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2008/11/11(Tue)  923
 
 たくさんの美女が私の内面に棲んでいる。誰も知らない美女たちが。

 夢のヒロイン。詩のなかの女性。たとえば、ホラティウスによってうたわれ、はるかに時をへだてて、アーネスト・ダウスンが愛した「まぼろしの恋人」。
 シナラ。

 さらに、トーキー映画草創期を飾るキング・ヴィダーの「シナラ」。

 中年の弁護士夫妻(ロナルド・コールマン/ケイ・フランシス)と、若く美しい女性(フィリス・バリー)の三角関係。

 フィリス・バリーは、ジョン・テイリーの一座のダンサーから出発して、ファンチョ・マルコスの劇団などで、ミュージカルの舞台をふんだ。
 やがてトーキーが、映画を一変する。
 サミュエル・ゴールドウィンが、フィリスの舞台を見て、エディー・カンターの喜劇「闘牛士カンター」に抜擢しようとした。
 ところが、ほとんど同時に、キング・ヴィダー(映画監督)が「シナラ」に起用した。
 フィリスは、素直な演技、わかわかしいエロティシズム、チャーミングなエロキューションで、ゆたかな才能と素質にめぐまれた女優として登場した。
 その後のフィリスを知らない。

 映画の世界で挫折したのか。それとも、草創期の映画よりも、もっと着実でしっかりした表現ができるミュージカルの舞台に戻ったのか。

 現在、DVDで見ることのできるキング・ヴィダーの「シナラ」。
 フィリスも私の「まぼろしの恋人」のひとりなのである。

2008/11/09(Sun)  922
 
 人生をふり返って幸福だったと思えることが少しある。
 たとえば、通勤ラッシュをほとんど知らずに過ごせたこと。

 中央線/快速の「モハ」型の車両の定員は136人。ところが、この車両に、640から650人もつめ込まれた記録があるという。
 こうなると、押しあいへしあい、どころのさわぎではなくなる。

 酸素消費量などによって調査したエネルギー消費量は、60分←→70分の通勤で、平均190〜200カロリー。
 一日8時間の労働で消費するエネルギーは、1300カロリーといわれるが、電車の通勤ラッシュで、一日の労働の一割から二割のエネルギーを消耗することになる。

 私は、週に二度、千葉から総武・中央本線で新宿に出て、大学に通った時期がある。
 杉並の和田にあった大学のキャンパスに通ったのだが、やがて、大学は神奈川県相模大野に移った。
 私は千葉から新宿に出て、(所要時間/1時間15分)、さらに小田急線で、相模大野まで出る。ざっと2時間半はかかる。さらに、相模大野からバスで20分。
 大学にたどり着いて、2コマの授業を終わると疲労をおぼえた。

 押しあいへしあいの通勤ラッシュを経験したのも、これがはじめてだった。

 なんとか解決する方策はないものか。
 けっきょく、西新宿の安アパートに入って、地下鉄で新宿に出て、相模大野まで通勤するようになった。早朝6時には電車に乗ったので、なんとかすわれたし、それほどひどい通勤ラッシュにあわずにすんだ。
 早朝から大学で制作するらしく大きなキャンバスをかかえた女の子が、私を見かけて驚いたような顔でお辞儀をする。そんなときは、ほんとうにうれしかった。

 冬の朝、しらじら明けで門も開いていないので、大学の近くの森や、低い丘などを散歩することもあった。
 誰もいない研究室に入って、しばらく原稿を書く。しばらく本を読む。ときには翻訳を1冊仕上げたこともあった。
 仕事にあきると、階下の「芸術学部」の研究室に行く。私はこの学部にまったく関係がなかったが、助手の吉永 珠子、寝占 優紀たちが、コーヒーを入れてもてなしてくれるのだった。

 私にとっては、この大学ですごした頃がいちばん幸福な時間だった。

2008/11/07(Fri)  921
 
 女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる。私も同感する。

 オヴィディウスは「恋愛術」のなかでいう。

 いまから来たるべき老いの日々を心にとめておくがいい、さすれば、そなたたちにとって、時は些かも無為に過ぎ去ることはない。

 ここから、オヴィディウスはかなり残酷なことにふれる。

    悲しいことだが、なんと早くからだにシワができて、たるんでしまうばかりか、つややかな顔色も消え失せてしまうことか。娘の頃からの若白髪だとそなたがいい張る白髪も、たちまち頭ぜんたいにひろがりつくす。(中略)人の身の美しさは逃げ去って、こればかりはなすすべもない。花は摘みとるがいい。摘みとらずにいれば、おのずと醜く枯れてしぼむ。さらに、出産も、若い盛りを一層早く老けさせる。たえまなく収穫をあげていれば、畑だって老け込む。(中略)人間の女たちよ、女神たちのお手本に従うがよい。そなたたちがもつよろこびを、愛に飢えた男たちに拒んではならぬ。

 いいこというなあ。(笑)

2008/11/05(Wed)  920
 
 女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる。そう思う人は55%で、そう思わない人は39%という。(「読売」’08.8.27)
 1978年の調査では、女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる、と考える人は26%で、これに反対の人は50%だった。
 この30年で、結婚の意識が大きくかわってきたことになる。

 ただし、人は結婚したほうがいい、と思う人は65%なのに、かならずしも結婚しなくてもいい、と考える人は33%。

 5年前(’03年)には、結婚したほうがいい、と考えた人は54%だったので、じつに11%もふえている。つまり、結婚は望ましいと考えるようになっている。

 私は、こうした調査にさして関心がない。ただ、社会的な格差がひろがっていて、経済的にむずかしい状況のなかで、こうした変化を見ることは興味深いと思う。
 実際に、未婚率が男女ともに増大しているのだから、高齢化、少子化のすすむ日本の前途がきびしいことも見えてくる。

 私は、前に書いたように、人はできるだけ結婚しないほうがいい、という考えをもっている。ただし、女性は、できるだけ一度は結婚したほうがいい、と考えている。
 いずれにせよ、今後の結婚観の変化は、いずれ性観念の大きな変化を惹起すると私は考える。

 確実なことは――今後の一世代にすぐれた女性作家がぞくぞくと登場してくること。

2008/11/03(Mon)  919
 
 ハリウッド女優/出演料ベスト10 (「ハリウッド・リポーター」)

      1   リース・ウィザースプーン
      2   アンジェリーナ・ジョリー
      3   キャメロン・ディアス
      4   ニコール・キッドマン
      5   レニー・ゼルウィガー
      6   サンドラ・ブロック
      7   ジュリア・ロバーツ
      8   ドリュー・バリモア
      9   ジョデイ・フォスター
     10   ハル・ベリー

 いずれも美女ばかりだが、名女優と呼べるのは、せいぜいジョデイ・フォスターぐらいか。ただし、私が好きなジョデイは「トム・ソーヤーの冒険」、「アリスの恋」、「ダウンタウン物語」、そして「タクシー・ドライバー」。
 「他人の血」や「シェスタ」の頃のジョデイは、女優としてたいしたことはない。
 「羊たちの沈黙」はアンソニー・ホプキンスの映画だったが、「ウデイ・アレンの影と霧」、「マーヴェリック」あたりから、ほんとうの女優に見えてきた。

 このリストのなかに好きな女優はいる。たとえば、レニー・ゼルウィガー。キャメロン・ディアス。
 しかし、このリストに出ていない女優たちに、好きな女優は多い。たとえば、メグ・ライアン。グウィネス・パルトロウ。ナタリー・ポートマン。

 きらいな女優は、ドリュー・バリモア。もっときらいな女優はアンジェリーナ・ジョリー。

 少し失望しているのは、ハル・ベリー。「ダイ・アナザー・デイ」の彼女は、よくがんばっていたが、まあミス・キャストだったなあ。

 というわけで、このランキング・リストの女優たちの映画は見るつもりがない。

2008/11/01(Sat)  918
 
 長年知りたいと思っていながら、手がかりもないまま、とうとうわからずじまいになってしまう。そんなナゾの一つやふたつ、誰にもあるにちがいない。

 1812年、ナポレオンはついにモスクワから撤退した。このとき、おびただしい金塊をはじめ、貴重な宝石、骨董などを略奪した。これは間違いのない史実という。
 ところが、このロシアの財宝をどこに隠したのか。

 いくつかの通説がある。
 クトゥーゾフ麾下のロシア軍に追跡されたナポレオンは、この年11月2日、軍用の行嚢につめこんだ財宝を、スモレンスク近郊の小さな湖底に沈めて敗走した。

 その後、旧ソヴィエト時代(1967年)、ロシア帝国/外務省の未公開文書が発見されるまで、ナポレオンの秘宝はまったくナゾにつつまれたままだった。

 その古文書に、プロシャ帝国首相、エンゲルハルトが、プロシャ皇帝に贈った所感がある。(1815年10月21日付)。
 この手紙には・・・ロシア戦線から復員したフランス軍の士官ふたり(当然、フランス軍の最高級クラスの軍人と見てよい)が、エンゲルハルト邸に泊まり、エンゲルハルトと雑談したが、たまたま財宝隠匿の目撃談がとび出した。

 ふたりは、コブノ市(リトワニア/カプナス)郊外の、とある教会付近で、作業中のフランス砲兵部隊に出会った。そのとき、約80万フラン相当の秘宝の入った頑丈な木箱を地中に埋めたことを聞かされた、という。

 その後、1823年、生き残ったドイツの傭兵の証言にもとずいて・・・このとき埋められた(とされる)金塊、4樽を発掘する一隊が編成され、旧ミンスク(白ロシア)/ボリソフ市のベレジナ川の流域をくまなく調査した。このときは、何も発見できなかった。
 旧ソヴィエト時代、ナポレオンの秘宝は伝説化した。1939年から40年に書けて、大創作がおこなわれたが、このときも成果はなく、ヒトラー・ドイツの侵略によって、「大祖国戦争」に突入してゆく。

 財補遺の隠匿場所も、リトワニア/ビリニュス、白ロシア/ドロゴブージ、白ロシア/オルシア、ロシア/スモレンスクといったふうにわかれている。

 ナポレオンは敗走中、これらの秘宝をいくつもの行李に分散して、担当の士官に護送を命じたが、すさまじい飢えと寒さ、ロシア軍の追撃のなかで、士官から兵士、さらには外国の傭兵の手に移され、ついには遺棄されたり、ひそかに隠匿された。

 私は、トルストイの『戦争と平和』(マニュエル・コムロフ編)を訳したことがあって、「ナポレオンの秘宝」のことを知った。当時は、まったく関心もなかったが、ナポレオン個人の行嚢が、ロシア/ウェージマから39キロに位置するストカーチュエ湖に投げ込まれたという説を知った。当局が調査したはずだが、結果は知らない。

 小説を書くようになって、何かに使えるかも知れないと思ってノートしておいたが、けっきょく何の役にも立たなかった。
 今でも、ちょっと気になる。

 どなたかご存じの方がいらしたら教えて頂けないだろうか。

2008/10/31(Fri)  917
 
 ジャン・コクトォのことば。

 もし、礼儀がそれを必要とするなら、立ったまま死ぬことができなければならぬ。

 少年時代のコクトォは、母からそう聞かされていたらしい。

 このひとことだけでも、私はコクトォを尊敬する。

2008/10/28(Tue)  916
 
 自分が一年前のことをおぼえている、などというのは、まるで信じられない。なにしろ「後期高齢者」だからねえ。(この「後期高齢者」には、「クソGG」か「くたばれご長寿」とルビをふること。)自慢じゃないが、いまや、私はなんでも片ッ端から忘れてしまうのが特技。(笑)
 どうかすると、いきなり過去の1シーンが、ゆらりと立ちあがってくる。

 1年前の8月、やたらに暑い日だったが・・・横浜の「そごう」で「キスリング展」を見た。キスリングは好きだが、ほんとうにいい作品はわずかしかない。このときの印象は、HPに書いた。
 最近、キスリングのヌードが頭のなかに立ちはだかってきた。

 暗い色彩の花模様のクッションに、放心したようなまなざしの若い娘がつややかな裸身をさらしている。
 その瞳は、何を訴えているのか。
 この絵を見ただけで、この絵を見にきてよかったと思った。

 アルレッテイ。

 「天井桟敷の人々」、「北ホテル」、「悪魔が夜来る」の女優。

 戦後はじめて「天井桟敷の人々」の「ガランス」を見たとき、あまり関心をもたなかった。それほど美貌とは思えないし、なによりも中年にさしかかっていた。

 キスリングがアルレッテイのヌードを描いている!
 それも、20代のわかわかしい裸身だった。ベッドに寝そべっているだけのポーズで、顔、とくに眼が、まるっきりキスリングの美女まるだしだが、まさに「戦後」(1920年代)のおんなが、ベッドにデンと寝そべっている。
 おなじキスリングが、もう一つの「戦後」(1950年代)に描いた女優、マドレーヌ・ソローニュ(川端 康成が買ったため、日本にもたらされた)が、どこか憂愁を漂わせているのに、アルレッテイのヌードは、清潔な肢体に、どこか奔放なエロティシズムがあふれている。このヌードはすばらしい。

 もう一枚は「赤毛のヌード」。
 このポーズも、アルレッテイのヌードとほとんどおなじだが、これがまたすばらしい。あとで「カタログ」の解説を読んだが、通りいっぺんのものであきれた。

2008/10/27(Mon)  915
 
 女の印象は、ほんのしばらくでも時間をおくと、まるで変わって見えることが多い。
 とくに、少女が成熟した「おんな」になっている場合には。

 敗戦後、アメリカ映画が公開されるようになった。最初に上映されたのは「春の序曲」と「キューリー夫人」の二本だった。もう、こんなことをおぼえている人もいないだろう。
 「春の序曲」と「キューリー夫人」という選定にもアメリカ占領軍の占領政策が見えるのだが、戦時中は上映されなかったアメリカ映画が公開されるというだけで、戦後の日本に押し寄せてくる巨大な変化が実感できるようだった。
 「春の序曲」はデイアナ・ダービン主演。私は、戦前、「オーケストラの少女」を見ていたので、デイアナ・ダービンがすっかり成熟した女性になっていることに驚いた。
 映画のなかで大きなショートケーキが出てくるシーンがある。観客のどよめきが場内からわきあがった。戦後すぐのひどい食料難で、ショートケーキなど見たこともなかったし、誰もがケーキの大きさに度肝をぬかれた。(今なら、どこでも売っているやや大きめのサイズだった。)

 「春の序曲」でデイアナ・ダービンがオペラのアリアを歌う。「オーケストラの少女」のダービンがすっかり成熟したシンガーになっていることに驚いた。
 後年になって聞き直してみると、リリー・ポンス、ジャネット・マクドナルドといったハリウッド女優に比較して、けっしてすぐれてはいない。
 このことは、デイアナ・ダービンが「オズの魔法使い」の最終段階で、ジュデイ・ガーランドに主役をゆずってハリウッド・ニンフェットから消えて行ったことをつよく思い出させる。

 戦前、「オーケストラの少女」を見た室生 犀星が、当時の映画雑誌に、デイアナ・ダービンの舌の厚み、そのみずみずしい赤みを随筆に書いていた。少年の私は、この短い随筆に、犀星独特のまなざしを感じて驚いたが、戦後の「春の序曲」を見て、私はまるで女というもののあらたな発見がひそんでいるかのように、ケーキを口にはこぶデイアナ・ダービンの舌の厚みを見ていた。

