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2021/08/08(Sun)  1936〈少年時代 22〉
 
 昌夫は、当時のアメリカのベスト・セラーをよく読んでいた。
 ピットキンの「人生は40から」、ホグベンの「百万人の数学」といった本が書棚にならんでいた。外国の石油会社の仙台支店に勤めていたから、イギリスのベスト・セラーを読んでいても不思議ではないが、1930年代の仙台では外国のベスト・セラーを読んでいた会社員は珍しかったのではないか。

 昌夫は趣味として絵を描いた。清六教諭が描いた絵のようにリアリズムの絵ではなかった。             
 昌夫の父は中田 長二郎。私の祖父。30代で早世したが、上野の美術学校の図案科を卒業して、「三越」の衣装部のデザインを担当したという。
 父、昌夫は、仙台に転勤してから絵を描くようになったらしい。
 母、宇免と結婚の記念に、黒い繻子の帯に、油絵で黒船を描いた。南蛮船だった。(これは1945年3月の空襲で焼けた。)

 私の担任が、画家としても知られていた佐藤 清六先生になったため、昌夫は、自分の描いた絵を見て批評をしてもらいたいと思った。佐藤先生を自宅に招いたとき、先生は昌夫の絵を見て、すぐに才能がないことに気がついたらしい。

 佐藤 清六先生の授業では、最初からクレオンを使ったが、日の丸や、富士山を描く生徒たちが多かった。佐藤 清六先生のクラスにかぎらず、どの教室でもこれが普通だったのではないか。
 当時の小学校の美術教育は、教科書に出ている画家の絵を見て、それを模写するだけのものだった。今の私にいわせれば、むしろスケッチを中心にしたほうがよかったように思われる。鉛筆で、しっかりデッサンするだけでいい。
 しかし、そんなことは小学校では教えてもらえなかった。
 今なら、デッサンなりクロッキーなどの練習だけでなく、自由な発想で、生徒自身が好きに絵を描くことが奨励されるだろう。しかし、昭和初期の当時の図画(ずが)教育は、写生と、教科書の絵を上手に模写することに重点がおかれていた。私は、この教育で、寺内 万治郎という画家の名前をおぼえた。

 私が佐藤 清六先生の授業をまったくおぼえていないのは当然だった。

2021/08/01(Sun)  1935〈少年時代 21〉
 
 この日のことはほとんどおぼえていない。同席したお嬢さんの同級生がいたが、この女学生のことも何もおぼえていない。
 ただ、応接間で、紅茶にカステラが出されたことをおぼえている。

 このティー・タイムの途中で、私は尿意をおぼえた。よその家でオシッコするなど、考えてもいなかった。
 私がモジモジしているのを見た彼女は、
 「ぼうや、どうしたの?」
 私は黙っていた。
 「あ、ごめんね。気がつかなくて」
 彼女は、私の手をひいて、廊下の奥の厠所につれて行ってくれた。
 ドアをあけると、アサガオがあった。私は、はじめて陶器の洋風便器を見たことに驚いたのだが、もっと驚いたことに、チビの私の身長では届かない高さにあった。
 彼女は私のひるんだようすに気がついたようだった。
 「ついててあげる。大丈夫よ」
 私を抱きあげて半ズボンのサスペンダーをはずした。バンツをずり落として、うしろから抱きかかえるようにして、オシッコをさせてくれた。私は、はじめて羞恥をおぼえた。

 綺麗なお姉さんにオシッコをさせてもらうのは恥ずかしかった。なによりも恥ずかしかったのは、彼女のほっそりした指が小さなペニスをつまむようにしてオシッコさせてくれたことだった。

 後は、何ひとつおぼえていない。彼女の名前さえ知らない。

 それからしばらくして、彼女のことが新聞に出たらしい。私はその記事を読んでいなかった。というより、新聞を読んだことがなかった。
 ずっとたってから、母に訊いてみた。
 「あのお嬢さんは、どうしていなくなったの?」
 母の宇免は、私が何をいいだすのかといった顔で、
 「あのお嬢さんは、男の人と一緒に死んじゃったのよ」

 近所のうわさでは、彼女は、なにかいたましい事件の末、愛人と心中したという。
 心中という言葉を聞いたのも、はじめてだった。

 さらにあとになって、少し詳しい事情がわかってきた。
 彼女は、女学校を卒業する前から、ある大学生と交際していたが、やがて妊娠したため、親にも相談できずに、悩みぬいたあげく、相手の男性と短い旅行をして、その宿で、無理心中をしたらしい、という。

 この事件は、私の内部に何か暗い印象を残したといってよい。

 「戦後」になって、「心中天編島」や、「鳥辺山心中」などを見るたびに、芝居とは何の関係もないのに、清水小路のお邸で綺麗な女子大生にオシッコをさせてもらったことを思い出した。彼女の綺麗な指が小さなペニスをつまむようにしてオシッコさせてくれたことを思い出した。この思い出が、戦前の時代の暗さを物語っているようだった。愛し合う若い男女がなぜ死を選んだのか。私にはわからない壁が立ちはだかったような気がした。

 戦後の私はやがて私は歌舞伎を見なくなった。

2021/07/25(Sun)  1934〈少年時代 20〉
 
 清水小路の家の斜め前に、りっぱな門構えの洋館があった。
 このお屋敷に若いお嬢さんがいた。当時、女学校の5年生だった。(「戦後」の学制なら、高2ということになる。) 断髪だった。セーラー服に長いスカート。いつも颯爽としたスタイルで通学していたが、小学生の私とは、登校時間が違うため、まるで接点がなかった。このお嬢さんの名前は覚えていない。

 毎朝、私の通学時間に、女学生の彼女も門から出てきて、わずかな距離の路地(清水小路)を抜けて、表通りに出る。今のファッションとは比較にならないが、いつもグレイっぽいコートを着ていたような気がする。たいていはお互いに黙ったまましばらく歩いて、私は学帽をとってペコンとお辞儀をして彼女と別れる、私は、サージの通学服だったが、ズボンはバンドではなく、サスペンダー(吊りズボン)だった。私は、荒町尋常小学校に向かう。彼女は、私に手を振って見送ってくれる。

 ときには、笑いかけてくれることもあった。すんなりと恰好のいい鼻すじ、うっすらとピンク色の唇、ほっそりとした首すじが、いかにも新しい時代の娘らしい美しさをみせていた。
 梅雨どきなど、むし暑い空気のなかに、白いバラの匂いがかすかに漂うのも、なんとなく甘い感じをあたえた。
 当時、仙台には、男子高としては、第二高等学校か、東北学院しかなかったし、女子高としての高等専門学校は一つしかなかった。むろん男女共学ではなかったし、仙台には女子大はなかったから、高等女学校を卒業した若い女性が進学するとすれば師範学校に進むぐらいだったのではないか。
 彼女は近くの女学校を卒業して、宮城野女子高等専門学校(当時の短大)に進んだらしい。女学校を卒業してすぐに断髪(ショートカット)にしていた。
 ある日、彼女が、私を呼び止めて、
 「ぼうや、明日、わたしンとこに、遊びにおいで」
 と、声をかけてくれた。

 小学生の私は、自分よりずっと年上の女子学生が自室に呼んでくれたことがうれしかった。
 どういうわけで私を呼んだのかわからない。私が小学校に入学したのと同時に、自分が上級学校に進学したので、ささやかなお祝いをするつもりで招いてくれたのか。
 その日、このお嬢さんは、ティー・パーティーに同級のお友達を招いた。日曜日だったのか。あるいは、誕生日だったのか。

2021/07/18(Sun)  1933〈少年時代 19〉
 
 大震災のあとの大不況に、少しづつだったが、女性が社会に進出しはじめ、あたらしい仕事をもつ女性がふえてきた。
 タイピスト、電話の交換手は、あたらしい職業女性だった。
 バス・ガール、デパート・ガール、エレベーター・ガール、マネキン・ガール。
 さらには、カフェの女給仕、あるいはステッキ・ガールなども。

 大不況を背景に、スカート丈がみじかくなった。尖端的なファッションの若い娘たちは、それまでの束髪、三つ編みをバッサリ切って、断髪(ショートカット)にした。おそらく、ハリウッドの映画女優の影響もあったと思われる。男も流行の背広に、ツバの短い帽子で、モダーンなスタイルになる。
 カッコいいモボ、モガたちが、銀座、心斎橋を闊歩する。
 仙台には、銀座や心斎橋はなかったが、仙台にも洋装の女性がふえてきた。宇免も、洋装することがあった。銀座のモガたちに負けない気もちだったのか。
 一番町のデパート「藤崎」の外商部から似鳥さんという番頭がお伺いにくるようになって、毎週、あたらしいモダーンなファッションの見本が届く。宇免が洋装するようになったのも、自然なことだったと思われる。

 はるか後年、時代が、20世紀末から、21世紀にかけて――若い男たちが不精ヒゲをはやして、長い髪をうしろにしばり、デニムにグラサン(サングラス)、ビールを一気ノミして、女の子から、キショッ(気色がわるい)と蔑まれていた平成のモボたちを思い出す。
 そして茶髪、ガングロ、パンティーが見えるほど短いスカート、ルーズソックス、ペタンコ・シューズ、フルジップ・ジャケットやゴスロリ・スタイルで、渋カジ、裏原系のモガたちを並べて見たら、昭和初期のモボ、モガたちはキショッ(気色がわるい)どころか、むしろカワイイぐらいだったはずである。

 昭和初期はエロ・グロ・ナンセンスの時代だった。

2021/07/11(Sun)  1932〈少年時代 18〉
 
(No.1923からつづく)
 
 2年生になった。私にとっては、学年が変わることは担任の先生が変わることだった。佐藤 実(みのる)先生のことを私は忘れた。
 
 荒町尋常小学校の教員室の入口、正面玄関の壁に300号ぐらいの大きな油絵が1枚、掲げてあった。佐藤 清六教諭が描いた絵だった。たしか蔵王連山を描いたリアリズムの絵だったと思う。平凡な風景画だった。子どもの私には,それほどすぐれた絵とも思えなかったが,この絵を見て育ったお蔭で、はるか後年,登山に興味をもったのかも知れない(ただし、それも後づけの理屈だったような気がする。あとでふれるが、6年生のときに、担任の壺 省吾先生と一緒に蔵王山に登ったのが、本格的な登山だったのだから。)

1年生、2年生と、私は優等生だった。2年生になったとき級長に指名されたときも、別にうれしいとも思わなかった。小学2年生だった一年間の記憶がほとんどない。

 私が2年生になった頃、仙台は旧態依然とした小都市だった。それでも、中心部にあたる一番町あたりには、あたらしい様式の洋風建築のオフィスビルが建ちはじめていた。父の昌夫は、私の住んでいる清水小路から、歩いてロイヤル・ダッチ・シェルのオフィスに通っていたと思う。宇免が、Yシャツにアイロンをかけ、毎朝、きちんと靴みがきをしていた。サスペンダーに、派手な靴下、当時としてはめずらしい赤い革靴というスタイルだった。
 私は知らなかったが、仙台駅の周辺には、カフェ、ミルクホール、ダンホールなどがぞくぞくとあらわれたらしい。

 女は家庭を守るものとされていた時代に、未婚の女性は、裁縫、お茶、お花など、嫁入り修行に精出すのが、当時の風俗だったが、ろくに教育もうけなかった宇免も、遅まきながら、お茶、お花など、さらには長唄の稽古をつづけるようになった。経済的に余裕ができたことも、宇免にとってはうれしいことだったと思われる。
 宇免は裁縫が得意で、半襟でも、羽織でも、自分で縫いあげた。
 何につけ稽古熱心で、私が小学校を卒業するまでに、お茶、お花、三味線の名取りになった。
 毎日、稽古に通うのは、それなりに苦労があったと思われるが、若かった宇免は、日々、ひたすら努力していた。

 宇免は和服を着ることが多かった。
 和服を着る機会が多かったわけではない。ただ、父兄参観といった小学校の行事には、いつも和服で出席していた。
 着る途中でずれないように、指先で長襦袢と着物の後ろ襟をぴったりあわせる。その仕草が綺麗だった。腰紐を口にくわえる。これもずれないように、すべりのわるいものをきりりとしめる。前を高めに、後ろは下がり目にしめると、着くずれがしない。着付けのときに、一度、上を向いてからだを反らせる。これで胸もとが楽になる。帯は、やや斜めに結ぶ。
 幼い私は、母親がみるみるうちに、美しい女に変身するのを見るのが好きだった。
 
 若い母親が、教室の後ろに立って、清六先生の授業を参観する。
 たいして美人でもない宇免は、ほかの生徒の母親たちよりも、わかわかしく、すこやかに見えた。

2021/07/01(Thu)  1931
 
《アーカイブより》

        ジェーン・フォンダ

                            中田 耕治

 恋をするとき、ひたむきな恋をする女性は美しい。
 ジェーン・フォンダは、いつもひたむきな恋愛をしてきた。そして、ジェーン・フォンダは女として美しいだけでなく、「恋する女」として美しい。
      
 私たちの前に、いろいろなジェーンがいる。
 たとえば、ベトナム戦争のころ反戦運動家だったジェーン・フォンダ。最近では美しいボディ・ラインをつくるエアロビックスの専門家としてのジェーン。 
 この映画スターは、いつも人生に対して、果敢に挑戦してゆく積極的な女性というイメージを見せている。
 映画「帰郷」のなかで、ベトナム戦争で負傷したため、下半身がマヒしてしまった夫がいう。
 「怒ったときのきみって、すばらしいね」
 たしかに、ジェーン・フォンダは、ある時期まで「怒れるジェーン」だった。しかし、ほんとうのジェーンは、むしろ、恋するジェーンなのである。
    
 ジェーン・フォンダは一九三八年に生まれている。ヒトラーがヨーロッパを戦争にひきずりこもうとしていた時期である。
 ジェーンの父、ヘンリー・フォンダはまさにアメリカ映画を代表する大スターだった。彼は、資産家の令嬢だったフランセス・シーモア・ブロコウと再婚した。フランセスはジェーン・フォンダ、ピーター・フォンダの姉弟を生んだが、この結婚はおそろしい悲劇に終わった。
 「不思議な雰囲気の女性だったわ。とにかく美しい人で、ひどく病身だったの」
 ジェーンが十二歳のとき、フランセスは自殺したのだった。この悲劇は、幼いジェーンには伏せられていた。
 「だけど、ママが死んだことはうすうす察していたわ。友だちが教えてくれたもの。だけど、ママがどんな死にかたをしたか知ったのは、ずっとあとになって。友だちが、学校で映画雑誌を見せてくれたときだった」
 フランセスはノイローゼ気味で、夫が浮気をしているものと思い込み、咽喉をかき切って自殺したのだった。これは、ハリウッドじゅうのスキャンダルになった。
        
 ジェーンは、アメリカきっての名門女子大、ヴァッサー大に入学する。
 「十八歳だったわ。自分では不幸だと思っていながら、どうして不幸なのか理由もわからない年頃ね。大学に入ったのは、自分が住んでいる環境が変われば、人生も変わるだろう、なんて思ったからなの」
 しかし、ジェーンは二年で中退してしまった。そのまま、フランスに行って、パリで暮らすようになった。この頃のジェーンはなかなか発展家だったらしい。
 人生で失敗した「恋愛」は、どれもこれもおなじ顔をしている。それは、当然なのだ。どの失敗も、みんなおなじ原因からきているのだから。ジェーンは、むなしく男性遍歴を重ねていたが、ある日、まだ無名のロジェ・ヴァディムに会っている。エッチで、さもしくて、憎ッたらしい男というのが、最初の印象だった。
 やがて、ジェーンの運命を一変させるような出会いがやってくる。
 アメリカ演劇、最高の演出家だったリー・ストラスバーグに出会った。このリー・ストラスバーグは、映画女優マリリン・モンローの先生だった。マリリンとおなじように、ジェーンも彼の教えで演技に開眼する。
 「あたしは、あくまで女優になりたかったし、どんな役でも演じられるように何でもやってきたわ」
 はじめて映画に出たときはドジばかりして、デビューとしてはひどい失敗だった。映画のできもよくなかったし、ジェーンもさんざんだった。
 それから二年、演技から遠ざかる。
 そして、フランスで、世界的に注目されている映画監督、ロジェ・ヴァディムの「輪舞」に出た。
 ロジェ・ヴァディムは、これも世界的に有名になった肉体派の女優、ブリジット・バルドーと離婚してから、アネット・ストロイベルクと結婚した。しかも、この時期、女優、カトリーヌ・ドヌーヴが「愛人」で、結婚というかたちはとらなかったが、ふたりの間には、男の子が生まれていた。
 ジェーンは、この映画に出て、ロジェ・ヴァディムと同棲する。
 「あたしは恋をすると、相手のためにどんなことでもしてあげたくなるの。ロジェは、あたしがいなかったら、まったく違った人生を歩んだかもしれない。あたしが彼によって、それまでと違った人生を歩んだように」
 パリ郊外の小さな農場には、八匹の犬、十匹のネコ、アヒル、ニワトリ、ウサギに子馬が同居していた。
 「あたし、ロジェ・ヴァディムとは結婚したくなかった。二年間、いっしょに同棲していたし、そのままのかたちをつづけて行きたかった。つまり、こうなのよ。ふたりの人間が、それぞれの余生をずっといっしょに過ごすなんて、かなり不自然なことだわ。でも、けっきょく、ロジェ・ヴァディムと結婚しちゃったけど」
 ある意味でジェーンの行動は、どうかすると現実から遊離して見える。気分も変わりやすく、はげしい怒りを見せたかと思うと、すぐにけろっと忘れてしまう。
 ジェーンの出演作品は、「キャット・バルー」(一九六五年)、(「獲物の分け前」(一九六六年)、「バーバレラ」(一九六八年)と、成功作がつづいた。当時、映画一本の出演料が二十五万ドルの超売れっ子スターだった。ところが、自分が出たいヨーロッパ映画には、週給百ドルでも出演したのだった。

 一九六〇年代はベトナム戦争がどろ沼化していた。戦争を拒否する学生たち。ドロップアウトしたヒッピーたち。差別反対の人権運動。ウーマン・リブ。
 そして、アメリカの国論はふたつに割れて、右翼のナショナリズムと、左翼の反戦運動が、まっこうから対立していた。
 そのなかで、ニクソン大統領を失脚させたウォーターゲート事件が起きている。
 ジェーン・フォンダは、この一九六〇年代をせいいっぱい、わるびれずに生きた女優だった。一九六八年、娘のヴァネッサを産んだ彼女は、ロジェ・ヴァディムと別離。
 だが、どうして一つの愛は終わってしまうのだろうか。
 愛の終わりは、恋をしている人にもわからない。なぜか、不意に終わってしまう。「恋人」が消えてしまう。ときには、恋愛から友情に移ってゆく。
 いずれにしても、終わってしまった愛は、それまでの軌道からそれて別の惑星に飛んで行ってしまった宇宙ロケットのようなものなのだ。
 ジェーン・フォンダの「恋愛」は、いつも、突然に終わって、あたらしい「恋人」があらわれてくる。
 というより、ジェーン・フォンダは、一つの「愛」が消えたときから、ひたすら「愛」を探しもとめる。彼女の愛は、ひたすら努力して、さらに遠くへ行く。
 誰かを愛していないときのジェーンは、みたされていない。しかし、彼女の「愛」はけっして死なないのである。
 
        (なかだ こうじ 作家 女子美大教授)

2021/06/29(Tue)  1930
 
 2021年3月24日(水)、午後、見なれない大型の郵便物が届いた。「日本著作権教育研究会」から。「入学試験における著作物使用のご報告」。
 今年の千葉大の入試(国語)に、星 新一のショートショート、「語らい」全文と、奥野 健男の解説(「気まぐれ指数」)、私の解説(「おのぞみの結末」)が出題されている。漢字熟語が5問、それぞれの内容に関する筆答が5問。
 たとえば、私の文章から――「追随」という熟語の意味。
 奥野 健男と私のエッセイの文章の読後感――「いずれも星 新一の短編集の解説であるが、奥野 健男と中田 耕治とでは解説の仕方や着眼点が違っている。それぞれどのような特色があるのか説明しなさい」いった出題がある。
 私が、星 新一の作品に対して、「秩序」と「混沌」のイメージがせめぎあうことがあると指摘したが、その一節に傍線がつけられている。

    秩序のイメージを扱うとき、星 新一の世界は、ほのぼのとしたユーモアのある
    喜劇になるようです。混沌のイメージのときは逆に、ペシミスティックな寓話に
    なるようです。         
 
 と書いた。入試問題では――「傍線部Cの指摘をふまえ、この短編(「語らい」)を喜劇として読むとどのような作品としてとらえることができるか。また「ペシミスティックな寓話」として読むとどのような作品としてとらえることができるか。それぞれ短編の内容に言及しながらまとめなさい。

 この「問題」を読んだとき、私は少し驚いた。今年度の受験生たちに同情したといってよい。漢字熟語の出題程度なら、受験生たちもだいたい間違いなく答えられるだろう。
 しかし、「語らい」を読んで、この作品を――ほのぼのとしたユーモアのある世界と受けとるか、それとも「ペシミスティックな寓話」として読むのか、という「問題」は、おそらく受験生たちを困惑させたに違いない。

 私には、むろん私なりの解答がある。しかし、それは、入試の出題で、あわただしく書かれるような簡単なものではない。

 私は、こんなことに自分の書いた「解説」が使われるとは思ってもみなかった。受験生たちは、どこかで中田 耕治という名前を見つけたら、おそらく、考えたこともない難題をつきつけてきた不埒な「解説者」として思い出すにちがいない。

2021/06/27(Sun)  1929
 
2021年3月19日(金)、映画、「猫が行方不明」(セドリック・クラピッシュ監督/1996年)を見た。低予算で撮影された映画だが、「戦後」のパリの下町の雰囲気がみなぎっている。主演のギャランス・クラヴェルは、いい女優。この映画しか見ていないのだが、舞台に立ち、サン・テティエンヌで「女房学校」の「アニェス」でデビュ。モリエール賞の新人女優賞にノミネート。TV映画に出たあと、「フェードル」の、世界巡業。日本でも、「テアトル銀座」で「アリシー」を演じたらしい。残念だが、私はこの舞台を見ていない。

2021/06/25(Sun)  1928
 
 2021年3月6日(月)、作家、小沢 信男の訃。3日、COナルコーシスで死去したという。93歳。私と同年。代表作は、評伝、「裸の大将一代記」で、桑原武夫学芸賞。著書も多いが、私はほとんど知らない。面識はあった。庄司 肇の「きゃらばん」の集まりで紹介された。その外に、小沢 信男の主宰したグループに招かれたとき、いっしょに酒でもと誘われたが、私は謝絶した。最後に会ったのは、おそらく日沼 倫太郎の葬儀の日ではなかったか。
 この時も、小沢 信男が誘ってくれたのだが、私はその誘いに応じなかった。別に含むところがあったわけではない。小沢 信男が誘ってくれたことは嬉しかったのだが、いろいろと文壇仲間の話を聞かされるのではないか、と思ったからだった。
 ようするに、私の偏狭による人見知りのせいで、小沢 信男を避けたのだった。
 しかし、同年の小沢 信男も亡くなった。
 今から20数年も昔の野球がYOUTUBEで見られることに、いささか感慨を催す。ブログに書いておこうか、と思ったが、いまさら、そんなことを書いても、私のアナクロニズムをさらけ出すだけに思えた。

夜、「YouTube」で、フィレンツェのリポートを見た。現在のイタリアも、コロナ・ウィルスの影響で観光客は激減している。私が訪れた場所も、シニョーリァ広場などもほとんど人影がない。ウフィッツイも閉鎖されている。なつかしいフィレンツェが、さながら「死の都」と化しているのだった。

2021/06/24(Thu)  1927
 
 2021年3月5日(日)、「近代文学館」から通知。著作権使用の件。
 「近代文学大事典」のうち、私の書いた項目について、インターネット上で公開する「複製権」と「公開送信権」の許諾。著作権使用料は無料で。要するに、前に出た「近代文学大事典」のデジタル版を出すことになったから、私の執筆項目を無料で使用させてほしいということ。「近代文学大事典」は1977〜78年に、講談社から出版されているので、半世紀近い改訂ということになる。むろん、私において否やはない。
 ただし、私が何を書いたのかおぼえていない。別紙に初稿のデータがあって、それを見たとき、少し驚いた。
 鮎川 哲也、大河内 常平、樫原一郎、木々 高太郎、邦光 史郎、河野 典生、島田 一男、新章 文子、椿 八郎、戸川 昌子、戸川 幸夫、長沼 弘毅、延原 謙、三好 徹の14名について私が書いている。すべて、ミステリー作家、翻訳者ばかり。
 当時、私はすでにミステリーから離れていたが、こうした「文学事典」にミステリーというジャンルを専門とする批評家がいなかったため、私なども動員されたものと推測できる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私は、河野 典生、木々 高太郎とは面識があったが、ほかの人々とはまったく交渉がなかった。つまり、この顔ぶれについて何も知らなかった。河野 典生、木々 高太郎の作品や、延原 謙のシャーロック・ホームズ、長沼 弘毅のシャーロック・ホームズ関連のエッセイは読んでいたが、ほかの作家のものはせいぜい一、二作、読んだだけで、まったく関心がなかった。

2021/06/23(Wed)  1926
 
 しばらく前に、テレビで、ブロードウェイの劇場が軒並み休場している光景を見た。コロナ禍の現在、多数の舞台人、とくにミュージカルのアンサンブルが失業していることに心が痛んだ。

 午後、ドキュメント、「ブロードウェイ、ブロードウェイ」(ジェームズ・D・スターン/アダム・デル・リオ監督・08年)を見た。
 ブロードウェイ・ミュージカル、「コーラス・ライン」再演の出演者を選ぶオーディション。応募者は4千人。「コールバック」が続いて、第三次の審査で40人に絞られる。そのなかから、半数が契約される。激烈、かつ過酷な競争、緊張、失意、興奮、自信喪失、挫折が、このドキュメントにつぎつぎに描かれる。劇場ミュージカルのオーディションは、TVドラマ、「スマッシュ」でも描かれていたが、やはりドキュメントのほうが迫力がある。見ていて感動した。

 こういうドキュメンタリを見て、現在のコロナ禍のブロードウェイを想像する。

 まったく想像もできない。

 もはや、二度と戻れない光景に違いない。私は、ポスト・コロナのブロードウェイが、「ブロードウェイ、ブロードウェイ」のブロードウェイに戻るのに、数年はかかるのではないか、と危惧している。いや、もっとかかるかも知れない。
 ただし、悲観することはない。
 これを機会に、ブロードウェイの地方分散化(デサントラリザシォン)が加速する。すぐれた才能が、各地で、狼煙をあげるだろう。

 そうした動きがいくつも重なって、ブロードウェイは必然的に大きく変化する。
 そういう期待が私の内部にある。

2021/06/21(Wed)  1925
 
 外出自粛を続けている。わが家の近辺ばかりでなく、通りに通行人の姿はない。車も通らない。まるで、戒厳令が布かれたような状態。

 正岡 子規が、「歌よみに与ふる書」で、旧派の和歌を攻撃して四年後に、金子 薫園、尾上 柴舟編の「敍景詩」が出ている。
 この時代に、どういう小説が読まれていたのか。明治35年、小杉 天外の「魔風恋風」、幸田 露伴の「天うつ浪」、永井 荷風が登場する。
 旧派の和歌は、どういうものだったか。子規と対立していた歌人たち、現在ではもはやその存在も忘れられた歌人たちのもの、その敍景詩を読む。

    朝の鳥に聞け、朝の雲に希望を歌ひ、夕の花に運命をささやくにあらずや、谷の
    流に見よ、みなぎる瀬には、喜の色をあらはし、湛(たた)ふる淵には、夏の影
    をやどすにあらずや。

 金子 薫園、尾上 柴舟編の「敍景詩」の序文の書き出し。明治35年の美文。

 なにごとか御堂の壁にかきつけて 若きたび僧はなふみていにし    河田 白露

 読経やみて昼 静かなる山寺の 阿伽井の水に花ちりうかぶ      朽木 鬼仏

 誰(た)が墓にそなへむとてか花もちてをさな子入りぬ ふる寺の門  平井 暁村

 一すじの砂利道ゆけば右ひだり 菜のはなばたけ 風のどかなり    須藤 鮭川

 かりそめに結(ゆ)ひし妹があげまきの髪のほつれに春のかぜ吹く   みすずのや

 行き行きてつきぬ山路のつくるところ 白藤さきて日は斜(ななめ)なり 川田 露渓


 こういう短歌から、明治中期の風景を想像する。もはや失なわれた風景を。
 なぜか、なつかしい風景に見える。
 なつかしい風景を詠んだおだやかな敍景だが、今の若い世代にはまったく想像もつかない風景だろう。まして、コロナ・エピデミックのさなかには。

 この「敍景詩」の歌人たちの誰ひとり、現在に名を残さなかったといってよい。
 編者の金子 薫園にしても、昭和ならいざ知らず、現在、知る人はほとんどいないだろう。
 武山 英子の一首をあげておく。

   几帳(きちょう)たれて中宮ひとりものおぼす 里の内裏にむらさめのふる

 武山 英子は、薫園の実妹である。

 尾上 柴舟は、前田 夕暮、若山 牧水の師として知られている。

 正岡 子規は、この「敍景詩」の出た翌年、亡くなっている。

 コロナ・パンデミックのさなかに、明治の「敍景詩」を読む。
 酔狂な話だが。

2021/06/20(Sun)  1924
 
読みたい本はいくらでもあるのだが、図書館は休業。古書店は廃業。なにしろ暇なので、コロナ・ウイルスの猖獗(しょうけつ)をよそに、明和の川柳を読みつづけた。

 いや、むずかしい。ほとんどが、わからない。当時の世態風俗を知らないし、典拠も見当がつかない。それでも、一句々々、ゆっくり読んで行く。まるで、散歩や、ジョギングのようなものだが。

    一生けんめい 日本と書いて見せ 

 こんな句にぶつかると、18世紀、明和の頃に、すでに日本という国家観念が庶民に理解されていたのだろうか。「あふぎ屋へ行くので唐詩選習ひ」という句があるところを見れば、ごくふつうの庶民が中国を意識していたことはまちがいない。そういえば、「紅楼夢」はいつ頃から日本で読まれたのか。そんなことまで考える。これまたまったくの暇つぶしだが。

    日本へ構ひなさるなと 貴妃はいひ     

    三韓の耳に 日本の草が生え     松 山    (文化時代)

    日本の蛇の目 唐までにらみつけ   梁 主    (文化時代)

    日本では太夫へ給ふ 松の號     板 人    (文政時代)

    東海道は日本の大廊下        木 賀    (文政時代)

 江戸の、化政時代の文化も私の想像を越えているのだが、川柳のなかにも、役者の名が出てくる。
 それぞれの時代を代表する海老蔵、歌右衛門、三津五郎、路考、菊五郎、宗十郎、彦三郎、田之助、半四郎、小団次たち。当時、こうした役者がぞくぞくと梨園に登場してくる。ただし、それぞれの役柄、芸風など、私には想像もつかない。
 こうした名優たちの名跡の大半は、今に受け継がれている。だから、今の海老蔵、三津五郎、菊五郎たちと重ねて、それぞれの役者が、かくもありしか、と思い描く。

 演劇史的には――文化・文政時代になって、現在の歌舞伎のコアというべき型、口跡がほぼ完成される。
 はじめこそ芝居も猥雑なものだったに違いないが、やがて、それぞれの芸風も洗練されて、すぐれた劇作家もぞくぞくとあらわれる。

 歌舞伎を見なくなったが、それでも、前の海老蔵の団十郎襲名にあたっては、見たこともない五代目(後の白猿)や、水野越前の改革で、江戸を追放された七代目の故事を重ねてしばし感動したものだった。

 そういえば、「スーパー歌舞伎」の市川 猿之助が、この6月、歌舞伎座で、「日蓮」を上演している。
 戦乱、天災、飢饉、疫病という混乱をきわめた時代に、比叡山で修行を積んだ日蓮が、法華経をひろめるために下山する。そして、天台宗の開祖、最澄に会うというタイム・スリップものらしい。
 このときのインタヴュ−で、猿之助が語っている。

 実在した人物を演じる時には、ゆかりの地に赴いて報告するという。
「もし何百年後に4代目猿之助の芝居をやる時には、礼儀として(自分の墓に)あいさつにこいよ、と思いますね」

 いいことばだなあ。

2021/06/17(Thu)  1923〈少年時代 17〉
 
 小学校の学芸会が終わって、私は、全校生徒のなかで、ただひとり、Aさんとお互いに口きく生徒になった。ただし、校内でお互いに口をきくほど親しくなったわけではない。
 いっしょに登校する時間、または下校時に、たまたまいっしょに並んで歩く。そんなささやかなことが、お互いを少しだけ近づけた。それでも、同級生たちは、私とAさんのことをやっかみ半分で、いろいろととり沙汰するのだった。
 初恋とさえ呼べない程度のかかわりだったが、校庭にそびえたつ大きなプラタナスの木陰で彼女とすれ違っただけで幸福な気もちになるのだった。

 Aさんは、私の住む土樋から広瀬川をへだてた対岸の越路(こしじ)に住んでいたから、通学の道がおなじ方角だった。放課後、私たちは、いっしょに帰ることもあった。
 お互いに口数は少なかったが、Aさんと並んで歩くだけでうれしかった。

 Aさんと肩を並べて歩いていると、かならず通行人に見つめられた。

2021年、104歳で亡くなった平井 英子のことから、思いがけなく少年時代の思い出をたどることになったが、まさかAさんのことをなつかしむとは思ってもみなかった。年老いた私が、当然のように、retrospectiveになっているせいだろう。

 平井 英子のことから、別のことをいろいろと思い出した。

  たとえば、エノケン(榎本健一)の劇団にいた二村定一(ふたむら・ていいち)。

 二村定一が歌っていた「青空」。「狭いながらも楽しい我が家」のメロディーは、当時の子どもたち誰もが知っていた。
 それに、「オレは村じゅうで一番モボだといわれた男」といったメロディーは、小学生たちもよく歌っていた。
 1934年、千田 是也が「東京演劇集団」を結成したとき、ブレヒトの「三文オペラ」を公演した。このとき、二村定一はエノケン(榎本健一)と一緒に客演した。先鋭な政治意識をもった劇団に、大衆演劇、それもボードヴィルの喜劇役者が出るなどということは考えられないことだった。
 エノケンが、ブレヒトの「三文オペラ」に出たことは、それこそ破天荒なできごとだったはずだが、当時のエノケンの人気はたいへんなものだった。そのエノケンでさえ、「二村定一」がいなかったら、あれほどの成功をおさめなかったと思われる。「青空」もエノケンが歌っているが、劇場では、二村定一とデュエットしてヒットしている。

 私もエノケンのファンだったから、よく「青空」を歌ったものだった。Aさんと、手をつないで「青空」を歌いながら、下校したことを思い出す。

 ある日、私は紙芝居を書くことにした。

 どんなストーリーだったのか、おぼえていない。
 ただ、担任の佐藤 実先生の前で自作の紙芝居を披露した。同級生の前で、へたくそな紙芝居の絵とストーリーを発表した。これが、私の最初の創作への意欲だったことになる。

          (つづく)

2021/06/16(Wed)  1922〈少年時代 16〉
 
 2021年、私たちは、コロナ禍のさなかにいた。5月13日、新型ウイルスに感染した重症患者は、1214人(速報値)。重症患者が、1200人を上回るのははじめてだった。 5日連続で過去最多を記録した。5月1日から13日連続で1000人を越えている。
そんななかで、2月に一人の女性が老衰で亡くなっている。平井 英子。104歳。

 昭和初期に創立された日本ヴィクターの童謡歌手。同時に専属になったのは、作曲家の中山 晋平、作詞家の西条 八十、オペラ歌手の藤原 義江(ふじわら・よしえ)がいる。これだけでも、平井 英子の人気がわかるのだが、私たちが知っている曲としては、「アメフリ」、「てるてる坊主」、「ウサギのダンス」など。

    雨 雨 降れ降れ 母さんが 蛇の目で お迎え うれしいな
    ピッチピッチ ジャブ ジャブ ランランラン 

梅雨どきに、雨が降っている放課後に母親が、蛇の目の傘をかざして、校門の前で待っていてくれる。そんな光景がうかんでくるが、私の小学校では、校門の前で待っている母親の姿など、ほとんど見たおぼえがない。
 それでも、「ピッチピッチ ジャブジャブ ランランラン」というメロディーは私の心にきざまれている。

 平井 英子の名前をおぼえていたわけではない。しかし、エノケンの劇団にいた二村 定一が、童謡歌手の平井 英子と共演した「茶目子の一日」という童謡劇も、ぼんやりおぼえている。

 小学校の行事に、学芸会があった。各学年から、担任の先生が選んだ生徒たちが、歌や踊り、みじかい劇などを披露する。
 私たちのクラスで、ダンスをやることになった。

     ソソラ ソラソラ ウサギのダンス 

 平井 英子の童謡のレコードにあわせて、担任の先生の振り付けで踊るという趣向だった。
 このプログラムに、私が選ばれた。女子のクラスから、Aさんという女生徒が選ばれた。デュエットだった。
 振り付けは、佐藤 実先生ではなく、女子クラスの担任、沢田先生と内馬場先生。

 私は、沢田先生の振り付け通りに動いただけだったが、一緒に踊ったAさんは入学した当初から全生徒の注目を浴びていた。(彼女に迷惑をかけたくないので、Aさんとしておく。)
 Aさんはめんこいお人形さんのような美少女だった。

 幼い私の目からみても、たいへんな美少女だった。私たちのような幼い少年たちばかりではなく、先生たち、ほかの父兄たちにも際立って可愛い少女と見えたに違いない。

 いまでこそ、「かわいい」という形容詞は、世界的に知られるようになっているが、戦前から終戦後しばらくは、自分より年下の女の子に対する評価に使われていた。
 昭和初期には、現在のように、若い女性の魅力を表現する「かわいい」や、さまざまに未完成、未成熟なものに対して価値、美などを表現することばではなかった。
 
 「かわいい」という言葉の含意(インプリケーション)には、あきらかに世相、風俗、価値観の変化、ファッション、メーキャップなど、女性の自己イメージの変化が反映している。

 昭和5〜12年に、「イケメン」、「カマトト」、「ぶりっ子」、「マジヤバ」といったことばはなかった。まして、「チャパツ」、「サバサバ女」とか「アザとかわいい」といった形容など存在しなかった。
 Aさんは、こういう形容にあてはまらなかった。ただひたすらかわいい女の子だった。ふわふわしたり、クネクネしたり、確信犯的にかわいい「アザとかわいい」種類の女の子ではなかった。

 一年生の私は、ただかわいいAさんといっしょにダンスをすることがうれしかった。

 男の子が同年の女の子と口をきくことさえもめずらしい時代だった。だれもが羨ましかったに違いない。なぜ、私が選ばれたのか。そんなことも考えなかった。
 
 私は、Aさんとふたりで踊るだけで、はじめて舞台に立っているという感覚を知った。ダンスといっても、お互いに手と手をつないで、ぐるぐるまわったり、少し離れた位置で、スキップを繰り返したり。さしづめ 幼稚園の子どものお遊戯のようなものだった。
 それでも、手をつないだときにAさんの顔がすぐ眼の前にあった。まるで日本人形のように綺麗な頬、ほっそりとした眉、すっきりと鼻筋の通った顔が、いつも私の視野のなかにおさまっていた。

 Aさんは先生たちだけでなく、たいていの人が、自分に対してそれぞれの賛嘆のまなざしを向けていることをどう受けとめていたのだろうか。
 ダンスのターンですっと振り向いたとき、ほんのりと紅潮したAさんの美しい顔が、私のすぐ隣りで微笑している。まるで活動写真のクローズアップのように心に残った。

  私たちは大きな拍手でむかえられた。アンコールの拍手だった。

 このとき、私は舞台に立って観客に拍手される眩暈のようなものをはじめて感じたような気がする。母の宇免も見にきていた。

 中学生になった頃、他校の生徒に呼びとめられて、
 「どこん学校だ? 荒町か。おめどこに、めんこいおなごがいるべ。名めはAだども。おらどこでも、評判だでや」 
 といわれたことがある。      

 当時の仙台は東北の大都市といわれていたが、実際には狭い土地で、よその小学校や、中学校の生徒のうわさが届くこともめずらしくなかった。仙台一中に、針生 一郎という秀才がいる、といったうわさを聞いたこともある。後年、私は「俳優座」の養成所でアメリカの劇作家について講義をしたが、翌年、おなじ「俳優座」で針生 一郎が講義をはじめたとき、ああ、うわさに聞いた針生 一郎が出てきたな、と思った。

 小学生だったAさんが誰に似ていたか。もうおぼえてはいない。
 ただ、今の私は、はじめから比較も何もできないと承知のうえで、現在、「2020年代」、中国のトップスターといわれている范 冰冰(ファン・ビンビン)をそのまま少女にしたら、Aさんに似ているかも知れないと思っている。
 それほどの美少女だった。

2021/06/15(Tue)  1921〈少年時代 15〉
 私は、クラスでいちばんチビだった。私がチビだったことには、遺伝的な原因があるだろう。父、昌夫がひどく身長が低かった。さらに、昌夫の実母、理勢(りせ)が、身長が低かった。その遺伝子が私につたえられたものと思われる。

 私のクラスにかぎらず、当時の小学生は、身長の高低で席がきめられた。クラスで私よりチビだった生徒は、ほんの2、3人で、毎年、最前列の席にすわらせられた。

 私のクラスの子どもたちは、全員、丸坊主だった。
 そのなかで、私ひとりは女の子のオカッパのように髪を伸ばしていた。こういうヘア・スタイルをなんと呼ぶのか知らないが、仙台弁ではパッサだった。
 もう一つ、私が目立ったのは別の要因があった。
 生徒たちみんなが「小倉」という生地の黒い制服を着ていたのに、私ひとりはやや青味を帯びた「サージ」の制服を着ていたこと。

 昭和初期、仙台にかぎらず、「サージ」の学生服を着ていた小学生は少なかったに違いない。
 これも今の人たちには説明が必要かも知れない。「サージ」は梳毛糸(そもうし)をもちいて、綾織にした服地。和服地のセルとおなじ。
 「小倉」は、木綿の生地で、学生服や労働者が着ていた。もとは、九州・小倉で織られたもので、帯や袴に使われたらしい。学生服は、ほとんどが黒の木綿の生地で作られていた。                              
 隣りのクラスにいた裕福な家庭の子どもたちが2、3人、私とおなじ「サージ」の学生服を着ていた。

 東京の山手そだちの子どもなら、オカッパに「サージ」というスタイルもめずらしくなかったが、地方都市の仙台では、かなりめずらしかったはずである。

2021/06/14(Sat)  1920〈少年時代 14〉
 私のクラスの担任は、佐藤 実(みのる)先生だった。
 口ひげをたくわえた先生だったことをおぼえているが、国語教科書の最初の授業で、教科書の、いちばん最初に出てくる「サイタ サイタ サクラガ サイタ」を朗読したのは私だった。

 私は標準語だったが、父方の祖母(昌夫の母)、里勢(りせ)は、生涯、江戸弁で通していた。伝法で、いなせな江戸弁と、私の下町ことばとはまるで違っていた。それでも、私のことばは綺麗に聞こえたのかも知れない。

 小学1年生の私がはじめておぼえた唱歌は、〔さくら〕と〔蝶々〕の歌だった。
                                   
    てふてふ(蝶々) てふてふ(蝶々) 菜の葉にとまれ
    菜の葉にあいたら さくら(桜)にとまれ
    さくらの花の さかゆる御代に
     とまれよ あそべ あそべよ とまれ

 現在の私は、明治14年頃、愛知県の師範学校の校長先生だった伊沢 修二が、教員の野村 秋足に作詞させた曲で、モトネタはアメリカのカレッジソングだったことを知っている。それはともかく、(蝶々)の歌が私の知ったはじめての西洋音楽だった。

 幼い私には、蝶々が、なぜ〔てふてふ〕と表記されるのか、不思議だった。
 このあたりから、私は国語についてぼんやり考えはじめたような気がする。

2021/06/13(Sun)  1919〈少年時代 13〉
 
 1934年(昭和8年)4月、小学校にはじめて入学した日のことはよくおぼえている。母親につれられて仙台市立荒町尋常小学校の校門に入ったとき、桜が満開だった。いまでも桜を見ると、母の宇免(うめ)に手を引かれて、ゆるやかな坂を下りて校舎にはいって行った日のときめきがよみがえる。
 
 宇免は、20代の半ば、肌が白く、目元がすずしいのでちょっと人目につく顔だちだった。美人ではなかったが、若い母親だっただけに、小学校の先生たちも関心をもったようだった。宇免は、父兄会(戦後のPTA)の集まりに、洋装で出席することがあって、ほかの母親たち、若い先生たちも好奇の眼を向けたようだった。 
 ほかの生徒の母親は、いつも地味な和服だった。

 私は宇免が若い母親だったことがうれしかった。

 入学式は講堂で行われた。校長は、横山 文六先生。小柄で、でっぷり肥満身体の校長先生は、フロックコートに白手袋という正装で、恭しく巻物を載せた三方を捧げて、深々と一礼したあと、その巻物をひもどき、音吐朗々と朗読した。「教育勅語」だった。
 その後,卒業するまで、この儀式は何度も繰返されたし、生徒たちはこの「勅語」を暗記させられた。私はすぐにこの「勅語」をおぼえた。

 講堂正面の壁に、この小学校の卒業生で有名な軍人たちの写真が飾られていた。陸軍大将、山梨 勝乃進、海軍中将、斉藤 七五郎の大きな写真があった。とくに斉藤 七五郎は、貧困家庭に育ち朝な夕なに納豆売りをしながら刻苦勉励した立志の人という。日露戦争では、海軍少尉として聯合艦隊の東郷 平八郎元帥の「三笠」に搭乗した輝かしい戦歴をもっていた。
 斉藤 七五郎がこの小学校で学んだ事は全校の誇りで、「斉藤 七五郎の歌」は、学校行事にかならず全校生徒が合唱するのだった。
 軍国主義の気風がつよかった時代の小学1年生が、「斉藤 七五郎の歌」や「軍艦マーチ」を歌ったとしても咎められることはないだろう。
 「斉藤 七五郎の歌」の作曲者は知らない。「軍艦マーチ」は、明治30年頃、横須賀海兵団の軍楽隊にいた準士官、瀬戸口 藤吉が作曲したもの。
 この軍歌は、1945年の敗戦とともに忘れられたが、「戦後」パチンコ屋のテーマソンとして復活した。

2021/06/12(Sat)  1918〈少年時代 12〉
 
 仙台は関東大震災の影響を受けたわけではなかったが、それでも古い町並みに少しずつ新築の家や、商店などが見られるようになった。連坊小路から、荒町にかけて、カラタチの新垣をめぐらせた新建ての家も見かけるようになっていた。

 今は市電も廃止されて、小さな清水小路のように、江戸時代そのままに馬場のような空間がひろがっていたことは想像できない。マンションやビルなどの近代的な建築が立っていて、ほとほと往時を追懐するよすがもない。
 
 私の住む家は、短い路地を抜けて、すぐに小さな広場になっていた。
 近所の子どもたちの遊び場になった。
 右隣りは、中村さんというミシン屋で、当時、ようやくひろまってきた家庭の主婦相手に蛇の眼ミシンの販売をはじめていた。ミシン専門の販売店は、仙台市内でもめずらしかった。
 母はこの店からミシンを買った。(1945年3月、東京の下町が、アメリカ空軍の爆撃で壊滅したとき、気丈な母は、このミシンだけを毛布にくるんで猛火の中を逃げた。「戦後」、このミシンで、シャツや肌着を作って、闇市場で売りさばいて、一家の生活費を稼いだ。)

 中村さんの家には、私より一歳年下の、アキコさんという女の子がいた。
 政子ちゃんの次に仲良くなった女の子だった。

 表通りに、江戸時代の裏店(うらだな)といった古い作りの糸屋があった。昼間でも薄暗い店で、零細な家業で、老夫婦が店を守っていたが、客が入っていることは見なかった。

 この老夫婦には孫が二人いた。ひとりは、トシタカさんという。名うてのワルだった。高等小学校に進んだが、この近所では知らぬ者もいない不良だった。柔道の心得があって、この界隈の暴れ者だった。まるで、ゴリラのような歩きかたをしていた。
 いつも一人で、この界隈の同年輩の不良を相手に喧嘩を吹ッかける。相手に怪我をさせる。警察沙汰も起こしたことがあって、子どもたちもおそれていた。どんよりした目で、見るからに凶暴な性格だった。
 その弟は、タカシという名だったが、中学にすすんだ。ただし、これも不良少年のひとりで、子分が10人ばかりいた。
 トシタカさんのような暴力的な不良ではなく、軟派というウワサだった。タカシさんは、いつも兄貴のトシタカさんを恐れていた。
 ふたりの兄弟喧嘩を観たことがある。何が原因だったのか。タカシさんはトシタカさんに組みしかれて、たてつづけに殴られた。ほとばしる鼻血で、顔を真っ赤にしたタカシさんが泣きだすのをはじめて見た。
 それからは、タカシさんはトシタカさんをおそれて、トシタカさんの姿を見たとたんに姿を消すようになった。

 幼い私は、タカシさんのグループの仲間と遊んだ。
 メンコ(私たちはパッタとよんでいた)の一枚や、ベエゴマ、エンピツをけずったり、消しゴムを切るときにつかう肥後守(ヒゴノカミ=コガタナ)など、どこにでもあるオモチャには、自分で生気をあたえなければならない度合いが大きければ大きいほど、その物体から受け取る生命感も大きくなると信じていた。それが幼年時代というものだろう。

 子どもの頃の遊び、鬼っごっこや隠れンボ、ケンダマ、駄菓子屋のラムネやアンコだま。こうしたすべてを、私はタカシさんとそのグループからおしえられた。

 私の家の左隣りは、佐藤さんという家だった。あとで知ったのだが、母親と二人でひっそりと暮らしていた。この子は、私と同歳だったが、学校を休んでいる佐藤くんと遊んだ。
 佐藤君は、だれも遊び相手がいなかったらしい。皮膚病がひどかった。
 この皮膚病が、どういう病気だったのか。全身にひどい発疹(ほっしん)が出て、それが血疹や、膿疱(のうほう)が出るようだった。いつも頭にぐるぐると包帯を巻いていたので、ほかの子どもたちはそばに寄らなかった。

 佐藤君は小学校も休んでいた。いつも消毒薬の匂いがした。

 私は、佐藤君と遊んだ。いつも頭に潰瘍が出て、白い包帯をグルグル巻きにしていたが、この吹き出もののカサブタが崩れて、血のまじったリンパ液がにじみ出していた。佐藤君は、子どもの頃の遊び、鬼っごっこや隠れンボ、ケンダマ、駄菓子屋のラムネやアンコだまなども知らなかったのではないか。

 佐藤君の母親は、芸者あがりだったという。いっしょに遊んでくれる男の子が誰もいなかったので、私が遊びに行くと、いつもよろこんで、お菓子を暮れるのだった。
 私はそのお菓子を食べなかった。佐藤君とおなじ病気になるのがいやだった。

 そして、ある日、佐藤君母子はどこかに引っ越していった。

 当時、満州事変がおきて、中国では、蒋 介石の政権が無力化しつつあった。中国の民族主義的な抗日運動と、それを阻止しようとしていた時期。
 不況にあえぐ日本は,軍部の強硬な姿勢によって、急速な「準戦時体制」に編成替えが行われつつあった。
 むろん、幼い私は何も知らない。

2021/06/11(Fri)  1917〈少年時代 11〉
 
 青葉城の城下町、木無末無(きなしすえなし)という奇妙な名前の町に住んでいた私の一家は、やがて連坊小路(れんぼうこうじ)の近く、清水小路(しみずこうじ)の一戸建ての家に移った。
    
 あたらしく移った清水小路の表通りには仙台駅から南西の長町まで市電が通っていた。市電の停留所、荒町と連坊小路のちょうど中間で、表通りから小さな路地に入ると、すぐに馬場のような空間がひろがっていた。どうしてそんな区画ができたのか知らないが、幕末までは下級の足軽長屋、厩、小さな馬場だったらしい。狭い路地を抜けると、巾着のようにかたちに馬場跡の原っぱがひろがって、奥の長屋の門につながっていた。

 この原っぱが、子どもにとっての王国だった。幼い頃の遊び、鬼ごっこや隠れンボ、やがてケンダマ、メンコ、駄菓子屋のラムネやアンコだまなど、そんな記憶に直接結びついている。      

 幼い私がいちばん最初に仲よしになった女の子がいた。村上 政子という名前で、未就学の私のはじめての遊び友だちだった。
 父親は、当時、まだめずらしかったタクシー屋をやっていた。「村上タクシー」という大きな看板を出していたが、自動車は1台だけで日中はたいてい出払っていた。
    
 ある日、政子ちゃんは、白い菊の花を握りしめて遊びにきた。
 「今、よそのお庭で切っていたからもってきた」
 といって、私にわたした。
 こんなことにぶつかったのははじめてなので、どうしていいかわからず、家の前のセメントの上に載せておいた。
 政子ちゃんは、そんな私を見ていたが、しばらくすると、
 「なんかして遊ぼ」
 こうして、私たちは遊び友だちになった。お侠(きやん)で活発で、私よりずっとハキハキした女の子だったが、おハジキ、お手玉といった女の子の遊びを色々教えてくれた。
 政子ちゃんは私にとってはじめてのお友だちだった。
 幼い私の内面に、女の子に対する親しみ(アフェクション)が生まれたとすれば、それは政子ちゃんに対する感情だったに違いない。

 別の日、私がひとりでいると、家の近くで政子ちゃんが、ちょうど細い路地を向こうへ行くうしろ姿が見えた。いつもなら、かならず私に寄ってきて声をかけてくれるのにと思って、呼びとめたいような気もちでいっぱいになりながら、政子ちゃんの姿を見ていた。政子ちゃんはしょんぼりしている私に気がついて、すぐに足をとめて、
 「あたい、病院に行くのよ」
 といった。

 その日から政子ちゃんは二度と私の前に姿を見せなくなった。

 私は、毎日、「村上タクシー」の前で政子ちゃんが出てくるのを待っていた。しかし、政子ちゃんは出てこなかった。
 やがて、私にも少しずつわかってきた。政子ちゃんの笑顔を見ることはもう二度とないのだ、と。それがわかったとき、私ははじめて、仲よしだった政子ちゃんがいなくなったことに、なにか空虚な感じが広がるのをおぼえた。

 やがて「村上タクシー」がタクシー屋を廃業してどこかに引っ越して行った。

2021/06/10(Thu)  1916〈少年時代 10〉
 
 バッタやイナゴ、トカゲ、カエル、ヘビ、アメンボ、ヒル、ミミズ、そうした自然界の生きものは、子どもの世界では、自分と対等のものと見なすか、どれもが超自然的なものと考えるようだった。私は馬が好きになった。
 
 ある日、屈強な若者が数人、大八車に大きな臼を乗せて、町のどこかからやってきた。

 威勢のいい掛け声をかけて、杵(きね)を振りあげて、黄色い餅をつく。つきあがった餅の固まりを長い紐の様に伸ばして、おおきな包丁で切りわける。
 豆粒のような餅にきな粉をふって、すぐに竹串に刺す。
 桃太郎のきびだんごと称して、一串、5厘(りん)ぐらいで売るのだった。

 私は1銭銅貨をにぎりしめて大八車に駆け寄った。
 
 桃太郎の話を母から聞いて育ったので、そのきびだんごなら食べないわけにいかない。
 
 幼い胸に期待があった。

 意外にも、味はまるっきりおいしいものではなかった。粟(あわ)と稗(ひえ)を蒸籠(せいろ)で蒸(ふ)かして、繋ぎに、もち米にわずかな砂糖をまぶしたものだった。

 幼い私は、桃太郎がこんなものを家来のイヌ、サル、キジに与えたのだろうか、とうたがった。はじめて何かを疑うことを知ったといってよい。

 やがて学校に通うようになって、子どもも考える。ゆえに、ときには存在する。

2021/06/09(Wed)  1915〈少年時代 9〉
 
 木町末無(きまちすえなし)に住んでいた頃の思い出はほとんどない。 

 広瀬川に面した人通りは少なかった。ただ、すぐ近くのりっぱな武家屋敷の黒板塀と、その上を蔽って樹木の影が、往来のなかばを占めているようだった。その屋敷に、第二師団の参謀本部に勤務していた陸軍少佐が住んでいたことはおぼえている。

 仙台は、第二師団が置かれて、軍国主義のさかんな土地だった。

 毎朝、7時頃、下士官と馬匹係(ばひつがかり)の兵士、二、三名が、少佐を迎えにくる。少佐は乗馬したまま、第二師団の本部に出勤する。

 夏になると、兵士が馬の行水(ぎょうずい)をすることもあった。私は馬の毛並みをととのえる儀式を見るのが好きだった。兵士のひとりが水道のホースで馬に水を当てる。ほかの兵士が雑巾で馬のからだを拭いてやる。馬は大きな黒い眼をさも心地よさそうに開いて、兵士にされるままになっている。兵士のひとりは、自分の持っている手綱を長く繰り出してやる。馬は鼻で荒く呼吸をして、たてがみを振って水を切るので、兵士も水滴を浴びるからだった。ときには、脈だった横腹から、湯気のような水蒸気が立ちあがる。
 近所の人たちもときどきこの儀式を見物するのだった。

 少佐の乗馬は朝早く行われたし、幼い私はこの時刻に起きられなかったことも多い。雨の日だったりすると出勤の儀式は見られなかった。

 馬の準備を終えると、下士官が挙手の礼をとって、
 「XX少佐殿、ただいまからXXいたします」
 と報告する。
 少佐が乗馬すると、馬上からこれもおなじように挙手の礼を返す。

 幼い私は、ある日、下士官の動作をまねて敬礼をした。
 すると、少佐は私を見て敬礼してくれた。

 うれしかった。陸軍少佐が、幼い子どもの敬礼に挙手の礼を返してくれた。子どもながらにうれしかった。その日は一日じゅうはしゃぎまわっていたらしい。

 ただし、幼い私が少佐殿に敬礼してもらったのは、このときだけだった。それからあと、少佐は、二度と、私に眼をくれることはなかった。
 この敬礼のことは、あとあとまで記憶にのこったが、幼い心に別のことを教えた。幼い私は、いくら自分がのぞんでも叶えられないこともある、ということを知ったのではないか。

 陸軍少佐殿は、子どもが心から尊敬をこめて挨拶しても、まったく受けつけてくれないものだ、という思いが心に刻みつけられた。こういう思いは、それからの幼児のまわりをしつこくうろついて離れなくなった。
 子どもも考える。ゆえに、ときには存在する。

2021/06/08(Tue)  1914 〈少年時代 8〉
 
 市電をとめてしまったこと以外はごく普通の幼年時代を過ごした。

 満州事変か起きたのは、1931年9月だった。私は4歳。
 当然ながら、この頃の思い出はない。

 1934年、世界的な恐慌の余波を受けて、父の昌夫は失職した。
 三日間、それこそ寝食を忘れてつぎの就職先をさがした。英文の速記が専門だったので、たまたま、外資系の石油会社の仙台支店に勤務するという条件で、オランダ系の「ロイヤル・ダッチ・シェル」に就職した。

 このあたりの記憶は、かなり鮮明に残っている。

 仙台駅に着いたとき、プラットフォームのあちこちに夜の暗さが溶けかかっていた。十人ばかりの乗客たちが、寒い季節にかがみ込むように通りすぎて行く。
 機関車は、ようやく白みはじめた夜空に白い煙といっしょに細かい火の粉をふきあげている。橙色の灯に照らされている機関士の動かない横顔。
 その乗客たちに若い娘たちが数人いた。娘たちは、東北の寒村から連れ出されて、どこか知らない土地に娼婦として売られていったに違いない。

 父の昌夫は、仙台に赴任してすぐにすぐに貸家を探して歩きまわった。歩き疲れた私は、父の昌夫、母の宇免に手をひかれて、夕暮れの躑躅(つつじ)ガ丘公園に立った。そこから、仙台市内を見渡した。日没の近い空が赤く燃えていた。そのとき、なぜか、これから先に私たちを待っているものにおびえていたことを思い出す。
                   
 そして、木町末無(きまちすえなし)という奇妙な名前の町に住むことになった。
 今はその町名もなくなっているが、伊達 政宗の居城の下にながれる広瀬川にのぞむ細長い町だった。
 こうして幼い私は仙台で過ごすことになった。このことは私に、大きな影響をおよぼした。
 まだ妹、純子は生まれていなかった。

 仙台は、まだ封建的な気風がつよかった。
 当時、仙台の人口、約17万5千人。
 大不況が、さまざまな影響をおよぼしていた。アジアにおける日本の地位の比重が大きくなったため、日本の戦略的な地歩獲得の要求、中国の経済危機が深刻化したことも、父の昌夫の転職に影響をおよぼしていた、と(現在の)私は考える。

 私たちは、満州事変が太平洋戦争へのきっかけになったことを知っている。
 この戦争の要因として、軍部の暴走があったことも事実だが、当時の民衆が、政治に参加したことも大きな要因と考える。
 中国は、日本の租借地からの即時撤退をもとめて、学生たちの不平等条約反対運動が、性急に発展していた。これに対して日本人が、つよく被害者意識をもったことも戦争機運に反映した。アメリカの排日移民法に反対する大衆運動や、アジア新秩序など、強硬な姿勢にあらわれている。   

 幼い私は、なぜか仙台という土地にすぐにはなじめなかった。

2021/06/07(Mon)  1913 〈少年時代 7〉
 
 大森、入不斗(いりやまず)は、今では地名も残っていない。

 路面電車が走っていたが、この界隈はさびれた町で、どこか遠くから市電の音が聞こえてくる。
 自転車で売りにくる豆腐屋のラッパ、「いわしッこ、いわしッこ」とさびた声をあげるイワシ売りの声、近くの小さな町工場からいつも規則的に聞こえてきた機械の低い音、近くの酒場から、すりきれたようなレコードの音楽が聞こえてくる。ながく曳くポンポン蒸気の汽笛。
 私はそんな町で生まれたらしい。

 赤ンぼうの私は暗い廊下を這いずりながら犬のあとを追いかけていた。犬といっしょに遊んでいたり、ころげまわったり、ときには犬の食べ残したぶっかけ飯を手でベシャベシャやっていたという。

 やがて、少し歩けるようになってからだが、幼児は家から外に出た。すぐ近くに市電(ボギー車)がとおっていて、幼児はレールの間にすわっていた。
 それに気がついた運転手が急ブレーキをかけて、電車をとめた。いそいで外に走って、レールの間にいた子どもを抱きあげて、    
 「この子の親は、どこにいる! 出てこい!」と怒鳴った。

 昼寝をしていた宇免も、あわてて外に飛び出すと、怒り狂った運転手が、
 「轢かれたら、どうするんだ!」
 と罵った。
 宇免は、運転手の腕から私をひったくって、抱きしめたまま、その場に立ちつくして運転手には平謝りに謝った。

 この椿事も私は知らない。母は一度も口にしたことがなかった。

 ずっと後年になって、叔父(宇免の異父弟)の西浦 勝三郎からこの話を聞かされたが、私は母の不注意を責める気にならなかった。ただ、この電車に轢かれたら私は生きていなかったのだという思いはあった。

 この話を知ったときから、死はいつも私の隣りにいるという思いが生まれた。いつ自分が死ぬかも知れない。こういう思いが離れなくなったのは、これがはじめてだったと思う。それは、死という現象があるかぎり、サンパティックであろうとなかろうと、私にとって大きな意味をもつようになった。

2021/06/06(Sun)  1913〈少年時代 6〉
 
 アンドレ・マルローは語っている。

 「私の知っているたいていの作家たちは、ほとんどがその少年期をなつかしんでいる。私は自分の少年期を憎んでいる。自分を育てるといったことが私にはほとんどなかったし、得意でもなかった。自己形成ということが、生と呼ばれるこの道のない旅の宿に甘んじることだとすれば」と。

 私は少年期をなつかしむひとり。というのも、私が人生を知りはじめた頃に出合った人々のことをなつかしむ思いがある。
 ただ、たいていの作家たちが、自分の生きてきた時代をなつかしむのは、それによって誰かに語るべきことを多くもっているからにちがいない。自己形成というほどのことではない。つまり、自分の少年期を憎んだことはない。

 簡単に両親のことを説明しておこう。
 父、昌夫は、大正12年の関東大震災で罹災した。
 東京全市は、この日から収拾のつかない混乱状態に襲われる。劫火に家を焼かれた数百万の人々は、濛々(もうもう)たる煙塵(えんじん)の中を右往左往にさまよい歩き、さまざまな流言蜚語(りゅうげんひご)は、頻々たる余震とともに、飢え渇え(かつえ)、悲しみに傷ついた人々の心を、さらにはげしい恐怖におののかせた。
 昌夫は、東京の本郷から徒歩で横浜まで避難したが、横浜も被害は大きく、親族の無事を見届けただけで東京に引き返した。
 その途中で、たまたま大森で炭屋をやっていた西浦 あい(私の祖母)に出会ったが、あいは、罹災した昌夫に同情してささやかな食事をとらせた。そして間借りというかたちで下宿させることにした。この炭屋の娘が西浦 宇免だった。

 貧しい家庭でそだった宇免は、小学校を卒業してから、大森の素封家の家で、女中(今でいうお手伝いさん)として働いていた。(当時、子守り女だった宇免をモデルに、後に有名になる画家が描いている。)

 昌夫と宇免は、大正15年9月に結婚している。昌夫は、当時、電信技手としてフランス系の商事会社に勤めていた。
 宇免はやっと17歳。                       
 新婚のふたりは、東京府荏原郡大井町に住んだ。現在の大田区大森である。
                               
 結婚して間もなく女児を出産した。幸代(さちよ)という。
 宇免は乳の出がわるく、近所のおばさんから貰い乳をしたが、幸代はまもなく死亡した。疫痢(えきり)だったという。

 翌年、昭和2年11月に、大森の入不斗(いりやまず)で、中田 耕治が生まれている。

2021/06/05(Sat)  1912 〈少年時代 5〉
 
 たとえば 幼年時代、少年時代に出会った人びと。

 そのほとんどがもはや記憶に薄れている。

 しかし、その人たちのことを思い出しているうちに、あらためて自分が過ごしてきた時代がどういうものだったか、そんなことを考えるようになった。
 
 私の人生は、それなりに変化があったし、ほんの少しにせよ本人にとって興味のあることはあった。今にして思えば、私の生きてきた時代、あるいは環境に大きく影響されてきたといってよい。
 コロナ禍という想像もしなかった事態のさなかに、幼かった自分のことを思い出すというのは、なんとも悠長な話だが、これも老いさらばえた身なればやむを得ない。何もしないよりは、もはや記憶が薄れて、日頃、考えもしなかったことを思い出すほうがいい。

 たった数分の時間、私は自分の心にうかぶ幼い頃の私の記憶、とりとめもない思い出を書くためだけに生きているようなものだった。その時間はコロナ禍のことも気にならなくなった。
 わずか10分から30分の時間でよかった。それでも、私はこの時間のうちに、世間の人の24時間分以上の、生きがいを感じたのだった。

 とりとめもない思い出ばかり。誰も読んでくれないかも知れない。それでいいのだ。
                     

2021/06/04(Fri)  1911 〈少年時代 4〉
 
 コロナのおかげで――暇ができた。
 これまで時間がなくて放置していた書きかけの原稿を整理したり、焼き捨てたり。
 これまで考えたこともないことをじっくり考えたり。

 それにしても、コリン・バレット、オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティル、あるいは、ショーン・タンといった作家たちは、今の今、コロナの蔓延のさなかにどういう小説を書いているのだろうか。そういう、まことに素朴な設問が心にうかんできた。

 こういう設問自体が、ひどく単純なことではないか、という気がした。
 アメリカ人、アイスランド人、フランス人、日本人、オーストラリア人、おそろしく単純なことなんだ。文学なんて。コロナも。

 思わず苦笑した。その笑いのなかには、いろいろな病気で明日にもくたばりそうな老人が、最後の最後になってこんな単純なことに気がついたという、阿呆らしさを笑うことも含まれている。しかし、自嘲をふくめてこういう笑いを笑う自分が楽しかった。

 さて、もう少し何か書いてみるか。もとより田舍翁(でんしゃおう)のTedious Talk にすぎないけれど。

 タイトルは田舎翁目耕記としようと思ったが、あえて反時代的なタイトルでもあるまい。ならば田舎翁妄語ぐらいでもいいと思って書くことにしよう。

2021/06/03(Thu)  1910 〈少年時代 3〉
 
 コロナ禍のさなかに、まるっきりの病人で、歩行困難ときた。
 ざまァねえや。
 
 つい 少し前までは、私のまわりに才能にあふれた才女たちがいつもむらがっていた。そのほとんどが、私のクラスで勉強をつづけて、その後も私の「文学講座」を聞いてくれた人々だった。コロナ禍のおかげで親しい友人、知人たちと語りあうこともなくなった。思わぬ入院で外部と接触することがなくなった結果、田舎翁(でんしゃおう)としては彼女たちと会うこともなくなった。
 かつてはお互いにあれほど緊密だった絆が破れ、30年におよぶ歳月につちかわれた友情やアンチミテ(親しさ)がはかなくも崩れてしまったといってよい。

 私にとって最悪のパンデミックだった。

 図書館もやっていないし、馴染みの古書店もつぎつぎに廃業した。新刊書を読むこともなくなった。

 それでも、親しい友人、知人たちが贈ってくれたエッセイ集、とくに岸本 佐知子の「死ぬまでに行きたい海」や、ショーン・タンの翻訳。
 翻訳では、田栗 美奈子が訳したアイルランドの作家、コリン・バレットの「ヤングスキンズ」や、神崎 朗子が訳したアイスランドの女流作家、オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティルの「花の子ども」や、光野 多恵子訳、ローレン・グロフの「丸い地球のどこかの曲がり角で」など、コロナ禍のさなかに何度も読み直した。

 ひとりの作家の本をくり返して読む。これまでにない習慣になった。 
 すごい作家ばかり。

 ふと、自分がなぜ「もの書き」になったのか考える。むろん、私は、こうした作家たちのようにゆたかな才能に恵まれていたわけではない。そもそも比較などできるほどの「もの書き」ではない。
 そこのところは棚に置いて――目耕の日々をすごした。すぐれた作品を何度も読み返すうちに、あらためて文学作品のありがたさを感じながら、いつも何かを考えつづけてきた。

2021/06/02(Wed)  1909 〈少年時代 2〉
 
 そんな日々をのんびりとすごしていた、といえば誤りだろう。むしろ、毎日々々、がっくりと老いゆくことに呆然としていた。コロナ禍のなかで、ふてくされた老人として、退屈な人生を過ごしていたといったほうがいい。

 たまたま私はこの春に体調をくずしたため、しばらく入院した。折りしも変異ウイルスの襲来がつづいて重症患者に対応する医療システムまでが対応しきれない事態になっていた。
 この5月、あたかも東京、神奈川、埼玉、千葉などに蔓莚阻止の「緊急事態宣言」が出た時期だったが、コロナ/新型ウイルスとは何の関係もない病気だったので、10日ばかりで退院した。

 見るかげもない老人になり果てて、膝や関節の痛みに呻吟することになった。
 外出自粛といえば聞こえはいいが、毎日をひたすら無為、怠惰にすごした。ブログを書く気にならなかった。

2021/06/01(Tue)  1908 〈少年時代 1〉
 
 2021年5月、コロナ・ウイルス、いまだ艾安(がいあん)におよばず。新型コロナウイルス・パンデミックが世界的に流行している。
 つい年前には誰も予想しなかった社会の激変が現実のものとして、いまや私たちの前に立ちはだかっている。

 アメリカは、ロシアのサイバー攻撃にさらされている。
 ブラジルは、コロナ・ウイルスの感染拡大にボルソナロ大統領が窮地に立たされている。あまつさえ、ミャンマーの国軍のクーデターで、国内戦の様相を呈している。中東では、イスラエルとパレスチナのガザ紛争が、イスラエルの報復空爆と、パレスチナの反撃を惹き起している。イランは、ハメネイの下で、大統領の後任をめぐってはげしい政争が起きている。そのイランの「革命防衛隊」が、アメリカの「コースト・ガード」に異常接近したため、威嚇射撃を行った。ペルシャ湾でも、アメリカ軍はイラン艦艇に対して警告射撃を行っている。

 こういう時代にどう対処すべきか、とか、かくあるべきだという言説が輻輳している。
 いずれもただしい意見と思われるが、いつしかそうした言説を押しつけられることに息苦しさをおぼえるようになった。

 後世の歴史家はこういう事態をどう見るだろうか。

2021/05/23(Sun)  1907
 
「ヘンリー・ミラーとの対話」
 
 アナイス・ニンとは手紙のやりとりがあったが、私から何かについて質問をすることはなかった。むしろ、アナイス・ニンが、私にいろいろなことを訊いてくるので、返事を書いたといったほうがいい。
 外国の作家に、手紙で何か質問をしようなどと考えたことはない。 

 その私が、ヘンリー・ミラーに短い質問を送ったことがある。以下に、その質問と応答を掲載する。

  中田 耕治 :伺ってみたいことすべてを、ここに書きだすと、厚い一冊の本になってしまいそうなので、その中から、つぎの二つだけを選んで、お聞きしたいと思います。

  質問A :二番目の夫人になられたジューン・イーディス・スミスと、出会ったとき、ファンム・ファタール的な女性に魅力をかんじていらっしゃったのでしょうか? 私には――あなたは、ずっと、自分の内的世界を探究し、それを見いだすと、その探索に務められていたように思われます。その世界に、運命の女性が住んでいることを知っていらっしゃったのでしょうか? アイーシャヘのなみなみならぬ関心は、ファンム・ファタールに、あなたが、強力な磁力、魅力を感じられるからでしょうか?

 ヘンリー・ミラー :そう、そう、その通り。ファンム・ファタールだよ。ジューンに出会う前からね。だが、ちょっと待ってくれ。私の内的世界だって? いや、おれはそんなに自分について、自分の内面の世界について、知ろうとしていたとはおもわないね。そういうのには賛同しないんだ。たとえば、自己分析とかいうやつには、生涯ずっと反対だったな。何であれ、分析というものは嫌いでね。プロにやってもらっても。自分でやるのも嫌いでね。私にいわせれば、その結果はまったく意味をなさないナンセンス、あるいは混乱に行き着くだけだ。自分が誰か、何者か、なんてことは見極めなくともいい。あるがままの自分を受け入れればいい。だいたい、自分が何者か、なんてことが誰にわかるんだ? 創造主にさえ、わからないだろう。私はそう思う。すべてのものが、すべての人間が、生き物が、シラミもノミも、どんな動物もが、神にとってさえ不可思議な存在なんだと思う。私にとっては、すべてがミステリーさ。
  だから、わからない。なぜ、ファンム・ファタールに惹きつけられるのか説明はできないね。感情があるだけだよ。どんな説明も真実ではないし、根拠も希薄だよ。この宇宙には説明できるものなど何一つない。完全なるミステリーさ。創造主にとってさえもね。(笑) 何故か? 智慧ある創造主なら、この地球のような世界を創造しなかっただろうからね。
 アイーシャって、あの素晴らしい小説「彼女」のなかのアイーシャのことか?
 ああ、読んだとも。私に大きな影響を与えた本だよ。いま、ビッグ・サーに住んでいる私の娘が女性作家の作品を読みあさっていてね、たとえば、マリー・コレリだが、彼女は私がいちばん愛読している女性作家だよ。アナイス・ニンは、この作家をくだらないとバカにしていたが、マリーはヴィクトリア女王の大のお気に入りの作家だった。たしかに、若い頃の私はああいうタイプの女に影響をうけた。そう、あのタイプだね。これからも、ずっとファンム・ファタールだよ。

 質問B :ちょっとおかしな質問ですが、輪廻転生ということを信じておいででしょうか? 仏教的な意味でも、ヘラクレイトス的万物転生という意味でも。あなたご自身の死後の転生を、あるいは、ふたたび生まれることを信じていらっしゃいますか?

 ヘンリー・ミラー :私は、一生かけて、何かを信じることができるかどうか見極めようとしてきた。だが、信じることはできない。信じてはいけないのだ。信念は持つべきだが、信仰は無用だ。この両者には、微妙な違いがある。信念はある。すべてを、真っ向から受け入れる。だが、信仰はもたない。輪廻転生については何も知らない。いや、知っている。いろいろと話は聞いている。しかし、それについて、私が語ることはない。真実かどうか考えてもわからない。

 中田 耕治 :死後、ご自身がどうなるのか、考えたことはおありですか?

 ヘンリー・ミラー :死後のことは一切わからない。きみが訊きたい気もちはわかるけれどね。私は、そんなことは考えようとは思わない。バカげているよ、そんなことは。

 この質疑応答は、ある雑誌に掲載された。折角の機会だったのに、くだらないことしか質問できなかった。しかし、ヘンリー・ミラーが答えてくれたことはうれしかった。
 現在の私が、おなじような質問をうけたら、ヘンリー・ミラーと同じように答えるだろうと思う。

 その後、ヘンリー・ミラーは日本に行きたいと思ったらしい。しかし、高齢のため、訪日を断念した。

2021/05/18(Fri)  1906
 
 これまでの恐竜は、ゴツゴツした鱗に覆われていたが、最近は、色彩ゆたかな羽毛に覆われた「恐竜」が描かれるようになった。むろん、理由はある。

 1996年、中国で、羽毛のある「中華竜鳥」が発見された。さらに、2003年には有翼恐竜「ミクロラブトル」の化石も発掘された。こうなると、「始祖鳥」も、これまでの「始祖鳥」の栄光を失って、ただ、空飛ぶ恐竜の一種に陥落する。大関から十両に落ちて、うかうかすると、幕下におちるかも。

 さすがに、ティラノサウルス・レックスは横綱だね。最近は、祖先が有翼恐竜だったと推測されて、背中やシッポは羽毛だったらしいという。そうなると、やはり、幕内とは違って絢爛たる土俵入りを見せていたと想像する。

 肉食恐竜のうち、鳥盤類に属する「ブシッタコサウルス」のシッポや「クリンダドロメウス」の胴体にも羽毛が確認された。こういうのは、さしづめ関脇か小結あたりだな、きっと。

 その色も、「中華竜鳥」や「アンキオルニス」などは、全身の色がわかったという。

 テレビで見たのだが――ダチョウ型恐竜「デイノケイルス」は、アタマや前肢に、赤い飾りをつけたピンクの羽毛で登場している。
 スティーヴン・スピルバーグの映画に出てくる恐竜のように、だいたいがグレイ、よくいって、黄土色、それにきたならしいグリーンのまざった程度の恐竜ばかり見てきたので、驚いた。

 私としては、赤、グリーン、黄色、バープル、なんでもいい。まさか、純白というわけにはいかないだろうから、白、茶色、黄色、焦茶色、オークル、そんな色の恐竜がいてもいい。

 いつか、月をめぐって宇宙戦争が起きる可能性がある。世界最終戦争が。
 恐竜が死滅したように、いずれ人類もそのうちに死滅するかも知れない。(笑)

2021/05/14(Fri)  1905
 
 この恐竜の絶滅から、まるで別のことを連想する。

 「アルテミス合意」について、書きとめておく気になった。(2020年10月13日)

 「アルテミス計画」は、24年までに、宇宙飛行士をふたたび月面に送る計画。これに参加・協力する8カ国(アメリカ、日本、カナダ、イギリス、イタリア、オーストラリア、ルクセンブルグ、アラブ首長国連邦)が、「合意」に署名した。
 NASA(アメリカ航空宇宙局)長官、ジェームズ・ブライデンスタインは、「アルテミス計画」は「歴史上、もっとも多様な国際宇宙探査連合になる」と語った。

 この合意は、13項目。
 宇宙の平和利用の原則のもと、月面で採取した水や鉱物などの資源を所有・利用することを容認する。科学的なデータの共有など、探査活動中のルールをきめた。

 それにしても、私はすごい時代に生まれあわせたものだ。

 私は、近い将来、人類が月面で生活できるようになると確信しているが、当然、領有権をめぐって紛争が起きるのではないかと危惧している。

 げんに、中国は月の裏側の観測に着手しているし、アメリカは、陸海空の三軍とは別に宇宙軍を創設している。
 この「合意」が、ロシア、中国を排除しているのは当然だが、EUの各国が参加していないことに不安をおぼえる。

 こんなとき、私は、にやにやしながら、映画監督のチャン・イーモーの言葉を思い出す。
                      
    地球なんて、ずっと恐竜が住んでいたんだ。
    人類の歴史なんて短いものさ。
    恐竜は十数億年、何十億年も地球に君臨していた。
    20メートルとか50メートルの恐竜が空を飛んでいた。
    宇宙の中のこの小さな地球で、映画の撮影なんて、「LOVERS」なんて、
    取るに足らないことさ。

 ついでに説明しておこう。
 2003年9月、チャン・イーモーは、ウクライナで、「LOVERS」(「十面埋伏」)の演出に当たっていた。
 チャン・ツィイーの母親役に、香港の大スター、梅 艶芳(アニタ・ムイ)を起用する予定だった。しかし、この時期、アニタ・ムイは重病に倒れた。チャン・イーモーは、アニタの回復を信じて朗報を待っていた。
 監督の希望もむなしく、アニタ・ムイは亡くなった。(12月30日)

 チャン・イーモーは、完成した「LOVERS」(「十面埋伏」)を、梅 艶芳(アニタ・ムイ)にささげている。

    恐竜は十数億年、何十億年も地球に君臨していた。
    20メートルとか50メートルの恐竜が空を飛んでいた。

 私は、コロナ・ウイルスの深刻な災厄のさなか、ときどきこのことばを思いうかべた。
 チャン・イーモーは、私に元気をくれたひとり。

2021/05/10(Mon)  1904
 
 コロナ・ウイルスが、現実に脅威として出現している時代に、その「現在」とはまるでかけ離れたことにやたらに関心がある。あらためて恐竜絶滅に興味をもったのも、私の「現実逃避」(エスケーピズム)かも。

 恐竜が絶滅したのは、メキシコのユカタン半島に巨大な隕石が落下したことが原因という説を実証したのは、世界12カ国の研究機関の研究チームで、日本からは東北大学のチームが参加していた。これだけで、東北大学を尊敬するようになった。
 この研究は、地質学、古生物学、惑星科学といった分野で細分化されていた議論を集約したものだった。
 このチームの計算では――直径約10〜15キロの隕石が、秒速20キロのスピードでユカタン半島の地表に激突した。そのエネルギーは、ヒロシマ型の原爆の約10億倍。
 
 この衝突で大気中に塵埃が拡散した。太陽光が遮断され、食物が減少して、恐竜も絶滅した、という。
 これは、2010年3月5日に報じられている。

 わずか、数年前まで、メキシコの火山噴火原因説は、火山活動が弱かったことから、影響は少ないとされていた(はず)である。
 ところが今回の研究では――巨大隕石の衝突にくわえて、インドで大規模な火山の噴火が発生したことが、恐竜絶滅の遠因という。

 笑った。話がたった5万年だからねえ。

2021/05/03(Mon)  1903
 
 たしか、以前にブログに書いたはずだが、しばらく前に、恐竜絶滅という天変地異についてあたらしい仮説があらわれた。こういうニューズが好きなので、お浚いしておく。

 約6550万年前。

 白亜紀を最後に、恐竜は絶滅したという。メキシコのユカタン半島に、巨大な隕石が落下した。その衝撃から、さまざまな天変地異が起きて、あえなく恐竜は絶滅したらしい。
 この巨大隕石の衝突にくわえて、大規模な火山の噴火がインドで発生したため、恐竜が絶滅したという。アメリカのUCCなどの国際研究チームが発表した。(2015.10.29.)

 こういうニューズが好きなのである。

 このチームは、インド西部の地層などを詳細に分析した。その結果、巨大隕石の衝突後の5万年以内に、大規模な火山の噴火が起きたという。
 この噴火による火山灰の噴出量は、毎年、東京ドーム約700個分の、9億立方メートル。この噴火は、数十万年にわたってつづいた可能性がある、とか。

 国際研究チームは――隕石衝突と大規模な火山の噴火の年代が近いので、どちらが恐竜の絶滅のおもな原因になったのか、判定はむずかしい、という見解をしめした。

 なにしろ6600万年も昔の話で、しかも隕石衝突と火山の噴火の年代差が「たった」5万年というのだから、思わず笑ってしまった。いいなあ。たった5万年かあ。

2021/05/01(Sat)  1902
 
 最近、ジュリエット・グレコについて書いたせいで、若い頃、よくシャンソンを聞いていたことを思い出した。

 ところが、シャンソンを聞いていたことは思い出したが、自分が好きだったシャンソニエの名前も曲名も忘れている。思い出そうとしても出てこない。愕然とした。いや、悄然とした。竦然としたといったほうがいい。
 いくらボケがひどくなっているにしても、こうまでひどくなったとは。
 
 そこで私なりの脳の活性化。

 たとえば、作家、アンドレ・ジッドが亡くなったとき、その10日前、パリ、ピガールの安ホテルで、ひとり孤独な死を迎えた女がいる。フレェル。1891年7月、パリ生まれ。ジュヴェより4歳下。わずか5歳のときからシャンソンを歌いはじめる。カフ・コン(酒場で歌う芸人)からミュージック・ホールへ。酒と色恋沙汰にいろどられた人生は、エディト・ピアフやシュジー・ドレールと変わらない。

 美貌のシャンソン歌手として人気があったが、大スターだったミスタンゲットに「恋人」のモーリス・シュヴァリエを奪われ、その痛手から恢復できず、酒に溺れ、声を失って、戦後の混乱のなかで亡くなった一人の女。
 最後のシャンソンは、いみじくも「恋人たちはどこに行ったのかしら」(Où sont tous mes amants ?(1936年)だった。自分のシャンソン「疲れたひと」さながらアルコールに溺れ、落魄したフレェルは、自分の歌った「スズメのように」(1931年)のように、しがない人生を生きる。落魄もまた、ある芸術家にとって最後のぎりぎりの表現なのだ。       「ルイ・ジュヴェとその時代」第6部/p.621

 そのフレェルのシャンソンを思い出そうとしても思い出せない。

 ほかのシャンソニエたちの歌も忘れている。エディト・ピアフはどうだろう。
 「愛の讃歌」、「バラ色の人生」、「パダン・パダン」は思い出せるが、「私の回転木馬」や「水に流して」などは忘れている。

 ダミア。モーリス・シュヴァリエ。ほとんど、おぼえていない。

 イヴ・モンタンは? 「枯れ葉」はおぼえているが、「毛皮のマリー」、「セーヌの花」は思い出せないなあ。「ガレリアン」は? 

 ダニエル・ダリューの「ラストダンスは私に」はおぼえている。しかし、ジルベール・ベコー、ティノ・ロッシ、シャルル・トレネ、イヴェット・ジロー。さあ、困った。

 リュシエンヌ・ボワイエの「聞かせてよ愛の歌を」を思い出した。

 「パリの屋根の下」、「パリの空の下」は、少しだけ思い出した。ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエの映画を何度も見たので。
 そのうちに、「望郷」を見ることにしよう。アルジェ。迷路のような階段の町に逃げ込んだ「ペペ・ル・モコ」に、自分のレコードで自分のシャンソンを聞かせる初老の女がフレェル。

 マリアンヌ・フェイスフル。いつだったか、宮 林太郎さんが贈ってくれたっけ。
 パリが好きだった宮 林太郎さんが、あまりパリを知らない私を心配して、マリアンヌを聞きなさいといってくれたものだった。

 フレエルの「青いジャバ」をかすかに思い出した。

 しばらく考えているうちに、自分でも意外だったのは、はじめておぼえたシャンソンが、ティノ・ロッシの「マリネラ」だったこと。小学校3年の頃だった。
 
 もう誰も知らないシャンソンを聞く。
 シャンソンは時代・風俗を反映するが、それが歌われている時代・風俗に影響をおよぼす。そして、その時代が去ってしまえば、そのシャンソンを歌った人たちも消えてしまう。作詞の語感も、曲の音感も、時代とともに推移する。今、ジャン・サブロンの「パリはちっとも変わっていない」や、シュヴァリエの「パリは永遠に」を聞いたら、おそらく誰でもパリは「すっかり変わってしまった」とか「パリは永遠のパリではなくなった」という感想をもつだろう。
 しかし、同時に、もの書きとしての私は、ある時期に、いつもちょうどいい程度のポップスやシャンソンを聞いてきたような気がする。

 せめて、ゲンズブールとジェーン・バーキンを聞こうか。「ジュ・テーム・ノン・プリュ」を。いつだったか、翻訳家の神崎 朗子さんが贈ってくれたCD。

2021/04/18(Sun)  1901【向田邦子3】
 
 向田 邦子について書いたエッセイは、「阿修羅のごとく」公演パンフレット(「芸術座」/平成16年7月)に掲載された。
 私は、頼まれれば何でも書くことにしていたので、映画のパンフレット、劇場のパンフレットに原稿を書くことも多かった。向田 邦子について書いたエッセイも、芝居のパンフレットに書いた。当然ながら少数の人が読んだだけで、私の周囲の知人、友人も、こんなエッセイを読むことはなかったはずである。

 「阿修羅のごとく」は、いい意味で日本のブールヴァール芝居と呼んでいいだろう。このまま、外国語に訳されて外国の劇場で上演されても観客に理解されると思う。少なくとも、日本の「戦後」屈指の風俗劇として関心をもたれるだろう。ただし、この場合は、サン・フランシスコあたりの劇場から出発しなければならないだろうけれど。
 これが、もし練達の脚本家が、向田 邦子の原作に近いかたちで翻案して、その国のすぐれた女優たちを起用すれば、オフ・ブロードウェイの劇場で上演してもかならずヒットすると思われる。

 ただし、その「翻案」でも、向田 邦子の「阿修羅のごとく」というタイトルは、すんなり受け入れられるとは思われないが。

 私が、日本の「戦後」屈指の風俗劇と呼ぶのは、芝居として見た場合、「三婆」、「遊女夕霧」、「放浪記」、あるいは、谷崎 潤一郎原作の「細雪」などよりもずっと高級な芝居になっているからである。(小説については、まったく別だが。)

 これまた、私の「妄想」なのだが。

 「阿修羅のごとく」を見たときの印象ももはや薄れかけているが、中村メイコが母親役で、山本 陽子、中田 喜子、秋本 奈緒美、藤谷 美紀が四人姉妹で、それぞれの修羅をユーモアとぺーソスで押しつつんだ良質のブールヴァール・コメディだった。

 私の印象では、長女役の山本 陽子は、自分の美貌をあまりにも恃み過ぎて、女優としての危機に気がついていないように思った。
 夫の浮気を疑っている次女役の中田 喜子に注目した。その後、テレンス・ラティガンの芝居など、中田 喜子の舞台を何度か見つづけたが、やはりラティガンには向かない。女優としてのディグニティーがない。惜しいかな、これであたら名女優になれるチャンスを見逃したな、という気がした。
 秋本 奈緒美と藤谷 美紀はこれからの人という感じだったが、藤谷 美紀ならさしづめウェデキントの「パンドラの箱」か、秋本 奈緒美ならラビッシュの「イタリアの麦ワラ帽子」あたり、みっちり稽古すればすぐれた女優になれるだろう、と思った。
 舞台を見ながらそんなことを考えたことを思い出す。むろん、これもまた、私の「妄想」だったが。

 当時、まさか向田 邦子について何か書く機会がある、とは思っていなかった。私の書くものとは、およそミリューが違っていた。ただし、向田 邦子に関心がなかったわけではない。「日本きゃらばん」の庄司 肇さんが「向田 邦子論」のようなものを書いていたので、向田 邦子の著書はひとわたり読んでいた。

 コロナ・ウイルスで、外出も自粛していた時期、雑誌や、自分の原稿などを整理したのだが、たまたま「阿修羅のごとく」の公演パンフレットが出てきた。

 私のエッセイはそれなりにまじめに書いていると思う。劇場の観客向けに、できるだけわかりやすく書いていることがわかる。私のエッセイを読んで、「阿修羅のごとく」の印象が、やさしく、しかもいきいきとしたものになればいい。おそらく、そんなつもりで書いたらしい。

 このエッセイを依頼してきたのは、当時「東宝」の演劇部にいた谷田 尚子だった。現在の谷田 尚子は、ある有名な俳優のエージェントになっているが、彼女のおかげで、いろいろな舞台を見ることができた。

 タイトル、「庶民の哀歓を描いた作家〜向田 邦子」は、私がつけたものではない。
 谷田 尚子がつけてくれたものだろう。
     
 あらためて、谷田さんに感謝している。

 向田 邦子には一度だけ会ったことがある。井上 一夫(翻訳家)が紹介してくれたのだった。まだ、森繁 久弥のラジオコラムも書いていなかった頃だろう。つまり、まだ無名の向田 邦子に会っていることになる。
 すぐにその才気煥発に驚かされた。
 そのあと手紙をもらった。綺麗な字に彼女のまれに見る才気を見た。

 残念ながら、その手紙は残っていない。

2021/04/11(Sun)  1900 【向田邦子2】
 
 彼女が登場したのは――まだ戦争の記憶もなまなましい時代、一方で、朝鮮戦争があって、日本が不安な気分に見舞われていたころ。無名の向田 邦子は森繁 久弥のラジオコラム「重役読本」のレギュラー・ライターになりました。このコラムはなんと二千数百回もつづいています。
 音だけの世界で、聴取者たちにおもしろい話題を聞かせる。語り口のおもしろさに興味を感じさせなければならない。こうした修行が、後年の向田 邦子の素地を作ったといっていいでしょう。
 やがてテレビの脚本家として有名になります。
 とりあげられる話題は、ほとんどが人生のささやかなことばかりでした。
 向田 邦子は、こうしてポピュリスム(庶民派)の作家として頭角をあらわしてゆきます。「七人の孫」(昭和37年)で、たちまちお茶の間の人気をさらった。今でも「きんきらきん」や「寺内貫太郎一家」などを、なつかしく記憶している人は多いでしょう。
 そこでくりひろげられる人間模様は、どこにでもいるような平凡な家族の、とりとめのない話ばかりでした。しかし、向田 邦子のさりげない細密描写には、いつも視聴者の胸をうつものがあった。心のうるおい。その生きかたのやさしさと深さ。庶民だからこそ共感できる感動があったのです。
 当時はホームドラマとよばれていました。
 向田 邦子の作品には「時間ですよ」、「だいこんの花」、「あ・うん」など、ホームドラマの名作がずらりと並んでいます。
 「阿修羅のごとく」(昭和55年)は、まさに、テレビ作家から小説家に変身しようとしていた向田 邦子らしい作品でした。このドラマあたりから向田 邦子は作家になって「おもいでトランプ」の連作、「花の名前」、「かわうそ」、「犬小屋」の三作で直木賞を受けたのでした。

 「阿修羅のごとく」がテレビで放映されたとき、それぞれの回数タイトルが、「女正月」、「三度豆」、「虞美人草」、「花いくさ」、「裏鬼門」、「じゃらん」、「お多福」といったものでしたが、なぜか、向田 邦子の人生観を反映していました。それは、愚かで、かなしい人間たちが、それゆえに、いとおしい、やさしさにみちた存在だったからでしょう。
 映画監督の小津安二郎が小市民の生活をいきいきと描きつづけたのとにていますが、やはりどこか違います。小津安二郎は、生涯を通じて、老境にさしかかった夫婦や、父と娘の関係を描きつづけましたが、向田 邦子の描く世界は、もっと修羅にみちた、しかし、どこか純粋にドラマティックな世界だったといえるでしょう。

 テレビの脚本だけではなく、小説家として多忙をきわめていた向田 邦子は、新しい作品のための取材に出かけるつもりでした。その構想は、台湾を皮切りに、韓国、中国、インド、さらには南フランスを旅行して、それぞれ旅行記を書く。6冊になる予定だったようです。いってみれば、あたらしいルポルタージュを書こうとしていたのでした。
 昭和58年8月22日、台北から高雄に向けて飛びたった台湾/遠東航空のボーイング・ジェットが、午前10時10分、台北南西で墜落しました。日本人乗客18人が含まれていましたが、そのなかに向田 邦子が乗り合わせていたのです。

 翌日の新聞各紙はいっせいにこのニューズをトップで報じましたが、「毎日」だけはニューズを落としています。日曜日だったので、台湾の航空機の事故などに注目しなかったのでしょう。向田 邦子が遭難したことにさえまるで気がつかなかったようです。「毎日」は翌日になってからやっと報道しています。
 ところが、向田 邦子の悲報に私たちはおおきなショックに打たれました。
 当時、向田 邦子の本は、「父の詫び状」、「あ・うん」、「無名仮名人物」、「思い出トランプ」、「眠る盃」、わずか5冊だけでしたが、たちまち売り切れて、出版社はいくら増刷しても足りないほどでした。たいへんな人気作家だっただけに、書店に立ち寄って著書を買い求める人が多かったのです。
 こういう現象は、三島 由紀夫が自殺した昭和45年秋いらいのことでした。

 最後の作品を書きあげる前の向田 邦子は乳ガンの手術をうけたあとでした。「死ぬ」という字が、その字だけ特別な活字に見える、といった毎日だったといいます。ガンには打ち勝ったが、旅客機の事故でなくなった。無意識に死を覚悟していたのかも知れません。
 短編集「父の詫び状」のなかで、「誰に宛てるともつかない、のんきな遺言状を書いて置こうかな、という気持もどこかにあった」と向田 邦子は書いていました。なぜか、自分が死ぬことを予感していたのかもしれません。
 読者たちは、誰しも、そんなことを考えあわせて、めいめいがこの作家の悲運を心から悼んだのでした。

 私は向田 邦子の作品を読むとき、ときどき自分で声に出して読みます。短編でもエッセイでも。
 「男どき女どき」のエッセイなどは、活字を追うだけでもほんの二、三分で読めます。しかし、声に出してみると、この作家の心の動き、息づかいまで感じられるのです。
 みなさんも、できればほんの一節でいいから音読したほうがいい。自分で口に出して読んでみることです。ドラマのナレーターをやった岸本 加世子や、佐野 量子のように上手に朗読できなくてもいいのです。とにかく自分流に声に出してみる。そうすれば、そのシーンのみごとさが納得できるはずです。
 声に出して読んでみると向田 邦子の描き出す人物の心の動きまで、自分にひきつけてわかってきます。
 上手に朗読出来る人は、自分がまるで女優さんになったような気持になれるでしょう。こういう作家はやはりめずらしいのではないでしょうか。
 そういう意味でも向田 邦子はすばらしい作家でした。

2021/04/04(Sun)  1899【向田邦子1】
 
 向田 邦子について。短いエッセイを書いたことがある。
 タイトルは、「庶民の哀歓を描いた作家〜向田 邦子」。ただし、このタイトルは、私がつけたものではない。
 以下、私のエッセイを載せておく。

   向田 邦子  

 向田 邦子はすばらしい作家でした。短編作家としても、チェホフや、モーパッサン、キランドといった作家に負けないほどうまい作家です。
 どういう短編でも、なんでもない描写のなかに、じつにみごとな冴えを、見せていました。たとえば――

  「こんなにつまらないお皿ひとつでもいろいろあってねえ。なかなか思い切って捨てられないものなのよ」
  テーブルの上のお皿をとりあげて、
  「ね、あんた、これ、覚えてる?」
  男は黙っています。
  「世田谷の……若林に住んでいた頃よ、縁日に行って、けんかして……ホラ……あのとき、夜店で値切った……」
  男は、チッと舌打ちをします。
  「何をつまらないことを……」
  「ほんと、どうしてあたしって、こうつまらないことしきゃ言えないのかしら」
                             「きんぎょの夢」

 これだけで、男と女の姿ばかりか、女の性格や内面までくっきりとみえてきます。

 また別の短編では、結婚をひかえている二十四歳の女が、新婚旅行の打ち合わせに、残業をしている婚約者「達夫」のところを訪れます。おなじように残業をしている同僚の「波多野」が突然にいいます。

  「女は立派だなあ」
  笑おうとしているらしいが、口許はひきつっている。
  「知ってて知らん顔できるんだから」
  彼女は、親友にこの話をします。親友が聞き返します。
  「若しその人が、ぼくと結婚して下さいと言ったらどうする」
  「気持はうれしいけど断るわね。当たり前でしょ」 
  「三角波」   

 すぐにも結婚をひかえた若い娘の微妙な心理、その内面の揺れが、何も説明されていないのにじんわりとつたわってきます。
 このシーンだけでも声に出して読んでみると、それぞれの登場人物の表情や、姿勢、位置まで見えてくるようです。こうした心理的なレアリスムが向田作品の魅力ではないでしょうか。

 向田 邦子はほんとうに才気煥発な作家でした。卓抜なエッセイストであり、作家でもあった。

2021/03/31(Wed)  1898
 
2020年8月20日、ロシアの反政権運動のリーダー、アレクセイ・ナワリヌイは、西シベリア、トムスクの空港で、ティーを飲んだあと、空路、モスクワに向かったが、機内で体調が急変した。ただちにオムスクの病院に搬送されたが、重体。
 オムスクの病院は、「毒物の痕跡はない」と発表した。22日、ナワリヌイは、ドイツ、ベルリンの病院に移送された。24日、ベルリンの病院側は「毒物使用「を疑わせる物質を検出したと発表。
 9月2日、ドイツのメルケル首相は、ドイツ連邦軍の研究所の検査の結果、ノビチョク系の毒物が使用されたと断定。
 ロシア側は、例によってこれを否定。

 8月28日。
 安倍 晋三首相が、健康上の理由で辞任の意向を表明した。突然のことで、政界に大きな衝撃が走った。これから各派閥の後継者指名が問題になる。

 誰にも会わない日々。

 気になるニュース。昨年の出生数、86万5千人。過去、最低。これまで、年平均、約1万人ずつ減少し昨年は約5・3万人も減少した。原因の一つは、20代、30代の年齢層の女性が急激に減少しているため。社会保障・人口問題研究所の試算によれば、10年後には、出生数は70万人台になる。これも、亡国現象の一つ。

 菅首相は就任後、最初の記者会見で少子化対策に力を入れると語ったが、どうせたいした対策も立てられないだろう。私が首相だったら、不妊治療などよりもまずシングル・マザーの奨励、社会的な保護、援助を実行するのだが。(笑)

映画「グラスハウス」2001年)を見た。両親を自動車事故で失ったため、セレブの里親に引き取られ美少女(リリイ・ソビエスキ)と幼い弟。彼女は、男親が勤務先の会社の金を横領したため、誰かに脅迫されていることに気がつく。亡くなった両親の遺産は400万ドル。莫大な遺産管理をめぐって自分の身辺に危険が迫っている。雨の闇夜、彼女は弟をつれて、養家から逃走をはかる。
 ハリウッド映画のB級スリラー・ミステリー。リリイ・ソビエスキは、美少女。里親の夫婦。妻はもとは医師だったが、夫の悪事に手を貸したため、薬物におぼれ、急死する。
 この母親をダイアン・レインがやっている。かつての美少女、ダイアン・レインは、やがて演技派の女優に転身するが、途中でこんなつまらないステリーに出ている。
 美少女、リリイ・ソビエスキは消えてしまった。うたた感慨なきにしもあらず。
 
TVニュース。女優、竹内 結子が自殺した。いい女優だったのに、自殺しなければならないほど煩悶していたのか。ちょうど、東山 千栄子のことをブログで書きはじめたところだったので、竹内 結子の訃報を知って暗然たる思いがあった。

 20年9月29日。

 朝、田栗 美奈子に電話。
 思いがけない返事があった。母上が、今朝の未明に亡くなられたという。声を失った。

 弔電。配達は、明日、午前中。

    白菊や みな忘れえぬことばかり  

2021/03/14(Sun)  1897
 
 私は、あい変わらずキャサリン・マクフィーのファンである。ただし、キャサリンは、日本ではほとんど知られていない。残念ながら、このまま知られずに終わるかも知れない。
 キャサリン・マクフィーはTVミュージカル、「SMASH」に主演して、「マリリン・モンロー」を演じた女優。このときから彼女に注目してきた。

 たとえば、「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」というジャズ・クラシックがある。
 タイトルは「惚れっぽい私」と訳されていて、それなりにいい訳だと思う。

 ジャズ・スタンダードだが、ふつうのシンガーが歌うと、いかにも「惚れっぽい私」といった蓮っぱな女の、けだるい、安っぽい女の歌になる。

 キース・ジャレットがこの曲を演奏すると、そうしたいじましさが消えて、なんともいえない優雅さがあらわれて、しかも、「ついムキになるのよね、私って」とつぶやくようなおんなのあやしいムードが立ちこめてくる。

 キース・ジャレットの「スタンダーズ」に選ばれている「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」を、たまたまキャサリン・マクフィーが歌っている。

 キャサリンを聞いたとき、おや、これは、と思った。

 これを聞きながら、現実に恋多き女、キャサリン・マクフィーの人生を重ねてしまうのだが、しかし、キャサリンの「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」は、キースの演奏に劣らない魅力があふれている。このことは、現在のキャサリンが、ついに「スタンダード」を歌う段階に達したことを意味する。

 キャサリンの前作、「ヒステリア」のラテン・テイストに、つい失望したことも影響している。

 このアルバムを聞いたとき、キャサリンも、人並みにスタンダードを歌うようになったのか、という感慨があった。少し落ち目になったミュージシャンが、人気回復のために安易にスタンダードを取り上げ、簡単にCDをリリースすることが多い。
 しかし、この「アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー」は、キャサリンの場合、ジャズ・クラシックへの回帰が、そのまま、自分の「現在」を見つめることにつながっている。
 あえていえば、女優として、ミュージシャンとして、さまざまに模索を繰り返してきたキャサリンが、いまや、スタンダードを歌うグレードに達している。    

 スタンダードを歌うのは、それなりにグレードの高い、品格の高いミュージシャンにしか許されないのだ。
 私の考えは間違っているだろうか。

2021/03/07(Sun)  1896

 コロナ・ウイルスで、外出も自粛していた時期、私は、ほとんど読書しなかった。理由はある。外出自粛で新刊書も買えなかったからである。それに、私の親しい友人たちの本が出版されなくなった。

 仕方がない。前に読んだ本を見つけて読み返そう。

 そうして読んだ本のなかに、あらためて感銘を受けた評伝がいくつかあった。

 その一冊は、第一次世界大戦後のロシア革命と、その後のソヴィエト、ヨーロッパの裏面史を彩ったロシア貴族の女性の評伝だった。1981年出版。非常に優れた評伝で、日本では、1987年に翻訳が出版された。翻訳も信頼できるものだった。

 訳者は、あとがきで、

    私事で恐縮だが、大きな関心をもつ時代の歴史の裏側に埋もれていた興味ある事
    実が次々に明らかにされるので、私はこのしごとを実に楽しく進めることができ
    た。この興味を広くみなさんと分ちあいたい思いでいっぱいである。
    なお調べが十分でなかったところもあるので、人名や地名の誤記については御教
    示を仰ぎたい。

 という。

 この翻訳を読みながら、人名の誤記の多さに驚いた。

    ル・サロメ                 ルー 
    クリストファー・イシェルウッド       イシャーウッド 
    マルガリータ・ゴーチェ           マルグリート  
    バークレイ・ド・トーリ           バルクレイ
    ボルジノ                  ボロジノ
    アルトゥール・ランソン           アーサー
    アルバート・トマ              アルベール
    セオドル・ルーズヴェルト          シアドー
    バジル・ザハロフ              ベイジル
    ラルッサ                  ラルース 
    クロード・ファーラー            ファーレル

 これで、半分。
 私の記憶がおかしいのかも知れないが、原文が「ル・サロメ」とあっても、私なら「ルー・アンドレアス・サロメ」とするだろう。
 クリストファー・イシェルウッドは「クリストファー・イシャーウッド」とする。

 せっかくいい訳なのに、私の知っている人名が違っていると、どうしてもひっかかる。
 この訳者はクロード・ファーレルの「海戦」を読んだことがないにしても、デュマ・フィスの「椿姫」も読んだことがないらしい。
 
 「百科事典」のラルッサには驚かされた。
 
 ドロップを舐めていて、ガリッと、砂利を噛んだような気分になる。

2021/02/28(Sun)  1895
 
 (つづき)
 宿帳に書いてくれた人たちの中には、のちに作家になったひと、翻訳家になったひと、残念なことに早世したひと、いろいろだが、今になってみると、それぞれ違った運命をひたむきに生きたといえるだろう。

 なぜ一冊のノートにこんなものを書かせたのか。その目的はすでに述べたが、もっと違った理由もある。

 翻訳家をめざす人たちは、当然ながら、外国語ができる。しかも、翻訳家を目指して勉強する意欲をもっている。外国語を理解して翻訳するということは誰にも許されることではない。つまり、それだけでも有用な資質だろう。

 私は、この人たちにさまざまなジャンルの作品を読ませた。

 純文学はもとより、ミステリー、ホラー、SF、ロマンス小説、ときにはポーノグラフィックな作品まで。フィクションを翻訳したいと希望する人でも、ノン・フィクションなどに取り組むことで、プロになる機会をつかむことが多い。

 だいたい3週間〜4週間で、一つのジャンルの短編を読むことにしていた。なるべく多様なジャンルの作品を読み、自分の「現在」の語学力で訳すことが新人の訳者には必要と考えたからである。大学の英文科、とくに女子大の英文科で、一流作家の作品を読んできたからといって、「ニューヨーカー」スタイルの短編を訳せるとはかぎらない。
 おなじように、フォークナーを読んできたからといって、ダウン・イーストの喜劇的なヤンキーの伝統を描いた作品をうまく訳せるだろうか。

 私以外の先生たちは、いずれも有名な教育者ばかりで、その講義もすぐれたものだったと思われる。ただし、その先生がたが教えたことは、ご自分が専門とするすぐれた作家の作品をテキストにして、講読を行うことに尽きていた。ある優れた先生は、ご専門のポオの作品をとりあげて、ポオの解釈を教えつづけられた。

 私は、こうした講義に危惧をもっていた。それぞれのクラスの大半が出身大学のクラスでそういう講義を受けてきているだろう。私のクラスにしても、大半の受講者は女性だったが、大学の教室で、ブロンテ姉妹や、ディッケンズ、ブラウニングあたりから、レベッカ・ウェスト、カーソン・マッカラーズなどを読んでいる。なかにはイタリア・ルネサンスに関する専門的な本を読んでいて、私に著作を批判した才女もいた。
 語学力のレベルだけでいえば、私のクラスの人たちは一流大学の学生以上のハイ・レベルだったといってよい。

 しかし、女子大の英文科を優秀な成績で卒業したからといって、そのまますぐに翻訳家になれるだろうか。どこの出版社が、彼女の翻訳書を出してくれるだろうか。

 私のクラスの生徒たちは、だいたいが語学的に優秀な人が多かった。しかし、実際に翻訳したものを拝見すると、それは女子大の優等生の翻訳に過ぎない程度のものが多かった。
 私は、そういう訳をいつも「女子大優等生の翻訳」として褒めることにしていた。むろん、半分は皮肉で。

 私の「宿帳」に書かれた字をみただけで、私はかなりの程度まで、その人の才能や、文学的な適応性、志向とか、好みまでわかる。これに関しては、かなり自信をもっている。
 字の上手へたではない。
 その人の精神上の事像を、そのなかに含めて文学的なプロダクティヴィテイー、さらには外国の小説、エッセイを読むことで、どこまで自分のクリエーティヴな天分がひらめいているか。
 わずかな記述からも、その人の思考の明確さ、かなりの炯眼、透徹が見てとれる。

 じつは、ある時期まで、ある劇団の俳優養成所で、若い俳優、女優志望者たちを相手に講義や演出をつづけてきた経験が役に立ったのかも知れない。

 若い人の才能をいち早く発見して、育てる、その才能を誘掖することは、ただの教育の域を越えている。

2021/02/21(Sun)  1894
 
 たいせつな宝物がある。「宿帳」という。ただし、私がいうのではない。
 私のクラスに集まった、若い、優秀な女人たちがひそかに「宿帳」と呼んでいた。

 ほとんど半世紀、一冊のノートを持ち歩いていた。当時、私は、東京の大学と相模原の女子大の先生をやっていたが、もう一つ、東京は神田にあった翻訳家養成を目的とする学校の講師をつとめていた。

 神田の翻訳学校、私のクラスでは授業の最初の日にノートをさし出して、自分の氏名と、一行でもいいから何か書くことを「義務」とすることにしていた。

 自分のクラスの生徒にいきなり「義務」を強制する先生はいないだろうと思う。たいていの生徒は驚いて、拒否反応を見せるのがつねだった。

 ノートをスルーする生徒もいたが、それでも、これが教育者(エデュカテュール)としての私の「訓練」と判断して、しぶしぶながら私の要望に応えてくれる人もいた。

 ほとんどの生徒たちは、一行から数行、何か書く。自分の名前をサインして、ノートを隣りの生徒にまわすのが習慣になった。

 じつはこのノートには私なりの目的があった。できるだけ早く出席者の名前をおぼえること。
 あわせてその筆跡をみて、その「生徒」の文学的な資質、ひいては性格や、適性、志向性などを判断すること。
 あえていえば筆跡学のようなものでもあった。

 手もとにある1冊をここにとりあげてみよう。ただし、筆者に無断で。

    ジャーマン・ベーカリーで かもめのお話をしました。
    ’小説の解釈、劇の解釈は自由である’という言葉の重さを
    考えたく思います。(R.K.)                             

 「かもめ」は、むろん、チェーホフのドラマ。何を話したのか内容はおぼえてもいない。

 おそらくチェーホフの戯曲が話題になったのだろう。
 このノートでは、タイトルにカギかっこがついていない。このことから、私は何を読んだのか。
 ノートのはじめのぺージにこれを書いてくれたR.K.さんは、のちに評判になるTVシリーズのノベライズを手がけたり、有名な人形劇団で演出助手をつとめたりする。
 優秀な劇作家になった。

    第一章をお渡ししてしまいました。
    書いているというか(ワープロを)打っていると、ああ、早く終わらないか……
    と今から思ってしまいます。 (M.N.) 

    最近、大学時代の先生のお宅にお邪魔を致しました。79才にして、ピアノのお
    稽古を始められ、震える指でシューベルトをきかせて頂き、私も生きる勇気がわ
    いて参りました。 (T.T.)

    このお店はいつもお客様がいませんねえ。
    お仕事、頑張ってください。 (I.O.)

    地方にいるころ、こんな先生に教えてもらえたら、と思っていた、その「先生」
    に、現実にお目にかかることができ、本当に夢みたいです。 (F.U.)
                          
    今朝4時に起きて、机に向かいました。苦しんでいた原稿の導入部が決まり産道
    がひらけました。
    今は朝から小雨。昨年5月から続いた講義「ルネサンスを生きた女性たち」の最
    終日。お忙しいなかを本当にありがとうございました。 (N.T.)

    山ノ上ホテルは、学校の先生のおめでたい結婚式でにぎわっております。
    先生をからかう生徒の笑顔。眼鏡の奥の、先生の幸福な瞳。
    春を感じるひとときです。(F.U.)

    いつもお世話になるばかりで心苦しくおもっています。
    これからもどうぞよろしくおねがいします。 (Y.K.)

    皮肉で楽しい御講義は、私の人生のたのしみです。末永くよろしく。(H.K)
                                       
    成瀬 己喜男、観ました。
    「メトロポリス」、観ました。
    川島 雄三の「接吻泥棒」、観ました。
    映画を観ているのが一番しいあわせ。 (M.N.)

    いつも冷や汗をかいています。
    自分の力のなさをいつもみせつけられ、素晴らしい刺激をうける毎週金曜日です。
    これからもどうぞお見捨てなく。(R.M.)

    翻訳の入口で迷っている私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。(F.I.)
 
    もう4月だというのに、寒くて嫌なお天気です。
    ひどいかぜをひいてしまいました。どうもさえない毎日です。
    頭、スッキリ、気分、スッキリして新たに出発したいものです。
    4月に入ったらすぐ私の本がでるのですね。だからといって、何も変わることは
    ないし、はっきりいって自分が小説家といえるとは、まだ思っていません。
    これをひとつの区切りにして気分一新してがんばろうと思うのです。(I.O)

 これは「宿帳」の最初から数ぺージの引用である。名前は伏せた。

 あえていえば、この「宿帳」は私の日記の代用品であった。私のノートは、いつごろからか「宿帳」と呼ばれることになった。
   (つづく)

2021/02/14(Sun)  1893
 
 コロナ・ウイルスがようやく艾安(がいあん)に向かいはじめた頃、ふと心をかすめる詩の一節があった。

     獨往 路難盡   どくおう みち 尽きがたく
     窮陰 人易傷   きゅういん 人は いたみやすし 

 唐の詩人、崔 署(さいしょ)詩の一節。以下、拙訳。

     一人旅する よるべなさ 
     冬も終わるか 心身にしみる寒さよ

 崔 署(さいしょ)については何も知らない。

 たいして才能もないままにもの書きを志した蒙鈍(もうどん)の身にして、そろそろ決着がついてもおかしくない頃合い。おまけにコロナ・ウイルスなどという不吉な災いが時代を覆いつくしているとなれば、崔 署の思いがおのずから重なってきてもさして不思議ではない。

2021/02/07(Sun)  1892
 
 男と女。
 
 いろいろなことばがある。

   ブロンドの女の汗は、おれたちの汗とは違うのだ。
                  ゴア・ヴィダル 1978年 

   純潔(貞淑)は、性的倒錯のもっとも不自然なもの。
                  オルダス・ハクスリー 1973年

   女たちはたいていトラブルのもとだ。不感症だったりニンフォマニアだったり。
   スキゾだったり、アルコールにおぼれたり。どうかすると、その全部だったり。
   自分をきれいに包装した贈り物のように包んでみせる。ところが、中身は自家製
   の爆弾だったり、毒入りのケーキだったり。               
                   ロス・マクドナルド  

   日記をつけるのは、よき女である。わるい女にはそんな暇もない。
                    タルラ・バンクヘッド

   セックスは、ディナーをとるようなものさ。出されたご馳走をジョークにしたり、
   ときにはおニクを一所懸命パクついたり。
                    ウディ・アレン 1965年 

 コロナ・ウイルスのおかげで、ほとんど本を読まなくなっている。そのかわり、私は、こんなことばをかき集めるようになった。

2021/01/31(Sun)  1891
 
 作家の常盤 新平は、まだ無名の頃、私の家によく遊びにきた。
 私が結婚したばかりの頃、三日も四日も泊まっていたことがある。これは、彼の「遠いアメリカ」に出てくる。

 その常盤 新平は、やがて、早稲田に移り住むのだが、その前は、なんと埴谷 雄高さんの家の間借り人だった。
 埴谷さんは、いうまでもなく戦後文学を代表する作家だが、「戦後」すぐに「死霊」を書きはじめた。この頃は、まだ「死霊」第一部(1946〜48)の連載をはじめたばかりで、作家としては広く世に知られた存在ではなかった。
 後年、埴谷さんは、安保闘争を中心に展開された政治論、スターリン批判などで、若い世代に思想的な影響を与えることになるが、「戦後」まもない時期には、生活のため、自宅の一部を学生の下宿に貸していたに違いない。

 私は、常盤 新平が、埴谷 雄高さんの間借り人だったと知って驚いた。

 埴谷さんも、間借り人だった学生が、後年、直木賞をもらう作家になるなど想像もしていなかったに違いない。常盤 新平は、この時期の埴谷さんについて何も書いていないと思う。彼が、間借り人だった時期は半年ばかりだった。

 もう一つ。やはり、今となっては、私以外の誰も知らないことを思い出した。

 埴谷さんは、若い頃、左翼の機関紙「農民闘争」の編集をしたことが知られている。むろん、非合法活動もつづけていたが、治安維持法によって裁判を受け、一年半も服役した。出所後に、ドストエフスキーを読み、大きな影響を受けた。

 この時期、埴谷さんは、当局の監視下に置かれていたが、当局の尾行をふり切って逃げた。このとき、埴谷さんを助けたのは、長谷川 泰子だったという。

 長谷川 泰子といっても、もう誰も知らない。当時、若い詩人だった中原 中也の「恋人」だが、その女性を、親しい友人、小林 秀雄に奪われる。
 小林 秀雄は、やがて泰子から去る。というより逃亡する。中也は、今ひとたび自分のもとに戻ってくるように願うのだが、泰子はそれを拒否する。

 埴谷さんは、まさにそのとき、司直の追求をのがれようとして泰子に匿われたという。

 こんな話も、もう、その時代の暗さ、緊迫した空気が想像できなくなっている私たちには、ほとんど意味もわからなくなっているのだが。

2021/01/24(Sun)  1890
 
 メェ・ウエスト(1892年〜1980年)、女優。

 5歳でボードヴィルで初舞台。「ベイビー・ヴァンプとして知られた。1926年、ブロードウェイに進出、「SEX」という自作の戯曲を演出、上演。大スキャンダルを起こした。警察は、公然ワイセツの容疑で、10日間、拘束した。翌年、「ドラッグ」という芝居で同性愛を扱い、警察はブロードウェイ上演を禁止しようとした。

 美人ではない。しかし、もっともエロティックなスターのひとり。巨乳で、むっちりした肥りじし、いつも男の心胆をふるえあがらせるようなセリフを浴びせる。

 ハリウッドに移り、映画で強烈な存在感を見せはじめ、映画のセリフで、セックスや、恋愛について、するどい皮肉やジョークを連発して、検閲や、警察の取締りを揶揄したり、挑発した。セリフは全部、自分で書いた。シナリオも自分で書き直した。
 大不況の時代の空気を反映して、メェ・ウエストのセリフは、アメリカじゅうに流布して、大衆に支持された。「ヒトに見られながらヤルより、自分で見ながらヤルほうがずっといいわ」。
 「あたしの人生で男の数なんかどうでもいいのよ、あたしの男の人生であたしがどんだけってこと」。

 メェ・ウエストは、30年代のセックス・シンボルだった。と同時に、セックス・シンボルとしての自分をパロディして見せる。いまでも残っている名セリフは、「ねえ、いつかあたしントコにきてよ」 Come up and see me sometime など。

 1935年、メェ・ウエストはハリウッドで最高の出演料スターだった。

 「戦後」、自分の映画のキャリアーが終わったとみて、ハリウッドから引退。
 そのまま、ブロードウェイにもどり、ミュージカルの女王になった。出処進退を誤らなかった大スターのひとり。

 1962年、マリリン・モンローが亡くなったとき、メェ・ウエストがいった。

    女優というものは感じやすい楽器と思われている。アイザック・スターンは、自
    分のヴァイオリンを大切にあつかっているわ。みんなが寄ってたかって、そのヴ
    ァイオリンを足蹴にして、どうするのよ。

 メェ・ウエストが、後輩のセックス・シンボルの死を悼んだことば。

 「ねえ、あんた、あたしは独身だよ。そんなふうに生まれついてきたからね。結婚なんか考えもしなかった。だって、自分の趣味をあきらめなきゃならないもの。大好きな趣味って――男だからね。」(1979年)

 亡くなる1年前のことば。

2021/01/17(Sun)  1889
 
 暑い日がつづいていた。

 本を読む気になれない。暇つぶしに、短い格言めいたものを読むことにしよう。有名人のインタヴューから拾ったり、気になった片言隻句。

 たとえば、アルフレッド・ヒチコック。

    彼女たちは、ほんとうのレディに見える。なりゆき次第で、寝室ではタイガーに
    なる。ブロンドの女は、いざとなったらいともおしとやかにやってのける。
   
 私は、キム・ノヴァクや、ティッピィ・ヘドレンを思い出しながら、こんなことばを読む。ふたりとも、ヒチコックがきらいになって、映画から去って行った女優。

     娼婦はレディのように、レディは娼婦のようにあつかえ。 

 これはウィルソン・マイズナーのことば。(ヒチコックとは無関係だが。)

 ヒチコックの演出にはいつもそんな態度が感じられたっけ。

2021/01/10(Sun)  1888
 
 昨夏、女優のオリヴィア・デ・ハヴィランドが亡くなった。104歳。
 東京生まれ。ハリウッドきっての美女だったが、あまり関心がなかった。妹のジョーン・フォンテーンのほうが、もう少し知っている。そのジョーン・フォンテーンとは不仲で、お互いに女優になってから、義絶状態でほとんど交渉もなかったらしい。

 大正7年の新聞に、オリヴィア/ジョーンの母親のインタヴュー記事が載っていた。この女性も美人で、バレリーナ、音楽家だった。この記事を調べようと思ったが、コロナ・ウイルスの自粛で図書館にも入れないのであきらめた。

 「風と共に去りぬ」、「女相続人」も見なかった。

 1934年、女子大生の頃、マックス・ラインハルトの「真夏の夜の夢」で「ハーミア」の役に抜擢された。翌年、おなじ役でワーナーと契約。少女スターになった。(この映画に、ミッキー・ルーニーがいたずらっ児の妖精をやっている。)
 ごく普通の美人女優だったから、エロール・フリンの海賊映画のヒロインばかりやらされていた。
 「風と共に去りぬ」の「メラニー」をやって、ようやく大スターへの道を歩みはじめる。私たちがオリヴィアに注目したのは「戦後」の「蛇の穴」あたりから。日本で、あまり有名にならなかったのは、「戦後」イギリスの映画や、ヨーロッパ映画に出ることが多かったためだろう。

 妹のジョーン・フォンテーンのほうも、はじめはB級映画ばかりに出ていたが、「断崖」あたりから、演技力のしっかりした女優として知られた。おとなしい姉さんと違って、自家用機のパイロット、気球のチャンピオン、マグロ釣り、全米ゴルフ、室内装飾の専門家といった「外向的」な活動で知られた。
 
 この姉妹の仲のわるさはジャーナリズムの話題になったが、おそらく少女時代に両親が離婚したためではないか、と思う。
 家族の愛情などというものは、一種の形式的な義務のようなものだ。そんなものを無視してはじめて、そんなものがあることに気がつく。少女時代に両親が離婚したときから、オリヴィアは父に同情し、ジョーンは母親に親しみをおぼえるようになったのかも知れない。

 私は、残念ながら、オリヴィア・デ・ハヴィランドのような女優に関心がなかったし、ジョーン・フォンテーンにも女優としての魅力を感じなかった。ただ、オリヴィア・デ・ハヴィランドが、100歳を越える長寿をまっとうしたことに感動した。

2021/01/03(Sun)  1887

 デカルトのことば。

 コギト・エルゴ・スム。

 これは誰でも知っている。

 ヴァレリーは、これをいい変えた。

   ときに、私は考える。ゆえに、ときに私は在る、と。(「レオナルド・ダ・ヴィン
   チ」の補注)

 あの謹厳なヴァレリーが、まじめな顔をしてこんなことをいったのだろうか。ヴァレリーの真意をはかりかねたが、あとあと、思わず笑いだした。
 そのときから、デカルトのことばを思い出すと、いつもにやにやしたものだ。やっぱり、ヴァレリーはすごい。

 これを、「ときどき、私は考える。ゆえに、ときどき、私は在る」、と訳したらどうだろうか。

 今の私は、「たまには、私も考える。ゆえに、たまに、私は在るだろう」と考える。

 これを読んだ誰かが、あとあと、思い出してはにんまりしてくれるといいのだが。

2020/12/25(Fri)  1886 マルセル・マルソー 3
 
 私はすぐに教室にもどった。学生に本日の授業は中止して、フランスのマルセル・マルソーという役者の公演を「見学」に行く。希望者はこれから私といっしょにすぐに劇場にむかうこと。
 学生たちのなかには、そのまま帰ってしまったものもいた。
 こうして、私たちはゾロゾロそろって校外に出た。駿河台下から丸の内まで、歩いてもたいした距離ではない。まるで、小学校生徒の遠足のようにうきうきした気分で歩いて行った。

 予想した通り、劇場は――多目的ホールといった程度で、小規模のピアノ・リサイタル、あるいは、小編成の管弦楽団の公演などに使われる規模のものだった。

 キャパシティーは300。観客席はやっと三分の一程度、閑散とした雰囲気だった。

こんな小さなコヤも埋まらないのか。
 私たちが席についてから、しばらくして、女子大生らしい集団がやってきた。おそらく主催者側が、急遽、手配をしたらしい。劇場に華やかな雰囲気がひろがってきた。
 この劇場に近い大学、たとえば、共立女子大、文化学院あたりの教務課に連絡したものだろうと私は想像した。劇場は、開演5分前にほとんど埋まった。

 こうして、マルセル・マルソーを見たのだった。

 イタリア中世のコメディア・デッラルテ以来の伝統芸を身につけた創造的なマイム、ミミックリーだった。この日の私は、スタンダップ・コメディアンではなく、俳優のマイムという肉体表現がどれほど創造的であるかを見届けた。それは、まさにテアトラリザシォンの基本ともいうべきものだった。

 どちらが優れているか、という技術上の問題はさておいて、ジャン・ルイ・バローが、夫人、マドレーヌ・ルノーと、一緒に舞台の名優として知られているのに対して、マルセル・マルソーは、いつも単身、ひたすらマイムだけで、人間の残酷さ、冷たさ、おかしさ、笑いを描きだす。

 私はそれまで一度も見たことのない「芸」を見たのだった。

 チャプリンと、バローの、中間に立っている。フランスのエスプリ。
 チャーリーのようにすばらしい喜劇役者のもつ動きと、熱、すばやい反射作用、躍動するトーン。そのなかに、対象とする「ダビデ」と「ゴリアテ」のコントラスト。
 私は、その一つひとつに笑いながら、マルセル・マルソーが、笑っているわたくしたちに対する適度なシニスムを感じたのだった。マイムを演じることは、一瞬々々に、その瞬間の自分自身を発見すること。

 現在の大型サーフボードほどのボード1枚を立てるだけで、右に「ゴリアテ」、左に「ダビデ」。そのボードに身を隠す。つぎの一瞬に「ダビデ」と「ゴリアテ」が、マルソーの内部において置換する。まるで、吉原の幇間が見せる「芸」のようだ。

 しかも、マルソーの内部には、多数の登場人物がいる。
 カロの描く絵の女たち、クリシーやその近郊のパリ・ミュゼット。犬を散歩させるブルジョアの奥さん。カーパと短剣で牛に立ち向かってゆく闘牛士。

 私は、それまで一度も見たことのない「芸」を見たのだった。サイレント映画とおなじようにことばはない。しかし、まったく無言(ムエット)なのに、その「芸」は、はるかに雄弁だった。
 私は、マルセル・マルソーのマイムに感動した。  

 舞台が終わって、カーテンコールがつづく。
 マルソーは、声を出すことはない。しかし、アンコールもマイムで――東京での初日が成功に終わったことに、心からの感謝を表現していた。

 
観客は心からマルセル・マルソーに称賛の拍手を送った。マルセル・マルソー自身も、東京の初日が想像以上の成功裡に終わったことに感激していたと思う。何度も何度も、拍手にうながされて、最後には満面の笑顔で舞台ハナに出てきて、即興のマイムで観客に挨拶を送った。

 おそらくマルセル・マルソーは、東京の初日、無料で招待された観客がほとんどだったことは知らなかったに違いない。むろん、これは私の推量、忖度(そんたく)にすぎないが、主催者側は、前売りのチケットが売れず、思わぬ不入りをマルセル・マルソーに知られまいとして、いわばラスト・リゾートとして、劇場にちかい距離の大学をさがして、観客をかき集めるという苦肉の策に出たものだろう。

 当然、このことはマルセル・マルソーにも伏せたのではないかと思う。

 後年、ブロードウェイで毎晩のように芝居を見たが、しばしば劇場の前でティケットを売っている若い男女をみかけた。「フリンジ」(オフ・ブロードウェイ)の芝居で、自分たちも舞台に出ている役者たちだったのだろう。
 そういう光景を見たとき、私はマルセル・マルソーの東京初日を思い出した。

 その後のマルセル・マルソーは、日本でもひろく知られるようになって、二・三度、東京で公演している。私はチケットを買って見に行った。このときのマルセル・マルソーは、世界的に有名なマイム役者になっていた。いつも満員で、劇場が観客を無料で動員することもなかったはずである。

 マルセル・マルソーの東京初演のことなど、このブログで書かないほうがいいと思った。しかし、こうして書いておけば、「戦後」の私たちのフランス演劇に対する無知がいくらかでも想像できるかも知れない。
 私たちの「戦後」にこんな風景があったことも。

2020/12/23(Wed)  1885 マルセル・マルソー2
 
 ある時期から私は明治大学の文学部の講師をつとめていた。
 プレゼミと「小説研究」というクラスで、私としては、アメリカの大学にある「創作コース」Creative writing course のような講義をめざしていた。
 まだ全国の大学で学園紛争が起きるようなことはなく、私のクラスは、いつも4、50人の学生が出席していた。
 当時の私は、生活のために翻訳を続けていたが、一方で、「俳優座」養成所でアメリカの劇作家を中心に講義をつづけ、やがて演出家をめざしていた。したがって、「小説研究」と称して、学生たちに小説創作を中心にした講義をしようというプランは、あながち不自然なものではなかった。
 ただし、この企ては私の能力の及ぶところではなく結果としては失敗に終わった。

 ある日、教務課から急に連絡があった。
 日頃、教務課から呼び出されることなどなかったので、さては自分の行状に落ち度でもあったか、学生たちがなんらかの理由で私の講義をボイコットしようとしているのか、などと心配しながら教務課に急いだ。

 思いがけない話があった。
 当日、ある劇場で、マルセル・マルソーというフランスの役者が公演するのだが、チケットの売れ残りがあるので、劇場側から大学生を無料で招待したいと打診してきた、という。ただし、開幕まで時間が迫っておりまして。
 この話はほかの教室、法学部、経済学部や、商科の学生ではなく、文学部、それも私の「小説研究」に話があったという。

 大学側としては、変則な授業の一環として、見学というかたちでこの提案を受けるかどうか、中田先生は「俳優座」の講師もなさっているお方なので、ご相談もうしあげます。
 先生のご判断によりますが、その日の講義を中止して、クラス全員で劇場に行っていただけないか、という。

 私はマルセル・マルソーという俳優を知らなかった。
 パントマイムの役者という。マルセル・マルソーは、はっきりいって、日本ではまったく知られていない。

 思いがけない話を聞いて驚いたが、私はすぐに承諾した。

 チケットが売れなかった理由は――マルセル・マルソーの知名度が低かったこともあるが、会場の地理的な場所のせいもあった、と思われる。
 公演といっても、現在の「三菱一号館美術館」の近くのビルなどではなく、財界人の講演や、規模の小さいシンポジウムなどが行われるようなコヤだった。      

2020/12/21(Mon)  1884 マルセル・マルソー1
 
 たくさんの舞台を見てきた。
 ある舞台に、それなりに忘れられない、強い感動がある。だが、舞台で演じられた「芸」に感動したこととは、べつの感動があって、忘れられないものになった舞台もある。
              
 マルセル・マルソー。

 おそらくは、もう誰もおぼえていないフランスのパントマイム役者。

 パントマイムについて語ろうというわけではない。
 ただ、マルセル・マルソーは、エチエンヌ・ドクルー、ジャン・ルイ・バロー、ジャック・タティと並んで、コトバに頼らない純粋のマイム、ミミックリーで、優美なドラマを現出した役者だったことだけでいい。
 サーカスの道化だって、パントマイムで観客を笑わせるぐらいの「芸」を身につけている。

 ジャン・ルイ・バローのマイムは、映画、「天井屋敷の人々」で見せたように、マイムでひとつの物語をみせる。これに対して、マルセル・マルソーは、先輩のマイム役者の資質の、ある若干のものを、おのれの内部に発展させたひとり。
 バローのマイムが、優美な情景を描くのに対して、マルソーは短いが、もう少し起承転結をもった寸劇を展開する。たとえば「ダビデとゴリアテ」のようなレパートリーで。

 私がマルセル・マルソーを見たのは、まったく偶然だった。

2020/12/14(Mon)  1883(rev)
 
 2020年は、おそらく歴史的に大きな転形期、社会的な激変の時代、気候の変化もふくめて文明の危機さえ予想される時代のはじまりとなる。

 この年(令和2年)、私は何をしていたのか。

 20年1月25日、メモをとっていた。

    中国、武漢市の新型コロナ・ウィルスのニューズ。武漢市は交通が遮断され、封鎖
    都市に指定されて、「ペスト」並の厳戒体制がとられている。今後、各地で、感
    染が急速に拡大すると懸念されている。すでに韓国でも感染者が出たし、日本で
    もついに2例の感染症患者が出た。
    中国、「人民日報」は、コロナ・ウィルスによる新型肺炎の感染が、1287人
    とつたえた。もっとも深刻な武漢市では、24日に15人が死亡し、国内の死者
    は計41人。新型肺炎は、ついにアメリカ、フランス、ネパールに波及した。フ
    ランスの感染者は3名。アメリカ、シカゴで感染確認、2名。

 それから、10カ月。悪夢のようなコロナ・ウィルス禍はつづいている。このメモを見
ると、まさか、これほどの災厄になるなどと予想もしていなかったことに気がつく。

 この頃、コッポラの「地獄の黙示録」(完全版)を見た。

 日本で公開されたヴァージョンでは前線の兵士慰問に派遣された「プレイボーイ」のバニーガールのシークェンス後半、レイプ・シーン、フランス人のゴム農園の家族のヴェトナム戦争批判のシークェンスがカットされていた。私は、そんなことも知らなかった。この映画をめぐって、いろいろな批評が出たが、大岡 昇平が、私の批評をとりあげてくれたことを思い出す。

 今、あらためて見直すと、完全版のカットが、「地獄の黙示録」批評に大きな歪みを与えたことがわかる。少なくとも、私の評価に影響を及ぼした。

 もう一つ、この映画のマーロン・ブランドの演技は、アカデミー賞(最優秀男優賞)に値しないという感じをもった。
 マーロン・ブランドは、「波止場」(54年)でアカデミー賞(最優秀男優賞)をもらっているし、「ゴッドファーザー」(72年)でもアカデミ賞(最優秀男優賞)を受けたが、彼は受賞を拒否した。「地獄の黙示録」では、アメリカ最高の俳優と評判になった。
 しかし、私は、やはり「ゴッドファーザー」の「ドン・コルネオーネ」のほうがずっといいと思う。

 そういえば、敗戦後の日本で、「運命の饗宴」(デュヴィヴィエ監督)が公開されたとき、W・C・フィールズの出たエピソードが全部カットされて公開されたことを思い出す。むろん、当時の日本人は誰ひとりそんなことを知らないまま見たことになる。
 だが、こんなことにも当時のアメリカの対日占領政策の裏が見えてくる。

 私が、このことを知ったのは、ずっと後年になってからだったが、検閲は現在のフェイクニューズとおなじなのだ。


 この20年2月、クロード・ルルーシュの新作、「男と女 人生最良の日々」が公開される。「男と女」(1966年)、「続 男と女」の完結編という。

 老齢の「ジャン・ルイ」(ジャン・ルイ・トランティニアン)は、養護施設で余生を送っているが、かつての記憶も薄れはじめている。彼の息子のたっての頼みで、「恋人」だった「アンヌ」(アヌーク・エイメ)が訪問する。長い歳月を経て、再会した男と女に、かつての相手への思いがしずかによみがえってくる。
 撮影当時、トランティニアンもアヌーク・エイメも、もう80歳を越えていた。このふたりの映画を今の私が見たら、どんな感慨を催すだろうか。

 クロード・ルルーシュは、私よりちょうど10歳下だから、こういう映画を撮ることもできる。今の私は映画批評も書かなくなっている。つまりは、かつての「女たち」の思い出をなつかしむだけしかできない。

2020/12/11(Fri)  1882
 
 エルンスト・グレーザーの小説を読む気になったのは、第1次世界大戦が起きた時代の、ドイツ側の状況を知りたかったからだった。
 緒戦の高揚した気分がさめると、少年たちの世代にだんだん厭戦気分がひろがって、それがユダヤ人種に対する差別や迫害に形を変えて行く。
 現在の新型コロナウイルスの感染拡大にそのまま重なるような部分もあった。

    戦争のことなど殆ど忘れてしまった。戦死者のおそろしい数字にも慣れてしまっ
    た。当然のことだと思ふようにもなった。
    ハムを略奪することは、ブカレストの陥落よりも、もっと面白かった。そして一
    俵の馬鈴薯は、メソポタミアでイギリス軍を全部捕虜にしたよりも、もっと大切
    になった。 

    戦死は依然として私達の町を襲っていた。牧師は戦死の光栄を歌いつづけた。私
    達は沢山な寡婦を見るのも慣れてきたが、彼等に会うと、丁寧にお辞儀しながら、
    その数が増してゆくのにおののいた。
    また、一人の婦人が、守備よく夫の死骸を戦地から迎えて、町の墓地に埋葬する
    ような場合には、私達は沈黙と真面目さを装って柩車の後についていった。
    私達は個別に訪問して、使い残した僅かばかりの新しく発行された戦時公債に応
    募するように勧誘状をくばったりした。婦人達はそれに応募した。公債の応募が
    多ければ多いほど、夫達も早く帰国してくれるだろうと思ったのである。

    戦争というものは、恐ろしい災厄だということがずっと前からわかっていた。戦
    線の兵士たちでさえ、負傷したときはうれしがった。もはや、人々の間には、一
    致団結というものがなくなっていた。飢餓がそれをきれいに破壊してしまった。

    誰も彼も、隣人が自分よりも食料品を沢山もっていないか、疑い深い目で詮索し
    た。出征をまぬがれるためにあらゆる手段を用いたものは、ごまかしやと言っ
    て嘲られた。けれども、彼等自身がやはり生きていたいからそうしただけだ。

 この小説が私の関心を喚び起こしたのは、これが1930年に書かれていることにある。やがて――ドイツに、ナチスが出現する。ヒトラーが、1933年の総選挙で第一党になる。フォン・ヒンデンブルグ元帥は、ヒトラーを首相に任命する。

 ミュンヘン・プッチ(一揆)から10年、ヒトラーが合法的に政権を握る。

 2020年は、おそらく歴史的に大きな転形期、社会的な激変の時代、気候の変化もふくめて文明の危機さえ予想される時代のはじまりとなる。

 エルンスト・グレーザーの小説など、もはや誰も読まないだろう。(ドイツ文学の優秀な翻訳家が改訳して、小説のタイトルを変えれば、まだ読まれる可能性はあるだろうが、そんな人はいないだろう。)

2020/12/09(Wed)  1881
 書庫に残っている本をさがして、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を見つけた。ほかによむものもないので読みはじめた。1920年代の、ドイツ反戦小説。ルマルクの「西部戦線異常なし」とほぼ同時期に書かれたもの。

 ルマルクの「西部戦線異状なし」は、昭和4年(1929年)秦 豊吉訳で、中央公論から出た。たしか、翌年、ベストセラーになったもの。翌昭和5年(1930年)には、当局の忌避にふれ、反戦小説として発禁になった。
 グレーザーの「1902年級」は、ルマルクの小説がベストセラ−になったので、すかさず翻訳されたと思われる。清田 龍之助訳。昭和5年6月、萬里閣書房刊。7月には6版が出ているので、ベタセラ−になったのか。

 この小説は、20世紀初頭に、固陋な学校教育をうけた世代、この時代にティーネイジャーだった世代を描く。
 カイザー・ウィルヘルム2世のドイツ帝国の繁栄のかげに、ユダヤ人に対するはげしい差別、蔑視がひろがっている。「私」はユダヤ人の少年と親しくなって、国家、社会の矛盾に目覚めはじめる。この部分はドイツ的な教養小説と見ていいが、おなじ世代のツヴァイクの遺作、「昨日の世界」のほうがずっとすぐれている。

 小説の後半は、第1次大戦の体験。西部戦線、ヴェルダン、ヴォーズで、英仏連合軍と死闘をくりかえし、国内には飢餓と爆撃の恐怖から厭戦気分がひろがってゆく。「私」は、恋人の少女の空爆死を見届ける。

 この小説について、トーマス・マンは、

    非凡な作だ。真理を愛する心と人生を洞察する力とが一貫している。

 という。おなじく、エリヒ・マリア・ルマルクは、

    洞察力の鋭さはただに文学として価値あるのみならず、我らが時代の歴史として
    大切な記録だ。

 そうな。また、アルノルト・ツヴァイヒは、

    この一巻を通読した者はみな一様にいふであらう。何故今までこれを読まないで
    いただろう。

 この本の箱(ブックケース)に印刷されたものをそのまま記録したのだが、私はこの人たちの推薦を妥当とは見ない。作品自体が残念ながらもはや死んでいる。

 私がそう思ったのは――日本語訳で読んだせいかもしれない。清田 龍之助の翻訳(昭和5年)がよくない。あらためて、ある時代の文学作品の翻訳のむずかしさについて考えさせられた。

 ほとんどの翻訳は、よくいって10年から15年しかもたない。鮮度が落ちる。
 読者層も変わってくる。

 時代によって、小説の読者の好みが変化すると見ていいのだが、ある時代の一般的な教育レベルによって読者の趣味がどこまで変化するか。
 私は、ゆとり教育などという教育方針によって、読書力が低下したと見ている。そういう教育を受けた世代は小説を読む習慣をもたないし、かつての良識ある、よき趣味(ボン・グウ)に目もくれないのは当然で、それまでの読者層が失われたと思う。

 チャイナ・コロナウイルスの世界的な感染のさなかに、1920年代の、ドイツ反戦小説を読む。まったく偶然だが、これからの小説、翻訳の可能性まで考えてしまった。

2020/12/05(Sat)  1880
 
 これは、前に書いたと思うが、コロナ・ウイルスの感染拡大で、ヨーロッパが大きな被害を受けはじめていた4月、テレビで見たわずかな光景が心を打った。

 イタリア・ミラーノ。外出禁止令が出たために、市中には誰ひとり姿をみせていない。

 私が、イタリアで見たのは、まったく違うミラーノだった。誰ひとり市民の姿がない。絵ハガキのようなショットのなかに、ただひとり、有名な歌手が立っている。
 
 ボッチェッリだった。

 まるで、死の街と化したようなミラーノ。
 だれひとり観客のいない大聖堂の広場で、ボッチェッリが「アヴェ・マリア」ほか5曲を独唱した。それをニューズとして流している。

 時間としては、ほんの数分だろうと思う。
 久しぶりにボッチェッリを見たが、容貌はすっかり老人で、別人のようだった。
 私は、そのボッチェッリの姿に、感動した。歌よりも何よりも、ボッチェッリがまったくの無観客の広場に立っている。そのことに胸を衝かれた。このとき、ボッチェッリの胸に何がよぎっていたのか。

 これもテレビで見たのだが、「封鎖都市・ヴェネツィア」。2月、カルナバーレで賑わうヴェネツィアは、コロナ・ウイルスについて誰ひとり知らない。この時期の感染者、ゼロ。死者、ゼロ。
 だが、突然、コロナ・ウイルスの感染爆発が起きる。カルナバーレも、あと2日を残して中止される。こんな事態は、ヴェネツィア人のかつて知らない異常な事態だという。

 ボッチェッリのシークェンスにつづいて――南米コロンビアで、男女の外出禁止。これもコロナウイルスの感染拡大を防ぐため。ボゴタ市内のショット。公園の広場、男たちが2、3人、ベンチでぼんやりしている。
 ボゴタ在住で、私のブログを読んでくれた日本人がいた。なつかしい思い出のひとつ。

 2020年4月。日本人女性で、ミュージカル、「ミーン・ガールズ」の舞台に立っていたリザ・タカハシの証言。
 ブロードウェイは、「アラジン」、「プロム」などを公演していた劇場すべてが中止。2月には、まだオーディションが2,3あったが、3月から皆無になった、という。

 私は、ブロードウェイで、ストレート・プレイやミュージカルを観に、夜の雑踏のなか劇場までいそいだことを思い出した。そのブロードウェイに、ほとんど人の姿がなかった。私は暗然とした。

 ブロードウェイでさえこうなのだから、西海岸の劇場、公共劇場、各地を動いているトゥアー公演も、ほとんどが公演中止に追い込まれているだろう。
 こういう状況で、いちばん先に生活に困るのは、いつも多数の舞台関係者、芸術家たちなのだ。
 その後、感染はますますひろがって、大統領選の1カ月前に、トランプ大統領も感染するような事態を迎えた。
 2020年10月10日、ブロードウェイの劇場は、すべての公演中止を、来年5月30日まで、延長することが決定された。今年3月中旬にはじまった劇場閉鎖は、ついに1年以上におよぶことになった。
                  
 ブロードウェイの関係者は、およそ9万7千人。経済効果は、年に148億ドル。日本円にして、約1兆5600億円。
 この災厄は、アメリカ演劇史に残るだろう。

2020/12/01(Tue)  1879
 
 「モンテーニュ通りのカフェ」(ダニエル・トンプソン監督)を見た。
 ひょっとして、「日経」の記者だった吉沢 正英といっしょに見た映画だったかも知れない。

 先輩の宮 林太郎さんはこの映画を見なかったと思う。
 パリが好きで、私を相手にパリのことを倦むことなく語りつづけた人だった。そういう人にこそ、この映画を見せたかった。

 エッフェル塔、ジョルジュ・サンク、シャンゼリゼ。私は、オテル・リッツからヘミングウェイ、アヴェニュ・モンテーニュからジュヴェの「シャイヨの狂女」を想像しながら見た。       
 この映画に出ている俳優、女優たちを私はまったく知らないのだが、ヒロインの「ジェシカ」をやったセシール・ド・フランスがいい。それに、女優の「カトリーヌ」のヴァレリー・ルメルシェが、映画のなかで舞台劇のフェイドーをやっている。これで、セザール賞の助演女優賞。アメリカの映画監督、シドニー・ポラック、ノン・クレジットで、ミシェル・ピコリが出ている。ついでながら、ジュリエット・グレコが、再婚した相手。

 この映画に出ているクロード・ブラッスールは、父がピエール・ブラッスール、母がオデット・ジョワイユー。これだけでも、私にはうれしい映画。

 テレビで美少女を見た。トラウデン直美という日独ハーフ。京都生まれ、京都育ち。引っ込み思案の美少女が、13歳からグラヴィア・モデル。父は京都大でドイツ語、文学を教えている。14歳、同志社国際高校に入学。引っ込み思案で英語がしゃべれなかったのがコンプレックス。慶応、法科に入学。「CanCan」の専属モデル。ファッション・モデルになる。スキニー・パンツが苦手。報道系の番組のキャスターとして登場する。ネットで買ったバッグ。消せるボールペン1本。イヴ・サン・ローランの口紅1本。リップ・クリーム。クロエの財布。コストコのカード。所持金、3万円。質実な性格。「くろ谷さん」の絶景。花柄の古着。キラキラしているようで、しっとりした感じ。値段も半額。食レポ。
 「天下一品」のブタ重。そして、マッシュポテトをおかずにして白飯にまぜるドイツふうの和食。
 こういう番組はあまり見ないのだが、この少女のキャラクターがおもしろい。
 午後、これも美少女、アリーナ・ザギトワのドキュメント。ザギトワは、19年12月、突然、選手活動を休止すると発表した。私も残念に思ったひとり。当時、15歳のアンナ・シェルバコワ、アレクサンドラ・トルソワ、16歳のアリョーナ・コストルナヤが登場して、ザギトワはふるわなかった。日本では、浅田 真央引退のあと、やはり17歳の紀平 梨花が登場している。
 ザギトワは、かるがると4回転をこなす年下の選手に敗れて、12月のグランプリでは最下位に沈んだ。平昌の冬季オリンビックで優勝したザギトワとしては、屈辱的な敗北だったに違いない。

 久しぶりにテレビで見るザギトワは美少女だった。内面の苦悩は見せないが、自分でも明るくふるまっている。それが、かえっていたいたしかった。メドベージェワのようにカナダに移ってスケートをつづける選手もいるが、若いだけに、輝かしい未来が待っているだろう。人生はスケートだけではない。といより、スケートから始まった人生と思えばいい。

2020/11/29(Sun)  1878
 
 礒崎 純一著、「龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝」を読みはじめた。
 すごい大作で、読み終えるのに、3日もかかってしまった。思いがけないことに、私の名前は7カ所出ている。澁澤君と同時代に生きただけに、少年時代から「戦後」すぐの彼の環境に、どこか重なりあうような気がした。むろん、私の身勝手な思い込みだが。

 私が澁澤君の交誼を得たのは「血と薔薇」からだが、礒崎 純一は、

    それまでの澁澤の交友関係からみてめずらしい部類に入るのは、植草甚一、中田
    耕治、堀口大学、杉浦明平、高橋鐡、川村二郎、倉橋由美子、野坂昭如、武智鉄
    二といったところか。特に、中田耕治と植草甚一を執筆者に選んだことを、澁澤
    は得意に思っていたらしい。  (P.277)

 と書いている。
 わずかな記述だが、これだけでも、「血と薔薇」の時代がよみ返ってきて、感慨をあらたにした。なつかしい澁澤君。

 私は、ある時期からまったく文壇のひとびとと交遊しなくなった。(できれば、いつか、その事情についてブログに書くつもりだが)。

 いつも孤立していた私などは、澁澤君の交友関係からみてめずらしい部類に違いない。逆に、澁澤君が、私を「血と薔薇」に誘ってくれたおかげで、この評伝に登場する種村 季弘、松山 俊太郎、加藤 郁也といった当代きっての特異な文学者たちを知ることができた。

 今や、これらの人々のことごとくが鬼籍に入っている。

2020/11/22(Sun)  1877
 
 コロナ・ウイルスの災厄が拡大の一途をたどっていた2020年夏。

 ミレッラ・フレーニの訃報を知った。84歳。            

 オペラ歌手としても異例の高齢で、70代になっても歌いつづけていたひとり。

 私はミレッラよりもテバルデイやコソットのほうが好きだったが、それでもミレッラはよく聞いた。「ラ・ボエーム」の「ミミ」だけでも10回は聞いた。

 ミレッラはマリア・カラス以後のオペラを代表し得たと思う。ともあれ、こうして私たちの生きている船の航路からまたひとりの芸術家が姿を消した。

 このブログを書きはじめた頃の私は幸福だったし、けっこう多忙だった。頭の中にはいろいろと書きたいことがいっぱいあった。
 ところが、コロナ・ウイルスの感染者数が、世界的にひろがるにつれて、もの書きとしての自分の過去、たいした作品も書けなかった自分の思い出ばかりが気になるようになった。
 妻と死別したあと、それに続くごたごた、さらに、私が作家としてなんとかやっていけるようになるまで、私と亡妻、百合子をいつも応援してくれた義姉、小泉 賀江が他界したこと、こうした思い出がひしめきあって押し寄せてきた。
 大げさにいえば、寝てもさめても心にひしめきあっているようだった。

 いつもそんな状態だっただけに、「SHAR」の仲間たちや、渡辺 亜希子から、ヴァレンタイン・チョコレートをもらったのはうれしかった。

    先月、寒中見舞で安東さんのことを知り、本当に驚きました。
    安東さんと初めてお会いしたのは、先生の授業の時でした。
    大学卒業後はネクサスのイベントでお会いする程度でしたが、前のイメージのま
    まだったので、今回のことは言葉を失いました。中田先生はどれたけショックだ
    ったろうと思い、心配しています。(後略)

 ありがとう、亜希子さん。本人も不治の病と覚悟していただけに安東君の訃にショックを受けたわけではない。ところが私は安東君追悼の文章も書けなくなっている。

 このことのほうがショックだった。

 なにしろ老齢の作家なのだから、創造力が枯渇するのは当然というもので、それは仕方がない。しかし、ブログを再開したとき、自分の書くものが、やたらに長いものになっていることにあきれた。かつての集中力がなくなっている。

 それに気がついたせいか、このブログも書けなくなってしまった。われながら不甲斐ない次第としかいいようがない。この文章もその例。

 毎日、コロナ・ウイルスのニューズを気にしながら、音楽を聞いたり、DVDで、昔みた映画を見直したりしていた。そのため、このブログも、音楽や古い映画のことが多くなっている。

 何しろ、新刊の本が読めない。行きつけの古本屋は廃業してしまった。図書館も閉鎖されている。
 そんなとき、岸本 佐知子が贈ってくれた、ショーン・タンの絵本や、リディア・ベルリンの短編集、エッセイ集、「ひみつのしつもん」を、何度も読み返した。おなじ著者のおなじ本をこれほど熱心にくり返して読み返したことはない。

 ミレッラ・フレーニが亡くなったので、CDを聞いて彼女を偲ぶつもりだが、今日はビデオもCDも探せないので、せめて明日、「椿姫」を聞くことにしよう。

2020/11/12(Thu)  1876 東山 千栄子(4)
 
 俳優の「芸談」を読む。                          
 「戦後」、いろいろな女優が「芸談」を残している。たとえば、水谷 八重子(といっても現在の水谷 八重子ではなく、守田 勘弥<十四世>の夫人だった水谷 八重子の)「ふゆばら」という随筆。杉村 春子の「楽屋ゆかた」、高橋 とよの「パリの並木路を行く」、柴田 早苗の「ひとりも愉し」、映画スターだった入江 たか子の「映画女優」といった随筆。
 もう、誰も知らない女優たちの著作で、おそらくゴーストライターの書いたものも含まれている。内容的には、読むに耐えないものもある。

 そのなかで、東山 千栄子の「新劇女優」は、自分の手で書きつづった文章で、この女優の誠実さが感じられる随筆だった。
 何度かくり返して読んだ。

     私たちのうちのある型の俳優は、役をうけとったときに、どの場処をどう生か
     してどのように効果をあげるべきかということを敏感に計算して、そこから
     出発します。ある型の人たちは、まず自分の方に役をひきよせます。自分の持
     っている個性的な素材でいかに処理して行くかというところに表現の出発点を
     おくのです。けれども、私はそのどっちのみちからもはいっていけないやっか
     い(傍点)な型に属しているらしく、いつでも永字八法からのお手習いです。
     全体を全体としてうけとり、全体として処理して行く――それが、私の不
     器用な、唯一の方法です。
     私は、私としてもっとも誠実な道を進んで行くほかはないのです。
     劇場というところは、誠実をわかち合うための場処――そう私は信じていま
     す。今日、私たちにもっとも必要なものの一つではないでしょうか?

 私は、こういう東山 千栄子が好きだった。こういうことばは、やはりたくさんの舞台でたくさんの「役」を演じてきた女優のたじろがない自負心、と同時に、三十なかばになって、はじめて舞台女優をめざしながら、いつも初心を忘れなかった東山 千栄子の孤独さえ感じるのだ。

 このブログを書いているときに、女優、竹内 結子の訃を知った。このとき、私は、東山 千栄子のエッセイの結びのことばを思い出した。

     今度の稽古中の悲しい出来ごとは、公演を九日前にひかえての堀阿佐子さんの
     突然の自殺でした。あの方がはじめて舞台を踏まれた時から私は文学座で存じ
     上げていますだけに、私は悲しさをひしひしと感じるのです。どうぞこの「フ
     ィガロの結婚」が成功してせめてあの方の霊を慰めてあげることが出来たなら
     ば……そう心にいのりながら私は毎日の舞台を踏んでいるのでございます。

 1949年5月、ボーマルシェの「フィガロの結婚」がピカデリー劇場で上演された時期に書かれた。堀 阿佐子は「文学座」の若い女優で、「戦後」もっとも属目されていた女優であった。私は堀 阿佐子と直接のかかわりはまったくなかったが、彼女が自死を選んだ若干の事情は知っていた。むろん、ここには書かないが。

 「戦後」、まだまだ混乱が続いていた時期で、毎日のように悲惨で、陰惨な事件がつづいていた。そうした混乱のさなかに自殺した堀 阿佐子の死を「俳優座」の東山 千栄子が悼んでいる。

 いまさらながら東山 千栄子の誠実に胸を打たれる思いがあった。

 コロナ・ウイルスという災厄のなかで、私たちは、三浦 春馬、藤木 孝、竹内 結子の死を知らされた。このひとたちが、東山 千栄子を知っていたら。
 
 もとより、愚かな思いと承知している。だが、私はひそかにつぶやくのだ。
 俳優や女優は、「役」として以外に死を選んではならぬ、と。

2020/11/08(Sun)  1875 東山 千栄子(3)
 
 はじめて東山 千栄子が復活したのは、戦後すぐ(1945年12月)の「桜の園」だった。東山 千栄子の「ラネーフスカヤ」である。戦後の私は、3度の戦災で、ひどく窮乏していたから、「桜の園」東劇公演の印象は、まるではじめて「宝塚」でも見たような、まるで夢でも見たような気がする。その後の「桜の園」の印象と重なりあったせいか、全体の印象もぼうっとしているが、東山 千栄子のラネーフスカヤだけは、あまり何度も見たせいか、照明のゼラチン・ペーパーを何枚も重ねたように、その印象がくっきりと浮かびあがる。

 そうなると、たとえば、岸 輝子の「カーロッタ」はどうだったか、とか、何幕何場の楠田 薫はどうだったか、三戸部 スエとは、ここでどう動いていたっけ、などといろいろと思い出す。

 戦後の翌年の3月、ゴーゴリの「検察官」の東山 千栄子もよく覚えている。それも、へんなことで。

 幕があがって、市長夫妻が町の名士たちと登場する。和気藹々とした雰囲気でそれぞれが大きな食卓につく。ここで、皇帝陛下の「検察官」が、何の前ぶれもなく、この小さな街の視察にやってくることが知らされて一同に衝撃が走る場面だが、食卓にむかって、10人ばかりが腰をおろす。

 最後に若い俳優が席につくのだが――椅子がない。
 大道具方の手違いだったのか。
 その俳優は自分の居どころがわからないので、ウロウロと椅子の位置に目を投げる。
 みんなが着席しているのに、若い俳優ひとりが立ち往生している。出トチリである。

 若い俳優がうろたえているのは、観客にもわかった。はじめは、誰しもそういう演出なのだろうと思ってみている。しかし、1秒、2秒、3秒と、時間がたって、さらに数秒も過ぎれば、この役者がなんらかの事情でトチったばかりか、そのトチリで芝居の流れがとまったことぐらい、観客にも見えてくる。
 ありえないトチリだった。
 観客席の私は、自分までがあわてふためいて椅子をさがしている役者になったように、息をのんでみていた。同情する、とか、軽蔑するといった感情ではなく、この役者がどうしていいか、冷や汗をかきながら必死にうろたえている姿を見ていた。「必死にうろたえている」というのもおかしな表現だが、私自身が「必死にうろたえて」いた。
 
 さらに数秒たった。
 と、食卓の中央に座った東山 千栄子(市長夫人)が、席から立ちあがって、その役者に優雅に会釈しながら、羽飾りのついたやや大ぶりの扇を動かした。隣りにいた俳優が、腰を動かして、若い俳優を着席させた。つまり、一つの椅子にふたりが着席したことになる。この役者は、若い役者より先輩だが、まだ中堅俳優ともいえない永井 智雄だった。

 ようやく、ドラマが動きはじめた。とりとめのない思い出だが、私の内面に、この舞台の東山 千栄子の姿が刻みつけられている。

 コロナ・ウイルスのニューズの氾濫している新聞に、東山 千栄子を詠んだ俳句が載っていた。この俳句から、これまたとりとめのないことを書く。

2020/11/05(Thu)  1874 東山 千栄子(2)
 東山 千栄子は、明治23年、千葉生まれ。

 父は、千葉地方裁判所の所長だった。のちに、朝鮮の京城高等法院長になる。
 千栄子は、10歳のとき、母方の寺尾家の養女になる。養父は、当時、東大で、国際法の教授だった。
 明治36年、千栄子は、麹町の富士見高等小学校2年のとき、学習院の入学試験を受けた。1年の合格者のなかに千栄子の名前はなく、2年に編入された。千栄子を1年に合格させたのでは、学力があり過ぎて、他の生徒がこまることを心配して、とくに2年に編入されたという。

 当時の学習院は、下田 歌子が校長だった。

 学習院女学部は、上流の子女ばかりで、小笠原流の作法、西洋料理の食べ方、ダンスなどをきびしく躾けられた。母の希望で、フランス語、華道、琴などを習った。

 18歳で結婚。貿易商だった夫にしたがってモスクワに移る。20代の8年間に、帝政ロシアの最後の日々を過ごしたことは、その生涯に決定的な意味をもった。モスクワ芸術座の芝居や、オペラ、バレエ、イタリアの絵画などに親しむ。小山内 薫を知る。

 帰国して、「築地小劇場」の「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー/大正13年)を見て、女優になろうと決心する。36歳。小山内 薫に相談して、研究生に合格する。同期に、滝沢 修、伊達 信、岸 輝子(のちに、千田 是也夫人)、村瀬 幸子がいた。

 東山 千栄子は、ほかの女優と違ったところがある。女優になりたいと思って「築地小劇場」の研究生になったのが、そろそろ中年に近い年齢だったこと。その前に、ロシアのモスクワで、たくさん芝居を見ていたこと、フランス語、ロシア語に堪能だったこと。
 体型が大柄で、ややでっぷりしていたこと。生まれつきアルト系の、どちらかといえば、甘ったるい、歌うような声だったこと。
 こういう女優は、岸 輝子や、村瀬 幸子などのもたないものだった。

 女が女優として生きることが恥ずべきことと思われた時代に、はじめから別格の、名流夫人の登場といった感じがあった。それだけに、ヨーロッパ、アメリカの芝居を、東山 千栄子ほど多数演じた女優はいないだろう。
 
 オニール、ボーマルシェ、シェイクスピア、イプセン。

 「築地小劇場」の観客は、東山 千栄子の芝居を見ることによって、かなりの程度、外国の劇作家の仕事を勉強してきたはずである。その意味で、東山 千栄子は、彼女より前の世代の女優たち、松井 須磨子、藤沢 蘭奢、沢 モリノなどより、ずっと有利な条件で女優として出発している。

       
 なにかのことで、ふと東山 千栄子を思い出すことがある。
 そういうときの私の内面には、千田 是也、小沢 栄(栄太郎)といった幹部たちよりも、少し格下の松本 克平、信 欣三、永井 智雄、浜田 寅彦、田島 義文たち。女優としても、岸 輝子、村瀬 幸子よりも、赤木 蘭子、楠田 薫、三戸部 スエたちの思い出がよみ返ってくる。
 いつもその中心に東山 千栄子がいた。まるで東山 千栄子を触媒にして、つぎつぎにほかの人たちを思い出すようだった。

 なつかしい俳優たち、女優たち。もう、誰もこの人たちのことをおぼえていないだろう。だが、こういう人たち、それぞれが舞台のうえでかがやいていた。その思い出の中心に東山 千栄子がいるのだった。

2020/11/01(Sun)  1873 東山 千栄子(1)
 
 新聞にこんな一句が載っていた。俳人の長谷川 櫂の解説がついている。

      東山千栄子のやうな 衣被(きぬかつぎ)    今井 聖  

     チェーホフ「桜の園」のラネーフスカヤ、小津 安二郎「東京物語」の母親。
     たたずめばグランドピアノ、歩けば白い帆を張った帆船のように優雅だった。
     衣被(きぬかつぎ)を前にして往年の名優を懐かしんでいるのだ。句集「九月
     の明るい坂」から。

 衣被(きぬかつぎ)は、里芋の子を茹でたもの。指をそえて、少し力をいれると里芋の皮がつるりと剥けて、白い実が飛び出してくる。季語としては、秋。

 女優の名前がそのまま俳句に詠み込まれているめずらしい例。女優が愛されて、ここまで表現されていることに感動した。
 ゆくりなくも、この句とは関わりなく東山千栄子のことを偲んだ。

 1952年(昭和27年)、私は「俳優座」養成所の講師になった。内村 直也先生の推輓による。当時、日本は講和条約が成立して、日本人の海外旅行も自由になったばかりだった。ラジオ・ドラマの「えり子とともに」で、人気を得ていた内村さんは、1TI(国際演劇協会)の日本代表として、リドで開催される「劇作家会議」に出席することになった。ひきつづいて、「ユネスコ」の「世界芸術家会議」に日本代表として出席するため、後任の「俳優座」養成所の講師に私を推薦したのだった。内村さんは、主にアメリカ、イギリスの現代劇をとりあげて講義なさっていた。
 この頃、イギリスのプリーストーリーの「夜の来訪者」を訳していたはずである。これも、内村さんの代表作のひとつになる。

 一方、私は、「戦後」すぐに批評を書きはじめたが、まともな批評家にもなれず、ミステリーの翻訳をしたり、民間放送の仕事、ラジオ・ドラマや録音構成というドキュメンタリーや雑文などを書きつづけていたが、まるっきり才能のない文学青年だった。
 芝居はよく見ていたが、現実の舞台については何も知らない。「俳優座」で知っていたのは、青山 杉作だけで、それも私のラジオ・ドラマを演出した演出家というだけの関係だった。要するに、私は何も知らないまま、「俳優座」養成所の講師になったのだった。
 何も知らないだけに、「俳優座」養成所で、若い俳優志望者にどういう訓練をするのかぜひ見ておきたかった。(このときの経験は、後年、大学や「バベル」で教えるエデュカチュールとしての私を作りあげたと思っている。)

 講師になってすぐに、東山 千栄子に紹介された。紹介してくれたのは、千田 是也だった。                         

 当時、御殿場に住んでいた東山さんは、劇団には週に一度、顔を出す程度だったのではないか。この日は、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」の稽古があって劇団にきたのではないかと思う。
 「こちらは、今度、養成所で講義をお願いした中田先生です」
 千田 是也が紹介すると、東山 千栄子はにこやかな微笑を見せて、
 「若い先生でいらっしゃいますのね。養成所のほうでいろいろお世話になりますが、どうぞ、よろしくお願い申し上げます」                
 私はあわててお辞儀をした。このときの私は、ほんとうにラネーフスカヤ夫人に会ったような気がしたのだった。

 「俳優座」養成所で、若かった私は、臆面もなく、イギリスの風俗喜劇から、アメリカの30年代のミュージカル、「戦後」のアーサー・ミラー、テネシー・ウィリアムズあたりの戯曲について「講義」をつづけた。

 残念ながら東山 千栄子とは、舞台や放送の仕事でつきあう機会はなかった。

2020/10/18(Sun)  1872
 
 2020年9月23日、歌手のジュリエット・グレコが亡くなった。
 93歳。
 南フランス、モンペリエの出身。あるいはコルシカ島の出身。レジスタンスに参加。母と姉は、ドイツのラータフエンスブリュック強制収容所に送られた。

 このことは、ジュリエット・グレコの人生に大きな影響をあたえたと思われる。少女の身で一家離散の悲劇を経験したこと。戦後、誰もがレジスタンスに参加していたような顔をしたとき、戦時中に身をもってレジスタンスに参加した若い女性だったことは、ジュリエット・グレコの内面に深く刻まれている。

 「戦後」、セーヌ左岸で、シャンソンの女王と呼ばれた。サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ。ジャン・ポール・サルトル。ボリス・ヴィアン。シモーヌ・ド・ボーヴォワール。

 コクトオの映画、「オルフェ」に、女優として登場する。
 カフェ「詩人の家」の前で一人の若者が車に撥ねられて死亡する。冥界の女王(マリア・カザレス)が、事故の目撃者として、居合わせた詩人「オルフェ」(ジャン・マレェ)を黄泉(よみ)の国につれて行く。「オルフェ」の妻(マリー・デア)は失踪した夫の捜索を警察に依頼する。「詩人」は帰宅するが、運転手は自殺した学生「ウルトビーズ」(フランソワ・ペリエ)である。「オルフェ」は、ふたたび姿をあらわした冥界の女王を追って「黄泉の国」につれ去る。

 この映画で、ジュリエット・グレコは、ジャン・マレー、フランソワ・ペリエ、マリア・カザレス、マリー・デアにつづいて、ビリング/5だが、女優としてはまったく見るべきところがない。(この映画が、当時、ルイ・ジュヴェ演出でジャン・ルイ・バローが舞台に立った「スカパン」の装置を作ったクリスチャン・ベラールに捧げられている。クリスチャン・ベラールは、「スカパン」の稽古中に劇場で倒れた。心臓発作で亡くなっている。この映画を見て、コクトオがこの映画をクリスチャン・ベラールに捧げた意味が分かったような気がした。)

 ただし、この時期のジュリエットは、女優として成功するとは思えなかった。女優としては、やはり「恋多き女」、「日はまた昇る」(57年)よりも、「悲しみよこんにちは」(58年)までまたなければならない。

 ジュリエット・グレコのキャリアーは、はっきりいって、80年代までだったのではないか。サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの時代が去って行くにつれて、ジュリエット・グレコの時代も終わろうとしていた。

 日本には20回以上来日しているが、私が見たのは、ジュリエットが引退する前、東京公演だった。87歳で、東京でリサイタルをする予定だったが、急遽、キャンセルした。体調をくずしたからだったと思う。

 翌年、ジュリエットが引退する前の東京公演を見た。親しい女友だちと。
 2014年9月26日、渋谷。

 ステージのジュリエットは黒いドレスだった。戦前のダミアのように。

 あのファッションに、しなやかなからだと、するどくとぎすまされた知性が隠されている。そして、もはや引退も間近な高齢なのに、聴衆の心をかきみだす何かがある。
 はじめは、かつて世界的な名声を得た芸術家が身につけている特有のオーラなのだろうと思ったが、どうやらそうではなかった。あきらかに動きがにぶくなっているし、高音が出せない。しかし、衰えは感じさせない。
 それでいて、私が見たものはジュリエットの、何に対しても心を開くような透明感のある誠実さ、としかいいようのないものだった。

 シャンソニエにおける誠実さ(サンセリテ)とは何か。音楽学者なら、そのあたりうまく説明してくれるだろうが、ただの観客にすぎない私には、うまく説明することができない。ただ、ジュリエットのシャンソンは、「セーヌ左岸の女王」という光栄に包まれてステージに立って身につけてきた輝きと、いまや老齢に達して、ときに音程もおかしくなっている自分のあるがままとの、一種の置き換え(トランスポジション)にある。
 当然、この日の観客たちも、それに気がついたと思う。

 はるか後年に、ソヴィエト崩壊後に、来日したリューバ・カザルノフスカヤのリサイタル形式の「サロメ」を聞いた。おそらくキエフからの長旅の疲労のせいだろうが、リューバが高音のピッチを外したのを聞き届けた瞬間、私はジュリエット・グレコの歌を思い出した。
 
 このときのリューバに、オペラ歌手が、みずから演じる誠実さ(サンセリテ)のドラマを私は見たように思った。それは、ジュリエットの誠実さ(サンセリテ)とは違うものだったが、私はリューバに感動したのだった。

 これも余談だが、ジュリエットは、フィリップ・ルメールと離婚したあと、映画スターのミッシェル・ピコリと再婚している。(66年〜77年)。私はミッシェル・ピコリにはあまり関心がなかったが、その後、ジュリエットと離婚した彼の回想を読んだ。この回想はおもしろかったが、ジュリエットの誠実さ(サンセリテ)にピコリは気がつかなかったのではないか、と思った。
 ジュリエットは、ビコリとし離婚したあと、アメリカのジャズ奏者、マイルズ・デイヴィス相手のロマンスが伝えられた。

 このロマンスについては、何も知らない。

 マクロン大統領は、9月23日、ジュリエットの死を知って、

    グレコの顔と声は、私たちの人生とともに生きつづけるだろう。サン・ジェルマ
    ン・デ・プレのミューズは永遠なのだ。

 とツイッターに書き込んだ、という。

2020/10/11(Sun)  1871
 
 2020年5月。世界経済は悪化の一途を辿っていた。ユーロ圏19カ国のGDPは、前年比、7.7%減の予測。1996年以降、最大の落ち込み。          

 私は、毎日、おなじような日々を過ごしていた。
 本も読むには読むのだが、なにしろ根気がなくなっているので、なかなか読み進められない。
 書庫に残っている本をさがして、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を読みはじめた。1920年代の、ドイツ反戦小説。ルマルクの「西部戦線異常なし」とほぼ同時期に書かれたもの。

 ルマルクの「西部戦線異状なし」は、昭和4年(1929年)秦 豊吉訳で、中央公論から出た。たしか、翌年、ベストセラーになったもの。翌昭和5年(1930年)には、当局の忌避にふれ、反戦小説として発禁になったはずである。
 この「1902年級」は、ルマルクの小説がベストセラーになったので、すかさず翻訳されたと思われる。清田 龍之助訳。昭和5年6月、萬里閣書房刊。7月には6版が出ているので、ベタセラーになったのか。

 この小説は、20世紀初頭に、固陋な学校教育をうけた世代、この時代にティーネイジャーだった世代を描く。
 カイザー・ウィルヘルム2世のドイツ帝国の繁栄のかげに、ユダヤ人に対するはげしい差別、蔑視がひろがっている。「私」はユダヤ人の少年と親しくなって、国家、社会の矛盾に目覚めはじめる。この部分はドイツ的な教養小説と見ていいが、おなじ世代のツヴァイクの遺作、「昨日の世界」のほうがずっとすぐれている。

 小説の 後半は、第1次大戦の体験。西部戦線、ヴェルダン、ヴォーズで、英仏連合軍と死闘をくりかえし、国内には飢餓と爆撃の恐怖から厭戦気分がひろがってゆく。「私」は、恋人の少女の空爆死を見届ける。

 この小説について、トーマス・マンは、

    非凡な作だ。真理を愛する心と人生を洞察する力とが一貫している。

 という。おなじく、エリヒ・マリア・ルマルクは、

    洞察力の鋭さはただに文学として価値あるのみならず、我らが時代の歴史として
    大切な記録だ。

 そうな。また、アルノルト・ツヴァイヒは、

    この一巻を通読した者はみな一様にいふであらう。何故今までこれを読まないで
    いただろう。

 この本の箱(ブックケース)に印刷されたものをそのまま記録したのだが、私はこの人たちの推薦を妥当とは見ない。作品自体が残念ながらもはや死んでいる。

 私がそう思ったのは――日本語訳で読んだせいかもしれない。清田 龍之助の翻訳(昭和5年)がよくない。あらためて、ある時代の文学作品の翻訳のむずかしさについて考えさせられた。

 この小説を読んだのは、第1次世界大戦が起きた時代の、ドイツ側の状況を知りたかったからだった。緒戦の高揚した気分がさめると、少年たちの世代にだんだん厭戦気分がひろがって、それがユダヤ人種に対する差別や迫害に形を変えて行く。
 現在のチャイナ・コロナウイルスの感染拡大にそのまま重なるような部分もあった。

    戦争のことなど殆ど忘れてしまった。戦死者のおそろしい数字にも慣れてしまっ
    た。当然のことだと思ふようにもなった。
    ハムを略奪することは、ブカレストの陥落よりも、もっと面白かった。そして一
    俵の馬鈴薯は、メソポタミアでイギリス軍を全部捕虜にしたよりも、もっと大切
    になった。 

    戦死は依然として私達の町を襲っていた。牧師は戦死の光栄を歌いつづけた。私
    達は沢山な寡婦を見るのも慣れてきたが、彼等に会うと、丁寧にお辞儀しながら、
    その数が増してゆくのにおののいた。
    また、一人の婦人が、守備よく夫の死骸を戦地から迎えて、町の墓地に埋葬する
    ような場合には、私達は沈黙と真面目さを装って柩車の後についていった。
    私達は個別に訪問して、使い残した僅かばかりの新しく発行された戦時公債に応
    募するように勧誘状をくばったりした。婦人達はそれに応募した。公債の応募が
    多ければ多いほど、夫達も早く帰国してくれるだろうと思ったのである。

    戦争というものは、恐ろしい災厄だということがずっと前からわかっていた。戦
    線の兵士たちでさえ、負傷したときはうれしがった。もはや、人々の間には、一
    致団結というものがなくなっていた。飢餓がそれをきれいに破壊してしまった。

    誰も彼も、隣人が自分よりも食料品を沢山もっていないか、疑い深い目で詮索し
    た。出征をまぬがれるためにあらゆる手段を用いたものは、ごまかしやと言っ
    て嘲られた。けれども、彼等自身がやはり生きていたいからそうしただけだ。

 この小説が私の関心を喚び起こすのは、これが1930年に書かれていることなのだ。
やがて――ドイツに、ナチスが出現する。ヒトラーが、1933年の総選挙で第一党になる。フォン・ヒンデンブルグ元帥は、ヒトラーを首相に任命する。

 ミュンヘン・プッチ(一揆)から10年、ヒトラーが合法的に政権を握る。

 私は、新型コロナウイルスの世界的な感染のさなかに、のんきに1920年代の、ドイツ反戦小説、エルンスト・グレーザーの「1902年級」(Jahrgang 1902)を読んでいたのだった。

2020/10/04(Sun)  1870
 
 何かやり残したことがあると気になって仕方がない。昨日、市立美術館に行ったが、休館日だった。たしかめてから出かけるべきだったのに。

 翌日、美術館にたどり着いて、「初期浮世絵から北斎・広重まで」を見た。アメリカ人、メアリー・エインズワースのコレクション。
 オバーリン大学・アレン・メモリアル美術館所蔵。メアリー(1867〜1950)が集めた1500点のなかから、今回、200点を展示したもの。
 浮世絵に関して、ほとんど知識のない私にとっても貴重に思える作品があった。あらためて、春信、歌麿の女たちの魅力に惹かれた。

ほかにすることもないので、サッシャ・ギトリの「あなたの目になりたい」(1933年)を見た。サッシャ・ギトリ、ミア・パレッリ。ジュヌヴィエーヴ・ギトリ。そしてマルグリート・モレノ。

 じつは、拙著、「ルイ・ジュヴェ」のなかで――現在、マルグリート・モレノの映画を見る機会はほとんどないと書いた。当時は、そんなことを書いたのだが、マルグリート・モレノの映画がDVD化されたのでこの映画が見られるようになった。
 ミアは、コクトオの「美女と野獣」に「サンドリオン」の姉の役で出ているが、33年当時は、「娘役」(ジューヌ・プレミエール)だったことがわかる。もう一つ、映画の途中、キャバレのシーンに物真似芸人が出てくる。あっと思った。

 この芸人が、なんとルイ・ジュヴェの詩の朗読をパロディーしている。ジュヴェそっくり。物真似されるくらいだから、逆に、ジュヴェの人気が高かったことがわかる。この芸人はさらに、シャルル・デュラン、ミッシェル・シモンの物真似。おそらく、サッシャ・ギトリがこの三人のピエ・ド・ネェをやってみせたのか。この芸人の名はわからない。

 こんなつまらないシーンを見て、当時のことをいろいろと想像する。

 私の好きなTVの番組の一つは、「世界 なぜそこに日本人」。

 今回は――アフリカ、マリ共和国、北部の寒村、マフェレニ村。電気も水道もない村に、村上 一枝という老婦人が住んでいる。78歳。

 1940年、岩手県に生まれた。父は歯科医。無医村に巡回して無料で診察する医師だった。父の影響で、1958年、日本歯科大に入学。卒業後、結婚、歯科医になった。

 38歳のとき、異常な激痛に襲われ診察を受けて、結核性子宮内膜炎、卵巣結核と診断され、子宮、卵巣を全摘。子どもの産めないからだになった。やがて、離婚した。

 44歳で、小児歯科専門の医院をはじめ、年収、4000万円。

 年に1度、海外旅行に出かける。たまたまサハラ砂漠観光に行ったとき、マリ共和国に立ち寄った。ここで――子どもが重い病気なのに病院に行くことができず、ただ死を待つばかりの現実を見た。
 当時、マリの幼児の死亡率は高く、4人に1人が死亡していた。これを知った村上さんは、自分の診療所を売却、単身、マリにわたった。

 これまでに、小学校、中学校を20校設立、助産院を11棟、設立した。現在、子どもの死亡率は、9人に1人になっている、という。

 こういう日本人を見ると、私は感動する。こういう人生もあるのだ、と思う。むろん、おのれの人生とひき較べてだが。

この夜、寝る前に、新しいイヤフォンで、キャサリン・マクフィーを聞く。「I fall in love too easily」。ずっと印象がよくなった。前に聞いたときは、クラシック・ジャズのアレンジとして、それほどデキはよくないような気がした。久しぶりに聞きなおして、なぜキャサリンがジャズ・クラシックの歌唱法に戻ったのか少しわかったような気がする。

2020/09/27(Sun)  1869
 
     (つづき)

 こんな雑文にも、私なりの工夫はある。      

 読者の大多数は、私のあげた「世界の名作」を、おそらく読んでいない。私のエッセイを読んで関心をもった人もおそらくいないだろう。
 ただし、そういう人でも、「世界の名作」が映画化されれば、映画を見て、原作を読んだ気になるか知れない。少なくとも、その作品のプロットぐらいは記憶にとどめるかもしれない。むろん、そんな可能性も低いだろうけれど。

 こういう雑文を書く目的は、じつはそういう読者がひとりでも多くなることへの期待がこめられている。

 1968年。アメリカでは、共和党のリチャード・ニクソンが、僅差で、民主党のリベラル派の候補を破って、大統領になる。ヴェトナム戦争は泥沼化していた。
 ミュージカル、「ヘアー」の時代。ウディ・アレンの「ボギー 俺も男だ」。そして、シャロン・テートの惨殺事件。

 吹けば飛ぶような雑文家業でも、そうした心意気がなかったら続けられるものではない。これは、ブログを書くときもおなじ。

 さて、長ったらしいブログもこれでおしまい。

2020/09/20(Sun)  1868
 
 自分のことを語るのは気がひけるのだが――60年代の私は、批評家として少しづつ変容の兆しをみせはじめていたような気がする。
 マリリン・モンローの急死をきっかけに、私は評伝めいたものを書きはじめる。
 一方、この64年、吉川 英治論を書いて、この翌年、小栗 虫太郎の「成吉思汗の後宮」解説、横溝 正史の「鬼火」解説などを書いている。かんたんにいえば、大衆文学のイデオローグへの変貌であった。
 その頃の私は、ジャズにのめり込み、コールマン、ディジー・ガレスピー、ボブ・ディランなどについて書いている。ある週刊誌で、ほぼ4年にわたって、映画批評を書き続けていた。やがて、吉沢 正英との出会いから「日経」の映画批評を書くことになった。

 たいして才能もない作家で、いっぽうでミステリーを書いたり、時代小説に手をつけたり、そうかとおもえば、ジャズやポップスについて、したりげに意見をのべたり、ようするに、うさんくさい物書きのひとりだった。

 この頃、よく「映画化された世界の名作」といったエッセイを依頼されることが多くなった。
 自作、それも未熟なエッセイをあらためて披露するのはおこの沙汰だが、耄呆(ボウボウ)の身なれば、あえてお許しいただく。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *

    世界の名作  

  文学作品で、世界の名作といわれるものは、ほとんどが映画化されている。
  サイレント映画の歴史をしらべると、「ファウスト」、「復活」、「レ・ミゼラブル」、
  「マクベス」、「ロミオとジュリエット」、「モンテ・クリスト」といった映画
  がならんでいる。「アンナ・カレーニナ」、「ハムレット」のように、何度もリメイ
  クされて、いずれもその時代の優れた作品にあげられるものもすくなくない。
  なぜ、世界の名作が、映画化されるのか。
  これには、はっきりした理由がある。
  たいていの名作は、けっこうむずかしい内容をもっている。だから、ほとんどの読者
  は、名作のタイトルは知っていても、実際にその本を手にとることは少ない。ところ
  が映画は、難しい原作を読まなくても、スクリーンを見るだけで、原作の内容がわか
  るので、観客は、こうした映画を歓迎する。
  だから、「世界の名作」というと、普通の映画作品よりも高級なもののようにありが
  たがるのは無邪気な錯覚といってよい。

  そのため、世界の名作の映画化などという作品を、はじめから軽蔑する人も多かった。
  これも、ほんとうは無邪気な錯覚といっていい。

  たしかに、世界の名作の映画化には、原作の筋(プロット)や、原作の香気も意味も
  無視した紙芝居のような作品が多かったことは事実だが、たとえばフランコ・ゼフィ
  レッリの「ロミオとジュリエット」と、その前に、私たちを感動させたカステラーニ
  の「ロミオとジュリエット」を比較すれば、その現代性、映像のあたらしさ、さらに
  原作への肉薄ぶりから見て、やはりゼフィレッリに高い評価を与えられる。フランコ
  ・ゼフィレッリの「ロミオとジュリエット」と、その前に、私たちを失望させたカス
  テラーニの「ロミオとジュリエット」を比較すれば、どちらがいい映画なのか、はっ
  きりわかる。そういう比較ができることも、世界の名作の映画化を見る楽しみのひと
  つ。この2本の映画の間に、おなじシェイクスピアをミュージカル化した「ウェストサ
  イド物語」を置いてみると、世界の名作の映画化が、いまやたんなる原作のダイジェ
  ストにとどまらないことがわかってくる。

     映画化しやすい作家の小説

  世界の名作でも、何度もくり返して映画化されるものと、ながらく映画化が希望され
  ながらなかなか映画化されない作品、または、せっかく映画化されても、映画として
  はたいして評判にならなかったものと分かれる。
  たとえば、小さな罪を犯して苦役ののちに、ふたたび盗みをはたらくが、神の慈悲に
  よって改心するジャン・バルジャンの物語も何度もくり返して映画化されている。
  戦前、アリ・ボールが主演した「レ・ミゼラブル」(レイモン・ベルナール監督)が
  記憶に残っているが、戦後では、ジャン・ギャバン主演の(ジャンポール・ル・シャ
  ノワ監督)があった。これは残念ながら愚作もいいところで、ジャン・ギャバンも生
  彩がなかった。けれど、ジェラール・ドゥパルデュー主演の「レ・ミゼラブル」など
  は、映画化された「レ・ミゼラブル」のなかでも、屈指の作品になっている。
  おもしろいことに、19世紀の名作といえば、エミール・ゾラがいちばん映画化され
  て成功するらしく、「ジェルミナール」、「居酒屋」、「女優ナナ」など、いずれも
  映画史上に残るような作品で、ゾラほど映画化に向いている作家はいないように見え
  る。

 *   *   *    *   *   *    *   *   *  

 同時に、ゾラほど映画化に向いている作家はいないと書いたとき、私は映画の歴史を思い出していた。例えば、ジャック・フェデルの「テレーズ・ラカン」(1927年)や、ジュリアン・デュヴィヴィエの「女性の幸福に」など。「テレーズ・ラカン」は、ドイツの資本で作られた。それまでのフェデルのフランス的なエスプリに、ドイツ的な重厚さ、映画の造形性を加えた。この「テレーズ・ラカン」の成功で、ハリウッドに招かれて、グレタ・ガルボの最後のサイレント映画、「接吻」を演出する。ジュリアン・デュヴィヴィエの場合は、サイレントから脱却して、サウンド版で撮影した。こうしてデュヴィヴィエは世界的に知られて行く。)
 しかし、私はそれを書かなかった。なぜなら、「文化クラブ」の読者たちが、私があげたかったジャック・フェデルや、ジュリアン・デュヴィヴィエに関心をもつとは思えなかったからである。

 この雑誌の読者たちが関心を寄せる「世界文学の名作」といえば、せいぜい「風と共に去りぬ」程度だろう。私のエッセイが、ハリウッド映画よりも、フランス映画をとりあげていることがおもしろい。

 *   *   *    *   *   *    *   *   *  

   マリア・シェル主演の「居酒屋」のジェルヴェーズのみごとさも忘れられない。
   おなじマリア・シェルで、モーパッサンの「女の一生」が映画化されているが、や
   はり原作の魅力が大きいだろう。
   ジェルヴェーズの娘がナナだが、「女優ナナ」を撮った直後に自殺したメキシコ
   出身の女優、ルーペ・ペレスのことも忘れられない。
   ジェニファー・ジョーンズの「ボヴァリー夫人」は、映画化に成功しなかった。

   女の一生

   スタンダールの「赤と黒」は、クロード=オータン・ララ演出。
   主人公「ジュリアン・ソレル」を、ジェラール・フィリップ。「レナール夫人」を
   ダニエル・ダリュー、「マチルド」が新人だったアントネッラ・ルアルデイという
   魅力あるキャストだった。「ジュリアン・ソレル」という野心に満ちた青年という
   永遠のタイプを芸術的に描きだしたオータン・ララの演出のすばらしさ。

   「赤と黒」は、1920年に、イタリアの俳優、マリオ・ボナルトが、文芸映画と
   して撮影した。これは、イタリアの文芸映画の路線を世界的にした。

   これに対して、おなじジェラール・フィリップが主演したスタンダールの「パルム
   の僧院」などは、ただの通俗的な映画に終わっている。

   通俗もの

   デュマの「モンテ・クリスト伯爵」や「三銃士」などは、何度、映画化されたかわ
   からない。
   たとえば、「ファントマ」のシリーズ。「ハリー・ポッター」のシリーズ。
   「ミッション・インポッシブル」のシリーズ。

   こうしたシリーズは、サイレント活劇の原型にもなっていて、「名金」、「鉄の爪」
   から、現代の「007」のシリーズ、「ハリー・ポッター」のシリーズ。「スター
   ・ウォーズ」のシリーズ。どのシリーズにも共通した、追いかけ、血湧き肉躍る冒
   険が、いつの世でも観客たちを楽しませている。

   なぜ、シリーズ化されるのか。


   旧ソヴィエトは、自国の大作を映画化することで有名だが、たとえば、「戦争と平
   和」が大きな話題になった。演出は、これも有数の大作だった「人間の運命」
   のセルゲイ・ボンダルチュク。
   1818年、ロシアに遠征したナポレオンに対して、ロシア側はモスクワを炎上さ
   せ、ボロジノで反撃してナポレオンを敗走させた。その150周年を記念して映
   画化されただけあって、俳優も豪華だったし、規模も巨大なものだった。

   「戦争と平和」は、ハリウッドでもオードリー・ヘッブバーンの主演で映画化され
   ている。オードリーの「ナターシャ」もすばらしかったが、リュドミラ・サベ
   ーリェワの「ナターシャ」も深い感動を残した。
   ボンダルチュクは、「アンナ・カレーニナ」を撮っているが、フランスのデュヴィ
   ヴィエが、イギリス女優、ヴィヴィアン・リーで「アンナ・カレーニナ」を撮った。

   ドストエフスキーの場合

   ドストエフスキーの映画化もさかんに行われている。1931年に、ソヴィエトで
   「罪と罰」(ゲ・シローコフ監督)が公開されたが、スターリンの大粛清が、この
   年からはじまっていることと重ねあわせると、こんな映画にも別の見方ができる。
   フランスの「罪と罰」(ピエール・シュナール監督)、戦後のロベール・オッセン
   の「罪と罰」がある。
   「白痴」は、ソヴィエトのイ・ブイリェフのものと、日本の黒沢 明が翻案したも
   のがある。
   「カラマーゾフの兄弟」は、マリリン・モンローが「グルーシェンカ」の役をやり
   たがっていたが、マリア・シェルの「グルーシェンカ」で撮影された。
  
   最後の結論

   かつて、「嵐が丘」(ウィリアム・ワイラー監督)は、ヒースの生い茂る荒涼とし
   た風物のなかで、はげしく、不幸な恋愛のすがたを描いた。この映画では若き日の
   ローレンス・オリヴィエが「ヒースクリフ」を演じていた。
   愛や死を通して、自分たちを取り巻く因習的な社会に反抗して生きようとする若い
   人たちの姿を描いたD・H・ロレンスの「息子たちと恋人たち」の映画化は、ジャ
   ック・カーディフの演出だった。
   親と子の世代の違い、そこにひそむクレディビリティー・ギャップ、性の解放とい
   ったテーマはやはり永遠の主題といえるだろう。

   アメリカ論

   アメリカの古典としては、いまやスタインベックの「怒りの葡萄」や、ヘミングウェ
   イの「武器よ さらば」などが、なにがなしロマンティックな追憶を誘う。
   私も、過去にずいぶんいろいろな名作をみてきたものだ。平凡な感想だが、ふと、
そんなことに感慨をおぼえる。

 *   *   *   *   *   *   *   *

ハリウッドで、映画を10本とれば、1本はヒット、2本はとんとん、あとの残りは、
残念ながらフロップ。その映画に出た俳優、女優は、蒼くなって、次の映画を探し回
る。
その映画を撮った映画監督は、たいていは、失業して、まともな映画も撮れなくなる。
   そんな現実があるから、「世界の名作」の映画化が企画される。
なにしろ、原作者がどんなに有名でも原作料を払わずにすむ。

 これで、私のエッセイはおしまい。

(つづく)

2020/09/13(Sun)  1867

 2020年8月、コロナ・ウイルス・エピデミックの感染状況が拡大している。

 先進国では、ワクチン開発をめぐってはげしい競争がおこなわれている。
 アメリカは、中国の総領事館(テキサス・ヒューストン)に対する閉鎖命令を出した。中国の総領事館員が、コロナ・ウイルス・ワクチンの情報を窃取する活動に関与した疑いがあるという理由だった。

 その手口は、総領事館員たちが、アメリカの大学に研究員として在籍する中国人の協力者たちに対して、窃取すべき機密情報を直接指示していたという。
 これに対して、中国政府は、対抗手段として、武漢のアメリカ総領事館の閉鎖命令を出した。
 
 こうなると、アメリカと中国の対立は、決定的なものになってくる。

 私は、少年時代に、ヒトラー、ムッソリーニvsチェンバレン、ダラディエのミュンヘン四者会談で、世界じゅうが戦争の予感におびえた時代や、砲艦「パネイ号」の誤爆事件から、日米関係がひたすら悪化の一途をたどり、日毎に緊張の度がはげしくなって行った時代を知っている。
 野村海軍大将が、特命全権大使としてワシントンに派遣され、日米関係がいくらかでも改善されるかのように、私たちは期待した。だが、いわゆるハル・ノートをつきつけられて、ついに真珠湾攻撃、太平洋戦争の勃発にいたった時期の、息づまるような悪化の日々を知っているだけに、現在のアメリカと中国の対立に深い懸念を抱いている。

 それにしても、アメリカと中国の対立が、コロナ・ウイルス・エピデミックと、シンクロナイズしているというのは、なんという歴史の皮肉だろうか。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *

 そんなこととは関係がないのだが、コロナ・ウイルスの感染が拡大していた時期、私は身辺の整理をはじめた。

 いろいろな原稿が出てきた。読んでみた。いやはや、どうにも挨拶に困るような原稿だった。われながら赤面のいたり。(笑)

 こんなものを書いていたのか。まるっきり、意味もない雑文だなあ。よくこんなものを書きとばしていたものだ。
 高齢者は、思い出に生きるといわれる。ところが、私の場合、雑文を書きとばしていたということ以外あまり思い出すことがない。だから、昔書いた自分の文章が出てきたりすると、地層のどこかに埋もれていた化石のかけらでも見つけたような、何か異様なものを眺めるような気もちになる。

 半世紀以上の歳月をへだてて、かつての自分が書いた、くだらない雑文を読み返すなど、やはり正気の沙汰ではない。

 破り棄てるか焼き捨てるほうがいい。

 そう思った。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *

 ところで――
 そんな原稿の中に、「文化グラフ」という雑誌に発表したエッセイがあった。「文化グ
ラフ」(1968年12月1日号)から切りとったもので、タイトルがわからない。まさか、ノン・タイトルということはないだろうから、多分、「映画化された世界の名作」とかなんとか、そんな依頼があって書いたものらしい。

 「文化グラフ」という雑誌ももうおぼえていない。どんな雑誌だったのか。

 なにしろ貧乏作家だったので、執筆を依頼してきた雑誌、新聞の原稿はかならず書くことにしていた。今と違って、携帯はもとよりファックスもスマホもなかった時代だから、大学その他で講義をする日に、大学の隣りのホテルのロビーか、映画の試写を見る日にかならず立ち寄った有楽町の「ジャーマン・ベーカリー」の2階に編集者にきてもらって、原稿をわたすことにしていた。

 「文化グラフ」という雑誌の原稿を依頼してきた編集者のことも忘れている。

 ただし、68年12月1日に掲載されているのだから、11月初旬には原稿を渡しているはずで、編集者は歳末のあわただしさを見越して、「映画化された世界の名作」などという当たりさわりのないテーマで原稿を依頼してきたと思われる。

 このエッセイを読んだとき、拙劣な内容にあきれたが、ふと、現在の老人の目から見て、当時、気がつかなかった論点を見つけ出してみよう、と思いついた。

2020/09/11(Fri)  1866
 
 たった一度だけだが、ファッション・モデルになったことがある。

 「面白半分」1976年9月号。開高 健 編集。

 雑誌のタイトルのように、面白半分で、写真を撮ってもらった。

 雑文つきで。

    パリを歩いていると、やはり眼につくのはパリジェンヌの美しさだった。むろん、
    美女も多いのだが、それほど美貌でなくても、服装の感覚がすばらしい女たち
    も多い。
    こういう感覚は、シックなもので、ああいう洗練を見てしまうと、どうしてああ
    もみごとな着こなしができるのだろうと不思議な気分におそわれる。
    男のおしゃれも、本質的におなじだろう。自分のよさをわるびれずに表現するこ
    と、そこに男の個性がにじみ出す。

 もともと、男のファッションなど、まったく無縁に過ごしてきた。およそ無趣味で、せいぜい山歩きぐらい。それも、誰もがめざす有名な山よりは、わざわざ誰も知らない山を探して歩くような、ヤボな登山者だった。
 山をおりてきたとき、村人が私に、
 「営林署の方ですか、ご苦労さんです」
 と、挨拶されたことがある。

 開高 健が面白半分にファッション写真のモデルにそんなワースト・ドレッサーを選んだのだった。

 あの頃はヤボはヤボなりに楽しかったな、と思う。

2020/09/09(Wed)  1865
 
 1928年の映画「フィルム・デイリー」のベスト・テン。

 ついでに、1928年のベスト・テンもかいておく。
 せっかくしらべたのだから。

    「愛国者 」  パラマウント      
    「ソレルとその子」 ユナイテッド・アーティスト  
    「最後の命令」 パラマウント      
    「四人の息子」 フォックス
    「街の天使」   〃              
    「サーカス」 ユナイテッド・アーティスト 
    「サンライズ 」  フォックス       
    「群衆」    MGM             
    「キング・オヴ・キングス」 パラマウント      
    「港の女」  ユナイテッド・アーティスト 

2020/09/07(Mon)  1864
 幼い頃から映画を見ている。
 むろん、内容もおぼえていない。
 後年、母、宇免から聞いたところでは、エディ・カンターの喜劇を見た私は笑いころげたという。
                            
 母は、いろいろな映画を見たが、私をつれて行くときは、きまって喜劇映画ばかりだった。
 幼い私は、ハロルド・ロイド、バスター・キートン、ローレル/ハーデイ、そしてグルーチョ/ハーポ/チコ/ゼッポのマルクス兄弟の名前を知っていた。

 自分が生まれた時代を想像するのは、むずかしい。

 1927年の映画を調べてみた。「フィルム・デイリー」のベスト・テン。
    「ボー・ジェスト」     
    「ビッグ・バレード」
    「栄光」
    「ベン・ハー」

 ただし、これは、1927年に公開された映画だけで、投票した人がこの年度中に各地で公開されたもの。なにしろ、アメリカは広いから。

    「肉体の道」  パラマウント      
    「第七天国」  フォックス       
    「チャング」  パラマウント      
    「暗黒街」   〃
    「復活」    ユナイテッド・アーティスト 
    「肉体と悪魔」 MGM

 こういうブログを書いている時は楽しい。

2020/09/05(Sat)  1863

 私が少年時代を過ごしたのは、東北の都市、仙台市だった。

 仙台市は伊達 政宗の所領で、現在も居城、青葉城址がある。なだらかな丘陵に沿って大きく蛇行しながら、市内を一級河川、広瀬川が流れている。さして水量は多くないが、雨期に入ると、水勢がつよくなって、対岸の越路(こしぢ)あたりは氾濫する危険があった。 私の一家が住んだのは、広瀬川にかけられた橋の一つ、あたご橋のたもと、当時、土樋(つちどい)という地名で、崖の上の家だった。門構えともいえない貧弱な門がついていた。その門のとなりに、梁川庄八首洗いの池という立て札があって、二畳ほどの長方形に大谷石で囲んだ池があった。緑青色によどんで、薄気味のわるい池だった。
 立て札の由来は、梁川庄八という下級武士が、伊達家の家老、茂庭周防守(すわのかみ)を青葉城下に邀撃(ようげき)、その首をはねて逃げた。逃げる途中で、橋のたもとの池で血のしたたる周防の首を洗ったという。この実録は戦前の講談で知られている。
 小学校の同級に、茂庭周防守の子孫にあたる少年がいた。私とおなじ背恰好だったので、仲良しになった。後年、柔道五段で、宮城県の柔道界の重鎮になったという。

 少年時代の私は、よくこの橋をわたって地名にわかりのあたご山にのぼった。石段がつづいて、頂きに無人のあたご神社があり、そのあたりは鬱蒼と樹がしげっている。この頂から仙台市内が一望できるのだった。

 このあたご山から、さらに奥の向山(むこうやま)、八木山(やぎやま)まで歩く。ハイキング・コースといってもいい距離だった。途中、伊達家の菩提寺のある経ガ峰も、青葉山のつらなりの一つで、ツツジの咲く季節がいちばん美しかった。

2020/09/03(Thu)  1862
 
 2020年4月7日(火)晴。

 この1〜2週間前に公開されていた映画を記録しておく。「パラサイト 半地下の家族」(12週目)、「犬鳴村」(8週目)、「スマホを落としただけなのに」(6週目)、「ミッドサマー」(6週目)、「仮面病棟」(4週目)、このほか4週目に入ったばかりの「一度死んでみた」、「ハーレクィンの華麗なる家族」、「弥生、3月」、「サイコパス 2」など。このほか、スーダン映画「ようこそ、革命シネマへ」、「白い暴動」(イギリス映画)、「囚われた国家」(ロバート・ワイヤット監督/アメリカ映画)など。

 私は、この映画を1本も見ていない。せっかく公開されながら、こうした映画の大多数は、誰にも見られないままオクライリになってしまう。これらの映画が再上映されるかどうか。おそらく、その可能性は低いだろう。コロナ・ウィルスが収束しても、そのときはもう誰の記憶にも残っていないだろう。

 これらの映画の製作に当たった監督、制作スタッフ、出演者たちの無念は察するにあまりがある。
 今回の中国コロナ・ウィルスのおそろしさは、「サーズ」と違って私たちの文化に回復できないほどの傷を与えることにある。

 他人にとっては、とるに足りない些細なことでも、本人にとっては忘れられない光景があるだろう。私のように平凡なもの書きでも、幼年期から少年期にかけて、今でも忘れられない情景がある。 

私は、戦前の大不況をいくらかおぼえている。1930年代初期、私が5歳のころ、外資系の会社に勤めていた父の昌夫は、突然失職した。母、宇免は2O代になったばかりだった。昌夫は三日間、あたらしい就職先をさがして、やっと別の外資系の会社に就職がきまった。ただし、あたらしい就職先は東京ではなく、仙台だった。
 私は、このとき、大不況ということばを知った。経済用語としてではない。幼い自分をふくめて、家族3人が何かおそろしい運命に翻弄されているという、漠然とした不安が「大不況」だった。その不安は、はっきりしたかたちをとってはいなかったが、幼いながら、自分たちの行く手に何かおそろしいものが待ちうけているような気がしたのだった。

 はじめて、仙台に着いたときの印象は、はるか後年、「おお、季節よ、城よ」のなかに書きとめてある。貸家をさがしまわって、広瀬川にのぞむ高台の小さな公園に立って、沈む太陽を眺めていたとき、幼い私はふるえていた。

 中国ウイルスの感染が拡大して、ついに「緊急事態宣言」が出たとき、かつての幼い私とおなじような不安を感じた幼児がいるかも知れない、と思った。

2020/09/02(Wed)  1861
 
 私には文芸としての川柳のおもしろさがわからない。
 それでも、気に入った川柳はいくつもある。


    深川で買って行かうと 汐干狩り   真 垣 

    赤旗を前垂れにする 下の関     めで度    (文政時代)

    大江戸の月は 須磨より 明石より  水 魚    ( 〃 )

    見るでなし見せるでもなし 緋縮緬  老 莱    ( 〃 )

    二の腕を反故染(ほごぞめ)して二十七  綾 丸  ( 〃 )

 いずれも文政期の川柳。せいぜいこの程度の川柳しかわからない。それでもこんな川柳を見つけて、ニヤニヤしたり、ニンマリしたり。
 もっとむずかしいのは、「武玉川選」。のちに前句づけの狂句に移行する句集だけに、五七五に七七の句をつけても、私にはわからないものばかり。
 いろいろと考えて、やっと、落ちや、うがちにニヤニヤする。

    去られてもの 去られてもまだ 美しき 

    うつくし過ぎて 入れにくい傘     

    朝顔の 一夜指さす 天の河      

    ともし火も吹き消しやうで恋になり   

    軽井沢 ほどほどに出る 物着星    

 なんとかわかる句にぶつかると、それがうれしくてニンマリする。コロナ・ウィルス感染の時期に、大昔の川柳を読むなんざ、いい気分だね。

2020/08/21(Fri)  1860
 

 香織さん、茂里さん。

 きみたちの手紙で、私なりにコロナ・ウイルスの日々や、自分の生きてきた時代を考えてみようと思いはじめた。

 ごく大ざっぱにいって――私の世代は、大不況、日中戦争、太平洋戦争、「戦後」、バブル、平成という不毛の「失われた20年」を生きて、ここにきてコロナ・ウイルスの災厄を見なければならなくなった不幸な世代なのかも知れない。

 そういえば――きみたちは平成不況からようやく立ち直りかけながら、ここにきてコロナ・ウイルスの後遺症に苦しむ最初の世代ということになる。どちらが、より不幸なのか。

 ところで、コロナ・ウイルスの日々、私にとって、おおきな楽しみのひとつは――
 きみのあたらしい仕事を読みつづけることだった。

 スーザン・イーリア・マクニールの「スコットランドの危険なスパイ」(圷 香織訳)。「マギー・ホープ」シリーズの最終巻。これだけで、442ページの大作。

 「スコットランドの危険なスパイ」のヒロイン、「マギー・ホープ」は第2次世界大戦中、イギリス首相、ウインストン・チャーチルの秘書だった。(第1巻)こういう設定の意外性から、まず原作者の驚くべき力量が想像できる。
 やがて、「マギー」は、王女、「エリザベス」の家庭教師になる。いうまでもなく、「戦後」のイギリスに君臨する女王、エリザベス二世である。(第2巻)
 「マギー」は国王陛下直属のスパイとして訓練を受ける。(第3巻/第4巻)
 「マギー」は、戦時中の上流階級のレディとして、ナチス・ドイツの情報機関を相手に死闘を続ける。さらにバッキンガム宮殿の内部に潜入している二重スパイを追求したり、ブンス本土でナチに抵抗するレジスタンスを応援したり。(第5巻/第6巻)

 ところが、特別作戦に参加しなかったため、イギリス情報部の秘密を「知り過ぎた」スパイとして、スコットランドの西海岸、それこそ絶海の孤島の奇怪な古城に軟禁される。ほかにも、「マギー」とおなじように有能で、スパイとして活動してきた9名の工作員がこの古城に「隔離」されている。
 この孤島から逃亡できる可能性はない。

 そして、あらたに一人の工作員が島に送り込まれる。その日から、先住の工作員がつぎつぎに異様な死を遂げる。工作員同志が互いに連続殺人事件の犯人ではないかと疑い、次に血祭りにあげられるのは自分ではないかという恐怖のなかで、「マギー」は、見えない敵に反撃を開始する。だが、誰を目標にすればいいのか。誰が、何のためにつぎつぎと「敵」を葬りさってゆくのか。

 私は、スパイ小説が好きで、オップンハイム、ル・キューから、サマセット・モーム、グレアム・グリーン、エリック・アンブラー、さらにはフレミング、ル・カレと読みつづけてきた。

 スーザン・イーリア・マクニールの「スコットランドの危険なスパイ」を圷 香織訳で読んだおかげで、コロナ・ウイルスで鬱屈した気分が晴れた。
 私としてはパリ潜入のあたりの「マギー・ホープ」にいちばん魅力を感じているのだが。

 書評を書くわけではないので、コロナ・ウイルスの日々、毎日、本を読む楽しみをあたえてくれたきみの仕事がありがたかった。

 また、いつかきみに会う機会があれは、私なりの感想をつたえたいと思っている。

2020/08/17(Mon)  1859
 
 コロナ・ウイルスの日々。

 知人、友人たちに手紙も書かなくなっている。

 翻訳家の圷 香織から手紙。私が沈黙しているので、心配してくれたらしい。

 「先生を囲んで最後に集まってから、半年ほどが過ぎましたが、あれから世の中がすっかり変わってしまったことに、あらためて目の覚める様な思いがします。」 

 「あれから世の中がすっかり変わってしまった」という思いは、私もおなじ。もう、これからは、コロナ・ウイルス以前の世界に戻ることはないだろう。

    しかし疫病というのは恐ろしいものですね。なんだか怪奇小説の中に入り込んで
    しまったかのようです。とはいえ、無症状の保菌者がまき散らすことで世界を危
    機に陥れるウイルスだなんて、フィクションの世界でもちょっと思いつかないと
    いうか、リアルではないということで却下されて仕舞うような気がします。やは
    り、現実は小説より奇なり、ということでしょうか。(中略)
    戦争をはじめ、これまでさまざまなご経験をなされてきた先生には、このコロナ
    騒動がどのように見えているのでしょうか。いろいろお考えがおありかと存じま
    すので、ブログなどでご紹介頂けるのを、いまから楽しみにしております。

 ずっとあとで、作家の森 茂里が暑中見舞いをくれた。

    この半年余り、SFの世界に迷い込んだような気分です。

 という。そうなのだ。
 7月23日、中国の火星探査機が打ち上げられ、予定軌道に乗った。これは、火星軟着陸を目指している。まさに、SFの世界で、その2日前には、UAE(アラブ首長国連邦)が、日本のH2Aロケットで探査機を打ち上げている。
 いまや宇宙戦争の蓋然性、可能性が、私たちにつきつけられている。

 「ウィズ・コロナ」どころではない。私たちは「なんだか怪奇小説の中に入り込んでしまったかのようで」、まさに「SFの世界に迷い込んだような気分なのだ。

 考えただけでワクワクしてくる。

 ありがとう、香織さん、茂里さん。

2020/08/11(Tue)  1858
 
 コロナ・ウイルスの日々。「世に飽きし無聊のため」ではなく、暇にあかせて、読み散らした詩の一節。

   獨往 路難盡   どくおう みち 尽きがたく
     窮陰 人易傷   きゅういん 人は いたみやすし 

 唐の詩人、崔 署(さいしょ)詩の一節。この人については、何も知らない。しかし、この思いはいまや切実なものとして、私たちに迫ってくる。

 無謀を承知で訳してみた。

     さすらいの 一人旅
     冬の終わりは ひたにしみる凍て 

 やっぱり、私には訳せない。

 さて、暇つぶしならポップスの歌詞でも訳してみようか。キャサリン・マクフィーの歌をききながら、そんなことを考えた。キャサリンのために、コール・ポーターや、サミー・カーンぐらいなら訳せるかも知れない。

2020/08/09(Sun)  1857
 
 コロナ・ウイルスの5月にふさわしくない詩を。


     LA NUIT DE MAI

       LA MUSE

  Poète, prends ton luth et me donne un baiser ;
  La fleur de l'églantier sent ses bourgeons éclore,
  Le printemps naît ce soir ; les vents vont s'embraser ;
  Et la bergeronnette, en attendant l'aurore,
  Aux premiers buissons verts commence à se poser.
  Poète, prends ton luth, et me donne un baiser.

 アルフレッド・ド・ミュッセ。
「五月の夜」の LA MUSE(ラ・ミューズ)。冒頭の一節。
 
 声に出して読むと、五月、おぼろながら、どこかねっとりした風がさわやかに吹いてくる。この詩は、詩人と女神(ミューズ)の対話。リュートは、竪琴(たてごと)。

 上田 敏の名訳がある。

    うたびとよ、こといだけ、くちふれよ。
    はつざきの はなそうび さきいでて 
    このゆうべ かぜぬるし、はるはきぬ。
    あけぼのを まつや かのにはただき 
    あさみどり、わかえだに うつりなく 
    うたびとよ、こといだけ、くちふれよ。

 さすがにいい訳になっている。

 ただし、今の私には、どこか違和感がある。ミュッセの詩は、こんなものだったのか。上田 敏訳はたしかに名訳といっていいのだが、なにか肝心のところを抑えていないような気がする。

 明治時代の訳だからことさら古びて見えるのか。

   うたびとよ、こといだけ、くちふれよ。

 詩人にむかって竪琴(たてごと)を奏でつつ、唇を寄せるがいい、という呼びかけの、いわば肉感性が出せなかったのか。prendsが命令形なのだから、竪琴(たてごと)を手にして恋人の唇を奪えといい切る強さが出せなかったのか。

 たとえば――「巷に雨の降るごとく 我の心に雨が降る」というヴェルレーヌの有名な詩を、 

      都に雨の降るさまに、
      涙、雨降る わがこころ、
      わが胸にかく泌(しみ)てゆく、
      この倦怠(けだるさ)は何ならむ。 

 と訳した若者がいる。はるか後年、英文学の泰斗として知られた矢野 峰人。これもいい訳だが、最後の部分、私としてはどこか納得できない。
                                       
別の訳例をあげようか。(矢野 峰人の訳ではない。) 

      泉が自分の霊から湧いて出んでは
      心身を爽やかにすることができない

 明治時代の、「ファウスト」訳。これがゲーテの訳なのか。失望した。

 永井 荷風ならどう訳したろうか。

 たまたま、荷風が「戦後」(1946年)に発表した「問はずがたり」の冒頭に、ミュッセの詩、1行が掲げてある。

     修らぬ行(おこない)は世に飽きし無聊のため、
        歎き悲しむ心は生れながら。

 これはすごい。私はひたすら感嘆した。「問はずがたり」は、「戦後」の荷風、再出発を告げる作品だったが、石川 淳などの貶降(へんこう)を受けた。今の私は、あらためて、「戦後」の荷風に敬意をもっているが、このミュッセ1行に託した荷風の鞜晦(とうかい)に驚嘆する。

 そして、 荷風は詩を訳しても一流の翻訳家だったと思う。

2020/08/07(Fri)  1856
 
 私はなぜ詩を訳さなかったのか。答えは簡単なものだ。

 私には語学的に詩を訳す能力がなかった。そもそも詩魂がなかった。
 
 それでも、詩を読まなかったわけではない。当然、好きな詩人はいたが、翻訳しようなどと思ったことはない。好きな詩人といえば、イエーツ、ディッキンソン、シルヴィア・プラス。ただし、たまに手にとってふと口にのせてみる程度。
 
 イエーツの戯曲も好きだが、たとえば、松村 みね子訳を読んでしまうと、イエーツを訳そうなどという不遜な気は起きなかった。また、訳しても出せるはずがなかった。何しろ貧乏だったから、ミステリーの翻訳をつづけるのにせいいっぱいで、詩を翻訳する余裕もなかった。

 詩の訳は戯曲の訳よりもむずかしい。これが、私の信念になった。

2020/08/05(Wed)  1855
 
 コロナ・ウイルスの日々。無聊にすごした。野木 京子が送ってくれた詩、詩の雑誌で現代詩を読む。私のような<もの書き>には、めったにない経験で、現代詩を知らないだけに、けっこうおもしろかった。

 そういえば、私は詩を訳したことがない。むろん詩を訳したいと思ったことはある。

 若い頃、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズを訳した程度。ディラン・トマスを訳したいと思ったが、訳しかけて途中で放棄した。どこにも発表する機会がなかったから。
 詩を訳したことがないにしても、詩人に対する敬意は忘れたことがない。もう時効だから、恥をしのんで告白するのだが、詩劇を書いてみたいという、大それたことを思い立って――ワーズワースの詩をもとにして、「ハイランドの乙女」という詩劇めいたものを放送(NHK)したことがある。けっこう本気だったらしく、アーチバルド・マクリーシュの詩劇の模倣を放送したこともある。誰が出演したのか忘れてしまったが、「文学座」の文野 智子や、「ぶどうの会」の若い役者たちが出たことはおぼえている。
 まだ、テープの録音などできなかった時代で、エボナイトのディスクに音を刻み込む時代だった。これが、私が芝居にかかわるきっかけになった。

 はるか後年、オスカー・ワイルドの詩劇、「パデュア大公妃」を訳したときは、はじめから散文の悲劇として訳した。あとは、拙著「ルイ・ジュヴェ」の中で、ジュヴェが朗読したA・ウィレットの詩ぐらい。
 そういえば、マリリン・モンローの詩を訳して「ユリイカ」に発表したっけ。

 自分でも気に入っているのは、断片ながら、アルフレッド・ベスターの「虎よ虎よ」の冒頭、ブレイクの詩の一節。
 詩ではなく、ポップスの歌詞を訳したことはある。たとえば、ジャニス・ジョプリン。「コズミック・ブルース」。

2020/08/03(Mon)  1854
 
 野木さんは、昨年の五月から、今月中旬まで、一年間、「現代詩手帖」の新人投稿欄の選者をやっていたという。今月の五月号で、選者として最後の役目になる、現代詩手帖賞を決定したのだった。毎年選者二人の対談で受賞者が決定するのだが、今年はコロナのせいで、メ−ル対談となった。

 「現代詩手帖」と、もう1冊、野木さんが出している同人誌、「八景」5号。
 こちらには、「庭の片隅で」と「乾いた広い土地」の2編と、エッセイが掲載されている。

    人の秘密は
    空洞があって
    空洞を取り囲んでいるものがあって
    ときどき 内側から崩れてしまう 

 私は、「乾いた広い土地」の一節を読んで、すぐに、ああ、そうだなあ、と思った。
 この「ああ、そうだなあ」という思いを説明するのは少しむずかしい。私の勝手な連想なのだから。
 私は、映画女優、キム・ノヴァクが描いた一枚の油絵、「落ちた王さま」を思いだしていた。

   これは父を描いたもの。バックは「化石の森」から着想したの。全身の感覚が麻
   痺して化石みたいになった男。感覚も情熱も何もかもがなくなった。だから死ん
  じゃったの。

 「化石の森」の荒涼たる砂漠と、遠くに燃えさかる赤い炎のような空、放心したように佇む男のまなざしには、希望のかけらもない。私はこの絵をキム・ノヴァクのどんな映画よりも傑作だと思っているのだが、「人の秘密は/空洞があって/空洞を取り囲んでいるものがあって/ときどき内側から崩れてしまう」という野木 京子の詩を読んで、「ああ、そうだなあ」と思ったのだった。

 むろん、キム・ノヴァクと、野木 京子にはまったく関係はない。ただ私は、キムの絵を見た感動を、野木 京子のことばを借りて、勝手に言い換えただけなのだ。

 私も全身の感覚が麻痺して化石みたいになった男なのだ。そして、私にも、秘密がある。その秘密にはやはり空洞があって、その空洞を取り囲んでいるものがある。
 それはもはや、内側から崩れている。

 野木 京子は書いている。

   この一年、パワフルな若い人たちの、バリバリの現代詩の投稿作を山ほど読み続
   けているうちに、自分の詩が書けなくなってしまいました。少しづつ調子を取り
   戻していきたいと思います。

 私も、きみのおかげで、少しづつ調子を取り戻してゆく。

2020/08/01(Sat)  1853
 

 コロナ・ウイルスの日々。4月から5月いっぱい、ただもう無聊にすごした。

 なんとなく、キ−ツの一節を思い出しながら。

    そして小さな街よ きみの街並みは 永遠に 
       沈黙をつづけて……

 毎日、無数の人が感染して、その感染がひろがりつづける。(7月23日、世界の感染者数は、ついに1500万人に達した。 後記)
 この感染者数の何%かの人が、ただの無意味な数字になって計上される。こういう死者たちは、自分の人生をできるだけ早く終わらせたいという思いから、数字の1つにむかって必死に走りつづけたのか。

2020年5月15日(金)晴。友人、野木 京子が、「現代詩手帖」5月号と、同人誌、「八景」を送ってくれた。
 野木 京子は、「現代詩手帖」で1年間、投稿の選者をつとめて、この5月号で、「現代詩手帖賞」の選考をおえたという。

    昨年の五月から、今月中旬まで、一年間、「現代詩手帖」の新人投稿欄の選者の
    仕事をしていました。
    若い人たちの運命を左右する役目でもあり、私には荷が重くて、緊張していた一
    年間でした。同封させていただいた、今月の五月号で、最後の役目になる、現代
    詩手帖賞を、ぶじに決定することができ、役目を終える事が出来て、私はとてもほっとしております。
    先生はあまりご興味ないかと思うのですが、一年間私ががんばった記念(?)の
    つもりでお送りしました。

 野木 京子が、私のブログ再開をよろこんでくれている。
 ありがとう、京子さん。

 私は、現代詩をほとんど知らない。しかし、野木 京子さんのおかげで、「詩について」とりとめもなく考えはじめた。

2020/07/07(Tue)  1852 (2020年4〜5月の記録)
 
 20年4月22日(水)。毎日、同じような時間が流れてゆく。
 川柳を読みつづける。

 外出自粛を続けている。わが家の近辺ばかりでなく、通りに通行人の姿はない。車も通らない。まるで、戒厳令が布かれたような状態。
 このまま5月の連休明けまで家の中で過ごすのだから、退屈な日々が続く。仕方がない。川柳はむずかしいので、短歌を読むことにした。

 尾上 柴舟編の「敍景詩」。
 この旧派の和歌は、どういうものだったか。つまり、子規と対立していた歌人たち、現在ではもはやその存在も忘れられた歌人たちのもの、その敍景詩を読む。

    朝の鳥に聞け、朝の雲に希望を歌ひ、夕の花に運命をささやくにあらずや、谷の
    流に見よ、みなぎる瀬には、喜の色をあらはし、湛(たた)ふる淵には、夏の影
    をやどすにあらずや。

 金子 薫園、尾上 柴舟編の「敍景詩」の序文の書き出し。明治35年の美文。

 なにごとか御堂の壁にかきつけて 若きたび僧はなふみていにし    河田 白露

 読経やみて昼 静かなる山寺の 阿伽井の水に花ちりうかぶ      朽木 鬼仏

 誰(た)が墓にそなへむとてか花もちてをさな子入りぬ ふる寺の門  平井 暁村

 一すじの砂利道ゆけば右ひだり 菜のはなばたけ 風のどかなり    須藤 鮭川

 かりそめに結(ゆ)ひし妹があげまきの髪のほつれに春のかぜ吹く   みすずのや

 行き行きてつきぬ山路のつくるところ 白藤さきて日は斜(ななめ)なり 川田 露渓

 こういう短歌から、明治中期の風景を想像する。もはや失なわれた風景を。
 なぜか、なつかしい風景に見える。
 ただし、なつかしい、おだやかな敍景だが、コロナ・ウイルスの感染にさらされている現在の若い世代にはまったく想像もつかない風景だろう。

 しかし、こうした和歌の伝統は、正岡 子規によって断ち切られた。
 あらためて、日本人に特有な叙情性について考える。
 
 「アララギ」によって駆逐されたはずの金子 薫園、尾上 柴舟などの影響は、新聞の短歌欄など、遙か後年の現在にも残っているような気がする。

2020/07/06(Mon)  1851 (2020年4〜5月の記録)

      20年4月21日(火)午後、晴。
 連日、中国ウイルスの感染拡大のニューズ。ただでさえ、気もちが萎えそうな時期に、日本海溝・千島海溝で起きる巨大地震の想定が公表された。それによると、北海道沖から岩手県沖で起きる大地震の規模は、マグニチュード9クラス。この巨大地震のエネルギーは、東日本大震災(2011年)の1・4倍、千島海溝で起きる巨大地震では、2・8倍。これはすごいね。日本沈没だよ。
 ツナミがくる。宮古市(岩手県)では最大29.7メートル、北海道の襟裳町で27.9メートル。八戸(青森)で26.1、南相馬(19.0、気仙沼(宮城)で15.3。当然、関東地方の海岸にも、ツナミの余波はくるはずで、茨城、千葉で、10メートルぐらいのツナミに襲われることになる。

 こうなったら、今のコロナ・ウイルスどころのさわぎじゃないね。
 その頃、私はとっくに野末の石の下だが、花輪の墓だって流されてしまうかも。恐ろしくて身がすくむ。考えるだけで不吉なまがまがしさにおののく。だけど、もうとっくに世をはかなんでしまったわけだから、いまさら幽霊になるわけにもいかねェだろう。ま、あきらめるっキャねぇか。(笑)

2020/07/05(Sun)  1850 (2020年4〜5月の記録)
 
「外出自粛」の日々。
 20年4月7日、安倍首相が緊急事態宣言の表明。対象は、東京都、神奈川、埼玉、千葉、大阪府、兵庫、福岡の都府県。期間は5月6日までの1カ月程度。

 東京では、6日、大学、映画館、ナイトクラプなども休業している。
 わが家の前の道路も、今朝から1人も通行人がいない。車も通らない。日本人の気質、とくに従順さ、規律正しさが、よくあらわれている。

 この頃、イギリス、ジョンソン首相は、コロナ・ウイルスの感染で入院していたが、病状が悪化したため、6日、集中治療室に入った。首相代理は、ラーブ外相。イギリス政府では、ハンコック保健・社会福祉相も感染、他にもウイルス感染で自主隔離に入った閣僚もあり、首相の婚約者(妊娠中)も感染が疑われている。イギリスの感染者数、5万2000人、死者、5300人を越え、1週間で感染者は2倍、死者は3倍に急増していた。
 アメリカは、感染者数、36万6614人、死者、1万783人。N,Y.市長は、希望的観測としながらも、感染拡大のペースが抑えられ始めた可能性がある、としている。

 緊急事態宣言、3日目。20年4月8日(水)快晴。
 中国ウイルス。6日の時点で、世界の死者数は7万人を越えた。2日に5万人、5日に6万を越えていたから、バンデミックの進行はとまらない。N.Y.は、5日の時点で、死者数は4159人。4日は、504人で4日の630人を下まわったので、いくらか安心したのだが。
 何も読むものがないので「中国帝王志」の1920年代の部分を読む。

 20年4月9日(木)快晴。外出自粛を続けている。わが家の近辺ばかりでなく、通りに通行人の姿はない。車も通らない。まるで、戒厳令が布かれたような状態。
 このまま5月の連休明けまで家の中で過ごすのだから、退屈な日々が続く。仕方がない。

 私は、DVDばかり見ていた。なにしろ時間をもてあましているのだから。思いがけない「再発見」もある。「あいり」の2作目。前に見たときは、これが2作目とは気がつかなかった。こんなことに気がつくのも、室生 犀星ふうにいえば――「今日も一日生きられるという素晴らしい光栄は、老いぼれでなければ捉えられない金ぴかの一日」なのだから。

 中国ウイルスの感染拡大で、大きな被害を受けているイタリア・ミラーノ。まったく観客のいない大聖堂の広場で、ボッチェッリがアカペッラで「アヴェ・マリア」ほか5曲を独唱した。久しぶりにボッチェッリを見たが、容貌はすっかり老人で、別人のようだった。歌よりも、そんなことに胸を衝かれた。
 南米コロンビアで、男女の外出禁止。これも中国ウイルスの感染拡大を防ぐため。ボゴタ市内のショット。公園の広場、男たちが2、3人、ベンチでぼんやりしている。N.Y.は、感染者10万3208人、死者、6898人。日本人女性で、ミュージカル、「ミーン・ガールズ」の舞台にたっていたリザ・タカハシの証言。ブロードウェイは、「アラジン」、「プロム」などを公演していた劇場すべてが中止。2月には、まだオーディションが2,3あったが、3月から皆無になった、という。こういう状況で、いちばん先に生活に困るのは、多数の舞台関係者、芸術家たちなのだ。

 読みたい本があるのだが、本屋も休業。なにしろ暇なので、まだ手元に残してある本を読み返す。昨日は、明和の川柳を読みつづけた。ほとんどの句は、わからない。当時の世態風俗を知らないし、典拠も見当がつかない。それでも、一句々々、ゆっくり読んで行く。

    一生けんめい 日本と書いて見せ 

 こんな句にぶつかると、18世紀、明和の頃に、すでに日本という国家観念が庶民に理解されていたのだろう。「あふぎ屋へ行くので唐詩選習ひ」という句があるところを見れば、庶民が中国を意識していたことはまちがいない。そういえば、「紅楼夢」はいつ頃から日本で読まれたのか。そんなことまで考える。これまたまったくの暇つぶしだが。

    日本へ構ひなさるなと 貴妃はいひ     

    三韓の耳に 日本の草が生え     松 山    (文化時代)

    日本の蛇の目 唐までにらみつけ   梁 主    (文化時代)

    日本では太夫へ給ふ 松の號     板 人    (文政時代)

    東海道は日本の大廊下        木 賀    (文政時代)

 江戸の、化政時代の文化も、私の想像を越えているのだが、川柳のなかにも、役者の名が出てくる。海老蔵、歌右衛門、三津五郎、路考、菊五郎、宗十郎、彦三郎、田之助、半四郎、小団次などがぞくぞくと梨園に登場してくる。
 こうした名優たちの名跡の大半は、今に受け継がれている。

 はじめこそ猥雑なものだったに違いないが、やがて、芸風も洗練されて、すぐれた劇作家もぞくぞくとあらわれる。
 私は、歌舞伎をあまり見なくなったが、それでも、今の海老蔵の団十郎襲名にあたっては、見たこともない五代目(後の白猿)や、水野越前の改革で、江戸を追放された七代目の故事を重ねて、しばし感動したものだった。

 もはや誰も知らない名優たちをしのびながら、あらぬ思いにふけるというのも、中国ウイルスの感染拡大で、ブロードウェイの劇場が軒並み休場している現在、多数のミュージカルのアンサンブルが失業していることに、心が痛む。

   錦着て 畳の上の乞食かな  市川 団十郎(五代目)

2020/07/04(Sat)  1849 (2020年4〜5月の記録)
 
 私たちは、武漢コロナ・ウイルスの発生時に、(WHO)の香港出身のマーガレット・チャン(香港出身の前・事務局長)の発表を見た。このとき、マーガレット・チャンは、ヒト=ヒトの感染は「ない」と表明した。
 翌日、WHO(エチオピア出身の事務局長)のテドロスは、おなじ趣旨の発言をしたが、 後日、(20年4月15日)、アメリカのトランプ大統領は、WHOに対して、「中国寄り」を非難し、資金拠出を停止すると発言した。中国ウイルスの初期に、中国側の隠蔽がパンデミックをもたらした。
 テドロスは、初期のウイルス感染いらい、終始、中国側の意向を重視して判断を誤った。テドロス罷免を訴えている人が、100万人をこえている。私は、テドロスの責任よりも、マーガレット・チャンの責任の方が大きいと考えている。

 わずか2週間のちに、アメリカ大統領、トランプは――「われわれを守る任務がある組織が失敗したため、アメリカは恐ろしい多数の死と経済的な惨状に見舞われている」という。
 この日、アメリカの感染者数、60万9516人、死者、2万6057人。N.Y.は、4月14日昼までに、死者は6000人を越えて、擬陽性を含めると、死者は1万を越える可能性があるという。
 これでは、トランプがWHOを非難するのも無理はない。むろん、トランプ大統領としては、11月の選挙に向けて、彼自身がウイルスへの対応に遅れたという批判をかわすためと見られる。

2020/07/03(Fri)  1848(2020年4〜5月の記録)
 
(つづき)
         *   *   *   * 

 ……世界全体も大きく転換していきそうですが、これからの時代をどう予想されますか。

   令和の時代、まずオリンピックは成功する。だが、私たちが想像もしなかった激甚
   な変化が起きるだろう。一時的な経済的な見せかけの繁栄の背後に、さまざまな衰
   退、おそろしい影が迫ってくる。(1)

 (1)に関して。

 2020年2月の時点で――私は武漢コロナ・ウイルスの発生など、まったく予想もしていなかった。(ずっとあとになって、占星術の本に、21世紀初頭に「奇病が世界を襲う」という記述を見つけた。むろん、そんな記述を信じたわけではない。)

 「令和の時代、まずオリンピックは成功する。」と私は見た。これも私の不明。
 オリンピックはエピデミックが収束し、かつ、日本がいくら努力しても、残念ながら成功しない。なぜなら日本で収束しても、他国のエピデミックが収束しないかぎり、オリンピックは失敗とまでは行かなくとも、成功したとはいえない程度のレベルで終わるだろう。残念ながら。

 「私たちが想像もしなかった激甚な変化が起きるだろう。」これは当たったが、私が予想したのは、経済的な破局であって、大不況の到来を考えていたのだった。私は、2019年夏期の段階で、アメリカの株価、ダウ平均の動きを見ていた。いうまでもなく、アメリカvs中国の経済闘争が背後にあった。この時期の株式の乱高下に異常な緊張を見ていた。いずれ、これは破局的なものになるかも知れない。
 トランプ以前に、どれほどの人が、現在の政治・経済体制を想像したろうか。
 私は、お互いに一歩もゆずらない姿勢に「恐怖」を感じた。
 その帰結はかならずやってくる。
 
 私は、少年の頃、日中戦争の拡大と、ヨーロッパの戦争の展開を見てきた。それぞれが世界戦争のかたちをとっていなかったが、二つの戦争が、それぞれ1929年の大不況の影響の結果として、満州事変と、ナチスの台頭をもたらしたと見ていい。

 習 近平の「一路一帯」構想が、典型的な帝国主義経済の発展であって、いわば中国による各国の植民地化、中国の勢力範囲が世界のあらゆる所にひろがって行くだろう。それは、アメリカ・ファーストと衝突して、世界の従来の均衡を破壊する。
 そう見れば、大不況は必至と見たのだった。

 私が――「一時的な経済的な見せかけの繁栄の背後に、さまざまな衰退、おそろしい影が迫ってくる」と考えたのは、今となっては、誤りと見たほうがいい。「緊急事態宣言」解除のあと、「一時的な経済的な見せかけの繁栄」などない。むしろ、国民の多数が、いっきに貧困や差別に苦しむことになる。

 さまざまな衰退ではない。すべてが衰退する。

 たとえば、コロナ・ウィルスの検査にあたっている医療関係者に多数の感染者が出ていること、また感染経路の不明者(とくに若い女性に多いという)が出ている事を考えた場合、そこに、私はウイルスのように見えない「貧困」や、社会的な、さらには性的な「差別」を見る。

 私たちは、コロナ・ウイルスの出現で、さまざまな欠陥を知った。医療現場で、人工呼吸器、防護服、マスクなどの基本的な必需品の不足や、検査薬も不足しているという欠陥を突きつけられた。北イタリアで、次々に搬送されてくる患者が病院の廊下に寝かされて、診察も受けられないまま死んでゆく光景をテレビで見たとき思わず慄然としたが、日本でも、重症患者が搬入先の診療所から拒否されて、救急車が受入れ先をさがしまわるといった例も多発した。
 
 コロナ・ウイルスのもたらしたものは、もはやエピデミックなどではなくパンデモニックな「格差」と「貧困」の姿だった。

2020/07/02(Thu)  1847(2020年4〜5月の記録)
 
 2020年5月3日(日)、コロナ・ウィルスによる新型肺炎の感染拡大がとまらない。日本国内の死者数が500人を越えた。

 つい先月だったが、中旬からは、週に100人を越えるペースだったが、4月28日に400人を越えて、わずか4日後には、500人を越えた。

 ここにきて、「緊急事態宣言」は、さらに延長されることになった。

 私は、平凡な作家だが、この中国コロナ・ウイルスの猖獗(しょうけつ)をみながら、きたるべき「コロナ後の世界」について、私なりに考えてきた。私などが考えたところで、何の意味もないと承知している。しかし、これは、誰の意見でもない。あくまで平凡な作家のつぶやきにすぎない。

 1年前、(2019年5月)、私は「ADIEUの前に」というエッセイを書いた。
 平成の時代が終わって、まさに令和改元の時期、田栗 美奈子のインタヴューにこたえたものだった。

         *   *   *   * 

 ……世界全体も大きく転換していきそうですが、これからの時代をどう予想されま   すか。

   令和の時代、まずオリンピックは成功する。だが、私たちが想像もしなかった激甚
   な変化が起きるだろう。一時的な経済的な見せかけの繁栄の背後に、さまざまな衰
   退、おそろしい影が迫ってくる。
   オリンピック以後の日本は、インターネットTVなど、国民のネット化ともいうべ
   きシステムの進行がひろがる。周波数のオークションなど放送の規制がゆるみ、テ
   レビは外国資本が圧倒的に進出して公益性を失ない、ひいては日本固有の文化はま
   すます衰退する。   (1)

   まず。2030年代初期〜40年代後期に、国難ともいうべき重大な危機が日本を
   襲うだろう、と考える。(断っておくが。私は東日本大震災を国難とは見なかった。)
   国難の規模の大きさは、南海トラフ地震を超えるほどのものになる可能性が
ある。        (2) 

   日本は、7年後に、国力が落ちて、現在(2019年)のEUにおけるスペイン、
   イタリア以下)二流国以下に落ち込むおそれがある。
   そういう時期の国民のモラルは、なんとしてでも盛り返さなければならないが、日
   本人にそれだけの気力が残されているかどうか。    (3)

   私は、今後の日本の将来についてはかなり悲観的なのだ。(4)
  
         *   *   *   * 

 私のインタヴューは、「NEXUS」25周年記念号(2019年6月)に発表されたが、私が予想だにしなかった事態が、1年後に現実のものになっている。

 私は、おのれの不明を恥じながら、この発言を訂正したいと思う。     
 
      (つづく)

2020/07/01(Wed)  1846 (2020年4〜5月の記録)
 
 5月12日、ひとりの俳優が亡くなった。

 ミッシェル・ピッコリ。94歳。

 少し調べれば経歴、出演作などもわかるだろうが、今の私は、外出自粛でそんなこともできなくなっている。それに、フランス語関係の本は処分してしまったからである。

 私の蔵書に、ミッシェル・ピッコリの「回想」があった。内容ももうおぼえていないのだが、「戦後」の俳優の書いたものとしては、なかなかおもしろいものだった。
 日本ではミッシェル・ピッコリはそれほど知られてはいなかったし、翻訳する機会もなかった。昭和から平成にかけての不況では出せる見込みもなかった。

 ミッシェルは舞台俳優だが、映画スターとして知られた。

 ブリジット・バルドーと共演したゴダールの「軽蔑」、あるいは、ブニュエルの「昼顔」で、カトリーヌ・ドヌーヴと共演したミッシェル・ピッコリといえば、思い出す人がいるかも知れない。

 初老から白頭翁の俳優として、たくさんの映画に出ている。エマニュエル・ベアールが美しい裸身を見せた「美しき諍い女」のミッシェル・ピッコリをおぼえている人もいるかも知れない。

 まるで違うタイプだが、イギリスの俳優、デヴィッド・ニーヴンとミッシェル・ピッコリの出た映画はかならず見ることにしていた。

 すっきりした長身に、シックな柄の毛糸のジャケットが良く似合った。二枚目ではない。むろん、三枚目ではない。演技も重厚な演技というわけではない。ときには残忍な悪役もやったが、彼がセリフをいうときの息づかいになんともいえぬ粋な魅力があった。彼以後の役者としては、アングラード、などが登場してくるが、ミッシェル・ピッコリがいっしょに出ていると、いつも見劣りがした。

 ミッシェルはジュリエット・グレコと結婚している。(のちに、離婚したが。)

 ジュリエットは、「戦後」のある時期までセーヌ左岸の、サルトル、シモーヌ・ド・ボーウォワールと並んで 実存主義(エグジィステンシャリズム)の女王だった。
 そのジュリエットは、晩年、東京で二度リサイタルをやって引退した。最後の公演のジュリエットは、ほとんど声も出なくなっていた。ミッシェルと離婚したあとのジュリエットの境遇を思って暗然としたことを思い出す。

 ミッシェル・ピッコリの死は、5月20日になってから知った。フランスにひろがっているコロナ・エビデミックのせいで遅れたのかも知れない。

2020/06/30(Tue)  1845 (2020年4〜5月の記録)
 
 ベッドに寝ころがって、フランス映画、「アガサ・クリスティーの奥様は名探偵」(パスカル・トマ監督/06年)を見た。アガサ・クリスティーの「トミー&タペンス」ものの映画化だが、ミステリーとしてはつまらない。
 ただし、主役の「ブリュダンス」をやっているカトリーヌ・フロはいい女優だった。もうひとり、好きな女優ではないが、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルドがすっかり老女になっている。

 たとえば――「人生模様」のマリリン・モンロー。しがない街娼の役で、セリフはわずか二つか三つ。マリリンはまだ無名だったが、相手は名優、チャールズ・ロートン。そのチャールズでさえ、ある瞬間、マリリンに圧倒されてしまう。
 カトリーヌ・フロは、外見は中老のおばさんだが、名探偵、タペンスになる一瞬に、舞台できたえた素質のよさがキラリと輝く。

 ジッドの、あまりできのよくない小説、「未完の告白」の最後の1行、

    その後、二度とふたたび、母の姿を見ることはありませんでした。

 つまらない小説が一瞬にして、みごとな幕切れになっている。映画をみて、思いがけない感動をおぼえるのも、そういう感動があるからだ。  

 つまらない映画を見るときは、女優さんの演技を見るにかぎる。主役でなくとも、どこかに女優の輝く瞬間があるかも知れない。わずかなカットでも、その女優さんの「役」のみごとさがきらめく瞬間がある。ときには、演技としてのきらめきだけにとどまらず、その女優の、舞台、スクリーンの「女」としての輝きとして印象に残るのだ。

2020/06/29(Mon)  1844 (2020年4〜5月の記録)
 
 南米コロンビアで、男女の外出禁止。これも中国ウイルスの感染拡大を防ぐため。ボゴタ市内のショット。公園の広場、男たちが2、3人、ベンチでぼんやりしている。
 N.Y.は、感染者10万3208人、死者、6898人。日本人女性で、ミュージカル、「ミーン・ガールズ」の舞台にたっていたリザ・タカハシの証言。

 ブロードウェイは、「アラジン」、「ブロム」などを公演していた劇場すべてが中止。2月には、まだオーディシヨンが2,3あったが、3月から皆無になった、という。こういう状況で、いちばん先に生活に困るのは、多数の舞台関係者、芸術家たちなのだ。
 さて私だが、今日もDVDで、しばらく前の映画を見るつもり。なにしろ、読みたい本があっても、外出自粛で買いに行けない。

2時、雨あがり。ごくたまに道路を車が走っている。

2020/06/28(Sun)  1843 (2020年4〜5月の記録)
 
 安倍首相が緊急事態宣言の表明。対象は、東京都、神奈川、埼玉、千葉、大阪府、兵庫、福岡の都府県。期間は5月6日までの1カ月程度。

 東京では、6日、大学、映画館、ナイトクラプなども休業した。

いまや日本も重大な事態に向かっている。さいわい、まだ医療崩壊は起きていないが、パンデミックの最悪のフェーズは――金融の崩壊、社会秩序の破壊、貧困、大不況など、私たちの想定外の事態につながる。

 こうなると、ただのパンデミックではすまない。むしろバンデモニックというべき状況になっている。

 外出自粛のせいで、わが家の前の道路もほとんど通行人の姿を見ない。車も通らない。これだけでも日本人の気質というか従順さ、規律正しさがよくあらわれている。「国民は、黙って事態に対処している」というべきだろう。

 このまま5月の連休明けまで家の中で過ごすのだから、退屈な日々が続く。仕方がないので、手あたり次第にDVDを探している。できれば、何も考えずに笑える喜劇を見たいのだが、あいにく、そんな映画はほとんど処分してしまった。

 外出自粛だから映画を1本も見ていない。もっとも、せっかく公開された映画の大多数は、誰にも見られないままオクラ入りになってしまうだろう。しかも、今後も再上映されるかどうか。おそらくその可能性は低い。
 コロナ・ウィルスが収束しても、そのときはもう誰の記憶にも残っていないだろう。

 どんなにいい映画であっても、たちまち忘れられるだろう。
 その映画に出ていた俳優、女優たちも、恐らく話題になることはない。だからこそ、私はせめてタイトルだけでも記録しておきたいと思う。
 これらの映画の製作に当たった監督、制作スタッフ、出演者たちの無念は察するにあまりがある。

 今回の中国コロナ・ウィルスのおそろしさは、「サーズ」と違って私たちの文化に回復できないほどの傷を与えることにある。

2020/06/27(Sat)  1842 (2020年4〜5月の記録)
 
 20年4月13日(月)やや晴。

 左膝の痛みが残っている。やっとの思いでワープロに向かう。
 私はDVDばかり見ている。なにしろ時間をもてあましているのだから。思いがけない「再発見」もある。
 こんなことに気がつくのも、室生 犀星ふうにいえば――「今日も一日生きられるという素晴らしい光栄は、老いぼれでなければ捉えられない金ぴかの一日」といっていい。

2020/06/26(Fri)  1841 (2020年4〜5月の記録)
 

20年4月4日。

 この1〜2週間に公開されていた映画を記録しておく。「パラサイト 半地下の家族」(12週目)、「犬鳴村」(8週目)、「スマホを落としただけなのに」(6週目)、「ミッドサマー」(6週目)、「仮面病棟」(4週目)、このほか4週目に入ったばかりの「一度死んでみた」、「ハーレクィンの華麗なる家族」、「弥生、3月」、「サイコパス 2」など。このほか、スーダン映画、「ようこそ、革命シネマへ」、「白い暴動」(イギリス映画)、「囚われた国家」(ロバート・ワイヤット監督/アメリカ映画)など。残念ながら、これらの映画を1本も見ていない。せっかく公開されながら、こうした映画の大多数は、誰にも見られないままオクライリになってしまう。これらの映画が再上映されるかどうか。おそらく、その可能性は低いだろう。コロナ・ウィルスが収束しても、そのときはもう誰の記憶にも残っていないだろう。

 こうした状況においては、どんなにいい映画であっても、たちまち忘れられるだろう。これらの映画が日本で公開されていたことも、その映画に出ていた俳優、女優たちも、恐らく話題になることはない。だからこそ、私はせめてタイトルだけでも記録しておきたいと思う。

 これらの映画の製作に当たった監督、制作スタッフ、出演者たちの無念は察するにあまりがある。
 今回の中国コロナ・ウィルスのおそろしさは、「サーズ」と違って私たちの文化に回復できないほどの傷を与えることにある。

2020/06/25(Thu)  1840 (2020年4〜5月の記録)
 
 何か、短いものを読んでみよう。俳句か、川柳でもいい。
 「柳多留」をさがしたが、見つからない。

 仕方がない。明和の川柳でも読むか。

 いや、驚いた。むずかしい。ほとんどの句がわからない。当時の世態風俗を知らないし、その句の典拠も見当がつかない。まるでナゾ解きのように、一句々々、ゆっくり読んで行く。まるで、散歩や、ジョギングのようなものだが。

    一生けんめい 日本と書いて見せ 

 こんな句にぶつかると、18世紀、明和の頃に、すでに日本という国家観念が庶民に理解されていたのだろうと、感心する。「あふぎ屋へ行くので唐詩選習ひ」という句があるところを見れば、ごくふつうの庶民が中国を意識していたことはまちがいない。そういえば、「紅楼夢」はいつ頃から日本で読まれたのか。そんなことまで考える。これまたまったくの暇つぶしだが。

    日本へ構ひなさるなと 貴妃はいひ     

    三韓の耳に 日本の草が生え     松 山    (文化時代)

    日本の蛇の目 唐までにらみつけ   梁 主    (文化時代)

    日本では太夫へ給ふ 松の號     板 人    (文政時代)

    東海道は日本の大廊下        木 賀    (文政時代)

 江戸の、化政時代の文化も私の想像を越えているのだが、川柳のなかにも、役者の名が出てくる。それぞれの時代を代表する海老蔵、歌右衛門、三津五郎、路考、菊五郎、宗十郎、彦三郎、田之助、半四郎、小団次たち。当時、こうした役者がぞくぞくと梨園に登場してくる。ただし、それぞれの役柄、芸風など、私には想像もつかない。
 こうした名優たちの名跡の大半は、今に受け継がれている。だから、今の海老蔵、三津五郎、菊五郎たちと重ねて、それぞれの役者が、かくもありしか、と思い描く。

 演劇史的には――文化・文政時代になって、現在の歌舞伎のコアというべき型、口跡がほぼ完成される。
 はじめこそ芝居も猥雑なものだったに違いないが、やがて、それぞれの芸風も洗練されて、すぐれた劇作家もぞくぞくとあらわれる。

 私は、歌舞伎をあまり見なくなったが、それでも、今の海老蔵の団十郎襲名にあたっては、見たこともない五代目(後の白猿)や、水野越前の改革で、江戸を追放された七代目の故事を重ねてしばし感動したものだった。

 もはや誰も知らない時代の川柳を読みながら、あらぬ思いにふける。

2020/06/24(Wed)  1839 (2020年4〜5月の記録)
 
 幼い頃から映画を見ている。
 むろん、内容もおぼえていない。
 後年、母、宇免から聞いたところでは、エディ・カンターの喜劇を見た私は笑いころげたという。
 母は、いろいろな映画を見たが、私をつれて行くときは、きまって喜劇映画ばかりだった。

 幼い私は、ハロルド・ロイド、バスター・キートン、ローレル/ハーディの喜劇が好きだった。         

 母の知人で、瀬川さんという裕福な家庭があった。瀬川さんの子どもたちが、私の幼友だちだった。瀬川夫人の従姉妹が伊達 里子だった。「蒲田」のスター女優だったと思う。私は伊達 里子の映画も何本か見ている(はず)だが、もう思い出せない。

 もうすこしあとのことだが――小学生の2年生か3年生の私がぼんやりおぼえているのは、高杉 早苗や、田中 絹代といった美女たち、さらには桑野 通子というモダン・ガールだった。

 幼い私があこがれていたのは、高津 慶子という女優さんだった。

 ずっと後年になって知ったのだが――高津 慶子は、17歳で、「松竹座」楽劇部に入社。1929年7月から「帝国キネマ」(帝キネ)に移った。19歳で「腕」という活動写真に主演。これが6本目。
 日本でも、サイレントの活動写真からトーキーに移行しようとしていた時代で、高津 慶子はプロレタリア映画、「なにが彼女をさうさせたか」に出ている。

 私が見た高津 慶子がこれもスターだった河津 清三郎と共演した活動写真に、幼い私はショックを受けた。題名もわからない。お互いに愛しあいながら、身分の違いが二人の仲を裂き、最後に旅先の旅館で心中するというストーリーだった。
 幼い私に何が見えているわけでもない。しかし――幼い少年時代に、私は農村がどんなに疲弊していたかを見ていた。
 幼心に、ふたりの悲劇がなんとなく理解できたのではないか。

 小学校の6年生の頃、時代劇の森 静子が好きだった。

 はじめてエノケン(榎本 健一)の「孫悟空」に出た中村 メイ子も見ている。

 その頃から佐久間 妙子、琴 糸路といった女優さんが好きになった。大都映画という、マイナーな映画会社のスターだった。このことは――ひとりで活動写真館にもぐり込むようになっていたことを意味する。
 いつの間にか高津 慶子のことも忘れてしまった。 

    かくばかり さびしきことを思ひ居し
    我の一世(ひとよ)は、過ぎ行かむとす  釈 迢空 

 老いさらばえて、もう誰も知らない古い古い映画のスターたちのことを思い出している。
 われながら、愚かしいこととは承知しているのだが。

2020/06/23(Tue)  1838 (2020年4〜5月の記録)
 
 私のように平凡な作家でも、幼年期から少年期にかけて、いくつか忘れられない情景がある。

 5歳か6歳の頃。

 ある日、私は父につれられて活動写真を見に行った。何を見たのかおぼえていない。
(後年、私が見た映画は、「乃木将軍と辻占売り」というタイトルで、山本 嘉一が「乃木稀典」だったのではないか、と思った。)

 その活動写真の休憩時間に、シャツにツナギの作業服を着た労働者が出てきて、スクリーンの前で激烈な演説をはじめた。若い俳優で嵯峨 善兵という。
              
 この俳優が何をしゃべったのか、幼い私にはわからなかったが、このアジ演説に館内の観客たちが立ち上がってさわぎはじめた。

 当時の映画館には、銭湯の番台のような臨検席という囲いがあって、制服の巡査がその席からスクリーンを見ていることがあった。このときも巡査が立ち会っていた。
 その巡査が立ちあがって、観衆のさわぎを静めようとした。ところが、観客の怒号がつづき、巡査に詰め寄って、館内で殴りあいのケンカがはじまった。

 何が起こったのかわからないが、私は、殴りあいの乱闘をする大人たちに恐怖をおぼえた。父はもみあう人たちに巻き込まれまいとしながら、私を守ろうとして、やっとのことで館内から脱出した。
 このできごとは幼い記憶に刻まれた。

 私の内面には群衆に対する恐怖がある。


2020/06/22(Mon)  1837(2020年4〜5月の記録)
 
 外出自粛。
 読みたい本があるのだが、本屋も休業。新刊の本も買えない。仕方がないので、わずかな蔵書をかたっぱしから読み直す。なにしろ暇なので、新聞に載っている俳句、川柳をじっくり読む。

  マンションのエレベーターに乗りたれば顔なき声なきマスクとマスク 瀬古沢和子

   エスカレーター マスク外さず目で会釈    鎌田 武

   挨拶は マスクのままで春彼岸        家泉 勝彦 

  コスモスの刺繍ほどこし花束のようなマスクを嫁から貰う  須山 佳代子 

 しかし、日本人が折りにふれて、俳句や短歌を詠むことのありがたさは、こうした俳句や短歌にも見られる。
 
 新聞の俳句、川柳を読み終わって、古雑誌をさがした。

 釋 迢空の短歌。(1940年)。

    老いぬれば 心あわただしと言ふ語(こと)の
      こころ深きに、我はなげきぬ       

    かくばかり さびしきことを思ひ居し
      我の一世(ひとよ)は、過ぎ行かむとす  

 1940年作。やはり、釋 迢空はすごいなあ。

 とりとめもないことを思い出した。
 釋 迢空先生には、一度だけお目にかかったことがある。紹介してくれたのは、「三田文学」の小泉 譲だった。私は畏れ多くて何もしゃべれなかった。
 1947年の冬だったと思う。他人にとっては、とるに足りない些細なことでも、本人にとっては忘れられない光景がある。

2020/06/20(Sat)  1836 (2020年4〜5月の記録)
 
 ブログに記録しておく。

 20年4月7日、私がブログを再開してすぐに、安倍首相が緊急事態宣言を表明した。
 政府は、5月6日までの期限内で、感染症の収束をめざしている。(これはさらに延期された。 後記)このエピデミックは、まさに国難と見ていい。

 この宣言の対象は、東京都、神奈川、埼玉、千葉、大阪府、兵庫、福岡の都府県。期間は5月6日までの1カ月程度。
 (その後、この規模は、全府県に拡大された。)コロナ・ウイルスの脅威は、ついに、日本にも及ぶことになった。

 東京では、6日、大学、映画館、ナイトクラプなども休業した。

 わが家の前の道路も、1人も通行人がいない。車も通らない。異常事態に直面したとき、私たちが(例外はあるにしても)、ほとんど平静に「緊急事態宣言」を受け入れようとする。その習性の、国民性の従順さ、規律正しさがよくあらわれている。

 私が若かったら、関東大震災に夢野 久作が東京を歩きまわって、ルポルタージュを書いたように、こういう時代の姿を記録しておくのだが。
 この4月、深刻なコロナ・ウイルス感染症の収束はまったく見られない。制御できないまま、ウイルスの感染はつづいている。つい2週間前には、感染者数も低かったロシアも、いまやパンデミックが絶大な衝撃をもたらしている。

 私は、現在の感染拡大の収束よりも、むしろその後のもっとおそろしい事態を危惧している。それは、政府が緊急経済対策で、現金10万円の一律給付を発表したが、これは焼け石に水にすぎない。
 きたるべき大不況は、この程度の対策では経済対策として成功しないだろうと思う。

 むしろ、私たちの前途には、いやおうなく大失業時代が待ちうけていると覚悟したほうがいい。

 リーマン・ショックのとき実施された一律給付をおぼえている。与党の党首の提言で、急遽、現金の一律給付が実行された。当時の首相はこの提言を聞いて、ちょっと驚いたような表情を見せたが、
 「いいんじゃないですか。この事態で、できることは何でもやってみる、ということで……」
 と反応した。木で鼻をくくったような反応ではなかったが、与党の党首の提案としてはほとんど意味がない、と思っていたらしい。私は、この瞬間、リーマン・ショックが、もっと深刻な打撃なのだろうと直観した。
     
 このときの現金給付は、焼け石に水でさえなかった。実効性のない思いつきで、ほとんど無意味な経済対策で終わった。私はテレビでこのシーン(首相の反応)を見たが、これが平成の「失われた10年」の端緒になった。
 この緊急経済対策の失敗を見ているだけに、今回の48・4兆円程度の給付措置が、今回のコロナ・ウイルスに対する経済的な支援として成功するとは思えない。

 私は、確実に大不況がくると思った。

 (このブログは、4月15日に書いたのだが、発信しなかった。
 もう少し、事態の推移を見たかったので。)

2020/06/10(Wed)  1835
 

   (つづき)

 せっかくの機会ですから、もう少し書いておきます。

 「ルイ・ジュヴェ」を書きあげたあと、私はもっと書きたいことがあるのに、これで終わってしまうのは残念な気がしました。しかし、いちおう書きあげたのだから、これでよしとしなければならない。これだけでも長すぎる作品なので、当時、不況のさなか出版できる可能性はなかったのでした。それまで、どんな本を書いても出版できないことはなかったのですが、私の仕事を担当してくれていた編集者たちもつぎつぎに他界したため、「ルイ・ジュヴェ」を出してくれるところはなかったのです。

 やっと出せることになってからも屈辱的なことがつづきました。私は、とにかく出せればいいと思っていました。たとえ少数であっても、この本が出るのを心待ちにしている読者がいる。そう思うことで耐えてきたのでした。
 「あとがき」の冒頭の一行、

 ようやく評伝 「ルイ・ジュヴェとその時代」が出版されることになった。 

 には、私の感慨というより、やみがたい無念の思いがこめられているのです。

 つまらないことを書きました。話題を変えましょう。

 ジュヴェがアテネで倒れたとき、ワンダ・ケリアン、モニック・メリナンたちが一緒でした。そのひとりに、フランソワーズ・ドルレアックがいました。後年、映画スターになった美少女です。当時、17歳。私は、このフランソワーズの名をあげただけで、あとは何も説明しませんでした。実は、彼女は「権力と栄光」でジュヴェが抜擢した女優でしたが、ジュヴェが亡くなったため、「権力と栄光」に出演することがなかったのです。このフランソワーズの妹は、当時、7歳。

 妹の名は、カトリーヌ・ドヌーヴ。

 フランソワーズ・ドルレアックと、カトリーヌ・ドヌーヴは、「ロシュフォールの恋人たち」(1967年)で共演しました。双子の姉妹の役で、「世界でいちばん美しい姉妹」と呼ばれました。いたましいことですが、映画の完成直後にフランソワーズは交通事故で亡くなっています。

 つい昨年(2019年)「カトリーヌ・ドヌーヴの言葉」(大和書房)という美しい本を書いた作家、山口 路子さんに会う機会がありました。カトリーヌのことから、フランソワーズが話題になりました。私が、
 「ジュヴェがアトリエで倒れた日、最後まで付き添ったひとりが誰だか知ってる?」
 「え?」山口 路子さんは驚いたようでした。
 「フランソワーズ・ドルレアックだよ」

 私が「ルイ・ジュヴェ」で、書かなかったことはたくさんあります。たとえば、晩年のジュヴェが来日する可能性が大きかったこと。ジュヴェがもう少し生きていたら、おそらく来日していたでしょう。

 私は、当時、親友だった椎野 英之と雑談していたとき、ジュヴェがアメリカで巡業することを話題にしました。当時、日本は占領下にありましたが、講和条約がサンフランシスコで調印されることがきまっていました。
 ジュヴェが、アメリカにくるのなら日本に巡業することも夢ではない。
 ジュヴェを日本に呼ぶことはできないだろうか、私たちは小林 一三あたりに話をもっていけば、不可能ではないなどと話しあって、舞いあがりました。

 椎野は、この話を「東宝」の森 岩雄にもってゆくことにしました。私は劇作家の内村 直也さん、当時「文学座」総務で、「文化放送」の演芸部長になっていた原 千代海さんに相談しました。おふたりは、かならずしも不可能ではないと考えてくれたのでした。

 こうして、私と椎野 英之のたあいのない空想はかなり急速に具体化してゆきました。

 もう誰も知らないことですが、それほど具体的な交渉があったのです。残念なことに、この交渉の直後にジュヴェは亡くなりましたが。

 ジュヴェ訪日のことに関わった少数の人たち、内村 直也、「東宝」の重役だった森岩雄、NHKのプロデューサーだった堀江 史朗、「東宝」にいた椎野 英之(のちにプロデューサー)などもすでに亡くなって、事実を伝える証言が得られなかったからです。
 はるか後年、ある人を介して森 岩雄さんにおめにかかりたいとおねがいしましたが、僧籍に入られていた森さんは、過去のことは語らないとして拒否されました。

 じつは、ジュヴェに連絡できるルートは、ほかにもありました。ジュヴェと親しい日本女性がいたのです。この女性のことも「ルイ・ジュヴェ」では書きませんでした。
 残念ながら。

 ジュヴェ年譜、1941年の「世界のおもな事項」の末尾に、
 「画家ロックウェル、クリスマスに『イエス生誕を見守る人々』を描く」という一行があります。私の「いたずら」ですが、このブログで、私がなぜ、こんな一行を書いておいたのか、その理由は、このブログに書いておきましたが。

 コロナ・ウイルスの恐怖がつづいているさなか、あなたのような熱心な読者がいると知って、あらためて自分が作家として「ルイ・ジュヴェ」を書いておいたことを誇りに思っております。

 ありがとう。


2020/06/07(Sun)  1834
 
 思いがけないメールが届いた。(2020.4.15.)

 そのまま、ブログに載せるのは失礼だが、許していただきたい。


   中田 耕治様  

    尊敬する方が神のように憧れると仰ったジュヴェのことを
    知りたくて、ご著書を出版後直ぐに手にいれました。
   それは、時代の空気の中の、役者・演出家の息遣いまで書き
   込んであるような本で、圧倒されましたが、それだけではなく、
   その人の人生に伴走しているような錯覚をおぼえるものでした。
   遅読で、毎日少しずつ読み、読むことが自分の一日の一部の
   特別な時間となり、途中から、いつか終わるこの日々が惜しく、
   辛かった思いが鮮明に残っております。
   けれども、エピローグ、あとがきまで読み終わり、「ありがとう、
   ジュヴェ」という言葉に辿り着いた時、止めどなく涙が流れ、
   生きなければ、生き果たさなければ、と、大きな励ましを戴き
   ました。自分の人生の様々な局面で、再び本を開き、紆余曲折、
   とにかくは死なずになんとか生きて来られました。
    新型コロナウイルス問題で、自宅待機の日々、久しぶりに
   手に取り、少しずつ読みながら、わくわくしております。
   ただの一読者で、甚だ厚かましいと存じながら、中田様のブログ
   を発見して、今、書かなければ、と思い着くと止められなくな
   りました。
    ありがとうございました、中田様。この本を書き上げて下さ
   って、本当にありがとうございました。
    どうぞお身体に気を付けて、書き続けてくださいますよう。
    ありがとうございました。


 高野さんという方のメールだった。
 
 まことに失礼ながら、このメールを引用させていただいた。(どうも宮 林太郎さんの「日記」のように、知人の手紙を勝手に引用するようで忸怩たる思いがあるのだが。)

 高野さん。
 あなたからのメール、うれしく拝読しました。お礼を申しあげます。

 評伝、「ルイ・ジュヴェ」をお読みくださっている読者がいる。しかも、発表して20年になるのに、私のブログ再開を喜んでくれている。まず、このことに驚き、かつ感動しています。

 あの評伝は、あと書きでふれましたように、20世紀の終わりに、つい昨日の世界を見つめ直すつもりで書いた作品です。たいして評判にもならず忘れられた作品ですが、こうして出版後20年もたっていながら、あらためて読み返してくださった読者がいる、と知ってうれしくなりました。

 1万人の読者が1度読んだだけで、その後は2度と読まれない本を書くよりも、少数の読者が時をへだてて読み返してくれる本を書く。作家としてこれほどうれしいことはありません。まして、あなたのように、毎日少しずつ読み、読むことが自分の一日の一部の特別な時間となり、途中から、いつか終わるこの日々が惜しく、辛かったという読者が、私のブログの再開に励ましのメールを送ってくださった。作家として、これほどありがたいことはありません。

 私の「ルイ・ジュヴェ」は、複雑な記述が多く、とりあげられたテーマも多様で、しかも、今ではもう誰もおぼえていない俳優、女優が次から次に出てくるのですから、さぞ読みにくかったとおもいますが、あなたは最後のあとがきまで読み終わり、涙したと書かれています。私のほうこそ、こういう読者がいると知って感動しました。

 心からお礼を申し上げます。

   (つづく)

2020/05/31(Sun)  1833
 
 ここで、私の「現在」に戻るのだが――

 もう誰もおぼえていない映画だが、「ジュリー&ジュリア」(ノーラ・エフロン監督、2009年)のなかで、ヒロイン、「ジュリー」(エイミー・アダムズ)は、毎日、ブログを書いている。
 「ジュリー」は――半世紀も昔に、パリでフランス料理を勉強して、アメリカ人のために、524ものフランス料理のレシピを書いて、ベストセラーを出した「ジュリア・チャイルド」(メリル・ストリープ)にあこがれて、1年間かけて、そのレシピを作ってみる。そのプロセスを、おもしろくブログに書き続けるのだが、途中で、ブログを書くことは――「虚無の空間に書き送っている感じ」に陥る。そんな娘の将来を心配した母親に、

 あんたが、そんなブログを書いても、書かなくても、誰も気にしないよ。

 とあびせられる。

 いろいろなセリフを思い出す。
 「大いなる眠り」のハンフリー・ボガート。

Another hour, another bottle――another dame?
   
 むろん「フィリップ・マーロー」のセリフ。

 老齢に達した作家が、何かの事象をとらえて、自分の理解なり洞察を日記に書きとめる。そこには、宮さんのように老年の叡智が輝くかも知れない。ただし、私のブログにそんな叡智が輝くはずはない。

 ただ、これから先の「中田耕治 ドットコム」では、できるだけいろいろなテーマをとりあげてみたいと思う。できれば、宮さんが生きていたら相好をくずしてよろこんでくれるようなテーマを書きとめておきたい。
 まさか、宮さんのような天衣無縫な「日記」などは書けないけれど。
          (再開 15)

2020/05/28(Thu)  1832
 
 宮さんのことを書きながら、私は戦前のフランス映画、「望郷」の「ペペ」と、パリジェンヌの「ギャビー」が、語りあうシーンを思い出した。
 「ペペ」は、地下鉄、シャンゼリゼ、オペラ、北駅(ガール・デュ・ノール)。カプシーヌ、モンマルトル。ロシュアール・フォンテーヌ、ブランシュ広場とあげてゆく。
 あのシーンのように、私たちは、いつも、パリの街の美しさ、パリの女の美しさを語りあった。
 
 宮さんは、映画、「失われた地平線」を見たことを思い出して、「ぼくは、遙かなる昆崙山脈中のラマ教の寺院・シャングリラーに行きたい」と書く人でもあった。(「日記」第7巻)私は、そういう宮さんの無邪気なところが好きだった。

 お互いにヘミングウェイや、パリのこと以外はほとんど話題にしなかったが、私を相手にした宮さんはシャンゼリゼの美しさ、トティ・ダルモンテ、マリアンヌ・フェイスフル、ハリウッド女優、ジュリア・ロバーツの美しさを語って倦むことがなかった。
 宮さんの天衣無縫な話題と、心のやさしさを思い出す。

       (再開 14)

2020/05/26(Tue)  1831
 
 宮さんの「日記」のいいところは、老年になって、それまではついぞ覚えたことのない老年の不機嫌や、ひがみも語りつづけたこと。
 それでいて、頑迷な、気むずかしい人間になり果てた老人といった感じがない。

 宮さんの天衣無縫ぶりは、「日記」のかなりの部分が、自分の好きな作家のこと、各地の友人たち(そのほとんどが、各地の同人雑誌作家たちだった)の手紙の全文の引用、そして、自分の好きな作家(特にヘミングウェイ)の文章、その伝記からの引用にあらわれている。
 引用の多さは、常軌を逸していた。
 この引用はまことに臆面もないもので、うっかり手紙を書こうものなら、たちまち宮さんの「日記」に転載されてしまう。日頃、よほど親しい友人にさえ手紙を書かない人間なので、宮さんを訪問することはあっても、手紙は書かなかった。

 しかし、「無縫庵日記」を読むのはけっこう楽しかった。

 宮さんの引用は、よくいえば、さながらアテナイオスの随想録、「食卓の賢人たち」を読む様な趣きがあった。この随想録には、つぎからつぎにいろいろな人の意見や詩、エピグランマが出てくる。いたるところに、同人作家仲間の手紙や、宮さんの作品に対する諸家の批評が並んで出てくる。将来、宮さんの「日記」を読む人は、誰も知らない同人雑誌の作家たちのあれこれを教えられることになるだろう。

 私もまた宮さんの「日記」に登場することになったが――じつは、宮さんの最晩年の中編小説、「幽霊たちの舞踏会」に、作中人物としての「中田耕治」としても登場している。
 この中編小説には――コクトオ、ピカソなどいろいろな人物が登場するのだが、マリリン・モンローも出てくる。この登場人物はみんなが「幽霊」で、この「幽霊たちの舞踏会」に、主人公(宮さん)が、若い友人の作家、「中田耕治」を誘って出席するという話だった。
 この小説の「中田耕治」は、まことに頭のヨワい作家で、「マリリン・モンロー」に会えるというだけで雀躍して同行する。
 私自身、頭のヨワい作家なので、どう描かれても仕方がないのだが、宮さんの「いたずら」はどうも感心しなかった。せめて辛辣なパロディとして書いてあればおもしろくなったと思われるのだが、「マリリン・モンロー」も、コクトオ、ピカソも、まるで生彩がなかった。

 私たちはお互いにヘミングウェイや、パリのこと以外にほとんど話題にしなかったが、宮さんは私の訪問をよろこんでくれたと思う。
 宮さんはパリの街の美しさ、パリの女の美しさを語って、倦むことがなかった。 
         (再開 13)

2020/05/25(Mon)  1830
 
 こうして、私も宮さんの「日記」に登場することになったが――ひとまわりも年下の私が宮さんに親しくしていただいたのは、宮さんの敬愛する芸術家たちに私もまた、敬意と親しみをもっていたからだった。

 ここで、宮さんのあげている芸術家たちを思い出してみよう。
         
 トーマス・マン、ヴァルター・ベンヤミンについては、残念ながら、私はそれほどよく知らない。アナイス・ニンは当然よく知っている。
 ジェイムス・ジョイス、T・S・エリオット、ガートルード・スタイン。
 「ユリシーズ」は、私にはむずかしい。ガートルード・スタイン。いずれもむずかしい作家だが、私もヘミングウェイに関連していちおう読んできた。
 エズラ・パウンド、リルケ、ナボコフ、カフカ。このあたりも、なんとかわかるつもりでいる。
 モーム。この作家は、ほとんど全作品を読んだ。おなじように、スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、これも全部読んだ。シルヴィア・ビーチは、パリに行ったとき、何度も通った。今でもそのとき買えなかった本のことを思い出す。ピカソ、モジリアーニについては、何度も書いている。シャガール、イサドラ・ダンカン、ストラヴィンスキーたちについては書く機会がなかった。
 それでも、宮さんと語りあうには、いちおうじゅうぶんな知識をもっていたと思っている。

 宮さんも、私と語りあうことで、好きな話題がたくさん出てきたので、日記にせっせと書きつづけたのだろう。
       (再開 12)

2020/05/24(Sun)  1829
 
 宮 林太郎さんの「日記」には、いろいろな知人たちのことが出てくる。
 ある時期の私自身も、宮さんの「日記」に頻出する。他の人に迷惑がかかるといけないので、私(中田 耕治)にかかわりのある部分だけを引用する。

               1995年9月12日 
    「ジャン・コクトー展」見学の会は、すばらしい会になった。ぼくは嬉しい。中
    田さんが彼の恋人を十数人引き連れて出席していただいたのには、まったくもっ
    て参った。みんな美しい人たちばかり。それで会はもっと盛りあがった。ぼくは
    惨めなものになったらどうしようかと夜も眠れない始末。でも、まずよかった。
    「全作家」の連中も熱心に会場を回っていた。ジャン・コクトーは、現代の我々
    にとっては失われてしまった時代のルネサンス運動ともいうべきものではないだ
    ろうか。モダニズムという考えは一九一〇年あたりからの現象であるが、現代の
    日本にはまだ均整がのさばっている。それはいろいろな作家たちの書いたものを
    読めばわかる。思考がまるで古いのだ。それに本物のモダニズムがどんなものか
    ということもわかっていない。それは叡智とエスプリの問題なのだ。
    だが、それにも関わらず、われわれはそのあと生ビールを飲んでみんなで楽しく
    心配していた会が良い午後になったのはぼくにとってはほんとうによかった。ぼ
    くは隣のマルゼンの洋書店でブリジット・バルドーの本を一万円で買って帰った
    。輸入ものにしては値段が高い、がこれは素晴らしい。骸骨のような肉体美とい
    うと彼女に失礼だが、彼女の野性的な美しさに惹かれるわけだ。カメラで十枚ぐ
    らい複写した。それをマリリン・モンロー一辺倒の中田さんに送ろうと思ってい
    る。バルドーの魅力はマリリンとはちがう。そこを中田さんに認めさせるためで
    ある。でも、だめかな? ……中田さんとも久しぶりで会えてよかつた。
    それから会場で中田さんからトティ・ダル・モンテ(Toti dal Mon
    te)のCD盤をいただいた。これは有難い贈物です。とたんに嬉しくなった。
    まだ聴いていないが、落着いてから彼女の美声を聴くことにしよう。

 その3日後(9月15日)の「日記」。

    それにしても、「ジャン・コクトー展」へ中田さんが沢山のキレイナ女の方をお
    連れになってご出席いただいたことは、ぼくにとっては大変嬉しいことでした。
    みなさん知的な目をしておりました。ぼくは知的な目をもった聡明な女が好きで
    す。(後略)

 この集まりに、私は「沢山のキレイナ女の方」、当時、「バベル」の生徒たちをつれ
て行った。宮さんは、驚いたにちがいない。
 さらに、9月17日には、     

    中田さんから「コクトー展」で頂いた「トティ・ダル・モンテ」のCDを聴く。
    すばらしい声だ。1926―9年に録音されたものだが、なかなか録音状態がよ
    くて、ダル・モンテの声が美しい。聴き惚れて、今、ぼやぁとしている。 
    こんなレコードをいただいて中田さんに感謝しております。

 宮さんが外出もできないご高齢と知って、あまり社交的でない私は宮さんを訪問するようになった。私たちはヘミングウェイや、宮さんが愛していたパリのこと以外、ほとんど話題にしなかったが、私の訪問をいつもよろこんでくれたと思う。
   
             (再開 11)

2020/05/23(Sat)  1828
 
 もう少し、宮さんの「日記」を引用してみよう。

 1995年5月3日。

    六月号の女性雑誌「Marie claire」というのを買ってきた。「異邦
    人のパリガイド」という特集号で、「エトランジェが発見したパリの魅力」とい
    うのが副題である。それは二十世紀初頭の一九一〇年代にかけてパリを彷徨して
    いた芸術家たち――アナイス・ニン、トーマス・マン、ヴァルター・ベンヤミ
    ンやジェイムス・ジョイス、T・S・エリオット、ガートルード・スタイン、エ
    ズラ・パウンド、リルケ、ナボコフ、カフカ、モーム、スコット・フィッツジェ
    ラルド、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、シルヴィア・ビーチ、ピカソ、モ
    ジリアーニ、シャガール、イサドラ・ダンカン、ストラヴィンスキーたちで、い
    わゆるパリのボヘミアンの群れと、パリのアメリカ人たちの群れであった。
    中でもヘミングウェイ、ジェイムス・ジョイス、ガートルード・スタイン、ヴァ
    ルター・ベンヤミンについては、各々そのパリとの結びつきが詳しく書かれてい
    て興味深く読んだ。
    
 若い頃の私はヘミングウェイを訳したり、そのヘミングウェイに私淑して回想を書いた編集者の本などを訳したことがある。宮さんもヘミングウェイに私淑していたので、そんな私の仕事に関心を寄せてくれたのだった。

 さて、宮さんはガートルード・スタインについてふれながら、ガートルードが死ぬまでパリに暮らしていたのに、「カフェ」に近づいていない理由を考える。

    アメリカのニューヨークでは「カフェ」を探しても見つからない。それは「何も
    しないでカフェに長い間坐っていることは、一種の「悪徳」と考えられているか
    らであり、カフェは、怠惰の象徴であり、非生産性を助長する……」というので
    ある。なるほど、そういう考え方もあるのかなあ、と反省してみた。

 東京でもカフェは発達しなかった、と宮さんはいう。

    「カフェ文化」が起こらないのは、真のボヘミアン精神が成長しないか、育たな
    いか、存在しないかの違いである。つまり、パリの街の魅力のような自由なボヘ
    ミアニズムがないからである。

 そして、東京ではどこもかしこも落ちつく場所がない、と宮さんは嘆いている。

 東京で「カフェ文化」が起こらないのは、パリの街の魅力のような自由なボヘミアニズムがないから、というのは、失礼ながら、いささか単純ないいかたで、思わず笑ってしまった。これが宮さんの「天衣無縫」ぶりなのである。

          (再開 10)

2020/05/22(Fri)  1827
 
 宮 林太郎さんのことを思い出す。

 本名、四宮 学。1911年(明治44年)生まれ。本業は、医家で、一時は画廊も経営していた。同人雑誌作家の雄として知られていたが、作家としての仕事はほとんど知られていない。残念ながら作家として有名だったわけではない。
 著作には「遙なるパリ」、「パリ詩集」、「タヒチ幻想曲」、「幽霊たちの晩餐会」など。 
 晩年は「無縫庵日記」という日記を書きつづけていた。


 老年になってもはや創造力も枯渇した作家が、同時代のすぐれた作家たちの言葉をひたすら引用して、「日記」に書きとめておく。これも、それなりにわかる。現在の私は、宮さんとおなじ老齢に達しているのだが――今にしてようやくこの老作家の孤独な心情を理解できるような気がする。

 自分の老醜ぶりをさらけ出しても、書きたいことは書いておく。作家の執念のようなものが宮さんの「日記」にみなぎっている。私は――やたらに引用ばかり多い「日記」を書きつづけた老作家をいささかも軽蔑しない。そんなことを考えるのは――不遜ではないか。
                              
 宮さんの「無縫庵日記」には、いちじるしい特徴がある。宮さんがこの「日記」を書きつづけていた時期、さまざまに重大な事件(例えば、阪神大震災、 オウムの地下鉄サリン事件)が起きていた。
 宮さんは、そうした事件に対して忌憚なく感想を述べたり、そんな時期に読んださまざまな本の感想、とくに宮さんの敬愛するヘミングウェイをめぐって、いかにも宮さん流の感想、批評などを書きつづけていた。いちじるしい特徴としては、たくさんの同人雑誌作家仲間からの手紙が引用され、それぞれに対する宮さんの返事などが、それこそ天衣無縫に並べられている。

 当然ながら、宮さんの「タンドル・コネッサンス」(やさしいお相手)の「回想」や、医師として観察した女性の性徴についての蘊蓄も語られている。ただし、つぎのようなアポロジイが添えられているけれど。

    それにしても、「女に関するあからさまな真実を語るのは難しい。棺桶に片足を
    突っこんでからにしよう。それから、話してしまったら、大急ぎでもう一本の足
    も突っこんで、蓋をしてもらうつもりだ」と、ロシアの文豪トルストイが言って
    いる。 
    とにかく、女について真実を書こうとすることは難しい。真理はいつも、(女ば
    かりではなく、男の欲情の側にもあるが、それを書こうとすることは)トルスト
    イが言ったように、棺桶へ片足を突っこんだときにのみ書くべきであろう。あま
    り露骨に真実を書くと君は闇討ちに遭う危険がある。人間の世界では恐るべき無
    知な物語が山ほどある。人は本当のことを言うことを避けようとするし、「どう
    でもええや、おまへんか」と言う人間もいる。
    ぼくはいつでもそう思う。自分の考えを喋ってはならん。そう思いながら喋って
    しまうのがぼくの癖であるが、紙とベンとワープロという悪魔がいるので仕方が
    ない。 
                                       
 宮さんはそのときその時に「考えたこと」を遠慮なく、楽しそうに「無縫庵日記」に書きとめている。

       (再開・9)

2020/05/19(Tue)  1826
 
 私のブログが、レトロスペクティヴなものになるのはやむを得ない。

 ある時期、私が親しくしていただいた先輩を思い出す。そのひとりが宮 林太郎さんだった。むろん、私の勝手な連想で、宮さんには、何の関係もないのだが。

 こんなことばを聞いたことがある。

 「どうして、お宅の息子さんは発明なもんだ。下駄屋の息子さんには惜しいものさね」
 「なあに、あいつは変わり種でさあ。こまっしゃくれたことばかりいいやがって、から
役には立ちませんや」

 落語に出てくるセリフのようだが、「発明」という言葉に、別の使われかたがあると知
ったのだった。英語でいう Sagacity の意味だが、辞書には、「汝が発明らし
き貌して」(「武家義理物語」)や、「女郎芸者に発明なる者はあれども」(「梅児誉美
」)といった例が出ている。私の少年時代、こんな言葉が日常的に使われていた。

「から」は、からきしの略。「からきし何も知りやせん」という例が「膝栗毛」にある。

 「この界隈じゃ、おめえの考えるような、シラ几帳面なことはありやしねえ」

 この「シラ」はよくわからないが、かるい推測にいう。

 セクハラで追求されて、シラを切る。あの「シラ」とは別物。
                             
  (再開・8)

2020/05/15(Fri)  1825
 
 コロナ・ウイルスの感染拡大で、まだ緊急事態の宣告にいたっていない。(編注:この記載のあと間もなく緊急事態宣言が発令された)
 こういう時期にブログを再開したのはよかったかどうか。

 これまで勝手に何かのテーマをとりあげては何か書いてきたのだが、この1年、どういうものかブログを書く気力がなくなって、ただぼんやりと過ごしてきた。
 
 そんなとき、親しくして頂いた先輩たち、あるいは、私と同時代の作家、詩人たちのおもかげが、ふと頭をかすめる。その人たちはすでに幽明世界を分かっている。

 たとえば、澁澤 龍彦。

 個人的に澁澤さんと親しかったわけではない。

 昨年、礒崎 純一という人の「龍彦親王航海記 澁澤 龍彦伝」(白水社)が出た。著者は、晩年の澁澤 龍彦の担当編集者。このタイトルは、澁澤さんの最後の作品、「高丘親王航海記」にちなんだもの。
 500ページの大冊で、澁澤 龍彦に関して最高の評伝といってよい。

 この本の中に、私の名も出てくる。むろん、名前だけだが。
 私は、澁澤さんが編集にあたった「血と薔薇」の執筆者のひとりだった。

    それまでの澁澤の交友関係からみてめずらしい部類に入るのは、植草 甚一、
    中田 耕治、堀口 大学、杉浦 民平、高橋 鐡、川村 二郎、倉橋 由美子、
    野坂 昭如、武智 鉄二といったところか。特に、中田 耕治と植草 甚一を執筆
    者に選んだことを、澁澤は得意に思っていたらしい。前衛歌人の塚本 邦雄が
    小説に手を染めたりも、「血と薔薇」での澁澤の執筆の依頼がきっかけだった。
           「龍彦親王航海記 澁澤 龍彦伝」 P.277  

 これだけの記述から、「血と薔薇」の編集会議のようすや、デューマの「ルクレツィア・ボルジア」上演(村松 英子が主演した)後、赤坂の旗亭で、めずらしく澁澤さんと、親友の松山 俊太郎がはげしい論争をくりひろげたことがよみがえる。
 このとき、龍子夫人が同席したが、私はその後、作家になった若い女性を同伴していたのだった。観劇後、酔余に澁澤さんと松山さんがはげしい文学論争をはじめるなど想像もしなかった。
 
 ただし、そのあとは、澁澤さんが戦時中の歌を謡いはじめ、松山さんも、私も合唱することになって、和気あいあいとした酒席になった。
 
 そんなことが、とりとめもなく私の心によみがえってくる。
 
               (再開 7)

2020/05/12(Tue)  1824
 
 2020年、私は友人たちに手紙さえも書かなくなっていた。何かを書こうという気力がなくなったことは事実だが、それと同時に、記憶力がひどく衰えたような気がする。(あるいは、それが原因かも?) 
 よく知っているはずの人名が出てこない。
 
 知っている漢字が書けない。

 3月11日。劇作家、別役 実(82歳)、マックス・フォン・シドー(90歳)、「宝塚」の真帆 志ぶき(87歳)の訃を聞いた。別役 実は、吉沢(正英)君が心服していた劇作家だった。私は「マッチ売りの少女」、「赤い鳥の居る風景」ぐらいしか知らない。マックス・フォン・シドーは、だいたい見ている。すぐれた俳優の一人。真帆 志ぶきは見たことはあるのだが、もう40年も前のことで、ほとんど印象が薄れている。

 3月、妻の3周忌をすませたが、4月、思いがけない訃報を知った。

    深田 甫氏 85歳(ふかだ はじめ)=慶応大名誉教授)3月26日、心不全
     で死去。告別式は近親者で行った。喪主は長男、独(ひとり)氏。
     専門はドイツ文学。「ホフマン全集」(全9巻11冊)の翻訳を手がけた。著
     書に「詩集・沼での仮象(かしょう)」など。

 短い記事だったが、驚きは大きかった。深田 甫が亡くなったのか。悲しみよりも、混乱が心に吹き上げてきた。同時に、映子さんのことが重なりあっていた。
 深田君は英語も堪能で、グレアム・グリーンの「メキシコ紀行」の翻訳を依頼したのは私だった。当時の私は、小さな劇団をひきいてきわめて多忙だったが、深田君は慶応大の助教授としてドイツに派遣されたため、この本の校正を見たのも、解説を書いたのも私だった。その間、私は深田 映子さんと親しくなった。
 その後、私は翻訳から少しづつ離れて、イタリアのルネサンスに目を向けはじめたが、おなじ時期に「翻訳家養成センター」という小さな教室で翻訳家志望の生徒たちを指導するようになった。
 この教室はやがて「バベル」と改称して、学校としての体裁をととのえてゆく。
 その「バベル」で、深田君はドイツ語のクラスを担当していた。
 この時期、やはり友人だった常盤 新平、翻訳家の小鷹 信光も、「バベル」の講師だった。一時期、松山 俊太郎も、私の紹介で「バベル」の講師に招いたのだが、その頃の「バベル」は、いちばん輝いていたかも知れない。
 
ほんの一時期だが、深田君は美髯をたくわえていた。まるでトルストイじゃないか、とからかってやったことがある。
 やがて、深田 甫とも疎遠になった。「バベル」での出講日は別の曜日だったから、お互いに会うこともなくなっていた。
最後に深田 甫に会ったのは、もう20数年も昔のことになる。 
                             
 2020年、私はまた一人友人を失った。
   
             (再開 6)

2020/05/08(Fri)  1823
 
 何かを見ればいつも何かを思い出す。
 そのできごと、人々とともに私自身に刻まれた歳月を思い起こすのは、それだけ私が老いたということでもある。しごく平凡な感慨にすぎないのだが、折りうし心にうかぶよしなしごとを書き留めてみよう。

 その私は、毎日、ガクッガクッと人生の階段を下りるような感じで老いてゆく。老いはじわりじわりとやってくるのではない。毎日、かなりの速度で、体力、気力を失ってゆく。
 安東 つとむ追悼も書けなくなっていた。おのれの不様が情けなかった。

 直接は知らないにしても、自分が関心をもっていた芸術家や、俳優、女優たちの死さえも心に響く。

 ダニエル・ダリューが、100歳で亡くなった。私は、DVDで「輪舞」や「うたかたの恋」を見た。タリューほどの大女優が亡くなったのだから、誰かが追悼するだろうと思ったが、私の知るかぎりでは、ダリュー追悼の記事も出なかった。

 おなじように、昨年80歳で亡くなったマリー・ラフォレを偲んで、「太陽がいっぱい」を見た。

 2月、カーク・ダグラスが亡くなった。103歳。「チャンピオン」を見たかったが、DVDをもっていないので、西部劇を見た。さらに、この3月、ジェームズ・リプトンの訃報。2日、ニューヨークで亡くなったという。享年、93歳。温厚な人物だったが、私より1歳上とは知らなかった。
 BSで、リプトンのインタヴューを見てきたのだが、ジェーン・フォンダ、ジュリエット・ビノシュのインタヴューなどは今でも鮮明におぼえている。
                 (再開 5)

2020/04/26(Sun)  1822
 
 安東 サ(つとむ)が亡くなったとき、私の胸に悲しみが吹き荒れていた。彼が不治の病に倒れたことは知っていたが、現実に私より先に亡くなるとは予想もしなかった。
 夫人の真喜志 順子が知らせてくれたとき、私はことばもなく立ちつくしていた。

 本来なら、すぐにもお通夜、葬儀にかけつけるところだったが、それさえもできなかった。せめて葬儀には出たかった。いいえ、それよりも前に病床の安東を見舞って声をかけてやりたかった。それなのに、現実の私はそんなことさえもできないのだった。

 安東 つとむとふたりで北アルプスに行ったことを思い出す。当時の私は、いつも明大の学生たちと手頃な山を歩いていたのだが、この日、誰ひとり参加しなかったのでひとりで別の山に登ることにしたのだった。
 私の登山スタイルは、まことに気楽なもので、新宿駅の10番線のプラットフォームで当日の参加者を待つ。時間厳守ときめていた。
 いつも15分待って、その時点にプラットフォームにきた人たちだけで出発する。天候を見て行き先をきめる。奥多摩にするか、秩父にするか。参加者の体調によって高水三山にするか、誰も知らない金峰か大烏山あたりを選ぶか。

 しばらく待っていたが約束の集合時間に誰もこなかった。やむを得ない。予定を変更して、単独行にしよう。
 私は、すぐに別のプラットフォームに移って、出発間際の急行「あずさ」に乗り込んだ。座席をとったところに、安東 つとむが姿を見せた。10番線のプラットフォームに着いたとき、別のプラットフォームにいそぐ私を見て、すぐに私が別のプランに変更したと判断して追いかけてきた。

 「今日は、どこにしますか」安東がいった。

 「きみとふたりだけなら、北(アルプス)にしよう」

 私の登山は、いつも同行のパートナー次第できめていた。その日の天候と各自の体力、行動できる時間的な余裕、所持金とザックの中身から目的地をきめる。初心者と一緒の場合なら、せいぜい奥多摩か秩父、もう少し上級なら、上州か、八ガ岳あたり。何時も、新宿の10番線のプラットフォームできめることにしていた。私がもの書きで、安東が編集者だったから、時間的な制約はなかった。
 私は夏のアルプス銀座などは絶対に登らない。おびただしい登山者が長蛇の列をなして、きめられたコースを登るような名山は始めから選ばない。登山コースにひしめいて、前を歩く登山者の尻ばかり見ながら登るなど、愚の骨頂。むしろ、誰も登らない山を探し出して、たとえ廃道をたどってでも山頂をめざす。たとえば、ガラン谷などは、一歩、道をあやまれば遭難も覚悟しなければならない。そういうコースを探しだすのが、私のスタイルだった。
 私はいつも地図や非常用のツェルトを用意していた。

 この日の登山はいつになく苦しい山行になった。

 ようやく雪の雑木林を出ると、道は山裾にそってうねりながら、小さな部落に続いていた。道の片側にひろがる平地は、降りつもった雪が、あたりの田んぼをひとまとめに白く埋めているので、低い丘のつらなりに見える。
 私は、あえぎながら歩きつづけていた。もう何時間歩きつづけているのか。

 バス停まで、まだ2時間はかかるだろう。最終のバスに間に合うかどうかが問題だが。疲労がザックの重みになってずっしりとひろがってくる。

 ひたすら歩きつづけた。沈む夕日を追いかけるような足どりになった。
 虚空には微妙な光がただよっていた。あたりの風景から暗い部分を取り去って、最後の瞬間だけを残したような明るさだった。

 安東も黙々と歩きつづけている。部落に近づいたころ、山のてっぺんが一点の輝きになって消えるのを見届けた。    
 バス停の標識に小さな時刻表があった。一日、朝夕2往復。夕方のバスは、もう30分も前に出てしまった。

 くそっ。もう少し早く下山していれば、こんなことにならなかったのに。このコースを甘く見た自分を罵りながら、また歩きはじめる。

    大雪に 藪 バス停の 切り通し

 このときから安東 つとむは私にとって最高のパートナーになった。

 その後、安東は、私と「日経」の記者だった吉沢 正英、ときに石井 秀明といっしょにいろいろな山に登った。安東は、いつも登山の仲間として私の少し前を歩いて私を助けてくれたのだった。

 安東 つとむの思い出は、いつもお互いの実力より少し上をめざした苦しい登山や、私がリーダー、安東がサブについて、大学や「バベル」のクラスの若い女の子たちと一緒に低い山を歩いたハイキングと重なりあっている。

    冬の墓 わが跫音を聞くばかり  西 鶴 

 順子さんから夫君の訃報を知らされたとき、どういうものかこの一句を思い出した。お互いに何の関係もない西鶴の句が、私の内面では、在りし日の安東 つとむの姿に重なってくる。この句が、安東への私の追悼の思いに重なっていた。

 安東については、いずれまた書くことがあるだろう。

 その安東がこの世を去った。また一人、私は親友を失ったのだった。

 さらば、友よ。
           (再開 4)

2020/04/20(Mon)  1821
 
 やがて、私の「日記」の連載も終わった。
 そのとき、つづけてブログを書きはじめようと思ったが、あい変わらず何も書くことがなかった。
 あたかも平成という時代が終わろうとしていた。

 3年経った。それなりに長い歳月でもあったが、今、振り返ってみれば、作家としてはただ平凡な日々を無為にすごしてきただけだったと思う。

 当然ながら、思考力も衰え、記憶もうすれて、ただのボケ老人になってゆく。
 いつの時代も、それなりの不安や緊張を感じてきた。まだ記憶に刻みつけられている多くのことどもがある。

 何かを見ればいつも何かを思い出す。
 そのできごと、人々とともに私自身に刻まれた歳月を思い起こすのは、それだけ私が老いたということでもある。しごく平凡な感慨にすぎないのだが、ブログに書きとめておけば、誰かが読んでくれるかも知れない。

 たしかに、さまざまなことがあった。そんな私の感慨などをよそに、確実に一つの時代が過ぎ去ろうとしている。

    明日、明日、さらに明日と 
    一日々々が のたりとした足どりで這いずってゆく 

 これもシェイクスピア。
 そして、昨年末、友人の安東 つとむが亡くなった。
                   (再開 3)

2020/04/13(Mon)  1820
 
 ブログ休筆のあいだ、ただ、沈黙したまま日々を過ごしていた。

 私の心にあったのは、

    「最悪」であるということ、
    「運命」に どん底に投げ出されているということは 
    いつも希望をとりもどすということだ   

 困ったときには、シェイクスピアを読むにかぎる。

 たまたま、妻の遺品などを整理したとき、ついでに自分の蔵書も整理した。このとき、いちおう完成していた長編や昔の日記を見つけた。
 日記は、後半、アメリカでオペラやサイレント映画を見たり、ソヴィエトに行ったり、私としては、けっこう多忙だった時期の日記だった。小説ならまだしも、阿呆のメモや日記など、発表する価値もない。読み返して、少しはおもしろいと思ったが、今の出版状況では発表する機会がない。いっそ、焼き捨ててしまえ。少し惜しい気がしたが、長編は出版できないと判断して、焼き捨てた。

 灰になった原稿を見て、少しだけ惜しい気がしたところが、阿呆の阿呆たる所以(ゆえん)である。

 久しぶりに、田栗 美奈子に電話をかけた。長編を焼き捨てたこと、ついでにこの「日記」が出てきたことを告げると、私の報告を聞いた彼女は、しばし絶句した。つづいて私が耳にしたのは、激しい非難だった。おだやかで温厚な美奈子さんが色をなして、「日記」を焼き捨てるなどもってのほかです、という。
 私はうろたえた。私の「日記」など、はじめから無意味なもので、他人に読まれる価値はない。私が反論すると、田栗さんが、発表できるところだけでも、ブログのかたちでつづけたらどうですか、と説得してくれた。

 しばらくして私も納得した。なるほど、そういうことか。これからしばらく何も書かないつもりだから、この「日記」を「コージートーク」に代用すればいいかも。
 ブログを休止するかわりに、この「日記」をブログに連載することにしようか。
 何も書けないのだから、せいぜい「日記」の連載でお茶を濁すつもりだった。愚にもつかない「日記」でも、阿呆が書いた作品とおもえばいい。ありがたい叱責だった。そのときの私は、すなおに美奈子さんの言葉にしたがうことにした。
 今になって、あのとき美奈子さんに叱られたことをありたがたく思っている。

 こうして、れいれいしくもブログに昔の「日記」を載せはじめた。アメリカではサイレント映画を見つづけていたが、あとでサイレント映画について、本を書きたいと思っていた。そのため「日記」から省いたが、これも、今となっては少しだけ惜しい気がする。(あとで、友人の安東 つとむの好意で「サイレント女優」のプロフィルめいたものを連載することができた。これは、40回近く連載された。あらためて、安東 つとむに感謝している)。
 この「日記」は、旧ソヴィエトに旅行することになって、ハバロフスクまで着いたところで終わっている。日記を書き続ける余白がなくなったためだった。

 この時のロシアの印象は、拙作、「メディチ家の人びと」のエピローグに書いたが、これまた、今となっては懐かしい思い出のひとつ。
              (再開 2)

2020/04/05(Sun)  1819
 
 じつに久しぶりだが、2020年4月から、私のブログ、「中田耕治ドットコム」を再開する。

 3年前(2017年3月23日)私は妻と死別した。
 この日からブログを中断したのだった。妻の臨終に立ち会ったあと、悼亡(とうぼう)の思いで3年も書かなくなったわけではない。
 悼亡(とうぼう)というのは、妻を喪った夫の服喪をさす。もう、誰も知らない死語だが、この3年、私にとっては、まさしく悼亡(とうぼう)の期間だった。妻が亡くなってから何も書くことがなくなった。現在(2020年4月)の私は手紙さえも書かなくなっている。
 ブログの休載は――「孤独に耐えて生きて行く」といった、しっかりした信念があってのことではない。ただ、個人的に書く意欲がなくなっただけにすぎない。

 あらためてブログを書きはじめる気になったのは、世界じゅうに、パンデミックの恐怖が広がっているからである。

 中国・武漢ではじまった未知のコロナ・ウィルスは、3月29日の時点で、世界の感染者数が70万人を越えて、死者、3万4000人に達した。
 感染者が、もっとも多いのはアメリカで、約14万2000人。ついで、イタリアが約9万8000人。中国が約8万2000人。被害がもっとも少ないロシアでは、3月30日からモスクワ市民に外出を禁止するという。(ロシアの感染者数は1534人、死者は8名。)日本では、3月28日の時点で、1日に感染者数が200人を越え、翌日は東京都内で68名の感染が確認された。

 現在(2020年4月2日)、アメリカのトランプ大統領は、「これからひじょうにきびしい2週間になる」と強い危機感を表明した。アメリカの感染者数は18万9633人。死者は4081人。
 日本は、感染者数は2483人。死者は69人。4月1日、世界の感染者数は87万4081人。死者は4万3288人。

 いまや、世界じゅうが、パンデミックという女神の脅威にさらされている。私たちの前に「恐怖」という女神が姿をあらわしている。
 その運命の輻(や)は、女神がしっかとにぎりしめて、無表情に、しかも冷酷無残なまなざしで私たちを見据えている。

私はひそかにつぶやかなかったか。

    「運命」の女神のうまれながらの 哀れな阿呆  

 シェイクスピア。

 私は、こういう時期だからこそ、「哀れな阿呆」のひとりとしてブログを再開することにきめた。阿呆のつぶやきも、ときには必要なのだ。
                     (再開 1)

2019/10/27(Sun)  1818〈1977〜78年日記 65〉
 
        1978年6月1日(木)
 奇妙な夢をみた。
 もともと、あまり夢を見ないのだが、おそらくエロスに関係がある。

       1978年6月2日(金)
 10時から、翻訳。吉行 淳之介から依頼されたフイリップ・アリンガムを訳した。
 吉行 淳之介編、「酒の本」。私は、吉行さんの依頼で、なんとH・L・メンケンも訳している。

 H・L・メンケンは、日本で訳されたことがあるのだろうか。戦前の「研究社」、「英語研究」あたりで、対訳のかたちでメンケンが紹介されたり、訳されたことはあったと思われる。しかし、「戦後」、メンケンのエッセイを訳したのは、おそらく私が最初ではないだろうか。
 吉行さんは――いささか微醺を帯びたアメリカのご老体が、粋な語り口で、若き日の酔虎伝を語ったものと見て、訳者に私を起用なさったのかも知れない。
 禁酒法に対して猛烈に反対しただけに、大酒を食らって、酔いにまかせて原稿を書きとばしていたジャーナリストと見られがちだが――じっさいは、節度をこころえた愛酒家だった。
 ビール、ドイツ・ワイン、クラレットが好きだったが、度を過ごして大酒したことのない酒豪だった。
 メンケンが若手の新聞記者だった頃、ある日、火事の現場に急行した。消防署勤務の医者が、
 ――アルコールというやつは、興奮剤じゃなくて、じつは鎮静剤なんだよ。こんな冬
    の夜、火事のネタをとっているとき、キュッと一杯やったら、からだが暖まるよ
    うな気がする。ところがどっこい、ほんとはサカサマなんだ。

 後年、メンケンは書いている。

    その医者のことばは、今もなお、心のなかにしみついている。だから、私は夜に
    しか、アルコールを口にしない。私の才能をふるい立たせるためではなく、仕事
    を終えたあとの昂奮を静めるために。長年にわたって、私はグラス一杯のビール
    をあおって原稿を書いたことなどまったくない。私の文章は、高尚な紳士淑女の
    みなさんがたには、酔いどれの書いたものに見えるかも知れないが、どうしてど
    うして、ウィリアム・ディーン・ハウェルズよろしく、まるっきりシラフ、いと
    もおごそかに書いたものである。

 ウィリアム・ディーン・ハウェルズは、1837〜1920年 偉い作家、批評家だったが、私たちにとってはメンケン以上に遠い存在になってしまった。たいていのもの書きは、死んでしまえばすぐに忘れられるから仕方がないが。

 それにしても、吉行さんに頼まれたH・L・メンケンは私にとっては手ごわい相手だった。うまく訳せなかったのは、残念だったが。

         1978年6月3日(土)
 「伊勢丹」、「ドラン展」。
 私はドランにあまり関心がない。ピカソ、マティス、ブラックなどと比較した場合、なぜか魅力が感じられない。ただし、あまり注目されないが、ドランのヌードに、すばらしいものがある。千葉の「川村美術館」で、そんなドランの1枚を見て、私は魂を奪われたような思いがした。このヌードのドランはまさに天才と呼ぶにふさわしいきらめきを見せていた。これに比肩するものは、上野で見た、エゴン・シーレの1枚、パリで見たモジリアーニの1枚だけだった。これに較べれば、やや劣るのだが、ヴァン・ドンゲンの1枚。

 今回の「ドラン展」では、「二人の女」を見ることができた。この絵を見て、私はドランのことだけでなく、女のエロスについて考えはじめていた。

 片手を頭の上にかざして立つ女。その前に身をかがめ、その女の下腹部に両手をあてて、しなだれかかるもうひとりの女。二人の女は、おそらくレズビエンヌだろう。
 この絵には、ドランがやむを得ず隠していた、何か秘密めいたものがあるように思われた。
 まるっきりの妄想だが、この二人の女のポージングは、レオナルド・ダヴィンチの「聖アンナ母子」のポーズを逆にしたような気がする。(ただし、幼児のイエスは消してあるとして)。
 この次は、「ローランサン展」をやるらしい。これも、ぜひ見るつもり。

 「山ノ上」で、「講談社」、徳島 高義、清水 孝一さん。徳島さんに原稿をわたす。しばらく雑談。吉行 淳之介のこと。
 「世界文化社」、井上 博君に原稿。待たせてしまった。
 6時20分、Y.Kを待っていたところに、吉沢君がきた。3人で「グランプリ」を見た。ノルウェイの人形アニメーション。原題、「The Punch Clufe GRAND PRIX」。(これは、ブロマイドに書いてあった通りに写したので、スペルは間違っているかも知れない)。ストーリーは単純だが、子どもの心理をよくとらえている。日本でも人形アニメは作られはじめたが、不必要にさわがしかったし、ジケッと感傷的だったりする。このノルウェイ人形アニメは、さわやかにユーモラスで、人形の動きに無理がない。見ておいてよかった。
 吉沢君が、神田駅の近くの小料理の店に案内してくれた。

 Y.K.と。

       1978年6月4日(日)
 今頃になってバークリーから送ったスプラッターが届いた。船便なので、手荒に扱われたのか、壊れていた。通関量が100円。税関の検査で壊れたのか。これでは使いものにならないが、タネだけは無事だった。
 百合子と散歩。プランター、腐葉土を買ってきた。
 エリカが送ってほしいというので、百合子といっしょに浴衣を選んでやる。

 私は、浴衣を着た夏の女を見ると胸がときめく。
 今の若い女の子が身につけている、薄くてさっぱりしたシュミーズ・ドレスも、むき出しのセクシーさより、ぐッとくるエロティシズムを感じさせるが、浴衣は江戸の女たちが自然に身につけたエロティシズムの極致だと思う。
 「スケスケの服がはやっているので、下着のおしゃれも大切ね」と、女たちはいう。
 しかし、浴衣は透けるから下着をつけなければいけない、という考えかたとは無縁だろう。昔の女が美しかったのは、お腰一枚で、くりっとしたヒップ・ラインを見せたからだろう。
 ノーブラという考えかたも、ほんらい浴衣には必要がない。女の乳房はある程度大きくなければならない、という男の論理が、こういう考えかたのうしろ側にある。ペチャパイだろうと、Gサイズだろうと、女の胸もとの美しさを見せることができるのは浴衣だけといっていい。

      1978年6月5日(月)
 4時、やっと原稿を書く。すぐに仕度して、「山ノ上」に。
 「世界文化社」、井上君にわたす。
 6時半、神保町からタクシーで新宿に。「コンボイ」(サム・ペキンパー監督)の試写。
 トレイラー・トラックのドライヴァー、「ラバー」(クリス・クリストファーソン)は保安官、「ライル」(アーネスト・ボーグナイン)に睨まれている。たまたま、警察のおとり捜査にひっかかり、「ライル」に罰金をとられるが、トラックで逃走する。ドライヴァー仲間に無線で呼びかけ、州内からぞくぞくとトラックが集結する。「コンボイ」は、ほんらい護送船団の意味だが、「トラック野郎」といった含みになる。
 警察側とトラック軍団のカー・チェイスは迫力があるが、「ガルシアの首」や「わらの犬」などに比較すべくもない空虚な大作。
 私は、サム・ペキンパーのすさまじい暴力描写や、極度に緊張したシーンにスロー・モーションを使う演出や、暴力描写とコントラストをなす悲哀にみちた詩情といったものが好きなのだが、「コンボイ」には、そんなものはなかった。

        1978年6月6日(火)
朝からいろいろと電話。

 12時半、千葉駅に急いだ。駅の裏に当たる中村酒店の前に出たとき、特急が入ってきた。これに乗らなければ「山ノ上」で会う約束に間に合わない。
 それでも、足を早めて駅に向かった。乗れそうもないのだが。
 プラットフォームに出たとき、意外なことに、この特急が7番線にいた。私は走った。開いたドアから飛び乗ったとたん、ドアが閉まった。
 ラッキーだなあ。
 空いている席に腰をおろした。すぐに、背後から車内検札の車掌がきた。特急券、1000円。
 車掌が前の席に移動した。3列ほど前の席に外国人がすわっていた。車掌が寄って行って話しかけた。通じない。車掌が困った顔で何か説明する。まったく通じない。しばらく押し問答がつづいた。中年、赤ら顔に口ひげのラテン系の外人だった。その外人も自分の身に何かよからぬことが起こったらしい、と困った顔で、車掌を睨みつけていた。
  ――手つだってあげようか。
 私は車掌に声をかけた。車掌は、ほっとした顔になった。
   ――できますか。
 何ができますか、なのか。車掌は、「英語ができますか」といったのではなく、私が通訳を買って出たので、「お願いできますか」というつもりで、こういったらしい。
 私は、この列車が「特急」なので、きみは別に運賃を払う必要がある、と英語でいった。相手は、英語がわからないという。イタリア語ならできるという。
イタリア語で説明した。なんとか通じたらしい。ただ、どうして特急券を買わされるのか、納得できないようすだった。
 アルゼンチン人という。
 車掌が、私のところにきて、礼をいった。
   ――どこの国の人ですか。
   ――アルゼンチンの人。イタリア語しかできないそうです。
 東京駅についたとき、私はアルゼンチン人といっしょに5〜6番線に出た。浜松町に行くというので、少し話をした。時間があったら、もう少し話をしたかったが、私は、すぐ次の駅で下りなければならなかった。

 「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見書房」の長谷川君に会う。いっしょに「20世紀フォックス」に行く。「結婚しない女」(ポール・マザースキー監督)の試写。
 「エリカ」(ジル・クレイバーグ)は「マーティン」(マイケル・マーフイー)と結婚して16年目。夫が浮気をしたため、勤務先の画家、「ソウル」(アラン・ベイツ)と不倫な関係に入る。ところが「マーティン」は、浮気相手(リサ・ゴーマン)と別れたといって、「エリカ」に復縁をせまる。「エリカ」はこれを拒否して、「結婚しない女」として生きてゆく決心をする。
 この原作は、杉崎 和子女史が訳して「二見」から出している。杉崎さんとしては、あまり気ののらない仕事だったらしいが、それでも、ケート・ショパンよりは読まれるだろう。これをきっかけに、存分にいい仕事をなさいますように。

 「山ノ上」。長谷川君と別れて、すぐに、「サンリオ」の佐藤君と、若い編集者(名前失念)と会う。このとき、「二見」がアナイス・ニンの「デルタ・オヴ・ヴィーナス」をとったという。「サンリオ」の佐藤君から聞いた。
 誰の訳で? 青木 日出夫という。やっぱり、そうか。
 アナイスの遺作、「デルタ・オヴ・ヴィーナス」は、ポールの依頼で、私と杉崎さんが「実業之日本」に出版を交渉した。ずいぶん努力したつもりだったが、アナイスのエージェント、ガンサー・スタールマンが、あらたに「ユニ・エージェンシー」と交渉することになった。このとき、青木 日出夫が出てきた。青木君は「ユニ」の幹部だから、「デルタ」の出版権の獲得に動くのは当然だが、交渉の途中で、自分としては「デルタ」を訳す意向はない、と私たちに明言したのだった。
 ところが、「二見」にアナイスを売り込んだとき、「デルタ」の翻訳も自分でやることにしたのだろう。
 私と杉崎さんは、アナイスの「日記」の出版が目的だったので、「デルタ」は、そのカードだったが、「二見」が「日記」を出版するとは考えられない。
 長谷川君は、当然、この経緯を知っていたが、私には伏せておいたのだろう。
 青木君が交渉すると知ったとき、結果がこうなると予想していたので、それほどショックはなかったが、これで「日記」はどこでも出せないのが残念だった。

 「講談社」、徳島 高義さんに原稿をわたす。吉行 淳之介、井伏 鱒二のこと。

 「山ノ上」で、杉崎女史に会う。

 「鶴八」に行く。今夜は、私なりの送別会のつもり。
 杉崎さんは、アメリカには1年契約で行くことになる。桜美林大学はやめるらしい。惜しいなあ。9年間も在籍したのに。

      1978年6月9日(金)
 「ワーナー」で、「グッバイ・ガール」(ハーバート・ロス監督)を見るつもりだったが、二日酔い。
 百合子が起こしてくれたときは、2時半。

 4時半、「ジャーマン・ベーカリー」で、「ほんやく」の若い女性編集者に会う。

 「山ノ上」。Y.K.とデート。

        1978年6月10日(土)
 平賀 源内・輪講。

        1978年6月11日(月)
 何時も試写ばかり見ているので、劇場で映画を見ることがなくなってしまった。たまには、身銭を切って、映画館に足を運んで、普通の観客として映画を見ることも必要だろう。
 「スバル座」で、「ザ・ビートルズ/グレイテスト・ストーリー」をやっている。私は「ビートルズ」ゼネレーションではないが、ハンター・ディヴィスの評伝を訳したことがある。小笠原 豊樹と共訳したのだが、このおかげで、いわば人間としての「ビートルズ」を知ることになった。
 「日劇文化」で、ベルイマンの「沈黙」をやっている。これも、じつは見逃している。
 「テアトル銀座」で、「太陽がいっぱい」と「カサブランカ」の2本立て。これが最後のロードショー。
 「岩波ホール」で、エジプト映画、「ナイルのほとりの物語」。(フセイン・カマール監督)。これは高野 悦子さんが、現地で見て、日本での公開をきめたらしい。高野さんの選んだものなら、まず間違いはないだろう。
 新作なら、「白き氷河の果てに」かな。カラコルム、K2登攀のドキュメント。

 どれを見てもいい。というより、どれを選んでも、1週間は幸福に過ごせるだろう。そんなことを考えた。ただし、今日も、「メディチ家」に没頭したから、妄想に終わったのだが。

 夜、「テレ朝」、「動く標的」(ジャック・スマイト監督)。
 ポール・ニューマン、ジュリー・ハリス。ロス・マクドナルド。
 「動く標的」は私の訳ではないが、ロス・マクドナルドは、私がつぎつぎに訳して、ミステリーから足を洗ったあと、小笠原 豊樹がロス・マクドナルドの訳者になった。それが奇縁で、私は小笠原君とハンター・ディヴィスの「ビートルズ」を共訳したのだった。

 小笠原君とはその後まったく交渉がなかったが、共訳者に私を選んでくれたことを今でも感謝している。

          1978年6月12日(月)

 夕方、5時14分、宮城県を中心に大きな地震。
 震源、宮城県沖、100キロ、深さ40キロ。マグニチュード、7.5。
 各地で、家屋の倒壊、火災、貨車の脱線、停電、電話網の麻痺が起きている。宮城県では、仙台を中心に、死者、負傷者が多数。死者、22名。行方不明、1。各地の負傷者、365。
 千葉でも、震度4。
 新幹線、東北線、首都圏の国電などが、一時ストップした。成田空港も、地震の影響で13分間閉鎖された。

 1964年(昭和39年)の新潟地震と同程度の大地震という。

 私は、両親が関東大震災を経験しているので、地震には敏感になった。震度3程度の地震でも、昌夫も宇免も、すぐに戸や窓を開け、避難の用意をする。震度4の地震の場合は、裸足で外に飛び出したこともある。
 近所の人たちが、そんな二人を笑っていたが、昌夫も宇免も、
 「地震のおそろしさを知らないからだ」
 といっていた。
 私も、妹の純子も、地震に恐怖を感じるようになった。

         1978年6月13日(火)
 中国の文人、郭 沫若が亡くなった。

 12時半、「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見」の長谷川君に会う。
 「二見」が「デルタ・オヴ・ヴィーナス」をとったことは口にださなかった。長谷川君が口外しない以上、私から言及すべきではない。
 「ワーナー」で、「グッバイ・ガール」(ハーバート・ロス監督)を見た。
 原作は、ニール・サイモン。去年、結婚していた女優、マーシャ・メイスンのために書いた芝居。いつも男にグッバイされてばかりの「ポーラ」(マーシャ・メイスン)には、10歳の娘、「ルーシー」(クィン・カミングス)がいる。帰宅すると、「ボーイフレンド」から別れの手紙がとどく。そこに、ルーム・シェアしたからといって、失業中の役者、「エリオット」(リチャード・ドレイファス)がころがり込む。

 マーシャ・メイスンは、いい女優だと思う。

 試写室で、どこかで会った女性編集者を見かけた。村永 大和君の出版記念会で会った「短歌研究」の編集者だった。歩きながら話をした。私とは、ミリューが違うので二度と会うことはないだろう。ちょっと、残念な気がした。
 「山ノ上」で、「集英社」の新福君に会う。校正を直す。たまたま、永田君がいっしょにきた。永田君にこれ以上迷惑をかけるわけにいかない。「メデイチ家」は、この夏に完成させると約束した。
 果たして、自分でも完成できるかどうかわからない。しかし、約束した以上、実現しないわけにはいかない。なにしろ、大作なので、これを書いているあいだ、雑文が書けない。当然、収入が激減する。映画評はつづけるが、たぶん週1本というペースになる。

 夜、「日経」小ホールで、ソヴィエト映画、「ドン・キホーテ」(グレゴリー・コージンツェフ監督)をやる。
 私は、シャリアピンの「ドン・キホーテ」G・W・パプスト監督)を見ているので、この「ドン・キホーテ」も見たかった。場所も「日経」なので、吉沢君に頼めば、入れてもらえるだろう。
 シャリアピンの「ドン・キホーテ」は、私にとっては、貴重な作品だった。まず、シャリアピン最初にして最後の出演作品だったから。パプストもシャリアピンも、この映画を撮ったあと、すぐに亡命している。さて、つぎに、新人、ミレイユ・バランが「ドルシネア」に起用されたこと。私は、周回遅れのミレイユ・ファンだった。
 だが、私は試写を断念した。

 講義のあと、安東夫妻、鈴木 和子、石井、中村たちと、「平和亭」に行く。
 今年の夏、できれば、ガラン谷をめざしたい。しかし、この谷は、きわめて危険な登山になるので、途中でべース・キャンプを張るかも知れないと話す。

        1978年6月14日(水)
 朝、松山 俊太郎さんに電話。しばらくぶりだった。

 「日経・ショッピング」、鈴木さん、インタヴュー。
 「双葉社」、北原 清君、「小説推理」に移ったという。吉田 新一君は、「週刊大衆」編集長に。このところ、「週刊大衆」の落ち込みはひどい。記事に新味がなかった。「アサヒ芸能」と似たような状態なので、大幅な人事異動ということになったらしい。

       1978年6月15日(木)
 「メディチ家」。

 「日経」、吉沢君から電話。「春秋社」の佐藤君に、私の連載の話をしてくれたらしい。吉沢君は、私が大作にとりかかっていることを知っているし、すくなくとも、1年は収入が激減すると見ているのだろう。私の作家生活が不安定なので、こういう仕事を探してくれた。感謝。
 吉沢君の電話のあと、すぐに「春秋社」の佐藤君から電話。明日、「山ノ上」で会うことにする。
 「三笠書房」の三谷 喜三夫君から電話。「オーメン」続編の件。これは、ことわったほうがいいのだが、三谷君にはいろいろと恩義があるのでことわれなかった。
 「三笠書房」の「秘戯」は、5刷。

 「オーメン」(リチャード・ドナー監督/1976年)はヒットした。脚色はデヴィッド・セルツァー。主演、グレゴリー・ペック、リー・レミック。76年10月、公開。
 すぐに続編が作られた。「オーメン2 ダミアン」は、ドン・テイラー監督/脚色はおなじデヴィッド・セルツァー。ウィリアム・ホールデン、リー・グラント。78年 2月、公開。(81年に、第3作、91年に、TV映画が作られて、日本では劇場公開された。さらに、2006年に、第1作がリメイクされたが、出演者が新人だったこともあって、失敗している。 後記)

 4時、「二見」の長谷川君に会う。

       1978年6月16日(金)
 朝から原稿を書きつづける。スピード・アップする。
 夏日になった。
 3時から、「フェイク」の試写があるのだが、疲れているので、残念だが予定を変更。百合子が、いろいろ仕度をととのえてくれた。

 東京駅。雑踏のなかで、本多 秋五さんを見かけた。挨拶したかったが、そろそろラッシュアワーなので、遠慮する。それに、本多さんが、明治に行くことはわかっていた。
 お茶の水。改札を出たところで、声をかける。
 本多さんは、なつかしそうに、私の挨拶に応えてくれた。
 近くの「ジロー」に寄ろう、という。めずらしいことだった。

    本多 秋五  八高で、平野 謙、藤枝 静男を知る。東大国文科、卒。プロレ
    タリア科学研究所に入り。山室 静を知る。
    トルストイの「戦争と平和」に没頭して、戦後、1947年、「「戦争と平和」
    論」を出した。

 私は、戦後の「近代文学」から出発したが、この時期、本多 秋五さんととくに親しかったわけではない。本多さんも、とくに私に注目していたわけではない。げんに、「物語 戦後文学史」(1958年〜63年)に私は登場していない。私は、本多さんのお人柄に深い敬意をはらっていたが、文学的には、無縁といってよかった。ただし、平野さんが明治の文学部に本多さんを招いたので、そのつながりで本多さんに親しみを感じていた。

 いろいろな話題が出た。といっても、戦後の一時期の「近代文学」の思い出にかかわるとりとめのないはなしばかりだったが。
 「ジロー」を出て、明治の前まで、話は尽きなかった。吉郎坂で別れた。ここから、「山ノ上」まで、歩いて1分の距離であった。

 「集英社」文庫の編集者に、「あとがき」をわたした。
 「春秋社」の佐藤 憲一君、初対面だが、すぐにうちとけた。連載は7月から。1回は、12枚程度。それでも、毎月、収入が保証されるようなものだから、ありがたい。
 「双葉社」の北原 清君。これも久しぶりだった。私の担当で、散々迷惑をかけた編集者のひとり。久しぶりだったので、話がはずんだ。
 「双葉社」は、堤 任君が、労務担当主任になったという。吉田 新一君が「週刊大衆」に移った。その他、かなり大規模な人事異動が行われたらしい。
 私は、「週刊大衆」に長編を書いたとき、まったくやる気のない編集者が担当したため、こちらも書く気が起きなかったことを話した。仕事は最小限、そのくせ会社の福祉施設を利用してテニスばかりしている編集者だった。

      1978年6月18日(日)
 朝、5時、百合子に起こされた。いつもなら、自分で起きるのだが、昨日いっぱい、「メディチ家」にかかっていたので、5時に起きられるかどうか自信がなかった。
 百合子は、私を起こして、また眠ってしまった。
今日は、安東たちが参加しないので、ボンベ、コッヘルを用意した。
 7時半、新宿。吉沢君の姿が見えない。今日はひとりか。8時16分発の電車に乗った。吉沢君が乗ってきたが、私に気がつかない。ザックを置いて、プラットフォームに出た。私を探しているらしい。私は車内で、席を変えて、吉沢君のザックを棚にのせてやった。
 発車1分前に、吉沢君が戻ってきた。私がこないので、ザックをとりにもどったらしい。私を見て安心したようだった。
 お互いに、笑顔になる。
 9時半から歩きだしたが、暑くなってきた。これは、マズったか。
 頂上に出る峠で小休止すべきだったのに、吉沢君が、
  ――(このまま)行きますか?
 と訊いたので、うなづいてしまった。

 どうも、いつもと違うような気がする。
 高気圧が、張り出してきたのか。暑さが、私たちの行動に影響している。こういう日の山行は注意しなければいけない。

 関東はカラ梅雨で、この山も晴れ、時々曇り、と判断した。しかし、蒸し暑い。

 峠から頂上までがキツかった。私は、3度も足をとめた。吉沢君も、ふらつきながら歩いている。
 2時、頂上。
 見ると、吉沢君が蒼白になっている。熱射病の初期。すぐに水を飲ませる。日蔭にマットを敷いて寝かせた。タオルに水をかけて、首のまわりに巻き付けてやった。
  ――少し、寝ていたほうがいい。
 私も、新聞紙をひろげて横になった。そのまま寝込んでしまった。
 眼がさめたのは、4時。

 この暑さのなか、じっと立ちつくしていることも耐えがたい。すぐに、ティーを沸かして、角砂糖を放り込み、吉沢君に飲ませた。
  ――下りよう。

 やがて、夕日が落ちて行く。太陽の沈む光景は厳粛で、まるで何かの儀式のようで、私たちの山行の終わりが、こうした荘厳さでしめくくられることに、私は挫折感をおぼえた。吉沢君もおなじことを感じていたようだった。
こんな山行ははじめてだった。とにかくバテた。
 (あとで知ったのだが、福島の市民マラソンに参加したランナーが、四十数名も倒れ、17名が病院にかつぎ込まれた。20日、朝、青年2人が死亡。太平洋高気圧が日本からアメリカまで張り出して、その強さは16年ぶりという。猛暑。東京は、31.6度)

 いつかまた、このコースを歩いてやる。こんどは失敗しないからな。
 麓でラーメンをすすりながら、心に誓った。

       1978年6月21日(水)
「メディチ家」。少しづつ、自信をもって書き進めている。

 「週刊サンケイ」長岡さん。「日経」、吉沢君。原稿の依頼。
 4時、中村君に、「夕刊フジ」の書評を届けてもらう。
 この日、風が強い。台風の影響出、総武線にまた架線事故があったらしい。

    ひと抱えのバラを わたくしのために買う

 イラストレーターのやまぐち・はるみの句。何かで目についた。
 やまぐち・はるみは、「パルコ」、「マンズ・ワイン」、森 英恵のランジェリーのアド・イラストレーションで知られている。この俳句は月並みだが、月並みだっていい。

       1978年6月22日(木)
 暑い。台風は、熱帯性低気圧に変化した。

    暑いので、夕方、出かけることにする。

 俳句じゃないからね。イヒヒヒ。

 昨日、尾上 多賀之丞が亡くなった。人間国宝、90歳。明治20年生まれ。
 母の宇免は、多賀之丞もよく見ていたが、私はあまり見ていない。つまり、菊五郎(六代目)を見ていないということになる。それでも、「盛綱」や「三婆」の多賀之丞は見ている。
 明治、大正、昭和、三代を女形で通した。何しろ芸歴が長い。初舞台から、相手をつとめたことがなかったのは、団十郎(九代目)、菊五郎(五代目)、左団次(初代)の三人だけというから、すごい。
 私は、ずいぶん前に多賀之丞を見た。で、どうだったか。
 うまい役者かどうか、どこがうまいのかわからなかった。

 8時、「山ノ上」。「二見」の長谷川君に会う。
 吉沢君がきた。先日の山行。お互いに失敗を笑いあう。しばらくして、船坂 裕君。
 みんなで「あくね」に行く。
 9時半、松山 俊太郎さんがきた。
 松山さんと会うのはじつに久しぶりだが、相変わらず怪気炎をあげていた。
 横溝 正史が「メディチ家犯罪史」という本を書いているという。驚いた。ぜひ、拝借したい、と申し入れる。

       1978年6月23日(金)
 日活映画、「恋の狩人」、「牝猫の匂い」、「愛のぬくもり」、「女高生芸者」の4本がワイセツに当たるとして、製作責任者、監督6人と映倫審査員3人が幇助罪に問われた事件の判決が、東京地裁で開かれ、全員、無罪になった。

 この裁判は、警察権力の不当な干渉としての性格を強く帯びていた。この判決では、「性行為などを直接描写するのではなく、本件のようにそれを連想させるだけの場面がワイセツに当たるかどうかの判断は、原則として映倫審査の判断を尋ねるべき」とする。これは当然だが、「性行為など」とあるのは、解釈が拡大されるおそれがある。
 現在の検察が、性表現の変化や、一般の性意識の変化について無知であり、不当な弾圧をみせていることは非難されてしかるべきと考える。

 D・H・ロレンスの「チャタレー夫人」(伊藤 整訳)をワイセツとした最高裁の判決は、なんと大正7年6月の大審院判決にもとずくものという。こんな判例が、その後も生きづづけ、「悪徳の栄え」、「四畳半襖の下張」、「壇の浦夜合戦記」などの古典をことごとく有罪に追い込んでいる。
 先進国がポーノグラフィーの解禁に踏み切り、日本でも、性表現に対する観念、価値観、認識が大きく変化した。にもかかわらず、時代錯誤の判決だけがオバケのように生きのびて、私たちに大きな制約、屈辱感、ひいては表現の自由の侵害をあたえているのは恥としかいえない。
 日活映画の性表現などをワイセツとするのはあたらない。すでに先進国で実現しているように、やがてわが国もまた、ポーノグラフィーが全面的に解禁されるだろう、と私は考える。

 夜、10時、「テレ朝」で、「紳士は金髪がお好き」(ハワード・ホークス監督)を見た。マリリンの映画は、もう何回も見ている。「ローレライ」(マリリン・モンロー)、「ドロシー」(ジェーン・ラッセル)の歌、踊りは、だいたい頭に入っている。今回は、1928年、パラマウントの映画とどう違うのか、考えてみた。28年のヴァージョンは「ローレライ」(ルース・テイラー)、「ドロシー」が(アリス・ホワイト)。むろん、私は見ていない。今後も、見る可能性は絶無だろう。しかし、1928年ヴァージョンのどういう部分で、ハワード・ホークスがマリリンを「ローレライ」に起用したのか、想像できるのだが。

      1978年6月24日(土)
 「メディチ家」は、ようやく、4章あたり。

 この作品は、どうしても夏の間に「集英社」にわたさなければならない。
 ほんとうは、どこかで連載できれば、助かるのだが。私は編集者に知り合いがほとんどいない。しかも、ルネサンスに関心をもつ編集者はまずいないだろう。こういうものを連載させてくれる場所はないものか。

 「山ノ上」。「翻訳技術協会」、森井 春樹さん。聞いたことのない組織だが、翻訳者を養成する機関で、12クラスあり、1クラス、30名。私に、半年間、講義をしてほしいという。
 翻訳者を養成することはできないわけではない。僣越ながら、中田耕治を講師に招くのはいちおう妥当な人選に違いない。中田耕治さんは、長年、俳優、女優のタマゴを相手にしてきたし、大学でも教えている。いちおう適任にちがいない。
 だが、難点が二つある。
 半年間、私の講義を聞いても翻訳家になれない。人を育てるということは、はるかに時間がかかる仕事なのだ。

 あいにく現在の私はまったく時間的な余裕がない。個人的なことだが――今年はエリカがアメリカから帰ってくる。裕人が進学する。

 仕事が重なっている。「メディチ家」の書き下ろしがある。これだけでも眼がくらみそうだが、「サンリオ」、「二見書房」、さらに「三笠書房」の「オーメン 2」と、目白押しに仕事が待っている。
 若い頃の中田先生は、いささかエナージェティックだったが、いまや、疲労困バイ、疲怠、ドバの如し。

 森井さんにお断わり申しあげたが、それなら、講演でも、という。しばらく考えた。大森で、ルネサンスの講義をしたことを考えれば、ずっと楽だろうと思う。けっきょく、9月2日に講演することで承知した。

 中村 継男に頼んで、吉沢君に連絡をとってもらう。
 「集英社」、桜木 三郎君。
 「少年ジャンプ」の編集者なので、多忙をきわめている。それなのに、私を相手に、長いことつきあってくれた。帰りは、桜木君がハイヤーを呼んでくれた。

       1978年6月28日(水)
 雨がつづいている。
 ひたすら、「メディチ家」にとりかかっている。ルネサンスの名家に生きた女たちの人生など、誰か読んでくれるのだろうか。
 私の仕事はずいぶん特殊なものなのだ。私の内面の問題がからみあっているはずなのだから。もっとも、誰も気がつかないかも知れない。

 「面白半分」(8月号)で、山本 容朗がこんなことを書いていた。

    吉行(淳之介)さんに「夏の休暇」という作品がある。少年が父とその愛人らし
    い若い女性と火山のある島へ行く話だが、この作家を語る場合はずせない小説の
    一つだと思う。
    ご当人から、この夜聞いたところによると、「この若い女性」は完全なフィクシ
    ョンだという。実際は両親と三宅島へ行ったのだ。同じ題材で、父親や女性の立
    場から、つまり外側から書いたのが「島へ行く」と「風景の中の関係」の二作品
    だが、ある評論家は「風景の中の関係」は、彼の少年時の記憶の底にある、父や
    大人の性にまつわる原風景をえがいている」と評した。「父の若い愛人が作りも
    の」ということになると、この論評はどうなるのでしょうか。」

 この評論家というのは、私のことだろう。しかし、山本 容朗というもの書きの低劣さに驚いた。「父の若い愛人が作りもの」ということになると、この論評はどうなるのでしょうか。」と、揶揄めいたいいかたをしているが、まるで鬼の首でもとったようなどや顔がいやしい。この若い女が作りものであろうとなかろうと、吉行は、三宅島へ行ったことを小説に書くことで、少年の記憶の底にある、父や大人の性をからめて書きたかったのだろう。私が、少年の性にまつわる原風景を描いたと見たことのどこが間違っているのか。

 山本 容朗は、文壇のゴシップをあさって生きている虫けらのごときもので、文壇には昔からこの種の寄生虫(パラサイト)が棲息している。

 夜、森井 春樹さんから電話。2カ月、講義してもらえないかという。申し訳ないが、お断り申し上げた。ほんとうに時間がないので。
 吉沢君に「スター・ウォーズ」の映画評を送る。

       1978年6月29日(木)
 思いがけない夢。
 和田 芳恵さんのこと。「メディチ家」を読んでほしいと思う気もちが、在りし日の和田さんの姿をよみがえらせたのか。
 しばらく、茫然としていた。5時過ぎ。
 あとで考えたのは――最近出たはかりの和田さんの「雪女」の印象が心に残ったらしいこと。最後の作品、「逢いたいひと」が、「マリア」、「Y.K」のことと重なったのではないか、という気がした。

 ビアンカ・ブォナヴェンチェリと、その娘、ペッレリーナ。おもしろくなってきた。

 中世の封建社会のように、高度に発達した社会では――ギルドのメンバーは、物質的利益の増大ではなく、伝統的な生活水準を満足させるだけのものを求めて努力した。ルネサンスでは、これは富の獲得と収益になった。そして、過剰な消費があらわれる。

       1978年6月30日(金)
 晴れ。不快指数が高い。夜明け。
 入浴して、もう一度、寝てしまった。起きたのは、8時半。

 午前中。「共同通信」、戸部さんから電話。思いがけず、柴田 錬三郎の訃報。追悼文の依頼。午後1時に電話で送る。

    柴田 錬三郎 (1917〜78年) 慶応大、予科、21歳で、「十円紙幣」
    を「三田文学」に発表。1940年、支那文学科、卒。戦時中、台湾南方で航海
    中、撃沈され、奇蹟的に救助された。戦後、「日本読書新聞」の復刊に尽力。1
    949年、文筆業に入り、1951年、「イエスの裔(すえ)」で直木賞。その
    後、「眠狂四郎」のシリーズなどで、空前のベストセラー作家になった。
    今朝、2時45分、肺性心のため、新宿区信濃町の慶応病院で死去。61歳。

 私は、戦後、作家論めいたものをはじめて書いたが、「新小説」で、私を痛罵したのが柴田 錬三郎だった。それ以来、柴田 錬三郎を敬遠してきたが、その後、慶応系の文学者の集まりに顔を出すようになって、いくらか親しくなった。それだけの関係で、追悼文を書くのはどうか、と思ったが、大衆文学の批評家など、どこにもいないので、戸部さんも困ったのではないか。できれば尾崎 秀樹あたりに依頼したかったはずだが、すでにほかの新聞に先を越されて、私に白羽の矢を立てたのだろう。
 1時5分、戸部さんに原稿を送った。
 とにかく、私は律儀なもの書きなのである。

 柴田 錬三郎は、昨年9月、大病をして、一時休筆した。当時、「週刊文春」で、長編、「復讐四十七士」を連載中だった。
 何しろ、大流行作家だったから、極度の過労で倒れたらしい。「週刊文春」の長編は中断したが、「読売」の「曲者時代」は大詰めをむかえて、休載できなかった。自分でも病院で書きつづけるつもりで、大きなバッグに資料をつめ込んで都内の病院に入院した。
 ところが、入院した直後に、昏睡状態に陥った。連載は1日分だけ余裕があったという。24時間、昏睡状態だったが、柴田 錬三郎は意識を回復した。
 翌日から、最終回までの15日分を、作家はベッドで書き続けた。

 午前中は、点滴。その効果があらわれる午後から執筆。1回分、書き終わると、ぐったりして寝込む。熱が39度にあがる。また点滴。熱が下がるとまた原稿用紙にペンを走らせる。
 こういう悪戦苦闘がつづいて、ついに新聞連載は完結した。

 こういう流行作家の生活は、私などの想像を絶しているが、それでも自分の作品を何とか完結させようと必死に書きつづけた柴田 錬三郎には頭がさがる。
 入院生活は、ほとんど9か月におよんだが、この6月、退院したと聞いた。
 それでも、1カ月後に、白玉楼中の人となった。

 午後1時5分、「共同通信」、戸部さんに柴田 錬三郎・追悼を電話で送る。

 柴田 錬三郎の逝去に蔽われてしまったが、本多 顕彰(あきら)が亡くなった。英文学者、批評家。享年、79歳。
 私はこの批評家に面識がなかった。しかし、本多さんの書くものはよく読んできた。翻訳もすぐれたものが多かった。
 いつも、端正な文章で、おだやかに作品の月旦を書いていた。ほかの批評家のように、するどい裁断、分析をこころみるのではなく、批評する側の教養の深さ、判断の基準が、イギリスの批評家のように、重厚ながら、おだやかに迫ってくる。否定的な批評をする場合でも、相手に深傷(ふかで)を負わせないあたりが、本多さんの「芸」だったと思われる。むろん、私などが影響を受けようはずもなかったが。

 夜、10時、「TBS」で、「悪魔の追跡」(ジャック・スターレット監督)。
 ピーター・フォンダ、ウォーレン・オーツの主演。
「ロジャー」(ピーター・フォンダ)と「フランク」(ウォーレン・オーツ)は、それぞれ妻を同伴して、大型ワゴンで旅行中。偶然、オカルト宗教団体の儀式で行われた殺人を目撃したため、行く先々で危険にさらされる。私の好きな映画。


   *作家の日記77〜78年 完*

2019/10/13(Sun)  1817〈1977〜78年日記 64〉

       1978年5月2日(火)
 朝、6時半、江古田に。
 昨夜、よく眠っていないので、電車の中で眠った。
 8時25分、江古田に着いた。すぐに胃カメラの検査。
 胃カメラによる検査が不快なものと、こだまさんから聞いていた。胃カメラを飲んだあと、食道に痛みが残るとも、小泉(義兄)先生から聞いていた。カメラはうまく嚥下できたが、胃の各部位を撮って、カメラをひき揚げるときが不快で、一度は胃液が咽喉まで逆流して、咳き込むと、咽喉が痙攣した。担当の医師が、声を荒げて、
 ――大丈夫だ! 我慢しろ!
 と怒鳴りつける。
 胃の検査で、胃が良好な状態の場合は、担当医が落ちついた声で、
 ――大丈夫ですよ。
 と声をかけてくれるそうな。ところが、大丈夫だ! 我慢しろ! などと、どなられると、一種の直観めいたものがはたらく。ひょっとすると、悪性なのかも。むろん、そんなふうに感じるのは、こちら側の猜疑心なのだが。

 江古田から池袋に出た。胃が不快だったし、肩に麻酔の注射を打たれているので、どうも調子がよくない。
 レストラン。スパゲッティ、ミルクセーキ。

 NHK、山田 卓さんに会う。「コロンバン」。
 山田さんは――マリリン・モンローの資料を読めば読むほど、彼女の輪郭が曖昧になってくる、という。しばらく話をする。

 地下鉄でお茶の水に。

 「誠志堂」、「松村」、「岩波」と歩いて本を買う。「地球堂」。バークリーで撮ったポートレートの引き伸ばし。葬式に使えるように。

 「集英社」、新福君に会う。
 10年前の仕事が文庫化されるのだが、今回は新福君が担当している。ヒロインの内面にひそんでいる喪失感、痛み、怒り、孤独感、あきらめ、心の揺れ、そして、かすかな希望。そんな一つひとつが、私の訳でじゅうぶんに出せているかどうか。私としては最低の仕事のひとつ。

 大学の講義。
 「中田パーティー」がきている。
 平野さんの葬儀のとき、私がいっしょにお焼香をした女子学生がきている。いつもなら、「中田パーティー」のメンバーと、「平和亭」あたりに行くのだが、この女子学生が私に会いにきたので、みんなと別れて「あくね」に行く。
 小川 茂久は、帰ったあと。
 この女子学生は、平野さんの講義を受けていた。卒業したあと、茨城県の高校の先生になった。Y.K.さん。どうも、女子学生にしては、落ちついていると思った。
 いろいろ話がはずんで、最終電車にやっと間にあった。

       1978年5月6日(土)
 「メディチ」、第三章。

 夜、アーサー・ヘイリーの「マネー・チェンジャーズ」を見た。
 以前、レオン・ユリス原作の「QB Z」とおなじようにベストセラーのテレビ映画化で、5時間に及ぶ大作だった。ようするに、短いパッケージ・ドラマに食傷した視聴者に、しっかりした企画で、規模の大きなドラマを、ベスト・キャストで見てもらうというもの。私の想像では、「スター・ウォーズ」、「未知との遭遇」などに対抗したドラマだが、結果としては、ハリウッドの大作映画のテレビ版というだけに終わっている。

       1978年5月7日(日)
 庭師の大塚さん夫婦がきてくれた。
 「サンシュウ」、「ぐみ」、「ライラック」を植えてもらう。私が、バークリーでひろってきた種は、なんとか根がついて、小さな木のかたちになった。

       1978年5月8日(月)・
 体調がよくない。昨日は蕁麻疹が出た。
 エドナ・オブライエン、校正。
 バークリー、エリカの隣人で、黒人の男の子に写真を送ってやったのだが、お礼の返事がきた。きっと、母親が書いたものだろう。
 「Y.K」から手紙。

       1978年5月9日(火)
 午後、「練馬総合病院」に行く。
 胃カメラ、検査の結果を聞く。さいわい無事だった。担当の向田医師が、
 ――大丈夫ですね。なんともありません。
 といったので、ほっとした。
 この一ヵ月、腹痛があったり、胃がやけたり、どうも不調だった。これで、後顧の憂いなく仕事に専念できる。
 地下鉄で、飯田橋に。タクシーをつかまえようとしたが、ひどい混雑だった。歩くか。
雨模様で、湿度が高く、汗がにじむ。
「地球堂」で、写真を受けとる。バークリーで、エリカが撮ってくれたものの引き伸ばし。古書展。最近、古書の値あがりがはげしい。

 「山ノ上」、「二見」の長谷川君。

 大学。関口 功に会う。久しぶりだった。私と同じ時間に、ヘミングウェイをよんでいるという。「フランシス・マコーマー」。
 私のクラスは、あい変わらず出席者が多いが、それでも五月病のせいで、だんだん少なくなってくる。
 講義のあと、国井 ますみ、小村 ふみ子が待っていた。Y.Kが、少し離れた位置で、目礼する。私が声をかければ、また終電になってしまう。

       1978年5月10日(水)
 イタリアのモロ前首相の遺体が、9日、ヴェネツィア広場付近で発見された。過激派、「赤い旅団」によって処刑されたもの。死後、10〜24時間が経過している。
 この事件は、西ドイツのシュライヤー事件とならんで、歴史に残るだろう。
 「赤い旅団」は、イタリア最大の過激派グループで、メンバーは200〜400名程度だが、60年代の大学闘争の残存分子といわれる。イタリアは、過激派のテロ行為が猖蠍(しょうけつ)をきわめているが、これもデモクラシー社会に内在する矛盾の一つに違いない。イタリア社会の若年層に失業者が多く、経済的な混乱に乗じた暴力と見てよい。キリスト教民主党の体質にも問題がある。

       要 修 正
 モロ前首相の遺体発見のニューズは、ヨーロッパ各国に甚大な衝撃をあたえた。ローマでは、市民が自発的に抗議デモを起こし、各地で抗議デモ、ストライキが起きている。
 「赤い旅団」は、60年代の学生運動の落し子で、彼らの戦略は、体制の中核を襲撃し、右翼勢力を政治の舞台にひきずり出し、プロレタリアートの自覚をうながし、内戦にもち込み、革命をめざすという。こうした理論構築が、どこまで有効なのか。都市ゲリラ化した過激派の運動が、とにかく前首相を殺害し得たことは、イタリア社会の脆弱な体質を物語っている。
 私は、イタリアの現状にますます大きな関心をもつようになっている。

 午後1時、「アートコーヒー」で、「二見」の長谷川君。すぐに「ヤクルトホール」に行く。
 「サタデー・ナイト・フィーバー」(ジョン・パダム監督)。

 田中 小実昌、吉行 淳之介が見にきていた。

 ブルックリンに住んでいる「トニー」(ジョン・トラボルタ)は、塗装屋の職人だが、土曜日の夜は、ディスコに行って踊りまくる。3週間後に開かれるダンス・コンテストに出るために、「ステファニー」(カレン・リン・ゴーニー)

 「ニューヨーク・マガジン」76年6月に出た実話の映画化。

 車のなかで、推薦文を書いて、「二見」の長谷川君にわたす。
 「中央公論」のすぐ前の喫茶店で、「集英社」の新海君に校正。
 そのあと、「中央公論」の春名 章さんに会って、新しい仕事のリストをわたす。
 ここから、NHKに。
 山田 卓、平松両氏とうちあわせ。本間 長世先生がきた。
 6時45分頃から、ビデオの撮影。

6時、「山ノ上」。Y.K.に会う。

 「あくね」に行く。
 平田 次三郎さんがいた。平田さんは、「近代文学」の同人だったし、私も親しくしていただいた。すっかり老け込んでいる。
 声がかれて、何をしゃべっているのかわからない。
 10時半まで、平田さんにつきあった。

       1978年5月11日(木)・
 10日、バッキンガム宮殿は、マーガレット王女と、スノードン卿が離婚に同意したと発表した。
 エリザベス女王の実妹であるマーガレットは、12年間の結婚生活のあと、76年3月から、スノードン卿との別居生活に入っていた。イギリス法では、2年間別居すれば、双方の合意のもとで離婚の申請ができる。離婚手続きが簡単になり、費用は16ポンドですむ。マーガレットは、離婚のために別居したらしい。それより先、マーガレットは、ポップ・シンガー、ロディ・ルウェリンと情交関係にはいったらしく、この数カ月、ジャーナリズムからはげしい批判を受けていた。マーガレットは、このシンガー(30歳)と逢瀬を楽しむため、カリブ海のムスティーク島に豪奢な別荘を建てた。この3月、大衆紙、「ザ・サン」が、水着姿のふたりの写真を発表したため、世論が悪化した。王女のスキャンダルは、バッキンガムにとっては頭の痛い問題になる。マーガレット王女は、年額、5万5000ポンドの歳費を支給されているが、イギリス議会は王室の歳費値上げ案が提出される時期で、労働党議員が、このスキャンダルを持ち出して、値上げ案に反対することは必至だった。
 マーガレットの居城、ケンジントン・パレスは、「王女に再婚の予定はない」と発表。
 スノードン卿は、「われわれはコメントする立場にない」と弁明した。
 ルウェリンも、王女と結婚する可能性はないと見られている。
 私は、マーガレット王女のスキャンダルに関心はない。ただ、今後、スノードン卿はどうなるのか。貴族の身分は保証されるだろうが、ふたりの間に生まれたリンレイ子爵が、スノードン卿を襲爵するのだろうか。
 イギリスに革命が起きるとか、王制の廃止といった事態が起きる可能性はきわめて低い。しかし、マーガレット王女のスキャンダルは、イギリス史に翳りを落とすことになることは確実と思われる。

 1955年、マーガレット王女は、ピーター・タウンゼント大佐との結婚を断念した。
 それから5年、1960年、マーガレットは、アントニー・アームストロング・ジョーンズ(スノードン卿)と結婚した。当時、29歳。この結婚はイギリスじゅうが祝福したといっていい。やがて一男一女に恵まれたが、一昨年から、夫妻の不和がつたえられるようになった。
 マーガレットとスノードン卿は別居した。

 現在、30歳になるロディ・ルウェリンが、はじめてマーガレット王女と出会ったのはスコットランドにある王女の友人の別荘で、王女は17歳年下のロディと「わりなき仲」になった。ロディの父は上流階級出身、オリンピックに出場して馬術のゴールド・メダリスト。ロディは、スノードン卿とおなじイートン校に入ったが、大学には進まず、造園技師になったり、今年の2月、王女の後援で、ロック歌手としてレコードを出すような経歴。
 マーガレット王女のロマンスに関心はないが、日記に書き留めておくのは、いつかこの宮廷悲劇は、劇化されるのではないかと予想する。どういう形で舞台化されるかわからないが、イギリスの輝かしい社交劇、風俗劇の伝統に、マーガレットの恋愛はかっこうのものになると予想する。その時代の名女優なら、きっとやってみたい劇になるだろう。
 私の妄想の一つだが。

      1978年5月12日(金)
 午前中、「中間小説時評」を書く。
 書き上げないうちに、戸部さん。来訪。少し待っていただく。
 百合子が食事を出した。お子サンがネコをほしがっているとか。家じゅうの壁に、「ネコを飼え」というビラを貼っている。
 わが家では、ネコの「ルミ」が子を生んだばかりなので、もらい手があったら、ネコの子をさしあげるのだが、まだ目も開けないコネコなので、黙っていた。

 夜、テレビで「大脱走」(ジョン・スタージェス監督/1963年)を見た。
 1942年、北ドイツ。
ドイツの捕虜収容所から集団で脱走した連合軍兵士たち。251人。
スティーヴ・マックィーン、ジェームズ・ ガーナー< チャールズ・>ブロンソン、ジェームス・コバーン。
原作は、ポール・ブリックヒル、脚色がジェームズ・クラベル、W・R・バーネットだったことなど、誰も気にかけない。
 アクションものは、こういうふうに、つぎからつぎにサスペンスを追って行くのが本領だろう。

       1978年5月13日(土)
 午後3時。大川 修司、宇尾 房子、児玉 品子さん。
 水谷 不倒の「平賀源内」を読む。

 夜、百合子といっしょに、料亭「さざえ」に行く。
 義母、湯浅 かおるを囲んで、小泉 隆、賀江夫妻と私たち、5人で会食。
 明日が母の日だが、1日早い祝宴。あわせて、義姉、小泉 賀江の誕生日なので。

       1978年5月14日(日)
 やや曇り、全体としては晴れ。
 朝の「美術散歩」で「レオナルド・ダヴィンチ」を見た。

 「メディチ家」にまつわる悲劇を考える。

 イタリア・ルネサンスを研究する上で、「メディチ家」の研究は欠くべからざるものだが、ほとんどはメディチ家の支配形態の叙述に終始している。私は、それぞれの時代にいきた「メディチ家」の人々の人生を追ってみたい。
 たとえば、ビアンカ。
 ビアンカ・カッペロ・ボナヴェントウリ。

      1978年5月15日(月)
 1847年版の「ロレンツォ・デ・メディチ」を読む。
 これほどの本が、19世紀に書かれていたことに驚嘆した。
 ブルクハルトと比較してみた。当時、ブルクハルト、29歳。イタリアに旅行している。彼がゲーテやヴィンケルマンのいう古典的な世界に大きく転回した時期だが、おなじ時期に、こういう篤実な学者がメディチ家の研究に没頭していた。
 翌年、「共産党宣言」が発表される。フランスの二月革命、ドイツの三月革命。
 この「ロレンツォ・デ・メディチ」が書かれたのは、はるか以前のことで、ファブローニの研究にあきたらなかった著者が、ハーグ版の「メディチ家編年史」を入手して、勇躍、「ロレンツォ・デ・メディチ」に着手したという。
 19世紀の史学の、わかわかしい息吹きが感じられて、うれしかった。これに対して、現代の、たとえば、去年出版されたヘールの著作などは、ずっとすっきりまとまっているが、よくいえば冷静、わるくいえば感動のない研究に過ぎない。

       1978年5月16日(火)
 「中田ファミリー」。安東夫妻、鈴木 和子、工藤 敦子、石井 秀明、中村 継男たちと、テレビの見られる店を探した。なかなか見つからない。
 三崎町のスナック。NHK、「歴史と文明」シリーズ、「美の墓碑銘・マリリン・モンロー」を見た。野坂 昭如、塩野 七生などが出ていた。
 マリリンについては、あまり「発見」はない。

 「あくね」に寄る。

       1978年5月17日(水)
 「メディチ家」ノート。

 いつか発表したいと思う。しかし、発表できる場所がない。

       1978年5月18日(木)
雨。コイが1尾、死んだ。残念。このコイは尾腐れ病にかかっていたので、クスリをつけて、隔離したのだが、手遅れだったらしい。

 チャプリンの遺体が発見された。
 レマン湖畔の墓地に眠るチャプリンの遺体が、なにものかに盗まれて行方不明になっていたが、17日、スイス警察当局は、柩を発見、犯人(2名と見られる)を逮捕したと発表した。

 「メディチ家」ノート。

 山本 由鷹、大畑 靖、スズキ シンイチさんから手紙。
 スズキ シン一は、博多人形を送ってくれた。昨日は、北海道の早川 平君が、スズランを送ってくれた。

 いい友人に恵まれたことをありがたく思う。

 いい友人といえば――今 日出海が「芸術新潮」に、「メディチ家」に関するモノグラフィーを発表していたことを思い出して、「県立」の司書、渋谷 哲成君をわずらわせて、調べてもらった。竹内 紀吉君の友人。
 すぐに調べてくれたが――この連載は6回で打ち切られているという。
 不評だったのか。あるいは、編集者が「メディチ家」に興味がなかったのか。

 今 日出海さんには面識がない。しかし、戦時中、空襲にそなえて、本の整理をする要員として、斉藤 正直先生から、頼まれて、渋谷・金王町の今さんの邸宅に寝泊まりして、今さんの蔵書を片っぱしから読みあさった。
 この時期のことは、「おお季節よ 城よ」に書いたが、今 日出海さんに会う機会があったら、お礼を申しあげたかった。
 はるか後年、私は、ある女子大の教壇に立ったが、このとき、今 日出海さんのお嬢さんが教授だったので、戦時中の今さんの邸宅のようすなどを話したことがあった。
 今さんが手がけようとした「メディチ家」について、今、私が調べはじめている。なんとなく、縁(ゆかり)のようなものをおぼえている。

 夜、百合子がきゅうに腹痛を起こした。嘔吐。顔が青ざめている。
 すぐに、小泉 賀江に連絡した。
 義兄、小泉 隆が往診してくれた。
 今日の百合子は、銀行に行ったり、近所の石橋家の葬儀に出たり、いろいろあって、胃が食べ物を受けつけなかったらしい。
 私は、ずっと夜明けまで起きていた。

       1978年5月20日(土)・
 曇り。
 成田空港は、今日、厳重な警戒体制のもとで開港する。

 ローマ。18歳以上の女性が、本人の意志で、妊娠3か月以内の人工中絶を受けることを認める法案が上院を通過した。賛成、160。反対、148。
キリスト教民主党ほか右派が反対したが、社会党、共産党が賛成し、4月14日、賛成、308。反対、275で、下院を通過している。ヴァチカンの反応はまだ出ていない。下院で、この法案が通過したとき、ヴァチカンは――この法案の承認は殺人にひとしい深刻な結果を生じるとして、反対を表明している。

 午後1時、「千葉文学賞」の選考。
 峰岸 義一、恒松 恭助、北町 一郎、荒川 法勝、山本さん。そして私。庄司 肇さんは欠席。
 文学賞の審査は、おもしろいもので、こんなものでも、いろいろと心理的な駆け引きがあらわれる。
 庄司さんが一位に推した花森 太郎の作品は、私も入選作と見ていたが、ほかの審査員の支持が得られずに落ちた。もし、庄司さんが出席していれば落ちなかったろう。
 帰宅。

       1978年5月21日(日)
 安東たちが山に行っているはずなので、残念。
 アメリカから帰って、私はかなり変わったような気がする。もとのように、忙しい毎日をすごしているのだが、大作を手がけはじめて、ますます時間がなくなってきた。

 「メディチ家」ノート。
 パッツイ家の陰謀を調べているのだが、こんなに有名な事件なのに、パッツイ家の資料がない。マキャヴェッリの「フィレンツェ史」を読み返す。ケントの「フィレンツェの名家」を調べたが、パッツイ家の事件にふれていない。
 こういうときは、まるで登山中にガスに巻かれて動きがとれなくなる状態に似ている。

 北ノ湖、若三杉の優勝決定戦を見た。私の予想通り。
 北ノ湖は、どうも好きになれない。しかし、現在の角界で、実力は最高。昨日、若三杉に負けたが、これは北ノ湖が負けてやったと思われる。
 今日は、輪島を破り、優勝決定戦にのぞんで、若三杉を一蹴した。
 ほんとうなら、昨日、若三杉に勝ってもいい相撲だったが、自分が負ければ、若三杉が横綱に昇進する。輪島後の相撲の人気をもりたてようという意図がありありと見える。しかも、自分の12回の優勝を果たした。
 こういう北ノ湖に、私は徹底したリアリストを見る。

       1978年5月22日(月)
 下沢 ひろみから電話。水疱瘡にかかったので、休んでいるという。驚いて安東 由利子にたしかめると、昨日の登山は中止したという。おやおや。リーダーが休むと、みんなの士気も衰えるらしい。
 藤枝 静男さんが平野 謙さんを悼むエッセイを読んで、深い感動をおぼえた。

 ヴェトナムから脱出した華僑系難民が5万7000人に達した。(「大公報」)トンキン湾に面する自治区・北海市では、クワンニン省各地から1000隻以上の漁船に乗った華僑が、2,3日から10数日も海上を漂流して北海市にたどり着いた難民が、今月5日現在、8000人に達している。
 雲南省の河口、ヤオ族自治区でも、華僑系難民の数は、毎日1000人、多い日は1900人に達している。

 中国では、一般大衆が見られない映画が、この数カ月に、ペキンの党幹部のためにひそかに上映されているという。政府高官、人民解放軍幹部、その家族たちは、文化省によって用意された外国映画を鑑賞している。こうした映画は、「浮気なカロリーヌ」、「スター・ウォーズ」など。高級幹部は、「ある愛の詩」(「ラブストーリー」)といったベストセラーも読む。中国語訳が、内部参考用として少部数出版されているといわれている。

       1978年5月23日(火)
 成田空港では、今日からすべての国際便が離着陸をはじめる。機動隊1万人が警備に当たっている。過激派は、地下ケーブルを切断したり、送電用鉄塔を倒すといった無差別テロに移った。

 正午過ぎ、「伊勢丹」。「美の巨匠展」を見る。私がパンフレットに原稿を書いたので、受付で、安斉 はる子さんの名をいえば、パンフレットを用意してくれるはずだったが、今日が最終日なので、受付につたえていなかったらしい。

 3時半、「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見」の長谷川君に会う。一緒に「東和」で、「ホワイト・バッファロー」(J・リー・トンプソン監督)を見た。
 「ワイルド・ビル・ヒコック」(チャールズ・ブロンソン)は、白い巨大な野牛を追っていたが、同じ獲物をねらうインディアンの長「クレイジー・ホース」(ウィル・サンプスン)と出会う。ふたりは協力して、この野牛と闘う。
 みながら、この映画はイケないと思う。「コンボイ」(サム・ペキンパー監督)、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)、「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)、「サタデー・ナイト・フィーバー」(ジョン・パダム監督)とそろったところに、チャールズ・ブロンソンでは、とても対抗できない。
 キム・ノヴァクが出ているが、見るかげもない。

 Y.Kとデート。

       1978年5月24日(水)
 「週刊ポスト」、富田君、明日、インタヴュー。
 「翻訳協会」、原稿依頼。
 「毎日」、インタヴュー。西村 寿行のこと。

 気晴らしにカメのエサを買いに行く。
 たまたま、イモリを見つけた。形はグロテスクだが、可愛い。飼ってみようと思った。

       1978年5月25日(木)
 いつものように、草花、木に水をやろうとおもって、池をみると、10尾いたはずのイモリが2尾しかいない!
 あわてて探したところ、池のまわりの植え込みの根のあたりにひそんでいた。すぐにつかまえて池に戻した。
 思ったより頭のいいやつらだった。逃げられても惜しい気はしない。ただ、庭のどこかにいてくれればいい。

 マーガレット王女、スノードン卿と正式に離婚。


       1978年5月26日(金)
 昨日も快晴。今日は夏に近い。

 「メディチ家」1章、ノート。
 これで書きはじめるつもり。しかし、ジャーナリズムとは無縁の仕事なので、不安な出発になる。一応、「集英社」の松島 義一君に話をもちかけたが、100枚の原稿と聞いてひるんだらしい。小説なら100枚でも掲載するのだが、私の仕事は「文学」ではないと見ているらしい。

 3時、「東和」第二。「ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー」の試写。これはすばらしい。全編、アフリカの象牙海岸で撮影したもので、みごとな映像美だった。内容は、コメディ・タッチの反戦映画。もっとも、こういっただけでは、この映画のすばらしさはまったく伝わらない。
 先日、「東和」で、「ホワイト・バッファロー」を見て失望しただけに、この映画なら、他社の大作のなかでも輝きを失わない……かも。あとで、考えることにしよう。

 神保町に出て、本を漁る。「北沢」で2冊。ある枢機卿の記録。1509〜1514年。つまり、ジューリオ2世からレオ10世の時代。たちまち貧乏になった。大学の教授で、必要な本を全部大学の図書館に買わせて、本は自分の研究室に運ばせているやつがいるが、私の場合、必要な本は全部自分で集めなければならないので、いつもピイピイしている。
 もの書きで、私ほど貧乏な作家はいないだろう。

 「世界文化社」、井上 正博君から、今川 義元の資料を。

 「あくね」に。ひさしぶりに、小川 茂久に会う。少し飲んでいるうちに、小川が意外なことをいい出した。
 ――きみ、専任になる気はないか。
 ――センニンって?
 ――文学部の専任。
 ――ああ、そっちか。専任の講師ってことか。
 ――いや、講師じゃないほう。
 ――平野 謙さんが亡くなられたので、空席ができたためか。
 ――そうじゃないんだ。
 平野 謙さんが亡くなられた空席を埋める、といのではなく、教授会で、私の名が出てきている、という。その前に、私が引き受けるかどうか、私の意向をたしかめておきたい、という。
 ――そんなに、もったいぶった話じゃねえだろ。お前さんがいうなら、なんでも引き
    受けてやるさ。
  ――たいへんだよ、実際に教授になったら。
  ――(教室に出る)時間は多いのか。
  ――5コマだよ。
  ――つまり、毎日、出講ということになるね。
 私は、大学に勤務することになったら、小さいコラムをいくつか整理すればいい、と思った。5コマのうち、1コマは、自分がやりたいテーマ、たとえばプランタジネットの「モード」について1年かけて、講義したいと思った。「モード」の母は、スコットランド王の娘で、イングランドのサクソンの後裔。こういう血が、中世の女を作った。「モード」は「マティルダ女王」。母も「マティルダ」。
 ――だけど、ほかにいろいろと時間をとられるよ。教授会にも出ないかんし」
 教授会か。ポストをめぐっての争いや、中傷、了見の狭い連中が偉そうな顔をしてのさばっているだろう。退屈な風景だな、と思った。
 オレみたいな男に、つとまるかどうか。
  ――平野 謙さんが亡くなって空席を埋める話とは無関係として、要するに、文学部
    が弱体化するから、新しく立て直すということなのか。
  ――まあ、そういうことだね。
 小川がいった。
 先日、私の起用の当否をめぐって、「弓月」で唐木 順三が、大木 直太郎先生をはげしく問詰したとき、偶然だが、小川が私といっしょにあのやりとりを聞いていた。小川は、最後まで何もいわなかったが、私が屈辱にまみれていたことを見届けていたはずだった。その後も、私と小川のあいだで、あのときのことはいっさい話題に出なかったが、小川は私に同情したに違いない。
 私は、もう一つ、小川に訊いてみた。
  ――話はわかったが、もう1人の平野(仁啓)さんはどうなんだ? あの人は、オレの起用に反対だろう。
 平野 仁啓さんは、斉藤 正直先生と同期で、戦時中は、「批評」の同人だった。文壇批評家を志望していたが、戦後は、日本文学の研究者として、文学部の先生になっている。私は、大学で会うこともなかったが、唐木 順三と親しい仁啓さんが、私の起用をこころよく思っていないだろうことは想像がついた。
 小川は、私が仁啓さんの名をあげたので、少し口をへの字にまげて、
  ――まあね。
 そして、ケッケッケッと笑った。

 こういう話は、もっと具体的になってから考えたほうがいい。これまでにも、似たような話が浮かびあがっては消えていったことは何度もある。私は、何度も失望したものだった。私は、あきらめのいい男になっている。この話も、たまたま酒の座興として聞いておこう。

 帰宅。
 作家、野呂 邦暢さんから礼状。私の批評に対して。拙作、「私小説」(「宝島」)を読んだという。

       1978年5月27日(土)
 ほぼ快晴。
 スズキ シン一さんに電話。夫人が出たので、先日送っていただいた博多人形の礼をいう。

       1978年5月28日(日)
 快晴。4時半に起きる。
 6時半、新宿に。
 8時10分前、新宿駅。誰もあらわれない。ひとりで、甲府に行く気になった。そこに、石井 秀明、続いて吉沢 正英。8時16分発の急行に乗ったとき、安東夫妻、工藤敦子。
 先日、安東 つとむがリーダーで、悪戦苦闘したあげく、ビヴァークした山を今日は突破しようということになった。みんなは、失敗した山をもう1度やるのは、おもしろくなさそうだったが、私はぜひ登ってみたかった。
 10時15分、奥多摩から始発のバスで、10時半、倉戸口に。10時36分、出発。
 10時49分、神社に着いて水の補給。暑いので、みんなの調子がよくない。私もひさしぶりの登山なので、疲労を心配していた。
 11時、やはり、調子がわるい。
 工藤 敦子、不調。安東 つとむも。11時半、小休止。こんな調子では心もとないが、やむを得ない。
 11時45分、また歩きだす。このときから、いつものペースをとり戻した。12時25分、倉戸山。昼食、オートミール、ビスケット、ミルク。あまり食欲がない。
 1時45分、出発。2時「中田小屋」跡。しばらくぶりで行ってみたが、跡形もなかった。この小屋跡の前の道から左に入ることにした。むろん、地図上に破線もない。小石、岩のザレ場をまっしぐらに下りてゆく。
 安東 つとむが、どうも前にきた道と違う、という。しかし、もとの道に戻るのもシャクなので、そのまま進んだ。
 谷が迫ってきて、通れない。ここで高巻き。やっと尾根にとりついた。しばらくして、また断崖。その上の、比較的、安定した場所を通り、三つばかり、尾根を越えた。
 途中で、旧道らしいものを発見したので、それを辿ってゆく。
 滝のある沢に出た。
 4時、ここで小休止。
 このあたりなら、安東パーティーが、ビバークしたのも無理はない。むずかしいコースだった。安東は、明日はどうしても休むわけにはいかない。吉沢君にしても、工藤 敦子にしてもおなじだろう。早くルートを発見しなければならない。
 吉沢君、石井君、安東君にルート・ファインディングを頼む。それぞれ別の方角に、10〜15分進んで、ルートの「発見」とは関係なく引き返してくる。
 吉沢君が、ルートを「発見」して戻ってきた。吉沢君の報告から、そのルートは石井君の「発見」したルートとぶつかると判断できた。みんなで、安東君を呼び戻す。
 安東君は、この前、ビバークした地点を発見したという。

 時間がない。私たちは、吉沢君のルートをたどった。
 カヤの木がつづく。この道をたどって、5時45分、麓の部落に着く。
 みんな、ほっとした顔になった。
 5時54分のバス。1日、4本。これが最終だった。
 みんなが、私の判断をよろこんでいた。

 奥多摩に戻ったのは、6時40分。

 6時21分、奥多摩から立川行きに乗る。

 疲労はなかった。久しぶりに、おもしろい山行をしたという充実感があった。
 帰宅、10時45分。
 百合子に、山の話をする。
 きっと、昂揚していたにちがいない。

       1978年5月29日(月)
 「メディチ家」を書きつづける。

 杉崎女史から手紙。アメリカ行きが迫っている。
 剣持さんから、電話。原稿の依頼。「週刊サンケイ」、長岡さん、電話。「社会思想社」、督促。
 Y.K.が原稿を送ってきた。小説のごときもの。


       1978年5月30日(火)
 小雨。
 「社会思想社」、小栗 虫太郎、解説、10枚。
 「山ノ上」で、「二見」の長谷川君に、サローヤン。
 「社会思想社」、浦田さんに、原稿をわたす。

 安東 由利子と「山ノ上」で会って、倉戸の話をしながら、「日経」の原稿を書く。まだ書き終えないうちに、吉沢君がきた。私が「山ノ上」にいると見当をつけて、やってきたという。
  ――山のルート・ファインディングみたいに、カンがいいね。
  ――先生に鍛えられましたからね。
 吉沢君が、ニヤニヤする。

 「平和亭」で、Y.K.に小説の話をしているところに、小川がきた。Y.K.は、私と話をしたいらしく、帰らない。やっと、帰ったので、小川と飲む。小川は、Y.K.を私のあたらしい「恋人」と見たらしい。

       1978年5月31日(水)
 晴。
 朝、いつものように、バークリーの植物に水をやり、さかなにエサをやる。
 百合子がきた。

 午後、表のツタの葉をきっていると、若い人が寄ってきて
  ――つきますか?
 と訊く。ツタを植えたので、根がつくか、という意味だった。
  ――たぶん、つくでしょう。
 と、答えた。ひどく、なれなれしい人だが、近くに住んでいる板倉さんだった。
  ――このつぎ、本を持ってきますから、サインしていただけますか。
 という。
 板倉さんは、私のデザインした門扉を眺める。たいていの人は、このデザインを見て驚く。なにしろ、女のヌードなので。門扉は、どこでも見かける普通のものだが、これに横座りの女の大きなヌードが付けてある。
 普通の門扉では、玄関まで見えてしまうのだが、門の外側が大胆なヌード。大きな鉄板にデッサンを描いて、それを切ったもの。色は黒。片方の乳房が、ドアノブに重なっているので、それに気がつくと誰も玄関を見ない。
 近くの女子校の生徒たちは、はじめてこの扉に気がつくと、キャアキャアいいながら、足をとめたり、笑いだしたりする。
 しばらくすると、誰もさわがなくなる。
 板倉さんは、私のデザインした門扉を褒めてくれた。

 昨日、送ってきたアーサー・ヘイリーの「ルーツ」を読み始める。
 大畑 靖君から礼状。山本 由鷹君が批評を寄せてくれたという。
 杉崎女史に電話。アメリカ行きは、8月末になったという。

2019/10/06(Sun)  1816〈1977〜78年日記 63〉
 
       1978年4月18日(火)
 公労協。スト、2日目。
 国鉄ダイヤがマヒしている。

 中国・ヴェトナム国境で戦闘が行われている模様。スウェーデン放送の香港特派員がつかんだニュース。
 ヴェトナム外務省の高官は、
  ――国境付近で何が起きているかあきらかにできないが、中国との領土紛争は南シナ
    海の西沙、南沙群島ばかりではなく、陸上地域にもある。
 と言明した。

 北京の日本大使館は、尖閣諸島の領海侵犯事件に関する外交レベルでの話し合いを申し入れた。
 海上保安庁の調べによると、尖閣諸島の周辺海域の中国漁船団は、領海外に集結、漂泊をつづけている。

 この事件は、中国・ヴェトナムの武力衝突とも、微妙に関連しているとみていい。


                        1978年4月21日(木)
 2時、銀座「サンバード」で、「集英社」、新海君に会う。校正を受けとる。

 3時、「サンバード」のすぐ前のリッカー・ビル、「CIC」で「初恋」(ショーン・ダーリング監督)を見た。映画としては、小味なものだが、私は興味をもった。原作は、ハロルド・ブロドキー。脚色、ジョーン・スタントン・ヒッチコック。
 この映画の試写を見たとき、試写室にいたのは、私ともうひとり、どこかの雑誌編集者だけだった。
 その内容を書きとめておく。

 誰もいない練習場で、学生の「エルジン」(ウィリアム・カット)がひとり黙々とサッカーの練習をしている。バックに、キャット・スティーヴンスの「チャイルド・フォー・ア・デイ」――「もう幼い日々は過ぎているが、まだ新しい日々はこない」という歌詞が流れている。
 「エルジン」が翌日の試験にそなえて、自室で勉強していると、隣室で、友人、「デイヴィッド」と「シェリー」が性の営みの最中で、「シェリー」があられもない声をあげている。ところが、「デイヴィッド」のステデイだった「フェリシア」がやってくる。「シェリー」はあわてて、窓から逃げ出して、裸のまま「エルジン」の部屋に入ってくる。隣室で、「デイヴィッド」と「フェリシア」がセックスをはじめるのを聞いた「シェリー」は、「エルジン」をベッドに誘おうとするが、「エルジン」は試験を理由に「シェリー」の誘惑を退ける。
 翌日、「デイヴィッド」は窮地を救ってくれたことを恩に着て、自分と「フェリシア」、「エルジン」と「シェリー」のダブル・デートを計画する。「エルジン」はあまり気が進まなかったが、「シェリー」をエスコートして、町のイタリアン・レストランに行く。テーブルについたとき、偶然、この店にやってきた中年の男と、若い娘、「キャロライン」を目にする。
 その夜、「シェリー」は「エルジン」の部屋に入ると、ドレスを脱ぎ捨てて、セックスをもとめるが、「エルジン」は応じない。自尊心を傷つけられた「シェリー」は、「エルジン」を罵倒して去ってゆく。
 「エルジン」は、大学のコーヒー・ショップでアルバイトしている。教授の注文を受けたとき、別のテーブルについている「キャロライン」に気がつく。イタリアン・レストランで見かけた娘だが、「エルジン」が話しかけても相手にしない。おまけに、「キャロライン」がもっている「ボヴァリー夫人」にうっかりコーヒーのシミをつけてしまう。「キャロライン」は、しきりに謝る「エルジン」に閉口して去って行くが、そのテーブルの紙のマットに、「キャロライン」のアドレスが残されていた。
 その夜、新刊の「ボヴァリー夫人」を手に、「エルジン」は「キャロライン」の部屋を訪れる。こうして、ふたりの交際が始まったが、「エルジン」は「キャロライン」とおなじ教授の講座にも出ることにした。

 ある日、「キャロライン」に誘われてコンサートに行く。その会場で、いつか「キャロライン」をエスコートしていた中年の男とその夫人に会う。「キャロライン」が紹介してくれたが、その態度にぎごちないものを感じた「エルジン」は、「キャロライン」とその男のあいだに何かがあると直観した。
 コンサートの帰り、「キャロライン」は、不意に、「エルジン」の部屋で一夜を過ごしたいという。肉体的に交渉をもつという意味ではなく、ひとりで夜を過ごす孤独に耐えられないから、という「キャロライン」の気もちを理解した「エルジン」は、服を着たまま「キャロライン」と抱きあって寝る。

 夜が明ける。
 「キャロライン」が感謝をこめてキスしたことから、若いふたりは自然に肉体の悦びをたしかめあう。

 セックスのあと、「キャロライン」は、幼いとき動物園で見たラクダの話をする。「冬、そのラクダは雪が降りしきるなかで、口を開けて雪を舌に受けていた」と。
  ――ラクダは雪を見たことがあったのかしら。バクトリアって、どこにあるのか知ら
    ないけれど、ラクダは雪を思い出していたのかも知れないし、もしかすると、生
    まれて初めての経験だったかも知れない。初めてのようで、それでいて、もう既
    に知っているような感じ――それが今のわたしの気もちよ。
 「エルジン」は、「キャロライン」が処女ではないことを知った。「エルジン」自身は、こういう気分になったのは初めてだ、と彼女にいう。しかし、彼女が、あの中年の男の愛人だろうという疑いが強くなってくる。

 週末、「キャロライン」が、田舎の自宅に「エルジン」を招いた。「エルジン」は、オートバイで出発するが、たどり着いた先は驚くほど広大な邸宅だった。「キャロライン」が少女時代を過ごした部屋で、ふたりは抱きあう。「エルジン」が、「キャロライン」に求婚すると、「キャロライン」は笑う。

 「キャロライン」は、庭の木立の奥に建つ広大な自宅と、寸分違わないミニチュアの家に「エルジン」を案内する。このミニチュアの家は、少女の頃に「キャロライン」に贈られたプレゼントだった。そのミニチュアの家の中で、「エルジン」は「キャロライン」の体を求めるが、「キャロライン」は不意に、泣き声になって、彼を拒む。
 そのようすから、7年前に亡くなったと聞いた彼女の父が、このミニチュアの家で自殺したらしいと「エルジン」は悟った。

 この大邸宅で過ごしたあと、「エルジン」は大学に戻らなければならない。仕度をしているところに、電話がかかってくる。電話に出た「キャロライン」の表情が翳って、「エルジン」は何があったのかと心配する。
 帰りの車内で、「キャロライン」は、「もうお互いに会うのをよしましょう」という。そのやりとりで、電話をかけてきたのは、あの中年の男、顧問弁護士の「ジョン・マーチ」だった。「エルジン」は、「キャロライン」が「ジョン」と結婚する意志を固めたものと思って、道路脇にとめた車から飛び出す。そして、オートバイに乗って、「キャロライン」の大邸宅から去って行く。

 このときから、「エルジン」の生活は一変して、ただ空虚な時間にさいなまれる。むなしさの果てに、すべてを忘れようとして、酒におぼれる。そんな夜に、何度も「キャロライン」と行ったバーで、「キャロライン」と「ジョン」の姿を見かける。「キャロライン」は彼を避けようとするが、「エルジン」はわざと「ジョン」の前に姿をあらわして、いやみたっぷりに     バーを飛び出す。
 自室に戻ったとき、「デイヴィッド」の帰りを待っていた「シェリー」を見つけて部屋に誘い込む。彼女を抱くが、快感のさなかに、「キャロライン」の名を口にしてしまう。しらけた「シェリー」は傷つけられて外にとび出す。

 「キャロライン」をあきらめきれない「エルジン」は、ついに意を決して、弁護士の「ジョン・マーチ」に会いに行く。「ジョン」と対決するつもりだったが、「ジョン」の苦しげな口ぶりから、「ジョン」は妻と離婚する意志がないこと、離婚を匂わせたのは「キャロライン」の心をつなぎとめるためだったことに気がつく。「ジョン」は、「キャロライン」が「エルジン」を選んだとしても、それは「キャロライン」の選択であって、あくまでも「キャロライン」の自由を尊重するという。

 数日後、夜中に「キャロライン」が「エルジン」の部屋にやってくる。「ジョン」と別れてきたのだった。「エルジン」は彼女を抱く。

 しかし、「キャロライン」にもう一度裏切られるのではないかという不安が、「エルジン」をとらえている。彼女に結婚をせまったが、「キャロライン」はイエスと答えない。
 ――とにかく、こうしてあなたのところに戻ってきたんだから、それでいいんじゃない。
 ――それでは、また不安定な関係をつづけることにしかならないだろう。
 このやりとりで、「キャロライン」はまたしても去って行く。

 ある日、「デイヴィッド」は「シェリー」と結婚することを「エルジン」に告げる。「シェリー」が「エルジン」とセックスしたことも承知の上で。「エルジン」は心から「デイヴィッド」を祝福する。

 ある日、キャンパスの木立にいた「エルジン」は、大学に戻ってきた「キャロライン」を見る。彼女を送ってきたのは弁護士の「ジョン」で、ふたりの親しげなようすを見てしまう。

 「エルジン」は、「キャロライン」が歩いてくるのを待ちうける。彼女をつかまえて、結婚してくれ、という。しかし、「キャロライン」は苦しげに答えをしぶる。「エルジン」は思わず、彼女に Slut という言葉を浴びせてしまう。

 最後のシークェンスは、駅。「キャロライン」は帰郷する。駅まで送ってきた「エルジン」は、「キャロライン」とほとんど口をきくこともなくなっている。
 「キャロライン」は汽車に乗り込むとき、「エルジン」と抱擁する。
 ――もう、二度と会えないみたいね。
 「キャロライン」の顔に悲しみがあふれる。
 列車が去って行く。車中の「キャロライン」の目に涙があふれる。

 「エルジン」は、真冬の動物園に行く。ラクダの檻の前に立っていると、飼育係の老人が通りかかる。
 「エルジン」は、バクトリア産のラクダのことを訊く。
  ――バクトリアってノは、アジアのどこかだろ。雪が降るかどうか知らないけどね。
    でも、ラクダは雪が降っても平気なのさ。順応するんでね。
 ラクダは口を開けて、降ってくる雪を口に受けようとする。「エルジン」はそれを見ている。そして、動物園を去って行く。

 これが、映画のストーリー。
 映画としては、それほど傑作というわけではない。しかし、若い学生の恋愛を描いて、愛に傷つく姿をよくとらえている。「卒業」や「ある愛の詩」などとおなじ恋愛映画と見ていいが、私がこの映画に惹かれたのは、恋をする男の心理に共感できるから。しかも、年齢的に、若い男女の愛を阻む弁護士の「ジョン」に近い。

 ウィリアム・カットは、「キャリー」(ブライアン・デ・パルマ監督)で、「キャリー」(シシイ・スペイセク)をプロム(卒業パーテイー)に誘う同級生を演じて認められた若い俳優。しかし、まだ知名度も低いので、この映画は、公開されなかった。
 この映画を見たのは、「CIC」の宣伝部、そして試写を見にきた新聞・雑誌の映画担当の編集者数人だけだろう。
 映画が公開されないのだから、誰もとりあげるはずはない。したがって、誰も知らないまま、永久に忘れられてしまう。私にしても、試写のときにわたされるかんたんなシノプシスさえもっていない。
 主演女優の名前さえ知らない。

 この映画の映像の美しさ。ところどころに女性監督らしいみごとな演出が見られる。
 「エルジン」と「キャロライン」が、はじめて肉体の悦びを知る場面。夜が明ける。抑制のきいた美しい場面。

 私は、この映画を見て、感動とまではいかないが、いい映画だと思った。おなじ青春映画でも、「ルシアンの青春」(ルイ・マル監督)や、「激しい季節」(バレリオ・ズルリーニ監督)などに比較すれば、どうしても見劣りする。
 (この映画は、日本では公開されなかった。おそらく、フロップと予想されたのだろう。スーパー・インポーズまでいれながら公開されない映画もある。むろん、宣伝もしないままなので、題名さえ知らないまま永久に消えてしまう。 後記)

 私は、この映画が公開されなかったことを残念に思う。せめて、ストーリーだけでも書いておくことにしよう。

       1978年4月22日(土)
 快晴。
 池のコイが弱っている。白点病のサカナたちを隔離しておいたのだが、コイを池に戻したところ、腹を上にして苦しみはじめたので、急いで井戸水に移した。池には、十数尾だけ放してある。助けてやりたいのだが、経過を見るしかない。

 佐伯 彰一さんから、「評伝 三島由紀夫」を頂戴した。私も、評伝めいたものを書きつづけているので、佐伯さんの評伝には関心をもっている。

 高階 秀爾さんが、パリから私の書評の礼状を。
 先輩の批評家たちが、つぎつぎにいい仕事をしている。

 竹内 紀吉君が「私のアメリカン・ブルース」を届けてくれた。間違いや誤植を見つける。

       1978年4月23日(月)
 今日は、宮坂家(私の父、昌夫の異父弟、宮坂 与之助)の次男、宮坂 秀男君と、滝沢 景子さんの結婚式。
 9時半、三河島に。私鉄ストのため、駅は混雑している。
 11時10分、荒川区民館に着く。
 宮坂家の当主、宮坂 広志君に挨拶。秀男君と景子さんの幸福な姿。

 じつは、今日は、私と百合子の結婚記念日。

     1978年4月24日(火)
 朝、6時半、家を出る。
 お茶の水に出て、地下鉄。池袋から西武線で、江古田に。
 「練馬総合病院」に入院する。6階、606号室。個室で、清潔で、いかにも病室といった感じの部屋。
 人間ドック。

 採血。血沈。つづいて、午前中に、糖分を1ccずつ3回、飲まされた。血糖負荷試験のためと、肝機能検査のための採血。

 看護婦さんが、つぎつぎにやってくる。

 食事は、ちょっとしたホテル並みのメニュで驚いた。

    ご飯――ちらし。(お刺身、3切れ。タマゴ焼き。キューリの漬物。シイタケ
    の甘煮。ノリ)
    お吸い物――(タマゴ、ネギ)
    お采――ホタテ貝。刻んだネギを散らしたものにミカンを一房。トマト1個に
    キューリのつけあわせ。おトーフの煮つけ。キューリとアスパラガスの酢の物。
    菜。赤ショーガ。

 おいしくいただいた。

 午後4時15分、頭部、鼻部のレントゲン撮影。この間に、担当の医師の回診があって、血圧の測定。

 あとは、所在なく、ベッドに引っくり返って寝ているだけ。仕方がない。絵でも描くか。画用紙に、鉛筆でデッサン。

 夜食がすごい。

    サカナのフライに、キャベツとキューリのつけあわせ。これにスミレのような紫
    色の小さな花が添えてある。シイタケ、ポテト、凍みドーフの煮つけ。
    サカナとリンゴのつけあわせ。白身のサカナ、キューリで和えたもの。モヤシの
    おひたし。甘ミソ。
    デザート――缶詰のミカンと、レタス、キャベツの甘酢和え。イチゴにホィッ
    プしたクリームをかけたもの。

 夜、テレビで「新幹線大爆破」を見た。9時、消灯なので、音を小さくして見たが、電気紙芝居。

 明日、胆嚢の撮影のためらしい白い錠剤を7時、8時に、グリーンの錠剤を9時に服用した。
 深夜、フランソワーズ・ロゼェの自伝を読む。

        1978年4月25日(水)
 朝食はヌキ。
 9時15分、胆嚢、胃の透視。
 10時半、泌尿器の検査。これは、どうもまいりましたな。
 11時半、オーディオメーターによる聴力検査。
 フランソワーズ・ロゼェを読み終えた。

    昼食――トリ肉とシイタケのホイル焼き。ユバを挟んだタマゴ焼き。ナスの煮
    つけ。ゴボウ、昆布、切り干しの煮つけ。ニンジン、ダイコンの煮つけ。上にカ
    ツのフレークがのせてある。大きなサカナの煮物。ジャガイモとニンジンの煮つ
    けが添えてある。ピーマンの肉づめ。キャベツ、トマト、シソの佃煮。赤ショー
    ガと野菜の煮物。デザートはパイナップル。

 午後、肺活量、体重、身長、胸囲の測定。

 耳鼻咽喉科、眼科の検査も終わった。蕁痲疹が出たので、皮膚科で診察を受けた。
 この科の医師は、30代後半の女医さんだった。カルテに記載されている名前を見て、不思議そうに、
  ――中田 耕治さん……あのハードボイルドを書くひとですか?
  ――はい。そんなことになっています。
 そばにいた看護婦さんたちが、にわかに興味をもったようだった。

 この女医さんのデスクの前の壁に、モディリアーニの「アリス」のポスターが貼ってあつた。
  ――めずらしい絵ですね。ぼくも、パリで、ボードに印刷したモディリアーニを買い
    ました。大切にしていたのですが、あとで好きになった女の子にやってしまいま
    した。
 みんなが笑った。私は軽薄な男で、すぐに調子にのって、女性たちの関心を買おうとするところがある。

 フランソワーズ・ロゼェの自伝を読み終わった。フランスが降伏したとき、ロゼェもパリを脱出したが、大変な苦労をしたらしい。
 この本を読んでしまったので、もう読む本がない。

    夜食――メダマ焼き。これに、ホーレンソウ、トマトが添えてある。サカナの
    白身を、白、黒のゴマで固めて、かるく油で揚げたもの。これにキャベツの煮つ
    けを添えて。フキ、ニンジン、トーフの煮つけ。キューリ、ワカメの酢のもの。
    お刺し身、6切れ。キューリ、ナスの漬物。トマトを綺麗に切りわけて、マヨネーズ。
    おすまし(フ、小松菜)。ウメボシ、1つ。
    デザートはイチゴ、砂糖。

       1978年4月26日(木)
 朝、胃液の検査。

    昼食――ビーフステーキ! スパゲッテイのトマト・ピューレいため。キュー
    リ、サラダ。イセエビ! キューリ添え。白身のサカナ、キャベツ、レモン、ト
    マト、紫の花が添えてある。カボチャを煮たもの。サカナとウドのヌタ。コンニ
    ャク、ニンジン、ネリモノの煮つけ。ダイコンオロシにイクラをのせて。ナンテ
    ンの葉を皿にして、枝の部分にチョコッと置いてある。
    アスパラガスにカツオブシをかけて。タクアン、菜ッパ、ミソ。白ミソのオミオ
    ツケ。
    デザートはイチゴ、パイナップル。ティー!

