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2019/03/16(Sat)  1798〈1977年日記 45〉
 
              1977年11月1日(火)
 「南窓社」に行く。「私のアメリカン・ブル−ス」が出た。
 出版の話があって、今日まで少し時間がたってしまったが、それでも「南窓社」の岸村 正路さんと出会えたことは、幸運としかいいようがない。彼の励ましや助言がなかったら、この本は世に出ることはなかった。

 できたばかりの「私のアメリカン・ブル−ス」を手にとってみる。装丁にジェ−ン・フォンダの写真を使ったが、思ったほどわるくない。うれしかった。自分で装丁して自分で満足しているのだから、世話ァねえや。

 岸村 正路さんが、モ−ゼルを用意してくれた。ありがたい心づくし。ほかの出版社で、本を出したとき、こんなおもてなしをうけたことはない。編集を担当してくれた松本 訓子、藤平 和良おふたりといっしょに乾杯する。おふたりにも心から感謝している。

 私がこの本を書いたのは、自分の好きな作家を選ぶことで、いちおう私の「アメリカ」にケリをつけたかったからだ。ア−サ−・ミラ−も、テネシ−・ウィリアムズも、自分の演出で上演できた。オニ−ルや、今のオフ・ブロ−ドウェイの劇作家たちも、いつか演出してみたかった。残念ながら、その機会はなかった。そして、演出家としての私のキャリア−は終わっている。それでも、これまで書けなかった問題をこの本で書こうとした。うまく書けたかどうかは別として。

 内村 直也、荒 正人、埴谷 雄高さん、庄司 肇さんに、「南窓社」から本を送ってもらう。いずれも、私にとっては大切な恩人なのだから。

 「ロ−タス」で待たせておいた「マリア」に、「私のアメリカン・ブル−ス」にサインして贈る。彼女も喜んでくれた。本を抱きしめて感激しているので、私までうれしくなった。

 「あくね」に行く。小川 茂久がいるので。
 小川は、私の本を見て、ケッケッケと笑った。小川はうれしいことがあると、いつもこんな笑いかたをする。
 ――装丁、いいねえ。きみの趣味だな。
 ケッケッケと笑った。

              1977年11月2日(水)
 昨日、一昨日と、暑いほどだったのに、今日は冷たい雨になった。

 たとえば、朝、化粧室に、貴婦人がいるとしよう。
 お侠なメイドが、なれた手つきで、マダムのお化粧にかかっている。奇抜なヘア−・スタイル。夫人のかたわらに、修道院長がひかえている。マダムの髪形や、ヴェ−ルについて、ご意見を申しあげる。と、化粧室のドアが開いて、マダムのお嬢さまが朝の挨拶に伺候する。(書いていて、コメディ−・フランセ−ズの舞台を思い出した。)

 こういう環境で成人するお嬢さまも、やがて結婚なさるわけだが、新婚カップルなのに、はじめからアンニュイに襲われて、夫との深いミゾを埋めることもできない。
 おそらく、ノン・オ−ガズミックな性生活のせいで、うつろな心に不満がきざしはじめる。
 家族の気まぐれに翻弄され、財産の所有権を、かりそめの幸福と引き換えた女性は、自尊心を傷つけられて、夫婦間の裂け目をますます大きなものにしてゆく。
 夢ふくらむ乙女心を無残に打ち砕いた夫を許せるはずはなかった。
 離婚もままならず、長い人生を鎖につながれて生きなければならなかった。ソフィ−・アルヌ−ルは、無邪気に、いったという。
 「離婚って、姦通の儀式なの?」

 かくて、ロココの姦通はまことに陽気なものになる。女たちは、いそいそとして姦通に走った。

 ただし、せっかくの楽しみも冷水を浴びせられることがある。

 妻に欺かれた夫が、妻の不貞にまったく無関心な態度を見せることだった。
 夫との性行為が、単純で、粗暴で、ほとんど動物的とさえ見える時代、ロココの女たちの結婚生活に、嫉妬という情念はほとんどあらわれない。
 女たちは喜々として姦通に走ったため、嫉妬心どころか、ほかの感情も入り込む余地がなかった。
 ロココの時代、レデイ・キラ−に対して嫉妬をあらわにすれば、貴婦人たちや、その取り巻きの詩人たちには、滑稽な気晴らしのタネにされるばかり。まして、寝とられたコキュと、みごとに首尾を果たしたオンドリが醜い争いをくりひろげたりすれば、世間の笑いものになる。
 セックスにおける「乱倫」とは、「コン」(ペニス)の強さのことであって、うっかり男に嫉妬すれば、夫のほうは「去勢」されたせいと疑われるのがオチになる。

 「嫉妬は、女を疑うことではなく、おのれを疑うことなのだ」と、バルザックはいう。

 この時代、自分の妻ひとりを愛するような男は、ほかの女たちをそそのかして足を開かせる甲斐性がない、と嘲笑される。
 利口な夫たちは――自分の性的な能力を妻にまで嘲笑されるのは困るので、妻の行動を束縛して、世間から遮断したりはしない。妻が他の男の口説きに屈して、裸身をさらしても、そういう男を相手に快楽にふけることこそ、洗練された妻のありかたなのだと自ら納得してみせる。
 じつのところ、妻の貞節などはじめから信用していないため、妻の不実を知っても、笑いとばすのが男の甲斐性だった。
 ただし、そういう夫にとって、我慢ならぬことがある。
 自分の妻が他の男と通じているのはかまわないが、相手の男の前に別の女性があらわれて、突然、妻が捨てられるような事態、となれば由々しきことになる。夫婦のプライドが傷つけられたことになるからだった。
 少なくとも夫婦のプライドに汚点をつけようとする、陰謀のようなものになる。
 ド・スタンヴィル夫人は、粗暴な夫に蹂躪されていたため、姦通に走ったが、夫の陰謀にたばかられて、相手の男を別の女にさらわれたため、修道院に身を沈めなければならなかった。

 いつか、こういう時代の姿を描いてみたいのだが。

              1977年11月3日(木)
 さわやかな秋晴れ。
 午前中、「ロ−ドショ−」の原稿、「私の青春と映画」を書く。

 午後、池袋に。
 「西武」9階。「短波放送」の生番組。森 敦、赤塚 行雄のおふたりに会う。

 番組は低俗なものだが、久しぶりに赤塚 行雄さんと話をするのが楽しかった。赤塚君は、私と同年代の批評家だが、「文芸」の会で、坂本 一亀に紹介された。
 森 敦さんとは、別のテレビにつづけて出たことがある。「月山」以後ずっと沈黙している作家だが、ようやく小説を書く気になっている、という。

 この放送の現場に、安東 由利子、工藤 敦子、中村 継男がきてくれた。中継放送なのに、仲間の誰も応援にこなかったら、中田先生が可哀そうだから。
 ある時期の私は、放送作家として「短波放送」で仕事をしていた。「短波放送」のスタッフには顔見知りも多い。中村君たちは、そんなことを知らないので、この中継の応援に駆けつけてくれたのだった。

 放送を終えて、安東、工藤、中村といっしょに、「西武」で「バ−ナ−ド・リ−チ展」、「コ−カサス展」を見た。

 池袋の雑踏を歩く。木曽料理の店があった。ここで、ドジョウの地獄焼き、カエルの塩焼き。女の子たちはこわがって食べない。

 「山ノ上」。私は、まだ仕事が残っている。
 連載を書きはじめた。渡辺 晃一君がきたのは、9時半。しばらく待たせた。いつもなら、露骨にいやな顔をしてみせるのに、めずらしく、神妙な顔で待っていてくれる。
 明日、「国労」がストライキに入るので、どうしても今夜じゅうに原稿をしあげてほしい、ということらしい。「国労」のストライキは私の連載にまで影響している。
 予定より、30分遅れで原稿を渡してやると、渡辺君は礼もそこそこで帰って行った。
 とにかくやる気のない、新しいタイプの編集者である。

              1977年11月5日(土)・
 今日は、私の祝日。

 安東 由利子、工藤 敦子、甲谷 正則、石井 秀明、宮崎 等たち。私のファンというか、グル−ピイ。みんな、いい仲間なのだ。

 庭に穴を掘って、火を起こす。バ−ベキュ−。
 みんな、こうしたパ−ティ−ははじめてだが、作業としては山で食事を作るのと変わらない。
 百合子が、2,3人をキッチンにつれて行って、用意した肉や、ビ−ルなどを運ばせる。ほかの連中は、どやどやとバ−ベキュ−・セットに寄ってきた。
 そのあとも、ぞくぞくと仲間たちが集まってきた。百合子は、みんなに挨拶したり、つぎつぎにグラスを渡してやったり、忙しそうに立ち働いている。

 はじめの1時間ほどは、仲間たち2,3人が、ひとところにかたまって、ビ−ルを飲んでいるが、そのうちに三々伍々に離れて、庭に出たり、応接間に陣どって、わいわい話をしたり、応接間のテ−ブルに皿や、ナイフ、フォ−クをならべたり。

 ネコたちは、みんな別棟の部屋に閉じ込めたのだが、中田先生ンチのネコに挨拶しようというので、中田パ−ティ−はもとより、来あわせた連中まで、どやどや押しかける始末。
 この日、中田家の混雑はたいへんなものになった。
 パ−ティ−にきてくれた諸君は、お互いに知らない人が多いし、どういう目的の集まりなのか誰も知らない。人数も、どんどんふえてきた。
 百合子は、女主人として、若い人たちみんなにテキパキ指示して、全員に飲み物が行きわたるようにしたり、所在なさそうな女の子をみつけると、すぐに寄って行って話かけたり、けっこう、気苦労の絶え間がない。

 この日は、まるで劇団の打ち上げになった。
 はじめのうち、よそよそしさが残っていたにしても、みんながすぐにうちとけて、語りあい、笑いさざめいていた。みんな仲間どうしという感じで、年齢差もなくなって、わいわいやっている。

 ビ−ル、ウィスキ−、日本酒をたくさん用意したのだが、どんどんなくなっていった。

 「さ、みなさん、遠慮しないで、召し上がってね」
 百合子がいうと、女の子のひとりが、
 「ほら、奥さまのすわるところを開けて、おとりもちしなきゃ」
 などという。
 ビ−ルに酔った学生が、
 「先生、イイよ」
 何がいいのかわからなくなっている。なんでも、イイよ、で間にあわせる。

 いろいろな人がきてくれた。お互いに知らない相手も多いのだが、みんなが肉を焼き、ビ−ル、ウィスキ−を飲んで、楽しく談笑する。私のグル−プでは、安東ひとりが残念ながら欠席。

 網に乗せた肉やサカナをひっくり返したり。別に用意しておいたお寿司や、フライドチキンも、どんどん追加して行く。30人以上もきてくれたのだから、予定した食べ物だけでは間に合わない。
 百合子も、バ−ベキュ−・セットだけでは間に合わず、別に七輪を出して、吉沢君が火をおこす。いい感じのオキ火に金網をのせて、イカや貝類を焼いたり、野菜を焼いたり。

 音楽も流れている。誰かが、勝手に私のレコ−ドをかけている。
 パ−シ−・フェイスが流れたと思うと、マントヴァ−ニ、そのつぎに、ビリ−・ヴォ−ン、フィンツィ・コンティ−ニ、むちゃくちゃな選曲だった。

 ひたすら楽しいパ−ティ−になった。
 あとで、かんたんな挨拶をする。
 ・・・今日は私の誕生日。私は、50歳になった。今日は、その記念のパ−ティ−なん
    だ。
 ・・ みなさん、きてくれて、ありがとう。心から感謝している。

 私は50歳になった。もはや、若くはない。というより、初老期に入ったというべきだろう。これから、まだどのくらい生きていられるかわからないが、できるだけ長生きして、もの書きとして、自分の世界を作りあげていきたい。

 いくつかの仕事はできると思う。
 しかし、私がほんとうに望んでいるのは、自分がいつも考えている仕事を越えた仕事をしたい、ということなのだ。

              1977年11月6日(日)
 昨日のパ−ティ−は、みんなが終電までに帰途についたが、あと始末はまだだった。
 キッチンには、ビンや食器などが散乱している。応接間にも、いろいろなものが残されている。百合子ひとりであと片付けするのはたいへんなので、あとで私も手つだうつもりだった。

 お昼近く、安東、鈴木のふたりがきてくれた。これにはおどろいたが、ほんらいなら、このふたり、まっさきにきてくれるはずだった。しかし、仕事で、青森に出張したため、残念ながら欠席したのだった。
 百合子が、すぐに軽い食事を用意して、ふたりにふる舞った。あとでふたりが片づけものを手つだってくれたので、あっという間に、食べものの残りの始末がついた。

 安東たちが帰って、ようやく静かになった。

 百合子が、あらためて私の誕生日を祝ってくれた。

 こんなパ−ティ−をやったのも、私がもの書きという自由業で、時間を作ろうと思えばいくらでも作れるからだった。パ−ティ−にいくら費用がかかったか、私は知らない。百合子が、みんな切り盛りしてくれるので。
 費用はかかったが、どこかのレストランを借り切ってパ−ティ−をするほど、贅沢をしたわけではない。

 深夜、12チャンネル。「汚れた顔の天使」(マイケル・カ−テイス監督/38年)を見た。ジェ−ムス・キャグニ−、パット・オブライエン。ハンフリ−・ボガ−ト。たまには、こういうクラシックも見ておいたほうがいい。今回、気がついたのだが、女の子はアン・シェリダン。戦時中、「ウムフ・ガ−ル」として、人気のあった女優。

              1977年11月7日(月)
 女のSEXが、凌辱と、暴力と、支配の対象とされてきた時代。女たちは、思いがけない手段で、抵抗する。
 ロココ時代の姦通。夫には、妻とその愛人の「関係」を邪魔だてする権利さえあたえられていない。
 女の姦通は、この時代の女たちの暗黙の了解事項といってもよい。
 マリヴォ−は、宰相、リシュリュ−の行状から、この時代の性について、夫はどうしても、非常識なやりかたでしか妻を愛せないという偏見に言及している。
 妻を寝とられた夫といえども、その事態が避けられない場合は、それなりに姦通を認めると論じている。

 姦通の当事者の仲がこわれる。性的な快楽、とくにオ−ガズミックな享楽を得ている夫は、ぶざまなコキュという汚名を避けるために努力する。
 一方、妻に粗末な食事をさせたり、食事制限を課したり、はげしいダンス・レッスンを命じて、若妻の肉欲を弱めようとする。
 夫がつねに気をくばっていれば、「長椅子の戯れ」まで、つまり姦通までは、そう簡単に発展しない。夫婦にとって、肉体的にもっとも魅力的な状態になれば、寝室への距離もバランスよくとれる。
 最愛の女性の褥で休むとき、ナイトキャップを耳の上まで引き寄せるような、無粋なまねをしないですむ。
 結婚が無事につづけられるためには、妻の貞節こそが秘訣と、夫に確信させること。そのためには、慎重に、自分の考えにしたがって妻を教育し、気くばりをする必要がある。妻の女心をきずつけて、ワインに酔いしれて、一家の主に反抗することのないように。

 妻に余暇を楽しませるためには、妻が望んで出産した子どもを妻に抱かせるべきである。そうすれば、誇り高い母性の女は、一家の名誉を守ろうとするから。
 妻の愛人が登場しても、夫は巧妙に罠を仕掛け、男に好き勝手なふるまいをさせておいて、いざというときは、男を一敗地にまみれさせるがいい。
 一度でも、妻が愚かな行為をして、夫からは得られないはげしい官能の喜びにむせび泣くような関係になったら、妻の内部には得体の知れない怪物が侵入し、とり返しがつかなくなる。

 かるはずみな結婚が、この時代の風潮になり、姦通が流行した。
 あたらしい恍惚を得るために、ひとりの女性に自分の一生を捧げるなど愚の骨頂。
 この世紀には、幸せな結婚を実現した例は非常に少ない。

              1977年11月8日(火)・
 ロココの世紀に幸福な結婚がなかったわけではない。
 ボヴォ−公爵。愛情豊かな結婚の例で、姦通肯定のイデオロギ−がまかり通っていた時代に、さまざまな危機を乗り越えて、ゆたかな絆が作られて行った。
 ベルウィク元帥は、初婚の妻が心をこめて贈った銀の小筐を、終生、肌身離さず持ち歩いた。
 アカデミ−会員、ソ−ル夫妻の愛情は、はるか後年の世紀の夫婦愛そのものといってもいい。
 ロココの結婚倫理には、うつろな穴が絶望的に開いていた。

 佐々木 基一さんのエッセイが眼についた。

    さきごろ、深夜叢書社から出た「「近代文学」創刊の頃」と題する文集のなかで
    、信州飯田の軍需工場で終戦を迎えたときのことを久保田 正文が書いていて、
    「山道を下駄で下りながら、たちまち肚の底からの笑いが、自ずから私をおそっ
    てきた。ひと一人通らぬ、真夏の真昼白い光のなかであった」という箇所が妙に
    心にのこった。「まさに、哄笑というほかないあの笑いを、私は忘れることがで
    きない。それ以前にも、それ以後にも経験したことのないものとして今も心に刻
    んでいる」と久保田 正文が付け加えて書いている。そのような”哄笑(こうし
    ょう)”の中身は、おそらくあの日を体験した者にしかわからぬものであろうし
    、またいつふたたび警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えた
    者にしか分からぬ笑いだろう。

 私は、「近代文学」創刊の頃に、もつとも早く「近代文学」の人々と知りあった。この「「近代文学」創刊の頃」に、埴谷 雄高さんから執筆を依頼されていたのだが、私は書かなかった。じつは書こうとしたが、何も書けなかった。

 私もまた、終戦の日に、哄笑とまではいかないが、心から笑ったことを忘れない。
 少年だった私は、警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えたわけではなかった。ただ、戦争が終わったという、かぎりない解放感のなかで、心ゆくまで笑ったひとりだった。
 その笑いは、あの日を直接体験した者にしかわからぬものになっている。

 「近代文学」のなかで、佐々木 基一さんは、私に大きな影響を与えた批評家のひとりだった。久保田 正文さんとはほとんど交渉がなかったが、それでも短詩形の文学に関心をもったのは、久保田さんのおかげといっていい。

 私は、すぐれた先輩たちに教えられ導かれて、やっとここまでたどりつくことができた。そのことはけっして忘れない。

2019/03/13(Wed)  1797〈1977年日記 44〉 
 
          1977年10月25日(火)