 ひょっとすると、私の「戦後」は、デイアナ・ダービンの舌から始まっているのかも。(笑)

2008/10/25(Sat)  914
 
 もともと、おっちょこちょいで、がさつで、口がわるい私は自分の周囲にいる女の子をつかまえて、うっかりおまえ呼ばわりをすることもある。
 「おめッチの本、読んだ。ずいぶんイイと思ったナ。だけど、おめえ、・・・・ンところは、ありゃぁ何だい。あの程度ッきゃ書けねえのカヨ。もソッと、イキのいい文章じゃねえと、いただけねえなあ」

 私としては、種彦流に「丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に」見えるように書いてほしい、という意味なのだが。

 おめえよばわりにおそれをなして逃げてしまった女の子も多かった。

2008/10/23(Thu)  913
 
 「駿河台文学」の終刊号は、作家、豊島 与志雄の特集で、私は短い「豊島 与志雄論」を書いた。そのなかで唐木 順三にかみついた。唐木は、私よりもずっと先輩で、当時、まだ文学部の教授だったはずである。
 小川 茂久は何もいわずにそのまま掲載してくれた。

 その後、小川と私のあいだで「駿河台文学」が話題になることは二度となかった。

 はるか後年、私はある作家の本を出してくれる出版社をさがしていた。小川に相談したところ、当時、坂本 一亀がやっていた出版社を紹介してくれた。この話は坂本 一亀が了承してくれたため、すぐにまとまった。5分もかからなかったと思う。
 作家は編集の打ち合わせがあるので、その場で別れたが、帰り際に小川が訊いた。
 「おい、中田、これからどうする?」
 「おまえといっしょなら、(行き先は)きまっているじゃないか」
 私は答えた。

 あとになって、その作家は、
 「中田さんが羨ましい」
 といった。
 「どうしてですか」
 「お互いに、おれおまえで通じる友人がいるからですよ。私には、そういう友人がいませんので」

 なぜか胸が熱くなった。小川 茂久とは半世紀におよぶつきあいだった。
 戦争中は、工場労働者の服に戦闘帽、ゲートルを巻いて、毎日、川崎の石油工場に通っていた。小川は、いつも分厚な鴎外全集の一冊をかかえて、通勤の往復に読みふけっていた。戦争が終わった直後に、同級の覚正 定夫(柾木 恭介)が撮ってくれた写真が残っているが、私も小川 茂久も、まるで戦争で身寄りをなくした孤児のような、うす汚れた少年だった。
 50名の同級生のうち、戦死、戦災死、病死、自殺、ヤクザに切り殺された1名をふくんで26名が死んでいる。つまり、戦後に生き延びた24名のなかで、私と小川は親友として過ごしてきたのだった。
 その歳月の重みが、いきなり堰を切って押し寄せてきた。

 だから、「お互いに、おれおまえで通じる友人」といっても、フランス語の「チョトワイエ」などではなかった。

2008/10/21(Tue)  912
 
 おなじ大学を出て、いちおうおなじような知性をそなえて、おなじ大学で教えていた。似たようなことを続けていれば、黙っていてもお互いの意志の疎通もスムーズにゆく。
 小川 茂久とは、親しい友だちなので、相手のささいな心の動きまでわかっている。黙っていても、相手の心がつたわってくる。
 大学の事務室で会って、
 「あとでナ」
 といえば、それからの予定はきまっていた。

 桜木 三郎(「集英社」の編集者)が、明治の旧文芸科の出身者だけの文学雑誌を出そうとして私に相談にきた。彼の心づもりでは、「早稲田文学」や「三田文学」が出ているのだから、明治もおなじような雑誌を出すべきだという。
 私は小川 茂久が「やろう」といえば、どこまでも協力しようと答えた。私は明治出身者だけの同人雑誌などというものに少しも幻想を抱いていなかったが、これが「駿河台文学」という雑誌のはじまりになった。
 創刊号を編集したのは、私だった。
 「駿河台文学」の創刊号を編集することになったが、まるっきり経済的な基盤がなかった。なんとか雑誌を出す費用を捻出しなければならない。
 そこで、翻訳のアンソロジーを作って、その印税を雑誌の費用にあてようと考えた。
 これが『ミステリーをどう読むか』(三一書房)という本になった。訳者に明治の出身者を集めたが、ドイツのブロッホを入れることにしたので、これだけは友人の深田 甫(慶応大/教授)に翻訳を依頼した。
 深田君に事情を話して、稿料は半分だけで勘弁してもらうことにしたが、あとの訳者たちのぶんは、全額、「駿河台文学」に寄付というかたちをとった。
 ずいぶん強引なやりかただったが、ほとんどの訳者がこころよく応じてくれた。

 「駿河台文学」の創刊号は出せた。しかし、雑誌の内容をめぐって、さまざまな悪評が起きたのだった。小川 茂久は、私に対する批判を一身にひきうけてくれたようだった。もともとそんな同人雑誌に幻想を抱いていなかった私は、これで熱意がさめた。
 結果として「駿河台文学」は4号を出して終わったが、最後の号を編集したのは、小川 茂久だった。
 小川 茂久は、いい出しっぺの私が手を引いたため敗戦処理のクローザーというかたちで、「駿河台文学」の終刊号の編集を引き受けたのだった。
     (つづく)

2008/10/19(Sun)  911
 
 友人から手紙をもらうほど、うれしいことはない。
 小川 茂久は、ほとんど手紙をくれたことがなかったし、手紙をくれるときはいつもハガキだった。なにしろ毎週、2回は会っていたのだから、お互いに手紙を書く必要がなかった。その彼のハガキが出てきた。

    佐々木基一『昭和文学交友記』読了。だいぶ以前、佐々木氏が『東京』紙上で回想記を書いていることを耳にしたことはあったが、これほど長く、まとまったものとは思っていなかった。戦前の共産主義運動を経験した方と、戦前は幼く戦中の小中教育ではすなおに学び、大学ではどたんばの時を迎えて、生をあきらめ軍隊に入った私のような者との違いがひしひしと感得された。君の写真はいつごろのものだろうか、いい目つきをしているね。覚正、関口の名も出てきて、昔のことを思い出し、興味深い。佐々木氏はきびしいがやわらかい、するどいがやさしい心の持ち主だ。
 消印は1984年1月8日。

 佐々木基一の『昭和文学交友記』は、小川が書いているように「東京新聞」に連載された回想。
 覚正 定夫も私の友人で、戦後、小川 茂久、関口 功とともに、明治大学文学部の助手として残り、共産党に入った。柾木 恭介というペンネームで映画評論を書いた。
 私はその後、柾木 恭介とは、まったく疎遠になった。
 後年、小川 茂久は明大仏文科の教授、関口 功は英文科の教授になった。

 ここでふれられている私の写真は、戦後、何かのことで「東京新聞」文化部にわたしたもの。

 小川 茂久はフランス語の先生だったし、私はもの書きが本職で、明治では別の科の講師だったので、大学でのつきあいはなかった。お互いに、授業のあとは以心伝心、行きつけの居酒屋、酒場に足を向ける。山形/庄内の酒が飲める「弓月」か、ママさんが鹿児島ガ阿久根出身の「あくね」。行き先がきまっているので、小川にかならず会えるのだった。
(つづく)

2008/10/18(Sat)  910
 
 シェイクスピアの『リア王』が、ハリウッドで映画化されるらしい。

 「リア王」は、アンソニー・ホプキンス。三人の娘たちは、グウィネス・バルトロウ、ナオミ・ワッツ、キーラ・ナイトレイ。

 監督は、「スウィング・ヴォート」が公開されたばかりの、ジョシュア・マイケル・スターン。

 最近のハリウッド映画にほとんど関心をもたない私でも、つい期待したくなる。「リア王」がアンソニー・ホプキンスでは、およその見当がつくので見たくもないが、グウィネス・バルトロウ、ナオミ・ワッツ、キーラ・ナイトレイたちは、ぜひ見ておきたい。

 はじめてアンソニー・ホプキンスを見たのは「冬のライオン」だった。
 ピーター・オトゥールの「王」と、キャサリン・ヘップバーンの「王妃」が、三人の息子の誰をつぎの国王にするかで、モメている。このとき、ろくでなしだが、いちばん度胸のいい息子が、ほかの兄弟にむかって宣言する。
 「おれはつねに兵士にして、ときに詩人、将来は国王になる!」と。
 のちの獅子心王、「リチャード」。
 アンソニー・ホプキンス、ときに31歳。今思い出しても、凄い役者だと思った。
 その後のアンソニーは、まさに名優といっていいのだが、「羊たちの沈黙」、「ドラキュラ」、「日の名残り」と見てきて、最近のアンソニー・ホプキンスのシェイクスピアものなら、だいたい想像がつく。
 アンソニーの器量では、昔のジョン・ギールガッド、ローレンス・オリヴィエ、ラルフ・リチャードソンなどにはおよばない。

 そういえば、シャネルの「ココ・マドモアゼル」のCMに出ていたキーラ・ナイトレイにかわって、エマ・ワトソンが起用されたとか。
 おやおや。
 あの可愛らしい「ハーマイオニー」が、もう、そんなお年頃なのか。

2008/10/16(Thu)  909
 
 アメリカの、コーヒー戦争が激化して、スターバックスがマクドナルドに追い越されて、はじめての赤字に転落。サブプライム問題によるアメリカ経済の低迷の影響という。ふーん、そうなのか。経済学にうとい私は、こういうニューズを読むと、その因果関係を考えようとする。むろん、私にわかるはずもないのだが。

 スターバックス。4月から6月の純利益で、670万ドル(約7億3千万円)の損失。消費者が、1杯4ドル(約432円)のコーヒーの価格を割高に感じはじめたらしい。
 そこで、スターバックスは、アメリカ国内の600店舗、従業員の7パーセント(1万2千人)を削減する予定。ほら、すぐにこうくる。
 こういう経営者側の対応に、アメリカ経済の先行きがますます気になる。

 私にいわせれば、600店舗、1万2千人の従業員を削減する前に、まだやることがあるじゃないか、といいたくなる。
 従業員の大幅な削減よりも、経営側が退陣すべきだと思う。自分たちの失敗を、従業員の削減で切り抜けようとするのは許せない。トップの交代と同時に、コーヒーの価格を半分に抑え、幹部たち、各店舗の店長たちの給料を一律に10パーセント削減すれば、スターバックスの再建はすぐにも具体化するのではないか。

 アメリカに行ったことがある。アメリカのマクドナルド、ドトール、スターバックスのコーヒーは、だいたいおいしかった。
 現在、マクドナルドの純利益は、約11億9千万ドル。昨年同期の7億3千万ドルの赤字から大きく改善した。
 マクドナルドの国内価格は、コーヒー1杯が1ドル(約108円)。
 スターバックスのコーヒー、4ドルは高すぎる。

 日本でも、マクドナルドはコーヒーの品ぞろえを拡充しているが、ドトール、スターバックス・ジャパンは、今年に入って来店客数が激減している、という。
 ただし、私は、日本のマクドナルド、ドトール、スターバックス、いずれもほとんど立ち寄ったことがない。
 コーヒーがおいしくないから。

2008/10/15(Wed)  908
 
 最近、中央線は事故で運転中止が多い。そこで、すかさず、

    中央線のトンネルは 水がわき

 ろくな連想ではない。私のどこかに、幕末から明治にかけて流行した芝居ばやしのリズムや、メロディーのかけらが残っているのかも知れない。えへへへ。

 千葉の方言に気に入ったものがある。
 いいご機嫌で人と別れる。このとき、「アントネェ」と声をかける。

 語源的には「安堵にね」ぐらいの意味だろう。

 かるく鼻にかかった声でいうと、まるでフランス語のように聞こえる。すこし、サビをきかせると、なにかスラヴふうに響く。(笑)
 千葉でももうほとんど使われていない。ぜひ、これを復活させよう。
 みなさん、「アントネェ」。

2008/10/13(Mon)  907
 
 いつ、どこで、どうして、こんな言葉をおぼえたのかわからない。

 原稿を書きあげると、「ケラケンミョー ミョーウッス ビックリペケペケ」などとあらぬことばを口走り、三枚の短い原稿を書きあげると、ついうれしくなって、

    いんちょ にんちょ ちょちょんが 長三郎

 などとうかれる。

 マージャンであがったときは、ロンと声をかける。ところが、実際には、ドカン、どしん、デンなどと口走るやつがいる。「ほれ、デタデタ」などというのもある。
 リーチで、イッパーツ。エーイ、あがっちゃえ。

 あれとおなじで、まあ、私が、ろくなもの書きではないことがおわかりだろう。
 いつも鼻唄まじりで原稿を書き上げるわけではない。けっこう、あぶら汗をかいているので。だから、原稿を書きあげるとうれしくなる。書きあげた原稿をまるめて、鉦をたたくように、チーンチーン チンチンチン などと唱えたり、トントントン トントントン と、ずり足をしながら茶封筒に入れる。さっそく宛名書き。郵便局にもって行く。

    浅間山には けむりが絶えぬ おいらの胸には 苦が絶えぬ

 などとつぶやきながら原稿を発送してしまえば、あとは野となれ山となれ。(笑)

 「やれやれ、これでシューハミョー、おれの原稿、ポコミョーミョー」などと唱えて、さっそくなじみの酒場に直行したものだった。むろん、トラになるために。(笑)

2008/10/11(Sat)  906
 
 赤塚 不二夫のマンガ、「おそ松くん」のキャラクターたち。
 「イヤミ」のシェーッ。レレレのおじさん。ドジョーウナギ。ハタぼう。
 赤塚 不二夫のキャラクターは、はやし言葉めいたフレーズを奇声とともに発するのだが、これがいい。

 私は、全国各地の民謡のはやしことばのかずかずに興味がある。
 たとえば・・・・

     ケンソン ケンソン ケンペロリン
     スイポウ チンカン チャチャラカペン

 浦賀の虎踊り。これに、「レゲール」といった踊りがつく。

     レゲール カンロンオース エンエン ブツブツ フルルレオース
     ウタント クワント シゼント メエレンニク テレキン
     ニンニョーニョー オケラケン

 虎踊りの「チャラチャラ」になると、奇妙キテレツ、まったくわからない。

     チャチャーラ チャチャーラ チンカラ ケンプリ オケケンケラケン
     ケラケンミョー ミョーウッス ビックリペケペケ。
     バンニャ カクサン キンナイロー ペッペケ キンナイロー ジョユ
     シューハミョー オンチカロクシン キュー シンポコポコ ポコミョーミョー
 ナカナカサカリキ エスエーエ エース エススリャ オンリャコッチュー 
チーヤッチ オンリャコッチュー

 さながら呪文のつらなりだが、歌は和藤内の虎退治にまつわるもの、その背後になにやらエロティックな暗喩が隠されている・・・ように見える。

2008/10/09(Thu)  905
 
 テレビで、ホラー映画「ハイド・アンド・シーク」(’05年)を見た。
 ダコタ・ファニングという子役女優を見たかったから。この女の子は、まさに「ハリウッド・ニンフェット」のひとり。
 彼女は、やがてハリウッドの「現在」を代表する女優になる可能性を秘めている。
 ただし、少女スターだったマーガレット・オブライエンのような例もあるので、私の期待だけに終わるかも知れない。もっと美少女だったリンダ・パールとか。「ダウンタウン物語」で、ジョデイ・フォスターと共演した美少女、フローリー・ダガーとか。

