった。しびれを切らしてこちらから電話をかけた。やっぱり、約束の時間を間違えていたことがわかった。
 このときの話は、「アナイス・追悼」の会場、会費をどうするか。

 「あくね」。小川 茂久と飲む。お互いに話をするわけでもない。盃が空になると、酒を注ぐ。そのくり返し。
 思い出したように、小川がいう。
 ――「こんどの真一郎さん、読んだかい?」
 ――「読んだよ」
 ――「どうだった?」
 私は感想を述べる。小川 茂久は黙って聞いている。中村 真一郎は、お互いに少年時代からの知りあいなので、よく話題になった。「こんどの」というのは、その時期の「文学界」だったり、「群像」だったり、「そのときの」作品を意味する。
 しばらくして、小野 二郎が内藤 三津子女史といっしょにきた。私は、すっかり酔っていた。
 「あくね」のママが、しきりに内藤女史にからむ。こういうとき、私としてはほんとうに困る。どうしていいかわからないので。

           1977年11月16日(水)

ストコフスキ−が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。

 マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリの自宅で心臓発作で逝去。享年、53歳。

 私は、センチメンタルな男かも知れない。いや、センチメンタルな男なのだ。
 この日はマリア・カラスばかり聞いていた。

 夜、「マリア」から電話。その応対を百合子が聞いていた。
 彼女が私にひどくなれなれしい口をきくので、百合子が、
 「どうして、あんな口をきくのかしら」
 と、私をなじった。

           1977年11月17日(木)

 前夜から、風雨がつよい。雨は午前中も降りつづき、10時頃は、あたりが暗くなった。キンモクセイが全部倒れてしまった。可哀そうに。

 池袋、「西武美術館」で、「ソビエト映画 三大巨匠展」をやっている。
 ソヴイェトの映画は好きではない。しかし、見ておく必要はあるだろう。エイゼンシュタイン、プドフキン、もう一人は誰だろう?
 ついでに、ファッション・ショ−を見ようか。ニュ−・フォ−マルと毛皮のファッション・ショ−、ゲストに今野 雄二。これは、19日、1時と3時。

 池袋に行くのなら、すぐに山の帰り、ついでに「西武美術館」に寄ろうと考える。何でも登山に結びつけて考える習性がついている。池袋なら、秩父に行けばいい。
 久しぶりに単独行を考えた。

 いつも、グル−プで行動する。行き先だけは、当日の天候とにらみあわせて、私がきめる。あとは臨機応変に、みんなで意見を述べる。行き先はきまっても、現地に行ってから、きゅうにコ−スを変更することもめずらしくない。
 単独行の場合は、自分で何もかもきめるので、いつもより綿密にプランを考えることになる。

             1977年11月18日(金)

 小林 秀雄の「本居宣長」が出た。

 伊勢、松坂にあって、思想家として生きた本居宣長は、古典に、人生の意味を匡し、道の学問を究めた。小林 秀雄が、「新潮」に11年連載したまま、今まで出版しなかったもの。
 これは、ぜひ読んでおきたい。

 本屋に行った。
 棚に、「本居宣長」が並べてある。棚の前に、母子づれが寄って行った。母子の話のようすから、男の子は中学1年生らしいことがわかった。
 男の子は、どうしても「本居宣長」を読みたいと思った。ただ、自分では買えない値段なので、母にせがんで買ってもらうことにした。それだけのことだったが、もし私が、中学生だったら、母、宇免は「本居宣長」を買ってくれるだろうか、と思った。
 4000円の本である。中学生には、おそらく読みこなせない本とわかっていて、なおかつ、母、宇免は「本居宣長」を買い与えてくれるだろうか。
 宇免だったら、なんのためらいもなく、私にこの本を買い与えたに違いない。理由はまったく薄弱なもので、たとえ読みこなせない本とわかっていても、息子が読みたいといったのなら、即座に買い与えたに違いない。
 私は母に本を買ってほしいとせがんだことは一度もない。(子どもの頃の話。)欲しい本は自分のお小遣いで買って読んだ。その私が母に買ってほしいとせがんだのなら、たとえ自分の食事を抜いてでも買い与えてくれたと思う。

 その男の子は「本居宣長」を抱えてカウンタ−に行った。
 希望がかなえられた少年は顔を輝かせていた。

 私はこの母子の姿を見て胸を打たれた。いい光景だった。

 夜、「キャバレ−」(ボブ・フォッシ−監督)を見た。
 あらためて、ライザ・ミネッリに感心した。しかし、テレビなので、ラストはライザが「キャバレ−」を歌うシ−ンで終わっていた。映画では、カメラがステ−ジから客席に引くと、その客のなかに親衛隊の将校や、ナチのメンバ−がいる。それで、この時代の恐怖がまざまざと感じられる「演出」だった。
 テレビでは、それが全部カットされている。そのため、ただのミュ−ジカルのハッピ−・エンドに変わっていた。
 テレビでこの映画を見た人は、「キャバレ−」に、ハッピ−・ゴ−・ラッキ−なものしか見なかったにちがいない。

2019/03/16(Sat)  1798〈1977年日記 45〉
 
              1977年11月1日(火)
 「南窓社」に行く。「私のアメリカン・ブル−ス」が出た。
 出版の話があって、今日まで少し時間がたってしまったが、それでも「南窓社」の岸村 正路さんと出会えたことは、幸運としかいいようがない。彼の励ましや助言がなかったら、この本は世に出ることはなかった。

 できたばかりの「私のアメリカン・ブル−ス」を手にとってみる。装丁にジェ−ン・フォンダの写真を使ったが、思ったほどわるくない。うれしかった。自分で装丁して自分で満足しているのだから、世話ァねえや。

 岸村 正路さんが、モ−ゼルを用意してくれた。ありがたい心づくし。ほかの出版社で、本を出したとき、こんなおもてなしをうけたことはない。編集を担当してくれた松本 訓子、藤平 和良おふたりといっしょに乾杯する。おふたりにも心から感謝している。

 私がこの本を書いたのは、自分の好きな作家を選ぶことで、いちおう私の「アメリカ」にケリをつけたかったからだ。ア−サ−・ミラ−も、テネシ−・ウィリアムズも、自分の演出で上演できた。オニ−ルや、今のオフ・ブロ−ドウェイの劇作家たちも、いつか演出してみたかった。残念ながら、その機会はなかった。そして、演出家としての私のキャリア−は終わっている。それでも、これまで書けなかった問題をこの本で書こうとした。うまく書けたかどうかは別として。

 内村 直也、荒 正人、埴谷 雄高さん、庄司 肇さんに、「南窓社」から本を送ってもらう。いずれも、私にとっては大切な恩人なのだから。

 「ロ−タス」で待たせておいた「マリア」に、「私のアメリカン・ブル−ス」にサインして贈る。彼女も喜んでくれた。本を抱きしめて感激しているので、私までうれしくなった。

 「あくね」に行く。小川 茂久がいるので。
 小川は、私の本を見て、ケッケッケと笑った。小川はうれしいことがあると、いつもこんな笑いかたをする。
 ――装丁、いいねえ。きみの趣味だな。
 ケッケッケと笑った。

              1977年11月2日(水)
 昨日、一昨日と、暑いほどだったのに、今日は冷たい雨になった。

 たとえば、朝、化粧室に、貴婦人がいるとしよう。
 お侠なメイドが、なれた手つきで、マダムのお化粧にかかっている。奇抜なヘア−・スタイル。夫人のかたわらに、修道院長がひかえている。マダムの髪形や、ヴェ−ルについて、ご意見を申しあげる。と、化粧室のドアが開いて、マダムのお嬢さまが朝の挨拶に伺候する。(書いていて、コメディ−・フランセ−ズの舞台を思い出した。)

 こういう環境で成人するお嬢さまも、やがて結婚なさるわけだが、新婚カップルなのに、はじめからアンニュイに襲われて、夫との深いミゾを埋めることもできない。
 おそらく、ノン・オ−ガズミックな性生活のせいで、うつろな心に不満がきざしはじめる。
 家族の気まぐれに翻弄され、財産の所有権を、かりそめの幸福と引き換えた女性は、自尊心を傷つけられて、夫婦間の裂け目をますます大きなものにしてゆく。
 夢ふくらむ乙女心を無残に打ち砕いた夫を許せるはずはなかった。
 離婚もままならず、長い人生を鎖につながれて生きなければならなかった。ソフィ−・アルヌ−ルは、無邪気に、いったという。
 「離婚って、姦通の儀式なの?」

 かくて、ロココの姦通はまことに陽気なものになる。女たちは、いそいそとして姦通に走った。

 ただし、せっかくの楽しみも冷水を浴びせられることがある。

 妻に欺かれた夫が、妻の不貞にまったく無関心な態度を見せることだった。
 夫との性行為が、単純で、粗暴で、ほとんど動物的とさえ見える時代、ロココの女たちの結婚生活に、嫉妬という情念はほとんどあらわれない。
 女たちは喜々として姦通に走ったため、嫉妬心どころか、ほかの感情も入り込む余地がなかった。
 ロココの時代、レデイ・キラ−に対して嫉妬をあらわにすれば、貴婦人たちや、その取り巻きの詩人たちには、滑稽な気晴らしのタネにされるばかり。まして、寝とられたコキュと、みごとに首尾を果たしたオンドリが醜い争いをくりひろげたりすれば、世間の笑いものになる。
 セックスにおける「乱倫」とは、「コン」(ペニス)の強さのことであって、うっかり男に嫉妬すれば、夫のほうは「去勢」されたせいと疑われるのがオチになる。

 「嫉妬は、女を疑うことではなく、おのれを疑うことなのだ」と、バルザックはいう。

 この時代、自分の妻ひとりを愛するような男は、ほかの女たちをそそのかして足を開かせる甲斐性がない、と嘲笑される。
 利口な夫たちは――自分の性的な能力を妻にまで嘲笑されるのは困るので、妻の行動を束縛して、世間から遮断したりはしない。妻が他の男の口説きに屈して、裸身をさらしても、そういう男を相手に快楽にふけることこそ、洗練された妻のありかたなのだと自ら納得してみせる。
 じつのところ、妻の貞節などはじめから信用していないため、妻の不実を知っても、笑いとばすのが男の甲斐性だった。
 ただし、そういう夫にとって、我慢ならぬことがある。
 自分の妻が他の男と通じているのはかまわないが、相手の男の前に別の女性があらわれて、突然、妻が捨てられるような事態、となれば由々しきことになる。夫婦のプライドが傷つけられたことになるからだった。
 少なくとも夫婦のプライドに汚点をつけようとする、陰謀のようなものになる。
 ド・スタンヴィル夫人は、粗暴な夫に蹂躪されていたため、姦通に走ったが、夫の陰謀にたばかられて、相手の男を別の女にさらわれたため、修道院に身を沈めなければならなかった。

 いつか、こういう時代の姿を描いてみたいのだが。

              1977年11月3日(木)
 さわやかな秋晴れ。
 午前中、「ロ−ドショ−」の原稿、「私の青春と映画」を書く。

 午後、池袋に。
 「西武」9階。「短波放送」の生番組。森 敦、赤塚 行雄のおふたりに会う。

 番組は低俗なものだが、久しぶりに赤塚 行雄さんと話をするのが楽しかった。赤塚君は、私と同年代の批評家だが、「文芸」の会で、坂本 一亀に紹介された。
 森 敦さんとは、別のテレビにつづけて出たことがある。「月山」以後ずっと沈黙している作家だが、ようやく小説を書く気になっている、という。

 この放送の現場に、安東 由利子、工藤 敦子、中村 継男がきてくれた。中継放送なのに、仲間の誰も応援にこなかったら、中田先生が可哀そうだから。
 ある時期の私は、放送作家として「短波放送」で仕事をしていた。「短波放送」のスタッフには顔見知りも多い。中村君たちは、そんなことを知らないので、この中継の応援に駆けつけてくれたのだった。

 放送を終えて、安東、工藤、中村といっしょに、「西武」で「バ−ナ−ド・リ−チ展」、「コ−カサス展」を見た。

 池袋の雑踏を歩く。木曽料理の店があった。ここで、ドジョウの地獄焼き、カエルの塩焼き。女の子たちはこわがって食べない。

 「山ノ上」。私は、まだ仕事が残っている。
 連載を書きはじめた。渡辺 晃一君がきたのは、9時半。しばらく待たせた。いつもなら、露骨にいやな顔をしてみせるのに、めずらしく、神妙な顔で待っていてくれる。
 明日、「国労」がストライキに入るので、どうしても今夜じゅうに原稿をしあげてほしい、ということらしい。「国労」のストライキは私の連載にまで影響している。
 予定より、30分遅れで原稿を渡してやると、渡辺君は礼もそこそこで帰って行った。
 とにかくやる気のない、新しいタイプの編集者である。

              1977年11月5日(土)・
 今日は、私の祝日。

 安東 由利子、工藤 敦子、甲谷 正則、石井 秀明、宮崎 等たち。私のファンというか、グル−ピイ。みんな、いい仲間なのだ。

 庭に穴を掘って、火を起こす。バ−ベキュ−。
 みんな、こうしたパ−ティ−ははじめてだが、作業としては山で食事を作るのと変わらない。
 百合子が、2,3人をキッチンにつれて行って、用意した肉や、ビ−ルなどを運ばせる。ほかの連中は、どやどやとバ−ベキュ−・セットに寄ってきた。
 そのあとも、ぞくぞくと仲間たちが集まってきた。百合子は、みんなに挨拶したり、つぎつぎにグラスを渡してやったり、忙しそうに立ち働いている。

 はじめの1時間ほどは、仲間たち2,3人が、ひとところにかたまって、ビ−ルを飲んでいるが、そのうちに三々伍々に離れて、庭に出たり、応接間に陣どって、わいわい話をしたり、応接間のテ−ブルに皿や、ナイフ、フォ−クをならべたり。

 ネコたちは、みんな別棟の部屋に閉じ込めたのだが、中田先生ンチのネコに挨拶しようというので、中田パ−ティ−はもとより、来あわせた連中まで、どやどや押しかける始末。
 この日、中田家の混雑はたいへんなものになった。
 パ−ティ−にきてくれた諸君は、お互いに知らない人が多いし、どういう目的の集まりなのか誰も知らない。人数も、どんどんふえてきた。
 百合子は、女主人として、若い人たちみんなにテキパキ指示して、全員に飲み物が行きわたるようにしたり、所在なさそうな女の子をみつけると、すぐに寄って行って話かけたり、けっこう、気苦労の絶え間がない。

 この日は、まるで劇団の打ち上げになった。
 はじめのうち、よそよそしさが残っていたにしても、みんながすぐにうちとけて、語りあい、笑いさざめいていた。みんな仲間どうしという感じで、年齢差もなくなって、わいわいやっている。

 ビ−ル、ウィスキ−、日本酒をたくさん用意したのだが、どんどんなくなっていった。

 「さ、みなさん、遠慮しないで、召し上がってね」
 百合子がいうと、女の子のひとりが、
 「ほら、奥さまのすわるところを開けて、おとりもちしなきゃ」
 などという。
 ビ−ルに酔った学生が、
 「先生、イイよ」
 何がいいのかわからなくなっている。なんでも、イイよ、で間にあわせる。

 いろいろな人がきてくれた。お互いに知らない相手も多いのだが、みんなが肉を焼き、ビ−ル、ウィスキ−を飲んで、楽しく談笑する。私のグル−プでは、安東ひとりが残念ながら欠席。

