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2021/11/21(Sun)  1952〈少年時代 38〉
 
 あくる朝、私は起きてすぐに楽屋裏に出た。
 それまでは、楽屋から舞台に出ても、何も感じなかったのに、その日は、舞台を通るのが恐ろしかった。舞台を通らずに枡席に出た。
 
 舞台に老大工がいて、何かの作業をしていた。いつも見慣れていることなので、いくらか安心しながらそばに寄っていった。大工さんは、障子の木枠を床(ゆか)において紙の張り替えをしていた。舞台の装置を作っているらしい。作業を終えると、その障子に長い定規をあてて、バケツに溶いたフノリに刷毛をとって泥絵の具で枡目の線を引く。たちまち、一枚の障子ができあがった。 
 
 この瞬間、私はほとんど自失していた。私が見たのは、昨日、オバケが突き破った障子だった。
 
 子どもの私は、はじめて舞台装置というものがあることを知ったのだった。芝居というものは、こうして作られるのかという驚きがあった。老大工は、手際よく障子紙を張って、泥絵具をつけた刷毛で、障子の桟(さん)を描いてゆく。
 
 これなら、オバケが障子を突き破って出てきても不思議ではない。幼い私は、芝居というものが、こういう作業の上でなりたつものとはじめて知った。
 これが、私の内面に芝居というものは誰かの手によって作られるものだという「発見」を呼び起こした。

 この障子を見たとき私は驚いたが、なぜか自分の心が、不意にあかるくなったような気がする。これならいくらオバケが障子の桟(さん)を突き破って出てきてもおそろしくない。私は、ほとんど茫然として、老大工の仕事を見ていた。
 このときの私が何を考えたのか、今となっては思い出せないのだが、ただ茫然としていたようだった。ただし、自分の知らなかったことを知ったという思いに胸が波立つのを感じた。
 
 それだけの経験にすぎない。
 
 今になってみると、後年の私が舞台の仕事をつづけたのも、この発見になんらかのかかわりがあるような気がする。
 
 ただし、その晩の芝居は見なかった。役者の動きや段取りもわかっていたが、話のスジや、役者のセリフがわかっているだけに、怖くて怖くて舞台を見る勇気はなかった。

2021/11/16(Tue)  1951〈少年時代 37〉
 
 ずっとあとになって、台本は大南北の「東海道四谷怪談」と思いあたったが、浪宅の場で、按摩の宅悦、主人公の伊右衛門、関口官蔵、伴助、小仏小平が集まっている。
 上手の障子をあけると、面体(めんてい)もすさまじいお岩が寝ている、という早替わりの場面など、ただふるえおののいて早く芝居が終わらないかと必死に祈っていた。
 髪を乱れるにまかせたお岩は膿みくずれた形相(ぎょうそう)で、その切れ長のまぶたのあたりに、恨みをたたえている。その姿には、ものしずかな、というよりも、むしろもの倦げな表情があった。だから、岩が伊右衛門にいびり殺されて、怨霊が障子の桟(さん)を突きやぶって出現したときは、恐怖が極限に達した。
 オバケは我と我が心臓を噛み裂くような形相(ぎょうそう)を見せていた。私は悲鳴をあげて、桟敷から逃げ出した。

 その晩の私は、あまりのおそろしさにおびえて、祖母にすがりついて泣いた。

2021/11/14(Sun)  1950〈少年時代 36〉
 
 塩釜のドサまわり。有名な芝居をかけるわけではないし、ストーリーも適当な芝居をつなぎあわせて、その場しのぎのドサまわりだったに違いない。
 玄冶店(げんやだな)らしい芝居も、私の記憶にぼんやり残っている。
 
 お富という美しい女が海岸で、これも美男の若旦那、与三郎と出会う。
 この与三郎が、「三十四ケ所の刀疵、これも誰ゆえお富ゆえ」という「切られ与三」になって、お富と再会する。これが横櫛のお富で、蝙蝠安がからんでくる。

 「額をかけて七十五針、怱身の疵に色恋も、さった峠の、崖っぷち」
 のゆすりや、大詰め、畜生塚の場で、出刃を逆手の蝙蝠安殺しなど、子どもながら、すごいなあ、と見ていた。
       
 夏場は怪談の演目を出す。これが私を恐怖に陥れた。ストーリーはよくわからなかったが芝居の仕組みがおどろおどろしい。さらには、責め道具、仕掛けもののお化け芝居なので、恐ろしさのあまり畳につっぷして、舞台を見ないようにしてふるえていた。

2021/11/07(Sun)  1949〈少年時代 35〉
 
 昭和8年(1933年)の夏休み、私は祖母のあいといっしょに塩釜(しおがま)で過ごした。
 石巻(いしのまき)は仙台から電車で1時間ほどの小さな漁港で、松島の北西にあたる。当時、仙台の人口は、18万程度。石巻(いしのまき)の人口はざっと2万程度だったから、塩釜はおそらく1万にみたない小さな漁港だったと思われる。

 町の中心部には、カフェや、居酒屋、食堂などの建ちならぶ歓楽街や活動写真の劇場もあって、けっこう賑やかな町だった。 

 ただ、プールの近くに、小さな芝居小屋、兼映画館があって、その映画館で上映される活動写真を見ることが多かった。

 塩釜(しおがま)で過ごした頃のことは、ぼんやりとおぼえているだけだが、夏のあいだだけ営業するプールの管理人をやっていた祖母に預けられて、プールの部屋に住み込みで暮らしていたことを思い出す。

 プールといっても、セメントを打っただけのもので、今の競技用のプールとは比較にならない。都会の小学校にもプールがなかった時代で、水産会社の生け簀を利用して、夏場の子どもたちのプールにしたのではなかったか。
 私は、誰もいないプールの回りを歩いたり、透明な水の揺らぎを眺めていた。自分が、どうしてプールの管理人に預けられたのか、それも考えなかった。
 祖母のあいは、この映画館の小さな売店をまかされていた。
 どういう経緯があったのかわからないが、私の祖母、西浦 あいは、昼間はプールの管理人、夜は活動写真の劇場に雇われていた。つまり、両方の仕事のかけもちでアルバイトをやっていたことになる。

 アルバイトをかけもちして働かなければならなかった。つまりは、それ程貧しかったのか。あるいは、別の事情があったのか。
 幼い私がそんなことを考えたわけではない。ただ、「あい」が私の母、宇免の紹介で劇場の売店を引き受けて、観客にビール、サイダー、ラムネなどを売っていたことはまちがいない。

 都会では、無声映画からトーキーに転換していたが、この劇場は、昼間は弁士が活動写真の説明をするが、夜は、ドサまわりの劇団が、芝居を打つ。ときには、浪曲師が浪花節をうなるといった大衆向けの芝居小屋だった。

 ドサまわりの劇団のレパートリーは歌舞伎が多く、「近頃河原の達引」などを適当な長さにダイジェストしたものを見たのではないか。
 子どもの私は、板敷の枡席かゴザか筵(ムシロ)のような古畳を敷いた桟敷に座って、芝居を見た。「お俊傳兵衛」が、母や兄に暇乞いをして、義太夫の
   
    やつす姿のめおと連、名を絵草紙に、聖護院(しょうごいん)森をあてどに
    たどりゆく

 ぐらいは理解できた。さて、ふたりが森に着いて、いろいろの口説きや色模様の果てに、今にも相対死にという段になって、死なずにすむことになる。そればかりか、「お俊」も「傳兵衛」も夫婦になるので観客も大よろこび。そんな芝居をかすかにおぼえている。