 この映画のイントロダクションで、ヒロインの母親が、浴槽で手首を切って自殺する。なんと、エミー・アーヴィングだった。おぼえている人がいるかどうか。「キャリー」の女子高生。「デランシー・ストリート 恋人たちの街角」で、とても善良な男、ピーター・リガートを愛してしまう女性。エミーが誰と結婚したか、ここには書かない。残念なことに、エミーはそれほどいい女優になれなかった。

 自分が「後期高齢者」(ルビ/くそGG)になっているのだから、かつてスクリーンではじめて見た女優が年齢を重ねても不思議ではない。それをわかっていながら、リンダ・パールは消えてしまったし、エミーがいい女優になれなかったことは残念な気がする。

2008/10/07(Tue)  904
 
 かつて名人と呼ばれた歌舞伎役者に、中村仲蔵がいる。
 はじめ、秀鶴といった頃は、芸も未熟で、俗にいうペイペイ役者だった。あるとき、並び大名で舞台に出たが、顔(メーク)は赤く隈どり、着ている衣裳は糊のきつい麻の素袍(すほう)。二日、三日と舞台をつとめれば、糊が落ちてシワが出る。
 クタクタになって見ぐるしいのに、役者たちは、楽屋に入っても、付き人に衣裳をまかせっきり。たたみもせずに、衣裳棚にあげておいて、翌日も、そのままおなじ衣裳で舞台をつとめる。だから、ひどく見ぐるしかった。
 秀鶴ひとりは、衣裳を人手にかけず、その衣裳を水のしする。(麻は汗を吸い込むので、脱いだあと水にさっとつける。そのうえでピンと渇かす。これを水熨斗という。)
 きれいにたたむ。毎日、こういうふうに丁寧に始末しておく。翌日、その衣裳を着て舞台に出て、列座の役者たちとならぶと、ひときわすぐれて、りっぱに見え、いかにも上手らしく見えたので、観客の注目を浴びた。
 そのため、劇場の経営者も眼をつけて、
 「あいつには一器量がある。つぎの狂言(レパートリー)には、これこれの役が似つかわしい。その役に抜擢してみよう」
 同輩の役者たちのなかから、秀鶴を起用すると、その役も相応につとめたので、次第しだいに、いい役をつとめるようになった。役者としての位もあがってくる。やがては名人といわれて、今にその名を残した。

    天下に名を轟かす者は、初めより其の器量衆に超へたり、戯作も此の秀鶴(のちの仲蔵)が心懸(こころがけ)にて、常に心を用ゐ、一句一章たりとも疎かに書くまじきものなり、丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に書きたけれ、画わりにも工夫を凝らすべきか

 ということになる。
 (つづまやかという表現は美しいが、死語になっている。)

 仲蔵のアネクドートは、種彦の書いたものを私が忠実に訳したもの。

2008/10/05(Sun)  903
 
 柳亭 種彦(1783〜1842)が亡くなったのは、天保13年7月18日。享年、60歳。水野越前の天保の改革で死ぬことになった作家である。

 辞世の句に、

    散るものに さだまる秋の柳かな

 おのれの死を見つめての作なので、軽々に批評すべきものではないが、

    源氏の人々のうせ給ひしも大方秋なり
    秋も秋 六十帖をなごりかな

 この句のほうがずっといい。種彦の内面がつたわってくる。

 種彦は「田舎源氏」が絶版を命じられた。いわゆる天保の改革で、この結果、作品は中絶し、作者は心痛のうちに死んだ。(ついでに書いておくが、私は歴代の江戸幕閣で水野越前守、その下僚どもをもっとも唾棄すべき連中と見ている。)

 種彦については、あまりよく知らない。小林 秀雄が一度だけ種彦の名をあげたことがあって、小林 秀雄がとりあげている以上、ぜひ種彦ぐらいは読んでおこうと思った。
 当然、『田舎源氏』は読んだほか、ほかには初期の怪談、『近世怪談霜夜星』とか『浅間嶽面影草紙』、『逢州執着譚』などを読んだ。出てくる登場人物がそろっていい加減で、出てきたと思うとあっという間に死んでしまったり、やたら偶然に出会ったりするのに辟易した。こういうご都合主義というか、偶然の頻発を見ると、江戸時代の作家が羨ましくなる。
 『浮世形六枚屏風』は、英訳があるそうな。英訳をさがす気もないので、種彦の原作を読んでみたが、主人公がイヌをめがけて石を投げたとき、うっかり懐中にした百両を投げてしまう。途方にくれて、死ぬ気になった男が、腹いせに犬張り子に八つ当たりをする。なんと、そのなかから百両の包みがころがり出して、めでたしめでたし。
 あまりのアホらしさにいささかあきれた。

 それでも、種彦の創作観を知って興味をもった。
 種彦は、名人といわれた俳優、中村仲蔵のエピソードにふれながら、
 「後に上手と人に云はるる者は未熟なる初めより其の器あらはるるなり」という。

    天下に名を轟かす者は、初めより其の器量衆に超へたり、戯作も此の秀鶴(のちの仲蔵)が心懸(こころがけ)にて、常に心を用ゐ、一句一章たりとも疎かに書くまじきものなり、丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に書きたけれ、画わりにも工夫を凝らすべきか

 これでわかるように、種彦の創作論は、平凡だが、かなりきびしいものだったといえるだろう。(仲蔵のエピソードは、あとで紹介する。)
 ずっと後年の紅葉あたりまで、種彦の創作論は継承される。

 「後に上手と人に云はるる者は未熟なる初めより其の器あらはるるなり」

 たしかにそうだよ。谷崎 潤一郎、三島 由紀夫などの登場を見れば納得できる。
 おなじことはたぶんほかのジャンルでも共通で、翻訳でも、お笑いでも、芝居の役者でも、「丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に」見えないといけない。

 「画わりにも工夫を凝らすべきか」という意見は、アニメーション、マンガ作家にそのまま聞かせてやりたいね。
 これもついでに書いておくと、種彦のイラストは、はじめのうちこそ北斎、重政などだが、のちに圧倒的に国貞が多くなる。
 作家とイラストレーターの幸運なめぐりあい。

2008/10/03(Fri)  902
 
 「プレイボーイ」(’08・10月号)に、マリリン・モンローの記事と写真が掲載されている。有名なイラストレーター、アール・モランのモデルになったときの写真で、わずか2枚だが、久しぶりにマリリンに会えた。
 まだ、まるっきり無名のモデルとしての修行時代のマリリン。

 アール・モランの短い説明がついていた。

 無名のモデルだったマリリンは、はき古した靴をはいていた。あまりボロボロだったので、前にきたモデルの靴を与えたという。
 その後、マリリンは、いわゆる「モンロー・デスヌーダ」(ヌード・カレンダー)のスキャンダルをきっかけにスターへの階段をかけ登ってゆく。
 やがて、マリリンは「アスファルト・ジャングル」で使った衣裳を、アール・モランに贈ったという。

 おそらくほんとうのことだろう。いい話だ。ただ、ここには、おそらくアール・モランが気づいていないことがある。

 私は、このみじかい「説明」から、マリリンの人生に関して、いくつかのことを考え、かつ、(私にとって)興味深いことを想像する。
 当時、無名のモデルだったマリリンは、毎日、ボロボロにはき古した靴をはいていたこと。なにしろ貧乏だったから買えなかった。誰でもそう思うだろう。
 私はもう少し別のことを想像する。自分が日常はいている靴がボロボロになるまではき古しても、気がつかなかったか、気にとめなかったか。靴がボロボロになっても使えるあいだは平気ではいていた、というノンシャランな姿勢。

 若い女が、ボロボロになるまで靴をはき古しても、気がつかなかったとは考えられないだろう。しかし、当時、マリリンは、イタリアの名女優、エレオノーラ・デューゼの評伝を読んで感動していた。そのデューゼに私淑していたマリリンが、無名の頃の名女優・デューゼが、それこそ食うや食わずで切磋琢磨していたことに心を動かされていた、と見てもいい。
 私としては、当時のマリリンはもう少しあっけらかんとしていたかも知れないと思う。自分のはいている靴がボロボロになっても、そのうち誰かが買ってくれるだろう、ぐらいに考えていたとしても不思議ではない。マリリンには、そういういい加減さ、図太さ、わるくいえば自堕落なところがある。そこが、マリリンの可愛らしさでもあるのだが。

 「プレイボーイ」に出た写真のマリリンはわかわかしい。アンドレ・ド・ディーンズの写真よりはあと、トム・ケリーの写真よりは前。その1枚は、めずらしいスナップショット。マリリンが、ちょっと口を尖がらせている。こうした sulky な表情のマリリンはめずらしい。といっても、怒っているわけではない。もっと幼いシャーリー・テンプルが、よく見せる不機嫌な表情に近いもの。むろん、マリリンはハリウッド・ニンフェットではない。

 アール・モランが何も気づいていないこと。
 ――「アスファルト・ジャングル」の衣裳を、アール・モランに贈ったという一節に私は注目する。むろん、感謝の心をこめて贈ったはずだが、はたして、自分がスターレットとして「アスファルト・ジャングル」の大きな役をつかんだという報告のために贈ったのか。

 マリリンが恋人だったフレッド・カーガー、アーサー・ミラーの父親、イシドア・ミラー、あるいはイヴ・モンタンに贈ったものを思い出してみると、これはなかなかおもしろい。

2008/10/01(Wed)  901
 
 俳優、ルイ・ジュヴェは、何かむずかしい問題にぶつかると、さっそく誰かれなく、その問題について知っていそうな人のところにとんで行ってお伺いを立てる。
 むろん自分でも徹底的に考えるのだが、自分が到達したところと違う答えが聞けるかも知れない。ジュヴェはそう思うのだった。

 ある日、劇作家のトリスタン・ベルナールに会いに行った。ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい階段の上にあった。
 ふたりが何を語りあったのか。残念ながら、私は知らない。

 ベルナールは、フランスきっての喜劇作家なのである。ルイ・ジュヴェは、熱心なカトリックだった。

 帰り際に、ジュヴェは大真面目な顔で、ベルナールにいった。
 「先生、注意してくださいよ。この階段、二段ばかりカトリックじゃありませんよ」(つまり不信心でぐらぐらという意味だろう・中田注)

 「ああ。だけど、おれだって違うからね」

 後日、友人にこの話をしたジュヴェは、途中でたいへんなことに思い当たったように、気の毒なほどうろたえて、
 「ひょっとして、劇作家先生、気をわるくしたんじゃないだろうか」
 友人はにやりとして、
 「まさか! そんなことで気をわるくするトリスタンじゃないさ」
 「ああ、よかった! 安心したよ」

 いまにも泣きそうな顔で、胸をなでおろすジュヴェを見ると、つい、いってやりたくなるのだった。
 「まったく、ルイときたら・・つまらないことにこだわるからなあ」

 このエピソードを私は評伝『ルイ・ジュヴェ』でつかわなかった。しかし、ジュヴェの「心配症」がよくわかる。
 名優なのに、人づきあいが下手で、不器用で、他人からひどく剛腹な人間にみられて、いつも無用の誤解をうけていた男のかなしさ、おかしさが、こんなエピソードからもよくわかる。

2008/09/29(Mon)  ☆900☆
 
 「俳優という職業はつらいものだ」と、サマセット・モームはいう。モームがいっているのは、自分が美貌だからという理由だけで女優になろうとする若い女性や、ほかにこれといった才能もないので俳優になろうと考えるような若者のことではない。
 「私(モーム)がここでとりあげているのは、芝居を天職と思っている俳優のことである。(中略)それに熟達するには、たゆまぬ努力を必要とする職業なので、ある俳優があらゆる役をこなせるようになったときは、しばしば年をとり過ぎて、ほんのわずかな役しかやれないことがある。それは果てしない忍耐を要する。おまけに絶望をともなう。長いあいだの心にもない無為も忍ばなければならぬ。名声をはせることは少なく、名声を得たにしてもじつにわずかばかりの期間にすぎない。報われるところも少ない。俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気にいられなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら大衆の偶像に祭りあげられていたことが、なんの役にも立たない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。これを考えるとき、私は俳優たちが波の頂上にあるときの、気どった態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、バカをつくそうと、勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。」
 いかにもモームらしい辛辣な意見だが、私はモームに賛成する。だから俳優や女優のスキャンダルを書きたてる芸能ジャーナリズムにはげしい嫌悪をおぼえる。
 ジュヴェもまた傷ついたに違いない。だが、けっしてわるびれることなく生きた芸術家なのである。悪戦苦闘をつづけてきたジュヴェの生きかたをたどりながら、私の内面にジュヴェの姿が浮かびあがってきた。少し時間がかかりすぎたが、八年という歳月はさして長いものではない。書けないときは仕方がない。花をデッサンしたり水彩で描いたり写真を現像したりしながらジュヴェのことを考えつづけていた。

 この評伝を書きながら私がいつも思い出していたことばがある。
 「この世には、短時日では学べないことがいくつかある。それを身につけるには、私たちがもっている唯一のものである時間というツケをたっぷり支払わなければならない。ひどく単純なことだが、それを知るには一生かかってしまうので、一人ひとりが人生から手に入れるわずかばかりの知識はやたらに高いものにつく。それだけが、後世に残すただ一つの遺産なのだ」と。
 ヘミングウェイのことばである。

2008/09/27(Sat)  899
 
 地方の小都市の駅前に立ってみよう。荒涼とした風景がひろがっている。
 商店街は軒なみ昼間からシャッターを閉めて、まるで活気がない。まるで死んだような土地が多い。生活必需品はコンビニで買うにしても、その土地名産の和菓子などの店も元気がない。「美しい日本」などどこにもないし、「安全実現」もない。
 数年前までは、たとえば古本屋の一つふたつ、ほそぼそながら商売をしていたものだ。しかし、いまでは小都市にかぎらず、大都市の古本屋までが、量販専門の大型ブックショップに駆逐されてしまった。

 大多数の日本人は、古典はおろか、明治、大正、昭和前期の文学さえ読むことがなくなっている。直接には国語力のいちじるしい低下によるが、そうした教育を推進してきた教育の責任も大きい。
 むろん、文学作品などは読まなくても生きていける。
 日本赤軍のリーダーだった永田某という女性は、古典にかぎらず、およそ文学作品などは読まなかったという。あれほど陰惨な「総括」を行ったこの女性が、文学作品などは読まなくてもいいと思っていたことは間違いないが、革命家として、先天的に何かが欠落していたはずである。
 秋葉原で無差別殺人を起こした加藤某は、どんな文学作品を読んだのか。幼い少女をつぎつぎに殺した宮崎某は何を読んだのか。ぜひ知っておきたい。

 こういう荒廃は直接には誰に責任があるのか。

 免疫学者の多田 富雄先生は、その原因の一つに、経済効率を優先して、地方文化を無視した行政改革で強行された、無秩序な市町村合併をあげている。

    古い伝統ある地名が、惜しげもなく捨てられ、ききなれない珍奇な名前に変わった。地方文化は破壊され、愛郷心は失われ、住民のアイデンティティーはなくなった。それは故郷を奪い、国を愛する心を失わせる行為であった。