 網に乗せた肉やサカナをひっくり返したり。別に用意しておいたお寿司や、フライドチキンも、どんどん追加して行く。30人以上もきてくれたのだから、予定した食べ物だけでは間に合わない。
 百合子も、バ−ベキュ−・セットだけでは間に合わず、別に七輪を出して、吉沢君が火をおこす。いい感じのオキ火に金網をのせて、イカや貝類を焼いたり、野菜を焼いたり。

 音楽も流れている。誰かが、勝手に私のレコ−ドをかけている。
 パ−シ−・フェイスが流れたと思うと、マントヴァ−ニ、そのつぎに、ビリ−・ヴォ−ン、フィンツィ・コンティ−ニ、むちゃくちゃな選曲だった。

 ひたすら楽しいパ−ティ−になった。
 あとで、かんたんな挨拶をする。
 ・・・今日は私の誕生日。私は、50歳になった。今日は、その記念のパ−ティ−なん
    だ。
 ・・ みなさん、きてくれて、ありがとう。心から感謝している。

 私は50歳になった。もはや、若くはない。というより、初老期に入ったというべきだろう。これから、まだどのくらい生きていられるかわからないが、できるだけ長生きして、もの書きとして、自分の世界を作りあげていきたい。

 いくつかの仕事はできると思う。
 しかし、私がほんとうに望んでいるのは、自分がいつも考えている仕事を越えた仕事をしたい、ということなのだ。

              1977年11月6日(日)
 昨日のパ−ティ−は、みんなが終電までに帰途についたが、あと始末はまだだった。
 キッチンには、ビンや食器などが散乱している。応接間にも、いろいろなものが残されている。百合子ひとりであと片付けするのはたいへんなので、あとで私も手つだうつもりだった。

 お昼近く、安東、鈴木のふたりがきてくれた。これにはおどろいたが、ほんらいなら、このふたり、まっさきにきてくれるはずだった。しかし、仕事で、青森に出張したため、残念ながら欠席したのだった。
 百合子が、すぐに軽い食事を用意して、ふたりにふる舞った。あとでふたりが片づけものを手つだってくれたので、あっという間に、食べものの残りの始末がついた。

 安東たちが帰って、ようやく静かになった。

 百合子が、あらためて私の誕生日を祝ってくれた。

 こんなパ−ティ−をやったのも、私がもの書きという自由業で、時間を作ろうと思えばいくらでも作れるからだった。パ−ティ−にいくら費用がかかったか、私は知らない。百合子が、みんな切り盛りしてくれるので。
 費用はかかったが、どこかのレストランを借り切ってパ−ティ−をするほど、贅沢をしたわけではない。

 深夜、12チャンネル。「汚れた顔の天使」(マイケル・カ−テイス監督/38年)を見た。ジェ−ムス・キャグニ−、パット・オブライエン。ハンフリ−・ボガ−ト。たまには、こういうクラシックも見ておいたほうがいい。今回、気がついたのだが、女の子はアン・シェリダン。戦時中、「ウムフ・ガ−ル」として、人気のあった女優。

              1977年11月7日(月)
 女のSEXが、凌辱と、暴力と、支配の対象とされてきた時代。女たちは、思いがけない手段で、抵抗する。
 ロココ時代の姦通。夫には、妻とその愛人の「関係」を邪魔だてする権利さえあたえられていない。
 女の姦通は、この時代の女たちの暗黙の了解事項といってもよい。
 マリヴォ−は、宰相、リシュリュ−の行状から、この時代の性について、夫はどうしても、非常識なやりかたでしか妻を愛せないという偏見に言及している。
 妻を寝とられた夫といえども、その事態が避けられない場合は、それなりに姦通を認めると論じている。

 姦通の当事者の仲がこわれる。性的な快楽、とくにオ−ガズミックな享楽を得ている夫は、ぶざまなコキュという汚名を避けるために努力する。
 一方、妻に粗末な食事をさせたり、食事制限を課したり、はげしいダンス・レッスンを命じて、若妻の肉欲を弱めようとする。
 夫がつねに気をくばっていれば、「長椅子の戯れ」まで、つまり姦通までは、そう簡単に発展しない。夫婦にとって、肉体的にもっとも魅力的な状態になれば、寝室への距離もバランスよくとれる。
 最愛の女性の褥で休むとき、ナイトキャップを耳の上まで引き寄せるような、無粋なまねをしないですむ。
 結婚が無事につづけられるためには、妻の貞節こそが秘訣と、夫に確信させること。そのためには、慎重に、自分の考えにしたがって妻を教育し、気くばりをする必要がある。妻の女心をきずつけて、ワインに酔いしれて、一家の主に反抗することのないように。

 妻に余暇を楽しませるためには、妻が望んで出産した子どもを妻に抱かせるべきである。そうすれば、誇り高い母性の女は、一家の名誉を守ろうとするから。
 妻の愛人が登場しても、夫は巧妙に罠を仕掛け、男に好き勝手なふるまいをさせておいて、いざというときは、男を一敗地にまみれさせるがいい。
 一度でも、妻が愚かな行為をして、夫からは得られないはげしい官能の喜びにむせび泣くような関係になったら、妻の内部には得体の知れない怪物が侵入し、とり返しがつかなくなる。

 かるはずみな結婚が、この時代の風潮になり、姦通が流行した。
 あたらしい恍惚を得るために、ひとりの女性に自分の一生を捧げるなど愚の骨頂。
 この世紀には、幸せな結婚を実現した例は非常に少ない。

              1977年11月8日(火)・
 ロココの世紀に幸福な結婚がなかったわけではない。
 ボヴォ−公爵。愛情豊かな結婚の例で、姦通肯定のイデオロギ−がまかり通っていた時代に、さまざまな危機を乗り越えて、ゆたかな絆が作られて行った。
 ベルウィク元帥は、初婚の妻が心をこめて贈った銀の小筐を、終生、肌身離さず持ち歩いた。
 アカデミ−会員、ソ−ル夫妻の愛情は、はるか後年の世紀の夫婦愛そのものといってもいい。
 ロココの結婚倫理には、うつろな穴が絶望的に開いていた。

 佐々木 基一さんのエッセイが眼についた。

    さきごろ、深夜叢書社から出た「「近代文学」創刊の頃」と題する文集のなかで
    、信州飯田の軍需工場で終戦を迎えたときのことを久保田 正文が書いていて、
    「山道を下駄で下りながら、たちまち肚の底からの笑いが、自ずから私をおそっ
    てきた。ひと一人通らぬ、真夏の真昼白い光のなかであった」という箇所が妙に
    心にのこった。「まさに、哄笑というほかないあの笑いを、私は忘れることがで
    きない。それ以前にも、それ以後にも経験したことのないものとして今も心に刻
    んでいる」と久保田 正文が付け加えて書いている。そのような”哄笑(こうし
    ょう)”の中身は、おそらくあの日を体験した者にしかわからぬものであろうし
    、またいつふたたび警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えた
    者にしか分からぬ笑いだろう。

 私は、「近代文学」創刊の頃に、もつとも早く「近代文学」の人々と知りあった。この「「近代文学」創刊の頃」に、埴谷 雄高さんから執筆を依頼されていたのだが、私は書かなかった。じつは書こうとしたが、何も書けなかった。

 私もまた、終戦の日に、哄笑とまではいかないが、心から笑ったことを忘れない。
 少年だった私は、警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えたわけではなかった。ただ、戦争が終わったという、かぎりない解放感のなかで、心ゆくまで笑ったひとりだった。
 その笑いは、あの日を直接体験した者にしかわからぬものになっている。

 「近代文学」のなかで、佐々木 基一さんは、私に大きな影響を与えた批評家のひとりだった。久保田 正文さんとはほとんど交渉がなかったが、それでも短詩形の文学に関心をもったのは、久保田さんのおかげといっていい。

 私は、すぐれた先輩たちに教えられ導かれて、やっとここまでたどりつくことができた。そのことはけっして忘れない。

2019/03/13(Wed)  1797〈1977年日記 44〉 
 
          1977年10月25日(火)

 短編を書いた。

 もう10年も前の話。
 当時、「読売」で、大衆文学時評をはじめた。これは、文化部の高野 昭さんの企画で、佐々木 誠さんが担当した。
 このコラムで、「ハヤブサ・ヒデト」というペンネ−ムを使った。
 高野 昭さんも佐々木 誠さんも、このペンネ−ムについては異議を唱えなかった。おそらく、「ハヤブサ・ヒデト」について何もご存じなかったと思われる。
 ハヤブサ・ヒデトは、戦前の「大都映画」のアクション・スタ−で、連続活劇が専門だった。少年たちは、悪人たちを相手に戦うヒ−ロ−、「ハヤブサ・ヒデト」の活躍に胸を躍らせたものだった。「恋人」は、「大都映画」の美少女、佐久間 妙子ときまっていた。私は、後年、「忍者アメリカを行く」という愚作を書いたが、その主人公を「隼 秀人」と命名した。自作のなかで、少年時代のヒ−ロ−を登場させたかったからだった。
 ある日、佐々木さんから、一通の手紙が回送されてきた。
 読者からの手紙だった。鉛筆で書かれたものだった。

    前略
    3月7日夕刊、”大衆文学時評”、ハヤブサ・ヒデト氏は本名は何と言われる人
    でしょうか――おさしつかえなければ御知らせ頂ければ幸甚です。
    私――戦中、映画、自作自演、自監督をしたことあり、その頃のペンネ−ムと
    同じものなので、何か、かつての私と何等かのかかわりのある方なのか――と
    思ったりして妙にひっかかるものを感じますので――
    右お願いまで
    二月八日                   広瀬 数夫

 私は驚いた。
 ハヤブサ・ヒデトは、もう、亡くなったとばかり思っていたから。かつての活劇スタ−が生きていて、私の「ハヤブサ・ヒデト」の書いている「大衆文学時評」を読んでいる!
 しかも、住所は、埼玉県小川だった。

 埼玉県小川町は、私の母が、幼い少女だった頃、貧しい暮らしをしていた土地だった。そして、ハヤブサ・ヒデトの本名が広瀬 数夫と知って、これにも少し驚かされた。私自身が「広瀬 たけし」というペンネ−ムを使って、雑文を書いていた時期があったからである。

 私は、すぐに返事の手紙を書いた。
 少年時代に、ハヤブサ・ヒデトのシリ−ズのファンで、毎週、かならず見に行ったこと。批評家になってから、大衆文学批評を書くことが多くなって、「読売」が、新設したコラムに、私を起用してくれたこと。そのとき、私にとって貴重な「ハヤブサ・ヒデト」の名をペンネ−ムに選んだこと。
 この手紙で、本名を明かしたわけではない。手紙を読んだあと、どうあっても私の本名を明かせというのなら、よろこんで明かしたい、と書いたのだった。

 広瀬 数夫さんから返事はなかった。
 昭和初期に、自分の活劇に夢中になっていた少年が、大衆文学批評を書いていることに、なにかしら、くすぐったい思いがあったのではないか、私はそんなことを想像した。

 1969年のことだった。

 ハヤブサ・ヒデトは、翌年に亡くなったはずだが、よくは知らない。ただ、この大衆文学時評をハヤブサ・ヒデトが読んでくれている、と思いながら書いたのだった。


             1977年10月27日(木)

 作家、稲垣 足穂が亡くなったという。知らなかった。

 「山ノ上」。「IDA」、井田 康雄君が教えてくれた。
 このとき、「青春と読書」を受けとった。先日会ったリチャ−ド・バックのインタヴュ−。これは、録音を終えたあと、「山ノ上」に入って、徹夜で書いたものだった。
 自分でいうのもおこがましいが、いちおうよく書けていると思う。

 安東夫妻と、先日の高畑山の思い出を語りあいながら飲む。
 Y.T.は、山登りが好きになったらしい。石本に、小説の原稿をわたして、Y.T.を送らせる。
 残ったメンバ−を、三崎町の「平和亭」につれて行く。最近、「徳恵大曲」という中国酒が気に入っているので、みんなにふる舞うつもりだったが、これがなかった。別の酒を飲んだが、白乾児に似た味でがっかり。

             1977年10月28日(金)

 「素顔のモンロ− アンドレ・ド・デイ−ンズ展」 を見た。
 マリリンが19歳のときから、4000枚も撮影した写真のなかから、初期のノ−マ・ジ−ン時代、モデル時代、私生活など、初公開の写真、60点。
 渋谷「西武B」。今日まで。

 19歳のマリリンは、写真家、アンドレ・ド・デイ−ンズとどういう関係だったのか。むろん、こうしたことに関する資料はない。もっと露骨にいえば、19歳のマリリンはド・デイ−ンズとSEXしたのか。
                                      
 ド・デイ−ンズのマリリンは、彼のカメラがマリリンのエロスをどうとらえているかにあらわれている。ド・デイ−ンズは、数年後にマリリンが、アメリカを代表する映画スタ−になるとは夢にも思っていなかったはずだか、この19歳のマリリンは、すべてが無邪気なハイティ−ンなのに、すでにしてセックスだけで生きている女なのだ。
 この「マリリン」は、生命力であり、活力なのだ。

 戦時中に、陸軍の報道カメラマンに撮影されているが、そのとき、「マリリン」はこのカメラマンとSEXしている。
 モデルになっていた「マリリン」が、ド・デイ−ンズとSEXしなかったとは考えにくい。「素顔のモンロ−」には、いわば、ド・デイ−ンズと私たちが「マリリン」の秘密を共有しているといった親密な雰囲気がただよっている。


             1977年10月29日(土)

 見たい映画。「マルタの鷹」。これは東京12チャンネル。
 あまり見たいと思わないもの。「ソヴイェト名作映画祭」。むろん、見ておいたほうがいい映画――「アンナ・カレ−ニナ」、「カラマ−ゾフの兄弟」。


             1977年10月31日(月)

 宝塚、11月「雪組」をみるか、暮れの「花組」、春日野 八千代を見るか。

 オスカ−・ワイルドはいう。

    快楽のために生きてきたことを、私は一瞬たりとも悔いはしない。私はこころゆ
    くまで味わったのだ。人はそのなすべきことをすべてなすべきであるように。
    私の経験しなかった快楽などあるはずもなかった。

 私は、こういい放ったワイルドにさして羨望を感じない。

 おのれの行状をこうまでみごとに裁断するワイルドには敬服するほかはないが、私自身は、おそらくわずかな快楽すら経験せずに生きてきただけのような気がする。
 たとえ、わずかばかりの快楽のために生きてきたとしても、私は悔いない。

2019/03/04(Mon)  1796〈1977年日記 43〉
 
           1977年10月17日(月)

 朝、近くの「石橋商店」のお内儀さんがきて、表の道路でネコが死んでいます、と知らせてくれた。悪い予感が走った。

 すぐに行ってみた。わが家の飼いネコ、チビが死んでいた。名前こそチビだが、その前に生まれたマックに劣らないほど大きくなってしまった。しかし、私が可愛いがっていたネコだった。

 車にハネられたことは歴然としている。左の目がとび出していた。その血が凝固して、目の回りが黒っぽくなっている。それ以外に出血してはいなかった。どういう状況で死んだのか。
 よく見ると、目がとびだしているだけで、左の側頭部に血がひろがっていた。
 あまり醜い死にざまをさらしていない。
 可哀そうに。

 死体をすぐに処分しなけれはならない。少し考えて、玄関先から右、ツタの近くに埋めてやることにした。
 土を掘っているうちに、涙が出てきた。
 ほんとうに可哀そうなことをした。日頃、可愛がっていただけに、こんな死にかたをしなければならなかったチビが不憫だった。
 それにしても、これまでイヌやネコを何度葬ってやったことか。それぞれのイヌやネコには、私が可愛がってやった思い出が残っている。