 短編を書いた。

 もう10年も前の話。
 当時、「読売」で、大衆文学時評をはじめた。これは、文化部の高野 昭さんの企画で、佐々木 誠さんが担当した。
 このコラムで、「ハヤブサ・ヒデト」というペンネ−ムを使った。
 高野 昭さんも佐々木 誠さんも、このペンネ−ムについては異議を唱えなかった。おそらく、「ハヤブサ・ヒデト」について何もご存じなかったと思われる。
 ハヤブサ・ヒデトは、戦前の「大都映画」のアクション・スタ−で、連続活劇が専門だった。少年たちは、悪人たちを相手に戦うヒ−ロ−、「ハヤブサ・ヒデト」の活躍に胸を躍らせたものだった。「恋人」は、「大都映画」の美少女、佐久間 妙子ときまっていた。私は、後年、「忍者アメリカを行く」という愚作を書いたが、その主人公を「隼 秀人」と命名した。自作のなかで、少年時代のヒ−ロ−を登場させたかったからだった。
 ある日、佐々木さんから、一通の手紙が回送されてきた。
 読者からの手紙だった。鉛筆で書かれたものだった。

    前略
    3月7日夕刊、”大衆文学時評”、ハヤブサ・ヒデト氏は本名は何と言われる人
    でしょうか――おさしつかえなければ御知らせ頂ければ幸甚です。
    私――戦中、映画、自作自演、自監督をしたことあり、その頃のペンネ−ムと
    同じものなので、何か、かつての私と何等かのかかわりのある方なのか――と
    思ったりして妙にひっかかるものを感じますので――
    右お願いまで
    二月八日                   広瀬 数夫

 私は驚いた。
 ハヤブサ・ヒデトは、もう、亡くなったとばかり思っていたから。かつての活劇スタ−が生きていて、私の「ハヤブサ・ヒデト」の書いている「大衆文学時評」を読んでいる!
 しかも、住所は、埼玉県小川だった。

 埼玉県小川町は、私の母が、幼い少女だった頃、貧しい暮らしをしていた土地だった。そして、ハヤブサ・ヒデトの本名が広瀬 数夫と知って、これにも少し驚かされた。私自身が「広瀬 たけし」というペンネ−ムを使って、雑文を書いていた時期があったからである。

 私は、すぐに返事の手紙を書いた。
 少年時代に、ハヤブサ・ヒデトのシリ−ズのファンで、毎週、かならず見に行ったこと。批評家になってから、大衆文学批評を書くことが多くなって、「読売」が、新設したコラムに、私を起用してくれたこと。そのとき、私にとって貴重な「ハヤブサ・ヒデト」の名をペンネ−ムに選んだこと。
 この手紙で、本名を明かしたわけではない。手紙を読んだあと、どうあっても私の本名を明かせというのなら、よろこんで明かしたい、と書いたのだった。

 広瀬 数夫さんから返事はなかった。
 昭和初期に、自分の活劇に夢中になっていた少年が、大衆文学批評を書いていることに、なにかしら、くすぐったい思いがあったのではないか、私はそんなことを想像した。

 1969年のことだった。

 ハヤブサ・ヒデトは、翌年に亡くなったはずだが、よくは知らない。ただ、この大衆文学時評をハヤブサ・ヒデトが読んでくれている、と思いながら書いたのだった。


             1977年10月27日(木)

 作家、稲垣 足穂が亡くなったという。知らなかった。

 「山ノ上」。「IDA」、井田 康雄君が教えてくれた。
 このとき、「青春と読書」を受けとった。先日会ったリチャ−ド・バックのインタヴュ−。これは、録音を終えたあと、「山ノ上」に入って、徹夜で書いたものだった。
 自分でいうのもおこがましいが、いちおうよく書けていると思う。

 安東夫妻と、先日の高畑山の思い出を語りあいながら飲む。
 Y.T.は、山登りが好きになったらしい。石本に、小説の原稿をわたして、Y.T.を送らせる。
 残ったメンバ−を、三崎町の「平和亭」につれて行く。最近、「徳恵大曲」という中国酒が気に入っているので、みんなにふる舞うつもりだったが、これがなかった。別の酒を飲んだが、白乾児に似た味でがっかり。

             1977年10月28日(金)

 「素顔のモンロ− アンドレ・ド・デイ−ンズ展」 を見た。
 マリリンが19歳のときから、4000枚も撮影した写真のなかから、初期のノ−マ・ジ−ン時代、モデル時代、私生活など、初公開の写真、60点。
 渋谷「西武B」。今日まで。

 19歳のマリリンは、写真家、アンドレ・ド・デイ−ンズとどういう関係だったのか。むろん、こうしたことに関する資料はない。もっと露骨にいえば、19歳のマリリンはド・デイ−ンズとSEXしたのか。
                                      
 ド・デイ−ンズのマリリンは、彼のカメラがマリリンのエロスをどうとらえているかにあらわれている。ド・デイ−ンズは、数年後にマリリンが、アメリカを代表する映画スタ−になるとは夢にも思っていなかったはずだか、この19歳のマリリンは、すべてが無邪気なハイティ−ンなのに、すでにしてセックスだけで生きている女なのだ。
 この「マリリン」は、生命力であり、活力なのだ。

 戦時中に、陸軍の報道カメラマンに撮影されているが、そのとき、「マリリン」はこのカメラマンとSEXしている。
 モデルになっていた「マリリン」が、ド・デイ−ンズとSEXしなかったとは考えにくい。「素顔のモンロ−」には、いわば、ド・デイ−ンズと私たちが「マリリン」の秘密を共有しているといった親密な雰囲気がただよっている。


             1977年10月29日(土)

 見たい映画。「マルタの鷹」。これは東京12チャンネル。
 あまり見たいと思わないもの。「ソヴイェト名作映画祭」。むろん、見ておいたほうがいい映画――「アンナ・カレ−ニナ」、「カラマ−ゾフの兄弟」。


             1977年10月31日(月)

 宝塚、11月「雪組」をみるか、暮れの「花組」、春日野 八千代を見るか。

 オスカ−・ワイルドはいう。

    快楽のために生きてきたことを、私は一瞬たりとも悔いはしない。私はこころゆ
    くまで味わったのだ。人はそのなすべきことをすべてなすべきであるように。
    私の経験しなかった快楽などあるはずもなかった。

 私は、こういい放ったワイルドにさして羨望を感じない。

 おのれの行状をこうまでみごとに裁断するワイルドには敬服するほかはないが、私自身は、おそらくわずかな快楽すら経験せずに生きてきただけのような気がする。
 たとえ、わずかばかりの快楽のために生きてきたとしても、私は悔いない。

2019/03/04(Mon)  1796〈1977年日記 43〉
 
           1977年10月17日(月)

 朝、近くの「石橋商店」のお内儀さんがきて、表の道路でネコが死んでいます、と知らせてくれた。悪い予感が走った。

 すぐに行ってみた。わが家の飼いネコ、チビが死んでいた。名前こそチビだが、その前に生まれたマックに劣らないほど大きくなってしまった。しかし、私が可愛いがっていたネコだった。

 車にハネられたことは歴然としている。左の目がとび出していた。その血が凝固して、目の回りが黒っぽくなっている。それ以外に出血してはいなかった。どういう状況で死んだのか。
 よく見ると、目がとびだしているだけで、左の側頭部に血がひろがっていた。
 あまり醜い死にざまをさらしていない。
 可哀そうに。

 死体をすぐに処分しなけれはならない。少し考えて、玄関先から右、ツタの近くに埋めてやることにした。
 土を掘っているうちに、涙が出てきた。
 ほんとうに可哀そうなことをした。日頃、可愛がっていただけに、こんな死にかたをしなければならなかったチビが不憫だった。
 それにしても、これまでイヌやネコを何度葬ってやったことか。それぞれのイヌやネコには、私が可愛がってやった思い出が残っている。

 ある日、北 杜夫が私に、
 「生きものは飼いたくない。死なれるとつらいので」
 と語ったことを思い出す。


          1977年10月18日(火)

 「ガスホ−ル」で「がんばれベア−ズ特訓中」(マイケル・プレスマン監督)を見た。シリ−ズの2作目。つまらない映画だった。
 いろいろな理由が考えられるが――「がんばれベア−ズ」がもっていた社会批判が消えたことが、この映画をつまらないものにしている。
 ダメな監督に率いられたダメなメンバ−でも、全力を尽くせば、決勝まで進めるのだ、というテ−マ。これは、「がんばれベア−ズ」のヒロイズムだが、ヴェトナム戦争後に傷ついたアメリカ社会の縮図だった。
 ところが、この「特訓中」は、そのテ−マがスッポリ消えている。
 もっといけないのは、主人公の少年と父親の対立が、ホ−ムドラマめいた感傷になっている。このあと、シリ−ズの3作目は、いよいよ少年野球の日本遠征となる予定だが、こんなものがいい映画になるはずがない。
 時間があるので、「風に向かって走れ」(ウィリアム・グレアム監督)を見るつもりで「松竹」に行った。ところが、「悪魔の生体実験」という映画の試写だった。見にきていたのは、ほんの2,3人。ナチの女囚強制収容所を描いたもの。サディズムとエロティシズムを売りものにしているが、どうしようもない映画。
 「山ノ上」、「三笠書房」の三谷君。
 講義。お茶の水近くで、中田パ−ティ−のメンバ−と会う。話題は、先日の武尊山のすばらしさ、沼田で中田先生とはぐれたこと。


            1977年10月19日(水)

 西ドイツで起きたハイジャック事件。武装した特殊部隊が出動してテロリスト全員が射殺され(1名は重傷)、人質は救出された。
 この事件の対応が、先日の「日航」のハイジャック事件と比較されている。5日間もねばりづよく時間を稼ぎながら、ぎりぎりのところで特殊部隊を送り込み、人質の救出を敢行した西ドイツ当局を称賛する。
 ハイジャックを自力で処理するため、警察が特殊なコマンドを用意することを急務とする声がひろがる。わが国でも、テロ対策はきびしくなるものと予想される。


          1977年10月19日(水)

 今夜は、「ドクトル・ジバゴ」(ディヴィッド・リ−ン監督)をやるので、見ておきたいと思う。

 夜、6時、「千葉日報」の遠藤君が迎えにきてくれた。
 川井、「倶楽部泉水(いずみ)」で話をする。このクラブは会員制で、千葉のエリ−トが利用するらしい。この「泉水(いずみ)」は、田舎の庄屋の邸を改装した和風の屋敷で、明治天皇が少憩した由緒ある倶楽部という。私の「お話」は、ルネサンスについての講話のごときもの。
 きっと、みなさん、退屈なさったんじゃないかな。


             1977年10月20日(木)

 芸能界をゆるがしているマリワナ騒ぎ。
 海老坂 武のエッセイ(「文芸」11月号)によれば、フランスでもマスコミで反麻薬キャンペ−ンがひろがっている。その底流には、高齢化社会の自己防衛本能としての若者差別がある。「不可解なものを排除しようとする憎悪の分泌液だけが紙面ににじみ出ている」とか。
 マリワナの流行は、5月革命以後の目的喪失と社会への不快感、異議申し立てにほかならない。昨年、200人の知識人が――麻薬(マリワナ)を使用しただけで犯罪視することに反対し、マリワナの非処罰を要求する声明に署名したという。
 こういう機運は、わが国にはあらわれない。
 しかし、井上 陽水、研 ナオコ、内藤 やす子、美川 憲一、にしきの あきらといったシンガ−たちの逮捕は、どう見ても贖罪羊にされたとしかいいようがない。


            1977年10月23日(日)

 あさ、6時40分、新宿。女子学生、2名が待っていた。ふだん、声をかけたこともない女の子なので驚いたが、参加してくれたのはうれしかった。国井、岡安の2人。登山らしい登山の経験はないという。そのあと、小林、古屋の2人。けっきょく、11名。甲府行き。
 予定変更。ハイキング程度の山歩き。鳥沢で下りて、高畑山に向かう。小さな山なので、休日でも誰も登らない。それでも、家族づれ(3人)と、ハイキング・グル−プに出会った。

 長い山道を歩き、小高い岡の裾を回ってゆく。道は徐々にせりあがってゆく。道の両側から延びた灌木の枝をよけながら通り抜けると、意外にひらけた場所に出た。エメラルドに輝く秋空。
 ほかのパ−ティ−はいない。ザックをデポしても大丈夫と判断して、倉岳山をめざした。
 山は低かったが、楽しいハイキングになった。

 新宿に戻ったのは8時半。

 大畑 靖君の「ミケ−ネの空は青く」の出版記念会に向かった。残念だが、間にあわなかった。二次会の「二条」で、大畑君に会う。私がザックを背負っているので、大畑君も、遅参を許してくれたらしい。
 昔、「東宝」の脚本部にいた、松下某が、私を見て挨拶に寄ってきた。私が「東宝」で仕事をしていたとき、表面はにこやかだったが、蔭にまわって、さんざん私の悪口をいいふらしていた人物だった。
 こういう策謀家(ストラジスト)を私は憎んでいる。


            1977年10月24日(月)

 「カプリコン 1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)を見た。朝、9時からのホ−ル試写なのに観客が多い。SF。試写の反応によって、クリスマスに公開するらしい。
 火星宇宙船、「カプリコン 1」の発射直前、宇宙飛行士、3名が極秘裡に、砂漠の秘密基地に移される。宇宙船「カプリコン 1」ののロケットに故障が発見されたため、NASAは、宇宙飛行士たちに火星着陸の演技をさせようとする。ところが、無人の「カプリコン 1」が帰還の途中で爆発したため、こんどは宇宙飛行士、3名の存在が邪魔になる。エリオット・グ−ルド主演。

 「松竹」に行って、「風に向かって走れ」(ウィリアム・A・グレアム監督)を見る。これは西部劇。
 逃亡インデイアンをとらえる騎兵隊の暴虐を知ったガンマンと、騎兵隊から逃げてきたインデイアンの娘のほのかな愛情。しかし、騎兵隊の追求の手が延びて、娘は暴行され、自殺する。

 もう1本、「ランナウェイ」(コ−リ−・アレン監督)。
 これは、禁酒法時代。大手の密造組織が、零細な密造者をつぶしにかかる。これに一匹狼の密造人が立ち向かう。デイヴィッド・キャラダイン主演。
 一日に3本も試写を見ると、さすがに疲れる。

 いつまでもこういう生活をつづけるわけにはいかないな。

2019/02/21(Thu)  1795〈1977年日記 42〉
 
                1977年10月8日(土)

 午前6時45分、上野から水上に。
 安東夫妻、鈴木、石井、甲谷、妹尾のメンバ−。
 上州武尊山。

 日本武尊(やまとたける)の伝説に、ふさわしい、荒涼とした土地がつづく。たいした山ではないのに、山の麓をぎっしりと赤松の林がとり囲み、ススキの原を出ると、深い竹のヤブになっている。やがて、そのヤブのなかを、わずかに、人ひとりが通れるほどの小経が、大きな岩に向かって伸びている。クサリ場だった。
 途中、小さな水たまりにぶつかった。池というほどの大きさでもない。周囲を草がとり囲んでいる。地下水がにじみ出して、自然にたまった水たまりとしかいいようがない。水は濁っていて、魚がいるはずもなかった。
 私がその水たまりを通り抜けようとしたとき、どろりとした水が動いた。思わず、足をとめた。その水が動いた。何かが生きている。よく見ると、その水の大きさの生きものが、ひそんでいた。
 サンショウウオだった!
 まさか、武尊山にサンショウウオがいるとは思わなかった。私の見間違いかと思った。水が濁って見えたのは、サンショウウオの肌の色のせいだろう。こんなわずかな水たまりに、もう一尾、サンショウウオがひそんでいる。
 私は、すぐに離れた。私が驚いた以上に、サンショウウオのカップルも、ときならぬ足音に夢を破られたにちがいない。
 ほかのメンバ−は、この水たまりの棲息者に気がついたかどうか。

 秋の上州武尊山は、すばらしかった。全山、紅葉というか、錦綉というか、ただ、すばらしいとしかいいようがない。強く傾斜したコ−スには、枝をひろげた木の落とした黄褐色の落ち葉が積もっていて、登山靴の下で音をたてている。
 武尊山は独立峰だが、登山コ−スにはいくつもピ−クがつらなっている。ピ−クを過ぎるたびに、もはや彼方にはなれた山脈(やまなみ)は、いちめんに紅(くれない)と黄に染められていた。
 夕方、避難小屋に泊まった。狭い小屋に、登山者がつめかけるのだから横になるのもむずかしかった。小屋のリ−ダ−は、安東が仕切った。つぎつぎにみんなの居場所をきめてゆく。あとから着いたパ−ティ−を入れてやったり、みんなに、場所を割りふったり。
 こういうことにかけては、安東の右に出る者はいない。

 しらしらとした地平線の彼方に、太陽が頭を出しかけている。朝靄(モヤ)がその前にひろがっている。私はふるえた。なんという厳粛で、しかも透明な朝だろうか。
 私は、余りよく眠れなかった。狭い小屋にぎゅうぎゅう詰めだったし、まだ、コースは続いている。メンバ−のなかに、体調を崩している者はいないだろうか。そんなことが頭から離れなかった。

 ただ、ひたすら歩いた。

 夕暮れもまた、厳粛で、私のつまらない一日の終わりが、こうした荘厳さでしめくくられようとしている。このために、私は山を歩いている。
 バス停にたどり着いたときはもう暗くなっていた。
 私たちは、下山したあと、温泉に入る習慣なので、このときも温泉でしばらく休憩する予定だった。
 ところが、温泉宿は休業していた。もう一つ先に宿があるはずなのに、これも見つからない。
 やむを得ない。川湯温泉まで歩くことになった。

 やっと、宿にたどりついて湯に入った。湯船に落ちる湯がチョロチョロと音をたてている。宿は、私たちだけでひっそりしていた。

 このあと、またしても思いがけないハプニング。
 沼田で、みんなとはぐれてしまった。みんな乗車したことは間違いないのだか、たいへんに混んでいたので、私ひとりが別の車両に乗ったらしい。
 上野まで立ちんぼ。たまには、こんなこともあるさ。


                 1977年10月10日(月)

 今日は、フジ・テレビで「ショック療法」(アラン・ドロン)を見ようかと思ったが、本を読む時間がなくなるのであきらめた。

 ス−ザン・ジョ−ジの映画を見ているうちにロココの時代の、いとも天真爛漫な姦通を思い出した。姦通は、すべての階級に共通する特質だった。
 世間の女たちから、羨望のまなざしを向けられるような貴族の特権だった。宰相、リシュリュ−は姦通に対して警戒の眼をむけた。(「三銃士」を読み直そうか。)
 それでも、旺盛な精力を誇示して、「好色家」としての評判を高めたいために、富裕なブルジョアたちは、多額の黄白をつぎ込んだ。