 その無秩序な市町村合併を推進したのは、小泉内閣だった。そして、大型店舗の地方進出をバックアップしたのは、中曾根内閣だった。
 小泉 純一郎、中曾根 康弘の名を忘れないようにしよう。

2008/09/25(Thu)  898
 
 福田首相が突然辞任して(’08.9.1)、麻生新内閣が発足した。いずれ総選挙ということになって、蝸牛角上の争いがつづいている。

 私の「文学講座」は、いよいよ戦後にさしかかってきた。私流の「文学史の書き換え」なのである。
 この夏、ろくに本も読めなかったので、少しづつ本を読みはじめている。

 話は違うが・・・私などにも、いろいろなひとが著書を送ってくださる。ありがたく頂戴して読みはじめる。同人雑誌で、すでに作品を発表している女性作家のものは、なまじ文学的なグループに参加しているだけに、いかにも書き慣れた作品が多い。そして、主宰の著書は読んでいても、古典も、外国の作家もほとんど読んだことがない(と、判断する)。
 ほとんどの作品は、自分の書きたいことをまとめただけで、ものを書くという緊張はない。だから、せっかく頂戴しても大概の作品に感心しない。

 著者にはかならずお礼のハガキを書く。
 そういう作品を読むことで、じつにいろいろな問題を考えることができるから。
 チャットやネットで、しごく簡単におなじ趣味をもつ仲間を探すことができる時代に、顔も見たことのない私に、わざわざ本を贈ってくださるのだから、お礼を申し上げなければ罰があたる。

 いま、たまたまこんな文章を読んでいる。

    秋のけはひの立つままに土御門殿の有様、いはんかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの叢、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艶なるに、もてはやされて、不断の御読経の聲々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。

 ある作家の日記のオープニングだが、わずか数行ながら、秋の季節の訪れを感じている作者の内面の動きがみごとにとらえられている。
 そして、何をおいてもまず緊張がある。

 私は考える。作品を書くということは、こういう文章に、せめてひとすじ、どこかでつながることではないだろうか。

2008/09/24(Wed)  897
 
 私の好きな俳句。

    初恋や 灯籠によする顔と顔    太祇

 この「灯籠」(とうろう)は、もともと常夜灯の謂(いい)だが、7月朔日から晦日ごろまで、盂蘭盆にどこの家でも新仏(しんぼとけ)のために飾られる。ペール・ブルー、ないしはエメラルド・グリーンを基本にした美しい飾り灯籠。(とうろ)と呼んでもいいらしい。私は、わざと(ひかご)と呼んだりする。
 この灯(ほ)かげに、顔と顔を寄せあって恋をささやいている。
 あるいは、何も語らずに、お互いに眼と眼を見つめあっているのか。

 初恋だから、エメラルド・グリーンの灯(ほ)かげがいい。

 炭 太祇、江戸中期の俳人。島原の妓楼の宗匠だったせいか、あまり人気がない。蕪村とはとうてい比較にならないマイナー・ポエットと見られている。

 蕪村の

    水鳥や 提灯遠き西の京 

 に対して、太祇の

    耕すや むかし右京の土の艶 

 を並べても、さして遜色はない。

    ふりむけば 灯とぼす関や 夕霞

 これは旅の一句。
これもいいけれど、「初恋や」のほうがいい。私としては、この人の俳句に好きなものが多い。

 ところで、「広辞苑」で、太祇(たいぎ)を引いたところ、

太祇(たいぎ) 炭 太祇。

 とあった。これだけである。「たん・たいぎ」の記述はない。
 「広辞苑」でさえこうなのだから、太祇はもはや忘れられた俳人と見ていい。しかし、「広辞苑」に記述がなくとも、太祇のすぐれた俳句は心に残る。

2008/09/23(Tue)  896
 
 大植 英次という指揮者のことば。

    指揮者は作品を通じて、モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日付きあえる。こんな幸せな職業がほかにあるとでしょうか。

 いいことばだと思う。

 私は批評家として、じつにいろいろな作家を読んできた。むろん、私といえども、作品を通じて、ドストエフスキーやヘンリー・ミラーのような天才と毎日つきあってきた。しかし、私は天才ばかりとつきあってきたわけではない。
 その意味で、批評家なんてちっとも幸せな職業ではない。

 いろいろな作家を読んできたことは、それだけいろいろな運命を見つめてきたことでもある。
 モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日つきあえても、かならずしも幸運ではない。私は、もっとずっと平凡な才能たち、あるいは、もっとずっと俗悪な連中ともつきあってきたし、うんざりするほど才能のない連中も見てきた。

 それでいい。そのことに悔いはない。

 私の内面にどっかり腰をおろしている、ひたすらなる混沌は、才能もないのに文学の世界に飛び込んだせいだろう。しかも私は、そのことをいささかも後悔していない。モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日つきあえなくても、それはそれでいいのだ。

2008/09/22(Mon)  895
 
 (つづき)
 国運をかけた戦争をしている最中に、こんなことがあっていいのか。眼がくらむような気がした。
 そういう考えのうしろには、私がまだまったく知らない女たちのなまぐさい生理の匂いをかぎあてたからではなかったか。若い娘たちは、戦争にまったく関係なく、ひそかに憧れている男の前で裸になって、自分の性器に男のペニスをうけいれたがっている。

 私は、そういう娘たちが灰田 勝彦に抱かれるところを想像した。少しも実感はなかった。中学生が、かりにそういう娘たちを相手にして何かが起こることを期待していたとは思わない。しかし、自分の知らない世界が、いきなり眼の前につきつけられたことにひどく狼狽したのだった。

 四谷は意外に起伏が多く、暑い日ざかりに自転車で郵便物を配達するのは、中学生にはきつかった。四谷見附から大木戸にかけての新宿通りはゆるやかな鞍部になっているが、北の荒木町、舟町、愛住町といった地域は、靖国通りに向かっての下り坂。
 東南は赤坂に向かっての谷。
 外苑からあがってくるのは、安珍坂。
 四谷の名前にふさわしい風景がひろがる。

 私は、四谷の町が好きになっていた。後年、『異聞霧隠才蔵』という時代ものを書いたとき、四谷の左門町あたりを思いうかべて書いた。
 左門町から信濃町に向かって行くと、お岩稲荷がある。後年、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を読みふけったのも、この頃、四谷を歩きまわったせいだろうと思う。

 それはそれとして・・・若い娘たちが、逢ったこともない男に裸身をさらして悔いない、と知ったときの驚きは、私の心のなかで、別のかたちで発展して行った。

 この驚きは、いまの私のエロティシズムの研究までつづいている。

 いまの私は・・・戦争にまったく関係なく、ひそかに憧れている男の前で裸身を投げ出そうとまで思いつめていた娘たちに感嘆する。むろん、論理的にうまく説明はできないのだが。
 彼女たちは戦争についても、自分のセックスについても、まったく言挙げしなかったが、逢ったこともない男に裸身をさらしてでも女としてのスポンタネ(生得的)な権利を主張していたような気がする。それを非難する権利は男にはない。

2008/09/20(Sat)  894
 
 ある年の夏の日ざかり、中学生の私は、毎日、四谷区内を自転車で走りまわっていた。
 勤労動員で、四谷の郵便局に配属された。全学年のうち、三年生が都内各地の郵便局にそれぞれ配属されて、私のクラスは、四谷の郵便局を担当したのだった。
 私たちの作業は、その日に投函されたハガキを集めて、機械で消印を押す。封書は、台の上に並べて、片手で木槌のようなスタンプを打つ。簡単な作業で職員が手本をやってみせたが、中学生には半分の能率もスピードも出せなかった。

 郵便物をあつかっていると、社会のさまざまな動きが眼に見えるようだったし、戦争についても、意外な事実が分かるのだった。私たちには、その存在さえ秘密にされていた戦艦「大和」の乗組員にあてた手紙があったり、中国大陸からの軍事郵便があったりして、漠然と戦況が想像できるのだった。

 その郵便物を都区内、全国各県別にわける。当然、全国からも四谷あての郵便物が殺到してくる。四谷区内あての郵便物は、それぞれの町名でわけられて、50名ばかりの中学生が、赤い自転車に乗って配達する。
 いまでいうArbeitだが、この配達は楽しいものだった。

 新宿が管轄区域だった。

 当時、歌手、映画スターとして、たいへんに人気の逢った灰田 勝彦が、新宿第一劇場に出ていた。
 毎日、ファンレターが殺到してくる。午前の最初の集配で、ビリヤード台ほどの大きな台にうず高いファンレターの山ができる。
 これを、仕分けるのも私たちの仕事で、新宿の劇場に届けるのは、局員の仕事だった。クラスのなかに不良少年がいて、そのファンレターを何通ももち出して、昼休みになると、仲間どうしで開封した。
 私は外まわりの配達ばかりやらされていたので、その手紙を盗み読む機会はほとんどなかったが、不良どもが読みふけっているところに戻ってきて、肩ごしに何通か読んだ。

 若い娘たちが書いた手紙というだけでも好奇心をそそるにじゅうぶんだったが、その手紙を読んで、ファンの心理を知った、というより、いきなり若い娘の生理を眼の前につきつけられたような気がした。
 大部分は、純真なファンらしい手紙だったが、いい匂いのするレターペーパーに、口紅のキスマークをつけたものなどがあった。
 そのなかに、やはり口紅で花か何かのプリントを押しつけたものがあった。しばらく見ているうちに、私はやっと理解したのだった。あえていえば、その美しさに茫然としたといってよい。
 そのなかに、中学生の私の内面を震撼させた内容のものもあった。それは、灰田 勝彦に面会をもとめたり、処女をささげたい、といった露骨なもので、悪童たちを驚かせた。
 娘たちは、こんなことばかり考えているのだろうか。
 私はひどいショックをうけた。
     (つづく)

2008/09/19(Fri)  893
 
 (つづき)
 昭和二十年十一月二十九日という日付から、私の内面にさまざまなイメージがかけめぐった。
 戦火に焼けただれた街にアメリカ兵が颯爽とジープを走らせている。戦争が終わったばかりの都会には、おびただしい数の浮浪者があふれていた。いまでいうホームレス。そして、浮浪児たちの群れも。
 若いGI(兵士)をめあてにあらわれるパンパンと呼ばれる街娼たち。女たちはGI(兵士)をホテルなどにつれ込まない。路上に駐車しているジープ、夕暮れのビルの屋上、焼け残った公衆便所、皇居のお堀端の土手、地下鉄の階段、防空壕の盛り土、女たちのベッドはいたるところにあった。
 夜更け、焼けビルにつれ込まれて強姦される女たちの悲鳴。
 こうした混乱と頽廃が、あわれな敗戦国の現実だった。

 山口 茂吉は、敗戦直後の日々に、この歌集『あづま路』の選を続けていたはずである。だが、この歌集には戦時中の生活の苦しみ、あるいは、敗戦という衝撃はまったくうかがうことはできない。しかも、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)にかけての作歌だけを選んでいる。つまり意識的に戦争を排除したと見ていい。ここには再出発にあたって敗戦直後の日々を生きていた歌人の、静謐な心境などはない。むしろ、いいがたい動揺を私は見る。
 山口 茂吉の「あとがき」は、戦争が悲惨なかたちで終わったことに関してまったく言及がない。だから、自選歌集『あづま路』には、そもそも戦争の翳りなどさしていない。このことに歌人の動揺を私は見る。
 昭和二十年十一月二十九日夜半。すでに、連合軍の占領がはじまっている。時代の激変のなかで、歌集の歌を選ぶにあたって「みづからの心に期するところがあって、これを一気に選び了へることができた」という。
 日本の将来さえ見えていない時期に、山口 茂吉がのうのうとして歌集を編んだわけではないだろう。だが、「みづからの心に期するところがあって」という感懐には何があったのか。
 「戦後」の斉藤 茂吉のはげしい懊悩を、山口 茂吉はどこまで気がついて、理解していたのか。

 いま、歌集『あづま路』(1946年)を手にして、敗戦直後の歌人が語らなかった、あるいは語ることのできなかった痛みを思い描く。

2008/09/17(Wed)  892
 
 暇なので、歌集をひもとく。川柳ばかり読んでいるわけではない。

 歌集『あづま路』(1946年)を手にとってみよう。

 山口 茂吉(1902〜1958)は、「アララギ」系の歌人。生涯をつうじて、斉藤 茂吉に師事した。この『あづま路』は、戦後最初の自選歌集。

    六層の階下るとき正午(ひる)を告ぐるサイレンの音しばらく鳴りぬ

    陸橋の下の舖道に冬の日のふかく差せるを見つつ通りぬ

    新しき年の来むかふ夜のほどろ眼を病みたまふ母しおもはゆ

    銀座にてきぞの夜逢へるをとめごは貞操のことなどを語りつ

 「冬の日」から。暑いので、わざと冬の歌を選んだ。
 山口 茂吉は斉藤 茂吉のお供で石見に旅行したとき(斉藤)茂吉が病気になったらしい。

    石見のくに行きつつ君は旅ぐせの下痢に一夜をなやみ給ひし

    夜中すぎ下痢をもよほし起きたまふ君がけはひに覚めてかなしむ

    旅にいでて下痢をすること癖のごとくなりつつやうやく君老いたまふ

 斉藤 茂吉に対する深い敬愛がうかがえる。
 しかし、旅先で下痢をしたことまで詠まれては、先生としてはツラいだろうなあ。私は、高村 光太郎を思いうかべた。
 おなじように東北の厳しい風土に隠遁しながら、斉藤 茂吉における山口 茂吉のような弟子をもたなかった高村 光太郎のいたましさを。

 ところで・・・この自選歌集『あづま路』は、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)の作歌、518首を選んだもの。作者、二十五歳から三十四歳の時期。
 「あとがき」に山口 茂吉は書きつけている。

    時雨のあめの降りそそぐ寒い庭に対つてこの集の歌を選びながら、幾たびとなく斉藤茂吉先生の居られない東路の寂しさをおもはぬ訳には行かなかつた。私はみちのくへ疎開して居られる先生の上をはるから偲びつつ先生の御幸福を切に祈つてやまないものである。昭和二十年十一月二十九日夜半、東京麻布にて、山口 茂吉しるす。

 この一節に、私の胸に複雑な思いがあった。昭和二十年十一月。
 日本が敗戦の苦痛と、再建へのわずかな希望にのたうちまわっていた時期である。
                            (つづく)

2008/09/16(Tue)  891
 
 夏の菓子はくず饅頭、水牡丹、水仙ちまき、芋羊羹、葛やき等々、すべてくず製のものを最上とする、という。万葉学者の沢瀉 久孝博士が書いていた。(「菓子三昧」昭和26年)
 沢瀉先生は和菓子がお好きだったらしく、「菓子放談」(「菓子三昧」昭和26年)の一節に、

    夏は夏らしく、冬は冬らしく、名を聞いてゆかしく、見た目に美しく、指につまんでやはらかく、ほのぼのとうるほひがあり、唇ざわり、舌ざはりなめらかに、歯にくっつかず、とろとろと溶けて、あはあはと消え行くものが私には最も好ましい菓子だと思ふ。