2021/10/31(Sun)  1948〈少年時代 34〉

 少年時代における対人関係や、社会的な適応が、身体の成熟の度合いによって大きな影響をうける。ただし、そうした身体の成熟の度合いと、その少年少女の内面にひそむさまざまなモーティヴェーション、自己観、その対人関係となると、これはむずかしい。

 たとえば少女の場合、身体的に少年よりも早熟なことが多く、性的なことを含めていろいろなことに興味をもつだろう。また、早熟な少年は、そうでない少年(かりに晩熟な少年といっておく)とは、その行動や評判などに差が出てくる。
 そして、身体的に発達が遅れた少年少女(たとえば、私のようなチビ)は、からだの魅力、身だしなみ、気どりのなさなどの点で、早熟な少年少女たちよりも劣っている。そのかわり、愛想のよさ、他人の注目を浴びたがったり、子どもっぽさ、何かに対する熱心さにおいてすぐれている。

 むろん、これは一般論にすぎない。しかし、チビのほうが、落ち着きがなくて、さわがしい、子どもっぽい、ときにはみっともない行動をとる、といったマイナスの面が見られる。

2021/10/24(Sun)  1947〈少年時代 33〉
 
 眼がさめた。私は清水小路ではなく、塩釜のプールにいた。まるで魔法のように。両親といっしょではなく、日頃、身近にいるはずのない祖母のあいと一緒にいるのだった。
 あいは、私の母、宇免の母親なので、私にとっては祖母にあたる。
 
 祖母と過ごすことがどんなに楽しかったか。小学校で友だちといっしょに過ごすよりも、祖母といっしょにいるほうがずっと楽しかった。

 歌舞伎が好きだった。ただし、あいの行動半径はきわめて狭く、本所の小芝居、寿座が好きで、新之助のファンだった。
 顔見世から、初春、弥生、皐月(さつき)、菊月と欠かさず興行を見に行く。夏の興行は休みになるので、それを利用して私の相手をしてくれたのではないか。 
 当時の菊五郎、羽左衛門、三津五郎のような大名題は好きではなかった。

 関東大震災(1923年)のとき、大火が本所、浅草に迫ったとき、浅草の観音さまも炎上するところだった。ところが、このとき団十郎が、大音声で、アイヤ、しばらく、暫くと叫んだ。この声にもさしもの火勢いも、ここでぴたりととまった。これが、大評判になったという。
 あいは、そんな話を幼い私にしてくれた。本気で信じていたのだろう。
 1945年のアメリカ空軍の空襲で、わが家も浅草の観音堂も焼失したが、あいは、新之助でも効かなかったろうねえ、といった。

 2021年、東京オリンピックが開催された。この開会式の祝いごとに、団十郎の「暫」が出た。日本人なら、「暫」の意味が理解できるだろうが、外国人選手たちには「暫」を見ても、あまり意味がなかったと思われる。私は、団十郎を見ながら、祖母のあいがこれを見たらどういうだろう、と思った。
 こんなことを書くのはかなり気恥ずかしいのだが、私は「おバアちゃん子」として育ったせいもある。

2021/10/17(Sun)  1946〈少年時代 32〉
 
 昭和8年(1933年)の夏休み、私は塩釜(しおがま)で過ごした。

 夏休み。今が自分の人生でも一番幸福だと思える時期。もっと幸福だったのは、大好きな祖母のあいといっしょに塩釜で過ごしたことだった。
 少年にとっては、自分が何かの事実にじかに向きあうのが、夏という季節なのだ。ゆえにこそ、夏は少年にとって「フロンティア」なのだ。

 私は、仙台で育ったことから、なぜか、自分の感情や情緒の動きに不適応感をもちつづけてきたと思う。
 当時、仙台の人口は、18万程度。石巻(いしのまき)の人口はざっと2万程度だが、塩釜はその石巻に接した漁村で、人口はせいぜい数千にみたない小さな田舎町だった。
 仙台は、多聞(たもん)中将のひきいる第二師団が置かれて、東奥(とうおう)の覇権をめざす軍国主義のさかんな都市だったが、塩釜は、昔から変わらない漁村で、ようするに、仙台のように軍国的なソフィスティケーションではなく、土地のすべてがどこか江戸時代をしのばせる過去と、発展をめざす現在を見せていた。
       
 塩釜(しおがま)は仙台から電車で1時間ほどの小さな漁港で、松島の北西にあたる。
 漁船は遠く千島や、カムチャッカまでサケ漁に出向いたり、近くの利府(りふ)の梨作り、小さな造船所で作る木造船の匂い、大漁旗をひらめかせて、繋船岸にひしめく漁船の群れ。 それでも町の中心部には、カフェや、居酒屋、食堂などの建ちならぶ歓楽街や活動写真の劇場もあって、けっこう賑やかな町だった。 

 「おバアちゃん子」について調べたことはないが、幼い頃に祖父か祖母にそだてられた少年少女たちは、成人に達してからも、目上の人、同輩、あるいは異性に対する態度、そのとり扱い、受け入れかたに、なんらかの特徴が見られるかも知れない。

 祖母のあいは、貧しい田舎に生まれ、貧しく育って、小学校もろくに通えなかったらしい。あいは、少しも美人ではなかった。気のつよい女だった。眼がするどくて、相手を一瞬で見抜くようなところがあった。
 
 日露戦争から復員してきた兵士と恋仲になって、娘の宇免(うめ)を生んだが、その兵士が急死したため、淫奔女(いたずらむすめ)とそしられた。今でいうシングルマザーだが、明治末期の片田舎で、未婚の娘が生まれたばかりの父なし子を育てることもむずかしかった。戸籍上、生まれたばかりの娘の宇免を、従兄の西浦 美代松の養女にして東京に出た。
 いろいろな職業を輾転としたが、大森に移って、炭屋を営んだ。宇免が、大森の素封家の家に子守女として雇われたのもこの頃のことだったろう。
 あいはこの時期に結婚して、勝三郎(宇免の異父弟)を生んだ。

2021/10/10(Sun)  1945〈少年時代 31〉
 
 小学3年生という時期は、何というあわただしさで過ぎ去ったことか。

  私は学校から帰宅すると、少年倶楽部を読みふけるようになった。毎月届けられる少年雑誌だった。
 マンガに夢中になった。
 
 この時期の少年としては、他人の注目を惹こうとする少年で、落ちつきがなく、いつまでも子どもっぽい性格だったらしい。 
 むろん、マンガだけではない。山中 峯太郎、高垣 眸の冒険小説、佐藤 紅緑の少年小説などに夢中になった。
 私が、少年倶楽部を読みふけるようになったことと、彦三郎先生に無視されたことにはなんの関係もない。しかし、少年倶楽部を読みふけるようになったのは、学校の授業がおもしろくなかったせいで、彦三郎先生から受けた冷たい教育の影響がなかったとはいい切れないと思う。ようするにウマがあわなかった、ということだったのではないだろうか。この年、私は優等生になれなかった。

 私は、マルローのように自分の少年期を憎んではいない。ただ、人生の早い時期に、厳格で、謹直な彦三郎先生の教育を受けたことを嬉しく思っている。
 先生に対する敬愛は変わらない。しかし、それ以後の私は、意識的に彦三郎先生のようなタイプの先生に近づかないようになったからである。
 今となっては、彦三郎先生にむしろ感謝しているといったほうがいい。