 当時の結婚観。

 「結婚式は、仮装するのが目的で、結婚生活に入る前に、らんちき騒ぎをしてみせる喜劇なのだ。」

 姦通を、ロココの芸術の一様式にまで高め、いわば時代の寵児に祭りあげた理由はいくつかある。
 若い娘たちは、早くから修道院に送られて、ここでの教育に世間から遮断される。娘たちはあくなき好奇心をもって、早い時期から性的な快楽に、抑えきれないあこがれをつのらせる。修道院の娘たちは、異性と対面する機会もない。
 (モリエ−ルの「女房学校」を読み直すこと。)
 やがて、娘たちは、ほとんどなじみのない実家につれ戻される。
 このときから、娘たちは、はじめて男に紹介されるが、例外なく年配の男ばかり。
 ほどなくして、黒服を着込んだ男たちがやってくる。花が届けられる。四輪馬車がやってくる。あれよあれよという間に、婚礼の祝宴ということになる。
 飲めや歌えの大騒ぎがすんで、ただもう放心状態の花嫁を、付添い女が、犠牲(いけにえ)をささげるように、初夜の褥(しとね)に導く。
 こうして、落花狼藉、ということになる。

 7日夜、東ベルリン、アレクサンダ−広場で、暴動が起きた。これは、24年ぶりの反ソヴィェト暴動で、ホ−ネッカ−政権はむずかしい対応を迫られることになる。
 東ドイツのADN(通信社)のつたえるところでは、少数の「やくざ」が起こしたもので、負傷者が出たため、警官隊が出動して、この「やくざ」たちを拘束したという。
 西ベルリンの目撃者の話では・・・約1000名の若者と警官隊が衝突、負傷者が出たほか、広場付近の建物の窓ガラスなどが壊された。ソヴィェト軍の将校が通りかかったため、若者たちは、「ソヴィェト、帰れ」の合唱を浴びせたらしい。
 西ドイツの日曜新聞、「ビルト・アム・ゾンタ−ク」は、約1000名の若者と数百名の警官隊が衝突、約100名が検挙された。しかも、多数が負傷したとつたえているが、ADNは、若干名が身元調査のために「連行」されたという。

 東ドイツはヨ−ロッパ共産圏の「優等生」といわれているが、世界的な不況の波は東ドイツにも押し寄せ、今年前半の工業生産伸び率は、70年代前半の7〜下降線をたどっている。

 アレクサンダ−広場で起きた暴動は、これからの東ドイツにどう影響するか。ホ−ネッカ−政権の基盤は、案外、脆弱なのかも知れない。


                 1977年10月11日(火)

 「新シャ−ロック・ホ−ムズ/おかしな弟の大冒険」(ジ−ン・ワイルダ−監督)を見る。
 イギリス外務省の金庫から、国家機密がぬすまれる。シャ−ロック・ホ−ムズは、宿敵、「モリア−テイ教授」の仕業とみて、弟の「シガ−ス」(ジ−ン・ワイルダ−)に捜査を依頼する。
 ジ−ン・ワイルダ−の喜劇は嫌いではない。しかし、この才人の喜劇感覚にはどうもついていけないところがある。マデリ−ン・カ−ンが出ていた。この女優は、ときどきジェ−ン・フォンダそっくり。ただし、ジェ−ンの気品はない。

 もう1本、シャ−ロック・ホ−ムズものが公開される。こちらは、「ユニヴァ−サル」の「シャ−ロック・ホ−ムズの素敵な挑戦」(ハ−バ−ト・ロス監督)。「ホ−ムズ」がコケイン中毒で、「モリア−テイ教授」に対する憎悪がつのり、ウィ−ンに行って、「フロイド博士」の診察を受ける。「モリア−テイ教授」を、ロ−レンス・オリヴイエがやっているし、「ワトソン」をロバ−ト・デュヴアル、これにヴァネッサ・レッドグレ−ヴがからんでくる。おもしろくないはずはない。それでも、どこかおもしろくないのは、なぜなのか。


                  1977年10月12日(水)

 ロココの時代。もう少し、考えてみよう。

 ロココ貴族のあいだに、さまざまに性的な頽廃が見られる。夫婦の「おつとめ」は、できるだけ急いで、乱暴に行われなければならない、という愚かしい偏見による。少なくとも、性交が、次第しだいにア−ティフィシアルなものになったことにかかわりがある(だろう)。
 出産は、女の生死にかかわる事件になりかねない。
 すでに、心身ともに引き裂かれて、もはや忍耐の限度を越えている。そこに、あらたな犠牲(いけにえ)として新生児に乳をふくませる役が押しつけられる。こうなると、夫婦関係はおろか、母と子の精神的な絆さえ断ち切られることになる。
 母親としての心くばりなど、当然、見せかけのものにすぎなくなる。

 大学、講義。中田パ−ティ−のメンバ−がそろっている。
 みんなが、武尊山のすばらしさを思い出している。私は、つぎの登山のプランを考えている。ただし、だれにもいわない。


                       1977年10月14日(金)

 明日から、上野の東京都美術館で、「ピカソ展」が開催される。
 これは、どうしても見ておく必要がある。

 ピカソは、1900年、スペインからパリをめざした。初期の「青の時代」から、「バラの時代」。キュビズムから、古典の時代を経て、晩年にいたる名作が並ぶ。

 ピカソが亡くなって4年。

 世界初の回顧展。


                 1977年10月15日(土)

 ビング・クロスビ−が亡くなった。

 映画以外で、ビング・クロスビ−を聞いたことがない。残念だが。


                 1977年10月16日(日)

 あたらしい仕事のこと。

 柴田 裕夫妻が遊びにきてくれた。ふたりは幸福そうだった。めったにない強い絆で結ばれていて、お互いに支えあっている。だから、ふたりを祝福してやりたい。
 百合子がもてなして、4人で夜食をとった。
 8時に帰ったが、快速に乗れたかどうか。

 紛失したと思った銀行のカ−ドが出てきた。
 やい、どこにシケ込んでいやがった。手前が姿をくらましやがったおかげで、こっちは義理のワリィ借金まで作っちまったぜ。
 もう一つ。これも紛失したはずのカ−ドも、仕事机の下、座布団の下から出てきた。
 や。手前も出てきやがったか。このつぎはもっと早く出てこい。

 フイリッポ・リッピのこと。
 「受胎告知」で知られている。自分の恋人だった修道女をモデルとしたという絵を見ながら、現代の画家、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドを思い出す。
 マゾ−ニスは、まだ日本では知られていないが、いつも美しい女たちを描いている。全体の色調は、何時も白。背景も白いし、女たちの肉体も白い。この画家は、1921年、トリ−ノ生まれ。ロ−マのラ・バルカッチャ画廊や、ボロ−ニャのフォルニガロウナドノ個展から、にわかに注目されはじめた。叙情的な作風で、あまやかな、繊細なタッチは、現代の「フイリッポ・リッピ」のよう。

 ときどき、外国の画家のヌ−ドを見る。まるで関係のないスト−リ−を思いつく。

2019/02/06(Wed)  1794〈1977年日記 41〉
 
                 1977年10月5日(月)
  作家、和田 芳恵さんが亡くなった。71歳。

    和田 芳恵 (1906〜77)作家。北海道・長万部町生まれ。中央大・独法
     科卒業。新潮社に入り、「日本文学大辞典」の編纂、「日の出」の編集に当た
     った。1941年、自作が芥川賞候補になる。新潮社を退社。
     「戦後」、中間小説の先駆的な雑誌、「日本小説」の編集。
     樋口一葉の研究をつづけ、1956年、「一葉の日記」で芸術院賞を受賞。
     1963年、「塵の中」で直木賞。1774年、「接木の台」で読売文学賞、
     今年、「暗い流れ」で日本文学大賞を受けた。  (後記)

 文壇の大家たちとまったく無縁だった私に、どうして和田 芳恵さんが親しく接してくださったのか。もともと文壇の大家の知遇を得ようとする下心はまったくなかった。ただ、少年時代の私は、慶応のグル−プに出入りしていたとき、野口 富士男さんに和田 芳恵さんを紹介されたのだった。
 その後、ほとんど無関係に生きてきたのだが、たまたま、私が大きな新聞の「大衆小説批評」を書きはじめて、和田さんの小説をとりあげたことがあった。

 もともと批評家として出発したため、批評家の友人は多かったが、北 杜夫以外の文壇作家たちとは無縁だった。北海道、三重、千葉の同人雑誌作家たちに友人ができたが、その人たちの集まりにもほとんど出たことがない。
 この数年、たまに文壇の集まりに顔を出すことがあって、和田さんを見かけたときはこちらから挨拶をするようになった。
 和田さんにすれば、慶応の集まりに出ていた少年が、いつしか薄汚れたもの書きになっていたぐらいのことだったに違いない。しかし、和田さんはそんな私に対して、いつもわけへだてのない態度をとってくれた。

 私にとっては、ただ一人の文壇の知己であった。

 和田 芳恵さんのご冥福を心からお祈り申しあげます。

 種村 季弘さんから、グスタヴ・ルネ・ホツケの「絶望と確信」を贈られた。むずかしそうだが、こういう本が読めるのはうれしい。
 とりあえず礼状を書いた。
 内村 直也先生から、「日本語と会話」を頂く。
 大畑 靖君から、創作集「ミケ−ネの空は青く」を。


                 1977年10月6日(木)

 たくさんの美少女を見てきた。ス−ザン・ジョ−ジは、そういう美少女のなかでも出色のひとり。
 久しぶりに、「12チャンネル」で「クレイジ−・ラリ−」(ジョン・ハフ監督)を見た。「クレイジ−」なエ−ス・ドライヴァ−、「ラリ−」(ピ−タ−・フォンダ)は、「メリ−」というカルい女の子(ス−ザン・ジョ−ジ)に声をかけて、首尾よくベッドイン。これが「ダ−ティ」な女の子。「ラリ−」たちといっしょに近くのス−パ−を襲って10万ドルをせしめて、警察に追われてもヘッチャラ。
 かなり昔のフランス映画の――セシル・オ−ブリ−(「情婦マノン」)、ナタリ−・バイ(「アメリカの夜」)、エチカ・シュ−ロ−(「青春の果実」)といった「戦後派」の無軌道な娘たちを思い出すが、このス−ザン・ジョ−ジほど、あっけらかんとして、「ダ−ティ」な娘ではなかった。ス−ザンは、「わらの犬」(サム・ベキンパ−監督)で、ダスティン・ホフマンと共演しているが、この映画でも、頭のなかがカラッポで、何に対してもノン・シャランな態度で、平気で悲劇的な運命に向かって行く。サム・ぺキンパ−好みの女優じゃないかな。
 見ておいてよかった。つまらない内容でも、心に残る映画のひとつ。


                1977年10月7日(金)

 野口 富士男さんが、和田さんの追悼を書いている。

    階段を二段ほどのぼりかけると、もう肩で息をしなければならぬほど、和田さん
    は弱っていた。だれの眼にも最悪の健康状態におかれていたことは明白すぎるほ
    ど明らかだったのに、書いて、書いて、書きまくっていた。明日どころか、今晩
    死んでも不思議はないと、私は外で、和田さんに会って別れるとき、いつもそう
    思っていた。その癖、私は仕事をよせとは言えなかったし、身体を大事にしなさ
    いよということも言えなかった。役者なら舞台の上で、相撲なら土俵の上で死ね
    ば本望だろうと私は思っていたからであった。

 私が和田さんに最後にお目にかかったときも、和田さんは弱っていた。呼吸するのも苦しそうだったので、ただ挨拶しただけだったが。「だれの眼にも最悪の健康状態」だったと思う。最後の和田さんの仕事には鬼気せまる気迫が感じられた。
 野口さんの追悼で思い出したが、私がはじめて和田さんにお目にかかったときも、野口さんは和田さんとごいっしょだった。野口さんが和田さんを紹介してくださったのだった。この席で、原 民喜さんが、私の肩に手を置いてくれたような気がする。
 晩年の和田さんは、私にいささかの好意をもっていてくださったと思う。それは、実現することなく終わったのだが、その経緯はここに書く必要がない。ただ、私はほんとうに和田さんに感謝したのだった。

2019/02/01(Fri)  1793〈1977年日記 40〉
 
               1977年10月1日(土)

 石川 啄木の日記、「ロ−マ字日記」を読んだ。
 最近の私は「日記」をつけているので、この日記を読んで考えるところがあった。
 一人の若者が貧しさに苦しみ続けている。詩人として、ジャ−ナリズムの片隅に生きながら、自分の世界を築こうとしている。
 詩人は娼婦との交渉を赤裸々につづっているのだが、こうした秘密をロ−マ字にしなければならなかった啄木に同情する。

 やたらに忙しいので、日記を書くのをついついわすれてしまう。書きとめておきたいことどもは多いのだが、本も読まなければならない。最近は、英語よりも、イタリア語、フランス語の本を読むことが多くなった。

 10年前も忙しかった。あい変わらず、多忙な日々がつづいている。

 1967年を思いだしたが――週刊誌の連載は1本だけ。ほかに雑誌連載が2本、その間に、ジェ−ムズ・M・ケ−ンの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」と、A・E・ホッチナ−の「パパ・ヘミングウェイ」の翻訳をつづけていた。そのほかに、ラジオの台本を数本、別の週刊誌に読み切りを。
 当時の私は、その程度の仕事をこなすだけでもたいへんだった。からだがいくつあっても足りない。

 「闘牛」の演出。そのあと、レパ−トリ−がきまるまで、研究生を中心にサロ−ヤンの稽古をつづけていたっけ。
 あとは、「文芸」に毎月、同人雑誌評を書き、さらには「新劇場」に戯曲を書く予定だった。その間に、K.M.とのflirtも。
 けっこう、忙しかったなあ。

 今は、あの頃に較べれば、映画を見ようとおもえばいくらでも見られるし、時間をやりくりして、芝居も見たり。コンサ−トに行く機会は少なくなったが、LPを聞くこともできる。

 ときどき、思ったものだ。

 このまま走りつづけて、オレはどこにたどり着くのだろうか、と。

                         
              1977年10月2日(日)
 アメリカの作家、リチャ−ド・バックのインタヴュ−。

 10時、「パレス・ホテル」に行く。
 「IDA」、井田 康雄君と、通訳の田草川 美紗子さんが待っていた。挨拶する。田草川さんは若い女性だが、通訳専門のベテラン。
 私だけでも、インタヴュ−できるのだが、「かもめのジョナサン」の著者は、世界的な名声を得ている作家なので、通訳の専門家についていてもらったほうがいい。

 リチャ−ド・バックの部屋に向かった。

 「かもめのジョナサン」の著者は、アメリカ人らしく、気さくなタイプで、かなり長身。毛糸のプルオ−ヴァ−のセ−タ−、上にブル−のジャケット。眼が青く、鼻のわきに小さな豆粒のようなホクロ。口にひげ(ムスタッシュ)をたくわえている。

 私はリチャ−ド・バックの処女作、「王様の空」の訳者としてインタヴュ−するだけだが、井田 康雄君がいろいろと私の経歴を説明すると、ほんらいの私とはかけ離れたイメ−ジの人物になったような気がする。
 それはそうだろう。小説を書きとばし、批評家としても少しは知られている。しかも、ルネサンスを研究している。芝居の演出家だったこともある。マリリン・モンロ−について、モノグラフィーを書いている。こう説明されれば、誰だって、混乱した、バラバラなイメ−ジをもつだろう。
 私は、笑いながら、
 「ようするに、アジア的な混沌を体現しているだけです」
 といった。
 リチャ−ドは笑った。
 これでお互いにうちとけたと思う。

 インタヴュ−は、一問一答で私の質問にリチャ−ドが答える形式で進められた。したがって、対談というより、リチャ−ドの発言をひき出すかたちになった。このインタヴュ−は、「青春と読書」に発表される。だから、あくまでも若い読者のためのインタヴュ−でいいと判断したのだった。

 ただ、原稿の締切りが明日の午前中なので、速記をおこした原稿が夜中に届いたら、私がすぐにインタヴュ−の記事にまとめる。つまり、徹夜の作業になるだろう。

 最後に、リチャ−ドが「イリュ−ジョン」の日本版にサインしてくれて、ついでに絵を描いてくれた。


              1977年10月3日(月)
 日本航空、ハイジャック事件。

 「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、3日午前0時13分(現地時間・2日午後9時13分)、バングラデシュ/ダッカ空港を離陸、クウェ−トに向かった。

 3日午後11時20分(現地時間・2日午後4時20分)、アルジェリア/ダル・エル・ベイダ空港に着陸。現地の政府当局と、犯人側の交渉がはじまった。

 4日午前1時、犯人5名、日本から釈放された犯人6名が投降。最後の人質、19名(日本人17名)は解放された。
 先月28日、ボンベイ上空でハイジャックされた事件は、134時間ぶりにようやく終結した。

 この事件は、テロ事件として歴史に残るだろう。

 「日航」、ハイジャック事件ばかりだったので、誰の注意も惹かないニュ−スを書きとめておく。

 ロ−トレアモンの写真が発見されたという。ジャック・ルフレ−ルという、まだ若い医学生。その写真は、ロ−トレアモンが1859〜62年まで在籍したタルプ中学で同級生だったジョルジュ・ダセットのお嬢さんのアルバム。
 このダセットは、ロ−トレアモン(イジド−ル・デュカス)の親友で、「マルドロ−ルの歌」の初版に出てくるという。その後の版では、ダセットの名がすべて消えて、タコやコウモリになっているそうな。

 私は、ロ−トレアモンについては、ほとんど何も知らない。だから、写真の発見がロ−トレアモンの理解にどれほど役に立つか何も知らない。それでも、ロ−トレアモンの肖像なら、ぜひ拝顔の栄に浴したいと思う。

2019/01/14(Mon)  1792 〈1977年日記 39〉
 
             1977年9月21日(水)
 原稿を書くペ−スが遅くなっている。
 今日は、石本がきてくれたが、「山と渓谷」の原稿がかけなかったので、そのまま帰ってもらった。

 雑文ばかり書いていてもどうしようもないのだが。

             1977年9月21日(水)
 夜、「シシリアン」を見た。フレンチ・ノワ−ル。ジャン・ギャバン、アラン・ドロン。ジャン・ギャバンは、もう老齢といっていいのだが、俳優としては、円熟の境地にたっしている。これは驚くべきものだと思う。

             1977年9月22日(木)
 朝、「山と渓谷」の原稿を書く。
 石本がきてくれたので、そのまま待たせて、「日経」の原稿を1本書く。
 原 耕平君が、原稿の依頼にくる。
 5時、「週刊大衆」、渡辺君に原稿。

 バ−に飾ってあった絵が全部はずしてある。裕人が、ここにステレオを持ち込んだので、絵をかざる場所がなくなった。これからは、書庫で仕事をしようか。
 冬の書庫は寒いだろう。しかし、書庫に、スト−ヴ、小型テレビ、電話をいれれば、仕事場になる。