 と書いている。
 沢瀉先生にしてみれば、ぜんざいは困る。つぶあんはお気に召さない。「あはあはと消えて行かない」から。
 菓子は調進して三時間ばかりたったときが食べ時だという。

    わらび餅が翌日になると、その手ざわりに弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになり、唇に纏はりつくやうな、ぴりぴりとはずむ力がなくなって、わらび餅の魅力は消える、とかつても書いた事があるが、それ程でなくともすべて生菓子の宵越しを意としないのは菓子ごのみの人のわざとは申し難い。世は定めなきこそいみじけれ。缶詰にならぬところに和菓子の良さがある。(「関西大学学報/昭和26年)

 日ましのわらび餅が、手ざわりの弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになるという表現に、思わずにんまり。

 戦後、来日した詩人のエドマンド・ブランデンが、漢字制限と「かなづかひ」の混乱を見て、「美しいものがなくなってゆくのは見ていてイヤなものです」と嘆いたという。沢瀉先生はこれにふれながら、

    かういふ低俗蕪雑な世の中に、くぬぎの薪でたいた餡でつくった蒸菓子などをすすめるのはむだなことで、和菓子の色付にはならぬ毒々しい口紅をつけた女と缶詰でも開いてダンスでもおどって、空缶は道ばたへ捨てておいたらよいのかと思ふけれども・・。

 私は、夏の和菓子では葛まんじゅうが好きなので、沢瀉先生のエッセイを読んでうれしくなった。そして、考えた。沢瀉先生が、いまの和菓子を召し上がったらいかが思し召されるだろうか、と。

2008/09/14(Sun)  890
 
 この夏、テレビで北京オリンピックを見た以外は、英語の小説はたった1冊しか読まなかった。(むろん、未訳)。夏の一夜、暑気払いに、したしい友人たちと集まって、ビールを飲んだのも1回だけ。
 とにかく暑いので、せいぜい歌集、句集をひもとく程度。

    庭のままゆるゆるおふる夏草を分けてばかりに来む人もがな

 「庭のまま」は、庭のかたちのままに、という意味らしい。築山とか池とか、いろいろなきまりにしたがって作られた庭なのだろう。その庭が、いまは夏草がゆっくり、だがしどけなく伸びてきている。そのしげみを踏みわけて、私をおとずれる人はいないのだろうか。
 作者の和泉式部と、敦道親王の恋を重ねてみれば、夏の季節に、「ゆるゆるおふる」状態で萌える、女人のエロティックな内面、女人の生理までいきいきと感じられる。

    山をいでて暗き道にをたづね来し 今ひとたびの逢ふことにより

 この歌は、和泉式部にしては傑作ではないらしいが、私にはこの女性のやさしさ、おののき、よろこびが感じられる。と同時に、自分が歩いてきた山々の印象を勝手に重ねて、好きな歌のひとつにきめている。
 この一首、なぜか「暗き道にを」の助詞が異様に思われる。
 彼女の日記では、

    山を出でて暗き道にぞたどり来し今ひとたびの逢ふ事により

 となっている。「暗き道にぞ」という強調。「たづね来し」が「たどり来し」になっている。そして「今ひとたびの逢ふこと」と「今ひとたび」愛する人と「逢ふ事」のはげしい違い。

 私としては、「こんなに暑いと山へ行き度くなる」という思いがあって、前の歌のほうがいい。むろん、勝手な思い込みで読んで、勝手なことを連想しているにすぎない。
 山を下りて、長いルートをたどって夜になってしまった。東京に帰る夜行列車にぎりぎり間に合うかどうか。もし、遅れた場合は、駅の近くのとどかで一泊しなければならない。それでも、またいつかこの山に登れればと思いながら、疲れた足どりで暗い道を急いでいる。そんな自分の姿を重ねている。

 ごめんなさい、和泉式部さま。

2008/09/13(Sat)  889
 
 いやぁ、まだ暑いね。まいりましたな。
 「猿蓑」の附合(つけあい)に、「暑し暑しと門々の聲」というのがあるが・・・今年の7月は猛暑がつづいた。
 京都などでは、31日間、連続で「真夏日」。これは、1994年以来という。
 千葉だって、「真夏日」は23日間もつづいている。こうなると、「暑し暑しと悶々の聲」だよ。

   「暑い! いつもガンガン照りつけるならばまだ辛抱も出来る物の、どんよりとして何だか圧しつけられる様に、どうしても癪に触る暑さである。いつその事あばれてしまへと云ふ、やけくそで、コートヘと飛出してラケットで当り散らかせば、二セット目には、あれあれ! シャツからズボンまで、づつくりと水の中から出て来た様で、眼と云はず鼻と云はず滝流しである。一風呂浴びて、少しは風でも出たかと思へば、是は又どうした事かそよとも云はない。晩飯の膳に向かっても、あれほど運動したのに扨て食ってみたい物は冷(ひや)ぞうめん位な物である。
   こんなに暑いと山へ行き度くなる。」

 辻 二郎の『西洋拝見』(岩波書店刊/昭和11年)から。どうやら1936年(昭和11年)の夏も暑かったのだろう。
 辻先生は、寺田 寅彦に似て、科学者、随筆家。科学者として、当時最高の名誉だった恩賜賞を得た。随筆はおもに登山の思い出、アマチュア写真家としての観察など。
 この『西洋拝見』は、小説仕立てのヨーロッパ渡航の記録。
 残念ながら小説としてはおもしろくない。この本の後半(つまり、小説以外)は昭和9年までに書かれたエッセイ。私が引用したのは、「山とりどり」という随筆の一節。

    こんなに暑いと山へ行き度くなる。

 ほんとうにそんな気がしてくる。

 昭和初期、辻先生は、松本や大町まで、むし殺されるような夜行列車に乗って、アルプスに向かう。

    ・・重いリュックサックに登山靴を引きづりながら、歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処ばかりだと思ふと一寸うんざりする。其歩くのが又楽しみでもある訳だが、いつも帰ってくると、愉快な事ばかり覚へて居てつらかった事は忘れてしまふ様な物の、実は山登りは、なかなかもってえらい労働である。座ったまんま槍ケ岳の肩位まで行ける様になったらさぞ便利だらうと思ふ。そんな事を云ふと、山の冒涜だ等と云っていきり立つ手合もあるかも知れないが、十年後か廿年後か早晩さうなるにきまってゐる。又早くそうした方がいい。ほんとに歩きたい人間は其から先を歩けばよい訳である。

 現在では、昭和初年の辻先生の予想はほとんど実現している。「むし殺されるような夜行列車」どころか、冷房のきいたコンパートメントで、千葉から松本まで直行の特急が走っている。たいへんに便利になった。登山技術も、装備も、昭和初期とは比較にならないほど高度で、洗練されたものになっている。

 2008年7月、東京都は、近郊の低い山のハイキングコースの案内板に、番号つきの識別標をつけている。遭難者が出た場合、その識別標の管理番号を連絡すれば、ただちに所轄の消防署のヘリが出動して、遭難者の救助にあたるシステムらしい。

 登山者がしっかりしていれば遭難するはずもない山々に、番号つきの識別標をつけるなど、地方の僻地の医療に財政支援を行うこととは、まるで次元の違うことだと思う。
 厳冬の北アルプスならいざ知らず、奥多摩、奥秩父あたりで、識別標の管理番号を連絡すればすぐにヘリが出動する体制をとるなど、どうも感心しない。
 東京近郊の山々だから、こういうシステムが考案され、実施、運営されるのだろうが、むしろハイキングする人たちに、奥多摩だって「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」というふうに、考えさせるほうがいい。

 だが、昨年(2007年)だけで、1808人も山で遭難し、200名以上が死亡しているような事態など、辻先生も予想なさらなかったに違いない。
 「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」がどこにもなくなってしまった不幸までは辻先生も予想しなかったはずである。

2008/09/12(Fri)  888
 
 「早川書房」にいた宮田 昇が、ある日、私のところにやってきて、
 「何かおもしろい小説を読んでいたら、教えてくれないか」
 といった。
 私は、たまたまミッキー・スピレーンを読んでいた。
 「これなんか、出したらきっと売れるよ」

 私は、ミッキー・スピレーンの小説を説明してやった。宮田 昇は、黙って聞いていた。彼が関心をもったことは、私にもわかった。
 宮田 昇はその日のうちに、「タトル」に行って、翻訳権の取得に動いた。当時、ミッキー・スピレーンは、5冊出ていたが、宮田 昇は2冊しか翻訳権をとらなかった。とれなかったというべきだろう。スピレーンの処女作と、最新作のペイパーバックだったが、この2作を選んだのも「早川書房」に資金的な余裕がなかったためという。
 その一冊(最新作)の翻訳を、恩師の清水 俊二さんにお願いして、もう一冊を私のところにもってきた。
 「きみがいい出したのだから、きみが訳してよ」
 宮田 昇はいった。

 その後、紆余曲折があって、これが「ハヤカワ・ミステリ」の出発になった。
 「ハヤカワ・ミステリ」は、ポケットサイズにするときめられて、とりあえず清水訳をNo.1、私の「裁くのは俺だ」をNo.5にすることになった。          
 2冊はきまったが、No.2、3、4、がなかった。
 ここでも、いろいろと紆余曲折があって、もう1冊を、植草 甚一さんにお願いすることになった。一方、宮田 昇は、同僚の福島 正美といっしょに「飾り窓の女」を訳すことにして、とりあえず「ハヤカワ・ミステリ」が出発することになる。

 「飾り窓の女」は、フリッツ・ラングか映画化したサスペンス・スリラーで、ヒロインの「飾り窓の女」の女」は、グローリア・グレアムだった。

 そういえば・・・「ハヤカワ・ミステリ」の新聞広告には、いつも、女の片目が大きくデザインされていた。ある映画女優の眼なのだが、もう誰も知らないだろう。

2008/09/10(Wed)  887
 
 当時、私はある映画会社でシナリオを書いていた。というより、シナリオ化する前段階、ストーリーのシノプシスを書くライターだった。こうしたシノプシスは、毎月、50本以上、集められる。地方紙に連載されている長編通俗小説のレジュメなども含まれていた。そういう仕事は、会社の脚本部に所属する人たちの仕事で、外部の書き手だった私には関係がなかった。

 ある日、製作本部の意向で、「立体映画」の企画が緊急の課題になった。私なども、このとき、出ているところはちゃんと飛び出して見えるし、引っ込んでいるところはちゃんと引っ込んで見える、というものを、ストーリーにどう反映させたらいいか、頭をひねったおぼえがある。

 さて、その当時の女優たちの身長、体重、そしてスリー・サイズをあげた理由が、みなさんにも理解していただけたのではないか、と思う。

 ロンダ・フレミング  身長=5・5フィート  体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/26  ヒップス/36半

 ローズマリー・クルーニー 身長=5フィート6半 体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/24  ヒップス/34

 ベテイ・グレーブル  身長=5フィート3半  体重=112ポンド
    バスト/36  ウェスト/23半  ヒップス/35半

 ローレン・バコール  身長=5フィート6半  体重=119ポンド
    バスト/34  ウェスト/23  ヒップス/35

 なつかしい女優たち。

2008/09/08(Mon)  886
 
 それまでの白黒映画がカラーと交代したときに、もっとも大きな問題になったのは、女優のからだをどこまで美しく撮影できるかというテクニカルな問題だった。
 これは、高性能レンズ、照明、メークの驚くべき発展で解決したが、立体映画となると、まるで未知の領域だった。
 映画「サンガリー」で、アーリン・ダールが起用されたことも偶然ではない。
 アーリン・ダール   身長=5フィート6  体重=118ポンド
    バスト/36  ウェスト/27  ヒップス/36

 当時、アーリン・ダールは「テクニカラー女優」という異名があったほどで、美貌と、からだの美しさは抜群だった。ただし、会社(「パラマウント」)が、あわてふためいて企画し、くだらないシナリオで、急遽製作したことが歴然としていた。つまり、映画はまったくの愚作。
 アーリン・ダールはインターヴューで語っている。

    「立体映画」に出る時は、自然に返れという姿勢がたいせつだと思うわ。ライトがきつくて、大げさなメークは禁物なの。こまかいところまで、くっきり撮られるから、あくまで自然のままのほうがいいの。それに、撮影のために、ダイエットして10ポンド落とすなんてこともなくなるわね。これまでの映画だと、からだが、平べったく写るので、実際以上にデブって見えたりするけど、「立体映画」だと、ありのままに写るのよ。

 つまり、出ているところはちゃんと飛び出して見えるし、引っ込んでいるところはちゃんと引っ込んで見える、というわけ。
 ただし、この言葉には・・・おそろしい含意(インプリケーション)があって、これまで、メークや、カメラ、ワークで美しく撮れていた女優たちには恐怖の時代がやってくる。
 たとえば、ヴェラ・エレン。身長=5フィート4半  体重=105ポンド
      バスト/33  ウェスト/21  ヒップス/33

 つまり、ヴェラ・エレンは、肉体的に不適格ということになる。なぜなら、スクリーンのワイド化もまた必至と見られていたからだった。
   (つづく)

2008/09/05(Fri)  885
 
 グローリアは、「戦後」の美女のひとりだが、グローリア・グレアム程度の美女はいくらでもあげられよう。
 しいて特徴をあげれば、二重まぶたの眼が、すっと冷酷な光を帯びると、いかにもあばずれといった感じになる。
 すれっからしの莫蓮女らしい、下品で、蓮ッ葉な女だが、どこかほかの女にない翳りがたゆたってくる。「人生模様」のマリリン・モンローにも、これはない。「欲望という名の電車」のアン・マーグレットにはとても出せない。

 ほしいままに春を枕籍にひさぐ娼婦の役、ギャングの情婦といった役を若い女優がやると、だいたいはほかの役のときよりもずっと輝いて見えるものだが、なかでもグローリア・グレアムは出色だった。もともと平凡な「娘役」をやったことがない。
 ある映画評論家が書いていた。

 ところで、これはどんな映画ファンもほとんど同じ思いだったと思うのだが、四〇〜五〇年代のモノクロ女優のなかで、だれの裸をいちばん見たかったかといえば、それはイングリッド・バーグマンでもなく、ローレン・バコールでもなく、ラナ・ターナーでもなく、バーバラ・スタンウィックでもない・・それはグローリア・グレアムだった。

 残念なことに、私はグローリア・グレアムの裸を見たおぼえがない。だれの裸を見たかとえば、マルティーヌ・キャロル、ジャンヌ・モローといったフランスの女優たちを思い出す。グローリア・グレアムといえば、(以下すべて、1958年の資料による。)

 マリリン・モンロー  身長=5・5フィート半 体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/23半  ヒップス/37半