 ある日、北 杜夫が私に、
 「生きものは飼いたくない。死なれるとつらいので」
 と語ったことを思い出す。


          1977年10月18日(火)

 「ガスホ−ル」で「がんばれベア−ズ特訓中」(マイケル・プレスマン監督)を見た。シリ−ズの2作目。つまらない映画だった。
 いろいろな理由が考えられるが――「がんばれベア−ズ」がもっていた社会批判が消えたことが、この映画をつまらないものにしている。
 ダメな監督に率いられたダメなメンバ−でも、全力を尽くせば、決勝まで進めるのだ、というテ−マ。これは、「がんばれベア−ズ」のヒロイズムだが、ヴェトナム戦争後に傷ついたアメリカ社会の縮図だった。
 ところが、この「特訓中」は、そのテ−マがスッポリ消えている。
 もっといけないのは、主人公の少年と父親の対立が、ホ−ムドラマめいた感傷になっている。このあと、シリ−ズの3作目は、いよいよ少年野球の日本遠征となる予定だが、こんなものがいい映画になるはずがない。
 時間があるので、「風に向かって走れ」(ウィリアム・グレアム監督)を見るつもりで「松竹」に行った。ところが、「悪魔の生体実験」という映画の試写だった。見にきていたのは、ほんの2,3人。ナチの女囚強制収容所を描いたもの。サディズムとエロティシズムを売りものにしているが、どうしようもない映画。
 「山ノ上」、「三笠書房」の三谷君。
 講義。お茶の水近くで、中田パ−ティ−のメンバ−と会う。話題は、先日の武尊山のすばらしさ、沼田で中田先生とはぐれたこと。


            1977年10月19日(水)

 西ドイツで起きたハイジャック事件。武装した特殊部隊が出動してテロリスト全員が射殺され(1名は重傷)、人質は救出された。
 この事件の対応が、先日の「日航」のハイジャック事件と比較されている。5日間もねばりづよく時間を稼ぎながら、ぎりぎりのところで特殊部隊を送り込み、人質の救出を敢行した西ドイツ当局を称賛する。
 ハイジャックを自力で処理するため、警察が特殊なコマンドを用意することを急務とする声がひろがる。わが国でも、テロ対策はきびしくなるものと予想される。


          1977年10月19日(水)

 今夜は、「ドクトル・ジバゴ」(ディヴィッド・リ−ン監督)をやるので、見ておきたいと思う。

 夜、6時、「千葉日報」の遠藤君が迎えにきてくれた。
 川井、「倶楽部泉水(いずみ)」で話をする。このクラブは会員制で、千葉のエリ−トが利用するらしい。この「泉水(いずみ)」は、田舎の庄屋の邸を改装した和風の屋敷で、明治天皇が少憩した由緒ある倶楽部という。私の「お話」は、ルネサンスについての講話のごときもの。
 きっと、みなさん、退屈なさったんじゃないかな。


             1977年10月20日(木)

 芸能界をゆるがしているマリワナ騒ぎ。
 海老坂 武のエッセイ(「文芸」11月号)によれば、フランスでもマスコミで反麻薬キャンペ−ンがひろがっている。その底流には、高齢化社会の自己防衛本能としての若者差別がある。「不可解なものを排除しようとする憎悪の分泌液だけが紙面ににじみ出ている」とか。
 マリワナの流行は、5月革命以後の目的喪失と社会への不快感、異議申し立てにほかならない。昨年、200人の知識人が――麻薬(マリワナ)を使用しただけで犯罪視することに反対し、マリワナの非処罰を要求する声明に署名したという。
 こういう機運は、わが国にはあらわれない。
 しかし、井上 陽水、研 ナオコ、内藤 やす子、美川 憲一、にしきの あきらといったシンガ−たちの逮捕は、どう見ても贖罪羊にされたとしかいいようがない。


            1977年10月23日(日)

 あさ、6時40分、新宿。女子学生、2名が待っていた。ふだん、声をかけたこともない女の子なので驚いたが、参加してくれたのはうれしかった。国井、岡安の2人。登山らしい登山の経験はないという。そのあと、小林、古屋の2人。けっきょく、11名。甲府行き。
 予定変更。ハイキング程度の山歩き。鳥沢で下りて、高畑山に向かう。小さな山なので、休日でも誰も登らない。それでも、家族づれ(3人)と、ハイキング・グル−プに出会った。

 長い山道を歩き、小高い岡の裾を回ってゆく。道は徐々にせりあがってゆく。道の両側から延びた灌木の枝をよけながら通り抜けると、意外にひらけた場所に出た。エメラルドに輝く秋空。
 ほかのパ−ティ−はいない。ザックをデポしても大丈夫と判断して、倉岳山をめざした。
 山は低かったが、楽しいハイキングになった。

 新宿に戻ったのは8時半。

 大畑 靖君の「ミケ−ネの空は青く」の出版記念会に向かった。残念だが、間にあわなかった。二次会の「二条」で、大畑君に会う。私がザックを背負っているので、大畑君も、遅参を許してくれたらしい。
 昔、「東宝」の脚本部にいた、松下某が、私を見て挨拶に寄ってきた。私が「東宝」で仕事をしていたとき、表面はにこやかだったが、蔭にまわって、さんざん私の悪口をいいふらしていた人物だった。
 こういう策謀家(ストラジスト)を私は憎んでいる。


            1977年10月24日(月)

 「カプリコン 1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)を見た。朝、9時からのホ−ル試写なのに観客が多い。SF。試写の反応によって、クリスマスに公開するらしい。
 火星宇宙船、「カプリコン 1」の発射直前、宇宙飛行士、3名が極秘裡に、砂漠の秘密基地に移される。宇宙船「カプリコン 1」ののロケットに故障が発見されたため、NASAは、宇宙飛行士たちに火星着陸の演技をさせようとする。ところが、無人の「カプリコン 1」が帰還の途中で爆発したため、こんどは宇宙飛行士、3名の存在が邪魔になる。エリオット・グ−ルド主演。

 「松竹」に行って、「風に向かって走れ」(ウィリアム・A・グレアム監督)を見る。これは西部劇。
 逃亡インデイアンをとらえる騎兵隊の暴虐を知ったガンマンと、騎兵隊から逃げてきたインデイアンの娘のほのかな愛情。しかし、騎兵隊の追求の手が延びて、娘は暴行され、自殺する。

 もう1本、「ランナウェイ」(コ−リ−・アレン監督)。
 これは、禁酒法時代。大手の密造組織が、零細な密造者をつぶしにかかる。これに一匹狼の密造人が立ち向かう。デイヴィッド・キャラダイン主演。
 一日に3本も試写を見ると、さすがに疲れる。

 いつまでもこういう生活をつづけるわけにはいかないな。

2019/02/21(Thu)  1795〈1977年日記 42〉
 
                1977年10月8日(土)

 午前6時45分、上野から水上に。
 安東夫妻、鈴木、石井、甲谷、妹尾のメンバ−。
 上州武尊山。

 日本武尊(やまとたける)の伝説に、ふさわしい、荒涼とした土地がつづく。たいした山ではないのに、山の麓をぎっしりと赤松の林がとり囲み、ススキの原を出ると、深い竹のヤブになっている。やがて、そのヤブのなかを、わずかに、人ひとりが通れるほどの小経が、大きな岩に向かって伸びている。クサリ場だった。
 途中、小さな水たまりにぶつかった。池というほどの大きさでもない。周囲を草がとり囲んでいる。地下水がにじみ出して、自然にたまった水たまりとしかいいようがない。水は濁っていて、魚がいるはずもなかった。
 私がその水たまりを通り抜けようとしたとき、どろりとした水が動いた。思わず、足をとめた。その水が動いた。何かが生きている。よく見ると、その水の大きさの生きものが、ひそんでいた。
 サンショウウオだった!
 まさか、武尊山にサンショウウオがいるとは思わなかった。私の見間違いかと思った。水が濁って見えたのは、サンショウウオの肌の色のせいだろう。こんなわずかな水たまりに、もう一尾、サンショウウオがひそんでいる。
 私は、すぐに離れた。私が驚いた以上に、サンショウウオのカップルも、ときならぬ足音に夢を破られたにちがいない。
 ほかのメンバ−は、この水たまりの棲息者に気がついたかどうか。

 秋の上州武尊山は、すばらしかった。全山、紅葉というか、錦綉というか、ただ、すばらしいとしかいいようがない。強く傾斜したコ−スには、枝をひろげた木の落とした黄褐色の落ち葉が積もっていて、登山靴の下で音をたてている。
 武尊山は独立峰だが、登山コ−スにはいくつもピ−クがつらなっている。ピ−クを過ぎるたびに、もはや彼方にはなれた山脈(やまなみ)は、いちめんに紅(くれない)と黄に染められていた。
 夕方、避難小屋に泊まった。狭い小屋に、登山者がつめかけるのだから横になるのもむずかしかった。小屋のリ−ダ−は、安東が仕切った。つぎつぎにみんなの居場所をきめてゆく。あとから着いたパ−ティ−を入れてやったり、みんなに、場所を割りふったり。
 こういうことにかけては、安東の右に出る者はいない。

 しらしらとした地平線の彼方に、太陽が頭を出しかけている。朝靄(モヤ)がその前にひろがっている。私はふるえた。なんという厳粛で、しかも透明な朝だろうか。
 私は、余りよく眠れなかった。狭い小屋にぎゅうぎゅう詰めだったし、まだ、コースは続いている。メンバ−のなかに、体調を崩している者はいないだろうか。そんなことが頭から離れなかった。

 ただ、ひたすら歩いた。

 夕暮れもまた、厳粛で、私のつまらない一日の終わりが、こうした荘厳さでしめくくられようとしている。このために、私は山を歩いている。
 バス停にたどり着いたときはもう暗くなっていた。
 私たちは、下山したあと、温泉に入る習慣なので、このときも温泉でしばらく休憩する予定だった。
 ところが、温泉宿は休業していた。もう一つ先に宿があるはずなのに、これも見つからない。
 やむを得ない。川湯温泉まで歩くことになった。

 やっと、宿にたどりついて湯に入った。湯船に落ちる湯がチョロチョロと音をたてている。宿は、私たちだけでひっそりしていた。

 このあと、またしても思いがけないハプニング。
 沼田で、みんなとはぐれてしまった。みんな乗車したことは間違いないのだか、たいへんに混んでいたので、私ひとりが別の車両に乗ったらしい。
 上野まで立ちんぼ。たまには、こんなこともあるさ。


                 1977年10月10日(月)

 今日は、フジ・テレビで「ショック療法」(アラン・ドロン)を見ようかと思ったが、本を読む時間がなくなるのであきらめた。

 ス−ザン・ジョ−ジの映画を見ているうちにロココの時代の、いとも天真爛漫な姦通を思い出した。姦通は、すべての階級に共通する特質だった。
 世間の女たちから、羨望のまなざしを向けられるような貴族の特権だった。宰相、リシュリュ−は姦通に対して警戒の眼をむけた。(「三銃士」を読み直そうか。)
 それでも、旺盛な精力を誇示して、「好色家」としての評判を高めたいために、富裕なブルジョアたちは、多額の黄白をつぎ込んだ。

 当時の結婚観。

 「結婚式は、仮装するのが目的で、結婚生活に入る前に、らんちき騒ぎをしてみせる喜劇なのだ。」

 姦通を、ロココの芸術の一様式にまで高め、いわば時代の寵児に祭りあげた理由はいくつかある。
 若い娘たちは、早くから修道院に送られて、ここでの教育に世間から遮断される。娘たちはあくなき好奇心をもって、早い時期から性的な快楽に、抑えきれないあこがれをつのらせる。修道院の娘たちは、異性と対面する機会もない。
 (モリエ−ルの「女房学校」を読み直すこと。)
 やがて、娘たちは、ほとんどなじみのない実家につれ戻される。
 このときから、娘たちは、はじめて男に紹介されるが、例外なく年配の男ばかり。
 ほどなくして、黒服を着込んだ男たちがやってくる。花が届けられる。四輪馬車がやってくる。あれよあれよという間に、婚礼の祝宴ということになる。
 飲めや歌えの大騒ぎがすんで、ただもう放心状態の花嫁を、付添い女が、犠牲(いけにえ)をささげるように、初夜の褥(しとね)に導く。
 こうして、落花狼藉、ということになる。

 7日夜、東ベルリン、アレクサンダ−広場で、暴動が起きた。これは、24年ぶりの反ソヴィェト暴動で、ホ−ネッカ−政権はむずかしい対応を迫られることになる。
 東ドイツのADN(通信社)のつたえるところでは、少数の「やくざ」が起こしたもので、負傷者が出たため、警官隊が出動して、この「やくざ」たちを拘束したという。
 西ベルリンの目撃者の話では・・・約1000名の若者と警官隊が衝突、負傷者が出たほか、広場付近の建物の窓ガラスなどが壊された。ソヴィェト軍の将校が通りかかったため、若者たちは、「ソヴィェト、帰れ」の合唱を浴びせたらしい。
 西ドイツの日曜新聞、「ビルト・アム・ゾンタ−ク」は、約1000名の若者と数百名の警官隊が衝突、約100名が検挙された。しかも、多数が負傷したとつたえているが、ADNは、若干名が身元調査のために「連行」されたという。

 東ドイツはヨ−ロッパ共産圏の「優等生」といわれているが、世界的な不況の波は東ドイツにも押し寄せ、今年前半の工業生産伸び率は、70年代前半の7〜下降線をたどっている。

 アレクサンダ−広場で起きた暴動は、これからの東ドイツにどう影響するか。ホ−ネッカ−政権の基盤は、案外、脆弱なのかも知れない。


                 1977年10月11日(火)

 「新シャ−ロック・ホ−ムズ/おかしな弟の大冒険」(ジ−ン・ワイルダ−監督)を見る。
 イギリス外務省の金庫から、国家機密がぬすまれる。シャ−ロック・ホ−ムズは、宿敵、「モリア−テイ教授」の仕業とみて、弟の「シガ−ス」(ジ−ン・ワイルダ−)に捜査を依頼する。
 ジ−ン・ワイルダ−の喜劇は嫌いではない。しかし、この才人の喜劇感覚にはどうもついていけないところがある。マデリ−ン・カ−ンが出ていた。この女優は、ときどきジェ−ン・フォンダそっくり。ただし、ジェ−ンの気品はない。

 もう1本、シャ−ロック・ホ−ムズものが公開される。こちらは、「ユニヴァ−サル」の「シャ−ロック・ホ−ムズの素敵な挑戦」(ハ−バ−ト・ロス監督)。「ホ−ムズ」がコケイン中毒で、「モリア−テイ教授」に対する憎悪がつのり、ウィ−ンに行って、「フロイド博士」の診察を受ける。「モリア−テイ教授」を、ロ−レンス・オリヴイエがやっているし、「ワトソン」をロバ−ト・デュヴアル、これにヴァネッサ・レッドグレ−ヴがからんでくる。おもしろくないはずはない。それでも、どこかおもしろくないのは、なぜなのか。


                  1977年10月12日(水)

 ロココの時代。もう少し、考えてみよう。

 ロココ貴族のあいだに、さまざまに性的な頽廃が見られる。夫婦の「おつとめ」は、できるだけ急いで、乱暴に行われなければならない、という愚かしい偏見による。少なくとも、性交が、次第しだいにア−ティフィシアルなものになったことにかかわりがある(だろう)。
 出産は、女の生死にかかわる事件になりかねない。
 すでに、心身ともに引き裂かれて、もはや忍耐の限度を越えている。そこに、あらたな犠牲(いけにえ)として新生児に乳をふくませる役が押しつけられる。こうなると、夫婦関係はおろか、母と子の精神的な絆さえ断ち切られることになる。
 母親としての心くばりなど、当然、見せかけのものにすぎなくなる。