             1977年9月23日(金)
 疲れている。腰の痛みはなくなったが、それでも右足になんとなく不安がある。
 午前中、児玉さんに、電話をかけたが、不在。
 午後は、仕事があるのに、何もする気にならない。大相撲を見ただけ。
 夜、テレビで映画を見た。途中から見たので、題名がわからない。トレヴア−・ハワ−ド、リタ・ヘイワ−ス、マルチェロ・マストロヤンニたちが出ている。
 国際的な麻薬組織を追う各国の警察の捜査活動を描いたもの。リタ・ヘイワ−スの疲れきった顔に驚いた。
 たとえばアルツハイマ−症などで、少しづつ知力が失われて行って、それまでの自分がだんだん自分でなくなってゆく。
 身近な人が誰なのかわからなくなる。おだやかな性格だったのに、やたらに怒りっぽくなったり、自分でも気がつかないうちに、自分らしさがなくなってしまう。
 正常な人の場合でも、よく見られる現象だが、これが女優の場合だったら、たいへんな苦しみになる。リタの場合でいえば、「ギルダ」だった頃の自分は、もう現在の自分ではない。それでは、いつの時代の自分なのか。
 女優は、別人になってしまった自分が、「ギルダ」としての自分を見せることに恐怖をおぼえないだろうか。そういう自分に気がつかないはずはない。周囲にどう見られるかわかっていながら、なおも女優であろうとする。それは、虚栄心だろうか。
 私は、「巴里の空の下」に出たシルヴィ−や、「望郷」に出たフレェルをみたとき、美貌を誇った女優がいつしか老女になってしまう残酷さに、胸を打たれたことがあった。
 いつか、そんなことを考えてみたいと思っている。

 あとで、新聞で、「悪のシンフォニ−」というタイトルで、テレンス・ヤング監督と知った。国際的に知られた俳優がたくさん出ているのは、国連が後援したためらしい。


              1977年9月24日(土)
 与野の高原君が、亡母、中田 宇免の焼香にきてくれた。

 ご近所に彫刻家が住んでいる。吉原 和夫さん。
 彼が、「新制作」に入選したという。
 午後2時半、上野。「新制作展」に行く。
 この「新制作展」で、友人、高橋 清さんの新作も見た。例によって、球体に、陰陽を形象したもの。

 吉原 和夫さんの彫刻は、巨大な木彫のヌ−ド。両手両膝をついて、四つん這いのポ−ズ。ひどく不自然な姿勢だった。この木彫のすぐ近くに、ほとんどおなじポ−ズの石の彫刻があった。若い彫刻家はモデルにこういうポ−ズを強制するのだろうか。もっとも、この彫刻なら、モデルを使う必要もない。
 吉原さんは才能はあるのだが、この木彫を見るかぎり、人気のある彫刻を作る気はないらしい。
 「新制作展」のあと、「ミュンヘン近代美術展」を見た。こちらは、ストゥック、カンディンスキ−など。ただし、これとは別に心に残る作品もあった。ハ−バ−マンという画家の小品は、パスキンに似た色調と、モデルのポ−ジングで、私の好きなタイプのヌ−ドだった。私は、どういう国の美術館に行っても、小品でも1枚か2枚、自分の好きな作品を見つける。たいていの場合、カタログの隅っこに、短い解説が出ている程度の芸術家だが、有名な画家の大作ばかり見るよりも、こういう小品を発見すると、かえってその国の美術界のようすが想像できる様な気がする。
 ハ−バ−マンという画家については何もわからない。しかし、ミュンヘンという都会の片隅で、こういう絵を描いていた画家がいたと思うだけでうれしくなる。

              1977年9月25日(日)
 百合子が歯痛で苦しんでいる。
 前から「大百堂」に治療を頼んでいたのに、治療に応じてくれなかった。このため、百合子は歯科医の娘なのに、虫歯を放置していた。
 内山歯科に行ったのだが、処置がわるかったのか、歯齦が腫れて、さらに頬までひろがって顔半分がふくれあがった。日頃の美女が、おバケになってしまった。
 冗談をいっている場合ではない。百合子が苦しんでいるのを見ていると、こちらまで苦しくなる。
 内山歯科に相談に行った。たまたま、外出しようとしていた内山 清春先生と、歯科の前で会ったので百合子の病状を告げた。
 内山さんは、私の岳父、湯浅 泰仁の教室にいて、しばらく「大百堂」の代診をつとめた。やがて、百合子の従妹と結婚したので、私にとっても親戚にあたる人だが、豪放磊落といった性格。明日、一番に診察してもらうことになった。

              1977年9月26日(月)
 百合子の病状はいくらかよくなってきたが、顔の腫れはひかない。痛みのせいで、夜も眠れなかったらしい。夜中に、ピリン系の睡眠薬、「ビラビタ−ル」を1錠。
 このため、手首や踵にかゆみがあらわれた。外から見ても発赤している。
 百合子にとっては、まだ、つらい試練がつづいている。

 昨日、内山歯科からの帰り、「そごう」の「東北物産展」で買ってきた福島のお菓子、アワビ弁当がおいしかった。
 百合子は、朝から内山歯科に行った。付き添ってやるつもりだったが、ひとりで行くといって出かけた。途中で、誰かと会うのがいやだったのか。

 「日経」、吉沢君。ラザ−ル・ベルマン(ソヴィェトのピアニスト)の演奏会に誘ってくれた。ピアノのヴィルトゥオ−ゾなのだから、ぜひ聞きに行きたい。
 しかし、百合子のことが心配なので断った。
 吉沢君はもとは音楽担当だったから、いい演奏家をよく聞いている。レコ−ドのコレクションも。

              1977年9月26日(月)
 日本の過激派、「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、今日の午後、バングラデシュ/ダッカ空港に強行着陸した。

              1977年9月28日(水)
 ミケランジェロ。
 ラウレンティア−ナ図書館の設計を依頼された。
 「建築は私の本領ではありませんが、最善をつくしましょう」
 このことばに、ルネサンスの芸術家の自負、野心、堂々たる気概がこめられている。
 建築だけを見ても――創造的であろうとする姿勢には、いつもさまざまなかたちで試行錯誤をくり返してきたミケランジェロの生きかたが重なっている。
 今は美術館になっているが、ヴァザ−リの造ったウフィッツイ宮殿は、ルネサンス建築の最高の作品だろう。ここに現代イタリア・デザインのア−ムチェア、ソファ、タピッスリを置いても少しも不調和に見えない。

 たとえば、サンドロ・キア、エンツィオ・クッキ、フランチェスコ・クレメンティといった芸術家の仕事を考える。いずれも、今や中堅から大家の列に並びつつある人たちで、トランス・アヴァンギャルドと呼ばれている。
 この人たちの仕事や評価はまださだまってはいないが、シンプルな背景にグロテスクで具象的なイメ−ジを配置する「ニュ−・イメ−ジ・ペインティング」とおなじ傾向のものとみられている。
 エンツィオ・クッキの作品に――ムンクふうの表情をもった男や女たちの顔が、黒い太陽に向かって流れてゆく、そんなイメ−ジのものがあった。今の時代の緊張、不安といったものを感じさせた。
 フランチェスコ・クレメンティのヌ−ドは、どこかフランシス・ベ−コンを思わせるグロテスクなもの、これも時代の暗い状況を反映しているのか。
 私は、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドが好きなのだが、日本では見られない。

2019/01/03(Thu)  1791 〈1977年日記 38〉
 

                  1977年9月20日(火)

 東京に出て、吉沢君と会う。「ヤマハ・ホ−ル」で、「おかしな泥棒 ディック&ジェ−ン」(テッド・コッチェフ監督)の試写を見ることにした。
 「ディック」(ジョ−ジ・シ−ガル)と「ジェ−ン」(ジェ−ン・フォンダ)は、ごく平均的な夫婦で、ささやかな幸福な家庭をもっている。子どもはひとり。ところが、「ディック」が失業する。たちまち、ささやかな幸福も雲散霧消してしまう。これを解決するために、二人が実行するのは、泥棒稼業だった。
 ジェ−ン・フォンダが、ホ−ム・コメデイをやるのだから、きっとおもしろいだろうと思った。たしかに、演技力はあるし、女として魅力もある。しかし、ジェ−ンが、いくら熱演しても、こういう「役」は、ジェ−ンには向かない。テッド・コッチェフの演出も、昔のRKOのコメデイのような、軽快なタッチでもあればまだしも、まるでコメデイ向きではない。例えば、ドジを踏んでも、本人はいつも我関せずといった顔をしている、それが、観客の笑いを喚ぶアイリ−ン・ダンのような、女優なら自然に出せるのに、ジェ−ン・フォンダがやると、「あたしなら、こういう女になれるわ」といったドヤ顔になる。
 ジェ−ンは、いつも自分の表情や、筋肉の動きを統制する。ある瞬間に表情や筋肉を自在に働かせて、「役」を自分の意のままにふる舞う。だから、観客をとらえて、自分のほうに引き寄せようとする。「ジェ−ン」はいつも、明るい、愛情をこめたまなざしで「ディック」を見つめる。「あたしは、こういう女なのよ」。これが、ジェ−ン・フォンダなのだ。だから、笑える部分でも、ほとんど笑えない。

 ジェ−ン・フォンダが、最高に「ジェ−ン・フォンダ」だったのは、ロジェ・バディムと結婚していた頃の「バ−バレラ」あたりだろう。悲劇的でありながら、おかしい喜劇女優だった。アイリ−ン・ダンは、ふつうの女優としては最高のレベルにたっしているが、名女優ではない。ジェ−ン・フォンダは、別の次元で、名女優といっていい。

 外に出たとき、雨が降っていた。台風が接近している。

 「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「南窓社」の松本さんから、校正を受けとる。
 そのあと、三崎町の写真屋で、写真を受けとって、本をあさった。
 ガリレオの研究、イタリア、フィレンツェの名家の研究、ボ−マルシェの評伝など。
 帰宅。ジョン・ト−ランドの「最後の100日」を読みはじめた。「ル−ツ」(社会思想社)が送られてきた。これはすぐに読む必要はない。


                        1977年9月21日(水)

 午後2時半、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「月刊時事」の編集者に原稿をわたす。この原稿は、先日、特急のなかで書いたもの。
 下沢君といっしょに「ワ−ナ−」に行く。「ビバ・ニ−ベル」(ゴ−ドン・ダグラス監督)を見た。バイクのスタント・レ−サ−、「イ−ビル・クニ−ベル」(本人)が出ている。このところ、いい映画を見ていないので、少し期待して見たのだが、これがどうにも挨拶のしようがない。昔、「新興キネマ」が、子ども向けに「ハヤブサ・ヒデト」のシリ−ズを作ったが、あのシリ−ズのはるかなる果てにこの映画がある、と思えば、それなりに楽しいだろう。
 こんな映画の試写を見にくる人はいないだろうと思ったら、意外や意外、田中 小実昌が見にきていた。私に気がついたコミさんは、おトボケ顔で、
 「ねえ、中田さん、お通夜に、お香典をもって行ってもいいだろうか」
 と聞く。
 何かあらぬことを言いだして、私をカツぐのではないか、と思った。
 「これから、行くの、お通夜に?」
 「うん、今 東光さんがイケなくなっちゃったんだ」
 え、今 東光が亡くなったのか。
 「そりゃ、たいへんだ、お香典はもって行ったほうがいい」
 私は答えた。
 私としては――知人が亡くなった知らせを受けて、さっそくの弔問にお香典を持参するのは、ひかえたほうがいい、なぜなら、急な事態に、先方は祭壇さえかざっていないコトもあるだろうし、親戚、縁者でごったかえしている最中に、挨拶もそこそこにお香典をだせば、とりまぎれたりすることもある。
 むしろ会葬のときに、御香典を霊前に供えるほうがいい、と考えている。
 医師で、同人作家として小説を書いていた三浦 隆蔵さんの訃を知らされたとき、私は、すぐに花輪を贈る手配をして、ご自宅に急行した。このときは、お香典はいかほど包むものかわからなかった。
 ただ、コミさんが、いつものようにラフなスタイルだったので、できれば喪服に近い恰好のほうがいいよ、といった。新聞記者、編集者が押しかけているはずだから。
 田中 小実昌は、私の意見を聞くと、
 「ありがと。助かったよ」
 といって、すぐに、近くの「松阪屋」に入って行った。おそらく、御仏前の上包みを買いに行ったのだろうと思う。

 日比谷公園まで、歩いた。銀杏の実がびっしりついていた。
 もう秋だなあ。
 暮れかかるビルの空に、長い影がひろがりはじめていた。

 6時、「山ノ上」で、画家のスズキ シン一に会った。下沢君を紹介して、3人で、ホテルのテンプラを食べた。
 スズキ シン一は、マリリン・モンロ−のヌ−ドしか描かない芸術家だった。私は、偶然、彼の個展を見て、たまたま、テレビに出たとき、彼の画業を紹介した。そのときから、親友になったのだった。
 この夏、彼は、エジプトに旅行した。そのおみやげに、カイロで、エジプトのガウンのような服を買った。それを私にプレゼントしてくれた。私は、酒に酔った勢いで、その服を着た。
 時間が遅かったので、下沢君を帰して、スズキ シン一といっしょに、駿河台下のバ−、「あくね」に行った。

 私がエジプトの服を着ているので、「あくね」のみんなが、驚いたり、笑ったりした。いつも私についてくれる「順子」も、ママも傍に寄ってきて、みんなでワイワイさわいだ。こちらにご光来くださった方は、エジプトのカイロ大学のえらい教授先生だぞ、と紹介した。
 みんなが信じなかった。
 前に、スズキ シン一をこのバ−につれてきたことがあって、そのとき、画家と紹介したことを忘れていた。

2018/12/24(Mon)  1790 〈1977年日記 37〉

              1977年9月14日(水)

 13日、レオポルド・ストコフスキ−が亡くなった。95歳。

 1882年、ロンドン生まれ。ポ−ランド系ブリット(英国人)。23歳で、アメリカに移住、10年後、アメリカに帰化した。
 指揮者として成功したのは、1912年、フィラデルフィア管弦楽団の嘱託指揮者になってから。40年代には、NBC交響楽団、ニュ−ヨ−ク・フィルの指揮者として、世界的に知られた。
 私は、ストコフスキ−が出た映画、「オ−ケストラの少女」(ヘンリ−・コスタ−監督/1937年)を見ている。父、昌夫がつれて行ってくれたのだった。私は9歳になっていたので、映画の内容はわかった。 ただし、この映画で、ストコフスキ−がノン・タクトでやった音楽が何だったのか、知らなかった。
 戦後になって、「オ−ケストラの少女」が再上映されたとき、リストやチャイコフスキ−だったことを知った。
 これも戦後になって、公開されたアニメ−ション・ミュ−ジカル、「ファンタジア」(1940年)は、ストコフスキ−がフィラデルフィア管弦楽団をひきいていた。戦後も、10年たってからの公開だったので、私もいくらか音楽にくわしくなっていた。
 ストコフスキ−の指揮にあまり興味がなかったので、彼が来日して、読売日響、日本フィルを指揮したときも聞きに行かなかった。

 それでも、彼のヒンデミットや、ストラヴィンスキ−を聞いたし、彼が「恋人」グレタ・ガルボと結婚するというゴシップが気になったりした。「オ−ケストラの少女」は、父の思い出と、ディアナ・ダ−ビンという少女に対する淡いあこがれと、みごとな銀髪をふりたてて指揮をとるストコフスキ−の姿が重なって、私にとっては忘れられない映画になった。

 そのストコフスキ−が亡くなったのか。


              1977年9月17日(土)

 ストコフスキ−が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。
 マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリで心臓発作で亡くなった。享年、53歳。

 私の好みは、いつも世間の人と反対らしく、マリア・カラスに対しても、絶対的な尊崇をもっていない。カラスと並ぶプリマドンナ、レナ−タ・テバルディと比較するわけではないが、マリア・カラスを聞いたあとで、レナ−タを聞くと、なぜかほっとするときがある。レナ−タを聞いたあとで、マリア・カラスを聞くと、ああ、これは別世界なのだ、と納得するのだが。

 カラスが、ジュゼッペ・ステファノを相手に復活して、世界各国でリサイタルを開いたが、さすがにかつての声は戻らなかった。
 1970年、「王女メディア」(パオロ・パゾリ−ニ監督)に出たカラスには驚嘆した。オペラ歌手なのだから、演技がうまいのは当然だが、この映画のカラスは、名演技などといったレベルではなく、すさまじい迫力を見せた。
 私の勝手な妄想のなかでは、サラ・ベルナ−ルとエレオノ−ラ・ドゥ−ゼを合体させて、さらに、マリ−・ベルとヴァランティ−ヌ・テッシェを加え、それに、ファニ−・アルダン、ジャクリ−ヌ・ビセットといった女優をかきまぜて、やっと、「王女メデイア」のカラスのレベルになる。
 いろいろなオファ−を受けていたカラスが、そのいくつかを実現していたら、どれほど貴重なものになったことか。

 わずかながらカラスのCDをもっている。「ラ・ノルマ」でも聞こうか。せめて、カラスを聞こうというのは、われながらさびしい、かなしいことだが、思い出には、いつもわずかながら、さびしい、かなしいものがまざっている。

マリア・カラスの訃報は、かんがえないことにして……

 この日、久しぶりに山歩き。メンバ−は、安東、吉沢、石井、鈴木、菅沼の5名。
 原稿は、石本に届けてもらった。

 黒磯からバスで、大丸温泉に行く。
 夕方から歩いた。峰ノ茶屋の尾根にとりついたときは、もう日が暮れていた。懐中電灯を頼りに山道を辿って、三斗小屋に着いたのは7時。

 隣りの部屋で、東北日大高の0Bの一行が宴会をはじめた。12時過ぎて、みんなが出かけたので、安心したが、3時頃、戻ってきた。みんなが酔っていて、一人はヘドを吐く始末。さすがに私もたまりかねて、外にでてどなりつけてやった。

 朝、4時に出発の予定だったが、5時に変更した。前の晩、小屋の近くにテントを張った女子高生3人と、高校生3人は、国体に出る訓練をしているという。引率していた福島岳連のリ−ダ−のオジサンとしばらく話した。オジサンも、昨夜の日大高の0Bたちの乱行に眉をひそめていた。
 こちらが出発というとき、まるで土佐犬のような大型のメスのイヌが私たちに寄ってきた。
 「おい、一緒に行くか」
 と声をかけると、ことばがわかったらしく、シッポを振って走りまわった。

 睡眠不足なので、はじめはきつかった。熊見曽根をたどって、三本槍にでる途中まで、ずっと霧だった。霧雨。
 須立山から甲子に下る道は、雨に濡れて、すべりやすく、けっこう苦労させられた。