 ジェーン・ラッセル  身長=5フィート7  体重=135ポンド
    バスト/38半  ウェスト/25  ヒップス/38半

 エレン・スチュアート 身長=5フィート6  体重=118ポンド
    バスト/34  ウェスト/24  ヒップス/36

 ドリス・デイ     身長=5フィート5・3/4 体重=116ポンド
    バスト/36  ウェスト/25  ヒップス/36

 デブラ・パジェット  身長=5フィート2  体重=104ポンド
    バスト/33  ウェスト/25  ヒップス/36

 リタ・ヘイワース   身長=5フィート6  体重=120ポンド
    バスト/35  ウェスト/25  ヒップス/35

 こんなことを書きとめておくのは、いささか悪趣味だが。
 しかし、私にとっては、こうした女優のスリー・サイズを見届けておくことにはもう少し別の意味がある。

 じつは、この1958年当時、シネマスコープばかりではなく、3D(スリー・ダイメンション)も登場していた。つい昨日までは、そんなことばも存在しなかった世界がどこに行っても聞かれるようになって、カメラ、照明、ひいては演出のメトドロジーも変わるだろうと予想された。3D(スリー・ダイメンション)では、ポラロイド眼鏡などという、誰ひとり考えもしなかったアクセサリまでがあらわれた。
 ちなみに、当時、ピンナップの女王と呼ばれていたのはヴェジイニア・メヨ。
 「我らの生涯の最良の年」で、前線から復員した兵士(ダナ・アンドリュース)を裏切った不倫な人妻。「死の谷」で、愛するガンマンと国境を越えようとして、追手の銃弾に倒れる原住民の女。ヴェジイニア・メヨをおぼえている人がいるだろうか。

2008/09/02(Tue)  884
 
 グローリア・グレアムという女優がいた。もう誰もおぼえていないような女優さん。ビデオ、DVDでも「地上最大のショウ」ぐらいしか見られないだろう。この映画で、グローリアはアカデミー賞(1952年)の助演女優賞をとっている。
 ただし、アカデミー賞なんか、まるで関係のない「悪女」型の女優だった。

 一九五〇年代、私は英語がいくらか読めるようになっていたので、手あたり次第にアメリカの文学作品、通俗小説を読んでいた。雑誌、「サタデー・イヴニング・ポスト」なども読んでいたが、この雑誌に連載されていた小説が映画化された。
 監督はフリッツ・ラング。
 戦前すでに「激怒」、「暗黒街の弾痕」といったアクション・スリラーで一流監督だったフリッツ・ラングは、戦後の私には「扉の蔭の秘密」、「飾り窓の女」の映画監督だった。

 ある巡査の死に疑問を抱いた警部が動きはじめたとき、上司から捜査の中止を命じられる。このことから、警察内部を牛耳るマフィアの動きを知った警部は、車にギャングが仕掛けた爆発で妻が殺され、職も奪われる。復讐のために、警部はマフィアの動きをさぐって、ギャングの情婦に接近してゆく。

 この警部をやっていたのが、「ギルダ」、「カルメン」のグレン・フォード。
 非情なギャングの実態を知って復讐に協力する暗黒街の女。この「情婦」を、グローリア・グレアムがやっていた。

2008/08/27(Wed)  883
 
  しばらく前にこんなニューズを読んだ。(’08.7.16.)

 ストレスによって記憶力が低下することは、よく知られている。
 日本医大の太田 成男教授のグループは……水素が活性酸素をとり除き、脳梗塞による脳障害を半減させることを確認した。

 認知症は活性酸素などによって神経細胞が変性する病気とされるが、太田 成男教授はマウスの実験で……水素が大量に溶け込んだ水を飲ませたマウスと、ふつうの水を飲ませたマウスの比較から……水素水を飲まなかったマウスの海馬には、活性酸素によって作られた物質が蓄積していた。水素水が活性酸素によって低下した神経細胞の増殖能力を回復させ、記憶力の低下も抑制したと考えられる、という。

 こういうニューズはうれしいかぎり。

 北京オリンピックの開催間近に、BSで「東京オリンピック」をやった。
 これを見ながら、市川 昆のことをいろいろ思い出していて、はて、「愛人」は見たはずだったが、どんな映画だったっけ、と考えあぐんだ。オリンピックでいえば、ロサンジェルスから、マドリード、ソウル、ぐるっと地球を一周するくらいの時間がかかって、やっと森本 薫の『華々しき一族』の映画化だったことを思い出した。
 森本 薫も思い出せなくなっているのか。これはショックだったが、あの映画は、コーチャン(越路 吹雪)の映画だったなあ、などとへんに納得する始末。

 当時、私は映画の仕事をしていたせいで、この頃のことはわりによくおぼえている。

 市川 昆の「愛人」が公開された時期、「大映」は衣笠 貞之助の「地獄門」を出してきたはずで、「愛人」では長谷川 一夫、京 マチ子には敵わなかったなあ。あの映画の「清盛」は千田 是也だったが、千田 是也の映画としてはましなほうだったな、などと考える。
 外国ものでおぼえているのは、アルベルト・ラットゥアーダの「アンナ」ぐらいか。「アンナ」はシルヴァーナ・マンガーノだったっけ。
 そういえば、エリア・カザンの「綱渡りの男」もこの頃に出た。
 エリア・カザンとしてはめずらしいサスペンス。旧ソ連圏のチェッコから、必死に脱出しようとするちっぽけなサーカス団の話。反共映画だが、脚色が、ロバート・E・シャーウットだった。アメリカ有数の劇作家。映画は駄作だったが、私としてはテリー・ムア、グローリア・グレアムが気に入っていた。

 すっかりボケて何もおぼえていないくせに、好きな女のことは忘れない。(笑)

2008/08/25(Mon)  882
 
 昼間、小川 茂久と会うことはめずらしかった。たいていは、どこかの喫茶店にもぐり込んで、いそぎの原稿を書いたり、暇さえあれば古書店を歩いていた。昼間、小川の研究室に顔を出したこともない。だから、昼間、キャンパスで偶然に出会うこともなかった。
 一度、文学部の事務室で、偶然に彼を見かけた。
 昼間なので、行きつけの酒場も居酒屋も開いていない。

 「メシにしようか」
 「うん、そうするか」

 「弓月」の近くの寿司屋に行った。小川の行きつけの店だった。
 あるじは、大柄で、江戸前の寿司が自慢らしい不敵な面がまえだった。
 けっこういいネタだった。
 小川が、店のあるじに私を紹介した。
 「このひとは、マリリン・モンローの研究家なんだよ」

 あるじは、私を見ずに、ふてぶてしい口調で、
 「あっしは嫌いだね、ああいう淫売みてえな女」

 私は黙って立ちあがると、
 「すまねえが、先に帰らしてもらうよ」

 店を出た。不愉快な気分を顔には出さなかった。小川があとを追って出てくることはわかっていた。そのまま神保町に出て、私の行きつけの店であらためて小川と寿司を食べた。このとき、マリリンのことは話題にしなかった。
 たかが、寿司屋のあるじ風情が、マリリン・モンローを嫌っていても、小川にもおれにも関係はない。ただ、客の顔を逆撫でするようなセリフを浴びせるのが、江戸っ子の心意気だなぞと思い込んでいる根性が下司であった。
 神田は猿楽町に住んでいやがっても江戸っ子の風上にも置けねえ野郎め。

 その店には二度と行ったことがない。

2008/08/22(Fri)  881
 
 小川 茂久と会うのはたいてい夜の9時過ぎで、お互いに黙ってキャンパスを出て、駿河台下に向かう。
 小川の行きつけの旗亭がいくつかあって、酒場なら「あくね」、居酒屋なら「弓月」ときまっていた。
 「あくね」には、いつも小川のご到来を待っている客がいた。おなじ明治大学の先生、職員たちばかりではなく、近くの中央大学の教授たち、あるいは本郷の東大の仏文の諸先生がた、「岩波」、「筑摩」といった出版社の編集者たちが小川の顔を見ると、いっせいにうきうきする。
 酒席の小川は、それほど人気があった。
 大人の風格があって、誰とでも気さくに話をする。話がおもしろくなってくると、ケッケッケッ、と笑う。この笑いが独特だったが、じつは、恩師にあたる佐藤 正彰先生の影響をうけて、こんな笑いかたが身についたようだった。

 小川とちがって、まったく社交的ではなかった私は、カウンターの隅っこに陣どって、店の女の子たちを相手に、なんとなく世間話でもしながら飲みしこるのが常だった。
 私は小川と飲んでいられれば幸福だったのだが、小川が紹介してくれた知人たちのなかでも、何人かの人とは心おきなく話ができるようになった。
 例えば、小野 二郎。
 私とは、まるで思想も教養も違う小野も酒豪だった。お互いに酔っぱらっているのだから、めいめい勝手なことをわめいているわけで、論理的にかみあわないことが多い。それでも、何かの論点についてはお互いに譲らなかった。
 小野 二郎が貸してくれたので、マルクーゼを読んだ。内容はむずかしかったが、なんとか読んで、つぎに「あくね」で会ったとき、マルクーゼについて小野君と論争になった。
 小川は、まったく口を挟まず傍観していたか、私はめったに論争することなどなかったから、ほんとうは心配していたのかも知れない。
 「あくね」や「弓月」のことも、そろそろ書き残しておこうか。

2008/08/18(Mon)  880
 
 『インセスト――アナイス・ニンの愛の日記≪無削除版』1932〜1934』アナイス・ニン著 杉崎 和子訳(彩流社/2008年) ∴  『医学が歩んだ道』フランク・ゴンザレス・クルッシ著 堤 理華訳(ランダムハウス講談社/2008年) ∴『映画都市(メディアの神話学)』海野 弘著(フィルム・アート社/1981年) ∴『演芸画報・人物誌』戸板 康二著(青蛙房/1970年) ∴ 『艶書 覚後禅 肉蒲団』原 一平訳(東洋書林/1954年) ∴『オプス・ピストルム』ヘンリー・ミラー著 田村 隆一訳(富士見書房/ロマン文庫/1984年) ∴『オペラ館サクラ座』宇野 千代著(改造社/1934年) ∴ 『銀幕のいけにえたち』(ハリウッド★不滅のボディ&ソウル)アレグザンダー・ウォーカー著 福住治夫訳(フィルム・アート社/1980年) ∴ 『孤独なアメリカ人たち』アースキン・コールドウェル著 青木久男訳(南雲堂/1985年) ∴ 『婚姻の諸形式』ミューラー・リアー著 木下史郎訳(岩波文庫/1934年) ∴ 『宿命の女優』(「シネアスト4「映画の手帖」/1986年) ∴ 『スクリーン・デビュー−−あの名優・名監督の最初の映画』ジェミー・バーナード著 柴田京子訳(講談社・+@文庫/1995年) ∴ 『スクリーン・モードと女優たち』秦 早穂子著(文化出版局/1953年) ∴ 『スター』エドガール・モラン著 渡辺 淳・山崎 正巳訳(法政大学出版局/1976年) ∴ 『性への自由/性からの自由(ポルノグラフィの歴史社会学)』赤川 学著(青弓社/1996年) ∴ 『世界映画人名事典 監督編』(キネマ旬報/1975年) ∴ 『世界の映画作家全集’67』(キネマ旬報/1967年) ∴ 『セックス・シンボルの誕生』秋田 昌美著/青弓社/1991年) ∴ 『ヌードの歴史』ジョージ・レヴィンスキー著 伊藤 俊治・笠原 美智子訳/パルコ出版局/1989年) ∴ 『ハリウッド殺人事件』Hollywood R.I.P. 中田 耕治編・監修(ミリオン出版/1987年) ∴ 『ハリウッド黄金期の女優たち』淀川 長治著(芳賀書店/1979年) ∴ 『本当のところ、なぜ人は病気になるのか?』ダリアン・リーダー&デイヴィッド・コールフィールド著 小野木明恵訳(早川書房/2008年) ∴  『無声映画名作アルバム』編著者 無声映画愛好会(鱒書房/1954年) ∴ 『変愛小説集』岸
本 佐知子編・訳(講談社/2008年) ∴ 『The World of Musical Comedy』スタンリー・グリーン著(ニューヨーク・A・S・バーンズ刊/1960年) ∴

 いま、私の机に置いてある本。すぐ手にとれる位置に置いてある。それぞれの本を気ままに手にとって、必要な部分だけを読んでは別の本に移って行く。つまり、ほとんどが仕事に関係のある本ばかりだが、つぎつぎに入れ代わってゆく。1週間後には、大半が私の机の上から消えているだろう。
 生々流転である。

2008/08/15(Fri)  879
 
 アレクサンドル・ソルジェニーツィンが亡くなった。(’08.8.3。日本時間では4日朝)死因は、心不全。享年、89歳。

 ソルジェニーツィンの作品はだいたい読んでいるはずだが、作家としての彼にそれほど関心はない。

 旧ソヴィエトの作家同盟の招待で、ロシアを旅行したことがある。ブレジネフの時代だった。
 ある日、モスクワで、若いロシア人と文学の話をした。まだ、『収容所群島』がロシアで公開されていなかった時期、つまりソルジェニーツィンは国禁の作家だった。
 お互いにたどたどしいイタリア語、フランス語で話をしたが、私は、たまたまアンドレイ・ベールイ、アレクサンドル・ブローク、はてはレーミゾフ、ブーニン、ザイツェフなどを話題にした。彼はびっくりしたようだった。
 私が名をあげた人々の作品は、当時のモスクワではほとんど入手できないのだった。闇の古本市のようなものがあって、読者たちがひそかに連絡しあう。物々交換のシステムだったらしい。十九世紀の作家、詩人のものはなかなか出ないし、出たとしても現代作家の本何冊かと交換で、やっと手に入れるという。

 若者は外国人(それも日本人)の私がソルジェニーツィンを読んでいることに驚いていた。
 彼は残念そうに、
 「きみはいいなあ、自由にソルジェニーツィンが読めて」
 といった。
 やがて、若者は雑踏のなかに消えて行った。あきらかに外国人とわかる私と話しているところを見られるのがいやだったらしい。ソヴィエト旅行にはそんな思い出がある。

 ソルジェニーツィンの死について別に感想はない。あとになって、たとえば、ソロヴィヨフ、ベルジャーエフなどの系譜につらなる思想家としてのソルジェニーツィンについて考えてみたいと思っている。
 新聞で訃報を読んだすぐに、わずかな蔵書のなかでソルジェニーツィンの本を探したが見つからない。まるで関係のないアルツィバーシェフを読み返した。

    大きな明るい月が、黒くてお粗末な物置のかげから顔をのぞかせた。はじめ、庭のたたずまいをうかがっていたが、どうやら別にこわいものもないと見たらしく、少しづつまろみをまして、ゆるやかに登りはじめた。黄色っぽくまんまるい、にこやかな顔で屋根に乗ったものである。
    庭のなかはたち皓々としらんだが、塀や物置の下には、かぐろくミステリアスな影ができた。夜気が涼しく、かろやかに、すがすがしくひろがる。暑くて、眼がくらむような夏の一日がやっと終わって、はじめて胸いっぱいに深呼吸できるといったようすである。

 ある短編のオープニング。有名なロシア文学者の訳を私が勝手に手を入れたもの。

 ソルジェニーツィンのことを考えるとき、すでにロシア人たちに忘れられているに違いない作家たち、たとえば、クープリン、アンドレーエフ、アルツィバーシェフ、ソログープたちのことを思い出すだろうと思う。
 ソルジェニーツィンについて考えるとき、私は、エイゼンシュタインや、ピリニャークや、ナターリア・ギンズブルグなどと重ねあわせて考えるだろう。