 とても食べきれない。4品は手をつけなかった。
 しかし、こういうお食事が「にんげんドック」に必要なのか。

 食事のあと、検査の結果の説明を聞く。

 ある程度、予想はしていたが――胃、十二指腸とつながるあたりにポリープがある。胃カメラで検査ということになった。
 私は動揺していたか。
 血圧はTTTだけが高い。高血圧、高脂肪であることはたしかだが、胃のポリープが悪性のものでないことを祈るしかない。

 「山ノ上」、ひとりで乾杯する。

 今日は、国労、動労のストライキで、私鉄は大混雑だった。私としてはラッシュアワーを避けなければならなかった。時間をつぶすために、上野の「西洋美術館」で、「ボストン美術館展」を見た。ティントレットの「アレッサンドロ・ファルネーゼ」が見たかった。

 このあと、「都美術館」に行ったところ、「日経」、文化部の竹田君に会った。彼と一緒に、「春陽展」を見た。
 武田君を誘ったが、車を待たせてあるという。

 美術担当の記者ともなれば、ハイヤーで動くのか。そう思ったら、東郷 青児が亡くなったので動いているらしい。
  ――へえ、いつ亡くなったの?
  ――先生、ご存じじゃなかったんですか。一昨日、熊本で急死なさったんですよ。
 昨日は、入院していたともいえないので、黙っていた。二科の巡回展の準備で熊本に行って、ホテルで心臓発作を起こしたという。
 いつだったか、俳優の石坂 浩二が、東郷 青児の推薦で二科に入選した。石坂は私の劇団の研究生だったからよく知っているが、本名、武藤 平吉君。たいへん多才で、いい芝居を書いたり、いい絵を描いた。そのまま絵を描いていれば、東郷 青児ぐらいの画家になれたに違いない。私は、武田君にそんなことを話した。

 彼と別れて、もうひとつ、「国際美術展」を見た。これは、現代ハンガリー美術展だった。どれもこれも、おとなしい絵ばかりだった。共産圏の現代美術は、どうしてこうもつまらない絵しか描けないのか。

       1978年4月27日(金)
 中村 真一郎の「夏」を読みはじめた。中村さんが贈ってくれたので。美しい手蹟で、献呈 中田耕治君と書いてある。中村さんの字は、まさに達筆というべきもの。

 初老期にさしかかった作家、「私」が、十数年前、40代の頃の女性遍歴、恋愛を回想する。王朝文化では、個人の人生を、四季の移ろいになぞらえる伝統がある。そこで、作家の人生も四季に見立てて「夏」とする。三年前に書いた「四季」の第二部に当たるので「夏」という。
 この作品では、平安時代の「小柴垣草子」、鎌倉時代の「とはずがたり」を織り込んだ第7章、「にいまくら」のエロティシズムと、愛をめぐる考察が圧巻といえる。
 読んでいるうちに、

    Kは、若い頃に、ジードがやはり日記のなかであったか、「毎日、一度は死を考
    える」と書いていたのを読んで、この誠実さを表看板にしている作家も、この言
    葉に関する限り怪しいものだと思っていたのは、自分の若さからくる傲慢さに他
    ならなかったのだ、と述懐していた」と。

 これを読んで、小説とは関係がないことを考えた。
 私は、これまで「毎日、一度は死を考え」ながら生きてきた。弟、達也が亡くなったときから身についた習慣で、その後、戦争で何度も死にかけたし、戦後も、死んでもおかしくない病気で苦しんだこともある。死は私にとって親しい観念だったが――ジッドがおなじことを書いていたとは知らなかった。そういう自分のネクロフィラスな性格が、ジッドと共通していると知って愕然とした。
 いくら、ジッドを尊敬してきたエピゴーネンだったとしても、毎日、死ぬことを考えるところまで似なくてもいいだろう。「毎日、一度は死を考える」ところまで、私はジッドを模倣してきたのか、と思うと恥ずかしい気がした。
 現在も、人間ドックで精密検査を受けて、胃にポリープが見つかって、死がこれまでよりずっと身近なものになっている。
 「毎日、一度は死を考える」ジッドを否定的に見ることを「自分の若さからくる傲慢さ」と見ない。もう、そんな年齢でもない。

 真一郎さんも、ようやく大作家への道を歩みはじめたのかも知れぬ。ふと気がつくと――吉行 淳之介も、「夕暮れまで」で40代なかばの中年の男と、22歳の「処女」の2年半の「関係」を描いている。
 作家の老残を描いた作品など珍しくもないが、結城 信一の「空の細道」なども、死にまつわる幻想を描いて鮮烈だった。いろいろな作家たちが、それぞれの方向をめざして歩きはじめているような印象がある。
 私も、あたらしい戦場にのぞんでいる。

       1978年4月28日(土)
 午後、「読売新聞」、八尋 一郎さん、来訪。「本居宣長」についてのエッセイをわたす。
 「夏」はまだ読み終えない。私としては、めずらしい遅さ。
 この小説で、もう一つ興味をもったのは、主人公が京都で知りあつたコール・ガールとの交渉。そして1年後に再会した時の幻滅。(220〜238ぺージ)

 夜、「日経」、吉沢君に原稿を電話で。

        1978年4月29日(日)・
 和田 芳恵さんのご令室、和田 静子さんから、遺作集、「雀いろの空」をいただく。
 丸谷 才一さんから、「日本文学史早わかり」、眉村 卓さんから「ぬばたまの・・」を贈られる。
 中村 真一郎さんに、礼状。読後感を。

        1978年4月30日(月)
 和田 静子さん、丸谷 才一さんに礼状。

 メディチ家に関する本を書きつづける。

2019/09/29(Sun)  1815〈1977〜78年日記 62〉

       1978年4月2日(土)
 朝、5時に起きた。寒い。
 久しぶりで、「グループ」みんなで散歩。例によって、新宿駅。吉沢君、石井 秀明と会う。安東夫妻は、少し遅れた。
 ――久しぶりだから、温泉にしよう。
 これで決まり。御嶽から大岳。散歩といっても、地図に破線のない場所を選んだ。
 大岳までは普通のハイキングコースだが、12時に食事。
 高宕山の先は、ほとんど人が通らない。したがって、道は荒れていない。下りばかりだが。変化があっておもしろい。
 春の華やかな日ざしが山肌を這っている。私たちは夏に大きなプランを立てているので、この程度のコースは、あくまでその準備にすぎない。
 バークリーの丘陵地帯をあるいたことを思い出す。

 帰宅したのも早く、7時には、千葉に着いていた。
 山を下りる途中で、10センチばかりのツゲと、あまり見たことのないサンシュウの枝をとってきた。
 百合子に、小さな鉢に植えてもらう。
 夜は雨になった。

       1978年4月3日(日)
 池の水を少し放流して、雨水が入るようにした。
 この池は、百合子の設計。写真でルネサンスの庭園を見て、気に入った池をモデルにしたもの。といっても、直径、わずか2メートル半、深さ、60センチ、コンクリートの円形の池。円周をレンガにしただけ。「ルネサンスの庭園」というのは、むろん冗句(ジョーク)。それでも、金魚、コイなどを入れてある。

 山でとってきたツゲと、サンシュウを、百合子が鉢植えにしてくれた。バークリーでひろってきた木の実も植えた。

 午後、百合子が、平野 謙さんの訃報を教えてくれた。

    平野 謙 1907〜78 評論家 八高時代に、本多 秋五、藤枝 静男と知
り合う。東大文学部社会学科に入学、左翼の運動に参加。転向後、美学科に再入学。
    昭和11年、(1926年)、同人誌「批評」に参加、作家論で注目された。
    1946年、「近代文学」の創立メンバー。中野 重治を相手に「政治と文学」
    論争。自ら「平批評家」と称したが、膨大な「文芸時評」(昭和38年/196
    3年)がその代表作。
    1961年〜62年、「純文学論争」を起こした。
    「さまざまな青春」で、野間文芸賞、1977年、芸術院恩賜賞を受けた。

 小川 茂久に電話したが、不在。

 深夜、「ガリバー」の原稿を書いているところに、小川から電話。小川も、平野さんとは親しかった。しばらく、雑談。一昨年、平野さんが手術を受けたとき、大学は休講なさったが、小川からそのあたりの事情を聞いたことを思い出した。
 いっしょに葬儀に行くことにした。

       1978年4月4日(月)
 午後2時。「ジャーマン・ベイカリー」で、「レモン」、広瀬さんに原稿をわたす。
 池上君に、校正を。

 吉沢君と食事しながら、平野さんの思い出。夜、もう一度吉沢君と会うことにした。

 小田急線、喜多見駅。小川 茂久に会う。
 外に出たとき、偶然だが、「筑摩書房」の原田 奈翁雄君、「明治」の大野 順の両君に会う。原田君は、私の1期後輩。彼の「恋人」だったYさんが、私と同期だったので、お互いによく知っているのだが、この日、はじめてことばを交わした。Yさんと私が親しかったことは、小川 茂久も知らない。

 平野邸には、多数の人が弔問に訪れていた。どんどん押しかけてくる感じだった。「河出」の藤田 三男が、受付できりきり舞いしていた。
 つぎつぎに有名作家や、批評家がやってくる。井上 靖の姿もあった。
 たまたま、坂本 一亀に会った。ここで坂本さんと会っても、別に不思議ではない。私は、「近代文学」で、坂本 一亀に会っている。「文芸」の編集長になってから、坂本一亀とはきわめて親しくなった。「文芸」の同人雑誌評は、私ひとりが匿名で書いていた。「文学界」の林 富士馬、駒田 信二、久保田 正文さん4人の批評家たちに、ひとりで対抗したのだから、かなり苦労した。
 坂本 一亀は、そこまで私を信頼してくれたのだった。もっとも、こんな仕事を頼めるのは私しかいなかったせいもある。

 室内に白い幕をめぐらして、弔問客は廊下をまわって焼香する。たいへんな数の文学者がつめかけて、ごった返している。
 廊下の左側に、これも白い幕を張った部屋があって、親しい友人が沈痛な表情で集まっている。
 埴谷 雄高さんの声が聞こえた。私は、その部屋に「近代文学」の人々がきていると思ったが、どこから入っていいのかわからない。
 お焼香をすませて、外に出た。そのあたりに居合わせた人たちに挨拶する。
 各社、文化部の記者たちも集まっていた。

 小川が、私の腕をとって先に立って歩き出した。
 このままでは、動きがとれなくなる、と見て、人々の流れから私をつれ出してくれたのだった。外に出た。駅に戻る途中、野口 富士男さん、青山 光二さんに挨拶した。

 寿司屋に寄った。小川と飲みながら、平野さんの思い出を語りあう。
 平野さんを明治の文学部の教授に招くことになった経緯(いきさつ)。まだ学生だった私が舟橋 聖一先生に直談判して、平野さんを文学部に招いてもらった。このことを知っているのは、斉藤 正直と小川くらいのものだろう。

 小川は、中村 光夫、中村 真一郎、さらに「明治」の先生たちがくるはずなので、しばらく時間をつぶすことになった。私は仏文科ではないし、とくに中村 光夫の顔を見るのも不愉快なので、小川と別れてお茶の水に向かった。

 「あくね」で、吉沢君に会う予定だった。
 駿河台下に向かっていると、女の子が声をかけてきた。
 ――先生。卒業できたわ。
 私のクラスにきていた石川 幸子だった。出席日数が足りないとかで、卒業できるかどうか、ぎりぎりまでわからなかった。それが、やっと卒業できたという。
 ――よかったな。
 ――ありがと。だけど、先生のクラス、今年も出るからね。いやな顔しないで。
 ――お祝いしてやろうか。
 ――「あくね」でショ。どうせなら、クラブ、つれてって。
 ――今夜はダメ。
 石川 幸子は、けらけら笑って去って行った。

 「あくね」で、原稿を書いていると、「福音館」の遠藤君がきて、アメリカから無事に帰国したことを祝福して飲もうという。久しぶりに会ったからうれしい、という。
 吉沢君がきてくれた。原稿をわたした。

 帰宅。終電。

       1978年4月6日(水)
 アメリカから、たてつづけに本が届いてくる。どうしてこんな本を買ったのか、自分でもわからない本もある。買いたかった版画を思い出した。アンディ・ウォーホルの「マリリン・モンロー」。旅費を全部使えば買えないわけではなかったが、まだ、どこに行くかきめてなかったので、あきらめた。
 「集英社」、桜木 三郎君から電話。
 「週刊現代」、入江 潔君から電話。明日、会うことにする。

 沼田 馨君が、「双葉社」をやめた。「漫画アクション」の編集者だった。
 私に、マンガのオリジナル・ストーリーを依頼してきたので、「ケルンに愛の墓碑銘を」というストーリー」を書いた。
 沼田君は、いつも誠実で、私にとってはありがたい編集者だった。

 沼田君は、登山が好きで、いつも一人で行動していた。私は、それを知って、登山にさそうようになった。安東、吉沢、石井たちのレベルなら、沼田君もよろこんで参加してくれたはずだったが、もっと低いレベルの初心者が多かった。それでも沼田君は、みんなをサポートしてくれたのだった。

 私は、安東たちを呼んで、沼田君を囲む集まりをもちたいと思った。せめて、沼田君をねぎらってやりたい。
 しかし、沼田君の都合がつかなかった。
 故郷(青森県八戸)に帰って、父君のやっている特定郵便局の業務を引き継ぐという。
 父君が老齢に達したため、介護しなければならなくなったらしい。

       1978年4月7日(木)
 夕方、5時。「山ノ上」。
 「週刊現代」、入江君、インタヴュー。
 「九芸出版」の伊藤 康司君がきた。ピーター・ボグダノヴィッチの「ジョン・フォード」。武市 好古の「ヒップ・ステップ・キャンプ」をもらう。
 安東 つとむ、鈴木 和子がきたので、入江君、伊藤君に紹介する。伊藤君はそのまま帰ったが、入江君は、安東、鈴木と、「弓月」に行く。ここですっかり意気投合して、話かはずんだ。
 「あくね」に移った。小川 茂久がきた。
 私もかなり酔っていた。ブランデー、2杯。
 10時過ぎ、「あくね」を出たが、入江君は、すっかりご機嫌で、
 ――先生、寿司を食べましょう。おごります。
 そこで、神田駅前に行く。
 寿司を食べたのだが、外に出ると、
 ――先生、ラーメン、食べましょう。おごります。
 という。安東 つとむ、鈴木 和子も笑い出した。
 入江君は、すっかり楽しくなって、私たちと別れたくなかったらしい。

      1978年4月8日(金)
 快晴。あらゆる木々が芽ぶきはじめ、あざやかな色彩をまき散らしている。いのちの芽ぶき。生きてあることのありがたさ。

 朝、6時に起きて、池のコイとキンギョにエサをやり、リンゴを小さく切って、月桂樹の小さなトゲの枝に突き刺しておく。何のトリか知らないのだが、黒っぽいコトリがやってきてついばむ。

 種村 季弘さんから手紙。私がエッセイで、種村 季弘さんの仕事にふれたので、その礼状。

    思えば小生の伝記作法などは中田さんをはじめとする先輩諸士の方法的コラージ
    ュにすぎなかったことを嫌というほど悟らされました。そして多分、御高著の細
    部を読み落としていたのではなかったかと、あの早きにすぎたブランヴィリエ侯
    爵夫人を読み返しているところです。

 ありがとう、種村さん。あなたのお仕事は、他の追随を許さないものです。はじめから、誰の「方法的コラージュ」などというものではない。
 したがって、「あの早きにすぎたブランヴィリエ侯爵夫人」という表現には、いささかのアイロニーが含まれているものと心得ます。

 それでも、あなたが「ブランヴィリエ侯爵夫人」を読んでくださったことを心からうれしく思っています。

 今、書いている「評伝」は、種村さんの「カリオストロ」に劣らぬ大きな仕事になるだろう。

      1978年4月9日(木)
 もう、桜が咲いた庭の木の芽もゆたかに息吹いている。塀のツタが葉を出しはじめた。
 このツタは、母、宇免が残して行ったもので、私が塀に伸ばしている。仙台の地震で、ブロック塀が倒れて死傷者が出たという。私は、ツタを這わせれば、地震が起きても倒壊だけは防げると考えた。
 S・B・クライムズの「ヘンリー八世」を読む。資料としては、すぐれている(と思う)のだが、評伝としてはおもしろくない。学者が書く評伝は、どうしてこうおもしろくないのか。
 本の整理。アメリカから送った本がたくさん届いたため、なんとか書棚におさめなければならない。
 映画の資料は、段ボールにつめ込む。自作の短編、発表できなかったエッセイ、その他。いずれ、みんな焼き捨てるつもり。
 ヴェトナムの地図(航空用)が出てきた。アメリカ空軍のもの。こんな地図は、誰ももっていないだろう。しばらく保存しておく。

 ルイス・キャロルは、42歳になったとき、自分がやろうと思っている文学的な仕事が多いので、文学以外の仕事(たとえば、数学、写真など)をすべて断念したという。
 しかも、42歳で in my old age と書いている。
 この日記に、オレが、in my old age と書いたら、みんなが笑うだろうな。

       1978年4月10日(月)
 こんな記事が目についた。

    北ヴェトナムは、150万人という国力に不相応の軍隊、官僚の非能率、ルーズ
    さのために、多くの食料、消費物資が不足し、多くの必需品が南ヴェトナムから
    密輸されている。
    ハノイから20キロ離れたゾンビエン地区の農業合作社の管理人の月収は約30
    ドン。自転車1台を国営商店で買うには1カ月分の収入が必要だし、自由市場で
    買うには、3年分の収入を当てなければならない。ただし、実際に自転車が買え
    るとしての話だが。
    南北ヴェトナムでは、(戦争が終わった)現在でも、別々の通貨を使用していて
    、北ではアメリカ・ドル、1ドルの公式レートが、2.4ドン。旅行者のレート
    で、3.65ドン。
    南ヴェトナムでは、公式レートが1ドル=2.82ドン。南のドンは、価格が低
    下したが、それでも北の1ドンに対して、1.25ドン。

    ホーチミン(旧サイゴン)では、北のドンを南のドンと交換することもできない。
    南のドンは、北ヴェトナムでは、公式の支払い手段と認められていないが、ヤ
    ミ市場では、自由に買い物もできるし、交換もできる。

    北ヴェトナムでは、一般市民の食事も切りつめられている。公式には、1人1日、
    1200カロリー。「国連食糧農業機構」(FAO)の規定する最低生活を維
    持する食料のほぼ半分が保証されているにすぎない。

    北では鶏肉、1キロ、16ドン。農業合作社の管理人の月収の半分以上。マメ、
    1キロ、10ドン。生活物資はきびしい配給制で、砂糖は、子どもにかぎって、
    1か月に100グラムが配給される。乳幼児には、このほかにミルクが月に、1.2
    リットルの配給がある。農民には、砂糖の配給はないが、都市生活者には、
    1月に500グラムの配給がある。肉は、1人あたり、年に4キロ。

    南ヴェトナムでは、食料の配給制が導入されているが、肥沃なメコン・デルタを
    ひかえているだけに、配給カードの役割は北に較べてずっと小さい。

    北ヴェトナムでは、官僚主義が大きな社会問題になっている。
    航空券1枚を買うにも、いろいろな書類を書かされたり、いろいろな窓口を歩か
    されたり、神経がヒリヒリする。窓口にふんぞり返っているお役人さまは、並ん
    でいる市民などどこ吹く風とおしゃべりに花を咲かせていたり、付箋がベタベタ
    貼りつけられた山のような書類にのんびりサインをしたり。

    ヴェトナム全体としては、建築資材や食糧が不足しているのだが、各地の港湾施
    設には、セメントや小麦粉が放置されたままになっている。ときには雨ざらしに
    なっている。
    南ヴェトナムは、外観といい客観的な状況といい、北ヴェトナムとはまったく違
    う国家に見える。たとえば、南では2000万人の住民が200万台のテレビを
    もっているのに、北ヴェトナム、3000万人の所有するテレビの台数は、わず
    かに5万台。
    南ヴェトナムの相対的な繁栄にもかかわらず、ハノイは、「南はできるだけ早く
    北を規範にして、社会主義に移行すべきだ」と主張している。

    北ヴェトナムの工場は国有化され、中央集権的な計画制度のもとに稼働している。
    しかし、南ヴェトナムでは、商業資本は国有化されたものの、工場は国有、私
    有、あるいは両者の混合か合作社のかたちで運営されている。

    南ヴェトナムの農民は、自発的に農業合作社に参加するように勧誘されているが、
    革命事業に参加した多くの中農層が合作社への算すを拒んでいる。農業集団化
    を早めようとすれば、深刻な軋轢を生じるだろう。

    ユーゴースラヴィアの記者団の観察では――北の政治、経済、社会制度のすべ
    てが、急速に南に移植されつつあるが、ときには南ヴェトナムの特殊性がまった
    く無視されている印象を受けた。

    南ヴェトナムの高官の多くも、北の出身者に交代させられている。これはハノイ
    の決定である。南ヴェトナムの革命指導者、旧南ヴェトナム解放戦線すらも、重
    要性を失いつつある。一部の推定によれば――ヴェトナム共産党の党員数は、
    全国総計で160万人だが、南ヴェトナムの党員数は、10万人という。

 ながい引用になった。

 北ヴェトナムの食料、消費物資の不足は、1930年代からすでに恒常化していたとみていい。したがって、これはヴェトナムの結果ではなく、むしろ遠因と見る。私は、ヴェトナム南北の経済的な格差が、「戦争」の動機として作用したと見ている。
 北では食料、消費物資が不足し、多くの必需品が南ヴェトナムから密輸されていることも事実だろう。多数の商人が、非合法なブラック・マーケットを支配しているし、市民のあいだでも、物々交換や、単純な闇取引が行われているものと見ていい。これは、やがて、政治に対する批判、経済政策に対する不服従を生む。

 ホーチミン(旧サイゴン)では、北のドンを南のドンと交換することもできない。南のドンは、北ヴェトナムでは、公式の支払い手段と認められていない。
 革命が官僚主義という鬼子をうむとは、レーニンもホーチミンも想像しなかったに違いない。だが、その官僚主義こそ革命を生むのだ。
 わずか10万人の意志が3000万人を支配する。官僚主義が生まれないはずはない。
 ヴェトナム戦争は終わった。しかし、ヴェトナム人民の苦悩はここにはじまる。

 「双葉社」を退いた沼田 馨君に、登山の写真を送る。

       1978年4月11日(火)
 曇り。

 NHKから、今日のインタヴューの予定を変更したい、といってきた。
 「九芸出版」、伊藤君。「共同通信」、戸部さん。「淡路書房」、渡辺さん。「アサヒ・カルチャー・センター」から電話。いよいよ、本格的な戦線復帰になる。
 アメリカから帰ったときは、雑文を書かない決心をしたが、現実には編集者を困らせることになるし、義理もある。

 午後、去年植えたツタを移し換える。

 夜、テレビ。「オールスターものまね王座決定戦」を見た。いろいろな歌手が、それぞれ趣向をこらして、別の歌手の真似をする。つまらない番組だが、それぞれの歌手の才能、個性、スポンタネな声質、いろいろなことが見えてくる。
 香坂 みゆき。自分の歌はダメだが、ものまねは才能がある。榊原 郁恵は、疲れている。清水 由貴子、荒木 由美子も、山口 百恵をやったが、これは本人の個性が出すぎた。このレベルでは、浅野 ゆう子、荒木 由美子、松本 ちえ子たちが、全体によくない。
 ずーとるびが「カナダからの手紙」。これはおかしかった。原田 信二をやった研 ナオ子と、双璧。ものまねも、選んだ歌手の特徴をあえてグロテスクに誇張したほうがうまく行く。マイムなどとおなじかもしれない。
 2回戦。
 ずーとるびの新井が、河島 英五。狩人が、森 進一。角川 博が、三波 春夫を。研 ナオ子は、「よいとまけの唄」を。
 その他。残ったのは、狩人。角川 博。田川 陽介。西条 秀樹。
 ここまで聞いて、飽きてきた。
 私は、歌謡曲、流行唄が好きだが、個々の曲よりも、むしろその唄を歌う歌手の表情というか、その曲を自分のものにしてゆくプロセスを見るのが好きらしい。ものまねだっておなじことだが、どうも違う。

 こういうところはなかなか説明できない。

 羽左衛門が「菊畑」の「虎蔵」をやった。これを見た正宗 白鳥が、
 ――自分がかつて見た五代目(菊五郎)の虎蔵以上であっても、けっしてそれ以下で
   はない」と激賞したという。
 五代目も羽左衛門も「虎蔵」は見たことがない。(六代目は見ている。)だから、白鳥の意見がただしいかどうかわからない。しかし、芝居通なら、白鳥の感嘆はすぐに理解できたに違いない。
 たかが、ものまねだが、このテレビを見ていて、角川 博、田川 陽介に感心しなかった。西条 秀樹が、「あんたのバラード」で、優勝した。まあ、世良 公則以上であっても、けっしてそれ以下ではない――ほどではなかったが。

      1978年4月12日(水)
 午後2時、青山斎場に行く。
 故・平野 謙さんの葬儀。

 外にたくさんの人があふれていた。
 若い女性が立っている。私のクラスにきている女子学生だった。
 声をかけてやると、平野さんの講議をとっていたという。斎場にきたが、有名な文学者がたくさん列席しているので気おくれして、外でうろうろしていた、という。
 ――じゃ、中に入れるように、ぼくの隣りにいなさい。
 この女性は、高校の国文の教師だが、名前は知らない。しかし、どこかの大学を出てから、明治の二部(夜間)にきて平野さんの講議に出ていた。ついでに、私の講義も聞いていたらしい。

 最初に、本多 秋五さんの挨拶。誰もが、平野さんと本多さんの長い交遊を思ったはずだが、最後に本多さんが、平野さんの著書を挙げた。文学上の盟友を失った悲しみに、万感、胸に迫ったらしく声が途切れた。満場、寂として声なく、胸を打つ情景だった。

 「集英社」、文庫の山崎君が、私を見て、すぐに挨拶にきた。
 会葬者の行列ができて、私の前に、針生 一郎、関根 弘がいた。その前に、瀬戸内寂聴、中島 河太郎、中野 重治など。さすがに、平野さんの交遊関係らしく、たくさんの作家、批評家が列席している。
 平野さんの大きな写真を見ながら、「近代文学創刊の頃」を思い出した。

 外に出ると、中村 真一郎さんが声をかけてきた。めざとい真一郎さんのことだから、私が若い女の子、それも作家志望の女性をつれていると見たらしい。たぶん、先日、小川 茂久と会ったとき、私の話が出たに違いない。
 私は、同道した女子学生の名前もしらない。だから、真一郎さんに紹介もしなかった。
 (この女性とは、その後、親しくなった。 後記)

 5時半、「山ノ上」。「朝日カルチャーセンター」の蒲生 真理子さんと会う。
 夏のレクチュアについて。この夏の私は、自分でも大きな仕事をしようと思っている。
「朝日カルチャーセンター」のレクチャーは、ありがたい話だが、ここにきて、引き受けたら、かならず仕事に影響する。
 蒲生 真理子さんも、あとに引かない。困った顔をするので、つい引き受けてしまった。8月から9月、毎週、金曜日の夜、6時半〜8時半。

 「サンリオ」、若月 敏明君と会う。レズリー・ウォーラーの新作の翻訳。ついさっき「朝日カルチャーセンター」の話を引き受けてしまったばかりなので、「サンリオ」の仕事を引き受けてもいいのだが、この夏の私は、現在とりかかっている大作に全力をあげている予定なので、少し考えさせていただく。
 「深夜叢書」、斉藤 慎爾君。「演出ノート」出版の件。
 私の演出したテネシー・ウィリアムズ、レズリー・スティーヴンス、ムロジェク、ジャスドヴィッツなどを中心に、克明にノートをとってある。できれば、そのまま出したいのだが、これとは、別に、フランスのルイ・ジュヴェ、シャルル・デュラン、ジョルジュ・ピトエフたちの「演出論」を書いてみたい。こんな本を出してくれる出版社はないので、斉藤 慎爾君と話をした次第。斉藤君ならこんな本でも出してくれそうな気がする。

 斉藤 慎爾君の話では――私が音楽の本も出したいといっていたという。

 そんな話をしているところに、菅沼、大内のふたりが、「山ノ上」にきた。斉藤 慎爾君が帰ったので、ふたりをつれて「弓月」に。
 その後、「あくね」に行く。
  ここに、斉藤 正直、唐木 順三、両先生。
 私は、唐木 順三に対して含むところがあるので、無視する。

       1978年4月13日(木)
 私は、個人的な私怨を書くつもりはない。しかし、日記に書いておく分にはかまわないだろう。

 「弓月」は、夕方、5時頃から店をはじめる。

 江戸っ子の老人と、山形、庄内生まれで、気のつよいオバサンがやっていた居酒屋だった。ふたりのあいだに、30代後半のひとり娘がいた。「かるら」さんというめずらしい名前だったが、美人で親孝行、未婚だった。

 「弓月」は、土間に木のテーブルを並べただけの居酒屋だが、土間つづきの奥に5,6人の客が入れる四畳半の和室。冬はその部屋だけ障子が立てられて、火鉢が置かれる。この部屋は、靴を脱いであがるため、何かの集まりの流れで、二次会に使われたり、親しい仲間が2.3人で、他の客と顔を合わせずに飲んだりする。
 小川 茂久は、よくこの部屋で友人の誰かれと飲むことがあったが、私は小川と一緒でも、この部屋を使ったことがなかった。

 小川 茂久は、この店の常連客で、4時頃から店に入って酒を飲みはじめる。いろいろと店の手つだいをしてやったり、客の誰かれと親しく話をしたり。私のように、小川に会うために「弓月」に通っている客もいる。

 「弓月」は、私にとって忘れられない思い出がある。

 ある日、私は小川 茂久と口明けの「弓月」にいた。4時過ぎで、ほかに客はいないはずだった。ところが、思いがけず、先客がいて、四畳半の和室に入っていた。
 障子が立てられていたので、先客は私たちが入ったことに気がつかなかったらしい。
 客は、文学部の大木 直太郎先生と、唐木 順三教授だった。

 しばらくして、思いがけないことを耳にした。
 ――なんだって、あんなやつを呼んだんだい。
 唐木 順三がいった。
 「あんなやつ」といのは、中田 耕治という講師のことだった。

 大木先生は、中田 耕治が優秀な講師であるとして、陳弁につとめられた。唐木は、助手のOを講師にすべきであったと主張した。私は、大木先生の蹤慂(しょうよう)によって、講師をひき受けたのだが、まさか唐木が私に反対していたとは知らなかった。

 自分のことが、こうして論じられている。「弓月」の四畳半の密談なので、いやでも耳に入ってくる。小川は、無言で、席を変えようとしたが、私は動かなかった。
 屈辱感と、怒りがあった。
 と同時に、私のためにあらぬ非難をあびせられている大木先生に対して、申し訳ない思いがあった。

 私が講師になった当時、明治の文学部の先生は、ほとんどが東大、東京教育大の出身者で占められていた。明治出身の先生は、大木 直太郎、斉藤 正直、青沼先生をふくめて、6名。私が講師になって7名という状態だった。
 大木先生としては、私を講師に呼んだのは、明治出身者をふやしたかったせいもあったと思われる。

 唐木は、ねちねちした口調で、大木先生を問詰していた。

 私の目に涙があふれてきた。

 私も、文学者のはしくれだったから、私にたいする批判は、甘んじて受けよう。それは、もの書きとしての覚悟だろう。しかし、私を大学に招いたことで、大木先生を糾弾するのは不当ではないか。しかも、これを学内の派閥争いにしようとしている。唐木は、大木さんに教務主任を辞任するように迫っているのだった。これはもはや文学者としての批判とは思われない。

 私は、もともと文学者の確執に興味がない。しかし、この日から唐木は私の不倶戴天の敵になった。

 売られたケンカなら、いくらでも相手になってやる。しかし、私相手に啖呵を切るならまだしも、大木 直太郎を窮地に追い込むのは許せない。

 その後、小川はこのときのことに関して、まったく口外しなかった。私もふれなかった。しかし、小川が、私に同情したことは間違いない。唇を噛みしめて、涙を流している私に、黙って酒を注いでくれたのだった。

 今夜の私が、唐木に挨拶もしなかったので、斉藤 正直も唐木に対する私の敵意に気がついたはずだった。唐木に対する私怨は消えないものになった。

       1978年4月14日(金)
 4時に起きる。小説を書かなければならないので。
 10時半、完成。ほっとした。
 「山ノ上」。渡辺 安雄さんに原稿をわたす。
 本戸 淳子さん。いっしょに、「ワーナー」に。
 「オー!ゴッド」(カール・ライナー監督)を見た。
 スーパーの野菜売り場主任(ジョン・デンバー)のところに、トボけたジイサマ(ジョージ・バーンズ)がやってくる。人間は破滅に向かっているので自分が救済にきた、というご託宣。カルト宗教の風刺。このなかで、ジイサマが「エクソシスト」をやり玉にあげ、「少女に悪魔がとり憑く映画があったが、少女がフロアにオシッコをもらしたのでウケただけじゃないか。それなら、カミさまが映画に出てきたっておかしくないだろう」という。これはおもしろかった。
 このあと、「ルノワール」で、しばらく雑談。
 本戸さんが帰ったあと、「フォックス」で、「愛と喝采の日々」(ハーバート・ロス監督)を見た。
 「ディーディー」(シャーリー・マクレーン)と「エマ」(アン・バンクロフト)は、同じバレエ団で、ライヴァルどうしだった。「エマ」の勧めで、「ディーディー」の娘、「エミリア」(レスリー・ブラウン)が、「エマ」のバレエ団に入って、「ユーリー」(ミハイル・バリシニコフ)と愛しあう。
 この映画はアカデミー賞の候補になったが、私にとっては、いろいろと考えることができた。アン・バンクロフトの芝居は、「卒業」の「ミセス・ロビンソン」と、どう違うのか。バレエ映画として、「赤い靴」、「ホフマン物語」以上のものなのか。芸能界の裏話に母ものを重ねたような内容だが、アーサー・ローレンツは、いつから、こういう器用なシナリオを書くようになったのか。
 ミハイル・バリシニコフは、はじめて見たが、さすがに世界最高のバレエ・ダンサーらしい動きを見せている。レスリー・ブラウンは、若き日のヴィヴィアン・リー、「赤い靴」のモイラ・シャアラー、今のジェニー・アガターに似た美人だが、リュドミラ・チェリーナのように、バレリーナ/映画スターになれるかどうか。
 そんなことばかりアタマをかすめる。
 私の結論。この映画は、アカデミー賞をとれない。主演女優賞もとれない。残念だが、レスリー・ブラウンは、映画界には残らないだろう。私の予想が当たるかどうか。

 めずらしく、「すばる」の編集長、水城 顕といっしょに富島 健夫が、「あくね」にきた。富島君は、「河出」時代に知りあったが、当代切っての流行作家になっている。流行作家になったとたんに、文壇の大家みたいな口のききかたをするようになった。

      1978年4月15日(土)
 1時半、竹内 紀吉君が迎えにきてくれた。

 「文化会館」で講演。盛況。
 「小林秀雄と本居宣長」。

 私のグルーピイがきている。石井 秀明、中村 継男、菅沼 珠代、安東 由利子、工藤 惇子、宮崎 等たち。

 中村 継男、宮崎 等は帰ったが、あとはみな、わが家にきた。

 百合子は、「中田組」のみんなが居心地よくすごせるように気をくばっている。いつだったか、歌手の***が遊びにきたときも、彼女は百合子とすっかり気があって、いっしょにブランデーを飲みながら、身辺のことを話しあっていた。

 あとで、安東 つとむ、鈴木 和子が合流する。7時過ぎに、竹内 紀吉君かきたので、みんながよろこんだ。竹内君も、もう「中田組」のみんなとは旧知の間柄のように、いろいろと話をする。とくに、小林秀雄について。

       1978年4月16日(日)
 本日天気晴朗なれど、風強し。

 3時半、桜木 三郎、ソノ夫妻が、お嬢さん2人をつれて、挨拶にきてくれた。可愛い女の子たち。真紀子ちゃんは、目下のところ、恐竜に関心があるという。理恵ちゃんは、目鼻だちのしっかりした美人だった。
 桜木君は、あい変わらず多忙な毎日を送っているらしいが、たまたま暇ができたので、久しぶりに挨拶にきてくれたもの。

 楽しい一日になった。

 桜木君一家が帰ってから、10時からNHKの「若い広場」を見た。桜木君が、本宮ひろ志を担当しているので。この番組に、本宮 ひろ志が出てくる。
 現在の日本のマンガの実態をうかがうことができた。
 女流マンガ家のなかには、竹宮 恵子のように、25歳で、大家と見られる人もめずらしくない。
 桜木君の話では、「集英社」のマンガだけで、実質、60億の売上げ。本宮 ひろ志のマンガもベストセラーで、実収、10億ぐらい。
 現在の出版状況で、純文学などははじめから比較にならないが、こうしたマンガのおかげで出版されているようなものだろう。

 「サンデー・タイムズ」の記事。

    「ジャッカルの日」で知られている作家、フレデリック・フォーサイスは、72
    年、ナイジェリア内戦で敗退した、ビアフラの人々のために、新しい国家建設の
    ため、赤道ギニア領、マシアス・エングエマ島(旧名・フェルナンド・ポー島)
    を占領する計画を立てた。この計画の実行のため、作家は10万ポンドの私財を
    投じ、武器を調達し、兵士を募った。この傭兵部隊がスペイン南部の港から出発
    する直前、スペイン政府が介入したため、計画は失敗に終わった。

 世界的な流行作家ともなると、考えることが違う。
 それにしても、10万ポンドの私財なんて、日本のマンガ家の収入の10分の1にみたない。

 私のような貧乏作家には想像もつかない話だが。

       1978年4月17日(月)
 曇り。やや肌寒い日。昨日は風が強かったが、今日は小雨がときどき降っている。

 10時半、NHK/教養、山田 卓さん、来訪。5月放送の「マリリン・モンロー」の打合せ。

 2時過ぎ、「サンケイ」、四方 繁子さんに、原稿を電話で。

 アメリカから、怪奇・恐怖小説が届いた。シスコの「アルバトロス」で買ったもの。なつかしいサン・フランシスコ。

 思いがけない電話。松山 俊太郎さん。小栗 虫太郎・解説について。
 松山さんはご自身が非常な博識家なのに、私のことを買いかぶっている。私のことを博識と思って、話の途中で、つぎつぎに思いもよらないことを話したり、私に訊いたりする。はじめ、わざと意地のわるい質問をあびせてくるのかと思ったものだが、そうではなく、私が当然知っているものと思ってお訊きになるらしい。こちらは、ただ恐縮するばかり。
 私が、たとえばコリン・ウィルソンの博識にさして驚かないのは、身近に、澁澤 龍彦、種村 季弘、そして松山 俊太郎がいるからである。
 小栗 虫太郎に関して、いろいろと訊かれたが、ごくありきたりな返答しかできなかった。申しわけない。

       1978年4月18日(火)
 曇り、のち雨。夜、9時過ぎから強風。

 1時半、水道橋。「地球堂」にフィルムの現像を依頼した。「北沢」。「チューダー朝の女性たち」。キャスリーンの部分だけを読む。ギャレット・マッティンリからの引用が多いが、それなりによくまとめてある。

 「泰文社」に寄るつもりはなかったのだが、外を通りかかったとき、主人と目があってしまった。素通りするのも気がひけて、つい立ち寄った。本を買う。
 3時、「サンリオ」の若月 敏明君に会って、仕事の話をする。アナイス・ニンの話も。あまり、アテにはならない。

 新年度、最初の講義。教室いっぱいに学生がつめかけている。女子も多い。
 いきいきした空気があふれている。中田ファミリーの顔も見えた。

 しかし、すぐに5月病にかかって、出席者は半減する。私は、小人数のほうがいい。
 例によって、いろいろな質問が出た。
 ――先生は、おいくつですか。
    女子学生が訊いた。みんなが笑った。
 ――いくつに見える?
 ――38ぐらいですか。
    また、みんなが笑った。
 ――先生は結婚なさっているんですか。
 これで、またみんなが笑った。
 この学生は、私の小説を読んだらしい。それで、私が結婚しているかどうかたしかめたかったらしい。私の結婚には道ならぬ色恋沙汰が描かれているからだろう。
 ――作家なんて、いつも妄想にふけっているキャラクター障害か、アルコール中毒だ
   からね。結婚しているかどうか、ときどき忘れちゃうんだよ。

 帰りは、いつものように、安東夫妻、工藤、中村、下沢、石井たち。及川という聴講生も誘って「丘」に行く。この及川さんは、2年前にも前期だけ私の講義を聞いたという。そういえば、いつもひっそりと後ろの席にいた女の子だった。

2019/09/22(Sun)  1814〈1977〜78年日記 61〉
 
      1978年3月16日(木)
 やはり、時差ボケで、寝る時間がおかしくなっている。バークリーに着いたときとおなじ状態。千葉に帰って、7時に寝てしまった。
 起きたのは11時。食事をして、また寝てしまった。
 甥の松村 信之がきた。春休み、姫路の両親(大三郎、純子)のところで過ごしたが、仙台に帰る途中、寄ってくれたらしい。私がアメリカから帰ってきたばかりと知って驚いていた。
 来年、東北大を卒業したあと、高校の教師になるか、大学院に残るか、どちらかきめなければならないという。
 信之にアメリカ土産と、お小遣いをやる。うれしそうな顔。

 「図書新聞」、大輪 盛登君から電話。
 アメリカから帰ったばかりで眠いというと、ひどく恐縮していた。
 種村 季弘の「カリオストロの大冒険」を中心にして、評伝を書くという問題をエッセイに。ちょうど、そんなことを考えていたので引き受ける。
 大輪 盛登君は、私がミステリーの批評をはじめた頃から、早川 淳之助君といっしょに私を応援してくれたひとり。

       1978年3月18日(土)
 まだ、睡眠時間がバラバラ。朝、4時半に眼がさめてしまった。夜明けにバークリーの丘陵地帯を歩いたことを思い出す。

 姫路から、松村 純子、かおるが上京するまで、信之は千葉に残る予定だったが、アルバイトがあるとかで、仙台に帰って行った。
 信之が帰って、30分後に、純子、かおるがきた。みんなで残念がった。
 純子は、このところ体調がよくないので、人間ドックに入って精密検査を受けるという。かおるは、来年、就職する予定。信之も、かおるも、しっかりした性格で、松村家は安泰。

 「夕刊フジ」、平野 光男さんから電話。原稿の依頼。
 ――ろそろ帰ってきたんじゃないか、と思って。アハハ。
 「れもん」、原稿。
 時差ボケなどといっていられない。しかし、バークリーのことばかり思い出す。
 夜、7時に寝てしまった。10時半に起きて、原稿を書く。1時間で眠くなる。3時に起きて、すぐに別の原稿を書く。時差のせいで、脳が混乱しているらしい。いや、からだがもとの生活に戻ろうとしているのに、精神はバークリーに残っているせいだろう。
 ジーン・クレインに似た、ほっそりした、郵便局の美人。フォーチュン・クッキーをたおやかに掌につつんで、割ってくれた中国人の娘。

 深夜なのに、ヘリコプターが上空を飛んでいる。何か起こったのか。成田空港にジェット燃料の輸送が始まって、過激派のテロを警戒しているのか。
 成田はまだ開港していないが、交通、燃料、宿泊施設など、すべての面で、問題は山積している。ホテルは三つがオープンしている。あと二つがオープンする予定。室数、2000室。しかも、このうち、1500室は航空会社のクルーや、旅行業者の客用に長期契約で抑えられている。さて、残りは、500室。ふつうの観光客の利用を見込んでも、宿泊費が高過ぎる。
 朝の便で成田を出発するとして、カウンターの手続き、通関に2時間、つまり7時までかかる。千葉からでさえ1時間かかるのだから、朝、出国する人は、6時に家を出なければならない。東京から成田に出る人は、4時起き。それがいやなら、千葉か空港近くのホテルで1泊しなければならない。不都合な話だ。
 帰国の場合も、夜の9〜10時に、到着便が集中したらどうするのか。気象条件によっては、到着が遅れた場合、東京には出られなくなる。千葉に住んでいる私の場合、タクシーを利用するからいいが、普通のツーリストにとっては、ずいぶん迷惑な話だろう。
 シスコや、バークリーの、堂々たる安ホテルを思い出す。

       1978年3月19日(日)
 亡き母、宇免の三回忌。

 百合子は、朝から、いろいろな仕度に追われている。
 私も、百合子にいわれて「そごう」で買い物。
 昨日からの雨は、10時過ぎにあがった。雨はやんだが、曇りで、うすら寒い日になった。

 湯浅 かおる(百合子の母)。
 義兄、小泉 隆、賀江夫妻。杉本 周悦。
 中田 まき代(亡父、中田 昌夫の従妹)、鷹野 昌子(西浦 勝三郎の三女。私の従妹)。西浦 満寿子(宇免の弟、勝三郎の妻)、洋子。
 高原 恒一(宇免の隣人)、鵜沼 こま(宇免の母、西浦 あいの友人)。

 親族たち、そして親しい友人たち。

 私が挨拶する。
 そのあと、会食。百合子が、メニュを考えて、千葉の老舗のレストランからわざわざ届けさせたもの。
 こういう追善の集まりには、口上書に配りもの、手拭いとか、扇面などを添えて、一同に配るのが礼儀らしいのだが、百合子はそのあたりまで気にかけているようだった。

 後年、百合子は、宇免について書いている。

    早口ではっきり物を言う人だから、きつい性格と思われがちだが、決してそうで
    はなく、さっぱりとして物事にこだわらず、裏表のない、素直な人だった。昌夫
    が亡くなったあと、埼玉県大宮の自宅に一人住まいになるので、心配した耕治と
    百合子が、千葉に来てくれるように頼むと、長く住みなれた土地やたくさんの友
    達に未練を残さず、あっさりと千葉に引っ越してくれた。百合子は宇免と、足か
    け六年ほど嫁と姑として暮らしたが、ただの一度も喧嘩したこともなく、いい思
    い出だけを残してくれた。

 みんなが、それぞれ宇免の思い出を語りあったが、楽しい雰囲気になった。

 夜、みんなが帰ったあと、昌子が残った。10時頃、鷹野君が迎えにきた。埼玉県東松山まで帰るので、鷹野君が車で迎えにきてくれたのだった。

 みんなが帰って、疲れが出たらしく眠ってしまった。こんなことは初めてだった。

       1978年3月20日(月)
 朝、4時に起きた。

 「日経」、吉沢君の電話。久しぶりに元気な声をきく。
  午後、東京に。
 できれば映画を見ようと思ったが、遅くなったので、水道橋。「地球堂」にフィルムをあずけ、その後「南窓社」に行く。岸村さん、不在。
 「集英社」、「文庫」の山崎君に会う。「シャーロック・ホームズ」の文庫化は、来年になるらしい。
 私としては、ウィリアム・サローヤンを、「コバルト文庫」に入れたいのだが。編集部の新海君に紹介された。眉目秀麗な美男子だった。
 「二見書房」に寄るつもりで歩きはじめたが、うっかりして「潮出版社」のほうに出てしまった。
 「二見書房」、長谷川君に会って、堀内社長に挨拶する。お選別を頂いたので。しばらく、アメリカの話をする。

 「山の上」。吉沢君と飲む。
 とくに、シスコで見た「スター・ウォーズ」。バークリーで見そこなった「異聞猿飛佐助」のこと。

       1978年3月21日(火)
 朝、「ユリイカ」、特集「埴谷 雄高」を読む。
 この特集に、私も短いエッセイを寄せている。「埴谷雄高は、当時の私がもっとも尊敬した一人だった」と書いたが、これは偽りではない。ただし、この尊敬は、埴谷さんの存在感に対する畏敬に根ざしたもので、埴谷さんの文学、とくに「死霊」に感動したわけではなかった。いつ終わるとも知れぬ長編を書き続けていることに圧倒されたが、その内容は私の理解のおよばぬものだった。
 埴谷さんの影響は、私に於いて、別の領域にあらわれた。「フランドル画家論抄」や、ドストエフスキー論がそれで、私の出た「テレ朝」のハンス・メムリング解説には、あきらかに「フランドル画家論抄」が響いているだろう。
 私が中世、あるいはフランドル画家に関心をもったきっかけは、じつは埴谷さんの訳にあった。その意味で、埴谷さんの存在は、私にとってありがたいものだった。

 竹内 紀吉君、安東 つとむに電話。26日に講演することをつたえた。
 ――に行ってもいいですか。
 ――けれど、大したことをしゃべるわけじゃないから。
 ――が何をお話になるのか、みんな興味津々ですよ。
 ――な話なんかないよ。アメションだもん。

       1978年3月23日(水)・
 午前中、快晴。午後、曇り。夕方から雷鳴をともなう雨。

 松村 純子、かおるは、11時半に帰った。純子は、大宮の家の処分がやっと解決したのだった。私は駅まで送ったが、これで、しばらく純子たちと会う機会もなくなる。

 帰りに、通町の岳父を訪問、帰国の挨拶。しばらくアメリカの話など。

 バークリーの大沢君に、友松 円諦、鈴木 大拙の本、4冊。エリカに、アラン・シリトー、サリンジャーなど、7冊を送る。

 武谷 祐三君が、「本郷出版社」を離れたとつたえてきた。残念。はじめから、あまり期待しなかったが、これで、「演出ノート」の出版は消えた。
 日本の出版ジャーナリズムは、エージェントがいないため、著者と編集者の暗黙の了解で本の出版がきまったりする。その編集者が、なんらかの事情で出版社を離れると、それまでの著者との約束はホゴになってしまう。こうした場合、著者の側は、「文芸家協会」に仲介してもらうとか、違約金をもらうとか、なんらかの補償があってもいいのではないか。

 仕方がない。原稿はいずれ焼き捨てることにしよう。

       1978年3月24日(木)
 NHK、「スタジオ102」。神田 日勝の絵を見た。解説、宗 左近。
 この画家の「自画像」(昭和45年)が出てきたが、私は「独立展」で見た。このときは少しショックを受けた。
 狭い部屋の壁に、新聞紙が貼りつけてある。その壁を背に、男がひとり、うずくまるようにすわって、正面をじっと凝視している。男の足もとに、フランス人形が投げ出されている。タバコの吸殻を放り込んだ紙袋、缶詰の空カン。リアリズムで描かれているが、何か荒涼とした心象風景と見えた。
 初めて見たとき、ほんものの新聞紙を貼ってあるものと見たが、実は全部、画家が自分の手で描いたものと知って驚いた。見出しから記事まで、丹念に、というか、ひたすらオブセッシヴに描いている。この執念に、この画家の魂のあげる息吹きを感じて、ただ茫然と眺めていた。
 宗 左近の解説で、神田 日勝はこの絵を遺作として出品したことを知った。この画家は、北海道の帯広近郊の農村で生まれて、絵を描きつづけ、32歳の若さで亡くなった。絶筆、「馬」は腰の部分まで描いて、未完成のまま残されている。
 この一枚の絵を見て、画家のすさまじい孤独を感じたが、その生涯については何も知らなかった。何も知らなかったほうが、純粋に画家の「自画像」として見ることができたと思う。

 1時、久しぶりに「東和」に行く。「カタストロフ」の試写。ところが、1時になっても試写が始まらない。映写室に行ってみたが、要領を得ない。試写室にもどった。私以外にも、この試写を見にきた人が3人。
 1時20分に試写が始まった。
 私のカン違いだったのか。「東和」としては、3時から試写を始める予定だったらしい。試写が終わったとき、川喜多 かしこさんが、試写室にきていた。何か手違いがあって、私たちが試写にきている、と宣伝部がご注進に及んだらしい。
 試写室の外に、淀川 長治ほか、かなり多くの人が待っていた。
 何があったのかわからずに、外に出た。

 これも久しぶりに「フォックス」に行く。
 「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)の試写。リリアン・ヘルマンの自伝の映画化。劇作家、「リリアン・ヘルマン」(ジェーン・フォンダ)は、ハード・ボイルドのミステリー作家、「ダシール・ハメット」(ジェースン・ロバーズ)と同棲している。「ハメット」は、「リリアン」をはげまして、文学的に助言したり、政治的にもナチス反対の立場をとっていた。
 「ジュリア」(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)は、「リリアン」の少女時代からの親友。ユダヤ系の富豪の娘。イギリスで医学を専攻し、ウィーンで、フロイトの精神医学を学ぶ。ウィーン滞在中に、反ファシズムの地下運動に参加している。
 モスクワの国際演劇祭に招かれた「リリアン」は、「ジュリア」の頼みで、ベルリンの反ナチの組織に運動資金を届けることになって、パリから国際列車に乗り込む。その運動資金、50000ドルをひそかにドイツに持ち込む。
 ジェーン・フォンダとヴァネッサ・レッドグレイヴが共演しているのだから、圧倒的な迫力がある。「リリアン」は、「ジュリア」と再会する。しかし、「ジュリア」は睡眠中に、ナチの秘密警察の手にかかって殺害される。

 今年の最高の映画だった。私は、リリアン・ヘルマンを訳したことがあるし、ダシール・ハメットも訳したことがある。そんなこともあって、この二人が事実上の夫婦関係だったことに関心があった。
 ヴァネッサは、父のマイケルが名優で、イギリスきってのメソッド派。それかあらぬかヴァネッサは、スタニスラフスキー直系の冷徹な演技を見せる。ジェーンほどの女優でも、舞台で鍛えたヴァネッサの前に出ると影が薄い。これは驚くべきものだった。
 「ジュリア」は、もともとジェーン・フォンダがやる予定だったらしい。フレッド・ジンネマンも、ジェーンの「ジュリア」でシナリオの改稿をつづけた。途中で、ジェーンが「リリアン」の役をやりたいといい出した。プロデューサー、リチャード・ロスは、ジェーンを「リリアン」にして、急遽、ヴァネッサ・レッドグレイヴを「ジュリア」に起用したらしい。
 ロスは、「追憶」(シドニー・ポラック監督)の共同プロデューサーだったはずで、「追憶」と「ジュリア」が、どこか似た雰囲気をもっているだろう。そのあたり、この映画を批評するポイントになる。ただし、「追憶」のバーブラ・ストライサンドは、ヴァネッサに遠く及ばないけれど。

 吉沢君ならどう見るだろうか。
 私にとっては、別の問題がある。この映画を新聞のコラムで短く紹介するのはむずかしい。いい映画を見たあと、いつもおなじことを考える。アメリカの批評家だったら、一面全部つかって、この映画を批評するだろうな。
 ルルーシュの「続・男と女」は、旧作、「男と女」の退屈なリメイクもの、「コンボイ」のサム・ペキンパーはもはや形骸だけ。「サタデイ・ナイト・フィーバー」は、「アメリカン・グラフィティー」程度の新味はあるもののただのダンス・フィーバー。そんななかで、「スター・ウォーズ」のような巨大なテクノロジーSFが登場している。「ジュリア」は、「スター・ウォーズ」に拮抗できるわずかな映画と見ていい。
 しかし、私のコラムではそこまで書けない。残念だが。

 6時、「山ノ上」。安東 つとむ、石井 秀明、鈴木 和子と会った。みんなと無事に再会できたので、「共栄堂」で食事。みんなが私の帰国を待っていたという。「弓月」で飲む。
 「弓月」でいちおう散会。お茶の水駅前で、安東 由利子、工藤 敦子、松本と会う。またまた、みんなを引き連れて、「丘」に行く。
 偶然だったが、「河出」、坂本 一亀、「光風社」、豊島さんに会った。坂本 一亀は、私の恩人のひとり。豊島さんは、豊島 与志雄先生の令息。やはり、私に好意をもってくれたひとり。女の子たちを引き連れてくり込んだので、驚いたようだった。

 千葉に戻ったとき、月蝕がはじまった。11時33分から皆既月食。

       1978年3月25日(金)
 高階 秀爾の「歴史のなかの女たち」を読む。

 池で飼っている金魚の一尾が、どうも白点病らしいことに気がついた。すぐに隔離して、クスリをつけてやったが、うまくいくかどうか。

      1978年3月26日(金)
 快晴。
 正午、竹内 紀吉君が迎えにきてくれた。司書の渋谷 哲成君、宇尾 房子さん(「日本きゃらばん」同人)が同乗していた。宇尾さんは「文芸首都」出身で、庄司 肇さんの雑誌に小説を発表している。
 茂原。竹内君の案内で、喫茶店で、コーヒーを飲みながら雑談する。宇尾さんは、私の講演に興味をもって、わざわざ聞きにきてくれたのだった。
 会場は茂原図書館。規模は小さいが、感じのいい図書館だった。

 1時半、講演。出席者は少ない。25名。私のグルーピーもふくめて。
 テーマは、谷崎 潤一郎。

 講演は、うまくいった。

 終わったあと。質問。
 老婦人が――最近、若い人の自殺が多い。これは、かつて日本の美風だった道徳の頽廃によるものではないか、という。私は、こういう意見があまり好きではない。
 私の答え。若い人の自殺率は、今後ますます増加するものと思われる。だからといって、それは道徳の頽廃によると見るわけにはいかないだろう。経済的な不況によるものかも知れないし、前途に希望がもてないと若い人が考える、何か漠然とした絶望感がひろがっているせいかも知れない。
 いつの時代でも、先行の世代は、後ろの世代に道徳の頽廃を見てきた。敗戦直後の日本の道徳の頽廃を、私たちは見てきた。それに較べれば、今の「頽廃」など多寡が知れている。
 私としては、道徳という論点よりも、自殺は自分自身に対する他殺なのであって、殺人が許されない罪である以上、若い人に「殺してはならない」という倫理を説いたほうがいい。
 そうでないかぎり、自殺は今後ますます増加するだろう、と答えた。

 つづいて、若い人が――どうすれば、外国語をマスターできるのか、という質問。
 これも、私の嫌いな質問。ほんとうは答えられない。
 ある日、「近代文学」の集まりで、平野 謙が、中村 真一郎に、
  ――きみはいいなあ。外国語ができるからなあ。
    と、いった。これは、平野さんの本心だったに違いない。
  ――フランス語なんて、かんたんに勉強できますよ。半年もあればマスターできます
    からね。
    すぐ近くにいた私は、これを聞いて、中村さんにひそかに反感を持った。こちら
    は、フランス語の動詞さえ頭に入らないのに、半年でマスターできるなどとよく
    もいえるものだ。まるで自分に語学習得の天分があると自慢しているようなもの
    ではないか。
 後年の私は、翻訳家としても仕事をつづけるようになったが、あのときの中村さんのことばは、あながち荒唐無稽なものではなかった、と思うようになっている。自分の経験に照らしても、英語など半年もあればマスターできる、と思うようになった。
 むろん、その方法論めいたものはあるけれど。

 3人目は――谷崎源氏と谷崎作品について。

 これも、即座に答えられる質問ではない。

 帰りに、竹内君が、茂原から一宮に連れていってくれた。芥川 龍之介が泊まった旅館があって、そこに記念碑が建っているという。作家が泊まっただけで、記念碑が建つのか。海に出たとき、風が立って、もう春の海だった。旅館の近くの魚屋で、タイラ貝、サザエを買う。
 帰宅したとき、安東夫妻、甲谷 正則、鈴木 和子、石井 秀明、工藤 惇子たちが待っていた。みんなが私の講演会にきてくれたのだった。つまりは、サクラということになる。期せずして、私の家に集まってくれたらしい。みんな、正月を私の家で迎えた連中ばかり。

 百合子は、私の収入が増えるに応じて、私の周囲の人々をもてなす機会が多くなった。不時の来客にはなれている。その人数によって、すぐに大まかに接待の手順をきめる。お茶だけということはない。かならず和菓子を添えて出す。ときには、かなりの出費になることもある。それでも、文句ひとついわずに、いつも笑顔で、アルコール、食事、なんでもそろえてくれる。
 冷蔵庫も3つあるので、編集者や、テレビ・クルーが入っても、困らない。
 今日は、私の買ってきたタイラ貝、サザエを料理したので、皆がうれしがって、ビールで乾杯。

 新婚当時、私たちは、たいへんな貧乏暮らしだった。
 ろくに食べるものもなくて、庭で作った赤カブやソラマメを食べながら、私の原稿を整理したり、月末、千円札一枚もなくて、百合子が実家の母に金をせびりに行ったり、いつも百合子に、肩身の狭い思いをさせたものだった。

 それでも百合子はめげなかった。

 百合子はいつも私をささえてくれた。口に出すことはなかったが、現在の私があるのは、ひとえに百合子のおかげなのである。

 今日も、私の帰国を祝う会になってしまったが、百合子は嫌な顔をみせずに、みんなをもてなしてくれた。

      1978年3月27日(土)
 午後3時、「図書新聞」、編集の見習いみたいな女の子が原稿をとりにきてくれた。
 名前を聞くのを忘れたが、短大卒。アルバイトで「図書新聞」に。
 原稿は、「カリオストロ」の評伝を中心に評伝という表現形式を論じたもの。
 コリン・ウィルソンを読む。
 「一枚の地図」、半分ばかり読む。私のエッセイも載っている。

       1978年3月28日(日)
 雨。こういう日はどうも気分がよくない。不快というのではないが、なんとなく鬱陶しい。あまり元気がないので、1時からの試写はキャンセル。

 新聞のニューズ。

 エドアール・ジャン・アンパン男爵。さる1月に、過激派によって誘拐された大富豪。
「アンパン=シュネデール財閥」の会長。40歳。
 26日夜10時、(日本時間、27日未明)、パリ・オペラ座の前で釈放された。
 犯人一味は、1700万スイス・フラン(約20億円)のランサムを要求していたが、これは犯人側に支払われてはいないという。
 パリ警視庁の発表では、犯人側にランサムをわたす交渉が成立したが、これを受取にきた5人と銃撃戦になり、犯人のひとり、アラン・カイヨル(35歳)が負傷、逮捕された。26日、ラジオを通じて、仲間に男爵の身柄を解放するよう呼びかけたため、仲間がこれに応じた、という。

 さながら、フレンチ・ノワールの世界だな。
 私は、オペラ座を思い出したが、アンパン男爵が、どのあたりで解放されたのか見当もつかない。

 3時、「CIC」で、「海流の中の島々」(フランクリン・J・シャフナー監督)を見た。ヘミングウェイだからね、見ないわけにはいかないさ。
 戦時中の西インド諸島。ドイツのUボートが出没している。その動きを警戒している画家「ハドスン」(ジョージ・C・スコット)のところに、元妻2人と、息子3人がやってくる。次男は父に対して、反抗的だが、マーリンの釣りをおしえられてから、父を理解しはじめる。皆が帰ったあと、初婚の妻(クレア・ブルーム)が長男の戦死をつたえにくる。ヘミングウェイの自伝的な作品の映画化で、ポーリーン・ファイファー、マーサ・ゲルホーンたちとヘミングウェイ自身の「関係」もかくや、と思わせる。しかし、映画としては、たいしたことはない。
 ジョージ・C・スコットは、「パットン将軍」でアカデミー賞を受けたが、それを拒否した。その気概は認めよう。しかし、スコットは、「海流の中の島々」のヘミングウェイよりも「パットン将軍」でもやっていたほうがいい。

 6時、安斉女史と会う。いろいろな企画を話す。
 大川 修司に説得されて、バレエの台本を書くことになった。これも勉強だなあ。

 この日、バークリーから送った本、10冊ずつ、朝と夕方に届いた。オークランドの「ホームズ」で買ったもの。これからしばらく、この本たちとつきあって行く。

 帰宅して、百合子から思いがけない知らせを聞いた。鈴木 武樹が亡くなったという。まさか。いそいで、夕刊のオービチュアリを読む。もう一つ、驚きが待っていた。
 三枝 康高が亡くなったという。またしても、びっくりした。丸茂 ジュンの父君である。ただし、面識はない。
 鈴木夫人に当てて弔電を打ってやりたいが、こんなに遅く、電報がとどいたら、かえって迷惑だろう。それにしても、鈴木 武樹が亡くなるとは。

       1978年3月29日(日)
 朝、鈴木 勘也君から電話。
 鈴木 武樹の訃報。
 私が「近代文学賞」を受けたとき、鈴木 武樹、鈴木 勘也両君といっしょに、赤坂のバーで、ささやかな祝宴を開いた。百合子もいっしょだった。鈴木 勘也は、私より一期、後輩。「犀」の同人。
 今は、青山学院大の事務系の仕事をしている。

 弔電。電話で弔文を送ったが、声がふるえた。

 鈴木 武樹を紹介してくれたのは小川 茂久だった。
 鈴木君は、なぜか、親しくしてくれた。彼も圭角の多い人物だったから、不器用な生きかたをしている私のことを気にかけてくれたのかも。
 著書、訳書をいつも送ってくれた。
 私が、キャスターをやっていたテレビに出てもらったこともある。

 いつの正月だったか、中村 真一郎さんのお宅に伺ったことがある。
 批評家の菅野 昭正、西尾 幹二、 作家の北 杜夫、水上 勉、その他、「秩序」や「犀」の若い人たちが多数集まっていた。私は、小川 茂久につれられて出席したのだが、この席で、鈴木 武樹と、西尾 幹二が、論争した。

 「秩序」の同人たち、とくに、菅野 昭正が、ふたりの間に入って仲裁したが、激烈な論争で、二人とも譲らなかった。
 けっきょく、西尾 幹二が席を蹴って退出したが、たまたま私の横を通り抜けようとしたとき、低い声で、
 ――もう二度と、こんなところにくるものか。
 とつぶやいた。私に向かっていったのではなく、はげしい怒りをこめて自分にいい聞かせたものらしい。そして、だれにも挨拶せずに帰って行った。

 このときの論争のテーマが何だったのか私は知らない。

 小川 茂久が鈴木 武樹を紹介してくれたのは、それから後のことだった。私は、鈴木君と親しくなったが、西尾 幹二との論争については、ついぞ話題にしたことがなかった。若い批評家どうしの論争に驚かされただけのことだったが。
 心から、ご冥福を祈る。

 今日から、東ドイツのグリム童話映画祭がある。東ドイツ文化省・後援。日比谷。
 とくに、今日は「白雪姫」を上映するので、ディズニーの「白雪姫」と比較する意味でも、見にゆくつもりだった。
 しかし、鈴木 武樹に追悼の思いをこめて外出しない。

 夜、「日経」、吉沢君に電話で送稿。

       1978年3月30日(月)
 午後、「サンケイ」。文化部、四方さんに挨拶。「夕刊フジ」、金田さんの前のデスクで書評を書く。書き終えるのを待っていたように、金田さんが私を誘ってくれた。神田駅前の店。いろいろ話をした。
 金田さんは、「サンケイ」でもトップクラスの文壇通。彼の目に、私など、何でもござれの便利屋(ファクトテム)に見えているだろう。むろん、他人がどう見ようと構わないが。
 2時半、「サンバード」で、「DONDON」の池上君に会う。校正を受けとる。
 これは、すぐには見る時間がない。
 3時、「CIC」で、「原子力潜水艦浮上せず」(デイヴィッド・グリーン監督)を見る。
 原潜「ネプチューン」が、タンカーと接触、深さ、450メートルの海底に沈む。「ゲイツ大佐」(ジョン・キャラダイン)が開発した深海潜水艇「スナーク」が、「ネプチューン」の位置を確認し、救助艇で原潜艦長(チャールトン・ヘストン)たちを無事に救出する。原題は Gray Lady down。どうも、ひっかけだなあ。

 ハイ、みなさん、よかったですねェ。(淀川 長治ふうに)。

       1978年3月31日(火)
 曇り。
 午前中、三隅 研次の「丹下左膳」を見た。
 大河内 伝次郎、高峰 三枝子。
 書こうとおもえばいくらでも書けるが、何も書かない。

 バークリーから本がつぎつぎに届いてくる。グリゴロヴィウスの「ルクレツィア・ボルジア」があった。

2019/09/08(Sun)  1813〈1977〜78年日記 60〉

         1978年3月6日(月)
 買ってきた本をつぎつぎに送っている。
 アメリカ銀行の支店(通称バンカメ)で、チョコレート色の煉瓦作りのビル。その2軒先が少し引っ込んだ路地の奥に郵便局がある。窓口は、若い娘で、ジーン・クレインに似た、ほっそりした、なかなか美形の娘がひとり。
 今朝も郵便局に行くつもりだったが、あいにく小銭がない。朝のバークリーの郵便局では、100ドル紙幣を出しても受けとらない。この時間では「バンク・オヴ・アメリカ」も開いていない。
 シャタックまで歩いて、「クロッカー・バンク」で100ドルを両替した。
 ここまできたら、いっそのこと、シスコから本を送ったほうがいい。小包を抱えて「バート」で、シヴィックセンターに。ここにも大きな郵便局がある。
 ひとつは航空便、二つを船便で。

 こんどは、エリカに、またひとりでシスコに行くとつたえた。
 エリカは、私が、シスコで若いコールガールでもひろったのではないか、と疑っているらしい。

 シャタックからバス。このバスは、シスコのミッション・ストリート、トランス・ベイ・ターミナルに着く。

 ここの「ホームズ」は、オークランドの「ホームズ」より、ずっと規模も小さい。

 そのあと、ブロードウェイに出て、「シテイライツ」に寄る。
 植草 甚一さんが喜びそうな本がある。

 夜、「UCパシフィック」で、エルンスト・ルビッチュの「アン・ブーリン」(1920年)を上映すると知って、あわてて見に行った。
 コトルバスを見たほどの感動はないが、「結婚哲学」からあとのルビッチュのサイレント映画を見ていないので、ぜひ見ておきたかった。
 ルビッチュは、1920年、メァリ・ピックフォードに招かれてハリウッドに移ったのだから、「アン・ブーリン」(1920年)はドイツで撮ったものか。
 ヒロインの「アン・ブーリン」は、いうまでもなく「一千日のアン」だから、これが見られるのはうれしかった。
 主演は、なんと、エミール・ヤニングス。「アン」はヘニー・なんとか。
 途中から、かなり退屈した。観客もせいぜい50人程度。

 この「UCパシフィック」は、映画館ではなく、「UCB」(カリフォーニア大・バークリー分校)付属の映画ライブラリーで、収容人数は、約120だが、理想的な小劇場だった。「東和」第二試写室程度のゆったりした椅子で、長時間の鑑賞も苦にならない。大学の管理下に置かれていて、運営はすべて学生にまかされている。日替わりで、収蔵作品を上映してゆくシステムだが、そのレパートリーは、毎月、パンフレットで発表される。私が2月の「異聞猿飛佐助」の上映を知ったのも、このパンフレットを読んだからだが、3月に小津 保次郎の「浮草」の上映が予告されていた。

 もう一つ。
 この「UCパシフィック」の壁面に、美術品が陳列されていて、私が通ったときには、19世紀の版画展をやっていた。
 ロートレック、ゴーギャン、ミュシャの版画が、いとも無造作に並べられている。これにも驚かされた。日本で専用の付属映画館をもっている大学はないだろう。さらに、大学自体のコレクションで、ロートレック、ゴーギャン、ミュシャほかの版画を並べられる大学はないだろうと思う。
 マリリン・モンローの死後、彼女が集めたイタリアの舞台女優、エレオノーラ・ドゥーゼの遺品を、ワシントン大学に寄贈したとつたえられたが、やはり、芸術に対する観念が、日本人とは違う。

      1978年3月7日(火)
 10時半、バークリーの郵便局に行って本を送ったあと、ドワイトウェイの角の「スープ・キチン」で朝食をとろうとしたら、食事は終わったという。ちょっと困った。
 仕方がない。ヴェトナム料理の店に行こうか。
 この店の主人が日本人で、大沢君という若者だが、すぐに食事を作ってくれた。
 英語しか話さないというので、もっぱら英語で話した。なぜ日本語を話さないのかと聞いてみた。日本語がおかしな発音になっているので、できるだけ話さないようにしているという。それだけバークリー暮らしが長いということか。
 日本語は読める。陸奥 宗光の本を読んでいるという。むずかしい本なのに。好感の持てる人だった。

 夜、「愛のコリーダ」(大島 渚監督)を見た。
 たまたま、2本立てで、「チュルキシュの悦び」というオランダ映画をやっていた。これが、なかなかいい映画だった。
 「愛のコリーダ」の途中で、観客から、しきりに失笑や罵声があがった。スクリーンに向かって、「Japanese girl can’t fuck!」とどなったやつがいる。私は、映画として、「愛のコリーダ」を駄作と見た。観客たちは、ぞろぞろ席を立って、あっという間に館内はガラ空きになった。
 大島 渚は、この映画をみずから傑作と自負していたが、ポルノとしてもまったく低いレベルの映画だった。

     1978年3月8日(水)
 朝、5時に眼がさめた。
 雨が降っている。このところ、雨が降っている。クラムのマンガを読む。
 10時頃、郵便局に行き、本を送った。

 午後は快晴。
 カメラを持ち出して、おなじアパートに住んでいる黒人の娘(8歳ぐらい)の写真を撮った。あとで送ってやるつもり。
 べンヴエニュから、ドワイトウェイ、チャニングウェイ、ここからボディッチにもどって写真を撮った。
 夜、「バート」の近く、「カマ」KAMA という中国人の店で食事。エリカにいわせると、この店はまずいという。しかし、私はこの店が気に入って、何度か寄ったことがある。
 7時過ぎ、「ACT 2」にいった。
 「コーマ」(マイケル・クライトン監督)を見た。これは、まだ試写も見ていない。
 マイケル・クライトンの病院スリラー。ボストンの病院に勤務することになった女医「スーザン」(ジュヌビェーヴ・ビジョルド)は、「ハリス」外科部長(リチャード・ウイドマーク)の病棟で、昏睡状態の患者の発生率が以上に高いことに気がつく。外科部長が臓器をとり出して、外国に売りさばいている、おそろしい真相を知った「スーザン」自身に、病院全体の魔手が伸びてくる。……
 気もちのわるいスリラーだった。こういう映画を見たときは、「あくね」に行って、小川 茂久と飲むのだが、アメリカには「あくね」のような店がない。

    1978年3月9日(木)
 「あくね」のことなどを思い出したせいか、女の夢を見た。しばらく女の肌にふれていないせいだろうか。
 アメリカにきて、日本の女の夢を見るというのは不思議だった。

 アメリカに住んでみたいと思う。バークリーに住んでみたい。アメリカでもいちばん安全な町のような気がする。バークリーのたたずまいは「いちご白書」や「卒業」の、ロケーション撮影で見ることができる。
 ただし、この町には、若い女性だけをねらう強姦魔が出没するという。バークリーは、バートの駅を中心に、南北に分割されたような恰好で、大学のある北側の地区は裕福な人たちが住む地域だが、南のダウンタウンは貧困家庭の住宅地区になっている。強姦魔は、このダウンタウンに住んでいて、もっぱら北の女たちを襲うという。
 バークリーは、この地区だけのローカルなテレビ局があって、強姦された女性がわるびれずにテレビに出て、強姦魔の特徴などをのべて、女性たちに警戒を訴えることも多い。

 バークリーの警察官は、全員女性で、学園都市らしい秩序がたもたれている。イヌはほとんどが放し飼いで、中心部の店に入る際だけ、店の前にリードをつけたイヌがつながれている。

 住むなら、バークリーがいい。

    1978年3月10日(金)・
 「フェニシアン・レストラン」に行く。
 そのあと、自然食品を栽培(むしろ、培養というべきか)している「グリーン・スプローター」という店。ここで、プラスティックの器具。
 帰りに道にこぼれている街路樹の実をひろう。千葉に戻ったら、庭に植えてみよう。

 夕方、エリカといっしょに、「UCB」に行く。
 「ビルマの竪琴」(市川 崑監督)見た。
 映画については書かない。個人的なことを書く。この映画には、私が「俳優座」の養成所で教えた生徒たちがたくさん出ている。その役者たちのことを思い出すと、なつかしさがあふれてくる。そんな私の感傷とは別に、観客の反応が心に残った。前にすわっている白人の若者が、映画の途中で肩をふるわせていた。日本人の留学生らしい女の子の2人連れも泣いていた。エリカの話では、隣りの黒人の若者も泣いていたという。
 私は、竹山 道雄がこの作品を書いた頃の「近代文学」の人たちの反応を思い出していた。

 原稿を書かない生活が続いている。なにしろ、パーティーに行くのでもないかぎり、旅行者なのだから、原稿を書くこともない。
 「バーバレラ」(ロジェ・バディム監督)を見た。もう、何度も見た映画なので、とりたてて書くこともない。
 深夜、ウィスキーを飲みながら、テレビ映画を見た。ヘレン・ヘイズ、マーナ・ロイ、シルヴィア・シドニー、ミルドレッド・ダンノック。オバアサンばかり。それでも、みんな楽しそうにハネまわっている。こういうドラマを見ると、やはり映画や舞台の女優たちの層の厚みを感じる。日本のテレビで、オバアサン4人のドラマを企画しても、すぐに却下されるだろう。だいいち、ヘレン・ヘイズ級の名女優がいない。マーナ・ロイのようにお色気を振りまく老女がいない。シルヴィア・シドニーのように、ヨタヨタしていても、イキのいい啖呵が切れるほどの女優がいない。ミルドレッド・ダンノックのように、主役は張れないが、ワキにいるだけで、主役の女優がかすんでしまうほどの存在感のある老女優がいない。
 このまま、ブロードウェイにもって行っても、半年はもつようなコメディーだった。これも、タイトルはわからない。テレビをつけたらやっていたので。こういう女優たちをつかって、「シャイヨの狂女」でも演出したら楽しいだろうな。

    1978年3月11日(土)・
 アシュビーで、フリー・マーケットがあるはずなので、エリカが車で送ってくれた。ところが、アシュビーには誰もいない。
 少し前の私なら、自分のドジに腹をたてて、それこそ不運をかこちながら帰るところだが、今の私は、すっかりアメリカに感化されている。

 エリカと別れて、「ビブリオマニア」で、本を探した。
 イーディス・パターソン・メイヤーという人の「イザベッラ・デステ」を見つけた。
 帰宅。エリカはいない。
 入浴しながら、イーディスさんの本を読みはじめた。読みはじめて、ああ、これはイケケない、と思った。この著者は、伝記、「アルフレッド・ノーベル」、カナダ/アメリカの関係史、伝記「オリヴァー・ウェンデル・ホームズ」などを書いている。
 しかし、この「イザベッラ・デステ」は、ジューリア・カートライトの名著に遠く及ばない。
 ついでにいうと、私にとって、正座して読書するのは、読書法のなかでもっとも拙劣な方法なのだ。どうすれば、いちばん効率がいいかというと、バスタブにお湯を半分ばかり入れて、両足を頭の高さにあげて浴槽の上に乗せる。いわば、半身浴で、本を片手に読む。脳の血行がスムーズになって、よく頭に入る。(と信じているだけだが。)
 劇評家のエリック・ベントリーは、入浴しながら、タイプライターで原稿を書いていたが、私の場合は、原稿用紙が濡れるので、入浴しながら原稿を書くことはない。

 入浴しながら読んだので、これ以上、イーディスさんの本の悪口は書かない。

    1978年3月12日(日)
 朝、ドワイトウェイからすぐ北に向かって歩く。
 プロスペクトからヒルサイドの付近は、落ちついた雰囲気の高級住宅地がつづく。
 バークリーで、石を投げると、ノーベル賞の受賞者に当たるといわれているが、このあたりには偉い科学者たちが住んでいるらしい。
 ヒルサイドから、すぐに山道になる。

 坂をのぼって行くと、アメリカマツの茂みにおおわれた丘が間近に見えはじめた。松なのに、空に向かって高く延びて、バークリー大学のヒンターランドになっている。
 ただの丘陵地帯なので、別にむずかしいコースではない。
 山道にさしかかってすぐ、私の眼の前に、大型犬ほどの動物があらわれた。こんなところに動物がいるとは思わなかった。その動物は、ちょっと私を見てから、さっと身をひるがえして姿を消した。
 シカの子だった。街を一歩でると、野性の鹿に出会えるのだった。

 この前歩いたコースとは別だが、エリカの部屋から見た感じでは、1時間で登れるはずだったが、道がくねくねと山腹をとり巻いているので、頂上まで1時間45分もかかった。千葉県のヘグリ郡にある山の2倍くらいの高さだろう。
 肩にさげたズダ袋から、パンを出して、朝食。

 日本に帰ったら、また登山をはじめよう。
 私の不在中、安東や、吉沢君は、山に登っているだろうか。
 大気は澄みわたって、シスコの全景がすばらしかった。

 12時15分、帰宅。

 エリカといっしょに外出。
 エリカの友人、「スイちゃん」(高橋のぶ子)のアパーに寄る。
 「スイちゃん」は、近くサンディエゴに移る、という。一瞬、「スイちゃん」(高橋のぶ子)のアパーを借りて、私ひとりで、しばらくバークリーに住んでみようか、と思った。むろん、とうてい不可能な計画だが。
 帰国して、原稿をつぎつぎに書かなければならない。

 その帰り、驚くべきことを経験した。

 エリカといっしょにエレベーターに乗った。先客がいた。背丈が高く、がっしりした体格だった。私は、その人の顔を見た。
 顔がない!
 のっぺらぼうで、目も鼻もない。そこに刻みつけたように横一文字に、口らしいものがついている。
 一瞬、恐怖が私の内面に走った。

 目はついている。細く切れた線のようになって。鼻はまったく隆起した部分がなく、平らにくずれている。唇もない。ただ、口とおぼしき部分からわずかに歯が突き出しているので、口とわかるのだった。
 小泉 八雲の短編に、すれ違った女が振り向くと、その顔がのっぺらぼうだったという名作がある。
 あの短編をそのまま現実に見たような気がした。
 エレベーターが、1階に着くまで、私はエリカのわきに立ちつくしていた。

 エリカの話では、バークリーでも、有名な「怪人」という。
 太平洋戦争で、海軍の艦艇に配属された兵士らしい。戦闘で、燃料庫か機関部に被弾して、高熱の水蒸気で顔を焼かれたのか。整形手術でもまったく復元できなかったらしい。
 「怪人」は、たまに買い物に出かける以外、外出もしないとか。
 エリカは、何度か、この人物に出会ったという。

 戦傷者として、生涯、年金の給付を受けているので、仕事は何もしていない。

 私は、いまさらながら戦争の犠牲になった人の運命を思った。

    1978年3月13日(月)
 10時、「キチン・コーナー」に寄ってみた。古沢君と英会話。

 エリカが、車でシスコの夜景を見に行くという。私は、シスコの夜景なんか見たくないといった。それよりも、「オクスフォード」で、食事をしよう、といった。
 もうじき東京に帰るのだから、娘とせめてディナーをとりたいと希望しても、父親としては当然だろう。
 こんな些細なことが、またしてもエリカとケンカする遠因になった。

 けっきょく、私が折れて、シスコの夜景を見にゆくことになった。
 ところが、エリカの車の運転なので、気が気ではない。ひどく乱暴な運転で、事故を起こさなければいいと思った。
 アシュビーまで出たとき、
 ――おい、とめてくれ。
 と、声をかけたが、エリカは車を止めなかった。
 ――とめろよ。
 ――どうして?
 ――いや、映画を見たいんだ。
 押し問答になった。
 けっきょく、私は車をおりた。しばらく歩いていると、エリカが車で追ってきた。
 また口論になった。
 こうなると、お互いにこれまでたまりにたまった鬱憤を思いきり吐き出すことになった。エリカと衝突すると、たちまち全面戦争になる。

 エリカと私がこじれた気分のまま、ベンヴェニュ(アパート)に戻っても、不快な気分が残るだけだろう。

 映画を見たいといったのは、ただの口実で、そんなことより、エリカからすぐに離れたかった。エリカの運転におそれをなしたことも事実だったが。
 今夜、見るとすればジャック・ターナーの映画だけだった。昔、名監督といわれたモーリス・トゥールヌールの息子で、日本に輸入もされないB級の恐怖映画ばかり撮っている。だから、そんな気分でホラー映画を見てもおもしろいはずはない。

 映画を見た。「プシィキャット」で、ダーティー・ムーヴィーを。

    1978年3月14日(火)
 朝、最後の小包をデューラント/テレグラフの郵便局にもって行く。

 ジーン・クレインに似た、ほっそりした美人はいなかった。
 「KAMA」に行って朝食。
 いつも愛想よくサーヴィスしてくれた中国人の娘もいなかった。ジーン・クレインに会えなかったし、中国人の美少女にも会えなかった。もうこの店にくることもない。

 シスコで、最後の買い物。たいしたものも買えない。お土産、ボロ・タイ(Bolotie)など。
 つるしのレイン・コート。これは、自分用に。
 「アルバトロス」で、「二見書房」、長谷川君のためにホラーを10冊。
 ショー・ケースに、イーディス・ウォートンの「イタリアのヴィラと庭園」の初版本が麗々しく飾ってあった。めずらしい本だが、値がわからない。聞いてみた。100ドル。少し前に見つけたら、買ったかも知れないが、今となってはあきらめるしかない。

 バークリーにもどった。
 「スイちゃん」がきてくれた。エリカといっしょに、丘陵を車で案内してくれることになった。私は、何度か登ったことがあるのだが、それは黙っていた。

 エリカが運転することになった。
 よく晴れた日。

 日曜日に登った山から二つ先のピークに出た。さらに、ワイルド・キャット・ヴァレーに向かう。遠くに小さな湖、さらに、もう一つ、それよりは大きな湖が見えた。

 オークランド。

 「ホーリー・ネームズ」の下の店(セーフウェイのある場所)に出た。去年、はじめてエリカといっしょにオークランドにきたとき、ここに立ち寄ったことを思い出した。
 ここで、落ちついた感じの店に寄って、コーヒー。

 昨日とちがって、エリカとはお互いのわだかまりがなくなっている。
 最後に、親子の対立も知らずに仲介してくれた恰好の「スイちゃん」に感謝した。

 今回のアメリカ旅行は、それなりに収穫もあった。コトルバスを見た感動。「怪人」。
 ワイルド・キャット・ヴァレー。エリカの「CACC」(カリフォーニア・芸術/工芸大学)、そしてオークランドの黒人の美少女。サクラメント。いろいろとネタを仕入れた。なんといっても、毎日、原稿に追われて、疲労困バイすることもなかった。

 「デューラント・ホテル」の前からリムジンで、国際空港に向かう。エリカは、「スイちゃん」の車で、追いかけることになった。
 リムジンに乗り合わせた日本人の若者が、あたりをはばからず、ブロークンな英語でしゃべっていた。

 8時半、税関の検査を通って、待合室に出た。しばらくしてエリカたちが、やってきた。免税店で、百合子に香水を買う。ここで注文すると、ホノルルでわたしてくれるシステムだった。
 9時、空港のカフェテリアにもどって、エリカ、「スイちゃん」といっしょに食事をした。
 10時10分。機内に入った。44G。
 10時50分、離陸。

 さよなら、バークリー。さよなら、エリカ。

      1978年3月15日(水)
 ホノルル着、2時15分。
 空港で何か買いたいと思ったが、この時間では免税店も開いていない。香水は受けとった。
 3時50分、離陸。
 隣りの乗客は、きびきびした若者だった。ダニエル君。中野に友人がいるので、彼を頼って、東京で仕事を探すという。
 朝食が出たが、あまり食べられない。
 「ベアーズ特訓中」を見た。つまらない映画。

    1978年3月16日(木)
 朝、6時12分、羽田に着陸。

 タクシーで、千葉に。

 百合子が迎えてくれた。

2019/08/04(Sun)  1812〈1977〜78年日記 59〉
 
      1978年3月1日(水)
 12時、バークリーからシスコに。

 パウェルに出て、「オクスフォード・ホテル」に泊まることにした。
 901号室。

 昼間なのに、薄暗いホテルの廊下。人影はなかった。まるで、スリラー映画そっくり。

 ホテル暮らしもわるくない。それだけアメリカの生活にもなれてきたということか。

 シャワーを浴びて、ビアー。テレビを見る。

 アカデミー賞のノミネーション。
 優秀作品賞。
 「アニー・ホール」(ウディ・アレン監督)、「グッバイ・ガール」(ハーバート・ロス監督)、「ジュリア」(フレッド・ジンネマン監督)、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)、「愛と喝采の日々」(ハーバート・ロス監督)

 アメリカにきて、テレビでアカデミー賞のノミネーションの発表を見て、東京で見た映画をいろいろと思い出す。なんとなく不思議な気分になる。
 オレが映画評を書いた作品が、アカデミー賞にノミネートされているなあ。それだけで、今回のアカデミー賞が、なんとなく身近なものに感じられる。
 北アルプスを歩きながら、前に登ったときは、ここでメシにしたっけ、とか、ふと、人の気配を感じて、あたりを見まわすと、若いカップルがコースをそれて、高山植物のなかで抱きあってキスしていたり。
 そんなとき、チェッ、うまくやってやがる、と舌打ちする思いと、そういえば、このコースは、Y.K.といっしょに登ったっけ、と思うと、なつかしさがひろがってくる。アカデミー賞のノミネートは、そんな思いに似ていた。

 監督賞。
 ウディ・アレン、スティーヴン・スピルバーグ「未知との遭遇」、フレッド・ジンネマン、ジョージ・ルーカス、ハーバート・ロス、「愛と喝采の日々」。

 主演女優賞。
 「愛と喝采の日々」のアン・バンクロフト。シャーリー・マクレーン。
 「ジュリア」のジェーン・フォンダ。
 「アニー・ホール」のダイアン・キートン。
 「グッバイ・ガール」のマーシャ・メースン。

 助演女優賞。
 「愛と喝采の日々」のレスリー・ブラウニー。
 「グッバイ・ガール」のクィン・カミングス。
 「未知との遭遇」のメリンダ・ディロン。
 「ジュリア」のヴァネッサ・レッドグレーヴ。
 「ミスター・グッバーを探して」のチューズデイ・ウェルド。

 ノミネートされた映画はほとんど全部見ている。(外国語映画・部門の、イスラエル映画、フランス映画、ギリシャ映画は見ていない)。「未知との遭遇」が最優秀作品にノミネートされなかったのは意外だが、他の映画も「スター・ウォーズ」に並んだのが不運だった。
 「グッバイ・ガール」は、ニール・サイモンが、夫人、マーシャ・メースンのために書いたコメディ。いい映画だが、ほかの作品に較べると小ぶりで、アカデミー賞は無理だろう。「愛と喝采の日々」よりは、「ジュリア」のほうがいい。「ハメット」をやったジェースン・ロバーズがいい。「ジュリア」のヴァネッサ・レッドグレーヴが、すばらしかった。
 単発としては、「アニー・ホール」がダークホースかも。
 どの映画が最優秀作品に選ばれるのか、女優の誰が主演女優賞をとるのか。ヴァネッサ・レッドグレーヴが、「ジュリア」をやって、最後に私たちにいたましい思いをもたらす。女優としてどれほどの苦労や精進があったのか。父が名優で、スタニスラフスキーの影響を受けたからといって、ヴァネッサの芸が出てくるわけではない。
 おなじように、「リリアン」を演じて映画にサスペンスフルな緊張をみなぎらせたジェーン・フォンダが、ヴァネッサとおなじシーンで、なぜかひるんだり、どう演じてもヴァネッサに押されていたのはなぜなのか。

 「アニー・ホール」のダイアン・キートンにしても、たしかに独特の「女」を見せていた。自分でも会心の演技を見せつけている、と思ったに違いない。しかし、自分でも最高のインスピレーションを実現したと思ったとき、それこそがウディ・アレンの「演出」だったのではないか。ウディ・アレンでなければ、あの「アニー・ホール」は存在しないだろう。とすれば、名演技とは何なのか。

 「アルバトロス」に行って、本をあさった。
 この前は思いがけない「発見」があった。
 映画のパンフレットに、「異聞猿飛佐助」の上映が出ていた。今週は、なんと「侍ニッポン」(岡本 喜八監督)と、「座頭市」(三隅 研次監督)をやっている。
 アメリカで、「座頭市」をやっているのか。驚いたなあ。
 日本映画に対する関心がひろがっている。これは喜んでいいが、どういう評価をされているのか。


        1978年3月2日(木)
 少し、冷静になってからも、アメリカで「異聞猿飛佐助」を見そこなったことが残念だった。もっと早くアメリカにきていれば、見られたかも知れない。
 今日も、私にとっては思いがけない「発見」があった。

 コトルバスの公演がある!

 この記事を見た瞬間、チケットを買うためにホテルを飛び出した。

 14丁目、ハリスン、「ホームズ」で、サンフランシスコ・オペラハウスのアドレスを聞いた。
 いろいろな思いが、私の内面につぎつぎによぎって行く。

 坂道を歩きつづけた。似たようなビルや家屋がつづいて、やがて海に向かって眺望がひろがり、サンフランシスコの大きな空の下に、淡いグリーン、ブルー、ときどきピンク、さまざまな屋根の家並みが、どこまでも続いているように見えた。

 私は、知らない通りを早足で歩いた。人の流れにさからって歩いている。自分の内面に吹きあがってくるものにうながされて歩いている。
 そして、オペラハウスの前に立った。

 私は、コトルバスのチケットをにぎりしめていた。

 もし、東京にいたら、まずどこに行くだろうか。つまらないことを考えるものだ。このときの私は、「日経」や「サンケイ」のデスクを思い出した。

 私は、コトルバスのファンなのだ。ルーマニア出身。
 マリア・カラス、レナータ・テバルディほどの歌手ではないが、レナータ・スコット、カーティア・リッチャレッリなどに比肩する存在なのである。いや、それ以上の実力をもっているシンガーなのだ。
 ニューヨークに行って、ミュージカルやオペラを見るつもりだったが、シスコに、コトルバスがきているというのは、何という僥倖だろう。

 とにかく、一度、バークリーにもどって、着替えよう。まさか、革ジャンを着て、オペラを聞きに行くわけにいかない。

      1978年3月3日(金)
 コトルバスの印象は、ひどく小柄だったこと。
 あの小柄な女性が、まさに「マルグリート」として、私の前に登場したのだった。

 東京にいたら、会う人会う人みんなに、コトルバスの舞台のすばらしさを吹聴するだろう。コトルバスの「ラ・トラヴィアータ」を見たことは、生涯の喜びになった。
 「ヴィオレッタ」のサロンで、「楽しい杯でワインを味わおう」を歌いだした瞬間から私は、コトルバスに魅了された。驚くほど小柄で、華奢なドゥミ・モンデーヌだった。

 「アルフレード」や、「ジョルジュ」、「ドウフォール男爵」、みんな、どうでもよかった。
 東京にいたら、すぐにエッセイを書いて発表するところだが、今は何も書かない。書く必要がない。
 東京にいたら、すぐに「サンケイ」の服部君か、四方さんに、エッセイを書くから、スペースをあけておいて、と連絡するところだが。

 「サンケイ」や「日経」の文化部。それほど人数は多くないが、記者たちの出入りが忙しくなって、電話で原稿の口述を受けたり、短いコメントをとったり、ときには何かのニュースが入って騒然としたり、あわただしく飛び出して行く。そんな中で、私は原稿を書く。
 これがアカデミー賞のノミネーションか何かのイヴェントだったら、吉沢君か青柳君が、私の予想を聞きにくるだろう。しかし、コトルバスの公演を知らせても、誰も関心を寄せないだろうな。

      1978年3月4日(土)
「オクスフォード」、チェックアウト。

 グレイハウンドに乗る。

 ただ、広大な平原がつづく。平原には違いないが、むしろ荒涼としている。
 バスは、ひたすら長い道路を走りつづける。バスの左右にひろがる灰色の荒野。やがて、その中を、ひとすじの川が、水面(みのも)をにぶく光らせながら流れている。地図がないので、名前もわからないが、日本なら1級河川と認定されるほどの川だった。しかし、流れていると思うのは、それが川だと思うからで、旅行者の目には実際に流れているのが見えるわけではなかった。
 このあたりに、明治初年の日本人移民が住みついたのではないだろうか。ただの荒れた平野がつづくばかりで、バスとの距離がより遠くなると、ただ灰色の不透明な風景になって離れて行く。
 アメリカの広大さを、いまさらながら思い知らされた。

 はるかな地平に向かって、空と雲と。
 アメリカは広い。そんなことはわかりきっているが、百年も昔、こんな場所に移住してきた日本人は、どういう思いでこの荒野をさすらっていたのか。

 「オールド・サクラメント」。着いてみて、荒れ果てた都会の寂しさに気がついた。
 バスを下りて、まず、ホテルをさがした。
 ホテルはバス停に近い「シャント・クレール」。名前が気に入って、ここにきめた。
 ただし、このホテルは、まったくの安宿だった。

 街を歩いても、何もない。

 こういう町に、日本人移民が住みついて、わずかな田畑を耕したり、零細な商店を経営して、少しづつ土地に馴染んでいったのだろう。私の遠縁の中田 直吉は、この地で暴漢に襲われて、殺されたという。どういう思いで、当時、僻鄒(へきすう)のサクラメントにたどり着いたのか。

 かつてはさぞや立派だったと思われる映画館があった。
 上映していたのは、「いくたびか美しく燃え」(ガイ・グリホン監督)。ジャクリーヌ・スーザンのベスト・セラー。
 映画プロデューサー、「マイク」(カーク・ダグラス)は、裕福な女性、「ディー」(アレクシス・スミス)と結婚している。娘の「ジャニュアリー」(デボラ・ラフィン)は作家の「トム」と愛しあっている。だが、「ディー」は、女優の「カルラ」(メリナ・メルクーリ)と、レズ関係。従弟(ジョージ・ハミルトン)に、「ジャニュアリー」を誘惑させ、夫の目をくらまそうとする。
 コトルバスを見たあとなので、この映画の印象は薄いものになった。映画に舞台の迫力を求めるほうがおかしいけれど。

      1978年3月5日(日)
 バークリーに戻った。

 エリカが、はげしい剣幕で
 ――どこに行ってた?
 と、私に詰問する。

 私が連絡しなかったので、バークリー警察に行って相談したという。エリカは、シスコで一人歩きをするなんて危険きわまる。強盗にぶつかって殺される旅行者だってめずらしくない。
 刑事は、私の氏名、職業を聞いて、英語は話せるのか、と聞いたらしい。エリカは、大学の教授で、英語はしゃべれる、と答えた。
 刑事は、にやにやして、あまり心配しないほうがいい、といったそうな。

 私は、いちおう旅なれているつもりだが、危険な場所には立ち寄らない。
 エリカは――たとえ、10ドル、20ドルしか持っていなくても、その10ドル、20ドルほしさに人殺しをするような連中がいる、という。それはその通りなので、こちらも反論できない。

 けっきょく、エリカがあとでバークリー警察に行って、捜索願いを撤回することになった。

 午後になってエリカも、やっと機嫌を直した。午後から、バークリーで親しくなった友だちの「エイコ」さんのところに遊びに行くという。

 テレグラフに出て、百合子のためにお土産を探した。腕輪を見つけた。気に入ったが、こんなものは日本ではアクセサリーとして使えない。そこで、指輪を買った。
 百合子には何もプレゼントしたことがない。なにしろ、結婚したとき、500円しかなかった貧乏作家で、原稿料を稼ぐためにあくせくしていた。指輪を買う余裕もなかった。
 その私が、アメリカにきて本を買いあさっているのだから、変われば変わるものだと思う。百合子に手紙を出しておこう。私の捜索願いのてんまつも。

 ハガキを書く。

 テレビ。「アウトフィット」。ロバート・デュヴァル、カレン・ブラック。テレビ・ドラマではなく、テレビ映画。(日本のVシネマだろう)
 またまた無知をさらけ出すようだが、アメリカにきてはじめて気がついた。日本では公開されないアメリカ映画が無数にある。(日本語のスーパーインポーズがついて)試写の結果、公開されない映画もあるが、そうではなくて――はじめから日本には未輸入のままアメリカだけで公開される映画が山ほどある。
 この「アウトフィット」もそのひとつ。カレン・ブラックがいい。

 テレビ映画は、英語のブラッシ・アップのつもりで見ている。

2019/07/28(Sun)  1811〈1977〜78年日記 58〉
 
        1978年2月22日(月)
 いよいよ出発の日。
 原稿はほとんど書き終えたので、気分的に落ちついていられる。
 昼、「シュメイカー・コレクション」のカタログの原稿を書く。主に、フランドル派の画家を中心に、アンドレア・デル・サルト、グィド・レニなど。1月に、「テレ朝」で、フランドル派の画家について話をしたが、それが役に立った。
 小川 茂久に原稿を。坂本 一亀にわたす原稿。これで、やっと肩の荷がおりた。
 仕度をする。百合子がついていてくれた。家を出て、池田家のあたりまで百合子が見送ってくれた。しばしの別れ。
 5時、「山ノ上」。
 「共同通信」、戸部さんに原稿。
 もう1人、安斉さんに、フランドル派の原稿をわたした。しばらく雑談。このつぎは、「ルネサンス展」を企画したいという。
 駿河台下からタクシー。

 カウンターで、ボーディングの手続き。41A。

 時間があるので、「大和」でお寿司を食べた。ほかの店が混んでいたので、「大和」を選んだわけではない。

 税関を通ったのが、9時15分。
 免税店で、「ハイライト」、1カートン。本を1冊。

 予定より10分遅れ。10時40分、離陸。

 機内食。

 映画、「ディック・アンド・ジェーン」を見た。ジェーン・フォンダ主演。
 どうも見たような映画だった。ああ、試写で見たっけ。英語だけで見たかった。
 映画を見はじめて気がついたのだが、私の席の2列前にスチュワーデスの席があって、映画のスクリーンがよく見られない。なるほど、安い席には安くする理由があるのか。
 仕方がない。眠ることにしよう。

        1978年2月22日(月)
 朝、5時。
 アナウンスメントがあって、あと2時間で、サン・フランシスコに着く。
 よく眠れなかったせいか、少し疲れていた。時差のため、アメリカ時間で正午。
 雲海を飛んでいる。ときどき強く揺れる。
 食事が出た。タン、ヌードル、スープ。あまり食欲がない。

 2時18分、サン・フランシスコ、着。

 税関はかんたんに通してくれた。

 まわりにいるのは白人ばかり。
 ああ、アメリカだなあ。
 つまらないことを考える。バスで、ダウンタウン・バス・ターミナルまで。
 1ドル40セント。

 積木のように、淡いブルーやグリーンの家並みがスロープにびっしり並んでいるのもなつかしい風景だった。

 「ベルヴュー・ホテル」は、ゲァリー/ティラーにあるので、ターミナルから歩いて行ける。中級ホテルのくせに、お高くとまっているような感じ。ただし、落ちついた雰囲気はある。
 715号室。老人のボーイにチップをやり、入浴。
 ベッドにひっくり返った。

 5時半、ドアをノックして、エリカがはいってきた。
 久しぶりに親子の対面だが、お互いに、ハグするわけでもないし、握手するわけでもない。しばらく、千葉の百合子、賀江たちの話をする。

 ――とにかく、外に出よう。

 サン・フランシスコ名物の市電に乗る。急な坂道をガタガタ走っているボギー車だった。白人、黒人、アジア系、アフリカ系、雑多な人種、みな乗り込みで、けっこう混んでいたが、吹きっさらしの風が冷たい。

 ノブ・ヒルからすぐのパウエル・ストリートと、マーケット・ストリートがぶつかるあたりがシスコの中心で、銀行、デパート、華やかなブティックなどが密集している。この広場の下に、バート(湾岸高速鉄道)のパウエル駅があるので、観光客も多い。
 サン・フランシスコ名物のケーブルカーの発着地点になっている。
 坂を下りてきたケーブルカーは、ここで方向転換するのだが、ものめずらしさに惹かれた観光客が集まって、まるでお祭りさわぎのようになる。

 ワシントン・ストリートを右折して、ハイドに入ると、ケーブルカーは、上り坂、下り坂のストリートを走るようになり、プリバートとクロスしたあたりで、突然、海が見えてくる。

 ランバートの角で眺望がひらける。
 春の遅いシスコの湾内の、海の色はまだ冷たい冬の色をたたえていた。
 遠くアルカトラスが見える。訪れる者もいない刑務所の島。
 すべてがカリフォーニアの沈黙のなかにあった。太陽の光だけが春らしいきらめきを届けてくる。
 ベイ・フリッジも美しいカーヴを見せていた。

 この季節のフィッシャーマンズ・ワーフは、落ちついているようだった。エリカは、観光客などがあまり知らない、裏通りをいろいろと知っていた。
 あまり裕福な人たちのいないさびれたホテルの区域や、それと道一つへだてたチャイナタウンの入口や、もっとずっと奥の中華料理の店なども知っていた。
 語学を習得するために通っているスクールに、中東、東南アジア、南米からきた若者がいて、いろいろな場所に住んでいる。むろん、日本人もいて、エリカは世界じゅうの若者たちと友達になっている。
 とりあえず、「フィッシャーマンズ・ワーフ」で食事ということになった。

 「フィッシャーマンズ・グロットー」に入った。
 ここも有名な店らしく、客が混んでいたが、禿げ頭のボーイが席を見つけてくれた。
 チャウダー。これが、おいしかった。井戸で水を酌む手桶に似たバケットいっぱいアサリをつめ込んである。カリフォーニア・ワイン。
 日本人なので、アサリはよく食べているのだが、とても食べきれない量だった。
 ふたりで食べて、30ドル。たいして贅沢でもないし、まずしい食事でもない。ボーイにチップ、3ドル。
 「ワーフ」から少し歩いた。途中で新聞を買う。
 チェスナットの「ACT 21」で、「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)をやっている。
 せっかく、アメリカにきたのだから、記念にこの映画を見てもいい。
 タクシーで、チェスナットに行く。2ドル10セント。
 チェスナットの通りを歩いたり、「パンケーキ・ハウス」で、コーヒーを飲んで、時間をつぶす。

 「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)。
 遠くはるかな銀河の彼方。帝国の独裁の軛(くびき)をやぶろうとする「レイア姫」(キャリー・フイッシャー)は、帝国の攻撃衛星、デス・スターの機密データを入手するが、帝国軍に逮捕され、「ダース・ベーダー」に拷問される。姫の命令をうけたロボット、R2D2とC〜3POが逃走する。
 一方、「ルース・スカイウォカー」(マーク・ハミル)は、かつて銀河共和国の騎士だったオビ・ワン・ケノービ(アレック・ギネス)に会いに行く。「スカイウォカー」は、ロボットたちといっしょに、密輸船の「ハン・ソロ船長」(ハリソン・フォード)の密輸船に乗り込み、「レイア姫」を救出する。反乱軍は、「ダース・ベーダー」攻撃に向かう。
 最後に、難攻不落のデス・スター攻撃。最後の、ミサイル・ロケットと戦うシーンは迫力があった。観客が、キャーキャーいってよろこんでいる。
 「スカイウォカー」のワン・ポイント攻撃が成功する瞬間は、劇場じゅうが息をのんだ。

 ジョン・ウイリアムズの音楽がスゴい。
 私がこの作曲家の音楽を知ったのは、「億万長者と結婚する法」だった。マリリン・モンローを「研究」していたからだが、そのときからこの作曲家に注目したなどということは、まったくない。しかし、「ジェーン・エア」や「ポセイドン・アドベンチャー」なども作曲しているのだから、才能のある作曲家なのだろう、程度。
 その後、「ジョーズ」もこの作曲家と知って、はじめて、ジョン・ウイリアムズに、関心をもった。
 その後、「屋根の上のヴァイオリン弾き」、「ジョーズ」で、アカデミー賞を受けた。

 私は、別のことに注意した。「スター・ウォーズ」併映のカートゥーン(短編マンガ)だった。(タイトルはおぼえていない。)
 宇宙のどこかに、小さなジャガイモみたいな星がある。その星にロケットが飛来して、着地する。降りてきたのは、宇宙服をきたメガネの小男。
 つづいて、少し遅れてもう1台のロケットがやってきて、日本人のロケットとモメる。これが、アメリカのロケット。何かしようとする度に、日本人のロケットに先を越される。日本人は、この星の領有権を主張するために、ブリキのような旗を建てる。これが日章旗。
 最後に、アメリカ人が頭にきて、日本人をロケットごとその星から蹴おとしてしまう。めでたしめでたし。子どもたちが、キャーキャーいって拍手する。

 このマンガは、日本人に対する侮辱を描いている。
 アメリカの子どもたちが、こうした侮日的なマンガを見せられていることを知って、不快な気がした。この週だけ「スター・ウォーズ」と併映されるのではないだろう。全米で、「スター・ウォーズ」と併映されているかも知れない。
 アメリカ人の内面に、日本に対する警戒がひそんでいるということは、私たちも考えておく必要があるだろう。

 外に出たときは、もうすっかり夜になっていた。
 22番街行きのバスに乗って、乗換え、テイラー・ストリートに戻った。
 「ベルヴュー」のバーで、水割り。3ドル。
 エリカに、泊まって行くか、ときいた。
 うん、泊まってもいい、というので、部屋に戻った。エクレアを食べながら、また千葉のこと、百合子のこと、「小泉のおばチャマ」のことなど。
 映画を見たせいか、疲れた。

       1978年2月23日(火)
 朝、7時に眼がさめた。
 熟睡。気分は爽快だった。
 エリカと話しているうちに、このホテルを引き払って、バークリーに移ったほうがいい、という。
 エリカの部屋に泊めてもらえば、ホテルの費用はかからない。ただし、エリカといっしょにいれば、一度や二度は衝突して口論になる、と覚悟しておいたほうがいい。
 いろいろ話をした結果、バークリーに移ることにした。
 そうときまれば早いほうがいい。
 「ベルヴュー」、チェックアウト。40ドル85セント。

 「オクスフォード」の1階のレストランで朝食にしたかったが、あいにく、11時から営業なので、向かい側のイタリアン・レストランで、朝食。3ドル85セント。
 「オクスフォード」の2軒先、「ドルトン・ホテル」の隣りの本屋、「マクドナルド」に寄る。この前、ここにきたときは、フランシスコ・ボルジァの資料などを買った。今回は、ローラ・モンテスの資料。あまり、めぼしいものはない。「アルバトロス」にも寄りたかったが、荷物があるのであきらめる。

 コンコード行きの地下鉄(バート)に乗る。途中、マッカーサーで乗り換え。何もかも、この前の旅行とおなじなので、なつかしさ、落ちついた感じだった。
 それでも、この前はシャタック通りしか知らなかったが、今回のバークリーは、落ちついた大学の街という印象を受けた。UCB(カリフォーニア大学・バークリー分校)は、地下鉄の駅からしばらく歩く。ベンヴェヌートの通りに出る。エリカはこの通りに住んでいる。
 2階。外からガレージに入るので、実際には3階といった感じ。エレベーターはある。部屋は2LDK。細長いキッチン、トイレット、バスルーム。エリカのような留学生には手頃な物件だろう。
 エリカは、私がアメリカにくるので、室内を整理したという。壁に、浮世絵や、大きな虹の切り抜き、ボーイ・フレンドの「ケヴィン」が撮った天文台の写真などが貼ってある。エリカの描いた水彩も。
 エリカとふたりで過ごしたことはない。エリカが、アメリカで元気にすごしていることがうれしかった。

 午後、ひとりでバークリーを歩く。(あとで、これが日課になった。)

 バークリーは美しい街で、ほとんどの街路に、さまざまな樹々、花々が植えられている。朴、木蓮、名前がわからないのだが、センリョウ、マンリョウに似た実をつけている木々、アメリカスギ、たくさんの植物が、この街に落ちついた雰囲気をもたらしている
 「ヒルガス」地区で、サクラに見紛う花(おそらく、アンズかアマンド)が、咲きみだれていた。それが今、風に散っている。

 私は、雑草のなかを横切り、わずかな灌木をわけて、展望台とおぼしき場所まで歩いた。灌木のあいだから、このあたりの、小高い丘陵からのゆるやかな起伏が見渡せる。
 ベンヴェヌートの通りが、ひっそりと息づいている。
 雲の切れ目から、陽射しがバークリーのアップタウンに照りつけて、大学の建物が金色に光った。あんなに小さな建物のなかに、ノーベル賞の学者たちがひしめいていると思うと、何か非現実めいたことに思えた。

 エリカの話。土曜日は、テレグラフの通りで、若い人たちの手作りの露店が並ぶという。それを見に行った。その露店の一つ、革バンドを売っている。バックルの一つが、スコルピオだったので、革バンドにつけてもらって買った。
 サッター通り、UCBの構内から出て、すぐのストリート。大学の教科書、参考書を売っている本屋で、スタンフォード大・教授、ヘンリー・アンスガー・ケリー著、ヘンリー8世の離婚を扱った資料。近くの書店、「コデイー」で、カリフォーニア大、J・J・セドリスブルック著、「ヘンリー8世」。そのあと、「シェイクスピア」で、メキシコ征服に関する資料など。
 今回、私としては、ニューヨークで、芝居とミュージカルを見るつもりだったが、エリカが泊めてくれるのなら、バークリーで、いろいろと資料を買うことにしてもいいと思った。
 エリカのアパートに帰って、すぐに本の荷作り。みんな、船便で送ることにする。
 時差ボケで、昼過ぎになると眠くなる。

 夕方、シスコに出るつもりでアパートを出たが、ドワイト・ウエイで下りたところに古書店があるので、寄ってみた。なんのことはない。昼間、立ち寄った「シェイクスピア」だった。たいして期待しなかったのだが、ヒレア・ベロックの評伝、「ウルジー」を見つけた。

 また別の古書展を見つけたので、寄ってみた。ここでは、クレメンテ・フュゼロの「ボルジア家」を見つけた。そればかりか、グレゴロヴィウスの「ルクレツィア・ボルジア」も見つけた。29ドル。

       2018年2月26日(日)晴、曇り
 朝、眼がさめたのが5時。まだ、からだがなれないせいか、こんな時間に眼がさめてしまう。エリカは隣りの部屋で眠っている。
 エリカを起こしたくないので、昨日、買ったグレゴロヴィウスを読む。途中で眠ってしまった。起きたのは11時半。

 エリカが、フリー・マーケットにつれて行くというので、ジーンズに着替えてバスに乗った。オークランドから、トンネルを越して、アラメダのドライヴイン・シアター。ここで、いろいろな人ががらくたを並べて売っている。日本の骨董市のようなもの。
 帰りに、オークランドで、「ウィンザー・カナディアン」というウイスキーを買った。8ドル65セント。雑誌、「ハスラー」、タバコを2カートン。これで2Oドル。
 バークリーは、町の条例でアルコール類の販売が禁止されている。パブのような店もないし、レストランでも酒類はいっさい出さない。だから、当地の左党は、市外で買ってくる。持ち込みは禁止されていないので。

 アメリカでは、毎日が「発見」の連続だが――
 UCBのパンフで、私の小説の映画、「異聞猿飛佐助」(篠田 正浩監督)をやっていることを「発見」した。え、マジかよ。驚きがあった。

 「THE SAMURAI SPY」by MASAHIRO SHINODA

 まさか、アメリカで「異聞猿飛佐助」を上映しているとは思わなかった。
 私自身、この「異聞猿飛佐助」は、公開直前に、「松竹」の試写室で見ただけだった。「異聞猿飛佐助」を撮ったあと、篠田 正浩は「松竹」と対立して、やがて、「松竹」を離れた。その後、「異聞猿飛佐助」は、日本では二度と上映されることがなかった。

 ところが、この映画は1週間前に上映されたのだった。
 惜しいことをした。残念。
 アメリカにきたばかりで、いきなりパンチを食ったような気がした。もっとも、私が残念がっても仕方がないが。

      2018年2月27日(月)晴、曇り
 昨日より早く眼がさめた。

 ベンヴェニュの北に、低い丘陵がつづいている。UCB(バークリー)からつづいている雑木林と、緩やかに傾斜した谷間から、細い道が大学付属の原子力研究所のほうにつづいている。その山道は、アメリカ松と、徐々に高くなってゆく山肌を見せて、行く手でおおきく弧を描いてまがり、さらに先の高原にむかっている。
 規模からいえば、高尾山から御岳に向かうハンキング・コースに近い。アメリカにきてまで山登りをするのは酔狂だが、この丘陵地帯を見てから、どうしても登ってみようと思った。

 太陽がまだ登っていない。東から北に伸びた丘陵に、低い雲がひしめいている。しかし、雨になりそうな雲ではなかった。
 旅行中なので、登山靴ではなかったが、往復たかだか1.2時間の散歩なので、革靴でも歩けるだろうと判断した。

 ゆるやかな山道。
 水分を吸収した草の緑が、まぶしいほどあざやかだった。日本の雑草と違ってどこかたけだけしい感じで、昇る朝日を反射して、美しいオパール色をみせる。ポール・グリーンの芝居のタイトルを思い出した。「昇る太陽に跪づけ」。
 こんなタイトルを連想するのも、何かを見て、すぐに英語を思いうかべるおかしな習慣のせいだろう。
 山道も、日本の低い山のコースと違って赤い色だった。
 山肌に精気がみなぎって、この丘全体が、かがやいている。
 私は、バークリー背後の丘陵がつぎつぎに変貌してゆく姿に、胸の高鳴りを抑えることができなかった。このまま、昇る太陽に跪づいて、カリフォーニアの大自然に溶け込んでしまいたい。
 ただし、高尚なことを考えたわけではない。
 おにぎりを作って、もってくればよかった。

 帰りに、松ボックリをひろった。これも、日本の松ボックリと違って、三倍ほども大きい。これを日本に持ち帰ろうか。

      2018年2月28日(火)晴れ。
 バークリーの郵便局。
 ここの窓口は、どうかすると人の行列が外の路地にずらりと並ぶこともある。9時頃がピークらしい。
 10時半になると、閑散として、局員がのんびりしゃべっている。
 一個だけ航空便にするつもりだったが、うっかりして二個とも航空便にしてしまった。35ドル。
 いつも2,3人、女性が受付けにいるが、黒人の女は、ひどく権高に応対する。ほかに、長髪で、いくらかスガ目の若い男。もう1人は、30代、制服をきっちり着こなして、レイバーンをかけた、ややトウの立ったプレイボーイ。
 「ロゴス」で、アレッティーノ、ベネデット・クローチェを見つけた。「モー」で、バピーニ。イタリア系の学生が読んだものだろうか。

 明日、またバークリーから船便で送ることになる。

2019/07/21(Sun)  1810〈1977〜78年日記 57〉
 
        1978年2月16日(木) 。
 成田空港の上空には、常時、乱気流があって、着陸の際、機体がはげしく揺れるなど、安全性に問題があるという。
 空港の滑走路、4000メートルが、ほぼ南北に延びていて、その日の風向きによって、一方からの向かい風で発進する。冬は北風。乱気流の影響をもっとも強く受けるのは南側からの着陸の場合という。
 新設空港が成田にきまったとき、用地に関して、当時の自民党の有力者たちが利権がらみで動いた。成田ときまったとき、パイロットから気象条件がわるいという指摘があったらしい。今頃になって問題になっている。

 ムハメッド・アリがスピンクスに敗れた。

 10年も前のこと、ヴェトナム戦争で召集されたムハメッド・アリは、戦争反対を表明し、徴兵を忌避した。そのため、全米コミッションからタイトルを剥奪されたばかりか、試合に出ることも妨害された。その結果、2年間もリングから追放されていた。
 選手としての全盛期に、試合に出られなかったムハメッド・アリに対する制裁は、実質的には人種差別だった。
 その後、ムハメッド・アリは復活して、74年、タイトル奪還に成功した。私は、ムハメッド・アリの傲岸不遜なキャラクターが好きではなかったが、それでも、彼のボクシングはずいぶん見てきた。今回は、スピンクスという選手を知らなかったため、たぶんムハメッド・アリが勝つと思って試合を見なかった。
 失敗したなあ。

        1978年2月17日(金) 。
 3時、「CIC」で、「恐怖の報酬」(ウィリアム・フリードキン監督)を見た。
 いうまでもなく、クルーゾーの「恐怖の報酬」(53年)のリメイク。製作費は、フリードキン映画のほうが、はるかに大きいだろう。
 油田で火災が発生したが、消火の手段がない。300マイル離れた製油所から、トラックで消火用のニトログリセリンを現場にはこぶことになる。
 食い詰めた男たちが、金につられて、ニトログリセリンの輸送に応募する。
 オリジナルでは、イヴ・モンタン、シャルル・ヴァネル、フォルコ・ルリ、ピーター・ヴァン・ダイク。それぞれ強烈な個性の俳優たちがドライヴァーを演じていた。
 フリードキンの映画では、ロイ・シャイダー、フランシスコ・ラバルたちが演じたが、まるでB級アクション映画の俳優たちにしか見えない。監督の力量が違うと、こうも低俗な映画しか作れないのか、と感心する。
 映画が終わって、最後のクレジットに、れいれいしく、「アンリ・ジョルジュ・クルーゾオにささぐ」と出てきた。おもわず、失笑した。
 フリードキンとしては、先人の仕事に敬意を表したつもりだろうが、わるい冗談にしか見えない。

 吉沢君が、最近のつかこうへいの芝居について話してくれた。「ひもの話2」と「出発」(俳優座劇場)。つかこうへいが田中 邦衛を使っているそうな。クセのある役者だが、つかこうへいなら、うまく動かしてるんだろう?
 ――そうでもないみたいです。なかなかいうことを聞かないらしくて。
 ――見に行けばよかったな。
 芝居の入りはいいらしい。

        1978年2月18日(金)
 パスポートを受領した。

 午後から、小説。

 10時から、「夜の蝶」(吉村 公三郎監督)を見た。
 京 マチ子、山本 富士子主演。「松竹」の伝統を守りながら、良質な風俗劇として評判になった映画。銀座のバーが描かれているが、今では、どこの土地にもある程度の内装で、昭和の高度経済成長の変化が見られる。当時、銀座のバーは200軒。
 数寄屋橋、尾張町の風景が出てくるが、車の往来も少ないし、ネオンサインもわびしい。

        1978年2月20日(日) 。
2時近く、地震。震度/3程度。
 震源地、宮城県沖、震度/6.8。仙台、盛岡など、震度/4。仙台では、重傷者、1人。東京、銚子、震度/3。

 大阪の大手プレハブ・メイカー、「永大産業」が合板部門と信用不安のため倒産し、更生法を申請した。負債総額、1800億円で、50年8月の「興人」の倒産に匹敵するできごとらしい。
 これまで、「大和銀行」、「協調融資銀行」が支援をつづけてきたが、ここにきて見放した。その背後に何があるのか。
 大蔵省、日銀などは、恐慌を回避するためには企業の倒産もやむを得ないと判断したらしい。

        1978年2月21日(月)
 さすがに、疲労している。

 「ガリバー」、三浦君から電話があったが、原稿は書けそうもない。はじめて、ことわった。
 この前、アメリカに行ったときは、オスカー・ワイルドを訳していたが、半分だけ内藤 三津子さんにわたして、あとはアメリカで、毎日訳したっけ。

 1時、河合君に会った。意外に時間がかかったため、約束の2時半に、「阪急」の都築君に会えなかった。
 3時15分、航空券を受けとる。
 5時半、「山ノ上」。本田 喜昭さんに、原稿をわたす。「二見書房」、長谷川君が、社長、堀内 俊宏さんからの餞別を届けてくれた。ありがたく頂戴した。
 吉沢君を待たせて、その場で原稿を書く。
 杉崎 和子女史がきた。
 長谷川君、吉沢君も、みんな顔なじみ。

 杉崎さんは、ケイト・ショパンの「めざめ」にサインして贈ってくれた。杉崎さんとしては、はじめての翻訳。
 長谷川君、吉沢君と別れて、杉崎さんと、三崎町に向かった。
 「平和亭」で食事。杉崎さんは、背水の陣のつもりで、アメリカの大学で講義する決心らしい。ヘンリー・ミラーにインタヴューする予定。
 いろいろな話題が出た。杉崎さんは、私が、少年時代に批評家として登場して、翻訳家としてもベストセラーを出しつづけ、演出家としても仕事をつづけ、作家としても認められている。すべて順風満帆に見えるという。
 私は驚いた。現実の私は、挫折ばかりくり返してきた。批評家としては、大衆文学に足を踏み込んだために、純文学系の批評を書く機会がない。翻訳家としても、ミステリーの翻訳をしたために、純文学系の作家の翻訳の依頼はない。演出家としては、一度も失敗しなかったが、役者たちの内紛で劇団を解散したため、劇場費だけでなく、美術、照明費、一部の俳優、女優たちに出演料の支払い、とにかくひとりで負債を引き受けた。いそいで小説2本を書いて、この印税で穴埋めした。作家としても、ほんとうに書きたいものは書けず、注文をこなしているポットボイラー。大学の講師をつとめているが、お鳥目は、スズメの涙。
 ――作家の敵は何だと思いますか。
 ――さあ、わかりません。何でしょうか。
    杉崎さんが私を見る。
 ――酒と税金です。


        1978年2月22日(月)
 午後、「小泉のおばチャマ」がきてくれた。
 私たちにとっては、小泉 賀江は恩人のひとり。貧乏作家の私をいつも応援してくれたのは小泉 賀江だった。結婚当初、住む場所もなかった私たちに、一戸建ての平家を貸してくれたのも賀江だったし、百合子が肩身の狭い思いをしないですむように心くばりをしてくれた。
 賀江は、アメリカ行きに何かお餞別をくれるという。いちおう辞退したが、エリカにも何かおみやげを、という。
 百合子といっしょに「そごう」に行く。
 コート、ズボン、下着など。「小泉のおばチャマ」のおかげで、どうやら、私の赤ゲット旅行の仕度がととのった。
 留守中、エリカから電話。こちらからかけた。
 養命酒をもってきてほしい、という。エリカは、私に似て小柄なので、アメリカではいつも子ども扱いらしい。養命酒を飲んで、少し肥りたいという。

2019/07/14(Sun)  1809〈1977〜78年日記 56〉
 
        1978年2月1日(水)
 一度、映画の試写を見そびれると、なかなか見るチャンスがない。吉沢君から何度も連絡をうけていた「真夜中の向う側」(チャールズ・ジャロット監督)も、「ボビー・デアフィールド」(シドニー・ポラック監督)も、なかなか見られない。
 3時、「ワーナー」で、「ボビー・デアフィールド」を見た。 エリヒ・マリア・ルマルクの原作、シドニー・ポラックの演出なので、期待はしたのだが。
 フォーミュラ・ワンのチャンピオン・レーサー、「ボビー」(アル・パチーノ)が、事故を起こした友人をスイスの療養所に見舞う。ここで、不思議な女、「リリアン」(マルト・ケラー)に声をかけられる。翌日、「リリアン」はミラーノに帰る「ボビー」の車に同乗する。
 マルト・ケラーは「ブラック・サンデー」で見たとき、大柄で、魅力もあって、しっかりした演技力のある女優と見えたが、この映画ではどうやらミス・キャスト。ルマルクが描こうとしたミステリアスな魅力はない。たぶん、「凱旋門」(ルイス・マイルストーン監督/1948年)のイングリッド・バーグマンが、ルマルクのヒロインのプロトタイプだろうと思うのだが。
 F1レースの緊張と、フィレンツェや、コモ湖の静寂な風景のコントラスト。はじめは、浮薄なflirt に見える「ボビー」と「リリアン」の、背後に迫ってくる、ぬきさしならぬ孤独な翳り。ルマルクのテーマだろう。
 「ボビー」と同棲している「リディア」(アニー・デュプレ)は、前作、「花のスタヴィスキー」で、ジャン・ポール・ベルモンドと共演したが、じつに典雅な美貌の女優だった。この映画では、アニー・デュプレとマルト・ケラーを入れ換えたほうがよかった。そのあたりシドニー・ポラックも考えたに違いないが、女優の差し換えはしなかった。そのあたりに興味がある。暇があったら、そのあたりを調べたいところだが。

 6時、「山ノ上」で、大川 修司と。

 「あくね」に行く。

        1978年2月2日(木)
 竹内 紀吉君が、わざわざ国会図書館から借り出してくれた小酒井不木全集の第一巻を読む。
 この巻は、殺人論、科学より見たる犯罪と探偵、毒と毒殺の3部からなっている。いずれも大正期に書かれたものだが、現在でも基本的な資料としての価値を失っていない。
 ミステリー作家は、こうした先人の残した研究を読むほうがいい。
 現代の薬理学のレベルからすればもの足りないところはあるにしても、小酒井 不木がどんなに熱心に毒物を研究していたか感動するだろう。

 私は、小酒井 不木を読んで、ブランヴィリエ侯爵夫人について書いてみたいと思いはじめている。

        1978年2月3日(金)
 「ガリヴァー」の原稿を書く。
 5時半、「山ノ上」。「集英社」、永田 仁志君。熱心な編集者で、何とかして私に何か書かせようとしている。私としても彼の熱意に応えたいのだが。4月から、なんとか原稿をわたすことにする。
 「ガリヴァー」、三浦君に原稿をわたす。すぐに、こちらは次の仕事をきめた。
 7時、飯田橋の東京大神宮で、村永 大和君の「ビニールハウスの獣たち」の出版記念会。こうした出版記念会には、ほとんど出ないのだが、村永 大和君は私のクラスで講義を聞いてくれたひとり。
 盛会だった。それはいいのだが、加藤 守雄が祝辞をのべている間、歌詠みとおぼしい女どもが、ベシャクシャしゃべりつづけていた。さすがに司会者がたしなめたが、歌人という連中、とくに、短歌雑誌に投稿するオバサンたちの低俗なことに驚かされた。
 飯島 耕一さんを見かけたので、挨拶する。村永君に祝意を述べて退散する。

 寒い。「あくね」に寄って、小川 茂久と話をした。

        1978年2月4日(土)
 ヨーロッパ。水銀で汚染されたオレンジが市場に出回っている。西ドイツでは、シュレスウィヒホルシュタイン、ヘッセン、バーテンビュルテンベルグ、バイエルン、西ベルリンの各州で、汚染されたオレンジが発見された。
 アメリカ国務省は、この事件をパレスチナ・テロリストの犯行と見て、きわめて卑劣なテロ行為と非難した。

 午後、「タヒチの男」(ジャン・ポール・ベルモンド主演)を見た。仕事をする気にならないので。
 ジャン・ポール・ベルモンドを主役にして、1348年のペストの災厄を背景に、マキャヴェッリの喜劇、「クリーツィア」を撮ったらおもしろいだろうなあ。フィレンツェはこの恐るべき疫病で、人口が三分の一まで減少したと推定されている。その中で、もっとも被害が多かったのは、最下層の労働者、織工たちという。ジャン・ポール・ベルモンドは、生き残った織工たちをひきいて……
 監督は? フェデリコ・フェリーニがいい。
 女優は? アニー・デュプレーだな。レスリー・キャロンか、フランソワーズ・アルヌール。

        1978年2月5日(日)
 午前中、「メディチ家」のノート。

 ドウソンの「中世キリスト教と文化」。ロスの「ユダヤ人の歴史」。山田 稔の「スカトロジア」。私は山田 稔という人に興味をもっている。「VIKING」の同人だが、関西ではなく、東京の文学者たちと交流したほうがいい。

 夜、「個人生活」を見た。
 ほんの1場面だが、アラン・ドロンの母親役で、マドレーヌ・オズレイが出ている。ルイ・ジュヴェの「恋人」だった女優。すっかり、オバアサンになっている。

  ――マドレーヌ・オズレイ Madeleine Ozeray
    1910年、ベルギー、ブイヨン・シュル・スモア生まれ。早くから舞台女優を
    めざし、ブリュッセルで、コンセルヴァトワールの生徒になり、首席で卒業。デ
    ュパルク劇場で初舞台。レイモン・ルーローの劇団に参加。パリに「青年の病気」
    で巡演。ルイ・ジュヴェに認められ、「アテネ座」に入った。数々の名舞台に
    出演した。戦時中は、パリを脱出、南アメリカを巡業したが、ルイ・ジュヴェと
    別れた。戦後は、舞台に復帰できず、映画に出ていた。
    映画は、「ある夜の若い娘」でデビュー。「リリオム」(1934年)、「罪と
    罰」(35年)、「旅路の果て」(39年)、「追想」(75年)など。

 マドレーヌの回想、「いついつまでも、ムッシュー・ジュヴェ」を読んだとき、この女優さんのことが気になった。おもしろい、というか、あらゆる意味で、興味ある女優。

        1978年2月6日(月)
 別府、マラソンで、宗 茂(旭化成)が、2時間9分5.4の日本最高記録で、優勝した。世界歴代2位。弟の宗 猛(旭化成)も、2時間12分48秒で、この大会、2位。モスクワ・オリンピックに向けて、快記録が生まれた。

 今日、東京に出かけたかったのだが、明日、総武線が順法闘争に入るので、予定を変更した。
 午後、小川 茂久から電話。今日、総武線が運休のおそれがあって、私が東京に出るかどうかたしかめたかったのかと思った。そうではなく、船山 馨の本の批評の依頼だった。なんだ、そんなことか。「弓月」で飲みながら、話せばすむのに。
 坂本 一亀(かずき)が、私を名さしで、小川に頼んできたという。
 ――そうかあ。一亀(いっき)さんの頼みじゃ、断れねえや。
 小川は、ケッケッケッと笑った。

 「二見」、長谷川君に電話。印税の件。
 池上君の電話。校正は、3月20日頃。よかった。旅行から戻って、校正を見ればいい。
 渡辺さんから、小説のタイトルの件。考えてない。書くのも忘れていた。

 この日、「メディチ家」、ノート。

        1978年2月7日(火)
 総武線は順法闘争に入ったので、フォックスの「ターニング・ポイント」を見るのはあきらめた。
 「ジャーマン・ベーカリー」で、「二見書房」の長谷川君と会う。「フォックス」に行っても間に合わない。「東和」に行く。
 「ボーイズ・ボーイズ」(ドン・コスカレリ監督)をもう一度見ることになってしまった。長谷川君の話では、「二見書房」が翻訳権をとったという。偶然だが、長谷川君にとってはこの試写を見られて好都合だったことになる。

 3時半、「阪急交通」の都築君に会う。安い航空会社にきめた。なにしろ、貧乏作家だから安い飛行機を選ばなければならない。「交通公社」では、22万1千円。こちらの方がずっと安い。都築君に感謝している。
 6時、「山ノ上」。
 「マリア」と会う。久しぶりだった。

 ――「いかに美しい丘陵の曲線も、女性のその下に性器のある陰部の曲線ほど美しくはない」。

 ゲーテ。ただし、ゲーテが、いつ、何処でこんなことをいったのか知らない。ノートしておく。

        1978年2月8日(水)
 「阪急交通」の都築君から電話。パスポートの期限をたしかめてほしい、という。すぐに調べたところ、意外にも去年いっぱいで切れている。
 いそいで、戸籍抄本、住民票を用意して「宇佐美」で写真を撮った。
 通町、「大百堂」に寄って、義母、湯浅 かおるに挨拶。ついでに、アメリカのエリカに電話をかけて、24日、シスコ着にきめた。
 ホテルも、ハイヤット・リージェンシーではなく、格下のベル・ヴューに変更する。

 夜、「昼顔」(ルイス・ブニュエル監督)を見た。前に見たときは、素晴らしい傑作に見えたのだが、意外につまらない。幻想が重ねられているのだが、ヒロインの「ベル・ド・ジュール」(カトリーヌ・ドヌーヴ)の内面の説明になっていない。あるいは、ただの説明で、浅薄な心理学めいた解説に終わっている。

        1978年2月9日(木)
 寒い日。
 パスポートの申請に行く。面倒だが、仕方がない。

 「木曜スペシャル」で、ハリウッド・スターのサーカスを見た。アメリカの建国2OO年の記念イヴェント。いろいろなスターたちが、マジックや曲芸を演じている。司会は、ライザ・ミネッリ。
 私が驚嘆したのは、アニー・デュプレの空中ブランコだった。私の好きな女優。つい最近、「ボビー・デアフィールド」を見たばかりなので、この女優の美しさ(ナタリー・ドロンに似ている)が心に残っているが、むずかしい空中ブランコをやりぬいたので、感嘆した。

 ピーター・フォンダが、クラウディア・カルディナーレと組んで、ボックス・マジック。クラウディアが立ったまま、ボックスに入って、片手、片足の先を穴から出す。ピーターが、そのボックスに、大きなナイフをグサグサ刺し込む。しかも、ボックスの胴の部分を、外してしまう。胴抜きマジックというのか。クラウディアは、頭の部分と、腰から下の部分だけになってしまう。三つにわかれたボックスをもとのようにもどす。と、そのボックスから、にこやかな笑みをうかべたクラウディア・カルディナーレが出てくる。これは大受けだった。

 デヴィッド・ジャンセンが、リンダ・ウォーターと組んで、ナイフ投げ。

 カレン・ブラックが、誰かと組んでマジックをやった。カレンがベッドに横になる。
 そのまま宙に浮く。カヴァーをかけられる。そのカヴァーをとると、カレンの姿は一瞬で消えている。よくあるマジックだが、このあとのトウィストがいい。大きなガラスのケースが舞台に押し出される。そのケースの中には何もない。これに、カヴァーをかける。さっと、カヴァーが宙を舞う。と、カレンが、ガラスのケースの中に入っている。
 これもウケた。

 そのあと、ジェーン・バーキンが、ローラースケートの曲芸をやったが、彼女は緊張と恐怖に顔をひきつらせていた。足がふるえている。見ている私まで緊張した。

        1978年2月10日(金)
 「サンケイ」本紙にエッセイ。「週刊サンケイ」に書評。

 この前、文化部の四方 繁子さんのデスクに寄ったとき、偶然、山谷 えり子に会った。放送ジャーナリスト、山谷 親平のお嬢さん。「サンケイ」、婦人面で原稿を書いている。私は、女子大在学中の頃の彼女と知りあった。まさか、「サンケイ」のデスクで会うとは思わなかった。

 アンパン・シュネデール事件に関して。
 イヴ・モンタンがパリ警視庁の尋問を受けた。むろん、容疑者としてではない。
 撮影のないときは、週に2、3度、ポーカーをやったという。
 アンパン事件は、迷宮入りの感じか濃くなって、警視庁は、男爵が出入りした高級カジノとその常連たち、富裕層の12名から、解決の手がかりがつかもうとしたらしい。
 イヴ・モンタンは、犯人たちを「卑劣きわまる輩(やから)」と非難した。

 「山ノ上」。「マリア」が待っていた。デート。

        1978年2月11日(土)
 ちょっと元気がない。
 「メディチ家」ノート。全力をあげてこういう仕事をしていると、ほかの原稿を書く余裕がなくなる。

        1978年2月13日(月)
 午前中、「共同通信」、戸部さん。ちょうど、原稿を書いている途中だったので、少し待ってもらう。

 戸部さんが帰ったあと、すぐに小説を書きはじめる。2本、書く予定なので。
 アメリカ行きが迫っているので、原稿に追われている。

        1978年2月14日(火)
 「ユナイト」の試写を見る予定だったが、小説、2本目の残り。
 2時、「二見書房」、長谷川君、「淡路書房」の渡辺さんに、新橋の「アート・コーヒー」で会う約束をした。渡辺さんに原稿をわたす。

 長谷川君といっしょに、「CIC」に行く。
 「テレフォン」(ドン・シーゲル監督)を見る。
 ソヴィエトは、アメリカに51人のスパイを送り込んでいる。電話で、特定の言葉を話したときは、破壊活動をするようにプログラミングされている。
 KGBの「ダルチムスキー」(ドナルド・プレゼンス)がひそかにアメリカに入国、破壊活動をはじめる。デタント時代に、そうした行動が明るみにでれば、アメリカの感情に影響する。そこで、KGBの「ボルゾフ少佐」(チャールズ・ブロンソン)が、「ダルチムスキー」殺害のため、アメリカに潜入する。

 都築 道夫が、若い女性同伴できていた。お互いにかるく会釈しただけ。

 長谷川君と、「帝国ホテル」の喫茶室で話す。
 5時半、「山ノ上」。「ユリイカ」の若い編集者(名前、失念)感じのいい人だった。1時間で、原稿を書くと約束した。帰ってもらう。6時半に原稿をわたした。
 石川君と会う。「バラライカ」で食事。
 「あくね」。谷長 茂さんと飲む。(ゲオルギューの「25時」の翻訳者。)3月に、フランスに行く予定という。

        1978年2月15日(水)晴。
 昨日、私の不在中に電話をかけてきた編集者、田中君。私の講義をきいたという。電話で、原稿の依頼。締切りを聞いてから引き受けた。
 本田 喜昭さんから電話。これも、締切りを聞いてから引き受けた。出発までには書けるだろう。

 雪が降ってきた。

2019/07/7(Sun)  1808〈1977年日記 55〉
 

         1978年1月24日(火)
 塚本 邦雄のエッセイ。田歌の異本にふれて、
 「異本とはダブル・イメージ、トリプル・イメージをもたらしてくれる巫覡(ふげき)にほかならぬ」という。

    若い者の立ち会いと香の濡れ色は見よいものやれ、香の濡れ色はな紅梅は濡れて
    見事や女性は濡れて踊るぞ

 これが、広島の田歌では、最後の「女性は濡れて踊るぞ」が「女性は濡れて劣るぞ」となっているそうな。わずか一字の違いで、意味が変わってしまう。この田歌から、塚本邦雄は、べージュに近い香色を思い描き、紅梅には劣るが濡れ手も踊りやまぬ女を連想して楽しい、という。
 私は、塚本 邦雄と違うことをイメージするが、ここには書かない。

 1時、中央図書館に行って、また松本 清張を調べた。その場で、原稿を書く。
 5時半、「山ノ上」。「至文堂」の金澄君に原稿をわたす。「NP出版」の内田君にも。もうひとり、鈴木君を待ったが、こなかった。
 「弓月」で、小川 茂久、岡崎 康一と会う。岡崎君は、この春、ロンドン留学がきまっている。
 いいご機嫌で、「あくね」に移る。

         1978年1月26日(木)
 「日経ショッピング」、「公明新聞」のコラム。
 水道橋。「地球堂」に寄って、パネルを。すぐに「山ノ上」に。

 「ショッピング」、秋吉君。「公明」、名前を失念した。「映画ファン」のアルバイトの女の子。みんなに原稿をわたす。
 「小鍛冶」で、岡田と。外で待っていると、彼女が外に出ようとする姿が見えた。

 「テアトル・エコー」。
 ジョン・ボウエンの「トレヴァー」。1968年初演。「コーヒー色のレース」(1幕)と一緒に上演された。この二つのドラマは、基本的におなじ装置を使って、同じ俳優が演じることを想定しているのだが、「テアトル・エコー」は、「トレヴァー」だけ。
 ロンドン。ヴィクトリア朝の建物がアパートになっている。
 最上階に、「ジェーン」(安田 恵美子)、「セアラ」(森沢 早苗)が住んでいる。たまたま、「セアラ」の両親がロンドン観光のついでに、娘に会いにくる。両親は、「セアラ」が若い男と婚約して、すでに同棲していると思っている。実際は、そんなこともないため、話の辻褄をあわせるため、「セアラ」はパブで知りあった若い役者に、「トレヴァー」という架空のフィアンセの役をやらせようとする。
 そこまではよかったが、「ジェーン」の両親もロンドンに出てきたついでに、娘の婚約者に会いたいというので、こんどは「ジェーン」があわてる。
 「セアラ」の両親がきている。「トレヴァー」を紹介したばかりのところに、「ジェーン」の両親が押しかけてきたため、苦し紛れに「ジェーン」も「トレヴァー」を婚約者と紹介してしまう。このため、話がおかしくなって、つぎつぎに混乱が起きてしまう。

 要するに、「キプロク喜劇」だが、イギリスの風俗喜劇らしい、際どいエロティシズム満載、いささか悪趣味なくすぐり。笑った。
 ジョン・ボウエンは、1924年生まれ。私より、3歳上。
 出演者は、新人を起用しているが、やはりヘタ。私は、「新劇場」の女優たちを思いうかべた。なつかしい女の子たち。

 岡田をつれて、恵比寿駅前の炉端焼きで、食事。

 恵比寿は、思い出の深い町。Y.Kと。

      1978年1月27日(金)
 新聞記事から。

 カリフォーニア、サンタ・バーバラ。白血病に苦しみ、死期を悟った7歳の少年が、看病している母親に頼んで、生命維持装置の酸素ボンベのコックを閉じてもらって、安楽死をとげた。
 この少年は、ブラジルの外交官、クラウディオ・デ・ムーラ・カストロ夫妻の息子、エドワルド少年。昨年から白血病を発症した。みずからの死期が近いと知って、
 ――ぼくはとても苦しい。死んで天国に行けば、この痛みと苦しみは消える。僕は、
   8月12日、7歳の誕生日までは生きられるように神さまに祈った。誕生日のあ
   と、1週間ぐらいには死にたい。
 という遺書を書いた。
 それから4カ月以上も、酸素マスクをつけながら生きたエドワルド少年は、今年の元日、母に向かって、
 ――ママ、酸素を切って。もう、いらないから。
 と訴えた。
 カストロ夫人は、
 ――わたしは、酸素ボンベのコックを閉じました。あの子は、わたしの腕をつかみ、
   顔をほころばせて、「イッツ・タイム」とつぶやき、そのまま逝きました。
 と語った。

 この記事を読んで、胸を打たれた。
 暗然たる思いと、同時に、エドワルド少年の優しさに涙した。
 霜山 徳爾(上智大教授)が、コメントしている。
 「7歳の少年が安楽死をするというケースは、初めて聞くことで、ただ驚くばかりだ。まだ、7歳では死の概念もない。子供にとって、それが死に到る病とは考えないのがふつうだ」
 という。
 しかし、そうだろうか。7歳には7歳の死の概念があるのではないか。私のような者でも、8歳(満7歳)のとき<死にたい>と思ったことがある。今でも、そのときの状況は心から離れない。そのときの私に、私なりの死の概念がなかったのだろうか。

          1978年1月29日(土)
 レオン・ユリスの「QB Z」という映画を見た。
 超大作。上映時間、6時間。ストーリーを要約しておく。

 ポーランドの強制収容所に入れられた医師が、収容者の医療に当たっているが、ナチスの生体実験に加担し、ユダヤ人の去勢手術をしたという疑惑を持たれている。この医師は、戦後、イギリスに亡命して、後にサーの称号を与えられている。
 これが、メイン・プロット。

 もう一つは――ユダヤ人として育った作家。映画のシナリオでも、アカデミー賞を2度も得た作家が、父の死で、ユダヤ人としての自覚をもち、大作をかく。この作品のなかで、ナチスの強制収容所で去勢手術に当たった医師の名をあげ、名誉棄損で訴えられる。
 法廷で、この強制収容所で何があったのか、はげしい論争がくり広げられる。
 ここまでの上映が、第二部まで。(「第三部」の上映は、29日。)
 出演者が、多数。
 例えば、レスリー・キャロン。はじめは、強制収容所で医師に協力する看護婦だが、「戦後」は老婆になっている。リー・レミックは、作家に恋をする上流夫人、「戦後」は、裁判に協力する貴族の未亡人、というふうに。この「作家」が、レオン・ユリスということになる。

 夜、「チップス先生 さようなら」を見た。テレンス・ラティガンの脚色。
 ブリット(イギリス人)の堅苦しい性格、そのうしろ側に隠されている、地味ながら、ヒューマンな心ばえ。ピーター・オトゥールは、才能、容姿、演技、どれをとっても秀抜で、こういう俳優こそ名優といっていい。
 午後、柴田 裕、悦子夫妻がきてくれた。
 2月に仙台に出張するので、作並(温泉)に泊まるという。近く、悦子さんの友人が、米子で結婚する。裕君が米子まで、悦子さんを送って行って、その夜は、倉敷で泊まるという。
 幸福そうな二人を見ていると、こちらまで幸福になる。

 原 耕平君から、電話。遅ればせながら新年の挨拶。彼も、私たちが月下氷人をつとめた一人。

             1978年1月30日(月)
 ずっと、エドワルド少年のことが胸を離れない。

 深谷 和子(学芸大・助教授)という人が、エッセイを書いている。

 この安楽死について、テーマは二つある、という。

 一つは、安楽死の是非論。これについては、日本では結論がでていない、として論じない。
 もう一つは、(かりに安楽死を認めたとしても)、子どもたちにこうした重大な決定をまかせていいのかどうか。

 この先生は、子どもの臨床心理学の立場から、幼い子どもたちにとっての死の概念とそれをめぐる判断の問題に入る。私などにも納得できる明快な論旨だった。

    しかし通常の自殺とエドアルド坊やの自殺(安楽死)とは話はまた別であろう。
    子どもの判断(決定)とくに生命の尊厳にかかわるような重大事についての判断
    が、おとなと同じくらいに尊重されるべきだとするならば、三歳の子どもに喫煙
    や飲酒だって時には認めなければならなくなる。
    しかしこの場合重要なのは、おそらくそれが「子どもが望んだから母親がコック
    を閉じた」というような単純な状況だったとは考えられない点だ。そこにいたる、
    病に対する二人の戦いには、第三者の想像を絶するものがあったに違いない。
    そしてあの日、「コックを閉じて」と坊やが言った時、同時に母親の判断もそこ
    にあったのだろう。
    それにしても、七歳の子どもの最後の望みが死であり、親としてもはやそれしか
    贈る物を持ち合わせなかったということ――それはわたしたちおとなの胸に、
    永遠につきささったままの悲しみであろう。

 私は、七歳の子どもの最後の望みが死であるような小説を書く作家ではない。書こうと思ったところで、書けるはずもない。だが、母親がコックを閉じたとき、顔をほころばせて、「イッツ・タイム」とつぶやき、そのまま逝った少年のことを考えることはできる。
 エドワルド少年のことを考えることで、自分の内部に何が起きるか、それはわからないが、そのときの私に何かあたらしいものをもたらさないといえるだろうか。

 「ロータス」。本田 喜昭さんの紹介で、雑誌の編集者、渡辺 康雄さんに会う。三流雑誌だが、渡辺さんの人柄がよかった。小説を書く約束をした。
 「日経」に行く。「未知との遭遇」(スティーヴン・スピルバーグ監督)の試写がある。今日は、吉沢君は別行動らしい。試写は川本さんが行くことになったらしく、「日経」の車で「有楽座」に行く。

「未知との遭遇」については、「日経」以外にも、エッセイを書く予定。ここには書かない。エドアルド坊やの自殺と、この映画の幼い少年の姿が重なってくる。

 「有楽座」は、たいへんな混雑だった。長い行列ができている。新聞各紙が、つぎつぎに乗りつけてくる。川本さんが先に下りて、ドアを開けてくれたので、恐縮した。まるで、VIP扱いだった。放送人の木島 則夫が、行列のなかから、こっちを見ていた。この試写に誰か有名人がきたのか、たしかめようとしたらしい。
 「コロンビア」の宣伝部が総出で、招待客の応対をしている。
 新聞記者たちは、すぐに劇場の中に入ってゆくので、私も首尾よくもぐり込んだ。映画批評家たちも、前の席に集まっている。
 久しぶりで、劇場に興奮した気分が渦を巻いている。

 スティーヴン・スピルバーグの来日が噂されていたが、スピルバーグはこなかった。

            1978年1月31日(火)
 「自由国民」、田岡さんから、督促。申しわけない。昨夜、スピルバーグの映画の試写を見たので、書けなかったともいえないし。
 「レモン」も督促。
 杉崎女史から電話。
 ――もう、(日本に)いらっしゃらないか、と思って電話したんです。
 ――まだ、動きがとれないんです。
 ――先生は、いつもお忙しすぎるのよ。
 ――いや、才能がないから、原稿が書けないんですよ。
 杉崎女史は、9月、ロサンジェルスの大学に招聘されて、日本文学の講義をするとのこと。
 竹内 紀吉君が、小酒井 不木を届けてくれた。さっそく拝読。引例は豊富だが、残念ながらそれほど充実した内容ではなかった。小酒井先生を貶めるつもりはない。あの時代に、これほどのことを試みた小酒井 不木に深い敬意をおぼえた。

 夕方、義母、湯浅 かおる、来訪。百合子と三人で、夜食をともにする。そのあと、百合子が送って行った。戻ってきた百合子は、太郎たちと麻雀。私は原稿を書く。

 武谷君と電話で、「演出ノート」の出版をきめた。

 パリ。ヨーロッパ有数の富豪、エドワール・ジャン・アンパン男爵が過激派に誘拐されて、1週間になる。
 この事件に関心はない。しかし、アンパン男爵が、16区アヴェニュ・フォッシュ33番地のマンションに住んでいると知って、にわかに興味がわいた。私が訪問したジャン・ラウロ博士の自宅が、すぐ近くにある。ラウロ博士は、戦時中は、海軍中佐で、「戦後」はドゴール大統領の歯の主治医で、レジョン・ドヌールを受けている。私は、岳父、湯浅 泰仁が、歯科医師会の副会長だったため、ラウロ博士夫妻が来日したとき、通訳をつとめた。
 私がフランスに行ったとき、ラウロ邸を表敬訪問したが、住所がアヴェニュ・フォッシュ30番地だった。アヴェニュ・フォッシュは、パリでも最高級の住宅地で、パルク・モンソォの近く。私はモーパッサンの胸像を仰ぎ見ながら、永井 荷風もこの胸像を仰ぎ見たのか、と思うと、いささか感慨をもよおしたことを思い出す。
 アンパン男爵の名は、日本人にはおかしい響きだが、Empain と書く。アンパン=シュネデール財閥の当主。アンパン男爵のランサムは、史上最高の25〜50億フランといわれている。

 もうひとつ。
 ダミアの訃報。
 「暗い日曜日」はもっていたはずなので、原稿を書いたら、探してみよう。

 あとでダミアを聞いた。シャンソンのコンピレーションで、ついでにリュシエンヌ・ボワイエ、イヴェット・ジロー、コラ・ヴォケール、エディト・ピアフも聞いた。
 なつかしいパリの歌姫たち。過ぎ去った時代の。

2019/06/30(Sun)  1807〈1977年日記 54〉
 

         1978年1月17日(火)
 昨日、「日本ジャーナル」の原稿を書いたため、疲れている。
 今日は、内山歯科に行くつもりだったが、これも中止。
 3時に、試写を見るつもりだったが、これもやめた。
 5時半、「山ノ上」で、大川 修司に会う。「闘牛」の「演出ノート」を作るための準備。大川は、舞台監督をやってくれたが、きわめて有能だった。
 6時、菅沼がきてくれたので、「ジャーナル」の池上君に渡す原稿をあずける。
 大川君と「平和亭」に行く。「徳恵大曲」を飲む。
 その後、「鶴八」で、日本酒を。大川は酒豪で、いくら飲んでも酔わない。
 「あくね」に寄って、先日の借りを返す。

         1978年1月18日(水)
 雪が降った。

 松波郵便局から原稿を送る。

 「中世の職人たち」を読んだ。
 これから読むもの。「フィレンツェの流浪者」、「NRF小説集」。

         1978年1月19日(木)
 午後、県立中央図書館に行く。司書の渋谷(しぶたに)君に助けてもらって、松本 清張を調べた。この作家の年譜がない。仕方がない。「松本清張の世界」(「文春」)を借りた。そのまま、東京に。
 「日経」。青柳 潤一君に原稿をわたした。吉沢君は不在。試写だろうと思う。
 「山ノ上」で、内田君に会う。かつて、学生として私の講義を聞いた人だが、いまは、PR誌の編集者。私は、大学で講義を聞いてくれた編集者の依頼は、かならずアクセプトしている。私に原稿を頼んでくるのだから、きっと何か事情があってせっぱ詰まっているのだろうと考えるから。

 「東京新聞」の「海外文化の潮流」というコラム。引用しておく。

    政治に対する黙従ないしは麻痺感覚が広がるにつれて、作家のなかにもはっきり
    と区別できる立場が目立ってきた。一つは、倦怠と挫折のなかで酒と女に耽溺し、
    希望のない日常を茶化し、読者にマゾ的な享楽をあたえるポルノ的通俗小説の
    台頭である。P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルなどの若手作家が
    矢継早に登場して、苦悩を一時的に忘れさせてくれる「ベッドのうえの眠り薬」
    を提供していると。

 もう一方の立場を代表するのは、ケニヤ文学界の大御所、グギ・オ・ジオンゴ(1938年生まれ)である、とつづく。
 これを書いた人は、ロマン・ロランなどを訳している立命館大学の助教授。
 失笑した。きっとまじめな方なのだろう。ご自分が間違ったことを書いていることに、まったく気がついていない。

 ケニヤ文学の「現在」に「P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルなどの若手作家が矢継早に登場した」などという事実はない。そもそも、P・チェーニイ、J・H・チェイス、D・マイルは、ケニヤ人ではない。しかも、「若手作家」どころか、いずれも老練な、いまや「大家」といってもいいほどの存在なのだ。
 P・チェーニイは、もう30年以上も前に登場しているし、J・H・チェイスは、「ミス・ブランディッシュの蘭」で日本でもよく知られている。
 そして、グギ・オ・ジオンゴを「ケニヤ文学界の大御所」と呼ぶのも、どうかと思う。まだ、やっと40代に入ったばかりの作家なのだから。わが国の場合でいえば、菊地 寛が「文壇の大御所」と呼ばれるようになったのは、昭和に入ってからと見ていい。たとえば、「卍」を書いた谷崎 潤一郎は40代に入ったばかりで「文壇の大御所」と呼ばれたろうか。


         1978年1月20日(金)
 「二見書房」、長谷川君、来訪。
 高校生、大学生向きの「英語・学習本」の件。え、冗談だろ?
 ――いいえ、本気でお願いしています。
 ――それじゃ、池田君の企画だな、きっと。
 長谷川君の話では、あくまで高校生、大学生向きだが、若いサラリーマンも関心をもつような「英語入門」を期待しているという。一応、教科書ふうな構成だが、テキストは、市販のポーノグラフィーで、訳例をつける。
 ――そんな教科書があったら、オレが読みたいよ。
 できるだけ早く、「二見書房」に行く約束をした。

 夜、「イブの総て」(ジョゼフ・L・マンキウィッツ監督/1950年)を見た。
 もう、何度も見ている映画だが、今回は、マリリンをよく見ることにした。
 やはり、「発見」があった。ここには書かないが。

         1978年1月21日(土)
 今朝、私の出た「ハンス・メムリンク」を見た。百合子もいっしょに。

 ――そんなにわるいデキじゃなかったわ。
 テレビで「ハンス・メムリンク」を見た百合子がいった。

 この一年、私は混迷してきた。何か書きたい。そう思いながら、何を書いていいか、わからない。書くべきことはいちおう見えていながら、準備に手間どっている。ロココにまで、目くばりをしていた。
 百合子は、そういう私を見ても何もいわなかった。ただ、私が苦しんでいたことを、誰よりも知っている。
 風邪だって、今年は、私が先にひいてしまった。インフルエンザが大流行している。先週だけで、児童、生徒の患者数、13万を越えたらしい。昨年、流行したB香港型よりも、今年のA香港型は、いっきにひろがって、猛威をふるう。
 そればかりか、これとは別の、新型ソ連風邪が拡大しているらしい。

 夕方、百合子と一緒に「柳生一族の陰謀」を見に行く。

 錦之助のセリフの拙劣なこと。驚くより、あきれた。百合子がいうには――ひと昔前の、市川 右太衛門、片岡 千恵蔵のディクションとおなじだが、時代の変化で、錦之助の場合、セリフのディクションがひどくこっけいな感じになる。
 ――要するに、歌舞伎役者のセリフまわしが、いまの映画にあわなくなっているって
ことかしら。
  ――昔の、小太夫、芝鶴、扇雀が、スクリーンでしゃべっているようなものだよ。
   本人は、その滑稽さにまったく気がついていない。
  ――監督さんは気がついていないのかしら。
  ――深作は、錦之助のセリフについては何も「演出」しなかったんだろう。なにしろ
    大スターだから、セリフを直すなんて、おそれ多くて、監督だってできない。は
    じめからわかっているさ。だから、ワキは、新劇のベテランで固めた。みんな、
    錦之助の芝居なんか、はじめから相手にしていないんだよ。
 ――誰か錦之助に教えてやればいいのに。
 ――これからも、自分のディクションのひどさに気がつかずに、ああいう芝居を続け
    て行くんだろうな。どこの撮影所だって、スターさんはそんなものだよ。

        1978年1月23日(金)
 「オブザーヴァー」の記事。

 サウジアラビア王家にいる3000人の王女のひとり、「ミシャ」王女、23歳は、ベイルート留学中に、平民の青年と恋仲になった。昨年の夏、これが本国につたわり、帰国を命じられた。この若者は、サウジアラビアの駐ベイルート大使の従弟ともいう。
 「ミシャ」王女は、帰国後、父親と同年代の王族の一人と結婚するように命じられた。王女は、あきらめきれず、その秋、髪を短くきって男装して、ジェッダ空港から、恋人と共に密出国しようとしたが逮捕された。
 「ミシャ」の祖父、ムハマド・ビン・アブドル・アジス王子は、ハリド国王の実弟。王女は、祖父に、恋人の命だけは助けてほしいと嘆願したが、退けられた。
 ハリド国王は、死刑の命令書の署名を拒否し、ふたりの最終処分は、ムハマド王子の判断にまかせた、という。
 「ミシャ」王女は、家名をけがし、道ならぬ恋に走ったとして、ジッダの市場で銃殺され、恋人は首を刎ねられた。

 「事実」だけを記載しておく。

2019/06/15(Sat)  1806〈1977年日記 53〉
 

         1977年1月10日(火)
 風が強く、寒い日。

 1時、「東和」で、「ボーイズ・ボーイズ」(ドン・コスカレリ監督)を見た。
 「ケニー」(ダン・マッキャン)は、仲間の「ダグ」、「シャーマン」と遊んでいる。彼の悩みは、愛犬の「ボビー」の病気と、ワルの「ジョニー」にいじめられること。愛犬は、獣医の手で、安楽死される。残ったのは、「ジョニー」との対決。
 どこでも見かける地方都市の日常の、ローティーンの少年たち。
 しかし、この街の背景に、死が翳りを落としている。愛しているイヌを、獣医の手で安楽死させるシーン。死んだような街を、ただ歩いている老人。この映画には、ヴェトナム戦争後の、しらじらとしたアメリカが露呈している。
 ドン・コスカレリは、23歳。製作、脚本、撮影、編集、何もかも自分でやったらしい。ときどきでてくるアンファン・テリブルのひとり。問題は――彼がこのまま10年、20年と、映画の仕事をつづけていけるかどうか。

 六本木に行く。「テレ朝」のプロデューサー、小島 閑さん、チーフの戸田さんに会う。正直にフランドル派について、ほとんど知らないとつたえた。ふたりも予期していたらしい。メムリンクのドキュメンタリをみせてもらった。
 キリスト教初期に殉教した聖女を中心にした構成を考えているらしい。

 六本木は、私にとってはなつかしい街である。「俳優座」の養成所の講師をしていたから。私の愛した「アルクメーヌ」はどうしているだろう。「シュザンヌ」は? そして、「ブランチ」は、どこに行ってしまったのか。
 せっかく六本木にきたので、本をあさったが、欲しい本もなかった。

 寒い日。
 スズキ シン一の個展(東銀座)を見に行きたかったが、凍えそうなのであきらめた。六本木で陶器の人形を買う。
 「山の上」で食事。
 このホテルも、私にとっては青春の一部。若い頃、このホテルの前を通ると、カンヅメになった作家たちが出入りしていた。高見 順、山本 健吉、平林 たい子たち。
 いつか、このホテルで仕事をするもの書きになりたい、と思ってきた。その私が、今では、毎日のようにこのホテルに立ち寄っている。私の仕事の大半は「山の上」で書いたものばかり。
 夜、「弓月」。安東夫妻、工藤 惇子、鈴木 和子、石井 秀明、菅沼 珠代たち。
 みんなと別れて「あくね」。
 小川 茂久と。

         1977年1月12日(木)
 「共同通信」、戸部さんの原稿を書いていた。戸部さんに原稿をわたしてほっとしたところに、「テレビ朝日」の撮影班がきた。スタッフが多い。これを見た戸部さんは、私を売れっ子作家とカン違いしたらしい。他社の編集者がつめかけているし、私の指定する場所に、つぎからつぎに編集者がくるので。
 戸部さんは撮影を見ていたかったらしいが、撮影のスタッフが多いので、あわてて帰った。
 「テレビ朝日」の戸田さんが私に質問する。これに私が答える形式。
 なんとか恰好はついた。
 撮影班が帰ったのは、4時近く。
 6時頃、友人の飯島君、来訪。1月1日に、母堂が亡くなられたという。
 飯島家は、代々、医家。飯島君は、「大映」の脚本部に入ったが、1本も映画化されないまま退職。その後は、高等遊民のように暮らしている。
 飯島家は、千葉の名家なので、葬儀はたいへんだったらしい。

         1977年1月13日(金)
 出かける仕度をしているとき、「自由国民社」の田岡さんから電話。至急、お目にかかりたいという。こういう場合、誰か有名人に依頼していた原稿をスッポかされて、急遽、代役を立てなければならなくなった、そこで、中田 耕治を思い出したということに違いない。
 私は、12時半に、新橋で、中村 継男と会う約束がある。こういう場合、連絡のとりようがない。

 特急。12時35分、新橋着。
「ナイル」で「自由国民社」の田岡さんと会う。原稿、2本。やっぱり、そういうことか。引き受ける。田岡さんは、ほっとしたようだった。私を、そんなに多忙とは見ていないらしい。
 ――これから、どちらに?
 ――銀座で、映画を見るつもりです。
 田岡さんの原稿を引き受けて、すくに「アート・コーヒー」で、中村 継男とあって、試写室に行く予定だった。しかし、田岡さんと会ったため、「ワーナー」の試写に遅れた。これは残念だった。見たかったのは、「ボビー・ディアフィールド」(シドニー・ポラック監督)。アル・パチーノ、マルト・ケラー。私のご贔屓、アニー・デュプレーが出ているので、ぜひ見たかったのだが、あきらめた。
 中村君をつれて、画廊めぐり。林 宏樹という写真家の個展がよかった。少し遅い食事をとる。
 3時から、「東和」第二試写室で、「白夜」(ロベール・ブレッソン監督)を見た。むろん、中村君もいっしょに。中村君は映画のタイトルも知らずに試写を見たので、映画よりも、有名な作家や映画批評家がつめかけている試写室の雰囲気に感動したらしい。
 6時、「山ノ上」で、武谷 祐三君と会う。長編の打合せ。中村君が帰ったあと、菅沼がきた。
 そのあと、菅沼を連れて、「あくね」に行く。小川 茂久と会う。
 ――お、今夜は別な女の子とごいっしょか。
 ――山おんなだよ。
 小川はケッケッケッと笑う。
 私が、しょっちゅう違う女の子をつれて、「あくね」や「弓月」に姿を見せるので、みんなが私を「女好き」と見ている。中には、私がつれて歩いている女の子と「タンドル・コネサンス」(get into her pants)と見るやつがいる。それも、ひとりではなく、複数。
 ある集まりで、私が10人ばかりの女の子といっしょに話をしていると、しばらく見ていた新聞記者が、私に寄ってきて、耳もとで、
  ――みんなとヤッたんですか?
 と訊いた。何のことだろう? 私が、けげんな顔をしていると、
  ――だから、この女性たち、全部をモノにしたんですか?
 思わず笑ってしまった。まるで、ドンファンではないか。誰ひとり口説いたこともないのに。

 私には、いつも女性に対する親しみ(アフェクション)がある。そういう女たちを、いつも「恋人」と呼ぶことにしていた。エロティックな関心がないとはいわない。もともと「俳優座」の養成所や、幾つかの劇団で、若い女優たち、あるいは、演出部、美術、音楽、衣装係の女性たちに囲まれて過ごしてきた。私のアフェクションは、身辺にいつも協力者として女性を配置する習性というか、いつも、たくさんの女性をはべらせていたせいかも知れない。

 帰宅。もう、映画に食傷しているのに、テレビで、「天国への階段」を見てしまった。ディヴィッド・ニーヴン、キム・スタンリー。
 若い頃に、この映画を見た。今、この映画を見ることは、自分の青春時代を見ることにほかならない。
 内村 直也先生に、この映画の話をして、ぜひ見に行ってください、とすすめた。この映画を見た内村さんは、大きな刺激を受けたらしい。その後、私がすすめた映画はかならず見るようになった。思い出のひとつ。

         1977年1月14日(土)
 昨日、「あくね」に行く前に、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとってきた。Y.K.と山に登ったときのスナップ。去年の暮れ、書斎を片づけたとき、未現像のカラーフィルムを見つけた。暮れだったので現像に出さなかった。
 韮崎からサワラ池に出て、山荘に一泊。翌日、甘利から御所山に登ったときのもので、山頂付近で撮ったショット。
 Y.K.は、汗を拭くために、タオルを胸に当てた。
 ――誰も見てやしないよ。シャツを脱いで、からだを拭いたほうがいい。
 Y.K.は、わるびれず、シャツを脱いでからだを拭いた。

         1978年1月15日(日)
 昨日、伊豆で地震。死者、10名。行方不明者、15名。
 今日も、各地で余震が続いている。暖かい日で、夕方から風が出てきた。何の根拠もないのだが、地震があったらいやだな、と思う。地震予知連絡会が、東大地震研究所で、緊急会議を開き、今後の見通しなどを検討した。それによると、14日のマグニチュード7の地震以後続いている余震は、大島の西の近海付近、伊豆半島中部でも発生し、二つのグループにわかれているという。
 マグニチュード7の地震では、余震域は直径30〜40キロに及ぶという。伊豆では群発地震がしばしば起きているが、今回の震源は5キロ前後の直下型なので、最大震度 5の強震が起きるおそれがある、という結論だった。

 私は地震に対する警戒心が強い。父母から、関東大震災の恐怖を聞かされてそだったせいもある。戦災も何度も体験しているので、地震や火事に対する警戒心が強いのだろう。

2019/05/18(Sat)  1805〈1977年日記 52〉
 
         1978年1月3日(火)
 午後、めずらしく相野 毅君が年始にきた。

 私は、初仕事。
 5時、東京に。7時、NHKに着到(ちゃくとう)。
 和泉 雅子、根本 順吉のおふたりと対談。和泉 雅子は美しい女優さんだった。占いに興味があるという。私は、しばらくルネサンスの占星術の話などをする。
 和泉 雅子。若い女優にありがちな、相手の関心をたえず自分に向けさせようとするコケットリ−が見える。

 鼎談の録音を終えた。スタジオの控室で自分の出番を待っている若い女優が、帰ろうとする私に目礼した。森下 愛子という若い女優だった。和泉 雅子と私の対談をずっと聞いていたらしい。

 最近の「プレイボ−イ」の読者(60000人)の投票。「キュ−ト・ガ−ル・ベスト」――ドラマ女優、モデルをふくめて、人気のある女の子のベスト。

 1位、木之内 みどり。2位、夏目 雅子、3位が、同数で、ピンク・レディ−、山口 百恵。以下、10位まで――アグネス・ラム、岡田 奈々、竹下 景子、秋吉 久美子、岩崎 宏美、榊原 郁恵。

 和泉 雅子は、トップ・30にも入っていない。
 森下 愛子は、29位。この女優は、最近、「プレイボ−イ」や「ドンドン」の、タイツ姿のフォトで人気が出はじめている。

 NHKのタクシ−で帰宅するはずだったが、首都高速が凍結したという。仕方がない。お茶の水に出る。総武線も、幕張=新検見川間で故障が起きたとか。お茶の水は混雑してごった返していた。
「山ノ上」のバ−でひとりで新年を祝う。
 帰宅、12時過ぎ。

          1978年1月4日(水)
 田中 英道さんから賀状。「イザベッラ・デステ」に関して本を書く予定という。
 いよいよイザベッラを射程内におさめたのか。

 いつかイザベッラ・デステについて書きたいと思ってきた。資料も集めている。しかし、田中さんのようにすぐれた評論家に先を越されたら、こちらは何も書けなくなるだろう。
 田中さんの「イザベッラ・デステ」の完成を祈る。そのうえで、まだ何ごとか書くべきことが残っているかどうか考えよう。

 「テレビ朝日」から電話。出演交渉。「朝の美術散歩」。テ−マは、フランドル派の画家、ハンス・メムリンク。
 フランドル派の画家についてほとんど知らない。プロデュ−サ−に、その旨をつたえた。それでも、会っていただけないか、という。
 フランドルは、いわゆるフランダ−ス、ブラバント、ハイナウト、リエ−ジュ地方を含む。中世、文書の装飾がはじまったことから、絵画がはじまる。
 1400年代までは、絵画として見るべきものもない。リンブルク兄弟、メルヒョ−ル・ブレ−デルラムといった職人画家がギルドに登場する。
 ク−ベルト・ファン・アイク、ヤン・ファン・アイクがあらわれて、はじめてフランドル派の画家とされる。マイステル・フレマルは、ハイナウト出身、彼の門弟、トゥルナイのギエル・ファン・デル・ワイデンあたりをあげておけばいい。
 このファン・デル・ワイデンの影響をうけたのが、ル−ヴァンのデイエリク・バウト、フル−ジュのハンス・メムリンク、ゲントのフ−ゴ−・ファン・デル・ゲスということになる。
 私の知っていることは、せいぜいこんなところ。
 中世の生活を語れば、いくらかでも責任は果たせるかも知れない。

 年頭に決心したのだが――今年は、イタリア・ルネサンスについて、なんらかのモノグラフィ−を書くつもり。歴史をたどるのではない。その時代に生きた人々を描きだす。具体的には、1434年から、約60年に及ぶ時期の研究だが――むろん、私にとっては、たいへんな仕事になる。
 1934年、フィレンツェ。コジモ・デ・メデイチが覇権をにぎる。1942年、アルフォンソ・ダラゴンが、ナポリで権力をにぎる。1450年、ミラ−ノで、フランチェスコ・スフォルツァが権力をにぎる。一方、ロ−マにあった教会は、ロマ−ニャの諸都市(コム−ネ)や封建領主たちを支配下におさめる。
 この時代に、たとえばメディチ家の人々はどう生きたのか。考えるだけでも、私の手にあまるのだが。
 まあ、正月の酒に酔いながら、壮大な夢をみるのも楽しい。

          1978年1月6日(金)
 昨夜、新橋演舞場で公演していた「新派」の舞台で、花柳 喜章が亡くなった。享年、54歳。

 新派は2日から初春公演が始まったが、喜章は、昼の部、「源氏物語」で「紀伊守」を演じ、3日からは喜劇、「浮気の手帖」の主役(インスタント食品会社の社長)を演じていた。劇場は、1500人の観客で満員だった。
 幕が開いて、10分ばかり、「社長」が秘書にお小言を並べているところで、不意に頭が揺れ、うしろに倒れたという。死因は心不全というが、脳血栓かも知れない。
 観客は、そういう演出と思って舞台を見ていたが、喜章が動かないので、ざわめきはじめ、劇場側も異変に気がついて、いそいで照明を消して緞帳を下ろした。
 俳優の安井 昌二が、幕の前に出て、
 「花柳が急病になりましたので、これから救急車で病院にまいります」
 と口上を述べた。
 舞台で倒れて、そのまま逝っちまった役者は、「戦後」では喜章がはじめてじゃないだろうか。観客ははじめて事情を知ってざわめいたが、それでも、しずかに退場しはじめたという。

 私が、喜章を見たのは、3,4回だけだった。父の章太郎が亡くなったあと、「新派」を脱退したり舞い戻ったりして、どうも落ちつかない役者だった。昨年、章太郎十三回忌に出て、「新派」の中軸になるものとばかり思っていた。未完成のまま、亡くなったのは、本人としても残念だったはずである。

 喜章の代役は、明日から菅原 謙次。

          1977年1月7日(土)
 賀状がまだ届いている。
 「日本きゃらばん」を読む。庄司 肇の「幻の街」がいい。

 庄司 肇さんは、医師(眼科)だが、「文芸首都」出身。平易な文体で、小説はだいたい身辺雑記に近い。しかし、この作品は、なにかしら大きな発展の萌芽を感じさせる。庄司さんもまた、作家として大きく変わりつつあるのか。

         1977年1月8日(日)
 アントワ−ヌ・ポロ−を読む。
 いい本だった。フランスではこういう思想家がつぎからつぎに出てくる。
 カイヨワの「メドゥサの仲間たち」も、いい本。仮面について見事な言及があった。

 少しづつ、ルネサンス関連の資料を読みはじめる。
 とにかく、読むべき本が多い。

          1977年1月9日(月)
 「サンケイ」、四方 繁子さん。「共同通信」、戸部さんから督促。

 今年も走りつづけなければならない。
 自分の前に立ちあらわれてくるさまざまなテ−マを、デッサンかクロッキ−のようにとりあげる。そのなかには、文芸時評や、試写で見た映画の紹介や、楽しいアヴァンチュール、政治や社会についての考察、そんなものがふくまれる。どんなに短い枚数でも、読者の内面を刺激するように――私のものを読んだときから、しばらくは頭から離れないような文章をつきつける。発表する場所はどこでもいい。私のとりあげる内容がどんなにおもしろいものか、手を変え、品を変え、書いて行きたい。
 どういう状況でも、私は散歩者であって、なおかつ冒険者でありたいのだ。

 若城さんに、電話で年賀を伝える。この電話に鈴木 八郎が出た。ふたりは、本当の親友なので、鈴木君が電話に出ても不思議ではない。
 声帯を手術したため、機械を使ってしゃべる。テレビのSF映画に出てくる宇宙人のような声だった。話すことは、例によって洒脱、滑稽。江戸時代だったら、鈴木 八郎はきっと有名な文人になれたと思う。

 「映画ファン」、高田君、菅沼君から電話。

2019/05/01(Wed)  1804 〈1977年日記 51〉
 
     1978年1月1日(日)
 新年。

    誰やらの 形に似たり 今朝の春      芭蕉

 前夜、つまり大晦日、安東たちがきてくれた。「紅白歌合戦」を見たあと、みんなで今年はどこの山に行くか、勝手な計画を話しあった。
 元日の電車は、終日、うごいている。できれば奥多摩に行く予定だったが、犬吠崎か九十九里の海岸で、初日の出を見てもいい。ところが、雨になったので、またしても予定を変更した。
 映画、「八十日間世界一周」を見てしまった。

 昨日のつづき。一日じゅう、みんなで遊ぶことにしよう。

 夜明け。
 寒いが、崇高なまでに輝いている大地や、屋根、庭木にみなぎる新年の朝(あした)。かすかに紅をさしたような御来光の美しさにみとれて、茫然と見つめていた。
 応接間の机を動かして、フロアに炬燵を置いて、花札をやったり、ポ−カ−をやったり。短い時間のようだったし、長い時間のようでもあった。
 みんなのなかで、元旦の時間がとまっているようでもあった。

 百合子は迷惑がらずに、みんなをもてなした。といっても、屠蘇を祝って、正月料理をいただいた程度のおもてなしだが。しかし、ほとんどがこうした風習を知らないので、ものめずらしさもあって、神妙に年始の作法にしたがっている。
 あとは、また無礼講。

 安東たちが帰ったのは、夕方の6時。途中で、東松山の鷹野家が、年始にきたので、いっしょに千葉神社に参詣した。百合子は、そのまま通町に行く。例年、湯浅家は、年始の客が多いので、百合子が通町に手つだいに行くことになっている。
 みんなで、ゲ−ムセンタ−で遊んだ。
 鷹野一家を送ったあと、夜の9時過ぎ、通町、湯浅家に年始に行く。
 二部屋、襖を外した大広間に、酒盃が山のように盃洗に重なっていた。さすがに、客が帰ったあとの寂しさが、ただよっている。
 私は、義姉、小泉 賀江、百合子と雑談したが、そのあと、遠縁の池田 豊弥君と話が弾んだ。外語卒。中国語の達人。想像もつかない経歴の人で、その話も波瀾万丈だった。
豊弥君も、はじめて通町の年始にきて、客の帰った大広間にひとり残っていたので私が話相手になったので助かったらしい。

2019/04/30(Tue)  1803〈1977年日記 50〉
 
          1977年12月28日(土)
 池が完成した。

 ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
 あとは、正月明けにようすを見にくる。
 仕事収めなので、酒をふる舞う。

 下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
 ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
 下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。

          1977年12月29日(日)
 どうしても、東京に出かけなければならないため、1時に家を出た。
 「日経」、吉沢君のデスクで、原稿を書く。
 いつも、いろいろな記者が、忙しく動いているのだか、さすがに年末なので、少しだけ、落ちついている。文化部のデスクで、原稿を書く作家はいない。おそらく、私だけだろうと思う。私の場合、おもに映画評を書くので、試写を見たらすぐに書いたほうがいい。
 私は、「戦後」すぐに、「時事新報」のコラムを書きはじめたせいか、新聞のデスクで、記者たちと雑談しながら原稿を書くのが好きなのだ。
 文化部、青柳 潤一、竹田 博志君が、挨拶にくる。みんな、吉沢君の同僚記者である。

 おみやげに、イギリスのウイスキ−をわたしてやる。みんなが、よろこんでくれた。

 神田に出た。
 正月中に読む本はある。
 「悪魔の種子」、「キャンデ−はだめよ」、「34歳のミリアム」、「朝までいっしょに」、「緑の石」、「血と金」、「砂漠のバラ」。これだけで7冊。しかし、2日もあれば読めるだろう。
 「あくね」に行く。小川に会う。この日で「あくね」の年内営業は終わり。

 あとで、矢牧 一宏、内藤 三津子のおふたりがくるはずだったが、会えなかった。

 帰宅。最後にショックが待っていた。

 百合子が、私の顔をみるなり、
 ――「イジケ」が死んだのよ。
 という。
 「イジケ」は、「チャッピ」の生んだメスで、性格的にイジケているので、「イジケ」という名をつけた。駐車場の内部で死んでいた、という。
 酔いがさめた。
 私は、「イジケ」を特別に可愛がっていたわけではない。ただ、いつもイジケて、私の膝にも寄ってこなかった。私が、ほかのネコを抱いてやっているうちに、なんとなく私のそばに寄ってくる。その首をつまんで、抱きしめてやると、やっと安心して、抱かれている。そんなネコだった。
 しかし、どういうものだろう。今年は、我が家のネコがつぎつぎに非業の死を遂げた。

 「チャッピ」が病死したあと、「シロ」が失踪した。エリカがつれてきたネコで、今、我が家にいるネコたちの、母親。そのあと、私が、いちばん可愛いがっていた「シロ」(「シロ」の子の「ルミ」が生んだオス)が交通事故で不慮の死を遂げた。その「シロ」より、1シ−ズン遅れて生まれた、目の青い、これも可愛いコネコ、これも病死した。
 そして、「イジケ」である。計、5匹。迷信深い人なら、カツぐところだ。
 歳末ぎりぎりになって、こんなことになるなんて。
 「イジケ」を埋葬してやる。私の家の庭には、すでに何匹もネコが埋められている。今では、それぞれのネコを思い出すこともないが、それでも、それぞれの死を思うと、涙がにじむ。

          1977年12月30日(月)
 つごもり。
 今年、最後の短編を書く。
 最初の一行が書ければ、あとはなんとかなる。

 やっと書いた。

 あまり、できがよくないのはわかっている。
 夕方、5時、「れもん社」、三浦 哲人君がとりにきてくれた。

 やはり疲れたらしく、眠ってしまった。
 眼がさめたので、テレビをつけたら、「お熱いのがお好き」(ビリ−・ワイルダ−監督)をやっていた。解説、虫明 亜呂無。つい見てしまった。

           1977年12月31日(火)
 大つごもり。

 この日記をつけはじめて、だいたい毎日、おもに身辺のことを書いてきた。日記をつけないと、それが気になって、何も書くことがなくても、映画のことを書くような習慣がついてしまった。

 この一年は、どういう年だったか。

 厚生省。日本人の平均寿命、女性は77歳。男性、72歳と発表した。

 村山 知義、長沼 弘毅、石子 順造、吉田 健一、今 東光、内藤 濯、和田 芳恵、稲垣 足穂、海音寺 潮五郎。この方々が逝去した。
 面識があったのは、和田さんだけだが、それでも、この人たちの仕事は心に残っている。和田さんが、最後のご本、「自伝抄」を送ってくださったことは忘れない。

 ジョルジュ・クル−ゾ−、ジョ−ン・クロフォ−ド、ロベルト・ロッセリ−ニ、エルヴィス・プレスリ−、グル−チョ・マルクス、レオポルド・ストコフスキ−、マリ−ア・カラス、ビング・クロスビ−、チャ−リ−・チャプリン。
 みんな、亡くなっている。
 プレスリ−については、「共同通信」で。チャプリンについては、「日経」で、コメントを発表した。
 ほかの人たちについては、何も語ることなく終わるだろうが、これらの人々の仕事を知らなかったら、私自身の「現在」はあり得なかったと思う。ジョ−ン・クロフォ−ドに対しては、いささか反感めいた思いがあるのだが、それでもこの女優の映画も私の一部になっているだろう。

 部屋を片づける。一年分の埃がたまっているので、片づけるのはたいへんなのだ。
 安東 つとむ、由利子、鈴木 和子がきてくれた。もっと早くきてくれれば、片づけをてつだってもらうところだが、一日早い年始回りになった。
 百合子はよろこんで、三人をもてなしている。なにしろ、しょっちゅう人がくるので、時ならぬ来訪者にいつも対応しなければならない。作家の女房というのも楽ではないのに、いつも笑顔を忘れない。
 しかし、安東たちがきてくれたのはうれしかった。大晦日に知人といっしょに新年をむかえることは一度もなかった。
 百合子もまじえて、たあいもない話をしながら、酒宴になった。

 1977年(昭和52年)、何が流行ったか。

 「母さん、ぼくの帽子、どうしたでしょうね」。これは、角川映画、森村 誠一原作の映画のコマ−シャルから。この宣伝費だけで、4億5千万円。森村 誠一フェアに5億という。これだけの金をかけて、この流行語ができたと思えば安いものだろう。
 もう一つ、これも映画から。「天は我らを見放した」。「八甲田山」で、北大路 欣也が、雪中行軍で、暴風雪で遭難したときのセリフ。

 ――先生、あの原稿、どうしたでしょうね。
 ――書けなかったよ。ごめんね。天は我らを見放した。
 こんなふうに使う。

 ――先生、原稿、これっきり、もうこれっきりですか。
 ――それは、去年の流行語だろ。

 大つごもりなのに、たあいのない話をしてはみんなで笑った。

 これも流行語だが、「ル−ツ」。10月に「テレ朝」が放送したドラマのタイトル。私は、いろいろな小説を読んできたが、この名詞にぶつかったことは、ほとんどない。ところが、このドラマのおかげで、何かの起源に関して、すぐに「ル−ツ」という言葉が使われるようになった。「紅白」を見たあと、「八十日間世界一周」(マイケル・アンダ−ソン監督)を見た。3時頃、さすがに眠くなってきた。
 広間に寝具を出して、安東たちを寝させた。私たちは、2階の寝室に。
 これで、私の1977年は終わった。

2019/04/30(Tue)  1802〈1977年日記 49〉
 

           1977年12月23日(月)
 寒い日。
 午前中から、メディチ家のノ−ト。

 あい変わらず、本、雑誌がたくさん届いてくる。
 伊藤 昌子さんから、原稿が届いた。吉沢 正英君から、「真夜中の向こう側」(チャ−ルズ・ジャロット監督)の試写の日程。春の公開作品だが、師走になって試写に力を入れはじめたのか。
 試写室通いをしていると、その映画が当たるか当たらないか、試写の予定からでも想像がつくようになってきた。
 「三笠書房」、三谷君から電話。

 夜、岳父から、池田さんのご母堂の病状をつたえてきた。
 義弟、湯浅 太郎に、私から知らせた。その一方、すぐに小泉 まさ美に連絡して、「並木」にいる太郎と、義母、湯浅 かおるを迎えにやる。
 太郎と、義母、湯浅 かおるが、小泉家にきたら、百合子も、いっしょに同行させることになった。

          1977年12月24日(火)
 深夜2時、岳父(湯浅 泰仁)から電話。
 池田 美代さんの死去をつたえてきた。予期していたことだったが、親族の死なので、にわかに忙しくなった。すぐに、これも親族の杉本 周悦につたえた。
 美代さんは、享年、82歳。陸軍中将夫人。

 臨終に当たって、
 ――このひとも後生がいいわねえ、クリスマスの日に死ぬなんて。
 と放言した親族がいたという。

 この夜、通夜が行われた。私も出席した。小泉 隆、賀江夫妻の隣りにひかえた。
 美代さんの甥にあたる池田 豊弥さんと話をする。このひとは、厚生省の麻薬取締官で、まさに快男児といってよかった。大麻に関して、最近、「小説宝石」で小堺 昭三のインタヴュ−をうけたという。私が映画で見たフレンチ・コネクションや、東京ル−トのことなどをきくと、何でも答えてくれた。

          1977年12月25日(水)
 池田家、葬儀。

 25日が一般のお通夜で、27日が葬儀という。格式を重んじて、そうきめたらしい。

 夜、「日経」の吉沢君から電話。チャ−リ−・チャプリンの訃報。すぐに感想を口述する。明日の朝刊に出る。

 チャプリンの死因は、老衰という。臨終にはウ−ナが付添い、ジェラルディンほか子や孫、8人が見まもったという。葬儀も家族葬ということらしい。

          1977年12月26日(木)
 テレビ、チャプリンの「キッド」を見た。
 解説、荻 昌弘。最初に、チャプリンに哀悼をささげたが、その眼に涙をうかべていた。やはり、深い感慨があったのだろう。

 私の個人的な意見。
 「殺人狂時代」以後の作品のチャプリンは、やはり衰えを感じさせる。
 芸術家の晩年。どういう晩年を生きるのか。

 チャプリンが、20世紀有数の芸術家だったことは疑いもない。
 だが、チャプリンの場合も、映画監督という仕事が、老年の演出家にとっては、困難な仕事になったのではないだろうか。
 「戦後」のアメリカが、チャプリンにその天才のじゅうぶんな展開を許さなかったことは否定できないが。

         1977年12月27日(金)
 池田 美代、葬儀。

 百合子は、連日、池田家に行って、美代さんの葬儀の準備に奔走している。従妹の内山夫人が動けないので、いろいろな雑事まで、百合子が引き受けたらしい。このため、昼になって、美容院に行く時間がなくなってしまった。
 葬儀は、宗胤寺で行われた。この日、快晴。
 これまでの私は、お葬式に出ても、遺族にモゴモゴお悔やみを申し上げたあと、そそくさとお焼香をして辞去する。葬儀に出られない場合は、お通夜に出て、列席の方々に、ヘコヘコ頭をさげて、お葬式に出られないお詫びを申し上げて失礼する。
 もっと忙しいときは、お香典を、妻や親しい知人に託して、義理をはたす。
 そんなことで済ませてきたが、今回は、百合子の大伯母に当たるオバアサンの葬式なので、百合子といっしょに近親者として、弔問の方々の挨拶を受ける側なので、まことに居心地がよくない。
 葬儀そのものは、ご多忙中の参列者の方々のために、厳粛、かつパンクチュアリ−に式次第が進行する。お坊さまによる読経は、まことに、音斗りょうりょうたるもので、どうもふつうのホトケさまの法要の何倍も「ありがたい」ものだったらしい。百合子は身じろぎもせずに控えているが、私は、はなはだ不謹慎ながら、死者と生者の別れの儀式は、できるだけ、生者のタイム・スケジュ−ルにあわせていただきたい、と願っている。
 足がしびれ、すわっている感覚がなくなってきて、ようやくゴングが鳴って、木魚のリズムが聞こえたときは、サッカ−の、ロスタイムに入ったような気がした。

 人の死さえも、こちらの都合にあわせるなど、まことに無礼千番と心得てはいるが、読経につづいてのお焼香になってありがたいと思った。やっと席から立てるからであった。

 葬式の挨拶は、きまりきったことしかいえないので、口にするのもはばかられるのだが、読経が終わったあと、居並ぶ親族が、口をそろえて、故人は身勝手な一生を過ごしてきたが、まったく後生のいい人だといいあう。

 岳父(湯浅 泰仁)の実姉なので、各地の名士からの弔電が多数。

 葬儀のあと、百合子といっしょに帰宅した。疲れた。

 夜、ひとりで飲んだ。チャプリン追悼の意味で。

          1977年12月28日(土)
 池が完成した。

 ただし、歳末なので、職人たちが仕事収めという形をつけただけ。
 あとは、正月明けにようすを見にくる。
 仕事収めなので、酒をふる舞う。

 下沢ひろみ(ネコ)がきてくれた。わざわざ挨拶にきてくれたのだった。仕事収めの祝いと知って、百合子を手つだって、職人たちに酒を注いでまわったり、サカナを運んだり。最近は、原水禁の運動を手つだっていて、ほかのセクトに目をつけられているという。
 ネコが大好きで、わが家にわざわざ挨拶にきたのも、ネコに挨拶するためにきたらしい。
 下沢が帰るとき、駅まで送って行った。焼きハマグリをおみやげにわたしてやる。

2019/04/11(Thu)  1801〈1977年日記 48〉
 
            1977年12月2日(水)
 女優、望月 優子が亡くなった。

    もともとは喜劇女優だったが、昭和29年、木下 恵介の「日本の悲劇」で「毎
    日コンク−ルの主演女優賞を受けてから、演技派の女優になり、昭和33年に、
    今井 正の「米」でブル−・リボン主演女優賞を受けた。
    46年、参院選で、大量に得票して、参議院議員になったこともある。

 私は、ム−ラン・ル−ジュ、古川 ロッパの一座にいた頃の望月 優子を見たことがある。慶応出身の作家で、「サンケイ」の記者、鈴木 重雄の夫人。三島 雅夫を中心に結成された劇団、「泉座」が旗揚げ公演に、ア−サ−・ミラ−の「みんなわが子」を選んだ。そして、翻訳を私に依頼してきた。
 私の「みんなわが子」訳は戯曲の訳としては最低だった。稽古の段階で、私は、自分の翻訳が舞台では使いものにならないことを思い知らされた。
 演出家、菅原 卓が手を入れた。この訳はのちに菅原 卓訳として「早川書房」から出ている。)この芝居に、望月 優子が出たので、口をきくようになった。ある日、稽古場で、望月 優子が私をつかまえて、

 ――中田さん、あんた、スタニスラフスキ−、読まなきゃダメよ。
    といった。そばにいた千石 規子が、したり顔で、
 ――そうよ、そうよ。スタニスラフスキ−、読まなきゃダメなんだから。

 私は、二人の女優に侮蔑をおぼえた。私はまだ演出家になる前で、この稽古場では、「みんなわが子」の翻訳をしながらできの悪いホンなので、みんなに迷惑をかけた青二才に過ぎなかった。

 その青二才の目にも、このふたりの芝居はひどいものに見えた。

 とくに、千石 規子の芝居はひどいものだった。

 「みんなわが子」の初日をみにきた高峰 秀子が、千石 規子の芝居にあきれて隣りにいた女優と顔を見合わせて失笑していたことを思い出す。

 私の「みんなわが子」の翻訳が、戯曲の翻訳としてはひどいものだった。セリフになっていなかった。なにしろ、菅原 卓が、面と向かって、
 「中田君、腹を切りなさい」
 とまでいわれたのだから。

 冷静に見て、この芝居の失敗は、望月 優子、千石 規子がミス・キャストだったからと思っている。

 この失敗から私は芝居の演出をめざすようになったのだから、望月 優子、千石 規子に礼をいわなければならないかも。

 望月 優子は、最後には「日本の母」などと呼ばれる名女優になった。千石 規子は、黒沢 明の映画に、かならず出るようになった名女優になった。私は、このふたりの芝居を見るたびに、「みんなわが子」の演技を思い出したものだった。

 もう一つ。
 これも、新聞のオ−ビチュアリで、テレンス・ラティガンの訃を知った。

    11月30日、ガンのため、バミュ−ダで死去。66歳。
    オックスフォ−ド大卒。1936年、「泣かずに覚えるフランス語」で劇作家と
    してデビュ−。主な作品に「ウインズロ−家の少年」、「ブラウニング・ヴァ−
    ジョン」、「紺碧の海」などがある。映画のシナリオにも手を染め、「チップス
    先生さようなら」、「黄色いロ−ルスロイス」、「王子と踊り子」などを書いた。
    67年以来バミュ−ダに住みつき、71年にナイトの称号を授けられた。

 AP時事の記事で、戯曲のタイトルの訳はひどいし、これではテレンス・ラティガンが「戦後」のイギリス劇壇に与えた影響について何もわからない。
 「泣かずに覚えるフランス語」はナイだろう。せめて、「楽に身につくフランス語」ぐらいでないと、喜劇かどうかもわからない。「深く、静かな青い海」を「紺碧の海」にしてしまうと、ラティガンの上品な世界が見えてこない。
 私はひそかにラティガンの死を悼んだ。
 もっといい戯曲を書いてくれればよかった人なのに。

            1977年12月2日(水)
 作家、海音寺 潮五郎、逝去。

    海音寺 潮五郎、明治35年11月5日、鹿児島県大口市に生まれた。
    1929年、「サンデ−毎日」の懸賞に「うたかた草紙」を応募。
    1936年、「天正女合戦」で、直木賞。戦時中は、陸軍報道班員として、マレ
    −方面に派遣された。
    「戦後」は、1953年、「蒙古来る」、S29年、「平将門」、
    S35年、「天と地と」、など。
    S43年、引退を表明。
    昨年、NHKで、「風と雲と虹と」が放送された。

 残念ながら、私は一度も海音寺 潮五郎を批評する機会がなかった。

 ヴァレリ−ふうにいえば、こういう人たちは、二度死ぬのだ。一度は人間として、もう一度は有名な作家として。
 まあ、人生いろいろだなあ。

                      1977年12月3日(水)
 体調がわるい。風邪のため、咳がとまらない。めったに風邪をひかないのだが、今年は、どういうわけか、いちばん先に私が倒れてしまった。

 今日、木更津で講演があるのだが、咳が出ると困る。

 11時半、県立図書館、司書の竹内 紀吉君と駅前で会う。
 竹内君も、私の咳を心配していた。「ロ−タリ−」で食事をしようと思っていると、そこへ、安東 由利子と石井 秀明がきてくれた。「南窓社」に寄って、私の本を10冊もってきてくれた。

 食事をしているところに安東君がきてくれた。

 今日の千葉駅は――国労、動労が、成田開港反対の遵法ストに突入したため、混乱している。私たちも予定を変更して、快速に乗った。

 木更津着、1時半。すぐに会場に向かう。

 参加者は140名程度。会場は、満員状態。YBC側としては、これほど多数が参加するとは思っていなかったので竹内君に謝ったという。

 講演はうまく行ったと思う。しかし、途中で、咳が出たため、一時中断。

 講演のあと、質疑応答のようなやりとり。
 「私のアメリカン・ブル−ス」にサイン。わずかな部数しか用意しなかったので、すぐに売り切れてしまった。

 安東君たちをねぎらうつもりで、駅前の喫茶店で話をする。

 みんなと別れて、竹内君といっしょに、庄司 肇さんを訪問する。
 庄司さんは、「日本キャラバンを主宰している同人作家。眼科の先生。気骨のある人だが、気さくにいろいろな話をしてくれた。
 辞去したのは、8時過ぎ。

 ストライキの影響で、夜もダイヤが乱れている。8時45分頃、やっと電車に乗れた。

         1977年12月8日(月)
 午後、本田 喜昭さんの奥さんが、千葉まで原稿をとりにきてくれた。恐縮した。
 しかし、私自身がひどい風邪だし、家族そろって寝込んでいる状態なのだから、どうしようもない。
 百合子までが寝込んでしまった。

 「公明新聞」から原稿の依頼。大阪の友人、船堂君から電話。

 夜、義母、湯浅 かおる、義姉、小泉 賀江が見舞いにきてくれた。

 写真の現像。

          1977年12月9日(火)
 百合子、肺炎併発の疑いあり。
 義兄、小泉 隆の診察を乞う。

 「東和」から、「カブリコン・1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)の公開記念に、ITCのル−・グレイド郷が来日したので、パ−ティ−をやるという。
 映画の批評をやっていると、ときどき思いもよらない招待を受けたり、来日したVipに紹介されたりする。

 CICから「ラスト・タイク−ン」(エリア・カザン監督)の試写の連絡。これは必ず見るつもり。原作、スコット・フィッツジェラルド。脚色は、ハロルド・ピンタ−。キャスティングがすごい。

 「文芸」、川村 二郎が、「本居 宣長」について書いている。「新潮」、保田 与重郎、大江 健三郎。おもしろい組み合わせ。久しぶりに保田 与重郎の文章を読む。小林 秀雄に深い畏敬をもっている。その論旨もよくわかるのだが、私としては、承服しがたい部分がある。
 「文芸」の、大笹 吉雄の劇評の冒頭、

    今、歴史を素材にしたドラマほど、書きにくくなっているものはない。その象徴
    的な出来ごととして、木下 順二が歴史劇を書かなくなったということがある。
    なぜそうなったのか。原因はいろいろあるだろうが、もっと、大きいと思われる
    のは、イデオロギ−としての世界観が崩壊、ないしは相対化したということにあ
    る。木下に即してそう思うのは、この劇作家が、精力的に歴史劇の法則とドラマ
    のそれとを一致させようと努力してきた第一人者だからである。
    しかし、こういう認識による限り、歴史の法則性に疑いが出れば、歴史劇を書け
    なくなるのは当然であった。

 ところが、同じ号に、木下 順二が「子午線の祀り」を書いているのだから、皮肉というほかはない。ただし、大笹 吉雄の意見はもう少し検討してみる必要がある。

 キッシンジャ−が、自分の死後、または25年後まで公開禁止を条件に、アメリカ政府に譲渡した在任中の交信記録が、近い将来に公開される可能性がある。
 これは1969年から退任までの8年間、電話の内容をホワイトハウス、国務省の秘書官に速記させ、文書として残したものという。
 ニクソン、フォ−ド両大統領ほか、各国首脳の電話、さらに多くの個人的な相手のものまで含まれる。
 こういう記録が公表されれば、ヴェトナム戦争、中東戦争の経緯、経過に対する重要な証言が得られるだろう。

          1977年12月10日(水)
 裕人が風邪の兆候をみせている。
 夜になって、百合子が腹痛を訴えて、嘔吐をくりかえした。
 私の病状はずっとよくなってきたが、声がかれて、まだいつもの声に戻っていない。

 へんな話。
 ユ−ゴスラヴィア/チト−大統領夫人、ヨバンカ・ブロズ・チト−が、今年の6月から公式の席に姿を見せない。チト−大統領のソヴィェト・中国・フランス訪問に同行しなかったばかりではなく、軟禁状態におかれていると想像されている。「ヘラルド・トリビュ−ン」は――チト−大統領は座骨神経痛、ヨバンカは糖尿病で、不和という。オ−ストリアの新聞は――ヨバンカがアメリカのCIAに利用されたと見ている。
 「ニュ−ズ・ウィ−ク」は――ヨバンカが政府、党の人事問題に口を出して、チト−の不興をかったため、軟禁されたという。
 先日のホ−ネッカ−の「問題」とともに、これは注目すべきニュ−スと見る。
 ユ−ゴは、チト−独裁の下、安定していると見られているが、複雑な人種問題を抱えている連邦国家で、とくに正教のセルヴィアと、カトリックのクロアチアの対立感情がつよい。
 ヨバンカ夫人は、セルヴィア出身なので、人種対立がからんでいるかも知れない。いずれにせよ、共産圏諸国のタガが緩んできているのは間違いない。

          1977年12月11日(木)
 昨日から、庭師が入って、池を掘りはじめた。
 木を植え返したり、地中に埋めてある電気のパイプを掘り起こしたり、わが家としては、かなり大きな工事になる。
 池はルネサンスふうの池にしよう、などと勝手なことをホザいているのだが、庭にレンガを敷いて、部屋からすぐに池に出られる。トリもくるだろうし、サカナも飼えるだろう。

 大阪の船堂君、来訪。
 モンブラン、キリマンジャロなどに登った山男なので、安東 由利子、工藤 淳子、石井 秀明たちを招いて紹介する。
 みんなで、「金閣」で食事。
 船堂君の話は、おもしろかった。
 高度、4000メ−トルで、思考がおかしくなる、とか。ケニアのホテルのショ−は、日本円で40円程度だそうな。

 夜、「恋の旅路」(ジョ−ジ・キュ−カ−監督)を見た。これは、TV用の映画。ロ−レンス・オリヴィエ、キャサリン・ヘップバ−ン主演。劇場では公開されなかった。
 1911年の設定。有名な弁護士のもとに、富裕な未亡人が依頼する。彼女の莫大な遺産目当てで言い寄った男と婚約したが、途中で、相手の目的が財産目当てと知って、婚約を破棄する。そのため、相手の男から婚約不履行で、逆に訴えられる。このままでは、裁判に勝てる公算はない。
 じつは、この弁護士は、40年前に、カナダのトロントで彼女と会っている。当時、彼女は舞台女優。「ヴェニスの商人」の「ポ−シャ」で、ある劇団の巡業でトロントの舞台に立っていた。彼は、舞台を見て彼女に熱をあげ、彼女を口説いた。未亡人のほうは、40年も昔の旅先のロマンスなど、すっかり忘れている。
 裁判がはじまる。
 相手側の弁護士も有能で――この事件は、未亡人が男に熱をあげたこと、男のほうも未亡人の美貌に心をうばわれたことを立証しようとする。
 一方、名弁護士のほうは――未亡人が高齢で、男に口説かれたために一時の気の迷いで、ついつい男にほだされた、と反論する。ところが、未亡人は高齢といわれたため激怒して、自分の弁護士に食ってかかり、退廷させられてしまう。そのあと、名弁護士は、陪審員たちに向かって、切々と愛の意味を説き、みんなを感動させ、不利な状況を逆転させて、みごとに勝訴する。
 さて、退廷させられた未亡人のほうは、何もかも計算しての行動だったと明かす。40年前、弁護士をめざしていた若者を愛していたことを明かして、これからは、もう一度、人生をやり直そうと誓って、ふたりで腕を組んで法廷を出て行く。
 スト−リ−だけを要約すると、なんともご都合主義めいた法廷ものなので、面白くも何ともないが、ロ−レンス・オリヴィエ、キャサリン・ヘップバ−ンの芝居で、イギリスの風俗劇のおもしろさを堪能できた。
 お互いに、初老に達した名優、名女優のやりとりのみごとさ、ドラマの展開の緊張が、コメディ−らしい二人の「関係」(シチュエ−ション)のおかしさ、男女が愛することの「かなしさ」にまで重なってくる。
 私たちの劇場では、ほとんど見ることのないコメディだった。

          1977年12月13日(土)
 11時半、水道橋。
 「南窓社」から、「共同通信」の戸部君に連絡する。

 昼、上野に出る。「イタリア・ルネサンス装飾展」を見た。メトロポリタン美術館所蔵のもの、ロバ−ト・レ−マン・コレクション。特別めずらしいものはなかった。ただ、ヴェネツィアの、水入れというか瓶は美しい。

 メダイヨンの中に、シャルル8世、フェデリ−コ・ダ・モンテフェルトロの像をきざんだものがあったので、心の中で挨拶しておいた。

 今日は、あまりツイていない。
 「ヘラルド」に行ったが、ひどく混んでいるので、試写はあきらめた。
 神田に出て、本を3冊。1冊は、よくわからない本。クレビヨン・フィスの資料(だと思う)。

 「あくね」に行ったが、ここも混んでいる。
 「弓月」に移った。小川には会えず。オバサンが、丸谷 才一の話をした。7歳頃の丸谷 才一をよくおぼえていた。


          1977年12月15日(月)
 昨日は、「共同通信」の戸部君に原稿をわたした。「日経」の秋吉さんから督促。

 「ドミノ・タ−ゲット」(スタンリ−・クレイマ−監督)を見た。
 ジ−ン・ハックマン、キャンディス・バ−ゲン、リチャ−ド・ウィドマ−ク。
 愛する女、「エリ−」(キャンディス・バ−ゲン)の夫を殺したため、服役中の「ロイ」(ジ−ン・ハックマン)は、同囚の「マ−ヴィン」(リチャ−ド・ウィドマ−ク)から脱獄に協力しろといわれる。脱獄に成功した彼は、アメリカを脱出して、コスタリカで「エリ−」と再会するが、じつは脱獄をエサにした、国家的な要人の暗殺計画の実行犯に仕立てられていることに気がつく。
めずらしく、ミッキ−・ル−ニ−が出ていた。ぶくぶくに肥っている。これが、あの「アンデイ・ハ−デイ」のなれの果てなのか。

 CICに行く。「ラスト・タイク−ン」(エリア・カザン監督)。原作、スコット・フィッツジェラルド。脚色は、ハロルド・ピンタ−。
 30年代のハリウッド。若手の敏腕プロデュ−サ−、「モンロ−」(ロバ−ト・デニ−ロ)は、若いイギリス人女性(イングリッド・ボ−ルディンク)に亡き妻の面影を見て、恋に落ちる。これを知った撮影所長は、「モンロ−」の独走をきらって、かれをしりぞける。
 キャスティングがすごい。トニ−・カ−ティス、ロバ−ト・ミッチャム、ジャック・ニコルソン。これに、ジャンヌ・モロ−、アンジェリカ・ヒュ−ストン。
 エリア・カザンのような演出家でも、どうしようもない衰えを見せている。おなじように、ノスタルジックな気分を描いても、「華麗なるギャッビ−」(ジャック・クレイトン監督)や「イナゴの日」(ジョン・シュレジンジャ−監督)のような作品がある。ところが、カザンはそれぞれのシ−ンを丹念に演出しているだけで、全体にテンポが緩んでいる。テンポが遅ければノスタルジックな気分が出せるわけではない。

 5時半、「ジュノン」、松崎 康憲君のインタヴュ−。これは、まあ、うまくいったと思う。「日経」、秋吉君に原稿をわたした。ところが、「映画ファン」の萩谷君に原稿をわたす約束だったことを思い出した。萩谷君に、わるいことをした。
 6時半、「山ノ上」で「マリア」に会う。ここにくる途中、安東 由利子、石井 秀明に会ったという。二人とも、「マリア」が私に会うために急いでいると知って、同行しなかったらしい。

          1977年12月16日(火)
 「山の上」で、萩谷君の原稿を書いた。「マリア」が私についていてくれたのだった。

 六本木に。アヌイの「アンチゴ−ヌ」を見に行く。知らない劇団のスタジオ公演。
 吉祥寺で、これも知らない劇団のスタジオ公演。ハロルド・ピンタ−の「ダムウェイタ−」をやっているのだが、遠いので敬遠した。

 夜、「マンハッタン物語」(ロバ−ト・マリガン監督)を見た。
 しがない楽士、「ロッキ−」(スティ−ヴ・マックィ−ン)は、避暑地で知りあった少女、「アンジ−」(ナタリ−・ウッド)と一夜を過ごす。そのため、少女は妊娠する。彼女の愛に胸をうたれた「ロッキ−」は結婚を考える。

 夜、雨になった。震度・2程度の微震があった。

          1977年12月17日(火)
 ひどく暖かい日。9月下旬の気温という。昨日の雨はあがった。

 師走というと、ベ−ト−ヴェンの「第九」が出てくる。「フジテレビ」のドラマは、第1次大戦で、捕虜になったドイツ軍の兵士たちが、捕虜収容所で、「第九」を演奏した実話を描いている。最後に、150人のアマチュア演奏家が「第九」の演奏を流したのは驚きだった。

          1977年12月18日(水)
 一日じゅう、ただ、考えている。

 船堂君から手紙。

    「キリマンジャロの豹」こと、中田先生、この前は、中国料理をずいぶんたらふ
    くとたべさせていただき、ありがとうございました。先生が「山屋」として精力
    的にやっておられる話を聞かせてもらって、少し驚いています。ルネサンスふう
    庭園、とかいう池、なかなか面白そうなことをよくやられますねえ。エマニエル
    と沖田 総司みたいなですかねえ。でも一番びっくりしたのは、黒い鉄門です。
    あれで、すぐに先生の家だとわかりました。あのように思い切った門を取り付け
    るのは、気分がいいでしょうねえ。ほくも、いつかいえでも作るような事があっ
    たら、ああいうような門をつけてみたいと思います。

 いろいろなあだ名をつけられたことがあるが、「キリマンジャロの豹」というのは、気に入った。
 百合子にこの手紙を読ませたが、「エマニエルと沖田 総司」は、わからなかったらしい。「異聞沖田総司」の登場人物なのだが。
 門は、私がデザインした。「共同通信」の戸部君も、この門をみて驚いたひとり。しきりに感に耐えないという顔をしていた。それはそうだろう。鉄板を切って作った女のヌ−ドが、そのまま門になっているのだから。私の傑作の一つ。

 深夜、北海道の友人、早川 平君に手紙を書く。

          1977年12月20日(金)
 「ワ−ナ−」、「ワン・オン・ワン」(ラモント・ジョンソン監督)を見た。
 バスケットの選手、「ヘンリ−」(ロビ−・ベンソン)は、名門、ウェスタン大にスカウトされるが、小柄で、何につけ、消極的なので、名門校の選手としてやっていけるかどうか悩む。青春映画。

 夜、学生たちのコンパに呼ばれている。
 安東 つとむが企画したもので、30名が出席。かんたんにいえば忘年会だが、山のメンバ−がほとんど。このほかに、栗原、長谷川 栄二、「双葉社」の沼田 馨君たち。
 みんなで、わいわい騒いだり、飲んだり。私は、「マリア」が出席しなかったことが気になっていた。
 二次会に行く。まだ大勢が残っている。高円寺のガ−ド下の居酒屋。

 終電にやっと間に合った。

           1977年12月22日(日)
 「公明新聞」に、「私のアメリカン・ブル−ス」の書評。

 今年も、映画をたくさん見た。日本映画も見たが、批評を書く機会はなかった。
 「幸福の黄色いハンカチ」、「宇宙戦艦ヤマト」、「青春の門・自立編」、「八甲田山」ぐらいか。

2019/03/31(Sun)  1800〈1977年日記 47〉
 
           1977年11月19日(土)

11時に家を出て、三崎町の「地球堂」で、写真を受けとる。
 新宿。「アルプス7号」。安東夫妻、吉沢 正英、工藤 敦子、鈴木、石井たち。
 塩山で、バスに乗る前に、近くの「港屋」でナタを買った。

 はじめは、増富ラジウム温泉に泊まって、木賊峠、長窪峠、八丁峠、そして清川というプランだった。しかし、明日が日曜日なので、増富が混んでいることは予想できた。
 木賊峠までは林道が長いので、泊まりは黒平温泉のほうがいい。ところが、電話で問い合わせると休業したという。
 仕方がない。甲府の奥。古湯坊に泊まって、帯那山、水ノ森のコ−スはどうか。これまた、いっぱいという。不況なのに、どこの温泉も混んでいる。
 私たちの登山は、物見遊山ではないのだが、なるべく温泉に泊まりたいという気もちは、日本人らしい発想なのかも知れない。
万事休す。地図を睨んで、川浦の奥の雷(いかずち)、日乃出荘に泊まれば、大島山、大久保山のコ−スが考えられる。朝、マイクロバスで送ってくれれば、雲法寺から小楢山も歩ける。よし、これにきめた。
 日乃出荘に電話。予約。

 いつも、ザックは準備してある。
 ヴェトナム戦争で使われた実戦用の小型のザックに、すべて叩き込んである。これに、ツェルトを持って行くのが、私の基本的なスタイル。

 歩きはじめる。
 やがて、雑草を踏みわけて、登山コ−スにでると、肌寒いほどの気温になってきた。山に近い盆地なので、温度差がはげしいのか。草の匂い。正面の山の上は、朝焼け。これは、警戒が必要だろう。わずかな畑、その上の空がいちめん、澄みきった紅に染まっている。私と吉沢君は、しばらく空の色に見とれて、草原のなかに立ちつくしていた。

 雷(いかづち)で下りた。「日乃出荘」のオバサンが、私のことをおぼえていた。夜食は、イノブタ。おいしい。
 5時半。マイクロバスで徳和まで送ってもらう。

 6時5分、歩きはじめる。
 川沿い、北上する。堰堤を三つ過ぎたところで、渡渉。
 工藤 淳子が、またしても特技をご披露した。どんな小さな水たまりでも、かならず足をすべらす特技。このときも、私がうしろに立って、カヴァ−してやったのに――川に落ちた。下半身ずぶ濡れ。みんなが笑ったが、笑いごとではない。
 安東と石井に、近くの木を2本、切らせた。(ナタを買ってよかった。)この木を川に掛けて橋のかわりにする。菅沼はうまく渡ったが、鈴木がバランスを崩して、足を濡らした。
 歩き出したとたんに、こんな事故を起こしたのはめずらしい。
 予定変更。川原で、火を起こして、朝食。その間に、工藤と鈴木は、できるだけ早くズボンを乾かすことにした。

 崩れかけた橋(丸木)の手前から、岩の多いガレ場を登って行く。

 きつい斜面を登って、大カラス山の東の支峰に出た。ここで赤マ−クを見つけた。道らしいものは残っていたが、誰も通る人のない廃道らしい。
 こういうコ−スこそ、私たちの本領とするところなのだ。足の下に踏みつける土の感触が違う。
 やがて、1773の三角点を見つけた。
 ここで、昼食。

 鈴木がバテたらしい。
 やむを得ない。彼女をここに残して、あとのメンバ−で、大カラス山をめざした。なにしろ、道らしい道もないのだから、途中、岩に這いつくばってやっと通り抜けた。
 大カラス山の往復に50分かかった。

 帰りは、夕方4時55分のバスに乗らなければならない。道は、東御殿の先から荒れ果てている。松を切り倒したあたりから、道ではない斜面を下ることにした。
 大久保山の下からできるだけ東の尾根をたどり、徳和をめざした。

 午後、4時にバス停についた。期せずして、拍手がおきた。
 久しぶりに、おもしろい山行になった。

 ――おれたちって、スゴいんじゃね?」
    だれかがいった。
 ――だれも登らない山を登るって、おもしろいですね。
    私はいった。
――バスに乗れなかったら、ここでビバ−クするぞ」

 久しぶりに、おもしろい山行になったので、みんなが笑った。

         1977年11月21日(月)

 埴谷 雄高さんから「蓮と海嘯」をいただいた。

 夜、「スロ−タ−・ハウス」(ジョ−ジ・ロイ=ヒル監督)。
 中年の検眼士が、時空を越えて、さまざまな場所に出没する。現在のSFがどういう状況なのか、ほとんど知らないのだが、カ−ト・ヴォネガットの小説は、これからの文学の一つの指標と見ていい。

 昨日、新聞で、フランスの俳優、ヴィクトル・フランサンが亡くなったことを知った。私は、この役者についてほとんど知らない。「旅路の果て」で老俳優をやったヴィクトル・フランサンを思い出す。
 「運命の饗宴」の第3話、貧しい作曲家(チャ−ルズ・ロ−トン)が、コンサ−ト・ホ−ルで自作を指揮することになる。妻(エルザ・ランチェスタ−)がやっとのことでタキシ−ドを見つけてくる。作曲家は指揮をするのだが、タキシ−ドが破れて、失笑を買う。
そのとき、会場にいた名指揮者が、自分の席でタキシ−ドを脱いで、貧しい作曲家に、指揮をつづけるように指示する。この名指揮者をヴィクトル・フランサンがやっていた。
 その後、エロ−ル・フリンの西部劇、「サン・アントニオ」(デヴィッド・バトラ−監督)で、あの美髯を剃り落として、悪役をやっていたヴィクトル・フランサンに胸を衝かれたことを思い出す。

         1977年11月22日(火)

 芥川 龍之介を読む。

    夏目先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は過去に於いて、十二分に仕事をさ
    れた人である。が、先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、その頃或転機の
    上に立ってゐられたやうだから。すべての偉大な人のやうに、五十歳を期して、
    更に大踏歩を進められやうとしてゐたから。

 「校正の后に」という文章の一節。
 漱石の死を悼む真情はよくあらわれているが、なんとなく空疎な感じがある。おそらく、忽卒のうちに書かれたためだろう。
 それはともかく、五十歳を期して、更に大踏歩を進めようとするのは、漱石のような大作家にかぎったわけではない。
 私は、しがない「もの書き」だが、それでも、五十歳を期して、いささかあらたな歩みを模索している。

 武谷君と仕事の話。長編を書くことになった。これも一つの「転機」というべきか。

 5時。「南窓社」の岸村さん。アナイスの小説を出してくれないかと相談する。「実業之日本」には、アナイスを出す気がないのだから、私としては、「南窓社」あたりに話をもって行くしかない。またしても杉崎女史は失望するだろう。どうして、これほど苦労させられるのか。

 「あくね」。小川 茂久と。

 小川は、私と違って、かぎりなく酒を愛している。しかし、彼はおよそエピキュリアンではない。一見、そんなふうに見えるのは、じつは彼が一種の宿命観をもっているせいではないかと思う。
 1945年、もはや敗戦必至の状況で、小川は招集を受けた。

    「三月九日夜半から十日未明にわたるすさまじい東京大空襲を、大森で見聞して
    いたし、六月二十三日の沖縄守備軍全滅の報道も知っていたので、入隊の時には
    、戦い利あらず、一命を落しに行くようなものだと覚悟した。諦め易い質の私は
    その忍び寄る死に対して、まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった。

 こうした一種、ニル・アドミラリの姿勢は、私にもある程度、共通しているはずだが、小川は表面こそ「まったく無感動で、なんら抵抗を覚えなかった」ように見えながら、現実には、人いちばいきびしい正義観をもっていた。たとえば、戦争責任者に対する彼の眼は苛烈だった。
 文学に対しても、彼の内面は繊細で、柔軟だった。
 いつも、ほのぼのとしたおもむきをたたえながら、内面に機知をわすれない。

 お互いに、たいした事を話題にするでもなく、ひたすら酒を飲みしこる。こうして、私は小川 茂久と三十年も過ごしてきた。そのことを人生の幸福と思っている。

         1977年11月23日(水)・

 快晴。無為。

 「毒物」について。しばらく勉強するつもり。
 たいへんな領域だと思う。(ずっとあとになって、このときの知識が「ブランヴィリエ侯爵夫人」を書くのに役立った。 後記)

 和田 芳恵さんのエッセイに、柴田 宵曲のことばがあった。

    私は五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むことにしている。学者や批
    評家が、長いあいだに、多くの作品を篩に書けているから、無駄な苦労をしない
    ですむ。

 和田さんは、柴田 宵曲の影響を受けたという。
 岩波文庫で宵曲を読んだだけだが、和田 芳恵さんのエッセイを読んで、あらためて読み直してみようと思った。
 できれば私も「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読むこと」をこころがけようと思う。

         1977年11月24日(木)・

 快晴。ただし、寒い。
 国電ストは、6時半から平常に戻ったが、混乱は避けがたい。それにしても、国労、動労は、どうしてこういう無意味なストを打ち出すのか。

 昨日のロンドン、円相場は、1ドル=239円38銭。
 円相場は9月末から上昇をつづけ、10月6日に、260円。28日に250円。ここにきて、230円に突入した。
 国内の不況は、先月の、菅原君、小野君、内藤君、三人の話でもわかったが、これから日本はどうなって行くのか。

         1977年11月25日(金)・

 先日の登山で、めずらしく石井 秀明がバテた。どうやら風邪気味だったらしい。
 今は、私が風邪をひいている。手の肘、膝のうしろ、ヒカガミのあたり、痛いほどではないが、キヤキヤした感じ。

 「ビリ−・ザ・キッド」(サム・ペキンパ−監督)を見た。
 アウトロ−の世界に、奔放に生きて、最後にみずから進んで友人の手にかかる、「ビリ−・ザ・キッド」(クリス・クリストファ−スン)。一方、開拓者の時代の終わりを測々として感じながら、どこまでも旧友、「ビリ−・ザ・キッド」を追いつめて行く保安官、「パット・ギャレット」(ジェ−ムス・コバ−ン)の対決と友情の物語。
 ほんとうにいい映画だが、サム・ペキンパ−の映画としては、一昨年の「ガルシアの首」のほうがいい。こういうことは、短い映画評では、なかなかつたえられない。
 サム・ペキンパ−は、メキシコが好きで、多分、メキシコの女も好きなのだろう。「ガルシアの首」に、イセラ・ベガを出したように、この映画で、カテイ・フラ−ドを出している。「真昼の決闘」(フレッド・ジンネマン監督/1952年)のカテイは美女だったが、この映画では、中年のオバサン。女優として、いい年のとりかたをしている。
 音楽はボブ・ディラン。しかも、ボブは、この映画に出ている。芝居をしているわけではない。ただ、クリス・クリストファ−スンのそばに、ムスッとした顔つきで立っているだけ。それだけで存在感がある。

 できるだけ安静にする。しかし、夜になって、37度9分。

         1977年11月26日(土)

 連日、ドル安、円高がつづいている。日銀が介入して1ドル=240円。ここまで円高というのは、異常事態で、このままでは世界じゅうで円がスペキュレ−ンの対象になるおそれがある。

 中国。「人民日報」が、この21日に座談会をひらいて、茅盾、劉 白羽、謝冰心、李 李などが出席。ここでも――江 青たちは、劉 少奇批判を口にしながら、党指導の社会主義文芸路線を毛 沢東の思想と対立する反社会主義的なものときめつけたという。

         1977年11月27日(日)
 風邪のため、一日じゅう寝ていた。
 関節、とくに肘が痛む。発熱。本を読む気が起きない。

         1977年11月28日(月)

 「白鯨」を読みはじめた。
 田中 西二郎訳。田中さんが、署名して贈ってくださった。
 「五十年を一区切りにして、すぐれた文学書を読む」つもり。


         1977年11月29日(火)

 しかし、ひどい目にあった。咳をすると、とまらなくなる。肋骨にヒビが入ったように、痛い。痰を吐いたあとも、ゼロゼロしたものが胸に残る。声が出ない。出ても、自分の声とは思えない。とにかく、ひどい目にあった。
 「小泉内科」で注射してもらった。
  原稿は何も書けない。
 「日経」の原稿だけは書いた。

 貧乏作家なので、ついつい雑文ばかり書いている。収入は安定しているので、いつまでもポット・ボイラ−をつづけなくていい。もう少し仕事をセ−ヴしよう。
 そろそろ、念願の大きな仕事にとりかかったほうがいい。

2019/03/22(Fri)  1799〈1977年日記 46〉
 
          1977年11月13日(日)

 レオポルド・ストコフスキ−が亡くなった。95歳。
 残念なことに、ストコフスキ−のレコ−ドをもっていない。だから、思い出のなかのストコフスキ−の演奏を思い出す。(ストコフスキ−が指揮したディアナ・ダ−ビンをもっていたはずだが、これも探し出せなかった。残念。)

 久しぶりで山歩き。
 「マリア」がいっしょなので、ぐっとレベルを落として、低い山を選んだ。相模湖から明王峠に出て、陣馬山というコ−ス。初歩のコ−スだが、相模湖から逆に歩くコ−スは、誰も通らない。あまり低すぎてつまらないが、誰も通らないだけに、ピクニックにはいい。明王峠から陣馬は、人が多いので、別のコ−スに。

 相模湖から、やや冷たい風が吹いてくる。あたりに人影はない。
 峠に出て、一服する。

 「マリア」は、落ちついた足どりでついてくる。何度か山歩きをつづけて、ハイキングの楽しさがわかってきたのか。

 途中で、姫谷に出ることにした。林道まで、たかだか1800メ−トル。だが、このコ−スも楽しかった。じつは、私の目的は、二色鉱泉だったが、休業しているというので、姫谷に変更したのだった。
 姫谷で、シカの刺し身、イノシシ鍋を食べた。
 「マリア」はひるまずに、イノシシ鍋をつついている。これまで一度も食べたことのないものでも、おいしい味はおいしいのだ。
 帰り、高尾で乗り換えたのだが、電車のなかで、思いがけず、知り合いに会った。以前、「あくね」にいた女の子だが、寺山 修司の劇団、「天井桟敷」の研究生だった。
 「ネスカフェ」のCMを歌っているマデリン・ベルに似たハスキ−な声。
 「マリア」を見て、
 −−先生、お楽しみね。
 もともと、青白い顔で、暗い影のある女の子だったが、すっかり健康な感じになっていた。今は幼稚園の保母さんになっている、とか。

         1977年11月14日(月)

 内村 直也先生、藤枝 静男さんから、「私のアメリカン・ブル−ス」受贈の礼状。
 藤枝さんは――埴谷 雄高さんの話では、サルバド−ル・ダリに、バルトロンメオ・ヴェネトの絵にわざわざ髭をつけて「自画像」と題した絵があると書いてきた。この絵は私も見たことがある。藤枝さんは、全集(「筑摩書房」)の月報に、ヴェネトとダリの絵を並べてみたい、という。
 内村さんは――(私がとりあげている)ア−サ−・ミラ−、テネシ−・ウィリアムズは、アメリカ現代戯曲の最高峰。これ以後の劇作家は完成品とはいえない、という。こういういいかたは、内村さんに特徴的なものだが、私の意見では、ミラ−、ウィリアムズ以後の劇作家にもすぐれた人はいるし、ウィリアムズにしても、もう完成した劇作家とはいえないと思う。

 テレビで、マニラのホテル・フィリピナス焼亡のニュ−ズ。これには驚いた。

 マニラ滞在中、このホテルに泊まっていた。マニラで知りあった、ス−サン、キテイ、名前も知らないオジイサンのタクシ−・ドライヴァ−のことを思い出した。

 マニラに行ったのもまったくの偶然だった。

――あなたは疲れているのよ。しばらく、旅行でもしてみたら。
    ある日、妻の百合子がいった。
 ――どこへ?
 ――行ってみたい場所よ。ひとりで。

 百合子がすすめてくれたのだった。
 当時、私は、ある週刊誌の仕事を終わっていた。これは、私のはじめての挫折といっていい。しばらく立ち直れなかった。つぎの仕事にとりかかる気力もなかった。そのくせ、毎日、雑文を書くのに追われていた。多忙だった。これは当時も今も変わらない。
 外国に行ってみよう、という衝動的な思いつきが、それからあとの、慌ただしい出発に結びついた。

 サイゴンに行った。この「旅」は私に大きな変化をもたらした。

 その帰り、マニラに向かった。

 当時、フィリッピンは、マルコス政権の時代で、ヴィェトナム戦争の影響を受けていた。フィリッピン全土は、ヴィェトナムとおなじように夜間外出禁止(カ−フュ−・タイム)だった。
 ある日、私は、松林につつまれたマニラ郊外のナイトクラブに行った。その帰り、カ−フュ−・タイムになってから、マニラのホテルに帰ることになった。パスポ−トをホテルに預けてあるので、戒厳令下のフィリッピンでは、外国人にはいろいろと不都合な事態が起きることも予想されたのだった。
 たまたま、老人の運転するボロ・タクシ−に乗った。途中、この老人とほとんど口をきかなかった。

 マニラ市街に入ってから、老運転手は、私の空腹を察したらしく、自宅に寄って何か食べさせてあげよう、といった。
 オジイサンの家は、平屋で、貧しい暮らし向きだった。コンクリ−トの三和土(たたき)に、机が一つ、木の椅子が二つ。これほど貧しい生活は――東京の、空襲で焼け出された当時の私の生活に似ていた。

 オジイサンは、クロワッサンとバタ−、コ−ヒ−だけの夜食をふる舞ってくれた。

 このとき、オジイサンは、戦争中のマニラで、日本軍が無差別に市民を銃殺したことを話してくれた。そのことばに、怒りはなかった。ただ、たんたんと、そうした事実があったことを話しただけだった。
 戦争の記憶は遠くなったにしても、マニラの市民たちのあいだでは、まだまだ反日感情が強いと聞いていた。
 しかし、オジイサンのことばに怒りはなかった。

 私は異国に旅をしていることで、考えが単純になり過ぎていたのかも知れない。土地の変化や、時の移ろいは、自分で想像する以上に、私の思考や意識を変化させているに違いない。そう考えると、無差別にマニラ市民を銃殺した日本の兵士たちの狂気を、この老人が私にむかって非難しても当然だった。
 しかし、オジイサンは、ただ、おだやかな口ぶりで、1945年にそうした事実があったと話しただけだった。この老人の話は私の内面にえぐりつけられた。
 人間の犯してきた愚行の、最悪の狂気も、この見知らぬ国の暑さの中で私がずっと見つづけてきた、いわば既知のもののようだった。

 翌日、私は、マニラからバギオに向かった。ここで、幼い少年たちと知りあったが、これも貧しい子どもたちだった。私は、この少年たちから、何かを教えられたような気がした。
 ホテル・フィリピナスのことから、いろいろなことを思い出した。

         1977年11月15日(火)

 ホテル・フィリピナスは全焼した。

 7階建てのビルには、窓が黒く焼けて、日の廻りが早かったことがわかる。悪いことに、マニラは、13日の夜から季節はずれの台風に襲われて、消火作業が遅れたらしい。死者、42人。

 午後1時半。「サンバ−ド」で、杉崎 和子女史に会う。杉崎さんは、アナイス・ニンの一周忌に会合をもつことになり、その準備にとりかかっている。このために「牧神社」の菅原 孝雄君に会うことにしたのだった。菅原君はなかなかこなかった。しびれを切らしてこちらから電話をかけた。やっぱり、約束の時間を間違えていたことがわかった。
 このときの話は、「アナイス・追悼」の会場、会費をどうするか。

 「あくね」。小川 茂久と飲む。お互いに話をするわけでもない。盃が空になると、酒を注ぐ。そのくり返し。
 思い出したように、小川がいう。
 ――「こんどの真一郎さん、読んだかい?」
 ――「読んだよ」
 ――「どうだった?」
 私は感想を述べる。小川 茂久は黙って聞いている。中村 真一郎は、お互いに少年時代からの知りあいなので、よく話題になった。「こんどの」というのは、その時期の「文学界」だったり、「群像」だったり、「そのときの」作品を意味する。
 しばらくして、小野 二郎が内藤 三津子女史といっしょにきた。私は、すっかり酔っていた。
 「あくね」のママが、しきりに内藤女史にからむ。こういうとき、私としてはほんとうに困る。どうしていいかわからないので。

           1977年11月16日(水)

ストコフスキ−が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。

 マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリの自宅で心臓発作で逝去。享年、53歳。

 私は、センチメンタルな男かも知れない。いや、センチメンタルな男なのだ。
 この日はマリア・カラスばかり聞いていた。

 夜、「マリア」から電話。その応対を百合子が聞いていた。
 彼女が私にひどくなれなれしい口をきくので、百合子が、
 「どうして、あんな口をきくのかしら」
 と、私をなじった。

           1977年11月17日(木)

 前夜から、風雨がつよい。雨は午前中も降りつづき、10時頃は、あたりが暗くなった。キンモクセイが全部倒れてしまった。可哀そうに。

 池袋、「西武美術館」で、「ソビエト映画 三大巨匠展」をやっている。
 ソヴイェトの映画は好きではない。しかし、見ておく必要はあるだろう。エイゼンシュタイン、プドフキン、もう一人は誰だろう?
 ついでに、ファッション・ショ−を見ようか。ニュ−・フォ−マルと毛皮のファッション・ショ−、ゲストに今野 雄二。これは、19日、1時と3時。

 池袋に行くのなら、すぐに山の帰り、ついでに「西武美術館」に寄ろうと考える。何でも登山に結びつけて考える習性がついている。池袋なら、秩父に行けばいい。
 久しぶりに単独行を考えた。

 いつも、グル−プで行動する。行き先だけは、当日の天候とにらみあわせて、私がきめる。あとは臨機応変に、みんなで意見を述べる。行き先はきまっても、現地に行ってから、きゅうにコ−スを変更することもめずらしくない。
 単独行の場合は、自分で何もかもきめるので、いつもより綿密にプランを考えることになる。

             1977年11月18日(金)

 小林 秀雄の「本居宣長」が出た。

 伊勢、松坂にあって、思想家として生きた本居宣長は、古典に、人生の意味を匡し、道の学問を究めた。小林 秀雄が、「新潮」に11年連載したまま、今まで出版しなかったもの。
 これは、ぜひ読んでおきたい。

 本屋に行った。
 棚に、「本居宣長」が並べてある。棚の前に、母子づれが寄って行った。母子の話のようすから、男の子は中学1年生らしいことがわかった。
 男の子は、どうしても「本居宣長」を読みたいと思った。ただ、自分では買えない値段なので、母にせがんで買ってもらうことにした。それだけのことだったが、もし私が、中学生だったら、母、宇免は「本居宣長」を買ってくれるだろうか、と思った。
 4000円の本である。中学生には、おそらく読みこなせない本とわかっていて、なおかつ、母、宇免は「本居宣長」を買い与えてくれるだろうか。
 宇免だったら、なんのためらいもなく、私にこの本を買い与えたに違いない。理由はまったく薄弱なもので、たとえ読みこなせない本とわかっていても、息子が読みたいといったのなら、即座に買い与えたに違いない。
 私は母に本を買ってほしいとせがんだことは一度もない。(子どもの頃の話。)欲しい本は自分のお小遣いで買って読んだ。その私が母に買ってほしいとせがんだのなら、たとえ自分の食事を抜いてでも買い与えてくれたと思う。

 その男の子は「本居宣長」を抱えてカウンタ−に行った。
 希望がかなえられた少年は顔を輝かせていた。

 私はこの母子の姿を見て胸を打たれた。いい光景だった。

 夜、「キャバレ−」(ボブ・フォッシ−監督)を見た。
 あらためて、ライザ・ミネッリに感心した。しかし、テレビなので、ラストはライザが「キャバレ−」を歌うシ−ンで終わっていた。映画では、カメラがステ−ジから客席に引くと、その客のなかに親衛隊の将校や、ナチのメンバ−がいる。それで、この時代の恐怖がまざまざと感じられる「演出」だった。
 テレビでは、それが全部カットされている。そのため、ただのミュ−ジカルのハッピ−・エンドに変わっていた。
 テレビでこの映画を見た人は、「キャバレ−」に、ハッピ−・ゴ−・ラッキ−なものしか見なかったにちがいない。

2019/03/16(Sat)  1798〈1977年日記 45〉
 
              1977年11月1日(火)
 「南窓社」に行く。「私のアメリカン・ブル−ス」が出た。
 出版の話があって、今日まで少し時間がたってしまったが、それでも「南窓社」の岸村 正路さんと出会えたことは、幸運としかいいようがない。彼の励ましや助言がなかったら、この本は世に出ることはなかった。

 できたばかりの「私のアメリカン・ブル−ス」を手にとってみる。装丁にジェ−ン・フォンダの写真を使ったが、思ったほどわるくない。うれしかった。自分で装丁して自分で満足しているのだから、世話ァねえや。

 岸村 正路さんが、モ−ゼルを用意してくれた。ありがたい心づくし。ほかの出版社で、本を出したとき、こんなおもてなしをうけたことはない。編集を担当してくれた松本 訓子、藤平 和良おふたりといっしょに乾杯する。おふたりにも心から感謝している。

 私がこの本を書いたのは、自分の好きな作家を選ぶことで、いちおう私の「アメリカ」にケリをつけたかったからだ。ア−サ−・ミラ−も、テネシ−・ウィリアムズも、自分の演出で上演できた。オニ−ルや、今のオフ・ブロ−ドウェイの劇作家たちも、いつか演出してみたかった。残念ながら、その機会はなかった。そして、演出家としての私のキャリア−は終わっている。それでも、これまで書けなかった問題をこの本で書こうとした。うまく書けたかどうかは別として。

 内村 直也、荒 正人、埴谷 雄高さん、庄司 肇さんに、「南窓社」から本を送ってもらう。いずれも、私にとっては大切な恩人なのだから。

 「ロ−タス」で待たせておいた「マリア」に、「私のアメリカン・ブル−ス」にサインして贈る。彼女も喜んでくれた。本を抱きしめて感激しているので、私までうれしくなった。

 「あくね」に行く。小川 茂久がいるので。
 小川は、私の本を見て、ケッケッケと笑った。小川はうれしいことがあると、いつもこんな笑いかたをする。
 ――装丁、いいねえ。きみの趣味だな。
 ケッケッケと笑った。

              1977年11月2日(水)
 昨日、一昨日と、暑いほどだったのに、今日は冷たい雨になった。

 たとえば、朝、化粧室に、貴婦人がいるとしよう。
 お侠なメイドが、なれた手つきで、マダムのお化粧にかかっている。奇抜なヘア−・スタイル。夫人のかたわらに、修道院長がひかえている。マダムの髪形や、ヴェ−ルについて、ご意見を申しあげる。と、化粧室のドアが開いて、マダムのお嬢さまが朝の挨拶に伺候する。(書いていて、コメディ−・フランセ−ズの舞台を思い出した。)

 こういう環境で成人するお嬢さまも、やがて結婚なさるわけだが、新婚カップルなのに、はじめからアンニュイに襲われて、夫との深いミゾを埋めることもできない。
 おそらく、ノン・オ−ガズミックな性生活のせいで、うつろな心に不満がきざしはじめる。
 家族の気まぐれに翻弄され、財産の所有権を、かりそめの幸福と引き換えた女性は、自尊心を傷つけられて、夫婦間の裂け目をますます大きなものにしてゆく。
 夢ふくらむ乙女心を無残に打ち砕いた夫を許せるはずはなかった。
 離婚もままならず、長い人生を鎖につながれて生きなければならなかった。ソフィ−・アルヌ−ルは、無邪気に、いったという。
 「離婚って、姦通の儀式なの?」

 かくて、ロココの姦通はまことに陽気なものになる。女たちは、いそいそとして姦通に走った。

 ただし、せっかくの楽しみも冷水を浴びせられることがある。

 妻に欺かれた夫が、妻の不貞にまったく無関心な態度を見せることだった。
 夫との性行為が、単純で、粗暴で、ほとんど動物的とさえ見える時代、ロココの女たちの結婚生活に、嫉妬という情念はほとんどあらわれない。
 女たちは喜々として姦通に走ったため、嫉妬心どころか、ほかの感情も入り込む余地がなかった。
 ロココの時代、レデイ・キラ−に対して嫉妬をあらわにすれば、貴婦人たちや、その取り巻きの詩人たちには、滑稽な気晴らしのタネにされるばかり。まして、寝とられたコキュと、みごとに首尾を果たしたオンドリが醜い争いをくりひろげたりすれば、世間の笑いものになる。
 セックスにおける「乱倫」とは、「コン」(ペニス)の強さのことであって、うっかり男に嫉妬すれば、夫のほうは「去勢」されたせいと疑われるのがオチになる。

 「嫉妬は、女を疑うことではなく、おのれを疑うことなのだ」と、バルザックはいう。

 この時代、自分の妻ひとりを愛するような男は、ほかの女たちをそそのかして足を開かせる甲斐性がない、と嘲笑される。
 利口な夫たちは――自分の性的な能力を妻にまで嘲笑されるのは困るので、妻の行動を束縛して、世間から遮断したりはしない。妻が他の男の口説きに屈して、裸身をさらしても、そういう男を相手に快楽にふけることこそ、洗練された妻のありかたなのだと自ら納得してみせる。
 じつのところ、妻の貞節などはじめから信用していないため、妻の不実を知っても、笑いとばすのが男の甲斐性だった。
 ただし、そういう夫にとって、我慢ならぬことがある。
 自分の妻が他の男と通じているのはかまわないが、相手の男の前に別の女性があらわれて、突然、妻が捨てられるような事態、となれば由々しきことになる。夫婦のプライドが傷つけられたことになるからだった。
 少なくとも夫婦のプライドに汚点をつけようとする、陰謀のようなものになる。
 ド・スタンヴィル夫人は、粗暴な夫に蹂躪されていたため、姦通に走ったが、夫の陰謀にたばかられて、相手の男を別の女にさらわれたため、修道院に身を沈めなければならなかった。

 いつか、こういう時代の姿を描いてみたいのだが。

              1977年11月3日(木)
 さわやかな秋晴れ。
 午前中、「ロ−ドショ−」の原稿、「私の青春と映画」を書く。

 午後、池袋に。
 「西武」9階。「短波放送」の生番組。森 敦、赤塚 行雄のおふたりに会う。

 番組は低俗なものだが、久しぶりに赤塚 行雄さんと話をするのが楽しかった。赤塚君は、私と同年代の批評家だが、「文芸」の会で、坂本 一亀に紹介された。
 森 敦さんとは、別のテレビにつづけて出たことがある。「月山」以後ずっと沈黙している作家だが、ようやく小説を書く気になっている、という。

 この放送の現場に、安東 由利子、工藤 敦子、中村 継男がきてくれた。中継放送なのに、仲間の誰も応援にこなかったら、中田先生が可哀そうだから。
 ある時期の私は、放送作家として「短波放送」で仕事をしていた。「短波放送」のスタッフには顔見知りも多い。中村君たちは、そんなことを知らないので、この中継の応援に駆けつけてくれたのだった。

 放送を終えて、安東、工藤、中村といっしょに、「西武」で「バ−ナ−ド・リ−チ展」、「コ−カサス展」を見た。

 池袋の雑踏を歩く。木曽料理の店があった。ここで、ドジョウの地獄焼き、カエルの塩焼き。女の子たちはこわがって食べない。

 「山ノ上」。私は、まだ仕事が残っている。
 連載を書きはじめた。渡辺 晃一君がきたのは、9時半。しばらく待たせた。いつもなら、露骨にいやな顔をしてみせるのに、めずらしく、神妙な顔で待っていてくれる。
 明日、「国労」がストライキに入るので、どうしても今夜じゅうに原稿をしあげてほしい、ということらしい。「国労」のストライキは私の連載にまで影響している。
 予定より、30分遅れで原稿を渡してやると、渡辺君は礼もそこそこで帰って行った。
 とにかくやる気のない、新しいタイプの編集者である。

              1977年11月5日(土)・
 今日は、私の祝日。

 安東 由利子、工藤 敦子、甲谷 正則、石井 秀明、宮崎 等たち。私のファンというか、グル−ピイ。みんな、いい仲間なのだ。

 庭に穴を掘って、火を起こす。バ−ベキュ−。
 みんな、こうしたパ−ティ−ははじめてだが、作業としては山で食事を作るのと変わらない。
 百合子が、2,3人をキッチンにつれて行って、用意した肉や、ビ−ルなどを運ばせる。ほかの連中は、どやどやとバ−ベキュ−・セットに寄ってきた。
 そのあとも、ぞくぞくと仲間たちが集まってきた。百合子は、みんなに挨拶したり、つぎつぎにグラスを渡してやったり、忙しそうに立ち働いている。

 はじめの1時間ほどは、仲間たち2,3人が、ひとところにかたまって、ビ−ルを飲んでいるが、そのうちに三々伍々に離れて、庭に出たり、応接間に陣どって、わいわい話をしたり、応接間のテ−ブルに皿や、ナイフ、フォ−クをならべたり。

 ネコたちは、みんな別棟の部屋に閉じ込めたのだが、中田先生ンチのネコに挨拶しようというので、中田パ−ティ−はもとより、来あわせた連中まで、どやどや押しかける始末。
 この日、中田家の混雑はたいへんなものになった。
 パ−ティ−にきてくれた諸君は、お互いに知らない人が多いし、どういう目的の集まりなのか誰も知らない。人数も、どんどんふえてきた。
 百合子は、女主人として、若い人たちみんなにテキパキ指示して、全員に飲み物が行きわたるようにしたり、所在なさそうな女の子をみつけると、すぐに寄って行って話かけたり、けっこう、気苦労の絶え間がない。

 この日は、まるで劇団の打ち上げになった。
 はじめのうち、よそよそしさが残っていたにしても、みんながすぐにうちとけて、語りあい、笑いさざめいていた。みんな仲間どうしという感じで、年齢差もなくなって、わいわいやっている。

 ビ−ル、ウィスキ−、日本酒をたくさん用意したのだが、どんどんなくなっていった。

 「さ、みなさん、遠慮しないで、召し上がってね」
 百合子がいうと、女の子のひとりが、
 「ほら、奥さまのすわるところを開けて、おとりもちしなきゃ」
 などという。
 ビ−ルに酔った学生が、
 「先生、イイよ」
 何がいいのかわからなくなっている。なんでも、イイよ、で間にあわせる。

 いろいろな人がきてくれた。お互いに知らない相手も多いのだが、みんなが肉を焼き、ビ−ル、ウィスキ−を飲んで、楽しく談笑する。私のグル−プでは、安東ひとりが残念ながら欠席。

 網に乗せた肉やサカナをひっくり返したり。別に用意しておいたお寿司や、フライドチキンも、どんどん追加して行く。30人以上もきてくれたのだから、予定した食べ物だけでは間に合わない。
 百合子も、バ−ベキュ−・セットだけでは間に合わず、別に七輪を出して、吉沢君が火をおこす。いい感じのオキ火に金網をのせて、イカや貝類を焼いたり、野菜を焼いたり。

 音楽も流れている。誰かが、勝手に私のレコ−ドをかけている。
 パ−シ−・フェイスが流れたと思うと、マントヴァ−ニ、そのつぎに、ビリ−・ヴォ−ン、フィンツィ・コンティ−ニ、むちゃくちゃな選曲だった。

 ひたすら楽しいパ−ティ−になった。
 あとで、かんたんな挨拶をする。
 ・・・今日は私の誕生日。私は、50歳になった。今日は、その記念のパ−ティ−なん
    だ。
 ・・ みなさん、きてくれて、ありがとう。心から感謝している。

 私は50歳になった。もはや、若くはない。というより、初老期に入ったというべきだろう。これから、まだどのくらい生きていられるかわからないが、できるだけ長生きして、もの書きとして、自分の世界を作りあげていきたい。

 いくつかの仕事はできると思う。
 しかし、私がほんとうに望んでいるのは、自分がいつも考えている仕事を越えた仕事をしたい、ということなのだ。

              1977年11月6日(日)
 昨日のパ−ティ−は、みんなが終電までに帰途についたが、あと始末はまだだった。
 キッチンには、ビンや食器などが散乱している。応接間にも、いろいろなものが残されている。百合子ひとりであと片付けするのはたいへんなので、あとで私も手つだうつもりだった。

 お昼近く、安東、鈴木のふたりがきてくれた。これにはおどろいたが、ほんらいなら、このふたり、まっさきにきてくれるはずだった。しかし、仕事で、青森に出張したため、残念ながら欠席したのだった。
 百合子が、すぐに軽い食事を用意して、ふたりにふる舞った。あとでふたりが片づけものを手つだってくれたので、あっという間に、食べものの残りの始末がついた。

 安東たちが帰って、ようやく静かになった。

 百合子が、あらためて私の誕生日を祝ってくれた。

 こんなパ−ティ−をやったのも、私がもの書きという自由業で、時間を作ろうと思えばいくらでも作れるからだった。パ−ティ−にいくら費用がかかったか、私は知らない。百合子が、みんな切り盛りしてくれるので。
 費用はかかったが、どこかのレストランを借り切ってパ−ティ−をするほど、贅沢をしたわけではない。

 深夜、12チャンネル。「汚れた顔の天使」(マイケル・カ−テイス監督/38年)を見た。ジェ−ムス・キャグニ−、パット・オブライエン。ハンフリ−・ボガ−ト。たまには、こういうクラシックも見ておいたほうがいい。今回、気がついたのだが、女の子はアン・シェリダン。戦時中、「ウムフ・ガ−ル」として、人気のあった女優。

              1977年11月7日(月)
 女のSEXが、凌辱と、暴力と、支配の対象とされてきた時代。女たちは、思いがけない手段で、抵抗する。
 ロココ時代の姦通。夫には、妻とその愛人の「関係」を邪魔だてする権利さえあたえられていない。
 女の姦通は、この時代の女たちの暗黙の了解事項といってもよい。
 マリヴォ−は、宰相、リシュリュ−の行状から、この時代の性について、夫はどうしても、非常識なやりかたでしか妻を愛せないという偏見に言及している。
 妻を寝とられた夫といえども、その事態が避けられない場合は、それなりに姦通を認めると論じている。

 姦通の当事者の仲がこわれる。性的な快楽、とくにオ−ガズミックな享楽を得ている夫は、ぶざまなコキュという汚名を避けるために努力する。
 一方、妻に粗末な食事をさせたり、食事制限を課したり、はげしいダンス・レッスンを命じて、若妻の肉欲を弱めようとする。
 夫がつねに気をくばっていれば、「長椅子の戯れ」まで、つまり姦通までは、そう簡単に発展しない。夫婦にとって、肉体的にもっとも魅力的な状態になれば、寝室への距離もバランスよくとれる。
 最愛の女性の褥で休むとき、ナイトキャップを耳の上まで引き寄せるような、無粋なまねをしないですむ。
 結婚が無事につづけられるためには、妻の貞節こそが秘訣と、夫に確信させること。そのためには、慎重に、自分の考えにしたがって妻を教育し、気くばりをする必要がある。妻の女心をきずつけて、ワインに酔いしれて、一家の主に反抗することのないように。

 妻に余暇を楽しませるためには、妻が望んで出産した子どもを妻に抱かせるべきである。そうすれば、誇り高い母性の女は、一家の名誉を守ろうとするから。
 妻の愛人が登場しても、夫は巧妙に罠を仕掛け、男に好き勝手なふるまいをさせておいて、いざというときは、男を一敗地にまみれさせるがいい。
 一度でも、妻が愚かな行為をして、夫からは得られないはげしい官能の喜びにむせび泣くような関係になったら、妻の内部には得体の知れない怪物が侵入し、とり返しがつかなくなる。

 かるはずみな結婚が、この時代の風潮になり、姦通が流行した。
 あたらしい恍惚を得るために、ひとりの女性に自分の一生を捧げるなど愚の骨頂。
 この世紀には、幸せな結婚を実現した例は非常に少ない。

              1977年11月8日(火)・
 ロココの世紀に幸福な結婚がなかったわけではない。
 ボヴォ−公爵。愛情豊かな結婚の例で、姦通肯定のイデオロギ−がまかり通っていた時代に、さまざまな危機を乗り越えて、ゆたかな絆が作られて行った。
 ベルウィク元帥は、初婚の妻が心をこめて贈った銀の小筐を、終生、肌身離さず持ち歩いた。
 アカデミ−会員、ソ−ル夫妻の愛情は、はるか後年の世紀の夫婦愛そのものといってもいい。
 ロココの結婚倫理には、うつろな穴が絶望的に開いていた。

 佐々木 基一さんのエッセイが眼についた。

    さきごろ、深夜叢書社から出た「「近代文学」創刊の頃」と題する文集のなかで
    、信州飯田の軍需工場で終戦を迎えたときのことを久保田 正文が書いていて、
    「山道を下駄で下りながら、たちまち肚の底からの笑いが、自ずから私をおそっ
    てきた。ひと一人通らぬ、真夏の真昼白い光のなかであった」という箇所が妙に
    心にのこった。「まさに、哄笑というほかないあの笑いを、私は忘れることがで
    きない。それ以前にも、それ以後にも経験したことのないものとして今も心に刻
    んでいる」と久保田 正文が付け加えて書いている。そのような”哄笑(こうし
    ょう)”の中身は、おそらくあの日を体験した者にしかわからぬものであろうし
    、またいつふたたび警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えた
    者にしか分からぬ笑いだろう。

 私は、「近代文学」創刊の頃に、もつとも早く「近代文学」の人々と知りあった。この「「近代文学」創刊の頃」に、埴谷 雄高さんから執筆を依頼されていたのだが、私は書かなかった。じつは書こうとしたが、何も書けなかった。

 私もまた、終戦の日に、哄笑とまではいかないが、心から笑ったことを忘れない。
 少年だった私は、警察に逮捕されるかもしれぬような状態の中で終戦を迎えたわけではなかった。ただ、戦争が終わったという、かぎりない解放感のなかで、心ゆくまで笑ったひとりだった。
 その笑いは、あの日を直接体験した者にしかわからぬものになっている。

 「近代文学」のなかで、佐々木 基一さんは、私に大きな影響を与えた批評家のひとりだった。久保田 正文さんとはほとんど交渉がなかったが、それでも短詩形の文学に関心をもったのは、久保田さんのおかげといっていい。

 私は、すぐれた先輩たちに教えられ導かれて、やっとここまでたどりつくことができた。そのことはけっして忘れない。

2019/03/13(Wed)  1797〈1977年日記 44〉 
 
          1977年10月25日(火)

 短編を書いた。

 もう10年も前の話。
 当時、「読売」で、大衆文学時評をはじめた。これは、文化部の高野 昭さんの企画で、佐々木 誠さんが担当した。
 このコラムで、「ハヤブサ・ヒデト」というペンネ−ムを使った。
 高野 昭さんも佐々木 誠さんも、このペンネ−ムについては異議を唱えなかった。おそらく、「ハヤブサ・ヒデト」について何もご存じなかったと思われる。
 ハヤブサ・ヒデトは、戦前の「大都映画」のアクション・スタ−で、連続活劇が専門だった。少年たちは、悪人たちを相手に戦うヒ−ロ−、「ハヤブサ・ヒデト」の活躍に胸を躍らせたものだった。「恋人」は、「大都映画」の美少女、佐久間 妙子ときまっていた。私は、後年、「忍者アメリカを行く」という愚作を書いたが、その主人公を「隼 秀人」と命名した。自作のなかで、少年時代のヒ−ロ−を登場させたかったからだった。
 ある日、佐々木さんから、一通の手紙が回送されてきた。
 読者からの手紙だった。鉛筆で書かれたものだった。

    前略
    3月7日夕刊、”大衆文学時評”、ハヤブサ・ヒデト氏は本名は何と言われる人
    でしょうか――おさしつかえなければ御知らせ頂ければ幸甚です。
    私――戦中、映画、自作自演、自監督をしたことあり、その頃のペンネ−ムと
    同じものなので、何か、かつての私と何等かのかかわりのある方なのか――と
    思ったりして妙にひっかかるものを感じますので――
    右お願いまで
    二月八日                   広瀬 数夫

 私は驚いた。
 ハヤブサ・ヒデトは、もう、亡くなったとばかり思っていたから。かつての活劇スタ−が生きていて、私の「ハヤブサ・ヒデト」の書いている「大衆文学時評」を読んでいる!
 しかも、住所は、埼玉県小川だった。

 埼玉県小川町は、私の母が、幼い少女だった頃、貧しい暮らしをしていた土地だった。そして、ハヤブサ・ヒデトの本名が広瀬 数夫と知って、これにも少し驚かされた。私自身が「広瀬 たけし」というペンネ−ムを使って、雑文を書いていた時期があったからである。

 私は、すぐに返事の手紙を書いた。
 少年時代に、ハヤブサ・ヒデトのシリ−ズのファンで、毎週、かならず見に行ったこと。批評家になってから、大衆文学批評を書くことが多くなって、「読売」が、新設したコラムに、私を起用してくれたこと。そのとき、私にとって貴重な「ハヤブサ・ヒデト」の名をペンネ−ムに選んだこと。
 この手紙で、本名を明かしたわけではない。手紙を読んだあと、どうあっても私の本名を明かせというのなら、よろこんで明かしたい、と書いたのだった。

 広瀬 数夫さんから返事はなかった。
 昭和初期に、自分の活劇に夢中になっていた少年が、大衆文学批評を書いていることに、なにかしら、くすぐったい思いがあったのではないか、私はそんなことを想像した。

 1969年のことだった。

 ハヤブサ・ヒデトは、翌年に亡くなったはずだが、よくは知らない。ただ、この大衆文学時評をハヤブサ・ヒデトが読んでくれている、と思いながら書いたのだった。


             1977年10月27日(木)

 作家、稲垣 足穂が亡くなったという。知らなかった。

 「山ノ上」。「IDA」、井田 康雄君が教えてくれた。
 このとき、「青春と読書」を受けとった。先日会ったリチャ−ド・バックのインタヴュ−。これは、録音を終えたあと、「山ノ上」に入って、徹夜で書いたものだった。
 自分でいうのもおこがましいが、いちおうよく書けていると思う。

 安東夫妻と、先日の高畑山の思い出を語りあいながら飲む。
 Y.T.は、山登りが好きになったらしい。石本に、小説の原稿をわたして、Y.T.を送らせる。
 残ったメンバ−を、三崎町の「平和亭」につれて行く。最近、「徳恵大曲」という中国酒が気に入っているので、みんなにふる舞うつもりだったが、これがなかった。別の酒を飲んだが、白乾児に似た味でがっかり。

             1977年10月28日(金)

 「素顔のモンロ− アンドレ・ド・デイ−ンズ展」 を見た。
 マリリンが19歳のときから、4000枚も撮影した写真のなかから、初期のノ−マ・ジ−ン時代、モデル時代、私生活など、初公開の写真、60点。
 渋谷「西武B」。今日まで。

 19歳のマリリンは、写真家、アンドレ・ド・デイ−ンズとどういう関係だったのか。むろん、こうしたことに関する資料はない。もっと露骨にいえば、19歳のマリリンはド・デイ−ンズとSEXしたのか。
                                      
 ド・デイ−ンズのマリリンは、彼のカメラがマリリンのエロスをどうとらえているかにあらわれている。ド・デイ−ンズは、数年後にマリリンが、アメリカを代表する映画スタ−になるとは夢にも思っていなかったはずだか、この19歳のマリリンは、すべてが無邪気なハイティ−ンなのに、すでにしてセックスだけで生きている女なのだ。
 この「マリリン」は、生命力であり、活力なのだ。

 戦時中に、陸軍の報道カメラマンに撮影されているが、そのとき、「マリリン」はこのカメラマンとSEXしている。
 モデルになっていた「マリリン」が、ド・デイ−ンズとSEXしなかったとは考えにくい。「素顔のモンロ−」には、いわば、ド・デイ−ンズと私たちが「マリリン」の秘密を共有しているといった親密な雰囲気がただよっている。


             1977年10月29日(土)

 見たい映画。「マルタの鷹」。これは東京12チャンネル。
 あまり見たいと思わないもの。「ソヴイェト名作映画祭」。むろん、見ておいたほうがいい映画――「アンナ・カレ−ニナ」、「カラマ−ゾフの兄弟」。


             1977年10月31日(月)

 宝塚、11月「雪組」をみるか、暮れの「花組」、春日野 八千代を見るか。

 オスカ−・ワイルドはいう。

    快楽のために生きてきたことを、私は一瞬たりとも悔いはしない。私はこころゆ
    くまで味わったのだ。人はそのなすべきことをすべてなすべきであるように。
    私の経験しなかった快楽などあるはずもなかった。

 私は、こういい放ったワイルドにさして羨望を感じない。

 おのれの行状をこうまでみごとに裁断するワイルドには敬服するほかはないが、私自身は、おそらくわずかな快楽すら経験せずに生きてきただけのような気がする。
 たとえ、わずかばかりの快楽のために生きてきたとしても、私は悔いない。

2019/03/04(Mon)  1796〈1977年日記 43〉
 
           1977年10月17日(月)

 朝、近くの「石橋商店」のお内儀さんがきて、表の道路でネコが死んでいます、と知らせてくれた。悪い予感が走った。

 すぐに行ってみた。わが家の飼いネコ、チビが死んでいた。名前こそチビだが、その前に生まれたマックに劣らないほど大きくなってしまった。しかし、私が可愛いがっていたネコだった。

 車にハネられたことは歴然としている。左の目がとび出していた。その血が凝固して、目の回りが黒っぽくなっている。それ以外に出血してはいなかった。どういう状況で死んだのか。
 よく見ると、目がとびだしているだけで、左の側頭部に血がひろがっていた。
 あまり醜い死にざまをさらしていない。
 可哀そうに。

 死体をすぐに処分しなけれはならない。少し考えて、玄関先から右、ツタの近くに埋めてやることにした。
 土を掘っているうちに、涙が出てきた。
 ほんとうに可哀そうなことをした。日頃、可愛がっていただけに、こんな死にかたをしなければならなかったチビが不憫だった。
 それにしても、これまでイヌやネコを何度葬ってやったことか。それぞれのイヌやネコには、私が可愛がってやった思い出が残っている。

 ある日、北 杜夫が私に、
 「生きものは飼いたくない。死なれるとつらいので」
 と語ったことを思い出す。


          1977年10月18日(火)

 「ガスホ−ル」で「がんばれベア−ズ特訓中」(マイケル・プレスマン監督)を見た。シリ−ズの2作目。つまらない映画だった。
 いろいろな理由が考えられるが――「がんばれベア−ズ」がもっていた社会批判が消えたことが、この映画をつまらないものにしている。
 ダメな監督に率いられたダメなメンバ−でも、全力を尽くせば、決勝まで進めるのだ、というテ−マ。これは、「がんばれベア−ズ」のヒロイズムだが、ヴェトナム戦争後に傷ついたアメリカ社会の縮図だった。
 ところが、この「特訓中」は、そのテ−マがスッポリ消えている。
 もっといけないのは、主人公の少年と父親の対立が、ホ−ムドラマめいた感傷になっている。このあと、シリ−ズの3作目は、いよいよ少年野球の日本遠征となる予定だが、こんなものがいい映画になるはずがない。
 時間があるので、「風に向かって走れ」(ウィリアム・グレアム監督)を見るつもりで「松竹」に行った。ところが、「悪魔の生体実験」という映画の試写だった。見にきていたのは、ほんの2,3人。ナチの女囚強制収容所を描いたもの。サディズムとエロティシズムを売りものにしているが、どうしようもない映画。
 「山ノ上」、「三笠書房」の三谷君。
 講義。お茶の水近くで、中田パ−ティ−のメンバ−と会う。話題は、先日の武尊山のすばらしさ、沼田で中田先生とはぐれたこと。


            1977年10月19日(水)

 西ドイツで起きたハイジャック事件。武装した特殊部隊が出動してテロリスト全員が射殺され(1名は重傷)、人質は救出された。
 この事件の対応が、先日の「日航」のハイジャック事件と比較されている。5日間もねばりづよく時間を稼ぎながら、ぎりぎりのところで特殊部隊を送り込み、人質の救出を敢行した西ドイツ当局を称賛する。
 ハイジャックを自力で処理するため、警察が特殊なコマンドを用意することを急務とする声がひろがる。わが国でも、テロ対策はきびしくなるものと予想される。


          1977年10月19日(水)

 今夜は、「ドクトル・ジバゴ」(ディヴィッド・リ−ン監督)をやるので、見ておきたいと思う。

 夜、6時、「千葉日報」の遠藤君が迎えにきてくれた。
 川井、「倶楽部泉水(いずみ)」で話をする。このクラブは会員制で、千葉のエリ−トが利用するらしい。この「泉水(いずみ)」は、田舎の庄屋の邸を改装した和風の屋敷で、明治天皇が少憩した由緒ある倶楽部という。私の「お話」は、ルネサンスについての講話のごときもの。
 きっと、みなさん、退屈なさったんじゃないかな。


             1977年10月20日(木)

 芸能界をゆるがしているマリワナ騒ぎ。
 海老坂 武のエッセイ(「文芸」11月号)によれば、フランスでもマスコミで反麻薬キャンペ−ンがひろがっている。その底流には、高齢化社会の自己防衛本能としての若者差別がある。「不可解なものを排除しようとする憎悪の分泌液だけが紙面ににじみ出ている」とか。
 マリワナの流行は、5月革命以後の目的喪失と社会への不快感、異議申し立てにほかならない。昨年、200人の知識人が――麻薬(マリワナ)を使用しただけで犯罪視することに反対し、マリワナの非処罰を要求する声明に署名したという。
 こういう機運は、わが国にはあらわれない。
 しかし、井上 陽水、研 ナオコ、内藤 やす子、美川 憲一、にしきの あきらといったシンガ−たちの逮捕は、どう見ても贖罪羊にされたとしかいいようがない。


            1977年10月23日(日)

 あさ、6時40分、新宿。女子学生、2名が待っていた。ふだん、声をかけたこともない女の子なので驚いたが、参加してくれたのはうれしかった。国井、岡安の2人。登山らしい登山の経験はないという。そのあと、小林、古屋の2人。けっきょく、11名。甲府行き。
 予定変更。ハイキング程度の山歩き。鳥沢で下りて、高畑山に向かう。小さな山なので、休日でも誰も登らない。それでも、家族づれ(3人)と、ハイキング・グル−プに出会った。

 長い山道を歩き、小高い岡の裾を回ってゆく。道は徐々にせりあがってゆく。道の両側から延びた灌木の枝をよけながら通り抜けると、意外にひらけた場所に出た。エメラルドに輝く秋空。
 ほかのパ−ティ−はいない。ザックをデポしても大丈夫と判断して、倉岳山をめざした。
 山は低かったが、楽しいハイキングになった。

 新宿に戻ったのは8時半。

 大畑 靖君の「ミケ−ネの空は青く」の出版記念会に向かった。残念だが、間にあわなかった。二次会の「二条」で、大畑君に会う。私がザックを背負っているので、大畑君も、遅参を許してくれたらしい。
 昔、「東宝」の脚本部にいた、松下某が、私を見て挨拶に寄ってきた。私が「東宝」で仕事をしていたとき、表面はにこやかだったが、蔭にまわって、さんざん私の悪口をいいふらしていた人物だった。
 こういう策謀家(ストラジスト)を私は憎んでいる。


            1977年10月24日(月)

 「カプリコン 1」(ピ−タ−・ハイアムズ監督)を見た。朝、9時からのホ−ル試写なのに観客が多い。SF。試写の反応によって、クリスマスに公開するらしい。
 火星宇宙船、「カプリコン 1」の発射直前、宇宙飛行士、3名が極秘裡に、砂漠の秘密基地に移される。宇宙船「カプリコン 1」ののロケットに故障が発見されたため、NASAは、宇宙飛行士たちに火星着陸の演技をさせようとする。ところが、無人の「カプリコン 1」が帰還の途中で爆発したため、こんどは宇宙飛行士、3名の存在が邪魔になる。エリオット・グ−ルド主演。

 「松竹」に行って、「風に向かって走れ」(ウィリアム・A・グレアム監督)を見る。これは西部劇。
 逃亡インデイアンをとらえる騎兵隊の暴虐を知ったガンマンと、騎兵隊から逃げてきたインデイアンの娘のほのかな愛情。しかし、騎兵隊の追求の手が延びて、娘は暴行され、自殺する。

 もう1本、「ランナウェイ」(コ−リ−・アレン監督)。
 これは、禁酒法時代。大手の密造組織が、零細な密造者をつぶしにかかる。これに一匹狼の密造人が立ち向かう。デイヴィッド・キャラダイン主演。
 一日に3本も試写を見ると、さすがに疲れる。

 いつまでもこういう生活をつづけるわけにはいかないな。

2019/02/21(Thu)  1795〈1977年日記 42〉
 
                1977年10月8日(土)

 午前6時45分、上野から水上に。
 安東夫妻、鈴木、石井、甲谷、妹尾のメンバ−。
 上州武尊山。

 日本武尊(やまとたける)の伝説に、ふさわしい、荒涼とした土地がつづく。たいした山ではないのに、山の麓をぎっしりと赤松の林がとり囲み、ススキの原を出ると、深い竹のヤブになっている。やがて、そのヤブのなかを、わずかに、人ひとりが通れるほどの小経が、大きな岩に向かって伸びている。クサリ場だった。
 途中、小さな水たまりにぶつかった。池というほどの大きさでもない。周囲を草がとり囲んでいる。地下水がにじみ出して、自然にたまった水たまりとしかいいようがない。水は濁っていて、魚がいるはずもなかった。
 私がその水たまりを通り抜けようとしたとき、どろりとした水が動いた。思わず、足をとめた。その水が動いた。何かが生きている。よく見ると、その水の大きさの生きものが、ひそんでいた。
 サンショウウオだった!
 まさか、武尊山にサンショウウオがいるとは思わなかった。私の見間違いかと思った。水が濁って見えたのは、サンショウウオの肌の色のせいだろう。こんなわずかな水たまりに、もう一尾、サンショウウオがひそんでいる。
 私は、すぐに離れた。私が驚いた以上に、サンショウウオのカップルも、ときならぬ足音に夢を破られたにちがいない。
 ほかのメンバ−は、この水たまりの棲息者に気がついたかどうか。

 秋の上州武尊山は、すばらしかった。全山、紅葉というか、錦綉というか、ただ、すばらしいとしかいいようがない。強く傾斜したコ−スには、枝をひろげた木の落とした黄褐色の落ち葉が積もっていて、登山靴の下で音をたてている。
 武尊山は独立峰だが、登山コ−スにはいくつもピ−クがつらなっている。ピ−クを過ぎるたびに、もはや彼方にはなれた山脈(やまなみ)は、いちめんに紅(くれない)と黄に染められていた。
 夕方、避難小屋に泊まった。狭い小屋に、登山者がつめかけるのだから横になるのもむずかしかった。小屋のリ−ダ−は、安東が仕切った。つぎつぎにみんなの居場所をきめてゆく。あとから着いたパ−ティ−を入れてやったり、みんなに、場所を割りふったり。
 こういうことにかけては、安東の右に出る者はいない。

 しらしらとした地平線の彼方に、太陽が頭を出しかけている。朝靄(モヤ)がその前にひろがっている。私はふるえた。なんという厳粛で、しかも透明な朝だろうか。
 私は、余りよく眠れなかった。狭い小屋にぎゅうぎゅう詰めだったし、まだ、コースは続いている。メンバ−のなかに、体調を崩している者はいないだろうか。そんなことが頭から離れなかった。

 ただ、ひたすら歩いた。

 夕暮れもまた、厳粛で、私のつまらない一日の終わりが、こうした荘厳さでしめくくられようとしている。このために、私は山を歩いている。
 バス停にたどり着いたときはもう暗くなっていた。
 私たちは、下山したあと、温泉に入る習慣なので、このときも温泉でしばらく休憩する予定だった。
 ところが、温泉宿は休業していた。もう一つ先に宿があるはずなのに、これも見つからない。
 やむを得ない。川湯温泉まで歩くことになった。

 やっと、宿にたどりついて湯に入った。湯船に落ちる湯がチョロチョロと音をたてている。宿は、私たちだけでひっそりしていた。

 このあと、またしても思いがけないハプニング。
 沼田で、みんなとはぐれてしまった。みんな乗車したことは間違いないのだか、たいへんに混んでいたので、私ひとりが別の車両に乗ったらしい。
 上野まで立ちんぼ。たまには、こんなこともあるさ。


                 1977年10月10日(月)

 今日は、フジ・テレビで「ショック療法」(アラン・ドロン)を見ようかと思ったが、本を読む時間がなくなるのであきらめた。

 ス−ザン・ジョ−ジの映画を見ているうちにロココの時代の、いとも天真爛漫な姦通を思い出した。姦通は、すべての階級に共通する特質だった。
 世間の女たちから、羨望のまなざしを向けられるような貴族の特権だった。宰相、リシュリュ−は姦通に対して警戒の眼をむけた。(「三銃士」を読み直そうか。)
 それでも、旺盛な精力を誇示して、「好色家」としての評判を高めたいために、富裕なブルジョアたちは、多額の黄白をつぎ込んだ。

 当時の結婚観。

 「結婚式は、仮装するのが目的で、結婚生活に入る前に、らんちき騒ぎをしてみせる喜劇なのだ。」

 姦通を、ロココの芸術の一様式にまで高め、いわば時代の寵児に祭りあげた理由はいくつかある。
 若い娘たちは、早くから修道院に送られて、ここでの教育に世間から遮断される。娘たちはあくなき好奇心をもって、早い時期から性的な快楽に、抑えきれないあこがれをつのらせる。修道院の娘たちは、異性と対面する機会もない。
 (モリエ−ルの「女房学校」を読み直すこと。)
 やがて、娘たちは、ほとんどなじみのない実家につれ戻される。
 このときから、娘たちは、はじめて男に紹介されるが、例外なく年配の男ばかり。
 ほどなくして、黒服を着込んだ男たちがやってくる。花が届けられる。四輪馬車がやってくる。あれよあれよという間に、婚礼の祝宴ということになる。
 飲めや歌えの大騒ぎがすんで、ただもう放心状態の花嫁を、付添い女が、犠牲(いけにえ)をささげるように、初夜の褥(しとね)に導く。
 こうして、落花狼藉、ということになる。

 7日夜、東ベルリン、アレクサンダ−広場で、暴動が起きた。これは、24年ぶりの反ソヴィェト暴動で、ホ−ネッカ−政権はむずかしい対応を迫られることになる。
 東ドイツのADN(通信社)のつたえるところでは、少数の「やくざ」が起こしたもので、負傷者が出たため、警官隊が出動して、この「やくざ」たちを拘束したという。
 西ベルリンの目撃者の話では・・・約1000名の若者と警官隊が衝突、負傷者が出たほか、広場付近の建物の窓ガラスなどが壊された。ソヴィェト軍の将校が通りかかったため、若者たちは、「ソヴィェト、帰れ」の合唱を浴びせたらしい。
 西ドイツの日曜新聞、「ビルト・アム・ゾンタ−ク」は、約1000名の若者と数百名の警官隊が衝突、約100名が検挙された。しかも、多数が負傷したとつたえているが、ADNは、若干名が身元調査のために「連行」されたという。

 東ドイツはヨ−ロッパ共産圏の「優等生」といわれているが、世界的な不況の波は東ドイツにも押し寄せ、今年前半の工業生産伸び率は、70年代前半の7〜下降線をたどっている。

 アレクサンダ−広場で起きた暴動は、これからの東ドイツにどう影響するか。ホ−ネッカ−政権の基盤は、案外、脆弱なのかも知れない。


                 1977年10月11日(火)

 「新シャ−ロック・ホ−ムズ/おかしな弟の大冒険」(ジ−ン・ワイルダ−監督)を見る。
 イギリス外務省の金庫から、国家機密がぬすまれる。シャ−ロック・ホ−ムズは、宿敵、「モリア−テイ教授」の仕業とみて、弟の「シガ−ス」(ジ−ン・ワイルダ−)に捜査を依頼する。
 ジ−ン・ワイルダ−の喜劇は嫌いではない。しかし、この才人の喜劇感覚にはどうもついていけないところがある。マデリ−ン・カ−ンが出ていた。この女優は、ときどきジェ−ン・フォンダそっくり。ただし、ジェ−ンの気品はない。

 もう1本、シャ−ロック・ホ−ムズものが公開される。こちらは、「ユニヴァ−サル」の「シャ−ロック・ホ−ムズの素敵な挑戦」(ハ−バ−ト・ロス監督)。「ホ−ムズ」がコケイン中毒で、「モリア−テイ教授」に対する憎悪がつのり、ウィ−ンに行って、「フロイド博士」の診察を受ける。「モリア−テイ教授」を、ロ−レンス・オリヴイエがやっているし、「ワトソン」をロバ−ト・デュヴアル、これにヴァネッサ・レッドグレ−ヴがからんでくる。おもしろくないはずはない。それでも、どこかおもしろくないのは、なぜなのか。


                  1977年10月12日(水)

 ロココの時代。もう少し、考えてみよう。

 ロココ貴族のあいだに、さまざまに性的な頽廃が見られる。夫婦の「おつとめ」は、できるだけ急いで、乱暴に行われなければならない、という愚かしい偏見による。少なくとも、性交が、次第しだいにア−ティフィシアルなものになったことにかかわりがある(だろう)。
 出産は、女の生死にかかわる事件になりかねない。
 すでに、心身ともに引き裂かれて、もはや忍耐の限度を越えている。そこに、あらたな犠牲(いけにえ)として新生児に乳をふくませる役が押しつけられる。こうなると、夫婦関係はおろか、母と子の精神的な絆さえ断ち切られることになる。
 母親としての心くばりなど、当然、見せかけのものにすぎなくなる。

 大学、講義。中田パ−ティ−のメンバ−がそろっている。
 みんなが、武尊山のすばらしさを思い出している。私は、つぎの登山のプランを考えている。ただし、だれにもいわない。


                       1977年10月14日(金)

 明日から、上野の東京都美術館で、「ピカソ展」が開催される。
 これは、どうしても見ておく必要がある。

 ピカソは、1900年、スペインからパリをめざした。初期の「青の時代」から、「バラの時代」。キュビズムから、古典の時代を経て、晩年にいたる名作が並ぶ。

 ピカソが亡くなって4年。

 世界初の回顧展。


                 1977年10月15日(土)

 ビング・クロスビ−が亡くなった。

 映画以外で、ビング・クロスビ−を聞いたことがない。残念だが。


                 1977年10月16日(日)

 あたらしい仕事のこと。

 柴田 裕夫妻が遊びにきてくれた。ふたりは幸福そうだった。めったにない強い絆で結ばれていて、お互いに支えあっている。だから、ふたりを祝福してやりたい。
 百合子がもてなして、4人で夜食をとった。
 8時に帰ったが、快速に乗れたかどうか。

 紛失したと思った銀行のカ−ドが出てきた。
 やい、どこにシケ込んでいやがった。手前が姿をくらましやがったおかげで、こっちは義理のワリィ借金まで作っちまったぜ。
 もう一つ。これも紛失したはずのカ−ドも、仕事机の下、座布団の下から出てきた。
 や。手前も出てきやがったか。このつぎはもっと早く出てこい。

 フイリッポ・リッピのこと。
 「受胎告知」で知られている。自分の恋人だった修道女をモデルとしたという絵を見ながら、現代の画家、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドを思い出す。
 マゾ−ニスは、まだ日本では知られていないが、いつも美しい女たちを描いている。全体の色調は、何時も白。背景も白いし、女たちの肉体も白い。この画家は、1921年、トリ−ノ生まれ。ロ−マのラ・バルカッチャ画廊や、ボロ−ニャのフォルニガロウナドノ個展から、にわかに注目されはじめた。叙情的な作風で、あまやかな、繊細なタッチは、現代の「フイリッポ・リッピ」のよう。

 ときどき、外国の画家のヌ−ドを見る。まるで関係のないスト−リ−を思いつく。

2019/02/06(Wed)  1794〈1977年日記 41〉
 
                 1977年10月5日(月)
  作家、和田 芳恵さんが亡くなった。71歳。

    和田 芳恵 (1906〜77)作家。北海道・長万部町生まれ。中央大・独法
     科卒業。新潮社に入り、「日本文学大辞典」の編纂、「日の出」の編集に当た
     った。1941年、自作が芥川賞候補になる。新潮社を退社。
     「戦後」、中間小説の先駆的な雑誌、「日本小説」の編集。
     樋口一葉の研究をつづけ、1956年、「一葉の日記」で芸術院賞を受賞。
     1963年、「塵の中」で直木賞。1774年、「接木の台」で読売文学賞、
     今年、「暗い流れ」で日本文学大賞を受けた。  (後記)

 文壇の大家たちとまったく無縁だった私に、どうして和田 芳恵さんが親しく接してくださったのか。もともと文壇の大家の知遇を得ようとする下心はまったくなかった。ただ、少年時代の私は、慶応のグル−プに出入りしていたとき、野口 富士男さんに和田 芳恵さんを紹介されたのだった。
 その後、ほとんど無関係に生きてきたのだが、たまたま、私が大きな新聞の「大衆小説批評」を書きはじめて、和田さんの小説をとりあげたことがあった。

 もともと批評家として出発したため、批評家の友人は多かったが、北 杜夫以外の文壇作家たちとは無縁だった。北海道、三重、千葉の同人雑誌作家たちに友人ができたが、その人たちの集まりにもほとんど出たことがない。
 この数年、たまに文壇の集まりに顔を出すことがあって、和田さんを見かけたときはこちらから挨拶をするようになった。
 和田さんにすれば、慶応の集まりに出ていた少年が、いつしか薄汚れたもの書きになっていたぐらいのことだったに違いない。しかし、和田さんはそんな私に対して、いつもわけへだてのない態度をとってくれた。

 私にとっては、ただ一人の文壇の知己であった。

 和田 芳恵さんのご冥福を心からお祈り申しあげます。

 種村 季弘さんから、グスタヴ・ルネ・ホツケの「絶望と確信」を贈られた。むずかしそうだが、こういう本が読めるのはうれしい。
 とりあえず礼状を書いた。
 内村 直也先生から、「日本語と会話」を頂く。
 大畑 靖君から、創作集「ミケ−ネの空は青く」を。


                 1977年10月6日(木)

 たくさんの美少女を見てきた。ス−ザン・ジョ−ジは、そういう美少女のなかでも出色のひとり。
 久しぶりに、「12チャンネル」で「クレイジ−・ラリ−」(ジョン・ハフ監督)を見た。「クレイジ−」なエ−ス・ドライヴァ−、「ラリ−」(ピ−タ−・フォンダ)は、「メリ−」というカルい女の子(ス−ザン・ジョ−ジ)に声をかけて、首尾よくベッドイン。これが「ダ−ティ」な女の子。「ラリ−」たちといっしょに近くのス−パ−を襲って10万ドルをせしめて、警察に追われてもヘッチャラ。
 かなり昔のフランス映画の――セシル・オ−ブリ−(「情婦マノン」)、ナタリ−・バイ(「アメリカの夜」)、エチカ・シュ−ロ−(「青春の果実」)といった「戦後派」の無軌道な娘たちを思い出すが、このス−ザン・ジョ−ジほど、あっけらかんとして、「ダ−ティ」な娘ではなかった。ス−ザンは、「わらの犬」(サム・ベキンパ−監督)で、ダスティン・ホフマンと共演しているが、この映画でも、頭のなかがカラッポで、何に対してもノン・シャランな態度で、平気で悲劇的な運命に向かって行く。サム・ぺキンパ−好みの女優じゃないかな。
 見ておいてよかった。つまらない内容でも、心に残る映画のひとつ。


                1977年10月7日(金)

 野口 富士男さんが、和田さんの追悼を書いている。

    階段を二段ほどのぼりかけると、もう肩で息をしなければならぬほど、和田さん
    は弱っていた。だれの眼にも最悪の健康状態におかれていたことは明白すぎるほ
    ど明らかだったのに、書いて、書いて、書きまくっていた。明日どころか、今晩
    死んでも不思議はないと、私は外で、和田さんに会って別れるとき、いつもそう
    思っていた。その癖、私は仕事をよせとは言えなかったし、身体を大事にしなさ
    いよということも言えなかった。役者なら舞台の上で、相撲なら土俵の上で死ね
    ば本望だろうと私は思っていたからであった。

 私が和田さんに最後にお目にかかったときも、和田さんは弱っていた。呼吸するのも苦しそうだったので、ただ挨拶しただけだったが。「だれの眼にも最悪の健康状態」だったと思う。最後の和田さんの仕事には鬼気せまる気迫が感じられた。
 野口さんの追悼で思い出したが、私がはじめて和田さんにお目にかかったときも、野口さんは和田さんとごいっしょだった。野口さんが和田さんを紹介してくださったのだった。この席で、原 民喜さんが、私の肩に手を置いてくれたような気がする。
 晩年の和田さんは、私にいささかの好意をもっていてくださったと思う。それは、実現することなく終わったのだが、その経緯はここに書く必要がない。ただ、私はほんとうに和田さんに感謝したのだった。

2019/02/01(Fri)  1793〈1977年日記 40〉
 
               1977年10月1日(土)

 石川 啄木の日記、「ロ−マ字日記」を読んだ。
 最近の私は「日記」をつけているので、この日記を読んで考えるところがあった。
 一人の若者が貧しさに苦しみ続けている。詩人として、ジャ−ナリズムの片隅に生きながら、自分の世界を築こうとしている。
 詩人は娼婦との交渉を赤裸々につづっているのだが、こうした秘密をロ−マ字にしなければならなかった啄木に同情する。

 やたらに忙しいので、日記を書くのをついついわすれてしまう。書きとめておきたいことどもは多いのだが、本も読まなければならない。最近は、英語よりも、イタリア語、フランス語の本を読むことが多くなった。

 10年前も忙しかった。あい変わらず、多忙な日々がつづいている。

 1967年を思いだしたが――週刊誌の連載は1本だけ。ほかに雑誌連載が2本、その間に、ジェ−ムズ・M・ケ−ンの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」と、A・E・ホッチナ−の「パパ・ヘミングウェイ」の翻訳をつづけていた。そのほかに、ラジオの台本を数本、別の週刊誌に読み切りを。
 当時の私は、その程度の仕事をこなすだけでもたいへんだった。からだがいくつあっても足りない。

 「闘牛」の演出。そのあと、レパ−トリ−がきまるまで、研究生を中心にサロ−ヤンの稽古をつづけていたっけ。
 あとは、「文芸」に毎月、同人雑誌評を書き、さらには「新劇場」に戯曲を書く予定だった。その間に、K.M.とのflirtも。
 けっこう、忙しかったなあ。

 今は、あの頃に較べれば、映画を見ようとおもえばいくらでも見られるし、時間をやりくりして、芝居も見たり。コンサ−トに行く機会は少なくなったが、LPを聞くこともできる。

 ときどき、思ったものだ。

 このまま走りつづけて、オレはどこにたどり着くのだろうか、と。

                         
              1977年10月2日(日)
 アメリカの作家、リチャ−ド・バックのインタヴュ−。

 10時、「パレス・ホテル」に行く。
 「IDA」、井田 康雄君と、通訳の田草川 美紗子さんが待っていた。挨拶する。田草川さんは若い女性だが、通訳専門のベテラン。
 私だけでも、インタヴュ−できるのだが、「かもめのジョナサン」の著者は、世界的な名声を得ている作家なので、通訳の専門家についていてもらったほうがいい。

 リチャ−ド・バックの部屋に向かった。

 「かもめのジョナサン」の著者は、アメリカ人らしく、気さくなタイプで、かなり長身。毛糸のプルオ−ヴァ−のセ−タ−、上にブル−のジャケット。眼が青く、鼻のわきに小さな豆粒のようなホクロ。口にひげ(ムスタッシュ)をたくわえている。

 私はリチャ−ド・バックの処女作、「王様の空」の訳者としてインタヴュ−するだけだが、井田 康雄君がいろいろと私の経歴を説明すると、ほんらいの私とはかけ離れたイメ−ジの人物になったような気がする。
 それはそうだろう。小説を書きとばし、批評家としても少しは知られている。しかも、ルネサンスを研究している。芝居の演出家だったこともある。マリリン・モンロ−について、モノグラフィーを書いている。こう説明されれば、誰だって、混乱した、バラバラなイメ−ジをもつだろう。
 私は、笑いながら、
 「ようするに、アジア的な混沌を体現しているだけです」
 といった。
 リチャ−ドは笑った。
 これでお互いにうちとけたと思う。

 インタヴュ−は、一問一答で私の質問にリチャ−ドが答える形式で進められた。したがって、対談というより、リチャ−ドの発言をひき出すかたちになった。このインタヴュ−は、「青春と読書」に発表される。だから、あくまでも若い読者のためのインタヴュ−でいいと判断したのだった。

 ただ、原稿の締切りが明日の午前中なので、速記をおこした原稿が夜中に届いたら、私がすぐにインタヴュ−の記事にまとめる。つまり、徹夜の作業になるだろう。

 最後に、リチャ−ドが「イリュ−ジョン」の日本版にサインしてくれて、ついでに絵を描いてくれた。


              1977年10月3日(月)
 日本航空、ハイジャック事件。

 「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、3日午前0時13分(現地時間・2日午後9時13分)、バングラデシュ/ダッカ空港を離陸、クウェ−トに向かった。

 3日午後11時20分(現地時間・2日午後4時20分)、アルジェリア/ダル・エル・ベイダ空港に着陸。現地の政府当局と、犯人側の交渉がはじまった。

 4日午前1時、犯人5名、日本から釈放された犯人6名が投降。最後の人質、19名(日本人17名)は解放された。
 先月28日、ボンベイ上空でハイジャックされた事件は、134時間ぶりにようやく終結した。

 この事件は、テロ事件として歴史に残るだろう。

 「日航」、ハイジャック事件ばかりだったので、誰の注意も惹かないニュ−スを書きとめておく。

 ロ−トレアモンの写真が発見されたという。ジャック・ルフレ−ルという、まだ若い医学生。その写真は、ロ−トレアモンが1859〜62年まで在籍したタルプ中学で同級生だったジョルジュ・ダセットのお嬢さんのアルバム。
 このダセットは、ロ−トレアモン(イジド−ル・デュカス)の親友で、「マルドロ−ルの歌」の初版に出てくるという。その後の版では、ダセットの名がすべて消えて、タコやコウモリになっているそうな。

 私は、ロ−トレアモンについては、ほとんど何も知らない。だから、写真の発見がロ−トレアモンの理解にどれほど役に立つか何も知らない。それでも、ロ−トレアモンの肖像なら、ぜひ拝顔の栄に浴したいと思う。

2019/01/14(Mon)  1792 〈1977年日記 39〉
 
             1977年9月21日(水)
 原稿を書くペ−スが遅くなっている。
 今日は、石本がきてくれたが、「山と渓谷」の原稿がかけなかったので、そのまま帰ってもらった。

 雑文ばかり書いていてもどうしようもないのだが。

             1977年9月21日(水)
 夜、「シシリアン」を見た。フレンチ・ノワ−ル。ジャン・ギャバン、アラン・ドロン。ジャン・ギャバンは、もう老齢といっていいのだが、俳優としては、円熟の境地にたっしている。これは驚くべきものだと思う。

             1977年9月22日(木)
 朝、「山と渓谷」の原稿を書く。
 石本がきてくれたので、そのまま待たせて、「日経」の原稿を1本書く。
 原 耕平君が、原稿の依頼にくる。
 5時、「週刊大衆」、渡辺君に原稿。

 バ−に飾ってあった絵が全部はずしてある。裕人が、ここにステレオを持ち込んだので、絵をかざる場所がなくなった。これからは、書庫で仕事をしようか。
 冬の書庫は寒いだろう。しかし、書庫に、スト−ヴ、小型テレビ、電話をいれれば、仕事場になる。

             1977年9月23日(金)
 疲れている。腰の痛みはなくなったが、それでも右足になんとなく不安がある。
 午前中、児玉さんに、電話をかけたが、不在。
 午後は、仕事があるのに、何もする気にならない。大相撲を見ただけ。
 夜、テレビで映画を見た。途中から見たので、題名がわからない。トレヴア−・ハワ−ド、リタ・ヘイワ−ス、マルチェロ・マストロヤンニたちが出ている。
 国際的な麻薬組織を追う各国の警察の捜査活動を描いたもの。リタ・ヘイワ−スの疲れきった顔に驚いた。
 たとえばアルツハイマ−症などで、少しづつ知力が失われて行って、それまでの自分がだんだん自分でなくなってゆく。
 身近な人が誰なのかわからなくなる。おだやかな性格だったのに、やたらに怒りっぽくなったり、自分でも気がつかないうちに、自分らしさがなくなってしまう。
 正常な人の場合でも、よく見られる現象だが、これが女優の場合だったら、たいへんな苦しみになる。リタの場合でいえば、「ギルダ」だった頃の自分は、もう現在の自分ではない。それでは、いつの時代の自分なのか。
 女優は、別人になってしまった自分が、「ギルダ」としての自分を見せることに恐怖をおぼえないだろうか。そういう自分に気がつかないはずはない。周囲にどう見られるかわかっていながら、なおも女優であろうとする。それは、虚栄心だろうか。
 私は、「巴里の空の下」に出たシルヴィ−や、「望郷」に出たフレェルをみたとき、美貌を誇った女優がいつしか老女になってしまう残酷さに、胸を打たれたことがあった。
 いつか、そんなことを考えてみたいと思っている。

 あとで、新聞で、「悪のシンフォニ−」というタイトルで、テレンス・ヤング監督と知った。国際的に知られた俳優がたくさん出ているのは、国連が後援したためらしい。


              1977年9月24日(土)
 与野の高原君が、亡母、中田 宇免の焼香にきてくれた。

 ご近所に彫刻家が住んでいる。吉原 和夫さん。
 彼が、「新制作」に入選したという。
 午後2時半、上野。「新制作展」に行く。
 この「新制作展」で、友人、高橋 清さんの新作も見た。例によって、球体に、陰陽を形象したもの。

 吉原 和夫さんの彫刻は、巨大な木彫のヌ−ド。両手両膝をついて、四つん這いのポ−ズ。ひどく不自然な姿勢だった。この木彫のすぐ近くに、ほとんどおなじポ−ズの石の彫刻があった。若い彫刻家はモデルにこういうポ−ズを強制するのだろうか。もっとも、この彫刻なら、モデルを使う必要もない。
 吉原さんは才能はあるのだが、この木彫を見るかぎり、人気のある彫刻を作る気はないらしい。
 「新制作展」のあと、「ミュンヘン近代美術展」を見た。こちらは、ストゥック、カンディンスキ−など。ただし、これとは別に心に残る作品もあった。ハ−バ−マンという画家の小品は、パスキンに似た色調と、モデルのポ−ジングで、私の好きなタイプのヌ−ドだった。私は、どういう国の美術館に行っても、小品でも1枚か2枚、自分の好きな作品を見つける。たいていの場合、カタログの隅っこに、短い解説が出ている程度の芸術家だが、有名な画家の大作ばかり見るよりも、こういう小品を発見すると、かえってその国の美術界のようすが想像できる様な気がする。
 ハ−バ−マンという画家については何もわからない。しかし、ミュンヘンという都会の片隅で、こういう絵を描いていた画家がいたと思うだけでうれしくなる。

              1977年9月25日(日)
 百合子が歯痛で苦しんでいる。
 前から「大百堂」に治療を頼んでいたのに、治療に応じてくれなかった。このため、百合子は歯科医の娘なのに、虫歯を放置していた。
 内山歯科に行ったのだが、処置がわるかったのか、歯齦が腫れて、さらに頬までひろがって顔半分がふくれあがった。日頃の美女が、おバケになってしまった。
 冗談をいっている場合ではない。百合子が苦しんでいるのを見ていると、こちらまで苦しくなる。
 内山歯科に相談に行った。たまたま、外出しようとしていた内山 清春先生と、歯科の前で会ったので百合子の病状を告げた。
 内山さんは、私の岳父、湯浅 泰仁の教室にいて、しばらく「大百堂」の代診をつとめた。やがて、百合子の従妹と結婚したので、私にとっても親戚にあたる人だが、豪放磊落といった性格。明日、一番に診察してもらうことになった。

              1977年9月26日(月)
 百合子の病状はいくらかよくなってきたが、顔の腫れはひかない。痛みのせいで、夜も眠れなかったらしい。夜中に、ピリン系の睡眠薬、「ビラビタ−ル」を1錠。
 このため、手首や踵にかゆみがあらわれた。外から見ても発赤している。
 百合子にとっては、まだ、つらい試練がつづいている。

 昨日、内山歯科からの帰り、「そごう」の「東北物産展」で買ってきた福島のお菓子、アワビ弁当がおいしかった。
 百合子は、朝から内山歯科に行った。付き添ってやるつもりだったが、ひとりで行くといって出かけた。途中で、誰かと会うのがいやだったのか。

 「日経」、吉沢君。ラザ−ル・ベルマン(ソヴィェトのピアニスト)の演奏会に誘ってくれた。ピアノのヴィルトゥオ−ゾなのだから、ぜひ聞きに行きたい。
 しかし、百合子のことが心配なので断った。
 吉沢君はもとは音楽担当だったから、いい演奏家をよく聞いている。レコ−ドのコレクションも。

              1977年9月26日(月)
 日本の過激派、「日本赤軍」がハイジャックした日航機は、今日の午後、バングラデシュ/ダッカ空港に強行着陸した。

              1977年9月28日(水)
 ミケランジェロ。
 ラウレンティア−ナ図書館の設計を依頼された。
 「建築は私の本領ではありませんが、最善をつくしましょう」
 このことばに、ルネサンスの芸術家の自負、野心、堂々たる気概がこめられている。
 建築だけを見ても――創造的であろうとする姿勢には、いつもさまざまなかたちで試行錯誤をくり返してきたミケランジェロの生きかたが重なっている。
 今は美術館になっているが、ヴァザ−リの造ったウフィッツイ宮殿は、ルネサンス建築の最高の作品だろう。ここに現代イタリア・デザインのア−ムチェア、ソファ、タピッスリを置いても少しも不調和に見えない。

 たとえば、サンドロ・キア、エンツィオ・クッキ、フランチェスコ・クレメンティといった芸術家の仕事を考える。いずれも、今や中堅から大家の列に並びつつある人たちで、トランス・アヴァンギャルドと呼ばれている。
 この人たちの仕事や評価はまださだまってはいないが、シンプルな背景にグロテスクで具象的なイメ−ジを配置する「ニュ−・イメ−ジ・ペインティング」とおなじ傾向のものとみられている。
 エンツィオ・クッキの作品に――ムンクふうの表情をもった男や女たちの顔が、黒い太陽に向かって流れてゆく、そんなイメ−ジのものがあった。今の時代の緊張、不安といったものを感じさせた。
 フランチェスコ・クレメンティのヌ−ドは、どこかフランシス・ベ−コンを思わせるグロテスクなもの、これも時代の暗い状況を反映しているのか。
 私は、オッタ−ヴィオ・マゾ−ニスのヌ−ドが好きなのだが、日本では見られない。

2019/01/03(Thu)  1791 〈1977年日記 38〉
 

                  1977年9月20日(火)

 東京に出て、吉沢君と会う。「ヤマハ・ホ−ル」で、「おかしな泥棒 ディック&ジェ−ン」(テッド・コッチェフ監督)の試写を見ることにした。
 「ディック」(ジョ−ジ・シ−ガル)と「ジェ−ン」(ジェ−ン・フォンダ)は、ごく平均的な夫婦で、ささやかな幸福な家庭をもっている。子どもはひとり。ところが、「ディック」が失業する。たちまち、ささやかな幸福も雲散霧消してしまう。これを解決するために、二人が実行するのは、泥棒稼業だった。
 ジェ−ン・フォンダが、ホ−ム・コメデイをやるのだから、きっとおもしろいだろうと思った。たしかに、演技力はあるし、女として魅力もある。しかし、ジェ−ンが、いくら熱演しても、こういう「役」は、ジェ−ンには向かない。テッド・コッチェフの演出も、昔のRKOのコメデイのような、軽快なタッチでもあればまだしも、まるでコメデイ向きではない。例えば、ドジを踏んでも、本人はいつも我関せずといった顔をしている、それが、観客の笑いを喚ぶアイリ−ン・ダンのような、女優なら自然に出せるのに、ジェ−ン・フォンダがやると、「あたしなら、こういう女になれるわ」といったドヤ顔になる。
 ジェ−ンは、いつも自分の表情や、筋肉の動きを統制する。ある瞬間に表情や筋肉を自在に働かせて、「役」を自分の意のままにふる舞う。だから、観客をとらえて、自分のほうに引き寄せようとする。「ジェ−ン」はいつも、明るい、愛情をこめたまなざしで「ディック」を見つめる。「あたしは、こういう女なのよ」。これが、ジェ−ン・フォンダなのだ。だから、笑える部分でも、ほとんど笑えない。

 ジェ−ン・フォンダが、最高に「ジェ−ン・フォンダ」だったのは、ロジェ・バディムと結婚していた頃の「バ−バレラ」あたりだろう。悲劇的でありながら、おかしい喜劇女優だった。アイリ−ン・ダンは、ふつうの女優としては最高のレベルにたっしているが、名女優ではない。ジェ−ン・フォンダは、別の次元で、名女優といっていい。

 外に出たとき、雨が降っていた。台風が接近している。

 「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「南窓社」の松本さんから、校正を受けとる。
 そのあと、三崎町の写真屋で、写真を受けとって、本をあさった。
 ガリレオの研究、イタリア、フィレンツェの名家の研究、ボ−マルシェの評伝など。
 帰宅。ジョン・ト−ランドの「最後の100日」を読みはじめた。「ル−ツ」(社会思想社)が送られてきた。これはすぐに読む必要はない。


                        1977年9月21日(水)

 午後2時半、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「月刊時事」の編集者に原稿をわたす。この原稿は、先日、特急のなかで書いたもの。
 下沢君といっしょに「ワ−ナ−」に行く。「ビバ・ニ−ベル」(ゴ−ドン・ダグラス監督)を見た。バイクのスタント・レ−サ−、「イ−ビル・クニ−ベル」(本人)が出ている。このところ、いい映画を見ていないので、少し期待して見たのだが、これがどうにも挨拶のしようがない。昔、「新興キネマ」が、子ども向けに「ハヤブサ・ヒデト」のシリ−ズを作ったが、あのシリ−ズのはるかなる果てにこの映画がある、と思えば、それなりに楽しいだろう。
 こんな映画の試写を見にくる人はいないだろうと思ったら、意外や意外、田中 小実昌が見にきていた。私に気がついたコミさんは、おトボケ顔で、
 「ねえ、中田さん、お通夜に、お香典をもって行ってもいいだろうか」
 と聞く。
 何かあらぬことを言いだして、私をカツぐのではないか、と思った。
 「これから、行くの、お通夜に?」
 「うん、今 東光さんがイケなくなっちゃったんだ」
 え、今 東光が亡くなったのか。
 「そりゃ、たいへんだ、お香典はもって行ったほうがいい」
 私は答えた。
 私としては――知人が亡くなった知らせを受けて、さっそくの弔問にお香典を持参するのは、ひかえたほうがいい、なぜなら、急な事態に、先方は祭壇さえかざっていないコトもあるだろうし、親戚、縁者でごったかえしている最中に、挨拶もそこそこにお香典をだせば、とりまぎれたりすることもある。
 むしろ会葬のときに、御香典を霊前に供えるほうがいい、と考えている。
 医師で、同人作家として小説を書いていた三浦 隆蔵さんの訃を知らされたとき、私は、すぐに花輪を贈る手配をして、ご自宅に急行した。このときは、お香典はいかほど包むものかわからなかった。
 ただ、コミさんが、いつものようにラフなスタイルだったので、できれば喪服に近い恰好のほうがいいよ、といった。新聞記者、編集者が押しかけているはずだから。
 田中 小実昌は、私の意見を聞くと、
 「ありがと。助かったよ」
 といって、すぐに、近くの「松阪屋」に入って行った。おそらく、御仏前の上包みを買いに行ったのだろうと思う。

 日比谷公園まで、歩いた。銀杏の実がびっしりついていた。
 もう秋だなあ。
 暮れかかるビルの空に、長い影がひろがりはじめていた。

 6時、「山ノ上」で、画家のスズキ シン一に会った。下沢君を紹介して、3人で、ホテルのテンプラを食べた。
 スズキ シン一は、マリリン・モンロ−のヌ−ドしか描かない芸術家だった。私は、偶然、彼の個展を見て、たまたま、テレビに出たとき、彼の画業を紹介した。そのときから、親友になったのだった。
 この夏、彼は、エジプトに旅行した。そのおみやげに、カイロで、エジプトのガウンのような服を買った。それを私にプレゼントしてくれた。私は、酒に酔った勢いで、その服を着た。
 時間が遅かったので、下沢君を帰して、スズキ シン一といっしょに、駿河台下のバ−、「あくね」に行った。

 私がエジプトの服を着ているので、「あくね」のみんなが、驚いたり、笑ったりした。いつも私についてくれる「順子」も、ママも傍に寄ってきて、みんなでワイワイさわいだ。こちらにご光来くださった方は、エジプトのカイロ大学のえらい教授先生だぞ、と紹介した。
 みんなが信じなかった。
 前に、スズキ シン一をこのバ−につれてきたことがあって、そのとき、画家と紹介したことを忘れていた。

2018/12/24(Mon)  1790 〈1977年日記 37〉

              1977年9月14日(水)

 13日、レオポルド・ストコフスキ−が亡くなった。95歳。

 1882年、ロンドン生まれ。ポ−ランド系ブリット(英国人)。23歳で、アメリカに移住、10年後、アメリカに帰化した。
 指揮者として成功したのは、1912年、フィラデルフィア管弦楽団の嘱託指揮者になってから。40年代には、NBC交響楽団、ニュ−ヨ−ク・フィルの指揮者として、世界的に知られた。
 私は、ストコフスキ−が出た映画、「オ−ケストラの少女」(ヘンリ−・コスタ−監督/1937年)を見ている。父、昌夫がつれて行ってくれたのだった。私は9歳になっていたので、映画の内容はわかった。 ただし、この映画で、ストコフスキ−がノン・タクトでやった音楽が何だったのか、知らなかった。
 戦後になって、「オ−ケストラの少女」が再上映されたとき、リストやチャイコフスキ−だったことを知った。
 これも戦後になって、公開されたアニメ−ション・ミュ−ジカル、「ファンタジア」(1940年)は、ストコフスキ−がフィラデルフィア管弦楽団をひきいていた。戦後も、10年たってからの公開だったので、私もいくらか音楽にくわしくなっていた。
 ストコフスキ−の指揮にあまり興味がなかったので、彼が来日して、読売日響、日本フィルを指揮したときも聞きに行かなかった。

 それでも、彼のヒンデミットや、ストラヴィンスキ−を聞いたし、彼が「恋人」グレタ・ガルボと結婚するというゴシップが気になったりした。「オ−ケストラの少女」は、父の思い出と、ディアナ・ダ−ビンという少女に対する淡いあこがれと、みごとな銀髪をふりたてて指揮をとるストコフスキ−の姿が重なって、私にとっては忘れられない映画になった。

 そのストコフスキ−が亡くなったのか。


              1977年9月17日(土)

 ストコフスキ−が亡くなって、こんどは、世界のプリマドンナの訃報を知った。
 マリア・カラス。16日午後1時半(日本時間・9時半)、パリで心臓発作で亡くなった。享年、53歳。

 私の好みは、いつも世間の人と反対らしく、マリア・カラスに対しても、絶対的な尊崇をもっていない。カラスと並ぶプリマドンナ、レナ−タ・テバルディと比較するわけではないが、マリア・カラスを聞いたあとで、レナ−タを聞くと、なぜかほっとするときがある。レナ−タを聞いたあとで、マリア・カラスを聞くと、ああ、これは別世界なのだ、と納得するのだが。

 カラスが、ジュゼッペ・ステファノを相手に復活して、世界各国でリサイタルを開いたが、さすがにかつての声は戻らなかった。
 1970年、「王女メディア」(パオロ・パゾリ−ニ監督)に出たカラスには驚嘆した。オペラ歌手なのだから、演技がうまいのは当然だが、この映画のカラスは、名演技などといったレベルではなく、すさまじい迫力を見せた。
 私の勝手な妄想のなかでは、サラ・ベルナ−ルとエレオノ−ラ・ドゥ−ゼを合体させて、さらに、マリ−・ベルとヴァランティ−ヌ・テッシェを加え、それに、ファニ−・アルダン、ジャクリ−ヌ・ビセットといった女優をかきまぜて、やっと、「王女メデイア」のカラスのレベルになる。
 いろいろなオファ−を受けていたカラスが、そのいくつかを実現していたら、どれほど貴重なものになったことか。

 わずかながらカラスのCDをもっている。「ラ・ノルマ」でも聞こうか。せめて、カラスを聞こうというのは、われながらさびしい、かなしいことだが、思い出には、いつもわずかながら、さびしい、かなしいものがまざっている。

マリア・カラスの訃報は、かんがえないことにして……

 この日、久しぶりに山歩き。メンバ−は、安東、吉沢、石井、鈴木、菅沼の5名。
 原稿は、石本に届けてもらった。

 黒磯からバスで、大丸温泉に行く。
 夕方から歩いた。峰ノ茶屋の尾根にとりついたときは、もう日が暮れていた。懐中電灯を頼りに山道を辿って、三斗小屋に着いたのは7時。

 隣りの部屋で、東北日大高の0Bの一行が宴会をはじめた。12時過ぎて、みんなが出かけたので、安心したが、3時頃、戻ってきた。みんなが酔っていて、一人はヘドを吐く始末。さすがに私もたまりかねて、外にでてどなりつけてやった。

 朝、4時に出発の予定だったが、5時に変更した。前の晩、小屋の近くにテントを張った女子高生3人と、高校生3人は、国体に出る訓練をしているという。引率していた福島岳連のリ−ダ−のオジサンとしばらく話した。オジサンも、昨夜の日大高の0Bたちの乱行に眉をひそめていた。
 こちらが出発というとき、まるで土佐犬のような大型のメスのイヌが私たちに寄ってきた。
 「おい、一緒に行くか」
 と声をかけると、ことばがわかったらしく、シッポを振って走りまわった。

 睡眠不足なので、はじめはきつかった。熊見曽根をたどって、三本槍にでる途中まで、ずっと霧だった。霧雨。
 須立山から甲子に下る道は、雨に濡れて、すべりやすく、けっこう苦労させられた。

 坊主沢の避難小屋は、前にきたときは、荒れ果てていたが、行政の手が入ったらしく、しっかりした小屋に建て替えられていた。登山者のマナ−が悪かったのだろう。

 甲子温泉に着いたのか4時。旅館で入浴させてもらう。これも、前にきたときは、薄汚れていたのに、すっかり温泉ホテルふうになっていたのでおどろいた。
 ずっとついてきたイヌと別れた。
 イヌは、そのままどこかに行ってしまったが、夜道を戻るのかも知れない。あのイヌの足なら、ほんの2時間もあれば、三斗小屋に戻るのではないか。
 帰りはうまくすわれたが、さすがに疲れた。


              1977年9月19日(月)

 私は、じつはセンチメンタルな男なのかも知れない。
 マリア・カラスばかり聞いていた。

 パスカル・ペレのサッカ−を2度見た。これだって、さびしい、かなしいものがまざっている。
 最初の試合、ラスト1分前に、ペレが、みごとなバナナ・シュ−トをきめた。これは、みごととしかいいようがない。しかし、日本チ−ムも、「コスモス」も、この試合がペレの引退試合と知っているので、最後に、ペレ一世一代の花道を作ってやる「演出」に見えた。私の猜疑心によるものだろうか。
 観客は、みごとなバナナ・シュ−トをきめたペレを讃えて、熱狂的に拍手喝采したが、私はかすかに、このプレイは、はじめからこういうシナリオだったような気がしたのだった。むろん、それならそれでかまわないけれど。

 なにしろ、センチメンタルな男かも知れないので。

2018/12/17(Mon)  1789 〈1977年日記 36〉
 
              1977年9月11日(日)

 ロ−マ。
 昨日、ロ−マのアメリカ−ナ・イタリア銀行の金庫室が破られ、保管されている金品ケ−ス200個が荒らされた。被害の総額は100万ドル(約2億7千万円)を越える模様。
 怪盗は、この週末、銀行の隣りのラウンドリ−から侵入、鉄の扉をバ−ナ−で切断した。まるで、映画、「黄金の7人」だなあ。
 今年になってイタリアでは、巨額な金庫破りが4件も起きている。ミラ−ノで550万ドル。アスティで、120万ドル。
 先月には、シチ−リアで、銀行に侵入しようとしていた5人組が、あと一歩というところで、警察に逮捕された。
 こうなると、さっそく喜劇仕立てのシノプシスを書いて、企画に提出してもおかしくないね。しかし、監督は? 田中 喜八? 冗談だろ。


              1977年9月12日(月)

 人間の結婚制度は、一夫一婦を原則としてきたが、実際の性交は乱脈な野放し状態だった。それでも、過酷な生活環境によって、人間は生きるための戦いをさまたげない程度に、性欲もひかえめなものにした。
 ただし、先史時代の部族社会でさえ、人口の急増にともなって、ある程度制限したうえで、性的な放埒を認めなければならなかった。
 男のグル−プが女のグル−プ全員の支配権をもつ「集団結婚」の名残りは「初夜権」として、最近まで存在していた。

 カトリック、サクラメントとしての結婚は、キリスト紀元、13世紀まではまだ万全のものではなかった。(ルネサンスのプラトニズム、ピエトロ・ベンボ、カスティリョ−ネを読むこと。)理論的には、不義密通を賛美することもできた。
 ロココの時代になって――セックスを自由に謳歌したが、これは、貴族社会が、原始社会の乱交(オ−ジ−)に逆戻りした、と見ていい。

 一夫一婦婚のかたちは、女性の権利を否定するロ−マ法と、売買によって結婚を成立させるチュ−トン族の実利主義とが奇妙に調和しあって、さまざまな人種間で、ごくかぎられた期間にめざましい発展をとげた。チュ−トン系は、強力なエネルギ−で、自分たちの法律を実行して行く。

 マドンナとしての女性、巫女、あるいは母としての「女」は、無教養な集団という汚名を着せられて、その地位はひたすら貶められた。
 結婚は、性欲の処理、出産によって子孫繁栄をはかるという二つの「契約」だったが、長い歳月のあいだに、こうした観念も変化しはじめた。

 ロココの時代には、夫の身分によって経済的な安定が得られる妻を、夫の継承者とするといった、国家の先導によって、結婚の形態に歪みが生じた。
 そして、ほとんど病的なまでに貧困をおそれるあまり、しみったれた倹約がひろがった。その結果、国民の力が萎えた。この時代、家族の資産を分割させまいとして、子どもの相続を故意に制限することもめずらしくなかった。

 一夫一婦婚の基盤が崩れはじめた一方、新時代に向けて、まったく新しい、究極の主張があらわれる。かんたんにいえば、男は威風堂々たるパシャになるのか、それとも、女房の尻に敷かれるあわれな亭主になり果てるのか。

 官能的な快楽追求の時代は幕を閉じる。

 それに代わる形態が、二つの特質を見せて、次の世代で実行されてゆく。

 若者の性欲は、友情ある結婚で浄化される。
 夫婦はつねにお互いの人格を尊重しあう一身同体、一旦緩急にあたっては、力をあわせて立ち向かう。
 あのエピクロス的なモンテ−ニュが、夫婦の理想的な相(すがた)としてすでに思い描いていた。

 フランス・ロココの結婚の歴史は、フランス史のなかでも、もっとも天真爛漫な姦通の歴史だった。

2018/12/06(Thu)  1788 〈1977年日記 35〉
 
               1977年9月7日(水)

 とにかく、本を読まなければいけない。

 もともと、私の読書は、手にした本を再読するかどうかをきめるために読むようなもので、ほとんどの本は、届いて来た日にすぐ目を通すだけで、二度と読まない。
 そのかわり、再読すると決めた本は、それからしばらくして、じっくり精読する。 いつかまた読むべき本は、大切にとっておく。いつ読み返すかわからないが、かならず、もう一度読むことにして。

 ロココの時代。
 売春は、当時の女性にとって日常のアンニュイから逃避するための安易な手段だった、と見ていい。女がさまざまな因習にがんじがらめにされていた時代、さまざまなしきたりや、モラルをかなぐり捨てて、春をひさぐ。これは、時代のモラルに束縛されまいとする女にとって、まさにうってつけの享楽だったに違いない。

 ロココにおけるセックスの戯れは、ただ遊ぶための遊びを、無節操に追いもとめ、ついには堕落の一途をたどった。
 当時、色豪として知られていたリ−ニュ大公は、堕落したデイボ−シュ(道楽者)だったが、温和な人柄だったらしい。
 一方、この時代の高級娼婦(グラン・クルティザ−ヌ)は、お人形よろしく、美々しく着飾った上流夫人の「恋愛」とは対照的に、ひたすら陽気で、気まぐれ、あでやかで、比類のないものだった。たとえば、エロティックで奔放な画風で知られるボ−ドワンの描いたロココの娼婦たちの姿が今につたえられている。

 この時代、表現は徹底して自由になり、女たちをとり巻く息吹きも、艶っぽく、挑発的になった。おかげで、一般庶民の女たちまでが、娼婦(クルティザ−ヌ)にひそかな軽蔑のまなざしを向けながら、同時に、好奇心にかられはじめた。
 代わりばえのしない日常に倦んでいればこそ、娼婦(クルティザ−ヌ)にあこがれ、あるいは嫉妬したのではないか。
 こういう女の歴史は、ギリシャのヘタイラからルネサンスの娼婦につながっている。

 ロココの娼婦たちは、厚顔にも、聖職者のとり巻きとして、サロンで、性的な魅力をふりまいていた。

 ここから、現代の娼婦たちについて考えてみよう。


              1977年9月10日(土)

 ロココの女たちは輸出されていた。
 ロシア皇帝や、インドのサルタンたちが、フランスの美女を買い求めた。
 (価格はいくらだったのか。輸出経路は? 所要日数は? 調べること。)

 オペラ・フランセ−ズは、高級娼婦の養成所だった。

 娼婦なのだから、彼女を買った男は、「情夫」(アマン)として遇されるが、金の切れ目が縁の切れ目。たおやかな、しかし、非情なモンストルは、おいぼれの守銭奴ばかりか、若い放蕩者からも、遠慮会釈なく黄白をしぼりとる。
 ときには、「情夫」(アマン)の正式の妻を追い出して、首尾よく、「妻の座」を奪うものも出てくる。
 途方もない贅沢になれきっていた娼婦にしては、ごくささやかな、月々の「お手当て」で満足した高級娼婦もいる。
 しかし、この時代、フランス文化の思想と現実を体現していたのは彼女たちだった。

 ロココの女たちについて、もう少し調べること。

 話はちがうが、ル−マニア国立ブロエシュチ劇場の芝居を見たい。こんな劇団がきていることも知らなかった。
 この一行は、「前進座」を見学して、歌舞伎の下座、立ち回りを見学したという。
 三味線、鳴りもので、川の流れや雪の降る情景まで出せると知って、
 「簡素ななかに、これだけ鋭い表現ができるというのは驚き。日本の伝統演劇の深さに打たれた」
 と、団長以下が驚嘆したらしい。(むろん、お世辞半分だろう。)
 どういう劇団なのかしらないが――共産圏のル−マニアのことだから、おそらくスタニスラフスキ−を金科玉条にしている劇団だろう、と思う。この劇団の俳優、イオン・ルチアンが、返礼として「ある女の朝」というパントマイムをやって見せたらしい。
 朝、目ざめた女が、ベッドを離れて、お化粧をはじめ、外出するまで。
 「女形(おやま)の河原崎国太郎さんを前にして、女を演じるのはおこがましいのですが」
 といった。
 これに対して、国太郎は、
 「こちらこそ勉強させていただきました」
 と答えたという。

 私は、バロ−や、マルセル・マルソ−のマイムを見たり、テアトロ・エスパニョルのエチェガライのマイム、イタリアのエドワルド・フイリッポのマイムも見てきた。しかし、共産圏の役者のパントマイムは見たことがない。もっと早く知っていたら、ティケットを手配したのに。

 ル−マニアの女優では、エルヴイ−ル・ポペスコ、ポ−ラ・イルリ−ぐらいしか知らない。残念に思っている。

2018/11/27(Tue)  1787 〈1977年日記 34〉
 

              1977年9月1日(木)

 私の失敗。

クレジット・カ−ド、銀行のカ−ドなど、いっしょに入れておいた紙入れを紛失した。どこを探しても見当たらない。山に行くときは現金だけもって行くので、まさか紙入れごと失くしたとは思わなかった。

 この一年、物忘れをするようになった。老化現象なのだろうか。
 本を読む。本の内容はおぼえているのに、ある文章がどの本に書いてあったのか、忘れることがある。毎日、1冊以上の本を読むせいだろうか。誰かがこういうことをいっていたな、と思う。さて、誰がいっていたのか、その本を探すのはたいへんなのである。三日もすれば、少なくとも、3冊から十数冊の本を読んでいるわけだから、誰がいったのかおぼえていないことになる。

 物忘れをするようになったことから、思い出したことがある。

 いつだったか、「千葉文学賞」の選考に呼ばれて出席した。
 このとき、はじめて窪川 鶴次郎に会ったのだった。

   窪川 鶴次郎(1903〜1974)中野 重治などと「驢馬」を創刊。佐多 稲
   子と結婚。「日本プロレタリア芸術連盟」に参加。1930年、「ナップ」の文芸
   評論家として活動する。1931年、非合法下の共産党員になる。翌年、逮捕され
   、転向。「再説現代文学論」(1944年)は、文学批評の古典と見られている。
   戦後も、左翼を代表する文芸評論家だったが、「近代短歌史展望」(1954年)
   あたりから、研究者になり、文芸評論から離れた。 (後記)

 私が「戦後」はじめて登場したとき、窪川 鶴次郎は痛罵を加えた。私は、はじめてジャ−ナリズムの攻撃にさらされたが、窪川 鶴次郎の攻撃にふるえあがった。こちらはまったく無名なので、反論したくても反論できなかった。
 このときから私は窪川 鶴次郎を敵視するようになった。むろん、会ったこともなかった。千葉に移り住むことになって、たまたま「千葉文学賞」の選考を依頼されて、窪川 鶴次郎と同席したのだった。
 現実に眼にした彼は、ただの老いぼれに過ぎなかった。

 このとき、「文学賞」最終選考に残った作品は5編。いずれもせいぜい同人雑誌クラスの作品で、10万円の賞金にふさわしいものではなかった。ところが、「千葉日報」としては、どうしても当選作を出したい、出す必要があった。当時、この「文学賞」には県からも補助が出ていたためもあった。けっきょく、この年の当選作は、若い女性の叙情的な作品にきまった。

 選考に当たったのは、窪川 鶴次郎、福岡 徹(富安 徹太郎)、恒松 恭助、峰岸 義一、そして私。当時、近藤 啓太郎も審査員のひとりだったが、これは名ばかりで、こんな「文学賞」の選考などに出席するはずもなかった。私が審査員に選ばれたのは、近藤 啓太郎の欠席を予想しての起用だったらしい。

 今なら、コピ−した応募原稿がわたされるのだが、当時は、生原稿を廻し読みするので、能率がわるく、審査は午後から夜までかかることもめずらしくなかった。
 窪川 鶴次郎は、熱心にノ−トをとりながら、原稿を読んでいた。しかし、原稿を読むスピ−ドが遅く、いちばん先に読んでしまった私は退屈した。

 けっきょく、二次審査だけに5時間もかかって、6時過ぎに酒宴になり、その席で、それぞれが感想を述べることになった。

 長老の窪川 鶴次郎が、最初に意見を述べたが、作品の優劣に関してはほとんど何も発言しなかった。むろん、応募作品のレベルが低すぎて、批評しなかったのかも知れない。しかし、口ごもったように、不要領なことばを述べただけで、意外な気がした。
 たとえば、これも最終選考に残った作品の一つについて、
 ・・・これはどうも、ぼくには興味がありませんでね。なんだか、ニヒルでアナ−キ−
    なものを感じましたね。
 といっただけだった。
 ビ−ルを飲みながら、みんながつぎつぎに感想を述べたが、ビ−ルのせいで和気あいあいといった感じになった。福岡さん、恒松さん、峰岸さん、いずれも談論風発の酒豪ぞろいだった。

 窪川 鶴次郎は、酒を飲まなかった。ただ、なんとなくようすがおかしい。しきりに、何か考えているようだった。

     隣りにいる峰岸 義一をつかまえて、
   ・・あの女子学生の小説は何でしたっけね」
     小声で訊く。
   ・・あれは、・・・の「・・・」ですよ」
     峰岸さんが教えた。しばらくすると、また窪川 鶴次郎が、
   ・・あの女子学生の出てくる小説は何でしたかな、題は」
     と訊く。峰岸さんは、おだやかに、
   ・・だから、「・・・」でしょう、先生のおっしゃるのは」
   ・・「ああ、そうでしたね」
 私は、このやりとりを興味を持ってみていた。
 これが、あの窪川 鶴次郎なのか。佐多 稲子と結婚したり、田村 俊子と愛欲生活を送ったり。戦時中は、当局の厳重な監視下におかれながら、自分の立場をくずさなかった文学者なのか。
 また、ひとしきり雑談がつづいて、窪川 鶴次郎が口を開いた。
   ・・私は、あれがいいと思いましたね。あの女子学生が出てきて、清潔な、なんと
     いうのかな、学生生活を描いた小説、何でしたかな、題名は」
   ・・「・・・」ですよ」
   ・・いや、そうじゃなくて、ほら、あの、もう一つあったような気がしますね。女
     子学生が出てきて・・。」
     峰岸さんは黙っていた。このときは、恒松さんが話をひきとって、当選作の内
     容を子細に説明した。
     けっきょく、この作品が、あらためて当選ときまったが、窪川 鶴次郎は、ま
     だ納得できないのか、ひとりごとのように、
   ・・あの女子学生の作品は何だったっかな。
     と、つぶやいていた。
     それからあと、窪川 鶴次郎はまったく沈黙してしまった。

 私は、いたましい思いでこの先輩批評家を見ていた。信じられないほどのボケ老人になっている。当時はまだ認知症とか、アルツハイマ−といったことばもなかった。だから、ただの「ボケ」として認識したのだった。「戦後」の窪川 鶴次郎が、この数年、何も書かなくなっていることは知っていたが、これほどの老廃と化しているとは。
 まだ白頭の老人とも見えないが、顔は茶色を帯びて、メガネの奥には、何かに驚いたようなまなざし。
 これまで実際に面識のなかった窪川 鶴次郎に、ひそかな敵意を抱いてきた。その窪川 鶴次郎が、ようやく箸をつけて、選考を終わった人々の雑談にも加わらず、遅ればせながら食事を続けているのだった。
 私は、文学者の老年をしきりに思った。たとえば、幸田 露伴のように、老いてますます高雅、潁明さらに盛んになる人もいる。あるいは、その趣味は俗悪、その人格は低劣とそしられながら、老いてなお、un petit loppin de maujoint を美しく描いた永井 荷風のような老健の人もいる。
 いずれ、私も年老いた日に、窪川 鶴次郎のようにならない、とはかぎらない。そう思っただけで、うろたえた。

 やがて閉会になった。
 窪川 鶴次郎も、蹌踉(そうろう)として席をたったが、テ−ブルの上に飲み残しのビ−ルを見つけて、いそいで飲み込んだ。恒松さんが、ウイスキ−に切り換えたとき、飲み残したビ−ルだった。



                        1977年9月2日(金)

 駿河台下の銀行に行って、カ−ドの変更を申請した。偶然だが、銀行に鈴木 君枝がいた。そして、石川 幸子と会った。二人とも、私のクラスの学生。

 「週刊サンケイ」、長岡さんに書評をわたす。

2018/11/20(Tue)  1786 〈1977年日記 33〉
 
              1977年8月29日(金)

 気分は爽快。

 1時、「王子と乞食」(リチャ−ド・フライシャ−監督)を見た。いうまでもなく、マ−ク・トウェ−ンの原作。マ−ク・レスタ−主演。意外にできがいい。むろん、レックス・ハリソン、ア−ネスト・ボ−グナイン、オリヴァ−・リ−ドなどの共演者がいい。
 主演のマ−ク・レスタ−は可愛い少年だが、このまま成人して、いい役者になれるかどうか。かつてのフレデイ・バ−ソロミュ−とおなじ輟を踏みそうな気がする。
 試写を見たあと、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、本田 喜昭さんに会う。もと「推理スト−リ−」の編集長だった人だが、独立して週刊雑誌をやっている。原稿の依頼。
 俗悪な週刊誌に書くのは、作家としての評判を落とすことにつながるのだが、私は本田 喜昭さんに恩義を感じている。それに、どんな雑誌に何を書いても、私は自分を恥じない。

 6時、「ヤクルトホ−ル」。
 「マダム・クロ−ド」(ジュスト・ジャカン監督)の試写。これも、意外にいい映画だった。ロッキ−ド事件をからめた、高級コ−ルガ−ルの物語。
 ポスタ−に、シルヴィア・クリステルの顔が大きく出ているので、シルヴィアの主演かと思ったが、わずか1カットに出てくるだけ。羊頭狗肉どころではない。こういう宣伝は感心しない。シルヴィアはカメオ出演ぐらいのつもりで出たのか。あるいは、まだ爆発的な人気が出なかった時期にこの映画に出たので、急遽、ポスタ−に使われたのか。

 エリカから手紙。新しいアドレス。風邪をひいたらしい。

 今年ももう後半に入っている。いろいろなことが起きている。
 巨人軍の王 貞治が、ホ−ムランの世界新記録、756本を達成。

 日本航空、パリ発東京行き、DC8型機が、経由地、ムンバイ(ボンベイ)離陸直後に、「日本赤軍」によってハイジャックされた。バングラディシュのダッカ空港に強行着陸。犯人は、拘留中の同志9人の釈放、ランサム(600万ドル)を要求。

 厚生省。日本人の平均寿命、女性は77歳。男性、72歳と発表。

2018/11/15(Thu)  1785 〈1977年日記 32〉

               1977年8月24日(日)

 つぎからつぎに原稿督促の電話ばかり。
 原稿を書かなければいけないとわかっているのだが、かえって本を読みたくなる。
 たとえば、「アンジェラ・ボルジア」。岩波文庫。1949年に出ている。「アンジェラ」は「ルクレツィア・ボルジア」の従妹。スト−リ−は、「ルクレツィア」と「アルフォンソ・デステ」の結婚からはじまり、「ドン・ジュ−リオ」、「イッポリ−ト」など、エステ家の兄弟、「エルコ−レ・ストロッツイ」、「ピエトロ・ベンボ」などがつぎつぎに登場してくる。まるで、歴史もののテレビ・ドラマでも見ているようなおもしろいものだった。


                        1977年8月28日(木)

 暑い。

 原稿をいくつも書いた。27日、「サンケイ」は1本しか書けなかった。
 こういうときは、気分転換に山を歩くことにしよう。
 12時半、新宿駅2番線。松本行き、「急行アルプス」。
 吉沢君、「三笠書房」の三谷君、「二見書房」の長谷川君、石井、菅沼 珠代、鈴木 和子。安東君は、八王子から乗った。

 韮崎に着いたのは、4時近く。タクシ−を利用することにして、「白鳳荘」に。
 着いたとたんに、雨が降ってきた。おやおや、また雨か。

 4時、起床。4時半に歩き出した。まだ暗い。
 私は腰を傷めているので、歩きはじめはつらかったが、じきに痛みは消えた。

 快調とはいえ、甘利から大西峰に出るあたりがきつい。
 御所山。前に、Y.K.と二人で登ったときは、ル−トが見つからなくて苦労した。今回は、新しい標識がついていたので、青木鉱泉に出るのもずっと楽になっていた。

 このコ−スはもとのままで、手入れもされていない。青木鉱泉のすぐ手前で、沢を渡ったが、鈴木君が足をすべらせて、あやうく川に落ちそうになった。みんなが笑った。
 今回は参加していないが、工藤さんなら川に落ちていたはずだ、と冗談をいう。
 彼女は、水難の達人で、ふつうの登山者なら絶対に落ちないようなみずたまりでも、かならず足をとられる。幅がせいぜい数十センチの溝でも、かならずすべったり、ころんだり。
 私の冗談に、みんなが笑いだした。

 青木鉱泉。みんなで、のんびり湯につかり、ビ−ル。
 今回も楽しい登山になった。マイクロバスで、韮崎に送ってもらう。

 5時20分の臨時急行に乗るか。36分の鈍行に乗るか。
 結局、甲府で、そばを食べようということになった。急行で、甲府に行く。
 私たちの判断では――甲府始発の鈍行に乗ることになる。
 急行の入線で、みんながそれっとばかりに乗り込んだが、もうれつに混んでいた。やっと車内に入ったが、立錐の余地もない。

 あとで知ったのだが、大槻で脱線事故があって、中央線のダイヤが混乱していた。
 甲府の一つ手前の竜王で、この列車も立ち往生。先行の列車が甲府で停止しているため、この列車は、竜王で停車したらしい。長い時間、待たされて、しかも車内はむし暑かった。
 この間に、隣りの車両に乗った安東君が、プラットフォ−ムを走ってきた。私は非常用のコックを使ってドアを開けた。あんまり長い時間待たされたので、乗客のなかには、私たちのようにプラットフォ−ムに出るものもいた。
 私は停まっている列車を点検して、みんながおなじ車両に乗れるようにした。こういうことになると、日頃、列車の乗り降りになれているわがパ−ティの行動ははやい。

 やっと、甲府に着いた。これからまた何時間かかるのかわからないので、駅のキオスクに乗客たちが押しかけた。駅弁や、食品を買いあさっている。まるでパニック状態だった。ここでも、安東は有能だった。すぐに、駅そばに走って、そばを8個、買ってきた。
 これで、駅そばは売り切れ。
 安東につづいて、三谷君、長谷川君、石井たちが、ビ−ル、ジュ−ス、おつまみなどを仕入れてきた。みんなが、山でビバ−クするようなうれしそうな顔をしていた。

 いろいろな登山をしたが、今回のような意外なピクニックはめずらしい。

 新宿に着いたのは11時過ぎ。
 帰宅したのは、1時過ぎ。

2018/11/10(Sat)  1788 〈1977年日記 35〉
 
               1977年8月12日(火)

 エリカがアメリカに戻った。

 パンナム002便の出航は3時15分の予定だが、15分遅れで出発。

 私はまだいろいろと仕事がある。
 5時15分。「アラスカ」に寄って原稿を書く。なんとか仕上げたので、「ジャ−マン・ベ−カリ−」に行く。ここで、「世界文化社」の編集者と打合せ。「公明新聞」の編集者に原稿をわたす。
 下沢君と「実業之日本」に行く。峯島さんが、「夕月」に案内してくれた。
 翻訳もののシリ−ズを始めるまで、ずいぶん時間がかかったが、ようやく社長の内諾が出たという。


                 1977年8月15日(金)

 8月15日なので、敗戦当日のことを思い出す。

 朝、「共同通信」から、エルヴィス・プレスリ−の死を知らせてきた。コメントをもとめられたので答える。

 プレスリ−が、初めて登場した(56年)とき、私は反発したひとり。
 戦後のポップスに大きな影響をあたえたのは、ビング・クロスビ−、フランク・シナトラ、つづいてエルヴィス・プレスリ−、やがてビ−トルズだった。ごく平凡な見取り図だが、エルヴィス・プレスリ−には、はじめから忌避したいものがあった。
 マイクをにぎりしめて、セクシ−に骨盤を動かす「ペルヴィス・スタイル」が気に入らなかった。
 「ハ−トブレイク・ホテル」、「監獄ロック」、「ラヴ・ミ−・テンダ−」、「テディ・ベア−」、「ブル−・スウェ−ド・シュ−ズ」。どれも感心しなかった。

 エルヴィスの映画は、「GIブル−ス」、「ブル−・ハワイ」、「燃える平原児」など、30本もあるのだが、私は数本見ただけで、映画評を書いたこともなかった。シングル盤やLPも一枚ももっていなかった。
 ようするに、まったく無縁のまま過ごしてきたのだった。

 (私が、後年、ハンタ−・ディヴィスの「ビ−トルズ」を訳したのも、エルヴィス・プレスリ−に対する挽歌という意味もあった(ような気がする。)(後記)

 その私が評価を変えたのは、晩年の「エルヴィス・プレスリ−・オン・ステ−ジ」と「オン・トゥア−」を見て、あらためてこのシンガ−の円熟を知ったからだった。
 私は、周回遅れのファンといっていい。
 私が見たエルヴィスは、肥満体質に悩み、無理な食事制限や、大量の薬物投与に苦しみながら、自分の音楽をひたすら追求してきた芸術家の姿だった。

 エルヴィスは42歳の若さで亡くなった、という。あまりにも若い死だった。

 私は、おのれの不明を恥じてはいないが、エルヴィスが亡くなったことは、アメリカのポップスにとってとりかえしのつかない悲劇と見る。

 プレスリ−の死がつたえられたとき、グレイスランド・マンション前の、プレスリ−・ブ−ルヴァ−ドは人並みで埋めつくされたという。葬儀が行われた18日は、徹夜した350人をふくめて5000人が邸宅をとり囲んだ。葬儀には、ジョン・ウェイン、バ−ト・レナルズ、アン・マ−グレット、サミ−・デイヴィス・ジュニアなども参列した。
 墓地は、フォレスト・ヒルズだが、今後、ファンの巡礼が予想されるので、独立した墓地に埋葬しなおすとか。

 「DAB DAB」の編集部から、電話でアンケ−ト。これもエルヴイスの死について。


              1977年8月19日(火)

 「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、井上 篤夫、大村 美根子、本戸 淳子の三人に会う。「実業之日本」、峯島さんに会ったが、ここにきて、まだ、社としての方針が固まっていないふしが見えた。
 大村、本戸のふたりを、有楽町のゲ−ム・センタ−に案内する。ふたりとも、こんな場所で遊んだこともないだろう。
 神田に出て「いぬ居」でスキヤキ。


              1977年8月23日(土)

 1時、「ゆかいな仲間」の試写をみるために、「ガスホ−ル」に行った。
 「ガスホ−ル」でも、私はいつも右側の10列目あたりにすわるのだが、この日はどういうものか、中央の席にすわった。
 映画が始まる前に、黒人の女性が婉然たる微笑をたたえて、私の席に寄ってきた。何があるのだろうか。その女性は、なんと私にワインのボトルをわたした。
 これまで、映画の試写に行って、何かをもらったことはない。その映画の宣材をもらったことはある。大型のパンフレットとか、その映画の題名のついたTシャツといったものばかりで、ワインをもらったことはない。
 どうして、私を選んで、ワインをわたしてくれたのか。
 あとで知ったのだが、この女性は、南アフリカ共和国の観光省の女性とか。最近の南アフリカ共和国は、観光に熱心になっているらしい。
 たまたま、昨日だったか、南アフリカ共和国が原爆実験を開始する決定をしたという。フランスの外相が、世界に向けて、警告を発した。
 ワインから、世界情勢を連想する。

 これが、私なのである。

2018/11/05(Mon)  1787 〈1977年日記 34〉
 
                   1977年8月9日(日)

 今回は参加する気はなかった。なにしろ、原稿がたまっているので、この数日、かかりっきりだった。歯痛。
 北アルプス縦走は、安東 つとむが計画したプランだったが、最後になって鈴木君が、参加を断念した。訓練不足、経験不足が理由だった。しかも、吉沢君が足を傷めているので、参加できるかどうか。ナンなら、オレが行ってやろうか、と声をかけてやる。これが、きっかけだった。

 それから、原稿をつぎつぎに片付けはじめた。

 「ミレイユ」続編の校正は、上野の駅の構内で赤を入れた。約束の時間ぎりぎりに石本がきてくれたので、「二見」に届けてもらうことにした。
 プラットフォ−ムを走った。やっと飛び乗ったとき、みんなが歓声をあげた。
 すべり込み、セ−フ。
 「先生は時間に間に会わなくても、きっとあとからひとりで登ってくる、と思っていました」
 という。
 メンバ−は――安東夫妻、吉沢 正英、工藤 淳子、石井 秀明、はじめて参加した甲谷君。今回は、「中田チ−ム」の最強のメンバ−。

 すぐに眠ることにした。睡眠不足なので。

 早朝。富山から立山線で、有峰口。
 ここからバスで折立まで。

 さすがに登山者が多い。
 私は、車中で、よく眠れなかったため、ひょっとすると、おもしろくない山行になるかも知れない、と覚悟をきめた。セ−タ−は着ない。

 風はない。空いっぱいに雲がよどんでいる。やや薄ぐろい雲、灰色、白っぽい雲。だいたいそんな雲ばかりだが、色合いによって、何種類にも分けられそうだった。つまり、お天気の変化によって私たちの行動にどう影響するか。
 はるか彼方に帯状にながく伸びた薄ぐろい雲があり、白っぽい雲が細長い切れめを挟んで接続している。その切れ目から、光が落ちている。山は、光を受けた部分だけが輝き、あとは薄茶色になってひろがっている。
 息をのむほど美しい。
 せめて、少しでも晴れてくれればいいのだが。

 折立ヒュッテから、ひたすら5時間。長い長い高原状の尾根を登って行く。睡眠不足なので、かなりきついものになった。

 太郎平小屋に着いたとたんに、雨になった。
 やっぱり降ってきやがった。しかし、これも計算しておいたから、ま、いいか。
 キャンプ地に移って、テントを張る。

 こういうときは、テントにもぐってもあまり話ははずまない。地図をひろげて、明日のコ−スを調べる。

 翌日、4時、起床。
 食事(おじや)を作ったが、意外に手間どったため6時に出発。

 風が出なければいいのだが。
 しかし、歩きだしてすぐに、風とまじって雨が降りしぶく。セ−タ−にアノラックを着ているけれど、手袋の下のわずかな素肌が冷えてくる。登山靴の爪先からも、雨の冷たさが這いあがってくる。わるいことに、歯痛がおきた。
 唇をかみしめながら歩く。唇は血の色を失っているだろう。

 北ノ俣岳に。

 歯痛は薄れた。しかし、どうも、発熱したらしい。

 歩きつづけているうちに、風はやんだ。いったん風が吹きはじめると、あたりの大気が大きな固まりのまま、すさまじい響きをあげながら、大移動をはじめる。こういうときは、石が地上高く舞い上がり、地面にしがみついている植物をちりじりにもぎとって、いつ果てるともなく吹き荒れる。
 登山者は必死に風をさけようとするが、あらぬことばかり、頭をかすめる。こんな山に登るんじゃなかった。天気を読み違えたのか。退却したほうがよかったのか。しかし、どこに逃げるんだ? 地上めがけて矢のように突き刺さってくる風は、そんな考えを吹きとばす。いったん吹き出すと、いつまでも吹きやまない。

 赤木から黒部五郎にさしかかったとき、頭痛がはじまった。黒部五郎から先、まだまだ長い長いコ−スがつづく。考えるだけで、ひるんだ。つらい登山になったなあ。さりとて、もはや引き返すわけにはいかない。距離的に、体力的に、戻るわけにはいかない。

 小屋に入ったとき、頭痛がひどかった。お天気は回復したから、登山にはもってこいの日だった。しかし、ひとりで登山したら、とても先に行く気は起きなかったにちがいない。やむをえない。クスリを飲もう。アスピリン、エフェドリン、フェナセチンの配合剤で、万一のことを考えて、半分だけ服用する。

 予想では、登山者はたいした数ではないはずだった。ところが、小屋は満員で、一人用のふとんに2人が抱き合って寝るような状態だった。

 翌日(8日)、私の体調は回復していた。クスリが効いたのか。からだが山になれてきた。

 昨日のことがウソにおもえるほど、空が晴れている。雨はもう降らない。
 とりどりの姿をした雲がながれて行く。
 山脈がただ青く見えた。その向こうに、ナマリ色の雲がびっしりとならんでいた。
 どこから湧いてくるのか、あとからあとから流れてくるのだった。
 私たちの頭上をゆっくり流れて行く。
 山の頂上から少し下のあたりを通ってゆく。コ−スは、東の空にゆっくりと消えて行くのだった。

 黒部乗越から三俣蓮華に向かう。
 今日は素晴らしい日になる、と確信した。みんなが、うきうきした気分になっている。
 あたりの風景までが変わって見える。チングルマやシナノキンバイなどの群生が美しい。ほかのパ−ティ−を追い抜いてゆく。

 三俣蓮華から双六に向かったとき、ほかの大部分のパ−ティ−は雪渓の下のカ−ルに下りて行った。
 私たちは、頂上をめざしている。
 途中で、甲谷君に雪渓の雪をカップにとってもらって、ユデアズキのカンヅメをまぜてたべたが、これがほんとうにおいしかった。みんなにもわけてやる。ただし、同時に、クレオソ−トも飲ませたが。

 双六に着いたのが11時40分。ここで小休止。ほかのパ−ティ−のいくつかは大ノマから帰るために出発して行った。

 残念ながら、私もここから帰途につくことにした。自分ひとり戦線を離脱するような気がして、みんなと別れることは伏せていた。このまま、登山をつづけたいとも思った。しかし、週刊誌の連載があるので、今夜じゅうに半分は書いておかなければならない。

 「先生が帰るのは残念だなあ」
 安東がいった。
 「ごめんよ。どうしても、明日、1本わたさなきゃいけないんだ」
 私は空を見た。南東に大きな笠雲が出ていた。
 「今夜は、また雨になるぞ。気をつけてくれ」
 私はいった。

 12時10分。私は、安東たちと別れて、ひとり、新穂高に向かった。

 大ノマ乗越で、先行のパ−ティ−に追いついた。
 このパ−ティ−の若いリ−ダ−が、私を見て、軽蔑したような顔をした。かるいザックを背負っただけで、北アルプスにハイキングにきた中年と見たらしい。私は自分の登山スタイルが他人にどう見られても気にならない。
 奥多摩や、関東の山を登っていた頃、よく営林署の方ですか、と聞かれたことがある。

 ここで食事をしたが、10分後に、大ノマ乗越に出た。伊藤新道である。この道は、石の急な斜面になっているので、前に出発したパ−ティ−にすぐに追いついた。こちらが崖の上に立って先行のパ−ティ−を眺めていると、リ−ダ−が、先にというサインを出したので、私は、みんなが見ている前で先を急いだ。こういう場合、いちばん警戒しなけれはならないのは、石を踏んだとき、その振動が原因で、落石を起こさないようにじゅうぶん注意することだった。私は、石をつたって走ったが、まったく石が動かなかった。
 日頃、奥多摩の川のりや、高見石から塞ノ河原あたりのガケを何度も駆け下りているので、この程度ならなんでもない。あっという間に下りた。私の前に、若者の2人が下山していて、私はそれを追うかたちになった。この2人もすばらしいスピ−ドだった。

 秩父沢に出た。岩を一つ越すと、思いがけず、若い男女がパッと離れた。小休止していたらしい。ただし、その場の空気は想像できた。

 ワサビ平に着いたあと、新穂高まで単調な下りがつづく。
 4時間半のコ−スを、3時間で下りたことになる。しかし、高山行きのバスは、5時の最終しかない。これに乗っても、高山で泊まるか、美濃太田までしか行けない。
 思案しているところに民宿の男が寄ってきた。
 民宿「奥穂」。場所は、新平湯温泉だった。ポン引きのようなオジサンが経営している。目がギョロギョロして、なにやら気味がわるいが、実際は好人物だった。
 この民宿「奥穂」に泊まったのは、どこかの山岳部のパ−ティ−、4人だった。

 夜は雨になった。安東たちはどうしているだろうか。
 (北アルプスは、荒れ模様になった。)

2018/11/01(Thu)  1786 〈1977年日記 33〉
 
                   1977年8月3日(月)

 「日経」、吉沢君に連絡して、「東映」の「宇宙戦艦ヤマト」を見に行った。
 このアニメについて、日記には書かない。この作品は、最近の日本映画として、きわめて重要な作品と見ていいのではないか。あとで、じっくり考えてみよう。

 吉沢君と一緒に、「レバンテ」で遅い食事。話は、もっぱら「宇宙戦艦ヤマト」に集中した。

 「実業之日本」に寄って、レジュメ、2本。
 久しぶりに神保町に行く。「北沢」の裏に出て、交差点に向かって歩いていると、思いがけず、磯田 光一に会った。
 「やあ、久しぶりだね」
 お互いに久濶を叙するという感じで、「コ−ヒ−苑」でしばらく雑談。私は、若い批評家のなかでは、磯田君にいちばん好感をもっている。
 お互いに批評家なので、話題がつぎつぎに変化する。永井 荷風のこと、作家の死について。吉田 健一の死について。
 私としては、スウィフトについて聞きたいことがあったのだが、いろいろと話をしているうちに忘れてしまった。なぜ、スウィフトなのか。磯田君は、最近のエッセイで、吉田 健一がスウィフトにふれていた文章から、臼井 吉見の「事故のてんまつ」を論じていたので、心に残っていたからだった。
 あまり長く時間をとってはいけない。磯田君が病弱と知っているので。
 最近の磯田君は、風俗資料を集めている、という。
 「どういうものを?」
 聞こうと思ったが、遠慮した。

 「一誠堂」で1冊。「松村」で1冊。

 夕暮れ。

 「山ノ上」で、「南窓社」の松本 訓子さんと、原稿の打合せ。
 井上 篤夫君に、アンサニ−・ロ−ムを。大村君に渡す本は、明日、速達で送ること。

 帰り、西千葉で下りた。富安 夘八郎さんに電話。お焼香をさせていただく。
 しばらく、福岡 徹(富安 徹太郎)を偲んで、話をする。
 夘八郎さんは、「軍神」を文庫に入れてほしいというご意向のようだった。


                        1977年8月4日(火)

 昨日、手に入れた本は「サヴォナロ−ラ」。もう1冊は、18世紀からのヨ−ロッパの王室に関する資料。
 ロマノフ家のマリ−大公妃、ルクセンブルグのマリ−・アデライドを、系図でたしかめた。系図を見ていて、ルクセンブルグ大公、アドルフスの弟、ニコラス(1832〜1905)が、メルレンブルグ伯爵夫人、「ナタリ−・プ−シュキン」と結婚している。さっそく、アンリ・トロワイヤの「プ−シュキン」を調べた。プ−シュキンの妻だった「ナタリ−」と混同した。詩人の「プ−シュキン」は、1837年に死んでいるので、「プ−シュキン」の娘かと思った。
 私は、外国の人名から、すぐに肖像がうかぶような研究者ではないので、いつも、苦労している。

2018/10/24(Wed)  1785 〈1977年日記 32〉
 
               1977年8月2日(日)

 今日は、福岡 徹(富安 徹太郎)さんの命日。
 昨夜、献花を届けておいた。早いもので、もう三回忌になる。
 福岡さんは、産婦人科医で、本業のかたわら小説を書いていた。おなじように、医師(眼科医)の庄司 肇さんとおなじ「文芸首都」出身の作家。
 主著は、日露戦争で、旅順口で戦った乃木 希典の評伝、「軍神」(「文春」)。ほかに「未来喪失」という短編集など。

 「未来喪失」が出たとき、庄司 肇が批評しているが、

    医者の小説書きというのは、以外に多いものなのですが、それらの人々は、不思
    議と二つの群にわかれるようです。つまり、はなはだ医者的な小説を書く人と、
    医者のそぶりさえ見せない人との、極端な二組にわかれるのです。福岡さんは、
    あきらかに前者で、この五つの作品の主要人物は、すべて、医者、あるいは、看
    護婦であり、物語の内容も、それにまつわるものばかりです。

 という。
 これで思い出したが――おもしろい資料があるので、ここに書きとめておく。

 野田在住の医師(内科)、宗谷 真爾さんは、庄司 肇さん、福岡 徹さんとおなじ「文芸首都」出身の作家で、「野田文学」という同人誌を主催していた。
 それこそ、「医者のそぶりさえ見せない作家」で、のちにカンボジアに旅行して、アンコ−ル・ワットの歴史、といったモノグラフィ−を発表したが、作家としては夭折した。

 「未来喪失」の出版記念会で、宗谷 真爾さんがスピ−チをする予定だった。
 おなじ千葉県在住の友人の出版記念会なので、ぜひ出席しなければならない、と思った宗谷さんは、午後休診にして、昼食をとるのももどかしく家を出た。野田から千葉までは、かなりの距離がある。宗谷さんは、息せききって電車にとび乗った。船橋で国電(JR)に乗り換えたが、これが準急で、福岡さんの病院がある西千葉は素通り。仕方がないので、一駅先の千葉で降りた。

    千葉にきてしまったからには、ここからの方が会場に近かろうと思いなおし、発
    起人の一人になっていた中田 耕治氏に、いっしょにいこうと誘いかけるつもり
    で電話したら、奥さんが電話口に出た。
    「中田はいま、単身ヴェトナムにおもむいておりまして……」
    私が代わりにまいりますが、まだ福岡さんを存じあげていない。会場で失礼があっ
    てはならないから紹介してほしいと言う。ヴェトナムでビックリしたうえに、留
    守をあずかる令閨の賢夫人ぶりに二度ビックリ。
                     (「城砦」18号・1965年5月)

 1965年、私は妻の百合子のすすめもあってヴェトナムに行った。当時、ヴェトナム戦争が続いていた。
 私は、この春休みを利用してサイゴンに飛んだ。

 サイゴンにいた私は――福岡さんの出版記念会が催されることは知っていたが、出席できる状況ではなかった。私の代理で、妻の百合子が代わりに出席してくれたが、この出版記念会のようすは、妻がエア・メ−ルで知らせてくれた。これと重なって、友人の作家、山川 方夫が交通事故で不慮の死を遂げた。これも、百合子はこまかく報告して、私のかわりに弔電を打ってくれたのだった。
 12年前の夏であった。

 私は、ヴェトナムに行ってから自分でも変わったと思う。内面的に変化を経験したのだった。

 福岡さんのことから、いろいろと思い出した。

2018/10/22(Mon)  1784 〈1977年日記 31〉
 

                        1977年8月1日(土)

 朝、若城 希伊子さんに電話。

 今後、「小説と詩と評論」とは絶縁するという。日頃、温厚な若城さんが、こうまでいうのだから、よほど不愉快なことがあったのだろう。

 若城 希伊子さんは、最近まで、鎌倉で「源氏物語」の講義をつづけていた。ところが、さる上流夫人が、この集まりに参加して、表面は若城さんの講義に傾倒するように見せかけながら、ひそかに若城さんを追放して別の講師を招く画策をはじめた。この夫人の意向を受けた森 志斐子(同人雑誌作家)が若城さん追い出しに動いたという。
 若城さんは、晩年の折口 信夫に教えを受けた人で、大学で「源氏物語」を講義するほどの教養と実力がある。森 志斐子ごときの指弾を受けるような人ではない。しかし、森一派の動きの結果、若城さんは、鎌倉での「源氏物語」の講義を断念したという。

 森 志斐子がどういう女性なのか、私は知らない。一度だけ面語の機会を得たことがある。
 作家というふれ込みで、本人は作家気どりだったが、世間的に知られているわけでもない。たしか、自費出版で、小説を一、二冊出していたはずである。
 私の見た森 志斐子は、美人だが、高慢な女性だった。
 誰が紹介してくれたのか、もうおぼえていない。林 峻一郎(木々 高太郎の令息)だったような気がする。はじめて会った私に、横柄な口のききかたで、
 ・・・あなた、どこで書いているの?
 と聞いた。私は、とっさにどういう意味だろうと思って、
 ・・・「え」と聞き返した。
 ・・・同人雑誌よ。どこに所属しているの?
 ・・・別に、どこにも所属しておりませんが。
 私をどこかの同人雑誌作家と見たようだった。(私は戦後、「近代文学」の同人だった時期があるが、「近代文学」に所属していたとはいえない。)
 森 志斐子は、しげしげと私の顔を見た。
 どこの同人雑誌にも属していないのに、「小説と詩と評論」の集まりに顔を出している。多分、「小説と詩と評論」に参加したがっている文学中年と見たのだろう。
 ・・何か書いたら、見てあげるわよ。

 私は、いろいろな場所、いろいろな機会に、こういう種類の女をよく見かけたものだった。ある劇団の付属養成所の研究生で、私を相手にスタニスラフスキ−について一席ぶった女もいた。(あとで、私がその養成所の講師と知ったらしく、私の前に二度と顔を出さなかった。)ある日、私に面会を求めた若い女がいた。翻訳家を志望している、という。
初対面の私の前で平気で足を組んで、タバコをくゆらせながら、「なんか仕事させてくんない?」と、ヌカした。
 世間はさまざま、女もいろいろ。

 森 志斐子はそれっきり私に口をきかなかった。知りあっても得にならない人種と見たらしい。私ははじめから森 志斐子に関心もなかった。同人雑誌によく見かける「策謀家」(ストラテジスト)にすぎない。
 「源氏物語」の講義をつづけている講師をタ−ゲットに何かよからぬことを企んで、追い落とすぐらいのことはやりそうな女。これが私の印象だった。

 このあと、若城さんは、お互いに共通の友人、鈴木 八郎の病状を教えてくれた。喉頭ガンで、手術をした。本人は、ガンとは知らされず、声帯のポリ−プの手術と信じているという。可哀そうに。
 鈴木 八郎は、戦後、「劇作」の会で、内村 直也さんが紹介してくれた。
 芝居の見巧者で、歌舞伎、新派、新劇もよく見ていた。一部で知られていた三好 いっこう(作家)の親友で、劇壇について知らないことは何もないほどの事情通だった。本人は男色者(ペデ)だったが、それを隠さなかった。
 劇作家志望で、西島 大、若城 希伊子たちといっしょに勉強していた。
 なかなかの実力もあって、いつも戯曲を書いていたが、いつも特殊なテ−マを選ぶので、ほとんど発表されることがなかった。

2018/10/14(Sun)  1783 〈1977年日記 30〉
 
              1977年7月31日(日)

 30日正午、新宿集合。
 何時もは、早朝に集まったが、今回は20名のメンバ−が、正午に集まるのだから、規模もちがう。
 安東 由利子、Y.T.が、プラットフォ−ムで待っていた。ぞくぞくとメンバ−が集まってくる。リ−ダ−たちは、沼田 馨(双葉社)、長谷川 裕(二見書房)、安東夫妻、吉沢 正英、石井 秀明。
 学生の中に、三ツ谷 雄二がいる。電車が入線すると、みんながゾロゾロつながって席をとる。ほかの列車も、登山者がいっせいに乗り込む。

 はじめは、まるで遠足気分。

 「学寮」は長野の県境にある。私たちは、バスを利用しなかったので、麓から「学寮」まで歩きつづけた。山歩きになれないメンバ−の訓練も目的で、みんなで山肌をあえぎながら登って行った。夕方になっても、私たちのパ−ティ−はゆっくり進んで行く。
 こういうパ−ティ−は、あまりいなかったらしく、「学寮」側は私たちの到着が遅いので、心配したらしい。
 天気の変化も懸念された。突然、はげしい雷鳴と、稲妻をともなった夕立がくることもめずらしくない。
 夕暮れの、薄れた日ざしがぐんぐん下の道に消えて行って、山道がかすんで白っぼく見えた。と、前方、山道を下りてくるトラックが見えた。
 「学寮」のトラックだった。私たちの到着が遅いので、途中で動けなくなったのではないか、と心配してくれたらしい。
 私は夜になって「学寮」に着けばいいと思っていたが、「学寮」側が心配してトラックを出してくれたのだから、好意に感謝した。
 トラックの運転手は、沼田君、長谷川君、吉沢君、安東夫妻、石井君の登山靴を見て、安心したようだった。みんな、登山のベテランらしいスタイルなので。
 私は、学生たちといっしょに、トラックの荷台に乗せてもらうことにした。
 学生たちはみんな歓声をあげた。

 「学寮」に着いた時間が遅かったため、入浴もできず、食事をしただけだった。「学寮」としては、私たちが20名を越えるパ−ティ−なので、食事をキャンセルされたら困ると思ったらしい。明日の朝食を用意してもらうことにした。
 全員を集会室に集めて、明日の行動計画をつたえる。

 そのあと、「学寮」の庭の奥で、花火。みんなが、少年少女に返って、花火を楽しんでいる。この花火は私が用意したもの。
 こんな登山になるとは、誰も思わなかったにちがいない。
 私たち以外に、別のグル−プが、キャンプ・ファイア−をしていた。

 就寝時間。私は先生なので、別の部屋で休んだが――深夜、隣りの部屋に泊まった教師たちが、ウイスキ−か何かをのみはじめて、ダベッている。それが耳について、眠れなかった。この連中は、法学部の教授、助教授らしい。話の内容は、学内の人事に対する不満だった。
 あとで知ったのだが、安東 由利子が抗議したらしい。やっと、酒宴が終わった。

 3時半、起床。どうやら、みんなよく眠れなかったらしい。私たち(吉沢、石井、安東のチ−ム)なら、そのまま予定の行動をとってもいいのだが、初心者が参加しているのだから、予定を変えなければならない。
 私は、吉沢君に「渋ノ湯」と伝えた。すぐに了解してくれた。

 「渋ノ湯」で、私は入浴した。またしても、私のサ−プライズ。これが私流の登山なのだ。あまり長く温泉につかっていると、湯疲れする。だから、汗をながすだけの入湯ということになる。
 あとは、高見石をめざす。

 高見石から、コ−スはきつくなる。

 「稲子の湯」に着いたときは、さすがに疲れが出た。
 硫黄のきつい泉質だった。

 学生の山田君が、気分がわるいという。すぐに休ませた。
 彼は三年。話を聞くと、権現から赤岳に出たい、とか、高見石からは、中山峠を越えて小天狗のコ−スがいい、などといっていた。私は、この学生が登山の経験をつんできたものと信じたが、あとで聞きただしたところ、去年の秋から山に登っていないという。私は、またしても、自分の至らなさに腹が立った。

 しかし、山田を残して、プランを進めるわけにはいかない。
 「稲子の湯」の主人の弟をつかまえて、マイクロバスで松原湖まで送ってくれないか、と交渉した。故障者が出なければ小淵沢に出るところだが、それは考えられない。
 松原湖から小諸に出る。急行で上野に。

 たまには、こんな登山をするのもいいや。

 帰りは、席が空いていたので、Y.T.とすわった。私は、しばらく眠ったが、Y.T.は眠れなかったらしい。秋葉原で皆と別れた。私は、桜井といっしょに総武線に。

2018/10/10(Wed)  1782 〈1977年日記 29〉
 
               77年7月25日(月)

 暑い。日記に書くこともない。
 そのくせ、電話が多い。
 「サンケイ」、四方さん、原稿を電話で。

 藤井 重夫さんから、暑中見舞い。


                 77年7月26日(火)

 朝、原稿を2本。
 東京に向かう途中、電車の中で、「週刊小説」、1回分。
 1時半、「読売」で、北村 佳久さんから、私の訳書を受けとる。内村 直也、荒 正人、五木 寛之さんに献呈。
 2時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「南窓社」の岸村さんに、原稿をわたす。「日本及日本人」の女性編集者と、「週刊小説」、中村君に原稿をわたす。
 やがて、野村君がきたので、「ビリチス」(ディヴィッド・ハミルトン監督)を見た。さすがに、一流の写真家なので少女たちを美しく撮影している。しかし、この映画に、たとえば川端 康成の「眠れる美女」に見られる、私たちの市民的な秩序さえゆるがすようなエロティシズムがあるだろうか。はじめから、そんなエロスを追求したわけではない、といわれればそうだろうというしかないが、ディヴィッド・ハミルトンの美少女は私たちを戦慄させるような美をもたない。しかも、内容はひどく空疎で、試写室を出たとたんに、美少女たちの印象は消えてしまった。

 5時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」に戻って、井上 篤夫、本戸 淳子のふたりに会って、レジュメを受けとる。井上君には「トニ−・ロ−ム」ものを渡した。

 6時、「区民センタ−」で講義。これが、最後の講義になる。わずかな時間に、ルネサンスの社会、文化をうまくダイジェストするなど、はじめから私の手にあまる。

 講義のあと、受講生の二、三人が、教室の外に立っている。みんな私を待っている。私と話をしたいおばさまたち。私からさそって、コ−ヒ−を飲みに行く。話題は、当然、ルネサンスに集中する。

 ルネサンスは、中世の時代とまるっきりちがった考えかたをとった。経済的、社会的、政治的な変化は、革命的なものを内包している。中世の単純な農本経済は、拡大をつづける商業、製造業、都市の発達、貨幣経済から生まれた資本主義に取って代わられる。
 こうして文学、科学、世界に対する視座、あたらしいアティチュ−ドがうまれた。
 ルネサンスは、世界に対するあたらしい姿勢をつちかった。

 だが、私は、どうもこういう考えかただけがただしいのではないような気がしている。
 ルネサンスの人は、中世の人々とそれほどにもちがった考えかた、ちがった生きかたをしたのか。私には、そのあたりを論証できるはずもないのだが。

                77年7月29日(金)

 「ビリチス」のあとで、「鷲は舞い降りた」を見た。この映画については、「映画ファン」に書く。それと、新聞に私の短いコメント。
 「ショッピング」の原稿は、27日にわたした。かんたんに書けるはずだったが、2日つづけて東京に出たため、疲労がとれない。
 「実業之日本」、峯島さんに会って、いよいよ翻訳のシリ−ズにゴ−・サインを出していいかどうかを確認する。
 本戸 淳子は、ヒラリ−・ウォ−より先に、エド・レイシ−にとりかかってもらう。
 三戸森 毅君は、ロバ−ト・ディ−トリチ。宇野 輝雄君は、ウィリアム・フォ−サイス。井上 篤夫にゴ−・サイン。大村 美根子からは、まだ返事がない。
 児玉 品子は、このあとの2冊のレジュメ。
 こういう陣容で出発する。

 「区民センタ−」の講義。報酬は、11万7000円。

 「区民センタ−」の講義は楽しかった。毎日、かなり忙しいので、のんびりとルネサンスについて話をするのは、気分的に救われるような気がした。
 最終講義のあと、加藤さん、及川さんたちと話す。
 このオバサマ、オジサンたちと会えなくなるのは、少し残念だが。


                77年7月30日(土)

 エリカが、8月12日にアメリカに戻る予定。

 私は、明日から、大学の「学寮」に行く準備。

2018/10/06(Sat)  1781 〈1977年日記 28〉
 
              77年7月17日(日)

 新築の家に本を運び込む作業に、クラスの学生諸君の応援を頼むことにした。アルバイトというかたちで。
 はじめ、きてくれることになったのは、椎名、野村、大久保の三人だけ。野村君は女子学生なので、あまり頼りにならない。
 ところが、昨日になって、石井や桜井たちが、電話をかけてきて、17日に手つだいにくるという。数人もいればじゅうぶんだろう。ところが、坂牧、大久保、野村、椎名、和田、栗村たちが、くるつもりという。こうなると、いったい何人がきてくれるのかわからない。
 要するに、椿森のアパ−トに移した蔵書を、全部、書庫に戻し、タンスなどの家具などを新築の家に運び込む作業。

 学生たちは、トラックで、何度も弁天町と椿森のアパ−トを往復して、本を運んでくれた。
 熱心に働いてくれたのは、大久保、野村、小林(実)たち。何のためにきたのかわからない、不熱心なやつもいた。

 百合子が食事の用意をしてくれた。ビ−ル、コ−ヒ−、サイダ−、ティ−などを用意してくれた。
 学生たちにアルバイト料をわたしてやる。
 私の蔵書のなかから、好きなものを一冊、進呈すると約束した。

 学生たちが帰ったのは、6時。

               77年7月18日(月)

 雨。新築の家は、ほとんど完成しているが、一部分、電気が入らない。

               77年7月19日(火)

 午後2時半。新橋、「ア−トコ−ヒ−」で、「二見」の三谷君に、「カトリ−ヌ」の最後の原稿をわたす。

 この作品には、私の・・が隠されている。

 3時、「コロンビア」で、「ザ・ディ−プ」(ピ−タ−・イェ−ツ監督)の試写を見た。新婚旅行でバ−ミュダにきたカップル(ニック・ノルティ/ジャクリ−ン・ビセット)が、海に潜って、麻薬のアンプルと、スペインの古金貨を発見する。この麻薬は戦時中、遭難して沈没した船のものらしい。これをめぐる悪人たちの動きにまき込まれたカップルに、灯台守(ロバ−ト・ショ−)が協力する。
 ジャクリ−ン・ビセットがいい。

 5時過ぎ、「実業之日本」、峯島さん、土山君に会う。原稿をわたした。
 N.N.と会う約束をしたのだが、会えなかった。

 6時半、「区民センタ−」。講義。
 早く帰ることにした。ところが、小岩で落雷事故。総武線のダイヤが乱れている。

 ルパ−ト・ポ−ルから手紙が届いていた。
 アナイスの件。今後は、「ユニ・エ−ジェンシ−」の青木 日出夫君と、ガンサ−の交渉になる。ちょっと、あきれた。この内容を見た瞬間、ああ、これでアナイスの「日記」は出せないなと思った。これまでの私の努力は失敗に終わった。
 「実業之日本」は、ガンサ−の条件をアクセプトしないだろう。アナイスが来日したとき、私と辻 邦生に会ったが、青木 日出夫君が通訳してくれたのだった。
 アナイスが、ガンサ−に、翻訳権の交渉は、私でなく青木君に変更するようにすすめたのかも知れない。
 私としては、青木君がガンサ−をうまく説得してほしいと思うが、おそらくこれはむずかしいだろう。それにしても、アナイス出版は、どうしてこんなにむずかしいのか。

 杉崎 和子女史から手紙。私のファン、初山さんから手紙。


               77年7月20日(水)

 家はほぼ完成。百合子が家財道具を運びはじめた。

               77年7月21日(木)

 「研究社」の伊藤 康司君。 ポ−ノグラフィ−論の依頼。引き受ける。

 「ニュ−ヨ−ク・ニュ−ヨ−ク」(マ−ティン・スコセシ監督)。
 太平洋戦争が終わった日。ニュ−ヨ−クじゅうが沸き立っている。サックス奏者、「ジミ−」(ロバ−ト・デニ−ロ)と、しがない歌手、「フランシ−ン」(ライザ・ミネッリ)が、その興奮のさなかに出会って結婚する。しかし、ポップスのシンガ−と、バップ系のジャズをめざすミュ−ジシャンではソリがあわない。すぐに離婚してしまう。数年後、「フランシ−ン」は、「ジミ−」作曲の「ニュ−ヨ−ク・ニュ−ヨ−ク」という曲を歌って成功する。ライザ・ミネッリは、歌唱力のある女優で、しがない境遇にもめげずに歌を歌っているニュ−ヨ−クの女の子をやっている。
 試写に小野 耕世さんがきていたので、「ニュ−ヨ−ク・ニュ−ヨ−ク」について。
 さすがに、いい感想を聞かせてくれた。
 「研究社」の伊藤 康司君と、「ルノワ−ル」に行く。「双葉社」の沼田君、渡辺君に原稿をわたす。そのあと、青木 日出夫君。彼は、「デルタ」を「日記」とコミでどこかに売り込むつもり。1万ドルで。これは、私の予想通りだった。
 「実業之日本」、峯島さん、土山君にメモ。

 「区民センタ−」で講義。

 帰り、受講生の星さんと近くの喫茶店に。

 「読売」から、「ガリバルデイ通りの家」が届いてきたので、すぐに読みはじめる。
 夜、「日経」、青柳君から、美術評論家、石子 順造の訃報。
 青柳君は、追悼を書いてほしかったらしいが、私は石子 順造と面識がなかった。

 「文芸」の寺田 博が、「河出」をやめたという。「東京新聞」の「大波小波」で知った。

2018/09/30(Sun)  1780 〈1977年日記 27〉
 
                 77年7月14日(木)

 「日経」、青柳君に電話。会う時間を夕方5時に変更してもらう。
 3時から、「ビリティス」(ディヴィッド・ハミルトン監督)の試写を見るつもりだったが、これもやめにした。こんな状態で美少女映画を見たら、歯痛がますますひどくなるので。
 5時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、三戸森 毅(三田村 裕)君に会って、ロバ−ト・ディ−トリチ、もう1冊、ウィリアム・ハ−ディの原書をわたす。三戸森君は、私より年長で、じゅうぶんな実力がありながら、いい仕事にめぐまれず、あまり評判にならない翻訳家だった。この仕事が、彼の転機になればいいと思っている。

 「双葉社」の渡辺君は原稿を受けとると、すぐに帰った。5時までに原稿をわたさないと、露骨に嫌な顔をする。私の会ったなかでは、きわめてめずらしいタイプの編集者。
 「三笠書房」の三谷君に「カトリ−ヌ」の原稿を。「日経」の青柳君に原稿をわたした。
 銀座の「夢二画廊」に行く。
 小林 正治の個展。

 小林君が、令兄に紹介してくれた。山梨で、国産のワイン、「ソレイユ」を醸造している人だった。画廊の小村さんに挨拶する。
 パンフレットに、私の推薦文が載っている。版画1枚を買った。

 「区民センタ−」で、講義を終えたあと、加藤さんをさそってコ−ヒ−を飲んだ。彼女はやや細おもて、目もとに一種の魅力をもった女性だった。個人的に、版画(リトグラフ、メゾティント)を売っている。知的な女性で、私の本も読んでいる。「ルクレツィア・ボルジア」を読んでいる受講生がいても不思議ではないが、「マキャヴェッリ」を読んでいると知って驚いた。新聞で私の名を見て、すぐに受講を申し込んだという。うれしくなったとたんに歯が痛くなった。
 帰宅して、「サリドン」を1錠飲んだが、歯痛はやまない。講義を終えたあと、美人とコ−ヒ−を飲んだりするからバチが当たった。
 深夜、1時過ぎに、もう1錠飲んだ。それでも歯痛はやまない。氷をあてて冷やしたり、ついには歯のウロにクレオソ−トをつめ込んだり。それでもダメで、とうとう気分を変えるため、真夜中に庭に出た。
 部屋に戻って、この日記をつけている。
 いつの間にか、眠ったらしい。

 もう一つ、思い出したので書いておく。植草 甚一さんから、「ぼくのニュ−ヨ−ク地図ができるまで」を頂戴した。いつもなら、すぐに読むのだが、歯痛なので、明日に読むことにしよう。


                 77年7月15日(金)

 まだ歯痛が残っている。そして、暑い。

 5時に、大村 美根子さんに、原書をわたすつもりだったが、彼女は、体調をくずしたため、会えないといってきた。残念だが、仕方がない。
 「二見書房」の長谷川君に原稿。長谷川君は、ベテランの登山者。月末の中田パ−ティ−に参加する予定。

 「区民センタ−」で講義。
 帰りに、加藤さんが待っていてくれるかと思ったが、彼女の姿はなかった。なんとなく残念な気がする。
 帰りは、そのまま帰らずに川崎に出た。

 ニュ−ヨ−クで大停電が起きた。
 マンハッタン、ハ−レム、ブロンクスでは、黒人を中心にした略奪が横行した。
 14日の夕方までに3000人が逮捕された。
 ブルックリン、ベットフォ−ド・スタイブサントでは、ガラスの破片で足に怪我をした負傷者が続出。すさまじい暴動が起きた。

 歌手のN.O.が、就寝中、賊に襲われた。15日午前1時過ぎ、港区三田、・・室、N.O.18歳の室内に、覆面の若い男が、ベランダの窓から侵入し、ベッドで台本をよんでいたN.O.に果物ナイフを突きつけた。彼女はナイフを両手でつかんで抵抗し、両手に怪我をした。男は、ネクタイのようなもので彼女の両手足をしばり、さるぐつわをかませた。この事件は、N.O.にとってはキャリア−にかかわるだろう。

2018/09/26(Wed)  1779 〈1977年日記 26〉
 
                 77年7月11日(月)

 9日から、「国立近代美術館」で、戦争を描いた美術作品がひっそりと公開された。いまさら戦争画などを見てどうするのか、という思いはあったが、太平洋戦争の記録という意味で見ておきたかった。
 はじめて公開された戦争画は4点。

   清水 登之 「工兵隊架橋作業」(戦時特別文展・陸軍省特別出品)1944年
   中村 研一 「コタ・バル」(第一回大東亜戦争美術展・1942年)
   藤田 嗣治 「ハルハ河畔戦闘図」(第二回聖戦美術展・1941年)
   宮本 三郎 「山下・パ−シバル両中将会見図・(第一回大東亜戦争美術展・1942年)

 私は、あくまで美術作品として見た。この4点はそれぞれすぐれた絵として保存すべきだと考える。
 画壇では、戦争を描いたから「戦犯」、描かなかったから「戦争反対」と、画家を裁断する気風があるらしいが、こうした批判は、あまりにも単純すぎる。これらの絵は戦争を記録した絵画として冷静に見てしかるべきもの、同時に、それぞれ真摯に戦争に向かいあった芸術家の仕事として評価すべきものと考える。
 藤田 嗣治の絵は「ガダルカナル」の兵士を描いた一枚にはおよばないと思う。宮本 三郎の絵は写真をみて描いたと思われるが、開戦そうそうの熱狂的な気分と、「戦後」の、山下大将の戦犯裁判を思い出して、深い感慨にとらえられた。

 いい絵はいい、というべきだろう。


                 77年7月12日(火)

 この1週間、東奔西走していた。
 7日、8日とつづけて、「太田区民センタ−」で講義。(「メディチ家の歴史」。最後なので、「メディチ家」をとりあげた。10日、安東、吉沢君といっしょに大カラス。新人として、鈴木 和子、野村 由美子。11日、「国立近代美術館」。私は、少年時代に友人だった前田 恵二郎、木村 利治、金子 富雄たちのことを思い出しながら見た。
 みんな、戦争の被害者だった。
 原稿は、「三笠書房」、「週刊サンケイ」、連載の分。
 その間に、杉崎女史がアメリカに行った。10日、私は不在だったが、夫君といっしょにわが家に来訪。百合子が応対した。私はおふたりの来訪にほんとうに恐縮した。

 今日は、井上 篤夫、本戸 淳子に会って、原書をわたした。ふたりとも、優秀な翻訳家である。

 大学。前期の最終講義。これで、やっと、まとまった仕事にとりかかれる。

 選挙は自民党が過半数を維持した。
 社共が後退したのりは当然といえるだろう。これで、成田・石橋体制は転換することになる。宮本 顕治はあらためて自分の不人気に気がつくだろう。


                 77年7月13日(水)

 きびしい暑さ。梅雨あけ。

 A・サマ−ズ、T・マンゴ−ルドの「ロマノフ家の最後」を読みはじめたが、面白くて、途中でやめられなくなった。おかげで、石本に渡す原稿が書けなかった。
 ロシア革命は、私にとって大きな関心の一つ。ロマノフ家の悲運も、いつか真剣に追求したいテ−マなのだ。E・H・カ−を読んで、ロマノフ家に関心をもったが、やがてコリン・ウィルソンの「ラスプ−チン」を読んで、少し方向が変わってきた。
 私は、ひそかにステファン・ツヴァイクを目標にしているのだが、「ラスプ−チン」を読んで、コリン・ウィルソンも意識するようになった。

2018/09/24(Mon)  1778 〈1977年日記 25〉
 
                 77年7月5日(火)

 清水 徹君の「読書のユ−トピア」を読んでいるところに、「どこにもない都市 どこにもない書物」が届いた。
 ある時代の批評家は、それぞれの立場、理解力は異なっても、その時代の共同研究者といっていい。清水君は頭のいい批評家で、つぎつぎにいい仕事をしている。この本からもいろいろと学んだ。
 現在の作家のものをあまり読まないので、清水君の本からいろいろと教えられたが――現代作家とつきあうのもたいへんだな、という気がした。

 和田 芳恵さんから挨拶が届いた。肺気腫になられたという。

 これからも、いいお仕事をなさるようにと心から願わずにいられない。

 大学に行く。まだ咳が出るので、途中で咳き込まないように何度も息をとめたりする。
 講義を終えて、Y.T.、下沢と、かるい食事。
 下沢は、私とY.T.に気をくばって、あまり話をしない。


                 77年7月6日(水)

 杉崎 和子女史から電話。
 「デルタ・オヴ・ヴィ−ナス」に関して、ルパ−ト・ポ−ルから連絡があったという。
 エ−ジェントのガンサ−・スタ−ルマンの要請で――ロイヤリティ−・スケジュ−ルを明記すること。サブサイダリ−・ライツに関して、ロイヤリティ−を設定すること。
 その他。
 ガンサ−は、アナイスの「日記」の翻訳権をとった「河出書房」の契約が切れているので、日本で全巻出してほしい、といってきた。つまり、あくまで「実業之日本」で出せ、という意味だった。これは困った。どうしても無理だと思う。

 アナイスの「日記」の翻訳は、すでに原 真佐子訳が出ている。(これは、私にもいささかの責任がある。私は多忙だったため、「日記」の翻訳に手をつけなかった。それを知った原 真佐子が私に電話をかけてきて、自分が翻訳したいといってきた。残念ながら、この本はろくに売れなかった。)
 現在、あらためて全巻(6冊)を出せといわれても、「実業之日本」にそんな力はない。私は、ガンサ−・スタ−ルマンが、日本の出版界の実情を知らなさすぎる、と思った。「実業之日本」としても、まず、売れるものを出してから、アナイス・ニンを出したいと思うだろう。
 私としては、ぜひにもアナイスを出したい。しかし、「実業之日本」にもちかけても、峰島さんはひるむだろう。

 ルパ−トのアドレス。
  22×× Hidalgo Ave.,Los Angeles,90035


                77年7月7日(木)

 午前中、「沖田 総司」を書いていて、「ザ・ディ−プ」(ピ−タ−・イエ−ツ監督)の試写に行けなかった。ジャクリ−ン・ビセットが出ているのに。
 1時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、渡辺君に原稿をわたす。「二見書房」、長谷川君に校正をわたしたが、「三笠書房」の三谷君には原稿をわたせなかった。申し訳ない。

 2時、「実業之日本」、峰島さんに会う。
 アナイスの件。ロイヤリティ−は、契約時に1500ドル。出版時に1500ドル。1万部以上〜3万部までの部数に対して500ドルの追加。サブサイダリ−・ロイヤリティ−に関しては、白紙。アナイスの「日記」出版に関しては考慮するが、目下は、「デルタ」が成功するかどうかにかかっている。
 ガンサ−・スタ−ルマンに対しては、こういう返事を送ることにした。私はアナイスのエ−ジェントではないので、今後、交渉が長引いたり、むずかしいことになるようだったら、「河出」の竹田 博さんに、ガンサ−・スタ−ルマンとの交渉を依頼しようか、と考えている。(これには理由があるのだが、ここには書かない。)
 峰島さんに対して、私は――「実業之日本」のために、ミステリ−を選んで、翻訳すると確約した。原作がきまったら、すぐに翻訳にかかる予定。スケジュ−ルはキツいが、「実業之日本」のシリ−ズのトップ・バッタ−は、私以外にはいないだろうから。

 6時半、蒲田。古本屋を歩いていて、ポ−リナ・ス−スロヴァの「日記」を見つけた。一瞬、ドキッとした。まさか、こんなところに、ドストエフスキ−の恋人の「日記」がころがっているとは思わなかった。血圧が高くなっているのがわかる。教室に向かう途中、不意にカミナリが鳴って、はげしい雨が降ってきた。みんなが、走ったり、逃げまどっている。本が濡れないようにしっかり抱えて、雨にうたれながら、区役所(教室か?)に入った。ただもう、ポ−リナ・ス−スロヴァのことばかり考えて。
 教室にいた受講生は、12,3人。

 私は、パリに行ったドストエフスキ−が、ポ−リナと落ち合った状況をマクラにフッてから、今学期最後の講義に入った。昂奮した気分を抑えた。講義はうまくいった、と思う。

 変なことを思い出した。
 ニュ−ヨ−クに行ったとき、シャツを数枚買った。私の買った安い衣料は、全部が、韓国製やインド製だった。どこに行っても、Made in Japan は見当たらなかった。どうやら、安い衣料の部門では、日本の生産は駆逐されている。そのとき、日本の輸出は、車や電子機器の分野で大きく伸びているが、他の分野では敗退を余儀なくされている。
 当時の私は、この現象をどう見てよいのかわからなかった。ただ驚いた。

 この日記に、どうしてこんなことを書いておくのか、自分でも説明がつかないのだが。

2018/09/21(Fri)  1777 〈1977年日記 24〉
 
                 77年7月4日(月)

 月曜日は、いろいろな人から電話がかかってきたり、出版物がまとめて届くので、なんとも気忙しい。
 「日経」、吉沢君から、「鬼火」(ルイ・マル監督)の試写の日の連絡。この映画はぜひ見たいと思っている。原作がドリュ・ラ・ロシェルなので。
 「日刊ゲンダイ」、青柳君から小さなコラムの依頼。
 「南窓社」、岸村さんに原稿の件。あとで、杉崎女史とアナイスの件で、もう一度、電話がかかってきた。アナイス出版はむずかしいだろう。「週刊小説」、土山君、原稿のことで。

 佐々木 基一さんから、短編集、「まだ見ぬ街」を贈られた。すぐに読みたいのだが、その前に原稿を片づける。
 ほかに、「ロ−ス・ベネデイクト その肖像と作品」、マ−ガレット・ミ−ド。
 「牧神」9号。雑誌がいっぱい。「北杜夫全集」6巻も届いたので、月報と短編、「白毛」を読む。ほかに、林 美一編集の「江戸春秋」3,4号。

 本や雑誌は届いた日に読むことにしている。うっかり読みそびれると、あとからあとからつぎの本や雑誌が届いてくるので読めなくなる。
 ただし、重複する本も多い。まず、著者が贈ってくれる。同時に出版社が送ってくる。2,3日すると、新聞社が書評の依頼で送ってくる。さらには、書評の専門紙も、おなじ本を送ってくるからだった。

 ずいぶん前になるが、ある有名な批評家の自宅に伺ったことがある。
 応接間に通されたが、そのフロアに、寄贈された本がいっぱい積まれていた。幅1メ−トル以上、高さ1メ−トル。ゆうに数百冊に達する冊数だった。いちばん端に、私が訪問前に贈った本が置かれていた。どうやら、私の本は読んでもらえないまま、フロアに積まれたままお払い箱だろう、と思った。
 この批評家が私の本を読んでいない、と知っても、屈辱感はなかった。この新刊書の数量の多さを見ただけで、目がくらむほどの忙しさが想像できたからだった。
 相手の多忙をかえりみず、突然、訪問した自分の非礼を恥じた。

 そのとき以来、人に本をさしあげる場合、その本がそのまま古本屋に直行しても仕方がないと覚悟した。逆に、贈られた本は、何をおいても読むことにした。私に届けられる本など、この批評家に届けられる本に比較すればたいした数ではない。

 むずかしい本ばかり読むわけにはいかない。講義の準備のために読まなければならない本もある。

 「牧神」9号。杉崎 和子女史のエッセイ。原 真佐子、関口 功のエッセイ。関口は、私と同期。英文科、助教授。日頃、あまり親しくないので、大学で会うことはめったにない。
 エリカ・ジョングのインタヴュ−。
 百合子がアメリカのおみやげに、エリカ・ジョングの新作を買ってきてくれた。風邪のせいで、そのままにしてあるので、今夜から読みはじめよう。

2018/09/19(Wed)  1776 〈1977年日記 23〉
 
                 77年7月3日(日)

 昨日、今日と、むし暑い日がつづく。日帰りでもいいから、山に行けばよかった。なんとなく、元気がない。

 この日記は、身辺のことを書くつもりだが、できれば映画やテレビのことも書きとめておきたい。ほとんどの映画やテレビ番組は、いくら記憶力がよくても、いずれは忘れてしまう。しかし、それを見たときの衝撃、感動、あるいは、もの書きとしてどう生きようか、といった懐疑や、迷妄は心に残るだろうと思う。いつか、この日記を読み返したときに、何かを思い出すよすがとしても書いておいたほうがいい。

 先月のBBCのドキュメンタリ、「ミサイル兵器」が心に残っている。
 現代の戦争は、第2次大戦までの戦争形態を一変させる。すべてコンピュ−タ制禦なので、兵士が塹壕に伏せて、敵兵を狙撃するような戦闘ではない。ずらりと並んだコンピュ−タが、数十キロ離れた敵の部隊の動きを感知すると、別のコンピュ−タが、ただちにその規模、行動の目的を判断して、ミサイル基地に連絡する。基地のコンピュ−タが、攻撃のサインを出す。そして、敵軍は潰滅的な被害を受ける。

 このドキュメンタリでは、大陸間弾道弾はとりあげられない。もっと小規模な地対空、空対艦ミサイルが、つぎつぎに紹介される。イギリス制作なので、イギリス艦隊の演習が出てくる。たとえば駆逐艦の砲撃は、まるっきりSFといっていい。
 艦橋や砲塔に誰もいない。兵員は、全員、放射能から身をまもるための防護服、マスク、手袋をつけて、吃水線の下に位置する気密室にたてこもる。そこにあるのは、レ−ダ−と、コンピュ−タ−だけ。
 敵の潜水艦が魚雷攻撃をしかけてきたら、どうやって応戦するのだろう。

 もっと慄然とするのは、このドキュメンタリに出てくる兵器が、もはや「過去」のものだということ。こうして兵器化された瞬間から、「現在」は「次に」移っている。つまり、このドキュメンタリに出てくるミサイルは、もうスクラップなのだ、ということ。
 矛と盾の原則は、厳然として私たちの前に立っている。そのどちらの能力も限界はなく、際限もない軍備拡張がつづく。このおそろしい現実に慄然とする。

 サイゴン陥落以後、しばらく途絶えていたヴェトナム難民が急増しているらしい。
 小舟に乗って、南シナ海に漕ぎ出し、外国船の救助を待ったり、東南アジアのどこか、あるいはオ−ストラリアに漂着する。
 もし、捕らえられたら、反革命分子として終身刑。
 最近は、脱出をはかっても5隻中の4隻までが、当局の沿岸警備艇にダ捕される状況らしい。こうした危険を冒しても、ヴェトナム難民が国外脱出をはかる理由は想像がつく。
 社会主義政策の破綻もあるだろう。とくに、都市生活者を農村に下放する政策が失敗している。すでに毛 沢東が失敗している政策を踏襲しても、無理にきまっている。
 北部山岳地帯、中部高原、メコン・デルタに、それぞれ新経済圏を建設するために、政府は移住者に対して、住居、診療所、灌漑などを整備していると伝えられるが、実際には、電気も、ガスも、水道さえもないので、一種の棄民政策になっている。これもNHKのテレビ・ドキュメンタリで描かれていた。
 ヴェトナム人民軍の機関紙、「クァンドイ・ニャンザン」は、中部、ダラトの北方と、西部の高原地帯で、4000〜5000の旧政府軍の兵士が、現在も人民軍と散発的に戦闘をつづけていることをはじめて報じた。
 幕末、奥州同盟が官軍に敗れた。このとき幕兵が五稜郭に集結したようなものか。この敗残兵はいずれ掃討されるだろうが、さらに一部は武装ゲリラとして活動をつづけるかも知れない。ヴェトナム戦争はまだ終わっていない。
 ヴェトナムのゲリラと、ラオスの反政府ゲリラとは性格がちがう。メオ族、旧政府軍に対して、アメリカのCIA、タイの政府、軍部が何らかの援助をあたえていることは、公然の秘密になっている。最近の報道では・・・ラオスでは、ビエンチャンからの13号線のうち、ルアン・ブラパンに到る北部は、メオ族によって寸断されている。パクサン、タケクに到る南は、旧政府軍によって分断されている。
 反政府ゲリラが活発化しているのは、経済政策の失敗、生産性のいちじるしい低下、きびしい政治教育に対する人心の離反に原因する。

 私はヴェトナムに行ったことがある。アオザイを着た娘たちのことが忘れられない。そんな薄弱な理由から、ヴェトナムの「現在」に無関心ではいられない。

2018/09/13(Thu)  1775 〈1977年日記 22〉
 
                 77年7月1日(金)

 昨日は、連載の3回目と、「映画ファン」の原稿を書いた。石本君にきてもらって、吉沢君のデスクに原稿を届けさせるつもりだったが、吉沢君はしびれを切らしたのか、直接わが家にやってきた。
 大工や左官がいっぱいいるなかで、吉沢君を相手に、この夏はやはりジョ−ジ・ロイ・ヒル(「スティング」の監督)だね、などと話す。
 あと、目ぼしいものとしては、イタリア映画の「スキャンダル」(サルバト−レ・サンペリ監督)か、フランス映画のジャック・ドワロンあたりか。
 「スカラ座」で「ロ−マの休日」の最後のロ−ドショ−。オ−ドリ−・ヘップバ−ンも、しばらくは見られなくなる。

 まだ、咳が残って、不調がつづいている。「ロ−マの休日」を見に行くどころではない。日記も書けなかった。28日は、めずらしく大学を休講して、「太田区民センタ−」で講義。この日は、風邪の影響で、吉沢君にわたす原稿も書けず、吉沢君が「区民センタ−」まで連絡してきたほどだった。このところ、めずらしくスランプ。
 「太田区民センタ−」の講義は、人文地理(慶応・文学部教授、西岡 秀雄)、経済学(山崎 安世)、文学(勝又 浩)、法律学(明治・助教授、河合 研一)、西洋文化史(中田 耕治)という科目で、なかなか充実した内容だった。
 初講義は、風邪のせいで、あまり調子がよくなかったと思う。それに、西洋文化史といっても、ごく大まかな展望を述べて、ルネッサンスに入ってゆくのだから、まるで軽業のようなものになる。
 私のテ−マは――芸術というものは、継続的な、ダイナミックなプロセスであって、たえず新しい思想と形式を発展させることによって変化する価値観を反映する。
 ごくありきたりなテ−ゼだが、講義だけで説明するのはむずかしかった。たとえば、ギリシャ人の生活と思想に明らかに認められる中庸と調和は、ギリシャの建築や彫刻に見られる抑制、単純性にあらわれる。そんなことを語るより、パルテノンや、ニケ、アクロポリスの門などの写真を見せるほうがいい。
 スライドのようなものを用意すればよかった、と思ったが、あとの祭。

 講義を終えたあと、いつもなら受講生たちをひきつれて、近くの喫茶店や居酒屋でワイワイ騒ぐのだが、蒲田の町ははじめてだったし、聴講生の多くは中年のオバサマなので、一人で町歩き。この日はひどく暑かったし、疲れてもいた。蒲田じゅうを歩いて、銭湯を見つけた。山歩きのあと麓のひなびた温泉宿で一風呂浴びるような気分で、入浴。すっかり元気になった。


                  77年7月2日(土)

 少し無理したような気がする。咳をすると、血痰が出るようになった。気管支炎を起こしたらしい。風邪をひくと、こういうふうに長びいてしまうのは、やはり肺病をやったせいなのか。
 昨日、清水 徹さんから、「読書のユ−トピア」を贈られた。さっそく、読みはじめたが、不調のせいか、いっきに読みあげることができなかった。
 内野 登喜和、R.K.から電話。内野さんの電話で、K.M.は離婚した。その後、再婚したが、その夫とは死別したと知って、暗然とした。

 午後3時、「むさしの」で、R.K.と会う。小説を書きたいと希望している。40代。少しからだがよわいらしい。本人いわく、自律神経失調症なんです。おそらくノイロ−ゼだろう。6時、「ジュン」で飲む。
 なかなかおもしろい女性だが、うっかり深入りすると火傷を負うだろう。(その後、2度と彼女と会わなかった。)


2018/09/09(Sun)  1774 〈1977年日記 21〉
 
                  1977年6月28日(火)

 ネコのチャップが死んだ。

 まだ小学生だったエリカが、下校の途中で道ばたにいたコネコをひろった。やせこけて体力が衰えて、声も出せなくなっていた。エリカはコネコを抱いて帰って、私と百合子に、コネコを飼いたいといった。それまで、わが家ではイヌを飼ったことはあったが、ネコを飼ったことはなかった。
 こうして、このノラネコは家族の一員になった。チャップという名前がついた。

 チャップは三毛猫で、性質はおだやかだった。
 その後のわが家には、多くのコネコたちが、くびすを接してつぎからつぎに重なりあうようにして登場する。
 チャップはコネコをたくさん生みつづけた。
 そのネコたちのうち一匹として、由緒ある血統や、上流階級の飼いネコのこれ見よがしのぜいたくとは無縁だったが、そのすべてが、わが家の社会的、経済的な条件にしたがったという点で共通していた。
 具体的には、ゴハンツブにカツブシをまぶしただけの食事から、サバの水煮、サケのカンヅメ、やがてキャットフ−ドというお手軽な食料にありつくことになった。

 チャップはコネコをつぎつぎに生んだ。
 ミケネコがミケネコを生むとはかぎらない。サバネコに近い模様や、キジネコ、灰色、ときにはクロネコといった、さまざまなスタイルを身につけて生まれてきた。これは冗談だが、まずネオ・クラシック、ロマン主義、リアリズム、インプレッショナリズム、ポスト・インプレッショナリズムといった流派(エコ−ル)を、からだにまとったコネコたちが生まれてくる。むろん、こうした分類はまったく不正確なもので、それぞれのコネコにあてはめても、しばらくすれば、どれがどれやらわからなくなる。

 一度、オスのミケネコが生まれたことがある。
 このコネコはウワサになったらしく、ある日、私のところに、銚子の漁師が訪ねてきて、ミケのコネコをゆずっていただけないか、といった。
 私はコネコが生まれると、友人の誰かれに押しつけていた。はじめのうちは、みんながよろこんでもらってくれたが、チャップの生産能力に需要が追いつかなくなってきたので、この漁師のオジサンにオスのミケネコをくれてやった。

 チャップは13年を生きた。

 病気になったのは、今年になってからで、百合子がアメリカに行く前だった。
 ある日、チャップを抱いてやった。胸もとに小さなシコリがある。私はまったく気にしなかった。そのシコリができてから、チャップの毛並みの、色つやがわるくなってきた。

 毎日、机にむかって原稿を書いていると、私の膝を越えてからだをまるくする。
 チャップの胸を破ったのは、悪性の腫瘍だったらしい。

 そして今朝、チャップはセメントの三和土に倒れてこときれていた。

 ペットの死はいくたびも見てきた。5月にはコネコをしなせてしまった。名前もつけてやらなかった。チャップの死だけが悲しかったわけではない。しかし、もの書きとして、あたらしい生活の設計にあたっていた私のそばに、チャップがいつもついていてくれた。私がイヌ派ではなく、ネコ派になったことも、チャップの存在が大きかったような気がする。

 今はただチャップの冥福を祈ることにしよう。

2018/09/06(Thu)  1773 〈1977年日記 20〉
 
               1977年6月20日(月)

 17日、ブレジネフが最高幹部会議長に選出された。ブレジネフは、共産党書記長だが、これで党と国家の最高のポストについたことになる。ソヴィェト史上、はじめて。
 この会議では、ブレジネフと並んで、コスイギン、ス−スロフ、キリレンコ、クラコフなどの政治局員が、トップ・グル−プ。

和歌山でコレラが発生したが、わが家では、みんなが風邪にかかってしまった。

 裕人が風邪に感染して、学校を休んだ。翌日、私が発熱した。アメリカから帰ってきたばかりのエリカも寝込んでしまった。百合子も、帰国してからあまり体調がよくないらしいが、みんなが倒れてしまったので、看病してくれたらしい。

 私は関節が痛くなるし、熱が出て、何も考えられない。寝ながら、カッシラ−を読んだが、こんなにむずかしい本は読んだことがない。何度も何度もおなじところを読んで、何とか意味がわかるような状態だった。とても本を読んだとはいえない。この日記を書いている現在も、頭がふらふらしている。

 17日、杉崎 和子女史といっしょに「実業之日本」、峯島さん、土山君と会って、やっとアナイスの出版がきまった。


              1977年6月21日(火)

 3時10分、「ワ−ナ−」試写室。「エクソシスト2」(ジョン・プアマン監督)を見た。
 前作、「エクソシスト」の続編。前作では、12歳だったリンダ・ブレアが、ハイティ−ンになっている。ところが、またしても悪霊にとりつかれて、精神科医(ルイ−ズ・フレッチャ−)にあずけられる。前作では、「メリン神父」(マックス・フォン・シド−)がカラス神父(シェ−ソン・ミラ−)に協力するが、悪霊相手に苦闘する。今回は「メリン神父」も出てくるが「ラモント神父」(リチャ−ド・バ−トン)の調査がメインになっている。続編なので、どうしても前作と比較してしまう。
 風邪の予後に、こんな駄作を見たので、気分がよくない。頭も動かないので、ろくな感想もうかばない。リンダ・ブレアは、「ふたりだけの森」(リ−・フィリップス監督)のほうがいい。


              1977年6月27日(月)

 とにかく一週間というもの、風邪で苦しみつづけた。咳が出て、眼まで痛くなった。ひどい目にあった。

 「文芸家協会」から連絡があった。
 なんとなく予想していたのだが――私はソヴィェト行きの選考からはずれた。やっぱり、ぬかよろこびだったか。
 今回、ソヴィェトに派遣されるのは、加賀 乙彦、高井 有一、西尾 幹二の3氏。いずれもすぐれた作家、評論家たちで、誰が見ても妥当な人選といえるだろう。
 まあ、はずれるだろうと思っていたから、あまり失望はしなかった。平林 たい子賞のときも、今回のソヴィェト行きも、私はいつも運がない。
 あきらめはいいほうだが、人にソヴィェト行きの話を吹聴しなくてよかった。

 「実業之日本」、峯島さん、土山君にまた会った。話をしているうちに、「実業之日本」としては、アナイスのような作家よりも、もっとポビュラリティ−のある作家の翻訳を出したがっているらしい。
 そういうことか。それならそれでいろいろな作家がいる。

 むろん、私ひとりでやれる仕事ではない。親しい翻訳家たちに協力をもとめることになるだろう。
 宇野 輝雄、三戸森 毅、内野 登喜和子さんに連絡しようか。

2018/09/02(Sun)  1772 〈1977年日記 19〉
 
             1977年6月10日(金)

 思いがけない話から、頭のなかはロシアのことばかり。

 ロシアは、革命60周年をむかえるにあたって、スタ−リン憲法に変わる新憲法の草案を発表した。

 この草案で――市民の基本的な権利の拡大、とくに国家や公共機関の行動に対する異議申し立ての権利がうたわれているが、ロシアには市民の基本的な権利などどこにもなかったし、60年にわたって国家や公共機関の圧制に市民がおびえてきたことが見えてくる。

 ボドゴルヌイ(最高会議/幹部会議長)が解任された。それと同時に、この最高会議に第一副議長というポジションが新設された。なんでもない組織改革に見えるが、ブレジネフが国家元首に相当する幹部会議長に就任するという含みが隠されているらしい。

 松下 泰子という人の「子どものモスクワ」を読む。モスクワの日常がよくわかる。
 ソヴィェトの教育制度や、病院、避暑地の設備がよく整っていることも、この本から想像できた。この本のいちばんすばらしいところは――「友子」ちゃんという子どもがモスクワの環境に適応して、のびのびと育って行く姿が描かれているあたり。
 この本と、内村 剛介の「ロシア風物誌」をあわせて読むと、それこそロシアの光と影が見えてくる。

 ロシア語の勉強をしたいと思う。


              1977年6月11日(土)

 頭痛。ロシア語の勉強をしようなどと殊勝な気を起こしたせいか。
 もともと語学の勉強に向いていないのだから、せめて努力するしかない。語学が好きで、スラスラ読めるようになる人が羨ましい。
 昨夜、テレビで「ジャクリ−ン・ケネデイ・オナシス」という番組を見た。ピ−タ−・ロ−フォ−ドが解説で、ひたすらジャクリ−ンを礼賛していた。私は、ピ−タ−・ロ−フォ−ドという人物をまったく信用していない。こんな人物に語られるジャクリ−ン・ケネデイに同情したが、ジャクリ−ンは、いつか、もっと真摯な研究家によって評伝が書かれるだろう。

 夜中の2時半、ハワイにいる百合子に電話をかけた。現地は、朝の6時前という。
 ア−ムストロング・カレッジから、エリカの成績表が届いて、24点中、22点で優秀だったことをつたえる。
 私が、ソヴィェト「作家同盟」の招待を受けるかも知れないこともつたえた。百合子は声をはずませて、よろこんでくれた。


              1977年6月12日(日)

 例によって、6時半。みんなと待ち合わせ。
 安東たちが30分も遅れた。これで、最初の予定を変更する。参加者は8名。

 途中、サブが道を間違えたため、少し戻った。12時半にキャンプ地に着く。
 火を焚いて、みんなで食事。安東はウィスキ−を飲んだが、私は飲まなかった。登山をストイックに考えるからではなく、私が酔ったら、みんなに迷惑をかけるからだった。私はすぐに寝てしまった。

 朝、4時半に起きる。
 食欲はない。ティ−とビスケットだけ。すぐに歩く。

 やがて、くろぐろとした彼方に、茜色の明るさが萌してくる。朝もやがかかっている。
 御来迎である。厳粛で、しかも透明な朝。
 歩きつづけるうちに、東の山脈(やまなみ)では、朝焼けの雲がつぎつぎと形を変え、刻一刻と、朝の空気がみちてくるようだった。あとは朝の太陽が山の端の一角から、最初の光を投げてくればいい。
 この日、Y.T.の不調に気がついた。睡眠不足だろう。私は彼女のうしろについて、できるだけ、カヴァ−することにした。この程度のコ−スなら大丈夫と判断したのだが、夜のビバ−クはまだ無理だったかも知れない。
 今回の登山は、出発が遅くなったこともあって、どうも失敗だったな、と思う。
 Y.T.の不調も、もう少し早く気がつくべきだった。途中、「若きハイデルベルヒ」を見に行きたい、などと話していたので、元気だと思っていた(注)。私は自責感にとらわれていた。

(注)  原作・マイヤ−フエルスタ−。石原 慎太郎作、松浦 竹夫演出。ミュージカル。
     8月、「日生劇場」。中村 勘九郎、大竹 しのぶ。

2018/08/29(Wed)  1771 〈1977年日記 18〉
  
              1977年6月7日(水)

 朝、4時に起きて本を読む。

 裕人をつれて、有楽町、読売ホ−ルに行く。「遠すぎた橋」の試写。試写室ではないのに、多数の映画評論家、作家たちがきている。
 第2次大戦のヨ−ロッパ、連合軍のノルマンデ−上陸後、オランダのア−ンヘムに空挺部隊が降下し、国境の橋を奪取しようとして失敗した。映画は3時間の大作。ジ−ン・ハックマン、ロバ−ト・レッドフォ−ドほか、十数人のスタ−が出ているのだが、映画としては空虚な大作だった。おなじように戦争を描いたサム・ペキンパ−の「戦争のはらわた」などにおよばない。
 「週刊大衆」の渡辺君に会ったので、連載のテ−マは「沖田 総司」にきめたとつたえた。渡辺君は、そんなことはどうでもいいといった態度だった。
 「双葉社」では、鈴木、梶浦、北原君たち、さらには吉田君、堤君といろいろな編集者とつきあってきたが、渡辺君はこれまでの編集者とまったくちがったタイプ。まったく、やる気がない。原稿の内容などはどうでもいい、作家は自分の勤務時間内に原稿をわたしてくれればいい、という。
 こんな編集者を相手にして、しばらく連載を書く。


               1977年6月8日(木)

 毎朝、早くから眼がさめるので、つい起きてしまう。起きれば、すぐに本を読む。むずかしい本を読むと、自分の力不足を感じてしまう。レ−ダ−の「マキャヴェッリ」を読んで、ヴィラ−リを利用していることはわかるのだが、ヴィラ−リをどう使っているのか、批評的に読むことがむずかしい。こちらに、素養、学問がないせいだろうと思う。

 「集英社」、永田君が「メディチ家」のコピ−を送ってくれた。ありがたい。もう少しのびやかに書ければいいのだが、どうしても気負いがあって、どこか苦しげに見える。


               1977年6月9日(金)

 午前11時、「文芸家協会」、平山さんから電話。
 ソヴィェトの作家同盟が招待する作家の派遣に私が応じるかどうか。思いがけない打診だった。
 即答できなかった。こういう話は、まず百合子に相談するのだが、アメリカに行っているので、相談したくても相談できない。
 折りもおり新しい連載がはじまる。もし、昨日、ソヴィェト行きの話があったなら、私は連載を断念していたにちがいない。
 一方、「文芸家協会」が私を選んでくれるのであれば、よろこんで承知したいと思った。願ってもないことではないか。胸がおどった。
 むろん、私が立候補したところで、すぐに確定するわけではない。あくまで、ソヴィェト行きの意向を表明したというだけのことなのだから。
 とりあえず、返事は留保しておいた。

 すぐに、小泉 賀江のところに行った。
 簡単に事情を説明した。
 賀江はすぐに賛成してくれた。「すごい話じゃないの。せっかく、ご招待してくださるのなら、ぜひにも行ったほうがいいわ」
 私は、賀江がよろこんでくれたので、安心したのだった。
 つぎに、小川 茂久に電話した。もし、ソヴィェト旅行がきまったら大学の講義を休まなければない。一ヵ月、休講となったら、大学としても補講を考えなければならないだろう。
 続いて、「文芸家協会」の井口君に電話をかけた。今回、ソヴィェト派遣に立候補している人たちは誰なのか知りたかった。
 高杉 一郎、高井 有一、加賀 乙彦、西尾 幹二などの名をあげた。誰が選ばれてもおかしくない。この顔ぶれでは、私は辞退したほうがいい。
 しかし、私の内面には、別の思いがあった。百合子なら、どう思うだろうか。賀江とおなじように、即座に、
 「行ったほうがいいわ」
 と答えるにちがいない。

 私がヴェトナムに行ったときも百合子にすすめられたからだった。

 夜、「日経」の吉沢 正英君から書評の依頼。辻 邦生の「春の戴冠」。

 夜、ジャン・ブリュアの「ソヴィェト連邦史」を読みはじめた。

2018/08/23(Thu)  1771 〈1977年日記 18〉
 
                  77年6月03日

 朝、9時15分、百合子を通町まで送って行く。いよいよ、アメリカに出発する。
 9時半、「近畿ツ−リスト」の前に集合。
 義母(湯浅 かおる)がコ−トを忘れたので、私がいそいで通町に戻って、ばあやさんからコ−トを受け取って、「近畿ツ−リスト」に戻った。
 この旅行は、義姉(小泉 賀江)は参加しないことになった。しかし、賀江の知人たちもいっしょのツア−なので、百合子もいろいろな人に挨拶していた。

 百合子は無事にアメリカに向かっている。


                   77年6月05日

 大工たちが休みなのに、別の職人がきた。戸袋がつくかどうか、という。新築の家については、百合子が指示している。結局、その職人は、できる範囲だけ仕事をして帰ってしまった。
 百合子の不在で、食事に困った。
 裕人のために、ライスカレ−を作った。登山で、食事を作ることはあるのだが、家族のために食事を作ることははじめてだった。

 夜、裕人をつれて、「サイレント・ム−ビ−」(メル・ブルックス監督)と「スクワ−ム」(ジェフ・リ−バ−マン監督)を見に行く。
 「スクワ−ム」のスト−リ−。アメリカの田舎町。30万ボルトの高圧電流が地面に流れたことが原因で、ミミズの大集団が人間に襲いかかるパニック映画。両方とも、B級以下。こんな映画を見にくる客はいないらしく、映画館はガラガラ。

 裕人といっしょに外出することがないので、「パルコ」の8階で食事。
 今日は、裕人の誕生日だった。


               1977年6月6日(火)

 裕人を学校にやったあと、何もしない。
 たまたま、××××が「瞼の母」に抜擢されたシ−ンを見た。演出は、浅香 光代。
 さすがに演技の質が違う。××××は人間的にはいやな女だが、演技は抜群という女優のひとり。
 五月になって、たまたまこの日記をつけはじめたが、なんとなく書きつづけている。自分に興味のあることはできるだけつけておきたい。
 ワシントンAP・・・アトランティス大陸とおなじように失われた大陸が太平洋にも存在した可能性があるという。これは、スタンフォ−ド大学の地球物理、アモス・ナ−という人の説。その仮説によると、今のオ−ストラリアより小さいが、2億年前に崩壊をはじめ、8千万年かかって分散し、主要な陸塊が周辺の大陸塊に組み込まれていったという。
 この大陸が四方に散開する過程で、アメリカ(南北)、アラスカ、東北ロシア、日本、東アジアに陸塊がつよくあたり、その作用で、環太平洋山塊ができたのではないか、という。
 こういう仮説にどこまで信憑性があるのかわからないが、考えるだけで楽しい。

2018/08/19(Sun)  1770 〈1977年日記 17〉
 
                  77年6月01日

 快晴。気温は33度。しかも、湿度が高い。

 工事はかなり進捗している。
 百合子は、アメリカ旅行の前なので、家の掃除をしている。留守中のこと、新築の工事のこと、何もかも心配している。

 五木 寛之の「わが憎しみのイカロス」を再読。
 「日経」の原稿を書いたので、イヌの子と遊んだり、外の塀にツタの茎を這わせたり、のんびり過ごした。


                   77年6月02日

 曇り。このところ、5時半には起きてしまう。遅くても、6時には眼がさめる。頭がぼんやりしていても、寝ていても仕方がないので起きだしてしまう。
 梅干しを焼いて、熱湯を注ぎ、そのお湯を飲むのが習慣になっている。
 雑誌で、ルイ・フェロ−の秋のファッション、イタリアのスキ−・ウェアなどをみていて、つくづく太平の時代だと思う。こういう時代に、小説を書くのは難しい気がする。
 「双葉社」、堤 任君は、私のアイディアに乗り気ではないらしいが、それでもアクセプトしてくれた。

 5時、「山ノ上」。「文春」の村井君に、五木 寛之の解説をわたした。
 「アクション」、渡辺君と、新作の打ちあわせ。彼は、小説に特殊な趣向をもっていて、こんどの連載には苦労が多いだろう。気があわないのではないかと懸念する。
 7時半、児玉さんと飲む。いろいろと楽しい話題が出た。
 新宿の「キャット」に行く。別れたのは、11時半。


                   77年6月02日

 血圧が高くなっている。昨日の酒がたたっているらしい。
 「集英社」、松島君のハガキが届いたばかりなのに、文子さんから電話で、もう帰国している、という。
 先生はフィレンツェに行ってらしたんでしょう?
 いいや、どこにも行ってませんよ。
 「松島が、先生をフィレンツェでお見かけしたといってましたけど」
 私は笑った。

 イヌは、通町につれて行った。百合子の旅行中、私が東京に出かけたりすれば、エサもやれないので。

2018/08/14(Tue)  1769 〈1977年日記 16〉
 
              1977年5月30日

 数日前に読んだ新聞記事が心に残っている。

 女優、ホ−ン・ユキのこと。
 木の実ナナが、急性胆嚢炎で手術を受けることになって、「日劇」6月公演のミュ−ジカル「踊る幽霊船」の主役に起用されたラッキ−な女優である。
 父がアメリカ人、母が日本人、現在28歳。コ−ラス・グル−プ「シュ−クリ−ム」から、49年、テレビに進出した。現在、TBSで「かあさん堂々」に出演。3月に「西武」で公演した「夕食は外でしたら?」に出ていた。
 「東宝」としては、木の実ナナ主演のミュ−ジカルという企画で出したプランだが、この突然の交代は、かなりダメ−ジが大きいと思われる。ただし、ホ−ン・ユキが主役に抜擢されても、別に意外な気はしない。私はホ−ン・ユキの出た「夕食」を見ただけだが、この女優の素質、その姿態に惹かれた。

 澁澤 龍彦さんから「思考の紋章学」を贈られた。早速拝読する。丸谷 才一さんに出した礼状が戻ってきた。住所が変わったのか。
 「読売」、北村さんから電話。アイヒマンに関して。県立図書館の竹内 紀吉君に調べてもらう。
 「日経」ショッピング、秋山さんから原稿の依頼。児玉 品子さんに電話。
 雑誌、週刊誌、新聞、外国の雑誌、10種が届く。すぐに読みはじめる。


               1977年5月31日

 午後2時半、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、「読売」、北村 佳久さんに「あとがき」の補足分をわたす。しばらく雑談したが、部数は6千部らしい。ちょっと少な過ぎると思った。私としては不満を述べるわけではない。そろそろ翻訳から足を洗ったほうがよさそうな気がする。

 「実業の日本」、増田さんに原稿をわたす。社長の令息で、「週刊小説」の編集長になった。
 「お若いのに、たいへんですね」
 というと、柔和に笑いをみせて、
 「若く見えますけれど、ほんとうはそんなに若くないんですよ」
 という。好感のもてる人だった。最近の出版ジャ−ナリズムの世界にも、世代交代が見られて、若い編集長、社長の時代がきている。
 「映画ファン」の萩谷君に原稿をわたす。萩谷君はすぐに帰った。
 下沢 ひろみがきたので、「メイデイ40000フィ−ト」(ロバ−ト・バトラ−監督)を見た。76年、CBSが放映したTVム−ビ−で、航空パニックもの。スト−リ−は「大空港」や「エアポ−ト77」を見ているので新味はない。出演者もデヴィッド・ジャンセン、レイ・ミランド、ブロデリック・クロ−フォ−ド、クリストファ−・ジョ−ジといった古株ばかり。なつかしや、ジェ−ン・パウェルが機長夫人になって出ている。

 「山ノ上」で、「集英社」の永田 仁志君にあう。私が書く予定の「カテリ−ナ・スフォルツァ」がまったく進捗していないので、どうなっているのか、と心配してくれた。「カテリ−ナ」に着手したくても、6月はさらに多忙になるので、ちょっと手がつけられない。
 講義。Y.T.鳳仙花。

2018/08/11(Sat)  1768 〈1977年日記 15〉
 

                1977年5月28日

 午前中、いささか二日酔いめいた気分だった。
 残った原稿を書く。
 夕方、すっかり元気になっていた。
 7時10分、新宿着。いつものメンバ−が待っていた。吉沢君、安東 由利子、石井秀明、坂牧、妹尾のほかに、椎名君がガ−ルフレンドをつれてきた。登山の経験はあるという。
 塩山に着いたが、バスがなかった。やむを得ない。山楽荘までタクシ−で行く。ところが、ここでも別の「問題」が待っていた。土曜日なので、山楽荘にはアベックが何組か入って満室。主人が恐縮して、近くの民宿に案内してくれた。

                1977年5月29日

 4時に起きた。10分後には出発していた。
 土、日なので、かなり登山者が多いと覚悟したが、どうやら私の判断は誤っていた。塩山から車の流れがつづいていたし、夜明けなのにたいへんな数の登山者がぞくぞくと歩いている。
 私はコ−スの途中で、プランの変更を決心した。こうなったら、ふつうの登山者が通らないコ−スを歩くしかない。ガイドブックに出ていない道をさがせばいい。私は、地図上で廃道になっている道をさがした。私は破線のついていない道を歩くことにきめたのだった。むずかしいコ−スだが、吉沢君は、沢のル−トの専門家だったし、石井君は自衛隊の出身で、ル−ト・ファインディングは得意だったし、安東君は大学の山岳部員として、経験を積んできたベテランだった。
 私たちは、やがて、誰も通らない道をたどりはじめた。ふつう長兵衛小屋まで1時間のコ−スだが、私たちは、3時間もかけて登った。途中、なんどかロ−プを使ったが、ほかの登山者たちにまったく会わずに登りつづけた。
 最後に、堰堤めがけて、まっしぐらに直登した。このコ−スは、なかなかスリルがあって、私たちは満足したのだった。
 長兵衛小屋はひどく混雑していたので、その近くで昼食をとった。そのあと、大菩薩に登る必要はなかった。帰りも、ふつうのコ−スを避けて、砥川峠の古山道をめざした。これもふつうの登山者がえらばないコ−スで、私たちがこの山道を選んだのはよかったと判断した。
 私たちの登山は、だいたいいつもこんなものなのである。

2018/08/09(Thu)  1767 〈1977年日記 14〉
 
                 1977年5月25日

 李文翔夫人から、いつか送った写真の礼状が届く。

 文翔氏は4年前に亡くなったという。残念なことをした。英文でお悔やみを送った。

 小泉 まさ美が、百合子と渡米の準備の相談にくる。

 杉崎 和子女史に電話で、来週・火曜日に会いたいとつたえた。

 夜、中村 継男から電話。

 久しぶりに音楽を聞きながら、酒を飲む。


                 1977年5月26日

 午後から雨。
 「サンケイ」文化部の四方 繁子さんから電話。
 原 耕平君、島崎君に電話。「週刊大衆」の堤 任君から電話。安東夫人に電話。
 石本君が、画集2冊を届けてくれた。百合子が焼き鳥を出してくれた。石本君といっしょにたべながら話をする。
 夜、ヘミングウェイを読む。


                1977年5月27日

 朝、曇りがちながら、晴れてきた。もともと、雨という予想だった。こういうお天気ならいっそ雨のほうがありがたいのに。土曜日、日曜日にかけて雨が降るのは困る。
 朝、6時40分から原稿を書く。

 午後2時、「ジャ−マン・ベ−カリ−」で、四方 繁子さんに原稿をわたす。和田 芳恵著、「暗い流れ」の書評。四方さんの話で、三浦 浩さんの病状があまりよくないと知った。三浦 浩さんは、せっかく、作家として登場しながら、思わぬ病気で苦しむことになった。暗然たる思いがある。

 島崎君と会っているとき、原 耕平君の部下の女の子が原稿をとりにきた。エッセイ、「ヘミングウェイ」雑記。
 今日の試写は、「マイ・ラヴ」(クロ−ド・ルル−シュ監督)。ルル−シュは好きな監督のひとりだが、「愛よ もう一度」にしても、この作品にしても、どこか弛緩した印象がある。
 簡単にいえば、「ヌ−ヴェル・バ−グ」がもはやヌ−ヴェル・バ−グでなくなってしまった、ということ。

 JRでお茶の水に。駅の前に出たとたんに、鈴木 由子に会った。立ち話をしているところに、工藤 淳子がきた。いずれも登山のメンバ−。

 6時半、新宿。駅ビルの8階。杉崎女史と会う。「プチ・モンド」に行ったが、たいへんな混みようで、どの階も、人であふれている。やっと、イタリア料理のリストランテに入った。人ごこちがついたので杉崎女史と話をする。
 アナイス・ニンの短編を、「スバル」にもって行くことになった。桜木 三郎が尽力してくれるので、うまく行くかも知れない。
 杉崎女史と話しているところに、「日経」の吉沢君、安東 由利子がきた。しばらく雑談。そこに、こんどは「双葉社」の堤 任君、渡辺君がきた。なにしろ金曜日の新宿なので、どこも混雑している。「みちのく」に行こう、ということになった。
 ところが、きゅうに杉崎女史が帰ることになった。体調がすぐれないとか。
 杉崎女史と別れてすぐに、吉沢君、安東 由利子も帰るという。明日のスケジュ−ルがあるので。

 けっきょく、私は堤 任君、渡辺君といっしょに「みちのく」に行く。ここで、大いに飲んだが、私も明日の予定があるので、終電の前に電車に乗った。

2018/08/03(Fri)  1766 〈1977年日記 13〉
 

                     1977年5月23日

 12時半、「ジャ−マン・ベ−カリ−」に行く。

 1時、「ヤマハ」で、「ブラック・サンダー」The Legend of Nigger Charley/マ−ティン・ゴ−ルドマン監督)を見た。どうも前に見たような感じだった。冷酷な農園の監督を殺して、黒人奴隷が逃亡する。途中で、かなり前に読んだ小説の映画化とわかった。あまりたくさん、アメリカの小説を読んでいると、原作者の名前も思い出さなくなる。スト−リ−も、しばらくするとおぼえていなくなる。
 たまたま小野 耕世さんと会ったので、原作について少し話した。原作者はジェ−ムズ・ペラ−だそうな。「ああ、あれか」私は、本の表紙を思い出した。
 ちょうど剣術の達人の立会いのようなもので、一瞬で、原作の内容や、作中人物について、お互いに理解しあう。植草 甚一さんなら、たちまち原作のスト−リ−を話しはじめるところだが。
 「ルノワ−ル」で、「週刊小説」の土屋君に原稿をわたした。いつもなら、古書をあさったり、新着の雑誌を手にとって内容によっては買ったり買わなかったり。
 今日は、すぐに「サンケイ」に飛んで行って、文化部のデスクで書評の原稿を書く。


                     1977年5月24日

 昨日は、神田に出られなかったので、今日は半日かけて本をあさった。
 ジャン・オルトの「カルテルの演劇」を見つけた。ルイ・ジュヴェの資料になる。こんな本が人目につかない棚にころがっているのだから、うれしくなる。いつか、ルイ・ジュヴェについて書いてみたい。むろん、私の手にあまるテ−マなので、こんな本でもじっくり読むことにしよう。
 ほかに、ケンブリッジ版の「ルネサンス史」、「宗教改革史」。
 神保町の郵便局から、本を送る。
 夜は、久しぶりに「弓月」に行く。小川 茂久に会う。

 小川 茂久は、私の親友。大学の同期。
 1944年、明治大学文科文芸科に入学。戦時中、勤労動員で、いっしょに働いた。その後、小川は、大学の助手になったが、私はもの書きになった。やがて、小川は仏文科の教授になり、私は日本文学科の講師になった。
 小川は、2年前から、仏文科、専攻、主任教授になっている。酒豪で、私は、二部(夜間)の講義のあと、彼と落ちあっては、「あくね」、「弓月」といった旗亭で、酒を酌み交わした。お互いに、たいした話をするでもなく、ただ、共通の友人たちのこと、お互いに読んでいる文学作品のことなどを話題にしながら、酒を飲むだけだが、小川は、信じられないほど気くばりが行き届き、面倒見のいい人物だった。

 少年時代からのつきあいなので、お互いに気心は知れているし、小川はもの書きの苦労も察してくれていたと思う。他人にはいえないことも、お互いにうちあけることがあって、大学で顔を合わせただけで、その日、どこで飲むか了解するようなつきあいだった。

 この日、私は終電。小川は新宿で飲みあかしたらしい。

2018/07/29(Sun)  1765 〈1977年日記 12〉
 
                  1977年5月20日

 今日は、夏を思わせる暑さ。梅雨入りは例年より早いらしい。

 朝、「コミュニティ−・センタ−」に行って、キャンプ場のことを聞いてくる。できれば、7月にバンガロ−を借りたいと思うのだが。安東 つとむ、吉沢 正英、石井 秀明、Y.T.たちと、このバンガロ−を拠点に縦走のプラン。

 新築工事はかなりいいピッチで進んでいる。

 「集英社」から、文庫30冊をおくってきた。これだけあると、とても一日では読みきれない。
 吉行淳之介の「生と性」を読み、続いて小島 信夫の「女流」を読む。
 ついでに、アラン・シリト−の「長距離走者の孤独」のなかの短編を。


                  1977年5月21日

 5月3日の日記に、私が書きとめたことば。記憶違いなので、訂正しておく。

  人間は自分自身の像をおのれの獲得する認識のひろがりのなかにではなく、おのれの
  投げかける問いのなかに見いだす。

 アンドレ・マルロ−のことばだった。

 午後、石本 太郎がきてくれた。宮沢 賢治の話をする。妹が2歳下だったことは知らなかった。賢治の内面に、なにかインセステュアスな情動を感じるのだが。先日、フランシ−ン・デュ・プレシックス・グレイのインタヴュ−から、アナイスのインセストについて考えたので、宮沢 賢治にまでそんな類推をひろげたのか。


                  1977年5月22日

 しばらく快晴が続いていたのに、今日は曇り。このところ、気圧配置は、日曜日になると雨ときまっている。昨日の朝、上海付近にあった低気圧がもう九州にきている。前線は関東の南・海上に。
 ヴェトナムで、ペストが発生したというニュ−ズ。発生の場所、汚染状況などはまったくわからない。

 夜、江田 三郎の訃報。革新・中道の「社会市民連合」を結成して、参議院選挙に出馬する予定だったらしいが、非運に見舞われたわけである。
 江田 三郎の訃が、参議院選にどう影響するか。おそらくほとんど影響しないだろう。

 夜、テレビ。
 「殺意の週末」を見る。原作、セバスチャン・ジャブリゾ。監督が、アナト−ル・リトヴァク。サマンサ・エッガ−がでている。これはどうしても見ておきたい。ジャブリゾは、先日、浅丘 ルリ子のTVシリ−ズ、「新車の中の女」の原作者。

 日本のドラマは、あい変わらず、池内 淳子、八千草 薫、岩下 志麻、十朱 幸代といったスタ−女優ばかり。ドラマといっても、見終わった瞬間に忘れてしまうようなものばかり。たまには、八千草 薫、岩下 志麻のしっかりした役で、TVドラマを見たいものだ。

2018/07/24(Tue)  1764 〈1977年日記 11〉
 
                 1977年5月18日

 「二見書房」の原稿、やっと終章を書きあげた。

 日ソ漁業交渉、妥結の見通し。この数カ月、ソ連のしたたかな対外政策に日本は翻弄されつくした感じ。こういう交渉のせいで、日本人の国民感情が反ソ的になるのは当然で、ソヴィエトに対する恐怖感はこれからも払拭されることはない。
 石油資源は、1980年代に、世界の需要が産油国の供給を上廻るという予測が出ている。これに重なって、ソヴィエトの国家的なエゴイズムがつきつけられることは間違いない。あと10年。考えてみると、私はおもしろい時代に生まれあわせたものだ。
 (以上を書いたあとで、ソヴィェトがまたしても修正案を出してきたため妥結できなくなったとつたえてきた。共産主義国家を相手の交渉は、いつもこういう欺瞞がつきまとう。これで日本人の反ソ感情は決定的になるだろう。)

                  1977年5月19日

 「ロ−リングスト−ン」と「ニュ−ヨ−ク・ルヴュ−」を読む。
 フランシ−ン・デュ・プレシックス・グレイという女性が、インタヴュ−のなかで、アナイス・ニンについて語っている。
 エリカ・ジョング、ロイス・グ−ルド、さらにイ−ディス・ウォ−トン、アフラ・ベ−ンといった作家たちについて語ったあと、性的な率直さに関して、アナイス・ニンが大きな一歩を踏み出したのではないか、と訊かれて、

    ある意味ではそうですけれど、あまり好きな作家ではありません。彼女は肉体と
    いう罠にかかずらい過ぎているし、肉体的、本能的なものを褒めたたえる、古い
    男性の女性観をささえています。ニンの書くものは、私にとってはやたらに面倒
    くさい。といっても、エミリ・ブロンテからアナイス・ニンに到る多数の女性作
    家が、率直な作品を書きたがっていたこと、その欲求を抑えるなり、表現するか、
    ないしはイ−ディス・ウォ−トンのように、隠蔽してきたことは忘れてはいけ
    ない。ウォ−トンが、父と娘が近親相姦する場面でカニリンガスを描いているこ
    とをご存じですか?