 坊主沢の避難小屋は、前にきたときは、荒れ果てていたが、行政の手が入ったらしく、しっかりした小屋に建て替えられていた。登山者のマナ−が悪かったのだろう。

 甲子温泉に着いたのか4時。旅館で入浴させてもらう。これも、前にきたときは、薄汚れていたのに、すっかり温泉ホテルふうになっていたのでおどろいた。
 ずっとついてきたイヌと別れた。
 イヌは、そのままどこかに行ってしまったが、夜道を戻るのかも知れない。あのイヌの足なら、ほんの2時間もあれば、三斗小屋に戻るのではないか。
 帰りはうまくすわれたが、さすがに疲れた。


              1977年9月19日(月)

 私は、じつはセンチメンタルな男なのかも知れない。
 マリア・カラスばかり聞いていた。

 パスカル・ペレのサッカ−を2度見た。これだって、さびしい、かなしいものがまざっている。
 最初の試合、ラスト1分前に、ペレが、みごとなバナナ・シュ−トをきめた。これは、みごととしかいいようがない。しかし、日本チ−ムも、「コスモス」も、この試合がペレの引退試合と知っているので、最後に、ペレ一世一代の花道を作ってやる「演出」に見えた。私の猜疑心によるものだろうか。
 観客は、みごとなバナナ・シュ−トをきめたペレを讃えて、熱狂的に拍手喝采したが、私はかすかに、このプレイは、はじめからこういうシナリオだったような気がしたのだった。むろん、それならそれでかまわないけれど。

 なにしろ、センチメンタルな男かも知れないので。

2018/12/17(Mon)  1789 〈1977年日記 36〉
 
              1977年9月11日(日)

 ロ−マ。
 昨日、ロ−マのアメリカ−ナ・イタリア銀行の金庫室が破られ、保管されている金品ケ−ス200個が荒らされた。被害の総額は100万ドル(約2億7千万円)を越える模様。
 怪盗は、この週末、銀行の隣りのラウンドリ−から侵入、鉄の扉をバ−ナ−で切断した。まるで、映画、「黄金の7人」だなあ。
 今年になってイタリアでは、巨額な金庫破りが4件も起きている。ミラ−ノで550万ドル。アスティで、120万ドル。
 先月には、シチ−リアで、銀行に侵入しようとしていた5人組が、あと一歩というところで、警察に逮捕された。
 こうなると、さっそく喜劇仕立てのシノプシスを書いて、企画に提出してもおかしくないね。しかし、監督は? 田中 喜八? 冗談だろ。


              1977年9月12日(月)

 人間の結婚制度は、一夫一婦を原則としてきたが、実際の性交は乱脈な野放し状態だった。それでも、過酷な生活環境によって、人間は生きるための戦いをさまたげない程度に、性欲もひかえめなものにした。
 ただし、先史時代の部族社会でさえ、人口の急増にともなって、ある程度制限したうえで、性的な放埒を認めなければならなかった。
 男のグル−プが女のグル−プ全員の支配権をもつ「集団結婚」の名残りは「初夜権」として、最近まで存在していた。

 カトリック、サクラメントとしての結婚は、キリスト紀元、13世紀まではまだ万全のものではなかった。(ルネサンスのプラトニズム、ピエトロ・ベンボ、カスティリョ−ネを読むこと。)理論的には、不義密通を賛美することもできた。
 ロココの時代になって――セックスを自由に謳歌したが、これは、貴族社会が、原始社会の乱交(オ−ジ−)に逆戻りした、と見ていい。

 一夫一婦婚のかたちは、女性の権利を否定するロ−マ法と、売買によって結婚を成立させるチュ−トン族の実利主義とが奇妙に調和しあって、さまざまな人種間で、ごくかぎられた期間にめざましい発展をとげた。チュ−トン系は、強力なエネルギ−で、自分たちの法律を実行して行く。

 マドンナとしての女性、巫女、あるいは母としての「女」は、無教養な集団という汚名を着せられて、その地位はひたすら貶められた。
 結婚は、性欲の処理、出産によって子孫繁栄をはかるという二つの「契約」だったが、長い歳月のあいだに、こうした観念も変化しはじめた。

 ロココの時代には、夫の身分によって経済的な安定が得られる妻を、夫の継承者とするといった、国家の先導によって、結婚の形態に歪みが生じた。
 そして、ほとんど病的なまでに貧困をおそれるあまり、しみったれた倹約がひろがった。その結果、国民の力が萎えた。この時代、家族の資産を分割させまいとして、子どもの相続を故意に制限することもめずらしくなかった。

 一夫一婦婚の基盤が崩れはじめた一方、新時代に向けて、まったく新しい、究極の主張があらわれる。かんたんにいえば、男は威風堂々たるパシャになるのか、それとも、女房の尻に敷かれるあわれな亭主になり果てるのか。

 官能的な快楽追求の時代は幕を閉じる。

 それに代わる形態が、二つの特質を見せて、次の世代で実行されてゆく。

 若者の性欲は、友情ある結婚で浄化される。
 夫婦はつねにお互いの人格を尊重しあう一身同体、一旦緩急にあたっては、力をあわせて立ち向かう。
 あのエピクロス的なモンテ−ニュが、夫婦の理想的な相(すがた)としてすでに思い描いていた。

 フランス・ロココの結婚の歴史は、フランス史のなかでも、もっとも天真爛漫な姦通の歴史だった。

2018/12/06(Thu)  1788 〈1977年日記 35〉
 
               1977年9月7日(水)

 とにかく、本を読まなければいけない。

 もともと、私の読書は、手にした本を再読するかどうかをきめるために読むようなもので、ほとんどの本は、届いて来た日にすぐ目を通すだけで、二度と読まない。
 そのかわり、再読すると決めた本は、それからしばらくして、じっくり精読する。 いつかまた読むべき本は、大切にとっておく。いつ読み返すかわからないが、かならず、もう一度読むことにして。

 ロココの時代。
 売春は、当時の女性にとって日常のアンニュイから逃避するための安易な手段だった、と見ていい。女がさまざまな因習にがんじがらめにされていた時代、さまざまなしきたりや、モラルをかなぐり捨てて、春をひさぐ。これは、時代のモラルに束縛されまいとする女にとって、まさにうってつけの享楽だったに違いない。

 ロココにおけるセックスの戯れは、ただ遊ぶための遊びを、無節操に追いもとめ、ついには堕落の一途をたどった。
 当時、色豪として知られていたリ−ニュ大公は、堕落したデイボ−シュ(道楽者)だったが、温和な人柄だったらしい。
 一方、この時代の高級娼婦(グラン・クルティザ−ヌ)は、お人形よろしく、美々しく着飾った上流夫人の「恋愛」とは対照的に、ひたすら陽気で、気まぐれ、あでやかで、比類のないものだった。たとえば、エロティックで奔放な画風で知られるボ−ドワンの描いたロココの娼婦たちの姿が今につたえられている。

 この時代、表現は徹底して自由になり、女たちをとり巻く息吹きも、艶っぽく、挑発的になった。おかげで、一般庶民の女たちまでが、娼婦(クルティザ−ヌ)にひそかな軽蔑のまなざしを向けながら、同時に、好奇心にかられはじめた。
 代わりばえのしない日常に倦んでいればこそ、娼婦(クルティザ−ヌ)にあこがれ、あるいは嫉妬したのではないか。
 こういう女の歴史は、ギリシャのヘタイラからルネサンスの娼婦につながっている。

 ロココの娼婦たちは、厚顔にも、聖職者のとり巻きとして、サロンで、性的な魅力をふりまいていた。

 ここから、現代の娼婦たちについて考えてみよう。


              1977年9月10日(土)

 ロココの女たちは輸出されていた。
 ロシア皇帝や、インドのサルタンたちが、フランスの美女を買い求めた。
 (価格はいくらだったのか。輸出経路は? 所要日数は? 調べること。)

 オペラ・フランセ−ズは、高級娼婦の養成所だった。

 娼婦なのだから、彼女を買った男は、「情夫」(アマン)として遇されるが、金の切れ目が縁の切れ目。たおやかな、しかし、非情なモンストルは、おいぼれの守銭奴ばかりか、若い放蕩者からも、遠慮会釈なく黄白をしぼりとる。
 ときには、「情夫」(アマン)の正式の妻を追い出して、首尾よく、「妻の座」を奪うものも出てくる。
 途方もない贅沢になれきっていた娼婦にしては、ごくささやかな、月々の「お手当て」で満足した高級娼婦もいる。
 しかし、この時代、フランス文化の思想と現実を体現していたのは彼女たちだった。

 ロココの女たちについて、もう少し調べること。

 話はちがうが、ル−マニア国立ブロエシュチ劇場の芝居を見たい。こんな劇団がきていることも知らなかった。
 この一行は、「前進座」を見学して、歌舞伎の下座、立ち回りを見学したという。
 三味線、鳴りもので、川の流れや雪の降る情景まで出せると知って、
 「簡素ななかに、これだけ鋭い表現ができるというのは驚き。日本の伝統演劇の深さに打たれた」
 と、団長以下が驚嘆したらしい。(むろん、お世辞半分だろう。)
 どういう劇団なのかしらないが――共産圏のル−マニアのことだから、おそらくスタニスラフスキ−を金科玉条にしている劇団だろう、と思う。この劇団の俳優、イオン・ルチアンが、返礼として「ある女の朝」というパントマイムをやって見せたらしい。
 朝、目ざめた女が、ベッドを離れて、お化粧をはじめ、外出するまで。
 「女形(おやま)の河原崎国太郎さんを前にして、女を演じるのはおこがましいのですが」
 といった。
 これに対して、国太郎は、
 「こちらこそ勉強させていただきました」
 と答えたという。

 私は、バロ−や、マルセル・マルソ−のマイムを見たり、テアトロ・エスパニョルのエチェガライのマイム、イタリアのエドワルド・フイリッポのマイムも見てきた。しかし、共産圏の役者のパントマイムは見たことがない。もっと早く知っていたら、ティケットを手配したのに。

 ル−マニアの女優では、エルヴイ−ル・ポペスコ、ポ−ラ・イルリ−ぐらいしか知らない。残念に思っている。

2018/11/27(Tue)  1787 〈1977年日記 34〉
 

              1977年9月1日(木)

 私の失敗。

クレジット・カ−ド、銀行のカ−ドなど、いっしょに入れておいた紙入れを紛失した。どこを探しても見当たらない。山に行くときは現金だけもって行くので、まさか紙入れごと失くしたとは思わなかった。

 この一年、物忘れをするようになった。老化現象なのだろうか。
 本を読む。本の内容はおぼえているのに、ある文章がどの本に書いてあったのか、忘れることがある。毎日、1冊以上の本を読むせいだろうか。誰かがこういうことをいっていたな、と思う。さて、誰がいっていたのか、その本を探すのはたいへんなのである。三日もすれば、少なくとも、3冊から十数冊の本を読んでいるわけだから、誰がいったのかおぼえていないことになる。

 物忘れをするようになったことから、思い出したことがある。

 いつだったか、「千葉文学賞」の選考に呼ばれて出席した。
 このとき、はじめて窪川 鶴次郎に会ったのだった。

   窪川 鶴次郎(1903〜1974)中野 重治などと「驢馬」を創刊。佐多 稲
   子と結婚。「日本プロレタリア芸術連盟」に参加。1930年、「ナップ」の文芸
   評論家として活動する。1931年、非合法下の共産党員になる。翌年、逮捕され
   、転向。「再説現代文学論」(1944年)は、文学批評の古典と見られている。
   戦後も、左翼を代表する文芸評論家だったが、「近代短歌史展望」(1954年)
   あたりから、研究者になり、文芸評論から離れた。 (後記)

 私が「戦後」はじめて登場したとき、窪川 鶴次郎は痛罵を加えた。私は、はじめてジャ−ナリズムの攻撃にさらされたが、窪川 鶴次郎の攻撃にふるえあがった。こちらはまったく無名なので、反論したくても反論できなかった。
 このときから私は窪川 鶴次郎を敵視するようになった。むろん、会ったこともなかった。千葉に移り住むことになって、たまたま「千葉文学賞」の選考を依頼されて、窪川 鶴次郎と同席したのだった。
 現実に眼にした彼は、ただの老いぼれに過ぎなかった。

 このとき、「文学賞」最終選考に残った作品は5編。いずれもせいぜい同人雑誌クラスの作品で、10万円の賞金にふさわしいものではなかった。ところが、「千葉日報」としては、どうしても当選作を出したい、出す必要があった。当時、この「文学賞」には県からも補助が出ていたためもあった。けっきょく、この年の当選作は、若い女性の叙情的な作品にきまった。

 選考に当たったのは、窪川 鶴次郎、福岡 徹(富安 徹太郎)、恒松 恭助、峰岸 義一、そして私。当時、近藤 啓太郎も審査員のひとりだったが、これは名ばかりで、こんな「文学賞」の選考などに出席するはずもなかった。私が審査員に選ばれたのは、近藤 啓太郎の欠席を予想しての起用だったらしい。

 今なら、コピ−した応募原稿がわたされるのだが、当時は、生原稿を廻し読みするので、能率がわるく、審査は午後から夜までかかることもめずらしくなかった。
 窪川 鶴次郎は、熱心にノ−トをとりながら、原稿を読んでいた。しかし、原稿を読むスピ−ドが遅く、いちばん先に読んでしまった私は退屈した。

 けっきょく、二次審査だけに5時間もかかって、6時過ぎに酒宴になり、その席で、それぞれが感想を述べることになった。

 長老の窪川 鶴次郎が、最初に意見を述べたが、作品の優劣に関してはほとんど何も発言しなかった。むろん、応募作品のレベルが低すぎて、批評しなかったのかも知れない。しかし、口ごもったように、不要領なことばを述べただけで、意外な気がした。
 たとえば、これも最終選考に残った作品の一つについて、
 ・・・これはどうも、ぼくには興味がありませんでね。なんだか、ニヒルでアナ−キ−
    なものを感じましたね。
 といっただけだった。
 ビ−ルを飲みながら、みんながつぎつぎに感想を述べたが、ビ−ルのせいで和気あいあいといった感じになった。福岡さん、恒松さん、峰岸さん、いずれも談論風発の酒豪ぞろいだった。

 窪川 鶴次郎は、酒を飲まなかった。ただ、なんとなくようすがおかしい。しきりに、何か考えているようだった。

     隣りにいる峰岸 義一をつかまえて、
   ・・あの女子学生の小説は何でしたっけね」
     小声で訊く。
   ・・あれは、・・・の「・・・」ですよ」
     峰岸さんが教えた。しばらくすると、また窪川 鶴次郎が、
   ・・あの女子学生の出てくる小説は何でしたかな、題は」
     と訊く。峰岸さんは、おだやかに、
   ・・だから、「・・・」でしょう、先生のおっしゃるのは」
   ・・「ああ、そうでしたね」
 私は、このやりとりを興味を持ってみていた。
 これが、あの窪川 鶴次郎なのか。佐多 稲子と結婚したり、田村 俊子と愛欲生活を送ったり。戦時中は、当局の厳重な監視下におかれながら、自分の立場をくずさなかった文学者なのか。
 また、ひとしきり雑談がつづいて、窪川 鶴次郎が口を開いた。
   ・・私は、あれがいいと思いましたね。あの女子学生が出てきて、清潔な、なんと
     いうのかな、学生生活を描いた小説、何でしたかな、題名は」
   ・・「・・・」ですよ」
   ・・いや、そうじゃなくて、ほら、あの、もう一つあったような気がしますね。女
     子学生が出てきて・・。」
     峰岸さんは黙っていた。このときは、恒松さんが話をひきとって、当選作の内
     容を子細に説明した。
     けっきょく、この作品が、あらためて当選ときまったが、窪川 鶴次郎は、ま
     だ納得できないのか、ひとりごとのように、
   ・・あの女子学生の作品は何だったっかな。
     と、つぶやいていた。
     それからあと、窪川 鶴次郎はまったく沈黙してしまった。

 私は、いたましい思いでこの先輩批評家を見ていた。信じられないほどのボケ老人になっている。当時はまだ認知症とか、アルツハイマ−といったことばもなかった。だから、ただの「ボケ」として認識したのだった。「戦後」の窪川 鶴次郎が、この数年、何も書かなくなっていることは知っていたが、これほどの老廃と化しているとは。
 まだ白頭の老人とも見えないが、顔は茶色を帯びて、メガネの奥には、何かに驚いたようなまなざし。
 これまで実際に面識のなかった窪川 鶴次郎に、ひそかな敵意を抱いてきた。その窪川 鶴次郎が、ようやく箸をつけて、選考を終わった人々の雑談にも加わらず、遅ればせながら食事を続けているのだった。
 私は、文学者の老年をしきりに思った。たとえば、幸田 露伴のように、老いてますます高雅、潁明さらに盛んになる人もいる。あるいは、その趣味は俗悪、その人格は低劣とそしられながら、老いてなお、un petit loppin de maujoint を美しく描いた永井 荷風のような老健の人もいる。
 いずれ、私も年老いた日に、窪川 鶴次郎のようにならない、とはかぎらない。そう思っただけで、うろたえた。

 やがて閉会になった。
 窪川 鶴次郎も、蹌踉(そうろう)として席をたったが、テ−ブルの上に飲み残しのビ−ルを見つけて、いそいで飲み込んだ。恒松さんが、ウイスキ−に切り換えたとき、飲み残したビ−ルだった。



                        1977年9月2日(金)

 駿河台下の銀行に行って、カ−ドの変更を申請した。偶然だが、銀行に鈴木 君枝がいた。そして、石川 幸子と会った。二人とも、私のクラスの学生。

 「週刊サンケイ」、長岡さんに書評をわたす。

2018/11/20(Tue)  1786 〈1977年日記 33〉
 
              1977年8月29日(金)

 気分は爽快。

 1時、「王子と乞食」(リチャ−ド・フライシャ−監督)を見た。いうまでもなく、マ−ク・トウェ−ンの原作。マ−ク・レスタ−主演。意外にできがいい。むろん、レックス・ハリソン、ア−ネスト・ボ−グナイン、オリヴァ−・リ−ドなどの共演者がいい。
 主演のマ−ク・レスタ−は可愛い少年だが、このまま成人して、いい役者になれるかどうか。かつてのフレデイ・バ−ソロミュ−とおなじ輟を踏みそうな気がする。
 試写を見たあと、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、本田 喜昭さんに会う。もと「推理スト−リ−」の編集長だった人だが、独立して週刊雑誌をやっている。原稿の依頼。
 俗悪な週刊誌に書くのは、作家としての評判を落とすことにつながるのだが、私は本田 喜昭さんに恩義を感じている。それに、どんな雑誌に何を書いても、私は自分を恥じない。