 大学、講義。中田パ−ティ−のメンバ−がそろっている。
 みんなが、武尊山のすばらしさを思い出している。私は、つぎの登山のプランを考えている。ただし、だれにもいわない。


                       1977年10月14日(金)

 明日から、上野の東京都美術館で、「ピカソ展」が開催される。
 これは、どうしても見ておく必要がある。

 ピカソは、1900年、スペインからパリをめざした。初期の「青の時代」から、「バラの時代」。キュビズムから、古典の時代を経て、晩年にいたる名作が並ぶ。

 ピカソが亡くなって4年。

 世界初の回顧展。


                 1977年10月15日(土)

 ビング・クロスビ−が亡くなった。

 映画以外で、ビング・クロスビ−を聞いたことがない。残念だが。


                 1977年10月16日(日)

 あたらしい仕事のこと。

 柴田 裕夫妻が遊びにきてくれた。ふたりは幸福そうだった。めったにない強い絆で結ばれていて、お互いに支えあっている。だから、ふたりを祝福してやりたい。
 百合子がもてなして、4人で夜食をとった。
 8時に帰ったが、快速に乗れたかどうか。

 紛失したと思った銀行のカ−ドが出てきた。
 やい、どこにシケ込んでいやがった。手前が姿をくらましやがったおかげで、こっちは義理のワリィ借金まで作っちまったぜ。
 もう一つ。これも紛失したはずのカ−ドも、仕事机の下、座布団の下から出てきた。
 や。手前も出てきやがったか。このつぎはもっと早く出てこい。

 フイリッポ・リッピのこと。
 「受胎告知」で知られている。自分の恋人だった修道女をモデルとしたという絵を見ながら、現代の画家、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドを思い出す。
 マゾ−ニスは、まだ日本では知られていないが、いつも美しい女たちを描いている。全体の色調は、何時も白。背景も白いし、女たちの肉体も白い。この画家は、1921年、トリ−ノ生まれ。ロ−マのラ・バルカッチャ画廊や、ボロ−ニャのフォルニガロウナドノ個展から、にわかに注目されはじめた。叙情的な作風で、あまやかな、繊細なタッチは、現代の「フイリッポ・リッピ」のよう。

 ときどき、外国の画家のヌ−ドを見る。まるで関係のないスト−リ−を思いつく。

2019/02/06(Wed)  1794〈1977年日記 41〉
 
                 1977年10月5日(月)
  作家、和田 芳恵さんが亡くなった。71歳。

    和田 芳恵 (1906〜77)作家。北海道・長万部町生まれ。中央大・独法
     科卒業。新潮社に入り、「日本文学大辞典」の編纂、「日の出」の編集に当た
     った。1941年、自作が芥川賞候補になる。新潮社を退社。
     「戦後」、中間小説の先駆的な雑誌、「日本小説」の編集。
     樋口一葉の研究をつづけ、1956年、「一葉の日記」で芸術院賞を受賞。
     1963年、「塵の中」で直木賞。1774年、「接木の台」で読売文学賞、
     今年、「暗い流れ」で日本文学大賞を受けた。  (後記)

 文壇の大家たちとまったく無縁だった私に、どうして和田 芳恵さんが親しく接してくださったのか。もともと文壇の大家の知遇を得ようとする下心はまったくなかった。ただ、少年時代の私は、慶応のグル−プに出入りしていたとき、野口 富士男さんに和田 芳恵さんを紹介されたのだった。
 その後、ほとんど無関係に生きてきたのだが、たまたま、私が大きな新聞の「大衆小説批評」を書きはじめて、和田さんの小説をとりあげたことがあった。

 もともと批評家として出発したため、批評家の友人は多かったが、北 杜夫以外の文壇作家たちとは無縁だった。北海道、三重、千葉の同人雑誌作家たちに友人ができたが、その人たちの集まりにもほとんど出たことがない。
 この数年、たまに文壇の集まりに顔を出すことがあって、和田さんを見かけたときはこちらから挨拶をするようになった。
 和田さんにすれば、慶応の集まりに出ていた少年が、いつしか薄汚れたもの書きになっていたぐらいのことだったに違いない。しかし、和田さんはそんな私に対して、いつもわけへだてのない態度をとってくれた。

 私にとっては、ただ一人の文壇の知己であった。

 和田 芳恵さんのご冥福を心からお祈り申しあげます。

 種村 季弘さんから、グスタヴ・ルネ・ホツケの「絶望と確信」を贈られた。むずかしそうだが、こういう本が読めるのはうれしい。
 とりあえず礼状を書いた。
 内村 直也先生から、「日本語と会話」を頂く。
 大畑 靖君から、創作集「ミケ−ネの空は青く」を。


                 1977年10月6日(木)

 たくさんの美少女を見てきた。ス−ザン・ジョ−ジは、そういう美少女のなかでも出色のひとり。
 久しぶりに、「12チャンネル」で「クレイジ−・ラリ−」(ジョン・ハフ監督)を見た。「クレイジ−」なエ−ス・ドライヴァ−、「ラリ−」(ピ−タ−・フォンダ)は、「メリ−」というカルい女の子(ス−ザン・ジョ−ジ)に声をかけて、首尾よくベッドイン。これが「ダ−ティ」な女の子。「ラリ−」たちといっしょに近くのス−パ−を襲って10万ドルをせしめて、警察に追われてもヘッチャラ。
 かなり昔のフランス映画の――セシル・オ−ブリ−(「情婦マノン」)、ナタリ−・バイ(「アメリカの夜」)、エチカ・シュ−ロ−(「青春の果実」)といった「戦後派」の無軌道な娘たちを思い出すが、このス−ザン・ジョ−ジほど、あっけらかんとして、「ダ−ティ」な娘ではなかった。ス−ザンは、「わらの犬」(サム・ベキンパ−監督)で、ダスティン・ホフマンと共演しているが、この映画でも、頭のなかがカラッポで、何に対してもノン・シャランな態度で、平気で悲劇的な運命に向かって行く。サム・ぺキンパ−好みの女優じゃないかな。
 見ておいてよかった。つまらない内容でも、心に残る映画のひとつ。


                1977年10月7日(金)

 野口 富士男さんが、和田さんの追悼を書いている。

    階段を二段ほどのぼりかけると、もう肩で息をしなければならぬほど、和田さん
    は弱っていた。だれの眼にも最悪の健康状態におかれていたことは明白すぎるほ
    ど明らかだったのに、書いて、書いて、書きまくっていた。明日どころか、今晩
    死んでも不思議はないと、私は外で、和田さんに会って別れるとき、いつもそう
    思っていた。その癖、私は仕事をよせとは言えなかったし、身体を大事にしなさ
    いよということも言えなかった。役者なら舞台の上で、相撲なら土俵の上で死ね
    ば本望だろうと私は思っていたからであった。

 私が和田さんに最後にお目にかかったときも、和田さんは弱っていた。呼吸するのも苦しそうだったので、ただ挨拶しただけだったが。「だれの眼にも最悪の健康状態」だったと思う。最後の和田さんの仕事には鬼気せまる気迫が感じられた。
 野口さんの追悼で思い出したが、私がはじめて和田さんにお目にかかったときも、野口さんは和田さんとごいっしょだった。野口さんが和田さんを紹介してくださったのだった。この席で、原 民喜さんが、私の肩に手を置いてくれたような気がする。
 晩年の和田さんは、私にいささかの好意をもっていてくださったと思う。それは、実現することなく終わったのだが、その経緯はここに書く必要がない。ただ、私はほんとうに和田さんに感謝したのだった。

2019/02/01(Fri)  1793〈1977年日記 40〉
 
               1977年10月1日(土)

 石川 啄木の日記、「ロ−マ字日記」を読んだ。
 最近の私は「日記」をつけているので、この日記を読んで考えるところがあった。
 一人の若者が貧しさに苦しみ続けている。詩人として、ジャ−ナリズムの片隅に生きながら、自分の世界を築こうとしている。
 詩人は娼婦との交渉を赤裸々につづっているのだが、こうした秘密をロ−マ字にしなければならなかった啄木に同情する。

 やたらに忙しいので、日記を書くのをついついわすれてしまう。書きとめておきたいことどもは多いのだが、本も読まなければならない。最近は、英語よりも、イタリア語、フランス語の本を読むことが多くなった。

 10年前も忙しかった。あい変わらず、多忙な日々がつづいている。

 1967年を思いだしたが――週刊誌の連載は1本だけ。ほかに雑誌連載が2本、その間に、ジェ−ムズ・M・ケ−ンの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」と、A・E・ホッチナ−の「パパ・ヘミングウェイ」の翻訳をつづけていた。そのほかに、ラジオの台本を数本、別の週刊誌に読み切りを。
 当時の私は、その程度の仕事をこなすだけでもたいへんだった。からだがいくつあっても足りない。

 「闘牛」の演出。そのあと、レパ−トリ−がきまるまで、研究生を中心にサロ−ヤンの稽古をつづけていたっけ。
 あとは、「文芸」に毎月、同人雑誌評を書き、さらには「新劇場」に戯曲を書く予定だった。その間に、K.M.とのflirtも。
 けっこう、忙しかったなあ。

 今は、あの頃に較べれば、映画を見ようとおもえばいくらでも見られるし、時間をやりくりして、芝居も見たり。コンサ−トに行く機会は少なくなったが、LPを聞くこともできる。

 ときどき、思ったものだ。

 このまま走りつづけて、オレはどこにたどり着くのだろうか、と。

                         
              1977年10月2日(日)
 アメリカの作家、リチャ−ド・バックのインタヴュ−。

 10時、「パレス・ホテル」に行く。
 「IDA」、井田 康雄君と、通訳の田草川 美紗子さんが待っていた。挨拶する。田草川さんは若い女性だが、通訳専門のベテラン。
 私だけでも、インタヴュ−できるのだが、「かもめのジョナサン」の著者は、世界的な名声を得ている作家なので、通訳の専門家についていてもらったほうがいい。

 リチャ−ド・バックの部屋に向かった。

 「かもめのジョナサン」の著者は、アメリカ人らしく、気さくなタイプで、かなり長身。毛糸のプルオ−ヴァ−のセ−タ−、上にブル−のジャケット。眼が青く、鼻のわきに小さな豆粒のようなホクロ。口にひげ(ムスタッシュ)をたくわえている。

 私はリチャ−ド・バックの処女作、「王様の空」の訳者としてインタヴュ−するだけだが、井田 康雄君がいろいろと私の経歴を説明すると、ほんらいの私とはかけ離れたイメ−ジの人物になったような気がする。
 それはそうだろう。小説を書きとばし、批評家としても少しは知られている。しかも、ルネサンスを研究している。芝居の演出家だったこともある。マリリン・モンロ−について、モノグラフィーを書いている。こう説明されれば、誰だって、混乱した、バラバラなイメ−ジをもつだろう。
 私は、笑いながら、
 「ようするに、アジア的な混沌を体現しているだけです」
 といった。
 リチャ−ドは笑った。
 これでお互いにうちとけたと思う。

 インタヴュ−は、一問一答で私の質問にリチャ−ドが答える形式で進められた。したがって、対談というより、リチャ−ドの発言をひき出すかたちになった。このインタヴュ−は、「青春と読書」に発表される。だから、あくまでも若い読者のためのインタヴュ−でいいと判断したのだった。

 ただ、原稿の締切りが明日の午前中なので、速記をおこした原稿が夜中に届いたら、私がすぐにインタヴュ−の記事にまとめる。つまり、徹夜の作業になるだろう。

 最後に、リチャ−ドが「イリュ−ジョン」の日本版にサインしてくれて、ついでに絵を描いてくれた。


              1977年10月3日(月)
 日本航空、ハイジャック事件。

 「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、3日午前0時13分(現地時間・2日午後9時13分)、バングラデシュ/ダッカ空港を離陸、クウェ−トに向かった。

 3日午後11時20分(現地時間・2日午後4時20分)、アルジェリア/ダル・エル・ベイダ空港に着陸。現地の政府当局と、犯人側の交渉がはじまった。

 4日午前1時、犯人5名、日本から釈放された犯人6名が投降。最後の人質、19名(日本人17名)は解放された。
 先月28日、ボンベイ上空でハイジャックされた事件は、134時間ぶりにようやく終結した。

 この事件は、テロ事件として歴史に残るだろう。

 「日航」、ハイジャック事件ばかりだったので、誰の注意も惹かないニュ−スを書きとめておく。

 ロ−トレアモンの写真が発見されたという。ジャック・ルフレ−ルという、まだ若い医学生。その写真は、ロ−トレアモンが1859〜62年まで在籍したタルプ中学で同級生だったジョルジュ・ダセットのお嬢さんのアルバム。
 このダセットは、ロ−トレアモン(イジド−ル・デュカス)の親友で、「マルドロ−ルの歌」の初版に出てくるという。その後の版では、ダセットの名がすべて消えて、タコやコウモリになっているそうな。

 私は、ロ−トレアモンについては、ほとんど何も知らない。だから、写真の発見がロ−トレアモンの理解にどれほど役に立つか何も知らない。それでも、ロ−トレアモンの肖像なら、ぜひ拝顔の栄に浴したいと思う。

2019/01/14(Mon)  1792 〈1977年日記 39〉
 
             1977年9月21日(水)
 原稿を書くペ−スが遅くなっている。
 今日は、石本がきてくれたが、「山と渓谷」の原稿がかけなかったので、そのまま帰ってもらった。

 雑文ばかり書いていてもどうしようもないのだが。

             1977年9月21日(水)
 夜、「シシリアン」を見た。フレンチ・ノワ−ル。ジャン・ギャバン、アラン・ドロン。ジャン・ギャバンは、もう老齢といっていいのだが、俳優としては、円熟の境地にたっしている。これは驚くべきものだと思う。

             1977年9月22日(木)
 朝、「山と渓谷」の原稿を書く。
 石本がきてくれたので、そのまま待たせて、「日経」の原稿を1本書く。
 原 耕平君が、原稿の依頼にくる。
 5時、「週刊大衆」、渡辺君に原稿。

 バ−に飾ってあった絵が全部はずしてある。裕人が、ここにステレオを持ち込んだので、絵をかざる場所がなくなった。これからは、書庫で仕事をしようか。
 冬の書庫は寒いだろう。しかし、書庫に、スト−ヴ、小型テレビ、電話をいれれば、仕事場になる。

             1977年9月23日(金)
 疲れている。腰の痛みはなくなったが、それでも右足になんとなく不安がある。
 午前中、児玉さんに、電話をかけたが、不在。
 午後は、仕事があるのに、何もする気にならない。大相撲を見ただけ。
 夜、テレビで映画を見た。途中から見たので、題名がわからない。トレヴア−・ハワ−ド、リタ・ヘイワ−ス、マルチェロ・マストロヤンニたちが出ている。
 国際的な麻薬組織を追う各国の警察の捜査活動を描いたもの。リタ・ヘイワ−スの疲れきった顔に驚いた。
 たとえばアルツハイマ−症などで、少しづつ知力が失われて行って、それまでの自分がだんだん自分でなくなってゆく。
 身近な人が誰なのかわからなくなる。おだやかな性格だったのに、やたらに怒りっぽくなったり、自分でも気がつかないうちに、自分らしさがなくなってしまう。
 正常な人の場合でも、よく見られる現象だが、これが女優の場合だったら、たいへんな苦しみになる。リタの場合でいえば、「ギルダ」だった頃の自分は、もう現在の自分ではない。それでは、いつの時代の自分なのか。
 女優は、別人になってしまった自分が、「ギルダ」としての自分を見せることに恐怖をおぼえないだろうか。そういう自分に気がつかないはずはない。周囲にどう見られるかわかっていながら、なおも女優であろうとする。それは、虚栄心だろうか。
 私は、「巴里の空の下」に出たシルヴィ−や、「望郷」に出たフレェルをみたとき、美貌を誇った女優がいつしか老女になってしまう残酷さに、胸を打たれたことがあった。
 いつか、そんなことを考えてみたいと思っている。