 という。ちょっと驚いた。「ビアトリス・パルマ−ト」という短編で、カニリンガスを描いているという。ぜひ、探し出して読んでみよう。
 この女性は、アナイスに対して否定的な評価しかあたえていない。このあたりから、いつか何か考えてみたい。グレイさんは、14歳のとき、「キンゼイ・リポ−ト」と、サドを読んだというが、別に驚くほどのことではない。こんなことを自慢そうに語る女性など、私の趣味ではない。

 3時、「未来世界」(FutureWorld/リチャ−ド・ヘフロン監督)を見る。これは、「ウェスト・ワ−ルド」(マイケル・クライトン監督/72年)の続編。
 砂漠のドまんなかに作られた大テ−マ・パ−ク、「デロス」。帝政ロ−マ、中世ヨ−ロッパ、アメリカの大西部という3つの仮想世界に、人間そっくりのロボットが登場する。
 ユル・ブリンナ−は、こわかったナ。
 前作のラストでこの「デロス」は破壊されたが、「未来世界」で復活し、こんどはユル・ブリンナ−だけでなく、世界の有名人のロボットがふたたび世界征服をねらう。
 その陰謀に、新聞記者「チャック」(ピ−タ−・フォンダ)、TVキャスタ−(プライス・ダナ−)が気がつくが、ロボットたちは前作よりはるかに強力になっている。
 続編はだいたいがオリジナルよりデキがわるいのが相場だが、この映画はオリジナルよりいいデキになっている。

2018/07/21(Sat)  1763 〈1977年日記 10〉
 
                 1977年5月16日

 鳳蝶の戯れ。巫山の夢。

 昨日、庄司 肇さんに訊かれた。

 「そういう山登りをして、翌日、疲れがでませんか」

 「一晩寝れば、疲れはとれます」

 「やっぱりお若いんですねえ」

 庄司 肇さんは感心したようにいった。



                1977年5月17日

 午後2時半。
 新橋の「ア−ト・コ−ヒ−」に行く途中で、下沢 ひろみと会った。偶然会ったわけではない。私が呼びつけたのだった。ひろみは「コロンビア」に行く途中だったから、途中で私と会っても不思議ではない。

 試写は、「白い家の少女」(ニコラス・ジェスネル監督)。
 ニュ−・イングランドの丘のうえの一軒家にリン(ジョデイ・フォスタ−)という少女が住んでいる。この家の地下室に、母親の死体がある。じつは、家主も殺されている。家主の息子(マ−ティン・シ−ン)が訪れる。
 フランス映画に近いサスペンスものだが、ジョデイ・フォスタ−という少女スタ−の魅力が印象に残った。私の好きなアレクシス・スミスが出ているのだが、この少女の前ではまるで生彩がない。

 5時過ぎ、「山ノ上」で、「南窓社」の岸村さんに会う。350枚の評論集はとても出せないという。私はキャリア−だけは長いけれど、どうも評論家としての知名度は低い。けっきょく、かなり大幅に削らなければならなくなった。

 講義。後半は、ヘミングウェイのパリ時代について。
 自分のパリ暮らしの経験も話した。ヘミングウェイの住んでいた界隈。新婚のヘミングウェイたちは、近くのカフェの日替わり定食か、せいぜいテイクアウトのスシッソン・オ・ジャンボンぐらいですませていたにちがいない。なにしろ、肉も食べられないときは、公園のハトをつかまえて、首をひねって持ち帰るような貧乏暮らしだったのだから。

 講義のあと、安東 つとむ、由利子夫妻、中村 継男、工藤 淳子たちといっしょに「嵯峨野」に行く。
 坂をのぼりきると、この界隈はいろとりどりのネオンの灯色がゆらぎ、いっそう美しく、なぜか哀愁が街ぜんたいにただよっているように見える。

2018/07/17(Tue)  1762  〈1977年日記 9〉
 
                  1977年5月14日

 和田 芳恵さんから、新刊の「暗い流れ」を頂戴する。
 私は文壇作家の先輩をほとんど知らない。むろん面識はある大家はいるが、日頃、文壇人の集まりに顔を出したこともない。だから和田さんは、私の知っている唯一の文壇作家ということになる。
 和田さんの小説は、いつも練達の職人の仕事という感じで、ひたすら感嘆する。和田さんは、どういうものか私に好意をもって、本を贈ってくださるのだった。

 今日、コネコが死んだ。母親はシロ。うまれて2カ月。シロが子を生んで2日後に、ルミも、この子とおなじような白いメスを生んだ。だから、コネコたちは、まるで兄弟のように育った。
 このコネコは、なかなか活発で、この数日、ミルクを飲むようになっていた。昨日、ミルクをやったが、とてもよく飲んだ。そのあと、肉のアブラミをすこし食べさせた。これがよくなかったらしい。私が殺したようなもので、気分がよくない。
 庭の隅に埋葬してやる。

 夜、仕度して新宿に行く。
 予報では、今夜から海も山も大荒れになる。それを承知のうえで登山を計画したのだが、目的地は高尾に変更した。
 この日、10番線に集合したのは――安東 つとむ、「日経」の吉沢 正英、石井秀明、田中、中村、工藤。これに、大久保、原田、奥原、妹尾の4人。みんながすぐにうちとけて、今夜の登山にわくわくしていた。

 真夜中に登山するもの好きはいない。しかも、台風が接近している。
 私はわざとそういう悪条件の登山をみんなに経験させたかった。むろん、万全の準備をととのえている。初心者向きのコ−スを選んだ。
 10時15分から行動開始。暗いコ−スをひたすら歩きつづける。気温がぐんぐん下がってくる。みんなが黙々と歩きつづける。
 少し平坦な道にさしかかると、私は夜空を見上げ、山の稜線をたしかめ、闇の彼方に目を向ける。何も見えない。フラッシュライトの光を吸い込んだ闇からは、深い奥行きと、ぼうっとした輪郭が感じられるばかり。風が強くなって、いい知れぬうそ寒い恐怖にとらわれそうだった。
 深夜、コ−ス中腹の茶屋に着いた。茶屋は戸を閉めてカギをかけてある。外のテ−ブルに集まって、お茶を沸かしたり、各自、簡単な食事をとる。私はコッヘルでウドンを茹でて食べた。夜中に熱い肉ウドンを食べるのが私のスタイルになっている。
 1時半から4時まで睡眠をとる。寒いので、みんながテ−ブルに突っ伏して寝たが、私は茶屋の入口の近くに断熱シ−トを敷き、アノラックに新聞紙をつめて横になった。
 風が出てきた。みんな、一睡もできなかったらしい。

 闇はかぎりなく濃く深かった。あたりのもののすべてが形を崩され、影に変えられている。その影たちはくろぐろとした静寂(しじま)にそびえている。そこは、昼間のハイキングコ−スではなく、風雨の予感がみなぎった世界だった。無数の音が、梅雨前線にのみ込まれながら、刻々に危険な夜と化してしまったのだ。
 4時15分から、歩きはじめた。私は、気温の低下と、みんなの健康状態、疲労度に注意しながら、ときどき声をかけてやる。小仏峠に出たとき、とうとう雨が降りはじめた。

 雨のなか、きついコ−スを歩くのはあまり楽しくない。はじめての登山で、こんな風雨にさらされたら、誰しも二度と山に登ろうとは思わないだろう。しかし、私は、こんな平凡なハイキング・コ−スでも、歩き方によっては、別の楽しみが生まれると思っている。

 やがて夜明け。
 それは異様になまなましく、非現実めいた光景だったが、山ぜんたいに灰色の朝がひろがり、さらにはどしゃぶりに近い雨が降りそそぎ、容赦なく私たちを追い立てた。

 11時、私たちは美女谷温泉に着いた。みんなが歓声をあげた。
 ほかに誰ひとり客がいない。入浴する。学生たちも山麓の朝風呂をよろこんでいた。歩いているときは無口だった学生たちも、入浴したあとはすっかり上機嫌になっていた。
 こんな登山は誰ひとり経験したことがなかった。

 帰りの電車ではみんなが眠っていた。新宿に着いたのは3時過ぎ。

 この日、私はもう一つ、大事な仕事があった。
 宮 林太郎さんの出版紀念会だった。私はみんなと別れたあと、時間をつぶさなければならない。映画を見ようか。しかし、うっかりすると、眠りこけてしまうかも知れない。喫茶店でコポオのエッセイを読んだ。暇つぶしに。

 出版紀念会は盛会だった。出席者のほとんどは私の知らない同人雑誌作家ばかりだった。高齢の方が多い。私は、登山スタイルのまま出席したので気がひけたが、若杉 慧、佐藤 愛子のいるテ−ブルに案内された。おふたりは、私にもわけへだてなく話しかけてくれた。あとは、ほとんど知らない人たちばかりだったが、「小説と詩と評論」の森田 雄蔵さんがいたので挨拶した。
 閉会してから、別のテ−ブルに、友人の若城 希伊子さん、庄司 肇さんがいたことを知った。おふたりといっしょに「ポポロ」に寄って話をしたが、若城さん、庄司さんが相手なので、気づまりなことはなかった。若城さんと別れたあと、庄司さんは木更津に住んでいらっしゃるので、帰りは千葉までずっと話をつづけた。
 千葉で酒でも酌もうか、と思ったが、さすがに疲れていたので、千葉で失礼した。

2018/07/13(Fri)  1761 〈1977年日記 8〉

                1977年5月13日

 午後1時から、「東和」で「サスペリア」(ダリオ・アルジェント監督)の試写があるので、これを見たかったのだが、「牧神」の原稿(「アリス・ガ−ステンバ−グ」)に手こずったため、東京に出かけたのは2時過ぎ。
 「サスペリア」は、サ−カムサウンド・怪奇映画。「日比谷」、「渋谷東宝」、「スカラ座」の公開なので、「東宝」はよほど自信があるらしい。
 「ルノワ−ル」で、萩原君に原稿をわたした。このあと、「自由国民社」の鈴木君に会う。編集長(山本さん)と相談した結果、私は4本書くことになった。

 何を書くか、いろいろ話しあったせいで半端な時間になってしまった。試写は見逃すし、原稿は1本だけ。気分を変えるつもりで、「CIC」に寄ってポスタ−をもらうことにした。映画のポスタ−はサイズが大きいので、近くの「新評社」に寄って紐をもらった。映画の配給会社で、気に入ったポスタ−をせしめ、別の出版社でしっかり包装してもらう作家なんて、あまりいないだろうな。私は、あまり気にしない。斉藤 節郎君が、早川君を紹介してくれた。
 銀座の宵。さまざまな人の流れ。恋人たち。お互いにまだ気がつかない恋もある。お互いに感じているのに、気がつかないふりをしている恋もある。臆病な、それをはっきり口にしない恋。つまりは、私の恋。
 「イエナ」で本を買う。歩いて「ロ−リエ」に寄って、買ってきた本のフラップ。ざっと眼を通しただけで、おもしろそうな本の匂いがする。

2018/07/10(Tue)  1760 〈1977年日記 7〉
 
                1977年5月9日(木)

 快晴がつづく。
 本、雑誌など多数届いた。
 「二見書房」の長谷川君から電話。仕事の依頼。
 1時半、めずらしく「花輪」のおばさん(須藤 みさお)がきてくれた。わざわざ棟上げのお祝いにきてくれたのだった。義母、かおるの妹。ほんとうに純朴で、近所つきあいもせず、まるで少女のまま大人になってしまったようなお人柄。人見知りがはげしく、何につけ遠慮がちな老婦人。私が百合子につれられて挨拶に行ったときは、あわてて奥の部屋に逃げ込んで、百合子が何度か押し問答をして、やっと出てきたが、私の顔も正視せず、三つ指をついて頭を畳にすりつけるような老婦人だった。そのおばさんが、はるばるお
祝いにきてくれたのだから、こちらとしても恐縮するばかり。

 倉橋 由美子さんから新刊の「迷宮」を贈られたので、読後、お礼申し上げるつもり。


               1977年5月10日(金)

 百合子、大宮に行く。
 百合子は、いつも体調がすっきりしないので、私が与野の高原君に連絡して、大宮で待
ち合わせ、付添いを依頼する。
 11時45分、百合子といっしょに家を出たが、駅に着いてから、ガス湯沸かし器をつ
けっぱなしにしたような気がした。タクシ−で家に戻る。ガスは消してあった。待たせて
おいたタクシ−で駅に戻ったが、つまらない事で時間をロスした。
 途中までいっしょだったが、百合子と別れて、私は葛西に向かった。
 竹内君のマンションに寄って、お子さんと対面。可愛いお嬢さん。
 「山ノ上」(ホテル)で、「二見書房」の長谷川君に会う。仕事の話をすすめる。そこに、桜木 三郎君がきてくれた。桜木君は「プレイボ−イ」(5月24日号)に、アナイス・ニンの記事を書いてくれた。感謝。
 桜木君と話をしているところに、アメリカでエリカと会ってくれた松浦 ゆかりという少女がきてくれた。ゆかりさんは、エリカに、スラックスをプレゼントしてくれたのだった。すらりとした長身の美少女だった。桜木君がひやかす。
 「先生はいいですね、あんな美少女のガ−ルフレンドがいるんだから」

 大学の講義。
 熱心な学生が多いので、私の講義もうまく行く。こういうときの昂揚感は、芝居の演出をしていて、初日の幕をあげた瞬間、あ、この芝居、うまく行くぞ、と確信するときの気分に似ている。私の講義を聞きにくる石本や、安東夫妻も、私の気分に影響されて、いろいろと私の講義の内容を話しあう。
 工藤 淳子と食事をしながら話すことにして歩きだしたところで、鈴木 君枝と会った。ついでのことに、鈴木 君枝もつれて行くことにした。

 百合子は無事に与野に着いて、浦和の「北越銀行」から送金した。大宮に寄って、私の両親に会って、挨拶。そのまま、帰宅。
千葉に帰ってきてすぐに、「千葉銀行」から連絡があったという。
 「千葉銀行は、このところかなり気を使っているみたい」
 百合子がにんまりしてみせる。


               1977年5月11日(土)

 つぎの登山計画。メンバ−。

 石井 秀明、林 恵子、高瀬 悦子、大久保 清、栗林、妹尾 とき江。以上、電話。
 伊藤 康子、石井 謙、和田 実、諸橋君たちに電報。

 「二見書房」の長谷川君に、原稿。

 原 耕平君、原稿の依頼。10枚、25日。

 吉沢 正英君から電話。「白い家の少女」を褒めていた。ジョデイ・フォスタ−という少女が気に入ったからだろう、とからかってやる。この少女には何かがある。
 松島 義一君(集英社)から電話。6月、ロンドン、マドリ−ド、パリ、フィレンツェ、コペンハ−ゲンに行くという。パリで、中上 健次と会う予定。私はパリに行ったら、古賀 協子に会うようにすすめた。

 松山 俊太郎さんから電話。小栗 虫太郎のこと。戦争中に出版されたジュ−ル・ヴェルヌの「神秘島物語」のこと。松山さんは、「ユリイカ」(ヴェルヌ特集)に寄せたエッセイで、この小説を昭和18年に読んだと書いている。「国会図書館」の目録には、昭和20年(1945年)に、「神秘の島」という題名で出版の記録がある。ところが昭和18年には記載がないので松山さんは不審に思ったという。私が松山さんにハガキを寄せたので、この電話はその返礼。松山さんは、国学院大学で英語を教えるという。

 倉橋 由美子さんに礼状。

 「暗い旅」をめぐって、江藤 淳がいいがかりをつけて、盗作問題に発展したとき、私は倉橋 由美子さんに同情した。「暗い旅」が、ミッシェル・ビュト−ルの「心変わり」を模倣したと指摘した江藤 淳の内面には、やはりねじくれた劣等感がからみついているだろう。
 「暗い旅」は翻訳もある作品と類似した部分はあるにしても、作家自身が模倣したと認めているのだから、盗作などと呼ぶべきではない、と考える。私は何も発言しなかったが、暗黙に倉橋さんへの支持はつたわっていたと思う。

 シャトル、エリカから電話。百合子のアメリカ行きの日程をつたえる。

 私もアメリカに行きたい。できれば、アナイスを訪問したいと思う。しかし、つぎからつぎに仕事に追われている現状ではアメリカ行きは無理だろう。

2018/07/07(Sat)  1759 〈1977年日記 6〉
 
                1977年5月8日(水)

 新築の家の上棟式。
 百合子は朝から準備に追われている。大工たちは、朝8時から正午過ぎ、1時まで仕事をつづけて、ようやく棟をあげた。
 さすがに深い感慨があった。百合子の実家からいろいろな援助をうけた。家の新築を考えて、何度も施工者とやりあいながら、今日、ついに上棟式をむかえた。
 親族の一番乗りは須藤 泰清君。新婚のきぬ子さんをつれてお祝いにきてくれた。泰清君は、百合子の従弟にあたる。しばらく雑談をしたが、やがて、婦公、湯浅 泰仁、かおる夫妻が到着した。
 ふたりも上棟を心からよろこんでくれた。婦公は、おれの娘は断じて三文文士なぞと結婚させないと宣言して最後まで百合子と対立したが、周囲、とくに百合子の姉、小泉 賀江の説得に譲歩して、私と百合子の結婚にあえて異を唱えなくなった。
 その後、この家の新築を計画したのは、百合子の英断による。百合子は、このとき、「集英社」版の筆耕をすべて自分の手でやってくれたのだった。
 上棟式にいろいろな人が集まってくれた。
 2時頃、これも新婚の柴田 裕夫妻がきてくれた。私たちが月下氷人をつとめたカップルだった。結婚式の写真を届けてくれたので、百合子とふたりでよろこびあった。
 上棟式がはじまって、酒宴になる。歌を披露する連中もいる。私は、およそ社交的ではないので、こういう酒席はあまりありがたくないのだが、施主としてできるだけ神妙な顔をしていた。
 酒宴がたけなわの頃、いろいろな人から電話があった。思いがけない電話もあった。
 西島 大が千葉にきている、という。上棟式と知って、電話で祝意を述べただけで失礼するという。せっかくきてくれたのだから、百合子に会ってほしいと答えた。

 西島 大は、私と同期の友人で、内村 直也先生の弟子。「青年座」の創立メンバ−のひとりだった。私は、「青年座」で、西島 大の一幕ものを演出して、演出家としてデビュ−したが、その後、「青年座」が下北沢に稽古場を移したとき、「青年座」演出部を退いた。千葉から下北沢に通うことは、当時の私には無理だったからである。
 その後、西島 大は、映画のシナリオ作家として成功した。さらに、テレビ・ドラマ、ラジオ・ドラマを書いて、この10年、「青年座」をささえてきた。
 この日も、テレビ・ドラマのヒット・シリ−ズ、「西部警察」のシナリオを書くために、成田空港を視察しての帰りという。私が、千葉に住んでいることを思い出して、電話してきたのだった。

 私は旧知の西島 大と再会できることをよろこんだ。
 西島 大は、もともと小柄だったが、アゴヒゲをたくわえて、ちょっと、ヴエトナムのホ−・チンミンに似てきたようだった。
 西島 大はこれも旧知の女優、高橋 みつえといっしょだった。高橋 みつえは、内村先生が始めた「芸術協会」で、百合子と同期だった。百合子は、「芸術協会」を出てNHK、「文化放送」、「ラジオ東京」のドラマ、クイズの司会などに起用された。しかし、私と結婚したため、芸能界を去ったが、高橋 みつえは入れ違いにTBSと契約して、ドラマに出るようになった。美貌だったが、女優としては大成しなかった。
 昨年(1976年)から、銀座のバ−のママになっているという。
 私は西島 大と、百合子は高橋 みつえと話をつづけた。お互いに共通の友人だった矢代 静一や、山川 方夫の話が出た。
 西島 大は、こんなことをいった。
 「お互いに偉くなれなかったな、けっきょく」
 西島 大は、「青年座」付属の「俳優養成所」の所長になっていたが、本業の戯曲は上演されなかった。テレビでは、いろいろヒット・シリ−ズの台本を書いたが、所詮はシナリオ作家としてしか見られない。そんな自分を卑下して、自嘲めいたいいかたをしたらしい。
 私は、「そうだね」と答えた。

 西島 大がこういういいかたをしたのは、私に対するひそかな優越感のせいだった。テレビでヒット・シリ−ズの台本を書いているので、私に対して優越感をもちながら、こういういいかたをする。なぜかねじくれた劣等感がからみついている。
 (その後、何度か西島 大に会ったが、いつもきまって、「お互いに偉くなれなかったな、けっきょく」というのだった。 後記)
 私はにやにやしながら、いつも話題を変えた。私は才能のない作家だったが、自分を文学落伍者(リテ・ラテ)だと思ったことはない。もともと西島 大と競争するつもりもなかった。
 百合子もみつえといろいろ話をしていたが、お互いのあいだに流れた時間が埋められるはずもなかった。いろいろと浮名を流している銀座の雇われマダムと、たいして才能もないもの書きの女房に共通の話題があるはずもなかった。
 この日の、西島 大、高橋 みつえの来訪は、私と百合子の間で二度と話しあうことはなかった。

 義母、湯浅 かおる、義姉、小泉 賀江のふたりは、夜の8時まで残ってくれた。わが家の周囲でも、いろいろと変化が起きようとしている。この日、かおる、賀江、百合子が相談しあって、賀江の娘、小泉 まさ美もまぜて、女たちがそろってアメリカに行くことになった。エリカがアメリカに留学しているので、女たち5人のアメリカ珍道中ということになる。

2018/07/04(Wed)  1758 〈1977年日記 5〉
 
                1977年5月7日(火)

 ジュ−ル・ヴェルヌ。少年時代に、ヴェルヌを耽読した。
 とにかくヴェルヌはおもしろかった。ヴェルヌの何が私を魅きつけたのか。
 従姉のカロリ−ヌを愛した少年は、サンゴの首飾りを手に入れて贈ろうと考え、ひそかに家出を決行して「コラリ−号」に乗り込む。残念ながら、家につれ戻された少年は、母にむかって「ぼくはもう空想の中でしか旅をしない」といったという。
 少年時代の私は自殺を考えたことはあったが、家出など空想もしなかった。実現できない空想は、はじめから考えない少年だったに違いない。あるヴェルヌの研究者は、この事件に、後年のヴェルヌの作品の構造にかかわるカギがひそんでいるという。たとえば、マルセル・モレは、Coralie が Coraline の、そしてCorail とColier をアナグラムと見ている。こういう暗合から、ヴェルヌの現実の船旅への憧憬があった、というより、言葉の暗示への執着と、それがもつナゾへの挑戦という、より強い感情につき動かされたのではないか、という。
 へえ、そうなのか。少年時代の私が、ヴェルヌに熱中したのは、アナグラムに対する好み、ある言葉からすぐにべつの言葉を類推する性癖――ようするに、無意識にせよヴェルヌに似た傾向があったせいかも知れない。
 千葉に移ってきた頃、地名の「新検見川」に Hemingway、稲毛を Ingeと読む、アナグラムめいた趣向を考えて、メモに書きつけていた。私はアナグラムに特殊なこだわりがあって、カザノヴァのアナグラムなどを見ると、何とか自分の手で解いてみたいと思う。我ながらバカげた願いだが。

 「映画ファン」の萩谷さんに、原稿、書評2本をわたす。萩谷さんは、大学に在学中、「近代映画社」でアルバイトをしていたが、卒業後そのまま編集者として残った。おとなしい才媛といった感じ。映画ジャ−ナリストなのに、仕事が忙しくて、あまり映画を見る暇がないという。中田先生は、作家として小説を書きながら、芝居を見たり、コンサ−トに行ったり、映画の批評を書いたりして、多方面で仕事をなさっていますね。どうすれば、そんなふうに活動できるんですか。
 こういう質問にどう答えればいいのか。返事ができなかった。

 夜、「無法松の一生」(稲垣 浩監督)を見た。板東 妻三郎。
 戦争中に見たこともあって、この映画を見ているうちに、園井 恵子が広島で被爆して亡くなったことを思い出した。そして、丸山 定夫も。

2018/07/02(Mon)  1757 〈1977年日記 4〉
 
                1977年5月5日(日)

 午前中に、「ミセス日本・美人コンテスト」というプログラムを見た。
 審査員は、高峰 三枝子、和田 静郎、神和住 純、沖 雅也など。
 美人がつぎつぎに出てくる。どこのコンテストでも優勝圏内に入るような美女ばかり。そういう美女たちが篩にかけられて、最終審査に残ったのは7人。いずれ劣らぬ美女ばかりで、最後の最後に優勝したミセスは、感激のあまり涙にくれていた。
外国のコンテストなら、優勝したミセスは、満面に笑みをうかべて投げキッスでもするところだが。
 司会は、女優のT・T。
 あきらかにミスキャスト。こういうコンテストをうまくとりしきって、場内の雰囲気を盛りあげたり、出場者の緊張をほぐしたり、あるいは、それぞれのミセスの美しさをたたえたりするのは、司会者の洗練されたことばやしぐさではないだろうか。ところが、T・Tの要領のわるいこと。
 せっかく、すばらしいコンテストの司会を引き受けたのだから、コンテスタントを褒めたたえながら、あわせて自分の美しさもアピ−ルすればいいのに、ひたすら凡庸なコメントを並べるだけ。あきれた。
 日本の女優は、あらかじめ、きめられたセリフをしゃべるしか能がないのか。それとも、はじめからそういう「演出」だったのか。


                1977年5月6日(月)

 今日から、地下鉄、タクシ−などが値上げになる。私のように、いろいろ飛びまわっているもの書きにはかなり影響があるだろう。
 景気の回復はまだはっきりした形をとらない。というより、庶民はたえず不況の影におびえながら生活して行くしかないのだろう。
 成田空港の反対同盟の鉄塔が倒された。

 夜、ルネ・クレマンの「危険がいっぱい」(The Love Cage/1964年)を見た。アラン・ドロンは29歳。共演のジェ−ン・フォンダが美しい。父がすぐれた俳優だったため、少女時代から父に対してひそかに対抗意識をもっていたらしい。ジェ−ンが勝気なお嬢さんといった役を演じると、内面のはげしさがむき出しになる。ヘンリ−は――「見せかけの権威のみか、理性もおれを裏切り、おれには娘があると、ただそう思い込んでいただけのことかも知れぬ」と「リヤ王」のようにつぶやいたかも知れない。

 いつか、ジェ−ン・フォンダについて書いてみたい。書いたところで何もつかみとれないかも知れないが。

2018/06/30(Sat)  1756 〈1977年日記 3〉

                1977年5月4日(土)

 朝、「サンケイ」の原稿を書く。
 ジョルジュ・シメノンが、12歳のときから、実に1万人の女性と関係したと語ったことに関して、作家とエロスの問題を考える。

 シメノンが作家をめざして、作家になれたのは、1万人の女性と関係したからなのか。いいかえれば、1万人の女性と関係すれば、人は作家になれるだろうか。そんなことはあり得ない。シメノンは、12歳のときから、1万人の女性と関係したといいきれることこそ、彼が作家である証明なのだ。
 シメノンと反対に、妻以外の女性をまったく知らない人が、すぐれた作家になった例を私は知っている。問題は、関係した女性の数とか量にあるのではない。

 正午少し前、「サンケイ」佐藤さんに原稿をわたす。文化部は3階に移っていた。
 12時15分、「日経」に行く。吉沢君の机を占領して、すぐに映画評を書きはじめた。私は各社の試写を見たあとすぐに吉沢君の机で映画評を書くことが多いのだが、私以外にこんなことをする作家はいないらしい。ほかの記者たちも、ときどき話しかけてくる。私は、新聞社の現場の雰囲気が好きなのだ。
 私にはコラムニストとしての素質があるのかも知れない。こういう現場にいると短いコラムならいくらでも書けそうな気がする。
 「華麗な関係」(ナタリ−・ドロン、シルヴィア・クリステル)、「ビリ−・ジョ−愛のかけ橋」(ロビ−・ベンソン、グリニス・オコナ−)、「合衆国最後の日」(バ−ト・ランカスタ−、リチャ−ド・ウイドマ−ク)について。
 とりあえず吉沢君に原稿をわたして、「日経」のレストランに移る。いい気分だった。遅い食事をとりながら、「週刊小説」の原稿を。冷えたコ−ヒ−を飲みながら、アナイス・ニンの「デルタ・オヴ・ヴイ−ナス」の紹介を書く。
 3時半、神田に出て、「南窓社」の岸村さんと会う。このところ話しあってきた「アメリカ作家論」の出版をきめる。刊行は、10月1日の予定。岸村さんも喜んでくれた。
 せっかく神保町に出てきたのだから、本をあさった。「北沢」で、思いがけない掘り出しもの。長いあいだ書きたいと思ってきた評伝の資料。読んでみなければわからないが、この本を見つけた瞬間、猟師が獲物をしとめたような、手ごたえを感じた。へんな話だが、こういう直感めいたものを私は信じている。
 私の原稿を入校した吉沢君が銀座に出るというので、私も同行する。吉沢君と本の話をしているところに、長谷川君(二見書房)、萩谷君(映画ファン)がきた。長谷川君にわたす原稿がない。申しわけないが締切りを延ばしてもらう。そこへ、「富士映画」の下川君がきた。7月封切りの映画、「遠すぎた橋」の宣伝で吉沢君の協力をもとめる。各国のスタ−が十数人も出る大作とかで、製作費、90億。6月7日にジャ−ナリスト試写の予定。

 吉沢君といっしょに「ガスホ−ル」に行く。スペイン映画、「ザ・チャイルド」の試写。
 冒頭、第2次大戦中のユダヤ人虐殺、ビアフラ内戦、ヴェトナム戦争、バングラデシュなどで子どもたちが飢えや病気で死んだり、瀕死の状態に苦しむカットがつづく。おやおや、戦争や破壊、飢餓で犠牲になるのはいつも子どもたちという主題で、そういう「現実」を描いた映画なのかと思ったが、まるで違っていた。
 若いイギリス人夫妻(妻は妊娠している)がスペイン観光旅行で、アルマンソ−レ島を訪れる。ところが、この島には大人が一人もいない。子どもたちは町の住民を殺し、観光客たちを殺した。夫妻は、自分たちが子どもたちに狙われていることに気がつく。……
 原題は Who Can Kill A Child で、これは逆説的。この映画が何を寓意しているか、少しわかりにくい。気をつけて見れば、スペインがつい昨日まで体験してきたフランコ体制を意識しているようにも見える。かなり興味深い映画で、「熱愛」につづくスペイン映画として記憶しておきたい。

2018/06/29(Fri)  1755 〈1977年日記 2〉
 
                1977年5月3日(金)

 しかし、人間が人間のぎりぎりの底に達することはついにあり得ない。人間は、自分自身の姿を、おのれの獲得する認識のひろがりのうちに見出すのではない。
 何かで読んだこのことばは私をおびえさせる。

 竹内 紀吉君から電話。上野に出てこられないかという。竹内君がこういうかたちで私を誘ってくれるのはめずらしいので、一瞬、仕事を投げ出してでかけようと思った。しかし、この原稿を片付けなければ動けない。残念。
 午後、デュヴィヴィエの「舞踏会の手帳」(3チャンネル)を見る。これで十数回は見たことになる。それでもいろいろな「発見」があった。今回は、とくにトリビアルな部分に注意をむけたせいだろうか。
 映画は――「クリスティ−ヌ」(マリ−・ベル)が北イタリアの古城のような邸に戻ってくるところからはじまっている。彼女が舞踏会にはじめて出たのが16歳、1919年6月18日。映画の最初のエピソ−ド(フランソワ−ズ・ロゼェ主演)の「ジョルジュ」は、「クリスティ−ヌ」の婚約を知って自殺するが、それが1919年12月14日。室内のカレンダ−はなぜか12月19日になっている。はじめてロゼェの演技を見たときは鬼気迫るものに思ったが、しばらく前に見たときには、あまり感心しなかった。今回見た印象は、ロゼェらしいブ−ルヴァルディエな演技だと思った。
 ジュヴェのエピソ−ドがつづく。オ−プニングはジャズ。3人の悪党が、ナイトクラブの支配人、「ジョ−」(ルイ・ジュヴェ)の部屋に入ってくる。頭株がアルフレ・アダム。(数年後に、「シルヴィ−と幽霊」という戯曲を書く。)この部屋で、「ジョ−」は子分たちに指示をあたえる。背景にポスタ−や写真が貼ってある。ジョゼフィ−ン・ベイカ−のポスタ−、ダニエル・ダリュ−の写真があった。驚いたのは、そのポスタ−の横に、ヴァランティ−ヌ・テッシェの写真があったこと。そして、机のなかに、ヌ−ド写真が入っていた。
 3つ目のエピソ−ドは、音楽家だった「アラン」(アリ・ボ−ル)が、「クリスティ−ヌ」に失恋し、息子を失ったあと、神に仕え、いまは「ドミニック神父」になっている。これは雨の日。
 4つ目の「エリック」(ピエ−ル・リシャ−ル・ウィルム)のエピソ−ドで気がついたのは、「エリック」が「クリスティ−ヌ」をつれて山小屋に向かおうとするとき、スキ−のストックで高山をさし、あれがモン・ペルデュだという。直訳すれば「失われた山」ということになる。こんなところにも意味があったと気がついた。
 5つ目の「町長」(レイミュ)の場面は、南フランスの喜劇と見ていいが、町の名前が出ている。前のエピソ−ドが冬山なので、コントラストとして夏という設定にしたのか。
 6つ目、「ティエリ」(ピエ−ル・ブランシャ−ル)のシ−ンは、ほとんど全部のシ−ン、カメラを斜めに撮影しているようだが、じつはそうではなかった。「クリスティ−ヌ」を非合法に人工中絶を受けようとする上流夫人と見て、「ティエリ」が「サイゴンでおめにかかりましたね」という。「ティエリ」の妻(シルヴィ−)は、「サイゴンでは別荘もありましたよ」というセリフをくり返す。「ティエリ」は「妻」を殺す。この構図は「望郷」の密告者殺しのシ−ンとおなじ演出と見ていい。

 この映画の上映時間は144分。戦後の「巴里の空の下セ−ヌは流れる」の、112分と較べてずっと長尺だった。オ−プニング(友人にすすめられて「クリスティ−ヌ」が舞踏会の「手帳」の人々の再訪を決心するまで)が15分ある。
 ジュヴェのエピソ−ドが8分程度。アリ・ボ−ルのエピソ−ドが10分。ピエ−ル・リシャ−ル・ウィルムのエピソ−ドは7分。ピエ−ル・ブランシャ−ルのエピソ−ドが10分。

 「クリスティ−ヌ」は最後に古城に戻るが、「ジェラ−ル」が湖の対岸に住んでいたことを知って、その遺児、「ジャック」(ロベ−ル・リナン)と会う。その「ジャック」をはじめての舞踏会につれて行くエンディングが5分。

 この映画を見るたびに、どういうものか私自身の青春を思い出す。
 デュヴィヴィエの「望郷」と「舞踏会の手帳」は、私の青春と切り離せない。いまからみれば、甘い、感傷的な作品に違いないが。
 なつかしい名優たち。ロゼェも、ジュヴェも、ピエ−ル・ブランシャ−ルも、みんな鬼籍に入っている。アリ・ボ−ルは44年にナチの強制収容所で亡くなったし、ロベ−ル・リナンは、反ナチ抵抗派として銃殺された。マリ−・ベルも死んだのか。

 夜、原稿(7枚)を書く。9時55分、微震。

2018/06/28(Thu)  1754 〈1977年日記 1〉
 
             1977年5月1日(水)

 久しぶりに山登り。まだ完全に復調したわけではないので、奥多摩の楽なハイキングコ−スを選んだ。
 午前8時、新宿駅。いつものように、10番線。吉沢(正英)、安東つとむ、由利子、工藤、Y.T.中村、鈴木のほかに、あたらしいメンバ−として、桜木三郎、飯田、坂牧、島崎、下沢たちが参加した。
 この顔ぶれを見て、安東、吉沢君とコ−スをきめる。わずか30秒。久しぶりの登山なのだから、もう少しむずかしいコ−スを選んでもいいけれど、はじめての人もいるのだから、初心者コ−スを選ぶことにした。
 安東、吉沢のふたりはベテランなので、私が「棒ノ嶺」といっただけで、すぐにこのコ−スを選んだ理由や、下山のコ−ス、全体の所要時間も了解する。日頃から私のメソッドを知っているので何も指示する必要はない。
 まず御嶽をめざす。よく晴れているので、はじめて山に登るメンバ−も、うきうきしている。
 怱岳から棒ノ嶺。Y.T.が疲労しなければいいのだが。
 夕暮れ、名栗に下りて、ビ−ル、ラ−メン。
 帰京、8時30分。
 久しぶりのハイキングだったので、この程度のコ−スなのに疲労をおぼえたが、私の内部には、いちおう満足できた、私なりの感情の昂揚があった。


               1977年5月2日(木)

 眼がさめた。熟睡したあとの爽やかな気分。疲れはとれていた。時計を見ると、6時過ぎ。

 午前中から、電話が多い。長谷川君(二見書房)、萩原君(牧神社)、萩谷君(映画ファン)など。岸村さん(南窓社)に、会う日時を変更してもらう。
 今日、読んだもの。植草 甚一さんの「J.J氏の男子専科」。虫明 亜呂無の解説。中村 光夫の「雲をたがやす男」。「七七年 推理小説代表作選集」、斉藤 栄の「河童殺人事件」。
 ヘラルドで「テンタクルズ」(オリヴァ−・ヘルマン監督)の特別試写。
 こんな映画に、ヘンリ−・フォンダが出ている。ときどき、驚くようなことがある。「センチネル」を見たときは、エヴァ・ガ−ドナ−と、ア−サ−・ケネデイ−が出ていた。

 夜、チャプリンの「独裁者」を見た。これで3度目。私は、チャプリンの徹底した反ファシズムの姿勢に敬意をもっているが、純粋に映画として見た場合、チャプリンはこの映画あたりから衰退を見せていると思う。ただし、誰もそんなことをいわない。

2018/06/26(Tue)  1753
 
 本もあまり読まなくなっている。
 しばらく前に鈴木 彩織が贈ってくれたアマンダ・リンドハウトの「人質460日」を読み直した。2008年、ソマリアで、イスラムの武装グループに誘拐されたカナダの女性ジャーナリストの手記。なまなかな小説よりも、はるかに迫力のあるドキュメント。武装グループは莫大な身代金を要求するが、カナダ政府は救出にうごかない。アマンダの家族たちは資金調達のために必死に動く。

 アマンダは、低劣で、野卑なイスラム過激派に監禁され、拷問され、女性として最大の苦痛を強いられる。監視にあたった無知な少年たちにレイプされつづける。救出されたあと、PTSD(ストレス障害)の治療を受けて少しづつ回復して行くが、自分を庇おうとしてくれた無名のイスラム女性を思い起こしてイスラムを許す心境になる。

 鈴木 彩織は「あとがき」で――
 「怒りや憎しみを乗り越えようと決意した彼女がたどり着いた境地には、わたしたちを瞠目させ、争いが絶えない世界にも希望はあるのかもしれないと感じさせる光がある。」
 という。
 私は、鈴木 彩織に深い敬意をおぼえるが、日本のジャーナリストが、シリアで「イスラム国」に拘束され、処刑されたことを忘れない。この後藤 健二さんが「文芸家協会」の一員と知って、イスラム過激派に憎悪をおぼえた。
 私は――どれほど崇高な理念があろうと、宗教、政治の名のもとに行われる拉致、誘拐、拷問、そして惨殺死体の状況をネットに流すような行動を許さない。

 私が忌みきらう人たち。現代史にその名を刻まれている「偉人」たち。

 たとえば、スタ−リン。ポル・ポト。チャウシェスク。ホ−ネッカ−。こうした人々の名をあげて行けばきりがない。ときどきこうした小さな独裁者たちの末路を思い出す。

2018/06/24(Sun)  1752
 
 秋晴れ。ふと、昨年の出来事が胸をかすめる。

 私の家にはネコのひたいほどの庭がある。
 そんな庭にしては、いささか場違いな大きさの菩提樹が一本植えてあった。
 イタリアからひろってきた小さなタネを、帰国後に、ちいさな鉢に植えたところ、思いがけず小さな芽を出した。少し大きくなったところで、庭に植え直した。

 やがて、この木はわが家の庭に威容をほこる大きさになった。そのまま伸ばせば、かなり高くなったにちがいない。しかし、都会のまんなかで、数十メートルの高さの樹木にすることができるはずもない。毎年、植木職人にきてもらって上に伸びる枝をおさえた。
 ヴィラ・ボルゲ−ゼからひろってきたので、この樹を見ていると、イタリアの思い出に重なって、いろいろなことを考えたものだった。

 数年前、この木に大きなサルノコシカケが生えてきた。別に不思議なことではない。
 やがて、幅が15センチほど、長さが25センチほどの、堂々たるキノコになったが、木の幹におおきなクロワッサンがしがみついているようだった。

 何年にもわたってそのまま放置しておいたのだが、サルノコシカケができた頃から、菩提樹の幹の内部に少しずつ空洞ができてきたらしい。この木は風雨にさらされつづけた。やがて幹の樹皮がすこしづつ破れ、老いぼれた姿をさらしはじめた。
 さらに数年たって、手でふれるだけで、樹皮が幹からはがれるようになった。

 やがて、われとわが身をささえきれなくなって、いつ倒れるかわからない状態になった。

 「旦那、これは切ったほうがいいよ」
 植木職人のオジサンがいった。
 ある日、日曜日だったが、朝から植木屋が入った。1本の菩提樹を切り倒す作業だが、軽トラックではなく、起重機を乗せた2トン・トラックで、職人が4人がかりで作業にかかった。
 まず、大きくひろがった枝を切り落とし、太い幹をいくつかに分けて切ってから、最後に根元から斜めに切った。わずか1本の木なのに、作業は夕方までかかった。
 空がきゅうにひろくなったようだった。

 いままでそこにあったものが、きゅうになくなった。
 かつての日々、活気にみちあふれていた。毎年、あたらしい芽が根元からわかわかしい枝をまっすぐ伸ばしてきた。切っても切っても出てくるのだった。ところが、その樹木が、まるではじめからそこにはなかったかのように消えてしまった。
 そこにあるべきものが、なくなってしまったのが、自分でも納得できないようだった。
 切り株を見ているだけで、私にとってのイタリアが永遠にカラッポなものになってしまったような、喪失感のようなものをおぼえた。
 こんな些細な出来事のあと、私は何も書く気がなくなった。自分でも思いがけないことで、このブログを書くのを一時やめたのだった。

2018/06/18(Mon)  1751
 
 昨年からしばらく、休筆をつづけていた。友人に手紙も書かなかったし、ブログさえ書く気が起きなかった。
 「孤独に耐えて生きて行く」といった、しっかりした信念があったわけではなくて、ただ、何もする気がなく、本を読んだり、昔見た映画を見直したり。
 ようするに、毎日、無為に過ごしていたのだった。

 私がブログを書かなくなったのは――悼亡、喪に服しているために書かなくなったわけではなく、そもそも書こうという意欲が消えたからだった。親しい知人たちも、そんな私の状況を察して、暑中見舞いも遠慮しているようだった。
 中には、私の沈黙を心配して、手紙で「しゃきっとしなければと」と忠告してくれた人もいる。そうしたことばをありがたく頂戴しながら、毎日、無為に過ごしていた。
 そして、11月、私を励ます意味で、これまで私をささえてくれた人びと、少数だが、私の「現在」に期待してくれている人びとが集まってくれた。私は、これでなんとか元気になれたような気がする。

 何かを書こうという気力がなくなったことは事実だが、それと同時に、記憶力がひどく衰えたような気がする。(あるいは、それが原因かも?)
 よく知っているはずの人名が出てこない。

 知っている漢字が書けない。

 ここまでくると、私の記憶喪失は、サフランでも飲まなければいけないかも。
 高齢で、血液や尿のAGE濃度が高い人は、脳の認知機能の喪失がだんだん加速化するおそれがある。さらには、アルツハイマ−病の患者たちの脳内もAGEが高いことが多い、そうな。(ついでに言及するのだが、神崎 朗子の訳は名訳だった。)

    マイケル・グレガ−著、神崎 朗子訳
   「食事のせいで、死なないために」(病気別編)
    NHK出版 2017.8.25刊 P.125

 このブログは、忘れたことを思い出して書くことにしよう。あるいは、何かを忘れる前に、書きとめておくことにするか。

2018/06/07(Thu)  1750 原 民喜 (6)
 
 竹原 陽子さんは、私と会ってから、私の旧作、「おお 季節よ 城よ」を読んでくださった。私が、自作のなかで、原 民喜についてふれていると知ったからだった。私としては、ただ恐縮するばかりだが、竹原さんはわざわざ古書を探してくださったという。そして入手なさった本に新聞の切り抜きが入っていたという。前の持ち主が、私の本を読んで、たまたま関連する新聞記事を見つけたものらしい。
 私は、自作の書評など気にしたこともない。ところが、竹原さんのお手紙を拝見して、少し気になったので、できればコピ−をお送り願えないだろうか、と電話した。
 竹原さんはその記事を送ってくださった。

    戦中から戦後にかけての、多彩な女性たちとの出会いと別れを赤裸々に回想した
    自伝的小説である。戦争中、文科の学生だった著者は、勤労動員で埼玉県の農家
    に手伝いに行き、少女に誘われて初めて女を知り、現実の衝撃に言いようのない
    不安を覚える。
    戦争が終わり、飢えと混乱の中での生活が始まる。貪欲(どんよく)に本を買い
    あさり、映画やレコ−ドに新しい時代の息吹を吸収する著者。その一方で、行き
    ずりの女、娼婦、女優などとのかかわり、大切なのは欲望であって所有ではない、
    という人生観がこうした体験から生まれてくる。熱き時代の生がリアルに再現
    されている。(オ−ル出版・一、五〇〇円)

 書評というほどの内容ではない。せいぜい新刊紹介といった記事だが、鉛筆で、日時がメモしてあった。竹原さんは、平成2年11月18日、「日経」の文化面に出たと推測している。
 「おお 季節よ 城よ」は、平成2年9月15日/刊行なので、出版されて2か月後に、この新刊紹介が出たことになる。その読者が、たまたまこの記事を切り抜いて、本に挟んでおいたものだろうか。私は、そのことに感動した。私の作品を読んでくれた読者がいる、それはそれでうれしいことだったが、私が感動したのはもう少し違うことの「発見」にあった。

 じつに28年後に、著者としての私が読んだこの短い記事は、私にとっては貴重なものになった。
 竹原 陽子さんの推測通り、「日経」(平成2年11月18日)の記事なのだが、この記事を書いた記者は、当時、「日経」の文化部にいた吉沢 正英に違いない。
 私はこの記事を目にしてしばらくは声を失った。

 私は、かなり長期間、「日経」の映画批評を担当していた。私のコラムを担当してくれたのが吉沢 正英君だった。
 私のコラムはゆうに100本を越えたはずで、一部では注目されたと思われる。吉沢君と私は、ただの執筆者と編集者という関係から始まったが、やがてお互いに登山に熱中していることがわかって、いっしょに山に登るようになった。
 私は、けっこう多忙だった。もの書きとして原稿を書きながら、大学で講義をつづけていた。その間に、映画の試写室を飛びまわったり、芝居小屋通いもあって、毎週、登山をするスケデュ−ルは立てられなかったが、2週間に1度は天候のいかんにかかわらず登山するときめていた。
 吉沢君と新宿駅で落ち合う。プラットフォ−ムの立ち話でその日のコ−スを決める。いわゆるカモシカ山行なので、ふつうの登山者に会わないコ−スばかり。いざとなったら、ツェルト頼りにビバ−ク・野宿はもとより覚悟。豪雨・豪雪でも、ひたすら歩く。帰りは、麓のどこかで一杯やるか、鄙びた店で一膳メシにありつく。できれば、鄙びた温泉で汗を流して、夜ふけの田舎道を鉄道の駅まで。
 そんな登山をつづけた。やがて、登山のグル−プができたが、いっしょに行きたい希望者がいれば、その人のレベルにあわせて、北アルプス、南アルプスから、秩父、高尾まで。お互いひねくれ者なので有名な山はなるべく避けて、あまり知られていないが、地図に破線もなくて、実際にはけっこうむずかしい山に登ったり。

 吉沢君は沢登りが好きで、むずかしい沢を見つけると、自分ひとりの山行で何度も通って、いろいろなヴァリエ−ション・ル−トをたどるのだった。
 吉沢 正英は私の親友のひとりになった。

 今年の1月24日、群馬県の草津白根山が噴火して、火口に近いスキ−場で、訓練していた陸軍の兵士1人が噴石に当たって死亡した。ほかの隊員7名、スキ−客4名が負傷。ロ−プウェイの山頂駅付近に、一時、80名がとり残され、自衛隊、警察などによって救助された。そんな記事を読んだとき、私はすぐに吉沢君を思い出した。
 私は吉沢君といっしょに、夏の草津白根を縦走したことがあったが、ちょうどこの噴火した火口近くでバテた。すっかり疲労して山頂にたどりついた。吉沢君は、あまり疲れたようすも見せなかった。
 しばらくして、この山で、火山性の有毒ガスのため、登山者が落命する事故が起きたことを思い出す。

 吉沢君の記事を見たとき――なぜか、原 民喜、加藤 道夫、江藤 淳、それぞれ特別な死を選んだ人たちのことを思い出した。さらには山川 方夫、田久保 英夫、桂 芳久たちのことが走馬灯のように頭をかすめた。吉沢君が慶応出身だったせいだろうか。

 何事も宿世(すくせ)の因縁なりかし、と悟りすました顔をするわけではないが、竹原 陽子さんからお手紙をいただいて、いろいろな人のことを思い出すことができた。

 あれから数十年、もはや老いさらばえた私の肩にも、原 民喜がそっと手を置いてくれた重みが残っている。

2018/06/06(Wed)  1749 原 民喜 (5)
 
竹原 陽子さんのおかげで――またしても別のことを思い出した。

 これまた野木 京子さん、竹原 陽子さんの来訪を受けたからこそ思い出したのだが、これまたザンキの念がからみついている。

 ある日、原 民喜から、ある本の書評を依頼されたのだった。西脇 順三郎が、戦後はじめて出版したもので、内容は古代ユダヤ思想史といったものだった。
 原 民喜は慶応の英文科で、西脇 順三郎の薫陶を受けている。恩師が「戦後」最初に出した著作を書評でとりあげるのは、「三田文学」の編集者としては当然だったに違いない。問題は、別のことにある。なぜ、私に書評を依頼してきたのか。
 この本はたいへんに難しい内容で、かけ出しの私などが書評できるはずもないものだった。
 書評はわずか数枚だが、どうして私ふぜいを選んだのだろうか。そんな疑問は私から離れなかったのだが、これがきっかけでユダヤに関する資料を読みはじめたのだった。読めば読むほど、私の手にあまるものと思い知った。

 ついに書評の締切りを延期してもらった。そして、私がぐずぐずしているうちに、原さんが亡くなったのだった。
 この失態は、私の内面にいいわけできない重さとして残った。
 野木さん、竹原さんの来訪のおかげで、原さん、若杉さん、そして西脇 順三郎のことまで思い出すことができた。
 おふたりに心から、お礼を申しあげたい。

2018/06/03(Sun)  1748 原 民喜 (4)
 
 1951年(昭和26年)3月16日、佐々木 基一の自宅で、原 民喜の葬儀が行われた。
 当時、私は、肺結核にかかっていた。毎日、寝たり起きたりの生活だったが、この葬儀に列席するため、阿佐ヶ谷にむかった。
 私が、佐々木さんのお宅に向かって歩いていたときのことも、『おお季節よ 城よ』のなかに書きとめておいた。

   原の葬儀に出るために、阿佐ヶ谷の駅からぼんやり歩いていたとき、前方からきた
   若杉 彗(作家)が私の数歩前で立ちどまって帽子をとり、
   「このたびは原君がほんとうに不幸なことになりました」
   と丁寧に挨拶した。それまで若杉 彗と言葉をかわしたこともなかった。こちらが
   まるっきり無名に近い存在なので、若杉 彗が私を誰か別人と見間違えたのではな
   いかとも思った。それとも私を「近代文学」の同人と知っていて挨拶してくれたの
   だろうか。私は深く頭をさげた。言葉は出なかった。ずっと年長の若杉 彗がわざ
   わざ挨拶してくれたことに感動したのだった。 (「冬にしあらば」)

 原の葬儀では、柴田 錬三郎、埴谷 雄高が弔辞をささげ、藤島 于内が、原さんの詩を朗読した。私は、佐々木さんのお宅の前の路地に立って、ひそかに涙を流した。

 原 民喜の葬儀の日、作家の若杉 彗がわざわざ私に挨拶してくれた理由は、このときから私にとっては不明のままだった。

 私は若杉 彗と直接面識がなかった。私のめざしていた方向とは、全く無縁の作家だったから、若杉さんと会う機会もないまま、原 民喜の葬儀の日、この作家が私に挨拶してくれたこともいつしか忘れてしまった。

 これも数十年という歳月をへだてて、野木 京子さん、竹原 陽子さんの来訪を受けた。おふたりと別れたあと、あの原 民喜の葬儀の日、若杉 彗がわざわざ私に挨拶してくれた理由を考えてみた。
 そして、何か思い出すかも知れないと思って古い写真を探してみた。

 なにしろ古い話である。1949年(昭和24年)頃、私は埼玉県大宮市に住んでいた。
 当時、1948年(昭和23年)頃、埼玉県の文化行政の部門が県内の文化人を集めて、懇親会のような行事をもったことがあった。ほとんど無名にひとしい私が招かれた理由は知らない。
 この集まりに埼玉在住の文化人が多数出席したが、県庁側から、20代の若い女性が派遣されて、いろいろと対応してくれた。のちに歌人として知られる大西 民子女史だった。
 このときの記念写真が出てきた。

 いちばん若輩だった私は、埼玉県在住の文化人とはまったく交流がなかった。この席で、私に声をかけてくれたのは、詩人の秋谷 豊さんだった。その後も、秋谷さんは若輩の私に何度か手紙をくれたことがある。
 この集まりで、大西さんは作家の竹森 一男さんを紹介してくれた。大西さんが若杉さんに紹介してくださったのではなかったか。失礼な話だが、当時の私は竹森さんの作品も若杉さんの作品も読んだことはなかった。なにしろ、頭のなかに、ドストエフスキ−、ジッド、ヴァレリ−しかなかった。はじめから、文壇などとまったく関係がないまま、もの書きになろうとしていた青二才にすぎなかった。

 私は、若杉さんがどういう作家なのか知らないまま、ありきたりの挨拶を述べただけだったはずで、それ以後もまったく交渉がなかった。(後年、若杉さんは「エデンの海」を書いてベストセラ−作家になる。)しかし、若杉さんのほうは、若輩の私をおぼえていてくださったのだろう。
 このときの記念写真を見つけた。数十名の列席者が並んでいるなかに、若杉さんの姿があった。私は、場違いな催しにまぎれ込んでしまったピエロといった恰好で、大西 民子女史の近くに立っている。

 これではっきりした。
 若き日の私が、若杉さんと面識があったということ。原 民喜の葬儀の日に、若杉さんは、トボトボと歩いている私を見て、声をかけてくださったに違いない。
 この日の若杉さんの礼節は、私には忘れられないものになった。その後、私は、知遇を得た作家、批評家たちの葬儀に出て、面識のある人に会ったときは、かならずこちらから挨拶するようにつとめた。これも若杉さんから教えていただいたことだった。

2018/05/29(Tue)  1747 原 民喜 (3)
 
 映画、「微塵光 原民喜の世界」(宮岡 秀行監督)のなかで、私はつぎのようにしゃべっている。(野木 京子・採録)

   広い部屋でね、三十人ほどの人が談笑なさっていたんですけれども、会の途中、も
   うそろそろおしまいになるかなという頃に、部屋の隅にいらした原さんがおひとり
   でね、他の人はだいたい椅子に座ってお話をなさったり、ケ−キとかティ−とかを
   召し上がっていたんだけれども、原さんおひとりが立っていらして、それで、私か
   ら見て右手の列のテ−ブルの後ろをゆっくりお歩きになって、それでどなたかの後
   ろに立たれたんですね。本来そこはね、僕はいま考えると、遠藤 周作がね、いつ
   も座る席だったような気がする。(中略)それでどなたかの後ろに立たれて、肩に
   ね、両手を置かれるんですね。そうすると、なんていいますかね、大人がね、赤ん坊
   をあやすような恰好になるわけです。それで、私は、おお、原さんはそういう形で
   ね、なんというか、親しみを表していらっしゃるのかなあと思って、そのときはで
   すよ、瞬間的に思っただけなんだけれども。それは、私は内村(直也)さんとお話
   をしていたときに、いつの間にか私の後ろに立たれて、それで同じように、両手を
   私の肩にそっ−と置かれるんですね。わたくしは普段そういうことをされたことが
   (ないので)、おや、どうしたのかな、と思ったぐらいで、それもすぐ離れるんじゃなくて、ど
   のくらいですかね、たぶん五分ぐらいはね、だから随分そういう時間としては長い
   んですね、私の肩に両手を置かれて、それで私自身は途中から不思議なことをする
方だなと思いました。(中略)
   すっとまた私から離れて、私の左前のかなり、(中略)十人くらいおいたところに
   いた詩人のね、藤島宇内(うだい)という詩人がおりましたけれども、藤島の後ろ
   に立たれて、また同じように両手でね、肩を撫でるんじゃなくて、肩に両手をほん
   とうに添える感じで置かれてたんですね。私は、原さんが藤島とね、特にお親しい
   のかなという気もしたけれど、同時に、ああいう形で親愛の情をお示しになるとい
   うのは不思議だなあという気がしました。そのときはね、そのまま終わりましたけ
   れども、程なくして原さんの訃を知りまして……

 それから一週間か十日のちに、原 民喜は自殺している。

 あれから数十年、もはや老いさらばえた私の肩にも、原 民喜がそっと手を置いてくれた感触が残っているような気がする。

2018/05/27(Sun)  1746 原 民喜 (2)
 
 これもまたザンキの至りだが、私は、自作、「おお季節よ 城よ」のなかで、原 民喜についてふれている。

 原さんが自殺する十日ばかり前に、「三田文学」の集まりがあって、この席で、私は原 民喜に会っている。(「おお季節よ 城よ」のなかでは、「三週間ばかり前に」原 民喜に会っている、と書いているが、今回、竹原さんの「年譜」を拝見して、私が原 民喜に最後に会ったのは原さんが自殺する十日ばかり前だったと思うようになった。)

 この集まりの出席者は、慶応出身の文学者ばかりだった。
 私は慶応出身ではなかったが、内村 直也、遠藤 周作と親しかったおかげで、「三田文学」の集まりによく出席していた。出席者はいつも30人から40人、いずれも名だたる作家、評論家が多かったが、とてもいい雰囲気で、私のような「よそもの」も肩身の狭い思いをしないですんだ。
 堅苦しい集まりではなく、各自が自由にテ−ブルを移って、それぞれが小さなグル−プに分かれて語りあう明るい雰囲気の集まりだった。
 ふと、気がついたのだが、原さんが片隅にいた誰かの後ろに立って、その両肩に手をおいていた。(原さんが誰の肩に手を置いたのか、おぼえていない。)

    やがて、めいめいがテ−ブルから離れて、小さなグル−プに別れはじめたが、そ
    れまで片隅にいた原 民喜がいつの間にか私のところに寄ってきた。そのまま黙
    って私の左の肩に手をかけた。
    原 民喜は寡黙というより失語症と言ったほうが適切なほど無口で、こうした集
    まりでも人の話を黙って聞いているだけだった。私が眼をあげたとき、原は私の
    顔を見ずにそのまま私の左の肩にそっと手を置いていた。不思議なことをするな
    あ、と私は思った。ことさら私に用事があるふうでもなかった。ただ黙って私のう
    しろにきて、肩に手をかけて、私が近くにいた誰かと話をしているのを聞いてい
    るだけだった。

原さんが私の肩に手をかけていたのは、ほんの三、四分だったに違いない。そのまますっと離れると、七、八人おいて、別のテ−ブルにいた誰かの後ろに立った。
 やはり、静かに両手をその肩にそっと乗せているのだった。

 その人は詩人の藤島 宇内だった。

2018/05/25(Fri)  1745 原 民喜 (1)
 
 思いがけない人の来訪をうけた。

 詩人の野木 京子さん、そして広島在住の竹原 陽子さんのおふたり。

 野木 京子さんは、「H氏賞」を受けた詩人で、原 民喜に関するエッセイを書いているひと。私のクラスにいて、しばらく勉強なさった。
 竹原 陽子さんは、「原民喜 全詩集」(岩波文庫)に、綿密、詳細な原民喜略年譜を作成している研究家である。
 おふたりとも熱心な原 民喜研究家なので、私が生前の原 民喜と面識があったため、何か原 民喜にかかわりのある話でもあれば聞きたいということだった。
 私の話など、原 民喜研究に役立つとも思えないのだが、できればおふたりの熱意に応えたいと思った。

 まず、原 民喜の経歴を説明しておこう。

    1905年(明治38年)、広島に生まれた。詩人、作家。
    1932年(昭和7年)、慶応大英文卒。
    1933年(昭和8年)、永井 貞恵と結婚した。「戦後」、評論家として知ら
    れる佐々木 基一の姉にあたる。永井 貞恵は1944年(昭和19年)、肺結
    核が悪化して亡くなった。
    翌年、1945年(昭和20年)8月、広島で原爆被災。この体験が「夏の花」
    に描かれている。
    1951年(昭和26年)3月13日、自殺した。享年、45歳。

 彼の「墓碑銘」を引用しておこう。

         遠き日の石に刻み
             砂に影おち
         崩れ墜つ 天地のまなか
         一輪の花の幻

 私は広島に行ったときこの「墓碑銘」を前にして、在りし日の原さんを偲んだことがあった。大きな記念碑が立ち並ぶなかに、ひどく小ぶりな「墓碑」は詩人の声を私たちにつたえている。

 野木 京子さん、竹原 陽子さんの来訪については、もう少し説明が必要かも知れない。
 じつは、昨年、「微塵光 原民喜の世界」(宮岡 秀行監督)というドキュメンタリ映画が制作されたが、その映画の中で、私も原 民喜の思い出を語っている。(2017年5月・公開)
 このドキュメンタリをごらんになった竹原さんは、旧知の野木 京子さんを介して、私に連絡なさったのだった。

若い頃の私は、原 民喜が編集していた「三田文学」に原稿を書くことが多かった。というより、原 民喜が書く機会をあたえてくれたのだった。
 当時の原 民喜にあてた私の手紙数通が、広島市の中央図書館に残されているとかで、竹原さんはわざわざそのコピ−を私にわたしてくださった。
 最初のハガキに昭和22年(1947年)10月19日の消印があり、35銭の切手が貼ってある。じつに、70年の歳月をへだてて、若き日の私自身のハガキを見たことになる。

 自分のハガキを目にしたとき、私はほとんど狼狽した。
 まったく無名なのに、歴史ある「三田文学」に文芸時評を書くという、おのれの無恥、驕慢にあきれた。これはもう身のほど知らずとしかいいようがない。
 そうした恥ずかしさと重なって、当時の私が考えもしなかった、無名の私にあえて原稿を書かせてくれた原 民喜に迷惑をかけてしまった、そんな思いが押し寄せてきた。穴があったら入りたい気分であった。

2018/05/21(Mon)  1744
 
 悼亡、一年。

 悼亡(とうぼう)というのは、妻を喪った夫の服喪をさす。もう、誰も知らない死語だが、この1年、私にとっては、まさしく悼亡(とうぼう)の期間だった。

 桜の開花の予想がつたえられてすぐに、関東甲信は、山沿いを中心に雪になった。
 お彼岸に雪が降るというのはめずらしい。
 21日の気温は、奥多摩で2度。宇都宮、4・8度。都心が、6・6度。
 翌日、私の住んでいる近くの公園で、わずかながら桜が咲いているのを見た。

    1年(ひととせ)の喪あけに見たり 初さくら


 ふと、思い出したのだが・・・桜が咲いているのに雪が降るという話から、幕末、井伊大老が水戸浪士に襲われて暗殺された桜田門外の変(安政7年、1860年)を思い出した。この3月3日、時ならぬ雪が降っていたそうな。
 歌舞伎役者の団蔵は、この暗殺事件を知っていそいで外出、惨劇の現場を見に行った、という。

 大老暗殺の翌日は、雪もやみ、すばらしい快晴になったので、江戸市民は雪月花をいっときに楽しんだらしい。

 この話は伊原 青々園の本で読んだ。

 つまらない話だがなぜか心に残っている。というより、私はこんな話が好きなので、心にとめたものらしい。

2018/05/11(Fri)  1743 ダニエル・ダリュー【3】
 
 ダニエル・ダリューが、百歳まで生きたこと。これが、ダリュー以外の誰にもあり得なかった宿命だったと私は考える。

 こういういいかたでは何もいったことにならない。それを承知で書いたのだが、なんとか、みなさんにつたえたいことであった。

 ふと、思い出したことがある。

 これも、もう誰もおぼえているはずはないが――「戦前」の浄瑠璃の名人、摂津大掾(だいじょう)がこんなことをいっていた。
 この名人が七十歳になって、やっと「忠臣蔵」九段目の「本蔵」が、「少しは語れるようになった」と語ったという。

 浄瑠璃にかぎらず、芸事の修行はたいへんにきびしいものだろうと思う。
 九段目の「本蔵」が、どういう役なのか、私の知るところではない。ただ、この話は、母の宇免(うめ)から聞いた。私の母は歌舞伎が好きで、いろいろな役者の話を知っていた。自分でも、琴、三味線の稽古はかかさず、いちおう名とりになった。
 摂津大掾が「本蔵」を「少しは語れるようになった」と語るまでに、じつに数十年という年期を入れていたことになる。
 少年の私は何もわからなかったにちがいない。母の宇免(うめ)が、なぜ、こんな話を聞かせたのか。これも忖度(そんたく)のかぎりではない。

 ダニエル・ダリューがジャン・ギャバンと共演した映画、たしか「シシリアン」だったと思うが、あのときのダリューは、70代になっていたのではないか。ギャバンは、世間的には車の修理工場の経営者だが、じつはマフィアの親分。ダリューは共演といってもワキにまわって、ギャバンの古女房をやっていた。
 映画のラストで、ギャバンは強盗事件の主犯としてパリ警察に検挙される。刑務所に送られたら、まず終身刑になる。それを知りながら黙って見送るダリュー。その一瞬のまなざしに、私は胸さわぎのようなものを感じた。

 70代になったダニエル・ダリューが、そのまなざしの翳りひとつで、こういう古女房の役を「少しはやれるようになった」と語っているような気がしたのだった。

 これで、私のいいたいことが「少しはわかっていただけた」ろうか。

   (イラストレーション 小沢ショウジ)

2018/05/04(Fri)  1742 ダニエル・ダリュー【2】
 
 「戦前」のダニエル・ダリューは、「うたかたの恋」で絶大な人気を得た。ところが、この絶頂期に、離婚というスキャンダルのなかで、突然、引退を表明する。
 ナチス・ドイツのパリ占領で、戦時中に、マルセル・シャンタル、ギャビー・モルレイなど、ダニエル・ダリューの先輩にあたるスターたちが感傷的な「母性愛もの」、家庭悲劇で活躍したが、ダリューのような美貌の女優がエクラン(銀幕)に登場する可能性がなくなった。賢明なダリューは、こうした時代の変化を見てとったのかも知れない。
 マルセルやギャビーたちは、戦後のはげしい「変化」に適応できず、エクラン(銀幕)から去ってゆく。
 その間隙を見届けたように、ダニエル・ダリューは、離婚したアンリ・ドコワン監督の「毒薬事件」(日本未公開)で復活する。この映画は、ルイ14世時代の有名な毒殺魔、ヴォワザン夫人の犯罪をあつかっている。私は、おなじルイ14世の時代に、やはり有名な毒殺魔だったブランヴィリエ侯爵夫人の評伝を書いたことがあるので、ずっと後年になってからビデオで見た。この映画でダニエル・ダリューは、妖艶なヴィヴィアンヌ・ロマンスと共演しているが、ダリューの美貌は「うたかたの恋」よりもさらに輝きをましているようだった。

 「戦前」のフランスの映画女優としては、エドウィージュ・フィエール、アナベラ、ヴィヴィアンヌ・ロマンス、ミレイユ・バラン、マリア・カザレス、シモーヌ・シモン、コリンヌ・リュシェールなど、すばらしい女優が輩出している。それぞれが個性的で、美しい女優たちだった。
 しかし、たおやかな魅力からいえば、ダニエル・ダリューに比肩するほどの女優はいない。ハリウッド女優、グレタ・ガルボは際だって美貌だったが、ダニエル・ダリューはガルボのように冷たい、高貴な美貌ではなく、もっと洗練されたパリジェンヌといった感じがあった。後年のダリューがシャンソンに進出した時の人気も、ブルジョアから庶民までダリューの歌に惹かれたからではなかったか。

ダニエル・ダリューにつづく世代のスターたち、オデット・ジョワイユ、シモーヌ・シニョレ、フランソワーズ・アルヌール、ダニー・ロバン、ブリジット・バルドー、ミレイヌ・ドモンジョやジェーン・フォンダなど、それぞれフランスを代表する映画女優といっていいが、やはり、「戦前」から「戦後」にかけてダニエル・ダリューに比肩できるところまでは誰ひとり到達していないだろう。

 たとえば、ダニー・ロバンは、いかにも「戦後」のパリジェンヌといった感じの青春スターだった。彼女の映画の主題歌は、いつもヒロインのダニーの印象と切り離せないものだった。「フルフル」では、ダニー・ロバン自身がテーマを歌っている。「巴里野郎」(55)では、カトリーヌ・ソバージュの「パリ・カナイユ」がヒットしている。
 「アンリエットの巴里祭」で、ダニー・ロバンがヴデット(人気女優)になった頃から、ダニエル・ダリューは、「赤と黒」、「輪舞」、「チャタレイ夫人の恋人」など、ハリウッドにも進出した。

 ハリウッドに進出したフランスの女優としては、クローデット・コルベール、アナベラ、そしてジャンヌ・モローなどを思い出す。クローデットは、モーリス・シュヴァリエ、シャルル・ボワイエとともに「戦前」のハリウッド黄金期の大スターだが、ダニエル・ダリューは、クローデットほどの成功をおさめたわけではない。アナベラにいたっては、フランスの女優というより、まるっきりアメリカ人の女性に変貌していた。
 しかし、ダニエル・ダリューは、おのれの身を処することにおいて、アナベラ、ジーナ・ロロブリジーダなどよりはるかに賢明だったといえるだろう。

 ことばで女優の美しさを説明しようとするのは、愚かしい企てにすぎない。老齢に達してからのダニエル・ダリューの出演作についてほとんど知らない。だから、女優としてのダニエル・ダリューを論じることができないのだが、「戦前」から「戦後」にかけて、初期の「不良青年」から晩年に近い「シシリアン」(だったか)まで、他の追随をゆるさない女優として生きたダリューが、百歳まで生きたことに深い感動をおぼえる。

 女優という生きかたは、かなしいものだと思う。
 私はフランス映画のファンにすぎないが、遠くはるかなジョゼット・アンドリオから、現在のイザベル・ユッペール、オドレイ・トトゥ、イザベル・アジャーニまで見てきた。
 しかし、ほとんどの女優は、つきつめていえば、一途(いちず)に女優、またはスターだったにすぎない。
 こういういいかたでは、何もいったことにならないのを承知でいえば、ダニエル・ダリューが、終生みせていた、あの美貌と、そのマスク(顔)の美しさにもかかわらず、あのたおやかでのびやかな美しさを、はたして誰が出していたか。たとえば、ガルボにしても、わずかに「クリスティナ女王」の数カットで、見せているだけといっていい。
 だが、ダリューの訃報に接して、ことさら悲愴がってみせる必要はない。

 もう一つ、あえて書きとめておこう。それは――百歳まで生きたことが、ダリュー以外の誰にもあり得なかった宿命だったと私は考える。サイレント映画の最後の生き残りだったリリアン・ギッシュの死も私を感動させたが、ダリューの死も、この世のものならぬ美として私の胸に感動を喚び起したのだった。

     (イラストレーション 小沢ショウジ)

2018/04/27(Fri)  1741 ダニエル・ダリュー【1】
 
 2018年1月。

 久しぶりにブログを再開したが――とりあえず、書きたいことを書くことにしよう。

 まず、ダニエル・ダリューの追悼から。

   ダニエル・ダリューさん 100歳(仏女優) AFP通信によると、10月
   17日に仏北部ボワルロワの自宅で死去。1917年、仏南西部ボルドー生まれ。
   14歳で映画デビューし、「うたかたの恋」(36年)などで人気女優の地位を
   築いた。米国でも活躍し、「赤と黒」(54年)や「ロシュフォールの恋人
たち」(67年)などの話題作に次々に出演した。晩年まで女優を続け、出演作は100本を越える。 
<読売> 2017.10.20.夕刊

 ダニエルほどの女優の訃報なので、当然、誰かが追悼を書くだろうと思った。ところが、これは私の読み違えだったらしく、ダニエル追悼の記事はどこにも出なかった。
 かつて比類ない美貌で知られたダニエルだったが、さすがに、百歳を越える天寿をまっとうした老女優を今の誰がおぼえているだろうか。今の60代以下の人々は追悼どころか、ダニエルの映画さえ見たことがないだろう。

 戦前のフランス映画を代表する名女優を選べといわれたら、私の世代なら、まず、フランソワーズ・ロゼェ、アルレッティ、マリー・ベルあたりをあげるだろう。ロゼェは、まさに名女優のひとりで、現在でもDVDで「外人部隊」、「舞踏会の手帳」など、その演技を見ることができる。この2本に、やはり名女優のマリー・ベルが出ている。「コメディ・フランセーズ」出身だが、戦後、「マリー・ベル劇場」をひきいて、ラシーヌなどを演じた。非常な美貌だった。
 アルレッティは「天井桟敷の人々」、「北ホテル」で知られている。戦後、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」に出て、イギリスのヴィヴィアン・リー、ブロードウェイのジェシカ・タンディを凌駕する名演技と称賛された。
 私の想像だが――おそらく、ヴィヴィアンやジェシカを凌駕する演技だったに違いない。アルレッティのもっている娼婦性、そして天性のエロティスムは、ヴィヴィアンのもたないものだったし、ジェシカにも無理だろうと想像する。

 こうした女優たちのなかで、とりわけ美貌をうたわれたのは、ダニエル・ダリューとミッシェル・モルガンだった。
 ダニエルは、14歳で「ル・バル」に出た。当然ながら私は見ていない。はじめてダニエルを見たのは「不良青年」で、パリの裏町に住む若い娘。水兵のようなパンタロン、斜めにベレをかぶり、タバコをくわえて、まっすぐに目をむける。ひどく粋(シック)で、ぞくぞくするほどエロティックな香気が立ちこめていた。あまりの美貌に見とれて、映画の内容をおぼえていない。
 20歳で、映画監督のアンリ・ドコワンと結婚。ドコワンの「暁に祈る」に出たダリューは、「娘役」(ジュヌ・プルミエール)としてのみずみずしさが、スクリーンにみなぎっていた。この時期のダニエルの代表作は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子と、男爵令嬢の悲恋を描いた「うたかたの恋」(36年)だった。貴族のなかでは身分の低い男爵令嬢は、はじめはただ可憐な少女として登場する。少女は何か気に入らないことがあると、口を尖らせてすねるようにしゃべる。ダリューはブルーの眸をした美少女だが、このあどけない魅力は他の女優のもたないものだった。ダリュー、天性のものだが、そこに女優としての「工夫」があった。
 うまく説明がつかないのだが、世阿弥のことばを思い出す。「得たるところあれど、工夫なくてはかなはず。得て工夫をきわめたらんは、花に種を添へたらんがごとし」。

 「うたかたの恋」は、戦後、ハリウッドでリメークされた。おなじアナトール・リトヴァクの演出で、ダニエルのやった「男爵令嬢」をオードリー・ヘップバーンが演じているが、おなじ監督の作品とは思えないほど平凡な映画になった。オードリーの作品でも、まったくの駄作だった。オードリーの演技も空回りするだけで、その「工夫」はダニエルに遠くおよばない。

 「うたかたの恋」のダニエルの魅力、「得て工夫をきわめたらん」はそれほどにも大きいものだった。

   (イラストレーション 小沢ショウジ)

2018/04/20(Fri)  1740
 
 はるかな過去の、それも1本か2本の映画に出ただけのスタ−レットを思い出す。
 それは、現実に経験した男女の愛とおなじで、たまゆらのいのちの極みにいたる高揚と、そのあとの凋落、あるいは下降といったプロセスがつづく。しかし、そのスタ−レットを思い出す。それも、どうかすると、思いがけないかたちでよみがえってくる。
 たとえば、「ベティ・ブル−」。

 ジャン・ジャック・ベネックスの「ベテイ・ブル−/愛と激情の日々」に主演したベアトリス・ダル。
 「ベティ・ブル−」は、このはげしくも切ない愛の物語のヒロインだった。海辺のバンガロ−で出会った男に、ただひたすら愛をささげる若い女。しかも、「ヌ−ベル・バ−グ」の女優にふさわしく強烈な個性の輝きを見せていた。
 当時(1987年)、ベアトリス・ダルは、20歳。パリで、<パンク>として生きていたが、ある写真家と知り合いモデルになった。
 たまたま、映画監督になったばかりのジャン・ジャック・ベネックスが、その写真をみた。

 映画監督はベアトリスのカリスマティックな魅力に惹かれた。
 「ふつうの人が苦心して身につける演技を、生まれながら身につけている。逆にいえば、カメラの前で何もしなくても、ベアトリスの魅力がふきあがってくる。」

 映画監督の直観通り、ベアトリスは、情熱的で、しかもみずからの情熱に傷ついて、最後に破滅にいたる悲劇的な「女」を演じた。

 「60代まで女優をつづけても、「ベティ・ブル−」ほどすばらしい役を演じるチャンスは二度とないでしょう。「彼女」は私にそっくり。希望も要求も多すぎて、自分でも抑えられない女。私自身は、撮影中に結婚したけれど、「ベティ」の心情は手にとるように理解できるような気がします。」

 だが、ベアトリスは消えてしまった。

 ブリジット・バルド−が登場したあと、フランスのヌ−ベル・バ−グに、さまざまな個性(つまりは、美)をもった女優たちがつきつぎにエクランを飾った。
 クロ−ド・シャブロルが「二重の鍵」で起用したベルナデット・ラフォン。「いとこ同志」で登場させたジュリエット・メニエル。
 エドワ−ル・モリナロの「殺(や)られる」に出たエステラ・ブラン。
「赤と青のブル−ス」のマリ−・ラフォレ。
 ゴダ−ルの「恋人のいる時間」のマ−シャ・メリル。

 なぜ、1本か2本の映画に出ただけのスタ−レットを忘れないのか。
 私の内面にこの美少女たちへの妄執めいた思いが重なっているだけではない。
 もうひとつ、1本か2本の映画に出ただけで消えて行った美少女たちに対する哀惜の思いがあった。

 私の映画批評には、いつもそんな思いがひそんでいたのかも知れない。

2018/04/13(Fri)  1739
 
 歳末、ピーター・チャン監督の「ラヴソング」を見た。中国の改革開放が始まった時期、大陸から香港に出稼ぎにきた若者と、少し前に香港にきた女の出会いと別れ、再会を描いたもの。背景に、テレサ・テンの歌が流れる。「黎明」(レオン・ライ)と「曼玉」(マギ−・チャン)主演。私の好きな映画だった。
 マギ−・チャンは、私の好きな映画女優だった。

 その後で、「李安」(アン・リ−)の「ラスト、コ−ション」LUST,CAUTION(色・戒)を見た。1942年、上海。汪 精衛の南京政府が成立した時期。香港で抗日運動をはじめた大学生たちが、南京政府の高官の暗殺を計画する。戦争の過酷な時代に翻弄された青春を描いている。封切られた当時見て強い印象を受けたが、その内容はほとんど忘れてしまった。あらためて見直して、いい映画だと思った。
 主演は「梁 朝偉」(トニ−・レオン)と「湯唯」(タン・ウェイ)。このふたりのコイタス・シ−ンは、まさしく香港映画が勢いをもっていた時代に重なる。「湯唯」も美少女だったが、香港映画ではその美質が生かせず、残念ながら女優として伸びなかった。

 アン・リ−の「ラスト、コ−ション」は、私の好きな香港映画だった。「湯唯」(タン・ウェイ)は林 青霞(リン・チンジャ)と並んで、いちばん好きな美少女になった。
 その後、アン・リ−はハリウッドに進出して、「推手」や「ウェディング・バンケット」などを作るが、いずれも「ラスト、コ−ション」にはおよばない。

 湯唯(タン・ウェイ)のようにスクリ−ンに登場しただけでその美しさを輝かせながらその後、消えてしまったスタ−レットたち。

 ジュリアン・デュヴィヴィエの映画、「わが青春のマリアンヌ」(55)で、ヒロインに起用されたマリアンヌ・ホルトという少女である。古城に飾られた美少女にあこがれた少年の前に、その肖像画にそっくりの美少女、「マリアンヌ」があらわれる。その少女は、少年が夢見た幻想なのか、それともほんとうに実在しているのか。

 ハリウッドでも、1作か2作出ただけで消えてしまった美少女たちがいる。ただし、私の内面に、何かを刻みつけなから消えてしまった美少女たちにかぎるけれど。

 名前が思い出せないのだが、エドワ−ド・G・ロビンソンが主演した「赤い家」という映画に出た美少女。残念なことに、この映画に出ただけで消えてしまった。
 そして、「ロリ・マドンナ戦争」。
 牧草地の所有権をめぐって、隣家どうしが対立して、はげしい銃撃戦になる。この「フュ−ド」に美少女がまき込まれる。この美少女の名前も思い出せないのだが、この映画だけで消えたと思った。ずっと後年に、カ−ト・ラッセルの近未来ホラ−に出ていたが、もう、かつての香気(フレグランス)は消えていた。この少女も私の記憶に鮮明に残っている。

 老いさらばえて、はるかな過去の、それも1本か2本の映画に出ただけのスタ−レットを思い出す。こうなると、妄執めいたものになるが、いつか小説を書くときに、そんな美少女を頭に思い描いて書こうと思った。ただし、そんな小説を書く機会は一度もなかったのだが。

2018/04/6(Fri)  1738
 
 ブログ再開で、久しぶりに文章を書いてみて、なんとか書きつづけられそうな気がしてきた。とにかく書きつづけることはできるだろう。
 私のブログは、かなりの部分を親しい友人たちとの友情に負っている。
 とりとめのないブログながら、最近の、私のいろいろな経験にもとづく物語のささやかなエピソ−ドなのだ。
 さて、そこで、またしても映画の閑談。

 クリスマス。たまたまテレビをつけた。
 映画をやっていた。ワン・カット見た瞬間に、ジョン・ヒューストンの「黄金」とわかった。映画もラストで、仲間を裏切って、ロバに黄金の砂嚢を積んで逃亡をはかったボガートが、原住民たちに殺される。その原住民たちは、市場でロバを売ろうとして、警察に突き出される。ボガートを追った仲間ふたり(ウォルター・ヒューストン、ティム・ホルト)は、自分たちが採取した砂金の砂嚢が、無知な原住民に破られて、金がすべて風に散ってしまったことを知らされる。これまでの苦労がすべて無に帰したのだ。
 ウォルター・ヒューストンが、突然、腹をかかえて哄笑する。その笑いは何を意味しているのか。若いティム・ホルトには理解できない。ウォルタ−は笑い続ける。ラストは、砂嚢が風に吹かれて、みるみるうちに砂に埋まってゆく。
 わずかなシ−ンを見ただけで、いろいろなことが押し寄せてくる。

 俳優のホセ・ファーラーが、「黄金」のウォルター・ヒューストンについて、

    もとより現在の俳優のなかで、もっとも偉大な名優のひとり……
    彼を見るたびに、ほかのどんな名優よりも腹のそこにずっしり落ちる。

 といっていたっけ。

 「黄金」のラスト・シーンを見て、私はすぐに、スタンリー・キュブリックの「現金に体を張れ」のラスト・シーンを思い出した。競馬場の売上を強奪した犯人が、空港から逃げようとする。現金をつめたトランクが滑走路に落ちて、数万ドルの紙幣が風に吹かれて散乱する。
 あの頃の映画のラスト・シーンには、いつも空虚な気分がみなぎっていたような気がする。あえていえば、「戦後」の空虚な気分の反映だったのかも知れない。

 わずかなカットを見ただけで、つぎからつぎにいろいろと思い出す。それが、けっこうおもしろい。

2018/04/02(Mon)  1737

 2017年3月。私は俳句を詠んだ。
 それまでなんとなく俳句めいたものが、しばしば心をかすめた。どれも駄句ばかり。俳句として取り柄はないが、ブログを再開するにあたって、私の趣味として出しておく。

         百合子、永眠。
    春やうつつ この世のほかの 花ごろも

    ワ−プロを消して 湯に入る 夜寒かな

    秋の夜や 追懐はるか 九十翁

    過ぎ去りし 思い出ばかり 夏の花

    白百合の ただ美しく 旅出かな

      神崎 朗子に、
    白百合の 香り残して 散りにけり

    白百合と薔薇を 柩に投げ入れて

    秋の夜や 追懐はるか 九十翁

      吉永 珠子に、季題をおしえられて、
    我が胸の 十日桜に 悔いありて

    秋の夜や 身の衰えと ひとりごと

    幽世(かくりよ)の妻の小紋を 冬晴れに

    年の瀬に 友 手作りの粽(ちまき)かな

         2018年頭
    どこからも賀状のなくて 手酌かな

    組重(くみじゅう)も 妻のいなくて 箸をとる

    めでたさは 高麗屋三代 松の内

 世間さまでは、ガラケ−(ガラパゴス携帯電話)がスマ−トフォンに変わった。お互いのやりとりは、電話からメ−ルになった。そればかりか、フェイスブック、LINEといったSNSの時代に変化している。
 そんな時代に、ブル−レイではなくDVDで映画を見たり、CDで(ときにはテ−プで)音楽を聞いている。
 その私が俳句を詠む。笑止千万に違いない。大いに笑ってくださって、けっこう。これが私のありようなのだから。

2018/03/23(Fri)  1736
 
 ブログ休載中、折りにふれて俳句めいたものが頭をかすめたので、書きとめておくことにした。もとより、「柳女」の足もとにも及ばない駄句ばかり。
 それでも、私の心境はいくらか出ていると思うので、ここに書きとめておこう。お笑いぐさまでに。

    白百合の ただ美しく 旅出かな

    白百合の 香り残して 散りにけり

    白百合と薔薇を 柩に投げ入れて

       亡妻、納骨。
    春やうつつ この世のほかの 花ごろも

    過ぎ去りし 思い出ばかり 夏の花

       堀内 成美からティ−を贈られて、
    短か夜や 台湾「金魚」(チン・イ−)の味のよき

    秋の夜や 身の衰えと ひとりごと

    ワ−プロを消して 湯に入る 夜寒かな

    花一輪 追懐はるか 九十翁

    手につつむ リンゴを妻に供えけり

「先生のブログ更新を楽しみにしている一人」さんをふくめて、これまで私をささえてくれた人びと、少数だが、私の「現在」に期待してくれている人びとのために私はブログを再開する気になった。きみたちのおかげで、ブログを再開できることにあらためて感謝している。

2018/03/16(Fri)  1735
 
 ふと、蕪村が女弟子の「柳女」にあてた手紙を思い出した。この「柳女」さんは、京都、伏見の女流俳人。ある日、自作の俳句を蕪村に送った。

    なつかしや 朧夜過ぎて 春一夜

 蕪村はその返事にこの句に対する批評と添削を述べている。

         朧夜過ぎて

   今宵はわけておぼろなるは、春のなごりを惜しむゆゑかと御工案おもしろく候。
   されどもこれにては朧夜の過ぎ去ることになりて、過不足の過にはならず候。

    なつかしや 殊に朧の 春一夜

   右のごとくにておだやかに聞え候。それを又更におもしろくせんとならば、

    なつかしや 朧の中の 春の一夜

   桃にさくらに遊びくらしたる春の日数のさだめなく、荏苒として過ぎ行く興像也
   心は、朧々たる中にたった一夜の春がなごり惜しく居るやうなと、無形の物を取
   りて、形容をこしらへたる句格也。又右の案じ場より一転して、

    春一夜 ゆかしき窓の 灯影哉

   まだ寝もやらぬ窓中の灯光は、春の行衛を惜しむ二三友なるべし。これら秋を惜
   しむ句にてはあるべからず。

 以下は、私の現代語訳。

         朧夜過ぎて

 (春の夜は朧夜にきまっているけれど今夜はとくにおぼろなのは、この句を詠んだひとが春のなごりを惜しんでいるせいではないか、と工夫したところがおもしろい。ただし、この句では、もう春の朧夜もこれでおしまいということになってしまうので、春の朧夜をぴたっと詠んだことにはならない。
 春の夜はなぜか心もときめくものだが、とくにおぼろ夜の春の一夜となれば、わすれられないなつかしさがこみあげてくる。
 こんなふうにすれば、春のおだやかな気分がひびいてくる。あるいはまた、もっと味わい深くしたかったら、おぼろ夜がつづく季節だけれど、今は記憶もおぼろながら、あの春の一夜のことが、なつかしくよみがえってくる、という一句はどうか。
 春になって、桃が咲いた、桜が咲いた、と遊び暮らす日々がつづいて、いつしか春も過ぎようとしている。ただ、浮かれさわいで暮らした身には、何もかもおぼろめいていながら、たった一晩の春のできごとが、今にして名残惜しく思われる。描写ではなく、内面をさぐって俳句のかたちをつくったところが俳句の結構である。そしてまた、こういう工夫から、さらに視点を変えて、おぼろ夜を詠むのではなく、春の一夜、夜更けの時刻だが、部屋には寝具をととのえながら、まだ寝ないで、たけなわの春が終わろうとしているのを惜しんでいる。窓辺におぼろ夜ほのかな灯影が揺れて、その気配もなにやら奥ゆかしい。
 こういう情景は春の季節なればこそ、蕭条たる秋を惜しむ俳句であってはならない。)

 蕪村は、「柳女」の才能に大きな期待をもっていたらしく、手紙の末尾に、

   三月尽の御句甚だおもしろく候故、却っていろいろと愚考を書付け御めにかけ申
   し候。近頃の御句と存ぜられ候。

 と、激賞している。こういう手紙にも、蕪村の暖かい人柄とするどい批評性が読みとれる。「近頃の御句」は、最近の傑作と訳していいだろう。

 蕪村は、「柳女」に返事をかきながら、中国の詩人を思い出している。

    三月正当三十日   ケフハ三月ツゴモリジャ
    風光別我苦吟身   春ガ我ヲステテ行クゾ ウラメシイコトジャ
    勧君今夜不須睡   ソレデイヅレニモ申ス コンヤハ ネサシャルナ
    未到暁鐘猶是春   明ケ六ツヲゴントツカヌ中(うち)ハヤッパリ春ジャゾ

 蕪村の注釈がついているのだから、私が訳す必要はない。ただ、こんな詩を読むにつけても、三月にみまかった妻のことを思い出すのだった。そして、「春が私を捨てて行くぞ。うらめしいことじゃ」とつぶやく。

2018/03/09(Fri)  1734
 
 ある日、新聞の俳句欄で、こんな句を見つけた。

   妻逝きて寂しさにひとり耐ゆる夜 胸にしみ入るこほろぎの声
                     ひたちなか市 広田 三喜男

 岡野 弘彦の選評も引用しておく。

   選歌をしていると、こういう切実な思いに逢うことがある。実は私も六十年来の
   妻をなくし、十日祭を終えたばかりである。晴れつづく海の夜ごとの波の音が胸
   に沁みる。

 これもまた「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いを歌っているような気がする。
 私がしばらく沈黙をつづけていたのも、「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いがあったと思う。

 私は、この作者に共感したが、同時に、岡野 弘彦の感慨にも胸を打たれた。

2018/03/04(Sun)  1733
 

 さて、もう一度、私のことに話を戻す。

 ブログを書かなくなって、ときどき俳句を読むことがあった。
 たとえば……

    仏壇の 飯も油も 凍りけり      花 女

    内仏の 戸に 炉あかりや 宵の冬   はぎ女

 こんな句も私の胸に響いた。

        芭蕉の初七日を悼んで
    待ちうけて 涙見あわす 時雨かな   か や

        蕉翁二七日
    花桶の 鳴る音かなし 夜半の霜    か な

        蕉翁三七日
    像の画に ものいいかくる 寒さかな  智 月

        蕉翁四七日
    冬の日や 老いもなかばの 隠れ笠   智 月

        六七日
    跡の月 思へば凍る たたき鉦(かね) 智 月

 智月は、大津の俳人、乙州の母。芭蕉の弟子。芭蕉の没後、義仲寺に詣でて供養をおこたらなかったという。宝永三年に亡くなった。享年、74歳。
 「かや」、「かな」については、よく知らない。
 こういう俳句を読む。いずれも「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いを歌っているような気がする。

2018/02/23(Fri)  1732
 
 長期にわたってブログを休載したため、旧友の遊佐 幸章(ゆさ・たかあき)が心配して電話をかけてきた。中学、大学、いっしょの友人で、私の体調を気づかってくれた。これも、ありがたいことだった。
 体調もさしてよくはないのだが、最近の私は、自分の書くものがいつも無意味に思えること、なぜか空白感のようなものをおぼえていることを語った。

 しかし、遊佐 幸章の電話で――そろそろブログの休載をやめて、心機一転、あたらしく書きはじめようかと思いはじめた。

 こんなブログでも、長く書きつづけていると、どうしても単調になりがちなので、これまでのようなテーマではなく、別のものを書いたほうがいい。せっかくブログを再開するのなら、これまでと違ったもの、できればもう少しおもしろく書きたい。そんなことを考えはじめた。
 もともとヤボな人間なのでどうもおもしろみがない。そもそも、遊びを知らない。趣味らしいものも無縁なので、こういう人間は老化が早いにちがいない。

 私がブログを書かなくなったとき、「先生のブログ再開をたのしみにしている一人」さんが、最近になって、俳句を作りはじめた、と知らせてくれた。これは、うれしかった。
 彼女も私がブログを書かなくなって、私の身を案じてくれたらしい。
 私の境遇を案じてくれた人びとをはじめ、これまで私をささえてくれた人びと、少数だが、私の「現在」に期待してくれている人びとがいるのだった。

 ようやくブログを再開するときめて、あらためてみなさんの期待にこたえたいと思うようになった。「先生のブログ再開をたのしみにしている一人」さんのおかげでそう思えたことにあらためて感謝している。

2018/02/09(Fri)  1731
 
 うれしいこともあった。

 この夏、ブログを休載中、「ANAIS NIN Observed」というDVDが日本版「アナイス・ニン、自己を語る」と題して出た。これに私自身が出ている。

 アナイス・ニンは、アメリカの女流作家。日本では、私の訳で「愛の家のスパイ」が出て知られた。
 アナイスは少女の頃から書きつづけてきた膨大な「日記」で知られている。

 アナイス・ニンについては、いずれ別の機会にとりあげるつもりだが――日本版「アナイス・ニン、自己を語る」については、ここでとりあげておく。

 このドキュメンタリーは、ロバート・スナイダー監督による作品。この映画作家は、「ミケランジェロの生涯」(1961年)で、アカデミー賞・最優秀長編ドキュメンタリー賞をうけている。
 このドキュメンタリーの原題は「Anais Nin Observed」だが、「Portrate of a Woman As Artist」という副題がついている。このタイトル通り、アナイスは「Observed」しているのだが、同時にこれは「Portrate」なのだ。映像作品として、「Observed」されるアナイスの魅力が表現者としてのポートレートとして私たちに迫ってくる。

 私の「解説」は、このラストでわずかばかり顔を出しているだけで――友人の作家、山口 路子、翻訳家、田栗 美奈子、おふたりの質問に答えている体裁になっている。おふたりの質問にできるだけ真摯に答えようとしているのだが、あらためて見直すとアナイスの「解説」になっていない。おふたりの質問にヘドモドしているので、われながら出来がよくない。
 だいたい、このドキュメントに出たのが間違いだった。作家がすっかり老いぼれて、何かつまらないことをモゴモゴしゃべっている。ただし、このDVDが出たおかげで、私の「在りし日の」姿が見られる……かも。(笑い)

 鈴木 彩織(翻訳家)は、
    「アナイス・ニン、自己を語る」拝見いたしました。
    先生は恋する若者そのもので、とても若々しく映っていました!!

 と書いてきた。たしかに、私はアナイスに恋をしている。鈴木 彩織にそう見えたとすれば、ちょっとテレくさいが、うれしい気がする。
 このDVDには、日本のアナイス研究の第一人者である杉崎 和子先生が、おなじように山口 路子のインタヴューに答えているので、アナイスに関心のある人は、ぜひ杉崎女史の「解説」をご覧になったほうがいい。
 この映画の字幕がいい。平沢 真美さんの訳だが、字幕翻訳として最高のもの。
 さらにつけ加えておく。このDVDのために山口 路子さんが、「アナイス・ニン」というリーフレットを書いている。これもすばらしい。

2018/02/02(Fri)  1730
 
 亡き妻の思い出をふり払うために音楽を聞いたわけではなかった。音楽を聞く。その時間だけ、何も考えないですむ。音楽を聞いているだけで、私のまわりをとり囲んでいる何かが崩れ、目に見えない薄い膜が破れてしまうようだった。私の内面に、何か少しづつ変化が起きている。

 ある日、ゲオルグ・ショルティを聞いた。
 ショルティなら、ハーリー・ヤーノシュや、ベートーヴェンを聞いたほうがよかったような気がする。しかし、シンフォニーを聞く気分ではなかった。しばらくのあいだ、いろいろな「レクィエム」ばかり聞いていたこともある。
 だから、ショルティを聞いたというより、モ−ツァルト(アーリーン・オージェ)、ブラームス(キリ・テ・カナワ)、ヴェルディ(ジョーン・サザーランド)などを聞いていた。それも「レクィエム」を選んで聞いていた。
 「レクィエム」以外でもよかった。ただ、ぼんやり聞いているだけなので、曲はなんでもよかったが、やがて「レクィエム」にもあきてきた。

 そんな状態で、やがて亡妻の納骨をすませた。一句を添えて。

    春やうつつ この世のほかの 花ごろも

2018/01/26(Fri)  1729
 
 じつをいうと、友人、澁澤 龍彦が亡くなったとき、私は今と似た状況に陥ったことがある。
 三島 由紀夫が亡くなったとき、批評家の磯田 光一が、沈痛な思いをこめて休筆を宣言したが、私は、友人、澁澤 龍彦が亡くなったとき、ひそかに休筆した。
 澁澤君とそれほど親しかったわけでもない私が、半年間、何も書かなかったのは笑止千万だろう。
 当時の私の内面に澁澤 龍彦追悼の思いがあったのはたしかだが、もう少し違う思いもあって、私が何を書いてももはや澁澤 龍彦の眼にふれることがないという失望というか落胆があった。これも身勝手な気分のせいだったが、どうしようもないむなしさが私の内面にあったため何かを書こうという意志が衰えたのだった。

 亡妻が他界したあと、私は何をしていたのか。

 ただ、毎日のように映画を見ていた。
 昔見た映画のDVDを見ることが多かったのだが、たまたま8月にジャンヌ・モロー、10月にダニエル・ダリューが亡くなったので、彼女たちの映画を見た。ジャンヌやダニエルを見るためというよりも、彼女の映画を見ていた頃の自分を思い出すために。

 かつて比類ない美貌で知られたダニエルだったが、私の知るかぎりダニエル追悼の文章を見なかった。それも当然で、百歳を越える天寿をまっとうしたダニエルを、今の誰がおぼえているだろうか。私は、この女優たちの映画を見ながら、かつてのフランス映画の輝きを思いうかべて、ひそかな慰めとしたのだった。そんな時期の私は、何かを見ればいつも何かを思い出していた。映画を見ながら、いつも亡妻といっしょにジャンヌやダニエルの映画を見たことを思い出していた。そして、そのことさえも忘れようとして、映画を見つづけていた。

 映画を見るほかに、ひたすら音楽を聞いていた。これまた手元にあるCDを聞くだけのことで、一度聞いただけで忘れてしまったオペラを聞き直したり。手あたり次第に、そんなCDばかり聞きつづけていた。何かを思い出すことと、何かを忘れようとすることが重なって、それこそ憑かれたように古い映画を見たり、たくさんのオペラを聞いていた。

 たまたまお悔やみの手紙をくれた知人が、オペラのヴィルチュオーゾだったことがきっかけで、手近にあった「歌に生き、恋に生き」を聞いた。モンセラート・カバリエ。亡妻の思い出には何の関係もないのに、ひどく心を動かされた。それからしばらく、いろいろな人の「歌に生き、恋に生き」を聞いた。

 手当たり次第なので、むちゃくちゃな選曲になる。だいいち、私のもっているCDはごくわずかなので限りがある。

 選曲もむちゃくちゃで、とにかく音が流れていれば癒されるというか、しばらくは気が休まるようだった。
 たとえば、マルセル・デュプレを聞く。そして、オリヴィエ・メシャンを聞く。そのパイプ・オルガンを聞きながら、俳優のルイ・ジュヴェの葬儀がおこなわれたサン・シュルピスの教会に鳴り響いた演奏もかくや、と想像する。

 そんな日々がつづいた。

 たしか「二期会」のソプラノだったと記憶するのだが、スミエ・コバの「ソプラノ」も楽しく聞いた。スペインのファリアから、フランスのフォーレ、デュパルク、ドビュッシー、イギリスのパーセル、イタリアのロッシーニまで、わかりやすい曲ばかり選んでいるので、ただ聞いているだけで癒されるような気がした。
 そんなある日、ヨッヘン・コワルスキの「奥様、お手をどうぞ」を聞いた。カウンター・テナーや、ドイツの古い流行歌や、ウィンナ・ワルツなどを聞き直して癒されるなんて、われながら意外だったが、ひとしきりそんなものばかり聞いていた。

 そして、2018年。松がとれた日に、フランス・ギャルの訃を知った。

   フランス・ギャル 7日に逝去。70歳。1947年、パリに生まれた。音楽家
   の家庭に育ち、10代でデビュ−。日本でも「夢見るシャンソン人形」などがヒ
   ットして、世界的なアイドル歌手として知られた。晩年はガンで療養生活を送っ
   ていた。

 彼女のCDをもっていないので、コンピレーションの中にはいっているシャンソンを聞いた。ついでに、フランソワーズ・アルデイ、シルヴィー・ヴァルタンを聞く。
 もはや誰も知らないシャントゥ−ズの声を聞いて、在りし日の彼女たちを偲ぶ。回顧趣味に違いない。ただし、私にいわせればダニエル・ダリューも、フランス・ギャルも、私が人生ですれ違ったアルティストのひとりなのだ。
 私の人生から、またひとりアルティストが消えて行く。私が、その人たちのCDを聞いたり、ビデオやDVDを見直すのも、その人たちに会えたことのありがたさを思うからにほかならない。

2018/01/19(Fri)  1728
 私としては――妻の他界のあと、どういうものか自分の周囲のすべてが自分の内面の底に沈んでゆくような思いがあった。悲しみは深いものだったが、それは「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いではなかったか。どういうものか妻を喪った悲嘆までもむなしい。私がついぞしらなかった深淵が、ぽっかり口を開いている。そうなると、何もかもが、自分の知らなかった深淵に流れ落ちるようだった。私は何を考えているのか、何を書けばいいのか、わからなくなっていた。
 知人たちから懇ろなお悔やみをいただいた。ほんとうにありがたいことだった。
 そのありがたさをよそに、私は親しい友人たちに手紙も書かなくなっていた。何を書いてもあまり意味がない、という身勝手な気分のせいだが、友人たちも、そんな私の状況を察して、時候の挨拶や見舞いも遠慮しているようだった。
 私はひたすら沈黙をつづけていた。

 私を慰めるために、夫と死別した老女の聞き書きを贈ってくれた人もいる。その老女が語っている。(注)

  お父さんが逝ってからのこの六カ月、みなさんがよく来てくださったから、ほん
  んとうに助かったと思っています。いままで私はお父さんにずっと依存してきた
  でしょ、不安だったの。
   ひとり暮らしって、むなしいのね。さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっ
  ても。一人でどう生きようかなって。一人で生きる自信もそんなにないし、と思
  っていた。
  (引用は――つぼた英子著、「ふたりからひとり」(編集・水野 恵美子/
   自然食品社・2016年刊)による。

 彼女のいう「むなしさ」は、肉親を失って残された「ひと」には共通する思いに違いない。私は「ひとり暮らし」ではないが、「さびしいんじゃなくて、むなしい。何をやっても」という思いは似ているだろう。私は、この本を贈ってくれた神崎 朗子(翻訳家)に感謝しながら読んだ。

2018/01/12(Fri)  1727
 
 2018年元旦。
 喪中につき、新年の挨拶は遠慮させていただいた。

 2017年3月、妻、中田 百合子の他界という不幸に見舞われたが、その折り、いろいろな方から懇ろなお悔やみを頂いた。ここであらためてお礼を申しあげたい。
 その3月から現在までブログを中断したが、これほど長く休載するとは自分でも予想しなかった。

 妻の死後、まったく何も書かずただ休筆をつづけた。どこからも原稿の依頼があったわけではないので、私の休筆には何の意味もなかったが、友人に手紙も書かなかったし、ブログさえ書く気が起きなかった。

 ブログを書かなくなった理由もない。妻の喪に服して、とか「孤独に耐えて生きて行く」といった、りっぱな信念があったわけではなくて、ただ、何もする気がなく、本を読んだり、若い頃に見た映画を見直したり、そんな日々を過ごしていた。

 北鮮の大陸間弾道ミサイルの実験による情勢の緊迫化、トランプによるイスラエルの首都認定による中東情勢の激変、西側の諸国の揺らぎ、中国、ロシアなどの権威主義的な動き、さまざまなテロリズムなど、世界的に混迷が深刻になった時代をよそに、毎日、ただひたすら無為に過ごしていたのだった。

 歳末、見る気もなく、テレビを見ていた。

 映画は、ラスト前の数カット。

 ワン・カット見た瞬間に、ジョン・ヒュ−ストンの「黄金」とわかった。映画のラストで、仲間を裏切って、ロバに黄金の砂嚢を積んで逃亡をはかったハンフリ−・ボガ−トが、悪人の原住民たちに殺される。原住民たちは、市場で盗んだロバを売ろうとするが、盗んだロバと見破られて警察に逮捕される。

 ボガ−トを追った仲間ふたり(ウォルタ−・ヒュ−ストン、ティム・ホルト)は、自分たちが苦心して採取した砂金の砂嚢が、無知な原住民に破られて、金がすべて風に散ってしまったことを見届ける。それまでの苦労がすべて無に帰した。

 私たちは、ふたりがもはやどうにもならない状況に直面したことに、ひそかな同情めいた感動をおぼえる。
 と、つぎの瞬間、ウォルタ−・ヒュ−ストンが、腹をかかえて哄笑する。その笑いはひたすら明るいもので、おかしくておかしくてたまらない、といった笑いだった。ウォルタ−・ヒュ−ストンは何を笑っているのか。その笑いは何を意味しているのか。このふたりもまた、前途にまったく希望はない。笑っていられる状況ではないのだ。若いティム・ホルトには理解できない。ウォルタ−は笑い続ける。

 ティム・ホルトはけげんな顔をするが、哄笑するウォルタ−にうながされて、自分も笑いだす。人生の不条理に直面する。そんな絶望的な状況のなかでは、自分のドジを含めて、すべてを笑いとばすしかない瞬間もあるのだ。それまでつづけた採金の作業がまったく意味がなかったことを腹の底から笑いとばそうとする。このとき、観客は、ふたりの笑いに共感する。それはけっして自嘲の笑いではない。人生の不条理に対する笑いなのだ。
 ラストは、砂嚢が風に吹かれて、みるみるうちに砂に埋まってゆく。……

 わずか数カットのラスト・シ−ンだが、いろいろなことが押し寄せてきた。

 そのいろいろなことの中には――映画「黄金」が公開された頃の私が何を考えていたのか、そんなことまでも含まれていた。当時の私は、芝居の演出を手がけはじめていた。芝居の費用をかせぐために、ひたすら小説を書きつづけていた。

 「黄金」の原作者、B・トレヴンは、ほとんど無名に近い作家だったが、この映画が作られたせいか、当時の前衛的な出版社、「ニュ−・ダイレクション」から、遺作が数冊、出たことを思い出す。
 若い頃の私は、いつか機会があれば、ホレイス・マッコイとB・トレヴンを翻訳しようと思っていた。どうせ大学のアメリカ文学研究者なんか、誰ひとり、こうした作家に目を向けるはずもない。(ホレイス・マッコイは、のちに常盤 新平が訳している。)
 映画、「黄金」は、アカデミ−監督賞、脚色賞をうけた。ウォルタ−・ヒュ−ストンは、助演男優賞をうけている。
 この少しあと、マッカ−シ−の「赤狩り」が、ハリウッドを襲った。
 ジョン・ヒュ−ストンは、ウィリアム・ワイラ−たちと、マッカ−シ−に対抗して「アメリカ憲法修正第一条委員会」を作って抵抗した。
 その結果、ハリウッドを離れて、しばらくイギリスで活動した。「アフリカの女王」(51年)で、ボガ−トがアカデミ−主演男優賞をとった。

 ジョン・ヒュ−ストン自身が、一流の映画監督だっただけでなく、俳優としても多数の作品に出ている。晩年は、父のウォルタ−・ヒュ−ストンによく似てきた。
 娘のアンジェリカも、女優だけでなく監督をつづけている。

 私は、テレビ・ミュ−ジカル、「SMASH」(2013)のファンだが、アンジェリカ・ヒュ−ストンがフランス語で歌うシャンソン、「アデュ−・モン・ク−ル」に感動した。(ただし、このシ−ンはテレビでは使われていない。残念ながらカットされた。)

 映画、「黄金」のラスト・シ−ンの数カットを見ただけだが、「黄金」のラスト・シ−ンから、アンジェリカ・ヒュ−ストンのシャンソンまで、つぎからつぎに、とりとめもなく、いろいろなことを思い出した。

 そして、12月24日。クリスマス。世はなべてこともなし。

2017/09/20(Wed)  1726
 
 私は書いたのだった。

 「フリッツィには喜劇のセンスがあって、サマー・シアタで『引退した女たち』という芝居に出たが、この舞台では準主役を演じていた。明るい演技を見せていたという。しかし、ブロードウェイも大きく変わりつつあった。かつてのような軽妙なエスプリをきかせたコメディ・ド・サロン、ブールヴァールの大衆演劇の土台は、あたらしいメロドラマ、空疎なイデオロギーをドラマタイズしただけの左翼劇によって掘り崩されようとしていた。フリッツィがブロードウェイの舞台に出られる可能性はなかった」と。

 つい最近、まったく偶然に、オクスフォ−ド・オペラ辞典を手にした。日頃、まったく手にすることのない本だが、「フリッツィ・シェッフ」の項目を引いてみた。20行。その最後の4行を訳してみよう。

    「オペレッタ、ミュジカル・コメディ−に転向して、ブロ−ドウェイで『ボッカ
    チォ』、『ジロフレ・ジロフラ』、『マドモアゼル・モデスト』、さらには著名
    なストレ−ト・プレイ、『毒薬と老嬢』に出演した。

 これを読んで驚いた。私は迂闊にも――「フリッツィがブロードウェイの舞台に出られる可能性はなかった」と書いたからである。

 『毒薬と老嬢』は、1941年、ブロ−ドウェイで大ヒットしたジョゼフ・ケッサリングの喜劇で、ヘレン・ヘイズが主演している。
 私たちには、フランク・キャプラの映画(1948年9月/公開)で知られているだろう。ケ−リ−・グラント主演。ワキには、レイモンド・マッセイ、ジャック・カ−スン、ピ−タ−・ロ−レなどが出ていた。
 「戦後」のフランスでもこの芝居は、ルイ・ジュヴェの本拠だった「アテネ」で上演され、ジュヴェの『シャイヨの狂女』と交代しているし、「コメディ−・フランセ−ズ」を脱退したジャン・ルイ・バロ−が、マドレ−ヌ・ルノ−といっしょに劇団を発足させた「マリニ−劇場」で、この芝居が上演されている。
 まさかフリッツィ・シェッフが、『毒薬と老嬢』に出たとは知らなかった。私の想像では、おそらくヘレン・ヘイズが巡業に出なかったので、フリッツがトゥア−に出たのではないか。
 たかが一本の喜劇に出たからといって、芸術家としてのフリッツィ・シェッフの評価が変わるわけではないが、私は自分の不勉強を恥じたのだった。

 私は書いたのだった。
「1903年に『メトロポリタン』をしりぞいたフリッツィには、録音する機会は一度もなかったと思われる」と。
 ところが、フリッツィの声を聞くことができるのだった。吉永 珠子が教えてくれたのだが、YOU TUBEに、「キス・ミー・アゲイン」が収録されているのだった!
 私は、このときも自分の不勉強を恥じたが、現在の私たちがフリッツィを聞くことができると知って狂喜したのだった。
 私のようなアナログ人間にとっては、想像もできないことだったが。

ニューヨークに行ったことがある。フリッツィが住んでいた西五十五丁目150にも行ってみた。あたりの雰囲気はすっかり変わってしまったらしく、十九世紀のニューヨークのおもかげは残っていなかった。しかし、その街角に立ってフリッツィ・シェッフのことを考えるだけで幸福な気分になったことを思い出す。

2017/09/09(Sat)  1725
 
「メトロポリタン」を去ったフリッツィに、アメリカのライト・オペラの世界、ヴィクター・ハーバートの世界がひろがった。フリッツィにたいへんな成功がやってくる。とくに『マドモアゼル・モディスト』には「キス・ミー・アゲイン」という曲が入っていて、フリッツィが歌って非常な成功をおさめた。
 これ以後フリッツィはこの曲を歌いつづけた。これが彼女のテーマソングになり、トレードマークになった。フリッツィ・シェッフが宿泊しているホテルの食堂に姿を見せると、ホテル側はいつもこの曲を演奏して迎えたという。
 やがて、映画と呼ばれる「第七芸術」が大衆を熱狂させる。フリッツィのような過去の「女神」が時代に適応できなくなるのは当然だったのか。

 フリッツィの前に貧困が待ち受けていた。だが、フリッツィのほんとうのすばらしさは挫折と失意の時期からはじまる。

1954年4月8日、ニューヨークで亡くなった。

2017/08/14(Mon)  1724
 
 オペラの歌姫、フリッツィ・シェッフのことを書いたことがある。
 「フリッツィ・シェッフ」を書いた当時、私は『ルイ・ジュヴェ』という評伝を書きはじめていた。完成まで10年もかかった仕事だが、途中はまったく先が見えない状態で、悪戦苦闘を続けていた。

 私のコレクションで、もっとも古いものは、1904年のジェラルディン・ファーラーや、1905年のエマ・イームズ、1906年のアデリナ・パッティなどがある。
 1910年代のアメリタ・ガリ・クルチや、若き日のロッテ・レーマン、あるいはメルバでさえCDになっている。

 私は書いたのだった。
 「1903年に『メトロポリタン』をしりぞいたフリッツィには、録音する機会は一度もなかったと思われる」と。当時、ネリー・メルバが彗星のようにあらわれ、ローザ・ポンセルや、ガリ・クルチが輝きをましている時期に、すでに流星のように飛び去ったスターのレコ−ドが出るはずもなかった。
 当時の制作状況から考えてフリッツィのレコードが作られた可能性はほとんどない。私は、そういう歌姫の非運を思って、フリッツィの時代の、オペラ、オペレッタという芸術の衰退という偶然と個性的なシンガーの運命を重ねて、短い評伝めいたものを書いたのだった。

 プルースト、ヴァレリーよりも八歳下。イサドラ・ダンカンよりも一歳年下。演出家のジャック・コポオと同年。ルイ・ジュヴェより八歳上。
 フリッツィのデビューは、1897年のフランクフルト。

 世紀末のミュンヘン。つまりはシュニッツラー、若き日のツヴァイク、クリムト、やがてエゴン・シーレ。さらには、これも画家を志しながら貧窮に苦しみ、自分を認めようとしない世間とユダヤ人に憎悪を抱いて彷徨していた無名の青年、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン。
 フリッツィは10代でウィーン、ミュンヘンきっての「女神」として君臨する。

 1901年に「メトロポリタン」に登場した。デビューは「フィデリオ」の「マルツェリン」。「メトロポリタン」での彼女のヒットは『ラ・ボエーム』の「ミュゼッタ」だった。「メトロポリタン」に登場したア−ティストとしては、1903年にエンリコ・カルーソー、1907年にマーラー、1908年にシャリアピンがいる。フリッツィは天性の美貌と、絶大な器量にめぐまれた「女神」のひとりだった。

 1903年4月22日のコンサートで、『連隊の娘』第一幕の「マリー」を歌っているが、これが「メトロポリタン」での最後の公演になった。

2017/07/28(Fri)  1723
 
 戦後の私は、アメリカの文学に関心をもったが、その対象はミステリ−に限ったわけではなかった。
まだ、ポケットブックもろくに買えない頃、サローヤン、ハメット、ヘミングウェイにつづけて、私が読みつづけた作家がホレース・マッコイだった。
 もう誰も知らない作家だが――最近、常盤 新平の訳が再刊された。常盤 新平にこの作家を読ませたのは私だった。
 文学、人生、社会について何も知らなかった私が、この作家を読むことでようやく自分の内部に測鉛をおろした、そんな感じだった。ようするに、あたらしい世界を発見させてくれた作家のひとり。

 私がホレース・マッコイをはじめて読んだのは1946年の冬だったと思う。戦後のこの時期に、アンドレ・ジッドがホレース・マッコイを読んでいた。このことを知った私は大きな「衝撃」を受けた。そればかりではなく、やがてサルトルやカミュも読んでいたことを知った。このあたりのことは『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第一章)で、ふれておいた。

 ホレース・マッコイから、蕪村のことばを思い出す、というのは突飛だが、

    発句集はなくてもありなんかし。世に名だたる人の発句集出て、日来(にちらい)
    の聲誉を減ずるもの多し。況んや凡々の輩をや。

 ホレース・マッコイは『廃馬を射つ』以後、「日来(にちらい)の聲誉を減ずるもの」しか書けなかった作家だった。しかし、わずか1冊でも、すばらしい作品を残したことを祝福してやりたい。そんなふうに思わせる作家だった。

2017/07/21(Fri)  1722
 
 思いがけず身につまされる事実をしらされる。

 75歳以上の高齢ドライヴァ−は、運転免許の更新で、認知機能検査を受ける。2015年に検査を受けた163万人の調査で――認知症、認知機能の低下のおそれがあると判定された人は、年齢とともに増加している。84歳では、じつに50%を超えている、という。(「読売」2017年1月20日)

 認知症のおそれがある人は、約5万4千人。    3・3%
 認知機能の低下のおそれは、約50万人。    30・8%
 問題なし         約107万人。   65・9%

 認知症、認知機能の低下のおそれ――年齢別では、
                 75歳で   29・8%
                 80歳で   36・2%
                 84歳で   50・1%
                 90歳で   63・1%
                 95歳で   78・7%

 ようするに、加齢とともに認知能力が低下している。

 私は高齢者なので、当然、認知症、認知機能の低下のおそれがある。おそれどころか、高い蓋然性があるだろう。
 老いぼれの私の俳句好きも、認知症、認知機能の低下のせいかも。

    顔撫でて とても冷たし 鼻頭   梅 笑

          (私の歳時記・12)

2017/07/08(Sat)  1721

 戦後すぐの昭和20年(1945年)から21年冬にかけて、日本の山村を訪れたアメリカ人ジャーナリストがいた。敗戦直後、日本の国内情勢が混乱をきわめていた時期で、あるジャーナリストが来日したことなど、誰の記憶にも残っていないだろう。

 このジャーナリストは、東京を中心に、関東、中部を熱心に歩きまわったらしい。
 栃木、那須の、ある村を訪れたとき、たまたま雪が降ってきた。淡雪だったらしく、すぐに溶けてしまった。
 彼が出発するときに、宿の主人が宿帳か何かを出して、記念に署名をもとめた。
 そのアメリカ人はこころよく応じて、「それでは日本の歌を書きましょう」といって、二行詩らしいものを書きつけた。むろん、英語である。

    The Snow Came To The Garden
         But Not For Long

 このアメリカ人は、自作に自分の名前を詠み込んでいる。ずいぶん粋な話ではないか。

 作者はエドガー・スノウ。
 スノウは日本の誰かの句を思い出して書いたのだろうか。では、誰の? これまた見当もつかない。
 スノウ自身は、訪日前に俳句の本に眼を通していたに違いない。
 (無謀を承知で)あえて意訳すれば、

    淡雪の庭に降りては消えにけり
    いまし降る雪はつづかぬ庭にして
    降りながら庭に小雪のとどまらず

 いい訳ではない。どうしても理が勝ちすぎる。なによりも、名前を詠み込んでいる酒脱な趣向が出せない。

 スノウは日本を去った直後、半年にわたってソヴィエトに滞在して、ルポルタージュを書いた。これは「サタデイ・イヴニング・ポスト」に発表されたが、敗戦直後の私たちが読む可能性は絶無だったはずである。まして18歳の私が知るはずもなかった。

 スノウは、このルポルタージュを書いたために、アメリカでは左翼として攻撃されたが、皮肉なことに、当時のソヴィエトは、スノウを悪質な反共主義者として入国を禁止している。

 私は左翼ではないので、スノウの著作をほとんど知らない。しかし、敗戦直後に日本の田舎の宿屋に泊まって、わざわざ俳句を詠んだスノウに親しみをおぼえる。
 この句に、敗戦にうちひしがれている日本人を思いやる気もちが含まれているような気がする。深読みだが。スノウは、ジャーナリストとして日本の運命を見きわめようとしていたのかも知れない。

            (私の歳時記・11)

2017/06/30(Fri)  1720
 
 歩いて5分の距離に公園がある。さして大きな公園ではないが、古代の蓮、大賀ハスで知られている。
 このハスは、毎年、初夏の公園でうつくしい花を開く。

 公園には、ハトや、カラス、スズメなどが棲みついている。
 池に小さな島があるのだが、もともとは土に杭を打って盛土した浮島で、松などが植えられている。冬は雪にそなえて、何十本もの縄がかけられる。雪吊りである。

 この島にカモメ、オシドリなどの渡り鳥がやってくる。
 池に並ぶ杭や、島の岸辺に群れをなして羽を休め、冬の日ざしを浴びている。

 俳句の季題にも、初カラス、初スズメなどがある。

    門の木の 阿房鴉も 初声ぞ       一 茶

    大雪の はたとやみけり 初鴉      月 嶺

    鱈(タラ)架けの雪に 鴉が黙りゐる   亜 浪

    初雀 一つ遊べる 青木かな       春 草

 公園を歩いていての一句。

    浮島や 雪吊り松の 初あかり     耕 治

          (私の歳時記・10)

2017/06/16(Fri)  1719
 
 暇つぶしに、女流の句にあたって見た。いい句が多い。

      雪降るや 小鳥がさつく竹の奥     多代

      初雪や 松のしずくに残りけり     千代

      草の戸や 雪ちらちらと夕けぶり    よし女

      雪ふんで 山守の子の来たりけり    なみ

      雪ひと日 祝いごとある出入りかな   はぎ女

 ほとんどが江戸の女流ばかり。現代の、中村 汀女を並べてみよう。

      雪しづか 愁なしとはいへざるも    汀 女

 私も、ときどき俳句を詠む。もとより、老いのわざくれ。去年は、

      立冬に 九十翁の立ち眩(くら)み

 今年はろくな俳句もできない。

      (私の歳時記・9)

2017/06/04(Sun)  1718
 
 冬の公園。
 たくさんの渡り鳥が、池に羽を休めている。

 そればかりか、カラスやハトもこの公園をわがもの顔で縄張りをひろげている。

 私の歩いている公園とは関係がないけれど、

    冬ざれや 小鳥のあさる韮畠       蕪 村

    冬ざれや 水田あたりの 夕烏      迂 呆

    銀(しろがね)のうみ渡(わたる)もや 冬の月  抱 一

 いずれも冬の名句だと思う。
 「抱一」は、むろん、酒井 抱一だが、この句からまったく別の句を思い出す。

    月影や 光あまねく 夏の海       輝 元

 戦国武将、毛利 輝元が、大阪夏の陣に出兵したときの句という。輝元は、関が原の戦いでは、西軍の総大将だったが、大阪の陣では、徳川 家康に加担した。武将としての輝元に関心のない私だが、この句は、スケ−ルの大きいいい句。

     (私の歳時記・8)

2017/05/28(Sun)  1717
 
 小説を読んでいて、すばらしい自然描写にぶつかることがある。


外では雪が弱まり、ときおり紙吹雪のような雪片がはらりはらりと通りに舞い落ちていたが、いつしかぱたりとやんでしまった。向かいの建物の御影石と煉瓦が、まぶしい冬の陽射しを受けてキラキラ光る。みれば雲の切れ間から光線の束が射しこんで、まるで天が祝ってくれているようだった。言っておくが嘘はこれっぽっちも書いてはいない。


 ブラッドフォ−ド・モロ−作、谷 泰子訳、『古書贋作師』(創元推理文庫・2016.6.24.刊行) P.177.原題は「The Forgers」。

 コナン・ドイルなど、有名作家のご真筆を偽造する「贋作師」Forger が後頭部を殴打され、両手首を切断された状態で発見される。二月の雪しぐれと日照時間の短さのせいで初動捜査が遅れる。
 現場には、リンカ−ンのような政治家や、マ−ク・ト−ウェン、チャ−ルズ・ディッケンズなどの直筆の手紙、生原稿、稀覯本などが散乱している。おびただしいコナン・ドイルの書簡なども。

 小説の語り手は、「贋作師」Forger自身。

 その「贋作」を咎めて、正体をあばくという脅迫の手紙が届く。差し出し人は、なんと「ヘンリ−・ジェ−ムズ」だった。そればかりではなく、ほかの有名作家の手跡を模倣した脅迫状が届く。題名の『贋作師』は複数のForgersである。

 この本の書評をするつもりはない。谷 泰子の訳がいい。この作品に描かれるニュ−ヨ−ク州の冬、そしてアイルランドの南部のはげしいあらしなど、小説の雰囲気にぴったりした自然描写。私は、谷 泰子の訳に感心したのだった。
 イエ−ツの詩の一節が使われて、小説のおそろしいム−ドを予感させるあたり、この作家の文学的な教養の深さがしのばれるようだった。

 俳句を思い出した。イエ−ツに関係はないのだが。

    木枯らしや 沖よりさむき 山の切れ      其 角

    虎落笛(もがりぶえ)しきりに星の飛ぶ夜かな  耳 洗

    さびしさの底ぬけてふる しぐれかな      丈 草

 私の思い描く時雨や、あらしは、こんなところだが。

      (私の歳時記・7)

2017/05/22(Mon)  1716
 
 澁澤さんのエッセイから、一昔前の万世橋、昌平橋界隈を思い出した。
 もう誰も知らない昔話。

 このあたり、昔はスジカエと呼ばれていた。筋違と書く。江戸っ子のまき舌では、スジカイになる。筋違橋(スジカイはし)、筋違御門(スジカエごもん)のあった土地で、このあたりは神田見附。原っパが広がっていて、八小路原(ハチこうじはら)、八辻の原(ヤツつじのハラ)と呼ばれていた。
 すぐ先に須田町、秋葉原(あきバッパラ)がひろがっている。

 今は、もう秋葉原(あきはばら)の電気街、あるいは、AV、ポルノ専門のビルなどが建っている。

 昔は、ここを起点にして、日本橋、内神田、小川町、柳原土手、外神田、下谷、湯島、本郷など、それぞれに道が通じていた。おそらく、徳川政権の戦略上の要衝だったと思われる。
 こんな川柳がある。

     須田町で見れば なるほど筋違(スジカイ)だ

     筋違(スジカエ)を出ると左に 直ぐな道


 それぞれの道が、筋違橋に対して斜めにむすばれていたので、スジカイと呼ばれたらしい。今でも、地下鉄の「お茶の水」まで、ゆるやかな坂になっているが、壕割りの南側(これも名前が消えてしまったが、江戸では紅梅町という)には忍者屋敷が連なっていた。

 ただし、後ろの句には別な含意があるので、注意しよう。

 神田川から昌平橋か筋違御門を通ればすぐに八辻ノ原だが、この界隈は盛り場で、酒や料理を出す茶店、屋台が並んでいた。当然、辻講釈、祭文語り、砂絵といった大道芸人が集まるし、今のAKB48の遠い先祖のような綺麗どころがしゃなりしゃなりと歩いていた。うっかり読むと気がつかないが――「左にまっ直ぐな道」は、かなり意味シンなのである。

 明治6年、筋違御門の石垣を利用して、あたらしい橋がかけられた。これは、明治天皇の東京(当時は、トウケイと発音されたらしい)遷都後の世情安泰を願って、万代(ヨロズヨ)橋と命名された。
 万世橋とかわったのは、天皇を「万世一系」とする国民感情と無縁ではない。

 この橋は、石のア−チが二つつながっていた。片方が「太鼓橋」、もう片方が「メガネ橋」と呼ばれた。
 明治39年に、神田川の上流に鉄橋がかけられて、石橋は姿を消す。昌平橋は、明治6年の洪水で流失し、この39年にようやく再建された。

 おかしな話だが、私は中学生のときから「戦後」にかけてほとんどを神田で過ごしてきた。それこそ古代史の化石のような人間なので、このあたりのたたずまいはまだ記憶にとどめている。
 JRのお茶の水駅の東口、昌平橋から、神田川にかかる地下鉄の線路を見下ろすと、もう誰も知らない江戸の風景がわずかに見えてくるような気がするのだった。

    寒月や 我ひとり行く 橋の音   太 祇

          (私の歳時記・6)

2017/05/14(Sun)  1715
 
 ある日、渋澤 龍彦が、たまたま買ったばかりのフランス語の本を見せてくれた。そのことを、私が座談会でしゃべっている。

 中田  いつかご自分の買った本を見せてくれた。ぼくなんか読めない本だけど、渋沢
    さん、それはそれはうれしそうなの。中世の秘蹟か何かの研究書だったけど、そ
    の本を手にしてることがもううれしくってたまらないの。ぼくまで、うれしくな
    ってくるようで、ああいう渋沢さんはすばらしいなあ。
 高橋(たか子) 子供が自分のもっているオモチャを、友達に喜んで見せるように、ニ
    コニコしてお見せになりますね。
 中田  お人柄というより、何か純潔なんだなあ。ぼくが(渋沢邸の)壁にかけてある
    絵を見ていると、それがうれしいみたい。ぼくは好奇心がつよいので、無遠慮に
    ジロジロ見るんだけど、渋沢さんはそういう無遠慮が恥ずかしくなるほど、やさ
    しいんだ。
 種村(季弘) 垣根を作ってここからこっちに寄せつけないということは、全然しませ
    んね。

 この座談会は、高橋 たか子、種村 季弘、四谷 シモンのお三方、私が司会役だった。(別冊新評『渋澤龍彦の世界』昭和48年10月刊)
 渋沢邸で私の見た絵は、葛飾 北斎。大きな女陰から男が外に出ている有名な一枚。

 人生にはさまざまな偶然がある。澁澤 龍彦と出会えたことは、ほんとうにありがたいことだった。彼の慫慂がなかったら、私の仕事のいくつかは書かれないままで終わったはずである。

 鎌倉の澁澤さんの墓のすぐ近くに磯田 光一の墓がある。
 私は、澁澤さんの墓に詣でたときは、かならず磯田君の墓前に詣でることにしていた。

    年々に 思いおこすや 初しぐれ

                (私の歳時記・5)

2017/05/10(Wed)  1714
 
 渋沢 龍彦に「神田須田町の付近」というエッセイがある。
 書き出しは――


    いまは路面電車は廃止されて通っていないが、かつて都電が東京の街をはしって
    いたころ、神田須田町の停留所は都電の交又点に位置していて、よく乗換のため
    に乗ったり降りたりしたものであった。戦前には、近くに広瀬中佐の銅像が立っ
    ていて、子どもの私は電車で通るたびに、ちらりと窓から銅像を眺めなければ気
    がすまなかったものである。

 少年時代の渋沢さんは、滝野川に住んでいた。

 滝野川といっても、駒込の近くだったから、都電はいつも神明町の車庫前から乗って、千駄木町から池ノ端、上野に出て、万世橋、そして須田町というコ−ス。
 私は、本所に住んでいたから、柳島から出る都電で、押上か業平橋から須田町行きに乗って、上野広小路から、黒門町、万世橋、そして須田町に出る。
 須田町で渋谷行きに乗り換えて、駿河台下まで。約5分。

 こんな文章を読むと、なつかしさがこみあげてくる。
 渋沢さんは書いていないが――広瀬中佐の銅像が立っていたのは、須田町のひとつ手前の万世橋だった。

 明治37年(1904年)2月、日露戦争が起きた。
 2月24日、日本海軍は、第一回、旅順港閉塞作戦を行う。つづいて3月26日、ふた
たび旅順港閉塞作戦を行ったが、海軍少佐、広瀬 武夫が戦死した。
 広瀬は最後に撤収しようとした部下の杉野兵曹長の所在がわからなくなって、船艙に降
りようとして被弾、即死した。中佐に昇進する。
 広瀬中佐の銅像は、上部に中佐が仁王立ちになり、下から兵曹長が見上げているポ−ズ
のもの。敗戦後すぐに処分された。

 中学生の私も電車で通るたびに、電車の窓からこの銅像をかならず眺めたものである。

 少年時代、私は渋沢君とおなじ路線の電車に乗ったわけではないが、一度ぐらい須田町
ですれ違ったことはなかったか。そんな、たあいのない空想が楽しい。

    三月や 冬のけしきの 桑一本      丈 草

                (私の歳時記・4)

2017/05/02(Tue)  1713
 
 私のメモ。

 トランピ−の「ねこ撫で声」のおかげで、イヌとネコの飼育の実態調査に話が移る。

 現在の日本でのペット飼育数は、昨年10月現在で、

     イヌ      987万8千匹
     ネコ      984万7千匹

 イヌのほうが、わずかにネコを上回っている。
 この10年で、ネコの飼育数は、だいたい横這いに近い。これに対して、イヌは、2008年にピ−クに達したが、4分の3に減少している。
 ペットを飼う世代の高齢化や、男女の共働きの増加、変化の影響が見られる。
 犬種も、そのときどきの流行や、建築、住宅事情によって変化して、大型犬が減少し、チワワ、トイ・プ−ドルといった小型犬が増える傾向にあるという。

 平均寿命は、

     イヌ   14・36歳
     ネコ   15・05歳

 この調査は、ペットフ−ド協会による。(「読売」17.1.18)

 犬と猫の出てくる俳句は、たくさんある。昔から、イヌ派とネコ派がせめぎあっていたのかも知れない。

    御火たきや 犬も中々 そぞろ顔      蕪 村

    永き日を 寝てばかりゐる 盲犬      鬼 城

    春雨や 障子を破る 猫の顔        方 丈

    寝て起きて 大欠伸して 猫の戀      一 茶

 「春雨に降り込められて徒然なる日、障子を破って猫が顔を出すのは、俳味横溢して面白い。」と柴田 宵曲はいう。蕪村のイヌの表情も、鬼城のめしいた老犬のあわれも、一茶のネコも、まさに俳味横溢しているだろう。

 大正時代と元禄の句を並べたのは優劣をきめるわけではない。
 「戦後」すぐの中村 汀女の句もあげておこう。

    恋猫に 思ひのほかの月夜かな

 この句に、1948年の敗戦日本の性風俗を重ねて読むのは私だけだろうナ。

                               (私の歳時記・3)

2017/04/24(Mon)  1712
 
  私のメモ。

17年1月21日(土)、ドナルド・トランプが、アメリカ合衆国第45代大統領に就任した。日本では、時差のため、深夜過ぎにライブで放送された。私はドナルドにほとんど関心がないのだが、オバマの就任式とどれほど違うのか見届けたかったので、この放送を見た。
 就任直後に、ドナルドは「アメリカ・ファ−スト」を語り、外交・経済において国益をなによりも重視する立場を鮮明にした。
 その演説は16分間、じつにわかりやすい内容で、ドナルドの頭脳の単純さがつよく印象された。このグ−フィ−・プレジデントは、「アメリカ・ファ−スト」、アメリカ、アメリカを30回もくり返している。いい気なものだ。
 「グ−フィ−」が、アメリカの労働者の一部の雇用を確保することは間違いないが、アメリカ人全般の家庭に恩恵をもたらすことはない。早晩、「グ−フィ−」に対する失望や反感がひろがってくるだろう。

    死んだかとおもへば戻る 男猫       五 明

 五明は、蕪村と同時代の俳人。

    いずれもの ねこ撫で声に としの暮れ   嵐 雪

                             (私の歳時記・2)

2017/04/18(Tue)  1711 私の歳時記 1
 
 以下は、私のささやかなメモのようなものである。
 しばらくブログに何も書かなかったので、今年になってから、思いつくままに書きつづけていた。(2017年1月21日、前書き)

 2017年1月20日(日本時間で21日)、ドナルド・トランプが、アメリカ大統領に就任した。その得意や思うべし。
 Trump’s Triumphである。

 おなじ日、トランプの就任に抗議する「女性の行進」が、おなじワシントンで行われた。参加者は、マドンナ、スカ−レット・ヨハンソンをはじめ、約50万人。反トランプのデモは、全米各地のみならず、ロンドン、ベルリンなど、70カ国以上、全部で670カ所で開催されたという。

 反トランプ感情について――数年前まで何も知らなかったが――ふと思い出したことがある。

 私の好きなTVミュ−ジカル、「SMASH」の第9話、「Hell On Earth」に、「シュ−バ−ト劇場」の舞台ミュ−ジカルが出てくる。ヒロインの一人、「アイヴィ−」がコ−ラスガ−ルとしてショ−に出ているのだが、その歌詞に――「共和党だろうが、民主党だろうが、死ねば誰もが『最後の審判』にかけられる」。ジャンヌ・ダ−クは火刑になったし、ナポレオンは失脚した。「ドナルド・トランプ」だって、ビジネスに失敗して、「最後の審判」にかけられるかも知れない、という内容。

 トランプが、大統領選挙に出馬する前の2013年のこと。私は、このミュ−ジカルで、ブロ−ドウェイの反トランプ感情について知ったのだった。

 トランプの発言は、世界的に大きな反響を喚び起こしている。私がひそかに注目しているのは、ドイツのトランプに対する反応である。「ビルト」は、「トランプの登場によって、世界は極度に複雑化する」という見方をとり、国家主義の悪夢がトランプ政権との信頼関係を構築する障害になると指摘している。
 (私もまったく同感である。トランプの登場は、いろいろな点で、アドルフ・ヒトラ−の政権掌握に似ている。後記)

 トランプの就任の翌日、ドイツのコブレンツで、極右政党、「ドイツのための選択肢」(AfD)のフラウケ・ペトリ−共同党首が、移民受入れ停止や、人種差別を昂言している。こうした発言から、ヒトラ−の登場した時代をつよく思い出すのは、私ひとりだろうか。

 ひょっとすると、ドナルドは自分をヒトラ−の再来と認識しているかも。少なくとも自分がアメリカ皇帝に即位したぐらいに思っているかも知れない。

 トランプの閣僚人事をながめるだけで、この大統領の「グ−フィ−」ぶりが見えてくる。これまでのアメリカの歴史のなかで、トランプほど、大富豪や、実業家、金融機関のトップを閣僚に起用した大統領はない。これは大いに注目していいと思う。国務長官に、石油の「エクソン・モ−ビル」の会長、兼CEO(最高経営責任者)、レックス・ティラ−ソンを起用したのも、その一例。
 令嬢、イバンカの夫、ジャレッド・カシュナ−を、大統領上級顧問としてホワイト・ハウス入りをさせた。露骨なネポティスモ(親族優遇)というべきだろう。

 ただし、残念ながらトランプはアメリカ合衆国「初代」皇帝にはなれない。

 1859年から1880年まで、アメリカ合衆国には皇帝が実在している。ジョン・エブラバム・ノ−トンである。皇帝の即位は、「サンサランシスコ・ブレティン」(1859年9月17日)に、「勅命」によって公表されている。
 したがって、トランプは、「初代」にはなれない。(笑)

    はる寒く 葱の折れ伏す畠かな      太 祇

 トランプにはまったく関係がないが、そんな句を思い出す。

    春寒し 風に暮れたる 藪の月      蘇 山

  
                 (私の歳時記・1)

2017/03/30(Thu)  1710
 
 私のブログ、アクセス数が10万に達した日、私としてはめずらしい集まりに出席したのだった。

 じつは「日本推理作家協会」主催の「土曜サロン」で講師をつとめた。
 この土曜サロンは「日本探偵作家クラブ」の頃に江戸川 乱歩が中心になってはじめられた「土曜会」が前身だが、「推理作家協会」になってからは南青山で「土曜サロン」として現在、年6回、開催されている。
 石井 春生さんをはじめ事務局の方々にお世話をいただいた。

 テ−マは私の任意ということなので、私がミステリ−の翻訳をはじめた「戦後」のミステリ−の状況や、翻訳についての回想といったことにしていただいた。
 いまから、70年近くも昔の話なので、あまり興味をもつ人もいないだろう。当時、ミステリ−の翻訳をはじめていた人たちのほとんどが鬼籍に入っている。したがって、もう誰の記憶にもないようなことを話す程度なら許されるかも知れない。

 「土曜サロン」での私の講演は、戦前から日本の推理小説を読みつづけてきた少年が、「戦後」になって、文学批評をめざしながら、ミステリ−をはじめ、ひいては、SFから怪奇小説、歴史小説などの翻訳をつづけたことを中心に、「戦後」のある時期までのアメリカのミステリ−の変化を述べることになった。

 正直にいって、当日、私自身は健康状態に懸念があった。なにしろ老いぼれのもの書きなのだから。
 とにかく足もともおぼつかないので、親しい友人2人にお願いして同行していただくていたらくであった。

 付添ってくださったのは、旧知の作家、山口 路子さん。そして翻訳家の田栗 美奈子さんのおふたりだった。
 山口さんは、美術関係の著作に、『美神(ミュ−ズ)の恋〜画家に愛されたモデルたち』、小説『軽井沢夫人』、『ココ・シャネルという生き方』をはじめ、オ−ドリ−・ヘップバ−ン、エディト・ピアフ、ジャクリ−ン・ケネディなどのライト・レヴュ−、最近作は『マリリン・モンロ−の言葉』などで知られている。
 田栗さんは、高名な翻訳家で、デイヴ・ペルザ−の『Itと呼ばれた子』、ジョン・バクスタ−の評伝『ウディ・アレン・バイオグラフィ−』、マイケル・オンダーチェの『名もなき人たちのテーブル』など。
 私の講演のあと、出席者の質問でも、おふたりに発言していただいた。これも、私にとって大きな喜びになった。

 残念なこともある。「土曜サロン」の当日、これも翻訳家の青木 悦子さんに再会できるはずだった。
 実をいえば、この「土曜サロン」の集まりで私がレクチュアする話は青木 悦子さんが打診してきたのだった。私が、「土曜サロン」に出席するときめたのは、悦っちゃんに再会できることを、ひそかに楽しみにしたからだった。その青木 悦子が欠席という。ほんとうに残念なことだった。

 さいわい、なんとか話を終えて、いろいろな質問にも答えることができたのだった。
 ただし、全体に蕪雑なレクチュアに終始したことをお詫びしたい。わざわざ足を運んでくださった方々に、ろくな話もできなかったが、熱心に聞いて頂いたことに感激している。これが、私の最初にして最後のレクチュアになったが、生涯の思い出を頂戴したと思っている。

 この3月18日(土)は、私にとって忘れることのできない一日になったのだった。

 じつは、私のブログ、アクセス数が10万に達した日、そして私としては生涯最後となる「土曜サロン」の集まりに出席した日、私は、おのれの人生でもっとも過酷な時間のさなかにあった。
 付添いのおふたりにも伏せていたが、この日のできごとのすべてが、夢のようだった。それもひどく悪い夢で、レクチュアしながらも、おそろしい、まがまがしい夢にうなされているようだった。

 講演を終わって、「推理作家協会」の作家たち、事務局のかたがたの見送りを受けながら、黄昏の表参道を往来する車を眺めながら、私はしばらく佇ちつくした。もう何も考えられなくなった私は、自分を待っている運命の前に、おののきながら立ちつくすよりほかなかった。

 3月23日(木)、午後8時40分、妻の百合子が亡くなった。

2017/03/20(Mon)  1709
 
 3月のある日、田栗 美奈子から電話があった。このブログ、アクセス数がついに十万の大台を突破したことを知らせてくれたのだった。自分でも信じられないアクセス数であった。

 もうすでに書いたことだが、私のブログ、「中田 耕治ドットコム」は、偶然にはじまったのだった。
 私にブログを書くことをすすめてくれたのは、田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりで、何も知らない私のためにいろいろと準備してくれたのだった。一方で側面から私を助けてくれたのは、真喜志 順子だった。この三人のお力添えに、あらためて感謝している。
 これほど長い期間にわたって、ブログを書きつづけるとは考えもしなかったが、そのときそのときに私の内面にあったテ−マを書きとめておくことは、けっこうたのしい作業になった。

 ブログを書きはじめた時期の私は、今ほど老いぼれてはいなかった。アクセス数など、考えもしなかった。ただ、私のブログは、一日きざみで自分の老いを見つめてゆくものになったはずである。
 もう数年前だが、友人の人形作家、浜 いさをが、私のブログを読んでくれたが、
 「地味だなあ!」
 といった。
 むろん、軽蔑のことばではなく、私のブログの貧しさに心から驚いたようだった。

 私自身が内向的で地味な性格なのだから、ブログが地味でも仕方がない。おのれの鬱屈した思いを文章にしたつもりもなかった。あるいは、自分の日々の感情を克明に記録すれば、アナイス・ニンの「日記」のような日記になったかも知れないが、はじめからそんな意図はなかった。
 ただ、未知の誰かが私のブログを読んでくれるかも知れない。そんな期待はあった。
 個人的に面識はなくても、私と似たような文学的な好みをもっている人たち、あるいは、個人的に私と親しい友人たちにあてた近況報告のようなものを発信するだけでよかった。
 だから、ときどき、私の知らない不特定多数の読者がこのブログを読んでいてくれると知って驚いたり、喜んだりしたものだった。

 「中田耕治ドットコム」には、自分の心をかすめるものごとについて、書きつづけた。
 今にして思えば――田栗 美奈子と、吉永 珠子のおふたりが私の目をブログというあたらしい世界に向けてくれたのは、当時の私が何も書かなくなることを心配してのことではなかったか。
 私は、おふたりの好意をありがたく思っている。
 ブログのアクセス数が10万に達しようとしている。それをわがことのように喜んで、声をはずませて知らせてくれた田栗 美奈子と、吉永 珠子に感謝している。

2017/03/06(Mon)  1708
 
 どういうものかブログを書く気にならない。何か書いても、どうもおもしろくない。
 別にスランプというわけではない。画家のマグリットは、アトリエももたず、キッチンで絵を描くような日々を過ごしていたという。彼が描いていたのは、誰も描くはずのない、奇妙な絵ばかりだった。

テレビ。これまで一度も見たおぼえがない筬という漢字を覚えた。ノ−ベル賞の授賞式に、ストックホルム大学の学生組合が、会場に旗を立てて参加する。歴史ある旗だが、これが傷んできたので、ストックホルム大学が日本の職人に新しく織らせることを依頼した。

 日本の職人は、じっくり研究して、まず、この生地の糸が山繭であることをたしかめる。しかも、この糸は、4本で撚糸をして、これを金に染めて織りあげるのだが、横糸に縦糸を織るときに職人が筬ベラを使って布に仕立ててゆく。この作業をじつに1万4千回くり返す、という。
 日本の職人のわざに、ストックホルム大学側も感嘆していた。むろん、私は日本の匠(たくみ)の技に感動したのだった。

    おさ【筬】織機の付属具。タテ糸の位置を整え、ヨコ糸を織り込むのに用いる。
     竹の薄い小片を櫛の歯のように列(つら)ね、長方形のワクにいれたもの
    (竹筬)であったが、今は銅または真鍮の偏平な針金で製したものを多く用いる。

 「広辞苑」の説明。これだけの説明で、執筆者の苦心がよくわかる。ただし、一読してすぐに「おさ」の形状がわかるわけではない。竹ベラの片面を櫛の歯のようにして、糸をしごく道具と説明したほうがわかりやすい。
 一つ、勉強になった。さらに、「広辞苑」の説明で、別の項目、「おさ」の意味を知っ
た。

   おさ【訳語】外国語を通訳すること。また、その人。通訳。通事。通弁。〈霊
   異記(上)訓釈〉

 私は、翻訳家のはしくれだが、通訳はできない。通訳めいたことは何度か経験したが、いつも冷や汗ものだった。
 通訳を「おさ」というのか。「広辞苑」のおかげで、また一つ、勉強になった。

2017/02/13(Mon)  1707
 
 夜、テレビ。リ−マン・ショックで失業し、YouTubeで日本の椎茸栽培に関心をもっているアメリカのオジサン、ジェレミ−・マックアダムズ。現在、栽培の原木2000本で、ささやかながら椎茸を近隣にひろめようとしている。テレビ東京の番組が、このオジサンを日本に招待する。日本の椎茸栽培で10年連続で農林・水産大臣賞を受けた大分の農家、小野 九州男さんに紹介する。小野さんの栽培の原木は3万5000本〜4万本。春秋に収穫して、最高の品質の椎茸は、2万円の高値で売られている。オジサンは実地に小野さんの指導を仰ぐ。
 ポ−ランドで弓道の修行をしている女子大生を招待したり、アメリカで錦鯉を飼っている女子高生を招待して、新潟の業者の鯉の飼育を見学させたりする番組で、私は毎週この番組を見ている。今回も、原木を立てた椎茸栽培で、自然光をいかに採り入れるかを体験するために、杉の枝を間引いて光を調節するなど、日本人の知恵を惜しみなくアメリカの農家のオジサンに教えている。日本の伝統や文化が、こうしたかたちで外国人に理解されてゆくことに感動した。
  (16.10.28/金)

2017/01/23(Mon)  1706
 
 俳優、平 幹二郎が亡くなった。享年、82歳。自宅の浴室で倒れたという。
 ヒラミキは「俳優座」の養成所で私のクラスに出ていたので、その頃から知っているが、仲代 達矢ほど身近にいたわけではない。後年の「鹿鳴館」や、「王女メディア」などは見ているので、いい俳優だと思っていた。
 演出家の蜷川が亡くなって、ヒラミキが亡くなった。私はまったく無関係な世界ながら、うたた感慨を催す。

 「やっぱり長生きするってスゴいことなのよ」と、家人がいう。
 「そうかも」と私は答える。お互いに、ヨタヨタしている老夫婦の対話。

 夜、平 幹二郎の出ているDVDを見たかったが、一本ももっていない。その代わりというわけではないが、「SMASH」9話、「Hell on Earth」を見た。私の好きなシ−ンを。
 舞台で失敗した「アイヴィ−」を追って「カレン」がブロ−ドウェイの雑踏を行く。

 ふたりがジンを飲んで、ほろ酔いで、ブロ−ドウェイの雑踏のなかで歌う。私が、いちばん好きなシ−ン。

 あの雰囲気が、かつて「俳優座」養成所のあった六本木に似ているのだった。あのブロ−ドウェイの雑踏も、「アイヴィ−」や「カレン」のようにまだ無名の女優たちがあふれていた宇田川町界隈に似ているような気がして。

 いつの時代でも、芝居の世界は「Hell on Earth」なのだ。

2017/01/09(Mon)  1705
 
 いよいよ最後に、ベスト・スリ−。

 (3) 松茸の土瓶蒸し  在日外国人がもっとも気に入った日本食のベストテンに、カツオのたたきを選んだことに、私は感動した。
    そして、三位に松茸の土瓶蒸しを選んでいる。戦後、外国人の日本理解がここまで到達しているのは驚きだった。
    しかも、出汁はカツオ、という。

 (2)栗ごはん  栗ヨ−カンもあわせて。ようするに、クリが好きということだろう。パリで食べた石焼きマロンもおいしかったが、外国人が栗ごはんをおいしいと思うのは、まぜごはんをおいしいと思う味覚のせいだろう。もう少し時間がたてば、「落ち栗や明日は秋なき山の鐘」(多代)とか、「落ち栗をひろうて近く乳母が里」(まさ子)といった風情も理解してもらえるかも知れない。
    もっとも、それより早く日本人のほうが、そんな心情を理解できなくなっているだろう。ハロウィ−ンに仮装をして渋谷にくり出す群衆の雑踏をみれば、私のいいたいことは想像できるだろう。日本人の「オバケ好き」はおもしろいが、ことのついでに、(栗ヨ−カン)のTreat(おもてなし)でもしてやったらどうだろうか。

 さて、いよいよベスト・ワンが登場する。

 (1)サンマの塩焼・大根おろし  サンマにフリ塩。浸透圧でうまみが出る。今年は夏の異常気象や、中国漁船の乱獲の影響で、サンマも不漁だったらしい。おかげで、こちとら庶民はサンマもろくに食べられなくなっている。それでも、外国人が大根おろしでサンマをいただくなんざ、外国人も和食の魅力に気がつきはじめた、どころではない。えらくイキな話だねえ。

 このリストを見ていて、つくづく私は日本人でよかったなあ、と思う。

 ただし、まだ外国人の手の届かない食べ物があるらしい。たとえば、

    アンコウの味知らぬなり フグト汁    つた女

2016/12/28(Wed)  1704
 
 在日外国人に簡単なアンケ−ト形式で、気に入った日本食のベスト・テンを選んでもらうテレビの企画。そのベスト・トウェンティ−に興味をもったので、かんたんなコメントをつけて書きとめておく。これから、ベスト・テン。

 (10) 焼きイモ  草箒で落ち葉を掃く。いくらかうず高くつもった落ち葉のなかに、サツマイモを2.3本、投げ込んで、火をつける。「煙らせて炊き捨てしワラや今朝の冬」(つた女)。ホコホコした焼きイモができている。今はもうそんな風景もみられなくなった。

 (9)牡蠣  パリ。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、あるいは、アナイス・ニン、ヘンリ−・ミラ−の描いたパリ。私の知っているパリは――現在のように、高層ビルが立ち並ぶプラス・ディタリーや、戦後の大統領の名をいただいたヴァンサン・オリオ−ルの高架線のシュヴァルレ、ナショナルの新しいビジネス街のパリではない。パリは変わった。だが、かわらないものもある。
    カキ。ノルマンデ−のカキが壊滅的な被害をうけたとき、日本からヒロシマのカキが送られたことを思いだす。

 (8) 焼ナス  長ナスの漬物が好きだが、焼ナスはあまり好きではない。「秋風に花の散りける茄子かな」(とき)。赤ミソが好きだが、白ミソはあまり好きではない。何か関係があるのかな。

 (7)イクラ  スジコのほうがいい。むろん、バラバラのイクラも好きだが、スジコを口に入れて、スジの部分から粒々をしごき落とすのがいい。粒々だけなら、キャビアのほうがいい。

 (6)里芋の煮物  子イモの六方剥き、火にかけてアク抜き。ミソ汁はマゴイモを選ぶ。キヌカツギもおいしい。

 (5) ぎんなん  土瓶蒸し。いろいろな具のなかにいて、ギンナンは、翡翠だったり、トパ−ズだったり。

 (4)カツオのたたき  それも、9月の戻り鰹、ワラで焼いたもの。在日外国人がもっとも気に入った日本食のベストに、カツオのたたきを選んでいる。このことに私は感動した。

2016/12/22(Thu)  1703
 
 ブログを書く気にならない。何か書いても、どうもおもしろくない。      
                                      
 何を書いてもおもしろくないときは、どうすればいいのか。          
                                      
 対症療法は、いくつもある。                        
 おいしそうなことを書けばいい。あとになって、読み返す楽しみが生まれるかも知れないから。                                
 旅行者だけでなく、在日外国人に簡単なアンケ−ト形式で、気に入った日本食のベスト・テンを選んでもらうテレビの企画を見た。そのビリング、というか、ベスト・トウェンティ−を記述しておこう。逆順で。                  
                                      
 (20)ししゃも――これからの季節、酒の肴に最高だねえ。私は、大学の講義のあと、親友の小川 茂久といっしょに、駿河台下の居酒屋、「弓月」で、酒を酌み交わすのが習慣だった。お互いに何を語り合うわけでもない。親しい友人と酒を飲む。これほど楽しいことはなかった。小川は、いつも湯豆腐、私はシシャモときまっていた。

 (19)舞茸――マイタケにヒジキ、エダマメ、鳥肉のまぜゴハン。(好みによっては、エリンギも)これを、オニギリにする。味のベ−スは醤油。けっこうおいしい。「ハツタケの香に降り出すこさめかな」(智月)

 (18) おはぎ――オハギはどうして「おはぎ」なのだろうか。もともと萩のもちだが、接頭語をつけたのは、日本人のこころばえに違いない。多分。ボタモチが、もともとの牡丹餅の語感を失ったのと何か関係があるのか。私は、オハギが好きなのだが。

 (17)自然薯・とろろ――ヤマノイモ、ナガイモ、ツクネイモ。麦とろで有名な東海道、丸子宿のトロロを食べたことがあった。その後、鈴鹿のイセイモのトロロを食べて、鈴鹿のトロロのほうが、ずっとおいしい気がした。

 (16)サバ――サバは、おいしいサカナだが、カツオの生き腐れとおなじで、腐敗が早い。前の日に冷凍して、翌朝、新聞紙、ビニ−ルにくるんで、登山する。山頂で、これを焼いて食べるのだが、とてもおいしい。大根の切れっぱしか、ダイコンオロシももって行く。醤油はビニ−ルのフィルム缶に入れて。こんなコトも昭和の登山スタイルになってしまったなあ。

 (15) カボチャの煮もの――あまり好きではない。戦争が終わって、ひどい食料難がやってきた。田舎に買い出しに行ったが米が買えずに、カボチャを二個売ってもらった。そのときの苦い思い出がのこっている。

 (14)蓮根――私の大好きなテンプラは、レンコン。あるホテルのテンプラ屋に通いつめたことがある。私の顔を見ると、すぐにレンコンを出してくれるようになった。そのホテルのバ−に行くと、バ−テンダ−はきまってフロ−ズン・ダイキリを出してくれるように。

 (13) 鮭の塩焼き――今では、「お茶漬のもと」といった インスタント食材があるけれど、シャケの塩焼きはけっこう奥が深い。石狩川の河口の近くで、お婆さんが焼いてくれたシャケのおいしかったこと。

 (12)たきこみごはん――野菜でもサカナや肉、何でも炊き込みごはんは好き。ダイコンメシは、うれしくないけれど。

 (11)干し柿――柿の皮を剥き、ワラの紐に通して、軒(のき)に下げる。毎日、寒風にさらされているうちに、白い粉がふきはじめる。すっかり干し上がる前にもぎとって食べてみる。あまくなっている。母に叱られても、干し柿の盗み食いはやめられなかった。

2016/12/20(Tue)  1702
 
 今年の夏、ふと思いついて、エンリコ・カル−ゾ−を聞いてみた。(CARUSO SINGS AVERDI・RCA/BMG)100年も前の録音。メゾ・ソプラノは、エルネスティ−ヌ・シュ−マン=ハインク。カル−ゾ−はたしかに不世出のテナ−だが、今の私にはピンとこない。そこで、「トロヴァト−レ」を聞き終えてすぐに、おなじ「トロヴァト−レ」をプラシド・ドミンゴできいてみた。ズビン・メ−タ指揮。(RCA)やはり、圧倒的にドミンゴのほうがいい。とくに相手がレオンティン・プライスで、声の輝きがすばらしい。ついでに、ミルンズ、コッソットでも聞きなおしてみた。
 音楽の違いばかりではなく、カル−ゾ−とドミンゴを聞き較べる。カル−ゾ−とミルンズ、コッソットとドミンゴを聞き較べる。エルネスティ−ヌとコッソットを聞き較べる。こんなことが、いとも簡単にできてしまうことにいまさらながら感心した。

2016/12/09(Fri)  1701
 
 山口 路子は書いている。

    私はかつて『ルイ・ジュヴェとその時代』を噛みしめるようにして読んだ。

    もうそこには、「知」がぎっしりつまっていて、死ぬほど圧倒されたけれど、私
    にとってなにより魅力的だったのは、書いた人の、中田 耕治のジュヴェに対す
    る想いが、もう、ものすごく強かったこと、それがどのぺ−ジにも溢れていたこ
    と。

    圧倒的な知識にささえられた圧倒的な情熱。

 ありがとう、路子さん。

 きみが、ブログで私の『ルイ・ジュヴェ』を褒めてくれたとき、小笠原 豊樹(岩田宏)が亡くなった。ハンタ−・ディヴィスの『ビ−トルズ』を共訳しただけのつながりだったが、常盤 新平が亡くなったときとおなじように、追悼の思いが深かった。
 思い出したので、書きとめておくが――女優のアニタ・エクバ−グ、ルイ−ズ・レイナ−も、小笠原 豊樹の逝去の前後になくなっている。
 今の私にとっては、残念としかいいようがないのだが――澁澤龍彦、磯田光一、村松剛たち。尊敬する友人たちが、つぎつぎに白玉楼中のひととなった。そして、若い友人、吉沢 正英君(当時、「日経」論説委員)が亡くなったことは、私に大きな悲しみをもたらした。

 そして、いま、私は新しい「仕事」をこのブログで発表する決心をしている。

 11月5日、私をささえてくれた人びと、少数だが、私の「現在」に期待してくれている人びとに読んでほしいと思っている。

2016/12/02(Fri)  1700
 
 山口 路子(作家)が、ご自分のブログで、私の評伝、『ルイ・ジュヴェ』について感想を書いてくれた。もう、2年も前のこと。
 当時の私はこれを読んでうれしかったし、たいへんありがたかったのだが、お礼もいわなかった。もの書きになってから、自分の書いたものが読者に読まれるなどということが、いまだに信じられない。どうかしてほめられたりすると、うしろめたい気がしてならない。

 私がこんな評伝を描いた理由はいろいろあるのだが、その一つについて、ここで書きとめておこうか。

ジュヴェの同時代に生きて、彼の芝居作りをつぶさに見届けたピエール・シッズは、ジュヴェに徹底的な「アルティザン」を見た。ジュヴェの「演出」をささえていたものは、中世いらいの職人が身につけてきた心がまえのようなものと見たのだった。

 私が、ジュヴェを好きなのは、まさにこのところなのだ。ジュヴェは、芸術家としての自負はあったはずだが、実際の仕事、つまり舞台(イタ)の上では、いつも職人であろうとした。シモーヌ・ド・ボーヴォワールなどが、ジュヴェの悪口を書いているが、ああいうお利口さんには、ジュヴェのように、一つひとつ、小さなことに眼をくばり、実際に舞台で動いて、芝居をつくってゆく人間の苦しみも、よろこびもわかるはずがない。
 シモーヌの戯曲など、まったく血の通わない愚劣なものばかりだった。

 私は「戦後」からもの書きになろうと思ったひとりだが、もっとも早い時期にはじめて「ルイ・ジュヴェに関するノート」という評論を書いた。野間 宏が、雑誌に紹介してくれたのだった。むろん、まったく反響はなかった。

 当時の私は、ジュヴェの出た映画、とくに『女だけの都』(ジャック・フェデル監督)や『舞踏会の手帳』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)のジュヴェの「演技」に関心をもった。ある俳優が、どうしてあれほどの迫力で、人間を表現できるのか、という、まことに単純な疑問から出発したのだった。
 映画を見るときに、映画評論家や、演劇史の研究者が映画を見る視点ではなく、そこで、「悪人」がどう表現されているか、ジュヴェという俳優の、静かで、ごく自然な「演技」がどうして、すさまじい迫力をもつのか。それを読者につたえるためには、批評の枠を越えなければならないかも知れないけれど、もの書きとしては、ぜひ手がけてみたいと思ったのだった。

 そのあたりから、私はジュヴェに対する関心をそだてて行った。あえていえば、ジュヴェにたいする信頼と友情とさえいえるものだったと思う。それは、私自身にたいする信頼とアミチエでもあったような気がする。
 私は、一時期、映画や舞台のための仕事、おもに舞台の演出を経験してきた。そして、挫折ばかりくり返してきたが、それでもジュヴェのことを忘れたことはなかった。

 ジュヴェの評伝を書こうと思ったのは、ずっと後になってからだった。あるジャ−ナリストの書いた評伝を読んだが、この評伝は劇作家、ジャン・アヌイとの対立、確執を中心にして、孤高の芸術家としてのジュヴェの肖像を描いたものだったが、私の内部にあるジュヴェとはずいぶん違う感じがした。これを読んだとき、私はジュヴェを描く必要があると思った。
 こうして書きはじめたのだった。

2016/11/13(Sun)  1699 私のキャサリン・マクフィー論
 
     【13】

 「ヒステリア」は、これまでの、キャサリンの「キャサリンらしさ」をかなぐり捨てて、あらたな表現に立ち向かおうとしている。私はそういうキャサリンをじゅうぶんに認めながら、ここまでの自己否定は、むしろ不自然にヒステリックではないか、と見た。

このアルバムは、アーティストとしてのキャサリンの成熟を示しているのか。しかし、さして成功したとはいえないのではないかと思う。私は、このアルバムにあらわれたキャサリンのいちじるしい「変貌」にただただ驚いているのだが。
 その歌詞や、ヒステリックな叫び、ほとんど収拾のつかない焦燥、不安の中に、私はキャサリンの孤独を聞く。

 最後に、キャサリンが書いた献辞を紹介しておこう。
 キャサリン自身が「SMASH」で傷ついたことは、この「献辞」にもよくあらわれていると思われる。

 (私は、かつて「Unbroken」や「クリスマスはアイ・ラヴ・ユーをいうとき」の、キャサリンの献辞を紹介している。これと比較してみれば、あのイノセントなキャサリンは、もはやどこにもいないことがわかるだろう。)

 「私が音楽活動をせずに、ほかの分野で仕事をしていたり、このレコード作りに専念していた時期にみなさんが私をささえ応援してくださるのを感じていました。
 まず、個人的に感謝したいのは、このレコードの企画、製作、エグゼクティヴ・プロデューサー、テレサ・ホワイト。私の人生の21年半を通じて音楽的に助言してくれたばかりか、むずかしい時期にも親友として元気づけてくださって、どんなに助けられたか。自分でも想像以上にいいソングライターに育ててくださったわ。あなたが作詞という世界に私の背中を押してくれたから、いまの私は作詞が好き。イサ・マシンに。あなたは、ほんとうに特別な経験をさせてくれて、大きな創造をさせてくれた。
 ケリー・シーハンに。あの夏、毎日一緒になってくたくたになるまで仕事をしたわね。ロンドンに行ったり、たくさんの才能のある人たちに紹介してくださったことは忘れないわ。トニー・マセラティニ。このレコードのミックスを担当してくれたあなたがた以上のスタッフはいないし、最高のスタッフに恵まれた私は運がよかった。このレコードを出してくださったキャリア・アーティスト・マネージメントのみなさん、WMEのニック・コカス、ゲイル・ホルコム、eONEに感謝。何よりもまず私という人間を助け、関心をもってくださったことに。そして、いつも援助してくれた人達に感謝。人生でこんなにすばらしい人たちにめぐり会えたことに心からありがとう。」

 少女時代、17歳のマリリン・モンローは、痩せッポチで、ヒョロヒョロしていたので、「人間マメ」(ヒューマン・ビーンズ)というアダ名がついた。17歳当時のキャサリンは、思春期にありがちな精神的な不安から過食症になったらしい。
 私はこんなエピソ−ドに注目する。
 こうしたエピソードは――キャサリンの少女期における自意識と、その後のパースナリティー、女優としての成功をめざしてかけ上がって行ったキャサリンの内部にひそむ、ある否定的な自己観 Self=conception の関係を暗示しているような気がする。あのマリリンの場合がそうだったように。

 このアルバムを探して、私に贈ってくれた田栗 美奈子に心から感謝している。きみは最近の私が何も書かなくなっていることを気にかけてくれたのだった。
 きみのおかげで、ささやかながら「キャサリン・マクフィー論」めいたものを書くことができた。
 現在のポップスの世界もよく知らない人間が、その先端に立っているア−ティストについて語るのは無謀だが、私があえてキャサリンに対する批評を試みたのは、きみのひそかな慫慂にこたえるためでもあった。キャサリンの献辞の一節にあったように――「何よりもまず私という人間を助け、関心をもってくださったことに」心からありがとうと申しあげたい。

2016/11/05(Sat)  1698 私のキャサリン・マクフィー論
 
     【12】

 「ヒステリア」のキャサリンは「みずからの危機を表現している」といったが、彼女のなし得たことは、別のいいかたをすれば、ポップスという形式の極限を表現しようとしている、ということ。
 むろん、ほかのシンガ−で、芸術家としての限界に達して、そこからの脱出をめざした例はめずらしくもない。

 エディト・ピアフ、ロックのニコ、さらには、マリアンヌ・フェイスフル。あるいは、香港のアニタ・ムイ。それぞれが、アーティストとしてどんなに悲劇的だったか。
 私は、「ヒステリア」のキャサリンもまた、ピアフ、ニコ、マリアンヌとおなじような「危機」を経験していると思う。

 もっとほかの例をあげれば、エラ・フィッツジェラルド、ジーン・スタッフォード、それぞれ危機を克服できずに去って行ったおびただしい才能たち。
 ドリス・デイ、ジュディ・ガーランド。テレサ・テン、フェイ・ウォン。
 映画での成功と逆比例するように、自分のポップスがかなり急速に下降して、突然、この世を去ったホイットニー・ヒューストン。1999年、16歳で登場、その後、グラミー賞・最優秀楽曲賞など5冠に輝きながら、アルコール、薬物に溺れ、スキャンダルの報道に傷ついて、27歳の若さで急逝したエイミー・ワインハウス。
 数多くの、いたましいアーティストたちの姿が私たちの記憶にある。

 彼女たちは、純粋に声の世界で、いだいな先人たちに類比できる歌を成就しようと考える。克服しようとする意志。創造しようとする渇望。先輩の達したところを越えて、傑出した存在に匹敵しようとするあくなき意欲。
 さまざまな欲望と犠牲。旋律の勝利と災厄。
 問題が自分にとって明瞭になればなるほど、それを解決しようとする努力、その手際と葛藤がいたましく見えてくる。
 このアルバムで、手さぐりの状態で、闇のなかを歩もうとしているキャサリンの勇気と高雅に感嘆する。

 20世紀末に登場したシャンタール・クレヴィアザークは歌った。

     愛が、あなたが生きるために必要なすべてなら
     愛は、わたしがあたえなければならないすべて
     すべてをささげます    「ラヴ・イズ・オール」

 ジョーダン・ヒルは、「ファースト・アルバム」の最初の曲で、

     ここに、私のハートがあるわ、わたしの魂が
     ほしかったら、うばっていいわ
     でも、放さないで
     だって、私のすることなすこと
     あなたへの愛のためだから

 メジャは、「ファースト・アルバム」で「アイム・ミッシング・ユー」と歌う。

     あなたの愛がなつかしい、だってあなたは 去ってしまったから
     どうせ このままつづくはずもなかった
     夏空なんかなんの意味もないわ
     わたしはいつもつよいと思ってきたわ
     自分の内部にあふれてくる思い
     それがわたしのハートを泣かせるの だって

     あなたに会いたいから
     あたしは落ち込んでいるわ
     さみしいから

 ブリトニー・スピアーズは、「サーカス」の「イフ・ユー・シーク・エミイ」If U Seek Amy で、「あなたが憎い、あなたが好き」という。

 キャサリン・マクフィーは、このalbum の最後で「ドント・ニード・ラヴ」(「愛なんかいらない」)という。
  私はなぜか胸を衝かれた。

 キャサリンが、徹底的に「SMASH」のイメージ(「カレン」)を消しているのは、それほどにも深く傷ついたからではないか。

 このアルバムを聞いていると、芸術家は、きわめて不利な条件においても、みごとにはたらく詩的な才能が必要なのだ、ということを感じさせてくれる。このアルバムの全曲が、キャサリンの作詞、または、キャサリンの参加によるものということにおそらくかかわりがある。

2016/10/31(Mon)  1697 私のキャサリン・マクフィー論
 
     【11】

 「唇舐めて」(LICK MY LIPS)は、若い娘のエロティックな感情の起伏。「ブレイク」(BREAK)は、傷心を訴えるあまやかなファルセットがすばらしいが、最後にBreak Downするかのように、ブツッと終わる。なぜか、キャサリンの内面にひそむ緊張がまざまざとつたわってくる。いい例が、(7)「アペタイト」のラストで、重苦しいオルガンの重低音がワーッと迫ってくる。
 キャサリンは、こうした曲で、自分の気分や思想の、ひそかなニュアンスをつたえようとしているのだろうか。「ブレイク」(BREAK)「ダメ−ジ・コントロ−ル」といったタイトルも、あきらかに「現在」のキャサリンの内面を物語っている、(作詞はイザベラ・サマーズと合作)。まさしく、キャサリン・マクフィーの「現在」がここにある。

 「SMASH」とはまったく関係がないのだが、(8)ROUND YOUR LITTLE FINGER(作曲・クリストファー・ブレイド)は、失恋の歌。愛する相手が自分に怒りをもっていると知って、「忘れないで、愛する人」と切々と訴える。スキャットからハイ・ソプラノまでの音色の変化が大きく、キャサリンの傑作と見ていい。

 愛の終わり。しかし、最後の曲、(12)「愛なんかいらない」DON’T NEED LOVE(作曲・イザベラ・サマーズ)になる。

 キャサリンは、このアルバムでみずからの危機を表現している。
「ヒステリア」の響きのconstructionがふつうのポップスといちじるしく違っている。
 はっきりいって、無惨なほど孤独な姿をさらけ出している。この「修羅」こそが「ヒステリア」の最大の魅力なのだ。
 それはいい。問題はその先にある。

 私は、「ヒステリア」にキャサリン・マクフィーという芸術家の「危機」を聞く。
 たえずつづく孤独のなかで崩れそうになり、自己崩壊につながるようなピンチのなかで、女としての魂をふりたたせ、「Damage Control」のプロセスを刻みつけようとしている。ダメージを内面でコントロールしようと努力することで、キャサリンは、みずからの危機を表現している。そのあたり、ほとんど比類のない芸術家なのだと私は考えるのだが。

2016/10/23(Sun)  1696 私のキャサリン・マクフィー論
 
     【10】

 このアルバムの全曲、作詞にキャサリン・マクフィーがかかわっている。これまでの作品とちがって、このCDはアーティスト、キャサリン・マクフィーのあたらしい出発と見ていい。
 初期の「Unbroken」(全13曲)も、半数はキャサリンの作詞、または参加曲だったから、「ヒステリア」の全歌詞を書いた(または補作した)としても不思議ではない。
 キャサリンらしい歌としては、(4)の「STRANGER THAN FICTION」からがいい。「私は気がついたわ、後悔していない」という。つぎつぎに「I FOUND……」というフレーズで、自分の孤独な心情を確認してゆく。
 作曲は、「SMASH」の「ファースト・シーズン」(第8話)の「タッチ・ミー」の作曲者(ライアン・テダ−/プロデュ−ス)だった。(ドラマでは、「ボムシェル」の演出家が、「マリリン」のエロティシズムを強調するために、新しい作曲家に依頼して書かさせた新曲で、キャサリン・マクフィーの歌と、猟奇的なダンシングが、エロティックに表現されていた。

 「タッチ・ミー」は、中国ポップス、チベットの歌姫、ダダワの歌に出てくる仏教の声明(しょうみょう)のような連祷(リタニー)がつづく。曲のト−ンは、ブリトニー・スピアーズの(アルバム「サーカス」)の「アムニジア」(記憶喪失)に近い。
 (この「タッチ・ミー」の作曲家、ライアン・テダーただひとりが、「ヒステリア」の「ストレンジャー・ザン・フィクション」の作曲家として起用されていることは興味深い。)

 キャサリンは、アルバム「ヒステリア」で自分が変わらなければと感じていたはずである。だからこそ、ファンがこれこそキャサリンらしい歌と思っている曲は歌わない。
 それもこれも、ひとえにキャサリンが内省的で理知的な女性で、感受性のつよい性格だからだろう。表紙のトリプレックスの「ナゾ」のひとつは、私にはそう読めるのである。

 「ヒステリア」は、過去の自分を一挙に変えようとする果敢な試みだった。

 ただし、「ヒステリア」の弱点は、「SMASH」と、自分のめざすミュージックへの志向の、あまりに大きな乖離に根ざしていると思われる。

 ここまで――私は「ヒステリア」が、キャサリンのどうしても妥協のできない、ぎりぎりの選択であることを認めながら、芸術家としては、むずかしい場所にわれから自分を追い込んだような気がしている。
 新しい領域を手がけようとするキャサリンの意欲のはげしさと、そのために「SMASH」のイメージを必死に消そうとしている姿勢。私は、ここにキャサリンの芸術家としての誠実と危うさを見る。

2016/10/13(Thu)  1695 私のキャサリン・マクフィー論
 
      【9】

 「ヒステリア」、全12曲。

 最初聞いたときは驚いたが、もう1度聞き直して、あらためてキャサリンの志向が見えてくるようだった。

 表題の「ヒステリア」は、熱帯のタムタムのようなドラム、明るいメキシカン・リズムなのに、ひどく暗い感じ、空虚さ、不吉な感じがある。あきらかにキャサリンの内面を物語っているのだが、それにしても「SMASH」の「カレン」とはなんという違いだろう。(作詞はイザベラ・サマーズとキャサリンの合作)。オープニングから「Insane」というフレーズがくり返される。

 キャサリンは自分の内面にきざしている「狂気」をさらけだす。
 それが何なのか、私にはわからない。しかし、自分でもどうしようもない、なにか特殊な考えや観念にとり憑かれて、それが創作につながるのは、すぐれた芸術家においてはめずらしいことではない。しかし、ポップスの世界で、これほど率直に「狂気」を訴える例があったろうか。
 キャサリンは、そこまで自分を追いつめている。と同時に、その苦しみかたは、ポップスという表現形式のなかでは、ドラマティックなほど誇張されている。
 最初の3曲、「ヒステリア」、「羽」、「燃える」は、キャサリンの美しい声、のびやかなファルセット、そして緩急自在なバイブレーション。狂躁。
 ほとんど熱狂的な感じで、強迫的(コンパルシヴ)に流れる緊張と不安。
 キャサリンが、ラテンリズムにつよい関心をもっていたとしても意外ではないが、この「ヒステリア」で、ラテン・テイスト、とくに強烈なメキシコのリズムをトップにもってきたのは意外だった。

 「羽」もラテン系、リズミックで、人生はもっとベターなのに、といいながら、どこかたよりない。「燃える」は、自分は「燃えつきない」といいながら、歌の途中で、モノローグめいたウィスパーで「囚われの女」といった状況が挿入され、しかも遠雷のサウンドトラックが不安をかきたてる。

 この3曲でキャサリンは、われからヒステリー状態に自分を追いつめている、乃至は、ヒステリーに逃げ込んでいる、そんな印象をもったのは私だけだろうか。キャサリンの天分の豊かさは大いに認めるけれど、この3曲には、キャサリン自身の疑いや、苦しみ、ためらい、不安が潜在しているような気がした。

 キャサリンは、このアルバムでみずからの危機を表現している。そのことにおいて、ほとんど比類のない芸術家なのだと私は考える。
 たとえば、八代 亜紀が「涙酒」でヒットを出したあと、しばらく停滞をつづけた。あるいは、藤 圭子の悲劇もまた、みずからの危機とその破綻の例だろう。

 私はキャサリンもまた、おなじような危機をむかえているような気がする。

 キャサリンは「SMASH」で歌ったバラード、アップテンポのトーン、あえかなリリシズムを「ヒステリア」では徹底的に排除している。それは、このアルバム、「ヒステリア」にかけたアーティストとしての自負、ないしは見識と見ていい。
 これほど徹底的に「SMASH」のイメージを消そうとしている姿勢には、どうしてもオブセッシヴなものを感じてしまう。このこだわりは、やはり「SMASH」の「カレン・カートライト」の全否定というべきだろう。
 キャサリンは、「SMASH」で、「カレン・カートライト」という女優、ミュ−ジカル・スタ−の役を演じた。そして、決定的に成功した。
 ふつうなら、新作のアルバムの「音楽性」に、「カレン」的なバラードをとり入れても不思議ではない。ところが、これまでの、キャサリンの「キャサリンらしさ」をかなぐり捨ててまで、あらたな表現に立ち向かおうとする。これほど徹底的に「カレン」的な「音楽性」を峻拒するのは、それこそヒステリックな自己否定と見ていい。
 私は、それを不自然なまでにヒステリックではないか、と見る。

 ここまで、(いわば赤裸々に)自分の不安や、いらだち、焦躁感、あるいは抑鬱感をさらけ出すというのは、アーティストとしてめずらしいほどの強迫(コンパルシヴネス)で自分を追いつめているからではないか。
 おそらく、キャサリンは深く傷ついているのだ。

 このアルバムには、そうした二律背反めいたあやうさがある。

2016/10/04(Tue)  1694 私のキャサリン・マクフィー論
 
     【8】

 まず、アルバムの表紙に驚いた 。

 たいていのアルバムは、アーティストの美しいフォト、おもにポートレートが提示される。マドンナ、マライア・キャリー、シャーリーズ・セロンなどのCDを手にしたとき、私たちは、そのアーティストの表情や姿態と、裏にならべられたタイトルから、その内容を読みとろうとする。

 女性シンガ−のアルバムが、ことさらにエロティックな暗示であることもめずらしくない。例えば、サラ・ブライトマンの「DIVA」は、肩をむき出しにしたサラの横顔のクローズアップだが、現像の途中でフィルムに一瞬、光を当てて、像を反転させソラリゼーションになっている。そのため、サラのエロティックな魅力をうったえかける強烈なポートレートが表紙になっている。そればかりではない。解説にも、サラのほとんどヌードにちかいカットがちりばめられている。

 私たちにとって、CDの表紙は、自分が関心をもったシンガ−をもっと良く知りたいという最初のコミュニケ−ションの手段なのだ。アルバムを手にした瞬間に、そのシンガ−に対する好意、アフェクションがきまるといってもよい。日常の私たちが女性に惹かれるのは、彼女の口のききかたや、ことば遣いなどによるが、CDを買うという関係でも、まず最初のアイ・コンタクトは重要なのだ。

 キャサリンのアルバムに使われた写真は4枚。
 表紙の1枚――「キャサリン」は、からだにぴっちりしたデザビエ(部屋着)を身につけてベ−ジュのベレをかぶってフロアに腹這いになっている。だが、背中を大きく露出している。ただし、片方の乳房を露出しているように見える。じつは、二重焼き付けによる錯覚なのだが、むろん、エロティックなものを暗示している。もっとよく見ると、腹這いになっているキャサリンにかぶって、キャサリンの顔がぼんやりと浮かんでいる。
 私は驚いた。ここに、キャサリンの「現在」が隠されている。
 しかも、よく見れば、なんと腹這いのキャサリンの左肩から乳房(に見える部分)が、これまたキャサリンの横顔なのだった。
 つまり、この表紙には――まるで「だまし絵」(トロンプ・ルイユ)のように、キャサリンの顔が三つ隠れている。
 腹這いのキャサリン、もっと大きいキャサリンの顔、もっと小さい横顔が、三重に重なって浮かびあがっている。バックは、無造作に塗りたくった赤、グリーン、黄色のポスターカラー。

 2ペ−ジ目は、まったくおなじポーズだが、肩をむき出しにしたアンダ−姿のキャサリンが、横顔をこちらに向けている。誰かに声をかけられて、ちょっと横に顔を振り向けた感じ。その流し目の妖艶なこと。下の部分に LICK MY LIPS〔唇を舐めて〕というなぐり書き。

 ウラ表紙(3ペ−ジ目)は、左手をかるく肩にあててその肩越しに横顔をみせているキャサリン。顔以外に、「HYSTERIA」というタイトルが、赤、青、黄色のポスターカラーで書きなぐってある。

 このなぐり書き(スカラボッキャ−レ)は、むろんキャサリンによるもの。
 うまく説明できないのだが――(2012〜13年頃、資生堂の雑誌、「花椿」で、写真家の荒木 経惟が、自分の撮影したモデルの顔や背景に、べたべたと絵の具を塗って発表した。あれと似た写真表現と見ていい。)

 キャサリンの容姿、表情の変化も驚くべきものだった。
 このトライナリ−(三つから成る)イメ−ジは何なのか。(今すぐには思い出せないのだが、アメリカのポップスで、女性シンガ−の誰かのアルバムで顔が二重焼き付けになっていたのがあった。しかし、そのアルバムはキャサリンの「ヒステリア」ほどエニグマティック〔謎めいた〕ではなかった。)

この表紙を選んだのは、当然キャサリン自身だろう。キャサリンは、あきらかに何かを訴えている。
 このトリプレックス(三重)イメージにこそ、キャサリンの「現在」がある。「ヒステリア」はその複雑で異様なヴィスタを物語っている。

 比喩的にいえば「SMASH」の「カレン」は、「キュ−ティ−・バニ−」の「ハ−モニ−」ではなかった。
 おなじように、「ヒステリア」のシンガ−は、すでにして「SMASH」の「カレン」とは似ても似つかぬキャサリンなのである。そういう意味で、このトリプレックス(三重)は、キャサリンの過去、現在、そして未来なのかも知れない。
 あるいは、「現在」のキャサリン、サブ・リミナル(潜在意識)のキャサリン、そして「狂気」と反復強迫の境界領域にあるキャサリンなのか。

2016/09/28(Wed)  1693 私のキャサリン・マクフィー論
 
      【7】

「ヒステリー」というタイトルのアルバムなど、聞いたこともなかった。

 ヒステリーは、精神的な不安や、内面の葛藤(コンフリクト)が、自分でも抑えきれなくなって、そのままからだの病的な症状としてばげしくあらわれる状態。サイコパシイ。ヒステリ−状態になると、はげしい痙攣を起こしたり、過呼吸や、幼児化といった現象が起きるらしい。普通は女性に多く見られるのだが、性的なヒステリアは、個人の性生活にかかわるコンフリクトの結果による。
 ヒステリアということばは、ギリシャ語で子宮を意味するフステリコスに由来する。古代ギリシャ人にとって、女の性生活はヒステリアという副次的なフラストレーションを含意していたためらしい。
 このCDには、キャサリンの精神的な不安、葛藤が、自分でもどうしようもない状態として表現されている。
 もともとヒステリーは、比較的、小さなProvocationに対する過剰に暴力的な反応だろう。たとえば、学校の授業がおもしろくないという理由で不登校や投身自殺をする少女は、ヒステリーと見ていい。

 キャサリンの「ヒステリア」は、こうした「ヒステリー」の不条理を主題にしている。

 全12曲。

2016/09/19(Mon)  1692 私のキャサリン・マクフィー論
 
       【6】

 「キューテイ・バニー」から5年後。
 キャサリンは、スティーヴン・スピルバーグ・プロデュースのTVミュージカル、『SMASH』に主演する。
 TVミュージカル、『SMASH』については、別に書いたことがあるので、あらためてくり返さないが、『ヒステリア』批評のために、最小限、言及しておく。

 2013年、スティーヴン・スピルバーグ・プロデュース/総指揮のTVドラマ、『SMASH』は、視聴者が毎回1千万人を越えたという。ハリウッドのアイコンだった女優、「マリリン・モンロー」の生涯をミュージカル化して、ブロードウェイで上演しようという企画。このミュージカルに、彗星のように登場した女優が、キャサリン・マクフィーだった。日本でもこのTVミュージカルは放送されたが、ほとんど反響はなかった。

 このミュージカル、「ボムシェル」(「爆弾」という意味)の主役、「マリリン」をめぐって、ふたりの新人女優、「カレン」と「アイヴィー」が熾烈な競争をくりひろげる。この舞台化をめぐって、劇作家、作曲家、プロデューサー、演出家、出演者を巻き込んでのさまざまな葛藤が描かれる。(原案は、テレサ・リ−ベック。)

 うだつのあがらないコ−ラスガ−ル、「アイヴィー」を演じた女優、ミーガン・ヒルティーは、実際にはブロードウェイ・ミュージカル、『ウィックド』に主演したほどの舞台女優。これに対して、キャサリン・マクフィーはブロードウェイをめざしている無名の新人女優、「カレン」を演じた。

 アメリカでは「SMASH」(「シーズン1」)が成功した。 このため翌年、「セカンド・シーズン」が登場した。ただし、この「シーズン2」は、ストーリー・ランナーの交代、プロデューサーがあらたに起用されたこともあって、最初から視聴率が伸び悩んだ。観客の共感を呼ばないストーリー展開、さらにキャサリンの身辺をめぐるスキャンダル報道などの原因で、視聴率は最後まで回復できなかった。

 「SMASH」「シーズン1」に出たばかりのキャサリン・マクフィーは――「このドラマへの出演は私にとって大きな飛躍になる」と語った。そして成功した。
 しかし、「シーズン2」のキャサリンは、心ないジャ−ナリズムに スキャンダルを書き立てられて、ひどく傷ついたのだった。マリリンのように。

 「SMASH」「シーズン2」のフロップは、キャサリンの責任ではない。ただ、「SMASH」の成功と失敗は、それ以後のキャサリンに大きな影響をおよぼしたのではないか。

 そして、2015年、キャサリン・マクフィーの新作「ヒステリア」が登場する。

2016/09/12(Mon)  1691 私のキャサリン・マクフィー論
 
     【5】

 シンガ−として成功する一方、女優としての活動もめざましい。
 2007年、映画、「パラマウント・ガール」に出演。おなじく、ミュージカル映画、「クレイジー」に出演している。

 ただし、私がキャサリン・マクフィーを見たのは、残念ながら「キューティ・バニー」(原題The House Bunny/フレッド・ウルフ監督/「ソニー」2008年)だけだった。映画としてはまったくの駄作。どうしようもない駄作だが、こういう駄作に出ていながら、あくまで女優としての輝きをはなっていた。つまり、女優、キャサリンを知るうえでは見ておいたほうがいい。
 「バニー」というタイトルは、男性向けのスリック・マガジン、「プレイボーイ」のオーナー、ヒュー・ヘフナーのマンションで、優雅な暮らしをしている「バニーガール」をさす。かつては飛ぶ鳥も落とす勢いだった「プレイボーイ」のオーナー、ヒュー・ヘフナー自身が出てくるオバカ映画。
 映画の主演兼プロデューサーは女優、アンナ・ファリス。
 タイプとしてはゴールディー・ホーンによく似た喜劇女優だが、ゴールディー・ホーンの天衣無縫な魅力はない。この映画に出たあとすぐに消えてしまった。

 映画の「ハーモニー」(キャサリン)は、頭がカラッポで、大学で寮生活をしているうちに妊娠した女子学生。大きなオナカをかかえて、おヘソをだして、キャンパスをねり歩いている。(キャサリンは、ラテックス製の装具をオナカにつけている。これは別の映画でニコール・キッドマンが使ったものという。)オバカ映画で妊娠した女子学生「役」なんか、若い女優としてはうれしくなかったはずだが、まだ無名だったキャサリンは、こんなバカ映画でも、ハリウッドに進出するためには大きなチャンスと見たに違いない。台詞も少ない役だが、後年のキャサリンを予告するような瞬間がある。よく見ればわかるのだが、キャサリンは、感情の微妙な表現や、心理的な「アンブロークン」(不屈さ、不壊(ふえ))な真実をきらりと見せている。
 「ハーモニー」は歌がうまい女子大生。この映画で、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」を歌う。ただし、キャサリンはマドンナをそのままカヴァ−しているのではなく、たくみに女子大生、「ハーモニー」の表現にしている。(香港ポップスのダイヤオが、デビュ−・アルバムで、山口 百恵の「夢先案内人」を北京語でカヴァ−しているが、キャサリンのマドンナのほうがずっといい。あるいは、「恋する惑星」(「重慶森林」)で、 クランベリ−ズの「ドリ−ムズ」をカヴァ−した王 菲(フェイ・ウォン)の「夢中人」のすばらしさに近いといってもいい。)
 映画のラスト、「I Know What Boys Like」というテ−マ曲を披露するが、これもキャサリンの才能の片鱗をうかがわせるだろう。ただし、この映画のアッパラパ−女子大生から現在のキャサリンを予想した人は誰もいなかったに違いない。

2016/09/06(Tue)  1690 私のキャサリン・マクフィー論
 
      【4】

 シンガ−としてのキャサリンについてもうすこし見ておこう。

 2007年1月、RCAからデビュー。ファースト・シングル、「オーヴァー・イット」は、ポップス部門でトップ30に入った。これは、2010年12月までに、38万1千枚というヒットになった。
 つぎの「ハッド・イット・オール」は、ビル・ボード22位。2011年1月に4万5千枚。

 2010年10月12日、「クリスマス・イズ・ザ・タイム・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー」を出したが、これは、ビル・ボード、トップ・ホリデイ・アルバムになった。
 2011年1月に、ビル・ボード14位。2万3千枚。

 私は、この時期のキャサリンをどう見ていたのか。

 マライア・キャリー、ブリトニ−・スピア−ズ、アヴリル・ラヴィンといったシンガーなどと比較するわけにはいかない。さりとて、ほぼ同時期に登場したジョ−ダン・ヒル、メジャ、シャンタ−ル・クレヴィアザック程度のレベルのシンガ−ではない。はるかにぬきんでた才能だった。
 こういう私の見方を知ってほしいので(少し無理な比較になるが)しばらく前の中国ポップスでいえば――王 菲(フェイ・ウォン)や艾 敬(アイ・ジン)クラスではなく、このふたりに先んじて登場した陳 明(チェン・ミン)、あるいはふたりにつづく那英(ナ−・イン)のような存在とでもいおうか。
 ビンナン語系のシンガ−なら、潘 越雲、陳 淑樺などに対して一歩もゆずらないだろう。キャサリンはそれほどのア−ティストと見ていい。

 私は「オーヴァー・イット」より先の「ラヴ・ストーリー」をふくむアルバム、「キャサリン・マクフィー」や第二作の「アンブロークン」を聞いた。そして確信したのだった。
 私の見るかぎり――キャサリン・マクフィーは、おびただしい有象無象のポップ・シンガ−のなかで、自分の achievement に対する要求が高く、かつ、自分の仕事に対する recognition「個人的な承認」の要求も高いひとり。
 しかも、いつも自分の感情や情緒にまっこうから立ち向かう意欲をもつ。
 それが、キャサリンなのだ。

2016/08/30(Tue)  1689 私のキャサリン・マクフィー論
 
      【3】

 キャサリンがきわめて早熟だったことは、その才能の早い開花にあらわれている。
 2005年、地元、ロサンジェルスで公演されたミュージカル、「アニーよ、銃をとれ」に主演。LAステージ・オヴェーションの「ミュージカル主演女優賞」を受けた。

 私は、キャサリンが「アニー・オークリー」を演じたことに強い関心をもつ。

 説明するまでもないのだが、『アニーよ、銃をとれ』は、「戦後」(1946年)もっとも早く登場したア−ヴィング・バ−リンのブロ−ドウェイ・ミュージカル。
 オハイオ州の田舎育ちの少女、「アニー・オークリー」は、女だてらに銃の早撃ちの名人で、「バッファロー・ビル」のサーカスに入って、アメリカ各地を巡業した。このミュージカルは、(今にして思えば)女性に対する性差別や偏見をはね返しながら生きた女性を描いたフェミニズムの先駆けと見ていい舞台だったが――私たちはベティ・ハットン、ハワード・キール主演の映画で見ている。
 (『アニーよ、銃をとれ』は、もともとはジュディ・ガ−ランドの「アニー」で映画化される予定だったが、ジュディが体調を崩したためベティ・ハットンが起用された。女優、歌手としてむずかしい時期にさしかかっていたジュディは、これより先、「ブロ−ドウェイのバ−クリ−夫妻」でも降りたため、アステア/ロジャ−スに変更されている。この映画は、アステア/ロジャースのチームとしても失敗作で、日本では未公開に終わっている。)

 ベティの「アニー」は、まだフェミニズムなどどこにも見られない時代だっただけに、「男まさり」で型やぶり、やたらに奇嬌で攻撃的な女性に対する「じゃじゃ馬ならし」がテ−マと見えたが、無名女優といっていいベティ・ハットンが、それこそ体当たりの演技で「アニー」を演じてアカデミー賞/ミュージカル音楽賞〔1950年〕をうけている。
 2005年、キャサリンは「アニー・オークリー」で出発した。美貌のキャサリンが「娘役」(ジュヌ・プルミェール)をめざして出発したのは当然だが、「アニー」を演じたことから、二十代を通じて、あるレベルで一貫して「喜劇女優」(コメディエンヌ)として出発したことは幸運だったと考える。
 それと同時に、ミュージカル女優としてのキャサリンが、「ブロンド・ボムシェル」と呼ばれたベティ・ハットンに近い「攻撃性」(Agressiveness)を見せていたと想像する。

 キャサリンの「アニーよ、銃をとれ」は、現在のフェミニズムを背景にしていたはずで、「男まさり」の「アニー」ではなく、女としての自由と独立をめざして、そのぎりぎりまで張りつめた緊張を通して、あえてセックス・アピールを強調することを選ぶ少女として演じたと思われる。女としての欲求や願望、自分の夢を着実に実現しようとする「アニー」は、二十代に入ったばかりのキャサリンにとって、まさにフラワリング、あるいはブラッサミングというべき出発だったに違いない。(ついでにふれておくと、マリリン・モンローのミュ−ジカル、『ショウほど素敵な商売はない』のタイトル・ソングは、『アニーよ、銃をとれ』で使われているミュージカルの名曲である。)

 めぐまれた家庭環境で育ったため、キャサリンは自分にいつも自信をもって、より高い地位や、目標に達しようとする姿勢を身につけた。つまりは――「アニー」のはるかな延長線上に『SMASH』の「カレン」が立っていると見ていいのではないか。

2016/08/24(Wed)  1688 私のキャサリン・マクフィー論
 
      【2】

 キャサリン・マクフィーは、まだあまり知られていないので、まずそのあたりから説明しておこう。
 1984年3月25日、ロサンジェルス生まれ。父はTVプロデューサー。母は元シンガーだったが、キャサリンが芸能界に進出してから、「アメリカン・アイドル」のヴォーカル・コーチをつとめたという。
 シャーマン・オークスのノートルダーム高校を出た。天性の美貌、美声に恵まれた少女はボストン・コンサーヴァトリー(音楽学院/コンセルヴァトワール)のミュージカル部門に進んだ。これだけでも少女期のキャサリンがきわめて恵まれた環境にそだったことがわかる。
 はじめから芸能人たらんとする動機、自意識、さらには対人関係などにおいて、かなり違っていたはずである。ロサンジェルス生まれだったことも、ほかの地方在住で映画や舞台女優をめざす少女たちよりも、はじめからミュージカル女優をめざしただけに、早くから安定した職業的適応力をもっていたはずである。
 おなじロサンジェルス生まれ、たとえばマリリン・モンローと比較しても社交性をはじめ、心理的に人々の注目を惹くようなイニシァティヴな性格だったのではないか。

 キャサリンは、少女期から大きな才能に恵まれていたが、それだけに、ロサンジェルス育ち、ボストンでの音楽教育といった社会的、心理的な雰囲気が、キャサリンのアーティストとしての資質、ひいてはパースナリティー、その後の芸能生活に直接、かつ永続的な影響をおよぼした、と私は想像する。

       (イラストレーション 小沢ショウジ)

2016/08/17(Wed)  1687 私のキャサリン・マクフィー論
 
       【1】
 
 最近の私はキャサリン・マクフィーのファンである。
 キャサリン・マクフィーといっても、ほとんど知られていない。これからも、あまり知られることはないだろう。だからこそ、私はこの女優の熱心なファンであることを隠さない。

 キャサリン・マクフィーのアルバム、「ヒステリア」を聞いた。
 ただし、昨年発表されたものなので、ニュ−ズとしては新しいものではない。あまり評判になったわけでもない。
 このアルバムを聞いた私は胸を打たれた。というより、私の内面にひそんでいたおびただしい疑問が、堰を切ったようにあふれ出してきた。

 つい一昨年までのキャリア−はほとんど順風満帆とみえた女優が、その後、このアルバムを発表するまでどれほどの試練に耐えていたのか。どういう思いで、自分の成功と挫折を乗り越えてきたのか。あたらしい飛躍をめざしながら、どうしてこんな奇妙なタイトルを選んだのか。

 女優としていつも前向きで、果敢なヴァイタリティ−にあふれているキャサリン・マクフィーは、どんなにむずかしい状況に直面しても、けっしてめげずにひたすら困難に立ちむかって行くだろう。そう思いながらも、挫折のあとで、こんな奇妙なタイトルをもったアルバムを、あえて発表したキャサリンにファンとしては驚かされたのだった。

 私がこのアルバムに聞いたものは――いまや三十路に達した女優、キャサリンの芸術家としての成長と、ア−ティストとしての成功と挫折にまつわる孤独な思いだった。
 そうはいっても、わずか一枚のCDをとりあげて、シンガ−の資質、その微妙な変化や可能性を冷静に、いわば客観的に見つめ、このアルバムの魅力と、芸術家が直面している危機的なぎりぎりの状況を分析するのはむずかしい。
 それよりもむしろ、熱心なファンとして、なぜ、このシンガー、女優さんに入れ込んでいるのか、そのあたりを書きとめておくことができれば、それはそれで批評が成立するのではないだろうか。

2016/08/04(Thu)  1686
 
 鉄道を詠んだ短歌は無数にあるだろう。

 たまたま、大島 武雄の短歌を見つけたので、おなじ時期(1933年・昭和8年)に発表された前田 夕暮の短歌を引用する。

    青い地図のなかの白樺は風に吹かれる、山岳鉄道駅の尖った屋根!

    向うにダムがある、ダムがあふれる。雪どけ季節だ レールが光る

    山岳鉄道は地図の上を走る。無蓋車にあふれる若者達の笑ひはじけた顔

 昭和8年、ヒトラーが政権を掌握している。石坂 洋次郎の「若い人」、谷崎 潤一郎の「春琴抄」、川端 康成の「禽獣」などが発表されている。
 小林 多喜二が警察の拷問で非業の死をとげた。

 前田 夕暮は、4年前から口語体の自由律短歌を試作したが、太平洋戦争中に定型短歌にもどっている。理由は――すぐに想像がつく。

    友もわれも もだし並びて 人を待つ 二月の夜のホームの寒さ

    これやこの桶狭間かも 麦畑のなかつらぬきて 電車は走る(旅にて)

 この二首は、大村 八代子の作。残念ながら、この人のことも私は知らない。

    臨港鉄道 終点にして 乗降者なし もの売る店なし 住宅なし

    貨物船 入り来る運河のさきになほ 電車の走る埋立地見ゆ

 この二首は、土屋 文明作。鶴見の臨港鉄道を詠んだもの。10年後に、私は勤労動員で、この鉄道に乗って「三菱石油」の工場に通った。

 今年の3月。北海道新幹線が開通した。
 私の20世紀がまたひとつ終わった。

2016/07/22(Fri)  1685
 
 17年の小さな歴史が終わった。

 2016年3月19日午後、最終の「カシオペイヤ」が、上野駅から札幌に向かった。上りは、20日午後に札幌を出発して、上野着は翌日の午前。これで運行を終えた。

 こんな短歌があった。(読みやすいかたちで引用する。)

    あかつきのプラットフォームに 湯気たてて売り歩く茶を 呼びとめて買ふ

    電灯のいまだともれる朝あけの 駅に下りたち 新聞を買ひぬ

    朝の食堂車の明るきなかに たちのぼる味噌汁のにほひ なつかしきかな

 作者は、大島 武雄。この歌人については何も知らない。
 この短歌を読むだけで――昔の駅の光景や、朝の大気に蒸気を白く吐きながら停車している機関車や、新聞売り場(つまりキオスク)にいそぐ乗客たちの姿が眼にうかぶ。

 昔の鉄道には、乗客の手荷物、トランクなどを運ぶ「赤帽」という職種があった。さしづめポーターというところだろう。赤いキャップ(帽子)をかぶっていた。荷物の運搬だけが仕事ではなく、「エキベン」(ご当地のお弁当)や、お茶を売っていた。わずかな停車時間に、プラットフォームを走りまわって、客の注文に応じて、お弁当や、お茶、ときには、その土地の名産やみやげ物、新聞、週刊誌などを売り歩く。片手に小銭を握って、客が紙幣を出しても、すぐにおつりをわたす。
 どこの駅にも、お弁当や、安物の陶器入りの熱いお茶を売りさばき、いよいよ発車時間になって列車が走り出しても、プラットフォームを駆けずりまわって、まだ車窓から頭を出している客に、品物をわたして対価をうけとる、客あつかいのうまい「赤帽」がいたものだった。

 幼い頃の上野駅の印象がぼんやり残っている。

 発車間際の終列車に乗り遅れまいとする乗客が走り出す。
 「仙台行き……浦和、大宮、宇都宮、白河、福島、仙台行き……」
 ガランとした構内、長いプラットフォームの端から端まで、駅員が声高に叫びながら通って行く。
 幼い子どもにはわかるはずもなかったが、昭和初期、アメリカの大不況の影響をモロに受けて、日本全体に不景気風が吹いていた。乗客は数えるばかり。
 向こうの隅にポツンとひとり。
 こちらに、若い女の子をつれた中年の男が一組。


    日を二日 乗りとほしたる汽車のつかれ 身ぬちにふかくありて ねむれず

 作者は、原 常雄。「覇王樹」の歌人らしい。
 昔の鉄道の旅はたいへんだった。上野=仙台、377キロの距離が12時間もかかったことを思い出す。

 上野と札幌間を往復した寝台特急、「カシオペイヤ」。下りの所要時間は、約19時間。札幌からは、たしか17時間程度。

 「カシオペイヤ」以前の特急、「はくつる」や「あけぼの」は知っている。ただし、「北斗星」(寝台特急)は、ついに乗らずじまいだった。
 今年の3月。北海道新幹線が開通した。東京=札幌、1168キロをわずか4時間で走るという。

2016/07/07(Thu)  1684
 
 私の少年時代。ラジオの普及やレコードの登場が重なってくる。

 ポップスのレコード化が初めて企画されたのは、宝塚少女歌劇の「モン・パリ」(コロンビア/1927年=昭和2年)。私が、おぼえたのは、おそらく10年後だろう。
 翌年(昭和3年)野口 雨情作詞、中山 晋平作曲の「波浮の港」(ヴィクター/昭和3年)が出た。これもおぼえている。多分、ずっと後年、ラジオを聞いておぼえたにちがいない。このレコードが我が家にあったことをおぼえている。
 藤原 義江の「出船の港」(時雨 音羽作詞、中山 晋平作曲=昭和2年)も大ヒットしている。

 この時期、浅草を中心に、「小原節」、「佐渡おけさ」、「串本節」、「草津節」が流行する。こちらのほうは、浅草の寄席、ちいさな演芸場の記憶と重なりあってくる。なにしろ、浅草まで、子どもの足で、10分もかからなかった。

 私は1927年(昭和2年)の生まれ。この年、堀内 敬三が、浅草の歌劇でジャズの訳詞をはじめる。(子どもの私が知るはずもない。戦後になってから調べた。)
 堀内 敬三訳の「ヴァレンシア」(昭和2年)は、ラテン・ミュージック。

    ヴァレンシア あたいは南の国からきたのよ
      ヴァレンシア レモンの花咲く国からきたのよ
    ヴァレンシア あたいは浮気な娘じゃないわよ
      だから お金や力だけじゃ 口説かれやしないわ

 おなじく「アラビアの唄」(昭和2年)は、

    砂漠に日が落ちて 夜となる頃
      恋人よ なつかしの 歌を歌おうよ
    あのさびしい 調べに 今日も涙を流そう
      恋人よ アラビアの歌を 歌おうよ

 「私の青空」(昭和3年)は、

    夕暮れに 仰ぎ見る 輝く青空
      日暮れて たどるは 我が家の細道
    狭いながらも 楽しい 我が家
      愛の日影の さすところ
    恋しい家こそ 私の青空

 幼い頃の私は、そんなメロディーを聞いて育った。
 「君恋し」(時雨 音羽作詞、佐々木 紅華作曲=昭和4年)や、「東京行進曲」(西条 八十作詞、中山 晋平作曲=昭和4年)が、当時としては空前のヒットになる。

    ジャズで踊って リキュルで更けて
      明けりや ダンサーのなみだ雨

 原作は菊地 寛のロマンス小説だが、歌は映画化された「東京行進曲」の主題歌。佐藤千夜子がレコードで歌っている。
 この「東京行進曲」のB面が、「紅屋の娘」(野口 雨情作詞、中山 晋平作曲=昭和4年)だった。
 私は、こうした感傷的な流行歌のメロディーを聞いて育った。歌詞も自然におぼえたのだろう。
 一方、流行歌として、「ヨサホイノホイ節」が、民衆の暗部の潜流に綿々としてつたえられていた。隅田川を挟んで浅草のすぐ先、本所に住んでいたから、無意識にせよ、こうした歌謡曲、俗曲の影響を受けたらしい。

    今日もコロッケ  明日もコロッケ
      これじゃ年がら年じゅうコロッケ
    アハハハ  アハハハ こりゃ おかし

 この作者は、益田 太郎冠者(たろうかじゃ)。(戦後、思いがけないことに、この人からハガキをいただいたことがある。)
 そして、ラメチャンタラ ギッチョンチョン の パイのパイのパイ。
 これは、添田 唖蝉坊。

 2016年、老作家の内面に、もう誰もおぼえていない、いろいろな唄の「ちゃりもんく」が、こびりついている。こびりついているだけならいいが、何かのきっかけでヒョイッと口をついて出てくる。こういうのも、老いのくりごとというのかねえ。
 こんな歌をおぼえているのもいまいましいが、それこそ「ラメチャンタラ ギッチョンチョン の パイのパイのパイ」で、ボケも極まれり、「オヤオヤ、まったく こいつは困ったね」(「困ったねぶし」大正13年)。(笑)

2016/07/02(Sat)  1683
 
 松井 須磨子の「カチューシャの唄」は、島村 抱月・相馬 御風の合作。作曲は中山 晋平。

    カチューシャかわいや  別れのつらさ
      せめて淡雪 とけぬ間と  紙に願いを ララ かけましょか

 「この唄をうたふ人は、雪の消えかかったロシアの広野に、生命のやうにうねり流れる一筋の川と、静(しずか)にその上に眠っている早春の月影とを想ひたまへ、その中にカチューシャの恋と運命とはあったのです」と島村 抱月はいう。
 幼い私はそんなことを考えもしなかった。まして抱月と須磨子の悲劇についても知るはずもなかった。
 「カチューシャの唄」は、喜歌劇「ボッカチオ」(大正4年)のアリア、「恋はやさしい野辺の花よ」からはじまる浅草オペラの隆盛期と重なっている。
 1939年(昭和14年)に、田谷 裕三の歌を、浅草の「花月」で聞いたのだが、浅草オペラそのものは、もう姿を消していた。
 この 「カチューシャの唄」の出現で、オペラの「その前夜」(大正5年)で「ゴンドラの唄」、翌年の「生ける屍」の劇中歌に「さすらひの歌」、「酒場の唄」が登場する。

    行こか 戻ろか オーロラの下を
      露西亜は北国 果てしらず
    西は夕焼け 東は夜明け
      鐘が鳴ります 中空に

 これが「さすらひの歌」。

    憎いあんちきしょうは おしゃれな 女子(おなご)
      おしゃれ 浮気で 薄情ものよ
    どんな男にも 好かれて 好いて
      飽いて 別れりゃ 知らぬ顔

 こちらは「酒場の唄」。ともに北原 白秋・作詞。中山 晋平・作曲。

 こうした劇中歌は、「緑の朝の歌」(大正7年)、「カルメン」(大正8年)とつづく。日本のミュージカルの最初の萌芽と見ていいのだが、こうした曲は、私の少年時代にもまだすたれずに残っていたのだろう。
 オペラの文句よりも、メロディーが、子どもたちにもおもしろかったのではないだろうか。

2016/06/28(Tue)  1682

 昔のはやり唄でおぼえた「ちゃりもんく」。
 オドロキ モモノキ サンショノキ。たとえば、こんなふうに使う。

    この翻訳は チャクライシュ
      ドへたで読めない ボロボロボン

 むずかしい本を読んで、よくわからない。そんなときは本を投げ出して、

    こら、むずかしい チャチャラカチャン

 とか、

    なにをくどくど XXXXX コガルル ナントショ
      XXXの流れを見てくらす しののめのストライキ
    さりとはつらいね テナこと おっしゃいましたかね

 など。「しののめ(「東雲」)のストライキ」などは、意味もわからいままおぼえたのだが、私の場合、XXXはたいがいは本の題名や、作者の名前になる。
 少し前に、ドイツの民俗学の本を読んだが、どうもおもしろくなかった。

    ナンダ コリャ ナッチョラン ナッチョラン

 少し、いい本を読んだときは、

    こりゃチョイトネ

 とてもいい本を読んだときは、

    ラメチャンタラ ギッチョンチョンのパイのパイのパイ

 など。

 子どもの頃、エノケン(榎本健一)が好きだったので、「しののめ(「東雲」)のストライキ」はエノケンの映画でおぼえたらしい。
 自分の無教養をさらけ出すようで恥ずかしいけれど、たぶん、そんなことだろうと思っている。エノケンの歌は、ずいぶんはっきりおぼえている。
 そういえば、松井 須磨子の「カチューシャ可愛いや」などもおぼえたっけ。

2016/06/25(Sat)  1681
 
 思いがけない「ちゃりもんく」が頭をよぎることがある。よぎるのではなく、こびりついて離れない、といったほうがいい。たとえば、ビックリ シャックリ コレッキリ。
 いつ、どこでおぼえたのか自分でも、よくわからない。
 なんとなく、気になってしかたがない。
 すると、昔の流行り唄を思い出したりする。

    お前 待ち待ち 蚊に食われ 七つの鐘の鳴るまでも
      こちゃ かまやせぬ かまやせぬ

 この元唄は、天保のころにはやった「羽田ぶし」だが、ずっと後年、「コチャエぶし」になった。私がこんなものをおぼえたのは、昭和の初期。幕末の「はやり唄」が、どういうわけか、私の心にこびりついている。これも、ビックリ シャックリ コレッキリ。

    お江戸 日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ
      こちゃ 高輪 夜明けの提灯 消す コチャエ コチャエ

 どうしてこんな唄を知っているのか。おそらく、母親が毎日、長唄の稽古をしていたので、自然におぼえたものだろう。もう一つには――私の育った土地柄では、まるで落語に出てくるような八ッさん熊さんが多くて、朝から晩までダジャレの応酬がつづいていた。何かのセリフの句切れに、かけ声やいろいろな「ちゃりもんく」が出てくる。

    サッサ 賛成 賛成 賛成じゃ
      コリャ お座付き 二あがり 三さがり

 だから、昔のはやり唄でおぼえた「ちゃりもんく」が、ヒョイッと口をついて出てくる。

2016/06/17(Fri)  1680
 
 ある時期、私のクラスにきていた女性たちを舞台に立たせようとした。
 実際に、「不思議の国のアリス」(アリス・ガーステンバーグ脚色)をやったり、私の脚色で、ドストエフスキーの短編、ルイージ・ピランデッロの一幕物などをやった。その頃は、私も相当に心臓が強かったのである。今、思い出しても出演者の顔ぶれはすごい。岸本 佐知子、堤 理華、田栗 美奈子。竹迫 仁子、田村 美佐子、谷 泰子、亡くなった野沢 玲子など。いずれも、後に一流のエッセイスト、翻訳家になっている。

 私が選んだ1曲は、三島 由紀夫の「卒塔婆小町」だった。これもオール・ウィメン・キャスト。アマチュアばかり。学芸会に毛が生えたような程度の公演で、まともな芝居とはいえないが、私のクラスにいた女性たちに、実際の舞台に立つことがどういうものか体験してもらいたかった。これに、岸本 佐知子、堤 理華。

 絶世の美人、「小町」に堤 理華。「小町」は、老いさらばえた老婆として登場する。一方、公園に立ち寄った「詩人」は、岸本 佐知子。「詩人」は、この老婆を絶世の美人、「小町」と知って、心を奪われる。
 老婆は、詩人にむかって――もし、自分を「美しい」と見たときは、おのれのいのちを喪うだろうと予言する。詩人はどこまでも老婆を「小町」として求愛し、死をとげる。

 磯田 光一はいう。

    「卒塔婆小町」に見られるように、一方において「幻影」を信じる人間に共感し
    ながらも、他方、それを第三者の眼から眺めるという態度は、言いかえれば、現
    実というものを多くの視点から見ることのできる姿勢を意味している。三島氏の
    短編が、西洋のコントの手法を巧みに生かしているのも、そのことと無関係では
    ない。コントは、読者に一つの人生の姿をあらかじめ示しておいて、最後の落ち
    に至って、別の現実の姿があらわれてきて、そこから独特なリアリティが生まれ
    てくる。               「三島 由紀夫論 1」

これがそのまま私の「卒塔婆小町」演出につながったわけではないが――それぞれ翻訳という仕事にたずさわっている人には、他方、それを第三者の眼から眺めるという作業も大切で、言いかえれば、舞台に立つという別の作業を体験することで、自分の「翻訳」をまったくあたらしい視点から見る、そういう姿勢を身につけることができる。
 私はそう信じたのだった。

 思えば、私の周囲には、いつも綺羅星のように、多彩、すぐれた才能がひしめきあっていた。
 もともと社交的ではなく、人見知りのつよい私は、せっかくすぐれた人々と出会いながら、ついぞ親しくならぬまま、いつも別の道を歩んできたが、それでも、この人たちの仕事はいつも励ましになったと思う。

2016/06/11(Sat)  1679
 
 ピカいち。ここから、別の連想が繋がってくる。

 ピカいちのつぎは、何がくるのか。

 例えば、双葉山、安芸ノ海。琴奨菊、稀勢ノ里。両横綱、両大関。

 三は――三傑。三幅対。たとえば、白鳳、鶴龍、日馬富士。
 勝 海舟、山岡 鉄舟、高橋 泥舟。

 三の例なら、いろいろと出てくる。
 たとえば、団菊左。ただし、いまの団十郎、菊五郎、左団次ではない。戦前の団十郎、菊五郎、左団次。

 歌舞伎役者の連想で、三姫を思い出す。時姫。雪姫。八重垣姫。
 政岡。重の井。篠原。いずれも、乳人(めのと)だが、「重の井」が、またまた別の連想を喚び起こす。
 恋十。苅萱。鳴八。いうまでもなく、三の子別れ。三人吉三をあげてもいい。

 四は、何だろう?
 すぐには思いうかばない。四君子、四天王か。
 ルイ・ジュヴェ、シャルル・デュラン、ジョルジュ・ピトエフ、ガストン・バテイの「カルテル」。

 五は、もっとむずかしい。五人男。

 六。これはさしづめ六歌仙か。

 私たちは、すぐれた人物やものごとを簡単な素数に併置して、心にきざむ習性があるらしい。さまざまな分野でとくに傑出した人物、重要なできごとを、ただちに重ねあわせ、、その分野を知りつくした人をも納得させる比較、秤量のクライテリオンにする。そんなよろこびが、こうした分類にひそんでいるのかも。

 そのくせ、私は、いろいろな分野でのベスト・テンといった比較、秤量やランクづけがあまり得意ではない。たとえば映画の年間ベスト・テンといったアンケートに答えるさえ、いつも苦痛だった。たとえば、アラン・レネやゴダールの作品をベスト・テンにあげるよりも、ウォン・カーウァイやイム・グォンテクの作品をあげるだろう。
 私のあげるベスト・テンは、いつもほかの人とかけ離れたものになるのだった。

2016/06/07(Tue)  1678
 
 知ってはいるけれど、ほとんど使ったことのない言葉。たとえば、ピカいち。

 今月の女芝居じゃ、赫子がピカいちだよ。

 (吉原の)XX家の中じゃ、XXがピカいちだよ。

 子どもの頃そんな言葉を聞いた。「ピカいち」という基準は、「女役者」をはじめ、ひろく女の品定めに使うのか、と思った。

 もともとは花札からきている。配られた手札を見て、一枚だけ役札が入っている。もっとつよい札の、ボーズ(坊主)、小野 道風、鳳凰などのほかに、青タン、赤タン、イノシシ、シカ、チョウ。あとは、素(す)札ばかり。そんなときに、この役札をピカいちという。

 漢字では「光一」と書く。

 たちまち、知人を思い出した。批評家の磯田 光一。演出家の木村 光一。

 しばらく、ふたりのことを考えた。それは自分のことを考えることでもあった。

2016/05/29(Sun)  1677
 
 プーシキンは、ロシア語の創始者といわれている。彼の作品は今でもロシア人に愛されているだろう。
 私はロシア語が読めないのだが、プーシキンのロシア語と、現代ロシア語は、それほど大きな違いはないと聞いている。だからこそ、ロシア人たちは、つい昨日書かれた作品として、プーシキンを読んで、心を動かされるのではないか。

 しばらく前まで、フランスの子どもたちは、小学校に入ると、ラ・フォンテーヌなどを暗記させられると聞いた。フランス語のうつくしさを身につけさせることが目的という。
 古典としてのフランス語は、現代フランス語の基幹と、さして変化していないためだろう。

 数年前のことだが、現在の中国で、雲南省の幼稚園で使われている唐宋詩人のアンソロジーを見たことがある。イラスト付きだったが、唐詩選などから選ばれた名詩が、ぎっしりと並んでいた。私は心から驚いた。中国の子どもたちは、ものごころつくと、こんな詩を読んでいる!

 ひるがえって、私自身はどうだろう。
 大作家といわれる井原 西鶴さえ、まともに読みこなせない。
 うっかりすると、幸田 露伴さえも読めなくなっている。

2016/05/13(Fri)  1676
 
 「好色一代女」を読みはじめて、なんとか「町人腰元」までたどりついたが、途中で降参した。
 あらためて、俳句から勉強し直そう。

    こと問はん 阿蘭陀(オランダ)広き 都鳥
      六町一里に つもる白雪
    袖紙羽 松の下道 時雨きく

 これが、「三鏡輪」表八句の冒頭である。
 まさしく「阿蘭陀(オランダ)流」がひろまっている時代に、敢然として立ちむかってゆく気概がみなぎっている。それはいいのだが、どうも内容がよくわからない。

    厚鬢(あつびん)の 角(すみ)を互いに 抜きあひし
      浅草しのぶ おとこ傾城(けいせい)

 こんな句を見つけると、まるで映画のワン・シーンを見るような気がする。

      みなみな死ては 五百羅漢に
    夜かたりの ゆめが残して 安楽寺

 さながら「好色一代女」のエンディング、ラスト・シーンのごとし。

 それにしても、俳句もろくに読めない自分の無学を恥じるばかり。

2016/05/06(Fri)  1675
 
 というわけで、無謀にも、西鶴の「好色一代女」を読みはじめた。むずかしいのなんの。はじめから仰天した。冒頭の「老女隠家」の「目録」(内容の紹介)は、

    都に是(これ)沙汰の女たづねて むかし物がたりをきけば 一代のいたづら
    さりとは うき世のしやれもの 今もまだうつくしき

 「大矢数」の跋に「自由」ということばを見つけて驚いたが、「好色一代女」の「舞曲遊興」にも、

    清水(きよみず)の はつ桜に見し 幕のうちは 一ふしのやさしき娘 いか成
    (なる)人の ゆかりそ(ぞ) 親は 〜・
    あれをしらずや 祇園町のそれ 今でも自由になるもの

 とあって、しばらくはこの時代の自由の観念について考えさせられた。しかし、小説としての「好色一代女」を読みこなすことは、私にはとうてい無理であった。
 美女は命を断(たつ)斧と古人もいへり。この古人が誰なのか、見当もつかない。
 ようするに、愛欲の道におぼれれば、寿命をちじめる。女の色香に心をみだすのは、美しい花が散ってしまった木が薪になるようなもの。ところが、女の色香に迷って、いのちをちじめるのは愚の骨頂。
 いつだったか、京都の西嵯峨に行ったことがあったが、梅津川をわたった。たまたま、いかにもファッショナブルなスタイルのイケメンが、恋にやつれきって、これから先も思いやられる様子で、自分は実家の跡もつげない、と親に連絡をとったという。どうやら、色欲におぼれすぎて、やつれ果て、若死しそうなかっこうをしていた。
 自分、、育ちもよくて何ひとつ不足のない暮らしをしてきたけれど、あれやこれやと色に狂って、とうとうインポテンツになってしまった。それでもまだまだ、この川の水のように、エジャキュレートしたい、という。

 これを聞いた友だちは驚いて、オレは女のいない国に行って、のんびり暮らしたい、といった。

 片方は、今にも死にそうなのに、女のことが思いきれない。ところが、もう一方は、女にはあきあきしたから、女のいない国に行って、せめて長生きしたい。そして、この世の移り代わりを眺めていたい。

 原文で、わずかに10行。これだけのことを理解するさえ、ひどく時間がかかった。やっとこれだけ読んで思わず笑ってしまった。自分の無学をふくめて。

 すごいね。「女のなき国もがな、其所に行て閑居を極め惜き身をなからへ、移り替れる世のさまざまを見る事」という。

 女のいない国に行って、せめて長生きしたいなどとは思わない。
 だから、こんなつまらないブログを書いている。(笑)

2016/04/28(Thu)  1674
 
 井原 西鶴を読もうと思った。
 もっとしげしげ読みつづけるべき作家、深く知るべき作家と思いながら、そうではなかった。もともと、私などの読めるはずもない作家なのである。
 いまさらながら、おのれの無知、無学を嘆くばかりだが、たとえば、こんな例がある。

    こと問はん 阿蘭陀広き 都鳥
      六町一里につもる 白雪
    袖紙羽 松の下道 時雨きく
      雲行も 今朝かはる 駕籠賃
    月人や ことにすくれて ふとるらん
      くはれて残る 小男鹿のかは
    秋よりは かならずひゆるを 存候
      本末のいろは あけてかな文

 せっかく読みはじめたが、最初からつまづいた。西翁、西夕、西鶴の三百韻、「三鉄輪」の表八句。
 西鶴が関西俳諧を代表する談林の巨匠だった程度のことしか知らないのだから、わかるはずもない。おのれの不勉強を思い知らされた。
 初句、「言問」「都鳥」の連想はわかったが、「阿蘭陀広き」がわからない。仕方がないので、西鶴関係の本を当たってみた。

 「大矢数」の跋を、若い人たちに読みやすいかたちで引用する。

    予 俳諧正風 初道に入て 二十五年、昼夜 心をつくし、過つる中 春末の九
    日に夢を覚し侍(はべ)る。
    今 世界の俳風 詞(ことば)を替(かえ) 品を付(つけ) 様々流義 有と
    いへども、元ひとつにして 更に替ることなし。
    総て此道さかんになり、東西南北に弘(ひろま)る事、自由にもとづく俳諧の姿
    を 我仕はじめし以来なり。世上に隠れもなき事、今又申(す)も愚(おろか)
    也。

 私なりになんとか解釈してみよう。

     私(西鶴)は、オーソドックスな俳句の修行にはいって、25年、ひたすら勉
    強を重ねて過ごしてきたが、今年の3月末に、ふと、正夢を見たような気もちに
    なった。
     現在、俳句の世界では、いろいろな俳人たちが、言葉を工夫したり、それぞれ
    の作風を追って、いろいろな流派が登場してきたが、俳句の基本は一つであって
    、じつは何も変わってはいないのだ。
     もともと俳句がさかんになって日本国内の各地にひろがってきたのも、私がこ
    れまでの俳句のありようを打ち破ってからのこと。これは誰でもしっていること
    だから、いまさら論じるのも野暮なことである。

 西鶴の強烈な自信というか、おのれを恃む姿勢がわかる。今の私(中田 耕治)は、「自由」ということばがこういうふうに使われていることに驚いた。
 これで西鶴の自信はわかったが、作家、西鶴の作品がわかったわけではない。

 「三鉄輪」の序文に、

    阿蘭陀といへる俳諧は、其(その)姿すぐれてけだかく、心ふかく、詞 新らし
    く、よき所を今 世間に是(これ)を聞覚えて、たとへば唐にしきに ふんどし
    を結(ゆ)ひ、相撲といはずに 甚句に聞え侍るは、一作一座の興にありやなし
    や。

    オランダという俳句は、句自体が気韻があって、内容は深く、新鮮なことばで詠
    まれるもので、その美点を、今の時代のひとびとが記憶するようになる。たとえ
    ば、贅沢な仕立ての褌をつけている力士から、すぐに相撲を連想するのではなく
    、相撲甚句を踏まえる、そういう作りの俳句が、句会の人々に関心を喚びさます
    ものではないか。(中田訳)

 一般論としてはよくわかる。「阿蘭陀」というのは、他の流派が談林俳諧を異端と見なしていることの反論で、当時の西鶴の作風は邪道と見られたらしい、とわかった。
 むしろ、西鶴の作風は時流とあいいれず、「阿蘭陀流」などという批評を受けたのだろう。
 世間の俳句好きは――「貞門の俳諧もいいが、もう少し突っ込んで詠まないとどうも趣きがない。そこへ行くと、さすがに西鶴ってなあ、どれをとってもビリリとくるところがある。しかし、欲には、もう少し手綺麗に詠めねえものかねえ」などとヌカしたに違いない。ただし、西鶴はそんな批評をいっこう気にしなかった。

    お江戸 京 大阪 堺 長崎まで     由平
      作意ひろむる 當流の波       西鶴

 さすがに西鶴らしい堂々たる自負であった。
 いまさら勉強しても追いつくはずもないのだが、知らないことがわかっただけでもうれしかった。

2016/04/17(Sun)  1673
 
 私は恐竜ファンである。
 古生物学に関して小学生ほどの知識もないのだが、恐竜に関する記事があれば、夢中になって読みふける。

 白亜紀を最後に、恐竜は絶滅したという。6600万年も昔のことだから、人間は誰ひとり、恐竜の絶滅を見届けたわけではない。もし才能があれば、「恐竜最後の日」といったSFを書きたいくらいだが、あいにくそんなSFを書くチャンスはなかった。

 メキシコのユカタン半島に、巨大な隕石が落下したという。その衝撃から、さまざまな天変地異が起きて、あえなく恐竜は絶滅した。その程度の知識はある。ところが、その天変地異に、あたらしい仮説があらわれた。

 この巨大隕石の衝突にくわえて、大規模な火山の噴火がインドで発生したため、恐竜が絶滅したという。アメリカのUCCなどの国際研究チームが発表した。(2015.10.29.「読売」)
 このチームは、インド西部の地層などを詳細に分析した。その結果、巨大隕石の衝突後の5万年以内に、大規模な火山の噴火が起きたという。
 この噴火による火山灰の噴出量は、毎年、東京ドーム約700個分の、9億立法メートル。この噴火は、数十万年にわたってつづいた可能性がある、とか。

 このチームは――隕石衝突と大規模な火山の噴火の年代が近いので、どちらが恐竜の絶滅のおもな原因になったのか、判定はむずかしい、という見解をしめした。

 なにしろ6600万年も昔の話で、しかも隕石衝突と火山の噴火の年代差が「たった」5万年というのだから、思わず笑ってしまった。

 ただ、この笑いには――隕石衝突で大打撃を受けた恐竜たちが、「たった」5万年でも、地球上で必死に生きのびようとしたに違いない、という思いが重なっていた。

 ところで、この恐竜の絶滅から、まるで別のことを思い出した。

 2003年9月、チャン・イーモーは、ウクライナで、「LOVERS」(「十面埋伏」)の演出に当たっていた。
 チャン・ツイーの母親役に、香港の大スター、アニタ・ムイを起用する予定だった。しかし、梅 艶芳(アニタ・ムイ)は重病に倒れて明日をも知れぬ身だった。チャン・イーモーは、アニタの回復を信じて朗報を待っていた。
 だが、その希望もむなしく、アニタ・ムイは亡くなった。(12月30日)

    地球なんて、ずっと恐竜が住んでいたんだ。
    人類の歴史なんて短いものさ。
    恐竜は十数億年、何十億年も地球に君臨していた。
    20メートルとか50メートルの恐竜が空を飛んでいた。
    宇宙の中のこの小さな地球で、映画の撮影なんて、「LOVERS」なんて、取
    るに足らないことさ。

 映画監督、張 藝謀のことば。

 チャン・イーモーは、完成した「LOVERS」(「十面埋伏」)を、梅 艶芳(アニタ・ムイ)にささげている。

2016/04/13(Wed)  1672

 ある日、街角で。
私は買い物、といっても、コーヒーのパック、キャラメル程度だが、店の外に出て少し歩いたとき、前方からきた老人が足をとめた。

 「あんたの帽子、よく似合っているねえ」
 そんなことをいう。
 「有り難う」

 いつも毛糸で編んだキャップをかぶっている。誰も不思議に思わない。作家で、おなじようなキャップをかぶっていたのは、大作家の江戸川 乱歩。別に真似をしたわけではない。同年代では、田中 小実昌。ただし、コミさんは、私とちがって白いキャップだった

 このオジサンが褒めてくれたのだから、何かいわなければ、と思って、
 「おいくつになりました」
 破顔一笑した。
 「先輩にはかないません。72ですよ」

 どこで会ったオジサンだろうか。会った記憶はない。しかし、私が自分より高齢であると心得て「先輩」と呼んでくれたものらしい。残念なことに、私の住んでいる千葉市には、親しい友人、後輩がいない。親しくしていた恒松 恭助さん、福岡 徹さん、後輩の竹内 紀吉君、みなさん、他界してしまった。
 このオジサンは、自分より高齢の相手に対して、親しみをもって声をかけてくれたのか。あるいは、たんなる挨拶か、老人に対する儀礼的なアドレス(呼びかけ)に過ぎないのか。次のセリフが、これまた意外なものだった。

 「お米は、三分ですよ。味噌汁は、タマネギ。はい。長ネギではなくタマネギ。これがいいんです」
 私は、このオジサンの明るい口調に翻弄された。オジサンは、自分が健康に留意していることを私につたえたかったに違いない。まったく面識のない相手に、自分の健康を誇らしげに語っている。

 「失礼ですか、お名前は?」
 オジサンの返事がまた意外なものだった。
 「英語でいえば、MASAHIRO XXXです」
 私は笑いそうになった。わざわざ英語でいわなくてもいいのに。しかも、英語でも何でもない。このオジさん、少しばかりボケているのだろうか。あるいはトボケているのか。
 昼間からいっぱいきこしめした気配でもない。つぎに出てきたのは英語だった。

 「ハーイ・ミスター、ユー・アー・グレート」

 私は手をさしのべて、
 「シー・ユー・アゲイン」

 すっかりうれしくなったらしいオジサンは、私の手を握って、
 「サンキュー・サンキュー」
 そう くり返して、そのまま歩み去って行った。

 まるで、初期のサローヤンの短編に出てきそうなオジサンだった。
 私はそれからしばらく楽しかった。それだけの話である。

2016/04/08(Fri)  1671
 
 以下は、私が考えたことではない。最近の日本語について、こんなことが出ていた。

 慣用句の意味のとり違えの例。

 おもむろに   ゆっくりと     44.5%
         不意に       40.8%

 枯れ木も山のにぎわい

         つまらないものでも、ないよりはまし  37.6%
         人があつまればにぎやかになる     47.2%

 小春日和
         初冬、おだやかで暖かいお天気     51.7%
         春先、おだやかで暖かいお天気     41.7%

 天に唾する
         人に害を与えようとして、かえって
         自分にたたるような行為をする     63.5%
         自分より上の人をそしったり、けが
         す行為をする             22.0%

 「いよいよ」とか、「ますます」をあらわすことばでは、
         いやがうえにも            34.9%
         いやがおうにも            42.2%

 こういう結果を見れば、誰でも「国語のみだれ」を指摘するだろう。

 「おもむろに」は、正解が44.5%だが、40歳以下の世代では、6割以上の人が間違っていたという。「ゆとり教育」が、こういうかたちで「おもむろに」作用的結果をもたらしたと見ていい。あたじけねえ話だねえ。

 文化庁の見解では――「日常的に使われない慣用句では、文脈から意味を推察する機会が少なくなり、ほんらいの意味がわからなくなっている」そうな。

 ここからは、私の考え。
 しがないもの書き、そして翻訳者として過ごしてきた私だが、ここまで国語教育を放置してきた文部官僚の責任は大きいと考える。そして、これからの小・中・高の英語必修が、国語に壊滅的なダメージをあたえるものと見る。

 「いやがおうにも」おもしろい世の中になってきたぜ。せいぜい「天に唾する」のも、悪くねえ。いずれ「小春日和」に「おもむろに」おさらばしよう。ナニ、そちらさんの知ったことじゃねえか。

2016/03/26(Sat)  1670
 
 ある人生相談。

    50代の女性。小学生の頃から頭にある問い、「生きていることの意味」がどう
    しても見いだせません。
    本を読みあさり、人の話をきき、人間はこの世だけに生きているのではないと考
    えるようになりましたが、いつも前向きではいられません。今はもう、お迎えが
    来てもいいような気持ちになったりもします。思い残すことなどないような気が
    するからです。
    悩みがないからかもしれません。たた、生きているだけで尊いと感じるほどの大
    病やけがをしたりしたら、と思うと怖くもなります。
    幼い頃から親の離婚や夫の失業など二度と味わいたくない経験もしました。それ
    でも家族を思って生きてきた自分が、今はなにやら腹立たしく思えたりします。
    その経験が、今の平穏な暮らしにつながっているのだとわかってはいますが……
    生きていく信条のようなものは、どうしたら見つけられるのでしょうか。(兵庫
    ・K子)

 私は、これを読んで、思わず笑ってしまった。
 中年にさしかかってから、「生きていることの意味」を考えて、どうしても答えが見いだせない女性に対してまことに失礼な話だが、笑うしかなかった。小学生の頃から、「生きていることの意味」を問いつづけてきたという。たいへん哲学的な思索をつづけてきたと尊敬してあげようか。

幼い頃から親の離婚や夫の失業など二度と味わいたくない経験をした、という。「二度と味わいたくない」つらい経験だったはずだが、それももう考えなくてもいい環境にいきている。「人間はこの世だけに生きているのではないと考えるようになった」というのは、私にはよくわからない。来生を信じるというのであれば、やはり幸福なのだろうと思う。にもかかわらず、心のどこかに、「大病やけが」をするかも知れない不安がひそんでいる。
 ここまでくれば、このオバサンの悩みは、私たち誰にとっても共通の切実な悩みということになる。しかし、「今はもう、お迎えが来てもいいような気持ちになったり」するというのだから、ここでは、当面、どうすれば悩みから解放されるのか考えたほうがいい。

 オバサンは、いろいろと本を読みあさり、人の話をきき、人間はこの世だけに生きているのではないと考えるようになった、という。
 お読みになった本のなかに、たとえば、谷崎 潤一郎、川端 康成、太宰 治、三島由紀夫は入っていたのだろうか。
 あるいは、中里 恒子、林 扶美子、津島 祐子、田辺 聖子を1冊でも読んだことがあるのだろうか。

 現在、50代の女性の少女時代にどんな遊びがはやっていたのか、私には想像もつかないのだが、ピンク・レディーの「UFO」の真似をしたり、友だつちにぶつかったりじゃれあったりしたときに、「ごめんごめん、いったんごめん」と、「ゲゲゲの鬼太郎」のギャグを口にしたことはなかったろうか。そんな子どもらしいいたずらをするよりも、「生きていることの意味」を考えつづけていたのか。
 「おぼっちゃまくん」や、「ムーミン」を見て、きみは、無意識にせよ「生きていることの意味」を問いかけなかったのだろうか。

 たとえば、きみは、牧 美也子、竹宮 恵子、萩尾 望都のマンガを読まなかったのだろうか。グループ・サウンズの「タイガース」の隆盛期だったから、ジャニーズを聞かなかったはずはない。

 私は対症療法を考える。

 このオバサンは、ほとんど映画も見たことがないのではないだろうか。
 つい、最近の映画をあげておく。「日本のいちばん長い日」を見ましたか。「ジュラシック・ワールド」を見たのですか。TVドラマの「ダウントン・アビー」や「情熱のシーラ」を見ていましたか。

 かりに、これらの映画やドラマの一つでも見ていて、なお、きみは「生きていることの意味」をみずからに問いかけなかったのだろうか。

 「今ある幸せに感謝しながら、時々むなしくてたまらなくなります」という。そもそもこれが見当違いなのだよ。「今ある幸せ」は「むなしさ」とは関係がない。

 きみはすぐにも別のことを選んで、そこに自分のあらたな喜びを見いだすべきなのだ。何か簡単にできる趣味を見つけてもいい。鉛筆1本で、小さなノートにスケッチを描く。あるいは、親しい友人にハガキ1枚を書いて送ることだっていい。好きな歌手のCDを買ってきて、その曲を毎日聞く。メロディーや歌詞をおぼえても、途中でやめない。美術館や知らない画家の個展に行ったら、どれか1枚の前に立って、できるだけ長い時間見つづける。気にいらない絵でもいい。ただ、黙って見てやる。

 きみの住んでいる土地の高校にも、生徒たちはいろいろな部活動をやっているはずだ。野球部や柔道部なら他校と練習試合をやる。そんな試合を見に行ってやる。演劇部の公演や、コーラス、器楽のコンクールを見に行ってやる。もの好きと思われてもいい。

 ただし、何かきめたらできるだけ長い期間つづけること。

 そのうちに「生きていることの意味」は、かならず見つかるよ。もし、見つからなければ、また別のことに切り換えればいい。「生きるための信条」なんて、いくらでもころがっている。それを見つけるのは、きみ自身なのだ。
 「生きていることの意味」なぞ、もっと頭のいい人に考えてもらえばいいのだ。


 もっとはっきりしたことをいおうか。一度でいい。浮気をしなさい。

2016/03/16(Wed)  1669
 
 しばらく前に、BSで、「ベルリンの壁の崩壊」というドキュメンタリを見た。

 今の若い人たちには興味もないことだろうが――「冷戦」時代のベルリンは、ドイツがソヴィエトとアメリカ側連合国の占領下に置かれた。したがって、東西ブロックの対立の接点だった。
 ベルリンがソヴィエト側に組み込まれる直前までに、東から西に脱出したドイツ人は、じつに400万人におよぶ。

 1961年、東ドイツは、市民の脱出を阻止するために「壁」を作った。この夏、東から西に脱出しようとして、おびただしい難民がシュプレー川を泳いでわたった。途中で、東ドイツの人民警察に発見されて、射殺された人も多い。

 私の見たドキュメンタリは――当時、東ドイツの秘密警察、「シュタージ」のトップ、No.2だった女性、カトリン・イェレクというオバサマを中心に、ベルリンの壁の歴史を見せてくれた。
 そのなかに「シュタージ」の秘密訓練所が出てくる。むろん、今は見るかげもなく荒れ果てた「つわものどもの夢のあと」になっている。壁も崩れかけ、フロアも荒れているが、ここでたえず尋問、拷問、はては処刑が行われていたに違いない。
 だが、カトリンは、ここでかつての東ドイツが、国家としてどんなに輝いていたかを語った。
 私は、きわめて成績優秀だった女性が、「シュタージ」内部でさまざまな勲功をあげて、ついにNo.2の地位に立ちながら、突然、その「壁」が無残に崩壊してゆくのを見つめなければならなかったときのことを想像した。
 それこそ、雲の上から地上にたたきつけられたような思いだったにちがいない。

 だが、同時に私は思い出していた。この「壁」ができたとき、作家のギュンター・グラースが、東ドイツの作家、アンナ・ゼーガースに対して公開状を書いたことを。
 おなじように、作家のワルザーや、エンツェンスベルガーたちが、「8月13日は政治的事件であるとともに、戦後ドイツ文学史の日付になるだろう」と書いたことも。

 このドキュメンタリを見ながら、私の心にいろいろな思いがかすめた。
 もはや遠い歴史のなかに埋没してしまったが、共産主義国家だった東ドイツに、広範な範囲と規模で民主化運動が起きて、民衆が雪崩をうってハンガリー経由で「西側」に脱出しはじめた日のこと。これに呼応して、ベルリン市民が、ベルリンの壁を突破しようとした。「シュタージ」は、このとき何人の人を射殺したのか。

 私は、ほんの数日、ベルリンに滞在したことがあるのだが、このテレビ・ドキュメントを見ていて――ポイント・チャーリーの入国管理官をつとめていた東ドイツの若い女性を思い出した。東ベルリンの市民たちは、ほとんどがみすぼらしい服装だったが、この女性は、眼を奪うほど綺麗な軍服を着ていた。
 しかもゲルマン民族の女性らしく、みごとな金髪で、すばらしい美貌だった。

 入国審査のカウンターのわきに、わずかながら、お土産の品が展示されていた。素朴な農民姿の、手作りのお人形が10体ばかり、無造作に並べてある。
 私はこの人形に目をとめて、若い女性に値段を聞いた。10マルクという。思わず耳を疑った。
 たかだか10センチほどの大きさで、作りも雑だし、見た目もよくない。そんな人形ならせいぜい1マルク程度だろう。
 私の驚いた顔が気にいらなかったのか、その美女は、じろりと私を睨みつけて、
 「べつに買わなくてもいいのよ」
 といった。
 そのいいかたが、じつに尊大で、傲岸だったので、私はその場を離れた。二、三歩、歩いたとき、私は翻意した。
 この人形はぜひ買っておこう。そして、この人形を見るたびに、共産主義国家の入国管理のクソ女が、外国人に対してどんなに傲慢無礼な態度で接していたか思い出すことにしよう。

 私は、「ベルリンの壁」が崩壊したとき、この人形を机に飾って、ドイツ・ワインを飲みながら、
 「よかったね、おばさん」と声をかけた。

 このテレビ・ドキュメントを見たあと、久しぶりに人形を机に飾ってやった。
 「これから、きみの名を「カトリン」と呼ぶことにしよう」
 人形はニコニコした表情で私に笑いかけていた。

2016/02/22(Mon)  1668 グレタ・ガルボ 【10】
 
       【10】

 ガルボほど、世間の目から自分をまもり通した女優はめずらしい。孤独な女性だった。

 大スターになってからも、外出するときは口紅もつけず、トレンチ・コートや、粗末なワンピースを身につけて、頭にはいつもベレェかフェルトの帽子をかぶっていたので、誰もガルボとは気がつかなかった。
 スクリーンのガルボは、いつも絢爛豪華な宝石を身につけていたが、オフ・スクリーンでは、ダイアモンド一つ身につけない。自分専用のプライヴェート・ビーチでは全裸のままだった。ずっと後輩の女優、ジェーン・フォンダが、ガルボといっしょに泳いだときも全裸だったと語っていた。

 今の私が、心から残念に思っていることがある。
 ガルボが――サラ・ベルナールか、ジョルジュ・サンドの伝記に出ていたら。あるいは、バルザックの「ランジェ侯爵夫人」、または、戦後、アメリカのベストセラーになった「死よ奢るなかれ」、「従妹のレイチェル」、それらのどれか1本でも出ていたら。
 ガルボが出演する可能性は大きかった。もし、そのどれか1本でも出ていたら、ガルボの評価はさらに高くなっていたにちがいない。

 2015年11月26日、テレビのニューズ。女優の原 節子が亡くなったという。享年95歳。
 9月5日に肺炎で亡くなっていたが、11月25日になってはじめて知られた。

 原 節子は、戦前から戦後にかけて、日本映画の代表的なスターだった。
 1962年に、スクリーンから去ったが、独身を通したため「永遠の処女」と呼ばれていた。引退後、半世紀、まったくジャーナリズムに姿を見せなかった。

 私は、ほんの一時期、映画の仕事をしていたが、たまたま会う機会があった彼女の義兄、熊谷 久虎に好感をもたなかったので、原 節子に会う機会はなかった。(私といっしょに熊谷に会った友人の西島 大が、「狼煙は上海にあがる」のシナリオを書いた。この映画で新人、仲代 達也が起用された。西島の次作は、これも新人の石原 裕次郎の出世作になった「嵐を呼ぶ男」である。)

 私は、「河内山宗俊」(山中 貞雄監督/36年)から、原 節子の映画をほとんど見てきた。ファンのひとり。
 だが、原 節子に対して「伝説の女優」などという称号をささげるつもりはない。ただ、日本の名女優のひとりと見れば足りよう。ただ、原 節子の逝去から、自然に、グレタ・ガルボを思い浮かべた。

 原 節子が「伝説の女優」なら、ガルボは、まさに20世紀の神話、スクリーンの伝説といってよい。ガルボは、なぜ早く引退したのかと訊かれて、

    私は孤独になりたい、などといったことはありません。ひとりにしておいて、と
    いっていただけよ。そこには、大きな違いがあります。

 という。原 節子も、おなじ思いだったにちがいない。
 晩年のガルボは語っている。

    死ぬって? 死ぬこと? 私は、長い年月、死んでいるのよ。

    私は、あまりにも多くノーをいいつづけてきたわ。今ではもう遅すぎるわね。

    私の才能はいずれ枯渇するでしょう。私は多芸多才な女優ではないのですから。

 私の好きなガルボのことば。

    私は、何百万という男のひとにとっては、ひとりの不実な女なのよ。

                       (映画コージートーク・ガルボ)


2016/02/19(Fri)  1667 グレタ・ガルボ 【9】
 
       【9】

 1941年の「奥様は顔が二つ」は、ガルボの最後の出演作品になった。喜劇作家のS・N・ベアマンが脚色したもので、ルイ・ジュヴェ主演の「二つの顔」(46年)、イタリアの「ジョニーの事情」(ロベルト・ベニーニ監督/92年)などの先蹤をなす映画と見ていい。だが、MGMはガルボの給与を半減した。

 「戦後」のガルボについては、ほとんど知られていない。
 1945〜46年に、サイレント映画の「肉体と悪魔」のリメイクを考えていたらしい。セルズニックは、フランスの名女優、サラ・ベルナールの生涯を映画化しようと考えたが、これも挫折した。1年後、ジョージ・キューカーは、当時、若い俳優として頭角をあらわしていたローレンス・オリヴィエとガルボで、作家、ジョルジュ・サンドの伝記映画を企画した。これも、企画だけでつぶれた。
 1949年、マックス・オフュールスが企画した「ランジェ侯爵夫人」の企画につよい関心をもった。これは、アメリカ/イタリア合作版だった。

 私の評伝、「ルイ・ジュヴェ」の読者なら、マックス・オフュールスについて、ある程度まで知っているかも知れない。しかも、「ランジェ侯爵夫人」は、戦時中のフランスで、ジャン・ジロドゥーが脚色し、名女優、エドウィージュ・フゥイエールの主演で制作されている。これも、ガルボは実現できなかった。

 1951年、プロデューサー、ドア・シャリーは、ジョン・ガンサーのドキュメント、「死よ奢るなかれ」の映画化を考えた。「戦後」の日本でも、ベストセラーになった。これも、ガルボは出演を断っている。

 1951年。フランスの俳優、ピエール・ブラッスールは、ルイ・ジュヴェの演出で、サルトルの「悪魔と神」に出た。つぎの舞台に、バヴァリアの狂王、ルードヴィヒ2世を描いた戯曲を上演しようとして、相手役になんとグレタ・ガルボを考えて出演を依頼した。すでに映画から引退し、舞台に出る気のなかったガルボは、すぐにハリウッドから電報で断った。
 このテーマは、のちにイタリアのルキノ・ヴィスコンテイ監督が映画化する。「ルードウィヒ 神々の黄昏」である。
 グレタ・ガルボがロミー・シュナイダーの「役」を演じていたらどうだったろうか。

 「戦後」のガルボは、旧知のジョージ・キューカー演出で、「従妹レイチェル」の映画化を、と考えたらしい。原作は戦後のベストセラーで、ハートウォーミングな小説だった。ガルボ自身が提案したものだったが、どういう心境の変化か、翌日、電話で、

    あたしには、とてもできそうもないわ。もう、あたらしい映画を作る勇気がなく
    なっているのよ。

 と断っている。

2016/02/16(Tue)  1666 グレタ・ガルボ 【8】
 
        【8】

 ガルボは、バーナード・ショーの「聖女ジョーン」を演じたがっていた。(ドイツの名女優、エリザベート・ベルクナーが舞台で演じていたし、フランス映画ではこれも名女優だったファルコネッティが、火刑にされるジャンヌを演じていた。
 しかし、MGMが、ガルボに演じさせたのは「マタ・ハリ」だった。「マタ・ハリ」は、世界大戦中に、ドイツ側に情報を流したオランダ女性(インドネシア系)で、美貌のヴァンパイアーだった。ドイツ側に貴重な軍事情報を流したが、最後に逮捕され、銃殺された。
 ガルボとしては、「マタ・ハリ」に出ることを希望してはいなかった。当時、めずらしくインタヴューに答えて、

    スクリーンのヴァンパイアーなんて、もう大笑いするしかないわね。

 「マタ・ハリ」は、ディートリヒの「間諜X廿七」(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督)に対抗して作られたスパイ映画だが、映画としては、ジョージ・フィッツモーリスの演出より、スタンバーグ監督のほうがすぐれている。女優としては、ディートリヒよりガルボのほうがいい。

 トーキーの初期に、「西部戦線異常なし」(ルイス・マイルストーン監督)、「暁の偵察」(ハワード・ホークス監督)、「旅路の終り」(ジェームズ・ホエール監督)、「七日間の休暇」(リチャード・ウォーレス監督)、「戦争と貞操」(ジョージ・キューカー監督)といった戦争映画があらわれる。
 戦争の悲惨に対する反省と、戦争によってもたらされたヒロイズム讃歌が、これらの映画に反映している。ヴィクトリア時代の世代の無知が原因で、大量殺戮の戦争に突入した。「間諜X廿七」や「マタ・ハリ」は、女性がエロスを手段として、こうした戦争の背後で情報を獲得しようとするあたらしい闘争とさえ見えた。
 ガルボはディートリヒとともに、「間諜X廿七」や「マタ・ハリ」で、既成の伝統に対する反逆者、あたらしいファッションやセクシュアリテイーの抑圧をはねのけようとする女を体現していた、と見ていい。

 当時、MGMは、週給7000ドルで契約していたが、ガルボは1万ドルを要求した。この交渉でモメたガルボは、ヨーロッパに旅行した。MGMはガルボの要求をいれて、会社側として、サマセット・モームの作品、「彩られし女性」の映画化、ガルボ側の希望で「クリスチナ女王」を撮ることで決着した。さらに、モームがガルボのために、短編をいくつか書くと発表された。(残念ながら実現しなかった。)

 私たちが「クリスチナ女王」(ルーベン・マムーリアン監督)を見ることができたのは、1968年になってからだった。それも、宮廷の恋愛をあつかつたものとして、日本の皇室の尊厳にかかわるという理由で、戦前の検閲でズタズタにされたヴァージョンだった。おなじ時期に「椿姫」も公開されたが、これまた戦前の検閲でズタズタにされたままの映画だった。
 いまさらながら、戦前の検閲の陋劣、愚頓、横暴に対してはげしい怒りをおぼえるのだが、私たちは今もって本当のガルボを見ることがないのである。

 MGMの幹部は、グレタ・ガルボに対して、いつも冷淡な態度をとっていた。「彩られし女性」が、ガルボの映画としては期待はずれの成績だったため、たちまち追放しようと画策しはじめた。

 ところが、イギリスでは、最優秀女優の人気投票で、総投票数の43%が、「クリスチナ女王」のグレタ・ガルボに集中した。これほど多数の支持を得た例はない。ガルボの人気は空前のものだった。

 MGMは、最終的にガルボが年1本撮影するという条件で、25万ドルで契約した。ただし、これにもウラがある。ガルボを専属にしておくことで、他社の作品に出演させることはないし、映画化する作品も会社側の提示するものにかぎられる。つまり、女優としてのガルボの人間的な、芸術的な成熟や深化を制約できることになった。

 「アンナ・カレーニナ」、「椿姫」で、ニューヨーク批評家賞(最優秀女優賞)をつづけてとったが、アカデミー賞は、ルイーゼ・レイナーに奪われている。
 1938年、皇帝ナポレオンと、ポーランドの貴族夫人、マリー・ワレウスカの悲恋を描いた「征服者」に出た。この映画は制作費がふくらみ過ぎて、利益を回収できなかったため、ガルボは窮地に立たされた。MGMはガルボの減給をほのめかしたり、幹部からは引退を勧告するような動きも出てきた。

 1939年、フランスの喜劇「トヴァリッチ」(ロシア語の「タワリシチ」)に出たが、この映画もあまり成功しなかった。
 おなじ年に、ブロードウェイでヒットした喜劇、「白痴のよろこび」(シャーウッド・アンダースン原作)にも出演を希望したが、これもノーマ・シァラーにとられてしまった。(この映画でクラーク・ゲーブルが、生涯ただ一度、歌って踊っている。この映画に主演したノーマ・シァラーなど、もう誰ひとりおぼえてもいないだろう。)

 ガルボの不運はつづく。
 ガルボは自分の出たいと思う映画に出ることができなかったスターだった。

2016/02/11(Thu)  1665 グレタ・ガルボ 【7】
 
      【7】

 ガルボと並んで、ハリウッド黄金期のスターだったマルレーネ・ディートリヒは、「自伝」のなかで、ガルボに言及している。
 フランスの映画スター、ジャン・ギャバンは、1939年、ナチス・ドイツの侵攻でパリが陥落すると、すぐにアメリカに亡命した。アメリカに渡ったギャバンを助けたのは、マルレーネ・ディートリヒだった。ディートリヒはたちまちギャバンに恋をした。
 同棲したブレントウッドの邸宅の隣りに、あくまで偶然だが、ガルボが隠棲していた。ガルボはそれぞれ国籍も違うふたりの大スターが同棲していると知って、好奇心にかられたらしく、ふたりの動静をさぐった。ふたりの夜の生活ものぞきにきた、という。

 マルレーネ・ディートリヒらしい皮肉がこめられている。同時に、悪意も。
 ディートリヒは、ガルボが結婚せずに、スピンスター(オールド・ミス)として生きたことを嘲笑して、無名時代の彼女が、監督(スティルレル)に犯されて、悪疾をうつされたためと書いている。


 ガルボは引退後も、依然としてエニグマでありつづけた。

 「グランド・ホテル」(1932年)に、ガルボらしいセリフがある。

    あたし、人生がこわいんです……
    あたしは誰も愛していないの。

    私は、スクリーンで私のすべてをさらけ出しています……それなのに、どうし
    てみんなは私のプライヴァシイを侵害したがるのかしら。

    ほんとうのところ、私自身を表現できるのは、「役」を通してであって、ことば
    ではいいあらわせないのです。だから、どうしてもインタヴューを避けてしまう
    のよ。

 ガルボには、宿命観があるのか、運命論者めいた口のききかたをする。

    私は、自分がしあわせ過ぎると思っています。

    べつに理由もないのに、幸福でいられるなんて、なんてすばらしいことか。

 映画のなかで一度も笑ったことがなかったが、「ニノチカ」(1939年)で、はじめて笑ったので、世界的な評判になった。

2016/02/05(Fri)  1664 グレタ・ガルボ 【6】
 
      【6】

 日本でも、ガルボの人気は絶大だった。

    つめたい情熱の持ち主、グレタ・ガルボのキッス・シーンも最近での第一人者と
    して知られている、殊に、ジョン・ギルバートとのよきコンビネーションによる
    幾つかの例は、いき苦しき迄に悩ましく感じられた事で、「肉体と悪魔」の、暖
    炉の前のソファでの、ガルボ自らがおほひかぶさっての接吻、ギルバートは軍服
    の胸の上のボタンを息づまるまま皆外している。そのシーンは、少し先の庭園の
    それと共に当時映画史上空前のものと、映画人間に折り紙をつけられ、評判され
    たが、前に掛かった時は勿論鋏が入っていた。「戀多き女」「アンナ・カレニナ
    」等とにかく二人の交わす口づけはガルボ・ギルバーチングと云ふ新語の流行さ
    へ生んだ程若人達に噂されたのである。(小倉浩一郎/1931年)

 戦前の日本の検閲が、どんなに低劣、悪質なものだったか、これだけでも想像できるだろう。
 それはさておき。

 ガルボの映画、「接吻」の公開されたとき、映画館がいっせいに宣伝したことがある。ガルボのキスの「その紅唇の型をコッピーにとって、その下に余白をあけ、貴女とガルボ嬢とどちらが美しい形だか試みて下さい」。
 そして、ガルボの接吻の唇の型に、いちばん近い唇の女性、先着15名に「接吻」の招待券を進呈する、という宣伝だったらしい。

 恋人たちが、お互いの眼を見つめあう。彼女が、意味ありげに見つめるとき、相手をドギマギさせたり、怯えさせたりすることはない。お互いに惹かれあうときの強烈な感情、欲情がはたらいて、瞳孔が開く。無意識のうちに、彼女が感じている愛のはげしさが、そのたまゆらの極みにあらわれる。

 小倉浩一郎のことばを借りれば、「所謂眼が物を云ふと云ふ奴で、ラブ・シーンになると冷たい、冷たい、その冷たさの裡にジーッと熱して来るガルボの瞳」ということになる。

 こんなことから、1930年の日本のモボ・モガ風俗が想像できるかも知れない。

 グレタ・ガルボとジョン・ギルバートのキスから、当時のモボ・モガたちがうけとったつよいメッセージがある。それは、恋愛関係にある男女の感情のはげしさが、キスという行為にともなっていること。キスがふたりのあいだの絆の強さをしめす社会的なクライテリオンとして意識されるようになったと私は考える。(日本人がキスという行為を知らなかったなどというのではない。)

2016/01/31(Sun)  1663 グレタ・ガルボ 【5】
 
      【5】

 モーリッツ・スティルレルはハリウッドでは成功せず、スウェーデンに帰った。スティルレルが帰ったあと、ハリウッドに残ったガルボは「私の人生に起きた、いいことはすべて、この人のおかげです」と語っている。その後のガルボは、スティルレルに関してまったく沈黙している。

 ガルボは「イバニエスの激流」(1926年)で登場し、「肉体と悪魔」(1927年)で世界的に知られる。
 「肉体と悪魔」で、ジョン・ギルバートと共演する。この映画のガルボは、それまでのハリウッド映画に見なかった、強烈なエロティシズムを体現していた。

 トーキーの到来とともに、多数のサイレント映画スターが没落する。ジョン・ギルバートもその一人。だが、ガルボは、いわゆるハリウッド黄金期(Golden Years)に、映画スターの女王として君臨した。

 1930年、ガルボ、24歳。
 すでに、神秘につつまれた伝説になっている。

 サラ・ベルナールは、「コメディー・フランセーズ」で、ラシーヌの「フェードル」を演じた。二五歳を過ぎるか過ぎないかで、「フェードル」を演じる。女優の生涯でこれ以上の何が望めるだろうか。「私に欠けているものは何ひとつありませんでした」という。
 ガルボも、サラとおなじ思いだったかも知れない。
 MGMの上層部は、オフ・スクリーンのガルボが、ジャーナリズムにまったく姿をみせず、徹底的な沈黙をまもりつづけていることをよろこんでいた。

    みなさま。あいかわらず、何も申しあげることがございません。

 当時のグレタ・ガルボの記事は、ほかのMGMのスター全部をあわせた以上の記事が出た。

 1932年、アメリカは大不況にあえいでいた。ニューヨークの映画館は、記録的な不入りにあえいでいた。半期で、観客を動員できたのは、ガルボの「マタ・ハリ」、ジョン・バリモアの「アルセーヌ・ルパン」、ベラ・ルゴシの「モルグ街の殺人」、そして、ガルボが出た「グランド・ホテル」だけだった。
 翌年(1933年)、ガルボは「クリスチナ女王」の相手役に、トーキーの到来で落魄したジョン・ギルバートを招いた。この映画の撮影中、ジョン・ギルバートはガルボにつきまとったが、後年のガルボは、ジョン・ギルバートとは、まったく恋愛関係がなかったと否定している。
 その後のガルボは、ジョン・ギルバートのことだけではなく、身辺すべてに関して何も語らなくなった。「ひたすら沈黙のスウェーデン女」と呼ばれた。インタヴューさえ拒絶しつづけた。

2016/01/28(Thu)  1662 グレタ・ガルボ 【4】
 
      【4】

ガルボをハリウッドにつれて行ったのは、モーリッツ・スティルレル(映画監督)だった。
  ほとんどの映画史は、ガルボとモーリッツ・スティルレルの関係は「スヴェンガリ」と「トリルビー」のようなものだったとする。私も、そんなふうに見ているのだが、これは、暗黙のうちに、ガルボとスティルレルに、性的な「関係」があったことを前提にしている。スティルレルとの最初の性体験の性質と内容が、その後のガルボの性生活を決定したと見る人は多かった。

 ここで、ディートリヒを考える。
 ディートリヒは、フォン・スタンバーグ監督との関係を、あなたは「スヴェンガリ」、わたしは「トリルビー」と語っている。(「ディートリヒ自伝」第一部3章)

 フォン・スタンバーグのことば。

  「マルレーネ・ディートリヒは、私の手中にあった。私は心に描いた理想像にあ
  わせて、彼女を思うがままに作りあげた。」

 つまり、ガルボとモーリッツ・スティルレル(映画監督)の関係よりも、マルレーネ・ディートリヒとフォン・スタンバーグのほうが、よほど「スヴェンガリ」と「トリルビー」に近いと見ていい。

 ハリウッドに着いたばかりのスティルレルは語っている。

    彼女の名はグレタ・ガルボ。彼女は最高の女優になるだろう。

 と。この予言は的中した。驚くべき炯眼であった。

 私は、ここで「ガルボ論」を書くわけではない。ただ――戦後に見た映画がその後の私に大きな作用をおよぼしたことが、いくぶんわかってもらえるのではないか、と思っている。

2016/01/23(Sat)  1661 グレタ・ガルボ 【3】
 
     【3】

 戦後、日本人が見たはじめてのアメリカ映画は、「ユーコンの叫び」(リパブリック/1945年12月公開)だが、戦前に輸入されたままオクラ入りになっていたB級の作品だった。
 それでも、アメリカ人を理解しようとする観客が押し寄せた。

 1946年2月、占領軍ははじめてアメリカ映画の輸入を許可した。
 ディアナ・ダービン主演の「春の序曲」と、グリア・ガーソン主演の「キューリー夫人」が公開されて、日本の観客はハリウッド映画に魅了された。

 「春の序曲」や、「キューリー夫人」よりも、ずっと先の、敗戦直後に私が「喜びなき街」を見たのはまったくの偶然だった。

 戦後の少年がはじめて見た外国映画が「喜びなき街」だったことは、その後の私に大きな作用をおよぼしたような気がする。

 戦争は終わったが、東京の情景は惨憺たるものだった。「日劇」は巨大な廃墟だったし、地下の日劇小劇場は、セメントが剥がれて土がむき出しになっていた。「有楽座」は、焼けただれたままで、鉄骨の残骸をさらしていた。
 9月に占領軍が上陸した。これからどうなるのかまったくわからない「戦後」の東京で、痩せこけた隠花植物たちが、焼け跡のビルに芽吹きはじめたが、あくどく口紅をぬったその口辺にうかぶ笑みは、みじめな民衆を嘲笑するかのようだった。私は第一次大戦の「戦後」の、ドイツの「喜びなき街」の惨憺たる現実を、そのまま東京の「現実」に重ねあわせたのだった。

 「喜びなき街」のラスト・シーン。ガルボではない若い娘を見た瞬間、あ、と思った。どこかで見たことがある。まるでデジャヴュのように。

 白いワンピースを身につけてスクリーンを左から右に横切った若い娘。この若い娘を見た瞬間、まだ無名のマルレーネ・ディートリヒではないか、と思った。当時の私は戦前の映画雑誌を読みふけっていたが、ディートリヒの映画を見たこともなかった。それなのに、わずか1カットながら、まったく無名のディートリヒがこの「喜びなき街」のラスト・シーンに出ている、と思った。むろん、この娘を、ディートリヒと確信したわけではなかった。ガルボはもとより、ディートリヒの映画も見たことがなかったのだから。

 その後、長いこと、ディートリヒがこの映画に出ていたのではないか、という疑問をもちつづけた。その一方で、おそらく私の錯覚だろうと思った。あの若い娘はディートリヒではない。たまたま撮影所にいて、映画のワン・カットに駆り出されたエキストラで、無名のまま消えてしまった若い娘ではなかったか。

 ディートリヒ自身は、終生この映画については語っていない。

 それでもこの疑問は、私の内部に沈殿した。

 はるか後年、「ドイツ映画史」を調べていて、私は思わず目を疑った。自分の推測が当たっていたことを知った。

 その頃、エフレイム・カッツの「映画百科」のガルボの項目にも、her rival−to−be,Marlene Dietrich,appeared as an extra.という記述を見つけた。
 私は50年もかかって、やっと疑問をはらすことができたのだった。

2016/01/19(Tue)  1660 グレタ・ガルボ 【2】
 
       【2】

 1925年、ガルボはドイツ映画、G・W・パプスト監督の「喜びなき街」(1925年)に出た。
 この映画は、第一次大戦の「戦後」ドイツの、惨憺たる現実を描いたものだが、戦禍のなかで希望もなく彷徨する人々の群れのなかに、若い娘のガルボがあてどもなく歩みつづけていた。

 じつは、敗戦直後にこの「喜びなき街」を見ている。自分でも信じられないことなのだが。
 つまり、「戦後」私がはじめて見た外国映画が、ガルボの映画だった。

 戦争が終わった直後に、日本じゅうに大混乱が起きた。日本人は、敗戦という運命にどうやって耐えていたのだろう。誰もが、明日どうやって過ごすのかわからない。軍需工場の生産がいっせいにとまった。毎朝、ギュウギュウ詰めの電車に乗って、工場地帯にかよう必要もなくなった。全国民が失業者になったようなもので、敗戦がもたらした虚脱感と、もう空襲で逃げまどうこともないし、憲兵や特高警察をおそれる必要もない安心感が、あっという間にひろがってきた。
 「敗戦の明るさ。……この事実はなんぴとも感じていることだ。敗戦によってかって見なかった程大きな希望が生まれた」と、作家の石川 達三はいう。
 食料の配給もとだえたが、あっという間に闇市場が出現し、それまで見ることもなかった物資や食料が並べられはじめた。飢えた人々が、わずかな食料を奪いあうようにして、買いあさった。

 敗戦後、映画館は3日間上映を自粛した。
 戦意高揚を目的とした映画がいっせいに上映を中止した。

 焼け残った映画館としては、なんとか映画を上映しなければ経営ができない。そこで、どこから集めてきたのか、戦前の邦画の旧作や、戦前に公開された外国映画のプリントが、つぎつぎに上映された。
 敗戦直後に、おびただしい人々が繁華街に押し寄せた。
 民衆はこんな状況でも娯楽に飢えていた。飢えた人々が、食料を奪いあうように、少しでも自分たちの苦境を忘れることができるならどんな映画でもよかったにちがいない。
 ソヴィエトのネップ時代の喜劇や、フランス映画、はてはメキシコ映画までが上映されたのだった。ただし、アメリカ映画が上映されたことはない。

2016/01/14(Thu)  1659 グレタ・ガルボ 【1】
 
          【1】

 グレタ・ガルボは、20世紀に登場した大スター。なみいる大スターのなかで、わけても最高の美女だった。そればかりではない。20世紀という時代を超越していまもなお私たちの感性に訴える「夢」の女性だった。

 1900年、スウェーデン、ストックホルム生まれ。本名、グレタ・ルイザ・グスタフソン。

 父は定職のない下層労働者で、ストックホルムの貧民窟に住んでいたが、しょっちゅう失業していた。グレタが13歳のとき父と死別。翌年から理髪店で働くことになった。非常な美貌だったため、おおきなデパートのセールスガールになり、短編のコマーシャルに出た。やがて、サイレント映画の喜劇に出て、けっこう評判になったらしい。これがきっかけで、王立演劇学校で演技の訓練をうけることになった。

 この演劇学校で、演出家、モーリッツ・スティルレルに認められる。
 スティルレルは、ヴィクトール・シェストレームの「ゲスタ・ベルリングの伝説」の舞台に使う若い女優を探していた。
 「私は彼女の眼をまっすぐ見つめただけで、いともたやすく服従させられると気がついた」という。

 スティルレルとガルボの「関係」は、いわば「ピグマリオン」と「ガラテア」にほかならない。「スヴェンガリ」と「トリルビー」と見てもよい。

 最初の性体験の性質と内容が、ガルボの性生活を決定したと見る人は多かった。最初の処女喪失の体験は、相手の男性の所有物となる、つまり女性が隷属状態になるという見方で、これがスティルレルとガルボの「関係」だった、という解釈が出てくる。
 若いガルボは、はじめて会ったスティルレルに性的に服従したと見ていい。

2016/01/10(Sun)  1658
 

 恋愛と呼ばれる「病気」について。むろん、誰だって恋愛を知っている。誰もが恋愛について話をする。スタンダールは、すべての人は、たいてい恋愛について誇張して語っているという。私が恋愛を語るとすれば、自分の「体験」を離れては何も語れないような気がする。それは、スタンダール的な情熱恋愛ではないのだが。私は、女とつきあっているうちに、その女について語りたい。書きたいと思うようになる。ある外国の女優の生涯を追いつづけているうちに、現実に見たこともないこの女優の異様な魅力に惹きつけられてしまった。

 しばらく評伝を書くための準備をしたのだが、今の私の力では書けないと思うようになった。
 そのかわり、ハリウッドの、それも、サイレント映画の女優たちについて書いてみようと思いはじめた。
 むろん、あくまで私の批評的妄想にすぎないのだが。


2016/01/05(Tue)  1657 (Revised 2016.11.05)

 最近の私は、ほとんど毎日のように、映画を見ている。もう少し正確には、しばらく前に見た映画をDVDで見ている、または見直している。
 たとえば――フランス映画だが、実質的にはロシア映画の「コンサート」(ラデイ・ミヘイエレアニュ監督)とか、「アデルの恋の物語」(フランソワ・トリュフォー監督)など。

 もっと古い映画も見ている。
 たとえば、「マイヤーリング」(アナトール・リトヴァク監督)。これは、アナトール・リトヴァクがシャルル・ボワイエ、ダニエル・ダリューで撮った「うたかたの恋」のリメイク。おなじ映画監督が、メル・ファーラー、オードリー・ヘップバーンで撮っている。「ローマの休日」で登場したオードリーが、4年後にこの映画に出ているのだが、「ローマの休日」で見せた美しさはまるで消えている。これは驚くべきもので、私の「女優」観に大きく影響したのだった。
 その後、メル・ファーラーと離婚したオードリー・ヘップバーンは、普通のファンや映画批評家にとっては、「ペルソナ・グラティッシマ」の女優に変化してゆく。

 私は、昔、試写室や映画館で見ただけで、二度と見る機会もなく、いつしか忘れてしまった映画を見ては、かつての私がその映画に何を見たのか、あるいは、何を見なかったのか、あらためて考えるのだった。これも、老措大の楽しみというべきか。
 要するに手あたり次第にDVDを見ているだけ。ただの気ばらしといっていいのだが、若い頃に見た映画を老いさらばえた私がどう見るか。そんな興味がある。

 マルセル・カルネの「ジェニーの家」を見たのは、戦後まもなくのことだった。当時の私は、30年代のパリの風俗などまったく知らなかったが、今の私は、ある程度(あるいは、かなりの程度)まで知っている。そういう目で見ると、あらためて、30年代のエロティックな風俗も理解できるし、女優のフランソワーズ・ロゼェの「演技」も、20代の私よりはずっとよくわかる。同時に、20代の私は何も見ていなかったなあ、忸怩たる思いがある。
 そのくせ、ロゼェほどの「大女優」も、マルセル・カルネの映画では、この程度の「芝居」しか見せなかったのか、という驚きもあった。
昔の映画を見ることは――そのまま、その映画の再評価と、若き日の中田 耕治と、老いぼれた中田 耕治のアタマと心情の比較になる。これが、けっこうおもしろい。(笑)

 なぜ、「マイヤーリング」をとりあげたのか。じつは、私なりの理由がある。山口 路子は『オ−ドリ−・ヘップバ−ンの言葉』で、この映画にほとんどふれていない。なぜだろう、と思ったから。
 「ジェニーの家」をとりあげたのも、おなじような理由からで、筒井 康隆の『不良少年の映画史」(PART 1)で、戦後、「ジェニーの家」を見ていない、と書いていたので。
 私は、人が見ていない映画を見てうれしがるほど狭量ではないが、人が見なかった映画と聞くと、どうして見なかったのだろう、などと考えてしまう。
 ともあれ、昔の映画を見るのは老後の楽しみだが、ときにはAVだって見ることにしている。たまに傑作にもぶつかる。


 植草 甚一さんがいっていたっけ。

 「中田さん、ほんとうにいいポルノなんて、25本に1本ですよ」

 今の私には、そんなことばさえなつかしい。

2016/01/03(Sun)  1656
 
 私は恐竜ファンである。
 古生物学に関して小学生ほどの知識もないのだが、恐竜に関する記事があれば、夢中になって読みふける。

 白亜紀を最後に、恐竜は絶滅したという。6600万年も昔のことだから、人間は誰ひとり、恐竜の絶滅を見届けたわけではない。もし才能があれば、「恐竜最後の日」といったSFを書きたいくらいだが、あいにくそんなSFを書くチャンスはなかった。

 メキシコのユカタン半島に、巨大な隕石が落下したという。その衝撃から、さまざまな天変地異が起きて、あえなく恐竜は絶滅した。その程度の知識はある。ところが、その天変地異に、あたらしい仮説があらわれた。

 この巨大隕石の衝突にくわえて、大規模な火山の噴火がインドで発生したため、恐竜が絶滅したという。アメリカのUCCなどの国際研究チームが発表した。(2015.10.29.「読売」)
 このチームは、インド西部の地層などを詳細に分析した。その結果、巨大隕石の衝突後の5万年以内に、大規模な火山の噴火が起きたという。
 この噴火による火山灰の噴出量は、毎年、東京ドーム約700個分の、9億立法メートル。この噴火は、数十万年にわたってつづいた可能性がある、とか。

 このチームは――隕石衝突と大規模な火山の噴火の年代が近いので、どちらが恐竜の絶滅のおもな原因になったのか、判定はむずかしい、という見解をしめした。

 なにしろ6600万年も昔の話で、しかも隕石衝突と火山の噴火の年代差が「たった」5万年というのだから、思わず笑ってしまった。

 ただ、この笑いには――隕石衝突で大打撃を受けた恐竜たちが、「たった」5万年でも、地球上で必死に生きのびようとしたに違いない、という思いが重なっていた。

 この恐竜の絶滅から、まるで別のことを思い出した。

 2003年9月、チャン・イーモーは、ウクライナで、「LOVERS」(「十面埋伏」)の演出に当たっていた。
 チャン・ツイーの母親役に、香港の大スター、アニタ・ムイを起用する予定だった。しかし、梅 艶芳(アニタ・ムイ)は重病に倒れて明日をも知れぬ身だった。チャン・イーモーは、アニタの回復を信じて朗報を待っていた。
 監督の希望もむなしく、アニタ・ムイは亡くなった。(12月30日)

    地球なんて、ずっと恐竜が住んでいたんだ。
    人類の歴史なんて短いものさ。
    恐竜は十数億年、何十億年も地球に君臨していた。
    20メートルとか50メートルの恐竜が空を飛んでいた。
    宇宙の中のこの小さな地球で、映画の撮影なんて、「LOVERS」なんて、
    取るに足らないことさ。

 映画監督、張 藝謀のことば。

 チャン・イーモーは、完成した「LOVERS」(「十面埋伏」)を、梅 艶芳(アニタ・ムイ)にささげている。

2015/12/28(Mon)  1655

 ある日、外出しようとして、門扉に手をかけていた。
 近くの幼稚園の子どもたちが、若い先生3人に引率されて、我が家の前を通りかかった。公園に行く途中だろう。30人ばかりの幼児たちなので、若い女の先生が3人で引率している。
 幼児たちはお互いに手をとりあって、楽しそうに歩いている。先頭に立った先生が、私の前にさしかかったとき、子どもたちにいいきかせるように、
 「お早うございます」と声をかけた。これも情操教育なのだろう。
 幼い子どもたちも、くちぐちに「お早うございます」と声をかけてゆく。
 知らない子どもたちばかりだが、ご近所の誼みで声をかけてくれるのだった。

 私もこれに答えて、「お早うございます」と声をかけてやる。これも、なかなか楽しい。まだ、ことばも達者でない、5,6歳の幼児が、たどたどしい口で、老人に声をかけてくれるのだから。

 最後の子どもの列になった。
 ひとりの女の子が、ちょっと立ちどまると、まじまじと私を見て、
 「キタナイオジサン」
 といった。

 私は笑った。

 この女の子は、ただ一言にして私の「現在」をとらえている。これまで、いろいろな批評家が、私をいろいろと批評したが、この女の子ほど、端的、かつ直截に私の本質をとらえた批評はない。天真爛漫にして、寸鉄人を指す批評であった。

 たしかに私は、もはや「キタナイオジサン」以外の何者でもない。

2015/12/23(Wed)  1654
 
 この一年、ほとんど何も書かなかった。ブログもあまり書けなかった。書くべきこともなかった。

 自分でも信じられないのだが、この11月、私は米寿を迎えた。
 かつて私のクラスにいたみなさんが、米寿を祝ってあつまってくれた。うれしいことだった。
 みなさんが、私のブログを読んでいる、という。はげましの言葉も頂戴した。これも、ありがたいことだった。
 しかし、老残の身のかなしさ、何も書けない。

 例え、何を書いたところで、老いぼれのとりとめもない気ままな思い出なぞ、誰が耳を傾けるだろうか。

 老人が片隅で何かつぶやく。よく聞きとれないし、何をしゃべっているのか意味もさだかではない。声にならない叫び。ときには、悲鳴。金切り声の叫び。

 私自身、何度もそんな老人の姿を見、そんな叫びを聞いてきたような気がする。

 たとえば、半世紀も昔のパリ、サン・ジェルマン・デ・プレ。まずしい服装の老人が、路上に腰を落としてうずくまり、まったく無言でひたすら路上の一点を見つめていた。
 乞食だった。80歳ぐらいだろうか。よれよれの、汚れたスーツを着ている。おそらく仕事もなく、家族もいない身で、通りすがる人々のわずかな恵みをもとめている。

 この老人は、みじろぎもせず、声を発することもなく、ただ、ひたすら路上の一点を見つめているのだった。老人は、薄汚れた生き人形か人間の剥製といった感じで、まばたき一つしなかった。眼は開けているが何も見てはいない。眼臉だけが赤くただれて、白内障か緑内障で失明に近い状態だったのか。
 パリの繁華な通りの片隅で、年老いた乞食が、道行く人々に憐れみを乞うわけでもなく、ただ、放心したように、目の前の空間のどこかを見つづけている。
 私は、これほど悲哀にみちた人間の姿を見たことがなかった。

 しかし、誰ひとり老人に目もくれず、急ぎ足でその前を通ってゆく。

 そして、これもある日のニューヨーク。夜明けが過ぎたばかりの時間。私はブロードウェイ近く、まだ人通りのない裏通りを歩いている。
 ニューヨークに着いてすぐに、古着屋で、よれよれの革ジャン、少年用の派手なシャツ、白いソックス、スニーカーを買ったのだった。
 当時のニューヨークは犯罪が多発していたため、旅行者が単身で裏通りを歩くのは危険とされていたが、私はすり切れた革ジャンのポケットに20ドル入れているだけで、旅行者には見えない恰好で歩きまわっていた。

 ふと、道をへだててひとりの老女が立っていた。
 貧しい身なりで、こんな早朝にどこから出てきたのか。私は、道路の反対側を歩いていたので、かなり距離があった。
 老女はそのまま通りすぎようとした私にむかって何か叫んだ。ひどくひからびた声で、「I ain’t got a penny!」と聞こえた。
 つまり、「あたしゃ、無一文なんだよ」と呼びかけてきたのだった。見ず知らずの私に訴えたところで、どうなるものでもないだろう。ただ、その声に、私はぞっとした。私としては顔をそむけて通りすぎるしかなかった。

 こんな一瞬の情景が、どんな小説や映画のシーンよりも私の胸を打った。

 私の旅はいつもこんなものだった。
 このブログで、ほんとうに書きたいのは、そんな小さな、街の風景なのだった。

2015/12/17(Thu)  1653
 
     【49】

 1年近く前から、このブログで安部 公房のことを書きはじめた。「もぐら通信」の岩田 英哉さんの慫慂による。少年時代に出会った安部 公房のことをたどっているうちに、さまざまな人との出会いまで思い出すことになった。
 このブログを読んでくださった読者から質問を受けたことから、中村 真一郎のことを思い出したのだった。

 最終回を書くために、「緑色の時間のなかで」(1989年)を読み返してみた。

   この数年、サクラの季節になると、もうこれが生涯の見おさめか、という感慨にと
   らえられながら、花吹雪の下に立つのが習慣になっている。
   少年時代には、ただ薄汚い印象をしか持たなかった桜の花が、年々、耐えがたいほ
   どの美しさで、私に迫ってくるというのは、これもまた死の前兆でもあろうか。

 真一郎さんがこう書いたのは1988年だった。
 このブログで、安部 公房のことを書きはじめた私もそんな気分でサクラを眺めていたような気がする。……

さて、「安部公房を巡る思い出」も、このあたりで終わることにしよう。「世紀」の会の草創期について書くことも残っているのだが、「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らず」。いずれ書けるようになったら書くということで。

 ご愛読いただいた方々に心からお礼をもうしあげたい。

2015/12/14(Mon)  1652
 
      【48】

 真一郎さんは私より先輩だが、私の親友、小川 茂久が真一郎さんと親しかったせいもあって、少年時代から何度も会う機会があった。おこがましいいいかただが――彼の該博な知識には及びもつかないが、私は文学的にいくらか近い立場に立っていたような気もする。
 私と真一郎さんは資質も才能もまるで違う。それでも、少年時代からの親しみはかわらなかった。「近代文学」のなかにも、私を中村 真一郎のエピゴーネンと見ていた人もいた。一時はまったく交渉がなくなったが、ある時期から、真一郎さんに口をきいてもらえるようになった。苦労人の小川 茂久がはからってくれたらしい。
 「秩序」の同人たちが、正月に真一郎さんのご自宅に集まったとき、私も小川 茂久といっしょに伺候した。
 このとき、北 杜夫に紹介されたが、この席で、若い評論家がはげしい口論をはじめた。菅野 昭正がしきりに仲裁したが、西尾 幹二が退席した。このとき、私とすれ違いざま、西尾が自分にいい聞かせるようにつぶやいた。
 「二度とこんなところにくるものか」
 かつて「近代文学」を脱退した中村 真一郎も、おなじことばを自分にいい聞かせたのではないか、ふとそんなことを考えた。

 晩年の中村 真一郎に会う機会はなかったが、80〜90年代の真一郎さんは、私を相手に、いつもエロティックな話ばかりするのだった。私が、エロスについて書いたり、鞭打ちという行為について、私なりのモノグラフィーを書いたりしたからだろうと思う。
 しかし、私の知識など、真一郎さんにおよぶはずもない。
 ただ、中村 真一郎が、日本でもめずらしい「タンペラマン・アムルー」(色好み)の作家だということはよくわかった。
 2000年、私は「ルイ・ジュヴェ」という評伝を書いた。この本のオビは、真一郎さんにお願いする予定だった。
 この作品を書きあげた翌日、小川 茂久は亡くなった。その後、「ルイ・ジュヴェ」を短くしたり、また少し補ったり、つまらない作業に手間どっているうちに、真一郎さんも亡くなった。

 その中村 真一郎が、こんなことを書いている。

    二十歳後半から三十歳半ば頃までの私は、石川(淳)さんにバカ扱いされていた
    気配がある。

 これを読んで、思わず笑ってしまった。このいいかたにしたがえば、石川 淳の眼中に私など存在もしなかったはずである。
 逆に、私のほうは石川 淳の「渡辺 崋山」、「鴎外大概」などを非常な傑作と見るかわり、小説にほとんど関心がない。
 それでいいのだ。死んでしまえば、どうせお互いさまではないか。

2015/12/12(Sat)  1651
 
     【47】

 さて、この回想もそろそろ切りあげなければならない。

 1948年の春、私は安部君といっしょに、東大で講演をした。
 これは、「近代文学」が企画した講演会で、三四郎池に近い教室で、「近代文学」の同人たちがそれぞれ1回づつレクチュアした。
 ほかの人たちの講演については知らない。私は、埴谷 雄高から講演に出てくれといわれて、すぐに引き受けただけのことだった。安部君の前座ぐらいなら、私でもつとまるだろう。

 教室は満員だった。
 はじめて不特定多数の人々の前で話をしたのだが、さいわいアガったりせずに、話ができた。安部君は、処女作が出版されたばかりで、注目されていた。テーマも、自作について自由に語るといったものだったが、大きな教室に学生がつめかけた。
 安部君の話にはじめてカフカの名が出た。むろん、だれひとりカフカを知らなかったはずである。
 べつに驚くほどのことではない。戦時中に出たカフカの翻訳は、わずか15部しか売れなかったという。私は、安部君のもっていたジッドと、私がもっていたカフカを交換したから、たまたまカフカを読んだにすぎない。

 この講演で、私は、第一次大戦後にピランデッロのような劇作家が登場したことをあげて、戦後の私たちの芝居にも、ピランデッリスモのようなあたらしい演劇運動が起きるだろうという趣旨のことをしゃべった。むろん、これは希望的な観測で、はっきりした分析、推理をへた発言ではなかった。
 (ただ、コポオ、ルイ・ジュヴェの名前をあげたはずである。少なくとも、ジュヴェの「俳優論」に対する関心は、この頃からはじまっていたと思う。)
 この頃、はじめてサルトルが紹介されたが、誰も実際の作品を読んではいなかった。

 この講演のあと、安部君は学生たちの集まる講堂につれて行ってくれたが、多数の学生たちが集まってさかんに議論していた。その中に、全学連の学生もいたし、ノン・ポリの学生もいた。この日の、あの教室の騒然とした喧騒は忘れられない。もう、何十年もたった今でも、あの教室に集まっていた若者たちの姿を思い出す。
 「全学連」の武井 昭夫がいた。いいだ もも、小川 徹たちがいた。そして、松山 俊太郎も。そのなかに、木村 光一がいた。後年、「文学座」の演出家になった。
 私はただひとり、この教室のこの人たちとなんの関係もなく立ちつくしていた。

2015/12/09(Wed)  1650
 
      【46】

 当時、安部君には私以上に親しい友人が3人いた。

 高谷 治。赤塚 徹。辰野君。

 高谷君は、私とおなじように小柄だが、私と違って見るからに育ちのよさがわかるような若者だった。
 私は彼がジャン・ジョーレスの「フランス革命史」をもっていることを知って、貸してもらったことがある。
 全部で7冊ぐらいあったのだが、その1巻、2巻を借りて読んだ。フランス革命についての最初の関心はジャン・ジョーレスを読んだおかげだった。
 しばらくして、私は肺結核がひどくなり、大宮から東京に出られなくなった。その結果、安部君に会う機会もなくなった。あいにく高谷君の住所を知らなかった。
 高谷君に借りた本はそのままになってしまった。まことに恥ずべきことで、今でも後悔している。

 赤塚 徹は画家志望で、安部君からその才能について何度も聞かされていた。
 「世紀の会」は、小川町の赤塚君の書斎で最初の集合をもった。
 赤塚君はまだ若いのに堂々たる恰幅で、寡黙な若者だった。「戦後」のあたらしい絵画はどうあるべきか、といった議論よりも、自分はどういう絵を描くべきかをじっくり考えているようだった。安部君の親友というだけで赤塚君に好意をもったが、肺結核が進行している状況では、彼と親しくなれなかった。

 辰野君(失礼だが、お名前を失念した)は、フランス文学の辰野 隆先生の令息だが、文学に進まず、東大の薬学部に在籍していた。
 私は辰野君と三四郎池のそばで、「世紀の会」のことで話しあったことがある。

 私は、安部君の友人たちと、私の友人、小川 茂久、柾木 恭介たちを同人にした「集まり」のようなものをはじめるつもりだった。ところが、この計画は、すぐにもっと大きな活動に変化したのだった。

 この時期、いよいよ「世紀」の会を発足させることになった。
 はじめての会合は、神田小川町の赤塚君宅で行われた。
 このときのメンバーは、安部 公房、中田 耕治、瀬木 慎一、いいだ もも、赤塚 徹、高谷 治。もうひとり、よく覚えていないのだが関根 弘ではない誰かが参加したのではなかったか。
 私は安部君といっしょに人選にかかった。

 いいだ ももの提案で、「世代」のメンバー全員が参加することになって、中村 稔、吉行 淳之介、椿 実、日高 晋、矢巻 一宏などが参加した。
 多人数になったので、早急に大きな場所が必要になった。このとき、小川 徹の口ききで、内幸町のNHKの会議室が借りられることになって、初めての会合が行われた。
 このとき、私が、もっとも驚かされたのは、三島 由紀夫と同期で、東大の法科在学中に「産別会議」の要職についたという、いいだ もも(宮本 治)だった。「世紀」の会をはじめて、毎回、たいへんな天才や秀才に会ってきたが、もっとも頭脳明晰な人物をあげるとすれば、躊躇なくいいだ ももをあげるだろう。当然、「世紀」の会のイニシアティヴをにぎったのも、いいだ ももだった。

 美男をあげるとすれば、私は即座に、矢巻 一宏をあげる。
 安部君ははじめて矢巻 一宏を見たとき、低い声で、
 「あいつ、美男だなあ」
 といった。
 当時、成城高校生だったはずだか、ほんとうに匂やかな美少年だった。

 矢巻 一宏は生涯、五つの出版社を起こしている。はるか後年、渋沢 龍彦を迎えて「血と薔薇」を出す。後年の私は矢巻君と内藤 三津子夫人と親しくなったのだった。
 しかし、この時期、矢巻 一宏は作家をめざしていた。その処女作、「脱毛の秋」が、「世代」に発表されたとき、私たちはあたらしい作家が登場したと思ったものである。

 NHKの会議室では、メンバー相互の交際をはかって、研究会をもつことになった。これは、「近代文学」の先輩たちの集まりを見ていた私が提案したもので、テキストをきめて、メンバーのひとりがテューターとして、基調のレクチュアを行う。
 テキストは、野間 宏の「暗い絵」、テューターは日高 晋。つぎに花田 清輝の「復興期の精神」、「錯乱の論理」。このテューターは森本 哲郎。
 この集まりで、吉行 淳之介はまったく発言しなかった。「原色の街」を書く前だったが、いつも飄々としている吉行 淳之介に私は注目していた。
 「あいつ、どこかの作家の息子だってさ」
 安部君が教えてくれた。
 「ふ〜ん。それじゃ、吉行エイスケだよ、きっと」
 私は答えた。
 「へぇえ。そんな作家がいるの」
 「うん。新興芸術派のひとり。吉行なんて珍しい名前だから、たぶん、間違いないんじゃないかな」

 この集まりも長くはつづかなかった。NHKから追い出されたのだった。
 そこで、誰かが奔走して、新宿の近くのお屋敷の離れを借りることにしたのだった。
 このときのテキストは、おぼえていない。テューターは、渡辺 恒雄。この名前に驚く人もいるかもしれない。
 手席者は、安部 公房、中田 耕治、森本 哲郎、小川 徹、瀬木 慎一、そして、この回から私が招いた柾木 恭介が加わった。

 この夏、安部 公房は、処女詩集「無名詩集」を出した。
 出たばかりのガリ版の詩集だったが、私に一部贈ってくれた。私は、先輩たちから本をもらったとき、みんながサインしてくれたので、安部君にもすぐにサインをねだった。
 安部君はしきりにテレながら、サインをしてくれた。

 目上の人から、目下の人に、本を贈る場合はかまわないが、目上にあたる相手に本を贈るときは絶対に恵存と書いてはいけないとつたえた。誰かに聞いたことだった。そのときの安部君は、ちょっと驚いたような顔をした。

 こうして「世紀」の会は発足したのだが、私の前途は、それほど明るいものではなかった。このときも、中村 真一郎の「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らず」ということばを思い出した。

 肺浸潤がひどくなってきたのだった。

2015/12/05(Sat)  1649
 
     【45】

 この頃の安部君と私は、何か書くとたちまち攻撃されたり、匿名で批判されたりしていた。私はいろいろな雑誌で叩かれつづけていた。あまり、悪口ばかり書かれるので、本屋に並ぶ雑誌を手にとるのもいやになるくらいだった。

 そんななかで、たった2,3行だったが、安部君と私の名を挙げて、褒めてくれた人がいる。
 椎名 麟三だった。

 「近代文学」が、同人を拡大したのは、1947年の初夏だった。
 このとき、新同人になったのは、久保田 正文、花田 清輝、平田 次三郎、大西 巨人、野間 宏、そして「マチネ・ポエチック」の福永 武彦、加藤 周一、中村 真一郎だった。

 すでにふれたように、加藤 周一、中村 真一郎は、山室 静のすすめで「近代文学」の集まりに出席していた。福永 武彦は、結核の療養のためサナトリウムに入っていたので、「近代文学」の集まりには一度も出席しなかった。

 ところが、「マチネ・ポエチック」の人々が、「近代文学」の同人に参加したばかりの1947年7月号に、加藤 周一の「IN EGOISTUS」が発表された。
 加藤 周一は、中野 重治の「批評の人間性」に端を発した中野vs荒・平野論争に言及して、荒 正人の小市民的エゴイズムを否定し、中野 重治の荒・平野批判を正当とするという論旨だった。

 荒 正人がこれに対して、激烈な反論を書いた。その直後、中村 真一郎と加藤 周一が、「近代文学」に乗り込んできた。
 たまたま、平田 次三郎と、編集担当の原 道久、安部 公房、私が居合わせたのだが、中村 真一郎は私たちに目もくれなかった。血相が変わっていた。
 私は安部 公房に目配せした。
 安部 公房もすぐに了解して、ふたりで事務室を出た。
 「真ちゃん、すごい顔をしていたなあ」
 「とてもただごとじゃすまないね」
 私たちの想像は当たった。「マチネ・ポエチック」の3人は、この日、「近代文学」の同人を脱退したのだった。

 近くの喫茶店に逃げ込んだ安部 公房と私は、「マチネ・ポエチック」の脱退は「近代文学」に激震をもたらすだろうこと、早く「世紀」の会を立ちあげようという相談をした。だから「世紀」の会を考えるようになった理由は、はじめはこんな単純な理由からだった。

 「マチネ・ポエチック」の脱退は、私にも影響した。私は荒 正人と親しかったため、中村 真一郎から忌避されたのだった。その後、数年、私は中村 真一郎と会うことがなくなった。
 真一郎さんと口をきくようになったのは、私が小説を書くようになってからだった。

2015/12/02(Wed)  1648
 
     【44】

 中村 真一郎の「死の影の下に」が出て、盛大な出版記念会があった。
 私もこの集まりに出たのだが、いろいろな先輩たち、友人たちが祝辞を述べた。やがて、これも先輩の批評家、中村 光夫がスピーチに立った。その祝辞たるや、まことに手きびしい内容で、「死の影の下に」をプルーストの拙劣な模倣とコキおろし、こういう作品はほんらい筐底に秘めておくべきもの、とまでいいきった。
 中村 真一郎は、この祝辞のあいだ、ずっと面(おもて)を伏せたままだった。私は、中村 真一郎に同情した。いくら先輩であっても、中村 光夫のスピーチはあまりにも心ない仕打ちと見えた。

 批評家として作品を批判するのなら、雑誌に批評を書けばいい。それなら、中村 真一郎もただちに反論できるだろう。ところが、出版記念会の主賓という、はじめから反論しようもない立場の後輩を、こういうかたちで窮地に立たせるのが、先輩の批評家のとるべき姿勢なのか。
 いまの私が中村 真一郎だったら、すぐに立って、中村 光夫のスピーチを制止するか、マイクを奪ってどなりつけるだろう。これも先輩に対して後輩のとるべき態度ではないかも知れない。しかし、後輩の処女作の出版を祝う席上で、やんわりと苦言を述べる程度ではなく、衆人環視のなかで悪口雑言を投げつけるのは、あまりにも無礼ではないか。
 このときから、私は中村 光夫という批評家を信頼しなくなった。
 やがて、私は出版記念会など、文壇人の集まりに出ることを避けるようになった。むろん、別な理由もあった。
 肺結核の症状がひどくなったため、寝込むようになったからである。

2015/11/29(Sun)  1647
 
     【43】

 もう一つ、思い出したことがある。
 ある日、私は「中国文学」の千田 九一さんのご自宅に呼ばれた。

 この集まりは「近代文学」の懇親会といったもので、あたらしく同人になった人々の顔あわせを目的としていたものと思われる。
 安部 公房と私もいっしょに出た。この席で、当時としては貴重品だったニワトリの水炊きがふるまわれた。酒、ビールなども出た。
 戦後の食料難についてはすでにふれたが、このときの集まりで、私は戦後はじめてトリ鍋をあじわった。その後、トリ料理も食べられるようになったが、千田 九一さんの集まりで出されたトリ料理ほどおいしく頂いたご馳走はない。

 この集まりに中村 真一郎も出席した。

 集まった人たちは、いずれも名だたる文学者なので、この席でも侃々諤々の議論が交わされたが、鍋料理が目的だったので、楽しい気分があふれていた。
 ふと、真一郎さんの靴下に目をとめた。靴下の片っぽに大きな穴が開いていた。穴というより、半分破れていて、まるで靴下の用をなさないほどだった。
 私は目をそらせた。
 小心な私は、文学者の集まる席なら、前の晩に自分で靴下の破れをつくろったに違いない。
 しかし、ダンデイな中村 真一郎は、自分の貧しさをすこしも恥じていない。このとき、私は、戦後派作家として注目されている中村 真一郎が、実生活ではけっして恵まれていないらしいことに気がついたのだった。

 大きな穴が開いた靴下など、まったく気にとめずに、さかんに文学論議をつづけている中村 真一郎に敬意をもった。この思いは――自分もいつか、少しでも世間に通用する作品を書きたいという思いにつながっていたはずである。

 作家として登場したばかりの中村 真一郎が、経済的にはそれほど恵まれていなかったことは、別のことからも想像できた。

 ある日、真一郎さんは私をつかまえて、
 「ねえ、中田君、さっき数えてみたら、ボクの原稿を載せた雑誌、30もつぶれているよ」
 といった。
 「ふーん、そんなにつぶれましたか」
 心のなかで私も数えてみた。私に原稿を依頼した雑誌、原稿は載せたものの原稿料を払ってくれなかった雑誌、三号雑誌で消えてしまった雑誌は――15もあった。
 真一郎さんの場合は、短編もふくめて30編も原稿を書いた雑誌が潰れている。枚数からして、私とは比較にならない。私が、そんな雑誌に書いたのは短いエッセイや雑文ばかりだった。それでも、私としては原稿料をアテにして書いたのだから打撃は大きかった。

2015/11/23(Mon)  1646
 
    【42】

 ある日、「近代文学」の集まりがあった。
 この集まり(勉強会)で、安部 公房と私は、ある新人作家について、それぞれが批評することになった。対象は三島 由紀夫だった。
 場所はよく覚えていないのだが、おそらく中野の「モナミ」だったと思う。
 このレクチュアは、(あとで思い当たったのだが)「近代文学」の第二次同人拡大が問題になる前で、安部君は別として、中田 耕治を同人にするかどうか、いわば面接試験めいたものだったのではなかったか。
 ゲストは三島 由紀夫。「近代文学」側は、平野 謙、小田切 秀雄が欠席。ほかの出席者に、中村 真一郎、椎名 麟三、野間 宏など。花田 清輝はいなかった。

 最初に私が、短編集の「夜の支度」について報告した。
 つづいて、安倍 公房が「仮面の告白」を批評した。
 (私の知るかぎりでは、その後の「世紀」で、安倍 公房が三島 由紀夫をテーマにレクチュアしたことはない。「世紀」でもこうした勉強会をはじめたけれど。)

 私も三島 由紀夫とは初対面だったが、当時の私は、性倒錯について、ホモセクシュアル、レズビアンについてなど何も知らない無知な若者だったから、この作家の内面にひそんでいる異常性を指摘するだけでせいいっぱいだった。
 戦時中、中学生のとき「花ざかりの森」を読んだり、「日本浪漫派」の雑誌、「文芸文化」で三島 由紀夫の名を知ったが、このレクチュアでの私は、ただ、三島 由紀夫におけるロマン主義的な愛のナルティシズムといった問題をとりあげたにすぎない。

 戦後すぐの時期、ゲイの男性は、異性愛社会のなかでうまく生きて行くためには、ホモセクシュアルである自分を隠すことが、いわば第二の天性のようになっていた。このことは、やや遅くなって、「劇作」の集まりで知りあった鈴木 八郎(完全なゲイだった)から教えられた。三島 由紀夫も、まだ、自分がホモセクシュアルであるという(文学的な)カミングアウトを試みたわけではない。
 むろん三島は私の稚拙な批評など歯牙にもかけなかった。

 このときの安倍君の批評はじつにみごとなものだった。私は、安部君は、小説よりも批評を書いたほうがいいのではないか、と思ったほどだった。
 三島 由紀夫も安倍君の批評に感心したようだった。

 安倍君の批評に注目した人がいる。中村 真一郎だった。

 この集まりが終ったあと、中村 真一郎が、安部君と私を呼びとめて、コーヒーをおごってくれた。このときの話題は、もっぱら安倍君の批評に対する称賛だった。真一郎さんも三島 由紀夫の作品にふれたが、むしろ安倍君の批評について批評したのだった。批評家が他人の批評を批評するときほど批評家であることはない。
 真一郎さんは、まだ作家としての安部 公房を知らなかったはずで、まず卓抜な批評家としての安部 公房に驚嘆したようだった。
 このときの話はもっぱら安部 公房の批評と、三島 由紀夫の短編にかぎられたが、中村 真一郎は、私に向かって、
 「きみ、フランス語、勉強してる?」
 といった。

 私は、英語の勉強をはじめていたが、一方でフランス語の勉強もはじめていた。むろん、誰にも口外したことはない。たぶん、小川 茂久から聞いたのだろう。

 小川 茂久は、私と椎野の共通の友人だったが、この頃から真一郎さんと親しくなっていた。当時まだ序章しか発表されていなかった「死の影の下に」の全編を清書したのも小川 茂久だった。
 私はたしかにフランス語の勉強もはじめていたので、
 「とても半年というわけにはいきませんが」
 私は答えた。いつか、真一郎さんが平野さんに答えたことばを受けたつもりだった。
 真一郎さんは、すぐに私の答えに隠された意味を読みとって、いたずらっぽくニヤッとしてみせた。

 この研究会で、三島 由紀夫を知ったことから、私は「世紀」の発足に当たって、三島 由紀夫にも参加を呼びかけたのだった。(「世紀」の会が発足するに当たって、参加したメンバーの名を記録したが、三島 由紀夫の名は22番目あたりに載っているはずである。)

2015/11/19(Thu)  1645
 
     【41】

 「1946・文学的考察」で、はじめて中村 真一郎のエッセイを読んだ。私の知らない作家の名がたくさん出てくる。ずっと後年(70年代の後期だったと思う)に、もう一度、読み直してみた。そして、真一郎さんのエッセイに、ヘンリー・ミラーの名を見つけた。衝撃を受けた。
 戦後すぐの時期に、中村 真一郎はヘンリー・ミラーを知っていた!

 1970年代に、ある作家が、戦時中にグレアム・グリーンの「第三の男」を原書で読んでいたと書いた。私はこの作家を軽蔑した。(ここで名前はあげない。)
 戦時中に、グレアム・グリーンの映画評を読んでいたというならまだしも、小説、まして「第三の男」を読んでいるはずはない。まだ、書かれていないのだから。
 それにひきかえ、戦時中に中村 真一郎がヘンリー・ミラーを読んでいた、というのは、じゅうぶんに信用できる。

 戦時中にグレアム・グリーンの映画評やヘンリー・ミラーの小説を読んでいた日本人は、おそらく2人。
 植草 甚一と、双葉 十三郎。(植草 甚一は、戦前の上海で秘密出版された海賊版を入手したと私に語ったことがある。)
 戦後すぐの中村 真一郎は植草 甚一を知らなかったはずで、フランス語版で読んでいたのではないか。大森山王の椎野 英之の家で私が見たおびただしい蔵書のなかに、ヘンリー・ミラーがあったと見ていい。
 あらためて、中村 真一郎の博覧強記ぶりを思い出した。

2015/11/12(Thu)  1644

     【40】

 T・Kさんから質問をうけて、いろいろなことを思い出した。とりとめもない思い出ばかりだが、こういう機会でもなければ、思い出すはずもなかった。

 その後、T・Kさんからメールがあった。

     中村真一郎氏でしたか!

     戦後文学に興味がありまして、氏の著作も「死の影の下に」五部作、「四季」
     四部作を中心に読んだことがあります。
     中村氏は中年から晩年にかけて頼山陽や江戸漢詩に関する評伝・研究をものし
     ましたが、なるほど、祖父が漢学者だったとは。なっとくです。
     氏の神経症とはべつに、祖父から受けた漢学の素養が評伝・研究に取りくむき
     っかけとしてあったのですね。

 このメールのおかげで、またしても別のことを思い出した。戦後、いち早く文学者として安部 公房を認めたのは、誰あろう中村 真一郎だった。

 これまた説明が必要になる。

 「近代文学」の人々は、1947年春から、月に1度、勉強会のような集まりをもつようになっていた。出席者は、多いときで15名程度。したがって、この集まりの場所は「文化学院」の事務所ではなく、いろいろと変わったが、1948年には中野の「モナミ」がよく使われた。
 同人たちがゲストを招いて、レクチュアを聞く。それだけの集まりだったが、そのゲストには、武谷 三男、矢内原 伊作、花田 清輝、赤岩 栄、椎名 麟三、竹内 好といった人々が選ばれた。テーマは、それぞれのゲストによって違ったが、レクチュアのあと、「近代文学」の同人たちとゲストの活発な質問や雑談を聞くのが楽しかった。

 この集まりに、私は安部公房といっしょにかかさず出席した。私の頭の程度ではゲストの話について行くのもやっとだったが、たとえば、戦時中、仁科博士を中心にして核融合の研究に従事していた武谷 三男に対して、荒 正人が専門的な質問をつづけた。それに対して武谷 三男が丁寧に答えていたことを覚えている。ただし、その内容については、私は半分も理解できなかったのだからひどい話だが。

 広島の被爆直後に、軍の命令で、急遽、東大の医学部ほかの優秀なメンバーが組織され、被爆直後のヒロシマに派遣された。治療よりも、被爆の実態調査、被傷の療法研究が目的で、加藤 周一は血液学関係の研究者として参加させられたという。戦後、この臨床体験について、加藤さん自身はまったく口外しなかったはずだが、このレクチュアでは安部君が医学関連の質問をした。純粋に医療関係の話だったので、これも私にはわからなかった。

 「近代文学」の集まりは、毎回、知的に高度なレベルの話題ばかりで、ゲストと出席者たちが自由に質疑応答をする。ときに議論が白熱化して論争になることも多かった。

 安部 公房はこの集まりではじめて花田 清輝に会ったのではないか。(そのあとすぐに「真善美社」に安部君と私が行ったのだと思う。このあたり、記憶がはっきりしない。)私が、覚えているのは――花田 清輝が、この集まりにひとりの青年をつれてきたことだった。ロシア語を勉強している労働者で、マヤコウスキーを読んでいると紹介した。
 がっしりした体格で、寡黙だったが、たいへんな勉強家だった。
 関根 弘という。

 この勉強会で、佐々木 基一が熱心に関根 弘と話をしたが、並みいる先輩たちを相手に、もの怖じせずに論争に加わって、整然と切り返すようすに私は驚嘆した。佐々木 基一も、すぐに関根 弘の才能に感心したようだった。会が終わったあと、佐々木さんは、 「なんてったって、関根君は雑階級の出身だからなあ。かなわないよ」
 といった。

 このとき、私は関根 弘が寡黙なのは、何か理由があるのだろうと思った。その後、関根と親しくなってから、私が本所で大空襲をうけたと知って、一瞬、表情を変えた。
 この大空襲で私は本所の業平橋に逃げた。今はスカイ・ツリーで知られている業平橋から押上、柳島も、阿鼻叫喚の地獄と化して、関根 弘はこの空襲で妹さんを失っている。
 私がそのことを知ったのは、さらに後年のことだが、関根は、私が業平橋に逃げながら焼死しなかったことに驚きと、自分の体験した苦痛が一瞬、心をかすめたのだろう。

 いずれにせよ、この集まりがきっかけで、私は安部 公房といっしょに関根 弘と親しくなった。その後、「世紀」の会を作ろうとしたとき、私がまっさきに協力をもとめたのは関根 弘だった。

2015/11/09(Mon)  1643
 
     【39】

 1947年は、まさに激烈なインフレーション、食料難の年だった。極度の電力不足、輸送力の欠乏で、日常的に停電、食料の欠配がつづく。紙不足で、新聞もタブロイド版1枚になった。
 質のわるいセンカ紙のカストリ雑誌が氾濫した。田村 泰次郎の「肉体の門」が、大ヒットした。

 「1945・文学的考察」が出版された頃だから、1947年春、おそらく2月から4月にかけてと思われるのだが、中村 真一郎は、「近代文学」の集まりのメンバーとして顔を出すようになっていた。福永 武彦は療養中だったためこの集まりには一度も出なかった。加藤 周一はときどきこの集まりに出た。
 会のあとで本郷三丁目のバーに寄った。美人姉妹が経営していたバーで、駿河台下の「らんぼお」の美女と並んで、戦後文学者や、東大仏文の人達が集まっていた。ここで、花田 清輝と大論争になったことがある。埴谷 雄高、安部 公房がこの論争に加わった。

 埴谷 雄高は、論争がはげしくなると、その間に割って入って、すかさず別の論点を投げ出す。だから、討論が堂々めぐりにならない。
 さらに、加藤 周一と花田 清輝の論争がハイライトに達したと見るや、それまで遠く離れて論争を見ている美しいホステスたちに目をやる。まるで、格闘技のチャイムのような効果で、一時、休憩。(はるか後年、「茉莉花」でも何度かおなじようなシーンを見たことがある。)
 この休憩のときに、埴谷さんは、安部 公房と私にむかって、
 「なにしろ、カルテジアンとヴォルテリアンの論争だからね。レフェリーも必要だよ」
 花田 清輝が薄笑いをうかべた。

 この論争の直後に、埴谷 雄高が花田 清輝にあてて出したハガキがある。(これは偶然私が手に入れたもので、このブログに掲載しようと思ったが、残念ながら見つからなかった。)
 そのハガキで、埴谷 雄高は、花田 清輝を「戦後」という時代にあらわれた「狂い咲き」と評していた。

 こうした論争をそのまま速記して、いまの雑誌に発表したら「戦後」の貴重な記録になったに違いない。

 戦後の混乱が続いていた。敗戦の年の暮、日比谷、上野の寒空に春をひさぐ女性の数は千数百人と伝えられたが、常習的な街娼は東京だけで約2万人と推定された。1945年は、さらに増大して、東京だけで約4万人とみられた。
 1947年当時、街娼は10万に達したという。

 人々の気分が焼け跡の瓦礫のように荒れていた時代。
 作家の田中 英光は、毎日、カルモチンを50錠から100錠のあいだ、アドルムなら10錠のんでいたという。埴谷 雄高は、関根 弘といっしょに闇市で、焼酎を飲んでいたが、田中 英光がおなじ酒屋で、焼酎を飲みながら、アドルムを1個づつかじっているのを目撃した。田中 英光は、ロサンジェルス・オリンピックに出場したほどで、堂々たる体躯だったが、今でいうと、アッパーとダウナーをカクテルにするような危険な飲みかたをつづけ、やがて太宰 治の墓前で自殺した。
 私の周囲でも、大学の同期生、1年先輩の文学青年で、自殺、あるいは自殺に近い死をとげたものが数名いる。

 「戦後」すぐはそんな時代だった。

2015/11/07(Sat)  1642
 
     【38】

 中村真一郎自身が祖父のことを話題にしたことは一度もなかったと思う、と私は書いた。これも薄弱な理由だが、中村真一郎自身が祖父のことを話題にしなかったと私が信じているのは――「近代文学」の人たちは、長年の親友どうしだったから、お互いの出自、経歴についてほとんど話題にしなかったからである。

 1946年の秋、私は意外なことを聞いた。平野 謙が小林 秀雄の親戚と知ったのだった。これは平野 謙自身の口から聞いた。中村真一郎もこの話を聞いたはずである。
 もう少しあとのことになるが、評論家の西村 孝次が、小林 秀雄の従弟にあたると知った。私は驚いた。一流の批評家には、やはり血筋、血縁というか、遺伝子めいたものがあるのかも知れない。
 少年の私はそんなことをぼんやり考えたものだった。
 平野 謙が小林 秀雄の親戚だったことは、「近代文学」の集まりでも二度と話題にならなかったが。
 埴谷 雄高と島尾 敏雄が、ほとんど同郷と知った。荒 正人も、それほど遠くない土地の出身と聞いて、こうした人々の出自にはなにか地縁めいたものが働いているような気がした。

 ある日、「近代文学」の集まりで、平野 謙が中村真一郎にむかって、
 「中村君はいいねえ、フランス語が読めるからなあ」
 といった。
 中村真一郎は即座に、
 「フランス語なんて、半年で読めるようになりますよ」
 と答えた。
 平野 謙は、中村真一郎の答えに苦笑した。

 その後、大岡 昇平や、鈴木 力衛、村松 剛など、さまざまな人を見てきたので、フランス語が読めるようになるのは、努力次第で半年もかからないという中村説は、あながち牽強付会ではない、と思うようになったが、このときの中村真一郎のいいかたに私は驚いた。こっちはフランス語の動詞の変化もろくに頭に入らないのに、フランス語なんて半年で読めるようになる、というのは、自分が語学的にいかにすぐれた才能に恵まれているか、誇示しているようなものではないか。

 むろん、フランス語が読める程度の勉強と、フランス語の作品が翻訳できるほど高度な勉強とは、やはり話が別だろう。
 私は中村真一郎が自分の語学力に自信をもっていることに驚いたが、羨望したわけではない。ただ、オレにはフランス語の勉強は無理だなと思った。
 無意識に劣等感が働いていたに違いない。

 その中村真一郎が――「幼時に漢学者だった祖父によって、厳しく仕込まれた儒学の初歩への悪印象から長らく中国古典へはアレルギー反応を起こしていた」という。
 中村真一郎は肉親(とくに、実父に対して)憎悪をもっていたと想像するが、祖父に対してもエディプス・コンプレックスめいた感情を持っていたと思われる。

 もうすこし、はっきりいえば――「フランス語なんて、半年で読めるようになりますよ」といい放った中村真一郎に対する劣等感から、その後の私は、中村真一郎の作品にアレルギー反応を起こしたのだった。

2015/10/30(Fri)  1641
 
     【37】

 中野 重治が「展望」に書いた「批評の人間性」(1946年)は、荒 正人、平野 謙に対する最初のきびしい批判だった。
 「展望」が本屋の店頭に並んだとき、私もすぐに読んだ。戦後の共産党の「近代文学」に対するはじめての激烈な批判だった。
 私は「批評の人間性」を読んで、すぐに「近代文学社」に行った。

 まだ午前中だったが、私が着いたときはすでに荒 正人がいて、大きな机に向かって原稿を書いていた。私が挨拶すると、荒 正人が顔をあげた。
 顔が紅潮していた。日頃はおだやかで、分厚いメガネの奥から優しいまなざしを向ける荒 正人だったが、この日、私が見たのは怒髪天を衝くといった表情だった。
 事務の藤崎 恵子が私に寄ってきて、
 「耕さん、今日はたいへんよ。荒さん、わたしにも口もきかずに原稿を書いているの」
 低声でいった。これが、荒・平野vs中野の論争の発端だった。

 荒 正人が中野 重治に反駁して書いたエッセイに――中野 重治の有名な詩、「オ前ハ歌ウナ 赤マンマノ花ヲ」の詩を全部否定して、「オ前ハ歌ヘ 赤マンマノ花ヲ」というふうに書き直した少女のことが出てくる。この少女が、じつは戦時中の藤崎 恵子だった。

 私が「近代文学社」に着いてから、5分ばかりたって、事務所のドアが勢いよく開けられて、平野 謙が足早に入ってきた。肩にインバネス、白足袋に草履。日頃、あまり編集会議にも出席しない平野 謙が、こんなに早い時間に「近代文学」に姿を見せるとはめずらしい。それに、平野 謙の和服姿をはじめて見た。
 「おい、荒君、やられたなあ!」
 平野 謙はまっすぐ荒 正人に寄って行った。つづいて、佐々木 基一、埴谷 雄高がやってきた。それぞれにこやかな表情だったが、追っとり刀で駆けつけたようなぴりぴりした空気が感じられた。本多 秋五が到着したのは、午後になってからだった。日頃、悠揚迫らぬ本多 秋五までが昂奮しているようだった。お互いに笑いあったり、真剣な表情で、今後の対応を話しあったりしていた。

 私は同人たちが緊急にこの問題で話しあうものと察して、その場を離れた。
 このとき、藤崎 恵子が近くの喫茶店に私をつれて行ってくれた。

 荒・平野の反論を――こく簡単に要約すれば、戦前のプロレタリア文学、左翼の運動を支配した政治の優位性を是正して、人間性の回復をめざして文学の自律性を確立しようということだったと思われる。
 こういう発言の背後には、戦前の文学者たちが、革命を目指しながら挫折し、「転向」しなければならなかった、挫折の経験があった。
 これは「近代文学」の人々にとっては、ほぼ共通した理念で、戦後の文学は過去の左翼の運動から離れて、新しい現実を表現すべきものという立場だった。
 これに対して、過去の左翼文学の代表的な作家だった中野 重治は、これを「近代主義」として批判し、共産主義的人間として、「戦後」にたちむかうべきとした。


 中野 重治の「批評の人間性」は、これを契機に政治と文学をめぐるはげしい論争を起こした。私自身はこの論争にほとんど関係がない。そして、左翼系の雑誌から出発したため左翼系と見られていたらしいが、まったく左翼に関心がなかった。

 ただし、「批評の人間性」を読んで、私は中野 重治に反感をもった。

 はっきりいえば、その後、中野 重治にまったく関心をもたなくなった。戦時中に「歌のわかれ」や「空想家とシナリオ」などを読んで、ひそかな敬意をおぼえたが、この日から敬意も消えた。「批評の人間性」の冒頭の一行で、私が中野 重治に敵意をもった理由はわかるだろう。

 この日、私はなんとなく、中村 真一郎の「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らず」ということばを思い出していた。

2015/10/25(Sun)  1640
 
     【36】

 加藤 周一、福永 武彦、中村 真一郎たちが、「マチネ・ポエチック」同人として、創刊されたばかりの雑誌、「世代」に、時評「CAMERA EYES」を書きはじめたのは、1946年7月からだった。
 「世代」に、若い作家、評論家がぞくぞくと登場する。
 吉行 淳之介、いいだ もも、小川 徹たち。

 占領軍の命令で検閲制度が撤廃されたため、映画にはじめてキス・シーンが登場する。
「ある夜の接吻」(大映)や、「歌麿をめぐる五人の女」(松竹)など。「匂やかな真白の肌を全裸に、さしうつむく女の柔肌を絵絹にして」という宣伝だけで、観衆はドキドキしたものだった。戦前、検閲でズタズタにされたフランス映画、「乙女の湖」がノーカットで上映された。私は、この映画に出ていたシモーヌ・シモン、その妹役だったオデット・ジョワイユーにあこがれた。

 歌舞伎でも、舟橋 聖一の「滝口入道の恋」で、市川 猿之助(後の猿翁)と水谷 八重子(初代)が、雪の降る舞台で抱擁、接吻を見せた。
 私が「時事新報」で匿名時評を書きはじめたのは、こうしたはげしい変化のなかで、「戦後」のインフレーションになんとか金を稼ぐ必要にせまられていたからだった。

敗戦直後に、眼のさめるようなファッションを着ていた女優、佐々木 瑛子についてはすでにふれた。もう一人――これも「戦後」に彗星のように登場しながら、悲劇的な死をとげた女優、堀 阿佐子を思い出す。このふたりの女優のことは、中村 真一郎、椎野 英之の思い出に重なってくる。
 椎野の紹介で、真一郎さんと親しくなったが、彼の祖父が、漢学者だということは知らなかった。「近代文学」の集まりでも、中村真一郎自身が祖父のことを話題にしたことは一度もなかった。

 ある日、雑談している途中で、何の話題だったか、
 「禍(わざわい)は妄(みだり)に至らずだよ」
 と、真一郎さんがいった。私はこの言葉は知っていたが、ただの諺(ことわざ)として知っていただけだった。ただ、そのときの私は、
 「禍福はあざなえる縄のごとし、ですか」
 と、言葉を返すと、
 「福も徒(いたずら)に来らず。史記にある」
 私の内面に、この真一郎さんのことばが残った。

 これもすでに書いたが、私が「近代文学」の荒 正人を訪れたのは、1946年の3月か4月だった。そのときから、「近代文学」の人々に親炙することになったが、同人たち全員がそろうことはめったになかった。戦後の交通事情の悪化も影響していたと思われる。
 小田切 秀雄は肺結核で療養中だったからいつも欠席していた。本多 秋五はまだ逗子に転居する前だったし、平野 謙は編集会議に出席しなかった。「島崎藤村」を書いたあと、文芸時評の原稿の注文が多くなって動きがとれなくなったせいだろう。

 「近代文学」は、戦後という巨大な潮流の中心に位置して、ぞくぞくと登場した新人たちの集結する拠点になった。ほとんど無名に近い人が多かったが、思想的にも、理念的にも、それまでの文学と決別し、あらたな表現を獲得しようという激烈な意欲が渦巻いていた。
 「近代文学」の編集室には、連日、つぎつぎに新しい文学者たちが姿を見せた。たとえば、「近代文学」の人たちは「黄蜂」という同人誌に発表された「暗い絵」という作品に注目していた。二週間ばかりたって、「暗い絵」の野間 宏が顔を見せたとき、佐々木 基一、荒 正人、埴谷 雄高、本多 秋五がどんなに歓迎したことか。
 その直後に、こんどは中村真一郎があらわれた。長編、「死の影の下に」を書きはじめたばかりだった。中村真一郎は、佐々木 基一と親しかった。さらに、椎名 麟三が船山 馨とつれだって姿を見せた。やがて、青山 光二。島尾 敏雄が。
 これらの人々はいずれも戦後の新文学を代表する作家になる。

 「アプレゲール・クリアトリス」という言葉をはじめて使ったのは、中村真一郎だった。花田 清輝が、戦後の作家のシリーズを企画したとき、その場で、中村真一郎がさっと紙に書いた。花田さんは、それをとりあげたのだった。たまたま私は、その場に居合わせていたからよくおぼえている。その後、「アプレ」という言葉は、「戦後」の世相のなかで悪い意味を帯びた。もとより中村 真一郎の責任ではない。

 野間 宏も、中村真一郎も、出発はまさに「戦後」作家の登場だったが、一方でははげしい攻撃にさらされたため、かならずしも順風満帆だったわけではない。野間 宏の「顔の中の赤い月」は共産党の御用批評家たちのはげしい批判を浴びたし、中村真一郎は作品を発表するたびに保守派の批評家の攻撃にさらされていた。
 これは仄聞だが、荒 正人も「新日本文学」の会合の席上、共産党の徳田 球一書記長から名ざしでほとんど面罵されたという。

2015/10/19(Mon)  1639
 
     【35】

 戦後の闇市では、金さえ出せばアルコール、タバコ、砂糖や食用油、何でも手に入るのだった。作家の久米 正雄は、軽井沢にもっていたログハウスふうの山荘を、わずか1キロの砂糖と交換したという。戦時中から、白砂糖など庶民は見たこともなかった。誰しも栄養不足で、私は、お茶の水駅の階段を、いっきに登れず、途中2度、立ちどまって、息をととのえなければ歩けなかった。

 戦後、女たちは戦時中のモンペ姿から、とりどりの服を着るようになっていた。若い娘たちの服装は、今の感覚からすれば見すぼらしいワンピースが多かったが、それでもいっせいに明るくなってきた。
 敗戦直後に、眼のさめるようなファッションを着ていた女優、佐々木 瑛子についてはすでにふれた。もう一人――これも「戦後」に彗星のように登場しながら、悲劇的な死をとげた女優、堀 阿佐子を思い出す。このふたりの女優のことは、中村 真一郎、椎野 英之の思い出に重なってくる。

 時期的には、安部 公房に会うよりも前に、私は中村 真一郎と会っている。真一郎さんが作家になる直前だった。(ただし、中村 真一郎は、戦時中に、ネルヴァルを訳して出版している。したがって、私は、翻訳家としての中村 真一郎を知っていたことになる。)

 ある日、私は椎野の家に遊びに行ったが、不在だった。
 私は椎野の家族どうようだったので、椎野が不在でも、そのまま椎野の部屋にあがり込む習慣だった。
 その日もいつも通り二階の部屋に入った。
 八畳間の書院、壁いっぱいの書棚にぎっしり数百冊のフランス語の原書を見て、私は驚愕した。これが中村真一郎の蔵書だった。

 この「回想」で、中村真一郎について書くつもりはなかったのだが、TKさんの質問から、いろいろと中村真一郎のことを思い出したのだった。

2015/10/16(Fri)  1638
 
     【34】

 敗戦直後から冬にかけて、激烈なインフレーションと食料難が襲いかかってきた。

 大森でも、敗戦の翌日には、駅前から入新井、いたるところに闇市ができた。この闇市に無数の人が押し寄せた。焼け跡にゴザやサビついたトタンをしいて、古新聞やボール凾の上に板戸を載せただけの場所に、戦時中にはまったく見なかった隠匿物資、配給ルートにはのらない食料、衣料品がならべられて、むせ返るような活気があふれていた。
 二、三日もすると、この闇市も、ボロ布や、軍用毛布、テントの囲い、よしず張りなどが多くなって、ヤクザや第三国人が勝手に土地を占拠しはじめ、あっという間にバラック建ての店が出はじめる。

 敗戦の翌朝、私は大混乱の東京から那須まで無賃旅行をした。その日の食料は、ひとつかみの大豆、おそらく30〜40粒だけだった。母は那須に疎開していたが、敗戦を知ってすぐに東京に戻ったため、私とは行き違いになった。母は、埼玉県に疎開していた私の祖母の手づるで食料をかき集めて戻ってきた。

 戦後の食料難の実態は、もはや想像もつかないだろう。
 誰もが飢えていた。食料の配給も欠配がつづく。
 敗戦直前までは、僅かな配給量にせよ、なんとか主食のサツマイモ、大豆などが配給されたが、敗戦後は、1本のサツマイモ、ひとにぎりの大豆さえも配給されなくなった。
 ほかのものの配給もとまった。庶民は、食料をもとめて文字どおり狂奔していた。
 9月に占領軍が進駐した直後に、アメリカから緊急にフーバー元大統領が来日して、救急の食料輸入が決定された。

 こうして配給された食料も、食用油をとるために圧縮された大豆カスや、ムシが食い荒らしてツララのさがった赤ザラメ、乾燥サツマイモの粉末など。
 量もわずかだった。
 米のかわりに、砂まじりのカタクリコの配給もあった。一日ぶん、一人大さじ4杯程度。別の日に配給された赤ザラメは、一人5勺程度。ときには乾燥サツマイモの粉末など。
 メリケン粉の配給もほとんどなくなった。やっと届いたメリケン粉も一週間分で、一人、1合程度。これを水で溶いて、掌でかためて、スイトンにする。味噌、醤油の配給がないため、塩水で煮ただけのまずいスイトンだった。食用油の配給はまったくなかった。
 バター、チーズなど見たこともなかった。脱脂粉乳が配給されたが、ときには、圧縮して油をとったあとの脱脂大豆を乾燥した、牛、ブタのエサが配給された。

 1945年12月、アメリカ兵が颯爽とジープをはしらせる町に、おびただしい数の浮浪者があふれていた。浮浪児もいた。そして、若いGI(アメリカ兵)めあてにあらわれたパンパンと呼ばれる街娼の群れ。大森の駅近くにバラックの映画館が急造されたが、そのすぐ前は京浜東北線の土手で雑草が生い茂っていた。そこに、若い女の子がつれ込まれて強姦された。女の子の悲鳴が聞こえたが、誰も助けようとしなかった。
 これが敗戦国の現実だった。明日のことは誰にもわからない。それでも、奇妙な解放感がみなぎっていた。

 男たちは、戦争の名残をとどめる国防色の軍服に、膏薬をはったようにツギのあたったズボン、復員土産の軍靴。「近代文学」ではじめて会った本多 秋五は、がっしりした軍靴をはいていた。
 おなじように、野間 宏も軍靴をはいていた。安部君と私は、野間 宏を「ヘイタイサン」と呼んでいた。青山 光二に会ったのは、おなじ年の秋。青山 光二は、軍靴をはいていなかったが、私と安部 公房のあいだでは「スイヘイサン」だった。
 むろん、武井 武雄のマンガをパロディーしたものだった。

2015/10/08(Thu)  1637
     【33】

 こんなとりとめもない、気ままな回想でも、熱心に読んでくださる奇特な読者がいる。
 この回想(7月14日)について、思いがけない質問を受けた。
 TKという方から、このブログに出てくる「祖父が漢学者だったという作家」は誰なのかという質問が寄せられた。

 やはり、伏せなかったほうがよかったか。
 私としては、安部 公房を中心に、いわば気楽に思い出話を書いているつもりだったので、この作家にふれる余裕はなかった。だから、わざと伏せたのだが――この作家の名を知りたいという読者がいる。そのときは、たいして深く考えもしなかったのだが、これがきっかけで、私の内部で戦後の文学者たちの思い出が思いがけない方向にひろがって行った。
 荒、平野と思いだせば、ただちに埴谷、佐々木、あるいは、山室、本多というふうに、思い出は繋がってくる。そうなると、野間 宏、椎名 麟三、さらには梅崎 春生、船山 馨などもおもいだすことになる。
 埴谷 雄高ふうにいえば「一人の名をあげれば一端を引かれた紐から他端がするする出てくるふうにかならず他のひとの名も一緒に出てくるところの珍しい三人組」、加藤 周一、福永 武彦、中村 真一郎なども。

 祖父が漢学者だったという作家は誰なのか、という質問だけに答えておこう。

 中村 真一郎である。

 その中村 真一郎の名をあげただけで、作家自身のことばかりでなく、戦前の漢学の素養について、はては、作家と知りあった戦後、1945年8月から翌年にかけての私自身のことが奔流のように押し寄せてきた。

私は大森の生まれ。いわゆる海側で、昔は遊廓などがあった土地。作家の山口 瞳の生家や、「創価学会」のえらい人の生まれた場所のすぐ近く。
 戦時中から戦後にかけて住んでいたのは、山王二丁目。

 すぐお隣り、狭い坂のつき当たりに、寿岳 文章先生のお屋敷があった。ついでのことに、これも近くの馬込には、戦前、室生 犀星、尾崎 士郎、宇野 千代をはじめ、朝日 壮吉(吉田 甲子太郎)などの貧乏文士が集まって住んでいた。
 犀星先生のご子息は、明治の「文芸科」で私と同期。作家、室生 朝子の弟にあたる。

 TKさんのご質問から、戦後すぐの大森を思い出したのだった。

2015/09/29(Tue)  1636
     【32】

戦後、アメリカ映画がぞくぞくと公開されるようになった。私は、そのほとんどを見たのだが、イギリス映画の公開はずっと遅れてからで、フランス映画の公開は、さらにあとからだった。

 私の年齢の少年が、戦後すぐにアメリカ文学を読んだはずはない。誰しもそう思うだろう。しかし、私は、立花 忠保さんの書棚で古い「スター」ヤ「キネマ旬報」を見つけて、ほとんど全部を読んでいた。だから、ここでも、私はめぐまれていたといっていい。

 そのフランス映画で――これも戦後、もっとも早く公開された一つ、「カルメン」を、これも安部君といっしょに見に行った。
 この映画は、クリスチャン・ジャック監督が、戦時中に撮ったものだが、ヨーロッパでドイツの敗色が濃くなって、上映を禁止されたものだった。
 ヴィヴィアンヌ・ロマンス、ジャン・マレーが出ている。私は、フランス映画が好きだったし、妖艶なヴィヴィアンヌに惹かれたが、安部君は、つまらない映画だといっただけだった。そして、ジャン・マレーをまるで認めなかった。
 私は、ジャン・コクトォが、戯曲や映画で、この俳優を使っていることを知っていたので、ジャン・マレーを擁護したが、安部君は、この俳優のために「カルメン」がおもしろくないものになったという。今の私は、あらためて安部君の判断のただしさをみとめる。
 こういう話題から、私は、安部君が映画に絶大な興味をもっていることを知ったのだった。

 1948年。稲垣 足穂がたてつづけにアメリカ映画を見たことを書いている。

   先日、万世橋のシネマ・パレスへ久しぶりにはいった。「呪の家」といふお化け
   のフィルムを観るためにであるが、四辺を領するくらがりと停滞した空気に不吉
   なものを感じて、十分もたたぬうちに飛び出した。

 私は、これだけの記述から、シネマ・パレスという映画館の、「くらがりと停滞した空気」を思い出した。「呪の家」は、レイ・ミランドとゲイル・ラッセルの主演だった。これと同時期に、「カサブランカ」が封切られて、これは映画史に残るような名作と見られているが、「呪の家」は、封切られてすぐに忘れられている。私はゲイル・ラッセルが好きだったので、このホラー映画もシネマ・パレスで見たのだった。

 稲垣 足穂いわく、「人間的存在のかげろう性をまざまざと示す映画。生存の埒もなさを教えるフィルム。そしてまた偶然と荒唐無稽に何らかの見せかけの意味を付与する第六芸術。」

 稲垣 足穂は映画がきらいだったらしく、映画をぼろくそに罵倒している。
 それでも、ジュリアン・デュヴィヴィエの「肉体と幻想」のオープニングは気に入ったらしく、「このやうな点こそまさに二十世紀セルロイド芸術の独壇場であるとしないわけにいかない」という。デュヴィヴィエはこの後、「運命の饗宴」を撮るのだが、稲垣 足穂はおそらく見なかったにちがいない。

 稲垣 足穂は、すぐにつづけて、

   人間流転のはかなき様相を暗示して、特に興味をおぼえたのに、”Mr.Lordan
   is Here”(幽霊紐育を歩く)があった。「天国は待ってくれる」といふ
   通俗小説を脚色したもので、ジョーダン氏なる冥府の番頭の演技が秀逸だった。

 という。
 「幽霊紐育を歩く」は、1941年の作品。太平洋戦争勃発の直前に作られただけに、ストーリーに、よるべない感じというか、迫りくる戦争から目をそらすような 一種のエスケーピズムが漂っていたような気がする。
 稲垣 足穂は、それを「人間流転のはかなき様相を暗示」した映画と見たと思われる。

 「冥府の番頭」は、ロバート・モンゴメリが演じた。相手の女優は、イヴリン・キースで、ゲイル・ラッセル、ヴェラ・エレンなどとならんで、小粒ながら、「戦後」のスターといった女優だった。

 「呪の家」、「カサブランカ」、「肉体と幻想」、「幽霊紐育を歩く」などが公開されたのは、1948年の夏だった。戦後の混乱がつづいていただけでなく、アメリカ、ソヴィエトの冷戦構造のなかで、私たちも変化しようとしていた。

 私たちに作用しているが、しかし、作用する意識そのものを私たちにけっして見せない世界のなかで、私は彷徨していたような気がする。(この映画は、後年(1978年)、ウォーレン・ビーティーがリメイクしている。俳優としては、ウォーレン・ビーティーのほうがロバート・モンゴメリよりもずっといい芝居を見せていた。)

この夏、私は「世紀の会」の結成に奔走していたが、なぜか、ひどい疲れを感じるようになっていた。

2015/09/19(Sat)  1635

     【31】

 ある日、私は荒 正人にさそわれて、近くの喫茶店に行った。荒 正人が私ひとりを喫茶店に連れて行く、こんなことは、めったにないことなので、私は緊張した。
 コーヒーを注文したあと、荒 正人はすぐに切り出した。

 「聞きにくいことを聞きますが、きみは、藤崎さんとどういう交際をしていますか」

 私は驚いた。荒さんは何をいい出すのだろう。見当もつかなかった。

 「仲のいい友だちだと思っていますが」

 「そうですか。――じつは、藤崎さんは、近く結婚することになっています。そのことを、きみに知らせておきたいと思って、こうして話をしています」

 荒 正人は、私がいつも藤崎さんと親しくしているので、一方的に愛情をもっていると思ったらしい。私は恥ずかしさのあまり、コーヒーをこぼしそうになった。荒さんが、わざわざ忠告するくらいだから、「近代文学」の同人たちもおなじような眼をむけているかも知れない。
 人形劇をやるために藤崎さんにいろいろと教えてもらおうとしていることは、はずかしくて口に出せない。はじめて会ったときから、藤崎さんにひそかな恋情を抱いていたのが、荒さんに見抜かれたような思いで、彼女と私の距離がひどく近すぎることに狼狽した。

 「申しわけありません。今後、注意いたします」

 そんな弁解をしたような気がする。
 藤崎 恵子は、私の家に遊びにきたことがある。そのとき、私は母に紹介したのだった。お互いに親しい感情はもっていたが、それは恋愛感情とは違ったものだった。ただ、藤崎さんが近く結婚する予定だということを、わざと伏せたのか。私の態度は、荒 正人に注意されるようなものだったのか。
 恥ずかしさと、かすかな困惑で混乱しながら、できるだけ動揺を隠そうとしていた。
 これで「おもちゃ箱」の劇は終わったと思った。残念だが、仕方がない。
 わずかだが私と荒さんの間に沈黙が流れた。

 つぎに、荒さんは意外なことをいった。

 「中田君は語学を勉強しなければいけませんね」

 これまた、思いもよらぬことばだった。

 「このままだと、きみは十返 肇のようになりますよ」

 十返 肇(とがえりはじめ)は、早熟な文壇批評家で、17歳で紀伊国屋のPR誌を編集し、戦時中は十返 一(とがえりはじめ)というペンネームで「谷崎潤一郎論」などを書いた。これは、なかなかいいものだった。(また、思い出したが――この雑誌に、まだまったく無名の椎名 麟三が短編を書いていたはずである。)
 十返 肇は、しかし、戦後の激動に適応できず、1948年頃は、方向を見失ってひどい停滞を見せていた。その後、軽評論家という肩書で、じょうずにジャーナリズムを渡り歩いた才人だった。
 私は、十返 肇のような批評家になるつもりはなかった。
 荒さんは、私の居心地の悪さを察して、話題を変えて、文学的な助言をあたえてくれたにちがいない。

 この日から私は語学を勉強する決心をした。

 はじめフランス語を勉強するつもりだった。
 しかし、椎野の部屋の隣りで、ある作家の膨大な蔵書を見ていた私は、すぐに断念した。あれだけの勉強に追いつけるはずがない。だいいち、私は貧乏だった。いくら雑文を書き飛ばしても、ろくに本も買えない状態だった。

 荒さんに語学の勉強をすすめられた日、その足で駿河台下に出た。

 「神田日活」の近くの路地に、ゴザを敷いた上に、アメリカ兵が読み捨てたポケットブックを並べている店があった。私はテキストになりそうな本をあさった。できれば、小説がいい。活字がぎっしりつまっている本は避けよう。

 2冊を選んだ。ページをめくって、やさしくて、短い文章がつづいた本。作者の名前は聞いたこともなかった。
 ダシール・ハメット。ウィリアム・サローヤン。
 この日、英文法の本や、受験用の参考書などをあさっていたら、私は語学の勉強を断念していたに違いない。

2015/09/04(Fri)  1634
 
     【30】

 安部 公房の処女作、「終わりし道の標べに」は、「個性」(23年2月号)に発表されて、すぐに「真善美社」から出た。
 「アプレゲール・クレアトリス」というシリーズの一冊だった。

 この「アプレゲール」という単語だけが切り離されて、「アプレ」という流行語になった。
  「広辞苑」には――

    アプレゲール(戦後の意) 1.第一次大戦後、フランスを中心として興った文学
    上・芸術上の新しい傾向。日本では、第二次大戦後、新しい文学を創造しようと
    した若い著作家の一部をいう。2.転じて、第二次大戦後の放恣で頽廃的な傾向
    (の)にもいう。戦後派。アプレ。

 誰がこの「アプレゲール・クレアトリス」ということばを考えたのか。

 ある日、私はこの出版社にいた。
 「真善美社」は、赤坂にあって、溜池という停留所のすぐ近くにあった。山王下といったほうが、わかりが早い。このあたりは、戦災をうけたため、焼け跡の空き地はまだ瓦礫が片付けられず、かなり大きなどぶ池がひろがっていた。

 黒沢 明の映画、「野良犬」は、三船 敏郎が、戦後はじめて登場した映画として知られる。この映画に、戦後の風景が描かれている。大きなどぶ池の表面に、メタンガスのアブクが浮かんでは消えるシーンが戦後のすさまじい荒廃を感じさせる。この大きなどぶ池が、「真善美社」のすぐ近くの風景にそっくりだった。
 「真善美社」は、この池の空き地の奥まったバラック建てだった。ここに、顧問というか編集長格の花田 清輝がいて、ほかに、中野 達彦、中野 泰彦の兄弟が「総合文化」の編集を担当していた。
 神田の「近代文学社」と並んで、戦後文学の拠点の一つだったので、人の出入りもたえず、狭い応接室には、いろいろな作家、評論家が立ち寄っては、花田 清輝と会うのだった。私は、安部君といっしょに「真善美社」に行った。

 私は「総合文化」に原稿を届けたのだった。安部君も私もこの日はじめて花田 清輝と会ったのだが、安部君はおもに花田さんと、私は中野 泰彦と話をした。中野君は、安部君と同年だった。つまり、私より3歳上ということになる。

 このとき、中野 泰彦の机に、英文のカフカの短編集があった。私は、たまたま戦時中にはじめて出たカフカの長編を読んでいたので、中野 泰彦がカフカを読んでいることに驚いた。中野 泰彦も、私がカフカを知っていると知って興味をおぼえたようだった。

 じつは、カフカはよくわからない作家だった。カフカについては何も知らなかったし、不思議なことを書く作家だと思った。つまり、たしかにカフカを読んだには違いないが、中野 泰彦が理解しているほどカフカがわかったとはいえないのだった。しかも、中野泰彦が、苦もなく英語を読んでいることに驚いていた。
 私はドイツ語はおろか英語も読めなかったからである。

 その帰りに、安部君は出たばかりの「終わりし道の標べに」にサインをして贈ってくれた。

 「中田君、きみ、その本、もっているの? カフカっていう作家の?」
 「うん、もってるよ。きみが読むんなら、このつぎももってこよう」
 「さっき、きみと中野君の話を聞いてたんだ。おもしろそうだと思って」
 「うん。君ならわかるんじゃないかな」

 二日ばかりたって、小石川の安部君の部屋に遊びにいった。このとき、カフカを持って行ったのだが、安部君がジッドの「贋金作り」と交換してくれた。

 私はこのときからジッドの影響を受けたわけではない。しかし、当時の私にとってジッドの批評は、ひそかな目標だった。

 ときどき考えた。私がジッドをほんとうに「発見」したのは安部君のおかげだった、と。逆に安部君がカフカを「発見」したとすれば、私のカフカの1冊のせいではなかったか、と。

2015/08/22(Sat)  1633
 
     【29】

 当時の私は、たいして知識もないのに、頭デッカチ、しかも傍若無人な少年だった。だから、毎日のように「近代文学」に押しかけて、同人たちをつかまえては、色々な話を聞くことで勉強をつづけてきた。

 1948年の「埴谷 雄高年譜」によると、この年に「死霊」が出版されている。
 「近代文学」は、あたかも第二次の同人拡大の時期で、「同人間の交友盛んなり」とある。
 この時期に、文学者の集まりは――神田の喫茶店「きゃんどる」から、駿河台下の昭森社のビルの「ランボオ」に移った。
 昭森社のビルといっても、外側、入り口とカフェ側だけモルタル、いわゆる西洋館ふうにした二階建て、安普請の建物だった。
 それでも、私たちは、戦後のパリ、「カフェ・ダルクール」や、「シャノワール」といったカフェに、さまざまな芸術家がつめかけて、活気を呈していたセーヌ左岸を想像して気勢をあげたものだった。

 私は、「近代文学」に近い人びと、たとえば、詩人の栗林 種一、生物学者の飯島 衛を知った。このおふたりは、私に目をかけてくれた。
 当時の私は、頭デッカチで、傍若無人な少年だったが、別の見方をすれば、人なつっこいタイプの少年だったかも知れない。
 栗林さん、飯島さんといった先輩たちにとって、中田 耕治は、なぜかいつも「近代文学」にいる、やたらに好奇心の強い少年というところだったろう。
 直接知り会った人々の書くものは、できるだけ多く読むことにしていた。ある程度まで、相手の経歴、文学的な志向といったものは、こちらが知識として理解する努力をしなければ、その人ほんらいの豊かさもわからない。
 栗林 種一の詩を読んだ。埴谷さんが戦時中に出していた同人雑誌に載ったものまで。飯島 衛の論文も読んだ。これはよくわからなかった。同じようにして知り合った関根弘の書くものも読んだ。

 安部君は、そんな人たちに興味がないようだった。

 そんなある日、何かの話題が出て、みんながひとしきり談笑していた。このときの話題が何だったか、殆どおぼえていない。埴谷さんが微笑しながら、
 「荒君も、もう少し思考の幅を拡げたほうがいいね」
 といった。

 このときほど驚いたことはない。大げさではなく、私の魂は震撼したのだった。
 荒 正人は、私の眼には博識ならぶもののない人物家だった。しばらく後に、誰よりもはやく、サイバネティックスの研究をはじめたり、北欧ヴァイキングを研究したり、夏目 漱石に関して、さながらクロノロジックに漱石の生活、行動をたどるような評論家だった。その荒さんに向かって、率直にこういう東風が言える人はいったい何者なのか。私はほとんど自失して二人を眺めていたと思う。

2015/08/13(Thu)  1632
 
     【28】

 もう少し気ままな回想を書きつけておきたい。

 敗戦後の私に、はからずも芝居(演劇)の世界に関心をむけさせてくれたのは、荒 正人に会いに行ったときに「近代文学」の編集を手つだっていた藤崎 恵子だった。

 彼女は、戦時中に、「文化学院」の同期生たちと、人形劇の劇団を作って、おもに関東地方の農村をまわっていたという。
 学生は、すべて勤労動員で働かされていた。そのなかで、少数の仲間といっしょに、農村の慰問という名目で、警察の目を潜りぬけて、いわばドサまわりで人形劇を見せていた女子学生がいた。当時は、ドサまわりの旅役者も徴用されていたから、農村には娯楽もなかった。大都会だけでなく、地方の小都市まではげしい空襲にさらされたため、学童疎開で子どもたちが農村に疎開した。そうした子どもたちに人形劇を見せながら、ときには農家に泊めてもらう。娯楽のない農村で人形劇を見せたあたりに、神谷 恵子の驚くべき行動力があった。

  戦時中に学生の身で農村にドサまわりの人形劇をやっていただけでも、かなり勇気が必要だったに違いない。当時、学生は勤労動員で、戦時産業に駆り出されていたし、たとえ、小人数の人形劇団であっても、あらかじめ警察に台本を提出して検閲を受けなければならなかったはずである。しかし、神谷 恵子は、検閲の目をのがれて、ゲリラ的に人形劇をつづけたという。

 紙芝居のような枠をバックに、操作が簡単な「グラン・ギニョル」型の人形で、簡単な寸劇をやってみせる。それだけのものだったが、娯楽らしい娯楽のない農村ではけっこう評判はよかったらしい。
 戦後になって、神谷さんは、もう一度、人形劇をはじめたいと思っていたが、仲間と連絡もつかないまま、人形劇の台本の書き手をさがしていた。「近代文学」に通いはじめて神谷さんと親しくなった私は、戦前の「テアトロ・プッペ」の機関紙や、人形操作のガイドブックなどを借りて読んだ。
 それだけでなく、人形劇のための台本を書いてみないか、とすすめられた。

  武井 武雄の童話を、人形劇でやってみたらどうか。
 そんなことから、舞台のバックは、安部 真知に頼んでみよう、という話になった。後年の安部 真知が舞台装置を手がけているが、しかし、この話はすぐに消えた。
 私が考えたのは、武井 武雄の「絵噺」の脚色だった。もし、台本ができれば、装置(背景)は安部 真知に頼もう。
 安部 真知なら、きっと描いてくれるだろう。

 ドラマのオープニングは、「口上役」からはじまる。

    オモチャノ クニハ オモチャバコノ ナカニ アルノデス。
    チヒサイ キレイナ トテモトテモ カアイイ オクニデス。
    コノクニニ アッタ オハナシヲ ミンナ ゴホンニカイタラ フジサンノ
    三バイニモ ナルクラヒデス。
    デハ ソロソロ フタヲアケマスヨ。

 むろん、このプランは実現しなかった。
 はるか後年、安部 真知が、安部 公房の芝居の舞台装置を手がけたとき、私は、真知といっしょに武井 武雄の童話を人形劇にしたいと話したことを思い出した。

 武井 武雄の「画噺」が出た1927年に私は生まれている。(笑)

 残念ながら、武井 武雄も初山 滋も、「すでに、遠く霧のなかにしずんでしまった」芸術家なのだが。

2015/08/09(Sun)  1631

     【27】

 武井 武雄の「おもちゃ箱」は、おもちゃの国の物語で、まず人形の家と、そこに住んでいる人形たちの紹介からはじまる。
 靴屋の「フョドル」、人形病院の院長先生、「ドクトル・プッペ」。綺麗な「お姫さま」。「ヱカキサン」。「ヘイタイサン」。「アヲイメノ・ジュリエット」。「センセイ」。「オマワリサン」。「デンシャノ・シャショウ」。「ヴァイオリン ヒキ」。「カンゴフサン」。「スヰヘイ」。「オネエサマ」。「ユウビンクバリ」。「バシャヤ」。「カミクズノ・カミサマ」。「ニハトリ・コゾウ」。

 それぞれ個性ゆたかなキャラクターばかり。
 「ニハトリ・コゾウ」だけを紹介しておこう。

    ヨアケノ ホシガ デルト、オモチャバコノナカデハ
       コック・ア・ドッドルドウ!!
    ト イサマシイ ラッパガ ヒビキマス。
    オモチャタチガ ミンナ メヲ サマシマス。
    オモシロイ オモチャノ クニノ オハナシガ ハジマルノハ ソレカラノコト
    デス。

 ストーリーは、「ワラの兵隊、ナマリの兵隊」、木の人形の「キデコさんノはなし」、「キックリさんの話」、「クリスマスとオモチャバコ」と展開してゆく。

 なぜ、こんなことを書いておくのか。小さな理由がある。

 安部君は、「近代文学」の同人たちのなかでは埴谷さんといちばん親しかったが、ある日、二人はちいさなイタズラをして遊んでいた。
 「戦後」に登場した作家、評論家たちを、動物にたとえて、ふたりで大笑いした。私は、あとからこのイタズラに加わったが、そのとき、安部君が、「ヘイタイサン」。「センセイ」。「デンシャノ・シャショウ」。「ヴァイオリン ヒキ」。「スヰヘイ」。「オネエサマ」。「ユウビンクバリ」。「バシャヤ」といった分類をしたので、私は、安部君の頭に、武井 武雄の「おもちゃ箱」があることに気がついた。
 このときの、分類では、野間 宏は、「ヘイタイサン」だった。フィリピン戦線から復員してきた野間 宏は、いつも頑丈な軍靴をはいて、「近代文学」に姿を見せたからだろう。
 私は「ネズミ」だった。私が「近代文学」のなかでいちばん小柄だったせいだが、「ワラノヘイタイ」と「ナマリノヘイタイ」が何かにつけて競争しているところに、不意に姿をあらわす「ネズミ」に似ていたからだろう。

    ワラノ ヘイタイガ イキナリ オウマニ シガミツイテ ブルブルトフルエダ
    シマシタ。
    チヒサナ チヒサナ ネズミニ デアッタカラデス。

    ナマリノヘイタイハ ネズミニタベラレマセンカラ ワザト イバッテヰマス。
    エヘン!!!

 つぎのぺージでは、2人は丸木舟に乗って池に出ている。体重差のせいで、舟はしずみそうになっている。ナマリノヘイタイは――

    ナマリノカホヲ マッサヲニシテ サワギマス。

    ワラノ ヘイタイハ オチツイテ イバッテヰ マス。
    エヘン!!!