 ある日、私は父の書棚にあった本を手にした。
 芥川 龍之介という作家の短編集だった。その1編を読んだ。みじかいので、すぐに読み終えた。読み終えたとき、何だ、これは? と思った。それまで、「少年倶楽部」で読んできた小説とは、まったく違うものだった。私の読んだものは、大奥の茶坊主、「河内山宗俊」という人物が、加賀の前田侯にとり入って、まんまと銀の煙管をせしめる、といった内容の短編だった。
 この瞬間に、私は小説を読む面白さを知ったのだった。
 つづいて、私は、別の本を手にした。ジョン・ラスキン。「黄金の河の王さま」という寓話めいた小説だった。このときも、これは何だろう? という疑問と、この中編も、やはり小説なのだろうか、という疑問が生まれた。

 好奇心のつよい少年だった私は、芥川 龍之介、ラスキンを手がかりにして、それ以外の作家たちにも眼を向けはじめた。

2021/10/03(Sun)  1944〈少年時代 30〉
 
 ある日、転校生が私たちのクラスに入ってきた。
 ジャフルという。父親はインド人で、母は日本人だった。ジャフルの父は、当時の仙台ではまだ珍しかったガソリンスタンドを経営していた。

 ジャフルの本名はジャワハルラルだった。(あくまで想像だが、ひょっとすると、ガンディーの後継者だったバンディット・ジャワハルラル・ネルーにあやかってつけられたのではないかと思う)。
 ジャフルは、見るからにインド人らしい剽悍な美少年だった。ジャフルが、どういう少年時代をすごしたか知らない。私とおなじチビのくせに気が強くて、体力的にもどっしりした少年で、やたらに喧嘩ッ早い。うっかり「あいのこ」などといおうものなら、たちまち殴りかかってくる。
 
 はじめてクラスに入ってきたとき、ジャフルはすぐにクラスの2、3人と取っ組み合いの喧嘩をはじめて相手を殴り倒した。それも、相手の顔面を正面から拳で殴りつけ鼻血を出させるというすさまじいもので、小学生の喧嘩とはいえない程のものだった。
 いきなり派手な殴りあいをみせたジャフルは、転校前の学校でもおなじような経験をしてきたらしい。しかし、戦前の日本で、肌の色が違うというだけで差別されてきたことは想像できた。
 一方、女生徒たちは、この美少年に魅せられた。たいへんな評判になって、昼休みになると,よそのクラスの女の子たちが私のクラスに押し寄せてきた。
 ジャフルは、これも経験していたらしく,女の子たちに話しかけたり,手を振ってみせたりした。

 雨の日の体育は、講堂で行われる。
 たいていは馬飛びかドッジボールというスポーツで、ドッジボールは、単純なルールの球技だった。
 長方形のフロアを二分する。それぞれのフロアにプレイヤーが入る。外側に、敵方のメンバーが立って、敵方にボールを当てられたら、アウトになる。そのままフロアの外に出て、今度は、相手チームの生き残ったメンバーを攻撃する。

 ある日、体育に使われている講堂で、ジャフルが何か悪戯をした。女の子をからかったか、何かいったのか。事情はわからない。
 そのとき、彦三郎先生が、ジャフルの襟をつかんで、いきなり、足を払った。ジャフルは宙を飛んで、フロアに投げ出された。ジャフルは倒れたが、すぐに反撃しようとした。しかし、はじめから互角に勝負できる相手ではない。何かわからない言葉を叫びながら、その場から走り去った。
 翌日から、ジャフルは登校しなくなった。

 私は、このときの彦三郎先生に反感をもったり反発したわけではない。しかし、ジャフルをつかまえてお説教するならまだしも、いきなり体罰を加えるようなことはすべきではない。

 ジャフルが、荒町尋常小学校に在籍したのは、わずか2カ月だった。ジャフルの一家はしばらくして東京に引っ越して行ったという。昭和初期の仙台では、モータリゼーションも未発達で、市内で走るセダンを見ることも少なかった。当時の先端的なビジネスとしてもガソリンスタンドの経営はうまくいかなかったらしい。私たちは、転校生だったジャフルのことを、もう誰ひとり話題にしなくなった。

 2学期になって、私は授業に熱心ではなくなった。

 ようするに、肌があわなかったとしかいいようがない。
 私の成績は落ちた。

2021/09/26(Sun)  1943〈少年時代 29〉
 
 バルザックは「従兄ポンス」で書いているように、「ある先天的な感情、つまり好奇心という、人間の性質のうちでもっともつよい感情」が異常なほどつよかった。好奇心はそれこそ作家の資質を形成するもっとも重要な要因をなしていた。

 小学3年生の子どもの内面に、なぜか深い変化が生じた。
 それまでの、平穏無事な世界から、不意に、すべて無関心からできている別の世界に落ち込むようなことがどうして起きるのか。
 すべての事柄から、いきなり日常の効果が失われ、そこに自分の姿を認めさせてくれるものが消滅して行く。

 私は、自分の置かれた環境に不適応感をもった。そして、自分が、ある種の人びとからいつも距離をおいた形で見られていることに気がついた。
 このことは、後年になっても私に影響したと思う。

2021/09/19(Sun)  1942〈少年時代 28〉
 
 当時、巷で流行っていた歌を思い出す。
 「二村定一」(ふたむら・ていいち)が歌っていた「青空」。「狭いながらも楽しい我が家」のメロディーは、子どもたちもよく歌った。それに、「オレは村じゅうで一番モボだといわれた男」といったメロディーも、よく歌ったものだった。

 1934年、千田 是也が、「東京演劇集団」を結成して、ブレヒトの「三文オペラ」を演出したとき、エノケン(榎本健一)と一緒に二村定一を起用した。当時のエノケンの人気は、たいへんなものだったが、二村定一がいなかったら、エノケンもあれほどの成功をおさめなかったと思われる。「青空」もエノケンが歌っているが、オリジナルは二村定一とデュエットで、私のような小学生も、エノケンのファンだったから、「青空」を歌ったものだった。

 彦三郎先生は、そんな私の軽薄なところがお嫌いだったのではないかと思う。

 今、思い出そうとしてもこの先生に親しみを覚えた記憶はない。綺麗さっぱり消えている。むろんどんな授業を受けたのか、教室での思い出はほとんどない。
 3年生の学期の最後に、私は優等生ではなくなっていた。通信簿には、乙という評価が並んでいた。

2021/09/12(Sun)  1941〈少年時代 27〉
 
 仙台弁で、オボンコということばがある。私は、級友のひとりから、
 おめはぁ、オボンコだかんな。
 といわれた。先生に贔屓されている、という意味だった。私は、自分が担任の先生に特別に贔屓されているのだろうか。そういわれてみると、同学年の女子クラスの先生たちも、私の名前を知っていたようだった。
 もう、退職まぢかだった内馬場先生、40代で、結婚しないまま、小学校の教員を続けていた沢田先生も、声をかけてくれるようになっていた。
 級長になった生徒なので、職員室で、先生たちが、生徒のことを話したところで不思議ではない。
 しかし、私は、「オボンコだかんな」という言葉に、はじめて自分が周囲からどう見られているのか意識するようになった。
 小学3年生の子どもの内面に、なぜか深い変化が生じた。
 それまでの、平穏無事な世界から、不意に、すべて無関心、あるいはささやかな差別からできている別の世界に落ち込むようなことがどうして起きるのか。