 あとで、新聞で、「悪のシンフォニ−」というタイトルで、テレンス・ヤング監督と知った。国際的に知られた俳優がたくさん出ているのは、国連が後援したためらしい。


              1977年9月24日(土)
 与野の高原君が、亡母、中田 宇免の焼香にきてくれた。

 ご近所に彫刻家が住んでいる。吉原 和夫さん。
 彼が、「新制作」に入選したという。
 午後2時半、上野。「新制作展」に行く。
 この「新制作展」で、友人、高橋 清さんの新作も見た。例によって、球体に、陰陽を形象したもの。

 吉原 和夫さんの彫刻は、巨大な木彫のヌ−ド。両手両膝をついて、四つん這いのポ−ズ。ひどく不自然な姿勢だった。この木彫のすぐ近くに、ほとんどおなじポ−ズの石の彫刻があった。若い彫刻家はモデルにこういうポ−ズを強制するのだろうか。もっとも、この彫刻なら、モデルを使う必要もない。
 吉原さんは才能はあるのだが、この木彫を見るかぎり、人気のある彫刻を作る気はないらしい。
 「新制作展」のあと、「ミュンヘン近代美術展」を見た。こちらは、ストゥック、カンディンスキ−など。ただし、これとは別に心に残る作品もあった。ハ−バ−マンという画家の小品は、パスキンに似た色調と、モデルのポ−ジングで、私の好きなタイプのヌ−ドだった。私は、どういう国の美術館に行っても、小品でも1枚か2枚、自分の好きな作品を見つける。たいていの場合、カタログの隅っこに、短い解説が出ている程度の芸術家だが、有名な画家の大作ばかり見るよりも、こういう小品を発見すると、かえってその国の美術界のようすが想像できる様な気がする。
 ハ−バ−マンという画家については何もわからない。しかし、ミュンヘンという都会の片隅で、こういう絵を描いていた画家がいたと思うだけでうれしくなる。

              1977年9月25日(日)
 百合子が歯痛で苦しんでいる。
 前から「大百堂」に治療を頼んでいたのに、治療に応じてくれなかった。このため、百合子は歯科医の娘なのに、虫歯を放置していた。
 内山歯科に行ったのだが、処置がわるかったのか、歯齦が腫れて、さらに頬までひろがって顔半分がふくれあがった。日頃の美女が、おバケになってしまった。
 冗談をいっている場合ではない。百合子が苦しんでいるのを見ていると、こちらまで苦しくなる。
 内山歯科に相談に行った。たまたま、外出しようとしていた内山 清春先生と、歯科の前で会ったので百合子の病状を告げた。
 内山さんは、私の岳父、湯浅 泰仁の教室にいて、しばらく「大百堂」の代診をつとめた。やがて、百合子の従妹と結婚したので、私にとっても親戚にあたる人だが、豪放磊落といった性格。明日、一番に診察してもらうことになった。

              1977年9月26日(月)
 百合子の病状はいくらかよくなってきたが、顔の腫れはひかない。痛みのせいで、夜も眠れなかったらしい。夜中に、ピリン系の睡眠薬、「ビラビタ−ル」を1錠。
 このため、手首や踵にかゆみがあらわれた。外から見ても発赤している。
 百合子にとっては、まだ、つらい試練がつづいている。

 昨日、内山歯科からの帰り、「そごう」の「東北物産展」で買ってきた福島のお菓子、アワビ弁当がおいしかった。
 百合子は、朝から内山歯科に行った。付き添ってやるつもりだったが、ひとりで行くといって出かけた。途中で、誰かと会うのがいやだったのか。

 「日経」、吉沢君。ラザ−ル・ベルマン(ソヴィェトのピアニスト)の演奏会に誘ってくれた。ピアノのヴィルトゥオ−ゾなのだから、ぜひ聞きに行きたい。
 しかし、百合子のことが心配なので断った。
 吉沢君はもとは音楽担当だったから、いい演奏家をよく聞いている。レコ−ドのコレクションも。

              1977年9月26日(月)
 日本の過激派、「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、今日の午後、バングラデシュ/ダッカ空港に強行着陸した。

              1977年9月28日(水)
 ミケランジェロ。
 ラウレンティア−ナ図書館の設計を依頼された。
 「建築は私の本領ではありませんが、最善をつくしましょう」
 このことばに、ルネサンスの芸術家の自負、野心、堂々たる気概がこめられている。
 建築だけを見ても――創造的であろうとする姿勢には、いつもさまざまなかたちで試行錯誤をくり返してきたミケランジェロの生きかたが重なっている。
 今は美術館になっているが、ヴァザ−リの造ったウフィッツイ宮殿は、ルネサンス建築の最高の作品だろう。ここに現代イタリア・デザインのア−ムチェア、ソファ、タピッスリを置いても少しも不調和に見えない。

 たとえば、サンドロ・キア、エンツィオ・クッキ、フランチェスコ・クレメンティといった芸術家の仕事を考える。いずれも、今や中堅から大家の列に並びつつある人たちで、トランス・アヴァンギャルドと呼ばれている。
 この人たちの仕事や評価はまださだまってはいないが、シンプルな背景にグロテスクで具象的なイメ−ジを配置する「ニュ−・イメ−ジ・ペインティング」とおなじ傾向のものとみられている。
 エンツィオ・クッキの作品に――ムンクふうの表情をもった男や女たちの顔が、黒い太陽に向かって流れてゆく、そんなイメ−ジのものがあった。今の時代の緊張、不安といったものを感じさせた。
 フランチェスコ・クレメンティのヌ−ドは、どこかフランシス・ベ−コンを思わせるグロテスクなもの、これも時代の暗い状況を反映しているのか。
 私は、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドが好きなのだが、日本では見られない。

2019/01/03(Thu)  1791 〈1977年日記 38〉
 

                  1977年9月20日(火)

 東京に出て、吉沢君と会う。「ヤマハ・ホ−ル」で、「おかしな泥棒 ディック&ジェ−ン」(テッド・コッチェフ監督)の試写を見ることにした。
 「ディック」(ジョ−ジ・シ−ガル)と「ジェ−ン」(ジェ−ン・フォンダ)は、ごく平均的な夫婦で、ささやかな幸福な家庭をもっている。子どもはひとり。ところが、「ディック」が失業する。たちまち、ささやかな幸福も雲散霧消してしまう。これを解決するために、二人が実行するのは、泥棒稼業だった。
 ジェ−ン・フォンダが、ホ−ム・コメデイをやるのだから、きっとおもしろいだろうと思った。たしかに、演技力はあるし、女として魅力もある。しかし、ジェ−ンが、いくら熱演しても、こういう「役」は、ジェ−ンには向かない。テッド・コッチェフの演出も、昔のRKOのコメデイのような、軽快なタッチでもあればまだしも、まるでコメデイ向きではない。例えば、ドジを踏んでも、本人はいつも我関せずといった顔をしている、それが、観客の笑いを喚ぶアイリ−ン・ダンのような、女優なら自然に出せるのに、ジェ−ン・フォンダがやると、「あたしなら、こういう女になれるわ」といったドヤ顔になる。
 ジェ−ンは、いつも自分の表情や、筋肉の動きを統制する。ある瞬間に表情や筋肉を自在に働かせて、「役」を自分の意のままにふる舞う。だから、観客をとらえて、自分のほうに引き寄せようとする。「ジェ−ン」はいつも、明るい、愛情をこめたまなざしで「ディック」を見つめる。「あたしは、こういう女なのよ」。これが、ジェ−ン・フォンダなのだ。だから、笑える部分でも、ほとんど笑えない。

 ジェ−ン・フォンダが、最高に「ジェ−ン・フォンダ」だったのは、ロジェ・バディムと結婚していた頃の「バ−バレラ」あたりだろう。悲劇的でありながら、おかしい喜劇女優だった。アイリ−ン・ダンは、ふつうの女優としては最高のレベルにたっしているが、名女優ではない。ジェ−ン・フォンダは、別の次元で、名女優といっていい。

 外に出たとき、雨が降っていた。台風が接近している。

 「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「南窓社」の松本さんから、校正を受けとる。
 そのあと、三崎町の写真屋で、写真を受けとって、本をあさった。
 ガリレオの研究、イタリア、フィレンツェの名家の研究、ボ−マルシェの評伝など。
 帰宅。ジョン・ト−ランドの「最後の100日」を読みはじめた。「ル−ツ」(社会思想社)が送られてきた。これはすぐに読む必要はない。


                        1977年9月21日(水)

 午後2時半、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「月刊時事」の編集者に原稿をわたす。この原稿は、先日、特急のなかで書いたもの。
 下沢君といっしょに「ワ−ナ−」に行く。「ビバ・ニ−ベル」(ゴ−ドン・ダグラス監督)を見た。バイクのスタント・レ−サ−、「イ−ビル・クニ−ベル」(本人)が出ている。このところ、いい映画を見ていないので、少し期待して見たのだが、これがどうにも挨拶のしようがない。昔、「新興キネマ」が、子ども向けに「ハヤブサ・ヒデト」のシリ−ズを作ったが、あのシリ−ズのはるかなる果てにこの映画がある、と思えば、それなりに楽しいだろう。
 こんな映画の試写を見にくる人はいないだろうと思ったら、意外や意外、田中 小実昌が見にきていた。私に気がついたコミさんは、おトボケ顔で、
 「ねえ、中田さん、お通夜に、お香典をもって行ってもいいだろうか」
 と聞く。
 何かあらぬことを言いだして、私をカツぐのではないか、と思った。
 「これから、行くの、お通夜に?」
 「うん、今 東光さんがイケなくなっちゃったんだ」
 え、今 東光が亡くなったのか。
 「そりゃ、たいへんだ、お香典はもって行ったほうがいい」
 私は答えた。
 私としては――知人が亡くなった知らせを受けて、さっそくの弔問にお香典を持参するのは、ひかえたほうがいい、なぜなら、急な事態に、先方は祭壇さえかざっていないコトもあるだろうし、親戚、縁者でごったかえしている最中に、挨拶もそこそこにお香典をだせば、とりまぎれたりすることもある。
 むしろ会葬のときに、御香典を霊前に供えるほうがいい、と考えている。
 医師で、同人作家として小説を書いていた三浦 隆蔵さんの訃を知らされたとき、私は、すぐに花輪を贈る手配をして、ご自宅に急行した。このときは、お香典はいかほど包むものかわからなかった。
 ただ、コミさんが、いつものようにラフなスタイルだったので、できれば喪服に近い恰好のほうがいいよ、といった。新聞記者、編集者が押しかけているはずだから。
 田中 小実昌は、私の意見を聞くと、
 「ありがと。助かったよ」
 といって、すぐに、近くの「松阪屋」に入って行った。おそらく、御仏前の上包みを買いに行ったのだろうと思う。

 日比谷公園まで、歩いた。銀杏の実がびっしりついていた。
 もう秋だなあ。
 暮れかかるビルの空に、長い影がひろがりはじめていた。

 6時、「山ノ上」で、画家のスズキ シン一に会った。下沢君を紹介して、3人で、ホテルのテンプラを食べた。
 スズキ シン一は、マリリン・モンロ−のヌ−ドしか描かない芸術家だった。私は、偶然、彼の個展を見て、たまたま、テレビに出たとき、彼の画業を紹介した。そのときから、親友になったのだった。
 この夏、彼は、エジプトに旅行した。そのおみやげに、カイロで、エジプトのガウンのような服を買った。それを私にプレゼントしてくれた。私は、酒に酔った勢いで、その服を着た。
 時間が遅かったので、下沢君を帰して、スズキ シン一といっしょに、駿河台下のバ−、「あくね」に行った。

 私がエジプトの服を着ているので、「あくね」のみんなが、驚いたり、笑ったりした。いつも私についてくれる「順子」も、ママも傍に寄ってきて、みんなでワイワイさわいだ。こちらにご光来くださった方は、エジプトのカイロ大学のえらい教授先生だぞ、と紹介した。
 みんなが信じなかった。
 前に、スズキ シン一をこのバ−につれてきたことがあって、そのとき、画家と紹介したことを忘れていた。

2018/12/24(Mon)  1790 〈1977年日記 37〉

              1977年9月14日(水)

 13日、レオポルド・ストコフスキ−が亡くなった。95歳。

 1882年、ロンドン生まれ。ポ−ランド系ブリット(英国人)。23歳で、アメリカに移住、10年後、アメリカに帰化した。
 指揮者として成功したのは、1912年、フィラデルフィア管弦楽団の嘱託指揮者になってから。40年代には、NBC交響楽団、ニュ−ヨ−ク・フィルの指揮者として、世界的に知られた。
 私は、ストコフスキ−が出た映画、「オ−ケストラの少女」(ヘンリ−・コスタ−監督/1937年)を見ている。父、昌夫がつれて行ってくれたのだった。私は9歳になっていたので、映画の内容はわかった。 ただし、この映画で、ストコフスキ−がノン・タクトでやった音楽が何だったのか、知らなかった。
 戦後になって、「オ−ケストラの少女」が再上映されたとき、リストやチャイコフスキ−だったことを知った。
 これも戦後になって、公開されたアニメ−ション・ミュ−ジカル、「ファンタジア」(1940年)は、ストコフスキ−がフィラデルフィア管弦楽団をひきいていた。戦後も、10年たってからの公開だったので、私もいくらか音楽にくわしくなっていた。
 ストコフスキ−の指揮にあまり興味がなかったので、彼が来日して、読売日響、日本フィルを指揮したときも聞きに行かなかった。

 それでも、彼のヒンデミットや、ストラヴィンスキ−を聞いたし、彼が「恋人」グレタ・ガルボと結婚するというゴシップが気になったりした。「オ−ケストラの少女」は、父の思い出と、ディアナ・ダ−ビンという少女に対する淡いあこがれと、みごとな銀髪をふりたてて指揮をとるストコフスキ−の姿が重なって、私にとっては忘れられない映画になった。

 そのストコフスキ−が亡くなったのか。


              1977年9月17日(土)

 ストコフスキ−が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。
 マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリで心臓発作で亡くなった。享年、53歳。

 私の好みは、いつも世間の人と反対らしく、マリア・カラスに対しても、絶対的な尊崇をもっていない。カラスと並ぶプリマドンナ、レナ−タ・テバルディと比較するわけではないが、マリア・カラスを聞いたあとで、レナ−タを聞くと、なぜかほっとするときがある。レナ−タを聞いたあとで、マリア・カラスを聞くと、ああ、これは別世界なのだ、と納得するのだが。