 そして、

    ドチラガ エライトモ イヘマセン。ダレデモ ソレゾレ イイトコロガアルノ
    デス。
    フタリノ グンサウハ ナカヨク タスケアフコトニシマシタ。

 ということになる。「グンサウ」は、軍曹。下士官である。

 私が、こんなことを書いておくのは、それなりの理由がある。
 またまた断っておくが――武井 武雄のマンガのキャラクターを、「近代文学」やその近辺の文学者に擬して笑う、ひどく隠微なイタズラを楽しんでいたからといって、安部君や私の内面に、やりどのない屈折があったというわけではない。
 私たちはお互いにふざけあっては笑っていたのだった。

2015/08/04(Tue)  1630
 
     【26】
 私が安部君と親しくなった時期、彼と真知さんは、それまで住んでいた中野から小日向に移ったばかりだった。
 この界隈も空襲の被害が大きく、安部君が間借りした家の周囲は焼け跡ばかりで、一軒だけ焼け残ったように見えた。
 さしてめずらしくない家屋で、玄関先の狭い部屋に、安部君たちが間借りして住んでいた。戦前は、書生部屋か女中部屋だったのか。当時としても破格の安い家賃だったが――戦後の殺伐とした日々、それまでは考えられなかった凶悪な犯罪が頻発した。とくに、焼け跡にポツンと一軒だけ焼け残ったような家は、強盗に狙われて、その住人が強姦されたり殺害されるといった事件が頻発した。
 この家の大家さんは上品な老女で、幸運にも戦災はまぬかれたが、近くで異様な事件が起きたため身辺に危険をおぼえて、同居人をさがしていた。たまたま新婚の安部君たちを気に入って、同居人にしたという。

 安部君は東大に戻るため、この界隈に部屋を探していたのだった。

 武井 武雄のことに話を戻そう。
 安部 真知は、「あるき太郎」とか、「動物の村」といった幼年向きのイラストつきの童話をよく話題にした。少女の頃、愛読したようだった。(いそいで断っておくが――まだ、イラストということばも存在しない。真知は昭和初期の「武井 武雄画噺」のシリーズが好きだったから、大きな影響をうけた、などというのではない)。
 ふたりは、初山 滋のこともよく話題にしたが、私のほうが初山 滋の仕事を知らなかったので、真知はあまり話題にしなくなった。

 武井 武雄を話題にしたことから、真知自身の描いた絵、大きなスケッチブックに描かれたデッサンなどを見せてもらった。

 真知は美少女だった。私とあまり年齢が違わないのに、ずっと年上のように見えた。私があまりにも幼稚だったせいだろう。新婚間もないふたりの部屋に押しかけて、自分でもよくわからない難しい議論を吹っかけるような少年に辟易していたに違いない。しかし、そんなようすは少しも見せず、若い夫とさらに年下の少年が夢中になって話しあっているのを聞いている。食事もろくにできない時代だったから、私をもてなすビスケットの1枚もなく、ただ黙ってときどきお茶を注いでくれた真知を思い出す。その水は、二人が借りていた部屋の大家さんが、戦時中、小さな家庭菜園にしていた庭の井戸から汲みあげなければならなかった。だから、夜中でも、真知は下駄を突っかけて庭に出て、両手でポンプを動かして水を汲むのだった。

 安部君の部屋で語りあっているうちに、夜もふけて泊めてもらったことがある。
 新婚そうそうの安部君たちが廊下に寝て、私を自分たちの部屋に寝かせてくれたのだった。そのとき、真知が自分のパジャマを貸してくれた。

 今、思い出しても、若い頃の私が、どんなに非常識な少年だったことか。
 翌朝、私と安部君は、パン1枚を半分わけあって食べただけで、早朝から買い出しに出かけたのだった。

 当時の真知は、油絵を描きたいと思っていたが、絵の具も買えないほど貧しかった。それでも、少しも屈託を見せなかった。
 たった一枚だが真知の油絵を見たことがある。
 セザンヌの風景画を模写したものだった。
 少年の私は、食うや食わずの生活で、貧しさにめげず、ひたむきにセザンヌの模写をつづけていた真知を知って感動した。

 はるか後年、私は女子美の先生になったが、女子学生の描く模写を見るたびに、きまって安部 真知の絵を思いうかべた。

 これも身勝手ないいかたと承知しているが――私の内部では、女子美の女の子たちの絵やデッサンを見るたびに、はじめて見た安部 真知の絵が、女子学生たちの才能を判断する一つのクライテリオンになったような気がする。
 これもはるかな後年、私は南フランス、ラ・カリフォルニーのピカソのアトリエを見に行ったことがある。マヤ・ピカソの好意で、ヴァローリスのアトリエを見ることができたのだった。この旅で、マルセイユからカンヌを通ったが、途中でサント・ヴィクトワールの麓に出たとき、セザンヌのことを思い出しながら、「戦後」すぐに安部 真知が描いた絵を思い浮かべた。

2015/07/25(Sat)  1629
 
     【25】

 昭和の少年たちは――「のらくろ」、「日の丸旗之助」、「冒険ダン吉」といったマンガを読んで育った。女の子の場合は、「長靴三銃士」、松本 かつじの「くるくるくるみチャン」といったマンガを読んでいたはずである。
 安部君と私は、こうしたマンガを話題にしたことはない。

 戦前に出た児童向きの本で、もっともすぐれたシリーズは「小国民文庫」だった。
 このシリーズには、菊地 寛の「日本の偉人」、里見 敦の「文章の話」、吉野 源三郎の「君たちはどう生きるか」といったすぐれた作品が入っていた。外国文学でも、チャペックや、エリッヒ・ケストナーの「点子ちゃんとアントン」などが入っていた。
 科学の分野でも、石原 純、野尻 抱影などが、地球物理学、宇宙物理や天文学について、子どもにもよくわかるやさしい解説を書いている。アムンゼンの極地探検や、リヴィングストーンのアフリカ探検などが入っていた。
 このシリーズの各巻にマンガが連載されていた。
 これが、「青ノッポ赤ノッポ」。
 作者は、武井 武雄。

 安部 公房は、武井 武雄が好きだった。私も、このマンガ家が好きだった。むろん、彼と私にはやはり微妙な違いがあったけれど。

 武井 武雄は今ではまったく忘れられているだろう。なにしろ昭和初期に児童向きのイラストレーターとして知られた芸術家だった。
 「小国民文庫」のシリーズが成功して、「青ノッポ赤ノッポ」が人気があったというわけではない。
 青オニと赤オニが「現代」の日本にあらわれて、いろいろなことに驚いたり失敗する、といったタイム・スリップもののシリーズ。
 ふたりともツンツルテンの洋服を着たオニだが、青ノッポは、おだやかな性格。赤ノッポは、すぐにカンカンになって怒りだす。子どもたちに人気のあったほかのマンガとは違ったトボけたユーモアがあった。
 キャラクター設定は、サイレント映画のローレル・ハーディーあたりから着想したのではないだろうか。それまでのマンガの主人公たちとは異質なキャラクター設定、ギャグ、ユーモアがたくさん出てきて、私にはおもしろかった。

 安部君と夫人の安部 真知は武井 武雄のマンガが好きだったが、マンガよりも版画家としての武井 武雄、または絵本作家としての武井 武雄が好きだった。
 私は、安部 真知から武井 武雄に対するオマージュを何度も聞かされたが、ふたりがよく話題にしたのは――1928年に出版された武井 武雄の画噺、「おもちゃ箱」だった。

2015/07/18(Sat)  1628
【24】

 ある日、私は山室さんの専門が北欧文学と知った。北欧文学とは何か。聞いたこともなかった。

 私は、やがてアメリカ文学の翻訳をするようになるのだが、翻訳をはじめて間もない頃に、当時、新人としてスウェーデンに登場したスティ・ダーゲルマンの戯曲を訳した。
 これも、戦後、山室さんをつかまえて、いろいろと新しいスカンジナヴィア文学のことを教えてもらった結果だったかも知れない。(ただし、これも僣越ないいかたで、今の私がこんなことをいえば山室さんは苦笑するだろうと思う。)

 いちいち、こんな愚にもつかないことを思い出しているときりがない。

 当時の安部君にとっては「近代文学」の人たちの話題が、「輪郭不明の朦朧体」としか見えなかったのは、止むを得ないことだった。安部君は、日本の文壇小説にまるで関心がなかったからである。

 「終りし道の標べに」は、初版(1948年)のあと、どういうものか、20年間、再刊されなかった。むろん、安部君が、その20年にまったく別の世界を切柝したのだから、あらためて処女作を出すことなど考えなかったに違いない。それは、「無名詩集」もおなじことで、作家はこの詩集の再刊を許さなかった。
 この詩集をまっさきに称揚したのは、佐々木 基一さんだった。

 安部君は、佐々木さんよりも埴谷さんを相手にドイツの哲学者を話題にしたり、とくに、リルケを話題にした。佐々木さんは、ホフマンスタールが好きだったので、私を相手にホフマンスタールを論じたりした。しかし、安部君は、ホフマンスタールよりも、山村さんや私を相手にリルケを語りあうことに、救い、癒しといったものをおぼえたようだった。
 山室さんは、安部 公房の作品を認めていたが、私の記憶しているかぎりでは、安部君と話をすることはほとんどなかった。いつも、にこにこして、私と安部君の話を聞いていただけだった。

 私たちは、いつもフッサール、ニーチェ、リルケの話ばかりしていたわけではない。
ときには意外な話題や、思いがけない芸術家の名前が飛び出したものである。

2015/07/14(Tue)  1627
     【23】

 いまさらながら、「近代文学」の同人に私は多くを負っている。

 1946年、「近代文学」の人たちについてあまり知らなかった。
 戦後になって、シュヴァイツァーの「文化の再建」を読んだ。これは山室 静の訳だった。トーマス・マンの「自由の問題」や、イーヴ・キューリーのロシア紀行、「戦塵の旅」なども読んだ。トーマス・マンは、高橋 義孝訳。イーヴ・キューリーは、坂西 志保、福田 恆存共訳。

 山室 静は、翻訳家として知られていた(というより、私がたまたま翻訳を読んでいただけのことだが)。高橋 義孝も、福田 恆存も、まだ無名だったに違いない。
 しかし、こうした本を読みつづけているうちに、はじめて翻訳という仕事に興味をもつようになった。

 「近代文学」の人たちは、いずれも外国語に造詣が深い。
 荒さんは英語の本を訳しているし、埴谷さんはドイツ語でカントを読んでいる。佐々木 基一さんも、後にルカーチを翻訳するほどの語学力を身につけている。

 ただし、私は語学を勉強する気はまったくなかった。

 これまで一度も書いたことはないのだが、私が外国語を勉強する気を起こさなかった小さなできごとがある。

 私は、大森山王の椎野の家に毎日遊びに行って、芝居や文学の話をしていた。椎野家も戦後のインフレーションの影響をうけたため、椎野は、戦後復活した劇団に戻れず、「時事新報」に就職したのだが、このとき、椎野家は二階の和室を貸すことにしたのだった。
 この間借人こそ、東大仏文きっての秀才で、戦後、彗星のように文壇に登場する作家だった。椎野家に引っ越してきたのは、作家として知られる直前の時期だった。

 ある日、私は椎野の家に遊びに行ったが、不在だった。
 毎日、遊びに行っていたので、私は家族どうようで、玄関先で椎野のご両親にも声をかけるくらいで、すぐに階段をあがって行く。椎野が不在でも、気ままに書棚の本を読む。そんな習慣だった。
 私は、いつも通り隣りの部屋に入った。書院ふうの八畳間だった。
 部屋のようすが一変していた。左側、窓の当たりから壁いっぱいに新しい書棚が長くつづいている。私の目の高さ、五段ほどの棚にぎっしりと本が並べられていた。
 数百冊、全部がフランス語の原書だった。日本語の本、漢籍は1冊もなかった。

 はるか後年(1989年)、この作家の書いた一節を引用しておく。

    少年時代から西欧の文物に憧れ、油彩や版画、それから気まぐれにも映画の制作
    に迄手を拡げた私は、幼時に漢学者だった祖父によって、厳しく仕込まれた儒学
    の初歩への悪印象から長らく中国古典ヘはアレルギー反応を起こしていたのだが
    ……(後略)

 当時の私は、この作家について何もしらなかった。ただ、小説を書いているらしいと聞いていた。
 私はただ茫然としてこの蔵書を眺めていた。

 羨ましいとは思わなかった。戦災でわずかな蔵書を失った私は、この膨大な原書に圧倒された。ひとかどのもの書きになるためには、どれほどの努力が必要なのか。
 とても追いつくことはできない。
 このときから、私の内部に別の考えが生まれたのだった。

 おなじように、遠藤 周作の家に遊びに行ったことがある。
 彼がフランスに留学する少し前だったから、一九四九年頃だろう。このときも、私は遠藤君の書棚を見て驚嘆した。おびただしい蔵書が並んでいる。そのなかには、私も読んだ本がかなり多かったが、私は読んだ本はすぐに叩き売って、別の本を買うほど貧乏だったので、遠藤君の蔵書を見て羨ましいと思った。

 このことからも私の内部に別の考えが生まれたのだった。

2015/07/11(Sat)  1626
 
     【22】
 後年の私は、老境に達した埴谷さんが誰かによく似ているような気がした。
 誰だろう? すぐに思いあたったのは――なんと、ヘンリー・ミラーだった。老齢に達すると、人種の違いを越えて、どことなく似てくるものだが、まさかヘンリー・ミラーが埴谷 雄高に似ているのか、埴谷 雄高がヘンリー・ミラーに似ている、とは。そんなことをよく考えたものだった。

 かりに、埴谷 雄高がヘンリー・ミラーに似ているとすれば、笑いにあるのではないか、と思ったものである。
 むずかしい討論をしている場合でも、埴谷 雄高が何か口をはさんで、屈託のない笑い声をあげると、その笑いに誘われて、その場の空気が一変する。そんな場面に何度も立ち会ったことがある。(これは、あとで書くことにしよう。ただし、書けないかも知れない。本郷三丁目の酒場で、加藤 周一、花田 清輝の大論争に、埴谷 雄高、安部 公房が立ち会ったことや、おなじように、「らんぼお」での、三島 由紀夫と安部 公房の論争に、中村 真一郎、埴谷 雄高が立ち会ったことにふれなければならないので。)

 もう一つ、くだらないことを思い出した。
 安部君と親しくなったとき、誰かによく似ているような気がした。誰に似ているのか考えた。これもすぐに思いあたった。
 鼻がトルストイそっくりなのだ。あの「戦争と平和」の作家に。私は、この「発見」にわれながら満足した。
 後年、私は、ヤスナヤ・ポリアナに行く機会にめぐまれたが、邸内に飾ってあったトルストイの写真を見たとき、安部君のことを思い出した。
 中田 耕治は、こんなつまらないことを考えてうれしがっている、と思われるかも知れない。

 しかし、これは私が、いわば類推の魔にとり憑かれていたことをしめす例にちがいない。後年の私が、エロスや、悪魔学などに関心をもったのも、ある部分、埴谷 雄高の大きな影響による。
 戦時中、埴谷 雄高は、「近代文学の連中」に女性の性的なオーガズムについて、綿密、かつ、実践的なレクチュアをあたえた。私は、このことを安部君から聞いた。

 それは、最高の状態でコイトゥスを経験する女性は、ふつうの刺激で得られるオーガズムで満足する。しかし、ある特殊な刺激を受けると、1時間以上にわたって、オーガスミツクな状態を持続する、という説だった。
 後年の私は、キンゼイや、マスターズ/ジョンソンや、メァリ・ジェーン・シャーフェイなどを読んで、女性のオーガズムの本質的な条件をくわしく知るようになったが、それより遙か以前に、埴谷 雄高の説を知っていた私にとっては、さまで驚くほどのものではなかった。

2015/07/09(Thu)  1625
【21】

 安部君のエッセイ、「おもちゃ箱」が書かれてからも、さらに長い歳月がながれている。
 私にしても、「戦後」の思い出などは、自分でももはや実態のない、茫漠とした、ときには混沌としたものになっている。
 当時の埴谷さんの印象を書いている。

    洞窟のような寛容さをもった口をしていた。口が印象的なのは、たぶんあの笑い
    方のせいだろう。それは、まことにデモクラチツクな笑い方で、どんなに臆病な
    相手でも、さりげなく対話の勇気を与えてくれたりしたものだ。

 という。

 私は、埴谷さんにいろいろな質問をしては、その一つひとつを心に刻みつけようとしていた。
 一方、安部君は、「近代文学の連中」とは、それほど親しみをおぼえなかったと見ていい。「近代文学」のなかでは、「埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している」のは、いつもきまって埴谷さんと話をしていたからだろう。
 「近代文学」の人たちは、例外なく安部君の偉才を認めていた。とくに、埴谷 雄高、佐々木 基一は、安部 公房の作品を激賞していた。これに対して、平野 謙、本多 秋五、山室 静などは、安部君の才能をじゅうぶんに認めながら、どう評価していいのかわからないようだった。

 「近代文学」の人々のなかで、平野 謙、山室 静の二人は、編集会議にあまり顔を出さなかった。山室さんは信州に住んでいたため、上京するのもたいへんだったに違いない。

 当時の安部君にとっては「近代文学」の人たちの話題が、「輪郭不明の朦朧体」としか見えなかったに違いない。たとえば、日本の文壇小説にまるで関心がなかったから。

2015/07/05(Sun)  1624
 
     【20】

 この頃の安部 公房が、よく話題にしたのは、フッサールだった。
 いうまでもなく、エドムント・フッサール(1859〜1928)である。なぜ、こんなことを書いておくのか。むろん、とりとめもない思い出にすぎないのだが――当時、フッサールの名は「フッセル」として知られていた。
 それなのに、安部君はいつも、フッサールといっていた。

 安部君が「純粋現象学」を讀んでいたことは間違いない。あまり、たびたびフッサールが話題になるので、私も「純粋現象学」を読む気になった。しかし、私の貧弱な頭脳では、フッサールの思想はほとんど理解できなかった。

 私の頭がわるいせいだが――

     デカルト普遍的懐疑試行の代わりに、我々の厳密に規定された新しい意味での
     普遍的「エポケー」を変わらせることが出来るであろう。しかし、われわれは
     十分なる根拠を以てこのエポケーの普遍性を制限するのである。何故ならば、
     もしかりにこのエポケーが、いやしくもその可能なるかぎりに包括的なるもの
     であるとすれば、いかなる措定、ないし判断もまったく自由に変様され、判断
     の主辞とされ得る如何なる対象性も括弧に入れられる故、変様せられざる判断
     に対する余地、況んや学に対する余地はもはや残されないという事になるだろ
     うからである。しかるにわれわれのめざす所は・・・

 私の貧弱な頭脳が理解を拒否したとしても非難されるだろうか。
 私をあわれんだ安部君は、現象学の解説をしてくれた。それでも、私には何もわからなかったといっていい。

 安部 公房は「玩具箱」というエッセイのなかで、

 「戦後はすでに、遠く霧のなかにしずんでしまった」という。
 その霧に向かって目をこらしたところで、浮かんでくるのは、ひっくり返した玩具箱のようなものだ。このエッセイの題は、そんなことに由来する。

 安部 公房は、このエッセイで、

    あるいは、近代文学の連中と接触しはじめた、あの当時、運悪く眼鏡を紛失し、
    しかし眼鏡などよりは、まずその日のパンといった状態だったので、せっかくの
    最初の文学的体験も、輪郭不明の朦朧体としか映らなかったせいかもしれない。
    ただその中で、埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している。

 という。

 私が、安部 公房と親しかった時期、彼がメガネをかけていたことはなかった。メガネをかけなくてもすんでいたのだろう。私は、近視だったから、メガネをかけていた。普通、25歳になれば近視の度は進まない、といわれていたが、私の近視は毎年強くなるばかりだった。
 「近代文学」の人たちでは、荒 正人、山室 静の二人が近視だった。とくに、荒さんは強度の近視で、正面から見ても分厚いレンズの外輪の部分が 重なった光の輪郭線を描いているように見えた。よく外国のえらい科学者が、こういうメガネをかけている。
 私の知っている作家では、中村 真一郎、野間 宏、堀田 善衛が近眼だった。安部 公房とは、安部君が「近代文学の連中」と接触しはじめた、もっとも初期から親しくなったのだが、まさか、近視だったとは知らなかった。

2015/07/01(Wed)  1623
 
     【19】

私は、毎日のように、「近代文学」の人々に会って、色々な話を聞くことで、勉強をつづけてきた。それは、安部君の場合もおなじだったろう。
 私は安部君に自分と似たような魂、まぎれもない詩人を見たのだった。

 ただし、はじめから違っていることにすぐ気がついた。彼は、天才だったが、私は生意気な文学青年だったこと。この違いはどうしようもない。

 安部君は、たとえば、日本の文学、とくに短詩形の文学に、まったく関心がなかった。私は、中学生のときに、久保田 万太郎の講演を聞きに行ったり、毎月、歌舞伎座で立ち見をしたり、雑誌なども手あたり次第に読みつづけるような文学少年だった。だから、お互いの違いから、いろいろと話題は尽きなかったのだと思う。

 音楽についても、まるで趣味は違っていた。
 戦後すぐに、アメリカ占領軍が、ラジオ、FENの放送をはじめたとき、私は、はじめてジャズを聞くようになった。ほとんど、ラジオにかじりついていた時期がある。
 のちに、私はディジー・ガレスピイや、ボブ・ディランといったエッセイを書いたり、最近も、20年代のリビー・ホールマンについて書いた。しかし、安部君はそういうことがなかった。

 ある日、私の家に遊びにきた彼に、私は、レコードを聞かせた。グラディス・スウォザウトの「カルメン」だった。Tenor は、ローレンス・ティベット。

 戦後、もっとも早く出た赤盤のアルバムだった。私が自分の原稿料で買ったレコードのなかでは、唯一のオペラだった。
 聞き終わった安部君は、まったく何もいわなかった。

 私の母が、おみやげに、白米を2合ばかり、新聞紙につつんで、わたしたとき、安部君は、うれしそうに礼をいって帰った。
 私は、大宮駅の西口まで送って行ったが、最後まで「カルメン」の話はしなかった。

 安部君は、いつもシューベルトの歌曲、それもゲルハルト・キッシュを聞いていた。

2015/06/28(Sun)  1622
 
     【18】

 安部 公房は「近代文学」の連中のなかで、「埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している」と書いているにすぎない。「近代文学」の連中と接触しはじめた、という最初の文学的体験も、「輪郭不明の朦朧体としか映らなかった」という「体験」にすぎない。このことは、当時の安部君の内面に一種の苦みがきざしていたため、と私は考える。


 いいかえれば、安部君は、「近代文学の連中」には、はじめからそれほど親しみをおぼえなかったと見ていい。

 「近代文学」の人たちは、例外なく安部君の偉才を認めていた。とくに、埴谷 雄高、佐々木 基一は、安部 公房の作品を激賞していた。これに対して、平野 謙、本多 秋五、山室 静などは、安部君の才能をじゅうぶんに認めながら、どう評価していいのかわからないようだった。
 逆にいえば、「近代文学」の人たちの話題が、「輪郭不明の朦朧体」としか見えなかったに違いない。たとえば、日本の文壇小説にまるで関心がなかった。

 したがって、「近代文学の連中と接触しはじめた」と書いている「連中」には、平野謙、荒 正人、本多 秋五、山室 静などは含まれていないと見ていい。そのかわり、いつも「近代文学」の周辺にいた私、そして関根 弘、原 通久などが「近代文学の連中」だったに違いない。

 安部君は、「近代文学の連中」とは、はじめからそれほど親しみをおぼえなかったと見ていい。「近代文学」のなかでは、「埴谷 雄高だけが、不思議に鮮明な印象を残している」のは、いつもきまって埴谷さんと話をしていたからだろう。

    洞窟のような寛容さをもった口をしていた。口が印象的なのは、たぶんあの笑い
    方のせいだろう。それは、まことにデモクラチツクな笑い方で、どんなに臆病な
    相手でも、さりげなく対話の勇気を与えてくれたりしたものだ。

 という。

 「近代文学の連中」の中に、私や、関根 弘が含まれることはいうまでもない。

2015/06/21(Sun)  1621
 
       【17】

 1947年。まだ春も浅い頃。

 その日も、「近代文学」に行くつもりで、ゆるやかな坂を歩いて行くと、たまたま埴谷 雄高が若い青年と一緒に外に出てきた。
 「やあ、中田君」
 埴谷さんが声をかけてきた。
 「きみに紹介しておこう。安部 公房君。いい小説を書いている」
 つれの青年に、
 「これが中田耕治君。批評を書いている」
 安部 公房と私の出会いだった。

 この坂は、ポプラ並木が続いている。戦後の記憶が、遠くはるかな霧のなかに沈んでしまった今でも、あのポプラの木の下で安部君と出会ったときの光景は心に残っている。

 埴谷さんが、安倍君と私をつれて行った店は、安普請の喫茶店で、レコードのバック・ミュージックが流れていた。
 お茶の水界隈で、いちばん早く開業した喫茶店だが、名前はおぼえていない。その後、この店は、何度か名前を変えた。しばらくは、女子学生相手のみつ豆専門の和風喫茶だったり、有名なドーナツのチェーン店になったり、さらに大規模なパンとコーヒー専門のカフェになったりした。

 そのときの話で、安部 公房が、評論家の阿部 六郎の紹介で、埴谷さんに会いにきたことを知った。私は、安部 公房が、阿部 六郎の推輓で、埴谷さんに会いにきたと知って大きな興味をもった。むろん、理由はある。

 戦時中の私は、ただひたすら小林 秀雄のエピゴーネンだったといっていい。ただし、小林につづく世代の批評家のものもかなり読んでいた。
 たとえば、阿部 六郎、杉山 英樹、丸山 静、小松 伸六。

 杉山 英樹は「近代文学」の人々とも親しかった批評家だが、惜しいかな、戦後すぐに夭折した。戦後の丸山 静は、一、二度、「近代文学」にも書いたひとだが、左翼の批評家。戦時中に書いた「ジュリアン・デュヴィヴィエ論」は、若き日の佐々木 基一、福永 武彦の映画批評とともに私の心に刻まれている。

 阿部 六郎は、シェストフの「悲劇の哲学」(河上 徹太郎共訳)で知られている。
 私は、「地霊の顔」で、ゴーゴリの「ディカニカ近郊夜話」に出てくる「ヴィー」、「ウェージマ」という地霊、魔女について教えられた。後年、私が「ゴーゴリ論」を書いた原点は、この「地霊の顔」にあったと自分では思っている。むろん、影響をうけたとまではいわない。
 この人の兄にあたる阿部 次郎の「生い立ちの記」や、「学生と語る」といった著作に、私はまったく心を動かされなかったが、それに較べれば、阿部 六郎の「地霊の顔」のほうが主題的にもずっとおもしろかった。そんな程度のことだったかも知れない。

 しばらく話をしているうちに、阿部 六郎とそれほど親しいわけではなく、ただ、高校で阿部 六郎の著作を読んだことがあるだけという。

 安部 公房と友だちになって、私にとって人生は、かなり楽しいものになった。生まれてはじめて、まぎれもない詩人を見つけたのだった。

 作家志望者を友人にもつのは初めてではなかった。作家志望者なら文芸科の学生たちに、いくらでもいた。しかし、安部 公房には、驚くべき知力と、しかも、優しさとデリカシーがあって、いっしょにいるのが楽しかった。
 その知性には――なんというか、強靱な伸長力のある鋼鉄のようなものがあって、それは私のもたないものだった。私は、当時の安部 公房に、「戦後」という時代にこそふさわしい、わかわかしい生命力、はげしい意欲を見ていた。

 ただし、彼と私ははじめから違っていた。彼は天才だったが、私はただの文学青年だったから。
 お互いの関心もまるで違っていた。
 安部君は、たとえば、日本の文学、とくに短詩形の文学にまったく関心がなかった。私は、中学生のときに久保田 万太郎の講演を聞きに行ったり、毎月、歌舞伎座で立ち見をしたり、雑誌なども手あたり次第に読みつづけるような文学少年だった。それで、お互いの違いからいろいろと話題は尽きなかったのだと思う。

 いろいろな話題が出た。私は、埴谷さんが上手に話をふってくれるので、カレル・チャペクの戯曲の話をしたことをおぼえている。安部君は、リルケのことを話した。埴谷さんは、私と安倍君が、お互いに仲よくなればいい、と思っていたようだった。

 この日から、私は、毎日のように、安部 公房と会って、お互いに語りあうようになった。私にとっては「近代文学」以外に、はじめて知りあった仲間だった。

2015/06/14(Sun)  1620
 
        【16】

 「近代文学」が、戦後のジャーナリズムの中心の一つになったため、同人たち、とくに荒 正人に原稿を依頼する人たちが、ひっきりなしにやってくる。「近代文学」の応接室がいっぱいなので、駿河台下の「きゃんどる」という喫茶店が、文学者のたまり場になった。

 ある日、「近代文学」の人びとが「きゃんどる」に集まっていた。
 そこに、1人の作家が入ってきた。青い外套を着て、胸もとにフランス語の原書をはさんでいる。驚いたことに、素足で、底のすりへった下駄を履いている。
 「きゃんどる」は、客が七、八人も入ればいっぱいになる狭い店で、隅にちぢこまっている私の横に、その作家が腰をおろした。

 佐々木 基一さんが立って、挨拶した。その作家は、かるく会釈しただけで、コーヒーを注文すると、ふところにはさんだ原書を左手にもって読みはじめた。

 フランス語はおろか、英語も読めなかった私だが、この作家が何を読んでいるのか好奇心にかられた。せめて本の題名だけでも知りたいと思って、横目使いで見たが、わからなかった。
 そのうちに、「近代文学」のひとたちの話題が、何かのことにおよんだ。誰も知らないことで、ちょっと沈黙がながれた。
 と、その作家が、本を読む手をやすめず、
 「それは、太田 南畝の……に出てきますよ。……版の……ページですが」
 といった。

 この作家が石川 淳だった。

 私は、石川 淳の博識に驚いたが、そのとき、彼が読んでいたのが、アナトール・フランスの「ペンギンの島」だったことにもっと驚いた。フランスの小説をいとも気楽に読みこなす作家がいる。これが、私にショックをあたえた。

 「きゃんどる」の思い出も多いのだが、やがて「近代文学」の編集室が、「文化学院」から駿河台下、「昭森社」の一室に移ったため、戦後派の人びとも、「ラムポオ」に集まるようになった。

2015/06/11(Thu)  1619
 
         【15】

戦時中からかなり多数の本を読んでいた。「文芸科」の科長だった山本 有三先生が、蔵書の一部を川崎の工場に寄贈したため、私たちは本を読むことに不自由しなかった。戦後は、山王の立花 忠保さんの書斎にいりびたって、手あたり次第に読みつづけた。忠保さんの書庫には、戦前の映画雑誌がたくさんあって、私はその全部を読破した。そればかりか、忠保さんのレコードを聞いて音楽に親しむこともできた。

 立花 忠保さんは、京大に在籍中だったが、肺結核の療養のために休学していた。戦時中、古書も払底していた時期に自分の蔵書を開放して、隣組や近所の人たちが自由に利用できるようにしてくれた。利用者は少なかったと思われるが、私は毎日のようにこの書庫に通った。
 おもに文学書が並んでいたが、戦前の古い映画雑誌、「スター」などがそろっていた。私はこの雑誌を全部読んだ。
 見たことのない映画ばかりだったが、多数のスターのグラビアを見るだけでも楽しかった。その中に、植草 甚一、双葉 十三郎などの訳で、アリメカの短編小説や、飯島 正の訳で、フランスの短編小説や、映画の紹介などが掲載されている。とにかく何でも読んだのだった。
 少年時代の私は、立花 忠保さんの蔵書にじつに多くを負っている。いま思い出して感謝のことばもない。

 こうした「修行」apprenticeship があったおかげで、「近代文学」の人びとの話題にも、なんとかついてゆくことができたのだった。
 あるとき、私がうっかり昭和初期の作家も読んでいるといったとき、平野 謙が、疑わしそうな顔をして、
 「きみは、プロレタリア文学のものまで読んでいたの?」
 と訊いた。
 私の年齢の少年が、戦時中にプロレタリア文学を読んでいるはずはない。そう思うのが自然だろう。しかし、中学生の私は、「三省堂」の書棚で「新興芸術派叢書」を見つけて、1冊づつ買って読んでいた。(1943年には、「三省堂」でさえ、新刊書が極度にすくなくなって、書棚に空きが見えるようになった。そのため、倉庫に残っていた本を並べたらしい。)
 私がなんとか金を工面して、一方で堀 辰雄や、津村 信夫を読みながら、同時に、片岡 鉄兵や、前田河 広一郎などを読んでいたことは偽りではない。

 むろん、中学生の知識で、プロレタリア文学を理解していたなどとはいえない。それでも、「空想家とシナリオ」や「鶏飼いのコミュニスト」なども、古雑誌で読んでいた。
 空襲がひどくなってから、あわてて疎開する人がふえた。運ぶ荷物が多すぎて、蔵書や、古雑誌などが路傍に投げ出されていることもあった。たちまち、通行人がむらがって、勝手に選びだして持ち去るのだが、そんな古雑誌に戦前のプロレタリア文学作品が掲載されていても不思議ではない。ただし、伏せ字が多かったけれど。

 ほんの少しばかり、昭和初期の作品を知っていたからといって、平野さんが、私に一目を置いたなどということはない。ただ、戦時中にプロレタリア文学を読んでいた中学生がいたことに驚いたようだった。

 ある日、今では何を話したのかほとんどおぼえていないのだが、丹羽 文雄の「海戦」(1943年)が話題になった。荒さんたちは、丹羽 文雄が戦争に協力した作家と見ていたが、私は、戦時中のドキュメンタリーとしては出色のものと見ていた。この作品に見られる文壇作家としての反省めいたものは、まったく不要で、これがノン・フィクション(当時は、こんなことばもなかった)としての力を弱めていると見た。
 私の意見は、たちまち反論をうけて、すごすごと引きさがるしかなかったが、「近代文学」の人びとの話を聞くことが、どんなに有効な文学修行になったことか。どんな話も、私にとっては有益だったからである。

 「近代文学」の人びとは、編集会議を終えたあと、すぐに雑談に入るのだが、そのときの話に、安部君も私も加わることが多かった。話題は、文学にかぎらず、宇宙論からデモノロギー、社会の動きから、個々の雑誌の作品の月旦、はてはゴシップまで、かぎりなくひろがってゆく。

 埴谷 雄高の発言は、いつも驚くほど犀利で正確だった。「死霊」の難解さに驚いていた私は、いろいろな座談での埴谷さんの発言が、高度な内容をもちながらもやさしく語られることに驚いたものだった。いろいろな人のウワサが出ても、それはいつも人情の機微をわきまえたもので、埴谷さんの個性が聞き手におよぼす直接的な効果は大きかった。

2015/06/04(Thu)  1618
        【14】

 戦後の一時期ほど、さまざまな議論が沸騰し、誰もがお互いに夢中になって語りあった時代はない。昨日まで、お互いに知らなかった人たちが、百年の知己のように生き生きとした会話をかわし、討論したり論争したり、ときには酒の勢いもあって殴りあいになったりしたものだった。
 私なども、武田 泰淳に首をしめられ失神しそうになったことがある。

 1946年、妹が就職したため、我が家の経済状態はいくらか楽になった。ある日、妹が新しい服を買ったので、それまで着ていた服を私に譲ってくれた。ブルーの背広だったが、裏地が赤のベンベルグだった。妹はあたらしいパンプスも買ったので、それまではいていた平底の靴を私にくれた。女ものなので気がひけたが、私はこの服と靴で押し通した。
 ある日、「近代文学」のあつまりが、中野の「モナミ」であった。その帰り、私は野間 宏といっしょにプラットフォームで電車を待っていた。いつものように文学論をかわしていたのだろう。
 野間さんが、私の足元に目をおとした。不思議なものを見たような表情になっている。
 私が女もののパンプスをはいていることに、始めて気がついたのだった。
 野間さんは黙って見ていた。顔から火が出るような思いだったが、私は黙って立っていた。
 「きみは、いい靴をはいているね」
 と、野間さんがいった。
 「妹からもらいました」
 野間さんの口もとが、数秒たってゆっくり左にあがった。これが野間さんの微笑だった。それだけで、あとは何もいわなかった。

 裏地があざやかな赤で、胴がキュッとしまっているブルーのジャケット、履いているのが女もののパンプス。まさか野間さんが、私を女装趣味(トランスヴェスタイト)と見たはずはない。
 ただ、そんな私を見て、ひとりだけ気がついた人がいる。

 「時事新報」の記者で、小説を書いていた鈴木 重雄だった。私より、一世代上の先輩で、「三田文学」出身、私小説を書いていた。作家としては大成しなかったが、戦争中、白いウールのセーターに派手なネクタイを巻いて銀座を歩くようなダンデイーだった。夫人は、「ムーラン・ルージュ」出身で、のちに「日本の悲劇」などで名女優といわれた望月 優子。
 私が、しょっちゅう有楽町の「時事新報」に行っては、近くの喫茶店で椎野と話をしたり、ときにはいっしょに芝居を見に行くので、疑ったのかも知れない。
 「中田君、きみって、コレじゃないの?」
 片手をあげて、手のウラで口を隠す仕種だった。私は鈴木 重雄が何をいっているのか、そのしぐさがよくわからなかった。
 鈴木 重雄は、図星をさされた私がトボけて、知らぬ顔をして見せたと思ったのか。鈴木 重雄はニヤニヤしていた。

 それからしばらくして、私は、「劇作」の集まりに出た。ここで、はじめて、「劇作」の同人たち、とくに内村 直也先生と親しくなったが、この席に、鈴木 八郎がいた。
 彼は完全なホモセクシュアルで、劇作家志望だった。私は、鈴木 八郎と親しくなってから、はじめてゲイについて知ったのだった。

 ブルーのジャケットに女もののパンプス。
 こわいもの知らずで、先輩たちの議論にとび込んで、いっぱしに文学論を戦わす。この頃の私は鼻もちならない、生意気な文学少年だったと思う。今の私は、先輩の批評家たちを相手に、とくとくと昭和初期の作家を語っていた「中田耕治」を思い出すと、はげしい嫌悪をおぼえる。というより、恥ずかしさのあまり、ワーッと叫びたい気分になる。

2015/05/30(Sat)  1617
 
     【13】

 はじめて「近代文学」に荒 正人を訪れたとき応対してくれた若い女性は、藤崎 恵子だった。
 「文化学院」の卒業生で、戦時中に人形劇団をやっていたという。はるか後年、画家になった。同時に、フランスのジュモー人形のコレクターとして知られ、人形に関する著書もある。
 私は、彼女と親しくなった。といっても、私より、二、三歳、年上で、頭の回転が早く、きびきびしていた。だから、私にとっては姉のような存在といってよかった。

 私はいつも背広を着ていたから、外からみれば、いちおう中流の生活環境にいたように見えたに違いない。
 実際には、すさまじい貧乏で、本を買うためにその日の食事をぬくような状態だった。

 荒 正人に会ってすぐに、埴谷 雄高に会った。
 はじめて会ったときの印象はあざやかに残っている。当時、36歳だった埴谷さんは、長身で、グレイの服に、オイスター・ホワイトのヴェストを着ていた。はじめて紹介されたとき、演劇人かと思った。誰かに似ていると思った。このときは、誰に似ているか思い出さなかった。

 その日、「近代文学」の人びとは、発表されたばかりの坂口 安吾の「白痴」を論じあった。私も飛び入りで、この人たちの、めざましい、生彩あふれる批評に加わった。私も、いろいろと発言したが、どんなことを話したのか。
 平野さんが、坂口 安吾と、ある女流作家の恋愛にふれたことはおぼえている。
 私は、すぐれた批評家たちの発言を聞きもらすまいとしていたが、この人たちの話をじかに聞くことができる幸福感にあふれていた。生意気にも、この人たちに認められたいという思いから、できるだけ正直に自分の読後感を述べたのだった。

2015/05/26(Tue)  1616
 
       【12】

 私は母に、荒 正人という評論家に会いに行くことになった、と告げた。

 「へぇー、荒 正人ってどんな人?」
 「よくは知らない。最近、世代論で世間の注目をあつめている人」
 「そいじゃ、えらい人だね。耕ちゃんに会いたいって、いってきたのかい」
 「そうじゃないけど、椎野が会いに行けって」

 その日、私の母は闇市を駆けずりまわった。
 そして、古着を一着見つけたのだった。ただし、その古着を買う金がなかった。自分が疎開しておいた着物と帯と交換で、その古着を手にいれた。
 小柄な私の背丈にぴったりの、ベージュ色の背広だった。

 私は革が破れかかったドタ靴をはいていたのだが、母は靴も見つけてきた。
 新品ではなかったが、母がみがいてくれた。乾いてカチカチになった靴クリームを、古いボロ切れになすりつけて一所懸命にみがきあげた。
 父のネクタイを拝借した。なんとか見られる恰好になった私は、荒 正人に会いに行った。

 お茶の水駅から歩いてせいぜい数分。
 今は明大の大きな建物が立っているが、当時は、木造二階建ての「文科」が道路にへばりつくように建っていた。その斜め前、やや離れた位置に「文化学院」があって、その二階に「近代文学」の編集室があった。
 戦時中は、「全国科学技術連合会」という団体が、応接室として使っていた部屋という。戦争が終わって、この団体は活動を停止した。その空室の机一つを「近代文学」が借りて、編集室に使っていたらしい。

 ドアをノックすると、小柄な若い女性が顔を出した。
 「荒 正人さんは、いらっしゃいますか」
 彼女はけげんなまなざしで、私を見た。

 私が「時事新報」といいかけると、
 「あ、あなたが「耕」さんね」
 といって、室内に入れてくれた。
 机に向かって何か書いていた人が、こちらに顔を向けた。
 「荒さん、こちら、「耕」さんですって」
 彼女の眼は、まるで何か起こるのを期待しているかのように、私に注がれていた。
 私はあまり緊張しなかった。それよりも、机に向かっていた荒 正人は私を見て驚いたらしかった。まさか少年がやってくるとは思ってもみなかったのだろう。そのときの荒さんの顔は今でも忘れられない。
 荒さんは私の前に立って、
 「きみが、アレを書いているんですか」
 といった。

 いちおう名の通った新聞の文芸欄の匿名批評を手がけているのだから、有能な新聞記者か、戦前から同人雑誌に書いていた同世代の書き手を想像していたらしい。
 私は荒 正人のハガキを見せた。

 「きみが「耕」さんですか」

 それからあとは、つぎからつぎに質問を浴びせられた。

 荒さんはほんとうに口角泡を飛ばすといった、せき込んだ話しかたをする人だった。
 私がどうして「時事新報」に匿名のコラムを書くようになったか。そして、椎野 英之の話。

 私が、ドストエフスキーを読んでいると知って、「ラスコーリニコフ」の話題になった。たまたま、バルザックの「ゴリオ爺さん」を読んでいた私は、「ラスティニャック」は犯罪によって自分を形成しようとしているのだから、「ラスコーリニコフ」と共通するのではないか、などと話した。当時の私はひどく生意気な文学少年だったので、荒さんの質問にもさほど困らなかった。

 私は同年代の少年よりはずっと多くの作品を読んでいたと思う。

 当時は無名に近い作家のものも少しは読んでいた。たとえば、荒木 巍(たかし)、吉行 エイスケ、串田 孫一、通俗作家では、北林 透馬、橘 外男など。
 荒さんの分厚いメガネの奥で、目がまるくなった。
 私は、つぎからつぎにいろいろな話をした。荒さんから何を聞かれても、いちおう答えることができた。むろん、私は得意げにしゃべったわけではない。
 最初、まるで査問を受けているような居心地のわるさ、ぎこちなさはすぐに消えて、旧知の先輩と話しあうような楽しさがあった。

 この日から、私は「近代文学」に顔を出すようになった。

2015/05/23(Sat)  1615
 
         【11】
 戦後、私がもの書きになった経緯については、これまで何度も書いているので、あらためて書く必要はないのだが、椎野 英之に関係があるので、ごく簡単に説明しておく。

 戦後の椎野 英之は、「文学座」に戻らなかった。敗戦後の激烈なインフレーション、社会情勢の激変、食料難、その他、いろいろな家庭の事情が許さなかったのだろう。

 1946年、日本の「戦後」。何もかも麻痺したため虚脱したような気分と、左翼を中心にした、新しい時代の「歌声よ起これ」といった高揚した気分がぶつかりあっていた。
アメリカ占領軍の軍令下で、戦犯の逮捕、共産党の野坂 参三の帰国、最大規模のデモ、それこそ「玩具箱」をひっくり返したような大混乱がつづいた。
 その混乱のなかで、私はシュヴァイツァーの「文化の衰退と再建」を読んだ。

 戦後、経済的に非常な困難と、用紙の極度の払底にもかかわらず、日本のジャーナリズムに新聞、雑誌の創刊ブームが起きた。文学関係では、「近代文学」がもっとも早く登場したが、「世界文学」、「新日本文学」、「綜合文化」、同人誌の「黄蜂」、戦争末期、鎌倉在住の文士たちが、生活のために貸し本屋をはじめて、それが戦後すぐに、「鎌倉文庫」という出版社のかたちで出発した。雑誌「人間」が創刊され、「文学界」が復刊した。平野 謙は編集者として誘われたという。そのときの条件は、月給、300円だったらしい。
 おびただしい雑誌が氾濫したが、それも束の間、大半はインフレーションのなかで消えてゆく。さすがに日刊の新聞の創刊は、それほど多くはなかった。それでも、「時事新報」の創刊は、戦後のジャーナリズムの流れのなかでは大きなできごとだったように思う。

 椎野 英之は、この「時事新報」に入社した。日刊新聞といっても、新聞用紙が極端に払底したため、わずか2ページ。つまり、1枚の紙のウラオモテだけの日刊紙だった。
 1面、いわゆるフロント・ページは、政治・経済のトップ・ニュース。その裏が社会面で、世相、風俗、犯罪から、食料の配給、復員船の入港、ラジオ欄、有名人の随筆、広告、みな入り込みのごった煮といった作りだった。

 紙面のスペースがかぎられているので、芸術、芸能関係の記事は載せなかったし、新聞小説もなかった。したがって、記事がギュウギュウつめ込まれているだけで、全体にあまり特徴のない新聞だった。
 椎野は新人なので警察まわりをやらされた。ところが、記事を書くのが苦手だった。そこで、紙面に短いコラムを作ろうと編集長を口説いた。これが採用された。
 コラムは「白灯」という題名にする。おもに文芸時評のかたちをとった匿名批評。字数は400字程度。週に3本の予定。
 筆者は椎野 英之。

 椎野は警察まわりの記事も書かないくらいだったから、この企画を立てたとき、真先に私に相談した。
 「耕ちゃん、この囲み(コラム)はきみが書いてくれ」
 という。
 「うん、いいよ」
 こうして私は椎野の影武者になった。その日からコラムを書きはじめた。「耕」というサインで。

 「白灯」は、戦後、もっとも早く登場した匿名批評だった。半年ばかりたって、大阪の新聞、「新夕刊」に、字数、400〜500程度の「匿名批評」が登場した。これは、林 房雄が書いたといわれている。これが、キッカケで、別の新聞に、大熊 信行、大宅 壮一なども匿名で登場する。

 朝、私のところに電話がかかってくる。

 「出来てるかい?」
 「うん、2本」
 「じゃ、寄ってくから」
 やがて、椎野が私の家の前の狭い坂をあがってくる。(この坂の奥に、寿岳 文章の邸宅があった。)
 私は、清水さんというお宅の前まで出て、書いたばかりの原稿をわたしてやる。椎野は、その坂の奥、寿岳 文章さんの門の前から折れて、大森駅に出るのだった。

 私のコラムはそれまでになかったものだけに、いくらか評判になったらしい。
 「耕ちゃん、すごいぜ。どこにいっても聞かれるんだ。誰が書いているんだって」
 椎野がいった。

 10本ばかり書いたとき、「時事新報」文化部、「耕」あてにハガキが届いた。
 「白灯」に注目しているという内容で、署名は荒 正人。

 「おい、耕ちゃん、この人に会いに行けよ」
 「誰が書いているか、バレちゃうじゃないか」
 「きみが書いているといえばいい。むこうも、おもしろがってくれるさ」

 私は少しひるんだ。

2015/05/21(Thu)  1614
 
            【10】

 「近代文学」の創刊号が出たのは、敗戦(1945年)の歳末だった。私は創刊にまったくかかわりがない。私はまだ明治大学文科に在籍中で、18歳の少年だった。

 この創刊号は、A5版、64ページ、へんぺんたるパンフレットのようなものだった。
 最初の原価計算によれば、印刷工の組代が640円、印刷費が350円、製本が300円、印刷費の総計が1760円という見積もりだったという。
 ところが、敗戦直後から激烈なインフレーションが起きて、年末には、実質的に数十倍の高騰を見ている。「近代文学」の定価は、10月の予定では1円20銭だったのが、12月の発売では3円に変更されている。むろん、インフレーションの影響による。

 私の場合――敗戦直前の私は、毎月、54円程度の報酬を得ていた。
 日給は2円。(小学校卒業で徴用され、工場に配置された少年工は、日給、1円だった。)
 比較のために書いておくと――古本のプルースト全集、5巻で50円、ヴィリエ・ド・リラダンの原書が20円だった。つまり、日曜日を除いてフルに働いても、本を2、3冊買っただけで給料は消えてしまう。
 とにかく貧乏学生だったから、「近代文学」の創刊号を買うこともむずかしかった。

 敗戦翌年の正月そうそう、大森駅の駅前の本屋で平積みになっている雑誌を見た。
 表紙もついていない雑誌だったが、目次をみただけですぐに読んでみようと思った。
 執筆者のなかに自分の知った名前があったからである。

 創刊号に、埴谷 雄高が「死霊」の第一回を書いている。埴谷 雄高の名は知らなかった。佐々木基一が長編の連載をはじめていた。私は佐々木基一が、戦時中の「映画評論」にペンネームで文化映画論を書いていた映画評論家と知っていた。
 戦時中に、佐々木 基一が「新潮」に書いた短いエッセイも読んでいたし、本多 秋五が「文学界」に書いたエッセイを読んでいた。

 ついでにもう一つ。へんなことを思い出した。

 戦時中に、植草 甚一の名前を知ったのだった。(むろん、後年の映画やジャズの評論家としての「植草 甚一」ではない。)
 戦時中、ヴァレリー全集が刊行されていた。その1冊の月報(これまた、B5版、粗悪なワラバンシわずか1枚のリーフレット)がついていた。これに、ヴァレリーの著作、「ヴァリア」を探しているので所持している方にぜひ借覧させてほしい、という編集部のアピールが載っていた。これが、私の記憶に残った。
 ヴァレリーにそんな著作があるのか、と思ったから。

 つぎに出たヴァレリー全集のリーフレットに――世田谷在住の植草 甚一氏のご好意で、「ヴァリア」を参看できた旨の謝辞が出た。

 少年の私は、フランス本国でも部数の少ない稀覯本を、戦時下の東京で所持している人がいると知って、信じられない気がした。このときから、植草 甚一の名は忘れられないものになった。
 はるか後年、植草 甚一と親しくなって、植草さんの話をうかがう機会が多くなったが、戦時中に植草さんの名を知っていたことは話題にしなかった。

2015/05/06(Wed)  1613
 
     【9】

 戦後の混乱は、一方ではかぎりない自由と解放だったが、一方では、敗戦の混乱と苦痛とみじめさにさいなまれて、死を選んだ人もいる。私と同期で、戦後の混乱のなかで自殺した人が2名いる。それぞれ自殺の動機は違っていたらしいが、この二人の死から、私が死ぬことがなかったのは、ただの偶然に過ぎないのではないかと思ったものである。

 前にも書いたように、少年時代の私には、少数ながら大切な友人がいた。
 小川 茂久、覚正 定夫、椎野 英之。

 小川 茂久が大森に住んでいたので、なにかと世話になった。蔵書が全部焼けたため、読む本がなかった私に、有島 武郎の全集や、鴎外などを贈ってくれたのは、小川 茂久だった。(小川は、後年、明治の仏文の教授になった。私は、さらに後年、文学部の講師になったから、毎週、一度は小川 茂久と会って、酒を飲むようになった。)

 覚正 定夫については、これまで書いたことがない。
 彼は、戦後、小川 茂久と同時に、演劇科の助手になった。やがて、私の紹介で、安部 公房と親しくなり、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。

 1945年、覚正 定夫は父を失った。彼の父は輸送船の船長だったが、フィリッピンに向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて戦死した。母は大連在住だった。
 この年、彼自身も本郷で罹災した。
 しばらく消息不明だったが、まったく無一物になった覚正 定夫は、友人の家を転々としていた。その彼が、敗戦直後、私を頼ってきた。彼は、重度の身体障害者だったので、「戦後」のひどい状況のなかで生きて行くこともむずかしかったと思われる。私の母(宇免)は彼の身の上を心配して、とりあえず私と同居させることにしたのだった。

 私たちは叔父の家の居候だったから、覚正 定夫は居候の居候ということになる。

 私は階段の横、1畳半ばかりの納戸のような部屋で寝ていた。覚正 定夫と並んで寝ると、まるで監獄の雑居房に寝るような感じだった。それでも、私と覚正 定夫は、いつも文学や芸術の話をしていた。

 宇免は、埼玉県に疎開した実母(私の祖母)のところで食料を仕入れて、大森に運んでは、私たち(父と私、覚正 定夫)に食べさせてくれた。戦後の食料難の日々、なんとか私たちに食べさせてくれた母の苦労を思うと、いまさらながら申しわけない気がする。

 冬になって、寒さをしのぐ外套もなかった。戦災で無一物になったため、ひどい貧乏で、戦後の激烈なインフレーションのなかに投げ出されたからだった。
 私は両親の負担を少しでも軽くしたかった。何でもいいから仕事を探したかったが、戦後の混乱のなかで仕事があるはずもなかった。

2015/05/01(Fri)  1612
       【8】

 9月、アメリカ軍が上陸して、それまでとまったく違った文化が雪崩れ込んできた。

 大森、山王にも大きな変化が見られた。
 最後まで空襲の被害を受けなかっただけに、りっぱな門構えの豪邸が残っていた。椎野の家の周囲にも、戦前のブルジョア階級の趣きをもった豪邸があった。その家の令嬢たちは、驚くほど美貌だった。アメリカ軍の上陸直後から、このお嬢さんたちは、アメリカの兵士たちと仲良しになって、自宅で毎晩パーティーを開くようになった。
 戦後、もっとも早く日米交歓を実現した例といっていい。(3年後、私は、偶然そのひとりを見かけたことがある。これ以上ふれないが、ある大きなキャバレーで、特殊なショーに出ていた。)

 戦後の索漠たる風景も、いまはもう知らない。
 「近代文学」創刊号の「同人雑記」、本多 秋五が「焼跡で」という短い断章で、

    墓場と、煙突と、土蔵で、寺と風呂屋と質屋がわかる。

 と書いている。
 いちおう近代都市だった東京も、ほとんど壊滅して、焼けただれた墓場と、かつては町だった土地に、銭湯の煙突だけが残っていた。江戸時代や明治の頃をおもわせる土蔵の壁も炎にあぶられて変色していた。内部も焼け落ちていたし、質草が焼け残ったとしても、すべて奪い去られていた。これが敗戦国のすさまじい現実だった。

大学は再開されたが、教授たちもほとんどが疎開したり、生活に追われて、授業も満足に行われなかった。
 それでも、毎日、大学に行ったのは、親友の小川 茂久、覚正 定夫(柾木 恭介)たちに会えるからだった。
 お茶の水駅の階段をのぼったが、空腹と栄養失調で、いっきに登ることができなくなっていた。階段の途中で2度も足を休めた。慢性的な栄養失調で、足がふらついて、いっきに登れなかった。

 戦後、すぐに国民の窮乏がはじまった。
 激烈なインフレーションが起きただけでなく、全国的に食料が欠乏した。それまでの配給制度が崩壊したため、欠配、遅配が日常化した。

 戦後も戦時の経済統制の法律を遵守して、配給の食料だけで暮らしたため、餓死した判事もいた。

 随筆家の小堀 杏奴は、戦時中、祖国を勝利にみちびくために自分たちができることは、せめて闇(ブラック・マーケット)の食料を口にしないこと、と考えて、戦争中は、まったく闇なし(配給だけで生活する)を実行した。
 敗戦後の10月、ついに闇でジャガイモを買って食べたが、家族4人が腹をこわしたという。

 戦後の混乱で、いちばん目だったのは、闇の女と呼ばれた娼婦の出現だった。
 アメリカ軍兵士が上陸した。1945年9月。
 私は、その日、新橋から電車に乗ったのだが、たまたま乗り合わせた若い女2人が、ほかの乗客に聞こえよがしに、自分たちがアメリカ兵数名にジープにつれ込まれて輪姦されたことをうれしそうに話した。彼女たちは、占領軍のようすを見物しに茨城県から上京したらしい。モンペをはいた田舎娘たちは、代償にチョコレートと、Kレーションをもらったことを話していた。
 ふたりは、途中の停留所で電車を下りたが、ふたりとも疲労したのか、腰を落として、お互いにしがみつきながら歩き出した。うしろ姿が露骨にセックスを連想させたので、乗客たち、みんなが苦笑した。
 電車の車掌が、そばにいた私にむかって、
 「戦争に負けた国の女は、どこでもああだからな」
 といった。
 このときのことは小説に書いたが、その翌日、銀座で、若い女の子たちが、アメリカ兵に笑いかけて、しなだれかかったり、手を繋いで歩いているのを目撃した。
 通行人はこの光景を見ないようにして歩いていた。

 私は、上野や、有楽町、日比谷界隈の風景しかおぼえていないのだが、敗戦直後の食料難と、すさまじいインフレーションのさなか、生活のために春をひさぐ街の女があふれはじめた。わずかな米や小麦を得るために、物々交換の手段としてからだを提供するといったこともめずらしくなかったと思われる。
 この冬(1946年1月)には、上野や日比谷だけでも千数百人の女性がひしめいていた。翌年の2月には、占領軍によって公娼制の廃止が発令されたが、現実には敗戦直後から、いたるところでこうした風景が見られた。

 戦時中は、二〇件程度にすぎなかった若い娘の家出が、敗戦直後から一〇〇件を越えて、1946年7月には、六〇〇件を突破した。

2015/04/27(Mon)  1611
 
     【7】
 その夜、私は、手もとにあった配給の大豆二合を、手拭いを縫いあわせた袋につめた。翌日、早朝、その袋を抱えて、大森駅から上野に向かった。
 母の宇免が、栃木県黒磯の山奥に疎開していたので、とりあえず、私が身辺についていたかった。敗戦の当日から交通網が麻痺して横浜方面行きの電車も動かないという。さまざまなデマが飛びかっている。
 日本は、これからどうなるのだろうか。そういう思いは、自分がこれからどうなるのだろうか、という思いとつながっていた。

 私は知るよしもなかったが、母は、敗戦を知ってすぐに、疎開先で所持品を全部売り払い、米、芋などの食料を買い込んで、その足で、東京に向かっていた。
 一方、私は、逆に黒磯をめざしていた。

 このときのことは、長編、「おお季節よ、城よ」に書いた。
 上野駅は、東京から地方に向かう群衆が押し寄せていた。列車のダイヤが狂って、この日の始発がプラットフォームに入ったのは10時頃だった。
 無数の人たちが乗り込んだが、悲鳴や怒号があがった。私などは乗り込むこともできなかった。
 たまたま隣りに、土浦の海軍航空隊から脱走してきた予科練の生徒がいたので、ふたりで協力して、列車の屋根によじ登った。私たちを見た人たちが、つぎつぎに屋根にあがりはじめた。
 
 飲まず食わずで、黒磯にたどり着いた私は疲労していた。母が入れ違いに東京に向かったと知ったとき、思わず笑いだした。母はこれと思い立ったらすぐに行動力する女だったから、敗戦を知って、すぐさま身辺を整理して、東京にもどろうと決心したに違いない。
 私は母の借りた部屋で数時間仮眠をとった。

 母が頼って行った人の好意で、わずかながらイモ、コメなどを手に入れたので、私は食料の買い出しに行ったことになる。それだけでも、黒羽にきた意味はある。
 私は黒羽からまたひとりで歩きつづけた。
 黒磯に戻ったときは、月の位置がずいぶん変わった。しかし、この美しさはいつまでも心に残った。

 この夜明けに私が見たのが満月だったかどうか、おぼえていない。ただ、もはや、戦争はない。そう思いつめて歩きつづけた。
 一刻も早く東京に戻りたかった。黒羽で、宇都宮の陸軍部隊が反乱を起こしたというウワサを聞いたのだった。

 ふたたび黒羽から上野をめざした。むろん、切符が手に入るはずもない。深夜の黒磯の駅にも、おびただしい人数の乗客が押し寄せていた。敗戦翌日から鉄道の混乱がつづいている。各地に、徹底抗戦派が蜂起して、軍隊が東京に向かっているというデマが飛んでいた。東北線のダイヤもみだれて、各地の疎開先から上京しようとする人々があふれていた。私はまたもや無賃乗車で、食料と水だけをかかえて、汽車にもぐり込んだ。この列車も、それこそ立錐の余地もない混雑ぶりだった。
 途中で、運転手が逃亡したため、乗客の数人が汽罐車にもぐり込み、石炭を汽罐に放り込んで走らせたという。これは途中の上尾駅あたりで、前の車両からつたえられてきた。

 上野についたのは何時頃だったのか。またしてもおびただしい群衆がプラットフォームにあふれていた。駅の改札に駅員の姿はなく、敗戦直後の混乱が鉄道の駅のすさまじい混雑にあらわれていた。

2015/04/22(Wed)  1610
       【6】

 敗戦の日の晩、私は、両親の部屋(6畳)と、私の部屋(1畳)の遮光幕をはずした。

 これも説明が必要で――戦時中は、防空上の措置として、室内照明の周囲に黒い遮光幕をつけることが義務化された。黒い布や、円筒状にしたボール紙に墨を塗って、電灯のまわりを蔽った。電灯の輝度は、せいぜい10ワット、その光も直径わずか数十センチの範囲で、食卓を照らす程度のものだった。日没以後、全国の都市、村落すべてが、まったくの闇にとざされるのだった。
 我が家でも、せいぜい50センチ平方程度だけ食卓を照らす電灯の明るさで、食事をしたり本を読むのだった。
 わずかでも光が漏れたりすれば、たちまち、憲兵や、警察官、警防団の連中が飛んできて、厳重に注意する。だから、東京にかぎらず、全国が暗黒に包まれるのだった。

 電気のスィッチを入れた瞬間、室内が光り輝いた。光はこんなに明るいものだったのか。私は、はじめて見る光に感動した。せいぜい10ワットの電球なのに、眼がくらむような輝度だった。

 この日、室内の照明を全部つけたのは、我が家がいちばん早かった。

 我が家が照明をつけたため、近くでも、つぎつぎに遮光幕を外す家が出てきた。
 7時頃、この地区の警防団の団長が血相を変えて飛んできた。

 「空襲警報が出るかも知れないのに、遮光幕を外すとは、なにごとだ」
 という。
 私が応対に出た。
 「戦争は終わったんだぞ。電気を消す必要もなくなったんだ」

 戦時中、憲兵や特高警察などがおそろしい恐怖の集団だったが、そのつぎにおそろしかったのは、隣組の組長や、その地区の自警団、消防団の連中だった。
 この警防団の男は、軽蔑しきった顔つきで私を睨みつけていたが、私はひるまなかった。そのオジサンはそのまま退散した。
 私の家の前の清水さんの家も、この夜、電気をつけた。その奥の、寿岳 文章先生の家も、立花子爵の邸宅も遮光幕を外して、それまで黒い塊りにしか見えなかった木々が、広壮な大名屋敷の庭園の風情をみせていた。

 やがて私は外に出た。この夜、山王二丁目で照明が煌々と輝いたのは、せいぜい二割程度だった。
 まだ、全部の家が遮光幕を外したわけではない。しかし、大森から大井にかけて、あかるい照明をとり戻した家並みが点々とつづいている。これを見ただけでも、ほんとうに戦争が終わったという実感があった。

 この夜、栃木、黒磯に単身疎開している母の宇免のところに行く決心をした。戦争は終わったが、その夜、さまざまなデマが飛んで、全国各地に不穏な動きが起きはじめているようだった。このままでは内戦状態になるかも知れない。

2015/04/16(Thu)  1609
      【5】

 戦争が終わった日の午後、私は椎野 英之の部屋に遊びに行った。

 思いがけないことに、椎野の部屋に訪問客がいた。若くて美しい女性だった。
 戦時中は、どこの家庭の娘たちもモンペ姿だったが、このお嬢さんは、戦争が終わった日に、すらりとしたからだを、ゆたかなワンピースでつつんでいた。
 美貌だったが、なによりも表情があかるかった。魅力のある女に共通する一つの特徴は、例外なく明るく、さわやかな表情を見せていることだが、このお嬢さんは、モンペ姿の娘たちの、思いつめたような、緊張しきった表情がない。
 その服装から、彼女が「文学座」の研究生とわかった。

 椎野が私を紹介してくれたが、彼女は私には眼もくれなかった。佐々木というお嬢さんだった。戦争が終わった瞬間に、若い娘がこれほどあざやかに変身するものか。そんな驚きがあった。いまなら、それほど挑発的には見えなかったにちがいない。しかし、佐々木 瑛子のドレスは、胸のラインぎりぎりまで開いていた。ブラジャーはわざとつけていない。ウェストがきゅっとしまって、フレヤーが波のようにひろがって、いかにもたおやかに見えた。私は、椎野がこんなに若くて美しいお嬢さんと親しくしていることに驚いた。

 彼女が椎野を訪れたのは――戦争が終わったのだから、すぐにも劇団の再出発を考えなければいけないという相談だった。とりあえず、久保田 万太郎先生、岸田 国士先生に連絡をとりたい、という。彼女の話は、かなり具体的なもので、私などが名前だけ知っている芸術家、俳優、女優たちの消息がつぎつぎに出てきた。

 話の途中で、すさまじい爆音が聞こえはじめた。空襲の恐怖は、誰にも共通していたが、この日、空襲警報が出るはずもなかった。B29の爆音なら、はるか上空から聞こえてくるはずだったが、この爆音はすさまじい速さで、大森上空を疾走してくる。アメリカ空軍機が、早くも東京を偵察にきたのかと思った。
 私は、その機体を見ようとして、椎野の部屋の窓から乗り出した。
 爆音の正体は――海軍航空隊の戦闘機、2機だった。
 おそらく敗戦を知った土浦の海軍航空隊の一部が、戦闘継続を主張して、示威運動を起こしたにちがいない。
 佐々木 瑛子は、窓からのり出して、大声で、

 「もう、戦争は終わったのよ!」

 声をあげた。私は、この少女の純真な怒りに驚いた。と同時に、その驕慢な姿勢に驚かされた。
 戦闘機は驚くほどの低空に飛来して、瞬時に飛び去った。

 しばらくして、私は椎野と佐々木 瑛子を残して帰宅した。

 1947年12月、劇作家、内村 直也は戦後最初のラジオ・ドラマ、「帰る故郷」を書いた。このドラマに佐々木 瑛子が出ている。この放送劇は、「文学座」のために書いたもので、杉村 春子、三津田 健、宮口 精二、中村 伸郎。新人として新田 瑛子、伊藤 聡子、賀原 夏子が出た。
 このドラマは成功した。
 この放送劇で、内村 直也は、戦後のラジオ、ドラマのパイオニアになってゆく。

 後年、佐々木 瑛子はある作家と結婚したが、やがて悲劇的な死をとげた。作家は、この事件によって重大な影響をうけて、一時は作家としてのキャリアーも終わったとまで覚悟したが、その後、立ち直った。
 ここではこれ以上ふれない。

2015/04/12(Sun)  1608
     【4】

 少年時代の私には、少数ながら大切な友人がいた。
 小川 茂久、覚正 定夫、椎野 英之。

 小川は、後年、明治の仏文の教授になった。覚正 定夫は、はじめ仏文の助手だったが、私の紹介で、安部 公房と親しくなり、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。椎野 英之は、「東宝」のプロデューサーになる。

 小川 茂久が大森に住んでいたので、なにかと世話になった。蔵書が全部焼けたため、読む本がなかった私に、有島 武郎の全集や、鴎外などを贈ってくれたのは、小川 茂久だった。

小川については何度か書いたが、椎野 英之のことは、これまでほとんど書く機会がなかった。1945年8月、たまたま、おなじ山王に椎野 英之が住んでいたので、彼と親しくなった。

 椎野 英之は、私より二期上。もともと俳優志望で、戦時中に「文学座」の研究生になっていた。同期に、荒木 道子、丹阿弥 谷津子、新田 瑛子、賀原 夏子など。
 「文学座」の研究生として、ジュリアン・リュシェールの「海抜2300メートル」(原 千代海訳)の勉強会に出た。(この勉強会が、戦後すぐからの「文学座」アトリエ公演につながっている。)

 私が見た舞台では、森本 薫の「怒濤」(1944年)で、椎野はガヤ(その他大勢)で出た。セリフはたったひとことだけだったが。

 1945年5月、森本 薫の「女の一生」が渋谷の「東横」で上演されたが、わずか4日目、大空襲で劇場が焼亡したため、「文学座」の活動も中止された。
 私は、この公演を見ている。戦時中に見た最後の新劇の舞台だった。戦時中に「文学座」を見た人も、もうほとんどいないだろう。東京は一面の焼け野原で、劇場らしい劇場はなくなっていた。もともと映画館だった渋谷の「東横」を改装して舞台にしたのだった。しかも、連日の空襲下で、夜間の公演はできず、マチネー中心の舞台で、4日目には劇場ばかりか、渋谷から世田谷、杉並にかけて焼き尽くされたのだった。

 椎野のクラスは勤労動員で、石川島の造船所で働いていた。私たち下級生は川崎の「三菱石油」の工場で働いていた。ところが3月の大空襲で石川島の工場が壊滅したため、椎野たちも川崎の「三菱石油」の工場に合流した。
 私が親しくなったのは、このときからだが、その後、椎野は召集された。小川も 敗戦の直前に招集された。私も、9月に入隊ときかされていたが、8月15日に敗戦を迎えたのだった。

 椎野の家は、あるいて7、8分の距離だったので、毎日遊びに行った。何を語りあったのか、もうおぼえていない。しかし、椎野のおかげでいろいろな戯曲を読むことになった。
 椎野は、あまり本を読まなかった。本棚にならんでいるのは、ガリ版の台本が多く、あとは、戯曲ばかりが20冊ばかり。そのなかに「にんじん」や「ドミノ」があった。
 椎野が好きな劇作家はロシアのキルションだったが、日本の劇作家では、久保田 万太郎だった。私は、浅草の劇場で喜劇の台本めいたものを書いたことがあった。そんなことから話が合って、椎野が眼を輝かせた。
 年下の私が、戯曲にかぎらず、いろいろなジャンルの本を読んでいると知って、何かわからないことがあると私に聞くようになった。

2015/04/10(Fri)  1607
 
       【3】

 1945年8月15日。

 この日、昭和天皇みずから放送をするとしらされていた。
 私は、何も考えない少年だったから、この放送で、天皇が国民に玉砕を宣言かも知れないと思った。

 この放送は、立花邸のラジオで聞いたのだった。

 戦災のためラジオももっていない人々のため、当主の弟にあたる立花 忠保さんが、立花家の庭を開放してくれた。わざわざラジオの音量をあげてくれたので、ひろい庭先に集まった十数人が天皇の声を聞いたのだった。

 今でも、歌人、筏井 嘉一の短歌を思い出す。

   敗るるべく国敗れたる宿命の涙をぬぐふ天日のもと

 天皇の「終戦の詔勅」を聞いた瞬間の一首。
 私は、はじめて昭和天皇の肉声を聞いて驚きをおぼえた。ひどく女性的な声だったし、それまで聞いたことのない抑揚だったから。
 その驚きが先に立って、「敗るるべく国敗れたる宿命」などという考えはうかばなかった。涙も流れなかった。放送の途中で、この戦争が終わったと知って名状しがたい感情がふきあがってきた。
 戦争というものは終わるものなのか。茫然としていた。戦争が終わるなんて知らなかったなあ。
これほど悲惨な戦争が天皇の放送ひとつで終わった。あり得べからざる事態に思えた。同時に、これで戦争が終わったという歓喜がワーッと胸にこみあげてきた。

   勝敗はぜひなきものをいくさすみておのずからいづる息のふかさよ

 「おのずからいづる息のふかさ」は、私もおなじだったかも知れない。しかし、私の内部には筏井 嘉一とはまるで違った思いがあった。「勝敗はぜひなきもの」などとはまったく考えなかったし、日本がひたすら敗戦に向かってころげ落ちて行ったような気がしたのだった。

 敗戦の日、私は朝から近所の建物の強制撤去の作業にかり出されていた。空襲がはげしくなったため、まだ被害を受けていない地域では、特に指定された家屋が、緊急にとり壊されることになっていた。焼夷弾による延焼をふせぐ措置という。
 この作業には、一個分隊ほどの兵士もかり出されていた。

 戦争が終わったのだから、この作業もただちに中止されるのが当然だろう。今なら誰しもそう考えるだろう。ところが、天皇の放送を聞いたあと、作業にあたった山王二丁目の人々は、誰ひとり作業を中止しなかった。何もいわず、ただ黙々と作業をつづけた。

 戦時中の私たちは、いつも上からの命令におとなしく従う習性が身についていたのだろう。あるいは、突然の敗戦で、誰しも何も考えられなくなっていたのか。敗戦という事態にとっさに適応できず、まるで虚脱状態のまま作業に戻ったにちがいない。
 こうして無傷の邸宅が、天皇の放送かあって1時間後には引き倒されたのだった。

 この作業が終わったとき、若い兵士が私ともうひとりの少年を呼びとめた。

 「これからは、きみたちの時代だからな。がんばってくれよ」

 彼が終戦の勅語を痛恨の思いで聞いたことは疑いもない。声を殺して、涙を流し、目を赤くしながら作業をつづけたらしかった。真夏の作業なので、シャツ一枚、下は軍袴、ゲートル、軍靴だったから階級はわからない。おそらく大学在学中に召集され、下士官になったばかりで敗戦を迎えたのか。
 私は、黙って若い兵士に軽く頭をさげて、その場を離れた。涙と汗にまみれた若い兵士もそれ以上ことばを返さなかった。

 私は、このときになって、はじめて不遜な思いがふきあげてきた。
 「そうだ、戦争は終わった。これからはおれたちの時代になる」
 そんな思いが胸にあふれてきた。

2015/04/08(Wed)  1606

       【2】

 敗戦前後の時期、私は大森の山王二丁目に住んでいた。
 現在の大森駅前は、戦前とはまったく変わって、駅のすぐ前の山王神社の階段も、少し左にあった暗闇坂も消えている。もともと坂の多い地形だが、戦災をうけなかった土地も、すっかり再開発されて、マンション、アパートなどが多い。いかにも高級住宅地らしい雰囲気の街になっている。

 山王二丁目の地番は変わっていないが、明治時代に区長だった立花子爵の宏壮な屋敷のあったあたりも、すっかり変わってしまった。やはり高級マンションが立ち並び、私が親しくしていた立花 忠保さんのご子孫と思われる立花家の邸宅と、それに隣接して、多くの住宅が建てられている。

 立花邸の隣りに有名な医院があった。りっぱな門構えの豪邸だったが、このお医者さんの令嬢が「文学座」の研究生だった。
 私の友人、椎野 英之の家も山王二丁目で、歩いて7分ばかりの距離だった。

 山王二丁目に住んでいたと聞けば――誰しも高級な住宅地を連想して、私が戦時中さして生活に苦労しなかった少年と想像するだろう。
 とんでもない。

 私たちは極端に窮乏していた。それは、今でこそ苦渋にみちたものということができるが、当時は、そんなことばではすまない、その日生きるか死ぬかわからない、切実な苦しみにさらされていた。

 敗戦前後に私たちの住んだ家は西洋館だったが、連日の空襲かはげしくなったため、そこの家族が疎開して空き家になった。外見は古風で趣きのある洋館だが、内部はガタガタのお化け屋敷だった。
 戦災をうけた叔父が、たまたまこの家を見つけた。叔父は零細企業の町工場で軍用のボール箱を作る下請けで、仕事を再開しようとしていた。町工場の職人たちをかかえていた叔父の一家と、私の一家で、20人近くの共同生活だったから、まるで難民生活といってもよかった。

 父は、「石油公団」に徴用されていたし、私は勤労動員で、川崎の工場で働いていた。そこで、母は、知り合いをたよって、栃木県黒磯の奥に疎開して食料を確保することになった。妹は、埼玉県に疎開した祖母のところに移って、学業をつづけることになった。
 一家離散したのだった。

 私は着のみ着のままだった。動員先の工場で支給された作業服を着て、食事もことかく状態で、飢えて痩せこけた浮浪兒のように生きていた。

 1945年の晩春、ほとんど連日のようにアメリカ空軍の空襲がつづいていた。
 東京、渋谷、目黒が灰塵と化した直後に、横浜は、B29・500機、ロッキードP51・100機の空襲で壊滅した。いまの人たちには想像もつかない事態だと思う。
 これほど多数の巨大な爆撃機の空襲に、戦闘機が護衛についている、ということは、日本には、これを迎撃する航空戦力がまったくないことを意味する。すでに制空権を失っているとすれば、敗戦は必至と考えるべきだろう。
 ところが、大本営は、きまって損害は軽微と発表していた。(こういう隠蔽体質は、東日本大震災で、大被害をうけた福島の原子力発電所の被災状況や、放射能漏れの数値をごまかしつづけた「東京電力」にもうけつがれている。)
 そして、6月に入って、阪神地方が一日おきに大空襲でやられ、名古屋もすさまじい被害を受けた。

 敗戦前の日々、文芸科の上級生たちは三鷹の「中島飛行機」で働いていたが、この工場も壊滅したため、生き残った学生たちは、川崎で働いている私たちと下級生と合流したのだった。そのなかに、椎野 英之がいた。(椎野については、もう少しあとで書く。)

2015/04/05(Sun)  1605

        【1】

 昨年の秋、岩田 英哉という人から、思いがけない手紙をいただいた。岩田さんとは面識がない。
 少し説明が必要になる。

 岩田さんは安部 公房の熱心な研究家で、独力で安部 公房に関するリーフレット、「もぐら通信」を発行しているのだった。私は少年時代に安部 公房と親しかったので、このブログで、安部 公房の名をあげたことがあった。それに目にとめた岩田さんが、「もぐら通信」に転載したいといってきたのだった。

 私において否やはない。

 やがて「もぐら通信」に拙文が掲載された。これは、うれしいことだった。

 その後、岩田さんからまた手紙をいただいた。そのなかに――「更に安部 公房との想い出をたくさんお書きいただけないでしょうか」とあった。
 私は少し驚いた。私などがいまさら安部 公房について書くのは僣越至極、また、何か書いたところで誰も関心をもつはずがない。そう思った。
 そのとき、ふと気がついたのだが――「戦後」すぐに私が知りあった、たくさんの文学者、私と同時代の作家、評論家たちも、ほとんどが鬼籍に移っている。いまさらながら無常迅速の思いがあった。

 埴谷 雄高、野間 宏、花田 清輝などの先輩たちだけでなく、私と同世代の関根 弘、針生 一郎、いいだ もも、さらに小川 徹、森本 哲郎、矢牧 一宏までが亡くなっている。
 やはり、「戦後」すぐの安部君について少しでも書いておいたほうがいいかも知れない。そう思いはじめた。

 安部君のことを思い出しているうちに、「近代文学」の人びとをいろいろ思い出した。そればかりではなく、いろいろな時期に出会った人びと、さらには敗戦前後のことがよみがえってきて、収拾がつかなくなった。

 作家の回想というのもおこがましい。
 私の内面につぎつぎにふきあげてくる思い出を書きとめておくだけだが、時あたかも戦後70年、まだ記憶していることを気ままに書きとめてみよう。

2015/03/02(Mon)  1604
 
 最後に、「SMASH」に関係のないことを書いておく。

 今年(2014年)のエミ−賞にノミネ−トされた作品は、質のいい作品がそろっているという。
 ただし、あい変わらず、刑事ものでは「トルー・デテクティヴ」、犯罪ものでは「ブレイキング・バッド」といった作品が有力視されている。
 「トルー・デテクティヴ」は、マシュー・マコノヒ−、ウデイ・ハレルソン。
 「ブレイキング・バッド」は、ケヴィン・スペイシ−。
 いずれも主演男優賞の候補という。

 ただし、ミステリー部門で、「SHERLOCK シャーロック」が、TVムーヴィーの作品賞にノミネートされている。翻訳家の岸本 佐知子が、「SHERLOCK シャーロック」のおもしろさを教えてくれたので、私もこの作品に関心をもっている。

 授賞式に、イギリスの俳優、ベネディクト・カンバ−バッチも出席するとか。

こういう事件が表面にあらわれることは少ないが――「SMASH 2」のプロデューサーたちは、あい変わらず人気が低迷しているため、このセクハラ事件をとり入れたらしい。

 もう一つ、「SMASH」に関係のないことを書いておく。

 これは、2013年1月、ロシアで起きた「ボリショイ・バレエ」の芸術監督、セルゲイ・フィーリンが、ダンサーの、ドミトリチェンコに襲われて、硫酸を顔にかけられた事件を思わせる。これは、アメリカでもヨーロッパでも大きく報道されて、一般人の耳目を聳動させた事件だった。 
 「ボリショイ・バレエ団」のプリマだったアンジェリーナ・ボロンソワが、芸術監督にうとまれ、「白鳥の湖」の主役から下ろされ、それ以後、全てのレパートリーからはずされるという、ひどい冷遇を受けた。捜査関係者たちは、アンジェリーナが、ドミトリチェンコに芸術監督、セルゲイへの復讐を依頼したのではないかと疑った。

 この事件の背景に――
 「ボリショイ・バレエ」の芸術監督、セルゲイ・フィーリン自身も、一流のバレー・ダンサーだったが、数年前に、まだ「バレエ学校」で修行中の若いアンジェリーナ・ボロンソワに目をつけた。自分の「バレエ団」に入団させるという口実で、肉体関係を要求したが、アンジェリーナは拒否した。やがて、アンジェリーナは、「ボリショイ・バレエ」で、頭角をあらわす。

 一方、セルゲイ・フィーリンも、バレーの現場から引退したが、「ボリショイ・バレエ」の芸術監督に就任した。彼は、「ボリショイ・バレエ」の改革をめざして、アンジェリーナの役をつぎつぎにアンジェリーナの同僚バレリーナ、オルガ・スミルノワに移した。

 それまでアンジェリーナの「持ち役」だった「白鳥の湖」も、オルガに奪われた。

 この事件の審理がつづけられるなかで、オルガはセルゲイと肉体関係をもっていたことが明るみに出る。そればかりか、ほかのプリマたち、タチアーナ・ボロチコワ、ナターリア・マリニア、マリーア・ヴィノグラードワたちが、いずれもセルゲイ・フィーリンに肉体関係を強要されたり、実際にセックスしたことが明るみに出た。

 「SMASH 2」のドラマターグ(プロット構成者)は、現実に進行しつつあるこの「ボリショイ・バレエ」事件を、さっそく利用したのかも知れない。(「ボリショイ・バレエ」事件は、13年12月結審。ドミトリチェンコは、傷害で禁固六年。犯行をそそのかしたのは、意外にも、オルガ・スミルノワと判明した。)

 いつか、「SMASH」について思い出すことがあるかも知れない。

  終わりよければすべてよし。
        (2014年8月 記す)

2015/02/27(Fri)  1603
 
「SMASH 1」の「第14話」。「ボムシォル」ボストン公演の前夜、アンジェリカ・ヒューストンが、ホテルのラウンジで「セプテンバー・ソング」を歌う。けっしてうまい歌ではないが、それでも大女優の風格といったものを感じさせた。
 「SMASH 2」でカットされたシーンの一つに、アンジェリカ・ヒューストンがシャンソンを歌う。フランス語だが、これがいい。

 「SMASH 2」で、いちばん失望したのは――ライザ・ミネリ。 

 「キャバレー」(ボブ・フォッシー監督/72年)のライザをおぼえている人は、「SMASH 2」のライザに何を感じたろうか。

 「ボムシェル」の演出が、「デレク」がおりて「トム」(クリスチャン・ボール)に交代する。上演する劇場も「ヴェラスコ劇場」にきまって、「トム」の演出が、なんとか恰好がついてくる。
 ところが、主演女優、「アイヴィー」の誕生日を忘れる。「トム」はあわてて、誕生日のビッグ・サープライズ、「アイヴィー」が尊敬する歌姫、ライザ・ミネリの歌をプレゼントする計画を考える。
 (これは「1」の「第13話」――主演女優「レベッカ」(ユマ・サーマン)が、演出家「デレク」の誕生日に「マリリン」の歌、「ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー」を歌うシーンとコントラストになる……はずだったが。)
 「アイヴィー」は、その晩、親しい仲間とパーテイーをする予定で、「トム」をオミットしている。

 「トム」と「アイヴィー」が食事しているレストランに、ライザ・ミネリが姿をあらわす。驚いた。ライザ・ミネリは、整形手術のせいで表情が死んでいるばかりか、声に問題があった。

 「SMASH I」のゲスト・スター、まだ未成年のニック・ジョナスが、ドラマにうまくからんでいたのに、「2」では、「ヴェロニカ」(ジェニファー・ハドソン)もドラマの途中で消えてしまうし、ライザ・ミネリはお義理で出てきたようなものだった。

 私は、ライザにあわれを催した。整形手術による表情、雰囲気の違いを考えても、年齢を重ねてきた女優の内面の美しさなど、どこにもなかった。
 もともと、「アイヴィー」にささげる歌、「ラヴレター・フロム・タイムズ」の内容が空虚なものだったので、その空虚にライザ・ミネリの衰えが重なっている。

 「SMASH 1」が、「カレン」のサクセス・ストーリーだったとすれば、「SMASH 2」は、「アイヴィー」のサクセス・ストーリー。ただし、「トニー賞」の発表といっても、まるっきり緊張もないし、サスペンスもない。それに、ブロードウェイの演劇人が集まる豪華な雰囲気もない。
 最後に、「カレン」と「アイヴィー」のデュエットを含むダンス・シーンで、おしまい。世はすべてこともなし。めでたしめでたし。あきれた。

2015/02/24(Tue)  1602
 
 「SMASH 1」「2」をあわせて、私の好きなシーンをあげておこう。

 ブロードウェイで、長年、下積みのコーラスガールをやっている「アイヴィー」(メーガン・ヒルティー)は、「シューバート劇場」でアンサンブルのひとり。舞台に出る前にクスリを飲んでハイになる。
 そのため、舞台でころんで、その場でクビになる。
 劇場を飛び出した「アイヴィー」を、「カレン」(キャサリン・マクフィー)が追う。

 ブロードウェイの雑踏のなかで、日頃はライバルで仲のわるい二人が、歩きながら酒を飲む。すっかりほろ酔い気分の「カレン」は町角でキーボードを弾いている大道芸人に寄って行って、その曲を歌う。途中で「アイヴィー」に歌わせる。ふたりは「最悪の週末に乾杯 お酒で祝おう」と歌う。二人の歌にあわせて踊りだす通行人たちもいる。
 これが私の好きなシーン。「SMASH 1」「第9話」。


 「SMASH 2」は、クリスチャン・ボールの比重がましている。「1」でも、ボストンのトライ・アウトの朝、あたらしいショーをむかえる歓喜を歌う。これはすばらしい。「2」では、ハリウッド・スター、「マリリン」を空港でむかえる各国のジャーナリスト全員をクリスチャン・ボールが独演する。たいへんな才能だと思う。

 教会で「サム」(レズリー・オドム・ジュニア)が聖歌を歌って、途中から「カレン」(キャサリン・マクフィー)が交代するシーン。
 この、キャサリンの聖歌もすばらしい。

 「SMASH 2」は、このドラマらしい最終回をむかえる。
 華やかな授賞の式次第がつづく。
 クリスタ・ロドリゲス、キャサリン・マクフィー、ジェレミー・ジョーダン、レズリー・オドム・ジュニアが、「ヒット・リスト」のテーマを歌う。
 ブロードウェイ讃歌。

 そして、最後に、キャサリン・マクフィー、メーガン・ヒルティーのデュエット。
 終わりよければすべてよし。

 ジョシュア・サフラン自身が「最終話」の脚本を担当していることも、マイクル・モリスの演出だったこともおもしろい。

2015/02/17(Tue)  1601
 
 夜が明けようとしている。

 前日、「カレン」ときっぱり別れたはずの「ジミー」が、前非を悔いて「カレン」の部屋にいそぐ。謝罪しようとして、「カレン」の部屋から「デレク」が出てくるのに気がつく。「ジミー」はそのまま失踪する。じつは、この時点で、「ジミー」の親友、「ヒット・リスト」の原作者「カイル」は事故死している。
 ブロードウェイの、「ボムシェル」公演は成功するが、作詞/作曲の「トム」/「ジュリア」は、新作「華麗なるギャツビー」ミュージカル化をめぐってついにチーム解消に追い込まれる。
 演出家の「デレク」は「カイル」の死で全員が士気喪失したため、「ヒット・リスト」の公演中止を考える。しかし、劇場の外では観客が列を作っている。いそいでコンサート形式で上演しようとするところに、主演の「ジミー」が戻ってくる。そこで、急遽、舞台は初日を迎える。

 「SMASH 2」の後半は、ドラマターグの「ピ−タ−・ギルマン」を「消したり」、「デレク」のセクシュアル・ハラスメントや、「ジュリア」が15年も昔の相手、「スコット」のために、ドラマターグをつとめる。「ジミー」の失踪。「カイル」の事故死。
 こうなると、それぞれの回のシナリオが、話の「つじつま」(coerenza)あわせに狂奔しているといっていい。     

 悲劇的なシーンの感動をつよめるためにユーモラスなシーンを並べるのは、コントラストをつよめるためだが、「SMASH 2」は、映画スター、「テリ−・フォールズ」を軽薄に描くことで、いかにもブロードウェイのハリウッド風刺や、最後の「トム」の、「トニー賞」審査員相手のワインさわぎ。愚劣なファルス。
 「ボムシェル」公演が成功し、「ヒット・リスト」とならんで「トニー賞」にノミネートされる。このとき、作曲=演出家の「トム」は、審査員のひとり「パトリック・ディロン」にワインを贈る。これが選考に手心をくわえさせる行為と見なされれば、「ボムシェル」は選考から外される。
 そこで、「トム」は、あわてて、ワインをとり戻そうとする。
 「第15話」に、こういう笑えない笑劇(ファルス)が出てくる。

 ストーリーの「組み立て」も粗雑になって、メイン・キャラクターが雪崩をうってエンディングめざして走っているようだ。

演出家の「デレク」は、「ヒット・リスト」であたらしい女優、「デイジー・パーカー」(マラ・ダヴィ)を起用するが、彼女は「デレク」をセクハラで窮地に追い込んだひとり。不審に思った「カレン」の追求で、「デレク」は脅迫されていると白状する。
 一方、「ボムシェル」で成功した「アイヴィー」は、スターの仲間入りを果たすが、ストリッパーの役で。彼女は抵抗するが、けっきょく歌うことになる。スターになった「アイヴィー」は「カレン」と仲直りするが、すぐにまた対立する。しかも、「ボムシェル」が成功したばかりなのに、妊娠していることを知らされる。
 「SMASH 2」も、ただひたすらエンディングに向かっている。残すところ、あと2回。どうして、こんなにつまらないドラマになってしまったのか。今回は、キャサリン・マクフィーがいい歌を歌っているのでなんとか見られる。
ジョシュア・サフラン自身が「第14話」の脚本を担当している。演出が、マイケル・モリスだったことも記憶しておこう。理由は――ここではふれない。

 プロデューサー、ジョシュア・サフランは、「カイル」追悼でこのドラマの最後の収束をはかった。「カイル」追悼が、そのまま「SMASH 2」へのトリュービュートであるかのように。

 夜が明けようとしている。
 深夜にソチ・オリンピックの開会式を見たうえ、「SMASH 2」を見たため、4時過ぎにもう一度、ベッドにもぐり込んだっけ。

2015/02/14(Sat)  1600

 演出家の「デレク」が、意見の対立から「ボムシェル」の演出を降りたため、「カレン」も「ボムシェル」出演を断念する。そして、まるっきり無名の作詞家・作曲家による「ヒット・リスト」の上演に協力することになる。
 やがて、「デレク」は「ヒット・リスト」を「フリンジ演劇祭」で上演する決心をする。

 「ヒット・リスト」が、尖鋭(エッジー)なミュージカルなのに対して、フランスの古典、「危険な関係」を出してきた。「SMASH 2」の、ブロ−ドウェイ風刺が鮮明にあらわれる。
 「危険な関係」の「セシール」は「ヴァルモン」によって妊娠する。その「セシール」を演じる「アイヴィー」の「運命」にかかわる伏線だが、このなかで、ミーガン・ヒルティーのオペレッタふうの歌がすばらしい。
 この女優さんは、「SMASH 2」で、それまでの唱法よりも、もっと変幻自在な、いわば「オペラ・ブッファ」まで歌いきってしまう。これなら、「セシール」で、「トニー賞をもらってもいい。(むろん、このドラマでの話だが。)

 ただし、「危険な関係」がフロップするのは当然で、ドラマの重心が、大きな変化を起こす。「アイリーン」と、「ニューヨーク・タイムズ」の記者のロマンシングや、巡業から「ボムシェル」に復帰しようとする「サム」(レズリー・オドム・ジュニア)と「トム」の破綻、「ヒット・リスト」の「カレン」と「ジミー」、「デレク」の三角関係などがからむ。そして、「ヒット・リスト」の原作者「カイル」の事故死。

 それぞれが、落ちつかない展開で、「SMASH 2」全体の緊張は低く、盛り上がりを見せないまま、ラスト・スパートにむかって行く。

2015/02/11(Wed)  1599
 
 「ジュリア」の脚本(ボストン公演)の弱点をカヴァ−するために「ピ−タ−・ギルマン」(ダニエル・サンジャタ)というドラマタ−グが登場する。ドラマタ−グというのは、他人の脚本に手を入れたり、弱い部分をカットしたり、必要とあれば自分が書き直す。上演の場合、ドラマタ−グの名が出ることはない。いわば、影武者のような存在。
 「ピ−タ−・ギルマン」自身が書いた戯曲は1編だけ。「自分には、いい脚本を書く才能はない。しかし、人に教える才能はある」という。ニュ−ヨ−ク大の演劇科で講義しながら、ブロ−ドウェイの有名作品の多くのドラマタ−グをつとめた人物。ダニエルという俳優はなかなか魅力があって、「イヤ−ゴ−」をやったらぴったりという役者。ウディ・アレンの映画にも出ていた。
 ただし、この「ピ−タ−」は、「イヤ−ゴ−」ではなく、ブロードウェイの脚本家も、お互いに足をひっぱるのではなく、協力すべきだという理想的なキャラクターに「変身」する。

 このドラマタ−グの起用にも、おそらくもう一つ別の理由がある。

 「SMASH 2」のショー・ランナー、ジョシュア・サフランは、「1」の「マリリン」像を徹底的に否定する。「ピ−タ−・ギルマン」の「ジュリア」脚本の改訂の目的は――テレサ・リューベックの「SMASH 1」の全否定という、すさまじい結果になった。

 「ピ−タ−・ギルマン」の行動はジョシュア・サフランのテレサ・リューベック批判のあらわれと見える。

 「SMASH 2」の、大きな特徴は、「2」のプロデーサーズが「1」のプロデューサーズより圧倒的にふえていること。つまり、あたらしいプロデーサーズを多数起用することでもとのプロデューサーズ、ジム・コーリーズ、マーク・シャイマン、スコット・ウィットマン、ノレイグ・ゼダン、ニール・メロン、ダリル・フランク、ダスティン・ファルヴェイなどの位置を相対的に低くする。しかも、それぞれのストーリーに別々に多数の女性脚本家を起用していること。

 「2」全17話の脚本家は、男性が(ショーランナーの)ジョシュア・サフランをふくめて4名。
 これに対して、女性の脚本家は、共作をふくめて8名。
 単純にいって、1:2の比率で女性のほうが多い。

 ジュリア・ブラウネルが、3回(第6話/第11話/第15話)
 イライザ・ズリッキイが、2回(第2話/第10話)
 ジュリア・ロッテンバーグが、2回(第2話/第10話)
 ベッキイ・モードが、2回(第7話/第13話)
 バテシバ・ドーランと、ノエル・ヴァルディヴィアが、それぞれ1回づつ。

 おそらく――「第5話」あたりで、視聴率が低いまま低迷している「SMASH 2」のブラッシュアップを考えはじめたのではないかと思われる。
 その結果、「ピ−タ−・ギルマン」の登場は、「ボムシェル」脚本の改訂で、「最高の傑作」までたどりつく。その結果、「ピ−タ−・ギルマン」は、「シルヴィア」の急場を救う「ブロテュース」(「ヴェローナの2紳士)よろしく、まったくの善意の人に変身してdrama から消えてしまう。「ヴェロニカ」(ジェニファー・ハドソン)が消えてしまうのとおなじように。
 「SMASH 2」の低迷で――「ピ−タ−・ギルマン」の「ジュリア」脚本の改訂の「ライン」(方向性)を再考しはじめて、「ピ−タ−・ギルマン」は「イヤーゴー」ではなく、「ボムシェル」の原作を「最高の傑作」に仕立て上げる「善意の人」に変化させる。一方でフランス文学の古典、「危険な関係」のミュージカル化に、映画スター、「テリ−・フォールズ」を登場させ、その俗物ぶりを嘲笑することで、「アイヴィー」の「苦難」と「光栄」を対比する。
 この「第5話」〜「第9話」あたり、「SMASH 2」の混乱と、作戦の建て直しに右往左往している「SMASH 2」のプロデューサーズの姿が見えるような気がする。

 このあとから、各話のストーリーが、まるで断片をつなぎあわせるようなものになってくる。それぞれのシークェンスが、長編におけるキャラクターの「変化」ではなく、場あたり的な人物の「出し入れ」がめだつ。

2015/02/05(Thu)  1598
 
 「SMASH 2」のあたらしい展開のために、あたらしいキャラクター、「ヴェロニカ」(ジェニファー・ハドソン)が登場する。ジェニファーは、エミー賞を2度受けた黒人女優である。

 だが、「SMASH 2」の「ヴェロニカ」の登場には必然性がなく、当然ながら「カレン」や「アイヴィー」のドラマ、性格上の発展、変化とは関係がない。

 なぜ、ジェニファー・ハドソンが起用されたか。もとより忖度のかぎりではないが、「2」のジョシュア・サフランは――「SMASH 2」が「カレン」と「アイヴィー」ふたりの確執、嫉妬、羨望、ドラマの中でのふたりの成功と挫折だけでは成功しないと判断したはずである。

 アーティストとしてのジェニファー・ハドソンは、たいへん魅力的なミュージカル女優で、自分のナンバーを圧倒的な迫力で歌う。
 それも当然で、ジェニファーは「1」の出発とほぼ同時期に、新作「アイ・リメンバー・ミー」が大ヒットしていた。「ビルボード」で、発売1週間で16万5000枚。この年だけで、50万枚。圧倒的な数字である。デビュー・アルバムが80万だったから、たいへんな実力派といえるだろう。(映画でも、アカデミー賞の助演女優賞をとっているし、ゴールデン・グローヴ賞もさらっている。)「SMASH 2」のプロデューサーの目に、強力なリリーフと見えたに違いない。  
 だが、「SMASH 2」はジェニファー・ハドソンを起用する必然性がなかったと私は考える。
 ジェニファー・ハドソンの役、「ヴェロニカ」は、年齢的にもキャリアーとしてももはやブロードウェイという枠におさまりきれない女優なのに、いつもステージ・ママにつきまとわれて、清純な「娘役」を演じているという設定。

 「SMASH 2」の「第1話」で、「ヴェロニカ」は演出家、「デレク」に、あたらしいショーの演出を依頼する。芸術家としての自分のあたらしい面を切り開くために。
 ところが、この「ワン・ナイト・ショー」の演出にも、「ヴェロニカ」の母親がいちいち干渉してくる。
 「SMASH 2」の視聴者は――この母娘の「関係」から、「1」の「アイヴィー」と母親の「リー・コンロイ」の対立を連想するだろう。いまさら、おなじテーマを「ヴェロニカ」と母親の対立で見せられるのかとげんなりしたファンも多かったのではないだろうか。

 たしかに、ジェニファーの歌唱力はすばらしい。とくに、最初の二人の合唱――第一話「オン・ブロ−ドウェイ」のジェニファー・ハドソンの歌に、キャサリンがスキャットでフォロ−するシ−ン――では、キャサリンの歌唱力が劣っているように見える。
 ジェニファーがすばらしいだけに、観客は、当然、今後の展開にジェニファーが大きな役割を果たすものと思う。ところが、ジェニファーは、この「ワン・ナイト・ショー」の公演だけで、あとは、まったく姿を消す。「SMASH 2」の失速は、こうしたジェニファーの「設定」に大きな原因がある。

 おそらく、もっと別の理由もあったに違いない。
 ジェニファーは、数年前に個人的に大きな悲劇の渦中にあって、いたましい、陰惨な事件を経験している。このスキャンダルから脱出してブロ−ドウェイに復帰していただけに、アメリカの視聴者は――「SMASH 2」のジェニファー・ハドソンの登場に、何を見たのか。

2015/02/02(Mon)  1597
 
 ところが、「SMASH 2」では、「ボムシェル」がブロードウェイ公演にむかって順調に出発するのではなく、公演のためマフィアに資金を仰いだという密告があって、国税庁の調査が入る。このため、「ボムシェル」のブロードウェイ公演は挫折する。
 そればかりでなく、「SMASH 2」は、スキャンダルまみれになってしまう。

 「SMASH 2」では、脚本家「ジュリア」(デブラ・メッシング)は離婚する。「ボムシェル」のつぎの仕事をめぐって「トム・レヴィット」(クリスチャン・ボール)と対立する。「アイリーン」は夫の「ジェリー」の妨害で、公演の資金集めに苦労する。

 演出家の「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)は、トニ−賞女優の「ヴェロニカ」(ジェニフアー・ハドソン)の、一夜限りの公演の演出を引き受けるが、突然、女優5人にセクシュアル・ハラスメントで告訴されたり、つぎつぎに不運に見舞われる。

 「ボムシェル」から離れた「カレン」は、自分が見つけた若い作曲家「ジミー」(ジェレミー・ジョーダン)、作詞家「カイル」(アンデイ・ミータス)のチームの新作ミュージカル、「ヒット・リスト」の上演を応援する。このミュージカルの演出を「デレク」がひきうけたことから、「ヒット・リスト」はオフ・ブロードウェイで上演されることになる。

 たいていの場合、ドラマは、ショー・ランナー(全体のストーリーの流れ、登場人物の「設定」をきめる)を中心にして、それぞれのパートを脚本家(オペラのリブレティシスタ、ミュージカルの作詞家)に分担させて、脚本を仕上げて行く。その場合、それぞれの演劇観、ドラマトゥルギーの違いから、脚本家に書き直しをさせることはめずらしくない。  
 「SMASH 2」の、大きな特徴は、「2」のプロデューサーズが「1」より、圧倒的にふえていること。つまり、あたらしいプロデューサーズを多数起用していること。
 むろん、ドラマのあたらしい「展開」のために必要な措置だったかも知れない。
 だが、「2」のプロデーサーズがふえたことは――もとのプロデューサーズ、ジム・コ
ーリーズ、マーク・シャイマン、スコット・ウィットマン、クレイグ・ゼダン、ニール・メロン、ダリル・フランク、ダスティン・ファルヴェイなどの位置を相対的に低くすることにあったと見ていい。

 「SMASH 2」の、もうひとつの大きな特徴は、それぞれのストーリーに別々に多数の女性脚本家を起用していること。
 この結果、「SMASH 2」は、「1」の、あのいきいきとしたドラマとしての緊張を失ったと私は見ている。

 「1」が、はじめから好調なすべり出しで、視聴率が非常によかったために、NBCははやばやとシリーズ化を考えた。
 ほんらいなら、そのまま、テレサ・リューベックが、ひきつづいてストーリーを考えるべきところを、視聴率を維持しよう(または、もっと高めようというもくろみから)、NBCは「SMASH 2」をジョシュア・サフランに委任したと見ていい。

 「SMASH 2」失敗の責任は、「1」の制作者、テレサ・リ−ベックを降板させ、ジョシュア・サフランに交代させたNBCの幹部にある。

2015/01/27(Tue)  1596
 
 「SMASH 1」の成功は、なんといっても、登場人物の魅力の大きさによる。小説でも、芝居でも、すぐれた作品の魅力は、まず例外なく登場人物の魅力に収斂している。 ひどく単純化していえば――「SMASH 1」は、清純派の「カレン」と肉体派の「アイヴィー」のコントラストに収斂していた。
 それが、「マリリン・モンロー」の二重性に重なっていたと見ていい。

 「アイオワ」出身の「娘役」(インジェニュ−)の「カレン」に対して、「アイヴィー」は有名女優の娘ながら、長年、下積みのコ−ラスガールをやっている、いささかビッチィーな女優。ごくわかりやすいコントラストで――このふたりのライヴァル関係、ひいては価値観の対立は、「女」として、「女優」として「役」(生きかた)のなかで解決しなければならない、それぞれの愛情のありかた、豊かさ、そうした演技がどこまで出せるか、という問題にうまく重なってくる。
 単純なだけに、説得力もある設定だった。(これは、原作のガースン・ケニンの「マリリン・モンロー」がそうだし、「SMASH 1」の、ストーリー・ランナー(原案作成)のテレサ・リーベックの基本的な設定だったと見ていい。)

 「カレン」と「アイヴィー」。ふたりは何から何まで対照的で、「カレン」の無邪気さ、純粋さ。「アイヴィー」は野心的で、現実の「マリリン」が「比類ない彼女」Uncomparable She としてのエロスを併せ持っている。
 「1」(第1話)――最初のオーディションに合格した夜、「カレン」は、演出家「デレク」(ジャック・ダヴェンポ−ト)に呼び出される。「デレク」は演出だけでなくコレオグラファー(振り付け)で、「カレン」を誘惑しようとする。「カレン」は「デレク」から逃げるが、「アイヴィー」は、サシで稽古をつけようとする「デレク」と寝てしまう。

 どんな役でももらえるだけでいい。でも、「アンサンブル」という呼びかたは恰好がいいけれど、実際にはコーラス・ガールじゃないの。(「カレン」のアルバイト先の同僚(日系の女優、ジェニファー・イケダ)がいう。コーラス・ガールの世界はきびしい。 オーディションでプロデューサー、演出家の眼にとまって採用されなければ、舞台に立てない。観客の眼にとまらないほんの端役でも、全力をつくして舞台をつとめる。
 いつかスターになることを夢見て、ブロードウェイで次の舞台に期待をかける。だが、そんな奇蹟はほとんど起きない。

 日本だって、下積みの役者たちの生活は似たりよったり。私は、「SMASH」を見ながら、自分の知っている無名の役者たちの姿を思いうかべた。
 「SMASH」に関心をもったのは――ブロードウェイの下積みの役者たちの生きかたが、少しでも見えるからだった。(「SMASH」の先行作品として「フェイム」、「コーラスライン」を思い出す。「ミュージカル」を描いたミュージカルの先例として、「ア・クラス・アクト」をあげても、それほど見当違いではないだろうと思う。)

 「カレン」と「アイヴィー」は、「ボムシェル」の「アンサンブル」として、きびしい稽古に明け暮れる。
 このドラマ「1」で、カレン」と「アイヴィー」ふたりの、孤独感、嫉妬、羨望、ドラマの進行につれて募ってゆく憎しみ。それは感情の領域から――「女」としてのステータス獲得という目的にかかわってくる。

2015/01/23(Fri)  1595
 
 「SMASH」は、スティーヴン・スピルバーグ制作・総指揮のTVドラマ。2012年、NBCが放送した。日本でも少し遅れて放送され、シリ−ズ1部、2部がDVD化されている。    
 ある時期まで私はマリリン・モンローにつよい関心をもっていたので、このTVドラマを見た。ハリウッド女優、「マリリン・モンロー」の人生をミュージカル化した、TVドラマと知ったから。

 私は「SMASH」のファンになった。

 ハリウッド女優、「マリリン・モンロー」をミュージカル化するというアイディアからドラマは始まる。脚本家の「ジュリア」(デブラ・メッシング)と、作曲家、「トム」(クリスチャン・ボール)「トム・レヴィット」のチームの共同作業で、この企画は「ボムシェル」というミュージカルになってゆく。

 芝居でもミュージカルでも、舞台では何が起きるかわからない。ミュージカルの舞台化について何も知らない私たちは、「SMASH」を見て、はじめて一つの作品がブロードウェイに姿をあらわすまでのさまざまな困難や、行き違いを知ることになる。
 したがって、 このドラマは、ブロードウェイのショー・ビジネスのインサイド・ストーリー、あるいはバックステージ・ドラマと見ていい。

 プロデューサーは「アイリーン・ランド」(アンジェリカ・ヒューストン)。夫はブロードウェイの大プロデューサーだが、かつてのジーグフリードさながら、若い女優に手をつけては、舞台に立たせてやる趣味がある。「アイリーン」は夫に愛想がつきて離婚して独立するために、「ボムシェル」のプロデューサーになる。

 ミュージカルなのだから、主役をきめなければならない。その主役が「マリリン・モンロー」ともなれば、一生に一度というビッグ・チャンスになる。
 新人の「カレン・カートライト」(キャサリン・マクフィー)と、長年ブロードウェイで下積みのコ−ラスをやっている女優、「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティ)がオーディションを受ける。
 このふたりの競争が、そのままドラマの葛藤(コンフリクト)になっている。

 だが、大きな資本が投下されなければ、ミュージカルは成功しない。そのため、スター・システムが、音楽の女神の領域にも必要になる。ハリウッド女優が起用されることになって、「カレン」も「アイヴィー」も、「ボムシェル」の「アンサンブル」(コーラス・ガール)になってしまう。

 ミュージカル「ボムシェル」は、ブロードウェイで上演される前の、ボストンでの試演(トライ・アウト)にまでこぎつける。だが、主役の「マリリン」をめぐって最後の最後までもつれ、ボストン公演では、ぎりぎりになって「カレン」が抜擢される。これが「SMASH 1」のスト−リ−。全15話。

 放送開始から驚異的な視聴率で、「SMASH」は、すぐに続編の制作が決定したという。

 「SMASH 1」のラスト、ボストン公演にみなぎっていた、ミュージカル上演までの緊張感、いきいきとしたドラマとしての緊張は――「SMASH 2」では、最初から消えていた。なぜなのか。

2015/01/21(Wed)  1594
 
 「人生相談」。
            
 50代働く女性。夫も子どももいます。60代男性との交際に悩んでいます。
 その男性とは、20代で知り合って、今までは5人程度で食事をする「グループ交際」でした。4か月ほど前に「2人だけでのみに行こう」と誘われ、深い仲になってしまいました。
 彼にも妻子がいます。夫とはセックスレスで、この7年間一度もしていません。彼とキスしたいのが正直な気持ちです。「夫にばれたらどうしよう」というスリリングな関係でドキドキです。
 彼のことも夫のことも好きです。彼と別れたくない一方で、自分の夫と家庭も大切にしたい。彼にも家庭を大切にしてほしいです。
 2人でお茶までは許されますか。彼と話し合って、「肉体関係はやめましょう」「キスまではOKです」と、お付き合いの内容を相談した方が良いでしょうか。気持ちが揺れていて不安定です。行き場のない恋心で自分はどうしたらいいのでしょう。 (U子)

 以下は、ある精神科医の「回答」。

   「彼も夫も好きです」「家庭は壊したくない」「彼とは別れたくない」とめんめん
   とつづられています。二つの愛の間で揺れ動くという図式なんですけど、非常に単
   純化して言えば、「バレないように浮気を続けるにはどうしたら良いですか?」と
   いう問いかけですよね、これは。
   「結局あなたは自分に都合の良いようにしか考えていない」と言う声も聞こえて来
   そうですが、この背景に夫のセックスレス等の事情がありそうだし、倫理的にどう
   こう、と言う話にもっていく気はありません。
   「このままだと危ないことになる」というリスク論の見地から考えるべきです。
   ここであなたは「条件付き交際なら許されるのか?」という提案もされていますが、
   そもそも2人で会うこと自体すでに浮気だし、「これなら許容範囲」という勝手
   な思い込みで気が緩んで、かえって発覚の危険が高まりかねない。
   それでも彼と会い続けたいと言うなら、バレた時にどうするつもりか、そこまでち
   ゃんと考えておかねばなりますまい。あなたにその時の覚悟がないようなら、ここ
   では大やけどの前に引くのが大人の判断かと。

 以下は、私の考え。

 「このままだと危ないことになる」ということは、きみも予感している。バレた時にどうするつもりか、そこまでちゃんと考えて、不倫に走るほど、きみは功利的、かつ理性的な女性ではない。はじめからそんなことまで考えて誰が不倫な恋をするものか。

 ごく普通の主婦として生きてきた女性が、思いがけない恋にうろたえながら、どこかで「夫にばれたらどうしよう、というスリル」に陶酔していることに気がつく。この悩みを他人に相談していることにもその喜びはあらわれている。

 私は、この女性に二つのことを助言する。

 一つ。この「恋」は誰にも知られてはならない。

 夫とは7年もセックスレスという。理由はわからないが、夫がすでにきみを性的な対象として見ていないことはたしかだろう。それを、きみは屈辱とは考えなかった。だが、女としての痛みはあったはずである。その痛みがセックスという磁場で癒されるとすれば、この「恋」があまやかに思われるのは当然だろう。

 この「恋」は、誰にも知られてはならない。相手には、そのことをはっきりつたえておくこと。「彼と別れたくない一方で、自分の夫と家庭も大切にしたい。彼にも家庭を大切にしてほしい」。そのことはぜったいにつたえておくこと。

 ただし、私は危惧している。――この「恋」はいずれバレるだろうと思う。きみの文章を読むと、ごく平凡な主婦の「よろめき」としか見えない。これでは、バレても当然だろう。
 バレた場合、徹底的にシラをきること。自分が不倫に走ったなど考える必要はない。しおらしく、おのれの前非を悔いて涙をながしたり、うろたえて、家族の非難を浴びたり、相手の家族まで巻き込むようなまねはするな。
 私の考えが世間の常識にそぐわないことは重々承知している。だが、私は、「あなたは自分に都合の良いようにしか考えていない」女性だからこそ、あくまでシラをきるように忠告する。きみ一人が不幸になるのはいい。だが、きみ以外の人を傷つけてはならない。

2015/01/11(Sun)  1593
 
 滝沢馬琴の硯塚、筆塚も行って見た。青雲寺。かつては花見寺とも呼ばれた名刹(めいさつ)。広重や、「江戸名所図絵」にも描かれた“花”の名所という。むろん、そんなおもかげもない。

 境内には馬琴の碑ばかりではなく、船繋ぎの松の碑、狂歌の安井甘露庵の碑などもある。
 甘露庵はへたな狂歌だが、それでも江戸の風景が眼に浮かぶ。
  
    「雲と雪と五分五分に見える山桜もう一寸も目をはなされじ」

 ついでに、作家の山東京伝の墓。墓は両国の回向院。弟の京山が建てたもの。京山も作家。
 山東京伝、本名、岩瀬醒(さむる)。名前がいい。醒めているのだから。江戸城、紅葉山の東に住んでいて「山東」、京橋南伝馬町に住んでいたから「京伝」。
 京山、名は岩瀬百樹(ももき)、あざなは鉄梅。執筆堂として知られている。安政五年、当時のおそろしい流行病、コロリ(コレラ)にかかって亡くなった。   
 境内には、大相撲ゆかりの力塚の碑や大火の石塔、安政の大地震の碑がある。もっとも、ネズミ小僧次郎吉の墓のほうがよく知られている。また、寛政五年に建てられた水子塚がある。

 西日暮里、養福寺、真言宗・豊山派。山崎 北華の墓がある。号は、不量軒、無思庵、捨楽斎、確蓮坊、世に隠れて自堕落先生と称した。その碑銘にいわく、
 「若年ニシテ諸芸学トイエドモ不極心ニ欲ルホド於テ足リヌトシテ書ヲ読メドモ解スル事ヲセズ是故ニ無学ニシテ無能ナリ」と。
 境内に、西鶴の百回忌にちなんだ梅翁花樽の碑。発起人、谷素外。左右に雪と月の碑。

 浅草聖堂と称する誠向山正法寺。「都内で初めての近代的な屋内型墓所の聖堂」という愚劣寺。蔦屋十三郎の墓。石川雅望、太田南畝の達意の名文章。

 橋場には平賀源内の墓。
 晩年の句に源内の自嘲がひびいている。

    功ならず名ばかり遂げて年暮れぬ

 私は、いつも若い友人のようすをうかがって彼の体調を気にしていた。彼が、ときどきからだの痛みに顔をしかめるようになって、散歩どころではなくなったのはしばらくあとのことだった。

2015/01/06(Tue)  1592
 
 ずいぶん前に書いたのだが、ある時期,江戸文人のお墓まいりをしたことがある。
 掃苔の趣味がないので、私のお墓まいりにはさしたる理由もない。

 いつもいっしょに登山をしていた若い友人が、不治の病にかかって、登山どころではなくなった。夫人の希望で、その病気のことは最後まで本人には伏せたので、私としては残された時間をできるだけ友人たちといっしょにすごしてほしい、と思った。友人に、あまり負担をかけないでできること。私の考えたのは「江戸の文学散歩」という名目だった。

 私の周囲にいた女性たちにも声をかけた。むろん、彼女たちにも彼の病気のことは伏せたのだが。 

 若い友人は山の手生まれ。優秀な人物だったが、下町のことは何も知らなかった。彼の登山スタイルも、はじめは北アルプスだけが目標といったタイプだったが、私といっしょに、地図にル一トも出ていないような無名の山に登るようになった。
 最後には、わざわざ誰も登らない滝を「発見」して、むずかしいル−トに何度も挑戦するようになった。 

 私が「江戸の文学散歩」で選んだのは、まず、葛飾北斎の墓だった。台東区西浅草4・6・9 浄土宗・誓教寺にある。
 北斎、姓は中島。名は時太郎、のちに鉄蔵という。号は春朗、宗理、可侯、画狂人、卍翁など、じつに三十あまりもあるという。
 つぎに浅草六丁目、遍照院。北斎、終焉の地であった。
     

2015/01/03(Sat)  1591
 
もう,誰の記憶にも残っていないだろうからここに書いておく。

 日本のどこかに玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の墓がある。  
 いうまでもなく、「西遊記」の三蔵法師。三蔵法師なら,誰でも知っているだろう。そんなえらいお坊さんのお墓にいつか詣でてみたいと念願してきた。 
 しかし、その願いはついに果たせなかった。          

    玄奘三蔵は、長安に葬られたが、のちに宋の時代、南京に移されたという。
    日中戦争の際に偶然、発掘され、当時,日本に協力した汪兆銘が改葬した。
    このとき、遺骨の一部が日本に贈られた。日本側は上野の寛永寺で霊骨恭迎法要
    をいとなんだのち、長安の大慈恩寺にちなんで、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安し
    た。ときに、一九四四年(昭和十九年)十二月二十三日。

 埼玉県岩槻市なら,少し足を伸ばせば行けない距離ではない。いつでも行ける。いつか行って見よう。そう思いながら、いつしか忘れてしまった。 
 残念ながら、今の私には岩槻に行く気力、体力がない。

 埼玉県在住のどなたか、いつか三蔵法師のお墓まいりをして頂けないだろうか。

2014/12/28(Sun)  1590
 
 閑院宮 載仁の記事から、まるっきり別のことを思い出した。
 
 小学校4年だったろうか。ある日、全校生徒が学校の外に整列させられた。皇族のお一人が軍の閲兵に参加するので謹んで送迎せよ、という達示があったらしい。この皇族が、元帥、閑院宮 載仁だった。 
 小学生たちは,受け持ちの先生に引率されて、ゾロゾロ校外に出て、ご一行さまが通過する沿道に並んだ。

 お召しの乗用車が通過するときは、号令で、ふかぶかと頭をさげなければならない。その際、けっして眼をあげて、お顔を見てはいけないという。

 小学生たちにとっては、退屈な行事だった。路上に並ばされたのも退屈だったし、その間、私語も禁止されていたから。みんなモジモジしながら、並んでいた。
  
 なかなか閑院宮ご一行さまの車はこなかった。1時間以上も日ざかりの沿道に整列したまま、お互いに口もきかずに、見ず知らずの皇族のお一人のお通りを待つのは、小学生には苦痛だった。列のあちこちで、低い話声が起きたり、女の子からオシッコに行きたいという声があがりはじめた。担任の先生があわてふためいて、その女の子を抱くようにしてどこかにつれていったりした。 

 しばらくして、遠方に動きが起きはじめた。明らかに緊張がひろがっている。遠くから,つぎつぎに号令の声が伝えられて、その列の人々が頭を下げるのだった。
 まるで何かの波動が伝わるように、私たち小学生たちにも、緊張した空気が走って、
 「敬礼!」
 という号令が聞こえた。

 私たちは深く頭をたれた。

 私たちから、15メ−トルばかりの距離を先導の車が通過してゆく。頭を下げているので何も見えない。しかし、車が通過していることはわかった。
 しばらくして、私は少し頭をあげた。
 私の前を車が通過してゆく。その車に、軍服を着た白髯の老人が端座していた。

 フ−ン、あのヒゲジイサンが閑院宮殿下なのか。小学生は思った。
 車はそのままのスピ−ドで粛々と走り去った。
 それだけのことである。

 閑院宮 載仁の日記の記事から、少年の見たオジイサンの風貌を思い出した。
 戦前の天皇制国家の軍国主義のささやかなエピソ−ド。

2014/12/17(Wed)  1589
 
 閑院宮 載仁(かんいんのみや ことひと)親王という皇族がいた。
 陸軍元帥(げんすい)だった皇族。軍人として最高位にあった。
 日清・日露の戦争に従軍。1931〜40年には、参謀総長をつとめた。

 1921年3〜9月、当時、皇太子がヨ−ロッパ諸国を歴訪したとき、その補佐をつとめた。この皇太子がのちの昭和天皇である。

 第一次大戦が終ったばかりで、戦争の記憶もなまなましく残っていた時期である。
 載仁(ことひと)親王は、激戦地、ヴェルダン、ソンムの戦跡を視察した。親王を案内したのは、フランス軍の最高指令官、ペタン元帥だったという。
 閑院宮はその印象を日記に書いた。(14.6.4.「読売」)
     
     糧食、水等つきて小便までも呑んで抵抗せしも、ついに力尽きて降参せしと云
     ふ。村落の如きも全部なき所あり。実に悲惨なる実況なり。  

 私はこの「日記」をぜひ拝見したいと思う。

 若き日の閑院宮 載仁は、フランスのサンシ−ル陸軍士官学校で学んだはずである。
 日本の若い皇太子を案内したペタン元帥と閑院宮は何を語りあったのか。あるいはヴェ
ルダン、ソンムの戦跡を見て閑院宮は何を学んだのか。

 はるか後年、4半世紀後に、ペタン元帥は、フランスの国民裁判にかけられた。
 そして、1945年8月15日、すなわち日本敗戦の日、ペタンは死刑を宣告された。だが、かつて直属の部下だったシャルル・ドゴ−ルによって死一等を減ぜられ、終身刑に変更された。
 その日、敗戦の直後、連合軍の指令で、閑院宮 載仁も、A級戦犯として訴追されたはずだが、本人をはじめ日本人は、閑院宮がA級戦犯として訴追されるとは誰ひとり予想もしなかったはずである。

 日本の近代史を見ていると、閑院宮 載仁や、外国での見聞に不足のなかったはずの海軍元帥、伏見宮 博恭(ふしみのみや ひろやす)などが、なぜもっと別な形で昭和天皇を補佐できなかったのか、私は今でも疑問に思っている。

2014/12/10(Wed)  1588
 
 マリア・マクサコワ。 
 マリインスキー劇場のソリストという。これだけでも実力は想像できるのだが、ファッション・モデル、TVの司会者、国会議員という。昔のソ連なら、さしづめ「人民芸術家」というところだろう。

 スラヴ的な美貌。亜麻色の髪、眼に独特の魅力がある。真紅のドレス。金のアクセサリ−、手首の金環が、エグソテイックな雰囲気をかもし出す。

 マリア・マクサコワは、前日(6月3日)、東京の「芸術劇場」が、トゥアーの初日だった。マリインスキー劇場のソリストが、はじめての東京で何を感じたのか。むろん、憶測のかぎりではない。千葉の公演は翌日だった。
 たいていの芝居の公演でも、初日の舞台と二日目では、二日目になるとどうしてもトーンダウンする。私は、マクサコワの初日を見たわけではない。マクサコワ初日の規模の大きな「芸術劇場」と、千葉の小さなホールでは、キャパシティー、照明、音の効果、すべてが違っている。 
 マリインスキー劇場のソリストなら、異国の劇場で失敗するはずもない。しかし、旅の疲労もあるだろうし、初日の緊張はあったかも知れない。
 しかし、東京の初日が成功したこともあって、翌日の千葉の公演では、マリア自身がリラックスしてこのトゥアーを楽しんでいるのではないか、と想像した。
 
 マリア・マクサコワのレパートリー。      
 第一部では、「ラ・フヴォリータ」の「レオノーラ」のアリア。ビゼーの「カルメン」から「ハバネラ」。チャイコフスキーのオペラ、「オルレアンの少女」から、ジャンヌのアリア。マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」から「サントゥッツァ」のアリア。
 マリア・マクサコワに、私は感動した。圧倒的にすばらしい。

 私たちの知っている曲ばかり。
 日本人におもねりすぎることのない、ごくまっとうな選曲で、バランスがいい。客席の反応もよかった。

 私は「ハバネラ」を聞いて、マリア・ユーイングを思い浮かべ、「サントゥッツァ」から、シャーリー・ヴァッシーを思い出した。
 率直な印象だが、「ハバネラ」はごく普通のでき。だが、「サントゥッツァ」は素晴らしい。

 残念ながら、私は、ロシアのオペラについてはほとんど知らない。私が聞いたのは、せいぜいヴィシネフスカヤ、ピサレンコ、リューバ・カザルノフスカヤ、マリア・グレギナ。あとはユリア・サモイロヴァ程度。
 ほんとうに残念ながら、日本でロシアのオペラを聞く機会はほとんどない。 

 ロシアに行ったとき、芝居とバレエは見たのだが、オペラを見る機会はなかった。

 私のご贔屓はリューバ・カザルノフスカヤだった。 
 彼女は、旧ソヴィエトの末期に登場したディーヴァで、私は彼女の仕事をずっと追いかけてきた。旧ソヴィエトが崩壊したあと、東京で「サロメ」をコンサート形式でやったとき、オペラ好きの教え子たちを誘って聞きにいった。このコンサートは今も忘れられない。
 リューバはその日,東京について,すぐにコンサート会場に向かったため、疲れきっていたのかもしれない。
 しかし、彼女はまったく混乱したり、自信をうしなったり、いらだたしい気分を見せなかった。困難な時代に喘いでいるロシアのために歌っている誇りを見せていた。

 マリア・グレギナの東京公演も見に行ったが、これはゼフィレッリの「演出」に関心があったためで、グレギナについてはただ感心しただけ。
 ようするに私はロシアのオペラについて語る資格がない。

 だが、マリア・マクサコワの歌とマラジョージヌイ室内オーケストラの演奏を心から楽しんだのだった。

2014/12/07(Sun)  1587
 
 この夏、来日したロシアのオペラ・シンガーのコンサート。

 6月3日、「東京芸術劇場」で初日。翌日、千葉、「文化プラザ」のコンサート。
 ロシアのマリア・マクサコワ。

 演奏は、ヴァレリー・ヴォロナの指揮するモスクワの「モスクヴィスキー・マラジョージヌイ室内オーケストラ」。
 ヴァレリー・ヴォロナはもともとヴァイオリニストで、この室内オーケストラの、芸術監督、首席指揮者という。メンバーは若い人ばかりだった。

 唐突でヤボな話だが――人並みに、旧ソヴィエトの芸術家に関心を持ってきた私は、この「室内オーケストラ」の演奏を聞いて、スターリンの独裁や、愚劣な社会主義リアリズムの理論や、NKVD(秘密警察)のきびしい監視を知らない芸術家が育っていることを実感した。
 特にシロフォンの演奏をした若者の、それこそアクロバテイックな技巧に驚嘆した。残念なことに名前がわからなかった。)

 つい20年前までなら――この「室内オーケストラ」の演奏に対して、たちまち、「はたしてソヴィエト芸術とソヴィエト大衆にこのような「室内オーケストラ」が必要だろうか。」などという愚劣な批判が浴びせられたに違いない。
 私の世代は、多少なりともソヴィエト式芸術論の高飛車で、紋切り型の口調を知っているだけに、音楽、絵画、演劇、バレエなどの新しい創造にたいして、いつもおなじ口調で、はげしい非難を浴びせたバカどものことを思い出す。

 私は、「マラジョージヌイ」の若い人たちの演奏に、いきいきとしたロシアの「現在」を見届けたような気がした。
 こういい直そうか。マラジョージヌイ室内オーケストラの演奏にこそ、あたらしいロシアの「声」が響いている、と。
 
 おなじ意味で、マリア・マクサコワの歌に心から感動した。
 旧ソヴィエト時代の芸術には見られない、のびやかな表現がマリア・マクサコワの歌にみなぎっていたからである。

2014/11/18(Tue)  1586
 
 こんな事件があった。
    
 2013年1月、ロシア。   
 「ボリショイ・バレエ」の芸術監督、セルゲイ・フィーリンが、ダンサーの、ドミトリチェンコに襲われて、硫酸を顔にかけられた。この事件は、アメリカでもヨーロッパでも大きく報道されて、一般人の耳目を聳動させた事件だった。
 
 事件の背景に何があったのか。
 「ボリショイ・バレエ団」のプリマだったアンジェリーナ・ボロンソワが、芸術監督にうとまれ、「白鳥の湖」の主役から下ろされ、それ以後、すべてのレパートリーからはずされたという。事実とすれば、パワ−・ハラスメントだろう。

 捜査関係者たちは、アンジェリーナが、ダンサーのドミトリチェンコに、芸術監督、セルゲイへの復讐を依頼したのではないかと疑ったらしい。

 この事件を小説化するとして――

 芸術監督、セルゲイ・フィーリン自身が、かつては一流のバレー・ダンサーで、数年前、当時はまだ「バレエ学校」で修行中の若いアンジェリーナ・ボロンソワに目をつけた。
 セルゲイは、自分の「バレエ団」に入団させるという口実で、肉体関係を要求したが、アンジェリーナは拒否した。
 やがて、アンジェリーナは、「ボリショイ・バレエ」で、頭角をあらわす。

 一方、バレエの現場から引退したセルゲイ・フィーリンは、当然のように、「ボリショイ・バレエ」の芸術監督に就任した。
 セルゲイは、「ボリショイ・バレエ」の改革をめざして、アンジェリーナの役をつぎつぎにアンジェリーナの同僚バレリーナ、オルガ・スミルノワに移した。
 それまでアンジェリーナの「持ち役」だった「白鳥の湖」も、オルガに奪われた。

 この事件の審理がつづけられるなかで、オルガがセルゲイと肉体関係をもっていたことが明るみに出る。そればかりか、ほかのプリマたち、タチアーナ・ボロチコワ、ナターリア・マリニア、マリーア・ヴィノグラードワたちが、いずれもセルゲイ・フィーリンに肉体関係を強要されたり、実際にセックスしたことが明るみに出た。

 この事件を知ったとき、私はアメリカのTVドラマ、「SMASH」を見ていた。

                                   
 「SMASH 2」のドラマターグ(プロット構成者)は、現実に進行しつつあるこの「ボリショイ・バレエ」事件を、さっそく利用したのかも知れない。(「ボリショイ・バレエ」事件は、13年12月結審。ドミトリチェンコは、傷害で禁固六年。犯行をそそのかしたのは、意外にも、オルガ・スミルノワと判明した。)

2014/11/07(Fri)  1585
 
 「自分の人生のいくつかの時期に、いつまでも忘れられない、意味深いシーンがある」
  若い頃の私が書いた一節。

 「これもいつか、テレビで、ルイ・ジュヴェを見た。ぼくは学生時代から、雑誌の原稿を書きはじめたのだが、当時、「ルイ・ジュヴェに関するノート」などという、愚にもつかないエッセイを書いたほど、この俳優に関心をもっていた。いまでも、機会があったら、この偉大な俳優の評伝を書いてみたいくらいなのだが」と書いているのだった。

 それから4半世紀後に、評伝、「ルイ・ジュヴェ」を書いた。さすがに感慨なきを得なかった。

 古い雑誌をひっくり返していて、こんな文章を見つけた。

    佐藤忠男氏の「アメリカ映画論」もさることながら、中田耕治氏の「私の点鬼簿
    」、菊地章一氏の「私の昭和二十二年」は、この人たちならではのモニュメンタ
    ルなものと感銘した。中田氏は一九四七年の太宰治に触れておられるが、学生だ
    ったぼくは、一九四一年に文京区本郷千駄木町の小さな喫茶店で、何人かの二・
    三十歳台の男たちに囲まれた太宰氏を見たことがある。コ−ヒ−もそろそろ手に
    入りにくくなりはじめたころで、銭湯から下宿に帰る途中であった。菊地氏も一
    九四六年あたりの思い出をしておられる。そうしたものを読むうちに、ぼくも昔
    のことを「体験」として書いてみようかなと考えはじめた。 

 筆者は、木原 健太郎。「国立教育研究所」の名誉所員、創価大学講師。このエッセイ
は、「公評」(1997年7月号)に発表された「戦中・戦後の体験」の冒頭の部分。

 こんな短い文章でも、私には、いろいろなことどもが折り重なって押し寄せてくる。
  一九四一年の太宰治は見たことがなかったが、太宰治の作品は読みはじめていた。
 ただし、「右大臣実朝」も、「正義と微笑」も、まだ出ていなかった。だから、「新ハ
ムレット」あたりから読みはじめたような気がする。

 じつは、私はどこで「一九四七年の太宰治に触れ」たのかおぼえていない。戦後すぐに
太宰治に会える機会があったのに、生意気な私は会いに行かなかった。太宰治に関心がな
かった。太宰治には小川 茂久が会いに行った。
             
 1941年の私。私は中学生だった。この年の12月にアメリカ相手の戦争がはじまった。

2014/10/30(Thu)  1584
 
 サマセット・モームの「劇場」を読み返している。

 ヒロインは46歳になる名女優、「ジューリア」。小説のオープニングで、名女優を訪問した若者がいう。
 「ぼくが見に行ったのは、芝居そのものではなく、あなたの演技なんです」
 同席した夫の「マイケル」がいう。
 「イギリス演劇華やかなりし頃だって、大衆は、芝居を見に行ったんじゃない。役者を見に行ったんだ。ケンブルや、シドンズ夫人が何をやるか問題じゃなかった。ただ、役者を見に行くことだけが問題だった」と。

 こんな数行から、私の夢想がはてしなくひろがってゆく。

 「忠臣蔵」六段目。「早野勘平」が、帰宅する。猟着を脱いで、浅黄、羽二重に着替える。
 観客にうしろを見せて肌襦袢ひとつ。その背中に「お軽」が着物をかけてやる。袖に手を通す。「勘平」は正面をむいて前を袷、帯びをしめる。ただ、それだけの動きだが、羽左衛門(15世)のすっきり洗練されたてさばきのみごとさ。中学生の私でさえ、見ていてほれぼれとした。
 私も歌舞伎を見に行ったのではない。役者を見に行ったのだった。

 モームの「劇場」のヒロイン、名女優、「ジューリア」は、18歳で、プロデューサー(といっても、芝居に関することなら何でもこなす根っからの芝居者)「ジミー」に認められる。
 「あんたは、あらゆる要素をそなえている。背丈はよし、体格はよし、顔はゴムみたいだし」
 つまり、ゴムのように伸縮自在ということ。いまどきこんな褒めことばを聞いたら、たいていの女優さんはいやな顔をするだろう。こんなセリフひとつにも――「ジミー」の押しのふとさが見える。ニタリとしているモームの顔も。

 「とにかく、そんな面(つら)こそ、女優にゃ打ってつけなんだ。どんな表情でも見せられる。美しくさえみせられるお顔(ハス)ってもんだ。心をかすめる、ありとあらゆる感情をジカにだせる顔ときている。あのドゥーゼのもっていた面(つら)だ。昨夜のあんた、自分じゃ気がついていねえが、そいでも、きらっきらっと、セリフが表情に出ていましたぜ」

 ドゥーゼは、イタリアの名女優、「エレオノーラ・ドゥーゼ」。
 ただし、ドゥーゼが「劇場」に出てくるのは、ここだけ。 
 

2014/10/25(Sat)  1583
 
 地中海に面して、あまり観光客の寄りつかない、小さな岬にその美術館はあった。

 夜の漁港で男の子が釣りをしている。このピカソの版画は、カンヌに行く途中で見た。小さな美術館だが、ピカソの版画をたくさん展示していた。

 ピカソの版画、とくにヌードを見ながら、女子学生、Nを思い浮かべた。

 画家志望。ヌードを描きたいが、モデルがいない。女の子の誰かと交換でヌードになってもいい。ある日、Nは私に語った。
   
 Nは特定の恋人はいないけれど、あるロック・グループの男の子と寝ている。セックスの快感はふつうではないかと思う。
 ウィグが好き。ファッションも好きで気に入ったものもあるけれど、貧乏な女子学生なのでなかなか買えない。
 本はよく読む。しかし、読んでいるうちにその世界に入ってしまうので、自分でも収拾がつかなくなる。
 今はすごく幸福だけれど、そのうちに「鬱」がやってくるような気がする。落ち込むと自殺したくなる。
 「私が死んだら、先生、泣いてくれるかしら」

 Nは、私のクラスにきていた。

 当時,私は9時20分から授業をはじめるのだった。Nは欠席している。どういうものか、今朝の授業はあまりうまくいかない気がする。
 何か質問は? と水をむける。生徒たちのほうも、授業なんか聴きたくない。「先生の青春時代のことを話してください」

 こういう質問はうれしくない。
 私に青春時代などどこにもない。戦争中の勤労動員、すさまじい戦災の話など、女の子たちに聞かせても仕方がない。しかも、そんな話は何度も話しているので、自分でも話の段どりができてしまっている。それでも女の子たちは、はじめて聞く話なので、神妙な顔をして聞いてくれた。

 授業のあと、一階の「生協」の前で休んでいると、別のクラスのMが絵をもってきた。私が企画した「マリリン・モンロー展」に出品する絵だった。私は「マリリン展」に、旧知の画家、スズキ シン一と、人形作家の浜 いさをの作品を並べるつもりだった。ほかには、この美術大の女の子たちに協力してもらうつもりだったが、これに芸術学部の助手、吉永 珠子が協力してくれた。

 夕方、新宿の「伊勢丹」で「アルベール・マルケ展」を見る。
 落ちついた画風がいい。ヌードは2枚しかないが、どちらもすばらしい。この絵を見ているうちに、Nにもぜひマルケのヌードを見せてやりたいと思った。

 その半年後、Nは私のクラスに出なくなった。

2014/10/09(Thu)  1582
 
 宮 林太郎さんのことを思い出す。

 「日記」に、私あての手紙が出ている。私が送った写真の礼状の最後の部分に、

   「中田さん、ぼくが死んだときにはローソクを一本もってきてください。それに火
   をつけてください。それをぼくの一生だと思ってください。ローソクは小さいので
   も適当に。ぼくには関係ないがローソクは燃える。あのローソク、ぼくには意味が
   ないと思っていたが、あれでなかなか素晴らしい。彼は燃えるのです。それはやが
   て消えるのです。そのあいだあなたはそれを見守っていてください。まあそれぐら
   いの時間はあるでしょう。それが一人の男の人生です。燃えて消えてゆく。そいつ
   です。燃えているあいだは「七年目の浮気」もする。悪事もする。やがて消えてゆ
   きます。
    どうもぼくは説教くさくなってきた。まあ、ローソクは持ってきてください。そ
   れに火をつけてください。そこで変な俳句、
 
      一本のローソクなりし我身かな

      愚かにも燃えてつきたる我身かな

   こういうのは芭蕉も書けなかったと思います。

      木枯らしや 夢はパリを駆けめぐる       宮 林太郎 」

 今の私は、これを書いた宮 林太郎さんとほぼおなじ年齢になっている。
 こういう手紙は私には書けない。たとえ書いたとしても送るべき相手がいない。

 宮さんはほんとうに幸福な作家だったと思う。いろいろな意味で。むろん、私は宮さんを羨望しているわけではない。

 宮さんは、この手紙のあと、また私のことにふれ、発売されたばかりの雑誌「フィガロ」を私のために一冊余分に買っておいて「中田耕治さんが我が家によってくれたときに、お渡しすることにしている。パリを少しばかり中田さんにおすそわけしたいからである」と書いている。

 私は、何冊か「フィガロ」を頂戴した。宮さんが、「パリを少しばかりおすそわけして」くださる好意はうれしかったが、この雑誌で美しい肢体を見せている美女たちにまったく関心がなかった。
 たとえば、コンコルド広場の正面に建っている「クリヨン」を見て、昂奮することはない。裏通りにあって、部屋代が、数十フラン、色褪せた赤いカーテン、大きな鏡、蝋燭のほうが似合っている燭台、純白とはいえないが、いちおう白いシーツ、やたらに大きなベッド、これまた大きな姿見。そんなホテルのほうが私の好みにあう。
 「フィガロ」の美女には及びもつかないが、麿身をおびた肩、それなりにきれいなカーヴをえがく下腹部、腿から下がきゅうに細くなっていたり、洋梨のような乳房に少し疲れが見える女たち。そんな女の伝法なフランス語に、イタリアなまりを聞きつけるほうが、私にはうれしいのだった。

 しかし、今の私は、宮 林太郎さんが、貧寒な私の人生に「パリを少しばかりおすそわけして」してくださったありがたさを思う。

2014/10/05(Sun)  1581
 
 竹本 祐子の絵本、「桜の花の散る頃に」を読んだとき、私は惨憺たる敗戦前後の日々を思い出していた。「貴佑」の世代にとっては、戦争は私の世代よりももっと苦しい記憶に彩られているだろう。  
 私自身は、「学徒出陣」しなかったが、最後の第二国民兵という兵籍に編入されて、戦争の暗い記憶を心に刻みつけている世代である。

「桜の花の散る頃に」のなかに、印象的な一節がある。

    めぐりあわせで、

    運がよかったと思っても、
    結果として、ちがっていることもある。

    運がわるかったと思っても、
    よい結果にかわっていることもある。

 私は、「学徒出陣」の日、神宮外苑の大スタジアムの片隅にいた。首相、東条 英樹の肉声で、英米撃滅の激励演説を聞いた。それにつづいて、すべての大学の先輩の学生たちが、小銃を担って、降りしきる雨のなかを行進してゆく。会場をゆるがす大歓呼のなかにいて、私も声をからして、「貴佑」の世代につづくことを誓ったひとり。

 そして、桜の花の散る頃になると、私も、「貴佑」とおなじように、若くして死ななければならなかった友人たちのことを思い出す。なにしろおなじクラス50名中、26名が帰らぬ人となったのだから。

 竹本 祐子の「桜の花の散る頃に」は、私にとっても痛切な思い出が重なっている絵本だった。  (2)

☆注 竹本 祐子著、「桜の花の散る頃に」¥1600 
(郷土出版社/〒399-0035 松本市村井町北1-4-6
        Tel 0263−86−8601) 
     http://www.mcci.or.jp/www/kyodo/

2014/10/03(Fri)  1580
 
 今年の春、ちょうど桜の花の散る頃に、竹本 祐子が、絵本、「桜の花の散る頃に」を
出版した。

 長野県松本市の「郷土出版社」から出ている「語り継ぐ戦争絵本シリーズの1冊で、テ
ーマは「学徒出陣」である。

 主人公は、大正10年にうまれた「貴佑」(たかすけ)という少年。5人兄弟の末っこ。「たあ坊」と呼ばれている。負けずぎらい。子どもの頃、跳び箱の練習をしていて、手を複雑骨折した。

 昭和15年、少年は早稲田大学に入学する。

 翌年、太平洋戦争が勃発する。
 「たあ坊」の兄たちも、軍需工場に働きに行くようになる。

 昭和18年、戦局は日本に不利になり、それまで徴兵を猶予されていた学生も、戦争にかり出されることになった。
 「学徒出陣」であった。

 「貴佑」は、同郷の学生たちといっしょに、松本の部隊に入隊する。機関銃隊に配属されたが、豊橋の予備士官学校に入学。やがて、松本に戻り教官として新兵の訓練にあたるよう命令される。ほかの生徒たちは、南方に配属されて、それぞれの戦線に送られた。

 戦時中・・・卒業、または学業終了のかたちで応召した学徒兵は、それぞれの原隊に配属されたとき、軍事訓練の成績で、「士官適」、「下士官適」、「兵適」、「不適」というふうにカテゴライズされる。私の場合は、中学からスキップして、大学にはいったが、徴兵猶予の年齢が下げられたため、1945年5月に「点呼」を受けて、「第二国民兵」に編入された。
 「貴佑」は、徴兵検査では丙種だったらしいが、戦況の悪化で、この基準もゆるくなったらしく、私は第二乙という評定だった。
 大学生といっても、なにしろチビで、ド近眼だったから、軍事訓練の評定は、おそらく「兵適」か、せいぜい「下士官適」だったと思う。

 「たあ坊」の場合、豊橋の士官学校に配備されたのだから、当然、成績優秀で「士官適」だったに違いない。すでに戦況は悪化の一途をたどっていたから、おそらく本土決戦の要員としての訓練をうけていたものと思われる。
 千葉などでは、ガソリン不足のため松根油の掘り出しや、九十九里浜にアメリカ軍が上陸するという想定で、塹壕掘りに巨木を切り倒す作業ばかりやっていた。1945年には、満足に飛べる航空戦力もなくなっていた。

 1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏した。   (1)

2014/09/28(Sun)  1579
 
 「戦後」、ヒルデガルドが出たハリウッド映画は、たいてい見ているはずだが、もう内容もおぼえていない。ただ、戦後のドイツ映画で、「題名のない映画」だけは、よくおぼえている。
 デュヴィヴィエの「アンリエットの巴里祭」に近い映画だったので。

 この「ヒルデガルド」を見てから、ヒルデガルド・ネフは、私の好きな女優になったのだった。

 CDの半分は、ヒルデガルドの作詞。
 ドイツ語もわからないのに、「ILLUSIONEN」という曲に感動した。

 ヒルデガルドはブレヒトの「三文オペラ」の「メッキ・メッサー」も歌っている。ブレヒトの「彼女」だったロッテ・レーニャの歌で知られている。
 ほかにも、たくさんのヴァーションがある。

 たとえば、アメリカのサミー・ディヴィス・Jr、イギリスのマリア・ユーイング、フランスのマリアンヌ・フェイスフル。
 私は、(ソヴィエト崩壊後の)ロシアのリューバ・カザルノフスカヤのカヴァーを聞いて、「メッキ・メッサー」に立ちこめるスラヴの匂いに驚いたことがある。

 ヒルデガルドの歌は、なんというか、ひどく辛口な歌になっていた。なにしろ、ドイツ語がわからないのだから、私の受けた感じが間違っているかも知れない。しかし、1945年、女だてらにベルリン攻防戦に参加し、ロシア軍と戦って降伏したヒルデガルドが、「戦後」になってブレヒトを歌っている。

 私はそのヒルデガルドに感動したのだった。

2014/09/24(Wed)  1578
 
 この夏、私は何も書かなくなっていた。暑い日がつづいている。何もしたくない。しばらく外出もしなくなっている。

気分転換のつもりで、ヒルデガルド・ネフを聞いた。

 「IHRE GROSSTEN ERFOLGE」(ライヴ・イン・コンサート)KARAT。全14曲。

 ヒルデガルドは、ドイツの女優。戦時中、ナチの映画官僚の2号さんになった。ソヴィエト軍のベルリン侵攻に、彼女は男装して抵抗した。戦後、舞台に立ったが、美貌だったためハリウッドに呼ばれた。この時は成功しなかったが、ドイツ映画のスターになった。 しかし、戦後の反ナチ気運にさらされ、殆ど亡命者のようにハリウッドに移り、たくさんの通俗アクションものに主演。
 はるか後年、東西ドイツが統一されて、ヒルデガルドの伝記映画が作られた。

 私は、この映画が東京で上映されたとき、親しい人たちといっしょに見に行った。ドイツ語がわからないので、原題や、監督、出演した女優さんの名前もわからない。パンフレットももらえなかった。だが、「ヒルデガルド」はすばらしい映画だった。
 ほぼ、同時期に、マリア・カラスや、レイ・チャールズ、エディト・ピアフたちの伝記映画が作られて、それぞれすぐれた映画だったが、「ヒルデガルド」は抜群の作品といってよかった。

 私の内面には、この映画のすばらしさが刻み込まれた。「戦後」のドイツ映画についてはほとんど知らないのだが、「ラン・ローラ・ラン」、「最後の5分間」以上の傑作だった。

 この映画で――ヒトラーが最後にたてこもったベルリンに、ロシア軍が侵攻する。市民や、少年たちまでが抵抗する。ヒルデガルドも男装して、一兵卒として抵抗した。だが、ベルリンは陥落する。敗残兵として逃げる途中、ロシア兵に包囲されて降伏する。連行される途中、尿意をもよおすが、男装しているためにほかの捕虜のように orinare できない。
 ヒルデガルドは、最後にズボンをはいたまま、gocciolarer する。そのため、女兵士と見破られてしまう。
 生きるか死ぬかという恐怖の極限状況で、女優がオモラシする映画ははじめて見たが、見ていて感動した。その後の、ヒルデガルドがどういう危険にさらされたか。満州やカラフトに侵攻したソヴィエト軍の恐怖を知っている観客は戦慄したのではないか。

2014/09/08(Mon)  1577
 
2014年7月6日、土曜日。
 田栗 美奈子が電話で知らせてきたあと、すぐに村田 悦子からも電話があった。彼女も野沢 玲子の死を知って悲嘆にくれ、声がかすれていた。

 お通夜に出席してくれた田栗 美奈子は、式場に飾られた野沢 玲子の写真と、列席した仲間たちの写真を送ってくれた。
 堤 理華も手紙で、野沢 玲子のお通夜のようすをつたえてきた。

    玲子ちゃんは青い服を着て、ワインを片手に祭壇の中央で、いたずらっぽく、幸
   せそうにほほえんでいました。美しい祭壇でした。白を基調に薄いピンク、紫、青
   の花々に緑の葉をあしらい、船のような、雲のような、玲子ちゃんにとてもよく似
   合っていました。最後、お顔をみることもできました。きれいなピンクの口紅をさ
   していました。


 森 茂里も手紙で、野沢 玲子のお通夜のようすをつたえてきた。

 悲しみが胸にあふれて、涙がとまらなくなっていた。

 玲子さん。

 私は、きみの死がまだ信じられない。いつも、きみのウィットにとんだ話を聞くのが、どんなに楽しみだったことか。きみの魂のなかには、なんというすばらしい世界が隠されていたか。ワインだけではない。

    梅雨寒や ワインの味に 思ふこと    中田 耕治 

 いずれきみに会えるだろうと思う。そのときは、ワインを飲みながらヴァージニア・ウルフの芝居の話をしよう。「波」だって「ダロウェイ夫人」だっていいさ。
 天国にもワインぐらいはあるんじゃないかな。きっと。

2014/09/06(Sat)  1576
 
 翻訳家として、野沢 玲子はいい仕事をつづけてきたと思う。
 最後の仕事は、この秋に出ることになっていたとか。その出版を見ずにこの世を去ったのだから、さぞ無念だったに違いない。

 野沢 玲子の訃報を聞いたとき、彼女の訳した本を読みたかったが、すぐには見つからなかったので、エッセイをいくつか読み返した。
 エッセイの一つに、野沢 玲子は書いていた。

   大学時代から、ずっと執着している作家がいる。あちらがわとこちらがわでさま
  よい続けながら創作をつづけ、最後はやはりあちらがわに行ってしまったイギリ
スの名女流作家、ヴァージニア・ウルフだ。

 2003年に書かれたエッセイ。だから、玲子はまったく「晩年」ではなかった。だが、彼女は、こうした「晩年」を心に刻んで生きつづけていた芸術家だったのか。私は、このエッセイを読み返して、何も気づかなかったことを心から残念に思った。
 玲子さんは、ヴァージニア・ウルフといっしょに、「あちらの世界に行く一歩てまえの意識を満喫しながら」亡くなったのかも知れない。

 このエッセイの末尾に――

    晩年(っていつから?)は、彼女とともに、あちらの世界に行く一歩てまえの意
   識を満喫しながら死にたい、というのが、わたしの願望である。
    欲を言えば、ウルフの小説「波」をいつか芝居にしてみたい。
    いつだったか、それを言ったときの中田先生の目をまんまるくされたお顔が、満
   月に重なった。    「火星を見ながら思ったこと」

 いつだったか、きみがヴァージニア・ウルフをあげたとき、一瞬、「波」を脚色してみようか、そんな考えが私の心をかすめた。しかし、まだ、「不思議の国のアリス」も上演していなかったし、私たちが芝居をつづけられるかどうか、それさえもむずかしかった。
 ヴァージニア・ウルフ劇化など、夢のまた夢だったが。
             
 「もう一度お芝居をやりたいわね、先生」
 きみは、遠くを見るまなざしになる。
 「いつか、きっとね」
 私にもおなじ思いがあって、それ以上何もいわなくても通じあえるのだった。

 しかし、私たちの芝居は実現できなかった。
 ただ、「波」の1章をえらんで、それぞれのモノローグをならべて、ドラマのエクストレ(抜粋)として演出することは不可能ではない。
 当時の私は、そんなことも考えた。私のクラスは、どんなナンセンスなことでも「アイディア」として、それも「誰も試みそうもないアイディア」として押し切ってゆく自信があったのだが。      (5)

2014/09/04(Thu)  1575
 
 その後、テネシー・ウリアムズの「浄化」をやった。これも、私の訳。この芝居は、いろいろな機会に、いろいろな劇団の女優をつかって演出してきた。
 「SHAR」の舞台では――田栗 美奈子を「エレーナ」、野沢 玲子に「ルイーザ」というキャストで稽古をつづけた。
 田栗 美奈子と野沢 玲子が、直接、わたりあう場面はない。しかし、ふたりが出るシーンで、いつも舞台に輝きがますことに気がついた。もともと原作がそういうかたちをとっているからだが、しかし、ラテン・アメリカの民族衣裳の玲子、純白のウェディング・ドレスの美奈子が出てきたとき、一瞬、私は夢を見ているような気がした。こういう時の演出家は、ただもううれしくなって、あまりのうれしさに不安をおぼえることさえある。
 私は、この二人のエスプリにひそかに舌をまいたのだった。
 
 野沢 玲子が、長ゼリフのあと、キッと顔をあげたとき、南アメリカの片田舎の太陽がギラギラと輝くようだった。このとき、なぜか誰かに似ているような気がした。誰だっけ? ずっとあとになってから、イタリア系の、エロティックな女優、アイリーン・ボルドーニに似ているような気がした。むろん、そんなことは話さなかったけれど。

 やがて、私は、アリス・ガーステンバーグの「不思議の国のアリス」を上演した。
 20年代のアメリカの女流劇作家がルイス・キャロルを脚色したもので、クラスの人たちが訳した。それを私がさらに脚色したのだが、この舞台は、その時期の「SHAR」の総力を結集したものだった。
 「不思議の国のアリス」上演という途方もない思いつきは、クラスの何人かの芝居好きな人たちの賛成を得て、実現することになった。このとき、私の思いつきを誰よりも熱心に支持してくれたひとりが野沢 玲子だった。       

 私は野沢 玲子に「イモムシ」の役をやらせた。たいていの役者なら、もっといい役をやりたがるところだが、野沢 玲子は、まったく不平をいわずに引き受けてくれた。「イモムシ」は動きのない役だったので、私はわざわざ舞台下手に彼女を置いた。「イモムシ」で動けないからこそ、いちばん目立つイドコロを選んだのだった。黄色とグリーンの長いピロウを抱かせて、「イモムシ」の特徴を強調した。彼女には何もいわなかったが、演出上の意図を即座に理解したらしい。そして、これも成功したと思う。

 「アリス」には、いい思い出がいっぱいある。たとえば、今は一流の翻訳家になっていた岸本 佐知子が飛び入りのようなかたちで「トランプの兵隊」のひとりになって出てくれた。すぐに動きをつけたが、セリフはない。終幕、「白の女王」(田栗 美奈子)と、「赤の女王」(堤 理華)のあいだで折れ重なって死んでしまう。それだけの役なのに、心から楽しんでやってくれたのだった。

 「不思議の国のアリス」は成功した。

 芝居が終わって、舞台が明るくなったとき、出演者たちが、笑いさざめいた。みんなが芝居の成功に昂奮していた。みんなが握手したり、手に手をとってピョンピョン跳ねまわったり、よろこびの言葉をかわしていた。私はカーテンコールで花束をもらった。
 芝居がうまく行った経験のある人は、こういう瞬間の感動が、どんなに純粋によろこびとして感じられるか知っているだろう。

 私は、「アリス」や「白の女王」、「赤の女王」たちに、つぎつぎに声をかけた。
 イモムシのピロウを抱えた玲子がいたので、私は、彼女の肩に花束をのせて、
 「イモムシ、よかったよ。とっても楽しかった」
 と、声をかけた。
 野沢 玲子は、はずんだ声で、
 「よかった。(先生の)芝居に出られて」
 大きな眸がいきいきと笑いかけてくる。  (4)

2014/09/02(Tue)  1574
 
 私の選んだ芝居は、テネシー・ウィリアムズの一幕もの。できるだけ短いもの、登場人物の少ないもの、費用をまったくかけないで、ただ、ゲキバンのように音楽のCDを使って効果をあげる。現実には――まるで小学校の学芸会程度の貧寒な舞台だったが。

 このあと、私はドストエフスキーの小品を脚色したり、ピランデッロの一幕ものを翻訳して、クラスの皆さんに、セリフを覚えさせ、簡単な(もっとも初歩的な)動きをつけたりして、なんとか芝居らしい試みを始めた。

 ピランデッロの戯曲は「花の女」という、当時としてはめずらしい不条理演劇。
 登場人物は、女が2人。ローマに帰る最終列車に乗り遅れて、駅で泊まることになったブルジョア夫人と、駅の安食堂で働いている「女」。お互いに何の共通点もなく、なんの関係もない女ふたりが、深夜、もう汽車も通っていない時間に、お互いの女としての生きかたのすさまじいコントラストに気がつく。それだけの話だが、ピランデッロの原作を私が脚色したものだった。
 私はこの主役の「女」を、野沢 玲子にやらせた。相手は、竹迫 仁子。

 この稽古に入ったとき、すぐに気がついたのだった。
 野沢 玲子が、本気でこの芝居にとり組んでいることに。

 田舎の駅の安レストラン。最終列車が出たあとで、旅行者の上品なマダムが入ってくる。ここで働いている女は、早くかたづけて自分の家に帰ろうとしている。
 とりとめのないやりとりのなかで、二人の女のコントラストが、ギラギラと浮かび上がってくる。後半は、ほとんどが「女」のモノローグ。
 おぼえるだけでもたいへんな長さだったが、「女」の長いセリフに、どうしようもない孤独がにじみでていた。この孤独感は、イタリアの女たちのはげしい闘いや、気性のはげしさに裏打ちされている。しかし、カンツォーネや、ダンス、美酒美食を好み、男を愛し、おおらかで、何にまれめげない「女」。
 野沢 玲子はそういう「女」になっていた。

 私がいっしょに仕事をしたり、また、舞台のソデで観察する機会があった俳優、女優たち。私は、いつも才能のある俳優や女優たちに魅せられてきた。
 その反面、才能のない俳優や女優たち、ようするに、おツムの弱い女優たちがじつに多いことにも驚かされてきた。新人にかぎらない。だれがみても才能のある有名な人たちの芝居にも、どうかすると、吐き気がするほどいやらしいものが見えることもある。ここでは例はあげないが。
 野沢 玲子はプロの女優ではない。プロの女優がきたえぬいたテクニックと較べたら、笑いたくなるほど稚拙な芝居を演じていたかも知れない。しかし、私は、彼女の芝居に、真摯で、じつに誠実なものを見とどけて、心を動かされた。

 芝居は、野沢 玲子にもう一つの自由をもたらした。それは翻訳という囲いを取っ払って、それまでほどくのに苦労した結び目のようなものを、一撃のもとに絶ち切った。
 私は自分が脚色したピランデッロが、たった今、ここで書かれたばかりの芝居で、そこに登場してくる野沢 玲子はまさにピランデッロの「女」なのだと思った。

 「花の女」の稽古で長丁場のセリフがつづくにつれて、玲子の輝きがましてくる。感情の昂りとともにみるみる頬が紅潮して、よく少女に見られるような色がみなぎってくるのだった。
 玲子の演技を見ていると、イタリアの「女」の、現実の深い裂け目に落ち込んでゆくような気がした。そのセリフは、まるで彼女自身が投げつけたコルテッロ(ナイフ)のように、私の肺腑をえぐりつけた。
 見ていて感動した。

 おかしな話だが――若き日のマルタ・アッバ(ピランデッロ劇団の女優)も、きっとこんな芝居をしたのではないか、と思った。   (3)

2014/08/31(Sun)  1573
 
 かなり長い期間、ある翻訳家養成のクラスで教えていた。このクラスから、多数の翻訳家が出た。
 
 その後、安東 つとむの努力で、私は別のかたちで文学講座をつづけた。ほぼ同時に「SHAR」というクラスをはじめた。野沢 玲子はそのメンバーだった。
 私の講座、クラスにきてくれた人には、すでに翻訳家として知られている人たちも多かった。私としては、「SHAR」での勉強では、もう少し違うかたちでクラスの人々の才能を伸ばして見たかった。

 生徒の大半は若くて魅力的な女性だった。私はそんな女性たちに囲まれるのが好きだった。ただし、私の彼女たちはまず才能があって、美しくなければならない。
 女性たちの集まりによく見られる、あの絶望的な嫉妬や、そねみ、羨望などをもたずに、お互いにのびのびとした友情や、同志愛といったものをもつこと。
 私のクラスにきてくれる女性たちが、ごくありきたりのアンチミテ(親密さ)以上の、何かを得たほうがいい。

 才能があって、おまけに美しい女性たちに囲まれることが幸福でないはずがない。野沢 玲子も才能があって、美人だったし、もっとすばらしいことに、ゆたかな感性を身につけていた。玲子が大学で,演劇をやっていたことを知った。
 翻訳のことを話題にしたことはほとんどなかった。話題は、いつもきまってニューヨークのオフ・ブロードウェイのこと、音楽のこと、ワインのこと。
 
 「いつかお芝居やりたいわ。やりましょうよ、先生」
 玲子は私の顔をみるというのだった。
 「うん、そうだなあ」
 私のクラスではいささか場違いな話題だったが、遠い時間に身を戻すことで、つかの間、お互いの夢をたしかめようとしていたのかも知れない。

 戯曲を翻訳すること、できればそれを実際に舞台にかけること。
 途方もないアイディアで、ふつうの市民講座程度のレヴェルなどでは考えられないことだろう。しかし、私はクラスにきている人たちに、実際に芝居をさせるという思いつきに、自信というかはっきりした成算があった。
 
 私は、みんなで戯曲を翻訳してそれを実際に舞台にかけようと考えた。
 最初に、アリス・ガーステンバーグの一幕もの、テネシー・ウィリアムズの「罠」をやってみよう。

 野沢 玲子は、私の考えにはじめから賛成してくれたひとりだった。
 彼女たちと「夢」を語りあうことがなかったら、私の人生は、なんと退屈で、みじめなほど貧しく、灰色だったことだろう。こういう「夢」を、おのれの魂のなかに、そっともち続けることができる人は、やはり幸福なのではないだろうか。

 長いこと小劇団に関係して、だいたい頭のわるい女の子ばかり見てきたおかげで、確信したことがある。頭のいい女性は、例外なくいい女優になる素質をもっている、と。
        (2)

2014/08/29(Fri)  1572
 
 2014年7月6日、この日は朝から曇っていた。
 午前中に電話があった。田栗 美奈子からの電話だった。いつも明るい美奈子ちゃんの声が曇っていた。
 野沢 玲子が亡くなったという。
 お互いに共通の友人、青木 悦子から連絡があって、すぐに私につたえてきたのだった。私は息をのんだ。信じられない知らせだった。野沢 玲子は5月、ゴールデンウィークに異常を感じて病院で診察を受けたが、すでに残された時間はなかったらしい。

 内面の深いところに、するどい痛みに似た感覚が走った。私はことばを失っていた。つづいて、悲しみが吹きあげてきた。

 野沢 玲子は、私のクラスにいたひとり。ワインが好きで、ワイン関係の本を何冊も翻訳した。むろん、ワイン以外の本も。
 私のクラスでの彼女の訳や、芝居のことをめぐって、記憶のいたるところに隠れている野沢 玲子の姿をさがしもとめた。

 個人的に親しかったわけではない。彼女の人生についてもほとんど何も知らない。それなのに、クラスや、私の「講座」や、そのあとで、みんなといっしょに居酒屋や、喫茶店になだれ込んで、いろいろと語りあったこと。
 野沢 玲子が私たちに残してくれた仕事のことなどが、どっと押し寄せてきたが、悲しみがこみあげて、何も考えられなくなっていた。  (1)

2014/08/25(Mon)  1571
 
 この夏、しばらくブログをお休みした。
 暑さには関係がない。鬱だったわけでもない。何かを見ればいつも何かを思い出す。
 知人や友人たちの訃報を聞くたびに、おのれの一生を考えあわせて、もはや80の坂を越した。このままくたばったところで、なんの悔いもない、と思いさだめた。
 
 そう思ったとたん、ブログを書く気がなくなった。どうせ誰に読んでもらうこともない綺言妄語ではないか。

 たとえば、ロシアのオペラ歌手、マリア・マクサコワを聞いた。以前だったら、この歌姫について、何か書いたはずだが、私はこの歌姫に「感動した」とは書いても、それ以上何も書けなかった。まあ、書けなければ仕方がない。        
 80過ぎの老いぼれが才能の枯渇を意識しないわけがないし、才能が枯渇しないほうがどうかしている。

 たまたま、ある人から「エンジェルハ−プ・ユニット」というCDを頂戴した。

 ハ−プの合奏のコンサ−トのライヴだが、親しみやすく明るい曲が選ばれていた。こういうコンサ−トが、多くの人をあつめているのも演奏する人の魅力によるだろう。

 プログラムは、映画、「ニュー・シネマ・パラダイス」のテ−マから、ラテンの「エル・クンバンチェロ」、「コ−ヒ−・ルンバ」、「ラ・ビキ−ナ」など私でも知っているものが多かった。
 私はこのCDを聴きながら、あらためて音楽に癒される気がした。 

 何かを書きながら音楽を聞く。あるいは音楽を聞きながら文章を書く。
 私もそんな一人だが、これまでハ−プを聴きながら何かを書いたことはない。自分でも意外だったが、このCDを聞いて予想以上にハ−プを堪能しながら、是非にもこのコンサ−トを聴きに行きたかったと思った。

 コンサ−トに行くことは、自分ひとりが音楽を聞くことではない。お互いに見ず知らずの人たちといっしょに聞く。となれば、個人の嗜好を越えた行動だし、私たちが生きている場、ひいては文化なり,伝統なりを共有することだろう。

 私は携帯やiPodなどで、好きな時に好きな曲を聞くことがない。前世紀の遺物である私は、さまざまなデ−タ化、パッケ−ジ化のなかでウロウロしたくない。いまさらウロウロしてたまるか。
 そういうスタイルはもともと私に似合わないと思っている。

 きびしい暑さが続いている。
 子どもの頃、外にタライを出して水を張っておく。30分もすると、いい湯加減になった。行水をつかう。子どもでも気分がよかった。
 大人は真昼間から銭湯に行く。頭から熱い湯を引ッかぶって、冷たい水でゴシゴシやっただけで、手拭いを肩にかけ、褌一本で外に出る。すぐ近くの酒屋の店先で、木のマスになみなみと酒を注いで、クイッとやる。マスの脇に塩がひとつまみ。
 仁王さまみたいな連中がいた。
 大人になったら、ああやって酒を飲んでみたいと思ったものだ。
 残念ながら、酒も飲めなくなっちまったが。

 というわけで、しばらくぶりにブログを書く気になった。
 何を書くか。
 これまでの私は、他人について悪口を書いたおぼえはない。おのれを褒め、他人をそしる両舌(りょうぜつ)に、関心はなかった。だが、今後の私は、あえて綺言妄語を書くやも知れぬ。
 ただし、もし書くとしても、少し気楽に、(つまり、へんにかまえて綺麗ごとを書くのではなく)もっと、くだらないことを気随気ままに書くがいい、と思う。  

 「マクベス」ではないが、

   あした、またあした、そしてまたあした、
   一日いちにち このささやかな足どりで 這いずり寄ってゆく

 つもり。以上、ブログ再開の口上。

2014/07/01(Tue)  1570
 
 1938年,フランスの飛行家たちは、あいついでパリ=東京間を飛ぶ計画をたてたが、いずれも失敗した。これに対して、日本の航空機、「神風」は、東京=ロンドン間の大飛行に成功した。(9ケ月前に,日中戦争が起きている。)
 東京=ロンドンの全航程,15,357キロ。
 所要時間,94時間17分56秒。

 このニュースに日本じゅうがわきたったものだった。私は小学生だった。「神風」のことは今でもおぼえている。
 ついでに1930年の有人宇宙飛行計画もしらべてみた。なにしろ暇なので。

 まず、宇宙ロケットの話から。

 金属製の航空機を発明したのは,フランスの,エスノル・ベルトリとヴァリエール。この2人は,ガスの噴射によるロケットを発明した。このロケットをドイツの「オペル」が実験した。スピードは,まだ時速120マイル程度。
 ここでまた、中 正夫の記事を引用しておく。

 「利用するのが緩爆薬だから発着は人間の耐ゆる速度で行ひ,二重真空壁の艇内に乗る
とすれば月世界訪問も痴人の夢でなくなりさうだ。」

 現在(2014年1月)中国は有人宇宙飛行計画で,2020年を目標に、月面の検査ばかりか、恒久的な中国独自の宇宙ステーションの建設をめざすという。
 この計画は1992年から開始されたが,1999年11月21日に,宇宙ロケット、「神舟1号」を打ち上げた。2年前に「神舟9号」が打ち上げられているから,有人宇宙飛行計画は着々と進行している。

2014/06/24(Tue)  1569
 
 上田 敏の「現代の芸術」と中 正夫の「速力狂時代!」を読んで、あらためて私たちの歴史は、変化の歴史、スピード史と見ていいような気がした。

 中 正夫の記述によれば――1929年当時、世界一、巨大な汽船だった「ラビアザン」が、スペイン沖で出した最高時速は28.04ノット。
 アメリカ海軍の航空母艦、「レキシントン」が、3O.04ノット。
 モーターボートでは、ガル・ウッドが、「ミス・アメリカno.7」を、フロリダのビスケイ湾/6マイルを疾走した最高94.12マイルの記録。

    時代遅れの蒸気機関に至っては、有名な話だが、九九九型機関車がニューヨーク
    州で112.5マイルを出したとか、231型機関車がフレーミングとジャクソ
    ンビル間を2分30秒で走って120マイルを突破したとかいふ今から28年も
    前のレコードのままである。これならば一昨年特製自動自転車が127.1マイ
    ルの世界レコードにも劣り、サイドカーでさへ111.98マイルを出したのに
    劣っている。もう時代は蒸気機関の快速力を問題とせないのだ。

 「有名な話」といわれても私には見当がつかない。「特製自動自転車」というのは、どんな自転車だったのか。おそらく、原付き自転車だろうと想像するのだが、私の想像する「原付き自転車」だって、今の人たちにはもはや見当もつかないだろう。

 1929年,地下鉄,特急,高速度電車が疾走し,空には,フオッカー旅客機が飛んでいる。
 断髪,ショート・スカート,レビューの時代――

 昨年11月に亡くなった辻井 喬の詩に、

      ある時
      僕の時間は鳥であった
      大きな翼で
      青い空を漂っていた

    僕は今
    自分の時間を
    汽関車にしたい

 この詩(1955年)の題は「ぼく は いま」。その末尾は、

      僕の時間よ
      闇を走れ
      ある時鉄の塊は僕の時間だ

 で終わっている。

2014/06/16(Mon)  1568
 
 上田 敏の「現代の芸術」(明治43年/1910年)を読んでいたら、こんな一節を見つけた。

  「今は機械応用の時代である、速力の時代である、エージ・オヴ・スピードであ
  る。何でも早くする、といふ考がいかにも盛んに見られます。」

 上田 敏は、当時のスピード記録の例をあげている。
 1893年、シカゴ=ニューヨーク間の鉄道の所要時間は20時間。だが、「ペンシルヴァニア鉄道」は、1時間51.2マイル、18時間で鉄道を走らせた。これに対抗して「ニューヨーク・セントラル鉄道」は、時速53マイルで、シカゴ=ニューヨーク間を走らせた。

   「1910年の1月2日にロンドンを出発して大西洋を通過し、アメリカを横断
   して、サン・フランシスコまで、十日足らずで来たさうですが、これなどもずゐ
   ぶん早いものであります。それがためさしも波の荒い大西洋も、(中略)タービ
   ンの機関を使って行くと四日半で行くことができます。だからシカゴからパリに
   行くのには、金さへあれば雑作はないのです。その他自動車、飛行機等について
   も、驚くべき早い記録が出てをります。(「現代生活の基調」)

 上田 敏の指摘に興味をもった私は、それから20年後の1910年の「現代生活」を調べてみた。

 見つけた。「速力狂時代!」(「サンデー毎日」/昭和四年七月二十八日号)。中 正夫、筆者、いいけらく――

   「東京と大阪間の自動車、専用道路が出来て200マイルの速力で交通するやう
   にならぬと誰がいへよう。東京とロンドン間を五百マイルの高速飛行機が通はぬ
   と誰が断言し得ようぞ」。

 こういう雑文を見つけ出して読むのは、なかなか楽しい。

   「二十五年前に初めて空を飛んで,四十八マイルの速力が世界の驚異になってか
   ら二十年。世界の速力王はまずイタリーのマリオ・デ・ベルナルジ少佐の五百十
   二キロ七七六を推さねばなるまい。(中略)
   さて,これに次ぐものは,まず競走自動車であらう。
   八年前ラルフ・パルマ選手が百四十マイルの速力を出して世界に名を轟かして以
   来の大記録として一九二七年に英人セグレーブ少佐が二百三マイルを突破したが、
   (中略)本年三月,英人セグレーブ少佐が二度目の成功である。
   米国フロリダ州デイトナ海岸という世界一の良いトラックで,走りも走ったり,
   一時間二百三十一マイル六。」

2014/06/01(Sun)  1567
 
 モームの「劇場」のヒロイン、名女優、「ジューリア」は、18歳で、プロデューサー(といっても、芝居に関することなら何でもこなす根っからの芝居者)「ジミー」に認められる。
 「あんたは、あらゆる要素をそなえている。背丈はよし、体格はよし、顔はゴムみたいだし」
 つまり、ゴムのように伸縮自在ということ。いまどきこんな褒めことばをきいたら、たいていの女優さんはいやな顔をするだろう。こんなセリフひとつにも――「ジミー」の押しのふとさが見える。ニタリとしているモームの顔も。

   「とにかく、そんな面(つら)こそ、女優にゃ打ってつけなんだ。どんな表情でも見せ
られる。美しくさえみせられるお顔(ハス)ってもんだ。心をかすめる、ありとあらゆる
感情をジカにだせる顔ときている。あのドゥーゼのもっていた面(つら)だ。昨夜のあん
た、自分じゃ気がついていねえが、そいでも、きらっきらっと、セリフが表情に出ていま
したぜ」

 ドゥーゼは、イタリアの名女優、「エレオノーラ・ドゥーゼ」。
 ただし、ドゥーゼが「劇場」に出てくるのは、ここだけ。

2014/05/26(Mon)  1566
 
 サマセット・モームを引き合いに出したせいで、「劇場」を読み返してみた。

 ヒロインは46歳になる名女優、「ジューリア」。小説のオープニングで、名女優を訪問した若者がいう。
 「ぼくが見に行ったのは、芝居そのものではなく、あなたの演技なんです」
 同席した夫の「マイケル」がいう。
 「イギリス演劇華やかなりし頃だって、大衆は、芝居を見に行ったんじゃない。役者を見に行ったんだ。ケンブルや、シドンズ夫人が何をやるか問題じゃなかった。ただ、役者を見に行くことだけが問題だった」と。

 こんな数行から、私の夢想(妄想?)がはてしなくひろがってゆく。

 「忠臣蔵」六段目。「早野勘平」が、帰宅する。猟着を脱いで、浅黄、羽二重に着替える。
 観客にうしろを見せて肌襦袢ひとつ。その背中に「お軽」が着物をかけてやる。袖に手を通す。「勘平」は正面をむいて前を袷、帯をしめる。ただ、それだけの動きだが、羽左衛門(15世)のすっきり洗練されたてさばきのみごとさ。中学生の私でさえ、見ていてほれぼれとした。
 私も、芝居を見に行ったのではない。役者を見に行ったのだった。

2014/05/23(Fri)  1565
 
 「どうすれば、上手にしめくくれるだろうか」などと考える人には関係がないのだが、ある長編のオープニング、そして、エンディングを思い出した。
 まずは、オープニング。

     「灰色にどんよりと夜が明けた。雲は重苦しく垂れこめて、雪になりそうな寒
     気がただよっていた。」

 この長編は1915年に出たから、今から100年も前の作品だが、発表当時はあまり成功したとはいえなかった。批評家にも黙殺された。ただし、誰より先に称賛のことばをあげたのは、意外にもアメリカのシアドー・ドライザー。
 この新人作家は3年後に「月と6ペンス」を発表して、あらためてこの長編も再評価されるようになった。「人間の絆」である。

 そのエンディング、つまり「しめくくり」をあげておこう。

   「彼は微笑して、彼女の手をとり、じっと抑えた――二人は手すりにしばらく
  佇んでトラファルガー広場に眼をやった。いろいろな馬車が、四方八方に走って
  いて、人影があらゆる方向に通り過ぎて行く。そして、陽が輝いていた。」

 エンディングだけを見ると、簡潔だが、単調で、平凡に見える。しかし、「人間の絆」が、苛烈で、深刻な物語であることを知っている読者には、こういう「しめくくり」こそ、この大長編にふさわしいと思えるのだ。
 新聞や雑誌で読んだ上手なしめくくりを採集し、キーワードで分類してパソコンに入力することを始めるような(ちょっとした工夫で)小説を読む楽しさが広がっていくようなことはない。

 また、そんな工夫で文章が上達するだろうか。

2014/05/16(Fri)  1564
 
 このエッセイの筆者は楽しそうに書いている。

    文章を書き終えて、「しめくくり事典」を開く。関連する項目に目を通し,ヒン
    トになる結びを見つけ、しめくくりの文章をさらに磨きをかける。これも結構楽
    しい自添削作業だ。難しいと思っていた結末の文章を書くのが、少し楽になって
    いく。

 文章に上達しようと思ったら、まず他人の文章を模倣すること。もっとも効果的な方法は「書きうつす」ということ。

 この助言はたぶん正しいだろう。志賀 直哉に私淑していた作家の尾崎 一雄は、まだ無名の頃,志賀 直哉の作品を筆写して自分の文体を作りあげて行ったという。
 してみれば、他人の文章を模倣することは間違いではない。
 ただし、「新聞や雑誌で読んだ上手なしめくくりの部分を採集し、キーワードで分類してパソコンに入力した」ところで、はたして参考になるだろうか。かつは、文章が上達するだろうか。

 どうすれば文章が上達するだろうか。もし、私がそんな質問を受けたら――他人の文章の模倣はあまりすすめない。感銘を受けた結びの文章に出会ったら書きうつしてストックしたところで、実際には役に立たないだろうと思う。
   (つづく)

2014/05/13(Tue)  1563
 
 ある同人誌のエッセイを読んでいて,こんな一節を見つけた。

    ……文章に上達しようと思ったら、まず他人の文章を模倣することです。その
    もっとも効果的な方法は何かといえば「書きうつす」ということでしょうか。

 これは葉山 修平のことば。これをうけて、エッセイの筆者は考える。

    感銘を受けた結びの文章に出会ったら書きうつしてストックし,それを模倣すれ
    ばいいのではないか。学ぶは”まねぶ”なのだ。新聞や雑誌で読んだ上手なしめ
    くくりを採集し、キーワードで分類してパソコンに入力することを始めた。

 これを読んで思わず笑ってしまった。

 この筆者は、「新聞や雑誌で読んだ上手なしめくくり」を分類する。その分類項目は、期待、推測、疑問、楽しみ、反省など、50項目におよび、約700例を集めたという。奇特な人もいればいるものである。この分類は、「しめくくり事典」だそうな。

 たとえば――「楽しみ」の例を見よう。

    ・生まれ変わったつもりで、ゆったりと生活を楽しもう。
    ・(日々の暮らしは、こんなちょっとした工夫で)楽しさが広がっていく。
    ・力を抜いて楽しんで生きるに限る。
    ・生きている限りは、若い日も老いた日も、それなりのたのしみ方をしたい。
    ・〜になるなんて、なんだか胸がときめくではないか。
    ・ささやかな贅沢である。
    ・極楽だ。
    ・〜を、今から楽しみにしたい。

 この「しめくくり事典」を使えば、たちまち文章が上達して、このエッセイを筆者のように楽しそうに書けるかも。
     (つづく)

2014/05/01(Thu)  1562
 
 ジッドが「ロシア紀行」のなかで、レニングラードを憂愁にみちた都会と呼んでいるように、この街には滅びを見届けてきた翳(かげ)りのようなものがある。ツァールスコエ・セロに民衆が押し寄せて革命がはじまったことを知っているせいでそう見えるにしても、この街にはたしかに翳(かげ)りのようなものが隠されているのが感じられた。

 ある日、私はネフスキー・プロスペクトを歩いている。
 あの旧ロシア海軍省から、アレクサンドル・ネフスキー修道院に向かっているもっとも美しい街路だった。
 ひろい交差点をわたって、帰宅をいそぐ人たちにまざりながら、ゆっくり歩道を歩きつづける。ここでも、さまざまなロシア小説のヒロインたちとすれ違うのだった。
 ナスターシャの美しいまなざしが私に向かって、まっすぐ突き刺さってくる。タチアーナが、よろこびに全身をふるわせて、逢曳きの相手にむかってよく透きとおった声をあげる。ジナイーダの黒いスーツに、もう秋の気配の濃い黄昏の光りが動く。マーシェンカのまわりには靄のようなものがまつわりついて、彼女が恋を失ったばかりだということに気がつく。
 ふと足もとに眼を落とすと、ふとい足、細い足、痩せた男のような胸や、まるで樽が歩いているような中年女のでっぷりした腰。まるで、ゴーゴリの民話に出てくる妖女、ウェージマや、地霊、ヴィーのようなおそろしげな女たち。いちようにサンクト・ペテルスブルグの街の顔をつけているのに、近づいて見ると、そうした人びとの隠しおおせない秘密な部分が、次第にはっきり眼についてくる。
 それがまた、未知の旅にあるという私の心の揺れを誘うようだった。私の旅は、いつも気ままで、たいした目的もない、とりとめのない小さな街歩きなのである。

2014/04/21(Mon)  1561
 
 1968年、渋沢龍彦の責任編集で、「血と薔薇」という、エロティシズムを中心にした高級な季刊誌が出た。
 その後、2003年、「血と薔薇」の復刻版が「白順社」から出た。そのとき、私は、短いエッセイを書いた。以下、それを再録する。

    「血と薔薇」のことを語るとすれば、やはり渋沢龍彦の思い出に重なってくる。
    その渋沢龍彦を語るとすれば、矢牧一宏、内藤三津子夫妻や、松山俊太郎、種
    村季弘のことが重なってくる。
    はじめてその風貌に接した人々。いずれも名だたる文人であった。といっても、
    私は誰とも親しかったわけではない。もともと野暮を絵に描いたような男だった。
    それでも「血と薔薇」の編集会議は、今思い出してもおもしろいものだった。そ
    うそうたる酒豪がそろっているので、それこそ談論風発だった。渋沢龍彦はサド
    裁判を終わったあとだったが、席上、当時のジャーナリズムにかかわる話題は一
    切出なかった。まして文壇を賑わせている人々のことは、誰ひとり口にしなかっ
    た。はじめから誰の関心も惹かなかったといえるだろう。
    むろん、話柄にこと欠きはしなかった。なかには閨中のことにかかわる艶話もあ
    ったが、すべて風流滑稽譚で、皆で笑いころげたものだった。巫山風雨のことを
    語って、これほど高雅、剽逸な人々がいるのだろうか、と、野暮な私はひたすら
    感嘆していた。
    あるとき、酒がまわるにつれて、座興のひとつとして松山俊太郎が連句を巻くこ
    とを提案した。渋沢龍彦を筆頭に、加藤郁也、高橋睦郎という巨星が居並ぶ席だ
    った。だが、このとき、松山俊太郎が私を見てすぐに翻意した。ヘンリー・ミラ
    ーなどを翻訳する無風流、おそらく雪月花を知らず連句の作法に通じない愚頓と
    見たのだろう。私は恥じた。同時にほっとした。どんなに恥をかいたかわからな
    かったから。まことに筆の道はいとも尊きことにして、無筆の者の心にはものか
    がざるをうえもなき恥ずかしき事に思うべし。
    ただし、今でも惜しい気がする。あのとき列席の人々による連句が試みられてい
    たら「血と薔薇」を飾ったはずである。
    渋沢龍彦も矢牧 一宏もすでに白玉楼中の人となった。孤り愴然たる思いがある。


 「血と薔薇」の出発にあたって、渋沢龍彦が声をかけてくれたのは、私の不遇、非才を憐んでくれたのかも知れない。しかし、声をかけてくれたことはうれしかった。
 私の「ブランヴィリエ侯爵夫人」という短い評伝は「血と薔薇」に発表するつもりで書いたもので、内藤 三津子さんの尽力で、おなじ「出帆社」から出版されたが、私はこの作品を渋沢龍彦に捧げている。いささかの文学的な敬意をこめたつもりであった。

 松山俊太郎氏は病床にあると聞く。遠く離れている身にはいかんともなしがたいが、一日も早いご快癒を祈っている。

2014/04/10(Thu)  1560
 
 ブログに何か書きたいのだが、うつらうつらして何も書けない。
 
 寒中、アメリカに行ったときの俳句を披露させていただいた。
恥のうわぬりと知りながら、またまた、くだらない雑詠をおめにかけよう。

         冬ざれや競輪場にいそぐ人

         風をだに恋ふるを冬の茶をたてて

         冬の夜やわけありしこと数えつつ

         寒中や柳北の書ののびやかさ

         女ひとりと言葉もなくて冬の午後

         寒の街失語症めく午後にいて

         食事してただ別れたり冬の宵

         木枯らしに遠く夕焼け小焼けかな

         たはれ男の恋のおろかや冬日和

         焼酎にやや苦みあり冬の鍋

         たちまちに盃の酒冷えにけり

         小春日や逢うも別れもこの日まで

         ふたたびは逢うこともなし冬の街

         土砂降りの氷雨のなかを別れけり

         冬ざれや贈られし著書二、三冊

         冬ざれや頤(おとがい)細くなりしひと

         寒空もおけら街道の師走なり

         たちまちに日の昏れにけり師走六日

         すれ違う人と目の合う師走かな

         年の瀬や寄せ鍋かこむ娘たち

         水鳥の 澪ひく池や 年の暮れ

         句も詠まずせわしきばかり年の内

         なにやかや焼き捨てている師走かな

         去年の雪美貌の女流作家なりき

         忙中閑あり師走に牡蛎を焼いて食う

         大つごもり牡蛎雑炊を食いしのみ

         大つごもり還らぬ日々を忘れめや

         趣きは六道遊行の大晦日

         大晦日なすべきほどのことをして

2014/04/05(Sat)  1559
 
 そうこうするうちに、関八州を吹きまくる、あの空ッ風もようようおさまって、春がふたたびやってきた。

 あのXXの境内(けいだい)、人ッ気(け)のない閑静な庭先に、枝垂(しだれ)桜がみごとに咲いていたつけ。

 これが昔なら、
 「湯にでも行って、せいせいしてこよう」
 手拭いと、ヌカ袋を引ッつかんで飛び出すところだが。

 下町育ちの私は銭湯が好きだった。

 ご常連の爺サマ、ご近所の旦那衆は、たいてい二階にめいめい浴衣をあずけてある。
 外から銭湯にやってくるなり、浴衣に着替えて、階下の番台に声をかけて、藤の籠に浴衣を入れる。素ッ裸になると、カランの並ぶ横を通って、湯につかる。
 十分にぬくもってから、また二階にあがる。

 冬ならば、お出花。夏ならば、砂糖水に咽喉をうるおす。さて、居合わせた知り合いの誰彼相手に、将棋の一番でもさして帰るという、悠長な仕組みになっていた。
 町内のどら息子などは、半日、一日、湯屋の二階で、のんべんだらりとすごしていた。

 私などは、まだ小学校のチビで、母親につれられて女湯に入っていた。昼間ッから、若い女たちが真ッ裸で、顔を見るなり、
 「ボーヤ、いいねえ、お母さんといっしょで」
 とか、
 「おや、ちょっと見ないうちに、こんなに大きくなっちまって」
 などと、笑顔の一つもみせてくれるおなご衆もいた。

 叔父(私の母、宇免の弟)、勝三郎が、いわゆる零細企業ながら職工の四、五人も使って段ボールの函の製造業をやっていた。(私の父、昌夫が半分出資したので、名前も半分づつで「昌勝商会」という看板を出した。)
そんな職工たちが、仕事を終わって湯屋に行く。小梅橋のすぐ先の銭湯か、源森橋の手前の銭湯で、私もつれて行ってもらうことが多かった。
 若い職工たちは、幼い私にはよくわからないことばで、近所の町工場の若い衆としょっちゅう悪所通いの相談をしていた。

 「そうかい、すまねえな。だがな、オンブ(背負う)で行くなぁ肩身が狭いや、出し合
いで行こうじゃねえか。ウン? 案内してもらうからおごるッて。そうかい、すまねえな。
じゃ、ナンだ、次はおれがモツってことにしよう。初会(しょかい)からウラカベよ。
そィでもって三度目から、はじめてお馴染みてェことになるから、女郎買いも安かねえや。
XXちゃんなんざ、金にお構いはねえだろうが、ナンだぜ、アンなとこで見え張っちゃ
ぁいけねえ。なるべく安くあげて、おもしろく遊ぶのが道楽の極意とくらぁ。ま、おいら
にまかしときな。湯を出たら、どっかその辺で、一杯(いっぺえ)引ッかけて行こうじゃ
ねえか。エッ、酒が飲めねえ。飲めなくっても、飲んで行くんだ。シラフで出かけるなぁ、
ヤボッてえ(たい)じゃねえか」

 幼い私の周囲には、落語に出てくるような人たちがたくさん生きていた。

2014/04/01(Tue)  1558
 
 2020年のオリンピック招致がきまったとき、女優の滝川クリステルが、お・も・て・な・し・ということばを使った。これが一種の流行語になった。

 おもてなし。たしかに、いいことばの一つ。

 持て為す。または、以て成す。ふるまう。とりまかせる。

 そこで、考えたのだが――これは、関東のことばなのか、関西のことばなのか。

 東京の人が、大阪の人を訪問したとき、「まぁ、おあがり」といわれる。こういうノは、東京では、目下の人につかうことばで、かなり、ぞんざいな口のききようだね。東京者なら、「さぁ、どうぞ、おあがんなさいまし」というのが、ふつう。
 ところが、大阪の「まぁ、おあがり」というのは、けっして失礼ないいかたではない。

 逆に、東京ではおかしく聞こえるのが、物品に、さんをつけること。

 「お豆さん」、「お芋さん」。

 オリンピックで、外国のお客さんが、競技場にきて、ウロウロ自分のシートを探していたら、
 「よッ、XXXの旦那、遠慮しないでおくんなせえ。こっちだ、こっちだ。さ、みんな、異人さんのすわるとこをあけて、おとりもちしてあげやしょう」

 なんてコトは――ないだろうナ。(笑)

2014/03/25(Tue)  1557
 
 昨年(2013年)「SMASH 2」が、アメリカではじまった。(日本では、おそらく字幕翻訳の関係で、ずっと遅く歳末から2014年2月まで放送された。)

 私は、このブログで「SMASH 1」をとりあげた。「マリリン・モンロー」がテーマと知ってぜひ見ておきたかったし、マリリン・モンローについても、何か「発見」があるかも知れないと思って。

 私は、キャサリン・マクフィー、ミーガン・ヒルティーという、ふたりの女優/シンガーの魅力を「発見」した。ふたりとも演技力はあるし、なによりも歌がすばらしかった。
 当然、「SMASH 2」も見たのだが、驚いたことに、この第二部はまったく期待を裏切った。まるっきり精彩がない。信じられないことだった。
 「SMASH 2」には「SMASH 1」の、あのいきいきとしたドラマとしての緊張がない。なぜなのか。
 第二部の「カレン」(キャサリン・マクフィー)と「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティー)も、なぜか魅力がなくなっていた。「SMASH 2」全体に、ドラマとして緊張がなく、フォーカスもさだまらず、最後には見るかげもない駄作になっていた。

 あのみずみずしい作品が、どうしてこれほどの失敗作になってしまったのか。

 「SMASH 2」は2月に終わってしまった。日本でも、まったく評判にならなかったのだろう。最後には、ソチの冬季オリンピックの開催の影響もあったのだろう、放送時間までコロコロ変わってしまった。こうなると、シーズン・オフを目の前にしたプロ野球の、優勝チームがきまったあとの「消化試合」のように、このドラマは誰の関心も惹かないままいつの間にか哀れにものたれ死にしてしまった。

 ただし、私は、なぜ「SMASH 2」がひどい失敗に終わったのか、その理由を考えている。批評家というものは、失敗作から多くのことをまなぶものなのだ。長年、おびただしい作品を読みつづけてきたので、たいていの人々よりは、小説やドラマの作法なり「結構」については考えつづけてきたと思う。
 いずれ、このブログであらためて書いてみよう、と思う。

 今は失望感がつよくて、何も書く気になれない。

2014/03/23(Sun)  1556
 
 昨年の歳末からはじまったTVドラマ・シリーズを見た。「SMASH 2」。

 「SMASH 1」のストーリーは――女優,「マリリン・モンロー」の生涯をミュージカル化する企画から、ベテランと新人2人の女優が「マリリン・モンロー」の役をめぐって競争する。これがメイン・テーマで、この公演をめぐってブロードウェイの演劇人たちの生態が描かれる。2012年、スティーヴン・スピルバーグのプロデュースということもあって、話題をさらった。

 「SMASH 1」では――「マリリン・モンロー」の役をベテラン女優、「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティー)と、新人女優「カレン」(キャサリン・マクフィー)が争うのだが、稽古中に、劇作家/作曲家のチーム、演出家と「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティー)の「関係」や、「カレン」と恋人の緊張がからんでくる。
 ドラマは、いよいよボストンでの試演(トライ・アウト)までこぎつけるが、最後の最後まで主役がきまらない。開幕まで数時間というピンチに、ぎりぎりのタイミングで、新人の女優「カレン」(キャサリン・マクフィー)が起用される。この試演(トライ・アウト)が成功すれば、次の段階で、いよいよブロードウェイでの本公演ということになる。

 このTVドラマ・シリーズ、「SMASH 1」は、スティーヴン・スピルバーグのプロデュースで、視聴率もよく快調に展開していた。すぐにシリーズ化がきまったという。

2014/03/18(Tue)  1555
 
 私はアメリカに何を見たのか。

 たとえば、グレーハウンド・バス,ミッドナイト・フライヤー、サンダーバード・フォード、フリーウエイ、ジェット、ジュークボックス、ゴールデン・ウエスト。
 それらは、フルトン蒸気船、エジソンのレコード、チョコレートのハーシー、リグレーのガムなどと、ごっちゃになって私のアメリカになった。

 私は、ルイス・ジョーダン、ルシル、メイベリーンを聞きながら、一方で、ボブ・ディラン、ジェファーソン・エアープレーンを聞いた。ペリー・コモを聞きながら、リリー・ジャネルを聞いている。だから、私の「アメリカ」は、まるでごうごうと渦を巻く混沌とした世界なのだった。

 当時の私は、 ミュージカルの「シルク・ストッキング」、リリー・パーマーのノエル・カワードを見ながら、「W・C・フイールズと私」を見たり、マークー・トーウェンを読みながら,毎日,オスカー・ワイルドの戯曲を訳していた。私自身が、(他人から見れば)わけのわからない「おかしな、おかしな、おかしな世界」を生きていたような気がする。

 ようするに,アメリカの混沌は、いってみればそのまま私の「現実」なのだった。

 そんな私のニューヨーク雑詠を。

    異国(とつくに)に名なし小草の花を摘む

    騎馬警官のアヴェニュー 春を彩りて

    ブロードウェイ あやしき化粧 春の宵

  植草 甚一先生の泊まったホテルを選んで。

    ここにして古書集めてや 紐育の春

    春寒や ホテルの部屋に眼の疲れ

    ニューヨーク 坂緩やかに 春の朝

    花曇り ミモザの女に逢いに行く

    風のなか 紫と白のリラ揺れる

2014/03/16(Sun)  1554
 
 アメリカで見た映画で、いまでも鮮明におぼえているのは、日本映画の「愛のコリーダ」だった。日本で、はじめてファック・シーンが撮影された映画という。
 私は日本人として、この映画の公開にひどい恥ずかしさをおぼえた。ファック・シーンがあったからではない。きわめて程度の低い映画だったからである。

 劇場はほぼ満席だったが、映画の途中で、観客がゾロゾロ席を立って帰って行った。みんな、失望と、やるかたのない怒りを見せていた。ただ、黙って席を立った観客ばかりではない。スクリーンに向かって、大声で、「ジャパニーズ・ガール・キャント・ファック!」と罵声を浴びせる観客が何人もいた。

 私は、おそらくこの映画館にいたほんの数名の日本人のひとりだったはずだが、れいれいしく芸術作品と称してこんな程度の映画を撮った映画監督に対して怒りをおぼえた。
 私は、席を立たなかった。最後に、この映画の終映後、映画監督が挨拶すると聞いていたからである。

 たしかに、映画監督がステージにあらわれた。
 あろうことか、この映画監督は、銀色のラメのような生地で、まるでインド人のような服装で、舞台上手から緞帳の前に出てきて、残った観客に向かって、うやうやしく一礼し、おおげさに合掌してみせた。それも、日本人の行住座臥に、自然におこなう合掌ではなく、まるで横綱の土俵入のように両手を大きく肩の前につき出して、その手を胸もとでパチンと合わせるような大仰な仕種だった。私はあきれた。

 と同時に、この監督に怒りをおぼえた。以来、この監督にいささかも敬意をもたなくなった。名前は大島某という。

 おなじ、エロティックな映画監督でも、小森 白や、神代 辰巳の映画のほうが、大島某の愚作よりはるかにすぐれている。おなじように、エロティックなシーンを含む映画でも、ルイ・マルや、パゾリーニ、ズルリーニの映画のほうがずっと美しい。

 その日、私は別の映画を見に行った。不愉快な気分を癒すために。なんでもいいから映画を見たかった。どんな映画でも、「愛のコリーダ」以下ではないだろう。
 もう、私は何の映画を見たかおぼえていない。しかし、アメリカ人の観客といっしょに笑いながら見た。むろん、たいした映画ではない。しかし、たくさんの笑いが私の気分を明るくしてくれた。それだけでもうれしかった。

2014/03/14(Fri)  1553
 
 毎日のように活動写真を見た。見たことのない映画ばかりだったから。
 UCLA「バークリー校」には,キャパシテイー200、小講堂の映画館があって、日替わりでハリウッド映画、さらに世界各国の映画を上映していた。私は毎晩通いつめたので、モギリの女子学生が私の顔をおぼえてくれた。とても綺麗な女子学生だった。

 私が見たサイレント喜劇は,ビビ・ダニエルズ、リア・デ・プチ、コリン・ムーアなどの2巻もの。長くても5巻もの、7巻ものばかり。途中でフランスのルイ・マルの映画も見た。(むろん、これはサイレント映画ではない。)
 ある晩、市川 崑の「ビルマの竪琴」を見た。私は「俳優座」の養成所の講師だったことがあって、この映画には私のクラスにいた生徒たちがたくさん出ていた。
 いい映画を見た感動と、遠い異国で思いがけなく知人に再会したような感傷もあって、暗い座席で私は涙を流した。

  バークリー在住のレバノン人のレストランで。

   春日遅く 異国の店のシシカバブ

2014/03/10(Mon)  1552
 
 バークリーに行った頃の私は、映画女優、マリリン・モンローに関してモノグラフめいたものを書いていたし、もはや「戦後」でもなかった。私は、最初のアメリカ旅行中に、オスカー・ワイルドの戯曲をかかえて、ホテルで少しずつ訳していた。(これは、帰国後すぐに内藤 三津子女史の担当する「オスカー・ワイルド全集」(出帆社版)におさめられた。)

 バークリーに行った頃の句作を。

     春寒に 日替わりの活動写真見て

     フラッパーのサイレント喜劇に 春たけて

     メリケンの活動写真に 残る花

     霧のシスコ 坂の残花の 散るばかり

     はるばると来て見つ 花の水着美人

     サイレントの笑(え)まう女に 昼の月

 オペラを見て、サンフランシスコの、月の傾きかかった狭い街をとぼとぼと帰ってくるとき

     劇場の灯火消えて 春の街

2014/03/06(Thu)  1551
 
 私は、長いこと映画批評を書いてきた。
 そのせいもあって、アメリカでも、ほとんど毎日のように活動写真、映画を見た。たまたま、UCLAの「バークリー校」の小ホールで、毎晩、映画のクラシックを上映していた。さすがに映画発祥の国だけあって、日替わりで上映される映画は無尽蔵といっていいほどだった。
 私は毎晩通いつめたが、なんと私の原作を映画化した作品が1週間前に上映されていたと知って、残念だったことを思い出す。(日本では、今年になってはじめてDVD化された。)

 戦争が終わって、空襲の恐怖が去ったあとにやってきたのが外国の映画だった。旧作映画が映画館に氾濫したといっていい。
 戦意高揚を目的とした日本映画は、戦争が終わった瞬間まったく顧みられなくなった。戦後の大混乱と、はげしいインフレーションが、庶民の生活を直撃した。
 戦後、一番はじめに公開されたのは、「ユーコンの叫び」という3流の「リパブリック映画」だった。1945年12月。これは、戦前に輸入されながら、戦争のためにオクラになっていた映画で、映画としては、ほんとうにくだらない活劇ものだったが――たいへんな大当たりになった。
 なんといっても、敗戦直後なので、アメリカ人の国民性や、その気質、生活、ようするにアメリカに対する絶大な関心が、私たちを動かしていたせいではなかったか。

 そのつぎに見たのが「鉄腕ターザン」だった。戦前に公開されたが,そのまま倉庫で眠っていたフイルムを、戦後のドサクサのなかで配給業者がいそいで持ち出してきたものらしい。この旧作も、たいへんな大当たりになった。
 むろん、ジョニー・ワイズミュラー主演。再公開は1946年1月。つまり、お正月映画のハシリだった。

 その翌月から、アメリカの占領政策で、ハリウッド映画がぞくぞくと公開されるようになった。(イギリス映画、フランス映画の公開は、ずっとあとになる。当然、ソヴィエト映画の公開もさらにあとのことになる。もっとも、当時のソヴィエト映画は、ほとんど見るべきものもなかったはずだが。)
 アメリカ映画にかぎらず、外国映画に関心をもちはじめた私は、ストーリーのおもしろさもさることながら、映画で見るアメリカと、アメリカ人の生活を知ることに大きな関心があった。むろん、アメリカ映画に出てくる若い女優たちの美しい肢体に見とれたことのほうが多かったが。

2014/03/02(Sun)  1550
 
 ある時期まで私はアメリカ文学を勉強してきた。アメリカにも行ったことがある。そのアメリカでどこが好きかと聞かれたら、プロヴィンシァルな意味、サン・フランシスコをあげたい。
 もっとも、「ニュー・オーリーンズ」や、「ボストン」のチャールズ・ストリート、「ハックルベリ・フイン」のセント・ピーターズ・バーク、たとえば「ヨクナパトゥフア」(これは架空の土地だが)などを歩いたら、アメリカの印象もずいぶん違ったものになったはずだが。
 少し違ったいいかたをすれば、アメリカで美しい貞淑なブロンド娘、美しいけれど危険なまなざしをもつ、陰鬱で腹黒い女、あるいは、よく手入れされた口ひげの男たちにでも出会っていたら、私の俳句ももう少しダイナミックなものになっていたかも知れない。

   サン・フランシスコ雑詠

    美しき黒人娼婦よ 春の坂

    春に佇つ 黒 白 黄色 夜の花

    春浅く 足萎えの鳩の多きこと

    シスコには春の気配と 浮浪者と

    ホームレスひとり 坂の日を浴びて 春

2014/02/27(Thu)  1549
 
 まだ、寒い日がつづいている。
 高橋 淑子さんから、寒中見舞いをいただいた。その一節に、「わたしはほとんど隠居のように俳句などひねって暮らしています」とあった。これが、私の心を揺さぶった。私の境遇も、さしずめ横町の隠居のようなものだから俳句などひねってもおかしくないだろう。そんな気がしている。

しばらく前に……書いたのだった。
 「俳句や、歌舞伎、遊女のことなど、これまで書く機会がなかったテーマも、ときどき書くつもり」と。
 ただし、自分でもこれはと思う俳句などあろうはずはない。まして、人に披露するなど、聞かされる側にすればさぞや片腹いたいだろう。
 にもかかわらず、「横町の隠居よろしく」このブログで披露させていただく。

 題して「亜米利加紀行」。まずは、バークリー雑詠。

    シスコ湾(ベイ)の波のきららを横断す

    路上に遊ぶ 幼き姉妹の肌黒く

    黒人少女の眸(め)のきらめきも 春なれや

    杏咲く バークリーの街のたたずまい

    古書を買う バークリー 春のバーゲンセール

    春の路上 ノーベル賞学者とすれ違う

    春の朝 バークリーの起伏をジョギングして

2014/02/10(Mon)  1548
 
 昨年の歳末、杉崎 和子先生がアナイス・ニン研究会に私を招いてくださった。
 この研究会は年に何度かメンバーの方々が集まって、アナイス・ニンに関してそれぞれの研究成果を発表するという。

 私はたまたま日本で最初にアナイス・ニンを訳したというだけのことで,この研究会の集まりにお招きをいただいたのだった。杉崎 和子先生のご要望で、私はアナイスについて何か話をしなければならないことになった。
 私はアナイスの研究家ではないので、研究者の方々の前で話をするなど想像するだけでひるむ思いだった。

 ただ、私の周囲にもアナイス・ニンを好きな人たちは多い。その人たちに、あらためてアナイス・ニンについて考えてもらうことができるかも知れない。

 私は、立石 光子,谷 泰子,田村 美佐子,神崎 朗子たち、親しい作家の山口 路子に声をかけた。路子さんは、「軽井沢夫人」、「女神(ミューズ)」などの作品、あるいは、マリリン・モンロー、ココ・シャネルなどの「生きかた」のシリーズで知られている。路子さんは、日頃、アナイス・ニンへの愛,共感を語ってやまないひとり。彼女なら、現在の私がアナイス・ニンについて何を語るか,いささか関心をもってくれるかも知れない。

 むろん、短い時間にレクチュアするのだから、はじめから深いテーマを選ぶわけにはいかない。
 私は、16歳のアナイスが書きはじめた「日記」を読んだ。熱心に読み続けているうちに,ふとおもしろいテーマを思いついた。

 おそらく研究会のどなたも考えないようなテーマだろう。
 1915年、当時16歳の少女、アナイスは、どういう映画(サイレント)を見ていたのか。そんなところから、私なりの「アナイス論」を展開してみよう。

 現在、アナイス・ニン研究が、どういう展開を見せているのか私は知らない。私がはじめてアナイス・ニンを翻訳した頃は,わずかな文献上の資料があっただけで,モノグラフィー的な研究はまったくなかった。
 私が翻訳した時期、アナイスの「日記」もやっと1巻が出たか出ない時期で、ある程度まで、文学批評の対象として、その批判に耐えられる可能性をもった批評を書くことさえむずかしかったといえよう。
 そうした事情を考えながら,16歳の少女がどういう自意識をもって作家をめざしたのか、皆さんに考えていただくつもりだった。

 16歳のアナイスが書きはじめた「日記」は、今年、杉崎 和子先生の綿密なノートつきで刊行されるという。これはアナイス・ニン研究会の席上で伺ったことだが、私はうれしかったのと、アナイス・ニン研究が、杉崎 和子先生の努力で、ここまできていることに感慨をもった。
 そして、この日、山口 路子さんが、いつかアナイス・ニンについて書いてみたい、と語ってくれた。私は,この作家がアナイス・ニンをどういうふうに描くか、想像するだけで、うれしくなった。

2014/01/25(Sat)  1547
 
 少し長い引用を試みる。

 イサク・ディーネセンの短編集「最後の物語」(1957年)I、処女性検査のありようを美しく描いた話がある。

 この物語のトポスは、ポルトガルの深い山中にひっそりと建っているカルメル会女子修道院。物語はここに住んで、貴族の結婚の夜に用いられる純白の敷布を織っているなにやらあやしい歯のない女のナレーション。
 この敷布を軸に、ディーネセンは、処女性の証明、子を生むことの不安、貴族社会の虚飾、状況を巧みに描いていく。

 婚姻の夜、貴族の執事は、宮殿のバルコニーに王女の初夜の敷布を広げて人々に見せながら、作法どおりのラテン語で「ヴィルギネム・エアム・テネムス」(――われらは花嫁が処女であることを宣する)と告げる。

 こうした布は――と物語はつづく――けっして洗われることもなければ、再び使われることもない。中央の「ヴァージナル・ブラッド」についた染みは切り取られて、敷地内の農園で布用の亜麻をそだてる女子修道院へもどされ、美しい贈り物用の額に入れられて、修道院の回廊の壁に飾られる。
 それぞれの額の下には、小さな金の銘板がつけられている。

    しかし、長い額の列の真ん中に、ほかのとはちがう布がある。額縁はほかのもの
    に劣らず美しく、重く、そして誇らかに王冠を標した金の銘板があることも変わ
    らない。ただ、この銘板にだけは名前が刻まれておらず、額縁のなかの亜麻布は
    は隅から隅まで雪の白さで、空白のページ。

 イサク・ディーネセンの物語で、この空白のページが、大きな、そして深沈とした興味の対象となる。人目を引く形見の品――だが何の? 推量はされず、憶測もない。ディーネセンは、この汚れのない布をどう判断するかを語らず、女子修道院へ巡礼に訪れる貴婦人たちが、その額の前にじっと佇み、どのような思いにふけっているかの手がかりも与えない。

 単一の処女の肉体、処女の存在、処女の膣というものはない。疑問はただひとつ――この女性が処女かどうか、どうしたらわかる? 無数の解答がなされてきた。ミョウバン、ハトの血、尿、ミントやハゴロモグサの煎じ薬などで。表、グラフ、臨床写真などで。しかし、幾度それを刻みこもうとしても、どれほど紙にペンを押しつけても変わりなく、わたしたちには永遠に同じ空白のページが残される。

 私はこの部分を読んで、心を動かされた。感動したといってよい。
 私は、しばらく本を読むのをやめて、ディーネセンのことを考えた。むろん、何も答えはない。ただ、私は「空白のページ」を見つめていたのかも知れない。

 *「ヴァージン 処女の文化史」第六章 p.141
     ハンナ・プランク著
     堤 理華、竹迫 仁子訳
           

2014/01/16(Thu)  1546
 
   Mistakes are part of the price to be
  paid for a full life.

 ソフィア・ローレン。

 へえ、こんなことをいう女優だったのか。

 いいことばだと思う。

 「人生の終わりを間近にして、このままの状態で生涯を終わらせたくない気持ちが日に日に募ります」という老人の言葉が胸に残った。
 この言葉を聞かせてやりたい。

2014/01/09(Thu)  1545
 
 エレオノーラ・ドウーゼ、カタリーナ・シュラッツの時代から、さらに半世紀後の、メァリ・ピックフォード、リリアン・ギッシュの時代にも、天才的な子役は無数にいたに違いない。しかし、子役から、名女優、大女優になった人は極めて少ない。

サラ・ベルナールよりは年下だが、エレオノーラ・ドゥーゼ、カタリーナ・シュラッツと、ほぼ同年だった日本の俳優を調べた。

 市川 中車。エレオノーラ・ドゥーゼより、一歳年下。(中車といえば、最近、香川照之が二代目を襲名した。)
 この中車は、団菊時代の芸を、後輩の菊五郎(六代目)、羽左衛門、幸四郎、吉右衛門につたえた名優。
 中車が、子役の躾け方について語っている。

    私が仕込まれた頃の子役といふものは、コマッチャクレて器用な事でもすると、
    頭から嫌はれて了ひました。つまり子役は何処までも子役らしく、可愛らしくす
    るのが本格で、全体にあまりキチンとまとまり過ぎないやうに、是を分りよく言
    へば余り隅々まで行届いて、怜悧(りかう)が勝って小憎らしく見えるよりは、
    子供の可愛らしさを残して置いて、それでゐて極る所の正しいのをいいとしてあ
    りました。只さへ芝居の子役は年に似合はないませた台詞を言はせてありますか
    ら、どちかといへば生意気にならないやうに、少しは間延びのする位が、却って
    オットリとあどけなく見へるものなのです。それが近頃では時勢の故(せゐ)も
    ありませうけれど、子供の性根の置き所は放り出して了って、本人の腕一杯器用
    にも怜悧にも、動けるだけ動かせて見せる大向ふ受けを覘(うかが)ふやうなや
    り方は、結局小器用に悪達者に、小さく纏まって了ふ譯(わけ)で、所詮将来大
    きい役者にはなれないものなので、余計なお世話焼かも知れないが、真に困った
    事だと思ってゐます。

 単純に舞台芸術としての歌舞伎を、19世紀後半の、フランス、ドイツ、イタリアの芝居と比較するわけにはいかない。しかし、役者の「性根」の問題ならば、中車の「芸談」は、外国の「子役」の躾けにも、おそらく共通する。
 サラも、エレオノーラも、一座のなかで「何処までも子役らしく、可愛らしくする」ことを躾けられ、みずからもそれをめざしたのではないか。

 小器用で悪達者に小さく纏まってしまって、結果的に、大きい女優にはなれなかった例として、シャーリー・テンプルや、マーガレット・オブライエン、テイタム・オニールをあげてもいい。そのなかで、女優、ジョデイ・フォスター、高峰 秀子は例外といっていい。

 誤解されると困るので一言。私は、こうした女優たちを思いうかべて、過去をなつかしんでいるわけではない。
 2013年9月、テキサスで「ファンタスティック・フェスト」が開催された。映画、「コドモ警察」(福田 雄一監督)に主演した鈴木 福クン(9歳)が、喜劇部門の主演男優賞を受けた。
 私は、この鈴木 福クンや、芦田 愛菜チャン、その他たくさんのチビッコたちの将来を見つめているだけなのだ。

2014/01/04(Sat)  1544
 
 1939年、ドイツ軍がフランスに侵入し、フランスは降伏した。これ以後、フランス演劇の上演は、すべてドイツ占領軍の検閲を受け、上演の許可、不許可がきめられた。
 「アテネ劇場」のルイ・ジュヴェは、ジロドゥーの「オンディーヌ」をはじめ、すべての現代劇のレパートリーが上演不許可の処分を受けた。
 ドイツ占領軍の検閲官は、「オンディーヌ」のかわりにクライストの「ハイルブロンの少女ケートヘン」の上演を勧告した。ジュヴェは拒否した。このときから、ジュヴェは占領軍のブラックリストに載せられた。

 私はこうした事情を評伝「ルイ・ジュヴェ」(第五部、第一章)で書いた。そのとき、評伝には書かなかったが、クライストも読んだのだった。
 「ハイルブロンの少女ケートヘン」で登場したカタリーナに興味をもったのも、そのときだった。カタリーナは前途洋々たる女優だった。

 カタリーナは、フランスのサラ・ベルナールのような名女優にならなかった。イタリアのエレオノーラ・ドゥーゼのような大女優にもならなかった。

 1870年、プロシャ/フランス戦争の勝利で、ウィーンは、パリの位置を奪う。空前の繁栄がやってくる。

 だが、その後、ウィーンは、破局的な大不況に見舞われる。自殺が増え絶望、暗鬱な気分がひろがる。

 この気分を一掃しようとして、1873年、皇帝、フランツ・ジョゼフは、国立劇場に行幸して観劇。このとき芸術監督のラウベが選んだのは、シェイクスピアの「じゃじゃ馬馴らし」で、20歳のカタリーナ・シュラッツが主演。皇后、エリザベートから「たいへん美しく、私によろこびをあたえました」という言葉を賜った。

 これがきっかけで、少女は、なんと、皇帝フランツ・ジョゼフの愛妾になる。

カタリーナ・シュラッツはサラ・ベルナールや、エレオノーラ・ドゥーゼに劣らない才能にめぐまれながら、ついに大女優になれなかった。
        (つづく)

2013/12/28(Sat)  1543
 
 エレオノーラ・ドゥーゼから、これまた無関係なことを思い出した。いや、思い出したというより、ちょっと調べたくなった。

 サラ・べルナール、エレオノーラ・ドゥーゼと同時代のドイツの女優。
 ウィーンで、16歳で女優をめざしていた少女、カタリーナ・シュラッツ。

 この少女は、ある女流作家の部屋に寄宿して、キルヒナー・アカデミーに通い、女優をめざしていた。カタリーナは、マリア・テレジア女帝の皇太子、ヨーゼフ二世が創始した「ブルグ劇場」をめざしていたのだが、この劇場に入ることは皇帝・王立劇場専属俳優になるということで、俳優、女優にとっては最高の名誉だった。

 オーストリア/ハンガリー帝国は、フランツ・ヨーゼフ皇帝の治世で、政治的な記事は、厳重に監視されていたため、新聞、雑誌は、劇評、文学論に紙面を割いていた。高い教育をうけたブルジョワジーのヒーローは、政治家ではなく、芸術家、作曲家、俳優、女優たちだった。カタリーナは、ウィーンのジャーナリスト、作家、俳優たちと交際した。

 カタリーナが、ウィーンに登場した時期、キルヒナー・アカデミーや、ウィーンのコーヒー・ハウス、クラブで、もっとも話題になったのは、十八年にわたって「ブルグ劇場」の監督をつとめたハインリヒ・ラウベと、ドラマのセリフ、古典的な演技を教えたアレクザンダー・シュトラコシュの「演出」についてだった。「ラウベは神、シュトラコシュは予言者」といわれた。
 カタリーナは、このふたりの薫陶を受けた。やがて、彼女はベルリンの劇場と契約し、シラーの劇で初舞台を踏む。さらに、クライストの「ハイルブロンの少女ケートヘン」で、圧倒的な評判を得た。ある劇評は、「美しいブロンド、あどけない少女の表情で、第一声を発する前に観客の心をとらえた」という。

 どうして、こんな女優に関心を持つのか。私は、カタリーナが「ハイルブロンの少女ケートヘン」で登場したことに関心を持ったのだった。
        (つづく)

2013/12/26(Thu)  1542
 
この秋から、フランスの19世紀のものを集中的に読み続けている。

 系統的に読んでいるわけではない。もう二度と読むこともないだろうから、もう一度だけ読んでおこうか、そんな気もちで、気に入ったものを少し読む。
 「いずくへか帰る日近きここちして」かつて見た、映画をもう一度見直すようなものである。

 ミュッセに、「五月の夜」という詩がある。「ロミオとジュリエット」に、インスパイアされたらしい。

   La fleur de l'eglantier sent ses bourgeons eclore.

 上田 敏の名訳がある。

   はつざきのはなさうび、さきいでて

 さすがに、この詩の美しさをとらえている。この野ばらの花は、自分の芽が萌え出ることを感じている。そんなところが、上田 敏の訳にはある。

 19世紀の大女優、エレオノーラ・ドゥーゼは、ヴェローナで、「ロミオとジュリエット」を上演して成功した。まだ、14、5歳だったはずである。
 エレオノーラは、ヴェローナ出身ではないが、イタリアの女優にとって、ヴェローナで成功したことの意味は説明しなくてわかるだろう。
 「ロミオとジュリエット」は、ヴェローナの恋人たちの物語だから。

 最近の私は、そのあたりのことを調べている。

 「ロミオとジュリエット」は、グノーによってオペラ化された。この初演は、1867年、パリの「リリック劇場」だった。このオペラは、パリの万博の期間に発表されたため、たちまち大入り満員の盛況を見せた。これが、7月に、ロンドンの「コヴェント・ガーデン」で上演されて、イギリスをはじめ、ヨーロッパ各国で、「ロミオとジュリエット」が競演された。
 1873年のエレオノーラ・ドゥーゼの公演は、この「ロミオ」フィーヴァーを背景にしていた。そして、ヴェローナでの公演は、期せずしてバレエに対する演劇の反撃だったことになる。

 1867年というと、慶応3年である。

 孝明天皇、崩御。明治天皇、践祚。
 高杉 晋作、没。
 岩倉 具視、薩摩・長州とともに、討幕、王政復古を決す。
 坂本 龍馬、暗殺。

 こんな時代に、オペラ「ロミオとジュリエット」が初演されたのか。私は、この事実になぜか心を動かされた。
        (つづく)

2013/12/20(Fri)  1541
 
 次の授業のとき、小川 茂久は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」について質問した。このときも私は緊張していたので、小林 秀雄が何を話したのかおぼえていない。私はフローベールの手紙にあった詩について質問した。
 これは、良く覚えている。

 私のあとに久米 亮が質問に立って、
 「最近まで中支で、兵隊をやっておったものでありますが、召集解除になりました。小説を書きたいと思って、大学に入りました。小林先生にお伺いいたします。小説を書くために、必要なことがあるでしょうか。何か、秘訣というか、勉強のコツといったものでもあったら教えていただきたい」
 と聞いた。

 このときの小林 秀雄の答えが、先にあげた細川 半蔵の言葉によく似ていた。

 「小説を書くつもりなら、いつもいろいろなものを見ておくことだ。それをしっかり心にとどめておく。それが経験というものになる。そして、いつでもその記憶を思い出せるようにする。そういう記憶と経験を積んでおけば、何か新しいものにふれたとき、すぐに反応できるようになる。」

 小林 秀雄は、私たちに何をつたえようとしたのだろうか。私はプルーストを連想した。あとになって、小林 秀雄の思想は、アランや、ベルグソンに近かったのではないか、と思った。まさか、このときの小林 秀雄が、寛政の細川 半蔵を思い出していたとは思えない。
 少年の記憶だから、小林 秀雄のことばが正確にどうだったか、おぼえていない。しかし、この考えかたは私の内部にずっしりと残った。

 私の質問に対して、小林 秀雄が答えてくれた内容についても、いつか書くつもり。私は、そのことばを何度も思い出しては自分の世界を作りだしてきたのだった。

2013/12/14(Sat)  1540
 
 太平洋戦争の末期。空襲も激化していたし、戦況は悪化するばかりだった。むろん、大学での授業などあろうはずもない。
 昭和19年(1944年)私たちは、いわゆる勤労動員(戦時学徒動員令)で、三菱石油川崎製鉄所の石油精製工場で働いていた。
 私たちというのは、小川 茂久、関口 功、仁科 周芳(岩井半四郎)、進 一男、覚正 定夫(柾木 恭介)たちだった。なかには、中国戦線に配属されて、軍曹として復員してから、大学に入った久米 亮のように、すでに三十代に入っていた学生もいたが、ほとんどが二十代の若者で、文学書を、やっと読みはじめたばかりといった連中ばかりだった。

 その工場の一室で、小林 秀雄先生が特別に講義をなさることになった。

 小林 秀雄ははじめての講義のとき、何か質問はないか、と聞いた。私たちは緊張していたし、私などは小林 秀雄におそれをなしていた。たから誰も質問をしなかった。
 小林 秀雄は、
 「あ、聞くことがないのか」
 といい捨てて、あっさり帰ってしまった。
 文学の講義は、先生のレクチュアではなく、生徒たちが先生に質問して、それに先生が答える形式のものなのか。
 私は度肝をぬかれた。
 あとに残された私たちの間から、ため息のようなどよめきがもれた。

 小川 茂久は――せっかく工場まで授業にきてくれた小林 秀雄に何も話をしてもらえなかったことをしきりに残念がっていた。
 「中田、この次はきみも何か質問しろよ。おれも質問を用意してくるから」
 こうして次の講義のときは、何人かが質問を用意しておくことになった。質問する順番もきめたのだった。
        (つづく)

2013/12/07(Sat)  1539
 
 何かで読んだことばが、自分の内部に刻み込まれる。そのことばは、それだけで、しっかり心に根を張って、やがて、ほかのことばと重なりあってゆく。
 それは、いつか慣れ親しんで、自分の思想になるかも知れない。

 18世紀、それも世紀末の江戸に、細川 半蔵という人形作りの達人がいた。からくり人形を作ったらしい。
 からくり人形は、当時の日本の技術をささえた江戸の職人技術の最高の達成だった。
 その、からくり人形の最高の技術は歯車の創作で、西洋では、19世紀なかばになってから実用化されたインボリュート歯車とおなじものという。

 寛政8年(1796年)に、細川 半蔵が出した本に、精巧な和時計や、からくり人形の制作過程が記録されているという。私は残念ながらこの本を知らない。

 この本のなかで、

  多くのものを見てそれを記憶して心にとどめること。そうした記憶と経験が蓄積
  されたとき、新しいものにふれる心の機転が働く

 と書いてある、という。

 私はこの文章をメモしておいた。なぜ、こんなものをメモしておいたのか。いまとなっては、そのときの私の心の動きが自分でもわからない。しかし、こういうことばの正しさを、私は疑わない。
 そして、私は思い出した。
 戦争の末期に、小林 秀雄から聞いたことばだった。
   (つづく)

2013/12/03(Tue)  1538
 
 「宝島」には「動き」と「色彩」、そして、さまざまなコントラストが見られる。

 冒険小説としての「宝島」のテーマは「宝探し」が中心になっているが、地図に隠された秘密の解読、宝の争奪のサスペンスを成立させるために、スティーヴンスンはいろいろな作家から「借用」している。

 ワシントン・アーヴィングの「ビリー・ボーンズ」。「宝島」の冒頭の「小道具」や、オープニングの展開に、アーヴィングの影響が見られる。

 エドガー・アラン・ポオの「黄金虫」。「骸骨島」の名前や、海賊の「スカル・アンド・ボーンズ」の旗に。

 「ジョン・シルヴァー」の肩にとまっているオーム。これは、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」とおなじ趣向。むろん、「ロビンソン・クルーソー」の場合は、絶海の孤島に生きる男の孤独を慰め、かつ、孤独をつきつけるトリだが。

 海賊どもの唄に出てくる「死人の箱」(デッドマンズ・チェスト)は、チャールズ・キングズリから頂戴したもの。

 島の砦は、海洋ものの先輩作家、マリアットの「マスタマン・レデイ」。

 これに、スウィフトの「ガリヴァー旅行記」。

 チャールズ・ジョンソンの私記、「世にも悪名高き海賊/略奪・殺戮大概」の写本。

 今なら、こんな部分の利用だけでも、ジャーナリズムはスティーヴンスンの盗作として騒ぎ立てるかも知れない。
 スティーヴンスンは小説に必要な「雰囲気作り」のために、ごく一部を「利用」したとみていい。もとより「盗用」とか「パクリ」といったものではない。

 げんに、ポオにしたところで、「ゴードン・ピム」は、ベンジャミン・モレルの回想を粉本にしている。

 スティーヴンスン以後に、ライダー・ハガード、アーサー・ランサムなどの、少年冒険小説があらわれる。
 現代のファンタジーの、狭い空想の世界、神話的な衣裳の下にひそむおぞましくも卑小な恐怖のイメージより、19世紀の作家たちの、いきいきした空想と冒険のほうがずっと現実的、かつファンタスティックなのだ。

2013/11/29(Fri)  1537
 
 少年時代にスティーヴンスンの「宝島」に夢中になった。

 これまでに読んだ作品で、いちばん面白かったものをあげよといわれたら、少年の私は答えを拒否するだろう。いくらでもあげることがてきるから。それでも「宝島」は間違いなくベスト・テンに入るだろう。
 そのくせ、その後、スティーヴンスンの作品は読んだが、「宝島」を読み返したことはない。

 「宝島」を書いた頃のスティーヴンスンは病身だった。ある山荘に、両親、11歳年上の妻をともなって静養していた。たまたま、妻の連れ子のロイドが、休暇で、この山荘に戻ってきた。
 ある雨の午後、スティーヴンスンはロイドと、いっしょに絵を描くことにした。その絵は、「地図にない島」だった。空想の地図だけではなかった。その「島」に繁茂している森林を描いているうちに、その「島」に上陸しようとして入江に姿をみせる帆船(スクーナー)や、「島」に隠された秘宝をめぐってあらそう海賊たちの剣のきらめきを描きはじめた。

 スティーヴンスンは、その「島」を「宝島」と命名することにきめたが、絵を描いているうちに、空想がどんどんひろがって行って、「島」に上陸した海賊船の船長、「ジョン・シルヴァー」の姿がはっきりしてきた。
 すぐにも、小説を書きはじめたい気もちがしきりに動いたという。

 作家は、誰しもこういう瞬間を経験することがあるだろう。私のようにかぎりなく無名に近いもの書きでも、そんな心の昂りを知っている。自分でも思いがけないテーマにぶつかって、一瞬書いてみようか、と心が動く。つぎの瞬間には、まず不可能だろうという抑制が働くことが多いのだが。

 スティーヴンスンがまず「島」の地図を描いたことが、私の興味を惹きつけた。
 それと、「ジョン・シルヴァー」というキャラクターの設定はどこからきたのか。
 ある作家が、あるアイディアを実現してゆくプロセスを想像することも、批評のダイナミックスの一つ。私の関心はそのあたりに集中していた。
     (つづく)

2013/11/22(Fri)  1536
 
 これはもう何度か書いたおぼえがあるのだが――少年時代の私は、架空の島を想像しては紙に描くのが好きだった。

 地図にない島。
 その島には、山や川があったし、崖が海辺に続いているかと思えば、リヤス式の複雑な海岸線があって、季節風が吹きつけると、海辺に魚の大群が押し寄せたり。小さな島なのに、そこには誰も行ったことのない(つまり、地図上で空白のままになっている極地や、砂漠など)人跡未踏の秘境があったり。

 その渚には、ヤシや、火焔樹が、いのちの氾濫を見せているかとおもえば、別の地帯には、狼や、北極熊、キリンが、群れをなして移動していたり。

 およそ荒唐無稽な「島」だが、そのなかに小さな都会があって、劇場や映画館があったりする。もっと重要なことは、交通手段であって、一つの都市から、別の都市まで、鉄道が走っている。その沿線には、温泉があるかと思えば、滝や吊り橋、洞窟もある。

 この島には、ほとんど誰も住んでいない。したがって、混沌たるカオスから、暗い冥界(エレボス)や、夜(ニュクス)が生まれることはない。にもかかわらず、大気(アイテール)と、昼(ヘーメレー)の世界なのだ。

 たあいもない空想の島だったが、少年にとっては、さまざまな空想を思うさま羽ばたかせることができる場所だった。その地図を描いている時間は、自分の日常とは違って、うきうきするような、ディヴェルティスマンの時間だった。

 少年の私は、マンガの「冒険ダン吉」から、南 洋一郎(池田 宣政)の少年小説、やがて矢野 龍渓の「浮城物語」、さらには「ロビンソン・クルーソー」や、「宝島」、やがては、ジュール・ヴェルヌ、ハーマン・メルヴィル、マーク・トゥウェンなどを読みふけるようになったのは、ごく自然なことだったと思われる。
    (つづく)

2013/11/14(Thu)  1535
 
 和田垣先生は、つづいてメーテルリンクをあげて、

 「あだし仇波 やるせなき 沖にただよう 捨小舟」的の惨憺たる逆境を巧みに描出して、読者をしておぼえず暗涙にむせばしむる。」
 という。さらに、「ベリアスとメリサンド」という歌劇のために、「デブシイ」(ドビュッシイ)の作った楽譜を聞け。いわゆる「怨むが如く、慕ふが如く、泣くが如く、訴ふるが如く」嫋々として尽きざる余情に富んでゐて(中略)、さなきだに神秘的なる歌劇は、更に神秘的なる雰囲気を加へてゐるではないか」という。

 明治末期の日本人の印象派・理解が、これほどのものだったことに私は感動する。同時に、現在の私たちの考えとは違う、性急な、誤解とはいえないまでも強引な理解に気がつく。

 私は、このあとの和田垣先生の記述にとくに注目する。

     また悲劇に於てはヂュース(Duse)とサラー・ベルナール(Sarah
    Bernhardt)とを比べて見よ。舞踏に於てはダンカン嬢(Duncan)
    とデニス嬢(Denis)とを比べて見よ。舊派と印象派との相違は顕著で、
    眼あるものは之(これ)を観分け、耳あるものは之(これ)を聞き分けるであら
    う。即ち前者は無闇に舞台を飾り立て、大袈裟な衣裳や、型や、科(せりふ)や
    を用ひて、一挙手一投足の微細なる点まで多大の注意を払ふのに汲々としてゐる。
    然るに、後者は具象的の型や、姿勢やには重きを置かず、主として肉眼よりは
    心眼に訴へて、不用意の中に観客をして暗示によって或る物を感得せしめねば止
    まない。一は菊五郎的、手芸的、一は団十郎的、腹芸的である。具象的の形骸を
    離れて、一種微妙なる芸術的、精神的、感興的打撃を与へずんばやまない。かく
    彼らは従来の古典的臭味を脱して、いわゆる印象派的の新呼吸、新生命、新趣味、
    新精神を伝へんとするのである。    (「西遊スケッチ」大正四年)

 この和田垣先生の解釈は、現在の私にはまったくの誤解に見える。

 遠く時代をへだてた先達の誤りをいいたてて、貶しめようというのではない。この和田垣先生のエレオノーラ・ドゥーゼ、サラ・ベルナールの比較、ひいては印象派、レアリスムの理解には、じつに微妙な視差があることに気がついたのだった。
 私としては、できれば近い時期にそれを検証してみたいと思っている。

 和田垣 謙三に対する敬意をこめて。

2013/11/10(Sun)  1534
 
 和田垣先生は、ベル・エポックのパリを見物した日本人で、印象派についてもっとも早く紹介をした人物だった。

 先生いわく――印象派は、もともとは絵画の一流派の一用語に過ぎなかったが、その後、より広く、より大きな意義をもつようになった。
 「今日では之(これ)を広義に解すると、殆ど一切の現代思想を包括してゐるといっても可い位、即ち、文学にも、美術にも、その他、教育、宗教、社会、政治等にも之を応用するものがあるに至った」という。
 そして、先生はゾラを引用する。

 「印象主義は事物の真を写し出すに当り、之を周囲(ミリュー)の中に置いて、その微細なる点は之を描かず、周囲を描いて観者に強烈の暗示を与へることに努力する。」と。
 これいわゆる「此時無声勝有声」(このとき声なくて、声あるにまさる――中田注)である。千言万語の雄弁は銀にして、無言却ってこれ金なりである。」

 という。
 ここから、イギリスのジョージ・エリオットと、キプリングを比較して、前者は、「きわめて微細なる点までも微細に叙述して」いるのに対して、後者は「全てを語らずして、つとめて読者の想像力に訴え」ている、とする。
   (つづく)

2013/11/08(Fri)  1533
 
 和田垣先生は、東大で教鞭をとられたが、農大の教授に転じられたらしい。きっと、おもしろい講義をなさったのだろう。

 神さまと悪魔が、腕くらべをやった。

 神は、バラの花を作り、黄鳥を作り、男を作った。
 これに対して悪魔は、イバラを作り、オウムを作り、女を作った。

 花鳥においては、神の作ったものがすぐれていた。しかし、人間を作ったときは、悪魔の作った女人の美は男よりもずっとすぐれていた。

 神さまは負けた。くやしまぎれに、神さまは叫んだ。
 「今にきっと思い知らせてやるぞ、おぼえておけ」

 女性の美しさは、たしかに美そのものだが、男性に比して女性には悪人が多い。アダムをそそかして、罪を犯させたイヴをはじめとして、犯罪の蔭に女ありというではないか。

   「以上は仏国(フランス)の或るwoman−hater から聴いた話であ
    るが、女無くては夜の明けぬ仏国に於てかかるこちを耳にしたのには一驚を喫
    せざるを得なかった。」

 和田垣先生のオトボケだろう。

 「清貧」と題した一首がある。

   持てばモテ 持たねばモテぬ 世の中に
    持たねどモテる 人ぞたふとき(尊うとい、貴うとい)

 和田垣先生の述懐かも知れない。

2013/11/04(Mon)  1532
 
 和田垣 謙三先生の随筆を読んでいて、こういう俗謡にぶつかった。

  「竹に雀は しなよく とまる とめてとまらぬ色の道」

 これを、英国の粋人、J.J.C.クラークが訳した。

  The sparrows perch on the bamboo tree,
                           And fly away,
  But 0nce perchs upon my heart,
                    ”T is there forever,

 この訳は、「家庭のミスター&ミセズ・ジャパン」という本に出ているとか。

 随筆を書いたのは、経済学者の和田垣 謙三。万延元年(1860)〜大正8年(1919)。草創期の東大、経済学部の基礎を作ったえらい先生。
 先生は「その訳し方は如何にも大胆なれども、free translation としては、絶妙なり」と評されている。

 和田垣先生は、英、仏、漢の語学の大家で、ご自分でも、和歌、俗謡の英訳を試みていたらしい。粋な学者だったのだろう。訳例をあげてみよう。

   「鐘が鳴ります 上野の鐘が 引いた霞の消えぬほど」

  How soft sounds the bell,・・・
  The bell of Ueno Hill,
  So soft as not stir
  The haze that overhangs the Hill.

  ついでに、もうひとつ。

    別れの風だよ あきらめしゃんせ
          いつまた逢うやら 逢わぬやら

  Farewell my love! What a cruel breeze
 that parts us asunder!  ’Tis fate deci−
 des our destinies;be resigned,my love!
  When shall we meet again or shall we
 never? Farewell once more,my love!

 昔の学者はえらいなあ。私など、足もとにも及ばない。   (つづく)

2013/10/30(Wed)  1531
 
 オリンピック開催前に、国交省と東京都は、永田町の国会議事堂の標識をあらためる、とした。
 「国会前」は、KOKKAI から THE NATIONAL DIET に変更されたという。
 東京メトロのホームでは、Kokkai−gijidomae というローマ字表記なので、これも変えられるだろう。

 私は標識の改正に反対はしない。ただし、わかりやすくするためには、定冠詞のTHE は、少し小さくして、NATIONAL DIETという概念がはっきり分かるようにしてほしい。
 そして、ローマ字表記は、日本語の発音に近いものにすべきだと考える。
 「青梅」をOMEとした場合、外国人の発音は私たちの耳には、「おーめ」とは聞こえない。日本語の発音に近くするためには、遠慮なくアクセント記号を使うべきである。
 ハイフン、アクサンテギュ、アクサン・シルコンフレックス、ウムラートなどの使用は、必要なのだ。

 今度の標識の改正で、東京は、また変わって行く。

   ”A Londoner is in it,about it,but not
   of it,London is only a name,a mass of
   building or the network of thorough−
   fares.”

   右は、英人が倫敦ならびに倫敦人について言へる所なるが、移して以て東京ならび
   に東京児を評すべし。往時の江戸趣味なるものは日を追うて滅却し、今日の東京は
   東北または西南より闖入したる田舎者の集合地のみ。趣味は田舎的に成下がれり。
   これ勢の免るべからざる所か。

 もし和田垣 謙三先生にして、七年後の東京を見そなわしたまうて、いかがおぼしめすや。

2013/10/28(Mon)  1530
 
 数年前のことだが、地下鉄の神保町で、フランス人の旅行者に道を聞かれた。私のカタコトの外国語でもなんとかつうじたが、地下鉄の路線系統図はわかりにくい。しかも、とっさに切符の値段がわからない。江戸ッ子の私のほうがうろたえた。

 例えば、地下鉄の標識や、地名。

 TOCHO
 SORIKANTEI MAE
 KOKKAISEIMON

 こんなものが、外国人にわかるはずがない。
 在日外国人でも、TOCHOを、すぐに「都庁」と理解できる人は少ないだろう。
 そこで、オリンピック開催を機会に、英語にしようということになった。

 都庁は TOKYO METROP0LITAN GOVERNMENT OFFICE
 総理官邸前は PRIME MINISTER’S OFFICE
 国会正門前は NATIONAL DIET MAIN GATE になる。

 意味はわかる。しかし、私のように高齢者には、ひどく読みづらい。

 通り、街道も、外国人にわかりにくい。
 KANETSU JIDOSHADO
 OME KAIDO
 これを、KANETSU AUTO−MOBILE WAY
 TO OME−KAIDO AVE.
 としたところで、ゴチャゴチャしてわかりづらい。

 私は、標識の英語化に反対ではない。しかし、1986年の「改正標識令」の様な、機械的なアルファベット併記の指示が、実情を無視したものだったことを肝に銘ずべきと考える。
 このとき、ローマ字化、英語訳に統一的な基準をきめなかったため、
 HIBIYA PARK
 AOYAMA DORI
 などという混乱を招いた。

 今度の標識の改正には、もう少し、頭を使ってもらいたい。
   (つづく)

2013/10/24(Thu)  1529
 
 この夏、2020年のオリンピック/パラリンピツクの開催地を選ぶ国際オリンピック委員会が、ブエノスアイレスで開かれて、その投票の結果、東京が開催地にきまった。

 私は、たまたまテレビで、決定の瞬間を見ていた。IOCのロゲ会長が、大きなカードを見せるまで、場内が静まり返っていた。そのカードにTOKYOの文字があった瞬間、場内にいた日本人関係者たちが、歓声をあげて抱きあったり、フェンシングの太田 雄貴選手は感きわまって泣きだした。
 日頃、私はああいう熱狂(アントゥジアズム)に、あまり心を動かされない。古い日本人のタイプなので、恥ずかしさが先に立つ。ところが、このときばかりは感動した。
 招致関係者の中にいた滝川 クリステルも、この決定に感激して、顔をくしゃくしゃにして跳ねまわっていた。
 美女は、顔をくしゃくしゃにしても美女なのだと思った。

 東京は、イスタンブール(トルコ)、マドリ(スペイン)と選考にのぞんだが、マドリが、最初の投票で落ちた。最終選考で、イスタンブールを60票の大差で引き離し、開催地にきまった。

 その後、色々なことが、いっせいに動き出した。これから七年後まで、オリンピック・フィーヴァーはつづくことになる。
 その一つに、地名標識の英語化がある。
        (つづく)

2013/10/18(Fri)  1528
 
 もう、すっかり秋になっている。だから、今年の夏の悪口を書く。

 あるエッセイスト(女性)から手紙をいただいた。その一節に、

   今年の夏はどえらい奴でした。
   私は暑さマニアなので、冷夏とかだとしょげてしまいますが、さすがに今年の夏
   は少々バテました。

 とあった。私ははじめからバテて、夏という季節に悪たれをついていた。

 じつは、この手紙をくれた彼女とおなじように、私は以前から夏が好きだった。長い仕事はたいてい夏場に書きはじめた。だから夏になると、きまって長い仕事にとりかかって、汗まみれになって仕上げたものだった。
 今年の夏も、少し長いものを書きはじめたのだが――あまりの暑さで何も書けなくなった。夏のバッキャロめ。去年の夏は、せいぜいバーローぐらいだったが。

 大ベラボーのコンコンチキめ。本も読めやしねえじゃねえか。

 バーローぐらいの夏だったら、仕事ができなければ、絵でも描こうか、などと思ったものだが、今年のバッキャロは、こっちがクタバっちまう気さえ起きない。ただ、もう炎熱地獄を這いずりまわっていた。

 まったく、今年の夏はどえらい奴だった。

 そんな夏場に、ある作家(女性)から手紙をいただいた。いよいよ、新作にとりかかるという。

 私が快哉の声をあげたのは、いうまでもない。この女性作家は蒲柳の質で、小説を書きはじめると、「書けないんです」とか「才能がないんです」とか、独特のラメンタリシ(なげきぶし)を歌いつづけながら、きっちり書きあげてしまう不思議な作家であった。 その彼女が、まさにジョクショ(ムシムシと暑苦しい)にあたって、あらたに創作の筆をとる。爛燦たる気象、ほむべし。この作家の決意のときに立ち会うことができたのは、大いなるよろこびであった。

 老耄(ろうぼう)、来者(らいしゃ)なお追うべし。(ボケ老人も、あとをついて行こう)。

 ようやく、私も少し元気になった。

 そして、もうひとりの友人(女性)が、出たばかりの訳書を送ってくれた。午後に届いたので、すぐに読みはじめて、夜の7時半には読み終えた。最近のボケ老人にすれば、驚異的なスピードである。読みはじめたら、おもしろくておもしろくて、一気に読み終えることができた。
 なんといっても、翻訳がすばらしい。

 11歳の少年が、たったひとりでコロンボからイギリスに渡航するだけの話だが、最近こんなに感動した小説はない。マイケル・オンダーチェという作家の力量の大きさに感心した。「イングリッシュ・ペーシェント」の作家と知った。

 この本を読んで、ようやく秋の気配が感じられた。

    わが待ちし秋は来ぬらしこのゆふべ 草むらごとに虫の声する

 良寛さんの歌。

 私は、青息吐息ながら、やっと自分の仕事に戻っている。

2013/10/13(Sun)  1527
 
 自分の生活にまるで関係のないニューズだが、ブログに書いておく。

 1977年に、アメリカの宇宙基地から「ボイジャー」が打ち上げられた。木星、土星の観測が目的だったらしい。

 その「ボイジャー」が、昨年(2012年)8月、太陽圏を飛び出して、星間空間という、未踏の空間に入ったと発表された。(2013年9月22日)
 こういうニューズははじめから私の想像を越えているのだが――いろいろなことを連想してワクワクした。

 まず、太陽圏について。太陽が放出する帯電性の、しかも超高速の粒子(太陽風)が届く範囲という。これも、私には想像もできないが、半径が180億キロメートル。
 すごい距離だなあ。
 「ボイジャー」1号は、その180億キロを越えて、時速6万キロで、190億キロあたりを飛んでいる。

 星間空間というのは、恒星と恒星のあいだにある空間。太陽の光もほとんど届かない。そこにあるのは、水素ガスや、なんだか知らないけれど、チリみたいなものがチョッピリあるだけ。
 ただ、太陽風がないため、宇宙のどこかから飛んできた電子が無数に飛び交い、その密度は太陽圏よりもずっと高い、みたい。
 太陽から数兆キロ〜〜十数兆キロの場所に「オールトの雲」という領域がある。
 ここが、太陽系の果て。

 「ボイジャー」1号は、もう動力が尽きて、惰力で飛びつづけている。
 通信用の電池も、2025年頃にはオシマイ。

 「ボイジャー」1号は可哀そうだなあ。

 そうやって、必死に飛びつづけて、「オールトの雲」のへりにたどり着くのは、300年後。その領域を通って、ついに、太陽系を走り抜けるのは3万年後。

 300年後に、きみのことをおぼえている地球人はいないだろう。

 私がワクワクするのは――3万年から以後に、ひょっとして別の宇宙人が、きみを「発見」した瞬間なのだ。その宇宙人は、きみを見て何を考えるだろうか。なんという幼稚なオモチャだろうか、とあきれるだろうか。あるいは、3万年か、4万年ぐらい前に、別の宇宙の下等生物が、こんなヘンなモノを送ってきたと判断して、さっそく返事をしようと、何かお返しを送ってくるだろうか。

 それが地球に届くのに、また3万年か4万年ぐらいかかったら――

 才能があれば、短編でも書いてみたいところだが。

2013/10/07(Mon)  1526

 暑い夏がつづいていた。
 ある日、藤 圭子の訃報を聞いた。(8月21日)
 西新宿 の高層マンションから飛び降り自殺した模様。

 彼女が死ななければならなかった事情は知らない。知る必要もない。だが、夏に死を選ばなければならなかったことに胸を衝かれた。

 藤 圭子と面識はなかった。彼女のファンでもなかったが、テレビの放送で新潟に行ったとき、たまたまいっしょになった、というだけである。
 美少女だった。

 はじめて、藤 圭子の歌を聞いたのは、「新宿の女」(70年)だった。暗いトーンをもった女の子が出てきた、と思った。時代が暗かったわけではない。むしろ、狂騒の時代と見ていたので、時代の空気に同意しないような藤 圭子の歌は、シャンソンでいえばシャントゥーズ・レアリストの歌のような気がした。
 たいていの演歌歌手のコブシや、ファルセットーなどと違って、藤 圭子の特質は、もっと成熟した才能といったものではなかったか。彼女に近いシンガーとしては、ちあきなおみ、梶 芽衣子とおなじ、シャントゥーズ・レアリストに属する。
「さいはての女」や「知らない町で」といった歌は、あてどもなくさすらう女の漂泊のモノローグだったと思う。
 少女時代の藤 圭子が、貧しい暮らしをつづけていたことを知った。小さい頃から、目の不自由な母親といっしょに、流しで歌っていたという。幼い頃から、地方巡業をつづけていた。地方巡業といえば聞こえはいいが、ドサまわりだったのだろう。
 おそらく人にいえない苦労もあったに違いない。

  五木寛之のコメント。
 「デビュー・アルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。「演歌」でもなく、「艶歌」でもなく、間違いなく「怨歌」だと感じた」。

 私は、五木寛之論めいたものを書いたことがある。その中で、五木 寛之の、藤 圭子評価については、ほとんどふれなかった。そういう角度から、五木 寛之を論じてゆくのは私にはむずかしかった。
 五木 寛之が、藤 圭子の「怨歌」に高い評価をあたえていることは知っていた。五木 寛之が、藤 圭子について、「演歌」でも「艶歌」でもない、「怨歌」だという見方を語っているのを知って共感したことをおぼえている。

 藤 圭子は私たちの前から姿を消した。

 私たちは、彼女の死とともに多くのものを失ったような気がする。

 不謹慎だが、アメリカにいる宇多田 ヒカルは母の死をどう聞いたのか、そんなことを考えた。そして、歌手としての藤 圭子が、もう少し「艶歌」でも「怨歌」でもいいから歌いつづけてくれればよかったのに、と思った。私は、藤 圭子の選んだ死は、ヘミングウェイや、マリリン・モンローの死に近い「困難な死」だと考える。
 なぜか、香港のスター、レスリー・チャンの死を連想した。

 今はただ彼女の冥福を祈りたい。

2013/10/02(Wed)  1525
 
 私のブログ、わずかな期間、インターミッションがあった。

 ある日、「コージートーク」を書こうとして、マシンを起動させようとした。いつもは素直に応じてくれるのに動かない。フリーズしている。
 おやおや、きみは、すこしご機嫌がよくないらしいね。

 動かない。

 おい、どうしたんだい? 不安になった。どうしても動かない。

 ヘッ、てめえも、とうとうヘバっちまったか。

 しばらく、ガタガタやっているうちに、ワォ、やっこさん、息を吹き返した。やれ、うれしや。

 ついさっきまで書いていた文章のつづきを出した。と、私は驚愕した。
 何もない!
 私は、太陽系から離れて、ただ暗くひろがる無限の空間のなかに放り出された「ボイジャー」のように、立ちつくしていた。

 この二日、ぶっつづけに書いていた文章が、全部、消えていた!

 ウソだろ? こんなことがあっていいのか! ショックだなあ!

 もともと機械オンチである。アナログ人間。いや、それどころか、江戸でいえば、鈴木 春信から英泉あたりに生きているアナクロ人間といっていい。
 <iPhone>の新型機種の発売に、三日前から並んで、一刻も早く手に入れようとするような情熱が皆無。だが、アナクロ人間に特徴的なショック反応と見るのは、正確ではない。
 私のショックは、ノン・デジタル人間の、本能的、かつ、伝統的な状況がつくり出す感情的な距離なのだ。
 逆にいえば――デジタル人間のみなさんは、私の立場に身を置くことはもとより、私の身に起きていることを想像することさえできない。

 消えたのは、原稿用紙で、40枚程度。ま、この程度で済んだのは、不幸中の幸いというべきだろう。ずっと昔、まだワープロなるマシンが世の中に存在していた頃、私は、あるテーマで、長い原稿をワープロで書きはじめた。十二章ぐらいまで書き進めていたとき、誤操作で、7章を消してしまったことがある。
 このときほど、おのれの愚かさを呪い、おのれの運命のつたなさを嘆いたことはない。
 私はこの打撃から回復できず、その本を書くのをあきらめた。

 今回、消えたのは、原稿用紙で40枚程度だったから、書いた内容は大まかに頭に残っている。すぐに書き直そうと思ったが――やーめた。(笑)

 そりゃまたなぜに。
    たとえ、ブログが止んだとて、
 堪忍、信濃の善光寺。
    牛のよだれの山門に
 ウソを築地のご門跡(もんぜき)。
    なんと、このシャレ、古いこと。
 その上、wit もないとあれば、こりゃどうしたらよかろうぞいな。
    聞けば聞くほど、みっともねえ。ブログを書いては、後日の難儀。
 はてさて、何も気づかいなこたあねえ。
    ト、思い入れ、
 まず今日(こんにち)はこれぎり。(笑)

2013/09/15(Sun)  1524
 
 青山 孝志は、1968年(昭和43年)に亡くなっている。享年、42歳。
 その年の9月、詩人、諏訪 優編、「青山孝志詩集」(思潮社)が出た。その付録に、私は追悼を書いている。

   青山孝志が亡くなったと聞いて、暗然たる思いと哀惜の念にとらえられた。
   死がわれらを隔てるより前に、青山と私はおたがいに、あまりにも遠く離れてし
   まったが、かつて青山を知り、彼と文学上の同志だったことを、私は終生忘れな
   いだろう。
   戦時中に青山と相知ったが、当時の彼は堀 辰雄に私淑し、プルウスト、コクト
   オの世界を憧憬していた。あの苛烈な日々、彼があれほど繊細な作品を書きつづ
   けていたことが、現在の私に深い感慨を強いる。
   当時、私たちは、彼こそやがて詩人として名をなすであろうことを疑わなかった。
   だが、おそらく彼は不遇であった。それにしても詩人における不遇とは何か。も
   はや蕪雑な措辞しか用いられぬ時代に、なお詩人たる者は、わるびれもせず、傷
   つきもせず、恐れも抱かぬ人間として生きるだろう。すなわち、不遇とは、詩人
   にとって意味をなさない。
   彼の遺作集は、まぎれもなく詩に生きた青山孝志の魂の美しさをあますことなく
   物語っている。

 友人の死を悲しむ思いはわかるが、何ほどのことも語っていない拙劣な文章だった。

 つい最近、書斎を整理していて、戦後すぐに、青山 孝志にあてた手紙を見つけた。

 自分のハガキを公開するのはおこがましいが、青山は、戦後すぐに、私に映画論めいたエッセイを書かせようとしていたらしい。その思い出が、胸にふきあがってきたので、恥をかえりみず、ここに引用しておく。

   JULIEN DUVIVIER論は、”La Fin du Jour”を
   見なければ書けません。坂田(多岐 淳)が編集で、演劇・映画特集だそうで
   すから、それに書きたいと思います。
   LOUIS JOUVET論は、書くところが別にありますから。「駿台論叢」
   のために、「映画俳優としてのLOUIS JOUVET」といふのを書い
   てもよいのですが。
   親愛なる友よ、君の返事をまっております。

 ひどく粗末な紙質のハガキで、切手がはがれているので日付はわからない。おそらく、1946年1月か、2月と思われる。

 当時の私は、大宮市大成に住んでいた。

 戦後すぐの私はてあたり次第に映画を見ていた。「旅路の果て」 ”La Fin du Jour”は、戦前(1938年)の作品だが、戦前の日本では公開されず、戦後になって公開されている。むろん、敗戦直後の日本では公開されなかった。
 ただ、戦前の日本に輸入されていたことを知っていた私は、ただ、ひたすらこの映画の公開を待っていたのだろう。
 ルイ・ジュヴェについて、「書くところが別にある」と書いているのは――戦後すぐに親しくなった野間 宏の紹介で、「大学」という雑誌に発表した「ルイ・ジュヴェに関するノート」という短いエッセイをさす。
 このエッセイが――半世紀の後に、私が書いた評伝「ルイ・ジュヴェ」の最初の試みになる。

 青山の生涯とおなじだけの42年の歳月をへて、彼のことを思いうかべる。私たちがはじめて文学にめざめた戦時中、そして敗戦直後の日々が、まるで昨日のことのようにあざやかによみがえってくる。

 こんなハガキから、私が青山 孝志に、ルイ・ジュヴェのことを語っていたことが想像できる。未決定の将来に向かって歩みはじめようとしている若者の希望と、はるか後年のその実現がどんなにささやかなものだったか。
 感慨なきを得ない。

2013/09/10(Tue)  1523
 

 もう1編、「青山孝志詩集」の最後の詩を引用しておきたい。

        羊飼いの娘

    ……雨に洗われて、牧場のみど
    りは生き返ったが、そのかはり、
    一匹の羊が、天使の掌に盗まれて
    いった、それを弔うように、牧草
    は、真白な花を咲かしつづけ……
    そうして、その日から……

      優しい羊飼いの娘は、重たい布団
      のなかで病んでいた。
      <あのね、肩をおさえて! 肩が飛んでゆきそうなの>
      と、何度もうわ言を繰返しながら。……
      そういう少女を、折からの高熱が、するすると、日
      だまりの夢想の国へ運んでいった……。

    そこは、ひろびろとした谷間で
    あり、風に騒ぐ樹々の葉ずれが、
    笑い声のように奇矯に聞こえるほか
    一日は何事もなく一日につづき。
    …………

      遠くには、湖が光り、十字架が
      見え、何やら白いものが、少女を
      差招いていた。あたかも羊の霊魂
      のように。

        そのとき、突然、湖畔の教会か
        ら御告げ(アンジェラス)の鐘が鳴りわたり、少女
        の歩みを止めさせた。水晶のよう
        に澄んだ空間をよぎりながら、鐘
        の音は、不思議な一つの言葉を、
        少女の耳に伝えたから。
        …………この夕べ、お前は、胸に白
        鳥(スワン)を抱け! と…………

      気がつくと、少女の枕もとには、
      アンデルの本が置かれ、美しい白
      鳥の挿絵が、風にめくられていた。
      そうして、その絵のなかの、快い
      白鳥の遊泳のように、少女は、病
      んだまま、自らの成長の道を辿っ
      ていた。…………

 1963年(昭和59年)の作品という。

 私は、青山 孝志と親しい時期があったが、こういう詩を好まなかった。どうして、こういう詩を書くのか、わからなかった。私は、青山 孝志のセンチメンタルな少女趣味として、こういう詩を認めなかった。

 私の好きな女たちは、たとえば、「マルタの鷹」の「フリジット」のように、優雅で、自尊心をむきだしにする高貴で邪悪な女。あるいは、優雅で、洗練された人生とペルソナで、「フィリップ・マーロー」に劣らない勇気をみせる「アン・ライアーダン」。

 だから、堀 辰雄に私淑し、立原 道造、津村 信夫に親しんでいた少年らしい、繊細な詩に心をひかれることはなかった。

 青山自身、病んだまま、自らの成長の道をたどっていた若者だったから、いつもプシケーのような「少女」を夢みたのだろうが、しかし、いまや、老残の身となり果てた私は、青山 孝志の繊細な詩、そこにあらわれる少女になぜか慰められるようだった。
    (つづく)

2013/09/06(Fri)  1522
 
 青山 孝志は、明治の同級で、私の親友だった。

 1945年5月の大空襲で本郷・曙町の邸宅が消失、四国、愛媛県越智郡弓削村に疎開していた。私は知らないのだが、弓削島という島だつたのではないか。
 そして、敗戦を迎えた。その10月には家族とともに、北多摩の小平町野中新田に戻っていた。私は、その青山あてに、ハガキを出したのだった。

 私の一家は、本所で戦災を受けたあと、渋谷で焼け出されたため、大森・山王の叔父の家にころがり込んでいた。

 青山の遺著となった、「青山孝志詩集」の年譜によれば――

  昭和一九年(1944年)四月、明治大学文科文芸科、入学。
  中田 耕治、久米 亮、小川 茂久、関口 功、能勢山 誠一(梶哲也)、仁科
  周芳(岩井半四郎)、進 一男氏らと同人誌「試作時代」を、覚正 定夫(柾木
  恭介)、木村 利治、中田 耕治、小川 茂久、坂田 保夫、関口 功氏らと同
  人誌「純粋」をはじめた。
  つづいて中田氏(前出)と「黒猫」、小川氏(前出)と「陰翳風景」などの同人
  誌をそれぞれ出す。最初の小説らしい作品として「雪の映る花の如く」を、この
  「陰翳風景」に発表した。
  この頃は、主として堀辰雄に私淑。ジャン・コクトオ、レイモン・ラディゲなど
  の影響もうけた。
  同年11月、戦時学徒動員令により、三菱石油川崎製鉄所に勤労動員されるも、
  翌年に入るや健康を害し、徴用を免除さる。

 ここにあげられている同人誌「試作時代」、「純粋」、「黒猫」、「陰翳風景」は、じつは印刷物ではない。なにしろ、戦時中は、紙の統制がきびしく、雑誌など出せる状況ではなかった。
 だから、れいれいしく同人誌などといえるものではなく――仲間の原稿を集めて、麻ヒモで綴じたものを、回覧しただけだった。
 「純粋」は、数人の原稿が集まった日に空襲で焼失した。それでも「黒猫」は、私が2ページ、青山が10ページ、自分でガリ版をきって綴じた小冊子。むろん同人誌の体裁をなしてはいなかった。これに青山 孝志が書いた作品、「少年の手帖」を引用しておく。

   くらひ手帖をもう焼いておしまひ
   (あろうことか君はそれに詩を書こうとした……)
   待ちぼうけを喰わせた友達の、逢ふ時刻を書いた手帖を。
   枯草の匂いがするたらう
   かば色の、しめった皮のその手帖は。……
   他に書いてあるものといへば試験の日課だ。
   住所録には男の名が多い、……男の名ばかりじゃないか!
   君は若い。
   君は美しいとさへ言へる少年だ。
   君は驟雨の山麓に望遠鏡なんかを持つのが
   応はしい
   さあ、くらひ手帖を焼いておしまひ、破っておしまひ。
   思ひ切り、笑って、
   ほら、駄目だな、……笑ってだったら!

 1943年(昭和18年)の作品。

 堀 辰雄に私淑し、立原 道造、津村 信夫に親しんでいた少年らしい、繊細な詩といえるだろう。
 この詩には、少年期のイノセンス、純真さが、ほのかに同性愛を感じさせる。それもユーモラスな感じではなく、もう少し、切迫した、息づかいが感じられる。
     (つづく)

2013/08/31(Sat)  1521
 
 ところで――
「有名な作家ならいざ知らず、私のように無名のもの書きが、れいれいしく自分の日記を披露するなど、烏滸の沙汰」と書きながら、1977年の「メモ」をご披露しているのだから、ざまァねえが――35年前のおのれのぶざまな姿をさらけ出して、現在の老残のあわれと比較するのもおもしろいだろう。

 いまさら、過去をふり返ってみたところで何も出てこないと承知のうえの所業である。
 そこで、5月5日のメモ。

  朝、テレビで、ミセス日本・美人コンテストを見た。
  審査員は――高峰三枝子、和田静郎、神和住純、沖雅也など。最終審査に7人
  の美女が残ったが、最後に優勝したミセスは感激のあまり嗚咽した。外国の美人
  コンテストなら、満面に笑みをうかべて投げキッスでもするところだが。
  司会の高田敏江の要領のわるさに驚いた。ああいう女性は、いつもきめられたセ
  リフをしゃべるしか能がないのか。

 翌日、5月6日のメモ。

  今月から地下鉄、タクシーなどが値上げになる。かなり影響があるだろう。
  景気回復の兆候はまだあらわれない。というより、現状では、たえず不況の影に
  おびえながら暮らしてゆくしかないだろう。
  成田空港の反対同盟の鉄塔が倒された。
  夜、ルネ・クレマンの「危険がいっぱい」THE Love Cage を見た。
  アラン・ドロン、29歳の映画で、ジェーン・フォンダが美しい。64年度の
  作品。

 そして、5月7日のメモ。

  「ユリイカ」特集、「ジュール・ヴェルヌ」を読む。少年時代にヴェルヌを耽読
  したので、あらためてジュール・ヴェルヌを知ることに興味があった。論文とし
  ては、和市保彦の「夢想家ヴェルヌ」にいちばん啓発された。
  従妹のカロリーヌを愛した少年は、珊瑚の頸飾りを手に入れて贈ろうと考える。
  こっそり家をぬけ出したが、そのまま「コラリー号」に乗り込んでしまったとい
  うエピソード。家に連れ戻されてから、母に「ぼくはもう空想のなかでしか旅を
  しないんだ」といったとか。
  和市保彦は、この事件のなかに、後年のヴェルヌの作品の構造をとく鍵があると
  見る。マルセル・モレは、Coralie が Caroline の、そして
  Corail と Collier のアナグラムと見ている。こういう暗合か
  ら、和市保彦は、現実の船旅への憧憬があったというより、言葉の暗示への執着、
  それがもつ謎への挑戦という、より強い感情につき動かされたのではないか、
  という。
  私が少年時代にヴェルヌに熱中したのは、やはり似たような傾向があったためか、
  という気がする。私もアナグラムが好きなのだ。千葉に移った当座、新検見川
  と Hemingway、稲毛と Inge といったアナグラムめいたいたず
  らを小説に書いたことを思い出す。アナグラムに特殊な関心があって、カザノヴ
  ァのアナグラムなどを見ると、どうにかして解いてみようという気になる。

  「映画ファン」の萩谷さんに原稿、書評2本をわたす。彼女は大学に在学中、近
  代映画社のアルバイトをしていて、卒業後もそのまま編集者になった。おとなし
  いタイプ。映画ジャーナリストになったが、映画をあまり見る暇がないという。
  夜、板東妻三郎の「無法松の一生」(稲垣浩監督)を見た。戦時中に見たことも
  あって、この映画を見ているうちに、少年時代のこと、戦時中に見た映画、そし
  て戦争のことを思い出した。

 とにかく、映画ばかり見ている。そして、夜は、神保町界隈でアルコール、という生活だった。
 その翌日(5月8日)の「メモ」。

  めずらしい人から電話があった。西島 大が千葉にきているという。せっかくき
  たのだから、ぜひ立ち寄るようにすすめる。
  西島は、「M」といっしょだった。「M」は、「芸術協会」にいた女優のタマゴ
  で、一時、TBSに出ていたが、女優としては成功しなかった。昨年から銀座の
  高級バーのママになっている。西島 大はずいぶん痩せて、あごひげをたくわえ
  ている。いまは、TBSのドラマを書いている。
  いろいろ話をしたが、矢代静一、山川方夫の話になったとき、西島は、
  「われわれはえらくなれなかったな、けっきょく」
  といった。
  つまり、お互いに、という意味だろう。私は、
  「そうだね」
  といっただけだった。

 西島 大は、昨年(2012年)に亡くなった。若き日の西島は演劇関係の同人誌、「フィガロ」の鈴木 八郎、若城 紀伊子たちの仲間だった。私は「フィガロ」には参加しなかったが、イラストを描いた。「青年座」で彼の芝居を2本演出したのも私だった。

 おのがじし生きる人生航路の船のブリッジから、つぎつぎに降りて行った仲間たち。そして、もう誰も残っていない。

 私の「日記」はまだ続いているが、ブログに引用するのは、ここまでにしておこう。
 そもそも、私ごときが日記を披露するなど、まさしく烏滸の沙汰。西島 大のいうように、「えらくなれなかった」作家の日記など、誰の興味も惹かない。

 さて、残りはすぐに焼き捨てよう。

2013/08/29(Thu)  1520
 
 (5月4日)の「メモ」――ジョルジュ・シムノンが13歳のときから、じつに1万人の女性と関係したと語ったことに関して。私はただのゴシップではなく、作家とエロスの問題という方向で考えたらしい。当時の私が何を考えたのか、これももうわからない。それでも、エロスを形而上学的にとらえるのではなく、現実の作家の内面的な輪郭に沿って考えようとしたはずである。私は、いつもそういう批評家なのである。

 私はシムノンが「1万人の女性と関係した」ことを不道徳と考えない。むしろ、「1万人の(顔のない)女性」のことを考える。

 作家が「1万人の女性と関係した」ことを不道徳と考えるならば、その「1万人の女性」もまた不道徳ということになる。世界的に有名な作家を崇拝し、尊敬している女たちが、シムノンと「関係する」ことで、彼の作品に投影することを願ったとしても、それは、不当なことではない。ひょっとすると、それは虚栄心、性的なモラルへの背信ではなく、女のヒロイズムからくる行動だったかも知れない。

 かりに、これが老齢の女性作家が、13歳のときから、じつに1万人の男性と関係したと語ったとしたら、私たちは何を考えるか。

 私は、女性のファッションが好きだ。だが、彼女たちが、いつもおなじ型にはまろうとすることに――ヘア・スタイル、服装、はてはキャラクターまで、それぞれの時代の流行や、セクシネスのモデルにしたがおうとする傾向に疑問をもっている。

 テレビで見たのだが――「ぱみゅぱみゅ」のアメリカ公演に、完全に「ぱみゅぱみゅ」スタイルのアメリカの女の子たちが、(むろん、まだ少数だが)ブロードウェイの路上でダンスを踊っていた。私は、いまや日本の少女アーティストが、ブロードウェイで通用するほどの存在感を見せていることがうれしかったが、同時に、こうした少女のパッケージ化は、あくまでファラシーに過ぎないと考えた。

 これは、また、後で考えてみよう。
     (つづく)

2013/08/24(Sat)  1519
 
 5月3日の「メモ」に――「人間が人間のぎりぎりの底に達することはついにあり得ないだろう。そして、人間は、自分自身の姿を、おのれの獲得する認識のひろがりのうちに見出すのではない」と書いている。すっきりしない内容(ようするに、頭がわるい証拠)だが、当時の私はこんなことばかり考えていたのかも知れない。
 さて、翌日(5月4日)の「メモ」。

    朝、「サンケイ」の原稿を書く。ジョルジュ・シムノンが13歳のときから、じ
    つに1万人の女性と関係したと語ったことに関して、作家とエロスの問題を考え
    る。
    12時少し前、「サンケイ」佐藤氏に原稿をわたす。文化部は3階に移った。
    12時15分、「日経」吉沢(正英)君のところで、映画評――「華麗な関係」
    (ナタリー・ドロン、シルヴィア・クリステル)「ビリー・ジョー 夢のかけ橋」、
    「合衆国最後の日」(バート・ランカスター、リチャード・ウィドマーク)
    について。「日経」のレストランで。「週刊小説」の原稿、アナイス・ニンの
    「デルタ・オヴ・ヴイーナス」の紹介と書評を書く。
    3時半、「南窓社」岸村氏と会い、「アメリカ作家論」(仮題)の出版をきめる。
    出版は10月1日の予定。ゼロックスのコピーをわたす。
    少し時間の余裕があるので、神保町に。「北沢」で本をあさっているうちに、思
    いがけない掘り出しもの。長いあいだ考えてきた評伝の資料。読んでみなければ
    わからないが、本を見た瞬間、何かゾクッとするような感覚が背すじを走った。
    また、銀座に戻った。「資生堂」で吉沢君と会う。買い込んできた本の話をして
    いるところに、「二見」の長谷川君、「映画ファン」の萩谷君がくる。長谷川君
    には申しわけないが、原稿ができていない。萩谷君の原稿は、「日経」のレスト
    ランで書いた。しかし、書評の原稿を書くのを忘れた。神保町に行かなければ書
    けたはずだが。
    そのあと、「富士映画」の下川君がきた。7月封切りの「遠すぎた橋」の宣伝の
    件。吉沢君に依頼する。各国のスターが十数人も出演する大作で、製作費が90
    億ドル。6月7日にジャーナリスト試写の予定。
    その後、吉沢君とガスホールに行き、「ザ・チャイルド」を見た。スペインの映
    画。冒頭、第二次大戦中のユダヤ虐殺、ビアフラ内戦、ヴェトナム戦争、バング
    ラデシュで飢えや病気、瀕死の状態の子どもたちの映像がつづく。戦争、破壊、
    飢餓で犠牲になるのはいつも子どもたちという主題で、この映画もそういうテー
    マの映画なのかと思ったが、まるで違っていた。若いイギリス人夫妻(妻は妊娠
    している)がスペインに観光旅行に行く。行き先はアルマンソーレ島。ところが、
    この島には大人がひとりもいない。子どもたちは、町の人びとを殺し、観光客
    を殺してしまった。若いカップルは、自分たちが子どもたちに狙われていること
    に気づく。
    原題は Who Can Kill A Child で、これは逆説。この映
    画が何を寓意しているか、わかりにくい。しかし、よく見ると、フランコ体制の
    ジャスティフィケーションとして見ることもできるだろう。スペイン映画の大き
    な変化が感じられて興味深い映画。「熱愛」につづくスペイン映画として記憶して
    おこう。

 フランコ独裁以後のスペイン映画には、アルモドバルや、アントーニオ・セラーノなど、すぐれた映画監督がぞくぞく登場する。今にして思えば、「ザ・チャイルド」もそうした流れのなかで評価できたはずだが、当時の私はそこまで思い及ばなかった。
 当時、私の見たスペイン映画は「汚れなき悪戯」だけ。どこの国の映画でも、輸入されなければ何もわからないのだから、仕方がないけれど。
   (つづく)

2013/08/22(Thu)  1518
 
 この日の午後、テレビで私は、フランス映画、「舞踏会の手帳」を見たらしい。これで十数回見たと書いているが、20年後に「ルイ・ジュヴェ」を書いていた時期に、何度も見直している。
 私は、この5月の「メモ」で、「舞踏会の手帳」について書いている。

     シナリオによると、「クリスティーヌ」がイタリアの古城のような邸にもどっ
    てくるところから話がはじまっていて、彼女が舞踏会にはじめて出たのが16歳。
    1919年6月18日。第一のエピソード(フランソワーズ・ロゼー)の「ジ
    ョルジュ」は、「クリスティーヌ」の婚約を知って自殺するが、それが1919
    年12月14日。室内のカレンダーの日付は、なぜか12月19日になっている。
    はじめてこの映画を見たときは、ロゼーの演技を鬼気せまるものに思ったが、
    この前見たときはさして感心しなかった。今回は、まあ、ロゼーらしいブールヴ
    ァルディエな演技だと思った。

    つぎに、ルイ・ジュヴェのエピソードがつづく。オープニングがジャズ。3人の
    悪党がナイトクラブの支配人、「ジョー」(ルイ・ジュヴェ)の部屋に入って
    くる。この頭株がアルフレ・アダム(戦時中に「シルヴイーと幽霊」という戯曲
    を書く)。この部屋で、ジュヴェは悪人たちに指示をあたえるのだが、背景にポ
    スターやブロマイド写真が貼ってある。ジョゼフィン・ベーカーのポスター、ダ
    ニエル・ダリューのブロマイドがあった。驚いたのは、そのポスターの横に、ヴ
    ァランティーヌ・テシェの写真があったこと。机の中に、ヌード写真が入ってい
    た。戦前の日本の検閲がよく通したと思う。
    三つ目のエピソードは、音楽家だった「アラン」(アリ・ボール)が、「クリス
    ティーヌ」に失恋し、息子を失ったあと、神に仕え、いまは「ドミニック神父」
    になっている。これは雨の日。

    四つ目の「エリック」(ピエール・リシャール・ウィルム)のエピソードで気が
    ついたのは、「エリック」が「クリスティーヌ」をつれて山小屋に向かおうとす
    るとき、あれがモン・ペルデュだという。こんなところにも意味があったのかと
    驚いた。

    五つ目の町長(レイミュ)の場面は、楽しい喜劇と見るだけでいいが、町の名前
    が出てくる。前のエピソードが冬山なので、コントラストとして夏の南フランス
    にしたものか。

    六つ目「ティエリ」(ピエール・ブランシャール)のエピソードで、ほとんど全
    部のシーンを斜めにカメラで撮影しているようだが、じつはそうではなかった。
    「サイゴンでおめにかかりましたね」というセリフと、女(シルヴィー)の「サ
    イゴンでは別荘もありましたよ」というセリフがくり返されていること。最後に
    「ティエリ」が自殺すると思っていたら、女を殺すこと。(この演出は「望郷」
    の密告者殺しとおなじ構図だということがわかる。)

    この映画は、1時間57分。当時は気がつかなかった。オープニングの話(友人
    にすすめられて舞踏会の手帳の人びとを再訪することを決心するまで)が15分。
    ジュヴェのエピソードは、8分程度。アリ・ボールのエピソードが10分。ピエ
    ール・リシャール・ウィルムのエピソードは7分。ピエール・ブランシャールの
    エピソードが10分。
    「クリスティーヌ」は最後に古城に戻ってきて、「ジェラール」の遺児が湖の対
    岸に住んでいたことを知り、その遺児「ジャック」(ロベール・リナン)と会う。
    そして「ジャック」をはじめての舞踏会につれて行くエンディングが5分。

    それにしても、この映画を見ていると、やはり私自身の青春と重なってくる。デ
    ュヴイヴィエの「望郷」とこの作品は、私の青春と切り離せない。いまから見れ
    ば、ずいぶん甘い感傷的な作品だが。

    なつかしい名優たち。ロゼーも、ジュヴェも、ピエール・ブランシャールもみん
    な亡くなっている。アリ・ボールは、44年にナチの収容所で非業の死をとげた
    し、ロベール・リナンは対独抵抗派として銃殺された。マリー・ベルも死んだの
    か。

    夜、原稿7枚書く。9時55分、微震。

 「舞踏会の手帳」についてこんなに長い感想を書いていたとは。
 この「メモ」から20年後、評伝「ルイ・ジュヴェ」を書くとは夢にも思っていなかった。まして35年後、このブログにこんなものを書くとは想像もしなかった。
      (つづく)

2013/08/19(Mon)  1517
 
 1977年のメモ。さっそく読んでみたが、今となっては、まるでおぼえていないことばかり。
 それでも読んでいるうちに、なんとなく思い出したが、他人の書いたものを読んでいるような気がした。
 1977年、私はけっこう多忙だったらしい。
 5月2日の「メモ」によると、

   とにかく電話が多く、「二見」の長谷川君、「牧神社」の萩原君、「映画ファン」
   など。「南窓社」の岸村氏に会う日時を変更してもらう。
   植草甚一さんの「J・J氏の男子専科」を読む。虫明亜呂無の解説。
   ほかに読んだもの。中村 光夫の「雲をたがやす男」。これはくだらない。「七
   七年推理小説代表作選集」。斉藤 栄「河童殺人事件」。
   ヘラルド「テンタクルズ」の特別試写。
   夜、チャプリンの「独裁者」を見る。これで三度目。ひそかに疑う。映画人とし
   てのチャプリンは、この作品から衰退を見せているのではないか。

 私はこの試写を見るために、「ヘラルド」に行ったはずだが、「テンタクルズ」の内容はおぼえていない。この映画は公開されたかどうか。

 すぐに気がつくのは、私の「メモ」に映画についての記述が多いこと。私は「日経」の映画評を書いていた。だいたい週に2本、多いときは4本ぐらい書いていたと思う。私の担当だったのは吉沢 正英(日経・文化部)君だった。
 1977年当時、たいした映画も公開されていない。「キャッシュ」、「キャリー」、「スター誕生」。 ポール・ニューマン、バート・ランカスターの「ビッグ・アメリカン」(ロバート・アルトマン監督)、ピーター・フォンダ、ユル・ブリンナーの「未来世界」、ジャクリーン・ビセットの「ザ・ディープ」、ライザ・ミネリの「ニューヨーク・ニューヨーク」ぐらいしか記憶にない。
 あとは「ドッグ」や「スクワーム」、「スヌーピー」、「ベンジー」、そんな映画ばかり見せられていた。
   (つづく)

2013/08/17(Sat)  1516
 
 書庫にある本、雑誌などを整理している。知りあいの古本屋にきてもらって、引きとってもらうことにしている。私にとっては貴重な資料も多いのだが、外国語の本などは誰も読まないだろう。それでも、とにかく払い出すことにした。
 片づけているうちに、昔、書きかけたまま途中で放棄した原稿、下手くそなデッサン、安もののカメラで撮ったスナップショット。自分で作った絵のプリント。そんなものが、ごっそり出てきたが、これまた、思いきって全部焼き捨てることにした。

 書きかけたまま放棄した原稿の中に、日記が出てきた。日記というより、ノートに書きとめたメモのごときものである。

 有名な作家ならいざ知らず、私のように無名のもの書きが、れいれいしく自分の日記を披露するなど、烏滸の沙汰。だが、35年前のおのれのぶざまな姿をさらけ出して、現在の老残のあわれと比較するのもおもしろい。

 いまさら、過去をふり返ってみたところで何も出てこないと承知のうえの所業である。

 この「日記」は、1977年5月1日から始まっている。

                           1977年5月1日
    久しぶりで登山をする。まだ完全に復調したわけではないので奥多摩の楽なハイ
   キングコースを選んだ。午前8時、新宿駅で、吉沢君ほか。新顔として、桜木、飯
   田、坂牧、島崎、下沢(ネコ)たち。
   コースは御嶽から怱岳、岩茸石、黒山、棒ノ嶺。名栗に下りた。
    帰京、午後8時半。半年ぶりなので疲労したが、精神的には快調。

 「まだ完全に復調していない」理由は思い出せない。おそらく、3月から4月にかけて外国に旅行したので、帰国後すぐに原稿生活に戻ったり、大学の講義がはじまったせいだろうと思う。
 吉沢 正英は、「日経」の映画評のコラムを担当してくれた「日経」の記者。私の数少ない親友だった。この頃の私は、これも親友の安東 つとむ、吉沢君、私の三人で、いつもいっしょに山に登っていた。
 三人だけの登山では少しむずかしい山をめざしたが、このときは、私のクラス(大学)にきていた女の子たちといっしょで、初心者向けのハイキングコースを選んだらしい。棒ノ嶺(棒ノ折山)のコースにしたのは、女の子たちがバテた場合、岩茸石から高水に折れて、そのまま軍畑(いくさばた)に下山すればよい。たかだか3時間のコースだったからだろう。そんなことまで考えたはずである。
 桜木 三郎は、当時、集英社の編集者。私のクラスにいたが、ずっと後年、「プレイボーイ」の編集を担当した。

 下沢 宏美は、その後、吉沢 正英(日経・文化部)の夫人と親しくなった。さらに後年(つまり現在)彼女は書道家になっている。
 この「メモ」の記述で、このハイキングがとても楽しかったことを思い出した。

 翌日、5月3日の「メモ」――

    人間が人間のぎりぎりの底に達することはついにあり得ないだろう。そして、人
    間は、自分自身の姿を、おのれの獲得する認識のひろがりのうちに見い出すので
    はない。
    竹内(紀吉)君から電話。上野に出てこられないかという。急なことなので、断
    らざるを得ない。残念。
    午後、テレビで「舞踏会の手帳」を見る。これで十数回、見たことになる。しか
    し、またもや、いろいろな「発見」があった。今回は、わざと場面の細部にこと
    さら注意を向けたからだろうか。

 竹内 紀吉君も、私の親友だった。

2013/08/07(Wed)  1515
 
(14)
 ミーガン・ヒルティは、1981年3月29日、ワシントン州ベルヴュー生まれ。キャサリンより、3歳上。

 「SMASH」ではじめて見たはずだったが、どこかで見たおぼえがあった。どこで見たっけ。しばらくして、「デスパレートな妻たち」で見たことを思い出した。
 ミーガンの芸歴は長い。ミュージカル、「ウィッキド」の「グリンダ」で認められた。「白雪姫」で歌っている。(ただし、声だけ)。
 2012年、「紳士は金髪がお好き」(ニューヨーク・シテイ・センター)で、 「ローレライ・リー」を演じている。これが成功して、「SMASH」に出ることになったらしい。
 「SMASH」に出て、最初のアルバム、「イット・ハプンズ・オール・ザ・タイム」を出した。私は、田栗 美奈子にこのCDを探してもらった。
 曲もよかったが、ミーガンの「ノート」が気に入った。

    ここ何年も、アルバムを出すことに抵抗があった。なぜなら、わたしに語るべき
    ことがあるなどと思ってもみなかったから。自分が出た舞台の歌とか、単純に好
    きだからレコーディングするというのは、どうも納得できない。でも、今年にな
    って、少し違ってきた。歌手として挑戦してみたいというだけでなく、もっと深
    いレベルで自分でも納得できるミュージックを見つけたい、創造したいと思う。
    ここに入れた歌はどれもたいへん個人的なものばかり、苦しいと同時に刺激にみ
    ちたわたしの人生のある部分を表現している。わたしをささえて下さったみなさ
    んにどれほど感謝しても足りないし、わたしが楽しく作ったこのアルバムを、み
    なさんにも楽しんでいただければと思っている!

 これが新人シンガーの最初のアルバムの「あとがき」だろうか。
 芸術家として、何をめざすのか、何ができるのか、そのあたりをしっかり考えて仕事に立ち向かおうとしている、あくまで真摯で謙虚な姿勢がすばらしい。

 キャサリンの「ノート」、ミーガンの「ノート」、それぞれ短い文章ながら、それぞれのみごとな資質、個性の輝きが見える。

 80年代に、フェイ・ウォン(王菲)を中心に、香港ポップスを聞いていた。
 ソヴィエト崩壊の前後は、リューバ・カザルノフスカヤ。マリーア・グレギナ。
 21世紀になって、あまり気に入ったアーティストが見つからなかった。
 ところが、ここにきて、キャサリン・マクフィーと、ミーガン・ヒルティに出会った。このふたりは、これからどういうアーティストになって行くのか。私は、久しぶりに、音楽を聞く気になっている。

 さしあたって、「SMASH」の感想はここまで。
 いずれまた書く機会があればいいのだが。

2013/08/05(Mon)  1514
     (13) 
 キャサリンのデビュー・アルバム、「キャサリン・マクフィー」(2010年)に、長文の「謝辞」がある。
 収録した全曲の関係者の名前を列挙しているのだが、その冒頭の一節。

   ここまで私を支えて下さったすべての方々にどんなに感謝しているか、どこから
   書いていいのか。まず最初にマクファビュラスなファンのみなさんに――ここま
   でこられましたこと、夢が実現できたこと、みなさんすべてに感謝。アメリカン・
アイドル――私にいつも優しく、こんなにうれしいチャンスをあたえて下さ
   ったケンとナイジェル、ほんとうにありがとう。

 「マクファビュラスなフアン」というのは、マクフィーという名前に、Fabulousということばをつけたキャサリンの造語。
 こうした謝辞がこの4、5倍もつづいて、最後に家族に感謝している。

   私の家族、ママ、ダディ、姉さん、リリィに――みんなをすごーーーく愛し
   てるわ。とくに、みんなの理解に感謝。うちの生活がてんやわんやになっちゃっ
   たときも、みんなして支えてくれたわね。ニックに。ことばでいいあらわせない
   くらい愛してる。サン・フラン(シスコ)に送ってくれたとき、オーディション
   に落ちて舞い戻ったりしないように自信をもたせてくれた。本当はドキドキだっ
   たのよ! 夢を現実のものにしてくれたみんなにあらためて感謝。私ってほんと
   うに恵まれてるのよね。XXX

 キャサリンのつぎのアルバム、「クリスマス・イズ・ザ・タイム」の「謝辞」も、さらに長文で、

   メリー・クリスマス、エヴリワン! 一年でいちばんすてきな季節。このレコー
   ドを作ったおかげでとてもしあわせ、みなさんのご家庭にも喜びを届けつづけた
   いと願っています。ぜひ感謝したいのは――いちばんにファンのみなさん!

 ここから、作詞、作曲、制作関係者の一人ひとりに感謝を捧げている。

   あなたがいなかったらこのレコートはできなかったわ。あなたは私の人生に絶大
   な音楽的影響をあたえてくれたの。自分の声を発見させてくれて、わるびれずに
   自分自身であるように。とても貴重なことだったわ。私は自分たちの歌をあああ
   あいしています! ほかの人たちにもあいしてほしい。まだあるわ。愛する夫、
   親友、マネジャー。私にとってかけがえのない人たち。ことばにならない。ヴァ
   ケーションに行きましょうね。ウワォ 永遠にキ・ス・を! 家族の一人ひとり
   に。毎年クリスマスにみんながあたえてくれたインスピレーションの数々のすば
   らしい思い出に。

 「歌をああああいしています」は、I loooove our songsの訳。ま
るで、ティーネイジの女の子の手紙のようだが、これがキャサリンなのである。
 「クリスマス・イズ・ザ・タイム」は、まさに「アイ・ラヴ・ユー」をいう季節。

 このキャサリンの「謝辞」は、出発してすぐに自分が人生の頂点に立っているという自覚、あるいはせつないほどの充実感にあふれている。  

2013/08/03(Sat)  1513
 
     (12)
 キャサリン・マクフィー、ミーガン・ヒルティー。

 まだ、20代という人生のうちでいちばん輝かしい時期に、一流の芸術家であることについて。私のノート。

 キャサリンの本名は、キャサリン・ホープ・マクフィー。1984年3月25日、ロサンゼルス生まれ。シンガー、女優、モデル。
 2006年、「アメリカン・アイドル」のコンテストで準優勝。
 2010年12月、デビュー・アルバム、「キャサリン・マクフィー」(RCA)は、全米アルバム・チャートで2位。38万1千枚。
 2011年11月、セカンド・アルバム、「アンブロークン」(Verve Forcast Record)4万5千枚。

 「カレン」と「アイヴィー」は、このドラマですべてコントラストを強調してえがかれる。ということは、キャサリン・マクフィーがどういう演技をしても、ミーガン・ヒルティーと比較される。
 「アイヴィー」の孤独感、ドラマの進行につれて募ってゆくライバルリ、憎しみ、ミーガンの芝居がいいだけに、キャサリン・マクフィーの「芝居」が見劣りする。
 視聴者の目がきびしく、キャサリンに「ダイコン」Bad actress という悪口を浴びせる連中も多い。

 私は、こういう批評を読んであきれた。というより、キャサリンに同情した。
 芝居、とくに「演技」について何も知らない意見が多すぎる。
 キャサリンが「ダイコン」に見える――稽古場で、演出家にガミガミいわれつづける。たとえば、「アーサー・ミラー」とのやりとりで動きを間違える。(第11話)そんなシーンが、アタマのヨワい視聴者に、キャサリンが「ダイコン」に見えたのだろう。
 ドラマ構成で、「カレン」と「アイヴィー」はコントラストの例。
 映画スター、「レベッカ・デュヴァル」(ユマ・サーマン」が稽古場に到着して、はじめて歌うシーン。その前に、キャサリンが歌っているので「レベッカ」の歌がなおさらヘタに聞こえる。これも、コントラスト。(第11話)

 第9話、「堕天使たちの街「Hell on Earth では――「カレン」が、別のオーディションに合格して、ジュースのCMに起用される。一方、ワークショップで「マリリン・モンロー」を演じた「アイヴィー」は、別の劇場のコーラスに舞い戻って、舞台で大きなドジを踏む。このふたりの境遇が逆転した。その夜、酒に酔った「アイヴィー」は、彼女の身を案じた「カレン」といっしょに、ブロードウェイの通りで、歌い、踊る。(このシーンは、キャサリン・マクフィー、メーガン・ヒルティのデュエットで、全編のハイライトの一つ。)

2013/08/02(Fri)  1512
 
     (11)
 「SMASH」には、インド映画のダンス・シーンまで登場する。キャサリン・マクフィーがもっとも美しいシーンで、真紅のインド衣裳をまとって、へそを出して歌い、踊る。
 相手は、それまで「カレン」の「恋人」で、ニューヨーク市の報道担当官だった「デーヴ」(ラザ・ジャフリー)。ドラマでは、オクスフォードを首席で出てNYの報道官になっているエリート。その「デイヴ」が、(「カレン」の空想で)インド映画のダンス・シーンをリードする。驚いた。
 ドラマの展開としては、インド料理の高級レストランに、「レベッカ・デュヴァル」と「カレン」、「デーヴ」が会食するのだから、別に不都合はないのだが、インド映画の定番の群舞シーンでときた。
 おそらく、終盤に近くドラマの展開がいくぶんダレてきている部分を、キャサリン・マクフィーに挽回させようとした苦肉の策と見える。と同時に、あきらかに、このドラマの「戦略的なリーニュ」(表に出さないテーマ)として、インド市場を視野に入れたドラマ作りと見てもいい。

 なぜ、インド音楽なのか。
 このドラマには、さして必要なシーンとも思えないのだが、にもかかわらず、このドラマが、強烈に中国やインドなどを意識していることに気がつく。
 中国やインドの存在が、グローバルな影響を及ぼしている時代には、こんなささやかなミュージカルにも、いわば国境をこえた社会的デザインの構想も必要があると(プロデューサーは)判断したとみていい。
 スティーヴン・スピルバーグの指示だったのかも知れない。プロデューサーとしては、おそらくそのあたりまで計算しているだろう。
(すでに述べたように、スピルバーグの会社がインドの巨大な映画資本に買収された影響もおおいに考えられる。)

 まるでインド映画のスターといっても通用するキャサリンの美貌と、歌唱力。音楽的には、「キャサリン・マクフィー」の中の「デンジャラス」Dangerousの発展と見ていい。逆にいえば「デンジャラス」Dangerousを歌っているからこそ、インド映画をパロデイできたと見ていい。

 この映画のキャサリン・マクフィーの「演技」をケナしている連中は、何も見ていない。何も見えていない。この連中はインド映画も見たことはないだろう。キャサリンがインド映画のスターのような美貌と、歌唱力、才能を見せていることに気がつかないのだ。これはミーガンにはない才能だろう。

 この部分のコレオグラフィーも、ジョシア・バーガッセなのだろうか。

2013/07/29(Mon)  1511
 
     (10)
 「カレン」は、演出家、「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)から逃げるが、「アイヴィー」は「デレク」と寝てしまう。
 こういう男と女の色模様は、芸能界によく見られるふしだらな「関係」に違いないが、このドラマは、主要な登場人物が、それぞれの愛の物語によって傷を受ける。ただし、「芸能人」だから、という暗黙の理解、ないし共感、といった甘やかなものがあるわけでもない。といって、原作者(テレサ・リーベック)が、こうした色模様に冷やかなまなざしをむけているわけでもない。

 「あいつらが恋人だったとしても、おれとしては別にどうってことはない。おれの芝居に支障をきたしたりしなければ。」

 これが、演出家、「デレク」の基本的な姿勢。

 ところが、「デレク」は、アンサンブルの連中には、邪悪 Evil、ワル Jerk、劇壇の「悪の帝王」Dark Lord。はじめて「デレク」の演出を受けた「カレン」は「ヘンタイ」サイコパスという。
 ジャック・ダヴェンポートは辣腕の演出家を演じて魅力のある俳優だが、実際のドラマでは、すべてが「デレク」に収斂するほどの「役」なのにさしたる「しどころ」がない。

 「マリリン」がスターたり得た社会(芸能界)は――ダリル・F・ザナックの時代だった。ザナックはハリウッドきっての権力者で、「カウチ」(プロデューサーが新人女優をイタダクこと)でも悪辣な人間だった。
 「デレク」は自分の芝居で「主役」クラスの女優をモノにする。しかし、ダリル・F・ザナックの「カウチ」ではない。それに、ザナックのような冷酷なドン・ファンではない。ほんらい、彼は自分の「マリリン」を作るために、女を裸にするのとおなじ視線を自分にもそそいでいる。

「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)の眼。落ち窪んだ眼の奥底に、芝居を作ってゆく眼と、主役を演じさせる「カレン」と「アイヴィー」のセックスを見据えているまなざし。その網膜に灼きついている孤独のすさまじさ。
 このドラマの「主役」のひとりだが――稽古場で、芝居の進行を見ているのと、「アイヴィー」とのセックス・シーン、ワークショップの後に「カレン」を変身させるあたり。いよいよ芝居の初日に、プロデューサー、「アイリーン」(アンジェリカ・ヒューストン)をどなりつけるシーンなど。ジャック・ダヴェンポートは、みごとにこなしている。ただし、役者としてはあまり「しどころ」のない役といっていい。

 このザナックのシーンを、作曲家の「トム」(クリスチャン・ボール)がやってみせるが、クリスチャン・ボールという俳優もたいへんな才能の一人。

 ワークショップが終わって、芝居がブロードウェイに進出することになったが、ボストンの試演(トライアウト)前の手直しで、「カレン」に、それまでの音楽とまったく異質の曲、新世代の「マリリン」、エロティックな「Touch Me」を歌わせる。

 「Beautiful」や、ユダヤの「バル・ミツバ」や、教会の聖歌のキャサリンの歌と違って、サド・マゾヒスティックな強烈なエロティシズムが表現される。(このシーンで、キャサリン・マクフィーの圧倒的な魅力がふき出す。)
 「デレク」の「謀叛」は失敗する。

 このときから、「カレン」は、もっとタフで、打たれづよく、忍耐づよいキャラクターに「変身」する。

2013/07/27(Sat)  1510
 
     (9)
 キャサリン・マクフィーの美しさは、ただたんに、女性的なおもざしの美として映るだけにとどまらない。おなじ女優でも、キャサリンのような声は、深く心にきざまれる。
 美しい女はその美によって人の心を支配する。

 ミーガン・ヒルティのほうが、いつもマリリンをパロディしている。ふつうのブロンドから、アッシュ・ブロンドまで、さまざまに変化した「マリリン」に似ている。
 だが、キャサリンのような「黒い髪というよそおい」は、ある種の男にとっては、エロティックなオブセッションになる。

 ミーガンの「アイヴィー」も、じつは「マリリン」に似ていない。「マリリン」に似ていないのに、キャサリンよりも「マリリン」に似て見えるのは――濃い口紅、ブロンドのウィグが、「マリリン」の魅力として訴えてくるからだろう。
 母親が、ブロードウェイの大スターという設定で、自分は下積みのコーラスガールとして生きてきた。誰とでも寝てしまうパーティー・ガール、安手な娼婦のようなキャラクターだが、極度に起伏のはげしい感情を、なんの妥協もなしにその頂点まで生き抜こうとする。ブロードウェイの下積み女優。

 ミーガン・ヒルティのむっちりした体型、ふくよかな乳房、輝くようなブロンド。燃えさかる炎のような気質は、「マリリン」という「役」に重なってくる。
 ドラマの前半の「カレン」は、「マリリン」の不器用さ、臆病さ awkwardness を感じさせるのに、「アイヴィー」は、ブロードウェイで生き延びて行くのに必要な、努力と才能をじゅうぶんに身につけている女優の賢さ、悪くいえば、ずるさが目立ってしまう。つまり「悪女」タイプに見えてくる。

 ミーガン・ヒルティの声、歌唱力も抜群で、劇中の「スター/マリリン・イメージ」に近い。概念的には、ありきたりのブロードウェイ・ミュージカルの、けばけばしいエロティシズムをみごとに体現している。

 あるミュージカル女優のことば。

 I shake my tits a lot.If you don’t want
 to listen,you can just watch.

 ベット・ミドラー。むろん、「SMASH」にはなんの関係もない。
 ミーガン・ヒルティは、タイプとして、このベット・ミドラーに近いかも。

2013/07/25(Thu)  1509
     (8)
 マリリン・モンローという女優は、どこに魅力があったのだろうか。

 「SMASH」で、「カレン」(キャサリン・マクフィー)がいう。
 マリリンは、上唇をうごかさないで声を出す、と。
 なるほどと思った。

 マリリンの魅力の一つは、セリフの独特のエロキューションにある。相手のセリフをひきとつてから、瞬間的に呼吸をととのえるといった感じのもので、舌ったるい、そのくせ、エロティックなものだった。
 キャサリン・マクフィーは、マリリンらしい不器用さ、臆病さ awkwardness を感じさせる。キャサリンの演技はその「マリリン」を出している。それを「ヘタ」な女優と批評されたら立つ瀬がないだろう。

 キャサリンは、いつもひかえめで、ごく自然な演技を見せている。いい例は、演出家、「デレク」が、(マリリンとアーサー・ミラーのシーンで)はじめて「カレン」に「マリリン」を見るシーン。これは、「デレク」のファンシー(幻視)であって、彼か実際に見ているのは、「マリリン」の行動を支配したいという欲求なのだ。
 キャサリンの歌がうまいだけに「演技」は見えないのだが、じつはキャサリンの自然な演技がプラスになる。
 逆に、第12話の、インド舞踊のシーン――これは、「カレン」のファンシー(幻視)で登場人物が全部出てくる。キャサリン・マクフィーは、じゅうぶんに魅力的だが、ドラマのシーンとしては、不必要な(インドに対する関心)お遊びにしか見えない。
 スピルバーグの会社がインドの巨大な映画資本に買収されたという。そのせいだろうか。

 キャサリンが、「ヘタ」な女優に見えるのにはもう一つ別の理由がある。
 ほかの俳優、とくに「フランク」(ブライアン・ダーシイ・ジェームズ)、「デイヴ」(ラザ・ジャフリー)などが、いかにもメソッド俳優といった芝居を見せる。「ジュリア」の不倫を知った「フランク」は、まるでサイレントの喜劇俳優、ハリー・ラングドンのようなご面相で、メソッドまる出しのクサい芝居をやってみせる。

 第4話、故郷のアイオワで、友人たちとカラオケで歌うあたりのキャサリンの演技はほんとうに自然でいい。かえって、いかにもブロードウェイの練達な舞台俳優といった父親の芝居のほうがクサい。

 「SMASH」で、不倫と家庭の破局 Break up に悩む「ジュリア」(デブラ・メッシング)は、たしかな演技力をみせるが――ドラマで「ジョー・ディマジォ」に起用された俳優(ウィル・チェース)との「関係」が復活し、家庭に風波が起きてしまうというメロドラマなので、女優としては「もうけ役」、少し実力のある女優なら誰がやってもウケる「芝居」に過ぎない。

2013/07/22(Mon)  1508
 
     (7) 
「SMASH」に、二人の名女優が出ている。

 バーナデット・ピータース。日本ではほとんど知られていない。
 1944年、イタリア系移民の子としてニューヨーク生まれ。おなじイタリア系移民の血をひくロバート・デニーロより1歳年下。シルヴェスター・スタローンより2歳上。
 5歳のときから、テレビに出演。以後、舞台、ナイトクラブ、TV、映画に出た。
 6〇年代から、ブロードウェイ・ミュージカルに出て、1968年、「ドラマ・デスク賞」、アンドリュー・ロイド・ウェッバーの「歌とダンス」でトニー賞を受けた。
 日本では公開されなかった映画だが、私は「W・C・フィールズと私」(1973年)をアメリカで見た。個性のつよい女優、ヴァレリー・ペリンが出た映画だが、はじめて見たバーナデットという女優の凄さに気がついた。
 私たちは――わずかに「アニー」(ジョン・ヒューストン監督/1982年)のバーナデットしか見られない。
 「SMASH」では「アィヴィー」の母親、「リー・コンロイ」として登場する。

 もう70歳近くなのに、40代にしか見えない(失礼!)細おもてのオバサマが出てきて、稽古場でみんなに歌ってみせるエナジーがすごい。
 (この最後のシーンが、「SMASH」の最後のシーンにつながる。つまり、伏線になっている。)

 「SMASH」に出ているもうひとりの名女優は、アンジェリカ・ヒューストン。

 バーナデット・ピータースが出た「アニー」の監督、ジョン・ヒューストンのお嬢さん。お嬢さんといっても、こちらも、もう60歳のオバサマ。ジョン・ヒューストンが、アンジェリカの母親と離婚したとき、アンジェリカ、11歳。
 「SMASH」で、離婚でモメている夫に、カクテルを3回もブッかける。きっと溜飲がさがったにちがいない。(笑)

 「SMASH」の第12話で――映画スターの「レベッカ」(ユマ・サーマン)にいう。「わたしも、男でいろいろ苦労してきたから」という。思わずニヤニヤした。アンジェリカは、ジャック・ニコルソンと、17年間、実質的に夫婦関係にあったが、アカデミー賞をもらってから、ジャックと大ゲンカして別れている。

 はじめてアンジェリカを見たのは「郵便配達は二度ベルをならす」(1981年)。私は原作を翻訳したので、この映画を何度も見た。すごい大女という印象が残った。
 しばらく泣かず飛ばずだったのに、父のジョン・ヒューストン監督の「女と男の名誉」(1985年)で、アカデミー賞/助演女優賞をさらってしまった。
 その後も「敵、ある愛の物語」(1989年)、「グリフターズ 詐欺師たち」(1990年)とつづけて、アカデミー賞にノミネートされている。

 どうして、こんなことをおぼえているのか。映画、「郵便配達は二度ベルをならす」公開とほとんど同時に「死の接吻」と「ネイキッド・タンゴ」が公開されたのだった。
 このブログを読んでくれる人なら、私が「死の接吻」と「ネイキッド・タンゴ」を気にしていた理由は想像してもらえるだろう。)

 それはさておき――
 「SMASH」のアンジェリカと、「バーレスク」のシェール、どちらを選ぶかと考えるのと、「カレン」と「アイヴイー」のどちらを選ぶか。どちらもむずかしい。
 どっちを選んでも、私の趣味がバレそうな気がする。ウシシ(笑)

2013/07/21(Sun)  1507
 
     (6)
 清純派vs肉体派。
 こうしたカテゴライズは、はるかな過去のサイレント映画から連綿と続いている。
 たとえば、永遠の清純派、メァリ・ピックフォードvsフラッパー、クララ・ボウ。

 どういう時代でも、女優自身、どちらかに属して、みずからステロタイプ化するか、あるいは自分がスターであるという光栄を正当なものにする。

 「風と共に去りぬ」のオリヴィア・デ・ハヴィランドvsヴィヴィアン・リー。
 「我等が生涯の最良の年」のテレサ・ライトvsヴァジニア・メヨ。

 そんな例はいくらでもある。

 「SMASH」の魅力は、ひたすら清純派の「カレン」と肉体派の「アイヴィー」のコントラストに収斂してゆく。この二人のコントラストが、「マリリン」の二重性に対応している。まるで、二つの同心円がつながった楕円形のように。

 「冬のソナタ」のように、ひたすら男と女の純愛を描くドラマ、あるいは「デスパレートな妻たち」のように、複数の男女の錯綜する不倫な愛を描くだけのドラマよりも、「SMASH」では、「ゲイ」がブロードウェイを牛耳っているという背景もあって、「ジュリア」とチームを組む作曲家「トム」(クリスチャン・ボウル)が同性愛(ゲイ)なので、ドラマのなかで男性同士の関係に焦点があてられる。
「トム」(クリスチャン・ボウル)は、保守的な男性(白人)とセックス・フレンドになる。

 しばらく前のアメリカでは、公然たるホモセクシュアル、バイセクシュアルは、社会的に受けいれがたいタブーだった。
 「SMASH」では「ゲイ」の人たちの生きかたが、ごく自然な関係として描かれる。

 「ゲイ」の人たちは、「関係」ができた当初は、「ノン・ゲイ」の人たちのカップルよりもセックスの頻度が高い。ただし、10年後は、そうした回数の頻度が少なくなる。

 ゲイのカップルの場合、自分より相手(パートナー)がより魅力的と誰かに判断される(周囲がそんなふうに見ている、と思う)と、たいていケンカになる。
 どちらか一人だけが、他人に関心をもたれたりすると、お互いの連帯感、セックスという「絆」が消えてしまう。
 作曲家の「トム」と、母親に「ゲイ」であることをカミングウウトしたばかりの、共和党(リパブリカン)の青年弁護士の場合。「トム」が親しくなる「黒人俳優」が、自分たちの「関係」に潜在的に脅威になると感じて、防衛的に支配力を強めようとする。
 「トム」は、はじめのうち、この「黒人俳優」を「ゲイ」と知らない。このあたりの展開がおもしろい。
 そして、この「黒人俳優」は、じつは清純派の「カレン」に近い。

 ひょっとして――「SMASH」は、清純派の「カレン」と肉体派の「アイヴイー」の(潜在意識的な)ラヴ・ストーリーかも知れない。あるいは、(まったく表面にあらわれないが)レズビアンのラヴストーリーとさえ見える部分がある。

2013/07/19(Fri)  1506
 
     (5)
 新作ミュージカルの演出家、「デレク」(ジャック・ダヴェンポート)は、作曲家の「トム」(クリスチャン・ボール)とは犬猿の仲。
 ドラマは、「マリリン・モンロー」という「役」をめぐって、「カレン」と「アイヴィー」がはげしい競争をくりひろげる。

 新作ミュージカルに関心をもつプロデューサー、「アイリーン」(アンジェリカ・ヒューストン)は、夫の「ジェリー」と離婚協議中。夫は「アイリーン」を妨害しようとして「マイ・フェア・レデイ」の公演をぶつけようとする。
 もう一方では――「マリリン」ミュージカルにかかわる人々の「愛」と「傷」を描いたソープ・オペラ。

 「SMASH」の登場人物には、夫婦という婚姻関係、同棲、ゲイ、さらに(比重はかるいけれど)レズビアニズムまで、さまざまな「愛」が描かれる。これに、親子の愛情がからんでくる。
 「カレン」と「アイヴィー」のライヴァル関係、ひいては価値観の対立は、「女」としての「カレン」と「アイヴィー」、「女優」として「役」のなかで解決しなければならない、それぞれの愛情のありかた、豊かさ、そうした演技の多様性がだせるかどうか、という問題に重なってくる。

 ふたりにとって、ドラマの「マリリン」は、60年代の偶像(アイコン)ではない。(原作者のチーム、「ジュリア」と「トム」にとっても、アイコンではない。)
 「マリリン」は、一般大衆の憧憬、願望、欲求によって作られる。ところが、そんなものは、もはやあり得ない。(「アイリーン」(プロデューサー)と離婚係争中の夫(大プロデューサー)は、「マリリン」の出てくるミュージカルなんか誰も見にこない、と断言する。)ところが、そんなミュージカルなど、もはやあり得ないからこそ、「マリリン」という偶像(アイコン)があり得る、というロジックも成立する。

 「第8話」The Coup――ワークショップ終了後の手直しで、演出家「デレク」が見せる、「現代」の「マリリン」の変貌が、そのロジックを象徴している。「デレク」は――「純粋なマリリン」の極致は、エロスにあるとして、新しい「マリリン」のポテンシャルな演出を見せる。
 この ”Touch Me”のシーンは、「オール・ザット・ジャズ」(ボブ・フォッシー監督/振付・1979年)でアン・ラインキングが見せた、高度にエロティックなダンス・シーンに匹敵するハイライト。
 作詞・プロデュースは、ボニー・マッキー。

 「カレン」と「アイヴィー」、ふたりの、孤独感、嫉妬、羨望、ドラマの進行につれて募ってゆく憎しみ。それは感情の領域から――「女」としてのステータス獲得という目的にかかわってくる。       

2013/07/18(Thu)  1505
 
    (4)
 「SMASH」のオープニングは――無名の女優、「カレン」(キャサリン・マクフィー)がオーディションで、「虹の彼方に」を歌う。映画「オズの魔法使い」(1939年)でジュデイ・ガーランドが歌っていたテーマ曲。
 このオープニング、時間としてはわずかに35秒。日本のドラマだとはるかに時間がかかるだろう。スピーデイーな展開で、この女優はオーディションに落ちる。

 「カレン」の歌が「虹の彼方に」なので、まるで「ドロシー」のように、場違い(crude)、不慣れ(awkwardness)、不相応(unsuitable)、しかも、虹の彼方をめざしている「カレン」の子どもじみた(childish,immature)希望などがわかる。
 (あとでわかるのだが)「カレン」は田舎の高校で「金のタマゴ」コンクールに優勝したこと、「ドロシー」がカンザスの田舎娘だったように、「カレン」がアイオワのカントリーガールなのだということを一瞬に理解する。
 つぎに、オーディションを受ける女優は、おなじように無名の女優だが、実力派の「アイヴィー」(ミーガン・ヒルティー)。しかし、「アイヴィー」も落ちてしまう。この導入部(人物紹介)が1分10秒。
 これだけで、「SMASH」のフォーカシング(焦点)がわかる。

 「カレン」は、キャサリン・マクフィー。
 すっきりした体型で美貌だが、いかにもカントリー・ガールというタイプ。
 細おもての美女。顔の輪郭は、「お熱いのがお好き」の頃のマリリンに似ている。ほかのスターの誰にも似ていないのだが――私が思い浮かべたのは、サイレント映画のスターレット、ヴァレリー・ファニング(注)。

 「アイヴィー」はミーガン・ヒルティー。
 みるからにグラマラスでセクシイな女性。実際には、ブロードウェイで成功している有名女優。「SMASH」では、無名の女優でレヴューのアンサンブル(コーラスガール)。ミュージカルの主役(パート)をねらっているのだが、なかなかチャンスにめぐまれない。

 ふたりは何から何まで対照的で、「カレン」の無邪気さ、純粋さ。「アイヴィー」は野心的で、「比類ない彼女」Uncomparable She というエロス、自分の前にあらわれた男に躊躇することなくからだを投げ出す女。
 オーディションに合格した夜、「カレン」は、演出家「デレク」に呼び出される。「デレク」は演出だけでなくコレオグラファー(振り付け)。「カレン」は(誘惑しようとする)「デレク」から逃げるが、「アイヴィー」はおなじようにサシで稽古をつけようとする「デレク」と寝てしまう。

(注)VALERIE FANNING (below) was a typical silent starlet (though the term had not yet been coined) whose picture was taken in the hope that stardom was just around the corner. It wasn't, and her name is nowhere to be found in reference books.

2013/07/17(Wed)  1504
 
    (3)

 「SMASH」は、スティーヴン・スピルバーグ制作・総指揮のTVドラマ。

 スピルバーグが、ハリウッド女優、それもマリリン・モンローの生涯を描いた作品のプロデュースをしている。しかも、ミュージカルという。
 私はマリリン・モンローの生涯を描いたミュージカルとばかり思って見たのだった。

 「エビータ」はエバ・ペロンの伝記を舞台化したミュージカル。「ジーザス・クライスト・スーパースター」はイエスの生涯を舞台化したミュージカル。そういう意味では、「SMASH」はマリリン・モンローの生涯を描いたミュージカルではない。

 マリリンとは関係なく――ブロードウェイのショー・ビジネス、そのインサイド・ストーリー、ないしはバックステージ・ドラマというべきもの。

 「SMASH」は、すばらしい女優たちが出ている。
 キャサリン・マクフィーと、ミーガン・ヒルティー。このふたりのコントラストが、そのまま葛藤(コンフリクト)になっている。

 ストーリーは――女性作詞家、「ジュリア」(デブラ・メッシング)が、「マリリン・モンロー」を題材にしたミュージカルのアイディアをつかむ。「リディア」とチームを組んでいる作曲家、「トム」(クリスチャン・ボウル)が、作曲にとりかかる。その企画に、プロデューサー、「アイリーン」(アンジェリカ・ヒューストン)が関心をもつ。
 ブロードウェイで上演される前段階のトライアルとして、ワークショップが進行する。

 このTVミュージカル・ドラマは、「マリリン・モンロー」という女優の伝記を舞台化するミュージカル――その制作の企画段階から、作詞、作曲、プロデューサーによる出演者の交渉、オーディション――とくに、主役の「マリリン・モンロー」をめぐる新人女優ふたりのはげしい競争、そして出演者たちのいりみだれる「関係」――舞台ミュージカルのテレビ・ドラマ――ということになる。

2013/07/16(Tue)  1503

    (2)

 私は、ブロードウェイを舞台にした映画をたくさん見てきたひとり。

 20世紀はじめのブロードウェイ。若くて貧しい娘(ジェニファー・ジョーンズ)が、ニューヨークをめざして、シカゴから出てくる。彼女はブロードウェイの舞台で成功するが、その蔭で、彼女を愛した男(ローレンス・オリヴィエ)が失意の果てにホームレスに落ちぶれる。シアドー・ドライザーの「黄昏」。この映画は1953年の作品。

 20年代。アメリカのトーキー草創期に公開された「レビュー時代」。
 ジンジャー・ロジャースよりも、もっとみごとな肢体を見せていたエリナー・パウエルの「踊るブロードウェイ」、「踊る不夜城」。
 ジンジャー・ロジャースよりも前に、フレッド・アステアがエリナー・パウエルを相手に「踊るニューヨーク」。

 ブロードウェイをめざす無名の女優たちが寮のようなアパートに暮らしている。ジンジャー・ロジャースは、舞台に立つためならプロデューサーに身をまかせてもいいと考えている。アンドレア・リーズは、何度オーディションを受けても落ちてしまう。そこに、驕慢な、富豪の令嬢が入ってくる。キャサリン・ヘップバーン。キャサリンは成功するが、アンドレアは自殺する。1937年の「ステージ・ドア」。

 ブロードウェイの絢爛たる光の洪水のなかで成功するアーティストたち。失意のどん底を這いずりまわる落伍者たち。
 落ち目になった女芸人と、その娘。「喝采」(1929年)は、ルーベン・マムーリアンの処女作だった。主役は、美貌のヘレン・モーガン。

 「戦後」の「喝采」(1954年)。アルコールに溺れて凋落したシンガー(ビング・クロスビー)と、彼をささえて立ち直らせようとする妻(グレイス・ケリー)、もう一度、舞台に立たせようとする演出家(ウィリアム・ホールデン)の物語。原作はクリフォード・オデッツ。この映画で、グレイス・ケリーがアカデミー賞を受けたっけ。

 もっと近いところでは、ウデイ・アレンの「ブロードウェイのダニー・ローズ」。ブロードウェイにひしめく下積みの俳優たちの哀歓。おなじウデイ・アレンの「ブロードウェイの銃弾」(1994年)は、せっかくいい芝居を書いた劇作家が、落ち目の大女優のわがままや、マフィアの親分の可愛がっている女優にふりまわされる。
 6部門にノミネートされながら、ウデイは何ももらえず、ダイアン・ウィーストが、ちゃっかり助演女優賞をもらった。

 ブロードウェイ。
 タイムズ・スクェアにあふれる絢爛たる光の洪水。
 ショー・ビズネス。

 私は、最近、「SMASH」(2013.4)を見た。

2013/07/15(Mon)  1502
 
 (1)

 ブロードウェイ。
 タイムズ・スクェアにあふれる絢爛たる光の洪水。
 その輝きのなかに、無数の挫折、栄光が渦巻いている。

 2013年6月9日、アメリカ演劇界で最高の栄誉とされる「トニー賞」の発表と授賞式が行われた。
 ドラマ部門とミュージカル部門に分かれているが、今年のミュージカルは「キンキーブーツ」が最優秀作品賞ほか、オリジナル作曲賞など、6部門を独占したという。
 不況で倒産寸前の靴工場で、再建をめぐってのさまざまな人間模様を描いたコメディ。

 オリジナル作曲賞は、シンディ・ローパー。

 受賞したシンデイは、「私を受け入れてくれたブロードウェイに感謝したい」とスピーチした。このことばの重さは、シンディ・ローパーを知っている人にはすぐにわかるだろう。

 この「キンキーブーツ」のプロデューサーの一人が日本人だという。ブロードウェイの輝きのなかに日本人の名が輝いたことに私は感慨を催した。日本の女優がミュージカル、「シカゴ」の舞台を1カ月つとめた程度のことではない。

 このプロデューサーの胸にも「私を受け入れてくれたブロードウェイに感謝したい」という思いはあったに違いない。  

2013/07/11(Thu)  1501
 
 これを書いた時の私は、アフリカについてはもとより、シーア派についても、何も知らなかった。ただ、イザべル・エベラールという、文学的に夭折した作家を、あらためて読むことができる、そういう喜びを語りたかったにすぎない。

 いまでも、心に深く残っているシーンがある。

 外人部隊の兵士が、町でただ一軒のカフェ、石油缶を並べただけのベンチに腰をおろしている。
 アルジェの強烈な日ざしにさらされて、まっくろに日灼けしているドイツ系のブロンドの兵士。
 アラブ人になりきって男装しているイザベルと、たまたま話をする。

 アラブ人の「男」が、たどたどしいがなんとかドイツ語を話すので驚く。まさか、砂漠の中の小さな町で、母国語を口にする機会があるとは信じられない。
 この若い兵士は、人生をあたら蕩尽してしまったこと、世界じゅうを放浪して、最後にフランスの外人部隊にもぐり込んだことを語る。敗残の叙事詩を。

 デュッセルドルフ生まれ。20歳のとき、旅と冒険へのやみがたい欲求に駆られて、ドイツ軍に志願して、清(中国)に送られた。
 イザベルが兵士に会った時期は、おそらく1903年頃だろうから、この兵士は、義和団事件(1899年)の起きた時期に、清(中国)に送られたのだろう。

 だが、この兵士は脱走した。中国の港で辻芸人をやったり、領事館につとめたり、水夫になって、世界をへめぐったあと、無一文になった。故郷を離れて5年、アルジェにたどり着いて、外人部隊に志願する。

 イザベルは書いている。

    彼の人生は台なしになった。それに間違いはない。だが、それでどうなのか。彼
    は退屈しなかったし、世界を見届けて、今では人や物事をはっきり知りつくして
    いる。

 ある晩のこと、この兵士はイザベルにいう。
 「ここでの不幸は、何も読むものがないことなんだ。新聞さえもない。獣のように暮らしていると、頭がボケてしまう。こんな時間に、コーヒーでも読みながら、いっしょに本が読めたら、しあわせなんだが」と。
 イザベルをイスラム教徒と知って、いい出せなかったことだが、たった1冊、本をもっていると伝える。それは、聖書だった。
 イザベルは、イスラム教と古いユダヤ教には血縁関係があって、どちらも、苛烈な一神教なのだと話す。兵士は、イザベルが、聖書を読むことを許してくれたと知って、いそいで、聖書をもってくる。

 こんな話が、今の私を感動させる。

2013/07/10(Wed)  1500
 
 1990年12月、私はこんな書評を書いた。

 水が砂漠に吸い込まれるように、忘却の淵に沈んでしまった伝説的な女流作家がいる。その名は、イザべル・エベラール。

 彼女の障害は波瀾(はらん)にみちたものだった。ロシアの革命家の娘として生まれ、数奇な運命に導かれて、単身、サハラ砂漠の奥深く潜入し、遊牧民の男を熱烈に愛した。イザべルは男装して、シーア派の一員として政治的な活動をつづけ、作家しても嘱望されていた。
 だが、長編として書きつづけた原稿とともに、アフリカの大洪水にのみ込まれた。わずか27歳の若さだった。
 あまりに早く人生を駆け抜けただけに、作家としての成熟は見られなかったが、その紀行文には、イザべル・エベラールの驚くべき行動力、ゆたかな感性、観察のするどさが至るところに認められる。

 日本ではじめて翻訳された「砂漠の女」は、22歳でチュニジアに住みついたイザべルの、アルジェリアまでの旅、特にサハラ砂漠のマグレブ地方の観察記録である。彼女は、サハラを愛した。自らが語っているように、神秘的な、深い、説明しがたい愛にほかならない。それは、あくまで現実に根ざした愛であり、しかも不滅の愛だった。

 原稿は、イザべルが亡くなってから整理されたもので、ときには断片的であり、さらには途中で異文(ヴァリアント)が挿入されているが、それがかえって、イザべルのいきいきとした息づかいを感じさせる。

 ランボオやゴーギャンのような「脱出」の系譜に入れてもおかしくない作家だし、T・E・ロレンスに近い行動派の文学の先駆と見てもいい。アフリカのルポルタージュとして、ジッドの「コンゴ紀行」を予告するような部分がある。
 いずれにせよ、この「砂漠の女」で、私たちはようやくイザべル・エベラールの全貌を知ることができるだろう。そういう意味で、私にとっては、「砂漠の女」は一つの文学的な事件なのである。

2013/07/04(Thu)  1499
 
 モンテルランがこんなことを書いていた。

   一人の芸術家が、冷静に、自分の知能と、魂と、創作力の発揮を、感覚が衰えて
   いる老後の時期に賭ける。この事実には、ある種の偉大さがある。

 だが、すぐにつづけてこうも言っている。

   少なくとも、自分の天性によほど深い自信がないかぎり、ここまで長いあいだ、
   眠らせておいた才能が、完全な姿で戻ってくるとは思えないはずだ。

 アハハ。

 老いぼれ作家が、いまさら人生に問いかけたところで、期待通りの返事が返ってくるわけがない。

2013/07/02(Tue)  1498
 
 他人には何の意味もない日付けの羅列。

 1月13日(木)/29日(月)/31日(月)
 2月8日(火)/21日(月)/26日(月)
 3月1日(火)/10日(木)/14日(月)/26日(木)
 4月1日(金)/5日(火)/11日(月)/19日(月)
 4月23日(土)/26日(火)
 5月10日(火)/11日(月)/24日(火)/28日(土)/31日(火)
 6月7日(火)/14日(火)/22日(火)/25日(土)/28日(火)
 7月6日(水)/12日(火)/16日(土)/19日(火)/29日(金)
 8月2日(火)/9日(火)/19日(火)/24日(水)/25日(木)/30日
 9月6日(火)9日(金)/14日(水)/21日(水)
 10月6日(木)/17日(月)/24日(月)
 11月7日(月)/14日(月)/17日(月)/21日(月)
 12月8日(木)/17日(月)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 戦後はじめてモンテルランの小説を読んだ。その登場人物が、このリストをいつも紙入れにいれて、ときどきとりだしては眺める。
 気がむけば、いつでも反芻することができる楽しみ。

 モンテルランの表現では――彼は自分の全集の目次を読み返す作家の満足感で、それを読み返した、とあった。ふーん、自分の全集が出るような作家は目次を読み返すときに満足感をおぼえるのか。
 こんなことからモンテルランに興味をもった。

 当時の私は、いつもきまって友人の小川 茂久と行きつけの酒場や居酒屋で飲むことにしていた。小川は、19世紀のフランス文学、とくに自然主義の作家を勉強していたのだが、私がモンテルランに興味をもちはじめたと知って、不思議そうな顔をした。

2013/06/30(Sun)  1497
 
 人は、好んで自分の病気の話をする。自分の人生のなかで、いちばんおもしろくないことなのに。

 チェホフのことば。私はチェホフを尊敬しているので自分の病気の話をしない。もし、私が自分の病気の話をするようになったら、ボケたせいだと思って聞き流してほしい。
 え、もうとっくにボケているじゃないか、って? (笑)

2013/06/29(Sat)  1496
 
 イタリアの有名なバレー選手で、ファッション・モデルとしても知られているフランチェスカ・ピッチニーニは、自室に、アンデイ・ウォーホルの版画「マリリン・モンロー」を飾っている。
 (2012.12.11)夜8時20分、8channel 放送)

 つまらないトリヴィアだが、記録しておく。

2013/06/27(Thu)  1495
 
 フィルコの滞在中に、銀座の、ある画廊のパーティーに行った。
 私は一介の批評家なので、美術批評の世界を知らなかった。このパーティーで、針生一郎が、私がフィルコの世話を見ていることに感謝のことばをかけてきた。針生 一郎は、「俳優座」の養成所の講師だったし、どういう風の吹きまわしか、「新日本文学」がやっていた文学講座に呼んでくれたことがあった。
 針生 一郎まで、私がフィルコの世話を見ていることを知っている。これも、ちょっと驚いた。
 この席で、私は、サム・フランシス、カール・アンドレなどに紹介された。

 当時の私は、現代美術について何も知らなかった。今だって、ほとんど知らないのだから、お話にならないが、もう少し知識があったら、と残念に思う。
 しかし、フィルコを知ったことで、いささかなりとも現代美術に対する眼が開かれたことも間違いない。

 フィルコの帰国の日、私は、やはり私が紹介した女の子、能登 光代といっしょに横浜港まで送って行った。

 それ以後、フィルコの消息を聞くことがなかった。

 はるか後年、思想家、ジュリア・クリステヴァに会う機会があって、私はたまたまフィルコのことを話題にした。そのとき、意外なことを知らされた。
 帰国後のフィルコがマリーアと離婚したという。
 私の胸にかすかな傷みが走った。

2013/06/23(Sun)  1494
 
 意外なことに、フィルコは毎日チェコ大使館に出頭しなければならなかった。
 ずっとあとで知って驚いたのだが、前日の行動を詳細に報告しなければならなかったらしい。その一方で、大使館は、フィルコの滞在先、中田 耕治についても調査したらしい。
 ある日、東京から戻ってきたフィルコが、私をつかまえて、
 「君は作家なんだねえ」
 といった。
 「有名じゃないけど、自分では作家と称しているよ。それが何か……?」
 「大使館が教えてくれた」
 私は笑った。私は「文芸年鑑」程度のものにやっと出ている。調べたって仕方がないだろうに。
 共産圏の大使館は、自国を代表する芸術家の行動、とくに交遊関係にまで目を光らせているのか。もっと驚いたのは、フィルコ夫妻の滞在に対して、経済的な援助なしだったことを知った。この日から、食事も私たちとおなじものにすることにした。むろん、対価をいただくわけではない。

 東京を案内することにした。マリーアは妻といっしょに行動させた。その間に、ストリップ劇場に案内したこともある。フィルコは、アメリカ映画はチェコでは絶対に見られないので、ぜひ見たい、という。私は映画の批評を書いていたので、試写室につれて行った。二、三本見たはずだが、バート・ランカスターの「大空港」、フランス映画ではジョルジュ・フェイドーの喜劇しかおぼえていない。見終わったあと、フィルコは何もいわなかった。
 私は、明日の大使館詣では、何もいわないだろうな、と思った。 (つづく)

2013/06/22(Fri)  1493
 
 フィルコは、大阪万博に作品を展示するため夫人マリーアといっしょに来日した。
 滞在期間は1週間。4月初旬には帰国する予定だった。
 しかし、フィルコ夫妻は、せっかく来日したのだから、東京の美術展を見て歩きたい、と思った。ふつうの旅行者なら、そう思うのも当然だろう。だが、東西の冷戦構造のなかで、外国旅行が許可されない共産圏から例外として出国を許された芸術家だった。
 フィルコは、大使館に出頭して、滞在延期を申請した。

 フィルコは、海外でも知られていた芸術家だった。たまたま、アメリカの彫刻家を知っていた。この彫刻家に連絡したらしい。その彫刻家は、自分の知っている日本の彫刻家、高橋 清を紹介したのだった。

 高橋 清は、日本よりもメキシコで著名な芸術家だった。メキシコ・オリンピックが開催されたとき、マラソン・コースの沿道に、世界的な彫刻家、十数名が彫刻を建てたが、日本人として高橋 清が選ばれている。
 フィルコは、高橋 清の家に泊めてもらえないかと相談したのだった。だが、この70年当時、高橋 清はメキシコから帰国したばかりで、アトリエを新築中だった。フィルコの希望に添える状況ではなかった。
 そこで、高橋 清は、私に事情をつたえて、フィルコ夫妻を泊めてやってほしい、とつたえてきた。

 私はよろこんでひき受けた。

 こうして、思いがけないことから、フィルコ夫妻を自宅でもてなすことになった。

 マリーアは、あとで知ったのだがハンガリー人で、カトリック教徒だった。夫のフィルコの才能を信じて、いわば内助の功を身につけたような女性だった。いつもひかえめで、夫を立てようとしている。育ちのよさがそのまま人柄のよさに重なっている。
 フィルコは、英語をしゃべらないので、私はもっぱらフランス語でしゃべった。マリーアは、英語を少ししゃべったが、フランス語はしゃべらない。
 我が家の言語体系はときならぬ大混乱に落ち入った。

 このときから、毎日、コメデイの連続だった。    (つづく)

2013/06/19(Wed)  1492
 
 1970年、大阪で万博が開催された。

 個人的に外国の作家や芸術家と接触したことは多くない。
 こちらがまったく無名の作家だったからだが、それでも、ごくわずかな数の芸術家と知り合う機会があった。
 例えば、スタノ・フィルコ。

 フィルコは、チェコスロヴァキアの芸術家で、大阪万博に新設された現代美術館に、チェコの代表として作品を展示した。このとき、世界じゅうから約20名の芸術家が選ばれて出品しているが、そのなかに、フォンタナ、ヘンリー・ムーアなどが含まれていた。当時の共産圏の、チェコスロヴァキアからスタニスラフ・フィルコだけが選ばれているが、ソヴィエトには社会主義リアリズムの美術しか存在せず、「現代美術」などはじめからあり得なかったから、スタノ・フィルコが選ばれたのは異例だったに違いない。

 私は、スタノ・フィルコについて何も知らなかった。

 1年後に「朝日」がフィルコを紹介している。

    チェコのブラチスラバに住む異色芸術家スタノ・フィルコが、数年前の活動をま
    とめた作品集を出した。
    フィルコの初期作品は、バロックの祭壇を思わせるガラクタのよせあつめだった
    が、一九六五年以来”Happsoc”(ハプソク)と名づけて、環境芸術とハ
    プニングを総合する方向に向かった。たとえば、六六年の「普遍的環境」と題し
    た作品は、木のわくとナイロン・レースのカーテンにしきられた空間で、床と壁
    には鏡がはめこまれ、頭上から三つのシャンデリアが三色の光を放射し、カー
    テンには女のシルエットが映しだされる。観客はテーブルに置かれたチェスをや
    ったり、女の描かれた空気ベッドにすわったりしながら、現実と幻影との交錯に
    ひきこまれる。
    このように光、映像、音、物体、文字などを動員しながら、動的な情報環境に観
    客をじかに参加させるのが、フィルコの作品の特色である。
    一昨年のパリ・ビエンナーレには、球体のテントの内部に鏡をはりつめた空間を
    作り、宇宙探検への関心をつよく示した。
    近年は、コンセプチュアル・アート(概念美術)の方向に近づいている。昨年の
    万国博にも参加し、来日した。フランスの批評家ピエール・レスタニーが、文明
    社会の日常性をそのまま作品化する点で、マルセル・デュシャンの直系と書いた
    ように、西側でも注目されている。  (71年5月15日)

 私が見たのは、この「普遍的環境」で、ほとんど観客のいない「現代美術館」の一室で見たのだった。小さなのぞき窓から見るようになっている。その意味では、マルセル・デュシャンのアイディアを踏襲しているにちがいない。
 私は、上からほのかに放射される三色の光のなかに、淡い色で女のシルエットが揺れているのを見て、「現在」の東ヨーロッパの「エロス」を感じた。性的な事象に対して、きわめて禁遏的な共産圏では、女の「エロス」の表現はこれが限界なのだろう。

 逆にいえば――性的な表現がまったく存在しない場所で、どういうかたちであれ、若い女性の裸身を表現することに、ひそかな「抵抗」がある。私はそう感じた。
 フィルコのヌードは、かすかな空気のなかで、たえず揺れている。それはたえず変化し、いわば浄化されてゆく。これは何かのメタファーなのか。

 大阪でフィルコを見たとき、この芸術家と知り合うなど考えもしなかった。
     (つづく)

2013/06/14(Fri)  1491
 
 幼年時代に、はじめて出会った本が何だったのか、現在の私には想像もつかない。
 亡くなった母、宇免から聞いたことがあるのだが、巌谷 小波の童話の絵本が好きだったという。その童話に出てくる犬が好きで、その犬を飼ってくれとせがんだらしい。その童話がどういう内容だったか、おぼえていない。
 私の年代の人なら、たいてい「幼年クラブ」か「少年倶楽部」の読者で、吉川 英治や、高垣 眸、南 洋一郎といった作家の連載に夢中になった記憶があるに違いない。私の場合はやはり乱読で、山中 峯太郎から佐々木 邦まで、手あたり次第に読みふけった。

  はじめて買った本なら、よくおぼえている。つまり、自分のおこづかいをためて買った本で、両親が買ってくれた本ではなく、自分が読みたくて買った本である。むろん、高い値段の本を買ったわけではない。
 キップリングの「ジャングル・ブック」だった。じつは、いっしょに「ロビンソン・クルーソー」を買ったのだが、小学生にはひどくむずかしい本だった。そのため、デフォーは読まずに、キップリングを読んだ。
 私は、密林に住んでいる少年の冒険に胸をおどらせた。こんなに面白い本を読んだことがなかった。

 キップリングはそれほど好きな作家ではないが、私は、今でも自分が、昂揚と挫折にみちた人生の密林に生きているような気がしている。

 これは、「子どものとき、この本に出会った」(鳥越 信・編/1992年12月刊)に書いた短いエッセイ。
 もともとは、「子どもの本」という雑誌の巻頭の随筆で、私のほかに111名の人が、幼い日に出会った本のことを書いている。
「ジャングル・ブック」をあげていたのは、さだ・まさし、動物園の中川 志郎。
「ロビンソン・クルーソー」をあげていたのは、作家の庄野 潤三、坪田 譲治、将棋の内藤 国雄の三人。

 それぞれのエッセイに、編者の注がついていた。

   中田さんがはじめて買われた本は、価格の面から考えても春陽堂少年文庫69巻
   の「ジャングル・ブック」(小島 政二郎訳 1933年)ではないかと思われ
   ますが、モーグリの話三編を合わせた「狼少年」の他に、マングースの話「リッ
   キ・チッキ・テビー」、海を舞台にした「しろあざらし」が収められています。

 とあった。

 私が読んだのは、残念ながら小島 政二郎訳ではなかった。
 岩波文庫から出た中村 為治訳(1937年)である。
 もう少しあとになって――沢田 謙治の「エジソン伝」(新潮文庫)を買ってきた。この本もおもしろかった。とくに少年時代のエジソンにあこがれた。それと同時に、小説ではないジャンルにはじめて関心をもった。
 後年の私が翻訳をしたり評伝を書くようになった遠因は、少年時代にこの本を読んだおかげかも知れない。

2013/06/09(Sun)  1490
 
 小川 茂久は、生涯にただ1冊の本しか残さなかった。
 「小川町界隈」という200ページ足らずの雑文集だった。そのなかに「文芸科のころ」というエッセイがある。私の著作、「異端作家のアラベスク」の栞に寄せてくれたもので、若き日の交遊が語られている。

 「小川町界隈」は、自分の生い立ち、明治の文科で、私、関口 功(後年、英米文学・教授)と知り合ったこと、フランス文学を専攻するようになったこと、そうした「よもやま話」が第一部。いろいろな会合で、小川はいつも裏方として支えていた。そうした集まりで、乾杯の音頭をとったり、(開会ではなく)閉会の挨拶をしたり。そうしたスピーチを集めてある。そして、親しい友人たちがつぎつぎに去って行く。有名な雑誌の編集者をやめて、画家をめざしてパリに行き、美しいフランスのマドモアゼルをつれて帰国し、個展も成功しながら、病にたおれた都城 範和。私たちより、1級上で、「東宝」のプロデューサーとして成功したが、急死した椎野 英之。
 小川 茂久は、フランス文学の恩師だった斉藤 磯雄先生、竹村 猛先生、そして英文科の小野 二郎教授の追悼を書いている。それらの点鬼簿が第三部。

 私は、日本文学科の講師だったので、諸先生とは口をきいたこともなかった。小野 二郎は、旗亭、「あくね」で小川が紹介してくれたので、酒を酌み交わしたが、小川のおかげで、いろいろな人と知り合うことができた。

 小川の残した文章はいずれも短いが、ほんとうに心のこもったものだった。
 フランス語に近いクラルテ(明晰さ)というか、しっかりした、単純な文体で、彼の語ることはいつも的確だった。
 1996年6月21日、神保町の酒場、「あくね」が廃業することになって、最後の集まりが「日本出版クラブ」で行われた。常連客たちが、多数あつまったが、いろいろな人がお別れのスピーチをした。
 最後に、小川が「閉会の辞」を述べた。その冒頭と結びを引用しておく。

   私はのんべえ塾・酒場「あくね」の開設以来(1960年11月24日)、怠
   け怠けですが、通っている者です。その設立趣旨(あるとすれば)によると、
   卒業は認められていませんから、今日まで長々在籍して、美酒を嗜みながら多
   くの人と語らい多くの事を学び取りました。(中略)

 これがオープニング。

   私ごとで恐縮ですが、私は三十六年という長い歳月にわたり、塾長にお世話を
   かけっぱなしでした。この席をかりて、厚く御礼申し上げます。
   「二次会」は場所を「あくね」に移して開きます。会費千円、食べ物は乾き物
   程度ですが、飲み物はふんだんにありますから、宜しかったらお立ち寄り下さ
   い。
   以上をもちまして、閉会の辞に代らせて頂きます。

 これが、エンディング。いかにもありきたりの式辞だが、小川らしいユーモアがあって、なごやかな笑いが惜別の思いを包んでいる。
 小川はどんな集まりでもけっして表面に出ず、裏にまわって力をつくす。そういう誠実な人物だった。他人の失敗を咎めることなく、誰にも気づかれないようにして、自分がカヴァーする。
 私は彼の近くにいたから、彼のひそかな、しかも綿密な心遣いに気がついたが、小川はいつも、ケッケッケッとカラス天狗のように笑って何も語らなかった。

 彼の残した「小川町界隈」を読む。小川と知りあえたことは、自分が生きていてよかったと思えるようなことの一つ。ここに集められた短いエッセイは、どれをとっても何冊かの本が書けそうなくらいの事柄だが、小川は何も書かなかった。
 あらためて思う。小川は、私などよりもずっとりっぱな文章家だった、と。

2013/06/06(Thu)  1489
 
 たくさんの人を見てきた。いろいろな国を訪れた。気に入らない仕事もやってきた。女も知った。さて、生きていてよかったと思えるような光景にもぶつかったし、何冊かの本が書けそうなくらいの事柄も心に残っている。
 ここに小川 茂久という男がいる。私と同期で、明治大学でフランス文学の教授をやっている。
 若い頃の小川は、佐藤 正彰先生、斉藤 磯雄先生の知遇を得た。作家の中村 真一郎さんと親しかった。私の長編「おお 季節よ城よ」には、少年の日の小川が登場してくる。
 私は17歳のとき、二歳年長の小川を知った。お互いにドストエフスキー、小林 秀雄に私淑していた。戦争末期、小川が召集されたとき以外は、殆ど毎日のように会って、じつに半世紀近くも過ごしてきた。口論したことは一度もない。こっちが叱られたことはあったが。
 酒豪である。東京・神田神保町の酒場「あくね」につれて行ってくれたのも小川だった。いろいろな作家や評論家がとぐろを巻いていたがやがて私も酒徒行伝に名をつらねることになった。
 今の私は環境(ミリュー)が違うせいで、あまり会うこともなくなっている。たまに会っても、いまさら文学論をたたかわすこともない。お互いに顔を見ただけで何を考えているか、だいたいはわかっている。
 お互いに私生活の話をするでもない。それでいて、以心伝心というか、何でもわかってくれる。おのれの生きかたを他人の考えでなぞって見る必要のない間柄なのである。
 こういう男こそ親友といえるだろう。戦時中から戦後、そして現在まで、おなじように生きてきた友人のことを考えれば、いまさら年をとったなどと、驚かずにすむ。

 以上は、「日経」(1990年11月23日)に掲載された短いエッセイ。担当は、文化部にいた、吉沢 正英だった。

 小川が亡くなって10年。すでに吉沢 正英も亡くなっている。ここに拙文を再録しておくのも、かつての交遊が私の心裡に染みて、忘るることのなきが故である。

2013/06/03(Mon)  1488
 
 グレタ・ガルボについて。ガルボほど美しい女はめずらしい。

 ガルボのように美貌で、非のうちどころのない美女だっていないわけではない。たとえば、ブリギッテ・ニールセンのように、おなじ北欧のブロンド。長身で、ほんとうの美貌、ととのい過ぎた女優をみると、なぜか笑いたくなる。
 「クリスティナ女王」や「椿姫」のガルボを見ると、いつも美人として生きなければならない女優の不幸に感動する。
 「ニノチカ」のガルボは違う。原作は、旧ソヴィエトの体制、官僚主義、どうしようもなく硬直したオブスキュランティスムを風刺したものだが、それまで笑ったことのないガルボが不意に笑い出すシーンがよかった。

 ガルボは、コメディエンヌとしての素質を欠いていたわけではないが、ひたすら悲劇女優として生きた。やがて、ガルボは去ってしまった。映画だけでなく、アメリカという「現実」からも。

 私が、はじめてガルボを見たのは、G・W・パプストの「喜びなき街」だった。第一次大戦の「戦後」の暗い世相を描いた映画だった。私は、太平洋戦争の「戦後」、1945年の夏にこの映画を見た。日本が、まさに「戦後」の悲惨な、暗い世相を見せはじめた時期で、それだけに「喜びなき街」は衝撃的な映画だった。
 そして――「喜びなき街」は、私が「戦後」はじめてみた外国映画ではなかったか。

 この映画のラスト・シーンに、まだまったく無名のマルレーネ・ディートリヒが出ていて、一瞬、ガルボとすれ違う。これを「発見」した私は、その後、何十年も、あれは、ほんとうにマルレーネ・ディートリヒだったのだろうか、と疑ってきた。
 そして、ドイツ映画史のなかで、私の想定した通り、ガルボの「喜びなき街」に、エキストラとして無名のマルレーネ・ディートリヒが出ていたことをつきとめた。
 今、考えても、信じられないような「現実」だった。

2013/06/01(Sat)  1487
 
 女について考えなくなっている。

    女の三つの義務。第一に美しくあること。第二に、よいジェスト(身のこなし)
    をすること。第三に、さからわないこと。

 サマセット・モーム、22歳のノート。


    女は美しくなくてもいい。よいジェスト(身のこなし)を見せる女優さえ少なく
    なっている。最後に、男は女にさからわないこと。

 中田 耕治、85歳のノート。

2013/05/29(Wed)  1486
 
 最近の私のブログは長い。長すぎる。
 本が読めるようになったせいだろう。

    読書は人を聡明にしない。ただ教養ある者にするだけだ。

 サマセット・モーム、18歳のノート。

    読書は人を聡明にしない。ただ教養ある者にするだけだ。
    いくら本を読んでも、身につかない教養もある。

 中田 耕治、85歳のノート。

2013/05/26(Sun)  1485
 
 「武玉川」を読んでいて、60代、70代はほとんど言及がない理由を考えてみたが、どうもよくわからない。死亡率に関係があることは間違いないけれど。
 そんなことを考えていて――70代という連想から、司馬 江漢(1738−1818年)のことを思い出した。
 鎖国時代の洋画家。銅版画で地球全図を作ったり、寛政から文化にかけて、洋学者として「天球図」、「和蘭通舶」、「刻白爾天文図」(コペルニクス天動説)、「天地理譚」などの著作で知られている。
 その司馬 江漢は、74歳、「春波楼筆記」という自伝で、それまでの開明的な立場から、なぜか懐疑的な思想を展開するようになった。
 「われ七十有余にして始めて壮年よりの誤りを知れり」という自己否定が、彼の内面にひろがってくる。
 文化10年には、「江漢辞世の語」という通知を知友に送った。
 その内容は――「江漢先生は老衰して絵の求めに応じられなくなって、蘭学の勉強にもあきました。さきほど上方に出立しましたが、鎌倉の円覚寺の誠拙禅師の教えをうけて、ついに大悟して亡くなりました」というものだった。
 知人たちは驚いて、芝/宇田川の江漢先生宅に急行したが、もぬけのから。このとき、江漢先生は麻布に引っ越していた。しばらくして、知人に見つけられると、「死人が口をきくものか」とどなって逃げたという。

 江漢先生のおふざけは――おなじように自分の死亡通知を配った山崎 北華に似ている。北華は、葬式の途中で棺桶から出てきて、みんなを唖然とさせ、かねて呼んでおいた芸者たちと飲めや歌えの大騒ぎのあと、所在をくらました文人。江漢先生の行動には、北華よりももう少し暗い、nihilisticな鬱に近いものが感じられる。

 ただし、江漢先生はその後4年も生きて、文政元年(1818年)に、81歳で亡くなっている。

 私のブログも、江漢先生のひそみにならって「香チ庵辞世の語」としたいところだが。

2013/05/21(Tue)  1484
 
 五十代の句も少ない。

    転寝(うたたね)の夢には長し五十年 (第18編)
    人五十 天から着せる頭巾哉    (第14編)
    五十年 能く納りし無筆なり    (第6編)
    五十を越すと 殖る 毒断     (第14編)

 この程度しか見当たらない。
 ここには「松風は老行く坂の這入口」どころではない、あきらめ、または、孤独感がただよっているような気がする。あえて言えば、社会的に孤独な生活を強いられるか、実質的に、性的なコンタクトから疎外されている老人の姿がうかびあがってくる。
 現在の老人にとって、人生はもはやスタティックなものでさえもない。老人は、自分の住む町の空間、いかなる場所にもむすびついていない。江戸のご隠居さんの盆栽、あるいは朝顔などの栽培には、何か別の「意味」がひそんではいなかったか。

 「武玉川」には60代、70代の世界は、まったくない。80代になると、(これも特徴的に見えるのだが)年齢が特定されてくる。

    八十七は 欲の出る年       (第14編)
    八十七も なぶらるる年      (第14編)
    八十七は 手をあてる年      (第14編)
    八十八は うま過ぎた年      (第14編)
    八十八の耳に 毛がはへ      (第14編)

 80代になって、なぜ年齢が特定されるのか。87歳という「措定」は、おそらく米寿という観念が作用しているせいだろうと思う。しかし、「八十八の耳に毛が生える」というのは、生理的な現象としてはわかるのだが、実質はどういう意味なのか。
 90代の句は、わずかに、

    九十九の人は 大かた口ばかり   (第14編)
    九十九は 嘘を冬瓜の咲て見せ   (第18編)

 これしか見つからなかった。

 ところで、私が身につまされた一句は、(第16編)の

    貧乏によく生きた八十

 貧乏作家がいまさら「武玉川」を読み直す必要なんてないよなあ。(笑)

2013/05/18(Sat)  1483
 
 芭蕉を弟子たちが翁と呼んだのは、芭蕉、37歳の頃という。芭蕉だから、翁と呼んでも恰好がつくが、今の30代の作家を翁と呼んだら、どうなるか。(笑)

 芭蕉は、伊勢への旅で、弟子が、

    師の桜 昔拾はん 木葉哉

 と詠んだのに対して、

    薄(すすき)に霜の 髭(ひげ)四十一

 と付けた。41歳で、ひげに白いものが見えてきたという意味だろう。
 これが、「誹諧武玉川」では、

    四十ほど はしたな年はなかりけり (第9編)
    まだ年も 四十で居れば 面白き  (第14編)
    四十から 心の猿に毛がふゑる   (第5編)
    いへばいふ 四十はいまだ 花の春 (第9編)
    正月が 四十を越せば飛で来る   (第6編)
    うつくしい女の四十 物すごさ   (第15編)
    四十にて 握拳のありがたさ    (第10編)

 これが「武玉川」に詠まれている四十代である。

 つづく五十代の句は少ない。六十代、七十代はまったく言及がない。

 ここで、私が考えるのは――江戸の庶民たちは、職業の違い、成熟期に入った年齢も、都市と農村の区別もなく、すべて年代でひとくくりにしていたということ。
 かんたんにいえば、女は40代で終わり、60代、70代の男は、はじめから揶揄や嘲笑の対象でさえなくて、まるっきり存在していない、ということではないか。
 「四十にて 握拳のありがたさ」などと笑ってはいられない。
      (つづく)

2013/05/15(Wed)  1482
 
 「誹諧武玉川」初編から十八編まで。
 年齢がわかるものを挙げてみよう。

    いつまでか 十九十九のしら拍子  (第12編)
    怖かりし十九の年も 無事で過ぎ  (第13編)
    奥歯にものの 十九 二十五    (第17編)

    二十五と十九の間も 因果なり   (第7編)
    二十五は 娘の年でなかりけり   (第8編)
    二十五から 竹になる年      (第17編)
    錦木をはふり捨て捨て 二十四五  (第18編)

 江戸人の観念には十九・二十五歳の男女関係がつよく意識されていたのかも知れない。
 これは婚姻だけではなく、性的な成熟期という意味で。当たり前だというだろうか。それでは、30代の句を拾いあげてみよう。

    三十で 恐ろしいもの 緋ぢりめん (第5編)
    三十は 落着としの はじめ也   (第17編)
    地黄と聞いて笑ふ 三十      (第16編)
    三十を過ると 縞が眠う成     (第11編)
    まだ顔も 三十三で面白き     (第6編)
    松風に ふっと気の付く三十九   (第11編)
    分別の四十に遠き三十九      (第18編)

 緋縮緬どうもセクハラだなあ。
 三十歳が「落ちつく年のはじめ」というのは、男性の性的能力がピークを過ぎているという意味にもとれる。そこで、「地黄と聞いて笑う」ことになる。
 「地黄」は、地黄丸という生薬。強精薬。井原 西鶴の「好色一代女」に、「いまだお年も若ふして、地黄の御せんさく(詮索)」という一節がある。「武玉川」にも、「地黄はやりて天下泰平」(第13編)という句がある。
 「まだ顔も三十三で面白き」は、女を詠んだものだが、松風の句は、「松風は老行く坂の這入口」(第11編)があって、これは男を詠んだものだろう。
   (つづく)

2013/05/12(Sun)  1481
 
 なんとか本が読めるようになったので、なんと昔の川柳を読みはじめた。

 「誹諧武玉川」初編から十八編まで。今どき、こんなものをまとめて読むなんざ酔狂な話だが。川柳なら短いので、それほど眼が疲れない。

 紀逸(四季庵)が川柳(付句)を集めて編纂したもの。四季庵が途中で亡くなったため、二世/紀逸(四時楼)があとをついで、十八編まで編纂したものという。
 読みはじめたのはいいのだが、江戸文学の素養のない私には、ほとんどの句がよくわからない。難句といった、はじめからむずかしいものではなく、当時の江戸(宝暦年間)の風俗、文化、男女の機微万般にわたって無知なので、どこがおもしろいのかわからないものばかり。たとえば、

    干からびにけり 伊藤源介   (第5編)

 さて、この「伊藤源介」がどういう人なのか見当もつかない。「干からびにけり 中田耕治も」だなあ。それでも、たまには

    戀しき人に逢へば 日がくれ  (第9編)
    腰帯を締ると 腰が生きてくる (第6編)
    吉祥寺 泉岳寺より面白き   (第5編)

 などという句にぶつかって、思わずにんまりしたくなる。
 吉祥寺は、中央線の「吉祥寺」ではなく、八百屋お七の吉祥寺。泉岳寺は、むろん赤穂浪士の墓所。こんな句に、当時の江戸庶民の感情があざやかにうかびあがってくる。
 何日もかけて読んでいるうちに、「武玉川」の「誹諧」には、どうやら老齢に対する無意識の恐れがあるのではないかと思うようになった。

 こんなことしか考えないのも、相当、頭にガタがきている証拠だが。(つづく)

2013/05/02(Thu)  1480
 
 私が、サイレント映画のスターたちに関心をもちはじめたのは、ジャック・フィニーの「マリオンの壁」(福島 正実訳/1973年)を読み直したからである。
 これは福島 正実の仕事でも、すぐれたものの一つ。内容は、サイレント映画のフィルム収集家の話なのだが、ジャック・フィニーらしい「幽霊小説」といってもいい。
 冒頭に、スターだった人々の名前を列挙して、最後に――

    その他、過去、現在、そして未来の何千人もの映画人たちに 愛をこめて

 という献辞が添えられている。

 私がサイレント映画の女優たちのことを書きはじめたのは、ハリウッドの裏面史といったものを書くことが目的ではなかった。私なりに、「過去の映画人たちに、愛をこめて」何か書きたかったからである。

 これまで私が書きつづけてきたサイレント映画の女優たちをあげておく。ただし、最近のものだけ。

   (1)アイリーン・リッチ    (2)エスリン・クレア
   (3)マーサ・マンスフィールド (4)ナタリー・ジョイス
   (5)メァリー・ノーラン    (6)シャーリー・テンプル
   (7)ビリー・バーク

 今の映画ファンも、シャーリー・テンプルぐらいは知っているだろうか。ほかの女優さんたちは、もう誰も知らないだろう。
 たとえば、マーサ・マンスフィールドは、舞台女優としてかなりすぐれた女優だったが、映画では成功せず、さらにスキャンダルにまき込まれた。私たちもグラフィックなどで見たことがある、例のHollywood という大看板の上に登って投身自殺を遂げた悲劇的な女優。
 少女時代のベテイ・ディヴイスが、マーサのイプセン劇を見て、自分も女優になろうと決心したという。(「ベテイ・ディヴイス自伝」に出てくる。)
 私はなぜこんな女優たちについて書いておくのか。それは「映画史上に残る作品に出た女優でなければ、取り上げるに値しない」などということはないからである。(これについても、直ぐ近く書くつもり。)

 たいていの国の少年少女は自分が大人のように強くなれるのだろうか、と考える。アメリカの少年少女は、これに加えて、はたして自分は両親の愛情をつなぎとめていられるのだろうか、いつまでつなぎとめていられるのだろうか、と考えるという。
 こういう「観点」を、私は――勝手に自分流に展開させる。そんなことも――映画女優として成功しながら、実人生ではさまざまな困難にぶつかって挫折してしまう女たちのことを書くようになった。

 今月は、ビビ・ダニエルズのことを書いた。(去年の冬、川村 正美からもらったネコに「ビビ」という名前をつけた。これについても、そのうちに書く予定。)

 久しぶりで「コージー・トーク」を再開したが、ついつい長く書きすぎる。
 しばらくブログを書かなかったので、書きたいことがたくさんある。つい、長く書きすぎて、「均衡を失って」しまった。やはり、文字の飲(もんじのいん)を忘れたせいだろう。ボケたなあ。(笑)

2013/04/25(Thu)  1479
 
 父の昌夫のことを思い出した。
 父は、正直で、上にバカがつくような真面目な男だった。少年時代に実父(私の祖父)が早世したため、実母(私の祖母)の手を離れ、イギリス人の家庭で育てられた。
 イギリス人の家庭で育てられたというと、恵まれた境遇と思われるかも知れないが、本人にとっては不幸だったと思われる。

 少年時代、まだ実父(私の祖父)が在世中に、昌夫は、晩春から初秋まで、毎日のように水泳の練習に出かけた。明治40年代の少年たちは、朝のうちに学校をすませて、炎天下を歩いて、隅田川の遊泳場にかよったらしい。

 その頃の隅田川は、シラウオがとれたほど水が綺麗だった。中流に船をうかべて、川水でお茶会をするほど流れが澄んでいた。夏ともなれば、たくさんの遊泳場が開かれる。

 当時の水泳は、いろいろな流派があった。

 厩橋の向こう河岸に、山敷向井流。
 両国橋ちかくに、伊東、土屋、大塚、鈴木の向井流の各派。
 荒谷の水府流、太田派。
 その少し下手、浜町河岸に、永田の向井流。
 ここに、水府流、太田派の遊泳場があった。昌夫が水泳の練習に出かけたのは、ここの遊泳場だった。

 こうした水練場には、それぞれの定紋(じょうもん)を染め抜いた大きなまん幕が張りめぐらされていたという。
 この水練場では、夏のあいだ、二、三人の者が泊まり番をしていた。この連中は、朝、火をおこして飯を炊く。一人が川向こうの安宅河岸に泳いでわたる。そこで、シジミをしゃくって、また泳いで戻る。だから、朝はシジミのミソ汁ということになっていた。

 水練場には、厠がなかったので、毎朝、川向こうのアシの茂みまで泳いて行って用を足した。

 昌夫は、太田派の水練でいろいろな泳ぎ方を身につけた。

 少年時代の私は、よく父にプールにつれて行かれた。それはいいのだが、父が泳ぎはじめると、プールにいる人たちがみんな水泳をやめるのだった。はじめは誰も気がつかないのだが、父の泳法がまるっきり違うので、プールサイドから見物するのだった。

 昌夫の得意は、二重伸(ふたえのし)、小抜手(こぬきて)といった泳ぎ方で、プールの底を蹴伸(けのし)という潜水泳法で泳いだり、右手を枕に体と左足を水に浮かせ、左手と右足だけで泳ぐ。とれも、その頃(昭和7、8年代)でさえ見たこともない泳法ばかりだった。

 ようするに、日本古来の武道に根ざした水泳である。父は立ち泳ぎのまま、筆で手紙を書いたり、胸から上を水中から出して諸手(もろて)で槍や刀を使う端技(はわざ)も、できるといっていたが、子どもの私は、父がそんな泳ぎを披露すればみんなが見物すると思うだけで恥ずかしかった。

 私はごく初歩的なクロール、平泳ぎがやっとで、とても泳げるとはいえない。
 夏になっても、水泳に関心がなかった。

2013/04/23(Tue)  1478
 
 私の父、昌夫は、少年時代にイギリス人の家庭でそだてられた。そして、生涯の大部分、外資系の会社に勤めていた。太平洋戦争が勃発直前、外国資産が凍結されたとき、父は徴用されて、「石油公団」に移り、横浜の小さな造船所で、陸軍の上陸作戦用舟艇のエンジンの製造にあたった。戦後、しばらくしてアメリカ資本の食料輸入の企業に就職した。

 そんな経歴のせいか、父はイギリスふうの生活習慣を身につけていた。
 戦前の1930年代当時の、ふつうの中流家庭の和食中心の食事と、父の食事はどこか違っていた。

 朝食は、だいたいポリッジにきまっていた。オートミールとおもえばいい。
 私の祖母はオートミールが大嫌いで、あんなネコのヘドみたいなものが、よく食べられるものだといっていた。私も少年時代にはオートミールが嫌いだった。

 トーストも出されるが、これも、今のようにあたたかいパンではなく、冷たいパンに、バタ、あるいはマーマレードをぬって食べる。
 それに、半熟のタマゴ。これが、かならず食卓に出る。
 ほかに、ゆでたホーレンソウ、ベーコン、それに、トマト。
 飲みものはティーときまっていた。(ただし、チョコレートを飲む。)

 その後、私たちは下町の本所に住むことになったが、戦争で食生活は激変した。

 戦後の大混乱のなかで、戦後のはげしいインフレーションと、ひどい食料難が襲いかかってきた。この冬だけで、数百万の餓死者が出ると予想された時期だった。
 宮城(いまの皇居)前で空前の大デモがあり、「米よこせデモ」と呼ばれた。日本の深刻な食料不足の視察に、フーバー元大統領が緊急に来日するといった時代だった。

 当時の厚生省が、日本人の栄養状態を緊急に調査した。
 この調査で、東京都内から十数人が選ばれたらしい。父は、栄養失調の日本人のサンプルに選ばれたのだった。外国資本がまだ日本に戻ってくる前で、父は失業していた。父は、連日、(厳密なカロリー計算の上で)一定量の食料を与えられて、連日、肉体の変化を調べられたのだった。
 お父さんが選ばれたのなら、おれたちも「日本人の栄養失調」の代表だよ。私たちはそんな冗談をいって笑いあった。せいぜい笑うしかないあわれな敗戦国民だったが。(笑)

 はるか後年、グレアム・グリーンの最後の作品においしいポリッジの描写が出てきたので、戦前の父を思い出してなつかしかった。

 今の私は、父とおなじように、毎朝、オートミール、メダマ焼きを作って、ティータイムに、自己流でイングリッシュ・マフィンを焼いて食べている。

2013/04/18(Thu)  1477
 
 久しぶりに、ブログを書いた。われながら呆れるほど、長い。そして、つまらない。
 もっと、短く書かなきゃ。

    彼がパンを落とすと、きまってバタを塗ったほうを下にして落ちた。

 ある女の私立探偵が恩師を思い出して。この恩師というノは、あまりめぐまれないまま人生を蕩尽して自殺してしまった人だが。

 こういうセリフを書いてこそ作家というものだろう。

2013/04/13(Sat)  1476
 
 あるとき、私の娘が訳したアメリカの小説のオビに常盤君はこんな推薦文を書いてくれた。(彼が直木賞を受けて、一流作家になった頃だろう。)

   リタ・マエ・ブラウンは、私も読んでみたいと思っていた。それで、どんな小説
   かと聞いてみた。レズビアンの小説よ、だけど、カラッとした小説。こともなげ
   にそう答えたのは、中田えりかさんである。私の記憶にある、この小説の訳者は、
   目の大きな、実に可愛らしいお嬢さんだった。今は、美しい健康な若い女であ
   る。この変わった(しかし、そんなに変わっていない)小説を中田えりかさんの
   訳で読めるとは。

 もはや、茫々たる過去である。
 しばらくして、私たちはお互いにまったく会うことがなくなった。お互いに話すに話せぬ地獄を見つづけていたせいかも知れない。

 最後に、常盤 新平に会ったのはいつだったのか。
 偶然、乗りあわせた電車のなかで常盤 新平に会った。
 彼がすわっていたシートの前に私が立って、
 「常盤君」
 と声をかけた。私が前に立っているので驚いたらしい。あわてて、席をゆずろうとした。
 「いいんだよ、すぐ下りるから」
 そんなやりとりだけで、お互いの距離はまったくなくなっていた。
 「今、何をしていらっしゃるんですか」彼が訊いた。
 「ルイ・ジュヴェの評伝みたいなものを書いているんだよ」
 それだけで別れた。
 若き日の私が、ルイ・ジュヴェにつよい関心をもっていたことは「遠いアメリカ」にも出てくる。だが、これまた茫々たる過去のことになった。

 お互いの共通の友人たち、西島 大、若城 希伊子、藤田 稔雄、鈴木 八郎たちも、ことごとく鬼籍に移った。そして今、私は若き日の友人、常盤 新平を失った。もはや言葉もない。だが、はるかな歳月を隔てて、「遠いアメリカ」の思い出は、かけがえのないものとして私の胸に生きている。
 ありがとう、常盤 新平君。きみと親しくなったことは、私にとってかけがえのないものになっている。

    ときは今 語りつくせぬ桜かな

2013/04/11(Thu)  1475
 
 その後、常盤 新平は「ハヤカワ・ミステリ」ではじめて翻訳を手がけることになった。これも「遠いアメリカ」に書かれている。私が福島 正実から、ガードナーをもらってきたのだった。これはアール・スタンリー・ガードナーの法廷ものだが、じつは、その前に常盤 新平は別の仕事を手がけている。これについては書く必要はない。
 そして、常盤 新平を早川書房の編集部に入れたのも私だった。

 このブログを書くために、あらためて常盤 新平の手紙や、「遠いアメリカ」に書かれている時代に私が書いたものなどを読み返した。
 常盤 新平が早川書房に入社したのは――
 福島 正実が、早川書房でいよいよ念願のSFのシリーズ化をはじめようとしていた。都筑 道夫は「ハヤカワ・ミステリ」全巻の解説を書きはじめる。
 北 杜夫の「どくとるマンボウ航海記」、井上 靖の「敦煌」、謝 国権の「性生活の知恵」がベストセラー。
 若い女の子たちが、腕に「ダッコちゃん」をからませて歩いていた。タレントでは、「ザ・ピーナッツ」、松島 トモ子。吉永 小百合はまだ登場しない。
 大島 渚が「日本の夜と霧」を、今村 昌平が「豚と軍艦」を。三島 由紀夫が「空っ風野郎」に主演する。
 手塚 治虫が「シャングル大帝」を描きはじめる。そんな時代だった。

 作家のベン・ヘクトが亡くなったのは、1964年だったが、私は常盤君の依頼で、「ベン・ヘクト追悼」を書いた。そのなかで、

   この四月、ヘクトの訃がつたえられた。もっとも私は新聞のオビチュアリに興味
   がないので、そのことは少しも知らなかったが、常盤 新平君が教えてくれたの
   だった。
   「ほう、ヘクトが死んだの?」私はいった。
   「いやだなあ、ちゃんと知っててトボけてるんでしょう」彼がいった。
   「とんでもない」私はいった。「ぼくは、自分が一つでも作品を読んだことのあ
   る作家の死には、いつも敬虔な気もちになるんだ」
   私はそれからヘクトについて、その死について、しばらく考えた。たしかに私は
   ヘクトの作品を少しは読んでいるので、敬虔な気もちになったのだった。

 半世紀も昔のことなのに、こんなやりとりもはっきりおぼえている。
 私は自分が一つでも作品を読んだことのある作家の死を知ったときは、かならずその作品を読み返すことにしていた。追善というよりも、むしろ、その作品を読み得たことのありがたさを思い返すためだった。
 今、こうして、常盤君から贈られた「遠いアメリカ」を読み返す。さまざまな思いが押し寄せて、胸ふたがるる思いがあった。
   (つづく)

2013/04/10(Wed)  1474
 
 ある日、常盤 新平が遊びにきたとき、私はこんなものを見せてやった。

         戯れに歌える

     「裁くのは俺だ」と私立探偵の
     行く手は「人の死に行く道」
     「ヴィア・フラミニアの女」を腕に
     互いに交わす「死の接吻」

     「地獄の椅子」に腰かける勇気を
     「持つこと持たぬこと」
     胸にさわめく「春の奔流」

     とかなんとかいったって、金がめあての
     「ポットボイラー」
     「みんなわが子」のためなれど、
     翻訳稼業のどんじりにひかえし野郎の

     めざすは遙か「宇宙島に行く」
     いっそこのまま「消えたロケット」
     中田耕治の、夢は虚空をかけめぐる

 常盤君はニヤニヤ笑っていた。

 私たちは毎日のように会っていた。なにしろ、お互いに暇だけはたっぷりあったから。
 当時、彼は台東区の竹町に住んでいた。その頃のハガキに、

    毎日、映画ばかり観ています。暗くなったので、わざわざ火を起こすまでもな
    いと、自炊生活を止めて、日中は外出。夜は寝床の中でいろんな事をします。

 この頃、私は、ある小劇団の文芸部に入った。ここで、はじめて芝居の世界にかかわることになったのだが、つづいて、ある劇団の俳優養成所の講師になった。ここで講義を続けた時期に、演出を始めた。
 そのとき、私のクラスに、仲代 達也、平 幹二郎、昨年亡くなった佐藤 慶たちがいた。女優のタマゴたちのなかに、「遠いアメリカ」に出てくる「椙枝」がいた。
 ある日、常盤君に「椙枝」を紹介したのは私だった。

 やがて、彼は戸塚に移り住むことになる。その頃のハガキに、

    小生、この度表記に移転しました。西日のよくあたる暑い家です。駅から歩い
    て三分ぐらいで近くには本屋、映画館、喫茶店、のみや、一杯あります。

 と書いてきた。「遠いアメリカ」では、

    電車をおりると、駅前のガード下まで急ぎ足で行く。パチンコ屋から、ターミ
    ー・ターミー・アイ・ラヴ・ユー・ソーというデビー・レイノルズの切ない、
    かすれた声が聞こえてくる。
    巴館にはいると、客は一人もいない。重吉が七、八人で満員になる小さなこの
    鮨屋に来るようになって、二年になる。いつも椙枝がいっしょである。はっき
    りとおぼえていないが、椙枝を知ってまもないころ、二人とも空腹を感じて、
    たまたま巴館にはいったのかもしれない。

 と書いている。
 その二年間、私は「重吉」と「椙枝」の愛の行方を近くで見守ってきたのだった。それは喜びにみちた燕約鶯期というべき時期だったが、常盤君にとっては、ある意味ではつらい時期だったにちがいない。
 その頃の常盤は、新婚の私の家によく遊びにきた。そして、帰りの電車がなくなって、そのまま風呂に入って、泊まった。お互いに話はいくらでもあったし、なによりも暇だったから。常盤君も食いつめてころがり込んだというのがほんとうだろう。
     (つづく)

2013/04/09(Tue)  1473
 
 「遠いアメリカ」の中に、たくさんの作家の名前、作品の題名が出てくる。
 たとえば、テネシー・ウィリアムズの「ストーン夫人のローマの春」、ジェームズ・ボールドウィンの「山に登りて告げよ」、アーウィン・ショーの「若き獅子たち」。
 そして、レイモンド・チャンドラーの「湖中の女」、「長いお別れ」。エヴァン・ハンターの「暴力教室」。
 ジョン・オハラの「ファーマーズ・ホテル」、ジョン・ロス・マクドナルドの「我が名はアーチャー」や「犠牲者は誰だ」など。
 なつかしい作家たち。私も、それらの作品が出たときにペイパーバックで読んだ。大半は、神田の露店の古本屋のおじさんから買ったものばかりだった。
 ここで常盤 新平があげているジョン・ロス・マクドナルドの「我が名はアーチャー」や「犠牲者は誰だ」は私が訳している。
 常盤 新平に読むことをすすめたのも、おそらく私だったにちがいない。

 アーウィン・ショーをはじめて訳したのも私だった。はるか後年、一流の翻訳家になった常盤君が、私の訳したアーウィン・ショーを訳し直している。おなじように、常盤君がはじめて訳した作品を(私は常盤 新平訳が出ていると知らずに)訳して、別の出版社から出したこともある。

 「遠いアメリカ」の中で、「重吉」が恋人の「椙枝」に、「遠山先生」が新婚の夫人にキスするところを見たと話す。そのとき、常盤君は、ハガキで、

   一昨日、昨日とお邪魔してご馳走になり、有難うございます。母は、「新婚家庭
   によくもぬけぬけとご馳走になったり、泊まったり、私は恥ずかしい」と僕の図
   々しさを責めました。
   今日、神田の古本屋(露店、ひげのおじさん)で、中田さんの名を言ったら、百
   五十円の本を百円にまけてくれました。
   ウィスビアンスキーはわかりました。古本屋(近くの)デモルナールやチャペク
   などといっしょになったアンソロジーを見つけたのです。
   この頃はコーヒーを飲む必要がないので、安本を買い集めておりますが、読みき
   れません。では又

 と書いてきた。
 「この頃はコーヒーを飲む必要がない」というのは――恋人の「椙枝」が劇団の旅講演に参加したため、会えなくなっている、という意味。私は、有楽町の「レンガ」、銀座の「トリコロール」、神田の「小鍛冶」という喫茶店以外は立ち寄らなかったので、常盤君の行動半径も、だいたいこのあたりに集中していた。
 当時、まだ大学院に在籍中だった常盤君の将来を心配なさって母上(常盤とよさん)から何度も手紙を頂いたが、私が手紙で「椙枝」のことをくわしくつたえたため、いくらか安堵なさったようだった。
     (つづく)

2013/04/07(Sun)  1472
 
 「遠いアメリカ」に、最初に「遠山さん」が出てくるシーン。

   「ペイパーバックを読んでいて眠くなったら、どうすればよろしいでしょうか」
   と重吉は師匠の遠山さんにきいてみたことがある。
   「さっさと眠ればいいじゃないか。きみ、人生って長いんだよ」
   と重吉とは年齢が四つしか違わない遠山さんは明快に答えている。

 戦後の混乱のなかで、焼け跡の銀座に闇市ができはじめたのは1945年9月だった。アメリカ軍が日本に上陸した直後の銀座だった。私は、このときはじめてペイパーバックなるものを見たのだった。
 仙台にいた常盤君が、戦後のこの時期の銀座の状況を知っているはずもない。

 神保町の近く、「神田日活」という映画館があった。その先、5メートルばかり離れた狭い路地に、ゴザをひろげて古本を並べているオジサンがいた。
 白髯をたくわえた老人で、私ははじめてペイパーバックを買って読んだ。このとき、私が手にしたのは、ダシール・ハメットと、ウィリアム・サローヤンだった。むろん、当時の私の語学力では歯が立つはずもなかった。
 このときから、私はそれこそ手あたり次第に、アメリカの小説を読みつづけた。

 「遠いアメリカ」で、「重吉」がペイパーバックを読みふけっていた時期は、やや遅れて1955年と推定できる。
 恋人の「椙枝」といっしょに映画を見る。
 「マリリン・モンローがとてもよかったわ。不思議な女優さん」
 と椙枝が重吉にいう。このとき、椙枝は20歳。重吉は24歳。
 ふたりは、有楽町の映画館で「七年目の浮気」を見たあと、銀座のほうにぶらぶらあるいている。

 「七年目の浮気」は、1955年11月1日に公開されている。
 私は、その後、マリリン・モンローについて、日本でははじめてのモノグラフィーを書くことになるのだが、その頃(1955年)は、マリリン・モンローについて自分が何かを書くことになろうなどとは、まったく考えもしなかった。
 小説の中で、「重吉」の恋人として登場する「椙枝」は、1960年代、「俳優座養成所」で私のクラスにいた若い「女優のタマゴ」で、「ジャミ」というあだ名で呼ばれていた。
 「ジャミ」(小説の中の「椙枝」)が――「不思議な女優さん」と語っていることばがあらためて胸に響いた。

 「遠いアメリカ」には書かれていないのだが――「椙枝」が「重吉」の恋人になる前に、私は、ある劇団で、まだ無名の「椙枝」を起用したのだった。私の演出は成功とはいえなかったが、「椙枝」という「不思議な女優さん」の魅力は、ある程度まで引き出せたと思っている。

 「遠いアメリカ」に書かれているのは――常盤君の青春だが、同時に、私自身の、おなじように「デスパレート」な生きかたではなかったか。

 私は戦後すぐにもの書きとして出発したが、偶然のことから翻訳をするようになった。
 そのあたりの事情は、宮田 昇の「新編 戦後翻訳風雲録」(みすず書房/2007年刊)に書かれているとおり。私の名前はチラッと出てくるだけだが、若き日の私が「ハヤカワ・ミステリ」の出発にかかわったことは間違いない。

 この時期、私の友人たちには、福島 正美、都筑 道夫がいた。少し、先輩には、田村 隆一、北村 太郎などがいた。
 当時、私をふくめて、福島 正美、都筑 道夫はきそってペイパーバックを読んでいた。私はアメリカの作家たち、戦前から戦後のハードボイルド系のミステリーを読みつづけていた。福島 正美はイギリスのミステリー、そして、まだほとんど人の関心を呼ばなかったSFを、都筑 道夫はミステリーからSFというふうに、それぞれの嗜好は違っていたが。
 私も常盤 新平も、それこそ手あたり次第にペイパーバックを読みつづけていた。
    (つづく)

2013/04/06(Sat)  1471
 
 2013年1月22日、作家、常盤 新平が亡くなった。

その晩、かなり遅くなってから、私の妻が私に告げた。私は、少なからぬ驚きをもって常盤君の訃報をきいた。茫然としたといっていい。常盤 新平が亡くなったという、信じられない思いと、彼と親しかった頃の思い出が胸にふきあげてきた。

 翌日、オービチュアリを読んだ。

   直木賞作家で、アメリカ現代文学の翻訳や洗練されたエッセイでも知られた常盤
   新平さんが、22日午後7時12分、肺炎のため東京都町田市の病院で死去した。
   81歳。
   岩手県出身。早稲田大卒。早川書房に入社し、「ミステリマガジン」編集長など
   をつとめた後、文筆活動に。アメリカ文化やジャーナリズムを紹介したほか、ボ
   ブ・ウッドワードとカール・バーンスタインの「大統領の陰謀」等の名翻訳が評
   判になった。
   1986年には、アメリカにあこがれる青年を主人公にした自伝的作品「遠いア
   メリカ」で小説家デビュー。翌87年、同作で直木賞を受賞した。

 その夜、私は常盤君から贈られた「遠いアメリカ」を読み返した。

   重吉は「ハーパース・バザー」の目次を開いてみる。このファッション雑誌には
   一流作家や詩人のエッセイが載る。
   「サルトルやカミュなんかが載るから、僕は「ヴォーグ」や「ハーパース・バザ
   ー」を買うの」
   そう言ったのは、重吉にときどき下訳の仕事をくれる遠山さんだ。詩人をポーエ
   ットと言ったり、喫茶店ではミルクティーしか飲まない。気障な人だけれど、重
   吉をわりと可愛がってくれている。椙枝を重吉に紹介したのも、養成所で教えて
   いた遠山さんだし、重吉が「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」の名前をおぼ
   えたことも、遠山さんがいなかったら考えられない。    (P.17)

 この「遠山さん」は、あきらかに私をモデルにしている。

 私は、「椙枝」と「重吉」のふたりにとって「師匠」だった。私がある劇団の俳優養成所で、戯曲論めいたものを教えていたが、「ジャミ」は私のクラスにいた生徒のひとりだった。
 「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」は、いわゆるスリック・マガジン(豪華ファッション雑誌)で、ひどく高価な値段だった。当時の私は、占領軍の家族が読み捨てた古雑誌を「俳優座」の向い側の古本屋で見つけては買ってきた。ただし、いつも貧乏だったので、数十冊の「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」を手にとってもせいぜい1冊、2冊しか買えなかった。

 今でもおぼえているのだが、「ハーパース・バザー」ではディラン・トマスの詩劇や、べンジャミン・ブリッテンのオペラ台本などを読んだ。
 私はその「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」を、常盤君にも読ませた。彼が、モデルのスージー・パーカーが好きになったのも、そのあたりからだろう。
        (つづく)

2013/04/04(Thu)  1470
 
 私にはいつも「好きなヒロイン」がいた。

 どれほど多くのヒロインにめぐりあってきたことか。「ナスターシャ」や「ソーニャ」たち、あるいは「エマ」ヤ「ジャンヌ」たちにめぐりあうことがなかったら、私の人生はどんなに貧しい、あわれなものになっていたことか。
 彼女たちの一人ひとりは、けっして私の期待を裏切らない恋人たちだった。

 むろん、私が好きになったヒロインたちは――現実の恋愛とはなんのかかわりもない、いわば夢の造形といったものだった。たとえば、映画のヒロインたちに対する関心は、そのまま女優に対するあこがれや、性的な関心と切り離せなかったけれど。

 映画で思い出すのは、「不良青年」のダニエル・ダリュー。
 ダリューは、戦前のフランス映画を代表する美女だった。「不良青年」(1934年)はもっとも初期の映画で、はじめての主演作といっていい。内容は、つまらないボーイ・ミーツ・ガールもので、もう覚えてもいないのだが、まだ、17歳の彼女が、パリのアパッシュふうに男もののスーツを着こなしていた。ディートリヒの男装も見たことがなかったので、ダニエル・ダリューの妖しい魅力に思わず息をのんだ。

 後年、私が「男装の女性史」を書いたのも、このときのダニエルの姿が心に刻まれたせいだろう。ほんの数カットだが、シガレットを口にくわえてこちらを見るまなざし。その彼女を思い出すと、いつも幸福になった。
 戦前の「暁に祈る」や「禁男の家」など、繊細で、どこかはかなげな美少女だったダニエルは 戦後、「赤と黒」、「チャタレー夫人の恋人」など、シックでエレガント、ソフィスティケートながら、しかも強烈な性格をもつ女性に成熟して行く。

 戦後、対ドイツ協力派として執拗に左翼の攻撃にさらされたが、ダニエル・ダリューはみごとに復活する。その後は、国際的な大スターとしてヨーロッパ、アメリカの映画に出た。
 さすがに晩年はワキにまわったが、シャンソン歌手としても独自な世界を切り開いた。ダニエル・ダリューのシャンソンは深みがあって、人生でさまざまな経験をかさねてきた女でなければあらわせない何かがあった。その意味で、私はシャントゥーズ・レアリストのひとりと見ている。

 パリの「ソワール」のビルの横の坂道で、一瞬、私の横を通り過ぎていった車にダニエル・ダリューが乗っていた。
 私は、茫然として走り去って行く車を眺めていただけだが、その日いちにち、幸福だったことを思い出す。

2013/04/02(Tue)  1469

 睡眠中は誰でも夢を見るが、眼がさめた時は忘れていることが多いという。もともと私は夢を見ても、まったくおぼえていないタイプなのだが。
 ところが、どういうものか、最近になって夢を見るようになった。自分でも、かなり変わってきたような気がする。もっとも、ヤキがまわったのかも知れないな。

 ある日、どこかで私は、中年のアメリカ人女性と会っている。どこだろう? アメリカではない。私は、まだ30代のもの書き。こちらは相手のことをかなりよく知っているのだが、相手は私のことを知らない。なにしろ、かぎりなく無名に近いのだから。しかし、一瞬、私はドキッとした。え、どうして彼女が?
 私が見かけた相手はハリウッドの女優さん。ただし、二流どころのスターである。
 美人ではない。ハテ、このおばさん、誰だっけ? ちょっと思い出せない。そのうちに、私は彼女に接近して話をしている。

 「あなたが初めて出た映画を見ています」と私がいう。
 相手はぼんやりした顔になる。そんな映画を見ているはずがないと思って。
 「『市民ケーン』でしたね」
 かすかな驚きが彼女の顔をかすめる。
 「あなた、いくつだったの?」
 「あの映画を見たの戦後ですが」

 私は相手の顔をよく見る。どこかで見た顔なのだが、別に美人ではない。だが、このおばさん、誰だろう? どうしても思い出せない。そのうちに、私は彼女と別れて歩いている。

 昨夜、こんな夢を見た。どうしてこんな夢を見たのか。どうもへんな夢だなあ。
 そこで夢に出てきた場所を考えているうちに、40年も昔、ジュネーヴの駅で、現実にこの女優さんを見かけたことを思い出した。
 ジュネーヴの駅は閑散としていた。たまたま通りかかった乗客も誰ひとり彼女に気がついた様子はない。おそらく、この程度の女優では、ヨーロッパでは知られていなかったに違いない。

 私が、はじめてこの女優さんを見たのは、クローデット・コルベール主演の「君去りし後」(ジョン・クロムウェル監督)がはじめてだった。
 当時、「風と共に去りぬ」が公開されたばかりで、この映画のクローデット・コルベールも、いっしょに出たシャーリー・テンプルも、ジョゼフ・コットンもまったく評判にならなかった。
 やっと、思い出した。
 アグニス・ムアヘッド!

 アグニスが「市民ケーン」に出たのは、オーソン・ウェルズのやっていた「マーキュリー劇団」の女優だったから。つづいて「偉大なるアンバーソン一家」にも出ていた。
 眼がさめてから――夢の中の女優さんがアグニスと思い当たったときのうれしさを思い出して私は笑った。幸福な気分だった。どうして、こんな夢を見たのか。
 後年、日本のテレビで「奥様は魔女」のシリーズが放送されたし、私はアグニス・ムアヘッドの出た映画をかなり見ていた。

 なぁんだ、きみはアグニス・ムアヘッドだったのか!

 私は、現実にアグニス・ムアヘッドと話をしたわけではない。だから、夢のなかの会話はまったくの虚構にすぎない。

 その後、私はパリに飛んだ。そして、パリを歩きまわっているあいだに、ダニエル・ダリューを見かけた。すごくりっぱな車に乗っていたから、誰だろう? そんな眼でみたとたん、ダニエル・ダリューと眼があった。
 このときこそ、一瞬ドキッとした。いや、そんなものではなかった。不意に時間がとまって、私のまわりに何が異様なものが雪崩れ落ちてきたような気がした。信じられないものを見たと思った。

 ダニエル・ダリューは私を見た。車はたちまち坂の上に走り去った。

 私の夢に、ダニエル・ダリューが出てきたことはない。
 アグニスではなく、ダニエル・ダリューが夢に出てくれればいいのに!(笑)

2013/04/01(Mon)  1468
 
 中村 俊輔の「真説 真杉静枝」は、真杉 静枝という、昭和期の女流作家の生涯を「その書かれた作品によって評価」しようとした一種の研究といってよい。

 真杉静枝は、1905〜1955年。福井県生まれ。大阪で新聞記者をしていたが、当時の大作家、武者小路 実篤と知りあい、その推輓によって作家になった。(推輓というべきかどうか私は知らない。)
 当時の女流作家のなかでも奔放な生活を送ったひとりで、有名な作家、詩人たちを相手にさまざまな恋愛遍歴をつづけた。戦後は、林 芙美子、平林 たい子、円地 文子などとともに、流行作家になった。
 私は真杉 静枝に関心がないので、ほとんど読んだことがない。
 しかし、中村 俊輔の「真説 真杉静枝」を読んで、はじめてこの女流作家の「あはれ」が理解できるような気がした。

 それは、さておき。

 庄司 肇は、中村 俊輔にむかって、「評価するに値しない作品しか残さなかった真杉 静枝を取り上げるのは無駄である」と諭した、という。
 私なら余計なお世話だと反発するだろう。
 低い評価しか与えられない作品しか残さなかった作家を取り上げるのは無駄であるというなら、まだしも話はわかる。だが、評価するに値しない作品しか残さなかった作家などといういいかたに批評家として傲慢が感じられないか。
 中村 俊輔はおだやかに、庄司 肇は「調べるに相応しい作家の名を数人告げた」という。ここでも、私はため息が出た。調べるに相応しい作家の名をあげたら、とても数人ではすまない。

 庄司 肇は、いつも狭い文壇のことばかり考えていたから、「調べるに相応しい作家の名を数人」しかあげなかったのかも知れない。
  たとえば――

    葉鶏頭の 十四五本も ありぬべし

 この俳句が、ただの身辺諷詠と見えながら絶唱と思えるのは、不治の病床にあった子規の末期の眼にうつった一句と、私たちが知っていればこそではないか。この一句、ただに自然を詠んだものとして理解してもいっこうにかまわないが、子規の闘病という「個人的な動向を」理解することも必要だろう。

 ふと、思い出した。
 石川 淳は、天明狂歌がそれまでのいかなる狂歌とも性質を異にしているとして、その理由を――かつて狂歌師の狂名は、一般文人の雅号、俳諧師の俳名とおなじく、その名のなかに作者がいた。つまり、その名をもつ存在だった。しかるに、天明の狂歌師は、その名のなかに作者がいない。つまり、無名の人ということになる。
 石川 淳は、そのことにふれて、

  狂名がふざけていると、ひっぱたいてみても、作者はそこにいない。この簡単な
  事実を説明するためには、複雑きわまる天明狂歌師の列伝を本に書かなくてはな
  らないだろう。

という。さすがは、石川 淳であった。
 この作家が、庄司 肇のいう「作家はその書かれた作品によって評価される」こと、ゆえに「作品以外の個人的な動向など調べるに値しない」という言葉を聞いたら、どんな顔をしてみせるか。 (笑)
 おそらく、ちいさな人間と仕事しか見ようとしない同人雑誌作家の低い了見として、あざ笑うだろう。

 さて、中村 俊輔はつづけて「しかし文学史上に残る作品を書いた作家でなければ、取り上げるに値しないということはないはずと考えている。」
 どんな文学史を見ても、その時代に「評価するに値しない作品しか残さなかった」作家は掃いて捨てるくらいいる。しかし、そうした作家のなかに、自分の心に響く作家がいないともかぎらない。まして、「しかし文学史上に残る作品を書いた作家でなければ、取り上げるに値しないということはない」。
 私の想像では――こんな簡単な事実を説明するために、中村 俊輔は、「真杉静枝」という、けっこう複雑な作家の足どりをここまで克明に書かなければならなかったのだろう。
 ちなみに――同人雑誌、「朝」は私の友人、竹内 紀吉、宇尾 房子たちがはじめた雑誌。竹内君が亡くなってすでに8年、宇尾さんは、昨年、白玉楼中の人となった。

 私は中村 俊輔の「真説 真杉静枝」を、毎号、愛読している。

2013/03/31(Sun)  1467
 
 地方の同人雑誌を主宰するもの書きによくあるタイプだが、残念ながら、庄司さんの文学観はきわめて狭いものだった。
 庄司 肇は、坂口 安吾、向田 邦子、榛葉 英治などを対象にしてすぐれた作家論を残している。私は、この庄司 肇に敬意を払っているが、「評価するに値しない作品しか残さなかった真杉静枝を取り上げる」ことに反対する庄司 肇に反対する。
 「作家はその書かれた作品によって評価されるものであり、作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」という考えかたは――じつは、庄司肇の文学的な出発(「文芸首都」で文学修行を始めたこと)と、その志向(いつも文壇小説しか視野になく、最終的には文壇作家として認められること)に深く根ざした考えと見ていいだろう。

 庄司 肇は、そのときそのときの文壇の動向にしか関心がなく、「群像」、「文学界」といった文学雑誌をつよく意識し、しかも作家たらんとする確固たる信念さえあれば、いつの日にか文壇人として通用すると信じていた。
 ただし、反面では――同人雑誌の主宰者は、けっして作家になれないという、これまた弱気なドグマを信じていた。自分の文学的な営為が、しょせんは「旦那芸」にすぎないと思っていたらしい。
 同人雑誌の主宰者であろうとなかろうと、同人雑誌の書き手には、よくこうした人を見かける。文壇的な作家になるということが究極の目標で、そのときそのときの文壇の動向に敏感に反応する。
 もう少しはっきりいえば、自分がそうなりたいと思うからには、すでにその資質が自分にそなわっているという考えかたである。

 逆にいえば、庄司 肇という「作家はその書かれた作品によって評価される」ことを期待していたのだろう。そして、「作品以外の庄司 肇の個人的な動向は調べられるに値しない」と考えていたことになる。
 これはつまらない考えだと思う。
    (つづく)

2013/03/28(Thu)  1466
 
 たとえば、こんな例をあげてみよう。

 アントナン・アルトーは、まだ作家になる前のアナイス・ニンにむかって、
 「世間ではぼくのことを気ちがいだと思っている。きみもぼくのことを気ちがいだと思っているのか。それで、こわいのか」
 といったという。(アナイスの「日記」/1933年6月)
 その瞬間、彼の眼によって、アナイスはアルトーの「狂気」を知って、それを愛した。
 アナイスはアントナン・アルトーとキスをする。
 「アルトーにキスされることは、死へ、狂気へ引き寄せられることだった、とアナイスはいう。
 ふたりは、このとき狂おしいセックスに導かれたに違いない。(これは、私の想像だが。)
 アルトーは、アナイスにいった。
 「きみのなかにぼくの狂気を発見するとは思ってもみなかった」と。

 アナイスは「書かれた作品によって評価されるものであり、作品以外のアントナン・アルトーとのプライヴェートな<動向>を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」といえるだろうか。
 冗談ではない。

 ところで、「作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」のか。そんなことは誰にも断定できないだろう。
 私は庄司 肇ふうには考えない。

 レイモンド・チャンドラーの小説を読む楽しみのひとつは「フィリップ・マーロー」という探偵の性格的な魅力を知るところにある。30年代のロサンジェルスを知らなくても、チャンドラーの小説に描かれている、けばけばしいハリウッディなstreet sceneの背後に、なぜかもの哀しい、いたましさがひそんでいることに気がつく。そのとき、「フィリップ・マーロー」というキャラクターは、ほんとうのタフネスがどういうものかを教えてくれる。
 では、その「フィリップ・マーロー」をアイコンとして、人生の重みやキャラクターの魅力を吹き込み、ほとんど「伝説」に仕立てたレイモンド・チャンドラーとは、いったい何者だったのか。そう思ったとき、「作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」などとはいえないだろう。
     (つづく)

2013/03/27(Wed)  1465
 
 庄司 肇は、こう主張する。

 「作家はその書かれた作品によって評価されるものであり、作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは調べるに値しない」

この考えがただしいかどうか。というより、こういう論理の展開を私個人はどう考えるか。
 私は庄司 肇の意見に同意しない。

 どういう作家であれ、その作家が書いた作品によって評価されるべきことはいうまでもない。あたりまえのことではないか。だが、「作家はその書かれた作品によって評価されるもの」だったろうか。
 私は「評価されるべきもの」とはいうが、「評価されるもの」とは思わない。

 たとえ、文学史に残るほどの作品を書いた作家であっても、全部の作品が「文学史に残る作品」かどうか、わからない。たいていの作家は作品を書くときに「文学史に残る作品」をめざして書いているなどと考えるものかどうか。バルザックのような作家はハンスカ夫人に当てた恋文を書きながら、原稿料に換算すればいくらになるか、そんなことを考えていたという。バルザック自身は自分が「文学史に残る作品」を書いているという自負をもっていたにせよ、「作品以外の個人的な動向を調べ」れば、バルザックという作家がもっとよく理解できるにちがいない。        
    (つづく)

2013/03/26(Tue)  1464
 
 庄司 肇を紹介してくれたのは、福岡 徹だった。産婦人科の医師。庄司 肇とおなじく「文芸首都」で小説修行をつづけ、作家としての代表作に乃木 希典の評伝「軍神」がある。
 断っておくが――私は福岡さんに紹介されて、庄司 肇の恩顧をこうむったというわけではない。「文芸首都」という雑誌にまるで関心がなかった。千葉県在住の庄司さんが同人雑誌を主宰していることも知らなかった。したがって、私は庄司 肇に私淑するとか、影響を受けたなどということはまったくなかった。

 私は庄司 肇とはまるで違った文学観をもっていた。しかし、庄司さんのおかげで、氏の周辺にいた人形作家の浜 いさを、作家の高木 護、竹内 紀吉、宇尾 房子、佐藤 正孝のみなさんを知ることになった。こうした人々を紹介してくれたのが庄司 肇だった。その後、竹内 紀吉、宇尾 房子たちと親しくなったが、それだけに、私は庄司さんに恩義を感じていた。
 ずっと後年になって、庄司さんの「日本きゃらばん」に書く機会を与えていただいた。私が長編「おお、季節よ、城よ」を書いたのも、庄司さんが「日本きゃらばん」に書く機会を与えてくださったおかげだった。

 中村 俊輔の「真説 真杉静枝」のこの部分を読んで、庄司さんの風貌を思いうかべてなつかしかった。と同時に、あらためて私と庄司 肇の考えの違い、考えかたの違いに気がついた。何が決定的に違うのか。
      (つづく)

2013/03/23(Sat)  1463
 
 しばらく、このブログを休んだ。私としてはめずらしいことだったが。
 昨年、夏過ぎて、どうも眼がかすんできた。英語のテキストが読めない。そのうちに、普通の本も読みづらくなってきたので、診察を受けた。
 白内障という。
 手術の結果、順調に視力を回復したのはうれしかった。

 眼がかすんできたせいで、あまり本を読んでいない。というより、ずっと怠けて、本を読まなくなってしまった。同人雑誌、「朝」32号だけは読んだ。この雑誌は、竹内 紀吉、宇尾 房子が同人だったので、必ず読むことにしていた。現在でも、執筆者には知人がいるので、今でも送って頂いている。

 同人の中村 俊輔が「真説 真杉静枝」という評伝を連載している。すでに、22回におよぶ連載で、今回は「宇野千代から林真理子まで」という章の第一回である。

 冒頭の部分に、こんな記述があった。

   この真杉静枝を書き始めた頃、「作家はその書かれた作品によって評価さ
   れるものであり、作品以外の個人的な動向を取り上げても、そんなものは
   調べるに値しない」と諭された。
   諭してくれたのは、小説や評論など沢山書き残した眼科医の庄司肇であっ
   た。作家を対象に書くのなら作品を論じるべきであり、個々の動向につい
   て目を向けるのは邪道である。評価するに値しない作品しか残さなかった
   真杉静枝を取り上げるのは無駄であると、諭された。そして調べるに相応
   しい作家の名を数人告げられた。趣味で書いている者としてはありがたい
   事であった。しかし文学史上に残る作品を書いた作家でなければ、取り上
   げるに値しないということはないはずと考えている。

 この記述から私は作家の庄司 肇さんを思い出した。
    (つづく)

2013/03/01(Fri)  1462

   ********北 杜夫について*******
 
 今、ヤングの間でもっとも読まれている作家のひとり、”どくとるマンボウ”こと、北 杜夫。たぐいまれなユーモアと、少年のようにみずみずしい魂をあわせもった作家――その魅力の秘密をさぐってみよう。

 中学生、高校生に人気のある作家は多い。
遠藤 周作や、星 新一と並んで、北 杜夫は熱心に読まれている。彼らがなぜよまれるのか。
 理由はいろいろあるに違いない。しかし、北 杜夫の場合は――若い人たちがもっている、澄みきった、純粋な何かが作品にあって、それが若い人たちの共感を喚ぶのだろう。

 北 杜夫は、本名、斉藤 宗吉、昭和2年(1927年)5月1日、東京で生まれている。つまり、「昭和の子ども」というわけで、評論家、奥野 健男、磯田 光一、村松 剛、中田 耕治たちと同世代の作家である。

 父君は、大歌人、斉藤 茂吉。茂吉は、伊藤 佐千夫の創刊した「アララギ」に加わった歌人で、「赤光」、「あらたま」などの歌集で、日本の近代短歌の巨人だった。
 第二次大戦後に――

  最上川逆白波のたつまでに ふぶくゆふべとなりにけるかも

といった絶唱をうんでいる。

 北 杜夫はこの茂吉と、夫人、輝子のあいだに生まれた。次男である。この輝子は、わが国の精神病院としてはじめて近代的な設備をそなえた青山脳病院を建てた斉藤 紀一郎(のちに紀一とあらためた)の次女で、茂吉は15歳のとき、紀一郎にひきとられ、後年、輝子と結婚した。
 この輝子夫人については、北 杜夫の兄にあたる斉藤 茂太に「快妻物語」という作品があるし、北 杜夫の「楡家の人びと」のなかにも登場する。
 世界中を旅行して歩くのが趣味で、たいへんな行動力をもっている「快妻オバサマ」である。「偉大な人の妻は、みんな、悪妻にきまっている」と信じている。

 ある日、輝子はパリに行った。花の都、パリは、長い歴史の埃をかぶって薄汚れている。そこで、当時、文化相だったアンドレ・マルローが、パリの清掃を命じたことがある。
 北 杜夫と、母(輝子)の対談では――

  輝子  ほとんどヨーロッパは変わりませんね、昔と。ただ、パリだけ、大きく変っ
     たのは……
  杜夫  そう、白くなっちゃったの。
  輝子  ドゴールがクリーニング始めて、すっかり白くなっちゃったでしょう。……
      (中略)
  杜夫  お母さまね、ドゴールっていうのはお母さまよりももっと威張ってた男なの。
  輝子  そうですか、知りませんね。(笑)
  杜夫 ただ、パリを白くしちゃったのは彼の最大の失敗ね。僕の「マンボウ航海記」
     に、こう書いてあるんですよ。「建物もどすぐろく煤けており、さながらゴマ
     ンの煙突掃除人が行進したあとのようだ」と、その黒さを表現しているわけで
     す。これはすごい表現力、我ながら見事ね。僕、若い頃からあんな才能があっ
     た。いまよりももっと才能があった。(笑)

   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  
 北 杜夫は、昭和9年、青南小学校に入学。
 5年生の頃から、昆虫採集に熱中した。この頃の愛読書は、ファーブルの「昆虫記」で、アリやコガネムシ、トンボ、ウスバカゲロウ、ガ、チョウに熱中した。こういう経験が、のちに「どくとるマンボウ昆虫記」のような、おもしろい読みものになっている。
 昭和15年、麻布中学に入学。この中学は、いわゆる名門校だが、吉行 淳之介、山口 瞳、なだ・いなだ、福田 善之などの作家を輩出している。北 杜夫は、中学生で、昆虫の権威で、自分で採集した尨大なチョウの標本をもっていた。
 成績優秀で、級長をやっていた。戦時中のことで、文科系の学生は徴兵猶予がなかった
。ある年齢に達すると、すぐに実戦部隊に編入されてしまう。ちちの茂吉が心配して、灯
台の付属医専を受験させた。医専に入学して、三日間通学したが、父の茂吉が、北 杜夫
の年齢をまちがえていたため、徴兵にはまだ1年之猶予があることがわかって、麻布中学
に復帰した。
 昭和20年、松本高校に入学。一級上に、作家になった辻 邦生がいた。

 斉藤 茂吉の息子がくるそうだというニュースが松本高校の寮に流れた。辻 邦生をはじめとするバンカラ寮生たちが、ストームで洗礼しようと、よからぬことを企てた。
 古ぼけた寮の一室で、斉藤 宗吉はみんなにとり囲まれた。いまなら、さしづめ総括リンチ。一人が怒号する。
 「斉藤 宗吉よ、お前はわが寮にきて何をもっとも心に感じたか」
 一瞬、室内に沈黙が流れる。
 「あのう、ぼく、この寮のお手洗いの水が出ないんで、困る、と思いました」
 若き日の北 杜夫のエピソードである。

   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 松本高校に在学中、北 杜夫は非常な勉強家だった。
 文学書、哲学書をワッサワッサと読みふける。夏目 漱石、芥川 龍之介、ドストエフスキー、シェイクスピア、ゲーテ。手あたりしだいに何でも読破した。
やがて、短歌を作りはじめ、父に見てもらったが、途中から父のきびしい譴責を食らった。
 中学時代にも、将来、昆虫学者になりたいといい出したところ、茂吉は烈火のごとく怒って、「絶対に医学をおさめろ」と申しわたした。
 やがて、父にナイショで、詩を書きはじめ、高村 光太郎、萩原 朔太郎、室生 犀星、立原 道造、大手 拓次などの詩に親しんだ。

 高校を卒業する前に、北 杜夫は大きな精神的開眼を経験する。
 トーマス・マンを読み、とくに「トニオ・クレーゲル」に心酔した。北 杜夫というペン・ネームはもこのトニオをもじって、はじめは、浦 杜二夫、のちに北 杜夫になった。
 昭和24年、詩を発表し、やがて小説を書きはじめた。

  どういうわけで 小説など書きだしたか奇妙で不思議ではあるが、仙台の医学部
  にいた頃、私は原稿用紙を買ってきて平仮名や漢字を書きつけた。初めは原稿用
  紙のます目がだだ広く、もったいなく、どこいらに句読点を打ったものか困惑し
  たので、主に大学ノートに書いた。

 その翌年、同人雑誌の「文芸首都」に加わった。この雑誌から、佐藤 愛子、なだ・いなだなどの作家が輩出する。

 北 杜夫はつぎつぎに短編を発表し、やがて長編、「幽霊」に着手した。
 短編「岩尾根にて」を発表した頃から作家として大きく前進し、第36回、第37回、第41回と、3度にわたって、芥川賞候補にあげられたのち、昭和35年、「夜と霧の隅で」を発表、第43回、芥川賞をうけた。

   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 この作品は、重症の心身障害児がガス室に送られるところから始まる。
 ナチス・ドイツが、アウシュヴィッツその他の強制収容所で、ユダヤ人や政治犯を虐殺していた時代である。
 各地の精神病院に収容されている患者たちが、隠密裡に、どこかに連れ去られて行く。あとに残された患者の家族は、簡単な通知を受けとる――氏名、XXは死亡したため、遺体は火葬に付した、云々と。
 こうした時代に、ある精神病院に勤務するケルセンブロックという医師、シェラーという院長、独逸に留学し、ユダヤ娘と結婚した日本人で、少し精神に異常をきたした医師などがおもな登場人物で――戦争という狂気と、人間の精神に生じる狂気を描いている。

 この昭和35年(1960年)、北 杜夫は書き下ろしエッセイ、「どくとるマンボウ航海記」を発表した。彼がこの航海に出掛けた理由は――

  あれは出航の四日前だったかな、友人から船にくる医者が全然いなくて困ってい
  ると聞いたのは。それもインターンでもいいというので安心して応じたわけです
  が、生来の怠けもののぼくは、ただゴロゴロ寝られて、外国へ行かれるというだ
  けで飛びついたのですよ。

 という。
 この船は、インド洋、アフリカ西海岸、大西洋などで、マグロの分布や成熟度などを調査してまわったので、港もシンガポール、スエズ、リスボン、ハンブルグ、ロッテルダム、アントワープ、ル・アーブル、ゼノア、アレクサンドリアなどをまわった。
 船医としての北 杜夫は、船の機関長がマッチ棒の先に綿をつけて、耳をほじっていたら、綿だけ耳の中に残ってしまった。それもいちばん奥の鼓膜のところにはりついてとれない。ところが――

  彼はいかなる魔術を用いたのか自分で突っつき出してしまった。
  「ドクター、あれ、とれましたよ」
  とうれしそうにいうが、”外聴道異物”などと書くのもバカバカしいから、私は
  治療簿にこう記入した。
  「天下の奇病。
   使用薬品なし。
   処置、魔術」

    ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 最近(昭和52年)の北 杜夫は、ひと頃の鬱状態から躁の時期に変わってきたらしい。母堂の斉藤 輝子と対談した「躁児マンボウvs快妻オバサマ」のように――躁になると、話題もつぎからつぎに出てきて、とどまるところを知らない。
 夜遅く、遠藤 周作のところに電話がかかる。遠藤が受話器を耳にあてると、押し殺したような作り声で「ミスター・エンドオ?」と訊く。
 いっしゅん、どこの外人かと思うが、すぐにイタズラだとわかる。その声は、
 「アイ・アム・ミスター・マブゼ」
 マブゼというのは、怪人マブゼ博士。戦前の無声映画では、怪物のフランケンシュタインや、表現派映画のカリガリ博士と並んで有名なキャラクターだった。
 ある日、未だ夏も終わらない季節に、北 杜夫は、遠藤 周作の山小屋にやってくる。九月のはじめなのに、毛糸のスキー帽に、大きなマントを羽織り、近所の人がびっくりするような調子っぱずれの大声で、
  おれはマブゼだ マブゼだぞ
  どうだ 皆ちゃん こわいだろう
 という歌を歌いつつ出現したので、さすがの狐狸庵先生(遠藤 周作)も仰天した。

 しかし、北 杜夫がいつもふざけたことばかりしている、ノーテンキな作家だと思い込むのは間違い。

 長編「幽霊」や、短編「渓間にて」、「星のない街路」、「不倫」、「遙かな国 遠い
国」、「河口にて」といった傑作がある。

    ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

 「楡家の人びと」は、日本でははじめての市民小説といってよい。この長編は、トーマス・マンの「ブッテンブローク家の人びと」を頭に置いて書かれた。

 大正末期(1920年代)から敗戦(1945年)まで、楡家の人びとの運命が悠々たる筆致で展開する。
 全体は三部にわかれていて、第一部は、楡病院の創業期から、失火の為消失するまでの、いわば上昇期。第二部は、世田谷の松原に分院を開設する苦難の時代。第三部では、太平洋戦争で、病院が壊滅してゆく姿が描かれている。
 主人公の「楡基一郎」は、小学校を出たあと、隣村の農家に養子に出されたが、そこから舞い戻ったり、行方不明になったあと、ひょっこり村に戻ったときは、医師の免状をもっていた。やがて、青山に大病院を建て、代議士になり、のちに男爵を授けられるほどの人物になる。
 この「基一郎」の長女、「龍子」と、「徹吉」という婿、ふたりの間にうまれた「峻一」、病院の婆(ばあ)や、「下田ナオ」をはじめとする多数の病院関係者たち、そして「欧州」とその妻、「千代子」、欧州の弟、「米国」。親のきめた婚約者をすてて、好きな男と暮らす「聖子」。その妹の「桃子」。そうした楡家の家族たちが、この長編のなかに動きまわっている。

 楡病院が思わぬ失火で消失し、入院患者に犠牲者を出したため、再建計画は、うまく進まない。失意のうちに「基一郎」は亡くなる。

 第二部では、あきらかに北 杜夫とおもわれる「周二」が登場してくる。
 「龍子」と、「徹吉」の三人目の子どもで、正真正銘の昭和っ子だが――「震災から立ち直った新時代のいきいきした活力、たくましい斬新さを少しも表わしていない」という頼りない世代である。

 この長編は、「楡家」の人びとが生きた歴史であるとともに、近代日本が必然的に背負わなければならなかった歴史でもある。そのなかに流れているものは、個人はもとより、一つの国家の運命さえ、いつしか押し流して行く歴史の意志といったものではないか。
 この長編は、やみがたい歴史の力ともいうべきもののおそろしい作用が描かれている。

 私が、今の高校生だったら――
 北 杜夫の文学を知るために、まず、「少年」から読みはじめるだろう。
 つづいて、「牧神の午後」、「白きたおやかな峰」と、読みつづけて、高校の最後の年に「楡家の人びと」を読む。
 むろん、「船乗りクプクプの冒険」も読む。やがて、「どくとるマンボウ青春記」を読んでも、やっぱり「楡家の人びと」にたどりつくだろう。
 そして、もう少したったら――(大学に入るとか、就職した時期から)自分でも何か書いてみようと思うかも知れない。作家になる、とか、どこかに自分の文章を発表するということとは無関係に。


   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

あとがき

 これは、高校生の雑誌、「高1コース」(学習研究社)昭和52年8月号に発表したエッセイ。

 高校生たちに、北 杜夫がどういう作家なのか紹介する記事なので、私の批評というわけではない。

 私は、個人的に北 杜夫と親しかったわけではないが、彼の文学について書く機会はあった。現在、すぐに読めるものは、「船乗りクプクプの冒険」(集英社文庫)の解説ぐらいだろうけれど。

 北 杜夫は、2011年10月24日、亡くなった。享年84歳。

 私は追悼を書く機会がなかった。そこで、高校生のために書いた昔のエッセイをこのブログに入れておく。

2013/01/28(Mon)  1461
 
 遊佐君。
 戦時中から、「戦後」、そして、21世紀まで、お互いによく長生きしてきた。
 きみは今、老いてなお矍鑠として、教え子たちを相手に、きみ自身の編曲したシューベルトや、ヴェルデイの合唱曲を指揮している。そういうきみを見ていると、きみはほんとうの人生の幸福というものを体現しているのではないか、と思う。

 私たちは、太平洋戦争の末期に知り合った。
 じつに、68年後に、白頭翁として相逢い、すでに三度、蓋を傾けて語りあった。
 互いに似たような境遇なので、よく互いの心を知り得て、あらためて、友人を得たことをよろこびあった。

 キェルケゴールの言葉を思い出す。

    希望は魅力的な少女だが、指の間をすり抜けて行く。回想は美しく成熟した女だ
    が、すぐに使いものにならなくなる。反復は一度も飽きることのない最愛の妻で
    ある。なぜなら、人は新しいものだけに飽きるからだ。古いものには決して飽
    きることはない。それを理解したとき、人は幸福になる。……人生は反復であ
    り、それは人生の美点なのだ。    (真喜志 順子訳)

 年老いた私はもはや希望など持っていない。魅力的な少女が私の前にあらわれるなど、虚妄の夢にすぎない。回想は美しい熟女にちがいないが、私にとっては、そういう女たちもまた「指の間をすり抜けて行く」だけなのだ。
 しかし、反復はさして飽きることのない楽しみといえるだろう。私はかつて一度だけ見た映画を、くり返してDVDで見たり、自分が好きな画家の作品を見るために、わざわざ美術館に足を運んだりする。ただし、キェルケゴールのように、反復を「最愛の妻」などと思ったことはない。

 私自身は、長生きできたことをうれしいとは思っていない。むしろ、老年は無間地獄と観ている。さりとて、不幸とも思ってはいないのだが。
 いまの私は、一人の悲しい、気むずかしい人物、はたから見て不愉快な、ひとりの孤独な老人、たとえば、あのスガナレルのような老人になり果てている。

 しかし、その私が、じつに、70年ちかい歳月をへだててきみに再会できた。
 きみに会ったのは、老いさらばえた男ではない。まだ、人生について何も知らないまま、それでもおのれの困難に立ち向かおうとしていた少年なのだ。
 いま、私は、きみとともに過ごした少年時代のこと、戦時中のお互いに似かよった状況、戦後のはげしい混乱の話をする。戦争など、もう誰の記憶にも残っていない時代に、他人にとってはおそらく意味のない話ばかりだが、そういう話をしているとき、お互いに幸福なのだ。
 むろん、キェルケゴールのいう、反復とはちがうかも知れない。

 遊佐君。
 今年、私たちに共通の友人だった歌舞伎俳優、岩井 半四郎(仁科 周芳)が亡くなった。彼の死がきっかけできみに再会できた。
 仁科の死は、お互いに残された時間がもはや限られていることを知らせてくれたが、私たちが再会できたことを心から感謝している。
 また会う日まで、お互いになるべく元気で生きていることにしよう。

2013/01/25(Fri)  1460
 
 敗戦直後の8月17日、遊佐少年は、日暮里に住んでいた友人、関口 功を訪れた。ここで、偶然、中田 耕治に会う。

    中田耕治君が僕の”日暮れ”を読んで言った。朔太郎を読みなさい。
    それからツァラトゥストラも。さうすればきっと詩の何たるかを知るだろう。
    詩人はいつも強くなくってはいけない。
    わからない。僕にはわからない。

 現在の私は――このやりとりをまったくおぼえていない。関口 功は、私と同期で、後年、アメリカのフィスク大学に留学して、黒人文学を研究して、英米文学部の教授になった。

 私が、遊佐君に、萩原 朔太郎を読むことをすすめたのは事実だろうが、詩人を志望している若者に対する助言としてはただしかったかどうか。
 ただし、同年代の友だちにむかって――朔太郎を読めば「詩の何たるかを知るだろう」などとヌカしている少年が「中田耕治君」だったことに、現在の私はつよい嫌悪をおぼえる。なんとも恥ずかしいかぎりである。詩について何も知らないくせに、詩を語るなどという傲慢さにヘドが出る。

 しかし、遊佐 幸章の日記のおかげで、敗戦直後の、あの激動の時代がまざまざとよみがえってきた。

 遊佐少年は、混乱をきわめる東京を去って、戦災をうけた仙台に戻ってゆく。
 このあと、しばらく「日記」は中断している。

 敗戦直前から遊佐君は、キリスト教に接近してゆく。

 結果として、遊佐君の「日記」は、1944年12月21日にはじまり、敗戦後まで飛
び飛びに書きつがれて、翌年の1946年2月9日で終わっている。
     (つづく)

2013/01/23(Wed)  1459
 
 遊佐 幸章の「日記」から、敗戦をはさんで3週間のことが、私の記憶によみがえってきた。

 8月9日、はじめて、吉田 甲子太郎の「文学概論」の講義があった。(木曜日だったことがわかる。終戦まで、あと6日。まだ、誰ひとり、この戦争がおわることを知らない。)
 遊佐は、吉田 甲子太郎の「明治大正/文学概論」について、あまり面白くない。つまらない講義だと思った」と書いている。
 私もいっしょだったが、ほんとうにおもしろくない講義だった。
 吉田 甲子太郎先生は、もともと作家志望で、山本 有三に師事したが、まともな作家にはなれなかった。ただし、「朝日壮吉」というペンネームで、いろいろな雑文、通俗読みものを書きつづけ、一方では「サランガの冒険」などの少年小説を書いていた。敗戦直後に、こうした少年小説がじつはアメリカの少年小説のリライトや、翻案ばかりと知って、あきれたおぼえがある。

 そして、この8月9日、夕方、ソヴィエトが日本に対して宣戦布告し、満州に進出したのだった。

 8月10日、豊島 与志雄先生の「芸術論」の講義はあった。ヒロシマに原爆が投下された直後である。もはや、授業どころではなかったはずだが、豊島先生は、ご自宅が本郷だったこともあって、大学においでになったのではないかと思う。

 講義の内容は、戦時中の雑誌、「文芸」(野田 宇太郎編集)、それも終刊号に、豊島さんが発表した「短編小説論」を、私たちにもわかるようにやさしく解説したものだった。私は、はじめて小説の読みかたを教えられた様な気がした。

 このときから豊島 与志雄という作家に敬意をもった。(後年、私は「豊島 与志雄論」めいたものを書いたが、豊島さんの自宅を訪れて、話をうかがったこともある。今でも、豊島さんの風貌や、そのときのお話はよく覚えている。)

 8月13日、残念ながら小林 秀雄の講義はなかった。ヒロシマに原爆が投下されたような状況だったから、授業どころではなかったにちがいない。遊佐君は大学に行ったが、誰ひとり学校にいなかった。(むろん、私も行かなかった。)

 そして、日本は連合国に降伏した。遊佐の「日記」にこの日の記述はない。
                (つづく)

2013/01/21(Mon)  1458
 
 八月八日、遊佐 幸章は、朝のラジオで、故郷、仙台が空襲されたことを知る。被害状況は伏せられていたが、東京、横浜、さらには川崎、とくに扇町の被害をみれば、仙台の被害も相当深刻なものと推測できた。
 少年は、自分のそだった仙台の面影をなつかしみながら、涙を流した。

 大学が授業を再開するという。
 大学側は、工場が被災したため、ただちに授業を再開すると決定した。
 当然ながら、山本 有三科長、吉田 甲子太郎(きねたろう)、大木 直太郎の三先生が、決定したものと思われる。
 大学の教務課としては、大学が被爆した場合の消火、書類の避難の要員の確保を目的としたのではないか。大学は、まるで廃墟のように荒れ果てていた。

 授業は八月九日から、開始ときまった。在籍者は、二年、一年の残存学生、十数名だったはずである。三年生は、病欠者、二、三名以外は、すべて、出征していた。

 遊佐 幸章は「日記」にこの講義の内容、担当者、時間割りを記録している

    月 13〜18  作文修辞学      吉田 甲子太郎
    火  〃     日本文化史      小林 秀雄
    水  〃     読書解説       斉藤 正直
    木  〃     明治大正/文学概論  吉田 甲子太郎
    金  〃     芸術論        豊島 与志雄
    土 12:30  西洋文芸思潮史    今 日出海
       〜14:30

 教課時間がひどく長いのは、激化する空襲によって、授業が中断することを考慮したのではないかと思われる。
      (つづく)

2013/01/19(Sat)  1457
 
 遊佐 幸章の「日記」のつづき。

    やがて彼(中田 耕治)は東京に出てきた。さうしてM中学に入ったのである。
    この話は明治大学への入学試験の当日の話から始まった。そして久しぶりで再会
    した僕と中田氏との模様を思ひ出し、彼が僕と一目でわかったのは(僕は彼を忘
    ていた)中学一年当時の僕が深く印象づけられてゐたからだといふところまで、
    発展して行ったのである。

 これが、昭和十九年(1944年)12月22日のほぼ全文である。

 「やがて彼(中田 耕治)は東京に出てきた。」とあるのは、この「日記」を書いた遊佐 幸章自身が、東京に在住していたからで、本来ならば、「やがて彼は東京に去った」と書いてもよかったはずである。「この話は明治大学への入学試験の当日の話から始まった。」とあるのは、遊佐君にとっては中田 耕治との「再会」は、明治大学の入学試験当日に始まっている、という意味だろう。

 遊佐君は、翌年(1945年)1月18日、急性肝臓炎にかかって仙台に帰っている。

 私は仙台に戻った遊佐君に見舞いの葉書を出していて、その全文が記録されている。これは、とても引用できるようなものではない。
 ただ、それによると、私はガリ版で、同人雑誌を出そうとしていたらしく、2月15日には、仙台に送ると知らせている。

 遊佐 幸章は、やがて肺浸潤にかかっていることを自覚する。そして、少しづつキリスト教に接近して行く。そして、彼の身辺から、友人たちがぞくぞくと出征して行く。一方連日の空襲で、親族からも戦災の死者が出る。
 彼の日記にたんたんと書かれている事実に、私はおもわず嗚咽した。

 そして、八月。遊佐少年は再び上京する。

 八月七日、工場に行ってみると、学生は誰ひとりいない。工員たちの姿もなかった。だだっ広い工場は、空襲を受けて壊滅したままの姿をさらしていた。焼け跡に異臭がたちこめている。少年は、焼けただれた会社の敷地を歩きまわって、焼跡の敷地に急造されたバラックの事務所にたどり着く。戸板にワラ半紙一枚の掲示がビョウでとめられているだけだった。

    文芸科学生はすぐに明大文芸科研究室に行き、掲示を見ること。

 少年は、無残に焼亡して瓦礫の山になった工場をあとにして、また、扇町の駅から、川崎に引き返し、京浜線で東京にもどり、さらにお茶の水にとって返した。
 暑さと、空腹、疲労に倒れそうになりながら、やっとたどり着いた大学も、職員も、学生の姿はなかった。文科以外の学生は、まだ操業していた軍需工場に就労していたため、職員や学生の姿もなく、大学はまるで廃墟のようだった。
 研究室のドアにもワラ半紙の掲示が出ていた。

   明大文芸科の学生は、八月八日 午前十時に、当研究室前に集合すべし
               吉田 甲子太郎
               大木 直太郎
               斉藤 正直

 この記述は思いがけないことを物語っている。
 つまり、私たち明大文科の学生は、敗戦まであと3週間という時点で、動員を解除され、全国すべての大学にさきがけて授業が再開され、その授業はそのまま「戦後」に継続された、ということ。
 つまり、私たち、明大文科の学生は、戦後の大混乱のなかで、どこの大学、高専、中学の学生生徒たちよりまっさきに「戦後」の学業をはじめたのではなかったか。
     (つづく)

2013/01/17(Thu)  1456
 
 この「日記」の「中田耕治」(大学一年)は、仙台に帰省した彼にあててハガキを出している。
 それによると、「純粋」という同人雑誌を出すことをつたえ、共通の友人だった小川茂久が、覚正 定夫といっしょにアランを勉強しはじめていること、都城 範和は、チェホフの「煙草の害について」を独演したことなどを知らせている。

 (小川 茂久は、後年、明治の仏文の教授になった。覚正 定夫は、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。都城 範和は、戦後、「太陽」の編集者になったが、フランスに留学し、画家をめざしたが、若くして亡くなっている。)

 この「純粋」という同人雑誌は、3月10日の空襲で焼けた。

    関口(功)君の手紙によれば、渡瀬・金子富雄の二君も行方不明とのこと、多分
    死亡したのでしょう。中田氏は、埼玉の親類の家にいるそうです。二年生には四
    人の罹災者があったそうです。

 この関口 功は、小川とおなじように、後年、明治の英文の教授になった。渡瀬 明は、白皙の美少年で、工場でも、おなじように動員されてきた女子学生を相手にいろいろと艶聞があったが、3月の大空襲で、おそらく深川で死んだらしい。金子富雄は、まじめな学生だった。ある日、私に向かって、
 「ぼくをきみの弟子にしてくれないだろうか」
 といった。
 私は、彼にイリヤ・エレンブルグの小説を読ませた。つぎに、ソログープかなにかを読ませようとしていたときに、やはり、この空襲で亡くなった。私には、金子富雄は忘れられない学友だった。

 やがて、7月、私たちが勤労動員で働いていた工場が、空襲をうけた。このときは、私はもとより遊佐君も工場にいて、必死に逃げたひとり。
     (つづく)

2013/01/15(Tue)  1455
 
 遊佐 幸章の「日記」はつづいている。

    その当時、中田氏は、いろいろな事情から孤独であり、又、相当に悩んでゐた。
    そこへ僕が現れたのである。僕の歌はとてもきれいで美しかった。そして、彼の
    荒みかけた心を幾分なりとも慰めた。
    中田氏は僕とさうやってゐることに一つの楽しみを得てゐたのである。つまり中
    田氏は僕をひそかに愛してゐたのださうである。純真だった僕を。

 この部分を読んで、私は意外な気はしなかった。当時の私が「遊佐君」を「ひそかに愛してゐた」というのは、なんともテレくさい。思春期の少年にありがちな同性愛的な感情だったはずである。この「日記」を読む人は、同級の美少年にあわい愛情を抱いた思春期の少年を想像するかも知れない。(笑)
 だが、私が「相当に悩んでゐた」ことは事実で、今でいう「いじめ」にあっていたこともその原因の一つだった。だから、遊佐君と親しくなったことが、私にとって救いだったとしてもおかしくない。

 この「いろいろな事情」には――6歳で亡くなった弟の死によって、家庭にいつも沈鬱な気分がひろがっていたこと、そのため父母のいさかいがつづいていたこと、さらに自分が入試に失敗して、すべり止めに受けた中学に入ったこと、その中学に入ってすぐに、悪質なイジメを経験した。近くに住んでいた二級上の不良少年につきまとわれて、毎日、帰宅するまで、恐怖にかられていた。誰にもいえないことで、これがつづけば、今でいう登校拒否、引きこもりの生徒になっていたかもしれない。
 この少年の顔、名前は、今でもおぼえている。

 もう一つの悩みは――
 現在(2012年)の日本では、かなり多数のサラリーマン、キャリアー・ウーマンが外資系の企業に勤めているだろう。それでも、日本全体の全雇用者の数は、51万人。全体のわずか1パーセントに過ぎない。
 戦前、それも1930年代の軍国主義日本で、外資系の企業に勤めていた日本人がどれほど少数だったか。
 私の父、昌夫は、外資系の石油会社、「ロイヤル・ダッチ・シェル」に勤めていた。それだけに、父の価値観が子どもの私に反映していたはずだが、世間一般と違って、戦争の予感は私の一家には切実な問題になっていた。

 そして、戦前、第二師団が置かれていた仙台が、どれほど封建的で、軍国主義的だったか。戦前の日本の憲兵や警察がどれほど残酷だったか、想像を絶するものがある。

 私の家の近くに東北学院に勤務していた英語教師が住んでいた。この人は、ハワイ出身の日系二世だった。だが、ハワイ出身の日系二世という理由だけで、憲兵ににらまれて尋問をうけた。身におぼえのないアメリカのスパイという嫌疑をかけられたという。
 この人の妻は妊娠していた。
 その教師は、釈放された直後に、市内の八木山の吊り橋から、投身自殺した。その死は新聞にも出なかった。
 こういう時代のいまわしさは、幼い私にも影響したと思われる。

 だからこそ、私は「遊佐君」が「現れた」ことで救われたにちがいない。
    (つづく)

2013/01/13(Sun)  1454
 
 中学1年で知り合った友人、しかも、1946年の2月から、お互いに音信不通のままで過ごし、じつに70年の歳月をへだてて、その友人の「日記」を読む。
 ふつうでは、なかなか考えられないことだろうと思う。

 遊佐君が、1944年、45年、46年当時に、とびとびながら「日記」を書いていたというのも驚きだった。当時、上京、帰郷、戦災、そんなときにもこの「日記」だけは手元に置いていたので、残ったのだろう。
 「日記」の冒頭に、「日記」をつける動機、心構えのような説明がある。

    この「日記」は、強いて文学的に作ろうとか他に野心とかいふものをもつてゐな
    い。/本当に只の日記といふ気持で僕はかいている。/自分の心のままを、その
    日の心をここにうつし、そしてこんなものでもあとに思い出としてのこしたく、
    筆をとっている。
    こういふことをいふのも、又、僕は誰にでもない。空虚に向かって言いたいから
    言っているのだ。

 これは、1944年1月18日の記述。体調をくずしていた少年は、この日、夜行に乗って、翌日、仙台に帰省している。敗戦間近の東京で、食料の配給さえ滞りはじめていた時期、ひとりで下宿しながらふなれな工場暮らしを続けていた孤独な少年の姿が眼にうかんでくる。

 当然のことながら、この「日記」に、「中田耕治」が登場する。

 まず、中学生の頃の私が、遊佐君には、どう見えていたのか。

 「日記」に出てくる(中学一年生の)私は、土樋に住んでいた。
 戦後はなくなってしまったが――柳川 庄八という浪人者が、青葉城外で、伊達藩の家老、茂庭周防守(すほうのかみ)を暗殺し、その首級をひっつかんで、ひた走りに走りつづけ、やがてあたご橋のたもとでその首を洗い、さらに逃亡をはかった、という伝説があった。
 柳川 庄八は戦前の講談に出てくる仇討ちのヒーローである。その「首洗いの池」のすぐ隣が私の家であった。

 遊佐 幸章と遊んだのは、あたご橋の先の越路という地区。広瀬川のほとりの原ッパに寝ころんで、よく晴れた空をながめながら、幼い文学論でもかわしたのだろう。
 遊佐 幸章は美少年だった。私は、彼の美声を聞いて、淡いあこがれをおぼえていた。
 このとき、彼が何を歌ったのかおぼえていない。 
   (つづく)

2013/01/11(Fri)  1453
 
 遊佐君が日記に、「毎日、空襲があるので、やりきれない」と書いている。やはり、私と同級だった詩人の進 一男は、短編のなかで、そうした気分を観察している。
 これも、ついでに引用しておこう。

    その頃……東京ではB29が、翼と胴体を太陽に反射させて、軽
    い金属音を響かせていた。前の年の十二月に米機の来襲があってから、東京も
    何時大空襲があるか予想できないことではなかった。(中略)
    通勤の電車は何時も工員や動員の学生たちで混んでいた。次第に逼迫の度を増し
    てくる時の流れにつれて、皆にも緊張感が強く漲ってくるのがかんじられるよう
    だった。何時も片隅に群がっている挺身隊の少女たちや動員の女子生徒たちの顔
    にも、女らしさの蔭に険しい感じが漂ってきているような気がする。

 進 一男の記述のおかげで、当時、私たちが働いていた「三菱石油」扇町工場(防諜上の理由から「皇国5974工場」と呼ばれていた)のことを思い出した。遊佐君も私も、おなじ現場で働いていたのである。
 私たちの仕事は、きわめて小人数の現場で、ドラム缶を作る部署だった。同級と、一級下の学生を合わせても20数名。
 もともと、クラスは50名で、動員された当初は、まだ1小隊単位で動いていたが、学生たちで徴兵猶予の期間を越えた連中は、つぎつぎに招集されて、軍隊に入っていた。
 残された私たち20名足らずの学生に、「中島飛行機」の工場が罹災したため、上級生たち10名ばかりが、合流して、やっと30名ばかりの人員がそろった。
 そのため、もともとはだだっ広い工場の隅っこで、作業するようになってしまった。

 誰しもほとんど沈黙して作業していたから、工場の内部はひどく静かで、その中で、ドラム缶の胴板や天地板を截断する音や、ドラム缶をころがして、別の工場に運ぶ音などが、つよく響いた。
 作業場の片隅では、溶接の火花が散った。私の仕事は、溶接工の前に座って、轆轤のような台に乗せた鉄板を、ぐるぐるまわす係だった。
 作業衣のポケットに文庫本を隠して相手が溶接をしている間に、2、3行、さっと目を通す。そして、すぐにまた轆轤をまわす。その間、読んだ部分を頭に入れる。
 俳句、短歌など、かんたんに読めるものが多かったが、中編でも、ほんの10分程度で読めるのだった。私の軽業めいた読書は、誰も気がつかなかったに違いない。
 これも一種の速読法で、私はそんな早業を身につけたのだった。

 ときどき、もう中老の、おだやかな工場長が作業のようすを見にきては、責任者と話をして戻って行く。進 一男の短編、「ドラム缶と詩」では、主人公は、工場の外のドラム缶のかげで、本を読んでいるところを見られて、工場長に叱責されるのだが、私は、そんなことはなかった。
  (つづく)

2013/01/08(Tue)  1452

 今年の夏は猛暑がつづいていた。そのため、せっかく再会できた遊佐 幸章に会うこともむずかしかった。
 10月になって、いくらか秋の気配が感じられるようになって、私たちは、また会うことができた。体力、気力がおとろえている老齢なので、ただ会うだけでも、けっこうたいへんなのである。

 遊佐 幸章は、戦後、勉強し直して、教育者になった。音楽教育に力を入れ、八王子の上館小学校校長として、有終の美をかざり、現在は「ホッホナーゼ・グループ」という合唱団の指導にあたっている、という。

 遊佐君は、別れ際に思いがけないものを見せてくれた。

 1944年12月21日から書きはじめて、1945年8月の敗戦、さらに翌年、上京して、敗戦後の東京をさまよっていた時期の日記であった。
 若き日の「日記」2冊。

 「日記」の最初の1冊が、1944年12月21日に書き起こされて、1946年2月9日まで。
 もう1冊は、1944年2月12日から、1946年7月30日まで。
 つまり、敗戦を挟んで、「戦後」のもっとも初期に書かれている。

 粗末な紙質の日記だが、多感な少年が、折々のことを万年筆で書きつづっている。1944年12月21日の書き出しは――

    毎日、空襲があるので、やりきれない。
    工場から帰って来て銭湯に入って、直ぐに空襲である。(中略)
    今日僕達の工場に二年生が入所した。もう相当の年輩の人がいるので驚いた。今
    日此頃の組の空気は、どうもにごっている。皆な浮かない顔をしている。木村さ
    んは行ってしまうし(兵隊)、試作時代の主だった人々は体抵休学してゐるし、
    何やかやと面白くないことばかりである。
    今日の工場からの帰りの電車の内でのこと。僕は中田耕治氏とよもやまの話をし
    てゐた。中田氏は僕が中学一年のとき、一寸遊んだことのある友達である。
    彼は昔の思い出話しをした。
    僕が彼と遊んだのはあたご橋の近所の松が五六本立ってゐる小ぢんまりとした草
    原が主だ。といっても、中田氏とは、一、二度きり遊んだことは無かったが……
    或日、僕は彼の前で草の上に寝ころびながら歌をうたったのださうである。(僕
    は忘れたが)。

 ここに出てくる「木村さん」は、私より三、四歳年上で、軍隊生活も経験していた。本名、木村 利治(としはる)。頭のなかに、太宰 治の作品しかなくて、小説家志望だった。当時、出征して中支戦線に配属され、陸軍中尉になった。敗戦後、武漢から上海まで行軍し、身長が3センチも縮んで復員した。岩手県にいる両親のもとに戻ったが、1947年、肺結核で亡くなっている。私にとってはかけがえのない親友のひとりで、後年、長編、「おお 季節よ 城よ」のなかで、木村のことを書いている。
 「試作時代」は、当時、私と同期の小川 茂久、木村 利治、進 一男、青山 孝志たちが、はじめた回覧雑誌。戦時なので、ガリ版の同人誌を出すことさえできなかった。だから、みんなの作品をあつめて、それをクツヒモで閉じただけのもので、とても同人雑誌などといえるものではなかった。
 それでも、小川は「太宰 治論」を書いたし、私は「小林 秀雄論」めいたものを書いている。
(つづく)

2013/01/06(Sun)  1451
 
 夏の暑い盛りに、私は遊佐 幸章に会いに行った。
 彼は夫人を介護する日々で外出もままならないため、私が千葉から会いに行ったのだが、お互いにすぐにみわけがついて、再会をよろこびあった。
 なにしろ、68年ぶりの再会で、お互いに見るかげもなく老いさらばえていたが、会ってみれば、お互いの境遇や、戦時中の悲惨な生活、共通の友人たちのことなど、話はつきなかった。

 お互いの話題は、私たちが経験したすさまじい空襲や、おそろしい飢餓のこと。
 その後の遊佐は、東京の友人たちの安否を気づかいながら、敗戦前後の時期、すさまじいインフレーション、食料難、親族たちに冷眼視され、傷つきながら、文学作品を読みつづけ、音楽に対する愛をたしかめ、イエスにたいする接近を経験する。

 私たちの話題は、もっぱら少年時代のことに集中した。

 戦争中に、仁科 周芳の指導で菊地 寛の「父帰る」を稽古したことがある。この芝居に私も遊佐 幸章も丁稚の役で出た。そんなことなども、今となってはお互いに楽しい笑い話になっている。
 岩井 半四郎に関しては、遊佐と私しか知らない「武勲の歌」の数々も、いまとなっては、故人をしのぶコント・ドロラティクとして笑いながら話せるのだった。

 少年時代の友情が、自然によみ返ってくるようで、お互いに老年になってからこういう時間をもてることをありがたいものに思った。
   (つづく)

2013/01/05(Sat)  1450
 
 少年時代に別れたきり、お互いにまったく消息がないまま数十年が過ぎた。ところが、2012年、お互いに共通の知人が亡くなったことから、そのことがきっかけでお互いに再会した。
 こうして私は68年ぶりに友人の遊佐 幸章に再会した。

 いきなりこんなことを書いても、わかりづらいだろうと思う。

 このブログを読んでくれる人々のために、話を整理しよう。

 遊佐君はまず、中学1年のときの同級生だった。美少年で、しかも美声だった。
 私はおなじ中学で同級生になった。たまたま席が近くだったからすぐに仲よしになった。ただし、せっかく親しくなっても、父の転任で私が東京の中学に転校したため、それ以後の交渉はなくなった。

 1944年(昭和19年)、太平洋戦争の戦時特別措置で、中学生の上級学校へのスキップが認められた。私は中学4年を終えて、すぐに明治大学文科文芸科に入った。
 たまたま、遊佐 幸章は、仙台から上京、おなじ明治大学文科に合格した。

 1945年、日ごとに敗色が濃くなっていた時期、私たちは、おなじ工場に動員された。いわゆる勤労動員である。

 東京がアメリカ空軍の空爆をうけて、廃墟と化す寸前の時期、遊佐君と私は、学徒動員で、「三菱石油」扇町工場で労働者として働かされた。

 1945年3月、東京が大空襲をうけ、焼土と化した。遊佐君は両親に呼び戻されて、仙台に戻ったため、私との交際も終わった。もう一度、上京したが、動員先の工場が被災し、あまつさえ遊佐君のご両親も仙台で被災した。

 そして、日本は敗戦を迎える。

 それ以後、じつに68年にわたって、私たちはお互いに音信不通のまま過ごしてきたのだった。かんたんにいえば、そういうことになる。

 今年、仁科 周芳が亡くなった。
 歌舞伎俳優、岩井 半四郎である。私たちは文科文芸科で同期で、当時、私の親しかった仲間だった。
 岩井 半四郎の死を知った遊佐 幸章は、私にハガキで、追悼の思いをつたえてきた。遊佐君も、岩井 半四郎と親しかったからである。
 私は遊佐君が私に対して、仁科追悼をつたえてきたことに驚いた。彼の悲しみがつたわってきたからである。私は、すぐに返事をして、一度、会いたいといってやった。
 こうして、思いがけないことから、私と遊佐君は、少年時代の友人として再会することになった。                   (つづく)

2013/01/01(Tue)  1449
 
 年があらたまったからといって、別にうれしくもない。ただ、今年が平安豊寧であることを望む。
 巳年であることにちなんで、何かいいことばでもないかと探した。気にいった一句が見つかった。

   蛇蛇碩言

 蛇蛇だから、ジャジャ、あるいはダダと読むのか、と思いきや、イイと読むらしい。意味はよくわからない。「詩経」のことばだから、中国人だってわからない。私なりの解釈では――「しなやかにのびやかに言の葉をつみ重ねる」という意味になる。いいことばを見つけた。
 ジャジャと読んで、蛇たちがニョロニョロしなやかに川原に動いていると思ってもいい。ダダと読んで、何かわけのわからないことどもが、くねくねと蟠踞しているさまを思い描いてもいい。

 さて、今年のブログは――できるだけ、のびやかに、いろいろなことをとりあげてゆく。これが、私なりのささやかな覚悟なのである。

2012/12/28(Fri)  1448
 
 2012年は、私にとっては悲惨な年だった。どうも、ろくなことがないまま終わろうとしている。
 
 何も書く気が起きない。スランプというわけではないのだが、少しでもまとまった作品としては「バーバラ・ラマール」ぐらい。サイレント映画のスターで、ほとんどニンフォマニアックな奔放な性生活のうしろに何がひそんでいたのか。これは「映画論叢」に発表した。

 歳末、俳句を詠む。
 
   眼を病んで 師走の街の 日の翳り
   冬 舞台 影 実体と 仮面劇

 どうも拙劣だが、こんな句がふと口に出た。

   年の瀬や 書くべき文も書かずゐて
   年の瀬や 逢うて詮なき もの思い
   年の瀬に ロワール・ワインの果報かな
   つごもりや 八十五翁のもの忘れ
   冬ざれの雨 思い出のマルセイユ

 そして、冬の一日、飼っていたネコが急死した。春秋すでに高き私にとっては大きな痛手になった。

   山茶花の 散りしく庭に チル眠る

「チル」の死後、私は不淑(ふしゅく)を悲しんでしばらく筆をとらなかった。
 そして、いよいよつごもりである。
 このブログを読んでくださる皆さんのご多幸を祈って。

2012/12/23(Sun)  1447

 宮さんの辞世は、前にあげた二句につづいて、

   こういうのは芭蕉も書けなかったと思います。

     木枯らしや 夢はパリを駆けめぐる

 とあった。
 これを、宮 林太郎の辞世の句と見てもいいだろう。

 お彼岸にはローソクを一本もってきて、それに火をつけて、燃えつきるまで、本を読むことにした。申しわけないが、宮さんの本ではない。
 私の読んだ「老人学」に関する本で思いがけず、日本人の辞世の句、それも俳人の絶命詩をとりあげていた。

    いまわの際にある日本の詩人や僧侶たちは――おそらく、この世での最後の行
    為として――この世との別れを「辞世の句」に詠んだ。これは、一八四一年、
    有名な俳人である大梅が七十歳のときに詠んだ句である。

    七十や
    あやめの中の
    枯尾花

    猿男は一九二三年、六十五歳のときにこう詠んだ。

    食いかけた
    団子に花の
    別れかな

    次に挙げる二句は、いずれも盛住と呼ばれる二人の俳人の作品である。

    盛住(1776年)七十五歳。

    しばらくも
    残るものなし
    木々のいろ

    盛住(1779年)八十六歳。

    水筋を
    受け手異なる
    青田かな

    いずれの句においても、読み手は、あやめの花、青田の影、木々の色を観て愛
    でる存在として現れている。人生のうちの永遠なるものがより大きな意義をもた
    らすようになる……            (つづく)

       「老いることでわかる性格の力」ジェイムズ・ヒルマン著 鏡リュウジ訳
       河出書房 2000年9月刊

 宮さんの手紙から、別のテーマに移ってしまったが、日本人が、辞世句を読む独特な心性をもっていることは、アメリカ人にも知られてきたのかも。
 してみると、宮さんの俳句も、なかなか稚気があっていいような気がする。

2012/12/20(Thu)  1446
 
 宮 林太郎さんの手紙に私は感動していた。
 この手紙は、さらにつづく。

    中田さん、ぼくが死んだときにはローソクを一本もってきてください。
    それに火をつけてください。それをぼくの一生だと思ってください。ローソ
    クは小さいのでも大きいのでも適当に。
    ぼくには関係がないがローソクは燃える。あのローソク、ぼくには意味がないと
    思っていたが、あれでなかなか素晴らしい。彼は燃えるのです。それがやがて消
    えるのです。その間あなたはそれを見守っていてください。まあ、それぐらい
    の時間はあるでしょう。
    それが一人の男の人生です。燃えて消えてゆく、そいつです。燃えているあいだ
    は浮気もする。悪事もする。やがて消えてゆきます。
    どうも僕は説教くさくなってきた。まあ、ローソクは持ってきてください。それ
    に火をつけてください。そこで、変な俳句、

       一本のローソクなりし我が身かな

       愚かにも燃えてつきたる我身かな

 私は、お彼岸にはローソクを一本もってきて、それに火をつけて、燃えつきるまで、本を読むことにした。申しわけないが、宮さんの本ではない。真喜志 順子が訳した本で、日本人の辞世が引用されていた。
 宮さんの俳句から、私は別のことを考えはじめた。     (つづく)

2012/12/16(Sun)  1445
 
 宮 林太郎さんの手紙を思い出す。
 私は、宮さんを訪問したあと、玄関先でスナップ写真を撮った。それをさしあげたときの礼状の一節。

    昔、ぼくが二十歳ぐらいのとき、だからそれは六十年ぐらい前の話です、新宿
    の武蔵野館でジャック・フェデの「面影」という映画を観ました。この映画は傑
    作中の傑作で、芸術家が映画というものに取り組んだ初期のものでした。
    ある男がパリの街角の写真館のショーウインドーのガラス越しに女のポートレー
    トを見ます。それからその男はその女の面影を追ってフランス中の旅に出ます。
    勿論、その女に出会うためです。
    美しいプロヴァンスの林の中や、タバコの煙で一杯のマルセーユの居酒屋のテー
    ブルや、フランスの田舎の町や村々や川のほとりを歩くのです。
    その美しい風景は郷愁となってぼくの頭に残っております。
    ぼくは一枚の写真の話をしているのですが、中田さんが写してくれたこのミイラ
    には死の影のみえる一人の老人が悲しそうに座っています。そして何か喋ろうと
    しています。
    多分死についてでしょう。そしてこの老人はボルテールのような骸骨と目つきを
    しています。

 日付は、1991年9月27日。もう、二〇年も昔のことになる。
 当時の私は、評伝「ルイ・ジュヴェ」を書きはじめていたが、まったくの手さぐりで、いつになったら完成するのか見当もつかず、前途暗澹たる状態だった。
 そんなときに、宮さんと親しくなって、祐天寺の「ヘミングウェイ通り」に、宮さんを訪問したものだった。

 残念ながら、ジャック・フェデルの映画、「面影」を私は見ていない。
 フェデルの初期の映画、「女郎蜘蛛」は、ある機会に見たが、これは、後年の「外人部隊」を予告するような部分があって、フェデルを理解するうえで役に立った。
 それと、もう一つ、宮さん流にいえば、この映画で、「ある女の面影」を見たのだった。
 だから、その女の美しい面影は郷愁となって私の頭に残っている。

 それはさておき。
 私は、親しい人たちのスナップ写真を撮っては、それをさしあげるのが「趣味」で、写真を撮られるのがお好きでなかった宮さんのスナップも撮影した。
 その写真の宮さんは、けっして「ミイラ」のような「骸骨」ではなかった。ヴォルテールのような「目つき」をしているかどうか、ヴォルテリアンでない私にはわからない。

 しかし、その写真の宮さんが「何か喋ろうとして」いて、それが「多分死について」だろうという、当時の宮さんの心境は、今にしてよく分かるような気がする。

 ただし、私は、「何か喋ろうとして」、それが「多分死について」ということがあるだろうか。おそらく、それはない。
 私は、毎日、死について考える。ただし、自分の「死について」語ろうとは思わない。まだ。  (つづく)

2012/12/09(Sun)  1444
 
 10月下旬、映画女優、シルヴィア・クリステルが亡くなった。亨年60歳。

 私は、この女優さんにあまり関心がなかった。しかし、彼女の映画をもう一度見ておこうと思った。一般に映画スターは、ただの固有名詞、たとえば「シルヴィア・クリステル」という女を越えた、一つの存在を私たちに感じさせるからである。
 これは、少し説明しなければいけないかも。

 シルヴィア・クリステルは、1952年、オランダ生まれの女優。中流の家庭に育ったが、カルヴィン派のきびしい教えを受けた。後年、彼女が、反教会的な映画に出たのも、厳格な宗教教育に対する反発があったと見ていい。
 将来の希望は、英語教師になることだったが、家を飛び出して、秘書、ガソリン・スタンドのアルバイトをやっているうちに、スカウトされて、ファッション・モデルになった。

 何しろスタイルが抜群だったので、ヨーロッパでも有名なモデルになった。「ミス・TVヨーロッパ・コンテスト」で優勝。1972年、オランダ映画に出るようになった。
 彼女が世界的に知られるようになったのは、74年、「エマニエル夫人」に主演したからだった。

 シルヴィアに関心がなかった私は、ビデオもDVDももっていなかったので、「エマニエル夫人」のシリーズ最後の作品、「さよなら、エマニエル夫人」を探し出して見ることにした。

 インド洋に浮かぶ楽園、セーシェル島に、夫と移住した「エマニエル」は、島で知りあった黒人女性と夫を相手に、コンジュガル・ラヴ(夫婦愛)、レズビアニズムを楽しんだり、観光客とゆきずりの情事をくり返している。その「エマニエル」の前に、撮影のロケ地をさがしている映画監督があらわれる。……

 「エマニエル夫人」のシリーズの性的イデオロギーは、女性が自分でのぞむかぎり、どのような性行動、性行為を試みてもまったく不都合ではないというもので、現在ではそれほど珍しいものではない。いや、女性に対する社会的、思想的な理解が大きく変化してきた時期、そして女性自身の経済的な地位の向上がもたらした性的な自由の獲得というプロセスのなかでは、「エマニエル夫人」のシリーズの性的イデオロギーは、ごく標準的なもので、今、映画を見直しても、さして驚くほどのセックス表現はない。

 「エマニエル夫人」の性的イデオロギーは、フェリーニの「女の都」や、ゴダールの「女と男のいる舗道」などとはまったくちがった平凡な物である。

 私にいわせれば――「エマニエル夫人」が、香港、シャム(タイ)、セーシェル諸島といったエグゾティックな土地で、それまで経験したことのない「性体験」を重ねる、というシチュエーションには――エグゾティシズムという衣裳に覆われているが、じつは白人の女が潜在意識的に抱いている異民族の性行動に対する、つよい関心、それもひそかな優越感に彩られた畏怖が隠されている。

 ジェーン・オースティンが「高慢と偏見」で描いたのは、「結婚がもっとも快適に貧困を予防できるシステム」だったとしよう。
 少し皮肉にいえば――「エマニエル夫人」は、ヨーロッパ、アメリカではなく、そして、戦後の日本や、さらに後の上海、北京ではなく、後進国のリゾート地域で、まったく隔絶した富裕な人妻だった。つまりは、「結婚がもっとも快適に不倫を実行できるシステム」だからにすぎない。

 私は日本で公開された「エマニエル夫人」を、ニューヨークでも見直した。(「ディープ・スロート」や「ビハインド・ア・グリーン・ドア」も見た。ムフフ)
 「エマニエル夫人」にも日本版でカットされた部分があった。そのカットはワイセツという理由でカットされながら、私は、そうした部分に、白人の黄色人種、黒人種の女性に対する潜在的な「恐怖」や軽蔑が隠されているのではないか、と思った。

 ところで「エマニエル夫人」の成功は、なんといってもシルヴィア・クリステルの起用によると考える。シルヴィア・クリステルには性的な魅力があった。その「性的」という意味で、映画史的に見て、「エマニエル夫人」の出現は「春の調べ」のヘディ・キースラー(後年のヘディ・ラマール)の登場と似ていると思う。
 「ディープ・スロート」が、その後のポルノ映画の最初のマイルストーンだったという意味では、「エマニエル夫人」は「春の調べ」のようなプライオリティーをもってはいないだろう。
 だが、ヘディ・キースラーがもはや誰の関心も惹かないが、シルヴィア・クリステルは、まだしばらくは映画史に残るだろう。そして、もう一度死ぬことになる。わずかな例外はあっても美しい女優たちもまた、二度死ぬのだ。

 シルヴィア・クリステル。この女優さんの代表作は、むしろ、オランダ映画なのだが、残念なことに私たちは見る機会がない。

2012/12/05(Wed)  1443
 
 頭脳の老化はふせぎようがない。
 それでも、少しは、脳の活性化を、と考えて、最近の私は、昔見た映画を、もう一度見直すようにしている。
 これが、結構おもしろい。

 もう一つ。
 昔書いた自分の原稿を、もう一度読み直してみる。
 これは、どうにも恥ずかしい。

   今年の夏は、ほんとうに暑い日々がつづいた。さすがに仕事をする気になれず、
   ぼんやり本ばかり読んで過ごした。

 あるエッセイの書き出し。
 1990年9月30日の「日経」に、私は「いまはもう秋」というエッセイを書いているのだが、20年も前に、私は今とおなじことを書いている!