 6時、「ヤクルトホ−ル」。
 「マダム・クロ−ド」(ジュスト・ジャカン監督)の試写。これも、意外にいい映画だった。ロッキ−ド事件をからめた、高級コ−ルガ−ルの物語。
 ポスタ−に、シルヴィア・クリステルの顔が大きく出ているので、シルヴィアの主演かと思ったが、わずか1カットに出てくるだけ。羊頭狗肉どころではない。こういう宣伝は感心しない。シルヴィアはカメオ出演ぐらいのつもりで出たのか。あるいは、まだ爆発的な人気が出なかった時期にこの映画に出たので、急遽、ポスタ−に使われたのか。

 エリカから手紙。新しいアドレス。風邪をひいたらしい。

 今年ももう後半に入っている。いろいろなことが起きている。
 巨人軍の王 貞治が、ホ−ムランの世界新記録、756本を達成。

 日本航空、パリ発東京行き、DC8型機が、経由地、ムンバイ(ボンベイ)離陸直後に、「日本赤軍」によってハイジャックされた。バングラディシュのダッカ空港に強行着陸。犯人は、拘留中の同志9人の釈放、ランサム(600万ドル)を要求。

 厚生省。日本人の平均寿命、女性は77歳。男性、72歳と発表。

2018/11/15(Thu)  1785 〈1977年日記 32〉

               1977年8月24日(日)

 つぎからつぎに原稿督促の電話ばかり。
 原稿を書かなければいけないとわかっているのだが、かえって本を読みたくなる。
 たとえば、「アンジェラ・ボルジア」。岩波文庫。1949年に出ている。「アンジェラ」は「ルクレツィア・ボルジア」の従妹。スト−リ−は、「ルクレツィア」と「アルフォンソ・デステ」の結婚からはじまり、「ドン・ジュ−リオ」、「イッポリ−ト」など、エステ家の兄弟、「エルコ−レ・ストロッツイ」、「ピエトロ・ベンボ」などがつぎつぎに登場してくる。まるで、歴史もののテレビ・ドラマでも見ているようなおもしろいものだった。


                        1977年8月28日(木)

 暑い。

 原稿をいくつも書いた。27日、「サンケイ」は1本しか書けなかった。
 こういうときは、気分転換に山を歩くことにしよう。
 12時半、新宿駅2番線。松本行き、「急行アルプス」。
 吉沢君、「三笠書房」の三谷君、「二見書房」の長谷川君、石井、菅沼 珠代、鈴木 和子。安東君は、八王子から乗った。

 韮崎に着いたのは、4時近く。タクシ−を利用することにして、「白鳳荘」に。
 着いたとたんに、雨が降ってきた。おやおや、また雨か。

 4時、起床。4時半に歩き出した。まだ暗い。
 私は腰を傷めているので、歩きはじめはつらかったが、じきに痛みは消えた。

 快調とはいえ、甘利から大西峰に出るあたりがきつい。
 御所山。前に、Y.K.と二人で登ったときは、ル−トが見つからなくて苦労した。今回は、新しい標識がついていたので、青木鉱泉に出るのもずっと楽になっていた。

 このコ−スはもとのままで、手入れもされていない。青木鉱泉のすぐ手前で、沢を渡ったが、鈴木君が足をすべらせて、あやうく川に落ちそうになった。みんなが笑った。
 今回は参加していないが、工藤さんなら川に落ちていたはずだ、と冗談をいう。
 彼女は、水難の達人で、ふつうの登山者なら絶対に落ちないようなみずたまりでも、かならず足をとられる。幅がせいぜい数十センチの溝でも、かならずすべったり、ころんだり。
 私の冗談に、みんなが笑いだした。

 青木鉱泉。みんなで、のんびり湯につかり、ビ−ル。
 今回も楽しい登山になった。マイクロバスで、韮崎に送ってもらう。

 5時20分の臨時急行に乗るか。36分の鈍行に乗るか。
 結局、甲府で、そばを食べようということになった。急行で、甲府に行く。
 私たちの判断では――甲府始発の鈍行に乗ることになる。
 急行の入線で、みんながそれっとばかりに乗り込んだが、もうれつに混んでいた。やっと車内に入ったが、立錐の余地もない。

 あとで知ったのだが、大槻で脱線事故があって、中央線のダイヤが混乱していた。
 甲府の一つ手前の竜王で、この列車も立ち往生。先行の列車が甲府で停止しているため、この列車は、竜王で停車したらしい。長い時間、待たされて、しかも車内はむし暑かった。
 この間に、隣りの車両に乗った安東君が、プラットフォ−ムを走ってきた。私は非常用のコックを使ってドアを開けた。あんまり長い時間待たされたので、乗客のなかには、私たちのようにプラットフォ−ムに出るものもいた。
 私は停まっている列車を点検して、みんながおなじ車両に乗れるようにした。こういうことになると、日頃、列車の乗り降りになれているわがパ−ティの行動ははやい。

 やっと、甲府に着いた。これからまた何時間かかるのかわからないので、駅のキオスクに乗客たちが押しかけた。駅弁や、食品を買いあさっている。まるでパニック状態だった。ここでも、安東は有能だった。すぐに、駅そばに走って、そばを8個、買ってきた。
 これで、駅そばは売り切れ。
 安東につづいて、三谷君、長谷川君、石井たちが、ビ−ル、ジュ−ス、おつまみなどを仕入れてきた。みんなが、山でビバ−クするようなうれしそうな顔をしていた。

 いろいろな登山をしたが、今回のような意外なピクニックはめずらしい。

 新宿に着いたのは11時過ぎ。
 帰宅したのは、1時過ぎ。

2018/11/10(Sat)  1788 〈1977年日記 35〉
 
               1977年8月12日(火)

 エリカがアメリカに戻った。

 パンナム002便の出航は3時15分の予定だが、15分遅れで出発。

 私はまだいろいろと仕事がある。
 5時15分。「アラスカ」に寄って原稿を書く。なんとか仕上げたので、「ジャ−マン・ベ−カリ−」に行く。ここで、「世界文化社」の編集者と打合せ。「公明新聞」の編集者に原稿をわたす。
 下沢君と「実業之日本」に行く。峯島さんが、「夕月」に案内してくれた。
 翻訳もののシリ−ズを始めるまで、ずいぶん時間がかかったが、ようやく社長の内諾が出たという。


                 1977年8月15日(金)

 8月15日なので、敗戦当日のことを思い出す。

 朝、「共同通信」から、エルヴィス・プレスリ−の死を知らせてきた。コメントをもとめられたので答える。

 プレスリ−が、初めて登場した(56年)とき、私は反発したひとり。
 戦後のポップスに大きな影響をあたえたのは、ビング・クロスビ−、フランク・シナトラ、つづいてエルヴィス・プレスリ−、やがてビ−トルズだった。ごく平凡な見取り図だが、エルヴィス・プレスリ−には、はじめから忌避したいものがあった。
 マイクをにぎりしめて、セクシ−に骨盤を動かす「ペルヴィス・スタイル」が気に入らなかった。
 「ハ−トブレイク・ホテル」、「監獄ロック」、「ラヴ・ミ−・テンダ−」、「テディ・ベア−」、「ブル−・スウェ−ド・シュ−ズ」。どれも感心しなかった。

 エルヴィスの映画は、「GIブル−ス」、「ブル−・ハワイ」、「燃える平原児」など、30本もあるのだが、私は数本見ただけで、映画評を書いたこともなかった。シングル盤やLPも一枚ももっていなかった。
 ようするに、まったく無縁のまま過ごしてきたのだった。

 (私が、後年、ハンタ−・ディヴィスの「ビ−トルズ」を訳したのも、エルヴィス・プレスリ−に対する挽歌という意味もあった(ような気がする。)(後記)

 その私が評価を変えたのは、晩年の「エルヴィス・プレスリ−・オン・ステ−ジ」と「オン・トゥア−」を見て、あらためてこのシンガ−の円熟を知ったからだった。
 私は、周回遅れのファンといっていい。
 私が見たエルヴィスは、肥満体質に悩み、無理な食事制限や、大量の薬物投与に苦しみながら、自分の音楽をひたすら追求してきた芸術家の姿だった。

 エルヴィスは42歳の若さで亡くなった、という。あまりにも若い死だった。

 私は、おのれの不明を恥じてはいないが、エルヴィスが亡くなったことは、アメリカのポップスにとってとりかえしのつかない悲劇と見る。

 プレスリ−の死がつたえられたとき、グレイスランド・マンション前の、プレスリ−・ブ−ルヴァ−ドは人並みで埋めつくされたという。葬儀が行われた18日は、徹夜した350人をふくめて5000人が邸宅をとり囲んだ。葬儀には、ジョン・ウェイン、バ−ト・レナルズ、アン・マ−グレット、サミ−・デイヴィス・ジュニアなども参列した。
 墓地は、フォレスト・ヒルズだが、今後、ファンの巡礼が予想されるので、独立した墓地に埋葬しなおすとか。

 「DAB DAB」の編集部から、電話でアンケ−ト。これもエルヴイスの死について。


              1977年8月19日(火)

 「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、井上 篤夫、大村 美根子、本戸 淳子の三人に会う。「実業之日本」、峯島さんに会ったが、ここにきて、まだ、社としての方針が固まっていないふしが見えた。
 大村、本戸のふたりを、有楽町のゲ−ム・センタ−に案内する。ふたりとも、こんな場所で遊んだこともないだろう。
 神田に出て「いぬ居」でスキヤキ。


              1977年8月23日(土)

 1時、「ゆかいな仲間」の試写をみるために、「ガスホ−ル」に行った。
 「ガスホ−ル」でも、私はいつも右側の10列目あたりにすわるのだが、この日はどういうものか、中央の席にすわった。
 映画が始まる前に、黒人の女性が婉然たる微笑をたたえて、私の席に寄ってきた。何があるのだろうか。その女性は、なんと私にワインのボトルをわたした。
 これまで、映画の試写に行って、何かをもらったことはない。その映画の宣材をもらったことはある。大型のパンフレットとか、その映画の題名のついたTシャツといったものばかりで、ワインをもらったことはない。
 どうして、私を選んで、ワインをわたしてくれたのか。
 あとで知ったのだが、この女性は、南アフリカ共和国の観光省の女性とか。最近の南アフリカ共和国は、観光に熱心になっているらしい。
 たまたま、昨日だったか、南アフリカ共和国が原爆実験を開始する決定をしたという。フランスの外相が、世界に向けて、警告を発した。
 ワインから、世界情勢を連想する。

 これが、私なのである。

2018/11/05(Mon)  1787 〈1977年日記 34〉
 
                   1977年8月9日(日)

 今回は参加する気はなかった。なにしろ、原稿がたまっているので、この数日、かかりっきりだった。歯痛。
 北アルプス縦走は、安東 つとむが計画したプランだったが、最後になって鈴木君が、参加を断念した。訓練不足、経験不足が理由だった。しかも、吉沢君が足を傷めているので、参加できるかどうか。ナンなら、オレが行ってやろうか、と声をかけてやる。これが、きっかけだった。

 それから、原稿をつぎつぎに片付けはじめた。

 「ミレイユ」続編の校正は、上野の駅の構内で赤を入れた。約束の時間ぎりぎりに石本がきてくれたので、「二見」に届けてもらうことにした。
 プラットフォ−ムを走った。やっと飛び乗ったとき、みんなが歓声をあげた。
 すべり込み、セ−フ。
 「先生は時間に間に会わなくても、きっとあとからひとりで登ってくる、と思っていました」
 という。
 メンバ−は――安東夫妻、吉沢 正英、工藤 淳子、石井 秀明、はじめて参加した甲谷君。今回は、「中田チ−ム」の最強のメンバ−。

 すぐに眠ることにした。睡眠不足なので。

 早朝。富山から立山線で、有峰口。
 ここからバスで折立まで。

 さすがに登山者が多い。
 私は、車中で、よく眠れなかったため、ひょっとすると、おもしろくない山行になるかも知れない、と覚悟をきめた。セ−タ−は着ない。

 風はない。空いっぱいに雲がよどんでいる。やや薄ぐろい雲、灰色、白っぽい雲。だいたいそんな雲ばかりだが、色合いによって、何種類にも分けられそうだった。つまり、お天気の変化によって私たちの行動にどう影響するか。
 はるか彼方に帯状にながく伸びた薄ぐろい雲があり、白っぽい雲が細長い切れめを挟んで接続している。その切れ目から、光が落ちている。山は、光を受けた部分だけが輝き、あとは薄茶色になってひろがっている。
 息をのむほど美しい。
 せめて、少しでも晴れてくれればいいのだが。

 折立ヒュッテから、ひたすら5時間。長い長い高原状の尾根を登って行く。睡眠不足なので、かなりきついものになった。

 太郎平小屋に着いたとたんに、雨になった。
 やっぱり降ってきやがった。しかし、これも計算しておいたから、ま、いいか。
 キャンプ地に移って、テントを張る。

 こういうときは、テントにもぐってもあまり話ははずまない。地図をひろげて、明日のコ−スを調べる。

 翌日、4時、起床。
 食事(おじや)を作ったが、意外に手間どったため6時に出発。

 風が出なければいいのだが。
 しかし、歩きだしてすぐに、風とまじって雨が降りしぶく。セ−タ−にアノラックを着ているけれど、手袋の下のわずかな素肌が冷えてくる。登山靴の爪先からも、雨の冷たさが這いあがってくる。わるいことに、歯痛がおきた。
 唇をかみしめながら歩く。唇は血の色を失っているだろう。

 北ノ俣岳に。

 歯痛は薄れた。しかし、どうも、発熱したらしい。

 歩きつづけているうちに、風はやんだ。いったん風が吹きはじめると、あたりの大気が大きな固まりのまま、すさまじい響きをあげながら、大移動をはじめる。こういうときは、石が地上高く舞い上がり、地面にしがみついている植物をちりじりにもぎとって、いつ果てるともなく吹き荒れる。
 登山者は必死に風をさけようとするが、あらぬことばかり、頭をかすめる。こんな山に登るんじゃなかった。天気を読み違えたのか。退却したほうがよかったのか。しかし、どこに逃げるんだ? 地上めがけて矢のように突き刺さってくる風は、そんな考えを吹きとばす。いったん吹き出すと、いつまでも吹きやまない。

 赤木から黒部五郎にさしかかったとき、頭痛がはじまった。黒部五郎から先、まだまだ長い長いコ−スがつづく。考えるだけで、ひるんだ。つらい登山になったなあ。さりとて、もはや引き返すわけにはいかない。距離的に、体力的に、戻るわけにはいかない。

 小屋に入ったとき、頭痛がひどかった。お天気は回復したから、登山にはもってこいの日だった。しかし、ひとりで登山したら、とても先に行く気は起きなかったにちがいない。やむをえない。クスリを飲もう。アスピリン、エフェドリン、フェナセチンの配合剤で、万一のことを考えて、半分だけ服用する。

 予想では、登山者はたいした数ではないはずだった。ところが、小屋は満員で、一人用のふとんに2人が抱き合って寝るような状態だった。

 翌日(8日)、私の体調は回復していた。クスリが効いたのか。からだが山になれてきた。

 昨日のことがウソにおもえるほど、空が晴れている。雨はもう降らない。
 とりどりの姿をした雲がながれて行く。
 山脈がただ青く見えた。その向こうに、ナマリ色の雲がびっしりとならんでいた。
 どこから湧いてくるのか、あとからあとから流れてくるのだった。
 私たちの頭上をゆっくり流れて行く。
 山の頂上から少し下のあたりを通ってゆく。コ−スは、東の空にゆっくりと消えて行くのだった。

 黒部乗越から三俣蓮華に向かう。
 今日は素晴らしい日になる、と確信した。みんなが、うきうきした気分になっている。
 あたりの風景までが変わって見える。チングルマやシナノキンバイなどの群生が美しい。ほかのパ−ティ−を追い抜いてゆく。

 三俣蓮華から双六に向かったとき、ほかの大部分のパ−ティ−は雪渓の下のカ−ルに下りて行った。
 私たちは、頂上をめざしている。
 途中で、甲谷君に雪渓の雪をカップにとってもらって、ユデアズキのカンヅメをまぜてたべたが、これがほんとうにおいしかった。みんなにもわけてやる。ただし、同時に、クレオソ−トも飲ませたが。

 双六に着いたのが11時40分。ここで小休止。ほかのパ−ティ−のいくつかは大ノマから帰るために出発して行った。

 残念ながら、私もここから帰途につくことにした。自分ひとり戦線を離脱するような気がして、みんなと別れることは伏せていた。このまま、登山をつづけたいとも思った。しかし、週刊誌の連載があるので、今夜じゅうに半分は書いておかなければならない。

 「先生が帰るのは残念だなあ」
 安東がいった。
 「ごめんよ。どうしても、明日、1本わたさなきゃいけないんだ」
 私は空を見た。南東に大きな笠雲が出ていた。
 「今夜は、また雨になるぞ。気をつけてくれ」
 私はいった。

 12時10分。私は、安東たちと別れて、ひとり、新穂高に向かった。

 大ノマ乗越で、先行のパ−ティ−に追いついた。
 このパ−ティ−の若いリ−ダ−が、私を見て、軽蔑したような顔をした。かるいザックを背負っただけで、北アルプスにハイキングにきた中年と見たらしい。私は自分の登山スタイルが他人にどう見られても気にならない。
 奥多摩や、関東の山を登っていた頃、よく営林署の方ですか、と聞かれたことがある。

 ここで食事をしたが、10分後に、大ノマ乗越に出た。伊藤新道である。この道は、石の急な斜面になっているので、前に出発したパ−ティ−にすぐに追いついた。こちらが崖の上に立って先行のパ−ティ−を眺めていると、リ−ダ−が、先にというサインを出したので、私は、みんなが見ている前で先を急いだ。こういう場合、いちばん警戒しなけれはならないのは、石を踏んだとき、その振動が原因で、落石を起こさないようにじゅうぶん注意することだった。私は、石をつたって走ったが、まったく石が動かなかった。
 日頃、奥多摩の川のりや、高見石から塞ノ河原あたりのガケを何度も駆け下りているので、この程度ならなんでもない。あっという間に下りた。私の前に、若者の2人が下山していて、私はそれを追うかたちになった。この2人もすばらしいスピ−ドだった。

 秩父沢に出た。岩を一つ越すと、思いがけず、若い男女がパッと離れた。小休止していたらしい。ただし、その場の空気は想像できた。

 ワサビ平に着いたあと、新穂高まで単調な下りがつづく。
 4時間半のコ−スを、3時間で下りたことになる。しかし、高山行きのバスは、5時の最終しかない。これに乗っても、高山で泊まるか、美濃太田までしか行けない。
 思案しているところに民宿の男が寄ってきた。
 民宿「奥穂」。場所は、新平湯温泉だった。ポン引きのようなオジサンが経営している。目がギョロギョロして、なにやら気味がわるいが、実際は好人物だった。
 この民宿「奥穂」に泊まったのは、どこかの山岳部のパ−ティ−、4人だった。