 カラスが、ジュゼッペ・ステファノを相手に復活して、世界各国でリサイタルを開いたが、さすがにかつての声は戻らなかった。
 1970年、「王女メディア」(パオロ・パゾリ−ニ監督)に出たカラスには驚嘆した。オペラ歌手なのだから、演技がうまいのは当然だが、この映画のカラスは、名演技などといったレベルではなく、すさまじい迫力を見せた。
 私の勝手な妄想のなかでは、サラ・ベルナ−ルとエレオノ−ラ・ドゥ−ゼを合体させて、さらに、マリ−・ベルとヴァランティ−ヌ・テッシェを加え、それに、ファニ−・アルダン、ジャクリ−ヌ・ビセットといった女優をかきまぜて、やっと、「王女メデイア」のカラスのレベルになる。
 いろいろなオファ−を受けていたカラスが、そのいくつかを実現していたら、どれほど貴重なものになったことか。

 わずかながらカラスのCDをもっている。「ラ・ノルマ」でも聞こうか。せめて、カラスを聞こうというのは、われながらさびしい、かなしいことだが、思い出には、いつもわずかながら、さびしい、かなしいものがまざっている。

マリア・カラスの訃報は、かんがえないことにして……

 この日、久しぶりに山歩き。メンバ−は、安東、吉沢、石井、鈴木、菅沼の5名。
 原稿は、石本に届けてもらった。

 黒磯からバスで、大丸温泉に行く。
 夕方から歩いた。峰ノ茶屋の尾根にとりついたときは、もう日が暮れていた。懐中電灯を頼りに山道を辿って、三斗小屋に着いたのは7時。

 隣りの部屋で、東北日大高の0Bの一行が宴会をはじめた。12時過ぎて、みんなが出かけたので、安心したが、3時頃、戻ってきた。みんなが酔っていて、一人はヘドを吐く始末。さすがに私もたまりかねて、外にでてどなりつけてやった。

 朝、4時に出発の予定だったが、5時に変更した。前の晩、小屋の近くにテントを張った女子高生3人と、高校生3人は、国体に出る訓練をしているという。引率していた福島岳連のリ−ダ−のオジサンとしばらく話した。オジサンも、昨夜の日大高の0Bたちの乱行に眉をひそめていた。
 こちらが出発というとき、まるで土佐犬のような大型のメスのイヌが私たちに寄ってきた。
 「おい、一緒に行くか」
 と声をかけると、ことばがわかったらしく、シッポを振って走りまわった。

 睡眠不足なので、はじめはきつかった。熊見曽根をたどって、三本槍にでる途中まで、ずっと霧だった。霧雨。
 須立山から甲子に下る道は、雨に濡れて、すべりやすく、けっこう苦労させられた。

 坊主沢の避難小屋は、前にきたときは、荒れ果てていたが、行政の手が入ったらしく、しっかりした小屋に建て替えられていた。登山者のマナ−が悪かったのだろう。

 甲子温泉に着いたのか4時。旅館で入浴させてもらう。これも、前にきたときは、薄汚れていたのに、すっかり温泉ホテルふうになっていたのでおどろいた。
 ずっとついてきたイヌと別れた。
 イヌは、そのままどこかに行ってしまったが、夜道を戻るのかも知れない。あのイヌの足なら、ほんの2時間もあれば、三斗小屋に戻るのではないか。
 帰りはうまくすわれたが、さすがに疲れた。


              1977年9月19日(月)

 私は、じつはセンチメンタルな男なのかも知れない。
 マリア・カラスばかり聞いていた。

 パスカル・ペレのサッカ−を2度見た。これだって、さびしい、かなしいものがまざっている。
 最初の試合、ラスト1分前に、ペレが、みごとなバナナ・シュ−トをきめた。これは、みごととしかいいようがない。しかし、日本チ−ムも、「コスモス」も、この試合がペレの引退試合と知っているので、最後に、ペレ一世一代の花道を作ってやる「演出」に見えた。私の猜疑心によるものだろうか。
 観客は、みごとなバナナ・シュ−トをきめたペレを讃えて、熱狂的に拍手喝采したが、私はかすかに、このプレイは、はじめからこういうシナリオだったような気がしたのだった。むろん、それならそれでかまわないけれど。

 なにしろ、センチメンタルな男かも知れないので。

2018/12/17(Mon)  1789 〈1977年日記 36〉
 
              1977年9月11日(日)

 ロ−マ。
 昨日、ロ−マのアメリカ−ナ・イタリア銀行の金庫室が破られ、保管されている金品ケ−ス200個が荒らされた。被害の総額は100万ドル(約2億7千万円)を越える模様。
 怪盗は、この週末、銀行の隣りのラウンドリ−から侵入、鉄の扉をバ−ナ−で切断した。まるで、映画、「黄金の7人」だなあ。
 今年になってイタリアでは、巨額な金庫破りが4件も起きている。ミラ−ノで550万ドル。アスティで、120万ドル。
 先月には、シチ−リアで、銀行に侵入しようとしていた5人組が、あと一歩というところで、警察に逮捕された。
 こうなると、さっそく喜劇仕立てのシノプシスを書いて、企画に提出してもおかしくないね。しかし、監督は? 田中 喜八? 冗談だろ。


              1977年9月12日(月)

 人間の結婚制度は、一夫一婦を原則としてきたが、実際の性交は乱脈な野放し状態だった。それでも、過酷な生活環境によって、人間は生きるための戦いをさまたげない程度に、性欲もひかえめなものにした。
 ただし、先史時代の部族社会でさえ、人口の急増にともなって、ある程度制限したうえで、性的な放埒を認めなければならなかった。
 男のグル−プが女のグル−プ全員の支配権をもつ「集団結婚」の名残りは「初夜権」として、最近まで存在していた。

 カトリック、サクラメントとしての結婚は、キリスト紀元、13世紀まではまだ万全のものではなかった。(ルネサンスのプラトニズム、ピエトロ・ベンボ、カスティリョ−ネを読むこと。)理論的には、不義密通を賛美することもできた。
 ロココの時代になって――セックスを自由に謳歌したが、これは、貴族社会が、原始社会の乱交(オ−ジ−)に逆戻りした、と見ていい。

 一夫一婦婚のかたちは、女性の権利を否定するロ−マ法と、売買によって結婚を成立させるチュ−トン族の実利主義とが奇妙に調和しあって、さまざまな人種間で、ごくかぎられた期間にめざましい発展をとげた。チュ−トン系は、強力なエネルギ−で、自分たちの法律を実行して行く。

 マドンナとしての女性、巫女、あるいは母としての「女」は、無教養な集団という汚名を着せられて、その地位はひたすら貶められた。
 結婚は、性欲の処理、出産によって子孫繁栄をはかるという二つの「契約」だったが、長い歳月のあいだに、こうした観念も変化しはじめた。

 ロココの時代には、夫の身分によって経済的な安定が得られる妻を、夫の継承者とするといった、国家の先導によって、結婚の形態に歪みが生じた。
 そして、ほとんど病的なまでに貧困をおそれるあまり、しみったれた倹約がひろがった。その結果、国民の力が萎えた。この時代、家族の資産を分割させまいとして、子どもの相続を故意に制限することもめずらしくなかった。

 一夫一婦婚の基盤が崩れはじめた一方、新時代に向けて、まったく新しい、究極の主張があらわれる。かんたんにいえば、男は威風堂々たるパシャになるのか、それとも、女房の尻に敷かれるあわれな亭主になり果てるのか。

 官能的な快楽追求の時代は幕を閉じる。

 それに代わる形態が、二つの特質を見せて、次の世代で実行されてゆく。

 若者の性欲は、友情ある結婚で浄化される。
 夫婦はつねにお互いの人格を尊重しあう一身同体、一旦緩急にあたっては、力をあわせて立ち向かう。
 あのエピクロス的なモンテ−ニュが、夫婦の理想的な相(すがた)としてすでに思い描いていた。

 フランス・ロココの結婚の歴史は、フランス史のなかでも、もっとも天真爛漫な姦通の歴史だった。

2018/12/06(Thu)  1788 〈1977年日記 35〉
 
               1977年9月7日(水)

 とにかく、本を読まなければいけない。

 もともと、私の読書は、手にした本を再読するかどうかをきめるために読むようなもので、ほとんどの本は、届いて来た日にすぐ目を通すだけで、二度と読まない。
 そのかわり、再読すると決めた本は、それからしばらくして、じっくり精読する。 いつかまた読むべき本は、大切にとっておく。いつ読み返すかわからないが、かならず、もう一度読むことにして。

 ロココの時代。
 売春は、当時の女性にとって日常のアンニュイから逃避するための安易な手段だった、と見ていい。女がさまざまな因習にがんじがらめにされていた時代、さまざまなしきたりや、モラルをかなぐり捨てて、春をひさぐ。これは、時代のモラルに束縛されまいとする女にとって、まさにうってつけの享楽だったに違いない。

 ロココにおけるセックスの戯れは、ただ遊ぶための遊びを、無節操に追いもとめ、ついには堕落の一途をたどった。
 当時、色豪として知られていたリ−ニュ大公は、堕落したデイボ−シュ(道楽者)だったが、温和な人柄だったらしい。
 一方、この時代の高級娼婦(グラン・クルティザ−ヌ)は、お人形よろしく、美々しく着飾った上流夫人の「恋愛」とは対照的に、ひたすら陽気で、気まぐれ、あでやかで、比類のないものだった。たとえば、エロティックで奔放な画風で知られるボ−ドワンの描いたロココの娼婦たちの姿が今につたえられている。

 この時代、表現は徹底して自由になり、女たちをとり巻く息吹きも、艶っぽく、挑発的になった。おかげで、一般庶民の女たちまでが、娼婦(クルティザ−ヌ)にひそかな軽蔑のまなざしを向けながら、同時に、好奇心にかられはじめた。
 代わりばえのしない日常に倦んでいればこそ、娼婦(クルティザ−ヌ)にあこがれ、あるいは嫉妬したのではないか。
 こういう女の歴史は、ギリシャのヘタイラからルネサンスの娼婦につながっている。

 ロココの娼婦たちは、厚顔にも、聖職者のとり巻きとして、サロンで、性的な魅力をふりまいていた。

 ここから、現代の娼婦たちについて考えてみよう。


              1977年9月10日(土)

 ロココの女たちは輸出されていた。
 ロシア皇帝や、インドのサルタンたちが、フランスの美女を買い求めた。
 (価格はいくらだったのか。輸出経路は? 所要日数は? 調べること。)

 オペラ・フランセ−ズは、高級娼婦の養成所だった。

 娼婦なのだから、彼女を買った男は、「情夫」(アマン)として遇されるが、金の切れ目が縁の切れ目。たおやかな、しかし、非情なモンストルは、おいぼれの守銭奴ばかりか、若い放蕩者からも、遠慮会釈なく黄白をしぼりとる。
 ときには、「情夫」(アマン)の正式の妻を追い出して、首尾よく、「妻の座」を奪うものも出てくる。
 途方もない贅沢になれきっていた娼婦にしては、ごくささやかな、月々の「お手当て」で満足した高級娼婦もいる。
 しかし、この時代、フランス文化の思想と現実を体現していたのは彼女たちだった。

 ロココの女たちについて、もう少し調べること。

 話はちがうが、ル−マニア国立ブロエシュチ劇場の芝居を見たい。こんな劇団がきていることも知らなかった。
 この一行は、「前進座」を見学して、歌舞伎の下座、立ち回りを見学したという。
 三味線、鳴りもので、川の流れや雪の降る情景まで出せると知って、
 「簡素ななかに、これだけ鋭い表現ができるというのは驚き。日本の伝統演劇の深さに打たれた」
 と、団長以下が驚嘆したらしい。(むろん、お世辞半分だろう。)
 どういう劇団なのかしらないが――共産圏のル−マニアのことだから、おそらくスタニスラフスキ−を金科玉条にしている劇団だろう、と思う。この劇団の俳優、イオン・ルチアンが、返礼として「ある女の朝」というパントマイムをやって見せたらしい。
 朝、目ざめた女が、ベッドを離れて、お化粧をはじめ、外出するまで。
 「女形(おやま)の河原崎国太郎さんを前にして、女を演じるのはおこがましいのですが」
 といった。
 これに対して、国太郎は、
 「こちらこそ勉強させていただきました」
 と答えたという。

 私は、バロ−や、マルセル・マルソ−のマイムを見たり、テアトロ・エスパニョルのエチェガライのマイム、イタリアのエドワルド・フイリッポのマイムも見てきた。しかし、共産圏の役者のパントマイムは見たことがない。もっと早く知っていたら、ティケットを手配したのに。

 ル−マニアの女優では、エルヴイ−ル・ポペスコ、ポ−ラ・イルリ−ぐらいしか知らない。残念に思っている。

2018/11/27(Tue)  1787 〈1977年日記 34〉
 

              1977年9月1日(木)

 私の失敗。

クレジット・カ−ド、銀行のカ−ドなど、いっしょに入れておいた紙入れを紛失した。どこを探しても見当たらない。山に行くときは現金だけもって行くので、まさか紙入れごと失くしたとは思わなかった。

 この一年、物忘れをするようになった。老化現象なのだろうか。
 本を読む。本の内容はおぼえているのに、ある文章がどの本に書いてあったのか、忘れることがある。毎日、1冊以上の本を読むせいだろうか。誰かがこういうことをいっていたな、と思う。さて、誰がいっていたのか、その本を探すのはたいへんなのである。三日もすれば、少なくとも、3冊から十数冊の本を読んでいるわけだから、誰がいったのかおぼえていないことになる。

 物忘れをするようになったことから、思い出したことがある。

 いつだったか、「千葉文学賞」の選考に呼ばれて出席した。
 このとき、はじめて窪川 鶴次郎に会ったのだった。

   窪川 鶴次郎(1903〜1974)中野 重治などと「驢馬」を創刊。佐多 稲
   子と結婚。「日本プロレタリア芸術連盟」に参加。1930年、「ナップ」の文芸
   評論家として活動する。1931年、非合法下の共産党員になる。翌年、逮捕され
   、転向。「再説現代文学論」(1944年)は、文学批評の古典と見られている。
   戦後も、左翼を代表する文芸評論家だったが、「近代短歌史展望」(1954年)
   あたりから、研究者になり、文芸評論から離れた。 (後記)

 私が「戦後」はじめて登場したとき、窪川 鶴次郎は痛罵を加えた。私は、はじめてジャ−ナリズムの攻撃にさらされたが、窪川 鶴次郎の攻撃にふるえあがった。こちらはまったく無名なので、反論したくても反論できなかった。
 このときから私は窪川 鶴次郎を敵視するようになった。むろん、会ったこともなかった。千葉に移り住むことになって、たまたま「千葉文学賞」の選考を依頼されて、窪川 鶴次郎と同席したのだった。
 現実に眼にした彼は、ただの老いぼれに過ぎなかった。

 このとき、「文学賞」最終選考に残った作品は5編。いずれもせいぜい同人雑誌クラスの作品で、10万円の賞金にふさわしいものではなかった。ところが、「千葉日報」としては、どうしても当選作を出したい、出す必要があった。当時、この「文学賞」には県からも補助が出ていたためもあった。けっきょく、この年の当選作は、若い女性の叙情的な作品にきまった。

 選考に当たったのは、窪川 鶴次郎、福岡 徹(富安 徹太郎)、恒松 恭助、峰岸 義一、そして私。当時、近藤 啓太郎も審査員のひとりだったが、これは名ばかりで、こんな「文学賞」の選考などに出席するはずもなかった。私が審査員に選ばれたのは、近藤 啓太郎の欠席を予想しての起用だったらしい。

 今なら、コピ−した応募原稿がわたされるのだが、当時は、生原稿を廻し読みするので、能率がわるく、審査は午後から夜までかかることもめずらしくなかった。
 窪川 鶴次郎は、熱心にノ−トをとりながら、原稿を読んでいた。しかし、原稿を読むスピ−ドが遅く、いちばん先に読んでしまった私は退屈した。