 なんとも恥ずかしいかぎり。

 ところで、このエッセイで、私は、ある三行詩を訳している。

    ある日、おもしろいものを見つけた。
    ロラン・バルトが、芭蕉の句、「名月や池をめぐりてよもすがら」を読んで作っ
    た三行詩である。前に読んだときは、うっかりして、そんな詩があることに気が
    つかなかった。
    フランス語もろくに読めないのだが、自己流で訳してみた。むろん、ご愛嬌であ
    る。

    この夏の港の朝の晴れゆきて去りにしひとを思う我かも
    夏の朝はただ晴れるにけり無為にして今は去りにし人を思うも
    この夏の朝晴れにけりうら恋うる人と渚にいくみ寝しかも

    バルトは俳句のつもりで詠んだらしいが、フランス語の明晰性がどうしても十七
    字では表現できなかったので、思いきって短歌にしてしまった。

 これは失恋の歌なのだろう。去って行った恋人への思いが、こうした短詩形に凝縮する。日本人なら誰しも経験があるかも知れない。
 夏の朝が美しく晴れわたっているのに、ぼんやり「恋人」のことを思いつづけている。ここには、やるせない内面の傷みがあふれている。
 バルト流にいえば、はっきりした対象が頭になければ、恋愛を語ることも、失恋の傷みを語ることも不可能なのだ。

 当時、私もまたあてどもない思いがあって、こんなことを書いていたのかも知れない。
 今の私はこのエッセイを読んで、かなり違うことを考えている。

2012/12/02(Sun)  1442
 
 言葉の誤用の例としては――

 「舌先三寸」(本心ではなく、うわべだけの巧みなことば)を、ただしく使っている人は23・3パーセント。じつに56・7パーセントの人が「口先三寸」という。

 「食指が動く」は、38・1パーセントが正しく、31・4パーセントが「食指をそそられる」という。

 「のべつまくなし」を「のべつくまなし」という人は、32・1パーセント。おやおや。これは、幼児的な誤用だが、「隈なく」が影響したものか。
 正しく「のべつまくなし」といっている人は、42・8パーセント。しかし、これもいずれは、逆転するだろう。いや、その前に、死語、廃語化するだろうな。

 「物議をかもす」を「物議を呼ぶ」という。これは、まだ58・6パーセントの人が正しくつかっている。「呼ぶ」派は、21・7パーセント。

 「二つ返事」は、42・9パーセントの人が正しく使っているが、「一つ返事」のほうが、46・4パーセント。これは、もはや逆転している。

 これで思い出したのだが――私が大学で教えていた頃、学生のリポートを読むことが多かった。毎年、誤字、脱字の原稿を読まされるのに閉口したが、ときどき言葉の誤用にぶつかって呆然とした。
 学生のレポートで、「婚前一体」という熟語を眼にしたときは、抱腹絶倒したものだった。
 あげていうべからず。不可勝道。いちいちいっていたらきりがない、という意味。いまどき、こんなことばを使ったら、けげんな顔をされるか、笑われるだけだろうな。
 こちらも「けげんな顔」のかわりに、「ドヤ顔」でもしてみせるか。(笑)

2012/11/28(Wed)  1441
 
 もう一つ、気になっていることがある。

 これは「読売」(’12.9.21)「国語に関する世論調査」の記事による。

 「ゆっくり、のんびりする」ということを「まったりする」という人が増えている。
 「しっかり、たくさん食べよう」ということを「がっつり」という。
 いずれも、調査対象の29パーセント。16歳〜19歳では、約半数。二十代で、60パーセントを越えている。
 「まったりする」は、おそらく関西系のことばがひろがって、イディオム化したのだろう。「がっつり」の語源は、ある人の説では、鹿児島の方言という。ひょっとすると、別のことが考えられないか。「ガッツ石松」というボクサーあがりのタレントにもかかわりがあるかも知れない。つまり、アメリカ語のGutsの変形かも。
 私の見た例では――「女をがっつりイカせる」という用例があった。とすれば、フィジカルな行為に関して発生したのか。いずれにせよ、ろくなことばではない。

 「中途半端でない」ということばを「半端ない」という。
 「正反対」を「真逆(まぎゃく)」という。
 これまた、16歳〜19歳で60パーセント以上。二十代で約半数。

 こうした言葉が、若い世代で半数を越えたということは、すでに文章表現にも転用されはじめるということだろう。

 「まったりする」とか「がっつり」テナことばを使うのはまっぴらだが、もっと気になるのは、むしろ言葉の誤用で。イヒヒヒ。
  (つづく)

2012/11/25(Sun)  1440
 
 今年の私は、ひどいスランプに陥った、といってよい。
 いくつかの理由はあるのだが、ここに書く必要はない。パソコンが故障したので、買い換えたのだが、それもすぐに故障した。われながらあきれた。
 ほかにも、いろいろあったが、いずれ、忘れてしまえばすむことばかり。

 忘れる。これはもう、どうしようもない。
 自分ではよくおぼえているはずなのに、どうかすると思い出せない。字を忘れる。漢字が書けない。われながらあきれる。おいおい、それでも大丈夫かヨ、と嘆息する。そこで私はスランプになった、という顔をする。ボケ隠しの術である。

 最近の日本人は、漢字を正確に書く能力が衰えているという調査が発表された。その調査は、文化庁によるもので、全国の16歳以上の男女を対象にした面接方式で行われた。

 その結果、日頃、パソコンや、メールを使うことが多いため、漢字を正確に書く能力が衰えていると感じている人が、65・5パーセントにたっしている。10年前にくらべて、25・2パーセントもふえていることがわかった。

 このことは、漢字を正確に書く能力だけではなく、読む能力も衰えているはずで、最近は、本を読む人、ひいては近代/現代の文学を読む読者層のいちじるしい減少と連動しているだろう。

 これは、由々しき一大事である。(昔の講談に、よくこんなことばが出てきた。)

 これでは、本を読む人がいなくなるのも当たり前だぜ。(この「ダゼ」は、最近、人気のタレントの真似だぜ。)
 さっそく――「ゆとり教育」なるものを考案した文化省の官僚に「国民栄誉賞」をくれてやってもいいくらいだよ、まったく。「日本をダメにした功労者」として。

 ただし、もっとおかしなことが出てきている。
 手で字を書くことが面倒くさい。あるいは、直接、人と会って話をすることが、どうも面倒、と感じている人もふえている。
 とくに、ティーンの世代では、42パーセント。
 60歳以上の世代で、18・6パーセント。
 いずれも、10年前にくらべて、10・1パーセント、7・3パーセントもふえていることになる。
 ティーンは、10年前には、6歳から9歳だから、「手で字を書くことが面倒くさい」こともなかったはずで、問題の60歳以上の世代は、10年前には、50代だったのだから、この連中は、おそらく、ろくに本も読まずに過ごしてきたと見てよい。これから見えるものは「ゆとり教育」などという一部の文部官僚のプランが、日本人の識字能力、国語表現、ひいては世代的な「感性」にどれほど壊滅的な影響を及ぼしたか、ということになる。(むろん、パソコンや、メールの普及といった別の要因を考えないわけではない。)

 若い世代が漢字を正確に書く能力だけではなく、読む能力も衰えていることの対策はどうするか。
 たとえば、小学校の上級から英語の必修化をめざすなら、おなじ比重で重点的に漢字教育を行うべきである、と考える。
 パソコンや、メールが得意な人は、かならずしも英語が上達するとはかぎらない。
 だが、きっちりと漢字教育を受けた人は、かならず英語もよくできるようになる。

 例外はあるけれど。(笑)

2012/11/21(Wed)  1439
 
 もの書きがスランプになったらどうするか。

 ある日、「近代文学」の同人たちの間で、そんな話題が出た。たぶん、佐々木 基一さんあたりが口火を切ったのだろう。戦後すぐの1946年、たぶん4月頃。
 このとき、同席したのは、荒 正人、埴谷 雄高、山室 静、本多 秋五、平野 謙さんたちだった。
 私は駆け出しもいいところで、いつも、「近代文学」の編集室に遊びに行って、隅っこで先輩の皆さんの話を聞いていた。ずっと、年下の私を相手に、この人たちがいろいろなことを話してくれたことを、いまの私は心から感謝している。

 私は「近代文学」以外からの原稿の執筆依頼はなかった。つまり、原稿が書けない悩みなど経験したこともなかった。

 このとき、それぞれの人がどう答えたか、もう忘れてしまった。しかし、埴谷 雄高のことばは心に残った。

 どうしても原稿が書けないときは、原稿用紙にむかって、「原稿が書けない」と書けばよい、といった。埴谷 雄高の発言に、みんなが苦笑したが、埴谷さんの説には抜群の説得力があった。

 ずっと後年になって、「シャイニング」という映画を見た。冬の季節、誰も客のいない空ホテルの一室で、「作家」が毎日、長編のタイプを打ち続けている。この「作家」をジャック・ニコルソンがやっていた。
 スタンリー・キュブリックの演出は、あまりこわくなかったが、スランプに陥った「作家」の狂気が描かれている。当時、「山の上ホテル」にカンヅメになって、原稿を書きつづけていたので、この映画に出てくる作家のスランプがタイプされた「原稿」からわかるシーンはこわかったなあ。(笑)

2012/11/18(Sun)  1438
 
(つづき) 
 サリー・ホッグズヘッド著、「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」(PIE刊)を読んだのと、同時期に、最近、人気の高い作家、山口 路子の「恋に溺れて女になる」(中経文庫/’12.8.刊)を読んだ。読んだのは偶然だが、この本にも女が男を魅きつける条件がいろいろと出てくる。
 サリー・ホッグズヘッドと、山口 路子の本をつづけて読んで、アメリカ的な乾いたプラグマティズムと、アメリカをよく理解しながら、日本の女性らしい「濡れたもの(wetness)」の違いが感じられて興味深かった。

 山口 路子は、「ココ・シャネルという生きかた」で知られている作家だが、彼女のとりあげるさまざまな芸術家たちは私にも親しい人が多かった。たとえばマリリン・モンロー。女史の近作、「マリリン・モンロー」の「あとがき」に、わざわざ私の名をあげていただいて恐縮している。

 山口 路子はこの著書で、みごとにマリリン・モンローの魅力を描き出しているのだが、たまたま、サリー・ホッグズヘッドもマリリン・モンローにふれていた。

  心理学者のディヴイッド・ヒューロンは――マリリン・モンローの声を「濡れ
  た声(wet)」と表現したのです。(中略)
  マリリン・モンローの濡れた声は、快楽と包容力を伝えます。加えて、彼女の声
  は「気音」であるとヒューロンは説明します。モンローは声帯を通る空気の量を
  増やし、囁くように喋っているのです。私たちは、隣の人にひそひそ声で話しか
  けるとき、声に空気を含ませています。モンローの場合は、意図的に、自分のブ
  ランドイメージの一部である濡れた声というシグナルを採っていたのです。ステ
  ージ上でも「ピロー・トーク」の効果を利用し、観衆の一人ひとりと肉体的に
  親密な関係にあるような喋り方で話しかけたのです。(聴覚的にエロティックな
  彼女の傑作、「ハッピーバースデイ・ミスター・プレジデント」を頭の中で再生
  してみてください)。
         (「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」)P・94.

 この心理学者の説では、「濡れた声」は、暗黙のうちに相手を自分の身近に誘い込む、という。「ねえ、こっちにきて。すごくおもしろいことがあるの。いっしょにどう?」

 マリリン・モンローにそういわれたら、誰だってメロメロになるだろう。(笑)

2012/11/15(Thu)  1437
 
 (つづき)
 21世紀のアメリカの文化、社会、ひいては、いつも自分の魅力を増大することに、みずからのプレステージ、価値を見いだそうとするアメリカの精神状況を知るために読まれてもいいと思う。
 サリー・ホッグズヘッド著、「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」は、マーケティンクがThema のビジネス書だが、じつにさまざまな事例をあげているので、興味深い読みものになっている。

 フェティシズムとは、特定の活動や、物に対する過剰な、あるいは異常な愛着を意味する。その対象には、乳房、口紅、女性のお下げのヘアー、絹のシーツ、のぞき見、そうした性的な傾向から、車のエンジン音まであるそうな。
 ところで、私は、女性の乳房、口紅、お下げのヘアー、絹のシーツ、女に関するすべてのものが好きである。おまけに、作家といっても、ろくな作家ではないので、ヴォワイユーリズムにも大きな関心をもっている。してみると、私は どうやら心情のフェティシストかも。(笑)話題をかえないとヤバイね。(笑)

 そこで、進化生物学の学者によると――

 シンメトリー(左右対称性)は美を意味する。「ひじの骨の位置が左右対称というだけで、その男性はより魅力的であり、ベッドでセックスを楽しむ機会もより多く、より美しい女性とつきあうことができるとのこと。」
 もっと若い頃に教えてほしかったなあ。(笑)

2012/11/12(Mon)  1436
 
 まったく偶然に、二冊の本を読んだ。それぞれ、まったく関係のない本なのだが。

 サリー・ホッグズヘッド著、「魅きよせるブランドをつくる7つの条件」(PIE刊)を読んだ。真喜志 順子の訳がいい。
 テーマは――私たちが、なぜ、これこれのブランドに惹かれたり、あるタレントに魅せられてしまうのか。
 逆に、そうした背景に何が潜んでいるのか。

 冒頭に、「オーガズム――まず、セックスの話から始めましょう」という章があって、さっそく読みはじめてしまった。

 「人は生まれながらにして、異性からの特定のシグナルに魅力を感じるようにできているだけでなく、異性を魅了する術(すべ)も備えています」という。
 なにしろ、私は「異性を魅了する術(すべ)も備えて」いないので失格だなあ。(笑)

 魅力的な人びとは、私たちの心を奪い、強烈な渦の中に巻き込む。
 心理学者のミハイ・チクセントミハイは――オーガズミックな経験を「フロー」と呼ぶ。「自分が現在おこなっていることに完全に没頭している時の精神状態」が、その「フロー」であって、特徴としては、「集中力が増す感覚」という。
 「ほかのことがどうでもよくなってしまうほど、ある状態に没頭する状態、その経験はきわめて楽しいものなので、それをやりたいがために、人はどんなに大きな犠牲をはらってもやろうとする」と、説明している。

 私は、ミハイ・チクセントミハイ先生の著作を知らない。この本で、はじめて知ったので、この説明に納得した。ただ、生理現象としての「オーガズミック」はしゃっくりに似ていると考えている。

    魅力的なイメージや、魅力的な人々は、私たちの心を奪い、強烈な渦の中に巻き
    込む力をもっています。チクセントミハイは、これをフローの中毒性と呼び、
    「他のことがどうでも良くなってしまうほど、ある活動に没頭してしまう状態、
    その経験自体はきわめて楽しいものなので、それをやりたいがために、どんなに
    大きな犠牲を払ってでもやろうとする」と説明しています。

 ほんとにそうだよ。私は、チクセントミハイ先生を存じあげないけれど、自分のまずしい経験からも、こうした状態は推測できる。
 芝居の「演技」なども、そういうものかも知れない。

 私は、評伝、「ルイ・ジュヴェ」で、そうしたエクスタシイを説明しようと思ったのだった。自分では、どうにもうまく描けなかつたのだが――オペラ歌手のカーティア・リッチャレッリのことばを見つけた。(「ルイ・ジュヴェ」第六部・第七章)

 1989年、リッチャレッリはコヴェント・ガーデンで、プラシド・ドミンゴを相手に「オテロ」を演じた。
 稽古中から最高の瞬間が訪れたという。Sternstunden だった。

 「こういう瞬間はきわめてまれなのよ」とリッチャレッリは語っている。「ドイツ人がいうSternstunden で、芸術家の生涯でも、二、三度しか訪れてこないわ」

 余談だが、私は、わざわざ、Sternstundenを、ドイツ語のまま引用したのだが、校正者は「好機」と訳し直してきた。冗談ではない。私は、すぐに、これを「たまゆらのいのちの極み」と訳した。

  最近の私は――何かを見れば、すぐに何かを思い出す。これもその一例。

2012/10/26(Fri)  1435
 
 今回、「レーピン展」で私が関心をもった一枚。

 「エレオノーラ・ドゥーゼの肖像」。(1901年)

 110センチ×140センチ。大きなキャンバスに、木炭でデッサンをとっただけ。未完成のまま、放置したらしい。

 この肖像画は、1891年3月から4月、サンクト・ペテルブルグで客演したときに描かれたもの、という。

 カタログの解説によれば――

  「尊大さを感じさせるほど、自信にみちた女優の眼差し、表情、手の位置、
  全体の姿勢などを木炭の黒だけで巧みに描いている」

 という。

 私は、「尊大さを感じさせるほど、自信にみちた女優の眼差し」というより、どこか放心したように、こちらを見ている女優の孤独を感じる。ドゥーゼは、レーピンのことなど知るよしもなかったにちがいない。遠く、サンクト・ペテルブルグまでやってきて、スケッチをとる画家などに関心をふり向ける余裕もなかったかも知れない。
 椅子の肘にかけた右手と、おなじように投げ出した左手の大きさの狂い、そして、からだに置いたショールの位置、不安定な下半身。
 「全体の姿勢を木炭の黒だけで巧みに描いている」とは思えない。レーピンは、なぜか、一瞬のうちに、お互いの立っている位置、姿勢、そして亀裂のようなものを感じとったのではないか。そんな気がする。

 ついでに書いておこう。劇作家のチェーホフが、エレオノーラのペテルスブルグ公演を見ている。チェーホフは、「私は、かつて一度たりともこれほどの女優を見たことがない」と書いている。

 この絵が完成しなかったのは残念としかいいようがない。しかし、デッサンとして、この「レーピン展」で私がいちばん気に入った一枚。

 カタログの解説には――

  エレオノーラ・ドゥーゼ(1858−1924)は4歳から劇団にくわわり、
  サラ・ベルナール(1844−1921)の当たり役をイタリア語で演じて
  有名になった。

 こんな安直な解説はないだろう。
 もう少し勉強して書くべきだったね。
 エレオノーラ・ドゥーゼは、19世紀末、「あらゆる時代に生きているみごとな女神」と呼ばれ、「芸術の娘」(フィーリア・デラルテ)とうたわれた女優。
 1895年、ロンドンで、サラ・ベルナールを相手に、ズーデルマンの「家」で競演した。バーナード・ショーは、サラの絢爛たる演技を見た翌々日、エレオノーラの静謐な演技を見た。その優劣を判断することはできないと書いている。

 晩年のエレオノーラ・ドゥーゼは、愛人のガブリエーレ・ダヌンツィオと別れた。病身、老残の身だったが、パリで再起をはかった。その後、アメリカ巡業に出て、ピッツバーグで客死している。
 若き日のマリリン・モンローは、ドゥーゼの伝記を読んで、女優を志したといってよい。後年、マリリンは、エレオノーラ・ドゥーゼの遺品を買いとった。マリリンの死後、演出家のリー・ストラスバーグが、マリリンの遺志をついで、これをコロンビア大学に寄贈している。またまた、余計なことを思い出したね。

 「レーピン展」で、エレオノーラ・ドゥーゼに会えたことはうれしかった。帰りに、絵ハガキでも買いたいと思ったが、そんなものがあるはずもなかった。
 ほとんど、誰も気にとめないだろう。
 仕方がないので、カタログを買ってきたが、重くて閉口した。
 外国の美術館のカタログのように、もっとコンパクトで、要領(容量)のいい、値段も安いカタログが作れないものか。学芸員の原稿料かせぎか、要領の悪い学術論文のような「解説」を読まされるのはうんざりする。

2012/10/22(Mon)  1434

  今回、私が心を動かされたレーピンの絵の一枚。

 「懺悔の前」(1879−1885年)。

 帝政の覆滅を企図した革命家が、死刑の宣告を受けて、最後にロシア正教の司祭の前で、告解をうけようとしている。革命家は、暗い、汚い獄舎のベッドに腰を下ろしている。汚れた外套の下に、白いシャツがのぞいている。
 ペトロパブロフスキー要塞の地下牢だろうか。

 死刑執行まで、彼にのこされた時間はわずかしかない。
 その表情は、うつろだ。

 これは、ロシア革命史に大きなターニング・ポイントとなった「人民の意志」(ナロードナヤ・ヴォーリア)の秘密機関紙、創刊号(1879年10月)に載ったニコライ・ミーンスキーの詩に感動したレーピンが描いたもの。

 ドストエフスキーが、死刑を宣告されたペトラシェフスキー事件から、じつに30年後のこと。

 デカブリストの反乱から、ロシアにとって緊急の問題だった、農奴制の廃止、貴族階級の特権の停止、秘密警察の執拗な身辺調査、被疑者への虐待、暴行、帝政の廃止まで、ロシアの苦悶を、レーピンは、この絵に集約している。

 レーピンが、この絵を完成して、5年後、劇作家、チェーホフは、突然、はるかな極東のサハリンに旅立っている。
 なぜ、劇作家は縁もゆかりもないサハリンに向かったのか。
 100年以上もたった現在、この問題は、まだはっきりわかっていない。

 レーピンを見ながら、またしても、とりとめもないことを考えつづけていた。

2012/10/16(Tue)  1433
 
 残暑のきびしい渋谷に、「レーピン展」を見に行った。
 トレチャコフ美術館収蔵の作品展である。

 じつは、モスクワに行ったときレーピンを見ている。当時のソヴィエトで、いろいろなものを見たが、現代美術の作品はまったくろくなものがなかった。
 たとえば、「ドン河で督戦するブレジネフ少佐」と題する巨大な絵が壁面いっぱいに飾られていた。なにしろ、ルーヴルの「ナポレオン戴冠」に匹敵する大きさで、ドイツ軍の砲火の前に身をさらして、赤軍兵士を激励する若い指導者が描かれている。この絵を見たとき虫酸が走った。これが社会主義リアリズムなのか。

 ロシアで心に残ったのは、「エルミタージュ」で見つけたたった一枚、フィレンツェの「コジモ大公」や、ゴーギャン、ピカソから、ヴァン・ドンゲンまでのフランスの美術コレクションばかりで、ロシア美術の作品としては、わずかにクラムスコーイ、レーピンの数点だけだった。

 トレチャコフは富豪で、レーピンの友人だった。
 1890年、トルストイにあてて、

   絵彩なり、ポートレート、習作なり、いずれにせよ最高の位置にあるのは、
   レーピンでしょう。

 と書いた。
 今回の「レーピン展」で、私は「トルストイの肖像」を見た。
 ロシアでは、かつてこれほどみごとな肖像画は書かれたことがない。はじめてこの絵を見たとき、私はそんなことを考えたものだった。
 たしかに、「トルストイの肖像」はすばらしいものだったが、今回、「アクサーコフ」や「コロレンコ」を見ることができた。
 ロシア文学が専門ではないのだが、それでもアクサーコフやコロレンコの作品は読んだ。だから、あらためて、ロシアの文学者たちに親しみと敬意を持った。
 ウラジーミル・スターソフの肖像もすばらしいものだったが、残念ながら、私はこの人の芸術論をしらない。
 ワシーリー・レーピンの肖像。画家の弟で、音楽家。私は、赤いカフタンを着たこの若い芸術家が、マルクス兄弟のチコにそっくりなので、おかしかった。解説によれば、絵のモデルになって描かれているあいだ、長時間じっとすわっていられない「落ち着きのない」性格だったという。そのせいで私はチコ・マルクスを連想したのかも。

 母のタチャーナのデッサン。
 私は、ガートリュード・スタインかと思った。服装といい、容貌といい、ガートリュード・スタインそっくり。

 私の美術鑑賞は、たいていこんなものなのだ。(笑)

2012/10/09(Tue)  1432
 
  No one ever learned literature from a textbook.
  I have never taken a course in writing.
  I learned to write naturally and on my own.
  I did not succeed by accident;I succeeded by patient hard works.
  Verbal dexterity does not ma kes a good book.

   文学を教科書からまなんだものは一人もいない。
   私は書くために(大学の創作科のような)授業を受けたことは一度もない。
   ひとりでに書くことを身につけ、独力で書いてきた。
   偶然に成功したのではない。忍耐づよい、くるしい仕事のおかげで成功したのだ。
   ことばの器用さだけでは、いい本はできない。

 誰でも経験することだが、色々な本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うような言葉を発見することがある。
 そういうことばは――たとえ、そのことばを読んだ本を忘れてしまっても――そのことば自体は、心に残るだろう。

 私はヘミングウェイのようなえらい作家ではない。文学部で勉強してきたが、アメリカの大学の創作科のようなコースもなかったし、有名な作家たちの講義もいろいろと受けたが、創作の授業を受けたことは一度もない。
 自分で、いろいろと書きつづけているうちに、なんとなく書くことを身につけたのだから、やはり独力で書いてきたといっていい。

 私は作家として、まあ、無名作家に近いマイナーな存在にすぎない。そのことを恥じる必要はない。
 ただ、しがないもの書きとして、それなりに「忍耐づよく、くるしい仕事」をつづけてきた。
 私はいつも考えつづけてきたのだ。なぜ、ある人は才能に恵まれているのに、ある人は才能に恵まれないのか。

 「忍耐づよく、くるしい仕事」をつづけることも才能の一つ。それは間違いない。
 ただし、今年のように猛暑がつづくと、「忍耐づよく、くるしい仕事」なんかとても続けられない。
 だけどさ、ヘミングウェイさん、あんただって猛暑の中で「アフリカの緑の丘」を書いたわけではないよね。地球の異常気象を知らなかったパパがうらやましいよ、まったく。

2012/10/04(Thu)  1431
 
 今年の夏は暑かった。
 暑くて、ろくに本も読まなかった。

 たまたま古い「キネマ旬報」(1952年7月上旬号)が出てきたので、読み散らしていたが……

 この中に、戦後のヨーロッパ映画3本の公開が予告されていた。
 たとえば、「ベルリン物語」、「愛人ジュリエツト」、「二百万人還る」など。

 「二百万人還る」(Retour a la Vie)は、いわゆるオムニバス映画で、私は「ルイ・ジュヴェ」(第六部3章)で、この映画をとりあげている。
 ジュウェの出ているエピソードは、ジョルジュ・クルーゾーの演出。

 評伝「ルイ・ジュヴェ」を書いていた時期には、この映画が作られた1949年か、その翌年、1951年には見たものと思っていた。

 現実には、私はジュヴェが亡くなってから、この映画を見たことになる。「二百万人還る」をジュヴェの遺作として見たのか、それとも戦後フランスの「現実」を知ろうとして見たのか。たいした違いはないのだが。
 しかし、スクリーン上でこの俳優をふたたび見ることはない、という感慨が自分の内部にあったことは間違いない。むろん、はるか後年、評伝「ルイ・ジュヴェ」を書くことになる、などとは夢にも思わなかった。

 この時期、すぐれた映画がつぎつぎに公開されていた。

 イギリス映画の「第三の男」(キャロル・リード)。
 イタリア映画の「ミラノの奇蹟」(ヴィットリオ・デ・シーカ)、
 フランス映画の「輪舞「(マックス・オフュールス)、「ドン・カミロの小さな世界」(ジュリアン・デュヴイヴィエ)。むろん、私は全部見ている。

 アメリカ映画は、「誰が為に鐘は鳴る」(サム・ウッド)。
 「地上最大のショウ」(セシル・B・デミル)。

 「セールスマンの死」(ラズロ・ベネデク)、「真昼の決闘」(フレッド・ジンネマン)、「見知らぬ乗客」(アルフレッド・ヒチコック)、「砂漠の鬼将軍」(ヘンリー・ハサウェイ)、「怒りの河「(アンソニー・マン)など。
 日本映画では――
 「東京の恋人」(千葉泰樹)、原 節子、三船 敏郎。
 「若い人」(市川 崑)、島崎 雪子、池部 良、(ただし、市川 春代、大日向 伝の「若い人」のリメーク。)
 「振袖狂女」(安田 公義)、長谷川 一夫、山根 寿子。

 おかしなことにこれらの映画を、私は全部見ている。貧乏なもの書きだったが、暇だけは、たっぷりあった。映画も芝居も身銭を切って見ていた。私は、芝居、映画を見たり、コンサートに行ったりレコードを買うだけの目的で原稿を書きとばしていた。
 当時は何も気がつかなかったが、若い頃の一時期にこうした映画をつぎからつぎに見つづけてきた幸運を思う。
 当時の私は――もうおぼろげな記憶しか残っていないけれど、こうした映画を見ることで、自分の進むべき道をさぐっていたような気がする。

 そのうちに、映画は試写で見ればいいと気がついた。そこで、映画批評めいた雑文を書くようになった。

2012/10/01(Mon)  1430
 
 ロンドン・オリンピックは、私たちにさまざまな感動をあたえてくれた。


 なかでも、私の胸に深く残ったのは、最後まで死力をつくして戦った選手たちのことばだった。

  「あきらめなければ、夢は叶う」

 と、寺川 綾がいった。女子競泳、200メートル背泳。美人の選手。

  「いつでもどこでも眠れるのが得意技だったのに、(試合前夜は)ほぼ一睡もで
  きませんでした。目をつぶると、対戦相手の顔がつぎつぎと浮かんできて……」

 吉田 沙保里。アテネ、北京とつづいて、三連覇をなし遂げた。

  「あきらめないでやってきたから、この舞台に立てた。」

 一昨年、初めて世界選手権に出たとき、すでに23歳。ロンドン・オリンピックは、最初で最後の晴れ舞台。田中 理恵。結果は、16位だったが、「強い選手といっしょに戦えたのはうれしかった」という。

 2000年、シドニーに出た選手たちのことばが、今でも私の内面に残っている。
 たとえば――アップダウンのはげしいコースを走り抜いた女子マラソンの高橋 尚子は「もっとキツイコースで練習してきた。すごく楽しい42キロでした」と語っている。

 今回のマラソンのコースは、まるっきりアップダウンのないコースだったが、日本選手は、あえなく敗れた。
 私は、浅利 純子(1993年、大阪国際女子マラソンで、当時、日本の最高タイムを出した。2時間26分26秒)の記録を思い出して、現在の女子マラソンの、とくにアフリカ勢の驚異的なスピードアップに驚嘆した。これでは、とても勝てない。

 私は、かつての高橋 尚子や、野口 みずきなどの残念な挫折を思いうかべながら、つぎのリオ・デ・ジャネイロでの、日本勢の捲土重来を期待したのだった。

 こうして――
 さまざまな思いを私の内部に残して、ロンドン・オリンピックは終わった。

2012/09/27(Thu)  1429
 
 ロンドン・オリンピック。テレビで中継される競技を、全部見たわけではない。しかし、運よく、見られた種目は、全部、楽しかった。

 登場する日本選手に声援を送った。とくに、女子サッカー、「なでしこジャパン」に、つきあって、睡眠不足の日々がつづいた。
 今回のメダルの獲得数が、北京オリンピックを越えたという。私は、メダルの獲得数にあまり関心がない。旧共産圏諸国のようにスポーツの振興、選手の育成に、じゅうぶんな予算をかければ、優秀な選手もふえるし、結果としてメダル数もふえてくる。
 そんな程度の認識しかないので、今回は、アテネ・オリンピックを上回る成績になったと聞いても、別にどうってこともない。

 ただし、柔道女子で唯一金メダルをとった松本 薫という少女選手の、強烈に闘志をむき出しにした表情には驚かされた。

 日本に最初に金メダルをもたらした選手が、松本 薫だった。
 日本の女子柔道の選手たちが、すべて途中で消えただけに、松本 薫としてはひそかに期するところがあったに違いない。
 あの表情は、まさに怒髪天を衝く、といった形容がぴったりで、まことに失礼ながら私は鬼か夜叉か、獰猛なオオカミを連想したほどだった。
 試合中も、相手の選手を射すくめるようなまなざしに、強烈な闘争心があふれていた。

 あとになって、テレビで見た少女の表情は、ごくふつうの女子高生のようだったので、また驚かされた。

 いろいろな表情が心に残っている。
 レスリングで、一度は引退しながら、復活して、最初で最後のオリンピックで、金を獲得した小原 日登美の表情にも感動した。サッカーの決勝に破れて、ゴール前に身を横たえ、天を仰いで涙していた「なでしこジャパン」の主将、宮間 あやの姿にも感動した。
 それぞれの表情は違うけれど、震怒(しんど)の表情を見せて戦った日本の女たちの姿は、私たちの心に忘れ得ぬ何かを刻んだと思う。

 ふと思い出した。しばらく前まで、女子柔道に天才的な少女がいて、マンガのヒロインのモデルになったとかで、「やわらちゃん」というニックネームでたいへんな人気があった。
 シドニー・オリンピックで、女子柔道48キロ級、競技初日に金メダルをとって、日本じゅうを沸かせた。
 「夢のよう。初恋の人にやっとめぐり会えたような気もち」といった。
 最高でも金、最低でも金と豪語した女の子であった。

 その後、絶大な人気を利用して参議院議員になったが、いまや、最高でも「小沢チルドレン」のひとり、最低でも「国民の生活が第一」の一員、つまり、まるっきり頭の中味の「やわらちゃん」になり果てている。
 どうか松本 薫はこういう例を見習わないように。

2012/09/22(Sat)  1428
 
 ロンドン・オリンピックの開会式。
 あれほど大規模なイベントだから、どんなに周到に準備しても、小さなトチリは起きるだろう。
 この開会式で、オープニングに登場したポール・マッカートニーが、歌いだしたとき、奇妙なことが起こった。マッカートニーの歌声が、少しずれて、ダブって聞こえてくる。誰もが、そういう「演出」なのかと思って見ているうちに、やはり何かの事故が起きている、と感じた。口パクでやる予定になっていたのか、録音してあったものが流されたらしい。マッカートニーは動揺を見せずに歌いつづけ、まもなく、生の歌声だけになった。
 (このあと、各国の選手団の入場式が行われる。折しも、日本選手団の場内行進が、じつに不快なかたちで妨害された。この事態は、ポール・マッカートニーの件とはまったく違う。)

 もうひとつ。
 サッカーで、日本vs韓国戦で、日本は敗れた。
 その直後、韓国の選手が、何か大書したプラカードを高々と掲げた。韓国語だったから、そのときはどういう内容か分からなかったが、「竹島は韓国領」という趣旨のものだった。
 この選手は、韓国で英雄視されたという。

 私はこの行為がオリンピック憲章に違反するものと考える。そして、きわめて品位のない行為と考える。

 日本側のサッカー協会に対して、韓国のサッカー協会から、非礼を詫びるメッセージが届いたという。

 この始末も、日本のジャーナリズムはほとんど報道しなかった。

 私は、これらの事件をロンドン・オリンピックの汚点と見る。
 日本人はこうした「侮辱」を見逃すべきではないと考える。
 日本のジャーナリズムが、この事件に関して「頬かむり」をきめ込んだことも忘れてはならない。
 「ことなかれ主義」が、継続的にくり返される小さなできごとの累積で、最後にどういう結果をもたらすか。私たちは、これまでにも嫌というほど見せつけられてきたではないか。
 些細な行為だから、黙って見過ごせというのだろうか。

 誰も何もいわないまま見過ごした事件だが、ここに記録しておく。

2012/09/19(Wed)  1427
 
 オリンピック劈頭から、日本人としては見過ごすわけにいかないことが起きた。

 ロンドン・オリンピックの開会式に、日本代表も参加した。当然のことである。ところが、あの大祝典のなかに日本代表の姿はなかった。なぜか。

 ギリシャからはじまって、アルファベット順に各国の選手団がつぎつきに場内に登場する。満場の歓呼と喝采にオリンピックの祭典は揺れつづけていた。日本はジャマイカにつづいて登場した。
 選手団は場内をぐるっと行進して、開会式に列席するのだが、日本の選手団が入場して最初のコーナーまできたとき、長身の男が出てきて、右手をふって、進行方向を指示した。そのまま直進せよ、という指示だった。
 各国のチームには、国名を示すプラカードを掲げた若い女性が付き添っている。このとき、日本チームに付き添っていた女性は、どう対応したのか。
 残念ながら、日本の新聞は、この付添いの女性に関してまったく報道しなかった。異変に気がついたテレビ・クルーが、急いで日本チームのあとを追ったとき、一瞬、旗手の吉田 沙保里をとらえていた。
 吉田選手は、直進の指示を受けたとき、ちょっと不審な顔をみせたが、付き添いの女性の姿を目で追ったはずである。しかし、うしろから、日本選手がつめかけてくる。
 吉田選手は、そのまま指示に従って、直進した。
 ――結果的には場外に出てしまった。

 国際中継のテレビ・カメラは、このときは、もうつぎのチームの入場をとらえていたから、その後、日本チームがどうなったか、日本チームだけが競技場外に出てしまったことをまったくつたえなかった。

 日本のジャーナリズムは、このハプニングをとりあげなかった。(翌日の新聞は、どの新聞も大々的に、開会式の模様をつたえていた。ほとんどが開会式の盛り上がった雰囲気を伝えていたが、日本チームが「コケ」にされたことをとりあげなかった。
 (開会式当日が、日曜日だったことを考えれば、各紙の記者があらかじめ「予定原稿」を書いておいて、それを送ったのではないかと私は想像する。あるいは、現場にいて、何も見なかったのか。本社のデスクが、テレビ中継だけを見て、原稿を整理したか。)

 NHKは、この夜、テレビ・ニューズで、ほんの数分、この「ハプニング」をつたえたが、その後はまったく報道しなかった。(私は報道局長以下、ニュース担当の全員の責任を問うだろう。)

 日本選手団の場内行進がまだ一周もしないうちに、何者かが、行進の進路を変えて、日本選手の旗手(吉田 沙保里)をたばかり、日本選手団はそのままEXITに出て、競技場の外に出てしまった。
 かりにも、一国を代表する選手団全体の列席を、故意にオミットすることが許されていいのか。
 日本側は国際オリンピック委員会に抗議したが、ごく簡単に、誠に遺憾な手違いだった、という趣旨の謝意が返答だったらしい。

 私は、日本選手団の行進の妨害は――はじめから仕組まれた悪意ある行動と見る。

 ロンドン警視庁は、ただちにこの犯人を検挙して、その行為の違法性をただすべきだった。(テレビには「犯人」がはっきり撮影されていた。)

 (これは、オリンピックが終わったあと、尖閣諸島をめぐって、反日機運が高まった中国で、日本大使の乗用車が2台の高級車に進路を妨害され、国旗を奪われた事件に劣らない「侮辱行為」である。  後記)

2012/09/17(Mon)  1426
 
 とにかく暑い。例年、猛暑が続いているのだから、きびしい暑さにも慣れている。それでも暑かった。
 2012年8月。連日、猛暑。
私は、ただ、ロンドン・オリンピックを見ていた。

 オリンピックのどの競技をみても、かならず日本の選手の活躍を期待している。実際にはそのスポーツに関して何も知らないのに、日本の選手が出ていれば、ただもう勝ってほしいと思う。まことに単純な民族主義者になっているのだった。
 競技についても、当然、いろいろな感想を抱く。しかし、そのスポーツに関しての知識がないのだから、感想も書けない。

 たまたまパソコンが故障したため、以前に使っていたワープロを引っ張りだして書いてみたが、何を書いても新聞記事のレジュメのようになる。あきれた。
 そんなものを書いても仕方がない。

 ロンドン・オリンピック。あまり人の書かなかったことを書いておこう。

 ロンドン・オリンピックの開会式の冒頭に、「ウィンストン・チャーチル」が出てきた。これには驚いた。まさか、こんなところにチャーチルが出てくるとは思わなかった。
 よく見ると、映画、「英国王のスピーチ」で「ウィンストン・チャーチル」を演じたテイモシー・ホールズではないか。たいした名優でもない。
 つづいて、「バットマン」らしいキャラクターが出てきて、これまたびっくり。そして、ヘリコプターに乗った女王陛下の身辺を「OO7」が警護している!

 「ジェームズ・ボンド」は、ダニエル・クレイグ。
 驚いたのは、次のシーン。

 にこやかに機内に姿を見せたご高齢のエリザベス二世が、次のシーンでは空中にもんどり打って飛び出し、スカイ・ダイヴィングを……

 まさか女王陛下が、パラシュートでご降下遊ばされるとは思ってもみなかった。思わず、目を疑った。そして――笑った。
 そのエリザベス女王がロンドン・オリンピックの会場に臨御あそばされて、開会宣言をなさる、という演出。イギリスらしい、ひねりのきいたユーモア。ヒチコックを思い出した。
 これには、笑ったね。イギリスらしいユーモア。外面はニコリともしないが、世界じゅうを驚倒させるようなユーモア。
 日本では絶対に考えられない。こんな「演出」を考えたヤツは、非難囂々、たちまち、クビになる。それどころか、日本のオリンピック委員会や、宮内庁の連中は、恐懼して、骸骨を乞いたてまつる、という次第。新聞も騒ぐだろう。(「骸骨を乞う」なんてことばは、もう辞書にも出ていないだろうなあ。)

 私は、この瞬間、ロンドン・オリンピック開会式に好意をもった。
 その直後、見過ごすわけにいかないことが起きた。
     (つづく)

2012/09/08(Sat)  1425
 
 徳田 秋声論を書くつもりはない。
 ただ、その文章に、独特の比喩や当て字が多いことに驚いた。

 「蒼白い月」(大正9年)から、書き出してみよう。

 (1)この海岸も、煤煙の都が必然展けて行かなければならぬ郊外の住宅地若し
      くは別荘地の一つであった。
 (2)二人の生活の交渉点へ触れてゆく日になれば、話題が有り余るほど沢山あっ
      た。
 (3)彼女自身ははっきり意識してゐないにしても、私の感じ得たところから言え
      ば、多少枉屈的な運命の悲哀がないことはなかった。
 (4)私は何かにつけてケアレスな青年であったから、その頃のことは主要な印象
      のほかは、総て煙のごとく忘れてしまったけれど……
 (5)時間や何かのことが、三人のあひだに評議された。
 (6)モーターが引切なしに証の方へ漕いで行った。

 眼についた文章を引用しただけだが、今の雑誌にこういう文章が掲載去れることはないだろう。だいいち編集者が掲載しない。掲載したとしても、校正者が付箋をベタベタ貼りつけてくる。

 文学史的にいえば、悪文といわれる文章表現をつづけてきた室生 犀星や、横光 利一が「日本語を相手に悪戦苦闘してきた」こともよく知られている。ところが、秋声のような作家もまた日本語を相手に悪戦苦闘してきたという「発見」に、私は驚かされた。

 逆にいえば、今の作家は、ただ、平均的に読みやすい、なだらかな文章を書くだけで、「日本語を相手に悪戦苦闘」することもなくなっているだろう。

 ついでにいえば――「故郷は遠くにありて思うもの」と室生 犀星はいう。彼の内面に何があったのか。
 徳田 秋声は、「初冬の気分」で、若き日の故郷について、

   郷里の町、町の人達の生活気分と、まるで没交渉な――寧ろ反感をさへももつ
   ほどに、彼は自分の産れ故郷に昵(なず)むことができなかった。

 と書く。
 少年期に、いろいろな境遇の変化にふりまわされたことが、「彼の自己尊重と生活愛護の観念を、どれくらい傷つけたか」とみずからに問いかける。

   少なくとも彼に若し幼い時からの記憶に刻みつけられた家があったならば、静か
   なその故郷の町は彼に取って今少し懐しい愛着を覚えしめたかもしれなかった。

 こういう感覚は、すでに私たちから遠くなってしまった。だから、あたらしい作家たちが、故郷に対する愛着や反発を語らなくなったのも当然かも知れない。

 偶然、秋声を読み返した私の感想は、そんなところまでひろがってゆく。

2012/09/04(Tue)  1424
 
 徳田 秋声の短編を読んでいる。古本屋にころがっていたので、買ってきた。

 秋声は大作家だが、いまどきこの作家の短編、まして「西の旅」などを読む人はいないだろう。

 「或る売笑婦の話」、「蒼白い月」(大正9年)、「復讐」(大正10年)、「初冬の気分」(大正12年))といった旧作に、「清算」(昭和13年)、「チビの魂」(昭和10年)、「西の旅」(昭和15年)など、新作が並べられている。

 私は「文学講座」で、秋声の「縮図」をとりあげたが、そのときこの短編集にはまったくふれなかった。(理由はあとで書く。)

 ここで、徳田 秋声論を書くつもりはない。ただ、戦時中に、この短編集を出した作家の境遇というか、状況を想像して、暗然たる思いがあった。(これもあとで書く。)

 この短編集を出版したとき、徳田 秋声は、最後の長編、「縮図」の連載をはじめていた。秋声は、70歳。当時、すでに文壇の最長老といってよかった。だが、この作品は、当時の内閣情報局の忌避にふれて、連載80回で中絶した。
 作家が、最後の力をふりしぼって書き始めた作品が、時勢にあわない、風俗壊乱を理由に発表を禁止されなければならなかった。秋声の無念は察するにあまりある。

 しかも、この短編集「西の旅」もまた、1941年、発禁処分をうけた。
 理由はあきらかにされなかったが、令息、徳田 一穂の推測するところでは、「復讐」と「卒業間際」が、抵触したらしいという。くわえて、「或る売笑婦の話」も問題とされたらしい。

    詰り、その当時の軍官専横の為政下にあっては、かうした純粋な文学的短編集は
    全体として忌避されたのであった。

 という。

 今では、「当時の軍官専横の為政下」の恐怖は想像もできないだろうが、秋声をはじめとする一部の作家たちはこうした時代の重圧にくるしんできたのだ。
 そして、検閲者はいつも糧道を断つことで、活動を妨害することを忘れてはならない。

2012/09/01(Sat)  1423
 
 「戦後」、あるテレビ番組の主題歌がレコード会社から出たが、それが「主婦を中心としたモニター」から批判され「要注意歌謡曲」の指定を受けた、とか。

 このテレビ番組は、「可愛い悪女たち」というコメデイ・シリーズ。
 主題歌は「ウイ・ウ・ノン」。歌詞は、

     イヤ イヤ イヤ イヤ イヤだったら イヤ
     ひとりぽっちで 夜明けまで なんて イヤ
     あたしのぺットちゃんが そういうの
     ウイ・ウ・ノン

 このドラマが、6月にスタートしていらい、とくに「主婦を中心としたモニター」からの批判が多かった。
 レコードは、5月に発売されて、歌詞は3番まで。「民放連」の番組審査会のレコード専門部会では、レコードの市販の段階ではじめて問題になった。

 この部会は、東京のテレビ各局からひとりづつ、計10人の委員によって構成され、レコード会社から発売前に提出された新譜を審査する。
 問題ありと見なされた場合は、臨時部会を開催し、全員の一致で「要注意歌謡曲」という指定をする。

 審査基準は、(1) 男女の情事の露骨な表現
       (2) 不倫関係などの肯定的な表現
       (3) 卑猥、愚劣、下品な内容
       (4) 犯罪の肯定
 など、11項目がある。
 「要注意歌謡曲」に指定された作品は、
       (1) 放送しない
       (2) メロデイーは使用してよい
       (3) 削除・改善すれば放送してよい
       (4) 「民放連」から特別に指示する
 この4項によって、放送禁止、または一部使用がきめられる。

 このテレビ番組、「可愛い悪女たち」はすでにワン・クール放送されていて、制作局では自主規制の対象としなかった。レコード化されてから、編成部長は、

   これまでの放送では、局内ではとくに問題になっていない。いかがわしい、と
   いう抵抗もないようだ。ただ。レコードになった場合は、全曲収録ということ
   から、論議は別になるだろう。

 とコメントしている。

 「可愛い悪女たち」の主題歌、「ウイ・ウ・ノン」が、その後どうなったか、私はしらない。
 作詞、藤本 義一。作曲、南 安雄。歌ったのは、朝丘 雪路。
 私が聞いたのは、45回転のディスク。東芝レコード、TR−1130.
 B面は、「くちづけを……」(R・カロッソーネ作曲)。これも、朝丘 雪路。

 ここまで読んでくれた人は、エッ、いつの時代の話だろう、と、首をかしげるにちがいない。
 1964年(昭和39年)9月。(笑)

 テキは「主婦を中心としたモニター」といった、いかにも不特定多数をバックグラウンドにした「世論」をもちだしてくる。こうなったらヤバい。お互いに注意しよう。

 歴史的には、明治の「矯風会」から、山高 しげり、奥 むめお などのオバサマに受けつがれ、やがて、昭和初期の「愛国婦人会」、「国防婦人会」にうけつがれるイデオロギーである。これは、1945年に、死滅したはずだった。
 ところが、カビのようにしぶとく生き残って、これが、1964年の「主婦」に変身し、やがて「オバタリアン」という種族に進化した。
 こういう「主婦を中心とした」ウイルスは、なかなか繁殖力も強力なので、私などはついぞ警戒心をゆるめたことはない。
 美人薄命。これは、クソババアは死なず、と読む。(笑)

2012/08/26(Sun)  1422
 
 戦後、最初に公開された映画、「春の序曲」でもっとも驚いたシーンがあった。

 誰もいない大きな室内に、パット・オブライエンが入ってくる。
 ふとめのシガー(葉巻)を口にくわえている。
 シガーの煙を大きく吸い込む。
 口をまるく開くと、力をこめてその煙をいっきに吐き出す。
 どうどうたる体格の男が、両肺いっぱいに吸い込んだシガーの煙を、ブハーッと吐き出して、大きな部屋の右から左、飛距離にして7メートルほども、綺麗な輪のかたちをくずさずに飛ばしてみせている。

 カメラの位置は固定で、その輪ッカの動きを全部とらえている。

 口から吐き出された煙は、はじめはちいさな輪として、画面の右側から左に向かってゆっくり移動して行く。
 しかし、途中で形がまったく崩れない。
 そのまま煙はゆっくり移動するが、空気の抵抗で少しづつ形が大きくなってゆく。

 ふつうのスモーカーも口に含んだ煙で輪ッカをつくる程度の芸当はできるだろう。
 だが、パット・オブライエンがやってみせたのは、普通サイズのシガレットではできる輪ッカではなかった。
 肺活量がちがう。

 さすがに、5メートルを越えたあたりから、煙のかたちが崩れはじめ、輪のサイズが大きくなってくる。煙自体が、モヤーッとしてくるが、それでもまだ移動をつづける。

 観客はこの「芸」に声をのんでしずまり返っていた。

 このシーンは、映画、「春の序曲」のストーリーには無関係で、パット・オブライエンの「芸」として撮影されたものらしい。

 その後、これとおなじ「芸」はバーレスク、ヴァラエティー、寄席、見世物の舞台はもとより、映画でも見たことはない。観客がいれば、空気の対流で、これほどの距離をタバコの煙が完全な輪ッカのまま移動することはあり得ない。

 私の「戦後」は、タバコの輪ッカからはじまった。(笑)

2012/08/24(Fri)  1421
 
 「春の序曲」が、日本で公開されたのは、1946年2月28日。
 この映画で、美少女、ディアナ・ダービンがケーキを食べるシーンがある。

 敗戦国、日本の食料事情は極度に逼迫していた。食料の配給がなかった。配給があっても、米の配給はなく、「農林2号」という、水っぽくて、まずいサツマイモが、2、3本だったり、ゴミまじりの片栗粉が、ひとり当たりオワンに一杯。たまに、米の配給があっても、一週間分か、せいぜい数日分しかないような非常事態がつづいていた。

 安部 ねりの「安部 公房伝」のなかに私が1ケ所出てくる。

   米の流通は政府の管理による配給となっていたが、裏取引の闇米を買いに「世紀
   の会」の中田耕治と汽車で農村に出かけ、味噌漬けやタドンなどと一緒に行商し
   たりもしていた。ある日手入れがあったが、公房と中田は、ゆっくり走る列車か
   ら外へと飛び降りて警察の手を逃れた。  (P.89)

 私が出てくるのはこの一か所だけだが、敗戦国の国民は食べられるものなら何でも手に入れようとしたのだった。配給の食料だけで、やがて餓死した判事がいたくらい。

 「春の序曲」に話をもどすのだが――
 私の記憶では――ディアナ・ダービンが、ケーキを食べるシーンに、観客席がどよめいた。羨望というよりも、むしろ驚きの吐息といったほうがいい。
 まだ、ティーンエイジャーの若い娘が、目の前に出されたケーキを綺麗にカットして、こともなげに口に運んでいる。ほんとうに、劇場が沸いた。

 私は、日比谷でこの映画を見た。劇場は超満員だった。戦後、最初に公開されたアメリカ映画なので、シーンの一つひとつ、カットの一つひとつが新鮮に見えた。

 私は、戦前、「オーケストラの少女」を見ていたので、ディアナ・ダービンを知っていた。まだ、ロー・ティーンだった少女スターが、すっかり美少女に変身している。これにも驚かされた。                 (つづく)

2012/08/22(Wed)  1420
 
 敗戦後、日本は、1945年9月から1952年まで連合軍の占領下にあった。いまさら、何をいい出すのか、といわれるのは承知だが。
 戦後の日本人がいちばん先にふれたアメリカの文化は映画だった。

 占領軍は、毎週、娯楽映画と、デモクラシーの啓蒙・宣伝に有益な映画を公開することにして、最初に選ばれたのは「春の序曲」(フランク・ボゼージ監督)、もう1本は「キューリー夫人」(マーヴィン・ルロイ監督)だった。

 「春の序曲」のストーリーは――
 美しい声で、将来は音楽家になりたいと思っている田舎娘(ディアナ・ダービン)が、ニューヨークにいる兄(パット・オブライエン)を頼って、大都会に出てくる。
 兄は、作曲家(フランチョット・トーン)の執事を勤めているので、彼女をメイドとして雇うように主人を説得する。メイドの美声に気がついた作曲家は、やがて彼女の純真さに惹かれて行く……

 映画評論家の佐藤 忠男は、「私にとって映画はなんだったか」のなかで、

   まあ途方もなく楽天的でバカバカしい映画です。しかし私は上映が始まるとたち
   まちこのたあいのない娯楽作品の世界に巻き込まれてしまった。彼女がニューヨ
   ークに来て通りを歩いて行くと、その姿がなんとも元気でチャーミングなので、
   向こうからくる男たちがスレ違うたびに振り返っていく。その場面でアッと驚い
   たんですね。
        (「公評」12年6月号)

 私もこの場面はよくおぼえている。しかし、その場面でアッと驚いたわけではない。佐藤 忠男はつづけている。

   もちろん、日本でだって、きれいな女性とスレ違えば振り返るということはある。
   しかし日本の常識ではそういう態度は不良のはじまりなのであって、従って映
   画で描くなら必ずニヤニヤ、ニタニタ嫌らしい表情をしているのでないとおかし
   い、ということが常識になっていたのですね。ところがこのアメリカ映画では、
   男たちはみんな、じつに明るい悪気のない顔で振り返るのですね。これに本当に
   びっくりしました。

 戦時中の日本人は、美しい女とスレ違っても振り返るようなことはあまりなかったろう。パーマネントは敵だ、というわけで、美人もいなかった。女子学生の最大の贅沢が白いソックスという時代だったからねえ。
 それでも、男どもは、ニヤニヤ、ニタニタ、いやらしい表情で見るはずで、このあたりの陰湿さは、佐藤のいう通り戦前の日本映画によく見られたはずである。
 ところで、私は「春の序曲」のこの場面で驚いたわけではない。 
   (つづく)

2012/08/20(Mon)  1419
 
 短いものしか読めなくなっても、いろいろ考えることはできる。

 こんな記事があった。

    Perhaps the old adage,”Two can live
   as cheaply as one,”means that father
   and mother can live as cheaply as da
   ughter.

 昔の諺、「夫婦暮らしの費(ついえ)の嵩(かさ)は、ひとり暮らしとおなじほど」というのは、どうやら、父母の暮らしは娘ひとりとおなじ高、ということか。

 訳がヘタなせいで、ちょっと、わかりにくいかも。
 これは、おなじ1932年、「クリスチャン・サイエンス・モニター」から。

 ようするに、当節のアメリカ娘の暮らしぶりは、一時代前の父さん母さん二人ぶんもかかるってこと。娘のほうが贅沢な暮らしをしているわけ。

 最近の日本では――男女の初婚年齢が、男性が30.7歳、女性が29.9歳。過去最高という。(「2011年/人口動態統計」厚生労働省)
 第一子/出産時の母親の平均年齢は、30.1歳。
 1975年に、25.7歳。
 2005年に、29.1歳。
 2010年に、29.9歳。

 笑いごとじゃないかも。(笑)

2012/08/16(Thu)  1418
 
 この春。
 ギリシャの政情不安がスペインに飛び火しようとしていた。4月いらい、ユーロの信認が低下して、円高・ユーロ安がつづいている。こうなると、世界的に先行きが不透明になって、世界の同時株安という最悪の事態も懸念されている。日本はますます円高になって、輸出もますます落ち込む。

 ここにきて、世界経済をリードするはずのアメリカ、さらに中国経済が減速しはじめている。ついでにあげておけば――最近の日本は、円高にくわえて、日経平均株価が、1万83円56銭(3月30日)から8382円(6月5日)に下落した。16.9%下落。

 そんな中で、ボケ作家は――短いものを読んで、それをじっくり心のなかで反芻している。

    The passenger used to worry about
   catching a train. Nowadays it’s the
   train that worries about catching a
   passenger.

 しばらく前までは、汽車にのるのも一苦労したものだ。今では、汽車のほうが乗客をつかまえるのに苦労している。

 これは、アメリカの新聞記事(1932年)から。

 最近の日本では、航空運賃の競争がはげしくなって、トルコ航空の周遊8日間、14.98〜47.98万円。沖縄フリープラン、4日間で、3.98〜9.48万円という価格。

2012/08/10(Fri)  1417
 
 心に残る言葉。(かどうか。)

   恋愛は、女がひとりひとり違っているという思い込みから起きる。

 誰のことばかご存じだろうか?

   まともな男がドジを踏むのは、女に対する欲望をcontrol できなかったせいだ。

 こちらは、ムハメッド・アリ。(「プレイボーイ」1964年)

 最近の私は長いものが読めなくなっている。集中力がなくなっている。視力が衰えてきたせいか、途中で何度も休んだり。しばらくして、また読みつづけるのだが、それまで読んできたところをうろうろと読み返したり、前後の脈絡がわかるまですこし時間がかかる。典型的なボケだよなあ。
 私の楽しみは――短いものを読んで、それをじっくり心のなかで反芻すること。これがけっこう楽しい。

    ボガートが、世にも楽しい、素敵なハンフリー・ボガートなのは、午後11時半
    まで。それ以後のボガートは、自分がハンフリー・ボガートなのだと考える。

 かなり前に「映画論叢」(丹野 達弥編集)という雑誌に、「ハンフリー・ボガート論」めいたものを書こうと思ったことがあって、いろいろ調べたことがある。これは、そのときの資料の一つ。

 こんな短いものでも、読んでいていろいろ想像できておもしろい。
 ただし、「ハンフリー・ボガート論」は書かなかった。

 この夏、「映画論叢」に原稿を書く約束を果たすために、「バーバラ・ラ・マール」というエッセイを書いた。バーバラは、もう、誰も知らないサイレント映画のスター。
 私の書いた女のなかでは、もっともニンフォマニアックな女性のひとり。

 聖林きっての好色一代女。このエッセイを書いていた時期、私はとても幸福だった。

2012/08/09(Thu)  1416
 
 2012年5月21日の月曜、朝早く目がさめたが、雨こそ降らねど曇りだった。それで思い出したが、今日は皆既日食が見られる日だったっけ。
 どういうものか、ぼくは宇宙、天体に関心をもっているのです。

 5月21日、九州南部から福島県の南東部にかけて、太平洋側で金環食が見られるというので、どうしても見たくなってきた。
 なんでも、この日食は平安時代から数えて932年ぶりという。

 ぼくが住んでいる土地は、よそが曇っていても晴れていたり、各地が雨なのに、こちらが雨になるまで、時間がずれたりする。あまのじゃくな土地なのである。
 だから、今日は少しぐらい曇っていても、日食という天体ショーは見られるだろうと勝手にきめていた。
 しかし、空はどんよりと曇っている。これでは、日本じゅうで日食が見られても、私の土地だけは見られないかも知れない。やっぱり困った。
 わるい予想はきっと当たるもので、いよいよ月と太陽がかさなる瞬間がきても、雲が邪魔をして、何も見えない。こんなことなら、太陽を見るメガネなんか買うのではなかった。雲よ、早くそこからのいておくれ。

 やっぱり、見えないらしい。月と太陽がかさなる瞬間の、そのすき間から太陽光がもれて、数珠状にかがやく。これはベイリービーズというらしいけれど、其れもみえない。

 チェッ、おもしろくもねえや。

    日蝕の金環食も見えず 躑躅萌ゆ

    春逝きて 日蝕(は)え尽きんとす 雲厚く

    曇天あはれ 金環食も見えざりき

 ぼくはガッカリしたが、少年時代におなじような日食を見たことを思い出した。たしか昭和11年だったかな。こちとら、おん年、10歳。ガキ。

 いまとちがって、日食だけを見るメガネなんぞどこにもなかった。切った板ガラスをローソクの火であぶって、くろいススをつける。それを目の前にかざして太陽を見た人が多かった。よく、目を痛めなかったなあ。網膜を痛めると、視野のなかに黒い斑点が出てきて、しばらくはものが見えなくなったりする。それでも、みんなはそのうちに癒ってしまうとおもっていた。
 いくらガキでも、ぼくは太陽を直視したわけではない。写真フィルムのネガを何枚もかさねたて見たのだが、当時はネガ自体もめずらしかった。
 父は、外資系の会社に勤めていた。昭和初期の「リヒトビルト」の影響らしく、写真が趣味だった。小学生のガキは、父のブローニー判のネガを持ち出して、近所の腕白ボウズどもに見せびらかしたらしい。
 なにしろ写真機(カメラ)も、まだ普及していなかった時代だからねえ。

 天体の知識もなかった。少国民文庫というシリーズに、石原 純先生の書いた科学の本があって、それを読んだぼくは、科学者になろうかと思ったけれど、頭がよくないと、科学者にはなれないとわかった。
 ほかにももっとおもしろいものもあって、マンガ――当時、子どもたちに人気のあった「冒険ダン吉」というマンガ。南洋の「土人」につかまった少年「ダン吉」が、ヤシの木にしばりつけられていると、一天にわかにかき曇り、太陽が欠けはじめる。……

 ぼくは、「冒険ダン吉」のように南洋の島で活躍するつもりだったので、日食についても研究しておきたかった。このときは、しっかり日食が見えた。
 このマンガは島田 啓三というマンガ家の作品だか、はるかな歳月をへだてて、私は自分が「冒険ダン吉」の見たのとおなじ日食を見ようとしているのだった。

 ところが、2012年の皆既日食は、あいにくの曇り。
 やい、雲め、てめえのおかげで、「冒険ダン吉」の日食まで思い出しちまったじゃねえか。

 悪態をついていると、雲が切れた。や、しめた。こいつぁいいや。
 オテントさまが徐々にもとの形に回復しはじめて、雲の切れ目から、三日月みたいな、クロワッサンが見えてきた。

 ベイリービーズは見られなかったが、それでも、チョビッと満足できた。通りすがりの若い美形をみながら、心のなかであれこれcriticizeするときの、GGiのほくそ笑みに似ていたかも。(笑)

2012/08/08(Wed)  1415
 
 これから起きると予想される「首都直下型」の大地震の災害が、すでに私たちが経験した阪神大震災や、東日本大震災と、決定的に違うのは、経済的な被害の規模が圧倒的に違うということだろう。

 東日本大震災、とくに原発事故が起きた直後に、

   私は、今回の大震災をまだ国難と見ない。ただし、第二の敗戦と見る。

 と書いた。(私よりあとで、同意見を述べた人に、田原 総一郎がいる。)
 だが、「首都直下型」の大地震が起きれば、まさに国難といっていい。

 地震で倒壊、消失する家屋は、85万棟で、低く見つもっても160万世帯が、その日から路頭に迷うらしい。

   阪神大震災 の直接被害額が、名目GDPに対して  3%
   東日本大震災の直接被害額が、名目GDPに対して  3.5%
   首都直下型の 直接被害額が、名目GDPに対して  14%

 金額にして66・6兆円。

 これに、間接被害額をあわせれば、122兆円。

 これに起因するさまざまな影響を合わせれば、日本経済は壊滅する。

 その先に待っているのは――亡国である。このとき、私が恐れるのは、緊急援助の名のもとに行われる外国の「侵略」である。私は巨大地震の カーネージ Carnageにおいては、ここまで想定しておいたほうがいいと考える。
 こうなれば、もはや国難どころのさわぎではない。

 さて、どうするか。
 私などにとける問題ではない。
 そこで、私は覚悟をきめた。どうせ、長くはない人生ではないか。せいぜい楽しく生きたほうがいい。(笑)

2012/08/04(Sat)  1414
 
 まったく個人的な回想。

 1945年、私は川崎のある軍需工場で、労働者として働いていた。いわゆる学徒動員で、きわめてわずかな例外をのぞいて、中学生、高校生、大学生の全員が、軍需生産の現場で就労することが決定された。
 私が配属されたのは、「三菱石油」の川崎工場という従業員、わずか2百人程度の小さな工場だった。私たち学生は50名ばかりで、現場ではドラム缶の製造をやらされた。事務関係では、「共立」の女子学生がきていたが、現場から離れていて、はるか遠くから眺めただけだった。
 隣接する日本鋼管の工場には数千人の労働者がいて、アメリカ軍の捕虜たちも、数十名の規模で働かされていた。

 7月、アメリカ空軍が川崎を空爆したが、日本鋼管の工場が爆撃された。このとき、「三菱石油」もねらわれて、海岸に積み上げられていたドラム缶が直撃され、数千本が炎上した。
 ドラム缶が、つぎつぎに空に吹き上げられ、空中で爆発し、炎の固まりになって、まだもえていないドラム缶の列に降りそそぐ。これほど凄まじい猛火を相手に、防火作業などできるはずがない。
 私をふくめて10人足らずの学生は、ドラム缶の列から必死に離れた。頭上に落ちてくるのは、火の粉ではなかった。炎の滝というか、とてつもない量の火柱の列だった。
 私が、海岸に近い工場から、次の工場にたどりついたとき、陸軍の憲兵が、手にした小銃に、腰から抜いた銃剣を着けて、実弾をこめて、逃げ出そうとする工員たちの前にはだかった。

 「逃げるな! 逃げる者は即座に銃殺する!」

 この憲兵は伍長か軍曹だった。日頃、この工場に派遣されて、労働者の作業状況などを監視していたヤツだった。このとき、彼は逆上していたのではないか、と思う。

 私は、憲兵ひとりが実弾入りの小銃で威嚇したところで、この大火災に浮足だった労働者たちの流れをおしとどめることはできないだろうと見た。すでに、火がその工場の屋根にも燃えひろがって、労働者たちは、われがちに逃げだした。
 徴用で沖縄からつれてこられた労働者や、朝鮮人の労働者たちも逃げた。私もそのひとりだった。

 ものの10分もしないうちに工場の半分に延焼がひろがって、つぎからつぎに猛火につつまれた。

 この火災で、隣接する「日本鋼管」の工場で働かされていたアメリカ塀の捕虜にも死者が出た。
 私の工場では多数の少年が焼死した。九州の小学校を出て、すぐに集団で、この工場に動員された少年ばかりだった。いまでいう集団就職だが、当時は徴用といういいかたで、やっと小学校を出たばかりの子どもが駆り出されたのだった。
 私は、このときいらい、小学校を出たばかりの子どもまで、犠牲にしなければならない事態は、人倫上、あってはならないと考えるようになった。

 首都直下型の大地震というカーネージ Carnageで、非常事態宣言なり戒厳令が出た場合、私の工場にきていた憲兵のようなヤツが、逆上して、銃を乱射するようなことが起きないとはかぎらない。あるいは、集団的なフラストレーションや、マス・ヒステリアが逃げまどう群衆にどういう行動をとらせるか想像がつくだろうか。

 つぎに首都直下型の大地震がくれば、高齢者の私はおそらく命を落とす可能性が大きいと考える。体力がなくなっているし、運動能力もいちじるしく衰えている。
 どうかすると、地下鉄に乗っていて、いきなり大洪水に襲われるかも知れないし、ラブホに入って、ホテルが倒壊し、あえなく瓦礫に押しつぶされるかもしれない。
 では、どうするか。できるだけそういう事態を避けるのは当然だが、しかし、そういう不測の事態もけっして「想定外」ではないと腹をくくったほうがいい。 (つづく)

2012/07/30(Mon)  1413
 
 政府の防災会議は、茨城県南部、立川断層ラインほか、18系統のマグニチュード 7 クラスの巨大地震の発生を想定している。
 東京湾北部を震源とするマグニチュード 7.3 の地震が起きた場合の被害想定に、私が読むものは、無意識にせよ、何らかの作為、ないしは、錯誤である。

 あるエコノミストが指摘している。

   日本の政治・経済は全て同じ筋書きの「4幕劇」で語られる。4幕とは
   (1)最初は「何の問題もない」と事態を過少評価する。
   (2)問題の所在をしぶしぶ認めるが、可能な限り矮小化する。
   (3)問題先送りで傷口をひろげる。
   (4)進退窮まって全面降伏する。

 小島 祥一著 「なぜ日本の政治経済は混迷するのか」(岩波書店)

 私たちは、太平洋戦争の敗戦の局面から、つい最近の福島原発事故、再稼働、その他、おびただしい事例を知っている。
 つまり、この多幕劇では、登場人物、劇の時代背景は変わっても、必ずおなじ事をくり返すという。

 巨大地震の発生による帰宅困難者が、517万人と推定されている。
 地震にともなって大火が発生すれば、かならずや阿鼻叫喚の地獄が展開する。
 にもかかわらず、

   最大で、 死者 約1万1000人

 という推定に間違いはないか。ここには、「ほとんど、何の問題もないとする事態の過少評価」があるのではないか。

2012/07/27(Fri)  1412
 
 しばらく前に、ショッキングな記事が出た。

 首都直下型の大地震、それもマグニチュード 7 クラスの巨大地震が、今後4年以内に発生する。「東京大学地震研究所」の研究チームの試算である。

    4年以内に70%程度

 それまで――政府の「地震調査研究推進本部」の評価と南関東の地震発生の確率は

    30年以内に70%程度

 としている。「東京大学地震研究所」と「地震調査研究推進本部」のどちらの試算のほうが、より蓋然性が高いのか。

 それまでにも――政府の防災会議は、茨城県南部、立川断層ラインほか、18系統のマグニチュード 7 クラスの巨大地震の発生を想定している。
 東京湾北部を震源とするマグニチュード 7.3 の地震が起きた場合の被害想定は、

    最大で、  死者 約1万1000人
    建物の全壊/消失 約85万軒

 これを聞いたとき、私の反応はどういうものだったか。

 まず、第一に、この試算がどういう根拠にもとづくものなのか、結果の確度よりもまず、計算の確実性を知りたいと思った。

 文部科学省の「広域的危機管理・減災体制の構築」(研究代表者・林 春男京大教授)の研究によれば――

 千葉県浦安市近くの東京湾北部を震源として、マグニチュード 7.3 Kの巨大地震が発生したという想定で、地震の及ぶ範囲は、東京、神奈川、千葉、を中心にして、人口、2千500万人、一千万所帯におよぶ。
 この試算で、死者は約1万1000人、負傷者が21万人。

 私は――まったく科学的な根拠がないまま――建物の全壊/消失が約85万軒におよぶ被害を受ける状況で、死者の総数、最大で約1万1000人ということがあり得るのだろうか、という疑問をもつ。

 私は――これまた科学的な根拠がないけれど――はるかに深刻な事態を想定する。そして、それを――他に適切な呼びかたがないので、カーネージ Carnage と呼ぶ。直訳すれば、大量死、虐殺である。

 1945年3月のアメリカによる東京大空襲による死者が、推定で10万。(9万をはるかに越えている)私は、これとヒロシマ、ナガサキの惨事を、20世紀の大量殺戮と考えるけれど、それでも、カーネージ Carnage とは呼ばない。
 地震の発生時刻によって、大きく変動することも考えなければならないだろうが、きたるべき巨大地震は、はっきり、メガ・カーネージを想定したほうがよい。
 私は、「広域的危機管理・減災体制の構築」の、死者、約1万1000人という推定は信じがたい。

 たとえば――今回の東日本大震災で、数十万の帰宅困難者が出た。さいわい火災は発生しなかったが、都内各地で多数の火災が発生した場合、この人たちが逃げまどって、おびただしい死傷者が出ると見たほうが自然だろう。
 東京都の試算では、巨大地震の発生による帰宅困難者は、517万人という。
 これだけ膨大な人間が、そのまま都内各地の避難所で整然と、一夜を明かすと考えるのは、烏滸の沙汰だろう。
 大火が起きた場合、阿鼻叫喚の地獄相が展開するのは確実である。

 にもかかわらず、

      最大で、  死者 約1万1000人

 という空想的な数値はどこから、どうして出てくるのか。

 この首都直下型の大地震が、現在の想定される規模なら・・・ もはや未曾有の カーネージ Carnage というのが当然だろう。ただちに非常事態宣言なり、戒厳令が出ると考えよう。みなさんは、カーネージの恐怖を想像できるだろうか。

 私は疑う。ここには、なんらか意図的な歪曲がひそんではいないか。 (つづく)

2012/07/23(Mon)  1411
 
 神崎 保太郎がどういう人だったのか。私は知らない。しかし、この雑誌の、和文英訳の出題、講評を担当している。
 おなじ「英語研究」のフランス語講座を河盛 好蔵が担当している。この雑誌の読者には神崎、河盛のコラムは新鮮な魅力があったに違いない。

 神崎 保太郎の出題は――

    エヂソンは、オハイオ州という片田舎に生れたのでありますが、正則な学校教育
    といふものは僅か六ヵ月しか受けてゐないのです。なぜ学校へ行かなかったか、
    それは貧しいからでも病気だったからでもないのです。(後略)

 こういう内容が、十数行つづく。そして、受講者の和訳の例が、神崎先生の削除、添削入りでいくつか並べられている。

 神崎 保太郎自身の訳例では――

    Edison was born in a remote country−
    place called Ohio.He was only six mo
    nth at school.What prevented the boy
    from attending school? He was neithe
    r too poor nor too weak to go to sch
    ool.

 生徒たちの訳例もとりあげたいのだが、別の機会に。

 次回の課題は――

    政友会とその共鳴者は金本位制の維持について、多数国民と所見を異にし、現下
    の経済難局を打開し、国民生活の安定を計るが為には、却て金輸出再禁止を実行
    との主張を成しつつあったのである。(後略)

 これは、「朝日」(1931.12.11)から。むろん、もっと長い記事の引用である。
もう一つは――

    私がこの小豆島に渡って来たのは、二年越しの約束によってだった。初めI君か
    ら、内海の風光を見ながら自分の家に逗留するやうにといふ好意ある言葉を受け
    て以来、その機会を見出し得ず、今日になったので、その今日を島の同人は喜ん
    でくれた。(後略)

 これは、荻原 井泉水の随筆、「山荘雑記」から。

 こういう例題から、日本にはじめて、ルイ・ジュヴェを紹介した神崎 保太郎がどういう人物だったのか、と同時に満州事変が起きた時代の緊迫が少しは想像できる。

 1932年(昭和7年)、私は6歳。

2012/07/21(Sat)  1410
 
 日本にはじめて、ルイ・ジュヴェを紹介したのは「英語研究」昭和七年二月号。

 筆者は、ただ、Y.K.と署名している。おそらく、当時、「英語研究」のレギュラー・コントリビューターだった神崎 保太郎だろう、と私は推定する。
 この記事は、ガストン・バテイが、コポオのヴュー・コロンビエから出発したような誤りはあるが、やがて「カルテル」を結成するジュヴェ、デュラン、バテイ、ピトエフの活動に目を向けたことだけでもたいへんな炯眼というべきだろう。


 ついでに、調べてみよう。

 長谷川 如是閑・監修の「世界人名辞典」(成光館出版部/昭和13年刊)には、

   ジューヴェ、ルイ  Louis Jouvet フランスの俳優、演出家、舞
   台装置家。劇に就いて 普遍的な才能を有し、現代フランス劇団に於て有数の人
   物。

 とある。ただし、生年は書かれていない。コポオについて記述はあるが、デュラン、バテイ、ピトエフの記述はない。

 「大日本百科事典」(ジャポニカ/小学館/昭和44年刊)では、「ジューベ」の表記で、20行、「タルチュッフ」を演じたジュヴェの写真も入っている。筆者は、渡辺 淳。
 こんな記述にも、時代の流れが感じられる。
          (つづく)

2012/07/19(Thu)  1409
 
 日本のジャーナリズムにジュヴェの名がはじめて登場するのは、じつはかなり意外な場所であった。

 わずか1ページの記事なので、全文を掲載したいのだがそうもいかない。

   劇界の不況はどことも同じと見えて、巴里でも昨年のシーズンは散々であった。
   しかし、今年の芝居季節は例年よりは多少早めに始まったにも拘らず甚だ活気を
   呈してゐるらしい。

 こういう書き出しで、コメデイ・フランセーズ、オデオン座にふれたあとで、

   その他の劇場では何よりもまづ、嘗てはコポオの下に在ってヴュー・コロンビエ
   座を組織してゐたBaty,Dullin,Jouvet の三人が、今は各々
   独立して、夫々の主宰する劇団を挙げなければならぬ。

 筆者は、モンパルナッス劇場のバテイ、アトリエ座のデュランの消息を紹介したあとで、ばじめて、ジュヴェをとりあげる。

   最後に、名優にして、名演出家であり、その明朗にして聡明無比な演技と演出ぶ
   りのために、劇作家仲間や、巴里の中流以上の人々の間に熱心な支持者を有つ
   Louis Jouvet の主宰するシャンゼリゼ小劇場では、現代稀に見る
   長編小説”チボオ家の人々”を以て有名な Roger Martin du
   Gard の非常に大胆な世相劇”黙する男”や、涙と哄笑に溢れた殉情的な喜
   劇を書いては並ぶもののない若き劇作家 Marcel Achard (この
   人の”月世界のジャン”は我が国でも最近素人劇団によって上演された)の新作
   ”ドミノ”や、それに仏文壇の中堅作家で独自の幻想的にして、且つ詩趣横溢し
   た繊麗な文章を以て、人間心理の鋭い解剖を試みる Jean Giraudo
   ux の新作なぞが予定されている。この劇団には Valentine Te
   ssier といふすばらしい名女優や、画家のルノワールの息子なぞがゐる。
   Jujes Romainsの”クノック”や、Vildrac の”ベリア
   ル夫人”等は統べてこの劇場で上演されたのである。

 つづいて、ピトエフの紹介、リュニェ・ポオの「回想」などもとりあげている。
 この記事こそ、演劇関係以外の雑誌に紹介されたジュヴェのはじめての記事ではないかと思う。

 「劇界の不況はどことも同じと見えて、巴里でも昨年のシーズンは散々であった」という1931年(昭和6年)。ジュヴェは悪戦苦闘していた。2月から、ヨーロッパ各地に巡業して、世界的に知られる。(若き日のフェデリーコ・フェリーニや、フランコ・ゼフィレッリが、はじめてジュヴェを見ている。)
 しかし、この年に手がけた「新鮮な水」(ドリュ・ラ・ロシェル)、「無口な男」(マルタン・デュ・ガール)、「ユディト」(ジャン・ジロドゥー)、「仮面の王」(ジュール・ロマン)、どれも、失敗とはいえないまでも、成功とはいえなかった。
         (つづく)

2012/07/16(Mon)  1408
 
 評伝、「ルイ・ジュヴェ」を書いていた時期、私の頭からはなれなかった疑問が一つあった。
 たいした疑問ではない。しかし、できればつきとめておきたい問題だった。
 日本では、いつ頃から、ルイ・ジュヴェの存在が知られていたのだろうか。

 小山内 薫は「モスクワ芸術座」をみていたが、パリの「ヴュー・コロンビエ劇場」は見ていない。土方 与志も見ていたかどうか。ただし、「築地小劇場」の旗揚げ公演は、ゲオルグ・カイザーの「海戦」が有名だが、エミール・マゾーが選ばれていることから、「ヴュー・コロンビエ劇場」のことは知られていたと見ていい。
 それでも、ルイ・ジュヴェのことは何ひとつ知らなかったと思われる。

 同時代でルイ・ジュヴェを知っていた人びとは、当時、フランスで演劇を勉強していた人々、例えば、岸田 国士、岩田 豊雄、久生 十蘭、あるいは、詩人の柳沢 健、作家の芹沢 光治良などがいる。

 しかし、私の知るかぎり、1920年代、これらの人びともルイ・ジュヴェに言及したことはない。
 日本にひろくジュヴェが知られたのは、1935年(昭和10年)映画「女だけの都」(ジャック・フェデル監督)が公開されてからである。
 この映画で、ジュヴェは日本の映画ファンに強烈な印象をあたえた。(「ルイ・ジュヴェとその時代」第四部第二章)

 岸田 国士門下の菅原 卓、阪中 正夫、川口 一郎、田中 千禾夫、内村 直也たちが、同人誌、「劇作」を創刊するのは、1932年(昭和7年)である。
 同人のなかに、金杉 惇郎、長岡 輝子がいたから、この人たちの間では、ルイ・ジュヴェの仕事はよく知られていたはずである。

 ただし、ジュヴェの名が登場するのは、かなり後になってからといってよい。

 では、いつ頃から、ルイ・ジュヴェの存在が知られるようになったのだろうか。

 私にはこれが気がかりな「問題」になっていた。 
    (つづく)

2012/07/13(Fri)  1407
 
 松窓の、いい例をいくつか。

   黄昏に 後家ァ 裏道 小足早

 これを読んで、太宰 治の戦時中の掌編、「満願」を思い出した。私自身は、「戦後」の太宰 治にあまり関心がないのだが、この「満願」や、「右大臣実朝」、「新釈諸国噺」、「津軽」を戦時中の最高の文学作品と見ている。
 松窓の句には、「後家」に対する侮蔑が感じられるが、それでも、女の性に対する賛嘆、ないしは驚きが秘められている。

   寺町は 恋と無常に 夕暮るる

 これも説明の必要はないだろう。前の句に、言わば性悪説のようなペスミスティックなものがないように、ここにも、おおらかな性の肯定がある。

   けころ買い 山下までは 一里半

 「けころ」は安女郎。「山下」は、上野。上野まで、一里半というのだから、それほど遠い距離ではない。しかし、神田、浅草、本所あたりから出てくるわけではない。
 して見れば、吉原まで足をのばすことのできない距離。一里半でも、安いほうがいい。
 もう一つ。庶民の労働時間の長さ、副業や、内職といった時間をかんがえれば、上野まで一里半という距離が、どういうものか、想像できよう。

   年の歯を口説くも道理 干ワラビ はさまるはさまる はさまるはさまる

 これも、あわれな句である。私のように棺桶に片足を突っ込んでいれば、身につまされる。(笑)つぎの句もおなじ。

   年悲し 菜漬を食うて つかう小楊枝

 私が、松窓の川柳や、前句付けの卑猥な表現を少しも不快に思わない理由がわかってもらえるだろう。

 「屏風まわして 屏風まわして」という前句のものを並べてみよう。

   氷る夜の 梅を 隠居は いたわりて

   供の下女 あわれに見ゆる 捨て小舟

   金にするとても はずかし 昼の客

   早く寝て 下手笑わるる 茶ッ葉宿

   後家 納戸(なんど) 月にも少し 恐れあり

   女房の 床しく戻る 裏座敷

 私は、この松窓をよしとする。

 秋田の詩僧、松窓 美佐雄は、文久三年(1863年)卒。

2012/07/11(Wed)  1406
 
 私の見るところ、松窓の句には、とてもいい句と、農民に通有の卑猥な表現が混在している。
 注釈ぬきで、いくつか並べてみる。


   その中に 玉虫もいる 涼み舟
   見るもうたてし 女房の朝小便
   板の間に ひったり ねまた 裸臀
   炬燵の大指 飛島の 蛸の穴
   世を逃げて見ても 陰茎と耳ふたつ
   両股は すったくれるに 重へこ
   睾丸か なからへ おれも 立ちしんこ
   人 二十歳(はたち)頃や 女房も 月の夜も
   やれ待て 女房 おれも往生だ

 江戸時代、それも末期になると、社会的、心理的な制約が崩れ、浮世絵、春本(ポーノグラフィー)などの性的な表現が、ひろく受け入れられるようになった。それに、北国の農村の陰湿な風土で、性的な表現が直截的なものになるのは当然かも知れない。
 私は、川柳や、前句付けの卑猥な表現を少しも不快に思わない。何かにつけて卑猥な表現をとりたかった作者の心情、ひいては農村の疲弊を思うからである。
 あえていえば、江戸の人たちは、もっともありふれたことにおいて私たちよりすぐれている。もっともめずらしいことにおいて、私たちは、ほんのわずか観察力をましたかも知れないが。

 松窓の句に見られる卑猥な表現に、農民のあけっぴろげな助平を見るか。それとも、いじましさを見るか。
 かたや浮世絵の洗練があって、もう一方に、松窓の重苦しい現実がある。
 (つづく)

2012/07/07(Sat)  1405
 
 松窓 美佐雄のような俳人の仕事に関心をもつのは――ほとんど無名の人でありながら、貧しい農民層の心情を読んでいると思えるからである。
 この人の出自は――貧しい山村の別当の子として生まれている。父は、わずかな田畑を耕し、蚕を育て、万徳院という寺の住職だったという。
 松窓の句は、かならずしもすぐれたものばかりではない。

   しのぶ夜や 人麿さまも 垣の元(もと)

 この句は万葉の大歌人、柿本 人麿を詠んだわけではない。夜更け、垣根の下あたりに、誰かがひそかに身をひそめている。「しのぶ」は、身に忍という字。これは「偲ぶ」に通じるので、ひそかに女に思いを寄せている男が、目的の家に「しのび込む」ために、じっと身をひそめている。つまり、夜這いのありさま。
 それを柿本 人麿にひっかけたもの。

   鹿 通ふほど 明けて 結う 簀垣かな

 この垣根は、雪垣のひとつだが、家の外側にめぐらす簀垣(すがき)という。簀垣(すがき)は、カヤを編んだスダレ。だから、防雪用ではなく、防風の垣根。秋田では、きびしい冬に、食べるものがなくなったシカが、人里にやってくる。そこで、シカがやって来るのを見越して、簀垣(すがき)を通れるように少しだけ開けておく。
 お坊さんの心やさしい配慮が感じられるけれど、リズムがよくない。ただし、よく見れば別のことがうかんでくる。

   寺の垣 内の相手は いぶかしや

 もともとお寺は、葷酒山門に入るを許さず、というのが建前。ところが、ふつうなら山門からの出入りがはばかられる商人(あきんど)が入っている。
 柿崎 隆興は、案外色気のない事柄で、頬被りした魚売りが、寺に立ち寄ったものという。
 さて、どうだろうか。むろん、柿崎先生はトボけていると思うのだが。

   垣越しに するのは 旨い噺かな

 柿崎先生は――「家人の耳目をはばかってする「旨い噺」は「よからぬ話」に通じるのではないか。密かに、端米を持ち出して、町の<姉こ屋>に行こうといった筋の。」
 という。
 たぶん、そんなことだろうが、「旨い噺」は、色事だけに限らない。
 幕末の、絶対的、相対的な窮乏や、そこから生じる潜在的な不安、もしくはフラストレーションの慢性化といったものが見えてこないだろうか。
  (つづく)

2012/07/05(Thu)  1404
 
 昔むかしの話である。

   自分は貧困のあいだに育ったので書物を買うことができなかった。他人の蔵
   書を借りて、勉強するほかはなかった。珍しい本を持っている人のことを聞け
   ば、十里、二十里と離れている土地を歩いて、その本を借覧させてもらった。
   借りた期限が切れて、本を返しに行くときは、いとし子と別れる思いで返しに
   行ったものである。

 秋田の詩僧、松窓 美佐雄。残念ながら、私は、この人の俳句を知らない。
 ただ、柿崎 隆興という人の編纂した「前句集」を読んだ程度の知識しかない。

 幕末に近い文化元年(1804年)の生まれ。秋田の、まずしい寺に生まれて、刻苦精励しながら、和漢の珍書奇籍を読んでいた若者を想像しながら、その句を読む。松窓の漢詩は私には読めないし、読めたにしても意味がわからない。前句なら、私にもだいたいわかるが、あまり感心できないものもある。
 いくつか、私なりに評釈をしてみよう。

   生垣のあたりを 廻る 秋の鶏

 鶏が庭の生け垣のあたりまで行く。そのあたりを、ぐるっとまわりながら、何かついばんでいる。そんなことにも、秋の風情が感じられる。
 まあ、そんなことだろう。

   八重垣は 歌と悋気のはじめかな

 神代に、スサノオノミコトが、新妻のクシナダヒメといっしょに住むことになった。その家に、八重垣をめぐらせて、「八雲立つ出雲 八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」と詠んだ。これが、和歌のはじまり。
 悋気は、嫉妬。スサノオノミコトが新居に、八重垣をめぐらせたのは、ほかの男神たちを寄せつけないためだろう、というウガチ。だから、スサノオノミコトは、日本ではじめての、ヤキモチやきなのだろう。
 川柳としても、あまりいい句ではない。

   雪垣にしても 月さす ススキかな

 秋田は雪国なので、秋も深くなると、農家はススキを刈りとって、防雪のために垣根を作る。雪垣を作っても、秋の名月は、皓々たる光を浴びせる。ススキの穂は立っている。晩秋の風景。むろん、「月の光がさす」と、「突き刺す」がかけてある。そう見ると、もう少し露骨なエロティシズムを感じさせないだろうか。

   むつまじい 隣りもちけり 垣見草

 垣見草はウツギという。これは、お隣りさんの田畑との境界に植えておく。ホトトギスが鳴く頃には、ウツギの花が咲くだろう。お隣りさんと仲がいいので、境界線をきびしくしなくてもいい。そういう意味。しかし、むつまじい、という形容には、いささかあやしい響きがある。

 松窓 美佐雄は、当時の農民のエロスを詠んだと見ていい。

 (つづく)

2012/07/02(Mon)  1403
 
 戦後、ラジオの放送が一変した。それまで、大本営発表の戦況と、空襲警報ばかり聞かされていたのだから、戦後のラジオは驚くべき変化だった。

 戦後すぐに、占領軍は、内幸町のNHKに、AFRS(American Forces Radio Service)のキー・ステーションを置いた。
 私の父は、戦前から、外資系の商社で働いていたから、このAFRSのニューズを聞くようになった。むろん、英語を知らない私には、内容はまったくわからなかった。

 ある日、それまで聞いたこともない音楽が流れてきた。ジャズだった。
 曲名も、演奏者も知らない。だいいち、ジャズのどこがいいのか、まったくわからなかった。今でもおぼえているのだが、ショパンの曲をアレンジした曲が流れてきて、私は殆ど茫然とした。アメリカでは、とんでもないことをやっている連中がいる! そう思った。しかし、すぐに、ジャズのおもしろさに惹かれて行った。
 これは、えらいことになった。私の聞いていた音楽とは、まったくちがう演奏だし、ルールも何もブッこわしながら、これだけすごい音を出している!

 衝撃だった。

 当時の私は知るよしもなかったが、ディジー・ガレスピーのフル・オーケストラや、ジョン・ルイス、チャーリー・パーカーなどを毎日聞いていたのではないか、と思う。
 はるか後年、私はガレスピー論、チャーリー・パーカー論などというシロモノを書いたことがある。これも、敗戦直後から、ラジオにしがみついて、AFRSのジャズを聞いていたおかげだった。

 戦後、私はある新聞のコラムで雑文を書きはじめたが、まとまったエッセイとしては、「ショパン論」が最初だった。これが、私の処女作ということになる。
 当時、私のひそかな目標は小林 秀雄で、戦後の「モーツァルト」を読んで、なんとか音楽論のようなものを書こうと思ったのだった。

 私の好みはジャズ、ロック、ポップスと変わったが、それでも、音楽から離れることはなかった。もっとも、音楽について書く機会はなかった。

2012/06/27(Wed)  1402
 
 1945年8月15日、戦争が終わった。私は17歳。

 東京は焼野原で、さまざまな機能が麻痺していた。大学の授業も再開していなかった。焼け残った大学に行っても、ガランとしているだけで、ほとんど人影もなかった。
 召集されて戦地に行った学生たちの安否もわからない。戦死、戦災死した学生も多かったが、ほかに生き残った学生もいた。ただし、いつ復員してくるかわからない。
 私は毎日のように、大学に行った。ほかに何もすることがなかった。友人の覚正 定夫(後年、左翼の映画評論家になる。)といっしょに、誰もいない教室で時間をつぶしていると、思いがけないことに、汚れた軍服の学生が戻ってくることがあった。
 内地の軍隊から復員して、そのまままっすぐ大学めざして戻ってくるのだった。

 ある日、私の親友だった木村 利春が戻ってきた。階級は、陸軍中尉。いわゆるポツダム中尉だった。日本が連合国のポツダム宣言を受諾して、敗戦国になったが、そのとき全軍の兵士は、一階級、昇進したからである。木村は、召集されて、すぐに少尉に任官したが、敗戦で、名目だけ中尉になったのだった。

 「おう、帰ってきたか」
 「うん」
 「どこだ?」
 どこの戦線に配属されていたのか、という意味だった。
 「シナだよ」

 それだけの会話だが、それ以上、何もいうことがなかった。
 彼は、中国戦線から復員してまっすぐに大学の教室にやってきたのだった。驚いたことに、身長が低くなっていた。

 廃墟のようにひとけのない大学に戻ってきて、私たちを見ると、疲れきった顔が輝いていた。戦争のことは、ほとんど話さなかった。
 敗戦前の漢口から上海まで、ひたすら歩き続けたという。過酷な体験だった筈である。あんまり歩いたので、身長が2センチも低くなったらしい。
 私たちは、共通の友人の消息を語りあった。

 「元気でな」
 「おう、ありがとう」

 出征したときと、おなじ言葉をかわしただけで敗残兵は去って行った。出征したときは、お互いに二度と会うことがないと覚悟していた。それはお互いにはじめからわかりあっている。彼が出征したときも、復員してきたときも、おなじ言葉をかわしたのだった。
 敗戦直後の大学に戻ってきた木村の胸に何が去来していたのか。戦争が終わって、これから日本はどうなって行くのかわからない。そんな不安が胸をかすめていたのか。おそらく、そうではないだろう。
 お互いに暇な学生どうしだったら、のんびりした会話をするところだが、戦争が終わって自分の古巣に戻ってみると、教授もいないし、まるで浮浪児のような別の科の学生がうろついている。出征したときと、あまりに違ってしまった環境にただ驚いていたのだろう。
 木村は、故郷の岩手県に戻って、しばらく静養したが、翌年(1946年)の3月頃に東京に出てきた。このとき、故郷で書いた小説を私に読ませた。驚いたことに、戦争のことなどまったく関係のない、ある少女への思いをつづった少女小説のような作品だった。

 この年の晩春、木村 利春は肺結核のために亡くなった。享年、23歳。

 私は、この頃から、新聞に原稿を書くようになっていた。

2012/06/22(Fri)  1401
 
 もし、もう一度、行くことができたら、ロシアのサンクト・ペテルブルグに行ってみたい。むろん、夢のまた夢だが。

 エルミタージュ(美術館)から――フィンランド湾にそそぐネヴァ河の河口にうかぶペテロ・パヴロフスク要塞の眺めは忘れがたい。
 この要塞は、のちに刑務所になり、ドストエフスキーが収監されたことで知られている。私は、評伝「メディチ家の人びと」を書きあげて、すぐにロシアに旅立ったのだが、旧ソヴィエトの閉塞的な空気にうんざりしていた。
 私は、エルミタージュ(美術館)に感嘆を惜しまないし、エカチェリーナ宮殿(私が行ったときは、ナチス・ドイツによって破壊、略奪されたあとの修復工事が続けられていたが)の壮麗な姿にも魅せられた。
 しかし、私は、いつもどこかで私たちの行動を監視している「眼」を意識していた。

 ヤスナヤ・ポリアナに行ったとき、食堂で昼食をとったのだが、私たちがテーブルについたとき、隣りにいた中年の男が、立ちあがりざまさりげなくカメラのシャッターを切った。
 そのとき、私の隣りに、通訳のエレーナ・レジナさんがいた。
 「今、そこにいた人が、カメラ、撮りましたか?」
 エレーナさんが低い声で私に訊いた。
 「ええ、写真を撮っていましたよ」
 私は答えた。
 「そうですか」
 エレーナさんはうかぬ表情でいった。

 じつは、通訳のエレーナ・レジナさんの夫は、KGBの大佐で、エレーナさんは、作家同盟で、日本を担当している公務員だった。そのエレーナ・レジナさんでさえ、私たちを案内している途中、誰かに見張られている。
 私は、この瞬間に、私たちの行動はすべて監視されているらしいと意識した。

 エレーナ・レジナさんのことは、前に一度書いたことがある。だが、いつかもう少し書いてみよう。

2012/06/18(Mon)  1400
 
 旧ソヴィエトの作家同盟と、日本の「文芸家協会」は、お互いに対等の立場で、毎年、3名の作家、または評論家が、お互いの国を訪問する協定をむすんでいた。
 たまたま私は、高杉 一郎、畑山 博といっしょに、ロシアに行ったのだった。

 モスクワに着いて、翌日、私たちは、作家同盟の理事長に会った。

 この人物は文学者というより、文学官僚といっていい人物だった。
 作家同盟の応接室で、正式に挨拶を受けたのだが、夕方から延々2時間以上も一方的に講話を聞かされた。その内容は、いかにも公式的な、社会主義リアリズム理論で、私はうんざりした。彼の話しかたも退屈きわまりないものだった。

 同席した通訳のエレーナ・レジナさんが、逐一、訳してくれた。

 私は薄暗くなってきた応接間のソファにすわったまま、これまで何カ国の作家や詩人たちが、おなじ人物におなじ社会主義リアリズム入門のご講義を聞かされたのだろう、と思った。
 それと同時に、現実にロシアの人々は、まるでドストエフスキーの登場人物のようにやたらに長く話をつづけるのか、と思った。
 ドストエフスキーの登場人物は、それこそ何ページにもわたって話をつづける。まるでモノローグのような長広舌をふるう。
 こうしたモノローグは、ドストエフスキーが登場人物の哲学的な論理を無理なく展開する技法だと思ってきた。
 ところが、このときの話で、ロシアの知識人は、会話というより、自説の開陳だけに終始するらしい、と思ったことだった。

 私は、相手が私の経歴などをくわしく調べているらしいことがわかった。私は、ヘンリー・ミラーをはじめ、クロンハウゼンの「ポーノグラフィー」や、いろいろな作家、評論家がポーノグラフィーを論じた著作などを訳していたが、その理事長の話の後半は、もっぱらポーノグラフィーについての見解を述べた。ポーノグラフィーが文学と無関係、かつ無価値であり、反革命思想に汚染されたものであるか、ようするにポーノグラフィーの反動性を説いたのだった。
 もし、私がロシアでものを書いていたら、たちまち逮捕されたにちがいない。

 何か希望があるか、と聞かれた。
 私は、作家のフェージン、評論家のユーリー・トゥイニャーノフに会いたいといった。
 理事長は承知したと答えた。しかし、これは、そのままにぎりつぶされた。

 今でも私は、崩壊前のソヴィエトに行けたことをありがたく思っている。旅行自体は、制限の多いものだったが、いくらかでもソヴィエトの実態を見ることができたから。
 どこに行っても、スターリンの独裁下で、逮捕され、処刑された人びとのことが頭から離れなかった。ひとたび逮捕されたが最後、その人物は、もはや「生きている」人間ではなくなる。裁判もない。当然ながら、弁護士がつくわけでもない。検察は、逮捕の理由もあきらかにしない。しかも、逮捕されたら有罪しか待っていない。
 逮捕者が出た家族も、おちおちしていられない。いずれは、監視の目が光り、最悪の事態を覚悟しなければならなくなる。残った家族も逮捕され、かならずおなじ道をたどるからだ。

 ソヴィエト崩壊後のロシアで、まっさきにポーノグラフィーが解禁されたとき、私は、あの文学官僚はどうなったのだろう、と思った。
 あれだけ弁舌さわやかに、ソヴィエト文学の優秀性について、お説教をたれた人物だから、激動の時代もうまく立ち廻って、その後の文壇でもそれなりの位置におさまったのではないか。そんな気がする。

 電話の話から、ひどく脱線してしまったが、ま、いいか。

2012/06/14(Thu)  1399
 
 電話の会話。
 モシモシは別として、アノネ、フンフン、ソウソウ、アハン、フッフッフ、エート。
 これも、「テ」または「テェ」でやったら、ずいぶん楽になる。

   A  ね、きみ。きみって、もっと背が高くって、やせた人かと思ってた。
   B  テェ?
   C  ……あなたは、写真で見た通りの方ですわね、ほら、この前の週刊誌の。
   B  テェ。
   A  いくつぐらいだろう。(Cに)いくつぐらいに見える?
   C  ……そうね、二十、二、三かしら。
   B  テ。

 むろん、外国人相手にこの「作戦」は使えない。
 相手はこちらの話にじっと耳を傾けて、こちらの話が終わるまで黙ったままだったりする。相手が話しているあいだは口を挟まないのがマナーだから。
 こちらは相手の顔が見えないので、話が通じているのかどうか不安になる。

 私は、ときどき、あいづちをうったりして、会話をなんとかスムーズに進めようとする。むろん、こちらが、流暢に会話ができないのをカヴァーしようとするためである。
 ふと――旧ソヴィエトのことを思い出した。

 1978年、私は旧ソヴィエト作家同盟の招待で、ロシアに行った。
        (つづく)

2012/06/12(Tue)  1398
 
 「21世紀政策研究所」のリポートのほかにもおそろしい報告がある。

 50歳になって一度も結婚しなかった人の割合を生涯未婚率というそうな。2012年度版「子ども・子育て白書」による。

 これが、2010年の時点で――男性、20.1%、女性、10.6%になった。

 1980年当時、生涯未婚率は、男性、2.6%、女性、4.5%。つまり、結婚しないまま50歳になった男が、30年前にくらべて、約8倍。女も、約2倍になった計算になる。
 そして、90年代から、結婚しない男女の生涯未婚率がともに、急上昇している。

 私の周囲には、いつも未婚の女性がひしめいていたので、いつも、
 「きみたちが結婚しないものだから、いまにきっと日本は滅亡するよ」
 などと冗談をいったものだった。

 ただし、私は「女はすべからく結婚すべし。男はなるべく結婚するな」
 というジョークを披露しては、女の子たちの笑いをとっていたものである。

 しかし、「子ども・子育て白書」の未婚率をよく見ると――
 25歳 → 29歳     男性、71.8%、 女性、60.3%、
 30歳 → 34歳     男性、47.3%、 女性、23.1%、

 こうした未婚者のうち、
 「いずれ結婚するつもり」  男性、86.3%、 女性、89.4%、

 独身を続けている理由は、「適当な相手にめぐりあわない」

 25歳 → 34歳     男性、46.2%、 女性、51.3%、

 「結婚資金が足りない」   男性、30.3%、 女性、16.5%、

 さて、ここから何が読めるか。

 しばらく前までは、30歳を越えて、結婚せず、(当然)子どももいない女性は、負けイヌなどといわれることがあった。この言葉は、酒井 順子のエッセイ、「負け犬の遠吠え」(2003年)による。その後、「婚活」という言葉も生まれたが、最近はあまり聞かなくなった。
 私は、こうした調査に――いよいよ困難なルートを歩もうとしている日本の姿を見るような気がする。

2012/06/10(Sun)  1397
 
 2012年版「子ども・若者白書」の原案なるものを読んで、これまた、暗澹たる思いがあった。

 今の若い人たちは、自分の将来にどのようなイメージをもっているのか。調査は、インターネットを通じて、全国の15歳から29歳までの男女、3000人を対象におこなわれた。(実施期間は、2011年12月から今年3月にかけて。)

 大多数が――仕事、働くことに関して、不安と答えている。

    十分な収入がえられるか(という不安は) 82.9%
    老後の年金はどうなるか         81.5%
    きちんと仕事ができるか         80.6%
    就職できるのか、仕事を続けられるのか  79.6%

 こういう数字を見ていると、私のような後期高齢者は、ギョッとする。今の若い人たちは、お先マッツァオだなあ。「お先マッツァオ」は、造語。「お先まっくら」の少しだけ手前。
 なぜ、こんなことを記録しておくのか。遠い将来、誰かが、これを読んで、ニヤリとするかも知れないから。

2012/06/08(Fri)  1396
 
 「21世紀政策研究所」のリポート。

 このリポートで指摘されている「もっとも楽観的なシナリオ」ですら、(1)の――日本が、ほかの先進国なみの生産性を維持するのは、2030年あたりまで。その後の31年から40年では、平均で、0・17パーセントのマイナス成長とされている。
 いいかえれば、日本の不況は「失なわれた20年」どころか、「失なわれた半世紀」ということになる。いや、それどころではない。
 東日本大震災という未曾有の天翻地覆すら「国難」と見なかった。その私が、2050年の日本のGDP、2兆9720億ドルの衰微という予測をこそ「国難」と見る。

 すなわち、「もっとも悲観的なシナリオ」では、41年から50年では、1・32パーセントのマイナス成長になるという。
 もし、こうなったら、日本の国内総生産(GDP)は、中国、アメリカの1/8という状態になる。

 輸出において、もはや、手も足も出ないだろうし、国力の疲弊は、おそろしい社会不安を惹き起す。もし、そうなったら、あらゆる分野で停滞がはじまり、それは雪崩のように、21世紀後半に引き継がれるだろう。
 日本全体が想像を絶するおそろしい事態に直面する。

 例の蓮ボウなどという牝鶏(ひんけい)は――日本は一流国家でなくていい、二流の国家でいいではないか、とヌカスかも知れない。しかし、国家の衰微は、国民の生きる力、創造力さえも枯渇させるものなのだ。どこかのバカ、はっきりいえば、蓮ボウのような愚かな女のいいぐさは、少しでも歴史を知っている人なら口が裂けてもいえないだろう。

2012/06/05(Tue)  1395
 
 注目すべき報告を読んだ。
 それぞれが日本の未来に関する一種の予言といってよい。それによれば――21世紀後半の日本は、先進国の列から脱落するという。

 まず、第一に――経団連の付属機関、「21世紀政策研究所」のリポート。
 このリポートは、「グローバルJAPAN 2050年シミュレーションと総合戦略」という。
 その内容を要約してみよう。

 (1)
 日本が、ほかの先進国なみの生産性を維持するのは、2030年あたりまで。その後は、マイナス成長の時代に移ってゆく。
 2041年から50年にかけての国内総生産(いわゆるGDP)の成長率は、平均でマイナス0・47パーセント。すなわち、中国、アメリカと比較して、じつに1/6という状態になる。(2010年と2050年を比較する。)

 (2)
 2050年の時点で、国民、1人あたりのGDPは、世界の18位。(比較のためにあげておけば)韓国は14位。つまり、ついに、韓国にも抜かれる結果になる。

 (3)
 このシナリオは、4つの予測が可能になる。
 それを、以下に並べてみよう。

 (4)
 もっとも楽観的なシナリオ。
 2050年、日本の国内総生産(GDP)の試算は、4兆1710億ドル。
 (現在の4兆850億ドルをややうわまわるが、中国、アメリカ、インドにつづいて、世界の4位。)

 (5)
 現在を基準としたモデレートなシナリオ。
 2050年、日本の国内総生産(GDP)の試算は、4兆570億ドル。
 (現在の4兆850億ドルを下まわっても、中国、アメリカ、インドにつづいて、世界の4位。)

 (6)
 これまでの、「失われた20年」がこのまま続く場合。
 (4)の中国、アメリカ、インドにつづいて、ブラジルが日本を抜く。つまり、日本は5位。)

 (7)
 悲観的なシナリオ。
 2050年、日本の国内総生産(GDP)は、2兆9720億ドル。
 中国、アメリカ、インド、ブラジル、ロシア、イギリス、ドイツ、フランス、インドネシアに抜かれて、日本は9位。)

 残念ながら、このリポート自体を批判する学問的な能力がない。したがって、経済学、社会学、統計学的にこれをどう見るべきなのか、答えはだせない。
 私としては、ひとりの国民として、どう受けとめればいいのかを考えた。

 暗澹たる思いがあった。
 これは、まさに存亡の危機ではないか。

2012/06/01(Fri)  1394
 
 映画、「アーテイスト」を見たせいか、昔の女優を思い出した。ただし、サイレントの女優ではない。「戦後」の、しかも、ほとんど無名の女優ばかり。

 ニナ・フォッシュ。たいへんな美人だった。(ただし、あくまで個人的な意見。)
 オランダ、ライデン生まれ。母はコンスェロ・フラワトンというラテン系の女優。父は、オランダでも有名なオーケストラの指揮者。ニナ自身も、コンサート・ピアニストとして、リサイタルをやるほどの実力があった。
 これほどの女性なら、なにも映画に出なくてもいいのだが――「巴里のアメリカ人」に出ているから、ビデオや、DVDで、私たちはニナの美貌に接することができる。ほかに「血闘」、「君知るや南の国」といった映画に出ていた。こちらは、ビデオ化、DVD化されているかどうか。

 「重役室」という映画では、社長秘書の役で、ジューン・アリソン、バーバラ・スタンウィック、シェリー・ウィンタースなどといっしょに出ていた。彼女たちは、いずれも大スターになったが、ニナは、やがて消えてしまった。

 どうして消えてしまったのだろう?

 リタ・ガム。
 この女優は、日本ではほとんど知られていない。
 ピッツバーグ生まれ。ブロードウェイの舞台から草創期のTVドラマで認められ、Hollywood 入り。私は、何かの映画で見て、その美貌に驚いた。
 しかし、この女優も、消えてしまった。

 そんな女優は、ほかにもたくさんいる。
 その大多数は無名だし、クレジットに出た名前も、もうおぼえていない。
 ニナ・フォッシュのような美人にかぎらない。

 「スティング」で、ロバート・レッドフォードが、毎晩、食事に立ち寄る、安食堂の、しがないウェイトレス。ロバートは、このくたびれた中年のオバさんと一夜の契りをかわす。翌日、人けのない裏通りで、小綺麗なファッションに着替えたオバさんが、彼に歩み寄ってきて、主人公を狙撃する殺し屋になっている。
 この女優さんは、ほんとうにすばらしい。だが、「スティング」以後、一度も見たことがない。彼女は、私の好きな女優のベスト・テンに入る。

 「ウォリアーズ」で――深夜のセントラル公園からブロンクスまで、少年たちが必死に逃げようとしている。途中の公園のベンチに、若い女がひとりで腰かけている。少年の一人が、その女をモノにしょうと話しかける。女のからだに手をかけた瞬間、少年の手首に手錠がかけられてベンチに繋がれる。この女性刑事は凄い迫力があった。
 この女優さんも、その後、見たことがない。

 私の心のなかに、こうした女優の面影が焼きついている。AV女優にも、ほんの二、三人、そういう女がいる。むろん、名前も知らない。

2012/05/30(Wed)  1393
 
 「7日間の恋」で、「シビル・ソーンダイク」を演じたジュデイ・デンチも、短い出番ながら、さすがに名女優らしい芝居をみせている。
 これに対して、「ローレンス・オリヴィエ」、「ミルトン・グリーン」をやった俳優たちの魅力のないこと、おびただしい。

 とくに失望したのは、「ローレンス・オリヴィエ」をやったケネス・ブラナーだった。もともと大根役者だが、この映画では、とてもローレンス・オリヴィエに見えない。(「サウンド・オブ・ミュージック」のケネス・ブラナーは、もう少しましな俳優だったが、いまや見るかげもない。)

 「7日間の恋」とはまるで違う映画だが、ロンドンの大女優の孤独といやらしさを描いた「華麗なる恋の舞台で」(イシュトバン・サボ監督)や、黒人の歌手、ティナ・ターナーを描いた「ティナ」(ブライアン・ギブソン監督)を思い出した。
 「華麗なる恋の舞台で」はアネット・ベニング、ジェレミー・アイアンズの主演。
 ジェレミー・アイアンズが、みごとにアネット・ベニングを立てていた。こういう俳優に比較すべきではないが、ケネス・ブラナーはジェレミーに遠く及ばない。

 それほど優れた映画でなくても、ある部分が、いつまでも心に残る映画はある。この映画、「7日間の恋」はそんなものの一つ。

 「7日間の恋」は、もうどこでも上映されていない。最近の映画の「運命」ははかないものだ。
 「7日間の恋」につづいて――「アーティスト」を見た。この映画は、本年度のアカデミー賞・作品賞ほか、数々の賞に輝いている。当然、私も期待するところが大きかった。

 結果的には、この映画は私の期待をみごとに裏切った。

 私は、「アーティスト」を見て、ジョン・ギルバートや、ラモン・ナヴァロたちのたどった悲惨な人生を考えた。
 悲しみを甘受していれば、悲しみは心から離れない。
 ジョン・ギルバートは、オリンポスの高みからころげ落ちて、酒に溺れた。最後は、自殺に近い状態で死ぬ。ラモン・ナヴァロは、老いさらばえて、裏町の路地で、わかい黒人の強盗に刺されて死ぬ。悲惨な末路だった。

 むろん、「アーティスト」にはそんな悲惨はない。
 こんな程度の作品が、アカデミー賞の作品賞に選ばれるというのはおかしい。これが、ウディ・アレンや、ビーター・ボクダノヴィチの演出だったら、はるかにすばらしい映画になっていたにちがいない。
 旧ソヴィエトの映画監督、ニキータ・ミハルコフが、サイレント映画時代を背景に、黒海沿岸の町で、無声映画のメロドラマ出演者たちを描いた「愛の奴隷」にさえ比較すべくもない。

 この映画を見た人たちに訊いてみたい。

  Was it good for you,really?

2012/05/28(Mon)  1392
 
 いつか、私は書いたのだった。「公開されたとき、さして評判にならなかった映画、あるいはどうしようもなく程度の低い映画でも、それを見て思いがけない「発見」をした」場合、そんなことも書いてみたい、と。

 アランがいっていたが、芝居の見巧者になるには、恐らく名優になるくらいの時間がかかる、という。映画だっておなじことだ。映画のいい観客になるには、それなりに人生の哀歓が身についてこそ、よりよく映画を楽しむことができるのだから。

 ミッシェル・ウィリアムズは、とてもよくやっている。「マリリン」の緊張、撮影への不安、そして夫の「ミラー」がロンドンから去ったあとの悩み、実際の「マリリン」もそうだったのかと思うほど、自然に演じている。

 この時期のマリリンは、「フォックス」との対立、アーサー・ミラーがマッカーシーの「非米委員会」に召還されて、追求されていたし、マリリン自身が、悪辣な上院議員に脅迫されていた。世界のジャーナリズムの関心が集中するなかでの、ロンドンへの新婚旅行と、ただでさえ狂瀾怒濤の女優人生のなかで、自分のプロダクションの最初の映画、「王子と踊り子」の撮影にとりかかった。

 もともと現実生活への適応性が欠けていたマリリンが、ミルトン・グリーンや、ポーラ・ストラスバーグにすがりつくようになったのは、当然だろう。映画も、そのあたりの人間関係は、いちおう描いている。
 しかし、体力や精神力の限界から、マリリンは心身両面で消耗しているだけに見える。

 ただし、そのあたりをミッシェル・ウィリアムズは、よくとらえていた。(ミッシェルは、「ゴールデン・グローヴ」最優秀女優賞を受けている。)
 原作者のいう「恋」が「時空を超えた、しかし、リアルなエピソード」という認識、ないし、知覚は監督のサイモン・カーティス自身、考えなかったろう。しかし、ミッシェル・ウィリアムズは、(できるかぎり)「夢物語」を見せようとしていた。

 「7日間の恋」のマリリン、つまり、ミッシェル・ウィリアムズを見ていて、ある作家のことばを思い出した。

    感受性にとみ、ゆかしく、熱烈で、つまり俗にいうロマネスクで、恋人とふ
    たりきりで、真夜中にも人里離れた森をさまようにすぎない幸福を王者の幸
    福にもまさると考える魂、こうした魂をかいま見ると、私は一晩じゅう夢想
    にふけるのだ。

 スタンダール。
   (つづく)

2012/05/26(Sat)  1391
 
 「マリリン・モンロー 7日間の恋」は私にいろいろなことを考えさせてくれたのだった。

 マリリンは、結婚した相手をどう見ていたのか。「7日間の恋」では、アーサー・ミラーと新婚で、ロンドン行きは、新婚旅行のようなものだった。

    夫ってものは、だいたい、いい「恋人」なのよ。
    奥さんを裏切っているときはね。

 ずいぶん、シニックな意見に聞こえる。しかし、少し口を尖らせながら、ちょっとドモリ気味に、舌ったるい、こんなセリフを聞かされたら、誰だって、マリリンに賛成したくなるだろう。この映画のマリリンは、まず、結婚の不幸を知らせてくれる。

 イギリスにおけるマリリンには、少数だが意外な理解者がいた。たとえば、詩人のイーディス・シットウェル。

    彼女は世界を知っているのだが、この知識が、いまや彼女の偉大で、
    情け深い尊厳を低めている。その暗さが、彼女の「よき姿」をかす
    んだものにしている。

 イーディスは、マリリンが、アーサー・ミラーに「裏切られた」ことなど知るよしもなかったはずである。しかし、見える人には見えていたのだろう。

 「7日間の恋」のマリリンは、「王子と踊り子」の撮影に非協力的で、撮影には遅刻ばかりする。アーサー・ミラーは、さっさとロンドンを去って、アメリカに戻ってしまう。
 マリリンは、ローレンス・オリヴィエの演出に不信をだき、演技を指導するポーラ・ストラスバーグにすがりつく。それでいて、撮影をスッぽかして、若いコリンを相手に一日を楽しく過ごす。最後には、「スプーニング」(セックス)というオマケつきで。

 マリリンのことば。

    セックスは、自然の一部よ。あたしは、自然にしたがうだけ。 

 こういう女は、ややもすれば、男にとって、いちばん危険な手管をもった女に見える。ここに不幸がある。
 「王子と踊り子」の演出にあたったローレンス・オリヴィエはいう。

    プロフェッショナル・アマチュア。

 現在、「王子と踊り子」を見ると、マリリン・モンローは、映画の始めから終わりまで、名優、ローレンス・オリヴィエの「芝居」をまるっきり食っていることがわかる。

 「7日間の恋」の原作者は、彼女の根底にある「怖れ」を指摘している。しかし、映画は、そのあたりにまったく眼を向けていない。というより、はじめから、そのあたりに関心がない。
 だから、身勝手なスター、「マリリン」にふりまわされるスタッフ、そして撮影の途中で露呈してくるさまざまな葛藤など、あくまで平板に描かれるだけで終わっている。

 「マリリン・モンロー 7日間の恋」を、そのまま「おとぎ話、幕間劇、時空を超えた、しかし、リアルなエピソード」として、この映画を見たということ。

 サイモンは、原作を読んで、

    1956年当時の映画作りの克明な描写のみならず、人生初の
    仕事で最盛期のマリリン・モンローと親密な仲になった若者の
    夢物語にも心惹かれた。

 という。「夢物語」なら「夢物語」でいいのだ。しかし、この映画にはそんな「夢」のかけらもない。「マリリン」をやった女優さん(ミッシェル・ウィリアムズ)が気の毒だった。
    (つづく)

2012/05/24(Thu)  1390
 
 サイレント映画のスター、クララ・ボウは語っている。

   セックス・シンボルなんて、背負いきれないほど重いお荷物だわ。とくに、疲
   れきって、傷ついて、どうしていいかわかんないときは。

 マリリン・モンローが、おなじことばをいったとしてもおかしくない。
 彼女は、自分の限界を知っていた。

   あけすけにいうと、あたしって、土台がない上に建っている超高層ビルみたい。
   だけど、あたしは土台のところで仕事をしてるのよ。

 このあたりに、私はマリリンのいじらしさを見る。

   あたしの自己証明のベストの方法といったら、女優としての自分を証明するこ
   となの。

 この目的を実現できるかどうか、自信はなかった。映画、「マリリン・モンロー 7日間の恋」でも、撮影現場で、なにかとポーラ・ストラスバーグにすがりつくマリリンが描かれる。(現実には、あの程度のものではなかったと思われる。)

   ほんとうにピタッときまったときは、演技することが楽しいわ。

 しかし、マリリンが、「ピタッときまったとき」when you really hit it right は少なかった。(これは「結婚」や、「情事」でも、おそらくおなじことだったにちがいない。)

 この映画では、「ローレンス・オリヴィエ」が、マリリンの「演技」を認めようとしなかったこと。「マリリン・モンロー・プロダクション」の共同出資者で、「王子と踊り子」の撮影が遅れて、破産寸前の写真家、ミルトン・グリーンの、やけっぱちな姿勢に、マリリンの「天然ボケ」と「恋」が重なってくる。

   これまでの生涯、私はずっと日記をつけてきた。しかし、これは日記ではない。
   日記というよりおとぎ話、幕間劇、時空を超えた、しかし、リアルなエピソード
   だ。

 「マリリン・モンロー 7日間の恋」の原作者、コリン・クラークの言葉。

 原作者、コリン・クラークにとって、マリリンとの交遊全体がそれこそフェアリ・テールだったに違いない。だが、「マリリン」にとっては「7日間の恋」は「おとぎ話」ではなかったのではないだろうか。
 「幕間劇」というのは、インタルードという意味だろう。作者は、インタルードと書いているのだから、文字通り、アーサー・ミラーとの結婚と、「王子と踊り子」の撮影の中間にはさまれた幕間劇と見ているのだが、私は、もう少し重い意味を見る。
 マリリンにとっては、「7日間の恋」ではなかった。
      (つづく)

2012/05/23(Wed)  1389
 
 しばらく前に――映画、「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見た。
 (’12.3.24 公開)

 私は、このブログでとりあげるつもりはなかった。ずっと以前に、新聞や雑誌に映画批評を書いていた時期の私なら、この映画を批評しなかったと思う。
 評価ははっきりしている。それほど、それほど、すぐれた映画ではない。

 今頃になって、もう誰も見るはずのない映画について書く。ずいぶん酔狂な話だが、むろん、書いておこうと思った理由はある。ただし、映画評ではない。例によって、「マリリン・モンロー」というテーマをめぐっての閑話(コーズリー)である。

 「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見たのは、当然ながら、「マリリン・モンロー」に関心があったからである。自分でも信じられないのだが――日本で、最初の評伝を書いた作家なのだから。(笑)
 じつは、この映画を見る前に、作家、山口 路子の「マリリン・モンローという生き方」(新人物往来社)を読んだ。「ココ・シャネルという生き方」の著者である。

 まず、この本について。
 山口 路子は、「マリリン」に対して、私とはちがったやさしい理解をみせている。全体はマリリンの伝記といってもいいのだが、この女優の「生きかた」に通じる一種の「狂気」――とくに、恋愛、あるいはセックスというかたちであらわれるものを、女流作家らしく、とらえている。
 「マリリン」の恋愛にあって、セックスという行為がもたらすものは、とても自然で、いわばリーズナブルで、しかも、女としての自負もふくんでいる。
 ベッドではあられもなくみだれるような美しい女性が、一方では、真摯で、聡明で、近寄りがたいVirtu(ヴィルチュ)をもっているとすれば。たとえスクリーンの恋人だとしても、だれしも好意をもち、幸福さえも感じるだろう。
 かくて、マリリンとは、多数の人が夢見て、作りあげ、組み立て、あらまほしい「女」として望んだファラシーなのだ。
 そのあたりを、山口 路子は作家として、みごとにとらえている。

 私は、それこそロマネスクな気分で、「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見たのだった。
          (つづく)

2012/05/20(Sun)  1388
 
 2012年5月11日、東京電力は、家庭向けの電気料金の値上げを政府に申請した。7月1日から、平均10・28%の値上げという。
 これで、消費税が10%になったら、庶民はダブル・パンチどころではない。

 ところで――東日本大震災が起きる直前、私は、ある予測に驚かされた。

 2010年、動画コンテンツといった大容量のデータ通信需要がぐんぐん増加していた。つまりは、ネットワークを行き交うデータ量が急激に拡大していたことになる。

 通信ネットワークを往来するデータがふえる。当然、ITC機器の電力の消費量もふえる。それも、算術級数的にではなく、幾何級数的にふえる、という予測だった。

 当時、経済産業省の試算によれば――
 インターネット内の情報通信量は、2025年には、2006年の190倍になると予測されていた。

 そこで、電力の消費量も激烈にハネあがる。
 2010年には、5000万khw。日本全体の電力の消費量の5%以上。

 これが、2010年以後にも増大しつづけていた。

 ここで、東日本大震災が起きた。

 現在、国内で稼働する原子力発電所は、ゼロ。さて、どうするのか。
 私は、当時の経済産業省の試算――(インターネット内の情報通信量が、2025年に、2006年の190倍になるという予測)が、現在、どうなっているのか知りたい。
 私は、ここに、日本の大きな危機が顎(あぎと)を開いて待っているような気がする。
 どこかの牝鶏はサバサバと、日本は二流国でいいではないか、とヌカすだろうが、この問題の処理をあやまれば、牝鶏の予言をまつまでもなく、あと10年以内に、日本はまちがいなく三流国に転落する可能性がある。

2012/05/14(Mon)  1387
 
 私は、サイレント映画の女優たちのことを調べているのだが、どんなに有名な女優さんでも、出演作品を見ることが不可能なので、いきおい色々な文献にあたって、少しでも関係のあるものを見つけようとする。

 古い映画雑誌などで、ゴシップ記事でも見つければ、どんなにつまらない記事でも、何かの役に立つ。

 有名な女優には、いろいろな逸話(アネクドート)がまつわりついている。それが伝説となって、ときには神話として、人々の記憶にきざまれる。

 私も、女優さんの、いろいろな逸話に注意している。

 最近の私は、古い、古いサイレント映画の女優たちのことを調べているのだが、こんなつまらない雑文を書くときでも、いつも心に刻みつけていることがある。

 1907年(明治四〇年)に、久保 天随が書いている。

  邦人の弊として、伝記をものせるに際し、殊に逸話を重んずる傾向あり。抑(そ
  もそ)も、逸話はその性質上、断片的事実にして、その人の生涯全体には、さば
  かり重要の関係を有せざるものなり。

 たしかに、天随先生のおっしゃる通りだと思う。
 いくらおもしろいアネクドートが残っている人でも、その逸話だけで理解してはならない、ということだろう。

 しかし、相手がサイレント映画の女優だって、そんなおもしろいアネクドートが簡単に見つかるはずもない。

2012/05/10(Thu)  1386
 
 最近の私は、サイレント映画の女優たちのことを調べている。その当時は有名だった女優さんでも、出演した作品を見ることがまず不可能なので、ごく短いエッセイを書くだけでも、けっこう苦労する。

 ジャック・フィニーという作家がいた。
 「盗まれた街」、「ゲイルズバーグの春を愛す」、「レベル3」などの小説で知られている。

 私は、最近、ジャック・フィニーの小説「マリオンの壁」を読んだ。

 この長編、「マリオンの壁」は1973年に書かれている。
 内容は、サイレント映画のフィルム収集家の話なのだが、ジャック・フィニーらしい、おもしろい「幽霊小説」といってもいい。

 驚くべきことに、作品の冒頭に、150人の映画スター(大多数が女優だが)の名前を列挙している。
 作家が自作の冒頭に、特定の個人の名を挙げ、献辞を添えて感謝の気もちを表明することはめずらしくないが、150人の映画スターの名をあげて謝意を表明するような例はめったにない。

 サイレント時代のスターとして――リタ・ナルデイ、ルネ・アドレー、アラ・ナジモヴァからはじまって、ヘッシー・ラヴ、ザス・ピッツ、バーバラ・ラマールまで。
 男性たちは、りゅー・こでい、クライヴ・ブルックスから、早川セッシュー、エミール・ヤニングスなど。計、66名。……

 つぎの世代は、クリア・ガースン、リタ・ヘイワースから、キャサリン・ヘップバーン、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアーまで。計、21名。

 さらに「戦後」になると、ケイリー・グラント、フレドリック・マーチから、マリリン・モンロー、ジョゼフ・コットンまで。計、15名。

 さらに、エリオット・グールド、ジェーン・フォンダから、ダスティン・ホフマン、マーロン・ブランドまで。計、13名。

 総計、115名。
 いずれもアトランダムに選んだにちがいないが、やはり、作家らしい選択基準があるような気がする。

 そして、最後に――

   その他、過去、現在、そして未来の何千人もの映画人たちに 愛をこめて

 という献辞が添えられている。

 ジャック・フィニーが映画を愛していたこと、そして「マリオンの壁」という作品は、この作家がどうしても書きたかったハリウッド小説なのだろうと思う。

 私が読んだのは福島 正実の訳だが、おなじ福島 正実訳のハインラインや、ヒルダ・ローレンスなどよりも、ジャック・フィニー訳のほうがいいと思う。
 自分の好きな作家を訳している翻訳者のよろこびが想像できるような気がするから。

 ただし、この作品は日本ではあまり評判にならなかったのではないか。

2012/05/06(Sun)  1385
 
 しばらく前に「スリット・アート」について書いた。
 いわば「スリット・アート」趣味である。(安いポンピエを収集する趣味のこと)

 どうして、そんな趣味をはじめたのか。

 私は、女子美術大の先生だったことがある。
 相模原に校舎がある。本館のホールのスペースが、ギャレリーになっていて、毎日のように生徒たちの展示があった。
 本格的な油絵の展示もあったし、コンセプチュアル・アートもある。とにかく、毎日、なにかしらの制作が展示されるようだった。
 学校側に申請すれば、かんたんに展示ができるようだった。だから、学年や専攻、クラスも違う生徒たちの個展や、数人のグループの展示もあった。

 その展示は、ときには油絵で自分のヌードを描いた作品や、生徒たちがお互いをモデルにしたデッサン、クロッキーなどもあった。むろん、かなり、レベルの高い焼きものや、ガラスの食器などもあった。

 じつに色々な才能が、いっせいに芽吹こうとしている。そんな感じが見られて、私は楽しかった。
 たまに、れいれいしく値がつけてあるものもあった。むろん、学内で売れるはずもないのだが。
 いくばくかの対価を払って、そんな絵を買ってやったこともある。

 私は、生徒の作ったグラスでワインを飲んだり、海辺でひろった土管の切れはしに、女の子たちが彩色したオブジェを机に飾ったりした。
 私のクラスの女の子から作品をもらったこともある。その一枚は、今でも私の仕事部屋に掛けて私の讃仰のまなざしをあびている。

 吉永 珠子が、マリリン・モンローの写真をたくさんアレンジして、プラスティックで固めたオブジェも私のトレジャーだったが、後に接着剤が変質して、半分から崩れてしまった。私は泣きそうになった。

2012/05/03(Thu)  1384
 
 先日、私は書いたのだった。

 「俳句や、歌舞伎、遊女のことなど、これまで書く機会がなかったテーマも、ときどき書くつもり。ただし、まるっきり無趣味な男なので、何を書いたところでたいしておもしろいはずもないのだが。」

 そこで、先日、市川 白猿(五世・市川団十郎)のことを書いたのだが、この俳優のことばを書きとめておこう。ただし、私の現代語訳。

   私(白猿)が書いてメモしておいた俳句や狂歌などを、良質の紙にていねいに書
   いて、筐底(きょうてい)に秘めておく、などということは、しばらくたつと、
   どうも風流なことに思えない。おまけに、俳句や狂歌など、そのつど自分の名を
   サインするというのも、うるさい。自分でも、これはと思う和歌など、人に披露
   してよろこぶのは、心ゆくばかりにいさましいけれど、聞かされる側にすれば、
   さぞ片腹いたいことだろう。こういうことは、日頃からつつしみたいと思う。

 いかにも白猿らしいことば。
 ただし、団十郎らしいしたたかな自己顕示もはりついている。これは、原文で。

   のみます食ひます気が延(のび)ます、合せて三升の定紋は、孫にゆづり葉かや
   かち栗、海老はもとよりいへのもの、だいだいどころ生へぬきの、八百八町御ぞ
   んじの、花の御江戸のやっかひおやぢ……

 「孫にゆづり葉」とある「孫」は、七世、団十郎のこと。

 どうか、今の海老蔵が八百八町御ぞんじの、花の御江戸のやっかひむすこになりませぬように。

2012/04/30(Mon)  1383
 
 ゲーテにこういう詩がある、という。読んだような気がするけれど。

    世界は粥で作られてはいない
    君等は懶けてぐずぐずするな
    堅いものは噛まねばならない
    喉がつまるか消化するか、二つに一つだ 
 (「ゲーテ詩集」岩波文庫)

 ようするに、噛むのに苦労するようなものでも、バリバリ噛む。フニャフニャのお粥なんぞ食らって腹をみたすなかれ。そういう意味だろう。

 私はゲーテにほとんど関心がない。
 「ファウスト」も「ウェルテル」も「ウィルヘルム・マイスター」も読んでいる。「ヘルマンとドロテア」だって読んでいる。しかし、おもしろくなかったねえ。
 歯がたたなかった、というよりも、食欲をそそらなかったというべきか。

    たしかに世界は粥で作られてはいない
    しかし、お粥さんを頂くときに、どこのドイツが
    世界は粥で作られてはいないなどと考えるのか。
    オラッチは懶けてぐずぐずるのがうれしいのさ

    堅いものは噛まねばならない、だと?
    おきやがれ、堅くて噛めねえものもあるんだ
    なんなら舐めたり、しゃぶったりすりゃあいい
    喉がつまったら、すぐにも指をつっ込んで
    ゲーッテ吐き出すほうがいい

    ゲーテを読まなくてもシラーが読めなくても
    少しも恥じる必要はない 生きるよろこびは
    あたたかくて、湯気のたつお粥さんが
    舌から喉を通ってゆく味わいにもあるのだから。

 由飲食過度、飢飽失節、我的消化力弱。
 ごめんなチャイナ、ゲーテさん。

2012/04/28(Sat)  1382
 
 昭和36年(1961年)。私が思い出すのは、キューバ危機である。
 あのとき、世界じゅうの人々は、アメリカ/ソヴィエト間で全面的な核戦争になるのではないか、という恐怖におののいたのではなかったか。

 全人類の運命が、アメリカとソヴィエト指導者の手に握られていることに、ひそかな怒りをおぼえた人も多かったはずである。私もそのひとり。

 この昭和36年(1961年)、江藤 淳が「小林秀雄」を、小田 実が「何でも見てやろう」を書いた。
 1961年、深沢 七郎の「風流夢譚」が発表されて、右翼が中央公論の社長宅を襲って殺傷事件をおこした。

 個人的なことだが、「小林秀雄」を書く前の江藤 淳と、ほんのちょっとした関わりがあった。内村 直也先生の紹介で知り合ったのだが、私は彼の翻訳したコンラッド・エイキンをどこかの出版社からだせないものかと努力した。
 生活のために翻訳をしようと考えていた江藤 淳を、当時、「早川書房」の編集者だった都筑 道夫、福島 正実に紹介した。これは、うまくいかなかった。(後年、都筑 道夫は、江藤 淳に会ったときのことをエッセイに書いている。)
 小田 実は、「何でも見てやろう」が出版される直前に、「朝日新聞社」(当時は、有楽町の「日劇」のすぐ近くにあった。)の前で会った。
 後年の小田 実と違って、蒼白い文学青年といった風貌だったが、鬱勃たる野心を抱いていることはすぐに見てとれた。
 その後、私は通俗小説を書くようになったが、はじめての本が出たとき、出版記念会に出席してくれたのだった。
 それ以後の小田 実とは、まったく交渉がなくなったが。

 私は何をしていたのだろう?

 東京の片隅で、ちっぽけな劇団をひきいた私はいつも金策にかけずりまわっていた。なにしろ金がなかった。親しい編集者にたのんで、出版社から印税を前借り、稽古場を借りる、劇場をおさえる。大道具、小道具をかき集めたり。とにかく、公演の費用を捻出するために動いていた。
 私は何でも書いた。金がめあての書きなぐり。英語でポットボイラーという。
 当時の私は、小説や雑文を書きとばし、同時に翻訳を手がけ、おまけに大学で講義をつづけていた。

 いつも火の車だった。

2012/04/25(Wed)  1381
 
 徳川三百年の歴史で、私が関心をもっているのは、「犬公方」と呼ばれた徳川 綱吉。

 将軍以外では、尾張の徳川 宗春。

 八代将軍、吉宗の時代に、宗春の治世は、

   老若男女貴賤共にかかる面白き代に生れあふ事、是只前世利益ならん、仏菩薩
   の再来し給ふ世の中やと、善悪なしに有難や有難やと、上を敬ひ地を拝し、足
   の踏締なく、国土太平、末繁盛と祈楽み送る年こそ暮れ行ける

 という。(享保十六年/1731年)
 是只前世利益は、これ、ただ、ぜんせいのりえき、と読むのだろう。
 こういうおもしろい時代に生まれあわせたのも、輪廻(りんね)のしからしむるところ、ありがたいことである、という意味。

 ときあたかも、「ロビンソン・クルーソー」、「ガリヴァー旅行記」が書かれたすぐ後の時代。近松が亡くなり、白石、徂来が没した直後。

 徳川 宗春の書いた「温知政要」は、りっぱな政治論で、おだやかな主張の背後に、宗春の理想がきらめいている。
 その一節を私なりに直してみよう。

 そうじて人には好き嫌いというものがある。衣服、食物をはじめ、人によって好き嫌いは違っている。ところが、自分の好きなものを他人に強制しようとしたり、自分の嫌いなものを人にも嫌いにさせようとするのは、たいへんに偏狭なことで、人の上に立つ政治家としては、あってはならないことである。

 もとより宗春の姿勢は、幕府の許すところではなかった。
 将軍、吉宗は、滝川 元春、石河 政朝を尾張に派遣して、宗春を詰問する。
 このため、宗春も、享保十九年、二十年と、家中に布令を出して、綱紀の粛清をはかったが、幕府の追求はきびしく、元文三年(1738年)、ついに隠居を命じられた。

 私は徳川 吉宗に関心がない。ただ、宗春蟄居の二年後に、青木 昆陽らにオランダ語の習得を命じて、これが日本の蘭学の発祥となったことを評価する。

 総武線、幕張駅の近くに、昆陽神社がある。青木 昆陽を祀ったものという。
 神社といっても、低くて小さな丘の上の祠(ほこら)で、あまり人も寄りつかない。
 青木 昆陽は、房総が飢饉に襲われたとき、下総の人々に甘薯(さつまいも)の栽培を教えて救ったという。私は、年に一度ぐらいこの丘に立って、コンビニで買ってきたおにぎりをバクつきながら、遠く青木 昆陽を思い、はたして吉宗、宗春のどちらが名君だったのかと考える。

2012/04/22(Sun)  1380
 
 漱石さんの句に、

     山高し 動ともすれば 春曇る

 という句がある。

 漱石さんにかぎらず、明治の作家、詩人たちの教養の深さにはいつも驚かされるが、私などが「ややともすれば」と書けば、どうかすると、とか、ひょっとすると、といった仮定だが、「動ともすれば」といった表現は絶対に出てこない。
 うっかり、「動ともすれば」などと書こうものなら、校正者が、ご丁寧に「どうともすれば」などと訂正してくれるだろう。
 私は――どうとでもしやがれ、と舌打ちしながら、「ひょっとすると」と書き直すだろうな。

 先日、あるエッセイで――むずかしい原作を翻訳するときの私は、それこそ青息吐息、原文をにらみつけながら、

  「訳もそぼろなそのうえに、作のかまえもただならぬ」とつぶやく。

 と書いたら、校正では「訳もそぞろな」となっていた。あわてて「訳もそぼろな」と訂正した。これは、原作がとてもむずかしいうえ、私の訳は「そぼろ」(みすぼらしいありさま)というわけで、「東海道四谷怪談」の「お岩さん」の台詞、「なりもそぼろなそのうえに、顔のかまえもただならぬ」のパロディ。
 「お岩さん」は柱にとりすがって、「一念通さでおくものか」といい残して果てるのだが、翻訳者としては、途中で翻訳を投げ出すわけにはいかない。

 こんなことを書いたせいか――先日、夜中に起きて、机の角に眉をぶつけ、ちいさな傷ができた。バンソウコウを貼っておいたが、眼の下にアザができて、「顔もそぼろなそのうえに、顔のかまえもただならぬ」ありさま。

 せまじきものは、パロディだなあ。(笑)

2012/04/20(Fri)  1379
 
 「夢十夜」や「硝子戸の中」などを読んでいろいろと考えたが、そうはいっても、私の考えたことは漱石研究者なら誰もが考える程度のことだろう。
 そこで、おそらく誰も考えない(だろうと思う)ことを一つだけ。

 「硝子戸の中」の最後に、こういう一節が出てくる。

   猫が何処かで痛く噛まれた米噛(こめかみ)を日に曝して、温かそうに眠ってい
   る。先刻まで庭でゴム風船をあげて騒いでゐた子供達は、みんな連れ立って活動
   写真へ行ってしまった。家も心もひっそりしたうちに、私は硝子戸を開け放って、
   静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)と此稿を書き終るのである。
   さうした後で、私は一寸(ちょっと)肘を曲げて、此縁側に一眠り眠る積(つも
   り)である。

 この文章が書かれたのは、大正4年2月14日。

 この「猫」さんは、当然ながら「我輩は猫である」の「名前はまだない」猫さんではない。このネコだって、「我輩は猫である」の猫さんぐらいのことは考えたにちがいない。
 私の考えたのは、もう少し別のことである。――子どもたちが「みんな連れ立って」見に行ってしまった活動写真は何だったのだろう?

 大正4年(1915年)1月に公開されていた活動写真には、「空中戦」と「バイタグラフ」といった戦争活劇(2巻もの)がある。この2本はお正月映画で、2月には「アメリカン」の「海軍飛行家」(1巻もの)が封切られている。
 現実に第一次世界大戦がはじまっている。世界は、いまや航空機の時代になっている。空中戦は、いわば空の一騎討ちで、日本人にとっては、まったくあたらしい戦闘形態だったはずである。そして、この2本は、実写もののドキュメンタリーだったのか。

 当時はすでに世界大戦がはじまっている。まだ緒戦といってよい時期、日本人が戦争をそれほど身近に感じてはいなかったはずだが、漱石が、この戦争の帰趨に関心をもたなかったはずはない。

 さて、ほかのお正月映画としては、「愛と王冠の為に」(3巻)、「赤ン坊のお守り」、「オーファン」、「彼女の覚醒」、「試験中の人」、「ブラックロックの電信技手」、「他の少女」、「マーフィーの静日」などが公開されている。
 2月の中旬までに封切られたものに――「海軍飛行家」、「恋と電気」、「さやあて(小さき恋)」、「山中の捕虜」、「凋みつつある薔薇」など。

 こうした映画の内容は想像するしかないのだが、漱石先生のお子さんたちは、「赤ン坊のお守り」、「恋と電気」といったスラップスティック・コメディーか、「愛と王冠の為に」のような冒険活劇を見たのか。あるいは、「オーファン」、「さやあて(小さき恋)」といった(現在のラブコメ)を見たのだろうか。

 「硝子戸の中」を読んで、子どもたちが「連れ立って」見に行った活動写真は何だったのか、などと考えるのは私ぐらいのものだろう。酔狂な話だが。

 「硝子戸の中」終章(三十九)は、日曜日で、漱石先生は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、「春はいつしか私の心を蕩揺(とうよう)せしめる」のを感じている。

 蕩揺といったことばが自然に出てくるあたり、漱石さんの教養がうかがえる。
 「蕩」は、もともと水面(みのも)が揺れること。それも、ゆぅらりゆらりと揺れ動く。「揺」がゆれるという意味だが、手で動かす。
 「春風駘蕩」ぐらいなら私たちも使えることばだが、「心を蕩揺せしめる」といった表現は、私などにはとうてい出てこない。そもそもこういう感性がなくなっている。

 ひょっとすると――庭でゴム風船をあげて騒いでいた子どもたちを眺めていたとき、漱石先生は自分の死さえも「いつしか私の心を蕩揺(とうよう)せしめる」ものとして見ていたのではないだろうか。

2012/04/17(Tue)  1378

  春になって、いろいろな作家を読み直している。
 久しぶりで漱石の小品なども読み返した。           

 「文鳥」、「夢十夜」、「永日小品」、といった小品や、「満韓ところどころ」などの紀行、「長谷川君と余」、「三山居士」、「ケーベル先生の告別」」などの交友記、人物論、そして「硝子との中」など。

 こうした小品は、すべて一度は読んだものばかりだったし、とくに「夢十夜」や「硝子戸の中」などは、「文学講座」をつづけていたために読み直した。

 あらためて、漱石さんを読んで――

 今回、ふと気がついた。
 漱石は、「硝子戸の中」の終章の直前、長兄のことを書き(三十六)、つぎに、実母、少年時代に死別した母、「千枝」の思い出を書いている(三十七、三十八)こと。
 漱石さんの心にふれたように思う。むろん、批評上の問題として。

 「満韓ところどころ」は、学生の頃に紀行文として読んだだけだった。だから、あまり感銘を受けなかった。というより、「戦後」の私にとっては、満州も韓国もまるで別世界のことでしかなかった。
 今あらためて読み返してみると、これがじつにおもしろい。
 私自身が、中国、韓国の文化に大きな関心をもつようななったせいもある。

 なによりも、漱石先生のえらさが少しでもわかってきたせいだろう。

2012/04/15(Sun)  1377
 
 映画についての閑話。
 1930年。アメリカ映画は、サイレントの活動写真から、トーキーへの転換が進行中だった。

 1930年のトーキー映画のシナリオ。
 たとえば、「雷電」Thunderbolt。

 ストーリーを紹介しても、あまり意味はない。それよりも、当時の、解説を紹介したほうがおもしろい。

    「雷電」(サンダーボルト)と綽名(あだな)せられるジム・ラングは強盗殺人
    のかどでお尋ね者の身であるにも拘らず隠れ家を出てハーレム夜間倶楽部(ナイ
    トクラブ)へ情婦のリッチーを連れて行った。
    リッチーはもう彼れと別れて正道を歩むつもりであることを話した。其の時倶楽
    部に警察の手が入りサンダーボルトは遁れた。
    サンダーボルトの手下共はリッチーを嗅ぎ廻って彼女がモラン夫人なる人の家に
    住んで居ることを報告した。モラン夫人の息子で或銀行の事務員をして居るバブ
    はリッチーと戀仲なのである。リッチーとバブは結婚するつもりであった。バブ
    の身に危険の起ることを恐れたリッチーは警察に知らせてサンダーボルトを捕へ
    る罠をかけた。彼れは一旦逃れたがやがて縛に就き裁判の結果シンシンの刑務所
    で死刑に処せらるべき宣告を受けた。
    シンシンの死刑監に入ったサンダーボルトの胸に一つの憤怒と報復の心が燃えた。
    それはバブ・モランを殺さうと云ふ望みである……

 「雷電」はスリラー・サスペンス。主演は、ジョージ・バンクロフト。「バブ」(今なら「ボブ」と訳されるだろう)は、リチャード・アーレン。リッチーは、フェイ・レイ。 ナイトクラブの訳が夜間倶楽部というのもおもしろい。
 むろん、当時「ハーレム」がどういう場所なのか、殆ど誰も知らなかったに違いない。

 私は、フェイ・レイという女優さんをそれほど好きではないのだが、この映画、「雷電」は見たいと思う。なぜなら、ジョゼフ・フォン・スタンバーグの映画だから。
 初期のスタンバーグの映画、8本のうち7本までが、マルレーネ・ディートリヒが主演していた。「モロッコ」、「間諜X27」など。

 愛した女に去られて、落魄する芸術家の姿はいたましいが、スタンバーグは「恋人」だったマルレーネ・ディートリヒに捨てられて、創造力をうしない、成功から失敗にむかってひたすら落ちて行った映画監督だった。
 この「雷電」を見れば、スタンバーグがどこで、どういうふうに輝きを失って行ったか、見えてくるかも知れない。だから、ぜひ見たいと思うけれど――むろん、見ることはできない。

 おそらくスタンバーグは、フェイ・レイにディートリヒ的なファム・ファタールを見なかったに違いない。だから、演出に生彩がなかったのかも知れない。
 フェイ・レイのほうは、スタンバーグのように独占欲ばかりつよくて、ひどく嫉妬深く、しかもマゾヒスティックな男に、はじめから眼もくれなかったのだろう。

 不思議なことに、制作された時期には何程のことも見えなかった映画が、時間がたつにつれて、それまで見えなかったものがぼんやりと見えてくる。むろん、ほとんどの観客には興味もないことなのだが。

2012/04/13(Fri)  1376
 
 遠い過去のサイレント映画のスターたちの伝記や、スキャンダルをテーマにした映画。けっこう、たくさん見てきたと思う。
 すぐ思い出すだけでも――ピーター・ボクダノヴィッチの作品や、「チャップリン」、「ヴァレンチノ」、(映画女優ではないが)「マリア・カラス」、いろいろな芸術家の伝記映画があった。
 上映中の「アーティスト」や「マリリン 七日間の恋」(マリリンはサイレント映画のスターではないが)がある。
 「ヒューゴ」も、そういう流れの中で考えてもいい。

 「ヒューゴ」を見ながら――ちょっと前に見た、12世紀のイギリスの「騎士」(ジャン・レノ)が、現代のシカゴにタイム・スリップしてしまう「マイ・ラブリー・フィアンセ」や、現代から、1930年代のハリウッドに戻ってしまう「13F」などを思い出した。

 「ヒューゴ」のなかに、ハロルド・ロイドが高層建築の大時計の針にぶらさがる有名なシーン(「ロイドの用心棒」)が引用されている。
 マーティン・スコセッシのことだから、ただのサイレント・クラシック回顧のために、ハロルド・ロイドのシーンを使っているわけではない。これも重要な伏線のひとつ。

 「ヒューゴ」のような映画は、アィディアがおもしろいし、ただ見ているだけでも楽しいのだが、映画館を出たとたんに、どんな内容だったか忘れてしまう。
 映画なんてそんなものだといえばそれだけだろう。

 ジョルジュ・メリエスの夫人、「ママ・ジャンヌ」をやっているヘレン・マックロリーは、どこかで見たおぼえがあった。アア、そうか。サイレントから「戦後」まで、ワキで出ていたメァリ・ボーランドに似たタイプ。どうも、どこかで見たおぼえがあるような気がした。
 しばらくして、「インタヴュー・ウイズ・バンパイア」でヘレン・マックロリーを見たことを思い出した。そして「ハリー・ポッター」に出ていたことも。
 すると今度は、メァリ・ボーランドは、何を見たっけ? という疑問が頭をかすめた。ヒャー、サイレント映画の「高慢と偏見」だったっけ。

 私の思考がタイム・スリップして、あらぬことを考えているうちに、映画はどんどん先に進んで行った。

 「ヒューゴ」だってタイム・スリップものの変種といえるかもしれない。

 私は、マーティン・スコセッシの作品では、「エルヴィス・オン・ツアー」ヤ、「タクシー、ドライヴァー」などでこの映画監督に敬意をもってきた。とくに「レイジング・ブル」や「ミーン・ストリート」は、ほんとうに驚嘆したものだった。

 この「ヒューゴ」はアカデミー賞の5部門で受賞した。
 撮影賞、美術賞、視覚効果賞、録音賞、音楽編集賞。

 新聞の批評も――「映画愛にみちた冒険」(読売/3.2・夕刊)、「映画草創期の心踊る興奮」(日経)、「人生讃歌と映画愛」(毎日)、「あふれる映画への愛」(朝日/3.9・夕刊)と、手ばなしの称賛である。

 私もマーティン・スコセッシの映画にたいする愛情はじゅうぶんに認めるけれど、スコセッシの作品としては、できのいい作品ではないと思う。
 スコセッシ自身のフィルモグラフィーから見ても、やっと合格点といった程度の作品だろう。

 映画評を書くわけではないので、勝手な感想をならべるだけだが、けっこう楽しかった。これに味をしめて、もう誰もおぼえていない映画についての感想を書きとめておこうか。映画を見ているあいだこそ心踊る興奮があっても、その評価が長く続くひとはむずかしい。長くつづいても、せいぜい半年ぐらいのものだ。

 だから、個々の映画について、ときどき自分の心を揺すぶってみることが必要になる。

2012/04/12(Thu)  1375
 
 フランスを舞台にしたアメリカ映画は、どうしてもフランスの風味が出せない。

 わずかな例外として、「桃色の旅行鞄」(ルイス・アレン監督/1945年)や「巴里のアメリカ人」(ヴィンセント・ミネリ監督/1951年)、「ジャッカルの日」(フレッド・ジンネマン監督/1972年)あたりをあげておこう。
 「桃色の旅行鞄」は、戦後すぐに公開されたパラマウント・コメディーだった。当時の私は何も知らなかったが、原作は、コーニリア・オーティス・スキナー。
 主演したゲイル・ラッセルについては、はるか後年、短いモノグラフィーを書いた。これを読んだ作家の虫明 亜呂無がほめてくれたっけ。
 「ジャッカルの日」はフランス/イギリス合作だから、アメリカ映画とはいえないかも知れないが。
 パリを描いた最近の映画で、安心して見ていられるのは、ウディ・アレンの近作ぐらいのものだろう。さすがに「それでも恋するバルセロナ」の演出家だけのことはある。

 それはとにかく――フランスを舞台にしたアメリカ映画の例にもれず、「ヒューゴー」には、パリの匂いなどどこにもない。
 はじめから「巴里の屋根の下」を参考にしたなどといわなければいいのに。
 もっとも、スコセッシにルネ・クレールの風味など期待するほうがおかしいけれど。

 もともと、マーティン・スコセッシには、ルネ・クレールの「詩」といったものがまったく欠けている。
 はじめから期待していなかったから、1930年の、シャンゼリゼからモンマルトル、あの界隈のカフェや、豪華なファッション・ブティック、劇場の並ぶブールヴァールといった風景が見られなくても不満があったわけではない。
 せめて、「猫が行方不明」や「アメリ」にあふれているエスプリでもあれば、ずっとすばらしかったと思う。

 この映画の駅も、モンパルナスでもなければ、ガール・デュ・リオンでもなく、まるで、ニューヨークのセントラル・ステーションのようだった。

 駅をうろついて、カッパライを働く少年を追いかけまわす公安官をやったサシャ・バロン・コーエンは、完全にミス・キャスト。なんてヘタな役者だろう。「スウィニー・トッド」に出ていたらしいが、おぼえてもいない。

 出演者のほとんどがイギリスの俳優、女優たちなので、ひどくアングロ・サクソンの匂いが立ちこめている。
 こういう役なら、さしずめレイモン・コルデイ(「ル・ミリオン」)あたりにやらせたら、たちまちパリの気分が立ちこめてくる。30年代の俳優なら、ガストン・モドーあたり。「戦後」ならフェルナン・ルネ。もっと後年なら、ルイ・ド・フュネス。
 フランスの役者なら、スクリーンに顔を出したとたんにパリの気分がひろがってくる。

 父を亡くした少年の後見人になる、酔いどれの叔父さんをやったレイ・ウィンストン。
 これも、「デヴィッド・カッパフィールド」に出てくる悪人のようだし、駅でコーヒーを楽しんでいるオジさん(リチャード・グリフィス)も、オバさん(フランシス・デ・ラ・トゥーア)もミス・キャストだなあ。

 すぐれた舞台俳優でも、映画に出て、すぐれた演技をみせるとはかぎらない。不思議なものだと思う。

 役者の悪口はいいたくないのだが、リチャード・グリフィスは、「フランス軍中尉の女」や「炎のランナー」の頃のほうがずっといい。この映画では、ロバート・モーリーそっくりのオジイさんになっているが、これがハンガリー出身のS・Z・ザコールあたりの役者だったら、珈琲を飲んでいるだけで、何かあたたかなパリの空気が流れてくる。
 オバさんのフランシス・デ・ラ・トゥーアも、「アリス・イン・ワンダーランド」で見たが、こんな役なら、ミルドレッド・ダンノック、あるいは、スプリング・バイントンといったオバさんのほうがずっといい。
 ようするに、この映画に出てくるワキの俳優たちは、まるっきりパリの匂いを持たない連中ばかり。
 この映画で「パパ・ジョルジュ」をやっているベン・キングスレー、近くの古書店の主人(ブキニスト)をやっているクリストファー・リーは安心してみていられたが。

 ベン・キングスレーは、「ガンジー」、「シンドラーのリスト」などで見ている。
 この映画では、昔のオーブリー・スミスみたいな、いかめしいオジイさんをやっていたが、途中で、手品師のジョルジュ・メリエスに「変身」する。(映画のストーリーからいえば、手品師から映画監督に「変身」するわけだが。 
 (つづく)

2012/04/11(Wed)  1374
 
 春である。パリには、マロニエが咲きはじめているだろう。
 白い花。紅い花。
 春や春。ああ、爛漫のローマンス。
 というわけで――映画評ではなく、映画についての漫談閑話を語るのは、けっこう楽しい。
 「ヒューゴの不思議な発明」は「巴里の屋根の下」、「パリの空の下セーヌは流れる」、「影なき軍隊」、「パリは燃えているか」といった映画史に残るような作品になるかどうか。

 1930年のパリ。たとえば、リュー・ワグラムで、マリー・デュバがシャンソンを、夜の「リド」の前では、水着だけに豪華な毛皮のコートを無造作にひっかけた女が、自動車から降り立つような風景。
 シャンゼリゼなら、石鹸の「キャダム」のネオンサインが輝いて、「イスパノ・スイザ」の前を通り、「テアトル・フェミナ」に出れば、新人女優のアルレッテイが、ものすごい迫力で舞台に登場している。
 「ポゾール王の冒険」の初日。まだ無名のエドウィージュ・フィエール。おなじように無名の踊り子たち、シュジィ・ドレール、メグ・ルモニエ、シモーヌ・シモンたちが、おそろいの乳当て(ブラジャー)とズロースで、キャーキャーいいながら舞台に飛び出して行って美しい素足をはねあげているだろう。

 「ヒューゴー」1930年のパリに、そんなものは見当たらない。

 アメリカ映画が、フランスを舞台にすると、たいていの場合、フランスの風味は消えてしまう。「望郷」(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督/1937年)が、「アルジェ」(ジョン・クロムウェル監督/1939年)のような、どうしようもない愚作に変わる。 それどころか、さらに後年、ミュージカルの「迷路」(ジョン・ベリー監督/1948年)になる。あいた口がふさがらない。

 アメリカ人がフランスを舞台にした映画を作ると、ほとんど例外なく、軽薄なものになってしまう。舞台だって、「オンディーヌ」や、「ジジ」の舞台は、ひどく安手なものになったのではないか。

 スコセッシだってそのあたりに気がつかないはずはない。
 「ヒューゴ」ではパリの駅や、市街が描かれる。実際の風景をもとに想像もまじえて描いた、とスコセッシ監督はいう。彼がイメージしたのは、ルネ・クレールの「巴里の屋根の下」だそうな。え、冗談キツイなあ。
        (つづく)

2012/04/10(Tue)  1373
 
 マーティン・スコセッシの新作、「ヒューゴの不思議な発明」は、タイム・スリップもの、マッド・サイエンティストもの、何もかも入り込みの3D映画なので、いろいろな趣向が組み込まれている。

 映画の草創期、ジョルジュ・メリエスのトリック映画に見られるように、タイム・スリップものが存在した。ついしばらく前も、「マイ・ラヴリー・フィアンセ」(ジャン=マリー・ゴーベール監督)のような映画があった。中世の「騎士」(ジャン・レノ)が、魔法使いのクスリのせいで、現代にまぎれ込んでしまう。まあ、そんなSF映画。
 時空を越えて、別の世界に投げこまれたらどうなるか。私たちは、サイレント映画からあきもせず、このテーマ、異次元世界におかれるというシチュエーショナルな映画に眼をみはってきた。

 映画の背景になるパリ駅の大時計のメカニックな構造。これを、たとえば、「大時計」(ジョン・ファロー監督/1948年)の時計と比較したら、それこそ、ジョルジュ・メリエスの「お月さま」と「アポロ 13」(ロン・ハワード監督/1995年)ほどの差があるだろう。比較も何もあったものではない。
 ついでにふれておけば――「大時計」は、レイ・ミランド、チャールズ・ロートン主演。原作は、ケネス・フィアリング。とてもいい作家だったが、これだけで消えてしまったっけ。映画もなかなかいい映画だったが、もう、誰もおぼえていないだろう。

 驀進する汽車がつっ込んでくるパニック・シーン。これも「ヒューゴ」では、リュミエールの実写フィルムが「伏線」になっている。私たちは、数多くの汽車や地下鉄のパニック・シーンを見てきた。だから、いまさら3D映画で見せられても、余り驚かない。
 むろん、CG技術を駆使した「ヒューゴ」のスペクタクルは、1953年に登場した3D映画とは、これまた比較にもならない驚異的な映像になっている。

 スコセッシの「ヒューゴ」にはリュミエールの活動写真のほかに、もう一つ、機械人形という「からくり」のもつ妖しい倒錯の世界までからんでいる。
 はるかな昔の「メトロポリス」(フリッツ・ラング監督/ブリギッテ・ヘルム主演/1927年)の機械人形。

 全身、ギラギラの金属の裸像だったブリギッテ・ヘルム。「彼女」は、大恐慌と破局的なインフレーションという資本主義の危機と、すでに地平の彼方に姿を見せはじめているナチスの恐怖の隠喩ではなかったか。
 もし、こういういいかたに少しでも意味があるとすれば――スコセッシの機械人形は、リーマン・ショック以後の、デフレーションの危機的な状況(これまた資本主義の危機だが)のなかで、心臓にハート形の鍵を嵌め込めば生命力を回復する。
 心臓にハート形の鍵を嵌め込む。
 いかにも、アメリカのオプティミズム。この機械人形が「いのち」をもつかどうかは、かつてのフランク・キャプラの「我が家の楽園」、「群衆」などに見られるイデオロギーに通底するだろう。
 アメリカ再生というハリウッド的ダイアレクティックス。

 「ヒューゴ」の機械人形は「メトロポリス」の機械人形よりもはるかにエロティックで、しかも人間的な表情をもっている。スコセッシがどこまで意識して演出したかわからないけれど。

 私はスクリーンとはまるで無関係なことを考えながら、この映画を見ていた。
 それだけで楽しかった。
          (つづく)

2012/04/09(Mon)  1372
 
 先日、マーティン・スコセッシの新作、「ヒューゴの不思議な発明」を見た。
 この監督が、はじめてとりくんだ3D映画だから見たわけではない。この映画が、アカデミー賞の作品賞、監督賞など、11部門にノミネートされているからでもない。
 私は、つむじまがりなので、どんなにヒットしたからといって「アバター」や「アビエイター」を見たいとはおもわない。

 私がこの映画を見たのは――映画の草創期を描いた「今までとは違う、個人的で、特別な作品」というスコセッシのインタヴューを読んだから。

 映画の背景は――1930年代のパリ。
 主人公は、まだ幼い少年「ヒューゴ」(エイサ・バターフィールド)。

 スコセッシの演出に弛緩した部分はない。冒頭から、快調に、中央駅「ル・テルミニュ」(サン・ラザールだろうと思う)が紹介され、駅の構内でオモチャなどを売る老人、駅の花売り娘、駅でコーヒーを飲んでくつろぐオジサン、オバサン、いつしかこの駅に住みついて、駅の大時計のネジを巻いてい少年たちが次々に紹介される。

 どうも、こういう映画のストーリーを要約するのはむずかしい。

 少年の父(ジュード・ロウ)は機械の修理専門の職人。博物館から壊れた機械人形を持ち帰って、修理にとりかかったが、思いがけない事故で亡くなる。父は、人形修理のプロセスを克明に記録したノートを残していた。
 少年はその日その日を生きるためにわずかな食べものをカッパライながら、父の残したノートをたよりに、機械人形の修理を手がける。
 修理に必要な工具などは、駅の構内でおみやげやおもちゃなどを売っている売店から盗んでいた。だが、少年の盗みに気がついた店の主人、「パパ・ジョルジュ」(ベン・キングスレー)につかまってしまう。

 「パパ・ジョルジュ」は老人で、これも初老の夫人、「ママ・ジャンヌ」(ヘレン・マックロリー)、孫の「イザベル」(クロエ・グレース・モレッツ)といっしょにひっそりと暮らしている。
 「イザベル」は読書好きな少女で、「ヒューゴ」と知りあって、思いがけない冒険の世界に入ってゆく。

 一方、「ヒューゴ」は「イザベル」とのかかわりで、機械人形のもとの所有者が、駅の構内で玩具などを売っている老人、「パパ・ジョルジュ」と気づく。
 この老人こそ――リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフイーを、実写からストーリー性と動きのある無声映画に発展させたジョルジュ・メリエスその人だった……

 映画評を書くわけではないので、映画をみながらいろいろな事を考えるだけでも楽しかった。
         (つづく)

2012/04/05(Thu)  1371
 
 ケーキは、不思議なものだという。
 堤 理華の訳したニコラ・ハンブルの、「ケーキの歴史物語」の冒頭に出てくる。

 メイン・ディシュに比較すれば、食べものとして、ケーキはそれほど重要なものではない。しかし、ケーキがなければ、正式なディナーとはいえないし、ときには、ウェディング・ケーキのように、とてもお菓子とは思えない堂々たる異彩を放っているケーキもある。

 ここから、ニコラ・ハンブル先生は、ケーキとは何か、という問題設定と、それこそ古代から、人間を魅了しつづけて来たケーキの歴史の検証が行われる。
 ただし、小むずかしい本ではない。

 読んでいて、おいしさが舌に感じられるような本。
 上質なケーキを口にするような、口あたりのいい、美味しい本だった。

 第5章の「文学とケーキ」を読んだ。
 プルーストの「失われた時を求めて」、ディケンズの「大いなる遺産」、ジェーン・オースティンの「エマ」、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」など。

 プルーストの小説に出てくる有名な「マドレーヌ」は、「厳格で信心深いその襞のしたの、むっちりと官能的な、あの菓子屋の店頭の小さな貝殻のかたち」ということは知っていた。この小説の「語り手」が、「マドレーヌ」を口に含んで食べると、さまざまな記憶がよみがえってくる。
 実際には――紅茶にひたしたかけらをそっとすすっただけで、記憶が押し寄せてくる」のだった。
 へえ、そうだったのか。
 私は、この本からはじめて教えてもらった。

 それにしても、プルーストの「コンブレー」に、どんなお菓子が出てきたのか。まるで記憶にない。もともとプルーストの小説にくわしくないのだから、どんなお菓子が出てきたのか思い出せなくても仕方がない。
 私が思い出したのは――「スワン」の「オデット」に対する恋が進行して行く部分で――社交界のご婦人がたの食卓の席上、アレクサンドル・デュマ・フィスの新作が話題になって、そのなかで「日本のサラダ」が出てくる。
 これがわからない。
 当時、コメディー・フランセーズが上演したデュマ・フィスの「フランション」に出てくるそうな。
 私は、アレクサンドル・デュマ・フィスもよく知らない。だから、「フランション」も知らないので、「日本のサラダ」がどういうものなのか見当もつかない。

 きっと、このまま知らずに終わってしまうだろうな。

 「不思議の国のアリス」のなかで――ケーキはヴィクトリア時代の子どもには禁じられていた(すくなくとも、きびしく制限されていた)と知って、これまた驚いた。そういわれればそうだろうなあ。
 お菓子を食べる「デヴィッド・カッパフィールド」なんて想像もつかないよなあ。
 「ジェルヴェーズ」だって、幼い「ナナ」だって、お菓子を食べさせてもらえなかったに違いない。

 この本を読んでいて――マリー・アントワネットが食べた(らしい)ケーキを食べたことを思い出した。
 大阪のNHKの番組で、辻料理学校の、辻 静雄さんのお話を伺ったときだった。学校のシェフが作ってくれたもの。おいしかった。マリー王妃のラテイソイキを見るような思いがあった。(漢字がないから仕方がない。)
 そのとき以来、私はチョコレート・ムースというお菓子を好んで食べるようになった。
 マリー・アントワネットが食べたお菓子以上においしいものが、いまの日本ではいくらでも作られているのだから。

 「ケーキの歴史物語」を読みかけて、いろいろなことを思い出す。だから、たのしい本になりそうな気がする。

 翻訳家が、ほんとうに「おいしい」本を訳す機会はひどく少ないものなのだ。
 植草 甚一さんは、いろいろな新しい作家を読んでたくさん紹介なさったが、ご自分で翻訳なさったのは、コンラッド・リクターと、もう1冊だけだった。
 だから、「ケーキの歴史物語」のように楽しい本を翻訳できる堤 理華の才能が羨ましい。

 岸本 佐知子の訳した「変愛小説」を贈られたとき、私は毎日1編ずつ、おいしいお菓子を食べるようにして読んだ。
 こんどは、「ケーキの歴史物語」を、それこそおいしいケーキをつまむようにして読むことにしよう。

(注)  「ケーキの歴史物語」 (原書房)
       ニコラ・ハンブル著
       堤 理華訳  
        2012年3月23日刊 2000円

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E3%81%8A%E8%8F%93%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8-%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9-%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB/dp/4562047844

2012/04/04(Wed)  1370
 
 イトド。
 もう誰も知らないだろう。漢字で書けば、竃馬(カマドウマ)。
 コオロギに似た昆虫。ただし、コオロギは全身が黒光りしているのに、カマドウマのほうは茶色。コオロギはいい音色を出す演奏家だが、カマドウマは、台所や便所のあたりをノソノソ歩きまわっているだけ。
 別名、イトド。

   ホダたけば よろぼいきたる イトドよイトド  蝶衣

 ホダも、もう死語になっている。
 漢字では木ヘンに骨。パソコンにはこの字はない。イロリにくべたり、竈(カマド)に火をつけるミチビにする木クズのこと。
 私は都会育ちなのでイロリも竈も無縁だったが、戦後まで、田舎の農家のどこでも見かけた。イトドは都会の台所や便所にも出没していた。

   温石のそろそろさむる 夜明けかな     華渓

   棚に置きて 帯しめ直す カイロかな    鳴雪

   冷え尽くす 湯婆に 足をちぢめけり    子規

 温石(おんじゃく)は軽石を火であたためて、布にくるんで、寒さをしのぐ。中世からつたえられてきたらしい。今では、どこにも見られないだろうなあ。
 カイロは懐炉。私の少年時代のカイロは、メガネのケースほどのサイズの金属のケース。長さ10センチばかり、幅1・5センチばかりの和紙の袋に木炭などの粉末をつめたもの2本をならべて入れる。その先ッチョに火をつける。
 はじめは、ほとんど熱さが感じられない。やがて、少しづつ温かくなってくる。
 その温かみがなつかしい。

 湯婆はユタンポ。漢字では湯湯婆だが、子規の時代には「タンポ」と読んだのかも知れない。もっとも子規の句にリアリティーを感じる人ももういないだろう。

 東日本大震災のあとの節電で、防寒用にユタンポが復活したという。私は、少年時代のユタンポに強い思い出があるのだが――ここに書くほどのことでもない。

2012/04/02(Mon)  1369
 
 現在の同人雑誌は、そこに発表されている作品の書き手も、その読者も、圧倒的に老人が多い、という。そうだろうなあ。
 かつては、若くて無名の書き手が、同志と語らい、あいはかって、同人雑誌を創刊し、そこに自分たちの作品を発表する。誌面には、若者の鬱勃たる野心があふれていたものだが、今では、マンガの同人誌にそれが見られる程度で、文学の同人誌は老人たちのサロンと化している。

 そこに発表されている作品も、定年後の生活や、自分史といった回想、あるいは、老後を迎えた消閑の趣味、または老年になってから海外に出かけた旅行記など。
 むろん、いろいろな疾病の体験や、老々介護の明け暮れ、ときには、老いらくのロマンスなど。
 文壇や、文芸誌にはついぞ登場しないのだが、老人文学もまた現代文学のひとつのジャンルと見ていい。

 老人になれば、誰しも老後の生活や、自分の過去に目を向けるようになる。それを文学作品として表現する意欲をもっても当然で、非難される理由はない。
 ただ、書いている本人が、世界の中心にいるような気で書いているとすれば、どうにも恰好がつかない。その滑稽さを描くなら別だが。

 私のブログもそんなものの一つ。とはいえ、自分の病気の体験や、介護される明け暮れなどを書くつもりはない。老いらくの恋。これはいつか書きたいけれど、どうせフィクティアスな妄想になるのがオチ。はじめから私小説など書く気づかいはない。

 老後を迎えての消閑の趣味は(映画の試写を見に行かなくなったため)DVDで好きな監督の映画を見ることぐらいか。公開されてもほとんど評判にならなかった映画、ハリウッドのどうしようもなく程度の低い映画を見て、思いがけない「発見」をしたり。
 たまにAVも見る。驚くほどみごとな女の子を「発見」することもある。イタリア・ルネサンスの君主、ルドヴィーコ・イル・モーロに見せたら、さっそく「色道天下一流人」という感状を出すような美女たち。(感状という名詞がわからなかったら辞書で調べてください。)

 俳句や、歌舞伎、遊女のことなど、これまで書く機会がなかったテーマも、ときどき書くつもり。ただし、まるっきり無趣味な男なので、何を書いたところでたいしておもしろいはずもないのだが。

 老齢に達した作家が、晩年に書く作品では――藤枝 静男、古山 高麗雄、小島 信夫などの仕事を思い浮かべる。最近では、黒井 千次、三木 卓なども、つぎつぎにいい作品を書いている。こうした作家に共通するのは、自分の描く「老人」と、老齢に達した作家自信の距離がまったくないこと。作家としての修練が、そのままゆたかな人間観察に昇華しているあたりだろうか。
 最近の古井 由吉の文章など、老齢の作家のなかでもじつにすばらしい。

 私はまるで違うタイプ。いつまでたっても成熟しない、イトドの部類か。
 ようするに、ボケた(トボケた)作家だねえ。(イトドの説明はあとで)
 そんな男が自分史を書いたところでたいして意味もないのだが、あてどもなく放浪していた自分をおもしろおかしく描いてみたい。

 私の読んだ最高の自分史は、スタンダールの「アンリ・ブリュラール」。最高の自伝の一つは、フローレンス・ナイチンゲールの「自伝」。

2012/03/31(Sat)  1368
 
 嫌いな作家はあまりいない。
 個人的に大嫌い、というか、虫酸が走るようなやつはいる。
 唐木 順三。こいつだけは許さない。もうひとり。中村 光夫。こんなノは、せいぜいせせら笑ってやればいい。

 嫌いなヤツのことは考えるだけでムカつく。

 嫌いな作品は――ないわけではない。
 例えば、「無限抱擁」。「もめん随筆」。

 好きな作品をあげれば――矢野 龍渓の「浮城物語」、若松 賎子訳「小公子」、一葉の「たけくらべ」、漱石の「夢十夜」、中 勘助の「犬」、または「島守」。芥川 龍之介の「秋」、岸田 国士の「澤氏の二人娘」、江戸川 乱歩の初期の作品。村松 梢風の「上海」、小林 秀雄の「Xへの手紙」、永井 荷風の「墨東綺譚」。

 私の好きな作家は――渋澤 龍彦、五木 寛之。

 好きな作品は――川端 康成の「眠れる美女」、阿部 知二の「地図」、坂口 安吾の「風博士」、伊藤 整の「幽鬼の街」、萩原 朔太郎の「猫町」、横光 利一の「機械」、川口 一郎の「島」、川口 松太郎の「サロメの白粉」……

 同世代の、安部 公房の「榎本 武揚」、三島 由紀夫の「卒塔婆小町」、吉行 淳之介の「夕暮まで」、遠藤 周作の「沈黙」。
 石上 玄一郎の作品のどれか、小栗 虫太郎の作品のどれか、日影 丈吉の作品のどれかなどをまぜて――私の「世界」は、だいたい完成ということになる。

 むろん、友人たちの作品もあげておこう。

 西島 大の「富島松五郎の生涯」、若城 希伊子の作品のどれか、鈴木 八郎の「黛」、山川 方夫の「愛のごとく」など。

2012/03/28(Wed)  1367
 
 前に書いたのだが、これから私が書く女優さんは、クララ・ボウ。マルレーネ・ディートリヒ。むろん、たかだか3枚程度の雑文だが。
 もう書き終わったのは、バーバラ・ラマール。これは、50枚。
 この夏に発表できるはずだが、どうなるか。

 かつて、こういう女たちが現実に存在していたこと。それがまるで奇跡のように思えると私は書いた。
 もはや、現実離れした、はるかな過去のことでも――私がまじめに書いておけば、いつか誰かが関心をもつかもしれない。時世(ときよ)は変われ、タレひとり見たこともないスターたちの運命に心を動かされるやもしれぬ。

 私は1920年代を知らない。
 何もかもが、私の生きた時代とちがっている。むろん、今の時代ともにならない時代。 あんなにすばらしい、輝かしい時代に、系旬を過ごせたら、どんなによかったことか。
 ジャック・フィニーの登場人物がいう。

  今とは、いろいろなことがあまりに違いすぎる。(中略)もちろん人間も随分違
  った。私たちは無知だった。お前(息子)の半分も利口ではなかった。(中略)
  それでも 、私たちは、お前たちより、人が良かったような気がする。お前たち
  より忍耐づよかった。今あるような憎しみを、持った覚えが私にはない。もっと
  のんきで、もっと生活を楽しんでいた――ようするに、今よりずっと生き生き
  していたんだ! 人生が何のためにあるのかを知っていたんだ。(福島正実訳)

 彼は、20年代に青春を送れたことを幸運と思っている。それにひきかえ、今の若い者は気の毒だ。何もかもが、あまりに陰気すぎるからな。

 私は、20年代に青春を送れたような幸運な世代ではない。それでも、今の若い人たちは、私などよりはるかにはげしく、不安定で、混乱した時代に生きている。

 私が、このところずっとサイレント映画の女優たちのことを考えているのは、なにも現実逃避ではない。
 むしろ、彼女たちの生きかたから、私よりも後の世代につたえられるべきもの、悲惨から輝きまで、何かがあると思う。だから、書いているのだ。

2012/03/24(Sat)  1366
 
 私は、毎日、近くのスーパーに食料品を買いに行く。
 夕方、買物に行くと、ほとんどかオバさんばかり。

 近くのデパートで、「九州物産展」とか「北海道展」と銘打って、その土地の生産品を売る。
 先日、あるデパートでやっていた「北海道展」に行って見た。

 デパートの8階が催事場になっていて、エレベーターなら直通だが、エスカレーターは7階まで。ここから少し歩いて、8階に行く別のエスカレーターで移動する。
 このエスカレーターを利用した。

 上からエスカレーターで下りてきた中年のオバさんが、すれ違いざま、ひとりごとをいった。
 「5時だよ」
 私に語りかけたわけではない。一瞬つぶやいただけで、下りて行った。それだけのことだったが、「北海道展」にやってきたオバさんが、時間を気にしながら買い物を終えて、ほっとしたのだろうと思った。

 催事場に行ってみた。ほとんどの店は展示品を片づけて、台に白いシーツがかけてある。奥のほうに、二、三、まだ残った商品を片づけている店があった。
 そんな店に寄って行った。売れ残りのシューマイがあった。
 「これ、下さい」
 店のオバさんは、私の風態を見て、300円もまけてくれた。

 ここまできで、はじめて気がついた。

 こういうデパートの物産展は、終業時間近くになると、日もちのしない食品の値をさげるのだった。わざわざそれを目当てにくる客もある。さっきエスカレーターですれ違ったオバさんは、私をそんな客のひとりと見たに違いない。
 あんた、せっかくなのに、もう5時過ぎだから「北海道展」はおしまいよ、という意味だったのか。
 値下げをめあてに駆けつけたオジイさんと見たのだろう。

 私は、エスカレーターですれ違ったオバさんの親切がうれしかった。同時に、「北海道展」のおしまいになって値下げをめあてに駆けつけたオジイさんに見えたのだろうと思うと、おかしかった。まあ、老残の身だから、他人がどう見ようと関係がない。

 外に出ると、さむさがいっせいに押し寄せて来たが、宵闇があたりにひろがっていながら、未だ明るさがただよっている。こういう瞬間が私の好きな時間だった。
 少年時代から、暮れなずむ瞬間の風景に、なぜか心を惹かれるのだった。

 シューマイはおいしかった。

2012/03/21(Wed)  1365
 
 寒い日がつづいていた2月。
 夕方、帰宅の途中、駅前のトンネルの先で、デッサンらしい絵を並べて売っているカップルがいた。

 ふたりで、共同でマンガを描いている。ファンタジーもの。
 それほど際だって個性的なマンガとも見えなかった。


 帰宅の途中、無名の芸術家が自作を路傍に並べて売っている。その絵を見て、ほしいと思ったわけではない。しかし、寒空の下、自分のデッサンを並べている若いマンガ家志望のカップルにエールを送ってやりたかった。

 値をきくと、デッサン自体は非売品で、その絵を集めたCD−ROMを売っているという。1200円。すぐに買うことにした。
 あいにく5000円紙幣しかなかったので、それを出すと、ふたりがひそひそ何か相談している。女の子が寄ってきて、おつりがないという。
 「じゃ、私がどこかでくずしてこよう」
 その場を離れた。

 近くの本屋で、雑誌を買って、ふたりのところに戻った。
 CD−ROMを受けとって、帰ろうとしたとき、女の子がモジモジしながら、別のCDを贈ってくれた。これはそのふたりが作詩、作曲したものらしい。

 私は礼をいってそのCDを頂戴した。それだけのことである。

 若くて、おとなしいカップルだった。
 ふたりが、いつかマンガ家として自立できればいいと思う。

2012/03/18(Sun)  1364
 
 ふと気になったこと。

 テレビで、桐生の絹織りもの、銘仙の職人の仕事を見た。(2012.1.12.午後6時、「挑戦! 2012」という番組だった。)
 この番組で、女のアナウンサーが、「銘仙」という言葉を、「メイ・セン」と発音した。聞きなれない発音で、英語の May と Cent を合わせたような発音で、ドイツの陶器の「マイセン」を連想した。

 つづいて、男のアナウンサーが、やはり「メイ・セン」と発音した。

 私は、こういう発音ははじめて聞いた。私はメーセンと発音する。

 ねんのため、家人にも聞いてみると、やはり、メーセンと発音していた。

 この番組に出た新井 淳一という桐生の絹織りものの専門家も、はっきりメーセンと発音していた。

 日本語はむずかしい。

 翌日の同じ番組で、アナウンサーが、「昨日の放送で、銘仙の発音に誤りがありましたので、訂正いたします」
 とだけ弁明した。

 恥ずかしそうな顔もしていなかった。

2012/03/14(Wed)  1363
 
 少し前のこと。
 1月24日、テオ・アンゲロプロスが亡くなった。
 「旅芸人の記録」、「エレニの旅」、「第三の翼」などの映画監督である。三部作の最後の作品になるはずの「もう一つの海」の撮影中、アテネ近郊で、オートバイにはねられて死亡した。なんともいたましいできごとだった。

 しばらく前までの私は作家や詩人の訃を知ると、その人たちの作品を探しては読むことにしていた。たいして意味のあることでもないが、追善の思いもあったと思う。

 ところが、映画人の訃を聞いても、ほとんどの場合、ゆかりの映画1本すら見ることができないのだった。
 私が見たいと思ったテオの映画は「シテール島への船出」だが、残念なことにビデオもDVDももっていなかった。
 だから、心のなかで、ところどころ映画のシーンを思いうかべるだけで、アンゲロプロスを追悼した。

 ホイットニー・ヒューストンが亡くなった。
 2月11日午後3時55分(日本時間/12日午前8時55分)、ロサンジェルスのホテル「ビヴァリー・ヒルトン」の一室で倒れていたという。

 有名人、とくに映画スター、シンガーといった芸術家が生涯を閉じたとき、ありし日の名声をおのれの心にきざみつけようと願うのはごく自然な感情だろう。その願いは、ファンならなおさら切実なものになるだろう。

 私はホイットニー・ヒューストンのファンではなかった。彼女のCDももっていなかった。
 だからDVDの「ボディガード」を見て、ホイットニーをしのぶよすがにしたかったが、これももっていないのだった。

 今後の私がホイットニーについて、何か書くだろうか。おそらくないだろう。では、テオ・アンゲロプロスについて書くことがあるだろうか。
 これもないだろう。

 故人の行実をつたえるのは、そのファンや、その平生を知る人によって語られるべきだと思う。私などはそれによって、あらためて故人の冥福を祈るしかない。
 哀惜の情はその芸術家を知る人にとってあまねきものとなるだろうから。

2012/03/09(Fri)  1362
 
 焼け出された日の朝、私は吾妻橋のたもとにあるポートワインの工場に行った。
 ここにも、数人の人が入っていた。工場内は全部焼け、無数のビンが破裂して、ワインの匂いがたちこめていた。破裂したビンのなかに、煮立ったお湯のようなワインが残っている。みんなが、割れたビンを口にあてて、熱湯のワインを飲んでいるのだった。
 私もワインを飲んだ。咽喉の渇きを癒すために。すぐに酔いがまわった。
 この工場に入った連中は、罹災者のなかではいちばん幸福な気分を味わった人たちではなかったろうか。
 つい数時間前まで業火に焼かれて、死の恐怖にさらされていたことを忘れて、無尽蔵にころがっている美酒に酔いしれたのだから。

 昼になって、どこかの工場の焼け跡にブドウ糖の大きな固まりが放置されているというウワサが流れてきた。それを聞きつけた罹災者たちが押し寄せた。甘いものにたかるアリのように。私も、蟻の仲間になった。
 めいめい、焼け落ちた瓦や棒ツ杭で、そのブドウ糖の固まりをカチ割って、両手にかかえて持って帰ろうとしていた。
 私はやっと掌に入る程度のブドウ糖のカケラをひろって、黒く焼けた灰をこそぎ落として口に入れた。唾液も出なくなっていたが、それでも甘くておいしかった。
 焼け出されてから、はじめて口にした食べものだった。

 焼けた石油缶でミズアメをすくいあげて、もち帰った人がいた。スプーンや箸があるわけもない。ミズアメは、指でしゃくってなめるしかない。それでも、飢えた人たちがアリのようにたかっていた。
 ミズアメに片栗粉か何かをまぶして食べようと考えた人がいる。そして、誰かが、どこかの工場の焼け跡で、白い粉の山を見つけた。
 その粉を手にすくって、ミズアメにからめまるくする。つぎつぎにアメダマができた。
 そのアメダマを口にほうり込む。
 つぎの瞬間に、その人は息が絶えた。

 この粉末をメリケン粉と間違えた人が続出したらしい。私の隣組にも、その粉が致死的な青酸カリか砒素のような毒物だという知らせが届いた。
 それを聞いた連中はあわてて北十間川の中に、石油缶をつぎつぎに放り込んだ。私の隣組では誰も被害をうけなかったが、近くの隣組では何人か死者が出たらしい。

 毎年、3月になると、私の内面には1945年のさまざまな光景を思い出す。

 吉永 珠子が書いてきた。

  戦争を知らない私は、大きな災害、不幸が、直接の被害ではないにしろ、
  このように心に覆いかぶさってくるのだとはじめて知りました。

 墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。
 私の内面には「覆いかぶさってくるもの」がけっして消えない。

 業平橋で生まれ育った詩人の関根 弘、同じく作家の峰 雪栄(あまり有名にならずに筆を折ったが)が生きていたら、私と同じことを考えるだろう。

 スカイツリーの見物なんぞに誰が行くものか。

2012/03/08(Thu)  1361
 
  3月10日が近いので、もう一度、書いておく。
 
 墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。物見高い連中がわれがちに押し寄せるだろう。
 私ですかい?
 せっかくでござんすが、ご見物は遠慮させていただきやす。へえ。

 少年時代の私が住んでいた小梅町、吾妻橋二丁目は業平橋のすぐ近くで、小梅町から今のスカイツリーまでほんの数分、吾妻橋二丁目からは、ほんの二、三分の距離だった。

 1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による大空襲で壊滅した。

 この大空襲で、私の隣組(全体で30名ばかり)にも半数近く死者が出た。すぐ近くの「お妾横町」の住人たちは、ほとんど全部が焼死している。
 なんとか焼死しなかった私は、まだ煙がくすぶって、焼死体が折り重なっているなかを近くの駅に押しよせる群衆を見た。亀戸にむかう大通りは無数の死人で埋まり、上野、御徒町、鶯谷は無残に焼けただれて、罹災者たち、さらには帰宅困難者たちがひしめきあっていた。
 今と違って、救援物資があるはずもない。食べるものもなかった。咽喉がかわききっていたが、水一滴もなかった。
 少年の私は、公園に行けば水道があると思って、歩き出した。公園で見たのは、この世のものとも思えない地獄図絵だった。
 着ているものが焼けて、茶色、暗褐色、黒い焼死体が、両手をひろげてゴロゴロころがっている。
 それを見ても感情が動かなかった。ただ、水が飲みたいと思って歩きつづけた。

 公園に水道はあったが、セメントが焼け落ちて、水が出るはずもなかった。その近くの公衆便所の中に、やはり黒こげの死体が倒れ、その下に茶色の死体がひしめきあっていた。
 その日、私たち家族は何も食べなかった。

 焼け跡は、どこに行っても、食料や水を探す人たちが歩いていた。誰もが着のみ着のまま、焼けこげた服やモンペ姿、ときには下着も焼けて赤くなった肌をさらした人たちばかりで、墓場をうろつくゾンビのようにさまよい歩いていた。すべてが焼きつくされている。何もかも焼けているので、吾妻橋から神田、九段まで、ひろびろと見通しがきいた。下町全部が焼きはらわれたので、見はらしがきくようになっていた。
    (つづく)

2012/03/07(Wed)  1360
 
 昭和初期、日本はアメリカの大不況の影響をモロにうけていた。当然ながら、大学生の就職活動も危機的な様相を呈している。

 下村 海南の別の随筆(「現代」昭和4年10月号)の一節。

    此の如き実情は就職難の場合に於て 更らに著るしい。日本三井三菱住友正
    金第一安田その他の銀行はもとより、各民間の重なる会社に就職を志願する
    ものは、各数百人を算する。しかも採用さるるものは五指を屈するに足りな
    い。しかし殆どそれらの大部は同じ志願者によりてくり返されてゐる。朝日
    新聞社の入社志願者は千人に近い。しかもその九分九厘までは他の新聞社は
    もとより、他のあらゆる方面にも志願してる。職に就きうるや否やが問題で
    ある以上自分勝手にすき好みして居れぬ。出来るだけ沢山股にかけて、手あ
    たり次第志願をする。現にさる大阪の大学の友人の親しく僕に話したは、卒
    業生の大部は平均七八ケ所に志願してる。尤も多いレコードは十三ケ所に志
    願してゐたといふ事であつた。(後略)(「現代」昭和4年10月号)

 「最も」という部分を尤もと書いているのは、誤記か、誤植か。
 その下村 海南は二年後の「現代放語」(「現代」昭和6年4月号)に書いている。

    卒業近(ちかづ)いて就職運動に火花を散す。世界の不景気の洪水がいまや
    失業者二千万人を突破してる。滔天の渦流に逆(そから)って就職に喘ぐ青
    年の境遇は誠に同情に価する。何分(なにぶん)にも世界対戦の好況に浮い
    た浮いたと全国に学校の総花が振りまかれた。官立の高等諸学校だけが今や、
    学生の数は七万近い。これでは景気が好くなってもはけて逝かれよう道理
    がない。戦後繋船してる世の中にかまはず造船してると同じ事だ。

 現在の私たちは、ギリシャ、スペイン、イタリアの信用不安、リビア、エジプトの崩壊から、シリアまでの「アラブの春」、そして空前の大震災、放射線被害などにさらされている。昭和6年の不況とは比較にならない苦しみにさらされている。

2012/03/06(Tue)  1359
 
 二月、大学、大学院卒業予定者の就活(就職活動)がいよいよ最後の追い込みに入っている。
 今年の就活は、昨年のシーズンよりも、2カ月遅れているため、いわば短期決戦になっているという。

 なにしろ、ものごころついていらい、好況期を知らずに育った世代だけに、就職の希望も人気企業に集中している。

 ある就職情報誌の、就職先の「人気企業」のランキングを見た。
 男女別、文系、理系にわけてある。
 まず、文系男子、理系男子から――

    1 三菱商事        昨年度(1位)
    2 住友商事           (3位)
    3 三井物産           (6位)
    4 三菱東京UFJ銀行      (2位)
    5 伊藤忠商事         (15位)

    1 東芝          昨年度(1位)
    2 日立製作所          (4位)
    3 三菱商事           (3位)
    4 ソニー            (2位)
    5 住友商事           (5位)

 つづいて、文系女子、理系女子は――

    1 東京海上日動火災保健  昨年度(2位)
    2 三菱東京UFJ銀行      (1位)
    3 JTBグループ        (14位)
    4 みずほフィナンシュルグループ (3位)
    5 三井住友銀行         (16位)

    1 明治グループ      昨年度(1位)
    2 ロッテ            (2位)
    3 資生堂            (4位)
    4 森永製菓           (12位)
    5 日清製粉グループ       (・・)

 この調査は、昨年11月から今年の1月下旬にかけて、全国の国公立、私立の学生、7O48人から回答を得たという。(「読売」2012.2,1)
 こんなリストからも、じつにいろいろな状況が読める。    
 一部のジャーナリズムが「女子大生亡国論」といったテーマで、ふざけまわっていた時代もあったっけ。
 そういえば、思い出したことがある。 
   (つづく)
         

2012/03/01(Thu)  1358
 
 最近の私は、前に読んだがあまりよくわからなかった本や、若いときに一度読んだきりで忘れていた本を読み返している。

 たとえば、エリザベート・バダンテール。
 私にはどうもむずかしい本だが、彼女の論理のしなやかさに魅力があった。読んでいるうちに、ときどき反論したくなって、彼女の論理をたどり直すのだが、彼女の説得力たるやたいへんなもので私の反論の余地などあり得ないような気がしてくる。現実にこういう頭のいい女性に出会ったら、私などは逃げ出すだろうな。

 そして、若い頃読んだ作家だが――フィリップ・エリア。

 この作家はもともと誰も知らないだろうが、ゴンクール賞を受けた作家で、私はこの作家と夫人のエレーヌ・エリアが好きだった。
 日本では翻訳もない作家だが、戦後のフランス文学の紹介が、どんなに狭いものだったか。結果として、日本ではフランスの現代文学は、ヌーヴォ・ロマン以後、殆ど読まれなくなってしまった。 残念な気がする。

 昨年の暮れ、岸本 佐知子から、ジョージ・ソーンダーズの「短くて恐ろしいフィルの時代」(角川書店)を贈られた。
 この本はお正月のたのしみにしていたのだが、やっと、初雪(例年より17日も遅かった)の日に読んだ。これまた、じつにおもしろかった。
 岸本 佐知子は、その前に、ショーン・タンの絵本、「遠い町から来た話」(河出書房)を訳していて、翻訳家としてあたらしい分野に乗り出しているように見える。

 最近の私はめっきり本を読むスピードが落ちた。だから、ちょっと前に読んだ本や、若いときに読んだだけの本を読み返している様なものだ。

 先輩の白井 浩司(フランス文学研究者)が、晩年、ジャック・ド・ラクルテールを読み返してエッセイを書いていた心境が、なんとなく分かるような気がする。

2012/02/22(Wed)  1357
 
 あまり本を読まなくなった。
 読んでもスピードが出ない。簡単なことばしか残らない。

 本を読みながら、ときどきメモをとったりする。メモしておかないと、どんな部分も忘れてしまう。どういう本から書きとめたものか思い出さない。

 たとえば――

   一日じゅう機知ばかりひけらかす殿方ほど、こわいものはありませんわ。

 セヴィニエ夫人。

 どこで読んだっけ。もう、思い出せない。思い出せなくても、いっこうに困らないけれど。

   女が間違ってごらん、すぐに男たちがうしろについてくるのさ。

 メェ・ウェスト。

 いつ、どこで、メェ・ウェストがいったおことばなのか。

   始まりは、あたえること。

 ミュリエル・ルケイザー。

 これも凄いね。英語だと、もっと凄い。

   Beginning is giving.

 ときどき、いいことばに出会う。そんなときは、いい俳句を読んだときのように、しばらく楽しむことにしよう。どうせ、すぐに忘れてしまうけれど。

2012/02/15(Wed)  1356
 
 焼け出された日の朝、私は吾妻橋のたもとにあるポートワインの工場に行った。
 ここにも、数人の人が入っていた。工場内は全部焼け、無数のビンが破裂して、ワインの匂いがたちこめていた。破裂したビンのなかに、煮立ったお湯のようなワインが残っている。みんなが、割れたビンを口にあてて、熱湯のワインを飲んでいるのだった。
 私もワインを飲んだ。咽喉の渇きを癒すために。すぐに酔いがまわった。
 この工場に入った連中は、罹災者のなかではいちばん幸福な気分を味わった人たちではなかったろうか。
 つい数時間前まで業火に焼かれて、死の恐怖にさらされていたことを忘れて、無尽蔵にころがっている美酒に酔いしれたのだから。

 昼になって、どこかの工場の焼け跡にブドウ糖の大きな固まりが放置されているというウワサが流れてきた。それを聞きつけた罹災者たちが押し寄せた。甘いものにたかるアリのように。私も、蟻の仲間になった。
 めいめい、焼け落ちた瓦や棒ツ杭で、そのブドウ糖の固まりをカチ割って、両手にかかえて持って帰ろうとしていた。
 私はやっと掌に入る程度のブドウ糖のカケラをひろって、黒く焼けた灰をこそぎ落として口に入れた。唾液も出なくなっていたが、それでも甘くておいしかった。
 焼け出されてから、はじめて口にした食べものだった。

 焼けた石油缶でミズアメをすくいあげて、もち帰った人がいた。スプーンや箸があるわけもない。ミズアメは、指でしゃくってなめるしかない。それでも、飢えた人たちがアリのようにたかっていた。
 ミズアメに片栗粉か何かをまぶして食べようと考えた人がいる。そして、誰かが、どこかの工場の焼け跡で、白い粉の山を見つけた。
 その粉を手にすくって、ミズアメにからめまるくする。つぎつぎにアメダマができた。
 そのアメダマを口にほうり込む。
 つぎの瞬間に、その人は息が絶えた。
 この粉末をメリケン粉と間違えた人が続出したらしい。私の隣組にも、その粉が致死的な青酸カリか砒素のような毒物だという知らせが届いた。
 それを聞いた連中はあわてて北十間川の中に、石油缶をつぎつぎに放り込んだ。私の隣組では誰も被害をうけなかったが、近くの隣組では何人か死者が出たらしい。

 そういう光景を思い出すと、今回の地震で、JRや地下鉄の駅がどこも火災の被害を受けなかったこと、各地に大火が起きなかったことは不幸中の幸いといえるだろう。

 墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。
 しかし、私がスカイツリーの見物に行くことはない。

2012/02/12(Sun)  1355
 
 墨田区に、高さ、634メートルのスカイツリーが建設されて、近く展望台などが開業する。開業前から評判もいい。
 私はスカイツリーの見物に行くことはないだろう。

 1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による大空襲で壊滅した。

 私が住んでいた吾妻橋二丁目は業平橋のすぐ近くで、今のスカイツリーからほんの数分の距離だった。
 この大空襲で、私の隣組(ぜんたいで30名ばかり)にも半数近く死者が出た。直ぐ近くの「お妾横町」の住人たちは、ほとんど全部が焼死している。
 なんとか焼死しなかった私は、まだ煙がくすぶって、焼死体が折り重なっているなかを近くの駅にひしめく群衆を見た。亀戸にむかう大通りは無数の死人で埋まり、上野、御徒町、鶯谷は無残に焼けただれて、罹災者たちがひしめきあっていた。

 今と違って、救援物資があるはずもない。食べるものもなかった。咽喉がかわききっていたが、水一滴もなかった。
 少年の私は、公園に行けば水道があると思って、歩き出した。公園で見たのは、この世のものとも思えない地獄図絵だった。
 着ているものが焼けて、茶色、暗褐色、黒くこげた焼死体が、両手をひろげてゴロゴロころがっている。
 死体を見ても感情が動かなかった。ただ、水が飲みたいと思って歩きつづけた。

 公園に水道はあったが、セメントは焼け落ちて、水がでるはずもなかった。その近くの公衆便所の中に、やはり黒こげの死体が倒れ、その下に茶色の死体がひしめきあっていた。
 その日、私たち家族は何も食べなかった。

 焼け跡は、どこに行っても、食料や水を探す人たちが歩いていた。誰もが着のみ着のまま、焼けこげた服やモンペ姿、ときには下着も焼けて赤くなった肌をさらした人たちばかりで、墓場をうろつくゾンビのようにさまよい歩いていた。すべてが焼きつくされている。何もかも焼けているので、吾妻橋から神田、九段まで、ひろびろと見通しがきいた。下町全部が焼きはらわれたのだった。
       (つづく)

2012/02/07(Tue)  1354
 
 映画、「アウトサイダー」は、昭和58年(1983年)8月27日に公開された。
 主演は、C・トーマス・ハウエル、マット・ディロン、ラルフ・マッチォ。まだ、ティーネイジャーだったダイアン・レインが出ている。
 場所は、オクラホマ、タラサ。

 この都会の貧民街の少年たちは、髪の毛をコテコテにポマード(グリース)でかためる「グリース」と呼ばれている。彼らは、上流の「ソッシュ」と呼ばれるグループと対立している。「グリース」のひとり、「ジョニー」(ラルフ・マッチォ)は、ケンカの相手をナイフで殺してしまう。リーダーの「ダラス」(マット・ディロン)は、山奥の教会に逃がしてやる。だが、この教会が失火で全焼し、「ジョニー」は病院で死ぬ。
 「グリース」のリーダーの「ダラス」は、「ソッシュ」に襲われて死亡する。
 この「ソッシュ」のひとりに、後年、スターになるトム・クルーズが出ていた。

 映画会社は、「アウトサイダー」を夏休みの期間中に公開しようとしていたらしい。逆算すると、翻訳をしあげるまで、時間的な余裕がなかった。すぐにも翻訳にかからなければ、公開前に出せない。なにしろ時間がないので、映画の試写も見なかった。
 「富士通」に頼んで、「山ノ上」にワープロを届けてもらって、私はひたすら翻訳に没頭した。
 私の訳は公開直前に出たが、書店の棚にすでに別の出版社のハードカヴァー本も平積みになっていた。
 私はその翻訳家の手になる「アウトサイダー」を手にとって、書き出しの部分を読んでみた。
 さすがに、流麗で読みやすく、みごとな訳だったが、全体におしとやかで、典雅な訳になっていた。
 なにしろ私の訳は、少年鑑別所に「ネンショウ」とルビをふるような訳なので、まるっきり別の作品の訳のように見えた。当時の「コバルト文庫」編集長は私の訳を読んで、これではまるでハードボイルド小説じゃないか、と青くなったという。
 それでも、私の訳した「アウトサイダー」はかなりいい成績をおさめた。

 このYAシリーズの成績は、大きなバラつきがあって、私のS・E・ヒントン以外では、売り上げ部数がわずか数百部という、惨憺たる成績のものもあって、30冊ばかり出したあとでこのシリーズは打ち切られてしまった。
 坂崎 倭、竹本 祐子、羽田 詩津子、中山 伸子、矢沢 聖子のように、このシリーズの翻訳がきっかけで翻訳家として有名になった人も多い。

 今の私は、「アウトサイダー」を訳していた時期はおもしろかったな、と思う。
 北上 次郎のエッセイを読んだおかげで、忘れていたことをいろいろと思い出した。
 「アウトサイダー」が出たときから、「ヤングアダルト」ということばが定着したのではないか。

2012/02/05(Sun)  1353
 
 とりあえず、S・E ・ヒントンの4作を翻訳することがきまった。
 そして、「コバルト文庫」の「ヤングアダルト小説」シリーズ、初期の作品はほとんど私が選び、翻訳も私のクラスにきていた人たちに依頼したのだった。
 当時の私は、ある翻訳学校で、翻訳家を志望する人たちといっしょに勉強していた。
 後年、この翻訳学校は有名になるが、当時は、まだ零細企業で、生徒数も少なかったし、現実に翻訳家になった生徒もいなかった。私はクラスの生徒たちに翻訳の機会をあたえるために、いろいろな企画を立てては出版にこぎつけようとしてきたのだった。
 私は「コバルト文庫」で「非行少年」(原題「ランブルフィッシュ」)、「続アウトサイダー」を訳した。ヒントンのもう1作、「テックス」は、私が教えていた翻訳学校のクラスでも、もっとも優秀な坂崎 倭に翻訳を依頼した。
 私は翻訳を引きうけて、すぐに「山ノ上」ホテルに入った。映画の公開が迫っていた。私は全力をあげて訳しはじめた。
 シリーズの一番バッターとして失敗はしたくなかった。

 最後の1章を訳し終えたとき、ホテルの窓から夏の夜明けを眺めながら、自分の翻訳は、いちおう合格だろうと思った。
   (つづく)

2012/01/31(Tue)  1352
 
 「アウトサイダー」の翻訳は、私にとってはスリルにみちたものになった。

 集英社の「コバルト文庫」は、それまで翻訳ものを1冊も出したことがなかった。
 若い読者に人気のある津村 節子、富島 健夫、もっと若い女性作家たち、正本 ノンなどのジュヴナイルものだけを出していた「コバルト文庫」としては、いきなりアメリカの翻訳ものを出すことに不安をもったのも当然だった。
 たとえ翻訳ものを出すにしても、映画のノベライズものを出すにしても、「ヤングアダルト小説」という認識ではなかったに違いない。
 当時、私は継続的に映画批評を書いていた。
 ジュヴナイルものでも、70年代から大きく変化してきて、「ダウンタウン物語」や、「ウォリアーズ」のような傑作が登場する。
 1980年のアメリカ映画、「リトル・ダーリング」(ティタム・オニール主演)や、「青い珊瑚礁」(ブルック・シールズ主演)、「フォクシー・レデイ」(ジョデイ・フォスター主演)といった映画があらわれる。したがって、「アウトサイダー」をはじめアメリカで読まれている「ヤングアダルト小説」を翻訳すれば、新しい路線が生まれるだろう。私は「コバルト文庫」が翻訳ものを出すなら、はっきりあたらしいシリーズものとして出したほうがいい、と主張した。
 「ヤングアダルト小説」が、それまでの「少女小説」、「青春小説」とどうちがうのか、そんなことも説明したと思う。
 当時(1982年)の「マイ・ボデイガード」(マット・ディロン主演)や、「タイムズ・スクェア」(トニ・アルバラード主演)、「エンドレス・ラブ」(ブルック・シールズ主演)、「初体験 リッジモンド・ハイ」(フィービ・ケイツ主演)といった映画をあげれば、私のいう「ヤングアダルト小説」の概念ははっきりしてくる。

 「コバルト文庫」側は、かならずしも私の主張を信用したわけではなかった。
 そこで私は、まずトップバッターとして「アウトサイダー」を訳すが、ひきつづいて、S・E ・ヒントンの4作を翻訳することを条件にした。私が土台を作っておけば、シリーズとして「ヤングアダルト小説」が定着する。私としてはそれなりに自信があった。
   (つづく)

2012/01/27(Fri)  1351
 
 北上 次郎のエッセイについてもう少し書いておく。

   この集英社文庫版の訳者あとがきに「ヒントンは、アメリカのYA小説を代表す
   る一流作家です」とあるが、アメリカで発表されたのが一九六七年なら、一九七
   〇年代初頭にそのヤングアダルトという名称が日本に伝わったとしても不思議で
   はない。いや、まだ七〇年代説にこだわっているんですが。
   「アウトサイダー」が翻訳されたのは発表後十六年もたってからだが、翻訳前に
   その名前だけが新しい時代の空気として輸入されたということはなかったろうか。
   一九七〇年前後といえば古い時代の規範がなくなり、新しい時代の到来を告げ
   るさまざまなものがいっせいに浮上した時代である。新しもの好きな日本人が、
   アメリカの若者たちの台頭を告げるムーブメントの名称を使ったことは考えられ
   る。実例を出さないかぎりすべては仮説に過ぎないのでしばらくは宿題にしてお
   くが、とりあえずそのヒントンの「アウトサイダー」を読んでみた。

 このエッセイのおかげで、私はS・E・ヒントンを訳した頃のことを思い出した。

 一九七〇年代初頭にヤングアダルトという名称が日本に伝わったことはない。
 たしかに、「アウトサイダー」が翻訳されたのは発表後十六年もたってからだが、私が翻訳する前に、「ヤングアダルト小説」という名前が新しい時代の空気として輸入されたことはなかった。はっきり断言してもいい。
 翻訳の世界でも「ヤングアダルト小説」を翻訳しようなどと思った人はいなかったはずである。いたとしても、よほどのものずきと見られたに違いない。当時、アメリカのジュヴナイルものを出していたのは、秋元書房ぐらいのもので、それも「ヤングアダルト小説」という概念で出版していたわけではない。おもに中学生、女子高校生を対象にした「少女小説」、「青春小説」といった程度のものだった。
 この出版社のシリーズで、私が注目した作家はモーリン・デイリーだけだった。(作家、ウィリアム・マッギヴァーン夫人である。)しかし、モーリン・デイリーでさえも、ごくふつうの「少女小説」といった程度のあつかいで、まったく評判にならなかった。

 もう時効だから、書いておくのだが――「アウトサイダー」という作品は、私が翻訳するよりも前に、ある出版社が翻訳権を取得していた。これはハードカヴァーの出版権だった。その出版社は翻訳ものを多く出していたし、「アウトサイダー」の翻訳は、若い読者のための翻訳書で有名な翻訳家が手がけることになっていた。
 集英社は後発、というかずっと出遅れていた。
 コッポラがこの作品を映画化して、いよいよ日本でも公開されるときまってから、やっと翻訳権を交渉した。はじめから「コバルト文庫」に入れるために交渉したわけではなかった。たいして期待はしていなかったから、はじめからハードカヴァーで出すつもりではなかった。したがって、翻訳権の争奪といった事態はなかった。

 「コバルト文庫」が私に翻訳の依頼をしてきたのは1982年7月末だった。
     (つづく)

2012/01/24(Tue)  1350
 
 この「コージートーク」も、今年はなんとか幅をひろげよう。さて、何かおもしろいネタはないものか。

 昨年の暮、こんなエッセイを読んだ。私にいくらか関係があるので、ここに引用しておく。(「音遊人」2011年11月号)
 筆者は、北上 次郎。ミステリーの評論家として知られている。

   ヤングアダルトという名称が日本でいつごろから使われだしたのか、必要があっ
   てしらべている。私の記憶では一九七〇年代初頭にすでにあったような気がし
   ていたのだが、そのころの本を調べてもヤングアダルトという名称は未だ見つか
   らない。たどりついたのが、一九八〇年代初頭である。
   (中略)
   実は七〇年代説をまだ捨てきれないのだが、一般的にヤングアダルトという名称
   が使われだしたのはそのころ(一九八〇年代初頭――中田注)という説のほう
   が有力のようだ。その八〇年代説と一緒に語られる実例が、S・E・ヒントン
  「アウトサイダー」(中田耕治訳/集英社文庫)である。一九六七年、ヒントンが
   十七歳のときに書いたこの小説がアメリカで話題になり(コッポラによって映画
   化もされた)、日本で翻訳が出たのは一九八三年。

 これには驚いた。むろん――「ヤングアダルトという名称が日本でいつごろから使われだしたのか」、調べている人がいることに驚いたのだが。
 答えは簡単で――「ヤングアダルト」という名詞が、日本ではじめて使われたのは、一九八〇年代初頭から。
 英語圏ではもう少し前から使われていたはずだが、当時の「NEW COLLEGIATE」(研究社/1967年初版)にも、「ヤングアダルト」という項目はない。

 はじめて「ヤングアダルト」という名詞、「ヤングアダルト小説」ということばを使ったのは、おそらく私だったと思う。このことは当時のコバルト文庫の編集者たちや、小学館でジュヴナイルものを担当していた若杉 章なら、よく記憶しているはずである。

 S・E・ヒントンの作品が「アメリカで話題になり(コッポラによって映画化もされた)」というのも順序が逆で、映画監督、フランシス・フォード・コッポラが、ほとんど無名といっていいS・E・ヒントンの作品を読んで、映画化をきめた。そのため、この「ヤングアダルト小説」が評判になったのだった。     (つづく)

2012/01/19(Thu)  1349
 
 昨日までかかって、やっと1編、エッセイを書いた。ある映画スターの話。
 短いものだが、書きはじめてから、三年近くかかって、やっとなんとか書きあげた。その余波というか、まだ、心が揺れているような感じがある。
 そこで、そのエッセイに書かなかった、別の女優さんの事を書いておこう。

 アニタ・スチュワート。

 この女優さんは、1895年、ブルックリン生まれ。義兄が「ヴァイタグラフ」の映画監督だったラルフ・インス。
 映画通なら、この名前からピンとくるだろう。ラルフの兄はトーマス・インス。
 これだけで、アニタが「ヴァイタグラフ」の女優になった事情も想像がつく。
 「ヴァイタグラフ」が「ファースト・ナショナル」に買収されたため、アニタがそのまま「ファースト・ナショナル」の女優になったことも。

 当時の「ファースト・ナショナル」は「パラマウント」と並ぶ大会社で、多数の美人女優を専属にしていた。チャップリンの最初の夫人、ミルドレッド・ハリス、非の打ち所のない美女といわれたキャスリン・マクダナルド、スリムで清楚なアニタ・スチュワート。

 ルイス・B・メイヤーが、映画製作にのり出したのは、1917年。彼は、アニタ・スチュワートの映画のプロデュースをすることで、大プロデューサーの道を歩みはじめる。

 日本で公開されたアニタの映画は、「懐かしのケンタッキー」(19年)から「誓いの白薔薇」、「運命の人形」(20年)まで、11本。当然、人気投票では、トップを争うスターだった。
 ところが、アニタは突然、映画界を去る。第一次大戦が終わった。
 1925年、ルイス・B・メイヤーはMGMの副社長になる。そして、フランスの映画監督、モーリス・トゥルヌールの映画、「東は東、西は西」にアニタを出演させた。

 だが、アニタは自分が「戦後」の気分にあわなくなっていることに気がつく。
 そして、引退。
 いいねえ。女として、みごとな生きかたをつらぬいた。

 こういういさぎよいスターもいる。

 なぜ、こんなことを書いておくのか、って?

 昨日までかかって、やっと1編、エッセイを書いたから。もう、何を書いたか、すっかり忘れているのだが。(笑)

2012/01/17(Tue)  1348
 
 前回、団十郎のことを書いたので、ことのついでに。

 私は、五世(白猿)も、七世、八世も見たことがない。あたりまえのことである。ただ、五世(白猿)の文学的な才能には興味があった。

   おとろへた世と誰が云し 歳の市

 去年のように、大震災や、原発事故、ヨーロッパの信用不安、円高、閣僚の失言、更迭とさんざんの事件で、私なども元気のない歳末をむかえたが、そんな年の瀬でも、さすがに歳の市ともなればけっこうの繁盛を見せていた。
 この一句、よく読むと、為政者に対する白猿のせせら笑いが響いている。

   鶯に この頃つづく 朝寝かな

 これだって、のうのうとした日常を詠んだものと見えながら、いささかの、やりきれない気分がふくまれているかも知れない。

   世を捨てて 友だち多くなりにけり 月雪花に 山ほととぎす

 ここまでくれば、白猿の鬱々たる心境を察すべきだろう。

 団十郎は、当時の俳優としては異様な自意識をもっていたように見える。私は、老境の白猿がひょっとすると鬱病ではなかったか、と想像している。
 作家、山東 京山が書いている。

   役者なりとて無礼を一揖なし、おしろい付けさせつついひけるやう、
   昨日も顔におしろいつけさせながら涙をおとし候。それはいかんとなれば、
   御素人様ならばたとへ家業をゆづり隠居をもすべき歳なり。然るにいやしき
   役者の家に生れし故、歳にも恥ぢず女の真似するはいかなる因果ぞと。しきり
   に落涙いたし候。役者としてここに心づきては芸にもつやなく永く舞台はつと
   まらぬものなりと、歎息して語りけるに、はたして二三年の後寺島村に隠居せ
   り。

 山東 京山は、京伝の弟。寺島村は、いまの向島。(今の女優の、寺島 しのぶの名も、寺島村に由来しているだろう。)
 それはそれとして、当時の狂歌に、

    我等代々 団十郎ひいきにて 生国は 花の江戸の まんなか

 作者は、つぶり光。(つぶりは、頭。あとは説明しなくてもいいだろう。)

 じつはこの正月、青木 悦子が、柴又、帝釈天のお守りを私に贈ってくれた。これはうれしかった。
 ちなみに青木 悦子は、マイクル・コリータの「夜を希う」(創元推理文庫)の訳者だが、この作家は、あたらしいハードボイルドといっていい。作品がいいところにもってきて、悦っちゃんの訳がいい。
 最新のハードボイルドの訳者が、下総在のご隠居に帝釈天のお守りを届ける。やっぱり江戸の女はやることが違うね。

 最近の私も「世を捨てて 友だち多くなりにけり」の心境なのだが、今年から帝釈天さまにあやかって、中田 寅ジローというペンネームにしようか。(笑)

2012/01/13(Fri)  1347
 
 今年のお正月、別にどうってことはなかった。くそ、おもしろくもねえ。
 だから、毎日、何もしないで、ボケボケとすごしていた。

 今年の小生の偈。

    人生八十年 つらつら観じ来たって、ついにボウボウなりき。

 この「茫々」は、漢字で 目ヘン ツクリは 毛 と書く。むろん、パソコン、ワープロの「辞書」にはない。私はこの「ぼうぼう」を「ボケボケ」と読むことにした。
 最近は、言葉が乱れているのだから、はじめから間違った読みかたをしたところで、誰も咎めないだろう。(笑)

 七世、市川団十郎(1791-1859年)と、八世、市川団十郎(1823−1854年)の未公開の手紙が見つかったという。(「読売」’02.1.6.夕刊)

 天保13年(1842年)、いわゆる天保の改革で、七世、市川団十郎は、江戸を追放され、6月、千葉の成田山に移った。新聞記事によると、団十郎は、10月、静岡の伊達というパトロンにあてて、

  「御領主より此地には置かれぬと言われた時は、天竺かおらんだへ出立と思い申
  し候」と記し、名優の自尊心を吐露した。

 伊達家では、さっそく団十郎に着物や、食べものを届けた。
 10月、団十郎は礼状を書き、目玉の絵を描いて「めでたく」と茶目っ気も見せた。

 今では誰も使わない漢字に、私が、間違った読みをつけても、笑うヤツはいないだろうな。エヘヘヘ。

2012/01/09(Mon)  1346
 
 新年になった。今年も「コージートーク」に何か書ければ書いてみたい。

 友人の安東 つとむのおかげで――このところ短いエッセイを書きつづけている。いまではもう誰ひとり思い出すこともないサイレント映画のスターたちのことを。

 グレタ・ガルボは別格だが、リリアン・ギッシュ、アラ・ナジモヴァ、ビーヴ・ダニエルズ、オリーヴ・トーマス、コリーン・ムア、メェ・マレイ、リアトリス・ジョイなとについて。つい先日、ヴィルマ・バンキイを書いたが、これからも、メァリ・ブライアンか、アンナ・Q・ニルッソンなどについて書くつもり。

 どうして、こんなものを書いておくのか。

 かつて有名だったスターたちの生涯を見直していると――青春期と名声がいっぺんに重なってやってくることの重さ、といったことを考えさせられる。
 ふつうの女性には、青春と名声が雪崩をうってやってくる、といったことはない。大抵の職業では、名声がやってくるのは、ある程度、長い修行をへて、はじめて名声を得るわけで、少数のすぐれた芸能人や、ごく一部の芸術家などが、例外的に、名声を獲得するだけのことだろう。

 若い娘たちは、生きていること自体で、名声など必要としない、ありあまるほどのオドール・デ・フェミナをもっている。それが青春というものだろう。
 老齢になったスターたちを想像してみるがいい。
 冬枯れの樹木のように、ありとあらゆる快楽、歓喜が枯れ果てたあと、彼女が不死鳥のように生きさせるのは、名声なのである。
 こんなことばがある。

   老齢になって、自分がみずからの青春時代の力を、
   ともに老いることのない作品に統一したということ、
   これ以上美しい慰めはない。

 ショーペンハウェルのまわりくどい思弁が続くのだが、私の考えはいくらかショーペンハウェルに近い。

 オリーヴ・トーマスは、パリで思わぬ悲劇に見舞われる。
 メアリ・マイルズ・ミンターは、殺人事件に巻き込まれる。
 バーバラ・ラ・マールは、麻薬とセックスにおぼれて死ぬ。
 ジョーン・クローフォードは、売春婦だったが、スターになってから暴露された。
 ルーペ・ベレスは、セックスに狂奔して死ぬ。
 ラナ・ターナーはギャング相手のセックスを録音され、娘がその相手を殺害する。

 サイレント映画の女優たちはけっして不滅の存在ではなかった。
 おなじように、私が読みつづけてきたすぐれた短編小説群も、不滅のものではない。
 もう誰も思い出すことのないサイレント映画のスターたちのことを考えることも、折りにふれてかつてのすぐれた短編小説を心のなかに喚び起すのも、じつは私にとっては同じことなのだ。老齢になって、みずからの青春時代の力を、ともに老いることのない存在に重ねあわせる。つまりは私の精神がまだ死んでいないことの証(あかし)なのである。

2012/01/01(Sun)  1345
 
 明けましておめでとうございます。

大地震、津波、福島の原発事故、そして被災したひとびとのことを考えると、この「コージートーク」のようなくだらない閑文字を並べるのは申し訳ない気がする。

 それでも、とにかく、新玉の年。

    初あかり これから何を書こうかな

 これでは俳句にならねえか。ならば、季としては二月だが、

    初午に 子供あそばす 狐かな   丈草

 さすがにいい句だね。それでは、もう一句。

    花の世を 無官の狐 なきにけり   一茶

 これも、季としてはあわないが。

 あらたまの年にあたって、今年は何を書こうかとぼんやり考える。

2011/12/31(Sat)  1344
 
 2011年、最後の挨拶。

 2011年3月11日。
 宮城県沖、約130キロの海底を震源とする巨大な地震が発生した。マグニチュード、9.0。千年に一度の大地震という。震度、7。
 遠く離れた千葉に住む私の部屋でも、棚の本が落ちたり、その上にテレビがころがったり、色々なものが散乱した。

 そして、岩手、宮城、福島の太平洋沿岸を中心に、波高が10メートルを越す巨大な津波が襲いかかった。この津波は、三県の市町村に壊滅的な被害をおよぼした。死者、行方不明、あわせて2万という悲劇をもたらした。

 さらなる恐怖はその直後にやってきた。
 巨大津波は、東京電力の福島第一原子力発電所に襲いかかり、原子炉が破損し、いわゆるメルトダウンがおきて、たいへんな量の放射能が飛散した。
 その後の、東京電力、および、菅 直人を首相とする内閣の判断の誤り、対応の遅れ、ことごとく杜撰、遺漏ばかりだったため、私たちの現在の悲惨に至っている。

 12月22日に発表された「事故調査・検証委員会」の中間報告に、私たちは、戦慄をおぼえた。

 事故当日、政府首脳は、菅 直人をはじめ、主要閣僚は、官邸5階の執務室にいた。
 大震災発生後に、官邸地下の「危機管理センター」に、各省庁の幹部による緊急グループが参集していた。
 ところが、「内閣」は、5階にいた一部の省庁の幹部の意見(むろん、電力、原子力の専門家ではない連中)や、「東電」の情報、意見だけを参考にして、この事故の対応の決定がなされた。

 そして、官邸5階の「内閣」は、放射能拡散予測システム「SPEEDI」が存在することさえ、知らなかったという。このシステム「SPEEDI」のデータがあれば、被災地の住民の避難は、もっと適切にできたという。

 「SPEEDI」がうまく働かなかった理由は――「文部科学省」と「原子力安全委員会」の間で、どちらに責任の所在があるのか不明だったせいという。
 しかも、官邸5階に「文部科学省」の幹部がいなかった。

 ようするに、大震災発生後の「内閣」は官邸地下の「危機管理センター」にほとんど何も連絡しなかったということになる。

 これが、もし、東京でおなじ規模の大地震が起きたら、どうするのか。
 地上5階のエレベーターは運転を停止するかも知れない。あるいは、ビルが倒壊すれば、地下の「危機管理センター」も機能しなくなるかも知れない。

 もっとおそろしい事態も「想定」しておくべきである。

 某国に内乱が起きて、指導層が国民の眼をそらせるために、ミサイルを発射したら、どうなるか。

 私は、2011 年の最大の教訓は、「事故調査・検証委員会」の中間報告にあると思う。
 この中には、日本人とは何かという問いと、私たちが読み解く必要のある情報がいっぱい出ている。

 それではみなさん、よい御年を。

2011/12/29(Thu)  1343
 
 ついに、2011年が終わろうとしている。

 今年は、まったく非運の年だった。
 世界史的にも、ヨーロッパの金融危機、アラブ諸国の独裁的な体制の連鎖的な崩壊、カダフィからはじまって、金正日までが、雁首ならべてくたばった年として記憶されるかも知れない。
 私たちには、かつて想像もしなかった事態が起きた。未曾有の天変地異であった。
 巨大な地震と、それにともなう大津波、さらには沿岸の原子力発電所が破壊され、数時間後には、その一基が溶融(メルトダウン)しながら、政府、東京電力、原子力保安院、さらにはマスコミが、被害を隠蔽したり、極度に低い評価しか発表しないという人災の最たる大惨事を惹起したのだった。
 大震災とその被害のニューズに、心の晴れない日々がつづいた。
  福島/原発事故にたいする政府の対応の遅さ、さらには放射性物質の飛散・拡大をできるだけ過小評価しよう、もしくは、隠蔽しようとする姿勢に、憤りをおぼえる毎日であった。
 東日本大震災が起きて、福島原発の1号機が、メルトダウンの危機にさらされた。そこで、緊急に冷却するため、1号機に海水が注入されたのは、翌日、3月12日午後7時4分だった。
 しかも、この時点で、福島の原発のメルトダウンの事実を知っていなかったはずはない。これほど大きな「危機」に際して、蓮ボウのような人物に「節電啓発」をさせるという神経には、おそれいってことばもでない。
 私のようなしがないもの書きでさえ、毎日、切歯扼腕していたといってもよい。
 つまり、この時点で、メルトダウンがおきていたことを知りながら、菅 直人首相は、そのおそるべき事態をできるだけ軽いものに見せ掛けようとしていたことになる。

  私は、この震災を天罰、天譴とは見ない。まして国難などとは見ていない。
  冗談じゃねえや。

2011/12/27(Tue)  1342
 
 この師走、ずっと続けてきた「文学講座」を終了した。
 私にとっては、この最終講義が、生涯最後のパーフォーマンスということになる。さすがに出席者も多く、私としてはうれしいかぎりだった。

 最終講義でも話したことだが――私がやっと30代になったばかりの頃、先輩の批評家、福田 恆存に、 「中田君、きみ、文学史の書き換えをやってみたら?」
 といわれた。
 当時の私に、そんな大それた仕事が出来るはずもなく、そのときから数十年もたってから、「文学講座」というかたちで、私なりに文学史の整理をやってみようと思いたったのだった。私としては力をそそいだつもりだが、結果としては、自分が思い描いたことの半分も語ることが出来ずに終わってしまった。
 それでも、福田 恆存に対する感謝を忘れてはいない。

 私は、毎回、特定の作家をとりあげて、明治初年の頃から、現代の三島 由紀夫、安部 公房あたりまで、いわば文学史の見直しといったレクチュアをおこなった。残念ながら、戦後の、植草 甚一、飯島 正、荻 昌弘などの映画批評家をとりあげたところで、思わぬ事故を起こしたため、一年近く「講座」を中断した。
 そして、ついに今回の最終講義という次第になった。

 私の講義は、まったくの偏見、独断にみちたもので、たとえば、志賀 直哉、武者小路 実篤に一顧も与えず、長与 善郎、中 勘助をとりあげる。横光 利一の「上海」をみとめず、村松 梢風の「上海」を昭和期の傑作とする。
 おなじように、宮本 百合子よりも、中本 たか子、矢田 津世子、尾崎 翠を論じ、中野 重治は敬遠して、葉山 嘉樹、高見 順をとりあげ、一方で小栗 虫太郎、山本 周五郎を論じるという破格のものになった。
 戦時中の「狂気」や「いやだよ重労働」といった連中にもふれた。(笑)

 最終講義は、特別なテーマもきめない、まことに気楽なものだった。

 このあと、近くのレストランで、ささやかな送別会のような宴をもったが、これも楽しい集まりになった。
 私の「文学講座」を企画し、最後までささえつづけてくれた安東 つとむ、真喜志 順子夫妻、そして、田栗 美奈子のみなさんにあらためて感謝している。

 じつは、今年の私は、初夏に、おなじようにささやかな集まりをもった。
 このときも、私の親しい友人たちが、遠足のようなお散歩のために集まってくれたのだが、この「遠足」の趣旨は、ある石碑を皆さんに見ていただくことが目的だった。

 私の墓に案内したのだった。この墓地に、小さな石碑が建てられて、

      たまゆらの いのちのきわみ ゆめのごと
          季節(とき)のながれと 花のうつろい

 私のつたない偈のごときものが刻まれている。これでおわかりいただけたはずだが、これは私の生前葬のつもりであった。
 この夏、私の墓に詣でてくれたなかには、師走、あらためて私の最終講義に出てくれた人も多い。私としては、その一人ひとりにあらためて感謝している。

 私のクラスで、勉強をつづけてきた人ばかりだった。その人々と、私はふたたび会うことはないだろう。だが、きみたちと出会ったことが、私の人生をかたち作ったと思っている。
 あらためて、みなさん一人ひとりに心から感謝したい。

2011/12/01(Thu)  1341
 
■有吉 佐和子のこと


 「江口の里」のなかで、ヒロインの芸者が舞踊劇、「時雨西行」を演じる。

   ……春の朝(あした)に花咲いて、色なす山の粧(よそほ
   ひ)も、秋の夕べに紅葉して、月に寄せ、問い来る人も河
   竹の、うき節しげき契りゆゑ……

 この一節を読むと、なぜか有吉 佐和子の世界がまざまざと眼のなかに浮かんでくる。

 有吉 佐和子は、昭和6年、和歌山市に生まれた。
 父の転任で、小学校だけで5回も転校した。病気がちだったため、女学校でも5回も転校した。少女の頃から、これほど各地を転々とした作家はめずらしい。戦後、東京女子大に入っても、病気のため一年休学したが、父の急逝もあって、短大に移った。卒業前に、「演劇界」の編集をしたり、出版社につとめたり、舞踊家、吾妻徳穂が、戦後、アメリカで公演した「アズマ・カブキ」のブロードウェイ公演では、事務を担当したり、演出も引受けたり秘書としてアメリカ人と交渉した。
 有吉 佐和子は、本質的に「移動」する作家である。
 戦後すぐに、作家をめざした有吉 佐和子は、第十五次「新思潮」に参加した。この雑誌に発表した作品を改稿したのが『地唄』である。ほかの作家と違って、有吉 佐和子は、日本の伝統的な芸の世界と、あたらしい教養の世界の隔たりを描きつづけた。
 「江口の里」もその一つだが、『人形浄瑠璃』(昭和33年)や、花柳界の愛憎を描いた『香華(こうげ)』(昭和36〜37年)など、どの作品にも「春の朝(あした)に花咲いて、色なす山の粧(よそほひ)も、秋の夕べに紅葉して、月に寄せ、問い来る人も河竹の、うき節しげき契りゆゑ」というテーマが見え隠れしている。
 この作家が好んで職人、芸人の世界、伝統的な芸の世界に眼をむけたのは、ただのロマンティックな憧憬だったのだろうか。むしろ、かつてあったものを描くことで、じつは私たちの未来に属しているいきいきとした世界を見せようとしたのではなかったか。
 もっと大きなことは――関西ことばをふくめて、日本語の美しさ、深さのなかで、作家としての自分自身にめざめたことだった。
 有吉 佐和子が意識して四季の移りかわりや、伝統的な芸の完成に自分の運命をかさねたかどうかわからない。しかし、彼女は、そうした運命を予感するように、自分のテーマを深めていった作家だった。
 『三婆』(昭和36年)のラストで、「駒代」の耄碌ぶりから、おそらく有吉 佐和子は、花のように美しく、しかし、衰えてゆく姿をいつか書きたいとおもっていたと思われる。これがもっとも早く高齢化社会を描いた『恍惚の人』(昭和47年)に発展してゆく。
 和歌山に生まれた作家は、やがて母の故郷、紀州を舞台に家族の年代記ともいうべき『紀の川』(昭和34年)、『有田川』(昭和38年)、『日高川』(昭和40年)という紀州三川物語を描く。こうした年代記は、『助左衛門四代記』(昭和37〜38年)で完成するが、ここで描かれる木本家は母の実家である。
 年代記作家としての有吉 佐和子は、さらに歴史への関心に移ってゆく。『華岡青洲の妻』(昭和41年)、『出雲の阿国』、さらには、『和宮様御留』などの歴史小説は、女主人公の「移転」と、「契り」をテーマにしている。
 一方では、それまで私たちがまったく知らなかった、もう一つの世界が作家をとらえはじめる。公害問題に先鞭をつけた『複合汚染』や、黒人問題をとりあげた「非色」といった社会的な問題小説の世界である。『恍惚の人』が、老いさらばえ、ついには人格崩壊にまで至る人間の無残さを描いたというより、そうした悲劇さえ「河竹の、うき節しげき契り」と見た。『非色』は、アメリカ社会に見られる肌の色による差別というだけでなく、むしろ伝統のいのちの問題としてとらえていたのだった。

 有吉 佐和子が亡くなってから二十年以上になる。

 ……江口の里の黄昏に、迷いの色は捨てしかど、濡るる時
 雨に忍びかね賤(しづ)の軒場に佇みて、ひと夜の宿り乞
 ひければ、主(あるじ)と見えし遊び女が……

 こうしたテーマが、彼女の作品群のどこかに響いている。そう見てくると、有吉 佐和子は、日本の文学史にあらわれたもっともダイナミックな女流作家のひとりなのである。

2011/11/22(Tue)  1340
 
台風12号が、四国に上陸して、進路を北に向けていた。
 この日、私は、東京にいた。

 地下鉄で日比谷に出た。
 私は、ほんの一時期、「東宝」で仕事をしたことがあって、旧東宝の本社があった界隈、もとの日比谷映画劇場のあったあたりは、今でもなつかしい。その後、私は、映画の批評を書いていたので、日比谷から先、新橋方面にかけて、よく歩いたものだった。

 「宝塚」まできたとき、突然、雨が降りはじめた。いきなり土砂降りになった。

 私は、急いで、もとの日比谷映画劇場の横をまわって、近くの喫茶店をめざした。
 もともと「東宝」本社の前にあつた喫茶店で、私は、よく女優たちを見かけたものだった。満州から脱出してきた木暮 実千代を見かけたり。戦後、もっとも期待されながら、自殺した堀 阿佐子に会ったのもこの喫茶店だった。そういえば、まだかけ出しの女優だった頃の岡田 まり子、有馬 稲子たちに紹介されたこともある。

 その後、喫茶店の規模も変わったし、内装も変わった。いまどきめずらしく古風な雰囲気の喫茶店になっている。私は、この喫茶店で、ある女性とデートしたのだが、その女性にフラれた。そんな思い出がまつわりついているので、その喫茶店は敬遠して、土砂降りのなかを反対側のファストフードの店に飛び込んだ。

 私の席から、日比谷、みゆき座の通りが見渡せるのだった。

 突然の大雨に、歩行者たちはあわてて近くのビルに走ったり、この喫茶店にも私のあとから客がつぎつぎに駆け込んでくる。
 雨のなかを、このあたりの0Lらしい若い娘が走ってくる。
 みゆき座に出る角あたりにきたとき、若い娘がバランスを崩して、はげしく転倒した。それを見ていたのは、おそらく私だけではなかったか。
 女の子はずぶ濡れ。起き上がれない。5メートルばかりうしろから、男の子が走ってきた。
 その若者は、目の前で、女の子が転倒するのを見た。
 急いで走り寄って、女の子を抱き上げるようにして立たせた。しかし、どこか打ちどころがわるかったのか、女の子はからだを前に折るようにして、やっと立っている。
 私は、女の子が肋骨にヒビでも入ったのではないかと思った。

 あたりは、はげしい雨に煙っている。もう、だれひとり、このあたりに人影はなかった。みんなが、近くのビルに逃げ込んだり、走り出して、あっという間に、日比谷の通りに人の姿が消えた。

 一瞬後に、ふたりはその場から左に向かって歩き出した。意外だった。女の子は真っすぐ走って、交差点の向こう側(もとの日比谷映画劇場)に走り込むものと見たからだった。
 ふたりの位置からそれほど遠くない場所に「アメリカン・ファーマシー」がある。
 若者は、女の子がころんで、どこかに負傷したものと見たに違いない。
おそらく、若者が、ずぶ濡れになった彼女に何か指示をあたえたに違いない。もしかすると、ころんだ拍子に手首をいためたか。あるいは、若者が行こうとしていたビルに、とりあえず案内しようとしたのか。
 若者は、彼女を抱きかかえるようにして、ゆっくり歩き出した。十字路をわたり切ったが、逃げ込む場所はない。私の位置からは、ずっとよく見えるようになった。

 若者は、そのビルの角まできて、ずぶ濡れになった女の子のシャツをまくり上げた。肌にはりついているので、まるでシャツをひっ剥がすようにして、女の子の胸まであらわにした。女の子はされるままになっていた。
 男の子は、だまって乳房に手をのばして撫でた。

 私は、ちょっと信じられないものを見たと思った。

 ふたりが歩きだしたところで、私の視野からふたりの姿が見えなくなった。私のすわっている位置からは、たとえからだをおおきく後に向けても、二人が見えるはずもない。

 これだけの話である。
  ただ、私は、どうしてこんなシーンを見てしまうのだろうか、という思いがあった。

2011/11/13(Sun)  1339
 
 何かに関して自分の意見があくまで正しいなどと主張したことはない。
 他人の意見を知って、自分の考えと違うことに気がつく。あまりにも違っていると、思わず笑いだしてしまう。それだけならまだしも、ひそかな軽蔑をおぼえる。
 私は――いやらしい。しかも、自分のいやらしさを隠さない。
 われながら、不快である。
 少し説明したほうがいい。

   ヘミングウェイの小説は数多く映画化されている。だが、
   これは映画化至難な物語(ストーリー)だといわれた
   「老人と海」――58年、その映画化に成功した。
   スペンサー・トレイシー主演、ジョン・スタージェス
   監督で……

 これを読んだとき、へぇ、と思った。
 『老人と海』は映画化至難な物語(ストーリー)だと、誰がいったのか。たぶん、当時の「業界」の通念としてそう見られていたということだろう。
 1958年、ジョン・スタージェス監督がスペンサー・トレイシーの主演で、「老人と海」を映画化した。しかし、あの程度で映画化に成功したといえるのだろうか。
 むしろ、どうしようもない駄作だったはずである。

 ジョン・スタージェスは、「戦後」に登場した映画監督で、やたらに多作だった。戦後すぐの初期作品は、一本も輸入されていない。日本ではじめて上映された「人妻の危機」(53年)も、短くカットされて、やっと公開されたようなB級監督。
 ところが、「ブラボー砦の脱出」(53年)が当たった。主演、ウィリアム・ホールデン、エリナー・パーカー。
 この映画で、北軍の将校、ウィリアム・ホールデンはインディアンの襲撃を受けて、右腕に重傷を負うのだが、つぎのシーンでは、包帯をぐるぐる巻きにした左手を肩から吊って、堂々と凱旋する。思わず、眼を疑ったね。(笑)

 そして、「0K牧場の決斗」(57年)。
 「ワイアット・アープ」(バート・ランカスター)、「ドク・ホリデイ」(カーク・ダグラス)が、「クラントン」一家と、0K牧場で決闘する。ジョン・フォードの「荒野の決闘」には、到底およびもつかないが、それでも、西部劇としては、いい映画になっていた。
 この映画で、「クラントン」のいちばん下の息子が、今年亡くなったデニス・ホッパーだった。まだ、少年だったっけ。「イージー・ライダー」、「地獄の黙示録」、「トゥルー・ロマンス」などを思い出す。もっとも、「スーパー・マリオ」のような駄作にも出ているけれど。

 さて、「老人と海」だが、これは、まるで期待を裏切った。
 スペンサー・トレイシーも、まるっきり漁師に見えない。「白鯨」の「エイハブ」(グレゴリー・ペック)よりもひどい芝居だった。

 私にとっては、「老人と海」はCクラス。スペンサー・トレイシーにしても、すべての出演作のなかで最低。これが私の評価。

 その後、これを書いた映画評論家の批評をまったく信用しなくなった。この映画評論家にひそかな軽蔑をおぼえるようになった自分がいやらしく思えてきた。いちいち他人の意見に目クジラを立てる自分か不愉快になった。

 映画の「老人と海」も、もう忘れてしまったのだが。

2011/11/09(Wed)  1338
 
 けっこう寒くなってきた。

 去年の夏、暑さが続いていた頃。

 「あつい、あつい。実に暑い。とてももう、小笠原流(かみしも)ではやりきれねえし、俳諧どころか二の句も出やぁしませんぜ、こ隠居さん」
とは、歌仙か百韵(ひゃくいん)の催しも、たちまちにしてお廃止(オクラ)と見えたり。
 「オヤ、ネコの八っつあんかえ。たしかに今年の夏は暑いようだ」
 「ご隠居だって、去年も、おなじことをいってたではありませんか」
 「ああ、これ、そんな文句はいってくれたもうな。暑苦しくてたまらぬ。去年は去年、今年は今年。去年申したことノ、今年になってノ咎めだてというは、じつに総毛立つことでナ」
 「おやおや、これはむずかしい先生だワ」

 「こ隠居、ここで、涼しいものくらべという趣向はいかがでゲしょう」
 「おお、それよ。妙々ですナ。その涼しさは……」
 「さしづめ、極楽」
 「アハハ。それでは、盆山。石菖。お手水」
 「手水に映そうときましたか。では名月はいかが。月天心 貧しき町を通りけり、と。さて、蕪村とくれは、つぎの涼しさは……行水、としましょうか」
 「エヘヘ、こちとらはついつい、手水組を連想いたしやした。そこで、涼しいものは、髪結い、髪剃り、といたしましょう」
 「うまく逃げましたナ。それでは、ヒグラシの声。橋の上。柳かげ」
 「夕露、小夜風。ひとえ衣(きぬ)としましょうか」

 「あい変わらずだねえ、ネコの八っつぁんは」

 去年の夏、わが家で飼っていたゲレというネコが、老衰で死んだ。私は、最後の最後まで見とってやった。
 ゲレは最後に、痩せ衰えた前肢をふるわせて、かすかに足掻いた。まるで天国に向かって駆けて行くように。
 その午後、私は庭の隅っこに遺骸を埋めてやった。

 三ヵ月、喪に服したあと、新しいネコをもらってきた。アンゴラ系の白いネコで、みるみるうちに大きくなった。名前は、チルとつけた。
 ある日、チルを外に出してやったが、それっきり帰ってこなかった。翌日は大雨が降った。そしてまた暑くなった。チルは、もう、戻ってこないだろう。私は不実な女に逃げられたように気落ちしたが、なんとかあきらめることにした。
 もともとあきらめはいいほうである。
 やっと心の整理がついたとき、思いがけず、チルが、折れた左足を引きずって、泥だらけになって戻ってきた。車にはねられたらしい。すぐに近くの獣医に診察してもらったが、チルのビッコは直らないようだった。

 そして秋になった。

 このまま冬になったら――炬燵にもぐって、ネコの話で落語を書いてみようか。

2011/11/02(Wed)  1337
 
 まだ、きびしい残暑がつづいていた頃。

 テレビで、酒井 抱一を見た。(’11.9.16 9:00am)。
 抱一といえば、世に埋もれていた尾形 光琳の再評価に力をつくし、光琳の「風神雷神図」の裏に光琳へのオマージュとして、「夏秋草図」を描いた画家である。
 この番組のなかで、抱一の句が紹介された。

    銀のうみ 渡もや 冬の月

 私の聞き違えでなければ、アナウンサーはこの句を「ギンの海」と読んだ(と思う。)
録画しておけばよかったのだが、そんな気もなかった。

 私がとっさに考えたのは――抱一が、そんな破調の句を詠んだのか、という疑問だった。私の無学をさらけ出すようだが。

 じつは俳人としての抱一を知らない。私の知っている抱一は、

   山賤のおなかもはるの木の下や 花の吹雪に 腰はひえめし

   音に立て なをも鼓のうつつなや 三つ地のふみの長地短地

   ぬしさんにははきもとまで恋のふち 人の目貫を かね家のつば

 こんな狂歌しか知らない。それも、一読して即座に歌意がわかるわけではない。
 むろん、なかなか洒脱な人だったらしいことは想像できるのだが。
 こういう人が「銀のうみ」をギンの海と詠んだとは信じられない。

   しろがねの  うみわたるもや ふゆのつき

 こう読めば、俳人としての抱一の大きさがわかる。どうだろうか。

2011/10/29(Sat)  1336
 
 昨年の暮、「文学講座」を終えた私は、忘年会の席で不覚にも酔いつぶれた。救急車で阿佐ヶ谷の病院にかつぎ込まれて、「文学講座」は中断した。
 どうもみっともない話で、以来、身をつつしんでいる。
 これ以上、みなさんに迷惑をかけるわけにもいかないし、私自身も「文学講座」をつづける意欲を失っている。年末をもっていよいよ大団円ということにあいなった。

 9月の「最終講義」のあと、親しい人たちが残って、ひさしぶりにつつましい会食をしたためた。これは楽しかったね。

 つわものどもの交わり頼みある中の酒宴も、さこそ楽しきことなるべけれど、酒なく、茶なく、わけもなきまどい(団欒)も、主客を忘れし旧知のひとびとの集まりしほど、世に興深きことはない。
 みなさんの好意が身にしみた。
 話題は、残暑のきびしさ。地震の被害。放射性物質の拡散の風評。汚染の除去。

 「いかがでしたか、先生の震災被害は?」
 「書斎や、本をしまってある書棚の本がずいぶん崩れ落ちてね」
 「おやおや、たいへんでしたね」
 「もともと本箱の前にも本を積み重ねて置いてある。そこに、本がドサッと落ちてきたから、今ではどこに何の本があるのかわからない」
 「仕事にさしつかえがありますね」
 「いや、仕事なんかしていないから、本がゴチャゴチャになってもそのまま放ってある。たまたま本も読まなくなったし」

 みんなが、あきれた顔をする。

 もし、私に才能と、時間の余裕があったら――「オレンジだけが果物じゃない」みたいな小説を書きたい。岸本 佐知子訳。白水社/Uブツクス。
 岸本 佐知子の訳はほんとうにすばらしい。

2011/10/25(Tue)  1335
 

 少し長生きしすぎた。よくもこれだけ長く生きてきたと思う。

 つまらない人生を長く生きてきただけが取り柄かも。

 八十年の生涯にすべてを知りつくしたなどとは、口が裂けてもいえない。ただし、私はもはやおのれの人生に何も求めてはいないし、何も願ってはいない。

 人生観を問われても、まともに答えられないというのが正直のところ。

 目下のところ――江戸の三文作家で、のちに出家して禅を説いた鈴木 正三(すずき しょうさん)に近いものを覚えている。
 鈴木 正三はいう。

   年月は重り候へども、楽みは無して、苦患は次第に多く積るに非や、
   (としつきはかさなりそうらえども たのしみは なくして、くげんは
 しだいに おおくつもるにあらずや)

 自分も齢を重ねてきて、歳月とはそういうものだと思う。
 私は、「人生の真実は寂寞の底に沈んで初めて之を見るであらう」とする永井 荷風にしたがう。寂寞とは何か。もしも「四月は残酷な月」ならば、五月も、六月も、夏も秋も、まして冬もそれぞれに残酷な季節であることに変わりはない。それが、寂寞というものなのだ。
 はたまた、鈴木 正三はいう。

   人間の一生程、たはけたる物なし。

 こういう思いから、鈴木 正三は浄土を欣求(ごんぐ)したに違いない。

 私は楽みはなく、苦患は次第に多く積ることを覚悟しているだけである。

2011/10/22(Sat)  1334
 
 翻訳家としての渡辺 温については、ほとんど知らなかった。

 「渡辺 温全集/アンドロギュノスの裔」(創元推理文庫)で、H・G・ウェルズ、オスカー・ワイルド、それに、黒岩 涙香訳をリライトした作品などを読んだ。
 私は(オスカー・ワイルドは知っているが)原作を知らないので、翻訳については批評しないが、渡辺 温が修行時代(アプレンタイスシップ)に、こういう仕事をしていたことに感心した。
 それともう一つ、女性名義で、小説を発表していることだった。これも、いまの作家たちには考えられないことだろう。
 こういう角度からも、あらためて渡辺 温を考えることができる。

 私が関心をもったのは、渡辺 温が、いろいろな俳優や女優たちに言及していることだった。
 エミール・ヤニングス、コンラッド・ファイトの比較、あるいは、チャップリンにたいする否定的な見方など。
 日本の映画でも、畑中 寥波、石井 漠、伊沢 蘭奢(らんじゃ)とならんで、戦後の「民芸」で舞台に立った細川 ちか子をあげている。(「疑問の黒枠」を見る)


 「アンドロギュノスの裔」の主人公が、あこがれたのは「ベルクナルにも劣るまいと評判の高い活動写真の悲劇女優」という。この「ベルクナル」は、おそらく、エリザベート・ベルクナーだろう。

 「今全盛のドロシイ・ダルトン」(「或る風景映画の話」)となれば、ブロードウェイの大プロデューサー、アーサー・ハマースタインと結婚して、スクリーンから去った女優(後年のミュージカルのビッグウィール、オスカー・ハマースタインの母親)とわかる。

 渡辺 温といっしょに、サイレント映画の女優たちのことを話してみたかったな。
 美少女、メァリ・マイルズ・ミンター、あるいは、妖艶なナジモヴァについて。
 私の推測では――ニンフォマニアックだったバーバラ・ラマールなどは、好きではなかったのではないか。それでは、ビーブ・ダニエルズ、クララ・ボウたちは?

 私は、むろん、渡辺 温の見た映画を一本も見てはいない。しかし、二十年、三十年のタイムラグはあっても彼がとりあげている人々も、少しは知っている。私は、及川 道子さえ見ているのである。そんなことが、渡辺 温を身近に感じさせているかも知れない。

 渡辺 温は、1930年(昭和5年)、2月9日、原稿の依頼のため谷崎 潤一郎を訪問した。同行したのは、後年、ミステリーの翻訳家として知られる長谷川 修二。
 その帰途、二人の乗ったタクシーが、国鉄(当時、省線)の貨物列車と衝突した。渡辺 温は頭部に重傷を負って、病院に運ばれたが、そのまま亡くなった。享年、27歳。

 今年、温の姪の渡辺 東さんの編、「渡辺 温全集/アンドロギュノスの裔」(創元推理文庫)が出版された。
 その出版を記念して、画廊「オキュルス」で、オマージュ展が開かれた。渡辺 東さんにおめにかかって、しばらく温の話を伺った。
 私にとっては、親しい作家に会えたような気がして、うれしかった。

 縁あって渡辺 温を読む。いまさらながら、惜しい才能が失われたことを悲しむ。

2011/10/17(Mon)  1333
 
 渡辺 温の時代。

   上野の博覧会で軽気球が上げられた。軽気球はまるで古風な銅版画野景色の如く、
   青々と光るはつ夏の大空に浮かんだ。
      「風船美人」

   秋晴れの青空の中に隣の西洋館の屋根の煙出しが並んで  三盆あった。両側の二本
   は黒く真中のは赤い色をしていた。 
         「赤い煙突」

   明るい陽ざしを透かせて、松林の影が紫の縞になってい   る蔦の絡んだ紅がら色の
   ベランダで、小型オルガンを弾いている華奢な感じのす   る少女の姿が描いてあっ
   た。お下げに結った其の横顔はもとより、大きな百合の模様のある着物や派手な
   菱形を置いた帯びにも、由紀子の懐かしい思い出が残っていた。
        「指環」

   わざと小田急には乗らずに、東京駅から鎌倉へ行って、鎌倉から幌を取らせた自
   動車で稲村ケ崎を抜けて、海辺づたいに真直ぐに、江の嶋経向かいました。
   (中略)浜辺にいる人々からも必ず、松林の縁(ふち)の街道を走る自動車の姿
   は一目で見える筈だし、そうすれば、ほろなしの座席に相乗りしたアメリカの活
   動役者の恋人同士のように颯爽たるだんじょの様子は、この上なく羨ましい光景
   として見送られるに相違ないのです。
         「四月馬鹿」

 まったく偶然に眼についた文章をとりあげたにすぎないが、ああ、これが渡辺 温の世界なのだと思う。そういう私の内面には、なぜか、ひどくノスタルジックなもの、そしてひそかな羨望がひろがっている。
 ここにうかびあがる、何かロマンティックなモラリティーは、もはや私たちから遠くなっている。しかし、時代的には、ぐっと身近な「ALWAYS 三丁目の夕日」(昭和30年代)よりも、ずっと私には近くに感じられる。

 ひょっとすると、このあたりに渡辺 温の世界の逆説性がひそんではいないだろうか。
 むろん、もう少し説明しなければならないが――こう、いい直そうか。
 たとえば、つい昨日の時代の「ジュリアナ」の世界は、私たちにはもはや何のインパクトももっていない。ところが、現在の私たちは、ムーラン・ルージュに踊っているロートレックの女たちと少しも違っていない。
 大正末期から昭和初年を駆け抜けた渡辺 温は、じつは現在の私たちを描いているのではないか。……そんな気がしたのだった。

 渡辺 温の「アンドロギュノスの裔」の娼婦は、現在のAVに出ている、おびただしいエロカワ少女の一人に見える。
 そして「花嫁の訂正」は、佐藤 春夫の「この三つのもの」(未完のまま、中絶/大正14〜15年)や、谷崎潤一郎の「卍」などに近い。もし、読みくらべてみれば、ここから何かが立ちあがってくるかも知れない。
        (つづく)

2011/10/15(Sat)  1332

 渡辺 温を読んでいて驚かされるのは――発想が、きわめてサイレント映画的なことである。それも、当時の演劇(小山内 薫がめざした「築地小劇場」など)がもっていたスタイル(柔軟性の少ない、それも因習的なスタイル)をはなれて、はるかに映画的な小説スタイルを導入していたことと無関係ではない。
 小山内 薫は、映画の演出に意欲を見せたが、映画表現に知識がなく、せいぜい舞台の実写といった程度で終わり、技術的にも失敗した。
 渡辺 温の「影」に対しても、どちらかといえば否定的な評価をもったが、谷崎 潤一郎が積極的に推したという。
 温の発想が、はじめからサイレント映画的だったことと、温が、生まれつきミステリーや、恐怖を基調とするストーリー・テラーであること(スポンタネイテイ)を見抜いたからだろう。このあたり、谷崎の炯眼は、小山内 薫のおよぶところではなかった。
 温が、ウェルナー・クラウス、コンラッド・ファイトといったドイツの俳優にしばしば言及していることも、私には、温の好み、と同時に、温のつよい自己主張を想像させる。

 「学校を出ると直ぐ活動屋になるのが望みで、それも「カリガリ博士の箪笥」か何かに訳もなく感動させられて」(「或る風景映画の話」)という記述がある。
 「カリガリ博士」は、恐怖と狂気を描いた映画作品で、映像化された悪夢といってよい。主人公は、自分の仇を殺害するために、催眠術による霊媒を駆使する。ストーリーは精神病院ではじまり、精神病院で終わる。こうした枠組は、この時代の精神状況にまさにコレスポンド(照応)していたものといってよい。

 渡辺 温の代表作というべき「アンドロギュノスの裔」の冒頭は、

   ……曽て、哲人アビュレの故郷なるマドーラの町に、ひとりの魔法を使う女が
   住んでいた。彼女は自分が想いを懸けた時には、その男の髪の毛を、或る草と一
   緒に、何か呪文を唱えながら、三脚台の上で焼く事に依って、どんな男をでも、
   自分の寝床に誘い込むことが出来た。
   ところが、或る日のこと、彼女はひとりの若者を見染めたので、その魔法を用い
   たのだが、下婢に欺かれて、若者の髪の毛のつもりで、実は居酒屋の店先にあっ
   た羊皮の革嚢から毟り取った毛を燃してしまった。すると、夜半に及んで、酒の
   溢れている革嚢が街を横切って、魔女の扉口迄飛んで来たと云うことである。
   頃日読みさしのアナトール・フランスの小説の中にこんな話が出ていた。
   魔女の術をもってしても、なお斯の如きままならぬためしがある。

 ふつうの場合、温は、大正時代に猖獗をきわめた表現派、ダダイズム、未来派、シュール・レアリズムなどの流れの中でとらえられる。しかし、私は、温を、そうしたエコールの作家とは見ない。新感覚派の作家ではなく、もっとずっとスマートな作家ではないか。
 「アンドロギュノスの裔」のオープニングで、アナトール・フランスという外国の作家に刺激されて、自分の想像を展開させている、と見れば、なんの変哲もないが、このオープニングが、恐怖というアンダートーンを帯びていること、しかも、なにやらユーモラスに物語を展開してゆく手つきに渡辺 温のシネマトゥルギーといったものを感じる。

 むろん、そう思う私の内面には、古き良き時代にこういう物語を紡いでいた若い作家に対する羨望がひそんでいるだろう。
        (つづく)

2011/10/12(Wed)  1331
 
私は、夭折した作家、詩人たちに惹かれる。
 たとえば、富永 太郎。富ノ沢 麟太郎、梶井 基次郎。戦後でも、原口 統三、湯浅 真佐子、久坂 葉子、山川 方夫。……

 戦前、夭折した作家に、渡辺 温がいる。1902年生まれ。梶井 基次郎より1歳下。小林 秀雄、中野 重治と同年。
 温のすぐ上の兄が、ミステリー作家、渡辺 啓助である。

 1924年(大正13年)、温は映画シナリオ、「影」という作品で登場した。これは、映画筋書の懸賞募集に応募して一等当選を果したもの。選者は、谷崎 潤一郎、小山内 薫だった。
 当時、谷崎 潤一郎はみずから映画のシナリオを書き、小山内 薫は、舞台「築地小劇場」の延長上に、映画の演出をめざしていた。
 温は出発からして谷崎 潤一郎にゆかりの深い作家だったといえるだろう。

 その後、江戸川 乱歩の影響で「新青年」が創刊され、横溝 正史が編集長になったが、このとき、編集助手に横溝が選んだのは、一面識もなかった渡辺 温だった。
 温がめざしたのは、古いリアリズムにとらわれた表現に変わって、エスプリ・ヌーヴォーと呼ばれたモダニズムによる創作だった。

 サイレント映画に見られる演技――言葉がないため、身ぶり、手ぶりといったジェスト(身体表現)によって、その瞬間その瞬間の感情、あるいは内面を、見る側(映画では観客、小説では読者)に感得させる方法が、作家、渡辺 温の特質の一つ。

  その繁華な都会の町外れの、日当たりのよい丘の中腹に、青木珊作と呼ぶ年若い
  画工(えかき)が住んでいた。
             ×
  冬の話である。
             ×
  青木珊作は、ひと月の先に迫った国立美術館の展覧会へ出品するために「情婦
  (コランバイン)の嘆き」と命題した五十号のNudeを画いた。それはようやく
  完成しかけていた。もう一塗り最後の仕上げを待つばかりであった。
  だが、この時突然モデルの春子は解約を申し出た。珊作が十分に彼女の欲するだ
  けの報酬を与え得なかったと云う理由を以て。春子は世にも美しい娘であった。

 「影」の冒頭、オープニング。日当たりのよい丘の中腹、スタティックで、静かな世界である。どこにも影はない。
 すぐに見てとれるのは、(シナリオとして書かれたのだから当然だが)、これはフェイドイン、もしくは、アイリスインの意識的な採用というべきものだろう。
 彼のシナリオが、ドイツの表現主義映画、「カリガリ博士」の影響を見せていることは注目していい。
 つい比較したくなるのだが――はるか後年の――たとえば、「ALWAYS 三丁目の夕日」。「繁華な都会にへばりついているような、日当たりのよくない裏町」、日本が右肩あがりの成長に向かおうとする前の、古き良き日本のイメージ。「影」ではまったく無縁の「世界」が静かに展開している。高度経済成長期のすさまじい足音などどこにもない。
 この「影」の静けさの背後に、私はおそろしい破壊、ないし崩壊の予感を聞く。

 渡辺 温は、たんなる大正モダニズムの作家と見るべきではない。
 むしろ、1923年(大正十二年)の震災の直後から、文学的な活動をはじめた作家として、当時、芥川 龍之介のように「ある漠然とした不安」を生きた作家と見るべきたろう。
 温は関東大震災について語らない。
 それは、かつてない破壊、ないし崩壊を受けた、この世の虚しさを知った若者にどう映っていたのか。
 数年後、温の世界、あるいは、かつてあった秩序は、おそらく「ある漠然とした不安」を背景にようやく完成しかけていた。もう一塗り最後の仕上げを待つばかりであった。                          (つづく)

2011/10/05(Wed)  1330
 
 いまや私の記憶は、まことに無残で――昔見た映画なとは、記憶のなかでゴチャゴチャになっている。題名さえ、うろおぼえだからねぇ。

 森本 薫の芝居、「華々しき一族」が映画化されたのは、いつころだったのか。これはおぼえている。「愛人」演出・市川 崑。三国 連太郎が新人だった頃の映画。1953年。
 「コウちゃん」越路 吹雪が出ていた。マダムの役で。若い娘たちが絡んでくる。有馬 稲子と岡田 茉莉子。さて、どちらがどっちの役をやったのか。

 「愛人」のことをおぼえているのは――当時、「東宝」に友人の椎野 英之がいたので、「東宝」の映画はたいてい見ていたから。「コウちゃん」が結婚する前で、越路 吹雪の家にも椎野につれて行ってもらったことがある。

 この頃、私はたくさん映画を見ていた。

 「アンナ」。アルベルト・ラットアーダ監督。
 当時、肉体派と呼ばれていたシルヴァーナ・マンガーノの主演。
 たしか病院の看護婦さんの話で、暗い過去を背負った美女の流転の物語。「戦後」のイタリアの暗さがこんな映画にもにじみでていたのか。
 原作は、「空が赤い」のジュゼッペ・ヘルトだった。当時の私は、英語もろくに読めなかったのだから、原作を読んだはずもない。しかし、この作家は、私が大きな関心をもったひとり。
 監督がラットアーダで、シルヴァーナ・マンガーノが出て、ラフ・ヴァローネ、ヴィットリオ・ガスマンが出ていたのだから、間違いなくいい映画だったはずなのに、もう、ほとんどおぼえていないのだから、ひどい話だ。

 いまの私が思い出すのは――シルヴァーナのはいていたショートパンツにくっきりと亀裂が見えていたっけ。そんなことしか思い出さない。「ギルダ」で踊ったリタ・ヘイワースよりも、ナイトクラブで踊ったシルヴァーナ・マンガーノのほうが、ずっとセクシイ(当時は、こんな言葉も使わなかった)だった。
 この映画に、シルヴァーナのすぐ下の妹、パトリツィア、いちばん下の妹、ナターチャが出ていたが、ふたりとも、その後はどうなったのだろう? そんなことしかおぼえていない。

 あ、そういえば――「陽気なドン・カミロ」(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)に登場した、新人、ヴェラ・マンガーノはどうなったのか。

 その頃は、(まだ、ロロ・ブリジダも、アニタ・エクバークもいなかったので)、パンツのわれめにくらくらしたシルヴァーナ・マンガーノだが、ただのエロティックな新人女優にすぎなかったシルヴァーナが残って、ほんとうの名女優と呼んでもいいほどの女優になった。

 わからないものだ。人生というか人間の運命というものは。

 映画のストーリーも思い出さないで、その映画に出た女優のことをぼんやりと思い出している。ボケたなあ。

2011/09/30(Fri)  1329
 
 もの忘れ。最近の私のもの忘れは、もの忘れどころのレベルではない。

 いろいろな物事、できごとがゴチャゴチャになっている。もっとも、ゴチャゴチャになっていることがわかるだけましだろう。

 例えば――

 エリマキトカゲ。テレビ・CMで……パプア・ニューギニアかどこかの砂漠に住んでいたトカゲ。ほかのトカゲは、いかにも爬虫類といった面構えだが、こいつは、エリマキを巻いて、立ったまま全力疾走していた。アイツは何に向かって走り続けていたのか。
 いつ頃、私の前から去っていったのか。

 オバタリアン。堀田 かつひこのマンガ。中年になって、恥も外聞もなく、人生をカッポしていた人類。あのオバサマたちは、まだ、日本に棲息しているはずだが、どうなってしまったのか。むろん、世代交代して、新種のオバタリアンが繁殖しているはずだが、私は、外出もしなくなっているので、あまり遭遇することがない。

 E電。国鉄が民営化されたとき、それまで「国電」と呼ばれていた電車の名称が変更された。作曲家の小林 亜星が、この名称変更の識者の委員か何かで、とくとくとして、E電という新名称を発表した。ところが、だれひとりこの名称をつかわなかった。
 国民総スカンを食ったっけ。
 あまの邪鬼な私も、この名称は使わなかった。トルコ風呂が、ソープランドに改名したようなものだ。
 酒場で飲んでいて――「おれ、帰る。オデンチャで」
 相手はたいてい、けげんな顔をする。
 「オデンチャでもE電やろ」
 ニヤリとする。

 紅茶キノコ。口裂け女。  コンナノもあったっけ。

 何もかもゴチャゴチャになってしまった。ひどい話だ。
      (つづく)

2011/09/24(Sat)  1328
 
 私の連載ははじまった。最初の数回で――自分でも快調だと思った。むろん、まだ読者の反響はなかったが。
 ところが、急転直下――まあ、当然だったにちがいないのだが、この連載は10数回で終わった。あっけなく挫折したのだった。

 担当の服部 興平君が亡くなった。連載中に、担当者が亡くなったことははじめてだった。ショックは大きかった。私は、北海道に旅行中で、服部君の訃報も知らなかった。
 私は、彼の葬儀にも出席しなかった。(このことは、今でも申しわけなく思っている。)服部君から依頼された翻訳も、うやむやのうちに立ち消えになってしまった。

 「週刊サンケイ」のコラムが中止したあと、私のマンガに対する関心は急速に消えてしまった。

 このときから、森川 久美、小越なつえ、向坂 桂子、湖東 美朋といった少女マンガを読むこともなくなった。去年の雪いまいずこ。なつかしい作家たち。
 私のマンガ批評はあえなく挫折したが、それでも、私の仕事に――砂川 しげひさ論や、上村 一夫、小池 一夫などのマンガの解説といった意外なエッセイがある。私は、こうしたマンガにも関心をもったのだった。

 数年後、「集英社」のコバルト文庫が企画したアメリカのY.A.(ヤング・アダルト)小説のシリーズがはじまったとき、私はクラスにいた坂崎 倭、羽田 詩津子、中山 伸子たちを登場させた。
 私自身は、スーザン・E・ヒントンの「アウトサイダー」という長編を訳した。このシリーズも、私がトップ・バッターだった。たまたま、ほとんど同時に、おなじヒントンの原作が別の出版社から出た。こちらの訳は、児童文学のほうでは有名な女流翻訳家の手になるもので、本もりっぱなハードカヴァー。翻訳は、ジェンティールで、まじめな翻訳だった。
 私の訳は、この先生の訳と違って、全体にハードで、しかも少年マンガ、少女マンガを意識した翻訳になった。

 ヒントンの原作は、フランシス・コッポラが映画化している。
 マット・デイロン、まだハイティーンの少女だったダイアン・レインが出ている。
 私の訳した本はいくらか読まれた。文庫本で安かったせいだろう。

 このシリーズで、ヒントンの作品を、つづけて3作翻訳した。別に一冊、「テックス」という作品は、坂崎 倭に訳してもらった。坂崎 倭は、その後、児童文学、少女小説の翻訳家として有名になった。(田栗 美奈子さんの最初の先生である。)
 私は、このシリーズの成功を見届けてから、Y.A.(ヤング・アダルト)小説から離れた。このシリーズを手がけていた頃も、私のマンガ熱はつづいていた。
 今となっては、その頃読んだマンガのストーリーもろくに思い出せないのだが。

 今でもときどき、「タラッタポン」や、「南国少年パプワくん」、はては「クレオパトラD/C」や「アレクサンドライト」などを読み直してみようか、と思う。
 楽しいだろうなあ。

 最近の私は、安東 つとむの好意で――サイレント映画の女優たちについて、短い連載をつづけているのだが、これも約束をはたさずに終わった服部 興平君への、罪ほろぼしのようなものなのだ。

 人生には、いろいろな出会いがある。
 マンガ評論家になれなかったのは残念だが。(ヘヘヘ、冗談ですよ)。

2011/09/22(Thu)  1327
 
 批評上のクライテリオンなどは、書いて行くうちにあらわれてくる。
 おもしろいマンガがいっぱいある。だから、マンガを読みつづけた。
 手塚 治虫、石森 章太郎、松本 零士といったビッグネームをとりあげるつもりはなかった。

 「ハンサムな彼女」  「変」  「SAY,GOOD−BYE」

  「はじめちゃんが一番!」  「ロマンスの王国」  「きもち満月」

   「神様の言うとおり」  「ハイヒールCOP」  「ハーパーの秘密」

 好きな作家もいっぱいいた。

 深見 じゅん  秋本 尚美  瀬川 乃里子  森生 まさみ

   陸奥 A子  吉野 朔美  向坂 桂子  森川 久美 ……

 ほかにも、思い出せるままにあげていけば――佐伯 かよの、松本 美緒、谷地 恵
美子、山田 里子……
 こんなふうに書いてもきりがない。

 「サンケイ」の文化面に書くのだから、一般の読者(とくに女性)に読まれるようなテーマがいい。そんな要望もあった。
 「おともだち」の高野 文子は、どうしてもとりあげたかった。(今の私なら、近藤 ようこをとりあげるだろう。)
 マンガを読む読者ではなく、マンガに関心がない人々にマンガの現状を紹介しよう。
 そのためには、さしあたっては、社会派もの、青年マンガよりも、レディース、少女マンガに集中したほうがいい。
 例えば――しげの 秀一は「バリバリ伝説」で知られているが、私は、超能力学園ものを描きはじめたこのマンガ家に注目した。
 残念ながら、しげの 秀一だけでなく、車田 正美、鶴田 洋久、星野之宣といった作家たちにふれることがなかった。
 この頃には、すでに「ぼのぼの」が登場していた。とにかく、毎週、書く対象の選択に困るほどだった。連載も最低、2クール(25回)つづけて、つぎに交代すればいい。

 例えば――高橋 留美子をとりあげるのは簡単だが、わずか3枚の原稿で、「めぞん一刻」をとりあげるわけにはいかない。
 そこで、「プチコミック」に出てきた「スリム観音」のような作品をとりあげたいと思う。(現在の私は、高橋 留美子にしては失敗作と見るのだか)、この作品のキャラクターは、後年の「らんま1/2」に発展している。そんなふうに考えると、かんたんに見過ごすわけにはいかない。

 矢沢 あいも、とりあげたかったひとりだが、この作家が「りぼん」に書いているほかの作品を追っているうちに、私の連載が打ち切られてしまった。

 私は、忙しい日常のなかで――気分転換のために、マンガを読みつづけた。とにかく読む。田村 由美、那州 雪絵。
 そういうムチャクチャな読みかたをしながら、一方では、純文学からミステリー、SF、同時にイタリア・ルネサンスの文献まで、ひたすら読みつづけていた。

 読むことが楽しくてたまらなかった。読むのにあきると、いそいそとマンガを読むのだった。
      (つづく)

2011/09/20(Tue)  1326
 
 作家としては、「サンケイ」の連載コラムを書いていた時期が、いちばん幸福だったような気がする。

 担当してくれた編集者は、旧知の服部 興平だったが、私は、いつも「サンケイ」ビルの喫茶店で、彼と話をした。もともと「週刊サンケイ」の記者で、いろいろな機会に私に原稿を書かせてくれた。

 服部君は、私にアメリカの小説の翻訳を依頼してきたのだった。当時の私は、何冊も翻訳をかかえていて、動きがとれなかった。しかも、大学で講義をつづけていたし、「バベル」という翻訳家養成学校の先生になった頃で、私自身の生活環境が変わってしまった。かんたんにいえば、翻訳に時間をとられるのがいやだった。
 服部君は「気分転換にマンガのコラムを書きながら、翻訳をしてくれないか」といってくれたのだった。
 私は承知した。日程としてはどうにも無理だったのだが、そこまで私を信頼してくれていると知って服部君の期待にこたえようと思ったのだった。

  このコラムの第一回に何をとりあげたか、よくおぼえていないのだが――たぶん登場したばかりの高河 ゆんをとりあげたと思う。

 高河 ゆんは、やがて「源氏」の連載や、「ローラーカイザー」あたりから流行作家になったはずで、私はこのコラムで、だれより早くこのマンガ家をとりあげたことがうれしかった。
 私は、「文芸」で同人雑誌の批評を続けてきた経験があった。マンガの批評にも自信があった。月刊誌に書くのと、週一回のコラムを書くのと、それほど違いはない。
 私がコラムでとりあげた作品に、それぞれ脈絡もなく、ジャンル別にもこだわらなかった。そのため、せいぜいマンガ好きの作家の「お趣味」の行きあたりばったりの選択に見えたはずである。たしかに、そうに違いなかったが、私には私なりのクライテリオンがあった。
 小さなコラムだからこそ、私がとりあげるのは、すでに有名な作家よりも、できるだけ将来性のある新人作家をとりあげようと思った。
        (つづく)

2011/09/17(Sat)  1325
 
 ある時期の私は、かなり多数のマンガを読んでいた。

 服部 興平は私にとってはわすれられない編集者のひとりだった。
 せっかちな人柄で話をしていると、話題はいつも私の3倍ぐらい多かった。そして、その話題は、いつも多岐にわたって、ミステリーの話をしていたかと思うと、宇宙論になったり、映画の話から、たちまち女性論になったりする。
 才気煥発なジャーナリストだった。
 何かのシリーズものの企画を立てると、まっさきに私に連絡してくる。
 「トップに中田さんが書いてくださると、あとで書く人に話をもって行きやすいんですよ」
 「へえ、どうして?」
 「中田 耕治が書くんなら、(自分も)書いてもいいとおっしゃるんですよ」
 「ふぅん、そうなの?」
 服部 興平はニヤニヤしていた。

 「サンケイ」が、マンガ時評といったコラムを新設して、私が担当することになったのも服部 興平のおかげである。
 毎週、いろいろなマンガをとりあげて紹介しながら批評するというふれこみだった。
 むろん、私以外に適当なマンガ専門の評論家がいないわけではなかったはずだが、マンガについて書いたことのない作家が、マンガをどう読むか、そのあたりを期待していたはずである。

 私はマンガを読みつづけていた。大きな仕事をしていると、どうしても気分転換が必要で、そんなとき、手あたり次第にマンガを読む。ジャンルは問わない。青年マンガ。レディース・コミック。ナンセンスもの。ホラー系。
 だいたい、単行本が多かったが、少女雑誌、女性誌、少年雑誌、青年誌。はては、ごく一部だったが、同人誌まで。

 自腹を切ってマンガを買うのだから、けっこう出費がかさむ。そこで、「集英社」の編集者だった桜木 三郎に頼んで、「集英社」新刊のマンガを送ってもらったこともある。

 (桜木 三郎よ、いまとなっては、せんなきことながら、きみがマンガを送ってくれたことに感謝している。新刊のマンガだけだって、たいへんな金額だったはずである。ほんとうに迷惑をかけた。今でも申し訳なく思っている。)

 何でも読んだ。

 今でも、何人かのマンガ家は、作品の印象といっしょに思い出せるくらいだ。
 怱領 冬実。
   岡野 玲子。
     ささや ななえ。
      「プチ・コミック」で読んだ佐伯 かよの。
         別冊「フレンド」の、松本 美緒。

 長いシリーズでは、窪之内 英策の「ツルモク独身寮」。
 魔夜 峰央の「パタリロ」。これは「花とゆめ」で読んだっけ。

 有名なマンガ家のものもずいぶん読んだ。
 水木 しげる。ただし、「ミスター・マガジン」で連載がはじまった「猫楠」などで、「ゲゲゲの鬼太郎」は、もっぱらテレビで見ていたはずである。
 ホラー系では、「夜中にトイレに行けなくなる話」系のマンガを、夜中にトイレで読んだり、北条 司の「CITY HUNTER」が、終わってがっかりしたり。
 「リョウ」の恋人、「香」が現実にいたら、私はすべてを投げうって――
 いや、怱領 冬実の「3 THREE」の「理乃」も好きだったなあ。

 沢井 健の「イオナ」は――昨年、私が救急車で病院にかつぎこまれたとき、吉永珠子が、いとばん先に届けてくれたっけ。うれしかったナ。
 とにかく、マンガを読むたびに、たちまちヒロインに恋をするような読者だった。
            (つづく)

2011/09/14(Wed)  1324
 
 もう一つ、私の心に残ったことがある。
 それは、ある時点で、何かの現象をかなりの確度、ないしは精度をもって総括することの困難さである。

 フランス演劇について、原 千代海が書いている。その一節に、

   すでにしてジロォドゥは病没し、その遺作「シャイヨの狂女」がジューヴェに
   よって脚光をあびたのは一九四五年であるが、間もなくコポオが死し、デュラン
   が去ると、その後の劇壇に唯一の希望として法灯を掲げていたジューヴェその人
   さえ、今秋、思いがけなく去って行った。ばてぃは、戦後田舎に引退して、ずっ
   と沈黙を守っている。

 原さんがこの原稿を書いたのが、1952年だったことがわかる。

 私は、やがて「俳優座」の俳優養成所の講師になった。これも、内村先生のおかげで、おもにアメリカ演劇を勉強しはじめるのだが、自分では演出家になるつもりだった。
 しかし、この志は果たせず、もの書きとして生きてきたので、結果として私の目標は大きく変わってしまった。

 戦後演劇の小冊子だが、この「新劇手帖」は、 私にとっては、なつかしい本だった。
 いろいろなことをかんがえることができた。

 たとえば、野崎 韶夫(ロシア演劇研究家)はいう。

   ひとりドラマに限らず、オペラ、バレー、オペレッタ、児童のための演劇(中略)、
こうした劇場の繁栄は営利や採算に拘束される資本主義社会では決して見ら
   れない現象であろう。(中略)劇場が国家・社会の理想と目的に心から同感し、
   その達成に協同するとき、そして国家・社会が劇場の成立と活動のあらゆる条件
   を保証するとき、真に高い思想性と芸術性をもつ演劇の開花することを、現代の
   ソヴェート劇場は証明している。

 こういう文章を読むと、胸が痛む。
 ソヴィエト崩壊後に、ソヴィエト最高のバレリーナ、プリセツカヤは――「私たちは、70年間、きょうふのうちに生きてきました」と語ったが、この声の前に、野崎 韶夫の文章は一瞬にして意味を失うだろうから。

 これとは別に私の考えたことの一つ。

 現在ではかつてのブルクハルトや、ホイジンガのような文化史を越える様な研究は、いくらでも見つかる。文化という広大な分野を一身にひきうけて、そのうえで、私たちの理解をいっきょにくつがえす研究や、ごく狭い領域に限定して、その研究が、その時代の全貌をあきらかにする、といった研究もめずらしくない。
 私は、ここでル・ロワ・ラデュリの仕事を思い浮かべているのだが――それでも、なぜか、ブルクハルトや、ホイジンガのもっていた魅力は少ないように思う。

 へんぺんたる小冊子だが、はるかな時代をへだてて、もはや残り少ない私自身の仕事のありようまで考えさせられたのだった。

2011/09/09(Fri)  1323
 
 戦後、日本の「新劇」は、チェーホフ「桜の園」の合同公演で復活した。
 演出は、青山 杉作。
 ラーネフスカヤ(東山 千栄子)、アーニャ(丹阿弥 谷津子)、ヴァーリャ(村瀬 幸子)、ガーエフ(薄田 研二)、ロパーヒン(三島 雅夫)、トロフィーモフ(千田 是也)、ピーシチック(三津田 健)、シャルロッタ(岸 輝子)、エビホードフ(滝沢 修)、フィルス(中村 伸郎)、ヤーシャ(森 雅之)

 このキャストに眼をみはった。
 その後、私は、ソヴィエトの「桜の園」や、イギリス、アメリカの「桜の園」、めずらしいものとしては、ポーランドの「桜の園」まで見てきた。
 しかし、私は、いつも「桜の園」を見るたびに、戦後すぐの日本の新劇人たちの合同公演の舞台を思い出した。今思えば、装置や照明もずいぶん貧寒なものだったし、ラーネフスカヤを中心とする女たちや、とくにトロフィーモフ、シャルロッタをやった千田 是也、岸 輝子夫妻の、教条主義的な芝居には、築地小劇場いらいの、なんとも古風な感じがまとわりついていたが、それでも、私たちはこれからの日本の芝居を見ていたのだった。
 あれ程、大きな感動をもって舞台を見たことは、あまりなかったと思われる。

 私は、この「桜の園」を見て、自分も演劇という世界で何か仕事をしたいと思った。

 私が見た芝居は、「どん底」、「愛と死との戯れ」(俳優座/1946年)、川口 一郎の「二十六番館」、「或る女」(文学座/1946年)、そして、「夏の夜の夢」、「人形の家」(東京芸術劇場/1946年)など。
 戦災でまったく無一物になった若者にとって、芝居のチケット1枚を手に入れることが、どんなにたいへんだったか。私が、戦後すぐに原稿を書き始めた理由は、ただひたすら新劇を見るため、新刊書や古本を買うためだった。

 やがて、戦時中にかかった肺結核が進行していることに気がつく。
 みじめな青春だったが、私は、こうして「戦後」を生きはじめたのだった。
         (つづく)

2011/09/07(Wed)  1322
 
 これも最近、私としてはめずらしい本を見つけた。

 田中 千夭夫、内村 直也・編 「新劇手帖」(創元社)昭和27年刊。250円。

 かんたんに、内容を紹介すると――

 「演劇とはどういうものか」という大項目に、岸田 国士、田中 千夭夫、装置家の伊藤 喜朔のエッセイが並び、つぎの「世界の演劇」という大項目では、イギリス演劇(内村 直也)、ドイツ演劇(遠藤 慎吾)、フランス演劇(原 千代海)、ロシア演劇(野崎 詔夫)、アメリカ演劇(杉山 誠)、日本演劇(菅原 卓)といった、当時、錚々たる人々が、それぞれの分野の演劇事情を紹介している。
 その末尾に、「世界の演劇人」という項目があって、筆者は内村 直也、中田 耕治。
(むろん、内村先生が執筆したわけではなく、項目の選択、執筆、すべて私が書いた。つまり、こういうかたちで、私は原稿料を稼ぐ機会をあたえていただいたわけである。)
 内容は――16ページに、百人ばかりの演劇人をとりあげて、かんたんな経歴を書いただけのもの。まあ、バカでもできる仕事だろう。
 たとえば――ルイ・ジュヴェの項目は、

   ジューヴェ  ルイ  Louis Jouvet(1887ー1951)
    仏 演出家・俳優。ヴィュ・コロンビエ座出身。コメデイ・デ・シャンゼリゼ
    に移り、後にアテネ座を主宰す。代表的な上演目録は「トロヤ戦争は起らない
    だろう」「シグフリード」「アンフィトリオン38」「オンディーヌ」「シャ
    イヨの狂女」「女房学校」「ドン・ジュアン」「タルチュフ」「海賊」「地獄
    の機械」など。驚異的な迫力をもつ演技と、特異な風貌をもって知られる。ジ
    ロードゥとの友情は有名。近代フランス劇壇の偉材。

 とある。(10行)ジロードゥーは6行。シャルル・デュランが3行。
 バーナード・ショーが8行。ロバート・シャーウッドが5行。ローレンス・オリヴィエが3行。
 1947年、ルイ・ジュヴェに対する私の関心が大きかったことがわかる。

 後年、私はルイ・ジュヴェの評伝を書いたが、おかしなことに――ここにリスト・アップした人々の大部分(ただひとり、中国の劇作家としてとりあげたツァオ・ウまで)を登場させている。
 このことに気がついたとき、われながら茫然とした。

 つまり、私は「戦後」すぐに自分がとりあげた百人ほどの人々の仕事をずっと追いかけつづけてきたことになる。
 この「新劇手帖」でとりあげたときは何ひとつ知らなかったのだから、それだけ勉強してきたことになるけれど――じつは、私のやってきたことは、この百人の人々のことをひたすら理解しようとしてきただけなのか。
 そう思うと、なぜか、総毛だつような思いがあった。「この小さな「新劇手帖」の、わずか十数ページに、私の未来の全てが凝縮されていたのかも知れない。
 このおもいがけない「発見」に、私はしばらく考え込んでしまった。

 驚きのひとつは――私の演劇の知識はこの時期からほとんど変化していない。ということだった。
 ゲッ、おれの頭は半世紀にわたって、ほとんど進歩しなかったのかヨ。
 つまり――私の演劇観のほとんどは、このへんぺんたる小辞典によって作りあげられたものなのか。(ほかの分野の知識にしたところで、私の勉強などたかが知れている。)
 むろん、その後の私は、かなり多数の芝居を見てきたし、実際に舞台の仕事にたずさわってきた時期もある。

 しかし、私の頭は半世紀にわたって、ほとんど進歩しなかったらしい、という思いは、さすがにコタえた。
 その私のそもそもの出発のすべてがここにあると知って、驚きよりも何も、自分の知識の貧しさ、とぼしさにあきれた。おのれの才能がなかったことに、うちのめされたといっていい。

 こうなると、笑うしかない。

 もっとも――こんな機会に、私に少しでも世界の演劇について勉強をさせてくださった内村先生に対する感謝の思いがよみがえってきた。
         (つづく)

2011/09/05(Mon)  1321
 
 私は、他人の翻訳を批判しない。
 そんな暇があったら、黙って、別の本を読んでいたほうがいい。

 それでも、たまに、もう少しましな翻訳ができなかったものか、と思う本もある。

   本通りには鉄製のアーチが備え付けられ、そこに取り付けられたネオンサインに
   は<歓迎世界最高の小都市リーノー>と書かれている。

 ある長編の書き出し。これを読んだ瞬間に、これはダメだな、と思った。翻訳は、すぐにつづけて、

   静かな小都会である。車のフロントガラス越しに、十二ブロック先の、本通り
   の端近くまでが見える。この高度では何もかもが眼に鮮やかに映る。空には染み
   一つなく、車の計器盤から流れ出る朝のジャズ音楽は生き生きとしている。きれ
   いな町である。賭博場の豪華な建物は、どれも現代風で、薄い灰色をしており、
   どのネオンサインも陽の光のなかで輝いている。交通信号が変わり、車は慎重に
   進む。だが、一ブロック進むと、警官に停止させられる。警官は歩道を離れて、
   反対方向へ行くトラックを停め、一人の老婆に付き添ってゆっくりと通りを横切
   る。老婆はしずかな雰囲気の銀行に入る。その隣には上品な婦人洋装店があり、
   更にその隣の店には、窓がらすに金文字で<さいころ賭博>とある。<競馬賭博>
を呼び物にしている店もあれば、<カジノ>の店もあり、<結婚指輪>の店も
   ある。停車しているわずかの間に、かなり騒々しい音が聞こえ、そちらに人の注
   意が向く。左手の、店内の煌々とした賭博場から騒音が通りへと伝わり、歩道の
   上の方では店のネオンサインがきらめいて<大当たり>とでる。それは店の中の
   どこかで客が満点を射止めたことを示している。

 これは、この小説の舞台になっているリノの描写。
 語学的には間違いのない訳だが、なんという魅力のない訳だろう。それに、この訳は――ぜんぺん、説明にすぎない。原作者は、これからはじまる小説に、いきいきとした命を吹き込んでいるのだが、それがこの訳にははじめから欠けている。

 作者はアーサー・ミラー。じつは「荒馬と女」の原作だが、日本訳の題名は「はみだし者」となっている。
 1989年7月刊。もう4半世紀も昔の本だから、営業妨害にはならないだろう。

 原題の「ミスフィッツ」は日本語になりにくいことばだが、「はみだし者」とはおそれいった。
 アーサー・ミラーが劇作家なので、全編、いきいきとした会話がつづくのだが、

   「荒れ狂った牛が野放しで走っているというのに、俺はあの若僧を助けに飛び込
   んだんだぜ――君は何を話しているつもりなんだ? 俺だって、今こんなとこ
   ろに坐っているのは、べらぼうに運がいいんだぜ、君にはそれが分らんのかね?」
   「分るわ。そうだったわね」彼女は突然彼の手を取って、それに口付けし、自
   分の頬に彼の手を押し当てる。「そうだったわね!」彼女は彼の顔に接吻す
   る。「あんたは実にいい人だわ……」

 映画では、マリリン・モンローが、クラーク・ゲーブルの手をとって、キスするシーンだが――

 私の「みんな我が子」の訳も、きっとこんな程度のものだったに違いない。自分では、けっこういい訳のつもりでいたのだから、救いようがない。
 今の私は、菅原 卓の仕事、翻訳に対して批判をもたないわけではない。しかし、駆け出しの私を叱責して、戯曲の訳が上演に不適当な訳だということ、セリフがセリフとして生きていないことを、逐一、完膚なきまでに批判してくれた菅原 卓には、いまでも感謝している。私は、ふるえあがった。
 その後、私は「中田君、きみ、腹を切りなさい」ということばの重みはけっして忘れたことがない。

2011/09/04(Sun)  1320
 
 当時、私は、生活のために翻訳をするようになったが、いつか、テネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲を訳してみたいと念願していたのだった。
 私のような駆け出しの新人が、テネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲を訳せる機会はなかった。
 それでも、アーサー・ミラーの戯曲を訳すことが出来たのは――私にとっては僥倖というべきだったろう。
 当時、私は小さな劇団で俳優の訓練用に、アメリカの短編を訳していた。まだ日本では誰も読まなかったヘミングウェイという作家の「キリマンジャロの雪」という短編だった。私は、ヘミングウェイがどういう作家なのかも知らず、ただ、この短編は、いろいろなシーンが出てくるので、若い俳優/女優たちに読ませるのに都合がいい。そんな単純な理由で訳したのだった。
 たまたま、この時期、「新協」から脱退した俳優の三島 雅夫が独立の劇団を起こして、その旗揚げ公演に、アーサー・ミラーは「セールスマンの死」で世界的に知られていたが、三島 雅夫が選んだのは、それに先立つ戯曲、「みんなわが子」であった。
 その翻訳者をさがしていて、たまたま、私の「キリマンジャロの雪」を読み、「みんなわが子」の翻訳を依頼してきた。

 私は、三島 雅夫が私を選んでくれたことがうれしかった。それまで芝居の台本の翻訳など経験もなかったが、翻訳できないことはない。そう思った。

 ここから先は、今思い出しても、恥ずかしいことになった。

 私の翻訳は、まったく使いものにならなかった。
 稽古が途中で中断された。

 演出家は菅原 卓。(私にとっては、恩師にあたる内村 直也先生の実兄にあたる。)私は、急遽、菅原 卓に呼びつけられた。三島 雅夫が同席していた。

 「中田君、きみ、腹を切りなさい」

 菅原 卓の声はきびしいものだった。私は、一瞬、何をいわれているのかわからなかった。しかし、私がなにか重大な失態をおかして、菅原 卓が激怒しているらしいことはわかった。
 そして、菅原 卓は、私の訳をとりあげて、戯曲の翻訳としてまったく使えないことを次々に指摘して行った。
 私は、それまでの自信がケシ飛んでしまった。穴があったら入りたい、どころではなかった。どうしょう、どうしょう。私はただうろたえていたし、菅原 卓の指摘する誤訳、拙劣でこなれていない訳、ようするに、作品を読みこなす力がないのに、戯曲を訳すような無謀、無恥な自分の厚顔に気がつかされたのだった。同席していた三島 雅夫が、憫然たる表情で私を見ていたことは覚えている。

 けっきょく、菅原 卓が全編に手を入れることになった。公演のポスター、パンフレットに、私の名は共訳者として残ったが、実質的に、私の訳は一行も残らなかったといってよい。

 このときから、私は、翻訳の仕事で、原作者に対する敬意は、誤訳をしないこと、というより、原作に対して、おのれの才能のありったけをあげて肉迫することなのだと覚悟するようになった。
            (つづく)

2011/08/31(Wed)  1319

 私は、自分の著書、訳書が、ほとんど手もとにない。出版されたときは、著者用に届けられるのだが、親しい知人に送ったりさしあげるので、一冊も手もとに残らない。いずれ1冊ぐらい手に入るだろうと思っているうちに、たいてい忘れてしまう。

 何年かたって、古本屋の棚の隅っこに、自分の本を見つけたりすると、「へえ、こんな本を出したっけ」と感心する。

 最近、ある古書店のカタログで、自分の本や、私が中心になって出した同人誌がリストに載っているのを発見した。

 「XXXXXX」シミ ハガレアト 初版 中田 耕治署名  4000円

 「ヒェーッ、こんな値がついているのか。これじゃ誰も買わねえだろうな」

 「山川 方夫、北村 太郎、中田 耕治、常盤 新平 少イタミ 制作 1/3号」
7000円

 「冗談じゃないぜ、まったく」

 私は、別の本を買うことにした。これがまた、とんでもない高値。届いてきた本を見たら、わずか19ページ のパンフレット。3000円。
 アチャー。

 しかし、おかげさまで遙かな昔をいろいろ思い出した。むろん、ブログに書くほどのことではない。
 当時の私は、英語もろくに、読めなかったが、それでもテネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲などを読みはじめたのだった。

 「制作」は、私を中心にして出した同人雑誌。
 私がお願いして、牟礼 慶子、大河内 令子たちに、詩の原稿をもらった。北村 太郎も、私の依頼で書いてくれたはずである。
 山川 方夫は何を書いてくれたのだったか。
 それにしても――山川 方夫、北村 太郎が、もはや白玉楼中の人となっていることに胸を衝かれた。

 いろいろな思い出がむねにふきあげてくる。思い出すだけでも、腹を切りたくなるような思い出もふくめて。  
   (つづく)

2011/08/29(Mon)  1318
 
 あまり、人の注意を惹かなかったらしいが――呼吸器系の病気で、マレーシァ、クアラルンプールの病院に入院していたグェン・カオ・キが亡くなった。享年、80歳。
 かつて南ヴェトナム共和国の副大統領だった人物である。(’11年7月23日)

 グェン・カーンが大統領だった頃、南ヴェトナム空軍の司令官で、「ヤング・タークス」の一人だった。「ヤング・タークス」は、直訳すれば若いトルコ人だが、当時、南ヴェトナムの軍関係者で、頭角をあらわしていた少壮指導者たちを意味する。
 グェン・カーンが失脚したとき、後任にグェン・バン・チュー将軍が登場する。
 グェン・カオ・キは、共和国の副大統領として1967年から71年にかけて、先輩のグェン・バン・チューを補佐した。

 当時のグェン・カオ・キは、首に白いスカーフを巻いて、みずから戦闘機を操縦するような空軍司令だった。1975年、戦況が悪化して、サイゴンが陥落したとき、タン・ソン・ニュット空港から、戦闘機に妻子を乗せて、脱出したというウワサを聞いたことがある。

 その後、まったく消息を聞かなかったが、アメリカに亡命して、どこかで大きなスーパーマーケットを経営して成功したという。一度だけ、テレビで見た。風貌はおなじだが、成功した華僑の商人のような感じになっていた。

 この軍人・政治家に関心はない。しかし、亡国の政治家として、自分の運命も、周囲の人々の運命も、はげしく変わったに違いない。アメリカに亡命してから、彼はまったく沈黙したはずだが、ヴェトナム戦争に関して何らかの感想は持っていたはずだと思う。ヴェトナム戦争の推移に関しては指導者のあいだでも、戦争に対する考えかたや、未来への予測は大きく違っていたはずで、グェン・カオ・キが何を考え、どういう行動をとったか、私としては知りたいと思う。
 グェン・カオ・キは、何も語ることがなかった。このことを、私としては残念に思う。

 当時、アメリカ側で、ヴェトナム戦争の遂行に大きな役割を果たしたロバート・マクナマラが、死の直前に、痛切にこの戦争に対する反省を語ったが、グェン・カオ・キは何も証言をしなかったのだろうか。

2011/08/25(Thu)  1317
 
 先日、空に月を見た。なにをいい出すのか、といぶかしむ方もいるだろう。

 なぜかみごとに美しい月だった。

 福島原発事故のニューズで、みんなが暗然たる思いにかられていた時期、私が目にした美しい月は、日本の美しさにあらためて気づかせてくれたような気がする。

  月天心 貧しき町を通りけり   蕪村

 この句の季は秋だが、原発事故のニューズにおののいている私の町なども「貧しき町」といっていいかもしれない。

 残念ながら、夏の月を詠んだ、いい句をほとんど知らない。
 歳時記をあたってみれば、きっと見つかるはずだが、そんな暇はない。
 いくつか挙げておこう。


  月はあれど 留守の用なり 須磨の夏   芭蕉

  夏の月 御油より出て 赤坂や

  夜水とる 里人の声や 夏の月      蕪村

  馬かへて 後れたりけり 夏の月


 月を見たり、時代を離れた俳句を思い出して大震災の悲しみを忘れようとする。私は、そんな日本人のひとりなのである。

 一茶にもあるはずだが、

  なぐさみに 藁を打ちけり 夏の月    一茶

 こんなところだろうか。

 おっと。また、ヤナことを思い出しちまった。
 放射線に被爆した飼料のワラを食べていた東北の牛が、牛肉として出荷されたことが問題になって、各県で放射線量を計測しはじめている。

 三月に、何かといえば――「この程度の放射線量を摂取しても健康に影響はない」としきりにヌカしていたやつらに、こんどはワラでも食わせてやりたいね。

  月はあれど 放射線なり この夏は   香遅庵

  なぐさみに 肉も食えぬか 夏の月

 イヒヒヒ。

2011/08/24(Wed)  1316
 
 暑い。例によって、頭がろくに動かない。(ウゴかない、のではなく、イゴかない。)そこで、またまた俳句の話。

   炎天に 照らさるる蝶の 光かな   太 祇

 いいなあ、さすがは太 祇先生。いいよ、これ。
 今年の夏は、わが家の庭で蝶々を多く見かけた。
 わが家のバカネコがつかまえて見せにくる。
 「バッキャーロ。せっかく遊びにきてくれた蝶々をとって、鬼の首でもとったような顔で見せにくるんじゃねえ!」

   炎天の 空に消えたる 蝶々かな   冬 葉

   炎天や 水盤に憩ふ 蝶を見る    百 竹

 こんな風情は、もうどこにもない。どこでも見られない。

   炎天の日に いらいらと 毛虫かな   橡面坊

 今のご時世なら――「炎天の日に いらいらと 放射量」だね。
 「炎天の日に いらいらと 菅首相」でもいいか。内閣支持率、18パーセントだってさ。(’11.8.8)鳩ポっポでさえ、19パーセントだったから、こらまた、いらいらだなあ。
 ま、退陣の日程がきまりかけているのだから、ま、いっか。

 私の住んでいる界隈は、台風も寄りつかない。だから、ほかの土地では「八大龍王雨やめたまえ」と祈っているのに、雨さえも降らない。

   三五つぶ 蓮に落ちけり なつのあめ   大江丸

 夏になると、わが家の近くの公園に、天然記念物の大賀ハスが咲くのだが、「三五つぶ」の雨も降らないせいで、干割れた泥のあいだに、申しわけなさそうに立っている。

   降る雨の ただ夏らしくなりにけり    公孫樹

 先日、ニューヨークの株が、一時、385ドル安。(’11.8.9)株価暴落。東京、アジア、ヨーロッパと連鎖反応をおこした。
 東京市場だけで――6月末から8月にかけて、株式の時価総額は約27兆円、フッ飛んじまったという。

 背筋が寒くなった。涼しくていいが、ここにきて、世界的な恐慌(デプレッション)なんて、冗談じゃないぜ。……
 私のような貧乏人が気に病んだって、仕方がない話だが。

2011/08/18(Thu)  1315
 
 暑いぜ。まだ、暑い日がつづいてやがる。
 本を読む気になれない。

 ところで、芭蕉に

    涼しさを 絵に写しけり 嵯峨の竹

 という句がある。
 若竹の新月になびくさまをデッサンするさえ、涼味あり。いわんや、嵯峨野の緑陰をめぐり、るいるいたる古墳、爛班(らんはん)たる青苔のほとり、一椀の茶を喫し、そぞろ、いにしえを回顧するにおいて、清涼、いうべからざる趣きのあるべし。
 KDDIのPR雑誌「TIME & SPACE」最近号(2011.8/9)の表紙に――ライトアップされた嵯峨野の竹林が、表紙になっている。
 風景写真として、芭蕉さんに見せてあげたいすばらしいショット。きっと、名句が生まれるにちがいない。

 ただし、私のようなぼけ老人は、この暑さで頭がおかしくなるばかり。

 このブログ、ときどき俳句が出てくる。何も書くことがないので、せめて俳句でも、というさもしい了見が見えるだろう。ヤキが回ったのは暑さのせいだけではない。
 さて、一茶の句に、

   蓮の葉に のせたようなる庵かな  一茶

 という句がある。この句について、明治32年の雑書に、

   斯(かく)の如き詩趣はすでに旧(ふる)く、したがって涼味も浅し。

 とあった。おやおや。一茶もバカにされたものだ。
 もっとも、おなじ一茶の

   湖に 尻を吹かせて セミの鳴く

 といった句は感心しない。むしろ、

   朝顔に 涼しく食ふや 一人めし

 などは、一茶らしくていいのだが。

 さて、メシでも食うか。ネコの「チル」にも食事をさせなければならないので。
 チョッ、くそ暑いぜ。

2011/08/17(Wed)  1314
 
 ヴエトナムからの帰り、香港で知りあった女性がいる。
 私がしばらくサイゴンにいたと知って、興味をもったらしかった。私は、彼女の案内で、ニュー・テリトリーや、シャーティン(沙田)で遊んだり、いろいろなナイトスポットに行った。ただ、このときはじめて香港ポップスの美しさに気がついた。シャーリー・ウォンが生まれたばかりの頃のこと。まだ、テレサ・テンも登場していない。私は当時の歌姫たちのテープを買い込んだ。

 いよいよ、香港から離れるという日に、彼女が
 「どうだった?」
 と訊いた。
 私が、にやにやしたことはいうまでもない。

 帰国後、彼女をモデルにして長編を書いた。旅行はたしかに私の想像を刺激したが、私にできたのは外から眺めただけで、香港の内側に入り込み、自分もその一部になるようには書けなかった。

2011/08/14(Sun)  1313
 
 たとえば、サイゴンの夏の夕暮れ。

 カフェで、通りすがりの若い娘たちを眺めている。彼女たちのアオザイ(長衣)は、かろやかなブロケ、下着はブラジャーと純白のクーツ(ズボン)だけで、ほっそりしたからだにぴっちり張りついている。

 サイゴンの美少女たち。しなやかなからだの線が、薄いアオザイを透して、はっきり感じられる南ヴェトナムの乾季。ほかにどんなすばらしい眺めがあろうと、メコンの岸辺に、涼をもとめてゆっくり歩いてゆく若い娘たちほど、美しい眺めはなかった。

 サイゴンの娘たちは美しかった、などといおうものなら、友人たちはみんなにやにやしたが、東京にいて、ヴェトナム戦争下のサイゴンのやすらぎにみちた風景は想像もつかないものだった。

 私自身、戦乱のサイゴンの絶望的な様相といったものを予期して行っただけに、戦争に明け暮れるヴェトナムの姿などどこにも見あたらなくてとまどったくらいだった。こういうチグハグな印象はどう説明してもうまくつたわらないので、私はいつも黙っていた。

2011/08/10(Wed)  1312
 

 今年の夏も暑い。まあ、あたりまえの話。
 涼しいことを考える。

   夏河を越すうれしさよ 手に草履

 有名な句。なんともうらやましい。暑さしのぎに、わざと橋をわたらずに、川の中をジャブジャブ渡ってゆく、という趣向がうれしいけれど――私の住んでいる町には、そんな川もない。小さな川はあるのだが、両岸ともコンクリートの護岸工事で、うっかり川に入ったら這いあがれない。

   涼しさや 掾(えん)から足をぶら下げる   支考

 これぐらいなら私にもできる。しかし、わが家には掾側(えんがわ)もない。ビルの窓から、足をぶら下げたら、さぞ涼しいだろうが、すぐに防犯カメラに撮られて、警備員につかまっちまうね。ボケ老人の徘徊ということになるかも知れぬ。
   此のふたり 目に見(みゆ)るもの みな涼し  芭蕉

 私の詠む句なら――このふたり 目に見(みゆ)るもの 暑苦し。

 私が、ときどきこのブログで俳句をとりあげるのは――もはや、はるか遠く過ぎ去った風物を、心のスクリーンに映すようなものかも知れない。

   関守の宿を 水鶏(くいな)に問はふもの    芭蕉

   ほととぎす 声横(よこた)ふや 水の上    芭蕉

 涼しさ、かぎりなし。ただし、水鶏(くいな)も、ほととぎすも、見たことがない。

 そこで、とっておきの一句を。

   河童の戀する宿や 夏の月

 これなら涼しいが――私の場合は、

  河童 また失戀したか 夏の月

 どうも暑苦しい句で、ごめんなさい。

2011/08/08(Mon)  1311
 
 暑いので仕事にならない。仕方がない。部屋のゴミを片づけようか。

 色々なものが出てくる。古雑誌、古い写真、古い手紙。みんな大切に保存しておいたものだが、残念ながら、残しておく価値もないものばかり。

 ときどき、古いノートが出てくる。
 そんな中に、私が何かから書き写しておいたメモがあった。

   ある日、ジュヴェは劇作家のトリスタン・ベルナールに会いに行った。

  ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい階段の上にあった。

 私は、当時、ルイ・ジュヴェの評伝を書いていたので、ジュヴェのエピソードはかならずメモすることにしていた。トリスタン・ベルナールは有名な喜劇作家だから、俳優のルイ・ジュヴェが会いに行っても不思議ではない。問題は、ジュヴェはトリスタン・ベルナールと何を話したのか、ということになる。
 そこで、私は、当時のトリスタン・ベルナールについて調べはじめた。
 けっきょく、ジュヴェがトリスタン・ベルナールと何を話したのか、わからずじまいだった。ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい。話を終えて、トリスタン・ベルナールは、ジュヴェを送って外に出たらしい。

   帰り際に、ジュヴェは大真面目な顔で、
   「先生、注意してくださいよ。この階段、二段ばかりカトリックじゃありません
   ね」
   トリスタン・ベルナールは答えた。
   「だけど、おれだって違うからね」

   後日、この話をしてくれたジュヴェは、途中でたいへんなことに思い当たったよ
   うに、気の毒なほどうろたえて、
   「ひょっとして、劇作家先生、気をわるくしたんじゃないだろうか」
   「まさか! そんなことで気をわるくするトリスタンじゃないさ」
   「ああ、よかった! 安心したよ」

   泣きそうな顔で、胸をなでおろすジュヴェを見ると、つい、いってやりたくなる
   のだった。
   「まったく、ルイときたら……つまらないことにこだわるからなあ」

 このエピソードを私は使わなかった。ジュヴェはトリスタン・ベルナールの芝居を一度も演出しなかったからである。

 評伝を書く仕事は、地図をもたずに登山をするようなところがある。自分ではしっかりしたルートをたどっているつもりでも、思いがけない方向に迷い込むことが多くて、自分でも因果な仕事だなあ、と嘆いたりする。

 このエピソードを私は、使わなかった。ただ、メモしただけで忘れてしまったのだろうか。それも、今となっては思い出せない。
 だから、このエピソードはいつ、誰が書いたのか。これも、もう調べようもない。

 これだけのエピソードから見えてくるものはいくつもある。
 フランスふうのジョーク。トリスタン・ベルナールのすました顔つき。ジュヴェの「小心」、または「臆病」。
 私は、ジュヴェの「臆病」(プールー)について、たとえば「第三部/第一章」で書いた。この「臆病」(プールー)は、私の評伝の伏線の一つ。あえていえば、この「小心」や「臆病」は、俳優がほんとうの力や影響力を得るための唯一の手段とさえいってよいのだが、そうした俳優や女優を、じつは私たちは本気で見てはいない。

 人は何故、俳優になるのか。私たちは、なぜ、ある俳優、女優を、名優、名女優というのか。では、名優、名女優とは何か。
 最近の私は、そんなことを考えつづけている。

 部屋を片づけていて、自分のメモを見つけて、いろいろなことを考える。
 しばらく考えたあとは破り捨ててしまう。
 ボケたもの書きだなあ。

2011/08/07(Sun)  1310
 
 ある年の夏、庭の紅葉がなぜか枯れ始めた。
 丈の低い紅葉を1本だけ植えてあるのだが、すっかり元気がなくなったのである。

 紅葉が弱ってしまった原因は、すぐにわかった。日頃、気にもとめなかったのだが、この紅葉の幹に大きな空洞ができている。地上から1メートルばかり、幹の先、枝が二本に別れている部分に、洞穴の入り口があった。ここに、アリがうごめいている。
 アリが巣を作ったらしい。

 入り口はせいぜい2センチほどの大きさだが、幹の内部はおそらく大きな空洞になっているらしい。少し観察すると、小さな、黒いアリが、無数にうごめいている。
 私は、このアリどもを駆除することにした。

 アリ駆除のクスリを地上、紅葉の根元にぐるりと散布する。直径、20センチ。幅は1センチ程度。オカルト映画に出てくる魔除けの円圜(えんかん)のように。
 これで、まず、アリの退路を断つ。効果があった。外に出ていたアリどもは、紅葉の幹にもどれなくなって、悪魔のサークルのまわりをぐるぐる歩きまわっている。

 いまや、これは「ベルリンの壁」であった。アリ遮断の壁。
 私はベルリンの封鎖を命じたスターリンのように、冷酷無残な微笑をうかべて、周章狼狽するアリどもを睥睨したのであった。

 つぎに、幹の空洞の入り口からクスリを降りそそいだのである。ジュータン爆撃のように。

 巣から出た長いアリの列は、突然の障害物に遮断されて、たちまち算をみだして、大混乱になった。幹をつたって地上に下りたアリたちもおなじで、みるみるうちに、「壁」の内側と外側に、アリの大渋滞が起きた。

 私はアリに対するおそろしいホロコーストを決行したのであった。


 私がアリの巣めがけて注ぎ込んだのは、粉末のようなクスリだが、一つひとつが微細で透明な結晶体で、巣穴の周囲にみるみるうちに積みあがった。
 まるで、北極の氷山のように。
 アリたちは、不意に降りかかってきた大災厄にあわてふためき、われがちに巣から逃げようとしたり、触覚がクスリにふれると、急いで穴にもぐり込んだり。大混乱になった。

 私は冷酷無残な殺戮者として、圧倒的多数のアリたちを睥睨している。
 モスクワから雪崩を打って敗走するナポレオン軍を追尾して、これを殲滅しようとするクトゥゾフのようなまなざしをもって。

 巣から飛び出してきたアリたちの大多数は、ただ右往左往するだけだった。
 そのなかで、ほんのわずかな数のアリたちが、おそろしい事態を見て取って、穴の周囲に積みあげられた結晶の一粒をかかえあげ、穴の外に投げ落とそうとする。
 愚かなヤツばらめ。
 私は片頬に残忍な笑みを刻んだ。必死にクスリの結晶を排除しようとするアリどもの行動に軽蔑の眼を向けたのであった。
 バカなことを。そんなことをしたところで、途方もない量のクスリの始末がつくはずもない。原発のメルトダウンに、右往左往する人間のように。

 だが、その1匹が、必死にクスリを抱きかかえては、穴の外に投げ捨てるのを見て(?)、近くにいたアリが、おなじように、クスリをつかんでは外に投げ出しはじめた。
 ほかの大多数は、ただうろうろ走りまわったり、逃げ場をうしなって、そのうちにクスリにやられて動かなくなるのだった。

 私は、最初にクスリに挑みかかって、一個々々を、必死に運びだそうとしていたアリを見つづけていた。私はいつしか彼の働きに感動していた。
 彼の努力にも係わらず、やっと十数個のクスリを外に投げ落としただけで、彼はあえなく崩れた。
 おそらく神経をやられたらしく、穴の近くまで戻ったと思うと、最後の一個にすがりついて、キリキリ舞いをすると、そのまま紅葉の幹からまっさかさまに落ちて行った。彼にとっては千仞(せんじん)の谷にむかって。
 このアリの行動は、壮烈、鬼神を哭(な)かしむる戦いぶりであった。私は、このアリの死を悼んだ。

 私の戦果で、紅葉の木は元気をとり戻した。アリの巣になっていた樹幹内部のおおきな洞窟は、石膏をとかして流し込んだ。チォルノブイリの原発のように、要塞かトーチカのように固めて、二度と憎ッくきアリどもが潜入できないようにした。
 この紅葉は、秋になると、もとのようにみごとに赤い葉を見せてくれた。

 私は、ある年の夏――私に対して、最後まで必死に抵抗し、従容として死を選んだアリに哀憫(あいびん)の思いを禁じ得ないのである。

2011/08/06(Sat)  1309
 
 北海道大学の進化生物学者、長谷川 英祐先生はアリの行動について、

  働かないアリは、サボろうとしているのではなく、働く気はあるのに、反応が遅
  いため、先に仕事をとられてしまって、結果として働けないのです。

 と、いわれる。
 ひゃあ、そうなのか。私は、最近の自分の沈滞ぶりを――働く気はあるのに、反応がにぶくなったため、何も書けないのだと思うことにした。(笑)
 これは、冗談だが、長谷川 英祐先生のインタヴューは、私にいろいろな「刺激」をあたえてくれた。

 長谷川 英祐先生は、アリがいっせいに働く場合と、いちぶがかならず休んでいる場合を比較する。
 当然、全員が働くシステムの方が効率は高い。時間あたりで、多くの仕事を処理できた。しかし、「働いた者は休まなければならない」という条件と、「作業が途切れると、コロニーが絶滅する」という条件を加えると――
 働かないアリがいるコロニーのほうが、長い時間持続できるという結果がでたという。

 長谷川 英祐先生のすごいところは、これを推論からではなく、実際のかんさつから導きだしたことにある。

 長谷川 英祐先生の研究対象は多岐にわたっているという。このインタヴューで、先生は、

  研究対象を絞るというよりは、面白い研究をしたい。基礎科学は芸術と同じで、
  驚きや感動をもたらさない研究は駄目だと思っています。

 私は、科学に関してまったく無知な人間だが――「基礎科学は芸術と同じで、驚きや感動をもたらさない研究は駄目だと思っています」という長谷川先生に共感した。
           (つづく)

2011/08/03(Wed)  1308
 
 北海道大学の進化生物学者、長谷川 英祐先生はアリの行動を詳細に観察なさった。

 その結果、ハタラキアリのなかには、まったくはたらかないヤツがいるという事実を確認したという。先生のインタヴューが、(TIME & SPACE 2011.4/5)に掲載された。
 <ついでにいっておくと、この「TIME & SPACE」は、KDDIのPR誌だが、現在のPR誌のなかでは抜群にレベルの高い雑誌である。>

 よく働くアリは、観察した集団(コロニー)の20パーセント程度。
 まったく働いていないアリも、やはり20パーセント程度という。

 ここから先は――先生の観察をそのまま引用しておく。

  そこで、よく働くアリを30匹、働かないアリ30匹をとり出して、それぞれ新
  たなコロニーを作り、観察を1カ月間続けると、働かないアリだけからなるコ
  ロニーでは一部はよく働くようになり、よく働くコロニーでも、一部は働かなく
  なったのである。

 この結果は、「反応閾値(いきち)モデル」という仮説に一致するという。

  多くの人がいる部屋が散らかってくると、いちばんきれい好きな人が掃除をし、
  また散らかってくると、同じ人が掃除をします。昆虫も同じように、刺激に対す
  る反応、働きアリなら仕事に対する腰の軽さが個体によって異なっているのでは、
  という仮説です。実際にミツバチやマルハナバチで、刺激に対する反応性が異
  なることが確かめられています。

 先日の地震で、書棚に並べてあった本が崩れ落ちて、私の仕事部屋はまるで津波のあとのようになっている。本がゴチャゴチャになってしまったので、少し掃除をした。途中で、この際いろいろな本を始末しようと思った。
 思っただけで、何も手をつけていない。いまや、私は「働かないアリ」なのである。
     (つづく)

2011/08/01(Mon)  1307
 
 夏のまっさかり、毎日、アリを観察していた時期がある。
 朝から晩まで、アリたちの動きを追っていた。むろん、私の観察は科学的なものではない。ただ、アリが何かのエサ、エモノを見つけたとき、どういう行動をとるのか、それをどのようにして仲間に伝達するのか。巣に待機している連絡をうけたアリたちは、どう対応するのか。
 毎日、庭にしゃがみ込んで、アリばかり見ていた。当然、近所の人たちは、私を奇人、よくいっても変人と思ったらしい。
 隣家の若い主婦は、家人に「お宅のご主人は、代書屋さんですか」と聞いたらしい。
 私は大笑いしたが、「代書屋」どころか、まったくの無名作家といったほうがよかった。夏の日ざかりに、庭にしゃがみ込んで、アリを見ているのだから、ノイローゼぐらいにみられても仕方がない。

 ほんとうは仕事をしたくても、どこからもクチがかからなかっただけ。売れないもの書きだった。時間だけはたっぷりあったが、前途に希望はなかった。
 原稿の注文がないということは、読みたい本も買えない、ということなので、ほかにすることもないからアリを観察していたにすぎない。

 毎日、観察しているうちに、アリの集団のなかにも、ズルいヤツがいることがわかってきた。
 たとえば、何かの情報に接して、みんなが色めき立って巣の中からいっせいに飛び出してくる。なかには、不退転の決意を見せて、まっしぐらに自分の目的に向かって進んで行くヤツもいる。
 ところが、巣から出てきても、ほんの数秒あたりのようすをうかがっただけで、急いでもとの巣に戻って行くヤツもいる。自分が出てきた「出口」のすぐ近くの「入り口」にもぐり込むヤツもいる。

 とにかく、アリのなかには、いろんな行動をとるヤツがいる。そのなかで、アリとして、当然のことさえしない、ようするに働かないヤツがいるのだった。
      (つづく)

2011/07/30(Sat)  1306
 
 マリリン・モンローが、「七年目の浮気」で着ていたドレスが、ビヴァリー・ヒルズのオークションで、460万ドルで落札された。
 (AP・CNN/電子版・ニューズ<’11.6.18,>

 ニューヨークの夏。マリリンが、隣人のトム・ユーエルといっしょに映画館の前まで歩いてくる。
 地下鉄のダクトから風が吹き上げてくる。ダクトの上に立ったマリリンのスカートが風をはらんで舞い上がる。マリリンの生足が見える。白いパンティーが見えそうになるので、マリリンがスカートの前を押さえる。

 有名なシーンである。

 ビリー・ワイルダーがこのシーンを撮影したときは夕方で、ニューヨークじゅうの見物人が集まってきた。そのなかに、有名な新聞記者、ウォルター・ウィンチェルがいた。私はマリリン・モンローの評伝めいたものを書いたことがあるのだが、この部分は、ウィンチェルの記事を参考にした。
 マリリンの撮影現場には、新婚の夫、ジョー・ディマジオがいた。彼は、マリリンが、地下鉄のダクトに立って、下から吹き上げてくる風をうけるという「演出」が気に入らなかったらしい。
 ウィンチェルは、目ざとくディマジオの姿を見つけて、この撮影の感想をもとめた。ディマジオは、公衆の見守るなかで、妻のマリリンのスカートがふわりと舞い上がり、マリリンの下半身があらわになる、というシーンに屈辱的な思いをもったらしい。
 ウィンチェルを睨みつけると、語気するどく、「ノー・コメント」ということばを残して現場を去った。ディマジオは嫉妬深い男だったらしい。
 このときから、ディマジオ/マリリンの不仲がはじまったという。

 今の感覚からいえば、ディマジオがヤキモキするほどエロティックなシーンでもない。このときのマリリンの巨大な看板が「ロキシー」の正面をかざって、当時、大評判になったが、私などは、このシーンのおかげで、当時のマリリンの下半身、とくに白いパンティーにおおわれたアブドーメンが拝見できるし、マリリンのおかげで、このシーンは映画史に残るほどのものになったではないか、と思う。

 このシーンを撮影したとき、暗くて、暑苦しいダクトの下に、巨大な扇風機をもち込んだスタッフは3人。わずか数秒のシーンのために、酷暑のニューヨーク、それも夕方から夜9時近くまで、何度も何度もテストをくりかえしていたスタッフたち。
 もし私が、ウィンチェルのように撮影現場にいあわせたら、まっさきにこの連中のコメントをとるだろうな。

 この撮影シーンのことから、やがて私の考えは別の方向に向かった。
 その一つは――嫉妬である。
 私自身、他人に嫉妬したことがないとはいえない。女の嫉妬は、いわば本能的なものだが、男の嫉妬は本質的にいやらしい。自分が恋した女がみるみるうちに離れて行ったようなとき、私はその女を奪い去った「誰か」に嫉妬しなかったか。しかし、苦しみつづけても仕方がない。女なんてものは、バーゲンセールの見切り品のように飛び去ってゆく。
 これは、ヘミングウェイのことば。

 嫉妬は人の心を腐らせる。そう思うことで、私はやっと自分をささえてきたのだった。

 ディマジオの哀れは、私にもよくわかったけれど。

 いつまでも、そんな女やその女の相手を嫉妬するな。どうせバーゲンセールの見切り品だから。そう考えればいい。

 「七年目の浮気」でマリリンが着たドレスが貧乏作家の私に買えるはずもないが、私は、もの書きとしてマリリンからいろいろなテーマをもらったと思っている。

2011/07/27(Wed)  1305
 
 タレントの はいだ しょうこ が、昼のテレビに出ていた。

 じつは、このタレントさんについては何も知らない。
 小学6年生のとき、童謡の全国コンクールで、グランプリをとったことがあるそうな。むろん、私はこのときの彼女を見ていない。
 ひょっとして――宝塚在籍の頃の、はいだ しょうこを見たことがあるはずなのだが、これももう、記憶も薄れている。かりに、おぼえていたにしても、ただ綺麗で、可愛い女の子が舞台で飛んだりはねたりしていたという印象だけで終わったのだろう。

 「うたのおねえさん」の、はいだ しょうこは知っていた。

 孫たちといっしょにずっと「うたのおねえさん」を見ていた。(例えば――私は、「花とゆめ」、「少年ジャンプ」、ようするに「ガロ」から「ぱふ」まで、ある時期のマンガにくわしかったのも、おなじ理由による。)

 はいだ しょうこが「うたのおねえさん」だった当時は、いちばん下の孫がまだ赤んぼうだったので、残念ながら、あまり見なかった。(私の人生には、こういう偶然で知らないまま過ごしてしまうことが多かった。)

 私が、はいだ しょうこを知るようになったのはずっと最近で、ミュージカル「若草物語」や「回転木馬」を見た頃からではなかったか。
 ただし、はいだ しょうこについては、ごく普通の美少女というだけの、眼のくりくりしたタレントといった程度の認識しかもたなかった。
 だから、AKB 48 の女の子のだれかれを見ている程度の関心にすぎない。

 その、はいだ しょうこが、昼のテレビに出ていた。
 フジテレビ。小堺 一機の司会で、ゲストのタレントがサイコロをころがして、そのメによって「情けない話」とか、「いまだからごめんなさい」などというテーマで話をする。この番組はたいてい毎日見ている。
 この日、いっしょに出ていたタレントは、京本 正樹、神田 さやか、(6月20日、1:20p.m.)

 はいだ しょうこは、こんな話をしていた。

 コンサートで、場内の子どもたちがいろいろと質問する。彼女はそれに答える。
 「サンタさんはどこにいるの?」と訊かれて、
 「ええ、心配しなくて大丈夫よ。サンタさんは天国にいるのよ」

 名古屋で、ファンに訊かれた。
 「お好きな食べものは?」
 「トリの指先」
 手羽先というつもりだったらしい。

 スキヤキのお店で、すき焼きを注文した。
 焼き方は? と訊かれて、
 「ウェルカム」と答えた。
 店の人が、うやうやしく、
 「こちらこそ、ウェルカムでございます」
 とこたえた。うっかり「ウェルカム」といったらしい。

 ジョークが大好きな私は、このときから、おっとりしたこの女優さんが好きになった。こういうジョークは、恵まれた家庭環境で、おっとり育った女優さんにしばしば見られる「天然ボケ」なのだ。

2011/07/22(Fri)  1304
 
 東日本大震災で、私は、あらためて、日本のジャーナリズム報道の姿勢に、はげしい不信を抱くことになった。

 たとえば――

 6月27日、菅 直人(首相)は、内閣の閣僚交代の人事を発表した。
 かんたんにいえば――震災後の復興を念頭にした内閣改造人事といってよい。
 これをトップに出した大新聞の記事を、そのまま引用しておく。

  菅首相は、27日、復興相と原発相の親切に伴う閣僚交代人事を決めた。復興相
  には松本防災相を正式に任命するとともに、原発相には細野豪志首相補佐官を起
  用した。これに伴い、蓮ボウ行政刷新相が退任し、松本氏が兼務していた環境相
  は江田法相が兼ねる。自民党の浜田和幸参院議員(58)(鳥取選挙区)総務事
  務官に充てることも決めた。だが、浜田氏の起用などを巡って自民党などが強く
  反発しており、延長国会の審議に大きな影響が出ることは必至だ。

 以上である。
 何の変哲もない記事に見える。しかし、これだけの記事に、一つの疎漏、というより、恐らく意図的な隠蔽が見える。

 閣僚交代の人事に関しては、当然ながら間違いはない。
 問題は――「これに伴い、蓮ボウ行政刷新相が退任し」という一節にある。この記事を読むかぎりでは、「蓮ボウ行政刷新相」が退任しただけとしか読めない。
 だが、この「閣僚交代人事」で、「蓮ボウ」は、そのまま退任したのではない。この人物は、ただちに「首相補佐官」に任命されたのである。
 この記事は、その事実を無視したのか。そうではあるまい。まったくふれないことで、ことの重要さを私たちの眼からそらせようとしたのか。

 おなじ、6月27日、菅 直人のとった行動を、おなじ一面の記事から引用する。

  「副総理として入閣をお願いしたい」
  27日午後、首相官邸。菅首相は執務室で向き合った国民新党の亀井代表にこう
  言って頭を下げたが、亀井代は固辞した。亀井代が求めてきた大幅な内閣改造が
  行われないことがわかったためだ。「大幅改造だったら、副総理も受けたが、そ
  うじゃなかった」と周囲に不満を漏らした亀井代だが、首相が続いて就任を要請
  した「特別首相補佐官」というポストは受諾した。法律的には他の首相補佐官と
  同じだが、「特別」と付けた首相の言葉に、延命への執念を感じ取ったからだ。
   (以下、略)

 この交代人事が、さまざまな思惑に彩られていることを問題にしているのではない。現在の政局で、いくら大幅な内閣改造をしようが、無能内閣の命脈はすでに尽きているのだから。
 私が、不快に思うのは――「蓮ボウ」が「首相補佐官」というポストに横すべりしたことを巧妙に隠している大新聞の姿勢である。些細な人事異動にすぎないのか。そもそも、このニュースを黙殺した意図は何なのか。
 だれが見たって、「蓮」が「亀」と仲よく、無任所大臣になったわけで、ようするに、菅という狙公(そこう/猿まわし)のヒモの先で踊ってみせようというだけのこと。
 いまや「蓮」は妖彗(ようすい)のたぐいだろう、と私は見る。

 大震災から4カ月。
 現在のようなかたちで着々と進められている菅内閣の「復興政策」に、私は妖気を感じている。

2011/07/21(Thu)  1303
 
 東日本大震災が起きた直後、私は、民主党の小沢某、鳩山某が、政権の中枢にいなかったことを、せめてもの「幸運」と見た。
 その鳩山「宇宙人」に、名誉ある「勲章」が授与されたという。じつに、オメデタイ!
 近来の快事(怪事)で、またまた、思わず笑ったね。

 これも、簡単に記録しておく。

 来日中のロシアのナルイシキン大統領府長官は、(11年7月)5日、都内のホテルで記者団に対し、北方領土問題について研究するための歴史学者による日ロ合同委員会の第一回会合が、今年12月に開かれるとの見通しを明らかにした。

 この委員会設置は、同長官が、昨年12月の訪日時に提案していた。

 平和条約交渉の難航について、長官は第二次世界対戦の原因と結果に対する(日ロの)見解の相違によるものだ」と述べ、委員会での議論が交渉の前進につながることに期待感をしめした。
 これより先、同長官は、鳩山 由紀夫前首相と面会し、両国交流に寄与したとして、ロシア大統領令にもとずく「友好勲章」を授与した。

 ロシア人は、勲章が大好きで、公的な会合に出席する場合、胸もとにベタベタと勲章をぶら下げる。
 鳩山某も、今後は、ぜひ、国会にもこの勲章をつけて出席してもらいたい。ダテや酔狂で、いただける勲章じゃないよ。メドベージェフの「友好勲章」なんぞ、鳩山 春夫、鳩山 一郎、鳩山 威一郎だって、もらえなかった。
 よっぽどの「宇宙人」でもなけりゃ、いただけるシロモノじゃない。

 まことに慶賀のいたり。(笑)

2011/07/18(Mon)  1302
 
 東日本大震災いらい、私は日本のジャーナリズムをほとんど信用していない。

 松本防災相を復興相に横すべりさせたとき、蓮ボウ某が行政改革相をやめた。これをほうじた新聞は少なかった、ただし、この蓮ボウ某は、即日、首相の報道官に任命されている。それまで首相の報道官だった某が、原発担当相に昇格したのだから、妖細依然として宰相の帷幄(いあく)にはべるということになる。
 しかし、このニュースを大新聞はとりあげなかった。
 つい最近もこんなニュースが出た。

   菅直人首相は(11年’7月)日の衆院予算委員会で、自身の政治管理団体が、
   日本人拉致事件容疑者の長男(26)が所属する政治団体「市民の党」から
   派生した政治団体「政権交代をめざす市民の会」に6250万円の政治献金を
   していた問題について「事実だ」とみとめた。
            「産経/11.7.6(金)」

 この記事を出したのは、「産経」一紙だけで、ほかの大新聞はまったくふれていない。これは、どういうことなのか。他紙の報道だから事実かどうか検証している、というのだろうか。あるいは――お得意の隠蔽工作なのか。
 しかも、おなじ政治団体に、鳩山前首相も、7250万円を寄付している、という。このニュースも、大新聞各紙は報道していない。アハハハ。こいつはいいや。
 毎月、1500万円の「お小遣い」を母親からもらえる「宇宙人」にとっては、7250万円程度の寄付はたいした負担にはならないだろう。
 しかし、しばらく前は、お遍路まわりの白装束、金剛杖で、首相(いや、間違い)殊勝なお遍路さんになりすました新発知(しんぼち)にしては、豪気(ごうぎ)なものだねえ。

 いっそ、もう一度、白装束、金剛杖で、被災地参りという趣向はどうだろうか。

 ついでに、「大新聞」の幹部もひきつれて大ツアーというのも一興だろう。

2011/07/16(Sat)  1301
 
 松本某が復興相を辞任したとたんに、こんどは九州電力、玄界原子力発電所の、2号機、3号機の再稼働をめぐって、またまた、たてつづけにファルスを見せつけられている。

 まず、発端は――海江田経済産業相が、玄界原子力発電所の再稼働の承認をもとめて、玄界町(佐賀県)の町長の説得にあたった。(7月5日)
 それで玄界町の町長はこれを了承して、いったんは玄界原子力発電所は再稼働が可能になったと思われた。
 ところが、こんどは菅首相が、すべての原子力発電所を対象に、ストレス・テスト(耐性検査)を実施することを発表した。そうなると、玄界原子力発電所の再稼働は見送られることになる。玄界町の町長は、アタマにきて、再稼働の承認は見あわせる、といい出す始末。海江田経済産業相も、面子をつぶされたわけで、「いずれ時期がきたら辞任する」と発言した。

 この背後に見えてくるのは――松本某が復興相を辞任した直後に、菅首相が、衆院予算委員会で、「経済産業相が判断して、いいときめたのでは国民が納得しない」と発言した。つまり、急遽、松本某の後任に据えた細野原発相にも、美味しい話をわけてよこせ、ということだろう。
 閣内不統一などというのは、外側のことではないか。

 7日、東京の株式市況で、電力株は急落。
 関西電力は、前日比、133円安。1442円。
 九州電力は、前日比、110円安。403円。

 こうなると、夏場の電力不足の影響を懸念して、自動車関連株ものきなみ下落。

 菅首相は、ストレス・テストをめぐる政府内部の混乱を、自分の指示の遅れが原因だったという認識をしめして陳謝した。
 キツネ、尾を濡らす。
 最近の菅 直人を見ていると、こんなコトワザをおもいだす。

 私が、わざわざこんなことを書いておくのは、いつか誰かがこのブログを読んで、ゲラゲラ笑うだろうと思うからである。

 ファルスは、これだけにとどまらない。

 九州電力は、玄界原子力発電所の再稼働をめぐって、社員たちに「ヤラセメール」を寄せるように指示した。つまり、子会社をふくめて、社員たちに――原子力発電所の再稼働に「賛成」のメールを説明会に送るように仕向けた。
 こうなると、これから先、私たちはどんなファルスが見せられるか、この「人災」を見るのがけっこう楽しみになってくる。

2011/07/14(Thu)  1300
 
 私の好きな悪態は――てめえ、何さまのつもりでいやがる、ということば。ただし、私は他人さまに向かって、どなりつけたことはない。しかし、こんどばかりは、思わず、てめえ、何さまのつもりだ、とどなりつけた。

 松本防災相という人物が、復興相に横すべりした。
 この松本某は、承認してさっそく、被災地に出向いて、知事に面会した。
 このときの模様がテレビで報道されたが……その態度のわるさは特筆すべきものがあつた。
 ふてぶてしい面構えで、岩手県知事を見据えて、ドスのきいた声で、「知恵を出したところは助けるが、出さねえところは助けてやらん」、とヌカした。
 宮城県知事に対しては――県ではコンセンサスをだせ、そうでなければ何もやらんぞ、とホザいた。
 被災地に対する、あまりにも傲岸なもののいいように、世間の批判をあびると、「私は、九州の人間で(血液型が)B型ですから、口のききかたを知りません」とさ。よくもヌケヌケ、ぬかしやがる。
 九州出身で(血液型が)B型の人間は、みんな、ああいう口の聞き方をするのか。
 冗談ではない。そんな理由は、まともな弁解にはならない。
 まるで非論理的ないいかたに、この人物の低劣な資質、性格、傍若無人に過ごしてきた過去のいかがわしさが集約されている。

 菅首相に呼ばれて、辞表を提出したが、このときのいいぐさに、注目すべき部分が二つあった。
 一つは――宮城県知事とのやりとりは――「ナゾかけ」だったという。つめかけた報道陣から、何の「ナゾかけ」か、と質問されて、黙秘した。松本復興相なる人物の言動を読み解く「鍵」がここにある。
 この「ナゾかけ」の意味は、わかる人にはピンときたはずである。

 さて、もうひとつは――この人物は、ボソリと謝罪の言葉をのべたあとで――「私は、被災された人たちからは離れませんから」とくり返した。
 じつに、おそろしいことばである。

 松本某は、38歳で福岡県から衆議院議員に当選した。この輝かしい経歴だけを見れば、だれしも非常に優秀なエリートを想像するだろう。だから、日頃、傲岸なものいいを身につけたと思うのは間違いだろう。土建屋あがりのこの人物の背後に何があるのか。

 私は他人さまに向かって、てめえ、何さまのつもりだ、などと、悪罵を浴びせたことはない。しかし、こんどばかりは、テレビに向かって、てめえ、何さまのつもりだ、思わず、どなりつけた。

2011/07/08(Fri)  1299
 
 「すばらしい墜落」のなかで、もっとも好きな短編を選ぶというのはむずかしい。
 私は、「選択」を、その一つに選ぶだろう。

 大学院で修士論文の準備をしている学生、「デイヴ」は、求人広告を見て、大学進学をめざしている少女の家庭教師になる。
 彼を迎えたミン家の当主、「アイリーン」は、魅力のある若い未亡人で、小さな出版社を経営している。教える相手の少女、「サミ」は17歳で、思ったよりずっと利発な子だった。

 「デイヴ」は、大学院の授業があるので、夜しか教えにこられない。やがて、「デイヴ」は「アイリーン」の手づくりの家庭料理を、母娘といっしょにたべるようになる。

 こういう大学生を描いた青春小説は、いくらでもある。しかし、ラヨシュ・ジラヒの「瀕死の春」、セバスチャン・ジャプリゾの「出発」、ジョナサン・コゾルの「罌粟の匂い」のような傑作はすくない。

 ここまで書いてきたとき、作家の楊 逸(ヤン・イー)の書評が出た。(「朝日」5.22。)

   ニューヨークにはフラッシングという町があるという。そこに、まずしい留学
   生をはじめ裕福なインテリや会社員、小金持ちの老人やその介護をするおばさ
   ん、寺のお坊さんから若い売春婦まで、さまざまな中国系移民が生活している。
   忍耐つよくがむしゃらに生きる彼らの姿を覗かせてくれるのがこの短編集だ。

 こういう書き出しで、作家らしい見方を展開している。
 私は、この書評を読んでうれしかった。
 こういう書評がでたのだから、私ごときが、つまらない読後感を書きつづける必要もない。もともと、これほどいい作品集なのに、どこにも書評が出ないことにいささか伎癢(ぎよう)の念をおぼえて、とりあげたのだった。
 私は、台湾の「時報文化出版」の原作を送ってもらって、それぞれの原文と日本訳を照合しながら読んだのだった。
 立石 光子の訳は、ほんとうにみごとな訳で、その苦心のほどがうかがえるものだった。
 そして、 こういう情理をつくした書評が出たことを、訳者のためによろこんでいる。

 私のブログは、ここで中断。いずれまた、そう遠くない時期にハ・ジンについて語ることもあるだろう。

2011/07/06(Wed)  1298
 
 ニューヨークの冬。
 この界隈でも評判の美人と結婚している主人公、ダン・フォン(馮丹)は、妻のジーナ(吉娜)がやっている宝石店に寄ってみようと思って、ホテルのロビーにあるバーに行く。このバーでフロントの責任者、ユイ・フーミン(余富明)と親しそうに話をしていた妻を見てしまう。相手は、主人公が結婚する前に妻に言い寄っていたらしい。
 主人公は、妻の浮気性に、ぶつくさいいながら、ふたりにみつからないようにその場を離れる。

 ジーナはすらりと背が高く、鼻筋が通って、ふたえまぶたに繊細な口もと、肌も絹のようになめらかというのに、生まれてきた子どもは、器量がわるい。ダン・フォン自身も、美男で、ふたりがそろって人前に出ると、注目のまとになる。ところが、昨年、娘のジャスミンが生まれてから、ずっと妻の不貞をうたがっていた。
 美男美女の間に、こんな不器量な子どもがうまれるはずがない。ひょっとすると、富明がほんとうの親かも知れない。もし、そうなら、結婚後のジーナは富明と切れていないのではないか。

 短編、「美人」は、妻の浮気を疑う夫の話だが、ありきたりの「コキュ」の嘆きを語ったものではない。夫は私立探偵を雇って、妻の素行を調べさせる。妻は、夫に疑われていると知って傷つく。
 この私立探偵は、まるでひと昔前の俗流ハードボイルド小説に出てくるような私立探偵で、捜査の途中で、フーミンにノサれてしまう。しかし、妻の履歴に関しては何もわからない。何もわからないことが、かえって不思議だという。

 そればかりではなく、主人公も、その界隈のヤクザに襲われてしまう。

 この短編のおもしろさは、まさに短編としての起伏があざやかで、アメリカにやってきて、おなじ中国人でも市民権を獲得した階層と、過去を伏せて入国したため、国外追放の処分を受けることを恐れて生活している階層の「格差」がうきぼりになってくる。
 実際には、もっと複雑な要因があって、ジーナがどうして「美人」になったかという理由とかかわってくる。

 「すばらしい墜落」の作家、ハ・ジンは、現代アメリカの華僑の直面している状況を、しっかり見つめながら、アメリカに住む中国人の生活を描いている。しかし、たんに華僑の人生喜劇(ヒューマン・コメデイ)を描いているわけではない。華僑といった国籍、人種、あるいは性差別を越えて、現在の人間の本質的な悲しみを、いつもどこかコミックにとらえているような気がする。
 つまり、私には、ハ・ジンは、チェホフから、ジョイス・キャロル・オーツに到る短編小説の伝統の最良の部分を代表しているように見える。
 (つづく)

2011/07/05(Tue)  1297
 
 「すばらしい墜落」の最初の短編、「インターネットの呪縛」は、アメリカ在住の女性と、その妹で中国の「現在」を生きている女性を描いて、アメリカと中国をたくみに対比させているように見える。

 つぎの短編、「作曲家とインコ」は、オペラの作曲を依頼された作曲家が、映画女優の「恋人」からインコをあずかった。彼女と結婚しようと思っているのだが、結婚が女優生命に影響すると考えているらしく、積極的に話にのってこない。
 そんな芸術家どうしの、少しマンネリ化した関係のなかで、もとの飼い主の女優にほとんどなつかないインコ、「ポリ」は、作曲家の肩に乗ったり、掌からエサをついばむほどなついてくる。

 作曲家は実在した放浪の楽士をモデルにしたオペラの作曲に熱中する。

 ある日、作曲家は原作者に会いに行った帰り、ブルックリンのフェリーに乗る。「ポリ」は、作曲家の肩から離れて、波にむかって飛んでゆく。そして、波の上に落ちてしまう。作曲家は、波間に浮き沈みしているインコを救おうとして、フェリーから飛び込む。

 ペットを飼っていて、そのペットが可愛くてたまらないという心情は、誰にも共通しているだろう。ハ・ジンの短編では、どのシーンにも、主人公が作曲している音楽が少しづつ聞こえてくるような作品だった。

 「インターネットの呪縛」よりも、いくらか長い短編だが、短編のうまさからいって、この「作曲家とインコ」のほうが上だと思う。
 そして、つぎの短編、「美人」が、もっとすばらしい。
     (つづく)

2011/07/03(Sun)  1296
 
 ハ・ジンの短編集、「すばらしい墜落」の最初の短編、「インターネットの呪縛」は、四川省に住んでいる妹と、インターネットでやりとりしているニューヨーク在住の姉の話である。
 妹は、4年前にアパートを買ったので、姉は頭金の一部に2000ドルを送金した。最近になって、妹は、「自分がどんなにいい暮らしをしているか、別れた夫に見せつけてやりたい」一心で、車を買いたいといいだした。ニューヨーク在住の姉は、車ももっていない。毎週、休みもなしに、スシ・バーでアルバイトしている。
 四川省の故郷は車をはしらせる必要もないほどの小さな町だが、車の維持費、ガソリン代、保険、登記、道路の料金と、かなり負担が大きい。
 そして、路上試験にパスした妹は、3000元の受験料と、別に試験管に500元の袖の下を渡したとメールでつたえてくる。

  昨日、姪のミンミンがフォルクスワーゲンの新車に乗って町にやってきました。
  ぴかぴかの新車を見たとたん、一万本の矢にむねを射抜かれたような気がしたわ。
  みんなにおくれをとっているなんて、いっそ死んでしまったほうがまし!

 妹は、このメールで姉に借金を申し込む。
 彼女は中国の国産車を買うことにひどい劣等感をもっていて――日本やドイツの新車は高すぎるので、せめて韓国のヒュンダイか、アメリカのフォードを買いたいと思いつめる。そのために、姉に送金を依頼する。
 姉は断る。すると、妹はとんでもない決心をメールでつたえてくる。

 私は、ときどきにやにやしながら読んでいた。

 こんな短編ひとつに――毎年、10%の経済成長率という好景気にわき返って、国をあげてのモータリゼーションの波にのみ込まれている中国の姿が浮かびあがってくる。そして、アメリカの華僑たちが中国の同胞に投げかけている、いささか皮肉な視線が感じられる。

 「インターネットの呪縛」の原題は、「互聨網之災」である。インターネットという通信手段が、たとえば、ウィキリークスの流している機密文書の「災い」や、どこかの国のハッカーがソニーの膨大な個人情報を盗み出したという「災い」をもたらしていることと、ハ・ジンの短編にあらわれる中国人の姉妹の「災い」は、まったく関係がない。しかし、私は、この姉妹は、まさに私たちとおなじ世界に生きていること、つまり私たちもまた、「互聨網之災」に生きているという思いだった。この短編の中国女性には、まさに今の中国の真面目(しんめんぼく)がある。

 作家、ハ・ジンの世界は、アメリカ在住の華僑社会を取り上げているのだが、私たちに無縁の世界ではない。

 それらが、わたくしたちの心のなかに喚びさます共感のなかには、どこかアジア的な趣があり、私たちはそれを通して、一つの困難な時代の相を見る。

 外国の現代作家の作品を読んで、われとわが身の不幸を考えるなどということは、あまり体験しないのだが、私にとってハ・ジンは、私たちもまたおなじ「災い」を経験しつつあることを教えてくれた作家なのだった。
      (つづく)

2011/07/02(Sat)  1295
 
 この3月、私は、アメリカの作家、ハ・ジンの短編集、「すばらしい墜落」(立石 光子訳/白水社/2011.4.5刊)を読んだ。
 全部で、12編の短編を毎日1編づつ読みつづけた。
 たまたま訳者、立石 光子から、中国語訳、「落地」(時報出版/台湾)を贈られたので、これを参照しながら読みつづけた。毎日、一編を読むことにしていた。

 途中で、想像もしない事態が起きた。東日本大震災である。未曾有の天変地異であった。巨大な地震と、それにともなう大津波、さらには沿岸の原子力発電所が破壊され、数時間後には、その一基が溶融(メルトダウン)した。その当時はわからなかったが、政府、東京電力、原子力保安院、さらにはマスコミが、被害を隠蔽したり、極度に低い評価しか発表しないという人災の最たる大惨事を惹起したのだった。
 私は未曾有の大惨事の日々のなかで、テレビにかじりついていたので、ほとんど本を読まなかったが、ハ・ジンの短編だけは、毎日、一編づつ読みつづけていた。

 大災害の混乱のさなかに、書評らしい書評が出るはずもない。私はこのすぐれた作品集、そしてそれを訳した立石 光子のすぐれた翻訳が、だれのめにもとまらないまま忘れられてしまうことに義憤のようなものを感じた。
 これほどすぐれた仕事が、津波で海岸に打ち上げられた無数のデブリのようにむなしく朽ちて行くは、あってはならない。

 私としては、せめてこの短編小説を読んで感動したことを書きとめておこうと思う。
 ただし、書評ではないので、ときどき思い出したときに書きつづけよう。

2011/06/30(Thu)  1294
 
 友人の安東 つとむのおかげで――この1年、短いエッセイを書きつづけている。いまではもう誰ひとり思い出すこともないサイレント映画のスターたちのことを。

 グレタ・ガルボは別格だが、リリアン・ギッシュ、アラ・ナジモヴァ、ビーヴ・ダニエルズ、オリーヴ・トーマス、コリーン・ムア、メェ・マレイ、リアトリス・ジョイとかについて。これから書くのは、たぶん、メァリ・ブライアンか、アンナ・Q・ニルツソンあたり。
 どうして、こんなものを書いておくのか。

 すぐれた短編小説を読む。そうした作品は、私たちの関心を惹きつけるが、そこに描かれている人たち、たいていの場合は、一度も会ったことのない種類の人たちに対して、なぜかひどく親しい感情をおぼえるような気がする。

 よほどすぐれた短編でもないかぎり、その作品が作者の死後もなお生きつづけることはない。その短編の思い出は、その時代の人々の記憶とともに消え去ってしまう。「戦後」の名作といわれた作品でさえ、たかだか半世紀も経ってしまうと、ほとんどがどこかに消えてしまう。

 すぐれた短編小説を読んで感動した、私たちの思いは、かつて私たちのあこがれ、ひそかな欲望の対象だったスクリーンの女優たちに、私たちをむすびつけていた思いと同様に、いつしか過ぎ去ってしまう。

 私が、いつも感嘆を惜しまなかった、みごとな短編小説の数々。
 アンソロジーを作ってみようか。
 たとえば、「白い象に似た丘」、「ミリアム」、「ガラスの鐘の下で」……
 私の好きなアナイス・ニン、アーシュラ・ヒージ、ジャマイカ・キンケードたちの短編から選ぶとしても、サテ、どの一編を選んでいいか。

 そして、また、もはや古典というべき――「たそがれの恋」、「チリの地震」、オイゲン・ヴインクラーの「島」など。
 ロシア、フランスとなれば、たちまちあげきれないほどの数の短編小説がうかんでくる。
 そのリストのなかに、私は、ハ・ジンの一編をくわえておきたい。

 サイレント映画の女優たちはけっして不滅の存在ではなかった。おなじように、私が読みつづけてきた短編小説たちも、不滅のものではない。だが、もう誰も思い出すことのないサイレント映画のスターたちのことを考えることも、折りにふれてかつてのすぐれた短編小説を心のなかに喚び起すのも、じつは私たちの精神が死んでいないことの証(あかし)なのである。

 今はもう誰ひとり思い起こす人もいない女たちのことを書いておきたい。

2011/06/27(Mon)  1293
 

 昨年、私はカナダの女流作家の処女作を訳した。
 オノト・ワタンナという女流作家だが、おそらく誰ひとり、彼女の作品を読んだ人はいないだろう。
 なにしろ、19世紀末に書かれた古色蒼然たるロマンス小説なのだから。
 題名は「お梅さん」という。

 最近の私は、あまり本を読まなくなっている。眼がつかれるせいもあるのだが、短い短編の一つでも読むだけで満足してしまう。大震災このかた、いろいろと考えることができるし、短編を読んでも、若い頃にはわからなかったことにあらためて気づいたりする。

 もともと経験というものは、それを味わった瞬間から、私たちを見捨ててしまう。その経験を自分の内部に刻みつけておくのがどんなにむずかしいことか。
 小説を書くということは、そんな経験をあらためて自分の内部に刻みつけようとすることでもある。

 ただし、どんなにすぐれた小説にしろ、それが書かれてほんの二、三年、よくって十年、二十年もすれば、もう誰も読まなくなってしまう。一世紀もすれば、文学史に一行でも名前が残ったところで、そんな短編を書いた作者のことなど誰もおぼえてもいない。
 まして、アメリカの少女が19世紀末に書いた「ロマンス小説」など、あらためて訳す価値もない。むろん、この作品には、残念ながら小説としてのレーゾン・デートルなど、どこにも見つからない。
 ところが、私にとっては、この小説の翻訳は、長年の心願をはたす仕事だった。
 え、老骨に鞭打って? よせやい。あんた、冗談きついぜ。(笑)

 とにかく、オノト・ワタンナの「お梅さん」が、いよいよ書店に並ぶことになる。

2011/06/24(Fri)  1292
 
 誰でも経験することだが、いろいろな本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うようなことばを発見することがある。
 そういう言葉は――たとえ、その言葉を読んだ本を忘れてしまっても――その言葉をはっきり思い出せなくなっても、そんなことはどうでもいい。

 私は、そのことばを知らなかった以前の私に返ることがない。

 そういうことばの力は――そのことばを、以前に知らなかった私、つまり中田 耕治のある部分を啓示してくれる。そういうことばが、私は好きなのだ。

 私の好きなことばは、やはり私の好きな作家のコトバになる。いつも自分の身にひきつけて考えるので、そうなると、たとえばヘミングウェイをあげることになる。

  No one ever learned literature from a textbook.
  I have never taken a course in writing. I learned to write naturally and on my own.
  I did not succeed by accident;I succeed by patient hard work.
  Verbal dexerity does not make a good book.

  教科書から文学をまなぶやつなんて、ひとりもいない。
  私は、創作コースといった授業を受けたことはない。ひとりでに書くことを身につ
  けて、独力で書いてきた。
  偶然に成功したのではない。忍耐づよく、苦しい仕事を続けてきて成功したのだ。
  ことばの器用さだけでは、よい本は書けない。

 私はいろいろな機会に、若い人たちといっしょに勉強してきたが、自分のクラスで、ヘミングウェイの”若い人たちへの助言”のことばを忘れたことはない。

 ヘミングウェイは、いつも自分の仕事にきびしい芸術家だった。彼のことばでいうと、いつも real thing (ほんとうのもの)をつかもうとしたからだった。

 きみたちのなかにも、詩を書いたり、小説を書こうとしている人がいるかも知れない。その人は、いつか、このヘミングウェイのことばを真剣に考えるときがくるだろう。

 もう一つ、私の好きなことばをあげておく。

   Writing must be a labor of love or it is not writing.

 やさしいことばだから訳す必要はないが、その意味は深い。何でもないことばだが、あれほど人生を愛し、美しい女たちを愛し、仕事を愛した作家の確信にみちたことばなのだ。
 そのヘミングウェイでさえ、ときには失敗作を書いたし、何度も愛に傷ついたことを思いあわせれば、この言葉には、やはり、他人にわからない、つらい真実が秘められていることに気がつく。

 私が好きなのは、こういう作家なのだ。今では、もう、誰もヘミングウェイのことなど思い出しもしないけれども。

2011/06/24(Fri)  1292
 
 誰でも経験することだが、いろいろな本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うようなことばを発見することがある。
 そういう言葉は――たとえ、その言葉を読んだ本を忘れてしまっても――その言葉をはっきり思い出せなくなっても、そんなことはどうでもいい。

 私は、そのことばを知らなかった以前の私に返ることがない。

 そういうことばの力は――そのことばを、以前に知らなかった私、つまり中田 耕治のある部分を啓示してくれる。そういうことばが、私は好きなのだ。

 私の好きなことばは、やはり私の好きな作家のコトバになる。いつも自分の身にひきつけて考えるので、そうなると、たとえばヘミングウェイをあげることになる。

  No one ever learned literature from a textbook.
  I have never taken a course in writing. I learned to write naturally and on my own.
  I did not succeed by accident;I succeed by patient hard work.
  Verbal dexerity does not make a good book.

  教科書から文学をまなぶやつなんて、ひとりもいない。
  私は、創作コースといった授業を受けたことはない。ひとりでに書くことを身につ
  けて、独力で書いてきた。
  偶然に成功したのではない。忍耐づよく、苦しい仕事を続けてきて成功したのだ。
  ことばの器用さだけでは、よい本は書けない。

 私はいろいろな機会に、若い人たちといっしょに勉強してきたが、自分のクラスで、ヘミングウェイの”若い人たちへの助言”のことばを忘れたことはない。

 ヘミングウェイは、いつも自分の仕事にきびしい芸術家だった。彼のことばでいうと、いつも real thing (ほんとうのもの)をつかもうとしたからだった。

 きみたちのなかにも、詩を書いたり、小説を書こうとしている人がいるかも知れない。その人は、いつか、このヘミングウェイのことばを真剣に考えるときがくるだろう。

 もう一つ、私の好きなことばをあげておく。

   Writing must be a labor of love or
   it is not writing.

 やさしいことばだから訳す必要はないが、その意味は深い。何でもないことばだが、あれほど人生を愛し、美しい女たちを愛し、仕事を愛した作家の確信にみちたことばなのだ。
 そのヘミングウェイでさえ、ときには失敗作を書いたし、何度も愛に傷ついたことを思いあわせれば、この言葉には、やはり、他人にわからない、つらい真実が秘められていることに気がつく。

 私が好きなのは、こういう作家なのだ。今では、もう、誰もヘミングウェイのことなど思い出しもしないけれども。

2011/06/24(Fri)  1292
 
 誰でも経験することだが、いろいろな本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うようなことばを発見することがある。
 そういう言葉は――たとえ、その言葉を読んだ本を忘れてしまっても――その言葉をはっきり思い出せなくなっても、そんなことはどうでもいい。

 私は、そのことばを知らなかった以前の私に返ることがない。

 そういうことばの力は――そのことばを、以前に知らなかった私、つまり中田 耕治のある部分を啓示してくれる。そういうことばが、私は好きなのだ。

 私の好きなことばは、やはり私の好きな作家のコトバになる。いつも自分の身にひきつけて考えるので、そうなると、たとえばヘミングウェイをあげることになる。

  No one ever learned literature from
 a textbook.
  I have never taken a course in writi
 ng.I learned to write naturally and
 on my own.
  I did not succeed by accident;I succ
 eed by patient hard work.
  Verbal dexerity does not make a good
 book.

  教科書から文学をまなぶやつなんて、ひとりもいない。
  私は、創作コースといった授業を受けたことはない。ひとりでに書くことを身につ
  けて、独力で書いてきた。
  偶然に成功したのではない。忍耐づよく、苦しい仕事を続けてきて成功したのだ。
  ことばの器用さだけでは、よい本は書けない。

 私はいろいろな機会に、若い人たちといっしょに勉強してきたが、自分のクラスで、ヘミングウェイの”若い人たちへの助言”のことばを忘れたことはない。

 ヘミングウェイは、いつも自分の仕事にきびしい芸術家だった。彼のことばでいうと、いつも real thing (ほんとうのもの)をつかもうとしたからだった。

 きみたちのなかにも、詩を書いたり、小説を書こうとしている人がいるかも知れない。その人は、いつか、このヘミングウェイのことばを真剣に考えるときがくるだろう。

 もう一つ、私の好きなことばをあげておく。

   Writing must be a labor of love or
   it is not writing.

 やさしいことばだから訳す必要はないが、その意味は深い。何でもないことばだが、あれほど人生を愛し、美しい女たちを愛し、仕事を愛した作家の確信にみちたことばなのだ。
 そのヘミングウェイでさえ、ときには失敗作を書いたし、何度も愛に傷ついたことを思いあわせれば、この言葉には、やはり、他人にわからない、つらい真実が秘められていることに気がつく。

 私が好きなのは、こういう作家なのだ。今では、もう、誰もヘミングウェイのことなど思い出しもしないけれども。

2011/06/21(Tue)  1291

 世間には、運のわるいやつ、不運なやつは、いくらでもいる。

 菅 直人もそのひとり。

 もし、この災厄がかつてないほどの規模のものという報告を受けたら、ただちに、首相直属の「対策統合本部」を設置すべきであった。

 東日本大震災が起きて、福島原発の1号機が、メルトダウンの危機にさらされた。そこで、緊急に冷却するため、1号機に海水が注入されたのは、翌日、3月12日午後7時4分だった。
 ところが、東電から、冷却のためそれまでの淡水から海水に切り換えるという報告をうけた菅 直人首相は、午後6時に、原子力安全委員会と、経産省の原子力安全/保安院に対して、海水の注入による再臨界の可能性についてくわしく検討するように指示した。
 その報告をまっている間に、福島原発から半径20キロの住民に対して、避難を指示した。
 つまり、この時点で、メルトダウンがおきていたことを知りながら、菅 直人首相は、そのおそるべき事態をできるだけ軽いものに見せ掛けようとしていたことになる。

 もっと、おそろしいのは、菅 直人首相が、海水に切り換えることに懸念を表明したため、東電は、海水注入の開始から約20分後に、注入を中止したという。その後、実は中断していなかった(所長判断で継続していたという)ことが判明。いったい何の騒ぎだったやら……という展開になってしまった。
 これは、当時首相に適切なアドヴァイスができなかった諮問機関の責任が大きい。菅 直人ばかりを責めるわけにもいかないが、これまたファルス、またまたファルスの一例である。

 菅 直人が首相として有能だったとはまったく考えていないのだが。
 もっとおそろしいことは、この3月12日、放射性物質の拡散を予測する報告が、いち早く首相官邸に、ファックスで届いていた。ところが、この報告は担当の部内でとどまって、首相、官房長官には報告されていなかった、という。
 私は、これを知って、ムカついた。
 菅 直人は、この部局の担当の下僚ども、および、その上司を、即刻、罷免すべきだった。そんなこともできないヤツに、首相がつとまるはずもない。

 菅首相の名はまちがいなく歴史に残るだろう。歴代宰相のなかでも、きわめて無能だった例として、菅 直人の名は輝いている。幸か不幸が、私たちは菅 直人を21世紀の日本の宰相としてえらんでいる。

 大震災のあと、かれは震災対策、被災地救援、原発事故対策と、政府部内に、26の委員会をつぎつぎに設置した。だから、首相としての責務を放棄してきたとはいえない。
 だが、菅 直人がどれほど無能だったか。どれほど、ドアホだったか。
 大震災発生の2日後、3月13日、蓮ボウ某という行政刷新担当相に、節電啓発担当相を兼務させる人事を発表している。
 「事業仕分け」で、一躍名をあげた牝鶏(ひんけい)である。

 菅 直人はその3日後(3月15日)になって――政府と東京電力が一体となって原発事故対策にあたる「対策統合本部」なるものを立ち上げている。
 その後、牝鶏(ひんけい)は何をしたか。

 そもそも、菅 直人は大震災発生の報告をいつうけたのか。

 3月15日の時点で、蓮ボウだかレンポコだか、行政刷新担当相とかいうアホウはただちに罷免すべきだったと考える。お役御免だね。地震が行政を刷新してくれたのだから。

 しかも、この時点で、福島の原発のメルトダウンの事実を知っていなかったはずはない。これほど大きな「危機」に際して、蓮ボウのような人物に「節電啓発」をさせるという神経には、おそれいってことばもでない。
 では、蓮ボウは、どんな「節電啓発」を行ったのか。

 いや、そもそも、彼が作った26の委員会は、具体的に、いつ、どこで、何の仕事をしたのか。それが、現実に菅 直人首相の政治にどういうふうに反映したのか。

 戦前のフランス政治に大きな存在だったクレマンソー(大統領)が、政治家について語ったことがある。
 俗物はおそろしい。俗物は、人類のなかでもっともふまじめなものだから、と。

 先日、民主党の小沢某と、その子分で、暫く前まで首相をつとめていた鳩山某が、首相の引きずり落としを画策したが、これはうまく行かなかった。
 すると、こんどは参院議長をつとめている西岡某が――震災・原発の対応をめぐって、菅首相の対応の遅れ、拙劣さを批判して、一刻も早く退陣するよううながした。
 参院議長が、こうした批判を公表するのは異例のこととされる。(’11.5.19)

 東日本大震災という未曾有の事態が起きたとき、日本にとってただ一つ、ほんとうにラッキーだったのは、小沢某が政権の中枢にいなかったこと、当時の宰相が鳩山某でなかったこと。私はこのことを、神に感謝したくらいである。
 西岡某という参院議長が、菅 直人の退陣を要求したことなどは――どうでもいい。そんなものは、しょせん、茶番にすぎない。

 小沢某ほど、狡猾きわまる政治家は少ない。
 もし、小沢某、鳩山某が、権力の中枢にとぐろを巻いていたら、まさしく亡国の道を転げ落ちていたにちがいない。小沢某は震災発生直後ただちに、議員の大デレゲーションを躬率(きゅうそつ)して、満面笑みを浮かべて、したり顔で日本沈没をご注進に及んでいたであろう。そんな小沢某の顔つきを想像するだけで、私は慄然とする。小沢某、鳩山某、このふたりほど低劣な俗物はいないのだから。

 社民党の国会議員のひとりが語っていた。
 小沢某のような人物が、四半世紀ものあいだ、いつも政局の中心で動いていたというのは、スキャンダルだ、と。
 天災にともなう「ふまじめな」俗物たちの人災を、政治の世界の巨大なデブリとして残してはならないと考える。

 私は、この震災を天罰、天譴とは見ない。まして国難などとは見ていない。
 私は、毎日、つぶやいている。

   自然はおまえさんに相談なんかしやしない。あんたの希望なんかにかまっちゃい
   ないし、自然の法則が、あんたのオ気に召すかどうかなんて、どうでもいいのさ。
あんたは、自然をそのままに受けいれるっきゃない。だから、その結果ってや
   つも、いっさいがっさい、手前で引き受けなきゃ。つまり、壁は壁ってこと。

 誰のことばだと思う?