 私の妹の純子は、小学校に入った。
 当時のクラスは男女組という「男女共学」のクラスはあったが、女性の教員が男女組の担任になることはめずらしかった。こんなところにも、当時の教育の封建的な空気がうかがえる。
 純子の担任は、これも柔道5段の大浦先生だったが、かなり厳しいスパルタ教育だったらしい。
 おとなしい純子は、自分の担任だった小学校の先生たちに特別な感情を持っていなかったが、小学校教育はひどいものだったという。
 純子は、初老の内馬場先生、40代の女性教員、沢田先生たちに教えられたが、何かにつけて、兄(耕治)に比較されるので、小学校の先生たちにひそかな恐怖をもつようになったという。
 私は、内馬場先生、沢田先生たちに可愛いがられた。

 小学3年生になった。
 担任は彦三郎先生。この先生の思い出はほとんどない。じつは先生の姓が佐藤だったか、鈴木だったか、もうおぼえてもいない。
 彦三郎先生の思い出もほとんどない。
 当時の小学校教諭、とくに中年から上の世代の先生たちは、きまって鼻下にチョビひげを貯えていた。彦三郎先生は柔道5段。チョビひげのせいで、威厳があった。同じ3年の女子クラスの担任だった大浦先生がやはり柔道5段で、ふたりとも県の体育関係の先生として有名だったらしい。

 先生のほうも、私にまったく関心がなかったのではないか。父親が外国系の会社に勤務している家庭で、比較的にリベラルな家庭環境に育った子どもになど、関心を持たなかったのだろう。
 彦三郎先生が直接、私を避けているとか無視しているわけではなかった。しかし、クラスにいる間、何か間接的な不安が自分のまわりに立ち込めている。そのあらわれは、漠然としたものだった。ただ、彦三郎先生の視野に私は入っていない。
 小学3年生の私は、そこにさだかならぬ、捉えどころのない、なにかにがい味を感じていた。

 彦三郎先生は、いつも私を避けているようだった。先生が何か質問をする。生徒たちがいっせいに手をあげる。先生がその一人を指さす。生徒が答える。不正解の場合は、すぐ別の生徒が当てられる。別にめずらしい光景ではない。ただ、私が手を上げても、ほとんど当てられなかった。
 はじめのうちは気がつかなかったのだが、やがて私は彦三郎先生にうとまれているような気がしてきた。
 おとなしい生徒だったから、めだたなかったわけではない。むろん、反抗的な生徒だったとも思えない。
 ただ、学校で彦三郎先生と、直接、口をきいたおぼえがない。私は先生に無視されつづけた。
 自分に何の過失のおぼえもなく、こちらから先生をきらっているわけでもないのに、何か取り返しのつかない違反を犯したのかも知れない。私は、不意にクラスの仲間たちから切り離されたようだった。

 当然、成績が落ちた。

2021/09/05(Sun)  1940〈少年時代 26〉
 
 私の家は、「真福寺」というお寺の斜め前だが、広瀬川に面した崖ッ淵に建っていた。すぐ後ろ側が、「真福寺」の墓地になっている。墓地としては、それほどひろくなかったが、それでも、墓場なのでほとんど人の姿を見ることはなかった。
 この墓場のはずれから、住宅地がつづいていたが、その境界に、一本、白木蓮の古木が立っていた。江戸時代に植樹されたという。みごとな古木で、しっかりした枝を四方に張り出して、あたりの墓や、住宅をしたがえて、そびえ立っていた。         

 昼間でも、その老木の下蔭は暗く、その樹の周囲は光を遮断しているようにみえた。

 ある日、私は、墓地の近くに住んでいた同級生のところに遊びに行った。たまたま、その子が不在だったので、墓地の中を歩いて帰ろうとした。
 あの白木蓮の近くに誰か立っているようだった。

 曇った日だったから、誰かが佇んでいたのか。私は、もう少し近くまで寄って行った。
 大きな樹木の下に、みすぼらしい白衣の老人が佇んでいる。身の丈ほどの古びた杖を地面につけて、片手でにぎりしめている。                  
 ややうつむき加減で、顔の表情はわからなかったが、顔の半分は、灰色のひげで覆われていた。とくに、顎から長いひげが垂れていた。私は、おもわずどきっとして、足をとめた。むしろ、足がすくんだといったほうがいい。
 蓬髪で、みすぼらしい白衣だが、乞食ではない。仙人のようだった。
 その老人を押し包むように、ほのかな光を発しているようだった。
 このときの私が感じたものは、しいていえば、畏怖とでもいおうか。
 この老人はこの世のものではない、という気がした。あたりは墓場なのだから死人が幽霊になって、この世をさまよっていても不思議ではない。しかし、幽霊ではなかった。
 私は恐怖をおぼえたわけではなかった。ただ、それまで一度も経験したことのないことにぶつかった。何か、この世ならぬものに出合っている。何か超自然の現象が老人の姿を借りて、みじろぎもせず立ちつくしている。

 正視してはならないものを見てしまった。全身がふるえた。私が見ているのは、一人の老人だったが、一人の老人の姿であって、同時にすべての老人の姿でもあった。私は、何かわけのわからない現象が、この老人の姿になって、出現したのだと思った。

 私は、老人に気づかれないように、後ずさりをしながら、近くの墓に隠れるように身をかがめた。ほんの5秒ばかり経って、もう一度、木蓮に目をやった。
 老人の姿はなかった。

 小学生の見たあの老人は、その後一度も現れたことはない。
 子どもの記憶なので、あくまで不確実なもの、不安定なものにすぎない。もの書きとして、それはよく知っている。それに、私の観察や、その情景を正確に表現できるとは思っていない。ただ、中国の絵に出てくる仙人のような老人だったことだけが心にのこった。
 そして、このときのいいしれぬ畏怖は、それからも私から離れなかった。
 しばらくして、あの老人は、木蓮の樹の精だったのだ、と思った。

 現在、私が住んでいる家の玄関先に、木蓮が植えてある。毎年、春の気配がただよいはじめると、まっさきに純白の花が開く。2021年、すでに白頭翁と化した私は、その輝きが好きで、しばしば玄関先に立つ木蓮の下に立って、純白の花を仰ぎ見ることがある。
 そして、あの老人の姿は、ひょっとして私自身の「現在」ではなかったか、とも思う。

2021/08/29(Sun)  1939〈少年時代 25〉
 
 「真福寺」は時宗(じしゅう)という浄土宗系の宗派で、一遍上人の開宗という。遊行宗(ゆぎょうしゅう)とも呼ばれる一派だが、この土地の菩提寺だったらしい。

 当時のお寺の数、僧侶の数を調べてみると、天台宗のお寺が、4425。真言宗のお寺が、1万1922。浄土宗のお寺が、8254。
 時宗のお寺は、494。
 僧侶の数も、天台宗のお坊さんが、2892人。真言宗のお坊さんが、7933人。浄土宗のお坊さんが、6588人。
 これに対して、時宗のお坊さんは、358人。(昭和8年現在)

 当時の仙台でも、時宗の寺はめずらしかったにちがいない。「真福寺」はあくまで小さな寺で、境内もせまかった。道をへだてて、これも狭い墓地があった。私の家は、「真福寺」の寺領で、すぐうしろが墓地になっていた。
 近くに住んでいる小学生たちは、朝早くから、和尚さんの読経(どきょう)と木魚の音を聞きながら登校するのだった。荒町尋常小学校からも近かった。
 清水小路から、土樋に引っ越したのも、小学校からも近かったことが大きな理由だったに違いない。

 幼い私はそんな事情を知るはずもない。私のお役目は、月に一度、「真福寺」に家賃を届けに行くことだった。

 庫裏(くり)に声をかける。障子が開いて、作務衣に白足袋の、年老いた和尚さんが出てくる。数珠をつまぐりながら、家賃を受けとってくれる。そして、筆で通帳に納入を記載すると、いつもきまって、仏前に供えた和菓子、「らくがん」を一つか二つ、私にくれるのだった。
 その落雁は、いつもお線香の匂いが移って、あまりおいしくなかった。