 けっきょく、二次審査だけに5時間もかかって、6時過ぎに酒宴になり、その席で、それぞれが感想を述べることになった。

 長老の窪川 鶴次郎が、最初に意見を述べたが、作品の優劣に関してはほとんど何も発言しなかった。むろん、応募作品のレベルが低すぎて、批評しなかったのかも知れない。しかし、口ごもったように、不要領なことばを述べただけで、意外な気がした。
 たとえば、これも最終選考に残った作品の一つについて、
 ・・・これはどうも、ぼくには興味がありませんでね。なんだか、ニヒルでアナ−キ−
    なものを感じましたね。
 といっただけだった。
 ビ−ルを飲みながら、みんながつぎつぎに感想を述べたが、ビ−ルのせいで和気あいあいといった感じになった。福岡さん、恒松さん、峰岸さん、いずれも談論風発の酒豪ぞろいだった。

 窪川 鶴次郎は、酒を飲まなかった。ただ、なんとなくようすがおかしい。しきりに、何か考えているようだった。

     隣りにいる峰岸 義一をつかまえて、
   ・・あの女子学生の小説は何でしたっけね」
     小声で訊く。
   ・・あれは、・・・の「・・・」ですよ」
     峰岸さんが教えた。しばらくすると、また窪川 鶴次郎が、
   ・・あの女子学生の出てくる小説は何でしたかな、題は」
     と訊く。峰岸さんは、おだやかに、
   ・・だから、「・・・」でしょう、先生のおっしゃるのは」
   ・・「ああ、そうでしたね」
 私は、このやりとりを興味を持ってみていた。
 これが、あの窪川 鶴次郎なのか。佐多 稲子と結婚したり、田村 俊子と愛欲生活を送ったり。戦時中は、当局の厳重な監視下におかれながら、自分の立場をくずさなかった文学者なのか。
 また、ひとしきり雑談がつづいて、窪川 鶴次郎が口を開いた。
   ・・私は、あれがいいと思いましたね。あの女子学生が出てきて、清潔な、なんと
     いうのかな、学生生活を描いた小説、何でしたかな、題名は」
   ・・「・・・」ですよ」
   ・・いや、そうじゃなくて、ほら、あの、もう一つあったような気がしますね。女
     子学生が出てきて・・。」
     峰岸さんは黙っていた。このときは、恒松さんが話をひきとって、当選作の内
     容を子細に説明した。
     けっきょく、この作品が、あらためて当選ときまったが、窪川 鶴次郎は、ま
     だ納得できないのか、ひとりごとのように、
   ・・あの女子学生の作品は何だったっかな。
     と、つぶやいていた。
     それからあと、窪川 鶴次郎はまったく沈黙してしまった。

 私は、いたましい思いでこの先輩批評家を見ていた。信じられないほどのボケ老人になっている。当時はまだ認知症とか、アルツハイマ−といったことばもなかった。だから、ただの「ボケ」として認識したのだった。「戦後」の窪川 鶴次郎が、この数年、何も書かなくなっていることは知っていたが、これほどの老廃と化しているとは。
 まだ白頭の老人とも見えないが、顔は茶色を帯びて、メガネの奥には、何かに驚いたようなまなざし。
 これまで実際に面識のなかった窪川 鶴次郎に、ひそかな敵意を抱いてきた。その窪川 鶴次郎が、ようやく箸をつけて、選考を終わった人々の雑談にも加わらず、遅ればせながら食事を続けているのだった。
 私は、文学者の老年をしきりに思った。たとえば、幸田 露伴のように、老いてますます高雅、潁明さらに盛んになる人もいる。あるいは、その趣味は俗悪、その人格は低劣とそしられながら、老いてなお、un petit loppin de maujoint を美しく描いた永井 荷風のような老健の人もいる。
 いずれ、私も年老いた日に、窪川 鶴次郎のようにならない、とはかぎらない。そう思っただけで、うろたえた。

 やがて閉会になった。
 窪川 鶴次郎も、蹌踉(そうろう)として席をたったが、テ−ブルの上に飲み残しのビ−ルを見つけて、いそいで飲み込んだ。恒松さんが、ウイスキ−に切り換えたとき、飲み残したビ−ルだった。



                        1977年9月2日(金)

 駿河台下の銀行に行って、カ−ドの変更を申請した。偶然だが、銀行に鈴木 君枝がいた。そして、石川 幸子と会った。二人とも、私のクラスの学生。

 「週刊サンケイ」、長岡さんに書評をわたす。

2018/11/20(Tue)  1786 〈1977年日記 33〉
 
              1977年8月29日(金)

 気分は爽快。

 1時、「王子と乞食」(リチャ−ド・フライシャ−監督)を見た。いうまでもなく、マ−ク・トウェ−ンの原作。マ−ク・レスタ−主演。意外にできがいい。むろん、レックス・ハリソン、ア−ネスト・ボ−グナイン、オリヴァ−・リ−ドなどの共演者がいい。
 主演のマ−ク・レスタ−は可愛い少年だが、このまま成人して、いい役者になれるかどうか。かつてのフレデイ・バ−ソロミュ−とおなじ輟を踏みそうな気がする。
 試写を見たあと、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、本田 喜昭さんに会う。もと「推理スト−リ−」の編集長だった人だが、独立して週刊雑誌をやっている。原稿の依頼。
 俗悪な週刊誌に書くのは、作家としての評判を落とすことにつながるのだが、私は本田 喜昭さんに恩義を感じている。それに、どんな雑誌に何を書いても、私は自分を恥じない。

 6時、「ヤクルトホ−ル」。
 「マダム・クロ−ド」(ジュスト・ジャカン監督)の試写。これも、意外にいい映画だった。ロッキ−ド事件をからめた、高級コ−ルガ−ルの物語。
 ポスタ−に、シルヴィア・クリステルの顔が大きく出ているので、シルヴィアの主演かと思ったが、わずか1カットに出てくるだけ。羊頭狗肉どころではない。こういう宣伝は感心しない。シルヴィアはカメオ出演ぐらいのつもりで出たのか。あるいは、まだ爆発的な人気が出なかった時期にこの映画に出たので、急遽、ポスタ−に使われたのか。

 エリカから手紙。新しいアドレス。風邪をひいたらしい。

 今年ももう後半に入っている。いろいろなことが起きている。
 巨人軍の王 貞治が、ホ−ムランの世界新記録、756本を達成。

 日本航空、パリ発東京行き、DC8型機が、経由地、ムンバイ(ボンベイ)離陸直後に、「日本赤軍」によってハイジャックされた。バングラディシュのダッカ空港に強行着陸。犯人は、拘留中の同志9人の釈放、ランサム(600万ドル)を要求。

 厚生省。日本人の平均寿命、女性は77歳。男性、72歳と発表。

2018/11/15(Thu)  1785 〈1977年日記 32〉

               1977年8月24日(日)

 つぎからつぎに原稿督促の電話ばかり。
 原稿を書かなければいけないとわかっているのだが、かえって本を読みたくなる。
 たとえば、「アンジェラ・ボルジア」。岩波文庫。1949年に出ている。「アンジェラ」は「ルクレツィア・ボルジア」の従妹。スト−リ−は、「ルクレツィア」と「アルフォンソ・デステ」の結婚からはじまり、「ドン・ジュ−リオ」、「イッポリ−ト」など、エステ家の兄弟、「エルコ−レ・ストロッツイ」、「ピエトロ・ベンボ」などがつぎつぎに登場してくる。まるで、歴史もののテレビ・ドラマでも見ているようなおもしろいものだった。


                        1977年8月28日(木)

 暑い。

 原稿をいくつも書いた。27日、「サンケイ」は1本しか書けなかった。
 こういうときは、気分転換に山を歩くことにしよう。
 12時半、新宿駅2番線。松本行き、「急行アルプス」。
 吉沢君、「三笠書房」の三谷君、「二見書房」の長谷川君、石井、菅沼 珠代、鈴木 和子。安東君は、八王子から乗った。

 韮崎に着いたのは、4時近く。タクシ−を利用することにして、「白鳳荘」に。
 着いたとたんに、雨が降ってきた。おやおや、また雨か。

 4時、起床。4時半に歩き出した。まだ暗い。
 私は腰を傷めているので、歩きはじめはつらかったが、じきに痛みは消えた。

 快調とはいえ、甘利から大西峰に出るあたりがきつい。
 御所山。前に、Y.K.と二人で登ったときは、ル−トが見つからなくて苦労した。今回は、新しい標識がついていたので、青木鉱泉に出るのもずっと楽になっていた。

 このコ−スはもとのままで、手入れもされていない。青木鉱泉のすぐ手前で、沢を渡ったが、鈴木君が足をすべらせて、あやうく川に落ちそうになった。みんなが笑った。
 今回は参加していないが、工藤さんなら川に落ちていたはずだ、と冗談をいう。
 彼女は、水難の達人で、ふつうの登山者なら絶対に落ちないようなみずたまりでも、かならず足をとられる。幅がせいぜい数十センチの溝でも、かならずすべったり、ころんだり。
 私の冗談に、みんなが笑いだした。

 青木鉱泉。みんなで、のんびり湯につかり、ビ−ル。
 今回も楽しい登山になった。マイクロバスで、韮崎に送ってもらう。

 5時20分の臨時急行に乗るか。36分の鈍行に乗るか。
 結局、甲府で、そばを食べようということになった。急行で、甲府に行く。
 私たちの判断では――甲府始発の鈍行に乗ることになる。
 急行の入線で、みんながそれっとばかりに乗り込んだが、もうれつに混んでいた。やっと車内に入ったが、立錐の余地もない。

 あとで知ったのだが、大槻で脱線事故があって、中央線のダイヤが混乱していた。
 甲府の一つ手前の竜王で、この列車も立ち往生。先行の列車が甲府で停止しているため、この列車は、竜王で停車したらしい。長い時間、待たされて、しかも車内はむし暑かった。
 この間に、隣りの車両に乗った安東君が、プラットフォ−ムを走ってきた。私は非常用のコックを使ってドアを開けた。あんまり長い時間待たされたので、乗客のなかには、私たちのようにプラットフォ−ムに出るものもいた。
 私は停まっている列車を点検して、みんながおなじ車両に乗れるようにした。こういうことになると、日頃、列車の乗り降りになれているわがパ−ティの行動ははやい。

 やっと、甲府に着いた。これからまた何時間かかるのかわからないので、駅のキオスクに乗客たちが押しかけた。駅弁や、食品を買いあさっている。まるでパニック状態だった。ここでも、安東は有能だった。すぐに、駅そばに走って、そばを8個、買ってきた。
 これで、駅そばは売り切れ。
 安東につづいて、三谷君、長谷川君、石井たちが、ビ−ル、ジュ−ス、おつまみなどを仕入れてきた。みんなが、山でビバ−クするようなうれしそうな顔をしていた。

 いろいろな登山をしたが、今回のような意外なピクニックはめずらしい。

 新宿に着いたのは11時過ぎ。
 帰宅したのは、1時過ぎ。

2018/11/10(Sat)  1788 〈1977年日記 35〉
 
               1977年8月12日(火)

 エリカがアメリカに戻った。

 パンナム002便の出航は3時15分の予定だが、15分遅れで出発。

 私はまだいろいろと仕事がある。
 5時15分。「アラスカ」に寄って原稿を書く。なんとか仕上げたので、「ジャ−マン・ベ−カリ−」に行く。ここで、「世界文化社」の編集者と打合せ。「公明新聞」の編集者に原稿をわたす。
 下沢君と「実業之日本」に行く。峯島さんが、「夕月」に案内してくれた。
 翻訳もののシリ−ズを始めるまで、ずいぶん時間がかかったが、ようやく社長の内諾が出たという。


                 1977年8月15日(金)

 8月15日なので、敗戦当日のことを思い出す。

 朝、「共同通信」から、エルヴィス・プレスリ−の死を知らせてきた。コメントをもとめられたので答える。

 プレスリ−が、初めて登場した(56年)とき、私は反発したひとり。
 戦後のポップスに大きな影響をあたえたのは、ビング・クロスビ−、フランク・シナトラ、つづいてエルヴィス・プレスリ−、やがてビ−トルズだった。ごく平凡な見取り図だが、エルヴィス・プレスリ−には、はじめから忌避したいものがあった。
 マイクをにぎりしめて、セクシ−に骨盤を動かす「ペルヴィス・スタイル」が気に入らなかった。
 「ハ−トブレイク・ホテル」、「監獄ロック」、「ラヴ・ミ−・テンダ−」、「テディ・ベア−」、「ブル−・スウェ−ド・シュ−ズ」。どれも感心しなかった。

 エルヴィスの映画は、「GIブル−ス」、「ブル−・ハワイ」、「燃える平原児」など、30本もあるのだが、私は数本見ただけで、映画評を書いたこともなかった。シングル盤やLPも一枚ももっていなかった。
 ようするに、まったく無縁のまま過ごしてきたのだった。

 (私が、後年、ハンタ−・ディヴィスの「ビ−トルズ」を訳したのも、エルヴィス・プレスリ−に対する挽歌という意味もあった(ような気がする。)(後記)

 その私が評価を変えたのは、晩年の「エルヴィス・プレスリ−・オン・ステ−ジ」と「オン・トゥア−」を見て、あらためてこのシンガ−の円熟を知ったからだった。
 私は、周回遅れのファンといっていい。
 私が見たエルヴィスは、肥満体質に悩み、無理な食事制限や、大量の薬物投与に苦しみながら、自分の音楽をひたすら追求してきた芸術家の姿だった。

 エルヴィスは42歳の若さで亡くなった、という。あまりにも若い死だった。

 私は、おのれの不明を恥じてはいないが、エルヴィスが亡くなったことは、アメリカのポップスにとってとりかえしのつかない悲劇と見る。

 プレスリ−の死がつたえられたとき、グレイスランド・マンション前の、プレスリ−・ブ−ルヴァ−ドは人並みで埋めつくされたという。葬儀が行われた18日は、徹夜した350人をふくめて5000人が邸宅をとり囲んだ。葬儀には、ジョン・ウェイン、バ−ト・レナルズ、アン・マ−グレット、サミ−・デイヴィス・ジュニアなども参列した。
 墓地は、フォレスト・ヒルズだが、今後、ファンの巡礼が予想されるので、独立した墓地に埋葬しなおすとか。

 「DAB DAB」の編集部から、電話でアンケ−ト。これもエルヴイスの死について。


              1977年8月19日(火)

 「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、井上 篤夫、大村 美根子、本戸 淳子の三人に会う。「実業之日本」、峯島さんに会ったが、ここにきて、まだ、社としての方針が固まっていないふしが見えた。
 大村、本戸のふたりを、有楽町のゲ−ム・センタ−に案内する。ふたりとも、こんな場所で遊んだこともないだろう。
 神田に出て「いぬ居」でスキヤキ。


              1977年8月23日(土)

 1時、「ゆかいな仲間」の試写をみるために、「ガスホ−ル」に行った。
 「ガスホ−ル」でも、私はいつも右側の10列目あたりにすわるのだが、この日はどういうものか、中央の席にすわった。
 映画が始まる前に、黒人の女性が婉然たる微笑をたたえて、私の席に寄ってきた。何があるのだろうか。その女性は、なんと私にワインのボトルをわたした。
 これまで、映画の試写に行って、何かをもらったことはない。その映画の宣材をもらったことはある。大型のパンフレットとか、その映画の題名のついたTシャツといったものばかりで、ワインをもらったことはない。
 どうして、私を選んで、ワインをわたしてくれたのか。
 あとで知ったのだが、この女性は、南アフリカ共和国の観光省の女性とか。最近の南アフリカ共和国は、観光に熱心になっているらしい。
 たまたま、昨日だったか、南アフリカ共和国が原爆実験を開始する決定をしたという。フランスの外相が、世界に向けて、警告を発した。
 ワインから、世界情勢を連想する。