 夜は雨になった。安東たちはどうしているだろうか。
 (北アルプスは、荒れ模様になった。)

2018/11/01(Thu)  1786 〈1977年日記 33〉
 
                   1977年8月3日(月)

 「日経」、吉沢君に連絡して、「東映」の「宇宙戦艦ヤマト」を見に行った。
 このアニメについて、日記には書かない。この作品は、最近の日本映画として、きわめて重要な作品と見ていいのではないか。あとで、じっくり考えてみよう。

 吉沢君と一緒に、「レバンテ」で遅い食事。話は、もっぱら「宇宙戦艦ヤマト」に集中した。

 「実業之日本」に寄って、レジュメ、2本。
 久しぶりに神保町に行く。「北沢」の裏に出て、交差点に向かって歩いていると、思いがけず、磯田 光一に会った。
 「やあ、久しぶりだね」
 お互いに久濶を叙するという感じで、「コ−ヒ−苑」でしばらく雑談。私は、若い批評家のなかでは、磯田君にいちばん好感をもっている。
 お互いに批評家なので、話題がつぎつぎに変化する。永井 荷風のこと、作家の死について。吉田 健一の死について。
 私としては、スウィフトについて聞きたいことがあったのだが、いろいろと話をしているうちに忘れてしまった。なぜ、スウィフトなのか。磯田君は、最近のエッセイで、吉田 健一がスウィフトにふれていた文章から、臼井 吉見の「事故のてんまつ」を論じていたので、心に残っていたからだった。
 あまり長く時間をとってはいけない。磯田君が病弱と知っているので。
 最近の磯田君は、風俗資料を集めている、という。
 「どういうものを?」
 聞こうと思ったが、遠慮した。

 「一誠堂」で1冊。「松村」で1冊。

 夕暮れ。

 「山ノ上」で、「南窓社」の松本 訓子さんと、原稿の打合せ。
 井上 篤夫君に、アンサニ−・ロ−ムを。大村君に渡す本は、明日、速達で送ること。

 帰り、西千葉で下りた。富安 夘八郎さんに電話。お焼香をさせていただく。
 しばらく、福岡 徹(富安 徹太郎)を偲んで、話をする。
 夘八郎さんは、「軍神」を文庫に入れてほしいというご意向のようだった。


                        1977年8月4日(火)

 昨日、手に入れた本は「サヴォナロ−ラ」。もう1冊は、18世紀からのヨ−ロッパの王室に関する資料。
 ロマノフ家のマリ−大公妃、ルクセンブルグのマリ−・アデライドを、系図でたしかめた。系図を見ていて、ルクセンブルグ大公、アドルフスの弟、ニコラス(1832〜1905)が、メルレンブルグ伯爵夫人、「ナタリ−・プ−シュキン」と結婚している。さっそく、アンリ・トロワイヤの「プ−シュキン」を調べた。プ−シュキンの妻だった「ナタリ−」と混同した。詩人の「プ−シュキン」は、1837年に死んでいるので、「プ−シュキン」の娘かと思った。
 私は、外国の人名から、すぐに肖像がうかぶような研究者ではないので、いつも、苦労している。

2018/10/24(Wed)  1785 〈1977年日記 32〉
 
               1977年8月2日(日)

 今日は、福岡 徹(富安 徹太郎)さんの命日。
 昨夜、献花を届けておいた。早いもので、もう三回忌になる。
 福岡さんは、産婦人科医で、本業のかたわら小説を書いていた。おなじように、医師(眼科医)の庄司 肇さんとおなじ「文芸首都」出身の作家。
 主著は、日露戦争で、旅順口で戦った乃木 希典の評伝、「軍神」(「文春」)。ほかに「未来喪失」という短編集など。

 「未来喪失」が出たとき、庄司 肇が批評しているが、

    医者の小説書きというのは、以外に多いものなのですが、それらの人々は、不思
    議と二つの群にわかれるようです。つまり、はなはだ医者的な小説を書く人と、
    医者のそぶりさえ見せない人との、極端な二組にわかれるのです。福岡さんは、
    あきらかに前者で、この五つの作品の主要人物は、すべて、医者、あるいは、看
    護婦であり、物語の内容も、それにまつわるものばかりです。

 という。
 これで思い出したが――おもしろい資料があるので、ここに書きとめておく。

 野田在住の医師(内科)、宗谷 真爾さんは、庄司 肇さん、福岡 徹さんとおなじ「文芸首都」出身の作家で、「野田文学」という同人誌を主催していた。
 それこそ、「医者のそぶりさえ見せない作家」で、のちにカンボジアに旅行して、アンコ−ル・ワットの歴史、といったモノグラフィ−を発表したが、作家としては夭折した。

 「未来喪失」の出版記念会で、宗谷 真爾さんがスピ−チをする予定だった。
 おなじ千葉県在住の友人の出版記念会なので、ぜひ出席しなければならない、と思った宗谷さんは、午後休診にして、昼食をとるのももどかしく家を出た。野田から千葉までは、かなりの距離がある。宗谷さんは、息せききって電車にとび乗った。船橋で国電(JR)に乗り換えたが、これが準急で、福岡さんの病院がある西千葉は素通り。仕方がないので、一駅先の千葉で降りた。

    千葉にきてしまったからには、ここからの方が会場に近かろうと思いなおし、発
    起人の一人になっていた中田 耕治氏に、いっしょにいこうと誘いかけるつもり
    で電話したら、奥さんが電話口に出た。
    「中田はいま、単身ヴェトナムにおもむいておりまして……」
    私が代わりにまいりますが、まだ福岡さんを存じあげていない。会場で失礼があっ
    てはならないから紹介してほしいと言う。ヴェトナムでビックリしたうえに、留
    守をあずかる令閨の賢夫人ぶりに二度ビックリ。
                     (「城砦」18号・1965年5月)

 1965年、私は妻の百合子のすすめもあってヴェトナムに行った。当時、ヴェトナム戦争が続いていた。
 私は、この春休みを利用してサイゴンに飛んだ。

 サイゴンにいた私は――福岡さんの出版記念会が催されることは知っていたが、出席できる状況ではなかった。私の代理で、妻の百合子が代わりに出席してくれたが、この出版記念会のようすは、妻がエア・メ−ルで知らせてくれた。これと重なって、友人の作家、山川 方夫が交通事故で不慮の死を遂げた。これも、百合子はこまかく報告して、私のかわりに弔電を打ってくれたのだった。
 12年前の夏であった。

 私は、ヴェトナムに行ってから自分でも変わったと思う。内面的に変化を経験したのだった。

 福岡さんのことから、いろいろと思い出した。

2018/10/22(Mon)  1784 〈1977年日記 31〉
 

                        1977年8月1日(土)

 朝、若城 希伊子さんに電話。

 今後、「小説と詩と評論」とは絶縁するという。日頃、温厚な若城さんが、こうまでいうのだから、よほど不愉快なことがあったのだろう。

 若城 希伊子さんは、最近まで、鎌倉で「源氏物語」の講義をつづけていた。ところが、さる上流夫人が、この集まりに参加して、表面は若城さんの講義に傾倒するように見せかけながら、ひそかに若城さんを追放して別の講師を招く画策をはじめた。この夫人の意向を受けた森 志斐子(同人雑誌作家)が若城さん追い出しに動いたという。
 若城さんは、晩年の折口 信夫に教えを受けた人で、大学で「源氏物語」を講義するほどの教養と実力がある。森 志斐子ごときの指弾を受けるような人ではない。しかし、森一派の動きの結果、若城さんは、鎌倉での「源氏物語」の講義を断念したという。

 森 志斐子がどういう女性なのか、私は知らない。一度だけ面語の機会を得たことがある。
 作家というふれ込みで、本人は作家気どりだったが、世間的に知られているわけでもない。たしか、自費出版で、小説を一、二冊出していたはずである。
 私の見た森 志斐子は、美人だが、高慢な女性だった。
 誰が紹介してくれたのか、もうおぼえていない。林 峻一郎(木々 高太郎の令息)だったような気がする。はじめて会った私に、横柄な口のききかたで、
 ・・・あなた、どこで書いているの?
 と聞いた。私は、とっさにどういう意味だろうと思って、
 ・・・「え」と聞き返した。
 ・・・同人雑誌よ。どこに所属しているの?
 ・・・別に、どこにも所属しておりませんが。
 私をどこかの同人雑誌作家と見たようだった。(私は戦後、「近代文学」の同人だった時期があるが、「近代文学」に所属していたとはいえない。)
 森 志斐子は、しげしげと私の顔を見た。
 どこの同人雑誌にも属していないのに、「小説と詩と評論」の集まりに顔を出している。多分、「小説と詩と評論」に参加したがっている文学中年と見たのだろう。
 ・・何か書いたら、見てあげるわよ。

 私は、いろいろな場所、いろいろな機会に、こういう種類の女をよく見かけたものだった。ある劇団の付属養成所の研究生で、私を相手にスタニスラフスキ−について一席ぶった女もいた。(あとで、私がその養成所の講師と知ったらしく、私の前に二度と顔を出さなかった。)ある日、私に面会を求めた若い女がいた。翻訳家を志望している、という。
初対面の私の前で平気で足を組んで、タバコをくゆらせながら、「なんか仕事させてくんない?」と、ヌカした。
 世間はさまざま、女もいろいろ。

 森 志斐子はそれっきり私に口をきかなかった。知りあっても得にならない人種と見たらしい。私ははじめから森 志斐子に関心もなかった。同人雑誌によく見かける「策謀家」(ストラテジスト)にすぎない。
 「源氏物語」の講義をつづけている講師をタ−ゲットに何かよからぬことを企んで、追い落とすぐらいのことはやりそうな女。これが私の印象だった。

 このあと、若城さんは、お互いに共通の友人、鈴木 八郎の病状を教えてくれた。喉頭ガンで、手術をした。本人は、ガンとは知らされず、声帯のポリ−プの手術と信じているという。可哀そうに。
 鈴木 八郎は、戦後、「劇作」の会で、内村 直也さんが紹介してくれた。
 芝居の見巧者で、歌舞伎、新派、新劇もよく見ていた。一部で知られていた三好 いっこう(作家)の親友で、劇壇について知らないことは何もないほどの事情通だった。本人は男色者(ペデ)だったが、それを隠さなかった。
 劇作家志望で、西島 大、若城 希伊子たちといっしょに勉強していた。
 なかなかの実力もあって、いつも戯曲を書いていたが、いつも特殊なテ−マを選ぶので、ほとんど発表されることがなかった。

2018/10/14(Sun)  1783 〈1977年日記 30〉
 
              1977年7月31日(日)

 30日正午、新宿集合。
 何時もは、早朝に集まったが、今回は20名のメンバ−が、正午に集まるのだから、規模もちがう。
 安東 由利子、Y.T.が、プラットフォ−ムで待っていた。ぞくぞくとメンバ−が集まってくる。リ−ダ−たちは、沼田 馨(双葉社)、長谷川 裕(二見書房)、安東夫妻、吉沢 正英、石井 秀明。
 学生の中に、三ツ谷 雄二がいる。電車が入線すると、みんながゾロゾロつながって席をとる。ほかの列車も、登山者がいっせいに乗り込む。

 はじめは、まるで遠足気分。

 「学寮」は長野の県境にある。私たちは、バスを利用しなかったので、麓から「学寮」まで歩きつづけた。山歩きになれないメンバ−の訓練も目的で、みんなで山肌をあえぎながら登って行った。夕方になっても、私たちのパ−ティ−はゆっくり進んで行く。
 こういうパ−ティ−は、あまりいなかったらしく、「学寮」側は私たちの到着が遅いので、心配したらしい。
 天気の変化も懸念された。突然、はげしい雷鳴と、稲妻をともなった夕立がくることもめずらしくない。
 夕暮れの、薄れた日ざしがぐんぐん下の道に消えて行って、山道がかすんで白っぼく見えた。と、前方、山道を下りてくるトラックが見えた。
 「学寮」のトラックだった。私たちの到着が遅いので、途中で動けなくなったのではないか、と心配してくれたらしい。
 私は夜になって「学寮」に着けばいいと思っていたが、「学寮」側が心配してトラックを出してくれたのだから、好意に感謝した。
 トラックの運転手は、沼田君、長谷川君、吉沢君、安東夫妻、石井君の登山靴を見て、安心したようだった。みんな、登山のベテランらしいスタイルなので。
 私は、学生たちといっしょに、トラックの荷台に乗せてもらうことにした。
 学生たちはみんな歓声をあげた。

 「学寮」に着いた時間が遅かったため、入浴もできず、食事をしただけだった。「学寮」としては、私たちが20名を越えるパ−ティ−なので、食事をキャンセルされたら困ると思ったらしい。明日の朝食を用意してもらうことにした。
 全員を集会室に集めて、明日の行動計画をつたえる。

 そのあと、「学寮」の庭の奥で、花火。みんなが、少年少女に返って、花火を楽しんでいる。この花火は私が用意したもの。
 こんな登山になるとは、誰も思わなかったにちがいない。
 私たち以外に、別のグル−プが、キャンプ・ファイア−をしていた。

 就寝時間。私は先生なので、別の部屋で休んだが――深夜、隣りの部屋に泊まった教師たちが、ウイスキ−か何かをのみはじめて、ダベッている。それが耳について、眠れなかった。この連中は、法学部の教授、助教授らしい。話の内容は、学内の人事に対する不満だった。
 あとで知ったのだが、安東 由利子が抗議したらしい。やっと、酒宴が終わった。

 3時半、起床。どうやら、みんなよく眠れなかったらしい。私たち(吉沢、石井、安東のチ−ム)なら、そのまま予定の行動をとってもいいのだが、初心者が参加しているのだから、予定を変えなければならない。
 私は、吉沢君に「渋ノ湯」と伝えた。すぐに了解してくれた。

 「渋ノ湯」で、私は入浴した。またしても、私のサ−プライズ。これが私流の登山なのだ。あまり長く温泉につかっていると、湯疲れする。だから、汗をながすだけの入湯ということになる。
 あとは、高見石をめざす。

 高見石から、コ−スはきつくなる。

 「稲子の湯」に着いたときは、さすがに疲れが出た。
 硫黄のきつい泉質だった。

 学生の山田君が、気分がわるいという。すぐに休ませた。
 彼は三年。話を聞くと、権現から赤岳に出たい、とか、高見石からは、中山峠を越えて小天狗のコ−スがいい、などといっていた。私は、この学生が登山の経験をつんできたものと信じたが、あとで聞きただしたところ、去年の秋から山に登っていないという。私は、またしても、自分の至らなさに腹が立った。

 しかし、山田を残して、プランを進めるわけにはいかない。
 「稲子の湯」の主人の弟をつかまえて、マイクロバスで松原湖まで送ってくれないか、と交渉した。故障者が出なければ小淵沢に出るところだが、それは考えられない。
 松原湖から小諸に出る。急行で上野に。

 たまには、こんな登山をするのもいいや。

 帰りは、席が空いていたので、Y.T.とすわった。私は、しばらく眠ったが、Y.T.は眠れなかったらしい。秋葉原で皆と別れた。私は、桜井といっしょに総武線に。

2018/10/10(Wed)  1782 〈1977年日記 29〉
 
               77年7月25日(月)

 暑い。日記に書くこともない。
 そのくせ、電話が多い。
 「サンケイ」、四方さん、原稿を電話で。

 藤井 重夫さんから、暑中見舞い。


                 77年7月26日(火)

 朝、原稿を2本。
 東京に向かう途中、電車の中で、「週刊小説」、1回分。
 1時半、「読売」で、北村 佳久さんから、私の訳書を受けとる。内村 直也、荒 正人、五木 寛之さんに献呈。
 2時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「南窓社」の岸村さんに、原稿をわたす。「日本及日本人」の女性編集者と、「週刊小説」、中村君に原稿をわたす。
 やがて、野村君がきたので、「ビリチス」(ディヴィッド・ハミルトン監督)を見た。さすがに、一流の写真家なので少女たちを美しく撮影している。しかし、この映画に、たとえば川端 康成の「眠れる美女」に見られる、私たちの市民的な秩序さえゆるがすようなエロティシズムがあるだろうか。はじめから、そんなエロスを追求したわけではない、といわれればそうだろうというしかないが、ディヴィッド・ハミルトンの美少女は私たちを戦慄させるような美をもたない。しかも、内容はひどく空疎で、試写室を出たとたんに、美少女たちの印象は消えてしまった。

 5時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」に戻って、井上 篤夫、本戸 淳子のふたりに会って、レジュメを受けとる。井上君には「トニ−・ロ−ム」ものを渡した。

 6時、「区民センタ−」で講義。これが、最後の講義になる。わずかな時間に、ルネサンスの社会、文化をうまくダイジェストするなど、はじめから私の手にあまる。

 講義のあと、受講生の二、三人が、教室の外に立っている。みんな私を待っている。私と話をしたいおばさまたち。私からさそって、コ−ヒ−を飲みに行く。話題は、当然、ルネサンスに集中する。

 ルネサンスは、中世の時代とまるっきりちがった考えかたをとった。経済的、社会的、政治的な変化は、革命的なものを内包している。中世の単純な農本経済は、拡大をつづける商業、製造業、都市の発達、貨幣経済から生まれた資本主義に取って代わられる。
 こうして文学、科学、世界に対する視座、あたらしいアティチュ−ドがうまれた。
 ルネサンスは、世界に対するあたらしい姿勢をつちかった。

 だが、私は、どうもこういう考えかただけがただしいのではないような気がしている。
 ルネサンスの人は、中世の人々とそれほどにもちがった考えかた、ちがった生きかたをしたのか。私には、そのあたりを論証できるはずもないのだが。

                77年7月29日(金)

 「ビリチス」のあとで、「鷲は舞い降りた」を見た。この映画については、「映画ファン」に書く。それと、新聞に私の短いコメント。
 「ショッピング」の原稿は、27日にわたした。かんたんに書けるはずだったが、2日つづけて東京に出たため、疲労がとれない。
 「実業之日本」、峯島さんに会って、いよいよ翻訳のシリ−ズにゴ−・サインを出していいかどうかを確認する。
 本戸 淳子は、ヒラリ−・ウォ−より先に、エド・レイシ−にとりかかってもらう。
 三戸森 毅君は、ロバ−ト・ディ−トリチ。宇野 輝雄君は、ウィリアム・フォ−サイス。井上 篤夫にゴ−・サイン。大村 美根子からは、まだ返事がない。
 児玉 品子は、このあとの2冊のレジュメ。
 こういう陣容で出発する。