 「みぞれまじりの雪降る晩に」、ペテルスブルグの地下室で毛布をひっかぶっていた奴のひとりごと。これで、私のいいたいことが、いくらかわかってもらえるだろうか。

2011/06/16(Thu)  1290
 
 この6月5日(日)昼の12時、親しい仲間たちに集まってもらった。
 駅前(東口)から、バスに乗って、終点でおりて、放射線の降りそそぐ緑地でお弁当をつかって、さて、北にむかって、しばらく歩く。いずれは冥土につづく死出の旅。もっとも、せいぜい30分ばかり。

 この付近、古代の古墳群のわきの自然歩道をたどっても、せいぜい2時間のコースにすぎないので、ピクニックともいえないただのお散歩コース。

 このあたり、かすかに戦前の面影を残しているが、まさかホトトギスがいるはずもないが、せめて古句の風流を思いうかべれば、

    ホトトギス 何もなき野の 家構え

    西ひがし 泣くべき夜あり ホトトギス

    われ汝(なれ)を 待つこと久し ホトトギス

 されば青葉・若葉の詩趣や、如何(いかん)。

    一いきれ 蝶もうろつく 若葉かな

    桐の葉の 悠々然と 若葉かな

    若葉して 中ぶらりんの 曇りかな

 その程度の詩趣、盃いっぱい程度はあるかも知れない。アハハ。

 この「遠足」の趣旨は、ある石碑を皆さんに見ていただくことが目的だった。

  たまゆらの いのちのきわみ ゆめのごと
   季節(とき)のながれと 花のうつろい

 こんなものは笑いものになるのがせいぜい、と知ってのうえの艶のすさび。

        **********

☆近刊のご案内
 
  『お梅さん』 オノト・ワタンナ  著  中田耕治 訳

   柏艪舎(はくろしゃ)より、2011年6月下旬発売予定

2011/06/13(Mon)  1289
 
 つい先日、五月になったという文章を書いた。
 大地震、津波、福島の原発事故、そして被災したひとびとのことを考えると、くだらない閑文字を並べるなど申し訳ない気がする。

 そして、いつの間にか六月になっちまったなあ。

  ありとも知られぬからたちの花白くあらく、小雨そぼ降る朝の井戸に、水汲む女
  の傘ささぬが目につきと、はね釣瓶はね釣瓶と暫しは繰返したれど、口には出で
  ず遂に止みたり。後、谷中を過ぎて、
        むらさきの豆の花咲く垣根哉

 明治31年、斉藤 緑雨の句。

 いいなあ。しばし、この句を口にして、初夏の季節を楽しんだ。

 斉藤 緑雨については「文学講座」で講じたが、まともに「斉藤 緑雨論」を書く機会はなかった。
 私は、五木 寛之の推輓で、鈴鹿の「斉藤緑雨文学賞」の審査にあたった時期があって、いつか「斉藤 緑雨論」めいたものを書く機会をと念願しているのだが、いまだそれは果たしていない。
 しかし、斉藤 緑雨は、いつしか私にとっては身近な存在となってきて、その作品に親しむことが多くなっている。

 批評家、緑雨は毒舌をもって知られるが、余技たるべき俳句もみごとなものが多い。

    五月雨や お手紙まさに拝見す

    夏の月 誰れ彼れいはず美しき

    木枯(こがらし)や 夕日突き抜く 塔の先

    菊枯れて 黒き手筥の ほこり哉

    菊枯れて 庭に炭ひく あるじ哉

    月痩せて 露の白菊 枯れにけり

    枯れ菊の 沓脱ぎ石に置かれけり

    おぼろおぼろ 花降りかかる三の糸

    枝折戸(しおりど)の闇を さくらのそっと散る

    散るさくら 散らずばおれが 散らそうか

 ゆうに子規に比肩し、虚子にすぐれること、数等。

2011/06/09(Thu)  1288
 
 もう六月になっている。
 依然して、大震災とその被害のニューズに、心の晴れない日々がつづいている。

 福島/原発事故にたいする政府の対応の遅さ、さらには放射性物質の飛散・拡大をできるだけ過小評価しよう、もしくは、隠蔽しようとする姿勢に、憤りをおぼえる毎日であった。
 私のようなしがないもの書きでさえ、毎日、切歯扼腕していたといってもよい。

 されども、桜花(おうか)すでに梢を謝して、緑林(りょくりん)影(かげ)濃(こまや)かならんとす。しばし、震災の憂鬱を忘れんとして、放射性物質のおよばざるところ、願わくば神韻を山林にたずねたり。渓流の岩にむせぶところ、涼味湧くがごとく、杜鵑(とけん/ほととぎす)月をかすむるほとり、まさに、

     目に青葉 山ほととぎす 初鰹

 初夏の景物(けいぶつ)、これにしかず。
 もとより放射性物質のベクレル量おそるべきにせよ、一日(いちじつ)紅塵を去って、緑陰の神韻を訪(おとの)うべきなり。(笑)

 けっきょく、6月に入って、菅 直人首相の早期退陣をもとめて、内閣の不信任決議案が提出されたが、これは否決された。
 すると、こんどは、首相が早期退陣を否定したため、鳩山某が、
 「不信任決議案が(議会に)出る直前には、<辞める>といっていながら、(議案が)否決されたら<辞めない>という。これでは首相ともあろうものが、まるでペテン師ではないか。ウソをついてはいけない。ウソをつくのは人間としての基本にもとる行為である」
 と、コキおろした。(’11,6.3)

 「宇宙人」が、人間をコキおろすのだからおもしろい。(笑)

 菅首相は、鳩山宇宙人と会談した際、早期退陣を約束したといわれるが、国会で不信任決議が否決されると、たちまち、「早期に退陣を約束したおぼえはない」といいだした。
 君子は豹変する。
 これに対して、閣内からも異論が相次ぎ、野党は、不信任決議が否決されてショボンとしたが、こんどは、首相に対する問責決議案を提出するとか。(’11,6.4)

 まあ、例によって、霞が関の一場のファルス。(笑)

2011/05/26(Thu)  1287
 
 私は、金言、格言、ときにはアフォリズムなどが好きで、けっこういろいろな人の寸言隻句に興味をもっている。反対に、流行語にあまり関心がない。
 テレビの芸人が、そんな流行語の一つ二つを考え出す。それがウケて、人気が出る。私は、別に不快には思わない。そんな流行語はほんのいっとき人の口の端にのっても、すぐに忘れられてしまう。そんなものは芸でも何でもない。だから私は自分では口にしない。

 アフォリズム、警句、格言だって、自分につごうのいい場合に使うのが気になって、私はあまり使わない。

 「少年よ、大志を抱け」という言葉は、誰でも知っている。
 だが、このことばには、もう一つ、別の言葉がついている。直訳すれば、

 学生諸君、野心的であれ、善きキリスト教徒であるために。

 ということになる。私たちは後半の部分をまるっきり無視して、「少年よ、大志を抱け」という部分だけを心に刻みつけたらしい。

 「紳士は金髪がお好き」。これは格言ではないけれど、このことばは私たちも知っている。だが、原作者のアニタ・ルーズは、もう少し別のニュアンスをこめて使っている。

   紳士は金髪がお好き。だけど、ブリュネットと結婚するのよ。

 もう一度くり返すけれど――私はアフォリズムが好きだし、いろいろな人の寸言隻句に興味をもっている。

 私の好きなことばは――それを語った本人の人柄、本人の立場などが、すぐに理解できるような言葉。
 誰もが使う言葉で語りながら、その人でなければいえないことを語っていることば。

   有名スターになったとき女優に注ぎこまれる毒ってものがあるのよ。

 キム・ノヴァクのことば。
 ただし、その毒が何なのか、どういうふうに毒が効いて、致死量がどの程度なのか、キムは語らなかったけれど。

2011/05/23(Mon)  1286
 
(つづき)
  好きな女のところに通いつめたが、なにせ人にしられぬ恋路、犬までがあやしんで
  吠えかかって、毎晩、さわがしい。犬なんかいっそブッ殺してやりたい。手紙を出
  そうかとも思ったが、犬を手なづけたほうがいい、食べものをくれてやって、なん
  とか、シッポをふるところまでこぎつけた。この憎らしい関守に、ものを与えよう
  などと、心づかいをするのもひと苦労。女のほうは――誰とも知らない人が、い
  つもの時間ぴったりに、尺八を吹いて通って行く。今宵もあなたにあこがれてきて
  います、という知らせでもあろうか。古歌にいう、シギ立つ沢の秋の夕暮れなどを
  連想して、やさしい殿方だよ、と思ってくれるかもしれない。

  やがて、夜空の星が遠くかたぶき、空を吹きわたる風の音もさびしくなって、籬(
  まがき)のかたわらに立ちつくして、他人のいびきが聞こえてくる頃、女の寝所の
  に、しのびやかに、着物のすその音がして、ああ、ついにそのときは至れり、と胸
  がときめき、これまでどんなに長い時間待っていたか、と、たもとを引く手もふる
  え、絹のような下腹部をさぐりさぐり、からだを横ざまにひそかに入って、音をた
  てないように迫り、声も出さずにため息したのも、心ときめくうれしさ。

  からだをあわせようとして、枕を傾け、行灯(あんどん)を離すと、女の顔がほの
  かに見えて、さし向かいながら、床についているような気がしない。長い間、つれ
  ない仕打ちばかりだったと責めたり、心をつくしてお慕い申しておりましたのに、
  などと恨みも交えて語りあう。いつわりの多いおかたなど、相手にするつもりでは
  なかったのに、いつかのお手紙から、あなたが好きになりました、と顔を赤くする
  のも、言葉多く語るよりもずっとまさっている。

 まだまだ続くのだが、鬼貫の「戀愛論」はこれくらいにしておく。

 鬼貫は、追悼の句を多く詠んでいるか、恋の句は少ない。

          契不逢戀
     油さし あぶらさしつつ 寝ぬ夜かな

 さしていい句でもないが、ここにあげておく。
 題は「ちぎりて、逢わざる恋」なのか。逢わざる恋をちぎりて、なのか。その読みかたで、私の想像はかなり違ってくる。
 やや遅れて、「遇不逢戀」という狂歌があって、

   うつり香の残りて としをふる小袖
     今は身幅も あはできれぬる   於保久 旅人

   きみに逢ふ 手蔓も切れて うき年を
     ふる提灯の はりあひもなし   網破損 はりがね

 こんなものより、鬼貫の句のほうがずっといい。

2011/05/19(Thu)  1285
 
 鬼貫の俳論、『ひとりごと』に、「戀」というエッセイがある。
 ただし、冒頭から――「心は法界にして、無量なる物ながら、一念まよふ所は、大河の水のわずかなる塵によどむがごとし」といった文章が切れめなくつづくので、すっきり頭に入りにくい。
 エッセイ自体は、それほど長くないのだが、もう少しわかりやすく、現代語に訳してみよう。

  逢ったこともないのに、どこどこの土地に美しい女がいると聞いただけで、もう忘
  れられなくなる。一度遊んだだけの遊女から、手紙が届いたりして、その筆づかい
  を見て、やさしい女心を思う。あるいは、茶屋の娘の接待する物腰のきよらかさが
  うわさになっているので、せめて水の一杯でも所望してその姿を見届けよう、ただ
  通りすがりに、窓格子からちらっと顔を見せたりすれば、近くの商店に立ち寄って
  その店の品物の値段を聞くふりをして、さりげなくめあての女の家名を聞いたりす
  る。

  春、お花見の頃、あるいはお祭りやお寺参りの頃、魅力のある女たちが立ちあらわ
  れる。そんな女たちに恋をしては、あわよくば首尾を遂げようとおもっていると、
  にわかにつよい雨ふりになって、傘をさしつさされつ、あるいはタバコの火を借り
  たり、ときには近くの道を教えたりする。そんなきっかけから、お互いの心のふれ
  あいができたりする。そんな出会いのなかでも、女のうしろ姿がひとしお美しいの
  に心を惹かれて、すぐさまあとを追いかけ、足を早めて女の前に出て、後ろ姿に似
  あわぬブス、あまりのことに落胆するというのもおかしい。
  あるいは、ひとを恋しても自分から口に出さないまま、ふつうのつきあいをしてき
  て、いつか折りを見てうちあけようと思って、いつしか時間がたってしまった。こ
  の思いはいつかうちあけようと思っていると、何かのことばのはしはしから、相手
  もこちらの恋心を承知しているとわかる。そのうれしさよ。

  また、メモをもらって、いそいでふところに隠した。人目につかない隅っこで、紙
  の皺をのばして読もうとする風情は、まるめてポンと投げ捨てられるよりもずっと
  いい。

 鬼貫の「戀愛論」はもう少しつづく。
        (つづく)

2011/05/16(Mon)  1284
 
 上島 鬼貫(1661―1738年)は、元禄の頃に登場した俳人だが、私はあまりくわしく知らない。
 ただ、この人の句に、

   惜めども 寝たら起きたら 春である

 という句があって、驚いた。江戸時代に、すでに現代国語の格助詞、「である」を俳句に使った例「である」。「である」は、明治の言文一致からはじまったとばかり思っていたからである。
 すっかりうれしくなった私は、さっそくこの句をパクって、

   我が輩は 寝ても起きても 猫である

 という一句を詠んだ。去年から、私の飼っているネコを詠んだもの。
 漱石先生のお叱りをいただきそうだが。

 昨年の夏に、我が家の飼猫が他界したので、喪があけてから「動物愛護センター」にお願いして子ネコをもらってきた。
 名前はチル。じつはこれもパクリで、ルイ・ジュヴェが飼っていた愛犬の名前を頂戴した。(ジュヴェだって、きっとメーテルリンクから頂戴したに違いない。)

 さて、鬼貫のことに話を戻すことにしよう。
 私の好きな句 を選んでみた。

   春雨の 今日ばかりとて 降りにけり

   くらがりの 松の木さへも 秋の風

        遊女の絵に讃す
   殿方を おもうてゐるぞ 閨の月

   いつも見るものとは 違う 冬の月

   雪に笑ひ 雨にもわらふ むかし哉

    久しく交りける友の身まかりけるときこえはべりければ、
   いとどさへ旅の寝覚は物うきを
  
   木がらしの 音も似ぬ夜の おもひ哉

 ほかのひとには、私の選句は気に入らないかも。鬼貫の句は、もう少しヴァライェティーに富んでいるからである。
     (つづく)

2011/05/11(Wed)  1283
 
 1965年2月から3月にかけて、私はヴェトナムにいた。
 そんなある日、母に手紙を書いた。ほんらいなら公表すべきものではないが、ある親子の間にかわされた、わずか一通の手紙なので、ここに公開する。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  お母さん

  毎日ぼくのことを考えていてくださるのでしょうね。無事に旅をつづけています
  からご安心下さい。

  サイゴンの印象は、やはりぼくにとって強烈なものでした。久しぶりで、自分がほ
  んとうに生きているような実感がありました。それを小説に書いてみたいのですが、
  うまく行くかどうか。
  ユエに行きましたが、ここでは一生忘れられない経験をしました。ユエの街はとて
  も小さい町で、かつての王城のあとが、それこそ夏草のなかにむなしく残っている
  だけなのです。
  ぼくは町を歩き、歩き疲れて、一軒の酒楼に入ってビールを飲みましたが(水のか
  わりです。水質がわるいので、その頃ひどい下痢にくるしみつづけでした。)人な
  つっこいおじいさんが寄ってきました。むろん話は通じません。すると、あと二人
  (おまわりさんと地方裁判所の書記ということがわかりました)中年の男たちが僕
  に寄ってくるではありませんか。
  書記の人がフランス語を話すので、すっかり仲よしになりましたが、ぼくがビール
  をおごったら、その晩、六時におじいさんが家に招待するというのです。何しろ知
  らない土地ですし、聞けばユエの街ではなく、かなり離れているらしく、夜なので
  こまったなと思いました。断ろうとしたのですが――その前に自分の家へきて泊ま
  れというのを断ったものですから――どうにも理由がなく六時に会うことにしま
  した。
  六時に旗亭に行ってみると、おまわりさんがひとりいるだけです。この人はフラン
  ス語も英語もダメで、何が何だかわからないし、旅費としてかなりの金額をぼくは
  身につけています。危険な行動になるかも知れないと覚悟をしました。
  ユエの街には大きな湖(ラツク)がありますが、もう日が暮れかかり、船も通らな
  いのです。暗い水面を見つめながら、この湖の付近にもヴェトコンが出ると聞いた
  ことを思い出したりして不安でした。
  やがて村につきました。(トレガという貧しい村です。)貧しい村でした。ところ
  がそこに、昼間のおじいさんが村の人を八人ばかり招んで待っていたのです。
  お互いに言葉は通じませんが、いくらか安心しました。やがて書記の人がきてくれ
  て、これが純粋にぼくを接待してくれる集まりだということがわかりました。

  貧しい食事でしたが、ほんとうに心あたたまる思いをしました。十時近くまでいま
  したが、やがて最後におなじ席にいたおばさんが、私のためにヴェトナムの歌を歌
  ってくれました。ヘタな歌でしたし、意味も何もわからない歌ですが、それはそれは
  哀傷を帯びた歌で、黙って聞いているうちに、いろいろな感情がむねに迫ってきて
  思わず涙ぐんでしまいました。こんなに質朴な人たちが、ぼくのために集まってく
  れたこと、そして、こんなにやさしい人たちが、今、はてしない戦乱にくるしんで
  いるのだと思うと、その哀しみが自分に揺れ返ってきて、大きな感動が測測と迫っ
  てきました。酒の酔いもあったのでしょうし、それまでの不安な思いが消えたこと
  もあったのでしょう。旅先で孤独だったことの感傷もあったのでしょうが、涙がと
  めどなく頬をつたわりました。
  すると、おばさんも泣きながら歌いつづけたのです。

  帰途は、若いヴェトナム兵が一人、ぼくを送ってくれましたが、彼は私の名を聞い
  て舟の上で即興で歌を歌ってくれました。これも意味はわかりませんが――ある
  日、私の村に見しらぬ日本人がきた。名はナカダという。彼のために、私たちは一
  席の宴を張り、XXおばさんが彼をもてなすために歌を歌ったが、ナカダは感動の
  あまり泣いた。日本人が私たちのために泣いてくれたのだ――そういう意味に
  間違いないと思います。これも切々たる哀調を帯びた歌でした。

  この夜のことは一生忘れられない経験になるでしょう。おそらく、ぼくのことは、
  あの貧しい村では、いつまでも語りつがれて、いつか一つの伝説になるような気が
  します。

  サイゴンや、バンコックや、香港のことはまたあとで書きます。さよなら。
  お元気で。                                中田 耕治

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私にとって、ヴェトナムの印象は「強烈なもの」だった。しかし、この時期、私はヴェトナムに取材した小説を書くことはなかった。

 はるか後年、ヴェトナムを舞台にした長編を書いたが、新聞に連載しただけで、そのまま出版することがなかった。

 サイゴンの印象は、中編、「サイゴン」だけは、私の撰集(三一書房版)に収めた。

 この手紙は、亡くなった母の遺品を整理していて文箱のなかから見つけた。焼き捨てるつもりだったが、私が母にあてて書いたわずか一通の手紙なので、ここに残しておく。

2011/05/09(Mon)  1282
 
 「午前十時の映画祭」で選ばれた「名作」50作品に、「風と共に去りぬ」や「ローマの休日」がはいっていなかった、というのも驚きだが、著作権、上映権などの問題がからんでいるにちがいない。
 私が「あらたに選定した50作品」を選ぶとすれば、まるっきり別の名作をあげるだろう。なにしろ、徐 克(ツイ・ハーク)や、王 家衛(ウォン・カーウェイ)の映画のほうが、「2001年宇宙の旅」や、「小さな恋のメロディ」、「E.T.」よりも、よほど高級と見ている、つむじまがりだからね。

 「午前十時の映画祭」なら、その日いちにち、うきうきして過ごせる映画のほうがいいと思う。そこで、私が企画するとしたら、

     「ウォリアーズ」
     「リリー」
     「題名のない映画」(ドイツ映画)
     「キャリー」
     「ストリート・オブ・ファイアー」
     「殺人幻想曲」
     「ガルシアの首」
     「ファウルプレイ」
     「運命の饗宴」
     「北京オペラブルース」(香港映画)

 私にとっては――こういう映画のほうが「ニュー・シネマ・パラダイス」や、「フォロー・ミー」や、「スタンド・バイ・ミー」よりも、はるかにすぐれた名画なのである。

2011/05/05(Thu)  1281
 
 「午前十時の映画祭」という催しがあるという。昨年の2月から1年かけて、50作品を上映してきたらしい。(私は、一度も見に行かなかった。)
 今年も、あらたに選定した50作品を加えて、継続されるという。

 1年目の観客党員数は、58万6838人。興行収入は、5億円を上まわった。

 今年の目標は、観客の動員目標が、百万人、収入が100億円。

 今年の上映リスト。一般投票の上位、10作品。

     「ショーシャンクの空に」
     「サウンド・オヴ・ミュージック」
     「ニュー・シネマ・パラダイス」
     「フォロー・ミー」
     「風と共に去りぬ」
     「ローマの休日」
     「スタンド・バイ・ミー」
     「2001年宇宙の旅」
     「小さな恋のメロディ」
     「E.T.」

 たしかに、名作ばかりだから、若い人たちが、こういう映画を見に行くようになればいいと思う。
 「風と共に去りぬ」については、批評めいたものを書いたが、「ローマの休日」、「スタンド・バイ・ミー」、「2001年宇宙の旅」については何も書かなかった。私が書くよりも別の批評家が書けばいい。
 「E.T.」よりも「激突」や「ジョーズ」のほうがはるかにすばらしい。
 「スタンド・バイ・ミー」や「小さな恋のメロディ」よりも、「ハックルベリ・フィン」や「にんじん」のほうがずっといい。
 (つづく)

2011/05/02(Mon)  1280
 
 明暦の大火。
 江戸市中が猛火につつまれ、数万の民衆が焼死するという惨事だったという。この災害の犠牲者のために、両国の回向院が建てられている。

 このとき、焼け出された人が国許(くにもと)に送った手紙がある。読みやすくするために、平易に書き直してみよう。

   近年、大身(たいしん)の人々はもとより、私ども、または下々の
   者まで、皆、五十余年の大平(泰平)になれて、浮薄に流れ、
   驕奢(きょうしゃ)に長じ、分に過ぎたる栄耀をこととしている。
   したがって財宝足らざる故に、自然に、上(かみ)は民百姓に
   むさぼり、下(しも)はたがいに相むさぼる、このたびの大変
   (たいへん)はじつに天罰である。天道(てんどう)よりまことに
   よき意見を受けたのである。
   ついては人を翻然(ほんぜん)として、積年の非を悔いあらため、
   まず真の士風俗(さむらいふうぞく)に復すことに、一統努力
   するほかはなかろう。

 江戸文化の研究家、三上 参次は、この手紙にふれて、

   今日(こんにち)も明暦の昔とおなじように、感慨無量、長大息
   する人が少なくないことと思う。この手きびしい意見、この峻烈な
   る天罰を、七千万日本人の身代わりとして引受けられた幾万の同胞
   に対して、深厚なる感謝の意を表したいというのはこの意味に
   外(ほか)ならないのである。

という。
 これを読んだとき、私は日本人の心性はまったく変わらないのだという感慨をもった。
 じつは、私は東日本大震災が起きた瞬間に「このたびの大変はじつに天罰である」というふうに感じた。そして、私たちが「皆、五十余年の大平(泰平)になれて、浮薄に流れ、驕奢(きょうしゃ)に長じ、分に過ぎたる栄耀をこととして」きた代償として、大震災が起きたという意見を眼にした。
 しかし、私としては――この災害を「天よりまことによき意見を受けた」などと考えない。もとより私たちの無数の誤謬、過失、失策の結果として、この惨状があると見て、ただ謙虚に、わるびれずに、この事態をわれとわが身に引きうけるべきだろう。

 福島原発について、NHKのニュースは、いつも「深刻な事態に見舞われている福島原発」という形容をつけていた。これは、4月になってから、この形容はつけなくなったが、いつもおなじ形容、修飾語を重ねることで、かえってクリシェとして、空虚に響いたのではなかったか。

2011/05/01(Sun)  1279
 
 福島原発のニュース。

 死者、1万4001人。行方不明、1万3660人、避難者、13万6127人。(4月19日午後6時、警察庁調べ)
 この大震災で、検視した死者、1万3195人のうち、津波による死者が、92.5パーセント。身元、年齢が判明した犠牲者の65パーセントが60歳以上。
 つまり、高齢者の犠牲が大きい。
 東京大空襲の記録では、60歳以上の高齢者は、自宅から150メートルの範囲で死亡していたという。若者では、自宅から4.5キロの距離まで逃げて、落命した例がある。

 福島原発。2号機の汚染水、4月1日〜6日の流出、総量、520トン。
 放射性物質の量は、4700テラ・ベクレル(1テラは、1兆という)。
 4月21日、このニューズを読んだとき、私は心の底から憤りをおぼえた。この事実を、東電や、原子力安全保安院は、なぜ今まで伏せていたのか。
 4月1日から6日の時点で、この恐るべき事態はすでに判明していたはずである。それなのに、2週間もこの事実を伏せていた。
 その間に、統一地方選挙があったから(その影響をおそれて)伏せたのではないか。

 私は激怒している。まず、これを報じた大新聞について。
「読売」は、この記事を一面でとりあげている。ただし、下の4段目、わずか2段、32行という短いあつかいだった。その記事の末尾に――「深刻な数値」という見出しで、2面であつかっていることが出ている。

 その2面の記事は、34行。2行の小見出しに――

  「4700兆ベクレル」大気放出の尺度で
  レベル5から6相当

 とある。(「読売」4月22日/朝刊)

 大震災以後に書かれた無数の記事のなかで、日本のジャーナリズムがとった、もっとも陋劣(ろうれつ)で、もっとも「悪しき行動」の最たるものの一つ。
 なるほど、この記事は事態の「深刻さ」をきちんと報道しているように見える。しかし、実際は、事態の「深刻さ」を国民の眼からそらすように工夫されている。
 この2面の記事には、放射性物質による汚染の例として、1950年代から80年代にかけてのイギリス、セラフィールドの汚染水の海への放出(9000兆ベクレル)、また、1952年〜92年におよぶ極東海域におけるロシアの汚染物質の日本海への投棄の事例もとりあげてある。

 私は怒っている。「4700兆ベクレル」という記事は、1面のトップに出すべきだったといいたい。1面のトップに出したのは――20キロ圏「警戒区域」設定 一時帰宅 数日中に開始 という記事だった。もう一つは、「節電目標15パーセントに緩和 政府調整 大企業・家庭に一律」という記事だった。
 いずれも重要な記事にはちがいない。しかし「20キロ圏」に「警戒区域」を設定しなければならない事態は、4月6日に判明していたのではないか。
 それなのに、「さしあたって人体に影響をおよぼさない」と強弁しつづけたヤツがいたのではないか。
 私が、かつての大本営(松村秀逸、平出孝雄両大佐)の発表を思い出していたのは、けっして偶然ではないのだ。彼らは、いつも陸海軍の被害にはふれなかったし、ふれたとしても「わが方の損害は軽微なり」として、頬かむりしつづけた。この連中を、日本人としてまったく恥を知らない最低の人間と見るように、私は、東電、および原子力安全保安院、さらに政府の当局者に侮蔑の眼をむけざるを得ない。
   (つづく)

2011/04/29(Fri)  1278
 
 4月21日。
 この日が、私の内面に暗い翳りをもたらそうとは、まったく予想もしなかった。
 私はこの日付を忘れることはないだろう。
 この日、私は病後はじめてお茶の水に出たのだが――

 3月11日から、私はほとんど本を読まなくなっていた。私が読んだ本は、ハ・ジンの短篇集『すばらしい墜落』(立石光子訳/白水社)。安部ねり著、『安部公房伝』(新潮社)、そしてアナイス・ニン。

「きみという女は、惜しみなく自分をあたえることを知らない」エドワルドがいう。
 でも、ほんとうにそうかしら?(アナイスは考える)。

 非のうちどころのないヒューゴーの人格は、心から尊敬しているし、ヘンリー・ミラーのセックスにも、エドワルドの美しさにも、アナイスは身を投げ出している。

 ヘンリーはいう。
「きみはいつもポーズをつけてるなあ」

 私もそんなふうにいってみたいと思う。
 わるいことに、私は3月から何も書かなくなっている。書こうとしても書けないのだった。スランプというわけではない。今はもう誰も知らない女優、メェ・マレイについて、短い、とても短いエッセイを書いた。
 とても短いエッセイを書いていると、なぜか散文詩を書いているような気になる。
 大震災、津波、原発事故。こんな時期なのに、もの書きとしてはむしろ充実しているような気分があった。ハ・ジンを読んで、この作家の短篇のすばらしさに瞠目した。安部ねりを読んで、世界的な作家になった安部公房のことをあらためて尊敬した。
 最近の私には、つらいことが重なってきている。
 なんでもない一日なのに、忘れられない一日。
 アナイスを読んで、アナイスのような女性とほんの一時期でも親しくなれたことのありがたさを思う。
  (つづく)

2011/04/27(Wed)  1277
 
 私の好きなことば。

    私はたしかにここにいるが、私はすでに変化している。すでにほかの場所に
    いるのだ。けっしておなじばしょにとどまってはいない。

 ピカソのことば。

 ピカソは、ひとりの女を愛していながら、同時に別の女を愛しはじめる、という錯綜した女性遍歴を重ねてきた。ピカソは、相手の女性が変わるたびに、作風までが変わってゆくという。
 「青の時代」から「バラ色の時代」に移ったように。

 私はピカソが好きなので、ピカソのことばをパラフレーズして――私も「ひとりの女を愛していながら、同時に別の女を愛しはじめる」といいたいところだが、現実の私にはそんなことはあり得なかった。
 ただ、教育者としての私は、おなじようなことを考えてきた。ある時期、たしかにここにいるが、やがて変化する。気がついたときには、すでに変化している。すでにほかの場所にいるのだ。

 私の大学で、ある先生がシャーウッド・アンダスンの短編を教えていた。不勉強な学生だったから、二、三度、このクラスに出ただけで、あとはサボッていた。
 翌年、単位をとる必要があっておなじ先生のクラスに出た。
 テキストは、おなじシャーウッド・アンダスンの短編だった。
 たまたま二年つづけてこのクラスに出ていた学生はいなかったはずである。その教授は黒板に、おなじ箇所でおなじ訳を書き、おなじ冗談を聞かせてくれた。一年前の講義と、まったく変わっていない内容に私は驚いた。

 はるか後年、私はおなじ大学で講義をつづけることになった。
 一度でもおなじことをくり返すような講義をしないことだけを心がけた。

 やがて私は、翻訳家の養成を目的としたクラスで、授業をはじめた。せいぜい、二年ぐらいのつもりだったが、20年以上も、この授業をつづけた。
 おなじテキストをくり返して教えたのは、ギャビン・ランバート、アナイス・ニン、アーシュラ・ヒージなど数人の作家だけだったが、おなじテキストを読みつづけることが生徒にとって有効と信じたからだったし、くり返して読むことで自分の「読み」が深くなると思ったからである。

 生徒は、私の教室にきている。たしかに教室にいるが、私のレクチュアをうけたときから、すでに変化している。すでにほかの場所にいるのだ。けっしておなじばしょにとどまってはいない。
 おこがましいいいかただが、私の教育は、いつもその「場所」をたしかめることだったと思う。

 私は翻訳を教えたのではない。それぞれのひとの才能を発見しただけなのだ。

2011/04/23(Sat)  1276
 
 今では誰でも知っていることだが――イタリアのスター、マルチェロ・マストロヤンニは、フランスの名女優、カトリーヌ・ドヌーヴを愛していた。
 ふたりの「不倫」が世界的な話題になったとき、マルチェロはいった。

   私は妻を愛しているし尊敬している。
   おなじように、カトリーヌ・ドヌーヴを
   愛しているし尊敬している。

 この発言で、ヨーロッパのジャーナリズムは、ふたりの「不倫」をとりあげなくなった。日本のジャーナリズムとは、やはり違うなあ。

2011/04/20(Wed)  1275
 
 ジョージ・バーナード・ショーは、20世紀前半の大劇作家だが、痩せて、小柄な体格だった。世界的な舞踏家、イサドラ・ダンカンに言い寄られたとき、こう語った。

    私の肉体と、きみの頭脳をもった子どもが生まれると困る。

 はるか、後年、映画女優、ジーン・アーサーは、

    あたしが、ジョージ・バーナード・ショーと結婚しなかったのは、実際に会って
    ひどく失望したからよ。

 笑った。

 それにしても、ジュリー・アンドリュース、ジューン・アリソンだって、もう誰も知らないだろう。まして、ジョージ・バーナード・ショーや、イサドラ・ダンカンの名をあげたところで何の意味もない。
 だから、ひとりでおもしろがっているのだが、私がおもしろがっていることを面白がってくれる人がいるかも知れない。
 もう忘れられているハリウッド女優たちを、ときどき思い出して書いてみようか。
 ゴシッブを書くのではない。ある時代に生きた一人の芸術家の、ひたむきな姿を忘れないために。

2011/04/16(Sat)  1274
 
 いきなり美しいアルプスの大自然が壮大な姿をあらわす。映画のフェイドイン。
 映画史上はじめてといっていい空撮だった。思わず息をのむような山脈の流れがつづいて、山頂の高原にフォーカッシングする。その広大な原っぱに、美しい歌声が響いて……
主役の「マリア」(ジュリー・アンドリュース)のアップになる。
 こうした空撮のフェイドインは、その後、「シャイニング」や、韓国ドラマの「オール・イン」、最近では、大河ドラマ「天地人」のオープニングまで、ごくふつうのものになっているが、「サウンド・オブ・ミュージック」のオープニングが見せた迫力は忘れられない。

 この映画に主演したジュリー・アンドリュースは、ブロードウェイで、「マイ・フェア・レイディ」で空前の成功をおさめて、映画界入りをした。出演作品は、いがいなほど少ないが、ミュージカルだけでなく、ストレート・プレイでも成功した。

   映画スターになったら、どうなのかって? 
   あたしは、しょっちゅう親指を吸ったものよ。

 さすがに、大女優らしいことばだと思う。
 なんでもないセリフだが、別な読みかたもできる。

 ジュリーより少し前の映画女優、ジューン・アリソンのことば。

   わたしは、いつも映画スターになりたかった。
   有名になれるし、ベッドで朝食がいただけるから。
   まさか、午前4時に起きなきゃいけないなんて知らなかった。

 ジューン・アリソンは、戦時中から「戦後」にかけて、青春スターの代表といってよかった。ジュデイ・ガーランドと交代して、ミッキー・ルーニーのハイティーンの学園ものに出たり、やがて、ピーター・ローフォードなどを相手に、天真爛漫な女子大生をやっていた。
 たくさんの映画に出ている。
 しかし、ジュリー・アンドリュースと違って、代表作といえるものはない。おそらく「若草物語}(1949年)、「グレン・ミラー物語」(1954年)ぐらいだろうか。
 ほとんど失敗作がなかった。誰からも愛されてそれでいて、一流のスターでいながら、代表作といえるほどの作品がない。スキャンダルも、なかった。
 こういう女優さんの内面を想像することはむずかしい。

 ただし、「まさか、午前4時に起きなきゃいけないなんて知らなかった。」ということばも、別な読みかたもできる。
 午前4時に寝なきゃいけないなんて知らなかった、というふうに。

2011/04/12(Tue)  1273
 
 ヘミングウェイはプラード美術館に入ると、たくさんの絵に眼もくれず、特別な絵だけを見たという。
 巨大なイタリア絵画ばかりが展示されているメイン・ホールから横に入ると、小品だけを飾った室内に、アンドレア・デル・サルトーの絵が二枚並んでいる。その一枚、「ある女の肖像」の前に立ったヘミングウェイは、いつまでもこの絵を眺めていたらしい。

 私もこの絵が好きだった。大きな絵ではない。やっと8号ぐらいの絵だが、すずしい瞳を真っ直ぐに向けてくる若い娘。そのふくよかな胸もとが眼の前にあった。ロンバルディアの農家の娘だろうか。深いえりぐりのあわいに、乳房の谷間が刻み付けられている。その乳房のふくよかさと、純白の輝きは、ルネサンスの女の清純な美しさそのものといっていい。
 若き日のピカソもこの絵は見たのではないだろうか。

 私が大切にしている家宝がある。
 ピカソのもっとも初期の、デッサンのノート。もっとも自分で買ったわけではない。作家の五木 寛之さんから頂いたものである。
 この手帳は、1989年3月12日から22日にかけて、少年ピカソが、デッサンの練習のためにいろいろな対象を描き散らしたもの。手帳というより、メモ帖といったもので、タテが10cm、ヨコ12.5cm、表紙は手垢で薄汚れている。

 大切にしまってあるので、めったに眼にすることはないが、これを手にするたびに、私は五木 寛之の友情に感謝している。

2011/04/09(Sat)  1272
 
 私は、西島 大の芝居の演出に失敗した。

 この失敗もあって、私はやがて「青年座」から離れた。その後、西島 大は映画のシナリオで成功した。一方、私はほかの劇団でいろいろと演出したが、やがて「鷹の会」という小劇団を作った。この時期から悪戦苦闘がつづいた。
 お互いの「環境」(ミリュー)が、ひどく違ってしまったのだから、私たちが疎遠になったのも当然だったろう。

 私は、その後、小説を書いたり、やがてイタリア・ルネサンスの世界に足を踏み入れることになった。
 私は自分の世界を築くことしか考えなかった。
 だから、劇作家としての西島 大がどういう仕事をしているか、まったく関心をもたなかった。

 長い歳月をへだてて、西島 大と再会したのは、かつて共通の友人だった鈴木 八郎(劇作家)が亡くなって、そのお通夜の席だった。
 鈴木 八郎はついに無名の劇作家でおわったが、女流劇作家、若城 希伊子と親しかった。私は若城さんの芝居を演出したこともあって、ずっと親しくしていた。これも共通の友人だった鈴木 八郎が亡くなったので、若城さんといっしょにお通夜に行った。その席で西島 大と再会したのだった。
 その晩、西島 大、若城 希伊子とつれだって、近くの居酒屋で酒を酌み交わしたのだが、鈴木 八郎が無名の劇作家でおわったことから、西島はしみじみと、
 「中田もおれも、えらくなれなかったなあ」
 といった。
 「うん、お互いにえらくなれなかったなあ」
 当時の私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書くために悪戦苦闘していた。
 「あら、西島さん、知らないの? 中田さんは、ルネサンスの本を出したりして、えらいのよ」
 若城さんはいった。
 「へえ、そうかあ」
 そのあと西島は、テレビの仕事で、ローマに行ったことを話した。たまたま、書店でブリューゲルの画集を買った。むろんイタリア語なので解説は読めない。
 「中田君にあげるよ」
 しばらくして、ブリューゲルの画集が送られてきた。

 さらに後年。ある時期から、西島 大、若城 希伊子、私の三人が、もちまわりで内村 直也先生の誕生日をお祝いする集まりをもつことになった。
 その年の幹事が、会場、ゲストをきめて、内村さんを囲み、一夕、楽しく歓談するという集まりだった。けっこう、いろいろな趣向をこらして、内村さんをよろこばせた。

 西島 大が幹事の年は、赤坂の料亭で、女優の富士 真奈美がきてくれたこともある。
 西島が声をかければ、「青年座」の女優たちもよろこんできてくれたと思うが、私が「青年座」をやめているだけに西島 大が遠慮したのではないだろうか。
 若城さんが幹事の年には、慶応関係の人たちが招かれた。内村さんが、慶応の出身だからだった。
 私が幹事の年には、内村さんに私のクラスの女の子たちを紹介した。後年、一流の翻訳家になった羽田 詩津子、成田 朱美、早川 麻百合、大久保 庸子、作家になった長井 裕美子、バレリーナになった尾崎 梓、シャーロッキアンの籠味 縁たち。
 内村さんは、若い女の子に囲まれて、すこぶる上機嫌だった。

 1979年、内村先生が亡くなられて、この集まりは自然消滅した。

 若城 希伊子は、1999年、私の『ルイ・ジュヴェ』の出版の直前に亡くなっている
 西島は『ルイ・ジュヴェ』を、おもしろく読んだというハガキをくれた。
 その西島 大は昨年(2010年)に亡くなっている。
 後年、作家になった長井 裕美子も、2008年に亡くなっている。

 ジャン・コクトオのことばをかりていえば――こうして私の生きる航路の船のブリッジから、しだいに人影が消えてゆく。

2011/04/06(Wed)  1271
 
 西島と私は思わず顔を見合わせていた。
 ひょっとして、新手のストリート・ガールだろうか。一瞬、私は思った。
 「どうしたの?」
 西島が訊いた。
 「家に帰れなくなったんです」
 「遊びすぎたのか」
 「そうじゃなくて、家に帰りたいんだけど、お金が足りなくなっちゃって……」

 「おれたち、これからどこかに行こうかと相談してたとこなんだ。きみたち、ついてくるかい」
 すかさず、美少女がコックリした。
 「どうする?」
 西島に聞かれて、私はひるんだ。へんなことにまき込まれやしないか、と警戒心が先に立った。
 「ねえ、いいじゃない」
 美少女がつれの事務員のような女の子にいった。私はその娘をみた。眼と眼があった。一重まぶたのぼってりした眼をして、その眼に何か切迫したものがあった。
 「お兄さんたちも帰りの電車、ないんじゃないの?」
 美少女がいった。
 あらためて顔を見た。やはり美少女だった。目鼻だちのととのった、可愛い顔をしている。当時、西島が好きだったのは、小柄で、動作のキビキビした、お侠なタイプ、たとえばヴェラ・エレンのような女優だった。西島はこういう美少女が好きなのだった。

 1時間後に、私たちは道玄坂の奥の和風旅館にいた。
 隣りの部屋に西島が美少女と、私は事務員ふうの女の子といっしょに泊まった。私は、芝居のことが頭から離れなかったので、女の子を抱く気分ではなかった。
 となりの部屋であの女の子がせつなげな声をあげはじめた。すると、私の隣りに寝ている女の子が、黙って私の上にのしかかってきた。

 My wicked、wicked days.
 何十年もたった現在、まるで夢のなかのできごとのようにこの夜のことを思い出す。
               (つづく)

2011/04/05(Tue)  1270
 
 一年前に友人の劇作家、西島 大が亡くなった(2010年3月3日)。

 彼の訃報を新聞で知ったのだが――

   肝細胞ガン。享年、82歳。1954年、劇団「青年座」創立メンバーの一人。
   「昭和の子供たち」、「神々の死」などのほか、映画「嵐を呼ぶ男」、テレビ・
   ドラマ「Gメン’75」の脚本を手がけた。

 20代のはじめの頃からの友人で、一時は親友といっていいほどだった。
 西島 大は伏せていたが、「日本浪漫派」の詩人、田中 克己の実弟だった。敗戦の日に皇居前で自決しようとしたほどの憂国少年だったという。
 私は、内村先生の「えり子とともに」のスタッフだったが、西島 大は内村先生の口述筆記をしていた。そんなことから、親しくなったのだが、当時の西島 大のことは、私の『おお 季節よ城よ』のなかにチラッと出てくる。

 私がはじめて舞台の演出を手がけたのは、発足してまもない「青年座」の公演で、西島 大の「メドゥサの首」という一幕ものだった。
 この芝居に東 恵美子、山岡 久乃たちが出たためか、「芸術新潮」に劇評が掲載された。「芸術新潮」に劇評がでるのはめずらしいことだった。いくらか世間の注目を浴びたのかも知れない。
 私は「青年座」で、西島 大の「刻まれた像」という一幕ものを演出したが、これは失敗だった。戯曲のできがよくなかったというより、私の演出がひどかったせいだろう。

 私は、芝居を終わったあと、出演者たち一人ひとりにダメ出しをしたり、部分的に稽古をやり直して、明日にそなえた。終演後の手直しだったから、11時を過ぎていた。

 楽屋口を出たところに、西島が待っていた。
 失敗した芝居の劇作家と、その演出家の気分がどういうものか想像できるだろうか。
 まして、お互いに友人で、お互いにそれなりの自信をもって初日を迎えたはずだった。
 西島が私を心配して劇場に戻ってきたとき、私が芝居の稽古をしてきたことはすぐにわかったはずだった。
 お互いに何もいわなかった。

 まっすぐに、西島が行きつけの酒場に行った。

 私はあまり酒を飲む気分ではなかった。芝居のことが頭から離れなかった。どこがわるいのか。台本のできがよくないのか。もし、そうなら作者にどう書き直してもらえばいいのか。私の演出はどこで間違ってしまったのか。
 俳優や女優たちがよくなかったとして、どういう指示をあたえればいいのか。その指示がまちがっていたらどうなるのか。
 無数の疑問が心のなかにわきあがってくる。
 じつは、この芝居の娘役に、私が教えていた俳優養成所の女の子を起用していた。本人も、私の抜擢にこたえて、いい芝居をしていたが、ベテランたちのなかでは、どうしても見劣りがする。私は、それをカヴァーするために、いろいろと工夫をしていた。それがあまり効果がなかったのかも知れない。
 私は、芝居のことなど、少しも気にしていないふりをして酒を飲みつづけた。西島も、自分の芝居のことなど、まったく口にしなかった。

 もう、終電車はなくなっていた。
 西島といっしょに渋谷の坂を歩きはじめたとき、私はすっかり酔っていた。まだ、人通りが多く、ネオンサインがきらめいている。若い女たち、ホステスたちが嬌声をあげていた。タクシー乗り場に長い列ができていた。
 私たちの前に、若い娘がふたり、歩いていた。
 思いがけないことに、西島がその一人に声をかけた。

 「ぼくたちといっしょに飲まないか」

 ふり向いた顔に、いたずらっぽい表情があった。美少女だった。
 もうひとりはごくふつうの娘で、不動産の会社か何かの事務員といった感じだった。
              (つづく)

2011/04/02(Sat)  1269
 
 ジェーン・ラッセルとマリリンには、どこか共通するところがある。

 無名の頃、ジェーン・ラッセルは、ロシア出身の女優、マリーア・ウスペンスカヤの指導を受けている。やはり無名の頃のマリリンは、これもロシア出身の演出家、マイケル・チェーコフ(劇作家、チェーホフの甥)の指導を受けている。
 それほど重い意味があるはずはないが、ジェーンとマリリンの「役作り」にはおそらく共通するものがあったのではないかと私は見ている。

 ジェーンは無名の頃、舞台女優として演技を勉強していたこと。
 彼女が指導を受けたのは、マリーア・ウスペンスカヤ。この名前から、マリーアの芝居を思い出すひとは、もういないだろう。

 マリーア・ウスペンスカヤは、1923年、「モスクワ芸術座」のアメリカ巡演に参加したが、ソヴィエトの革命をきらってそのままアメリカに亡命した。私たちが、マリーアを見ることができるのは、DVDの「孔雀夫人」(ウィリアム・ワイラー監督)ぐらいなものだろうか。この映画で、マリーアは、アカデミー賞、助演女優賞にノミネートされている。
 小柄で、上品な、おばあさんといった役で、よく映画に出ていた。題名を忘れたが、フランソワーズ・ロゼーが出たハリウッド映画に、マリーア・ウスペンスカヤがロゼーの義母の役ででていたのを覚えている。

 女優の評価はむずかしい。
 生前は、マリリンを圧倒するほどの人気があったジェーン・ラッセルでさえ、今では、ただ一度マリリンと共演しただけの女優といったあつかいなのだから。

 昔、映画、「黄昏」が公開された頃、作家の中井 英夫が書いていた。

 キャサリン・ヘップバーンはいいが、ヘンリー・フォンダの方は、痛ましいほど老いすぎて、映画を見る気になれない。たしか、そんなことを書いていた。
 スターという存在は、男女を問わず、老いるはずがない、という信仰がある、という。

 「レッズ」のウォーレン・ビーティーだっていずれ似たようなことになるのだろ
  うが、こちらはまだ保(も)ちそうだとかなにとか、スクリーンの外側でやき
  もきするうち時間はダリの絵さながら柔らかく腐蝕されてゆく。老いの砂。も
  ろく崩れて流れ出すそれに、観客もまた巻き込まれずにいない。

 こう書いた中井 英夫も、もうこの世の人ではない。

 大きな時代の変化が私たちに迫っている。それをひしひしと感じながら――福島の原発の大事故を知らずに、この世を去った作家や、女優たちのことを考える。
 これも、私の内部で、柔らかく腐蝕されてゆく。

2011/03/30(Wed)  1268

 ジェーンの出演作品は、「ならずもの」以外は、「腰抜け二挺拳銃」(48年)、「犯罪都市」The Las Vegas Story(52年)、「紳士は金髪がお好き」(53年)、「紳士はブリュネットと結婚する」(55年)など。

 マリリンが、現在でも、多数の人々に記憶されているのに対して、ジェーンはただ肉体派のスターとして、知る人ぞ知るといった存在にすぎない。

 ジェーンの登場後に、ハリウッド映画は、女優のディスヌーダがつぎつぎに登場する。1953年12月に、ヒュー・ヘフナーが、「プレイボーイ」の創刊号に、マリリン・モンローのヌードを掲載した。
 マリリンが、朝鮮戦争の最前線に、軍の慰問に出かけたように、新人女優のテリー・ムーアも、朝鮮戦線の軍の慰問に出かけたが、純白の貂の毛皮の水着を脱いで、ストリップ・ショーを見せた。これは、日本では報道されなかった。
 ダイスターのマルレーネ・ディートリヒは、ラス・ヴェガスのショーで、乳房の部分を透明なラミネートですっぽり蔽っているだけ、ノーブラのガウンで登場した。
 そうした動きが、すべてジェーンの登場の作用的結果とはいえないだろうが、ジェーンのエロティシズムはそうした流れの先頭を切っていたと、私は見ている。

 ジェーン・ラッセルとマリリンには、どこか共通するところがある。

 ジェーン・ラッセルが、ずっと後輩のマリリンに対して、親身につきあってやったのも、その時代の「セックス・シンボル」として生きなければならなかった(利点は大きかったが)つらさ、ジェーンとハワード・ヒューズとの関係、マリリンとハリー・コーンとの関係、監督、ハワード・ホークスに対する距離のとりかた、といった点で、共通するところがおおかったと見てよい。

 映画監督、ハワード・ホークスは、ジェーン・ラッセルとマリリンについて――

  「紳士は金髪がお好き」をつくるときは、ジェーン・ラッセルとの助力が大きか
  った。この映画を取るのはとても楽しかったが、何度も中止しようと思ったこと
  がある。ジェーン・ラッセルがいうんだ。「ちょっとこっちを向いてよ――監
  督さんは、それだけやってほしいのよ」すると、マリリンは、「あら、そんなら
  そうといってくれればいいのに」とさ。だけど、後年、マリリンと仕事をした監
  督に較べたら、ずっと楽だったね。後にマリリンがエラい女優になると、ますま
  す、ビビリはじめて、カメラの前で演じるのを拒みはじめたからね。何も演技が
  できないと思うようになっちゃって。

 私はジェーン・ラッセル追悼のつもりで、「紳士は金髪がお好き」を見た。
          (つづく)

2011/03/27(Sun)  1267
 
 3月23日にエリザベス・テーラーが亡くなった。
 彼女については、いずれあとで書く。

 同じ3月に、ジェーン・ラッセルが亡くなっている。享年、89歳。

 新聞に短い訃報(オービチュアリ)が出たか、「紳士は金髪がお好き」で、マリリン・モンローと共演したという記述がある程度だった。
 あれほど有名だった映画女優でも、この程度にしかあつかわれない。さすがに感慨があった。

 ジェーン・ラッセルは、マリリン・モンロー以前の「セックス・シンボル」だった。はじめてスクリーンに登場したのは、ハワード・ヒューズの「アウトロー」(1943年)だが、ジェーンの野性的な魅力は、たちまち保守的な階層からはげしい非難を浴びせられた。この攻撃のすさまじさは、その後のイングリッド・バーグマンに対する非難の嵐を思わせるものだった。
 アメリカにかぎらない。どこの国にも「良識」という名の、はげしいフィリピックスは見られるが、ジェーンは、それを逆手にとって、したたかにハリウッドで生きのびた。

 映画「ならずもの」Outlaw(42年)は、当時としては、大胆な露出で、上映中止になった。1941年に、ごく一部で公開されたままオクラ入りになり、戦後の1950年になって、ようやく公開された。
ジェーンは、一躍、有名になったが、映画としては、ハワード・ヒューズの「お遊び」で、ほとんど取り柄がない。

 後年、ジェーンは語っている。
 「私は戦った。ズタズタにされ、議論の的にされた。ダンスで、私に着せようとした衣裳のことで、つらい時期を過ごした。ほんとうにひどい衣裳で――何も着ていみたいな衣裳だったわ。」
 ところが、ヒューズは、この衣裳が気に入っていた。ダンスも気に入っていたし、ジェーンの胴体(トルソ)も気に入った。
 なによりも、撮影スタッフの眼をよろこばせたのは、大きな、褐色に日灼けした乳房だった。スタッフはジェーンに「チェスナッツ」(クリちゃん)というアダ名をたてまつった。
 映画は公開されなかったが――ジェーン・ラッセルは、巨乳女優として、世間の耳目を衝動させた。

 私たちは、戦後すぐにボブ・ホープの喜劇、「腰抜け二挺拳銃」で、ジェーン・ラッセルを知ったが――ジェーンの登場で、ハリウッドの「乳房崇拝」(ブレストカルト)が決定的なものになったと考えている。バストラインは38インチ。「巨乳女優」ジェーンの存在はそれほどにも大きかったと見ていい。
    (つづく)

↓「フレンチ・ライン」のジェーン・ラッセル

2011/03/25(Fri)  1266
 
 震災で、私もひそかに覚悟をきめた。
 さしあたって身辺の整理をはじめよう。これまでにも、多数の蔵書を整理してきたが、まだ残っている本が多い。書棚におさまりきれずに積みあげてあるのだが、この地震で崩れて散乱した。もっとも、たいして価値のある本はない。
 揺れがおさまると、すぐに積み直すのだが、余震のたびに崩れてしまう。

 もともと乱雑に積んであったのだから、どこが被害を受けたのかわからない。
 本の整理をしていると、書きかけの原稿、ヘタクソなデッサン、いちおう描いた絵などが出てくる。未発表の長編が出てきたが、読み返す気にならない。そのまま焼き捨てた。
 田栗 美奈子がお見舞いの電話をくれたので、そのことを話したら、ヒェーッと悲鳴をあげた。
 どうせ、くだらない作品だから、焼き捨ててもいい。
 そういうと、美奈子ちゃんは、
 「そんなことをなさるのなら、私が預かっておきます」
 という。
 私は笑ってしまった。

 今度の震災で、いろいろなものが失われてしまった。罹災者の人々にとっては、かけがえのないものだったに違いない。
 それに較べて、私の原稿などは、そもそも存在する意味も価値もないものばかり。別に惜しいものでもない。

 今も、本を片づけているうちに、昔、描いた絵のごときものが出てきた。いずれ焼き捨てるつもりだが、ほしい人がいたらさしあげてもいい。いや、誰もこんなものをほしいとは思わないだろう。
 仕方がない、焼き捨てるか。

 これから、時代は大きく変わるだろう。そうした変化をしっかり見届けたい。
 このブログは、社会の片隅にひっそりと生きている老作家のつぶやきにすぎない。ただし、まだまだ見るべきほどのことを見てはいないのだ。

2011/03/22(Tue)  1265
 
 今度の大震災は、さまざまなことを私たちにつきつけている。

 福島の原子力発電所(福島県/双葉町、大槌町)の惨憺たる事故で、一号炉、三号炉、続いて二号炉の爆発、あるいは炎上、さらに、高濃度の放射能が漏れ出して、自衛隊のヘリコプター、警視庁の放水車まで動員して、必死に冷却作業がつづけられている。

 東電は、はじめ10キロ、すぐに20キロの半径の住民たちの避難を要請したが、避難域はさらに拡大している。
 いち早く、アメリカ大使館は東京から疎開したばかりか、自国民に日本国外に退去するよう勧告した。福島県沖に向かった空母、「ロナルド・レーガン」、及びイージス艦をふくむ艦隊も反転し、西太平洋に退去した。
 フランスも、大使館員を帰国させている。むろん、ほかの各国も、おなじ行動をとっている。

 被災した原発付近の住民の県外避難もはじまって、避難先を転々とする人たちも疲労と不安のいろが濃くなっている。
 私は、戦時中の「疎開」を思い出した。

 私の知人の中国人女性、張さんも、17日に、家族といっしょに成田から帰国した。私は、千葉駅で会ったが、あわただしい別れだった。千葉駅は、「計画停電」で構内は薄暗くなっている。
 もうひとりの女性、路さんも、19日にマレーシアに旅立った。電話をくれたが――何かあってからでは遅い。幼い子どもを少しでも安全な場所に移したい、という。屈託のない、明るい声だった。

 私は、刻々と報道される福島の原子力発電所の惨状をつたえるNHKの報道、特に放射能の人体におよぼす危険性は、ほとんどないとするコメンテーターの論理、そして政府の枝野官房長官の発表を見ながら考えた。
 何かに似ている。さて、何に似ているのか。

 不意に思い出した。戦時中の大本営発表によく似ているなあ。陸軍報道部の松村 秀逸大佐や、海軍報道部の平出 孝雄海軍大佐の発表にそっくりじゃないか。

 第2号機のサプレッション・ルームの一部が損傷し、外部に放射性物質が流れ出した(15日午前6時)からあとの対応が遅れた。おなじ時刻に、第4号機が爆発し、さらに9時に火災を起こした。
 政府と東電は、ようやく事故対策統合本部を立てた(15日)。

 このときの東電側の発表、それを解説したNHKのコメンテーターの顔つきのしらじらしさ。人体に影響のない程度の放射能漏れという。まことしやかに、ウソをついている、ぬけぬけとした顔つきのようすが大本営発表にそっくり。

 今度の大震災は、さまざまなことを私たちにつきつけている。

 地震被害の拡大、原子力発電所の深刻な事故に乗じて、東京の株式市場での、日経平均株価が、急激に下落し、円高、株価の歴史的な全面安という事態に見舞われている。
 閣僚の与謝野某は、このニューズに、ただひとこと、「不見識」といい捨てたが、そんなことをいうほうが不見識なのだ。ハゲタカは、いつも屍肉をねらっている。

 戦争は平和の裡にある。天災は、じつは人災にほかならない。
 天災は忘れた頃にやってくる。そうではない。天災は私たちが忘れようと、忘れまいと、そんなことにおかまいなしにやってくる。

 そして、ガソリン、軽油、灯油の払底。庶民の買いだめ。買いあさり。

 日本人は、大正12年の関東大震災から、何度もおなじ行動のパターンをくり返している。やがて、私たちは思い知らされるだろう。
 繁栄のなかにこそ、欠乏があるという逆説的な事態を。

2011/03/16(Wed)  1264
 
 3月11日午後3時半。私は外出しようとしていた。
 家を出て、ほんの数十メートル歩いたとき、突然、ふらつくような感じがあった。地面がうきあがっている。眩暈を感じたのか。そうではなくて、直覚的に地震だと思った。いつもの震度3程度のものではない。かなり大きな揺れだった。
 この揺れがおさまったとき、私はこのまま歩きつづけようかと思ったが、またしても強い揺れを感じた。
 これが、東北/関東大震災の最初の印象だった。

 家に戻ったとき、たまたま通りかかった車が急停車した。やはり、これまでの地震と違う異常な揺れを感じたのだろう。しばらく運転席にいた人が、ドアを開けて外に出てきた。家の前の電線が大きく波うって揺れている。

 それからあと、テレビは、地震速報だけを流しつづけていた。

 観測史上、最大規模の地震という。
 震源は三陸沖、約10キロ。(マグニチュードは、その後、3回も訂正された。3月12日、最終的には、9.0と修正。このブログを書いているときは、8.8)。東北から関東各地、さらに新潟、長野、富山、石川にかけて。
 この地震によって発生した津波が、福島、宮城、岩手の沿岸に襲いかかっている。
 私の住んでいる地域でも、「コスモ石油」の製油所のタンクから火が出て、やがて隣接する石油コンビナートの施設に類焼する危険があった。(のちに延焼した。後記)

 この日、私の孫が就職して、その研修のため、東京に出かけている。
 地震から二時間ばかりたって、その孫から電話があって――首都圏の交通網のほとんどすべてがストップしている、という。当然、本人も帰宅できない。
 ほんの十数秒で、電話が切れた。

 テレビは地震のニューズだけを流しつづけている。各地の被害状況が断片的に入るだけで、全体の被害状況はまったくわからない。それでも、被害の大きさが刻々とわかってきた。

 大きな地震であることにまちがいはない。
             (午後七時/記)

              ★

 深夜、2時に眼がさめた。余震がつづいている。だいたい震度4、または3程度。

 3時14分、千葉、茨城を対象にした緊急地震速報が出た。
 これまで試験的に放送されたものを聞いたことはあるが、実際に速報を聞くのははじめてだった。ついにきたか。
 このあと10秒ばかりして、地震になった。震源は福島沖。マグニチュード、6.3。

 3時59分、こんどは長野、群馬、福島に、緊急地震速報。
 長野北部で、震度6強の地震。震源は、中越、深さ10キロ。マグニチュード、6.6。千葉県では震度4。

 4時09分、またしても、千葉、茨城を対象にした緊急地震速報。
 こうつづいて速報が出ると――あまり気分はよくない。
 これは千葉県では震度4。

 私は両親が大正12年の関東大震災を体験している。ふたりとも地震に対してつよい恐怖心をもっていたので、わずかな揺れにもすぐに反応するのだった。それかあらぬか、私も少年時代から地震に対しては敏感になった。
 その後、空襲を経験してからは、天災に対してあまり恐怖をおぼえなくなってしまった。

 今回の地震も、あまり気にならなかったが――
 翌日、田栗美奈子、吉永珠子、立石光子たちが、お見舞いの電話をかけてくれた。これはありがたかったし、うれしかった。

           ★

 東北/関東大震災は、おそらく現代史の大きなできごとになるだろう。
 この地震を契機に、私たちの時代が変わることは予想できる。かつての関東大震災が、私たちの意識、世界観にまで影響したように。

 千年に一度の大地震という。

   道喪向千歳  道はほろびて千歳になんなんとす

 ふと、私の胸にこんな一節がうかんでくる。むろん、ここでいう「道」は、大津波に襲われて壊滅した、三陸の町の道をさすものではない。しかし、その惨状を見て、私たちがおのがじし道がほろび去ったと観じても不自然ではない。
 テレビは、つぎつぎに女川、石巻、名取といった町を襲う巨大な津波のおそろしい様相をとらえている。高台に逃れた人々が、潰滅する直前の町にいて逃げまどう姿に声をあげる。
 音もなく、無数の家や車を飲み込んで進んでくる巨大で不吉な波の動き。私たちは、叫び声をあげたり、声を失って見ているしかない。
 そこにあるのは、まさに超自然的な現象に対する畏怖だろう。私たちの内面には、ことばにならない畏怖と、何かに対する絶望しかない。それは、少したってから嘆きになる、まだ感情とならない怖れなのだ。
 人間は、これまでに何度、こういう怖れに見舞われてきたのか。

 天変地異を前にして、人間の無力を感じないわけにはいかないのだが――作家は、こうした現実が、さまざまな場合の、まさに不条理な、まるで無秩序な現象の無限のつらなりを、しっかり認識しなければならないだろう。

  從古皆有波  いにしえよりみなほろびあり

  念之中心焦  これを思えば中心焼きつくす

 陶淵明の詩(己酉(きゆう)九月九日)を思いうかべる。私の勝手な解釈だが――昔から、生きとし生けるもの、すべては滅び去ってゆく。そういうことを思えば、自分の胸は焼けただれる。
 詩人の思いは、私たちにも親しいだろう。

 私は、この事態を第二の敗戦と見ている。

                 (3月14日 記)

2011/03/15(Tue)  番外
 
――管理人より――

  ☆中田耕治先生をご心配されている皆様へ
    先生はご無事でお元気にしていらっしゃいますので、ご安心ください。
    本コーナーは近日中に更新の予定です。


       

2011/03/10(Thu)  1263
 
 大学に舞い戻った頃、結婚を考えていた。
 在学中に翻訳をはじめた。最初の本が出たら結婚するつもりだった。
 月下氷人を内村 直也先生ご夫妻にお願いして、ささやかな結婚式をあげたのだが、このとき司会をつとめてくれたのは遠藤 周作。この式に、数少ない友人として鈴木 八郎、若い友人として常盤 新平が出席してくれた。

 結婚してもひどい貧乏だったので新婚旅行どころではなかった。
 三ケ月ばかりたって、仙台で、演劇講座のようなものがあって、私は講演を依頼された。このとき、私は妻といっしょに旅行した。これが私の新婚旅行になった。
 主催者側に、当時まだ東大在学中の木村 光一がいた。仙台で、私は常盤 新平に再会する。彼はまだ早稲田在学中ではなかったか。
 お互いにそれぞれの道に歩み出していた時期であった。

 鈴木 八郎は、「フィガロ」に、「とりかぶと」(一幕)、「長い夜の渇き」(一幕)を書く。

 彼は私から、しきりに新しいアメリカ文学の話を聞きたがった。たまたま私がミステリーや、新作の戯曲を話題にすると、じつに熱心に聞くのだった。私のほうは、彼から歌舞伎の話や、私の知らない戦前の芝居の話を聞くことが多かった。実際、鈴木 八郎はたいへんなもの知りで、芝居のことになると、知らないことがないくらいだった。

 私のところにくるときは、いつも俳句の宗匠のような恰好で、雨の日には、じんじんばしょり、ふところに足袋を隠して、雑巾で足を拭いてから、足袋にはき替えてあがるのだった。
 生まれは新潟だが、ことばは、いなせな江戸弁だった。私の母と、よく話があって、少し昔の歌舞伎役者や、芸事の話になると、それこそ玄人はだしだった。
 歌右衛門の熱烈なファンで、「黛(まゆずみ)」(一幕/「新劇」1955年4月号)に、そのあたりの機微がうかがえる。

 1953年12月、クリスマス・イヴの日、敬愛していた劇作家、加藤 道夫が自殺した。鈴木 八郎は、銀座の街を泣きながら、歩いたという。

 私にとっても加藤 道夫の死はつよい衝撃だった。まさか、泣きながら街を歩いたわけではなかったが。

 少し脱線するが――現在の私は、加藤 道夫が、クリスマス・イヴの日に死を選んだのは偶然ではないと考えている。じつは、この日はルイ・ジュヴェの誕生日にあたる。ジロドォーにひたすら私淑していた加藤は、当然ながらジュヴェにも絶大な関心をもっていた。私が評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いたのは、いってみれば、加藤 道夫へのレクィエムだったと思っている。
 加藤 道夫の死の直後に――当時、友人だった矢代 静一から、加藤が死を選んだ理由を知らされた。矢代は、「俳優座」から「文学座」に移籍したばかりだった。彼自身は伏せているが、矢代にはじめて戯曲を書かせたのは私だった。
 加藤が死を選んだ理由を知った私は暗澹たる思いだった。

 原 民喜の自殺とともに、加藤の死ほど衝撃的な事件はなかった。

 中村 真一郎や、堀田 善衛、原田 義人たち、そして矢代も書かなかったのだから、私も書くつもりはない。

 やがて、鈴木 八郎は、私がすすめたミステリーを読んで、たくみに換骨脱胎して、捕物帳仕立ての時代ものを書いた。ひどく達者な書き手だった。
    (つづく)

2011/03/07(Mon)  1262
 
 大畑 靖のことから、昔の友人たちのことを思い出した。
 すでに鬼籍に移った仲間たちのことを。

 たとえば、鈴木 八郎。

 1940年(昭和15年)、22歳のとき、内村 直也先生の薫陶を得た。
 太平洋戦争で、1943年、アリューシャンのキスカ島に派遣されたが、アッツ島の守備隊が玉砕したあと、キスカを撤退した。
 ただし、私たちはお互いの戦争体験をついに語りあったことはない。私はいっさい口にしなかったし、鈴木 八郎も自分の戦争体験を語ったことがない。だから、彼の体験は、鈴木 八郎の文学仲間だった若城 希伊子から聞いた。
 はるか後年(1969年)から、キスカ駐留の軍隊生活を小説に書くようになる。「馬と善行章」、「精霊とんぼと軍隊」、「草づたう朝の蛍よ」、「四日間の休暇」など。
 しかし、これらの作品はついに未発表のままに終わった。

 私が鈴木 八郎に会ったのは、1948年の早春。銀座の小料理屋の二階。
 銀座の復興はめざましかったが、築地、八丁堀、京橋界隈は無残な焼け跡が残っていた。食料の不足がつづいて、人心の荒廃が、戦後の不安が色濃く残っていた時期だった。
 この席では、お茶の一杯も出なかった。

 戦前、継続的に出ていた演劇雑誌、「劇作」が、菅原 卓、内村 直也を中心に復刊をめざしていた頃で、戦後演劇の研究会のような集まりだった。
 この席に、劇作家、田中 千禾夫、川口 一郎、小山 祐士、翻訳家の原 千代海がいた。ほかに、「文学座」の芥川 比呂志、慶応の芝居仲間だった梅田 晴夫。
 私はいちばん末輩だったが、この集まりで内村 直也先生から鈴木 八郎を紹介されたのだった。鈴木 八郎、32歳。中田 耕治、21歳。

 やがて、青山の内村 直也先生の邸宅の一室で、毎月、戯曲研究会が催されて、鈴木 八郎はその集まりの有力なメンバーだった。
 この戯曲研究会から、戯曲中心の同人誌「フィガロ」が生まれた。
 私は、おもに「近代文学」、「三田文学」に批評を書くようになっていたので、この戯曲研究会には顔を出さなかった。劇作志望でもなかったので、「フィガロ」にも関係しなかった  。

 「フィガロ」創刊当時の同人は、鈴木 八郎はじめ、蟻川 茂男(後年、TBSの芸能プロデューサー)<三国 一朗(TVのパーソナリティー)、三寿 満(劇作家)、西島 大、若城 希伊子たちだった。
 しばらくして、慶応出身の藤掛 悦需が参加する。劇作家、加藤 道夫、放送作家、梅田 晴夫の仲間だった。

 私は、鈴木 八郎とは親しくなったし、内村 直也先生を通じて、西島  大、若城 希伊子を知って、「フィガロ」にイラストを描くようになった。
 翌年、1940年(昭和15年)10月、NHKで、内村 直也先生が連続放送劇、「えり子とともに」を書くことになって、私はスタッフ・ライターのひとりに起用された。
ほぼ同時期に、西島 大が、内村先生の口述筆記をするようになっていた。
 (あとで知ったのだが、内村先生は、西島 大にフランス語を勉強させるつもりで援助なさっていた。西島は、フランス語のかわりに、もっぱら居酒屋などで勉強していた。)

 私は先生から毎月ポケットマネーを頂戴していたが、まるで無能なライターだったから、先生の期待を裏切った。
 この時期の私は、才能もなかったし、ろくに勉強もしなかった。だから、大学の英文科に舞い戻ったのだが、講師になっていた加藤 道夫が、私をつかまえて、
 「きみ、大学に戻ったんだって?」
 と声をかけてくれた。
 私は、批評家にもなれず、芝居の世界でも無名のままだった自分を恥じた。

 大学に戻ったのは、ほかにすることもなかったし、内村先生から経済的な援助を頂いていたからだった。大学に戻っても、教室にはほとんど出なかった。アメリカ兵の読み捨てたポケットブックを買いあさって、一日に1冊は読みあげることにしていた。大学の教室には出なかったから、英文学の講義もろくに聞かなかった。
 大学ではいつも研究室にたむろして、助手になった覚正 定夫(後年の映画評論家、柾木 恭介)、小川 茂久(後年、仏文の教授)、木村 礎(後年、学長になった)たちとダベっていた。だから、先生たちも私は学生ではなく、どこかの科の助手か何かだと思っていたらしい。

 私が酒の味を知るようになったのは、まず鈴木 八郎、西島 大、そして、私が学生として大学に戻ったとき、すでに仏文研究室の助手になっていた小川 茂久だった。
 戦後すぐに、ある雑誌で西村 孝次にやつつけられたことがある。数年後、大学の研究室でぶらぶらしていた頃、雑談しながら、
 「じつは先生にやっつけられたことがあります」
 というと、西村 孝次が驚いて、
 「きみをやっつけたって?」
 「中田 耕治といいます」
 西村 孝次は驚いた顔になった。
 その後、私は西村 孝次のクラスで少し勉強した。ときどき、神保町の「あくね」で、いっしょに酒を飲んだこともある。そういうときは、西村 孝次を先生などと思わなかったし、西村さんも私をもの書きとして扱ってくれた。おもしろい先生だった。
                           (つづく)

2011/03/07(Mon)  1262
 
 大畑 靖のことから、昔の友人たちのことを思い出した。
 すでに鬼籍に移った仲間たちのことを。

 たとえば、鈴木 八郎。

 1940年(昭和15年)、22歳のとき、内村 直也先生の薫陶を得た。
 太平洋戦争で、1943年、アリューシャンのキスカ島に派遣されたが、アッツ島の守備隊が玉砕したあと、キスカを撤退した。
 ただし、私たちはお互いの戦争体験をついに語りあったことはない。私はいっさい口にしなかったし、鈴木 八郎も自分の戦争体験を語ったことがない。だから、彼の体験は、鈴木 八郎の文学仲間だった若城 希伊子から聞いた。
 はるか後年(1969年)から、キスカ駐留の軍隊生活を小説に書くようになる。「馬と善行章」、「精霊とんぼと軍隊」、「草づたう朝の蛍よ」、「四日間の休暇」など。
 しかし、これらの作品はついに未発表のままに終わった。

 私が鈴木 八郎に会ったのは、1948年の早春。銀座の小料理屋の二階。
 銀座の復興はめざましかったが、築地、八丁堀、京橋界隈は無残な焼け跡が残っていた。食料の不足がつづいて、人心の荒廃が、戦後の不安が色濃く残っていた時期だった。
 この席では、お茶の一杯も出なかった。

 戦前、継続的に出ていた演劇雑誌、「劇作」が、菅原 卓、内村 直也を中心に復刊をめざしていた頃で、戦後演劇の研究会のような集まりだった。
 この席に、劇作家、田中 千禾夫、川口 一郎、小山 祐士、翻訳家の原 千代海がいた。ほかに、「文学座」の芥川 比呂志、慶応の芝居仲間だった梅田 晴夫。
 私はいちばん末輩だったが、この集まりで内村 直也先生から鈴木 八郎を紹介されたのだった。鈴木 八郎、32歳。中田 耕治、21歳。

 やがて、青山の内村 直也先生の邸宅の一室で、毎月、戯曲研究会が催されて、鈴木 八郎はその集まりの有力なメンバーだった。
 この戯曲研究会から、戯曲中心の同人誌「フィガロ」が生まれた。
 私は、おもに「近代文学」、「三田文学」に批評を書くようになっていたので、この戯曲研究会には顔を出さなかった。劇作志望でもなかったので、「フィガロ」にも関係しなかった  。

 「フィガロ」創刊当時の同人は、鈴木 八郎はじめ、蟻川 茂男(後年、TBSの芸能プロデューサー)<三国 一朗(TVのパーソナリティー)、三寿 満(劇作家)、西島 大、若城 希伊子たちだった。
 しばらくして、慶応出身の藤掛 悦需が参加する。劇作家、加藤 道夫、放送作家、梅田 晴夫の仲間だった。

 私は、鈴木 八郎とは親しくなったし、内村 直也先生を通じて、西島  大、若城 希伊子を知って、「フィガロ」にイラストを描くようになった。
 翌年、1940年(昭和15年)10月、NHKで、内村 直也先生が連続放送劇、「えり子とともに」を書くことになって、私はスタッフ・ライターのひとりに起用された。
ほぼ同時期に、西島 大が、内村先生の口述筆記をするようになっていた。
 (あとで知ったのだが、内村先生は、西島 大にフランス語を勉強させるつもりで援助なさっていた。西島は、フランス語のかわりに、もっぱら居酒屋などで勉強していた。)

 私は先生から毎月ポケットマネーを頂戴していたが、まるで無能なライターだったから、先生の期待を裏切った。
 この時期の私は、才能もなかったし、ろくに勉強もしなかった。だから、大学の英文科に舞い戻ったのだが、講師になっていた加藤 道夫が、私をつかまえて、
 「きみ、大学に戻ったんだって?」
 と声をかけてくれた。
 私は、批評家にもなれず、芝居の世界でも無名のままだった自分を恥じた。

 大学に戻ったのは、ほかにすることもなかったし、内村先生から経済的な援助を頂いていたからだった。大学に戻っても、教室にはほとんど出なかった。アメリカ兵の読み捨てたポケットブックを買いあさって、一日に1冊は読みあげることにしていた。大学の教室には出なかったから、英文学の講義もろくに聞かなかった。
 大学ではいつも研究室にたむろして、助手になった覚正 定夫(後年の映画評論家、柾木 恭介)、小川 茂久(後年、仏文の教授)、木村 礎(後年、学長になった)たちとダベっていた。だから、先生たちも私は学生ではなく、どこかの科の助手か何かだと思っていたらしい。

 私が酒の味を知るようになったのは、まず鈴木 八郎、西島 大、そして、私が学生として大学に戻ったとき、すでに仏文研究室の助手になっていた小川 茂久だった。
 戦後すぐに、ある雑誌で西村 孝次にやつつけられたことがある。数年後、大学の研究室でぶらぶらしていた頃、雑談しながら、
 「じつは先生にやっつけられたことがあります」
 というと、西村 孝次が驚いて、
 「きみをやっつけたって?」
 「中田 耕治といいます」
 西村 孝次は驚いた顔になった。
 その後、私は西村 孝次のクラスで少し勉強した。ときどき、神保町の「あくね」で、いっしょに酒を飲んだこともある。そういうときは、西村 孝次を先生などと思わなかったし、西村さんも私をもの書きとして扱ってくれた。おもしろい先生だった。
                           (つづく)

2011/03/05(Sat)  1261

 
 昨年の歳末、同人雑誌、「時間と空間」が、64号をもって終刊した。

 「時間と空間」は、庄司 総一(戦時中に『陳夫人』を書いた作家)の夫人、庄司 野々美、浜田 耕作、いしい さちこ、郡司 勝義といった人びとがいた。
 この雑誌、「時間と空間」に、大畑 靖は、毎号、小説を書きつづけてきた。

 私は、戦後しばらくして、大畑 靖を知った。
 彼も内村 直也先生の教えをうけたひとりだが、私と違って、ラジオドラマから出発したのだった。昭和29年、私は同人雑誌「制作」をはじめた。この同人に、常盤 新平、志摩 隆、若城 希伊子、鈴木 八郎などがいた。

 「制作」があえなくつぶれたあと、大畑 靖は「時間と空間」に移って、いらい営々として小説を書きつづけてきた。
 創作集に「ミケーネの空青く」(審美社)、「ある目覚めのひと時に」、「夢一つ」(ともに沖積舎)、「パパイヤの丘で」(新風舎)などがある。
 おだやかな作風ながら、だいたい私小説が中心で、一作ごとに自分の人生の年輪というか、じっくりと熟成された芳醇な味わい、生きることへの思いの深まりを感じさせる作家だった。私は「時間と空間」に発表された彼の創作は必ず読むようにしていた。
 ひとりの作家が年輪を加えながら成長してゆく姿を、二十年にわたって見つづけてきたことになる。寡作ながら、おのれの名利を求めず、ひたすら誠実に、身辺、心境を書きつづけた作家なのである。

 大畑 靖は「時間と空間」の終刊号に、「思い出箱」という短編を書いている。
 夫人が病いを得て入院したため、主人公が毎日、病院に通って介護につとめている。主人公も高齢のため、往復2時間もかかる通院はつらいのだが、老妻のために、苦労もいとわず介護につとめている。そんな日常を淡々と描いた小品だった。私はこれを読んで感動した。すぐにその読後感を書き送った。

 大畑 靖から礼状が届いた。そのなかに、

  「時間と空間」は、64号で終刊号を迎えました。よく続いたと思います。私は
  さいしょラジオドラマから出発しましたが、文学の本質を教えて下さったのは中
  田さんです。
  中田さんの才能、ひらめき、情感、そして根底に息づくやさしさ、そのすべてが
  私にとっての光であり宝でした。中田さんとの出会いこそ神様が下さったお導き
  だと心から感謝しております。

 ありがとう、大畑君。

 私も、大畑 靖も、おのれの信ずる道をただひたすら歩きつづけてきた。そして、お互いに老いた。そのことに悔いのあろうはずはない。
 私こそ、きみと出会えたことを心から感謝している。

2011/03/01(Tue)  1260
 
 溝口 健二の「楊貴妃」(1955年/大映)が公開された1955年。

   八十五マイルの急速で疾走してきたスポーツカー、ポルシェは、瞬間、横合
   いから飛出してきた一学生の車を避けることができなかった。轟音。血。ポ
   ルシェの主である二十四歳の青年は、車から跳ね出されて……死んだ。
   一九九五年九月三十日、ジェイムズ・ディーンが未来を”創る”チャンス
   を永久に閉ざしてから、一年が経つ。せっかちで非人情の映画界には決して
   短い月日ではない。

 映画評論家、荻 昌弘のエッセイから。(「ジェイムズ・ディーン論」)
 同時代を生きた若い俳優の死に対する、哀惜、憐れみが感じられる。

 石原 慎太郎の『太陽の季節』が発表されたのも、この年。

 まだ、作家になっていなかった山川 方夫が、私相手の雑談のなかで、
 「『太陽の季節』を読みましたか」
 「うん、読んだけど」
 「どうでしたか」
 「ああいうのが、新しい文学なのかな」
 山川 方夫は、当時、「三田文学」の編集をしていた。一方で、「文学共和国」という同人誌に「安南の王子」といった習作を発表しはじめていた。
 「石原 慎太郎なんか、たいした才能じゃありませんよ」
 彼はいった。

 石原 慎太郎を「文学界」に紹介したのは、斉藤 正直だった。このことは、誰も知らない。おそらく、石原 慎太郎も知らないだろう。
 斉藤 正直は豊島 与志雄の女婿で、戦時中に「批評」の同人だったが、後年、明治大学の学長になった。

 1955年。
 私は「俳優座」養成所の講師として戯曲論めいた話をしながら、翻訳をしていた。ひたすら雑文を書きとばし、ラジオドラマを書く、ようするに金が目当ての書きなぐり(ポットボイラー)だった。

 常盤 新平の『片隅の人々』に、当時の私の姿が描かれている。
 私は倨傲でおろかな文学青年だった。遠く、はるかな時期。

2011/02/27(Sun)  1259
 
 さしあたって何もすることがない。昔の映画でも見ようか。

 昨年、サイレント映画「ベン・ハー」は、リメイクものの「ベン・ハー」しか見られないと書いた(’10.12.10)ところ、このブログを見た池田 陽子さんが、「ベン・ハー/コレクターズ・エディション」というDVDでサイレント映画が見られる、と教えてくれた。「アマゾン」で買えるという。
 知らなかった。ありがとう、池田さん。

 ところで、私は昔の「ベン・ハー」を見るような気分ではないので、「戦後」の溝口 健二の「楊貴妃」(1955年/大映)を見ることにした。

「絶世の美女・楊貴妃の波瀾万丈の人生を、壮大なスケールで描く悲恋ロマン!」
 という。こういう惹句に意味はない。溝口 健二の作品でも、あまり評判にならなかった。つまりは、空虚な作品らしい。

 「楊貴妃」は、溝口 健二のはじめてのカラー作品。
 この年度の「毎日映画コンクール」で「色彩技術賞」を受けているのだから、当時としては最高のカラー作品だったと思われる。ただし、当時の撮影現場では、フィルムの色彩再現能力、レンズの性能からみて、おそらくたいへんだったと想像できる。京 マチ子の頬が削げて見えるのも、照明の輝度をあげるために、メークも変えたのではないか。この映画が、「日本映画技術賞」の照明賞を受けていることも、おそらくそのあたりにあるのではないだろうか。主演は、京 マチ子、森 雅之。

 京 マチ子は、戦時中に、溝口 健二の「団十郎三代」(44年)に出ているので、この監督の演出を体験していた。だから、溝口 健二の映画に出てもそれほど違和感はなかったはずである。
 京 マチ子の代表作は――「羅生門」(黒沢 明/50年)だろう。この映画で森雅之と共演しているが――夫と旅をしている途中、山賊(三船 敏郎)に犯される若妻を演じた。これは武士の女房という「役」だったが、眉を剃り落とした女の、能面のような無表情が強烈な印象をあたえた。
 「羅生門」のあとも、溝口 健二の「雨月物語」(53年)、衣笠 貞之助の「地獄門」(53年)などのコスチューム・プレイで世界的に知られる。
 ほかにも、「鍵」(市川 菎/59年)、「浮草」(小津 安二郎/59年)など、日本映画を代表する女優になっている。

 京 マチ子は、その後も谷崎 潤一郎原作の「痴人の愛」あたりで、みごとな肢体を見せているのだが、この映画の京 マチ子は、頬が削げて、「春琴物語」(53年)、「赤線地帯」(56年)ほどの魅力がない。相手の森 雅之も、それほどいい芝居をしていない。

 もっと可哀そうなのは、戦前のスターだった霧立 のぼるが、この映画では、ろくに台詞もない端役で出ていること。
 新人の南田 洋子が、せいいっぱいがんばっている。(この女優は、昨年、亡くなっている。)                     (つづく)

2011/02/23(Wed)  1258
 
 昨年の夏、飼い猫の「ゲレ」が老衰で死んだ。2010年の私にとっては、つらいできごとの一つになった。

 昨年は猛暑がつづいたが、夏になって、ネコは、しきりに私の身辺に寄ってくるようになった。いつもしきりに鳴いて何か訴えるのだが、それがうるさかった。エサが足りないのだろうか。
 私がそんなふうにいうと、老妻は、
 「エサは、ちゃんとやってありますからね」
 といった。

 「ゲレ」があまりエサを食べなくなって1年になる。まったく食べないのではなく、ひどく少ししか食べなくなっている。小皿のキャットフードも、せいぜい大さじに1杯程度。それもやっと食べたり、食べ残したり。
 食べ残したぶんをあとで食べれはいいのだが、自分の唾液で小皿が濡れるせいか、残ったぶんには口をつけない。

 それに、目がよく見えなくなっているのか。目の前にエサが置いてあっても、よわよわしくないている。
 ネコも食欲をなくすような酷暑だった。

 ときどき、私に寄ってきて、かるく私の手や腕を噛む。私の注意を惹こうという魂胆だろう。何を訴えようとしていたのか。

 そんなことがつづいて――ある朝、私が見ている前で倒れた。そのまま、20分ばかりして絶息した。

 哀れだった。

 16年の生涯だったから、大往生といっていいのだが、私には打撃だった。
 たかがネコが死んだ程度のことで落ち込むはずもなかったが、私はそれまで書いていた小説を中断してしまった。

 夏の終わり、私は「動物保護センター」という機関に連絡して、コネコをもらってきた。とても綺麗な白いネコだが、まるっきりダネコである。もらってきた当座は、片手の掌に乗るほどの大きさだったが、今はもう、両手で抱きあげると、たちまち噛みついたり、ひっかいたり。
 いまや、いたずらざかりのバカネコに変身している。

2011/02/19(Sat)  1257
 
 折口先生によれば、「あはれなる」ということばは、善悪を超越して、「心の底から出てくる」ことばなのである。

   其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所の、作者を遊離した――言ひ
   かへれば、其性別を超越した、中性の歌と見るべきものが多くなって来た。つま
   り、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情詩を作る様になってゐたのである。
   だから、かうした「あはれなる」が、平気に用ゐられたのだ。つまり、特殊な内
   容を持つたぶん学用語であつた訳だ。

 私(中田)はこういう部分に感嘆する。まさに、折口先生の卓見にちがいない。「恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情詩を作る様になってゐた」というだけのことだが、私などは、一度でいいから、こういうみごとな断言をしてみたいと思う。

 折口先生は――俊成卿女の歌の、「心ながい」人の恋の執着を自分のものとして表現しながら、「他人の境涯」を見るように見ている、という。

   自分の心を、あはれと観じているので、いわば、身に沁むやうな感傷を享楽して
   いるのだ。われながら言ひ表されぬ程に思はれるこの心のながさ、と言つた意味
   なのだ。まづ普通と見られる解釈の本筋に叶ふ様に、此語をとけば、さうとる外
   はない。

 折口先生の見方では、公経(きんつね)の作のテーマ、「あはれなる心の闇のゆかりとも」には「恋人をあはれと思ふ」と詠んでいるだけのものということになる。

 俊成卿女の「心ながい」は――長続きのする心の程が詠まれている。

   いつまでも人(恋人 中田注)を忘れず、捨てず、あはれを続けてゐる事だ。こ
   の場合も、「さ」という語尾によって固定さした処――文法的には、名刺化して
   ――を見ると、自由な抒情的な表現としては、固定してゐる様に見える。だが、
   一種の戯曲味から見れば、咎めることもない。だが、未練とか、執着とか言ふ風
   に訳すべきではない。美化した誇りをもってゐる。

 折口先生の注釈は、もう少しつづくのだが、私は、ここまで読んできて、ほんとうに心から感嘆した。ほんとうの批評は、こういうものなのだ。
 俊成卿女の歌を「きはまれる幽玄の歌なり」とした批評を、現代の大歌人がみごとに批評している。
 この短い注釈は、私がまじめにものを書くとき、そして芝居の演出をするときの目標になった。翻訳するときにさえ、この一節が心のどこかにあった。
 わずか一語、「心の長さ」の「さ」について。そして、おのれの書くもののどこかに「一種の戯曲味」をこそ。
 そして、恋の未練や、執着よりも、美化した誇りを。

 人を愛すること。あるいは、恋すること。

 折口先生から離れて、私の内面にもそういう願いがあった。

2011/02/17(Thu)  1256
 
 じつは、俊成卿女の歌には、「新古今」に別の作者の先例があるという。

    あはれなる心の闇のゆかりとも、見し夜の夢を だれかさだめむ

 権中納言 公経(きんつね)の作。
 そして、俊成卿女の歌集に、この「あはれなる心ながさのゆくへとも」の歌は出ていないという。
 今なら、俊成卿女は盗作問題で攻撃されるだろう。

 折口先生はいう。

   一人が、新しい技巧、詳しく言へば、表現法の異風なものを発表すると同時に、
   直に幾多の類型が現れた。其は単に模倣だとか、流行だとか、一言にかたづける
   ことの出来ないものだ。つまり、新しい共同発想の出現した訳になるのだ。此事
   実は、注意深い学者なら、既に心ついている筈だ。一部分の発想法――即、すが
   た――だけの問題ではない。
   却て意義は変化してゐても、全体の印象即おもむきが一つだ、と言はれるのだ。

 ここから、折口先生は「あはれなる」ということばの検討に入る。

   あはれなる――こうした語が先行して熟語を作る場合、或は結末の語となる場
   合を考えると、其処に、王朝末期から鎌倉へかけての、文学意識の展開が思はれ
   る。つまり、文学者たちの特殊な用法で、同時に、どんな用語例にも、多少なり
   とも小説的な内容を含んでゐるものと見なければならぬ。

 和歌史を知らないのだが――「あはれなる」という一語にこめられた感性、観念に「多少なりとも小説的な内容を含んでゐる」という意見に心を動かされる。
 折口先生にしたがって、「あはれなる」ということばには、感傷どころか、じつは人間の肺腑をつらぬくことばとしてうけとめるべきものと考える。
                          (つづく)

2011/02/14(Mon)  1255
 
 人を愛すること。あるいは、恋すること。

 ある人の文章を、年に一度は読み返す。
 ただし、ごく短い部分だけ。折口 信夫の「難解歌の研究」。
 ここで全文そのまま引用したいのだが、そうもいかないので、ごく短い部分、短い説明をつけながら書きとめておく。

    あはれなる心ながさのゆくへとも、見しよのゆめを だれかさだめむ

 俊成卿女の歌。

   きはまれる幽玄の歌なり。そのよの密事をば、その人と我とならではしらぬ也
   ただひとり心ながく持ちゐたるをも、人がしらばこそ、ありしちぎりをば、ゆめ
   ともさだめんずれ、と言ひたる心也。

 これを、折口先生がさらに解釈なさっている。

   この歌は、このうえもなく幽玄の歌だ。あの夜の(その頃の、という気分も含ま
   れていると見なければならぬ)二人の隠し事は、あの人と自分とを除いては(で
   なくては)他人は知らないのだ。

 折口先生はつづけて、

   だから、其後また逢ふ事をこころの底に持って、唯一人こころがはりもせずに
   待ってゐた、この心持ちをも、あの人が知ってくれるとしたら、この当時あった
   関係をば、きれいに諦めて、夢ともかたをつけて了はう、が併し、あの人は忘れ
   てしまつてゐるので、却つてあきらめられぬ、と言うふ風に吹いているものらし
   い。

 中田 耕治は考える。この歌は、なぜこのうえもなく幽玄の歌なのだろうか。ふたりだけのみそかごと。つまり、男と女という磁場で、それぞれのいのちの極みを生きたことは、だれも知らない。また、知られてはならないのだ。そして、それをしも、夢と観じることは、恋のはかなさ、というより、恋ほんらいの哀歓ではないか。
                             (つづく)

2011/02/12(Sat)  1254
 
 このブログは、たまたま心に思いうかんだだけの、よしなしごとを書きとめている。
 はじめから、トリヴィアだけをとりあげるつもりだった。

 ただし、それだけではどうも芸がない気がしてきた。
 そこで――これからは、自分が気に入った写真や、カット、デザイン、その他もろもろ、めずらしいもの、くだらないもの、皆いりごみのまま、ときどきここに出してみようか。
 だいたいは説明をつけないままで。
 ようするに、私のいたずら、あるいはダスト・ボックスと思っていただけるとありがたい。

 なぜ、そんなことを考えたのか。
 最近になって――自分がほんとうに考え続けてきたこと、心から敬愛してきた人びとのことを、これまでほとんど書かなかった――ような気がしてきた。

 たとえば、スタンダール。たとえば、ボードレール。たとえば、たとえば……とつづくなかに、ヴァージニア・ウルフ、アナイス・ニン、さらにアーシュラ・ヒージ。そのほかにも無数の魂がつながっている。……
 こうした人びとのことは、やはり、かんたんには書けなかったせいもある。

 Such subjects are like love. It should be entered into with abandone or not at all.

 さて、私のいたずらだが、今回は――昔の雑誌に掲載されたマリリン・モンローの記事を。
 ごくありふれたピンナップ。(トルー・ストーリー/1953年12月号)である。
 よく見れば、おもしろいことに気がつく。

 ヒルデガード・ジョンスンというサインの入った「3D時代のピンナップ・ガールズ」(3ーD PINUP GIRLS)という記事のトップ。

   立体映画とワイド・スクリーンの時代になってから、ハリウッドにはさまざま
   の異変がおこった。とにかく、3D、シネマスコープ・シネラマと、つい二、三
   年前までは名前を聞かなかったことばがどこへ行っても聞かれるようになり、
   カメラもライトも、演出のテクニックも変わってきた。ポラロイド眼鏡など
   という、夢にも考えていなかったアクセサリーもあらわれた。

 この記事は――立体映画には立体映画に向いた肉体が必要なのだ、というテーゼから、いままで美しい肉体で売っていた女優はどうなるか、そのあたりにふれている。
 「ハリウッドはじまって以来の異変といっていいかもしれない」という。

 2010年、「アバター」、「不思議の国のアリス」などの登場から、ハリウッドに3D時代が到来したといわれているが、じつは、今から60年も前に、立体映画が実現しているのだった。これが、一つ。

   おそらく、みなさんもすでに確信していることと思うが、マリリンはまさに
   立体映画むきの女優である。しかも、マリリンはこの一年間にあの有名なお
   尻のまわりを一インチ大きくしている。

 ヒルデガードさんの予想と違って、この時期、立体映画は「ハリウッドはじまって以来の異変」にはならなかったし、「マリリンが立体映画むきの女優」ではなかった。
 今だって、立体映画には立体映画に向いた肉体が必要なのだ、ということはないだろう。私たちは、もっと別のことを考えたほうがいい。
 メジャーの没落と、9.11、そしてリーマン・ショック以後の世界的な経済不況のまっただなかに立体映画が登場したことこそ「ハリウッドはじまって以来の異変といっていいかもしれない」のではないか。

 昔のトリヴィアを見つけていろいろとアホなことを考える私は、やっぱりアホの変人なのである。(笑)

2011/02/08(Tue)  1253
 
 私の母、中田 宇免(うめ)は、昭和51年2月8日に亡くなっている。享年、68歳であった。

 父の昌夫が亡くなったあと、母は私の住んでいる千葉に移った。私の家から歩いて十分足らずのアパートでひとり暮らしをするようになった。空地を庭にして、いろいろな植物を育てるのが趣味になったし、すぐ近くに大きな病院があるので、急病の際にも安心だった。
 この冬の寒さのせいか、ときどき、心臓発作を起すようになった。
 この8日の深夜、母から電話で、また発作を起した、と知らせてきた。私はすぐに駆けつけたが、母のようすを見ただけで、今回の発作はただごとではないと思った。
 すぐに救急車を手配したが、すぐ近くの国立病院の担当医は、自分たちでは対応できないと判断した。
 消防署員はつぎつぎに別の病院に連絡したが、深夜だったためか、どこの病院も急患の受入れを拒否した。やっと一つ、労災病院の許可がとれて、救急車はそちらに向った。
 
 私は母につききりで、救急車の中にいたのだが、消灯のために母の顔はやっと見わけられる程度だった。母は苦しんでいた。
 私は母の手を握りしめながら、
「お母さん、お母さん」
 と必死に呼びかけていた。

 ふと母が眼を開いて、じっと私を見ていたが、つぶやくように、
「ここはどこ?」
 と訊いた。
 それが最後のことばだった。

 労災病院に到着したとき、すでに母は死亡していた。

 母の死によって、私は大きな打撃をうけた。母は、私の日常にかかわりをもつ存在というより、私の内部にある何か永遠なるものだった。

 私がルイ・ジュヴェの評伝を書いた動機の一つは――私の母が、ジュヴェの熱心なファンだったからである。

 もう一つ。
 私が、百年も前のアメリカの無名作家の作品を訳したのは、ヒロインの名が「お梅さん」だったことによる。
 ほとんど知られていないこの女流作家の作品を、ヨネ・ノグチが読み、永井荷風が読んだというだけの理由で翻訳を思いたったのだが、このヒロイン、「お梅さん」に、どこか、宇免に近いものを感じたせいでもあった。

2011/02/08(Tue)  1252
 
 時代ものの作家では、長谷川 伸を尊敬している。

 こんなことばを見つけた。(出典は忘れたが、長谷川 伸のことば)。

     この歳になってよくある話。……ああ、あれを聞いておけばよかった。それが
     長丁場でなく、たった一言、別れてしまってから、あとを振り返ってみても、
     もう相手はいない。しまった、と思ってみてももう遅い。

 私なども、この歳になるまでに、「しまった、と思ってみてももう遅い」という思いをくり返してきた。

 長谷川 伸の随筆集に『我が「足許提灯」の記』(昭和38年刊)がある。短い文章ばかり集めたものだが、内容はおもしろいものばかり。

 九代目、団十郎は、芸は教えるものではなく、覚えるものだ、という信条をもっていたという。
 いっしょに舞台に出ている役者にいけないところがあると、叱る。それで直らないと、また叱る。それでも直らないと、またまた叱る。
 それでも直らないと、もう、そばから追いはらってしまう。

 五代目、菊五郎は、芸は教えることで上達する、と信じていたという。

 私は、むろん、九代目、団十郎も、五代目、菊五郎も見たことがない。ただ、長谷川 伸の随筆を読んでいて、五代目、菊五郎が、「芸は教えることで上達する」といったのは、教えた弟子の芸が上達するというだけではないような気がした。
 このことばの真意は――大名題ほどの役者なら、教える相手の芸が上達するようにしむける。これは当然だが――じつは、そのことで自分の芸も上達すると考えていたのではないか。

 長谷川 伸を読む。いろいろと教えられるので、ありがたい。

2011/02/06(Sun)  1251
 
 湯浅 真沙子という歌人の出自、境遇については何も知らない。
 戦後しばらくして、最愛の夫と死別したらしい。真沙子自身も病いに倒れる。あまりにも不幸な女性だった。

   何ゆえにああ何ゆえにわが夫は われを見すてて此世去りにし

 戦後の混乱のなかで、夫と死別した女の境遇を思えば、憐れとしかいいようがない。おそらくは肺結核の身で、ダンサーとという職業を選んだことも不幸だった。

    わが涙 乾くひまなし 長椅子のかげのスタンドにレコードきくとき

    所詮われただ浮草のかなしさよ 戀もなし情欲もなし ただに悲しむ

    かへりきて踊衣裳のさみしくもかかれる壁みて 涙ながるる

    うつ蝉のこの世か 食ふにも事欠きて 日々を苦しくただ生くる吾

    今日は今日 あすは明日 ただそれでよし ゼロの生活

 その歌に、嘆き、涙、素朴なニヒリズム、孤独感などの暗い倍音(オーヴァートーン)が響いている。そして、最後に詠んだ一首。

    われひとを怨まじ世を怨まじ これがさだめとおもふこのごろ

 これが辞世だったらしい。すべてを「さだめ」と観じて、真沙子は消えた。薄幸の女歌人であった。

 湯浅 真沙子の遺稿、『秘帳』が出版された年、高群 逸枝は、

    わが家の杉の梢にあかねさし 革命の世紀あけそめにけり

 という歌を詠む。
 こんな空疎な歌よりも、いまの私は湯浅 真沙子の諦念に心を動かされる。

2011/02/05(Sat)  1250
 
 私たちは、短歌に出会ったすぐれた女たちを知っている。
 樋口 一葉、菅野 スガ、梨本 伊都子、生田 花世、そのほか多数の女たち。湯浅真沙子もそのひとり。
 『秘帳』は、赤裸々に女の性を歌ったとして注目されたが、長い歳月を経た今となっては、庶民の女として、素直に女の性のよろこびを見つめた歌人として評価すればよい。

    緋ちりめんの腰巻前を乱しつつ 淫らのさまを鏡にうつす

    淫欲の果なき吾のこのおもひ かなへたまふひと 君よりぞなき

    二十分かかりてもまだ技(わざ)終へぬ甘き心地にひたるこのごろ

    灯を消して二人抱くとき わが手もて握る たまくき太く逞し

    眼つむりて 君たはむれの手に堪えず 思はず握る 太しきものよ

 これを露骨な性描写と見るだろうか。
 くり返していう。メディアで、セックスが堂々と書きたてられる時代とは、およそ遠いエロティシズムの世界ではないか。
 やがて、湯浅 真沙子はレズビアニズムの経験に眼を向ける。これは、結婚前の回想ともうけとれるのだが――ターキー(水之江 滝子)、川路 龍子といったスターたちのファンだったらしい――同性愛の経験から、あらたな世界が展開したと思われる。

    かの子おもへば堪えがたき夜あり わが肌狂ふ血汐に燃えたちにけり

    かの子おもへばひしといだきてその肌(はだへ)合わせてみたし乳房と乳房も

    こころもち涙ぐみたる瞳もて わが肩に倚るをひしと抱きにし

    よりそひて抱けばふるる乳なでて赤らむ顔を なつかしく見る

 この女流歌人の歌には、そのときに生きたすがたが塗りこめられている。その歌の背後に秘められた思いは、おのがじし時代とまっこうから対峙する。そうした思いは、熱く、重い。

 湯浅 真沙子とほぼ同時代に、石牟礼 道子は、

    それより先はふれたくなきこと夫もわれも意識にありてついに黙しつ

 と歌う。(昭和26年)

 湯浅 真沙子の歌には、こうした苦悩、沈黙はない。だからといって、石牟礼 道子に劣っているということにはならない。
   (つづく)

2011/02/03(Thu)  1249
 
 湯浅 真沙子の歌は、まぎれもなく「戦後」の混乱と、庶民の貧しい生活から生まれたものである。彼女の歌は、当時の左翼の「歌声よ よみがえれ」などとは、まったく無縁だった。彼女は、戦後の混乱のなかで、めぐりあった夫を愛し、はじめて知った性愛を深めてゆく。
 彼女の歌には、女としてのよろこびがあふれている。まだ、ロレンスも、ヘンリー・ミラーも、ましてサドが、裁判にかけられることなど想像もしなかった時代であった。オーガズムということばさえ知られていなかった時代に自然に女のセックスを歌いあげた。そのことに、彼女の短歌の存在理由、価値がある。
 歌人にとって、性愛はどういうものだったか。

    いかにせん かのたまゆらは 髪みだし 狂ひて 君の頬をば噛みにし

    こころよく死ぬるここちのつづくとき 吾は知らじな泣きてありしと

    朝あけに君なつかしむ わが床に乱れて散りし 桜紙かな

    旅の宿に隣りにきこゆ もの音に 吾らほほえみ抱き合ふ床

    五月野の晴れたるごとき爽やかさ 情欲(おもひ)充たせしあとの疲れに

 ここに歌われているのは、ひたすらな性のよろこび、オーガスミックな発見といったものではない。平凡な主婦のごくつつましい官能のめざめ、性に対する好奇心、その充足の感動というべきだろう。

 戦後に、中城 ふみ子、葛原 妙子、大西 民子、河野 愛子、河野 裕子、鳥海 昭子、浅野 美恵子など、多彩な女流歌人が登場したが、湯浅 真沙子は、こうした歌人たちとは無縁で、文学的に、その作歌のレベルにおいて比肩できるような歌人ではない。
 しかし、名もなき庶民の女として、おめず臆せず、女の性のよろこびを見つめた。そういう歌人だったことを記憶すべきだろう。

 たった1冊の遺作歌集、『秘帳』は、いみじくも短歌による私小説であった。
                           (つづく)

2011/02/02(Wed)  1248
 
 戦後すぐに、ヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』がベストセラーになった。性の解放は社会的な現象になる。おびただしいカストリ雑誌が氾濫する。解禁された性、エロティシズムに対する関心が、戦後の気分の大きな流れになった。戦時中きびしく抑圧され、禁圧されてきた「性」が、戦後、あからさまに表現されるようになった。(『完全なる結婚』の初版は、1946年11月)。

 5年後(昭和26年/1951年)、湯浅 真沙子の歌集、『秘帳』が出版され、もうひとりの女性歌人、中城 ふみ子の『乳房喪失』とともに注目される。
 さらに5年後(昭和31年)、別の出版社から再刊されたが、このときはもはやほとんど話題にならなかった。戦後のエロティシズムは、『秘帳』のレベルをはるかに越えたものになったからだろう。
 私自身は、昭和26年にも、昭和31年以後にも、この歌集、『秘帳』を読まなかった。ただ、関心がなかった。

 現在、「文学講座」というかたちで、さまざまな分野の作品を読み直しているのだが、たまたまこの歌集を読んだ。

 詩人の川路 柳虹が序文を書いている。

    この歌集は女性みづからの肉体的欲情を露はに歌ったといふ点で、一寸類がないものかと思ふ。いはば暴露的表現で、中には露骨だけで歌としては拙劣なものがあると思うが、大胆率直といふ点と、自ら臆せず性欲と肉体愛を歌ふことの正義感をもつてゐるような点で、一つのドキューメントとしても男性の歌にさへかつて無かったものである。

 なるほど、戦後すぐに「女性みづからの肉体的欲情を露はに歌った」ものと見ていいが、短歌として、さほどすぐれた歌集ではない。作者には「性欲と肉体愛を歌ふことの正義感」といった気負いはないだろう。全体に「大胆率直」というより、戦後の女性が素直に「性欲と肉体愛を」歌ったものと私は見る。
 この歌集が注目に値するのは、ごく普通の女性が自分の境涯を見つめながら、性生活の自然な感動を歌ったことにある。

 歌集『秘帳』は新婚のよろこびを詠んだ歌からはじまる。

    おとめの日おもひいでては夢のやう わが肉体を流す湯の水

    処女膜はすでに手淫にやぶられてありしか 痛みそれとおぼえず

    愛情のきわまりつひに肉体のまじはりとなる戀ぞうつくし

    片時もそばにあらでは休まらぬ この心知るひとは君のみ

    おもはずも声立ててける吾が口を 手もて蓋ふ 君憎らしき

    色情狂と人のいふらし 狂ふまでの愛あらば いかに嬉しからまし

 『秘帳』にはまったく露骨な表現はない。「戦後」、この程度の表現が世間の耳目を聳動させたのか。
 「愛情のきわまりつひに肉体のまじはりとなる戀」が、「戦後」のあらたな希望だった。比較のためにあげておくが、現在の日本では――あるアンケート調査によれば、セックスレスでもかまわないと答えた男性が37.8パーセント。女性は、37.2パーセント。
 セックスレスのほうがいいという回答は、男性で5.9パーセント。女性は、21.5パーセント。

 湯浅 真沙子が、現在のような、セックスレス、「草食系」、あるいは、雑誌、週刊誌などのセックスの特集記事を見たらどんな歌を詠んだろうか。
 つい、くだらないことまで連想してしまった。     (つづく)

2011/01/27(Thu)  1247
 
 すっと読んだだけでは、さほど優れているとは見えない。しかし、人事、風俗に関して、好きな俳句がある。

   行く女 袷(あわせ)著なすや にくきまで   太祇

 袷(あわせ)は、おもて、裏をあわせて作った着物。つまり、裏地つき。
 昔は、四月一日から五月四日まで、そして九月一日から八日までと、着る習慣になっていたとか。つまり、期間限定だったらしい。
 「著なす」は、着こなすの意味だろう。心にくいほどの着こなし、という。さぞやいい女だろうなあ。こんな句に思わずうっとりする。

   蚊帳に居て 戸をさす腰を ほめにけり    太祇

 たいして優れた句ではないが、繰り戸を閉める女の腰にいささか力がこめられて。それを見ている風情は、なかなか粋だねえ。
 この夏、尖閣諸島沖で、領海を侵犯した中国の漁船が、日本の海上保安庁の巡視船に故意に衝突した事件が起きた。このとき、官房長官の仙石某が、わが国の外交方針を「柳腰」と唱えた。(’10.9月)私は仙石某の無知にあきれたが――こういうバカはこの句を読んでも何ひとつ見えるはずもない。

   彼の後家の うしろに踊る 狐かな     太祇

 これまた、なかなかおもしろい。
 いたずら好きな人なら、いろいろパロディーできるだろう。

2011/01/26(Wed)  1246
 
 風邪がはやっている。

 私は虚弱な子どもだったので、よく風邪をひいた。学校を休んで、ふとんに寝かされているのは退屈だった。枕に頭をつけて見ていると、閉めきったガラス戸からもれる光に、小さなゴミが浮遊するのが見えた。

 発熱した頭で、ぼんやりゴミの動きをいつまでも見ている。

 母親が手当てしてくれるのがうれしかった。

 風邪のひきはじめには、ネギをミジン切りにして、生ミソをくわえたものに熱湯をそそいで、寝る前に飲む。

 大根オロシに、ショーガをすりおろしたものを混ぜて、ショーユをかけ、あつい番茶をかける。それが風邪に効く、とされていた。
 母親が、枕もとにもってきてくれるので、腹這いになって飲む。おいしいものでもなかった。

 火鉢に炭火がおきている。鉄瓶がジンジン音を立てている。

 灰の中に、キンカンの実を埋めて、まっくろになるまで焼く。皮がくろくなったキンカンの実をとり出して、お湯をかける。

 いまどき、どこの家庭でもこんな療法はやらないだろう。こんな民間療法にどんな効果があったのかわからない。
 私は、あまり風邪をひかなくなっている。
 風邪をひいてもお医者さんの診察をうけることはない。
 台所で――大根オロシに、ショーガをすりおろしたものを混ぜ、ショーユをたらしてお湯にまぜて飲む。
 ふと、亡き母親のことを思い出す。

2011/01/21(Fri)  1245
 
 しばらく前に、ワキ役俳優、アンデイ・デヴァインのことを書いた。
 舞台や映画で、たくさんの俳優や女優を見てきたので、アンデイのようなワキ役専門の俳優のことが心に残っている。

 有名なスターたちと違って、ワキ役の俳優、女優たちのことはほとんど知られていない。私は、そのときどきに見た「彼」や「彼女」の姿、演技、ときには声まで思い出す。なつかしさもあるが、その俳優、女優たちの存在が、映画芸術をささえてきたことが思いがけないあざやかさでよみ返ってくる。

 たとえば、ジェームズ・グリースン。
 小柄で、痩せたアイリッシュの老人だった。今の私たちが、ビデオやDVDなどで見られる映画は、「毒薬と老嬢」ぐらいだろうか。
 この映画では、頭のおかしい殺人者の老嬢たちの邸にやってきて、主役のケーリー・グラントをあわてさせる刑事をやっていた。タフで、鼻っ柱がつよいが、人情にあつい。そんな「役」が、ジェームズ・グリースンにぴったりだった。
 (ニューヨークの警察官、刑事には、アイルランド系が多い。)

 もともとブロードウェイ出身の演劇人だった。劇作家、演出家として知られたが、プロデューサーをやったり、俳優として舞台に立ったり。
 やがて、映画、さらにはTVに出るようになった。
 それだけに、舞台というものを知りつくした俳優だったはずである。そして、ほかのおびただしい俳優、女優たちの「運命」を見つづけてきたはずである。

 「幽霊紐育を歩く」Here Comes Mr.Jordan(1941年/コロンビア)に出て、42年のアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた。
 (「天国からきたチャンピオン」(1978年)は、この映画のリメーク。)
 私は戦後に見たのだが、主演のロバート・モンゴメリがへたくそな芝居をしているのに、ジェームズ・グリースンがやたらに達者な芝居をしているので感心した。
 このあたりから、ジェームズ・グリースンが出ている映画は必ず見ることにしたのだった。「ブルックリン横町」、「タイクーン」、「恋は青空の下」など。

 まず、「ブルックリン横町」は、エリア・カザンの監督第一作。ドロシー・マッガイアー、ジョーン・ブロンデルという異色女優の起用に若いカザンの気負いが見える。
 「タイクーン」は、ジョン・ウエインのアクションもの。まだ、それほど知られていなかったアンソニー・クィンがワキで出ていた。
 「恋は青空の下」は、フランク・キャプラが戦前に撮った「其の夜の真心」のリメークもの。「戦後」のキャプラの彷徨と枯渇がまざまざと感じられる。
 ジェームズ・グリースンは、戦前の「群衆」(41年/フランク・キャプラ)にも出ているが、この映画ではほとんど目立たない。

 戦時中、アメリカに亡命したジュリアン・デュヴィヴィエが、ハリウッドで撮った映画に「運命の饗宴」(Tales of Manhattan/42年)がある。
 これは、オムニバス映画。第3話は、貧しい音楽家が、大指揮者に認められて、カーネギー・ホールで自作の交響曲を指揮することになる。貧しいので、当日着て行くタキシードがない。教会の神父さんの計らいで、妻が質流れのタキシードを手に入れて、破れたところをつくろって、夫の門出を祝うのだが……

 貧しい音楽家の夫婦を、チャールズ・ロートン、エルザ・ランチェスターがやっていた。ふたりは、現実にも名優・名女優のカップルで有名だった。
 音楽家が、満場の嘲笑を浴びたとき、厳然として彼をかばう大指揮者を、フランスの名優、ヴィクトル・フランサン。
 ジェームズ・グリースンは、ニューヨークの貧しい教区で、しがない人々の生活を応援している神父さん。セリフもほとんどない「役」だが、これがとてもよかった。

 戦後の映画のなかで、ジェームズ・グリースンの存在はいつも輝いていた。

 ジェームズ・グリースンの最後の出演作は、スペンサー・トレイシー主演の「最後の挨拶」だが、日本では公開されていない。

 ジェームズ・グリースンは、1959年に亡くなっている。

 こんなことばかり書いているから――きみのブログは「地味」だねえ、といわれるのだが。

2011/01/20(Thu)  1244
 
 高津 慶子という女優がいた。私は高津 慶子のファンだったけれど、あまりに幼い頃に見たので、彼女の顔も思い出せない。

 経歴は、少しだけ知っている。

 1929年(昭和4年)、17歳で「松竹楽劇部」に入った。この年(昭和4年)7月、「帝キネ」に移る。おそらく「恋のジャズ」という無声映画が、最初の出演作ではないだろうか。

     初めての「恋のジャズ」の試写を初めて見た時は、何だか変な気持でしたわ。
     自分はこっちにゐるのに、向ふでは別の自分が動いてゐますでせう。そして、
     あそこではかう動いたのにと思ってるのに、変な風に動いてゐますし……
     ほんとに、踊る幻影といった気持ですわ。
     彼女はちょっと眼を細くして、その当時を思ひ出す。

 当時のインタヴュー記事から。

 1930年、19歳で、「腕」という映画に主演している。このあたりから、トップスターになった。

 高津 慶子は藤森 成吉の傾向小説、「何が彼女をそうさせたか」に主演している。傾向小説というのは、プロレタリア文学のこと。
 パート・トーキーにする企画だった。

 偶然だが、私は高津 慶子を2、3本、見ている。
 題名もわからないのだが、河津 清三郎と共演した映画では、愛する男が失業し、別の女のもとに走ったため苦しみぬいて、最後には男と心中して果てる女をやっていた。お涙頂戴のメロドラマだった。小学生の私は、美しい高津 慶子が不幸なまま人生を終えてしまうその姿に戦慄した。そして、彼女をさんざん苦しめたあげく、まるで無理心中のようなかたちで死んでしまう河津 清三郎がきらいになった。

 はるか後年、高津 慶子の写真を見て、もう忘れていた顔を思い出した。今の女優でいうと、水野 美紀にかなり似ている。私は、舞台劇『ユートピアの彼方へ』で見ていらい水野 美紀の熱心なファンなのである。

 自分の感性をずっと遡って行くと、高津 慶子と森 静子が浮かんでくる。
 この二人の女優が好きだったことは、ひょっとすると、その後の私の女性観になんらかの影響をおよぼしているかも。(笑)

2011/01/18(Tue)  1243
 

 1929年から、30年にかけての日本映画。

 「松竹」は、村上 浪六原作の「原田 甲斐」。市川 右太衛門、鈴木 澄子。
 鈴木 澄子は、後年たくさんの怪談映画に主演した女優さん。この頃は、可憐な娘役で、はるか後年、多数の怪談に出るようには見えない。まったく、女はこわいね。

 この頃、浪六の人気が高かった。つぎつぎに映画化されている。「東亜映画」が「三日月次郎吉」を、嵐 寛寿郎、原 駒子で。おなじ浪六の『かまいたち』が、澤村 國太郎、マキノ智子の主演で。これは「マキノ映画」。
 その「マキノ映画」が、「敗戦の恨みは長し」というロマンス・メロドラマを出している。帝政ロシアから亡命した音楽家と、その門下で音楽勉強に勤しむ日本娘のせつせつたる恋物語。秋田 静一がロシア系のハーフの芸術家。彼の行く手には松浦 築枝。彼はミューズの愛に救われる。別に深い意味はないはずだが――「敗戦の恨みは長し」という題がはるか後年の日本の運命を暗示しているような気がする。

 「松竹」の現代劇は、北村 小松の「抱擁」を。岡田 時彦、及川 道子。「アラ、その瞬間よ」などという映画も。及川 道子はいい女優だった。この題名は流行語になった。及川 道子に魅力があったからだろう。
 当時、日本はアメリカの大不況の影響を大きく受けていた。(今と似たようなものだ。)だから、「不景気時代」などという映画が作られている。川崎 弘子、斉藤 達夫。
 「奪はれた唇」というメロドラマに、渡辺 篤、筑波 雪子。
 「女は何処に行く」は、栗島 すみ子、田中 絹代。

 「日活」の時代劇では、「大岡政談 魔像編」で、大河内 伝次郎、伏見 直江。
 「帝キネ」は、独立10周年記念で、「江戸城総攻め」。大仏 次郎の「深川の唄」を。佐々木 邦の「新家庭双六」に、杉 狂児。
 バンツマ(板東 妻三郎)は、大仏 次郎の「からす組」の撮影に入っている。

 残念ながら、私は、これらの映画のほとんどを見ていない。     (つづく)

2011/01/14(Fri)  1242
 
 1929年のベストテン。

      「ディスレリー」
      「マダムX」
      「リオ・リタ」
      「ブロードウェイの妖婦」
      「ブルドッグ・ドラモンド」
      「懐かしのアリゾナ」
      「藪睨みの世界」
      「チェニー夫人の最後」
      「ハレルヤ」

 ベストテンなのだからもう1本あっていいはずだが、資料がない。
 さすがにこの時期あたりから、私の映画知識も多少はしっかりしてくる。

 「ディスレリー」は、日本では「市民宰相」として公開された。主演はジョージ・アーリス夫妻。「マダムX」は、連続活劇のポーリン・フレデリックの「母もの映画」だが、ストーリーは――戦後、ラナ・ターナーがリメイクに出ている。この「母の旅路」で見ている人がいるかも。
 「リオ・リタ」は、もともとブロードウェイでヒットしたミュージカルだが、この映画はビーブ・ダニエルズが主演したもの。
 「懐かしのアリゾナ」は、ラウール・ウォルシュが撮ったはじめてのトーキー。この頃には、サイレント映画のスターたちが凋落して、ぞくぞくと新人俳優、女優が、ハリウッドに押し寄せている。

 このベストテンのなかで、私がいちばん見たい映画は「藪睨みの世界」。じつは、これもブロードウェイでヒットした The Cock−eyed Worldという喜劇。マクスウェル・アンダーソン、ローレンス・ストーリングスの合作。
 主演は、ヴィクター・マクラグレン、リリー・ダミタ。
 リリー・ダミタは、後年、エロール・フリンの夫人。

 マクスウェル・アンダーソンは、やがて『春浅き冬の頃』から大きく発展し、ついには壮大な歴史劇に移ってゆく。(私はマクスウェル・アンダーソンについて、みじかい紹介を書いたことがある。「現代演劇講座」河出書房刊)

 そういえば――リリー・ダミタの息子は、ヴェトナム戦争で従軍記者として活躍したが、70年代、冷戦のさなか、ウィーンで取材中に失踪している。当時のソヴィエト側の秘密情報機関による暗殺と見られる。                (つづく)

2011/01/11(Tue)  1241

 (No.1237からつづく)

 この夏、船橋で「第七天国」(フランク・ボゼージ監督)を見た。この映画は、戦後すぐに池袋の焼け跡にできたバラックの映画館で見ている。私が、はじめて見た戦前のハリウッド映画だったが、あらためて60年ぶりに見直したことになる。
 この日、私はかぎりなく幸福だった。まるで天使が私のとなりに舞い降りてきたようだった。
 戦後、アメリカ映画を自由に見られるようになったが、「第七天国」を見たとき、隣りに美しい女性がいて、胸がどきどきした。私は、ほんとうに解放感を味わっていた。
 この映画を見直して、連日の暑さで枯渇していた内面に火がついた。はじめて恋をしたようだった。私が長年心に秘めてきたのは、こういう思いだったのか。

 「第七天国」は、アカデミー賞最初の最優秀作品賞。ジャネット・ゲイナーはこの作品で主演女優賞を受けている。

 1928年のベストテン。

      「愛国者」
      「ソレルとその子」
      「最後の命令」
      「四人の息子」
      「街の天使」
      「サーカス」
      「サンライズ」
      「群衆」
      「キング・オブ・キング」
      「港の女」

 私の見た映画は、「サーカス」、「群衆」、「港の女」だけ。
 私はとても映画研究家にはなれない。

 「サーカス」は日本では未公開だったが、戦後、パリの「オデオン」で見た。日本では見られなかったチャプリンの活動写真をパリで見た。観客は、子どもたちが多かったが、日本人は私ひとりだったのではないだろうか。これも忘れられない。この映画を見て、コメディを見る無上のよろこびといったものを知った。

 私が生涯の大半をかけてもとめつづけてきて、最近になってやっと手に入れたものを、チャプリンは、とっくの昔に手にいれていたような気がする。

 それをなんと表現していいのか。ミューズとの邂逅といおうか。   (つづく)

2011/01/01(Sat)  1240
 
 2011年である。

 気のきいたことの一つもいいたいのだが、何もうかばない。

 ルネサンスに生きた、ポッジオ(1380〜1459年)の話を思い出した。
 ローマにさる有名人がいた、という。
 ある日、何を思ったか、葦でかこまれた壁の上によじ登った。(湿地帯で、あたりに葦がいっぱい生えていたらしい。)
 その葦にむかって、彼は演説をはじめた。市政を論じはじめたのである。むろん、人間相手ではないから、日頃、胸懐に秘めた不幸、不満、はては、天人ともに許さぬ者どもに対する激烈なフィリピクスもふくまれたことだろう。

 熱弁をふるっていたとき、一陣の風が吹きわたり葦の葉をそよがせた。
 それを見た雄辯家は、自分の話に賛成して頭をたれた人々と見立てて、
「ローマ人諸君、そんな敬礼にはおよびませぬ。私は、みなさんの中でも、もっとも卑小なる一人に過ぎません」
 と呼びかけた。
 このことばは、このときからローマの格言になったという。

 これだけの話。
 この男は、民衆にへりくだって見せたのか。それとも、謙虚な人物だったのか。あるいは、世間にむかって声をあげることのできない臆病者だったのか。ひょっとすると、おのれの夢想に生きたロマンティスト。いや、ナルシストだったのか。
 ポッジオは、この短いエピソードを、どうして自分のエッセイに書きとめたのか。

 2011年、新年を迎えて、私はぼんやりとこのローマ人のことを思い、このホームページに書きとどめて、春風駘蕩たる気分を味わっている。

 みなさんのご多幸を祈りつつ。

2010/12/29(Wed)  1239
 

 2010年が終わろうとしている。
 例年のことながら、私の身辺にもさまざまなことがあった。
 そうした哀歓に私はおろおろしながら向きあってきた。ただ、黙って対処してきただけのことであった。
 おかしなもので、わるいことがふりかかってくると、それを上回るようないいことがやってくる。人間万事、塞翁が馬。そう心得て生きるしかない。

 かつて私は書いた。

 「青春というものは、ある意味では、ながい模索の時期でもある。たとえば、自分の周囲をおしつつむすべてのものを理解しようと努め、それができないときに不安におそわれ、なかなか前に進めない状態。
 私自身にしても、自分の過去をふりかえってみると、未決定の将来に対して、ある野望をもち、しかも、その実現をはばまれているといった時期に、何度遭遇したことだろう。
 また、たとえば愛。
 自分の過去をふりかえるとき、その追憶の入口に大きく立ちふさがって動かない女たち。
 私の青春のはじめに、この現実の意味を痛切に思い知らされた女たちについての、くるしい模索があった。」

 これは、私がやっていた演劇グループの公演のパンフレットに書いた文章の一節。
 半世紀後の私自身が、おなじ思いで生きていることに気がつく。滑稽というか、哀れというか。

 2010年は、私にとって「くるしい模索」のつづいた不幸な年だったが、あらためておのれに許された幸福に感謝したい年でもあった。

 2011年が、どういう年になるかわからない。ただ、自分にできることを少しずつ実現してゆく。眦を決して、というのではなく、ただ自然に生きてゆく。

 このブログを読んでくださっているみなさんに心からの挨拶を送る。

2010/12/17(Fri)  1238
 
 歳末、思いがけないことから阿佐ヶ谷の、さる病院に緊急入院した。

 最近の私は、幸運と不運が折り重なってやってくるらしい。
 12月11日、私はほんとうに幸福だった。この数年、私は「現代文学を語る」という連続講座をつづけているのだが、この日は「戦後の映画批評について」語った。
 たまたま、映画批評家、荻 昌弘の仕事を論じることになったのだが、令嬢の荻 由美さんが、わざわざ軽井沢から聞きにきてくれた。おなじ軽井沢在住の作家、山口 路子さんが知らせてくださったという。ありがたいことであった。おふたりに心から感謝している。

 さて、講義を終えたあと、暮れなずむ冬の繁華街、小さな旗亭で、私を中心に、クラスの有志によってささやかな忘年会が開かれた。とても楽しい集まりになった。

 現在の私はほとんど酒をたしなむことがなくなっているのだが、この夜はほんのわずかアルコホルを頂くことにした。
 その宴の終わりに――不覚にも意識が途切れた。

 私のようすがおかしい、というので救急車が呼ばれたらしいが、担架に乗せられたときはもう意識も恢復していた。
 だが、たちまちにして私は救急患者とあい成った。おのれの運命の拙なさにあきれるばかりである。

 現在、まったく心身爽快。

 日曜日の夜、評判のドラマ「坂の上の雲」(子規逝く)を病室のテレビで見た。兄、子規の死をみとった妹(菅野 美穂)を見ていて涙が出てきた。病室で、このドラマを見たせいもあるだろう。
 あとは「文学講座」のために準備した新刊の『映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエ』という500ページの大冊を読みつづけている。
「舞踏会の手帳」、第二次大戦のデュヴィヴィエのアメリカ亡命に関して、私の『ルイ・ジュヴェ』に言及がある。

 以上、近況報告。
 いろいろ世話をしてくれた安東 つとむ、田栗 美奈子、村田 悦子、濱田 伊佐子、真喜志 順子、見舞いにきてくれた立石 光子、池田 みゆき、吉永 珠子、そして私の身を案じてくれたみなさんに、心から感謝している。

2010/12/10(Fri)  1237
 
 アメリカ人もあまり知らないことを書いておこう。

 もっともアメリカの資料をあたって調べるのだから――アメリカ人が知らないことではない。そこで、「アメリカ人もあまり知らない」だろうこと。

 映画専門の日刊紙、「フィルム・デイリー」が、1922年から、歳末に、全米の映画ジャーナリスト、映画担当の新聞記者、新聞の映画批評家、全国紙の映画評論家、そして映画プロデューサー、著名な映画製作のスタッフ、映画館主などによる投票の集計がはじまっている、だってサ。

 1927年のベストテン。

      「ボー・ジェスト」
      「ビッグ・バレード」
      「栄光」
      「ベン・ハー」

 当時の投票システムでは投票者の所在地で、公開されたものを選ぶことになっていた。そのため、1926年製作の映画、この4本が含まれている。
 日本の映画ファンなら、たいてい見ているような気がする。むろん、誰ひとり見ているはずはない。

      「肉体の道」
      「第七天国」
      「チャング」
      「暗黒街」
      「復活」
      「肉体と悪魔」

 私が見たのは「ボー・ジェスト」だけ。UCB(カリフォーニア大学・バークレー)の映画科の付設劇場で。
 現在、ビデオやDVDで見られるのは、「第七天国」と「肉体と悪魔」あたりか。
 つい最近、「第七天国」を見直した。じつに60年ぶりに。
 ところどころおぼえていなかったので、新鮮だった。
 「ベン・ハー」や「復活」はリメイク作品でしか見られない。    (No.1241につづく)

2010/12/08(Wed)  1236
 
 さすがに冬である。すっかり寒くなってきた。
 映画のことでも書こうか。

 じつは、文学の世界で「現代作家 現在活躍している作家の作品」を、ほとんど読んでいない。好きな作家は多い。私の好きな作家は、山口 路子、多和田 葉子、角田 光代、西 加奈子、千野 帽子たち。

 翻訳家には――現在活躍している翻訳家には好きな訳者がいる。

 岸本 佐知子、田栗 美奈子、堤 理華、大友 加奈子、谷 泰子、田村 美佐子、高橋 まり子、圷 香織など。あげたらきりがない。

 最近に、公開された映画をほとんど見ていない。
 少し前までは、好きな時間にふらりと映画館に入って、途中から見て、次の回をアタマから見直して、自分が見たところまで見て、映画館を出る。そんなこともできたのだが、最近の映画館は、入場の時間がきめられていて、好きなときに勝手に映画館に入ることもできない。
 そもそも、こんなシステムがおもしろくない。だから、映画館に足を向けない。
 今年度、アカデミー賞に選ばれる作品は何だろう?
 そんなことも気にならない。勝手にしやがれ。

 ところで――アメリカ映画が、年間をつうじてベスト・テンを選ぶようになったのはいつ頃からだろう? そんなことを考える。エフレム・カッツの「映画事典」を調べればすぐにわかるのだが。めんどうだから調べない。
 寒いので、書庫に行くのがおっくうなのだ。

2010/12/03(Fri)  1235
 
 講座の初日、私は少し緊張していた。
 クラスに入って、みなさんの水をうったような静けさや、いま自分の目の前で、じっと私を見つめている人々に、当惑をおぼえたわけではない。自分のことばが熱心に聞かれている。と同時に、中田 耕治という、見たことも聞いたこともない、もの書きが、何をしゃべるのか、観察している。
 私は、熱心に、自分の知っていることをつたえようとしていた。
 みなさんが、おそらく一度も考えなかったことを、この教室ではじめて考えてもらおうとしている。「文学の楽しみ」について私の考えていることを、みなさんとおなじように味わうことができるだろう。

 むずかしい話はしなかった。さりとて、話のレベルをさげるつもりもなかった。
 ただ、短い時間のなかで、できるだけいろいろな話をしようとしたのだった。

 聴講している人たちが、だいたい高齢者だったので、その人たちが関心をもってくれそうなことをえらんだ。川端 康成の「浅草紅団」の一節を読んでもらう、ときに――
 昭和初年のエロ・グロ・ナンセンスの風俗を描いた細木原 一起と、「戦後」になって、かつての昭和初年の風俗を描いた杉浦 明雄のマンガといっしょに見てもらう、というふうに。

 この講座は、わずか4回だったから、すぐに終わってしまったが――いちおう責任は果たせたという満足感もあった。その反面、あれも話せばよかった、これもとりあげたほうがよかった、と残念な気もちが残った。もっともっと語るべきことも多かった。
 大学などでの講義と違って、いろいろと反省すべきことも多かった。
 そして、このクラスに参加してくださった方々に心からお礼を申しあげたい。

 あらためて、船橋の中央公民館の塙 和博氏に感謝している。

2010/11/29(Mon)  1234
 
 これまで、大学や専門的な教育機関、または図書館などでレクチュアをしてきた経験はあるのだが、地方都市の公民館が企画した「文学講座」で、一般市民のみなさんにお話をする機会はあまりなかった。
 故・竹内 紀吉君の依頼で、浦安市の図書館で、イタリア・ルネサンスについて連続の講義をしたり、千葉市の老人大学で、永井 荷風について講義をした程度だったはずである。

 船橋市の中央公民館が私に講座を依頼してきたのは、おそらく偶然だったが、船橋は私にとってはゆかりが深く、なつかしい都会だった。
 しかも偶然ながら、この夏、たまたま中央公民館で、サイレント映画、「第七天国」を見たのだった。これまた私にとっては、忘れられないできごとになった。
 その中央公民館から講座を依頼してきたのだから、私としてもうれしかったし、それだけに、熱心に話をしたのだった。

 講座の最終回に、参加者にアンケート用紙がくばられた。質問の項目のひとつに――
 「今後、文学関係の講座で取り上げてもらいたい内容(作家、作品、時代など)は何ですか――」とあった。
 いろいろな回答がある。
 このリストだけでも市民講座のレクチャアのむずかしさが、うかびあがってくる。

  古典 なんでも
  万葉集、源氏物語
  万葉集 (古典を勉強しているので)
  徒然草
  良寛
  芥川龍之介
  夏目 漱石、ゲーテ、トルストイ
  夏目 漱石、森 鴎外、樋口 一葉
  永井 荷風
  小林 多喜二、遠藤 周作、吉村 昭
  川端 康成、芥川龍之介
  太宰 治
  三島 由紀夫
  村上 春樹、司馬 遼太郎
  岡部 伊都子
  萩原 葉子
  現代作家 現在活躍している作家の作品
  山本 周五郎、藤沢 周平
  長谷川 伸の「関の弥太っぺ」
  ノーベル賞を最近受賞した作家

  ひゃあ! これは凄いね。

 こういう要望に答えるためには藤村 作、斉藤 茂吉、柳田 泉、木村 毅、伊藤 整、さらには大衆文学のイデオローグだった尾崎 秀樹、そして佐伯 彰一、磯田 光一をいっしょにしたほどの学識が必要になるだろう。

 残念ながら、私には、こんなにいろいろな作家、作品、時代をとりあげる力はない。


 講座のテーマが「文学の楽しさ」だったから、私としても、なるべく「楽しい」ことを中心にしゃべった。
 だが――「文学を楽しむ」ことには、自分が絶望したときの「なぐさめ」として役に立つということも含まれているだろう。

 私は、聴講者たちと、いっしょに、これまであまり気にかけていなかった世界にいっしょに入っていきたいと思った。その世界では、深い叡知が秘められていて、その作品がもたらす感動が、ちからづよく表現されているのだ。
 私が、太宰 治や、梶井 基次郎の短編といっしょに、桂 歌丸や、海野 弘のエッセイを並べたのも、そして、亡くなったばかりの池部 良のエッセイをとりあげてレクチュアしたのも、そこで語られている人生のおもしろさに眼を向けたからだった。

    塔も 船も そこに住む人間なしには 役に立たない

 からである。(これは、ウロおぼえのソフォクレス。)   (つづく)

2010/11/27(Sat)  1233
 
 この秋、船橋で、文学について語る機会があった。今年は「国民読書年」とかで、私のような老いぼれ作家まで講座にひっぱり出されたらしい。

 題して「文学の楽しみ」。4回。

 (1)「小説を読む楽しさ」  テキスト  梶井 基次郎の「檸檬」
 (2)「エッセイを読む」   テキスト 海野 弘の「蘆花公園から実篤公園まで」
 (3)「作家は何を見ているか」テキスト 太宰 治の「満願」ほか
 (4)「読む」から「書く」へ テキスト 桂 歌丸の「心の風景」ほか

 応募者が多かったため、抽選で、参加者、48名。

 最終回に、アンケート用紙がくばられ、30名以上の回答を得た。

     講座「文学の楽しみ」の内容はいかがでしたか。
     1.大変良かった
     2.まあまあであった
     3.良くなかった
     4.難しかった
     その理由をお書きください。

 いろいろな回答がある。いくつか、無作為に選んでみよう。

 (1)「小説 又はエッセイの捉え方を改めて考えた事がなかったが、先生の見方があって、いろいろな捉え方がある事が解った」。
 (2)「先生のお話が大変良かった。文学について自分の知らない事をイロイロ教えて下さった。」
 (3)「小説の読みかた、自分にあった文学を読む。それが文学を楽しめばよいということを学んだ気持ちです。」
 (4)「作家の背景、生活状況のイメージが掴めた。」
 (5)「もう少し、テキストの内容に添った解説が欲しかった。」
 (6)「豊富な先生のお話に自分の考えも広がり、読むことに又興味も持てました。」
 (7)「豊富な話題で捉示していただけたのが面白かった。哲学的な思考へと導いて下さり、私の、もう使わず、ぼけてしまった頭脳への刺激となった。ただ、毎回、家に返って復習したが、今日のポイントは何だっけ? と今一つ、しっかりとまとめられないときがあった。「文学の楽しみ」との観点で、先生のお話に少し飛躍(?)があったのか、それとも、私がついてこれなかったのか・・」
 (8)「講師が聴講者の我々に対して、尊重の気持ちを込めて、すばらしい講義を出し惜しみなく熱心に。読書年にふさわしいすばらしい企画だったと思います。
 私達が先生の講義を聴くに値することを前提に、時間があっという間に過ぎる様に感じるお話でした。読むだけでなく、書きたい、実際に書いているアマチュアの私には、とても充実できたものでした。
 (9)「文学の奥深さ、幅広さ、楽しみといった事柄を再確認させてくれる内容であった。実りの多い、心豊かに過ごした2時間でした。
 (10)「自分流の小説の読み方から、講師の話を聞き、中身を変えて読んでみる事がわかりました。

 無記名だが、みなさんが熱心に聞いてくださったことがわかる。ありがたいことだった。
 ほかにも、いろいろな意見があった。

2010/11/21(Sun)  1232

 
 仙台市の荒町尋常小学校の卒業写真に、私たちのクラスの担任だった先生たちの姿をみることができた。
 昭和14年(1939年)の、2月頃に撮影されたものである。

 前列、左側から、佐藤 清吉先生。2年のときの担任だった。県展の審査をつとめた画家。私が、美術に関心をもったたのは、この先生の影響かも知れない。

 その隣に、校長、横山 文六先生。胸に勲章をつけている。
 つぎに、3年の担任だった佐藤 喜三郎先生。柔道の達人だった。
 そして、壺 省吾先生。4年、5年、6年と担任してくださった。

 この写真にはいないのだが、1年担当だった佐藤 実先生の姿はない。おそらく退任なさったのだろう。
 私にとっては、やさしい先生のおひとり。

 これも偶然だが、私は、三人の「佐藤先生」と、一人の「壺先生」に教えていただいたことになる。この4人の先生たちの薫陶をうけたことを、私はありがたく思っている。

 横山 文六先生には、直接、教えていただいたことはない。
 祝日になると、全校生徒が講堂に集められる。やがて、モーニングの正装で、紫の袱紗に包まれた巻物をうやうやしく奉持して、演壇に校長先生があらわれる。
 教頭先生の号令で頭を垂れている生徒たちに、かしこくも天皇の勅語を拝読するのが、横山校長の役目だった。へたな朗読で、生徒たちはいつも必死に笑いをこらえていた。

 あんまりたびたび勅語を聞かされるので。私はすぐに暗記してしまった。

 私は、四年から六年まで、壺先生に教えていただいたことを、生涯のよろこびとしている。
 残念なことに、壺先生は数年前に亡くなられた。

2010/11/17(Wed)  1231

 
 私は昭和14年(1939年)、仙台市の荒町尋常小学校を卒業した。
 思いがけず、その小学校の卒業記念の写真が出てきた。


 この年になると、小学校の思い出も茫々たるもので、荒町の通りに並んでいたわずかばかりの店や、小さな神社のお祭りに出る小屋掛けの見世物、呼び込みの胴間声、子ども相手の屋台店のアセチレンの灯、ときには田舎芸者の手踊り、ぞめき歩く見物人の流れ。そんな光景が、ぼうっと眼にうかんでくる。
 日中戦争がいつ終わるかわからないのに、ヨーロッパで戦争が起きていた。どこの町でも、赤紙一枚で出征する男たちを見送る人々の集まりが見られた。まだ小学生の私には、戦争は切実なものではなかった。

 その後、東京に戻ったが、少年時代の思い出にかかわるものは戦災ですべて焼失した。

 戦後になって、友人、亀 忠夫が、小学校卒業の記念写真をコピーして贈ってくれたのだった。

 ずっと大切に保存していたのだが、どこかにまぎれてしまって、いつしかこの写真のことも忘れてしまった。

 ここに写真の一部をのせておく。
 私は最前列にすわっている。1クラス、60人のクラスが四つ。私は、第29学級だった。
 他人には何の意味もない写真だが、老作家の身には、はるかな過去が不意によみがえってきた思いがあった。

 この写真、同級生のなかで、いちばんのチビだった。
 子どもたちは、みんながくったくのない表情を見せているが、私ひとりは少し斜めに顔を向けている。未決定の将来に、わずかながら恐れを抱いているように。

2010/11/11(Thu)  1230(Revised)
 
 この11月5日、西鶴を読んだ。
 むろん、偶然だが、次回の「文学講座」で吉行 淳之介をとりあげるので、勉強しようと思って。吉行 淳之介が、西鶴の現代語訳を試みているので、西鶴を読み返しただけのこと。
 ただし、無学な私は西鶴を読みこなす学力がない。

   さても、いそがしき遊興、角に、かたづき屏風、引き廻し、さし枕二つ、立ちながら、帯とき捨て、つらきながらも、勤めとて、ふし所を、口ばやに語り。すこし位をとる男を、耳引き、銭の入る事でもないに、ここらを少し洗はんせ。こちらへ御ざんせ。さてもうたてや、つめたい手足と。そこそこに身動きして、其男、起き出れば……  (石垣戀崩)


 こんな部分が、戦前には伏せ字になっている。
 あらためて、戦前の検閲の愚劣に怒りをおぼえた。

 西鶴のエロティシズムといっても、

   丸裸になって、くれなゐの、二布ばかりになりし。其身の、うるはしく、しろじろと、肥へもせず、やせもせず。灸の跡さへ、なくて、脂ぎったる、有様を見て……  (「墨繪浮世風」)

 こんな表現が当時の検閲に引っかかったのだから、呆れる。
 それにしても、西鶴らしい的確な描写で、女の美しい裸身をうかびあがらせている。
 西鶴のことばに――「われも老楽の何がなと思ふに鞠には足よはく揚弓に眼定まらず」という一節があった。(貞享2年=1685年)
 私も年老いて、何か楽しいことはないものかと思ったが、サッカーをしようにも足腰が弱っているし、矢場で遊ぼうと思っても、眼はかすんでいる。
 そんな意味だろうと思う。

「美扇戀風」に登場する老爺は、たいへんなエロジーさんで、立ち居も不自由なので「年は寄るまじきもの」と、相手の女が同情する。女は、「いとしきおもひながら、そこそこにあしらふ」。
 ところが、このオジーさん、「夜もすがら、すこしも、まどろむこともなく、今時の若いやつらが、うまれつき、おかしや」と女を弄ぶ。この部分も伏せ字。
 西鶴を読んで、私も考えた。このブログももう少し違った方向性を見せたほうがいいかも知れない。

2010/10/21(Thu)  1229

          5

 宇尾さんの訃を知った翌日、劇作家、西島 大の訃を知った。若い頃、私は彼の芝居を演出した。その劇評が「芸術新潮」に出たことも、いまとなってはなつかしい。
 私の知っている人たちがつぎつぎに鬼籍に移ってゆく。無常迅速の思いがある。

 佐藤 正孝君が亡くなって、やがて竹内 紀吉君が亡くなった。そして、今、宇尾さんの訃を聞いた。幻化夢のごとし。私にとって、すべては茫々たる夢に似ている。
 かつて、あなたは語った。
 生きている者も、死んだ人もそれぞれのばしょに戻ってゆく。静かにめぐる輪は、この場から立ち去る前の所作ごとなのだろう、と。
 宇尾さん。
 仲間うちで、いつも楽しく語りあいながら、あなたはいつも何かを学びとろうとしていた。作家としてのあなたの誠実さは、あなたの作品にいちだんと光彩をそえるものだった。そのことを、私はほんとうにありがたいものに思う。
いま、おのがじし心のままに別れを惜しみ、在りし日のあなたのことを思い浮かべて別れよう。
 そして、私はあなたに告げよう。

 宇尾さん、ながいこと、ありがとう、と。


※画像は宇尾房子さんと竹内紀吉君

2010/10/18(Mon)  1228
 
              4

 宇尾さんは、昨年の十月に亡くなったという。
 その十月、私にあてた手紙のなかで、

     女学校時代に依田という怖い老嬢先生に教わったことで、恐怖心が植えつけられ、外国語と親しくなることができずに一生を終ろうとしております。でも、外国の小説は好きですので、中田先生をはじめ、翻訳家の方々のおかげをいただいているわけでございます。
     中田先生のお弟子さま方もすぐれたお仕事をなさり、よき師に恵まれた皆様のお幸せをおもわずにはいられません。そのオデュッセウス氏さまのお一人、高野 裕美子さまの早すぎる死にはどんなにお心をいためられたことかと、お心の内をお察しいたしました。
     中田先生のお書斎で一緒だった、あの方が高野さんだったのかしら、とふっと思ったりしております。

 これが私あての最後の手紙の一節だった。
 高野 裕美子は、私の周囲にいた女の子のひとりで、後年、作家になった。ミステリー大賞をうけてまもなく亡くなっている。高野 裕美子のことにふれながら、宇尾さんはひそかにご自分の死を見つめていたのではないだろうか。
 宇尾さんから、よく手紙をいただいた。私がさしあげた雑誌の感想、私の作品に対する批評が綺麗な字で書かれている。私はいつもありがたく読んできたが、もう宇尾さんから二度と手紙をいただくこともない、と思うと、何かしら、涙ぐむような思いでむねがいっぱいになった。手紙をいただきながら、私からはろくに礼状もさしあげなかった。宇尾さんは、たいていの場合、私の作品を褒めてくれたので、お礼をいうのは気恥ずかしいことであった。だから、あらためてお礼も申し上げなかったのだが――おのれの傲慢に耐えられなくなって、宇尾さんの書状を前に、しばらく声もなくたたずむばかりであった。

2010/10/15(Fri)  1227
 
              3

 あるとき、私は自分の周囲にいる若い女の子たちに、短い長編を書かせた。このシリーズはいくらか評判になったが、宇尾さんにもお願いして長編を書いてもらった。私が期待したものとは違う内容になったが、宇尾さんにが書いてくれたことがありがたかった。宇尾さんは、ペンネームを使っていたから、あまり知られていないかも知れない。(注)
 宇尾さんは、生活のためにいろいろな仕事をしていたが、どんな仕事をしても、宇尾さんの誠実さは感じられた。
 室生 犀星のことばだが――もの書きは一人前になって、あなたの作品が好きだとか何とかいっても、いわれたほうがきまり悪い思いがするから、いっさいそんな見え透いたことはいわなかった、という。おなじような意味で、私は宇尾さんの作品について批評めいたことはいわなかった。
 「朝」の仲間といっしょに出したアンソロジー、『姥ケ辻』に、「花ばたけは春」という作品を書いている。老年をむかえた女性の境遇、内面を描いたもので、老年の華やぎといったものが感じられた。
 おなじ時期に、宇尾さんが、聖ハリストスのイコンの画家、山下 りんの生涯をたどっていたが、この評伝が完成しなかったのは痛恨のきわみだったと思われる。
 そのとき、宇尾さんの内面に何があったか、私などに忖度できるものではない。

注)『愛の雫はピアノの音色』 森 扶紗子著 双葉紗 1989年2月刊

2010/10/10(Sun)  1226
 
          2
 
 たまたま私の住んでいる土地に、小さな文学賞があって、私はかなり長く審査をつとめた。これが「千葉文学賞」で、初期の頃は、恒末 恭助、峯岸 義一、福岡 徹、窪川 鶴次郎の諸先生が審査にあたっていた。ある時期からは、長老の恒松 恭助さんを中心に、宇尾 房子、竹内 紀吉、松島 義一、私の五人が、審査にあたるようになった。この審査会は年に一度だったが、恒松さんのお人柄もあって、いつも楽しい集まりになった。
 審査の席で、宇尾さんと私の意見はだいたいおなじになった。文学観が違っても個々の作品の評価になると、不思議に似たような評価になる。そんなとき宇尾さんは私の面子を立ててくれたのだろうか。いや、宇尾さんにそんな成心のあろうはずはなかった。
 審査のあと、すぐには別れがたい思いで、宇尾さん、竹内君、松島 義一君と、近くの旗亭で、酒を酌みかわす。いろいろな話題が出たが、これがじつに楽しかった。
 だいたいは有名作家の作品が話題になるのだが、竹内君が何かの意見を述べと、松島君が切り返す。竹内君がムキになって反論する。宇尾さんは、かるく手をあげてふたりを制する。ときには顔に笑いをうかべたまま、これだから男衆は……とでもいいたげに、ハンカチを出して、口にあてるのだった。
 私たちが何を話したのか。今となっては茫々として思い出せないが、まるでたあいもない話題に私たちはいつも笑いころげていた。


 宇尾さんは、この「千葉文学賞」以外にも我孫子市の教育委員会編の「めるへん文庫」の審査などもやっていた。
 その「選評」に「みんなが幸福であってほしいとねがう優しい心や、この世の不思議になぜ? と問いかける心があったから物語ができあがったのです」と書いている。こんなことばにも宇尾さんのひたむきな制作の姿勢がうかがえるようだった。

 宇尾さんの小説に出てくる、ごくふつうの日常のなかに、ときどきギラリとひらめく異様な輝きのようなもの、ときには生理的にドキッとさせられるような部分。いかにも女流作家らしい、ゆたかな肉感性や、息苦しい背理といったもの。「日本きゃらばん」に発表された作品は、だいたいそういうものに彩られてはいなかったか。

2010/10/08(Fri)  1225
 
【No.1225〜1229は、「朝」29号(追悼・宇尾 房子)平成22年8月刊に発表されたエッセイです】


         1


 宇尾さんの訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなったという。私は、ただ茫然として、この知らせを聞いた。


 はじめて宇尾さんに会ったのは、いまからどのくらい昔のことだったのか、まるで思い出せない。そのとき、「文芸首都」の作家と聞いて、いささかたじろいだ。
 「文芸首都」は新人の育成をめざした同人雑誌で、この雑誌からすぐれた作家が輩出している。その程度のことは知っていたが、だからといって宇尾さんが「文芸首都」の出身と聞いておそれをなしたわけではない。
 私は「戦後」すぐから批評を書きはじめたが、いつも文壇とは関係のない場所に立っていた。文壇に知りあいはいなかったし、文壇関係の出版記念会や何かの集まりにはいっさい出席しなかった。まして同人雑誌の作家たちとは全く面識がなかった。
 千葉に住むようになって、たまたま「文芸首都」出身の福岡 徹さんと知りあいになった。福岡さんが主宰していた「制作」にエッセイを書いたりするようになって、やはり「文芸首都」出身だった庄司 肇さんに紹介していただいたように思う。
 その庄司さんが、これまたいろいろな方を紹介してくださった。宇尾 房子さんを紹介してくれたのも、庄司さんだった。
 宇尾さんは、庄司さんが主宰していた「日本きゃらばん」に作品を発表していた。この「日本きゃらばん」の関係で、私は宇尾さん、竹内 紀吉君と親しくなった。
 誰とも交際のなかった私の不器用な生きかたを気にかけて、いろいろな方がいろいろな人とひきあわせてくれた。そういう機縁でもなければ、竹内 紀吉君や、佐藤 正孝君、宇尾 房子さんと知りあうこともなかったに違いない。
 べつにめずらしい話ではない。ただ、このおふたりとは、世にありがちな同人雑誌の離合集散などと関係なく、はじめから親しい友人として交際したことになる。
 宇尾 房子さんが「文芸首都」で修行した作家と聞いて、私がひるんだことは事実だった。
 「文芸首都」の作家では、北 杜夫や、佐藤 愛子には、いまでも親しみを覚えているが、「文芸首都」のように文壇に出ることだけを目的に修行し、その合評会では、なみいる論客がそれぞれ怪気炎をあげるという雑誌には、およそ関心がなかった。
 もう一つ、この雑誌を主宰していた保高 徳蔵に、私はひそかな軽蔑をもっていたせいもある。
 この作家は、戦時中にグレアム・グリーンの『第三の男』を読んでいたと書いていた。
 私の知るかぎり、戦時中にグレアム・グリーンを読んでいたのは、わずかに植草 甚一、双葉 十三郎のおふたりだけで、ふたりともグリーンが「スペクテーター」の映画批評家だったと知っていたから読んだと思われる。しかも、当時、英米の作家たち、とくに、まだ無名に近いグリーンの小説は、上海の海賊版でしか読めなかった。植草 甚一さんは苦心の末に、ひそかに一本を入手して狂喜したという。(私は、植草 甚一さんから直接、この話を聞いている。)さらにいえば、グレアム・グリーンの『第三の男』は、戦時中の作品ではない。こういうことをぬけぬけと書く作家など信用できるだろうか。

 批評家としての私は、それほど好悪の感情をむき出しにすることはないのだが、「文芸首都」から作家になった芝木 好子などは嫌いだった。この作家は、戦時中に書いた『青果の市』で、芥川賞をもらっているが、発表当時、警察権力の出没する部分を削ってまで芥川賞をねらった。その心根がいやしい。戦後の第一作は、エロの流行に乗ろうとして「州崎パラダイス」で娼婦を描いている。私には凡庸な作家と見えた。
 そんなことも重なって、「文芸首都」の作家と聞くと、敬遠したくなったのだった。
 かなり長い歳月、宇尾さんと親しくしていただいたが、文壇的なこと、お互いの身辺のことなど語りあったこともない。私たちの話題は、いつも文学に関してのものであって、その時その時のお互いの視野にあった文学に限られていた。
 だから、この追悼で、私は何を語ればいいのか。あるいは、何を語ることができようか。

2010/10/02(Sat)  1224
 
(つづき)
 一茶が有名になったのは大正12、3年の頃からだった、という瓢齋の記述は間違いではないだろう。
 とすれば、俳人、一茶が知られたのは、たかだか80年前のことになる。もっとずっと前から、一茶の存在が知られていたものとばかり思っていた。

 たしかに、一茶は、芭蕉、蕪村などとちがって、生前からひろく知られた俳人ではなかった。明治に入ってからも、一茶の名はひろく知られていたわけではない。

 私の好きな一茶の句をあげておこう。

    信濃路や 上の上にも 田植唄

    わが里は どう霞んでもいびつなり

 小林家は、柏原の本通りに面して、間口9間、奥行き4間、大きな藁屋だったという。

    これがまあ 終(つい)の住家か 雪五尺

 後年、この家を半分に区切って、一茶と、継母、その継母の子(異母弟)仙六が、隣あわせに住んでいた。
 これが一茶の実家だが、一茶が亡くなった年に、焼けてしまった。

 一茶は生涯、貧窮に苦しんだという。
 だが、一茶の父の代には、150俵ほどの収納米があったという。
 間口9間、奥行き4間の家屋といえば、かなりの広さだし、150俵ほどの収納米というのば、ただの貧農には考えられない量で、一茶が貧しい農民の出身ではなかったと見ていい。

    故郷や 蠅まで人を刺しにけり

    信濃路は 山が荷になる 暑さ哉

 北アルプスを歩いていた頃、よく、この句を思い出した。ザックの重さが肩に食い込んで、見はろかす山脈(やまなみ)が「荷になる」実感があった。

 釋 瓢齋のつまらない随筆を読んだおかげで、しばらく一茶の境遇を思い出すことができた。これだけでもよしとしなければなるまい。

2010/09/28(Tue)  1223
 
 短い文章を書く。
 べつにむずかしいことではない。

 釋 瓢齋は、昭和初期、戦前の「天声人語」の執筆者として知られている。『白隠和尚』、『俗つれづれ』といった著書は、十数版を重ねたベタセラーだった。
 先輩の徳富 蘇峰は、

    瓢齋君の筆は光ってゐる。其の短章を用ゐる技倆は天下に公評がある。然も其の長編にも亦た同様の特色がある。何となれば短章の累積が、則ち長編であるからだ。

 という。
 私は、蘇峰にまったく関心がない。瓢齋を褒めているようだが、これでは褒めるどころかむしろ貶しているように見える。
 もっとも、瓢齋のほうも、あまり褒められたもの書きではない。
 私は『瓢齋随筆』を読んだだけだが、失礼ながら退屈な随筆集で、今となっては読むにたえない。

 なぜ『瓢齋随筆』などを読んだのか。森田 たまを軽蔑している私は、どうして、こんなオバサンが名随筆家としてもてはやされたのか、そんな興味から、昭和初期の随筆というジャンルの文学的なレベルを知りたくなった。
 瓢齋は、一茶について、誰よりも早く、熱心にとりあげたひとり。

 釋 瓢齋の随筆、『瓢齋随筆』(昭和10年)を読んでいると、こんなことが出てきた。
 「一茶が俄に有名になったのは大正12、3年の頃からではなかったか」という記述にぶつかった。
 思わず眼を疑った。  (つづく)

2010/09/25(Sat)  1222
 
 最近の私は、あまり笑わなくなった。
 いろいろな理由がある。

 女がいう。
 「結婚するのは、お互いに理解しあって、愛しあうようになってからにしましょう」

 男はいう。
 「まず結婚して、理解しあい、愛しあおう」

 たいていの恋愛は、この食い違いをめぐっての喜劇である。見ていて、おかしな喜劇だから笑いを誘う。ときには、生涯をつうじての悲劇になる。
 これは、見ていてつらいだけだ。まして、当事者だったら、どんなに後悔したところで、幕が下りるまでは終わらない。

    女がいう。その眼が不安そうな色を帯びている。
    「結婚するのは、お互いに理解しあって、愛しあうようになってからにしましょうね」
    男はいう。
    「まず結婚して、理解しあい、愛しあおう」
    そういわずにはいられなかった。内面の深い底に、冷たい石のような不安が有るのを感じながら。

 ある小説の一節。作家は、アメリカの有名な作家。

 いつだったか、アダルトもののDVDを見た。テレビのリポーターを装った男が、繁華街で若い素人の娘をつかまえて、ホテルにつれ込む。
 若い女は抵抗らしい抵抗もせずに、脱がされてしまうのだが、
 「セックスするのは、お互いにもっとよく理解しあって、愛しあうようになってからするものよ」
 といった。
 ハンディカメラで撮影しながら男は、
 「まずセックスして、お互いに理解しあったり、愛しあったりするんだよ」
 といった。
 
 私は思わず苦笑した。

2010/09/23(Thu)  1221
 
 最近の私はあまり笑わない。

 吉永 珠子は、そんな私を心配してときどき手紙をくれる。

 なにしろ、手紙の表記に、中田 麹先生と書いたり、中田 工事先生、と書いてくる。悪意があってのことではない。私がこういういたずらが好きと知っていて、わざとふざけて書くのだった。

 麹(こうじ)は、お米やムギをセイロで蒸して、暖かいムロに入れ、発酵させて、麹カビをつくる。うまく発酵すれば、おいしいお酒ができる。つまり、暗黙のうちに、文学的な杜氏(とうじ)として、私に敬意を表してくれているらしい。
 工事というのは、たぶん、土木建築の工事のことで、毎日あくせく原稿を書いている私に対する、いささかの応援をふくんでいるだろう。
 私は、彼女から手紙をもらうと、思わず破顔一笑して、さっそく読むのである。

 ふと、考えた。
 もし、中田 金之助、とか、中田 林太郎といった名前だったら、もう少し偉くなれたかも知れないなあ。一歩ゆずって、ペンネームでもいいかも。

 どうせなら、中田 小鴉とか、中田 根っこ、または、中田 ひよこ、さては中田 メッキといったペンネームがいい。

 小鴉はコルネイユ、根っこはラシーヌ。ひよこは、プッサン。メッキは、ドレ。

 オレの作品に、コルネイユとかラシーヌの名がついていたら、サマにならねえ。(笑)

 私が少し元気がなかったり、少しスランプ気味だったりすると、きまって吉永 珠子から手紙が届く。それを読むとすぐに元気になるし、書きあぐんでいた原稿もなんとか書けるようになる。
 そもそも、こういうことを考えるのはヤキがまわった証拠だね。やっぱり、中田 麹か中田 工事ぐらいがお似合いだよなあ。(笑)

2010/09/18(Sat)  1220
 
 最近の私はあまり笑わなくなった。
 いろいろな理由がある。
 その一つ。ホラティウスのことばを知ったから。

 詩人はいう。

  Quid rides? Mutato nomine,de te fabula narratur.

     なぜ笑う? 名前を(置き)変えたら、おまえさんのことだぞよ。

 文章を書くとき、できるだけこの言葉を思い起こすことにしよう。うっかり笑えなくなる。
 うっかり忘れたら、そのときは笑うことにしよう。(笑)

2010/09/14(Tue)  1219
 
 私は詩について、あまり知らない。不勉強だったから。

 それでも、イエーツなどは、いくらか読んでいる。イエーツは劇作家でもあって、私はイギリスの戯曲はいちおう読んでいたからである。シングや、グレゴリー夫人の戯曲を読んだ動機もおなじだった。
 それでも、イエーツの詩に関心をもった。

  Knowing one,out of all things,alone,that his head
  May not lie on the breast nor his lips on the hair
  Of the woman that he loves,until he dies.

  我が知れることのひとつは、ひたすらに
  頭を 愛する女の胸にやすめたり 唇を 髪につけるなど
  なすあたわざることなり ということ
  死にいたるまで             (大意)

 こんな詩句を読むと、ついついイエーツの恋人、モード・ゴーンのことを想像する。
 モードは、終生、イエーツの恋人だった女人だが、イエーツの求婚を拒みつづけた。
 そして、別の男性と結婚したが、その後まもなく離婚する。
 モードを忘れられなかったイエーツは、わざわざノルマンデイーまで、モードに会いに行き求婚するが、またしても拒否される。

 イエーツがはじめてモードに会ったのは、24歳のとき。
 モードが、イエーツを振り切って結婚したとき、イエーツ、37歳。
 そして、ノルマンデイーにモードを訪れたとき、イエーツ、51歳。

 All true love must die,と、イエーツはいう。それは、やがて Into some lesser thing になる。

 なぜか、こちらまで苦しくなってくる。

 イエーツの場合、恋の苦しみがそのまま詩のみごとさに変わってくる。

2010/09/10(Fri)  1218
 
 またまた古い話になる。ジュリアン・デュヴィヴィエの映画『旅路の果て』のなかで、老優に扮したルイ・ジュヴェが、かつてのプリマ・ドンナを見て思わず呟く。「老年は醜い」と。
 老年をどういうふうに受け入れていくのか。これは、思想的な問題であり得るだろう。げんに、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』のようなすぐれたエッセイもある。しかし、平凡な作家には、老いを主題にしてシモーヌのように書けるはずもない。

 つい最近知ったのだが――
 1950年から、1990年まで、わずか40年間の経済生産のすさまじい拡大は、有史いらい1950年までの5000年間のそれよりも、じつに4倍になったという。

 私たちは、毎日、そうした経済、および様々な生産体制の発展のなかで生きている。誰ひとりそのこと(そうした経済状況を)別に不思議に思ってはいない。

 だが、計算しただけで、私たちの1年は、老いぼれた地球の1世紀ということになる。

 つまり、私たちは、毎日、かつての歴史の数年というスパンを生きていることになる。

 もし、地球がつぶやくとすれば――地球の「老年は醜い」というかもしれない。

 私はいまや地球の未来に関してはっきりペシミストである。自分の未来については、オプティミストだが。

2010/09/07(Tue)  1217
 
 シェイクスピアの詩で思い出したが、昔は、黒は美しい色ではなかったらしい。

   In the old age black was not counted fair,

 つまり、(シェイクスピアが若かった頃)、黒は美しい色ではなかった。少なくとも、美人の色ではなかった、ということ。

 しかし、今では、黒だって、美の後継者になれるおかげで、美 Beauty が、無残にも恥ずかしさ bastard shame にかられている。

 シェイクスピアの「恋人」Mistress の眼は、鴉のように黒い。

 黒が女性美を際だたせるようになったのはいつ頃からなのか。
 ファッション史を調べれば、だいたいの見当がつくだろう。では、現代の「黒」が女性美を際だたせるようになったのはいつからなのか。
 「マネ展」を見に行って、「ベルト・モリゾ」や「オランピア」を見ながら、19世紀末のパリ・ファッションの「黒」に心を惹かれた。

 私は黒いファッションをみごとに着こなしている女性を知っている。

 無声映画のスクリーンでは白と黒のコントラストは、早くから強調されていたが、無声映画に登場する女性美を「黒」が強調するようになったのはいつからなのか。
 たとえば、第一次大戦の「戦前」の、フランス美術、とくに「サロン」の女性のヌードに、「黒」はほとんど見られない。
 これが、劇的に変化したのは――おそらく、フランスの女優、ジョゼット・アンドリオが、全身に薄い黒のシルクをまとって登場した1919年からだった。つまり、第一次大戦の「戦後」、私たちは、はじめて女性のヌードを隠蔽し、しかもエロティシズムを強調するパラドクサルな時代に入った、と見ているのだが。

 これからフランス官展、「サロン」の女性ヌードを研究してみようか。

2010/09/03(Fri)  1216
 
 最近、私の書くものは、だいたい昔のことばかりである。
 これは、いたしかたのないことだろう。年が年なのだから、現在の時代を理解できなくなっているし、理解できたとしても、その理解はごく浅いものに過ぎないだろう。
 それは仕方がない。

 たとえば、詩を読む。
 ずっと以前は、フランス、イギリス、アメリカの詩人たちのものも読んできた。しかし、外国の雑誌を読まなくなってから、詩の世界にまるで疎遠になってしまった。
 いまの私が読むものは、せいぜいポップスの歌詞ぐらいなもので、それも自分の好きな歌手のものに限られている。

 たまに、シェイクスピアのソネットを読んだりする。

     Or I shall live your Epitaph to make,
     Or you survive when I in earth rotten,
     From hence your memory death cannot take.
     Althou in me each part will be forgotten.

 若い頃、こんなことを読んでも、べつに感心もしなかった。へえ、そうなのか。たかだかそんなふうにうけとめただけだったにちがいない。
 今の私には、もっと重みのあることばとして迫ってくる。

    私がきみより長生きをして、墓碑銘を書くとして、
    いや、私が地中に腐っているとき、きみがまだ生きていたとして、
    きみの思い出がかき消されることはない
    私のことなど、ことごとく忘れ去られるにしても   (大意)

 私ごときは、死ねばこの世のすべては終わる。しかし、君の名は永遠に生きつづける。

 詩はそうつづくのだが、私(中田 耕治)は、有名人の誰かれの訃を聞くと、この一節をひそかにつぶやく。私はただ墓地の土にうずめられるだけだが、きみは人びとの眼のなかに横たわる。 When you entombed in men’s eyes shall lie.

 大急ぎで断っておくが――シェイクスピアは、自分の詩が記念碑になって、「今はまだこの世に生まれていない人が読む。今、生きている人びとが死にたえても、これからこの世に生まれてくる人が(シェイクスピアの)詩を読んで、きみのことを語るだろう」という。私などに、そんなことがいえるはずもない。

 シェイクスピアは、自分のペンには、それほどの Virtue がある、という。
 ルネサンス人の凄さといっていい。

 私は――しばらく前まで、スクリーンで見ることのできた美しいスターたちが亡くなったとき、ふと、この詩の一節をつぶやくだけ。
  When you entombed in men’s eyes shall lie.

2010/08/27(Fri)  1215
 
 たくさんの香港ポップスを聞いてきた。
 テレサ・テンから、フェイ・ウォンをへて、彭佳慧(ジュリア)まで。

 80年代から90年代にかけて、周 慧敏、フェイ・ウォン、陳 慧琳(ケリー・チャン)がトップを切っていたとき、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)は、いつもトップ・グループにいた。これだけでも、たいへんなことだったと見ていい。
 黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の声の美しさ、そしてこの時期の香港ポップスのあまやかさ。どう表現すればいいのかわからない。

 黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)が、との程度の歌手だったか、これは簡単に説明がつく。

 1991年、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)は「我従這裡開始」で、香港の金賞を得ている。
 1993年、「一人有一個夢想」で、ヒット曲の金賞。
 1994年、10大心情歌手にえらばれて、「金心優異特別賞」を受けている。

 おもしろいことに、関 淑怡、王 慧平、那 英たちの世代の歌手たちは、それぞれきわだって個性的でいながら、声や、歌唱法、曲のメロディー、それぞれどこか似ているのだった。
 むろん、ある時代に活動した歌手たちが、それぞれの声や、歌唱法において似かよっているとしても、不思議ではないかもしれない。
 1930年代の、中国ポップス、たとえば、白光を聞いて、すぐに李 香蘭や、チャン・シュアン、張 露、白 虹を聞けば、それぞれがひどく似ていることに一驚をおぼえるだろう。
 だから、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)が、周 慧敏や、陳 慧琳と似ていたとしても、あやしむ必要はない。
 私は、「秘密」(1995年)をときどき聴く。
 このアルバムに、「一人有一個夢想」(デュエット)がはいっているのだが、この黎瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の歌に、香港返還の直前の哀愁と、不安がかすかに響いているような気がする。

 私は、もう誰もアジア・ポップスを聞かなくなってからも、できるだけ聞いてきた。
 その私が黎瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の歌を聞かなくなって、もう10年以上たっている。とても残念な気がする。

2010/08/23(Mon)  1214
 
 原稿を書く。
 書いている原稿と何の関係もない音楽を聞きながら書く。
 ムード作りのようなもので、音楽を聞いていながら、まるで別のことを書いているほうが楽しい。
 もっとも自分がよく知っている曲を聞きながら原稿が書けるかどうか。ひきずられてしまうだろう。

 いちばんいいのは、中国の二胡の演奏。
 たとえば「二泉映月」。誰の演奏でもいいのだが、へんに洋楽ふうにアレンジされた「二泉映月」は聞きたくない。そこで朱 昌燿の演奏を聴く。
 二胡の曲には、「空山鳥語」、「聴松」などいろいろ名曲が多いのだが、「漢宮秋月」などを聞きながら、高橋 まり子が贈ってくれた宮古島のお菓子、「ちんすこう」をいただきながら、これも田栗 美奈子が贈ってくれた狭山の新茶をいただく。別世界に遊ぶような気分になる。
 二胡の演奏では、日本では、陳明(チェン・ミン)が有名だと思う。NHKで放送した「アジア古都物語」のテーマで知られている。彼女の二胡の演奏もよく聴く。
 もうひとり、同名の歌手、広州の歌手、陳明(チェン・ミン)の歌が、私は好きなのである。
 こちらの陳明(チェン・ミン)は、私のひそかな評定では、王 菲(フェイ・ウォン)に比肩するほどの歌手なのである。

 たとえば、映画のサウンドトラックを聞きながら原稿を書く。ヴァレリー・ルメルシェ監督の映画、「カドリーユ」。

 私はこの映画を見ていない。原作はサッシャ・ギトリの戯曲。ヴァレリーは有名な歌手で、映画の監督。

 映画を見ていないのだから、音楽を聞いて映画を思い出すこともない。ただ、軽快なムード・ミュージックとして流しているだけ。

 ついつい原稿を書くどころではなくなって、ワインを飲みしこる。私の悪癖。

2010/08/17(Tue)  1213
 
 北欧のポップスを聞きはじめたのは、たぶん、80年代の終わり頃からだったと思う。もっとも早く聞いたのは、アンヌ・トウルート・ミキールセンで、彼女の歌にはただひたすら驚嘆した。
 ハンナ・ボエルを聞いたのは90年代になってから。
 これも偶然のことで、ハンナ・ボエルがどういうシンガーなのか知らなかった。
 最初のアルバム、「秘めた焦熱」DARK PASSION を聞いたとき、デンマークの歌手ということさえも知らず、アメリカのポップス、それも叙情的な、やわらかな唱法のシンガーなのかと思っただけだった。
 ただ、このハンナが、この年のデンマークの最優秀ヴォーカルという程度のことは知っていたような気がする。

 スカンジナヴィア・ポップスにかぎらず、ポップスについての私の知識はいいかげんなもので、そのアルバムのなかに、一曲、二曲、気に入った曲があれば、もう気がすむといったものだった。
 この「秘めた焦熱」(DARK PASSION)のなかに、

 「メイク・ラヴ・トゥ・ユー」 1 Wanna Make Love To You
 「私を欲しいなら……」 If You Want My Body
 「ウォーム・アンド・テンダー・ラヴ」 Warm And Tender Love

 といった曲があってよろこんで聞いたのだが、ブラック・ミュージックに、叙情的なテイストをくわえたといった感じがどうも私の好みにあわなかった。
 曲としては、最後の「クライ・フォー・ミー」だけは、ちょっとブルースふうで、心に残ったが、其れだけの印象だった。

 それっきり忘れてしまったのだが、つぎのアルバム、「マイ・キンドレッド・スピリット」を聞いたとき、私は自分の不明に気がついた。
 まるで印象が違っていた。

 「カム・イントゥ・マイ・ガーデン」 Come Into My Garden
 「フォーリング・イン・ラヴ」  Falling In Love
 「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」 Time To Say Goodbye

 どれを聞いても、前に聞いたハンナ・ボエルとは違っている。このときの私は、つくづく自分の耳が信じられなくなっていた。
 ただし、私は、ハンナが、人気、実力、ともにトッブ・シンガーと知って、ハンナに関心をもったわけではない。

     0ne by one I’ve watched them fall
     Slowly leave then die
     Now comes the hardest part of love
     When it’s time to say love

 そんなことばに心を動かされた。

 ハンナ・ボエル、1957年、コペンハーゲン郊外に生まれた。1990年度、ワールド・ミュージック・アワード。

 私にとって、忘れられないひとり。

2010/08/11(Wed)  1212
 
 ファドの歌い手といえば、ドゥルス・ポンテスを思い出す。
 久しぶりに音楽を聴きはじめたとき、まっさきにドゥルス・ポンテスを聞いた。

 ドゥルス・ポンテスの「海の歌」は、ファドの大先輩のアマリア・ロドリゲスが「孤独」という題で歌っている。アマリアの歌には、いたましいほどの孤独感がみなぎっているのだが、ドゥルスの歌には、おなじ孤独でも、なぜか華やいだ、イベリアの女のあまやかな感じがある。

    ある日 ファドはうまれた
    風が ほとんどなくて
    空が 海のつづきのような日
    海に出た帆舟の 舟べりで
    舟乗りの 胸のなかにうまれた
    かなしい 歌をうたいながら

 アマリアとドゥルスを比較するわけではない。だからアマリアとドゥルスのどちらがいいなどという問題ではない。ただし、おなじファドでもアマリアとドゥルス、それぞれの芸術家の資質、悲劇性、肉感性、大げさにいえば運命の違いのようなものを感じてしまう。うまくいえないけれど。
 ドゥルスでは、「オス・インディオス・ダ・メイア・ペライア」のような明るい歌もいい。この歌を聞いていると、やがて、「エストイ・アキ」のシャキーラが重なってくる。アメリカで大ブレイクする以前の、みずみずしい、まだ無名のシャキーラだが。

 いまの私は、アメリカのシャキーラを聞かない。ドゥルスは聴く。

 「涙」のなかで、ドゥルスは「あなたがこんなに好き この思いは 絶望」という。

    私を絶望させるのは
    私の内部の
    私を責め さいなむこの罰
    あなたが きらいなのよ
    私はいいきかせる あなたがきらい と
    そして 夜に
    あなたの夢を見るのよ 夜には

 ドゥルスを聴くと、たちまちドゥルスの歌の華やぎ、あまやかな感じがからみついてくる。私は他人にはいえない、つらすぎる思い出のように、ドゥルスを聴く。ドゥルスを聴くこと、私には悲しみを聴くことなのだ。
 「運命のファド」Fado Da Sina のなかで、

    逃げられやしないさ
    過酷で 暗い 宿命から
    おまえの 不吉な 運命からは
    邪悪な星が支配しているからさ

 と、ドゥルスはいう。

 いつかまた、ドゥルスを聞き直すだろう。

 注   ドゥルスは「ラグリマス」(東京エムプラス)
     シャキーラは「PIES DESCALZOS」(SONY)

2010/08/05(Thu)  1211
 
 孫の運動会を見に行く。
 少子化の影響で生徒数が減少しているので、1年生から6年生まで紅白に分かれている。
 行事全体が赤組、白組の対抗戦になっているようだった。

 競技ごとに若い女先生のアナウンスがある。

 「2年生までは、50メートルでしたが、3年生からは80メートル走になります。いちだんと成長した生徒たちの元気な走りをとくとご覧ください!」

 そして、生徒たちの競争がはじまった。……

 私は、「とくと」スポーツを観戦したことがない。相撲や、野球の解説で、「とくとご覧ください!」という言葉を聞いたこともない。
 この女先生は、しきりに「とくとご覧ください」をくり返した。

 きっと、何かの機会にこのことばを「とくとご覧」になってそのまま「とくと」おぼえたのだろう。この先生が相撲の解説をなさったら、
 「本日、春場所千秋楽、いよいよ白鵬/把瑠都の一線であります。みなさん、とくとご覧ください!」
 こんなことをおっしゃるかも。(笑)

 NHKのアナウンサーにも――「その一翼を担う」ということばを、「その一翼をカウのは」とヌカしたヤツがいる。(5/15。6:38a,m,)
 「ゆとり教育」の世代で日本語もろくに読めないのだろう。

 放送前に原稿を「とくとご覧ください」といってやりたくなる。
 とくと。入念に。とっくりと。つらつらと。篤とご覧うじろ。

2010/08/01(Sun)  1210
 
 最近まで音楽を聞かなかった。さしたる理由があってのことではないが、しばらく音楽を聞くまいと誓った。むろん、自分から求めて聞くことをしないというだけで、聞こえてくる音楽まで断ったわけではない。

 その私が久しぶりでCDを聞いた。

 旧ソヴイエトのソプラノ、リューバ・カザルノフスカヤ。

 彼女の存在を知ったのは90年代の半ばだった。まだソヴィエト崩壊前のこと。
 たった一枚しか出ていないCD、「イタリア・オペラ・アリア集」(メローデイア)を聞いたのだった。
 はじめて聞いたときから、私はリューバに魅せられた。私がさわぎまわったので、私の周囲にいたお嬢さんたちも、リューバを聞いてくれた。

 その後、ソヴィエト崩壊から、彼女の消息はわからなくなった。私はひそかに心配していたが、その混乱のなかで彼女のCDを探しまわって、やっと、2枚手に入れたのだった。その1枚は、ガーシュインや、アメリカのミュージカルまで入っているもので、ロシアの変貌ぶりがわかったが、カザルノフスカヤの健在を知ることができた。

 さらにその後、カザルノフスカヤが来日して、リサイタル形式で『サロメ』全曲を歌った。このコンサートに、青木 悦子、鈴木 彩織、竹迫 仁子たちといっしょに行った。このとき、終幕近く、リューバの声がみだれた。おそらく、旅行の疲労も重なっていたのだろう。
 しかし、私は長年関心をもちつづけてきたソプラノを、東京で、実際に聴くことができたよろこびにひたっていた。
 その後、リューバ・カザルノフスカヤは世界的な名声を得ている。

 私は、人生の途上で、たくさんのすぐれた芸術家に出会うことができた。現実に知り合う機会はまったくなかったが、そういう人々の仕事にいつも鼓舞されて、自分もやっと仕事をしてきたという思いがある。

 そして、今、またリューバを聞いてあらためて感動した。
 ソヴィエトで、はじめて、たった1枚だけ出せたCDで、リューバのみずみずしい声のすばらしさがいきずいている。こんな1枚をもっている人は、私たち以外にはあまりいないだろう。
 リューバを聞いたことから――しばらく封印してきた音楽にふたたび親しむことを自分に許そうと思っている。

2010/07/27(Tue)  1209
 
 私は夏が好き――だった。好きな理由の一つは、女の子の浴衣姿が見られる季節だから。

 女たちは、木綿の中形、紗、絽のような、からみ織り、麻の上布などの夏姿にかわる。
 ただし、私の好みは、あくまでも浴衣であって、夏御召、薄御召などの女人たちにさして関心はない。

 最近、若い女性のあいだで、着物をふだん着として着ている娘さんを見かける。その着物も、それほど高価なものではない。
 夏帯にしても、昔なら塩瀬の羽二重、絽がおもだったが、博多や、桐生のように単(ひとえ)帯にみえるものも、じつは中国産の安い生地のものや、リサイクルものの帯という。だから、和服を着るといっても、ふつうのワンピースを買う程度とかわらない。
 それならば、ごくふつうの浴衣を着たほうがいい。
 日本の女性、とくに浴衣を着ている若い娘の美しさは、いかなる民族の女性美にもおさおさ劣らない。
 いや、浴衣姿の日本の女は世界最高の美女なのである。

 浴衣といえば、下駄。
 塗りゲタ、コマゲタ、日和ゲタ。
 ゲタをはいた女の子の素足の美しさに、思わず眼を奪われる。私が久米の仙人だったら、やはり雲間から落ちてしまうかも知れない。

 最近、ときどき見かけるジーンズ姿の女の子も、半襟をストールがわりにしたり、帯紐をベルトにしたり。どうやら和のよそおいの見直しが流行しはじめているのか。

2010/07/22(Thu)  1208
 
 食料は肉から魚まで、闇市でなんでも買えたが、その前に金がなかった。
 私は7月まで、学生の勤労動員で、川崎の軍需工場で働いていたが、日給は2円だった。(おなじ工場に動員されていた、九州の小学生たちは、日給、1円。)
 戦争が終わってすぐにインフレーションが起きたので比較にならないのだが、敗戦直後の父の給料が300円程度だったから、闇市の食べ物が私にとって高価だったことは間違いない。

 とにかく飢えていた。
 食料といっても、私たちの口に入るものは、ほとんどサツマイモだけだった。戦時中に、食料増産のために「農林1号」、「農林5号」という品種が作られたが、これが、ただ図体ばかり大きくて、水っぼい、まずいものだった。これを五切れぐらいに切ったものが、5円。ミカン、10個で10円。カキ、3個で10円。

 オニギリ、3個で10円。大きなセイロで蒸した蒸しパン、1個で5円。

 敗戦直後の関西は、台風に教われて、甚大な被害をうけた。戦災で大きな被害をうけた大阪は大洪水にやられる。床上浸水、4万4994戸、床下浸水、1万490戸、被災者は15万9千人あまり。
 アメリカ軍が上陸してわずか1週間後のことだったので、関東の私たちは、関西の被害の大きさに気がつかなかった。むろん、気がついたところで、どうしようもなかったのだが。

 そして、冬がやってきた。
 暖房などあるはずもなかった。そこで、電熱器で暖をとるようになった。ところが、電気の配給が少ないので、すぐにヒューズがとんだ。変圧器が焼けて、たちまち停電する。
 敗戦で、電力の制限は解除されたが、実際にはひどい電力不足がつづいた。
 さらには水不足、燃料不足という非常事態が重なって、国民の生活に敗戦の重圧がひしひしとのしかかってくる。
 電力不足は、翌21年(1946年)になっても好転せず、一日おきに、午前5時から午後5時まで停電といった悲惨な事態になった。こうなると、夜、本を読む時間もかぎられてくる。

 昭和22年(1947年)になって、一般家庭には、4日に一度の送電、夜間も夕方から2時間しか電気がつかないような悲惨な毎日がつづく。
 銭湯も連日休業で、なかには薪持参でないと入れないという張り紙を出したところもあった。それでも、銭湯には昼間から人々がつめかけて、それこそイモを洗うような騒ぎだった。
 カランから出すお湯も、めいめいが持参する洗面器に2杯といった制限をつけられた。入浴もままならない日常なので、どうしても不潔になる。栄養失調のところに、ノミ、シラミ、ダニがひろがって、悪質な疥癬が流行した。かゆみがひどいので、この皮膚病はカイカイムシと呼ばれた。
 アメリカ占領軍が、日本人の頭からDDTを散布して、この流行は、ようやく沈静化したが、当時はだれひとり薬害など考えもしなかった。

2010/07/16(Fri)  1207
 
 東京に闇市が出現したのは、いつからだったのか。
 敗戦直後の9月といわれているが、実際には、もっと早かったのではないだろうか。
 ほとんど自然発生的に、駅前に人が集まり、食料はもとより、日用雑貨、繊維製品など、それぞれ物々交換で、必要な品物を手に入れようとしたと思われる。
 それは、あっという間に、ひろがってゆく。
 一方で、軍の組織が崩壊して、各地で軍の物資の処分がはじまっていた。内地の軍の正規の復員業務は、もう少しあとだったにせよ、8月下旬には多数の現役の兵士が、現地の部隊から帰郷しはじめていた。(私の友人、小川 茂久は8月の初旬に招集されたが、8月中に除隊されている。)

 はじめは、各地の復員兵めあてに、にぎり飯、フカシいも、蒸しパンなどを売る人々の群れがあらわれた。はじめはせいぜい十数人の規模だったのが、午後には数十人になり、翌朝は数百人の闇商人がひしめきあうありさまだった。
 こうして、一般市民を相手に種々ざったな食べ物、衣類など、ありとあらゆるものを供給する市場が形成されて行く。

 やがて(といっても、ほんの二、三日から、せいぜい一週間で)ヤキトリ、ホルモン焼き、雑炊、オデン。ショーチュウ、ドブロク、酒、ビールなどを売る屋台ができた。ぐるりを葦簾張りにして、長いベンチを据えて、そのなかで煮炊きをするのだから、れっきとした屋台であった。
 こういう店がならぶ路地ができて、飢えた人々がひしめいていた。

 それまで見たこともないほど雑多な品物が並べられた。鍋、カマ、お茶碗といった日用品、靴、とくに軍放出の軍靴、地下足袋、戦闘帽、雑農、古着から、鋸、鉄槌、シャベル、電気コンロ、ラジオ、とにかくありとあらゆるものが並んでいる。
 9月以後になると、アメリカ兵の売り払ったタバコ、チョコレート、Kレーション、ライターなどが氾濫する。

 そして、アメリカ軍が上陸して、数時間後に、若い女たちが、アメリカ兵に群がりはじめる。これも、敗戦国の、すさまじい、みじめな風景だった。
 白昼、スカートをとられたらしく、下半身をむき出しにして、素足のまましらじらとした新橋の裏通りをぼんやり歩いている女学生ふうの少女を見たことがある。

2010/07/12(Mon)  1206
 
 終戦直後に、浅草で思いがけず、G・W・パプストの映画、「喜びなき街」を見たあたりから、私の「戦後」がはじまっている。
 もっと切実だったことどもは――もはやほとんど薄明の彼方に沈んでいる。あの頃のひどい貧困や飢えさえも、もはや思い出せなくなっているらしい。

 私の「戦後」は、まず、食べることからはじまった。一方で、戦争継続を訴えて、海軍航空隊の戦闘機が超低空飛行で、ビラをまいていたとき、わが家の米ビツは空だった。配給も停止したからだった。
 いつ配給があるのかわからない。そんなものをアテにしていたら、餓死することは目に見えている。
 栃木県に疎開していた母は、我が家に戻ってきたとき、わずかながら食料を仕入れてきたが、そんなもので間にあうはずもなかった。母は疎開しておいた自分の和服などを売り払って食料に交換しようと考えた。
 こういうときの母の行動力はたいへんなもので、どこに行けば食料があるのか、猟犬のように嗅ぎつけて、その日のその日の食料を確保してくるのだった。
 むろん、苦心惨憺、やっと買い込んできた食料は、母の努力に比較しておそろしくみじめで貧しいものだったが。

 母は毎日焼跡を歩いた。三月十日の空襲に母は、猛火の迫るなかで、ミシンの頭を外して、毛布にくるんでもち出していた。むろん、それだけでは遣いものにならない。
 戦後すぐの焼跡で、焼けただれたミシンの足を見つけてきた。それを洗って、自分で組み立てた。
 つぎにどこかから木綿の生地を仕入れてきて、手製のワイシャツを作りはじめた。
 母は和裁、洋裁、どちらも得意で、ワイシャツを何枚も作った。
 「耕ちゃん、ここからここまでミシンをかけといて」
 私は母に教えられた通り、ミシンを踏んだ。
 とにかく生きるために、何でもしなければならなかった。

 できあがったワイシャツはきちんと畳んで、母がすぐに闇市にもって行く。手製のワイシャツでも、りっぱな新品で通用した。
 その代金で、にぎり飯、フカシいも、蒸しパンなどを買ってくるのだった。

2010/07/10(Sat)  1205
 
 戦後の私たちはそれこそ右往左往していた。
 とにかく歩いた。

 衣食住、何もかも不足していたので、生きてゆくために必要なものを探して歩いた。戦争が終わった直後に闇市場ができた。駅の周辺に人が集まる。なにかを売って稼ごうというひとたち、生活のためになにかを買う人たちが自然発生的に、闇市を作った。
 生きてゆくためには、食い物、衣料が必要だった。しかし、生活してゆくには、それだけでは足りない。
 私たちは、いささかの笑い、わずかな希望、なぐさめ、直接、腹のたしにはならないにしても、心の飢えをみたしてくれるものを求めていた。よくいえば、混乱と絶望のなかでも、文化のようなものが必要だった。文化は享楽でもあった。
 戦争が終わった直後、ワラを編んだ大きなかぶりものを頭にいただいて、それにアメの棒をぐるりとさして、三味線でおどりながら売る女、ヨカヨカ飴が出た。
 闇市の、葦簾(よしず)張りに幕を張りめぐらして、女が裸の下半身をむき出しにして、見物にタンポ槍で突かせる、いかがわしい見世物も出た。敗戦の東京に、いきなり江戸時代が戻ってきたようだった。

 大阪では、敗戦の混乱がひどく、映画、演劇の興行が緊急に停止された。これが、一週間続いた。8月22日からいっせいに再開されたという。
 東京はどうだったのか。
 (私は、8月17日の早朝に東京にもどってきた。那須に疎開していた母は、8月15日、ラジオで天皇の終戦詔勅を聞いてすぐに家財いっさいを売り払って、まっしぐらに東京に向かっていた。つまり、私と行き違いになったのだった。)
 その日、徹底抗戦を主張する海軍航空隊の戦闘機が、超低空飛行で飛びまわり、抗戦をうったえるビラをまいていた。

 私は、この日、映画館に行ったわけではない。しかし、娯楽に飢えていた人たちは、盛り場に出かけたり、もうたいへんな勢いでひろがっていた闇市に出かけていた。

 この時期、どういう映画が公開されていたのか。

 「河童大将」(嵐 寛寿郎・主演)
 「韋駄天街道」(長谷川 一夫・主演)
 「愛の世界」(高峰 秀子・主演)
 「団十郎三代記」(田中 絹代・主演)

 残念ながら、私は、こうした映画を一本も見ていない。

2010/07/06(Tue)  1204
 
 敗戦直後、それまでの日本をかたち作っていたものが音をたてて崩壊して行く。それは、かつて経験したことのない虚脱感として私たちに襲いかかってきた。
 と、同時に私たちに重苦しくのしかかっていたものが一挙に吹き飛んで、なんとも奇妙な、あっけらかんとした解放感があった。
 8月15日に、わずかながら食料の配給があった地域は多かったかも知れない。しかし、その後の混乱のなかで、鉄道ほかの交通手段が停滞し、配給システムがみだれ、私たちは途方にくれた。
 私は、8月16日に、栃木県に疎開した母にわずかな食料を届けるために、早朝から上野駅に向かったが、東北本線は1本も動いていなかった。上野駅には、東京から脱出しようとする無数の群衆がひしめきあって、プラットフォームは、それこそ立錐の余地もないくらいだった。
 私は朝の6時からプラットフォームにいたが、はじめての列車が駅に到着したのは、もう10時をかなり過ぎてからだった。群衆がわれがちに乗り込む。車窓から荷物を放り込む。その窓から車内に乗り込む。まるで暴動のようだった。その後もこれほどの状況は、見たことがない。
 たまたま、私のとなりに同年輩の少年がいた。押しあいへしあいしているうちに、私たちは、入口から離れてしまった。
つぎの列車がでるとは考えられない。どうしてもこの列車に乗らなければ、と思った私は少年に、
 「おい、あそこに乗ろう」
 と声をかけた。
 少年は私の視線の先をみて、すぐにうなずいた。そこは、車両と車両をつなぐ蛇腹のような蔽いの上だった。その蛇腹に乗れば、車両の先端に腰かけられる。
 少年は、猿のように蛇腹に手をかけた。私は、少年の腰を押し上げてやった。つぎは、少年が私に手をさし伸べて、私の手をつかむと引きずりあげてくれた。
 蛇腹に足を置いて、車両の先に並んで腰を下ろした。
 なかなか快適だった。

 いまから考えると、ずいぶん危険な行動だが、その時の私たちは危険だとは思ってもみなかった。私たちを見た人たちも、おなじように、連結の部分から屋根にのりはじめた。むろん、そんなことをする人たちは少なかったが、それでも各車両に2名づつはいたように覚えている。
 こうして、私たちは、国鉄史上はじめて違法乗車をやったのだった。

 敗戦翌日の国鉄がほとんど運行せず、ダイヤは麻痺状態、大混乱になった。駅に殺到した乗客は殺気だっていた。
 このときのことは、後年、小説に書いた。         (つづく)

2010/07/03(Sat)  1203
 
 私の人生に多少の影響をあたえた映画がある。

 戦後すぐに、私は、ドイツ映画「喜びなき街」を見た。グレタ・ガルボがはじめて主演した映画だが、私はまったく何の予備知識ももたずに見たのだった。
 これは、第一次大戦の「戦後」のウィーンのすさまじい荒廃を描いたもので、この8月、敗戦国家になった日本の運命を予感させるような内容のものだった。
 監督や出演者の名前もしらなかった。

 第一次大戦の、戦後のウィーンは、30年後の、ヒトラーの敗戦後とちがって、空襲を受けたわけではない。しかし、人々は飢えて、何の希望もなく、ただ街を歩いている。衣食住すべてがなかった。みすぼらしい服装、口腹の欲をみたすもの、ただゆっくり眠れる場所をもとめて人々は廃墟を歩きつづけている。
 これが敗戦国の「現実」なのか。
 当時、17歳だった私は、敗戦後の日本の「現実」――まだ、少しも現実のものになっていない「現実」を、無意識に、この映画に重ねていたような気がする。

 この映画のラストで、ヒロイン(ガルボ)は混乱と絶望に蔽われた市街を放浪するのだが、雑踏のなかを右から歩いて、中央で立ちどまる。
 左側から歩いてくる若い娘とすれ違う。お互いに視線をからませるわけでもない。ただ、一瞬、すれ違うだけ。その娘は、画面、右側から消えてゆく。

 このシーンを見たとき、ふと、どこかで見たことのある女性だと思った。というより、一瞬、直覚したのだった。
 あっと思った。
 マルレーネ・ディートリヒ。私は、まったく無名のディートリヒを見たのだった。

 その後、ガルボの伝記も、ディートリヒの伝記も読みつづけてきたが、無名のマルレーネ・ディートリヒが、これも無名に近いグレタ・ガルボがはじめて主演した映画に出たことにふれた資料はなかった。

 ディートリヒ自身が、無名のエキストラ時代に関して、まったくふれることがなかった。つまりは、ディートリヒとガルボには、まったく接点がない。
 私が見たワン・シーンも、きっと私の幻想だったのだろう。いつしか、私は自分でもそう思うようになった。

 その後、「喜びなき街」を見る機会はなかった。

 数十年後。ドイツの都市とナチスの歴史を研究した本を読んでいるうちに、まだ無名のディートリヒが「喜びなき街」に出たという記述を見つけた。
 私は、茫然として、その一行を見つめていた。……

 おなじ頃、フランスの俳優、ジャン・ギャバンの伝記を読んだ。戦時中、アメリカに亡命したギャバンがハリウッドでディートリヒと同棲していたとき、隣に住んでいたガルボがふたりに興味をもって、しきりに監視していたという記述を読んだ。
 私は思わず笑ってしまったのだが――

 敗戦直後の大混乱のなかで、一家離散の状態で、まるで戦災孤児のように、上野、浅草をうろついていた私が、どうして「喜びなき街」のような映画を見たのか、あらためて不思議な気がしはじめた。

2010/06/30(Wed)  1202
 
 昔、同人雑誌の批評をつづけていたせいか、今でもときどき知らない方から、創作集などをいただく。かならず眼を通すことにしていたが、ちかごろはさすがに疲れてきた。

 「文学書を読むとき、文体の外見に感心するのは阿呆の習性である。」

 スタンダールのことば。私の批評上の心得のひとつ。

 「はっきりした思想が単純な文体で述べられている本だと、これはちっともうまく書けていないという。そのくせ、誇張したいいまわしには、手放しで大喜び。こういうのが、成りあがりの田舎者なのだ。」

 すぐにつづけてのスタンダールの痛烈な言葉。これもすごい。

 こういう連中は、たとえば、
 「私の心の中に冬がある――私の魂の中に雪が降る」
 といったたぐいの文章に感心する。

 ただし、スタンダールと違って私は、たとえば流行歌の作詞家が、
 「私の心の中に冬がある――私の魂の中に雪が降る」
といったたぐいの歌詞を書くことに賛成する。
 大衆にウケなければならないからだ。

2010/06/25(Fri)  1201
 
 あい変わらず、ろくでもないニューズばかりだが、私がうれしくなったニューズがひとつ見つかった。
 私たち現代の人間とは別の種類の人類に、ネアンデルタール人がいる。そのネアンデルタール人が、私たちの初期の人間と交雑していた。
 ドイツの「マックス・プランク進化人類学研究所」のスパンテ・ベーポ教授のグループがつきとめた、という。

 私は、進化人類学については何も知らない。ただ、今の人間の、遠い、遠い、遠い先祖の誰かが、ネアンデルタール人の男か女と、セックスして、相手を妊娠させたか、こっちが妊娠したか、とにかくムニャムニャして、現在の人間になっている、ということになる。私は、このニューズに感動した。

 アフリカ以外の地域の現代人のゲノム(全遺伝情報)のうち、1〜4パーセントが、ネアンデルタール人に由来する、とか。
 ひょっとして、おれッチも、1パーセントぐらいはネアンデルタール人の血がまざっているかも。いや、まてよ、ひょっとして……

 ネアンデルタール人とは何か。
 40万年から30万年も昔に、現生人類の共通の祖先から枝別れした人類。3万年前に絶滅した。それまでは、ヨーロッパや、西アジアにぶんぷしていた。
 特徴として、顔の彫りが深く、頑丈な体格。
 日照の少ない高緯度地方に生息していたため、肌が白く、神の色も薄かったらしい。

 なんでえ、これじゃ、可能性としては1パーセントもあぶねぇじゃあねえか。

 「マックス・プランク進化人類学研究所」のグループは、3万8千年前に生きていたネアンデルタール人の女性3人の化石から、4年がかりで、ゲノム配列の60パーセントをつきとめた。
 現生人類の祖先が、故郷のアフリカを出て間もない10万年から5万年前に、中東などの地域で、先住民のネアンデルタール人の異性に出会った。
 その後、現生人類が世界じゅうに進出したため、アフリカ以外の各地で、ネアンデルタール人の遺伝子が検出された、と研究グループは推定している。
 これは科学雑誌「サイエンス」に発表される、とか。

 ゾクゾクするほど、うれしくなってきたね。

 私がネアンデルタール人の遺伝子をもっている可能性は、1パーセントもないかも知れないが、何万年も昔の祖先が、異性に出会ったことぐらいは想像できる。
 やっぱり「ボーイ・ミーツ・ガール」だろうなあ。
 阿部 知二のもっとも初期の作品に、「戀するアフリカ」という短編があるけれど、私も「恋するネアンデルタール女」でも書けばよかったなあ。(笑)

2010/06/22(Tue)  1200
 
 少年時代のことを思い出す。

 ラジオで相撲の実況を聞いていた。野球の実況放送も聞いたが、そのナレーション、テンポ、エロキューションなど、今の人には想像もできないだろう。

 ただ今、1時30分でございます。ただいまより、六大学野球、早慶第一回戦を放送いたします。少しくお待ちを願います。
 ……
 ただいまの拍手は、慶応のシートノックがすんだところでございます。かわって、早稲田の練習でございます。ノックは、キャブテン、XXでございます。
 ……
 本日は、朝は曇っておりましたが、ただいまはよく晴れまして、五月晴れとなりました。一塁線から外野センターのところまで、慶応の応援団、1万人以上。一方、早稲田の応援団、500人ばかし。三塁側に慶応の1万人に対しての涙ぐましい応援でございます。  …… フレーフレー ワセダ
 かくて、早大、春の緒戦を勝ちとりますか、慶応、ふたたび王座をめざしますか、早慶、神宮グラウンドにあいまみえ、互いに一歩もゆずらず、竜虎あい打つ試合でございます。
 ……
 早稲田の応援団、意気さかんに応援をしております。
 ……
 いよいよ、試合の開始となりました。

 少年の私は、ラジオにかじりついている。

 ……
 やぁ、打ちました打ちました! 安東は、予定通りバントと見えましたが、みごとにヒット。やりましたやりました、1点。ランナー、真喜志、たちまちにしてホームイン!
 ……
 次打者、田栗、ショートを抜けば、田村、懸命に走っております。やあ、ホームイン、ホームイン。吉永の返送球、やや高く、この間に三塁セーフ。これで早大、3点。田栗も一塁でセーフ。

 本日は、投手戦というより、打撃戦になりまして、またもや、立石、ホームを踏みました。
 さて、定期のお時間でございます。これよりしばらく経済市況を申しあげます。最初に、大阪の株式市場では……

 私は、ラジオから離れて、母親のところに行く。

 なんか、おやつ、ないの?

 ――何もないよ。コーセン、作ってあげるから、食べて。

 香煎(こうせん)。クズ米を煎って、チンピなどとまぜた粉。ほんの少し、お砂糖をまぜて、白湯(さゆ)をそそぐ。たいしておいしいお菓子ではない。白湯をまぜないまま、口に入れると、口のなかが粉だらけ。むせたりする。

 しばらくすると、

 これで、経済市況をおわりまして、ひきつづき、早慶戦の放送でございます。
 中断中に、慶応、三者凡退、ただいま、X回の表、早大の攻撃でございます。……
 みごと、ストライク。これを、入江、見送って、安東、大きなモーション、ファール。アウトコーナーをややはずれたボール。2ストライク、1ボール。ランナーは笠井……

 私はラジオにしがみつく。……やぁ、おもしろくなってきたぞ。ここで1点、入れるかなあ。

 打ちました打ちました! 大飛球、大飛球。外野に向かって飛んでおります。
 ……
 あ、レフト線上、堤、走る走る、ついにみごとにキャッチ。アウト、アウトでございます。打者がボールを打てば、野手がとるのであります!

 私は思わずむせる。コウセンの粉が咽喉の奥にはりついた。

 今でも忘れられないことがある。
 私のクラスの、荒井君という同級生が作文を書いた。そのなかに「アナグソ」という言葉が出てきた。小学生の耳にはアナウンサーが「アナグソ」と聞こえたらしい。

 今から70年以上も昔のこと。

2010/06/18(Fri)  1199
 
 昔のゴシップ記事を読む。

    エロの総本山、イットの元祖、クララ・ボウが肥り過ぎて、近頃、とんと売り物
    のイットが発散しなくなったので、何とかして痩せたい痩せたいと苦労している
    ことは皆様ご存じの噂。
    ところが、わが国でも、肥り過ぎて困っている女優は沢山ある。
    日活の夏川 静江、ますますポチャポチャと円くなり、マキノの大林 梅子、む
    くむくとふとり、蒲田の新進、伊達 里子もまた脂肪分充満して、おのおの「痩
    せたいわ痩せたいわ」と嘆いている。
    蒲田の栗島 すみ子も、先ごろまで肥って困るとこぼしていたが、某博士発明の
    「痩せ薬」を常用し初めてからメキメキと、痩せだし、近ごろではなよなよとし
    たすみ子独特の美しさを発揮し出した。
    女優連中が、すみ子を取り巻いて、
    「まあ、羨ましいわ、その痩せる薬を教へて頂戴よ」といってるところへ、通り
    かかった八雲 恵美子、その話を聞いていたが、やがてホッと一つ息をして行っ
    てしまった。
    無理はない、八雲 恵美子の念願は、「何卒神様、私を肥らせ給え」であった。
    やせるもふとるも神のみこころ、こればっかりは、スター諸嬢にもままならぬと
    見える。         (「サンデー毎日」昭和5年11月2日号)

 別にコメントする必要もない。
 こんなゴシップ記事に興味をもつのは、この程度の内容でもじつにいろいろなことがわかるからである。
 栗島 すみ子は日本のサイレント映画を代表するスターだった。この昭和5年3月、「日活」は、藤原 義江主演で「ふるさと」で、トーキーに先鞭をつけた。つまり、栗島すみ子の時代は、確実に終わりを告げていた。
 夏川 静江は、スターの地位はたもったが、マキノの大林 梅子、蒲田の伊達 里子もスターの座を去ってゆく。
 世界的な大不況の影響もあって、昭和5年から7年にかけて、日本の映画界は激動の時代を迎えていた。撮影所だけでなく、映画館でも争議が続出している。

 昭和5年、日活で撮影中の映画の題名は「娘尖端エロ感時代」。
 一方、日本で公開されたハリウッド映画は、「アンナ・カレニナ「(グレタ・ガルボ主演)、「リオ・リタ」(ビーブ・ダニエルズ主演)、「ジャズ・シンガー」(アル・ジョルスン主演)、「ラヴ・パレイド」(モーリス・シュヴァリエ、ジャネット・マクドナルド主演)。「ブロードウェイ・メロデイ」(アカデミー賞作品賞)など。

 優劣の差ははっきりしていた。

2010/06/14(Mon)  1198
 
 電信柱に貼ってあった広告のチラシを思い出した。
 アメリカから、テレル夫人という女性が来日したという内容のものだった。私が小学校の低学年だった頃。昭和10年代。

 テレル夫人はたいへんな肥満で、関取の小錦よりももっとデブだったはずである。
 来日したときも、当時の鉄道の客車には乗れず、わざわざ貨物車に椅子兼用の寝台を用意して各地を巡業した。見世物だったらしい。
 私はテレル夫人を見なかった。見たいとも思わなかった。
 ただ、毎日、電信柱にベタベタ貼りつけられたチラシを見ながら通学したので、テレル夫人の名前をおぼえてしまった。

 つい最近、こんな人生相談の投書を読んだ。

     育児休業中の30代女性。
     幼い頃から続けてきた水泳を、中学時代に一時期やめて体重が15キロふえた
     ことがありました。
     高校になって水泳を再開して体重はもとに戻りましたが、以来、体重の増加が
     過剰に気になるようになりました。1キロでも増えると落ち込んだり、イライ
     ラしたり。毎日、体重計に乗ってイライラする自分が嫌になります。
     べつに、やせて綺麗になろうとは思っていないのです。増えてしまうのが恐ろ
     しい。今、太ったら、もうもとには戻らないだろうと思います。
     体重が気になるのは自分に自信がないのが原因かも。本来、食べることは好き
     なのですが、カロリーばかり気にして、毎日歩いて、野菜中心の食事にしてい
     ます。それでも太ってしまうのではと心配。こんなことをずっと考えて暮らし
     ていくのはつらいです。たべたいものを楽しく食べていきたいのですが……

 この女性にとっては、わずかな体重の増減が人生の重大事なのか。
 はっきりいって、こういう考えが――まず精神的によくない。1キロでも増えると落ち込んだりイライラするというのは、潜在的な鬱病の初期症状と見たほうがいい。
 「べつに、やせて綺麗になろうとは思っていない」というのは、Evasive な表現で、はっきり「やせて綺麗になろう」と考えたほうがいいのではないか。
 むろん、やせたから綺麗になるとはかぎらない。
 若い女性のほっそりした足が魅力的に見える、といっても、外国人の眼には、日本の女性の、むしろぼってりした大根足のほうが、けっこう魅力的に見えていることを考えればいい。
 テレル夫人のような極端な肥満は論外だが、やせている女性より、いくらかふとりじしの女性のほうが好まれることも多い。
 「イヴのすべて」で主演したアン・フランシスという女優さんは、小柄だが、ぼってりしたからだつきだった。いまの女優でもアンジェリーナ・ジョリーなどは、ふとりじしといっていい。
 だから、体重が15キロふえたぐらいで悲観する必要はない。30代で、育児休業中の女性なら、ホルモン・バランスから見て、多少ふとっても自然ではないか。
 「今、太ったら、もうもとには戻らないだろう」などと考えないこと。

 毎日、体重計に乗ってイライラするのはやめたほうがいい。

 自分のからだをよく知って、いちばん貴重な体重をいつまでもたもちつつ、これからやってくる40代、50代を楽しみにしながら、好きなものを食べる。(むろん、食べすぎはよくないが。)30代といえば、女としても最高の時期ではないか。
 毎日歩いて、野菜中心の食事にしようというのは殊勝だが、カロリーばかり気にするのはよくない。
 私たちの幸せは毎日の食事をおいしくいただくことにある。私たちはカロリーばかり気にするために生きているのではない。

2010/06/08(Tue)  1197
 
 スランプで何も書けないときはどうするか。

 私のようなもの書きでも、ときどきスランプを経験した。そんなときは映画を見るとか、音楽を聞く。そういう対症療法がきかないスランプだったらどうするか。
 地図をポケットに押し込み、知らない山を登りに行く。たいていのスランプは癒ってしまう。

 老齢になると、どんな映画を見てもあまり楽しめないし、まして最近の音楽にはついて行けない。
 一度スランプに陥ると、悪化するばかりで、予後もおぼつかない。

 そこで、昔見た映画で好きだったものをビデオやDVDで見直す。
 スランプのときに私がえらぶのは、「ファールプレイ」、「ウォリアーズ」、「ガルシアの首」、あるいは、ツイ・ハークや、チャウ・シンチーの映画なのだ。
 どれもこれも、映画史に残るような傑作ではない。名画でもない。誰ひとりおぼえていないような映画ばかり。
 「ファールプレイ」のゴールデイ・ホーンが好きだし、「ウォリアーズ」では無名だった少年や少女たちを見て――かつてのニューヨークを思い出す。
 ツイ・ハークの女侠たち、とくにブリジット・リンや、内容はまったく「おばか映画」なのに「詩人の大冒険」のコン・リーが、どんなに美しかったか。

 ただし、そういう「お気に入り」でも、あまり何度も見たせいか効果がない。こうなったら重症である。最後の最後にとっておきの1本を見て、やっとなんとか元気になる。
 これは、いずれ友人の竹内 紀吉に見せてやる約束だったが、彼はスランプなど一度も経験しなかった。
 だから、彼にも見せなかったのが――残念だった。

 どんなにくだらないものでも、見落としている部分が少しはあるかも知れない。いつも、そう思って見ている。トリヴィアルなことでもいいのだ。ひとりの登場人物が、ほかのどんな女とも違って見えてくる。
 それがすばらしい。

2010/06/03(Thu)  1196
 
 作家、ジャン・ジロドゥーは、長い期間、何も書かない。何かを書きたい欲求がない。だからみんなはジャンがスランプなのだろうと見ている。
 ある日、突然、作家は何か書きたいという気もちになる。
 窓辺か、暖炉のそばに、ブリッジ用の小さなテーブルを出す。
 さて。原稿用紙をひろげて書き出す。一気呵成に。
 こうして二週間か三週間、書きつづける。

 作品が仕上がると、小さなテーブルをしまって、それまで一心不乱に書いていたことを忘れたように、本業の外務省の仕事に専念する。

 書きあげた原稿はタイプでコピーをとって、親しい作家や批評家に読んでもらう。戯曲の場合は、俳優のルイ・ジュヴェに読んでもらうのだった。
 彼の原稿は、数十ぺージにわたって流れるように書きつづけられているが、途中、一語たりとも削ったり書き込みがなかった、という。

 さすがに凄い作家だなあ。
 私などはまったく正反対のタイプ。

 作家、山川 方夫は、まだ無名の頃、「三田文学」の編集をしていた。たまたま、だれかの原稿が落ちた(間にあわなくなった)とき、急遽、自分の創作を掲載した。ほんの数時間で短編を書いたらしい。
 たまたま、その翌日、私は山川に会った。しばらく雑談をしたが、山川は、徹夜で書いたばかりの短編を私に聞いてくれといった。原稿を読んでくれ。というのなら話はわかる。ところが、原稿を聞いてくれというのだった。
 そして、山川はその短編、「春の華客」の冒頭から暗誦してみせた。

 私は山川の暗記力におどろかされた。いくら自作の短編にせよ、まるまる全部暗記する芸当は私にはとても考えられないことだった。
 私ときたら、自分が書いたばかりの短いエッセイでさえ、正確にそらんじてみせる、などという芸当はできなかった。その雑文で何を書いたか、内容さえろくにおぼえていないのだった。
 山川は小説を書くのが好きでたまらなかったのだろうし、いつも自作に自信をもっていたに違いない。

  山川は、ほんとうに才能のある作家だった。彼の周囲にいた人々は、誰しも、彼がいずれ作家として登場するだろうことを疑わなかったはずである。
 「春の華客」を書いた彼は20代の前半で、私ははじめての訳書が出たばかりだった。

 その日、山川 方夫は私に小説を書くようにすすめてくれたのだった。

2010/05/30(Sun)  1195
 
 久しぶりに、知人に会って、自然に口を衝いてでることば。
 「やあ、しばらく」

 相手が親しい知人であれば、会わなかった時間をいっきに埋めて、なつかしさが迫ってくる。だからこそ、これだけのことばで挨拶として通用する。

 日本人は、いつ頃からこんな挨拶をするようになったのか。

 昔の俳句を読んでいて、思いがけず、

      やあしばらく 花に対して 鐘つくこと      維舟

 という句を見つけた。

 作者は貞門の俳人で、ずいぶん剛腹な人だったとか。俳諧の道では、いろいろな人と争ったらしい。しかし、鬼貫、言水が門人だったというから、一門の指導者としてはすぐれていた人物。
 どこの世界にも、こういう人はいる。人間的にいやなやつだったのだろう。延宝8年、76歳で亡くなっている。

 ところで――
 親しい人から近刊の本を頂いた。手紙がついている。

 その結びの部分は、

   どうか、お風邪など召しませんように。ご会拶に伺える日を楽しみにしております。

 まさか、挨拶という言葉が書けないはずはない。してみると――わざと「会う」という言葉にひっかけて、造語(ネオ・ロジスム)とシャレたらしい。

 こういういたずらは楽しい。というより、こういうさりげない「いたずら」が好きな人が好きなのである。

 いただいた本は私にはむずかしい内容だったが、これから少しづつ読むことにしよう。

2010/05/27(Thu)  1194
 
 フランスの芝居で、私たちがすぐに思い浮かべるのはコメデイ・フランセーズだろう。モリエールの劇団が旅から旅に巡業をつづけたことはよく知られているが、一六七三年、劇作家で俳優のモリエールが亡くなったあと、残された劇団は、ルイ十四世の勅命によって一六八〇年、これも王立のブルゴーニュ劇団と合同した。
 ルイ十四世はこの劇団にパリにおける独占上演権を許し、俳優に年金をあたえる特権をあたえた。この新劇団は、ラシーヌ、コルネイユ、モリエールをはじめ古典の上演を使命とすることになった。一七七一年から八〇年代にかけて、パリの劇場はテアトル・フランセ、テアトル・イタリアン、テアトル・ド・ロペラ(オペラ座)が、ほんらいのフランス演劇(コメデイ・フランセーズ)である。(現在でも、コメデイ・フランセーズは「モリエールの家」と呼ばれている。)

 ところで、コメデイ・フランセーズの成立ととかかわりなく民衆はエンターティンメントをもとめていた。パリでは縁日の市場に掛け小屋で喜劇を演じるような芝居者が多数あらわれる。一七五九年から、パリ市内、北東にあたるブールヴァール・デュ・タンプル(寺院通り)には常設の芝居小屋が並ぶようになった。サン・ジェルマンや、サン・ローンの修道院では、二ヵ月のロングラン興行さえめずらしくなくなる。ブールヴァール(大通り)芝居とよばれるものの濫觴(ルビ らんしょう)である。
 こうした劇場でとりあげるレパートリーは、パリ市民の好みにあわせた、ひどく猥雑な笑劇、見世物、パントマイムによる夢幻劇、犯罪劇ばかりだったが、いきいきとした民衆のエネルギーにささえられていた。この通りに集まってくる連中のなかには、よからぬ風態のもの、ヤクザや娼婦たち、スリ、強盗なども多く、寺院通りはブールヴァール・デュ・クリム(犯罪通り)と呼ばれるようになった。
 ただし、犯罪者が集まってきたために犯罪通りと呼ばれたわけではなく、当時、「メロドラム」と呼ばれた勧善懲悪のお涙頂戴もののサスペンスで、ドラマの山場にきまって殺人シーンが出てきたためという。これは、のちのロマン主義の演劇運動に通底している。こうした雰囲気は、後年の映画「天井桟敷の人々」(1944年/マルセル・カルネ監督)に描かれている。あの映画に登場するフレデリック・ルメートルは、実在の名優で、まさにロマン派とメロドラムのヒーローとして生きた。もうひとりのジャン・バティストは、マイムの名優として、フランスの俳優術の洗練を代表していた。

 絶対王制の下で演劇活動をつづけてきたコメデイ・フランセーズは、一七八九年のフランス革命によって、特権的な地位を失った。革命の人権宣言で、劇場を開設する権利は万人のものと認められて、劇場が都市の周辺に出現する。一七九八年、コメデイ・フランセーズは再建されたが、名優、タルマと保守派の対立、俳優たちの内紛がつづいたり、火災にあったり存続もあやうい受難の時代をむかえる。
 一八一二年、遠くモスクワに遠征したナポレオンの勅令によって、コメデイ・フランセーズの機構がきめられて現在までの大まかな基礎が作られ、一八五〇年にはコメデイ・フランセーズを総括する支配人という制度が発足した。これも、第二帝政の時代の大きな演劇改良の動きによるもので、ブールヴァールがフランス演劇に大きな影響をあたえていたからだった。こうして、名女優ラシェルからサラ・ベルナール、名優フリダリクスからムネ・シュリー、リュシアン・ギトリの時代に移ってゆく。

2010/05/23(Sun)  1193
 
 イリヤ・エレンブルグを読む。
 いまどき、ソヴィエトの作家、エレンブルグを読む人はいないだろう。

 イリヤ・エレンブルグは、若き日をパリで過ごしている。
 彼の回想を読むと、コメデイ・フランセーズで、ムネ・シュリーの「エディプス」を見たことがかかれている。

 「私は芸術劇場しか認めていなかった。舞台ではすべて現実におけるがごとくでなければならないと思っていた。ムネ・シュリーはみじろぎもせず、ひとところに立ちどまると、手負いのライオンのようにうなりはじめた。『おお、われらの人生のなんと暗いことよ!……』何年かたってやっと、彼が名優だったと気がついたが、当時は芸術のなんたるかも知らなかったので、こらえきれず、大声で笑いだした。天井桟敷で、芝居の見好者(ルビ みごうしゃ)の間に陣どっていたのだが、あっと思ったときには、ぶん殴られて、通りにほっぽり出されていた」と。(「回想」1960年)

 私はこのエビソードを、『ルイ・ジュヴェ』で書いた。

 やはり若かったジュヴェは毎日のようにムネ・シュリーを見に行っていた。だから、ムネ・シュリーの芝居を見て笑いだしたロシアの青年が、パリの若者たちにひったてられても同情しなかったに違いない。

 佐藤 慶が亡くなった。
 俳優座の養成所で私の講義を聞いたひとりだが、あるとき、私が演出した芝居を見ていた彼が不意に笑いだした。私が芝居に出した俳優の芝居がひどく下手なので呆れたらしい。私は、佐藤 慶の風貌に、一筋縄ではいかぬ不定なものを感じたことを覚えている。

 佐藤 慶は養成所の生徒だった頃から、映画をめざそうと思っているといっていた。

 イリヤ・エレンブルグを読んでいて、彼が若き日をパリで過ごしていたこと、自分が若い頃に知っていた俳優の訃報がかさなってきた。

2010/05/25(Tue)  1193
 
 イリヤ・エレンブルグを読む。
 いまどき、ソヴィエトの作家、エレンブルグを読む人はいないだろう。

 イリヤ・エレンブルグは、若き日をパリで過ごしている。
 彼の回想を読むと、コメデイ・フランセーズで、ムネ・シュリーの「エディプス」を見たことがかかれている。

 「私は芸術劇場しか認めていなかった。舞台ではすべて現実におけるがごとくでなければならないと思っていた。ムネ・シュリーはみじろぎもせず、ひとところに立ちどまると、手負いのライオンのようにうなりはじめた。『おお、われらの人生のなんと暗いことよ!……』何年かたってやっと、彼が名優だったと気がついたが、当時は芸術のなんたるかも知らなかったので、こらえきれず、大声で笑いだした。天井桟敷で、芝居の見好者(ルビ みごうしゃ)の間に陣どっていたのだが、あっと思ったときには、ぶん殴られて、通りにほっぽり出されていた」と。(「回想」1960年)

 私はこのエビソードを、『ルイ・ジュヴェ』で書いた。

 やはり若かったジュヴェは毎日のようにムネ・シュリーを見に行っていた。だから、ムネ・シュリーの芝居を見て笑いだしたロシアの青年が、パリの若者たちにひったてられても同情しなかったに違いない。

 佐藤 慶が亡くなった。
 俳優座の養成所で私の講義を聞いたひとりだが、あるとき、私が演出した芝居を見ていた彼が不意に笑いだした。私が芝居に出した俳優の芝居がひどく下手なので呆れたらしい。私は、佐藤 慶の風貌に、一筋縄ではいかぬ不定なものを感じたことを覚えている。

 佐藤 慶は養成所の生徒だった頃から、映画をめざそうと思っているといっていた。

 イリヤ・エレンブルグを読んでいて、彼が若き日をパリで過ごしていたこと、自分が若い頃に知っていた俳優の訃報がかさなってきた。

2010/05/18(Tue)  1192


 私が好きな外国の女流作家。

 アナイス・ニン。私は、彼女の作品を全部読んだ。ただし、自分で訳したのは長編が一つだけ、あとは処女作、『ガラスの鐘の下で』のなかの2編を訳しただけに終わった。ほんとうは、もっと多くの作品を訳したかったが、そんな機会はなかった。

 アーシュラ・ヒージ。ドイツ系のアメリカ作家。彼女の作品はクラスで読んだ。私は作家の清冽な筆致に魅せられた。とにかく描写の一つひとつが、その作品の語り手の内面を想像させることに、心を奪われた。凄い作家がいるものだと思った。

 ジャマイカ・キンケード。この作家のものは、わずか1編しか知らない。しかし、女流作家らしく、自分の身辺のことを書きながら、それだけで人生の哀歓を感じさせる。日本の女流作家が書くことを忘れてしまったり、はじめから問題にしないような世界をきっちりとらえている。しかも。いっしゅの凄味があって、なかなかの才能だと思う。

 つぎに、私があげるのは、イタ・デイリー。アイリッシュの作家。失礼だが、アナイス・ニン、アーシュラ・ヒージと肩を並べるほどの作家ではない。しかし、この作家も、読んでいてじつにすばらしい。いまの作家の短編がどんなにおもしろいものか、イタ・デイリーを1編、読むだけで納得がゆく。

 もう、ひとり。この少女は誰も知らない。本を1冊出しただけで消えてしまった。才能はあった。しかし、高校の文芸部か何かで、小説らしきものを書いて、少しばかりいい気になったのだろう。
 ユダヤ系の少女だった。
 私は、この少女の書いたものを読んで、ほんとうに感心した。
 それから数十年たって、私のクラスで、イギリスの作家の長編を読んだ。そのオープニングを読んだとき、ずっと以前どこかで読んだことがあるような気がした。
 そして――私が関心をもったアメリカの少女の書いた短編とまったくおなじ文章だったことに気がついた。
 私は茫然としたが――その少女を非難する気は起きなかった。17歳の少女が、よくこんな長編を読んだなあ、と思った。
 そして、自分でもすっかり気に入って、イギリス作家を模倣したのだろう。しかし、模倣しきれなくなって、つい、失敬してしまったに違いない。いいかたを変えれば、少女の才能は、その程度のものだったのだろう。
 たった1冊だけ、有名な出版社から本を出して消えてしまった少女。彼女のことを考えると、なぜか私の胸には、いたましさと、その後の少女の人生が幸福だったことを願う思いが重なってくるのだった。
 彼女の作品を、いつか翻訳したいと思ってきたのだが、どうやら夢に終わるだろうな。

2010/05/16(Sun)  1191
 
 私は多代さんのファンだが、全部が全部いい句ばかり、等と思っているわけではない。

    六月や 泊りからすは 山へ行く         多代

    短夜や 雨水澄んで 有明る           多代

    夏の夜や かねなき里のおもしろさ        多代

 「かねなき」は、鐘も鳴らない鄙びた里ということだが、不況で過疎になってしまった里かも。おもわず、笑った。

    あふき立て 鳴りの止まぬや  競馬       多代

 これも、今の競馬を連想して、多代さんは馬券を買ったのか、などと連想して、われながらあきれた。

    差し上る日を 屋根越しの 幟かな        多代

 これも、いい句のように見えながら、なんとなく納得しがたいところがある。
 しかし、おなじ更衣を詠んでも、千代の、

    脱ぎ捨ての 山に積るや 更衣          千代

    日はしたに 休む大工や 衣かへ         多代
    あらためて 松風ききぬ ころもかへ       〃

 私が、多代さんを推賞する理由はわかってもらえるだろう。

    蝶々や 女子の道の後(あと)や先        千代
    蝶々や 何を夢みて 羽つかひ          〃

 よりも、おなじ多代さんの句に、

    春の雁 笠着るうちに 遠くなる         多代
    日の晴れや 幾度も来る おなじ蝶        〃
    昼船や さそわぬ蝶の ついてくる        〃

 のほうがいい。

2010/05/13(Thu)  1190
 
 おや、春雨か。仕方がない。ぼんやり俳句を読みふけることにしよう。

    世の中は 何がさかしき 雉(きじ)の声     其角

 これまた、あまり感心できない句だが、それでも、

    隠すべき事もあるなり 雉子(きじ)の声     千代

    雉子(きじ)鳴くや 仏に仕ふ 身は安き     よし女

 などよりは、ずっといい。またまた、多代さんの句を調べてみると、

    隠るるも すばやき雉子(きじ)や 草の風    多代
    首伸べて 見廻す雉子(きじ)や 草の中

 やっぱり、いいなあ。
 そこでまたもや、加賀の千代と並べてみる。

    思ひ思ひ 下る夕べの 雲雀(ひばり)かな    千代
    上りては 下を見て鳴く雲雀(ひばり)かな
    二つ三つ 夜に入りそうな雲雀(ひばり)かな

 おやおや。
 千代の技巧句よりも、

    美しい空に はらりと 雲雀(ひばり)かな    多代

 さりげなく一瞬の冴えを見せる多代さんの句のほうが好きなのである。
      (つづく)

2010/05/11(Tue)  1189
 
 女人の俳句を読んでいるうちに、俳句のことを考えた。
 俳句には用言の連体形止めが、よくみられる。えらい人の句を引用すれば、これはよくわかる。

    留守にきて棚探しする 藤の花          芭蕉

 まさか藤の花が棚探しをするわけではない。そういえば、昔の人は、よく人を訪問したものだった。たとえば、森 鴎外が新人作家の一葉を訪れたとき、一葉が留守だったので帰りを待って座敷に端然として待っていた、という。

    世の中は 何がさかしき 雉(きじ)の声     其角

 この句には「雉も鳴かずば打たれまいに」というメタフォーが隠れているだろうと思う。それはわかるのだが、どうもよくない。ごめんなさいナ、其角さん。

    鶯や かしこ過ぎたる 梅の花          蕪村

 これも蕪村にしては、「かしこ過ぎ」て、あまりいい句ではない。  (つづく)

2010/05/09(Sun)  1188
 
 以前もとりあげたが、私は多代さんのファンなのだ。桜が満開だった頃、ふと、多代さんに桜の句はないのだろうか、と思って調べてみた。ないはずはかい。

      初花や 思ひも寄らず 神詣        多代
      さむしろに 這ひ並ぶ子や 花の蔭
      花の戸に 脱ぎもそろわぬ 草履かな
      花少し散って晴れけり 朝曇り
      ややあって 雲は切れたり 峯の花
      花に月 どこからもれて 膝の上
      花に暮れ さくらに明けて 日は遅し
      木樵より 外に人なし 遅桜
      晩鐘の さかひもなくて 花に月

 注釈の必要のない平明な句ばかり。ただし、多代さんの句は、いかにも平明、平凡に見えるけれど、どうしてどうして、そんなものではない。たとえば、ほかの女性(にょしょう)たちの句と並べてみると、にわかに輝きをましてくる。

      山桜 ちるや小川の 水くるま       智月尼
      花さいて 近江の国の 機嫌かひ
      逢坂や 花の梢の 車道
      入相(いりあい)の鐘に痩せるか やま桜

 智月尼は、芭蕉の弟子。大津の乙州の母。
 それなりに姿のいい句だが、多代さんの句と読みくらべてのびやかさがない。
 多代さんよりはるかに高名な、加賀の千代の

      女子どし 押して登るや 山桜       千代
      花戻り 見るなき里の 夕かな
      晩鐘を 空におさゆる 桜かな
      あしあとは 男なりけり はつ桜

 こうした句と並べて、いささかも遜色がない。いや、それどころか、千代などとははじめから比較にならないほどに洗練された句ばかりだと思う。

 多代さんだけを褒めるつもりはない。
 ほかにも桜を詠んだ句は多いが、私の好きな句はあまりない。

      管弦の灯のはしりこむ 桜かな       花讃
      追い追いに 来る人ごとの 桜かな     園女
      草臥(くたびれ)を花にあずけて 遠歩き  志宇
      花にあかぬ 浮世男の憎さかな       千子
      殿ばらと 袖すれ合うて 花見かな     りん
      盃に影さす 夜の桜かな          可中
      追ふ人や 追はるる人や 花の酔い     そめ女
      うちにゐて 思ひにたへぬ 花曇り     はる

 園女は芭蕉の弟子だったが、芭蕉亡きあと、其角についてまなんだ。志宇は、武家の妻女、和漢の書に親しみ、和歌もよくしたという。千子は、去来の妹。りんは、豊後の国の女性。可中については知らない。そめ女、はる、いずれも遊女ではないかと思われる。

 春風駘蕩足る気分で、俳句を読む。

 昔の女人の句。あまりにも遠く隔たった世界だが、かつて生きていた女たちの息づかいが艶冶に響いてくる。
   (つづく)

2010/05/05(Wed)  1187
 
 暇である。退屈しているわけではない。暇なときには俳句を読む。詠むのではない。ぼんやりと眺めているだけ。

   あら尊(とお)と 青葉若葉の 日の光     芭蕉

 こういう句は、いまどきの俳人に詠めるはずもない。

   何とせん 五人に三つ 初茄子(なすび)    許六

 これもおなじ。私たちの日常に、こういう情景がまるでなくなった――わけではないだろうが、俳句に詠むことはなくなっている。

   我が家に 来さうにしたり くばり餅      一茶

 今ではどんな荷物でも宅急便で届けられるし、配り餅などという習慣もなくなっているだろう。この俳句のさびしみ、おかしみなどはわからなくなっている。

   思いたつ 吉野の人も 花見かな        野坡

 もう桜も散ってしまったが、こんな俳句を眺めて、せめて江戸の情調をしのぶことにしようか。
 ただし、のんびり俳句を読むといっても、

    麸といふものあり 性 水を好んで氷に遊ぶ   杉風

 あるいは、

    流るる年の哀れ 世につくも髪さへ漱捨つ    其角

 といった俳句はあまり気に入らない。杉風ははじめから好きではないから読まないが、其角にはときどき感心しながら、こんな句を読むとアホかと思う。    (つづく)

2010/04/29(Thu)  1186
 
 エチオピアの大地。
 俳優の高橋 克典が、ダロルという土地の異様な景色を歩いている。
 植物の生育などまったく見られない。ただ、赤茶けた岩と、黄褐色の砂が広がっている。そのさきに、切り立った崖があって、その頂上に、巨大な岩盤を削って作った原始キリスト教の教会がある。そこにたどり着くには、牛の革をねじりあげたロープにすがりついて、断崖をよじ登らなければならない。
 高橋 克典は、岩山をやっとのことで登りつめる。そして、これも、巨大な岩を削って作った十字架を見る。

 高橋 克典がつぎに訪れたのは、おなじエチオピアの、エルタ・アレ火山。
 これもまた異様な風景だった。ヘリコプターの空撮で、火山の噴火口をとらえている。眼下に巨大な火流がグツグツと煮えたぎっている。噴火口から噴煙をあげるのではなく、火口がひたすらすさまじい勢いで燃えつづけている。
 クレーター(噴火口)の直径、150メートル。火山だから、外輪山ができているが、これがことごとく溶岩。つまり、有史いらい、爆発をくり返してきて、すさまじい溶岩の流れがいつしか外輪山になったものらしい。
 その火口が現在もはげしい勢いで燃えつづけ、火の海、溶岩湖になっている。

 ふと、岑参の詩を思い出した。この火山とは関係がないのに。

     火山今始見   火山 いま はじめて見る
     突兀蒲昌東   とっこつとして ほしょうの東
     赤焔焼虜雲   せきえん りょうんを焼き
     炎気蒸塞空   えんき さいくうを むす

 私は、ここにきて、はじめて火焔山を見た。ごつごつした山で、西域、トルファンの東に位置する。真っ赤な焔が、はるかな異境の雲を焼いている。その火の熱気は、山をとざす空にさえぎられて、蒸し焼きにされるようだ。

 西域、トルファンと、アフリカのエチオピアでは、まるで違うはずだが、エルタ・アレ火山の風景はうまく表現できないので、中国の詩人に応援をたのむしかない。
 こういう風景を見れば、誰しもことばを失うだろう。

 高橋 克典はこの風景に感動したようだった。まるで、地球の血管が脈うっているようだという。たしかに、そんなふうに見える。心に残る、いいドキュメントだった。

   <10年3月15日(日)7.PM.「テレビ朝日」>

2010/04/24(Sat)  1185
 
 鈴木 八郎は、一幕もの、『黛(まゆずみ)』を「新劇」に発表しただけで、劇作家としては挫折したが、一方で、クラブ雑誌と呼ばれる読みもの雑誌に、おもしろい時代小説をいくつも書いている。八郎の先輩だった、三好 一光は世をすねた作家として生きたが、鈴木 八郎は小説を書くのが楽しくて時代小説を書きつづけていた。
 後年の私はクラブ雑誌にも通俗小説を書いたが、鈴木 八郎が、程度の低い書きなぐりの作品を書かなかったことを見てきたことも影響していたと思う。
 その頃、純文学を志しながらクラブ雑誌などに書けば筆が荒れるという人がいた。それに、一流の雑誌の編集者は、一度でもクラブ雑誌などに書いた作家を相手にしない、ともいわれていた。
 私はそんな連中を軽蔑していた。なんという狭量だろう。クラブ雑誌に書いて筆が荒れるようなやつは、どこに書こうといずれ筆は荒れるのだ。クラブ雑誌だろうと一流の雑誌だろうと、てめえの書く作品に変わりがあろうものか。
 西島 大がテレビで「Gメン’75」や、「西部警察」の脚本を書いたからといって、劇作家としての評価が低くなるだろうか。そんなことはない。そんな了見で、競争のはげしい芝居の世界を生き抜いていけるはずもないのだ。

 鈴木 八郎が不遇のまま亡くなったとき、私は若城 紀伊子といっしょに葬儀に出たが、そのあと、西島と三人で酒を酌みかわした。
 彼は何を思ったか、私にむかって、
 「お互いに偉くなれなかったなあ」
 といった。
 私は笑った。
 「そうだねえ、ろくなもの書きになれなかったなあ」
 すると、若城 紀伊子がにこにこしながら、
 「何いってるの、西島さん。中田さんはルネッサンスの大家で、何冊もすごい本を出してるのよ。ほんとは偉いのよ、中田さんて」
 といった。
 「ふうん、そうかあ」
 西島は、にやりとしてみせた。
 ごめんな、きみの仕事のことを何も知らなくて、とでもいいたそうなその笑いは、不愉快なものではなかった。
 当時、私は『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、ジャーナリズムで仕事をすることがなくなっていた。だから、「お互いに偉くなれなかったなあ」といわれても仕方がなかった。それに、お互いに仕事のジャンルが違うと、相手がどういう本を出しているのかさえもわからなくなる。それでもいいのだ。お互いに、しがないもの書きとして生きているのだから、偉くなろうと考えるほうがおかしい。
 酒を飲んで、鈴木 八郎の思い出を語りながら、私たちが、一時期いっしょに悪場所に遊んだことさえも楽しく思い出されるのだった。そのあと西島は、イタリアで買ったブリューゲルの画集を私に贈るといい出した。
 「おれ、イタリア語、読めないからもっててもしようがないんだ」
 私は笑った。こういうかたちで、大は、私に対して気遣いを見せている。それが、うれしかった。

 『ルイ・ジュヴェ』が出たとき、いちばん早くハガキで祝意をつたえてきたのは、西島だった。岑 参(しんじん)の詩を思い出した。

     庭樹不知人去盡   庭樹は知らず 人 去りつくすを
     春来還発舊時花   春 きたりて またひらく 旧時の花

 庭の木々は、むかしの人がみんな死んでしまったのも知らないように、はるがくれば、また、おなじ花をつけて咲いている。

 「青年座」の創立メンバーは、全員、あの世に疎開してしまった。今頃、西島は、東 恵美子や、山岡 久乃、初井 言栄たちと、いっしょに乾杯しているかも知れない。
 大よ、おれもそのうち、そっちに行くさ。おれが着いたら、久しぶりにサシで一杯やろうじゃないか。

2010/04/21(Wed)  1184
 
 西島自身は誰にも語らなかったが、戦時中は熱烈な愛国者で、敗戦の詔勅を聞いた日、悲憤のあまり皇居前に馳せ参じて、同志とともに自裁しようとした少年だった。
 おそらく兄の影響もあったのではないかと私は想像する。彼の兄は、「日本浪漫派」の詩人として知られた田中 克己である。これも、西島は、けっして口外しなかった。
 私は田中 克己の「楊貴妃伝」をすぐれた評伝として敬意をもって読んできた。おそらく、西島が劇作の道を選んだのは、兄と違った世界を選びたかったのではないか。少なくとも、兄の後塵を拝することを避けようとしたからではなかったかと推測していた。
 彼がいずれ劇作家として成功することを私は疑わなかった。

 戦後まもなく、西島 大とおなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと知りあった。この人たちが、戯曲専門の同人誌「フィガロ」を出すことになった。その中心にいたのが鈴木 八郎だった。
 内村先生からはじめて紹介されたのだが、その後、いつも西島 大といっしょに頻繁に会うことになった。

 鈴木 八郎も奇人といってよかった。正確な年齢はわからない。歯切れのいい江戸弁で、いつも和服に、すこぶる上品な草履、頭に宗匠頭巾。私よりも十歳以上も上だったはずである。「戦後」の猥雑な世界に、彼の周囲だけは、江戸の匂いがただよっていた。八郎の話を聞いていると、大正末期、または昭和初期に20代だったような気もする。しかも本人みずから男色者であることを隠さなかった。
 ときどき私の母を相手に、六代目や、もっと前の沢村 源之助などの話をしていたから、年齢がわからない。たいへんなもの知りだった。

 ほんとうなら軍隊にとられるはずもなかったのだが、戦局の悪化で、北方、キスカの守備隊に送られた。アッツ島の日本軍が玉砕して、キスカから転進(退却のこと)し、無事に内地に戻って終戦。その後は、ただひたすら劇作家を志望して、いつも戯曲を書きつづけていた。
 鈴木 八郎は、多幕ものを書いては商業演劇の脚本の公募に出していた。
 まともな学校教育を受けたわけではないのに、芝居に関して知らないことがないほどの大知識で、私などは新劇、歌舞伎の、役者のこと、劇団の内情、思いがけない秘話まで教えてもらった。外国の演劇についてもくわしかったが、私が読んでいた外国の戯曲の話をしきりに聞きたがった。
 西島 大とは大の親友で、おなじ「フィガロ」の若城 紀伊子とも親しかった。(若城 紀伊子は、戯曲が専門だったが、のちに「源氏物語」の研究者として知られ、作家としては女流文学賞を受けている。)

 「フィガロ」のグループのすぐ近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はやがて、桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。

 西島 大の処女作は「フィガロ」に発表されたが、つぎの「メドゥサの首」は、山川 方夫の編集した「三田文学」に発表されている。それを私が演出したのだった。
       (つづく)

2010/04/19(Mon)  1183
 
 若い頃の私が西島 大ととくに縁が深かったのだが、それには理由がある。

 文学上の 師弟関係というものは、はた目から見るほど単純なものではない。師匠にすれば、たいして才能に恵まれていない、どうしようもない弟子を見て、不甲斐ないと思うこともあるだろう。逆に、弟子が鬱勃たる野心に燃えているような場合に、師匠として弟子をうとましく思うこともあるだろう。
 私は、内村さんが期待していたほどの才能がなかった。はっきりいって、内村さんのお書きになる芝居に関心がなかった。私は、ある時期まで小林 秀雄を相手に悪戦苦闘していたし、やがて、ヴァレリーやジッドから離れて、ヘミングウェイに夢中になった。
 だから、戯曲を書くよりも、別の、違った分野をめざしたため、まるっきり内村先生の期待を裏切ったのだった。
 私とは違った意味で、内村さんの後輩だった梅田 晴夫も、やはり先生の期待を裏切ったひとりではなかったか。

 私は内村先生の連続ドラマ、「えり子とともに」のライターのひとりだった。日本で最初のアメリカン・スタイルのホームドラマで、これが成功すれば、長期間にわたって放送がロングランする。当時、内村先生は40代だったので、50代だった伊賀山 昌三、30代だった梅田 晴夫、20代だった私が脚本を書いたり、アィディアを出すグループに加わったのだった。
 「えり子とともに」は、1949年10月にはじまって、127回の連続ドラマになった。(フィナーレは、1953年4月)。
なにしろ長いドラマになったため、途中で、音楽の担当が芥川 也寸志から中田 喜直に交代した。これが実質的に、ドラマの前半と後半の変わり目になったが、西島君は後半から、内村先生の原稿の口述を筆記することになった。

 当時、私と西島 大は、毎月、内村先生からポケットマネーを頂戴していた。
 私はそれを学資にして、母校の英米文学科に戻ってアメリカ文学を勉強したが、フランス語を勉強するように申しわたされた西島君は、「お給料」をみんな飲んでしまった。
 たまに、ふたりとも懐が暖かかったとき、いっしょに酒を飲んだあげく、吉原にくり込んで、翌朝、近所の一膳飯屋でお茶漬けを食らって、そのままに千葉の浜辺まで足をのばしたこともある。
 このとき、たまたま浜辺で釣りをしていた竹田 博(編集者)と会った縁から、私は坂本 一亀と親しくなった。その後、「河出書房」でいろいろと仕事をしてきたが、今となっては、私にとっては、ありがたい出会いだったと思う。
 やがて、私は「東宝」にいた友人、椎野 英之に西島 大を紹介した。「東宝」では西島といっしょにシナリオを書くようになった。
 最近、「アバター」という映画が公開されて、3次元映画がさかんに作られるようになったが、私たちが「東宝」でシナリオを書きはじめた時期に、はじめて3次元映画が登場した。私たちも、3次元映画のためのシノプシスを提出したものだった。むろん、この時期の「東宝」では、一本、試作品ができただけでまともな成果は出せなかったのだが。
 しかし、西島 大は、戦後、沈黙していた熊谷 久虎(映画監督)のために「狼煙は上海にあがる」を書いて、シナリオ作家としての道を歩きはじめた。
 私は才能がなくてシナリオを断念したが、西島はつぎつぎにすぐれた脚本を書くようになった。このとき、いっしょだった仲間が、矢代 静一、八木 柊一郎、池田 一朗である。矢代も、八木も、はじめからシナリオ作家を志望したわけではなかった。後年、ふたりとも劇作家として大成する。池田 一朗は、後年、隆 慶一郎として一斉を風靡する時代ものの作家になる。

 人と人の出会いの不思議を思う。そして、この時期が、私や西島にとってまさしく青春というものではなかったか、という思いがある。

2010/04/18(Sun)  1182
 
 つい先日、私は書いたのだった。知人たちがつぎつきに鬼籍に入ってゆく、と。
 女流作家、宇尾 房子さんが、昨年10月13日にガンで亡くなった、という。
 最近まで知らなかったので、訃報に驚いた。

 つづいて劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞記事で知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4,)
 ただ、宇尾さんの訃を知ったばかりだったので、眩暈のようなものにおそわれた。

 西島 大。本名、西嶋 大(ひろし)。友人たちは「ダイ」と呼んでいた。

 3月3日、肝細胞ガンで死去。82歳。1954年、「青年座」創立メンバーのひとり。「昭和の子供」、「神々の死」などの戯曲のほか、映画、「嵐をよぶ男」や、テレビで「Gメン’75」の脚本をてがけた。

 私は、まだ無名の西島が、内村 直也先生の口述を筆記していた頃に、先生に紹介されて親しくなった。
 その頃、内村先生の周囲に集まっていたグループが、「フィガロ」という戯曲専門の同人雑誌を出すようになって、私も戯曲を書くようにいわれたのだが、戯曲を書くかわりにカットを描いたりした。
 この「フィガロ」に、西島 大の処女作『光と風と夢』が発表された。ある小さなホールで、内村先生演出で上演されて、西島君の出世作になった。
 内村先生も私に劇作を書くよう勧めてくださったが、私自身は演出を志望していたので、内村先生の期待を裏切ることになった。
 それでも西島 大のおかげで、おなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと親しくなった。そのグループの近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はさらに桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。
 私がはじめて演出したのは、青年座の芝居で西島 大の『メドゥサの首』という一幕ものだった。そのつぎも西島 大の『刻まれた像』だったから、当時の西島君とはよほど縁が深かったような気がする。
 あえていえば、私は西島 大といっしょに青春の一時期を過ごした、という思いがある。とにかく、毎日のように会っていたのだった。

 やがて、私は生活のために翻訳の仕事を中心にしなければならなくなって、「青年座」を離れた。私としては、外国の戯曲、それもアメリカの芝居を演出したかったのだが、創作劇を専門に上演していた「青年座」にいても演出できる状況がなかった。それに千葉に住むようになって、渋谷、さらには下北沢の稽古場に通うことがむずかしくなった。

 西島 大と私はお互いに進む方向が違って、その後は疎遠になってしまった。

2010/04/16(Fri)  1181
 
 助詞止めの句をいくつか挙げてみよう。

    夢によく似たる夢かな 墓参り        嵐雪

    啄木鳥(きつつき)の枯木さがすや 花の中  丈草

    暁や 人は知らずも 桃の露         暁臺

    お手打の夫婦なりしを 更衣         蕪村

 さすがにいい句ばかりがそろっている。

    山吹の露 菜の花のかこち顔なるや      芭蕉

    春の雨 別れ別れに 見ゆるかな       鬼貫

    物言はず 客と 亭主と 白菊と       蓼太

 ここまでくると、私などはうっとりとするだけである。こうした一句を読んでいるだけで、いろいろな連想がはたらく。直接、その句にかかわりがないにしても、その句を口にのせてみるだけで、自分の内面にひたひたとひろがってくるものがある。

2010/04/13(Tue)  1180
 
 あまり、好きではない句もあげておこう。

    初雪や 門に橋あり 夕間暮      其角

 情景も眼にうかぶ。いかにも其角らしいが、おのれの才気をたのむ衒気が見えるようだ。そこで、おなじ其角の

    流るる年の哀れ 世につくも髪さへ漱捨つ

 といった破調の句を軽蔑したくなる。

    桟(かけはし)や あぶなげもなし 蝉の声  許六

 これも、おなじ。

    かかる夜の 月も見にけり 野辺送り  去来

 これまた、おなじ。

    よい声の つれはどうした ヒキガエル 一茶

 以上、四句。用言の終止形でとめてある。いずれも、作者の力量はわかるけれど、あまり感心しない。
 たとえば、

    鶯(うぐいす)の かしこ過ぎたる 梅の花  蕪村

 これも好きになれない。

2010/04/11(Sun)  1179
 
 今更ながら――すぐれた俳句なり短歌なりを読むありがたさはどうだろうか。
 短い詩形にどれほど豊かなものが盛り込まれているか。

 たとえば、私の好きな句を選んでみようか。

    一日の春を歩いてしまいけり      蕪村

 ほかにも好きな蕪村の句はいくらでもあるが、こういう句は、一編の短編を読むほどにもすばらしい。むろん、こういう時間の過ごしかたは、今の私たちにはない。ということは、私たちには季節としての「春」もないということにならないか。

    桐の葉は 落ちても 庭にひろごれり  鬼貫

 これもやさしい平叙体の一句だが、私たちの書く作品には季節としての「秋」も失われてしまったような気がする。

    道ばたの木槿は 馬に喰はれけり    芭蕉

 これはもう、私たちが見ることのない風景だろう。俳句を読む。私にとっては、もはや見ることがないからこそ芭蕉の見た季節を見ようとすることにひとしい。
 私がへんぺんたるメッセージを書く姿勢も、こういう俳句を詠む人々の姿勢に、それほど違ってはいない。ただ、私には才能がないだけの話だ。

2010/04/09(Fri)  1178
 
 月に一度、小人数の寺小屋で英語のテキストを読んでいる。
 生徒たちがテキストを訳して、私が指導するグループ。生徒たちは優秀だが、先生のほうは老いぼれGさんである。

 この寺小屋は、だいたい八丁堀のちっぽけな区民館でつづけられている。

 誰も知らないことだが、八丁堀には小林一茶の庵があった。

    うめ咲くや くてうむこうに鳴く雀
    梅さくや ちるや附たり 三日月
    うめ咲くや 現金酒の 通帳
    うめの花 家内安全と咲きにけり
    梅が香や 知った天窓の 先月夜

 よく調べたわけではないが、一茶は八丁堀でこうした句を詠んだらしい。どれも、あまり感心できない句ばかり。
 私の好きな一茶の句は、もう少し違うものである。

    生き残り 生き残りたる寒さかな
    合点して居ても 寒いぞ 貧しいぞ
    しんしんと しん底寒し 小行灯(こあんどん)

 自分の姿を見て、

    ひゐき目に見てさへ 寒き そぶりかな

 東(関東)に下ろうとして途中まで出て、

    椋鳥と 人に言はるる 寒さかな

 箱根、六道の辻と題して、

    寒そらに はなればなれや 菩薩たち

    はなれ家や ずんずん別の寒の入り
    雨の夜や しかも女の 寒念仏
    降る雨の中にも 寒の入りにけり

 一茶の辞世も紹介しておこう。

    ああ ままよ 生きても亀の 百分一

 ところで、私の八丁堀の私塾だが、私は何を教えているわけでもない。ほんとうは、心優しい生徒たちが、月に一度集まって耄碌Gさんの相手にしてくれる集まりなのである。

2010/04/07(Wed)  1177


 アメリカ、ヴァ−ジニア州、フェアファックス・カウンテイ。
 ここでは、小学校の授業の半分は英語以外の言語で授業がおこなわれている、という。

 日本語教育も四つの小学校で行われている。
 ふつうの日常会話などを勉強させるのではない。理科、算数、家庭科を、日本語で教え、幼い子どもたちに日本の文化を理解させる教育である。

 20年前に、日本企業の駐在員たちの支援や、日本企業の後援があって、こうした教育がはじまったという。現在、26の学校で、500人の小学生が、日本語だけで、先生の授業をうけている。みんな日本語を達者に話したり、日本の童謡を歌っている。

 ところが、アメリカの不況で、年間、1億3000万円(円換算)の経費がカウンテイに重荷になって、日本語教育が廃止か、継続か、存続があやぶまれている、という。(’10.1.20.「NHK/ニュース」7;35.am)

 戦時中、アメリカは速成で日本語教育をひろめたが、その成果としてドナルド・キーン、サイデンステッカー、アイヴァン・モリスたちを生んだことを考えれば、フェアファックス・カウンテイの日本語教育がどれほど大きな可能性を秘めているか。

 一方、中国は、アメリカの中、高校でも、中国語の普及を目的にぞくぞくと教室を開いている。中国語を教える学院数は、昨年末までに、88カ国の地域の554校に達している。
 「事業仕分け」とやらで、科学教育研究費、とくにスーパー・コンピューターの開発にカミついた憐呆(れんぼう)などにこの問題の重さが見えるはずもないが。
 いや、憐呆(れんぼう)どもはヒャクも承知で仕切ったか。

2010/04/05(Mon)  1176
 
       ある生


    朝起きると ああ生きているなと思う
    きょうもまだ 頭は大丈夫なのだと思う
    安心する反面 多少 情けなく思うことでもある
    年取るにつれて得た これもまた
    ある一つの生の あるひとこまなのだと思う

 私の場合も、朝起きると、ああ生きているなと思う。ただし、以前のように、さわやか
な目覚めはない。今日もまだ、くたばっていないらしいと思う。安心などはないし、情け
ないかぎりとも思わない。
 くそおもしろくもない現実に腹を立てても仕方がない。できることなら、いろいろな本
を読んで、知らない世界に遊んでいたい。
 奄美大島の詩人、進 一男の詩。短い詩だが、おなじように老年の私には、素直に同感
できる。そして、進 一男の詩を読むことで、その日いちにち、心にかすかなぬくもりを
感じていられる。
 もう一編、「その日まで」を引用しておこう。

    今のこの事は
    近い時が片づけてくれるでしょう
    焼けつく暑い日々が過ぎて
    せめて一輪のコスモスを見るまで
    思いを内に秘めて
    ともかく生きて行きましょう

 この詩が私の心にまっすぐ届くのは、生きているうちに語っておくべきことをごく自然
につぶやいているからである。

 進 一男については、以前にも紹介したことがある。
 年にほぼ1冊のペースで、詩集を出しつづけている。

    詩集「小さな私の上の小さな星たち」  非売品
  〒894−0027鹿児島県奄美市名瀬末広町10−1  進 一男

2010/04/03(Sat)  1175
 
 恐竜が絶滅したのは何千万年も昔のことらしい。
 私の頭脳はトカゲなみの容量しかないので、「らしい」としかいえないのだが――絶滅の原因は、メキシコ・ユカタン半島に、巨大な隕石が落下、地球に衝突したためという。私は、その隕石がどこから飛んできたのか知らないし、メキシコ・ユカタン半島を歩いたこともないので、これが事実かどうか知らない。

 ただ、東北大をはじめ、世界の12の研究機関が合同で、さまざまな分野の研究者が、各地の地層、クレーターなどを調査し、この隕石衝突説を詳細に分析したという。

 このチームの研究で――直径、約10キロから15キロの巨大な隕石が、秒速、20キロの速さで、当時、浅い海だった地表に衝突した。
 そのエネルギーは、ヒロシマに投下された原子爆弾の約10億倍。

 隕石が衝突してできたクレーターの直径は約180キロ。

 この衝突で、大気中に飛散した膨大なチリが、太陽光を遮断した。
 光合成をおこなう植物などが死滅したため、恐竜などが絶滅に追いやられた、という。

 これまでに、隕石の衝突説は、地質学や、古生物学など、個々の分野の研究で追求されてきたが、全世界的な研究で、恐竜絶滅の原因がつきとめられたことになる。

 今後、人間が何千万年にもわたって生きつづけるかどうか私は知らない。
 かりに生きつづけるとして――巨大な隕石が落ちてこないように祈るしかない。
 それでも、今、隕石が落ちてくると予知されたら、どうしようか。

 さっそく、スティーヴン・スピルバーグか、「アバター」の監督、ジェームズ・キャメロンにドキュメントを撮らせたい。ただし、スピルバーグやキャメロンの映画が完成しても、誰ひとりそんな映画を見る観客はいないだろうけれど。

 オバマ氏と、メドベージェフ、プーチン氏たちにお願いして、それぞれ保有している原爆、水爆を全部、宇宙空間にむけて発射していただく。
 少しは、命中するだろう。この作業専任の部隊には、「ハート・ロッカー」(キャスリン・ビグロー監督)に出てくるジェレミー・レナーのような人物を選ぶことにしよう。むろん、巨大隕石相手に、小人数の爆発物処理班で対抗できるかどうか知らない。

 6千650万年の空間に、いつか地球に衝突するかも知れない隕石があって、時々刻々に、地球に向かっている、と考えると……

 こんなアホらしい宇宙的虚無感が、私にはけっこう楽しい。

2010/03/31(Wed)  1174
 
 ある日、新聞でカメラの広告を見た。(’10.3.5.)

 不景気な時代のなかで、デジタル・カメラの激戦がつづいている。
 画質のよさと、ハンディーなところがうけて、軽量で小型の一眼デジタル・カメラは人気が高い。
 そのなかで、キャノン、ニコンが、圧倒的なつよさを見せている。
 だが、3月に入って、パナソニック、オリンパスが新型カメラを登場させているし、ソニーも、ただちに満を持して参入してきた。(’10.3.9.)

 私の見た新聞広告は、キャノンの新製品 EOS KISS X4 {イオス キス エクス フォー}の広告だった。
 7ページにわたって、各ページの下の4段をぶち抜きの大きな広告である。

 いちばん最初の広告のキャプションは――「うちの子は、世界一 カワイイ」。
 写真は――「ドラキュラ伯爵」か、「アダムズ・ファミリー」のお父さんのような、中年の吸血鬼がカメラを片手に、可愛らしい男の子を抱きあげている。

 つぎのページには、大きな帽子をかぶった魔女の母子。「ドラキュラ伯爵」の父子とコントラスト。女の子は小学校の低学年だろうか。こちらのキャプションは――「うちの子は、世界一 才能がある」。
 そのつぎは、モジャモジャの髪の毛、頬も口のまわりもヒゲモジャの親子。狼男だろうか。父親は、サイレント映画のベラ・ルゴシに似ている。
 キャプションは――「うちの子は、世界一 元気だ」。

 つぎの写真は、どうやらハンナ・バーべラのテレビ・アニメのパロディーらしい。
 原始人の家族たちだが、父親に、子どもが3人。母親不在というのは、なにやら意味深長。キャプションは――「うちの子は、世界一 たくましい。」

 こんなふうに、あと三つがつづく。
 この新聞広告が出たのと同時に、テレビで、おなじメンバーのコマーシャルが流れている。気がついた人もいるかも知れない。
 テレビのCMは、むろん動画だから、新聞の広告は、テレビCMの1シーンを使っているのかも知れない。ただし、大型カメラで同時にスティル写真を撮影して、それを使っているのかも知れない。いずれにせよかなり費用をかけているだろう。

 この広告を見た私の感想は――
 じつはたいへんに感心した。これまで、無数にコマーシャル・フォトを見てきた。しかし、ほんの一瞬でも心に残るようなものは極めて少ない。広告を担当した商業フォトグラファーだって、スポンサー側の要求にこたえる「現ニコ写真」を撮れば、それでいい。 もともと「現ニコ写真」にそれ以上を期待する会社はないだろう。
 「現ニコ写真」というのは、広告する現物を手にとって、モデルがニコニコしているフォト。たいていの場合は、若い女優やタレントが商品をもって、ニコニコしている。
 こういう写真が心に残るようなことはない。
 「うちの子は、世界一」シリーズだって、つぎに新製品が出れば忘れられるだろう。

 デジタル・キャメラの市場は、キャノン、ニコンが、圧倒的なつよさを見せているというが、それをささえている現場の優秀さが、このシリーズからも想像できるような気がする。
 私の心に残ったCMは、雨のそぼ降る古い町並みを小犬が、一所懸命に駆け抜けてゆく「サントリー」の名作。おなじ「サントリー」でも、ウーロン茶で、中国の老爺ふたりが、中国語でスキャットするCM。すっとぼけていて、とてもよかった。ドアにかけたダーツでジェームズ・コバーンが遊んでいる。矢を投げようとする瞬間にドアが開く。と、そこに可愛い少女が立っている、というサム・ペキンパー演出の一本。地方局のCMだったが、美少女が田舎の温泉につかっている。入浴シーンだから、両肩をあらわに見せている。なんと、この美少女がアニタ・ユンだった。私は、陶然としてアニタの艶姿を見たものだった。まだ、ほかにもすばらしい作品があったことを、私は忘れない。
 そのなかで、キャノン、EOS KISS のCMは出色のものだと思う。
 このシリーズを企画した宣伝部や、コピー・ライターや、キャスティング・スタッフ、現場のディレクターたちが、真剣にとりくんでいるシーンを想像した。むろん、みんなで楽しく笑いあいながら、撮影がつづけられたのではないか。そんなことまで考えた。

2010/03/28(Sun)  1173
 
(つづき)
 宮 林太郎の最後の長編、『サクラン坊とイチゴ』は、マリリン・モンローに会いに行くという口実で、死んだ有名人のパーティーに出席する宮さんの姿がえがかれている。そのお供を仰せつかった、ウスラバカの作家「中田耕治」が登場してくる。
 ほかの作家がそんなイタズラを仕掛けたら、温厚な私といえどもただちに反撃するだろう。しかし、宮さんがそんなイタズラをしても、別に不快な気分はなかった。
 私がヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーを尊敬し、コクトォについても、宮さんと語りあえる程度の理解をもっていたことから、私に対して親近感を寄せてくださったものと思われる。
 晩年の宮さんは、「無縫庵日録」と題して、膨大な日記を書きつづけていた。そのなかに、私も登場してくる。

    久し振りに中田耕治さんからお便りをいただいた。中田さんの笑顔が目にうかびます。そのご返事を書いた。

    ぼくにとって現在愛する友人はみんな死んでしまってあの世ゆき、中田さんだけが愛する一人になりました。つまり、心の通う友ということです。こんなことを言って申し訳がありませんが、今やあなた一人が尊敬する心の友です。とても寂しいです。ぼくは八十九歳です。もう死んでも文句の言えない限界に達しています。(後略)

  「無縫庵日録」第八巻 平成12年(2000年)3月22日。

 現在の私は、当時の宮さんの孤独がいくぶんでも理解できる年齢になっている。老年の宮さんの孤独も。
 月並みな感慨だが、劉 廷之の詩の一節を思い出す。

      年年歳歳花相似    年々歳々 花はあい似たり
      歳歳年年人不同    歳々年々 人はおなじからず

 宮さんが細いボールペンで、びっしり書きつけたメモを、古雑誌のなかに、しかも私自身のエッセイのページに挟んであるのを見つけた。そのとき、無数の想念のなかに、そんな感慨が胸をかすめたとしても、不自然ではない。

 現在の私は少し長いものを書きつづけている。例によって、なかなか進捗しない。
 たまたま、まったく偶然に、自分の書いた作品の掲載された古雑誌をみつけた。これとてめずらしいことではない。
 しかし、そのなかに、思いがけず、宮 林太郎が私にあてた手紙の下書きが入っていた。それを「発見」したとき、私がどんなに驚いたことか。それだけではない。故人に対するなつかしさ、たまたま人生の途上で知りあうことのできたありがたさ。この古雑誌が私の手もとに戻ってきたことに、いいようのないよろこびを経験したのだった。
 因縁とまではいわないにしても、すでに亡くなった人の呼び声を聞き届けたような気がした。一瞬、夢を見ているような気がした。だから雑誌に挟まれていたメモを、ひそかなメッセージとして読んだとしてもおかしくないだろう。
 世の中には不思議なこともあるものだなあ、という思いがあった。

      春夢随我心      春夢 我が心にしたがって
      悠揚逐君去      悠揚として 君を追って去らん

 春の夢かもしれないが、私の心のままに、別れを惜しみ、在りし日のあなたのことを考えながら、ゆめのなかであなたを思いうかべよう。包 融の詩の一節である。
 冥界におわします宮 林太郎は、私がぐずぐずして、いつまでも新作を出さないのに業を煮やして、こういう形で激励してくれたのかも知れない。

 宮さん、ありがとう。
 私の近作はもうすぐ完成します。あまり期待されても困りますが、そのうちにご報告できるかと思います。

2010/03/26(Fri)  1172
 
(つづき)
 宮さんのメモは、細いボールペンで、一字々々、丹念に書きつけてある。ただし、ところどころ判読できない。赤ペンの大きなバッテンで消してある部分もある。

    これはとてもすばらしい作品です。これについては書かずばなるまい。それにオペラについて勉強が出来ました。
    中田さんがオペラについてこんなに詳しいとは知りませんでした。
    メルバを知っているのかなと思っていると、メルバもちゃんと (以下 欠)

 別のメモには、

    中田さんのお作、まずびっくりしたのは、イサドラ・ダンカン、コポオ、テトラッチーニ、ガリ・クルチ、フアーラー。今では誰もその名を知らない存在のハンランです。しかし、まだ、メルバ、カラスなら知っている人はいるかも知れない。消えていった女たちよ、その面影、その踊り、 (以下 欠)

 さらにもう1枚のメモには、

    自分だけで愛していると思っていたのは、人に横取りされたような気持ち、そうなるとぼくは自分の愛人をとられたような、いや、自分の愛している女が、タレントで、有名になりすぎて、僕の手から離れてゆくような、そういう女はもう愛せません。ぼくの力ではどうすることも出来ません。そんなのいやです。しかし、テトラッチーニは忘れ去られた女、それから僕は昔、トチ・ダルモンテというプリマドンナを愛しました。これも忘れられた女です。自分ひとりで愛せるような女が好きです。

 宮さんは「星座」という同人誌を主催していた。戦前の「星座」では、石川 達三、評論家の矢崎 弾などと親しかった。戦後すぐの時期には、カストリ雑誌にまで短編を書いていた。長編は10冊を越えるし、90歳を越えても小説や詩を書きつづけたが、自分の周囲にいる文学仲間を集めて「全作家」という雑誌を出していた。
 宮さんはパリを愛し、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーに私淑し、コクトォを尊敬していた作家だった。自宅の壁には、アイズピリの油絵や、フランスの画家のエッチング、デッサンがずらりと並んでいた。            (つづく)

2010/03/24(Wed)  1171
 
(つづき)
 宮 林太郎は一部では知られた作家だったが、本業は医師で、祐天寺では誰知らぬものもない名医だった。
 新築のマンションの壁面に、パリ市内で見かけるものとおなじ青いプレートで、Rue Hemingway という看板を掲げていた。
 私にあてた手紙の住所表記も、すべて「ヘミングウェイ通り」となっている。私も、冗談で、一時、「ヘミングウェイ通り」を僭称したことがあった。(このいたずらは千葉の中央郵便局のお気に召さなかったらしく、フランスから送られた雑誌が返送されたと知って、私は、このアドレスを抹消したが、宮さんは、東京の「ヘミングウェイ通り」を押し通していた。)
 石川 達三の回想記、『心に残る人々』(「文芸春秋」昭和43年)のなかに、宮さんとの交遊が語られている。

   彼と私との交遊は三十五年ぐらいになる。いまでも彼は、(文学を離れて卜の人生は無いです)と言う。それほど好きなのだ。しかし作家として著名でないことを、あまり苦にしてはいないらしい。こういう人が却って本当に文学をたのしんで居るのかも知れない。また逆にいえば、文学はこういう人によって最もその価値をみとめられるのだとも考えられる。

 石川 達三と宮さんの交遊が三十五年というのだから、逆算すれば昭和8年(1933年)だが、この年、宮さんは故郷の淡路島から上京したらしい。
 石川 達三が亡くなったのは、昭和60年(1985年)だが、この作家の最後も、宮さんが見とったのではないかと想像する。
 私が親しくしていただいたのは、宮さんの晩年、1994年あたりからだった。
 「フリッツイ・シェッフ」が載った「SPIEL」6号を宮さんに送ったのは、1995年7月12日だった。
 なぜ、そんなことがわかるかというと、私の送ったハガキがこの雑誌に挟んであった。
 その裏に、宮さんがメモのようなものを書いているのだった!

    中田さんがこんなにオペラにくわしいとは知らなかった。わが身が恥ずかしい。ぼくはフリッツイのことをまったく知りません。それは当たり前で僕の生まれる前の話です。テトラチーニ、ファーラー前の歌手です。しかし、中田さんの文を読んで、大いに興味をそそられました。
    こんな歌姫がいたのかという驚きです。それにしても中田さんの筆はこの女を生かしていますね。目の前にいるようです。
    曲は残っても歌った本人はいない。その歌は別な新人歌手によって歌われる。しかもそれは現代ではデジタルでキャッチされる。例のメルバのレコードをぼくはもっていますが、蚊の鳴くような音で雑音の中から彼女の声が聞こえてくるのです。蚊の鳴くようなオーストラリアの鶯。

 これを読んで驚きは深まるばかりだった。
    (つづく)

2010/03/22(Mon)  1170
 
(つづき)
 私の「フリッツイ・シェッフ」が掲載された雑誌、「SPIEL」6号(1995/7)のページをめくったとき、これを読んだ人のメモが見つかった。

  「SPIEL」をありがとうございました。大変シックな雑誌でスカッとしています。中田さんのお作「まぼろしの恋人」にはびっくり仰天、言葉も出ぬくらい感動しました。
  それについては、ゆっくり感想を書かせていただきます。
  それから、この雑誌の編集者、福島礼子さんの知性にも驚きました。「未来のイヴ」は大変な知的産物です。
  女というのは、大抵はバカが多いのですが、この人は違います。中田さんのお許しを得て、その人にお手紙を差し上げたいと思っております。この人の書いたものをもっと読みたいのです。ぼくはどうもアケスケとものを書くので、人にいろいろいわれます。おゆるしください。
  それにしても、中田さんのオペラ通には目を丸くして、肝を冷やしました。この作品、傑作で心に残ります。

 これを書いたのは、作家の宮 林太郎さんである。

 私が驚いたのは当然だろう。生前の宮さんが私にあてた手紙が、ゆくりなくも14年後に私の手に届いたのだから。
 こういうこともあるのか、と、しばし茫然とした。

 私にあてた手紙だということは間違いない。私が宮さんにあてたハガキが入っていたからである。
 宮さんは手紙を書く前に、メモをとる習慣があったらしい。
 つまり、これとおなじ内容の礼状を清書して、私に送ってくださったのではないかと思う。
 メモは、ほかに3枚あって、その1枚も、手紙の下書きらしい。
 話の順序として、私が宮さんに送ったハガキの内容を掲げておく。

  宮 林太郎様
  こんなものを書きました。お読み頂ければ幸甚です。
  去年から書きはじめた評伝は、やっと三分の一、七百枚になりました。もう少し頑張ろうかと思っています。
  暑くなりそうです。
  どうかお元気で。

 日付は、1995年7月12日。
 「去年から書きはじめた評伝」は、『ルイ・ジュヴェ』だが、これを書いていた時期の私は、それこそ悪戦苦闘していたのだった。
    (つづく)

2010/03/21(Sun)  1169
 
 このブログを書く。アクセス数が5万をこえたので、何かおもしろいことでも書きたいと思っている。

 おもしろいこと。
 つい最近、おもしろいことにぶつかった。もっとも、私以外の人にとっては意味もないことなのだが。
 みなさんに聞いてもらうほどのことではないが、私にしてはめったに経験したことがないので、ここに書きとめておく。

 2010年の冬季オリンピック。日本がイギリスを11−4で圧勝したカーリングの第4戦を見たあと、外出した。私の場合は古本屋めぐりの散歩である。私の住んでいる都会は古本屋らしい店も激減していて、近郊の小さな町まで、私鉄に乗って出かけることも多い。この日、私が行ったのは、電車で20分、ある私立大学のキャンパスがある町の古書店だった。映画関係の本が多いので、ときどき立ち寄ってみることにしていた。

 表通りに面して、雑書や、文庫などの棚が並べてある。値段もだいたい100円どまり。雑書の背中を見て、少しでもおもしろそうなものは手にとってみる。ざっと本の内容をたしかめて、棚に戻す。
 ふと、1冊の古雑誌が眼についた。おや、と思った。見おぼえのある雑誌だった。

 「SPIEL」6号(1995/7)。
 三重県鈴鹿市の福島 礼子さんが編集して出していた個人雑誌だった。発行部数は、おそらく、きわめて少なかったと思われる。

 福島 礼子さんは、同志社大卒。三重県文学新人賞(評論部門)を受賞した女性で、著書に『文学のトポロジー』、『化粧パレット』、『都市のモルフェ』、『セクシュアリティーの臨界へ』などがある。
 私は、斉藤緑雨賞という文学賞の審査にあたったことがあって、そのとき、福島 礼子さんの面識を得た。そんな縁で、福島さんの「SPIEL」に、「フリッツイ・シェッフ」というエッセイを発表した。
 「SPIEL」6号(1995/7)に、それが掲載されている。

 私は驚いた。「SPIEL」のような、へんぺんたる雑誌(失礼!)を、千葉県の片田舎の古本屋の店先で見つけた。これか、最初の驚きだった。
 さらには、ひょっとして、私のエッセイを読んだ人がいるかも知れない。
 そのころ、私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、まったく先が見えず、悪戦苦闘していた。福島さんから「SPIEL」に何か原稿を書いてほしいと依頼されて、ルイ・ジュヴェと関係のないオペラ歌手、フリッツイ・シェッフのことを書いたのは、いわば気分転換のつもりもあった。
 斉藤緑雨賞でお世話になっている方からの依頼なので、私としては、そのときの自分の最高の作品を提供した。「まぼろしの恋人」と題した「フリッツイ・シェッフ論」は、今でも、私の代表作のつもりである。

 その「フリッツイ・シェッフ」の掲載された雑誌を見つけた。すぐに買った。100円だった。
 驚きはあとからやってきた。
     (つづく)

2010/03/19(Fri)  1168
 
 いろいろな人の訃報を聞いた。
 たとえば、東 恵美子。劇団「青年座」の創立メンバーのひとり。彼女は、私が演出した芝居に出てくれたし、当時、私はラジオドラマなど、放送の仕事をしていたので、何度か出てもらった。
 つづいて、これはイギリスの女優、ジーン・シモンズが亡くなった。つづいて、双葉 十三郎さんの訃報を知った。私は、ただ面識があったていどだか、双葉さんのお書きになるものにはいつも敬意を払ってきた。さらに、映画評論家の登川 直樹さん、作家の立松 和平の訃報を聞いた。
 私の知っていた人たちが、つぎつぎに鬼籍に入った。
 そして、宇尾 房子の訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなった。
 私は、つい最近まで知らなかったので、この知らせに驚いた。
 宇尾 房子さんの死を知った翌日、劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞のオービチュアリで知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4)
 しかし、私にとっては、ひとつらなりの訃報であった。私の知っている人たちがつぎからつぎに鬼籍に入った。無常迅速の思いがある。

「朝」の中心にいた竹内 紀吉が亡くなって、もう4年になる。
 宇尾 房子さんを紹介してくれたのは、竹内君だった。いつか、宇尾さんのことを書くつもりだが、たまたま最近届いた「朝」28号は、同人の古瀬 美和子さんの追悼がならんでいた。
 そのなかに、病中、古瀬さんの死を知った宇尾さんが、追悼の辞を口述したことが出てくる。千田 佳代さんの記録による。

 宇尾さんは、千田さんに、「古瀬さんの、追、悼号のね、原稿、書きたいけど」という。おそらく、途切れとぎれにいったのだろう。そして小さく咳をする。
 千田さんは、いそいで筆記するのだが、宇尾さんの口にしたことばは、
 「ながいこと、あり、がとう」
 というものだった。けっきょく、

    三人は無言で、宇尾さんを見つめた。唇がすこし荒れている。はるか遠くをのぞむ目が、そらされると、再び咳。
   「たくさん、書くつもり、だったけど……」
    そこで、彼女は目を閉じると、
   「心から、心より、ごめい福を、お祈り、します」

 このくだりを読んで、私は感動した。
 作家を志して、ただひとすじに美しく生きたひとが、おなじように小説を書きつづけてきた人の死を聞いた。そのとき、宇尾さんの内面に何があったか、私などに忖度できるものではない。
 途切れとぎれのことばに、千万無量の思いがこめられていたにちがいない。
 そのとき、彼女を見舞った三人の仲間に、やはり、「ながいこと、あり、がとう」と語りかけていたにちがいない。

 いろいろな人の訃報を聞いた。
 3月8日の新聞で、寺田 博の訃を知った。元「文芸」の編集者で、さらに「海燕」の編集長だった。享年、78歳。
 宇尾 房子さんが、追悼のことばを述べた古瀬 美和子さんの弟にあたる。

 いろいろな人の訃報を聞いて、私の胸に去来するのは、月並みな感慨だが、

    春夢随我心    春の夢 我が心にしたがって
    悠揚逐君去    悠揚として 君を追って 去らん

 春の夢かも知れないが、心のままに別れを惜しみ、夢のなかで在りし日のあなたのことを思いうかべて別れよう。包 融の詩の一節である。
 私も、おなじことばをささげよう。

 宇尾 房子さん、「ながいこと、あり、がとう、と。

2010/03/17(Wed)  1167
 
 ヤツガレ、ご幼少のみぎり――なんて気どったところで、はじまらねえか。

 夜が明けると、町を流して歩く売り声がひびく。納豆売り、シジミ売り、トーフ屋。

 私の通った小学校では、おなじ小学校を卒業した大先輩で、海軍の提督になった斉藤 七五郎中将の少年時代が唱歌になっていて、毎日のように歌わされた。誰の作詞だったのか。そのなかに、

    身は、幼少の納豆売り

 という一節があった。私の少年時代(昭和初期)には――さすがに小学生の納豆売りは見かけなかったが、それでも自転車に乗って、ツト納豆を売り歩く若者を見かけた。
 煮豆屋もかかさずまわってくる。これは、リヤカーを改造したクルマに、白木の箱が重ねてある。その箱の引き出しに、よく磨いた真鍮の把手がついている。引き出しの中には、フキマメ、ウズラマメ、クロマメなどが、いっぱい入っている。
 町家のおかみさんが、ドンブリをかかえて煮豆屋を呼びとめる。
 注文を聞いた煮豆屋が、朱塗りのシャモジで豆をしゃくって、ドンブリに入れる。

 どこの家の朝飯もオカズはだいたい似たりよったり。
 オミオツケ、煮豆、おシンコ。おシンコは、白菜の漬物やタクアンなど。
 今からみれば、粗食というか、貧しい食卓だった。

 昼のお惣菜は、イリドーフ、オカラ、ヒジキ、ゼンマイ、ツクダ煮、アサリ、ハマグリ、ミガキニシンといった献立で、たまに焼きザカナが出たりする。
 肉ジャガなどは、めったに食べられなかった。そもそも、あまりジャガイモを食べる習慣がなかった。ルーサー・バーバンク種の「男爵」が、まだ普及していなかった。

 仙台では、笹カマボコがおいしかったが、あまりサツマアゲは食べなかったような気がする。東京の下町では、カマボコ、サツマアゲの両方を食べたが、笹カマボコを食べることはほとんどなかった。

 最近の中国のGDPは、日本を抜き、アメリカについで、世界第二位になる勢い。
 それかあらぬか、かつてはナマザカナをたべる習慣のなかった中国人が、いまや寿司やおサシミをよろこんで食うようになっているとか。
 おサシミ用のマグロの消費量は、2000年に、約二百トン。2008年には、約一万トン。ほぼ、50倍の伸びという。
 海産物の消費量は、この10年で、約1000万トン。日本の約900万トンをかるく追い抜いた。

 今の中国は、それでも発展途上国だそうな。つい最近、中国政府がそう言明していた。

 友愛のおかげで、マグロどころかメザシも食えなくなるかも。(笑)

2010/03/15(Mon)  1166
 
 たまたま古道具屋で「ハリウッドからの遺書」という1本のビデオを見つけた。このときの私は、関係のないことを思い出していた。

 『ルイ・ジュヴェ』を書いていたとき、神田の古書店の、ゾッキ本だけを並べた棚に、ジュヴェの著書が3冊並んでいた。いっしょに本を探してくれた田栗 美奈子が、まったく偶然に見つけてくれたのだが、私は眼を疑った。
 私がずっと探していた本が、こんなところにあった! まさか、こんなところでジュヴェの本がころがっていようとは。驚きと同時に、天の配剤のようなものを感じた。

 むろん、ただの偶然と見ていい。たまたまジュヴェの本を売り飛ばした人がいた。古本屋は、今どきこんな本を買う客はいないと判断してゾッキ本の棚に突っ込んだ。それだけのことだろう。たまたま私はルイ・ジュヴェの評伝を書きつづけていた。ウの目タカの目で資料をさがしていた私が、偶然見つけただけのことだろう。
 しかし、この時の私は因縁のようなものを感じた。この本たちは、私に訴えている。『不思議の国のアリス』に出てくる Drink Me の呪文のように。
 さっそくこの本3冊を買い込んだ。
 私にとって至福のときであった。

 私が見つけたビデオ、「ハリウッドからの遺書」は、1本、30円。私にとっては、まさに掘り出しものだった。さっそく電話で自慢すると、美奈子ちゃんもいっしょに喜んでくれた。

 ビデオの「ハリウッドからの遺書」を見つけて、なぜこんなに嬉しがっているのか。いずれ、みなさんにもわかってもらえるかも知れない。

2010/03/13(Sat)  1165
 
 ちょっと嬉しいことがあった。ここに書くほどのことでもないが、ちっとばかし嬉しいので、書きとめておく気になった。

 近くの古道具屋で、1本のビデオを見つけた。「ハリウッドからの遺書」というラベル。あとは何もない。こんなビデオが古道具屋にころがっている。可哀そうな気がした。値段はあってなきがごとし。

 帰宅して、そのビデオを見た。なんと、コメンテーターがローレン・バコール。(むろん、もう誰も知らない女優さん。俳優、ハンフリー・ボガート夫人。)すっかりオバァサンになっている。アメリカで、こんなドキュメントが作られても不思議ではない。だが、私はその内容に――驚かされた。
 サイレント映画の時代に起きたファッテイ・アーバックル事件、ウィリアム・デズモンド・テーラー事件、ポール・バーン事件などが――つぎつぎに出てくる。
 いまどき、こんな無声映画時代の事件に関心をもつ人はいないだろう。だが、私は――あの可憐なメァリ・マイルズ・ミンター、お侠なメイベル・ノーマンドたちのフィルムが出てくるだけでうれしくなった。
 そればかりではない。メァリ・マイルズ・ミンターの「肉声」の録音も聞くことができた。そして、ヴァージニア・ラップが出た映画の1カットまでも。
 この新人女優の怪死が、ハリウッドじゅうを震撼させた。その結果、頭に単純な思想を詰め込んだ、貧相な顔つきのヘイズ(当時、郵政長官をやっていた)が、ハリウッドに乗り込んで、検閲、規制、風紀の粛清に当たった。この人物のごりっぱなご託宣も見ることができる。
 アメリカには、ときどきこういう Do−gooder があらわれる。しばらくたつと、その時代を代表する道化師に落ちぶれるのだが。

 ヘイズの演説におもわず笑ってしまったが、このドキュメント自体にはほとんど茫然とした。各シーンに驚きがあった。ドキュメントとして、全体にそれほど高いレベルの作品ではない。しかし、ここには、自分たちの「過去」をひとつの文化として見ようとする姿勢がある。
 私は大島 渚が監修した日本映画の100年史といったドキュメントを思い出した。いかにも安易なドキュメントで、拙速というか、周到な準備もなく、思いつきでフィルムをかき集めて、つなぎあわせたような作品だった。大島 渚は日本映画のみじめな発展さえ、まともにとりあげなかった。

 たとえば、若き日の川田 芳子、五月 信子、英 百合子の姿を、ビデオで見ようと思っても、ほとんど不可能だろう。まして、入江 たか子、夏川 静江、砂田 駒子などの水着姿などを見ることはない。

 後年の化け猫女優、鈴木 澄子の若い頃は胸をくりぬいたような水着、歌川 八重子が背中をまるだしにした水着だった。そんなことは誰も知らない。
 いまの女の子に較べて可哀相なくらい短足で、メタボな松枝 鶴子。下腹部がホコッと出ていた高津 慶子。痩せっポチの田中 絹代。胸が平べったい及川 道子などをビデオで見ることはない。

 日本の映画界に、すぐれたドキュメンタリストがいないわけではない。
 将来、日本の映画の発展をまっすぐ見すえた、すぐれたドキュメンタリーが作られることを期待している。

2010/03/10(Wed)  1164

  立○ ○子さん

 お手紙、ありがとう。とても、うれしかった。

 私は、今、少し長いものを書きはじめたところなんだ。
 何を書くのか自分でもわからない段階の作家は、内心、いい知れぬ不安をかかえている。これから書こうとしているものが、ほんとうにおもしろいものになるかどうか。実際に書きつづけるとして、作品の長さ、サイズはどうなるのか。読みやすいかどうか。
 はたして読者が読みたいと思ってくれるかどうか。それに、だれが読んでくれるのか。読んでもらえるほどの魅力があるかどうか。
 不安は、つぎからつぎに重なってくる。
 だいいち、書きあげることができるのかどうか。

 だからたいていの作家は、自分の前にしらじらしく広がっている茫漠たる空間に、ただ立ちすくんでいる。きみのいう「炯々たる虎のまなざし」なんて、とんでもない。
 もはや老いぼれて、シマシマも色褪せ、牙も抜けて、ヨタヨタの虎は、果てし無い密林(タイガ)をのろのろと歩きまわっている。たまに吠えても、ほんの退屈しのぎか、自分がまだ声をだせるかどうか心配で、よわよわしく咆哮してみせるだけのことなのだ。
 きみは私が「どんな分野でも自由自在に書きわける」才能をもっていて、その幅のひろさに驚いている、という。これまた、とんでもない。私はひどく狭い分野をうろついていただけのことさ。

 はじめてものを書きはじめた頃、先輩の荒 正人がハガキをくれた。
 若い頃のチェホフは、アントーシャ・チェホフというペンネームで、おびただしいコントや、ファルス、滑稽な雑文を書きとばして、医科大学を出た、と。当時、まだ学生だった青二才にこんな助言をあたえてくれた荒 正人の励ましがどんなに嬉しかったことか。
 そこでチェホフにならって、いろいろなものを書きとばしてきた。
 ただし、肝心なことを忘れていた。私には才能がなかった。もう少し才能に恵まれていたら、今頃もう少しなんとかなっていたはずだよ。アホな話だよ、まったく。

 たとえば、児童むきの小説、ジュヴナイルものを書きたいと思ってきた。1冊でも書けたか。児童むきの絵本を翻訳する機会さえなかった。たとえば、ファンタジーを書きたいと思った。1冊でも書けたか。残念なことに、そんな機会もなかった。
 若い頃の私は、依頼された原稿を書きとばしてきた。放送劇からポルノまで。馬琴は、良書を得るために悪書を書くと称したが、私の場合はポットボイラーの仕事ばかりで、まともな作家のやる仕事ではなかった。
 何しろ貧乏作家だったからねえ。
 きみは――「先生のほかに(そんな仕事をする人は)ちょっと見当たらない」という。
 正直のところ、耳が痛い。きみは、私を多才なもの書きと見てくれているようだが、ひいきの引き倒しってヤツだよ。

 きみが久しぶりに手紙をくれた。せっかくだから、もう少しさらりと「アントーシャ・チェホフ」をやってみるか。
 荒 正人に対する感謝の思いは変わらないように、私に手紙をくれたきみにも感謝している。

2010/03/06(Sat)  1163
 
 其角の句は、じつはとてもむずかしい。私には元禄の俳諧をすんなり理解する力がないからである。

    雪の日や 船頭どのの 顔の色

 雪が降っている。渡し船に乗ったが、船頭さんの顔は長年の渡世に日焼けして、雪とつよいコントラストを見せている。
 なんとなく、ヘミングウェイの『老人と海』の主人公を思い出す。
 謡曲の「自然居士(じねんこじ)」の一節、「ああ船頭殿のお顔色」を踏まえての句と聞いても、ふぅん、そんなことなのか、と思う。

 子どもの頃、よく遊んだ向島、三囲(みめぐり)神社、絵馬堂の裏に、

    夕立や 田を三囲の 神ならば

 という句碑があって、其角の名をおぼえた。
 そういえば――あのあたりには、十寸見 河東の碑や、長命寺に芭蕉の碑、成島 柳北の碑などがあったはずだが、大空襲で焼け出されてから一度も行ったことがない。

 暖かくなったら行ってみようか。

2010/03/03(Wed)  1162
 
 其角の句を読みながら、テレビを見ていた。

     世の中は 何がさかしき 雉の声

 テレビは鳩山政権が発足してはじめての通常国会。
 国会が招集される直前、民主党の小沢 一郎幹事長が、政治とカネのスキャンダルにまみれる。土地購入の代金は4億円という。ヤルもんだねえ。
 小沢の資金管理団体、「陸山会」の土地購入をめぐって、小沢の秘書、衆議院議員が逮捕された。(小沢は、昨年10月にも、「西松建設」の違法献金問題で、秘書が逮捕されている。)この秘書は、保釈後、民主党を離れた。
 小沢は政治資金規制法違反(虚偽記入)で告発されたが、ナァニ、嫌疑不十分で不起訴になったトサ。
 昨年11月にはじまった茶番は、これにて一件落着。(’10.2.3)祝着至極。

 泰山鳴動してネズミ一匹。まあ、あんなこった。こんなこった。

     あれ 春が 笠着て行くは 着て行くは   一茶

 テレビで小沢 一郎を見ているとなかなかおもしろい。自分の談話で、一言づつ、ラストのフレーズになると、かならず、力をこめてつよい語勢(ストレス)を出す。口を「への字」にゆがめる。 私自身が・ 刑事責任を・ 問われることにな・れ・ば・非常に責任は、重・い・ と思われま・す・ というふうに。

 さて、其角の句に戻ることにした。

    分限者(ぶげんしゃ)に成たくば。秋の夕暮をも捨よ

 其角のへんな趣味で、句のまんなかでブッちぎってある。分限者(ぶげんしゃ)は、ミリオネアー。
 ミリオネアーになりたい人は、秋の夕暮にあわれをもよおすようなセンチメンタルな感性を捨てたほうがいい、という意味。
 其角の句でも、あまり感心できない一句だが、小沢 一郎ふぜいを連想するには、ちょうどいい。もっとも、おなじ其角の句、

    憎まれて ながらふる人 冬の蠅

 このほうが、小沢 一郎にはふさわしいかも。

2010/02/28(Sun)  1161
 
 東 恵美子、ジーン・シモンズの訃につづいて、双葉 十三郎の訃を知った。
 双葉さんは、私にとっては大先輩の映画批評家だった。よく試写で見かけたが、口をきいたことはない。しかし、映画、ミステリーについて、じつにさまざまなことを教えていただいたような気がする。
 双葉さんに『映画の学校』という著書がある。私が『映画の小さな学校』という編著を出したのは、双葉さんに対するささやかな敬意のつもりもあった。

 双葉 十三郎さんが亡くなられて、すぐに登川 直樹さんの訃報を聞いた。

 この世代の人々では、南部 圭之助、海南 基忠、内田 岐三雄、野口 久光といった人々がすでに白玉楼中の人となった。
 私は個人的に飯島 正さん、植草 甚一さんに親しくしていただいたが、双葉 十三郎さん、登川 直樹さんの話を伺う機会がなかった。それでも、おふたりのお書きになるも
のにはいつも敬意を払っていた。

 そして、立松 和平が亡くなった。

 たとえ縁は薄かろうと、私の知っている人たちがつぎつぎに鬼籍に入ってゆく。心から残念に思う。それぞれの人の死は一つの時代の終わりと見える。
 月並みな感想といわばいえ。月並みでは切実な思いではないと誰がいえるか。

2010/02/25(Thu)  1160
 
 いろいろな人の訃報を聞く。わずかにその名を知っている程度の人々は別として、はからずもめぐり会ったことの不思議さ、そうした人がついに不言人となるを聞けば、追憶の心をおぼえるのは当然だろう。

 女優の東 恵美子が亡くなった。
 創立間もない「青年座」で、彼女は私の演出につきあってくれた。当時、私はよくラジオドラマを書いていたので、放送劇にも出てもらった。
 東 恵美子自身は口にしなかったが、浪曲師の東 武蔵の娘だった。浅草でいろいろと浪曲を聞いていた私は、そのことに関心をもったと思う。東 恵美子が、もともと放送劇団をへて「俳優座」に入ったという経歴も、私には近しい位置にいるような気がした。私も似たような運びで、「俳優座」の養成所にかかわり、やがて演出を手がけるようになったからである。
 彼女は、おなじ劇団の、山岡 久乃、初井 言栄とともに、私の女優観――(そんな大仰なものではないが)――の根っこに、いつも存在していた。つまり、私が女優を見たり、女優について考えるときは、この三人の女優たちや、ほかの数人の女優たちの姿、気質、性格、芸風などとひき較べたり、そこから何かを推し測るといった、一種のクライテリオンになった。
 まだ、結婚する前の彼女が南 博とつれだって歩いているところを見たとき、思いがけず、南さんから声をかけてきたことを思い出す。

 私にとっては、なつかしい女優さんのひとり。

 しばらくして、ジーン・シモンズの訃報を聞いた。

 イギリスの女優にはアングロサクソンに特徴的な香気(フレグランス)がある。ここでは説明しないが、ヴィヴィアン・リー、マーガレット・ロックウッド、グリア・ガーソン、クレア・ブルームと挙げてくると、ジーン・シモンズが典型的にイギリスの女優としての香気をもっていたことがわかる。
 戦後、「大いなる遺産」の「エステラ」や、「ハムレット」の「オフィーリア」を演じたジーン・シモンズのすばらしさは忘れられない。しかし、その後、女優としては空疎な歴史ロマンスに多く出た。マーロン・ブランドを相手にした「デジレ」などが記憶に残っているが、女優としては進むべき方向を誤ったとしかいいようがない。

2010/02/23(Tue)  1159
 
 一月の末に、J・D・サリンジャーが亡くなった。
 私は、サリンジャーをもっとも早く読んだひとりだったから、この作家の訃に深い感慨があった。
 それとは別に、私の内面にはサリンジャーの紹介に関して感慨があった。

 現在は村上 春樹の訳がひろく読まれているが、日本で誰よりも早くサリンジャーを先に訳した翻訳家、橋本 福夫の仕事は誰の注目も浴びなかったと思われる。
 しかし、橋本 福夫の訳は、後発の某先生の訳に比較して、いささかも劣らない、みごとなものだった。ある部分、橋本訳のほうがすぐれていたと思う。
 ただし、原題の『ライ麦畑でつかまえて』ではなく、『危険な年齢』などという愚劣な題名で出版された。(出版社は、ダヴィッド社)
 当時、アメリカ映画の「理由なき反抗」とか、フランス映画の「危険な都市小室」といった映画にあやかったネーミングだったのだろう。そのため、ティーンエイジャー向きの読みものの原作か何かと見られたのではないか。
 むろん、橋本 福夫の責任ではない。橋本 福夫訳は、当時としてはやむを得ない誤訳があるにしても、サリンジャーの本質をただしくとらえた、優れた翻訳だったことにかわりはない。翻訳史上、これは特筆していいと思う。
 これから翻訳家を志す人は、まず橋本訳を探し出して一行々々、吟味して読むことをすすめる。一介の翻訳家の仕事などと見くびってはならない。
 橋本 福夫は、田中 西二郎、中村 能三、宮内 豊などとおなじ世代の、もっともすぐれた翻訳家なのである。『危険な年齢』は、たいして売れなかったはずだが、ときどき古書市で見つかる。

 サリンジャーの追悼とは無関係に、私の胸に、あまり恵まれなかった(と、想像するのだが)、すぐれた翻訳をしながらついに不遇だった先輩の翻訳家に対する敬意と、ひそかな同情がかすめてゆく。

2010/02/20(Sat)  1158
 
 歌舞伎の世界は、若手がぞくぞくと意欲的な芝居を見せている。市川 海老蔵が早変わり十役をつとめたり、右近が「黒塚」をやったり。
 後世の人は、平成になってからの歌舞伎を、名優が輩出した時代と見るかも知れない。
 あたかも、明治の人たちが、文化、文政の頃を名優が輩出した時代と見たように。

 実悪の松本 幸四郎(五世)、所作の中村 歌右衛門(三世)、板東 三津五郎(三世)などが、名優として知られていた。

 この三津五郎が、舞台で家老の役を演じた。湯呑みを手にする。舞台に置いた時計の音にあわせて、爪ではじく。これで道具替わりの合図にした。
 観客にウケた。大いにウケて、評判になった。
 これを見ていたのが、作者の桜田 治助。
 せっかく評判の湯呑みも、張り子の小道具なので、どうにも栄(は)えない。わざわざ、本物の湯呑み茶碗を買い求めて、取り替えて置いた。

 幕を終えた三津五郎は、楽屋に戻ったが、不機嫌な顔で、
 「誰が、余計なことをしやがった?」
 と怒った。
 桜田 治助は、意外に思って、
 「じつは、湯呑みを替えたのは、あたしだが」
 というと、三津五郎も作者のしたことなら仕方がない、と、いくらか顔色をやわらげたが、
 「瀬戸ものを瀬戸ものに見せることは誰にもできる。張り子の小道具をほんものの瀬戸ものに見せるのが役者のウデだ。この頃、ようやく張り子がほんものにみえるようになったのを、惜しいことをしてくれた」
 と嘆息した、という。

 この三津五郎の和事、実事、いずれにもすぐれ、老女の覚寿、岩藤なども評判の当たり役だった。天保二年、法界坊、五三桐を演じたのが、江戸芝居の最後で、その年(1831年)の暮れに亡くなっている。五十七歳。

 こんなエピソードからも、いろいろと考えることができる。

2010/02/17(Wed)  1157
 
 雪が降っている。
 にぶい明るさを秘めた空から、かぎりなく落ちてくる。ときおり、わずかな風に一斉に揺らいで、きた地面に落ちてくる。
 あとからあとから、ひらひらと落ちてくる、雪、雪、雪。気の遠くなるような、無限の動き。
 私たちは、ただ黙々と歩き続けていた。

 下山の途中から、風が出てきて、雪がはげしくなってきた。雪は降りつづけ、視界はただ白く明るい起伏に、雪はぐんぐんひろがって落ちてくる。
 コースは間違いないと思ったが、いちめん雪に蔽いつくされて、ただしいコースを選んでいるかどうか、自信はなかった。
 眼の前につづく、すでに降りつもった雪の高さが、ついさっきよりもすこし多くなってきたような気がする。
 私のうしろに、彼女が歩いている。頭にかぶっているフードが少し斜めになって、全身真っ白に雪がつもってきた。

 「少し、休もう」私はいった。

 彼女は黙って足をとめた。私は、携帯カップの底に固形燃料を押し込んだ。手袋をとるとたちまち手が凍えて、ライターの火がつけられない。やっと火をつけた。
 「このコースでいいのかしら」彼女がいった。手がふるえていた。
 「わからない」私はいった。

 すでに暗くなりはじめていた。それでも、空から降りつづける雪はいっそう白さをましている。まるで空がくだけたように雪が落ちてくる。空のてっぺんのほうに、なぜか灰色の部分がのこっている。
 暗くなって降りしきる雪は、頭上まで近づいてきて、白い無数の渦になってくる。

 お湯に、インスタントのティーバッグを入れる。そして、シュガーも。
 彼女が、半分ほど飲んで私にカップを返した。残った半分が私の喉に流れてゆく。

 「少しキツいかも知れないが、急ごう」

 私たちは、もう3時間も歩きつづけていた。下山のコースは、雪が降りつもった岩や樹木の肌にしがみつきながら下りる、危険な箇所が続いていた。最悪の場合、途中で、岩と岩の間にツェルトザックを張って、緊急にビバークしよう。事態はそこまできている。
 自分では冷静に行動しているつもりだったが、彼女が疲労していることはわかった。あと、どのくらい歩けるのか。私も疲労しはじめている。
 彼女が疲労しきって歩けなくなる前に、ビバークの場所を確保しよう。
 彼女をつれてきたことを後悔しはじめていた。

 それから、20分後、私は木の根の下に、ふたりがやっともぐりこめる隙間をみつけて、風のなかで、ツェルトをくくりつけた。ふたりで折り重なって、やっと風を避けるような状態で、ずしりと重い彼女の冷えきった感触が、私のからだにつたわってきた。

 彼女のふるえがつたわってくる。

2010/02/13(Sat)  1156
 
 あなたは、3分ですか、4分ですか。
 私の質問にすかさず、3分半です、と答えてくれたレディがいた。
 このやりとりの下敷になっているのは、ジェームズ・ボンド。彼がボイルド・エッグ、半熟タマゴと指定する時間である。アホな私は、ジェームズ・ボンドの真似をして、ボイルド・エッグは3分半ときめていた。
 だから、このレディが私の質問をすぐに理解してくれたことがうれしかった。

 タマゴをゆでているうちに、うっかり時間をまちがえてゆで過ぎることがある。(うっかり、じゃない。しょっちゅうだね。)すっかり、ハードボイルドになってしまう。
 つい先日、久しぶりにゆでタマゴにしようと思った。当然のようにうっかりして、ガチンコのボイルド・エッグになってしまった。さて、どうしようか。
 タマゴをふたつに切ることにした。包丁で切ってもいいが、黄身がくずれるかもしれない。糸を口のハジッコでくわえて、タマゴを手に、糸で切る。うまくいった。
 フライパンに、バターを落として、メリケン粉を大サジ2杯、こいつをトロ火でいためて、ミルクを少しづつ。塩、コショーで味をととのえて、私のホワイト・ソースのできあがり。

 このなかに、タマゴをしずかに入れて、トロ火で10分ばかり煮込む。

 サクラエビ、ホウレンソウの青ゆで、大根の葉ッパをさっとゆでたヤツをつけあわせにする。

 けっこう、おいしかったナ。

 私と、タマゴ問答をしたレディは、私のクラスで翻訳を勉強なさっていたが、残念なことに亡くなられた。

2010/02/09(Tue)  1155
 
 つい先日、私は書いたのだった。
 「和歌や短歌は、はじめから私などの立ち入るべき世界ではない」と。
 理由をあげるとすれば、私が和歌や短歌を敬遠してきたのは、じつは記憶できないせいではないか、と思う。

    わが恋の 果てはありけり 蝶の凍      はぎ女

 おなじ作者の

    茶の花や 丘ばかりにて 川もなし      はぎ女

 といった句はおぼえやすいが、

    今日来ずば 明日は雪とぞふりなまし
           消えずはありとも 花と見ましや   在原 業平

 いくら名歌でも、私の、くたびれきった脳にはすぐにうかんでこない。さなきだに(そうではなくても)いまや私の脳には、あわれ、ベータ・アミロイドが「雪とぞふりつもって」いるので、和歌や短歌はおぼえられない。おぼえても思い出せない。

 暇なときに和歌を読む。ときどき、笑いたくなるからいい。

  冬川の上は氷れる我なれや 下に流れて恋わたるらむ   宗岳大頼

 冬の川水は、氷の下を流れる。私の恋は、氷の下を流れる冬の川のようなものだ。それだけの歌だが――私の思いは、氷の下、つまりは硬く凍った心のなかに流れているので、氷を溶かすことはない。だから、私がひそかに恋しているひとに気づかれることもない――そう見てくると、無残な歌に見える。思わず、ニヤニヤしたくなる。

 眼にした一首を、ためつすがめつ読む。けっこう楽しい。
 あるお坊さん、さる女人に、あの老法師を見よ、と笑われた。そこで詠んだ一首。

    形こそ み山がくれの 朽木なれ
           心は花に なさばなりなむ      兼芸法師

 それほどいい歌には見えないし、ひとによっては老人のいやらしさを不快と感じるかも知れない。
 私は笑った。ゲラゲラ笑ったわけではなく、イヒヒヒぐらい。身につまされたせいもある。今年は、せめてこのくらいの気概をもってくだらぬことを書くことにしよう。

2010/02/06(Sat)  1154
 
 年末、その年の総括として、どこかの寺の坊主が、一字を揮毫する行事をみた。この坊さん、一昨年は「変」の一字、去年は「新」という一字を、大きな紙に墨痕あざやかに揮毫なさった。

 「新」などという言葉で何がいいあらわせるものか、とひそかに思ったが。

 一字をもって世相をあらわそうというのだから、最大公約数のようなもので、何をもってきても通用する。お坊さんも、政権交代で鳩山内閣が登場したことを「新」と表現なさったのであろう。もとより、たいした趣向のものではない。つまらぬ 浮辞に過ぎない。こんなものは――小人の情を動かす所以に過ぎない。

 私は思い出す。――まさに100年前、明治43年(1910年)の坪内 逍遙のことばを。逍遙は、この年、早稲田で、「近世文学思想の源流」という講義をはじめたが、その冒頭で、

     新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼
     声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる。

と語った。(「早稲田大学文学科「講義録」(第二号)。

 逍遙は、日清戦争前後から俄然として形勢が一変し、外国思潮の浸入がにわかに急になった、という。18世紀末から19世紀末にいたる100年の「彼方の分断に瀰浸したあらゆる思潮は、時を同じうし、もしくは密接に相前後して何の前知らせも無しに浸入」してきた。
 早い話が――西洋の文壇が最近一百年間に経験した種々雑多な重大な変動――利弊相半ばする大変動を、日本の文壇は、わずか15、6年に、ほとんどことごとく接触したと逍遙はいう。

 その結果、いわゆる自然主義の世の中になった。ところが、これと同時に、印象主義、標象主義(象徴主義)も唱えられる。沙翁(シェイクスピア)やゲーテやシルレルを激賞する声がひろく行きわたったかと思うと、もはやこれを貶す声が聞こえる。ワグネルを紹介する評論が少々ばかり見えたかと思うと、いつしかオペラ熱(逍遙はオペラ沙汰と書く)は忘れられる。
 イプセン、トルストイの研究がはじまったかと思うと、すぐに捨てられて、ロシア、フランスの最近の文学に注意を傾倒するというアリサマ。そして――「新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる」という言葉になる。

 明治43年の逍遙は、私財を投じて演劇研究所を発足させている。やがて、帝国劇場で『ハムレット』を上演する。
 逍遙の論敵、森 鴎外は「スバル」を創刊し、旺盛な活動を見せている。
 谷崎 潤一郎が、『刺青』で文壇に登場する。

 2010年が「新」などと見るのは、へたな冗談にすぎない。

    稲妻や きのふは東 けふは西    其角

 このくらいに見とけばいいやな。どうだろう、其角さん。

2010/02/03(Wed)  1153
 
 テレビで、「坂の上の雲」(司馬 遼太郎・原作)を見ている。
 伊予出身の秋山 好古、真之兄弟と、親友の正岡 子規を中心に、明治という時代の息吹を描いた大河ドラマである。
 秋山 好古を阿部 寛、秋山 真之を本木 雅弘、正岡 子規を香川 照之。
 子規は大学を中退して、新聞に勤めるようになった。
 私は子規を勉強したことがあって、テレビを見ているうちに、この時期の子規の作品を少し読み返してみた。

 明治25年12月、子規は内藤 鳴雪といっしょに、高尾山に「旅行」している。
 本郷から、新宿まで歩いて、新宿から汽車に乗る。

    荻窪や 野は枯れはてて 牛の声         鳴雪
    汽車道の 一筋長し 冬木立

 八王子から府中まで歩く。

    鳥居にも 大根干すなり 村稲荷         鳴雪

 府中から、国分寺まで。ここで汽車を待つ。新宿に着く頃には、「定めなき空淋しく時雨れて、田舎さして帰る馬の足音忙しく聞ゆ」ということになる。

    新宿に 荷馬ならぶや 夕時雨          子規

 この小旅行で、子規が詠んだ5句は、全部、馬糞ばかり。

    馬糞の ぬくもりに咲く 冬牡丹
    鳥居より 内の馬糞や 神無月
    馬糞の からびぬはなし むら時雨

 子規は――風流は山にあらず水にあらず、道ばたの馬糞累々たるに在り、とうそぶいている。若者らしくていいや。

2010/01/31(Sun)  1152
 
 ジョン・ダンの詩をあまり知らない。ヘミングウェイが自作の題名にしたので、とりあえず読んだ程度。

 彼の「おはよう」The Good−morrow という詩が好きだった。

 朝の眼ざめをむかえた恋人たちの詩。私にはとても訳せないので、まことに散文的で平凡な説明しかできない。朝、眼ざめたばかりの恋人たちが、お互いの眼を見つめあっている。第一連の冒頭は――きみとぼくが互いに愛しあうまで、いったい何をしてきたのだろう? 乳離れもしないおさな子みたいに、世なれぬたのしみにふけってきたのか。
 しかし、こうしてお互いのうつそ身をふれあわせてみると、この愛のよろこびのほかは、何もかもまぼろしなのだ。
 以前のぼくが、どこかの美人に出会って、欲望のままにものにしたことがあったにしても、それもじつは、きみというまぼろしを追っていたからなのだ。

 そして、第二連。

 こうして眼ざめたぼくたちの朝の挨拶。互いに見つめあっていて、なんの気づかいもない。愛すればこそよそ見をする気もちは起きないし、こんな小さな部屋なのに、これが世界のすべてになる。
 新世界をもとめて大わだつみを航海する冒険者、はたはまた、地図を見ながらつぎつぎに世界を知る人たち。ぼくたちも、それとおなじで、一つの世界を抱きしめる。お互いが一つの世界を手にして、しかもおなじ一つの世界なのだ。

 第三連。

 きみの瞳にぼくがいて、ぼくの瞳にきみがいる。ふたりの顔に、真実の心がやどる。
 きびしい北も、日の沈む西もない。これほど、ふさやかな半球ふたつが、どこにある。
 おぞましいもの、いまわしいものは、ここにはまざらない。きみとぼく、ふたりが一つにとけあって、衰えることなく、ひとしく愛しつづければ、死ぬことはない。

 こんな小曲にも、ルネッサンスの恋人たちの姿がうかんでくる。

 好きな詩さえ訳せなかった私だが、せめて訳詩集の一冊ぐらいは出したかったと思う。もはやとり返しのつかないことだが。

2010/01/27(Wed)  1151
 


 ある人生相談。

     70歳代の祖母。
     20歳代の孫娘は、大学をでて一流の会社に勤務しています。
     ときどき外泊するので心配していたところ、男性の家に泊まっていたことがわ
     かりました。深い仲でした。その男性は給料も安いし、ボーナスもなし。ずい
     ぶんと反対もしましたが、孫は聞きません。
     相談もなく勝手に婚姻届けを出し、2人でアパートに住み始めました。
     いくら愛があるといっても、お金がないからと、結納もせず、結婚式もしない
     なんて。男性に都合の良いことばかりです。男性は平然としています。こんな
     ことでよいのでしょうか。私は夜も眠れません。
     男性は、私の家にはほとんど来ません。孫娘は母親を訪ねては食品をもらって
     いくようです。私は何もあげないでいます。
                           (福島・N子)

 こういうババアを業突張り(ゴウツクバリ)という。
 孫娘は「大学をでて一流の会社に勤務している」のだから、分別のある、しっかりしたお嬢さんなのだろう。近頃は「一流の会社に」勤務する女の子だって、「婚活」とやらにうきみをやつすようなご時世だよ。そんな女の子と違って、好きな相手を見つけてさっさと結婚する娘さんのほうがよほど利口だし、本人もどれほど幸福かわからない。
 そういう孫をみとめてやるのが、話のすじ道ってものだぜ。

 このオババにいわせれば、相手の男性は給料も安いし、ボーナスもないという。「お金がないからと、結納もせず、結婚式もしない」ことを非難する。
 バッサよ、あんダ、古いねえ。白虎隊の子孫かどうか知らねえが、あんた、化石化しているゴウツクバリだナヤ。

 このババアの心には抜きがたい貧乏人に対する差別がひそんでいる。そして、はっきりした「男性蔑視」がひそんでいる。まず、そのあたりに気がついたほうがいい。
 世間にはりっぱに結納をかわして、ケンラン豪華な結婚式をあげても、あっという間に離婚するカップルだっている。あんたの孫娘は、結納もいらないし、結婚式もしないでいい、と思って結婚に踏み切った。けなげなお嬢さんだぜ。まったく。
 実をいやぁあ、孫娘はあんたに内緒で母親にけっこう苦労をかけているはずだよ。そこンとこ察してやッたらどうなんだ、バサマ。
 娘としては母親に援助してもらっている身にひけめも感じているかも知れねえ。「母親を訪ねては食品をもらっている」のは、むろん、新婚そうそうで家計が苦しいせいだろうが、ひょっとして、そういうおねだりに、娘としての甘えもあるんじゃなかろうか。母親だって、内心は心配しながら、娘のためにせっせと食品をわたしてやる。それがうれしいかも知れないやね。
 ババアは、そんな母娘に嫉妬しているのかも。

 母親だって、自分の新婚当時、あんたのようなゴウツクバリの母親をもったおかげで苦労したことを思い出しているかも知れねえ。

 さて、このバンツァン、頭にきて、孫娘には「何もあげない」。ケッ。どだい、このイイぐさ。クソババアめ。
 孫娘のほうだって、こんなクソババアから何ひとつ貰いたかねえだろう。
 「夜も眠れません」だと? 胸クソが悪いゼ。心配で夜も眠れませんときたか。せいぜい、世間の同情惹くがいい。広い世間だ、あんたの味方につくやつも出てくるカモ。

 ほんとうに孫娘が心配だったら、娘たちのアパートに、ほんのわずかでいい、お赤飯とメザシでも、カンヅメでも、野菜でも、小さな花束でも、宅配で届けてやればいい。突っ返されたってたいした失費じゃァあるまい。
 あんたが一度だけでも心からふたりの結婚を祝福してやる。それだけですむ。

 こういう投書を読むと、短編の一つふたつはすぐに書けそうな気がする。
 むろん、そんなものを書く気はないが、自分のブログで、モンスター・クソババアの悪口を書く。

 君子は三端を避けるという。私は君子ではない。世はまさに草昧のとき、嚇怒せずんばやまず。

2010/01/25(Mon)  1150
 


 名投手、ランデイ・ジョンソンが引退する。新年そうそう、このニュースを聞いてちょっと驚いた。同時に残念な気がした。      (2010.1.5)

 私はランデイのファンだった。
 まるで猛禽類のような顔のランデイがマウンドに立つと、それだけで相手が萎縮するような、圧倒的な存在感があった。
 顔を見ていると不精髭に白いものがまじって、野球選手にしてはずいぶんくたびれて見えた。ところが、その鋼鉄のような左腕からくり出される速球の凄さ!
 ボールが空気を裂き、うなりを生じて、キャッチャーのミットに飛び込んでゆく。

 「ダイアモンドバックス」の頃から、4年連続で、サイ・ヤング賞をうけているほどの大投手だった。私は一度しか球場の彼を見たことがない。テレビで見つづけてきただけのファンだが、相手チームの名だたるバッターたちが、つぎつぎにきりきり舞いをさせられる。舞台で名優を見るような思いというか、ときには、膚(はだえ)に粟を生ずるような思いがあった。
 メジャーリーグには凄いピッチャーがいるなあと感嘆した。

 昨年、「ジャイアンツ」に移ったが、6月、「ナショナルズ」相手に、300勝を達成した。45歳になっての300勝だから、たいへんな記録といってよい。成績は、8勝6敗。ふつうの投手ならりっぱな成績だが、ランデイとしてはあまり芳しくない結果に終わった。防御率も、4.88。
 このシーズン後に、フリー・エージェントになった。
 野球人生にどういうかたちで幕を引くのか。ファンとしても、気が気でない思いはあったはずである。
 そして、引退を表明した。

 通算成績は、303勝166敗。防御率、3・29。
 サウスポウでは、通算、4875三振という記録で、歴代1位。

 年をとって、自分のからだやゲームが、もうしおどきだと教えてくれるのは、自然の流れだと思う。何度も手術をしながら回復して、健康な体調で投球がつづけられたことを心からよろこんでいる。
 引退にあたっての、ランデイのコメント。

 感動した。

2010/01/22(Fri)  1149
 
 親しくなったばかりの友だちの姉さんの裸身を見てしまった。窓は、まるで汽車の寝台のようにカーテンが吊ってあり、若い娘の部屋らしいデザインのチュリップの花の刺繍に、白い鳩が差し向きになっている。私はそこまで見届けていた。

 私ははじめて女の乳房を見たのだった。ただし、女の乳房を見たという思いはなく、U君の姉さんの胸に見たこともない白いふくらみがあるということに気づいて、ぼんやり眺めていただけだった。
 そのふくらみの先には、ほのかなピンク色の蕾がついていた。そこまで見て、私はそれが乳暈で、その先に小さな乳首がついていることに気がついたのだった。
 時間にして、ほんの二、三秒ぐらいではなかったか。

 いつものように、U君がくぐり戸から出てきた。私はU君か出てきたことに気がつかなかった。まだ、二階の窓に眼を向けていた。U君の姉さんは、くぐり戸をぬけたU君にも、まったく気がつかなかったらしい。
 U君の姉さんは何かを手にして、それを胸に当てた。まだブラジャーということばではなく、乳当てと呼ばれていたものだった。姉さんが乳当てを胸もとに当てがうと、たちまち綺麗な乳房が見えなくなった。
 U君は私の視線を追って、私が何を見ていたのか気がついた。U君の顔が真っ赤になった。

 姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られた。その恥ずかしさが、U君が赤面した理由だった。私は顔を真っ赤にしているU君の反応に驚いた。

 その頃に、ブラジャーということばはなかった。ほとんどの場合、「乳おさえ」、あるいは「乳バンド」といっていたはずである。それも、日常の会話でこうしたことばが使われることはなかった。
 だから、顔を真っ赤にしたU君が「行こう」とだけ声をかけて、いきなり走り出したとき、姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られたというふうにU君が考えたとは思えない。ただ、どうしようもない羞恥に混乱していたのだろう。私は少しうろたえていた。
 U君が「行こう」と声をかけて、停留所まで走り出したので、あとを追った。
 電車に乗ってからも、U君は私に眼をむけなかった。
 それからあとのことは、よくおぼえていない。

 翌日から、U君は私を避けるようになった。
 翌朝、いつものように門の外から声をかけたが、意外にも、
 「もう出かけちゃったのよ。ごめんなさいね、中田君」
 姉さんが返事をした。
 私はU君の姉さんの顔を見なかった。こんどは、私が乳房を見てしまったことを思い出して、ひどい羞恥にいたたまれない思いで路地から離れた。

 そんなことが、二、三度続いて、U君か私をきらっているらしいと気がついた。
 それからはU君を誘って学校に行くことがなくなった。
 姉さんの二階の窓も二度と開け放しにされなくなった。
 それまで親しくしていた友人が不意に離れてしまった。私はそのことがショックだった。U君は私をきらっている。彼にも私にも、うまく説明のつかない理由で。

 翌年、父が外資系の会社から国策会社に移ったため、一家をあげて東京にもどった。
 私は神田の中学に転校した。その後、U君のことは思い出さなかった。

 いまの私は、U君の姉さんの顔もおぼえていない。ただ、真っ赤になったU君の顔を忘れてはいない。あの日はおそらく夏休みの少し前だったのではないだろうか。さわやかな朝、U君の姉さんの綺麗な乳房を見たことだけが切り離されたように心に残っている。まるで、何かのまぼろしのように。

    若き娘の窓辺に立ちし胸もとに
            白き乳房をあらわにも見つ

 後年、こんな歌を詠んだ。

 とるに足りない小さなできごとなのに、私の内面に意外に大きなものを残したできごとのひとつ。

2010/01/20(Wed)  1148
 
 ひどく小さなできごと。ずっとあとになって、自分の人生に大きなものだったことに気がつく。私にもそんなできごとがいくつもあった。

 中学生になったばかりのとき、あたらしい友だちができた。
 たまたま近所に住んでいる少年だったが、別の小学校に通っていた。中学でもクラスは違ったが、おなじ路線の電車で通学していたから、友だちになった。
 名前はUといった。背丈も私と似たりよったりの、チビだった。

 U君の家まで、歩いて数分。私の家のすぐ近くにお寺があって、その境内の裏、路地の先の二階建ての家だった。
 私は、毎朝、境内を通り抜けて、その先の路地の門の前まで行く。
 「U君!」
 声をかけると、門のくぐり戸から、中学生が飛び出してくる。
 電車の停留所まで、これも歩いて数分。電車に乗ってからもおしゃべりをつづけた。中学では別々のクラスなので、校内ではほとんど話をしない。下校の時刻も違っているので、いっしょに帰宅することはなかった。
 つまりは朝だけの友だちだったが、私にとっては中学生になってできた親友なのだった。

 U君には美しい姉さんがいた。
 女学校を卒業して、どこかの会社に採用されたという。颯爽とした洋装で、勤務先でも評判の美女だったらしい。
 毎朝、U君といっしょに学校に行くようになって、姉さんと路地ですれ違うこともあった。一度だけ、彼女から声をかけてきたことがある。
 「お早よう! 弟をよろしくね、中田君」
 私はあわてて帽子をとってペコリとお辞儀した。彼女は、そのまま去って行ったが、私は声をかけられたことがうれしかった。
 どうして姉さんが私の名前を知っているのだろう?

 私は中学生の制服を着ていたし、U君とおっつかっつのチビだったから、弟の友だちとわかったはずだった。

 ある朝、いつものようにお寺の境内を抜けて、U君の家のある路地に入った。眼をあげると、二階の部屋の窓が開けられているのが見えた。開け放たれている窓に若い女の姿が動いていた。U君の姉さんだった。
 その窓から路地を見おろしても、私の姿は見えなかったに違いない。朝早く、その路地に入ってくる人はいないだろうし、私はチビだったから、その部屋からは見えなかったはずだった。
 U君の姉さんは、上半身、裸になっていた。私は、彼女の胸につややかなまろみが左右に並んでいるのを見た。

 その瞬間の私は、自分の見ている光景にどう反応したのだろうか。
 おそらく、何も考えてはいなかったのだろう。見てはいけないものを見たという気もちもなかったにちがいない。              (つづく)

2010/01/18(Mon)  1147
 
 北原 白秋の

     ただ飛び跳ね 踊れ 踊り子 うつし身の 沓のつまさき 春暮れむとす

 これはステージに立つ踊り子を詠んだものだろう。

 当時、マック・セネットの「水着美人」が、日本男子のあこがれだった。
 たとえば、笑うと、くっきりとえくぼが刻まれるフィリス・ヘイヴァー。メアリ・サーマン。
 いつも額のうえに、ヘアーを巻きつけているルイーズ・ファゼンダ。

 セネットの「水着美人」を見慣れたファンの眼には、五月 信子の水着は、失望でしかなかった。胸の貧弱なこと! 筑波 雪子の笑いには、海辺で笑いころげるマリー・プレヴォの自然な美しさはなかった。
 駒田 砂子の痩せこけた肉体は、そのまま当時の日本映画の貧弱さにほかならなかった。高島 愛子だけは、豊満な肉体をゴムまりのようにはずませて、海辺を走っていても見劣りはしない。

    「活劇などによく女が誘拐されるシインがある。あんな時の身悶えが、実に自然
    で良い。女優が自分でも気がつかないところで、さすがに女らしくスカートに気
    を取られたり、思わず知らず髪を撫でたりする所がある。ことにあの肥大な腰部
    や長い太い足、肩などにある獅子の様に立派な肉塊、可愛らしい熟した棗のやう
    な小さい女靴、さう云ふ所にはとても日本で見られないものがある。

 こう書いたのは室生 犀星。
 彼は、どういう女優に関心をもっていたのか。そのなかに、マリー・プレヴォ、ハリエット・ハモンド、マートル・リンド、アネツト・ド・ガンティスといったマック・セネットの「水着美人」がいたとしても不思議ではない。

 北原 白秋の一首から、マック・セネットの「水着美人」まで連想する。
 もはや誰も知らない女たちにひそかにあこがれるのも、私の悪徳の一つ。

2010/01/15(Fri)  1146
 
 王朝末期から鎌倉にかけての頃、盗作など問題にならない。
 だれかが新しい表現をもち込めば、ほかの歌人たちも、たちまち類型の作を披露するだろう。それは模倣とか流行とはかかわりがない。あたらしいモード、ファッションなのだから。

 私は、折口先生の評釈を読んで、俊成卿女の作のみごとさを知ったが、折口先生の凄さは、じつは、もう少し先にあつた。

     あはれなる――かうした語が先行して熟語を作る場合、或は結末の語となる
     場合を考へると、其処に、王朝末期から鎌倉へかけての、文学意識の展開が思
     はれる。つまり、文学者たちの特殊な用法で、同時に、どんな用語例にも、多
     少なりとも小説的な内容を含んでゐるものと見なければならぬ。

 凄い。ここにきて、私などは茫然としたどころではない。
 いやぁ、そうですか。そうでしたか。先生のおっしゃる通り、そう見るべきですねえ。
 折口先生の説を引用しておこう。

     此語の中心意義は、言語・善悪を超越して、心の底から出て来るを言ふことに
     なって来てゐるのである。其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所
     の、作者を遊離した――言ひかへれば、其性別を超越した、中性の歌と見る
     べきものが多くなつて来た。つまり、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情
     詩を作る様になつてゐたのである。だから、かうした「あはれなる」が、平気
     で、用ゐられたのだ。つまり、特殊な内容を持つ文学用語であつた訳だ。

 これほど明快な解説をうかがうと、大方の「もののあはれ」についての論議など笑止に見える。
 俊成卿の女(むすめ)の一首は、「心ながい」ひと(女人)の、愛する人へのつよい執着を、自分のもの(恋)として表現しながら、しかも、それを他人の境遇を見るように見つめている、ということになるだろう。
 折口先生の考えの凄さが、私にも見えるようだった。

 「心ながさのゆくへ」は――いつまでも、愛する人を忘れず、捨てず、「あはれ」をつづけること。そういう生きかたのことになる。

2010/01/14(Thu)  1145
 
 もともと教養がないので、和歌、短歌については、ほとんどふれなかった。和歌や短歌は、はじめから私などが立ち入るべき世界ではない。

 さはさりながら、和歌や短歌をぼんやり考えるだけでもいい。そう思いはじめた。

 俊成卿の女(むすめ)の一首について。

    あはれなる心ながさのゆくへとも 見しよの夢を 誰かさだめむ

 この歌について、ある評釈は――きはまれる幽玄のうたなり、という。
 つまり、最高の傑作ということになる。へぇえ、これが、和歌史の最高の傑作なのか。

 まず、評釈を見ておこう。

     この歌は、このうえない幽玄の歌である。あの夜の……あの頃の、という気分
     も含まれている――ふたりのあいだの隠しごと(秘事)は、あの人と自分以
     外に誰も知らない。だから、その後また逢うことを心の底にもって、お互いに
     心変わりもせずにまっていた。この気もちを、あの人が知っていてくれるとし
     たら、あの当時の関係はきれいにあきらめて、夢ともかたをつけてしまおう。
     が、しかし、あの人は忘れてしまっているので、かえってあきらめられぬ。そ
     んなふうに解釈されているらしい。

 これは凄い。私はしばし茫然とした。この評釈の評釈は、だれあろう、折口 信夫。

 この歌は、じつは本歌どりという。権中納言、公経(きんつね)の作に、

    あはれなる心の闇のゆかりとも 見し夜の夢を たれかさだめむ

 という一首がある(そうな)。これも、折口先生に教えていただいた。凄いね。
 しばし茫然とした。この凄さは――これほど完璧なパクリなのに、権中納言の作は、まあ、その時代の平均よりほんの少し上の作なのに、俊成卿女の作は、当代きっての幽玄の歌、という評価の違い。
 これほど完璧なパクリでは、今なら盗作騒ぎで、俊成卿女は週刊誌に書き立てられるだろう。宮廷を中心にして、和歌の才能がいちばん重要な時代である。
 俊成卿女はきっと美女だったに違いない。まさか顔の整形手術はしないだろうが、しばらく行方不明になるか。(笑)

2010/01/08(Fri)  1144
 
 先日、このコラムに劇評めいたものを書いた。
 トム・ストッパードの『ユートピアの岸へ』という芝居で、三部作、通しで9時間という長い芝居だった。
 要領のいい私は座ぶとん(登山のビバーク用)を用意して行ったから、けっこう快適に見られた。

 長い芝居といえば、オニールの『奇妙な幕間狂言』や、ノエル・カワードの『カヴァルケード』などを思い出す。
 映画にも長い作品はある。ヴィスコンティの「ルードヴィヒ」や、旧ソヴィエト映画の「戦争と平和」など。

 長い映画を作ろうとした映画監督は多い。エリッヒ・フォン・シュトロハイムは「グリード」を撮ったが、40巻、上映時間は10時間の予定だった。プロデューサーのアドルフ・ズーカーがふるえあがって、製作中止。
 この映画はメタメタにカットされたあげく、2時間に短縮されて公開された。だから傑作になるはずだったが、平凡な愚作に化けてしまった。フォン・シュトロハイムは、映画が撮れなくなってしまった。誰も監督を頼まなくなったから。
 私はアドルフ・ズーカーのような人間を心から軽蔑しているのだが。

 テレビでは、ジェームズ・ミッチナーの長編、『センティネル』の放送。アメリカ独立記念番組として放映された。たしか、24時間、ぶっ通しのテレプレイだったはずである。このドラマを全部見た人は、ほとんどいなかったのではないか。

 私はこの原作を読んで――というより斜め読みしたが、本の厚みが、12センチもあった。翻訳した場合、推定で5千枚。なにしろ分厚い本なので、昼寝の枕にちょうどいい厚みだった。
 ミッチナーは『南太平洋』、『トコリの橋』のベストセラー作家だが、『センティネル』以後は何も書かなくなった。ひどい不評だったので作家を廃業したのかも知れない。
 19世紀に長い芝居を書いた劇作家に、アレクサンドル・デュマ(父)がいる。
 息子が『椿姫』を書いたとき、父は『女王マルゴ』を書いた。この芝居は、午後6時に開幕、朝の3時に終わるという大作。

 デュマの友人、テオフィル・ゴーチェは、翌日の新聞に書いた。

    アレクサンドル・デュマは、ぶっつづけで9時間、観客全員に食事もとらせず、桟敷にクギづけにするという奇跡をおこなった。
      (中略)
    将来は、はじめにプロローグ、終わりにエピローグつきの、15場の芝居を上演する場合は、ポスターに<お食事つき>と付けたす必要がある。

 アレクサンドル・デュマはフランス演劇史に劇作家としての名声を残さなかった。
 そのかわり、『モンテ・クリスト』や『三銃士』を書いて文学史に不朽の名をとどめたのだから、人生、何があるかわからない。

2010/01/06(Wed)  1143
 
 女優、グレタ・ガルボは、孤独な生涯を過ごした。
 彼女が自閉症に近い生きかたをつづけたのは、いろいろと理由が考えられるらしいが、ひとつには、少女時代に極端に人見知りがつよい、引っ込み思案の子どもだったことにかかわりがあるという。
 ほんのひとにぎりの、おなじ年頃の少女たちとしか仲よしにならない。何かで気があったら、その瞬間からほんとうに気を許して、親友になった。そのときほかの人が入り込む余地はない。そんな子どもだったらしい。

 ガルボのエピソードを読んで、すぐにバスター・キートンや、マリリン・モンローや、マイケル・ジャクスンたちを思いうかべる。
 ガルボとおなじ精神圈に生きたスターたち。

 一方で、シャーリー・テンプルや、エリザベス・テーラーや、ナタリー・ウッドや、ディアナ・ダービンや、あるいは、ジュデイ・ガーランド、マーガレット・オブライエンといった「チャイルド・ウーマン」たちを思い出す。

 彼女たちは、いずれも強烈なパースナリテイーをもった女優だったが、お互いに共通するところはなかったと思われる。

 もし、共通するところを一言で表現すれば――子どもっぽい、あまえ、あまったれが魅力だったのではないか。

 逆に、高年齢の連中はどうだろう?

 インドゥゲ・セニプス(年寄りのあまえ)が見られるのではないか。私の書くものも、みっともない例だが。

2010/01/03(Sun)  1142
 
 お正月。かつては、一杯一杯復一杯と、ひたすら酒を飲みしこる私だったが、いまはわずかに口にふくむだけで、終日、酔うては頽然として臥して寝正月。

      処世若大夢 胡為労其生
      (しょせい 大夢のごとし なんすれぞ その生を労する)

 などと寝言をいう。
 覚めきたって、庭前をかえりみれば、一鳥、花間に鳴くことになる。詩人は考える。借問す、これ何の時ぞ。李白の詩、「春日酔起言志」である。
 そこで・・・春風、流鶯は語る、ということになって、詩人は、これに感じて嘆息せんと欲す。また、酒を飲む。

      對酒還自傾 浩歌待明月 曲盡巳忘情
      (酒に対して また みずからかたむく 浩歌 明月をまち
      曲つきて すでに じょうをわする)

 思わず、李白の詩に感じて嘆息せんと欲す、という心境になる。

 貝原 益軒先生も いわれたではないか。
 口中に入るもの、すべて薬と心得よ。食しかり、酒またしかり、と。
 ろくに酒も飲めないのだから、生きていておもしろいはずもない。

 ただし、わが庭前、一鳥、花間に鳴くこともない。
 そこで寝正月。

   うつし身ははかなきものか 横向きになりて 寝(い)ぬらく 今日のうれしさ

 古泉 千樫の歌。まさか寝正月を歌ったものではないが。

2010/01/01(Fri)  1141
 
 明けましておめでとうございます。
 今年が、みなさんにとってよい年でありますように。

 新年を迎えて、今年こそはと思う。私も、毎年、人並みにそんなひそかな誓いを口にしてきた。しかし、もはやそんな愚にもつかぬことはくり返さない。
 ひとつには――江戸の三文作家で、のちに出家して禅を説いた鈴木 正三(すずき しょうさん)に共感をおぼえるからである。

    年月は重り候へども、楽みは無して、苦患は次第に多く積るに非や
    (としつきはかさなりそうらえども たのしみはなくして、くげんは しだいにおおくつもるに あらずや)

 私にしても、歳月とは降りつもる苦患の数々にほかならぬ。

 さらにいえば、「人生の真実は寂寞の底に沈んで初めて之を見るであらう」とする荷風に共感する。「四月は残酷な月」ならば、五月も、六月も、夏も秋も、さらには冬もそれぞれに残酷な季節に変わりはない。それならば、おのれの修羅を生きなければならぬ。それが寂寞というものだろう。
 さて、江戸の作家、鈴木 正三はいう。

    人間の一生程、たはけたる物なし。

 笑った。こいつはいいや。さすがに江戸の文人は、平成のもの書きと違って肚のすわりかたがちがう。
 画家、谷 文晃の辞世を思い出す。

   長き世をばけおおせたる古狸 尾さきな見せそ 山の端の月

 正月早々、辞世などとは縁起でもないとお叱りをこうむりそうだが、ここにも人間の一生程、たはけたる物なし、と覚悟した男のみごとさがある。これをしも、めでたいと観じてどこがわるいか。

 その私が、あらたまの年に、ひそかに心に刻みつける一首がある。

   いきのをに思ひひそめてありしかば、逢ふこともなく人はなりつも

 釈 超空。

2009/12/30(Wed)  1140
 
 年の暮れ。
 いまの日本の地方都市の駅前なんて「島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むる」状態だよ。

    市中一般の職業は歳の暮れともなれば夜さえ碌々寝(やす)む暇さえなきまでに繁忙を極むるが習いなるに、この島にてはこれに反してほとんど休業同様の姿となるなり。されば大道芸人らは本月十四、五日頃よりは全く稼ぎに出ること能わずいずれも一日千秋の思いをなして新玉の春を待てり。

 これは、明治30年11月から12月にかけて「報知新聞」に連載されたルポルタージュ「昨今の貧民窟」(執筆者、不詳)の一節。(中川 清編『明治東京下層生活誌』岩波文庫/収載)
 私は、戦前の東京の下層生活を見てきたので、芸人たちの暮らし向きが眼にうかぶようだった。
 芸人たちは十二月十四、五日頃からは稼ぎに出かけることができない。

    その間の困難は実に甚だしきものにてほとんど五月雨(さみだれ)の頃か時雨時の如くすべての芸道具を質入れして、わずかに兵営の残飯を粥となしたるを一、二度ずつ啜りて半月の露命を繋ぎおるに過ぎず。

 この「シマ」は、芝、新網町というが、浅草、本所、深川、どこに行ったって、たいていて似たような暮らしだった。

    古昔(むかし)は節分の年越しと称(とな)うるが年の内にあること多く、また「せきぞろ」と称(とな)うる袖乞いありしかば芸人の多くは「厄払い」または「せきぞろ」に出(い)でて鳥目(ちょうもく)あるいは餅などの貰い多かりしため正月の支度にもさして困難を感ぜざりしに……

 「せきぞろ」は、節季に候。ただし、実物を見たことはない。
 芸人が、二、三人、赤い絹で顔(おもて)をつつみ、「せきぞろでござれや」とはやしたてて、歌い、踊りながら、お正月の祝詞を述べて、米や銭をもらう。
 しかし、明治も30年代になって、大道芸人もそんな悠長なことでは年も越せなくなったのだろう。

   近来、「せきぞろ」は全く廃(すた)れ、「厄払い」は二月の頃となりぬれば、暮れの内には更に稼ぐべき道なく島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むるなり。


 さて、みんなで「せきぞろ」に出るか。

     せきぞろの来れば 風雅も 師走かな    芭蕉

2009/12/28(Mon)  1139
 
 江戸女の句を並べてみよう。

     日の筋や 岩間離れて ならぶ鴛(おし)   多代

     木々の冬 湯女(ゆな)いる温泉場(いでゆ)となりにけり  きよ子

     寒き夜や 戻らぬ人を待ちにける       壺中女

 いずれも恋の句。壺中女とはめずらしい俳号だが、おそらく遊女なのだろう。おのが閨を壺中天と洒落た女の粋、または「あわれ」を見るべきだろう。
 遊女の句では、一夜の交情のあと、「後朝(きぬぎぬ)の文に」、

     別れ行く 身はあとさきの 寒さかな     幾代

 私の好きな句。女のあわれが見えてくる。(さくしゃの名前がいい。)

 京都、島原に、長門という遊女がいたという。日頃、花いかだの紋をつけていたが、この紋を初心なりとして、嘲笑した人がいた。(どこにでもこういう阿呆がいる。)
 長門は答えた。

     流れなる身に 似合(にあわ)しき 花いかだ

 この一句、たちまち遊廓の女のかなしさ、ひいては美しさが眼に顕ってくる。

     わが袖の蔦や 浮世の村時雨         薄雲

 これは吉原の太夫の句。これは、すばらしい。

 師走。江戸の女の句を読みつづける。
 今年の師走も、そんなふうに女人の句を読んで過ごすことにしよう。私の年忘れ。

2009/12/26(Sat)  1138
 
 加賀の千代女の句は好きになれない。どうして千代女が嫌いなのですか、と質問されて困った。
 嫌いな理由を聞かれても答えられない。ハリウッドの女優なら、ノーマ・シャーラー、ジョーン・クローフォードが嫌いだが、なにしろ好きになれないから、嫌いなのです、と答えようか。

     道くさの 草にはおもし(重し) 大根引   千代
     水仙は 名さへ冷たう 覚えけり
     船待の 笠にためたる落葉かな
     春の夜の 夢見て咲くや 帰り花
     折々の 日のあし跡や ふゆの梅

 こんな俳句のどこがいいのだ?
 落ち葉を詠んでも、良寛さんの――「焚くほどは 風がもてくる 落葉かな」のような飄逸な句がある。多代さんが落葉を見れば、「吹き上げて 風のはな(離)るる 落ち葉かな」となる。

     知る人の家でありけり ふゆ椿        多代
     さまでなき 山ふところや ふゆ椿
     茶の花や 坂を登れば 日も昇る
     吹き上げて 風のはな(離)るる 落ち葉かな
     稲塚を さし出た枝や 冬の梅

 ここに挙げた五句だけでも、多代女のほうが格段にすぐれている。
 多代女の句には、千代さんの句のポピュラリティーはない。それほど残念な気はしない。
 いつの時代でも、千代女のような人気作者の場合は、大衆の好みが変わらないかぎりそうした人気は消えることはない。多代女の句は誰も知らないが、それでいいのだ。どんなに人気があったところで、その作品がかならずすぐれているとはかぎらない。

2009/12/24(Thu)  1137
 
 多代さんのことは、ほとんど知らない。ただし、私が知らないだけで、案外、世に知られている女性(にょしょう)なのかも知れない。

 奥州岩瀬郡須賀村に生まれた。(これがわからない。どこだろう?)
 市原氏。夫と死別したのは、三十一歳。女ざかりで、やもめになったという。
 文政6年、江戸に出た。
 亡くなったのは慶応元年(1865年)8月20日。享年、93歳。
 自選の句集、『晴霞集』がある。

 江戸に出てから幕末の物情騒然たる時代を生きて、当時としてはたいへんに長寿だった女性。そんな、多代さんの身の上、境遇をもう少し知りたい。
 とりあえず多代さんの句をかきあつめて、紹介しておこう。

     夕ばえや こころのひまに 帰り花      多代
     木の間もる 日のはつはつや 八ツ手咲く
     垣くぐる 日はつれなくも ツワブキに
     水仙や 根はつつまれて 市へ出る
     菰(こも)かけて 一夜越しけり 積大根(つみだいこ)

 画讃、追悼句なども挙げておく。

     少将のすがたは 雪に立つ かかし (画讃。深草の少将だろう)
     どの坂も 小春ならざる木蔭なし
     おもひ入 枯野を けふ(今日)の 障子こし
     折からの しぐれも聞くや 板ひさし(庇)
     目になれて 明け暮れもなし 枯すすき

 だいたい自然詠がいい。ただし、「日はつれなくも」は、尊氏の名歌、芭蕉の名句があるだけに、むずかしいところ。「水仙」は下五が気に入らない。
 もう少しきびしく見れば――「少将」の句の滑稽が「あはれ」にならないのが残念。
「どの坂も」は二重否定がうるさい。しかし、「枯すすき」など、このひとの落ちついた句境が偲ばれる。羨ましいねえ、こういう女性(にょしょう)は。

 師走。江戸の女流の俳句を、二、三句づつあじわう。ほかに楽しみもない老残の身にしては風雅な趣き。エヘヘヘ。
 

2009/12/22(Tue)  1136
 
 多代さんの句をいくつか挙げておく。

     影澄むや 江越しに 行きの小松山      多代
     黄昏や 馬屋出てゆく 雪の鹿
     積雪や 門(かど)は月澄む 細ながれ
     よい月の出て 果てもなし 雪の原
     起きて先(まず) 雪にしばしや もの忘れ

 一見おとなしい、平凡な句ばかり。わざとはぶいたのだが、多代さんには「雪降るや 小鳥がさつく 竹の奥」といった駄句もある。それでも、千代女の句、

     初雪は 松の雫に 残りけり         千代
     初雪や 鴉の色の 狂ふほど
     初雪や 落葉拾へば 穴があく
     初雪や 水へもわけず 橋の上
     青き葉の 目にたつ比(ころ)や 竹の雪

 といった句よりも、ずっとマシに見える。
 これもわざとはぶいたのだが、「行く雲の 霰こぼして 月夜かな」という駄句があって、

     逆しまに 傘さし出(いだ)す あられかな  多代

 あるいは、また、

     海越しに 木枯らし吹くや 磯の松      多代
     木枯らしの中に走るや 使いの子

 などのほうが、

     木枯らしや すぐに落ちつく 水の月     千代

 よりも、ずっといい。 
  (つづく)

2009/12/21(Mon)  1135
 
 師走。
 毎年のことだか、年の瀬はなにかと気忙しく、ろくに本も読めない。いまの私は、少しおかしなテーマで、少し長いものを書いているので、どうも心の余裕がない。
 そういうときは、俳句を読む。まったく知らない人の句を。

     三弦も 歌もへたなり 年忘れ        多代

 こういう句はいい。人並みに三弦や歌を修行してきた。しかし、とても上手の域に達したとはいえない。そして、今年もいつしか年の瀬を迎えてしまった。
 もっとも、たいして才能のない自分を悲しんでいるわけではない。むしろ、三弦や歌をつづけてきたという、女としての艶冶(えんや)な気分がある。いいなあ。

     内蔵に 餅のこだまや 夜もすがら

 これは、中の「餅のこだま」が大仰て、あまりいい句ではない。しかし、もう年も押し迫って、夜もすがら餅をついて、さざめきあっている風情がいい。冬の句だけでも、

     あら川の 音に添ひゆく 時雨かな      多代
     吹きゆれし 木に鳩鳴くや 夕時雨
     這出して 時雨にあふや 藪の蟾(ひき)
     たぎる湯に 取りあふ竹の 時雨かな
     リンドウのなりも崩さず はつ時雨
     ききふるす 萩にまた聞く しぐれかな

 いずれも自然詠ながら、女性らしい内面を想像させる句が多い。
 加賀の千代の句と並べてみれば、多代の、気負いのない句のゆかしさが納得できよう。


     日の脚に 追はるる雲や はつ時雨      千代
     京へ出て 目にたつ雲や 初時雨
     晴れてからおもひ付きけり 初時雨

 千代女の句はどこかさかしげで、どうも好きになれない。
 私はあまり好き嫌いのないほうだが、たとえば、森田 たまの随筆、芝木 好子の小説が大きらい。こんな連中よりは、千代女のほうがまだマシなのだが。
 多代さんは加賀の千代ほど有名な俳人ではない。というより、まったく無名の俳人なのだろう。
     (つづく)

2009/12/19(Sat)  1134
 
 友人の井上 篤夫君が教えてくれた。

 2006年、全米映画協会の発表したところでは、「アメリカ人が好きな映画」の1位は、フランク・キャプラの「素晴らしき哉 人生」だそうな。

 へぇえ、知らなかったなあ。

 私も自分の好きな映画を考えてみた。

 まず、「ウォリアーズ」がくる。
 そのあとは――「キャリー」。
 つづいて、「運命の饗宴」。全部カットされたW・C・フィールズのエピソードをふくめて。
 「パルプ・フィクション」。タランティーノはみんな好きだが、この映画、ボクサーのエピソードで、タクシー・ドライヴァーをやっているラテン・アメリカ系の女優がいい。
 「人生模様」。むろん、新人女優のマリリン・モンローが、名優、チャールス・ロートンに、まっこうからぶつかっているから。
 「ゼンダ城の虜」。ただし、レックス・イングラム監督作品ではなく、ジョン・クロムウェル監督作品。ロナルド・コールマン、デヴィッド・ニーヴン、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア。
 「デブラ・ウィンガーを探して」。映画女優のロザンナ・アークェットが、おなじハリウッドの映画女優たちをインタヴューしたドキュメント。
 「殺人狂想曲」。これは、プレストン・スタージェス。後年、ダドリー・ムーア、ナスターシャ・キンスキーでリメイクされたが、まるで問題にならない愚作だった。

 番外に「ファウル・プレイ」。ゴールデイ・ホーンが可愛いので。

 わざと三流映画ばかりをあげているつもりはない。私の好きな映画は、すべて一流の映画なのだ。むろん、こんな映画ばかりをあげるのは、われながらあまのじゃく、つむじまがりと承知している。最近のハリウッド映画は徹底的に無視している。
 ただ残念なことに、私のリストの半分は、もう見られなくなっている。

 映画も思い出せなくなったら、生きていてもつまンねぇやナ。

2009/12/17(Thu)  1133
 
 ドイツ映画祭。
 カイ・ヴェッセル監督の「ヒルデ」(’08年)を見た。すばらしい映画だった。
 映画のヒロインは、戦後、ドイツ映画に登場した女優、ヒルデガルド・クネッフ。
 戦時中にバーベルスベルク国立映画学校で学んで、ナチの有力者と恋愛し、映画女優としてデビューした。やがて、ソヴィエト軍がベルリンに侵攻したとき、前線で銃をとって戦ったが、捕虜になり、収容所に入れられたが脱走。
 戦後、舞台女優として再起し、敗戦後のドイツ映画界を代表する女優になる。しかし、ナチスとの関係をうたがわれて、ドイツ映画界を去り、ハリウッドに移ったが、プロデューサー、セルズニックに冷遇される。
 ふたたびドイツ映画に復帰し、やがてまたハリウッドで成功する。
 私は、「題名のない映画」(47年)、「罪ある女」(51年)でヒルデガルド・クネッフを見たのだった。

 映画のあとで、カイ・ヴェッセル監督がステージで、観客の質問をうけ、それに答えたが、その応答に監督の誠実な人柄がうかがえた。
 このとき、私には質問したかったことが一つあった。

 カイ・ヴェッセル監督は、映画女優、ヒルデガルド・クネッフの映画には、残念ながら、見るべきものがないと語ったのだった。(たとえば、ジャンヌ・モロー、アリダ・ヴァリ、マリア・シェルなどと比較して)私もそういう気がしないでもないのだが、それでも、「題名のない映画」、「キリマンジャロの雪」などのヒルデガルドにはつよい印象を受けた。カイ・ヴェッセルは、「題名のない映画」にまったく関心を見せないのだが、その理由はなぜなのか。

 むろん、私は質問をしなかった。素晴らしい映画をみたという感動のほうが大きかったからである。

 そういえば――カイ・ヴェッセルさんは、若い世代の監督だから、たぶんご存じないだろうと思う。戦前の日本で、「題名のない映画」という映画が公開されたことを。
 ドイツ/トービス映画。監督はカール・フレーリヒ。シナリオは、女流脚本家のテア・フォン・ハルボウ。主演は、アドルフ・ウォールブリュック。相手の女優は、新人のマリールイーゼ・クラウディウスだった。
 私の読者のなかには――アドルフ・ウォールブリュックの名に聞きおぼえがある人もいるだろう。この1937年、ドイツ/シネ・アリアンツ映画で、ウィリー・フォルスト監督の「ひめごと」Allotria に主演している。女優は、レナーテ・ミューラー、ヒルデ・ヒルデブラント。この映画にはウィーンの濃密なエロティシズムがみなぎっていた。
 アドルフ・ウォールブリュックは、はるかな戦後、マックス・オフュールスの映画、「輪舞」の狂言まわし、「赤い靴」でモイラ・シャーラーが所属するバレエ団をひきいる団長を演じたアントン・ウォールブルックである。
 彼は、ヒトラーと同名であることを恥じて、アントンと改名したのだった。

 今でも思い出す。ウィリー・フォルスト監督の映画、「題名のない映画」はまったく評判にならずに消えてしまった。なにしろ、おなじ時期に、日本ではジャック・フェーデルの「鎧なき騎士」、ジュリアン・デュヴィヴィエの「舞踏会の手帳」、アメリカ映画でも、チャップリンの「モダン・タイムス」、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」などがいっせいに公開されようとしていた時期である。

 もはや、だれの記憶にも残っていないトリヴィアだが。

2009/12/15(Tue)  1132
 
 1916年。ヨーロッパでは、連合国とドイツ帝国が死闘をつづけている。

 メァリ・ピックフォードという美少女が、「農場のレベッカ」や「小公女」に出た。それまでただの「リトル・メアリー」だったメァリ・ピックフォードはアメリカの恋人になる。

 この年、ノーベル文学賞を受けたのは、ロマン・ロランだった。
 作家は、その賞金をそっくり赤十字に寄付した。

 詩人、ライナー・マリア・リルケは、遺作になった原稿をパリに残していた。この原稿が散逸しないために、ロマン・ロランはフランスの文学者たちに呼びかけた。ジャック・コポーがこれに応じて、ロマン・ロランに協力した。

 私たちが、現在、ライナー・マリア・リルケの、かなり多量の作品を読めるのは、このときのロマン・ロラン、ジャック・コポーたちのおかげなのである。

 戦時中に敵国の文学者の原稿を守ろうとした人々がいたことを知って、私はこれが戦時中の日本だったらどうだろう、と考えた。

 私が、心から憎悪するのは、大衆のマス・ヒステリアである。

2009/12/12(Sat)  1131
 
 歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
 たとえば、天野 桃隣という俳人がいた。

 初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで俳句を詠んだ。

    三日月や はや手にさわる草の露
    白桃や 雫も落ちず 水の色
    昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花

 などが佳句とされる。

 月のかけを見て、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
 どうってことのない句だが、蕉門の人らしい、しっとりと落ちつきがある。中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはなんとなくあざとく見える。

 「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。

 「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。

 桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。

    真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺

 これは、芭蕉三回忌の作。

    初秋や 庵 覗けば 風の音

 これは、元禄八年の作。

    片庇 師の絵を掛けて 月の秋

 これは、元禄九年の作。

 ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。

    ななくさや ついでにたたく鳥の骨
    七癖や ひとつもなくて 美人草
    盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ

 どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
 考えられることは――桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々ともあまり交渉がなくなったのではないか、ということ。
 あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、とも見える。
 桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。

 いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも、それなりに楽しい。

2009/12/10(Thu)  1130
 
           11


 『ユートピアの岸へ』は、久しぶりに見ごたえのあるいいドラマだった。

 第三部。劇場をうずめつくした観客は、男も女も水を打ったように息をこらし、固唾をのんで、舞台を見つめている。だれしもが、ゲルツェン、バクーニン、オガリョーフたちは、「船出」Voyage しながら、「難破」Shipwreck して、ついに「漂着」Salvage したことを見届ける。
 幕切れ、居眠りからさめたゲルツェンはオガリョーフにいう。

 前へ進むこと。楽園の岸に上陸することはないのだと知ること。それでも前へ進むこと。

 苦い幻滅というべきか。あるいは、おそるべきオプティミズムというか。

 終幕は、リーザが切れたロープをもって走り寄る。ゲルツェンが、「キスしてくれ」と
いう。リーザがキスをする。

      ナターリア   嵐がやってくる。

 作者の「トガキ」では――夏の稲妻……反応して驚き、はしゃぐ……そして、雷鳴、さらなる反応……すばやい熔暗。

 このナターリアのつぶやき――「嵐がやってくる」というセリフは、はたしてゲルツェンの暗澹たる心情を暗示しているのか。

 蜷川演出は、この稲妻と雷鳴を、極度に大きなものにする。それまでの(とくに、リーザ、ゲルツェンのキス、幕切れの、ナターリアのセリフ)の印象を打ち消すように。

 蜷川 幸雄は、ときにエゴサントリックな演出を観客に強いる場合がある。よくいえば、一種のテレと見るべきかも知れない。
 この前、三島 由紀夫の『弱法師』の幕切れで、それまでのドラマの感動を断ち切るように、テープの録音をかぶせた。これが何の録音なのか、観客の大多数には理解できなかったに違いない。三島 由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して、割腹自殺を遂げる直前のテープの録音だった。
 私は、このドラマ、『ユートピアの岸へ』で、蜷川 幸雄がこの録音テープを最後にながす必然性も、妥当性もないと思ったが、『ユートピアの岸へ』のラストには、蜷川 幸雄の昂揚を見る。

 まったく個人的なことを書いておく。
 旧ソヴィエトが崩壊し、みるみるうちに解体しようとしているさなかに、偶然ながら旧ソヴィエト最後の芝居を見たことがある。
 カタンガ劇場がレーニンの最後の日々をドラマ化したものだった。テーマは――ロシア革命はあくまで正しいものだった、ゆえにロシアはレーニンに戻れ、というドラマだったが、現実にソヴィエト体制がミシミシ音をあげて崩壊している時期だっただけに、このドラマを見たとき、ロシアの運命にかかわる暗澹たる感動が私の胸にあった。
 その暗澹たる感動が『ユートピアの岸へ』と重なってきた。
 まさしく「嵐がやってくる」のだ。1868年のロシアに。
 そして、2009年のロシアにも。

 このドラマを見ながら、しばし私の頭を離れなかったのは、ユートピアとは何か、ということだった。あるいは、『ユートピアの岸へ』における「ユートピア」とは何だったのか。私の答えは――すでに書いたはずである。

 さて、私の劇評めいた感想も、このへんで終わりにしよう。はじめから劇評を書くつもりではなかったのだから。私としては、つぎつぎに心をかすめる思いを書いてきただけのことなのだ。

 これを読んでくださった皆さんに心から感謝しよう。

2009/12/11(Fri)  1130
 
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 『ユートピアの岸へ』は、久しぶりに見ごたえのあるいいドラマだった。

 第三部。劇場をうずめつくした観客は、男も女も水を打ったように息をこらし、固唾をのんで、舞台を見つめている。だれしもが、ゲルツェン、バクーニン、オガリョーフたちは、「船出」Voyage しながら、「難破」Shipwreck して、ついに「漂着」Salvage したことを見届ける。
 幕切れ、居眠りからさめたゲルツェンはオガリョーフにいう。

 前へ進むこと。楽園の岸に上陸することはないのだと知ること。それでも前へ進むこと。

 苦い幻滅というべきか。あるいは、おそるべきオプティミズムというか。

 終幕は、リーザが切れたロープをもって走り寄る。ゲルツェンが、「キスしてくれ」と
いう。リーザがキスをする。

      ナターリア   嵐がやってくる。

 作者の「トガキ」では――夏の稲妻……反応して驚き、はしゃぐ……そして、雷鳴、さらなる反応……すばやい熔暗。

 このナターリアのつぶやき――「嵐がやってくる」というセリフは、はたしてゲルツェンの暗澹たる心情を暗示しているのか。

 蜷川演出は、この稲妻と雷鳴を、極度に大きなものにする。それまでの(とくに、リーザ、ゲルツェンのキス、幕切れの、ナターリアのセリフ)の印象を打ち消すように。

 蜷川 幸雄は、ときにエゴサントリックな演出を観客に強いる場合がある。よくいえば、一種のテレと見るべきかも知れない。
 この前、三島 由紀夫の『弱法師』の幕切れで、それまでのドラマの感動を断ち切るように、テープの録音をかぶせた。これが何の録音なのか、観客の大多数には理解できなかったに違いない。三島 由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して、割腹自殺を遂げる直前のテープの録音だった。
 私は、このドラマ、『ユートピアの岸へ』で、蜷川 幸雄がこの録音テープを最後にながす必然性も、妥当性もないと思ったが、『ユートピアの岸へ』のラストには、蜷川 幸雄の昂揚を見る。

 まったく個人的なことを書いておく。
 旧ソヴィエトが崩壊し、みるみるうちに解体しようとしているさなかに、偶然ながら旧ソヴィエト最後の芝居を見たことがある。
 カタンガ劇場がレーニンの最後の日々をドラマ化したものだった。テーマは――ロシア革命はあくまで正しいものだった、ゆえにロシアはレーニンに戻れ、というドラマだったが、現実にソヴィエト体制がミシミシ音をあげて崩壊している時期だっただけに、このドラマを見たとき、ロシアの運命にかかわる暗澹たる感動が私の胸にあった。
 その暗澹たる感動が『ユートピアの岸へ』と重なってきた。
 まさしく「嵐がやってくる」のだ。1868年のロシアに。
 そして、2009年のロシアにも。

 このドラマを見ながら、しばし私の頭を離れなかったのは、ユートピアとは何か、ということだった。あるいは、『ユートピアの岸へ』における「ユートピア」とは何だったのか。私の答えは――すでに書いたはずである。

 さて、私の劇評めいた感想も、このへんで終わりにしよう。はじめから劇評を書くつもりではなかったのだから。私としては、つぎつぎに心をかすめる思いを書いてきただけのことなのだ。

 これを読んでくださった皆さんに心から感謝しよう。

2009/12/09(Wed)  1129
 
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 『ユートピアの岸へ』は、第一部でバクーニン家の物語として展開しながら、第二部からはゲルツェンを中心にシフトしてゆく。つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
 むしろ、もっと凝縮した構成の戯曲にできなかったものか、と思う。もっとも、この戯曲があの浩瀚な『回想と思索』の脚色と見れば――「1833年夏」からはじまって、「1849年1月」(第三場)、「1850年9月」、「1850年11月」という単調な場割りがつづいて、最後の最後に「1846年 夏」(第三幕)のソコロヴォ、つまり第二幕のラストにつなげる、というバックワード・タクティックス(「過去」にもどるというドラマトゥルギー)は、蜷川演出によって救われただけで、実際には(戯曲として)効果はなかったのではないかという気がする。
 あるいは、観客に重い感動をつたえるためにこういう終わりかたが必要だったというのだろうか。

 第三部、第二幕、(1860年8月)いよいよ芝居の大団円という幕に、大作家になったツルゲーネフが姿をみせる。
 この第三部、第二幕、で、ツルゲーネフの前に、医者があらわれる。この医者は、ニヒリストとして、ツルゲーネフと論争する。むろん、ツルゲーネフは、この論争では分がわるい。なにしろ、徹底的にプラグマティックな人物で、その論理の科学性に、文学者として思想的に彷徨とつづけてきたツルゲーネフがかなうはずがない。
 そして、医者は、この時代に、実用性以外に信じるに足るものはない。進歩も、道徳も、芸術も信じない、
 最後に、ツルゲーネフは問いかける。「私は、きみをどうよべばいいのか」と。
 相手は答える。「どうぞ、バゾーロフ」と。
 この「意味」がわかった観客は、ほとんどいないのではないだろうか。あえていえば、トム・ストッパードは、わかってもらえなくてもいい、として、この場面を書いたのではないか、と想像する。
 そういう意味では、この戯曲は、個々の人物を描いているというより、それぞれの人物たちがあるムードのなかで動きまわる群像劇と見ていい。
 はじめから思想劇などと見ないほうがいい。
 最後になって――それまで思想や、革命に対する戦術、戦略がことなってきたバクーニンに痛烈に批判される。

 バクーニンは、マルクスとは違う。マルクスの思想は「自由のないは共産主義」と見なした。その果てにくるものは、隷属であり、とどまることを知らない野獣主義と見ていた。
 ロシアの共産党政権は、70年にわたって何をめざし、何を果たしたか。
 ロシアの共産党政権が追求したものは、人民の「隷従」、そして、スターリンの「独裁」という野獣性だった。
 1921年から22年にかけて、餓死した人は、少なくとも500万に達する。
 1928年、独裁者、スターリンの命令で、1000万戸の富農を抹殺したが、中農、貧農までまき添えを食った。850万から900万の人々が追放され、その半数が1年以内に死亡した。
 1936年から大粛清がはじまる。そして大量処刑。
 芸術の世界でも、粛清の嵐が吹き荒れる。1934年の作家会議に出席した約700人のうち、スターリンの死の直後まで生き残ったのは、50人といわれる。

 演出家、メイエルホリド、詩人、マンデリシュタム、作家、ビリニャーク、バーベリなど多数が獄死、または銃殺された。
 共産主義体制下で、150万人から200万人が亡命した。粛清の犠牲者の総数は不明だが、2000万人から6000万人という諸説がある。
 帝政という怪物を倒したかわりに、スターリンというはるかに強大な「怪物」を生み出したロシアは、恐怖におののきつづけた。

 イデオロギーとしての共産主義の崩壊と、ソヴィエトの解体は、けっして小さな事件ではなかった。『ユートピアの岸へ』を見おわったとき、私の胸に去来したのは、そういう思いだった。

2009/12/08(Tue)  1128
 
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 「第三部」で、ゲルツェンは、盟友、バクーニンに痛烈な批判を浴びせる。

 こういうバカげた秘密の旅行も、暗号も、偽名も あぶり出しの手紙もみんな子どものお遊びだ。きみに疑いをもたない人間は、リーザひとりだ。無理もない。
 きみは暗号の手紙を送りながら、相手がそれをよめるように暗号表を同封している。

  バクーニンは反撃する。

 君の同盟なら参加できると思ったが、そうやって偉そうに、恩きせがましく、いったい誰にむかってそんな口をきくのか。

 出て行くバクーニンを、オガリョーフは追うが、もはや、バクーニンは戻らない。ドラマは、ここから最後のデヌーマンに向かいはじめる。
 ツルゲーネフも出てゆく。少女のタータも、ゲルツェンから去ろうとしている。
 惑乱したゲルツェンは、ナターシャを抱きしめようとする。だが、このとき、ナターシャの内部に大きな変異が起きる。彼女もまた、ゲルツェンに痛烈なことばを浴びせる。
 こうしてロシアの前途に横たわる絶望、苦い幻滅は、ゲルツェンの胸にもたちこめている。


 それまでの「オガリョーフ」は、それほど大きな「役」ではない。ところが、第三幕の石丸 幹二は、じつにみごとに阿部 寛に拮抗している。前に見た「イノック・アーデン」に、私は失望していたので、あらためて石丸 幹二の資質に感心したのだった。
 つづいて、ツルゲーネフ(別所 哲也)が登場してくる。
 ツルゲーネフは、チェルヌイシェフスキーや、ドブロリューボフに毛嫌いされていることを語る。自作の主人公が、ただのリベラリストに過ぎないという理由で。
 このあたり、ロシア文学の理想と現実を知らないと、どうしてもわかりづらい。

 別所 哲也は、ここでは(この芝居では)ごく普通の出来だった。おそらく理由があるだろう。阿部 寛がますます力をましてきているし、第三幕は「バクーニン」(勝村 政信)がこの場をさらって、客を魅了しているため、別所 哲也が輝きを見せてもあまり印象に残らない。(『レ・ミゼラブル』の別所 哲也ならもう少し違うだろう。)

 第三幕、[1861年12月]の場で、ツルゲーネフはいう。「私は裏ぎり者と呼ばれている。左派と、右派の両方から」。
 ツルゲーネフはゲルツェンに向かっていう。きみの〈カマトトぶり〉は、オールドミスも真っ青だ。きみとオガリョーフは、自分のスカートをやたらにまくって、秘所をご開帳している、と。

 ゲルツェンは怒る。
 ロシアの社会主義者は、みずからの封建性や、専制とは無縁の、(ヨーロッパの)体制と対比して、後進性と同時に、ロシアの優位を説いてきた。ヨーロッパと同じ発展の道を行くことはない。どうせ、行く末はわかっている、と。
 だが、やがて「ゲルツェン」たちの後継者として、レーニン、スターリンのソヴィエトがあらわれる。

 私たちは、スターリンのやったことが、帝政ロシアの暴政の、拡大再生産だったことを見せつけられてきた。ソヴィエト崩壊後の現在だって、プーチンは、スターリンのソヴィエトと、自分たちをひき較べて、自分たちの体制がいかに優れているかを誇示している。
 なるほど、社会主義の計画性や、指令システムは、電力、鉄鋼その他の基幹産業では、うまく機能していたかに見えた。さらにいえば、世界戦略に対応するための兵器産業の部門でも。(私が、日露戦争を思い出していたことはいうまでもない。)

 『ユートピア』(第三部)、ゲルツェンがチェルヌイシェフスキーと論争する。
 チェルヌイシェフスキーの論点は、やがてレーニン、スターリンの恐怖の論理になる。ゲルツェンは、「狼の大群がロシアの街を勝手に歩きまわることになる」という。
 私たちは、ゲルツェンの孤立と、ロシアの理想の「サルヴェージ」の意味を予感する。

 共産主義国家の政策は、人民のためなどということは絵空事にすぎなかった。「アリ塚のユートピア」なのだ。たとえば農業、農産物のマーケティングひとつとってみても、社会主義システムはまったくの失敗に終わった。
 『ユートピアの岸へ』におけるゲルツェンの「旅」Voyage は、Wreck であり、ついに「ユートピアの岸」に「漂着」Salvage することに終わった。
 私は「第三部」の阿部 寛を見ながら、「ゲルツェン」の孤独を感じて、ほとんど暗然としたほどだった。

2009/12/06(Sun)  1127
 
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 ヨーロッパに失望したゲルツェンは、ロシアの民衆に希望を見いだそうとする。そして、スラヴォフイルに接近する。やがて独特の、ロシア社会主義をとなえる。

 かんたんにいえば――農村共同体を基盤に、ヨーロッパのような資本主義の段階をへずに、独自の社会主義を実現すべきだというもの。
 チェルヌイシェフスキーとも共通する思想的な論点でもあった。
 農奴たちの悲惨な生活、その災厄から救うためには、農村共同体の土地利用を考えるべきであるとした。
(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及される。第三部では、チェルヌイシェフスキーの硬直した思想に、ゲルツェンもうんざりしているのだが。)
 ゲルツェンは、このあたりからエンゲルスとは違ってくる。エンゲルスは――「ロシア農民の世界は、閉鎖性と魯鈍の世界だ。彼らは、自分の共同体のなかにだけ、生きて、行動している」と考える。(トカチョフ批判」)マルクスもエンゲルスと、同意見だったはずである。
 マルクスがやはり狭隘な思想家にすぎないことをあらためて感じた。
 やがて、この狭隘さが、後年のレーニン、スターリンという「怪物」にひきつがれる。

 ゲルツェンは違う。
 ロシアの「オプシチナ」、あるいは、「ミール」は、古代ロシアに発生した農村共同体の流れで、農民の自治組織である。この農村共同体は、1861年の農民解放の後で、約14万、全農民の80パーセントをカヴァーしていた。さらに後に、レーニン、スターリンは、この「ミール」をコルホーズ、ソフホーズに編成しようとする。

 ドラマでは、オガリョーフが「土地と自由」という思想をとなえて、ひそかに同志を祖国に潜入させようとして、官憲に一網打尽にされる。
 ゲルツェンが批判を浴びせる。(第三部、第二幕/12場)
オガリョーフが、発作を起こしたあとのこのシーン、石丸 幹二のやりとりは、終幕でのゲルツェン(阿部 寛)の苦い感慨の伏線として、無残なほどいたましい。


              ※

 第三幕冒頭、ゲルツェンは「鐘」の出版に成功している。娘の「サーシャ」(20歳)に、自分とオガリョーフが、ロシアで最初の社会主義者だったことを語る。
 「オガリョーフ」は酒に酔っている。ゲルツェンがオガリョーフの妻、「ナターシャ」と愛しあっていることを、「オガリョーフ」は知っている。
 「ナターシャ」は、「オガリョーフ」とセックスしたと思うと、すぐに「ゲルツェン」をもとめる。三人が愛しあっている、と思いながら、妊娠したこともあって「ゲルツェン」との不倫に罪悪感を抱いて、自分は罰を受けている、と思う。
 こういう「関係」のなかで、石丸 幹二の「オガリョーフ」は、すばらしい芝居を見せていた。
 「きみが妊娠させなければよかったのだ」という。「ゲルツェン」は、皇帝(ツァーリ)が農奴制廃止の委員会を設置したというニューズに興奮して、その晩に「ナターシャ」を抱いたという。それを聞いた「オガリョーフ」の動揺や、あきらめ、さらには畏敬する友人の行動をそのまま承認しようとする、石丸 幹二はコキュの複雑な内面を、よく表現していた。そのことが、精神的な興奮から女体を征服する「ゲルツェン」の、いわば無神経なエゴイズムを感じさせる。
 このとき、「オガリョーフ」の内面には、それまでの(この芝居でいえば、第一幕、第二幕の)さまざまな思い出や、その記憶やそれに重なる感動や、「ナターシャ」を奪われた、という思いが渦巻いたはずである。

 そのときの「オガリョーフ」がウォッカをあおる芝居は、やがて「ゲルツェン」の内面の揺れにまで影響して、この幕の最後の「ゲルツェン」の孤独な内面まで際立たせるほどのものに見えた。これは、石丸 幹二のお手柄とみてよい。

2009/12/04(Fri)  1126
 
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 『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
 だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。


 ただ、戯曲そのものよりも、あくまで俳優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。

 この芝居、主役の阿部 寛はほんとうに運がいい。
役者というものは、ほんとうにやりたい芝居に、一生に一度か二度ぶつかれば運がいいという。この『ユートピアの岸へ』のゲルツェンほどの役には、めったに出会えるものではない。
 これほどの役を演じる、ということは、その努力もなみたいていのものではない、ということになる。もともとカンのいい役者で、繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている。最近のTVコマーシャルに出ている阿部 寛を見ているだけで、それがよくわかる。そんなコマーシャルに出ているだけで、すばらしい存在感があふれる。(「セキスイハイム」のコマーシャルなど。)
 この芝居の阿部 寛は、たいへんな量の科白を記憶した。
 このゲルツェンほどセリフの多い芝居は、さしづめオニールの『喪服の似合うエレクトラ』や、サルトルの『神と悪魔』などぐらいだろう。『ユートピアの岸へ』のゲルツェンのむずかしさほこれに劣らない。
 セリフをおぼえるのは、なみたいていのことではない。阿部 寛はさぞたいへんだったろうと思われる。九月に見たときは、阿部 寛もあまりにセリフの多さに、おぼえるのがやっとといった状態で、いくぶん同情したほどだった。
 しかし、千秋楽の阿部 寛はゆるぎなく勝村 政信に対抗する。この千秋楽、阿部 寛は最高のできだった。若い役者たちがこれくらい勢いよく、轡をならべてわたりあう舞台でなければ人気は立たない。
 千秋楽では、ときには鬼気せまる演技さえ見せていた。

 阿部 寛のゲルツェンはあたたかい人柄で、独特の輝きを見せている。私が「カンのいい役者」というのは、いくつかのTVコマーシャルを見ているせいだが。こうした「カン」、器量の大きさは誰もが身につけているわけではない。

 ただし、『ユートピアの岸へ』の俳優でも、昔の書生芝居か「新協」の芝居にでも出てきそうな連中もいた。阿部 寛には、はじめからそんなことがない。これほど繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている俳優は、やはり少ないだろう。
 おなじことは、石丸 幹二についてもいえる。しばらく前までは、ただの美男、美声のミュージカル役者だったが、舞台経験をかさねることで、ぐっとほんもの(オーセンティック)の俳優になってきた。
 役者の、こういう境地をどう説明していいかわからないが、石丸 幹二の根性のすわりかた、昔の歌舞伎でいう「世界さだめ」に近いもので、たとえば曽我の世界、上方なら傾城の世界を役者が自在に演じる、というようなものだろう。みごとに、「ゲルツェンの世界」を見定めて、詩人のオガリョーフを演じて、原作に対する観客の感興を助けようとしていた。近頃いい役者のひとり。(ほぼおなじ時期、NHKのドラマ、『白州次郎』で、ほんのちょっと「牛島」という若い秘書官で出てきた。まあ、しどころのない「役」だったが、石丸 幹二がなかなかの美男なので、主役を張っても通用するという気がした。)
 ようするに、「ゲルツェンの世界」を現出できていたのは、勝村 政信、石丸 幹二だった。

 この芝居の役者たちにしても、これほど大きな芝居に出られる機会はめったにあるものではない。
 逆にいえば、今後しばらくは、まさか『ユートピアの岸へ』のような芝居に出ることはないだろう。しかし、主役クラスの俳優たちは、この芝居に出たことでひとまわりもふたまわりも大きくなった。少なくとも、そのきっかけにはなったはずである。
 勝村 政信にしても、砲兵士官学校の若い生徒から、激烈な革命家まで、革命家、バクーニンをのびやかに演じていた。この前にシェイクスピアに出たときにも、ずいぶん芸熱心な俳優だなあ、と思ったが、この「バクーニン」は、勝村 政信にとっても、めったに出会えない大役だったはずである。
 過激なバクーニンの、ブルジョアに対する憎しみは、ツァーリズムに対するおよそ和解の余地のない憎しみに根ざしていた。というよりも、よわい者が強い者に対して抱く、気位の高い侮蔑を、勝村 政信は見せていた。そして、長い歳月、おのれの期待にそむきそむかれて、いやというほど、辛酸を味わいつくしながら、会う人ごとに借金を申し込む、善良で愉快な人物。
 私は勝村 政信の演技の幅に感心した。第三幕で、勝村 政信が笑いをさらっているあたりは、見ていてほんとうに楽しい。

 この芝居、どうして大向こうから声がかからないのか。
 ただし、声をかけるとして、さて、なんとしよう。勝村 政信には、ヨッ、大統領! ぐらいか。
 二代目左団次は、小山内 薫と組んで、「自由劇場」でさかんに翻訳もの、新作ものを出した。その頃、左団次の意気に感じて、大向こうからしきりにヨッ、大統領! と声がかかったという。
 時代は、世界大戦が終わったばかりで、アメリカのウィルソン大統領に当てた称賛だったという。(円地 文子先生が書いていた。)いまなら、さしづめオバマ大統領に当てて声をかけてもいい。
 「コクーン」の観客から声がかかるはずもない。ただひたすらおとなしい。なんといっても、日本人はシャイなのである。
 私としては、「第一部・第一幕」の終わりに近く、バクーニンの父親、瑳川 哲朗に声をかけてやりたかったが、プーチン大統領に当てて声をかけたと思われそうなので――黙っていた。(笑)

2009/12/03(Thu)  1125
 
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 ゲルツェンは、ヨーロッパの否定的な面に強く反応した。
 1848年、パリ・コミューン。その悲惨な結末に衝撃をうける。拝金思想。物欲。ふつうの人々の平穏な生活。これに俗物性、凡庸さが重なってくる。
 おまけに、この時代にはじつにさまざまな事件が頻発していた。ザイチェフスキーの「若きロシア」の革命的な宣言、ベテルスブルグに頻発した放火、やがてアレクサンドル二世の暗殺。そして、急激な政府の政策転換。
 言論弾圧。
 リベラル派、急進派に対する執拗な追求。
 『ユートピアの岸へ』には、そうした背景のひとわたりがわかりやすく描かれている。
 ゲルツェンはバクーニン、ベリンスキー、作家のツルゲーネフなどと親しかった。(『ユートピアの岸へ』、第一部)そして、マルクスは、ゲルツェンを疑いの眼で見ていた。それが、わかるだけでも、こういう芝居を見ている楽しさがある。

 1852年から、ゲルツェンはロンドンに在住。(『ユートピアの岸へ』、第三部) 農奴制の廃止がもたらした改革運動が、じつは失敗だったという苦い幻滅は、「第三部」のツルゲーネフに現れている。

2009/12/02(Wed)  1124
 
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 『ユートピアの岸へ』は、まるでモーリス・ドリュオンの小説のように、つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
 ドラマとしては、多数の人間をいちどきに出してくるのだから、進行、展開がうまく行く。
 ドラマのなかを流れる時間、場所、そこにかかわる人物は、たとえ資料や事実を踏まえていようと、あくまでフィクティシアスな存在だろう。ツルゲーネフふうにいえば、日は日をついで過ぎてゆく。あとかたもなく、単調に、かつ、すみやかに。ただし、極度に単純化されたステージと、紗幕による転換のせいで、(観客にとって)しばしば人物、場所の把握がそれほど明確には見えてこない。

 『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
 だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。

 このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない、と書いた。
 女には、二種類しかない。勇気のある女と、勇気のない女と。
 女優にも、おなじことがいえるだろう。
 勇気のある女優と、勇気のない女優と。
 この芝居では、水野 美紀が、女優として勇気を見せていた。これは、どれほど称賛してもいいほどのものだった。
 バクーニン家の次女、ヴァレンカをやった京野 ことみは、はじめての舞台出演で、頬に赤丸をつけた田舎娘をやって、観客を笑わせていたことを思い出す。このドラマでは、それこそ「しどころ」のない役だが、なんとか見られるものにしていた。それも、私にいわせれば、勇気のあらわれだった。
 ところで、勇気のある女優として、私がすぐに思い出すのは――たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。
 この『ユートピアの岸へ』を見たあと、「ドイツ映画祭」で上映された「ヒルデ」(カイ・ヴェッセル監督/2008年)を見た。戦後、ドイツ映画を代表する女優、ヒルデガルド・クネッフの半生を描いたもので、これがすばらしい映画だった。私が感動したのは――この映画に主演した女優が、まさに勇気のある女優だったからである。
 戯曲そのものよりも、あくまで俳優たち、女優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。

 水野 美紀を見たとき、なんというべきか、妥協のないきびしさにつらぬかれて、この芝居の水野 美紀を見るためにきてよかったとおもった。

 ブリュッセルで二月革命を知ったというバクーニン、マルクス、ツルゲーネフ。そして、カフェのテーブルで、自分の目撃した革命の状況の報告、これに「ラ・マルセイエーズ」の歌声がかぶさる。銃声。ゲルツェンのアパルトマンにディゾルヴする。このとき、乞食がひとり、舞台を動かない。
 ドラマが、コントラストをねらっているのはよくわかるのだが、ここでも 話題はピアニストのリストに恋した伯爵夫人の話だったり。乞食がこの場に一種の異化作用として登場していることはわかるのだが、ただ、場面をつなぐだけの意味しかないような気がする。
 ここで私がこんなトリヴィアルなことをとりあげておくのは、これが戯曲の混乱、矛盾といったものではなく、トム・ストッパードという劇作家のほんらいの資質や、このドラマの意図にかかわってくる事柄が、このあたりにひそんでいるのだろうと推測するからである。
 なにしろ、「第一部」が23場。「第二部」が20場。「第三部」が25場。
 しかも、「第三部」には、場面と場面のあいだの「つなぎ」が、二つ。このリンケージは、海辺の渓谷のシーンで、それまでの緊迫した場面とつぎの場面のコントラストになっているのだが、劇作家が、ドラマの弛緩を、このリンケージでカヴァーしているのかも知れない。荒涼たる風景である。むろん、「第三部」の副題が Salvage だから、こういうリンクが必要だったことはわかる。
 ただ、それが作劇上、成功しているのかどうか、と考えるのだが。

2009/11/30(Mon)  1123
 
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 『ユートピアの岸へ』第二部(「難破」)から、私たちはゲルツェンという特異な革命家の「運命」を目撃することになる。

 ゲルツェンは、モスクワ大学でオガリョーフとともに、フランスの空想社会主義の思想家たち、サン・シモン、フーリエの著作に熱中する。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及されている。)
 その後、警察に逮捕され、流刑。
 第二幕は、主人公、ゲルツェンが中心というより、ゲルツェンとその妻、ナタリー(水野 美紀)、ナタリーの友人、ナターシャ・ツチコフ(栗山 千明)、ゲルツェンの親友、オガリョーフ(石丸 幹二)たち。この人たちがめまぐるしく演じる有為転変、さらには、革命の理念をめぐって、濃密な時を舞台に織りなすとりどりの運命。
 かんたんにいえば、そういうことになる。

               ※

 『ユートピアの岸へ』では、さまざまな人がパーティーに集まる。たとえば、「1835年 3月」(第一幕/第3場)のバイエル夫人の夜会。
 「1843年 春」(第一幕/第22場)のパーティー。ここでは、「赤毛のネコ」が登場する。どういう仮装なのか、よくわからない。おそらく、皇帝直属の秘密警察「オフラナ」か何かなのだろう。
 ベリンスキーが批評家として有名になりかける。たまたま、わかい詩人が、はじめての詩集を献呈する。ツルゲーネフ(別所 哲也)という青年である。
 ツルゲーネフが去ったあと、ベリンスキーと「赤毛のネコ」が黙って、舞台に残される。お互いにじっと凝視している。ほんとうなら、ここで、異様な緊張、ないしは恐怖が走るはずだが、ベリンスキーが自分の名を告げても、「赤毛のネコ」は、パーティーにきた仮装の人物にしか見えない。
 なんだ、あれは? わからなかった。これは、私の頭がわるいせいなのか。

 とにかく、いろいろな人たちが、ゲルツェンを中心に集まってくる。
 「1847年 7月」(第二幕/第2場)、ゲルツェンのアパルトマンというふうに。
 ロシア人はお互いに自己紹介して、それぞれの考えに共鳴すると、昨日まで見ず知らずの人でも、たちまち旧知の友だちになってしまう。だから、友人の友人を心から迎え入れて歓待する。
 1848年、バクーニンは、カール・マルクス(横田 栄司)に会う。マルクスは『共産党宣言』を書いたばかり。30歳。
 ツルゲーネフが、マルクスから、『共産党宣言』を借りて、冒頭の一節を読む。
 「幽霊がヨーロッパに出没している……共産主義という幽霊が!」
 当時、ロシア・インテリゲンツィアの胸には、フランス革命の記憶が刻みつけられていることを、まざまざと見せつけられたような気分になった。
 場所は、パリ。二月革命。
 この「革命」が生んだもっとも急進的な動きは、バブーフの運動と見てよい。これは、ルイ・フィリップの時代に、秘密の革命的結社に受けつがれる。いわゆるブランキーズムである。私たちは「バクーニンの人生で、この頃がもっとも幸福な日々」だったことを知らされる。

 1848年の革命の挫折。
 ゲルツェンの期待は、失望にかわる。
 友人で、詩人のヘルヴェーグ(松尾 敏伸)、その妻エマ(とよた 真帆)と共同生活をはじめる。
 ゲルツェンの夫人、ナタリー(水野 美紀)は、ヘルヴェーグ相手の不倫に走る。

 1848年は、どういう時代だったのか。芝居を見ながら、ぼんやりと、そんなことを考えていた。バルザックがハンスカ夫人に夢中になっていた時代。
 バルザックは書いている。

 女たちは、同性にモテる男には何かしら腹立たしさを感じさせられる。おかげで、かえってその男に関心をもってしまう。

 ヘルヴェーグの妻エマも、そんな眼でみられていたのかも知れないな。気に入った芝居を見ると、きまっていろいろなことが頭にうかんでくる。私の悪癖のひとつ。
 『フインランド駅へ』を連想しながら、『ユートピアの岸へ』を見るというのは、いささかあきれるけれど。

 とよた 真帆は美貌の女優。そして、水野 美紀も。
 美人の女優は自分では気がつかないかも知れないが、真剣な演技をしているときでも、自分の表情、語りくち、身のこなしに、どこか違ったところがあって、演出家には、やはりあらそわれない、はっきりしたフロウ(欠点)として見えることがある。

 この場の、バクーニン(勝村 政信)、これがとてもいい。第一部で、士官学校をやめようとしている若者にもつよい印象をうけた。第三部で、しきりに「笑い」をとるバクーニンもおもしろいが、この第二部の勝村 政信は、終始、ゲルツェン(阿部 寛)と拮抗する。
 勝村 政信を見ていて、バクーニンが、ここにきてプロレタリアの暴力革命によってブルジョアを打倒する可能性を見たことがよくわかった。

2009/11/29(Sun)  1122
 
          3  


 一連のドラマが起きて、多数の「群像」の織りなす運命がめまぐるしく交錯する「場」が、いきなり私たちの前に展開してゆく……。
 ドラマは、「1833年夏」からはじまって、「1833年夏」(第二場)、「1833年秋」(第三場)というふうに、時制によって進行してゆく。
 通しで見ると、9時間。役者もたいへんだが、見るほうもたいへんな芝居である。

 はじめのうち、長さはべつに気にならない。
 このドラマが、歴史劇として書かれていることはわかるけれど、だんだん、あとになって、こうした区分がうるさくなってくる。たとえば、第二幕は「1833年 3月」からはじまっているが、これが、デカブリスト反乱から9年後ということに気がつく観客がど
れだけいるのだろうか。

 そんなことから、作者、トム・ストッパードのドラマトゥルギーに対するいくらかの疑問として、私の胸にきざしはじめる。……
 『ユートピアの岸へ』第一部は、VOYAGE (船出)という副題をもつ。登場人物は、誰もが未知の「向こう」に向かって旅立とうとしている。
 だが、未決定の「向こう」に旅立つというそれぞれの決意には、「心おきなく旅立つことのできるための物語」という要因も必要だったのではないか。
 やがて、このドラマの中軸となるゲルツェンの親友、オガリョーフは、まだ、このドラマのはるかな地平にわずかに姿を見せるにすぎない。

 3年後。「1836年 8月」(第五場)、ベリンスキー(池内 博之)が登場する。後年、「凶暴なヴィッサリオン」と形容されるロシア批評の先駆者も、ここではイヌに吠えられてころんだり、ドジばかりのヴォードビリアンにすぎない。
 ストレートな舞台で、スラップスティックじみた芝居をするのは、それほどむずかしいことではない。(ほかにもおなじようなドタバタ喜劇を見せた役者がいる。)しかし、これが、「わが国には文学はない」とか、ロシアは自分の汚物にまみれた隷属と迷信の大陸などと、ご大層な熱弁をふるう若者であれば、話は別になる。池内 博之は、スラップスティックはあまりうまくないが、若者のロシア的な狂熱ぶりをよく出している。
 つぎの場が、「1836年 秋」。夏の朝まだきから、あのロシアの蕭条たる秋にうつるのだが、舞台には美しい娘たちがでてくる。
 リュボーフィ(紺野 まひる)、ヴァレンカ(京野 ことみ)、タチアーナ(美波)、アレクサンドラ(高橋 真唯)たちが。
 リュボーフィは、やがて、ニコライ・スタンケヴィッチと、タチアーナは、イヴァン・ツルゲーネフと。だが、まだだれひとり、自分を待ち受けている運命を知らない。

 1847年、ゲルツェンは妻子とともに、パリに亡命。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で言及される。)
 この舞台を見ながら、ふと、日本はどういう時代だったのかと考えてみた。おなじ時代に、為永 春水が筆禍に遭い、頼 山陽、柳亭 種彦が亡くなっている。そして、大塩 平八郎の乱が起きている。
 日本もまた激動の時代を迎えようとしていた。……

2009/11/28(Sat)  1121
 
              2


 第一部には青春のみずみずしさが、みなぎっている。ロシアの青春も。とすれば、この芝居を青春の群像を描いたものと見てもおかしくない。このオープニングでは、バクーニンの勝村 政信がいい。(彼については、もっとあとでふれよう。)

 アレクサンドル・ゲルツェンが出てくるのは、第二幕になってから。
 ゲルツェンの友人のオガリョーフといっしょ。ゲルツェンの阿部 寛と、オガリョーフの石丸 幹二が出てくるので、この芝居がバクーニン、ゲルツェンの二極構造で展開してゆくらしいことに気がついた。
 ゲルツェンは22歳。1812年、モスクワ生まれ。
 父はゆたかな地主貴族、母はドイツ人女性。母が入籍されなかったため、アレクサンド
ルは、ドイツ系の姓名になる。
 少年時代に、生涯の盟友、オガリョーフとともに――デカブリストの遺志をうけついで、農奴解放と、ロマノフ王朝の専制を打倒することに生涯をささげよう、と誓いあう。
 そのくらいのことしか知らない。

 阿部 寛と、石丸 幹二。この配役がよかった。いい芝居では、ほとんど互角の力量をもった役者たちが、互いに一歩もひかず、舞台のうえで火花を散らす。さしづめ、「布引」の三段目で、菊五郎、左団次が張りあう、といったおもむきのものだろう。

 やがて、ゲルツェンと不倫な関係に入るナターシャ・オガリョーフ(栗山 千明)。この役の栗山 千明は、おそれげもなく美しかった。落ちついたドレスに肌が輝き、眼を奪うような漆黒の髪に、あっさりしたアクセサリが映えて。
 そして、バクーニンの相手になるナタリー・バイエルの佐藤 江梨子。美貌では栗山 千明に劣らないのに、意外に平凡。もっとも、とよた 真帆のエマ・ヘルヴェークもおなじこと。女優がわるいわけではない。この戯曲では、どんな女優が出てもたいして光らない。
 このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない。この芝居が男たちの強烈なパーソナリティーがぶつかりあう芝居のせいだろう。(たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。)
 私にとって、意外だったのは、ナタリー・バイエルをやった佐藤 江梨子。

 尾羽うち枯らしたようなベリンスキーが、やっと雑誌の編集者の仕事にありつく。スタンケヴイッチ(ゲルツェンの娘婿)に報告するところに、ナタリーが登場する。スケート靴を脱がせてもらう。
 ほんらいはずいぶん印象的なシーンなのだが、佐藤 江梨子はこの役を仕生(しい)かしていない。あれほど美貌なのに、このナタリーがほとんど印象に残らないのは、佐藤 江梨子がはじめからナタリーに向いていないのか。まるで気がなかったのか。「この役を仕生(しい)かさない」というのは、そういう意味なのだ。
 『ユートピアの岸へ』という芝居は、女優にとっては、じつはいちばんむずかしい部類の芝居かも知れない。その「場」の自分が、ほかの俳優たちの魅力を消しているのではないか、ということをできるかぎり、自分の内部で確かめてみなければならないのだ。 なぜなのか。私の推測では――劇作家ははじめからあまり関心がないのではないか。

 ほかの女優たち、水野 美紀、とよた 真帆にしても、なんとか芝居について行っているのに、佐藤 江梨子だけがあまり輝きを見せないというのは、残念だった。
 私の好みからいえば、佐藤 江梨子は『野鴨』の「ヘドヴィグ」か、『令嬢ユリエ』でもやらせてみたい女優なのだか。

 麻実 れいも、この芝居では、ごくふつうのロシアの貴夫人にすぎない。
 私は、しばらく前に見たテレンス・ラティガンの芝居で、イギリスの上流夫人をやっていた中田 喜子を思い出した。中田 喜子は「芸術座」に出ているときと違ってまるで魅力がなかった。この『ユートピアの岸へ』の麻実 れいは、あのときの中田 喜子のレベルだった。どうしてなのか。

2009/11/26(Thu)  1120
 
    「ユートピアの岸へ」  
       

         1   

 ある日、私は劇場に行く。渋谷の「シアター・コクーン」。開場の5分後には、客席についていた。

 劇場のなかに舞台装置はない。客席で、舞台をぶっちぎった特設のセンターステージ。いわゆる、はだか舞台だから。カーテンもない。セットもない。
 いまでは、こういうノー・カーテン、ノー・セットの舞台はめずらしくない。私は、コメデイー・フランセーズで見た『作者を探す六人の登場人物』(ジャン・メルキュール演出)を思い出した。ずいぶん昔のことである。
 「コクーン」の舞台には、メークをすませた役者たち、まだ、扮装をしていない女優たちが思いの恰好でくつろいでいる。蜷川 幸雄の舞台では、見なれたシーンである。
 観客たちは、セットのない仮設舞台にたむろしている役者たちを見ながら、三々五々、自分の席につく。日常的な時間が、ここではゆったりと交錯している。

 5分遅れで、照明が消えて、いきなり暗黒になる。もう、俳優たちは舞台にはいない。が、つぎの瞬間、フラッドがあふれて、私たちはモスクワの北西部の土地にいる。
 あざやかな導入部だった。
 仮設のセンターステージが――大きな紗のカーテンを張りめぐらせることでフェイドイン、またはディソルヴする。これが「空間」になる。
 このドラマは、1833年の夏から、ほとんど時間的なオーダーに従って展開してゆく。場面転換は、大きな紗のカーテンか、照明のブラックアウトによる。これだけで、演出家の思想がどういうものなのか納得させられる。

 蜷川 幸雄演出、『ユートピアの岸へ』の開幕である。

            ★  

 モスクワ近郊。8月も終わりに近い季節。秋はもうそこまで来ている。
 ツルゲーネフなら、書くだろう。太陽は西にかたむきかけている。不意におそってきた夕立は、つい、いましがた広い荒れ野を通りすぎたばかり、と。
 1833年の夏。アレクサンドル・バクーニンの領地。

 『ユートピアの岸へ』第一部は、バクーニン家の物語として展開する。
 モスクワの北西部の土地と説明されても実感はわかないが、私は、ザゴールスクや、ツァルスコエ・セロを思いうかべた。そして、チェホフの舞台も。
 この開幕から、私はいろいろな芝居を連想した。チェホフから、マーガレット・ケネデイの「テッサ」まで。
 同時に、特設舞台での紗幕の引き回しと、わずか十数本のシラカバの樹幹で、モスクワ近郊を暗示する中越 司の美術に関心した。あえていえば、簡略化された(機能重視の)仕込みであっても美しさがある。これまでの舞台がとらえなかった美しさといったほうがいい。
 蜷川演出では、三島 由紀夫の『卒塔婆小町』で、椿の花が音を立てて落ちるオープニングを思い出す。美術、金森 馨。これはどうも感心しなかった。
 オープニングに流した録音テープは、まったく無意味だったが、この『ユートピアの岸へ』の開幕は、中越 司の美術だけで緊張を生み出した。

 バクーニン家。
 かなり専制的な老貴族、アレクサンドル(瑳川 哲朗)とその夫人(麻実 れい)。ふたりの間に、4人の美しい娘たち。そして、イギリス人の家庭教師、ミス・チェンバレン(毬谷 友子)。この舞台に、ロシアというより、イギリスの伝統的な家庭劇を見るような気がした。

 19歳のミハイル・バクーニン(勝村 政信)が登場する。軍の士官学校に進んだ若者は、わかわかしい声でしゃべりまくるが、ときおり、照れたように笑いながら、かなり辛辣な批評をしたりする。
 彼の美しい四人姉妹たち。みんなおなじドレスを着た可愛いお嬢さんなので、はじめは誰が誰なのかわからない。いちばん上のリュボーフイ(紺野 まひる)が22歳。ヴァレンカ(京野 ことみ)、タチヤーナ(美波)とつづいて、いちばん下のアレクサンドラ(高橋 真唯)が17歳。みんな、そろって可愛らしい。

 バクーニン家を訪問する、まだ無名のツルゲーネフ(別所 哲也)、23歳。
 そして、のちに「凶暴な」ヴィサリオンと呼ばれる、文芸批評家、ベリンスキー(池内 博之)、25歳。
 みんな、若い。そして若い女優が、一所懸命に舞台をつとめている姿はいいものだ。
 この幕では、ベリンスキーの変人ぶりを、池内 博之が懸命にやっている。むずかしいセリフと、おかしなドジと。池内 博之が、もっと出てくればいいのだが、残念なことに、ベリンスキーは早く亡くなってしまう。ロシア文学史にとっても残念だが、この芝居にとっても残念なかぎり。

2009/11/19(Thu)  1119
 
 いまでは死語だが、不良少年ということば。いまでいう非行少年である。

 表通りから狭い路地に入ると、清水小路5番地。
 へんにおかしな地形で、まるで巾着袋をしめるようなかたちの、狭い路地をぬける。
 路地の先が、広場になっていた。昔の馬場の跡だろうか。
 この広場の両側に普通の住宅が並んで、奥に大きな武家屋敷があった。まだ、どこかに江戸時代の名残が残っていた。
 この広場が、子どもたちの遊び場だった。

 もともと気風の荒い土地柄だったのか。近所に不良少年の兄弟がいた。
 兄貴のほうは、トシタカさんといって、高等小学校を出たあと、まともな仕事につかず、不良仲間といっしょに盛り場をうろついたり、客を恐喝したり、地の者を相手にケンカをする。屈強な体格のトシタカさんは、群れをつくらず、いつもひとりでいるゴリラのように見えた。

 弟はコウスケさん。近所の子どもたちのリーダー格だったが、彼も不良少年だった。中学4年で停学を食らった。兄のトシタカさんとは仲がわるかった。一度、幼い私の見ている前で、トシタカさんが弟をしたたかになぐりつけるのを見た。弟も抵抗したが、トシタカさんにビンタを食わされて、泣きながらあやまった。そのときから、ただでさえ仲のわるい兄弟はお互いに口もきかなくなった。
 トシタカさんは家に寄りつかなくなった。

 トシタカさんとコウスケさん。兄弟どうしなのに、ジャックナイフをかまえて、隙あらば相手のドテッ腹をえぐるようなケンカもめずらしくなかった。
 兄弟喧嘩の理由はわからない。

 兄弟の両親は、近所でも評判の働き者で、おだやかな夫婦だった。もともと下級の武士の出だったらしい。昭和初年の当時でも零細な小商人で、間口もせいぜい2間、土間からすぐに畳敷きの店先で、木箱に糸をならべて売っていた。

 幼い私はこの兄弟のすさまじい確執を見て育った。

 はるか後年、ロシアの小説を読みふけったが、ドストエフスキー、アンドレーエフ、アルツイバーシェフなどを読みながら、しばしばこの兄弟のことを思い出した。

 幼い私はいつもコウスケさんにくっついて動いていた。子分のいちばん下っぱに入れてもらったわけである。
 近くの原っぱで、チャンバラゴッコをやるとき、いつも斬られ役だった。コウスケさんはチャンバラ役者にくわしくて、バンツマ(板東 妻三郎)、アラカン(嵐 寛寿郎)、ウタエモン(市川 右太衛門)からはじまって、羅門 光三郎、大友 柳太郎、はては、田村 邦男、岸井 明といった役者の真似をやってみせるのだった。
 私は、いつか、コウスケさんがまねてみせた役者たちの出てくる活動写真を見たいと思った。

 トシタカさんは、後年、中国で戦死したというウワサをきいた。弟のコウスケさんの消息は知らない。

2009/11/17(Tue)  1118
 
 とにかく、徳川 家康のすべてが大嫌いである。

 いまさら家康を論じる気はないが、天正八年の句にいわく、

    うへて待つ 梅は久しき 宿の春

 正岡 子規に読ませたら、どういう顔をするだろう。
 また、天正十六年の聚落行には、

    みどり立 松の葉ごとに此君の 千年の数を 契りてぞ見る

 なんという偽善的な歌! いやらしい。おぞましい。ムカツクぜ。
 文禄三年、秀吉にしたがって吉野の花見に行く。

    待ちかぬる 花も色香をあらはして 咲くや吉野の春雨の音

 詩人としての信玄や、謙信の清冽な気韻とは比較にならない。

 こういう家康が格別に嫌いなのである。むろん。日光、久能山を訪れたうえで、家康を嫌っていることは申すまでもない。
 山路 愛山、中村 孝也の伝記を、家康を書いた伝記として最高のもの、と認めたうえで、心から家康を嫌っているのである。近いところでは、山岡 壮八の『私の徳川家康』なども、私はくだらない自作へのアポロジーと見ている。

 のみならず、家康を「大権現様」、「神君」などと称してあがめた連中。誰が書いたものとも知れぬ「国事昌坡問答」などというものを書いて、家康にオベンチャラを並べるようなヤツを私は軽蔑している。
 白石、鳩巣、澹泊、そろいもそろって Cranky GGども。

2009/11/15(Sun)  1117
 
 これまで嫌いなヤツのことを書かなかった。嫌いなヤツのことは、考えるだけで不愉快になる。ならば黙殺したほうがいい。だから、いつも興味がない顔をしてきたような気がする。
 しかし、人生の終わりが見えてきているのに、嫌いなヤツのことを書かないというのも芸のない話だと思う。たまには、嫌いなヤツのことを思う存分こきおろすという趣向があってもいい。なんてったって、Cranky old man だからね。

 歴史上の人物で、こいつのことを考えるだけで膚に粟を生じる、というヤツもいる。
 まずは徳川 家康。

 徳川 家康のすべてが大嫌い。人となり、外見、風貌、性格、女の趣味、歌、何から何まで反吐が出る。戦国武将のなかで、最低のクズだと思っている。
 したがって、林 道春、金地院 崇伝などは、最低のクズに拝跪して恥じぬ下郎ども。ことごとく、侮蔑、唾棄すべき奴輩にすぎない。

 関が原に敗れた石田 三成が、家康の面前に引き出されたとき、家康は三成に向かって、「良将なり、惜しい哉」と、嘆声を放った。そして、並みいる諸将に向かって、 「太閤(秀吉)恩顧の諸将、あまたありしなかに、三成ひとり、奮然たって大軍をおこしたるは忠士というべきか」と問いかけた。
 これは「国事昌坡問答」という書物(宝暦三年/1753年)にある。

 これほど鉄面皮、偽善な発言はない。
 自分の前に引きすえた敵将をほめそやす。殊勝と見える。じつはおのれの勝ちを誇り、おのれに従った諸将に、みずからの寛仁をアピールする。そして、縲絏(るいせつ)の辱(はず)かしめを三成に思い知らせる。
 かつて三成の同輩だった「太閤(秀吉)恩顧の諸将」に向かって、わざわざ、故太閤(秀吉)恩顧を語って、おのれの戦争責任を正当化してみせながら、「三成ひとり、奮然たって大軍をおこしたるは忠士というべきか」と恫喝する。そして、この「問い」に、「これ是なり」と、自問自答してみせた。
 手のこんだやりくちである。これほど、巧妙、卑劣な手口があろうか。
 家康の心事のいやしさ、醜陋、厚顔無恥は、断然、他の追随をゆるさない。

 考えてみると、徳川 家康こそいちばんの Cranky old man だね。
 嫌いな日本人の代表として、まずもって徳川 家康を眼前にひき据えよう。
    (つづく)

2009/11/11(Wed)  1116
 
 渡辺 世祐先生のことは、前に書いた。もう一度、書いておく。
 少し前に、大河ドラマ「天地人」を見ていて、「石田三成」(小栗 旬)が、太閤秀吉(笹野 高史)の意を察して、関白秀次の制裁をひそかに決心するシーンが出てきた。それを見たとき、まるで関係のない渡辺 世祐先生のことを思い出した。

 戦後、大学の授業が再開されたとき、世祐先生は定年で東大を退いて、明治に移られたばかりだった。私たちは「ヨスケ先生」と呼んでいた。
 小柄で、痩せていらした先生は、いつも左手に分厚い本や資料をかかえて、本郷からお茶の水に出ていらした。風が吹くと吹き飛ばされそうなお姿は、いまでも私の眼に残っている。
 ひどく細身で短い縞模様のズボンをツンツルテンにはいていらした。ズボンの裾から白い靴下が10センチ以上も見えていた。そんな恰好でせかせかと歩いていらした。

 私は歴史学専攻の学生ではなかったが、先生を見かけると足をとめて頭をさげた。
 先生は片手で頭の帽子のまんなかをつかむと、ヒョイっと上にあげる。そのまま、せかせかと歩きつづける。帽子をチョコンともとの位置にもどす。なんともユーモラスで、活動写真のスラップスティック喜劇を見るようだった。

 ずっと後年、渡辺博士のご著書を読むようになった。

    思ふに太閤、既に、秀次を失ふの意ありしかば、三成、その耳目となりて、巨細
    となく、秀次の乱行を太閤に報告するが如きは、あり得べき事なれども、自ら進
    んで秀次を陥ゐれんとせしが如き形跡は、終(つい)に認むる事能はず。吾人は
    、この事件に就て、一般に三成をのみ非難して、秀次の行為に考へ及ばざるは、
    未だ公平なる見解なりと信ずる能はざるなり。 (「稿本 石田三成」」)

 秀次の死罪は大きな影響をおよぼした。
 たとえば、菊亭 晴季(右大臣)は、越後に流されている。
 大名の、最上 義光、伊達 政宗、浅野 幸長、細川 忠興なども譴責されている。
 こうした武将が叱責されたのは、三成の讒言による、とする説が多い。しかし、世祐先生は、その説の根拠となった「松井家譜」、「浅野家譜」、「前田家譜」などは、すべて徳川時代に書かれたものなので、三成に関しては信じがたい、とする。

 大河ドラマ「天地人」を見ていて、敗戦直後の荒れはてた大学の坂道でお見かけした老先生の姿を思い出したのは、自分でも意外だった。

 私は、直接、渡辺 世祐先生の教えをうけたわけではない。しかし、『稿本 石田三成』を読んで、この武将に対する見方が一変した。その後、世祐先生の歴史学に傾倒したというわけではないが、先生のお仕事に少しでも近づきたいという思いがうまれた。

 もの書きの人生には、しばしば先人との不思議な出会いがある。
 私ごときが世祐先生の仕事に啓発された、というのは僣越だが、私がのちにルネッサンスの世界に向かって行ったのは、花田 清輝の『復興期の精神』を読んだからだった。が、一方で、世祐先生の本を読んだことが遠因になっている、といえるような気がする。

 自分でも不思議な気がするのだが。

2009/11/05(Thu)  1115
 
 私は、戦時中に、明治大学の文科文芸科に入学した。

 文芸科では、いろいろな先生の授業を受けた。それまで何も知らなかった私は、おびただしい知識を身につけるだけで、せいいっぱいだったと思う。
 しかし、教授たちのなかに、軍国主義的な言説を説く人はいなかった。

 音楽について田辺 尚雄先生が教えてくれたのだが、ジャズについて語った。むろん、初歩的な知識だったが、先生は教室にポータブルをもち込んで、ジャズのレコードをかけてくれた。戦争のまっ最中に、ジャズが大学の教室から流れるというのは、それこそ破天荒なことだったに違いない。そのとき私が耳にした曲は、「アリグザンダー・ラグタイム・バンド」だった。
 はじめに、アメリカのジャズバンドの一枚、つづいて芸者が三味線でひいた一枚。赤坂の「美ち奴」の演奏だったと記憶している。
 飯島 正先生は、教室にいた私たちにむかって、
 「現在、こういう内容の講義をすることは禁止されていますが、きみたちに必要な知識として、ここでとりあげておきます」
 と断って、1920年当時のロシア映画、とくにプドフキン、エイゼンシュタインなどついて、わかりやすく解説してくれた。まだ、ビデオもDVDもない時代だから、映画を見るわけにはいかなかったが、分厚な研究書に出ている写真を見せてくれた。
 もし学生の誰かが警察に密告すれば、田辺先生も、飯島先生も、ただちに謙虚されたはずである。私は、大学にはこういう勇気のある先生がいるのだ、ということを知った。
 後年の私は、ジャズ、ロック、はてはアジアポップスまで聞くようになったが、その原点に、田辺先生の講義があったと思っている。後年の私は継続的に映画批評を書くようになったが、試写室で飯島さんと会うことがあると、かならず挨拶をするようになった。植草 甚一さん、双葉 十三郎さんといった先輩の映画評論家に紹介してくださったのも飯島さんだった。
 植草 甚一さんから、アメリカの小説のことをいろいろ教えていただいたが、飯島さんからは、ハンガリーの作家、ラヨシュ・ジラヒをはじめ、いろいろな作家のことをうかがうことができた。

 私は、いろいろな先生の教えを受けたことに感謝している。たとえば、小林秀雄の教えを直接に受けた最後の学生のひとりだった。このことは未決定の将来に向かって歩き出したばかりの私に大きな影響をあたえた。

 入学して間もなく、教室での授業はすべて廃止され、川崎の「三菱石油」の工場で労働させられたが。当時、学部長だった作家の山本 有三先生が、おびただしい蔵書を工場に寄贈してくださった。そればかりか、豊島 与志雄先生、小林 秀雄先生を工場に派遣して下さった。工場側と折衝して事務室を借りて、応急の教室で先生が学生たちの質問に直接答えるという授業をなさった。
 ヨーロッパ戦線ではドイツが最後にアルデンヌで、連合軍に反撃していた時期だった。学生のひとりが、ドイツはどうなるのでしょうか、と訊いた。小林先生は、言下に、
 「ドイツは負けるだろう」
 といい放った。それを聞いた私は、ほんとうにふるえたといってよい。
 このときの小林先生の話は、私の内面にしっかり刻みつけられた。

2009/10/31(Sat)  1114 Revised
 
 ある日の私は気ままな旅をつづけている。
 明治初年の日本人労働者の苦闘をしのばせるケニヨン・ロードを通って、バギオに着いたのは夕方だった。人口、五、六万の小さな都会で、標高1500メートルの高原にあるだけに、日本の秋に似て、少し肌寒いほどの季節だった。

 バギオに着いてから、自分の迂闊さに気がついた。マニラからノン・ストップの高速バスに乗ったのだが、その日遅く着いたので、マニラに戻る手段がなかった。
 当時のフィリッピンは、マルコス大統領の緊急立法によって、深夜12時から朝まで、外出禁止時間(カーフュウ・タイム)がきめられている。悪いことに、私はマニラのホテルにパスポートを預けたままで、気まぐれにバスに飛び乗ってしまったのだった。

 夕闇がひろがっている。
 かすかな不安をおぼえながら、とりあえずホテルをさがそうと思った。見知らぬ町で、ホテルをさがす私は、おのれの孤独と寄り添うような姿だったにちがいない。

 バーナム公園の近くで、ふたりの少年に会った。
 ひとりは、まるで中南米の黒人を思わせる顔つき、肌の色で、もうひとりは、華僑のような少年だった。私はこの少年たちをつかまえて、しばらく話をした。
 黒人に似た少年は、アートゥロ、13歳。もう一人は、ジェリー、11歳。意外なことに、ふたりは従兄弟どうしだという。
 ジェリーははしっこい感じで、少し話しただけで、利発な少年だとわかった。
 私は、少年たちと話をしているうちに、「パインズ・ホテル」という
 「どこでもいい、落ちついた、上品なホテルにつれて行ってくれないか」
 と頼んだ。

 少年たちがつれて行ってくれたのは、どう見ても、けばけばしくていかがわしい雰囲気の安ホテルだった。というより、娼家(ボルデッロ)だった。

 少年たちには、この娼家(ボルデッロ)が、いちばんいいホテルに見えたのだろう。あるいは、異国人の私を見て、あてどもなくさまよう旅人とみたか。
 まだ、反日感情がつよく残っていた時期のこと。

 私は、その夜、バギオ高原の山の中で、タクシーをひろった。外出禁止時間(カーフュウ・タイム)を過ぎていたから、タクシーをひろったのはまったくの偶然だった。
 老人の運転手が、自宅につれて行ってくれた。妻に先立たれ、ひとり暮らしで、タクシーの運転手をやっているという。60代の後半か、70代になっていたか。

 老人は、私が空腹と見て、パンとバタ、紅茶を出してくれた。

 その夜、私は、マニラから脱出して北方に敗走した旧日本軍の惨状と、追撃するアメリカ軍の話を聞いた。
 夜がしらじら明けてから、私は誰も歩いていないバギオの町を歩いて、少年たちが案内してくれたボルデッロに戻った。
 ボーイが眠そうに眼をこすりながら、ドアを開けてくれた。

2009/10/28(Wed)  1113
 
 歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
 たとえば、天野 桃隣の様な例がある。

 初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで、俳句を詠んだ。

    三日月や はや手にさわる草の露
    白桃や 雫も落ちず 水の色
    昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花

 などが佳句とされる。

 宵に、ふと三日月を見ている。むろん、満月の趣きはない。しかし、その月のかけを見ていれば、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
 しっとりと落ちついた句だが、中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはあざとく見える。

 「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。

 「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。

 桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。

    真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺

 これは、芭蕉三回忌の作。

    初秋や 庵 覗けば 風の音

 これは、元禄八年の作。

    片庇 師の絵を掛けて 月の秋

 これは、元禄九年の作。

 ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。

    ななくさや ついでにたたく鳥の骨
    七癖や ひとつもなくて 美人草
    盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ

 どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
 考えられることは・・・桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々とも交渉がなくなったのではないか、ということ。
 あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、ということ。
 桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。

 いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも楽しいのである。

2009/10/25(Sun)  1112
 
 若い頃に読んだ本を読み返している。
 私は何を理解したつもりでいたのか。苦い思いがこみあげてくる。
 たとえば、モンテーニュ。

 はじめてモンテーニュを読んだのは戦後すぐだったが、当時の私は何も理解しなかったはずである。はじめから理解できなかった。まるで、おもしろくなかった。

    ひとりごとをいうことが気違いの態度でなければ白状するが、私は自分に向かっ
    て、「このバカやろう」とどならない日は一日だってない。けれども、これが私
    を定義するなどというつもりはない。

 今の私なら、自分に向かって、青二才のくせにモンテーニュを読んで、おもしろくなかったなどとホザきやがって「このバカやろう」とどなってもいいところだが。
 40代になってから、もう一度、モンテーニュを読みはじめた。
 ほんのわずかだが、モンテーニュのいうことがわかりそうな気がしてきた。

 今頃になって読み返してみると、モンテーニュの偉大さが、昔よりもずっとよくわかってくる。
 中田 耕治なんて、まったくどうしようもないアホウだなあ。

    神様は、われわれに引っ越しの用意をする暇をお与えくださっているのだから、
    その準備をしよう。早くから友人たちに別れを告げておこう。

 いつの日にかこんなことばが、ごく自然にいえるようになりたいと思う。

2009/10/23(Fri)  1111
 
 ある人生相談。

    テレビタレントになりたくて養成所に通っているのに、舞台の台本を読まされたり、発表会で舞台に出なくてはなりません。先生もテレビの人ではなく舞台の人です。出なくてはいけないのでしょうか。
           ――プロダクション系養成所 18歳 女

 失礼ですが、きみがテレビタレントになれる可能性は絶無といっていいでしょう。
 一日も早くその養成所をやめて、別の仕事(アルバイト)でもさがしたほうがいい。

 テレビタレントになりたくて養成所に通っているのに、舞台の台本を読まされた、とこぼしているきみは、まったく不適格です。テレビタレント志望者に読ませるテレビ台本など、あるはずがない。バラエテイの構成台本など、いくら読んでもテレビタレントにはなれないのです。

 発表会などの舞台に出ても仕方がない、と考えるだけで、きみがテレビタレントになれないことがわかります。どんなに小さな役でも、舞台を見ているひとには、きみの容姿、歩きかた、息づかい、手のつかいかた、ファッション・センス、健康、生理、きみに魅力があるかどうか、すべて一瞬で見届けるのです。
 指導する先生がテレビ関係者ではなく舞台の人だそうですね。
 現役のテレビの演出家が、そんな養成所できみたちを指導することなど考えられないでしょう。現場のADか何かがきみたちを指導するとして、何を指導するのでしょうか。

 きみはどんな養成所に通ったところで、けっしてテレビタレントにはなれない。
 もしタレントになれるとすれば、インチキな芸能プロダクションの「面接」をうけて、あられもないシーンを撮影されて、AVの女優になることぐらいでしょう。
 こういう女の子を、ギョーカイではバッタというようですが。

 もし私が相談を受けたら、こんなふうに答えるだろうな。

2009/10/21(Wed)  1110
 
(つづき)
 荒唐無稽なデマがながれる。
 ソ連兵が新潟に上陸、農業倉庫をさしおさえた。日本の女たちは慰安婦にされ、男たちは全員が去勢される。無数のデマがひろがったため、笑えない喜劇が全国で起きた。どうせ接収されてしまうのなら、という理由で、各地の倉庫の品物を分配した村々。
 アメリカ兵は肉食だから、という理由で、飼育している家畜をみんなで食べてしまった村々。中国兵がニンニクやタマネギを好む、という理由で、貯蔵してある野菜をすべて放出したり、焼き捨てたり。
 混乱のなかで、各地の航空隊から、残存した戦闘機が飛来してビラをまいた。戦争継続を訴えるためだった。すさまじい爆音が都民を威圧したが、もう戦争気分は消えていた。

 一方、戦争が終わって、また戦前の暮らしに戻れるというので温泉に出かけたり、のんびり木曽の御嶽さんに登る連中もいた。

 灯火管制が正式に解除されたのは八月二十日からだが、敗戦の当日の夜の街も住宅もいっせいに明るさをとり戻しはじめていた。
 映画館も、22日に再開されたが、実際には敗戦の三日後には、それまで上映していた映画のかわりに、どこからか見つけてきた戦前のフィルムや、無声映画を上映した映画館が出てきた。とにかくアナーキーな、やけのヤンパチといった気分が渦巻いていた。

 虚脱感。絶望感。怒り。やけっぱちのなかで、バカバカしさを笑いとばすような、あっけらかんとした明るさ。敗戦直後からの1週間のバカバカしさってなかった。
 たちまち、戦後のすさまじい荒廃がつづいてゆくのだが。

 「週刊朝日」(1945年3月18日号)。おなじく「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
 現在の私は、偶然に入手した週刊誌を手にして、東京大空襲と、敗戦後のてんやわんや、やっさもっさを思い起こしている。

2009/10/18(Sun)  1109
 
(つづき)
 敗戦直後の「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
 まず興味をもったのは、織田 作之助のエッセイ、「永遠の新人 大阪人は灰の中より」というエッセイだった。
 なぜか。
 この1945年3月14日に、大阪が大空襲をうけた。織田 作之助は、(私がとりあげた)「3月18日号」のつぎの号に、戦災の体験を発表している。そして、この合併号に執筆を依頼されたのは、敗戦直後の8月17日。

    既に大阪には新しい灯(ひ)が煌々と輝き初めたではないか。旧人よ去れ。親に似ぬ子は鬼子といふが、新人はつねに旧人に似ぬ鬼子だ。

 という。織田 作之助の気概を思うべきだろう。
 この作家は、戦後、流行作家として知られたが、1947年1月に死去。

 敗戦直後の「週刊朝日」に、周 作人の「明治文学の追憶」というエッセイが掲載されている。これもまた、私には驚きがあった。(ここではふれない。)
 前号(つまり、戦争終結)まで続いた岩田 豊雄の『女将覚書』が完結した。日露戦争の時代に、横須賀で艶名をとどろかせた料亭の女将の半生記。海軍の話なので、急遽、打ち切られたのだろう。
 岩田 豊雄は『海軍』を書いたため、戦後、公職追放処分をうけたが、獅子 文六の名で、『てんやわんや』、『自由学校』、『やっさもっさ』などを書く。
 岩田にかわって、阿部 知二の『新浪人伝』の連載が予告されている。(私はこの作品を知らなかった。)

 この号の定価、六十銭。敗戦直後のインフレーションの最初のあらわれ。
 そして、デマが流れ、すさまじい食料難がおそいかかってくる。
 敗戦の翌日には、有楽町、新橋の焼け跡に、闇屋がひしめき、あやしげな蒸しパン、雑炊、ふかしたサツマイモの切れっぱしが並んだ。飢えた人たちが、そんな食いものに押し寄せる。 
   (つづく)

2009/10/15(Thu)  1108
 
 最近、見つけた「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。A4判、32ページ。定価、六十銭。(3月18日号)が、20銭だったのに、この号は60銭にあがっている。敗戦直後から、狂乱物価が庶民の生活を直撃する。

 表紙は、佐藤 敬。何かの植物を背にして、ワンピースを着た女性。それほど若くはない。バスケットをかかえている。表情はうつろ。バスケットの中にはリンゴが数個並んでいる。「リンゴは何にもいわないけれど、リンゴの気もちはよくわかる」ということなのか。
 この号が、9月2日/9日の合併号になっていることからも、敗戦後の混乱が読みとれる。アメリカ軍の第一次進駐部隊の一番機が、厚木基地に着陸し、マッカーサー元帥が日本本土に降り立ったのを見届けて――緊急に編集会議が開かれて、それまでの戦時色を一掃する編集方針がきまったのだろう。
 巻頭論文は、第一高等学校校長、安倍 能成の「日本の出発」。

    一億玉砕といふ恐ろしい詞がつい今しがたまで軽易に繰返された。併し日本は敗れて敵の申出を受諾した。それも屈辱を極めた受諾であった。

 という書き出し。安倍 能成は、これより後、「平和日本」の出発にかかわってゆく。

 つぎのぺージは、「この悲劇乗り越えん」と題した社説のごとき文章。

    終戦議会――我々国民が嘗て夢想だにしなかった運命的な日はやってきた。

 という書き出し。
 清瀬 一郎のエッセイは、

    わが国は新しき政治に進発しなければなりませぬ。しかもそれは極めて根本的の出直しであることが必要であります。

 なぜ敗戦したか、まずふかく反省せよ、という論旨。そして、このなかで、原子爆弾の使用は戦争犯罪なり、とする。このエッセイを書いた清瀬 一郎は、やがて日本の戦争指導者をさばく東京裁判で弁護人をつとめる。
    (つづく)

2009/10/12(Mon)  1107
 
(つづき)
 「週刊朝日」(1945年3月18日号)。定価、二十銭。

 短歌の選者は、斉藤 瀏。戦時中に威勢がよかった歌人。

    自転車の姑娘続くうららかさ北京の春は今さかりなり

 これは中支派遣軍の兵士が寄せたもの。

    隊長の机の上に戦友等つぎつぎ置き去る遺言の包

 これは傷病兵が詠んだもの。
 俳句の選者は、富安 風生。

    菊咲いて日本晴のビルマかな

 これも傷病兵が詠んだ俳句。

 連載小説は、山岡 壮八の『寒梅賦』。南方の前線基地で、航空隊の特攻を指揮した海軍の提督、有馬 正文中将伝。見開き、2ページ。

 この号の映画広告は、2本。
 黒沢 明の「続 姿三四郎」。前作、「姿三四郎」とキャストはおなじだが、比較すべくもない凡作だった。広告の大きさは、タテ 4センチ2ミリ、ヨコ 6センチ6ミリ。
 もう1本は、佐々木 康監督の「乙女のゐる基地」。松竹映画。近日封切。
 笠 智衆、佐野 周二、東野 英治郎、原 保美、水戸 光子ほか。
 「大空の下 愛機の整備に打込む 戦ふ女性の凛烈の気迫! 決戦女性の生活指標を描く!」
 広告のサイズは、タテ 6センチ、ヨコ 8センチ。

 私はこの映画を見ていない。3月10日の空襲で焼け出されたため、まったく無一物のまま、学徒動員で川崎の工場に通わなければならなかった。生きるのがやっとという状況で映画を見るどころではなかった。

 紙質がひどくわるい週刊誌を手にする。ひたすら敗戦にむかって崩れ落ちてゆく時期の日本の姿が透けてみえる。
 この週刊誌を手にする私の内面には、けっして消えることのない思いがえぐりつけられている。

2009/10/11(Sun)  1106
 
 最近、ある週刊誌を見つけた。2冊。いずれも戦時中の「週刊朝日」。わざわざこんなものを見つけ出して読むのは、私だけだろう。

 1冊は「週刊朝日」(1945年3月18日号)。A4判、22ページ。

 表紙は、小磯 良平。若い飛行兵ふたりが手紙か何かを見ている。題は「基地出発」。当時の読者は、特攻として出撃する予科練の若人を想像したはずである。
 戦後の小磯 良平が、若い女性の姿を描きつづけたことを知っている人は、このデッサンに深い感慨をもよおすだろう。
 ことわっておくが、私は小磯 良平が戦争に協力したなどというのではない。まして彼を非難するつもりはない。

 1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による空襲で壊滅した。この空襲による死者は十万人を越えた。

 この「週刊朝日」は、大空襲の直後に出た週刊誌だろう。というのは、前号(3月11日号)が無事に出たとしても、3月18日号は、編集の途中で3月10日の大空襲にぶつかったはずである。これほどの大空襲に見舞われるとは編集部の誰も予想していなかったと思われる。
 小磯 良平の表紙も、おそらく空襲より前に依頼されて描かれたものと見ていい。

 3月18日号に掲載されている時局に関する記事。
 当然ながら、国民の戦意昂揚を目的とするものばかりだが、西田 直二郎(京都帝国大教授、文学博士)の、「今ぞ戦争完遂の神機 大化改新・祖先の功業に偲ぶ」というエッセイが巻頭をかざっている。

    今や昭和の大御代(おおみよ)となり、大東亜聖戦のただ中に大化改新より一千三百の歳月をここに向へたのである。大化改新の精神は長い歴史を経て却って強くも此の年に際りて輝きて生き来ったと言へる。

 こういう空疎な文章が氾濫していた時代だった。

 陸軍航空本部、森 正光中佐が、「敵の航空作戦を暴く 夜間の大編隊都市爆撃は必至」という論文を書いている。厚生省の医師、瀬木 三雄は「集団疎開 本土戦力の急速強化ヘ」をとなえる。
 「週評」というコラムでは、「敵機何するものぞ 見よ焼跡に不屈の闘魂」といさましい記事。

 「決戦大臣あれこれ談義」というインタヴューでは、大達内相の「頼もしきかな 罹災者の戦意」という記事。記者は、津村 秀夫。なにしろ、娯楽用の映画フィルムがなくなって、ろくに映画も公開されなくなったため津村 秀夫がこんなインタヴューを担当したらしい。
 
 今の読者に教えておけば――津村 秀夫は、戦後も「Q」というサインで映画批評を書いていた映画批評家。著書も多い。
(つづく)

2009/10/09(Fri)  1105
 
(つづき)
 ゲイリー・クーパーについて・・・・

    日本流に数へて二十九歳の好青年。とはいつても昔風な優男一点張りでないことは勿論。情があって、それでゐて男らしい。身長だって六尺二寸といふ大男だ。
    たとへば皆さんの中でもこの青年を嫌ひだといふキネマ・ファンは絶対にないと思ふのですが、いかがですか? 髪は褐色、瞳は清澄な青色。
    まだ独身です。舞台経験はない。出演映画の主なものは「つばさ」、「ライラック・タイム」等等。

 まだ「モロッコ」が封切られていなかったことがわかる。

 ゲイリー・クーパーは、1926年、「バーバラ・ウォースの勝利」に、エキストラとして出演してから、1960年、アカデミー賞、特別賞を受け、翌年亡くなっている。
 戦前の代表作は、「モロッコ」(30年)だが、{武器よさらば」(32年)、「生活の設計」(34年)、「マルコ・ポーロの冒険」(38年)など。
 私たちは、戦後になってあらためて、「誰が為に鐘は鳴る」(43年)、「サラトガ特急」(44年)から「真昼の決闘」(52年)まで、ハリウッドを代表する大スター、ゲイリー・クーパーを見直すことになったのだった。

 彼は、いつも「平均的なアメリカ人・ジョー」を演じつづけた。ミスター・ジョン・ドウの典型である。彼の信条は、じつに単純なものだった。
 アーサー・ミラーの『セールスマンの死』について、

    たしかに、ウィリー・ローマンみたいなやつはいるよ。だけど、そんな連中のことを芝居にする必要はないさ。

 アドルフ・マンジュウ、ジャッキー・クーガン、ジョン・ギルバート、ゲイリー・クーパー、バスター・キートン、リチャード・アーレン、マリア・ヤコビニ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイ、ビリー・ダヴ、ドロレス・デル・リオ、クライヴ・ブルック、メリー・ブライアン。

 この顔ぶれは、昭和初年の日本女性に人気があったスターだったのだろう。いずれも「天分と容姿」に恵まれたスターたちだが、現在、彼、彼女たちの映画を見ている人がいるだろうか。
 この時期、中国では「上海摩登」(モダン)が登場する。チーパオを着たクーニャンが颯爽と歩いていた。日本で公開されない映画も上海では見られた。

 小さな投書から、私の連想はつぎつぎにひろがってゆく。ときどき、自分でも収拾がつかなくなるのだが。

2009/10/07(Wed)  1104
 
 こんな投書を見つけた。ある婦人雑誌(昭和4年12月号)から。

    今年四月高女を卒業したもの、映画女優志願。家にいて手続できますか。金は沢山入用ですか。会社は。   (滋賀県、京子)

 「婦人立身相談」。回答者は答えている。

    本欄としては初めての御質問です。これは天分と容姿の問題で、私が会社側の立場としていへば、身長五尺二寸以上、容姿普通以上、健康にして労働を厭はず演芸に趣味を有し研究心ある者ならば合格線に近いわけです。ただ単なる憧憬なら不賛成。家人によく相談して御覧なさい。会社にして堅実なるものは日活、松竹共に第一流ですが入社は困難でせう。かうした会社で時々臨時雇を募集することあり、その節テストに応じて見こみがなかったら諦めることです。

 映画スターを夢見た京子さんは、きっと美人だったのだろう。ただし、「天分と容姿」ということになれば、ごくありきたりの「美人」では通用しない。
 京子さんは「家人によく相談した」のだろうか。「ただ単なる憧憬なら不賛成」どころか、その不心得を説諭されたにちがいない。

 容姿に関して、身長五尺二寸というのも、当時の女性の平均をこえていたレベルなのだろう。体重は? 私としては知りたいところだが。
 さて――日活、松竹のその後を知っている私たちには、露槿すでに秋を傷(かな)しむ思いがある。
 金は沢山入用ですか。これには返答のしようがない。だから答えていないのだろう。

 この1929年、サイレント映画はまさにトーキーと交代しようとしていた。
 一つの芸術の決定的な消滅と、別の表現形式の登場だったが、その衝撃の大きさにまだ誰も気がつかない。
 当時、最高の人気を誇っていたメァリ・ピックフォード、コリーン・ムーア、グローリア・スワンソン、ビリー・リリー、クララ・ボウといったスターたちも、はげしい運命の転変を経験しようとしている。

 「婦人世界」は、ハリウッドのスターたち、13名を紹介している。

 アドルフ・マンジュウ、ジャッキー・クーガン、ジョン・ギルバート、ゲイリー・クーパー、バスター・キートン、リチャード・アーレン、マリア・ヤコビニ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイ、ビリー・ダヴ、ドロレス・デル・リオ、クライヴ・ブルック、メリー・ブライアン。                   (つづく)

2009/10/05(Mon)  1103
 
 ある晩、私は酒場「あくね」で飲んだあと、お茶の水に向かっていた。たまたま明治大学の正面前から歩いてきたふたり連れがいた。ふたりとも、いいご機嫌のようだった。
 作家の田中 小実昌と、翻訳家の山下 諭一だった。

 「中田さん、マリリン・モンローのスリー・サイズをおしえてください」
 田中 小実昌がいった。

 こういう質問には警戒してかかる必要がある。
 田中 小実昌は、すっかり出来あがっていて、いいご機嫌だったから、私を見かけて、たちまちとっぴょうしもないことを切り出して、困らせてやれと思ったのかもしれない。
 だから、悪意があってのことではない。

 マリリン・モンローのスリー・サイズは、
       39 24 37
       37 23 38
       36 26 36
 どれも、よく知られている。

 女性の人生の時期によってスリー・サイズが変化するのは当然だろうが、私はマリリン・モンローのスリー・サイズに関心はなかった。そんなことはどうでもいい。ある時代、ある場所にひとりの女が生きたということは、それだけで孤立してとらえるわけにはいかない。
 女のスリー・サイズを知ったところで、その女の美しさをどれほども説明できるものでもない。

 田中 小実昌が、いきなりそんなことをいい出したのは、私がマリリン・モンローの評伝めいたものを書いていたからである。そんな仕事をしながら、身すぎ世すぎのために雑文などを書いている。
 田中 小実昌は、ミステリーの翻訳家として知られていたが、この頃からすぐれた短編を書きはじめていた。作家として知られてきただけに、マリリン・モンローなどに入れあげている私をからかってやろうとしたのだろう。
 山下 諭一はニヤニヤしていた。

 私は、「36 26 36だと思います」
 そう答えた。

 そのまま、ふたりと別れたが――あとになって、田中 小実昌と、山下 諭一がいっしょになって、私のことを大笑いしているだろうな、と思った。

 なんでもない話である。しかし、私の内部には何か澱のような気分が残った。

2009/10/03(Sat)  1102
 
 歴史上、すぐれた業績をのこした人は、ほとんど例外なく読書家だったという。
 そうだろうなあ。

 なかには、常識では考えられないほど大量の書物を読みこなしている人もいる。
 トーマス・アルバ・エディスンは、自分の読んだ本を1冊、2冊と数えなかった。本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といっていたとか。

 少年時代に、沢田 謙という人が書いた『エジソン伝』(新潮文庫)を読んだ。
 これがじつにおもしろかった。小学生向きに書かれた伝記ではなかったが、なによりもまず、少年時代のエディスンの生きかたに心を奪われた。少年なのに、新聞を創刊したり、無線電信の技手になって、州議会の投票の電化を考えたり、なんでも「発明」したり。
私は、はじめて伝記のおもしろさに夢中になった。
 沢田 謙の『エジソン伝』は、愛読書になった。私は何度も何度もくり返して読んだ。

 その後、つとめて沢田 謙の書いたものを探すようになった。世界の感動美談といった、いまでいうノン・フィクションを書いていたが、『エジソン伝』ほどおもしろいものではないので、夢中になって読むこともなかった。
 おなじ伝記でも、ただおもしろいだけでなく、もっと深く人間性を追求しているものがあることに気がつきはじめた。

 沢田 謙や、野村 愛正、加川 豊彦、吉田 甲子太郎(朝日 壮吉)といった人の書く伝記ものは、どこかウソっぽい感じがあった。
 あまり才能のない、たいして想像力に恵まれていないもの書きでも、偉人や、有名な人物の伝記でも書いていれば、けっこう文学者のような顔をしていられるらしい。そんなことをぼんやり考えたような気がする。

 エディスンは、自分の読んだ本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といったという。偉人伝にありがちな伝説と見てもいいが、実際にエディスンは、多読を可能にする速読法を身につけていたのかも知れない。
 若い頃の私だって、読みやすくて、内容もさしてむずかしくない新書版、文庫程度なら、毎日5冊、10冊と読みとばしていた。別にむずかしいことではない。

 モームが嘆いていた。若い頃に、読書についてきちんとした指導を受けていたらずいぶんよかったに違いない、と。けっきょく、自分にはあまり役に立たなかった本に多くの時間をついやしたことを思うと、ためいきが出る、という。
 私は、モームのような読書家ではないので、くだらない本にあまりにも多くの時間をついやしたことを後悔しない。ただ、ある国の社会を理解するには、おびただしい、二流、三流のミステリー、三文小説を読むのがいちばんいい、と思ってきた。
 私は、博学多識など、すこしも敬意をもたない。
 京都町奉行の神沢 与兵衛の『翁草』正続二百余巻よりは、上田 秋成の『癇癖談』、平賀 源内の『放屁論』一巻のほうが、はるかにおもしろい、と思っている。

 まだ、読んでいない本のことを考えると、ためいきが出る。

 ただし、あわれなことに、いまや、私の読書のスピードは落ちている。というより、早く読む必要がなくなっている。気ままに本を読み散らしているので、昔読んだ本をもう一度読み直してみたり。
 若い頃に読んですごい傑作だと思ったものが、いま読んでみると、たいしたものではなかったり、逆に、若いときにはよく見えなかったものが、老いぼれて、やっと見えてきた、なんてこともあったりして。(笑)

2009/10/01(Thu)  1101
 
 ある劇作家がいう。

    先輩の劇作家で、人気が衰えてからも劇作をつづけた例をあまりにも多く見てき
たものだ。時代が変わったことに少しも気づかず、気の毒にも、おなじような芝
    居をくり返し書いているのを見てきた。また、当世ふうの好みをなんとかとらえ
    ようと必死にがんばり、その努力を物笑いにされて、しょげている先輩を見た。
    以前は、芝居を書いてくれと支配人に懇願されていた人気の劇作家が、おなじ支
    配人に脚本をわたしても、相手にされなかったのも見たものだ。
    俳優たちがそういう先輩たちを軽蔑的に、あれこれとあげつらうのも聞いてきた。
先輩たちが、今の観客が自分たちを見限ったことに、やっと気がついて、戸惑い、
呆れ、くやしがるのを見てきた。
    かつては、有名な劇作家だったアーサー・ピネロ、それに、ヘンリー・アーサー
    ・ジョーンズが、だいたい似かよったことばで、「おれはご用ずみらしい」とつ
    ぶやいた。ピネロは、むっつり皮肉をきかせて、ジョーンズは、途方にくれなが
    らも、ムカッ腹をたてて、そういった。

 サマセット・モームの回想。
 さすがにいうことがちがうなあ、一流作家は。

 私にしても、いろいろな先輩の作家や、評論家の生きかたを見てきたものだ。
 1950年(昭和25年)、岸田 国士の提唱で、文壇と演劇界が大同団結して、あたらしい運動を起こすことになった。具体的には、「雲の会」の発足になった。
 私は芝居に関してはまったく無縁で、どこの劇団にも関係はなかったし、将来、自分が劇作、演出などを手がける可能性など考えもしなかった。それでも、このとき、矢代 静一といっしょに、最年少のメンバーとして参加したのだった。

 「雲の会」のメンバーは、半数以上が文学者だったが、メンバーにならなかった人たちは強い反感をもって見ていたと思われる。

 ある日、私は、たまたま、先輩の演劇評論家、劇評家、戯曲専門の翻訳家たちの集まりに同席した。このとき、その席にいたのは、茨木 憲、西沢 揚太郎、遠藤 慎吾、尾崎 宏次ほか数名。
 ひとしきり各劇団のレパートリー、俳優、女優の誰かれの話題で盛り上がっていたが、やがて若い劇作家、演出家の月旦に移った。当然ながら、私はこの人たちの話に興味をもった。
 当時、すでに劇作家として登場していた福田 恆存、三島 由紀夫、加藤 道夫、中村 真一郎、矢代 静一、八木 柊一郎の仕事などに対して、みなさんの手きびしい批評がつづいて、黙って聞いていた私はおぞけをふるった。はっきりいえば、ふるえあがったといっていい。
 劇評にはけっして書かないような、激烈なフィリピックスが、ごく内輪の、こういう場所では、辛辣、無遠慮におもしろおかしく語られているのか。

 このとき私は考えたのだった。
 このひとたちが、後輩に対してこれほどきびしい批判を浴びせるのは――じつは、自分たちが、いつの間にか、劇壇の主流からはずれて、いまや、むっつり皮肉をきかせて後輩を語るか、途方にくれ、ムカッ腹をたてて、そんなふうに当たりちらしているのではないか、と。

 時代がすっかり変わったことに気づかず、いつもおなじような主題をくり返し書くようになってから、後輩に対してきびしい批判を浴びせるようなことがあってはならない。自分がみじめになるだけだ。
 いまも、この考えは変わらない。

2009/09/29(Tue)  1100
 
 いくらいい翻訳論を読んでも、翻訳がうまくならないように、演出論といったものを読んでも、実際の演出にはあまり役に立たない。

 何かの本で読んだ、ジョン・ウェインのエピソードを思い出す。

 彼は、顔を洗いながら、セリフを一行いうことになっていた。そのセリフは――「あんたの行くところなら、どこだってついて行くよ」という一行。
 ところが、顔の洗いかたが、監督の気に入らなくて、何度も撮り直しになった。ジョン・ウェインは、監督の気に入るように、いろいろとやってみた。
 ところが、監督は承知しない。
 とうとう、最後に、監督が、

    顔をピシャピシャやるな。顔を洗うこともできんのか!