 この老僧は、人格的に、りっぱな和尚さんで、私は、その後、いろいろな寺僧を見るたびに、「真福寺」の和尚さんを思い出した。それほどにも心に残るお人柄だった。

2021/08/22(Sun)  1938〈少年時代 24〉
 
 昭和12年、それまで住んでいた清水小路から、土樋(つちどい」の家に引っ越した。土樋の家は、広瀬川に面した愛宕橋の袂の小さな一郭で、「真福寺」というお寺の斜め前、もともとは墓地にする予定の空き地、それも崖の上に建てられたものらしい。
 
 前に広瀬川、後ろがすぐに墓地という家作だったから、借り手がいなかったのかも知れない。

 私の家のすぐ右手、川に面した崖の一部に長方形の小さな池があって、その池(というより、2×1.5メートルばかりの水溜まり)が「首洗いの池」だった。笹と雑草が生い茂って、昼でも薄暗い池だが、私は毎日その池の横から、わずかな斜面を下りて、広瀬川のほとりで遊んだものだった。

 ただ、愛宕橋の袂の土地で、浪人、梁川 庄八(やながわしょうはち)が、伊達藩の家老、茂庭 周防守(もにわすほうのかみ)を青葉城の門外で襲い、その首級を刎ねて、逃走し、愛宕橋まで首尾よくたどり着いて、討ち果たした恨敵の首を洗ったという。梁川 庄八は、戦前の講談では、けっこう有名なヒーローだったが、今はもう、誰も知らないだろう。
 伊達騒動を描いた歌舞伎の「伽羅千代萩」は、大詰め、花道をのがれてくる外記とそれをおって揚げ幕から出てくる仁木の立ちまわりで知られているが、おなじ、奥州を舞台にした歌舞伎で、仙台の南にあたる白石城下に住む姉妹の仇討ちにもとずく「碁太平記白石噺(ごたいへいき・しろいしばなし)」は、それほど知られてはいない。
 (安永9年・1780)に人形浄瑠璃として上演され、すぐに歌舞伎化された。梁川庄八の仇討ちは、やはり人気がなかったのかも知れない。「戦後」は、復讐をテーマにしているために、このものがたりは公演されなくなったばかりか、講談でも忘れられた。

 私の同級生に、この茂庭 周防守の直系の子孫にあたる茂庭君がいて、成績はごくふつうだったが、スポーツ万能で、後年、柔道5段、宮城県の柔道連盟の幹部になっている。

 私は梁川 庄八のファンになったが、茂庭君に、茂庭 周防守について聞いたことはない。

 ただ、仙台の市民には、伊達 政宗に対する深い忠誠、尊敬があった。私は、向山の伊達家の廟をよく訪れたり、真田 幸村の息女が嫁いだという伊達の重臣、片倉家について調べたりするようになった。
 後年の私が時代小説を書くようになったのも、仙台に育ったことが遠因かも知れない。

2021/08/15(Sun)  1937〈少年時代 23〉
 
 荒町小学校では、ときどき名士を招いて、話を聞かせる行事があった。講演というより、小学生にもわかるような訓話といったものだったが。

 ある日、土井 晩翠が全校の子どもたちに話をしてくれた。

 土井 晩翠は仙台出身で、鍛冶町の生まれ。斉藤 秀三郎の仙台英語塾で英語を身につけ、やがて二高から東大に進んで、詩人、英文学者として知られる。

 当時、土井 晩翠は、すでに詩壇から離れていたはずで、仙台二高の教授を退任したあと、ホメーロスの「イーリアス」、「オデュッセーア」のギリシャ語原典の研究に没頭していたと思われる。
 
 土井 晩翠が「荒月の月」の作者ということは知っていたが、「荒月の月」がこのオジサンの作と聞いたとき、はじめて詩というものは作られるものなのかと驚いた。それまでは、自分が知っている歌が自然に私たちの環境にあって、それを作った人がいるなどとは考えもしなかった。
 
 その時の土井 晩翠の話は、小学生にもわかるような講話だったはずだが、まったく心に残らなかった。そもそも話の内容がわからなかった。

 土井 晩翠の英姿だけは心に残った。生まれてはじめて見た詩人であった。羽織、袴、和服姿の堂々たる風格で、子どもたちを前に、やさしい訓話をしてくれた。
 この日、私は、詩人になることにきめた。詩がどういうものかわからなかったが、とにかく土井 晩翠のように、みんなが知っている歌のようなものを作ろうと思った。

 おなじような催しで、久留島 武彦の話を聞いた。
 この人の話はおもしろかったが、内容はよくわかっても、土井 晩翠の英姿を見たあとでは、あまり感銘しなかった。私は、すぐに久留島 武彦の話を忘れた。

ただ、こういう催しで、「偉い人」の話を聞くのは、けっして無益ではなかったと思う。
 戦時中に、極度の紙不足で、雑誌の発行も難しくなった時期に、久保田 万太郎の公演を聞いたことがある。(有楽町の「朝日講堂」だったと思う。)聴衆は大人ばかりで中学生は一人もいなかった。
 これも、講演の内容は忘れているが、「大寺学校」や「釣堀にて」の劇作家が、こういう風貌の人と知って、中学生の私は驚いたのだった。こういうオジサンが、あれほど繊細な戯曲を書くのか。私は、一種のショックをおぼえた。
 しかし、久保田 万太郎に親しみをおぼえたことはたしかだった。なにしろ、私が生まれてはじめて見た劇作家だった。

 この日、私は、芝居を書くことにきめた。芝居の台本はどういうふうに書けばいいものかわからなかったが、とにかく久保田 万太郎の芝居のように、みんなが見てくれるようなものを書こうと思った。

2021/08/08(Sun)  1936〈少年時代 22〉
 
 昌夫は、当時のアメリカのベスト・セラーをよく読んでいた。
 ピットキンの「人生は40から」、ホグベンの「百万人の数学」といった本が書棚にならんでいた。外国の石油会社の仙台支店に勤めていたから、イギリスのベスト・セラーを読んでいても不思議ではないが、1930年代の仙台では外国のベスト・セラーを読んでいた会社員は珍しかったのではないか。

 昌夫は趣味として絵を描いた。清六教諭が描いた絵のようにリアリズムの絵ではなかった。             
 昌夫の父は中田 長二郎。私の祖父。30代で早世したが、上野の美術学校の図案科を卒業して、「三越」の衣装部のデザインを担当したという。
 父、昌夫は、仙台に転勤してから絵を描くようになったらしい。
 母、宇免と結婚の記念に、黒い繻子の帯に、油絵で黒船を描いた。南蛮船だった。(これは1945年3月の空襲で焼けた。)

 私の担任が、画家としても知られていた佐藤 清六先生になったため、昌夫は、自分の描いた絵を見て批評をしてもらいたいと思った。佐藤先生を自宅に招いたとき、先生は昌夫の絵を見て、すぐに才能がないことに気がついたらしい。