 「区民センタ−」の講義。報酬は、11万7000円。

 「区民センタ−」の講義は楽しかった。毎日、かなり忙しいので、のんびりとルネサンスについて話をするのは、気分的に救われるような気がした。
 最終講義のあと、加藤さん、及川さんたちと話す。
 このオバサマ、オジサンたちと会えなくなるのは、少し残念だが。


                77年7月30日(土)

 エリカが、8月12日にアメリカに戻る予定。

 私は、明日から、大学の「学寮」に行く準備。

2018/10/06(Sat)  1781 〈1977年日記 28〉
 
              77年7月17日(日)

 新築の家に本を運び込む作業に、クラスの学生諸君の応援を頼むことにした。アルバイトというかたちで。
 はじめ、きてくれることになったのは、椎名、野村、大久保の三人だけ。野村君は女子学生なので、あまり頼りにならない。
 ところが、昨日になって、石井や桜井たちが、電話をかけてきて、17日に手つだいにくるという。数人もいればじゅうぶんだろう。ところが、坂牧、大久保、野村、椎名、和田、栗村たちが、くるつもりという。こうなると、いったい何人がきてくれるのかわからない。
 要するに、椿森のアパ−トに移した蔵書を、全部、書庫に戻し、タンスなどの家具などを新築の家に運び込む作業。

 学生たちは、トラックで、何度も弁天町と椿森のアパ−トを往復して、本を運んでくれた。
 熱心に働いてくれたのは、大久保、野村、小林(実)たち。何のためにきたのかわからない、不熱心なやつもいた。

 百合子が食事の用意をしてくれた。ビ−ル、コ−ヒ−、サイダ−、ティ−などを用意してくれた。
 学生たちにアルバイト料をわたしてやる。
 私の蔵書のなかから、好きなものを一冊、進呈すると約束した。

 学生たちが帰ったのは、6時。

               77年7月18日(月)

 雨。新築の家は、ほとんど完成しているが、一部分、電気が入らない。

               77年7月19日(火)

 午後2時半。新橋、「ア−トコ−ヒ−」で、「二見」の三谷君に、「カトリ−ヌ」の最後の原稿をわたす。

 この作品には、私の・・が隠されている。

 3時、「コロンビア」で、「ザ・ディ−プ」(ピ−タ−・イェ−ツ監督)の試写を見た。新婚旅行でバ−ミュダにきたカップル(ニック・ノルティ/ジャクリ−ン・ビセット)が、海に潜って、麻薬のアンプルと、スペインの古金貨を発見する。この麻薬は戦時中、遭難して沈没した船のものらしい。これをめぐる悪人たちの動きにまき込まれたカップルに、灯台守(ロバ−ト・ショ−)が協力する。
 ジャクリ−ン・ビセットがいい。

 5時過ぎ、「実業之日本」、峯島さん、土山君に会う。原稿をわたした。
 N.N.と会う約束をしたのだが、会えなかった。

 6時半、「区民センタ−」。講義。
 早く帰ることにした。ところが、小岩で落雷事故。総武線のダイヤが乱れている。

 ルパ−ト・ポ−ルから手紙が届いていた。
 アナイスの件。今後は、「ユニ・エ−ジェンシ−」の青木 日出夫君と、ガンサ−の交渉になる。ちょっと、あきれた。この内容を見た瞬間、ああ、これでアナイスの「日記」は出せないなと思った。これまでの私の努力は失敗に終わった。
 「実業之日本」は、ガンサ−の条件をアクセプトしないだろう。アナイスが来日したとき、私と辻 邦生に会ったが、青木 日出夫君が通訳してくれたのだった。
 アナイスが、ガンサ−に、翻訳権の交渉は、私でなく青木君に変更するようにすすめたのかも知れない。
 私としては、青木君がガンサ−をうまく説得してほしいと思うが、おそらくこれはむずかしいだろう。それにしても、アナイス出版は、どうしてこんなにむずかしいのか。

 杉崎 和子女史から手紙。私のファン、初山さんから手紙。


               77年7月20日(水)

 家はほぼ完成。百合子が家財道具を運びはじめた。

               77年7月21日(木)

 「研究社」の伊藤 康司君。 ポ−ノグラフィ−論の依頼。引き受ける。

 「ニュ−ヨ−ク・ニュ−ヨ−ク」(マ−ティン・スコセシ監督)。
 太平洋戦争が終わった日。ニュ−ヨ−クじゅうが沸き立っている。サックス奏者、「ジミ−」(ロバ−ト・デニ−ロ)と、しがない歌手、「フランシ−ン」(ライザ・ミネッリ)が、その興奮のさなかに出会って結婚する。しかし、ポップスのシンガ−と、バップ系のジャズをめざすミュ−ジシャンではソリがあわない。すぐに離婚してしまう。数年後、「フランシ−ン」は、「ジミ−」作曲の「ニュ−ヨ−ク・ニュ−ヨ−ク」という曲を歌って成功する。ライザ・ミネッリは、歌唱力のある女優で、しがない境遇にもめげずに歌を歌っているニュ−ヨ−クの女の子をやっている。
 試写に小野 耕世さんがきていたので、「ニュ−ヨ−ク・ニュ−ヨ−ク」について。
 さすがに、いい感想を聞かせてくれた。
 「研究社」の伊藤 康司君と、「ルノワ−ル」に行く。「双葉社」の沼田君、渡辺君に原稿をわたす。そのあと、青木 日出夫君。彼は、「デルタ」を「日記」とコミでどこかに売り込むつもり。1万ドルで。これは、私の予想通りだった。
 「実業之日本」、峯島さん、土山君にメモ。

 「区民センタ−」で講義。

 帰り、受講生の星さんと近くの喫茶店に。

 「読売」から、「ガリバルデイ通りの家」が届いてきたので、すぐに読みはじめる。
 夜、「日経」、青柳君から、美術評論家、石子 順造の訃報。
 青柳君は、追悼を書いてほしかったらしいが、私は石子 順造と面識がなかった。

 「文芸」の寺田 博が、「河出」をやめたという。「東京新聞」の「大波小波」で知った。

2018/09/30(Sun)  1780 〈1977年日記 27〉
 
                 77年7月14日(木)

 「日経」、青柳君に電話。会う時間を夕方5時に変更してもらう。
 3時から、「ビリティス」(ディヴィッド・ハミルトン監督)の試写を見るつもりだったが、これもやめにした。こんな状態で美少女映画を見たら、歯痛がますますひどくなるので。
 5時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、三戸森 毅(三田村 裕)君に会って、ロバ−ト・ディ−トリチ、もう1冊、ウィリアム・ハ−ディの原書をわたす。三戸森君は、私より年長で、じゅうぶんな実力がありながら、いい仕事にめぐまれず、あまり評判にならない翻訳家だった。この仕事が、彼の転機になればいいと思っている。

 「双葉社」の渡辺君は原稿を受けとると、すぐに帰った。5時までに原稿をわたさないと、露骨に嫌な顔をする。私の会ったなかでは、きわめてめずらしいタイプの編集者。
 「三笠書房」の三谷君に「カトリ−ヌ」の原稿を。「日経」の青柳君に原稿をわたした。
 銀座の「夢二画廊」に行く。
 小林 正治の個展。

 小林君が、令兄に紹介してくれた。山梨で、国産のワイン、「ソレイユ」を醸造している人だった。画廊の小村さんに挨拶する。
 パンフレットに、私の推薦文が載っている。版画1枚を買った。

 「区民センタ−」で、講義を終えたあと、加藤さんをさそってコ−ヒ−を飲んだ。彼女はやや細おもて、目もとに一種の魅力をもった女性だった。個人的に、版画(リトグラフ、メゾティント)を売っている。知的な女性で、私の本も読んでいる。「ルクレツィア・ボルジア」を読んでいる受講生がいても不思議ではないが、「マキャヴェッリ」を読んでいると知って驚いた。新聞で私の名を見て、すぐに受講を申し込んだという。うれしくなったとたんに歯が痛くなった。
 帰宅して、「サリドン」を1錠飲んだが、歯痛はやまない。講義を終えたあと、美人とコ−ヒ−を飲んだりするからバチが当たった。
 深夜、1時過ぎに、もう1錠飲んだ。それでも歯痛はやまない。氷をあてて冷やしたり、ついには歯のウロにクレオソ−トをつめ込んだり。それでもダメで、とうとう気分を変えるため、真夜中に庭に出た。
 部屋に戻って、この日記をつけている。
 いつの間にか、眠ったらしい。

 もう一つ、思い出したので書いておく。植草 甚一さんから、「ぼくのニュ−ヨ−ク地図ができるまで」を頂戴した。いつもなら、すぐに読むのだが、歯痛なので、明日に読むことにしよう。


                 77年7月15日(金)

 まだ歯痛が残っている。そして、暑い。

 5時に、大村 美根子さんに、原書をわたすつもりだったが、彼女は、体調をくずしたため、会えないといってきた。残念だが、仕方がない。
 「二見書房」の長谷川君に原稿。長谷川君は、ベテランの登山者。月末の中田パ−ティ−に参加する予定。

 「区民センタ−」で講義。
 帰りに、加藤さんが待っていてくれるかと思ったが、彼女の姿はなかった。なんとなく残念な気がする。
 帰りは、そのまま帰らずに川崎に出た。

 ニュ−ヨ−クで大停電が起きた。
 マンハッタン、ハ−レム、ブロンクスでは、黒人を中心にした略奪が横行した。
 14日の夕方までに3000人が逮捕された。
 ブルックリン、ベットフォ−ド・スタイブサントでは、ガラスの破片で足に怪我をした負傷者が続出。すさまじい暴動が起きた。

 歌手のN.O.が、就寝中、賊に襲われた。15日午前1時過ぎ、港区三田、・・室、N.O.18歳の室内に、覆面の若い男が、ベランダの窓から侵入し、ベッドで台本をよんでいたN.O.に果物ナイフを突きつけた。彼女はナイフを両手でつかんで抵抗し、両手に怪我をした。男は、ネクタイのようなもので彼女の両手足をしばり、さるぐつわをかませた。この事件は、N.O.にとってはキャリア−にかかわるだろう。

2018/09/26(Wed)  1779 〈1977年日記 26〉
 
                 77年7月11日(月)

 9日から、「国立近代美術館」で、戦争を描いた美術作品がひっそりと公開された。いまさら戦争画などを見てどうするのか、という思いはあったが、太平洋戦争の記録という意味で見ておきたかった。
 はじめて公開された戦争画は4点。

   清水 登之 「工兵隊架橋作業」(戦時特別文展・陸軍省特別出品)1944年
   中村 研一 「コタ・バル」(第一回大東亜戦争美術展・1942年)
   藤田 嗣治 「ハルハ河畔戦闘図」(第二回聖戦美術展・1941年)
   宮本 三郎 「山下・パ−シバル両中将会見図・(第一回大東亜戦争美術展・1942年)

 私は、あくまで美術作品として見た。この4点はそれぞれすぐれた絵として保存すべきだと考える。
 画壇では、戦争を描いたから「戦犯」、描かなかったから「戦争反対」と、画家を裁断する気風があるらしいが、こうした批判は、あまりにも単純すぎる。これらの絵は戦争を記録した絵画として冷静に見てしかるべきもの、同時に、それぞれ真摯に戦争に向かいあった芸術家の仕事として評価すべきものと考える。
 藤田 嗣治の絵は「ガダルカナル」の兵士を描いた一枚にはおよばないと思う。宮本 三郎の絵は写真をみて描いたと思われるが、開戦そうそうの熱狂的な気分と、「戦後」の、山下大将の戦犯裁判を思い出して、深い感慨にとらえられた。

 いい絵はいい、というべきだろう。


                 77年7月12日(火)

 この1週間、東奔西走していた。
 7日、8日とつづけて、「太田区民センタ−」で講義。(「メディチ家の歴史」。最後なので、「メディチ家」をとりあげた。10日、安東、吉沢君といっしょに大カラス。新人として、鈴木 和子、野村 由美子。11日、「国立近代美術館」。私は、少年時代に友人だった前田 恵二郎、木村 利治、金子 富雄たちのことを思い出しながら見た。
 みんな、戦争の被害者だった。
 原稿は、「三笠書房」、「週刊サンケイ」、連載の分。
 その間に、杉崎女史がアメリカに行った。10日、私は不在だったが、夫君といっしょにわが家に来訪。百合子が応対した。私はおふたりの来訪にほんとうに恐縮した。

 今日は、井上 篤夫、本戸 淳子に会って、原書をわたした。ふたりとも、優秀な翻訳家である。

 大学。前期の最終講義。これで、やっと、まとまった仕事にとりかかれる。

 選挙は自民党が過半数を維持した。
 社共が後退したのりは当然といえるだろう。これで、成田・石橋体制は転換することになる。宮本 顕治はあらためて自分の不人気に気がつくだろう。


                 77年7月13日(水)

 きびしい暑さ。梅雨あけ。

 A・サマ−ズ、T・マンゴ−ルドの「ロマノフ家の最後」を読みはじめたが、面白くて、途中でやめられなくなった。おかげで、石本に渡す原稿が書けなかった。
 ロシア革命は、私にとって大きな関心の一つ。ロマノフ家の悲運も、いつか真剣に追求したいテ−マなのだ。E・H・カ−を読んで、ロマノフ家に関心をもったが、やがてコリン・ウィルソンの「ラスプ−チン」を読んで、少し方向が変わってきた。
 私は、ひそかにステファン・ツヴァイクを目標にしているのだが、「ラスプ−チン」を読んで、コリン・ウィルソンも意識するようになった。

2018/09/24(Mon)  1778 〈1977年日記 25〉
 
                 77年7月5日(火)

 清水 徹君の「読書のユ−トピア」を読んでいるところに、「どこにもない都市 どこにもない書物」が届いた。
 ある時代の批評家は、それぞれの立場、理解力は異なっても、その時代の共同研究者といっていい。清水君は頭のいい批評家で、つぎつぎにいい仕事をしている。この本からもいろいろと学んだ。
 現在の作家のものをあまり読まないので、清水君の本からいろいろと教えられたが――現代作家とつきあうのもたいへんだな、という気がした。

 和田 芳恵さんから挨拶が届いた。肺気腫になられたという。

 これからも、いいお仕事をなさるようにと心から願わずにいられない。

 大学に行く。まだ咳が出るので、途中で咳き込まないように何度も息をとめたりする。
 講義を終えて、Y.T.、下沢と、かるい食事。
 下沢は、私とY.T.に気をくばって、あまり話をしない。


                 77年7月6日(水)

 杉崎 和子女史から電話。
 「デルタ・オヴ・ヴィ−ナス」に関して、ルパ−ト・ポ−ルから連絡があったという。
 エ−ジェントのガンサ−・スタ−ルマンの要請で――ロイヤリティ−・スケジュ−ルを明記すること。サブサイダリ−・ライツに関して、ロイヤリティ−を設定すること。
 その他。
 ガンサ−は、アナイスの「日記」の翻訳権をとった「河出書房」の契約が切れているので、日本で全巻出してほしい、といってきた。つまり、あくまで「実業之日本」で出せ、という意味だった。これは困った。どうしても無理だと思う。

 アナイスの「日記」の翻訳は、すでに原 真佐子訳が出ている。(これは、私にもいささかの責任がある。私は多忙だったため、「日記」の翻訳に手をつけなかった。それを知った原 真佐子が私に電話をかけてきて、自分が翻訳したいといってきた。残念ながら、この本はろくに売れなかった。)
 現在、あらためて全巻(6冊)を出せといわれても、「実業之日本」にそんな力はない。私は、ガンサ−・スタ−ルマンが、日本の出版界の実情を知らなさすぎる、と思った。「実業之日本」としても、まず、売れるものを出してから、アナイス・ニンを出したいと思うだろう。
 私としては、ぜひにもアナイスを出したい。しかし、「実業之日本」にもちかけても、峰島さんはひるむだろう。

 ルパ−トのアドレス。
  22×× Hidalgo Ave.,Los Angeles,90035


                77年7月7日(木)

 午前中、「沖田 総司」を書いていて、「ザ・ディ−プ」(ピ−タ−・イエ−ツ監督)の試写に行けなかった。ジャクリ−ン・ビセットが出ているのに。
 1時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、渡辺君に原稿をわたす。「二見書房」、長谷川君に校正をわたしたが、「三笠書房」の三谷君には原稿をわたせなかった。申し訳ない。

 2時、「実業之日本」、峰島さんに会う。
 アナイスの件。ロイヤリティ−は、契約時に1500ドル。出版時に1500ドル。1万部以上〜3万部までの部数に対して500ドルの追加。サブサイダリ−・ロイヤリティ−に関しては、白紙。アナイスの「日記」出版に関しては考慮するが、目下は、「デルタ」が成功するかどうかにかかっている。
 ガンサ−・スタ−ルマンに対しては、こういう返事を送ることにした。私はアナイスのエ−ジェントではないので、今後、交渉が長引いたり、むずかしいことになるようだったら、「河出」の竹田 博さんに、ガンサ−・スタ−ルマンとの交渉を依頼しようか、と考えている。(これには理由があるのだが、ここには書かない。)
 峰島さんに対して、私は――「実業之日本」のために、ミステリ−を選んで、翻訳すると確約した。原作がきまったら、すぐに翻訳にかかる予定。スケジュ−ルはキツいが、「実業之日本」のシリ−ズのトップ・バッタ−は、私以外にはいないだろうから。

 6時半、蒲田。古本屋を歩いていて、ポ−リナ・ス−スロヴァの「日記」を見つけた。一瞬、ドキッとした。まさか、こんなところに、ドストエフスキ−の恋人の「日記」がころがっているとは思わなかった。血圧が高くなっているのがわかる。教室に向かう途中、不意にカミナリが鳴って、はげしい雨が降ってきた。みんなが、走ったり、逃げまどっている。本が濡れないようにしっかり抱えて、雨にうたれながら、区役所(教室か?)に入った。ただもう、ポ−リナ・ス−スロヴァのことばかり考えて。
 教室にいた受講生は、12,3人。

 私は、パリに行ったドストエフスキ−が、ポ−リナと落ち合った状況をマクラにフッてから、今学期最後の講義に入った。昂奮した気分を抑えた。講義はうまくいった、と思う。

 変なことを思い出した。
 ニュ−ヨ−クに行ったとき、シャツを数枚買った。私の買った安い衣料は、全部が、韓国製やインド製だった。どこに行っても、Made in Japan は見当たらなかった。どうやら、安い衣料の部門では、日本の生産は駆逐されている。そのとき、日本の輸出は、車や電子機器の分野で大きく伸びているが、他の分野では敗退を余儀なくされている。
 当時の私は、この現象をどう見てよいのかわからなかった。ただ驚いた。

 この日記に、どうしてこんなことを書いておくのか、自分でも説明がつかないのだが。


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