 これが、私なのである。

2018/11/05(Mon)  1787 〈1977年日記 34〉
 
                   1977年8月9日(日)

 今回は参加する気はなかった。なにしろ、原稿がたまっているので、この数日、かかりっきりだった。歯痛。
 北アルプス縦走は、安東 つとむが計画したプランだったが、最後になって鈴木君が、参加を断念した。訓練不足、経験不足が理由だった。しかも、吉沢君が足を傷めているので、参加できるかどうか。ナンなら、オレが行ってやろうか、と声をかけてやる。これが、きっかけだった。

 それから、原稿をつぎつぎに片付けはじめた。

 「ミレイユ」続編の校正は、上野の駅の構内で赤を入れた。約束の時間ぎりぎりに石本がきてくれたので、「二見」に届けてもらうことにした。
 プラットフォ−ムを走った。やっと飛び乗ったとき、みんなが歓声をあげた。
 すべり込み、セ−フ。
 「先生は時間に間に会わなくても、きっとあとからひとりで登ってくる、と思っていました」
 という。
 メンバ−は――安東夫妻、吉沢 正英、工藤 淳子、石井 秀明、はじめて参加した甲谷君。今回は、「中田チ−ム」の最強のメンバ−。

 すぐに眠ることにした。睡眠不足なので。

 早朝。富山から立山線で、有峰口。
 ここからバスで折立まで。

 さすがに登山者が多い。
 私は、車中で、よく眠れなかったため、ひょっとすると、おもしろくない山行になるかも知れない、と覚悟をきめた。セ−タ−は着ない。

 風はない。空いっぱいに雲がよどんでいる。やや薄ぐろい雲、灰色、白っぽい雲。だいたいそんな雲ばかりだが、色合いによって、何種類にも分けられそうだった。つまり、お天気の変化によって私たちの行動にどう影響するか。
 はるか彼方に帯状にながく伸びた薄ぐろい雲があり、白っぽい雲が細長い切れめを挟んで接続している。その切れ目から、光が落ちている。山は、光を受けた部分だけが輝き、あとは薄茶色になってひろがっている。
 息をのむほど美しい。
 せめて、少しでも晴れてくれればいいのだが。

 折立ヒュッテから、ひたすら5時間。長い長い高原状の尾根を登って行く。睡眠不足なので、かなりきついものになった。

 太郎平小屋に着いたとたんに、雨になった。
 やっぱり降ってきやがった。しかし、これも計算しておいたから、ま、いいか。
 キャンプ地に移って、テントを張る。

 こういうときは、テントにもぐってもあまり話ははずまない。地図をひろげて、明日のコ−スを調べる。

 翌日、4時、起床。
 食事(おじや)を作ったが、意外に手間どったため6時に出発。

 風が出なければいいのだが。
 しかし、歩きだしてすぐに、風とまじって雨が降りしぶく。セ−タ−にアノラックを着ているけれど、手袋の下のわずかな素肌が冷えてくる。登山靴の爪先からも、雨の冷たさが這いあがってくる。わるいことに、歯痛がおきた。
 唇をかみしめながら歩く。唇は血の色を失っているだろう。

 北ノ俣岳に。

 歯痛は薄れた。しかし、どうも、発熱したらしい。

 歩きつづけているうちに、風はやんだ。いったん風が吹きはじめると、あたりの大気が大きな固まりのまま、すさまじい響きをあげながら、大移動をはじめる。こういうときは、石が地上高く舞い上がり、地面にしがみついている植物をちりじりにもぎとって、いつ果てるともなく吹き荒れる。
 登山者は必死に風をさけようとするが、あらぬことばかり、頭をかすめる。こんな山に登るんじゃなかった。天気を読み違えたのか。退却したほうがよかったのか。しかし、どこに逃げるんだ? 地上めがけて矢のように突き刺さってくる風は、そんな考えを吹きとばす。いったん吹き出すと、いつまでも吹きやまない。

 赤木から黒部五郎にさしかかったとき、頭痛がはじまった。黒部五郎から先、まだまだ長い長いコ−スがつづく。考えるだけで、ひるんだ。つらい登山になったなあ。さりとて、もはや引き返すわけにはいかない。距離的に、体力的に、戻るわけにはいかない。

 小屋に入ったとき、頭痛がひどかった。お天気は回復したから、登山にはもってこいの日だった。しかし、ひとりで登山したら、とても先に行く気は起きなかったにちがいない。やむをえない。クスリを飲もう。アスピリン、エフェドリン、フェナセチンの配合剤で、万一のことを考えて、半分だけ服用する。

 予想では、登山者はたいした数ではないはずだった。ところが、小屋は満員で、一人用のふとんに2人が抱き合って寝るような状態だった。

 翌日(8日)、私の体調は回復していた。クスリが効いたのか。からだが山になれてきた。

 昨日のことがウソにおもえるほど、空が晴れている。雨はもう降らない。
 とりどりの姿をした雲がながれて行く。
 山脈がただ青く見えた。その向こうに、ナマリ色の雲がびっしりとならんでいた。
 どこから湧いてくるのか、あとからあとから流れてくるのだった。
 私たちの頭上をゆっくり流れて行く。
 山の頂上から少し下のあたりを通ってゆく。コ−スは、東の空にゆっくりと消えて行くのだった。

 黒部乗越から三俣蓮華に向かう。
 今日は素晴らしい日になる、と確信した。みんなが、うきうきした気分になっている。
 あたりの風景までが変わって見える。チングルマやシナノキンバイなどの群生が美しい。ほかのパ−ティ−を追い抜いてゆく。

 三俣蓮華から双六に向かったとき、ほかの大部分のパ−ティ−は雪渓の下のカ−ルに下りて行った。
 私たちは、頂上をめざしている。
 途中で、甲谷君に雪渓の雪をカップにとってもらって、ユデアズキのカンヅメをまぜてたべたが、これがほんとうにおいしかった。みんなにもわけてやる。ただし、同時に、クレオソ−トも飲ませたが。

 双六に着いたのが11時40分。ここで小休止。ほかのパ−ティ−のいくつかは大ノマから帰るために出発して行った。

 残念ながら、私もここから帰途につくことにした。自分ひとり戦線を離脱するような気がして、みんなと別れることは伏せていた。このまま、登山をつづけたいとも思った。しかし、週刊誌の連載があるので、今夜じゅうに半分は書いておかなければならない。

 「先生が帰るのは残念だなあ」
 安東がいった。
 「ごめんよ。どうしても、明日、1本わたさなきゃいけないんだ」
 私は空を見た。南東に大きな笠雲が出ていた。
 「今夜は、また雨になるぞ。気をつけてくれ」
 私はいった。

 12時10分。私は、安東たちと別れて、ひとり、新穂高に向かった。

 大ノマ乗越で、先行のパ−ティ−に追いついた。
 このパ−ティ−の若いリ−ダ−が、私を見て、軽蔑したような顔をした。かるいザックを背負っただけで、北アルプスにハイキングにきた中年と見たらしい。私は自分の登山スタイルが他人にどう見られても気にならない。
 奥多摩や、関東の山を登っていた頃、よく営林署の方ですか、と聞かれたことがある。

 ここで食事をしたが、10分後に、大ノマ乗越に出た。伊藤新道である。この道は、石の急な斜面になっているので、前に出発したパ−ティ−にすぐに追いついた。こちらが崖の上に立って先行のパ−ティ−を眺めていると、リ−ダ−が、先にというサインを出したので、私は、みんなが見ている前で先を急いだ。こういう場合、いちばん警戒しなけれはならないのは、石を踏んだとき、その振動が原因で、落石を起こさないようにじゅうぶん注意することだった。私は、石をつたって走ったが、まったく石が動かなかった。
 日頃、奥多摩の川のりや、高見石から塞ノ河原あたりのガケを何度も駆け下りているので、この程度ならなんでもない。あっという間に下りた。私の前に、若者の2人が下山していて、私はそれを追うかたちになった。この2人もすばらしいスピ−ドだった。

 秩父沢に出た。岩を一つ越すと、思いがけず、若い男女がパッと離れた。小休止していたらしい。ただし、その場の空気は想像できた。

 ワサビ平に着いたあと、新穂高まで単調な下りがつづく。
 4時間半のコ−スを、3時間で下りたことになる。しかし、高山行きのバスは、5時の最終しかない。これに乗っても、高山で泊まるか、美濃太田までしか行けない。
 思案しているところに民宿の男が寄ってきた。
 民宿「奥穂」。場所は、新平湯温泉だった。ポン引きのようなオジサンが経営している。目がギョロギョロして、なにやら気味がわるいが、実際は好人物だった。
 この民宿「奥穂」に泊まったのは、どこかの山岳部のパ−ティ−、4人だった。

 夜は雨になった。安東たちはどうしているだろうか。
 (北アルプスは、荒れ模様になった。)

2018/11/01(Thu)  1786 〈1977年日記 33〉
 
                   1977年8月3日(月)

 「日経」、吉沢君に連絡して、「東映」の「宇宙戦艦ヤマト」を見に行った。
 このアニメについて、日記には書かない。この作品は、最近の日本映画として、きわめて重要な作品と見ていいのではないか。あとで、じっくり考えてみよう。

 吉沢君と一緒に、「レバンテ」で遅い食事。話は、もっぱら「宇宙戦艦ヤマト」に集中した。

 「実業之日本」に寄って、レジュメ、2本。
 久しぶりに神保町に行く。「北沢」の裏に出て、交差点に向かって歩いていると、思いがけず、磯田 光一に会った。
 「やあ、久しぶりだね」
 お互いに久濶を叙するという感じで、「コ−ヒ−苑」でしばらく雑談。私は、若い批評家のなかでは、磯田君にいちばん好感をもっている。
 お互いに批評家なので、話題がつぎつぎに変化する。永井 荷風のこと、作家の死について。吉田 健一の死について。
 私としては、スウィフトについて聞きたいことがあったのだが、いろいろと話をしているうちに忘れてしまった。なぜ、スウィフトなのか。磯田君は、最近のエッセイで、吉田 健一がスウィフトにふれていた文章から、臼井 吉見の「事故のてんまつ」を論じていたので、心に残っていたからだった。
 あまり長く時間をとってはいけない。磯田君が病弱と知っているので。
 最近の磯田君は、風俗資料を集めている、という。
 「どういうものを?」
 聞こうと思ったが、遠慮した。

 「一誠堂」で1冊。「松村」で1冊。

 夕暮れ。

 「山ノ上」で、「南窓社」の松本 訓子さんと、原稿の打合せ。
 井上 篤夫君に、アンサニ−・ロ−ムを。大村君に渡す本は、明日、速達で送ること。

 帰り、西千葉で下りた。富安 夘八郎さんに電話。お焼香をさせていただく。
 しばらく、福岡 徹(富安 徹太郎)を偲んで、話をする。
 夘八郎さんは、「軍神」を文庫に入れてほしいというご意向のようだった。


                        1977年8月4日(火)

 昨日、手に入れた本は「サヴォナロ−ラ」。もう1冊は、18世紀からのヨ−ロッパの王室に関する資料。
 ロマノフ家のマリ−大公妃、ルクセンブルグのマリ−・アデライドを、系図でたしかめた。系図を見ていて、ルクセンブルグ大公、アドルフスの弟、ニコラス(1832〜1905)が、メルレンブルグ伯爵夫人、「ナタリ−・プ−シュキン」と結婚している。さっそく、アンリ・トロワイヤの「プ−シュキン」を調べた。プ−シュキンの妻だった「ナタリ−」と混同した。詩人の「プ−シュキン」は、1837年に死んでいるので、「プ−シュキン」の娘かと思った。
 私は、外国の人名から、すぐに肖像がうかぶような研究者ではないので、いつも、苦労している。

2018/10/24(Wed)  1785 〈1977年日記 32〉
 
               1977年8月2日(日)

 今日は、福岡 徹(富安 徹太郎)さんの命日。
 昨夜、献花を届けておいた。早いもので、もう三回忌になる。
 福岡さんは、産婦人科医で、本業のかたわら小説を書いていた。おなじように、医師(眼科医)の庄司 肇さんとおなじ「文芸首都」出身の作家。
 主著は、日露戦争で、旅順口で戦った乃木 希典の評伝、「軍神」(「文春」)。ほかに「未来喪失」という短編集など。

 「未来喪失」が出たとき、庄司 肇が批評しているが、

    医者の小説書きというのは、以外に多いものなのですが、それらの人々は、不思
    議と二つの群にわかれるようです。つまり、はなはだ医者的な小説を書く人と、
    医者のそぶりさえ見せない人との、極端な二組にわかれるのです。福岡さんは、
    あきらかに前者で、この五つの作品の主要人物は、すべて、医者、あるいは、看
    護婦であり、物語の内容も、それにまつわるものばかりです。

 という。
 これで思い出したが――おもしろい資料があるので、ここに書きとめておく。

 野田在住の医師(内科)、宗谷 真爾さんは、庄司 肇さん、福岡 徹さんとおなじ「文芸首都」出身の作家で、「野田文学」という同人誌を主催していた。
 それこそ、「医者のそぶりさえ見せない作家」で、のちにカンボジアに旅行して、アンコ−ル・ワットの歴史、といったモノグラフィ−を発表したが、作家としては夭折した。

 「未来喪失」の出版記念会で、宗谷 真爾さんがスピ−チをする予定だった。
 おなじ千葉県在住の友人の出版記念会なので、ぜひ出席しなければならない、と思った宗谷さんは、午後休診にして、昼食をとるのももどかしく家を出た。野田から千葉までは、かなりの距離がある。宗谷さんは、息せききって電車にとび乗った。船橋で国電(JR)に乗り換えたが、これが準急で、福岡さんの病院がある西千葉は素通り。仕方がないので、一駅先の千葉で降りた。

    千葉にきてしまったからには、ここからの方が会場に近かろうと思いなおし、発
    起人の一人になっていた中田 耕治氏に、いっしょにいこうと誘いかけるつもり
    で電話したら、奥さんが電話口に出た。
    「中田はいま、単身ヴェトナムにおもむいておりまして……」
    私が代わりにまいりますが、まだ福岡さんを存じあげていない。会場で失礼があっ
    てはならないから紹介してほしいと言う。ヴェトナムでビックリしたうえに、留
    守をあずかる令閨の賢夫人ぶりに二度ビックリ。
                     (「城砦」18号・1965年5月)

 1965年、私は妻の百合子のすすめもあってヴェトナムに行った。当時、ヴェトナム戦争が続いていた。
 私は、この春休みを利用してサイゴンに飛んだ。

 サイゴンにいた私は――福岡さんの出版記念会が催されることは知っていたが、出席できる状況ではなかった。私の代理で、妻の百合子が代わりに出席してくれたが、この出版記念会のようすは、妻がエア・メ−ルで知らせてくれた。これと重なって、友人の作家、山川 方夫が交通事故で不慮の死を遂げた。これも、百合子はこまかく報告して、私のかわりに弔電を打ってくれたのだった。
 12年前の夏であった。

 私は、ヴェトナムに行ってから自分でも変わったと思う。内面的に変化を経験したのだった。

 福岡さんのことから、いろいろと思い出した。


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