 私はそういうひねくれた読者なのだ。

2008/08/13(Wed)  878
 
 八月になった。北京オリンピックが開催される。
 夏休みなので、本を読むつもりだが、こう暑いと本も読めない。
 手もとにある歌集、句集をひもとく。川柳でもいい。
 むろん、全部読むわけではなく、ところどころ目にとまったものを、掌にころがすようにして眺める。だから読書というより、気ままな暑気払い。

 8月1日。八朔(はっさく)である。

     八朔の 雪見もころぶところまで。

 おもわずニヤリ。
 もっとも、これを読んで、ただちに白無垢の小袖を連想する人はいないだろう。私だって、戦前の「なか」を見てはいるが、この習慣を実見しているわけではない。

     八朔の雪 物尺でつもる也

 これはむずかしい。ちょっと考えて、ニヤリ。

     一里づつ 行けば木へんに夏木立

 街道筋に道標としてエノキの木が植えてあったらしい。

 その頃、文屋という職業があったらしい。飛脚は、遠方に手紙を届けるのだが、文屋は近場に手紙などを届ける。

     文使い うそもまことも ひとつかみ

 この「文使い(ふみづかい)」も文屋のこと。

 私はもの書き。たいしたもの書きじゃないが、文章を書くことでたつきを立ててきたのだから(誤用を承知で)自分を「文使い(ふみつかい)」と称している。だから、このHPに書く文章は、「うそもまことも ひとつかみ」。

2008/08/10(Sun)  877
 
 「文芸家協会ニュース」を見て、6月6日に、作家の氷室 冴子、10日に作家の田畑 麦彦、映画解説者の水野 晴郎が亡くなったことを知った。
 この方々が亡くなったことをまったく知らなかったので、ちょっと驚いた。それぞれの人の死に驚いたわけではなく、自分がしばらく何も知らずに過ごしていたことに気がついて驚いたのだった。

 私は、作家の訃を知ったときは、できるだけその人の本を探して読むことにしている。追善の意味もあるのだが、面識はないにせよ、もの書きとしておなじ時代に生き得たことのありがたさを思うからである。

 氷室 冴子という作家のものは読んだことがなかった。ぜひ読みたいと思って、本屋に行ったが見つからなかった。コバルト文庫、56冊、2千万部の人気作家だった。私は「コバルト文庫」で、S・E・ヒントンの3冊、青春小説のアンソロジーを1冊出しただけで、総部数は20万部そこそこだったから、私などとははじめから比較にならない。 
 
 氷室 冴子、享年、51歳。
 私のクラスを出てから作家になった高野 裕美子も、同年で、今年亡くなっている。
 そんな薄弱な理由もあって、氷室さんの作品も読んで見たかったのだか、見つからないのでは仕方がない。

田畑君とは面識もあった。
 例えば「嬰ヘ短調」といったひどく前衛的な作品を書いていた。育ちのいい文学青年だったが、書くものは高踏的すぎて、私にはあまりよく理解できなかった。
 彼の本も探すのはむずかしいだろう。ただ、私は彼から送られた本をもっていたので、読み返すことができた。
 むずかし過ぎて、よく理解できなかったのはおなじだった。

 水野 晴郎とは、テレビの映画番組で、二、三度、何かの映画について対談したことがある。テレビではない場所では、「紀伊国屋ホール」でマリリン・モンローのことで、対談した程度。
 誰にも好かれるようなお人柄で、映画解説者として人気があった。
 彼の著書も私はもっていなかった。探すのはやめて、DVDで、ジョルジュ・クルーゾーの「悪魔のような女」を見た。
 たまたまシャロン・ストーンのリメークが、公開された時期で、水野 晴郎は、ハリウッド郊外で、クルーゾー映画の解説をしていた。

 私の見た「悪魔のような女」は、なんとアメリカ版の吹き替えで、シモーヌ・シニョレも、ヴェラ・クルーゾーも、アメリカ語をしゃべっているのだった。映画も、なんとなくクルーゾーらしい、ネチっこさが消えている。
 いちばん笑ったのは、子どもたち(私立学校の生徒たち)が、いともみごとなアメリカン・スラングをしゃべっていることだった。
 監修者の水野 晴郎は何も気がつかなかったのだろう。

2008/08/06(Wed)  876
 
 日曜日、NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている。宮崎 あおいのファンなので。
 いずれ公武合体の話から、皇女和宮が登場してくるだろう。どんな女優がやるのだろうか。
 金剛 右京の「能楽芸談」を読んでいて、おもしろいエビソードを見つけた。
 明治になって、能楽に衰退のきざしが見えていた頃の話だろう。金剛 氏重(右京さんの大伯父にあたる)が、黒田侯の屋敷で「融(とおる)」の袴能をつとめた。このとき、春藤 六右衛門がワキをつとめた。

 この能に、名所教(めいしをおしえ)というところがある。さしづめ、シテのサワリというべき部分。

    音羽山 音に聞きつつ 逢坂の 関のこなたに とは詠みたれども 彼方にあたれば 逢坂の 山は音羽の峯に隠れて この辺よりは 見へぬなり・・

 これを、六右衛門がすっかり謡(うた)ってしまった。ほんらい、シテの謡(うた)うところである。
 地謡、囃子かたは、もとより、居並ぶ貴顕のかたがたもこれにはおどろいて、さて、この場をどう収拾するのか、シテの金剛 氏重にいっせいに注目した。
 氏重も六右衛門の失策に仰天したには違いないが、すかさず、

    のうのう、御僧、それはこなたにて 申すことに候。

 と、ふっておいて、

    仰せのごとく 関のこなたに とは詠みたれども・・

 とつづけた。これで、こんどは六右衛門も自分の失策に気づいて、赤面したらしい。当時、幼かった右京はこれを見て、六右衛門のようすは今でも気の毒に思うと書いている。
 舞台で、相手のセリフと自分のセリフをとりちがえる、そんなトチリをずいぶん見てきた。自分の演出した舞台では、じたんだを踏んでも間にあわない。

 この氏重でさえ、生涯ただ一度失敗したことがある。
 幕末、皇女和宮が、徳川 家茂に御降嫁のみぎり、「摂待(せったい)」の能が出た。 シテは、金剛 唯一。氏重は、ツレの「兼房」をつとめたが、なにしろ前代未聞のもよおしに緊張したのか、氏重はシビレを切らせて、席から立ちあがれなかったという。

 私はこんな話を読むのが好きなのである。

2008/08/02(Sat)  875
 
 ここで私がとりあげる本は、『変愛小説集』(講談社)。

 ある家庭の主婦。ある夏の午後、とても素敵な男の子が庭の芝生を刈りにきてくれる。彼女は、その男の子を追いかけて、キスをする。彼の舌を吸ったが、吸いかたが強すぎて彼が声をあげはじめても、ますます強く吸って、彼を呑み込んでしまう。
 ジュリア・スラヴィンの「まる呑み」。

 これは凄い!

 私はこれまで、自分でもたくさん小説を読んできたが、こんなにおかしな短編を読んだことがない。私には、女という生理の外貌がはじめて私の内面にあたらしい姿をあらわしたのを見たような気がした。まさしく、ここには女の肉体の内側が語り、ときには泣き出したり、怒りを見せている。
 なにしろ、呑み込んだ相手は、いくら追い出そうとしても居すわってしまうのだから。しかも、彼女は妊娠してしまう。

 エロティックな行為をふくめてひとりの男と女の交渉が、あらゆる「恋愛」の基本をなしているとすれば、このおかしな短編の「愛」は、まさに「変愛」の現実的形態にほかならない。
 私は、この短編を前にして、批評的な評価を絶した数瞬間をこころゆくまで彼女とともにすごした。思わず、笑い出したくなるのをこらえながら。
 なんといっても岸本 佐知子の訳がすばらしい。
 こういう作品をこれほどおもしろく訳せるのは、たいへんな才能だと思う。岸本 佐知子はエッセイストとして有名だが、彼女の翻訳にも、なんともいえない、トボけたおかしみ、それでいて、みごとに語学的なきらめきが輝いている。
 私が『変愛小説集』の周辺をめぐって気ままに歩いてみたいといった理由は、これに尽きる。

 『変愛小説集』については、また、あとでふれることにしよう。

2008/07/30(Wed)  874
 
 私が書くのは岸本 佐知子編訳の『変愛小説集』の書評ではない。

 アンソロジストとして、こういう作品ばかり選んで訳している岸本 佐知子の感性に敬意をもっているのだが、この『変愛小説集』の周辺をめぐって、しばらく気ままに歩いてみたいと思う。

 ずいぶん昔、あたらしいミステリーに、それまで存在しなかったストーリー・テリングの妙、意外な展開、しばしば想像もつかないオチをもった短編が登場してきた。これを、江戸川 乱歩が概括して「奇妙な味」と呼んだことがある。たとえば、ロアルド・ダール、あるいはチャールズ・ボーモントなどの作品がこれにあたるのだが、『変愛小説集』のどの一編をとりあげても「奇妙な味」どころではない。
 ここにとりあげられている作家たちは、自分の想像力の赴くままにふる舞っている。作家たちは、自分の描くシチュエーションが「変」なものとは思っていないので、それぞれが自分の思考のバイアスを見定め、それをいわば圧縮して、そのかたちの「変」性をさだめるためにしか書かない。これは、すごいとしかいえない。
 私小説を最高の文学と思っているような連中には、おそらく何も見えてこないだろうと思う。これはもう「奇妙な味」どころか、それぞれが比較しようのない味としかいいようがない。
 私は、この短編集をいっきに読みつづけるのがもったいなくて、毎日1編づつ、たいせつに読みつづけた。まるで、おいしいケーキを、一個づつ食べるようにして。
 毎日、かなり多数の本を読みつづけてきた私が、こういう読書法をはじめて自分に強制したことでも、この『変愛小説集』がどんなに特別な作品集かわかってもらえるかも知れない。

2008/07/28(Mon)  873
 
 過去の思い出などというものは、できることなら、ふり捨ててしまいたい。不実な女の思い出などは、いま思い出しただけでも、つらいばかりだし、女が去ってしまったあとの空虚な日々など、思い出したくもない。
 同時に、人生のなかでいちばん楽しかった思い出などというものも、どうにも始末に困るのである。たしかに楽しかったには違いないが、なぜ、あんなにも楽しかったのか、思い出せば思い出すほど不可解なものに見えてくる。
 因業なことにもの書きという職業には、何かを思い出すというのが、いちばん大切な職能の一つ。何かを書く。そのストーリーにぴったりの人物、情景、時間と空間などをたちどころに思い出す能力がないと、小説ひとつ書けない。そこで、私小説を最高の文学と思っているような連中の頭は、いつもそんな思い出がいっぱいつまっていて、重宝に思い出せるらしい。
 私は、私小説を最高の文学と思っていないので、過去に生きた自分の姿など、まったく信用してはいない。すぐれた作家たちは、自分の過去からそれぞれみごとに逃げつづけている連中にかぎられる。

 こんなことを書くのも、岸本 佐知子編訳の『変愛小説集』というアンソロジーを読んで、ひたすらおかしくて、それでいて、おそろしい短編ばかりなので、驚愕したからだった。

2008/07/25(Fri)  872
 
 私の好きなことば。

    世人ノ情、楽ヲネガヒ、苦ヲハイトヒ、オモシロキ事ハタレモオモシロク、カナシキ事ハタレモカナシキモノナレハ、只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道也、姦邪ノ心ニテヨマバ、姦邪ノ歌ヲヨムヘシ、好色ノ心ニテヨマバ、好色ノ歌ヲヨムヘシ、(中略)実情ヲアラハサントオモハハ、実情ヲヨムヘシ、イツワリヲイハムトオモハハ、イツワリヲヨムヘシ、詞ヲカザリ面白クヨマントオモハハ、面白クカサリヨムベシ、只意ニマカスベシ、コレスナハチ実情也

 本居 宣長。

 和歌というものは、政治的な効用を目的として詠むものではない。ほんらいは、もののあはれを詠むものだという宣長の論理は、「只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道」という姿勢をもっていた。
 だから、姦邪ノ心ニテヨマバ、姦邪ノ歌ヲヨムヘシという。好色ノ心ニテヨマバ、好色ノ歌ヲヨムヘシ、といういいかたに逆説を読む必要はない。
 ただし、これは平凡な歌論ではない。ひどく静かないいかただが、なぜか宣長が激しているようなすさまじい緊張を感じる。

 ここから先は、私の平凡な感想。
 ときどき絵を描きたいと思う。実際にへたな絵を描く。どうかすると、アンクローシャブルなものになることもある。だからといって恥じる必要はない。好色ノ心ニテ描けば、好色ノ絵を描クベシ、と思うから。

 もののあはれを描くとすれば、どうあっても男女の恋を描くにしくはない。

2008/07/23(Wed)  871
 
 マイケル・ジャクソンの「スリラー」は、全米アルバム・チャート、37週連続トップ。売り上げ枚数、1億枚。
 私も買ったひとり。

 映画「ボデイガード」のサウンドトラックが、4200万枚。
 これも買ったっけ。

 イーグルスの「ホテル・カリフォーニア」や、ピンク・フロイドの「ザ・ダークサイド・オヴ・ザムーン」ももっている。

 映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックも。

 売れ行きベスト5まで。
 私は、エボナイト、LP、テープ、CDと、無数の音楽を聞きつづけてきた。私から音楽をとったら、あとに何も残らない――ほどではないにせよ、たいして残らない。

 私の処女作は、「ショパン論」だった。クラシックを聞いていたのだが、途中でジャズに移って、やがてロックというふうに変わった。ついにはアジア・ポップス、エスニックと、われながら無節操につぎつぎと変わってきた。小人は虎変する。
 おのれの軽佻浮薄をさらけ出すようだが、それぞれの時代のヒット・チャートに浮かんだ曲の半分はおそらく聞いている。つまり、その程度に熱心な、そしてなんとも軽薄なファンだった。

 あるジャンルに気をとられると、ひたすらのめり込む。それはかなり長く続くのだが、どういうものか、ある日、突然に離れる。そのときから、そのジャンルのものをまったく聞かなくなる。MTVも見なくなるのだった。

 クラシックも、オペラまで。好きな音楽と、そのときそのときに飲んでいた酒の好みがなぜかパラレルにならんでいるような気がする。

 ひょっとして――もうひとつの好みも。(笑)

2008/07/21(Mon)  870
 
 人生には、ひそかに願っていても叶わぬことが多い。

 『四谷怪談』の「穏亡堀」、戸板返しの実際の動きを見たかった。むろん、舞台は見ている。しかし、「伊右衛門」と「直助権兵衛」のやりとりのあいだに、奈落の黒子がどう動くのか。今の劇場ならコンピューター処理で、何もかもできるのかも知れない。

 「や、わりゃお岩、さては血迷うたな」

 大ドロドロで、戸板がひっくり返される。
 このあと、「旦那さま、クスリ下せえ」。
 「伊右衛門」が、「またも、死霊の・・」

 ドロドロに重なって、昔ならシューッと白いけむりになる。掛け煙硝。

 私がひそかに願っていたこと。
 戸板返しの実際の動きを奈落から見たかった。できれば、一度でいいからこういう芝居を演出してみたかったから。

 私はたくさんのことを実現できずにくたばるだろう。残念だが仕方がない。

2008/07/19(Sat)  869
 
 スクールガール・クラッシュ。
 女の子が学校の先生に抱く愛情。映画女優が共演した相手に惹かれるときも、このことばが使われる。
  Was it true about ”Elizabeth’s school-girl crushes on her co-stars?”というふうに。