 と、どなりつけた。
 ジョン・ウェインは、自分ではきちんと顔を洗う演技をしているつもりだったので、監督に怒鳴られたことにいささかおかんむりだったらしい。

 あとになって、ジョン・ウェインは考えたという。

 このシーンのつぎのカットは、その映画のいちばん大事な、いわばハイライト・シーンになっている。監督はそのハイライト・シーンを撮影する前に、俳優を緊張させるために、さして大事ではないシーンで、叱りとばしたのではないか、と気がついた。
 そのハイライト・シーンの撮影では、まるで赤んぼうのように、やさしくあつかわれたらしい。

 この監督は、いうまでもなく、ジョン・フォード。

 こういう演出は、まともに語られることがない。まして、こムズかしい旧ソヴィエトの映画論、演出論などには絶対に出てこない。
 ジョン・ウェインは、ハリウッドの黄金期の大スターだったが、役者としてはたいしてうまいひとではない。まして、名優などといえたものではなかった。
 それでも、西部劇では不朽の名声を得た。はじめて、ジョン・フォードに出会った「駅馬車」、彼自身がはじめてプロデュースした「拳銃の町」、大スターになってからの「リオ・グランデの砦」などを見ておけば、ジョン・ウェインの「いい映画」はひとわたり見たことになる。「グリーン・ベレー」などは見る必要がない。

 ジョン・フォードは、ジョン・ウェインがたいしてうまい俳優ではないことを知っていた。しかし、自分の映画に出てもらう以上、誰よりもいい俳優に見えなければならぬ。そういう、きわめてプラグマティックな計算から、さして大事ではないシーンなのに叱りとばしたのではないか。
 ただし、その「演出」に気がついただけジョン・ウェインは名優かも。

2009/09/27(Sun)  1099
 
 ’09年3月30日、日本の人口は、1億2707万6183人。前年比、1万5人増。増加は、2年連続。
 5人というところがうれしいね。両親と、若いカップルと、子どもがひとり。そんな家族を想像して。

 海外からの転入、帰化などにともなう社会増加数は、昨年、4万1826人。今年は、5万5919人。してみると、1万4093人の増加ということになる。
 ところが、出生者数から死亡者を引いた自然増加数は、4万5914人。
 過去最大の減少という。人口の落ち込みがはっきりしてきた。
 そして、帰化した人が、1万数千。

 出生者数は、108万8488人。前年比、7977人減。この減少は、3年ぶり。

 死亡者数は、113万4402人。過去最高。

 以上、総務省の発表(’09年8月11日)による。

 私が、酔狂にも、こんなことを記録しておくのは――ここに、亡国の翳りを見るからである。
 社会増加数が、1万4093人も増加している、といって、喜んではいられない。海外に進出した企業が、世界的な不況でぞくぞくと撤退している事態が見えてくる。

 帰化した人が1万数千というのははたして喜ばしいことなのか。

 新聞記事の引用だけでは気がきかない。ついでに、おもしろい統計を並べておく。
 亨保17年、日本の人口統計。

    武家人数  2億3698万7950人
      内 女 16万1610人
    男 惣合  2億3606万6827人
    女 惣合  109万4948人
    男女惣合  2億3716万1775人

 凄いね。おなじ統計で、江戸の町人数は、52万5700人

      内 男 30万5110人
      内 女 22万0590人

      坊主   2万6000人
      山伏     3075人
      弥宜(神主)   90人
      比丘尼    6750人
      川原者    3250人
      新吉原人数  8960人
      内 男    2962人
      内 女    5998人

 『甲子夜話』(文化12年)の統計では、

      江戸町人数  53万2710人
        出家   2万6090人
        山伏     3081人
        新吉原人数  8480人
        総数  57万4261人
      武家人数  2億3658万0390人

 こいつはいいや。’09年3月、日本の人口が、1億2707万6183人。江戸の武家人数が、2億3千万というのだから、ノーテンキな話さね。

 時代遅れの Cranky GGとしては、総務省の統計を見て膚に粟を生ずる思いだった。江戸の統計を書きとめておくのはショックアブザーヴの冗談。(笑)

2009/09/25(Fri)  1098
 
 こんなことは書かなくてもいいのだが――ひょっとして、気がつく人がいるかも知れない。

 評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた頃、私はジャーナリズムから離れていた。ごくたまに原稿を書いたが、それもルイ・ジュヴェのことを書く程度だった。

 「キネマ旬報」に頼まれてエッセイを書いたが、これも、もはや忘れられている俳優、ルイ・ジュヴェについて書いたものだった。
 編集部が「女だけの都」(ジャック・フェデル監督/1935年)の写真を掲載したが、ルイ・ジュヴェは出ていない。どうやら「太公」のジャン・ミュラーと、ジュヴェの「従軍僧」を間違えたらしい。
 私は、訂正を申し込むこともしなかった。高級な映画雑誌の編集者でさえ、ジュヴェを知らないのだから、訂正したところで意味はない。

 『ルイ・ジュヴェ』が出版された頃、「映画史100年ビジュアル大百科」というムックが、継続的に出版された。たとえば、1910年は、フローレンス・ローレンスという女優が、カール・レムルのトリックで、アメリカ映画最初のスターになった、とか、1917年は、女優セダ・バラが大作「クレオパトラ」に出演、バスター・キートンがスクリーンに登場、といった記事が満載されている。
 出版社は、こういうシリーズをつぎからつぎに企画しては出してゆく、「デアゴスティーニ」。

 その1920年号に、ヴィクトル・シェーストレームの映画、「霊魂の不滅」がとりあげられている。この原作は、セルマ・ラーゲルレフで、山室 静さんが訳していたはずである。
 この映画の1シーンが出ている。

 よく見ると、ヴィクトル・シェーストレームの「霊魂の不滅」ではない。
 ジュリアン・デュヴィヴィエがリメークした「幻の馬車」(1939年)の1シーンで、主人公のダヴィツド(ピエール・フレネー)が事故で倒れて、魂が離脱している。その幽体離脱を凝視している「馭者」は、なんとルイ・ジュヴェなのである。

 編集者は、ヴィクトル・シェーストレームの「霊魂の不滅」も、デュヴィヴィエの「幻の馬車」も見たことがなくて、ステイル写真を見て、1920年号の「霊魂の不滅」と思い込んだに違いない。

 こんな間違いはどうでもいいのだが、将来、この「映画史100年ビジュアル大百科」を信頼して、ルイ・ジュヴェの「馭者」をヴィクトル・シェーストレームの「馭者」と間違える人が出てくるかも知れない。

 それに対して、私が異議を申し立てていたことは記録しておこう。
    

2009/09/22(Tue)  1097

 この夏、アメリカの「リーダーズ・ダイジェスト」が、16億ドルの債務を株式化することで、主な債務者と合意した。つまり、連邦破産法の適用を申請することになった。(’09,8.18)

 ようするに、広告収入や、販売部数の落ち込みがつづいて、経営の建て直しができなくなったらしい。

 戦後、日本でも「リーダーズ・ダイジェスト」日本語版が発行された。薄い雑誌なのに、そのときそのときのベストセラーや、いろいろな雑誌、新聞の記事の要約などが満載されていた。
 はじめのうちはものめずらしさもあって驚異的な売り上げを見せたが、やがては飽きられて、1986年に日本語版は廃刊された。
 私はこの雑誌をほとんど読まなかった。
 どのページを読んでも、まったくおなじレベルで、ごく平均的な、わかりやすい文章がならんでいる。したがって、嫌悪の眼をむけていたといっていい。
 「リーダーズ・ダイジェスト」なのだから、読者は、日頃、多忙な生活を送っていて、本を読む時間のない人なのか。そういう人が、その時その時に読まれている本の内容を手っとり早く理解できるようにダイジェストしてある。
 そのかわり、その文章に、いきいきした感じ、あるいは真実味といったものは、まったくない。
 どんな本も、のっぺらぼうな顔つきで、せっかくいいことが書いてあっても、それぞれの内容に感動することがなかった。
 どのページを読んでも、アメリカの低いレベルのプラグマティズムを見せつけられるような気がした。そして、これまた低い次元の、保守主義の偽善がどのページにも立ち込めている。

 21世紀のアメリカは、アフガニスタン攻撃から、イラク戦争、そしてこの「戦後」を経験してゆくなかで、「リーダーズ・ダイジェスト」が読まれなくなって行ったのは当然ともいえるだろう。そのイデオロギーが、時代の流れとズレてきた雑誌は、かならず没落してゆく。

 日頃、多忙な生活を送っていて、本を読む時間のない人に、そのときどきに読まれている本を紹介する。これは必要なことかも知れない。
 しかし、「リーダーズ・ダイジェスト」のように、ダイジェストしたものを読む必要はない。
 もし、「リーダーズ・ダイジェスト」を読むのとおなじ程度の時間的な余裕がある人は、本屋に行って、ベストセラーを手にとって、1ページでもいいから、立ち読みすることをすすめる。

 「リーダーズ・ダイジェスト」には申しわけないが、ダイジェストされた本からは、ほんとうのおもしろさはすべて落ちていると思ったほうがいい。ベストセラーは、かならずおもしろいことが書いてある。そして、著者は、読者の興味をそそったり、効果的な要点をみごとにとらえている。
 ベストセラーの作者はいきいきした書きかたをしている。活気がある。

 だから、書き出しの数行を読むだけでもよい。その本のおもしろさは、冒頭の数行を読めばわかる。つぎつぎに、ベストセラーを手にとって、数行を読むだけでは、まったく意味がないけれど――その数行を、それぞれ比較してみるだけでも、頭の訓練になる。

 そうすれば、きみは、さしあたって読む必要のある本か、読まなくてもいい本なのか、自分で判断できるようになる。

 そして、ベストセラーは、少なくとも一年以上経ってから読む。

 「リーダーズ・ダイジェスト」破産のニューズから、私が考えたこと。

2009/09/19(Sat)  1096
 
(つづき)
 戦後の日本で、いちばん最初に公開された映画が、「春の序曲」と「キューリー夫人」だった――というのは、じつは正しくない。

 戦後の大変動のなかで、各地の映画館も混乱していたのではないか。
 戦後すぐの浅草で、サイレント映画の「喜びなき街」(G・W・パプスト)を見ているが、六区(浅草)の映画館は、どういうルートから流れてきたのか、いっせいに古いフィルムをかけていた。キートン、ハロルド・ロイド、ローレル・ハーデイの喜劇もあったし、戦前に公開されたソヴィエトの喜劇、はては誰が出ているのかわからないサイレント映画までがあふれていた。
 戦後、私がいちばん先に知った化粧品は、ヘリオトロープの香水だったが――実物を見たわけではない。トーキー初期のミステリーには、きまってヘリオトロープの香水をつけた美女が出てくるからだった。
 敗戦直後の浅草に氾濫した映画のなかには、川田 芳子主演の、大楠公桜井の別れ、などという文部省推薦の珍品もあった。無声映画のスターだった川田 芳子は、この映画で「楠 正行」の母親役だったが、すっかり老女になっていた。やはり、無声映画のスターだった英 百合子や浦辺 粂子が、戦後まで女優として生きぬいたことを思いあわせると、そぞろ哀れをもよおす。
 もっとも、当時の私は何も知らずにひたすら映画を見ていただけだった。

 敗戦直前に動員先の工場が空襲で焼けてから、毎日あてどもなく東京を歩いていた。友人たちは、みんな応召していた。大学に学生の姿はなかった。
 東京じゅうどこも、焼け跡、疎開跡ばかりで、真昼も廃墟と化していた。
 古本屋を探したが、そんなものがあるはずもなかった。まだ焼けていない住宅地では、空襲の被害を少なくするために、密集した家屋のなかから何軒か間引く作業が続けられていた。撤去の指定を受けた不運な家族は、急いで引っ越さなければならない。
 その家の蔵書や家具などが、道に投げ出されている。すぐに、人だかりがして、本をひろってゆく人もいた。私も思いがけない本を見つけることがあった。

 そして、戦争が終わった。戦後の激動と狂乱のさなか、「ユーコンの叫び」(1938年)という映画が公開されている。(1945年12月)
 戦前に封切られる予定だったのが、戦争でオクラ入りになったのだろう。「リパブリック」のアラスカもので、画面がひどく荒れていた。主演は、戦前に人気のあったリチャード・アーレン。
 私は焼け残った場末の映画館で見たが観客がつめかけて超満員だった。

 つづいて、翌年のお正月に「ターザン」が出た。これも、戦前(1935年)のストックもので、ターザンもジョニー・ワイズミュラーではなかった。
 それでも、ターザン映画なので、観客がひしめいていた。戦争が終わった、という気分と、アメリカという国を理解しようという気もちもあったのだろう。巷では、「日米会話手帳」という、ペラペラの小冊子が、とぶように売れていた。
 ターザン映画なのに、観客に子どもたちの姿はまったくなかった。戦争の被害を避けて強制的に、田舎に疎開させられていたためだろう。

 そして、その2月に、戦後の日本で、最初に「春の序曲」と「キューリー夫人」が公開された――ということになる。これが歴史的な事実。

 例によって、私の「あおとく」。つまらないトリヴィア。

2009/09/17(Thu)  1095
 
(つづき)
 戦前、「オーケストラの少女」でディアナ・ダービンを見た。可愛い少女スターだった。(当時、室生 犀星が随筆で、ディアナ・ダービンの舌について書いていた。それを読んだ子どもの私は、この作家の眼に驚愕したことがある。)戦後の「春の序曲」で、ディアナはすっかり成熟した美少女に変身していた。

 ケーキのシーンも忘れられないが、もう一つ、この映画の1シーン。これも、忘れられない。

 ディアナ・ダービンがたずねて行ったのは、年齢の離れている兄。さる富豪の豪邸で、執事をやっている。演じたのは、パット・オブライエン。
 ふとい葉巻をくわえたパット・オブライエンが、ひろい部屋に入って、口から、まるく輪になった煙を吐き出す。別にめずらしい場面ではない。
 煙はそのまま前方の壁にむかってまっすぐ進んでゆく。壁までの距離は数メートル。

 煙はそのまま少しづつワッカの大きさをひろげて、前方の壁にむかって進んでゆく。
 カメラは、部屋のまんなかに固定されていて、このシーンを撮っている。

 ここまできて、(映画の観客は)タバコの煙がどこまで飛んで行くのか、興味をもつ。煙は空中でわずかに揺らぎ、ワッカの大きさをひろげながらも、そのまま部屋の壁にむかって進んでゆく。
 2メートル。そして3メートル。

 恰幅のいい俳優だったパット・オブライエンは、よほど肺活量が大きいのだろう。葉巻の煙はほとんどもとのかたちのまま空中で揺れ、からみあい、少しづつ崩れて、大きくなってくるけれど、それでもそのままの勢いで進んでゆく。
 4メートル。ついに、5メートル。
 (映画の観客は)息をのんで、このスタントを見つめている。

 最後に、タバコの煙は直径1メートル程の大きさのまま、壁につき当たって、空中に消えてしまう。その距離は、7、8メートルはゆうにあるだろう。
 これが、ワン・カットで撮影されていた。

 「春の序曲」は、戦時中のアメリカとロシア(当時は、むろんソヴィエト連邦だが)の協調がたくみにアピールされているのだが、こうしたテーマとかかわりのない、パット・オブライエンの葉巻のシーンに私は驚かされた。
 戦後、最初に公開されたハリウッド映画にこんなシーンがあったことなど、もう誰も知らない。誰も知らないことをいつまでもおぼえている、というのもおかしな話だが。

 タバコの煙でワッカを作る。これはすぐにできるようになったが、私の吐き出す煙は、せいぜい数十センチしか飛ばない。いくら練習しても、パット・オブライエンの葉巻のシーンのようにはいかないのだった。
  (つづく)

2009/09/15(Tue)  1094
 
 戦後になって、最初に見たアメリカ映画は、「春の序曲」His Butler’s Sister(フランク・ボゼージ監督/1943年)だった。アメリカ占領軍が対日占領政策の手段として、ハリウッド映画の公開を押し進めたからである。
 当時の私は、アメリカ映画が見られるというだけでうれしくなって、占領軍の占領政策の一環などということは考えもしなかった。

 「春の序曲」といっしょに公開された映画は、「キューリー夫人」Madame Curie(マーヴィン・ルロイ監督/1943年)だった。原作は、キューリー夫人の娘、イーヴ・キューリーが書いた伝記。
 グリアー・ガースン、ウォルター・ピジョンの主演で、私たちは、戦後、はじめてグリアー・ガースンという美女を見たのだった。

    アイルランド生まれで赤髪とくれば気が強いのが通り相場だが、その気の強さを
    内に秘めての演技が努力して初志をつらぬく女性の役にぴったりだったわけで、
    同じアイルランド産の赤髪で強気を表面に出して人気をえたモーリーン・オハラ
    といい対照である。

 と、双葉 十三郎が書いている。(「美男美女変遷史」1976年)

 この2本の映画は、1946年2月28日に同時に公開された。

 アメリカ占領軍の指令が、つぎつぎに軍国主義国家「日本」を解体して行った時期で、治安維持法、特高警察が廃止され、兵役法も消えた。女性解放、学校教育の民主化。とにかく、ありとあらゆるものが激動にさらされていた。
 そういう時期に、アメリカ映画の「春の序曲」と「キューリー夫人」が公開されたのだから、娯楽に飢えた民衆が殺到したのも当然だろう。
 「春の序曲」と「キューリー夫人」については、当時、じつにたくさんの人が感想を書いている。

 「春の序曲」のなかで、ディアナ・ダービンが、ショートケーキを食べる。そのケーキのデコレーションの綺麗なこと、ケーキの大きさに、観客は息をのんだ。
 当時の観客たち誰ひとり見たこともない種類の食べものだった。
 そのケーキを若い娘がペロリと食べている。劇場じゅうがどよめいた。

 私たちは娯楽に飢えていた。が、それ以上に食料に飢えていた。
 敗戦国民の哀れな姿を――きみたちは想像できるだろうか。
 (つづく)

2009/09/13(Sun)  1093
 
 この夏、私はまるで勉強しなかった。ろくに勉強しないのではない。まったく勉強しなかった。もっとも、いまさら勉強したって遅いせいもある。

 いつしか秋となりにけり。自分で勉強したわけではないことをとりあげておく。はじめから、私の理解のおよばないことだから、わかったような顔をしてもはじまらない。

 現在の「ブルーレイ」の25倍以上の記憶容量をもつ、次世代光ディスクの開発をめざして、2012年に実用化が計画されている。
 この記憶容量は、1テラ・バイト。すなわち、1000ギガ。

 この次世代光ディスクは、特殊なレーザー光線で立体画像を記録、再生するホログラム技術を応用する。これは、おもしろい(だろうと思う)。

 次世代光ディスクの実用化で、消費電力の削減効果も見込まれるという。

 さて、ここからが私の意見。ただし、はじめから、何ひとつ理解てきないボケGサンのいうことだから、何の意味もないのだが。

 この次世代光ディスクは、この日本において必ず実現する。
 これは期待ではない。私たちが近い将来、確実に成果を手にすると見ていい。
 ただし、これだけはいっておく必要がある。

 この研究、開発の途中で、それが実現できると判断できたとき、ただちに世界各国の特許の許認可を、しらみつぶしに徹底的に申請して、その全部を確実に国際法上の保護のもとに置くこと。
 それこそ、巾着切りのような連中が、虎視眈々と、横どりを企んでいるのだから。

 かつてのトロン開発をはじめ、携帯電話、ベータとVHS、DVDにいたるまで、日本が先鞭をつけた技術的な「発明」や「発見」は、例外なく外国の思惑にふり回され、模倣され、プライオリティーを奪われてきたではないか。

 戦前、日本の科学者が、世界ではじめてテレビの送受信の実験に成功したが、誰の理解も得られなかった。数カ月後に、アメリカは、テレビ放送に成功し、定時放送を始めている。
 日本の科学技術がどれほど優秀であっても、研究者、研究機関がいつも孤立無援で、結果としては、後発の外国に煮え湯を飲まされてきた。今後は、おなじようなことを許してはならない。

 2004年、すべての国立大学は「国立大学法人」に移行した。教育への市場原理の導入によって、「産官学」三位一体のシステムができあがったように見える。その結果、いちばんたいせつな基礎研究が、まるっきり冷や飯をくわされることになった。
 こうした事態を招いた原因は、ことごとく政府の無知、無責任、そして経済、産業、財政当局の無理解と怠慢によるものではなかったか。

 私は次世代光ディスクについて何も知らない。私の仕事は、クラウド・コンピューティングなどとはまったく関係のないものだから。
 それでも、「空白の十年」と呼ばれた時期から、科学の分野にかぎらず、世界経済、外交、すべての分野で、日本の対応がいつも後手々々にまわったことを見せつけられてきた。はじめはおくれをとっていた巾着切りどもに最後になってマンマとアブラゲをさらわれる。
 すぐれた「発明」が、他国の巾着切りどもによってむざむざ漁夫の利をさらわれる光景を見せられるのは、日本人として腹にすえかねるのである。

2009/09/11(Fri)  1092
 
 この夏いろいろと読み散らしていて、こんな記事を見つけた。

    東京音楽学校の主任教授たるアウグスト・ユンケル氏は、今回、普国政府よりプ
    ロフェッサーの称号を授与せられたり。王国楽長が、氏の日本に於ける功績に対
    し此の表彰をなしたるは、真に其の当を得たるものにして、元来ユンケル氏は、
    独逸音楽を日本に紹介し、之が普及に与(あずかっ)て力ある人にて、今現日本
    に於ける外国音楽中、独逸音楽が最も流行せるは、全の氏の功績という謂はざる
    べからず。而(しか)して吾人の見る所にすれば、殆ど見込なき日本人の音量を
    助成し、且つ彼らに難解なる独逸音楽を巧に教授せる技倆は、実に驚嘆に値すべ
    きことなり。目下、東京音楽学校には氏の外に、尚ほ二名の独逸人、及び一名の
    独逸婦人、教鞭を執り居り、彼等の催す声楽、並に器楽演奏会は、啻に日本在留
    の外人に歓迎せらるるのみならず、実に我独逸本国に於ても模範的のものに匹儔
    せるものなり。猶ほ近時数名の日本人は音楽研究のため独逸国に留学し、多くは
    伯林(ベルリン)に滞在して、吾人には殆ど音楽と認むること能はざる日本音楽
    と欧州音楽、特に独逸楽譜とを結合して、両国人に興味を以て迎へらるべき和洋
    折衷楽を構成せんと企てつつあり、ユンケル教授も之れに関し大に貢献する所あ
    りたり。

 原文は、ドイツの新聞記事。明治44年9月。

 普国政府とあるのは、プロシャの政府。
 「吾人には殆ど音楽と認むること能はざる日本音楽」というあたりに、アジアに対するヨーロッパの侮蔑が響いているだろう。ここでは不問に付してやるが――ユンケル教授や、当時、音楽研究のため独逸国に留学した「数名の日本人」たちが、今年の夏、小沢征璽の音楽塾のプロジェクトを聞いたら卒倒するかも。

 小沢 征璽は、この夏、音楽塾のプロジェクトとして、フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』を各地で巡演した。
 彼自身も、はじめてこのオペラを指揮したらしい。
 おなじ、この夏、「サイトウ・キネン・フェステイヴァル」では、ベンジャミン・ブリテンの『戦争レクィエム』をふった。この曲を指揮したのは24年ぶりという。

 明治44年(1911年)から百年。日本人の音楽家が外国の曲を指揮して、いささかも遜色を見せない。私たちも、そのことをすこしも不思議に思わない。
 そんな現実が、私にとってはたいへんにありがたいことに思える。

2009/09/10(Thu)  1091
 
 指揮者の小沢 征璽は、オペラの指揮をつづけて、今年で40年になるという。2002年から、ウイーン国立歌劇場の音楽監督をつとめていることは誰でも知っている。
 この9月からのシーズンが、最後になるとか。
 チャイコフスキーの『スペードの女王』、『エフゲニー・オネーギン』をつづけて指揮する。
 来年には、『フィガロの結婚』を上演してから、また『エフゲニー・オネーギン』を指揮して、ウイーンに別れを告げるとか。
 最近のインタヴューで、

    ウイーンは大変だけれど、オペラはすごくおもしろい。もっと早く始めれはよか
    ったと後悔している。

 と語っている。
 なんでもないことばだが、私は感動した。

 ウイーン国立歌劇場の音楽監督という仕事が、どんなに「たいへん」なものか、私たちの想像を絶しているだろう。そのことに感動したのではない。
 ウイーン国立歌劇場の音楽監督として、「オペラはすごくおもしろい」といい切っている。はじめて、ザルツブルグでオペラをふって、すでに40年のキャリアーをもっている。「もっと早く始めればよかったと後悔している」ということばに、「思想」の成熟を読むことはできよう。しかし、あれほどの成果を実現しつづけた大芸術家が、(たとえ、半分ふざけていたとしても)「もっと早く」おのれの資質に気がついていたら、と慨嘆している。小沢 征璽のことばに、きみは何を見るだろうか。

 小沢 征璽は語っている。

    オペラの指揮は、とにかく勉強。チェコ語など得意でない言語のオペラをふると
    きは、数カ月前から、毎朝、30分から1時間は歌詞を勉強する。

 やっぱり、本当の芸術家は違うなあ。

 私の感想だが――こんなふうにいいかえることができるかも知れない。小沢 征璽とは何か。

 小沢 征璽、音楽のすべてをオペラに収斂する思想。

2009/09/08(Tue)  1090

 自分でも気がついているのだが、最近、私の書くもののサイズが長くなってきている。

 老人性言語下痢症のあらわれ。なるべく短くしよう。

 古今のことを付会して、時世(ときよ)違いの話をすることを、青特というらしい。江戸の俳諧の宗匠の俳名から。たいしてえらい宗匠ではない。

 ほんとうの読みは「せいとく」だが、私流に、これは「あおとく」にしよう。何かの、青い特別チケットみたいに聞こえるところがいい。
 「あ」はアナクロニズム。「お」は烏滸の沙汰。「と」はとんでもない。「く」はくだらない。いいねえ。(笑)

 昔の梅幸の「戻り橋」で――常磐津の松尾太夫は、「西へまわりし月の輪の」というひとくさり、「ほととンす」と結んだという。
 「ほととンす」は、ホトトギス。
 ほんの一字のいい替えで、唄が、イキになったり、ヤボになったり。これは、翻訳だっておなじこと。

 「コンカツ」などというゲスなことばがはやる世の中。
 アチシは、今後とも「あおとく」で参りやしょう。

2009/09/06(Sun)  1089
 
 早川 麻百合さん。お手紙、ありがとう。うれしかった。
 つぎつぎに、新しい翻訳を出しているきみから、手紙をいただくと恐縮する。
 ところで、手紙のなかで、きみは書いている。

 「毎日のように先生の「コージートーク」の更新をたのしみに、拝見しております。が……先生の書かれた内容が時々、ムツカシクてついてゆけず……などと言ったら、しかられそうですね。」

 え、「コージートーク」の内容がムツカシいって。
 まいったナ。ムツカシいことなんか、1コも書いてないんだけど。
 しかし、きみのような才女に、「コージートーク」の内容がむずかしいといわれると困っちゃうナ。
 むずかしい内容のものを、できるだけやさしく書く。もの書きとしては、たいせつな心得だね。とくに、私の「コージートーク」のように、一方的に勝手なことを書いている場合は。

 いつも自分の読者を考えて書いているつもり。これは、長年、ものを書いてきた習性というか、経験にもとずいているんだ。
 むずかしい、てノは、そんなものを書いたヤツの頭がわるいせいだよ。中田 耕治がヤボでアホだから。やつぱし、文章技術がなってないせいだヨなあ。(笑)

 老人性言語下痢症(ロゴレア)がひどくなってきて。だから、くだらねえことばかり書いているんだヨ。おまけに、ひねくれている、ときた。
 古今のことを付会して、時世(ときよ)違いの話をすることを、青特(せいとく)というそうな。さる俳諧の宗匠の俳名から。
 なるべく「あおとく」で行こうとおもっているんだ。「あ」はあきれる。「お」はおっちょこちょい。「と」はとんま。「く」はくだらない。あるいは、娃、汚、妬、苦でもいいや。(笑)

 心に浮かぶよしなしごとを気ままに書いている。書いておく価値もないこと、書く必要もないことばかり。しかし、つまらないことでも書いておけば、誰かの心に届くかも知れない。ずっと時間が経ってから――そういえば、あの頃、中田 耕治が、あんなことをいっていたっけ、と思い出してくれるかも知れないよね。

 きみが毎日のように、「コージートーク」を読んでくれている。私のいいたいことをきちんと聞いてくれる人がいる、と思うとうれしくなった。
 むろん、私は読者の顔色をうかがって書くことはない。何か質問してくれれば、できるだけ答えるつもりだけど。
 以前、男親ひとりで息子さんを育てあげ、その子が無事に高校を卒業、就職して、社会に出たことを知らせてくれた人がいる。なんでもない報告だったが、私は感動した。息子さんを育てあげ、実社会に出したという無量の思いが、短いメールの文面にあふれていたから。私は返事も書かなかったが、この父子の幸福をおのれの身とひき較べて、わが身のいたらなさを考えないわけにはいかなかった。

 ブログのような自由な形式だからこそ、そんな身辺のことも気がるに知らせてもらえる。私が本や雑誌に何か書いても読者の顔が見えないのとちがって、「コージートーク」では自分でも思いがけないアンティームな交流がうまれるようだった。
 こんな「あおとく」であっても、お互いに心を通わせることができる――ような気がする。

 ところで、きみの手紙を読んで、ふと、私の内部に思いがけないことが浮かびあがってきた。
 何だと思う? 作家の晩年というムツカシいテーマなんだ。ギャハハ。(笑)

2009/09/04(Fri)  1088
 
 鴈治郎の話が出たのだから、ことのついでに団十郎といこう。

 「悪七兵衛景清」を演じた。
 大太刀に鎖帷子(くさりかたびら)、顔は渥丹(あか)、おそろしい憤怒の形相で、舞台に出るところだった。

 たまたま、見物にきていた、ひとりの巨漢が、どういうわけかにわかに発狂した。腰の刀をぬき放ち、舞台めがけて駆け上がり、舞台に出ている誰かれなく、ただただ無性(むしょう)に斬りかかろうとした。
 見物席は総立ちになって、あれよこれよと大さわぎ。

 団十郎も不意のこととて、せん術(すべ)もなかったが、すぐさま舞台にあらわれて、
 「おのれ、推参者、ござんなれ。目にもの見せてくれようぞ」
 大声あげて、呼ばわった。
 その眼を怒らせ、ハッタと睨みつけた。
 このため、乱心者は、ヒョロヒョロとあとずさりして、その場に悶絶した。

 見物人は、舞台の状況を見て、割れんばかりの拍手を送った。

 二代目、団十郎の話。

 こういう話は、時代をへだてた私にしてもおもしろい。ただし、この種のアネクドットでは、この乱心者がどうなったのかわからない。どうして乱心したのか、私としては知りたいところだが。
 さらには、この乱心者が巨漢だったことはわかるのだが、その身分、住所、収入、係累なども知りたい。

 もっとも、何もわからないほうが想像をたくましくすることができる。この話から、たちどころに芝居の一本、二本は書けるだろう。

2009/09/02(Wed)  1087
 
 秋の夜更け、昔の芸談を読むのが好きである。
 自分が見ることのできなかった名優の、在りし日を偲ぶには、残された芸談を読むしかない。わずかでも残されている芸談から見えてくるものは、意外に大きい。

 鴈治郎は、高齢になってから、せがれの長三郎や、扇雀と、おなじ着付け、おなじ袴をあつらえて、親子三人どこにでも出かけたという。
 狎妓(おうぎ)のひとりが、
 「いっしょに来やはるのはええけど、これが別々やァったら、息子はんのん借りてやはるようで、いきまへんえ」
 と皮肉をいった。
 すかさず鴈治郎が、こういった。
 「役者に年はおまへん」

 鴈治郎はいつまでもわかくて、艶聞がたえなかった。

 この話の成駒屋は、1935年(昭和10年)に他界しているので、私は見たことがない。私の知っている鴈治郎は(いまの鴈治郎の父に当たるわけだから)、この話の「扇雀」ということになるだろうか。

 役者に年はない。しかし、作家には年がある。
 作家が年齢を重ねて、やっと人生が少しわかりかけてきたとたんに、冥途からお呼びがかかる。オレみたいな作家がくたばったところで、「そんなもの、美学でも何でもなくて、ただ貧乏と依怙地をこじらせて死んでいくだけだぜ。」か。
 アハハ、こいつァいいや。(笑)

2009/09/01(Tue)  1086
 
 この夏、女優の大原 麗子が急死した。(’09.8.5.)
 遺体の状況から、死後、二週間が経過していると見られ、警察の調べでは病死の可能性が高いという。
 これが大原 麗子ほど有名な女優の死でなかったら、ジャーナリズムの反応はどうだったろうか。
 この女優の死を知ったとき、しばらく前に亡くなった夏目 雅子や、飯島 愛の病死を思い出した。それからそれとひとつらなりの連想で、ハリウッドのサイレント映画の女優だったマートル・ゴンザレスが、スペイン風邪で思わぬ死を遂げたこと、あるいは、これもサイレント映画の女優だったマリー・プレヴォが、トーキー以後まったく忘れられて、悲惨な孤独のうちに死んだことなどを思いうかべた。

 私は、女優の大原 麗子をほとんど見ていない。私の知っている範囲では――テレビの大河ドラマで、「勝 海舟」、「獅子の時代」、「春日局」などを見ている。ただし、見ていたというだけで、この美人女優にほとんど関心がなかった。二、三年つづけて、テレビで好感度ナンバーワンに選ばれていた程度のことだった。
 大原 麗子とは関係なく、ある芸能人のことばを思い出した。
 まったくの無名か、ごくかぎられた仲間うちだけで知られている役者たちが、誰にも気づかれないままにひっそりと死んでゆく。別にめずらしいことではない。

    浅草にいたときはサ、身を滅ぼして死んで行く芸人てノが、周りにもいっぱいいたけど、でもそれは、美学でも何でもなくて、ただ売れないから破滅していくんだからさ。

 「てめェのやっていることが、どんどん時代の感覚に合わなくなって、どんどんおいてけ堀を食らっていってさ。時代が悪い、客が悪いってひとのせいにして、ついには当たるモンがねえから、てめぇのカミさんや子供に当たったりしてさ。
  挙げ句の果てはアル中になって、誰も面倒を見る者がいなくなって、孤独に死んでいくという、そういうパターンの芸人がたしかにいたんだよ。そんなもの、美学でも何でもなくて、ただ貧乏と依怙地をこじらせて死んでいっただけだぜ。」

 北野 たけしの「たけしくん・ハイ!」、「青春貧乏編」の前口上。

 まさか大原 麗子が貧乏だったとか、女優の依怙地をこじらせて死んでいったはずはない。だが、難病というか、つらい病気をかかえていた。しかも、もはや若くない。ドラマに出演できる可能性もなくなっていたとすれば、いくら有名な女優であっても、みずからの運命のつたなさを考えなかったはずはない。
 大原 麗子の急死は、私の内部に痛ましい思いを喚び起したのだった。戦前のルーペ・ベレスの死や、戦後のマリリン・モンローの死のような悲劇ではないにしても、自らは望まなかった死だったにちがいない。
 マイケル・ジャクスンの死がいたましいものだったように、私は、大原 麗子という女優のいたましさに心を動かされたのだった。

 合掌。

2009/08/30(Sun)  1085
 
 こんな詩がある。
 明代の短編集、『清平山堂話本』のうち、「合同文字記」の入話(オープニング)の詩を、私が勝手にパラフレーズしたもの。

    食事には お塩と お酢をひかえめに
    顔を出さずにすむ場所は うっかり出かけないように

    人に知られたかったら 「学問のすすめ」でも書きとばす
    人目につきたくなかったら せいぜい 何もしないこと

 最後の一行は、漢の枚乗が、呉王をいさめたときのことば、「人に聞かれたくなければ言わぬこと、人に知られたくなくばなさぬこと」にもとずいているという。

 おもしろい。
 これからしばらく、暑さしのぎに中国詩の自由訳でも試みようか。

2009/08/29(Sat)  1084
 
 若い頃一度見ただけで、それっきり見る機会のなかった映画がビデオになっている。
 熱心に探していたわけでもない。掘り出しものといえるほどの作品でもない。それでも、見つけたときはうれしい。そういう経験は誰にもあるだろう。

   少年時代に神田の「シネマパレス」で見た外国映画
   を、いまここでDVDで見る。米、独、仏の名作映
   画です。これは不思議きわまることだし、また大き
   な楽しみでもある。

 詩人の加島 祥造が書いていた。『老子までの道』(「幽霊坂の話」)

 私も、神田の「シネマパレス」で外国映画を見たひとりだが、加島 祥造の書いていることが実感としてよくわかる。ただし、私が見た映画は、ほとんどDVD化されていないような気がする。残念なことだが。

 戦後まもなく、(「シネマパレス」で見たわけではなかったが)「拳銃無宿」 Angel and the Badman(47年)を見た。主演、ジョン・ウェイン。共演は、ゲイル・ラッセル。

 ジョン・ウェインは、いうまでもなく、西部劇の大スター。この「拳銃無宿」に出た当時は、まだ大スターではなかった。映画も「リパブリック」だったから、B級もいいところ。ただし、ジョン・ウェインはじめてのプロデュース作品。
 まあ、そんなことより、ゲイル・ラッセルを見ただけで、私にとっては貴重な映画になった。

 ゲイル・ラッセルは、戦後になってはじめて見た女優だった。この映画と前後して、「桃色の旅行鞄」Our Hearts Were Young and Gay(44年)を見たが、これで彼女にイカれた。
 容貌はアイダ・ルピノに近い。美貌といっていいが、アイダのように「妖婦」的、ヴァンプ的なところがない。どこか、もろい(フラジャイル)ものを感じさせた。眼に特徴があって、ずっと後年のオルネラ・ムーテイが、ゲイルのまなざしに近かった。

 おなじ時期に、ゲイル・ストームという新人が登場する。「五番街の出来事」という喜劇に出ていた。しかし、ゲイル・ストームの映画はほとんど見る機会がなかった。50年代後半から、TVのコメデイ・シリーズや「ゲイル・ストーム・アワー」などで人気があった。
 わざわざ「五番街の出来事」のビデオを探して見直したが、私が好きだった女優はこういう女優だったのか、と思った。はっきりいえば失望したのだった。

 そして、もうひとり。グローリア・デ・ヘヴン。
 グローリアは映画にはほとんど出なかった。ブロードウェイの舞台から、やがて、ラス・ヴェガスなどのショーで成功する。だから、映画のグローリアをほとんど見ていない。後年、「ゴッドファーザー」で、アル・パチーノが、ヴェガスに乗り込むシーンに、グローリア・デ・ヘヴン出演の大きな看板が出ていて、なつかしい気がした。グローリアは、ラス・ヴェガスきっての大スターになっていた。

 はるか後年、私はゲイル・ラッセルについて短いモノグラフィーを書いた。
 ある日、虫明 亜呂無が私をつかまえて、
 「ゲイル・ラッセルとは、なつかしいですねぇ」
 といった。
 私は、虫明 亜呂無が私の雑文を読んでくれたことがうれしかった。そして、私以外にもゲイル・ラッセルをおぼえている人がいたことが、何よりもうれしかった。
 ゲイル・ラッセル、私の内部に暗い輝きを放っていた女。そして、彼女もみずから悲劇的な死を選んだスターのひとり。

2009/08/28(Fri)  1083
 
 一度だけ、外科手術を受けたことがある。手術というほどのものではなく、わずか1センチ幅のオデキを切徐してもらっただけ。
 医師が患部にメスを入れると、皮膚が綺麗にきれて、一瞬あとに、ひとしずくの血がもりあがってきた。部分麻酔の注射をしているので痛みはない。手術も、ほんの30秒くらいで終わった。手術が成功(!)して、うれしかった。

 メスがじつによく切れる。こんなものを誰が「発明」したのだろうか。うっかり医師に質問しそうになったが、われながらアホウな質問に思えた。人類学者に誰がナイフを「発明」したのかと質問しても答えに窮するだろう。だから私は黙っていた。

 ほどなく、この疑問はとけた。

 メスを「発明」したのは、誰あろう、かのベンヴェヌート・チェッリーニである。

 チェッリーニは、イタリア・ルネッサンスに登場した。ルネッサンスについて何か知る必要があれば、彼の『自伝』を読むといい。
 『自伝』(46節)に、こんなエピソードが出てくる。

 若者だったチェッリーニが、ある工房で働いていたとき、主人の娘が右手を傷めた。小指、薬指の二本の指の骨が腐るという病気だった。いまなら、指の傷からバイキンが入って炎症が化膿したと見ていいだろう。
 ヤブ医者の診察では――娘は、右腕が麻痺するかもしれないが、それ以上は進行しない、という。父親は、腕のいい外科医に手術を依頼した。
 この先生の診断は、右手はじゅうぶんに使えるようになる。ただし、右手の小指、薬指の二本は、いくらか弱くなるかも知れない。それでも日常生活に支障はきたさない、という。
 数日後に、骨の腐った部分を少し削りとることになった。外科医の先生は、何やら大きな鉄の器具で手術をしたが、娘はものすごく痛がった。
 見るに見かねたチェッリーニは、八分の一時間ばかり待ってくれないか、と頼んで、大急ぎで、工房に駆け込んだ。
 そして、反りを打った、ひどく薄くて、小さな鉄の器具を作った。

 外科の先生のところに戻ると、こんどは、とてもやさしく手術ができた。娘は少しも痛がらず、手術もじきに終わった。

 これだけの話である。どうやら――ベンヴェヌート・チェッリーニが、メスを「発明」したのは、まず間違いがない。

 ただし、こんなことをさも大発見か何かのように、れいれいしくブログに書いている私はアホウである。(笑)

2009/08/27(Thu)  1082
 
 ナタリー・ウッドは、(子役のときから、将来を期待されて、いくつもの試練に耐え抜いて、最後まで残った)スター女優だった。チャイルド・スターから、トップスターになったという意味で、ジュデイ・ガーランド、エリザベス・テイラーに似ている。
 しかし、子役としてのキャリアーは、ジュデイや、エリザベスほど、恵まれていたとはいえない。

 十代の彼女は、「理由なき反抗」(55年)でジミー・ディーンの相手役に抜擢されて、やっとスターレットとして認められたような印象がある。
 それだけに、「初恋」(58年)のナタリーは、ひそかに期するところがあったに違いない。
 原作は、当時、流行作家だったハーマン・ウォークのベストセラー小説、『マージョリー・モーニングスター』。

 演劇志望の女子大生「マージョリー」は、友だちの「マーシャ」といっしょに旅行している。美しい湖畔で、演出家、作曲家の「ノエル」(ジーン・ケリー)と、アシスタントの「ウォーリー」(マーティ・ミルナー)と会う。
 いかにも知的で、芸術家の「ノエル」に夢中になった「マージョリー」は、舞台の照明をてつだいながら、清純な慕情を育ててゆく。
 しかし、「マージョリー」の想いを知りながら、「ノエル」は以外にも、冷たく突っ放す。はげしく傷ついた「ノエル」をいたわるのは、「ウォーリー」だった。……

 大学を卒業した「マージョリー」の前に、また「ノエル」が戻ってきた。一方、「ウォーリー」は劇作家として輝かしく成功していた。以前にもまして心を寄せる「ウォーリー」に対して、何者でもない自分を恥じた「マージョリー」は姿を消す。

 やがて、友だちの「マーシャ」は、富裕なプロデューサーと結婚する。その式場で、「ノエル」と再会した「マージョリー」は、「ノエル」がブロードウェイで失敗したことを知る。彼女は、「ノエル」を力づけ、またショーの演出にもどらせようとする。その初日がすんだら、彼と結婚しようと決心するのだが……。

 ジーン・ケリーがミス・キャスト。ダンスの名手だったジーン・ケリーは、「錨を上げて」(45年)、「三銃士」(48年)、「私を野球に連れてって」(49年)、「巴里のアメリカ人」(51年)、「雨に唄えば」(52年)などの作品で、一流のスターだった。
 これに対して、ナタリー・ウッドは、「三十四丁目の奇跡」(47年)の子役から、「理由なき反抗」のティーンネージャー、「捜索者」(56年)のインディアンに育てられる白人の少女といった役のあと、シャーリー・テンプルや、デイアナ・ダービンとおなじように、女優として成熟した女性の魅力を出せるかどうかという「問題」に直面していたように見える。
 ナタリーは、「草原の輝き」まで、もうしばらく混迷をつづける。

 1958年、日本では、「悲しみよこんにちは」が公開され、ジーン・セバーグのセシール・カットが流行した。小津 安二郎の「彼岸花」に、山本 富士子が出て、有馬 稲子、久我 美子と共演した。三島 由紀夫の『金閣寺』が市川 雷蔵の「炎上」として、映画化された。石原 慎太郎が「若い獣」を監督している。

2009/08/25(Tue)  1081
 
 少年はいう。

 「わかってくれるかい。今朝起きてみると、太陽が輝いていて、なにもかもがきらめいているみたいで、すっごく気もちがいいんだ。そして、いちばんはじめに会ったのが、きみなんだ。で、思ったのさ、今日は素晴らしい日になるぞ、きっと。こんな日は、思いっきり生きなきゃ。明日なんて、ないかも知れないから。
  わかるだろ、オレは、すんでのところで、明日をフイにしちまうところだったんだよ。」

 映画、「理由なき反抗」の、ジェームズ・ディーンのセリフ。チキン・レースのあと。
 チキン・レースは、二台の車を並べて、同時に崖に向かって走らせる。断崖の近くまで疾走するのだが、おじけづいて、早く車から飛び下りたほうが負け。「チキン」は、臆病者という意味だろう。
 映画では、競争相手が死んだあと、「ジム」(ジェームズ・ディーン)が「ジュデイ」(ナタリー・ウッド)にいう。
 つぎの日の夜、ふたりは、荒れた廃屋の庭で会う。

   ジュデイ 愛するって、こういうものかしら。
   ジム  オレにもわからない。
   ジュデイ 女って、どんな人をもとめると思う。
        おだやかで、自分がやさしくしてあげ
        られるひと。
        こっちがもとめるときに、肩透かしを
        くわせないひと。
   ジム  オレたち、きみもぼくも、もうさびしがら
       なくて、いいんだよな。
   ジュデイ あたし、愛しているのよ。いつも、あたし、
        愛してくれる人を探してたけど、いまは
        あたしのほうから愛してる。
        それが不思議なくらい。やさしくできるの。
        なぜかしら。
   ジム  オレ、わかんないよ。オレだって、そう
       なんだもの。

 ジェームズ・ディーン(1931−1955)は、戦後アメリカの伝説的なスターだった。彼の出た映画としては、「エデンの東」、「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」の3本だけだが、この3本だけで映画史、映画スター史に残るだろう。
 彼が登場した時代は、映画産業が圧倒的な優位に立っていた時代だが、TVが普及して、時代に変化があらわれはじめていた。かんたんに要約すれば、暴力、犯罪、ドラッグ、セックスなどに、絶大な関心が寄せられることになる。当時のスキャンダラスな世相は、当時のエクスプロイテーション・マガジンの驚異的な隆盛からも想像できるだろう。

 ジェームズ・ディーンの死は悲劇的だった。ナタリー・ウッド(1938−1981)の死もまた。

 「理由なき反抗」は、それほどすぐれた映画ではない。しかし、それだけで時代を表現するセリフがあったればこそ、私たちの心に残った。
 「ジム」と「ジュデイ」の、ちょっと舌ッ足らずな、愛のことばのやりとり、ヴァーバル・ウーイングが新鮮に聞こえた。ジェームズ・ディーンもナタリー・ウッドも、時代の一瞬の輝きとして、私たちの心に残ったということなのだ。

2009/08/24(Mon)  1080
 
 岡場所。
 江戸にあった官許の場所以外の、深川、築地、品川、新宿などの私娼窟をさす。
 そのくらいは知っているのだが、なぜ「おか」なのか。いつから「おか」なのか。

 古語の「おか」、つまり陸の連想はわかる。「岡へあがったカッパ」というふうに。
 傍目八目のように、わき、横、はたから見る動き。これもわかる。

 江戸でいう岡場所を大阪では「外町」といったらしい。あるいは、「島場所」とも。

 このあたりにも、関東、関西の、トポス的な違いが見えてくる。「岡場所」と「島場所」、どちらでもいいが、吉原ではない私娼窟を「ほかの場所」としたのは、公娼を中心とした集娼制度に対する暗黙の異議申し立てではなかったろうか。
 金一歩の揚げ代の「金見世」(かねみせ)、銭一貫文の「銭見世」(ぜにみせ)、さらに、昼六百、夜四百に切り売りする「四六見世」、それ以下の「六寸」、「五寸」、「四寸」と区別した江戸の庶民のふところ具合も「ほかの場所」というカテゴライズに見えるような気がする。

 「島場所」は、私娼窟を別世界、何か極楽浄土に似た別の「島」として、とらえているような気がする。

 江戸でいう、「じごく」は、当然ながら極楽浄土とはまったく反対のものだが、これとても、江戸の庶民が「地の女」の「極上」という意味で使っていたとすれば、やはり違った解釈が出てくる。

 ほんとうは江戸の庶民の造語、暗喩、synthetic slang にも眼をむけるべきところだが、残念ながら、私にはその能力、学問がない。

2009/08/23(Sun)  1079
 
 『聖アントワーヌの誘惑』を書いていた時期のフローベールは、さまざまな打撃と挫折に見舞われている。
 自分のよき理解者だったサント・ブーヴ、デュプラン、ジュール・ド・ゴンクールといった友人たちがつぎつぎに亡くなって、ほとんど孤立無援といった状況に追い込まれる。
 しかも、この時期に愛する母を失った。つらいことが重なって、さすがのフローベールも、しばらく立ち直れない。

 当時、代表作の『感情教育』を出版したが、批評はかならずしも芳しくなかった。自分では圧倒的な自信があったのに、悪評も多かった。しかも、小説のモデルにされたということで、それまで親しかったボスケという女性から絶交をいいわたされる。
 出版社と対立する。
 作家としては八方ふさがりといっていい。

 しかも、ここにきて普仏戦争が起きている。緒戦のフランス軍の弱体ぶりに落胆したが、それよりも国運が傾いていることに、フローベールの苦悩が重なってくる。もともとひどくペシミスティックな観念にとり憑かれていたせいもある。しょせん、この世はのっぺらぼうにひろがっている地獄に過ぎない。こういう思いが、彼の魂にひろがっている。

 さまざまな苦難、困難に見舞われながら、少しづつ憂愁のいろを深めていった作家に私は関心をもつ。
 ただし、フローベールは大作家で、クロワッセに隠棲していた。私は作家というより、ただのもの書き、pot boiler に過ぎない。はじめからクロワッセとは違う地獄で生きている。

2009/08/21(Fri)  1078
 
 わざわざ映画館に行って映画を見る。そんなこともなくなってしまった。

 映画が斜陽産業化した原因はいろいろとあるはずだが、いつ行っても映画が見られる場所ではなくなったことも観客の減少を招いたのではないか、と思う。
 ちょっと時間ができた。どこかで時間をつぶす。そんなとき、近くの映画館に飛び込んで、もう始まっている映画の途中から見る。
 途中から見るのだから、映画のストーリーもよくわからない。あれよあれよという間に、映画か終わって、休憩時間をおいてから、もう1度、最初から見直す。やっと映画の内容がわかってくる。頭のなかで、ストーリーをつなぎあわせて、けっこう満足して映画館を出る。もう、あたりはとっぷり暮れている。
 そんな経験は誰にもあったはずである。

 いまは、映画を見ようと思うと、上映時間前にチケットを買って、10分ばかり前から館内に入れられる。席がきめられているので、押しあいへしあいして席をとりあう必要はない。しかし、映画館で映画を見るときの、うきうきした気分はあまりない。
 映画館ですわれるのはいいが、ガラガラにすいているのは哀れとしかいいようがない。

    だから、映画言うものは、家族中で見に行ったものです。小僧さんたちは仕事が
    あって行けない。八百屋さんもいかれないけれども、家をしめたら、九時から映
    画見に行こうといったものですよ。お風呂へ行くみたいなつもりで。だからお風
    呂屋のバケツを持って見にいきましたよね、「一本見られるでえ。今から」言う
    て。それに九時からは割引きがあったんですね。バケツに手拭い入れて見にいき
    ましたなァ。そのくらい、みんなに映画というものが親しかったんですね。

 淀川 長治さんの少年時代。私の少年時代でもこれはおなじ。こうしたアンチミテは、もはやどこの映画館にもない。思えば、幸福な時代でしたナァ。(笑)

 「エー、おせんにキャラメル。ラムネにイカはいかが」

2009/08/20(Thu)  1077
 
 老人なのだから、ボケたことしか書かない。書けない。現実の動きについて行けなくなっているせい。

 たとえば、GMが破産法の適用を申請した事態は、私の想像を越えていた。むろん、アメリカの産業の推移を見ていれば、1970年代から、テレビ、ビデオ、冷蔵庫といった家電メーカーが、つぎつぎに姿を消して行った。
 ところが、80年代の日本がぐずぐずしているうちに、アメリカの、インターネット、パソコンを軸にして展開した情報技術産業が、世界を制覇した。日本は、これが「空白の10年」と重なって、惨憺たる状況に追い込まれた。アメリカは、これで世界経済の主導権をにぎったが、やがてIT産業はつまづいたし、金融、保険などの分野も、昨年の金融危機でおおきな打撃をうけた。

 北朝鮮の核実験、さらには核攻撃の現実的な脅威、新型インフルエンザの登場、やがて冬季に於けるヴィールスの変化、どれひとつとして私などの理解できる現象ではない。
 こうした「現実の動き」は、私などにとっては、ほとんど理解を越えている。

 私に考えられるのは、それぞれが無関係な事象であっても、ここにきて、私たちはいやおうなく歴史的な曲がり角にさしかかっている、という認識が私の内部にも生まれつつある、ということ。

 ある研究者の説くところでは――現在、あの世を信じる、または奇跡を信じる20代の若者が、2003年から8年間で、
    あの世を信じる若者は、15パーセントから23パーセントに、
    奇跡を信じる若者は、30パーセントから36パーセントに、
 ふえたという調査結果を示している。
 そして、若者は「脱呪術化」ではなく「再呪術化」されている、という。

 この調査結果を見て、自分はどう答えるだろうか、と考える。

 あの世を信じるか。私は信じたいと思う。しかし、信じうべき理由が見つからない。
 私は奇跡を信じるか。これは、答えられない。どういう事象をもって、奇跡と見るべきなのか。具体的に語ることができないからだ。
 さりとて、いまや、若者たちのあいだで、進歩、夢、未来といった価値観が融解している、などと見るわけはない。

 私がボケたことしか書かないし、書けないことを少しも恥じてはいない。わからないことはわからないと見ているだけである。わからないことが多すぎるけれど。

2009/08/18(Tue)  1076
 
 前から探していたものを偶然見つける。これはうれしい。古書なら、掘り出しものを見つけたとき。
 つい最近、香港映画のビデオを見つけた。いまはもう誰も見ないようなビデオなので、掘り出しものといえるほどではない。作品もいわゆるB級、あまり自慢にはならないが、それでもこれを見つけて、内心ひそかに掀舞した。

 かなり前に、神保町のアジア映画専門のビデオ屋で見つけたときは、じつに法外な値がついていた。驚きあきれたが、同時に怒りさえおぼえた。いらい、この店には二度と足を向けなかった。

 たかが、古本1冊、古ビデオ1本、人の一生に何ほどのかかわりがあろうか。その1冊を読まなかったからといって、おのれの生きようが変わるはずもない。古ビデオ1本見たからといって、自分が見てきた映画に、どれほどのプラスになるだろうか。

 だが、そう思う人はついに私の友ではない。

 私が見つけた映画は、今はもう誰も知らない香港映画の1本。徐 克(ツイ・ハーク)の旧作、「刀馬旦」(1986年)。
 主演は・・・「夢中人」、「恋する惑星」の林 青霞(ブリジット・リン)、「プロテクター」、「上海ブルース」の葉 倩文(サリー・イップ)、「五福星」のチェリー・チャン。
 清国が崩壊して、軍閥政権がつぎつぎに交代するなかで、軍閥の将軍の娘の身ながら革命運動に身を挺する娘、革命さわぎに巻き込まれる京劇の一座の経営者の娘、何も考えずに北京に出てきて、予想もしなかった危険に見舞われる娘たち。

 この香港映画を何度も見ている。香港映画が、奔放なエネルギーにあふれ、全編スピードとサスペンスで、あたらしい世界を切り開いた。若い女優たちも、キラキラした明るい声の光をスクリーンの中からふりまいていた。
 私はこの映画で、林 青霞(ブリジット・リン)のファンになったのだった。

 そういえば、この映画が作られて10年後、一条 さゆりが、この映画に出た林 青霞(ブリジット・リン)の妖しい魅力にふれていたことを思い出す。そのエッセイを読んでから、さらに10年がたっている。
 そのブリジットも、もう引退している。

 古ビデオ1本。またブリジット・リンにめぐりあえたような気がしてうれしかった。

2009/08/17(Mon)  1075
 
 暑い日がつづく。げっそりする。どうしても食欲がなくなる。

 ふと、蓼太の一句を思い出した。

      冷飯に 夏大根のおろしかな         蓼太

 大根は冬の季語だが、夏大根と断っているので、いくぶん小ぶりで、味のからい大根なのだろう。
 冷飯に、大根おろしをかけて食べる。いかにも貧しい食事だが、食欲が進まないときでも、これなら食べられそうな気がする。

 ところで、ふと、という言葉は外国語にはないらしい。冷飯に、大根おろしをかけて食べる、などという趣向も外人にわかるはずないヨナ、と、ふと考える。

2009/08/16(Sun)  1074
 
 向井 去来(1651−1704)は、まじめな人だった。芭蕉門下でも、君子人として知られている。
 元禄4年、野沢 凡兆とともに『猿蓑』の編纂にあたった。

 あるとき、去来が一句を詠んだ。

    戀すてふ おもへば年の敵かな        去来

 この句の意味は――恋愛をしてしまった。ところが、自分はもういい年なので、恋愛沙汰などというのは、どう考えても、身命にかかわる、年甲斐もないことなのだなあ。
 そんな心境を詠んだものらしい。ただし、あまりいい句ではない。

 初五の「戀すてふ」が、どうもすわりがわるい。
 「恋をするということ」は、という意味が、「年の敵かな」にうまく対応していない。もっとよくないのは、この句には「季」がない。
 つまりは、俳句ではない、ということになる。まじめな去来は、自分でも、どういうふうにしていいのかわからなくなってしまった。

 たまたま、大先輩の俳人、伊藤 信徳に見てもらった。信徳は、この初五を変えた。

    戀さくら おもへば年の敵かな

 信徳は「花は騒人のおもふ事切なり」という。ようするに、桜は、昔から詩人たちが美しいと愛でてきた。戀もおなじことで、年齢を忘れて人を恋うることの、切なさ、やるせなさも「さくら」をひきあいに出せるのではないだろうか。
 去来は、信徳の手直しにしたがわなかった。

 元禄3年、芭蕉は、長旅を終えて、京に戻ってきた。去来は、芭蕉にこの句を見せた。

 芭蕉は答えた。「戀すてふ」を「戀さくら」に変えたところで、別にいい句になったわけでもない。「そこらは信徳程度の俳人が知るところにあらず」と。

 その後、野沢 凡兆が、この句の初五を変えて、

    大歳を おもへバ年の敵かな        凡兆

 「大歳」は、大晦日。つまり、一年が過ぎようとしている。いよいよ、大つごもり。考えてみると、こうして年の瀬を過ごしていると、ほんとうに過ぎこしかた、行く末を思う、自分の年齢にはかたきのようなものだなあ。
 芭蕉は、「まことにこの一日、千年の敵なり。いしくも(いみじくも)置きたるものかなと、大笑し給ひけり」と、いった。

 私も凡兆の改作をよしとする。しかし、凡兆の手直しに、去来としては不本意だったのではないか、と思う。
 「そこらは信徳程度の俳人が知るところにあらず」というあたりに、芭蕉の大きさをみていいが、芭蕉が大笑いしたのは、どういじっても、いい句にならないのに、こだわりつづけた去来をあわれんでのことではなかったか、と思う。
 だが、私はこの芭蕉にあえて異を唱える。

 去来が詠みたかったのは、自分はもういい年なのに、恋愛沙汰などを考えている。そういう年甲斐もないことにかかずらうおのれの卑小、つたなさではなかったか。

      大歳をおもへバ としの敵哉       凡兆

 などという感慨は、この去来にはかかわりがない。
 私にいわせれば、芭蕉には去来のみじめさが見えていないのだ。俳句としても、この句ははじめから無季でいい。この句にふれた人が、それぞれの季節を心において読めばこの句の情趣は成立する。それでいいではないか。この芭蕉をわたしはひそかに憐れむ。
 去来は気まじめな人だったが、ときには、

      稲妻や どの傾城と かり枕

 といった洒脱な句を詠んだほどの人ではなかったか。

2009/08/14(Fri)  1073
 
 一茶の『おらが春』を読む。
 文政2年(1819年)、一茶、57歳の句文集。

 一茶は、東北地方に旅行をしようと思い立って、わが家を出る。乞食袋を首にかけ、小風呂敷をせなかにかけた恰好は、西行法師に似て殊勝だが、ほんとうは似ても似つかぬ心境で旅立っている。
 二、三里も歩いてから、一茶は考える。

    久しく寝馴れたる庵をうしろになして二三里も歩みしころ、細杖をつくづく思ふに、おのれすでに六十の坂登りつめたれば、一期の月も西山にかたぶく命又ながらへて帰らんことも、白川の関をはるばる越る身なれば……

 もう、わが家に戻れないのではないか、と心細くなってくる。鶏が時をつげる鳴き声を聞いても、帰ったほうがいい、と呼んでいるように聞こえる。麦畑にそよぐ風も、戻っておいで、とさしまねく。また歩き出しても、あまり先に進まない。

    とある木陰に休らひて痩脛(やせすね)さすりつつ詠るに柏原はあの山の外、雲のかかれる下あたりなどおしはかられて、何となく名残おしさに、
    思ふまじ見まじとすれど我家哉  一茶

 私は一茶の句に親しんできたわけではない。しかし、文政2年、この年が一茶にとっては苦しみのはじまりだったことを思えば、一茶の哀しみは、私にもよくわかるような気がする。

2009/08/12(Wed)  1072
 
 敗戦直後の日々。日本人が、どのように敗戦の痛苦をうけとめたか。もはや、思い出すこともむずかしい。
 敗戦から一年。まだ、日本は惨憺たる状況にあった。食糧難が、生活をおびやかしていた。当時の短歌を読んでみた。
 その優劣を問わず、いくつかをここにあげてみよう。すべて、1946年夏までに詠まれたもの。

    山峡にひそと棲みつつ国々に散りたる友をおもふ今宵も    橋本 徳寿

    幾度か防空壕に出入りせし去年の夜半の想ひたへ難し     瀬頭 聡子

    戦いの激しかりし世に生きあひてわれは十九の命つなげり   南 晴彦

    荒地野菊たけて荒れたる疎開跡終戦の日に此処は毀たれぬ   小川 初枝

    ほしいままに草たけし原に木製の戦車の残骸見るに堪へなく  伊東 良平

    友に逢ひて話すは友の事なりき彼の友も亦彼の友も亦無駄死をしき 松本 清

    爆破されし工場の細部映りゆくかく見る既に感傷もなく    小暮 政次

    ためらはず兵器毀つに明治三十七八年の鹵獲銃もあり     大久保福太郎

    陸にありて米国製レーション海にして英国船レーションに命つなぎき 新海 五郎

    つつがなく食ひて生きゆく事の外今の我は何も考へず     吉田 正三

    乏しきに堪へむと思へど幾日かも主食の糧はつきはててけり  岡田 花明

    サイゴンの米を食ひたり復員の伯父が持ち来し細長き米    南 一郎

    四年ぶり復員したる吾が兄は父の墓辺に黙し立ちたる     大野 文也

    闇市に偶然遇ひし我が友は戦闘帽かぶり古靴を売る      加藤 信夫

    石鹸を並べし下の大き箱に紙幣うずたかし反故のごとくに   茅上 史郎

    難民とはかくの如きか犇めきて人はここにも列車に迫る    町山 正利

    満員の電車の中に横ざまになりたるままに終点に来ぬ     高橋 治純

    焼跡に残る家居のくろぐろとひとくぎりあり麦は生ひ立つ   新田 澄子

    土手外の一劃焼けず残りたり映画館ありて人の群がる     斉藤 広一

    焼け跡の日でりの中を歩み来て映画にいたく昂りて居り    増方 作次良

    東京の女の身なり派手なるを見つつぞおもふ何食ひてゐむ   大石 逸策

    兵舎跡に学ぶ女医専生徒らは下駄ばきのまま授業受けおり   国崎 行夫

    新しき教に障る書物焼きぬ汗ばむ胸に焔迫りて        市毛 豊備

    あまりにも貧しき装幀を打ち見つつ敗れし国のうつつをぞ識る  橋本 堯

    焼けし町焼け残る町つらぬきて広き舗道の夕映え明し     斉藤 正二

    中庭に麦のみのりし昼過ぎの日比谷公園に我は来て見つ    御船 昭

    戦の終りたる日の近づきて暑き日暮に蜩なくも        渡辺 清

 敗戦後、一年の凄まじい様相が、こうした短歌からいくらか想像できる。

 現在の私にしても、これらの短歌を読んでさまざまなことに気がつく。たとえば、原爆に関して誰ひとり言及していないこと。これは、おそらく、検閲による。なぜなら、このテーマ(原爆)は、アメリカ占領軍がもっとも警戒して問題だったはずである。
 そしてまた、思想上の論点としての、核の廃絶など、まったく歌詠む人たちの意識になかったこと。
 少なくとも、敗戦直後に、清瀬 一郎が原爆投下を人倫上の戦争犯罪と見た視点などは、これらの戦後詠にはまったく存在していない。

 ついでにふれておくが――これらの名もなき民草の短歌は、『昭和万葉集』なるものに一首も収録されていない。

2009/08/10(Mon)  1071
 
 1921年、ルイ・ジュヴェは、恩師のジャツク・コポオと対立したため劇団内部で孤立、舞台に立つことが許されず、もっぱら裏方にまわり、髀肉の嘆をかこっていた。ようするに、師にうとまれて冷遇されたのである。
 師弟対立の原因はいろいろあるのだが、劇団の創立メンバーでありながら、経済的に恵まれなかったことも遠因と見ていい。

 そのへんのことは評伝『ルイ・ジュヴェ』で暗示しておいた。ただし、評伝を書く場合、調べてわかったことを全部並べても意味はない。私の『ルイ・ジュヴェ』はなにしろ長い評伝だったし、この時期のフランスの小劇団の財政状態など、くわしくとりあげる余裕がなかった。

 けっきょく、出版にあたってカットしたし、原稿も全部焼き捨てた。

 その頃の日本の俳優の収入はどういうものだったのか。こちらの資料だけが残っている。焼き捨ててもいいのだが、何かの参考になるかも知れない。

    歌舞伎の大名題の月給は、7円80銭。6円80銭。5円80銭。
    少しさがって、中堅から、3円20銭。2円20銭。90銭。
    「帝劇」の座付きが、6円、5円80銭。3円80銭。1円50銭。60銭。
    「明治座」の左団次が、4円50銭。3円80銭。3円30銭。1円90銭。
    1円90銭。1円50銭。60銭。
    「市村座」が、4円80銭。4円40銭。3円60銭。2円20銭。1円90銭。1円70銭。1円60銭。1円10銭。90銭。
    これに、権十郎、小団次などの小芝居がならぶ。

 その頃の物価を比較すれば、なんとなく当時の俳優の生活が見えてくる。

2009/08/08(Sat)  1070

  藤田 嗣治の「私の夢」(1947年)を見た。
 「日本の美術館 名品展」に出品されていたが、画面いっぱいに、片腕を頭にあげて、まどろむ美女の裸身。そのベッドをとり囲むように、ネコ、オオカミ、ウサギ、サルなどが十数尾。半分ばかりは、人間そっくりの衣装をつけている。

 美しい女のヌードと、鳥獣戯画の組み合わせだが、フジタはどうしてこんな絵を描いたのか。

 1947年、この画家は、はげしい攻撃にさらされていた。戦争画を描いて、戦争に協力したという理由だった。

 戦後のフジタは、まったく沈黙していたが、この「私の夢」が、戦後の最初の作品になった。その後、フジタは、日本を去って、フランスに永住し、レオナール・フジタと改名して生き、フランス人として死ぬ。

 この絵をよく見ると、ベッドの下側にネコが3匹いて、サル2匹と争っている。左のネコは、サルの攻撃をふせいだらしく、サルはホエ面をかいて、となりのウスノロのトリにしがみついている。画面中央のネコは、赤い衣裳のサルに襲われて、思わずシリモチをついたかっこう。
 一方、ベッドの上側には、イヌ、オオカミが、何やらよからぬ相談をしている。中央の3匹はタヌキかもしれない。

 この絵が何を寓意しているか、忖度できないが、この動物たちが、いずれ魑魅魍魎のたぐいと見ていいだろう。
 フジタは、そのなかでネコだけは、最後まで信頼していたと見ていい。

2009/08/06(Thu)  1069
 
 8月6日、広島で、原爆犠牲者追悼の催しが行われる。

 私もまた、この日、かならず黙祷をささげる。

 別して、ある人びとに心からの哀悼を捧げる。ここに、そのひとりの女性を偲んで、ありし日の写真を掲げておく。

 生きる時代を異にしたため、私はわずかに彼女の映画を1本見ることを得ただけで、ついに舞台を見ることがなかった。しかし、彼女のおもざしは私の内面に深く刻みつけられている。

 園井 恵子という女優である。戦争末期、移動演劇の一隊に属して、広島に巡演して、原爆死を遂げた。ここにかかげるのは、まだ、戦禍を知るよしもなかった「宝塚」在籍中の写真である。

 合掌。


2009/08/05(Wed)  1068
 
 マリリン・モンローの初期作品、「ふるさと物語」(アーサー・ピアソン監督/1951年)は日本では公開されなかった。
 DVDで出ているので、はじめて見た。愚作。

 カヴァーに――マリリン・モンロー出演、日本未公開作品! と出ている。

 ストーリーを紹介するのもバカバカしいが――州議会選挙に敗れて上院議員をやめた「ブレイク」は、故郷の小さな町に戻ってくる。婚約者は、小学校の先生をやっている。
「ブレイク」は、彼女の伯父がやっていた小さな新聞「ヘラルド」の編集長になる。

 故郷の町では、軍需産業で成功した地元企業が、廃水を川にたれ流しているため、汚染がひろがっている。「ブレイク」は新聞に書きたてて、企業の責任を追求しはじめる。
 たまたま、小学校の先生に引率されてこの企業の銅山の廃坑を見学に行った「ブレイク」の幼い妹が、落盤事故にぶつかって・・

 主演のジェフリー・リンは、戦前に登場したB級スターで、「すべてこの世も天国も」(40年)、戦後は「三人の妻への手紙」(49年)などに出ている。タイプとしては、フランチョット・トーンにちょっと似ているし、レイ・ミランドにもなんとなく似ている。しかし、この映画のジェフリーはまるで冴えない。
 婚約者になる女優さんはジーナ・ローランズ・タイプ。むろん、ジーナほどの迫力も演技力もない。
 地元企業の経営者は、ドナルド・クリスプ。「我が谷は緑なりき」(41年)、「ナショナル・ヴェルヴェット」(44年)などで、私たちにも知られている。この映画でもさすがにクリスプらしい味は見せているが、それでもたいした映画ではない。

 さて、マリリン・モンローだが、この映画のマリリンもまるで魅力がない。
 出ているシーンは5カット。
 マリリンになぜ魅力がないのか。それは、監督がマリリンの、特徴にまったく気がついていないため。マリリンに何ひとつ芝居をさせなかった。セリフもあるにはあるのだが、田舎の新聞社につとめている女の子というだけで、何ひとつ「しどころ」がない。ようするに、演出家が凡庸で、マリリンをただ平凡にしか見せていない。つまり、この監督は何ひとつ見ていないのだ。

 この時期のマリリンは、すでに「アスファルト・ジャングル」(50年/ジョン・ヒューストン監督)に出ている。映画監督は(検閲をたくみにかわしながら)マリリンに初老の実業家の「情婦」を演じさせていた。そして「イヴの総て」(50年)のマリリンは、まるっきり才能のない女優を演じていた。この2本のマリリンは、若い女優らしい香気(フレグランス)を放っているが、「ふるさと物語」のマリリンは、ただの平凡な女の子にしか見えない。
 才能のない映画監督に使われる女優ほどかわいそうなものはない。

 この映画に出たあとのマリリンは、「夜のうずき」(52年)、「人生模様」(52年)、「モンキー・ビジネス」(52年)、「ノックは無用」(52年)などに出ている。
 マリリンは、チャールズ・ロートンを相手に娼婦を演じた「人生模様」がもっとも美しいが、全体としては、「ナイアガラ」(52年)までの、さまざまなトライヤル、試練の年だったはずである。

 ある女優にとって、まだ無名の頃に出た映画はどういう意味をもつものなのか。無名のマレーネ・ディートリヒは、グレタ・ガルボのはじめての主演映画、「喜びなき街」にガヤとして出たことに終生ふれなかった。だが、私はこの「喜びなき街」に出た無名のディートリヒの姿をけっして忘れない。

 「ふるさと物語」の映画監督、出演者、スタッフのだれひとり、わずか5ケ所のシーンに出ただけの女優が、1年後に世界的なスターへの道を歩みはじめるとは思っても見なかったにちがいない。

 このへんに、当の女優たちもまともに考えなかった問題があるのではないだろうか。

2009/08/04(Tue)  1067
 
(つづき)
 この1927年、レナード・シルマンが、ブロードウェイ・ミュージカルに登場する。シルマンは、前年、バサデナのショーをプロデュースしていた。
 彼は、リー・シューバートの推挽で、ブロードウェイに進出する。(リー・シューバートは「シューバート劇場」の経営者、大プロデューサー。女優、エルジー・ジャニス、映画スター、メァリ・ピックフォードのパトロンだった。)

 いろいろな曲折があって、レナード・シルマンが、ブロードウェイで「ニュー・フェイシズ」New Faces というショーを出す。

 キャストは、24人。
 主演の一人に、イモージェン・コカ。彼女は、1925年に登場しているので、「ニュー・フェイス」ではなかったが、「エルフィン」(小妖精)の「役」がぴったりだった。

 ほかの出演者は、作曲、シンガーの、ジェームズ・シェルトン、ダンサーのチャールズ・ウォルターズなど。
 さらには、歌手のルイーズ・テデイ・リンチ。のちに作家になった女優、ナンシー・ハミルトン。(彼女は、この時期、キャサリン・ヘップバーンの『戦士の夫』のアンダースタデイをやった。だから、この「ニュー・フェイシズ」では、キャサリン・ヘップバーンのモノマネをやってみせる。)

 オーディションを受けにきた役者で、最後の最後まで残ったふたりの若者がいた。ふたりとも、才能はあるし、役柄もぴったりだった。
 どちらを残すかきめかねたプロデューサー、レナード・シルマンは、とうとう、ふたりにコイン投げで、採用、不採用をきめることにした。

 結果は――ヘンリー・フォンダが採用された。
 落ちたのは、ジェームズ・スチュアート。

 ヘンリー・フォンダは、『水曜日にきみを愛した』というドラマで、ハンフリー・ボガートのアンダースタデイをやったあと、まっすぐにこの「ニュー・フェイシズ」のオーディションを受けたのだった。

 後年、このふたりはハリウッドの大スターになる。

 つい最近、トニー賞の受賞式の中継(’09.6.28)を見ながら、ふと、そんなことを思いうかべていた。

2009/08/03(Mon)  1066
 
 ときどき思いがけない話を知って驚くことがある。

 1927年、作曲家のヴァージル・トムスンが、ガートルード・スタインに訊いた。

    オペラの台本を書いてみる気はありませんか。

 ガートルード・スタインは、すぐに強い関心をもって、オペラの台本を書いた。アビーラの聖テレーザ、聖イグナチゥス・ロヨラが登場するオペラで、『四人の聖人』4 Saints という台本だった。
 当時、ガートルード・スタインはスペインに旅行して、すっかりスペインに魅了されたらしい。ガートルードのスペイン熱は、友人のピカソの影響や、ヘミングウェイの『日はまた昇る』に刺激されたせいかも知れない。

 ヴァージル・トムスンは、宗教音楽を書いてみたかったので、「聖人」が祈りをささげ、聖歌を歌い、奇跡を起こしながら、各地を遍歴するというドラマが気に入った。
 第四幕、エピローグの、「聖人」たちが「汝、これを見て我を思い出すべし」という合唱曲を書いた。
 このミュージカルは(ヴァージルのアイデイアで)オール黒人キャストで、上演された。

 「ヘラルド・トリビューン」の劇評家が書いている。

    ヴァージル・トムスンはバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)であるマンネンロ
    ウ(ローズマリー)であるアリス・B・トクラスであるトクラス、トクラス、ト
    ック、ガートルード・聖スタインの三、四、五幕のいい、きよらな楽しみきよら
    な楽しみきよらな楽しみの最後で最後ではない・・・というのが事実である。

 むろん、ガートルード・スタインの「バラはバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)である」のパロデイ。つまり、ヴァージル・トムスンの作曲は、ガートルード・スタインふうだが、うまくいっていない、という意味。アリス・B・トクラスは、ガートルード・スタインの秘書で「恋人」だったレズビアンの女性。
 意地のわるい劇評家が、せいぜいキイたふうなことをヌカしたつもりだったのだろう。

 私はガートルード・スタインをあまり読んでいない。ガートルードの書くものはむずかしいので読めなかった、というのがほんとうのところ。
 ガートルードがオペラを書いたと知って、ほんとうに驚いた。
 この驚きは――ガートルード・スタインに対する驚きと、同時に、この時期のブロードウェイ・ミュージカルが、新しい方向性を模索していたことに対する驚き、これが重なりあっている。
     (つづく)

2009/08/02(Sun)  1065
 
 あるテレビ・ドラマ。高校2年の「飛鳥」は、周囲からは「男の中の男」と一目置かれている。ところが、ほんとうは女性的な趣味をもった「オトメン」(乙男)だった。
 ある日、「飛鳥」のクラスに、愛らしい転校生、「りょう」があらわれる。ところが、彼女は……

 最近のテレビ・ドラマには、こうした性的なトランスフューズ、あるいは、トランスマイグラントをテーマにするものが良く見られる。
 その基底には、おそらく美少年、美少女に関する私たちの観念の変化がひそんでいる。
「イケメン」などといういい加減な概念がうごめいている。

 ふと、大正期の美少女を思いうかべた。

    環は不思議にも妖しき美しさをもつ少女だった。母を幼くして失ったまま、後は父と子とたたぜふたのありのみの境遇のせいか、環そのひとには世の常の少女と異なって、どこかに雄々しい凛々しさが、姿形の中に現れていた。眉の濃く秀でたのも、眼に張りのあるのも、口許の締め方も、すべてが、そして美しく快い・・・・級の誰かが戯れて言うた。「環さんは、まるで早川雪州とモンロー・ソルスベリーと伊井蓉峰を臼の中でつき混ぜて、お団子にして、その上へ福助の女形の柔らか味の黄粉を仄かに振りかけたような感じのする方ね」と。その評のもし的を射たものとすれば、環は美少年といふのが、ふさわしいかも知れない、けれども、ああけれども、やはりどこまでもどこまでも、環は少女だった、少女だった。

 吉屋 信子の『花物語』、その一編「日陰の花」の少女の紹介である。

 「早川雪州」と「伊井蓉峰」は私も見ている。しかし、私の見た雪州は、せいぜいが「戦場にかける橋」だったし、伊井にしても、喜多村、小堀につきあっての舞台を見た程度だから話にならない。「モンロー・ソルスベリー」という映画スターはまるで知らない。
「福助」も見ているが、まさか『花物語』に出てくる「福助」ではないだろう。

 しかし、ここには、作家のレズビアニズムがほの見えるのと、美少年に見まがう美少女の登場が語られている。

 けれども、ああけれども、やはりどこまでもどこまでも、美少女は美少女だった、美少女だった。
 というようなナレーションは、すでに死に絶えてしまった。「イケメン」ということばも、いずれ死に絶えるだろう。

2009/07/31(Fri)  1064
 
 あなたはイヌ派。それとも、ネコ派。
 よく、そんなことを訊かれた。

 私の場合はひどく簡単で、人生の前半分はイヌ派。後半は、ネコ派。

 最後に飼ったイヌが思わぬ事故にあってから、ネコを飼った。その頃から、小説を書くようになった。当時、ハヴァナに住んでいたヘミングウェイが23尾のネコを飼っていると知って、23尾はとても無理だが、2、3匹なら飼ってみよう、と思った。
 ある日、小川 茂久につれられて、中村 真一郎のところに行ったことがある。そろって大柄で美しいネコが、たくさんいたので羨ましい気がした。
 そのうちにネコがふえて、最後には13尾も飼うことになってしまった。半分は、和ネコの雑種。半分はアメリカ産だった。

 作家志望者はネコを飼ったほうがいい。オルダス・ハックスリがそういっている。私は、オルダスの意見に賛成する。
 ネコというやつが、毎日、どういうふうに生きているか。というより、どういうふうに寝てばかりいるか。なぜ、そんなに眠ってばかりいるのか。とにかく、毎日、あきれながら、見ていてあきない。

 動物学者の日高 敏隆先生が書いている。

  「しかし、最近は、いってみれば「猫」を通じて環境を知ろうと言うような研究や教育のアプローチが盛んだ。それでいいのだろうか。大事なことはまず、猫はどんな動物か、犬とどう違うかを具体的に知ることではないだろうか。」

 そこで、ネコはどうして「ネコ」なのか、そこが知りたかった。

  「ねこまノ下略。寝高麗ノ義ナドニテ、韓国トライノモノカ、上略シテ、こまトモイヒシガ如シ。或云、寝子ノ義、まハ助詞ナリト、或ハ如虎(ニョコ)ノ音転ナドイフハ、アラジ」

 大槻 文彦先生の「言海」から。

  「猫(鳴き声に接尾語コを添えた語。またネは鼠の意とも)」

 これは「広辞苑」による。在来種の和ネコは、奈良時代に中国から渡来したとされる。なるほど、これでは、日高先生のいうように、「猫はどんな動物か、具体的に知ること」が必要だなあ。
 大槻先生の「言海」の説明によると、

  「古ク、ネコマ、人家ニ畜フ小キ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠を捕フレバ畜フ、然レドモ、窃盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁等種種ナリ、其睛、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ」

 私はこういう漢文体の文章に畏敬の念をもっている。明治時代に、猫の研究をした人の本をぜひにも探して読みたいのだが。

2009/07/29(Wed)  1063
 
 ブリジット・バルドー。
 1952年、ある雑誌の表紙に登場したのをきっかけに、映画にデビューした。
 代表作に「素直な悪女」(56年)、「裸で御免なさい」(56年)、「可愛い悪魔」(58年)、「私生活」(61年)など。

 いつか、作家の結城 昌治が書いていた。

  「アメリカ映画のほうでは、一足早くM・モンローがセックス・シンボルにまつりあげられて、その演じた役は無邪気でセクシーな可愛い女にちがいなかったけれど、私にはピントが合わなかった。彼女のコケットリー(媚態)、つまり男を異性として意識するポーズが気にさわっていた。意識された部分にハリウッド的な商業主義の匂いがした。
    そういうモンローとの対比においても、バルドーの出現はショッキングで、すばらしかった。彼女は可愛い女などではないし、悪女とかどうとかいう世間のモラルの範疇を越えて、存在自体が官能の美しさを誇示していた。」

 バルドーの出現がほかの女優にましてショッキングで、すばらしかったことも知っている。彼女と同時代のヨーロッパの美女たち、ジーナ・ロロブリジーダや、ミレーヌ・ドモンジョ、ロッサナ・ポデスタたちと比較しても、バルドーの存在自体が、際立って官能的な美しさを誇示していたと見ていい。私は結城 昌治と違って、ブリジットにあまり関心がなかった。
 たしかに、可愛い女などではないし、はじめから悪女とかどうとかいう世間のモラルの範疇を超越していたことも、じゅうぶんに認める。
 マリリンは、いわゆる「モンロー・デスヌーダ」の写真のモデルになったことと、最後の「女房は生きていた」のプールサイドで、ヌードになっただけなので、バルドーのように映画でフル・ヌードを堂々と見せることはなかった。

 バルドーのような女優をひとことでどう表現したらいいのだろうか。
 むろん、私などにはとても表現できないのだが、ある本でバルドーをさして、
 Pulchritudinous French Actress と紹介していたので、感心したおぼえがある。こういう表現はマリリンには似合わない。

 画家のヴァン・ドンゲンが、晩年にブリジット・バルドーを描いている。ヴァン・ドンゲンの芸術家としての衰えがはっきりわかるのだが、バルドーのような女優をカンバスでどう表現したらいいのだろうか、という迷いが見えた。こんなに、いたましい絵はめずらしい。逆にいえば、ブリジット・バルドーは、老大家のヴァン・ドンゲンを混迷させるほどの魅力にあふれていた、と見てもいい。

 私の好きな映画は、「私生活」(61年)、「軽蔑」(64年)、「ビバ! マリア」(65年)のバルドー。あとは、まあ、どうでもいい。

 私の好きなバルドーのことば。

    どんな年代になったって、その年齢に生きてれば、うっとりするわ。

 若かったブリジット・バルドーだからこそ、いえることば。

2009/07/27(Mon)  1062
 
 恋文。

    愛するおまえに。
    たった今、お前の手紙をうけとった。
    おれが書いた何通かの手はもう届いたと思う。
    いつもいつもお前を愛している。
    おまえのすべては、おれのものだ。おまえのため、ふたりの愛のためなら
    どんな犠牲も払うつもりだ。
    愛している。
    ひとときだって忘れない。
    おれがのぞむかたちで、おまえのものになれないのがつらい。
    モナムール、モナムール、モナムール・・

 こんなにせつない手紙があるだろうか。そして、こんなにも美しい手紙を書いたのは誰だったのか。

 これは、1936年、「恋人」のマリーテレーズ・ワルテルに送ったピカソの手紙。

 およそ虚飾のない手紙で、この短い内容に、ピカソの天衣無縫な姿と、男としての純粋な欲望、支配欲(リビドー・ドミナンデイ)が脈打っている。

 ピカソとマリーテレーズの出会いは偶然だった。
 ある日、彼は地下鉄の入り口で、可愛らしい十代の女の子とすれ違った。ピカソは、声をかけて呼びとめた。

 彼はたまたま手にしていた日本の美術雑誌を見せて、自分を画家だと紹介した。当時、ピカソは40代だったが、すでに世界的な名声を得ていた。その女の子は、どうして画家が声をかけてきたのかわからずに、まぶしそうな瞳をむけた。この少女が、マリーテレーズ・ワルテル、十七歳だった。
 ピカソはこの少女を愛するようになって、それまでの作風が大きく変わった。「青の時代」と呼ばれる暗鬱な世界から、ピンクを基調とする「桃色の時代」に入ってゆく。ピカソはマリーテレーズを愛した。マリーテレーズはピカソを愛した。そして、ピカソと結婚しないまま、ピカソの子どもを生んだ。この娘はマヤと名づけられた。

 私は『裸婦は裸婦として』を書くために、マルセーユにしばらく滞在した。マヤに毎日会ってインタヴューをつづけた。
 そのとき、この手紙を見せてもらったのだった。
 この手紙はそれまで一度も公開されなかった。私は、マヤの許可を得て、この「恋文」を引用した。

 マヤの話はとてもおもしろいものばかりだった。たとえば、マヤが娘だったころ、ピカソにつれられて、闘牛を見に行ったとき、ある映画スターがマヤに夢中になった。マヤは追いかけられてずいぶん困ったという。
 このスターは私も映画を見て知っていた。だから、それほど驚きはしなかったが、まるでフランス映画を見ているような気がした。

 後年、マリーテレーズ・ワルテルは自殺している。はじめてマヤからその事実を聞いて、私は衝撃をうけた。
 マヤの許可を得て自分の作品に書いた。それまで知られていない事実だった。

2009/07/25(Sat)  1061
 
 フランス。
 パリの国立ピカソ美術館から、ピカソのデッサンがはいったスケッチブックが盗まれたという。(’09.6.9.)
 被害は約800万ユーロ(約11億円)相当。

 新聞に小さく出ていた記事なので、くわしくはわからないが、1917年から24年にかけて、鉛筆で描かれたデッサン、33点。

 私はピカソを主人公にした読みもの、『裸婦は裸婦として』を書いたことがある。
 このときの取材で、毎日、ピカソのお嬢さん、マヤにインタヴューした。マヤは気さくな女性で、私が聞くことに対して、じつにいろいろなことを話してくれた。
 このときの話で、国立ピカソ美術館ができた裏話を聞いた。なにしろ莫大なピカソの遺産相続をめぐっていろいろと問題はあった。そして遺族に莫大な税金がかかることを考慮して、国家に現物の絵画を納付するかたちで、国立ピカソ美術館が建設された。このとき、残された作品が分配されたのだが、マヤは、ピカソの陶器のほとんどを相続したのだった。ここにも、ある理由があった。

 たいへん興味のある話だったが、私はいっさい書かなかった。『裸婦は裸婦として』は、新聞の読者にピカソという画家の生涯をわかりやすく書くことを目的としていたからだった。

 ある日、マヤはウイリアム・ペンローズ編の「ピカソ・デッサン集」を見せてくれた。
 ウイリアム・ペンローズは、ピカソ研究の権威として知られる美術評論家。

 その1ページに、ピカソ自身の手ではげしい斜線が書きなぐってあった。
 ピカソは、怒りにまかせて、そのデッサンに「ニセモノ!」と書いていた。この絵を抹殺しようとするかのように。
 若い女性の美しいヌードだった。

 そのデッサンには見おぼえがあった。戦前の美術雑誌「アトリエ」で見た。解説は、当時の美術評論家、外山 卯三郎。そればかりではなく、戦後もそのデッサンを別の有名な美術雑誌で私は見ている。

 マヤの説明では――「ペンローズはおれの研究家などとヌカしていながら、ホンモノとニセモノの見分けもつかないのか!」
 とピカソは怒っていたという。
 この話をしながら、マヤはいたずらっぽく笑ってみせた。

 いつか、この「ニセモノ」を見つけたら、私のHPに掲載したいものだ。まさか著作権侵害にはならないだろうから。
 万一、トラブルになったら、マヤのもっているペンローズ編の「ピカソ・デッサン集」を拝借しよう。さて、そうなると、こんどは、あのはげしい斜線が果してピカソのご真筆がどうか、鑑定しなければならなくなって……
 やめとこう。

 パリの国立ピカソ美術館から盗まれたデッサンのなかに――ウイリアム・ペンローズの選んだデッサンの1枚が入っていないことは確実だが。

2009/07/24(Fri)  1060
 
 いまでは広く一般化しているけれど、いわゆる「ラ抜き」ことばを、私は使ったことがない。
 どうやら、東京の下町ことばにはない表現らしい。

 はじめて聞いたのは、戦時中で、私より少し年上の友人が、「見レナイ」ということばを使った。それまで一度も聞いたことのないいいかただった。そのうちに、彼が「食ベレナイ」、「起キレナイ」、「来レナイ」といった表現をすることに気がついた。彼は大連で育ったので、「外地」の人は、こういういいかたをするのだろうかと思った。

 動詞、二段活用の変化をもたらした原因がどこにあるのか。私にはわからない。

 ただ、文章を書く上で、私は絶対に「ラ抜き」ことばを使わないことにきめた。

 この「ラ抜き」ことばは、やがて、<xx・レル>型の用法に変化して行く。
 たとえば――起キレル、受ケレル、見レル、逃ゲレル といった表現が、圧倒的に増殖してきた。

 小説を書く人たちのなかにも、こうした傾向がひろがってきたのには驚いた。

 私は、かなり長い期間、小さな文学賞の審査をしてきたので、おびただしい応募作を読んできた。それで、この傾向の拡大を憂慮するようになった。ただし、この審査を辞退してからは、文学表現の「ラ抜き」ことば、あるいは、<xx・レル>型の動詞がどんなにひろがってもあまり気にならなくなった。黙って見て居レル。(笑)

 江戸ことばから東京ことばへの変化が、いまや21世紀型のことばへの変化の過程にある、と見るべきなのか。あたらしいコロキアリズムの成立と見るなら、「ラ抜き」ことばを絶対に書かないというのはナンセンスになる。

 ただし――稗節 伝奇 架空のこと。ただ情態を写し得て。且(かつ) 善を勧め悪を懲すを 作者の本意となせるなり。などと書くお江戸の曲亭老人のものを。たまに読みふけっては楽しんでいる。私もまた老們だから。いまどきのものが見レネエとしても。知ったことじゃねえ。(笑)

2009/07/23(Thu)  1059
 
 伏羲、神農の時代以前に戦争はまったくなかった。
 軒轅・黄帝の御世に、乱が起きた。黄帝は風 后をさしむけて、これを破った。これより、はじめて兵戈(へいか)をもちいることになった。

 五帝の頃には征戦があった。
 三代、春秋の時代には、互いに取りつ取られつ。

 東夷西戎(とうい・せいじゅう)、南蛮北狄(なんばん・ほくてき)>
 なかでも、匈奴(きょうど)は、その人馬の勇猛をもって知られる。
 しばしば、中原に進入してくる。
 秦の始皇帝は、万里の長城をきずいて、胡をふせいだ。

 だが、秦はほろびた。

 漢が興って、文帝の御世となる。この帝は二十三年、帝位にあったが、いつもいつも匈奴(きょうど)に攻められつづけた。
 その十四年目、数十万の匈奴(きょうど)が攻め込み、国運ここに急を告げる。

 文帝、ついに詔を発して、軍勢を募る。……

 長くなるので、ここでとめよう。
 じつはこれ、明代の小説集、『雨窓欷枕集』の、「漢の李広 世に飛将軍と号せらるること」のオープニングを、私流に書き出したもの。
 この短編集の成立は、西紀1541=1551年頃。日本では、種子島に鉄砲が伝来した頃。マキャヴェッリの『君主論』(1532年)、ラブレーの『ガルガンチュア 第一之書』(1534年)の時代。

 最近、新彊ウィグル自治区、ウルムチで発生した大規模な暴動(’09.7.7)は、中国の民族間の対立、抗争をまざまざと見せつけている。

 こんな歴史があるのだから、かんたんにケリがつくはずはない。

2009/07/22(Wed)  1058
 
 いささか、艶冶な詩だが、あいも変わらず私流の自由訳で。
 原題は「半睡」。私の訳では、「夢うつつ」。

    きみは眉をひそめている
    もはや消えそうな 灯(ともしび)に

    ふさやかな髪の毛の片方を
    枕のかどに 沈めつつ

    からだごと 思いきり 私にあずけて
    いまはただ 声を殺してしのび泣き

    つやのある 綾絹にみだれて
    うつつと知らず 夜具をもみしだく

 晩唐の詩人の作。
 青楼の老鴇子舍に屏居して、夏の天明を迎えるような気分になってくる。

 どんな民族も、長い歳月をかけて、ゆっくりと、その女性像のひとつの原型 archetype を作りあげてゆく。これも、中国の美女の一つの典型。

2009/07/20(Mon)  1057
 
 佐藤 紅緑の長編、『愛の巡礼』(「危機」)に、こんな一節があった。

  「昔は髪の毛の長さで女の美醜を判別したものだが、いまでは髪が短いほどモダーンとして愛賞される。其れと同じく貞操なるものも今では何人(なんぴと)も価値を認めなくなった。」

 断髪。短く切った女の髪形。肩のあたりで切りそろえたり、後頭部を刈り上げにしたタイプもある。
 ボブ・ヘアー。

 女優、ルイーズ・ブルックスが、断髪美人の先がけと思われている。ほんとうは、コリーン・ムーアのほうが、ずっと早く断髪にしていた。コリーン・ムーアの自伝、『サイレント・スター』(’68年)に、そのあたりのことが書いてある。

 ルイーズ・ブルックスの映画が日本にはじめて紹介されたのは、1926年だが、コリーン・ムーアは、エドナ・ファーバーのベストセラー、「ソー・ビッグ」(1926年)に主演している。(日本では、1934年に<バーバラ・スタンウィック主演のリメイクが公開されている。)
 この1926年には、コメデイー、「微笑の女王」が公開されているので、コリーン・ムーアが、大スターだったことがわかる。

 佐藤 紅緑は、いうまでもなく、詩人のサトウ ハチロー、作家の佐藤 愛子の父にあたる。私が読んだ『愛の巡礼』は、活動写真から「映画」になった時代の映画界のインサイド・ストーリーとして読める。ただし、あくまで通俗小説。
 『愛の巡礼』といっしょに、『半人半獣』という、やや短い長編が入っている。

 佐藤 紅緑は、ある時期まで演劇人といっていい経歴をもっている。この『半人半獣』も、大正時代の「新劇珍劇トンチンカン劇」という芝居の世界のインサイド・ストーリーといってよい。
 この『半人半獣』という題名に、大正時代初期の岩野 泡鳴あたりの影響を見てもいいのだろうか。そんなことを考えた。
 たまたま、この1926年に、キング・ヴィダーの「半人半獣の妻」という活動写真が公開されているので、案外、そんなあたりから着想したのではないか。

 例によって、私の当てずっぽうに過ぎないのだが。

 一つの死語。たちまち思いもよらない連想に私をさそい込む。

2009/07/18(Sat)  1056
 
 飯沢 匡(いいざわ ただす)という劇作家がいた。内村 直也先生と同年だから、私にとっては先輩の作家である。

 戦時中、「文学座」が上演した『北京の幽霊』(昭和18年初演)、『鳥獣合戦』(昭和19年初演)を見ている。
 はるか後年、飯沢 匡のご指名で、「文学座」のパンフレットにエッセイを書いた。その程度のご縁だった。

 飯沢さんの人形劇、『赤・白・黒・黄』を見た。新宿/紀伊国屋ホール。作/演出・飯沢 匡。1969年(昭和44年)12月。
 人形劇団「指座」の旗揚げ公演で、もう1本、江戸川 乱歩作・筒井 敬介脚色の『芋虫』の二本立て。演出・古賀 伸一。

 開幕前に私は挨拶したが、こういうときの演出家の忙しさ、そして、芝居がうまく行くかどうか、じりじりするような不安と焦燥は、私もよく知っていたから、すぐに失礼したが、このときの飯沢さんのことばはいつまでも心に残った。

    やあ、中田さん。この芝居、じつはあなたのご本の盗作です。

 飯沢さんは笑った。私も笑った。たったこれだけのやりとりだったが、お互いにそれだけでじゅうぶんだった。私は飯沢さんの優しさを感じたし、飯沢さんも私の心からの敬意を受けとってくれたのではないかと思う。
 当時、私は『忍者アメリカを行く』というアホらしい時代小説を書いていた。幕末、ひとりのサムライがアメリカに渡って……というストーリー。こういうゲテものは、アイディア勝負というか、アイディアにプライオリティーがあるので、誰かに先をこされると、あとから似たようなものを書けばどうしても二番煎じになる。
 ところが、飯沢さんは私の作品を読んだ上で、あえて、幕末、ひとりのサムライがアメリカに渡って……というストーリーを芝居にしたのだった。
 なまなかな自信では書けるはずがない。

 私は、飯沢さんがわずかでも私を意識して芝居を書いたことをうれしくおもった。と同時に、私も芝居を書けばよかったなあ、と思った。

 この『赤・白・黒・黄』は、人形劇でなくても、りっぱに舞台にかけられる芝居だったが、その後、どこかで上演された話をきかない。

 「指座」は、筒井 敬介、川本 喜八郎、古賀 伸一たちが結成した人形劇団だったが、その後の活動は知らない。1971年、私は、テネシー・ウィリアムズの芝居の衣裳デザイナーに、この劇団にいた古賀 協子を起用した。
 このときの公演は、新宿の小さな洋風居酒屋のフロアで、ノー・セット、ノー・カーテンで演出した。衣裳デザインを担当してくれた彼女は、その後フランスにわたって、フランス人と結婚した。

 飯沢さんは私がいつか喜劇を書けばいいと思っていたのではないか。そんな気がする。
 あいにく、私には戯曲を書く才能がなかった。

 いまでもひそかに感謝している先輩作家のひとりが、飯沢さんだった。
 もうひとりは和田 芳恵。和田さんのことも、いつか書いてみようか。

2009/07/16(Thu)  1055
 
 ファラ・フォーセットの訃報につづいて、カール・マルデンの訃がつたえられた。
 本名、ムラーデン・セクロヴィチ。1913年生まれ。享年、97歳。老衰で亡くなったという。

 まるっきり美男ではない。何かの球根をくっつけたような鼻。どこといって特徴のない顔。しかし、俳優としていつも真摯な演技をつづけてきた。演技、存在感、それだけでもすばらしい役者。まさに名優といっていい数少ない役者だった。

 映画俳優(または、本職は舞台だが、映画に出る俳優、女優)の場合、そのスクリーン上の「役」に、俳優としての内面をさぐるとか、俳優術の進化のようなものを見届けることは――ほとんどが無意味だろう。しかし、それでも、ごく少数の俳優、女優にあっては、いつもおなじような発現――へんなことばだが、まあ、presenceとか、ある種の bliss ぐらいのつもりで使っている――を見せる。演技の原型ともいうべき状態を確実に身につけていることがわかる。
 最近のいい例では――フランク・ランジェラ。リタ・ヘイワースの遺作になった「サンタマリア特命隊」(72年)などの愚作に出たあと、「ドラキュラ」(79年)に主演しただけで、ブロードウェイに戻った。いまや老齢に達した彼は、舞台の名優になっている。

 もっと具体的にこれこれと指摘するのはむずかしい。たとえば、「ピアノ・レッスン」のハーヴェイ・カイテルと、「パルプ・フィクション」のハーヴェイ・カイテル。まったく違った「役」なのに、ある瞬間に全身から発する「迫力」。これは、おなじ「パルプ・フィクション」でも、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・トラボルタ、ましてブルース・ウィリスなどがまったくもたないもの。
 いい俳優は、その生涯のほんの一時期、ほかの誰も見せない「芝居」をやっている。

 カール・マルデンはいい俳優だった。いろいろな「役」を演じてきたが、それぞれの「役」を演じわけるのではなく、いつもおなじような発現の仕方をする、「人間」のある状態、ときには抑圧に内訌しながらはげしい怒りとしてあらわれる「動き」を見せる。
 ある役者が、ドラマで、怒りをぶちまける。そんな場面は、いくらでもある。たいていの役者が、そんな演技はらくらくとやってのける。しかし、カール・マルデンの芝居はそんな程度のものではなかった。
 もっとも初期の「マドレーヌ街13番地」(46年)、「ブーメラン」(47年)、「ガンファイター」(50年)といった映画に端役で出ていたが、「欲望という名の電車」(52年)の「ミッチ」は、俳優、カール・マルデンの存在をアピールした。彼の芝居が、どんなにマーロン・ブランドを、そしてヴィヴィアン・リーを引き立てていたか。
 こういう役者はめずらしい。(比較するわけにはいかないが、「パン屋の女房」でレイミュが、若いジネット・ルクレルクを引き立てていた。)

 いろいろな「役」を演じて、けっしてミス・キャスティングにならない。それだけに、ハリウッドは、いつもカール・マルデンの使いかたに困っていたように見える。あるいは、使いこなせなかった、というべきか。

 「波止場」(54年)、「ベビードール」(56年)、「シンシナティ・キッド」(65年)。どの映画でもカール・マルデンが出てくれば、その場面はかならずいきいきとしてくる。しかし、どの映画もカール・マルデンという個性的な俳優を決定的に使いこなしていたとはいえない。
 ここに、カール・マルデンの悲劇があった。

 私はすぐれた俳優の栄光と孤独といったものを、いつもカール・マルデンに見ていた。カール・マルデンのような役者がほんとうに輝くとすれば、ウディ・アレンの「ブロードウェイのダニー・ローズ」のような映画だろう。むろん、ウディがカール・マルデンを使うはずもないけれど。

 マイケル・ダグラスと共演したTVシリーズ、「ストリート・オヴ・サン・フランシスコ」(72―76年)は見ていない。マイケル・ダグラスなんか、見る必要もない。
 カール・マルデンは名優といっていいほどの役者だが、ほんとうはもっと違う映画に出てほしかった。どういう映画に? といわれても困るけれど、私の勝手な空想では、フランク・キャプラのコメディーとか、マイケル・ダグラスよりも、ステイシー・キーチか、ジーン・ハックマンあたりといっしょにブロンクスを歩きまわるしがない刑事とか。

 1989年から92年まで、アメリカ映画アカデミーの会長をつとめた。
 「ドライビング・ミス・デイジー」、「ダンス・ウィズ・ウルヴス」、「羊たちの沈黙」、「許されざる者」の時代。カール・マルデンは、どんな思いでこうした映画を見ていたのだろうか。

 俳優は死ぬのではない。ある場面に出ていて、ふっとどこかに消えるのだ。マイケル・ジャクソンが、得意のムーンウォークで、どこか遠くのネヴァーランドに消えて行ったように。たまたま、スポットが消えて、その出口にぼうっとライトがついて EXIT と出ているだけなのだろう。
 そんな思いが、はかない無常のなかにただよっている。

2009/07/15(Wed)  1054
 
 マイケル・ジャクソンが亡くなった日に、女優のファラ・フォーセットが亡くなった。(’09.6.25.)1947年生まれ。「戦後」の女優だった。

 ファラ・フォーセットも、もう、誰もおぼえていないだろう。

 いちばん最初にファラ・フォーセットを紹介したのは、私だった。その頃、「日經」が出していた雑誌にエッセイを連載していたので、たまたまアメリカでいちばん人気のある女優としてとりあげた。たしか、1973年頃ではなかったか。
 TVの「グレート・アメリカン・ビューティー・コンテスト」あたりの評判を聞きつけて、この女優に関心をもったのだろう。いまでは、自分でもわからなくなっている。

 当時の彼女は、ファラ・フォーセット・メジャーズだったが、私はあえて「ファラ・フォーセット」で紹介したのだった。このあたりの意味、理由はわかってもらえるだろう。私は――遠からず、いずれ彼女は離婚するものと見たのだった。

 ファラは美貌だった。あまりに美貌の女優は、どうも成功しないもので、たとえば、「薔薇のスタビスキー」で登場したシドニー・ロームのような美女も、一時期スターにはなったが、女優としての生命は長くなかった。
 同じように、ファラと前後して登場したイスラエルの女優、ブリジット・バズレン(1944―)も、セシル・B・デミルの「キング・オブ・キングス」では「サロメ」を演じ、リチャード・ソープの「ガール・ハント」(ともに1961年)では、スティーヴ・マックイーンと共演して、圧倒的な美しさを見せながら、すぐに消えている。
 サイレント映画の、マッジ・ベラミー、メァリー・ブライアン、エラ・ホール。
 みんな美貌の女優たちだったが、いずれも途中で消えている。

 ファラ・フォーセットも、後年「チャーリーズ・エンジェルズ」のめざましい成功で注目されたが、残念ながら女優としてはほとんど記憶に残らなかった。

 今年の5月、末期ガンと闘うファラのドキュメントがアメリカで放映された。
 あれほど美貌だった女性が見るかげもなく衰えながら、必死に病気と闘っている姿に誰もが感動した。日本では放送されていない。かりに放送されても、私は見ないだろう。むしろ、ファラが輝いていた「2300年未来への旅」(Logan’s Run)(76年)を見たい。この映画のヒロインは若いジュニー・アガターで、ファラは残念ながらワキにまわっているのだが。
 しかし、美しさではジュニーをはるかに越えていたと思う。

 俳優のライアン・オニールとは男の子をもうけたが、やがて関係を清算した。その後も友人として交際をつづけ、死ぬ3日前にライアンの求婚を受け入れたという。

 胸を打たれた。

2009/07/14(Tue)  1053
 
(つづき)
 たとえば、富田 孝司先生は、現在の金融危機について――

    金融危機で日本はダメージを受けたが、実は良い処が顕在化した。国内企業や大学の高度な技術と品質は日本の特長で断トツである。これは再生可能エネルギーや電力等の分野にも当てはまる。実は日本の材料技術と民族性が基礎となって、
    優れた変換効率の発電装置を生む。仕事の基本が出来ているので結果的に大きな成果につながる。世界が気付かないこの基本を我々は再認識しないといけない。

 こういう一節から、いろいろなことを考えることができるだろう。
 富田 孝司先生は、東大の先端科学技術研究センターの客員教授。ご専門は「超効率太陽電池」という分野の権威。
 この先生のエッセイのおもしろいところは、さらに別のところにあらわれる。国際化(グローバリゼーション)に関して、

    確かに日本の発電機、省エネ機器は最高水準である。しかし国や地域間を連絡する送電線網は極めて脆弱である。当然、電力マネージメント技術は発展しない。
    競争原理の中で商品の水準を追求するのはいいが、日本の携帯電話のようにガラパゴス島化する危険性がある。ジャパラゴスだ。むしろ渋谷のデコデンの方が国際的かもしれない。

 私はここから、別のことを類推する。日本の文学なども、いまやJ・ブンガクなどという範疇で考える人があらわれている。つまり、現代文学などは、すでにガラパゴス島化している。私などは、もはや死滅寸前の大トカゲ化しているもの書きなので、富田先生のエッセイからいろいろな示唆をうける。
 富田先生は寿司についても、きわめてユニークな発想を展開している。

    銀座の寿司もいい。欧米でも凄い寿司ブームである。回転寿司も普及している。
    だが並んでいるものは趣向や感性が違う。従来のように日本の寿司チェーンの全国展開もいい。だがいっそ寿司のレーティングする機構をつくってもいいのではないか。伝統の寿司文化を守り、ユーザに高い品質を提供するためを名目に世界寿司認証機構を設立してはどうか。工業製品の国際標準化も重要だが、文化や必需品の分野も日本の得手とする処である。

 これは、おもしろい。

 私が、「先端研ニュース」のエッセイが好きなのは、こういう部分に、私なりに文学的な問題を重ねあわせて考えるのが楽しいからでもある。

2009/07/13(Mon)  1052
 
 毎月、愛読している雑誌がある。
 「先端研ニュース」という。

 科学専門の小冊子を頂戴している。東大の先端科学技術研究センターが発行している雑誌で、現在の日本の、まさに先端的な科学技術の専門家が、それぞれの研究の一端を要約したり、紹介している。
 それぞれの研究室の公開テーマを見ただけで、レベルの高さが想像できるのだが、私にはまったくわからない分野の研究ばかり。
 たとえば、「MEMSとバイオナノを綜合した製造技術」とか、「イメージングとエビゲノム創薬」とか、「低炭素社会構築にむけたエネルギー技術」といったテーマは、私などにわかるはずがない。

 こういうむずかしい雑誌がどうして私のような、無学なもの書きに送られてくるのか、わからない。だいいち、どなたのご好意によるものなのか、見当もつかない。
 ところで、私はただの読者として、毎号、熱心に眼を通している。むろん、ここに掲載されている個々のテーマに関して、私は全く理解できないのだが。
 たとえば――ディペンダブルネットワークオンチッププラットフォームの構築。
 私の頭では、理解できるはずがない。

 太陽電池の研究開発。タンデム・無機系・有機系の太陽電池の開発の現況。
 こんなテーマが、私にわかるはずがない。

 ところが、私は毎月、この雑誌を愛読している。
 じつは、毎号きまって、みごとなエッセイが掲載されているからである。

 たとえば――「先端研」でイスラム思想史を研究する。池内 恵先生の報告。

 こういうエッセイは、私のまったく知らない分野の専門家が、現在、何をめざしているかを想像させてくれる。
 ときには、ご専門を離れて先生がたが気楽に書いていらっしゃるエッセイもあるので、私などにもよくわかる。そういう先生のお考えをたどることから、私なりにその考えを検討してみることもできる。これが、なかなか楽しい。 
   (つづく)

2009/07/12(Sun)  1051
 


 古い雑誌を見つけた。1950年、「映画世界」。
 50年代の私には読む機会がなかった。こんな雑誌が出ていたことも知らなかった。
 この雑誌の観客世論調査という記事。外国人気男女優ベストテン。(1950年11月15日号)。

   1. ゲイリー・クーパー    ・ 1. イングリッド・バーグマン
   2. ジャン・ギャバン     ・ 2. グリア・ガースン
   3. クラーク・ゲイプル    ・ 3. ジューン・アリソン
   4. タイロン・パワー     ・ 4. テレサ・ライト
   5. ロバート・テイラー    ・ 5. エリザベス・テイラー
   6. ジョン・ウェイン     ・ 6. マーナ・ロイ
   7. ジャン・マレー      ・ 7. ラナ・ターナー
   8. ヴィクター・マチュア   ・ 8. キャスリン・ヘッブバーン
   9. ルイ・ジュヴェ      ・ 9. ゲイル・ラッセル
   10.スペンサー・トレイシー  ・ 10.ヴィヴィアン・リー

 このベストテン、俳優の9位にルイ・ジュヴェ、女優の9位にゲイル・ラッセルが入っている。いやぁ、驚きましたね。
 ルイ・ジュヴェは、この時期、「犯罪河岸」(ジョルジュ・クルーゾー監督)、「真夜中まで」(アンリ・ドコワン監督)が公開されたため、このリストに入ったと思われる。
 ゲイル・ラッセルが入っているのは、おそらく「桃色の旅行鞄」が当たったせいだろう。いまでも、彼女をおぼえているファンがいるだろうか。

 個人的なことで恐縮だが――後年の私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いた。1950年、映画の観客世論調査で、ベストテンに入っているとは知らなかった。
 女優のゲイル・ラッセルについても、短いモノグラフィー(「エロスの眼の下に」(桃源社/所収)を書いている。彼女がこんなベストテンに入っていることも知らなかった。

 1949年から50年にかけて、それまでの空隙を埋めるように、優れた外国映画がぞくぞくと公開された。
 ベストテンにあげられている映画を列挙してみよう。

    「大いなる幻影」(ジャン・ルノワール監督/37年)
    「戦火のかなた」(ロベルト・ロッセリーニ監督/48年)
    「ママの想い出」(ジョージ・スティーヴンス監督/48年)
    「恐るべき親達」(ジャン・コクトオ監督/48年)
    「ハムレット」(ローレンス・オリヴィエ監督/48年)
    「平和に生きる」(ルイジ・ザンパ監督/47年)
    「裸の町」(ジュールズ・ダッシン監督/48年)
    「犯罪河岸」(ジョルジュ・クルーゾー監督/47年)
    「しのび泣き」(ジャン・ドラノア監督/45年)
    「黄金」(ジョン・ヒューストン監督/48年)

 このほか、このリストには入らなかったが、「ニノチカ」、「らせん階段」、「ミニヴォー夫人」、「子鹿物語」、「バラ色の人生」といった映画が公開されていた。

 こうした映画を思いうかべるだけで、たちまち戦後のさまざまな風俗や事件が重なってくる。ゲイル・ラッセルをおぼえているファンがいないように、こんな映画のリストから戦後の風俗や事件をまざまざと思い出す世代も消え去っている。

2009/07/11(Sat)  1050
 
 トーキー初期の、ジャック・フェーデルの名作といわれる「ミモザ館」(1935年)を見た。ビデオで。むろん、これまでに何度も見ている。

 少年時代に母がよくフランソワーズ・ロゼェの話をしていたので、なぜか「ミモザ館」という題名をおぼえた。
 私がこの映画を見たのは戦後になってからで、フェーデルの作品は、「外人部隊」(1933年)、「ミモザ館」(1934年)、「女だけの都」(1935年)と見ることができた。

 評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかで、マリー・ベル、ジョルジュ・ピトエフに関連して「外人部隊」をとりあげた。ジュヴェのもっとも初期の出演作品として「女だけの都」をくわしく論じている。しかし、「ミモザ館」についてはふれなかった。

 なぜ「ミモザ館」を見直す気になったのか。なつかしさもある。昔の活動写真を見たいのだが、なかなか見る機会がない。そこで、トーキー初期の映画を見るのだが、記憶力の減退がひどいので、これまで何を見てきたのかという思いもあった。

 1930年代のフランス映画がもっていた独特の雰囲気、あるいはその時代に漂っていた空気、そしてそういう時代に生きていた女の匂い。フランソワーズ・ロゼェを見ながら、あらためてそうしたものをさぐろうとしていたのかも知れない。

 この映画にリーズ・ドラマールが出ている。当時、「コメデイ・フランセーズ」の女優で、「ラ・マルセイエーズ」(ジャン・ルノワール監督)で、「マリー・アントワネット」を演じていた。「背信」(ジャック・ドヴァル監督)では、借金のせいで、東洋人に暴行されそうになる女性。ついでに説明しておくと、この「背信」は、ダニエル・ダリューの「背信」(マルセル・レルビエ監督)とは別の映画。
 「ミモザ館」のリーズは、やや豊満な肉体で、ギャングのボスの情婦をやっている。

 ちょっと驚いたのは、この「ミモザ館」に、若き日のアルレッテイが出ていることだった。いうまでもなく、「天井桟敷の人々」(マルセル・カルネ監督)の「ガランス」である。まだ、スターになる前のアルレッテイ。

 この映画はスタヴィスキー事件のあとで作られている。
 この年代のフランス映画がもっていた独特の雰囲気、あるいは時代に漂っていた空気が、「ミモザ館」に直接、反映しているわけではない。しかし、この映画を見ながら、スタヴィスキー事件や、左翼とフランス・ファッショの激突を重ねあわせてみると、やはりこの時代に漂っていた空気に、暗いものがまつわりついていたことがわかる。
 この映画を見直してよかった。少なくとも、この時代に生きていた女の匂いは、まぎれもなくフランソワーズ・ロゼェ、リーズ・ドラマール、アルレッテイに見られるような気がするから。

 フェイデルの映画を見たついでに、「戦後」のデュヴィヴィエを見よう。私が見たのは「アンリエットの巴里祭」。残念ながら、デュヴィヴィエの才能の枯渇をまざまざと見せつけられた。ダニー・ロバンも、「娘役」としては、「恋路」(ギー・ルフラン監督)のほうがずっといい。おなじ、アンリ・ジャンソンのシナリオなのに、「アンリエットの巴里祭」にない厚味がある。
 この映画はルイ・ジュヴェの遺作だが、ジュヴェの様な俳優が出ているのと出ていない差が、若い女優の魅力にも影響しているのか。

 このあたり、うまく説明するのはむずかしいのだが。

2009/07/10(Fri)  1049
 
(つづき)
 キミの愛しているカレがキミに見せていない、つまり隠された性格を知って、キミは悩んでいるわけだ。なるほど。だけど、キミ、恋愛しているとき、カレの弱点を知るってノはとてもたいせつだよ。それにサ、カレシィのほうだって、キミの気もちを理解しているようだけど、ときどき、思いがけないことをするだろ。それで、キミは幸福になったり、不幸になったり。そんなんじゃ、とても結婚したって、うまくいかないヨ。

 こんなことをしゃべるわけ。女の子はすっかり信用して聞いてくれる。むろん、別のいいかただってできる。

 カレの愛しているキミがカレに見せていない、つまり隠していることがある。カレがこれを知ったらどうなる? カレ、悩むだろうなあ。だけど、恋愛しているとき、キミの弱点、というか、キミの過去のモニャモニャを知ってムニャムニャなんてノは許せないんだろ。だけどサ、キミだって、カレの気もちを理解してあげなきゃ。キミが思いがけないことをする。それで、カレは幸福になるかねえ。不幸になるだけだヨ。とても恋愛なんて、うまくいかないヨ。

 ごらんの通り、こうしたロジスム、ブラガドッチオ、ないしはレトリックを使いわければ、「銀座のオバサン」や「新宿のお母さん」なみに通用する。

 私にいわせれば――手相を見てほしい女の子は、自分自身にとってあらまほしい自分を見たいのだ。つまり、おのれの正当化をもとめている。
 恋愛にあこがれている、あるいは、げんに恋愛している女の子たちは、性をふくめて自分の行動をほかの女の子の行動、方法に準じて、それに適合させようとする。
 アンジェラ・アキの「旅立ちの歌」のなかに、
    自分の心を信じて行けばいい
 という一節があるが、「銀座のオバサン」や「新宿のお母さん」たちの占いだって、その程度の人生観、おのれの正当化をもとにして、女たちの期待に答えているにすぎない。
 古代中国、天下に最初の王たる、伏犠(フウシィ)は、民に佃漁の法をおしえて犠牲をやしなわしめた。犠牲というのは家畜をさす。
 この皇帝は、犠牲を養いて包厨食膳(ほうちゅう/しょくぜん)に充つることをおしえた。そして、左右二相を立て、初めて八卦(はっけ)を畫(かく)したという。
 私は易の歴史を思った。
 その後、ルネサンスを勉強しているうちに、占星術の勉強もするようになった。やがて、都市国家の支配者たちが占星術によっておのれの生きている時代の運命を占ったのも当然という気がしてきた。

 ことわっておくが、女子学生相手の人生相談は無料だった。食事をする時間がなくなって困ったけれど。

 最近は暇になったのでまた易者をはじめようか。ただし、女性にかぎる。(笑)
 見料はコーヒー一杯。おれがおごるんじゃない。キミにおごってもらうんだヨ。(笑)

2009/07/08(Wed)  1048
 
 ある時期、ある女子大の先生だった。けっこう人気のある先生だったらしい。
 昼休みに女子学生の「人生相談」にのってやった。「人生相談」というより、相談にきた女の子の手相や人相を占った。
 たまたま二、三人を占ってやったのだが、これが評判になって、昼休みの学食で、ひとりで食事をとっていると、女の子が寄ってくる。私の前に立って、
 「あのう、お願いがあるのですが……」
 もじもじしながら、声をかけてくるのだった。

 私の占いはじつに単純な思想にもとづいている。
 キミの運命は変わらない。ならば、姿勢を変えること。

 女子学生の相談は、兆域にいたらず、ことごとく現在進行形の恋愛か、または近い将来の婚姻の吉凶にかぎられているので、こんなに楽な卜占(ぼくせん)はない。
 門前雀羅(もんぜんじゃくら)をなす。中田先生の昼食時間は、易者の出張所になってしまった。ことわっておくけれど、私は相術をよくするものではない。ただ、私の卜定(ぼくてい)は、よろしきことしかつたえなかった。
 評判がいいのもあたりまえだろう。           

 私が見てやった女の子は、二百人以上。
 (つづく)

2009/07/07(Tue)  1047
 
 (つづき)
 進 一男の「行ってしまうんですか愛する人よ」という1編は、島唄の、

     行きゅんにゃ 加那
     吾(わ)きゃくぅとぅ忘(わし)りてぃ
     行きゅんにゃ 加那
     う立ちゃ う立ちゅてぃ
     行き苦しゃ
     ハレ 行き苦しゃ
 
 詩人はこれを訳して、

    行ってしまうのですか 愛する人よ
    私たちのことを忘れて
    行ってしまうのですか 愛する人よ
    いいえ 出発するには しようとするのですが
    どうにも行きにくいのです
    本当に 行き苦しくてならないのです

 さらに、詩人はこの本歌の変奏をつづける。

    私たちのことを忘れて
    行ってしまうのですか 愛する人よ
    とは 私は言いませんよ
    元気で行っていらっしゃい 私のことなど忘れて
    私たち家族のことも 何もかも打ち捨てて
    体に気をつけて 行っていらっしゃい 
    でも 島のことだけは 決して忘れてはいけませんよ

    あなたの行く所は いい所で
    人たちも皆 いい方ばかりとのことですから
    私が心配するようなことは何もないと思いますが
    昔 私が居た頃は まだまだ差別意識の特に強い所でしたけど
    今の時代 まさか そのようなことはないのでしょうね
    どんなことがあっても シゴトレと歯を食いしばって
    決して負けないように キバランバ不可ませんよ

    でも もしも どうしても我慢てきないことになったら
    前に一度 私が話して聞かせたことがあったように
    諸肌脱いで とまでは言いませんが お上品振ることはありません
    片肌位は脱いだっていつ公にかまいませんよ
    チヂンを打ち鳴らして 相手に分かろうが分かるまいが
    シマグチでなく しっかりしたシマユムタで
    ユミちらしてやりなさい
    泣きを見せてはなりません それでも我慢てきない時は
    思い出すことです どの様なときでも あなたには
    あなたを優しく受け入れてくれる島のあることを

    しかし何と言っても あくまでも大切なことは
    あなたの周りのすべての人に 心から優しくすることです
    私は思うのですが 平和とは一人一人の優しさなのですから 
    でも 本当に行ってしまうんですね 私のいとしい子よ

 私はこの1編に心から感動した。人間の愛別離苦、そして母と子の愛が語られている。こういう純乎たることばを口にするとき、私のような「ミンキラウワア」の内面にも詩を読むことのありがたさがあふれてくる。

 
 −−この詩集を読みたいと思うひとのために−−

注) 進 一男著  詩集『見ることから』(詩画工房/09.3刊・2200円)
 〒894−0027 鹿児島県奄美市名瀬 末広町10−1

2009/07/06(Mon)  1046
 
(つづき)
 進 一男の詩集、『見ることから』の30編、どの一編も、私にはみごとなものに思われるのだが、進 一男は別にむずかしいことを考えているわけではない。
 格調の高い詩ばかりが並んでいるわけではない。詩人の夢と、いまは亡き父や、死者たちのこと、ハワイに行くよりも天国に行きたい、という少女や、部屋に飾った小品の「少女裸像」という絵のこと、(おそらく奄美の伝承だろうが)耳が切れた豚、「ミンキラウワア」のことが、美しいことばで、やさしく語られている。
 「ミンキラウワア」は、ある種の妖怪で、こいつに股をくぐられると、たちどころに死んでしまうらしい。だから、詩人は、子どもの頃、そこを通るときは股をすぼめて、口をきかずに、急ぎ足で歩け、といわれたという。

    しかし 股を潜られた人の話は 一度も聞いたことはない
    まして潜られて死んだ人の話も まだ一度も聞かない

 という。
 きっと詩人も私も、誰も知らない「ミンキラウワア」に股をくぐられた人間なのだ。ほんとうは、たちどころに死んでしまうはずだったのだが、必死にことばを吐き散らして、なんとか遠い道と遙かな時をひたすら歩き続けているのだろう。私も股をすぼめて、口をきかずに、急ぎ足で歩いてきたのではないか。

 私もまた、この詩人のように・・「遠い道のりを歩いてきた」のだ。そして「遙かな時間を通り過ぎてきた」(「旅の途中で」)ひとり。
 さりながら・・・「過去が忌まわしい過去でないような」ありかたは、私にはない。
 戦争という、くそいまいましい「ミンキラウワア」に股をくぐられたために、どうあがいても詩人にはなれない、哀れな人間なのだ。         (つづく)

2009/07/05(Sun)  1045
 
(つづき)
 進 一男は、17歳のときはじめてリルケを知る。『マルテの手記』に、

    僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいかしらぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく」

 まず見ることから学んでゆく。このリルケの信条告白を、少年はそれを自分の内面で忠実に発展させてゆく。「まず見ることから」という詩人のみずみずしい決意が、80歳の詩人に結晶していることに私は感動する。

    私には何時も過去だけがあったと私は書いた
    今日も明日もすぐに昨日になってしまう
    生きようと思うこと生きていることは
    すぐに 生きたこと になってしまう
    考えてみると すべてはそういうことになる
    過去が忌まわしい過去でないような有り方

 私が、みずみずしいと思うのは、こういう感性なのだ。
 私たちが過去を思いうかべるとき、「今日も明日もすぐに昨日になってしまう」からだが、過去はぜったいにもとら戻らない。やがて年老いて死ぬことも、そのひと連なりの先にある。だから、過去をふり帰るときには、楽しいことも悲しいことも、いずれ感傷 をともなうだろう。詩人にはいつも過去だけがあった。
 だが、「過去が忌まわしい過去ではない」というとき、そこには、やはり、勁い意志がはたらく。
 いまの17歳たちは、いわば不安と抑圧から自由になっている。進 一男や私たちがその年齢だった頃、「過去が忌まわしい過去」だった時代には、まず、ぜったいにあり得なかったこと、まるで「生きようと思うこと生きていること」の、どうしようもない乖離(アンコンパティビリテ)のなかで、進 一男が詩をめざしたことに、私はかぎりない共感をもつ。
 自分の「生きようと思う」世界から拒絶されていた少年のことを思うと、まず見ることから学んでゆこうとしたことがどんなにむずかしいことだったか、きみたちにも想像できるだろう。
 当時の私もまた「まず見ることから学んでゆく」ことからはじめたような気がする。ただし、私が、現在の若者たちよりも、より多くを見てきたり、より多くを経験したのは、ただ馬齢を重ねてきたからではない。誰だって年を食えば、より多くを見たりより多くを経験する、というのは誤りなのだ。老人はより多く経験するどころか、むしろ何も見なくなるのが普通だろう。だが……

    私は遠い道と
    遙かな時を
    ひたすら歩き続けている
     (「旅の途中で」)
 
  (つづく)

2009/07/04(Sat)  1044
 
 日米戦争が開始される昭和16年、詩を書き始めた少年がいる。
 その後、じつに70年にわたって詩を書きつづけた。
 私家版の第一詩集を出したのは、大学を卒業した昭和23年。第二詩集を出すまで、14年かかったが、昭和43年に第三詩集を出してからは、順調に詩集を出してきた。
 2009年、31冊目の詩集、『見ることから』(詩画工房/’09.3刊・2200円)が出た。
 その詩は・・・・

    見渡す限り 周囲は峨々たる岩山で
    何らかの力が働いているらしく 少しずつ
    岩は削り取られるかのようで その中から
    何か形あるものが現れてくるようである
    もちろん今は決して明確な形ではない

 というオープニングをもつ。その「形」とは何なのだろう? 詩人はすぐにつづける。

    得体の知れないその形ではない形は
    日に少しづつ形を変えながら あるいは
    形を明らかにする気配を感じさせながら
    現れてきてはいるようなのであるが
    何時になったらその形が明らかになるのか
    一向に予想はつきそうにないのである

 誰が彫っているのか、誰も見たことがない。詩人はつづけて、

    具象的な何か あるいは 抽象的な何か
    果して形象なのか それとも文字なのか
    それらを見ていると感じさせられるのだが
    それはこれまでには存在しなかったところの
    ある何か新しいものでもあるのだろうか
    しかしそれを言い現すべきことばも今は無い

 詩人は、ここで、私たちにひとつの疑問を投げかける。

    それならば私たちは 形と同時に言葉もまた
    新しく発見し創造しんくてはならないのか
    私の 私たちの 前に投げかけてくる この
    磨崖の 何ものかである その何ものかよ
 
これが、「磨崖」という詩。
 詩人は進 一男。奄美大島の詩人である。
 彼の詩句の一行の真実は、読む人の胸にただちにひびく様な性質のものである。
 近作の詩集、『見ることから』を読んで、私はこの詩人が、孤高といってよい詩境に達していることをよろこんだ。いや、むしろ驚きをもって見たといってよい。
   (つづく)

2009/07/03(Fri)  1043
 
 ある作家の回想。

 彼がとても幼かった頃、年老いた料理女が、眼に涙をいっぱいうかべて、部屋に飛び込んできた。たまたま、その日、有名な女優が亡くなったと聞いて、悲しみのあまり、主人たちの部屋に走り込んできたらしい。
 この料理女は、半分文盲で、一度もその女優の出ていた劇場に行ったこともなかった。つまり、名女優、シャルロッテ・ヴィンターを見たことがなかった。
 シャルロッテは、偉大な国民的な女優としてよく知られていた。ウィーンでは、まるでウィーン全体の、ウィーン市民のたからものになっていた。だから、この女優の舞台を見たことのない人にとっても、その死は破局的(カタストロフィック)な事態としてうけとめられたらしい。

 これはステファン・ツヴァイクの『昨日の世界』の、最初のほうに出てくる。このささやかなエピソードを読むたびに、一人の女優をこれほど愛したかつてのウィーンの市民たちに私は心を動かされた。

 私たちの文化でも、一人の人気歌手や、芸術家が去って行くとき、しばしば国民的な悲しみが生まれる。例えば、明治期の団十郎、左団次の死や、戦争中の羽左衛門の死など。
 だが、その女優の舞台を見たことのない人にとってさえ、女優の死が、とり返しのつかないカタストロフとしてうけとめられたことがあるだろうか。
 つまりは、シャルロッテ・ヴィンターや、サラ・ベルナールほどの女優が存在したことがあったのか。

 「ブルグ劇場」がとりこわされたときは、ウィーン全体の社交界が、まるでお葬式のような感動におそわれて、桟敷に集まった。最後の幕が下りるか下りないうちに、観客は我がちに舞台にかけあがって、それぞれがひいきにしていた芸術家の踏んだフロアの一片を、形見として家に持ち帰った。
 何十年か後になっても、ある市民の家には、そんな、見ばえのしない木片が、りっぱな小箱におさめられて、たいせつにとってあったという。

 作家は学生時代に、ベートーヴェンが臨終をむかえた由緒のある家がとり壊されることに反対して、請願や、デモや、新聞に投書したり、学生としてできるかぎりのことをして戦ったという。

  「ウィーンのこれらの歴史的な建物のどれもが、私たちのからだから剥ぎとられる魂の一片だった。」

 私は、女優、シャルロッテ・ヴィンターを見たことはない。ブルグ劇場も知らない。
 しかし、私たちは、震災、戦災という二度の受難のあと、あまりにも多くの「魂の一片」を剥ぎとられなかったか。ただ利便性のためだけに、由緒ある地名がいとも無造作に変更された。もはや名もない道や坂に見えながら、じつはおびただしい歴史が残っていたはずの地域をブルトーザーが押しつぶしてしまったことを、あまりにも多く見てきたではないか。これをしも、文化の扼殺といわずして何か。

 私はときどきツヴァイクを読み返す。敬意をもって。
 同時に、彼の最後のいたましい姿を思い出しながら。

 ウィーン、パリ、サンクト・ペテルブルグが、もっとも美しい都市として知られているように、東京が世界でもっとも醜い都市だったことを思い出したほうがいい。
 永井 荷風の嘆きは現在の私たちの悲しみでもある。
 もはやとり返しがつかないのだが、わずかながら、今からでも遅くないことがある。

2009/07/02(Thu)  1042
 
 自分では想像もつかない「発見」に胸をおどらせる。私の悪癖。

 中国/周口店の地層が、これまで考えられていたよりも、20万年から30万年も古く、約78万年前までさかのぼれる、という。南京師範大学と、アメリカのパーデュー大学の研究でわかった。
 中国/周口店の地層が、約78万年前までさかのぼれるということは、いわゆる北京原人が、これまで考えられていたよりも、ずっと早い段階から、中国の北方に生息していたことになる。

 北京原人の頭骨が発掘された場所の地層から、石英や、石英質の石器を最終して、宇宙線の照射で生じた放射性元素の含有量を調べる。そして、地中に埋もれていた年代を割り出した。
 研究の結果は、「ネイチャー」に発表された。(’09.3.12)

 78万年前という「時間」は私には想像もつかない。なにしろ、ほんの78時間前のことさえもおぼえていないのだから。
 しかし、このニューズは、私に不思議な感動をもたらした。すごい話だ。人類の歴史がいつからはじまったのか知らないけれど、これまで考えられていたよりも、約78万年前からはじまっている!

 なんだかすごく、とくしたような気になった。

 もっとも、別のことも考えた。
 これまでの計算よりも約78万年前に、人類の歴史がはじまっているとすれば、そろそろ滅亡してもおかしくない。そう思えば、最近、つづいている暗いニュースなど、どうってこともないやね。
 なにしろ、いまよか78万年も前に、人間は人間になったってンだからなあ。(笑)

2009/07/01(Wed)  1041

 女優のアン・トッドは、1940年代から「戦後」にかけて、イギリス映画の大スターだった。
 彼女の文章を見つけた。みじかいものなので紹介してみよう。

    この本に出てくる映画の題名、たくさんの名前、写真にたくさんの思い出がまつわりついていますし、たくさんの喜びを思いうかべます。
    30年代、40年代、50年代の初期――映画の魔法のような時代に生きた女たちなら――身につまされる涙や、ロマンスのスリルを誰が楽しまずにいられたでしょうか。
    感情に無害な「はけぐち」としての「女性映画」は、おもて向きは私たちの大多数にとっての精神的な癒し、抵抗できないものでしたが、もっと重要なことは、社会的な慣習、経済的な抑圧にあった多数の女たちにとって、こうした映画はいっとき現実を逃避する源泉だったことでした。
    傑作、凡作を問わず、こうした映画は、最近の数年を通じて、ふつうの女性の立場の大いなる前進のペースをたもってきたものなのです。
    現在の女性映画は、めずらしい現象です。
    私の仕事だけにかぎっても、かつてのベテイ・デイヴィスや、キャサリン・ヘップバーン、私の出た「第七のヴェール」、「情熱の友」のような大いなる役をあげましょうか。観客のみなさんが私たちを通じてこうした役を生きたのです。
    女優の役柄や、役の内面をつき動かした感情は、消しがたい思い出になって残るのです。40年もたっているのに、私は「第七のヴェール」の有名なシーンが人々の心に深く刻まれていることを思いしらされてきました。私がピアノを演奏しているシーンで、ジェームズ・メースンが、手にした杖を私の両手めがけてたたきつける・・ 一瞬のシーンですが、観客のみなさんはけっして忘れませんでした。
    最近、テレビでこの映画を見てくれたタクシーの運転手はタクシー料金を受けとりませんでした。料金をもらったりしたら、あの映画のイメージが消える、と説明してくれました。
    これが「女性映画」のパワーなのです。
    女性のための映画の黄金期、こうした瞬間に心をときめかしたみなさん・・今でもテレビでごらんになるみなさんがたは――この本が喚び起す歴史、時間に、共感とよろこびをおぼえるものと存じます。
    そして、ここにとりあげられた昔の映画にどっぷりつかっている著者を心から祝福したいと思います。

 アン・トッド。40年代から50年代にかけて、イギリスのトップ・リーディング・アクトレス。後年は、ドキュメンタリー映画の演出をしていた。ただし、私はアン・トッドの映画をそれほど見ていない。なにしろ、イギリス映画はあまり輸入されなかったので。
 マーガレット・ロックウッドや、パトリシア・ロックも。
 残念としかいいようがない。

2009/06/28(Sun)  1040
 
 私は筈見 恒夫を非難しているのではない。むしろ、いいたいことを心おきなく書いていた先輩の映画批評家に羨望の眼を向けている。

 こんな一節がある。

    十三歳のダニエル・ダリューが、デビューしたのはアナベラなどと殆ど同時代のことである。「ル・バル」というのが、その作品だ。(中略)この少女は、しかし、「ル・バル」以後めきめきと美しくなった。一作ごとに磨きをかけられて行った。その美しさに目をみはったのは巴里人だけではなかった。アメリカの製作者が、この巴里美人に目をつけて、ユニヴァーサルが契約した。(中略)巴里へ帰ると、ドコアンの監督で「背信」と「暁に帰る」をとつた。巴里へ帰つたダリューは、アメリカ映画に見られない美しさだが、(中略)爺くさく婆くさかつたフランス映画も、この時代になると、すつかり若返つてくる。美男美女はフランスから、とでも云いたいくらいだ。フランス中の美人たちが、自信をもつてスクリーンの前に立つようになつた。こうなると、土くさいアメリカの比ではない。女優発掘の名手として、まずデュヴィヴィエがあげられるだろう。

 アナベラは、アベル・ガンスのサイレント映画、「ナポレオン」(1927年)のラストにまったく無名の少女としてデビューしている。ダニエル・ダリューの「ル・バル」(1932年)はトーキー映画なので、私にはこのふたりが同時代にデビューしたという認識はない。たかが5年の違いだから、ほとんど同時代には違いないのだが。
 アナベラは先輩女優。ダニエル・ダリューは、アナベラを越えた女優。
 しかし、「爺くさく婆くさかつたフランス映画も、この時代になると、すつかり若返つてくる」というとき、胸をときめかせていたこの批評家の表情がうかがえよう。

 私は、先輩の批評家たちが残した映画批評にいつも敬意を払ってきた。(例外はある。津村 秀夫にはあまり敬意をもっていない。)その敬意には、こちらの知らない映画について書いているという羨望、くやしさが重なりあっている。
 先輩の映画評論家が書いている(書かれてしまった)ことの証明の不可能性もある。
 だからこそ、いろいろな映画史や、へんぺんたる映画批評までもありがたいものに思える。映画批評というものは、そこに書かれたこと、書かれなければならなかったことにおいてはじめて意味をもつジャンルなのだから。

2009/06/26(Fri)  1039
 
 筈見 恒夫が書いている。

    余談だが、私にはジェーン・ワイマンという女優のよさがてんで理解できない。牝ガマめいた容貌もさることながら、その演技だって巧いと思ったことはいちどもない。容貌が悪くても芸の巧い女優はいるが、容貌が悪いから必ず芸が巧いとはかぎつていない。ワイマンの人気には、こういう錯覚があるのではないだろうか。いや、こういうことは稿をあらためて書かなくては納得してもらえまい。

 『女優変遷史』にジェーン・ワイマンが登場するのは、この部分だけである。
 私がハリウッド映画を見るようになったのは戦後だが、ジェーン・ワイマンはBUSUの女優さんの代表で、「ガマグチ」ワイマンなどというニックネームで呼んでいた。
 こういう女優は、ジェーン・ワイマンにかぎらない。ほかに「容貌が悪くても芸の巧い女優」としては、サイレントのマリー・ドレスラーから、ザス・ピッツ、トーキーになってからの名女優、フローラ・ロブソン、エルザ・ランチェスター、ドロシー・マッガイアー、いくらでも思い出せる。むろん、「容貌が悪いから必ず芸が巧い」わけではない。

 だが、ジェーン・ワイマンという女優の「演技だって巧いと思ったことはいちどもない」といい切ってしまうのは、ワイマンに気の毒な気がする。
 「失われた週末」(45)、「夜も昼も」(46)から注目してきたが、「ジョニー・ベリンダ」(46)、そしてアカデミー主演女優賞をとった「イヤリング」などは、今見ても、ジェーン・ワイマンの落ちついた演技が眼にうかんでくる。とくに「イヤリング」は、いつもドヘタなグレゴリー・ペックが、ワイマンのサポートのおかげで少しはましに見えたし、全体に子役のクロード・ジャーマン・ジュニアが場面をさらっていたため、ジェーンはめだたなかった。しかし、ジェーンは、きびしい自然のなかで孤独に生きていながら、妻として愛情に飢えている女を見せていた。
 アメリカ開拓期のプロヴィンシャリズムを、ひとりの映画女優がこれほどみごとに表現したのははじめてとさえ見えた。(私のいうアメリカ開拓期のプロヴィンシャリズムは、サイレントのメァリ・マイルズ・ミンター、戦前の「麦秋」や、「シマロン」において、ひとつのピークに達する。戦後では「シェーン」で牧場主の妻をやったジーン・アーサーが、この開拓期プロヴィンシャリズムを見せていた。「帰らざる河」のマリリン・モンローもその例。ただし、オットー・プレミンジャーか開拓期プロヴィンシャリズムにまるで関心がないため、この映画のマリリンはただの淪落の女というイメージに終わっている。

 筈見 恒夫が『女優変遷史』を書いた時期のジェーン・ワイマンから、後期のジェーン・ワイマンは大きく変化する。現在、韓国の崔 智充(チェジウ)が「流涕女王」だが、50年代からのジェーン・ワイマンも、アメリカの「流涕女王」だった。
 たとえば、「All That Heaven Allows」(55年)や、「Miracle in the Rain」(56年)など。
 「イヤリング」からの発展としては「ポリアンナ」(60年)をあげておく。

 資料を読むときは、こういう――誤解とはいえないけれど、筈見 恒夫が見なかったことにも眼をくばる必要がある。

2009/06/25(Thu)  1038
 
 筈見 恒夫の映画女優史の一節に、ふと胸を打たれた。

    (前略)「アンリエットの巴里祭」にダニイ・ロバンの母親役として、マリー・グローリイが出ていた。このマリーは、デュヴィヴィエの出世作の一つになった「商船テナシチー」の可憐なヒロイン、テレーズである。港の雨は寂しい、あのアーヴルの波止場から、失意のセガールを旅立たして、バスチャンとの恋に失踪した宿屋の女中だ。サイレントの末期から、ゾラ原作の「金」や、「巖窟王」の娘役で売出していた女優だったが、テレーズの役は、彼女として一世一代の思い出の役であろう。二十年の歳月は初々しかったテレーズを、あんなに老いさせてしまったのであろうか。
    (『女優変遷史』1956年刊)

 私にしても、おなじ思いで映画を見てきた……かも知れない。
 歳月はあれほど初々しかった「彼女」を、あんなにも老いさせてしまったのか。つぎの瞬間に、自分もすっかり年老いてしまったことに気がつく。
 筈見 恒夫の一節に胸を打たれたのは、そういう感慨だけによるものではない。
 じつは――ここに書かれた内容が、もはや誰にも共有できないことなのだ。

 私はたまたま「商船テナシチー」を見ている。デュヴィヴィエの初期(サイレント時代から考えれば、中期)の作品。原作は、ヴィルドラック。舞台では、コポオの演出、ジュヴェの照明で、ヴァランティーヌ・ティッシェがヒロイン、「テレーズ」をやっていた。 映画では――浜辺で、マリー・グローリイがアルベール・プレジャンの「バスチャン」と抱きあって波打ち際にたおれ込むシーンがあって、いまでも鮮明に思い出すことができる。

 残念なことに、「金」や、「巖窟王」のマリー・グローリイを見ていない。こうした映画を見た世代ではなかったからである。
 だから、マリー・グローリイの「テレーズ」が一世一代のものだったといわれても、そうだろうなあ、と思うだけで、批評的に検証できない。ひとりの映画評論家がそう書いているというだけのことになる。これがさびしいというか、残念というか。

 「アンリエットの巴里祭」だって、もう誰もおぼえていないだろう。「戦後」はあまり高い評価が得られなかったデュヴィヴィエだが、晩年の傑作の一つ。この映画に、フランスの「戦後」を代表する美女、ダニイ・ロバンが出た。しかし、これももう見る機会はないだろう。

 私が、マリー・グローリイを知らないように、今の人たちがダニイ・ロバンを知らなくても仕方がない。
 たとえば、松井 須磨子の「サロメ」や、河村 菊江(「帝劇」の女優)の「サロメ」も知らないし、アラ・ナジモヴァ、セダ・バラの「サロメ」も知らない。
 「文学座」の「サロメ」、三島 由紀夫演出の岸田 今日子は見ているが、フランス映画(クロード・タナ/85年)のバメラ・サレムも、イギリス映画(ケン・ラッセル/87年)のグレンダ・ジャクソン)も見ていない。両方とも輸入されなかったから。

 それでも、私の内部に「サロメ」が生きていることは疑いをいれない。

 私たちは、それぞれの時代に生きていた俳優や女優たちに、そのときそのとき一瞬々々に別れをつげているのだ。
 映画女優史の一節を読んで、そんなことを思うのはあまりに奇矯だろうか。

2009/06/24(Wed)  1037
 
 私は夏が好きだった。どうして、夏が好きなのか考えてみると、この季節は女が美しく見えるせいで、暑さが好きというわけではない。

 あまり見かけなくなったが、面長で、目鼻だちのあざやかな明るい顔。すらりとした背丈、昔でいう小股の切れあがった女。浮世絵で見る江戸の美人の典型。
 最近の女優では、水川 ナントカ。 ご本人は和装したこともないらしいが、ほんとうはああいう女性が浴衣を着れば最高の美女になる。

 夏の美人といえば、髪あげをした襟あしの美しさ、薄衣の裾からもれる素足の美しさ。

 古い劇作家の木村 錦花が、こういう美人こそ夏の風物詩なのだという意味のことを書いていて、共感したことをおぼえている。

 江戸の芸者は、寒中でも、足袋をはかず、素足に紅をさしていたらしい。こうした江戸前の粋で、辰巳芸者が侠名をうたわれた。

 今の世の中では、足の指にまでネイルアートという女の子もめずらしくない。しかし、江戸前の粋なぞは、あり得ようはずもない。

 いまの私は夏があまり好きではなくなっている。

2009/06/23(Tue)  1036
 
 ルイ・ジュヴェが亡くなったのは、1951年だった。
 この俳優=演出家は、戦後すぐに、ドゴール大統領の要請をうけて、コメデイ・フランセーズの改革に尽力し、大きな足跡を残した。
 しかし、ジュヴェが亡くなって8年後、ドゴール派のアンドレ・マルローが文化相に就任して、またまたコメデイ・フランセーズの改革に着手した。これは、ジュヴェの改革を否定するものだった。

 かんたんにいえば−−「リシュリュー劇場」、「リュクサンブール劇場」の二つに別れている「コメデイ・フランセーズ」の、それぞれの役割をはっきり区別しようとした。これが、ルイ・ジュヴェの「改革」だった。

 ところがマルローは、この二劇場分割制をやめることにした。そして、「コメデイ・フランセーズ」の総支配人に、チェコ駐在大使だったクロード・ボワサンジュを任命した。
 「リュクサンブール劇場」は、戦前からあった、もとの「オデオン劇場」にもどして、ジャン=ルイ・バローの劇団の常打ち小屋にする。
 一方、「国立民衆劇場」をひきいるジャン・ヴィラール、それに、作家のアルベール・カミュに、それぞれ劇場を引き受けてもらって、国立劇場に、新人作家の登場を促し、ヴィラールには、古典を中心に演出をしてもらう、という構想だった。

 当時、この改革に対して、賛否両論が活発に出されたが、ロベール・ケンプなどは、「コメデイ・フランセーズ」の一座統括に反対した。レパートリーに制約を生じて、新作の登場がむずかしくなる、という論点だった。

 誰も指摘しないことだが、後年のパリ革命の遠因の一つに、このときの強引な「コメデイ・フランセーズ」改革があったのではないか、という思いが私にはある。

2009/06/22(Mon)  1035
 
 享年。
 年ヲウケル。簡野 道明の『字源』には、郭有道碑『稟命不融、享年四十有二』という例文が出ている。
 おなじ意味の、行年を調べてみると――行は歴。経過せしよはひ。荘子の「天道」から、「行年七十」という例が出ている。

 私は、『ルイ・ジュヴェ』のなかで、

    一九五一年八月十六日午後八時十五分、ジュヴェは死んだ。享年、六十三歳。

 と書いた。
 このとき、「享年」と「歳」が重なるのではないか、と注意された。そんなことを考えたこともなかった私はそのままで押し通したが、ひょっとして「享年・・歳」といういいかたは誤りなのだろうか、と内心、疑懼した。

 ずっとたって、馬琴の『絲桜春蝶奇縁』を読んでいて、

    享年、ここに廿三歳。

 という表現をみつけた。
 馬琴が書いているのだから、間違いではなかろう。ホッとした。

2009/06/21(Sun)  1034
 
(つづき)
 3万5千年前のクロマニョン人の男の見たものは何だったのか。

 彼は、自分が彫りあげた女の乳房、その下に刻みつけた性器を、さまざまな方向から眺める。それは鑑賞というよりも、崇拝だったかも知れない。対象とするものが、たいらではない。単純であっても、プロポーションを無視したほどおおきな乳房や、性器をしめす大きな亀裂は、生きた光と影がたわむれあっている。
 それを見る角度や、季節、時間によって、彼のまなざしには、けっしておなじフォルムにはならない。これは、立体だけがもっている特有の美しさなのだ。

 この変化にとんだフォルムを、古代人の彼は自分の手の触感や、眼を通して、いつも存在している実態としてとらえていた。だからこそこのペンダントの女の乳房は大きく、その性器の刻みは深かったにちがいない。

 彼は、自分の部族、いや、もっと小さい単位で、出会った女たちや子どもたちのために狩猟をする。
 何日も獲物を追って、仲間たちと地の果てまでも歩きつづけたかもしれない。そのときどきに、自分の胸にかけたペンダントをまさぐって勇気を得た。

 まだ、ことばはなかった。だが、感動は彼をうごかす。
 彼の発する叫び、彼の喜びも悲しみも、いつもこの「ヴィーナス」像が受けとめてくれる。そのつややかな肌は、女のうめきであり、彼のオーガズムだったはずである。そして、何千年という果てしのない時間が流れてゆく。

 この「ヴィーナス」像は呪術に使われたかも知れない。呪術であれ何であれ、この偶像(アイドル)は、「彼」が生きるという問題を見る時の新しい観点であり、その解決におけるモーティヴであり、おのれが選択し得る様々な反応のありかたをもっているにちがいない。

 考古学者は、土器、陶器の破片から文明を発見する。わずかな破片の数個から、もはや失われた文化の日常生活の様式や、その技術のレベル、あるいは制度までも見ぬくという。私にはそんな能力はない。
 まったくちがう思いが、私の胸をかすめる。

 私は「彼」なのだ。3万5千年前のクロマニョン人は、はるかに悠久の時間をへだてながら、現在の私として生きている。そのことに私は感動する。

2009/06/20(Sat)  1033
 
 子どもの頃、海辺でひろった貝殻をたいせつにしていた。道で拾った小石をてのひらににぎりしめて、家に戻ってから、ためつすがめつ眺めた。そんな経験はだれにもあるだろう。
 道みち、ちぎった木の葉や、小枝でさえ、いろいろな角度から眺めて、思いがけない美しさに気がついたりする。ただし、そんな小さな心の動きはすぐに忘れてしまうけれど。

 ある男が、たまたまマンモスの角のかけらを掌にうけた。その美しさに心がときめいた。そして、尖った石をひろって、そこに愛するものの姿を刻みつけた。

 ドイツのチュービンゲン大学の考古学研究チームが、ホーレ・フェルス洞窟で、3万5千年前のものとみられる「ヴィーナス」像を発見した。
 高さ、約6センチ、幅、約3.5センチ、重さ、約33グラム。マンモスの牙を彫ったもので、人類最古の彫刻作品という。(「ネイチャー」’O9年5月14日号)

 これまで、私たちに知られている「ヴィーナス」像とよく似ている。人体のプロポーションを無視したような巨大な乳房、ずんぐりした胴の下に、性器をしめす大きな亀裂が彫りつけられている。
 この頃、ヨーロッパに進出していたクロマニョン人が作ったペンダントとされる。

 これまで、最古の彫刻作品とされてきたのは、おなじ洞窟から発見された水鳥や、馬の頭で、3万年から3万3千年程前のものという。

 これを作った男は、自分の手で石器を動かし、乳房や、それをかかえる両腕や、胴や、性器、手に比較すれば異様に短い両脚を彫りながら、よろこびを感じ、何ものにも換えがたい女体の美しさに感動していたのだろう。
 うつくしいものを現実に存在するものとして表現しようとする。そこに、彫刻の原初的な情動がある。
  (つづく)

2009/06/18(Thu)  1032
 
 毎日見かけたものだが、戦時中からまったく見かけなくなったシーン。今では、そんなものがあったことさえ知らない人が多い。

 私が子どもの頃は、近在の農家の人が牛車や、馬車を引いてやってきた。どこの家庭でも糞尿の始末をこの人たちにまかせていた。農民は市民の排泄する糞尿を、大きなヒシャク(肥えビシャク)で汲み上げ、黒いタールを塗った木のタルにつめて、牛車や、馬車にのせて運搬する。これが、オワイ屋さん。
 農家の栽培する野菜の肥料にするのだった。

 アスファルトの道路でも、未舗装の道路でも、朝から晩までたえずオワイ屋さんの車が往来していた。ちょっと買い物に出れば、オワイ車の二、三台にぶつからないことはなかった。

 タルには固くフタをしてあるので、糞尿がいっぱいつまっていれば音はしない。しかし、中身がいっぱいになっていないと、車の揺れで、タプンタプンと音がする。
 フタが緩んでいたりすると、車の動きにつれて、中身が路上にまき散らされたりする。あわや落花狼藉(じゃないが)、道路はクソマミレになる。

 オワイ車は臭いがひどい。
 女、子どもは、オワイ車を見かけると、急いで逃げ出したり、わざわざ大回りをして、なるべく近づかないようにしていた。

 1937年(昭和12年)、火野 葦平が芥川賞を受けた『糞尿譚』はオワイ屋さんを描いた名作。
 おなじ年から書きはじめられた島木 健作の『生活の探究』にもオワイ車の描写が出てくる。誰かの心ないイタズラで、空気銃の弾丸が命中して穴の開いた木樽から、黄色い液体が放物線を描いて迸っているシーンがある。

 日中戦争がはじまった年。

 ねえ、忘れちゃいやよ。前年、渡辺 はま子の歌が大流行したが、この歌手の「ねえ」という、鼻声がひどくエロティックに聞こえる、とう理由で発禁になった。
 この年、淡谷 のり子の「ああ、それなのに」が流行している。

 戦前の日本がそんな国だったことを、ねえ、忘れちゃいやよ。
 ああ、それなのに。(笑)

2009/06/17(Wed)  1031
 
 私たちは、はたして自分が何者なのか知らない。自分に何ができるのか、それがはっきり見えるまでは。

 長い歳月ものを書いてきて、やっとこんなことに気がついた。気がつくのが遅かったけれど。

 まあ、気がつかないより、ましだろうて。(笑)

2009/06/15(Mon)  1030
 
 私の周囲には、とても才能のある女性たちがいっぱいいる。
 そのひとり、森山 茂里は小説を書いている。すでに、長編を出して一部では注目されている。

 茂里に新作の進捗状況を訊く。彼女は、いつもおなじことをいう。

 あたし、書けないんです。どうしたら、いいんでしょう?

 あまり困った顔をしていない。だから私も心配しない。書けない書けないといいながら、きっちり作品を仕上げて、しっかり編集者にわたすタイプの作家なのだ。

 作家どうしのあいだで、こういう話題が出ることは少ない。だいたい、自分を隠して、内面的にどういうことを考えているか、めったに他人にうかがわせない人が多い。
 私が周囲にいる才能のある女性たちに、しょっちゅう新しい仕事や、新作の進捗状況を訊くのは、理由がある。この種の話題について、みんなが率直に話してくれるから。
 むろん、たぶん安全な話題だと思っているせいだろう。危険と感じられる話題については慎重であったり、話をそらせたりするはずである。
 ところが、私たちの場合、個人の親密さの深度がほとんどおなじなので、お互いに気楽に冗談をいいあったり、からかいあったりできるらしい。

 私がたまに何かを書くと、女の子のひとりは「先生、カッコイーイ」と声をかけてくれる。
 その「カッコイーイ」は、ほんものの「カッコイーイ」ではないらしい。「おっさん、ようやりまンな、ええ年して」といった、老作家に対する、かるい揶揄、かすかな嘲弄と、いささかのいたわりをこめた「カッコイーイ」だったにちがいない。

 こうしたひとりが、先日、私に手紙をくれたが、封筒の宛て名に、
    へんな作家  中田 耕治先生
 と書いてきた。郵便配達はびっくりしたにちがいない。私はうれしくなった。こういういたずらが大好きなのである。(笑)。

 森山 茂里は私のクラスで、長いこといっしょにいろいろなテキストを読んできたので、お互いに親しみをこめた、いわば知的なアフェクションといっていいものが流れている。

 書けないんです。私には、不可能なんだわ。

 どんなことだって可能だよ。それが、不可能だと証明されるまでは。だからさ、不可能なことって、不可能なだけなんだから、きみは可能なことをやればいいんだよ。
 つまり、書くしかない。
 むろん、彼女もそんなことは承知している。

 森山 茂里は、目下、4作目の長編にとりかかっている。

2009/06/13(Sat)  1029
 
 テオフィル・ゴーチェの娘、ジュディット・ゴーチェはたいへんな才女だったらしい。その才女ぶりについては、残念ながらジュディットの書いたものを読んだことがないので、ここに書くことができない。
 ジュディットには中国の詩を訳した著作があるというので、どういう詩人を訳したのか知りたいと思ってきた。どなたかご存じではないだろうか。

 1869年、コジマ・ワグナーが食事に招いている。このとき、コジマに招かれたのは、詩人のカチュール・マンデス、夫人のジュディット・ゴーチェ。同席したのは、ヴィリエ・ド・リラダン。眼がくらむような顔ぶれである。
 カチュール・マンデスは、作家、批評家。雑誌、「ルヴュー・ファンテジスト」の創立メンバー。ヴイリエ・ド・リラダンは、詩人、作家。
 ジュディットは、芳紀まさに19歳。カチュール・マンデスと結婚して、二年になっている。

 ホストは、ワグナーと、コジマ。

 食卓でどんな話題がかわされたのか。私のような想像力のとぼしいもの書きには見当もつかない。
 ジュディットは、異常なほど才能にめぐまれていた。言語に関して造形が深く、世界の文学を読破していた。中国詩を訳したほど外国語に精通していた。
 横顔がギリシャ彫刻を思わせる美貌で、ボードレールが、「ギリシャの美少女」と呼んだほどだった。
 ワグナーは、彼女がくるとすっかりご機嫌になって、自分の庭園のいちばん高い樹木の幹から、枝に足をかけて登ってみせた。家の高窓を越えるほどの高さだった。

 コジマは日記に書きとめている。

 「彼女(ジュディット)には常軌を逸したところがあって、突拍子もないふる舞いは私も手を焼いた――そのくせ、とても気立てがよくて、ひどく熱狂的。リヒ(ワグナー)にせがんで、ワルキューレや、トリスタンを歌わせた。」
 この記述は、1969年7月16日。

 翌日、コジマは日記でジュディットを「あの女」と書いている。

 その日のワグナー家の食卓でどんな話題がかわされたのか。私には見当もつかない。ただし、私は考えた。

 コジマのような女と出会わなくてよかった。コジマのような女を見かけたら、すぐに逃げ出したほうがいい。

2009/06/12(Fri)  1028
 
 新型インフルエンザの世界的な流行。
 1918年、ドイツのルーデンドルフ将軍は、「われわれは戦争に負けたのではない。スペイン風邪に負けたのだ」といった。

 その後も、新型インフルエンザは、10年から数十年おきに、人間におそいかかってくる。
 私たちの免疫は、それまで経験したことのない新しい病原体に対応できないため、大流行するらしい。

 そんな中で、役者の市川 海老蔵が、大阪松竹座で「にらみ」をやったという。
 この「にらみ」、襲名披露などでしか見せない。先年のパリ公演で、団十郎がやってみせたが、市川家伝来の芸である。

 劇場には、

    新型インフルエンザ蔓延につき、急遽、市川 海老蔵 にらみ相勤め申し候

 という看板が出た。(’09.5.3=10日まで)

 海老蔵が口上を申し述べて、ハッタと観客をにらみつけ、大見得を切って見せる。
 いいなあ。
 新型インフルエンザも、これで退散。

 外国の芝居には、こういう睨みのパーフォーマンスはおそらくあり得ないだろう。個人間のインターパーソナル・コミュニケーションにおいても、日本人には、睨みのパーフォーマンスがある。

2009/06/10(Wed)  1027
 
 小学校まで歩いて5分。土樋から荒町まで。

 通学の途中、かならず眼にするものがあった。活動写真のポスターである。横町の角の壁にとりつけられた木枠のなかに、その週に上映されている映画のポスターが映画館の数だけ貼られている。外国映画が2館。日本映画が4館。
 毎週、貼り変えられる。ポスターのうえに新しいポスターが貼りつけられるので、それぞれがかなりの厚みになっている。
 雨に濡れて、今週のポスターが剥がれて、前のポスターが見えたりする。
 行き帰り、毎日、おなじポスターを見ているわけだから、活動写真の題名や出演者の名前もおぼえてしまう。

 実際にはその活動写真を見たことがないのに、ポスターに描かれているシーンや、男女の姿が心に残った。
 大河内 傳次郎、阪東妻三郎、嵐 寛寿郎といったスターだけでなく、浅香 新八郎、ハヤブサ ヒデトといった名前や、伏見 直江、入江 たか子、山路 ふみ子、森 静子といった女優の名前もおぼえてしまった。

 昭和6年、満州事変が起きた。翌年、上海事変。その二月に、井上 準之助、三月に、団 啄麿、五月に犬養 毅首相が暗殺されている。
 私は何ひとつ知らずに、毎日、活動写真のポスターを見ていたのだろう。

 その頃に見た映画。内容もまったくおぼえていないのだが、最後に男と女が心中する悲劇を見た。題名もわからない。塩釜の活動写真館で見たことだけはおぼえている。
 幼い私には映画の内容も理解できなかったのだが、なぜか暗い気分になったことだけはおぼえている。男は河津 清三郎、女は高津 慶子。

 おなじ頃、私にとって、どうにも理解できないポスターがあった。「メトロポリス」という映画のポスターだった。
 金属製の巨大なアンドロイドが、無表情に私を見つめている。その人形が女だということはわかるのだが、そのまなざしに見られるだけで死んでしまうような気がした。それは、はじめて知った実存的な恐怖ともいうべきもので、自分が死にいたる存在なのだということを知らされたような気がした。

 そのポスターを見るのがこわくて、その学期、わざわざ遠回りをして、学校に行くようにした。電車の停留所ひとつぶんだけ遠くなるのだった。
 こうして、「メトロポリス」という題名が心に刻みつけられた。
 ずっと後年になって、これがF・W・ムルナウの無声映画で、1926年の作品だったことを知った。私がこのポスターを見たのは1930年の後半だったから、当然、リヴァイヴァル上映だったに違いない。
 このポスターに幼い私は恐怖をおぼえたのだった。

 はるか後年、DVDで「メトロポリス」を見た。少しも怖くなかった。

2009/06/09(Tue)  1026
 
 ある人生相談。

     20代男子学生。アルバイトで知り合い、2年前から付き合っている彼女がいます。彼女は学校を卒業し、地元に帰りました。私はもう1年、学生の身。
     「1年後に再会し将来は絶対に結婚しよう」と約束しました。
     ところが、私は、彼女の代わりにきたアルバイトの女性に一目惚れしてしまいました。これまで女性との出会いが少なかったので、今の彼女が一番だと思っていたのです。でも、新しく来た女性のほうが、彼女より好きになってしまいました。
     約束を破るのは私の性に合いません。それに今でも彼女は私のことを好きでいてくれます。そんな彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
     女性に会うたびにすぐにほれてしまうようでは、将来、結婚しても長続きしないでしょう。そう思うと結婚が怖くなりますが、一生独身でいるのもいやです     。
     ほれっぽいこの性格を直すのには、どうしたらいいでしょう。今後、彼女や、一目ぼれした女性とはどのように接していけばいいのでしょうか。

 ある大学教授の回答。

     恋愛関係で動きがあれば、誰かが傷ついてしまうことになります。
     まず、申し訳ないという理由で付き合いを続けるのはやめましょう。いい人であるというあなたの自己イメージは守られるかもしれませんが、このまま彼女と付き合い続けるのは彼女にとってかえって酷です。直接会って、あなた自身の気持ちを確かめてください。やはり彼女が自分にとって必要だと感じればそれでよいし、彼女に会っても新しい女性のほうが好きだという思いが強ければ、関係を解消したほうがふたりのためです。
     身近にいる女性がすてきに見えるのは自然です。ほれっぽいのがいけないのではなく、「ほれる」という感情に振り回されるのがいけないのです。ほれても元の相手が大切だと思えばその感情を表に出さない。ほれるほうに賭けるならアタックする。ただ、あなたが好きでも、相手があなたを好きになるかわかりません。その時は、潔く、寂しさを味わってください。

 さすがだね。この先生のソツのないお答えには、おもわず笑ったぜ。

 この学生は、自分を「惚れっぽい」という。好きな彼女ができて幸福だった。ところが、彼女は故郷に帰って行った。きみの前に別な女性があらわれた。きみは、たちまちその女性が好きになってしまった。そんなノは、「惚れっぽい」とか「惚れっぽくない」といった話ではなく、ごく当たり前のことなのだ。
 「惚れっぽい」というノは、自分のまわりにいる女たち、自分の前に姿を表した女たちに、たちまち反応して、すぐにおネツをあげる、言い寄る、そういう男のことで、きみのように、「2年前から付き合っている彼女」がいなくなったとたんに、新しい女が好きになる程度の男は「惚れっぽい」などというほどのモノじゃない。

 アーヴィング・シュールマンの青春小説に、そういうハイ・スクール・バブーンが登場する。やたら「惚れっぽい」若者で、テレビ・シリーズでも、毎週、違う女の子にいい寄ってはフラれていたっけ。

 ただし、この学生は、自分が「惚れっぽい」という。そういう自意識をもっているのはいい。

 私は「人生相談」を読むのが好きだ。私が回答者になったとして、いつも相談者の悩みに対して、あたたかいまなざしをもつかどうか。心理学でいう、相手の立場に立つ態度、カウンセリング・マインドなどは、はじめから私にはない。
 なにしろ、モンテーニュ、ラ・ロシュフーコーから、オスカー・ワイルド、サマセット・モーム、ヘンリー・ミラーなど、手あたり次第に読みふけってきたせいで、私なりの人生観ができあがってきた。だから、「人生相談」を読むのが好きなのは、えらい先生の「人生相談」を読むのが好きだということになる。
 笑えるから。

2009/06/07(Sun)  1025
 
 ある調査。6歳から89歳の男女、3000人のアンケート。

 昨年4月から、今年の3月まで、テレビで流されたCMは、総計、1万7765本。
 このなかで、好感をもったCMを、最大五つまで記入してもらったという。

 2019社のCM、1万147本は、まったく記載されなかった。このなかには、年間
、最大、905回もCMを流していた企業もあった。
 笑ったね。これでは、CMを流しても、ほとんど成果がないことになる。

 この調査で、いちばん広く評価されたのは、ソフトバンクのCM。お父さんが白いワン
ワン、お母さんが女優の樋口 加奈子。兄が黒人のモデル、妹が上戸 彩。
 つぎが、コーヒーの「BOSS」。
 そのつぎが「任天堂」。

 せっかく有名タレントや、クリエーターを使っても、見ている側の意識、認識に、何も
変化が見られないのでは、企業としてはたまらないだろう。
 この調査を行った「CM研究所」の代表も、
 「CMと販売二は関連性があり、印象に残らないCMは企業に貢献せず、日本経済のロ
スですらある」
 とコメントしている。  (「読売」’09.5.15)

 またまた笑った。それなら、みんなCMなんかやめてしまえばいいじゃないか。

 この記事を読んで笑ったが、自分はどうなのかと考えた。

 なにしろボケているので、テレビで流されたCMのほとんどをおぼえていない。しかし
、心に残ったCMは、ある。
 ただし、私の心に残ったCMは、おそらくほかの人にまったく印象が残っていないもの
ばかりだと思う。

 たとえば、昨年、こんなCMがあった。
 若い芸者(半玉)がふたり、相対してすわり、アッチ向いてほい。明るい部屋だが、な
んとなく雪洞めいた感じの照明で、部屋は四畳半。着飾った半玉ふたりが、やわらかい座
布団にくつろいで、お互いに、無心に遊んでいる。だが、最後に、そのひとりがキャッキ
ャッと嬌声をあげて、顔をこちらに向ける。
 この美少女の顔がじつによかった。うき川竹の、流れを汲んで、人となりしか、そのま
なざしに無量の愛嬌。未通女のあやうい美しさがかがやいた。こんなCMはめったに見ら
れない。私は感嘆した。

 このCMは、わずか数週間つづいた。やがて、趣向も演出もほとんどおなじだが、別の
ふたりのCMと差し替えられた。やはり、若い半玉がふたり、相対してすわり、アッチ向
いてほい。
 しかし、これはまったく魅力のないCMで、じきに消えてしまった。

 片々たるCMだって、誰かの心に深く刻みつけられることはあるのだ。
 すぐれた掌編小説が心に深く刻みつけられるように。

2009/06/06(Sat)  1024
 
 ときどき、江戸の小説を読む。
 テナことを書いているが――じつは私、あまり教養のない、スカタンなのだ。
 恋川 春町、朋誠堂喜三二なども、ほんの少し読んだだけ。山崎 北華はなんとか読んだが、芝 全交、市場 通笑、伊庭 可笑の青本にいたっては、まるで読む機会がない。
 馬琴はいちおう読んでいる。しかし、山東 京伝はほとんど読んでいない。これもむずかしくて読めない。
 『雙蝶記』のような勧善懲悪ものはまだしも(わかるから)いいが、深川の岡場所を書いた『大磯風俗 仕懸文庫』とか、色里の風俗をあつかった『通言総籬』、これも廓の女のあつかいようを描いた『艶話雑話 志羅川夜船』など、どうもおもしろくない。
 よくわからないので。
 山口 剛先生が『仕懸文庫』について、「一寸、黄表紙風のところがあっておもしろい」と書いているが、その黄表紙ふうのところが、やつがれにはおもしろくない。
 『通言総籬』にいたっては、「微に入り、細に渉って、息をもつかせぬ面白味がある」と仰せられているが、こういう批評がどうして出てくるのかまるで見当がつかない。
 先生は『志羅川夜船』の「西岸の世界」がおもしろいといわれるのだが、廓にあがったヤボ天の「武左の初會」のほうがおもしろかったのは、私がすかたんなせいだろう。

    さふしたきぎくとしら菊のおなじ流れの身じゃとてもコレむすこもなんぞうたは ツセエだまりんでありくと犬かほへるぜ

 「素見高慢」の書き出し。以下は、私の訳。

    そういう黄菊、白菊の、おなじ苦界にいきる女だからさ、(そんなつまらない顔をしていないで)ねえ、あなたも何か歌って頂戴な。(廓を)黙って歩いていると、犬に吠えられますよ。

 「ナニ公などは。本ぎょうが通だから唄を習ふよりちりからにすればいい。月見などはよし原へ行とがうてきに色ごとができるぜ」

「がうてきに」は、豪的に、だろう。こんなノはやさしいほうで、一度読んだだけでは、すっきり頭に入ってこないのだから、話にならない。

 近頃は聞かなくなったが、悪口に「すかたん」ということばがある。京伝は「すこたん」と書いている。
 これからは「すこたん」ということばを使おうか。

2009/06/04(Thu)  1023
 
 私は一茶をかなり読んだ はずである。
 ただし、読んでもすぐに忘れてしまう。

    雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
    門の蝶 子が這へば飛び 這へば飛び

 こんな句ばかり思い出すのはわれながらあきれる。
 おなじ一茶の、おなじ蝶でも、

    蝶が来てつれて行きけり 庭の蝶

 といった句のほうが自然でいい。

    蝶 見よや 親子三人寝て暮らす

 この句、あまり好きではないが、何度か声にのせて読んでみると、一茶のふてぶてしさ、哀れさが見えてくる。おなじ蝶でも、丈草の

    大原や 蝶の出てまふ朧月

 こうなると一茶にはない趣向。おぼろ月夜に蝶が舞うかどうか、そんな詮索はヤボの骨頂。花のファンタジーとして読んでもいい。

2009/06/03(Wed)  1022
 
 いろいろ資料を読んでいるうちに飽きてくる。
 気分転換に散歩する。雨が降っていると、散歩もおっくうなので、ビデオを見たりDVDを見たり。途中まで見て、おや、これは前に見たような気がするなあ、と思いはじめる。しかし、最後まて見ることもあれば、別のものを見たり。
 それにも疲れると、適当に本をひろってきて、読み始める。

 一茶の日記を読んでいて、

    太田屋仕出屋に入中食
    ワンワン喜太郎ト云者来
    仙台侯の舟ニ大竿
    千人塚 イカイ根に有

 という記述が出てきた。ざっと読んで、さて、何のことかわからない。
 一茶は、銚子の俳人、大里 桂丸を訪れて、いっしょに浜の見物に出かけた。「太田屋」という割烹旅館でお昼を食べた。桂丸は気をきかせて、芸者を呼んだらしい。
 千人塚は、銚子の、飯貝根(いがいね)にある。これはわかったが、「仙台侯の舟ニ大竿」というのがわからない。
 「ワンワン喜太郎」という芸者の名がおもしろい。「ワンワン」はイヌを連想させるのだが、客がワンワン(いっぱい)くるという含みもあるのか。田舎芸者なので、こんな名がついたものだろうが、別のことも想像させる。

 一茶はこの日記に、

    丘釣を女もす也 夕涼み
    釣竿を川にひたして 日傘かな
      浄国寺村に入
    下闇や 精進犬のてくてくと
    松の木に 蟹も上りて 夕涼
    涼涼や 汁の実を釣る せどの海

 といった句を書きとめている。さすがに、いい句が多い。
 精進犬という語もはじめて見た。犬が「てくてくと」歩いているのもいい。涼涼は、どう読むのだろうか。ほら、わからないことが出てきた。
 そんな詮索はどうでもいい。
 こういう句から、昔の房総の風景を思いうかべる。銚子の海辺を散歩しているような気がして楽しい。私の気分転換法。

2009/06/01(Mon)  1021
 
 (つづき)
 つい最近、テレビで、カザフスタンの若い女子学生たちの、日本語による弁論大会を見た。(’09・4・23。4チャンネル/8:45 P.M.)

 カザフスタン、アルマテイの国際関係外国語学校、東洋語学、日本語科の生徒たち、42名が、日本語を勉強している。
 (この大学では、17ケ国の語学科コースがあるという。)

 いうまでもなく・・・日本は、かなり長期にわたって、鎖国をつづけてきた。鎖国がよかったかどうか、これは問わないとして、結果的には、いちおう一国家、一民族、一言語、一文化という、まとまりのいい等質的な状態を保持してきた。
 このため、お互いに何もいわなくても、阿吽の呼吸で、暗黙に理解しあえるような、いわばラコニック(寡黙)なものを身につけてきた。
 そういう態度は、mutual dependence ともいうべきもので、外国人、とくにアメリカ人のような self−reliance は、私たちがもたないもの、とされてきた。だが、もはや、そんな概括は成立しない。

 このアルマテイの、日本語科の生徒たちが、弁論大会で選んだテーマは、 「子供の教育」、「(現代人の)将来をおびやかすこと」、「私が大学を作るとしたら」、「私はカザフ人」、「ほほえみの秘密」、「父の教えに」、「カザフスタンの教師(のおかれた)状況」、「ことば(自国語)をなくしたら自分もなくなる」、「流行と伝統のバランス」……
 いずれも20歳から22歳の、若い女子学生のスピーチで、日本語の学習歴は、2、3年。そのスビーチの論理的な展開に、彼女たちのしなやかな感性が裏打ちされていた。
 むろん、今の私たちもさまざまな外国語も勉強しているし、戦後は、外国の圧倒的な影響をうけて、かつてのように、それほど「まとまりのいい等質的な状態」を維持しているわけではない。

 ただ、テレビで、外国人で日本語を勉強している若い人たちを見ると、ありがたいと思う反面、ひどくむずかしい未来を選択したのではないか、という懸念もおぼえる。

 カザフスタンの女子学生たちが、近い将来、日本語に関係のある職業について、いっそう日本に親しみをおぼえてくれますように。
 彼女たちの self−reliance は美しい。

2009/05/31(Sun)  1020
 
 小学校5年、6年から、英語の学習が必修になる。小学校から英語の勉強にとり組む。わるいことではない。
 私などの場合、中学時代から英語教育にはほとんど無縁だった。その後、英語にかぎらず、他の外国語も学習したが、いつも独学だったから、現在の学校教育には基本的に賛成する。
 「外国語を読む」ことから、「外国語を話す」教育への転換は、21世紀のグローバルな社会への適応として、社会の needs を反映したものと見ていい。

 しかし、私はこうした教育に大きな懸念をもっている。

 「外国語を読む」には辞書さえあればいい、いちおう意味がわかればいい。「外国語を話す」ためには、ネイティヴの発音からしっかり身につけたほうがいい、という考えかたに、私は危険なものを感じる。

 こういう考えかたは――確実に外国語の読解力を退化させる。

 書物ばかりではなく、インターネットなどによる思想、知識、情報等の伝達手段としての「ことば」の機能をスポイルすることになる。

 じっくりと本を読むことで身につくものがあるのだ。

 「外国語を話す」教育が何をもたらすか。
 ほとんどの人が、カタコトながら外国語を話せるようになる。それはいい。しかし、ほんとうに、外国の人と心からの会話をかわすことはできないだろう。コミュニケーションによる意志伝達の機能としての言語は、たかが、小学校5年、6年からの英語の学習で身につくものではない。

 もし、外国語をほんとうに理解し、ほんとうにコミュニケートが可能な教育をのぞむなら、別のコースを想定すべきだろう。

 私は、その具体的な例を外国、たとえばカザフスタンの日本語教育に見る。
        (つづく)

2009/05/29(Fri)  1019
 
 人生の出会いのありがたさは知っているつもりである。現在の私が在るのは、けっして数多くはないけれど、人生のそれぞれの時期に、いろいろな人に出会えたからだった。

 もの書きとしては、荒 正人、埴谷 雄鷹、佐々木 基一、本多 秋五、山室 静、平田 次三郎といった先輩批評家たち。野間 宏、安部 公房たち。

 芝居の世界では、内村 直也、原 千代海といった劇作家たち。この人たちのことを、書いてみようか。
 そして、たくさんの役者たち、女優たち。これは書けないだろう。

 年をとってからは、やはり出会いはなくなってくる。
 まして、刎頸の友というほどの友だち、知友は少なくなってくる。もはや、幽明境を異にしてしまった友だちが多い。

 エディット・ピアフは、アメリカに行ったとき、たくさんの有名人と知り合ったが、そのなかで、ただひとり、マルレーネ・ディートリヒとは、一目見たときからすっかり意気投合して、親友になったという。
 こういう出会いは、運命的なものかも知れない。

 私は、芸術家どうしの反目、確執に興味がない。そうではなく、死友というべきかかわりをもつ芸術家どうしの出会いに関心をもつ。
 そういうかかわりを『ルイ・ジュヴェ』で書いたが、いま書き続けている仕事でも、それがひとつのテーマになる(と思う)。
 いつ完成するのかわからないのだが。

2009/05/28(Thu)  1018
 
 ジャニス・ジョプリンは、27歳で亡くなっている。
 パッツィ・クライン、享年、31歳。
 マリリン・モンロー、享年、36歳。
 ダイナ・ワシントン、享年、39歳。
 ヘレン・モーガン、享年、42歳。
 ベッシー・スミス、享年、44歳。

 みんな、若くして亡くなっているなあ。可哀そうな女たち。
 彼女たちは、それぞれが輝かしい栄光のなかに生きた。だが、そういう人生が、現実には、悲惨といっていいほどの苦しみにさいなまれて、それぞれの人生を終えている。

 私は思いがけず長寿にめぐまれている。長生きできたことは幸運としかいいようがないが、いのちをながらえたことがかならずしも幸福だとは考えられない。むろん、不幸とはいえないだろうけれど。

 長生きしたおかげで見えてきたこともある。
 しばらく前から、ある仕事にとりかかっているのだが――若くして亡くなった女たちに対するレクィエムになるだろう。

 私はペシミストなのだ。しかし、彼女のことを書こうとしているときは、はっきりオプティミストになる。

2009/05/26(Tue)  1017
 
    人の貧富は天なり命なり、よしや生涯 薪(たきぎ)を樵(こり)て世をわたるとも、心清くは、朱買臣(しゅばいしん)にも耻(はづ)べからず、死灰(しかい)の人に愛せられんは愛せられざるにしかず

 馬琴を読んでいて、こんな一節にぶつかった。(「三勝半七」)
 江戸時代の作家が「愛」ということばを使っていたことがわかる。

 もつとも私のように無教養なもの書きには、江戸時代の作家のものはなかなかにむずかしい。引用した部分でも、朱買臣(しゅばいしん)の話が出てくる。
 前漢の人。家が貧しいため、薪(たきぎ)を切って売ったが、いつもふところに本を入れて歩きながら読んだ。妻は愛想をつかして、去った。
 のちに、会稽の太守として、故郷の町を通ったとき、前妻はこれを見て恥じ、みずから縊れて死んだという。
 死灰(しかい)がわからない。簡野 道明先生の『字源』には、死灰復然(しくわいまたもゆ)が出ている。
 「韓長儒伝」に・・・
 蒙の獄吏、田甲が、安国をはずかしめた。安国はいう。「死灰ひとり、また燃えずや。」甲いわく、「燃ゆるは すなわちこれに溺る」と。

 江戸時代の読者にはこれでわかったのだろう。「然」は、「燃」の正字という。これも、はじめて知った。
 とにかく無教養な私は、馬琴先生の学識の深さはわかるけれど、「死灰(しかい)の人に愛せられんは」がよくわからない。

 ついでに、馬琴の書いたエロティックなシーンを。

    さてなん、淫婦(たおやめ)密夫(みそかお)は折を得て、終(つい)に膠漆(こうしつ)の思ひをなしぬ。     (「お旬傳兵衛」)

 これだけ。
 江戸時代に生まれなくてよかった。(笑)

2009/05/25(Mon)  1016
 
 水上 滝太郎の随筆を読む。

     大ざっぱな言方だが、吾々の父母の時代迄は、他を評しおのれを語ることをいやしみさげすむ風が強かった。それが何時の間にか、男も女も、老も若きも、地位職業の別無く、口を以て筆を以て、他を評しおのれを語るに暇なきが如き時代相を現出するに至った。よりて来るところの社会的原因の存することはいふ迄も無いが、狭く文筆の方面に限り、直接の誘引を求むれば、随筆の流行を数へることが出来る。彼(か)の自然主義の運動が現実暴露を引っ提唱し、平面描写を推奨し、やがて崩れて日本独得の心境小説の発達をみるに及んで、作家は各自日常身辺の雑事を綴ることになづみ、その傾向の赴くところ、随筆の流行を招来し、この文学の形式は、最も自由に手軽に他を評しおのれを語るに適するため、専門文学の士にあらざる人にも筆を執ることを容易ならしめた。

 むずかしい文章ではない。それに、こんなみじかい一節からも、大正から、昭和初年にかけての作家たちは、みんな早くから老成していたことがわかる。それは認めなければなるまいが、いまでは、やはり、読みにくい。
 たしかに、ネコもシャクシも、馬の骨も牛の糞も、随筆という表現形式になづむようになった。昭和初年には、森田 たまのような随筆専門のもの書きが登場する。

 久しぶりで、昭和初年から戦後にかけての森田 たまの随筆を読んでみたが、これはもう論外だった。
 日中戦争のさなかに、従軍作家として中国に行く。このときの「揚子江」、「支那服」、「一角二角」などという文章を読むと、戦前の日本の女のバカさかげんが、悲しくなる。(この「悲しくなる」は、森田 たまのお使いになることばのパロデイ。)

 水上 滝太郎の随筆には、おのれを持することのきびしい気骨が感じられるのだが、森田 たまの文章には大和撫子といった気韻などはない。生きながら死臭をあげているような感じで、読めたものではなかった。

 私が大嫌いな女もの書きは、森田 たま、芝木 好子のふたり。いや、まだほかにもいるのだが、いずれあとでとりあげるつもり。

2009/05/23(Sat)  1015
 
 若いくせに年寄りじみたことをいう人間を見ると、片腹痛く思うが、年寄りのくせに若がっているのを見ても、しばしばキザに感じる。

 私の意見ではない。四十代になった水上 滝太郎が書いていた。(昭和8年)

      同じ四十代になってみると、いずれも頭髪は薄くなり、白髪もちらちらまじり、或者は持病に悩み、或者は下腹や頸の廻りに無用な脂肪の溜った年寄型となり切って、前途の夢は乏しくなり、……(後略)

 水上 滝太郎は年齢とともに、食物の嗜好がいちじるしく変わり、「西洋料理はつとにいやになり、支那料理さへも嬉しくなくなり、まぐろの刺身に箸が向かず、混合酒の技巧が鼻について来たが……」と書いて、文学の好みまでも変化してきたと書いている。

 作家はさらにつづける。
 年齢は人の性質をやわらげることもあるが、ときには、人を頑固にし、融通をきかなくさせる。多年努力して築きあげた自分の立場から、一歩も外に出たがらなくなる。個性の違いがはっきりしてきて、合唱がへたになり、人真似ができなくなる。

 私は水上 滝太郎を尊敬している。彼の意見におおむね賛成する。ただし、いささかの憫笑をもって見ているといわざるを得ない。(私は舞い舞いの古狐に魅いられた老いぼれの、しれ者。相手が水上 滝太郎だろうと何だろうと気にならない。)

 水上 滝太郎がこれを書いた当時、やっと40代の半ばだったはずである。
 「はなやかな夢想はけしとんだが、四十代には四十代の人生があり、活動があり、努力があり、文学があると思つている。感覚は鈍り、花火のやうな感激はなくなつたが、者を見る眼は深く広く、社会人事に関して総合的に考える力は加つた。人生を短編小説的見方では見ず、長編小説的に見る能力は、次第に恵まれて来るやうである。」
 やっぱり、大作家はいうことが違うなあ。(笑)
 いささか皮肉をこめて、こういう人生観、文学観で、社会人事に関して総合的に考える力をたくわえた作家を尊敬したくなる。
 私などは、アメリカの金融危機が日本の産業を直撃するなど、どう考えても理解できないことばかりだし、社会人事に関しても、大きく緩和された労働市場の規制、雇用の悪化、ハウジング・プアと呼ばれる人々があふれている現実を長編小説的に見る能力などまったくない。いじめ、不登校、自殺、そんな子どもたちの人生を長編小説的に見るどころか、短編小説的見方でも見られない。

 私ぐらいの年齢になれば、前途の夢どころではなくなるが、四十代になって頭髪が薄くなったり、白髪まじり、なかには持病に悩み、下腹はメタボといった中年になり切ってしまうのは早すぎる。そこのところだけ、水上 滝太郎に賛成。

2009/05/22(Fri)  1014
 
 去年の9月。ロシアが急速な経済発展をつづけ、まさに世界経済を牽引するとみられてきた時期。日本とロシア間に、光海底ケーブル(RJCN)が開通した。

 このRJCNは、新潟の直江津と、ロステレコムのナホトカをむすぶ大容量の光海底ケーブル。南北の2ルート。それぞれの長さ、約900キロメートル。伝送容量は、それぞれのルートが、640Gbpsという。

 これまで使われてきたインド洋経由、ないしはアメリカ経由のルートに較べて、新ルートでは、東京=ヨーロッパ間を最短ルートでむすぶことになる。

 光海底ケーブルについて何も知らない私がこんなことを記録しておくのは、なんともおかしいことに違いない。遠い将来、誰かがこれを読んで思うかも知れない。
 なんだ、21世紀の老作家はこんなことぐらいに驚いていたのか、と。

 私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』(第二部/第1章)で、1925年にルイ・ジュヴェが書いたエッセイをとりあげた。ほんの少し前の1923年という時代を、ジュヴェがどう見ていたか。
 その一節に・・・・

    ドイツでは「カリガリ博士」、ロシアでは「戦艦ポチョムキン」。チャーリー・チャプリンは栄光のさなかにある。(中略)真空管ラジオを発明したマルコーニは無線電信網が世界をおおうと宣言し、あまり知られていない学者、ポール・ランジュヴァンの海底通信の研究。
    オランダのニールス・ボーアは核の構造についての研究でノーベル章を受けた。ジャーナリズムは、ツタンカーメンの発掘、ヴァルター・ラテナウの暗殺、レーニンの引退、ムッソリーニのローマ進軍の報道に忙殺されている。

 と書いている。

 ジュヴェが、こういうふうに「過去」を回想したことは一度もない。1923年、彼はコポオと別れ、自分の劇場で旗揚げをする。なんでもない事実の羅列に、じつはジュヴェの痛切な感慨、自負が秘められている(と、私は見たのだった。)
 私が光海底ケーブルについて書きとめておくのは、そんな意味はない。ただし、こんなことまでブログに書いておく。ある人への深い感謝の想いをこめて。

2009/05/21(Thu)  1013
 
 私の「宝塚」。
 淀 かほる、明石 照子、毬 るい子たち。もっともっとたくさんのスターたちをおぼえているけれど、名前だけははっきりおぼえていながら、顔や姿は記憶が薄れている。

 へんなことだが――春日野 八千代、越路 吹雪までさかのぼったほうが、かえって忘れていない。

久慈 あさみ、淡島 千景、南 悠子、寿美 花代あたりの時代になると(久慈、淡島、寿美の映画はおぼえているけれど)、どういうものか那智 わたる、深山 しのぶなどの舞台のほうが鮮明に思い出せる。
 いい舞台だったかどうかよりも、おそらくその頃に見た回数の多寡によるのだろう。

 されば――これより女護の島にわたりて、つかみどりの女を見せん、といきたいところだが。
 本城 珠喜は美女だったなあ。ああ、去年の雪、いまいずこ。
 ほかにもたくさんの美男美女がいた。……
 美山 しぐれ、緑 八千代、星空 ひかる、平 美千代、小文字 まり、大路 三千緒、都路 のぼる……
 桜も散るに嘆き、月はかぎりありて入佐山……
 名前が出てきても、それぞれがどんな女の子だったか、目鼻だちさえよく思い出せない。中村 光夫のセリフではないけれど、年はとりたくないものです。(笑)

 奥山は六区(浅草)のコメディアンたち、新派(新劇)の舞台役者ともなれば、まだしもおぼえている。おかしな話だが。

 かなりボケがきている作家がおかしなことを書いても、「コージートーク」の読者のみなさん、どうかお咎めなさいませんように。なにせ、認知症直前作家なのだからお見逃しあれ。(笑)

 テレビで宝塚音楽学校の入学式にのぞむ女の子たちを見た。たまたま、安蘭 けい、遠野 あすかの最後の公演を見て、この新入生たちから、やがては安蘭 けいや、遠野 あすかたちが出てくることを考えて、なんとなく感動した。
 つまり、私はそんなミーハーなのである。

2009/05/20(Wed)  1012
 
 つい最近、トウコさん(安蘭 けい)の退団公演、ミュージカル、「My dear New Orleans 愛するわが街」を見た。
 舞台に感動したばかりではなく、もはや二度とこのふたりを見ることがないと思うと、悲哀が胸に迫ってくる。

 安蘭 けいがすばらしかったのは当然だが、遠野 あすかは、この前の「スカーレット・ピンパーネル」よりもずっといい。もともと芸域のひろい女優さんだが、「マルグリート」が清純な役というだけでよかったのに、今回の「ルル」には、あだっぽさ、あえていえば、淪落の女といった翳りまで、みごとに演じてみせた。

 このミュージカルの台本と演出のレベルの高さ。そして、ショー「ア・ビアント」を見て、現在の「宝塚」が、どれほど大きく発展してきたか、あらためて感慨をおぼえた。

 おなじ、星組で思い出すのだが、明石 照子、淀 かおるたちと、安蘭 けい、柚希 礼音の違いの大きさを思う。(なにしろ、古いね。)

 ショー「ア・ビアント」は、あくまで安蘭 けいの「さよなら」仕様のショーに仕立てられているが、かつてのグランド・レヴュー「シャンソン・ダムール」(高木 史郎/構成・演出)とは、やはり比較にならないほど高度の洗練を見せている。
 演出上、かつての「シャンソン・ダムール」には、宝塚に独特のスペキュタキュラーな要素や、戦前のノスタルジックなレリッシュ(風味)があった。シャンソンにしても、「サ・セ・パリ」、「シャンソン・ダムール」、「パレレ・モア・ダムール」あたり。
 ところが「ア・ビアント」では、たとえピアフや、「パダム・パダム」などがメロディーとしてちりばめられていても、かつてのパリ、たとえばモンマルトルを連想させない。
 私などが知っているシャンソンは、音楽的なレリック(遺物)にすぎない。
 ここにあるものは、まったくあたらしい感覚の音楽なのである。

 時代は「宝塚」においても、はげしい変貌を迫っているのだ。

 このミュージカルを見た数日後、たまたまテレビで宝塚音楽学校の入学式を見た。(’09・4・18)
 なんといっても宝塚の入学式なので、若くて可愛い女の子たちがたくさん出てきた。97期生。40人。27倍の難関を突破した選り抜きの才媛ばかり。
 グレイの真新しい制服もまぶしいばかり。

 彼女たちの姿に――かつて私の胸をときめかせた美女たち、美少女たち――星空 ひかる、畷 克美、南城 明美、槇 克己といった遠い日の美しいカップルズ、さらには、本城 珠喜や、天城 月江たちのまぼろしが重なってくるようだった。

 いつの日にか、97期生たちのなかから、安蘭 けい、遠野 あすかたちが、そのときのファンの心をときめかせ、そのイメージは朽ちることなく、ファンの内面に棲みつくだろう。

 やがて人々の熱狂的な支持をえるはずの人も、今はまだ誰にも知られずに、ようやく地平の彼方に姿あらわしている。
 私はそのことに感動していた。

2009/05/19(Tue)  1011
 
 ある政治家のことば。

 1981年、日本の首相が、アメリカの議会で演説をした。

    日本は吠えるライオンであるよりも、ハリネズミであるべきだと思います。

 まだ冷戦が続いていた時代、日本の覇権主義といったものを、中国などがしきりに気にしていた。これに対して、日本はもっぱら専守防衛の姿勢をとっていた。
 そこで、この首相は「吠えるライオンであるよりも、ハリネズミ」という政治的信条を表明したのだろう。

 なぜ、ハリネズミなのか。この当時、政治学者、アイザイア・バーリンの著作、『キツネとハリネズミ』が読まれていたため、外務官僚の誰かが「ライオンとハリネズミ」という比喩を思いついたのではないか。私はそんなことを想像した。
 演説の原稿を棒読みにした首相が、まさかアイザイア・バーリンを読んだとは考えられなかった。

 ここからファルスになる。
 通訳が「ハリネズミ」を「賢いネズミ」と訳したという。
 ネズミは誰でも知っている動物だが・・・ハリネズミはあまり一般によく知られている動物ではない。「ミッキー・マウス」は可愛いネズミだが、ふつう、アメリカ人のネズミに対する観念は、薄汚い、狡猾な、いやしい動物であって、あまりいい印象をもっていない。スラングでも、ネズミといえば、密告者とか裏切りを意味する。
 (ジェームズ・キャグニーのギャング映画でつかわれていた。ネズミに対する反感は、ウデイ・アレンの映画、「ギター弾きの恋」を見ればわかるだろう。)

 せっかくの演説も、こんな誤訳のおかげで、列席のアメリカ人に驚き、あるいは不快感をあたえた。もっとも本人は何も気がつかなかったらしい。
 この首相のお名前は、鈴木 善幸という。
 われらが世紀末、「失われた10年」のかぎりなく無能に近い宰相のおひとり。

2009/05/18(Mon)  1010
 
 作家のことば。

     恋には二つのことしかない。からだとことば。

 ジョイス・キャロル・オーツ。
 いいことば。Bodies と Words は複数。

     まったく知らないヤツがキスしてくれるなんていいわねえ。まったく知らないヤツなら。

 ウン?
 こういうノも、うっかりすると意味がよくわからない。ただし、こっちの頭がわるくても、シチュエーションはわかるような気がする。(笑)
 さすが、メエ・ウェスト。

2009/05/16(Sat)  1009
 
 ときどき、誰かのことばを読む。たいしたことばでなくても、読んだときに、何かしら考える。たいていはそのまま忘れてしまうけれど。

    本当のエレガンスというものは、あくまで内面のものです。もし、それが身につけば、あとはそこからつづくのです。

 ダイアナ・ヴリーランド。どういう女性なのか知らない。
 いいことばだよね。しかし、よくよく考えると、少しわからなくなってくる。「本当のエレガンスというものは、あくまで内面のものです」といわれても、内面からにじみ出てくるエレガンスなんて、なかなか見えるものではない。まして、かんたんに身につくものでもないだろう。
 文学上の鍛練(ディシプリン)とおなじで、あくまで内面のものだが、それが身につくまでがたいへんで、鍛練したあとはそこから書けるといわれても得心できない。

    優しさはハートの優雅さです。スタイルがマインドの優雅さであるように……

 これはメイ・サートンのことば。
 これもいいことばだが、ほんとうは意味がよくわからない。なんとなくわかるような気はするのだが。こっちの頭がわるいせいだろう。(笑)

2009/05/15(Fri)  1008
 
(つづき)
 当時の女優たちのアンケート。テーマは「私淑する俳優」。これもおもしろい。

 浦辺 粂子 → 尾上 菊五郎、中村 翫右衛門、フランソワズ・ロゼエ、アドルフ・マンジュウ。
 霧立 のぼる → ゲーリー・クーパー、ジーン・アーサー、クローデット・コルベール。
 高山 広子 → 田中 絹代、徳大寺 伸、佐分利 信、飯田 蝶子、浅香 新八郎。
 椿 澄枝  → 小杉 勇、三宅 邦子、ミリアム・ホプキンス、ベット・ディヴィス、アナベラ、ハーバート・マーシャル。ツアラ・レアンダー。
 真山 くみ子 → マーナ・ロイ。
 三浦 光子 → 田中 絹代、ジーン・アーサー。
 水戸 光子 → クローデット・コルベール。
 三宅 邦子 → シャルル・ポワイエ、ポール・ムニ、マルセル・シャンタル、シルヴィア・シドニー、ベッテイ・ディヴィス。
 村田 知英子 → 小杉 勇、三宅 邦子、ベット・ディヴィス、ハーバート・マーシャル。
 山田 五十鈴 → 尾上 菊五郎、中村 翫右衛門、田中 絹代、吉川 満子。
 山路 ふみ子 → 岡田 時彦。
 森川 まさみ → エリザベート・ベルクナー、クローデット・コルベール、マーゴ。
 若原 春江 → ベット・ディヴィス。

 高山 広子、三浦 光子、山田 五十鈴が、田中 絹代をあげている。
 田中 絹代は「マダムと女房」、「花ある雑草」、「愛染かつら」から、戦後、「不死鳥」で失敗したあと、「好色一代女」、「サンダカン八番娼館」まで、長いキャリアーを積み重ねて行った名女優だった。
 日本の女優たちが「私淑」したハリウッドの俳優、女優たち。ベット・ディヴィス、クローデット・コルベールのふたりがリーディング・レイデイだったらしい。
 クローデットは、アカデミー賞の「或る夜の出来事」の余波だけではなく、「淑女と拳骨」が公開されたせいたろう。
 椿 澄枝がツアラ・レアンダーを、三宅 邦子がマルセル・シャンタルを、森川 まさみが、エリザベート・ベルクナー、マーゴをあげていることに驚かされる。

 日米戦争はまだ少し先のことだが、外国のスターたちの誰が人気があったのか。なぜ、人気があったのか。その理由は何だったのか。そんなことを考えながら、このリストを見ていると、もう誰も知らない俳優、女優たちの顔や姿があざやかに浮かんでくる。
 当時、フランス映画「格子なき牢獄」が公開されようとしていた。雑誌の表紙に、美しいコリンヌ・リュシェールの写真が出ている。
 その裏は「光と影」の宣伝。島津 保次郎/「東宝」入社第一回作品。原 節子、佐分利 信の写真が出ている。
 1939年。数年後に日本が壊滅するとは誰ひとり考えもしなかった時代。

2009/05/14(Thu)  1007
 
 戦前の映画雑誌を見ていて(読んでいたわけではない)小さなアンケートを見つけた。 「松竹」、「東宝」、「大都」のスターたちがめいめい「私淑する俳優」をあげているのだが、「私淑する」というあたりがなんとも奥ゆかしい。

 大川 平八郎 → ポール・ムニ、スチュワート・アーウィン、ハーバート・マーシャル。
 大日向 伝 → ゲーリー・クーパー、スペンサー・トレイシー、小杉 勇。
 岡  譲二 → コンラッド・ファイト、ヴェルナァ・クラウス、ポール・ムニ。
 斉藤 達雄 → アレクサンダー・モイッシ。
 佐伯 秀男 → クラーク・ゲーブル、ゲーリー・クーパー、フランチョット・トーン、スペンサー・トレイシー。
 菅井 一郎 → ルイ・ジューヴェ、小杉 勇、原 節子。
 丸山 定夫 → 井上 正夫、曾我廼家 五郎、藤原 鎌足。
 見明 凡太郎 → 小杉 勇、河村 黎吉、スペンサー・トレイシー、ベット・ディヴィス。
                                        
 丸山 定夫は、移動演劇で公演した広島で原爆死した俳優。
 藤原 鎌足は、黒沢 明の「七人の侍」に出たから知っている人も多いと思う。ほかの俳優たちはもう誰もおぼえていないだろう。
 戦前、小杉 勇の演技が高く評価されていたことがわかる。「土」や、「裸の町」、「五人の斥候兵」といった映画が代表作。戦後はまったく姿を見せなくなった。一度、何かのコマーシャルで見たけれど。
 ハリウッド映画では、スペンサー・トレイシーをあげている人が多い。
 女優をあげているのは見明 凡太郎の、ベット・ディヴィス。菅井 一郎が原 節子。 私としては、斉藤 達雄がアレクサンダー・モイッシをあげていること、菅井 一郎がルイ・ジュヴェをあげていることに驚かされた。  (つづく)

2009/05/13(Wed)  1006

 ドイツ語がわからないため、ヘルマン・ケステンの作品はほとんど読んだことがない。それでも「現代ドイツ作家論」という評論は、何度も繰り返して読んだ。
 原題は「わが友/詩人たち」。
 作家論というよりも自分の知っている19人の作家、詩人たちについての回想というべきもので、ホフマンシュタール、ツヴァイク、トーマス・マン、ハインリヒ・マンといった著名な作家たち、トラー、ヨーゼフ・ロートといった、あまり知られていない劇作家、詩人たちがとりあげられている。

 この19人のなかで、ツヴァイクはブラジルで、トラーはニューヨークで、クラウス・マンはカンヌで、ヴァイスはパリで自殺している。そのほかにも、ロートはパリの施療院で、カイザーはスイスで窮死している。
 ツヴァイクは、日米戦争が始まって、日本軍がシンガポールを攻撃したことを知って自殺しているし、エルンスト・ヴァイスは、ドイツ軍がパリを占領したとき、浴槽のなかでいのちを絶っている。
 ほかの作家たちも、ドイツから亡命しなければならなかった人々ばかりだった。
 ドイツの文学者たちの、きびしい生きかたに較べれば、私などは、まるっきりのほほんと「戦後」をかいくぐってきたもの書きにすぎない。

 人並みに戦争で苦労はしたが、戦後になってから活動しはじめたため、ドイツの亡命作家たちの言語に絶する辛酸を知らない。だから、私はドイツの亡命作家について語る資格はない、といううしろめたさがある。それでいて、こんな悲惨な時代に生きた作家、おそろしく陰惨な時代にまつわっている苦難は、忘れてはならない。そういう思いから『ルイ・ジュヴェ』を書いた。私なりの決着のつけかただった。
 スターリンが死んだとき、わざわざ狸穴のソヴィエト代表部に出かけて、備え付けのノートに、「最も高潔な人の名に、人類の記憶よ、ながくとどまれ」などと、ベタベタに感傷的な弔辞を書きつけた中野 重治のような決着のつけかたではなかった。私は中野 重治に対して冷たい侮蔑しかおぼえない。

 いま、私がヘルマン・ケステンを読むのは、ドイツの作家たちに対する敬意を忘れないためと――自分の「戦後」をあらためてたしかめるつもりで読む。むろん、自分をケステンと比較するつもりはまったくない。もとより自虐の思いではない。

2009/05/12(Tue)  1005
 
 ヘルマン・ケステンのことば。

   すぐれた散文家かどうかは、書き出しの1ページを読めばわかる、わるい散文家かどうかも。

 これは本当のことだ。

 私のクラスから、かなり多数の翻訳家たち、けっして多くはないが、エッセイスト、作家が出た。自分のキャリアーについては語るべきこともないが、このことだけはうれしく思っている。
 私がクラスでいい続けてきたのは、じつに平凡なことだった。

     いい翻訳かどうかは、書き出しの1ページを読んだだけでわかる、おもしろくない翻訳かどうかも。原作者は、たぶん自分の作品をおもしろいと思って書いているのだから、きみもおもしろく訳さなきゃ。

 こういう私の考えかたは、

     いいか、きみの演じる人物には、劇場の色彩ゆたかな幕、脂粉の匂いが感じられなきゃ。お客は、自分が芝居小屋にいるっていうイリュジォンを味わうために金を払っている。……観客からその幻想を奪うってノは、間違いもいいところだぜ。

 ということばを私なりに(つまりは勝手に)発展させたものだった。
 ルイ・ジュヴェのことば。映画「俳優入門」から。

2009/05/11(Mon)  1004
 
 絶世の美女を見たことがある。至近距離で。「パリ・ソワール」の横の坂道に出たとき、車が坂を登ってきた。私は車をよけた。バック・シートの女性が顔をあげた。ダニエル・ダリューだった。まさか、こんな場所でフランスの美女とすれ違うとは予想もしなかった。一瞬、私の顔に驚きがひろがっていたに違いない。
 彼女はちらっと私を見ただけだった。車は私の横を通りすぎて行った。
 それだけのこと。私は茫然自失して彼女を見送っていた。
 ひょっとすると、あのダニエル・ダリューは白日夢だったのか。それとも、私の妄想だったのか。

 日本でもダニエル・ダリューはよく知られていたが、実際にはわずかな映画しか輸入されなかった。

 戦前の「うたかたの恋」(36年)も、日本では公開されず、戦後になってから見ることができた。戦後、「輪舞」(50年)などでダニエルの健在を知ることができた。

 私は「不良青年」(1931年)を、戦後すぐの池袋で見た。この映画は、戦後の混乱のさなか、突然単館で公開されたもので、わずか一週間で消えた。この映画を見たのは偶然だったが、私にとっては幸運としかいいようがない。
 だが、ダニエル・ダリューが、ハリウッドで撮った「パリの怒り」(38年)も、パリでとった戦争直前の「心のきず」(39年)、戦時中の「はじめてのランデヴ」(44年)などは見ることができなかった。
 こうした映画は、フランスではビデオにもなっていない。
 つまり、もっとも美しかった時期のダニエルを私たちは知らない。

 私たちの外国文化に対する理解はいつも偏頗なものなのだ。ダニエル・ダリューのことにかぎらないが、私の外国文化に対する理解が偏っているという自覚は、いつも私の心から離れない。

2009/05/09(Sat)  1003
 
 「私の愛した男たちは、みんな天才ばかり。これこそは、私が主張するただひとつのこと」と、イサドラ・ダンカンはいう。
 すごいね。さすがだなあ。こういうイサドラを私は尊敬する。と同時に、いささかあきれる。

 ロダンは、イサドラをモデルに彫刻を作った。このとき、イサドラのあられもない姿態を水彩で描いた。ロダンは終生、このデッサンを筐底に秘めていた。それはきわめてエロティックなものだったが、ポルノグラフィックなものではなかった。ロダンはほかの女たち、たくさんの貴族の女性たちや、下層の娼婦たちまで、ほんとうにエロティックなヌード・デッサンをたくさん描いている。
 20世紀の最後になって、ようやくこのデッサンは発表されたが、芸術家として女の本質をとらえようとしたロダンのすさまじい執念を見ることができる。

2009/05/07(Thu)  1002
 
 あきれ返ってものもいえねえ。そんな話を書いておこう。

 東京都の下水局が制服、20000着を新調した。やがて、できあがってきた。
 ところが、胸につけるワッペンが違っている。
「東京都下水局」という文字の下に添える水色の波線が、内規と違ったらしい。それを削ったという。
 この作り直しの費用が、3400万円。

 このニュースは、「読売」(’09・4・14)に出ていた。

 えらい! 「東京都下水局」を褒めてつかわす。
 現在、非常な危機といわれる経済危機のさなかにあって、よくぞ、ここまでアホウなことを仕出かした。「東京都下水局」、あっぱれである!

 東京都の「下水局」なのだから、所管の長は、石原 慎太郎ということになる。石原君が、これをどう処分するか。

 私が東京都知事なら、以下のように裁定する。

 胸につけるワッペンのデザインをしたヤツに、報償金、100円をさしつかわす。
 理由は「東京都下水局」という文字の下に添える波線などという、まぎらわしいものをつけた功績に対して。その氏名、身分を公表して、その功績を表彰しよう。

 つぎに、このワッペンを発注した係の者に、報償金、50円を与える。水色の波線というごとき内規を忠実にまもったコッパヤクニンの典型として表彰に値する。

 さて、このワッペンをつけた制服ができあがったとき、この水色の波線が内規と違ったことに気がついたコッパに、監督不行き届きとして、3千万円の罰金、または、それに該当する給与削減を行う。「下水局」だから水色などという発想がよろしくない。むしろ、ドロ水色をもって波線とすべきである。

 さてつぎに、このワッペンを取り替えるよう命令したコッパの上司に対して、3400万円に該当する額の退職金削減をもって、即日、ご退職をお願いする。これほどの輝かしい退職者として、その氏名を公表、都庁前に「下水局」全員が整列し、お見送り申しあげる。これは最高の栄誉礼である。

 最後に、「東京都下水局」局長に、在職中、ずっとこの制服の着用を命じる。デザインはいいし、綺麗なワッペンはついているし、どこに出てもはずかしくない。
 この制服の着用をこのうえなき名誉と心得るべし。

 石原都知事も、今後、せいぜいこの制服の着用に相つとめられるべきこと。

2009/05/05(Tue)  1001
 
 「コージートーク」は、その日そのとき、何かを見たり読んだりして、ふと心に浮かぶよしなしごとを書きとめてきたもの。書く材料はいくらでもある。ただし、自分ひとりでおもしろがっているようなことも多い。
 落花、紛々として、やや多きをおぼえ、美人、酔わんと欲して顔を赤く染める。そんな一日、「コージートーク」の1001本目を書く。(’09・5・5)

     君起舞   きみ 立ちて舞え
     日西夕   日 西に 夕づく

 うろおぼえの李白の一節を口ずさんで、一杯をもって咽喉をうるおす。

 思いがけず長生きしたおかげで、いろいろな人や、ものごとに接してきた。私なりに感動したこと、おもわず見とれてしまった女人のこと、あるいは、あきれたことなど、いろいろとある。
 今後もそんなことを書いてみようか。
 あるいは、もう少し別な工夫をしてみようか。格別、何も思いつかないのだが。

 感動したことを書く。もとよりもの書きとしての願いだが、自分が感動したことを書いて、人さまに感動してもらうなどという了見はもたない。そもそも不可能なことだから。「仕事をしている日が、自分には最高の日なのだ」と、ジョージァ・オキーフがいう。私は感動する。しかし、こういうことばはジョージァ・オキーフだからカッコいいのであって、私などがいうと冗談にもならない。

     胡姫貌如花   ハリウッド・スターの美貌 花のごとし
     笑春風     春風に ほほえみ
     羅衣舞     うすぎぬの舞

 こんな女人のことを書いてみたら、さぞ楽しいだろうと思う。これがなかなかにむずかしい。日本の狂言のように――美人に恋をするという趣向は、枕物狂いの老人が美少女に恋いこがれて、孫たちに心配をかける。
 もう一つ――天下に名を得た画工の金岡が、大内の女房を恋して、自分の妻君の顔に彩色してみるが、どうにも似た顔にならない。
 狂言には、せいぜいこのふたつのプロットしかない。
 私が女人のことを書いたら、おそらくファルスにしかならない。いっそ、芝居仕立てで書きたいものだが、そんな余力も残ってはいない。

 さて、これから「コージートーク」はどう変わるだろうか。
 感動したこと。女人のこと。あきれたこと。なんでもない瞬間のこと。白日夢であれ妄想であれ、日頃はすっかり忘れていながら、どうかして心のなかにまざまざとよみがえってきたことども。
 しばらくはそんなことを書きつづけよう。

 「コージートーク」を読んでくださる方々には感謝している。そして、田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに、心からの感謝をささげよう。きみたちのおかげで、「コージートーク」は1001本目、つまり今日を迎えることができた。ありがとう。

2009/05/02(Sat)  ☆1000☆
 
(つづき)
 ノエル・カワ−ドの“Shadows of the Evening”。幕切れ。
 「ジョ−ジ」は、愛人と妻の前で語る。

ジョ−ジ 人生は神さまがくれるすばらしい贈りもの、というならそうかも知れない。それに、人間はその発明の才や勇気、いとおしいまでの優しさで、さまざまな奇跡を起こしてきたかも知れないし、それが違うとはいわない。
     ただ、おれは嘆かわしいんだ。そうやってどんなに奇跡を起こそうと、理不尽なまでの冷酷さ、強欲、恐怖心やうぬぼれとかのせいで、どんどん帳消しにされてしまう。
     おれのいいぶんが100パ−セント正しいなんていってるわけじゃない。
     天国のどこかから、世界のあやまちを匡せ、なんて特命を受けているわけじゃない。
     おれなんざ、ただ、そこそこに注意深い男ってだけさ。
     もうじき死ぬけど、やれ神秘だのロマンティックな絵空事なんかにはぐらかされるのは、まっぴら御免、そう思っているだけの男だよ。

リンダ  そうとは言い切れないわ。神秘としかいえなかったことが、ある日、突然はっきりするかも知れないし、ロマンティックな絵空事が現実になることだってあるのよ。

ジョ−ジ そうかも知れない。天国、地獄、煉獄、わるい鬼とかサンタクロ−ス、お伽ばなしの夢ものがたり、みんなそうだ。
     何でもわかる人間だとは思っていない。何もわかっていないってことはわかっている。
     それにこの説明不可能なナゾの前に立てば、世界じゅうのどんな司祭だの哲学者、科学者、いや、手相見だって、おれとおなじくらい何もわかっちゃいない。
     結論の出ない憶測にかまけている時間なんか、ますますなくなる。だから、残された日々、ひたすら恐怖に負けないような心を鍛えて過ごそうと思っている。
     歴史を見てごらん、おれよかりっぱな連中は、みんな、勇気とユ−モアをわすれず、冷静沈着に、迫りくる死と向きあってきた。
     だから、おれも、せいぜい意志の力をつよくして、たぐいまれなご一統さまのひとりとして死ねればと思っている。
     臨終の床で悔恨にくれる、そんな甘ったれたことはしないさ。
     ごめんなさいをいう前に、忘れちまうさ。
     ひれ伏したり、すがりついてまで、魂の救済を祈りたい、とは思わないね。
     おれの魂ってったって、ナニ、核だの、染色体だの、遺伝子だの、もしかしたら霊魂みたいに実態のないものが、ゴニャゴニャまざりあっただけのものかも知れないさ。とにかく、いちかばちか、賭けてみるっきゃない。くたばってゆくこのからだだって、五十年も、ずっといちかばちか、賭けつづけてきたんだ。
     子どものとき、いよいよ夏休みがおしまい、って日がくる。今のおれが、そんな感じなんだ。
     まだ時間はある、楽しかったことをちょっとふり返ってみる。前にピクニックに行った入江に、もう一度行ってみてもいい。クラゲが浮いていた洞窟まで泳いでみるか。木の枝にぶら下げたブランコをこいだり、砂のお城を作ったり。
     今のうちに、食ったり飲んだり、そこそこいい気分になってみようか。
     バカラで大当たり、色とりどりのチップスをごっそり、なんていうのもいい。きみたちふたりが、ほんのちょっと力を貸してくれるだけでいい。
     どうしたって気弱になっちまう瞬間てのがあるだろうから、そいつを乗り越える手助けをしてほしいんだ。

     (外の湖から、サイレンが三回きこえる)

     汽船が出る。何時も出航10分前に鳴るんだ。乗り遅れないように合図する。さあ、二人とも、パスポ−トはもってるね。おれのもある。まだ期限切れじゃない。

    ジョ−ジはアンがコ−トを着るのを手つだってやる。それぞれ持ち物をたしかめて、三人が出てゆく、同時に 幕が下りる

 私の訳だからあまりうまくないが、これを読んでくださった方は、自分の声にのせて、このセリフを全部読んでみてほしい。
 役者ではないのだからうまく声に出せなくていい。ヘタでもいいのだ。

 私の「コージー・トーク」は、今日で1000回に達した。つたない私の「一千一夜ものがたり」を、今後ともつづけるべきや否や。
 江戸の作者の口まねをしようか。

 中田 耕治これを稿じ終わるの夕(ゆうべ)、灯(ともしび)を掲げ、案を拊(ふ)し、ひとり嘆じていわく、
 才の長短と、ものの巧拙は旦(しばら)くいわず、HPに雅俗あり、また流行あり。そり流行は人にあるか、はた我にあるか。われいまだこれをしらず。呵々。

 このブログをはじめるに当たって、いつも私を励まし、書きつづけさせ、あわせて管理の労をとってくれた田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに心から感謝している。また、私の「文学講座」を推進してくれている安東 つとむ、真喜志 順子、竹迫 仁子、私を中心にしたグループ「NEXUS」と、私塾「SHAR」のみなさんには、どれほど感謝していることか。
 そして、これまで私のブログを読んでくれた人々、いろいろ連絡してくれた方々、老いのくりごとにつきあって下さったみなさんにあらためてお礼を申しあげよう。

 ほんとうにありがとう。

2009/04/30(Thu)  999
 
 少し前に、私のクラスで、ノエル・カワ−ドの戯曲、“Shadows of the Evening”を読んだ。
 いろいろなテキストを読んできたが、カワードをとりあげたのは今回がはじめて。
 いかにもカワードらしい手だれの劇作で、底の浅い芝居。いわゆるウェル・メイド・プレイだが――ラストで、観客はつよい感銘を受けるだろうなあ、と思う。劇作家の技巧もさることながら、やはり年輪というか、成熟を物語っているだろう。幕切れに近く、ぐっと感動がやってきて、観客は、いい芝居を見たことに満足して劇場を出るだろう。
 こういうところ、ある時期の劇作家はみごとに見せている。私はみんなにこまかく説明してやる。わかってもらえたかどうか。この幕切れは、もうチェホフだよ。

 第二場の「トガキ」だけを引用してみよう。

     第一場から1時間が過ぎている。窓の外に夕闇がひろがっている。湖の対岸にちらほら明かりがともり始めている。高い山の彼方の空だけが、まだわずかに明るい。

    召使が、シャンパンの壜を入れたアイスペ−ル、グラスをのせたトレイをもって、ドリンクテ−ブルの仕度をととのえる。
    ややあって、寝室からリンダが出てくる。イヴニング・ドレス。腕にイヴニング・コ−ト、白い手袋。

 こんな「トガキ」だけでは、何も見えてこないだろうが――湖畔の避暑地、「リンダ」は、まさにノエル・カワ−ド・ヒロインである。そして、ジョ−ジが登場する。タキシ−ド。胸に赤いカ−ネ−ション。

 「リンダ」は、リリー・パーマー。「ジョン」は、レックス・ハリソン。
 これだけで舞台にぐっと立ちこめてくるものが想像できる。    (つづく)

2009/04/28(Tue)  998
 
 ビョーキの話。

 文化9年(1812年)、小林 一茶は、茨城から、下総(千葉県)流山に入った。途中の部落で、若い娘を見かける。

    十二日、まれの晴天なれば、籠山を出てあたご町といふ所を過るに、いまだ廿にたらぬと見ゆる女の、荒布(あらめ)のやうなるものを身にまとひ、古わらじ、馬の沓(くつ)のたぐひ、いくつともなく腰にゆひつけつ、黒髪に箸あるひはきせるなどさして、かくす所もかくさず、あらぬさましてさまよふ者あり。人にとへば、おすが気違ひとて、此里のものなるとぞ。何として仏紙に見はなされたるや、盛りなる菖蒲(あやめ)の泥をかぶりて折る人さへもなく思はれて哀也。汝、父やあらん。母やあらん。

 これに説明の必要はないだろう。
 一茶は、父母の愛を知らずに育った人だった。その一茶が、若い狂女をどういう思いで見たのか。年端もゆかない哀れな狂女をとらえた一節に、一茶のまなざしのきびしさ、やさしさが、まるでミニマリズムの短編でも読むような緊張を感じる。

 ここで、十七、八の若い狂女がヒロインの、中村 吉蔵の喜劇、『檻の中』を思い出した。たしか大正末期か、昭和2、3年頃の作品だったはずである。喜劇というよりファルスといっていい芝居だが、劇中のあらわな女性蔑視、「キチガヒ」に対する無理解など、その眼の低さは隠すすべくもない。
 中村 吉蔵は、いっとき真山 青果と並び称された劇作家だったが。

 一茶は、この文化9年、二度故郷を訪れる。二度目は冬であった。

    これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺

 あまりにも有名な句だが、ただの慨嘆、自嘲を見るべきではないだろう。

 翌年1月、父の法要をすませ、異母弟と和解する。故郷に帰ってちょうど一年目に、皮膚にできものができて、6月から75日も病臥した。
 このときの皮膚病は、文化13年(1816年)の「ひぜん」とは違うだろう。私は、なんとなく帯状疱疹ではなかったかと想像している。一茶の「ひぜん」は、おそらく、栄養失調によるもので、敗戦後の私たちも苦しんだ「カイカイ」ではないかと思う。皮膚科の専門の先生にお尋ねしたいことなのだが。

 私はめったにビョーキの話をしないのだが――つい最近、帯状疱疹になったのでビョーキの話を書く気になった。一茶さんに同情をこめて。(笑)

2009/04/26(Sun)  997
 
 若き日の尾崎 咢堂が、福沢 諭吉に会いに行った。大先輩のご意見を伺うつもりだったらしい。

    そのとき、先生は、毛抜きで鼻毛を抜きながら、変な目つきで斜めに私の顔を見て、『おめえさんは、誰に読ませるつもりで、著述なんかするんかい』と問われた。私は、その態度やことばづかいにおもわずムッとしたが、つとめて怒気をおさへ、エリを正して厳然と『大方の識者にみせるためです』と答へた。すると、先生は、『馬鹿! サルにみせるつもりで書け! おれなどは、いつもサルにみせるつもりで書いてゐるが、世の中は、それでちょうどいいのだ』と道破したのち、例の先生一流の、人をひきつけるやうな笑いかたをされた。私はしかられたのかほめられたのか、なんだかわからなかったが、その後はなるべく先生を訪問しないやうにした。だが、これは私の誤りで、先生は、このとき、実用的著述の極意を示されたのであった」

 という。
 おもしろい話だ。さすがは、福沢 諭吉、おサツに印刷されるほどの大人物である。
 私たちも「サルにみせるつもりで」書かかなければならない。
 だが、ひるがえって考えてみれば、尾崎 咢堂と福沢 諭吉のどちらが、奇人、変人に見えるだろうか。私には、ふたりともごくふつうのお人柄のように見える。もっとも、私がサル並みの平凡なもの書きだからだろう。

    世間ではよく<音楽家は誰しも少しばかり頭がいかれている>という。これを、正規のドイツ語でいうと、一般社会で、奇人、変人といわれる連中が、音楽史にはうじゃうじゃいるということだろう――そして、こんにちまで、誰ひとり、音楽史におけるこの方面の研究をしたひとはいない。

 これは、W・H・リールという人のことば。

 最近は、リール先生のいう「音楽史におけるこの方面の研究」もけっこう多く書かれているような気がする。おなじように俳句の世界の奇人、変人の研究も多い。
 私が俳句が好きなのも、俳句の世界にかなり奇人、変人が多いせいかも知れない。そのくせどこにでもいる程度の奇人、変人には、あまり関心を惹かれない。
 その程度に私も奇人、変人に近いのかも。いや、サルに近いのかも。(笑)

2009/04/24(Fri)  996
 
 ふたりの中国人留学生(女性)に中国語の初歩を教えてもらった。
 そのおひとりは、イギリス人と結婚して、現在ロンドンに住んでいる。
 もうひとりの彼女は、日本の国立大の工学部で、コンピューターの最先端の研究をしていた。在学中に発表した論文で、工学博士号をとったほどの女性だった。
 ある日、彼女が浮かぬ顔で、
 「大学の図書館が、私の専門分野の雑誌の講読をやめたんですよ」
 といった。
 彼女の話によると、その専門誌を読まないと、世界の研究のレベルにとても追いついてゆけないらしい。私は訊いた。
 「大学の学生たちも読むの?」
 彼女の説明によれば、高度な内容の学術雑誌なので、実際に読めるのは10人程度。
 個々の論文を完全に理解できるのは、ほんの数人にかぎられるというのだった。
 大学当局は、利用者がきわめて少ない学術雑誌なので講読を打ち切ったらしい。
 彼女は、ちょっと悲しそうな表情で、
 「日本の研究は、これで遅れますね」
 といった。
 このことばが私の心に重く沈んで行った。

 せっかくこんな優秀な女性に教えてもらったのに、私の中国語の勉強は途中で挫折してしまった。彼女がある研究所に入ったため、中国語を教えるどころではなくなったから。
 つい最近、(09.2.1)知ったのだが、理論物理学の論文を掲載する雑誌に、「プログレス・オヴ・セオリティカル・フィジックス」という学術雑誌がある、そうな。
 この雑誌は、敗戦の翌年、湯川 秀樹博士が呼びかけて創刊されたもので、ノーベル物理学賞の小林 誠、益川 敏英先生の論文も発表されたことがあるという。しかし、現在は赤字がつづいている。そのため、存続できるかどうかというところまで追つめられているらしい。

 一方、国内の科学研究者の論文の8割までが、外国の雑誌に発表されているという。国立大学で最先端科学の雑誌さえ、講読を打ち切ってしまうような国の教育に、はたして未来はあるのだろうか。
 20年後、30年後に、小林 誠、益川 敏英先生のような俊英があらわれなくなる可能性があると考えるだけで、この国のみじめさ、憐れさがひしひしと感じられてくる。

2009/04/22(Wed)  995
 
 私は、もはや「死とか病気とかを超えている」つもりなので、1931年に亡くなった人のことを調べてみた。別に理由はない。ただ、おもしろそうなので。
 ディヴィッド・ベラスコが78歳で亡くなっている。ほう。おなじ年に、ロン・チャニー、フランク・ハリス。
 ロン・チャニーの映画は何本か見ている。
 フランク・ハリスは作家。彼の本も読んでいる。
 チャールズ・E・マンチェス。この人のことはあまり知られていない。アイスクリーム・コーンを発明した人。あのコーンは、じつはコニー・アイランドの象徴、ってご存じでしたか。まさか、知らないよね。(笑)

 DVDで、古い映画を見る。「巨星ジーグフェルド」を見ていて、フローレンツ・ジーグフェルドの亡くなった年のことが気になった。
 映画でも、彼の生涯のアップス&ダウンズがえがかれているが、大不況で、ショー・ビジネスと、ウォール・ストリート、両方の富を失った。当時の金額で、200万ドル。
 最後の公演、「ハッチャ!」HotーCha! が失敗したため、急遽、以前に出した「ショー・ボート」にさし替えた。これで、破産はまぬかれたが、1932年7月、ジーグフェルドは失意のうちに亡くなっている。

 おなじ年に、ウィリアム・モリスが、没。(イギリスの思想家、ウィリアム・モリスとは別人)。ブロードウェイの、それもヴァラィエティーの世界で、終生の敵、E.F.オールビーと戦いつづけた、ショー・ビジネスの雄。「ブロードウェイ最高、もしくは最高でないにしても、最高のエージェント、マネージャー」といわれた。享年、59歳。
 私は、モリスvsオールビーの争いをを書いてみようと思ったことがある。

 この年、女優のフィスク夫人(ミニー・マダーン・フィスク)が67歳で亡くなっている。チョーンセイ・オルコットが71歳、ビリー・ミンスキーが41歳、ジョージ・イーストマンが77歳で。イーストマンは、「イーストマン・コダック」の創業者。

 作家の、エドガー・ウォーレスが56歳で亡くなっている。
 その生涯に、長編が200冊。戯曲が23曲。
 残念ながら、エドガー・ウォーレスは読んだことがない。たしか、私の先生だった吉田 甲子太郎がミステリーを1冊、訳していたはずだが。

2009/04/20(Mon)  994
 (つづき)
 ある雑誌で、大槻ケンジがファンキー末吉と対談している。(「週刊アスキー」’09.2.24号)私は、作家としての大槻 ケンジに敬意をもっている。
 ところが、ふたりの話は病気のことばかり。
 大槻 ケンジは、ライブに出演したとき、ヒザの調子が悪くて楽屋でひっくり返っていたという。ファンキー末吉は、病院で診察を受けたが、ある有名な病気……というか、バイ菌がみつかった。

  大槻  え、菌!?
  ファンキー  ピロリ菌が! 「この世の中にピロリ菌をもってる人なんているんだ!」と思ったら、実は大人の3分の2はもってたりするんだって。
  大槻  へえー! もともとなにか、ピロリ菌が原因の不調があったんですか? 
  ファンキー  うーん、飲みすぎると胃が痛いなとか。(後略)

 ふたりは楽しそうに病気談義を続けているが、最後の部分で、

  大槻  こないだムッシュかまやつさんや、マチャアキさんがトークしている番組を見たんだけど、70代になると、また違いますよね。なにかを超越してるというか、霊界の話みたいになってました。
  ファンキー  ハハハ!
  大槻  雲の上の会話のよう。
  ファンキー  50でだれそれが死んだっていう話になるんなら、60、70ではまたいろいろあるんでしょうね。もう、死とか病気とかを超えているんだね。

 これには笑ったね。

 40代になった大槻 ケンジが、ファンキー末吉といっしょになって楽しそうに病気の話をしている。
 大槻 ケンジでさえこうなのだから、もっとご高齢のデーモン小暮閣下なんかも、病気の話をしてくれるといいのに。
 病気の話もヤッパおもしろくなきゃ。

 私も「死とか病気とかを超えているんだ」よなあ、きっと。(笑)

2009/04/19(Sun)  993
 
 私がとりあげなかったテーマは、食べものと病気。
 そこで病気の話。

 その前に――なぜ病気の話をしなかったか。私なりの理由があった。

 ずいぶん昔のことだが・・・・「近代文学賞」というささやかな文学賞をいただいたことがある。
 受賞式に、先輩批評家のみなさんが集まってくださった。私が30代だったのだから、みなさん50代で、いちばん若い荒 正人さんも、やっと50代に入ったばかりではなかったか。
 この賞は藤枝 静男さんの援助によるものだったので、藤枝さんも出席なさった。
 この席でみなさんが話題になさったのは、もっぱら病気の話ばかり。藤枝さんは有名な眼科の先生だったから、みなさんも気軽に医学的なことを相談なさったのだろうと思う。
 平野 謙が藤枝さんをつかまえて、いろいろな病気の話をはじめたが、たちまち話題は病気のことに集中した。みんな、楽しそうに自分の病気の話をする。
 いろいろな病気の話が出た。

 本多 秋五さん、佐々木 基一さんまでが、病気の話をひどくたのしそうに話しあっている。「最近、階段の上り下りがつらくてねえ」といえば、「ぼくも、膝にヒビがはいっちゃって、走れないんだよ」とか、「それゃあ、オスグッド・シュラッター病だよ」とか、「最近になって、どうもアレルギーじゃないかという気がしてきた」とか、「いやぁ、ツーフーってノは、痛いモンだねぇ」とか。
 当時はまだ、バイアグラは出現していなかったが、もし、バイアグラが実用化されたとして、埴谷 雄高さんはじめ先輩の方々が、それを話題になさったかどうか。
 おそらく話題にもならなかったに違いない。

 私は先輩の方々から受賞理由なり、講評なりを聞かされて、かなり突っ込んだ批判を受けるものと覚悟していたが、まったく話題に出なかった。最初から最後まで、和気あいあいといった雰囲気でひとしきり病気の話で盛り上がってから、山室 静さんが、
 「はい、これ、副賞です」
 といって、見事な堆朱のタバコ入れを下さった。

 ある世代、またはある年齢になると、病気はけっこう社交的に有効な話題になり得るだろう。その場合、いくら病気を話題にしたところで、あるいは生きることに対してシニックに、自虐的になるわけのものでもない。
 現在なら、自分がホモセクシュアル、またはレズビアンなどとカミングアウトしても、非難されることはない。それとおなじことだろう。
 まして、平野さん、本多さん、藤枝さんはお互いに親しい友人だから、いくら病気の話をしたところでかまわない。

 しかし、私は決心したのだった。自分からはけっして病気の話をしないこと。

     (つづく)

2009/04/17(Fri)  992
 
 登山の帰り。やっと山から下りて麓にたどりつく。とっぷり日が暮れている。
 ラーメン屋か一膳飯屋があれば、ビールを一本飲む。無事に下山できた自分を祝福する意味もあった。
 ラーメン屋もない土地。しばらく歩いていれば豆腐屋ぐらいは見つかる。そこで豆腐を一丁、地酒を一本買って、誰も通らない道ばたで、湯ドーフを作る。

 トーフの水切りは、ガーゼにくるんでマキスで巻くのがいいのだが、非常用のガーゼではなく、登山用に持っている三角巾でくるむ。
 だしコンブは15センチばかり、非常食としてザックに投げ込んである。
 アメリカ軍の放出品のフライパンにだしコンブをしいて、最後まで残しておいた水を張る。登山用のアルミカップに、醤油、ダシ汁、ミリン、削りブシのツケ醤油を入れて、フライパンに据える。
 このとき、カタクリコをほんのひとツマミ、ふたツマミ入れておくと、おトーフが固くならない。

 日本酒のお燗もできるけれど、フライパンが小さいので冷やで飲む。お燗の火加減もむずかしいので。

 湯ドーフが煮えてくる。
 真っ暗ななかで、ガスコンロの炎を見つめながら、その日の登山ルートを思い出したり、つぎはどこの山に登ろうかなどと考えながら、グビリグビリ。まっくらな山裾で、湯ドーフで一杯、われながらオツなものだった。

2009/04/16(Thu)  991
 
 私がとりあげなかったテーマは、食べものと病気。
 たまには食いものの話もしないといけないね。ただし、お惣菜の話。

 きんぴらごぼう。

 ゴボウを片手でつかんで、タワシでごしごしやる。綺麗になったヤツを、斜めにササ切り。歯がわるくなってきたから、タテに細切り。そいつをしばらく水にひたして、アクを抜く。

 ニンジンも、おなじ。

 フライパンでいい。お鍋にアブラをしいて、熱をくわえる。熱くなったら、水気をとったゴボウを放り込む。しんなりしてくる。そこで、ニンジンも投げ込む。いためているうちに、こっちもしんなりしてくる。

 お砂糖をひと振り、ふた振り。ちょいと息をととのえて、ミリンを少々、お醤油、だし汁、まあ大さじに2杯ってところか。

 シャキシャキしなきゃ、キンピラじゃない。だから、弱火でトロトロはいけない。
 山に登っていた頃、アメリカ軍の放出品のフライパンでキンピラを作った。時間をかけずに豪快にいためる。ゴボウは前の晩にタワシでみがいたヤツ。雪に突っ込んで、アクを抜く。だしのミリン、醤油、だし汁は、フィルムのプラスチック容器にいれておく。歩いているうちに、よくまざって、味もねれてくる。

 飯盒でメシを炊いていたから、このキンピラがお惣菜。飯盒の蓋でお湯をわかして、インスタント・ラーメンを1/3ばかり放り込む。これがスープ。七味をブチ込む。

 コンニャクを刻み込むのもいいが、時間がないので2品ですませた。お砂糖のかわりに、ミソをまぜてキシメンを放り込めば、キシメンのミソ煮になるが、これは別のお惣菜。 ブタ肉のこまぎれ、トリのささみ、何を放り込んでもいい。雪の中から頭を出しているフキノトウもいいけれど、アク抜きがちょっとむずかしい。

 雪山のきんぴらごぼうのおいしかったこと!

2009/04/14(Tue)  990
 
 好きなことば。

  ぼくはことばを音楽的に見るだけだ。ことばを歌うものとして見るだけだ。ことばが歌いだされるのは曲があるからなんだ。ぼくが歌をつくるのは、何か歌うものが必要だからだよ」
――ボブ・ディラン。

 うっかり読めば、このことばはほとんど何も意味していない。しごく当たりまえのことばに聞こえるだけだ。しかし、「ジョン・ウェスリー・ハーディング」の直後(1968年2月)に語られているこのことばに、私はひとりのシンガーの、じつに明快、率直な確信を聞きとる。
 ことばを歌うものとして見るだけだ、という無類に単純ないいかたには、なぜ、山に登るのかと聞かれて、そこに山があるからだ、と答えた登山家のことばに近い、あふれるような自負さえ感じられる。

 ほんとうのアーティストたちは、その発展の折りふしに、私たちの心にきざみつけられる、なぜかわからないけれど、間違いなくその時代にふさわしいイメージをもつ。
 当の本人が風のように転身すると、あとに残された映像は、たちまち明確な像をむすばなくなり、やがては拡散して、やがてばらばらな記憶になってしまう。
 たとえば、ビートルズ。

 ジョージ・ハリソンは語っている。
 「大衆が変わろうとしているとき、ぼくたちが出てきただけさ」と。
おなじ時期に、ジョン・レノンはいった。
 「ぼくたちの音楽をほんとうに理解してくれるやつなんて、百人もいないさ」と。
 ビートルズは大衆を変えた。彼らの音楽をほんとうに理解したのは、百人ではなかったからだろう。
 おなじことは、ボブ・ディランだっていえたはずだ。だが、ジョージとジョンの言葉のあいだにある深淵にも似た距離は、ジョージとボブ、ジョンとボブのあいだにもあったはずなのだ。

 ボブが歌を作るのは、なにか歌うものが必要だからだった。ボブの「風に吹かれて」は、いま青春をまっとうに生きている若い人たちに、なんらか痛切な思いを喚び起さずにいない。それはやがて「ジョアンナのヴィジョン」になってボブにまつわりつく。一瞬ののち、私たちもまた風からめざめるのだろうか。

2009/04/12(Sun)  989
 
 私は大学、その他で講義したり、いまも「文学講座」のようなものをつづけている。しかし、一度も自分を教育者だと思ったことはない。
 私のようにずぼらで、いいかげんな人間は、教育者としては不適格だろう。
 最近の教育改革の論議を見ていて、大きな問題になっているのは、教える側に不適格者が多いということだ。
 私の教えた人たちからも、教育の現場にいる教師が多い。その人たちからいろいろと話を聞くのだが、教師のなかには、精神的に追いつめられて鬱に陥る人が少なくないという。それとは別に、教員としての素質も、適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは、教員の教育能力を向上させなければならない。
 ひろく検定試験を実施したり、少なくとも何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。

 私は疑問をもっている。何かの事態が起きると、きまってこういう「正論」が出てくる。私はこういう「正論」に反対はしないが、こうした対症療法がはたして有効なのか、と疑う。こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。

 私は小学校から、ひとりも「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だった。

 小学生たちは、はっきり見ているのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は表面は「よくできる」ように見えて(見せて)いるが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしている、とか、あの先生はどの生徒をヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。
 子どもたちは、かなり正確に「教育喜劇」を見届けている。

 個人的な資質、教育に対する熱意、その程度のことは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。そして、教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。(だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、かつは誤りである。)
 教員たちの個人的なレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんなことで、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるだろうか。
 問題は、教員たちの個人的な資質や、努力にはない。
 現在の教育システムの破綻にあるのだ。

たとえば――ジャック・ラカン。

     教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所につれてこられると、少なくとも見かけ上、 誰でもいちおうそれなりの役割は果たせます。(中略)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねにじゅうぶんに知っているのです。
       「教える者への問い」

 これは、教育について私がこれまで読んだ言葉の中でもっとも正しい言葉である。
(内田 樹/「教育に惰性を」 「本」07/2月号)

2009/04/11(Sat)  988
 
 子規の批判いらい、談林の俳句はあまり高く評価されない。なにさま貞門の句の低俗な趣きはあまり歓迎されないが、私はいっこうにこだわらない。
 談林の句にもいい句はいくらでもころがっている。もしや、談林の句がおもしろくないのは、こちらに教養がないせいでもあって、私は近代の写実ばかりを俳句の王道とは思わない。

    花むしろ 一見せばやと存じ候       宗因

 お花見。花を見るのにいい場所は、先にとられて、幔幕などで隠されている。そのなかに、どんな美人がきているのだろうか。ひとつ、ぜひにも見たいものだ。
 そんなところだろう。
 むろん、お花見の客にまざって、私も一緒に花を賞でよう、ということでもいい。しかし、この句には、男なら誰でももっている、いたずらな voyeurism めいた、うきうきした気分がある。むろん、「一見せばやと存じ候」は謡曲のパクリだが、これだけで、花にうかれ、いささか酒に酔った男の、かすかないたずら心まで見えてくる。

 近代俳句が身につけなかった遊び。

2009/04/10(Fri)  987
 
 雨が降っている。春雨。
 昔の映画のDVDを見ている。

     春雨や 火燵の外へ足を出し         小西 来山

 おなじ来山に、

     春雨や 降とも知らず牛の目に

 という句がある。昔、春雨が降る道路を、牛のひくオワイ屋の車が通って行くと、タプンタプンと音がしていた。その牛の大きな目が、霧のような雨滴に濡れていたことを思い出す。もう、こんな風景は日本のどこにもなくなっているだろう。
 ところで春雨といえば、やはり蕪村をあげなければならない。

     春雨や 小磯の小貝ぬるるほど

 こういう詩情も、もはや私たちが失ったものかも知れない。

     春雨や 暮れなんとして今日もあり

 昔の映画などを見て過ごしていると、この句にはなぜか別種の趣きが感じられる。

 1926年。
 スウェーデンからきたグレタ・ガルボという女優が、「メトロ・ゴールドウィン」で、第一回作品として、ブラスコ・イヴァニェズの原作の映画化「激流」The Torrent(モンタ・ベル監督)に出た。
 まだ、誰ひとり知らない。グレタ・ガルボが、ハリウッドの黄金期を作ることを。

2009/04/08(Wed)  986
 
 ときどき、俳句のようなものが頭をかすめる。
 たいてい、すぐに忘れてしまう。俳句ともいえない駄句ばかりだから、忘れてもいい。
 歳末、小雨の午後、何も仕事をしない一日。

       さし迫る用事もなしに師走かな

       落雷はげし 年の瀬の夜明け前

 そういえば、歳末に山に登ったことがある。ほかに登山者がいなかった。疲労しきって、やっと下山したのだが、ほとんど客のいないランプの宿で。

       山の湯は大つごもりの薄明り

 そういえば、病気で寝正月ということもあった。

       つごもりをつたなく病んで薄き粥

 最近の私は登山もできなくなっている。哀れというべきか。
 桜が咲いたが、お花見もしなくなった。

2009/04/06(Mon)  985
 
 古い小説をよんでいると、「細君」ということばにぶつかる。
 「妻君」という意味だということはわかる。どうして、「細君」なのだろうか。

 「広辞苑」では・・・・「細」は、小の意。「妻君」と書くのは当て字。
1) 他人に対して、自分の妻をいう語。
2) 転じて、他人の妻をいう語。

 ようするに、妻、奥さん。
 しかし、ほんらいは違うことばだったらしい。

 漢の武帝は、強大な匈奴の侵入に悩まされていた。そこで、烏孫(うそん)の王、昆莫(こんばく)に、姪の細君をつかわすことにした。兄の劉建の女(むすめ)で、後世、烏孫(うそん)公主として知られる女性である。もとより政略結婚であった。
 烏孫は今の新彊ウィグル地区という。

 清の歴史官、齊 召南の『歴代帝王年表』には、わずかに一行、
     元封六年 宗室の女を以て烏孫に嫁せしむ。
 と出ている。名前の記載もない。キリスト紀元前104年。
 昆莫(こんばく)は、しばらく公主と親しんだが、孫の岑陬(しんすう)に与えた。「細君」の名のように、ほっそりした美少女だったのだろう。

 烏孫公主の詩がつたえられている。「悲愁の歌」という。

     居常 土思(どし)して 心内 傷(いた)む
     願わくば 黄鵠(こうこく)となり 故郷へ帰らむ

 いつもいつも、漢土を思って、私の心は悲傷がこみあげる。願わくば、おおとりになって、遙かな故郷に帰りたい。

 いまでは、妻、奥さんの意味の細君は死語となった。しかし、こんなことばにも、女の歴史が秘められている。

2009/04/04(Sat)  984
 
 マリリン・モンローの出た「王子と踊り子」は、アーサー・ミラーと結婚したマリリンが、はじめて外国で撮影した映画だった。
 公開当時は、イギリスを代表する俳優、ローレンス・オリヴィエの重厚な演技に、マリリンの演技は拙劣に見えるという批評が出た。
 ところが、この映画では、ローレンス・オリヴィエの芝居がへんに重ったく見えるのに、マリリンの演技は、とても自然で、終始、オリヴィエを圧倒していることがわかってくる。
 これには、いろいろと考えさせられたものだった。

 ところで、この「王子と踊り子」は、ヨーロッパの(架空の国の)王子さまと、しがない劇場の踊り子の恋物語だが、なんとなくハプスブルグ的な雰囲気がただよっていた。
 むろん、なんとなくそんな気がしただけのことである。

 最近になって、昔のドイツ映画におなじ「王子と踊り子」Der Prinz und die Tanzerin という活動写真があることを知った。
 レオ・ビリンスキー原作。リヒアルト・アイヒベルク監督。主演は、ウィリー・フリッチュ、ルツィー・ドレイン。1926年の作品。

 レオ・ビリンスキーは、この時期に「私はこの女を買った」というメロドラマの原作者だったという以外何も知らない。リヒアルト・アイヒベルクという監督についても何も知らない。
 ルツィー・ドレインという女優さんも知らないのだが、ウィリー・フリッチュなら私も見ている。

 マリリン・モンローの「王子と踊り子」が、活動写真の「王子と踊り子」のリメイクだったかどうか、にわかに断定できないが、おそらくそういうことだったのだろう。
 植草 甚一さんに伺いたいところだが。

2009/04/02(Thu)  983
 
(つづき)
 野村先生はこの質問を三人の中国人俳優に投げかけてみたが、「ノー」と答えなかったのは秋 夢子だけだった。
 「やめたいと思ったんです。もう使える物は全部使っちゃったという感じになって。これから充電しないとだめかなと思って……」
 そこをどう乗り越えたのだろう。
 「なんとなく乗り越えた気がする。そう、何となく乗り越えましたね」
 自分に言い聞かせるように言った。

 野村先生はいう。

    彼女の『キャッツ』への出演は、すでに七百回を超えている。三百回から七百回へ至るまでのあいだに、新しい革袋にはいった新酒が徐々に発酵して行くような時が流れたのかもしれない。

 さて、ここから私の「問題」になる。

 舞台に立つ俳優にとってロングランとは何か。上演回数が、三百回に達したとき、秋 夢子は語っている。

 「もう頭の中に何もなくなった」と思ったことがある、と。

 俳優が、もう、やりたくなくなった、と思った舞台が、はたして観客にとって最高の舞台といえるかどうか。

 ロングランの舞台に立つ俳優が、いつも安定した演技を見せる。これはすばらしいことだと思う。しかし、上演回数が三百回を越える舞台におなじ役で立ちつづけるというのは、かならずしもいい結果をもたらさない。
 ルイ・ジュヴェは、ジロドゥーの『シャイヨの狂女』で大当たりをとったが、まだいくらでも続演できるのに、あえて打ち切った。ジュヴェはいう。

    まだ当たっている最中だが、『シャイヨの狂女』を引っ込めるつもり。成功に溺れてはならないし、芝居は脚本(ほん)によって歪められてはならないと思う。それに、一年もおなじセリフをしゃべりつづけ、あえておなじ言葉を響かせる俳優というものを、どういったらいいのか。彼はどうなってしまうのか。それに、劇場はいつもおなじ芝居を演じるものなのか。それでは、<劇場>という一つの楽器であることをやめてしまう。

 「劇団四季」の俳優、女優たちの交代を見ていると、その後の、それぞれの身のふりかたが気になる。
 俳優、女優は、けっして expendable ではないのだ。

2009/03/31(Tue)  982
 
 「本」(2009年2月号)の野村 進が、劇団「四季」のミュージカル、『キャッツ』に出ている女優について書いている。
 野村 進は、ジャーナリストで、拓殖大の国際学部の教授という。

 この人は、劇団「四季」に在籍している中国人の俳優が多いことから、彼らがどうして日本の舞台に立つことになったのか、に関心を抱いた。どういう困難に直面し、それをどのように乗り越えてきたのか。いま、何を考え、どんな夢をみているのか。

 私は、大きな興味をもってよんだが、じつは野村先生のテーマとは少しズレた論点で、少し考えさせられた。それを説明するために、先生のエッセイの一部分を私なりに要約しながら引用させていただく。

 「秋 夢子」という女優さんがいる。本名、鄭夢秋(ジェン・モンチュウ)。

 2007年3月、「四季」入団わずか三年半で、ミュージカル『アイーダ』の主役に抜擢された。もともと広東省で、少女歌手として数々のコンテストに優勝して、中央戯劇学院にすすみ、ミュージカルを専攻した。

 このエッセイでは、秋 夢子の経歴や、その後の「役」への取り組みが、要領よく紹介されている。

 私も、今回の取材中、幾度か疑問に思ったものだ。『キャッツ』や、『ライオンキング』のようなロングランでは、同じ役を何百回も舞台で演じる俳優がざらにいる。単純に言って、飽きないのだろうか。
  (つづく)

2009/03/29(Sun)  981
 私は、トウ子さんのファンである。
 トウ子こと、宝塚歌劇団。星組トップ・スター、安蘭 けい。おなじ宝塚のトップ・スターのなかでも、現在、もっとも注目すべき男役スターだと思っている。

 その安蘭 けいが、星組を退団するという。
 ファンとしては、かねて覚悟はしていたものの、実際に発表されてみるといささかショックであった。

 彼女の代表作は、「雨に唄えば」、「王家に捧ぐ歌」(03年)、トップになってからの「エル・アルコン」(07年)、さらには「スカーレット・ピンパーネル」(08年)あたり。ブロードウェイ作品としての「スカーレット・ピンパーネル」は、昨年度の各紙でもとりあげられ、「読売」演劇賞を受けている。

 安蘭 けいの特質は、なんといっても抜群の歌唱力である。宝塚のトップ・スターなのだから歌がうまいのは当たり前だが、いろいろな過去や現在を背負って、いろいろなー役」をこなしてきたスターらしい存在感をもったひとは少ない。

 たとえば、今のブロードウェイに出て、即戦力として通用するミュージカル女優が「宝塚」にいるだろうか。大半の女優は、オーディションの段階で落ちるだろう。ブロードウェイ・ミュージカルどころか、地方のコミュニテイ・シアターあたりにも、タカラジェンヌ程度の女優は掃いて捨てるくらいいる。

 しかし、安蘭 けいなら、このままブロードウェイに出ても、圧倒的な存在感を見せるだろう。それほどにも器量は大きいのである。
 たとえば、「王家に捧ぐ歌」の「アイーダ」の可憐さ。
 エチオピアの王女として、敵将、「ラダメス」への愛、祖国への愛、親子の情の揺れる心を、華麗に歌いあげた。男役としての声域なのに、ほんらいの女性としてのソプラノをみごとに歌った。(私は、ゼフィレッリ演出の、マリア・グレギナを思い出しながら、これを書いている。)
 「スカーレット・ピンパーネル」では、彼女の声を聞いた作曲家、ワイルド・ホーンがわざわざ新曲を書いた。その一つ、「ひとかけらの勇気」は、観客の心にまっすぐ届くひたむきな歌声とともに、このミュージカルの名曲になった。

 むろん、彼女にも欠点はある。
 はっきりいって、安蘭 けいのセリフ、エロキューション、それも発声、ディクションに難がある。もっともっと、ことばをたいせつに、かつ、正確につたえてほしい。
 歌ではまったく気にならないが、セリフになると関西のアクセントが見え隠れする。以前よりは、ずいぶんよくなっているとはいえ、それでもそのアクセンチュエーションが耳ざわりである。
 「エル・アルコン」の「ティリアン」では、クールで冷酷な役柄のせいか、静かなモノローグが多く、正確さがもとめられる場面では、アクセント、エルキューションの弛緩は、どうしても気になる。感情の激発でこの欠点がはっきりしてくる。
 彼女自身は何も気がついていないかも知れない。演出家も、トップ・スターには何もいえないのかも知れない。しかし、この難点を克服できれば、もともとすぐれた資質にめぐまれているのだから、ミュージカルの名女優として記憶されるだろう。

 私たちは、あまりに多くの宝塚スターたちが、ついにおのれの欠点に気づくことなく、舞台を去って行ったのを見てきたのである。

2009/03/27(Fri)  980
 
 日本で、シャルル・デュランが知られたのはいつ頃だったのか。私は評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期から、このことはずっと気になっていた。

 最近になって、ようやく、デュランに関して、もっとも早い記述と思われるものを見つけた。題も「Charles Dullin」である。

    サロスに入つたアンリ・デ、ブュイ・マジェル原作、レエモン・ベルナアル作品「狼の奇蹟」は大なる歴史物で知名の名優が雑然と入り亂れて沢山に出てゐる。がその混然たる中で一番よかったのは路易十一世である。これはまた他と比較して段違ひに巧い。それもその筈、路易十一世を演つたのは、別人ならずシャルル・デュランその人なのである。
    と云つた丈で合点が行かないのならもう一言云ひ添へやう。ジャック・コポオのヴィユウ・コロムビエ座の没落以来、新劇運動の為めに活躍してゐる唯一の劇団とも称す可き「アトリエ劇団」の総大将こそシャルル・デュランなのである。即ちデュランなのである。即ちデュランは座長並俳優として此の劇団をひつさげ、八面六臂の勇を振って、佛劇壇に悪戦苦闘を続けてゐる男なのだ。そこらにもゐる有象無象とは理が違ふ。

 わずかこれだけだが、おそらくこれが最初の記述だろう。(「キネマ旬報」大正15年2月15日号)

2009/03/25(Wed)  979
 
 日本に、ルイ・ジュヴェの名がつたえられたのはいつ頃だったのか。

 昭和初年の「英語研究」という思いがけない雑誌に、フランス演劇の紹介記事で、ルイ・ジュヴェの名前を見つけて驚いたことがある。
 大正時代の映画雑誌、「キネマ旬報」を読んでいるうちに、飯島 正の「ジャック・フエエデに就いて」(「キネマ旬報」大正15年11月1日号)のエッセイで、

    これは又話の別になるが、今年の春、一夕、森 岩雄氏、内田君、佐藤君がわたくしの宅を訪れられた時のことを思ひ出す。森 岩雄氏の話は多岐に渉った。ミスタンゲットのこと、ガストン・バティのこと、ルイ・ジュウヴェのことなど。その時、話が「面影」に言及されたとき、「あの映画のよさが日本の見物にしつくりと分るだらうか少し怪しい」といふ意味のことを云はれた。

 という一節をみつけた。筆者は、飯島 正。
 エッセイに出てくる森 岩雄はプロデューサー、のちに「東宝」の重役、晩年は仏門に帰依した。内田は「キネマ旬報」同人の内田 岐三雄、佐藤はおそらく佐藤 雪夫だろう。ともに、戦前から戦後にかけての映画評論家である。
 このとき、バティ、ジュヴェの話が出たのだから、おそらくコポオ、デュランも話題になったのではないか。
 ミスタンゲットが、まだ少年のジャン・ギャバンを「若いツバメ」にした頃かも知れない。(私は、この頃のギャバンのシャンソンをたいせつにもっている。)

 飯島 正がルイ・ジュヴェの名をあげても不思議ではないが、私はこのことを知ってうれしかった。きわめて短い期間だったが、戦時中に、私は飯島さんの講義を聞いた学生だった。
 去年、「彷書月刊」という雑誌の「私の先生」という特集で私は飯島先生のことを書いたのだった。
 はるか後年、私は映画批評を書くようになって、試写室や、いろいろなホールで、飯島さんにおめにかかることがあった。
 私にとっては、なつかしい先生のおひとり。

2009/03/23(Mon)  978
 
  きぬぎぬや あまりかぼそくあてやかに  芭蕉
   かぜひきたまふ 声のうつくし     越人

 こういう情緒は、いまの私たちには想像もつかない。私は戦前の吉原を見ているし、戦中の吉原も知ってはいる。だが、こういう情緒は知らない。
 きぬぎぬは「後朝」と書く。「あてやか」は、貴やか。「あでやか」というと、いささかなまめいた匂いがたちこめるが、貴やかとなれば、上品でみやびやかな感じになる。
 私などは、つい、古川柳を思い出す。

   京は君 大阪は嫁 江戸は鷹

 (むろん、こんな古川柳も、いまでは通用しないよね。)。
 京都の四条、大阪の道頓堀ときて、いまの東京なら、新宿か渋谷、いや、原宿か。まさか、上野、浅草をあげる人はいないだろう。となれば、秋葉原だなあ。

 浅草。伝法院通り。この2月、東商店街のビルの壁や、店の屋根などに、大きな人形が出現したという。見に行きたいと思った。

 人形は、白浪五人男。
 河竹 黙阿彌が、この近辺に住んでいたことにちなんで。

2009/03/21(Sat)  977
 
 DVDで、イギリス映画「銀の靴」Happy Go Lovely(H・ブルース・ハンバーストーン監督/51年)を見た。主演、ヴェラ・エレン、デヴィッド・ニーヴン。

 国際演劇芸術祭で知られているエジンバラ。プロデューサー、「フロスト」はここの劇場で、つまらないミュージカルを上演しようとしている。
 稽古に遅れそうになった女優の「ジャネット」は、偶然、富豪「ブルーノ」の車に乗せてもらった。
「フロスト」は「ジャネット」を、大富豪の情婦とカン違いして、資金をださせようとする。一方、富豪「ブルーノ」は、新聞記者になりすまして、「ジャネット」に接近する。……

 「活動写真」時代の喜劇を見せられているような気になる。ヴェラ・エレンのダンス・ナンバー、「ピカデリー」はおもしろい。(ジーン・ケリーが、シド・チャリシー相手のダンス・シーンで、おなじテーマを発展させている。)

 ヴェラ・エレンは小柄で、大した美人ではないが、いつもキビキビした動き、ひきしまった体型で、「戦後」のミュージカルのトップだった。代表作は「On The Town」(49年)だろうか。
 50年代に入って、きゅうに出演作がなくなる。この「銀の靴」がイギリス・ミュージカルだったように、最後の「Let’s Be Happy」も、イギリス・ミュージカルだった。
 MGM相手に大ゲンカ。さっさと大富豪と結婚して、映画から去って行った。

 後年のデヴィッド・ニーヴンはそれこそ名優だが、この映画ではもっぱらヴェラ・エレンを引き立てている。ほんとうにいい役者だった。

 「彼は、それはそれは大根だった。しかし、そう演じることを絶対的に愛していた。」
 ニーヴン自身がそう語っている。

2009/03/19(Thu)  976
 
 アメリカの金融システム不安が再燃して、世界じゅうの株式市場が混乱した。
 ニューヨークで、ダウ平均が、いっきに7000ドルの大台を割り込み、一時、前週末から307・76ドル安。6755ドル・17ドルまで値下がり。(’09.3,3)  こういうシーンをテレビで見ていると、ワクワクしてくる。
 東京市場でも、みるみる大幅に下落して、一時、7088円47銭まで下がった。
 アジア市場もおなじ。香港のハンセン指数が、前日終値比、2・84パーセント安。シンガポールの指数が、1・56パーセント安ではじまり、いずれも、今年の最安値。
 韓国の指数は、2・45パーセント安で、取引がはじまり、一種の基準値である1000ポイントを下回った。

 株式に無関係(つまり貧乏)な私が――こういうことを記録しておくのは、将来、誰かがこれを読んで、何か感じることがあるかも知れないと思うから。
 テレビで見ていてワクワクした。自分が、現実に大不況を見届けているような気がしてきた。こんな機会はそうそうあるものではない。

 12年ぶりに記録的な安値をつけたニューヨーク、その余波を受けている東京、アジア市場。ここに見られるのは、「この金融危機がいつになったら終わるのかわからない」という不安だろう。
 オバマ新大統領が登場して、AIG、シティーグルーブ、GMなどに、巨額の政府援助をあたえた。しかもなお、支援をうけた企業の低迷はとまらない。

 世界の市場で、消費の落ち込み、雇用の悪化、実態経済が雪崩をうってくずれ、しかも金融システムへの不安がからんでくる。
 日本の文学などどうでもいい。こういう時代に、アメリカ、ロシア、中国で、どういう作家が登場してくるか、つよい関心をもっている。

 こういう時代だからこそ、新しい作家の登場につよい期待が私の内部にはある。
 これまた老いぼれのたわごと、これまたなんとも滑稽な図柄ですが。(笑)

 

2009/03/17(Tue)  975
 
 シュテファン・ツヴァイク。もし、彼の作品を読まなかったら、私はずいぶん違った仕事をしていたと思う。つまり、私はツヴァイクを尊敬していた。
 彼の作品から影響を受けたわけではない。
 彼の「ジョゼフ・フーシェ」や、「メァリ・スチュワート」といった評伝を読んで、自分もいつかこういうジャンルのものを書いてみたいと思うようになった。むろん、はじめから関心をもつ対象が違うし、私にはツヴァイクのような知性、教養もなかった。ただ、どこか一点でもいい、ツヴァイクの評伝を越えようとおもった。
 私の『ルイ・ジュヴェ』で、シュテファン・ツヴァイクに何度もふれているのは、そういう思いがあったからだった。

 ツヴァイクは、第二次大戦に日本が参戦してから自殺している。
 自分の生涯は精神的なことのみにささげられた、と彼はいう。そして、自分の信じたヨーロッパの文明が崩れさる音を聞いたのだろう。
 最後にとりかかっていたのはモンテーニュの評伝だったが、これは完成しなかった。私たちの文学史にとって、ほんとうに残念なことのひとつ。

 ヘルマン・ケステンにあてた手紙で、ツヴァイクは

     あの神秘的な「のちの世界」にたどりつくまで、忍耐に変わらざるをえないあの勇気、私はもともと、その「のちの世界」を体験したいものとせつに願っているのですが・・

 と書いた。
 ケステンは、この「のちの世界」は死後の世界ではなく、戦後の世界をさしていたと考える。そうとすれば、神秘的と訳すよりは、「ミステリアスな世界」と訳したほうかいいだろう。あれほど明晰なツヴァイクが、何やら神秘主義的な作家のように見えてはよくない。

 いつか、ツヴァイクの『昨日の世界』を読み返してみよう。

2009/03/14(Sat)  974
 
(つづき)
 私が「劇団」を出たあと、彼女も別の有名劇団に移った。この主宰は、私もよく知っている人だった。(彼のことも、いつか書いてみよう。)
 その週刊誌の記事には、

    T.F.(劇団の主宰)も、これからよくなる役者と期待していたんです。テレビの脇役にも出ていた。ところが、ご主人がヒモみたいな人で、彼女、食べるために役者をやめて銀座に出たんです。(劇団員)
    銀座のクラブ「S」での彼女、「知的な会話が売り物」とかで、月収五〇万円。「Y.I.サンは、Sを働かせて自分はゴルフ、クルマ、釣りの遊び人。普段はペアルックなんか着て、年がいもなくべたべたしていたが、ひどいヤキモチ焼きでね。彼女が店の客と食事で遅くなるだけでバカヤローとどなる。Sが愛想をつかすのも当然」
    そして愛人ができた。Y.I.サンにバレて連日の大ゲンカ。そして<女優>は自ら人生の幕を下ろした。

 下品な記事だったが、これを読んだ私は、ほんとうに胸が痛んだ。

 研究生だったS.Y.を、はじめて舞台に出したのは、私だった。八木 柊一郎の『三人の盗賊』という芝居だった。このとき、彼女がなかなか勉強していることを知った。どことなく、さびしそうな翳りがあった。おそらく、貧しい生活をしていたに違いない。
 そのあと、劇団員に昇格したのも、S.Y.がいちばん早かった。
 私は、テネシー・ウィリアムズの『浄化』という芝居で使った。その後、レスリー・スティーヴンスの『闘牛』という芝居で、大きな役をふったのだが、S.Y.は辞退した。ここには書く必要はないが、ひどく恥ずかしそうに理由を語った。これも私にはショックだった。
 私が、小さな劇団をはじめ、S.Y.を誘いたかったのだが、いまさら弱小劇団で苦労するよりも、もっと大きな劇団のオーディションを受けたほうがいい。私はそう思った。だから、私はS.Y.を誘わなかった。

 その後、S.Y.は、NHKのテレビで子ども番組にレギュラーで出演していた。私は、彼女のためによろこんだ。生活も安定しているらしく、表情もいきいきとしていた。
 彼女の舞台も何度か見たおぼえがある。

 S.Y.の死は、ほんとうにショックだった。これから、かなりいい女優になれたはずだった。その彼女が、突然、こんなかたちで人生に見切りをつけるなんて、ぜったいあってはならない。私の胸にあったのはそういう悲しみだったのだろう。
 ひとかどの才能に恵まれて、美貌で、自分でもずいぶん努力してきたはずの、だが、それほど有名ではなかった女優が、おもいがけないことで死を選んだ。
 もし、あのとき私がS.Y.を誘っていたら、という思いもあった。

 もう25年も前の3月14日のこと。

2009/03/11(Wed)  973
 
 その当時、私はもう演出の仕事から離れていた。雑誌に短編を書いたり、ある新聞に評伝小説のようなものを連載したり、翻訳をしながら明治の文学部と、ある女子大で講義をつづけ、翻訳家養成センターで実践的な指導をつづけていた。

 そんな多忙ななかで、ある週刊誌に、こんな記事を見つけた。

    「女房とケンカした。生きがいがないから死ぬ」と、酔った男の声が一一〇番に入ったのは、先月末の夜十一時。警察官が中野区中央のアパートヘ駆けつけると、室内では首を切った女性がフトンの上で失血死。やはり首を切った男性が倒れていた。
 女性は<元女優>のS.Y.。男性は自称シナリオライターのY.I.サン。ふたりは十五年前から内縁関係に。
    警察は当初、S.Y.の男性関係に悩んだY.I.サンが無理心中をはかったものとみた。ところが調べてみると、事実は逆で、新しい愛人とY.I.サンとの三角関係を清算するためにS.Y.が、登山ナイフで、Y.I.サンを刺したが、結局、自分だけ死んでしまった。

 この記事を読んで、胸を衝かれた。驚きがあった。こともあろうに、あのS.Y.が愛人と無理心中をくわだてて、自分だけが死んでしまうなんて。

 私は彼女を知っていた。演出家と女優というだけの関係だから、親しいとまではいえないにしても、ある程度まで知っていた。小さな劇団で一つ釜のメシを食った仲間、といった感じといえばわかってもらえるだろうか。
 はじめは研究生のとき、つぎには劇団員に昇格した彼女を芝居で使った。稽古場で会えば、いつも明るい声で挨拶する女の子だった。短い台本をとりあげて、稽古をつづけたこともある。したがって、ある時期まで、彼女を見まもってきたといっていい。
 やがて、劇団の内紛にまき込まれて「劇団」を離れた私は、自分で小さな小さな劇団をひきいることになった。経済的な基盤が何もないのだから、なにもかも私の肩にのしかかってくる。この時期の私は、芝居の公演をつづけるために、ただひたすら雑文を書き、小説を書きとばしていた。
 S.Y.の自殺の記事といっしょに当時の私のメモが残っている。

    「五木寛之全集」田近さん、「SES」本田さん、督促。
    川久保さん、「ボルジア家」問い合わせ。私あての礼状。
    五木寛之氏に、豆本「風に吹かれて」の礼状。
    「集英社」からジャニーヌ・ワルノー。
    「北沢書店」からパトリックの『ピカソ』。グィツチャルディーニ、18万円。
   「週刊XX」今夜、12時まで。北原君、くる。

 私が連載を書いていた週刊誌に、S.Y.の事件が出たのだった。
     (つづく)

2009/03/09(Mon)  972
 
 いまの女性は、19世紀から20世紀にかけての女性たちとは、比較にならないほどの自由を獲得している。
 クラフト・エービングは、女が個人としての存在になることを期待していた。その当時は(20世紀初頭)まだ、女性の社会的な地位は男性よりもはるかに低いものであっても、次第に女としての権利をもち、自立的に行動できるようになれば、自分から求めるのでなければセックスをしなくなる。そうなってはじめて、性生活は洗練された発達を見るようになる、と考えた。

 現実に、いまの女性は性的にも自由を獲得している。クラフト・エービングの希望、期待は果たされたと見ていい。
 だが、論理的にいえば、ここにもう一つの論点が生じる。
 男におけるマゾヒズムという問題である。なぜなら、男が自分の動物的な情動・・・リビドーといっていいかも知れない・・・が女によって抑えつけられる場面を演じたいという、コンパルシヴな欲求が、まさにこのクラフト・エービング原理をささえるからである。つまり、女性は性的にも自由を獲得した状況は、マゾヒスト(男)にとっては、願ってもない場所ではないか。

 ジョン・K・ノイズの『マゾヒズムの発明』を読んで、私は、あらためてドストエフスキー、ザッヘル・マゾッホ、谷崎 潤一郎などについて考えはじめている。
 (女のマゾヒズムについては、ある映画女優の生涯にふれて書くつもり。)

2009/03/07(Sat)  971
 
 あるとき、芝居の劇評を書いた。雑誌の「テアトロ」に書いたのだが、雑誌の劇評なので、芝居を見てから、しばらく時間的な猶予があった。
 当時、私は週刊誌や雑誌でいろいろな仕事をしていたので、けっこう忙しかった。毎日、仕事に追われていたので、いつしか自分の見た芝居の印象が薄れてしまった。締め切りがきたので、あるホテルのロビーまで編集者にきてもらって、その場で書いた。
 うっかり、主役の名前を書き間違えた。劇評で出演者の名前を間違えるなど、言語道断だろう。
 編集者は、その場で私の誤りに気がついたが、そのまま掲載したのだった。締め切りをすぎていたので、時間がなかったということになる。
 私の劇評が出た翌月、その俳優が抗議文を投書してきた。
 私は、すぐに編集部に電話をかけて、謝罪文を載せてほしいとお願いした。そして、その俳優に対する謝罪の文章を書いた。

 私と関係がないエピソードを思い出す。
 明治時代の作家、翻訳家だった森田 思軒が、「宮戸座」の劇評を読んで、『縮屋新助』を見に行った。九蔵(七世・團蔵)の「新助」、栄次郎の「美代吉」だった。
 栄次郎が、桟敷に挨拶にきた。

 思軒が栄次郎に向かって、
「美代吉がハンケチを持って居るのは変だと言った評を見たがハンケチじゃないね」
 というと、栄次郎は、
 「あんな無茶な評を書く先生があるから、口惜しう御座います。私は此の役をするので辰巳(深川)の芸妓のことをいろいろと聞きました。縮みの汗鳥を持って居たと聞きましたから、それを使ったのをハンケチと見られたのは弱りました。」
 と答えたという。

 鶯亭 金升の資料に、こんなエピソードが出ていた。
 栄次郎は、いっとき五代目(菊五郎)の養子になった役者。
 これを読んで、私は劇評など書かなくてよかったと思うようになった。

 その後、劇評はいっさい書かなくなった。
 私の原稿を読んでカン違いにすぐ気がつきながら、おもしろがってその原稿を載せた編集者に対する不信は心にくすぶっている。私は自分の非をじゅうぶん認めるけれど、その編集者が私をはずかしめようとしたことを忘れない。
 もう何十年も昔のこと。

2009/03/05(Thu)  970
 
 前に書いたことがある。
 もう一度、くり返しておこう。
 「俳優という職業はつらいものだ」と、サマセット・モームはいう。モームがいっているのは、自分が美貌だからという理由だけで女優になろうとする若い女性や、ほかにこれといった才能もないので俳優になろうと考えるような若者のことではない。

     「私(モーム)がここでとりあげているのは、芝居を天職と思っている俳優のことである。(中略)それに熟達するには、たゆまぬ努力を必要とする職業なので、ある俳優があらゆる役をこなせるようになったときは、しばしば年をとり過ぎて、ほんのわずかな役しかやれないことがある。それは果てしない忍耐を要する。おまけに絶望をともなう。長いあいだの心にもない無為も忍ばなければならぬ。名声をはせることは少なく、名声を得たにしてもじつにわずかばかりの期間にすぎない。報われるところも少ない。俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気にいられなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら大衆の偶像に祭りあげられていたことが、なんの役にも立たない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。これを考えるとき、私は俳優たちが波の頂上にあるときの、気どった態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、バカをつくそうと、
    勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。」

 私はモームに賛成する。だから俳優や女優のスキャンダルを書きたてる芸能ジャーナリズムにはげしい嫌悪をおぼえる。

 ある女優(というより、タレントといったほうがいい)の不審死。
 名優といわれていた俳優の死。
 それぞれの死に対する、私の思いはここに書く必要はない。ただ、この女優の死に、私たちの時代をおおっている何か忌まわしいものを重ねた。そして、この俳優の死を悼みながら、ほんらい舞台人だった彼が、映画やテレビに力をふり向けなければならなかったのは、私たちにとって不幸なことではなかったか、と思った。

 俳優や女優の死は、本人の不幸というよりも、私たちにとって不幸なのだ。

2009/03/03(Tue)  969
 
 『出世景清』のなかで、獄につながれた「景清」を「十蔵」がおとしめる。「景清」はあまりの雑言(ぞうごん)に「二言と吐かば掴み挫いで捨てんず」と睨みつける。

    十蔵かんらかんらと笑ひ、「其の縛(いましめ)にあひながら某(それがし)をつかまんと。腕無しのふりづんばい、片腹痛し事をかし。幸ひ此の比(ごろ)ケンピキ痛きに、ちつとつかんでもらひたし」と空うそぶいてぞ居たりける。

 ケンピキの「ケン」は、病だれに玄。「ピキ」は、癖。肩凝りという。「十蔵」は、小手も固く縛(いましめ)られている「景清」を嘲っている。
 古語を知らぬかなしさ、この「ふりづんばい」がわからない。

 けれども、かんらかんらと笑うとか、「片腹痛い」とあざけるといった表現は、私の内部に生きている。少年時代に読みふけった講談や落語、あるいは歌舞伎のおかげで、そんなことばが心に残ったらしい。

 若い頃は他人の批評が気になるもので――自作があしざまに批評されたとき――かんらかんらと打ち笑ひ、よくもよくも、腕無しのふりづんばいが、某(それがし)の作を罵りおったナ。片腹痛い、とはこのことだわ。
 と、空うそぶいているうちに悪評など気にならなくなった。

 残念ながら、自作に使ったことは一度もない。作中人物がかんらかんらと笑いつつ、「うぬめら、片腹痛いわ」とドスのきいたセリフを吐くや、腥血淋漓、悪人輩(バラ)をバラリンズンとまっこうからたけわり。

 もう、遅すぎるか。ムフフフ。(笑)

2009/02/28(Sat)  968
 
 近所の古本屋の棚に、岩田 豊雄の『フランスの芝居』があった。昭和18年2月20日発行。生活社。定価。二圓。つまり、戦時中に出た本で、初版、1500部。
 なつかしいので買ったのだが、150円。

 この本が出た当時、私は明治大学の文科に入ったばかりで、著者が、作家、獅子 文六だということも知らなかった。ただ、この本で、はじめて現代フランス演劇を知ったのだった。何度もくり返して読んだ。空襲で焼いてしまったので、戦後になって買い直した。この本もくり返して読んだ。

 私の内部に、この本に出てくる多数の演劇人の名前とその仕事が重なっていた。

    巴里の前衛劇場と目すべきものに、ルイ・ジュウヴエの劇団、シャルル・デュランのアトリエ座、ガストン・バチイのモンパルナス座、ジョルジュ・ピトエフの劇団の四つがある。
    ジュウヴエの一座はコメデイ・シャンゼリゼエに立籠り、舞台と座員の充実せる点で、一歩を抽ん出てる観がある。この一座の特徴は、純粋に、仏蘭西的な新興舞台芸術を示すことで、ジュウヴエはただ一回ゴオゴリの『検察官』を採用したのみで、嘗て外国戯曲に手を触れたことはない。また彼自身の手になる舞台装置も、意匠に於て色調に於て、独露のそれと全然別種の近代性を持ってゐる。それは彼の明朗な、快活な、多彩な演出法についても窺はれる特色である。彼はいかなる国外の影響すらも免れた。ただ、仏蘭西劇壇の二大恩人の一人ジャック・コポオの理論は、多分に彼の芸術のなかに享け継いだ。彼はコポオのヴイウ・コロンビエ座で共に働き、やがて現在の一座をつくった。ファンテェジイと機智(エスプリ)を、彼ほど巧みに舞台に生かす演出者はあるまい。

 当時の私は16歳。はるか後年、評伝『ルイ・ジュヴエ』を書いた。
 はじめて、岩田 豊雄を読んだときとは比較にならないほど多くの知識を身につけていたが、私の書いた評伝は、岩田 豊雄が書いた部分からそれほど遠いものではなかった。
 私の評伝の出版がきまったとき、女の子たちといっしょに岩田 豊雄の墓に詣でた。
 生前の岩田さんの知遇を受ける機会はなかったが、自分なりに感謝をこめて挨拶したのだった。

2009/02/25(Wed)  967
 
(つづき)

 ところで――

 「わたしはいったいどうしたらいいんでしょう?」

 チェホフの「退屈な話」に出てくる老いぼれの大学教授は、養女で「恋人」のカーチャの問いに、ただ、
 「私は知らない」
 と答える。

 私にはこのシーンがすばらしくドラマティックなものに見える。悲しいセリフだなあ。しかし、いいセリフだなあ。私が演出したら、どういうふうに演出するだろう。

 きみからメールをもらって、こんなことを考えた。
 またいつか私を思い出したらメールをくれないか。

2009/02/23(Mon)  966
 
(つづき)

 八木 柊一郎の『三人の盗賊』のときは大川を演出助手に起用した。
 『闘牛』のときは、舞台監督に使った。
 きみも知っての通り、芝居の世界は稽古に入ったときから思いもかけないことの連続で、トチリや、失敗、仲間どうしのねたみや嫉妬、ときには日常では起きることのない昂揚、<Sternstunden>(たまゆらのいのちのきわみ)、それこそ笑ったり泣いたりをくり返してきた。
 この芝居の稽古中にも、いくつも奇事、奇ずいめいたおもしろいことが重なって、みんなの泣き笑いのなかで、芝居の成功を確信した。芝居者の迷信に近いものだが、とにかく大川がいてくれたおかげで、この芝居はいつもと違うものになると思った。
 そして成功した。それもこれも、大川がいてくれたおかげだった。

 また別の芝居だったが、劇中のラヴシーンで、大川は、「先生、舞台いっぱいに綺麗な花を飾りましょう」という。それはいい。しかし、「キエモノ」の経費を考えただけで、はじめから不可能な話だった。
 そこで考えたのは、費用をかけずに花がつくれないか、ということになる。大川といっしょに考えた。そして、考えたのは――現在の物価でも、せいぜい1500円程度で――それこそ百花繚乱のシーンだった。
 われながらとてつもないアイディアで、大川とふたりで大笑いした。そうときまれば、こっちのもんだ。ソレっとばかりに役者たちを督励しながら「花作り」に精を出した。
 舞台いっぱいとはいかなかったが、タテに5メートル、幅は2メートルの花のタワーを作ったのだった。
 この芝居もなんとかうまく行った。

 「木地のままの縁台(トントオ)が一つあれば、それでいいのだ」
 と、コポオはいった。私は、このコポオを尊敬していた。
 だから私はほとんどすべての舞台で、まったく赤字を出さなかった演出家だった。

 大川というと、いつも元気に舞台を作っていた姿を思い出す。
 その彼が、きみの土地でバレエの台本を書いていたことは知っていたが、一度も見に行けなかった。残念というより、おのれの不実がくやまれてならない。
 村上君
 きみが市民演劇のために戯曲を書きつづけていたことは知らなかった。
 戯曲は、上演されないかぎり、人の眼にふれることはない。活字として発表されることが少ないため、残念ながら、そのまま忘れ去られることが多い。
 いつか、私にきみの戯曲を読ませてくれないだろうか。

 楽しみにしているよ。
 
 (つづく)

2009/02/21(Sat)  965
 
 村上君
 
 きみから思いがけないメールがあってうれしかった。ありがとう。

 こんなかたちで、とりとめもない文章を書いていると、ときどき思いがけない人からメールをいただく。ほとんどが未知の人からのものだが、きみのようにずっと消息がとだえていた人からのメールは、なつかしさと同時に、遠く離れた土地で私のブログを読んでくれる人がいることがわかってうれしいのだった。

 「私のことをおぼえておいででしょうか」と、きみは書いている。

 私が富山を去るとき、きみはわざわざ深夜の駅まで見送りにきてくれたね。夜行列車だったから、プラットフォームにはもう誰もいなかった。ただの旅行者といっていい私を、わざわざ駅まで見送ってくれたきみの好意は忘れるはずもなかった。
 あれから、おびただしい歳月が過ぎてしまった。

 お互いに共通の友人だった桜木 三郎も亡くなっている。大川 三十郎も。
 自分の人生でめぐりあった貴重な友人たち。
 大川は、私の小さな劇団で、演出助手、舞台監督をやってくれた。私のように空想家で、実際の舞台ではとてもできそうもないことばかり考える演出家にとって、彼ほど有能で実際的な助手はいなかった。
 私もそうだったが、彼も芝居のことしか頭になかった。しかも、じつにいろいろな本を読んでいた。いちばん好きな作品は、ドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』だった。ドリュは、当時ひどく評判の悪い作家だったから、私は驚いたおぼえがある。
 『ルイ・ジュヴェ』のなかで、しばしばドリュについてふれたのも、じつは大川を思い出して書いたのだった。
 大川は、私の訳した『闘牛』が気に入っていた。登場人物が、30名。小劇団ではできそうもない台本だった。「先生、あのホン、ぜひやりましょうよ」といいつづけた。
 私は、彼の熱意にほだされて演出を決意したのだった。   (つづく)

2009/02/20(Fri)  964
 
 ぶさカワイイ。不細工だが可愛い。最近の新造語。

 青森のオバサンが、ノライヌを育てている。このイヌは秋田犬(あきたけん)だが、顔つきがライオンに似ているので「レオ」と名づけた。
 たまたま、よそのオバサンがこのイヌを見て「わさお」という名前をつけた。「わさおくん」は、なんともぶさカワイイ。彼はネットで紹介されて評判になり、多数のファンがアクセスしてきた。地元では「わさお」をデザインしたTシャツが作られたり、ファンクラブができたり。
 近頃、ろくでもない話題ばかりが多い時代にこういう話を聞くのは楽しい。

 私たちには「可愛い」モノに対する愛情がある。
 やがて、そうした感情に別のファクターがくわわる。たとえば、グロテスクなもの、エグイもの、こわいもの、エロいものまでも、ひとしなみに「カワイイ」に変換させる。このファクターは「カワイイ」ものに対する崇拝 worship といってよい。
 たとえば、少女マンガによく見られる。

 前世紀末に、『ノンセクシュアル』、『ハンサムウーメン』、『カサブランカ革命』、『花になれっ』といったヤングアダルトや、少女マンガがぞくぞくと出てきて、これが何かの流れになりそうな気がした。私の予想は外れた。
 9.11.の余波もあったのか。こうした傾向は、私の予想と違って綺麗に消えてしまった。いまになってみると、こうした作品も「ぶさカワイイ」例だったのかも知れない。そんなことを考えた。

 テレビが、このイヌ「わさおくん」を紹介していた。(’09.1.20.NHK/総合 5:48.am)「青森」の若い女性アナウンサーが、秋田犬を「アキタイヌ」と呼んでいた。間違いではないが、ちょっとあきれた。
 ぶさカワイイから、ま、いいか。

2009/02/18(Wed)  963
 
 東京オリンピックのマラソンで、アベベが優勝した。このとき、日本代表だった円谷 幸吉は最後まで力走して、3位になった。
 だが、その後、円谷 幸吉は自殺した。どうして自殺しなければならなかったのか。長いこと疑問に思ってきた。

 東京オリンピックから、円谷 幸吉は岐阜の国体で、優勝を期待されながら2位。メキシコ・オリンピックをひかえて、不調がつづく。2年後、26歳の円谷 幸吉は自衛隊幹部候補生学校に在学中だった。
 この頃、彼はある女性と結婚して、再スタートを切ろうと決心していた。相談を受けた父も、コーチも結婚に賛成だった。

 ところが、思いがけないところで反対された。
 自衛隊体育学校の校長が反対した。大事なときに、結婚とは何事か、という叱責だったらしい。
 円谷 幸吉の家族と、相手の女性の家族が、福島県の郡山市で会ったとき、この校長も同席したが、その場で、「私は賛成できない」と放言した。
 けっきょく、先方からこの縁談を断ってきたという。

 円谷に結婚をすすめたコーチは、この直後、札幌のスキー訓練部隊に転属された。
 1968年9月、円谷 幸吉は自衛隊幹部候補生学校を卒業。教官に任命されたため、ランナーとして鍛えるべき時期を教官という激務で制約された。

 歳末、故郷の実家ですごした円谷 幸吉は、正月、自衛隊体育学校に戻って、松がとれてすぐに自殺している。

 その後、この自衛隊体育学校の校長は平時の武官としては最高の栄誉を受けて退任したはずである。さぞ、ご満悦だったに違いない。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 作家としての私は、この自衛隊体育学校の校長が、円谷 幸吉の自殺を知ったときどう思ったかを知りたい。むろん、何を語るはずもない、とは思うけれど。

 自分の勲功が、じつは円谷 幸吉に多くを負っていたことを考えたろうか。おそらく、そんなこともなかったのだろう。

 もっとも嫌いな日本人をあげるとすれば、私は躊躇することなく、この自衛隊体育学校の校長をあげるだろう。おのれの権威を笠に、傲慢、低劣に人生をうまく立ちまわってきた典型的な軍人として。

 この人物のことをもっとも恥ずべき日本人として、憎悪をこめて心に刻みつけておく。

2009/02/15(Sun)  962
 
 1作や2作、戯曲を書いたところで、劇作家として通用するはずはない。
 小さな劇団でも結成して、自分で公演を企画するのでもないかぎり、自作を舞台にかける可能性はほとんどない。
 せめて、読者に読んでもらいたいという思いも、雑誌に発表される可能性はない。
 同人雑誌でも、戯曲を掲載する機会は少ないだろう。
 たったひとりの観客も、たったひとりの読者も得られないまま、芝居を書きつづけてゆく、というのは、あまりにも過酷な試練になる。
 むろん、それが表現者の宿命であるというのは――誤りなのだ。もの書きの孤独は、書くという営みの結果ではなく、条件なのだ、というのか。

2009/02/13(Fri)  961
 
 少し古い統計だが、イギリスの避妊具メーカーが、’05年に41カ国を対象に実施した。年間、性交回数の調査。これによると、
 トップはフランスで、平均、120回。
 日本は、45回。最下位。

 かんたんにいえば、フランス人はセックスがお好きということになる。
 日本人は、もともと淡白で、あまりセックスが好きではない・・・ということにはならない。体力(精力)がないのか、セックスする時間がないのか、アセクシュアルな状況にあるのか。
 おもしろいことに、フランスでは、昨年の統計で、婚外子率が52パーセント。
 日本では、わずかに、2パーセント。

 フランスでは、当事者が結婚していようといまいと、妊娠した子どもは生まれてくる。ところが、日本では、子どもは結婚してから生まないと、世間体がわるいという考えかたがつよい。だから、「デキちゃった結婚」が多い。

 こんなことからも、フランスでは、女性が働きながらでも子育てができる環境が整備されていると想像できる。
 日本の女性はそういう状況におかれてはいない。

 活動写真のロマンスは、いつも性的に惹かれあう男女を描いてきた。ただし、その恋愛は、かならず未婚の男女のあいだに生ずべきものであって、ふたりのロマンスのゴールは結婚であった。
 ところで、詠歌のなかにボーイ・ミーツ・ガール主題が登場する。
 男と女は、そのまま結婚にゴールインできるわけではない。かならず、なんらかの障害にぶつかる。だが、世間の荒波にもまれた男は、ここで奮起して、さまざまな障害を乗り越えて、みごと女を手に入れる。これが、ダグラス・フェアバンクスの冒険活劇からハロルド・ロイドの喜劇まで、おきまりのテーゼだった。
 その障害のなかで、少子化などはついに一度も問題になったことはない。

 2兆円規模の定額給付金をめぐって、自民、民主、両党がすったもんだやったが、チイせえ、チイせえ。
 いかがでござんしょう? どうせのことだ。いっそ、赤ちゃんから、中、高校生限定の定額給付金として、ドーンと月額、みんなに1万円給付というわけにはいきませんかね。おそらく、10兆ぐらいはかかるだろうが、経済効果は抜群だし、少子化に対する歯止めになる。
 結婚、非婚にかかわらず生まれてくる子どもには援助する。そうでないと、現在の金融危機につづく時代に、日本の活力は大きく衰退する。
 現在の金融危機は、100年に一度の危機という。
 少子化は、100年におよぶ危機と認識したほうがいい。

 麻生さん、小渕さん、枡添さん、いかがでしょうか。



2009/02/09(Mon)  960
 
 男はどうして女に恋するのだろうか。そして、ヴァイス・ヴァーサ。
 恋は、16カ月から3年しかもたない。

 ラトガース大教授のヘレン・フィッシュー博士の説。

 へえ、そうなのか。もっと早く教えてくれればいいのに。私は、本気でそう思った。もし、そういう恋の機微を知っていたら、失恋しても、あとあとまで悩んだり苦しむようなこともなかったのに。

 2千人の夫婦のすれ違いを研究なさっているワシントン州立大のジョン・ゴトマン博士は、15分、こうした夫婦の会話のやりとりを観察していれば、その夫婦が別れるかどうか予測できる、という。

 これは凄い。そこまでわかってしまうのなら、もう、小説なんか読むやつはいないよなあ。

2009/02/05(Thu)  959
 
 1919年。
 第一次世界大戦が終わった直後。
 当時の活動写真は、チャップリンが「ミューチュアル」を離れて、「犬の生活」からはじまるあらたな喜劇を創造する。一方、「アメリカの恋人」、メァリ・ピックフォードが、すでに登場している。前年、はじめてのターザン映画が登場して、エグゾティックな冒険活劇から動物映画まで、活動写真の可能性がひろがっている。
 この年、敗戦国、ドイツでは、ベルリンに高価な映画館「ウーファ・パラスト」が出現している。
 1919年、シカゴ。
 ある映画関係の公聴会で、医師が証言した。

 映画を見る人は、ノイローゼ、あるいは舞踏病を起こす可能性が大きい。
 委員の質問に対して、

 映画は観客の視覚をそこなうばかりか、間違いなくメガネの使用者がふえる。しかも、夜遅く映画を見に行くのは、必要な睡眠をへらして、人体に有害な結果をもたらす。何年にもわたって、映画を見つづければ、ノイローゼから器官に変調をきたす。
 これに対する有効な処置はまったくない。

 と、証言した。

 そうだったのか。私が近眼になったのは、映画ばかり見てきたからだったのか。
 しかし、私の知っている映画評論家でも、飯島 正、植草 甚一さんは、メガネをかけていなかった。映画監督だって、メガネをかけていない人は多い。

 私の場合、夜遅く映画を見に行っても、ぐっすり眠れたし、かりに睡眠時間をへらしても、あまり有害な結果は出なかったような気がするね。
 映画を見つづけたからノイローゼになったという気もしない。器官に変調をきたしたとすれば、もともと頭がわるかったせいか、ますますボケてきたぐらいか。

 この医師は結論づけている。
 映画を見る若者たちは、精神的に怠惰になってしまう。ゆえに、若者たちにはできるだけ映画を見せないほうがいい。

 昔からこういう議論があきもせずくり返されてきたことが・・・私にはおもしろい。
 それで思い出すのだが・・・私が中学生だった頃は、映画を見に行っただけで、停学、わるくすると退学処分になる、と脅かされていた。ところがどっこい、悪童どもはけっこう映画館に出没していた。

 中学の校庭の隅っこで、三、四人の少年が、めいめい、自分の見たチャップリン、キートン、ジーン・アーサー、ディアナ・ダービン、そして高山 広子や、高峰 秀子の映画を語りあっていた。日米戦争がはじまる直前の風景が、今の私に幻影のように蘇ってくるのだが。

2009/02/02(Mon)  958
 
 1947年、シャルル・デュランは、本拠の「アトリエ」を人手にゆずらなければならなかった。
 戦後のデュランは、アルマン・サラクルーの芝居が当たっただけで、最後にはデュランのために新作を書いてくれる劇作家もいなくなった。デュランは気がつかなかったが、ガンがひろがっていた。それでも、デュランは悪戦苦闘を続ける。最後には、恋人のシモーヌ・ジョリヴェが脚色したバルザックの『継母』と、モリエールの『守銭奴』をもって、南フランスのリオン、サンテチェンヌ、グルノーブルの旅公演に出た。
 この巡業中のデュランは、病気が悪化して、幕間に、医師に栄養剤の注射をしてもらってやっと舞台に立つようなありさまだった。
 エクサン・プロヴァンスの劇場で、巡業の全日程を終えた。みんなをパリに帰してやって、やっとマルセイユに戻ったが、ここでたおれて、聖アントワーヌ施療病院にかつぎこまれた。

 デュランの友人たちが病床にかけつけた。ジャン=ルイ・バローが見舞ったとき、デュランは施療病院にかつぎこまれたのでは外聞がわるいと思ったのか、別の私立病院に移してほしいと訴えた。
 バローは、フランス随一の名医、モンドール教授に診察を依頼した。教授の診察では病気は重く危篤状態なので、絶対安静が必要だった。デュランはそのまま施療病院にとどまることになった。
 このとき、ルイ・ジュヴェも、パリからかけつけた。サラクルーやアヌイも。
 デュランは昏睡状態に陥って、ときどきわずかに意識が戻るようだった。
 「新聞を見せてくれ」
 苦しい息の下から、デュランがいった。
 病室には新聞もなかった。デュランは、頬にかすかな笑いをうかべて、

 「みんな、おれの死亡記事を読んで、きてくれたんだろう?」

 デュランは洒脱な役者だった。

 私は、マルセイユにしばらく滞在したことがある。ピカソのお嬢さん、マヤに会うためだったが、毎日、午前中にインタヴューするだけなので、あとの時間をつぶさなければならなかった。デュランが亡くなった施療病院に行ってみた。
 その後、マヤの案内で、ヴァローリスのピカソのアトリエに行ったが、このときは、名女優、ヴァランティーヌ・テッシェのお墓を探した。
 当時の私は、はるか後年、評伝、『ルイ・ジュヴェ』を書くなどということは、まったく考えもしなかったが。

2009/01/29(Thu)  957
 
 明治45年、明治座に拠った市川左団次は、年頭から奮闘したが興行はあたらず、この夏、ついにドサまわりを決意した。
 表向きは旅興行とはいいながら、はるかに遠い九州落ちであった。

 昔の旅のことだから、停車場(すてんしょ)には、駅弁売りや、新聞売りが声をからして走りまわっている。
 新聞! 新聞! 
 左団次は、その呼び声を聞いていた。売り子がプラットフォームを走って、左団次の車窓までやってきた。
 「新聞を買ってくれ」
 左団次は同行した興行主任に頼んだ。
 「いや、新聞なんかつまらねえ」
 興行主任が、にべもなくそう答えたという。

 このエピソードが私の心に残った。というより心を揺さぶられた。

 当時の左団次は、亡き父の借財に苦しんでいたし、本拠の明治座は不入りがつづいて、まったく動きがとれなかった。この八月、先代いらいの由緒ある明治座を、新派の伊井 蓉峰に売りわたしている。左団次の胸に、深い挫折の思いが刻まれていたと想像しても、それほどあやまりとはいえないだろう。
 都落ちを決意して乗り込んだ汽車のなかで、一部の新聞が買えないほどの貧乏を味わうことが、どんなに屈辱的だったか。

 人間の一生には、自分でもどうしようもない挫折、破綻がつきまとうことがある。

 ドサまわりから戻った十月、左団次は、ついに松竹に膝を屈した。大正時代に入って、八百蔵(のちの中車)と組んで、演劇史にかがやく仕事をつづける。

 最近、全国で3月までに失業する非正規労働者が8万5千人になるという。サラリーマンの平均年収は、97年(467万円)から、9年連続で下落している、といった話を聞く。これは、とり返しのつかない事態で、日本の政治のどうしようもない停滞を物語っている。
 これと左団次の悲運には何の関係もないのだが・・・私たちも不運に見舞われた場合、まずはその悲運にまっこうから立ち向う気概、姿勢が必要な気がする。時代の変化よりも、私たちの変化のほうに解決の可能性があるような気がする。

2009/01/26(Mon)  956
 
(つづき)

1)  世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある。特に、中国、インドの重要性がまして、アメリカの重みが減少してきた。

 この大前提は、いちおう間違いはない。たしかに今後の政治・経済状況の動きで、中国、インドの重要性がましてくる。かんたんにいえば、パクス・アメリカーナの終焉ということになる。
 しかし、現在、世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある、とまではいえないだろう。
 アメリカの重みが相対的に減少してきたのは、イラク戦争の終息過程に大きな誤算があったからだし、これに金融経済の破綻が重なったからであって、これを切り抜ければ、ふたたび、アメリカの重みが上昇してくる。

2009/01/22(Thu)  955
 
 2009年の年頭に、たくさんの人々の現状分析、未来への予測を読んだ。
 ほとんどの意見は、妥当なもので、いろいろと 教えられるところがあった。

 元/西ドイツ首相、ヘルムート・シュミットは語る。

1)  世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある。特に、中国、インドの重要性がまして、アメリカの重みが減少してきた。

2)  内政上で、不測の事態がおきなければ、中国は今後40−50年で、テクノロジー面では、最先端に到達すると思う。

3)  私(ヘルムート・シュミット)は、21世紀に世界的影響力をもつ大国の顔ぶれを「アメリカ、中国、ロシア」と予測してきた。
    EUは、すくなくとも、21世紀前半には、こうした世界的な大国の一角をしめることはない。

4)  デモクラシー、人権といった、いわゆる西側の価値観は、もっぱら西側諸国のもので、アジアでは通用してこなかった。日本は例外である。今後も、西側の価値感は、アジアでは大きな役割を果たさないだろう。中国には、四千年の文化があり、儒教や道教が受け継がれてきた。21世紀の世界で、異なる価値観が存在することは、事実として受け入れるべきだろう。

5)  日本の未来を考えるうえで、ドイツと比較したい。両国はともに、第二次大戦後の半世紀で、当初想像もできなかった経済的成功をおさめた。大きな相違点は、ドイツがEUの中に根づいているのに対して、日本は近隣諸国から孤立していることだ。政治家をはじめ、日本の指導者は、隣人と友好的な関係を打ちたてようとする努力が不足していたと思う。ドイツは、戦後、近隣諸国とのあいだで、ある程度友好的な関係を構築できた点で、日本より幸福である。

6)  中国と比較した場合の日本の経済的先進性は、20年もすれば意味がなくなるだろう。日本は自国の経済的優位にあまりに長く依拠してきたのではないか。その優位は消滅しつつある。

 これは、現在の日本に対する弔鐘のように響く。
 ヘルムート・シュミットの意見は、おそらくアメリカにも共通してみられる日本観だろうと考える。(数字は、反論のために私が便宜的につけたもの)。

2009/01/19(Mon)  954
 
 正月、テレビで「寧々(ねね)おんな太閤記」を見た。
 昭和56年、NHKで放送された「おんな太閤記」のリメイクで、テレビ東京開局45周年の記念作品という。
 主演は、仲間 由紀恵、市川 亀治郎。
 おもなキャストをあげておこう。

「秀吉の母/なか」 十朱 幸代。「織田 信長」 村上 弘明。「お市の方」 高岡 早起。「前田 利家」 原田 泰造。「明智 光秀」 西村 和彦。「徳川 家康」 高橋 英樹。「石田 三成」 中村 俊介。「淀殿」 吹石 一恵。「大蔵卿の局」 池上 季実子。

 昔の作品と比較したわけではないが、市川 亀治郎は、あたらしい「秀吉」を描き出している。仲間 由紀恵はこれから先が楽しみというところだろう。
 残念なことに、十朱 幸代はミス・キャスト。これ以外、それぞれの俳優、女優の芝居が、前作よりも格別すぐれているとか、劣っているという印象はない。前作ほどの感銘は受けなかった。
 全編のナレーションを森 光子がやっている。これがひどかった。
 森 光子は名女優といわれているが、こういうドラマのナレーターとしては不適格で、声は沈んでいるし、滑舌がおかしいため不明瞭に聞こえた。
 このドラマがもう一つあざやかな印象をもたなかった理由の一端は、拙劣なナレーションにある。

 舞台の名女優をナレーションに起用すべきかどうか、それは演出家がきめることだ。森 光子より下の世代の女優たちは、ディクションなりディクラマシォンをきちんと身につけている。山岡 久乃、初井 言枝、奈良岡 朋子、文野 朋子、加藤 道子などをあげただけで、それぞれのみごとなナレーションが思い出せる。
 いい役者だから、いいナレーターになれるとはかぎらない。
 新しい大河ドラマ、「天地人」のナレーションは、宮本 信子。さすがに、森 光子よりはいいが、ドラマ自体、精彩がないだけに、この先どうなるか、まだわからない。

 70代になって「ロクサーヌ」をやる女優がいてもいい。私としては、あわれを催すけれど。しかし、声が衰えてから、大きなドラマのナレーションはやるべきではない。

2009/01/16(Fri)  953
 
 新年早々、イスラエルが、ガザ地区で大規模な地上戦を開始したことは、私の心を暗くした。
 ガザ地区はイスラーム原理主義の組織「ハマス」が支配している。昨年12月27日からの攻撃で、死者はすでに500名におよんでいる。この地上戦が、「ハマス」のロケット弾発射拠点を制圧して、「ハマス」の攻撃を阻止することにある。
 これに対して「ハマス」側は、ガザはイスラエル軍の墓場になるだろう、と言明した。
 イスラエル、「ハマス」の対立、衝突は、今後もつづくと見るべきだし、はるか後代の歴史家は、人間の愚行としてこれを記述するだろうと考える。つまり、私はパレスチナ問題に関するかぎり、きわめて悲観的なのだ。

 文明の衝突といった観点から、この問題をとりあげるつもりはない。宗教的な対立という観点も、はじめから私の手にあまる。
 文明も宗教も、たしかに私たちの良心をうごかす原動力になっている。しかし、年齢を重ねてくれば、そんな考えにかならずしも確信がもてなくなってくる。

 後期高齢者ともなれば、たいてい混乱しはじめるし、さまざまに矛盾したことをいい出すだろう。誰だって、何十年もかけて、自分の人生を何かしら調和のとれたものにしようと努力する。しかし、いくら努力しようと人生はたいしてよくもならなかった。

 そうなったら、もうどうしようもない。
 人間なんてそんなものだ、と覚悟をきめるしかない。厳しい正義などというものを信じるよりは、むしろ寛容をもとめるほうがいい。

 ところで、寛容などというものを、きみはもちあわせているか。

2009/01/13(Tue)  952
 
 イリノイ州立大学の医学研究チームの報告。

 「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせて、心臓マッサージを行うのが、いちばん効果的という。
 アメリカの心臓協会は、心肺機能蘇生時にほどこす心臓マッサージでは、1分間に、100回のペースで、胸部を圧迫することを推奨しているが、「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせると、ほぼ このペースになるとか。

 私は、こういうトリヴィアをみると、すぐにメモしたくなる。
 このニュースには、別の意味で関心をもった。

 ジョン・トラボルタ主演の映画、「ステイン・アライヴ」は、日本でも公開されているが、原作を翻訳したのは――私であった。
 出版社側は、日本でもヒットした「サタデイナイト・フィーバー」の続編なので、翻訳すれば売れると思ったのかも知れない。しかし、映画の公開日時が迫っていた。まともな翻訳家なら、誰もこんなノベライズものの翻訳を引き受けない。
 映画の公開まで、せいぜい2週間やっと。そんなせっぱつまった状況で、翻訳を引きうける物好きはいないだろう。そこで、窮余の一策、中田 耕治に押しつけようということだったのではないか、
 私は、その日の夜から「山ノ上」にカンヅメになった。ホテルにはワープロを届けてもらって、部屋に入った瞬間から、夜を日についで仕事をつづけ、予定より数時間遅れで、翻訳を終えた。さすがに疲れた。

 試写で「ステイン・アライヴ」を見た。ジョン・トラボルタの相手をやった女優さんはブロードウェイ・ミュージカルの舞台女優だったが、まるで魅力のない、はっきりいえばいやなタイプの女優で、映画を見ながら、この映画は当たらないだろうなあ、と思った。当たりそうもない映画の原作を訳すほど味気ないものはない。早く訳してしまおう、と思いながら訳していた。

 ある時期から、年に一冊のペースで、翻訳をすることにきめていた。翻訳以外の仕事がふえていた。翻訳だけではもの足りなくなっていた。それでも翻訳はつづけていたかったので、毎年一冊だけでも翻訳をつづけたほうがいい。
 「ステイン・アライヴ」以後、私はこのペースで翻訳をつづけてきた。
 編集者たちも、私を「山ノ上」にカンヅメにしてしまえば、期日までに間に合うと安心していたらしい。

 「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせながら、翻訳をつづけたわけではなかったが。

2009/01/9(Fri)  951
 
 浮世絵は、無数の遊女を描いてきた。
 それぞれ時代の違い、あるいは美意識の違いによって、遊女たちの絵姿がことなる。これは当然のことだが、現在の私たちが毎日見ている女性像、あるいは顔の目鼻だちとは、ずいぶん違っている。

 その時代、全盛を誇った女たちを描いたに違いないのだが、私にはあまり魅力が感じられない。どうしてだろう? その前に、そもそも美女とはいったいどういうものなのか。
 私が読んだなかで、この問題に明快な答えを出している人がいた。張 競という中国の学者で、比較文化論を専攻なさって、日本語による著作も多数ある。

    日本と同じように、昔中国の絵画、彫刻にあらわれた美人は例外なく一重まぶたであった。ところが、明代以降になって、二重まぶたの美人が描かれるようになった。(中略)ほかの年画でも二重まぶたは美貌の象徴として描かれている。むろん、二重まぶたが一重まぶたよりも美しい、という審美観がすでに成立していたかどうかは断言できない。少なくとも二重まぶたも美しいとされ、しかもそれは近代西洋文化の影響と関係がなかったことはまちがいない。
      『美女とは何か』(第三章)角川文庫版 P.111

 これを読んで、モンゴロイド系に属する日本人が、一重まぶたの女性を美しいと見てきたことを納得した。
 一般に、日本人が、二重まぶたの女性を美しいと認識するようになったのは、明治30年代後期、ないしは40年代に入ってからかも知れない。
 明治40年代、赤坂の名妓、「万龍」や、新橋の名妓、「清香」をえがいたポスターでは、ふたりともはっきり二重まぶたの美人である。
 その後、初期ハリウッドの無声映画に登場したマック・セネットの水着美人、ジーグフェルド・フォーリーズの美女たち、さらに、メァリ・ピックフォード、ノーマ・タルマッジ、MMM(メァリ・マイルズ・ミンター)といったニンフェットたちが、例外なく二重まぶただったことから、私たちの美人観は確立して行ったのだろう。

 張 競先生のおかげで、今年は、そのあたりのことを考えてみようか。

2009/01/06(Tue)  950
 
 日頃、まるで縁がないのだが、たまに銀座、新宿、渋谷などを歩く。外国のファッション・ブティックの進出に驚かされる。つい最近も、青山に「ステラ・マッカートニー」がオープンしている。
 外国の街を歩いていて、ふと、孤独な旅行者でしかない自分に気がつくときがある。自分でも意外なのだが、渋谷、青山などを歩いて、そんな気分に襲われることがある。
 むろん、理由はあるだろう。
 最近の私は、浮世離れした「文学講座」などをつづけていて、とくに昭和初期の文学、映画、風俗などに眼をむけることが多い。そのせいで、現実と自分の世界のあまりの懸隔にただとまどっている。

 ふと、思い出したメロディーがある。

   シネマ見ましょか お茶のみましょか
    いっそ小田急で逃げましょか

 昭和4年(1929年)、西条 八十作詞。中山 晋平作曲。
 東京は銀座、丸の内、浅草、新宿という四つのアミューズメント・センターが形成されていた。西条 八十は、それぞれの土地をとりあげている。

 松がとれたら、荷風の『日和下駄』でも読み返そうか。

2009/01/05(Mon)  949
 
 お正月のうららかな日々。
 何か読もうと思いながら、明治の浮世絵などを見てのんびり過ごしている。

 応需 勝月の「教育誉之手術」という絵。明治も20年代の作。三曲。
 前景に6人の女たち。後景に10人の女たち。(私が数えたのだが)。

 前景、右手、日本髪に前櫛、コウガイの3人の娘が、お裁縫をしている。
 中央に、黒のローブ・デコルテの女性。髪に赤と紫の花(二輪。ブーケだろうか)を挿した貴婦人。ほっそりした体型なので、洋装を着こなすセンスも感じられる。腰はフープ。大きな花の飾り。西洋バサミを手に、赤いドレスをカットしている。
 左に、おなじく束髪に赤い造花、赤の洋装に羽織のようなコートを着た女性が、手動のミシンで何かを縫っている。それを、ローティーンのお嬢さまが熱心に見ている。

 後景、右は和室。女が、若い娘の髪をととのえている。おなじ部屋で、別の女たちが何か話をしている。
 奥は別棟。ここでは、三人の女がお茶をたてている。お点前だろう。

 左、遠景は低い連山。空にわたり鳥の列。低い山系の手前に大きな池。その池のほとり、絵の左端、洋装にハットのご婦人が散策している。

 こんな説明では何もわからないだろうが、世は鹿鳴館の時代で、和洋折衷というか、和洋混合の風俗が描かれている。

 応需 勝月という画家については知らない。ただ、この絵の「教育誉之手術」という題に興味をもった。明治20年代に「手術」ということばが使われていたことがわかる。私たちは、外科の手術という意味でしか使っていないが、明治の人々は、手の作業、工作、運用法といった意味で訳したものと思われる。

 お正月、ぼんやり一枚の版画を眺めて、いろいろなことを考える。
 楽しい。

2009/01/04(Sun)  948
 
 紅白歌合戦などというものがなかった時分、下町の大晦日は、どこの家でも夜通し起きていた。夜になってから、借金とり、掛けとりがきたり、正月のお料理の仕度をしたり、掃除が終わっていなかったり、けっこう忙しい。子どもたちは、年越しそばを食べたあと、火鉢に手をあぶりながら、みかんを食べたり、カキ餅を網に乗せて焼けるのを待っている。

 初夢は一月一日の晩に見るものと思っていたが、いつ頃からか、二日の晩に見る夢ということを知った。七福神が乗っている宝船の刷りものを、朝から売り歩く男がいて、縁起ものだから、これを枕の下に敷いてねるのだった。
 ただし、少年の夢には、一富士、二鷹、三なすびなど一度もあらわれなかった。翌朝、眼がさめて、いつもがっかりしたものだった。

    ふく神を乗せた娘の宝船

 という川柳がある。この「ふく神」は、明治時代から富貴紙という名前で売られていたらしい。やわらかい上質の和紙。これ以上、説明する必要はない。

2009/01/01(Thu)  947
 
 2009年を迎えた。
 みなさんに心からおよろこびを申しあげる。今年が、みなさんにとって、よい年になりますように。

 誰もが感じているように、私もまた、世界的なパラダイム・シフトが起きていると思っている。かんたんにいえば、社会全体の価値観の移り変わりである。こういう事態は、そう何度も起きることではないので、これからの推移はまさに注目すべきだろう。
 私は大正の関東大震災を知らないのだが、その後の不況の影響は知っている。それに、1941年に開始された日米戦争の推移と、敗戦後の日本を見てきた世代である。この時代が、日本の戦前・戦中と、いわゆる戦後の決定的な境界で、人心も生活も一変する。これを、パラダイム・シフトとして見ることはできるだろう。

 世界史的には、パックス・アメリカーナの時代が、別のパラダイムに移行しつつあると見ていいかも知れない。最近のロシアの動き、とくに大統領の任期の延長の決定や、石油、ガスなどの資源を武器にした近隣の諸国に対する姿勢には、紛れもなく大ロシア主義への回帰と、きたるべき資源戦争への準備が認められる。
 中国は、国内に大きな反体制の動きが生じているが、対外的にはますます強大な発言力をまして行く。これに対して中東の産油国は、今世紀末には現在の地位を失うだろう。
 アフリカ諸国は、国家形態の再編成が大きな条件だが、独裁者たちの恣意的な統治が、民族の合意形成をさまたげる。
 グローバル化が進むということは、戦争の危険がいつも存在するということなのだ。このまま事態が悪化しつづければ。いつ、どこで戦争が起きてもおかしくない。私はそう思っている。

 1937年に日中戦争が起きた。連日、出征兵士のために、千人針を、さかり場の道行く女性か縫っていた。手拭いほどの布地に、千人の女性が手づから赤い糸を縫いつける。それが千人針で、その布を肌身につけていれば、兵士は戦死しないと信じられていた。
 私は、街頭で千人針を縫いつけていた女たちを心から尊敬する。ほんとうに、いとしい女たちだったと思う。だが、その千人針を肌身につけていた兵士の多くも戦死した。そのことを心に刻みつけておきたい。

 非正規の労働者が今年の3月までに、約8万5千人が失職するという。再就職先が見つかった人は、そのうち1万7千人の10パーセント強にとどまる。
 2009年は、世界経済の危機と重なって、急速な景気減速、将来がまったく見えない深刻な貧困を作りだしている。だが、もっと困難な時代の到来を予想すべきかも知れない。
 つい先日(つまり、昨年の歳末)に、ホンダがFIから今季かぎりで撤退すると発表した。世界ラリー選手権では、スズキ、スバルが撤退するそうだが、たてつづけに有力企業が撤退する事態をだれが予想したろうか。
 一部のチームのように、年間2億(約180億円)も使いつづければ、いつかは破綻がやってくる。2004年にジャガーが撤退したときに、ホンダが撤退すれば、こんな非運を見なかったかも知れない。
 今年は、もっときびしい年になることは覚悟しておこう。

 こういう、くそおもしろくもない時代に生きるのは、私もきみもおもしろくない。そこで、少し見方を変えれば、これほどおもしろい時代はない。しっかり見届けておくことだ。困難な時代を乗り切るために、何をすればいいのか。その困難を見据えることしかない。

 今年の「中田 耕治ドットコム」では、これまで避けてきたアクチュアルな問題に関しても少し発言しようと思う。もう少し視野をひろげて、今年見たドラマや映画、芝居について書いてみようか。老いのくりごとと受けとられたくないけれど。

 これが私の年頭所感。

2009/12/31(Wed)  946
 
 歳末の寒さが身にしみる。

「句はさびたるをよしとす。さび過たるは骸骨を見るがごとし。皮肉をうしなふべからず」

 天保期の俳人、田川 鳳朗の説。この「皮肉」はアイロニーではないが、私は勝手に、自分の書くものに「皮肉をうしなふべからず」ときめている。

 さて、年の瀬にわれと我が身をふり返る。誰にもあることだろう。私は、あまりわれと我が身をふり返らない。私には、2008年がまことにつまらない年だったという思いがあるのだが、反省したってはじまらない。
 景気もしばらく回復しないし。
 どうせ、このままオヤマカチャンリンさね。

   我が寝たを 首上げて見る 寒さ哉    来 山

 上五がどうもよくないが、冬の寒さがそくそくと身に迫ってくる。ゾクゾクでもいいけれど。
 このまま寝ていれば、もうすぐお正月。

 「中田 耕治ドットコム」につきあって下さった皆さんに心からお礼を申しあげ、いよいよ2008年に別れを告げる。
 まだ、年賀状を書いてない人は、いまからでも遅くはない、私にあててハガキをチョーダイ。
 よいお年を。

2008/12/30(Tue)  945
 
 歳末である。

 年の瀬を詠んだ句は、いくらでもあるけれど、名句といえる句は少ないのではないか。むろん、私が知らないだけのことだが。

     世に住まば 聞けと師走の 碪(きぬた)かな    西 鶴

 きぬたは、衣板(きぬいた)からきたことばという。女が木のツチ(きづち)で、布を打って、やわらかくしたり、つやを出したりする。その布を置く木、または石の台をいうらしい。私は見たことがない。ただ、「冬のソナタ」で、チェ・ジウが、洗濯をするシーンがあって、彼女が布を叩いているのを見た。きっと、昔の日本人も、ああいうふうにして、布を打ったのだろうと思った。

 「きぬた」は秋の季語らしい。もし、秋の季語とすれば、師走が冬だから、季重リだが、西鶴はそんなことを無視している。むしろ、この句に、さびしみ、またはアイロニーを読むことができよう。
 いろいろと忙しい年の瀬になって、女がきぬたを打っている。もっと早く、やっておく仕事なのに。あわただしいことで、いよいよ押し迫ってから、きぬたの音を立てている女のあわれが感じられる。これが一つ。
 年の瀬が迫ってきている。それなのに、師走の夜を懸命にきぬたを打っている。やすまずに働きつづける女の殊勝なふるまい。これがひとつ。
 「聞けと」という言葉に、師走に聞くきぬたの音のかなしさも響いている。

 「世に住まば」は、世間に住んでいれば、という意味だが、そうではなく、かつがつの暮らしぶりをしていても、このきぬた打ちの音を聞いてください、貧乏なんぞに負けていませんよ、というけなげな心根さえ聞き届けられよう。

 歳末のいい句だと思う。

2008/12/29(Mon)  944
 
 いまから半世紀前に、どんな映画を見たのだろう?
 誰がもっとも輝いていたのか。

 私が思い出すのは、イタリアのロッサノ・ブラッツイ。「旅情」で、キャサリン・ヘップバーンの相手をやっていた。あるいは、ミッツイ・ゲーナーを相手のミュージカル、「南太平洋」をおぼえている人がいるかも知れない。
 日本では、「トスカ」ではじめて知られた。ジューン・アリソン、エリザベス・テーラーの「若草物語」や、アンナ・マニャーニの「噴火山の女」。「裸足の伯爵婦人」、「愛の泉」、「雷雨」といった映画に出ていた。

 洋画では、ヘミングウェイの「日はまた昇る」が、映画化された。ヘンリー・キング監督。タイロン・パワー、エヴァ・ガードナー。エロール・フリン、なんとジュリエット・グレコ。ただし、ひどい駄作。当時、私は、ヘミングウェイを翻訳しようと思っていたので、この映画を見てあきれたことを思い出す。

 ルネ・クレールの「リラの門」。マリリン・モンローの「王子と踊り子」。
 日本では、美空 ひばりの「競艶雪之丞変化」あたり。
 市川 右太衛門が「富士に立つ影」、長谷川 一夫が「雪の渡り鳥」で、「鯉名の銀平」を。マキノ 雅弘の「一本刀土俵入」、衣笠 貞之助の「鳴門秘帖」、稲垣 浩の「女体は哀しく」。
 「富士に立つ影」では、北大路 欣也が出ていた。
 佐伯 清の「佐々木小次郎」。この「小次郎」は、東 千代之介だったっけ。女優陣は、花柳 小菊、大川 恵子、三条 美紀、千原 しのぶ。
 吉村 公三郎が島田 清次郎の「地上」を、中平 康が三島 由紀夫の「美徳のよろめき」を、中村 登が井伏 鱒二の「集金旅行」を。
 松林 宗恵が石坂 洋次郎の「青い山脈」のリメイクを。千葉 泰樹が林 芙美子の原作を、三船 敏郎、山田 五十鈴で「肉体の悪夢」。後年の「蜘蛛巣城」の三船、山田よりもずっといい。
 新人たちは・・・前田 通子、泉 京子、筑波 久子、万里 昌子。中原 ひとみ、江原 真二郎。水野 久美、田村 高広がそろそろ出てくる。
 1957年12月。
 日本映画が活力にあふれていた時代。

2008/12/28(Sun)  943
 
 歳末。
 別に何かすることもない。

 退屈なので、映画でも見ようと思った。何がいいだろう?
 私が選んだのは、「戦場にかける橋」(デヴイッド・リーン監督)だった。なんと、半世紀も昔の映画である。
 イギリスの俳優、アレック・ギネス、ジャック・ホーキンズ。ハリウッドのウィリアム・ホールデン。日本の早川 雪州。1943年、ビルマ国境に近いタイのジャングルのなかに作られた日本軍の捕虜収容所。ここにニコルソン大佐(アレック・ギネス)のひきいるイギリス軍兵士の一隊が送り込まれる。捕虜収容所の所長、「斉藤大佐」(早川 雪州)は、タイとビルマをつなぐ泰麺鉄道を完成させるために、クワイ河に橋をかけるため、捕虜を使役する。「ニコルソン大佐」は抵抗するが、やがて「斉藤大佐」の説得に応じて、部下に架橋作業への参加を命じる。日本軍に協力することを拒否したアメリカの海軍少佐「シャース」(ウィリアム・ホールデン)は、脱走に成功する。・・
 いま見ても、いい映画だった。

 この映画が作られた時期、ジョゼフ・スタンバーグが「ジェット・パイロット」を監督していた。ハワード・ヒューズの製作、ジョン・ウェイン、ジャネット・リー。
 ベーリング海峡の哨戒にあたっている「シャノン大佐」(ジョン・ウェイン)のひきいるジェット戦闘機隊は、不法に越境したソ連のジェット機を追尾する。空港に不時着したソ連のジェット機から降りたのは、以外にも女性の空軍中尉(ジャネット・リー)で、過失のため銃殺されそうになったため、空路、亡命をはかったのだった・・。
 これは、かつてディートリヒとともに、「モロッコ」をはじめ、数多くの名作を撮ってきたスタンバーグが再起をかけた映画だったが、彼はまったく映画的な創造力を失って、没落して行く。

 私は、このときのスタンバーグ、そして、「アナタハン」という愚作を撮ったスタンバーグを見て、ある芸術家が、どうして失速したり、すぐれた才能を失ってゆくのだろうか、と考えたのだった。

2008/12/26(Fri)  942
 
 歳末。
 殊勝にも、この1年をふり返ってみる。私にとって、ろくなことのなかった1年。
 もっとも、いまさらろくなことの、ありえようはずもないのだが。
 子どもの頃、CO2 など、考えたこともなかった。

 つい、最近、アメリカのシカゴ大学の研究チームが8年におよぶ測定の結果を発表した。
 ワシントン州沖のタトゥーシュ島で、2000年から、毎年、夏に、30分ごとに、水質を検査してきた。総計、2万4519回におよぶ測定値を分析した。
 その結果、酸性度をしめすPH(水素イオン指数)の平均値は、年々、低下しつづけている。その割合は、1年に0・045。はじめに予想していた年に0・0010を大きく越えている。

 これは、海水の酸性化が、一般の予測より10倍も早くすすんでいることを意味する。
 その理由は、大気中にふえた二酸化炭素が海水に溶け込んだことが原因という。

 私は科学的な知識がないので、ただ、2008年の歳末に届いたもっとも警戒すべきニューズのひとつとしてあげておく。
                      

2008/12/23(Tue)  941
 
 私の内部に巣くっている一種の固定観念がある。それは芸術家の運命に関する見方だが、他人の眼から見て、たわいもないことかも知れない。
 ある人は自分の運命にしたがって新しい仕事にのぞみ、うまく成功する。ところが、別の人は一度そこで経験したことにおぞ毛をふるって寄りつかなくなったり、あるいは、今度こそ事情は違っているかも知れないと期待に胸をはずませながら、失敗する。ときには何度も何度も性懲りもなくくり返して、最後には幻滅しながらあきらめてしまう。それはなぜなのか。

 抽象的な議論ではない。きわめて具体的なこと、あえていえば、芸術を志す人間の生きかたに関して。
 この問題は・・・ある人には才能があって、別の人にはその才能がないということにかかわってくる。なぜ、ある人は才能に恵まれているのか。それにひきかえ、なぜ、私はそういう才能をもっていないのか。

 私は、いつもこういう問題を考えつづけてきたような気がする。

2008/12/21(Sun)  940
 
 (つづき)
 いまなら、ビデオやDVDで、キャストをたしかめることができるかも知れない。しかし、まったく無名のマルレーネ・ディートリヒの名がキャストに出ているだろうか。

 その後、ガルボの伝記、ディートリヒの伝記を読んだ。しかし、どういう本を読んでも、『喜びなき街』にディートリヒが出たという記述はなかった。
                                         そのため、私自身、自分が見たガルボとディートリヒがすれ違うシーンは、ひょっとすると、私の錯覚かも知れないと思った。むろん、「戦後」のドイツに、ディートリヒによく似た娘が歩いていたとしても不思議ではない。しかも、当時の私は、スクリーンのディートリヒを一度も見たことがなかった。だから、無名のドイツ娘が、ディートリヒだという確証はない。ガルボだってはじめて見たのだった。
 まったくあり得ない妄想だったのかも知れない、と思うようになった。

 だが、ガルボが別の娘とすれ違った一瞬のカットは、当時、17歳の私の心に深く刻まれたのだった。

 それから、何十年という歳月が過ぎた。
 ある日、オットー・フリードリク著、『洪水の前 ベルリンの20年代』(1985年/新書館)という本を読んだ。
 そのなかに、若き日のディートリヒについての記述があった。

     G・W・パプスト監督の名作、『喜びなき街』でちょっとした役にありついた。その映画の中で、グレタ・ガルボと一緒に闇市の肉屋の前の行列に並んだのである。

 私はこの2行を見たとき、茫然とした。私は間違っていなかった!
 戦争が終わったばかりに・・・何ひとつ予備知識なしに見た映画、G・W・パプスト監督の『喜びなき街』で、ガルボが一瞬、別の娘とすれ違う。その娘が、まさしくマルレーネ・ディートリヒだった、という喜びだった。
 あれは、白日夢ではなかった。私の直観はただしかった!
 そして、長年、心にひっかかっていた疑問が解けた。
 たが・・・もう一つ、別の疑問が胸にひろがってきた。
 あの映画の中で、マルレーネ・ディートリヒはグレタ・ガルボと一緒に闇市の肉屋の前の行列に並んだのか。私の記憶では、ディートリヒはガルボとすれ違うだけである。敗戦後のウィーンの雑踏のなかで、お互いに顔を見合わせるわけでもなく、ただ、一瞬、すれ違う。
 ガルボはからだにぴったりフィツトした、黒い堅苦しいスタイル。画面右からよろめくように雑踏に出てくる。疲れきっている。
 と、左から、安っぽいプリント模様、白いワンピースの娘が歩いてくる。一瞬、肩がふれあいそうな距離ですれ違う。むろん、お互いに眼をあわせることもない。
 ディートリヒは「ちょっとした役」ともいえない、ただの通行人だったのではないか。
 どなたか教えてくださる方はいないだろうか。

2008/12/20(Sat)  939
 
 1945年8月15日、戦争が終わった直後、私は、敗戦の大混乱のなかで、毎日のように映画を見て歩いた。
 戦災で家を焼かれ、私が通っていた工場も空襲でやけて、勤労動員も解除ということになってしまった。母親は栃木、妹は埼玉に疎開したまま、父親は失業、私の大学は授業再開も未定という状態だった。召集されて軍隊に入った友人たちも、まだ、誰ひとり復員していなかった。
 私は、まるで浮浪児のように浅草をうろついていた。戦争が終わって、大混乱のさなか、大学は再開のめどもたっていなかった。浅草をうろついて映画でも見る以外、ほかにすることもなかったから。

 何もかも大混乱だった。終わるはずもない戦争が終わったという虚脱状態で、誰もが歓楽街に押し寄せたのではないだろうか。敗戦の翌日には、三方に柱を建てて、ぐるりとヨシズを張っただけのバラックが並びはじめ、闇市(ブラック・マーケット)が形成されはじめた。フカシイモ、スイトン、雑炊など、おもに食料が中心だが、それまで見かけたことのない日用品、雑貨、古着などの衣料、並べたそばから飛ぶように売れた。

 1945年8月15日以後、日本映画の製作はすべてストップした。それまで国策映画、戦意昂揚映画を撮っていたスタジオは、戦後、どういうことになるかまるで見当もつかなかったはずである。
 当然ながら、それまで、国策映画ばかり上映していた映画館の大半はブッキングがとまったので、ガラガラ。ただし、敗戦の翌日には、戦争が終わったドサクサにまぎれて、どこから見つけてきたのか、戦前の映画、それも活動写真、戦前公開されたままおクラ入りだった外国映画などを上映する映画館がぞくぞくとあらわれた。
 浅草はただひたすらごった返していた。
 このとき私が見た映画では、マキノ 正博の「雪之丞変化」、ソヴィエト映画の「愉快な連中」や、G・W・パプストの「喜びなき街」など。

 『喜びなき街』(1925年)は、グレタ・ガルボがはじめて出た外国映画である。監督はG・W・パプスト。
 若い娘が「戦後」に惨憺たる生活をつづけ、彷徨する暗い内容だった。
 敗戦直後の日本で、第一次大戦の「戦後」ウィーンを描いた映画を見る、などということは、いまの私には途方もなくファンタスティックなことに思える。

 この映画のラスト・シーンに私は衝撃をうけた。

 敗戦後のウィーンの街角。わずかな肉の売り出しに、人々が殺到する。その群衆のなかをあてどもなくガルボがさ迷い歩く。その一瞬、別の若い娘が彼女とすれ違う。お互いに顔を見合わせるわけではない。ただ、すれ違うだけである。その娘を見た時、私はアッと驚いた。見覚えがあった。どこかで見た覚えがある。誰だったろう?
 思い出した! マルレーネ・ディートリヒだった。      (つづく)

2008/12/17(Wed)  938
 
 私は「文学講座」を続けているのだが、そのなかで鴎外、漱石に言及するときは、きまって鴎外先生、漱石先生というくせがある。日頃から、鴎外さん、漱石さん。むろん、鴎外先生、漱石先生に面識はない。
 「戦後」の浅草で「荷風さん」を見かけたことがあるけれど、だいたいは荷風。荷風先生とは呼びにくい。
 個人的にどうのこうのというわけではないし、文学的に影響を受けたというわけでもない。つまり、こういう使いわけには特別な理由もないのだが。

 内村 直也、植草 甚一のおふたりは「さん」。
 五木 寛之も「五木さん」。
 澁澤 龍彦は「渋沢くん」。

2008/12/15(Mon)  937
 
 1931年、映画女優、ルイーズ・ブルックスが映画に出なくなった。彼女はそのまま忘れ去られた。(実際には、その後も映画には出ていたのだが。)
 彼女のことを忘れない人もいた。
 大岡 昇平。
 彼はルイーズ・ブルックスについて、いくつも重要なエッセイを書きつづけた。
 その後、フランスで、ルイーズ・ブルックス再評価の機運が起こり、老齢に達していたルイーズ自身も自分の回想を発表して、あらためて彼女がどんなにすばらしい女優だったか、私たちに思い出させた。そして、現在、筒井 康隆の「カナリアが殺されるまで」、四方田 犬彦の「パンドラ・コムプレックス」のように、世界最高のルイーズ・ブルックス論などがある。

 「世界猟奇全集」というシリーズものの1冊から、ゆくりなくも、ルイーズ・ブルックスのことを連想して・・・私はしばらく幸福だった。
 なぜ、ルイーズ・ブルックスを思い出したか、これは別のこと。

2008/12/13(Sat)  936
 
 昭和初期、いわゆるエログロ・ナンセンス盛んなりし頃、川端 康成の『浅草紅団』が出ている。私は川端 康成の傑作と見ているのだが、おなじ頃、「世界猟奇全集」という、ちょっといかがわしいシリーズものが出版された。そのなかに「世界スパイ戦秘話」という1冊がある。昭和6年(1931年)12月刊。

 こんな記述がある。

    墺洪国皇室には、不絶(たえず)呪っているものでもいるように、不吉な宿命がつきまとっていた。古いことではあるが、フランシス・ジョゼフ陛下が、王位に昇られた第一年には、洪牙利(はんがり)の一無頼漢の為に、行幸の途中を襲撃され、幸運にも凶漢の銃火を脱れた。その後皇后陛下が、無名の伊太利(イタリ)無政府党員の為に、ジェノアで射撃され、遂に薨去された。次いで唯一人の皇子は、病原不明の奇怪な急病に襲われ、俄に世を去られた。気の毒な皇帝は、引き続く悲しい不幸の後、甥に当るフエルヂナンド大公を皇太子に選ばれた。

 このフエルディナンド大公が、1914年6月28日、サラエヴォで暗殺され、世界大戦が勃発する。
 ハプスブルグ帝国のルドルフ皇太子が、男爵令嬢、マリー・ヴェッセラと情死した事件は、当時、厳重に秘匿されていた。「病原不明の奇怪な急病」という表現に注意しよう。

 ルドルフ皇太子が、男爵令嬢、マリー・ヴェッセラと情死した事件が私たちに知られたのは、戦後になって、フランス映画、「うたかたの恋」が公開されたからだった。
 ハリウッド黄金期の大スター、シャルル・ボワイエと、当時フランス映画最高の美女だったダニエル・ダリューの主演。原作はクロード・アネ。

2008/12/10(Wed)  935
 
 「プレイボーイ」の「終刊前号」に、過去のインタビューのいくつかが抜粋されている。これがおもしろい。
 ロバート・デニーロがいう。

   『PLAYBOY』インタビューとシェイクスピアを一緒に読むやつはいないよ。

 それはそうだと思う。しかし、私は「プレイボーイ」インタビューとシェイクスピアを一緒に読んできたのだ。そういうヤツもいることは、いる。

 私は初期のディズニー・アニメを、かなり熱心に見てきた。たとえば「牡牛のフェルディナンド」、「ファンタジア」、「白雪姫」といったアニメは、今でもすばらしいと思う。しかし、「ダンボ」以後のディズニー・アニメにはほとんど関心がなくなった。

 おなじように、「プレイボーイ」に毎号掲載されているアメリカのヌードにも、まったく関心がなくなってしまった。あんなものよりも、日本のAVに出てくる女の子のほうが遙かに美しい。いつかそう思うようになった。不謹慎だろうか。

2008/12/06(Sat)  934
 
 東京株式市場(’08.10.27.)で、「日経平均」が、一時、7486円を割り込んだ翌日、雑誌の「プレイボーイ」(日本版)が届いた。
 「終刊前号」という。33年の歴史が、ここに終りを告げようとしている。

 「プレイボーイ」(日本版)は、1975年5月、創刊された。43万8千部。全国の書店で、発売後、3時間で売り切れた。このため、2万2千部が増刷されたという。
 この年、サイゴン陥落。ヴェトナム戦争が終わった。
 金子 光晴、林 房雄が亡くなっている。
 アメリカ、ソヴィエトの宇宙船がドッキング。

 創刊号から、毎号、かならずアメリカン・ビューティー(プレイメイト)のヌードが掲載された。たしか、マリリン・モンローのヌードが、創刊号を飾ったのではなかったか。 そのほか、マドンナのヌード、シンデイ・クローフォードのヌード。
 ナオミ・キャンベルのヌードなんか、「ハスラー」誌で見た黒人女優の性器ほどの衝撃もなかった。

 ある日、植草 甚一さんが私に訊いた。
 ・・・中田さんは「プレイボーイ」を読みますか。
  はい、目ぼしい記事はだいたい眼を通していますが。
 ・・・「プレイボーイ」がお好きなのですか。
  別に、好きな雑誌というわけではありませんが。
 植草 甚一さんは、私の顔を見ずに、
 ・・・私はきらいですね、ああいう雑誌。

 それ以後、植草 甚一さんは二度と「プレイボーイ」のことを話題になさらなかった。
 なぜ、植草さんは「プレイボーイ」がおきらいだったのだろうか。

 植草さんが「プレイボーイ」がおきらいだった理由はわからないが、なんとなく納得できるような気がする。げんに、この「終刊前号」で「最もセクシーな世界の美女50人」という特集があって、アンジェリーナ・ジョリー以下、50人の美女たちが登場しているが、アジア系の箇所は、43位に、チャン・ツィイーが選ばれているにすぎない。
 私はこういうセレクションにひそかな軽蔑をおぼえる。

2008/12/03(Wed)  933
 
 現在、私たちは未曾有の不況に見舞われている。(麻生首相にいわせれば、「みぞゆう」と読むらしいが。)
 100年に一度の非常事態という。(グリンスパンの発言という。)私のように、世界の金融、経済の動きに無関係な人間でも、100年に一度の金融危機ならば、大きな関心をもってもおかしくない。
 さる10月27日、テレビで市況を見ていた。
 凄いね。何も知らない私の眼にも、この日の株式市場の暴落は、ただごとならぬものに見えた。「日経平均株価」は、取引開始直後、あっさり最安値を更新した。うわぁー、なんだなんだ、なんなんだ! 一時、7486円を割り込んだぜ。
 私はマラソンの中継が好きで、かならず見ることにしているのだが、マラソンを見ているよりも、ずっとおもしろかった。この日、バブル崩壊期(’03.4.28)の最安値、7603円を割り込んでしまった。1982年11月以来、26年ぶりの水準という。 おいおい、冗談じゃないぜ。どうなるんだい。
 昔のSF映画、「禁断の惑星」に出てくる、わけのわからない怪物が、人類に襲いかかるシーンを見るような気がした。(ついでに書いておくと、この映画はSF映画のプロトタイプのひとつ。ウォルター・ピジョンが、アカデミー賞なみのいい演技をしていた。アン・フランシスは、少し肥り気味だったが、若くて肉感的だったなあ。)
 けっきょく、この日は、前の週末の終値から80円72銭安。

 この日、外国為替の円相場は、アメリカ、ヨーロッパの景気減速を警戒して、円高が急伸、1ドル=93円63 64銭で取引されている。
 ゲッ、円高だってさ。ほんまかいな。本気かよ。
 わけもわからずに、円がやたらに高く高く高くなっちまった。

 昭和初年、いわゆる「大不況」の余波を受けて、父が失業したことを思い出す。彼は三日間、東京じゅうをかけずりまわって仕事を探したらしい。当時としてはめずらしい英文の速記者(ステノグラファー)だったので、面接に行った「ロイヤル・ダッチ・シェル」にひろわれた。やがて地方支店の速記者、翻訳者になった。本人にすれば、都落ちの思いがあったに違いない。

 幼年時代の私は、何度も「不況」(デプレッション)ということばを聞かされて育った。何だかわからないが、「不況」というおそろしい生きものが私たちのすぐうしろに立っているような気がした。幼い私にとって「不況」は落語の「ムル」のようなものだった。この「不況」を私なりに翻訳すれば、「ムル」になる。
 虎、狼よりも「ムル」がこわい。

 最近の金融不安は、私のようなノン・ワーキング・プア(ルンペン・プロレタリア)には関係がないが、この1カ月、中国、香港の株式市場の低落ぶりをじっくり見ていた。

 つい数カ月前まで、資産総額が1211億元で、中国のトップだった女性実業家は、資産がなんと181億元に縮少したという。
 おなじく個人資産、430億元(約6020億円)で、今年の富豪のトップが、株価の違法な操作で司直の捜査を受けているそうな。
 いやぁ、「ムル」はこわいなあ。

 「ルンペン・プロレタリア」ということばはなくなったが、「ムル」はこわい。私流に翻訳すれば、さしづめ(貧富の格差)になる。

2008/12/01(Mon)  932
 
 たとえば、最近の金融不安について、私は何を考えたか。何も考えなかったわけではない。むしろ、いろいろなことを考えた。私が経済学者だったら、1編の論文を書くこともできたはずである。
 たとえば、トラックを秋葉原に乗りつけて、ダガーナイフをふるって、つぎつぎに通行人を殺傷した男について、私はなんらかの意見をもたなかったか。
 31年前に保健所にイヌを処分されたという理由で、かつての厚生省事務次官夫妻を殺害し、さらに隣県に住む別の元事務次官の夫人も襲った犯人について、私は何も考えなかったか。
 テレビを見ると、現実に起きているさまざまな事件、事象について、いとも明快に解説してくれる人々がいる。
 だが、それを見ながら、私は逡巡する。私はそれほどスムースに自分の考えを述べることができるだろうか、と。何かについて、なんらか誤りなく言及することは、私などのよくするところではない。


 トークを聞いている私の内部には、したり顔で、えらそうに言及なさるコメンテーターに対する不信、あるいは、ひそかな侮蔑が渦巻いている。
 そうしたコメンテーターの「コメント」は、その場その場ではいかにも正しいように聞こえるけれど、こちらが心のなかでたどり直してみると、じつはたいしたことを語っているわけではないことに気がつく。私がひそかな侮蔑をおぼえるのは、それを「良識」、ないしは「常識」として自認しているらしいところなのだ。
 彼らはしばしば、私たちの判断を別の方向に向けようとする。
 私は、冷たい怒りをおぼえながら、そういう人物を見ている。

 いつか、私はそういう連中に対してフィリピクスを試みるかも知れない。
 渾身の力をこめて。

2008/11/29(Sat)  931
 
 ある日、トルストイがチェーホフに向かって、こんなことをいったという。

 「君はなかなかいい人間で、私も君が好きだ。君も知っての通り、私はシェイクスピアってやつが、我慢がならぬ。それでも、あいつの戯曲は、きみの芝居よりはましだ。」

 このエピソードを知って、一日じゅう愉快な気分になった。
 トルストイが、チェーホフのどの戯曲に言及しているのか知らないが、かりに『桜の園』や『ワーニャ伯父さん』をくさしたとしてもこの話はおもしろい。
 チェーホフは、どんな顔をしたのだろう?

 かりに、私がえらい作家にとっつかまって、

 「君はなかなかいいやつで、私も君が好きだ。君も知っての通り、私はルネッサンスという時代が、我慢がならぬ。それでも、マキャヴェッリの芝居は、きみの書く評伝よりはずっとましだ。」

 といわれたら、どうしようか。
 どうもすみません。ペコリと頭をさげて逃げ出すだろう。

 「君はろくなやつではないし、私は君が嫌いだ。なにしろ、私は芝居も役者も、我慢がならぬ。それでも、団十郎の芝居は、きみの書いたルイ・ジュヴェ評伝よりはずっとましだ。」

 こんなことばを浴びせられたらこっちもキレる。さて、どうなるか。
 日頃はおとなしい男だが、ほんとうはやたらと短気なのだ。

2008/11/26(Wed)  930
 
 しばらく前に、BS11で、香港映画、「アゲイン 男たちの挽歌 3」(「夕陽之歌」)を見た。(’08.10.1)。香港映画、黄金期の映画。
 監督は徐 克(ツイ・ハーク)。周 潤発(チョウ・ユンファ)、梅 艶芳(アニタ・ムイ)、梁 家輝(レオン・カーウァイ)、日本の俳優、時任 三郎が出ている。
 映画のなかで、「香港返還は、20年も先のことだ」というセリフが出てくる。
 徐 克(ツイ・ハーク)は、私の好きな映画監督のひとり。

 忘れないようにメモしておいた。
 ストーリーの背景は、ベトナム戦争のさなか、サイゴン陥落までのヴェトナムの華僑社会。ウォーターゲート、ニクソン辞任。戦火から脱出しようとするボートピープルが、香港に押し寄せている。
 周 潤発(チョウ・ユンファ)は、サイゴンでのしあがってきた華僑/黒社会の一員。梅 艶芳(アニタ・ムイ)は、凄腕の女ヒットマン。ほんらい逢うはずのないふたりが、ヴェトナム戦争下に運命的な出会いをもつ。

 「夢は大きければ大きいほど、失望もふくらむ。だから、俺は多くをのぞまない」と、主人公(チョウ・ユンファ)がつぶやく。

 この映画を見ながら、私はサイゴンを思い出していた。作家として、2作目の長編が失敗したため、気分転換のつもりで、ベトナム戦争のさなか、サイゴンに行ったのだった。映画のなかで、私の知っている旧サイゴン(西貢)の風景(とくにレ・ロイの通り、カトリック聖堂、タンソンニュット空港など)が出てきてなつかしかった。
 さらには、ヴェトナムで知りあった十代の歌手、マリー・リンや、これも若い娘だったブ・ニャットフォン(武 日紅)のことが、アニタ・ムイの「キット」に重なってきた。
 このブログ(No.929)で、作家として、2作目の長編(『暁のデッドライン』)で失敗したと書いた。
最近になって、この長編が戦後のミステリー、99本に選ばれていることを知った。
 このコラムを読んでくれた「雨の国の王者」が教えてくれたのだった。

    『暁のデッドライン』を、中田 耕治探偵小説の最高作と見る向きは多いようで、たとえば探偵小説専門誌(幻影城)では、日本推理小説ベスト99の一つに、選出しているし、(中略)
    わたくしは、両方とも、好きだが、どちらかと言えば、天衣無縫(わるくいえば八方破れ)な『暁のデッドライン』よりも、端正で、みずみずしい『危険な女』の方をかうが、あくまでも、それは好みの問題だ。

 私は「雨の国の王者」に感謝している。

 『暁のデッドライン』が失敗した大きな理由・・・天衣無縫(わるくいえば八方破れ)なものになった理由は、外からいろいろと指示されて書いたことによる。かけ出しの新人だったから、担当の編集者が、いろいろとアドヴァイスしてくれるのにしたがったのだが、結果的に、はじめ私の書こうとしていたものと違った主題になった。

 この失敗は、私の最初の挫折。

2008/11/24(Mon)  929
 
 本を読んでいて、こんなことばを見つけた。

    われわれの最初の50年は、錯誤のうちに過ぎ去る。それからは一歩踏み出すことさえためらうようになる。自分の弱点があまりにも眼につくからだ。そして、さらに20年、いくたの艱難辛苦をすぎて、ようやく身のほどを心得るようになる。ここにきて、やっと一条の希望の光がさし、ラッパの音が聞こえてくる。だが、そのときにはもうこの世を去らなければならない。

 エドワード・バーンジョーンズ。

 思わず笑い出した。
 身につまされたからではない。複雑な思いがあった、というわけでもない。むしろ、この芸術家と私の、あまりの懸隔(違い)に苦笑、失笑しただけである。
 私は、1946年、「戦後」すぐにもの書きになったが、最初の50年は、まさに錯誤のうちに過ぎ去って行った。というより、たてつづけにやってくる打撃と挫折のなかで、いつもいつもアップアップしただけである。
 作家としては2作目の長編(『暁のデッドライン』)で失敗したのだった。

 エドワード・バーンジョーンズはえらい画家だが、私ときたら、「いくたの艱難辛苦をすぎて」、現在の私自身をかえり見て、「やっと一条の希望の光がさし、ラッパの音が聞こえてくる」どころではない。まあ、オレはアホやからなあ、と思ったけれど、そういう思いに自己憐憫はない。

 いつも一歩踏み出すことをためらったわけではない。理由は簡単で、一歩でも踏み出さなければ、オマンマにありつけなかったから。
 自分の弱点が眼につくどころか、はじめから弱点だらけ、ろくに才能もないので、もの書きとしては苦しいばかりだった。それから、さらに30年、一条の希望の光がさすどころではなかった。ごらんの通りのていたらくである。

 エドワード・バーンジョーンズ。私は、この画家にほとんど関心がない。

 クェンテイン・タランティーノの映画、「パルプ・フィクション」に出てくることばのほうが、ずっと身につまされる。
 この映画で、しがない三流ボクサー「ブッチ」(ブルース・ウイリス)は、ギャングのボスに八百長を命じられる。

    いいか、ブッチ、今のおまえは腕が立つ。だが、おそろしいことにお前はもう峠を越えてしまった。つらいことだが、現実は認めなければならぬ。(中略)
    おまえの周囲のやつらはクズばかりだ。自分は年とともに熟成するワインだと思っている。ほんとうは酢っぱくなって行く奴ばかりさ。おまえは、あと幾つ、戦える? せいぜい二つだ。いまさら、トップに立つなんて、無理なんだよ。

 「ブッチ」はギャングを裏切って、リングで相手の選手を殺したため必死に逃げる。ことのついでに、追跡してきたギャングの殺し屋(ジョン・トラボルタ)も殺してしまう。 (この映画で、死ぬやつは8人。タランティーノのスプラッター映画。)
 ブルース・ウイリスは、どんな映画に出ても大根だが、この映画の「ブッチ」はいい。
 映画女優、ロザンナ・アークェットが撮ったドキュメント、「デブラ・ウィンガーを探して」(2004年)のラストで、デブラがロザンナに語っている。

    期待が大き過ぎると、失望も大きくなるわ。だから、私は何も期待せずに仕事をつづけてきただけ。

 この映画のデブラ・ウィンガーこそ、「年とともに熟成するワイン」のような女性だと思った。

2008/11/22(Sat)  928
 
 「後期高齢者」ということばに、私は心のなかで「くそGG」とルビをふる。最近は、「特定高齢者」ということばもあるらしい。
 役所がアンケート用紙を送りつけてくる。いろいろな質問が並んでいるのだが、たとえば「バスや電車で一人で外出していますか」というのが最初の質問。(どうも、日本語として語感がよくないね。)
 「階段を手すりや壁をつたわらずに昇っていますか」とか、「半年前に比べて固いものが食べにくくなりましたか」などという質問がつづく。(ご親切はありがてえが、薄ッ気味がわるいぜ、まったく。)
 こうした質問に答えて、返送すると、しばらくして「お役所」から判定のプリントが届けられる。基本的なチェックを判定した結果、あなたは介護予防をはじめる必要のある「特定高齢者」ということになりました、というプリントだそうな。
 私は、この「特定高齢者」ということばに、「くたばれGG」とルビをふることにしよう。

2008/11/20(Thu)  927
 
 好きな女優はたくさんいる。
 たとえば、(昭和)60年代の「キャッツ」に出ていた保坂 知寿。最近、ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」に出ていた柚希 礼音。
 舞台やスクリーンを見ていてゾクゾクするほどエロティツクな女優は多くない。私の場合、たとえば、カティー・ロジェ。
 誰も知らない、誰の記憶にもないような女優さんだが。
 アラン・ドロンが、冷酷(というより非情で、どんな事態にも冷静)な殺し屋になっていた、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の「サムライ」(1968年)という映画。
 ストーリーはじつにシンプルで、殺し屋がナイトクラブの経営者を殺す。たまたま、黒人女性のピアニストに目撃されてしまう。ただちに非常線が張られて、殺し屋も検挙されるが、彼は巧妙にアリバイを用意していた・・
 殺し屋は釈放されるが、警察は有力な容疑者と見て、盗聴、盗撮で、ひそかに彼の行動を監視する。一方、殺し屋は、黒人ピアニストに証言させないために、ふたたびナイトクラブに潜入しようとする。こうして、パリの地下鉄を舞台に、動き出した殺し屋を警察が全力をあげて追跡する。・・

 映画監督は、アメリカの作家、ハーマン・メルヴィルを尊敬して、ジャン・ピエール・メルヴィルと名乗った。戦時中、抵抗運動に参加したこともあって、映画監督としての処女作、ヴェルコールの『海の沈黙』(1948年)の映画化で知られている。私たちはコクトオの「オルフェ」に出たジャン・ピエールを見ている。その後、「ギャング」(66年)、「サムライ」(67年)、「影の軍隊」(69年)、「仁義」(1970年)といったフィルム・ノワールで自分の世界を築いた。
 私は戦後のフランス映画では、ジョルジュ=クルーゾォ、ロベール・ブレッソンなどよりも、ジャン・ピエール・メルヴィルのほうが好きだったし、ヌーヴェル・ヴァーグの映画よりも、当時、まったく評判にならなかったマルセル・アヌーンの「第八の日」のような映画のほうがずっとすぐれている、と見た。
 現在でも、クェンティン・タランティーノや、徐克(ツイ・ハーク)の映画のほうが、ゴダール、ルイ・マルよりもよほど高級な映画作家だと思う。
 ようするに、ものの見方のひねくれた映画批評家だったが、女優の好みも大方のファンとはまるで違っているかも知れない。

 カティー・ロジェは、当時のフランス映画ではまだめずらしかった黒人女優だった。そして、私の知るかぎりでは、「サムライ」(67年)に出ただけの女優だった。
 はるか後年、ハリウッドでも、ジェニファー・ビールス、アイリーン・キャラ、(まるっきり美少女どころではないが)ウーピー・ゴールドバーグ、(こちらは美少女だが)ハル・ベリーなど魅力的な黒人女優がぞくぞくと登場する。
 その私にとってカティーは、もっとも魅力的な黒人フランスの女優なのだった。

2008/11/18(Tue)  926
 
 宝塚星組公演、ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」は終っている。だから、これは劇評ではないし、ただのひとりごと。気楽に書いている。

 「スカーレット・ピンパーネル」の原作は、いうまでもなくオルツィ(オークシイ)男爵夫人。ミュージカルの脚色、作詞はナン・ナイトン、音楽はフランク・ワイルドホーン。
 星組のメイン・キャストは、「パーシイ」が安蘭 けい、「マルグリート」が遠野 あすか、「ショーヴラン」が柚希 礼音。
 ずいぶん昔の事だが、私の訳した『紅はこべ』を脚色して、宝塚が上演したことがある。これは見なかった。理由がある。宝塚側は上演料も何も、まったくの頬かむりで押し通した。芝居の世界ではよくあることなので私は何もいわなかったが、このことがあってから、ずっと「国際劇場」を贔屓にしたのだった。

 今回の星組の公演は、私にとってはじつに久しぶりだったし、ミュージカルということもあって興味をもった。昭和元禄時代といわれた60年代、「コーラスライン」、「ガイズ、アンド・ドールズ」、「ラブコール」、「チタ・リベラショー」など、日比谷、銀座界隈にかかったミュージカルをのきなみ見て歩いた頃から、ミュージカルのアフィシオナードを気どっていたほどである。
 当時、ご贔屓は保坂 知寿。「キャッツ」に出ていた。「コーラスライン」では「ヴァル」をやっていたっけ。小柄で可愛い女の子だったが、キュンとひきしまったからだから勁いエネルギーが発散されて、「チズちゃん」が踊りだすだけで舞台の色彩が一変するようだった。私は小柄で可愛い女の子が好きなのである。
 そういえば、その後の「チズちゃん」はどうなったのだろう?
 「レ・ミゼラブル」も、「ミス・サイゴン」も、「オペラ座の怪人」もまだ、ミュージカルの地平に姿を見せていなかった時代だった。

 ところで、今回の「スカーレット・ピンパーネル」は、ミュージカルとしては涼風 真世の出た新作「マリー・アントワネット」よりもできがいい。ストーリーの展開が、もともと通俗的なサスペンス・スリラーのせいもあるだろう。主人公(「パーシイ」)は、安蘭 けい。美貌といい、ジェストといい、まったくあぶなげのない大スター。
 ただし、この女優さんは、あれほど大きな器量をもっているのだから、エロキューションに気をくばる必要がある。おそらく、あまりに大きな存在なので、演出家も何もいわないのだろう。ほんのわずか修正するだけで完璧に近づく。
 遠野 あすかの「マルグリート」も、魅力のある女優。オペラでいえば、佐藤 しのぶに近い。
 私としては、柚希 礼音の「ショーヴラン」が気に入った。星組でももっとも将来性のある女優のひとり。原作の「ショーヴラン」は、もっと老獪で、もっといやらしい人物だが、このミュージカルの「ショーヴラン」は、かつて「マルグリート」とともに革命に参加したという設定なので、まさに宝塚的なメナージュ・ア・トロワになる。ということは、安蘭 けいに対抗できるだけのポジションになるわけで、柚希 礼音が、それだけの重みをもち得たということになる。
 私は柚希 礼音のいくつかの特質に注目している。たとえば、エロティシズム。まだ、それについて書くことはないが、またいつか、この女優さんの舞台を見たいと思う。
 星組全体としていいところは、ガヤのひとりひとり、いつも(演技的に)なんらかの工夫をしていること。そういう工夫が舞台に張りをもたらすものだ。バックのひとりひとりの動き、踊り、ミミックリーまで。

2008/11/16(Sun)  925
 
 ジャンセンの描く少女たちは、特別な女性である。ひたすら清らかで、イノセントで、ふれれば、いまにもこわれてしまいそうな、ガラスのように脆い。
 その気になれば、彼女をとらえて、犯すことさえ許されそうな気がする。
 しかし、そんな想念はすぐに消えて、彼女を世にも貴重なたからもののように守ろうとする。

 ジャンセンの描く少女は、カッセニュール、テレスコヴィッチ、さらには、ジャック・ボワイエたちと共通している。美少女たちだが、どこかネフロティック(神経症的)なものを感じさせる。

 まだ幼いわき腹のくびれから、腰のふくらみまで、しっとりと弾むような手応えもふっくりしているだろう。
 なにもかも自分の意のままになる、素直で、ただパッシヴな存在であるジャンセンの少女に手をさしのべたくなる。
 ジャンセンの描く、輪郭線のせいだろうか。そのドローイングは、けっしていっきには描かれない。正確な線なのだが、少女の内面のゆらぎのように、少しの距離で立ちどまり、おののき、また気をとり直すように走り出す。たちまちこの少女の運命そのもののようにその線の流れが、少女の姿をとらえる。それは、少女が、自分では少しもかかわりのない、深い孤独のように。少女はそれを少しも理解していないか、気がつかないのかも知れない。

 ジャンセンの描く少女と、ルノワールの描く少女とは、まるで別の世界に生きているようだ。ルノワールの少女は、いずれ、成熟した女性になる。私たちは、たとえかすかにせよ、それを予感する。しかし、ジャンセンの少女たちにおいて、時間は、あくまで静止していよう。そこに見られるのは、少女の肉体という時間なのだ。それは、けっして動かない。彼女はまだ男を知らない。とすれば、過ぎ去った歳月が、この繊細なからだにどんな跡を残してきたというのか。

 私は、けっして届かない虚空にむかってまなざしを向けている。

   「バレリーナを描く ジャンセン展」
     ギャレリー「ためなが」(’08.9.16.〜 10.11)

2008/11/13(Thu)  924
 
 ある芸人(アーティスト)のエピソード。

 1920年代の終わり。(調べればすぐにわかるはずだが、そんな気もない。) 見るからに田舎者らしい若者が、何かを大事にかえてブロードウェイをうろつきまわっていた。音楽専門の出版社を探していたのである。
 そうした出版社の一つ、「ジャック・ミルズ」を探しあてた彼は、主人に会いたいと店員に告げた。
 こうした出版社がどういうものか、「アメリカ交響楽」、「ブロードウェイのダニー・ローズ」、「レイ・チャールズ」などの映画を見れば見当がつく。

 ミルズは心おきなく若者を迎え、さっそくピアノの前にすわらせて、彼が大切にもってきた曲を弾かせた。
 それまで聞いたことのないメロディーとリズムのテューンだったが、ミルズは気に入って、その場で楽譜の出版をきめた。

 当時はいわゆるジャズ・エイジで、チャールストンが流行していた時代。この新作の楽譜はまったく世間の関心を惹かなかった。結果として、その後、4年間、倉庫に眠ったままだった。

 若者は安酒場のピアノ弾きで、その日暮らしの生活を続けていたが、4年たって、もう一度、「ジャック・ミルズ」に行ってみた。こんどは、その店のポップス・マネジャー、ジミーが楽譜を見た。
 ジミーは、この曲のホット・ジャズ的なトーンに感心せず、メロディーはそのままで、ムーディーな、哀愁を帯びたものに直した。このピアノを聞いた若者は、カンカンになって怒った。二度と、この楽譜出版社に足をはこぶ気はない、と決心して店を出て行った。
 しばらくして、ジミーはこの曲をラジオで放送した。これがきっかけで、この曲は大ヒットして、「ジャック・ミルズ」の楽譜の売り上げでトップになった。たいへんな評判になった。

 その後、ジミーは映画にも出演して、そのなかでこの曲を何度も弾いている。
 顔のまんなかに大きな鼻がついているので「シュノッズル」というあだ名で呼ばれた。 ジミー・「シュノッズル」・デューランティ。私が見た映画のジミーは、初老にさしかかっていて、半白の髪はまる刈り、ひどいガラガラ声で歌う。洒脱な人柄は、いかにもニューヨークの裏町育ち。まるっきり品がないが、芸人としては一流だった。
 曲は「スター・ダスト」。作曲は、ホーギー・カーマイクル。


 有名なエピソードらしく、戦後まもない1950年代に何かで読んだ。背景は大不況。「ワンス・アポンナタイム・イン・アメリカ」。いかにもアメリカ人がよろこびそうなサクセス・ストーリー。アメリカ人の「機会」と「夢」、そして思いがけない「成功」がやってくる。
 こんなエピソードをもとにして短編がいくつも書けそうな気がする。たとえば、ディモン・ラニョンふうに。

 古いね。(笑)

2008/11/11(Tue)  923
 
 たくさんの美女が私の内面に棲んでいる。誰も知らない美女たちが。

 夢のヒロイン。詩のなかの女性。たとえば、ホラティウスによってうたわれ、はるかに時をへだてて、アーネスト・ダウスンが愛した「まぼろしの恋人」。
 シナラ。

 さらに、トーキー映画草創期を飾るキング・ヴィダーの「シナラ」。

 中年の弁護士夫妻(ロナルド・コールマン/ケイ・フランシス)と、若く美しい女性(フィリス・バリー)の三角関係。

 フィリス・バリーは、ジョン・テイリーの一座のダンサーから出発して、ファンチョ・マルコスの劇団などで、ミュージカルの舞台をふんだ。
 やがてトーキーが、映画を一変する。
 サミュエル・ゴールドウィンが、フィリスの舞台を見て、エディー・カンターの喜劇「闘牛士カンター」に抜擢しようとした。
 ところが、ほとんど同時に、キング・ヴィダー(映画監督)が「シナラ」に起用した。
 フィリスは、素直な演技、わかわかしいエロティシズム、チャーミングなエロキューションで、ゆたかな才能と素質にめぐまれた女優として登場した。
 その後のフィリスを知らない。

 映画の世界で挫折したのか。それとも、草創期の映画よりも、もっと着実でしっかりした表現ができるミュージカルの舞台に戻ったのか。

 現在、DVDで見ることのできるキング・ヴィダーの「シナラ」。
 フィリスも私の「まぼろしの恋人」のひとりなのである。

2008/11/09(Sun)  922
 
 人生をふり返って幸福だったと思えることが少しある。
 たとえば、通勤ラッシュをほとんど知らずに過ごせたこと。

 中央線/快速の「モハ」型の車両の定員は136人。ところが、この車両に、640から650人もつめ込まれた記録があるという。
 こうなると、押しあいへしあい、どころのさわぎではなくなる。

 酸素消費量などによって調査したエネルギー消費量は、60分←→70分の通勤で、平均190〜200カロリー。
 一日8時間の労働で消費するエネルギーは、1300カロリーといわれるが、電車の通勤ラッシュで、一日の労働の一割から二割のエネルギーを消耗することになる。

 私は、週に二度、千葉から総武・中央本線で新宿に出て、大学に通った時期がある。
 杉並の和田にあった大学のキャンパスに通ったのだが、やがて、大学は神奈川県相模大野に移った。
 私は千葉から新宿に出て、(所要時間/1時間15分)、さらに小田急線で、相模大野まで出る。ざっと2時間半はかかる。さらに、相模大野からバスで20分。
 大学にたどり着いて、2コマの授業を終わると疲労をおぼえた。

 押しあいへしあいの通勤ラッシュを経験したのも、これがはじめてだった。

 なんとか解決する方策はないものか。
 けっきょく、西新宿の安アパートに入って、地下鉄で新宿に出て、相模大野まで通勤するようになった。早朝6時には電車に乗ったので、なんとかすわれたし、それほどひどい通勤ラッシュにあわずにすんだ。
 早朝から大学で制作するらしく大きなキャンバスをかかえた女の子が、私を見かけて驚いたような顔でお辞儀をする。そんなときは、ほんとうにうれしかった。

 冬の朝、しらじら明けで門も開いていないので、大学の近くの森や、低い丘などを散歩することもあった。
 誰もいない研究室に入って、しばらく原稿を書く。しばらく本を読む。ときには翻訳を1冊仕上げたこともあった。
 仕事にあきると、階下の「芸術学部」の研究室に行く。私はこの学部にまったく関係がなかったが、助手の吉永 珠子、寝占 優紀たちが、コーヒーを入れてもてなしてくれるのだった。

 私にとっては、この大学ですごした頃がいちばん幸福な時間だった。

2008/11/07(Fri)  921
 
 女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる。私も同感する。

 オヴィディウスは「恋愛術」のなかでいう。

 いまから来たるべき老いの日々を心にとめておくがいい、さすれば、そなたたちにとって、時は些かも無為に過ぎ去ることはない。

 ここから、オヴィディウスはかなり残酷なことにふれる。

    悲しいことだが、なんと早くからだにシワができて、たるんでしまうばかりか、つややかな顔色も消え失せてしまうことか。娘の頃からの若白髪だとそなたがいい張る白髪も、たちまち頭ぜんたいにひろがりつくす。(中略)人の身の美しさは逃げ去って、こればかりはなすすべもない。花は摘みとるがいい。摘みとらずにいれば、おのずと醜く枯れてしぼむ。さらに、出産も、若い盛りを一層早く老けさせる。たえまなく収穫をあげていれば、畑だって老け込む。(中略)人間の女たちよ、女神たちのお手本に従うがよい。そなたたちがもつよろこびを、愛に飢えた男たちに拒んではならぬ。

 いいこというなあ。(笑)

2008/11/05(Wed)  920
 
 女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる。そう思う人は55%で、そう思わない人は39%という。(「読売」’08.8.27)
 1978年の調査では、女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる、と考える人は26%で、これに反対の人は50%だった。
 この30年で、結婚の意識が大きくかわってきたことになる。

 ただし、人は結婚したほうがいい、と思う人は65%なのに、かならずしも結婚しなくてもいい、と考える人は33%。

 5年前(’03年)には、結婚したほうがいい、と考えた人は54%だったので、じつに11%もふえている。つまり、結婚は望ましいと考えるようになっている。

 私は、こうした調査にさして関心がない。ただ、社会的な格差がひろがっていて、経済的にむずかしい状況のなかで、こうした変化を見ることは興味深いと思う。
 実際に、未婚率が男女ともに増大しているのだから、高齢化、少子化のすすむ日本の前途がきびしいことも見えてくる。

 私は、前に書いたように、人はできるだけ結婚しないほうがいい、という考えをもっている。ただし、女性は、できるだけ一度は結婚したほうがいい、と考えている。
 いずれにせよ、今後の結婚観の変化は、いずれ性観念の大きな変化を惹起すると私は考える。

 確実なことは――今後の一世代にすぐれた女性作家がぞくぞくと登場してくること。

2008/11/03(Mon)  919
 
 ハリウッド女優/出演料ベスト10 (「ハリウッド・リポーター」)

      1   リース・ウィザースプーン
      2   アンジェリーナ・ジョリー
      3   キャメロン・ディアス
      4   ニコール・キッドマン
      5   レニー・ゼルウィガー
      6   サンドラ・ブロック
      7   ジュリア・ロバーツ
      8   ドリュー・バリモア
      9   ジョデイ・フォスター
     10   ハル・ベリー

 いずれも美女ばかりだが、名女優と呼べるのは、せいぜいジョデイ・フォスターぐらいか。ただし、私が好きなジョデイは「トム・ソーヤーの冒険」、「アリスの恋」、「ダウンタウン物語」、そして「タクシー・ドライバー」。
 「他人の血」や「シェスタ」の頃のジョデイは、女優としてたいしたことはない。
 「羊たちの沈黙」はアンソニー・ホプキンスの映画だったが、「ウデイ・アレンの影と霧」、「マーヴェリック」あたりから、ほんとうの女優に見えてきた。

 このリストのなかに好きな女優はいる。たとえば、レニー・ゼルウィガー。キャメロン・ディアス。
 しかし、このリストに出ていない女優たちに、好きな女優は多い。たとえば、メグ・ライアン。グウィネス・パルトロウ。ナタリー・ポートマン。

 きらいな女優は、ドリュー・バリモア。もっときらいな女優はアンジェリーナ・ジョリー。

 少し失望しているのは、ハル・ベリー。「ダイ・アナザー・デイ」の彼女は、よくがんばっていたが、まあミス・キャストだったなあ。

 というわけで、このランキング・リストの女優たちの映画は見るつもりがない。

2008/11/01(Sat)  918
 
 長年知りたいと思っていながら、手がかりもないまま、とうとうわからずじまいになってしまう。そんなナゾの一つやふたつ、誰にもあるにちがいない。

 1812年、ナポレオンはついにモスクワから撤退した。このとき、おびただしい金塊をはじめ、貴重な宝石、骨董などを略奪した。これは間違いのない史実という。
 ところが、このロシアの財宝をどこに隠したのか。

 いくつかの通説がある。
 クトゥーゾフ麾下のロシア軍に追跡されたナポレオンは、この年11月2日、軍用の行嚢につめこんだ財宝を、スモレンスク近郊の小さな湖底に沈めて敗走した。

 その後、旧ソヴィエト時代(1967年)、ロシア帝国/外務省の未公開文書が発見されるまで、ナポレオンの秘宝はまったくナゾにつつまれたままだった。

 その古文書に、プロシャ帝国首相、エンゲルハルトが、プロシャ皇帝に贈った所感がある。(1815年10月21日付)。
 この手紙には・・・ロシア戦線から復員したフランス軍の士官ふたり(当然、フランス軍の最高級クラスの軍人と見てよい)が、エンゲルハルト邸に泊まり、エンゲルハルトと雑談したが、たまたま財宝隠匿の目撃談がとび出した。

 ふたりは、コブノ市(リトワニア/カプナス)郊外の、とある教会付近で、作業中のフランス砲兵部隊に出会った。そのとき、約80万フラン相当の秘宝の入った頑丈な木箱を地中に埋めたことを聞かされた、という。

 その後、1823年、生き残ったドイツの傭兵の証言にもとずいて・・・このとき埋められた(とされる)金塊、4樽を発掘する一隊が編成され、旧ミンスク(白ロシア)/ボリソフ市のベレジナ川の流域をくまなく調査した。このときは、何も発見できなかった。
 旧ソヴィエト時代、ナポレオンの秘宝は伝説化した。1939年から40年に書けて、大創作がおこなわれたが、このときも成果はなく、ヒトラー・ドイツの侵略によって、「大祖国戦争」に突入してゆく。

 財補遺の隠匿場所も、リトワニア/ビリニュス、白ロシア/ドロゴブージ、白ロシア/オルシア、ロシア/スモレンスクといったふうにわかれている。

 ナポレオンは敗走中、これらの秘宝をいくつもの行李に分散して、担当の士官に護送を命じたが、すさまじい飢えと寒さ、ロシア軍の追撃のなかで、士官から兵士、さらには外国の傭兵の手に移され、ついには遺棄されたり、ひそかに隠匿された。

 私は、トルストイの『戦争と平和』(マニュエル・コムロフ編)を訳したことがあって、「ナポレオンの秘宝」のことを知った。当時は、まったく関心もなかったが、ナポレオン個人の行嚢が、ロシア/ウェージマから39キロに位置するストカーチュエ湖に投げ込まれたという説を知った。当局が調査したはずだが、結果は知らない。

 小説を書くようになって、何かに使えるかも知れないと思ってノートしておいたが、けっきょく何の役にも立たなかった。
 今でも、ちょっと気になる。

 どなたかご存じの方がいらしたら教えて頂けないだろうか。

2008/10/31(Fri)  917
 
 ジャン・コクトォのことば。

 もし、礼儀がそれを必要とするなら、立ったまま死ぬことができなければならぬ。

 少年時代のコクトォは、母からそう聞かされていたらしい。

 このひとことだけでも、私はコクトォを尊敬する。

2008/10/28(Tue)  916
 
 自分が一年前のことをおぼえている、などというのは、まるで信じられない。なにしろ「後期高齢者」だからねえ。(この「後期高齢者」には、「クソGG」か「くたばれご長寿」とルビをふること。)自慢じゃないが、いまや、私はなんでも片ッ端から忘れてしまうのが特技。(笑)
 どうかすると、いきなり過去の1シーンが、ゆらりと立ちあがってくる。

 1年前の8月、やたらに暑い日だったが・・・横浜の「そごう」で「キスリング展」を見た。キスリングは好きだが、ほんとうにいい作品はわずかしかない。このときの印象は、HPに書いた。
 最近、キスリングのヌードが頭のなかに立ちはだかってきた。

 暗い色彩の花模様のクッションに、放心したようなまなざしの若い娘がつややかな裸身をさらしている。
 その瞳は、何を訴えているのか。
 この絵を見ただけで、この絵を見にきてよかったと思った。

 アルレッテイ。

 「天井桟敷の人々」、「北ホテル」、「悪魔が夜来る」の女優。

 戦後はじめて「天井桟敷の人々」の「ガランス」を見たとき、あまり関心をもたなかった。それほど美貌とは思えないし、なによりも中年にさしかかっていた。

 キスリングがアルレッテイのヌードを描いている!
 それも、20代のわかわかしい裸身だった。ベッドに寝そべっているだけのポーズで、顔、とくに眼が、まるっきりキスリングの美女まるだしだが、まさに「戦後」(1920年代)のおんなが、ベッドにデンと寝そべっている。
 おなじキスリングが、もう一つの「戦後」(1950年代)に描いた女優、マドレーヌ・ソローニュ(川端 康成が買ったため、日本にもたらされた)が、どこか憂愁を漂わせているのに、アルレッテイのヌードは、清潔な肢体に、どこか奔放なエロティシズムがあふれている。このヌードはすばらしい。

 もう一枚は「赤毛のヌード」。
 このポーズも、アルレッテイのヌードとほとんどおなじだが、これがまたすばらしい。あとで「カタログ」の解説を読んだが、通りいっぺんのものであきれた。

2008/10/27(Mon)  915
 
 女の印象は、ほんのしばらくでも時間をおくと、まるで変わって見えることが多い。
 とくに、少女が成熟した「おんな」になっている場合には。

 敗戦後、アメリカ映画が公開されるようになった。最初に上映されたのは「春の序曲」と「キューリー夫人」の二本だった。もう、こんなことをおぼえている人もいないだろう。
 「春の序曲」と「キューリー夫人」という選定にもアメリカ占領軍の占領政策が見えるのだが、戦時中は上映されなかったアメリカ映画が公開されるというだけで、戦後の日本に押し寄せてくる巨大な変化が実感できるようだった。
 「春の序曲」はデイアナ・ダービン主演。私は、戦前、「オーケストラの少女」を見ていたので、デイアナ・ダービンがすっかり成熟した女性になっていることに驚いた。
 映画のなかで大きなショートケーキが出てくるシーンがある。観客のどよめきが場内からわきあがった。戦後すぐのひどい食料難で、ショートケーキなど見たこともなかったし、誰もがケーキの大きさに度肝をぬかれた。(今なら、どこでも売っているやや大きめのサイズだった。)

 「春の序曲」でデイアナ・ダービンがオペラのアリアを歌う。「オーケストラの少女」のダービンがすっかり成熟したシンガーになっていることに驚いた。
 後年になって聞き直してみると、リリー・ポンス、ジャネット・マクドナルドといったハリウッド女優に比較して、けっしてすぐれてはいない。
 このことは、デイアナ・ダービンが「オズの魔法使い」の最終段階で、ジュデイ・ガーランドに主役をゆずってハリウッド・ニンフェットから消えて行ったことをつよく思い出させる。

 戦前、「オーケストラの少女」を見た室生 犀星が、当時の映画雑誌に、デイアナ・ダービンの舌の厚み、そのみずみずしい赤みを随筆に書いていた。少年の私は、この短い随筆に、犀星独特のまなざしを感じて驚いたが、戦後の「春の序曲」を見て、私はまるで女というもののあらたな発見がひそんでいるかのように、ケーキを口にはこぶデイアナ・ダービンの舌の厚みを見ていた。

 ひょっとすると、私の「戦後」は、デイアナ・ダービンの舌から始まっているのかも。(笑)

2008/10/25(Sat)  914
 
 もともと、おっちょこちょいで、がさつで、口がわるい私は自分の周囲にいる女の子をつかまえて、うっかりおまえ呼ばわりをすることもある。
 「おめッチの本、読んだ。ずいぶんイイと思ったナ。だけど、おめえ、・・・・ンところは、ありゃぁ何だい。あの程度ッきゃ書けねえのカヨ。もソッと、イキのいい文章じゃねえと、いただけねえなあ」

 私としては、種彦流に「丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に」見えるように書いてほしい、という意味なのだが。

 おめえよばわりにおそれをなして逃げてしまった女の子も多かった。

2008/10/23(Thu)  913
 
 「駿河台文学」の終刊号は、作家、豊島 与志雄の特集で、私は短い「豊島 与志雄論」を書いた。そのなかで唐木 順三にかみついた。唐木は、私よりもずっと先輩で、当時、まだ文学部の教授だったはずである。
 小川 茂久は何もいわずにそのまま掲載してくれた。

 その後、小川と私のあいだで「駿河台文学」が話題になることは二度となかった。

 はるか後年、私はある作家の本を出してくれる出版社をさがしていた。小川に相談したところ、当時、坂本 一亀がやっていた出版社を紹介してくれた。この話は坂本 一亀が了承してくれたため、すぐにまとまった。5分もかからなかったと思う。
 作家は編集の打ち合わせがあるので、その場で別れたが、帰り際に小川が訊いた。
 「おい、中田、これからどうする?」
 「おまえといっしょなら、(行き先は)きまっているじゃないか」
 私は答えた。

 あとになって、その作家は、
 「中田さんが羨ましい」
 といった。
 「どうしてですか」
 「お互いに、おれおまえで通じる友人がいるからですよ。私には、そういう友人がいませんので」

 なぜか胸が熱くなった。小川 茂久とは半世紀におよぶつきあいだった。
 戦争中は、工場労働者の服に戦闘帽、ゲートルを巻いて、毎日、川崎の石油工場に通っていた。小川は、いつも分厚な鴎外全集の一冊をかかえて、通勤の往復に読みふけっていた。戦争が終わった直後に、同級の覚正 定夫(柾木 恭介)が撮ってくれた写真が残っているが、私も小川 茂久も、まるで戦争で身寄りをなくした孤児のような、うす汚れた少年だった。
 50名の同級生のうち、戦死、戦災死、病死、自殺、ヤクザに切り殺された1名をふくんで26名が死んでいる。つまり、戦後に生き延びた24名のなかで、私と小川は親友として過ごしてきたのだった。
 その歳月の重みが、いきなり堰を切って押し寄せてきた。

 だから、「お互いに、おれおまえで通じる友人」といっても、フランス語の「チョトワイエ」などではなかった。

2008/10/21(Tue)  912
 
 おなじ大学を出て、いちおうおなじような知性をそなえて、おなじ大学で教えていた。似たようなことを続けていれば、黙っていてもお互いの意志の疎通もスムーズにゆく。
 小川 茂久とは、親しい友だちなので、相手のささいな心の動きまでわかっている。黙っていても、相手の心がつたわってくる。
 大学の事務室で会って、
 「あとでナ」
 といえば、それからの予定はきまっていた。

 桜木 三郎(「集英社」の編集者)が、明治の旧文芸科の出身者だけの文学雑誌を出そうとして私に相談にきた。彼の心づもりでは、「早稲田文学」や「三田文学」が出ているのだから、明治もおなじような雑誌を出すべきだという。
 私は小川 茂久が「やろう」といえば、どこまでも協力しようと答えた。私は明治出身者だけの同人雑誌などというものに少しも幻想を抱いていなかったが、これが「駿河台文学」という雑誌のはじまりになった。
 創刊号を編集したのは、私だった。
 「駿河台文学」の創刊号を編集することになったが、まるっきり経済的な基盤がなかった。なんとか雑誌を出す費用を捻出しなければならない。
 そこで、翻訳のアンソロジーを作って、その印税を雑誌の費用にあてようと考えた。
 これが『ミステリーをどう読むか』(三一書房)という本になった。訳者に明治の出身者を集めたが、ドイツのブロッホを入れることにしたので、これだけは友人の深田 甫(慶応大/教授)に翻訳を依頼した。
 深田君に事情を話して、稿料は半分だけで勘弁してもらうことにしたが、あとの訳者たちのぶんは、全額、「駿河台文学」に寄付というかたちをとった。
 ずいぶん強引なやりかただったが、ほとんどの訳者がこころよく応じてくれた。

 「駿河台文学」の創刊号は出せた。しかし、雑誌の内容をめぐって、さまざまな悪評が起きたのだった。小川 茂久は、私に対する批判を一身にひきうけてくれたようだった。もともとそんな同人雑誌に幻想を抱いていなかった私は、これで熱意がさめた。
 結果として「駿河台文学」は4号を出して終わったが、最後の号を編集したのは、小川 茂久だった。
 小川 茂久は、いい出しっぺの私が手を引いたため敗戦処理のクローザーというかたちで、「駿河台文学」の終刊号の編集を引き受けたのだった。
     (つづく)

2008/10/19(Sun)  911
 
 友人から手紙をもらうほど、うれしいことはない。
 小川 茂久は、ほとんど手紙をくれたことがなかったし、手紙をくれるときはいつもハガキだった。なにしろ毎週、2回は会っていたのだから、お互いに手紙を書く必要がなかった。その彼のハガキが出てきた。

    佐々木基一『昭和文学交友記』読了。だいぶ以前、佐々木氏が『東京』紙上で回想記を書いていることを耳にしたことはあったが、これほど長く、まとまったものとは思っていなかった。戦前の共産主義運動を経験した方と、戦前は幼く戦中の小中教育ではすなおに学び、大学ではどたんばの時を迎えて、生をあきらめ軍隊に入った私のような者との違いがひしひしと感得された。君の写真はいつごろのものだろうか、いい目つきをしているね。覚正、関口の名も出てきて、昔のことを思い出し、興味深い。佐々木氏はきびしいがやわらかい、するどいがやさしい心の持ち主だ。
 消印は1984年1月8日。

 佐々木基一の『昭和文学交友記』は、小川が書いているように「東京新聞」に連載された回想。
 覚正 定夫も私の友人で、戦後、小川 茂久、関口 功とともに、明治大学文学部の助手として残り、共産党に入った。柾木 恭介というペンネームで映画評論を書いた。
 私はその後、柾木 恭介とは、まったく疎遠になった。
 後年、小川 茂久は明大仏文科の教授、関口 功は英文科の教授になった。

 ここでふれられている私の写真は、戦後、何かのことで「東京新聞」文化部にわたしたもの。

 小川 茂久はフランス語の先生だったし、私はもの書きが本職で、明治では別の科の講師だったので、大学でのつきあいはなかった。お互いに、授業のあとは以心伝心、行きつけの居酒屋、酒場に足を向ける。山形/庄内の酒が飲める「弓月」か、ママさんが鹿児島ガ阿久根出身の「あくね」。行き先がきまっているので、小川にかならず会えるのだった。
(つづく)

2008/10/18(Sat)  910
 
 シェイクスピアの『リア王』が、ハリウッドで映画化されるらしい。

 「リア王」は、アンソニー・ホプキンス。三人の娘たちは、グウィネス・バルトロウ、ナオミ・ワッツ、キーラ・ナイトレイ。

 監督は、「スウィング・ヴォート」が公開されたばかりの、ジョシュア・マイケル・スターン。

 最近のハリウッド映画にほとんど関心をもたない私でも、つい期待したくなる。「リア王」がアンソニー・ホプキンスでは、およその見当がつくので見たくもないが、グウィネス・バルトロウ、ナオミ・ワッツ、キーラ・ナイトレイたちは、ぜひ見ておきたい。

 はじめてアンソニー・ホプキンスを見たのは「冬のライオン」だった。
 ピーター・オトゥールの「王」と、キャサリン・ヘップバーンの「王妃」が、三人の息子の誰をつぎの国王にするかで、モメている。このとき、ろくでなしだが、いちばん度胸のいい息子が、ほかの兄弟にむかって宣言する。
 「おれはつねに兵士にして、ときに詩人、将来は国王になる!」と。
 のちの獅子心王、「リチャード」。
 アンソニー・ホプキンス、ときに31歳。今思い出しても、凄い役者だと思った。
 その後のアンソニーは、まさに名優といっていいのだが、「羊たちの沈黙」、「ドラキュラ」、「日の名残り」と見てきて、最近のアンソニー・ホプキンスのシェイクスピアものなら、だいたい想像がつく。
 アンソニーの器量では、昔のジョン・ギールガッド、ローレンス・オリヴィエ、ラルフ・リチャードソンなどにはおよばない。

 そういえば、シャネルの「ココ・マドモアゼル」のCMに出ていたキーラ・ナイトレイにかわって、エマ・ワトソンが起用されたとか。
 おやおや。
 あの可愛らしい「ハーマイオニー」が、もう、そんなお年頃なのか。

2008/10/16(Thu)  909
 
 アメリカの、コーヒー戦争が激化して、スターバックスがマクドナルドに追い越されて、はじめての赤字に転落。サブプライム問題によるアメリカ経済の低迷の影響という。ふーん、そうなのか。経済学にうとい私は、こういうニューズを読むと、その因果関係を考えようとする。むろん、私にわかるはずもないのだが。

 スターバックス。4月から6月の純利益で、670万ドル(約7億3千万円)の損失。消費者が、1杯4ドル(約432円)のコーヒーの価格を割高に感じはじめたらしい。
 そこで、スターバックスは、アメリカ国内の600店舗、従業員の7パーセント(1万2千人)を削減する予定。ほら、すぐにこうくる。
 こういう経営者側の対応に、アメリカ経済の先行きがますます気になる。

 私にいわせれば、600店舗、1万2千人の従業員を削減する前に、まだやることがあるじゃないか、といいたくなる。
 従業員の大幅な削減よりも、経営側が退陣すべきだと思う。自分たちの失敗を、従業員の削減で切り抜けようとするのは許せない。トップの交代と同時に、コーヒーの価格を半分に抑え、幹部たち、各店舗の店長たちの給料を一律に10パーセント削減すれば、スターバックスの再建はすぐにも具体化するのではないか。

 アメリカに行ったことがある。アメリカのマクドナルド、ドトール、スターバックスのコーヒーは、だいたいおいしかった。
 現在、マクドナルドの純利益は、約11億9千万ドル。昨年同期の7億3千万ドルの赤字から大きく改善した。
 マクドナルドの国内価格は、コーヒー1杯が1ドル(約108円)。
 スターバックスのコーヒー、4ドルは高すぎる。

 日本でも、マクドナルドはコーヒーの品ぞろえを拡充しているが、ドトール、スターバックス・ジャパンは、今年に入って来店客数が激減している、という。
 ただし、私は、日本のマクドナルド、ドトール、スターバックス、いずれもほとんど立ち寄ったことがない。
 コーヒーがおいしくないから。

2008/10/15(Wed)  908
 
 最近、中央線は事故で運転中止が多い。そこで、すかさず、

    中央線のトンネルは 水がわき

 ろくな連想ではない。私のどこかに、幕末から明治にかけて流行した芝居ばやしのリズムや、メロディーのかけらが残っているのかも知れない。えへへへ。

 千葉の方言に気に入ったものがある。
 いいご機嫌で人と別れる。このとき、「アントネェ」と声をかける。

 語源的には「安堵にね」ぐらいの意味だろう。

 かるく鼻にかかった声でいうと、まるでフランス語のように聞こえる。すこし、サビをきかせると、なにかスラヴふうに響く。(笑)
 千葉でももうほとんど使われていない。ぜひ、これを復活させよう。
 みなさん、「アントネェ」。

2008/10/13(Mon)  907
 
 いつ、どこで、どうして、こんな言葉をおぼえたのかわからない。

 原稿を書きあげると、「ケラケンミョー ミョーウッス ビックリペケペケ」などとあらぬことばを口走り、三枚の短い原稿を書きあげると、ついうれしくなって、

    いんちょ にんちょ ちょちょんが 長三郎

 などとうかれる。

 マージャンであがったときは、ロンと声をかける。ところが、実際には、ドカン、どしん、デンなどと口走るやつがいる。「ほれ、デタデタ」などというのもある。
 リーチで、イッパーツ。エーイ、あがっちゃえ。

 あれとおなじで、まあ、私が、ろくなもの書きではないことがおわかりだろう。
 いつも鼻唄まじりで原稿を書き上げるわけではない。けっこう、あぶら汗をかいているので。だから、原稿を書きあげるとうれしくなる。書きあげた原稿をまるめて、鉦をたたくように、チーンチーン チンチンチン などと唱えたり、トントントン トントントン と、ずり足をしながら茶封筒に入れる。さっそく宛名書き。郵便局にもって行く。

    浅間山には けむりが絶えぬ おいらの胸には 苦が絶えぬ

 などとつぶやきながら原稿を発送してしまえば、あとは野となれ山となれ。(笑)

 「やれやれ、これでシューハミョー、おれの原稿、ポコミョーミョー」などと唱えて、さっそくなじみの酒場に直行したものだった。むろん、トラになるために。(笑)

2008/10/11(Sat)  906
 
 赤塚 不二夫のマンガ、「おそ松くん」のキャラクターたち。
 「イヤミ」のシェーッ。レレレのおじさん。ドジョーウナギ。ハタぼう。
 赤塚 不二夫のキャラクターは、はやし言葉めいたフレーズを奇声とともに発するのだが、これがいい。

 私は、全国各地の民謡のはやしことばのかずかずに興味がある。
 たとえば・・・・

     ケンソン ケンソン ケンペロリン
     スイポウ チンカン チャチャラカペン

 浦賀の虎踊り。これに、「レゲール」といった踊りがつく。

     レゲール カンロンオース エンエン ブツブツ フルルレオース
     ウタント クワント シゼント メエレンニク テレキン
     ニンニョーニョー オケラケン

 虎踊りの「チャラチャラ」になると、奇妙キテレツ、まったくわからない。

     チャチャーラ チャチャーラ チンカラ ケンプリ オケケンケラケン
     ケラケンミョー ミョーウッス ビックリペケペケ。
     バンニャ カクサン キンナイロー ペッペケ キンナイロー ジョユ
     シューハミョー オンチカロクシン キュー シンポコポコ ポコミョーミョー
 ナカナカサカリキ エスエーエ エース エススリャ オンリャコッチュー 
チーヤッチ オンリャコッチュー

 さながら呪文のつらなりだが、歌は和藤内の虎退治にまつわるもの、その背後になにやらエロティックな暗喩が隠されている・・・ように見える。

2008/10/09(Thu)  905
 
 テレビで、ホラー映画「ハイド・アンド・シーク」(’05年)を見た。
 ダコタ・ファニングという子役女優を見たかったから。この女の子は、まさに「ハリウッド・ニンフェット」のひとり。
 彼女は、やがてハリウッドの「現在」を代表する女優になる可能性を秘めている。
 ただし、少女スターだったマーガレット・オブライエンのような例もあるので、私の期待だけに終わるかも知れない。もっと美少女だったリンダ・パールとか。「ダウンタウン物語」で、ジョデイ・フォスターと共演した美少女、フローリー・ダガーとか。

 この映画のイントロダクションで、ヒロインの母親が、浴槽で手首を切って自殺する。なんと、エミー・アーヴィングだった。おぼえている人がいるかどうか。「キャリー」の女子高生。「デランシー・ストリート 恋人たちの街角」で、とても善良な男、ピーター・リガートを愛してしまう女性。エミーが誰と結婚したか、ここには書かない。残念なことに、エミーはそれほどいい女優になれなかった。

 自分が「後期高齢者」(ルビ/くそGG)になっているのだから、かつてスクリーンではじめて見た女優が年齢を重ねても不思議ではない。それをわかっていながら、リンダ・パールは消えてしまったし、エミーがいい女優になれなかったことは残念な気がする。

2008/10/07(Tue)  904
 
 かつて名人と呼ばれた歌舞伎役者に、中村仲蔵がいる。
 はじめ、秀鶴といった頃は、芸も未熟で、俗にいうペイペイ役者だった。あるとき、並び大名で舞台に出たが、顔(メーク)は赤く隈どり、着ている衣裳は糊のきつい麻の素袍(すほう)。二日、三日と舞台をつとめれば、糊が落ちてシワが出る。
 クタクタになって見ぐるしいのに、役者たちは、楽屋に入っても、付き人に衣裳をまかせっきり。たたみもせずに、衣裳棚にあげておいて、翌日も、そのままおなじ衣裳で舞台をつとめる。だから、ひどく見ぐるしかった。
 秀鶴ひとりは、衣裳を人手にかけず、その衣裳を水のしする。(麻は汗を吸い込むので、脱いだあと水にさっとつける。そのうえでピンと渇かす。これを水熨斗という。)
 きれいにたたむ。毎日、こういうふうに丁寧に始末しておく。翌日、その衣裳を着て舞台に出て、列座の役者たちとならぶと、ひときわすぐれて、りっぱに見え、いかにも上手らしく見えたので、観客の注目を浴びた。
 そのため、劇場の経営者も眼をつけて、
 「あいつには一器量がある。つぎの狂言(レパートリー)には、これこれの役が似つかわしい。その役に抜擢してみよう」
 同輩の役者たちのなかから、秀鶴を起用すると、その役も相応につとめたので、次第しだいに、いい役をつとめるようになった。役者としての位もあがってくる。やがては名人といわれて、今にその名を残した。

    天下に名を轟かす者は、初めより其の器量衆に超へたり、戯作も此の秀鶴(のちの仲蔵)が心懸(こころがけ)にて、常に心を用ゐ、一句一章たりとも疎かに書くまじきものなり、丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に書きたけれ、画わりにも工夫を凝らすべきか

 ということになる。
 (つづまやかという表現は美しいが、死語になっている。)

 仲蔵のアネクドートは、種彦の書いたものを私が忠実に訳したもの。

2008/10/05(Sun)  903
 
 柳亭 種彦(1783〜1842)が亡くなったのは、天保13年7月18日。享年、60歳。水野越前の天保の改革で死ぬことになった作家である。

 辞世の句に、

    散るものに さだまる秋の柳かな

 おのれの死を見つめての作なので、軽々に批評すべきものではないが、

    源氏の人々のうせ給ひしも大方秋なり
    秋も秋 六十帖をなごりかな

 この句のほうがずっといい。種彦の内面がつたわってくる。

 種彦は「田舎源氏」が絶版を命じられた。いわゆる天保の改革で、この結果、作品は中絶し、作者は心痛のうちに死んだ。(ついでに書いておくが、私は歴代の江戸幕閣で水野越前守、その下僚どもをもっとも唾棄すべき連中と見ている。)

 種彦については、あまりよく知らない。小林 秀雄が一度だけ種彦の名をあげたことがあって、小林 秀雄がとりあげている以上、ぜひ種彦ぐらいは読んでおこうと思った。
 当然、『田舎源氏』は読んだほか、ほかには初期の怪談、『近世怪談霜夜星』とか『浅間嶽面影草紙』、『逢州執着譚』などを読んだ。出てくる登場人物がそろっていい加減で、出てきたと思うとあっという間に死んでしまったり、やたら偶然に出会ったりするのに辟易した。こういうご都合主義というか、偶然の頻発を見ると、江戸時代の作家が羨ましくなる。
 『浮世形六枚屏風』は、英訳があるそうな。英訳をさがす気もないので、種彦の原作を読んでみたが、主人公がイヌをめがけて石を投げたとき、うっかり懐中にした百両を投げてしまう。途方にくれて、死ぬ気になった男が、腹いせに犬張り子に八つ当たりをする。なんと、そのなかから百両の包みがころがり出して、めでたしめでたし。
 あまりのアホらしさにいささかあきれた。

 それでも、種彦の創作観を知って興味をもった。
 種彦は、名人といわれた俳優、中村仲蔵のエピソードにふれながら、
 「後に上手と人に云はるる者は未熟なる初めより其の器あらはるるなり」という。

    天下に名を轟かす者は、初めより其の器量衆に超へたり、戯作も此の秀鶴(のちの仲蔵)が心懸(こころがけ)にて、常に心を用ゐ、一句一章たりとも疎かに書くまじきものなり、丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に書きたけれ、画わりにも工夫を凝らすべきか

 これでわかるように、種彦の創作論は、平凡だが、かなりきびしいものだったといえるだろう。(仲蔵のエピソードは、あとで紹介する。)
 ずっと後年の紅葉あたりまで、種彦の創作論は継承される。

 「後に上手と人に云はるる者は未熟なる初めより其の器あらはるるなり」

 たしかにそうだよ。谷崎 潤一郎、三島 由紀夫などの登場を見れば納得できる。
 おなじことはたぶんほかのジャンルでも共通で、翻訳でも、お笑いでも、芝居の役者でも、「丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に」見えないといけない。

 「画わりにも工夫を凝らすべきか」という意見は、アニメーション、マンガ作家にそのまま聞かせてやりたいね。
 これもついでに書いておくと、種彦のイラストは、はじめのうちこそ北斎、重政などだが、のちに圧倒的に国貞が多くなる。
 作家とイラストレーターの幸運なめぐりあい。

2008/10/03(Fri)  902
 
 「プレイボーイ」(’08・10月号)に、マリリン・モンローの記事と写真が掲載されている。有名なイラストレーター、アール・モランのモデルになったときの写真で、わずか2枚だが、久しぶりにマリリンに会えた。
 まだ、まるっきり無名のモデルとしての修行時代のマリリン。

 アール・モランの短い説明がついていた。

 無名のモデルだったマリリンは、はき古した靴をはいていた。あまりボロボロだったので、前にきたモデルの靴を与えたという。
 その後、マリリンは、いわゆる「モンロー・デスヌーダ」(ヌード・カレンダー)のスキャンダルをきっかけにスターへの階段をかけ登ってゆく。
 やがて、マリリンは「アスファルト・ジャングル」で使った衣裳を、アール・モランに贈ったという。

 おそらくほんとうのことだろう。いい話だ。ただ、ここには、おそらくアール・モランが気づいていないことがある。

 私は、このみじかい「説明」から、マリリンの人生に関して、いくつかのことを考え、かつ、(私にとって)興味深いことを想像する。
 当時、無名のモデルだったマリリンは、毎日、ボロボロにはき古した靴をはいていたこと。なにしろ貧乏だったから買えなかった。誰でもそう思うだろう。
 私はもう少し別のことを想像する。自分が日常はいている靴がボロボロになるまではき古しても、気がつかなかったか、気にとめなかったか。靴がボロボロになっても使えるあいだは平気ではいていた、というノンシャランな姿勢。

 若い女が、ボロボロになるまで靴をはき古しても、気がつかなかったとは考えられないだろう。しかし、当時、マリリンは、イタリアの名女優、エレオノーラ・デューゼの評伝を読んで感動していた。そのデューゼに私淑していたマリリンが、無名の頃の名女優・デューゼが、それこそ食うや食わずで切磋琢磨していたことに心を動かされていた、と見てもいい。
 私としては、当時のマリリンはもう少しあっけらかんとしていたかも知れないと思う。自分のはいている靴がボロボロになっても、そのうち誰かが買ってくれるだろう、ぐらいに考えていたとしても不思議ではない。マリリンには、そういういい加減さ、図太さ、わるくいえば自堕落なところがある。そこが、マリリンの可愛らしさでもあるのだが。

 「プレイボーイ」に出た写真のマリリンはわかわかしい。アンドレ・ド・ディーンズの写真よりはあと、トム・ケリーの写真よりは前。その1枚は、めずらしいスナップショット。マリリンが、ちょっと口を尖がらせている。こうした sulky な表情のマリリンはめずらしい。といっても、怒っているわけではない。もっと幼いシャーリー・テンプルが、よく見せる不機嫌な表情に近いもの。むろん、マリリンはハリウッド・ニンフェットではない。

 アール・モランが何も気づいていないこと。
 ――「アスファルト・ジャングル」の衣裳を、アール・モランに贈ったという一節に私は注目する。むろん、感謝の心をこめて贈ったはずだが、はたして、自分がスターレットとして「アスファルト・ジャングル」の大きな役をつかんだという報告のために贈ったのか。

 マリリンが恋人だったフレッド・カーガー、アーサー・ミラーの父親、イシドア・ミラー、あるいはイヴ・モンタンに贈ったものを思い出してみると、これはなかなかおもしろい。

2008/10/01(Wed)  901
 
 俳優、ルイ・ジュヴェは、何かむずかしい問題にぶつかると、さっそく誰かれなく、その問題について知っていそうな人のところにとんで行ってお伺いを立てる。
 むろん自分でも徹底的に考えるのだが、自分が到達したところと違う答えが聞けるかも知れない。ジュヴェはそう思うのだった。

 ある日、劇作家のトリスタン・ベルナールに会いに行った。ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい階段の上にあった。
 ふたりが何を語りあったのか。残念ながら、私は知らない。

 ベルナールは、フランスきっての喜劇作家なのである。ルイ・ジュヴェは、熱心なカトリックだった。

 帰り際に、ジュヴェは大真面目な顔で、ベルナールにいった。
 「先生、注意してくださいよ。この階段、二段ばかりカトリックじゃありませんよ」(つまり不信心でぐらぐらという意味だろう・中田注)

 「ああ。だけど、おれだって違うからね」

 後日、友人にこの話をしたジュヴェは、途中でたいへんなことに思い当たったように、気の毒なほどうろたえて、
 「ひょっとして、劇作家先生、気をわるくしたんじゃないだろうか」
 友人はにやりとして、
 「まさか! そんなことで気をわるくするトリスタンじゃないさ」
 「ああ、よかった! 安心したよ」

 いまにも泣きそうな顔で、胸をなでおろすジュヴェを見ると、つい、いってやりたくなるのだった。
 「まったく、ルイときたら・・つまらないことにこだわるからなあ」

 このエピソードを私は評伝『ルイ・ジュヴェ』でつかわなかった。しかし、ジュヴェの「心配症」がよくわかる。
 名優なのに、人づきあいが下手で、不器用で、他人からひどく剛腹な人間にみられて、いつも無用の誤解をうけていた男のかなしさ、おかしさが、こんなエピソードからもよくわかる。

2008/09/29(Mon)  ☆900☆
 
 「俳優という職業はつらいものだ」と、サマセット・モームはいう。モームがいっているのは、自分が美貌だからという理由だけで女優になろうとする若い女性や、ほかにこれといった才能もないので俳優になろうと考えるような若者のことではない。
 「私(モーム)がここでとりあげているのは、芝居を天職と思っている俳優のことである。(中略)それに熟達するには、たゆまぬ努力を必要とする職業なので、ある俳優があらゆる役をこなせるようになったときは、しばしば年をとり過ぎて、ほんのわずかな役しかやれないことがある。それは果てしない忍耐を要する。おまけに絶望をともなう。長いあいだの心にもない無為も忍ばなければならぬ。名声をはせることは少なく、名声を得たにしてもじつにわずかばかりの期間にすぎない。報われるところも少ない。俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気にいられなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら大衆の偶像に祭りあげられていたことが、なんの役にも立たない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。これを考えるとき、私は俳優たちが波の頂上にあるときの、気どった態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、バカをつくそうと、勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。」
 いかにもモームらしい辛辣な意見だが、私はモームに賛成する。だから俳優や女優のスキャンダルを書きたてる芸能ジャーナリズムにはげしい嫌悪をおぼえる。
 ジュヴェもまた傷ついたに違いない。だが、けっしてわるびれることなく生きた芸術家なのである。悪戦苦闘をつづけてきたジュヴェの生きかたをたどりながら、私の内面にジュヴェの姿が浮かびあがってきた。少し時間がかかりすぎたが、八年という歳月はさして長いものではない。書けないときは仕方がない。花をデッサンしたり水彩で描いたり写真を現像したりしながらジュヴェのことを考えつづけていた。

 この評伝を書きながら私がいつも思い出していたことばがある。
 「この世には、短時日では学べないことがいくつかある。それを身につけるには、私たちがもっている唯一のものである時間というツケをたっぷり支払わなければならない。ひどく単純なことだが、それを知るには一生かかってしまうので、一人ひとりが人生から手に入れるわずかばかりの知識はやたらに高いものにつく。それだけが、後世に残すただ一つの遺産なのだ」と。
 ヘミングウェイのことばである。

2008/09/27(Sat)  899
 
 地方の小都市の駅前に立ってみよう。荒涼とした風景がひろがっている。
 商店街は軒なみ昼間からシャッターを閉めて、まるで活気がない。まるで死んだような土地が多い。生活必需品はコンビニで買うにしても、その土地名産の和菓子などの店も元気がない。「美しい日本」などどこにもないし、「安全実現」もない。
 数年前までは、たとえば古本屋の一つふたつ、ほそぼそながら商売をしていたものだ。しかし、いまでは小都市にかぎらず、大都市の古本屋までが、量販専門の大型ブックショップに駆逐されてしまった。

 大多数の日本人は、古典はおろか、明治、大正、昭和前期の文学さえ読むことがなくなっている。直接には国語力のいちじるしい低下によるが、そうした教育を推進してきた教育の責任も大きい。
 むろん、文学作品などは読まなくても生きていける。
 日本赤軍のリーダーだった永田某という女性は、古典にかぎらず、およそ文学作品などは読まなかったという。あれほど陰惨な「総括」を行ったこの女性が、文学作品などは読まなくてもいいと思っていたことは間違いないが、革命家として、先天的に何かが欠落していたはずである。
 秋葉原で無差別殺人を起こした加藤某は、どんな文学作品を読んだのか。幼い少女をつぎつぎに殺した宮崎某は何を読んだのか。ぜひ知っておきたい。

 こういう荒廃は直接には誰に責任があるのか。

 免疫学者の多田 富雄先生は、その原因の一つに、経済効率を優先して、地方文化を無視した行政改革で強行された、無秩序な市町村合併をあげている。

    古い伝統ある地名が、惜しげもなく捨てられ、ききなれない珍奇な名前に変わった。地方文化は破壊され、愛郷心は失われ、住民のアイデンティティーはなくなった。それは故郷を奪い、国を愛する心を失わせる行為であった。

 その無秩序な市町村合併を推進したのは、小泉内閣だった。そして、大型店舗の地方進出をバックアップしたのは、中曾根内閣だった。
 小泉 純一郎、中曾根 康弘の名を忘れないようにしよう。

2008/09/25(Thu)  898
 
 福田首相が突然辞任して(’08.9.1)、麻生新内閣が発足した。いずれ総選挙ということになって、蝸牛角上の争いがつづいている。

 私の「文学講座」は、いよいよ戦後にさしかかってきた。私流の「文学史の書き換え」なのである。
 この夏、ろくに本も読めなかったので、少しづつ本を読みはじめている。

 話は違うが・・・私などにも、いろいろなひとが著書を送ってくださる。ありがたく頂戴して読みはじめる。同人雑誌で、すでに作品を発表している女性作家のものは、なまじ文学的なグループに参加しているだけに、いかにも書き慣れた作品が多い。そして、主宰の著書は読んでいても、古典も、外国の作家もほとんど読んだことがない(と、判断する)。
 ほとんどの作品は、自分の書きたいことをまとめただけで、ものを書くという緊張はない。だから、せっかく頂戴しても大概の作品に感心しない。

 著者にはかならずお礼のハガキを書く。
 そういう作品を読むことで、じつにいろいろな問題を考えることができるから。
 チャットやネットで、しごく簡単におなじ趣味をもつ仲間を探すことができる時代に、顔も見たことのない私に、わざわざ本を贈ってくださるのだから、お礼を申し上げなければ罰があたる。

 いま、たまたまこんな文章を読んでいる。

    秋のけはひの立つままに土御門殿の有様、いはんかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの叢、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艶なるに、もてはやされて、不断の御読経の聲々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。

 ある作家の日記のオープニングだが、わずか数行ながら、秋の季節の訪れを感じている作者の内面の動きがみごとにとらえられている。
 そして、何をおいてもまず緊張がある。

 私は考える。作品を書くということは、こういう文章に、せめてひとすじ、どこかでつながることではないだろうか。

2008/09/24(Wed)  897
 
 私の好きな俳句。

    初恋や 灯籠によする顔と顔    太祇

 この「灯籠」(とうろう)は、もともと常夜灯の謂(いい)だが、7月朔日から晦日ごろまで、盂蘭盆にどこの家でも新仏(しんぼとけ)のために飾られる。ペール・ブルー、ないしはエメラルド・グリーンを基本にした美しい飾り灯籠。(とうろ)と呼んでもいいらしい。私は、わざと(ひかご)と呼んだりする。
 この灯(ほ)かげに、顔と顔を寄せあって恋をささやいている。
 あるいは、何も語らずに、お互いに眼と眼を見つめあっているのか。

 初恋だから、エメラルド・グリーンの灯(ほ)かげがいい。

 炭 太祇、江戸中期の俳人。島原の妓楼の宗匠だったせいか、あまり人気がない。蕪村とはとうてい比較にならないマイナー・ポエットと見られている。

 蕪村の

    水鳥や 提灯遠き西の京 

 に対して、太祇の

    耕すや むかし右京の土の艶 

 を並べても、さして遜色はない。

    ふりむけば 灯とぼす関や 夕霞

 これは旅の一句。
これもいいけれど、「初恋や」のほうがいい。私としては、この人の俳句に好きなものが多い。

 ところで、「広辞苑」で、太祇(たいぎ)を引いたところ、

太祇(たいぎ) 炭 太祇。

 とあった。これだけである。「たん・たいぎ」の記述はない。
 「広辞苑」でさえこうなのだから、太祇はもはや忘れられた俳人と見ていい。しかし、「広辞苑」に記述がなくとも、太祇のすぐれた俳句は心に残る。

2008/09/23(Tue)  896
 
 大植 英次という指揮者のことば。

    指揮者は作品を通じて、モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日付きあえる。こんな幸せな職業がほかにあるとでしょうか。

 いいことばだと思う。

 私は批評家として、じつにいろいろな作家を読んできた。むろん、私といえども、作品を通じて、ドストエフスキーやヘンリー・ミラーのような天才と毎日つきあってきた。しかし、私は天才ばかりとつきあってきたわけではない。
 その意味で、批評家なんてちっとも幸せな職業ではない。

 いろいろな作家を読んできたことは、それだけいろいろな運命を見つめてきたことでもある。
 モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日つきあえても、かならずしも幸運ではない。私は、もっとずっと平凡な才能たち、あるいは、もっとずっと俗悪な連中ともつきあってきたし、うんざりするほど才能のない連中も見てきた。

 それでいい。そのことに悔いはない。

 私の内面にどっかり腰をおろしている、ひたすらなる混沌は、才能もないのに文学の世界に飛び込んだせいだろう。しかも私は、そのことをいささかも後悔していない。モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日つきあえなくても、それはそれでいいのだ。

2008/09/22(Mon)  895
 
 (つづき)
 国運をかけた戦争をしている最中に、こんなことがあっていいのか。眼がくらむような気がした。
 そういう考えのうしろには、私がまだまったく知らない女たちのなまぐさい生理の匂いをかぎあてたからではなかったか。若い娘たちは、戦争にまったく関係なく、ひそかに憧れている男の前で裸になって、自分の性器に男のペニスをうけいれたがっている。

 私は、そういう娘たちが灰田 勝彦に抱かれるところを想像した。少しも実感はなかった。中学生が、かりにそういう娘たちを相手にして何かが起こることを期待していたとは思わない。しかし、自分の知らない世界が、いきなり眼の前につきつけられたことにひどく狼狽したのだった。

 四谷は意外に起伏が多く、暑い日ざかりに自転車で郵便物を配達するのは、中学生にはきつかった。四谷見附から大木戸にかけての新宿通りはゆるやかな鞍部になっているが、北の荒木町、舟町、愛住町といった地域は、靖国通りに向かっての下り坂。
 東南は赤坂に向かっての谷。
 外苑からあがってくるのは、安珍坂。
 四谷の名前にふさわしい風景がひろがる。

 私は、四谷の町が好きになっていた。後年、『異聞霧隠才蔵』という時代ものを書いたとき、四谷の左門町あたりを思いうかべて書いた。
 左門町から信濃町に向かって行くと、お岩稲荷がある。後年、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を読みふけったのも、この頃、四谷を歩きまわったせいだろうと思う。

 それはそれとして・・・若い娘たちが、逢ったこともない男に裸身をさらして悔いない、と知ったときの驚きは、私の心のなかで、別のかたちで発展して行った。

 この驚きは、いまの私のエロティシズムの研究までつづいている。

 いまの私は・・・戦争にまったく関係なく、ひそかに憧れている男の前で裸身を投げ出そうとまで思いつめていた娘たちに感嘆する。むろん、論理的にうまく説明はできないのだが。
 彼女たちは戦争についても、自分のセックスについても、まったく言挙げしなかったが、逢ったこともない男に裸身をさらしてでも女としてのスポンタネ(生得的)な権利を主張していたような気がする。それを非難する権利は男にはない。

2008/09/20(Sat)  894
 
 ある年の夏の日ざかり、中学生の私は、毎日、四谷区内を自転車で走りまわっていた。
 勤労動員で、四谷の郵便局に配属された。全学年のうち、三年生が都内各地の郵便局にそれぞれ配属されて、私のクラスは、四谷の郵便局を担当したのだった。
 私たちの作業は、その日に投函されたハガキを集めて、機械で消印を押す。封書は、台の上に並べて、片手で木槌のようなスタンプを打つ。簡単な作業で職員が手本をやってみせたが、中学生には半分の能率もスピードも出せなかった。

 郵便物をあつかっていると、社会のさまざまな動きが眼に見えるようだったし、戦争についても、意外な事実が分かるのだった。私たちには、その存在さえ秘密にされていた戦艦「大和」の乗組員にあてた手紙があったり、中国大陸からの軍事郵便があったりして、漠然と戦況が想像できるのだった。

 その郵便物を都区内、全国各県別にわける。当然、全国からも四谷あての郵便物が殺到してくる。四谷区内あての郵便物は、それぞれの町名でわけられて、50名ばかりの中学生が、赤い自転車に乗って配達する。
 いまでいうArbeitだが、この配達は楽しいものだった。

 新宿が管轄区域だった。

 当時、歌手、映画スターとして、たいへんに人気の逢った灰田 勝彦が、新宿第一劇場に出ていた。
 毎日、ファンレターが殺到してくる。午前の最初の集配で、ビリヤード台ほどの大きな台にうず高いファンレターの山ができる。
 これを、仕分けるのも私たちの仕事で、新宿の劇場に届けるのは、局員の仕事だった。クラスのなかに不良少年がいて、そのファンレターを何通ももち出して、昼休みになると、仲間どうしで開封した。
 私は外まわりの配達ばかりやらされていたので、その手紙を盗み読む機会はほとんどなかったが、不良どもが読みふけっているところに戻ってきて、肩ごしに何通か読んだ。

 若い娘たちが書いた手紙というだけでも好奇心をそそるにじゅうぶんだったが、その手紙を読んで、ファンの心理を知った、というより、いきなり若い娘の生理を眼の前につきつけられたような気がした。
 大部分は、純真なファンらしい手紙だったが、いい匂いのするレターペーパーに、口紅のキスマークをつけたものなどがあった。
 そのなかに、やはり口紅で花か何かのプリントを押しつけたものがあった。しばらく見ているうちに、私はやっと理解したのだった。あえていえば、その美しさに茫然としたといってよい。
 そのなかに、中学生の私の内面を震撼させた内容のものもあった。それは、灰田 勝彦に面会をもとめたり、処女をささげたい、といった露骨なもので、悪童たちを驚かせた。
 娘たちは、こんなことばかり考えているのだろうか。
 私はひどいショックをうけた。
     (つづく)

2008/09/19(Fri)  893
 
 (つづき)
 昭和二十年十一月二十九日という日付から、私の内面にさまざまなイメージがかけめぐった。
 戦火に焼けただれた街にアメリカ兵が颯爽とジープを走らせている。戦争が終わったばかりの都会には、おびただしい数の浮浪者があふれていた。いまでいうホームレス。そして、浮浪児たちの群れも。
 若いGI(兵士)をめあてにあらわれるパンパンと呼ばれる街娼たち。女たちはGI(兵士)をホテルなどにつれ込まない。路上に駐車しているジープ、夕暮れのビルの屋上、焼け残った公衆便所、皇居のお堀端の土手、地下鉄の階段、防空壕の盛り土、女たちのベッドはいたるところにあった。
 夜更け、焼けビルにつれ込まれて強姦される女たちの悲鳴。
 こうした混乱と頽廃が、あわれな敗戦国の現実だった。

 山口 茂吉は、敗戦直後の日々に、この歌集『あづま路』の選を続けていたはずである。だが、この歌集には戦時中の生活の苦しみ、あるいは、敗戦という衝撃はまったくうかがうことはできない。しかも、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)にかけての作歌だけを選んでいる。つまり意識的に戦争を排除したと見ていい。ここには再出発にあたって敗戦直後の日々を生きていた歌人の、静謐な心境などはない。むしろ、いいがたい動揺を私は見る。
 山口 茂吉の「あとがき」は、戦争が悲惨なかたちで終わったことに関してまったく言及がない。だから、自選歌集『あづま路』には、そもそも戦争の翳りなどさしていない。このことに歌人の動揺を私は見る。
 昭和二十年十一月二十九日夜半。すでに、連合軍の占領がはじまっている。時代の激変のなかで、歌集の歌を選ぶにあたって「みづからの心に期するところがあって、これを一気に選び了へることができた」という。
 日本の将来さえ見えていない時期に、山口 茂吉がのうのうとして歌集を編んだわけではないだろう。だが、「みづからの心に期するところがあって」という感懐には何があったのか。
 「戦後」の斉藤 茂吉のはげしい懊悩を、山口 茂吉はどこまで気がついて、理解していたのか。

 いま、歌集『あづま路』(1946年)を手にして、敗戦直後の歌人が語らなかった、あるいは語ることのできなかった痛みを思い描く。

2008/09/17(Wed)  892
 
 暇なので、歌集をひもとく。川柳ばかり読んでいるわけではない。

 歌集『あづま路』(1946年)を手にとってみよう。

 山口 茂吉(1902〜1958)は、「アララギ」系の歌人。生涯をつうじて、斉藤 茂吉に師事した。この『あづま路』は、戦後最初の自選歌集。

    六層の階下るとき正午(ひる)を告ぐるサイレンの音しばらく鳴りぬ

    陸橋の下の舖道に冬の日のふかく差せるを見つつ通りぬ

    新しき年の来むかふ夜のほどろ眼を病みたまふ母しおもはゆ

    銀座にてきぞの夜逢へるをとめごは貞操のことなどを語りつ

 「冬の日」から。暑いので、わざと冬の歌を選んだ。
 山口 茂吉は斉藤 茂吉のお供で石見に旅行したとき(斉藤)茂吉が病気になったらしい。

    石見のくに行きつつ君は旅ぐせの下痢に一夜をなやみ給ひし

    夜中すぎ下痢をもよほし起きたまふ君がけはひに覚めてかなしむ

    旅にいでて下痢をすること癖のごとくなりつつやうやく君老いたまふ

 斉藤 茂吉に対する深い敬愛がうかがえる。
 しかし、旅先で下痢をしたことまで詠まれては、先生としてはツラいだろうなあ。私は、高村 光太郎を思いうかべた。
 おなじように東北の厳しい風土に隠遁しながら、斉藤 茂吉における山口 茂吉のような弟子をもたなかった高村 光太郎のいたましさを。

 ところで・・・この自選歌集『あづま路』は、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)の作歌、518首を選んだもの。作者、二十五歳から三十四歳の時期。
 「あとがき」に山口 茂吉は書きつけている。

    時雨のあめの降りそそぐ寒い庭に対つてこの集の歌を選びながら、幾たびとなく斉藤茂吉先生の居られない東路の寂しさをおもはぬ訳には行かなかつた。私はみちのくへ疎開して居られる先生の上をはるから偲びつつ先生の御幸福を切に祈つてやまないものである。昭和二十年十一月二十九日夜半、東京麻布にて、山口 茂吉しるす。

 この一節に、私の胸に複雑な思いがあった。昭和二十年十一月。
 日本が敗戦の苦痛と、再建へのわずかな希望にのたうちまわっていた時期である。
                            (つづく)

2008/09/16(Tue)  891
 
 夏の菓子はくず饅頭、水牡丹、水仙ちまき、芋羊羹、葛やき等々、すべてくず製のものを最上とする、という。万葉学者の沢瀉 久孝博士が書いていた。(「菓子三昧」昭和26年)
 沢瀉先生は和菓子がお好きだったらしく、「菓子放談」(「菓子三昧」昭和26年)の一節に、

    夏は夏らしく、冬は冬らしく、名を聞いてゆかしく、見た目に美しく、指につまんでやはらかく、ほのぼのとうるほひがあり、唇ざわり、舌ざはりなめらかに、歯にくっつかず、とろとろと溶けて、あはあはと消え行くものが私には最も好ましい菓子だと思ふ。

 と書いている。
 沢瀉先生にしてみれば、ぜんざいは困る。つぶあんはお気に召さない。「あはあはと消えて行かない」から。
 菓子は調進して三時間ばかりたったときが食べ時だという。

    わらび餅が翌日になると、その手ざわりに弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになり、唇に纏はりつくやうな、ぴりぴりとはずむ力がなくなって、わらび餅の魅力は消える、とかつても書いた事があるが、それ程でなくともすべて生菓子の宵越しを意としないのは菓子ごのみの人のわざとは申し難い。世は定めなきこそいみじけれ。缶詰にならぬところに和菓子の良さがある。(「関西大学学報/昭和26年)

 日ましのわらび餅が、手ざわりの弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになるという表現に、思わずにんまり。

 戦後、来日した詩人のエドマンド・ブランデンが、漢字制限と「かなづかひ」の混乱を見て、「美しいものがなくなってゆくのは見ていてイヤなものです」と嘆いたという。沢瀉先生はこれにふれながら、

    かういふ低俗蕪雑な世の中に、くぬぎの薪でたいた餡でつくった蒸菓子などをすすめるのはむだなことで、和菓子の色付にはならぬ毒々しい口紅をつけた女と缶詰でも開いてダンスでもおどって、空缶は道ばたへ捨てておいたらよいのかと思ふけれども・・。

 私は、夏の和菓子では葛まんじゅうが好きなので、沢瀉先生のエッセイを読んでうれしくなった。そして、考えた。沢瀉先生が、いまの和菓子を召し上がったらいかが思し召されるだろうか、と。

2008/09/14(Sun)  890
 
 この夏、テレビで北京オリンピックを見た以外は、英語の小説はたった1冊しか読まなかった。(むろん、未訳)。夏の一夜、暑気払いに、したしい友人たちと集まって、ビールを飲んだのも1回だけ。
 とにかく暑いので、せいぜい歌集、句集をひもとく程度。

    庭のままゆるゆるおふる夏草を分けてばかりに来む人もがな

 「庭のまま」は、庭のかたちのままに、という意味らしい。築山とか池とか、いろいろなきまりにしたがって作られた庭なのだろう。その庭が、いまは夏草がゆっくり、だがしどけなく伸びてきている。そのしげみを踏みわけて、私をおとずれる人はいないのだろうか。
 作者の和泉式部と、敦道親王の恋を重ねてみれば、夏の季節に、「ゆるゆるおふる」状態で萌える、女人のエロティックな内面、女人の生理までいきいきと感じられる。

    山をいでて暗き道にをたづね来し 今ひとたびの逢ふことにより

 この歌は、和泉式部にしては傑作ではないらしいが、私にはこの女性のやさしさ、おののき、よろこびが感じられる。と同時に、自分が歩いてきた山々の印象を勝手に重ねて、好きな歌のひとつにきめている。
 この一首、なぜか「暗き道にを」の助詞が異様に思われる。
 彼女の日記では、

    山を出でて暗き道にぞたどり来し今ひとたびの逢ふ事により

 となっている。「暗き道にぞ」という強調。「たづね来し」が「たどり来し」になっている。そして「今ひとたびの逢ふこと」と「今ひとたび」愛する人と「逢ふ事」のはげしい違い。

 私としては、「こんなに暑いと山へ行き度くなる」という思いがあって、前の歌のほうがいい。むろん、勝手な思い込みで読んで、勝手なことを連想しているにすぎない。
 山を下りて、長いルートをたどって夜になってしまった。東京に帰る夜行列車にぎりぎり間に合うかどうか。もし、遅れた場合は、駅の近くのとどかで一泊しなければならない。それでも、またいつかこの山に登れればと思いながら、疲れた足どりで暗い道を急いでいる。そんな自分の姿を重ねている。

 ごめんなさい、和泉式部さま。

2008/09/13(Sat)  889
 
 いやぁ、まだ暑いね。まいりましたな。
 「猿蓑」の附合(つけあい)に、「暑し暑しと門々の聲」というのがあるが・・・今年の7月は猛暑がつづいた。
 京都などでは、31日間、連続で「真夏日」。これは、1994年以来という。
 千葉だって、「真夏日」は23日間もつづいている。こうなると、「暑し暑しと悶々の聲」だよ。

   「暑い! いつもガンガン照りつけるならばまだ辛抱も出来る物の、どんよりとして何だか圧しつけられる様に、どうしても癪に触る暑さである。いつその事あばれてしまへと云ふ、やけくそで、コートヘと飛出してラケットで当り散らかせば、二セット目には、あれあれ! シャツからズボンまで、づつくりと水の中から出て来た様で、眼と云はず鼻と云はず滝流しである。一風呂浴びて、少しは風でも出たかと思へば、是は又どうした事かそよとも云はない。晩飯の膳に向かっても、あれほど運動したのに扨て食ってみたい物は冷(ひや)ぞうめん位な物である。
   こんなに暑いと山へ行き度くなる。」

 辻 二郎の『西洋拝見』(岩波書店刊/昭和11年)から。どうやら1936年(昭和11年)の夏も暑かったのだろう。
 辻先生は、寺田 寅彦に似て、科学者、随筆家。科学者として、当時最高の名誉だった恩賜賞を得た。随筆はおもに登山の思い出、アマチュア写真家としての観察など。
 この『西洋拝見』は、小説仕立てのヨーロッパ渡航の記録。
 残念ながら小説としてはおもしろくない。この本の後半(つまり、小説以外)は昭和9年までに書かれたエッセイ。私が引用したのは、「山とりどり」という随筆の一節。

    こんなに暑いと山へ行き度くなる。

 ほんとうにそんな気がしてくる。

 昭和初期、辻先生は、松本や大町まで、むし殺されるような夜行列車に乗って、アルプスに向かう。

    ・・重いリュックサックに登山靴を引きづりながら、歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処ばかりだと思ふと一寸うんざりする。其歩くのが又楽しみでもある訳だが、いつも帰ってくると、愉快な事ばかり覚へて居てつらかった事は忘れてしまふ様な物の、実は山登りは、なかなかもってえらい労働である。座ったまんま槍ケ岳の肩位まで行ける様になったらさぞ便利だらうと思ふ。そんな事を云ふと、山の冒涜だ等と云っていきり立つ手合もあるかも知れないが、十年後か廿年後か早晩さうなるにきまってゐる。又早くそうした方がいい。ほんとに歩きたい人間は其から先を歩けばよい訳である。

 現在では、昭和初年の辻先生の予想はほとんど実現している。「むし殺されるような夜行列車」どころか、冷房のきいたコンパートメントで、千葉から松本まで直行の特急が走っている。たいへんに便利になった。登山技術も、装備も、昭和初期とは比較にならないほど高度で、洗練されたものになっている。

 2008年7月、東京都は、近郊の低い山のハイキングコースの案内板に、番号つきの識別標をつけている。遭難者が出た場合、その識別標の管理番号を連絡すれば、ただちに所轄の消防署のヘリが出動して、遭難者の救助にあたるシステムらしい。

 登山者がしっかりしていれば遭難するはずもない山々に、番号つきの識別標をつけるなど、地方の僻地の医療に財政支援を行うこととは、まるで次元の違うことだと思う。
 厳冬の北アルプスならいざ知らず、奥多摩、奥秩父あたりで、識別標の管理番号を連絡すればすぐにヘリが出動する体制をとるなど、どうも感心しない。
 東京近郊の山々だから、こういうシステムが考案され、実施、運営されるのだろうが、むしろハイキングする人たちに、奥多摩だって「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」というふうに、考えさせるほうがいい。

 だが、昨年(2007年)だけで、1808人も山で遭難し、200名以上が死亡しているような事態など、辻先生も予想なさらなかったに違いない。
 「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」がどこにもなくなってしまった不幸までは辻先生も予想しなかったはずである。

2008/09/12(Fri)  888
 
 「早川書房」にいた宮田 昇が、ある日、私のところにやってきて、
 「何かおもしろい小説を読んでいたら、教えてくれないか」
 といった。
 私は、たまたまミッキー・スピレーンを読んでいた。
 「これなんか、出したらきっと売れるよ」

 私は、ミッキー・スピレーンの小説を説明してやった。宮田 昇は、黙って聞いていた。彼が関心をもったことは、私にもわかった。
 宮田 昇はその日のうちに、「タトル」に行って、翻訳権の取得に動いた。当時、ミッキー・スピレーンは、5冊出ていたが、宮田 昇は2冊しか翻訳権をとらなかった。とれなかったというべきだろう。スピレーンの処女作と、最新作のペイパーバックだったが、この2作を選んだのも「早川書房」に資金的な余裕がなかったためという。
 その一冊(最新作)の翻訳を、恩師の清水 俊二さんにお願いして、もう一冊を私のところにもってきた。
 「きみがいい出したのだから、きみが訳してよ」
 宮田 昇はいった。

 その後、紆余曲折があって、これが「ハヤカワ・ミステリ」の出発になった。
 「ハヤカワ・ミステリ」は、ポケットサイズにするときめられて、とりあえず清水訳をNo.1、私の「裁くのは俺だ」をNo.5にすることになった。          
 2冊はきまったが、No.2、3、4、がなかった。
 ここでも、いろいろと紆余曲折があって、もう1冊を、植草 甚一さんにお願いすることになった。一方、宮田 昇は、同僚の福島 正美といっしょに「飾り窓の女」を訳すことにして、とりあえず「ハヤカワ・ミステリ」が出発することになる。

 「飾り窓の女」は、フリッツ・ラングか映画化したサスペンス・スリラーで、ヒロインの「飾り窓の女」の女」は、グローリア・グレアムだった。

 そういえば・・・「ハヤカワ・ミステリ」の新聞広告には、いつも、女の片目が大きくデザインされていた。ある映画女優の眼なのだが、もう誰も知らないだろう。

2008/09/10(Wed)  887
 
 当時、私はある映画会社でシナリオを書いていた。というより、シナリオ化する前段階、ストーリーのシノプシスを書くライターだった。こうしたシノプシスは、毎月、50本以上、集められる。地方紙に連載されている長編通俗小説のレジュメなども含まれていた。そういう仕事は、会社の脚本部に所属する人たちの仕事で、外部の書き手だった私には関係がなかった。

 ある日、製作本部の意向で、「立体映画」の企画が緊急の課題になった。私なども、このとき、出ているところはちゃんと飛び出して見えるし、引っ込んでいるところはちゃんと引っ込んで見える、というものを、ストーリーにどう反映させたらいいか、頭をひねったおぼえがある。

 さて、その当時の女優たちの身長、体重、そしてスリー・サイズをあげた理由が、みなさんにも理解していただけたのではないか、と思う。

 ロンダ・フレミング  身長=5・5フィート  体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/26  ヒップス/36半

 ローズマリー・クルーニー 身長=5フィート6半 体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/24  ヒップス/34

 ベテイ・グレーブル  身長=5フィート3半  体重=112ポンド
    バスト/36  ウェスト/23半  ヒップス/35半

 ローレン・バコール  身長=5フィート6半  体重=119ポンド
    バスト/34  ウェスト/23  ヒップス/35

 なつかしい女優たち。

2008/09/08(Mon)  886
 
 それまでの白黒映画がカラーと交代したときに、もっとも大きな問題になったのは、女優のからだをどこまで美しく撮影できるかというテクニカルな問題だった。
 これは、高性能レンズ、照明、メークの驚くべき発展で解決したが、立体映画となると、まるで未知の領域だった。
 映画「サンガリー」で、アーリン・ダールが起用されたことも偶然ではない。
 アーリン・ダール   身長=5フィート6  体重=118ポンド
    バスト/36  ウェスト/27  ヒップス/36

 当時、アーリン・ダールは「テクニカラー女優」という異名があったほどで、美貌と、からだの美しさは抜群だった。ただし、会社(「パラマウント」)が、あわてふためいて企画し、くだらないシナリオで、急遽製作したことが歴然としていた。つまり、映画はまったくの愚作。
 アーリン・ダールはインターヴューで語っている。

    「立体映画」に出る時は、自然に返れという姿勢がたいせつだと思うわ。ライトがきつくて、大げさなメークは禁物なの。こまかいところまで、くっきり撮られるから、あくまで自然のままのほうがいいの。それに、撮影のために、ダイエットして10ポンド落とすなんてこともなくなるわね。これまでの映画だと、からだが、平べったく写るので、実際以上にデブって見えたりするけど、「立体映画」だと、ありのままに写るのよ。

 つまり、出ているところはちゃんと飛び出して見えるし、引っ込んでいるところはちゃんと引っ込んで見える、というわけ。
 ただし、この言葉には・・・おそろしい含意(インプリケーション)があって、これまで、メークや、カメラ、ワークで美しく撮れていた女優たちには恐怖の時代がやってくる。
 たとえば、ヴェラ・エレン。身長=5フィート4半  体重=105ポンド
      バスト/33  ウェスト/21  ヒップス/33

 つまり、ヴェラ・エレンは、肉体的に不適格ということになる。なぜなら、スクリーンのワイド化もまた必至と見られていたからだった。
   (つづく)

2008/09/05(Fri)  885
 
 グローリアは、「戦後」の美女のひとりだが、グローリア・グレアム程度の美女はいくらでもあげられよう。
 しいて特徴をあげれば、二重まぶたの眼が、すっと冷酷な光を帯びると、いかにもあばずれといった感じになる。
 すれっからしの莫蓮女らしい、下品で、蓮ッ葉な女だが、どこかほかの女にない翳りがたゆたってくる。「人生模様」のマリリン・モンローにも、これはない。「欲望という名の電車」のアン・マーグレットにはとても出せない。

 ほしいままに春を枕籍にひさぐ娼婦の役、ギャングの情婦といった役を若い女優がやると、だいたいはほかの役のときよりもずっと輝いて見えるものだが、なかでもグローリア・グレアムは出色だった。もともと平凡な「娘役」をやったことがない。
 ある映画評論家が書いていた。

 ところで、これはどんな映画ファンもほとんど同じ思いだったと思うのだが、四〇〜五〇年代のモノクロ女優のなかで、だれの裸をいちばん見たかったかといえば、それはイングリッド・バーグマンでもなく、ローレン・バコールでもなく、ラナ・ターナーでもなく、バーバラ・スタンウィックでもない・・それはグローリア・グレアムだった。

 残念なことに、私はグローリア・グレアムの裸を見たおぼえがない。だれの裸を見たかとえば、マルティーヌ・キャロル、ジャンヌ・モローといったフランスの女優たちを思い出す。グローリア・グレアムといえば、(以下すべて、1958年の資料による。)

 マリリン・モンロー  身長=5・5フィート半 体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/23半  ヒップス/37半

 ジェーン・ラッセル  身長=5フィート7  体重=135ポンド
    バスト/38半  ウェスト/25  ヒップス/38半

 エレン・スチュアート 身長=5フィート6  体重=118ポンド
    バスト/34  ウェスト/24  ヒップス/36

 ドリス・デイ     身長=5フィート5・3/4 体重=116ポンド
    バスト/36  ウェスト/25  ヒップス/36

 デブラ・パジェット  身長=5フィート2  体重=104ポンド
    バスト/33  ウェスト/25  ヒップス/36

 リタ・ヘイワース   身長=5フィート6  体重=120ポンド
    バスト/35  ウェスト/25  ヒップス/35

 こんなことを書きとめておくのは、いささか悪趣味だが。
 しかし、私にとっては、こうした女優のスリー・サイズを見届けておくことにはもう少し別の意味がある。

 じつは、この1958年当時、シネマスコープばかりではなく、3D(スリー・ダイメンション)も登場していた。つい昨日までは、そんなことばも存在しなかった世界がどこに行っても聞かれるようになって、カメラ、照明、ひいては演出のメトドロジーも変わるだろうと予想された。3D(スリー・ダイメンション)では、ポラロイド眼鏡などという、誰ひとり考えもしなかったアクセサリまでがあらわれた。
 ちなみに、当時、ピンナップの女王と呼ばれていたのはヴェジイニア・メヨ。
 「我らの生涯の最良の年」で、前線から復員した兵士(ダナ・アンドリュース)を裏切った不倫な人妻。「死の谷」で、愛するガンマンと国境を越えようとして、追手の銃弾に倒れる原住民の女。ヴェジイニア・メヨをおぼえている人がいるだろうか。

2008/09/02(Tue)  884
 
 グローリア・グレアムという女優がいた。もう誰もおぼえていないような女優さん。ビデオ、DVDでも「地上最大のショウ」ぐらいしか見られないだろう。この映画で、グローリアはアカデミー賞(1952年)の助演女優賞をとっている。
 ただし、アカデミー賞なんか、まるで関係のない「悪女」型の女優だった。

 一九五〇年代、私は英語がいくらか読めるようになっていたので、手あたり次第にアメリカの文学作品、通俗小説を読んでいた。雑誌、「サタデー・イヴニング・ポスト」なども読んでいたが、この雑誌に連載されていた小説が映画化された。
 監督はフリッツ・ラング。
 戦前すでに「激怒」、「暗黒街の弾痕」といったアクション・スリラーで一流監督だったフリッツ・ラングは、戦後の私には「扉の蔭の秘密」、「飾り窓の女」の映画監督だった。

 ある巡査の死に疑問を抱いた警部が動きはじめたとき、上司から捜査の中止を命じられる。このことから、警察内部を牛耳るマフィアの動きを知った警部は、車にギャングが仕掛けた爆発で妻が殺され、職も奪われる。復讐のために、警部はマフィアの動きをさぐって、ギャングの情婦に接近してゆく。

 この警部をやっていたのが、「ギルダ」、「カルメン」のグレン・フォード。
 非情なギャングの実態を知って復讐に協力する暗黒街の女。この「情婦」を、グローリア・グレアムがやっていた。

2008/08/27(Wed)  883
 
  しばらく前にこんなニューズを読んだ。(’08.7.16.)