 佐藤 清六先生の授業では、最初からクレオンを使ったが、日の丸や、富士山を描く生徒たちが多かった。佐藤 清六先生のクラスにかぎらず、どの教室でもこれが普通だったのではないか。
 当時の小学校の美術教育は、教科書に出ている画家の絵を見て、それを模写するだけのものだった。今の私にいわせれば、むしろスケッチを中心にしたほうがよかったように思われる。鉛筆で、しっかりデッサンするだけでいい。
 しかし、そんなことは小学校では教えてもらえなかった。
 今なら、デッサンなりクロッキーなどの練習だけでなく、自由な発想で、生徒自身が好きに絵を描くことが奨励されるだろう。しかし、昭和初期の当時の図画(ずが)教育は、写生と、教科書の絵を上手に模写することに重点がおかれていた。私は、この教育で、寺内 万治郎という画家の名前をおぼえた。

 私が佐藤 清六先生の授業をまったくおぼえていないのは当然だった。

2021/08/01(Sun)  1935〈少年時代 21〉
 
 この日のことはほとんどおぼえていない。同席したお嬢さんの同級生がいたが、この女学生のことも何もおぼえていない。
 ただ、応接間で、紅茶にカステラが出されたことをおぼえている。

 このティー・タイムの途中で、私は尿意をおぼえた。よその家でオシッコするなど、考えてもいなかった。
 私がモジモジしているのを見た彼女は、
 「ぼうや、どうしたの?」
 私は黙っていた。
 「あ、ごめんね。気がつかなくて」
 彼女は、私の手をひいて、廊下の奥の厠所につれて行ってくれた。
 ドアをあけると、アサガオがあった。私は、はじめて陶器の洋風便器を見たことに驚いたのだが、もっと驚いたことに、チビの私の身長では届かない高さにあった。
 彼女は私のひるんだようすに気がついたようだった。
 「ついててあげる。大丈夫よ」
 私を抱きあげて半ズボンのサスペンダーをはずした。バンツをずり落として、うしろから抱きかかえるようにして、オシッコをさせてくれた。私は、はじめて羞恥をおぼえた。

 綺麗なお姉さんにオシッコをさせてもらうのは恥ずかしかった。なによりも恥ずかしかったのは、彼女のほっそりした指が小さなペニスをつまむようにしてオシッコさせてくれたことだった。

 後は、何ひとつおぼえていない。彼女の名前さえ知らない。

 それからしばらくして、彼女のことが新聞に出たらしい。私はその記事を読んでいなかった。というより、新聞を読んだことがなかった。
 ずっとたってから、母に訊いてみた。
 「あのお嬢さんは、どうしていなくなったの?」
 母の宇免は、私が何をいいだすのかといった顔で、
 「あのお嬢さんは、男の人と一緒に死んじゃったのよ」

 近所のうわさでは、彼女は、なにかいたましい事件の末、愛人と心中したという。
 心中という言葉を聞いたのも、はじめてだった。

 さらにあとになって、少し詳しい事情がわかってきた。
 彼女は、女学校を卒業する前から、ある大学生と交際していたが、やがて妊娠したため、親にも相談できずに、悩みぬいたあげく、相手の男性と短い旅行をして、その宿で、無理心中をしたらしい、という。

 この事件は、私の内部に何か暗い印象を残したといってよい。

 「戦後」になって、「心中天編島」や、「鳥辺山心中」などを見るたびに、芝居とは何の関係もないのに、清水小路のお邸で綺麗な女子大生にオシッコをさせてもらったことを思い出した。彼女の綺麗な指が小さなペニスをつまむようにしてオシッコさせてくれたことを思い出した。この思い出が、戦前の時代の暗さを物語っているようだった。愛し合う若い男女がなぜ死を選んだのか。私にはわからない壁が立ちはだかったような気がした。

 戦後の私はやがて私は歌舞伎を見なくなった。

2021/07/25(Sun)  1934〈少年時代 20〉
 
 清水小路の家の斜め前に、りっぱな門構えの洋館があった。
 このお屋敷に若いお嬢さんがいた。当時、女学校の5年生だった。(「戦後」の学制なら、高2ということになる。) 断髪だった。セーラー服に長いスカート。いつも颯爽としたスタイルで通学していたが、小学生の私とは、登校時間が違うため、まるで接点がなかった。このお嬢さんの名前は覚えていない。

 毎朝、私の通学時間に、女学生の彼女も門から出てきて、わずかな距離の路地(清水小路)を抜けて、表通りに出る。今のファッションとは比較にならないが、いつもグレイっぽいコートを着ていたような気がする。たいていはお互いに黙ったまましばらく歩いて、私は学帽をとってペコンとお辞儀をして彼女と別れる、私は、サージの通学服だったが、ズボンはバンドではなく、サスペンダー(吊りズボン)だった。私は、荒町尋常小学校に向かう。彼女は、私に手を振って見送ってくれる。

 ときには、笑いかけてくれることもあった。すんなりと恰好のいい鼻すじ、うっすらとピンク色の唇、ほっそりとした首すじが、いかにも新しい時代の娘らしい美しさをみせていた。
 梅雨どきなど、むし暑い空気のなかに、白いバラの匂いがかすかに漂うのも、なんとなく甘い感じをあたえた。
 当時、仙台には、男子高としては、第二高等学校か、東北学院しかなかったし、女子高としての高等専門学校は一つしかなかった。むろん男女共学ではなかったし、仙台には女子大はなかったから、高等女学校を卒業した若い女性が進学するとすれば師範学校に進むぐらいだったのではないか。
 彼女は近くの女学校を卒業して、宮城野女子高等専門学校(当時の短大)に進んだらしい。女学校を卒業してすぐに断髪(ショートカット)にしていた。
 ある日、彼女が、私を呼び止めて、
 「ぼうや、明日、わたしンとこに、遊びにおいで」
 と、声をかけてくれた。

 小学生の私は、自分よりずっと年上の女子学生が自室に呼んでくれたことがうれしかった。
 どういうわけで私を呼んだのかわからない。私が小学校に入学したのと同時に、自分が上級学校に進学したので、ささやかなお祝いをするつもりで招いてくれたのか。
 その日、このお嬢さんは、ティー・パーティーに同級のお友達を招いた。日曜日だったのか。あるいは、誕生日だったのか。

2021/07/18(Sun)  1933〈少年時代 19〉
 
 大震災のあとの大不況に、少しづつだったが、女性が社会に進出しはじめ、あたらしい仕事をもつ女性がふえてきた。
 タイピスト、電話の交換手は、あたらしい職業女性だった。
 バス・ガール、デパート・ガール、エレベーター・ガール、マネキン・ガール。
 さらには、カフェの女給仕、あるいはステッキ・ガールなども。

 大不況を背景に、スカート丈がみじかくなった。尖端的なファッションの若い娘たちは、それまでの束髪、三つ編みをバッサリ切って、断髪(ショートカット)にした。おそらく、ハリウッドの映画女優の影響もあったと思われる。男も流行の背広に、ツバの短い帽子で、モダーンなスタイルになる。
 カッコいいモボ、モガたちが、銀座、心斎橋を闊歩する。
 仙台には、銀座や心斎橋はなかったが、仙台にも洋装の女性がふえてきた。宇免も、洋装することがあった。銀座のモガたちに負けない気もちだったのか。
 一番町のデパート「藤崎」の外商部から似鳥さんという番頭がお伺いにくるようになって、毎週、あたらしいモダーンなファッションの見本が届く。宇免が洋装するようになったのも、自然なことだったと思われる。

 はるか後年、時代が、20世紀末から、21世紀にかけて――若い男たちが不精ヒゲをはやして、長い髪をうしろにしばり、デニムにグラサン(サングラス)、ビールを一気ノミして、女の子から、キショッ(気色がわるい)と蔑まれていた平成のモボたちを思い出す。
 そして茶髪、ガングロ、パンティーが見えるほど短いスカート、ルーズソックス、ペタンコ・シューズ、フルジップ・ジャケットやゴスロリ・スタイルで、渋カジ、裏原系のモガたちを並べて見たら、昭和初期のモボ、モガたちはキショッ(気色がわるい)どころか、むしろカワイイぐらいだったはずである。