 エリザベス・テーラーが共演者にいつもお熱、といのはほんとうだろうか。
 「ジャイアンツ」を撮影中に、ロック・ハドソンと「親密」になって、たちまち噂になった。当時、エリザベスと結婚していたマイケル・ワイルディングは、ロケ地のテキサスに飛んだ。このとき同行したのは、ロック・ハドソンの婚約者、フィリス・ケーツだったとか。

 この映画に出たジェームズ・ディーンが、突然、亡くなる。リズはこの知らせに打ちのめされた。ジェームズ・ディーンの葬儀に、リズは蘭の花を送った。ただひとこと、「ラヴ・エターナル」ということばを添えて。

 モンゴメリ・クリフトが、自動車事故で重傷を追ったとき、リズは必死に車の残骸からクリフトのからだを引きずり出して、それから1時間、クリフトの頭を膝にのせて救急車を待っていた。

 やがて、エリザベスはマイケル・ワイルディングと離婚する。

 エリザベス・テーラーが「ジャイアンツ」を撮影中、マイケルはジョーン・コリンズと親しくなっていた。あるレストランで、リズと口論しているところが目撃されている。
 つづいて、マイケルはアニタ・エクバークと親しくなった。
 エリザベス・テーラーと破局が迫ってきた時期には、マルレーネ・デイートリヒ相手の浮気がとり沙汰された。さらに、スウェーデンで映画に共演したアン・シェリダンと、親密になる。

 この映画の題がいい。「失恋」だった。

 舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多くても、いっこうにかまわない、と私が考えるようになったとしても責められるべきだろうか。(笑)

2008/07/17(Thu)  868
 
 レックス・ハリスンは、名優といっていい俳優だった。
 「クレオパトラ」のシーザー、「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授といった役のレックスをおぼえている人がいるかも知れない。

 最初の夫人はコレット・トーマス。社交界のレディーだったが、レックスはかなり長い期間、離婚訴訟で苦労した。当時、ウィーンの女優、リリ・パーマーに出会っていた。

 第二次大戦が終わった1945年、レックス・ハリスンはリリ・パーマーと結婚して、ハリウッドに移った。
 「ハリウッドは気候が単調で、刺激がなかった。贅沢はひとの身をほろぼすね。いちばんよくないのは、仲間うちのお愛想笑い、いいかげんなヨタ話だった」

 ハリウッドは、レックスにまったく将来性を見なかった。リリーもおなじで、彼女はブロードウェイに移った。舞台に賭けたといっていい。
 リリーと離れたレックスは、キャロル・ランディスという女優とわりなき仲になる。しかし、キャロルが自殺したため、最悪のスキャンダルに見舞われる。
 リリーは窮地に追い込まれたレックスを救うために、ハリウッドに飛ぶ。レックスは警察の尋問を受けたり、リリーともどもジャーナリズムの執拗な追求にさらされるが、なんとか切り抜けて、ブロードウェイに脱出する。
 のちに、ランディス事件についてレックスは語っている。
 「何カ月も精神分析医に通って、自殺について語りあったよ。自殺する理由を探しながらね。結論は、キャロルは死への欲求に憑かれていたことになった」。

 レックスはブロードウェイで、つぎつぎに名作の舞台に立つ。マクスウェル・アンダースンの『一千日のアン』もその一つ。リリーとは、ジョン・ヴァン・ドルーテンの『鐘と書物と燭台と』で共演する。

 レックスとリリーが、もっとも幸福だった時期。

 やがて、リリーは語る。

 「英国人は女が好きじゃないのよ。少なくとも、イタリア人やフランス人が女好きという意味ではね。イギリス人は、女をほんとうに見ようとしないの。レックスが私にいってくれた最高のお世辞は、私といっしょにいると、ほんとうの親友といっしょにいるような気がする、ですって。彼って男の中の男なのよ、イギリス男ってやつ」

 レックスはリリーと離婚して、イギリス女優、ケイ・ケンドールと結婚する。

 小田島 雄志の劇評にあった――「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」という一節。
 これを読んだ私は、レックス・ハリスン、リリ・パーマー、ケイ・ケンドールの「地獄」を思い出した。これだって「やわな愛」の例だろう。
 しかし、見方によっては、男女の修羅、すさまじい地獄相に見える。
 そこで、また思い出す。

    すべて人に一に思はれずはなににかはせむ。ただいみじうなかなかにくまれ、あしうせられてあらむ。二三にては死ぬともあらじ。一にてをあらむ。

    自分が愛している人には、いちばんに愛されなければ、どうしようもない。愛されないのなら、いっそ憎まれたほうがまし。二番や三番の愛なんて、死んでもいやだわ。

 『枕草子』(九七段)。

 男女の交情がどれほどお手軽でも、女が、二三にては死ぬともあらじ、と考えているなら、その恋は「やわな愛」ではない。
 舞台や、世間でどんなに「やわな愛」を見せられようと、それはそれでいい、と私は考えている。

2008/07/15(Tue)  867
 
 ある劇評の書き出し。

    このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛」に出会うことができた。

 宝塚星組の「赤と黒」(スタンダール原作)の劇評で、小田島 雄志の「芝居よければすべてよし」(「読売」/08.4.19)から。

 劇評についてはふれない。
 ただ、「このところ舞台でも世間でも『やわな愛』を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか疑問を感じた。というより、この劇評家はこういうふうに考えるのか、と私が考えただけのことだが。

 「やわな愛」といういいかたから、私はエリッヒ・フロムを思い出した。かつて、世界的に読まれた思想家である。彼の著作『愛するということ』は、わが国でもベストセラーか、ベタセラーになったはずである。
 その冒頭の部分に、

    愛は、誰でもが、自分の人間としての成熟の度合と関連なしに、手がるに耽溺できるような感傷的なものではない。

 とあった。この思想家の意見では――ある人の愛がみたされることは、その人が隣人を愛し得る力をもっていて、真の謙虚と勇気と信念と訓練を欠いていては到達できないもの、ということになる。私の曲解ではない。本人がそう書いている。
 だが、はたしてそうか。

 私は書いたのだった。
 ダンテのベアトリーチェへの愛や、バオロとフランチェスカの愛は、誰でもが手がるに耽溺できるような感傷的なものではなかった。だが、人は、いつもダンテスクな愛だけをもとめているはずはないし、手がるに耽溺できるような感傷的な愛であっても、当事者にとっては、まぎれもない人間的な真実なのだ、と。(『メディチ家の人びと』/第九章)
 私は、このエリヒ・フロムを軽蔑する。おなじような意味で、「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか傲慢なものを見る。

 たしかに、「やわな愛」を見せられつづければ、いや気がさすことはわかる。しかし、『赤と黒』が書かれた時代、フランスの舞台や、世間には「やわな愛」ばかりだったに違いない。とすれば、どういう時代の「愛」だって、手がるに耽溺できるような感傷的な愛ばかりなのだと見たほうがいい。
 人間の一生は、食ってはひって、やって寝るだけ、という江戸の庶民の卑俗な人生観を軽蔑するのはたやすいが、そういう人生観のなかで、卑猥な川柳や猥雑な俗曲があらわれてきたことを軽蔑しない。まして、庶民の交情を、「やわな愛」などと私は見ない。

 この劇評家は、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」などと書くべきではない。手ごたえ、たしかな反応というニュアンスで「歯ごたえ」と表現していることもいかがなものか。

2008/07/13(Sun)  866
 
 私の好きな歌として、中国、晩唐の詩、「半睡」を引用したいのだが、私のPCには字がない。
 野口 一雄先生の読みを紹介する。

   眉山 暗く淡く 残燈に向かう
   一半の うんかん 枕稜に 墜つ
   四體 人に着(つ)きて 嬌として泣かんと欲す
   自家は 揉損す がりょうりょう

 以下は、私の訳。

   燭台の残んの火影に ウエヌスの丘も暗くほのかに見え
   頭がずれて ゆたかな髪の半分が枕からあふれ落ち
   四肢を相手にまきつけて よよとばかりに浪声をあげようとする
   その手は思わず 衾のあやぎぬを もみしだきながら

 場面は残燈一戔、おそらくはクレアシォンということになる。眉山は、山なす蛾眉ととるべきだが、あえてモンスとした。「うんかん」は、雲鬢(うんびん)をまるくまとめたヘア・スタイル。「がりょうりょう」の繚綾は、ヴェトナム産の絹という。「が」は字がないのだが、絹の輝き。今のタイ・シルクに似ているかも知れない。

   ひとすじにあやなく君が指おちて みだれなむとす 夜の黒髪

 与謝野 晶子の一首を思い出す。

2008/07/11(Fri)  865
 
 古典を読む力がない。残念としかいいようがない。

   おもかげの霞める月ぞやどりける 春やむかしの袖のなみだに  俊成卿女

 これも私の好きな歌のひとつ。
 俊成卿女の人生の起伏を思えば、「春やむかしの袖のなみだ」にも真実の傷みがこめられていよう。

   こひわびぬ心のおくのしのぶ山 つゆもしぐれもいろにみせじと

 こういう和歌にまったく心を動かされない。

   キミニチャリノッテカレタラボクニハモウ
        ハシルシカナイ キミノトコマデ
             ぴー(24歳)

   この星ではじめて走ったのはあなた
        私のもとから逃げ出すために
             ジョゼ(19歳)

 ある雑誌で見つけたケータイ短歌。
 NHKのラジオ番組「土曜の夜はケータイ短歌」の応募作という。こういう短歌なら、私にもわかる。

2008/07/09(Wed)  864
 
 文学専門の批評家なのに、古典を知らない。さらには、古典の詩歌を知らない。
 恥ずかしながら、私もそんなひとりだった。

 俳句を論じたことがある。子規からはじめて、大正期の俳句まで、二年間、講義をしたのだが、学生たちがほとんど理解できないと知って、この講座は中断した。

 短歌についていえば、「アララギ」以後の歌人のものはずいぶん読んできたが、古典、とくに中世の和歌についてはほとんど知らない。
 中世の和歌について語らない理由のひとつは――俳句なら即座に思い出せるのに、和歌となると、なかなかおぼえられない。思い出せないことが多い。

    月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
 読みやすいように上下に わざと空間を置いたが この和歌はおぼえていても、

   里はあれて月やあらぬと怨みても 誰 浅茅生に衣うつらん     良経

   身の憂さに 月やあらぬとながむれば 昔ながらの影ぞ もりくる  讃岐

 という連想がはたらかない。

 だから、読むには読む。鑑賞もするけれど、和歌についてはまともに論じる教養がない。もうすこし勉強しておけばよかったと思うけれどもう遅い。

   はるかなる岩のはざまに独(ひとり)いて人目思はでもの思はばや  西行

 こういう心境になれないのも、和歌を理解することが少ないせいだろう。

2008/07/07(Mon)  863
 
 いつも400字詰めの原稿用紙を使っていた。
 原稿用紙の枡目を、万年筆で1字々々、埋めて行く。ひどく効率のわるい仕事だが、原稿料の単価が、400字1枚でいくらいくらときめられていたから、400字詰めの原稿用紙を使うのが自然だった。

 これが習慣になって、プロのもの書きとして、原稿の枚数という感覚が身についたと思う。たとえば、30枚の短編という注文があれば、ぴったり30枚で書く。630字のコラムを書く場合には、ぴったり630字以内で文章をまとめる。

 サイズの問題は、じつはきわめて大切なのだ。

 たいていの同人雑誌作家たちの大半は、まるっきりこういう制約を知らずに書いているだろう。ほとんどの人が、自分の書きたいことをズラズラ書いているだけで、枚数という感覚が身につかない。つまりは構成力が身につかず、ジャーナリズムに適応できない。

 書きあげた原稿をじかに編集者にわたす。
 自分の原稿が、眼の前にいる編集者に読まれる。このときの、なんともバツのわるさったらない。
 自分ではけっこういい原稿を書いたという自信もある。しかし、編集者が何をいうかわからない。わるくすれば、書き直しを命じられるかも知れない。そんな不安がある。
 たいていの編集者は、少しぐらい不満があってもパスさせてくれる。締め切りが迫っているから。
 私は原稿を書くのは早かったが、ほとんどの場合、締め切りぎりぎりになってから原稿を書くことにしていた。
 原稿のできがわるくても、編集者が原稿を受けとってくれるからだった。
 今となっては、みみっちい了見を恥じるばかりだが、同時に、そんな原稿を受けとってくれた編集者に感謝の気もちがある。なつかしさも。

2008/07/05(Sat)  862
 
 たとえば、サイゴンの夕暮れ。
 帰宅をいそぐバイク。シクロの列。外出禁止の時刻が迫っている。
 私は、ベン・バク・ダン(河岸)のホテル・マジェスティックの裏側、レ・ロイ通りのカフェで、通りすがりの若い娘たちを眺めたものだった。彼女たちのアオザイ(長衣)は、かろやかなブロケ、下着はブラジャーと純白のクーツ(ズボン)だけで、ほっそりしたからだにぴっちり張りついている。

 サイゴンの美少女たち。しなやかなからだの線が、薄いアオザイを透して、はっきり感じられる南ヴエトナムの乾季。ほかにどんなすばらしい眺めがあろうと、メコンの岸辺に、涼をもとめてゆっくり歩いてゆく若い娘たちほど、美しい眺めはなかった。

 サイゴンの娘たちは美しかった、などといおうものなら、友人たちはみんなにやにやしたが、東京にいて、ヴエトナムのやすらぎにみちた風景はほんとうに想像もつかない。

 私自身が、戦乱のサイゴンの絶望的な様相といったものを予期して行っただけに、戦争に明け暮れるヴエトナムの姿などどこにも見あたらなくてとまどったくらいだった。こういうチグハグな印象はどう説明してもうまくつたわらないので、私はいつも黙っていた。
 ヴエトナムからの帰り、香港で知りあった女性がいる。
 私がしばらくサイゴンにいたと知って、興味をもったらしかった。私は、彼女の案内で、ニュー・テリトリーや、シャーティン(沙田)で遊んだり、いろいろなナイトスポットに行った。ただ、このときはじめて香港ポップスの美しさに気がついた。シャーリー・ウォンが生まれたばかりの頃のこと。まだ、テレサ・テンも登場していない。私は当時の歌姫たちのテープを買い込んだ。

 いよいよ、香港から離れるという日に、彼女が
 「どうだった?」
 と訊いた。
 私が、にやにやしたことはいうまでもない。

 帰国後、彼女をモデルにして長編を書いた。旅行はたしかに私の想像を刺激したが、私にできたのは外から眺めただけで、香港の内側に入り込み、自分もその一部になるようには書けなかった。

2008/07/03(Thu)  861
 
 はじめて海外旅行から帰ったとき、友人たちからこういう質問を受けた。
 「どうだった?」

 どうだった、というのはどういう意味だろう。思わず、相手の顔をまじまじと見てしまう。すると、相手はきまってにやにやする。
 なるほど、そういうことか、と納得する。さて、どう返事をしたものかと考えてしまう。
 「何も