 昭和初期はエロ・グロ・ナンセンスの時代だった。

2021/07/11(Sun)  1932〈少年時代 18〉
 
(No.1923からつづく)
 
 2年生になった。私にとっては、学年が変わることは担任の先生が変わることだった。佐藤 実(みのる)先生のことを私は忘れた。
 
 荒町尋常小学校の教員室の入口、正面玄関の壁に300号ぐらいの大きな油絵が1枚、掲げてあった。佐藤 清六教諭が描いた絵だった。たしか蔵王連山を描いたリアリズムの絵だったと思う。平凡な風景画だった。子どもの私には,それほどすぐれた絵とも思えなかったが,この絵を見て育ったお蔭で、はるか後年,登山に興味をもったのかも知れない(ただし、それも後づけの理屈だったような気がする。あとでふれるが、6年生のときに、担任の壺 省吾先生と一緒に蔵王山に登ったのが、本格的な登山だったのだから。)

1年生、2年生と、私は優等生だった。2年生になったとき級長に指名されたときも、別にうれしいとも思わなかった。小学2年生だった一年間の記憶がほとんどない。

 私が2年生になった頃、仙台は旧態依然とした小都市だった。それでも、中心部にあたる一番町あたりには、あたらしい様式の洋風建築のオフィスビルが建ちはじめていた。父の昌夫は、私の住んでいる清水小路から、歩いてロイヤル・ダッチ・シェルのオフィスに通っていたと思う。宇免が、Yシャツにアイロンをかけ、毎朝、きちんと靴みがきをしていた。サスペンダーに、派手な靴下、当時としてはめずらしい赤い革靴というスタイルだった。
 私は知らなかったが、仙台駅の周辺には、カフェ、ミルクホール、ダンホールなどがぞくぞくとあらわれたらしい。

 女は家庭を守るものとされていた時代に、未婚の女性は、裁縫、お茶、お花など、嫁入り修行に精出すのが、当時の風俗だったが、ろくに教育もうけなかった宇免も、遅まきながら、お茶、お花など、さらには長唄の稽古をつづけるようになった。経済的に余裕ができたことも、宇免にとってはうれしいことだったと思われる。
 宇免は裁縫が得意で、半襟でも、羽織でも、自分で縫いあげた。
 何につけ稽古熱心で、私が小学校を卒業するまでに、お茶、お花、三味線の名取りになった。
 毎日、稽古に通うのは、それなりに苦労があったと思われるが、若かった宇免は、日々、ひたすら努力していた。

 宇免は和服を着ることが多かった。
 和服を着る機会が多かったわけではない。ただ、父兄参観といった小学校の行事には、いつも和服で出席していた。
 着る途中でずれないように、指先で長襦袢と着物の後ろ襟をぴったりあわせる。その仕草が綺麗だった。腰紐を口にくわえる。これもずれないように、すべりのわるいものをきりりとしめる。前を高めに、後ろは下がり目にしめると、着くずれがしない。着付けのときに、一度、上を向いてからだを反らせる。これで胸もとが楽になる。帯は、やや斜めに結ぶ。
 幼い私は、母親がみるみるうちに、美しい女に変身するのを見るのが好きだった。
 
 若い母親が、教室の後ろに立って、清六先生の授業を参観する。
 たいして美人でもない宇免は、ほかの生徒の母親たちよりも、わかわかしく、すこやかに見えた。

2021/07/01(Thu)  1931
 
《アーカイブより》

        ジェーン・フォンダ

                            中田 耕治

 恋をするとき、ひたむきな恋をする女性は美しい。
 ジェーン・フォンダは、いつもひたむきな恋愛をしてきた。そして、ジェーン・フォンダは女として美しいだけでなく、「恋する女」として美しい。
      
 私たちの前に、いろいろなジェーンがいる。
 たとえば、ベトナム戦争のころ反戦運動家だったジェーン・フォンダ。最近では美しいボディ・ラインをつくるエアロビックスの専門家としてのジェーン。 
 この映画スターは、いつも人生に対して、果敢に挑戦してゆく積極的な女性というイメージを見せている。
 映画「帰郷」のなかで、ベトナム戦争で負傷したため、下半身がマヒしてしまった夫がいう。
 「怒ったときのきみって、すばらしいね」
 たしかに、ジェーン・フォンダは、ある時期まで「怒れるジェーン」だった。しかし、ほんとうのジェーンは、むしろ、恋するジェーンなのである。
    
 ジェーン・フォンダは一九三八年に生まれている。ヒトラーがヨーロッパを戦争にひきずりこもうとしていた時期である。
 ジェーンの父、ヘンリー・フォンダはまさにアメリカ映画を代表する大スターだった。彼は、資産家の令嬢だったフランセス・シーモア・ブロコウと再婚した。フランセスはジェーン・フォンダ、ピーター・フォンダの姉弟を生んだが、この結婚はおそろしい悲劇に終わった。
 「不思議な雰囲気の女性だったわ。とにかく美しい人で、ひどく病身だったの」
 ジェーンが十二歳のとき、フランセスは自殺したのだった。この悲劇は、幼いジェーンには伏せられていた。
 「だけど、ママが死んだことはうすうす察していたわ。友だちが教えてくれたもの。だけど、ママがどんな死にかたをしたか知ったのは、ずっとあとになって。友だちが、学校で映画雑誌を見せてくれたときだった」
 フランセスはノイローゼ気味で、夫が浮気をしているものと思い込み、咽喉をかき切って自殺したのだった。これは、ハリウッドじゅうのスキャンダルになった。
        
 ジェーンは、アメリカきっての名門女子大、ヴァッサー大に入学する。
 「十八歳だったわ。自分では不幸だと思っていながら、どうして不幸なのか理由もわからない年頃ね。大学に入ったのは、自分が住んでいる環境が変われば、人生も変わるだろう、なんて思ったからなの」
 しかし、ジェーンは二年で中退してしまった。そのまま、フランスに行って、パリで暮らすようになった。この頃のジェーンはなかなか発展家だったらしい。
 人生で失敗した「恋愛」は、どれもこれもおなじ顔をしている。それは、当然なのだ。どの失敗も、みんなおなじ原因からきているのだから。ジェーンは、むなしく男性遍歴を重ねていたが、ある日、まだ無名のロジェ・ヴァディムに会っている。エッチで、さもしくて、憎ッたらしい男というのが、最初の印象だった。
 やがて、ジェーンの運命を一変させるような出会いがやってくる。
 アメリカ演劇、最高の演出家だったリー・ストラスバーグに出会った。このリー・ストラスバーグは、映画女優マリリン・モンローの先生だった。マリリンとおなじように、ジェーンも彼の教えで演技に開眼する。
 「あたしは、あくまで女優になりたかったし、どんな役でも演じられるように何でもやってきたわ」
 はじめて映画に出たときはドジばかりして、デビューとしてはひどい失敗だった。映画のできもよくなかったし、ジェーンもさんざんだった。
 それから二年、演技から遠ざかる。
 そして、フランスで、世界的に注目されている映画監督、ロジェ・ヴァディムの「輪舞」に出た。
 ロジェ・ヴァディムは、これも世界的に有名になった肉体派の女優、ブリジット・バルドーと離婚してから、アネット・ストロイベルクと結婚した。しかも、この時期、女優、カトリーヌ・ドヌーヴが「愛人」で、結婚というかたちはとらなかったが、ふたりの間には、男の子が生まれていた。
 ジェーンは、この映画に出て、ロジェ・ヴァディムと同棲する。
 「あたしは恋をすると、相手のためにどんなことでもしてあげたくなるの。ロジェは、あたしがいなかったら、まったく違った人生を歩んだかもしれない。あたしが彼によって、それまでと違った人生を歩んだように」
 パリ郊外の小さな農場には、八匹の犬、十匹のネコ、アヒル、ニワトリ、ウサギに子馬が同居していた。
 「あたし、ロジェ・ヴァディムとは結婚したくなかった。二年間、いっしょに同棲していたし、そのままのかたちをつづけて行きたかった。つまり、こうなのよ。ふたりの人間が、それぞれの余生をずっといっしょに過ごすなんて、かなり不自然なことだわ。でも、けっきょく、ロジェ・ヴァディムと結婚しちゃったけど」
 ある意味でジェーンの行動は、どうかすると現実から遊離して見える。気分も変わりやすく、はげしい怒りを見せたかと思うと、すぐにけろっと忘れてしまう。
 ジェーンの出演作品は、「キャット・バルー」(一九六五年)、(「獲物の分け前」(一九六六年)、「バーバレラ」(一九六八年)と、成功作がつづいた。当時、映画一本の出演料が二十五万ドルの超売れっ子スターだった。ところが、自分が出たいヨーロッパ映画には、週給百ドルでも出演したのだった。

 一九六〇年代はベトナム戦争がどろ沼化していた。戦争を拒否する学生たち。ドロップアウトしたヒッピーたち。差別反対の人権運動。ウーマン・リブ。
 そして、アメリカの国論はふたつに割れて、右翼のナショナリズムと、左翼の反戦運動が、まっこうから対立していた。
 そのなかで、ニクソン大統領を失脚させたウォーターゲート事件が起きている。
 ジェーン・フォンダは、この一九六〇年代をせいいっぱい、わるびれずに生きた女優だった。一九六八年、娘のヴァネッサを産んだ彼女は、ロジェ・ヴァディムと別離。
 だが、どうして一つの愛は終わってしまうのだろうか。
 愛の終わりは、恋をしている人にもわからない。なぜか、不意に終わってしまう。「恋人」が消えてしまう。ときには、恋愛から友情に移ってゆく。
 いずれにしても、終わってしまった愛は、それまでの軌道からそれて別の惑星に飛んで行ってしまった宇宙ロケットのようなものなのだ。
 ジェーン・フォンダの「恋愛」は、いつも、突然に終わって、あたらしい「恋人」があらわれてくる。
 というより、ジェーン・フォンダは、一つの「愛」が消えたときから、ひたすら「愛」を探しもとめる。彼女の愛は、ひたすら努力して、さらに遠くへ行く。
 誰かを愛していないときのジェーンは、みたされていない。しかし、彼女の「愛」はけっして死なないのである。
 
        (なかだ こうじ 作家 女子美大教授)

2021/06/29(Tue)  1930
 
 2021年3月24日(水)、午後、見なれない大型の郵便物が届いた。「日本著作権教育研究会」から。「入学試験における著作物使用のご報告」。
 今年の千葉大の入試(国語)に、星 新一のショートショート、「語らい」全文と、奥野 健男の解説(「気まぐれ指数」)、私の解説(「おのぞみの結末」)が出題されている。漢字熟語が5問、それぞれの内容に関する筆答が5問。
 たとえば、私の文章から――「追随」という熟語の意味。
 奥野 健男と私のエッセイの文章の読後感――「いずれも星 新一の短編集の解説であるが、奥野 健男と中田 耕治とでは解説の仕方や着眼点が違っている。それぞれどのような特色があるのか説明しなさい」いった出題がある。
 私が、星 新一の作品に対して、「秩序」と「混沌」のイメージがせめぎあうことがあると指摘したが、その一節に傍線がつけられている。

    秩序のイメージを扱うとき、星 新一の世界は、ほのぼのとしたユーモアのある
    喜劇になるようです。混沌のイメージのときは逆に、ペシミスティックな寓話に
    なるようです。         
 
 と書いた。入試問題では――「傍線部Cの指摘をふまえ、この短編(「語らい」)を喜劇として読むとどのような作品としてとらえることができるか。また「ペシミスティックな寓話」として読むとどのような作品としてとらえることができるか。それぞれ短編の内容に言及しながらまとめなさい。

 この「問題」を読んだとき、私は少し驚いた。今年度の受験生たちに同情したといってよい。漢字熟語の出題程度なら、受験生たちもだいたい間違いなく答えられるだろう。
 しかし、「語らい」を読んで、この作品を――ほのぼのとしたユーモアのある世界と受けとるか、それとも「ペシミスティックな寓話」として読むのか、という「問題」は、おそらく受験生たちを困惑させたに違いない。

 私には、むろん私なりの解答がある。しかし、それは、入試の出題で、あわただしく書かれるような簡単なものではない。

 私は、こんなことに自分の書いた「解説」が使われるとは思ってもみなかった。受験生たちは、どこかで中田 耕治という名前を見つけたら、おそらく、考えたこともない難題をつきつけてきた不埒な「解説者」として思い出すにちがいない。

2021/06/27(Sun)  1929
 
2021年3月19日(金)、映画、「猫が行方不明」(セドリック・クラピッシュ監督/1996年)を見た。低予算で撮影された映画だが、「戦後」のパリの下町の雰囲気がみなぎっている。主演のギャランス・クラヴェルは、いい女優。この映画しか見ていないのだが、舞台に立ち、サン・テティエンヌで「女房学校」の「アニェス」でデビュ。モリエール賞の新人女優賞にノミネート。TV映画に出たあと、「フェードル」の、世界巡業。日本でも、「テアトル銀座」で「アリシー」を演じたらしい。残念だが、私はこの舞台を見ていない。

2021/06/25(Sun)  1928
 
 2021年3月6日(月)、作家、小沢 信男の訃。3日、COナルコーシスで死去したという。93歳。私と同年。代表作は、評伝、「裸の大将一代記」で、桑原武夫学芸賞。著書も多いが、私はほとんど知らない。面識はあった。庄司 肇の「きゃらばん」の集まりで紹介された。その外に、小沢 信男の主宰したグループに招かれたとき、いっしょに酒でもと誘われたが、私は謝絶した。最後に会ったのは、おそらく日沼 倫太郎の葬儀の日ではなかったか。
 この時も、小沢 信男が誘ってくれたのだが、私はその誘いに応じなかった。別に含むところがあったわけではない。小沢 信男が誘ってくれたことは嬉しかったのだが、いろいろと文壇仲間の話を聞かされるのではないか、と思ったからだった。
 ようするに、私の偏狭による人見知りのせいで、小沢 信男を避けたのだった。
 しかし、同年の小沢 信男も亡くなった。
 今から20数年も昔の野球がYOUTUBEで見られることに、いささか感慨を催す。ブログに書いておこうか、と思ったが、いまさら、そんなことを書いても、私のアナクロニズムをさらけ出すだけに思えた。

夜、「YouTube」で、フィレンツェのリポートを見た。現在のイタリアも、コロナ・ウィルスの影響で観光客は激減している。私が訪れた場所も、シニョーリァ広場などもほとんど人影がない。ウフィッツイも閉鎖されている。なつかしいフィレンツェが、さながら「死の都」と化しているのだった。


SunBoard - Remodel SunClip Ver1.24