 ストレスによって記憶力が低下することは、よく知られている。
 日本医大の太田 成男教授のグループは……水素が活性酸素をとり除き、脳梗塞による脳障害を半減させることを確認した。

 認知症は活性酸素などによって神経細胞が変性する病気とされるが、太田 成男教授はマウスの実験で……水素が大量に溶け込んだ水を飲ませたマウスと、ふつうの水を飲ませたマウスの比較から……水素水を飲まなかったマウスの海馬には、活性酸素によって作られた物質が蓄積していた。水素水が活性酸素によって低下した神経細胞の増殖能力を回復させ、記憶力の低下も抑制したと考えられる、という。

 こういうニューズはうれしいかぎり。

 北京オリンピックの開催間近に、BSで「東京オリンピック」をやった。
 これを見ながら、市川 昆のことをいろいろ思い出していて、はて、「愛人」は見たはずだったが、どんな映画だったっけ、と考えあぐんだ。オリンピックでいえば、ロサンジェルスから、マドリード、ソウル、ぐるっと地球を一周するくらいの時間がかかって、やっと森本 薫の『華々しき一族』の映画化だったことを思い出した。
 森本 薫も思い出せなくなっているのか。これはショックだったが、あの映画は、コーチャン(越路 吹雪)の映画だったなあ、などとへんに納得する始末。

 当時、私は映画の仕事をしていたせいで、この頃のことはわりによくおぼえている。

 市川 昆の「愛人」が公開された時期、「大映」は衣笠 貞之助の「地獄門」を出してきたはずで、「愛人」では長谷川 一夫、京 マチ子には敵わなかったなあ。あの映画の「清盛」は千田 是也だったが、千田 是也の映画としてはましなほうだったな、などと考える。
 外国ものでおぼえているのは、アルベルト・ラットゥアーダの「アンナ」ぐらいか。「アンナ」はシルヴァーナ・マンガーノだったっけ。
 そういえば、エリア・カザンの「綱渡りの男」もこの頃に出た。
 エリア・カザンとしてはめずらしいサスペンス。旧ソ連圏のチェッコから、必死に脱出しようとするちっぽけなサーカス団の話。反共映画だが、脚色が、ロバート・E・シャーウットだった。アメリカ有数の劇作家。映画は駄作だったが、私としてはテリー・ムア、グローリア・グレアムが気に入っていた。

 すっかりボケて何もおぼえていないくせに、好きな女のことは忘れない。(笑)

2008/08/25(Mon)  882
 
 昼間、小川 茂久と会うことはめずらしかった。たいていは、どこかの喫茶店にもぐり込んで、いそぎの原稿を書いたり、暇さえあれば古書店を歩いていた。昼間、小川の研究室に顔を出したこともない。だから、昼間、キャンパスで偶然に出会うこともなかった。
 一度、文学部の事務室で、偶然に彼を見かけた。
 昼間なので、行きつけの酒場も居酒屋も開いていない。

 「メシにしようか」
 「うん、そうするか」

 「弓月」の近くの寿司屋に行った。小川の行きつけの店だった。
 あるじは、大柄で、江戸前の寿司が自慢らしい不敵な面がまえだった。
 けっこういいネタだった。
 小川が、店のあるじに私を紹介した。
 「このひとは、マリリン・モンローの研究家なんだよ」

 あるじは、私を見ずに、ふてぶてしい口調で、
 「あっしは嫌いだね、ああいう淫売みてえな女」

 私は黙って立ちあがると、
 「すまねえが、先に帰らしてもらうよ」

 店を出た。不愉快な気分を顔には出さなかった。小川があとを追って出てくることはわかっていた。そのまま神保町に出て、私の行きつけの店であらためて小川と寿司を食べた。このとき、マリリンのことは話題にしなかった。
 たかが、寿司屋のあるじ風情が、マリリン・モンローを嫌っていても、小川にもおれにも関係はない。ただ、客の顔を逆撫でするようなセリフを浴びせるのが、江戸っ子の心意気だなぞと思い込んでいる根性が下司であった。
 神田は猿楽町に住んでいやがっても江戸っ子の風上にも置けねえ野郎め。

 その店には二度と行ったことがない。

2008/08/22(Fri)  881
 
 小川 茂久と会うのはたいてい夜の9時過ぎで、お互いに黙ってキャンパスを出て、駿河台下に向かう。
 小川の行きつけの旗亭がいくつかあって、酒場なら「あくね」、居酒屋なら「弓月」ときまっていた。
 「あくね」には、いつも小川のご到来を待っている客がいた。おなじ明治大学の先生、職員たちばかりではなく、近くの中央大学の教授たち、あるいは本郷の東大の仏文の諸先生がた、「岩波」、「筑摩」といった出版社の編集者たちが小川の顔を見ると、いっせいにうきうきする。
 酒席の小川は、それほど人気があった。
 大人の風格があって、誰とでも気さくに話をする。話がおもしろくなってくると、ケッケッケッ、と笑う。この笑いが独特だったが、じつは、恩師にあたる佐藤 正彰先生の影響をうけて、こんな笑いかたが身についたようだった。

 小川とちがって、まったく社交的ではなかった私は、カウンターの隅っこに陣どって、店の女の子たちを相手に、なんとなく世間話でもしながら飲みしこるのが常だった。
 私は小川と飲んでいられれば幸福だったのだが、小川が紹介してくれた知人たちのなかでも、何人かの人とは心おきなく話ができるようになった。
 例えば、小野 二郎。
 私とは、まるで思想も教養も違う小野も酒豪だった。お互いに酔っぱらっているのだから、めいめい勝手なことをわめいているわけで、論理的にかみあわないことが多い。それでも、何かの論点についてはお互いに譲らなかった。
 小野 二郎が貸してくれたので、マルクーゼを読んだ。内容はむずかしかったが、なんとか読んで、つぎに「あくね」で会ったとき、マルクーゼについて小野君と論争になった。
 小川は、まったく口を挟まず傍観していたか、私はめったに論争することなどなかったから、ほんとうは心配していたのかも知れない。
 「あくね」や「弓月」のことも、そろそろ書き残しておこうか。

2008/08/18(Mon)  880
 
 『インセスト――アナイス・ニンの愛の日記≪無削除版』1932〜1934』アナイス・ニン著 杉崎 和子訳(彩流社/2008年) ∴  『医学が歩んだ道』フランク・ゴンザレス・クルッシ著 堤 理華訳(ランダムハウス講談社/2008年) ∴『映画都市(メディアの神話学)』海野 弘著(フィルム・アート社/1981年) ∴『演芸画報・人物誌』戸板 康二著(青蛙房/1970年) ∴ 『艶書 覚後禅 肉蒲団』原 一平訳(東洋書林/1954年) ∴『オプス・ピストルム』ヘンリー・ミラー著 田村 隆一訳(富士見書房/ロマン文庫/1984年) ∴『オペラ館サクラ座』宇野 千代著(改造社/1934年) ∴ 『銀幕のいけにえたち』(ハリウッド★不滅のボディ&ソウル)アレグザンダー・ウォーカー著 福住治夫訳(フィルム・アート社/1980年) ∴ 『孤独なアメリカ人たち』アースキン・コールドウェル著 青木久男訳(南雲堂/1985年) ∴ 『婚姻の諸形式』ミューラー・リアー著 木下史郎訳(岩波文庫/1934年) ∴ 『宿命の女優』(「シネアスト4「映画の手帖」/1986年) ∴ 『スクリーン・デビュー−−あの名優・名監督の最初の映画』ジェミー・バーナード著 柴田京子訳(講談社・+@文庫/1995年) ∴ 『スクリーン・モードと女優たち』秦 早穂子著(文化出版局/1953年) ∴ 『スター』エドガール・モラン著 渡辺 淳・山崎 正巳訳(法政大学出版局/1976年) ∴ 『性への自由/性からの自由(ポルノグラフィの歴史社会学)』赤川 学著(青弓社/1996年) ∴ 『世界映画人名事典 監督編』(キネマ旬報/1975年) ∴ 『世界の映画作家全集’67』(キネマ旬報/1967年) ∴ 『セックス・シンボルの誕生』秋田 昌美著/青弓社/1991年) ∴ 『ヌードの歴史』ジョージ・レヴィンスキー著 伊藤 俊治・笠原 美智子訳/パルコ出版局/1989年) ∴ 『ハリウッド殺人事件』Hollywood R.I.P. 中田 耕治編・監修(ミリオン出版/1987年) ∴ 『ハリウッド黄金期の女優たち』淀川 長治著(芳賀書店/1979年) ∴ 『本当のところ、なぜ人は病気になるのか?』ダリアン・リーダー&デイヴィッド・コールフィールド著 小野木明恵訳(早川書房/2008年) ∴  『無声映画名作アルバム』編著者 無声映画愛好会(鱒書房/1954年) ∴ 『変愛小説集』岸
本 佐知子編・訳(講談社/2008年) ∴ 『The World of Musical Comedy』スタンリー・グリーン著(ニューヨーク・A・S・バーンズ刊/1960年) ∴

 いま、私の机に置いてある本。すぐ手にとれる位置に置いてある。それぞれの本を気ままに手にとって、必要な部分だけを読んでは別の本に移って行く。つまり、ほとんどが仕事に関係のある本ばかりだが、つぎつぎに入れ代わってゆく。1週間後には、大半が私の机の上から消えているだろう。
 生々流転である。

2008/08/15(Fri)  879
 
 アレクサンドル・ソルジェニーツィンが亡くなった。(’08.8.3。日本時間では4日朝)死因は、心不全。享年、89歳。

 ソルジェニーツィンの作品はだいたい読んでいるはずだが、作家としての彼にそれほど関心はない。

 旧ソヴィエトの作家同盟の招待で、ロシアを旅行したことがある。ブレジネフの時代だった。
 ある日、モスクワで、若いロシア人と文学の話をした。まだ、『収容所群島』がロシアで公開されていなかった時期、つまりソルジェニーツィンは国禁の作家だった。
 お互いにたどたどしいイタリア語、フランス語で話をしたが、私は、たまたまアンドレイ・ベールイ、アレクサンドル・ブローク、はてはレーミゾフ、ブーニン、ザイツェフなどを話題にした。彼はびっくりしたようだった。
 私が名をあげた人々の作品は、当時のモスクワではほとんど入手できないのだった。闇の古本市のようなものがあって、読者たちがひそかに連絡しあう。物々交換のシステムだったらしい。十九世紀の作家、詩人のものはなかなか出ないし、出たとしても現代作家の本何冊かと交換で、やっと手に入れるという。

 若者は外国人(それも日本人)の私がソルジェニーツィンを読んでいることに驚いていた。
 彼は残念そうに、
 「きみはいいなあ、自由にソルジェニーツィンが読めて」
 といった。
 やがて、若者は雑踏のなかに消えて行った。あきらかに外国人とわかる私と話しているところを見られるのがいやだったらしい。ソヴィエト旅行にはそんな思い出がある。

 ソルジェニーツィンの死について別に感想はない。あとになって、たとえば、ソロヴィヨフ、ベルジャーエフなどの系譜につらなる思想家としてのソルジェニーツィンについて考えてみたいと思っている。
 新聞で訃報を読んだすぐに、わずかな蔵書のなかでソルジェニーツィンの本を探したが見つからない。まるで関係のないアルツィバーシェフを読み返した。

    大きな明るい月が、黒くてお粗末な物置のかげから顔をのぞかせた。はじめ、庭のたたずまいをうかがっていたが、どうやら別にこわいものもないと見たらしく、少しづつまろみをまして、ゆるやかに登りはじめた。黄色っぽくまんまるい、にこやかな顔で屋根に乗ったものである。
    庭のなかはたち皓々としらんだが、塀や物置の下には、かぐろくミステリアスな影ができた。夜気が涼しく、かろやかに、すがすがしくひろがる。暑くて、眼がくらむような夏の一日がやっと終わって、はじめて胸いっぱいに深呼吸できるといったようすである。

 ある短編のオープニング。有名なロシア文学者の訳を私が勝手に手を入れたもの。

 ソルジェニーツィンのことを考えるとき、すでにロシア人たちに忘れられているに違いない作家たち、たとえば、クープリン、アンドレーエフ、アルツィバーシェフ、ソログープたちのことを思い出すだろうと思う。
 ソルジェニーツィンについて考えるとき、私は、エイゼンシュタインや、ピリニャークや、ナターリア・ギンズブルグなどと重ねあわせて考えるだろう。

 私はそういうひねくれた読者なのだ。

2008/08/13(Wed)  878
 
 八月になった。北京オリンピックが開催される。
 夏休みなので、本を読むつもりだが、こう暑いと本も読めない。
 手もとにある歌集、句集をひもとく。川柳でもいい。
 むろん、全部読むわけではなく、ところどころ目にとまったものを、掌にころがすようにして眺める。だから読書というより、気ままな暑気払い。

 8月1日。八朔(はっさく)である。

     八朔の 雪見もころぶところまで。

 おもわずニヤリ。
 もっとも、これを読んで、ただちに白無垢の小袖を連想する人はいないだろう。私だって、戦前の「なか」を見てはいるが、この習慣を実見しているわけではない。

     八朔の雪 物尺でつもる也

 これはむずかしい。ちょっと考えて、ニヤリ。

     一里づつ 行けば木へんに夏木立

 街道筋に道標としてエノキの木が植えてあったらしい。

 その頃、文屋という職業があったらしい。飛脚は、遠方に手紙を届けるのだが、文屋は近場に手紙などを届ける。

     文使い うそもまことも ひとつかみ

 この「文使い(ふみづかい)」も文屋のこと。

 私はもの書き。たいしたもの書きじゃないが、文章を書くことでたつきを立ててきたのだから(誤用を承知で)自分を「文使い(ふみつかい)」と称している。だから、このHPに書く文章は、「うそもまことも ひとつかみ」。

2008/08/10(Sun)  877
 
 「文芸家協会ニュース」を見て、6月6日に、作家の氷室 冴子、10日に作家の田畑 麦彦、映画解説者の水野 晴郎が亡くなったことを知った。
 この方々が亡くなったことをまったく知らなかったので、ちょっと驚いた。それぞれの人の死に驚いたわけではなく、自分がしばらく何も知らずに過ごしていたことに気がついて驚いたのだった。

 私は、作家の訃を知ったときは、できるだけその人の本を探して読むことにしている。追善の意味もあるのだが、面識はないにせよ、もの書きとしておなじ時代に生き得たことのありがたさを思うからである。

 氷室 冴子という作家のものは読んだことがなかった。ぜひ読みたいと思って、本屋に行ったが見つからなかった。コバルト文庫、56冊、2千万部の人気作家だった。私は「コバルト文庫」で、S・E・ヒントンの3冊、青春小説のアンソロジーを1冊出しただけで、総部数は20万部そこそこだったから、私などとははじめから比較にならない。 
 
 氷室 冴子、享年、51歳。
 私のクラスを出てから作家になった高野 裕美子も、同年で、今年亡くなっている。
 そんな薄弱な理由もあって、氷室さんの作品も読んで見たかったのだか、見つからないのでは仕方がない。

田畑君とは面識もあった。
 例えば「嬰ヘ短調」といったひどく前衛的な作品を書いていた。育ちのいい文学青年だったが、書くものは高踏的すぎて、私にはあまりよく理解できなかった。
 彼の本も探すのはむずかしいだろう。ただ、私は彼から送られた本をもっていたので、読み返すことができた。
 むずかし過ぎて、よく理解できなかったのはおなじだった。

 水野 晴郎とは、テレビの映画番組で、二、三度、何かの映画について対談したことがある。テレビではない場所では、「紀伊国屋ホール」でマリリン・モンローのことで、対談した程度。
 誰にも好かれるようなお人柄で、映画解説者として人気があった。
 彼の著書も私はもっていなかった。探すのはやめて、DVDで、ジョルジュ・クルーゾーの「悪魔のような女」を見た。
 たまたまシャロン・ストーンのリメークが、公開された時期で、水野 晴郎は、ハリウッド郊外で、クルーゾー映画の解説をしていた。

 私の見た「悪魔のような女」は、なんとアメリカ版の吹き替えで、シモーヌ・シニョレも、ヴェラ・クルーゾーも、アメリカ語をしゃべっているのだった。映画も、なんとなくクルーゾーらしい、ネチっこさが消えている。
 いちばん笑ったのは、子どもたち(私立学校の生徒たち)が、いともみごとなアメリカン・スラングをしゃべっていることだった。
 監修者の水野 晴郎は何も気がつかなかったのだろう。

2008/08/06(Wed)  876
 
 日曜日、NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている。宮崎 あおいのファンなので。
 いずれ公武合体の話から、皇女和宮が登場してくるだろう。どんな女優がやるのだろうか。
 金剛 右京の「能楽芸談」を読んでいて、おもしろいエビソードを見つけた。
 明治になって、能楽に衰退のきざしが見えていた頃の話だろう。金剛 氏重(右京さんの大伯父にあたる)が、黒田侯の屋敷で「融(とおる)」の袴能をつとめた。このとき、春藤 六右衛門がワキをつとめた。

 この能に、名所教(めいしをおしえ)というところがある。さしづめ、シテのサワリというべき部分。

    音羽山 音に聞きつつ 逢坂の 関のこなたに とは詠みたれども 彼方にあたれば 逢坂の 山は音羽の峯に隠れて この辺よりは 見へぬなり・・

 これを、六右衛門がすっかり謡(うた)ってしまった。ほんらい、シテの謡(うた)うところである。
 地謡、囃子かたは、もとより、居並ぶ貴顕のかたがたもこれにはおどろいて、さて、この場をどう収拾するのか、シテの金剛 氏重にいっせいに注目した。
 氏重も六右衛門の失策に仰天したには違いないが、すかさず、

    のうのう、御僧、それはこなたにて 申すことに候。

 と、ふっておいて、

    仰せのごとく 関のこなたに とは詠みたれども・・

 とつづけた。これで、こんどは六右衛門も自分の失策に気づいて、赤面したらしい。当時、幼かった右京はこれを見て、六右衛門のようすは今でも気の毒に思うと書いている。
 舞台で、相手のセリフと自分のセリフをとりちがえる、そんなトチリをずいぶん見てきた。自分の演出した舞台では、じたんだを踏んでも間にあわない。

 この氏重でさえ、生涯ただ一度失敗したことがある。
 幕末、皇女和宮が、徳川 家茂に御降嫁のみぎり、「摂待(せったい)」の能が出た。 シテは、金剛 唯一。氏重は、ツレの「兼房」をつとめたが、なにしろ前代未聞のもよおしに緊張したのか、氏重はシビレを切らせて、席から立ちあがれなかったという。

 私はこんな話を読むのが好きなのである。

2008/08/02(Sat)  875
 
 ここで私がとりあげる本は、『変愛小説集』(講談社)。

 ある家庭の主婦。ある夏の午後、とても素敵な男の子が庭の芝生を刈りにきてくれる。彼女は、その男の子を追いかけて、キスをする。彼の舌を吸ったが、吸いかたが強すぎて彼が声をあげはじめても、ますます強く吸って、彼を呑み込んでしまう。
 ジュリア・スラヴィンの「まる呑み」。

 これは凄い!

 私はこれまで、自分でもたくさん小説を読んできたが、こんなにおかしな短編を読んだことがない。私には、女という生理の外貌がはじめて私の内面にあたらしい姿をあらわしたのを見たような気がした。まさしく、ここには女の肉体の内側が語り、ときには泣き出したり、怒りを見せている。
 なにしろ、呑み込んだ相手は、いくら追い出そうとしても居すわってしまうのだから。しかも、彼女は妊娠してしまう。

 エロティックな行為をふくめてひとりの男と女の交渉が、あらゆる「恋愛」の基本をなしているとすれば、このおかしな短編の「愛」は、まさに「変愛」の現実的形態にほかならない。
 私は、この短編を前にして、批評的な評価を絶した数瞬間をこころゆくまで彼女とともにすごした。思わず、笑い出したくなるのをこらえながら。
 なんといっても岸本 佐知子の訳がすばらしい。
 こういう作品をこれほどおもしろく訳せるのは、たいへんな才能だと思う。岸本 佐知子はエッセイストとして有名だが、彼女の翻訳にも、なんともいえない、トボけたおかしみ、それでいて、みごとに語学的なきらめきが輝いている。
 私が『変愛小説集』の周辺をめぐって気ままに歩いてみたいといった理由は、これに尽きる。

 『変愛小説集』については、また、あとでふれることにしよう。

2008/07/30(Wed)  874
 
 私が書くのは岸本 佐知子編訳の『変愛小説集』の書評ではない。

 アンソロジストとして、こういう作品ばかり選んで訳している岸本 佐知子の感性に敬意をもっているのだが、この『変愛小説集』の周辺をめぐって、しばらく気ままに歩いてみたいと思う。

 ずいぶん昔、あたらしいミステリーに、それまで存在しなかったストーリー・テリングの妙、意外な展開、しばしば想像もつかないオチをもった短編が登場してきた。これを、江戸川 乱歩が概括して「奇妙な味」と呼んだことがある。たとえば、ロアルド・ダール、あるいはチャールズ・ボーモントなどの作品がこれにあたるのだが、『変愛小説集』のどの一編をとりあげても「奇妙な味」どころではない。
 ここにとりあげられている作家たちは、自分の想像力の赴くままにふる舞っている。作家たちは、自分の描くシチュエーションが「変」なものとは思っていないので、それぞれが自分の思考のバイアスを見定め、それをいわば圧縮して、そのかたちの「変」性をさだめるためにしか書かない。これは、すごいとしかいえない。
 私小説を最高の文学と思っているような連中には、おそらく何も見えてこないだろうと思う。これはもう「奇妙な味」どころか、それぞれが比較しようのない味としかいいようがない。
 私は、この短編集をいっきに読みつづけるのがもったいなくて、毎日1編づつ、たいせつに読みつづけた。まるで、おいしいケーキを、一個づつ食べるようにして。
 毎日、かなり多数の本を読みつづけてきた私が、こういう読書法をはじめて自分に強制したことでも、この『変愛小説集』がどんなに特別な作品集かわかってもらえるかも知れない。

2008/07/28(Mon)  873
 
 過去の思い出などというものは、できることなら、ふり捨ててしまいたい。不実な女の思い出などは、いま思い出しただけでも、つらいばかりだし、女が去ってしまったあとの空虚な日々など、思い出したくもない。
 同時に、人生のなかでいちばん楽しかった思い出などというものも、どうにも始末に困るのである。たしかに楽しかったには違いないが、なぜ、あんなにも楽しかったのか、思い出せば思い出すほど不可解なものに見えてくる。
 因業なことにもの書きという職業には、何かを思い出すというのが、いちばん大切な職能の一つ。何かを書く。そのストーリーにぴったりの人物、情景、時間と空間などをたちどころに思い出す能力がないと、小説ひとつ書けない。そこで、私小説を最高の文学と思っているような連中の頭は、いつもそんな思い出がいっぱいつまっていて、重宝に思い出せるらしい。
 私は、私小説を最高の文学と思っていないので、過去に生きた自分の姿など、まったく信用してはいない。すぐれた作家たちは、自分の過去からそれぞれみごとに逃げつづけている連中にかぎられる。

 こんなことを書くのも、岸本 佐知子編訳の『変愛小説集』というアンソロジーを読んで、ひたすらおかしくて、それでいて、おそろしい短編ばかりなので、驚愕したからだった。

2008/07/25(Fri)  872
 
 私の好きなことば。

    世人ノ情、楽ヲネガヒ、苦ヲハイトヒ、オモシロキ事ハタレモオモシロク、カナシキ事ハタレモカナシキモノナレハ、只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道也、姦邪ノ心ニテヨマバ、姦邪ノ歌ヲヨムヘシ、好色ノ心ニテヨマバ、好色ノ歌ヲヨムヘシ、(中略)実情ヲアラハサントオモハハ、実情ヲヨムヘシ、イツワリヲイハムトオモハハ、イツワリヲヨムヘシ、詞ヲカザリ面白クヨマントオモハハ、面白クカサリヨムベシ、只意ニマカスベシ、コレスナハチ実情也

 本居 宣長。

 和歌というものは、政治的な効用を目的として詠むものではない。ほんらいは、もののあはれを詠むものだという宣長の論理は、「只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道」という姿勢をもっていた。
 だから、姦邪ノ心ニテヨマバ、姦邪ノ歌ヲヨムヘシという。好色ノ心ニテヨマバ、好色ノ歌ヲヨムヘシ、といういいかたに逆説を読む必要はない。
 ただし、これは平凡な歌論ではない。ひどく静かないいかただが、なぜか宣長が激しているようなすさまじい緊張を感じる。

 ここから先は、私の平凡な感想。
 ときどき絵を描きたいと思う。実際にへたな絵を描く。どうかすると、アンクローシャブルなものになることもある。だからといって恥じる必要はない。好色ノ心ニテ描けば、好色ノ絵を描クベシ、と思うから。

 もののあはれを描くとすれば、どうあっても男女の恋を描くにしくはない。

2008/07/23(Wed)  871
 
 マイケル・ジャクソンの「スリラー」は、全米アルバム・チャート、37週連続トップ。売り上げ枚数、1億枚。
 私も買ったひとり。

 映画「ボデイガード」のサウンドトラックが、4200万枚。
 これも買ったっけ。

 イーグルスの「ホテル・カリフォーニア」や、ピンク・フロイドの「ザ・ダークサイド・オヴ・ザムーン」ももっている。

 映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックも。

 売れ行きベスト5まで。
 私は、エボナイト、LP、テープ、CDと、無数の音楽を聞きつづけてきた。私から音楽をとったら、あとに何も残らない――ほどではないにせよ、たいして残らない。

 私の処女作は、「ショパン論」だった。クラシックを聞いていたのだが、途中でジャズに移って、やがてロックというふうに変わった。ついにはアジア・ポップス、エスニックと、われながら無節操につぎつぎと変わってきた。小人は虎変する。
 おのれの軽佻浮薄をさらけ出すようだが、それぞれの時代のヒット・チャートに浮かんだ曲の半分はおそらく聞いている。つまり、その程度に熱心な、そしてなんとも軽薄なファンだった。

 あるジャンルに気をとられると、ひたすらのめり込む。それはかなり長く続くのだが、どういうものか、ある日、突然に離れる。そのときから、そのジャンルのものをまったく聞かなくなる。MTVも見なくなるのだった。

 クラシックも、オペラまで。好きな音楽と、そのときそのときに飲んでいた酒の好みがなぜかパラレルにならんでいるような気がする。

 ひょっとして――もうひとつの好みも。(笑)

2008/07/21(Mon)  870
 
 人生には、ひそかに願っていても叶わぬことが多い。

 『四谷怪談』の「穏亡堀」、戸板返しの実際の動きを見たかった。むろん、舞台は見ている。しかし、「伊右衛門」と「直助権兵衛」のやりとりのあいだに、奈落の黒子がどう動くのか。今の劇場ならコンピューター処理で、何もかもできるのかも知れない。

 「や、わりゃお岩、さては血迷うたな」

 大ドロドロで、戸板がひっくり返される。
 このあと、「旦那さま、クスリ下せえ」。
 「伊右衛門」が、「またも、死霊の・・」

 ドロドロに重なって、昔ならシューッと白いけむりになる。掛け煙硝。

 私がひそかに願っていたこと。
 戸板返しの実際の動きを奈落から見たかった。できれば、一度でいいからこういう芝居を演出してみたかったから。

 私はたくさんのことを実現できずにくたばるだろう。残念だが仕方がない。

2008/07/19(Sat)  869
 
 スクールガール・クラッシュ。
 女の子が学校の先生に抱く愛情。映画女優が共演した相手に惹かれるときも、このことばが使われる。
  Was it true about ”Elizabeth’s school-girl crushes on her co-stars?”というふうに。

 エリザベス・テーラーが共演者にいつもお熱、といのはほんとうだろうか。
 「ジャイアンツ」を撮影中に、ロック・ハドソンと「親密」になって、たちまち噂になった。当時、エリザベスと結婚していたマイケル・ワイルディングは、ロケ地のテキサスに飛んだ。このとき同行したのは、ロック・ハドソンの婚約者、フィリス・ケーツだったとか。

 この映画に出たジェームズ・ディーンが、突然、亡くなる。リズはこの知らせに打ちのめされた。ジェームズ・ディーンの葬儀に、リズは蘭の花を送った。ただひとこと、「ラヴ・エターナル」ということばを添えて。

 モンゴメリ・クリフトが、自動車事故で重傷を追ったとき、リズは必死に車の残骸からクリフトのからだを引きずり出して、それから1時間、クリフトの頭を膝にのせて救急車を待っていた。

 やがて、エリザベスはマイケル・ワイルディングと離婚する。

 エリザベス・テーラーが「ジャイアンツ」を撮影中、マイケルはジョーン・コリンズと親しくなっていた。あるレストランで、リズと口論しているところが目撃されている。
 つづいて、マイケルはアニタ・エクバークと親しくなった。
 エリザベス・テーラーと破局が迫ってきた時期には、マルレーネ・デイートリヒ相手の浮気がとり沙汰された。さらに、スウェーデンで映画に共演したアン・シェリダンと、親密になる。

 この映画の題がいい。「失恋」だった。

 舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多くても、いっこうにかまわない、と私が考えるようになったとしても責められるべきだろうか。(笑)

2008/07/17(Thu)  868
 
 レックス・ハリスンは、名優といっていい俳優だった。
 「クレオパトラ」のシーザー、「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授といった役のレックスをおぼえている人がいるかも知れない。

 最初の夫人はコレット・トーマス。社交界のレディーだったが、レックスはかなり長い期間、離婚訴訟で苦労した。当時、ウィーンの女優、リリ・パーマーに出会っていた。

 第二次大戦が終わった1945年、レックス・ハリスンはリリ・パーマーと結婚して、ハリウッドに移った。
 「ハリウッドは気候が単調で、刺激がなかった。贅沢はひとの身をほろぼすね。いちばんよくないのは、仲間うちのお愛想笑い、いいかげんなヨタ話だった」

 ハリウッドは、レックスにまったく将来性を見なかった。リリーもおなじで、彼女はブロードウェイに移った。舞台に賭けたといっていい。
 リリーと離れたレックスは、キャロル・ランディスという女優とわりなき仲になる。しかし、キャロルが自殺したため、最悪のスキャンダルに見舞われる。
 リリーは窮地に追い込まれたレックスを救うために、ハリウッドに飛ぶ。レックスは警察の尋問を受けたり、リリーともどもジャーナリズムの執拗な追求にさらされるが、なんとか切り抜けて、ブロードウェイに脱出する。
 のちに、ランディス事件についてレックスは語っている。
 「何カ月も精神分析医に通って、自殺について語りあったよ。自殺する理由を探しながらね。結論は、キャロルは死への欲求に憑かれていたことになった」。

 レックスはブロードウェイで、つぎつぎに名作の舞台に立つ。マクスウェル・アンダースンの『一千日のアン』もその一つ。リリーとは、ジョン・ヴァン・ドルーテンの『鐘と書物と燭台と』で共演する。

 レックスとリリーが、もっとも幸福だった時期。

 やがて、リリーは語る。

 「英国人は女が好きじゃないのよ。少なくとも、イタリア人やフランス人が女好きという意味ではね。イギリス人は、女をほんとうに見ようとしないの。レックスが私にいってくれた最高のお世辞は、私といっしょにいると、ほんとうの親友といっしょにいるような気がする、ですって。彼って男の中の男なのよ、イギリス男ってやつ」

 レックスはリリーと離婚して、イギリス女優、ケイ・ケンドールと結婚する。

 小田島 雄志の劇評にあった――「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」という一節。
 これを読んだ私は、レックス・ハリスン、リリ・パーマー、ケイ・ケンドールの「地獄」を思い出した。これだって「やわな愛」の例だろう。
 しかし、見方によっては、男女の修羅、すさまじい地獄相に見える。
 そこで、また思い出す。

    すべて人に一に思はれずはなににかはせむ。ただいみじうなかなかにくまれ、あしうせられてあらむ。二三にては死ぬともあらじ。一にてをあらむ。

    自分が愛している人には、いちばんに愛されなければ、どうしようもない。愛されないのなら、いっそ憎まれたほうがまし。二番や三番の愛なんて、死んでもいやだわ。

 『枕草子』(九七段)。

 男女の交情がどれほどお手軽でも、女が、二三にては死ぬともあらじ、と考えているなら、その恋は「やわな愛」ではない。
 舞台や、世間でどんなに「やわな愛」を見せられようと、それはそれでいい、と私は考えている。

2008/07/15(Tue)  867
 
 ある劇評の書き出し。

    このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛」に出会うことができた。

 宝塚星組の「赤と黒」(スタンダール原作)の劇評で、小田島 雄志の「芝居よければすべてよし」(「読売」/08.4.19)から。

 劇評についてはふれない。
 ただ、「このところ舞台でも世間でも『やわな愛』を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか疑問を感じた。というより、この劇評家はこういうふうに考えるのか、と私が考えただけのことだが。

 「やわな愛」といういいかたから、私はエリッヒ・フロムを思い出した。かつて、世界的に読まれた思想家である。彼の著作『愛するということ』は、わが国でもベストセラーか、ベタセラーになったはずである。
 その冒頭の部分に、

    愛は、誰でもが、自分の人間としての成熟の度合と関連なしに、手がるに耽溺できるような感傷的なものではない。

 とあった。この思想家の意見では――ある人の愛がみたされることは、その人が隣人を愛し得る力をもっていて、真の謙虚と勇気と信念と訓練を欠いていては到達できないもの、ということになる。私の曲解ではない。本人がそう書いている。
 だが、はたしてそうか。

 私は書いたのだった。
 ダンテのベアトリーチェへの愛や、バオロとフランチェスカの愛は、誰でもが手がるに耽溺できるような感傷的なものではなかった。だが、人は、いつもダンテスクな愛だけをもとめているはずはないし、手がるに耽溺できるような感傷的な愛であっても、当事者にとっては、まぎれもない人間的な真実なのだ、と。(『メディチ家の人びと』/第九章)
 私は、このエリヒ・フロムを軽蔑する。おなじような意味で、「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか傲慢なものを見る。

 たしかに、「やわな愛」を見せられつづければ、いや気がさすことはわかる。しかし、『赤と黒』が書かれた時代、フランスの舞台や、世間には「やわな愛」ばかりだったに違いない。とすれば、どういう時代の「愛」だって、手がるに耽溺できるような感傷的な愛ばかりなのだと見たほうがいい。
 人間の一生は、食ってはひって、やって寝るだけ、という江戸の庶民の卑俗な人生観を軽蔑するのはたやすいが、そういう人生観のなかで、卑猥な川柳や猥雑な俗曲があらわれてきたことを軽蔑しない。まして、庶民の交情を、「やわな愛」などと私は見ない。

 この劇評家は、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」などと書くべきではない。手ごたえ、たしかな反応というニュアンスで「歯ごたえ」と表現していることもいかがなものか。

2008/07/13(Sun)  866
 
 私の好きな歌として、中国、晩唐の詩、「半睡」を引用したいのだが、私のPCには字がない。
 野口 一雄先生の読みを紹介する。

   眉山 暗く淡く 残燈に向かう
   一半の うんかん 枕稜に 墜つ
   四體 人に着(つ)きて 嬌として泣かんと欲す
   自家は 揉損す がりょうりょう

 以下は、私の訳。

   燭台の残んの火影に ウエヌスの丘も暗くほのかに見え
   頭がずれて ゆたかな髪の半分が枕からあふれ落ち
   四肢を相手にまきつけて よよとばかりに浪声をあげようとする
   その手は思わず 衾のあやぎぬを もみしだきながら

 場面は残燈一戔、おそらくはクレアシォンということになる。眉山は、山なす蛾眉ととるべきだが、あえてモンスとした。「うんかん」は、雲鬢(うんびん)をまるくまとめたヘア・スタイル。「がりょうりょう」の繚綾は、ヴェトナム産の絹という。「が」は字がないのだが、絹の輝き。今のタイ・シルクに似ているかも知れない。

   ひとすじにあやなく君が指おちて みだれなむとす 夜の黒髪

 与謝野 晶子の一首を思い出す。

2008/07/11(Fri)  865
 
 古典を読む力がない。残念としかいいようがない。

   おもかげの霞める月ぞやどりける 春やむかしの袖のなみだに  俊成卿女

 これも私の好きな歌のひとつ。
 俊成卿女の人生の起伏を思えば、「春やむかしの袖のなみだ」にも真実の傷みがこめられていよう。

   こひわびぬ心のおくのしのぶ山 つゆもしぐれもいろにみせじと

 こういう和歌にまったく心を動かされない。

   キミニチャリノッテカレタラボクニハモウ
        ハシルシカナイ キミノトコマデ
             ぴー(24歳)

   この星ではじめて走ったのはあなた
        私のもとから逃げ出すために
             ジョゼ(19歳)

 ある雑誌で見つけたケータイ短歌。
 NHKのラジオ番組「土曜の夜はケータイ短歌」の応募作という。こういう短歌なら、私にもわかる。

2008/07/09(Wed)  864
 
 文学専門の批評家なのに、古典を知らない。さらには、古典の詩歌を知らない。
 恥ずかしながら、私もそんなひとりだった。

 俳句を論じたことがある。子規からはじめて、大正期の俳句まで、二年間、講義をしたのだが、学生たちがほとんど理解できないと知って、この講座は中断した。

 短歌についていえば、「アララギ」以後の歌人のものはずいぶん読んできたが、古典、とくに中世の和歌についてはほとんど知らない。
 中世の和歌について語らない理由のひとつは――俳句なら即座に思い出せるのに、和歌となると、なかなかおぼえられない。思い出せないことが多い。

    月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
 読みやすいように上下に わざと空間を置いたが この和歌はおぼえていても、

   里はあれて月やあらぬと怨みても 誰 浅茅生に衣うつらん     良経

   身の憂さに 月やあらぬとながむれば 昔ながらの影ぞ もりくる  讃岐

 という連想がはたらかない。

 だから、読むには読む。鑑賞もするけれど、和歌についてはまともに論じる教養がない。もうすこし勉強しておけばよかったと思うけれどもう遅い。

   はるかなる岩のはざまに独(ひとり)いて人目思はでもの思はばや  西行

 こういう心境になれないのも、和歌を理解することが少ないせいだろう。

2008/07/07(Mon)  863
 
 いつも400字詰めの原稿用紙を使っていた。
 原稿用紙の枡目を、万年筆で1字々々、埋めて行く。ひどく効率のわるい仕事だが、原稿料の単価が、400字1枚でいくらいくらときめられていたから、400字詰めの原稿用紙を使うのが自然だった。

 これが習慣になって、プロのもの書きとして、原稿の枚数という感覚が身についたと思う。たとえば、30枚の短編という注文があれば、ぴったり30枚で書く。630字のコラムを書く場合には、ぴったり630字以内で文章をまとめる。

 サイズの問題は、じつはきわめて大切なのだ。

 たいていの同人雑誌作家たちの大半は、まるっきりこういう制約を知らずに書いているだろう。ほとんどの人が、自分の書きたいことをズラズラ書いているだけで、枚数という感覚が身につかない。つまりは構成力が身につかず、ジャーナリズムに適応できない。

 書きあげた原稿をじかに編集者にわたす。
 自分の原稿が、眼の前にいる編集者に読まれる。このときの、なんともバツのわるさったらない。
 自分ではけっこういい原稿を書いたという自信もある。しかし、編集者が何をいうかわからない。わるくすれば、書き直しを命じられるかも知れない。そんな不安がある。
 たいていの編集者は、少しぐらい不満があってもパスさせてくれる。締め切りが迫っているから。
 私は原稿を書くのは早かったが、ほとんどの場合、締め切りぎりぎりになってから原稿を書くことにしていた。
 原稿のできがわるくても、編集者が原稿を受けとってくれるからだった。
 今となっては、みみっちい了見を恥じるばかりだが、同時に、そんな原稿を受けとってくれた編集者に感謝の気もちがある。なつかしさも。

2008/07/05(Sat)  862
 
 たとえば、サイゴンの夕暮れ。
 帰宅をいそぐバイク。シクロの列。外出禁止の時刻が迫っている。
 私は、ベン・バク・ダン(河岸)のホテル・マジェスティックの裏側、レ・ロイ通りのカフェで、通りすがりの若い娘たちを眺めたものだった。彼女たちのアオザイ(長衣)は、かろやかなブロケ、下着はブラジャーと純白のクーツ(ズボン)だけで、ほっそりしたからだにぴっちり張りついている。

 サイゴンの美少女たち。しなやかなからだの線が、薄いアオザイを透して、はっきり感じられる南ヴエトナムの乾季。ほかにどんなすばらしい眺めがあろうと、メコンの岸辺に、涼をもとめてゆっくり歩いてゆく若い娘たちほど、美しい眺めはなかった。

 サイゴンの娘たちは美しかった、などといおうものなら、友人たちはみんなにやにやしたが、東京にいて、ヴエトナムのやすらぎにみちた風景はほんとうに想像もつかない。

 私自身が、戦乱のサイゴンの絶望的な様相といったものを予期して行っただけに、戦争に明け暮れるヴエトナムの姿などどこにも見あたらなくてとまどったくらいだった。こういうチグハグな印象はどう説明してもうまくつたわらないので、私はいつも黙っていた。
 ヴエトナムからの帰り、香港で知りあった女性がいる。
 私がしばらくサイゴンにいたと知って、興味をもったらしかった。私は、彼女の案内で、ニュー・テリトリーや、シャーティン(沙田)で遊んだり、いろいろなナイトスポットに行った。ただ、このときはじめて香港ポップスの美しさに気がついた。シャーリー・ウォンが生まれたばかりの頃のこと。まだ、テレサ・テンも登場していない。私は当時の歌姫たちのテープを買い込んだ。

 いよいよ、香港から離れるという日に、彼女が
 「どうだった?」
 と訊いた。
 私が、にやにやしたことはいうまでもない。

 帰国後、彼女をモデルにして長編を書いた。旅行はたしかに私の想像を刺激したが、私にできたのは外から眺めただけで、香港の内側に入り込み、自分もその一部になるようには書けなかった。

2008/07/03(Thu)  861
 
 はじめて海外旅行から帰ったとき、友人たちからこういう質問を受けた。
 「どうだった?」

 どうだった、というのはどういう意味だろう。思わず、相手の顔をまじまじと見てしまう。すると、相手はきまってにやにやする。
 なるほど、そういうことか、と納得する。さて、どう返事をしたものかと考えてしまう。
 「何もしなかったさ」
 といえば、
 「ウソつけ!」
 ときめつけられる。
 「よかったよ」
 などといおうものなら、
 「そうだろう。やっぱりイイんだろうなあ」
 とか、
 「チェッ! うまくやりやがったなあ」
 などと、羨望ともひやかしともつかないことばを浴びせられる。

 この主の質問には、こっちもにやにやすることにした。相手がどう解釈しようとお気に召すまま、というわけ。うっかり返事をして、ウソつきにされたり、ひやかされたり、どっちにしろ、やりきれない。

 外国旅行で、いちばん印象が深いのは、なんといってもその土地、その土地の女のことである。ふと行きずりに見かけた女でさえ、旅人の心に淡い翳りを落とすことがあるだろう。
 私にしても、旅先の土地で知りあった女たち、ほんの行きずりの女たち、そうした女たちに興味をそそられたことは素直に認めよう。
 そういうことがなかったら、旅情を慰められることもなかったに違いない。

 そういうときだけは、作家になってよかったと思った。

2008/07/01(Tue)  860
 
 ヴォルテールが、イギリスの大劇作家、コングリーヴに会いに行った。演劇論を聞くつもりだったらしい。
 コングリーヴはヴォルテールにむかって、私は劇作家というよりも紳士なのだ、と答えた。
 ヴォルテールは、少し頭にきたらしい。
 「あなたが紳士にすぎないというのなら、わざわざ訪問することもなかったのに」
 と、いったという。

 このエピソードは、サマセット・モームの『サミング・アップ』に出てくる。
 モームはいう。

   ヴォルテールは当代きっての頭の切れる人物だったが、ここでは理解力の不足をさらけ出している。コングリーヴの答えは、意味シンなものだったのだ。
   というのは、喜劇作家が、コメデイという観点からまず考察すべき相手は、劇作家ご本人だってことを、コングリーヴがはっきり自覚していたという寸法なのだ。

 わずかな引用では、あまりピンとこないかも知れない。しかし、これだけでも、私がモームの凄さに敬意をもっていることはわかってもらえるだろう。
 モームは、もともと劇作家として知られていた。モームの戯曲は、今ではふるい作劇法にもとずいて書かれているが、おもしろさは少しも薄れていない。
 どうすれば、いい芝居が書けるのか。
 モームにいわせれば、「独特のコツが必要なのだ」という。
 だが、この「コツ」はどういうものから成り立っているのか。誰にもわからない。しかも、「コツ」は習って身につくものではない、とか。

   この「コツ」は、文学的な才能とはまったく無関係なのだ。げんに、高名な作家が芝居を書いてみじめに失敗した例が多いことからもそれはわかる。楽譜なしで演奏する才能のようなもので、とくに精神的に高級なものというわけでもない。しかし、これが身についていないと、どんなに深遠な哲学があっても、どんなに独創的なテーマを考えていようと、どんなに的確に登場人物が描けていても、芝居は書けない。

 モームのいいかたはまるで不可知論だが、私はモームのことばのただしさを疑わない。ある時期まで芝居の演出を手がけてきたので、モームのいう通りだと思った。
 それに、私あてに直接送られてきた外国人の(手書きの生原稿、タイプ原稿を含めて)戯曲や、じつにたくさんの創作戯曲を読んできた。そのほとんどは、芝居の「コツ」もわかっていないものばかりだった。
 その結果、私は戯曲を書かなかった。芝居の「コツ」は、頭で理解できても現場で身につけないかぎり、どうにもならないものだと思ったからだった。

 戯曲を書けなかったのは、はじめから才能がなかったからだが、モームのいいぶんがよくわかったからだった。
 これだけでも、私がモームに敬意をもっている理由はわかってもらえるだろう。

2008/06/29(Sun)  859
 
 先日、親しい女の子たちが、気のおけない話をしていた。
 どうしてそんな話題が出たのか、よくおぼえてもいないのだが、私が、サマセット・モームが好きだというと、翻訳家の成田 朱美(「愛がこわれるとき」など)が不思議そうな顔をした。

 え、先生は、モームがお好きなんですか。

 この反問には、私のほうがおどろいた。私がモームを好きだというのはそんなにおかしいことなのだろうか。
 私がアメリカの小説ばかり訳してきたので、私のクラスの女の子たちにとっては、意外な発言に響いたかもしれない。
 私とモームの違いはじつに簡単に要約できる。モームは一流の大作家だったが、私はせいぜい四流か五流、しがないもの書きにすぎない。最初から比較にならないことを棚にあげていうのだが、モームのようなみごとな才能に恵まれなかった私は、なおかつモームに親近感をもって生きてきたような気がする。

 モームがたいへんな読書家だったことはいうまでもない。特に、哲学者のものをよく読んでいる。私は、モームがスピノザ、バークリー、ヒュームなどを、らくに読みこなしていることに驚嘆した。私は、鈴木 大拙、西田 幾太郎、和辻 哲郎などを、らくに読みこなしてきたことはない。

 「私は若い頃にたくさん本を読んだが、自分のためになると思ったからではなく、好奇心と向学心からだった」とモームはいう。
 私も、けっこうたくさん本を読んだが、ひたすら好奇心のせいだった。ほんとうはいくら読んでもよくわからなかったというのが、実情だったのだろう。

 「旅行も、おもしろいのと、作家としての資料収集に役立てるためだった」という。

 私はあまり旅行をしなかった。暇もなかったし、旅行の費用も捻出できなかった。だから、作家としての資料収集の旅行など考えもしなかった。それでも、わずかな旅行の経験が、自分に大きな影響をおよぼしたと思っている。

 モームが南海を旅行して、はじめて書いた短編は『雨』だったが、最初にもち込んだどの出版社でも断られた、という。
 モームほどの作家でも、そういう屈辱に耐えてきたと思うと、私などは出版社に原稿をもち込む気になれない。実際、出版社に原稿をもち込んだことはない。べつに気位が高かったからではない。断られるとわかっていて、原稿をもち込み、実際につき返されたときの屈辱には耐えられないと想像したからだった。

 いずれにせよ、私はモームが好きなのだ。

2008/06/27(Fri)  858
 
 私の机に本が積みあげられている。

 『変愛小説集』岸本 佐知子訳(講談社 2008年)、『孤独なアメリカ人たち』アースキン・コールドウェル著/青木 久男訳(南雲堂 1985年)、『映画都市 メディアの神話学』海野 弘著(フィルムアート社 1981年)、『ハリウッド殺人事件』中田 耕治編・監修(ミリオン出版/1987年)、『スター』エドガール・モラン著/渡辺 淳・山崎 正己訳(法政大学出版局 1976年)、『セックス・シンボルの誕生』秋田 昌巳著(青弓社/1991年)、『ヌードの歴史』ジョージ・レヴィンスキー著/伊藤 俊治・笠原 美智子訳(PARCO出版 1989年)、『宿命の女 愛と美のイメジャリー』松浦 暢著(平凡社/1987年)、『The Great Movie Stars <The Golden Years> 』by David Shipman(Hamlyn/1970年)、 ”What Every Lover Should Know”by Marquis Busby(Motion Picture Classic)June 1929.

 今、この瞬間に、私の机の上にある本と雑誌。あるエッセイを書きはじめるために、私がかき集めてきたものばかり。
 このほかに、私が読み続けている単行本、文庫本、友人の個人雑誌などが、所狭しとばかり散らばっている。
 岸本 佐知子訳の『変愛小説集』は、毎日、短編の1つを読んでいる。どの作品もおもしろいので、いっきに読んでもいいのだが、少しづつ読んでゆくほうが岸本 佐知子の訳のみごとさをゆっくり味わうことができる。こういう仕事ができる翻訳家は、いまや貴重といってよい。ある有名な文庫で出たサマセット・モームの新訳、かつて中村 能三の訳にあったモームの凄さがまるで消えている。翻訳という仕事はむずかしいものだ。

2008/06/25(Wed)  857
 
(つづき)
 このとき、椎野 英之は、私にシナリオを見せてくれた。はじめてアメリカ映画のシナリオ作法にふれて私は驚嘆した。私は「東宝」で、シノブシスを書いたり、ほかのライターの書いたシナリオのセリフを書き直すダイアローグ・ライターといった仕事をしていたので、このシナリオ作法には大きな刺激をうけた。

 この映画でヒロインを演じる女優に新人が選ばれた。日劇ダンシング・チーム出身。根岸 明美。キワモノ映画だったし、内容がエロティックなものだったので、当時、有望だった新人女優を使うわけにはいかなかったのだろう。
 その根岸 明美が、つい最近、亡くなった。(’08.3.11.)73歳。
 黒沢 明の「どん底」、「赤ひげ」などに出ているが、女優として大成したとはいえない女優さんだった。

 芸術家は、自分ではどうしようもない非運にさらされることがある。

 映画女優、根岸 明美は、スタンバーグの「アナタハン」出演で、大きなチャンスをつかんだ。映画としては駄作だったが、根岸 明美は強烈な魅力を感じさせた。当時のスターレットとしてはめずらしいほど恵まれた肉体や、エロティックなマスクをもっていた女優だった。
 1953年(昭和28年)に、谷口 千吉の映画、「赤線基地」に起用された。この映画では、まだ、十七歳の新人だった根岸 明美は、アバズレのパンパンガールの役で、外地から帰国した素朴な青年(三国 連太郎)を相手に、エロティックな演技を披露した。むろん、今見ればエロティックでも何でもない映画の一つ。
 ところが、この映画は、アメリカ軍基地の周辺にむらがるパンパンガールを描いていたため、反米的な映画と見られて、九月の公開をめぐって論議が起こり、当時の小林社長の裁断で公開が中止された。
 映画監督、谷口 千吉はこれで挫折した。そして、女優、根岸 明美の魅力を生かした映画は作られなかった。「どん底」や「赤ひげ」などに出たといっても、黒沢 明は、いい女優を育てるようなタイプの監督ではない。たとえば、中北 千枝子を見ればわかるだろう。「どん底」や「赤ひげ」などは女優としての根岸 明美の可能性をひろげたものではなかった。

 根岸 明美の訃報が出た日に、歌手の沢村 美司子が亡くなっている。沖縄出身。66歳。戦後、マーロン・ブランドが日本人を演じた映画、「八月十五夜の茶屋」(57年)に出た。

 この日、なぜか「めっちゃくたばりそう」な気がした。

2008/06/23(Mon)  856
 
 友人の椎野 英之は戦後すぐに「時事新報」に入社したが、やがて、「東宝」に移って、製作の仕事をするようになった。
 ある日、私をつかまえて、スタンバーグ(映画監督)を知っているか、と訊いた。
 椎野 英之はあまり知らないようだった。私は「モロッコ」を見ていたので、スタンバーグがディートリヒを撮った映画について話してやった。

 数日後、びっくりするようなことを教えてくれた。

 「スタンバーグが、日本で映画を撮りたいっていってきたらしい」

 スタンバーグが「東宝」で映画を撮る可能性を打診してきた。このニュースに私は驚いた。
 ジョゼフ・フォン・スタンバーグは、私たちには「モロッコ」だけで知られていたが、映画が無声からトーキーに転換した時期、すでに映画界を去っていた。はっきりいえば、過去の名声だけを身にまとった最後の巨匠、あるいはラテだった。
 戦後、イギリスの女優、アン・トッドを使って、「超音速ジェット機」を撮ったが、演出にまるで切れがなく興行的にも失敗した。
 スタンバーグが「東宝」で映画を撮るという。おそらく映画監督としての再起をかけた仕事になる。
 この交渉には、東宝側は重役の岸 松雄、「東和」の川喜多 長政などがあたったのだろうと思う。ただし、おそらく記録はない。

 スタンバーグが日本で撮った映画は「アナタハン」という。
 南方戦線の孤島で、敗残の日本兵十数名のなかに、沖縄出身の女性がひとり、という実話にもとずいたものだった。
 スタンバーグの映画監督復活を期待したが、残念なことにこの映画はほとんど問題にならなかった。
   (つづく)

2008/06/21(Sat)  855
 
  (つづき)
 現在の私たちの環境で、ツヴァイクほど痛烈に学校教育をこきおろす人はいないだろう。当然ながら、ツヴァイクは二十世紀の教育を受ける子どもたちを心から羨望している。
 二十世紀になってからの子どもたちは、幸福に、自由に、独立して子どもじだいを過ごせるようになっている。そのことにある種の羨望を禁じえない、とツヴァイクはいう。
 子どもたちはなんのこだわりもなく、先生たちと対等に話しあっている。誰も不安をかんじないで通学している。しかも、若くて好奇心にみちた魂からはっする願いや好みを学校でも家庭でも公然と口にできること、そのようすを見ると、私(ツヴァイク)自身は、あり得べからざることに見える、と。

 そんなふうにいわれると、私などは、なんとなく居ごこちがよくない。

 学校の先生に対しても、ツヴァイクの見方はきびしい。

    彼らはよくもなくわるくもなかったし、暴君でもなければ、助けになる味方でもなく、哀れな連中だった。前例や、文部省で予定された教科の課程に、まるで奴隷のようにしばりつけられて、生徒が自分たちの「課題」を片づけなければならなかったように、先生も自分たちの「課題」を片づけなければならなかったのだ。

 と憐憫とも侮蔑ともつかないことばを投げつけている。先生は生徒を愛してもいなかったし、憎んでもいなかった。「なぜかというと、彼らは、われわれについて何も知らなかったからである」と。

 私たちの環境でも、こういう先生がいないとはかぎらない。

2008/06/19(Thu)  854
 
 教育は、それぞれの国によって違う。
 たとえば、十九世紀ドイツでは、いわゆる良家の子弟を大学に進学させるアカデミックな教育が必要と考えられていた。しかし、小学校とそれにつづくギムナジウムの8年間は、ある人々にとっては、けっしてバラ色のものではなかった。
 ステファン・ツヴァイクの回想、『昨日の世界』を読んだ人は、十九世紀の教育がどんなに陰惨なものだったかを知らされる。

 ツヴァイクについて説明する必要はない。私は、若い頃、ツヴァイクの評伝、『ジョゼフ・フーシェ』や、『マリア・ステュアート』、『バルザック』を読んだことから、のちに『ルクレツィア・ボルジア』や、『メディチ家の人びと』といった評伝を書こうと思った。その意味で、私がもっとも敬愛する作家のひとり。
 そのツヴァイクが断言している。

    私のすべての学校生活は、正直にいって、たえず退屈きわまる倦怠以外の何ものでもなかった」と。

 ツヴァイクにとって、学校とは何だったか。

    学校とは、私たちにとっては強制であり、荒涼たる場所であり、退屈なところ、「知るにあたいしないものの勉強」をことこまかに別れた科目別に習得しなければならない、しかも実際的な関心や、おのおのの関心とは何の関係もない場所だった。

 あれほど博識をもって知られている作家が、学校教育に対して、これほど否定的な姿勢をとっている。それも、ただの否定ではない。「もっとも美しく、もっとも自由であるべき生涯の一時期を、徹底的におもしろくないものにした、あの単調で、無慈悲で、活気のない学校生活で、一度たりとも、愉快だったとか、幸福だったりしたことは思いだせない」という。
    (つづく)

2008/06/17(Tue)  853
 
 古雑誌の整理。自分の書いたものが掲載されていたりする。焼き捨てる前に読み返す。こんな文章があった。


   久しぶりで、「近代文学」が機会をあたえてくれたので、しばらく勝手な仕事をさせて頂くことになった。
   自分でもまるで自信がなく、もしかすると、途中で力つきて、あるいは、あきて投げ出すかも知れないが、かなり長いあいだ書きたかったものなので、思いきって手をつけてみた。こういう仕事は、どこでも歓迎してくれないし、にもかかわらず書きたいとなれば、今のうちに手がけておいたほうがいいと思う。
   もう、数年前に、ロドリゴに関してエッセイを書いたことがあった。ある雑誌のために書いたものだったが、これは発表されずに終わった。私は、そのときから、何度か断念したり勇気をふるい起こしたりしてきたが、「近代文学」の好意がなければ、こうして、チェーザレ、ルクレツィアという人間の姿をとって、ルネッサンスにあらわれる異様な情熱を描く決心もつかなかったろう。この連載が終ったとき、資料を列挙するつもりだが、私の読み得たかぎりでは、イタリアのマリア・ベロンキ、アメリカのジョーン・ハスリップの評伝が学問的には重要らしく、そのいずれにも、私は多くを負うものだが、文学的には、フランスのリュカ・ブルトンの評伝がいちばんおもしろかった。
   しかし、私のものは評伝ではなく、むしろへんな小説として読まれてもいいと思っている。
 −−「近代文学」(1963年5月号)。連載、第一回の「あとがき」。


 この連載は「近代文学」廃刊のため、残念ながら中断した。
 当時、「近代文学賞」というものがあって、私の『ボルジア家の人々』も、この賞を受けたが、これは「近代文学」の人びとが連載を中断しなければならなかった私を憐れんで、あたえてくれたものではなかったか。

 のちに『海』の安原 顕が連載の機会をあたえてくれたので、あらためて『ルクレツィア・ボルジア』として完成した。

 今の私なら、マリア・ベロンキや、ジョーン・ハスリップよりも、むしろグレゴロヴイウスや、サバティーニをあげるだろう。評伝を書くむずかしさが身にしみてくると、グレゴロヴイウスや、サバティーニが立ち向かった時代のほうが、ルネサンス研究の進んだ現在よりも困難ははるかに大きかったと見ていい。
 この「あとがき」には、私なりの覚悟が語られている。若気の至りで、評伝を書くほんとうの困難に気がついていない。こうまで自分を納得させなければ仕事にならなかった自分が可哀そうな気もするが、一方では、若かったなあ、という感慨もある。

 長いものを書こうとすると、きまってさまざまな困難がやってくる。その都度、あっさり断念したり、ときには未練たらしくこだわったり、ときには必死に勇気をふるい起こしたりして、仕事をつづけてきたものだった。

 戦後すぐに私を認めてくれた「近代文学」の人びとに、あらためて感謝している。

2008/06/15(Sun)  852
 
 (つづき)
 戦後、私がいちばん多く読んだのはイギリスの戯曲だった。理由は簡単で、神保町の洋書専門の古書店では、たいていイギリスの戯曲が棚ざらしになっていた。誰も読まないらしい。
 英語を勉強する気で戯曲をあさった。なにしろ値段が安かったから。おかげで、戦前のノエル・カワードはほとんど全部読んだ。戦後すぐに、アメリカの民間情報局が日比谷にライブラリーを開設したが、つづいてイギリス占領軍もおなじようなライブラリーを作った。私はこの図書館に通ってはイギリスの演劇雑誌を読みふけった。

 はるか後年、私は映画批評を書くようになった。

 試写室で会う先輩の映画批評家たちに挨拶した。植草 甚一さんと親しくなって、いろいろ話をうかがうことも多かった。
 飯島さんにおめにかかって、いつも挨拶するようになった。
 戦争中に、先生の講義を聞いたとつたえると、飯島 正は驚いたような顔をした。まさか、当時の学生のなかから、もの書きになったやつがいるとは思ってもみなかったのだろう。

2008/06/13(Fri)  851
 
 戦争中にノエル・カワードを読んだ。少年時代、あの空襲の日々に、ノエル・カワードを熱心に読んでいた少年。自分でも信じられない。
 たしかに、16歳の私はノエル・カワードを読んでいた。原書を読んだわけではない。『若気のあやまち』(飯島 正訳/昭和10年/西東書林)で、はじめて彼の戯曲を知ったのだった。
 翻訳した飯島 正の名前も心にきざみつけた。

 戦局の悪化にともなって、中学生も上級の学校にスキップできることになって、私は、中学4年(いまの高校1年)から大学に入った。
 そして、幸運にも飯島 正の講義を聞いた。週に1コマ、リュミエールからの、おもにフランスを中心にした映画史の講義だった。私はもっとも熱心な学生のひとりだったと思う。
 ある日、教室に入ってきた飯島先生は、私たちの顔を見つめながら、
「今日の講義は……ほんとうはふれてはならないとされていることなのですが……映画史としては落とせない部分なので、とりあげておきます」
 と語った。
 飯島 正はエイゼンスタインの「戦艦ポチョムキン」を紹介しながら、ソヴィエト映画の大まかな歩みを教えてくれた。
 このとき、私は、知識として、ジガ・ヴェルトフや、プドフキンといったロシアの映画人の仕事をはじめて知った。飯島 正は分厚な本に出ている写真を学生たちに見せてくれたのだった。
 そのときまで何ひとつ知らなかった私は、ロシアでは何かまったく違った種類の映画がおびただしく製作されているらしいと思っただけだった。
 この講義の内容を警察なり憲兵に密告するような学生がクラスにいたら、飯島 正は検挙され、治安維持法違反で、ただちに投獄されたはずだった。

 今の私は、当時の少年たちに何かをつたえようとしていた飯島 正に感謝する。少なくとも、何も考えなかった少年に、はじめて外国にはまったく違ったイデオロジックな映画が存在することに気づかせてくれたのだから。
   (つづく)

2008/06/11(Wed)  850
 
 私は陳 明(チェン・ミン)のファンだった。広州のポップスのシンガー。
 しばらくして、日本には同名で二胡の奏者の陳 明(チェン・ミン)が登場する。
 この二胡の奏者も好きだが、ポップスの陳 明(チェン・ミン)のCDは、なかなか手に入りにくいので、最近は聞いていない。

 香港ポップスに小雪(シャオ・シュエ)という少女が登場した。なかなかいい歌手だった。
 やがて日本に、同名の小雪という映画スタ−が登場する。「ラスト・サムライ」のヒロインといえば、誰でも知っている。あるエッセイで、「小雪(シャオ・シュエ)のことを書いたが、ある日、「先生は、小雪みたいな女性がお好きなんですね」といわれた。
 このとき、はじめて日本に同名の映画スタ−がいると知った。

 一昨年あたり、私は範 冰冰という女優さんを知った。なにしろ、範美女在博客上也極盡“酸甜”という美女である。
 おなじ時期に、李 冰冰という女優さんも見た。こちらのほうは、“小女人”的な女優だった。名前が似ているので、字面だけでは区別がつかない。しばらく前に、台湾の白 冰冰という女優さんがいた。日本で、ひどいスキャンダルに巻き込まれて、その後の消息をしらない。

 韓流のドラマや映画では、女優さんの名前が似ているのでなかなかおぼえられない。
 チェ・ジウや、ソン・イェジンのように有名な女優さんなら間違えっこないが、私が好きなイ・ジーウォンなんて誰にもわからない。

2008/06/09(Mon)  849
 
 横浜、「KAORI」のクッキーは、世界じゅうどこの外国に出しても遜色のない高級品だが、これを召し上がりながら、野木 京子の詩を読む。おいしい。
 ついでに、英語の詩。テニソン、ワーズワースから、ボブ・ディランまで。ただし、英語の詩を読むといっても、一編だけ読むのだから詩の鑑賞などというものではない。
 つまみ食い。

    Innocent was she,
    Innocent was I,
    Too simple (were) we!

 こんな詩句を見つけるとうれしくなる。というより、ニヤニヤしたくなる。これが、ハーデイの作。
 ハーデイについては、いつか別に考えることにしよう。

 ついでに、アメリカの女流詩人を。
 ガートルード・ルイーズ・チェニーの詩。どういう詩人なのか知らない。

  All people made alike,
  They are made of bone.flesh and dinner
  Only the dinners are different.

 そりゃあ、そうだよネ。ガートルードさん。
 彼女の詩とは関係なく、別のことを考える。ものを食べるという行為は、人間のあらゆる行為のなかで、いちばん即物的なものだ。ところが、世間には、食通という人々がいて、「美味」という観念を頭につめ込む。
 グルメなどと称する連中は、ものを食べるという行為をはたしてどこまで徹底して考えているのか。

 おカキをかじりながらミルトンなんか読む。ほんの数行。
 けっこういい気分になる。
 カキのタネなら、詩よりもチョーサーだな。バリバリ音を立てて食べよう。
 チョーサーは「ことばは行動のいとこでなければならぬ」といった。なんとなく、カキのタネを食べたくなる。(笑)

2008/06/08(Sun)  848
 
 長谷川 如是閑はえらいジャーナリストだが、私はほとんど読んだことがない。
 古本屋にころがっていた如是閑の作品集を買ってきた。戯曲があったから。「フランス髯」、「馬鹿殿評定」、「両極の一致」、「ヴェランダ」、「五条河原」といった一幕ものが並んでいる。
 はっきりいって、まったくおもしろくない。そもそも戯曲などと呼べるシロモノではない。つまり、戯曲になっていない。さりとて、レーゼ・ドラマなどというものでもない。
 「両極の一致」は、大昔、蒲田あたりの活動写真をおもわせるファルス。実際にどこかの劇場で、誰かが上演したのだろうか。

 「如是閑語」というアフォリズムから、いくつか引用しておく。これとて、百数十のうち、今でも通用する(と思われる)ものは、せいぜい十ぐらい。

    古(いにしえ)は神、人を作り、今は人、神を作る。
    産るべき理由ある人は少なく、死すべき理由ある人は多し。
    男子は結婚によって女子の賢を知り、女子は結婚によって男子の愚を知る。
    お姫様の恋はスペキュレーティヴなり、ややもすれば独断に陥る。芸者の恋はエキスペリメンタルなり、ややもすれば懐疑に陥る。
    少女の恋は詩人なり、年増の恋は哲学なり。
    生きて孤独なるものは不幸なり、死して孤独なるものは更に不幸なり。
    純なる結婚は年少者の空想なり、純なる情死は戯作者の空想なり。
    吠ゆる犬は噛まず、噛む犬は吠えず。

 引用するのが少しアホらしくなってきた。

 長谷川 如是閑はいう。
 「元来、私のユーモアは理屈つぽくて骨つぽくて喰ひ難ひといふものがあるが、さういふ連中は、本屋へ行って私の本を購ふ代りに、鰻屋へ行って鰻を喰ふがいい。さうすれば骨のない油こいやつがいくらでも喰へる。」
 さすがに年季の入った人の啖呵だね。

 如是閑さんにならっていえば・・・「中田 耕治ドットコム」などを読むかわりに、きみはどこに行って何を食えばいいだろうか。

 どこに行ったって、食うものなんかねえ。(笑)

2008/06/07(Sat)  847
 
 すばらしいことばを見つけると、つい自分の仕事に使えないものかなどと考える。ちょっとさもしい気がする。

 子どもの頃、銭湯に行くと、背中いっぱいに倶利迦羅龍王の御姿を彫りつけた、いなせな爺さんが一人や二人いたものだった。

 倶利迦羅紋紋。くりからもんもん。これは死語になっている。

 「からだに我慢まであって」。むろん、これも死語だろう。

 『夏祭浪花鑑』で、「團七九郎兵衛」のセリフに出てくる。戦時中、市村 羽左衛門がやったとき、六代目(菊五郎)が「三河屋義平次」だった。

 AVを見ていたら、若い女の子のからだに我慢まであって驚いたことがある。

2008/06/06(Fri)  846
 
 ときどき、すばらしいことばを見つける。なぜか、うっとりしてしまう。正確にその意味がわかるわけではない。いつか自分の仕事にこういうことばが使えないものか、と考える。

  「こは、たそ。いとおどろおどろしう、きはやかなるは」

 『枕草子』(一三七段)。
 「おどろおどろしい」は今でも使われている。「きはやかな」ということばはまったく聞かない。今の表記では「きわやか」になる。
 「こは、たそ」は、「え、あなた、誰なの?」という意味。

  ものもいはで、御簾(みす)をもたげて、そよろとさし入るる、呉竹なりけり。
 というシチュエーション。この「そよろとさし入るる」もいいけれど、これはちょっと使えないだろう。

 私のHPのエッセイは、さして、おどろおどろしくないが、できればきわやかに書いてみたい。女性の心の御簾(みす)をもたげて、そよろとさし入るような。

 無理だな。(笑)

2008/06/05(Thu)  845
 
   (つづき)
 私自身、リーヌ・ノロを見たといっても、「望郷」(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)のあと、戦後に「田園交響楽」(ジャン・ドラノア監督)で見ただけである。

 「望郷」は、犯罪者としてアルジェに逃げ、カスバにひそんでいる主人公、「ペペ・ル・モコ」が、たまたまパリから観光にきたブルジョア女に心を奪われて、ひそかにパリにもどろうとする。リーヌ・ノロは、それを知って嫉妬にかられて警察に密告する現地妻をやっていた。この一作で、リーヌ・ノロは、私たちに強烈な存在感をあたえた。
 当時、舞台女優としてのリーヌ・ノロは、ルイ・ジュヴェの劇団で、ジロドゥーの芝居に出ていたし、「コメデイ・フランセーズ」の准幹部(パンショネール)になっていた。これだけでも、すぐれた舞台女優だったといえるだろう。
 戦後の私たちは、「田園交響楽」で、美女のミッシェル・モルガンの健在を知ったが、ワキの、それも村の老女を演じていたリーヌ・ノロに注目した人は、ほとんどいなかったはずである。

 評伝、『ルイ・ジュヴェ』で、私はリーヌ・ノロにふれた。この評伝は出版にこぎつけるまでずいぶん時間がかかったが、当時、私は「作家のノート」といったものを書いていて、偶然、リーヌ・ノロに言及している。(1997年8月)

    『望郷』で嫉妬に狂うアルジェ女をやっていたリーヌ・ノロは、自殺している。
    自殺という行為にはなにがなし哲学的なところがある。自殺は、最後のぎりぎりの人間愛の表現友受けとれるふしがないでもないのだが、私ときたら、およそ哲学、形而上学などと縁がなかった。そもそも自殺の意味など考えたことがなかったし、自殺すべき理由もない。とすれば自殺などできようはずもない。私などはつたない運命の波間に浮草のように漂うくらいがせきの山であろう。
    ただし、死は私にとってきわめて親しい観念だった。どういう死にざまをさらすのか、じぶんなりに好奇心がある。にんげん心臓がとまれば死ぬらしいが、ほんの一瞬、まだ脳髄が生きているとき、死に対してどういう感想をもつだろうか。おのれの未来に驚きが待っているとすれば、そんなことぐらいだろうから。

 リーヌ・ノロの自殺にふれたのは、この評伝の最終章、もうひとりの女優、(この評伝の主要な登場人物だった)ヴェラ・クルーゾーの自殺の伏線として、とりあげておいたのだった。
 この評伝の最後の最後に、ヴェラ・クルーゾーの自殺をとりあげた。少女時代にジュヴェの劇団で認められ、戦時中、ラテン・アメリカ巡業で、最後まで、ジュヴェと苦難をともにした。
 映画監督、ジョルジュ・クルーゾーの映画史に輝く「恐怖の報酬」に出たヴェラは、この映画で世界的な名声を得ながら、自殺という手段を選ばなければならなかった。

 私が書きたかったのは彼女たちに対する憐憫であり、ひそかなレクィエムだったといってよい。

 香港の俳優、張 國榮が自殺した時、私はつよい衝撃を受けた。つづいて、女優で、一流のシンガーだったアニタ・ムイが病死した。
 2005年に、韓国女優のイ・ウンジュが亡くなっている。その後、日本のポルノ女優が自殺したり、昨年は韓国のシンガー、ユニの自殺につづいて、女優、チョン・ダビンが自殺した。私はそれぞれの人の死につよい関心をもちつづけてきた。
 私が「死は私にとってきわめて親しい観念だった」と書いたのは、じつはこうした人びとの死を見つめてきたせいだった。そしてそれこそが『ルイ・ジュヴェ』の大きな主題の一つになった、と考えている。

 いま、私はリーヌ・ノロや、ヴェラ・クルーゾーより前の世代の女優の評伝を書いてみようかと思っている。
 時間があるかどうかわからないが。

2008/06/04(Wed)  844
 
 (つづき)
 リーヌ・ノロは、残念ながら岸田 国士のエッセイを知ることがなかった。
 知らないのが当然だろう。当時の日本の劇作家の片々たるエッセイが、フランスの演劇ジャーナリズムに紹介されるはずもなかったからである。

   「僕が特に「新劇女優」と呼ぶ所以は、彼女が、その驚くべき舞台的成長にも拘はらず、毫も芸人的「粉飾」によって自らを目立たしめようとしてゐないからである。言ひ換へれば、その扮する人物の、厳粛素朴な構成を最高度に生命づける「芸術的演劇」の精神が、彼女の前進に漲ってゐるのを感じたのである。」

 もし、これをリーヌ・ノロが読んでいたら、どんなにうれしく思ったことか。
 さすがに一流の劇作家らしく、この女優の本質をみごとにとらえている。と同時に、「文学座」をひきいた岸田 国士が思い描いていた「新劇女優」のタイプが、どういうものだったか。そのあたりも想像できるだろう。
 そして、このエッセイの背後にもう少し重要なことが読みとれる。
 岸田 国士は、リーヌ・ノロに、「よき環境に置かれ、よき指導者を得、彼女は遂にこれまでになったのだ」という手放しの賞賛の背後に、「よき環境」もなく、「よき指導者」もいない日本の「新劇」の状況に対する憂慮である。
 昭和12年(1937年)に、岸田 国士は、岩田 豊雄、久保田 万太郎とともに「文学座」を創設する。

 リーヌ・ノロは、その後の日本の俳優、女優たち、とくに演劇関係の養成所、研究所といった機関が整備されるような「よき環境に置かれ、よき指導者を得」られる環境作りに貢献したといえるかも知れない。
       (つづく)

2008/06/03(Tue)  843
 
 戦後の私にとって、大きな衝撃になったできごとの一つに、フランスの女優、リーヌ・ノロの自殺がある。

 私が評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかでふれた女優、リーヌ・ノロは、もはや誰の記憶にも残っていないだろう。まして、彼女について書くような人はいるはずがない。

 戦前のリーヌ・ノロについて、岸田 国士がエッセイを書いている。
 『現代演劇論』(白水社/1936年刊)を読み直していて、思いがけず「女優リーヌ・ノロのこと」というエッセイを発見した。いまさら不勉強を弁解してもはじまらないが、このエッセイに気がつかなかったのは、岸田 国士がルイ・ジュヴェに言及していないからだった。
 このエッセイを知らなかった私は、評伝、『ルイ・ジュヴェ』でリーヌ・ノロにふれている。
  〔『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第九章)〕

 岸田 国士のエッセイについてふれておこう。

 1934年、ゾラ原作を映画化した「居酒屋」を見た岸田先生が、ヒロイン、「ジェルヴェーズ」を演じていたリーヌ・ノロを見て、それに触発されて書いたエッセイ。

   「が、何よりも僕を感動させたのは、この物語の女主人公ジェルヴェエズに扮するリイヌ・ノロといふ女優が、十三年前、巴里ヴィユウ・コロンビエ座の学校で、一緒にコポオの講義を聴いていた一研究生であり、その少女が、今、スクリインの上で、この大役を堂々としこなして、天晴れな成長ぶりを見せてゐることだった。
    彼女はたしか、僕の識ってゐる期間に於ては、平凡な一研究生として、二三度、ヴィユウ・コロンビエの舞台を踏んだことを記憶してゐるが、過分な役を振られて胸をおどらし、コポオの噛みつくやうな小言を浴びながら、臂を左右に張って、おろおろと台詞を吐き出してゐた。」

 やがて、岸田 国士は日本に帰国する。帰国して翌年(大正13年)、『チロルの秋』で劇作家として登場する。そして、「ヴュー・コロンビエ」の解散を知るのだが、その後のリーヌ・ノロをはじめ、いろいろな人たちの消息をしらないままに過ごした。
 「文学座」をひきいた岸田 国士は、このエッセイを書いた翌年、昭和10年(1935年)には『澤氏の二人娘』を書いている。
 もう一度、リーヌ・ノロについて書いた部分に戻ろう。

   「この映画に現れた彼女は、僕の観るところ、定めし「よき修行」を重ねたに相違なく、再会の喜びを割引するとしても、当今、一流の「新劇女優」たるに恥ぢない技倆を認めさせるものであった。」

 私たちはゾラ原作の「居酒屋」を見たが、これはマリア・シェルが「ジェルヴェーズ」を演じたリメークだった。マリア・シェルも、戦後の名女優のひとりだったが。
    (つづく)

2008/06/01(Sun)  842
 
 ある時期、芝居の世界にかかわった私にとって、大きな衝撃になったできごとがいくつかあった。
 その一つは、戦後すぐに登場した新人女優、堀 阿佐子の自殺であった。

 彼女は、「文学座」の研究生として出発したが、やがて「俳優座」に移った。当時、新人として注目されたのは、「文学座」の荒木 道子、丹阿弥 谷津子、「俳優座」の楠田 薫、東 恵美子、「民芸」の阿里 道子といったいろいろな女優がいっせいに開花したような印象があった。いずれも、「当今、一流の「新劇女優」たるに恥ぢない技倆が認め」られたといえよう。その中で、堀 阿佐子はトップをきっていた。当時の劇作家は、この新人に注目していた。

 「東宝」本社前、日比谷映画劇場の左奥にへばりついているように喫茶店があった。ここには、「東宝」関係の俳優、女優がいつも立ち寄っていたが、「東宝」で仕事をするようになっていた私も、しょっちゅうここに入りびたっていた。
 ある日、ここに若い女優さんがあらわれた。戦後すぐに登場した映画女優の、派手なメークの、めざましい美貌とはちがって、むしろおとなしい日本的なおもざしだった。ところが、身のこなし、動き、ひいては挙措に、ふつうの映画女優と違った存在感があって、店に入ってきただけで、あたりの空気が一変するようだった。
 ただのスターレットではない。その場に居あわせた誰もがそう感じたに違いない。「東宝」関係の女優ではないと見て、いっせいに視線が集まった。そのなかを、ごく自然な足どりで、彼女は私たちの席に寄ってきた。
 今ふうにいえば、オーラがまつわりついている。そんな感じだった。
 はじめて私が見た堀 阿佐子だった。

 それから数カ月後に彼女は自殺した。

 どういう人の自殺も悲劇的にちがいないが、堀 阿佐子の死は、敗戦後の混乱のなか、演劇界の大きなうねりのなかで起きた。当時の演劇界は、今と違って狭い世界だっただけに、誰の胸にも驚きといたましさを喚び起したと思われる。
 堀 阿佐子のデビューが鮮烈なものだっただけに、一部からは嫉視や羨望の眼で見られていたことは間違いない。
 堀 阿佐子の自殺からそれほど経っていない時期に、劇作家、内村 直也は、劇団の幹部女優にむかって、堀 阿佐子の死を悼むことばを述べた。この女優はその劇団を代表する有名な女優である。たまたま私は、その場に居合わせたので、このときのことはよく知っている。

 その女優は、蔑むような一瞥というか、冷然たるまなざしを内村さんに向けただけで、何も答えなかった。内村さんはすぐに別の話題に移ったが、この女優は、私にまでぎらりと突き刺すような一瞥をむけた。
 このときのことは忘れない。
 あの反応は何だったのだろう? その女優の見せた反応から劇団内部の大きな衝撃を感じたのだった。

 あとになって、内村 直也は私にむかって、
 「ああいうこと(おなじ劇団の女優の不慮の死)になると、冷たいものだねえ」
 と、私に語った。

 もっとずっとあとになって、堀 阿佐子が死を選んだ理由をほぼつきとめたが、ここに書く必要はない。ただ、こういう些細な経験がいくつもあって、のちに演劇人の評伝を書く動機の一つになった。

2008/05/31(Sat)  841
 
 日本のポップス。歌詞に、ベイビーということばが使われているだけで、私はそのシンガーを軽蔑する。
 たしかに、英語圏では、愛情表現の一つとして、「ベイビー」が使われる。子どものとき、母親がそういう呼びかたをしていたから、愛する対象を「ベイビー」と呼ぶ。

 フランス映画「バルニーのちょっとした心配事」(ブルーノ・シッシュ監督/2000年)のなかで、さえない中年男の主人公「バルニー」(ファブリス・ルキーニ)とベッドをともにした若い娘(ナタリー・バイ)が、英語で「愛しているわ、ベイビー」という。
 「どうして、ベイビーなんていうんだ?」
 「だって、あなた、子どもなんですもの」

 フランスの男が「ベイビー」なんていわれたら、頭にくるワな。

 ところが、日本のポップス・・・・赤ンぼうのとき、母親からベイビーと呼ばれたこともない(だろうと思う)日本のタレント歌手が、歌のなかで「ベイビー」などといいはじめると、からだじゅう、かゆくなってくる。

 うざい、死ねェ。そう叫びたくなる。
 「こんなやつとおなじ空気を吸っているだけでも死ぬーッ」。

2008/05/30(Fri)  840
 
 目下、あたらしい仕事の準備にかかっていて、いろいろ資料を読んでいるのだが、ふだん、考えたこともないようなことが、ひょっこり心に顔を出す。ときには、資料と無関係に昔のことを思い出す。

 これもボケた証拠かも。

 たとえば、『権三と助十』を見た思い出。
 アメリカ相手の戦争がはじまるほんの少し前のこと。私は中学生になったばかり。夏休み、歌舞伎座につれて行かれた。
 このとき見たのが『権三と助十』で、ミステリー仕立ての話だった。これに若い娘の悲劇と、大岡越前のお裁きが絡んで、最後にはカゴかきの権三と助十の活躍で万事解決。
 岡本 綺堂の原作だが、金子 洋文が脚色したもの。

 「権三」は猿之助。「助十」は寿美蔵。
 ふたりのカゴに乗ってくるのが、大工の娘、「お千代」。これが訥升。ところが、悪者があらわれて、「お千代」はさらわれる。「権三」も「助十」も逃げてしまう。脚色がよくないのか、芝居のメイン・プロットがゴタついて、中学生の私には話の内容もよくわからなかった。

 ただ、訥升を演じた娘が綺麗で、悪人どもにつかまったら何をされるかわからない、落花狼藉(らっかろうぜき)の意味が中学生の胸に押し寄せてきた。いまのことばでいえば、「キュン死に」しそう。(笑)。

 この若い娘が引ったてられたあと、「権三」と「助十」が、現場にこわごわ戻ってくる。とたんに、
 きゃッ、人殺し!
 と、悲鳴があがって、またまた「権三」と「助十」は腰をぬかす。
 「おい、相棒、おれゃぁ、人殺しが大嫌いなんだよ」
 「人殺しの好きなヤツが、どこにいるもんか」
 「権三」が「助十」を抱き起こすと、裏木戸から犯人がスーッと出てくる。すぐ近くの用水で匕首にべっとりついた血を洗いながして、闇のなかに消えて行く。
 この犯人が八百蔵。

 芝居ってものハおもしろいなあ。これまでとは違った眼で芝居を見るようになった。
 いつか、ほんものの役者がやれる脚本(ほん)を書いてみよう。やってくれるならどこの小屋、どんな役者でもよかった。

 ときに昭和15年。(1940年)。

2008/05/29(Thu)  839
 
 ようす。
 ようすする。
 男女を問わず、なんとなく異性を意識して、ふるまうようす。ようすするは、動詞。
 あの野郎、ようすしやがって。

 あのひと、ようすしぃやわ。

 丸谷 才一は、いい文章を書こうとするには、少し気どって書け、といった。
 少し気どって書けるくらいなら、「文章読本」など誰が読むものか。

 ようすしぃだなあ。

2008/05/28(Wed)  838
 
 芸術家の運命といったことを考える。考えたところで、たいした結論は出てこない。
 さして長くない生涯で、いろいろな才能と運命が、思わぬ時と所で、重なりあい、あるいは反発しあい、むすぼれたかと思うと、いつか離れてゆく。
 有為転変は世のならい。滄海変じて桑田となる。

 おもしろいのは、広重は国芳とおない年。豊国の門下に入ろうとしたのも、文化8年(1811年)、当時、15歳。
 ところが、豊国は門人が多くて、とても教える時間がないという理由で、広重の入門を許さなかった。
 おない年の国芳は、豊国の門下に入っている。

 広重はやむを得ず、おなじ歌川派ながら、豊国とは画風も制作の姿勢も正反対の豊廣の門に入った。
 豊国は門人が多くて、とても教える時間がなかった。国芳も入門できなかったはずだが、それが許されたのは、豊国は国芳の才能を認めたと思われる。
 はたせるかな、国芳は入門後わずか三年で、文化11年(1814年)に、合巻ものの挿絵を描いてデビューした。
 広重のほうは、入門後、じつに9年たって、ようやく処女作を発表する。

 ところが、国芳の合巻ものの評判はあまり芳しくなかった。

 私が評伝という文学形式につよい関心をもつのは、一方に充実した幸福な人生があれば、他方に、悲運にあえぐ生涯もあって、その巧まざる対比が、芸術家の運命を私につよく考えさせるからである。

 林 美一は国芳の作品を比較しながら、あまり人気のなかった頃の挿絵のほうが格段にいいとする。そして、人気とは所詮そう云うものなのだ、という。そういい切った表情を想像する。
 私は、林 美一の仕事にいつも敬意をもってきたひとり。

2008/05/27(Tue)  837
 
 林 美一の『国芳』を読んでいて、こんな一節にぶつかった。

     しかし、由来、人気と、大衆の好みとは、その芸術家の持つ実力としばしば相反するものである。この時代の国芳が既に人気のあった天保二年刊行の人情本『和可色咲(わかむらさき)』二編の挿絵と比べて見ると、むしろこの時代の作品の方が格段に上手く、情熱に溢れている。人気とは所詮そう云うものなのだ。

 国芳は、文化11年(1814年)に、合巻ものの挿絵を描いてデビューした。同13年には、当時のベストセラー作家、山東 京伝の新作に、先輩の国貞、兄弟子の国直と合筆で挿絵を描いている。私は見たことがないのだが、国貞、国直と区別のつかないほど達者な作という。

     がそれはとりも直さず、国芳自身の絵に特色がないと云うことにもなるわけで、これならば何もわざわざ国芳に頼まずとも、人気絶頂の豊国、国貞はじめ、国直、国丸、国安、国満など豊国門だけでも絵師は幾らでもいるのだから注文のこないのは当然であろう。

 と、林 美一はいう。この研究家は、文政の頃の広重もおなじだろうという。
 広重は、『東海道中五十三次』を出すまでは、何の特色もない歌川派の絵を描いていた画家で、名前もろくに知られていなかった。
(つづく)

2008/05/26(Mon)  836
 
 (つづき)
 彼は語った。
 少年時代、サンクト・ペテルブルグの陸軍士官学校の生徒だった。ある日、学校に哲学者、ベルジャーエフが招かれて講演した。その内容はすばらしいもので、少年の彼は感激したのだった。いまでも、その内容は心に残っている。その後、異郷のパリで、くじけずに生きてこられたのは、このときのベルジャーエフの思想が自分の内部に生きているからだ、というのだった。

 私は熱心に彼の話を聞いていた。士官学校の講堂で、困難な時代におけるロシアの運命について、さらには若い士官候補生たちにむかってロシア人としての使命を諄々と説いていた哲学者、ベルジャーエフの姿が眼にうかぶようだった。
 この講演には、ツァーの代理として、皇弟、イポリートが出席していたという。

 この老人と話した時間は、おそらく十五分か、せいぜい二十分程度だったのではないか、と思う。
 私は、この老人の話になぜか感動していた。彼が私に嘘を語ったはずはない。まったく縁もゆかりもない東洋人を相手に、それ以来のベルジャーエフに対する親炙と、心からの敬意を語ったところで、何の得にもならないのだから。

 もう、40年も前のことである。最近になってそんなことを思い出したところで、あまり意味はない。この初老のタクシー・ドライヴァーとの出会いが、その後の私の生きかたになんらかの作用をおよぼした、とは考えられない。
 だから、あまり意味もないと承知の上でいうのだが、この夜の私は幸福だった。おそらく、タクシーの運ちゃんも、私とおなじように幸福だったのではないかと思う。
 パリを見物にきている日本人の若い旅行者が、まったく偶然にロシアの哲学者のことを論じるなど、まずあり得ないことだろう。おなじように、革命のとばっちりで、若くしてパリに亡命したロシア人が、偶然、自分の車に乗った旅行者を相手に、士官候補生だった頃から尊敬してきた哲学者の話をするなどということは、まずあり得ないことだろう。

 こういう幸福が、どういう性質のものだったのか分析したところで、何が見つかるものでもないが、お互いに親しい友人のことを熱心に語りあったようなような気がする。

 彼の名前も知らない。むこうも私の名前を知るはずもない。ただ、それだけのことだが、私にとってのパリは、この初老の運転手の思い出に重なっている。

2008/05/25(Sun)  835
 
 パリでタクシーに乗った。
 どこで乗ったか、どこに行こうとしていたのか、もうおぼえてもいない。

 タクシーの運転手は、初老の男だった。おきまりの会話からはじまった。どこからきたのか。
 日本から。
 どのくらい旅行しているのか。

 私のフランス語よりはずっといいが、スラヴ訛りのつよいフランス語だった。ロシア革命で亡命したという。
 私がロシア文学にいくらか通じていることがわかったらしい。
 ベルジャーエフを知っているか、と私に訊いたのだった。
 「知っている。彼の「ドストエフスキー」を読んだ」
 タクシーの運転手の顔に驚きが走った。
 パリで、ベルジャーエフを知っている日本人に会おうとは思ってもみなかったらしい。
 私は、ベルジャーエフの「ドストエフスキー」を読んでいたが、あまりくわしくなかった。まして、フランス語でベルジャーエフの哲学を少しでも論じることなどできるはずがない。

 彼は通りの横にタクシーをとめてしゃべりはじめた。あたりは暗かったが、ブールヴァールには明るい光が散乱していた。「テアトル・フランセ」の近くで、車の流れが多かった。パリが華やぎをましてくる時間だった。
   (つづく)

2008/05/24(Sat)  834
 
 いまの団十郎を見ながら、昔の、明治の団十郎のことを考える。むろん、私は見たことはない。

 今は、まったくきかなくなったが、昔の役者の職業病の一つに鉛毒があった。
 役者ではないが、画家のルノワールが、晩年、鉛毒のため、絵筆がもてなくなって、右手に筆をくくりつけて描いていた。
 役者の鉛毒については、舟橋 聖一の『田之助紅』にくわしい。先代の歌右衛門も、若い時分から鉛毒におかされていたし、先々代の団十郎も鉛毒だった。
 戦後になっても、エノケンが鉛毒で苦しんでいたことが知られている。

 団十郎は女形ではなかったから、鉛毒がよくなってからはあまり白塗りをせずにすんだが、歌右衛門はそうはいかない。無鉛の白粉(おしろい)を選んで使ったらしい。それでも、やはりからだによくなかった。
 化粧については、役者それぞれに好みがあって、化粧法も千差万別だが、若い頃の団十郎は鉄の鏡を使っていた。
 歌右衛門がわきからのぞいて見ると、曇ったようにぼんやりしている。

 「おじさん、こんなに曇っていて見えるんですか」
 と訊いた。団十郎は、
 「あんまり明るいと、化粧しても果てしがないから、このくらいでちょうどいい」

 後年、団十郎も、ガラスの鏡に変えたが、それでも化粧は荒いほうだったという。
 昔の舞台は照明の輝度も低かったから、お化粧も簡単ですんだらしい。

 『ルイ・ジュヴェ』を書いた時期、ジュヴェがモリエールの『ドン・ジュアン』を演出した章で――モリエールの「パレ・ロワイヤル」の舞台はローソクが百個ばかり、これに対して、ジュヴェの舞台は、照明の光度、輝度だけで、五百倍だったことにふれた。
 私はふれなかったが、この時期から、フランスの俳優、女優のマキアージュ(メーキャップ)の方法も違ってくる。

 そんなことを考えているうちに、「コメディー・フランセーズ」の名優だったマックス・デアリーが、晩年苦しんでいた病気は鉛毒ではなかったのか、と思いあたった。

 ここに書く必要もないけれど、このまま忘れてしまうのも惜しいので書きとめておく。

2008/05/23(Fri)  833
 
 若い頃、いちばん痛烈な(と思われた)批判は、

  「・・・・なんか文学じゃないよ」

 といういいかただった。ひどく便利な批評用語で、たとえば「永井 荷風の『勲章』なんか文学じゃないよ」というふうに使う。どうして文学ではないのか、また、(その人のいう)文学がどういうものなのか、まったく説明はない。こういう批評が「文学」の名に値するかどうか、そうした検証もない。

 ここに見られるものは、じつに単純な概括であり、その背後にひそむ軽蔑と、ひどい傲慢である。それがカッコよく見えたものだ。

 私は、こういうことを口にしない。むろん、こういう発言をしたくなることはある。
 そういうときは、

  「・・・・なんかいまの文学じゃないよ」

 といえばいい。これまた便利な批評用語のひとつ。

  「中田 耕治なんかいまの文学者じゃないよ」

 ときどき考える。おれって、ひょっとすると、江戸のもの書きのなれの果てじゃねえかなあ。

2008/05/22(Thu)  832
 
 ルイ・ジュヴェはモリエールを多く上演している。『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期、私がモリエールを熱心に読んだのは当然だろう。
 ジュヴェは「コメディー・フランセーズ」に乗り込んだとき、コルネイユを上演した。そのあたりの事情を書く必要があって、コルネイユも読んだ。ずいぶん熱心に読んだつもりだが、勉強にはならなかった。
 あまりピンとこなかったというのが実状だった。わからなかったといったほうがいい。(モリエールがわかった、というわけではない。)

 コルネイユは『ぺルタリト』の序で、

     二十年におよんで労作をつづけてきたが、今の世にもてはやされるにしては、私はあまりに老いたと気がつきはじめている。

 と書いている。いたましい告白だった。
 この芝居に失敗したコルネイユは、これ以後、劇作家として衰えを見せる。

 いま、私は久しぶりにあたらしい評伝を書きはじめる準備にとりかかっている。

 まったく自信はない。ただ、あたらしい評伝を書きはじめるといっておいて、書かなかったら、引っ込みがつかない。だから、そういっておく。

 もともと才能のないもの書きなので、コルネイユのように悲痛な告白をする必要がない。何十年におよぶ労作をつづけてきたわけでもないし、世にもてはやされるようなものは一つも書けなかった。むろん、これからも書けるはずがない。
 こんどの評伝も芝居者にかかわるものだが、さて、どうなることか。

2008/05/21(Wed)  831
 
 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味。われながら、つまらんぼうである。

 では、どういうふうに、つまらないものをつまらないと見るのか。

 たとえば、アリッサ・ミラーノ。嫌いな女優さんではなかった。歌だって嫌いではなかった。今だってCDをもっている。
 「娘役」(ジュンヌ・プルミエール)として、そろそろ通用しなくなってきたアリッサが、人気が落ち目。そうなると、人気を回復するために出る映画のジャンルもだいたいきまってくる。
 「ポイズン・ボディ」というC級ソフトコア。よくいえば、お色気サスペンス。アリッサ・ミラーノ初ヌード。

 もうストーリーだっておぼえていない。女子修道院で起きる連続殺人。若い修道女たちが裸になってからみあう。若くて綺麗な尼僧のアリッサ・ミラーノだって、裸にひん剥かれて縛られてしまうのだから、期待は裏切られない。
 ところが、殺人連鎖に立ちむかう綺麗な尼僧がじつは探偵で、サスペンスとして見てもいいのだが、これかなんともアホらしい作り。
 せっかく、拝んだアリッサ・ミラーノ初ヌードのありがたみも消えてしまった。

 これほど、つまらない映画になると、試写室を出た瞬間に、出演者も、ストーリーも、まして監督の名前も忘れてしまう。だから、暇つぶしに見ただけで、こちらの精神衛生にはいちばんいい。

 この映画が、女子修道院をフル・ショットでとらえる。さあ、こわくなるんだよ、という演出。これは「悪魔の棲む家」だなあ。殺されそうになる少女が必死に森のなかを逃げる。これは「サスペリア」だぜ。若い女の子が殺されるシーンは、「13日の金曜日」だね。いよいよクライマックスの儀式に、むごたらしい死体がズラリと勢ぞろいさせられる。おやおや、「誕生日はもうこない」かヨ。

 つまり、「ポイズン・ボディ」は、70年代から80年代にかけて流行したホラー映画が、90年代に突然変移的に出現したものと見ていい。お色気サスペンスとしてはB級。ミステリーとしてはC級。ホラーとしてはD級。
 「ポイズン・ボディ」とおなじ時期に、香港映画「香港犯罪ファイル」(「沈黙的姑娘」)というスリラーを見た。金城 武、アニタ・ユンが出ている。
 この映画もミステリーとしては見おわったあと、すぐに忘れるようなC級映画。しかし、アニタ・ユンのファンとしては見逃すわけにはいかなかった。

 アリッサ・ミラーノも、アニタ・ユンも、もう消えてしまった。それでも、「ポイズン・ボディ」のアリッサが美しい裸身をさらしながら、迫りくる犯人の魔手から逃げようとして身もだえていた。
 「沈黙的姑娘」のアニタは、「金玉満堂」や「金枝玉葉」とはちがった、みずみずしさを見せていた。

 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味。試写室を出た瞬間に、その映画を見たことさえ忘れてしまうのだが、ずっとたって、(だれひとり、そんな映画があったことも知らない時期に)、なぜ、ああいうつまらない映画が作られたのか、と考えるのが楽しい。悪趣味かも知れないけれど。

2008/05/20(Tue)  830
 
 1872年。福沢 諭吉が『学問のすすめ』を書いている。

 福沢 諭吉とは無関係だが、翌年(1873年)、アレクサンドル・デュマは『クロードの妻』の序で、

  「気をつけるがいい、きみは今、困難な時代を通過しつつあるのだ……」

 と警告している。フランス人は、昔日の過失の代償として高いツケを払わされることになった、といって。

  「今は、機知や、放縦や、皮肉、懐疑、戯れに終始している時代ではない。こうしたすべては、少なくとも、いましばらくは無用のものである。神、自然、労働、愛、子どもたち、これらこそ、真剣な、しかも重大な問題であって、しかも、いままさに、きみの目の前に厳として立っているのだ。こうしたすべてを、みごとに生かすか、しからずんば、きみにとっては死があるばかりなのだ。」

 アレクサンドル・デュマは大作家だから、こういう高飛車ないいかたをしても、カッコいい。サマになっている。私などに真似はできない。

 ところで、南極海で、日本の調査捕鯨船めがけて、アメリカの環境保護団体「シー・シェパード」から、薬物入りのビンが投げ込まれた。
 中国の国防費が、前年実績比、17.6パーセント増、4177億6900万元(約6兆744億円)で、この20年連続で2ケタの伸びを見せている。
 ロシアでは、プーチンにかわってメドベージェフが(得票率、70.28パーセントで)大統領になったが、プーチンが首相に就任する。

 こうなると、「気をつけるがいい、きみは今、困難な時代を通過しつつあるのだ……」程度のことは私だっていえるのである。

2008/05/19(Mon)  829
 
 ジョニー・デップ。

 今の俳優のなかで、ジョニー・デップは私が名優と呼んではばからないひとり。

 はじめて映画で見たのは「エルム街の悪夢」だった。このときから、ジョニー・デップに注意した――わけではない。ろくにおぼえてもいない。ヒロインの恋人として登場するけれど、たちまち殺されてしまう。
 「プラトーン」にも出ていた。まるで目立たなかった。あとになって(ジョニーがスターになってから)もう一度見直して、へえ、あのG.I.だったのか、と気がついたくらい。

 そして「シザーハンズ」。ティム・バートンの映画であった。

 この俳優の存在が気になりはじめたのは、「妹の恋人」からだった。ひゃあ、この若者はキートンを狙っているのか、と驚いた。こういうタイプの俳優はめずらしい。
 「アリゾナ・ドリーム」。初老になったジェリー・ルイスと、おババになりかけのフェイ・ダナウェイが主演。ジョニーは、空を飛ぶことを夢見ているおババに恋をするヘンな若者をやっていた。いい芝居をするなあ、と思った。
 「ギルバート・グレイプ」。これは、ディカプリオの映画だったので、ジョニー・デップに感心したわけではない。
 つぎに「エド・ウッド」。ティム・バートンと組んだ第二作。これで、イカれた。

 私は、ものごとにこだわらない(と、自分では思っている)。それでも、こだわりはある。
 関心をそそられると、いつまでも心のなかで追い続ける。ただし、しつっこく考えつづける、コンパルシヴな追求ではない。ただ、折りにふれて、その人のことを思い出している。それが楽しい。
 ジョニー・デップは、なぜ名優と呼んでしかるべきか。
 このことは、私が――ロバート・デニーロ、トム・ハンクスを、才能のある俳優、すぐれた俳優と見ていながら、現在、かならずしも名優と呼ばないことにかかわってくる。 アンソニー・ホプキンスなど、私は「名優」と呼ばない。

 これは、花衫(ホアシャヌ)の名優として梅 蘭芳、尚 小雲をあげても、正旦(シャオタン)の程 硯秋を名優と呼ばないことに似ているかも知れない。

 いつか、ジョニー・デップについて何か書こうか。むろん、書かないまま終わるかも知れない。

2008/05/18(Sun)  828
 
 影勝団子(かげかつだんご)。

 こんなものを見たことのある人は、もういないだろう。かんたんにいえば、街角でお餅をついて売るお団子屋さん。それもキビダンゴ。
 半纏姿の若い衆が三、四人で、屋台(やたい)車に大きな臼と竈(へっつい)を乗せて、威勢のいいかけ声をかけながら走ってくる。街角のちょいとした広場に車をとめる。舵棒に、支えの台をあてがって、荷台を平らにする。
 荷台に飛び移った若い衆が、サビのきいた声で、ご近所に口上を述べる。

 その口上を聞きつけて、母親からもらった銅貨をにぎりしめ、大八車にとんで行く。
 私は桃太郎サンのお団子と信じていた。

 若い衆がいっせいに声をそろえて、大きな蒸籠(せいろう)から蒸しあがったキビをいっきに臼に移す。所作も動きもきびきびしている。スピードもある。若い衆たちが、小ぶりの杵で、これまた威勢のいい掛け声をかけあって、臼のまわりを踊りながら、たちまちお餅をつきあげる。
 つきたての餅を小さくちぎって、竹串に突きさして、キナ粉をまぶして、わたしてくれる。一銭で、二、三本。量の少なさからいえば、けっこう高値だった。
 つきたては熱いので、口でフウフウ吹きながら頬張るのだが、甘味がほんのりひろがってくる。

 このお団子は、享保(1716=1736)のころからあったという。その後、いったん廃れたが、安永(1771=1791)あたりにまた復活したらしい。
 この若い衆の踊りが「影勝踊り」として、歌舞伎に残った。もとのフシは富本だったが、あまりウケないので常磐津でやったとか。残念ながら、私は歌舞伎の影勝踊りを見たことがない。昔の三津五郎、半四郎(五代目)がやったらしい。
 今の半四郎は(昔、私と同窓だったが)もう影勝踊りをやれるはずもない。

 幼い私は桃太郎サンの「お腰につけたキビダンコ」が食べたかったので、母にねだって買ってもらったのだが、その後、影勝団子を見たことがない。ごくふつうのキビ団子は食べたけれど。

 昭和初期、私が四歳か五歳の頃のこと。若い衆の踊り、いでたちは眼に残っている。
 私のもっとも古い記憶の一つ。

2008/05/17(Sat)  827
 
 老年になって、ネットで阿呆な文章を書くなど夢にもおもわなかった。
 どうしてこんなものを書いているのか。

 DJをやっているようなものですヨ。
 DJといっても、テクノのDJもいるし、DJ=OZMAもいる。ポピュラリティーからいえば、私の書くものなどOZMAサンとは較べものにならない。
 なにしろPCリテラシーがない。クラブで本格的にレコードをまわすようなわけにはいかない。あまり人の知らないコトをHIP=HOPみたいに、ズラズラ書いているワケ。HIP=HOPは、いろんな音楽のコラージュみたいなところがある。
 私のHPは短いものだけ。つまり、なんでもアリ。(笑)。

 先日、ある友人が「先生の博覧強記に驚かされます」と書いてきた。わるい冗談だヨ。心にうかぶ、よしなしごとをゾロッペェに書いているだけのことだから。

   われ民間に育ち、人におもてを見知られぬをさいわいに……

 おもわずつぶやく。自然に頭にうかんできたから。「われ民間に育ち」なんて、いいじゃありませんか。『本朝廿四孝』四段目。

 すぐに連想がはたらく。
 
   行く水の流れと人の蓑作が姿見かわす長上下、悠々として一間を立ち出で……

 つまりは武田 勝頼の出場(でば)。奥から悠々と登場してくる。
 「行く水の」で、水が流れているような気分。そこから、チン、チン、チン。三味線が入ってから、ハルブシの「流れと人の」とつづく。
 このあたりの呼吸のむずかしさは、じつは私にはわからない。何もわからずに人形芝居を見てきただけで、博覧強記どころではない。

 歌舞伎の勝頼は二枚目。文楽では、むしろ武将らしい役。おなじものを見ても、ずいぶんとちがう。
 役者によっても違ってくる。いい翻訳と、それほどでもない翻訳の違い。イヒヒ。

2008/05/16(Fri)  826
 
 「助六」は、見ているぶんにはおもしろいが、脚本としてはあまりできのいい芝居ではない。桜田 治助のせいなのか。当時の劇場のマネージメントのせいなのか。
 助六のお茶番が、いまではまったく通じないので、シャレがシャレにならない。団十郎をもってしても、というのではなく、今の団十郎ではなおさらという感じだった。
 股くぐり、キセルの鉢巻き、足で出すキセル、ゲタを乗せて嘲弄するのが、あまりおもしろくない。どうも理不尽ないいがかりにしか見えない。

 そうなると、お目当ては「助六」の江戸ッ子らしい姿とタンカだけだが、昔の羽左衛門、音吐朗々、「遠くは八王子の売炭歯ッ欠けじじい」のツラネが耳に残っているせいか、今の団十郎程度ではこの芝居のほんとうのおもしろさを期待しても無理というもの。

 「助六」の作者はおもしろいやつだったそうな。
 四代つづいた治助の初代目。桜田 左交。「助六」とおなじ花川戸に住んでいた。

 芝居小屋(劇場)が、日本橋、京橋にあった頃だから、花川戸では、ずいぶんと不便だったはず。じつをいえば、治助はすぐ近くの吉原が大好きだった。
 毎晩、吉原をひとわたり歩かないと気がすまない。

     仲の町を一遍通りて、両側の茶屋女房、呼びかけるを嬉しく思ひ、江戸町より三丁目、京町の格子で話して、馴染みの女郎、あちらからも爰(ここ)からも左交さん左交さんと云はれたく・・

 という次第。いまどきの三文文士には羨ましいかぎり。

 ある年の暮れ、この吉原の「鶴屋」という店に新顔が出た。治助は、どうかして「物を云ひかけられたい」と思った。その正月に、造花の梅の枝に、手紙をかいてくくりつけ、ラヴレターの心で、花魁の名を書きとめ、こまごまとしたためて、格子の隙間からぽんと投げ込む。その晩は帰ったが、あくる晩もまた格子に立つと、

    その女郎来て、もし昨夜(ゆうべ)の御返事をと云はれ、逃げ出せしもおかし。

 ということになる。

 江戸の劇作家は、こんなことに憂き身をやつしていたらしい。これがまた、私には羨ましい。

 「助六」のなかに、いろいろな悪態が出てくる。みんな、治助が足と耳で集めたものだが、自分で「発明」したものも多い。いい時代だなあ。自分の作品に、ありったけ悪口雑言をつめ込む。
 今は、ネットで匿名、いじめ、いやがらせのメールを送りつけるような、あさましい根性のやつばかり。江戸ッ子の風上におけねえやつら。
 やっぱり「助六」でも見るしかねえか。

2008/05/15(Thu)  825
 
 (つづき)
 レックスと、リリーのあいだに男の子が生まれる。ケァリー。この子は、イギリスで教育を受ける。
 「私が受けられなかった教育を受けさせたかった」と、レックスは語っている。

 だが、この幸福な時期は、不意に暗雲に閉ざされる。理由は想像がつく。レックスとリリーの仲がみるみるうちに悪化してゆく。

 「はっきり直視すべきよ」
 とリリーはいう。
 「イギリスの男は、女が好きじゃないのよ。少なくとも、イタリアやフランスの男の女好きみたいにはいかないのね。イギリスの男は、まともに女を見やしない。レックスが、私に対して払ってくれた最大の敬意は、私といっしょにいると、友だちといっしょにいるような気がするんですって。あの人って、おとこのなかの男ってコト。つまり、イギリスの男なのよ」
 なかなか辛辣な意見だった。

 レックスは、リリーと離婚したあと、イギリスの女優、ケイ・ケンドールと親しくなる。当時、ケイは彗星のようにブロードウェイに登場していた。『ジュヌヴィエーヴ』がデビュー作。5フィート8の長身で、もともとミュージック・ホールの芸人一家の育ち。ステージ・ダンサーだっただけに、優美な身のこなし、リリーとおなじ典型的なイギリス美人。
 その後のレックス、リリー、ケイについては、もはや演劇辞典の記述にまかせよう。

 1956年、私は小さな劇団を率いて、悪戦苦闘していた。
 外国の演劇雑誌を手あたり次第に読んでいたので、実際には見たこともない外国の俳優、女優の消息、それもロマンスまで、ことこまかに知っていた。
 いまの私には、信じられないことだが。
 『一千日のアン』も発表されてすぐに読んだが、詩劇。背景はエリザベス朝、史劇なので、はじめから上演を考えるはずもなかった。ただ、「現代演劇講座」(河出書房)で、私はマックスウェル・アンダースンを紹介した。
 ジョン・ヴァン・ドルーテンは、上演を考えた。これも夢物語で実現しなかった。はるか後年、私のクラスで、ドルーテンの芝居を読んだことがある。

 私の仕事は外から見るとまるでバラバラに見えるらしい。しかし、私自身には、どれもこれもみんなスジが通っていて、何かのキッカケがあって、そこからバラバラにいろいろな根が出ている。細い地下根がひっそりとのびて、のびて、どこまでものびて行って、いつの間にか、おかしな実をつける。へんてこな実しかつかなくても誰にも文句はいえない。そんなものなのだ。

2008/05/14(Wed)  824
 
 ウイーンの女優だったリリー・パーマーと「わりなき仲」になったとき、レックス・ハリソンは、コレット・トーマスという上流の女性と結婚していた。
「女に惹かれるとイギリスの男はやたらに自意識的になるものだけれど、レックスもそうだったわ」とリリーはいう。

 レックスはコレット・トーマスに離婚されてしまった。1945年、レックスと、リリーは結婚した。戦争が終わって、「戦後」の平和がやってきた時代。
 コレット・トーマスとの離婚では、レックス・ハリソンも、リリー・パーマーも、離婚訴訟に巻き込まれたあげく、やっと離婚が認められた。
 ふたりは、ハリウッドに向かった。しかし、「戦後」のハリウッドはレックス・ハリソンに、まったく将来性を見なかった。
 「カリフォーニアの気候は単調、刺激がなくて、崩れそうな豪勢さ、仕事の話は最低だった」とレックスはいう。ここで別のトラブルに巻き込まれる。
 リリーは彼を残して、ニューヨークに移った。

 レックスは、ハリウッドでキャロル・ランディスという女優と親密になる。だが、この女優は自殺した。当然、警察の調べをうける。レックスは精神分析医にかかる。キャロルの自殺の理由にとり憑かれて鬱に陥ったが、最終的な結論としては、キャロルは死の衝迫にとり憑かれていた、ということになった。

 レックスはハリウッドを去って、リリー・パーマーと舞台に専念する。
 やがて、マクスウェル・アンダースンの『一千日のアン』で「ヘンリー八世」を演じる。これは、当代の名演だった。しばらくして、リリーと共演するが、この舞台が、ジョン・ヴァン・ドルーテンの『ベル、本、蝋燭』であった。
 この頃から、ふたりは、ラント夫妻(アルフレッド・ラント/リン・フォンテン)いらいの名コンビといわれるようになった。
 イタリアのリヴイラ、ポルトフィノに豪華な別荘をかまえた。
    (つづく)

2008/05/13(Tue)  823
 
 五月雨。こんな句を見つけた。

   五月雨はただ大黒の世界かな   徳 窓

 わからない。
 大黒さまが、七福神のひとりで、仏教の守護神、それも戦闘、憤怒、厨房の三つも兼任する自在神ぐらいのことは私も知っている。
 打ち出の小槌を片手に米俵の上に立って、小判を巻いている図を思い浮かべた。
 しかし、米俵の大黒さまと、五月雨がどこまでも「大黒の世界」というのが、野暮な私にはわからない。五月雨はオバマ、ヒラリーの世界かな。いっそのこと、ただプーチンの世界かな。これでも、けっこうおもしろい。

 しばらく考えた。あ、そうか、これは「大黒(おおぐろ)」と読むのかも知れないな。なるほどねえ。思わず、合点した。

 おおぐろ。千 利休の命名による名器。
 句意は、五月雨といっても、しとしと降りではなく、どしゃ降り。あたりか、陰々たる黒さになる。それが、あたかも名器「おおぐろ」の肌を思わせる、というのであろう。

 ちぇっ、つまらねえ。

 もっとも別のいたずらが頭にうかんだ。

   五月雨はただ大黒の世界かな

 私のいうおおぐろは、大黒 摩季。いいアーティストだった。最近は、あまりCDも聞かなくなってしまったが。

2008/05/12(Mon)  822
 
 いささか旧聞に属するが――2年前(’06年11月)、日本性教育協会の調査が発表された。

 1974年から、6年ごとに「青少年性行動調査」を行っているが、’06年の調査は第六回。
 12都道府県の、1万1千名の中高生、大学生を対象に、調査した。その結果、性交を体験している男子大学生は、63パーセント。6年前の調査と変わらない。
 性交を体験している女子大生は、62パーセント。前回の調査より11パーセント上昇している。

 高校生で、性交を体験している男子は、27パーセント。女子は、30パーセント。6年前の調査より6パーセント上昇している。
 性交を体験している高校生の比率の上昇は、90年代から見られ、1993年には、男子は、14パーセント。1999年には、27パーセント。
 1993年の女子では16パーセントだったのが、1999年には、24パーセント。
 これがキスになると、大学生では70パーセント以上。高校生では50パーセント前後。中学生では、20パーセント以下。

 私がこんなことを記録しておくのは・・・中高生、大学生の「ゆとり教育」の時代と、性行動の変化になんらか相関関係があるかも知れないと見るからである。
 中高生、大学生が本を読まなくなったこと、古典リテラシーの低下も、性行動の変化に関係があるかも知れない、などとしたり顔をしているけれど。(笑)

 ほんとうのことをいえば、今の中高生、大学生が羨ましいからだろう。(笑)

2008/05/11(Sun)  821
 
 昭和15年(1940年)、私の父、昌夫は「石油公団」に移籍した。このため、私の一家は仙台を引き揚げて、本所で住宅を探すことになった。
 私の叔父、西浦 勝三郎が小梅二丁目に空き家をみつけてくれた。

 戦前、大不況のあおりを食らって廃業した小さな銀行の小さな支店。二階建て。外側は、どこでも見かける西洋館だが、そのまま「明治村」に移してもおかしくない古風な建物だった。もともと銀行だった建物なので、住宅に転用することもむずかしい。地権者は、この廃屋をとり壊して更地にする費用を考えて、そのまま放置しておいたのかも知れない。
 近くの製薬会社が借りて、薬品原料を保管する倉庫に使っていた。(注)

 この建物の横からうしろに、まるでへばりつくようなかたちで住宅が建てられていた。L字型の家という、まことに奇妙な構造の家だった。
 当時、住宅が払底したが、どういうわけか、一戸建てなのにこの家は空き家で借り手がなかった。たまたま空いたので、私たち一家が住むことになったのだった。

 とにかく、へんな造りで、玄関からすぐに三畳、その先に六畳、ここから右手に階段。階段をあがってすぐに横に三畳、その先が四畳半。その左に三畳(これが、玄関の上にあたる)。

 あとになって意外なことを知った。この家は、賭博専門に作られた家という。
 外から見れば、なんの変哲もない仕舞家(しもたや)だが、玄関の上にある三畳は、いわば見張りのための部屋。不審者や警察が玄関先から襲っても、二階の連中は、どこからでも逃げられる。

 当時も、住宅は払底していた。この家はたまたま空き家のままになっていたものを、叔父の西浦 勝三郎が見つけて、すぐに借りてくれた。私たちは、鉄火場とも知らずに入居したのだった。

 私の考えかた、生きかたが世間さまのそれと違うのは、子どもの頃からこんな家に住んでいたせいかも知れない。(笑)

2008/05/10(Sat)  820
 
 ジャック・ニコルソンが、「おれはねっから暗い人間だよ」といったことから、まったく違う役者を思い出した。白猿である。昔の役者。

 寛政五年、名跡を息子にゆずっている。
 ある日、彼のもとを訪れた山東 京伝、弟の山東 京山、狂歌仲間の鹿都辺 真顔にむかって、

    昨日もおしろいつけさせつつ涙をおとし候。それはいかんとなれば、御素人様ならば伜へ家業をゆづり隠居をもすべき歳なり。然るにいやしき役者の家に生れし故、歳にも恥ぢず女の真似するはいかなる因果ぞと、しきりに落涙いたし候。役者としてここに心づきては芸にもつやなく永く舞台はつとまらぬものなりと、嘆息して語りけるに、はたして二三年の後寺島村(あざな向じま)に隠居せり。

 京山が書いているのだから信用していい。

 「いやしき役者の家に生れ」たという自覚は、逆に、書きたいことを書き散らして、風雅に生きる芸術家の姿勢につながる。

    何ことも古き世のみぞしたはしき。今様は無下にいやしくこそなりゆくめれ。
    いにしへは車もたげよ、火かかげよといひしを……今時はもちやげろ、かきたてろもすさまじいじやあねへじやあねへかゑ。

 白猿は、五世、市川 団十郎。向島須崎に隠居、反古庵というペンネームで、「日々の楽(たのしみ)はただ筆をとりてそこはかとなく反古の裏に書(かき)つづりて」気のあった友だちにあたえたという。
 今だったら、HPや、ブログをやっているかも。

 戦前、須崎は私の家から歩いて五、六分。少年時代の堀 辰雄が住んでいたあたりはもう少し遠く、あと二、三分ほどの距離。
 この団十郎は私が見るはずもない江戸の役者だが、もの書きとしての反古庵にはひそかな敬意をもっている。たとえば、「一きは心うきたつは春のけしきにこそ」と前書きして
    鶯に 此頃つづく朝寝かな

 さすがは、白猿さん。なかなかのものですなあ。

2008/05/09(Fri)  819
 
 ある時代にあらわれた人物をしっかり見据えておく。とはいえ意外なことを聞かされれば、まず疑ってかかるのが人情だろう。
 ある俳優が、こんなことをいっていた。

    おれはねっから暗い人間だよ。
    何の憂いもなくて、自己嫌悪や恐怖感と、まるで無縁の一日を過ごしたのは、いったいいつのことだろう。

 ジャック・ニコルソン。

 私は「イージー・ライダー」から、この俳優を(だいたい継続的に)見てきたが、あるインタヴューで、このことばにぶつかってちょっと驚いた。
 ほう、「ねっから暗い人間」なのか。ジャック・ニコルソンがそんなタイプの俳優だとは信じられなかった。
 俳優はしばしば強烈な自己顕示欲を見せることがある。そのありよう、あらわれかたはとりどりだが、ことさら卑下して見せながら、逆にそのことで自分の優越をアピールしするようなしたたかな役者もいる。
 相手が女優さんで――「あたしって、ほんとうは暗い人間なのよ」などと聞かされたらすぐ逃げ出したほうがいい。眉つばだと思う。

    おれの思うに、あらゆる有名人のなかで、人前にでると、いちばん落ちつかなくなるのが、おれなんだよ。

 ふーん、ジャック・ニコルソンて、そういう役者なのか。

  この俳優は、多分ほんとうに「暗い人間」なのだろう。
 自分の出た映画で、とくに気にいった作品があるかと聞かれて、
 「べつにないね。おれは、自分の出た映画はみんな好きになる。いつもいつも大満足ってわけにはいかないが、これはまあ、たいていの人の場合がそうだろう。おれは、いっしょに仕事をした連中や、そいつらがそのときそのときにやってくれたことを、すごく誇りに思っているんだ」という。

 私が好きなのは「愛の狩人」、「郵便配達は二度ベルをならす」あたりで、「黄昏」とか「恋愛小説家」なんか、あまり感心しない。

2008/05/08(Thu)  818
 
 ハーバート・フーヴァーは、戦後すぐに、特使として来日している。
 当時の新聞記事(1946年5月7日)によれば、

   ハーバート・フーヴァー氏一行は五日午後一時廿五分、厚木飛行場着、日本の食料問題を主宰する連合軍最高指令部、経済科学部長、マークワット少将、マッカッサー元帥の政治顧問で連合国対日理事会/アメリカ代表であるアチソン氏、連合軍最高司令官軍事秘書官、並びに対日理事会事務総長フェラース大佐らの出迎えを受け、直ちに東京のアメリカ大使館へ向かい、マッカッサー元帥と午餐を共にして後、連合軍最高司令部に入った。
   なお同特使は六日宮城前広場で騎兵第一師団の歓迎分列式を閲兵した。

 当時、敗戦国日本は激動のさなかにあって、毎日のように、衝撃的なニューズがあふれていた。その激動のさなかのフーヴァーの来日は、それほど注目されなかったのではないかと思う。
 この日の新聞には、鳩山一郎(自民党総裁)の追放による政局の混迷や、「ポツダム宣言」受諾(勅令542号)にともなって、軍国主義教育、皇国思想を推進した教職員の除去(公職追放)、就職禁止の命令、訓令が出ている。
 連合軍最高司令部においても、日本での連立内閣の可能性が論議され、自由党に対して全面的に社会主義政策への協力をもとめる(その一つに、共産党を入閣させることさえ含まれていた)ことをめぐって、はっきり対立がうまれはじめていた。

 当時の私は、フーヴァーの来日にまったく関心がなかった。というより、連合軍の占領政策についても何ひとつ知らなかった。知識がなければ関心も生まれない。
 個人的なことだが、この4月、私は「近代文学」の人々と知りあって、批評家になろうと決心をしていた。

 私は神田の「文化学院」の二階にあった「近代文学」の事務室に毎日のように遊びに行った。荒 正人、佐々木 基一、埴谷 雄高、本多 秋五、山室 静、平野 謙といった人々の話を聞くだけでもたいへんな勉強になった。
 この人たちは私がどんなに幼稚な質問をしても、まともに答えてくれたのだった。十代だった私には教養も知識も決定的に不足していた。とにかく、勉強することは山のようにあった。
 当時の私が、フーヴァーの来日にまったく関心をもたなかったのは不思議ではない。

 戦後すぐのフーヴァー来日の目的は、逼迫していた日本の食糧問題に関連していたと理解している。

 政治家としてのフーヴァーは、今の私にとってはけっこうおもしろい人物に見える。若き日のフーヴァーは、鉱山技師として清国の鉱山を調査していた。まさにその時期に義和団事件に遭遇したことも私は知っている。
 むろん、私はフーヴァーについて何か書くことはない。しかし、マケインを相手に、クリントン、オバマ両候補の激烈な争いが続いているのを見ながら、ウィルソン、クーリッジ、はてはフーヴァーの「アメリカ」について考えるのも、私の趣味なのである。

 回顧趣味ではない。ある時代にあらわれた人物をしっかり見据えておけば、別の時代に生きる別の人々の考えだって、手にとるように見えてくるのだ。

2008/05/07(Wed)  817
 
 アメリカ、大統領予備選挙で、民主党のクリントン、オバマ両候補のはげしい争いが続いている。
 史上まれに見る接戦と理解している。

 ところで、リンカーンからの大統領について調べてみると、フーヴァーまで、共和党から12名が大統領になっている。これに対して、民主党から大統領になったのは、クリーヴランド、ウィルソンのふたりだけ。

 ウィルソンは民主党の候補者として、2回つづけて当選した。クリーヴランドも2回選挙にのぞんだが、一度はハリソン(共和党)に敗れ、4年後、もう一度指名されて、こんどは当選した。
 1912年、ウィルソンがはじめて大統領になった選挙では、共和党の内部ではげしい対立が起きていた。タフト派と、ルーズヴェルト派だった。これに乗じたウィルソンが、漁夫の利をしめたらしい。(ちょっと、今のヒラリー vs オバマの大接戦を横で見ている共和党のマケインという恰好だね。)
 1916年には、世界大戦のさなかの選挙だったため、民主党のウィルソンの続投をもとめる世論が高まり、僅差でウィルソンがヒューズを破った。

 1928年の選挙では、すでに二期をつとめたクーリッジが出馬しなかった。

  I do not choose to run for President in 1928.

 この”choose”ということばが、アメリカのみならず、ヨーロッパでもさかんに論議されたという。クーリッジの真意をさぐろうとして。
 この年、ニューヨーク州知事だったスミスが、マッカドゥと争って共倒れになった。共和党のディヴィスが、うまく大統領をさらってしまった。今回のクリントン vs オバマの熾烈な指名争いを見ていると、そんな歴史のくり返しを見せられているような気分になる。
 ところが、スミスは、444×87で、共和党のフーヴァーに惨敗している。

 まるで自分が見てきたことを書いているようだが、1928年、私は1歳。

 なにかにつけて歴史をふり返る。私の悪癖。すでに決着のついた勝負の棋譜をたどって、どの一手が失着だったのかつきとめるようなおもしろさに魅せられて。

 今年の大統領選挙になぜ関心をもっているか、これには別の理由がある。
 私の友人が、今年の大統領選挙をテーマに本を書いたからだった。この夏に出る。

2008/05/06(Tue)  816
 
 私の訳した『虎よ、虎よ!』の冒頭に、ウィリアム・ブレイクの詩が引用されている。

  Tiger,tiger,burning bright
  In the forest of the night,
  What immortal hand or eye 
  Could frame thy fearful symmetry?

 ――Blake:Songs of Experience.

   虎よ、虎よ! ぬばたまの
   夜の森に燦爛と燃え
   そもいかなる不死の手 はたは眼の
   作りしや、汝がゆゆしき均整を

 この詩から「虎よ、虎よ!」という題がとられている。

 フランスの詩人、アメリカの詩人はいくらか熱心に読んできたが、イギリスの詩人はひとわたりざっと読んだ程度。ブレイクは好きな詩人のひとり。

  The moment of desire!
  The moment of desire!
  The Virgin
  That pines for man shall awaken her womb to enormous joys
  In the secret shadow of her chamber.

 学生の頃読んだ「アルビオンの娘たちなる乙女」の一節が、いま老作家の口にのぼってくる。
 エロティックなイメージが心に刻まれたらしい。

  足駄穿かせぬ 雨のあけぼの       越 人
  きぬぎぬや あまりか細く あでやかに  芭 蕉

 いまの私には、この句のほうがもっとエロティックに見えるけれど。

2008/05/05(Mon)  815
 
 最近、映画をあまりごらんにならないようですね。
 はい、ほんとうに映画を見なくなりました。
 たとえば・・・・・

   LOVERS       張 芸謀監督
   テイキング・ライブス   D・J・カルーソー監督
   ハイウェイマン      ロバート・ハーモン監督
   堕天使のパスポート    スティーヴン・フリアーズ監督
   IZO          三池 崇史監督

 こうした映画をおぼえている人がいるだろうか。
 つい、三、四年前の映画ばかりである。
 「LOVERS」のオープニング、チャン・ツイィーの太鼓打ちの舞いのシーンは、映画史に残る美しさだと思っているが、張 芸謀の映画は、ひどい駄作だと思っている。
 アンディ・ラウなんか、なんで出てきたのかわからない。
 「堕天使のパスポート」は、オドレイ・トォトゥーが出ているから見ただけ。
 あとの映画は、もう思い出すこともない。

 映画批評を書いていた時期、年間、平均して200本から250本は見ていた。しかし、映画批評を書く機会がなくなってから、見る本数は激減した。
 最近は、やっと10本見る程度。
 それでも好きな俳優、女優が出ている映画は、なるべく見るようにしている。
 たとえば・・・・シャーリーズ・セロンが、やたらババッちいメークで出ていた「モンスター」や、イザベル・アジャーニが大芝居をみせる「ボン・ヴォヤージュ」。
 ジョニー・デップを見ているうちに、原作(スティーヴン・キング)のつまらなさなどどうでもよくなってくる「シークレット・ウインドウ」。
 少年と年上の女のアヴァンチュールを描きながら、なんとも無残な感じのする「なぜ彼女は愛しすぎたのか」で、エマニュエル・ベアールを見たほうがいい。

 この映画のリストからも、私が映画を見なくなった理由は想像できるだろう。

 とにかく映画を見なくなった。

2008/05/04(Sun)  814
 
 1945年、敗戦直後から日本人は、毎日が、激烈な混乱の坩堝に生きていた。
 当時、すべての物資が統制されていて、とくに紙が払底して、新聞でさえ一枚(つまり、裏オモテ、2ページ)でやっと発行されていた。
 その一方で、「日米会話手帳」といった薄っぺらな小冊子が本屋に並んで、たちまちベストセラーになった。私もこの小冊子を買ったが、実際にはなんの役にも立たなかった。
 戦後すぐに、私は匿名批評のようなものを書きはじめた。これが私の文学的な出発になったが、いま考えても貧しい出発だったと思う。しかし、当時の私たちには同人雑誌を出すことなど考えられなかった。

 はじめて私の書いたコラムが出たのは、1946年2月11日だった。
 この日付を覚えているのは、この日、私がひそかに尊敬していた小栗 虫太郎が亡くなったからだった。

 はじめて活字になった自分の文章を眼にしたとき、私はうれしかった。私の書いたものなど誰も読むはずがない。ただ、その新聞を母に見せた。
 母は私がそんなものを書くとは夢にも思っていなかったらしい。

 私の書いたものは、いくらか評判になったらしい。ある日、知らない読者から葉書が届いた。荒 正人という人からのものだった。
 コラムを書かせてくれた椎野 英之のすすめで、私は荒 正人に会いに行くことにした。母の宇免は、それを知って――
 耕ちゃんもこれから、いろいろな人に会うようになるわね。そんなとき、恥ずかしい思いをしないように。
 といって、最後までとっておいた和服と、古着の背広を交換してくれた。

 その背広を着て私は荒 正人に会いにいった。

2008/05/03(Sat)  813
 
 国破れて山河あり。

 1945年9月、まだアメリカ占領軍が上陸していない時期。敗戦直後の日本では混乱のなかで、人々は虚脱したように右往左往していた。
 このときから数カ月、すべての日本人はまったく経験したことのない激変にさらされつづける。

 私たちを恐怖のどん底にたたき込んだ空襲はなくなったが、土浦の海軍航空隊の戦闘機が、戦争継続を訴えるビラをまいたり、夜道で強盗が出没したり、陸軍が崩壊して、脱走兵や、軍を離脱して故郷にむかった兵士たちが、なだれをうって列車に乗ったり、ほんとうに物情騒然としていた。明日はどうなるのか誰にもわからなかった。
 アメリカ占領軍の上陸は9月12日だったが、アメリカ兵が何をするかわからないというウワサがみだれとんで、女たちはおびえていた。それよりも先に食うものがなかった。飢えがどういうものなのか、私たちは知ることになる。食料の配給さえ遅配がつづき、三度の食事どころか一日一食さえおぼつかない。
 敗戦の翌日には闇市が出現した。有楽町、新橋、上野の駅前、浅草、田原町から国際劇場まで、葦簾張りや、焼け跡からひろってきたトタン屋根などの、店ともいえない規模の店がごった返していた。
 物々交換で何でも手に入るようになったが、私たちは二度も焼け出されたため、食料と交換するための品物もなかった。
 母が疎開しておいた和服なども、たちまち食料に化けてしまった。当時のことばで「タケノコ生活」という。筍の皮を剥ぐように、自分の持ちものを1枚づつ剥ぐようにして、別の物品に換えて暮らすこと。
 母のもっていたものなど、あっという間に消えてしまった。

2008/05/02(Fri)  812
 
 はじめて、アメリカのグラフィック・ポルノを見たのは、戦争の末期だった。とても信じられないことだが、これは事実である。

 戦時中、学徒動員で、私は川崎の石油工場で労働者として働いていた。隣りに、「日本鋼管」の工場が続いて、そこの一角に、竹矢来で囲んだバラックが建てられて、アメリカの兵士たちが収容されていた。ここに収容されて、「日本鋼管」で働かされていた捕虜は、おそらく50名程度だったと思う。
 私たちは昼休みに、その付近に出かけて、アメリカ兵たちにタバコをくれてやったり、カタコトの英語で話しかけたりするようになっていた。
 むろん、警戒に当たっている憲兵の眼をおそれて、ほんの数分、接触するだけだったから、たいしたことを話したわけではない。

 ある日、私は作業中に指先に怪我をしたので、工場から歩いて15 分ばかり離れた医務室に行った。
 処置を終わって工場に戻る途中で、私たち学生(40人ばかり)の指揮をとっていたS、副長のIが、地上に何かひろげて眺めていた。たまたま通りかかった私は、二人によって行った。
 アメリカの捕虜に配給のタバコをわたしてやったお礼にくれたという。

 「ライフ」とおなじサイズのグラフ雑誌で、全編、モノクロームだが、男女の性行為の写真と、短いキャプションがついていた。白人の男女がさまざまな体位で交わっている。そのときの私は、白人の「女」たちを「醜い」uglyとは思ったが、その性交を撮影したグラヴュアを「汚い」dirtyとは感じなかった。
 むろん、男と女の行為が撮影されていることに驚かされたが、それよりも、きわめて厳重な身体検査を受けたはずの捕虜たちがどうやってこんなものを収容所に持ち込んだのか、そのことにはるかに大きな驚きをおぼえたのだった。

 川崎の石油工場で働いていた時期のことは、長編『おお、季節よ、城よ』に書いたが、戦争の末期にアメリカのグラフィック・ポルノを見たことは書かなかった。
 その後、私はアメリカで多数のポルノを見たし、クロンハウゼン夫妻をはじめ、モラーヴィア、スーザン・ソンタグ、ジョージ・スタイナーなどの「ポーノグラフイー論」を訳した。そのかぎりにおいて、低いレヴェルではあったが、研究者のひとりだったといえるかも知れない。

2008/05/01(Thu)  811
 
 ノーマン・ドイジ博士は、ネットポルノ中毒は比喩ではないという。つまり、耐性ができるのであって、アディクトは、さらなる刺激を求めて、満足を得ようとする。ということは、それを自制しようとしても、薬物の中毒とおなじで、禁断症状が待ちうけている。

 なぜ、ポルノ・サイトが、それほどに関心を喚び起こすのか。
 ドイジ博士によればドーパミンの放出によって脳に可塑的な変化が起こる。ドーパミンは、性的な興奮によっても放出される。男女両性のセックスに対する欲求を高めて、オーガズムを得やすくする。つまり、脳の快楽中枢を活発にする。ゆえに、人はポルノに夢中になる。

 私は(私程度の頭では)、この論理に反対意見を提出できない。しかし、これは、単純な三段論法ではないのかという(漠然とした、だが批評家としてはかなり確信的な)オブジェクションがある。
 この程度の、そして、こうしたかたちで提出されるポルノ・アディクトという論点は、いかにも浅薄なプラグマティックなものに過ぎないような気がする。

 これについては、もう少しあとで考えてみよう。

2008/04/30(Wed)  810
 
 竹迫 仁子が訳したノーマン・ドイジ著『脳は奇跡を起こす』(講談社インターナショナル/’08.2月刊)は、私にとってはじつに刺激的な本で、いろいろと考えることができた。
 著者は精神科医、精神分析医で、コロンビア大学の精神分析研究センターに勤務、さらにトロント大学の精神医学部に勤務しているドクターがいうのだから間違いはない。
 このドクターは、作家、エッセイスト、詩人で、カナダの「ナショナル・マガジン・ゴールド・アワード」を4度受賞している。

 私の頭では、とてもこのむずかしい本の書評は書けないので、ごく一部、その1章、「性的な嗜好と愛」を読んで教えられたこと、それに触発されたことを書きとめておく。

 性的な嗜好は、あきらかに文化や経験によって影響され、後天的に獲得され、脳にコネクテッドされる。(その通り。)
 ただ「嗜好」といった場合は、先天的なものをきすが、「獲得された嗜好」といえば、学習によって得られた嗜好をさす。(これも、その通り。)
 だから、最初のうちは無関心だったもの、ないしは嫌いだったものが、あとになって快いものと感じられるのが、「獲得された嗜好」ということになる。

 ポルノに関心をもつのも、性に対する嗜好が後天的に獲得できることをはっきり示している。

 私の関心を惹いたのは――ポルノを見れば、「獲得された嗜好」の変遷がはっきりわかるという指摘だった。

    三十年前は、「ハードコア」ポルノといえば、性的に興奮した男女が性交している様子を、性器まで見せて、はっきりと撮影してあった。「ソフトコア」ポルノは女性の写真で、たいていはベッドやトイレ、あるいき色気のある場面設定で、女性があられもない肢体をさらけ出している。胸をあらわにしているが、どの程度まで見せているかはさまざまだった。(P.128)

 著者は、インターネットが急速に普及して、多数の男性がポルノを嗜好するようになった反面、一方では困惑し、嫌悪感を抱いていると見る。その結果、性的な興奮のパターンがおかしくなって、男女関係や性的な能力にまで影響がではじめた、という。

 私は、ポルノ・サイトを見たことがない。関心がないというとウソになる。関心はあるのだが、AVや、「ハードコア」ポルノといったジャンルのものはビデオ、DVDで見たほうがいいと思っているから。
 それに、インターネット・リテラシーがないから。

 私自身は「ハードコア」ポルノを見ても、困惑したり嫌悪感を抱くことはない。
 ただし、拙劣なカメラワーク、あきらかに犯罪的なシチュエーションのものには嫌悪感を抱く。
   (つづく)

2008/04/29(Tue)  809
 
 この3月、アーサー・C・クラークが亡くなった。
 福島 正実が訳したので、はじめてこの作家を知ったことを思い出す。福島 正実のおかげで、当時、私はアルフレッド・ベスター、フイリップ・K・ディックなどを訳したのだった。

 アーサー・C・クラークとは何も関係がないのだが・・・その二、三日後に、アンドロメダ銀河の、「アンドロメダの涙」についての研究が発表された。

 アンドロメダ銀河から、巨大な星の群れがまるで川のように流れている。
 「アンドロメダの涙」というそうな。
 これが、8億年前に、アンドロメダ銀河と衝突した別の小さな銀河の残骸がひろがったものという。

 専修大の森 正夫准教授らが、筑波大のスーパーコンピューターを使った模擬実験であきらかにされた。

 銀河と銀河の衝突なんて想像もできない現象だが、森先生の解析では、アンドロメダ銀河の400分の一という小さな銀河が、アンドロメダ銀河の中心に向かって北側から衝突すると、遠くまで飛ばされた星の集団が、「アンドロメダの涙」をかたち作ったという。(「読売」’08.3/25.夕刊)

 私はこうした宇宙の現象について、まったく理解する頭脳がない。しかし、このニューズに知的な昂奮をおぼえた。宇宙には無数に銀河系が存在するとして、その小さな一銀河系に、さらに小さな銀河が衝突する。これだけでも、一つの宇宙は崩壊する。しかも、その残骸が涙のように流れて、一銀河系の引力圏にあふれている。
 涙というのは、うまい「命名」だなあ。
 8億年前か。宇宙にとっては、ほんの一瞬前のことだろうなあ。

 亡くなったアーサー・C・クラークは、「アンドロメダの涙」について何か書いているだろうか。

2008/04/28(Mon)  808
 
 六代目(菊五郎)が語ったという。
 若い役者を育てるのは、植木をそだてるのとおなじ。

 いい種子をいい土壌に播いて、細心の注意を払って育てあげれば、各自もちまえの花だけは咲かせることができる。

 ある日、五木 寛之が訊いた。
 「中田さんは、若い作家を育てたことがおありですか」
 「作家を育てたといえるかどうか。ほんの二、三人ですね。翻訳家なら、いくらか育てたといえるかも知れません。六、七十人はいると思いますが」
 五木 寛之は眼をまるくした。
「私が見つけた作家は、ひとりぐらいです」
「ほう、誰ですか」
 その名前を聞いたとき、こんどは私が眼をまるくした(と思う)。しんじられない作家の名を聞いたのだから。
 ここには書かないが。(笑)

2008/04/26(Sat)  807
 
 談林から出発した芭蕉の句を読む。
 芭蕉の作かどうかわからない句も多いらしいが、真作とされている百句ばかりに、あまりいい句がないという。
 たいていの芭蕉研究でも、この時期の、とくに真作かどうかわからない句はまったく埒外に放棄してかえりみられない。

 私は研究家ではないので、この時期の芭蕉の句も、けっこうためつすがめつしながら読む。楽しい。

    年は人にとらせていつも若夷
    春やこし年や行けん小晦日
    文ならぬいろはもかきて火中哉
    町医師や屋敷がたより駒迎
    けふの今宵寝る時もなき月見哉
    天秤や京江戸かけて千代の春
    武蔵野や一寸ほどな鹿の声
 
 芭蕉、30歳から33歳の句。
 句のよしあしよりも、38歳の宗旦、14歳の鬼貫、そして芭蕉の弟子の其角が、23歳で『虚栗』を出したことを思いうかべると、芭蕉の遅い出発、あっちこっちウロウロしている感じがいい。

 芭蕉ほどの人でも、世に出たばかりはこうだったのか。

2008/04/25(Fri)  806
 
 文字あまり。「長発句(ながほっく)」という。

  踊子に穴あらば数珠につないで後生願はんものを
                  −−百丸

 おそらく芸妓が舞台で踊っているのだろう。その踊り子に穴があったら、数珠につないで、来生の極楽往生を願いたいものだ、ということ。むろん、これは表面だけ。「踊子に穴あらば」という仮定法がいやらしい。当然、踊子と一夜の歓をつくして、極楽往生をとげたいものだという意味になる。
 この作者の放埒な工夫は、女体の「竅」と数珠の数を割ってみるとわかる。

 別の異形(いぎょう)の句。

  大西瓜何値段わずかに八分百よりはやすし 
                  −−青人

 近在の百姓がかついできた大きな西瓜を買うつもりで、値をあたる。値段がひどく安くて「わずかに八分」というのではなく、百文よりはほんの「わずか」しか安くない。
 百姓に足もとを見られたか。そういう意味だろうと思う。

  あたご火や江戸鬼灯めせところてんものまいれ
                   −−同

 私にはむずかしい一句。この「あたご火」がわからない。伊丹から京都はそう遠くないので、おそらく上嵯峨の愛宕神社の鎮火祭をさすのではないか。その縁日に、境内に出た店の女が、江戸で流行している「ホウヅキ」市からとり寄せた「ホウヅキ」を買って頂戴、「心太」(ところてん)も召し上がれ、と呼びかける、という光景だろうか。ただし、よく読むとなにやらエロティックな季節感がまつわりついている。

  女郎花立てり禅僧指断村薄     −−鸞動

 これまた、私にはよくわからない。女郎花(おみなえし)は秋の七草の一つ。淡い黄色の小さな花がびっしり密生する。
 どこかの原っぱに女郎花が群生している。通りかかった禅僧が、ふと女郎花に眼をとめた。誰も気がつかないが、村のススキより、この可憐な女郎花のほうに、ずっと秋の風情があるではないか、と悲憤慷慨しているのか。禅僧の野暮をからかっている。
 「指断村薄」は、禅僧、指断ス、村ススキ、と読むのかも知れない。作者の工夫は、「禅僧」のゼ、ソ、「指断」のシ、「村薄」のスス、というサ行の音の執拗なくり返しと、「禅僧」のゼン、「指断」のダンの重なりにある。ようするに押韻の試みと見てよい。
 いくら工夫したって、つまらない句に変わりはない。

 さて、談林から出発した芭蕉はどうだったか。
   (つづく)

2008/04/24(Thu)  805
 
 このところ、暇を見ては、芭蕉や、その周辺の俳人を読み直している。何を書くわけでもない(書けるはずもないが)。ただ、楽しみのために読む。

 芭蕉が談林から出発したことはよく知られている。
 それまでの貞徳が代表する古風の俳諧が衰えて、宗旦、鬼貫を中心とする伊丹ふうの俳諧が起きる。その程度のことは私も知っている。
 そこで、宗旦に眼を向ける。

 宗旦、性はなはだ酒を愛し、しばしば門人をあつめ、老荘の書を読み、長明、兼好の文を説く。延宝二年(1674年)、京都から伊丹に移った。元禄にかけて、伊丹にいた俳人は、じつに77人の多きにおよんでいる。そのなかに鬼貫がいた。

   こいこいといえど蛍が飛んで行く

 鬼貫、八歳の作。

 今の私は別に感心はしないけれど、それでも鬼貫の才気のあらわれを見る。

 宗旦が伊丹に移った延宝二年、宗旦、38歳。鬼貫、14歳。二年後の鬼貫はどうなったか。

   かくて十六歳の比(ころ)より、梅翁老人の風流花ややかに心うつりて又其当風をいひ習ひ、猶其のりをもこえ侍(はべ)りて、文字あまり、文字たらず、或は寓言、或は異形、さまざまいひちらせし比(ころ)……

 伊丹の俳人は、先輩の宗旦が談林ふうの新風に転向したらしい。そこで、鬼貫をはじめ、木兵、百丸、鉄幽などが、いっせいに談林化してしまう。
 こういう雪崩現象は昔も今も変わらない。
   (つづく)

2008/04/23(Wed)  804
 
 女優の魅力。なかなかつたえにくいものの一つ。(私が言及しているのは、映画雑誌にあふれている記事のことではない。)

    (前略)最後に荒木道子のヘードイッヒを推賞して此稿を結びたい。荒木道子は、演劇芸術について、どういう経歴を有つ人か筆者は一向に知らないが、ヘードイッヒに扮し、この公演に於ける第一の功労者であったことを特筆したい。殆ど原人の姿を呈し、可憐で、神秘的で、父親思いのいじらしい娘を心にくいほど表現してゐた。十四歳の役としては幾分ませたところも見えたが、其一挙一動悉く快い感じを与へる演技で、そこには少しもワザとらしいものがなく、自然で、純真で、そして寂しい影のまつはるような娘であった。人の親として、此子の為ならば一命をも惜まないと思はせるほど親想ひの情も溢れてゐた。全く良きヘードイッヒである。筆者はかつて酒井米子のヘードイッヒの可憐な事に注目したが、今回荒木道子の之を見て、演出演技の進歩したことと同時に此女の秀抜な芸に目を瞠つたのである。

 これは、1940年(昭和15年)、「文学座」が上演したイプセンの『鴨』(今は、一般に『野鴨』で知られている)の劇評の一節。筆者は、安倍 豊。
 劇評で新人女優がこれだけ賞賛されれば、やはりうれしいに違いない。日本がアメリカと戦争する前に、荒木道子がもっとも将来性のある新人として期待されていたことがわかる。
 私は中学生だったが、この芝居をわざわざ見に行っている。内幸町の角にあった劇場で、狭苦しい階段をあがってゆくと、いきなり客席という小劇場だった。
 イプセンについて何も知らなかったが、新劇の芝居を見たかった。
 当時、「文学座」の研究生として、賀原 夏子、丹阿弥 谷津子、新田 瑛子たちがいたが、荒木道子はその先頭を切っていた。

 彼女が女優として大きく発展するのは、やはり戦後の季節からだった。
 私は「文学座」の芝居を見るたびに、飛行館の芝居を思い出したものである。

 その後、私は、偶然のことから、NHKの連続放送劇のスタッフに起用されたため、スタジオでも荒木 道子と口をきくようになった。私の眼には荒木 道子が大女優のように見えた。
 このドラマに出ていた「文学座」の南 美江(戦前の「宝塚」のスターだった)は別格として、私と同世代の、七尾 玲子、加藤 道子(放送劇団出身)や、「民芸」の新人で、この連続放送劇のヒロインに抜擢された阿里 道子たちのなかで、女優、荒木 道子はいつも一歩先んじているようだった。

 ある日、ある集まりで、どうしたわけか芥川 比呂志がしきりに私にからんできた。思いがけないとばっちりだった。その内容は、銀と緑は、色彩としてけっして両立しない、といったことだったが、暗に、私がひそかに好意を寄せていた女優と、まったく才能のないもの書きでは不釣り合いだということを諷刺したらしい。
 このとき、そばにいた荒木 道子が芥川をたしなめるようにドイツ語で何かいった。
 あとになってそのことばの意味を知ったが、「こんな子どもを相手にするのはよしなさい」という意味だったらしい。
 私の内部で何かが壊れた。芥川 比呂志に対する怒りではなく、荒木 道子に対するファンとしての親近感が。

2008/04/22(Tue)  803
 
 サクラの季節が終わると、いっとき華やいだ気分も消えてしまう。

   目の星や花をねがひの糸桜   芭蕉

 これは、じつは夏の句らしい。
 おや、今日は、糸桜の花が願いの糸に見える。糸桜は、しだれザクラ。
 七夕の夜、竿に願いの糸をかける風習があった。五色の糸。「ねがひの糸」と「糸桜」をかけてあるのが趣向。目の星というと眼の病気みたいだが、瞳のこと。これは「七夕」の連想から。芭蕉に叱られそうだが、この句、少女マンガみたいで好きだな。

   雨の日や世間の秋を堺町    芭蕉

 これは秋。
 雨がしとしと降っている。さみしい。
 ところが、そんな世間と違って、堺町だけはにぎやかなのだ。なにしろ、日本橋の芝居町なのだから。脂粉の匂い。「雨」のア、「秋」のア、「世間」のセ、「堺町」のサが響きあう。しかも「世間の秋」には、日常に倦きて芝居や色町にくり出す、うきうきした気分が流れている。
 談林の頃の芭蕉の作も、けっこうおもしろい。

2008/04/21(Mon)  802
 
 2008年3月、文部科学省は、小・中学校の新学習指導要領を告示した。これは、愛国心を涵養するといった教育改正基本法(改正)と連動しているものだが、そのなかで小学国語に、「神話・伝承を読み聞かせる」という記述が追加されている。これも、総則のなかで、「伝統と文化を尊重」するということの実践と思われる。

 私は、これに賛成する。ただし、愛国心を涵養するといった教育的配慮ならやめたほうがいい。まさか、いまさら、神話を皇国史観に重ねるようなアホウはいないだろう。戦後、記・紀の研究も大きくすすんでいる。
 古代ギリシャでは、ミユトスは、ほんらいは物語であり、広義には話であった。明治時代に「神話」と訳されたことには、おそらく古事記、日本書紀の「神話」なり「伝説」への連想が働いたにちがいない。
 何をもって、人はある物語をもって「神話」とみなすのか。
 これは、おそらくこのことばの揺れ、ないし、発展にかかわるだろうし、その置かれた文脈にかかわる。

 古事記は、日本の歴史資料として、現存する、もっとも古い書物。712年に、太安麻呂の撰によって成立した。上、中、下の三巻にわかれる。その上巻が、神代巻(カミヨノマキ)として、日本神話が展開している。
 上巻は、天地開闢から、海幸、山幸神話。ホデリのミコトまで。
 中巻は、初代天皇といわれる神武の東征。第15代、応神天皇の秋山・春山兄弟のイヅシオトメ(伊豆志袁登売)との婚姻にまつわる話まで。

 下巻は、第16代、仁徳から、第33代、推古まで。歴史の資料としては、第23代、顕宗天皇までで、それ以後は、家系を中心とした略歴をならべたもので、文学として読むことはできない。

 天地開闢から、海幸、山幸神話。ホデリのミコトまで。記・紀が、日本民族の物語であり、「最古の伝承文学」、最高のファンタジーとして、子どもたちに受け入れられるのはうれしい。

2008/04/20(Sun)  801
 
 批評というものは、おもしろいものだ。批評家が、ある作家の作品を読み違える。当然、まっとうに評価できない。
 よくあることで、別にめずらしいことではない。

 サント・ブーヴは、スタンダールの『赤と黒』にさして高い評価をあたえなかった。
「ジュリアン・ソレル」について、家庭内の葛藤に巻き込まれたロベスピエールよろしく、卑劣で、忌まわしい「怪物」と見ている。「小説の人物たちはまったくイキイキとしたところがなく、ほんの二、三本の糸であやつられる自動人形(パンタン)さながら」と酷評している。
 サント・ブーヴをフランス文学最高の批評家のひとりと見てきたが、こういう批評を読むと、さすがにあきれてしまう。

 ほんの二、三本の糸であやつられる自動人形(パンタン)という批評から、こんな批評を思い出した。

    神のおつげと妻のさそいによって主君を殺し一城のあるじとなるが、やはり神のおつげどおりに人望を失ってしんでゆく侍の宿命をえがいた映画である。
    (中略)
    主人公の妻が狂うのも、千秋 実の役の死も必然性がない。三船(敏郎)、山田(五十鈴)らの演技はうまくてもこわいものみせたさのつくりものの感じだ。それにこの映画は大モッブシーンはあるが「七人の侍」のような合戦シーンがない。それが迫力を欠いている。
    (中略)
    この映画の人物はいずれも運命にひき回されている人形だ。それがまた映画のねらいであるとしても、何ものかにひき回されている人間をえがく場合、もつと人間の積極性を一面にえがいてみせたほうが皮肉がきいて宿命観がつよくひびくのではないか。黒沢(明)のはじめての哲学のない映画であり、気まじめすぎた凡作。

 試写室で「蜘蛛巣城」を見て、すぐにこの映画評を書いたらしい。(「デイリー・スポーツ」昭和32年1月)
 筆者はこの映画が、シェイクスピアの『マクベス』の翻案ということに気がついていない。少なくとも、そういうことをまったく考慮していない。しかし、「この映画の人物はいずれも運命にひき回されている人形だ」と見たなら、「黒沢(明)のはじめての哲学のない映画」と判断できなかったはずである。
 にもかかわらず、黒沢(明)らしからぬ「哲学のない映画」で、気まじめすぎた凡作、と評価した点に、この映画評のおもしろさがある。

 今のように、黒沢(明)が最高の映画人として崇拝されている時代には、誰も「蜘蛛巣城」を凡作などと切り捨てることはできないだろう。

 私は「蜘蛛巣城」を黒沢(明)の傑作と見ている。ただし、映画の傑作とは見ていない。オーソン・ウェルズの「マクベス」よりはマシだが。

2008/04/19(Sat)  ☆800☆
 
 スタンダールはいう。

    自分の生きている世紀から完全に抜け出して、ルイ十四世の世紀の偉大な人たちの眼の前にいると考えること。いつも20世紀のために仕事をすること。

 ルイ十四世の世紀の偉大な人たちが、ここでは誰をさすにしても、作家としてのスタンダールは、いつもモリエールや、コルネイユ、ラシーヌたちを意識していた。
 いつも20世紀のために仕事をしてきたからこそ、19世紀の最高の作家と見られている。
 私はこういうスタンダールを尊敬してきた。

 かぎりなく無名に近い作家でも(心のどこかでは)自分の生きている世紀から完全に抜け出して、19世紀の偉大な人たちの眼の前にいると考えてきたはずである。
 きみたちもこれからはいつも22世紀のために仕事をすること。
                (私の好きなことば)

2008/04/18(Fri)  799
 
 ジュリエット・ビノッシュ。私にとっては名女優のひとり。日本の女優には、まともにインタヴューに答えられないバカが多いが、ジュリエットは違う。
 少女時代にアイドルはいたのかという質問に答えて、

    ニコラス・レイね。シェームズ・ディーンに、ジョン・フォード。マリリン。
    マリリンはわたしにとって、いちばん偉大な女優だわ。「バス停留所」にはびっくりしちゃった。彼女には、美しくありたいという、すごく強い気もちがあるの。彼女が、あんなにも美しいのはそのせいなのよ。彼女は工夫していたし、何もおそれなかったし、いろんなやりかたをためしていたわ。

 ジュリエット・ビノッシュは、それほど美貌というわけではない。ハリウッドのスター女優にはジュリエットよりずっと美女が多い。しかし、ジュリエットに比肩できるほど演技力のある女優は少ないだろう。戦後のルイ・ジュヴェによる「コメディー・フランセーズ」の「伝統」が、女優ジュリエットに生きている。少なくとも、彼女の基本を作り上げているような気がする。
 「コンセルヴァトワール」での彼女が、タニャ・バラショヴァの薫陶を受けていることから、私の想像はそれほど誤りではないだろう。若き日のタニャは、マルセル・アシャールと親しく、その関係で、いつもルイ・ジュヴェの身近にいた女優、脚本家で、のちに「コメディー・フランセーズ」の新人育成の専門家になった女性なのである。

 ジュリエット・ビノッシュが、ニコラス・レイをあげていることに驚いた。
 ところで――マリリン・モンローはじつに不思議な女優だった。
 スターになってからのジェーン・フォンダが、寝室の壁いっぱいの大きさ(絵でいえば200号以上のサイズ)の、マリリンの写真を飾っていた。ジェーン・フォンダもジュリエットとおなじように、マリリンはいちばん偉大な女優だったと語ったことがある。

 ジュリエット・ビノッシュが、マリリンを大女優と見ていることに、私としては彼女の女優観が見えたような気がする。

2008/04/17(Thu)  798
 
 ジュリエット・ビノッシュ。好きな女優のひとり。たいていのハリウッド女優より、ずっとずっとすばらしい女優。

 父親は彫刻家で、俳優。母親が女優。こういう経歴は、かなり特別に見えるのだが、フランスの女優ならさしてめずらしくもない。1964年、パリ生まれ。

 この女優さんの発想というか、考えかたがおもしろい。
 絵を見て泣き出したことが何度もあるという。

    ロンドンにいた頃、お金が全然なかったけれど、国立美術館にはかなり通ったわ。一日に、展示室を一つづつ見ることにしてた。展示室に行くたびに、前に見たものを全部、頭のなかで思いうかべる。4日目か5日目に、新しい展示室に入ったの。とたんに、ガツンとくるようなショックを受けたわ。まるでもう息ができなくなって。
    ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵があったの。
    涙がどんどん流れてきて、もうとまらないのよ。

 「とくに好きな絵がありますか」と訊かれて、

    ううん、特にってこと、ないわ。すごく美しくて、すごく心を打つ絵はたくさんあるけど。
    でも、よく思うの。絵にサインがなければいいのにって。作品に名前なんかなければいいのに。誰が作ったかなんて、知る必要ないじゃない。名前で評価がきまっちゃったりする。でも、わたしにとって大切なのは、最初からそこにあるものなのよ。
    自然は、最初から与えられているわ。空は、わたしたちに与えられている。だけど、自然にはサインなんかないわ。空にはサインしてないでしょ。

 私はこういうジュリエットが好きなのだ。 
  (つづく)

2008/04/16(Wed)  797
 
 思いつくままに、私が関心をもっている女優をあげてみよう。

 池脇 千鶴、上戸 彩。加藤 あい、菅野 美穂、木内 晶子。菊川 怜。京野 ことみ。国生 さゆり。
 柴崎 コウ。鈴木 京香、田中 麗奈、中谷 美紀、西田 尚美。
 広末 涼子、堀北 真希。松 たか子、松嶋 菜々子、松雪 泰子。
 宮崎 あおい。宮沢 りえ、矢田 亜希子、優香。
 ほかに、いくらでもあげることができよう。
 このなかには、舞台でも見た女優も多い。

 それぞれの女優の魅力。ことばではつたえにくい。

 たとえば、クリスティーナ・リッチについて。

    ぼくがクリスティーナを好きな理由は、彼女が活動写真の雰囲気をもっていることなんだ。なんともいえないフワフワした感じ。この役には、クリスティーナがもっているはっきりしないクォリテイーが絶対に必要だったと、今でも思っている。彼女を見ていると、皆何かを感じるんだけど、それが何なのかわからない。ぼくにとっては、いや、この映画にとっては、それこそがすごーく大事な部分だったのさ。こういうクォリテイーはなかなかめずらしいもので、誰もがもっているものではない。これこそ、映画をマジカルにするクォリテイーだと思うんだ。

 ティム・バートンが「スリーピー・ホロウ」について語ったことば。
 「なんともいえないフワフワした感じ」では何の説明にもなっていないけれど、クリスティーナ・リッチという女優さんには、なぜかぴったりする。
 こういうことばは、語っている本人でもうまく説明がつかないのに、聞いているこちらがなんとなく納得してしまう、つまりは女優の魅力がはじめから論理的に説明しにくいからだろう。
 おなじ映画に出たリサ・マリーについて、ティム・バートンが何も語っていないことが気になるのだが、リサ・マリーについてはこんなふうにはいえなかったのかも知れない。そのあたり、私には別の興味がある。(こんなふうに考えるのが、批評家の習性なのである。)ウフフ。

 ある時期、ある若い女優に、「なんともいえない「香気」(フレグランス)がたちこめることがある。その「香気」(フレグランス)は、いわば一過性のものでもあって、その女優が演技的に向上するにつれて、いつしか「なんとなく」消えてしまうことも多い。

 たとえば、「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」のエミリー・ワトスン。
 私としては、できればそういう瞬間の女優について書いておきたいのだが、これがとてもむずかしい。

2008/04/15(Tue)  796
 
 我が家の庭で、冬の終わりからミモザがあざやかな黄色を見せる。

 そのつぎに、辛夷(こぶし)が春のきざしを告げるかのように咲く。ほのかなピンクを帯びた白い花である。堀 辰雄の『大和路・信濃路』に美しく描かれている。

 そして、梅。

 少し遅れて、海棠が花をつける。
 この海棠は、友人の小川 茂久が、亡くなる前日に私に贈ってくれたもの。
 私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書きあげたばかりだった。小川の危篤を知らされて、いそいで川越、小仙波のマンションに向かったのだった。
 もはや死期も近かった彼は、私が長期間、書き続けてきた作品がやっと完成したことを告げると、声もなくうなづいてくれた。その眼に輝きがあった。
 その日、彼は形見の品をわたしてくれたが、病床に飾ってあった海棠の鉢も贈ってくれたのだった。

 一度、帰宅した私を追いかけて、小川の絶命が知らされた。私は、葬儀に出る支度をして、また川越に向かった。二月二十八日だった。

 あれから十年になる。
 海棠は、やがて鉢から庭に移した。今はずいぶん大きくなっている。毎年三月、私は海棠の花をみながら、小川 茂久という親友を得た生涯のしあわせを思う。

 海棠より少し先に白木蓮。
 咲きはじめたばかりの木蓮の白ほど美しいものはない。シクラメンの白など、比較にもならない。白木蓮の白は、たとえようもないほど豪奢な色彩といっていい。だが、この白の豪奢は、ほんの一日、せいぜい二日しかつづかない。
 またとない豪奢な白がみるみるうちにごくありきたりの白に変化する。散りしいた花びらは無残に散って、たちまち汚れ、褐色に褪せてしまう。
 清純な処女が、あわれ、たまゆらにその美を喪失してしまうよう。

    Every night and Every morn
    Some to misery are born:

 ふと、ブレイクの一節(「ロング・ジョン・ブラウン/リトル・メァリ・ベル」)を思い出す。

 それぞれの時代を彩った女優たちを連想する。

2008/04/14(Mon)  795
 
 ある古書店が廃業した。

 四街道には、一時期、友人の竹内 紀吉が住んでいた。私の住んでいる土地から、ローカル線で3駅。よく駅前で、酒を酌み交わしたものだった。その古書店も、そんなことから立ち寄るようになった。
 廃業すると知って、一度、本を見に行った。

 その週の日曜日にもう一度行ってみた。正午なのに、扉が閉まっていた。さては昨日いっぱいで閉店したのか。

 この古書店からずっと先に、こども向けのゲーム、CD、ビデオ、DVD、奥にアダルト・ビデオなどを並べた店がある。ここに行ってみた。むろん、買いたいものもない。

 しばらくして駅前に戻った。
 もう一度、「古本屋」の前に出た。
 おや、照明がついている。誰かいるのだろうか。

 中年のオバサンが、高校生らしい息子と、店の本を片づけているのだった。私は店内に入った。オバサンが私をみて、
 「もう、閉店しました」という。
 「いや、買いたい本があるので寄ってみただけ。見てもいいですか」
 オバサンは私を、別にあやしい者ではないと見たらしい。
 「どうぞ」
 といってくれた。

 見当をつけておいた棚に寄って行く。しかし、私が見つけた本はなかった。へえ。あんな本を買うやつがいるのか。
 仕方がない。何が別の本を買うことにしよう。
 「古語辞典」と、ある作家の小説を手にとった。

 「おさがしの本はありましたか」
 オバサンが訊いた。
 「いや、なくなっていました」
 自分の探していた本が買えなかったことが、急に残念な気がした。なぜ、買っておかなかったのか。
 「そのかわり、これをください」
 オバサンが、その本を手にとった。ちょっと見ていたが、
 「この本、もって行ってください。さしあげます」

 私は驚いた。
 「いや、いいですよ、お金は払いますから」
 「いいんですよ、さしあげますから、もって帰ってください」

 けっきょく、タダでもらうことになってしまった。
 オバサンは、私が日曜日にわざわざ閉店の店にやってくるほどの本好きと見たのだろうか。それとも、本をさがしているという口実で、何か記念に本を買っておこうとやってきたと思ったのか。

 オバサンの親切がうれしかった。タダで本をせしめた申しわけなさ、うしろめたさはあったが、まだ日本人の人情が残っているようで、いい気分だった。

2008/04/13(Sun)  794
 
 牧原 出という学者が書いている。
 この先生は、ロンドンで、いろいろとコンサートに行くようになった、という。

    もちろん最初の頃は、日本ではCDでしか聞くことができない演奏家のコンサートが続くので、演奏に心を奪われる思いだった。だが、いくつかコンサートに行くにつれ、演奏もさることながら、観客の様子を観察することもまた面白くなってきた。日本でクラシック音楽のコンサートといえば、外国の有名演奏家を拝むように聞く人たちか、さもしたり顔でミスがないかと身構えるマニア風の聴衆が目についたが、ロンドンの聴衆はもっと屈託がない。ロンドン在住の演奏家の場合は「ロンドンっ子」が演奏して、という感じだし、ヨーロッパ大陸から名だたる演奏家がやってくれば「よくぞ来てくれた」という雰囲気が漂っている。音楽を伝統の一部として日常的に受けとめているような聴衆の態度は、よくも悪くも舶来品を珍重する日本の聴衆の姿勢とは全く異質だった。

 この学者は、東大の「先端科学技術研究センター」の客員教授。

 これは、まったく同感で、私なども日本で音楽のコンサートで、よく経験したものだった。私なども「外国の有名演奏家を拝むように」聞いてきたひとり。しかし、そのうちに「したり顔でミスがないかと身構えるマニア」など気鬱(きぶ)っせい連中がいやでコンサートにも行かなくなった。

 芝居の観客も似ている。
 東京で「モスクワ芸術座」や、「コメデイ・フランセーズ」などを見た頃は、外国の有名な演出家の芝居を拝むようにして見ていた。「モスクワ芸術座」などを見て、スタニスラフスキー・システムを唯一無二の演技論とあがめ奉っていた連中がゴロゴロしていたから。
 こういう連中はルイセンコとか、ミチューリンをかついでいた連中と、おなじ顔をしていた。
 ついでに書いておく。私が見たい映画の1本は――アレクサンドル・P・ドブチェンコのドキュメンタリー、「ミチューリン」(1949年)。こんな映画に唯物論的な関心はまったくないが、旧ソヴィエト映画史的には興味がある。

 こんなゲテモノでもないかぎり、いまの私はもう舶来品を珍重する気もなくなった。

2008/04/12(Sat)  793
 
 神奈川県が、高校教育で日本史を教えることになった。
 学習指導要領では、「地理歴史」の教科で、世界史は必修、日本史と地理は選択科目になっている。
 神奈川県の計画では、世界史のほかに、
   1)日本史を履修する
   2)日本史と地理/歴史の2科目を勉強する
 新科目は、それぞれ1単位か2単位。年間、35コマ。

 私は、この計画に賛成である。理由は多数あるが、とりあえず、日本において歴史教育は必要である。

 神奈川県の県立高校の生徒の約3割が、日本史をまったく学習せずに卒業する。だから、日本がアメリカと戦争したことさえ知らない若者がいる。

 神奈川県の高教組の委員長がこれに反対している。反対する理由に、この必修化が、かつての皇国教育、軍国教育への逆行をもたらす可能性があるという。しかし、それはあり得ないたろう。日教組的な教育者が、日本史の必修がただちに皇国教育、軍国教育に直結すると考えるのはあやまりである。

 歴史はイデオロギーによって変化するものではない。戦時中の皇国教育、軍国教育が、共産主義国家の独善的な一党の支配と同根だったことは、もう誰もが知っていることだから。
 高校生の約3割が、国史をまったくしらずに卒業するような国は、けっして敬意をもって見られることはない。

2008/04/11(Fri)  792
 
 酒を飲みしこる。
 今どき、こんなことばを使う人はいない。私はわざと使う。ただし、エッセイで「酒を飲みしこる」と書くと、かならず「酒を飲みしきる」と書き直される。校正者がわざわざ訂正するらしい。

 「酒を飲みしこる」と、「酒を飲みしきる」は、おなじではない。校正者はおそらく、「しきりに」という副詞を連想するのだろう。しきりに酒を飲む。いかにも三文文士のイメージにぴったりかも。
 しかし、私は「酒を飲みしきる」とはいわない。断じて。
 「しこる」は、筋肉が張って固くなるしこりとおなじ。「酒を飲みしこる」となれば、ひたすら酒を飲むことであって、しきりに酒を飲むなどという、まあ、太平楽なものではない。
 酒を飲まずにいられない。たとえば、女にふられて、やりどない思いをまぎらすために酒を飲む。まあ、そういった気分のものである。

 こういう気分は、あうさきるさ、という。この「あうさきるさ」もいいことば。
 良寛さんの歌でおぼえた。
   むらぎもの心をやらむ 方ぞなき あうさきるさに 思ひみだれて

 むらぎもの、は、心のまくらことば。

 私流の訳で申しわけないが・・・こうして生きていると、あらぬことが心をかすめる。あれこれと心はみだれるばかり。
 良寛さんよりずっと前に、兼好さんが、切ない恋に、あうさきるさに思ひみだれて、眠れぬ夜を過ごすような男のあわれの深さをお書きになっている。

 私が、うっかり酒を飲みしこるのは、兼好さんのいう、切ない恋にあうさきるさに思ひみだれるからだったし、また、良寛さんのいう、むらぎもの心をやらむ方もないからであった。
 こうしたニュアンスを帯びたことばを、「酒を飲みしきる」などと校正で直されるのはうれしくない。だから、もう書かないことにしよう。

2008/04/10(Thu)  791
 
 前に書いたのだが、いちばん先に小説にラジオを登場させたのは、菊地 寛という。
 では、SF(空想科学小説)以外で、いちばん先に小説にテレビを登場させたのは、誰か。これは、わかっている。中田 耕治である。
 まだ、影も形もなかったテレビをわざと書きとめておいた。テレビが、現実のものになると確信していたからだった。

 それでは、映画をいちばん先に小説に登場させたのは、誰か。これが、わからない。

 活動写真が、映画と呼ばれるようになったのは、トーキーが登場してからのことと考えていいのだが、現実に「映画」が小説に登場するのは、いつ、誰によってなのか。

 佐藤 紅緑の長編『半人半獣』に、

    朝彦は今まで活動写真を見たことは数へるだけしきゃなかった。一度彼は日本の写真を見て其(その)妖怪の様な顔、岩の様に硬い線、下卑た女優の表情、丁髷(チョンマゲ)を結って尻を捲った不作法な動作などに肝を潰した。

 とあって、「活動写真」は「写真」と表記されている。この「写真」は、新撰組の近藤勇が、勤王の志士と乱闘になる。つぎの写真は、侠客、国定忠治である。
 主人公が、つぎに見る映画は「ソドムとゴモラ」という「西洋写真」である。

 おなじ佐藤 紅緑の長編『愛の巡禮』に、

    露子さんは至って話材が乏しかった。彼女は食物や衣服や、映画役者の批評より他には何も語ることが出来なかった、自分の住んでいる映画界が全世界の様に思うて居る風すら見えた。 (『愛の巡禮』「骨肉!」)

 とあって、こちらでは「活動写真」の役者ではなく、「映画役者」、「映画界」という概念があらわれる。「骨肉!」は、第14章に当たるのだが、もう終結に近い「戀の亂射」では、

    彼女等は映画俳優の人気者浦田相州を覗いて居るのであった。

 となる。この連載が進行中に、「映画役者」が「映画俳優」に変化している。どうやら映画スターに対する崇拝(ウォーシップ)という「大衆状況」に関係があるのではないだろうか。

 「浦田相州」というネーミングには、早川 雪州のイメージがあるだろう。
 昔の小説を読んで、あらぬことまで考える。私の悪癖。

2008/04/08(Tue)  790
 
「中田耕治ドットコム」のアクセス数が、3万に達した。

 はじめてHPに原稿を発表したときには、予想もしなかった数字である。そもそも、こんな個人的なHPを読んでくれる人はいないだろうと思っていた。読んでくれる人がいたとしても、ごく少数の知人たちが、最近の中田耕治は何を考えているのだろうと興味をもって、アクセスする程度だろう。
 それでも、ありがたいと思っている。
 わずかな読者を相手でも、自分の現在をつたえる、それは作家としてよろこびではないか。

 昨年亡くなった友人、亀忠夫は、私が彼の句集の感想を書いたとき、はじめて、このHPを知って「毎日のように、こういう文章を書いているエネルギーにおどろいている」と書いてきた。

 こんなものでも毎日書きつづけていると、それなりに傾向、方向性といったものが見えてくるはずだが、いろいろな時期に、まるで勝手なことを書きつづけているにすぎない。
 心にうかぶよしなしごとを気ままに書く。さして苦労ではない。文章を書くエネルギーどころか、毎回々々、出たとこ勝負のようなものなのだ。
 毎回、何かの視点をきめて書く、ないしは、意識して書くというわけでもない。私の内部に、ある程度の傾向、バイアスといったものがあって、それが思わず知らず出てくる、それはあるだろう。

 今は、ブックレヴューもさかんだし、読書ブログだって、いくらでもある。そんななかで、私は人があまり書きそうもないことを書く。
 ネットで探しても、めったにぶつからないこと、もう、あまり知られていないようなことを書く。思い出したときに書いておかないと、すぐ忘れてしまうので(笑)。

 たとえば、「パルプ・フィクション」や「マルコヴィッチの穴」については書いてみたい。その頃、何も書かなかったから。ただし、これももうよくおぼえていないのだから、うまく思い出せるかどうか(笑)。

「パッチギ!」の監督の「指あそび」を思い出す。山本 晋也を見ながら、きみの「好色透明人間・女湯のぞき」だっておぼえている、とつぶやく。
 思い出したからといって書くつもりはない(笑)。

 私は、あくまで自分が関心をもつことを書こうと思う。自分が関心をもつことを書いて、関心のない人に読んでいただく。そのために、できれば短く、おもしろく書く。

 これが「中田耕治ドットコム」のベーシックなのである。

2008/04/07(Mon)  789
 
 作家、ソール・ベローがノーベル賞をうけたとき、私はある新聞にたのまれて、いそいでエッセイをかいたことがある。夜中に新聞社から電話があって、翌朝、原稿をとりにくる、といった仕事だった。原稿はその日の夕刊に掲載される。
 ファックスも、メールもない時代だったから、こういう仕事を引き受けて、確実に間にあわせる、重宝なもの書きは少なかったのだろう。

 なぜ、ソール・ベローなのか。
 この問いは、まさにアメリカの戦後文学の核心につきあたる。サリンジャー、マラマッド、ロス、アップダイクといった、すぐれた才能がひしめきあっているなかで、ソール・ベローはほとんど孤高といってよい存在だった。

 1915年、カナダ、ケベック州ラシーヌ生まれ。ユダヤ系ロシア移民の子だった。
 幼年時代をモントリオールの貧民街で過ごし、少年時代からシカゴで過ごした。
 ソール・ベロー自身「生粋のシカゴ育ちと考えている」作家だった。シカゴが、アメリカの文学的空間、文学史的な時間のなかではたした役割を見れば、ソール・ベローがシカゴ派の作家らしい特質をもっていることに気がつく。
 少なくとも、シカゴ育ちという自覚、ないし、潜在意識は、ソール・ベローの世界の基調といってもいいだろう。

 初期の作品、『犠牲者』は、脅迫(ブラックメール)を主題にした心理的なドラマだが、ここではユダヤ系とアングロ・サキソン系の違い、ユダヤとしての自意識、と同時に、被害妄想が語られている。その背景には苛烈としかいいようのないアメリカの現実の息苦しさがひろがっているのだが、ソール・ベローは、ときとしてサリンジャー、マラマッド、ロス、アップダイクたちが見せるようなソフィストケーテッドな姿勢を見せない。
 ドストエフスキーは、自分の内面的な欲求から、作中人物を処罰する作家と見ていいが、ソール・ベローは、自分の内面の衝動から、作中人物をつぎからつぎに苦難に追いやる作家といえる。彼の主人公は、いつも受難者の顔をしている。だから、ソール・ベローを読んでいて、主人公の苦しみや悩みが、そのままこちらの苦しみや悩みになってくるような気がする。私などは、悲鳴をあげたくなるのだが、ベローはすかさず、救いを与えてくれる。『犠牲者』の「レビンサール」もその例だろう。

 現実に、あまりにも肥大化しながら物質的な繁栄をひたすら謳歌しているアメリカの内面、そこにすでにきざしている崩壊の予兆に、ソール・ベローは眼を向けている。そういう社会のなかで生きることの意味は、何なのか。
 処女作「宙ぶらりんの男」は、徴兵通知を受けながら、いつまでも入隊させられない若者の日記。こういう不安定な猶予(シュルシ)にも、生きることの意味の問いかけがあり、そこに苦悩がまつわりついている。もはや、回復しがたいところまで追いつめられながら、なおも必死に生きようとしている状態が、ソール・ベローの描く「猶予」にほかならない。

 たいへんな長編作家で、三作目の『オーギー・マーチの冒険』、六作目の『ハーツォグ』などは、質量ともに大作で、こういう長編に対する欲求は、アメリカ作家に特有なものかも知れない。
 たとえば、トム・ウルフに見られる、驚くほど執拗な自己追求、自己解析は、作風はまったく違うけれど、ソール・ベローにも共通している。
 『雨の王ヘンダーソン』の主人公が、自分でもわけのわからない欲求にかりたてられて、アフリカの奥地にもぐり込みながら、執拗に自分を追いつめてゆく姿にも、こういう原衝動がある。

 ある日、神保町の路上で、アメリカの本をたくさんかかえた植草 甚一さんに会った。すぐに立ち話をなさるのだった。
 「やあ、中田さん、いいところでおめにかかりました。この作家を読みましたか」
 私の知らない作家の原書だった。
 「いいえ、存じません」
 通行人が、私たちを見ながら通って行く。若い人たちは、たいてい植草さんをしっているらしく、その植草さんと親しそうに話をしているオジサンは何者なのか、という好奇心を見せているようだった。
 私はその原書のフラップを見た。
 知らない作家の本だった。私にかぎらず、この作家に注目した人はいなかったのではないか、と思う。
 植草 甚一さんは、その本を私の手にわたして、
 「これ、あげましょう。中田さんが、読んだほうがいい」
 その場で本を下さった。

 ソール・ベローだった。

2008/04/06(Sun)  788
 
 ハーマン・メルヴィルが好きというわけではないのだが、ほとんど全部読んできた。
 『白鯨』の「エイハブ」に見られるドストエフスキー的というか、グノーシス的な認識に衝撃を受けたからだった。しかし、メルヴィルについてはまったく書かなかった。書く機会がなかったせいもあるが、つよい畏怖に似た感情をもちつづけてきたので、たとえ書こうとしても書けなかったと思う。

 ただし、メルヴィルの専門家ではないから平気で書けるのだが、私が楽しく読んだのは『白鯨』ではなかった。むしろ、『タイピー』や『オムー』だったことも白状しておこう。
 この理由はすぐに想像がつくだろう。
 『白鯨』ほどおそろしい小説ではなかったからである。ヌクヒヴァ島の原住民たちの暮らしが、私にとっては、空想的なものではなく、はるかに現実的なものと見えた。
 当時、『タイピー』は翻訳がなくて、『オムー』の翻訳を読んで『タイピー』を知ったため、ずいぶん苦労して探しまわった。こんなところにも、戦後にはじめてアメリカ文学を読みはじめた若者の、ひたすらアメリカ文学にのめり込んで行った姿の滑稽さ、いじらしさが見られるのだが、ヌクヒヴァ島から脱出した主人公の捕鯨船の生活が先にあったので、『タイピー』を読んだときは、ほとんど羨望に近い思いさえあった。
 メルヴィルにかぎらないが、手あたり次第に本を読んできたので、こんなおかしな読みかたをするのはしょっちゅうだった。
 どんな作家も、大学の研究者に研究されるために書いているわけではない。私のように、追っとり刀で作家に肉迫してゆく三ン下批評家の読みかたで、どこがわるいのか。

 はじめからメルヴィルの専門家にはなる気などさらさらなかった。
 多島海に漂流した主人公が、原住民の娘、「イラー」と恋をする『マーディ』は、途中まで読んで投げ出してしまった。正直、メルヴィルにうんざりした。
 これを読んだ頃には、もう、『洞窟の女王』や、『ターザン』を読んでいたせいかも知れない。

 少年時代に『タイピー』を読んだことは、私の記憶に大きく残っている。戦後の混乱の日々に、アメリカ文学を読みつづけていたことになつかしさをおぼえる。
 ふと、「島」の魅力にとり憑かれていた自分が、それから逃れるために、ヘミングウェイ、さらには、ヘンリー・ミラー、アナイス・ニンに遭遇したのかも知れないと思う。

2008/04/05(Sat)  787
 
 カルミネ・ガローネという監督がいた。イタリアの無声映画からの監督で、歴史もののスペクタクルで有名だった。戦後、日本の新人女優、八千草 薫を起用して、全編オペラの「蝶々夫人」を撮っている。
 そのガローネがジュール・ヴェルヌの『ミッシェル・ストロゴフ』を映画化した。戦前に「大帝の密使」として作られた映画のリメイクということになる。これに、クルト・ユルゲンスが主演している。

 ロマノフ王朝に反乱を起こしたダッタン族に、イルクーツクが包囲される。
 そこで、モスクワから、イルクーツクの守備隊に皇帝の密使がつかわされる。身分をかくすために、ひとりの可憐な美少女が妻という名目で同行するのだが、これがジュヌヴィエーヴ・パージュ。
 この映画でも、クルト・ユルゲンスは堂々たる押し出しで、圧倒的な演技を見せていた。重厚なクルト・ユルゲンスに対して、ジュヌヴィエーヴもわかわかしく、魅力もあふれていたから、映画がおもしろくならないはずはない。
 ところが、この映画、まるっきりおもしろくなかった。

 カルミネ・ガローネの大時代な演出もこの映画をひどくつまらないものにしていた。日本での公開もおそらくコケたのではなかったか。
 この時期、すでにフエデリーコ・フエリーニの「道」が登場している。同時に、ベルイマンの「夏の夜は三度微笑む」も。カルミネ・ガローネの映画が見劣りしたのも当然だろう。私もこの映画には失望したが、それでも、インキジノフと、ジャック・ダクミーヌが出ていたので、この映画を見てよかったと思った。
 インキジノフは無声映画の大スター。私は見たことがなかった。デュヴィヴィエの「モンパルナスの夜」公開当時、私は5歳ぐらい。評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていたとき、偶然、BS11で「カザノヴァ」を見た。ジュヴェの恋人だったマドレーヌ・オズレイが出ていたので、この映画を見たのは大きなはげみになった。
 ジャック・ダクミーヌは、戦後(1951年秋)、エドウィージュ・フゥイエールが「エーベルト劇場」でやった芝居に起用された新人だった。どういう俳優なのか見ておきたかった。

 私の場合、その映画一本を見ることで得られるものは多かった。
 その映画が暗黙のうちに見せているもの、あるいは、ちょっと見ただけではわからないもの、ときには見えないものを「見る」こと。
 ・・・・うれしかったのは、まだ世界的なスターになる前の、新人女優、シルヴァ・コシナが出ていたことだった。(ユーゴスラヴィア出身の女優である。シルヴァ・コシナが好きだった常盤 新平も、おそらくこの映画、「皇帝の密使」のシルヴァは見ていないだろうと思う。)

 私は、つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味だった。つまらない映画を見ても、いろいろ考えることはできる。
 たとえば、クルト・ユルゲンスという俳優は、どうしてこんなつまらない映画に出るのだろう? しかも、ほかの俳優がまるでダメなときでも、彼だけはどうしていい芝居をしているのだろうか。
 私は、そんなことばかり考えていた。

 映画について、とくにその映画に出ている俳優、女優について考えることは、私にとって、芸術について考えることにほかならなかった。
 そして、芸術について考える私について考えることだった。

 だから、マリリン・モンローについて私なりのモノグラフを書いた。ルイ・ジュヴェの評伝を書いた。

2008/04/03(Thu)  786
 
 クルト・ユルゲンスは名優といっていい。
 戦後のドイツの俳優のなかで、いちばん存在感があったひとり。
 ハリウッド映画にたくさん出ているが、いまの私がまっさきに思い浮かべるのは、「深く静かに潜航せよ」ぐらい。ドイツ海軍の潜水艦の艦長。この潜水艦を捕捉して、執拗に爆雷攻撃をつづけるアメリカ海軍の駆逐艦の艦長が、ロバート・ミッチャム。

 ロバート・ミッチャムは、ずっと後年の「さらば、愛しき女よ」で「フィリップ・マーロー」をやったが、はじめからハリウッドの映画俳優だった。この映画では、クルト・ユルゲンスとぶつかるシーンもない。だから、この映画では芝居で勝負していない。
 一方、クルト・ユルゲンスは、狭い潜水艦の内部だけの芝居なので、演技はだいたいクローズショットが多くなる。当然、顔(フェイシアル)の芝居になる。老練、不屈のドイツ海軍の艦長が、全力をあげて敵の爆雷攻撃をふり切って逃げようとする。冷静な艦長がはじめは敵にして、圧倒的な自信をもっていながら、その軽蔑に似た思いが、やがて呪詛、さらには焦燥、怒り、敗北感に代わってゆく。
 これが、期せずして、ロバート・ミッチャムの芝居とすばらしいコントラストになっている。

2008/04/01(Tue)  785
 
 ときどき昔の名優たちを思い出す。

 たとえば、『悪魔と神』(サルトル)の「ゲッツ」をやった尾上 松緑。戦後のサルトルへの関心から見たのだが、ほんとうは、戦後、ルイ・ジュヴェが演出した戯曲なので見に行ったのだった。日本ではジュヴェの演出が失敗したという評判だけがつたえられていた。もし失敗したとすればどういう理由によるものなのか。失敗はどこの部分においてだったのか。
 ジュヴェは、その後まもなく亡くなっている。ジュヴェの芝居を見るわけにはいかない。だから、日生劇場に行くことになった。(1965年だったか。)
 松緑の芝居は、戦前、前後と、とびとびながら見てきた。松本 豊の頃から、母がひいきにしていたせいで、戦前からこの俳優のことは知っていた。父の幸四郎から菊五郎(六代目)にあずけられたためか、うまい役者、将来性のある役者と聞かされてきた。
 松緑になりたての頃、不人情な役者という評判が立っていたときでも、私の母は松緑を褒めていた。若手のなかでも、「船弁慶」の「静御前」や、「南郷力丸」などがすばらしい、といっていた。
 私は松緑も好きだったが、兄の染五郎(のちの幸四郎)も好きだった。

 戦後、しばらく歌舞伎を見なかったので、久しぶりに、「ゲッツ」の松緑を見て驚嘆した。むろん、松緑の芝居をいくらかでも継続的に見てきたせいで、こういう驚きがやってきたのだろうと思う。「ヒルダ」をやった渡辺 美佐子が可憐に見えたぐらいで、ほかの(劇団「四季」の)俳優たちの存在までがかすんでしまった。

 ずっと後年、福田 恆存の『明智光秀』で幸四郎を見た。このときの幸四郎もすばらしかった。
 私は幸四郎、松緑によって名優のもつ力の凄さを知らされたような気がする。

2008/03/30(Sun)  784
 
 暇をもてあます、ということはない。
 ほんの二、三分、誰かの句集を開いて、そのページに出ている句を読む。(短歌はあまり読まなくなった。歌集までとても手がまわらない。)詩集は一度、眼を通しておいて、あらためて読みはじめる。そうしないと頭に入らない。

 こんなものを見つけた。

     鎌倉の かぢのむすめ
     日本の天下の しゃれおんな
     しゃれおんなに 油をつけて
     オヤ 十五夜の 月を
     シャ 鏡にしょ

 鎌倉時代の民謡という。
 むろん、曲はわからない。メロディーはわからなくても、鎌倉時代の男の眼を惹きつけた「日本の天下のしゃれおんな」の姿。
 まさか十五夜のお月さまを鏡にしてその女を映してみたい、とは思わないけれど、鎌倉の鍛冶の娘は、きっと、きりりとした美しい娘だったにちがいない。

 合いの手の「オヤ」も「シャ」も感動詞。「シャ」は、さげすみ、あざけりの含意でつかわれることがあるが、ここでは感嘆だろう。あるいは接続の「さて」なのか。

 女につけるあぶらがどういうものかわからない。しかし、私としては「あぶら月」を連想する。そう見てくると、いい歌詞だと思う。

 春になったら鎌倉に行って、小林 秀雄、澁澤 龍彦、磯田 光一の墓に詣でようか。鎌倉を歩いたところで、鍛冶の娘がいるはずもないが、「日本の天下の しゃれおんな」の二、三人は見かけるだろう。

2008/03/29(Sat)  783
 
 外国語の小説を読むことが少なくなってきた。
 外国の小説を読んで感心することがなくなってきた、というのは、こちらの感性がにぶくなったせいだが、さりとて翻訳を読まなくなったわけではない。

 ときどき昔の作家のものを読む。

    「過去二十年、私はおびただしい短編を書いてきた――少なくとも、この本におさめたものの三倍も書いている。ある作品は愛のために書いたし、お金のために書いたものもある。怒りをぶちまけるために書いたり、共感や悲しみを、ときには絶望から書いたものもある。こうした作品を書いた動機が何であれ、いつも一つ、共通していたことがある。私はこの小説たちを書きたかったのだ。

 こう書いたのは、女流作家のケイ・ボイル。

 寝る前に1編を読む。とてもいい作品が多い。いい作品を読むと、ぐっすり眠れる。朝、眼がさめたとき、ストーリーの内容をだいたいおぼえていれば、その作品は私にとっていい作品なのである。
 忘れてしまったら、たいした作品ではなかったと思えばいい。
 どうせ、もう二度と読まないのだから。

2008/03/27(Thu)  782
 
 私にしても、何度も「助六」を見てきた。戦時中に見た、羽左衛門の「助六」、吉右衛門の「意休」は、いまだに眼に残っている。

 今の団十郎の「助六」を見ながら大昔の団十郎(九代目)の話を思い出した。(ただし、この役者を、昭和生まれの私が見ているはずがない。)こっちの団十郎は、養父、河原崎権之助にみっちり仕込まれた。
 この権之助は、明治元年、今戸で、凶賊に襲われて横死した役者。(戦後すぐに起きた、仁左衛門殺しに似ている。思えば、敗戦直後は、すさまじく殺伐な時代だった。)権之助殺しも幕末から明治に移った時代の混乱のなかで起きた悲劇だったが、その断末魔のうめきが凄まじいものだった、という。
 それを二階にいた団十郎が聞いていた。後年、「湯殿」の長兵衛で、これを芝居(演技)にとり入れた。この長兵衛の打たれで、肺腑をえぐるよえなうめき声の迫真に、満場、戦慄したという。ちなみに、このときの水野十郎左衛門は河原崎権十郎。

 「助六」を見ながら(実際には、見たこともない)大昔の団十郎を連想するような私の意見だから、当たっているとはいえないが・・・

 パリから戻ってきたあたりから、団十郎もようやくいい役者になってきた。

2008/03/25(Tue)  781
 
 マンガ家の安西 水丸が、歌舞伎を見て、
 「紫の病鉢巻(普通は左側に結ぶのがきまりだが、助六は、これが当時の江戸っ子というのか、今見ると奇妙な男だ)。この芝居は何度か見ているが、いつも退屈してしまう。正直に書くとどこがおもしろいのかわからないのである。――」
 と、書いていた。
 正直でいい。もともと「助六」は、退屈で、どこがおもしろいのかわからない芝居なのだ。

 初演の「助六」は、一幕で半日かかったという。これでは、いくら江戸っ子だって、たいてい退屈してしまう。なぜ、そんなに時間がかかったのか。ようするに「演出」の問題と理解していい。
 大道具を一杯に飾る。今なら裏方の技術も高度なものになっているし、各自の分担も手順よく細分化されている。劇場によっては、舞台転換もコンピュータ処理ができるけれど、昔の劇場(こや)では一度飾ったら、むやみに装置をバラせない。
 そこで、作者先生も一杯の道具のなかに、いろいろな要素を盛り込む。
 かんぺらや、朝顔、白酒、みんなコミックな要素をもっている。それが、長いあいだに、俳優の工夫も重なってどんどん整理され、今のかたちに昇華してきたと見てよい。

 竹田 出雲からあと、宝暦あたりから、上方、関東、いずれも台本の恰好がおなじようになったのも、秋成、源内、南畝、あるいは『柳多留』の登場した時代を反映していたのか。

 安西 水丸のことばから、あらぬことまで考えてしまった。

2008/03/23(Sun)  780
 
 森田 たまは、戦前から名随筆家として知られていたが、この程度の随筆家は、今の同人雑誌にいくらでも見つかるだろう。
 たとえば、「孤独の尊さ」という文章があった。日中戦争が始まる直前に書かれたらしいが、この随筆家か見つめた「孤独」はどういうものだったか。

    孤独ほど耐へ難いものはない。しかしまた孤独ほど尊いものはない。誰が太陽を二つ見たか、誰が月を二つ見たか。・・・一国の中に君主はいつも一人ときまってゐる。さすれば一家の中にただひとり生れいでた愛娘は、その親にとつて君主であり、月であり、太陽であると云つても過言ではないでありませう。一人娘はそれ程まで恵まれた星の下に生れてきてゐるのです。人知れぬなやみの多く深きこと、また当然としなくてはなりますまい。

 これが書き出し。あきれた。こんなぞろっぺぇな文章を書いて名随筆家なのか。本人が名随筆家気どりだったのだから、始末にわるい。

 森田 たまはつづける。

      ながき夜の灯に結ぶ丁字の
      燭涙となりたまるを見れば
      今はた知りぬ世のことはりを
      時めける人うれひしげしと

    これは佐藤春夫先生の著はされました車塵集の中にある訳詩で、原句は「夜半燈花落、液涙満銅荷、乃知消息理、栄華憂患多」といふのですが、まことにこの詩のとほり、世にすぐれ持てはやされてゐる人ほど、それに比例してなやみも又多いものと思はねばなりませぬ。森の中にぬきんでた樹は風あたりが強いやうに、美しく生まれた人に哀話が多いやうに、一人娘もまた人から羨まれる境涯であるだけにかへって、ひそやかな憂ひの涙に、かはかぬ袖の又しても沽れることが多いでありませう。

 森田 たまを読みながら、ふと、梶井 基次郎の短編、「冬の蠅」を思い出した。
 自分の人生の「先がどうなるか」まったくわからない。ほんとうに『お先まっ暗』な若者が、よぼよぼと歩いている蠅、指を近づけても逃げない蠅をじっと見ている。この梶井 基次郎に、私はいいようのない孤独を読む。
 梶井 基次郎の文章には森田 たまなどが、ついに知ることのなかった孤独が吹き荒れている。
 こうした無間地獄のような孤独と、森田 たまの「孤独」などはまったく別のものだろう。

 「孤独の尊さ」だと。冗談じゃねえや。

2008/03/22(Sat)  779
 
 森田 たまは、戦前から戦争中にかけて、名随筆家として知られていた。

 作家の素木 しづのことを調べていて、森田 たまの随筆にぶつかった。「素木 しづさんの思ひ出」という文章で、『随筆 貞女』(昭和12年/中央公論社)に収められている。
 この『随筆 貞女』にこんな文章がある。

    花柳章太郎さんの随筆集「べに皿かけ皿」を読んで、何か感想をのべてみたいと思つてから最早まる一年も経つてゐる。そのあひだじゅう一度も忘れたことがなく、いつも心に思ひながら一年経つてしまつたのだから、われながら呆れるほど気が長いけれども、同時にずゐぶん執念深い性質だともおもふ。さうしてどうやら、このあつさりしてゐるやうで、なかなかねつい、性急のやうで気の長い性質は花柳さんもよく似てをられるやうな気がするのである。おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家で、と私は日頃から自分で考へてゐる自分の性質を、そのまま花柳さんにあてはめてもまちがひはないやうに思ふのだけれど、ひょつとすると、それは私の希望の影にすぎないのであるかもしれない。好きな人や崇敬する人物の中に、つねに自分とおなじものを見出したいとねがふ人間の本性にたがはず、私もやはり、花柳さんの中に己れを見出さうと、しらずしらず願つてゐるのかもしれないのである。

 こういう文章が名文だったのか。それはいいとして、森田 たまはこの文章のいやらしさに気がついていない。ご本人がまるで気がついていないところが不愉快である。

 「われながら呆れるほど気が長いけれども、同時にずゐぶん執念深い性質」という女性が、すぐに「あっさりしているやうで、なかなかねつい、性急のようで気の長い性質」は、「好きな人や崇敬する人物」たる花柳さんもよく似ているような気がする、という。
 これは、自分をほめるのにじつに便利ないいかただと思う。
 「おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家」だとさ。たいていの女性は、自分のことをその程度には見ているだろう。

 私だって、「おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家」のひとり。
 「あっさりしているやうで、なかなかねつい、性急のようで気の長い性質」でもなければ、もの書きなんぞやってられっか。

 森田 たまの素木 しづ回想を読んで、ひどく不快なものを感じた。

2008/03/20(Thu)  778
 
 晩年の芥川 龍之介が、後輩の久保田 万太郎に、自作の俳句を見せた。久保田 万太郎は、すでに傘雨宗匠として知られていた。

    うすうすと曇りそめけり 星月夜

 傘雨宗匠はこの句をよしとした。

 数日後、龍之介先生は句をあらためて、

    冷えびえと曇り立ちけり 星月夜

 これを傘雨宗匠にしめした。傘雨宗匠は頭をふって、「いけません」といった。

 龍之介先生は後句を捨てなかった。万太郎は、ついにこの句を認めなかった。

 前句と後句のどちらがいいか。私には判定がつかない。「冷えびえと」のほうは、晴れから曇りにうつろう時間の経過を詠み込んだ感じがいいが、「曇り立ち」では理がかちすぎるような気がする。一方、「うすうすと」の句は、宛然、傘雨宗匠の世界で、それがかえって気に入らない。
 みなさんはどう思うだろうか。

2008/03/18(Tue)  777
 
 私の読書遍歴。
 いろいろなものを読んできたけれど、あまり読まなかったのはドイツ文学だった。ドイツ語を勉強する気がなかったせいもある。

 ゲーテ、クライスト、ケラー、ヘッベルなどは読んだ。
 やがて、メーリケ、シュティフター、グリルパルツァーなどを読む。シュティフターの描く少年時代の淡いロマンス、そして挫折などは、私にもわかりやすいものだったに違いない。
 こうした作家を読むことが、やがてランケ、モムゼンなどの歴史学者を読むことにつながった。ただし、これとて系統的に読んだわけではない。
 ブルックハルト、ランブレヒト、ディルタイなどの文化史、精神史なども、私の視野に入ってきたと思う。
 今の私はブルックハルトに批判的だが、彼に敬意を忘れたことはない。

 戦後すぐに、当時まだ現存していたランケの『ドイツの悲劇』を読んで、ヒトラーの独裁を経験しなければならなかったドイツ人の痛切な反省を知って感動した。
 この本と、第一次大戦の「戦後」に書かれたオットー・バウムガルテンの『大戦の人倫的反省』が、戦後、私の魂を揺さぶった。

 好きなドイツの文学者は、ツヴァイク、ホフマンスタール、エリッヒ・ケストナーなど。だれも翻訳しないけれど、オイゲン・ヴィンクラー。私は、この人の「島」という短編がいちばん好きなのである。
 ほかに好きな作品は、フォン・クライストの「チリの地震」。

 自分で翻訳してみたかったのは、ルイーゼ・ウルリッヒ。
 この名前に聞きおぼえはないだろうか。「未完成交響楽」(ウィリー・フリッチュ監督)に出ていた可憐な少女。彼女は、戦後、作家になっている。ただし、ドイツ語の読めない私は彼女に関して何も知らないのだが。

2008/03/16(Sun)  776
 
 私の読書遍歴。
 いろいろなものを読んできた。残念ながら、こちらに基本的な理解力がないために(つまり、頭がわるいせいで)、読んでもほんとうに理解できないことが多い。残念だが、もうとり返しがつかない。

 「文学講座」をはじめたのも、自分の知識がどうにもあやふやで、あらためて勉強してみたかったからである。

 学生の頃、たとえばモンテスキューの『法の精神』を読んだ。当時の私に理解できたはずもないが、モンテスキューの明晰な思考が、私にとっては一つの目標になった。
 ローマの共和政治に関して、いくらかでもはっきりした考えをもつことができたのは、イタリアの著作家たちよりも、むしろ『法の精神』を読んだおかげだった。祖国愛とか、平等といった観念が、政治的な徳性とむすびついたものであることも、モンテスキューからまなんだことの一つ。

 スタンダールに対する尊敬と、ヴァレリー(とくに『ダ・ヴィンチ』。これは、ある日、野間 宏からもらった)と、モンテスキューへの関心が、私をルネサンスに向かわせたような気がする。今になって、なんとなくそんな気がするだけのことだが。
 ただし、モンテスキューからすぐにルネサンスに推参したわけではない。はるか後年になって、やっとルネサンスの人たちについて勉強をはじめたのだから。

 ところで、『法の精神』が出版されたのは、1748年。

 日本の文学としては、芭蕉の『奥の細道』が、1702年。
 大近松の『曾根崎心中』が、1703年。『心中天網島』が、1720年。
 新井 白石の『読史餘論』が、1720年。
 室 鳩巣の『駿臺雑話』が、1731年。

 してみると・・・芭蕉、近松、白石、鳩巣たちは、モンテスキューと同時代人と見ていい。

 若き日の私は、なんとかモンテスキューを理解しようとした。しかし、当時の私は、芭蕉、近松、白石、鳩巣たちを読むことがなかった。ずっと後年になってから、これは作家として恥ずかしいことではないのか、と思いはじめた。
 それまでにも、自分にわかる範囲で、少しづつ江戸の文学を読みはじめていたのだが。
 それが、現在の「文学講座」につながっているような気がする。

2008/03/14(Fri)  775
 
  『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。
 私がこんなことをけっしていわない理由がおわかりだろうか。

 アフリカ南部、ジンバブエ。
 国家経済が破綻している。中央銀行は、昨年11月の時点で、インフレーションの年率が、2万6476に達したと発表した。(’08.2.1)
 昨年9月の時点で、インフレ率は、年間、7982パーセント。単純計算でも、2カ月で、3倍。これが現在進行形でつづいているのだから、もはや天文的な数字に達しているだろう。

 今年1月中旬には、パン、1斤が300万ジンバブエ・ドル。(公定レート換算で、日本円で1万円相当)。ガソリン、1ガロン、1500万ジンバブエ・ドル。(5万3千円相当)。ジンバブエは『お先まっ暗』どころではない。

 超インフレーションのおそろしさは、第一次大戦後の、敗戦国ドイツに見られた。
 1923年10月の紙幣流通高は、1913年のじつに4億1300万倍。金額にして2505兆弱という数字になる。
 戦前、2マルク60ペニヒだったバタ、1キロが1922年10月には、3500マルク。1923年6月には、じつに3万300マルク。ドイツのいたるところで、略奪と暴動が起きる。

 現在の中国の躍進に重なっている異常な物価高騰が、1989年のインフレーション再現の導火線にならなければいいのだが。
 インフレーションがおそろしいのは、かならず人間性の頽廃、堕落をともなうことで、テロや犯罪が多発することになる。敗戦後の日本でも超インフレーションは起きたが、これは円のモラトリアムによってなんとか切り抜けられた。

 ジンバブエはどうなるのだろうか。
 これからどうなって行くのか、誰ひとり見通しが立たない。誰もがはっきりした打開策も見いだせず、何をどうしていいかわからずに茫然としている状態だろう。
 ジンバブエのインフレーションは、国家のすべての機能を麻痺させ、あらゆる分野に壊滅的な打撃をあたえている。
 1980年から、ムガベ大統領が独裁者として統治してきた。ジンバブエは対外的に戦争をしているわけでもないし、内乱が起きているわけでもない。しかし、これは最悪のインフレで、大統領の責任はきわめて重いがこの独裁者は退陣しない。まさに、『お先まっ暗』といってよい。

 『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 なるべくなら、『お先まっ暗』よりは、せいぜい『お先まっ青(マッツァオ)』ぐらいのほうがいい。

2008/03/12(Wed)  774
 
 養老 孟司先生が、宮崎 駿という映画監督と対談なさっている。
 そのなかで、宮崎先生が、

    先がどうなるかわからない、それこそが生きるってことですよね。(中略)そんなに先のことが見えないと生きられないのか問いたいですね。

 とおっしゃる。これを受けて、養老先生が、

    『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 私は平凡なもの書きなので、お二人のことを批判するわけではない。ただし、ここから別のことを考えはじめた。
 「先がどうなるかわからない、それこそが生きるってこと」ということに関連して、私は映画スター、クラーク・ゲイブルのことば(1932年)を思い出した。

     ハリウッドにきてから、たった2年しかたっていないが、映画界に関するかぎり、2年というのは、じつに長い時間だ。にもかかわらず、私は映画に関して、ごく一部についてさえ自分の意見をもとめられたことはない。(中略)ある日、セットに入ると、私がジョン・マルバートに代わって「紅塵」(ジーン・アーサー主演)に出演することになっている、と告げられた―― 私は、どの役をやりたいかと相談されたことは一度もない。私は自分の考えをもたないことで、金をもらっているのだ。

 クラーク・ゲイブルのような大スターなら、「先がどうなるかわからない、それこそが生きるってこと」と覚悟しても生きて行ける。しかし、いくらハリウッドのスターでも、クラーク・ゲイブルのような人ばかりとは限らない。
 1930年代、ハリウッドの黄金時代のスターたちを一本の映画からつぎの映画にかりたてて行った圧力の凄まじさを考える。当時のハリウッドで、酒や、ドラッグ、セックスに溺れて破滅して行ったスターたち、スターレットたちの物語が無数にころがっている。(今だって、あまり変わらない。)

 先がどうなるかわからない、それこそが生きることに違いないが、えらい人は別として、そう、あっさりと口にはできない。

     『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 ほんとうに、『お先まっ暗』と思ったとき、なおかつ、この世をおもしろいと達観できる人がどれだけいるだろうか。
 養老 孟司先生のように、脳の大学者で、人生で挫折など経験したこともナイばかりか、たてつづけにベストセラーを出すような人は別として。

2008/03/10(Mon)  773
 
 ずいぶん昔(1960年代)、アメリカ人、日本人、インド人の食料摂取量の比較を読んでいて、アメリカ人1人の消費量が、インド人、50人分にあたると知った。当時、日本人1人の消費量が、インド人、20人分にあたると知って、アメリカ人は日本人の倍以上も食べているのか、と驚いた記憶がある。

 つい最近、ヴァーチャル・ウォーターなるものをはじめて知った。(「読売」08.1.22)。
 たとえば、おコメ、野菜、ウシの飼料になる穀物などを作ったりするのに、水が必要になる。その水を「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)という。

 ウシ、ブタのエサになる穀物の栽培には大量の水が必要になる。
    トリ肉、1キロに 4・5トン
    ブタ肉、1キロに 6トン
    牛肉、 1キロに 20トン
 の水が使われている。東大の「水文学(すいもんがく)」の沖 大幹先生の推計。

 すごい数字だなあ。

 「食事メニューごとに必要な「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)1人分の量は、
    牛丼(並)     1887リットル
    ハンバーグ     1859リットル
    スパゲッティ・ミートソース 1397リットル
    ポテト・チーズバーガー 1099リットル
    カレーライス    1095リットル
    ごはん        238リットル
    バター・トースト   231リットル
    オレンジ・ジュース  168リットル
 この試算によれば、牛丼(並)1杯は、お風呂(180リットル)に換算して、なんと10杯分になるそうな。知らなかった、というより、そんなことは考えもしなかった。

 この沖 大幹先生の研究グループが、日本、アメリカ、中国、ケニアの家庭の、ある一日の食事に投入されているヴァーチャル・ウォーター(仮想水)の量を調べた。

    アメリカの家庭1人あたりの(仮想水)は、 2489リットル
    中国  の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1954リットル
    日本  の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1611リットル
    ケニア の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1351リットル

 こういう記事から、いろいろなことを考える。

 日本は資源に恵まれないのだが、水資源だけは豊富らしいこと。それでも、いつか、貴重な水資源が枯渇する可能性があるらしいこと。
 ヨーロッパの尖端科学でも、「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)の研究は進んでいるのだろうか。もし、研究しているとすれば、どこの国においでさかんなのだろうか。
 いずれ、「戦略水」から降水発電戦略、「雲流るる涯」から気象資源争奪などという思想、競争概念も出てくるかも知れないなあ。

2008/03/08(Sat)  772
 
最近、人気の映画、レンタルDVDのリスト。

 1)「ラッシュアワー 3」
 2)「ファンタスティック・フォー」
 3)「タクシー 4」
 4)「トランスフォーマー」
 5)「ダイハード 40」
 6)「パイレー・オヴ・カリビアン」
 7)「オーシャンズ 13」
 8)「ウィッカーマン」
 9)「アーサーとミニモイの不思議な国」

 私はなんと1本しか見ていない。今後もおそらく見ることはない。
 たいして理由はないのだが、こちらが時代からズレてしまったせいで、これらの映画を見る必要がない。どうせ、ろくでもない映画ばかり。
 ハリウッド製のブロックバスター映画は、公開後、10年ばかりたってから見るとなかなかおもしろい。

 映画は毎日のように見ている。最近見た映画をあげておく。

    1)「悲劇の皇后」(1985年)/ 2)「ホテル」(1986年)/3)「画魂 愛、いつまでも」(1992年)/ 4)「新 野いちご」(1992年)/ 5)「キャラバン」(1999年)/6)「ペパーミント・キャンディー」(1999年)/ 7)「柳と風」(1999年) 8)「ドリフト」(00年)/ 9)「わすれな歌」(02年)/ 10)「マーサの幸せレシピ」(02年)/11)「ブラウン・バニー」(04年)/12)「スイーニー・トッド」(08年)/

 ほとんどが、ビデオ、DVD。ずいぶん昔、一度見たっきりで、すっかり忘れていて、この際、もう一度見直したものばかり。昔見た映画をあらためて見直す。忘れているシーンも多い。けっこうおもしろい。が、もう、二度と見ることはないだろう。
 「マーサの幸せレシピ」(02年)は、サンドラ・ネトルベック監督。マーサ・マルティナ・ゲデック主演。アメリカのリメイクを見て、あらためてハリウッド映画の衰弱を感じた。
 昔、デュヴィヴィエの「望郷」をハリウッドがリメイクした「アルジェアーズ」(邦題・「カスバの恋」)を見て、すっかり軽蔑したことを思い出す。主演のシャルル・ボワイエ、これがハリウッド・デビューになったヘディ・ラマールのふたりが、まるっきりのアホに見えたっけ。

 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかったというのが私の趣味なので、愚作映画を忘れたところで困らない。ただ、軽蔑は残るのだ。

2008/03/06(Thu)  771
 
 松 たか子が、「読売演劇大賞」の、最優秀女優賞をうけた。

 『ひばり』、『ロマンス』の演技で。

 笹本 玲奈が『ウーマン・イン・レッド』で、杉村春子賞を受けた。

 ともに慶賀すべきことだと思う。
 松 たか子は、数年前にテレビ・ドラマで「金子 みすず」を演じたが、このあたりから、大きく変わったと思う。
 ただし、『ミス・サイゴン』の松 たか子が意欲的にミュージカルに挑んだことは認めるけれど、もともと声質もミュージカルにむかなかったし、結果的に魅力が出せなかったと思う。その点、今回、「読売演劇大賞」でもミュージカル専門の笹本 玲奈のほうがずっと安心して見ていられた。

 野田 秀樹の舞台(『贋作罪と罰』)の松 たか子は、四角い舞台を一所懸命走りまわっていたが、まだ役が光り輝くところまで行っていなかった。おそらくは演出家も、芝居のなかで、彼女の天性の魅力がおのずと輝き出すと見て、あまりダメを出さなかったのだろう。あるいは彼女のひたむきさにダメダシを遠慮したか。

 しかし、松 たか子は、やがて名女優と呼ばれるにふさわしい舞台を見せてくれるだろうと思う。

2008/03/04(Tue)  770
 
 映画監督の市川 崑が亡くなった。

 記録映画「東京オリンピック」は彼の代表作。
 この映画は日本の「戦後」を描いたものといってよい。前半、オリンポスの聖火が日本の各地のランナーにうけつがれて、東京に向かう。その聖火を見つめる人々の胸にあったものは、映画のなかでじゅうぶんに表現されていた。

 ところが、完成したこの映画の試写を見た、当時、五輪担当だった河野 一郎が激怒したという。
 ようするに、記録映画は、スポーツの勝敗を記録すべきものであって、映画芸術であるドキュメントである必要はない、という意向だったらしい。
 市川 崑は、河野 一郎に会って、説明や弁明をしたという。

 私は、政治家、河野 一郎をいささかも尊敬していない。

 もう少し前には、谷崎 潤一郎の『鍵』を、猥褻として告発しようとした世耕某というクズがいた。
 また、戦後、カンヌ映画祭に日本映画が出品されるようになって、日本の女優たちも映画祭に出席するようになった。このとき、ファッションのつもりで黄八丈、黒繻子の帯で出席した若い女優を下品だといって罵倒した大野某といったやからが、政治家としてハバをきかしていた。

 私は世耕某、大野某といった連中にいささかも敬意をもたない。現在、世耕、大野、河野などといった連中など誰もおぼえていないだろう。私はよくおぼえている。

 私は、ドキュメント「東京オリンピック」を日本映画の誇りと思っている。

2008/03/02(Sun)  769
 
 1942年(昭和17年)、六代目(尾上 菊五郎)が、三日間、芝居を休んだ。小さなニュースだったが、六代目が芝居を休むというのは、当時、歌舞伎ファンのあいだでは、いろいろととり沙汰されたものである。
 私は、中学二年生。このときのことは、いまでもおぼえている。もう、太平洋戦争が起きていた。
 六代目のやっていた「お軽」は家橘、「吾妻」は菊之助がかわった。

    此間(このあいだ)臍の横へにきびの大きい位な腫物が出来て、それに黴菌が入って、急に大きく腫れ上がったが、あれには驚きましたね。何でも蜂窩織炎とかいふ非常に性質(たち)のわるいものだそうで、これを放って置くとあの恐ろしい命取りの敗血症になるといふことですから、すぐに手術して貰ったんですが、黴菌てやつア却々(なかなか)こはいものですね。

 菊五郎のことば。インタヴューに答えて。

 私も、蜂窩織炎をやったことがある。私は、ある劇団で講義をしながら、翻訳の仕事をする。1冊ミステリーを訳すと、すぐつぎに別のジャンルのものを訳す、その合間に演出をする、といった日常だった。
 かなりハードなスケデュールがつづいていた。

 腰骨の上に小さな腫れものができたが、みるみるうちにふくれあがってきた。痛みがひどくて、二日二晩、まるで眠れなかった。
 ちょうど、ある長編の翻訳をしていたが、原稿は一枚も書けなかった。

 けっきょく、近くの外科の診察をうけて、すぐに手術してもらった。
 メスで切ったところにピンセットを突きたてて、グイッと病巣を引きずり出す。ブドウ状球菌の塊りをひっぱり出したが、長さが20センチ以上もあって、不思議な植物のように見えた。

 手術したあとも足をひきずって歩いた。
 ある編集者が、私のようすを見るなり、ニヤリと笑って、
 「出ましたね」
 とヌカした。

 その後しばらくして、この編集者は亡くなった。ある大出版社の名編集者だったが。
 何かのことで、からだじゅう黴菌だらけになったという。

 このとき「黴菌てやつア却々(なかなか)こはいものですね」と実感した。

2008/02/29(Fri)  768
 
 巫山の夢を結ぶ。説明の必要はない。

 ある日、『霍小玉伝』を読んでいて、「巫山・洛浦」ということばに出会った。

 主人公「李生」が美女と契りをかわす。「羅衣を解くの際、態に餘妍あり」という女性を相手に、幃を垂れ、枕を近づけ、その歓愛をきわめる。
 「李生」思えらく、「巫山・洛浦も過ぎず」と。

 「高唐賦」に、楚の「襄王」が巫山の神女とセックスしたことが出ている。だから、巫山の夢。
 もう一方は、魏の「陳思王」、曹植が洛浦の神女とセックスしたことによる。
「李生」は、「巫山・洛浦のよろこびも自分と『小玉』の性愛にはおよばない」と思う。
 私のような男には、なんともうらやましい話。

 真喜志 順子の訳した『神々の物語』(’07.12.31刊 3600円/ 柏書房)を読む。これは神話の世界をわかりやすく解析したもの。ユング派の精神分析が専門のリズ・グリーンと、同僚のジュリエット・シャーマン・バークの共著。
 その第三部は「恋愛」について。
 たとえば、「エコー」と「ナルキッソス」では、自己愛の悲劇。「キュベレ」と「アティックス」では、独占欲の危険。
 第二章では、「ゼウス」と「ヘラ」の結婚、「アーサー王」と「グウェネヴィア王妃」といった苦悩にみちた「関係」が描かれる。

 私は、気が向いたときに、おいしい料理を一品だけ食べるようにして、『神々の物語』を読み続ける。その合間に、ときどき「唐代伝奇」を読む。これは、おいしい酒を一杯だけ口にふくむようにして。

2008/02/26(Tue)  767
 
 2月10日、作家の高野 裕美子(翻訳家・長井 裕美子)が亡くなった。

 この思いがけない不幸を知らせてくれたのは、早川 麻百合だった。新聞に出ているという。いそいで、夕刊のオービチュアリーを見た。

    作家、高野 裕美子氏は、10日、くも膜下出血で死去。50歳。
    翻訳家を経て作家になり、1999年、「サイレント・ナイト」で第3回、日本ミステリー文学大賞・新人賞を受賞した。

 私は、しばらく茫然とした。
 長井 裕美子は、「バベル」という翻訳家養成を専門とするスクールで、私のクラスで勉強していた。同期に、羽田 詩津子、早川 麻百合、立石 光子などがいる。いずれも、すぐれた翻訳家として知られる。

 もともとフランス語が専門だったが、英語も堪能で、私のクラスには二年ばかり通っていたのではないかと思う。
 当時、私のクラスでは、毎月1編、さまざまなジャンル、さまざまな作風の短編を読んでいた。当然ながら、原文の難易度、スタイルも千差万別だった。私としては――それぞれの生徒がどういうジャンルの翻訳にも対応できるように、できるだけ多種多様な作家、作品を読ませたいと思っていた。翻訳する側の資質、文学的な好み、傾向といったものよりも、どういう作品であれ、翻訳を依頼された場合、それにまっこうから立ち向かうのが、若い翻訳者の必須条件なのだから。
 長井 裕美子も、それまで読んだことのない作家をつぎつぎに読み、かつ、訳すことで、たとえ漠然とであっても、おのれの方向性といったものを身につけようと努力していたはずである。

 私のクラスを出て、すぐにプロフェッショナルとして翻訳をはじめた。私は、彼女が着実に仕事を続けていることをよろこんでいた。
 やがて、思いがけないことに、小説、それもミステリーを書きはじめた。構成も文章もしっかりした、重厚な長編の本格的なミステリーで、私は彼女の才能のみごとな開花に驚嘆したのだった。私が教えた生徒たちから翻訳家は輩出している。私が小説を書くようにすすめて、小説を出版した人も多い。しかし、プロフェッショナルな作家になったのは、彼女が三人目だった。
 私は「高野 裕美子」にいつも関心と敬意をもって読んできたのだった。

 彼女が作家として、今後ともすぐれた作品を書きつづけるものと期待していたが、思いがけない訃報に打ちのめされた。今は追悼のことばもない。

 たまたま「NEXUS」(47号)の締切りだったので、追悼のことばを書く余裕がなかった。そこで田栗 美奈子、笠井 英子の努力で、「翻訳について」私が書いた小文をあつめた。これを発表する。
 長井 裕美子たちのクラスで、こんなことを考えていた私自身をあらためて見つめ直す意味で集めただけのことだが。

 長井 裕美子のご冥福を祈る。

 2008年2月15日

2008/02/24(Sun)  766
 
 さて、下戸だった話にもどるのだが――友人たちがそれぞれ結婚して家庭におさまった頃から、私も酒の味がわかってきた。からだがなれてきたせいもある。
 ようするに、自分が酒を飲んでいるのか、酒が自分を飲んでいるのかわからなくなってきた。人並みに、いろいろと苦労して、酒の味がわかってきたらしい。

 苦い酒も飲んだ。美しい酒も飲んできたし、つらい酒も飲んできた。もう、マケることもなくなった。
 ある人が、日本で外国の酒を飲むとどうもその土地で飲んだほどのコクがない、といっていた。私は、そんな通ぶったことをいう資格はない。

 どんな酒でも体調がいいときは、美味に感じる。自分が好きな相手と飲むだけで、酒の味はいやまさる。まして、好きな女と酒を酌むほどのよろこびはない。

 好きな酒はある。
 最近までたいせつにとっておいたドム・ペリニョンを、親しい友人にさしあげた。残念だが、私はもう飲めなくなっている。
 酒にまつわる思い出はいろいろあるが――ある日、澁澤 龍彦のところに遊びに行ったとき、ちょっとめずらしいウィスキーを持参した。このとき、松山 俊太郎さんもいっしょに、そのウィスキーを召し上がったが、松山さんが激賞した。
 松山さんは人も知る酒豪だから、このときお褒めのことばをいただいたのがうれしかった。

 松山さんは、その後、堀口 大学先生のところで、たまたま酒のことが話題になったとき、中田 耕治が持参したウィスキーのことをご披露なさったらしい。

 堀口先生は、にわかに興味を抱かれて、他日、中田 耕治なる痴れ者を連行せよ、と仰せられたとか。

 私は、そのウィスキーを探したが、ついに見つからなかった。ある日、登山に出かけたとき、池袋某所の酒屋でただ一本を見かけたが、帰りに買うつもりで立ち寄ったときは、もうなくなっていた。
 これも酒にまつわる思い出である。

2008/02/22(Fri)  765
 
 もともと下戸のクチだった。などと書こうものなら、知人、友人たちが笑いだすだろう。しかし、これはほんとうのこと。江戸ッ子のやつがれ、ウソと坊主の頭はゆったことがない。

 酒が飲めないのだから、おそろしくヤボな人間ということになる。そこで、見るに見かねて、友人たちが居酒屋につれて行ってくれた。
 ひとくち、なめた。とたんに眼がまわって、顔から火が出た。異常体質だろうと思った。みんながニタニタして眺めている。悪い連中と友だちになったと後悔した。

 それから、毎日、友だちについて歩いた。苦行であった。なにしろビールをコップに二杯飲んだだけで、心臓がモールス信号を打ってくる。

 ある日、ビールを三杯半、飲んだ。世界の終わりがやってきた。まともに立っていられない。外に出て歩き出したが、地面がぐらぐらうねっているし、眼をあげるとネオンサインがサイケデリックに光り輝き、これもぐるぐるまわっていた。これやこの、天変地異でなくて何であろうか。

 このとき、田中 融二と都筑 道夫のふたりが、私を介抱してくれた。ふたりとも、有名な翻訳家になるが、当時はまだ、ふたりとも駆け出し。
 田中 融二は、私の背中をさすりながら、
 「まけろ、まけろ」と声をかけてくれた。ブチまけろ、という意味である。だらしのない話だが、私は路上に吐いた。
 その晩、都筑 道夫の部屋に泊めてもらった。

 翌日、眼がさめたら、都筑はもう起きていた。というより、一晩じゅう、私の寝顔を見ながら、原稿を書いていたらしい。私は、都筑 道夫の仕事ぶりにすっかり感心してしまった。実際には、都築の寝床を私が占領してしまったので、寝るに寝られなかったのかも知れない。
 もっと驚いたことがある。都筑 道夫の部屋は、ほとんどがミステリー、SFの原書ばかり。畳の上にだいたい20冊ほどの高さにならべられ、その上にふとんが敷いてある。つまり、ハードカヴァーのミステリーがベッドになっている。
 当時、私もミステリーをたくさん買い込んでいたが、ほとんどがポケットブックばかりで、ハードカヴァーのミステリーは買わなかった。
 それに、私はほかのジャンルの本も読まなければならなかったから、買えなかった、というのが、ほんとうのところだった。
 都筑 道夫は「ミステリー・マガジン」の作家について、解説、紹介記事めいたものを書いていたから、原書を多くもっていても当然だろう。しかし、部屋いっぱい、ベッドがわりに原書を敷きつめるというのは、私の想像を越えていた。

2008/02/19(Tue)  764
 
 えーと、中田でございます。年の瀬も、はるか遠くになりにけりで、みなさまいかがお過ごしでございましょうか。
 さて、今回、春頭スペシャル、ボツ特集ということで。あるんですよ、これが。やたら小むずかしいことを書いたやつ。あまりのくだらなさに、放り出しちまったやつ。捨ててしまえばいいのに、今日は書くことがないものだから、ワン・ポイント・リリーフ。

 戦後、もともと由緒ある地名がずいぶんと消えてしまいましたナ。
 東京の地名が変えられたことを哀惜してもはじまらない。私はとっくの昔にあきらめてます。
「江戸ッ子はあきらめに住するものなり」と、芥川 龍之介もおっしゃってます。
 あぁた、いいコトいうねえ。

 東京をぐるりと囲んでいる環状線が山手線。
 東京から北まわりに、神田、上野、日暮里、大塚から池袋。ここらあたりから、南にむかって新宿、渋谷。
 若い人たちのメッカ。なんのメッカか、ってーと、プリクラから、クレープ、ブルセラ、何でもそろってるって。
 東京から南まわりなら、有楽町、新橋、品川。ここから、五反田、大崎。目黒とくれば、渋谷はもうすぐ。
 若い頃から、一度はこの環状線、山手線でぐるぐるまわってみたい、と思ってきましたが、一度もやったことがない。なぜって。
 これには、深ーいわけがあるんザマス。

 戦後、「やまてせん」と呼ばれるようになっちまった。ヤだね。「やまてせん」だってサ。どこのどいつが、こんないいかたに変えやがったんでェ。私(あちし)は、ヤだね。誰が「やまてせん」なんぞというものか。「やまのてせん」といいますナ。

 「のて」ということばもなくなりましたネ。ついでに「まち」ってことばも。

 「のて」も「まち」もなくなっちまって、どこに行けばいいんだヨ。

 芥川 龍之介先生、堀 辰雄先生、先輩の植草 甚一先生なぞは、なんてったって「まちッ子」だい。私(やつがれ)と同年代の作家の北 杜夫あにさん、批評家の奥野 健男兄貴あたりは「のてッ子」て。おいらとは、氏も育ちもちがってましたネ。

 ただし、芥川 龍之介先生は、

   僕は先天的にも後天的にも江戸ッ児の資格を失いたる、東京育ちの書生なり。

 といってましたナ。
 オイラなんざ、たまたま東京の片隅に生まれたってェだけで、ものごころついてから千葉に移り住んだのだから、とっくに江戸ッ子の資格を失った、千葉のボテフリみてェなものってことになる。
 それでよござんすヨ。ただし、くたばるまで「やまてせん」とはいわねえ。「やまのてせん」といいつづけやしょう。

 うまれついてのあまのじゃく、一度きめたらテコでもボウでも動かねえ。
 ヤボがうりもので。イヒヒヒ。

2008/02/16(Sat)  763
 
 アメリカの映画女優、スザンヌ・プレシェットが亡くなった。(’08.1.19.) ロサンジェルスの自宅で。呼吸器不全。70歳。

 スザンヌ・プレシェットといっても、すぐに思い出せる人はいない。1937年、ニューヨークに生まれた。58年にハリウッドで、デビュー。
 「恋愛専科」(62年)、「鳥」(63年)などに出た。

 「鳥」は、ヒッチコックの代表作だが、主演のティッピー・ヘドレンの典雅な美貌の印象が強すぎて、友人の小学校教師をやったスザンヌ・プレシェットは、あまり印象に残らない。

 スザンヌの訃を知って、私は「鳥」を見た。ささやかな追善の意味で。
 いい女優だが、ティッピーのような「花」がない。
 あらためて、若き日のスザンヌを見ながら、女優の「運命」といったことをぼんやり考えていた。・・ 

 イギリスの女優、ナオミ・ワッツは「ザ・リング」(’02年)で知られている。原作は鈴木 光司のホラー、ハリウッド版リメイク。ただし、原作のヒロイン「貞子」が「サマラ」になっていたが。
 ナオミの生まれはイギリスだが、オーストラリア育ち。むろん、スザンヌ・プレシェットとは何の関係もない。
 ナオミは何かのオーディションで、当時まだ無名だったニコール・キッドマンと知りあう。ニコールはその後、ハリウッド女優として着実にスターダムにのしあがってゆくが、ナオミはずっと下積みの女優だった。やっと「マルホランド・ドライヴ」でブレイクしたときは34歳になっていた。

 あるインタヴュー(2002.11)。当時のナオミがニコールをどう見ていたか、という質問に、

  なるべく他人と自分を比較しないようにしていたわ。ついつい嫉妬したり、精神的に危険な状態になってしまうから。むろん、私も人間だし、いつもそういう心がけをまもった、というわけじゃないけれど。
   ただ、ニコールのことは、嫉妬するよりも、むしろインスピレーションというか、いい刺激だったわ。同郷の親友がブレイクしたんだから、私だってきっとうまく行くって。
   それに、彼女はいつも、
   「あなたはぜったいに成功するわ。あきらめないで」
   って、応援してくれてたし。
   だから、もし、他人と比較したくなったら、ほんのひと握り、幸運をつかんだ人と較べて、自己嫌悪に陥るよりも、逆の立場を考えるようにしてた。世間には、私の暮らしでさえ羨ましいと思う人がきっといるんだわ、って。

 私はこのインタヴューを読んで、ナオミ・ワッツに関心をもつようになった。

 スザンヌ・プレシェットはティッピー・ヘドレンをどう見ていたのだろうか。今となっては知るよしもない。ただ、「鳥」に出たあと、ティッピーはあっという間に引退してしまうのだが。

 スザンヌ・プレシェットの死から、すぐに別の女優の「運命」を考えたり、ひいては、芸術家の「運命」といったことを考える。へんなやつ。私。

2008/02/13(Wed)  762
 
 二月三日、めずらしく雪が降った。積雪、4センチほど。
 鉄道のダイヤが大幅にみだれ、航空のフライトの多数に欠航が出た。関東各地の寺社では、節分の行事がとりやめになった。青梅マラソンも中止。
 首都圏では、30以上の大学、約100におよぶ小中学校の入試が行われたが、受験生たちにも影響したらしい。

   いざさらば 雪見にころぶところまで    芭蕉

 芭蕉の風流は私にはないので、炬燵にもぐり込む。いざさらば、雪見酒としゃれのめしたいところだが、あいにく禁酒。節分の豆まきもせず、私のアトリエには、日本じゅうの鬼さんがお集まりくださったものと思われる。

 奈良時代の奴婢(ぬひ)の食生活はひどいものだったらしい。正倉院の文書に、東大寺で使役していた奴婢に食べさせていた副食物の記録があって、ミソ、ショーユの外には、わずかな量のヒジキ、調味料はおスだけという。『万葉集』(巻16)に、

   香(こ)り塗れる塔にな寄りそ 川隈の尿鮒食(はめ)るいたき女奴

 という歌があって、当時の下層階級の人々の食生活がわかる。

 官吏が出張すると、一日、一升の酒が給せられた。現物給付だが、むろん、にごり酒。まさか、毎日、どぶろく一升を飲んだわけではないだろう。生活費に現金に換えたか、一部分を闇市に流したか。

 雪だるまを作るほどの積雪ではない。雪まろげ。雪ころばし。こんなことばも死語になった。私の住んでいる界隈も過疎化、少子化がすすんで子どもたちの姿も見かけない。
 つまりは、雪投げをする子どもも見ない。雪合戦などとっくにすたれてしまった。

   そなさんと知っての雪のつぶてかな     はぎ女

 こういう雪つぶてなら、ぶつけてもらいたいものだが、私には「はぎ女」のような恋人はいない。
 さはさりながら、二月、花の咲くのも間近い。

   万葉集にはなといえば梅の事ぞと定められし、桜を花と称するははるかに後の事ぞかし

 ご存じ春水、『梅暦』の書き出し。

2008/02/11(Mon)  761
 
 ある訳がほんとうに創造的な訳になっているかどうか、たとえば戯曲の訳を読むとはっきりわかってくる。

・Dorothy:   What a nice looking boy Pat is growing! You’ll have to keep an eye on him,darling.You know what women are.
Margery;    Oh,I’m not frightenrd.He’s absolutely innocent.And he tells me everything.


 Dorothy:   They talk a lot of nonsence about the young nowadays.I don’t believe they know half as much as we did at their age.

 Margery;   I wish they wouldn’t grow up so quickly.When Pat came back from school this morning,it gave me quite a shock.
 Dorothy:   I don’t care.It’s not like before the war.People don’t grow old like they used to.When Dinah and I go out together we’re always taken for sisters.


 ――これは、ある英文解釈の練習に出ていた問題の一部で、サマセット・モームの戯曲からとられたもの。イギリスのブルジョア女性の会話だが、つぎに出題者の訳例をみよう。

ドロシー パットはなんてハンサムな青年になってきたのでしょう。あなた気を付けなければいけないわ。女がどういうものかって、御存知でしょう。
マージャリ あら、その点心配無用なの。あの子、それは無邪気なのよ。それになにもかも私に打ち明けて話しますの。
ドロシー 近頃は若い人についてずいぶん下らぬことを言う人がいますわね。でも私たちがあの子の年の頃と較べると、半分も知ってはいないと思いますわ。
マージャリ 体ばかりどんどん大きくなるのは、こちらに迷惑だわ。午前中にパットが帰省したんですけれど、その姿を見たら、とてもショックでしたよ。
ドロシー 私は気にしないわ。戦前とは違いますもの。近頃は昔と違って誰もおばあさんにならないんですよ。私なんか、娘と一所に外出すると、いつも姉妹だと思われるの。

 英文解釈の問題なのだから上演を目的とした訳になっていなくてもいい、と考える人がいたらそれは誤りだろう。戯曲として書かれている以上は、あくまで上演を目的として訳すべきではないか。
 短い部分ながら、イギリス風俗喜劇の女たちの何でもない台詞の背後に、さすがにモームらしい、のうのうとした、しかも一種傲然たる表情が見えてくる。ところが、この訳例は、はじめから上演不可能で、そもそも舞台の台詞になっていない。全体が、ひどく平凡な説明ばかりで、その人物(キャラクター)の姿が浮き彫りになるような台詞は一つもない。
 「女がどういうものかって、御存知でしょう」という台詞は、なかなか意味深長で、(いずれは)年上の女が「パット」のような美少年に目をつけるわよ、という、かるいが辛辣な揶揄と、かならずしも無邪気とはいえない恫喝まで含んでいる。ところが「女がどういうものかって、御存知でしょう」という訳では、さりげない台詞の裏にひそんでいるモームのおそろしさ、いやらしさ、凄さが感じられない。
 「女たちがほっとかないわね」と訳せば、「ドロシー」の揶揄ばかりではなく、いい息子をもった友だちに対する一種の岡焼きめいた感情も出せるだろう。
 ところで「近頃は若い人についてずいぶん下らぬことを言う人がいますわね」というのが、ブルジョア夫人の台詞だろうか。「でも私たちがあの子の年の頃と較べると、半分も知ってはいないと思いますわ」という訳で、読者(観客)に何がわかるのか。
 こういう訳は、いわゆる「こなれていない訳」だが、同時にドラマの緊迫を無視した、つまりはクリエーティヴではない訳。

 おもしろくない訳。

2008/02/08(Fri)  760
 
 論文の一節。

   中世の選ばれた指導者である騎士たちは、文字を書くことは一介の書記の仕事で、自分の思想さえあれば充分であると考えて、自分の思想と他人の思想を混ぜ合わせることをいさぎよしとしない人たちから見向きもされないものであるとみなした。

 ある歴史論文の訳の一節。まるっきり読みにくいわけではないが、一読ただちに頭に入ってくる訳ではない。著者の論点の明確さも、訳者の個性も感じられない。
 たとえば、つぎのように訳したらどうだろうか。

   中世、選ばれたエリートとしての騎士たちは、文字を書くことは祐筆にまかせておけばいいと思っていたし、わが身におのれの思想を堅持すれば、他人の思想をおのれの思想に混ぜ合わせるなど笑止なわざくれと見ていたのだった。

 私の考える「クリエーティヴな訳」がどういうものか、少しはおわかりいただけるかも知れない。翻訳はほんらいきわめて創造的な仕事なのだ。

2008/02/05(Tue)  759
 
 名訳がある。と、かならずそれを越えようとする名訳が出てくる。ただし、大学の文学部の先生などが小説を訳すとどうしようもない名訳ができあがる。

 ほんとうの名訳はどういうものか。
 ある短編の書き出しの部分をみよう。

 「巴里は包囲され、糧道を断たれ、気息奄々としてゐた。屋根の上には雀も殆ど姿を見せず、下水の鼠もだんだんに絶えていった。人々はなんでもかまわず、捕って喰ふといふ有様だった。
 一月のある明るい朝、乗馬ズボンのカクシに両手を突っ込み、腹をすかして、場末の通りをしょんぼりとさまよってゐた彼、本業は時計屋で、時節がら閑人(ひまじん)の仲間入りをしてゐたモリソォ君は、これも同じやうな風軆の男の子とぱったり行き遭って、足をとめた。見覚えのある顔だと思ったら、やっぱりその友達だった。ソォヴァージュ君といって、河で知合いになった男である。」

 モーパッサンの「二人の友」の冒頭の部分。岸田国士訳である。悠揚迫らぬ筆致ながら、さすがにめりはりのきいた訳になっている。
 おなじ部分を青柳瑞穂訳で比較してみようか。

 「パリは包囲され、飢餓に瀕していた。屋根の雀もめっきり減り、下水の鼠もいなくなった。人々は食べられる物なら何でも食べた。
 一月のある晴れた朝、本職は時計屋だが、時局がら、閑人になったモリソオさんが、普段着のズボンに両手を突っこみ、腹をすかせながら、場末の大通りをつまらなさそうにぶらついていたが、これも同様お仲間らしい男とばったり出会って、足をとめた。見おぼえのある顔だと思ったら、やっぱりそうだった。ソオヴァジュさんといって、河での知り合いであった。」

 読みやすい。岸田訳はもう半世紀以上も前の訳だけに、やはり古色蒼然たる趣きがある。これに較べて、青柳訳は昭和四十年代の訳で読みやすい。このあたり、現在の日本語の変化の大きさ、原作と翻訳のズレといった問題が伏在している。
 最近、昭和三十年代に出たドリュ・ラ・ロシェルの翻訳を読み直したのだが、大学の先生の手になるものとも思えないほど拙劣な訳だった。
 おかげで一日じゅう不愉快になった。

2008/02/02(Sat)  758
 
 詩を訳したことがない。(マリリン・モンローが手帖にかきとめていた詩のようなものを訳した。これは、「ユリイカ」に発表した。)

 なぜ、詩を訳さなかったのか。詩を読むという単純な行為のうしろに、じつは大きな困難が横たわっていたからである。詩の翻訳は、訳者の感性、知性、あるいは文学的な読解力がいっぺんに見えてくるおそろしい領域である。

 具体的に例をあげてみよう。ただし、ここでは英語やフランス語の例をあげない。たとえば、オマール・ハイアムの詩の訳をみよう。

      樹陰下放着一巻詩章
      一瓶葡萄美酒、一点乾糧
      有爾在這荒原中傍我歓歌・・・
      荒原呀、阿、便是天堂!

 ごらんの通り中国語訳。若き日の郭沫若が訳したものという。
 おなじものの佐藤春夫の訳を並べて見る。

      荒野なれども 緑陰に
      詩(うた)の一巻 酒一壺(いっこ)
      糧一片(かてひとかけら) さてなんぢ
      わがかたはらに歌う時
      荒野もやがて ぱらいそう

 さすがにいい訳で、私などはうっとりしてしまう。芳醇な酒の匂い、まろやかな味が感じられてくる。
 私は中国語が読めないのだが、郭沫若訳も佐藤春夫訳も名訳というべきだろう。これを、別な人の原典訳で見ると、

    一壺の紅(あけ)の酒、 一巻の歌さえあれば、
    それにただ命をつなぐ糧さえあれば、
    君とともにたとえ荒屋(あばらや)に住まおうとも、
    心は王侯(スルタン)の栄華にまさるたのしさ!

 名訳とごくふつうの訳の違いはおわかりになるだろうと思う。
 私が詩を訳さない理由もおわかりいただけるだろう。

2008/01/29(Tue)  757

 私は翻訳をなりわいとしていた時期がある。そのうちに、なんとなく作家になってしまった。
 翻訳をやめるつもりはなかったが、何かのテーマを見つけると、どうしてもそれにひきずられてしまうのだった。もともと有名な作家ではないので、小説や評論を書くかたわら、長い期間、教育という仕事にたずさわってきた。
 いろいろな機会にいろいろと教えてきた。その仕事の一つに翻訳の講座があった。新人翻訳家の育成を目的とした講義だったが、私のクラスから、すぐれた翻訳家が多数登場している。
 この間、翻訳の世界も大きく変貌してきた。

 優秀な翻訳家がぞくぞくと登場してきた。大半が女性の翻訳家で、私のクラスからも優秀な新人たちが巣立って行った。すでに一流の翻訳家として仕事をしている人も多い。ほかの分野でもそうだが、翻訳という仕事でも女性がそれだけ大きく評価されるようになったといえるだろう。

 翻訳史の上では、若松賤子、八木さわ子、松村みね子、村岡花子といったすぐれた女流翻訳家の仕事がある。翻訳も、近代の日本人が文学にもとめてきたものを基本的にかたちづくってきた作業という意味では、上田敏、永井荷風、中村白葉、米川良夫、堀口大学、鈴木信太郎、中野好夫など−−「悪の華」や「地獄の季節」、「黒猫」から「シャーロック・ホームズ」まで、すぐれた翻訳はほとんど男性の手になるものばかりだった。
 現在の翻訳は新しい意味で時代の感性をかたちづくるものになってきて、むしろ女性にむいているのではないか、とさえ思われる。翻訳という作業には、鋭敏な注意力、綿密な検証、さらには、何よりも文学的な感覚が要求されるからである。知的な意味で女性こそこうした天性にめぐまれているのではないか。

 翻訳はかんたんにいって外国語を日本語に置き換える作業だが、それがどういうものなのか、実際に説明するとなるとなかなかむずかしい。しかも、日本語の大きな変化がつづいている時代なのだから。

 私はじつは新人たちに何かを教えたわけではない。いつも、新人たちを「発見」してきたのだと思う。
 おこがましいが、これが私の教育の基本的な姿勢だった。

2008/01/26(Sat)  756
 
 翻訳という仕事、外国語を日本語に置き換える作業とはどんなものなのか。

 一昔前だが、日本語はヨーロッパ系のことばとはじめから成り立ちが違うのだから、ほんとうのところ翻訳は不可能だという意見があった。なんと夏目漱石の門下だった野上豊一郎の「翻訳論」に、こういうアホウなことが書いてあった。

 なんという、つまらない考えだろう。

 たとえば――シェイクスピアの『マクベス』の登場人物、マクダフが、冷酷なマクベスの支配する祖国の現状をなげいて叫ぶ、有名なセリフがある。
 原文は“O Scotland,Scotland!”である。誰が訳したって、「おお、スコットランドよ、スコットランドよ!」ぐらいしか訳せないだろう。

 この簡単な三語をとりあげて――イギリスの俳優がわきあがるような声量のなかに憤怒(ふんぬ)と痛恨をこめて大空に叫び上げる調子を想像してみたまえ。日本語のどんな言いまわしを考えてみたって、この英語における質と量に匹敵する効果は出てこない、といったヤツがいる。
 やれやれ、またか。
 なるほど、この三語のなかには母音が五つあって、その五つとも日本語よりも幅がひろいことは認めなければならない。日本語にはない強弱のアクセントのはげしい効果がある。シェイクスピアはすごいなあ。私にしても、イギリスの名優たちが、舞台で、このセリフを声に出しているところを想像しただけで胸がおどる。
 ところが「日本語のどんな言いまわしを考えてみたって、この英語における質と量に匹敵する効果は出てこない」となれば、シェイクスピアを翻訳したって仕方がないことになる。
 こういう考えかたは、表面は正しいように見えながら、じつは間違っている。もし、そういういいかたをすれば、私たちにはチェホフの戯曲もわからないことになるし、アメリカの映画だってほんとうはわからないことになる。

 冗談じゃない。
 いい翻訳、すばらしい翻訳は、こういうアホらしい考えかたからはうまれてこない。

2008/01/23(Wed)  755
 
 ある時期まで、私はミステリーの翻訳家と見られてきた。かなりたくさんミステリーを訳してきたせいだったろう。
 推理小説のおもしろさを知ったのは中学生の頃だった。戦時中のことで、勤労動員にかり出されたため工場の行き帰りにミステリーに読みふけった。
 とにかく何でも読んだ。黄色い表紙の「世界探偵小説全集」や、加藤朝鳥訳の「全訳シャルロック・ホルムス」、ルパンやファントマ、アメリカのミステリー、ヴァン・ダインやエラリー・クィーンまで。
 英語で最初に読んだのは、戦後になって、ハメットという作家のものだった。ハメットは「マルタの鷹」を書いた作家である。

 戦後すぐに神保町の近くで、路傍にゴザをしいて、アメリカ兵の読みすてたポケットブックを並べている古本屋が出た。
 アメリカ兵が読みすてたポケットブックや、古雑誌をゴザに並べて売っている古本屋、そこで新しい作家、作品を「発見」するよろこびなど、いまでは想像もつかないだろう。
 ここで本をあさっているうちに、ハメットを手にしたのだった。本をパラパラめくっている(読んだわけではない)うちに、やさしそうに見えたのがウンのつきだった。
 家に帰ってから辞書を片手に読みはじめたのだが、何が書いてあるのかまったくわからなかった。

 当時、そばが十七円、古本のポケットブックが20円。私は、いつも昼食をぬいて、本を買って読んだ。新刊のポケットブックが買えるようになったのは1947年からだが、一冊4百円もした。(当時、円の為替レートは対ドル、1ドル=360円。これほどの暴利をむさぼった輸入商の名は、チャールズ・E・タトルという。聞きおぼえのある人もいるだろう。)

 私は、ハメット「発見」から手あたりしだいに、アメリカ小説を読みはじめた。こうして読みつづけているうちに、その作家について、文体のやさしさ、むずかしさ、作風についてもなんとなく見当がつくようになってきた。
 やがて、ヘミングウェイという作家を「発見」した。私は、当時、すでに批評を書きはじめていた。ある劇団の俳優養成所の講師をやっていた。そこで、俳優の朗読用のテキストにヘミングウェイを訳したのだった。
 私の最初の翻訳は「キリマンジャロの雪」という中編だった。

2008/01/20(Sun)  754
 
−−旧作句集−−

 こんなものを発表するのはおこがましいのだが、ある時期、うろうろしていた私の姿があらわれているような気がする。

    春なれや 青楼残るいなかまち

 もう、どこの町だったかおぼえていない。ひどく古びた木造建築の前を歩いて、ふと、入口の破風作りに気がついた。ほう、ここに遊廓があったのか。

 友人の竹内 紀吉君と会う。すぐに自分の書きたい小説のこと、作家の誰かれのこと、最近読んだ作品のことを話してくれる。
 夏だったのか。「時の過ぎ行きのあわれさよ」と前書きして、
    炎天下 一寸の虫のうずくまる

    行水や 手首とりまく白き肌

 これもどこで詠んだものか、おぼえていない。


    日ざかりを 恐竜展にいそぎけり

    大ホールに 恐竜をさす手の扇子

    フラッシュに「恐竜」ほえて 子らの夏

    白日の夏 恐竜の群れほえ 動く

 これは、幕張メッセの「恐竜展」。私は恐竜が好きで、「恐竜展」が開催されればかならず見に行くのだった。

    夏の日の彼方 はるかに思うこと

    炎天にきて きらめくや美女ひとり

    雲はやく動いて 昼の蝉しぐれ

    一天にわかに かき曇りつつ蝉の声

 この年、初秋、伊那は高遠、平家の落人の里に行く。ある医師の先生の別荘に遊びに行った。この先生のおかげで、いのちびろいをしたのだった。


    日まわりの 葉の萎れゐる線路わき

    秋空と 路肩頽れし甲斐路かな

    停止信号に 庚申塚や ダムの秋

    山路きて 平丞相の墓と会う

    秋日ざし 絵島の墓というを見る

 吉沢正英、集中治療室に入るという。暗澹たる思いがあった。

    大手術 風の動かぬ残暑の日

 竹内 紀吉君に招かれて、

    山々に風立つ秋や 「煕吉庵」

    内房の曇り空には 鷹の翔ぶ

    秋雨に カラスの翔ぶや 蔵の町

 この年の私はよく旅をしていた。山に登らなくなっていたせいもある。
 磐梯熱海。志田浜から雨にけむる猪苗代湖の一部を見る。

    湖に紅葉のけむる午後なりき

    時雨るるや その名も中山峠とか

    落ち葉舞う 真昼に 餌を鳩にやる

2008/01/17(Thu)  753
 
 ロ−マ帝国が滅亡して、ギリシャ人、アラビア人がイタリアに流れ込んできたが、ここに科学の基礎が生まれた。
 占星術がイタリアにつたえられたのは、ビザンチンの学者、プレト−がフィレンツェで講義してからだが、錬金術はそれより先にエジプトからつたえられた。
 これが、やがて気象の研究や、植物の生成の観察など、さらに医学、天文学、植物学、鉱物学などに発展してゆく。
 錬金術は、先史時代からあって、鉱物や、金属の精錬にまつわる魔術を得意とした部族が、神聖な森に集まって、踊ったり祈ったりする秘儀から起こった。この錬金術の秘法に、ルネッサンスの人びとの強烈な欲望が重なった。
 いつの時代でもおなじだが、宝石が珍重され、金が欲望の対象となった。
 宝石は、人間の手にかからない自然の生んだ神秘だった。その神秘に憧れる気もちが、さまざまな護符や、幸運の指輪、金属のメダルなどの流行を生み、さらには人間の手で、この神秘を生み出そうという夢をもたらした。
 これが一方では、手相学、骨相学などにつながり、また、一方では、不老不死の秘法の探究に発展してゆく。
 水銀を凝固させて純金にする、とか、ほかの卑金属から金を作る技術がある、と信じられていた。そのためには「賢者の石」が必要なのだ。その「賢者の石」は、エリクサ(連金薬)とか第五元素と呼ばれているが、その精製は秘中の秘だった。ヴァチカンにも、この研究に熱中したロ−マ教皇がいる。
 『ロミオとジュリエット』に出てくる修道士は、ジュリエットに秘薬をあたえるが、あれも錬金術の一つと見てよい。
 トレヴィ−ソ伯は、「賢者の石」の発見に夢中になって、城も領地も売りとばし、ついに最高の秘法を発見したが、うれしさのあまり、病気になって乞食同然の死にかたをした。死んだとき、口から金の塊を吐いたという。

2008/01/15(Tue)  752
 
 中世にくらべれば、ルネッサンスの時代ははるかに高揚した気分が見られる。
 フィレンツェの隆盛を代表するロレンツォ・デ・メディチの時代は、まさにハイ・ルネッサンスとよばれるにふさわしい最盛期だった。
 この時期、ルネッサンスによって、はじめて人間が血肉を得た、といわれる。
 ルネッサンスの人びとには、独立の人(ウォモ・シンゴラ−レ)、個の人(ウォモ・ユニコ)、他に抜きん出ようとする野望が共通していた。
 自分は他人とは違うのだ。こういう気もちは、君主も、傭兵隊長も、芸術家も、女たち、乞食、みんなに共通していた。女は、自分と寝る男がほかの女とは違うからだといってくれるように、セックスにもいそしんだ。

 ミラ−ノのルドヴィ−コ大公は、愛妾、チェッチ−リアに暇を出した(別れた)とき、「この女性(にょしょう)、性技、天下第一等」という証明書を書いてやった。
 こんなふうに、いつもシンゴラ−レであろうとして、ユニコをめざして、他に抜きん出ようという野望は、政治、経済、外交、戦術にもあらわれる。
 フランチェスコ・スフォルツァ大公は、臨終の床で、
 「もし三方に敵あらば、最初の敵と和を結び、つぎの敵と休戦し、さてつぎなる敵に打ちかかり滅ぼすべし」と、遺言した。

 銀行家も、商人も、経済戦争をつづけて、自分だけは生き残ろうとした。芸術家も、レオナルド・ダヴィンチをはじめ、いろいろな分野に手を染めて、ほかの芸術家に負けない仕事をするのが理想だった。ダヴィンチ、ミケランジェロ、もっとあとのベッリ−ニまで、ひとしなみにこの理想を追い求めた芸術家なのである。
 だが、こうした気概のうしろには、ロレンツォ・デ・メディチの詩にあるように、

    きたらむ時を な怖れそ。
    乙女うるわし 恋人うれし
    何思うべき 今日より先を

 といった、どこか悲哀にみちた予感がただよっている。

 万能人(ウォモ・ウニヴェルサ−レ)は、こうした時代に、不屈の気概をもって生きた人たちのことで、ダヴィンチほかの少数者だけをいうわけではない。

2008/01/13(Sun)  751
 
 1411年、「知識人」の指導者が、カンブレーの司祭によって告発され、断罪された。ジル・カントール、および、ヒルデルヘッセンのウィリアムという。
 カンブレーの司祭は、修道女、ブレマルダンの説く「天使の愛」を堕地獄のものと糾弾した。そして、ジル、および、ウィリアムの両名が、ブレマルダンと関係があったと断じた。
 異端審問官はこの二人をきびしく糾問して、ふたりがブレマルダンと淫らな行為にふけったと認めさせた。むろん、はげしい拷問の結果であった。

 ジル・カントールは、聖霊が訪れたことを告白し、キリスト教の四旬節、ほかの大斉日を守らぬように、この聖霊から命じられたと語った。
 ウィリアムは、イエスが十字架にかかって死んだのだから、告白、贖罪、人類に対する罪の赦しはいっさい無益になったと語り、よってこれらの秘蹟は放念してもよい、とのべた。しかも、聖霊にみたされた人間は、聖職者よりもただしく聖書を読みとくことができるし、人智を超えた説教ができると主張した。

 こういう神学的な問題になると、私にはわからないことばかり。

 ただ、私にもわかるのは――「知識人」の思想が、キリスト教異端のベギン派の修道院の思想とかさなりあっていることである。「知識人」の行状、教理を記録したピエール・ダイイの記録では、性行為をこばんだ仲間の女は、みんなから辱めをうけたという。この集団では、性交は、祈りにひとしい霊的行為と見なされていた。

 ただし、ウィリアムは、仲間どうしの乱交を外部に秘匿するように言明したという。
 人間の考えることは、あまり変わらないらしい。

2008/01/11(Fri)  750
 
 最近は、知識人ということばもあまりきかなくなった。
 私自身は、知識人ということばをほとんど使ったことがない。『ルイ・ジュヴェ』のなかで、ジッドに関して、知識人ということばを使った程度。

 ラテン語で Homines Intelligentiae.英語なら、intellectual だが、私たちが使っていたことばは、ロシア語のインテリゲンツィアからきたらしい。

 ラテン語の Homines Intelligentiae が、教養人に違いないが、14世紀、ベルギー、ブリュッセルに「ホモ・インテリゲンティアェ」という集まりが生まれる。
 中心になったのは修道女のブレマルダンという自由心霊派の女性だった。彼女の思想は、どういう行動をしても、罪とは見なされない恩寵の状態に達することができる、というものだった。そういう恩寵を受けてこそ、人は霊において自由であり、もはや人間のすべての法はおよばない、という。
 彼女の教えの核心に、天使の愛という、それまでになかった愛のかたち、というか、徹底した自由恋愛があった。
 最近の私は、宗教とエロスの問題を考えている。むずかしい。

2008/01/09(Wed)  749
 
 今ではまったく使われない数えかたがある。

 イチジク、人参、山椒に、シイタケ、ゴボウに、剥きネギ、菜ッぱに、ヤツガシラ、クネンボウに、トウナス(かぼちゃ)。

 野菜をズラズラ並べたダケに見える。じつは、1から10までの数詞が符牒化されている。最後のトウナスは、唐茄子南瓜(かぼちゃ)と重ねることが多かった。
 縁日などで茶碗を買うと、商人(あきんど)がこれで茶碗を数える。

 昭和30年代の下町情緒を描いた映画、「3丁目の夕日」が、なぜかノスタルジックな感傷を喚び起こしている。
 戦前の下町育ちの私は、この映画にあまり下町情緒を感じないのだが、この映画よりも少し前、昭和10年代には、どこの町にも、その下町にぴったりの肉屋、魚屋、酒屋、お菓子屋、小料理屋などがあったものだ。

 呉服屋、下駄屋、足袋屋、饅頭屋、荒物屋、雑貨屋、ブリキ屋。現在は、見かけない職種の店。ほとんどが廃業してしまった。
 私の育った戦前の下町は、1942年までは、戦争の影響もまだ大きくなかった。それでも、糸繭の仲買とか、車屋(人力車)、馬力屋、草箒屋、棒屋となると、もうまったく消えてしまったはずである。

 棒屋といっても、テンビン棒や、農家がつかうクワの柄(え)を作る棒屋と、大八車や手車を手がける車大工の棒屋とあった。

 いまでも棒屋はあって、SMプレイ用の道具を作っていると聞いた。なるほどねえ。

2008/01/07(Mon)  748
 
 眼をさます。人日(ひとび)の寒い朝。

 アトリエと称する小さな部屋が寝室兼用。本、雑誌などといっしょにCD、DVD、ビデオなどが散乱している。こんな狭い板張りの部屋で寝起きしているので、ホームレスのようなものである。
 壁には、額に入れた絵や写真が不ぞろいに並んでいる。
 油絵、アクリル画、水彩。
 私が教えていた女子美の生徒たちが、私のために描いてくれた絵が多い。なかには、自分のヌードを描いた大きな油絵もある。

   水彩のヌード ほのかに 初あかり

 こうした絵や写真には、私の過去がびっしりと裏打ちされている。
 その過去は、遠ざかるにつれてますますはっきりと見えてくるのだろうか。それとも、その絵が描かれた時点、その写真が撮られた時点のまま、そこだけ切り取られた「現実」として残されているのだろうか。それは、いつしかセピア色に色褪せて、誰の想像力にも訴えかけなくなるのだろうか。

 私は、ピエール・ルイスが撮った写真や、ポール・レオトォの写真、オーギュスト・ロダンのおびただしい水彩のデッサンを思いうかべる。
 どれも彼らの本業の仕事とは思われていないが、それぞれの芸術家の特質をみごとに表現している。私はいつも彼らの、この仕事にひそかな感嘆を惜しまなかったものだが。

 残念ながら私の水彩や写真には何の意味もない。
 それでも、正月らしい俳句ができたから、ま、いいか。

2008/01/04(Fri)  747
 
 女性作家、ジョルジュ・サンドは、後輩の作家、フローベールにあてた手紙で、

    あなたの作品は悲しみをもたらしますが、私の作品は人をなぐさめます。

 と書いた。

 この一行から、ただちにいろいろなことを考える。

 「悲しみをもたらす」にせよ、「人をなぐさめる」にせよ、ふたりはそういう作品を書いた作家だということ。
 あるいは、アプリオリに「悲しみをもたらす」とか、「人をなぐさめる」などと考えなくても、結果として、そういう作品を書いているという強烈な自負をもっていたこと。
 現在の作家が、自分の作品は「悲しみをもたらす」とか、「人をなぐさめる」などと考えて書いているだろうか。

 小説は読者に「悲しみをもたらす」ために、または「人をなぐさめる」ために書かれる必要はない。現代小説は、はじめからそうした設問とは無縁な場所から出発している。
 その通り。
 だが、その小説を読んで、なぜか深い「悲しみをもたらす」ことに気がつく。または、これとは逆に、心のどこかで「なぐさめられる」。現在の読者にしても、そういう昇華作用、浄化といった感動をもとめているかも知れない。小説が読まれなくなったのは、そういう読者の素朴な期待にこたえられなくなっているからかも知れない。

2008/01/02(Wed)  746
 
 正月二日を詠んだ虚子の句に、

    今年はや二日となりて翕然たり

 という句があるが、徳田 秋聲の作、

    正月の静かに暮る丶 二日かな

 と並べてみると、虚子の句のいたらなさは蔽いがたい。
 虚子、秋聲と、並べて、漱石先生の、

    一人居や思ふ事なき三ケ日

 となれば、虚子などよりはるかに落ちついた句になっている。

2008/01/01(Tue)  745
 
 旧作を並べてみよう。むろん、俳句と呼べるものではない。

    盃を手にして年のはじめかな

 年あらたまりて、初春となる。当然のように酒になった。それだけのこと。内藤 鳴雪に「七転八起のそれも花の春」という名句があるが、私は七ころび八起きの人生を花の春と観ずるほどの人間ではない。

    去年今年 日のかぎろいに 日のしずく

 そこで、まあ、こんなふうになる。去年今年(こぞことし)は季語。旧年でもいいし、初昔でもいいのだが、こういう季語はもう使えないような気がする。

      S.T.二十歳の誕生日。その名を詠んで、
    冬日静か この高みなる夢の橋

 S.T.は、私のファンになってくれた少女。会ったことはない。

      K.I.の訃。享年、56歳。
    春を待たず散るべき花にあらざりき

    春寒や ホテルの部屋に眼の疲れ

 大晦日に、正月の特別番組の台本を書いて、演出、録音して、まったく人通りのない赤坂から新橋まで歩いて、やっとタクシーをつかまえてホテルに戻った。

    坂道の平かならず 春の朝

 これはバカげた句だと思う。「坂道」が「平かならず」というのは当たり前ではないか。しかし、本人にはそんな実感があったのだろう。

    薄曇り ミモザの女に逢いに行く

 正月の句ではないのだが、なんとなくここに入れておきたい。「淑気」といったものを詠みたかったのだろうか。

2007/12/30(Sun)  744
 
 藤原 正彦先生は、小学校5年のとき、数学者になるときめたという。

    6年のとき、父が「大学案内」という本を買ってきて、東大理学部数学科の所を開き、「この『定員15人』が日本で一番頭のいいやつだ」と言った。単純でおめでたい私は、「ぼくは日本で一番だから当然ここに行く」と進路を決めてしまった。」(「数学と品格」)

 すごい小学生がいるなあ。
 藤原先生のご父君は、作家の新田 次郎。

 小学校5年の私は何をしていたのか。トム・ソーヤー、ハックルベリ・フィンよろしく、勉強そっちのけで遊んでいた。ところが、弟が病気で亡くなったときから、よくいえば内省的、ひらたくいえば暗い性格の子どもになった。
 この頃、父が一冊の本を買ってくれた。後藤朝太郎先生の「漢和辞典」である。紙質のよくない廉価本だったが、ほかに読む本もなかったので、毎日この本にかじりついた。

 現在の私が、漢字をよく知っているのは、この辞典のおかげである。その後、私が手にしたのは、簡野 道明先生の『字源』で、これまた紙質のよくない本だったが、私はかなり熱心に読んだ。
 後藤先生の「漢和」にない漢字が多いので、それを眺めるのが楽しかった。

 小学校5年のときにおぼえた漢字は、今でもだいたいおぼえている。私は、現在の教育でも「読み書きそろばん」だけはできるだけしっかり身につけさせたほうがいい、と考えている。
 「ゆとり教育」のツケがまわって、57カ国の、15歳の子どもたち(男女)約40万人を対象にした「国際学習到達度調査」(第三回)の結果が、世界同時に発表された。(’07.12.5)
 日本は、「数学的応用力」で、6位から10位に落ちた。「読解力」では14位から15位に。
 ちなみに、「数学的応用力」で1位は、台湾。2位、フィンランド。3位は、香港。4位は、韓国。日本は、1位だった前々回に比較して、34点も低下して、堂々の10位。
 しかし、まだ悲観する必要はない。さらなる学力低下が心配されている現在の初等教育でも、漢字の習得はかなりの程度まで可能なのではないだろうか。

 いまの私は、文章を書くのに、ワープロ、パソコンの変換にない漢字は使わない。それはそれでいいのだが、使わないせいで漢字が書けなくなってしまった。たとえば、漢詩を引用したいと思っても、漢字が出ないのでは仕方がない。

 扁旁冠脚の知れない漢字を思い出そうという努力もしなくなった。
 これも、老いぼれた証拠か。

2007/12/28(Fri)  743
 
 広瀬 淡窓(1782−1856)という漢詩人がいた。
 全国に子弟、4千人を越えたという。えらい人だったのだろう。

 淡窓の父は漢学者だったが、俳句が好きだった。ある日、父の門人がナマコを詠んだ句を見せた。

   板の間に 下女とり落とす 海鼠かな

 先生は道具だてが多いといって、この句を却下した。弟子は、

   板の間に とり落したる なまこかな

 と直して見てもらうと、だいぶ、よくなった。しかし、もう一息だといって、また返された。苦吟のはてに、弟子がもってきた句は、

   とり落し とり落したる なまこかな

 となっていた。
 善哉、はじめて先生はこれを許した、という。広瀬淡窓詩話にある。

 たしかに、「板の間に下女とり落とす海鼠かな」では、いかにも説明的で、月並みもいいところ。すこしもいい句ではない。
 安岡 正篤はいう。

 「が、分り過ぎて本当の処何を詠んだのか分からない。海鼠を詠んだにしては海鼠の海鼠たる所以(ゆえん)がちっとも躍動しておらない。板の間に娘の落すでも、板の間に童の落すでもまた好い。かなの二字で海鼠が主になっていることは分明だが、どうしても板の間や下女に気が散る。その板の間を去り、下女を除くに随って、海鼠がはっきり出てくる。掴みどころのないぬらりくらりとした、なまこらしいところがよく出てくる。ここだ。大切な詩の魅力といわれる”kinetic and potential speech”の好い例である。

 これを読んで、広瀬 淡窓の父君に俳句を教えてもらわなくてよかったと思った。
 ついでに、こんなエピソードをとくとくとつたえている広瀬 淡窓に軽蔑をおぼえた。
 さらに、安岡 正篤の説明にムカついた。こんな解釈のどこがいいのか。

 「とり落し とり落したる なまこかな」では、ただでさえ平凡な句が、もっともっとわるくなっている。こんな句のどこに「掴みどころのないぬらりくらりとした、なまこらしいところがよく出てくる」のか。この下女にナマコ三番叟でも踊らせるか。

 この句の作者は、板の間に下女がうっかり海鼠をとり落としたことを詠みたかった。下女は、ナマコのように、えたいの知れないものに指をふれるさえおそろしかったのかも知れない。そうだとしても、ナマコを思わずとり落としたところにおかしみを見た作者の意図は、「とり落し とり落したる なまこかな」ではまったく消えているではないか。
 「大切な詩の魅力といわれる”kinetic and potential speech”の好い例である」とは大仰な。

 安岡 正篤の詩に関する発言を私はあまり信頼しない。

2007/12/26(Wed)  742
 
 ミケランジェロが男色者だったことは有名だろう。彼の生涯には女性の影が落ちていない、という。はたして、ミケランジェロの生涯に、女に対する性愛がまったくなかったのだろうか。

 ミケランジェロ自身は、「わたしは生涯愛せずには少しも過ごすことはできなかった」という。ルネッサンスの「男」の強烈な欲望が女性にまったく向けられなかった、とは思えない。
 彼の処女作と見ていい詩に、

   愛の神キュピッドよ、そなたの激情に誇らしく立ち向かうことのできた過去、
   わたしは幸福に生きてきた。しかし、いまは、ああ、わたしの胸は
   涙にぬれている、そなたの力が身にしみて
 
 とか、
 
   わたしをあなたにことさら惹きつけるのは誰だろう。
   ああ、ああ、しっかりとしばりつけられながら、
   それでもわたしが自由とは
 
 という。(1504年)

 ロマン・ロランは、「ミケランジェロの作品には愛が欠けている」といったが、これも私としては疑問で、じつは、ある女性に対する恋の苦悩に身を灼いていたのではないか。
 ミケランジェロは、うまれついてのホモセクシャルと見るよりも、むしろバイセクシャルだったし、コンパルシヴな女体探究者だったとみていいのではないかと思う。
 作家、ア−ヴィング・スト−ンは、メディチ家の令嬢、コンテッシ−ナに対する愛を想像しているが、それを裏づける資料はない。

 晩年のミケランジェロの、ヴィット−リア・コロンナに対する深い愛情も、肉欲とは関係のない純愛だったといわれている。
 私は、1520年から27年まで、ミケランジェロがあまり仕事に手をつけなかった不毛な時期に、女色にふけったのではないか、と見ている。
 若い男性に対するつよい関心は、1530年以後からで、初老にさしかかってからだったと見ているのだが。

2007/12/24(Mon)  741
 
 ル−ヴル美術館でも、ダヴィンチの「モナリザ」だけは、特別にガラス・ケースで保護されている。
 私は、モナリザだけを見る目的で、毎日ルーヴルに通ったことがある。それまで写真や画集で見てきたものと違って、実物の「モナリザ」はほんとうに世界最高の作品だと思った。絵の美しさに感動したが、想像していたよりずっと小さな絵だったことにも驚かされた。
 「モナリザ」を見たあとでは、すぐ近くの部屋いっぱいに展示されている巨大な「ナポレオンの戴冠」にも、隣の部屋に並べられているル−ベンスの連作にもまったく心を動かされなかった。

 私は、世にも短い「ダヴィンチ論」を書いたことがある。
 どうしようもない不勉強な作品だが、このエッセイを書いたことが後年、ルネサンスにのめり込むきっかけになった。
 私の力では、ダヴィンチについて書くことはできなかったが、ある時期、ダヴィンチについて書く準備をしたことがあった。むろん、しばらくして断念したのだが。

 「モナリザ」のモデルについては、いろいろな説がある。
 私ごときにはモデルが誰なのかわからない。もっとも注目すべき説は、田中英道氏の研究で、「モナリザ」のモデルを、マントヴァ侯夫人、イザベッラ・デステとしている。

 イザベッラは、ルネサンスきっての才媛だった。ダヴィンチに自分の肖像画を描かせようとやっきになったが、どうしても描いてもらえなかった。
 義弟の愛人、チェッチ−リア・ガッレラ−ニがダヴィンチに肖像画を描いてもらったと聞いたイザベッラは、半分口惜しまぎれに、ぜひ見せてほしいといった。
 ベルガミ−ニ伯夫人になっていたチェッチ−リアは、その絵はあんまり私に似ていないけれど、自分が愛に溺れていた娘時代ではなくなっているからです、と答えた。
 つまり、娘時代の私はダヴィンチが描いたとおりの美女だったというわけである。
 イザベッラはかなりむかついたらしい。じつは、イザベッラの肖像画を描くつもりになったダヴィンチは、イザベッラの横顔のデッサンを描いている。
 これもたいへんな傑作だが、中年にさしかかって、肥満しかけたイザベッラが描かれている。それがまたイザベッラには気に入らなかったらしい。

 ダヴィンチはイザベッラが嫌いだったらしく、とうとう肖像画を描かずにフランスに去って、皇帝、フランソワ一世につかえた。

 1519年、ダヴィンチはフランスで亡くなっている。

 ダヴィンチについて書かなかったことを、ほんのわずかだが後悔している。

2007/12/23(Sun)  740 (Rev.)
 
 媚薬について調べている。

 トリスタンとイズーの物語は、媚薬を飲んだ男女が宿命的な恋におちいる。
 この物語の媚薬は、どういうものだったのか。いっしょに飲んだふたりは、三年間、離れられない。この期間は、何があろうと、官能のかぎりをつくして愛しあう。一日たりとも離れてはならないし、昼も夜もお互いに見つめあわなければならない。一週間も愛の語らい(性交をさす)ができないと、ふたりとも病気になって、衰弱し、ついには死ぬことになる。

 おそろしい話である。
 だが、愛する女と、三年間、何があろうと、官能のかぎりをつくして愛しあう、という夢想は、たいていの男に共通しているのではないだろうか。

 ほんの三ヵ月も実行できないはかない夢想に過ぎないが。

2007/12/21(Fri)  739
 
 子どもたちが書く詩には、ときどき驚くようなきらめきがある。

   クラスのみんなをおかま中につめた
   ガギュツ、ガギュツ、音がした

   もうじきむさるころだ
   ふたをあけてみよう

   みんなをかまの中からだした
   みんな真っ赤だ

   魚屋へ せいぼのかわりに
   むし人間を三六人やった

   魚屋のおばさんは
   それを店に出した
   「むし人間」 小五  石川 せき子

 この詩が発表されると、生活詩を指導する教師たちから、はげしい非難が起きたらしい。「生活綴り方」を信奉する教師たちは、想像力を重視すると、こういう残酷な妄想を生む、といって批判した。
 私はこの詩を少しも非難しない。リアリズムの信奉者たちは、子どもが自分の身辺を詩にする生活詩などというものに、いわゆる「子どもらしさ」などを見ているらしい。そもそもこれを妄想などと見るほうがおかしい。この詩を不健康なものと見るほうが、よほど不健康なのだ。
 むしろ、あまりに子どもらしい、それこそげんなりするくらいに子どもの感覚を表現している、というべきだろう。
 教師たちが「生活綴り方」を指導するのはけっこうだが、そんな作文に、子どもの悲しみや、うまくことばにならない孤独感、おとなの常識では妄想と見えるような奇想があらわれるはずはない。その先生の気に入るような平凡な「綴り方」があきもせず書かれるだけのことだ。豊田 正子や、金 達寿の綴り方が、どれほどユニークなものだったか、考えてみるがいい。

 この小学生の別の詩をあげてみよう。

   ジュースをのんでいた
   うしろからバリバリ音がした
   春がせんべいになっていた
   夏がひきさいてたべていた
   たすけてさんはこなかった
   春はたすけてさん をにくんだ
   たすけてさんとは遊ばない
   春はおこっていった
   たすけてさんは夏と遊んだ
   夏は春にも遊ぼうといった
   でも春はおこって行った
   たすけてさんは春も夏も
   いっしょに遊ぶといいと思った
    「夏と春」  小六  石川 せき子
 
 じつにおもしろい。
 こうした詩は矢口先生のクラスから生まれてきたという。矢口先生がどういう先生なのか知らない。「すこやかな子どもはすこやかな詩を書く」などという旧態依然たる子ども観で指導される「生活詩」などは、実際に現実をとらえるのではなく、ほんらい子どもたちの生活や内面にひそんでいる色彩や輝きを消し去った、詩と称する、非詩的なものを、あきもせずに生産しているにすぎない。
 そんなものは、生活にも、子どもという人間存在にもかかわりがなく、日常の具体性のしがらみにからめとられているにすぎない。

   キラキラが光っている
   ザブザブのなみにのって光っている
   魚がキラキラをのんだ
   太陽がよびにきた
   キラキラの赤ちゃんははいあがって
   おかあさんのところへ帰っていった
   口の中へはいったキラキラは
   うろこになって
   光っていた
    「うろこ」  小五  石川 せき子
 
 せき子ちゃんがこれからも詩を書くかどうかわからない。しかし、この子の詩を読んだときの喜びを、私は心のなかにしまっておきたい。

 *引用は「詩的認識と散文的認識」 駒瀬 銑吾/「宇宙詩人」7号による。

2007/12/20(Thu)  738
 
 あるコラムニストが語っている。

 京都で、「ぶぶづけでもどうどす?」と言われたら、「帰れといわれてるんだな」と解読する力が、品格として求められているのか知れない、と。

 それがわからなければ、ニブいヤツと思われる。だから、眼の動き、ことばの裏といった「ソシヤル・コード」に気配りが必要ということになる。

 私は京都という町の coldness (よそよそしさ)が好きではない。その理由は、相手に早く帰れという意味で「ぶぶづけでもどうどす?」というような表面の慇懃さ、その裏に酷薄なものが隠されているせいかも知れない。
 そんなものの解読が「品格」の条件なら、こっちから願い下げにしよう。

 あるとき、ある本を企画した。ある編集者に話をもちかけた。関西出身という。
 「考えときまっさ」
 といわれた。
 当然、彼が企画を検討してくれるものと思った。
 しばらくしてまた会ったとき、先日の企画はどうなったのだろう、と訊いてみた。相手はきょとんとしていた。
 いくらニブい私でも・・・「考えときます」ということばが婉曲な拒絶表現なのだと理解した。すぐに話題を変えた。
 むろん、その本の出版は断念した。

 こんな小さなことにも関東と関西の違いがある。これをしも「品格」の問題ととらえるべきなのか。
 もう一度くり返しておく。
 そんなことばの差違を文化の違いとして理解するのはいい。だが、それが「品格」の条件というなら、下品な私としては足蹴にしてやる。
 くそッ、ケタクソがわりィや。

2007/12/19(Wed)  737
 
 ある古書展で尾崎 秀樹に会った。私はまだ小説も書いていなかった。
 帰り際に立ち話をしたのだが、
 「大衆小説を研究してみたいんだけど、どうでしょうか」
 尾崎 秀樹は、言下に、
 「よしたほうがいい。苦労するだけですよ」
 と答えた。
 素直に彼の忠告にしたがった。

 私はミステリーを書いた。やがて時代小説を書いた。
 ミステリーをふくめて大衆小説の解説や、ときには作家論めいたものを書くようになったが、研究として書いたわけではなかった。まして、大衆小説のイデオローグとして発言したり、批評したことはない。
 私の内面では、ミステリーや大衆小説の批評と、いわゆる文学批評に文学的な径庭はなかった。

2007/12/18(Tue)  736
 
 おでんがおいしい季節。

 ありきたりの具ばかりだが、好きなものをあげてみよう。ダイコン、サトイモ、こんにゃく、つみれ、昆布。そのかわり、ハンペンや、豆腐、キャベツ巻き、アブラゲに詰めものをするタカラ包みなどは、あとまわし。

 おでんは、もともと田植えの神事、田舞にはじまったという。田楽豆腐を、でんがくといったのは、田舞を舞う法師の衣裳に似ているから。
 昔の川柳に、

   田楽は 田で楽しむの 読みがあり

 という句がある。
 読んだだけでは意味がとれない。

 してみると、ここで「おでん」を酒菜に、木の升できゅっと一杯ひっかけてくり出す。行き先は、たんぼを越えてすぐ先の吉原。

 いい時代だったんだろうなあ。うっかりこんなことを書くと、たちまち柳眉をさかだてて噛みつかれそうだが、

   降ってきた なんぞどこぞにこぞろうか

 という川柳もある。

 これは、雨が降ってきたシーンというより、おそらくは雪の景色。行き先は、やはり吉原。
 あとの「こぞる」は、その場に居あわせた連中が、おなじ行動をとること。
 「こぞる」だけをとって見れば、いまの私たちの行動様式だってあまり変わらない。

2007/12/17(Mon)  735
 
 うれしいニューズ。
 新種と見られる恐竜の化石が発見された。アルゼンチン西部、ネウケン州。発見したのは、ブラジル、アルゼンチン古生物学者のチーム。(’07年10月15日)

 この恐竜は草食性で、ティタノコサウルス類の新種らしい。
 全長、32〜34メートル。頭の高さは約15メートル。4階建てビルの高さ。

 化石は、7年前、湖のほとり、約8800万年前(白亜紀後期)の地層から発見された。全体の7割程度が、ほぼ完全に近いかたちで発掘されたという。

 先住民のことばで「トカゲの巨大なボス」という意味の「フタログンコサウルス」と命名された。

 フタログンは歩きつづけた。どこからきたのか。それはわからない。自分でも考えたことはない。なにしろ、巨大な図体なので、脚に怪我をして痛みを感じても、その痛みが脳につたわるまでに時間がかかった。思考回路が長いせいだろう。15メートルも先にある頭のほんの少しの脳が動き出しても、その反応が脚にフィードバックするのに、また時間がかかる。だから、彼は何も考えない。
 ゆったりした時間の流れのなかで、全長、30メートルを越えるからだが、つぎの一歩を踏み出している。そのときになって、やっと頭に届いた痛みは、脚を動かしたときにはもうどこかに消えている。

 彼は血を流していた。ティラノサウルスと遭遇して、必死に戦ったときの傷から血が流れている。固い鱗に蔽われた肌には、いくつも傷跡が残っている。
 その臭いをかぎつけた始祖鳥(アルカエオプテトリックス)の子孫たち、イクチオニクスや、ヘスペロルニクスたちがどこからともなく舞い降りてくる。あいつらのするどい嘴、かぎ爪は、肉に深く突き刺さるのだ。
 ティラノサウルスと遭遇したのは不運だった。
 巨大なシダの樹林から出たとき、あいつに出くわしたのだった。すぐに逃げようとしたが、あいつは盗み見るような眼を向けて、気のせいか、口もとにうっすらと笑みをうかべた。
 こいつ、何を考えてやがるんだ。
 脳が小さくて、ひどく性能がわるかったので、その考えが頭から尻尾の先まで届くより先に、ティラノサウルスが凶暴なやつだということだけはわかった。恐怖はなかった。
 攻撃されたら反撃するだけだ。そう思ったとき、すでにティラノサウルスに食らいつかれていたので、自分も長い頸をふりまわして、ティラノサウルスめがけてたたきつけていた。彼は食い入るようにティラノサウルスの眼をのぞき込んでいた。

 やがて、彼は荒涼とした岩石のひろがる土地にいた。
 歩きつづけた。傷は深いようだった。おびただしい血が流れているから。しかし、なぜ、こんな赤いものが流れるのか考えなかった。考えたにしても、つぎのことを考えたときには、もう消えている。
 しかし、これまで何も考えなかった彼が、ようやく自分に向けられた問いを考えているのだった。なにしろ、行けども行けども、荒れ果てた砂漠ばかりでわずかな草や灌木さえみえなかった。だから考えることは一つしかなかった。
 おれはどこに行こうとしているのか。
 この問いは、ティラノサウルスに食らいつかれて、引き裂かれた傷とおなじで、彼が自分につきつけた問いだった。だから、いやおうもなく、自分の身にひきつけなければならなかったのだ。・・

 いつの日にか、自分が化石になってしまうなどは考えもしなかったけれど。

2007/12/16(Sun)  734
 
 ある日、大学の研究室で、親友の小川 茂久に、
 「おまえは、オッチョコチョイだなあ」
 といわれた。私は素直にうなづいて、
 「うん、おれはオッチョコチョイなんだ」

 オッチョコチョイ。最近、聞かなくなった。これも死語だろう。
 語源辞典で調べれば出ているかも知れない。調べる気もなかった。

 明治四年、こんな歌がはやったという。

   諸所にトンネル切り開き
   山も 野山も 平地で 馬車や 人力車や 岡蒸気
   オヤ オッチョコチョイのチョイ
   オッチョコチョイのチョイ

 へぇー、明治時代にできたのか。
 してみれば、私のオッチョコチョイぶりは、土地開発や、新しい交通手段に眼をまわした文明開化に少しはかかわりがあるかも知れないナ。などと考えるのが、私のオッチョコチョイなところ。(笑)

   死んだあとでの 極楽よりも
   この世で らくらく暮らしたい
   アラ ほんと現代的だわネ

 これは大正四年。物価の高騰に、世界大戦、成金熱、プロレタリアの労働争議、それで起こった米騒動。

 いつの時代も「現代的」だから、不安材料がいっぱい。私もどうやらパイノパイノパイ。

2007/12/15(Sat)  733
 
 ヴァネッサ・パラデイが登場したのは、1988年だった。ファースト・アルバム、「M&J」を出したとき、15歳。
 ヴァネッサを聞いたのは、フレンチ・ポップスに関心があったからではない。表題作の「M&J」がマリリン&ジョンの頭文字と知って、興味をもったからだった。

   マリリンは口紅をつけながら
   ジョンのことを考える
   ジョンのことだけを
   微笑んで ふと ため息ついて
   口にする――歌

   悲しみもなく 楽しみもない
   二つ三つの――インタヴューのあいだ
   スウィングが 心に揺れて
   バスタブで・・おバカさんね
   マリリンは彼の名を歌っている
   ひとりでに心にうかぶ曲にして
   星(スター)とライオンの物語   
      (仮訳)

 実際にマリリンの映画を見たことのない世代の女の子が、マリリンを歌っても不思議ではない。マリリンのセクシュアリティーは、フランスでも、女性のリビドーと社会が共有する倫理のあいだに、大きな緊張関係をうみ出していた。60年代のブリジット・バルドー、70年代のソフィー・マルソー、80年代のジェーン・バーキンを思い出して見ればいい。
 ヴァネッサは彼女たちにつづく世代だった。
 当時、アメリカでは、ティファニー、デビー・ギブスンが登場していた。オーストラリアのカイリー・ミノーグ、台湾のターシー・スーといったティーネイジのシンガーが、ぞくぞくと登場してきた。
 私は、香港のシャーリー・ウォンを聞いて以来、アジア・ポップスにのめり込んでいた時期だった。シャーリー・ウォンは、数年後にフェイ・ウォン(王 菲)になる。

 1枚のアルバム。それも未決定の未来にようやく歩み出した15歳の少女の、ファースト・アルバム。その最初の曲が「M&J」だったことに、現在の私は感慨をもつ。
 たいしたことではないが。

  *「マリリン&ジョン」 (ポリドール/88年、93年)

2007/12/14(Fri)  732
 
 良寛さんの名歌に、

   この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし

 春の日に、良寛さんは村の子どもたちと手毬をついてあそんでいる。春、日が長くなってきた。暮れなくてもいい。このまま子どもたちとあそんでいたいから。

 誰の胸にも村の子どもたちと無心にあそんでいる名僧の姿がうかんでくる。
 二度、三度と読んでいるうちに、ふと、別の読みかたができるような気がしてきた。
 良寛さんの感懐の重心は「春日は暮れずともよし」にあるけれど、読みかたによって、少しニュアンスが違ってくる。
 子どもたちと手毬をついてあそんでいる。だから「春の日はこのまま暮れなくてもいい」。つまり、暮れなければ、このままもっと子どもたちとあそんでいられるのになあ、という無心な願望がある。「子供らと遊ぶ春日は 暮れずともよし」。
 これに対して、私は「春日は暮れずとも よし」と読む。
 ある日、良寛さんは村の子どもたちと手毬をついてあそんでいる。日が長くなってきた。しかし、いずれ日が翳り、暮れてしまう。村の子どもたちとあそんでいられるのだから、暮れようと暮れまいと、春の日はいいものだ。

 むろん、どちらでもおなじではないか、と反論する人がいると思う。私たちは子どもたちと無心にあそんでいる名僧の姿に感動するのだから。
 たしかに、このまま日が暮れなければもっと子どもたちとあそんでいられるのになあ、という解釈は素朴でいいけれど、私には、子どもたちとあそんでいればこそ、春の日をよし、とする良寛さんがおわしますような気がする。

   願はくば花の下にて春死なむそのきさらぎのもちづきのころ

 という西行の歌は、春のうらやかな自然につつまれて、桜の花の下で日本人らしく死にたいという願望を歌った名歌と見ていいが、ほんとうはお釈迦さまが亡くなったその日に自分も涅槃に赴きたい、という仏教者としての覚悟を詠んだものと私は読む。

 日本人の絶命詩としては秀吉の辞世に、「露とおち露と消へにし我が身かな」がある。これにつづく浪速(なにわ)のことには、「何々の」、「なにくれとなく」、「なにやらの」などが隠されている。哀れをさそうが、私はあまり好きではない。

 良寛さんの天衣無縫の歌のほうがはるかにすばらしい。

2007/12/13(Thu)  731
 
 読者にはじめてドストエフスキーを読むことをすすめるとして、何をえらぶか。その理由は?
 ふつうの読者にドストエフスキーをすすめるなら、『作家の日記』にある「農夫マカールの夢」がいい。
 とても短いので、読みやすい。はじめから長編を読んで、途中で投げ出すよりは、こういう短編を読んで、ドストエフスキーをおもしろいと思ったほうがいい。

 相手が女性の場合、ドストエフスキーはすすめない。おそらく、つまらないだろうから。こんなことを書くと性差別とうけとられるかもしれないが。
 ドストエフスキーを読むくらいなら、トゥルゲーネフや、チェホフ、あるいはジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹を読んだほうがいい。

 チェホフを読むと、たいていの人はこんな小説の一つや二つ、書けそうな気がしてくるかも知れない。だが、けっしてチェホフのようには書けない。
 そこで、かりにも作家になろうという人には、ぜひドストエフスキーをすすめる。『罪と罰』を読めば、たちまち小説の一つや二つは書けそうな気がしてくる(だろう)。
 そういう無邪気な錯覚から、作家になった人は多いのではないだろうか。

 たとえばジッド。劇作家のジャック・コポオ。
 たとえば、レオニード・レオーノフ。
 とても比較にはならないが、北条 民雄。

 ある程度、外国の文学に親しんでいて、まだドストエフスキーを読んでいない人には、『賭博者』あたりを読むことをすすめる。
 小説よりもノンフイクションに興味をもっている人には、チェーホフの『サハリン紀行』、ナターリア・ギンズブルグのシベリア強制収容所の回想を読むことをすすめる。もしおもしろいといえば『死の家の記録』を読むことをすすめる。

2007/12/12(Wed)  730
 
 ドストエフスキー作品で、いちばん好きなキャラクターは誰だろう。

 日頃の私はこういうことを考えない。
 すぐに思い浮かぶのは、アリヨーシャ、ムイシキン公爵だが、ほんとうに好きなのかと訊かれると自分でもあやしくなる。
 ソーニャは好きなひとり。ただし、そういう私にはいやらしい願望が隠れているような気がする。
 『未成年』のリディア・アフマーコワ。
 キャラクターとして、いちばん関心があるのは、キリーロフ。
 『カラマーゾフの兄弟』に出てくるコーリャという少年。

 私はドストエフスキーについて、何ひとつ書いたことがない。ただ、荒 正人編の『ドストエフスキー読本』に、短い短いエッセイを書いたことがある程度。
 ドストエフスキーの墓に詣でた。ヤスナヤ・ポリアナのトルストイ邸の寝室に、トルストイが家出する直前まで読みふけっていた『カラマーゾフの兄弟』のページが開かれたまま残されていたことに、つよいショックを受けた。
 私はドストエフスキーに対する尊敬をけっして忘れない。

2007/12/10(Mon)  729
 
 歳末、お茶の水からJR総武線、千葉行きに乗った。千葉まで、54分。

 夜、8時。ラッシュアワーは過ぎていたがすわれなかった。車内で立っているのは、私だけだった。つまり、私が乗る前に、空いていた席がふさがってしまったということである。

 「山ノ上」のロビーで友人に会っての帰りだった。彼は取材でロンドンに行く予定で、いろいろと話がはずんだ。楽しい話題がつづいて、知的な眩暈のようなものを感じたほどだった。こういう知的な幸福感は、近頃はめったに味わえない。そんな気分だったせいか、帰りの電車ですわれなくても、それほど苦痛に感じたわけではない。

 荷物を棚にのせて立っていると、すこし離れた席の若者が席を立って、どうぞと声をかけてくれた。
 私はちょっとおどろいたが、その若者の好意はありがたかった。

 いまどき老人に座席をゆずってくれるような奇特な若者がいるのか。そういうおどろきがあった。もっとも、そのときの私が、席をゆずってやらないと足元もおぼつかない老人に見えたのか。
 「ありがとう」と声をかけて、その席にすわった。

 総武線で人から席をゆずられたことはなかった。
 たいていひどく混んでいたし、帰宅をいそぐ乗客はほとんど例外なく眼を閉じている。昼の疲れから少しでも睡眠をとろうとしているのか。混雑している通勤電車のなかで、知らない他人と眼をあわせたくないので、眠ったふりをしているのか。日常どこでも見かける光景だった。
 私自身も電車に乗って席にすわると、千葉までは、たいてい眼を閉じているか、半分うとうとしながら過ごしてきた。『不思議の国のアリス』に出てくるウトウトウサギのように。最近は、電車で本を読むのも、眼が疲れるので億劫になってきた。

 大学の講義をやめてからは、東京に出ることも少なくなった。東京に出るのはいいのだが、古書店をいくつも歩きまわるのに疲れをおぼえるようになった。
 本を抱えて帰りの電車に乗る。以前なら、座席にすわれれば、さっそく買い込んだ本の一冊に眼を通す。千葉に着くまでに半分ぐらいは読めた。すわれなくて、終点の千葉まで立ち通したこともめずらしくない。そういうときは、すわれなかった不運を嘆いても仕方がない。

 私は、若者の好意に感謝しながらゆっくり腰をおろした。この若者のまなざしには、早く席をゆずってやらないと足元もおぼつかない老人に見えたにちがいない。そんな自分の姿を想像してみた。
 そうだろうなあ。どこから見ても老いさらばえたジイサマにしか見えない。

 ほんとうは、その若者と話をしたかった。たとえば、こんな時間に帰宅しようとしている君は、いったいどんな仕事をしているのか。きみは、どんなことに興味をもっているのか。ガールフレンドはいるのだろうか。さしつかえなかったら、どういう女性がきみの心をとらえたのか聞いてみたいのだが。

 むろん、実際にそんな質問をしたわけではない。

 ただ、そのときの私はほんとうにうれしかった。席をゆずってもらったことがうれしかっただけではない。いまの若者のなかに、見知らぬ老人に同情して、席をゆずってくれるような気配りが生きている。そのことがうれしかった。

 その若者は新小岩あたりで下りたが、そのとき私は走り書きのメモをわたした。若者は驚いたかおをしたが、うけとってくれた。
 そのメモに、私は「ありがとう。感謝をこめて」と書いて、このURLのアドレスを書いたのだった。
 何故、そんなことをしたのか。

 自分でもわからない。むろん、自己顕示ではない。ただ、そんなことでもしないと、自分の感謝の気もちがあらわせなかったからなのだ。

 話はこれだけである。
 きみには、二度と会うことはないだろう。しかし、きみの小さな好意をほんとうにうれしい、ありがたいと思った老人がいたことをつたえたかっただけなのだ。
 ありがとう。

2007/12/09(Sun)  728
 
 私が最初にドストエフスキーを読んだのはいつ、またどの作品だったか。

 はじめてドストエフスキーを読んだのは、1942年。中学3年のとき。
 彼の作品が私の人生を変えた、などとはいえない。ただ、小説というものは、ここまで暗鬱な人間を描くものなのか、と思ったことをおぼえている。この衝撃はあとまで心に残った。結果的に・・・成績が落ちてしまった。

 「世界なんか破滅したって、おれがいつもお茶がのめればいい」ということばに少年の魂がふるえた。戦争中だったし、日本が破滅に向かっていることが、少年にもひしひしと感じられていた。やがて、お茶をのむどころか、日々の糧もなくなってくる。そういう時期にドストエフスキーを読みつづけたのは(いまの私には)信じられない。しかし、空襲警報が出たとき以外は、ドストエフスキーを読みつづけていた。
 『地下室生活者の手記』の章の副題が「みぞれまじりの雪降る夜に」で、冬になると、このフレーズがよみがえってくる。

 戦時中、ひたすらロシア文学を読んでいた。ドストエフスキーだけを読んだわけではない。私が関心をもったのは、クープリン、アルツィバーシェフ、数は少なかったがソログープなど。当時の言葉でいえば「傾向のよくない」作家ばかり。
 ロシア文学が私の内部につちかったものは大きかったような気がする。
 後年、『ゴーゴリ論』を書いたのもそのあらわれだろう。
 さらに後年、当時のソヴィエト作家同盟の招待でロシアを訪れたことは、生涯忘れないできごとになった。旅行中、ソヴィエト体制にはげしい嫌悪の眼をむけていたが、ロシアの精神性といったもの、ロシアの市井のひとびとの姿に心をつよく動かされていた。
 ドストエフスキーの墓の前に立ったときは感動した。それに、ドストエフスキーの生家が荒れ果てていて、横の路地に脱糞のあとを見たときの、いい知れぬ思いを私は忘れない。ドストエフスキー記念館で、彼の机に置かれていた幼い子どもの書いたノート。
 後ろの壁に、ラファエルの聖母の絵が掛けてあった。ヤスナヤ・ポリアナのトルストイの別荘に掛けてあった別のラファエルの聖母の絵。そして、その別荘を立ち去る直前まで、トルストイが読みふけっていた『カラマーゾフの兄弟』が、粗末なテーブルの上に途中のページが開かれたまま残されていた。・・
 「NEXUS」46号に、ドストエフスキーを脚色して、戯曲にした『ペテルスブルグのおばあさん』を掲載したのも、私のドストエフスキーへの関心からだったと思う。

2007/12/08(Sat)  727
 
 テレビのドキュメント。(10チャンネル/’07年10月21日・夜)
 キャスター、堺 正章。サブに、えなり かずき。あとは高橋 克典、押切 もえといったタレントがならぶ。たいして期待もせずに見た。

 アフリカ、ウガンダ奥地の小学校の子どもたちは、絵を描きたくても紙がない。
 日本の和紙職人が現地で、バナナの葉、ワラ、ワラ灰、野菜のオクラなどを使って紙を作る。素材がコウゾではないので、おそらく良質の紙ではないが、子どもたちに紙漉きの技術がつたえられる。クレヨンもないので、炭を砕いてアブラを加え、画材にする。
 村の子どもたちが、生まれてはじめて絵を描く。はじめて描いた絵をプレゼントされて涙ぐむ若い母親。

 つづいて、東チモールの山村。独立を巡っての内戦で荒廃した村。村人たちは燃料も買えない。幼い女の子が、毎日、四、五往復、山から木の枝を運んでいる。その山も、伐採でほとんどはげ山になっている。
 日本のカマド作りの職人が、三つ口のカマドを工夫する。燃料は三分の一ですむ。煮炊きの効率が飛躍的に向上する。職人は、村のポンプが非衛生的なので、排水や下廻りをセメントで作る。
 村人たちのたっての願いで、彼はセメントに自分の名前をサインする。

 カンボジア。水質のわるい池の汚水しか飲んだことのない少女。この池で女たちは洗濯したり、子どもたちが泳いだり。子どもたちの7人に1人は5歳までに死亡するという。
 日本から井戸掘りの職人が行く。現地の地質を調べ、竹を組んで、上総掘りの技術で井戸を掘りはじめる。途中で岩盤に当たって工事は難航するが、最後にポンプから清潔な水があふれてくる。その少女は、生まれてはじめて清水をのんで、おいしいとつぶやく。

 材料はすべて現地調達。気候も生活条件も、何もかも日本とは違っている。職人たちは、なれない環境で苦労しながら、それぞれ、みごとに成果をあげていた。
 自分が人生でつちかってきたものを、見知らぬ土地の人々にわかつ。それは、テレビのためではない。日本の職人の腕を誇るためでもない。まして、ヒューマニズムといったものでもない。長い歳月をかけて自分が身につけてきた腕や、工夫を、自分にできる範囲で隣人にわけてやるだけのことなのだ。
 職人の生きかたを私は尊敬している。

 日本人が忘れようとしているものが、やがて、ウガンダ奥地や、東チモールの山村、カンボジアのつぎの世代にうけつがれてゆくだろう。社会の本質的な豊かさは、こうした人々の生きかたがどれだけうけつがれてゆくかできまってくる。
 思いがけず、アジア、アフリカの貧しい村人に、日本の職人の創意や工夫、技術がつたえられて行く。それが伝統というものになる。

2007/12/06(Thu)  726
 
 早稲田大学では、新入生を対象にした「日本語の文章講座」をおこなう方針をきめた。(’07年10月19日)早稲田のような超一流の大学でさえ、学生の、読み書き、話す能力に危機感をもっているということになる。
 私は早稲田の「日本語の文章講座」に賛成する。敬意をこめて。期待もある。

 学生たちの日本語の理解、読解力、文章表現がいちじるしく落ちたのは、いまにはじまったことではない。私も大学で講義をつづけた経験があって、学生のリポートを無数に読んできたが、理路整然とした文章を書くことができない学生がふえてきている実感があった。

 その責任は、すべて当時の文部官僚の失態にある。学校群、ゆとり教育、場当たりの思いつきを導入することで、教育を劣化させてきた連中の責任はあまりにも重い。
 同時に、当時の中学、高校の国語教師にも責任はあったはずである。この時期、英語教育はいくらか充実したかも知れないが、これは会話中心のレベル・アップを目的としたもので、外国語の理解、読解力、文章表現が向上したとは思えない。
 数年前、小学校から英語教育を導入させようとしたのは、当時の与謝野文相だった。教育のグローバル化という理由づけがあった。だが、基礎学力のいちじるしい低下があらわれたため、これは否定されて、あらためて国語教育が見直されている。
 ようするに、読書量も足りないし、メールのやりとりなどで、短い文章を書いてすませる、よくいって機能的、わるくいえば日本語の語感に対する麻痺が進行している。

 私は、フランスの小学生がラ・フォンテーヌを暗唱していることを羨ましいと思う。中国、雲南省の幼稚園で、幼い子どもたちが唐、宋の詩を嬉々としてそらんじるような教育をうけている。そのことを知って驚嘆した。
 日本の小学生はこういうふうに古典を暗唱することはない。いまでは、桃太郎、花咲爺、猿蟹合戦といった民話さえ知らない子どもが多い。

 神話も教えるべきだと思う。「記紀」を教えることは反動教育ではない。
 万葉、古今、新古今を教えることは、「日本語の文章講座」に必須のものだと思う。

 早稲田大学では、来年度は、二、三千人の新入生に「日本語の文章講座」を開始する。数年後には、約1万人の新入生全員を対象に実施するという。
 目に見えて成果があがる、というものではない、しかし、数年後から数十年後にわたって、早稲田の歴史にあたらしい輝きをあたえるだろう。

 ほかの大学でもおなじことが試みられればいいのだが。

2007/12/05(Wed)  725
 
 人生相談。40代の女性。
  最近、離婚しました。原因は私の不倫のため。高校生、中学生の子どもは連れて出ることはできませんでした。
  夫はまじめで、物足りなさは感じながらも、ずっと一緒だと思っていました。しかし、仕事で知り合った20歳年下の男性に心のよりどころを求めるようになったのです。不倫発覚後、夫は私が戻るのを待ってくれました、私も努力したつもりですが、家庭に徐々に居場所がなくなりました。
  男性は今も、私との結婚を真剣に考えてくれています。彼の両親は彼の気持ちが覚めるのを静かに見守っているようです。年齢差を考えると、結婚は難しいのではと自分でも思います。
  自分の心の弱さゆえ、すべてを失ってしまいました。毎日、後悔して暮らしています。
  子どもとは制限なしに会えますが、申し訳ないという思いです。一緒に住めない子どもに、私ができるのは働いて金銭援助をすること。そのため彼との関係をきっぱり解消しようと考えても、気持ちは決まりません。

 土井 幸代(弁護士)が答えている。
 不倫の非はあるものの、離婚に至った経緯を分析・反省している手紙から、あなたが真摯に身を処してきたことがわかる。それでも悔いが残るのは、子どもたちと一緒に住めない寂しさからでしょうか。
 土井 幸代の答えは、条理をつくしたものだった。論点は、だいたい二つ。
 1) 子どもも、高校生、中学生ともなれば、親の行動の善悪を冷静に判断する。母親が第二の人生を充実して生きる姿を見れば、親の離婚を貴重な人生経験として、成長の糧としてくれるだろう。

 2) 彼との縁は、結論をいそがず、成り行きにまかせてはどうか。結婚するかどうかは別として「素直な気持ち」で、彼との愛がほんものかどうか見守ったほうがいい。
 私ならどう答えるだろうか。

 私も、この女性が離婚に至った経緯を冷静に書いていると判断する。
 だが、高校生、中学生の子どもたちが、母親の行動を冷静に見ているかどうか。夫が傷ついたように、子どもたちも(口には出さないにしても)傷ついている。
 子どもたちがずっとあとになって、「離婚するなんて、ひどい母親だったよなあ。でも、あのときは母親としてもどうしようもなかったのだろう」と思うようになるかもしれない。しかし、母親をそう簡単に許すかどうか。
 きみは、夫を傷つけた。それにもまして子どもたちを傷つけた。むろん、自分自身も傷ついている。
 私の見方では・・・「自分の心の弱さゆえ、すべてを失ってしまいました。毎日、後悔して暮らしています」というのは無用の反省なのだ。

 きみはほんとうにすべてを失ってしまったのか。
 彼との愛がほんものかどうか、などと反省する必要はない。ほんものの愛なのだ。だからこそ、彼はきみとの結婚を真剣に考えている。
 ただし、結婚はしないほうがいい。
 「彼との縁は、結論をいそがず、成り行きにまかせてはどうか」というのではない。成り行きまかせというのは、ずるずるべったりに現在の関係を続けてゆくだけのことだ。
 そうではなく、はっきり結婚しないという意志的、ポジティヴな生きかたを選択する。どうしても結婚したいと思ってから結婚届を出せばすむ。
 年齢差を考えると結婚は難しいのではないか、などと考えないこと。
 あと20年もたって、夫がまだ40代、その夫にとってかけがえのない魅力ある女性でいよう、と考える。このほうが、ずっとむずかしい。そのむずかしさをわれと我が身にひきうける。それが、すべての人の傷を癒すだろう。
 不倫などと考えないこと。くよくよと年齢差から結婚は難しいのではないか、などと考えてどうするのか。
 レイモンド・チャンドラーのように、年齢のちがう女性と結婚して、生涯、忠実だった人もいる。夫人が、どれほど魅力があったか。アナイス・ニンのように、70代になっても、事実上の夫、ポールと琴瑟相和しながら、別の「恋人」とも愛しあっていた女性もいる。それは、不倫などというものではない。

 熟年離婚は新しい一歩なのだ。愛する者はみな孤独。そう覚悟すれば少しも後悔する必要はない。

2007/12/04(Tue)  724
 
 「小説を書きたいのですが」
 と彼女がいった。
 「いいね。ぜひ、書いてみなさい。読ませてもらうよ」
 「でも、どういうふうに書いていいのかわかんなくて……」

  海はだだっぴろく、白茶けた色でひろがっていた。薄陽が射しているのだが、空も白茶けた色をしていて、空と海との境界はあいまいである。
  その海に沿って、埃っぽい道が投げ出された帯のようにつづいており、その尽きるところに鼠色の灯台があった。
  風景全体が、色褪せ、うっすらと埃に覆われているようだった。
  「いい景色だな。とりとめがなくて、押しつけがましくないところが、いい」
  と、彼が言った。

 「ある短編の、ごく一部分だけど、これを読んでごらん。読むだけだから、一分もかからない」
    ・・・・・・
 「これだけ読めば、小説を書くことがどういうものなのか、少しは想像できるだろう。わずか数行。この作家は、いつもこういう眼の働きをもっている。つまり、主人公の心の動きは、これだけでもよくわかるね」
 「(先生の)おっしゃっていることがわかりません」
 「もう一度、読み返して見なさい」        
    ・・・・・・ 
 「誰の文章ですか」
 「そんなことはどうでもいい。いや、そういっても仕方がないか。では、教えてあげよう。吉行 淳之介の『海沿いの土地』。短編だよ」
    ・・・・・・     
 「きみは、小説を書きたいといったね。それなら、この一節を読むだけで、自分がどういう小説を書きたいのか、よくわかってくるだろう」 
 「(先生の)おっしゃっていること、やっぱりわからないわ」
    ・・・・・・  
 「いまに、きっとわかってくるさ」

2007/12/03(Mon)  723
 
(つづき)
 作者の書きかたがわるいので、読者はよく考えて読まないと、わかりにくいところがあるかも知れない。私(為永 春水)の小説作法では、発端に書くべきプロットを、あとになって出してくるのが常套手段なので、そのあたりはどうか心得て読んでいただきたい。
 ストーリーに作者自身が登場する小説はめずらしくない。
 発端に書くべきプロットを、あとになって出してくるという方法も、伏線と見れば異とするにあたらない。
 『梅暦』を第三編まで出したとき、その序文で、

  今三編に到って首尾まったく整ひ、かく綴りし言の葉に、花の作者の毫(ふで)すさみは、悉く意気にして賤しからず、且わかりよくして優なる所あり、実に奇々妙々といひつべし

 とある。「首尾まったく整」ったはずなのに、書きつづけるうちに人気が高くなったため、この11編では作家がストーリーの重心をシフトして、続編の展開に新工夫を迫られはじめたとも想像できる。

 私が驚くのは、春水が「作者のつづりがあしきゆゑ、わかりがたかるくだりもあるべし」と書いたこと。
 ここに作家の謙虚、または傲慢を見るのではない。
 むろん、文学的な弁明ではないし、自己卑下でもない。

 自作が、婦女子に淫行を教えるものと非難され、「もとより代が著はす草紙、大方、婦人の看客をたよりとして綴れば、其の拙俚なるは云ふに足らず、されど婬行の女子に似て貞操節義の深情のみ」と反論しているのと、おなじ姿勢である。

 のうのうと人情本を書きつづけた春水の堂々たる自負を私は見る。

2007/12/02(Sun)  722
 
 為永 春水の『春色梅児誉美』(『梅暦』)第十一巻のオープニングは、いまは、牛島に住まいをさだめている「お由」のところに、四十あまりのおかみさんが訪れてくる。
 妹ぶんの「お蝶」が出ると、千葉の大和町からはるばる出かけてきた、と挨拶する。
 千葉と聞いて、「お由」が部屋に迎え入れると、「内儀はなにやら眼に涙。」

 お内儀は、昔蒔絵の織部形、三つ組の懐中盃を出す。それを見て驚いた「お由」は、自分の手箱から、書き付けを出して開こうとする。お内儀は、それを見るなり、涙声で、それを書いたのは私です、という。

 お由は聞いてびっくりし、「エエそんなら、わちきが五つの歳、お別れ申した、母御(おっか)さんでございますか」
 内儀「サァ。アイと、返事もできにくいわたしが胸を推量して、邪見な母(おや)と思はずに、堪忍して」と、泣きしづむ。
 お由もワット声をあげ、むせかへりつつ寄り添ひて、
 「イエイエ、何のもったいない、堪忍どころじゃございません。親父(おとっ)さんの存生(たっしゃ)な節(とき)さへ恋しかったおっかさん、まして常々気にしても、尋ねる当もないおまへが、とうして、わちきの在宅(ありか)が知れて、モシマア夢ぢゃぉ有りませんか」
 と取りすがりたる親と子の、道理(わけ)さへしれぬ愁嘆に・・
 というシーン。
 さすがに春水、冒頭、愁嘆場から読者の興味をいっきにつかんで小説を展開してゆく。
 このお内儀は、「お由」を生んだのが十六歳の暮れ。二十一歳のとき、また女の子を生んだが、生活難で、亭主と協議離婚。夫は、「お由」をつれて田舎の親戚を頼って去った。妻は、乳呑み子を里子に出し、しばらく乳母などをしているうちに、「藤兵衛」という者の囲い女になった。・・

 里子にだした女の子こそ、いま深川に全盛の芸者、「米八」という。

 このあとすぐに、作者、為永 春水がしゃしゃり出てくる。

  よくよくかんがへ読みたまはねば、作者のつづりがあしきゆゑ、わかりがたかるくだりもあるべし。すべて予が作為の癖は、発端にいふべきすじを、のちにしるすが常なれば、高覧をねがふのみ。

 すごいねえ。さすがは為永 春水。
         
    (つづく)

2007/11/30(Fri)  721
 
  「もう、わたしを好きじゃないのね。いちども愛したことはなかったのね」
  「おれはもう、女を好きになるわけにはいかない。もうすぐ旅に出るのだから」
   奔流のような涙。嗚咽。痙攣。喘ぎ。死の苦悶。死。またひとつ、柩。
   女たちは死んでしまった。遠くにいるドラは、どんな暮らしをしているのだろう?

   もう、うんざりだよ。女たちは死んでしまった。女たちにとって、彼は死人なのだ。

 ドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』、第三部の終章。あと、数行でエピローグに入ってゆく。
 この部分、私はゾッとしながら読んだ。悲しい恋愛だなあ。こんなにも苦しい小説を書いていたのか。ドリュのいたましさが、読んでいる私にもつたわってくる。
 ドリュは好きな作家ではない。むろん、心のどこかでドリュはすごい作家だったな、という思いはあった。
 戦前のフランス・ファシスト、親ナチ派だった。しかし、その姿勢は、戦時中の、日本のファシスト、蓑田 胸喜などとは比較にならない。
 政治的にまったく立場の違うマルローは、ドリュをそれまでに出会ったもっとも高潔な人物のひとりと見ていた。ナチ占領下にあって、ゲシュタポの厳重な警戒のさなかに、パリに潜入したマルローは、わざわざドリュと会っている。
 ドリュはパリ陥落直後に自殺している。

 遠い未来、二〇世紀の文学史があらたに書かれるとして、ドリュについては何行か書かれるに違いない。

2007/11/29(Thu)  720
 
 先日、柄にもなく李白のことを書いた。
 少時(若いころ)、漢詩をずいぶん読んできたが、李白については、ひたすら酒を愛し、胡蝶の夢を見て、縦酒遨蕩(じゅうしゅ・ごうとう)の一生を過ごした詩仙という程度の理解しかもたなかった。

 なにしろ、「月下の独酒」のなかで、

  三月咸陽城   三月 咸陽城
  千花晝如錦   千花 晝 錦のごとし
  誰能春獨愁   誰かよく 春 ひとり愁う
  對比徑須飲   これに対して すべからく ただちに(酒を)飲むべし
 というくらいだから、お酒が好きで、いつも酔っぱらっていたらしい。

 しかし、ずっとたって李白を読み直してみると、彼の詩には、いいようのないメランコリー、あえていえば、depressiveness がただよい、流れ、あふれているような気がした。ときにはボードレールの<憂愁>に近いものさえ感じられる。あるいは、『獄中記』以後のワイルドの悲痛な叫びに似たものが響いているかも知れない。

 暗澹たる心情をまぎらわすために、李白さんはひたすら酒に沈湎したのではないか。そう思って読むと、落魄不羈の酔翁と見るよりも、もっとちがった相貌をもっていたのではないか、と思えてくる。

 もう少し考えてみよう。

2007/11/28(Wed)  719
 
 ある日、神保町の喫茶店で、植草 甚一さんがいった。
 「日本で、いちばん最初にジロドゥーを紹介したのが誰だったか、ご存じですか」
 誰だろう?
 岸田 国士さんか、「劇作」の人たちの誰かだろう。もし、そうだとしたら、原 千代海さんあたりか。いや、植草さんがいたずらっぽく訊いたのだから、意外な人にちがいない。岩田 豊雄ではないだろう。ひょっとして、久生 十蘭だろうか。

 「じつは、私が翻訳して上演したんです」

 驚いた。まさか、植草さんがジロドゥーを上演したとは知らなかった。

 まだ学生だった植草さんが訳して、とにかく上演までもっていったという。その舞台に出た女性の名前を教えてもらった。後年、私も見ている女優さんだった。
 学生演劇なので、まったく注目されなかったらしい。ただ、まだ誰もジロドゥーを知らなかった時代、昭和の初期に、はやくもジロドゥーの戯曲を読んで、さっそく舞台にかけた学生がいた。そのことに私は驚愕した。
 むろん、植草さんはうそをつく人ではない。

 植草 甚一さんは、私にとってはありがたい先輩のひとりだった。

2007/11/27(Tue)  718
 
 夜明け、宿を出た。
 暗い山道を歩きつづける。
 ようやく登山道の入口にたどりついて、朝食を作りはじめた。前日に買っておいた駅弁を食べるだけなので、コッヘルでスープを作る程度。もう一つ、携帯のカップでテイー。固形燃料一個ですむ。こんなものをもっている登山者を見たことがない。私だけが愛用している便利なトゥール。これさえあれば、味噌汁でも、ミルクでも、コーヒーでも歩きながら沸かして飲める。
 食事の途中、中型のイヌがこちらのようすをうかがっていることに気がついた。
 褐色の斑をつけた雑種犬。たいして特徴のないイヌだった。
 「おい、腹がへってるんだろう。おれの(弁当を)食うか」
 声をかけると、すぐに寄ってきた。私が与えるものをすぐにペロッと食べるのだった。早朝だったから、空腹だったらしい。私の朝食が少なくなるが、頂上に着いたら昼食にするつもりだったので、半分ぐらいはイヌにわけてやってもよかった。
 かんたんな食事を終えて、ザックを肩にかけながら、
 「おい、いっしょについてくるか」
 イヌに声をかけた。
 イヌは全速力で走り出して、30メートルほど先に行ったところで、さっと身を翻して、また私をめがけて戻ってきた。私のそばを走り抜け、こんどはまた30メートルばかり走りつづけ、おなじように反転して、私のところに戻ってきた。
 人間のことばがわかるのだった。

 登山道からコースを、ずっとイヌといっしょに歩いた。登山者といっしょに歩くのになれているらしい。根まがり竹に覆われて道がわからない場所でも、イヌが先に立って案内してくれるのだった。
 イヌは敏感に私の心の動きを読む。
 途中、大きな岩が立ちはだかっている。足がすくむような難所だったので、私がひるんでいると、先に立ったイヌがさっと戻ってきて私を見あげる。
 なんだ、このぐらいで、ギブアップするのか。
 犬の眼がそういっている。
 「バカにするな。おれは、おまえがついてこれるかどうか考えているんだ」
 私は岩にとりついた。けっこう手ごわい岩を相手に汗をかいた。
 気がつくとイヌは見えなくなっていた。

 やっと難所を越えて、また歩きだした。すると、いつのまにか、イヌが私の前を歩いていた。
 どこをどうやって、あんなところを越えてきたのか。
 こいつ、おれが苦労しているのをみて、内心、バカにしやがったな。
 「おまえ、よく、あそこを越えてきたなあ」
 イヌに声をかけた。イヌはさっと私の近くに戻ってきた。

2007/11/26(Mon)  717
 
 荒 正人は私をいちばん最初に認めてくれた批評家だった。私は18歳。
 その意味で私にとっては内村 直也とともに恩人といってよい。

 その荒 正人の著作に『評伝 夏目漱石』がある。

 「あとがき」のなかで荒さんは、

   夏目漱石は、私のもっとも愛する作家である。(中略)他にも好きな作家は二、三あるが、愛するという言葉は、夏目漱石にしか使うことができない。
 という。
 荒さんと漱石先生から離れて、自分のことを考えてみた。
 たくさんの作家にめぐりあった。その時期その時期に、ある特定の作家を愛してきたことはたしかだろう。もとより漱石先生は、もっとも尊敬する作家のひとり。しかし、「もっとも愛する作家」とまではいいきれない。

 これが、相手が異性の場合はおなじではなかった。
 はじめて眼にしたときから、自分の内面で、はじまりのことを幾度となく思い出し、また、その相手が去ってしまったあと、いつまでも思い出すような愛。あのまなざしに心をうばわれ、あのほほえみを見るためなら、どんなに時間がなくても、ただそのことだけで会いに行くような愛。
 たとえば、Aと会った・・。そして、Bと・・。さらには、Cと・・。数えあげてゆけば、F、Gあたりまではつづくだろう。愛するという言葉は、それぞれの時期に、それぞれの相手にしか使うことができなかったのに。

 さて、私には「漱石は私のもっとも愛する作家である」といういいかたのできる作家がいたのか。
 たとえば、チョーサーを愛した。だが、ボッカチオもまた、私のもっとも愛する作家だった。劇作家としてのマキャヴエッリ、物語作家としてのマキャヴエッリもまた、私のもっとも愛したひとりだった。

 好きな作家をあげるとしたら、とても、二、三にとどまらない。

 荒 正人を尊敬しているが、こういう根本的なところでは荒さんの影響をまったく受けなかったような気がする。

 嫌いな作家はいない。嫌いなヤツのものは読まない。したがって、私の内面には存在しないわけである。
 むろん、私が心から憎んでいる作家はいる。
 ここに書く必要はない。

2007/11/25(Sun)  716
 
 香港返還は、当然ながら香港の映画スター、シンガーたちの運命に大きな影響をおよぼした。
 もっとも悲劇的な例は、張 國榮(レスリー・チャン)の自殺と、梅 艶芳(アニタ・ムイ)の病死だった。

 返還後、アニタのアルバム『梅艶芳没話説』(1999年)が出た。アニタの歌のコレクションだが、ケースに使われたアニタに驚かされる。前途に希望を見いだせないアーティストのうつろなまなざし、暗鬱な表情がいたいたしい。

 このアルバムで、アニタはマリリン・モンローの「帰らざる河」のテーマを歌っている。(「大江東去」)歌としてはマリリンよりもうまいけれど、どこかなげやりで、かつての梅 艶芳の魅力が感じられない。
 フェイ・ウォンを3曲、カヴァーしていることも意外だった。アニタほどの歌手ならフェイ・ウォンの曲を選ぶ以上、どこかでフェイ・ウォンを越えるものがあって当然だろう。そう感じられる部分はある。しかし、全体としては、梅 艶芳の輝きは薄れている。
 身辺のスキャンダルも、彼女の不壊の Fame を傷つけた。精神的にも追いつめられたのではないだろうか。

 かつて梅 艶芳は美しく、挑発的で、情熱的で、いつも勝気で、誇り高い女だった。彼女の歌は香港のミュージック・シーンをリードしていた。彼女の前では、徐 小鳳(ポーラ・ツォイ)でさえ蒼ざめたにちがいない。
 まして、当時人気のあった孟 庭葦、龍 飄飄、毛 阿敏など、はじめから比較にならなかった。フェイ・ウォンが登場してから、アニタは徐々にトップを退いてゆく。

 このアルバム『梅艶芳没話説』は、彼女の全作品のなかでは、もっとも程度の低いものだと思う。聞いていて、いたましささえおぼえる。
 だが、梅 艶芳はふたたびもとの魅力をとり戻してゆく。

 みずからの死を見つめながら、最後のコンサートにのぞんだ梅 艶芳に、私は中国の烈女の姿を重ねて見る。

2007/11/24(Sat)  715
 
 菊地 寛が、あるエッセイで、

   中車は、最も歌舞伎役者らしい歌舞伎役者だった。歌舞伎劇の持つ長所も、欠点も兼ね備えた人だった。中車の芸は、年と共に枯れて、淡白な洗いさらした結城木綿のやうなよさにまで達した。

 と書いていた。

 残念なことに、私は中車を見ていない。
 ただ、菊地 寛にかぎらず、谷崎、芥川などの世代には、歌舞伎役者のなかに、何か特別なものを見ていたような気がする。
 江戸時代、それも末期の、ねっとりしたもの、時代の爛熟がもたらした頽廃や、激動する息吹の翳り、暗鬱なもの。具体的に、どうこうというのはむずかしいが、たとえば、谷崎が、沢村 源之助に見たもの。

 年と共に枯れて、淡白な洗いさらした結城木綿のやうなよさ。いまなら、又五郎のような役者がそうだろうと思う。

 もう一つ。
 「ねっとりしたもの」と「洗いさらした結城木綿」。
 こういうことばで批評的に理解しあえた時代。私にはそれがうらやましい。

2007/11/23(Fri)  714
 
 プラサ・デ・トーレス(闘牛場)の前に長い行列ができていた。ダフ屋が何人も眼についた。そのひとりが、私のところに寄ってきた。私は手をふった。
 「ノ・ハブラ・エスパニョル」(スペイン語、話せない)

 ついさっき、外にいた8歳ぐらいの少年が、私におずおずと笑いかけたとき、どうせ買うならこの子からティケットを買ってやろうと思った。
 色のあさぐろい、すばしっこい感じの子どもだった。おそらく、ヒターノの血がまじっているだろう。
 少年はまさか私が自分のティケットを買ってくれるとは思わなかったらしい。
 値段を訊くと、さっきの男の半額以下だった。
 ダフ屋が法外な値でティケットを売っているのに、どうしてそんなに安く売るのだろうか。
 その疑問から、この少年がどうしてこのティケットを入手したのだろうと思った。ひょっとすると、すれ違いざま誰かのポケットから、すばやく紙入れをせしめたのか。
 その紙入れのなかに、ティケットが1枚、挟み込んであったのかも知れない。

 私はオンブレの席についた。反対側は、太陽の照りつける席で、観衆の大半は男たちばかり。その男たちがうごめいている。あちこちに強烈な原色の衣裳を着飾った女たちの姿が見えた。注意して見ると、オンブレの席にいる女たちのなかにも、黒いレースに純白のショールをまとい、スペインの民族衣装に丈の高いかぶりものをつけた美女が、二、三人、それぞれ離れた席についている。それぞれご贔屓の闘牛士を応援しているのか。恋人なのか。
 しばらく眺めているうちに、それぞれがおめあての闘牛士を張りあっている恋仇らしいことがわかってきた。観客たちもそれを知っているようだった。
 管楽器の音楽が流れて、場内がざわめき、劇場の開幕前のような、うきうきするような明るい緊張感がひろがってくる。

 遠く、山並みが見えた。日本の山とちがった荒々しい岩肌、しかも上の部分がナイフで削ぎ落としたように平らな山々。植物はない。麓のあたりから、コバルト・グリーンに近い色彩の樹林がひろがっている。

 ラッパが高らかに吹きならされて、ゲートから美々しい服を身につけた闘牛士たちが入場する。
 場内の大歓声が雪崩落ちる。若い闘牛士が、手をあげて声援にこたえる。

 私は、この席を選ぶことのできた幸運に感謝したい気もちで、いっぱしのアフィシオナードのように拍手していた。観衆がどよめく。
 日に灼けた、剽悍な表情の若い闘牛士の姿に、あの少年のはにかんだような笑い顔が重なってきた。

2007/11/22(Thu)  713
 
 CDを整理していて、おもしろいものを見つけた。「ハリウッドは歌う」Hollywood Sings/ASV 1982年)。30年代初期のスターたちの歌のコンピレーション。20曲。

 ポール・ホワイトマン、アル・ジョルスンからはじまって、グロリア・スワンソン、マレーネ・ディートリヒ、ジャネット・ゲイナー、ジョーン・クロフォード、エディ・カンターまで。グルーチョがなんとゼッポ(マルクス兄弟)といっしょに歌っている。

 いまではまったく消えてしまった歌唱法で、声もハイ・トーン、リズム、テンポ、何から何までちがう。女性はいわゆるあまったるい「トーチソング」ばかり。
 風格が感じられるのは、モーリス・シュヴァリエ、ヘレン・モーガン。
 美声だと思うのは、ジャネット・マクドナルド、ローレンス・ティベットだけで、大半は歌手としてほとんど問題にならない。

 いちばん古い録音は、ルドルフ・ヴァレンチノの「カシミール・ラヴ・ソング」(1923年)。彼の人気の絶頂期にあった。三年後に、ヴァレンチノは急逝する。
 残念ながら歌詞がまるでわからない。美声でもないし歌もうまくない。

 ジャネット・ゲイナー。トビ色の髪に、淡褐色の瞳。ひどく小柄で、それがまた彼女を可憐に見せていた。1907年、フィラデルフィア生まれ。日本でも人気があった。
 歌は・・・

 フレッド・アステアの<I Love Loisa>は、映画「バンドワゴン」から。 この歌から、後年の名ダンサー、さらには渋い演技を見せていたフレッドを想像することはむずかしい。
 フレッドの相手役だったジンジャー・ロジャース。<We Can’t Get Along>(30年)は、映画「オフィス・ブルース」のサウンドトラック。当時のジンジャーは、まだフレッドのパートナーとして登場していない。
 <シュノズル>ジミー(ジミー・デュランテ)が、<Can Broadway Do Without Me?>を歌っている。ジミーの<スターダスト>を絶品と思っている私にとってはなつかしかった。
 ハゲで、鼻が大きく、ダミ声で、義理にも美声とはいえないのだが、芸人としては、スッとぼけた味があって、どこか粋で、洒落っぽくて、少しも下品ではなかった。こういうタイプの芸人は、もうアメリカにもいなくなっている。
 おもしろいのは、ジェームズ・ステュワート。プリンストン在学中にブロードウェイの舞台に登場したが、無声映画からトーキーの転換期に、ハリウッドに移った。<Day After Day>は、スクリーン・デビュー作のもの。(70年代の映画「ザッツ・エンターテインメント」で、当時のジミー、このCDのオリジナルを見ることができる。)
 このCDのスターたちの姿は思い出せるけれど、このコンピレーションに使われた映画はほとんど見ていない。

 1928年7月にオール・トーキーが登場して、それまでのスターが没落して行く。たとえば、ウィルマ・バンキー、リチャード・バーセルメス、ジョン・ギルバート。
 このCDには、トーキーが登場した直後のアメリカ映画の対応、というかリアクションが、なまなましく刻みつけられている。その意味では貴重な資料といっていい。
 もうひとつ。このCDは別の意味でも貴重な資料なのだ。アメリカにラジオが普及したこと。放送芸術ともいうべきあたらしい分野が姿をあらわす。ポップスもこれによって急速に発展してゆく。

 現在の若い人たちがこんなポップスを聞くはずもない。
 映画史、またはポップスの歴史に、よほど関心がなければ、こんなポップスに興味をもたないだろう。
 さて、どうしようか。
 東京のどこかに映画史資料館、あるいはポップス・アーカイヴスでもあれば寄付してもいいのだが、この「文化国家」にはそんな奇特なものもない。

 このまま時の流れに朽ちて埋没してゆくのも仕方がないか。

2007/11/21(Wed)  712
 
 最近は中国映画を見る機会がない。たまに映画雑誌でスターたちの消息を読む。

 徐 静蕾の記事。少女の頃から父に聞かされていた言葉があるという。

  腹有詩書気自華  腹に詩書あらば おのずから華やぐ
「詩書」は、詩集や書道という意味ではない。日頃、すぐれた詩や、すぐれた本を読んでいれば自分の内面がゆたかになる。そうすれば、われから輝きをましてゆく。そういうことだろう。
 いいお父さんだなあ。

 最近の私のご贔屓女優は、範 冰冰、李 冰冰。
 ふたりとも美貌だし、おなじ名前なので間違えそうだが、範 冰冰は、ロングヘアー、ハリウッディーなアイメーク。このまま外国映画に出ても通用するだろう。
 李 冰冰のほうは、かつての<チャイルド・ウーマン>といった可憐な小女人。

 こういういいかたがはじめから無理だが・・・徐 静蕾は、藤原 紀香タイプ。範 冰冰はカサリン・ゼタ=ジョーンズ/タイプ。李 冰冰は、さて、どういったらいいか。
 一昔前なら、<female female>といった女優さん。

 美しい映画女優の写真をながめながら、うろおぼえの漢詩を思い出す。

  影中金鵲飛不滅  影中の金鵲(きんじゃく) 飛びて 滅(き)えず
  台下青鸞思独絶  台下の青鸞(せいらん) 思い ひとり 絶えつ
 以下、拙訳。映画雑誌のブロマイドのスターたちは、私から飛び去っても、スクリーンから消えることはない。美しい女たちのことを追っている私の孤独な思いはやまない。

 李白先生はニヤニヤなさるだろうな。

2007/11/20(Tue)  711
 
 歌舞伎役者が舞台でそばを食う。
 先代の猿之助が「弥次喜多」で、二階の屋根に身を乗り出して、下で喜多さんの差し出すそばを食う。じつにおいしそうだった。これを見たときからそばを食う役者に関心をもった。

 「直侍」が雪の畦道から出てくる。そば屋がある。誰かいるかと思ってのぞいてから、すっと入る。火をもらって股火をする。
 浅草から入谷田圃まで、一里ばかり。これから女に会いにゆく。雪にまみれて歩いてきた。その寒さがゾクゾクッとくる。すぐに、そばがくる。さもさもうまそうに食う。酒を呑む。盃にチョイと浮いているゴミかなんぞをつまみとる。
 先代の羽左衛門で見た。

 幕あきで、岡ッ引きがそばを食う。うまそうに見えない。じつは、あとで「直侍」がうまそうに食う。これが演出上のコントラスト。中学生の私の胸にもこの理屈がストンと落ちた。

 翻訳を勉強している女の子たちに教えた小説のコントラストも、じつはおなじ。

 いまは亡き猿之助も、羽左衛門も、まだくっきりと眼に残っている。その頃の延若、福助、蓑助などもおぼろげながら頭にうかんでくる。
 もう、この人たちを見た人もほとんどいないだろう。

2007/11/19(Mon)  710
 
 浄瑠璃『太平記忠臣講釈』を読んでいて、おもしろい計算を見つけた。
 原作は、近松 半二。「忠臣蔵」の台本の一つ。

 鹽冶判官(えんやはんがん)の弟、縫殿之助(ぬいのすけ)は、「戀のはじめも浮橋に、つい仇惚れも誠となって」、相手の浮橋太夫も「ほんの女夫(めおと)になりたいと、思ふ思ひも儘ならず」手に手をとって死出の旅路に出ようと心にきめる。これを知った廓の亭主、治郎右衛門は、高師直(こうのもろなお)の家来、薬師寺に浮橋太夫の身請けをもちかける。

 薬師寺に身請けされては、縫殿之助に添うことはできないと知った浮橋太夫は、脇差しを抜いて自害しようとする。
 治郎右衛門は、浮橋にいう。(愛する相手に)死んで逢おうとする極楽に、道がなんぼあると思うか、という。

 お経にさえ、十万億土という。一里が十万億倍の道。一日に十里歩いたとしても、日数からいって、日本の始まり、神武天皇の時から歩いて、やつと今(現在)に着くか着かないほどの距離になる。
 さて、この道中の費用が、宿賃から昼食(ちゅうじき)をいれて、およそ110万8千貫目ほどかかる。
 ワラジ代が、銭で、15万5千50貫。
 通し駕籠にのれば、1116万9580貫目。

 「是だけなければ極楽には行かれぬ」。この10分の一もあれば、この世で結構な世帯(しょたい)ができる。だから、心中などという思いつきは、ママママ、よしになさんせ、というロジック。

 笑ったね。こういう計算はおもしろい。

 このあと、廓に大星 力弥がきあわせて、敵の斧 定九郎と斬りむすぶ。薬師寺に首尾を報告に行った治郎右衛門が戻ってきて、びっくり仰天、こは何事と「おどぶるふ」。
 おどぶるふという動詞は、たぶん、お胴震う、だろう。

 たまにこういうものを読むと、なかなか楽しい。

2007/11/18(Sun)  709
 
とても刺激的なことばを見つけた。

   ホピというインデイアンの種族の言語は、英語とおなじくらい高度に洗練されているにもかかわらず、時制というものがない。過去、現在、未来の区別が存在しないのだ。このことは時間について何を物語っているのだろう?

 ジャネット・ウィンターソンの『さくらんぼの性は』(岸本 佐知子訳)の、冒頭のエピグラム。この一節が眼に飛び込んできたとき、私はしばらく茫然とした。

 この一節をエピグラムにしたジャネット・ウィンターソンという作家に興味をもった。むろん、この作家を訳した岸本 佐知子にも感謝しなければならない。

 ホピというインデイアンの種族を知らない。その言語についても知らないので、たちまち私の考えはさまざまな方向に拡散して(行く、行った、行くであろう)・・
 この種族にも、おそらく口承の民話は(あった、ある、あるであろう)・・
 だが、ひとつのフレーズ、それにつづく別のフレーズ、それが聞き手のこころに届くときに、continium という詩神のまなざしは欠けてしまうのだろうか。

 ホピの男女が愛を語りあうとき、どうするのだろう。
 お互いに愛しあって、ふたりだけの小さな共同体をきづきあげようとする。
 そのあいだに、かならず誰かがいる。エロテイックなことは、すべてそのまなざしのなかで演じられる。しかし、時制がなければ、愛した、愛している、愛するだろうことが、どうやって認識するのだろう。

 恋人たちは愛する人のために歌うだろう。だが、この種族の歌唱はどうなるのか。(歌われた、歌われている、歌われるだろう)・・
 この種族はどういう土地に住んでいるのか。その土地になんらかの地名がつけられている場合、それが自分たちの支配する(親しみのある)土地の名辞であるとして、それは歴史という背景をもつものかどうか。ひいては、唄が民謡として成立(した、している、するだろう)・・か。

 高度に洗練されているにもかかわらず、時制というものがない言語。
 過去、現在、未来の区別が存在しないのだから、当然、discontium もない。したがって、詩は存在しない。
 詩が存在しないということは、文学も存在しないということだろう。

 なんというすばらしい種族だろう!
 ことわるまでもないが、私は皮肉をいっているのではない。(笑)
 とにかく、すっかり気にいってしまった。

 ジャネット・ウィンターソンは、過去、現在、未来の区別が存在しないような書きかたをしているとさえ思える。むろん、時制がなければ書けるはずはないが、ときどき、この作家はインデイアンの種族から力をかりて、その純粋性、深遠さをたくみにパラフレーズしているのではないか、とさえ思える。
 こういう作品の魅力は、岸本 佐知子訳でなければ出せないだろう。

2007/11/17(Sat)  708
 
 1993年、ロシアの状況は混乱をきわめていた。政治的にも経済的にも。
 それまでまったく「存在しなかった」西欧の文化がどっと流れ込んできたのだから、芸術の分野も混乱や動揺がひろがっていることは想像がつく。そのなかで芸術家たちが何を考えているのか。

 ある日、ロシアの若いミュージシャンのロックを聞いた。
 「モスクワ・天使のいない夜」(UPLINK/1993年)、英語のタイトルは<Dog’s Bullshit>。「モンゴル・シューダン」というグループ。
 ロシア語がわからないのだから話にならないのだが、この若者たちにとって、ロックは、ジェフ・ベックであり、ミック・ジャガーであり、セックス・ピストルズなのだ。それは、混乱のなかで、はっきり手につかむことのできる価値であり、破滅であり、ロシアの現状に対する全否定なのだ。ゴルバチョフ、エリツィンはもとより、ハズブラートフ(最高会議議長)や、ルイシコフ(市長)や、はてはジリノフスキーのような愚劣な国粋派に対する反抗だったにちがいない。
 ロックは、一度死んで、また生き返ろうとしているスラヴの声なのだ。そして、ロックは、あの愚劣な絶対不可侵の無謬性に蔽われたロシアという、不可能の壁に対する果敢な挑戦だった。

 「ルーシシュ・シュヴァイン」で彼らは歌う。

   貧しくて汚い 悪臭ふんぷんたる わがロシア
   きさまの息子や娘たちは いまやクソまみれ
   きさまは いろんな連中を 育てやがった
   アナキスト 共産党 悪党ども 酔いどれ 変態 なまけもの
   おれたちは けだもの同然
   そこらじゅうに クソをヒリ出す
   互いに争い どこででも オマンコする
   ヨーロッパのようには 暮らせない
   何もかも どうでもいいや
   おれたちみんな どうせそのうち 精神病院にブチ込まれるさ
    (太田 直子訳)

 ルーシシュ・シュヴァインというドイツ語は、大戦中、ドイツ兵がロシア人を呼んだ蔑称、ロシア豚。

 敗戦後の日本の惨憺たる状況を見てきた私には、なぜか、彼らの歌はロシアの若者のほんとうの叫びに響いた。
 リーダーのワレーリ・スコロジェッドは、中学のとき、学校に火をつけて、警察に逮捕されたという。
 夜間学校に通学している友だちができた。あとになって、そのダチコウが、KGBの手先で、ワレーリのことを洗いざらい報告していたことがわかった。
 共産主義国家という、密告と監視のうえにきずかれていた体制が「モンゴル・シューダン」のようなグループを育てたことがわかる。

 いま、ロシアはふたたび繁栄を見せている。
 「モンゴル・シューダン」のようなグループは現在どうしているだろうか。

2007/11/16(Fri)  707
 
 万能の人。ルネサンスに、ダヴィンチや、ミケランジェロのような万能人がいたことはまちがいない。

 万能の人という理念をはじめて展開したバルダッサーレ・カステイリオーネによれば、完全な宮廷人は、戦闘、舞踊、絵画、歌唱、作詩に長じて、君主のよき相談相手でなければならない。
 これだけで、私などは失格である。
 私の戦闘能力はゼロ。
 ダンスは踊れない。
 たまに水彩のごときものは描くけれど、人さまに見せられるようなものではない。まして油絵を描く才能も時間もない。
 カラオケにさえ行ったことがない。
 俳句をひねることはあっても、川柳にもならない程度。詩を書いたことはない。
 だいいち、宮廷人ではない。

 フィレンツェのフマニスタ、パルミエーリは、

  人間は多くのことをまなぶことができるし、多くの技芸に秀でることによって万能の人になれる。

 という。
 アルベルテイや、ブルネレスキのような人は、多くのことをまなんで、多くの技芸に秀でていたから「万能の人」といってよい。
 私はチンパンジーなみの計算しかできない。
 建築は、トンカチでクギ一本打つのさえやっと。五寸クギとなったら、もう私の手にあまる。
 天文学の知識は皆無にひとしい。星座どころか北斗七星さえ見分けがつかない。

 私がルネサンスの宮廷にいたら、せいぜい道化師か、下働きの園丁ぐらいだな。
 「万能の人」どころか「無能の人」の典型なのである。

2007/11/15(Thu)  706
 
(つづき)
 ことの起こりは、当時、東京一の大劇場だった「新富座」の十月興行。菊五郎(五代目)が、実録、「伊勢音頭」という新作を出すことになった。これに、東京各地の芸者さんがこぞって出演したという。

 出しもの(レパートリー)がすごい。
 一番目が「妹背山」。団十郎(九代目)が初役の「お三輪」。中幕が「矢口の渡し」。 二番目は、黙阿彌の「千種花音頭新唄」(ちぐさのはな・おんどの新唄)ときて、このなかで、東都の名だたる芸者衆の伊勢音頭を見せようという企画。プロデューサーは座主の守田 勘弥。
 勘弥が交渉したのは、柳橋、新橋の二ケ所だったが、話が大きくなって、霊岸島、新富町、葭町、日本橋、下谷、講武所の芸者衆が総出で応援することになった。
 出演料はなし。そのかわりアゴ、アシつき。
 芸者衆にしてみれば、あこがれの役者たちに接近できるのだから、いなやはない。しかも、それぞれの土地を背景に、芸でひけをとってはならぬ女の意地がからむ。
 花柳界は、この踊りのお稽古に熱中した。
 この興行については、葭町の米八と家橘(のちの羽左衛門)のロマンスから大騒動になるのだが、ここではふれない。
 興行は大ヒットした。

 このときの「伊勢音頭」で、「ヨイヨイヨイ」が使われる。たとえば、後年の「東京音頭」の・・・ヤットナァ、ソレ、ヨイヨイヨイも、この亜流。

 ここからが私の想像ながら、上方の「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ」は、この東京の「ヨイヨイヨイ」に対抗するものではなかったか。
 東京で流行ったものを「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ」と受けてみせた、とすれば、別のものが見えてくるのではないかと思う。

 明治20年、『浮雲』が登場する。翌年は『あひびき』、『めぐりあひ』。
 鴎外の『於母影』、露伴の『露団々』が書かれた時期に、芸者衆はヨイヨイヨイと踊りながら、女の意気地を見せていた。かたや、庶民はヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘと浮かれていた、という構図。

 おもしろい。

2007/11/14(Wed)  705
 
(つづき)
 ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘということば。
 それっきり忘れていたが、芸能史を読んで、明治20年代に、上方、とくに神戸の寄席で、いたるところ「ヘラヘラぶし」が流行したと知った。当時、西門筋の橘亭という美人ぞろいの席亭では、三年間、ぶっつづけでこれをやった。大阪からも女ヘラヘラの重尾一座が乗り込んで、美人の手踊りで評判をとった。なにしろ、連日、押すな押すなの札止めで、たいへんな人気だったという。
 重尾は「ヘラヘラヘッタカ」と詠ったらしい。
 この重尾姐さんが千日前で演じたときは、赤い襦袢に三千円の纏頭(はな)がついたというから、たいへんな熱狂ぶりだった。
 これ以上くわしくは書かないが、この踊りで何が見えたのか。

 してみると、エノケンの「法界坊」のヘラヘラぶしは、江戸風俗からきたものではなく、むしろ明治の流行をとりいれたものと見たほうがいい。ただし、エログロ・ナンセンスからエロティシズムぬきで。

 しかし、もうすこしちがう想像もできるような気がした。
 明治16年、東京の花柳界で、たいへんに流行したものがある。それは、「よいよい、よいやさ」であった。
    (つづく)

2007/11/13(Tue)  704
 
 子どもの頃に耳でおぼえたことば。意味もわからないまま過ごしてきて、ずっと後になってからハタと思い当たる。誰にでもあることだろう。

 映画「エノケンの法界坊」のなかで、「ヘラヘラヘ」という奇妙なことばを知った。むろん「法界坊」という軽薄な坊主が何か失敗したり、いいかげんなことをいって失敗をごまかすときに、首をすくめて、ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘという。
 子どもたちのあいだで流行した。その人気は今のお笑い芸人のキャッチフーズどころではない。
 子どもも大人もエノケンの真似をして、両手を小さく前に寄せ、背をかがめて、ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘとふざけて、ヒョコヒョコ歩いた。
 戦争がすぐ眼の前に迫っていることも知らずに。

 江戸時代に「しんぼ幸大寺」という俗謡が上方から江戸にかけてはやったが、それがヘラヘラぶしだったという。歌舞伎の「法界坊」もこれから派生した。内容が猥雑なものだったことは想像がつく。

  おたけどん、おたけどん、
  おまえのはながいね、唐までとどくね。
  ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ

 「法界坊」のエノケンは、当時の江戸風俗からヘラヘラぶしをとってきたのだろうと思った。
 「しんぼ幸大寺」の「しんぼ」はわからない。
  (つづく)

2007/11/12(Mon)  703
 
 女性の会話で、間投助詞というのか、語尾につけられる「わ」や「ね」ということば。あれはいつ頃から使われるようになったのか。
 国語学者に聞けばすぐに教えてもらえるだろうが、長年、誰にも聞く機会がなかったので、なんとなく気になっていた。
 為永 春水の『春色梅児誉美』では、

 「ナウお蝶、よもや藤さん其様な事はありもしまいねぇ」(巻之十)

 ザァマスことばは『春色梅美婦弥』に頻発するが、「あります」と、過去形の「ありました」という例も『春色梅児誉美』で見つけた。

 「だうりで知れないはずでありましたねぇ」(巻之八)
 『梅暦』の続編、『春色辰巳園』(しゅんしょく・たつみのその)のなかで、深川芸者の「米八」を「丹次郎」がひき寄せて、キスしようとする。「米八」は、それをふせいで、

 「アレサ、マア、私もお茶を呑むわね、と丹次郎の呑み欠けしちゃをとって、さもうれしそうにのみ、また茶をついで・・

 というシーンがある。「お茶を呑むわね」という語尾が印象に残った。
 おなじ春水の『英対談語』には、

 「オヤオヤおもしろい事を書いた本でございますネェ」(巻之七)

 「誰がいはずとも、自然(ひとりで)に知れますわ。それにはじめをいつて見ますと、其のおいらんの所へお出の途中で、雨が振ったのが、私の僥倖(さいはい)になりきとたのだから、柳川さんの方が、縁が先手(さき)でございますわ。」(巻之十一)

 「オヤ嬉しい、お前はんがいつもの様に、肝癪(かんしゃく)をおこさないで、左様仰しやるとまことにモウモウ、安心いたしますわ」(巻之十一)

 『浮雲』が発表されて、文語体の表現が小説から消えたのは明治41年という。
 しかし、日常のなかでは、はるか以前から女性の話の語尾が変化してきたらしい。

 もっとも今の女の子のしゃべっていることばは男と変わらないのだから、小説でかきわける必要はない。
 春水が生きていたら、どんな顔をするだろう。

2007/11/11(Sun)  702
 
 秋の雨が好きでも、雨の日はあまり気勢があがらない。
 漢詩を読む。

 閻 選。「河伝」。

  秋雨。秋雨。      秋の雨。秋の雨。
  無昼無夜。滴滴霏霏。  昼となく夜となく。しとしとピッチャン
  暗灯涼箪怨分離。    ともしび暗く 床は冷え 別れをうらみ
  妖姫。不勝悲。     うつくしい 姫君は かなしみにたえない

  西風稍急喧窗竹。    西風はややつよくして 窓の竹をさわがせ
  停又続。        吹きやんでは また つづく
  膩臉懸雙玉。      頬は 涙がながれる
  幾廻邀約雁来時。    いくたびか季節にたがわず 雁のくるときを迎え
  違期。雁帰人不帰。   時にたがい。雁は帰っても 恋人は帰らない

 『花間集』。花崎先生訳をもとに、私が勝手に訳したもの。

 この詩集にあらわれる美姫たちはまさに妍をきそい、紅欄に人を戀し、雲雨の夢をむすび、別れては枕になみだする艶冶の姿を見せている。

 若い頃の私は古典を知らず、中国の詩文に眼をくばることがなかった。外国語の勉強にいくらか時間をついやしていたためもある。
 いまさら後悔してもはじまらないが、その後、ようやく関心をもつにいたった。むろん、ときすでに遅い。

2007/11/10(Sat)  701
 
 秋雨。
 私は蕭条たる秋の雨が好きである。
 中国語を教えてくれた若い女性がロンドンにいる。ヴォルテールが「悪しき風」と呼んだロンドンの東風はどうであろうか。

 ヨーロッパも今年は異常気象に襲われたという。さなきだに、ミストラルや、フェーン、シロッコといった風は、そこに住む人々に、苦しみや悲しみをあたえると聞く。

 「私は大荒れの三日前から、息ぐるしくなり、乾燥は私の血脈を灼き、雪が降れば、すっかり弱ってしまいます。太陽が地平に消えるとき、なんともいえない不快なものがこみあげます。秋になると、木の葉のように生気がなくなり、三月、最初の日ざしが灰色の雲のドームをつらぬくと、私の血は血管のなかで植物の汁液のようにたぎりたちます。」

 セヴリーヌ夫人が書いている。

 いま、関東地方に雨が降っている。セヴリーヌ夫人なら寝込んでしまうかもしれない。

2007/11/09(Fri)  ☆700☆
 
 ブータンの国王が2008年に退位すると宣言した。
 国民の「幸福」を国是としてきた国王は、昨年、テレビ、インターネツトを解禁した。 突然、全世界のニューズが押し寄せてきたのだから、国民の意識が急激に変化した。それは国王のねがう「幸福」とは背馳したものだったに違いない。
 日本のテレビの取材に答えているブータンの小学生(女の子)を見ているうちに、自分の小学生の頃を思い出した。

 学校から帰ってランドセルを投げ出すと、すぐに台所に飛んでゆく。
 「ただいま」と声をかけて、
 「何かないの」
 と聞く。
 「オセンベがあるよ」
 母が答える。
 せいぜいオセンベが2枚。ビスケットなら5、6枚。何もないときはムギコガシ。当時の子どもたちのオヤツは、せいぜいそんなものだった。
 オヤツをバクつきながら、また家から走り出す。
 「早く帰ってくるんだよ」
 という声も聞いていない。

 私の家のすぐ前に、愛宕橋があった。
 橋のたもとに、梁川 庄八/首洗いの池がある。梁川 庄八は、浪人の身で、伊達藩の首席家老、茂庭 周防守を青葉城の外に待ち伏せ、その首級をあげ、血のしたたる生首をかかえて逃走した。逃げる途中、小さな池があったので、仇敵の首を洗ったという。講談に出てくる。
 史跡はそのままの池が残っているのではなく、大谷石で四方、一間幅の長方形に囲んだ小さなみずたまりになっていた。手入れもしないので、まわりは低い灌木と雑草が繁っている。昼でも薄気味のわるい場所だった。

 橋の下、首洗いの池から崖をつたって広瀬川のほとりに降りる。水際が迫っているので、足をすべらせると危険だった。そこをわたると、すぐ先に放水路の流れがつづいて、そこから、浅瀬をわたって小さな砂州になる。
 そこが私の王国だった。

 ガマや青ダイショウはいなかった。
 トンボ、バッタ、ときにはイナゴも見つかる。川面に、ハヤやアユの群れが動いている。板切れか棒の先にクギを二、三本、打ちつけただけのヤスで、岩にひそんでいるドンコを刺したり、フナの稚魚を石のあいだに追い込んだり。
 そんな遊びにあきると、草むらに寝そべって雲を眺める。まだ、新しい号が出ていない「少年クラブ」を読み返す。もう何度も何度も読んでいるので、懸賞に当選した全国の少年たちの名前まで読むのだった。

 「遅かったねえ。どこに行ってたの。お使いを頼もうと思っていたのに」
 母がかるく睨む。
 「わかった、すぐにお使いに行くよ」

 夜はラジオを15分だけ聞く。村岡 花子先生の「子供の時間」だった。毎晩、このラジオを聞いた。花子先生はわかりやすい綺麗なことばで、いろいろなニュースをつたえてくれるのだった。

 ブータンの小学生(女の子)が、日本のテレビの取材に答えていた。
 「テレビがきてから、家のなかで会話がなくなったの」

 自分の小学生の頃を思い出す。テレビもインターネットもなかった時代。
 少年時代、私はほんとうに幸福だったような気がする。

2007/11/08(Thu)  699
 
 人生をふり返って、男女をとわず、親しい友人がいたことを考える。

 しかし、ほんとうに親しい仲間だった友人が、自分より先に鬼籍に入ってしまったり、ある時期、お互いにかけがえのない友情をもちつづけていたはずの、友人たちと、あまり関係がなくなる。たとえば文通がだんだん間遠になって、お互いに会うこともまれになる。ときには、あれほどにも堅固にお互いをしっかり結びつけていた絆が、それぞれの身辺の事情や、仕事の性質から、いつしか力を失ってゆく。
 若い頃の友情などは、中、高年になってしまえば、気恥ずかしいものとして忘れてしまったり、思い出すにしても、どういうものか、ある程度の悔恨さえともなう。
 誰にでも経験のあることだろう。

 たいていの場合、友情は長つづきしない。
 友情とは、恋愛とおなじくはかないものなのか。
 恋愛で苦渋をなめたあげく、失恋でうちのめされたりする。しかし、だからといって、その恋を気恥ずかしいものと思ったり、悔恨をともなうだろうか。
 恋をしているときは、相手の存在が、みるみるうちにめくるめくような力をふるう。それは自分の人生の未知の部分が開示されるような気がするからだ。つまりは、この世で、自分とはちがう別なものを認識する唯一のチャンスだが、友情は、それとはちがって、年をとるにつれて、成熟したり衰えていったり、なんらかちがった姿になってゆく。だから、それぞれの時期に友人ができても、たいていの場合、長つづきしない。

 私の不幸はたいせつな時期に、たいせつな友人たちとつぎつぎに別れなければならなかったこと。

2007/11/06(Tue)  698
 
 老年になって、あまり小説を読まなくなった。
 むろん、例外はある。ジャネット・アンダーソンの『さくらんぼの性は』や、『灯台守の話』や、ニコルソン・ベイカーの『もしもし』や、『フェルマータ』のような小説は別。こういう小説はなんといってもおもしろい。それに、岸本 佐知子の訳がすばらしいから。
 しかし、最近になって、あまり小説を読まなくなったことは事実である。
 これまでの私はいちおう批評家だったので、たくさんの小説を読むことが仕事だった。それこそ手あたり次第に読みふけってきた。いってみれば、作品という死体をむさぼり食うグール(食屍鬼)のようなものだった。
 その頃の私は、舌の感覚も無視して、ひたすら美味をむさぼる餓鬼のように、ただもう食べることに夢中だった。
 グール(食屍鬼)にだって夢はある。私が批評家としての夢に憑かれていたといっても、そう見当違いではないだろう。

 その私があろうことか、美味珍味にあきあきしたグルメのように、小説にあきてしまった。私が、「ハリー・ポッター」や、「グラディエーター」や、「バイオハザード」といった映画を見るよりも、「恋する惑星」や、「マルコヴィッチの穴」や、「チョコレート工場」といった映画に興味をもつようになったことに似ている。
 ついでにいうと・・・似ている(ライクネス)と好き(ライキング)は、おなじだそうである。

 小説を読まなくなった私が好きになったのは、歴史、それもごくかぎられた時代に生きた人々だった。たとえば、ルネサンスの人々。
 それもダヴィンチ、ミケランジェロといった天才たちではなく、歴史の流れのなかに浮かんでは消えてしまった人々が、好きになってしまった。
 その人々は、いろいろな資料にちらっと顔を見せるだけだが、どうかするとその時代の雰囲気を強烈に感じさせたり、その時代の体臭を身につけている。それぞれの人が、私のひそかな夢をすでにみごとに実現しているような気がした。
 とくに女性には、彼女のことを考えていると、自分のまわりに知らない時間が流れて、自分がローソクを手に、彼女の部屋に通じている階段を、そろりそろりとしのび込むような気がした。彼女たちは、ビアンカ・カッペロとか、ヴィットーリア・アッコランボーニという名前の女たちで、ときには、いともやすやすと私にいのちを投げ出しているくせに、なかなかからだをゆるさない。私の腕に抱かれても、まるで感情をみせない女もいた。それがまた、古代の処女のようなコケットリーにさえ見えるのだった。それぞれに歴然たる程度の差はあったけれど。
 そういう人の生きかたを調べたり、わからなければわからないなりに、自分の内面で再現してみたい。
 それも作家の仕事といっていいのではないだろうか。私はそう考えたのだった。

 私は評伝というかたちで、いつも興味ある人間だけを描こうとした。
 評伝で書こうとしたのは、その人物ととことんつきあうことだったし、ときには格闘したことで、史伝などとは関係がない。むろん、関係がないといいきるのは間違いだが、あえていえば、彼、彼女と手をたずさえて、その時代をひたすら走り抜けるよろこびといおうか。

 中国古代、楚の詩に、

   子 手をまじえて 東に行き
   美人を 南浦に 送る (河 伯)

 という情歌があるが、私の評伝はそんな気分のものにすぎない。

 八十歳、私のさしあたっての文学的総括である。

2007/11/04(Sun)  697
 
 11月5日、私は80歳になる。別に感想はない。

 今日(11月3日)、安東 つとむ、田栗 美奈子、真喜志 順子が発起人で、私のために知人、友人たちが集まってお祝いのパーティーを開いてくれた。たいへんな盛況だった。参加してくれた人々は約50名。ほとんどが女人ばかり。
 自宅で安静にしていなければならない浜田 伊佐子は、わざわざ手紙をくれた。仕事で忙しい人たちも電話や手紙で、お祝いのことばをつたえてくれた。
 心からありがたく思っている。

 80歳になって、つまらぬ感想を述べるくらいなら、好きな詩の一節でも引用したほうがいい。少しは利口に見えるだろう。

   牽拙謬東シ
   浮情及西コン

 戯訳。
   わかき日を 才なく うかれすごしけり
   うかれうかれて いまは じいさま

 原詩は中国古代の詩人、沈 約。

 「少年老い易く 学なりがたし」よりも、どこか覚めているところがいい。

 他人のことばを借りておのれの現在を語るというのは「才なき」証拠だが、他人のことばにおのれの及びがたいものを見ることも老年の楽しみのひとつ。

 アメリカの名女優、タルラ・バンクヘッドのことば。

   もし、人生をもう一度生きるとしたら、おなじ誤りをそのままくり返すわ。
   ・・・もう少し早い時期にね。

 さすがは名女優。宮本 武蔵の「我が事において後悔せず」ほどにもすばらしい。
 やはり、私など及びもつかない。


 ここで少し補足しておけば、ありがたいことにこの11月の集まりが、人生最後のパーティーになる。
 今後、私はこうした集まりに出ることはない。

2007/11/02(Fri)  696
 
 戦後、衣食住のすべてが逼迫していた。

 戦災に会わなかった友人の椎野 英之の家に、私と同期の小川 茂久が間借りをしていた。小川は、七月に入って招集されて、陸軍の最後の二等兵になったが、翌月、終戦で、すぐに復員した。やがて、世田谷に移ったので、その部屋が空いた。そこに、中村 真一郎が移ったのだった。
 私は、毎日のように、椎野の家に遊びに行っていたので、椎野が紹介してくれたのだと思う。私はすでに「近代文学」の人々と会っていたから、中村 真一郎が、戦後、最初に会った文学者というわけではない。
 ある日、遊びに行った。誰もいなかったので、二階の椎野の部屋に入った。襖戸ひとつで仕切られているとなりが、中村 真一郎の部屋だった。
 六畳二間ぐらいの部屋だった。部屋の片側に作りつけの書棚が並んで、そこにぎっしりとフランス語の本が並んでいた。驚嘆した。
 東大仏文の出身で、たいへんな博識の文学者だということは知っていた。その蔵書の量の多さに度肝をぬかれた。しかも、すべてフランス語だった。
 中村 真一郎の読書量はこんなにも多くて、しかもこの原書を読みこなしている!
 眩暈のようなものを感じた。

 このことは私に大きな影響をおよぼした。
 (1)とにかく外国語を習得しよう。中村 真一郎ほどの勉強家にはおよびもつかないが、せめて、一つだけでも語学を身につけよう。
 (2)しかし、中村 真一郎とおなじ語学を勉強するのはやめたほうがいい。とても追いつけるものではないから。
 つまり、フランス語はやらないほうがいい。中村 真一郎、加藤 周一、福永 武彦のような秀才にかなうはずがないのだから。
 (3)それでは、別の語学を勉強しよう。

 まったくもって、あさはかな考えだった。

2007/11/01(Thu)  695
 
 私の好きなことば。たくさんある。

 そのひとつ。

   私はすべてのものに勝った。だが、最後に敗れた。
   目的には達したが、いま、ここに倒れる。
   運命は私より強かった。・・
   私の愛したひとは、もはやいない。私も死ぬ。

 アルセーヌ・ルパン。

 私も、せめてこの1/10ぐらいの実質をもったことばを残して死にたい。

 アルセーヌ・ルパンはこの遺書を残して、みごとに逃げてしまうのだが。

2007/10/31(Wed)  694
 
 さる良家のお嬢さんが、お見合いをなさった。
 いまでも、お見合いという儀式が行われているのか。世事にうとい私は、にわかに興味をもった。お見合いをなさって、二、三日後に、話を聞かせてくれた。

 その日の彼女は和服をお召しになった。しずしずと控えの間にお着きになる。相手の男性が、つぎのつぎの間にひかえている。彼女はここで大きな姿見の前で、わずかにほつれたおくれ髪を直したり、メークをお直しになって、ややうつむいてお母さまのうしろにしたがって、お見合いの間にお入りになる。
 相手の男性は、一流大学を出て、これも有名な商社に勤務している。
 お互いの挨拶が終わって、お嬢さんも顔をあげた。
 男性は、もう三十代で、いわゆるイケメンではないが、いそがし過ぎて結婚相手が見つからなかったらしい。
 「どちらの大学(をご卒業)でしたか」彼が聞いた。
 そんなことは、とっくに知らされているのに。
 「はい、XXの・・」
 あとが出ない。
 「ご趣味は・・」
 「はい、茶道、お花、ピアノも少しばかり」
 あとがつづかない。お互いに沈黙している。シラケた気分。

 私は笑った。いまどき、こんな古風なお見合いがあるのだろうか。

 「それで、どうなったの?」

 彼女が笑った。
 「きまってるじゃないの」
 「え?」

 彼女のほうから誘ったらしい。

2007/10/29(Mon)  693
 
 女優のジェーン・ワイマンが、カリフォーニア、パームスプリングスの自宅で亡くなった。(’07.9.10.) 享年。93。
 つい数年前に、シモーヌ・シモンが、92歳で亡くなっている。この世代の女優たちではジェーンも長寿といえるだろう。

 彼女の代表作としては「失われた週末」(45年)と、「子鹿物語」(46年)が思い浮かぶ。「ジョニー・ベリンダ」で、アカデミー賞を受けている。
 40年に、二流の俳優、ロナルド・レーガンと結婚したが、48年に離婚した。離婚しなかったら大統領夫人になっていたはずだが、ジェーンとしては、ナンシーを羨望するようなことはなかったと思われる。

 彼女の訃を知って、ヒッチコックの「舞台恐怖症」(Safety Curtain)を見た。マルレーネ・ディートリヒの主演。ヒッチコックとしては、後年の「劇場殺人もの」に発展してゆくミステリー最初の布石といっていい。ディートリヒとしては、後年の「情婦」に発展してゆくミステリー最初の映画。
 妖艶なディートリヒに対して、清楚で、おとなしいタイプのジェーンが配置されているわけだが、ジェーン・ワイマンがヒッチコックのお気に入りのタイプだったかどうか。

 ジェーン・ワイマンは、それほど美貌ではなく、ガマグチ・ワイマンとあだ名をつけられていた。おなじように、それほど美貌ではなかったが、演技的にしっかりしていたドロシー・マッガイア、ナンシー・ヘールなどとおなじように、映画のなかでしっかりとした存在感を見せるタイプ。
  役柄はありきたりのアメリカ中産階級、ごく平均的なハウスワイフ・タイプの女性といった感じだった。「失われた週末」では、アルコール依存症の無名作家を立ち直らせようとして献身的につくす婚約者。「子鹿物語」では、貧しく、苦しい辺境の生活に耐えながら、忍従のなかでいつしか夫や子どもにも心を閉ざしてしまう開拓者の妻。
 「ジョニー・ベリンダ」では、当時の厳格な検閲ではまったく表現されることのなかった、非性的(アセクシュアル)な女、あるいは、不感症(フリジッド)的な女をみごとに演じていた。

 ジェーンのひたむきさが、映画にどこかあたたかみを与えていた。別の女優の例としては、「シェーン」のジーン・アーサーがこれに近いだろう。
 ヒッチコックは、ジェーンの眼、とくに恐怖に直面したときの眼に注目していたのではないかと思う。いわゆる眼千両である。ヒッチコック映画に出た女優たち、イングリッド・バーグマン、ジェーン・フォンテン、ティピー・ヘドレン、ドリス・デイ、キム・ノヴァク、ヒッチコックはジェーン・ワイマンのような眼のクローズアップ・ショットを撮っていない。(「めまい」で、キム・ノヴァクの眼のクローズアップは出てくるが、これは演出上の意味がちがう。)

 ガルボ、ディートリヒ、ノーマ・シァラー、ジョーン・クロフォードの時代が去ったあと、どちらかといえば小粒なスターが輩出する。
 こういう比較はあまり意味がないような気がするけれど、アイダ・ルピノ、アレクシス・スミス、スーザン・ヘイワード、ルース・ローマン、ナンシー・ヘールといった二流のスターたちのなかで、ジェーン・ワイマンはいつもつつましやかで、輝かしい存在だった。
 彼女たちのすぐうしろに、エリザベス・テーラーと、マリリン・モンローの時代がつづいている。

 ロナルド・レーガンと離婚したあと、ある作曲家と再婚したジェーン・ワイマンは、当時まだ無名のマリリン・モンローと知りあった。マリリンは撮影所で音楽を担当していたフレッド・カーガーと恋愛していたが、スターレットとも呼べない大部屋の女優だった。
 ジェーンは無名のマリリンと親しくなって、いろいろと世話をした。ジェーンは、無名のマリリンに何を見たのだろうか。
 ワイマンはすでにアカデミー賞をうけた女優だったが、この時期からハリウッドから遠ざかってゆく。マリリンはこの直後からスターダムにのしあがって行く。

 お互いの人生で、一瞬、交錯しただけのかかわりだったはずだが、ジェーンはマリリンに好意をもっていた。マリリンもジェーンに感謝の気もちを忘れなかった。
 ハリウッドという地獄にはこういう関係もある。

 合掌。オム・タラ・トゥ・タレ・トゥレ・ソハー。(ある本でおぼえたお経の一節)。

2007/10/27(Sat)  692
 
 昔、宋の時代のおじいさんの話。名は、陳 脩。73歳。

 「解嘲」の詩を詠んだ。

   読尽詩書五六担  読みつくす 詩書 五六たん
   老来方得一青衫  老来 はじめて得たり 一青衫(せいさん)
   佳人問我年多少  佳人 我が年の多少を 問わば
   五十年前二十三  五十年前 二十三

 私は、『詩経』、『書経』はもとより、ありとあらゆる思想、哲学書から稗史小説まで、車に五つも六つも積まれたほども読んできた。
 ヨボヨボのおじいさんになってから、科挙の試験に受かって、やっとお役人になれた。 美人に、ねえ、お年はいくつときかれたら、ああ、五十年前は、二十三だったよ。

 「解嘲」の詩は、他人のあざけりに対して、弁解するもの。
 可哀そうな陳脩先生。いまの私そっくり。いや、私はもっと老いぼれている。

 このおじいさんをあわれにおぼしめした天子は、後宮のなかからひとりの美女を選んで妻として賜った。彼女の名は、施氏、三十歳。

 チェッ、うまくやりやがったなあ。

2007/10/25(Thu)  691
 
 冬虫夏草。
 漢方医療にくらい私でも貴重なクスリと知っている。

 新華社通信の報道では、「冬虫夏草」の乱獲が深刻化して、原産地の一つ、青海省では、価格が30年前の1000倍以上に高騰している、という。

 チベット自治区、青海省の集中生育地帯の生産量が25年前と比較して、10パーセントに落ち込んでいる。全国の生産量も、2〜3.5パーセントにまで減少している。
 中国科学院の専門家の現地調査による。

 07年5月、青海省で、500グラムあたり、3万5000元(約52万5000円)だった価格が、8月には5万元(約75万円)にあがっている。

 小さな記事だが、私の関心を惹いた。
 価格が1000倍!
 冬虫夏草が、昔の不老不死の仙薬、九転丹のようなものだとしても、眼のくらむような高騰で、戦後すぐの物価の大変動を知っている私でもこれほど激烈な高騰は知らない。

 もし、青海省当局が、冬虫夏草に関して緊急物価対策の要綱といったものを出しているなら、読んでみたい。あるいは、中国科学院の報告があるなら、読んでみたいと思う。あいにく私は中国語が読めないのだが。
 私はこの記事を読んで、ファルスのようなものが書きたくなった。

 いつもいつも、書く題材に困っていたゴーゴリに聞かせてやったら、たちまち『検察官』や『死せる魂』に劣らない作品を書いたにちがいない。
 創作力が枯渇しているせいか、そんなことしか考えない。

2007/10/24(Wed)  690
 
 常盤 新平が選んだギャングのベスト10は・・・・
  (1) アル・カポネ
  (2) ラッキー・ルチアーノ
  (3) マイヤー・ランスキー
  (4) フランコ・コステロ
  (5) ジョゼフ・ボナンノ
  (6) ジョゼフ・バラーキ
  (7) ジョン・ロツセリ
  (8) バグシー・シーゲル
  (9) ジョン・ディリンジャー
 (10)ベビー・フェイス・ネルソン

 このリストだけでも、常盤 新平の博識とマフィアに対する造詣の深さがわかる。
 たとえば、マイヤー・ランスキーはジュイッシュ・マフィア。マネー・ロンダリングを考えた最初の人物。
 お互いにかけだしの翻訳者だったころ、常盤 新平といっしょに、ニューヨークや、シカゴのシンジケートの誰かれのことを語りあったことを思い出す。

 後年、映画の「ネイキッド・タンゴ」をノヴェライズしたときにジュイッシュ・マフィア「ツヴィ・ミグダル」について、いくらかくわしくなった。

 なにごとにまれ、少しでも知っていれば、それなりに自信をもって書くことができる。評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いたとき、ラテン・アメリカ巡業に出たジュヴェの劇団に、ユダヤ・マフィアが眼をつけていた事情もなんとなく想像がついた。

 作家や演出家はなんでも知っておいたほうが仕事のうえで役に立つ。

2007/10/22(Mon)  689
 
 アメリカ文学を勉強していた時期があった。1920年代から戦後まで、ベストセラー上位の作品の半数以上を読んでいることに気がついた。自分でも驚いたが、それほどベストセラー作品に魅力があったのか。

 たまたま「週刊読売」が、アメリカのベスト10を特集した。私は、小説のベストセラーをあげたのだった。
 私が選んだベストセラーのリストは・・・・

  (1)「風とともに去りぬ」(マーガレット・ミッチェル)
  (2)「誰がために鐘は鳴る」(アーネスト・ヘミングウェイ)
  (3)「地上より永遠に」 (ジェームズ・ジョーンズ)
  (4)「裸者と死者」   (ノーマン・メイラー)
  (5)「ライ麦畑でつかまえて」(サリンジャー)
  (6)「かもめのジョナサン」(リチャード・バック)
  (7)「ロリータ」    (ウラジミール・ナボコフ)
  (8)「ラヴ・ストーリー」(エリック・シーガル)
  (9)「怒りの葡萄」   (ジョン・スタインベック) 
 (10)「紳士は金髪がお好き」(アニタ・ルース)

 どう見ても古色蒼然としたリストだと思う。いまでも読まれているのはサリンジャーぐらいだろうか。
 こうした作品を熱心に読んできた。このリストに、「かもめのジョナサン」や「ラヴ・ストーリー」をあげているのは、このアンケートに答えた頃のベストセラーだったから。スタインベックの「怒りの葡萄」、アニタ・ルースの「紳士は金髪がお好き」は、戦前のベストセラーだが、これほど極端にちがう作品も、読者に読んでほしいと思ったから。「紳士は金髪がお好き」はマリリン・モンローの映画でしか知られていないが、フラッパー・エイジを知ることができる。

 ここではとりあげなかったが、これ以外に私のベストセラー・リストに、キンゼイの「人間女性における性行動」と、マスターズ、ジョンソンの「人間の性反応」を選んだ。

 このとき、常盤 新平は、ギャングのベスト10を選んでいる。
    (づづく)
 

2007/10/20(Sat)  688
 
 私はベストセラーを読まない。というより、その本がベストセラーでなくなってから、ゆっくり読む。

 アメリカのベストセラーとおなじことで、その作品がベストセラーでなくなってから読むのだった。ある時期のベストセラーを調べれば、その時期のアメリカの姿がはっきり見えてくる。
 ベストセラーの歴史は、そのまま20世紀のアメリカ文化史と見ていい。

 もともとベストセラーという名詞自体がアメリカの新造語だった。
 1897年、アメリカの雑誌「ブックマン」が新刊紹介と、その時期に売れ行きのよかった本をリストアップして「ベスト・セリング・ブック」と呼んだことにはじまる。
 これが作為名詞 agent noun の「ベストセラー」になったのは、20世紀に入ってからで、アメリカの資本主義の発達に関係がある。
 ジャーナリズム発達史の一側面とも見られるようになった。

 第一次世界大戦が起きた時期から1926年(大正15年)までに、日刊紙は2580から2001に減少している。
 日曜新聞の数も、571紙から541紙に減少しているが、発行部数は、2800万部から、3600万部に急増している。
 かんたんにいえば、読者層が飛躍的に増大しつづけていた。そういう読者たちは、ベストセラーに飛びつき、同時に、読者の欲求が、いつの時代でも「ベストセラー」を生み出して行った、といえる。

 ベストセラーは大別して、小説とノン・フィクションにわけられる。

 ノン・フィクション部門の「ベストセラー」は、さまざまな分野の有名人をとらえた伝記もの、実録もの、実用書、ありとあらゆる非小説を包括する。
 私の少年時代には、ピトキンの『人生は四十から』とか、ホグベンの『百万人の数学』といったベストセラーものを、父が読んでいた。
 その後、ヴァン・ルーンの『人間の歴史』、カール・サンドバーグの『エイブラム・リンカーン』などと並んで『クロスワード・パズルの本』(1924年)が、75万部、世界的な統計では300万部、売れていた。

 過去のベストセラー・リストを見ていると、読者の好みなんて変わらないものだなあ、という気がしてくる。

2007/10/19(Fri)  687
 
 駿河台の近く、猿楽町の中学に通っていた。その後、戦後になって駿河台の大学で講義をつづけていた。私は今でも月に二、三度、駿河台下、神保町からお茶の水界隈を歩いている。
 「山ノ上ホテル」にもあまり立ち寄らない。スタッフがすっかり変わってしまった。好きな喫茶店は「クラインブルー」。「壱番館」。
 洋書の「北沢」、「松村」、和書の「一誠堂」、「小宮山」にはかならず寄って本の顔を見る。ただし、小川町、神保町でイタリア語の本を買わなくなった。

 人生の大半をおなじ土地で過ごしてきた。すっかり変わってしまった駿河台、お茶の水界隈を歩きながら、つまらない人生だったなと思う。
 それでも、ほかのどこの場所より、私にとってはなぜかノスタルジックな土地なのである。

 明治初年の頃、お茶の水南側の一帯が紅梅町。いまの「丸善」のあたりは幕府直属の伊賀者の長屋。「杏雲堂」の病院の横に、大久保彦左衛門の屋敷跡。

2007/10/18(Thu)  686
 
 神田、駿河台。

 昭和初期の高座で、駿河台を「あたり台」といった落語があったらしい。実際には聞いたことはない。最近、引退してしまった円楽ではなく、たしか、先代の三遊亭 円楽がやった。

 時は明治20年代。自動車もない時代。人力車が走っていた。

 客は、ネコ。ネコといっても動物の猫ではない。芸妓のこと。車夫が行き先を聞く。芸者の世界にかぎったことではないが、忌みことばがある。車上のお姐さんが、行き先をいわない。
 「わからないかねえ。ほら、神田の高いところだよ」
 車夫はいろいろと土地の名前をあげるのだが、お姐さんもいろいろと手真似でせつめいしようとする。
 とうとう姐さんが、じれったがって、
 「車屋のくせに、ほんと、カンがにぶいねえ。ほら、鎌倉河岸がら右に入って、ずんずん行くと・・」
 「ああ、ヤソのお寺のあるあたりですかい」
 「そっちじゃないの、右にいったら、こんどは左」
 さあ、わからない。
 最後になって、お姐さん、ハタと膝を打って、
 「ほら、アタリ台だよ!」
 車屋が、なるほどと合点して、
 「ああ、お出の水の下でござんすか」

 この落語、新橋か赤坂の芸者の実話という。
 「する」(損をする)という言葉を避ける。お茶を「お出花」、「上がり花」という。この二つを使った落語。

2007/10/17(Wed)  685
 
 マリア・グレギーナは、旧ソヴィエト末期に登場しているが、少し先輩のリューバ・カザルノフスカヤとともに、私の好きなオペラ歌手。旧ソヴィエトが崩壊してから、世界的に知られる。

 1991年に「サントリーホール」のコンサートで、「デズデモーナ」、「レオノーラ」を歌った。当時、ソヴィエトが破局的な状況にあったとき、マリアの姿にロシアの未来を重ねてみた人も多かったのではないだろうか。
 私は、新国立劇場のコケラオトシで、『アイーダ』を見た。これは、フランコ・ゼフィレッリの演出だった。これを見たときの印象はまだ心に残っている。ゼフィレッリ演出とマリアについて、私の『ルイ・ジュヴェ』に書きとめてある。

 『マクベス夫人』(スカラ座)は、衛星放送で見た。
 マリアの「マクベス夫人」が、そこには存在しない亡霊を見すえるとき、自分ではなぜ亡霊があらわれるのか想像もできない状態を経験しながら、まるで彼女自身が存在していない場所からやってきたように見えた。いくら洗っても洗っても、掌についた血は洗い落とせない。このとき、私たちの恐怖が、そのシーンを演じ、私たちの夢がその恐怖をまざまざと現出するのだ。
 リッカルド・ムーティの指揮がすばらしかった。

 友人が亡くなったとき、いつも音楽を聴く。生前の彼が愛していた(と思われる)音楽を選ぶようにしているのだが、わからない場合は、自分が勝手に選んで聴く。

 この夏、亀 忠夫が亡くなったとき、私はモーツァルトを聴いた。
 そして、つぎにマリア・グレギーナを選んだ。オペラではなく、もう誰も聞かないロシア・ロマンスを。

2007/10/16(Tue)  684
 
 久しぶりにマリア・グレギーナを聴いた。
 オペラではなく、ロシア歌曲であった。

   きみといっしょにいて
   黙って きみの 瑠璃色の眸(め)に
   心を沈めるのは なんとたのしいことか

 ルィンジンの詩、グリンカ作曲。

   私はあのすばらしい一刻をおぼえている
   私の前に きみはあらわれた
   たまゆらの 幻のように
   聖らかな 美の化身のように

 プーシュキンの詩。私は、自分の「たまゆらの 幻」を思い出す。

   一生のうちに ただ一つの幸福に
   めぐり逢うのが 私のさだめ
   その幸福は リラの花のなかに住んでいる
   みどりなす その小枝
   なよたけの 香り
   ここに 私の幸せが花ひらく

 これはチャイコフスキー。詩はE・ベケートワ。

2007/10/15(Mon)  683
 
 私の趣味(?)は焚き火だった。

 ネコの額ほどの庭があって、わずかながら樹木、花などを植えている。秋になると落ち葉がたまる。それを箒で掃きあつめる。
 家の前の道路に、サルスベリ、ツタ、ツバキなどの枯れ葉を盛り上げる。古新聞に火をつけて燃やす。水分をふくんだ枯れ葉はいぶって、白い煙があがる。サツマイモを二、三本、アルミ・ホイルにくるんで放り込む。火のそばにつきっきりでヤキイモができるのを待っている。

 やむを得ない事情で、家を新築した。私の蔵書は、さる図書館三つに、それぞれ寄贈したり、古書店に売り払った。

 レンガ作りで、直径3メートル、深さ、60センチほどのまるいかたちの池に、キンギョ、コイ、メダカなどを飼っていたのだが、家を新築するので、ブルドーザーがきてこわすことになった。サカナたちを、近くの公園の大きな池に放してやって水を抜いた。
 ブルドーザーがくる前に、ここで、いろいろなものを燃した。池は、たちまちゴミ焼却場になった。

 手あたり次第に、原稿や、自分の手もとに残った校正のコピー、女の子たちからの手紙、芝居の演出ノートなどを火のなかに投げ込む。いらない原稿ならいくらでもある。自分の原稿を焼き捨てる快感はなかなかのものだった。
 なかなか燃えないときは、手あたり次第に、書き損じの原稿や、へたくそなデッサンを引き裂いて火をつける。紙屑ならいくらでもある。
 油絵やアクリルで描いた絵は、みんな焼き捨てた。
 アメリカの大学生たちが卒業式を終えたあと、校庭に出て、いっせいにテキストや、答案を燃して、放歌高吟するファイアーストームの気分に近いものがあった。

 まだ、公害がそれほど切実な問題になっていなかったから、こんなことも許されたのだろう。
 しかし、地球の温暖化に私もほんのわずかながら責任があるかも知れない。(笑)

 だから、焚き火もしなくなった。

2007/10/14(Sun)  682
 
 やがて幕府は倒れて、明治新政府が登場する。
 軍服や、太政官、官吏の制服がきめられたのが明治三年。公式の服装が洋装になったのが、明治五年。翌明治六年に断髪令が出て、ザンギリ頭が出現する。
 明治十六年に、当時の日本が苦しんでいた不平等条約の撤廃をめざして、鹿鳴館が作られた。いわゆる文明開化の時代であった。
 こうした日本人に対して、アメリカ人たちは、あからさまな模倣に眉をひそめた。アメリカ人にかぎらず、日本人が外国の文化の模倣ばかりしていて、さる真似の天才と見た人は多い。

 「もの真似の習慣がいま急速に日本に広まっている。これは在日外国人なら誰でも証言できると思う。

 日本製の生地で作ったヨーロッパふうのドレス、紐もなく黒く染めてもいないブーツ、ズボン吊りもボタンもついていない、だぶだぶのズボン。数多くのいかさまなブーム。
 こうした光景は、日本以外では見かけることはできないだろう」
 これは、明治二年十二月、在留アメリカ人の新聞に出た記事であった。

 今でも日本人に対して、こうした批判はあとをたたない。
 だが、冷静に見るがいい。今、アメリカではインド製や韓国製の「ヨーロッパふうのドレス」が氾濫しているし、「紐もなく黒く染めてもいないブーツ、ズボン吊りもボタンもついていない、だぶだぶのズボン」は、世界じゅうのファッションになっているではないか、などと野暮はいうまい。
 ただ、ここに見られる、日本人に対するいわれない蔑視には私たちも注意していたほうがいい。

 「彼らの洋服を着るマナーを見ると、スカートをはいたサルを思い浮かべざるを得ない。その行為になんらの美徳もなく、ショー・アップしたいという気もちだけなのである。グロテスクな身なり。外国人の衣服を着ることは、人形のパーティーとしかいいようがないではないか」
 これは明治三年に「アメリカ領事館公式機関紙」に掲載された記事の一節。

2007/10/13(Sat)  681
 
 さて、幕末の日本人は何でも見てやろうと思った。
 勝 海舟の咸臨丸がアメリカに行く。いろいろなものを見た。
 加藤 素毛の「夜話」にいわく、
 「其刻夜行して市俗を察(み)るに、至て静穏なり、妓楼を除くの外(ほか)、行歌の者なく、会飲する者曽(かつ)てなし、昼夜共に触売(ふれうり)の声を不問(とわず)、雖然男女の淫行甚厚く、街々の軒下或ハ、道路にたたずみ、又は野合し、傍人これを見懸(みかけ)るとも恥る色なし、惣(そうじ)て婦人は人に馴(なれ)易く、男子を見て喜ぶ風(ふう)あり」
 サムライが驚くのも無理はない。世態人情、風俗習慣の違いは、これだけの記述からもうかがえるのだが、「しかりといえども男女の淫行はなはだ厚く」という部分など、儒学教育を受けてきた加藤さんには、さぞ眼の毒だったろう。
 なかには、もっとおもしろい経験をした人もいる。ある大きな家にまぎれ込んでしまって、
 「其家ノ様子ヲ見ルニ、常体ノ商家トハ大ニ異ナリ、依テ楼上ヲ見シハ、年齢十六七ヨリ廿二三迄ノ婦人ノミ集テ何ヤラ唱歌ス、其女子又平人ヨリ風俗アシク見エ、依テ諸同遊初テ疑ヲ発シ・・」
 あわてて聞くと、これはホアハウス(妓楼)というので、一同大いにおどろき、暫時たりともこの家にあるときはその罪重かるべしと、ほうほうの態で逃げ出す。
 これは福島 義言の「花旗航海日誌」に出ている。

2007/10/12(Fri)  680
 
 ここで、ペリーのことにふれておこう。
 ペリーが再度来航したのは1854年で、このとき日米修好条約が結ばれた。
 その第一条は、
 ……日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結び場所人柄の差別無き事
 となっている。

 日本とアメリカの最初の条約の冒頭に、国籍や人種の違い、つまり差別をしてはならない、ときめられていることはやはり感慨深い。
 ペリーは、幕府当局に汽車の模型、ダゲレオタイプの写真機、電信機一式、時計、望遠鏡、測量器具などを寄贈した。幕府側は返礼として、漆器、反もの、陶器類を送ったが、このプレゼントの交換も日本とアメリカの違いをたくみに象徴している。
 模型ではあったが、ペリーの贈った汽車や、写真機、電信機、時計、望遠鏡、測量器具などは、まさに先進国のものだった。だが、現在、日本の鉄道は、世界で最高の正確さ、速度を誇っているし、写真は日本が完全にアメリカを越えている。時計や通信機器、はては宇宙衛星の利用による測量技術、ハイ・テクノロジーの面でも、日本はアメリカに劣らない。記憶素子の生産についても、日本は、アメリカを凌駕しようとしている。これもまた感慨深いものがある。

2007/10/11(Thu)  679
 
 幕末に、江戸、吉原の遊女、桜木が、

  露をだにいとう大和の女郎花(おみなえし)
     ふるあめりかに袖はぬらさじ

 という歌を詠んだ。
 日本の女性の心意気を見せたという。

 この歌は、横浜の傾城(けいせい)、花扇の辞世という説もあって、ちょっと信用できない。是枝 柳右衛門という人の日記によると、十六夜(いざよい)という下関の遊女が、アメリカ水兵と寝るのを拒否して、

  かずならぬ身も日の本の女郎花
     ふるあめりかに袖はぬらさじ

 と詠んだという。

 こうした歌に、遊女の真情があらわれていたにしても、当時の尊皇攘夷派が反アメリカ宣伝に利用したにすぎない。
 ただ、幕末から日本人はいつもアメリカを意識しなければならなくなったのだった。

2007/10/10(Wed)  678
 
(つづき)
 サラ・ブライトマンが「エビータ」をカヴァーしている。「ジーザス・クライスト・スーパースター」をロシアのリューバ・カザルノフスカヤがうたっている。これまた堂々たる歌唱力で。サラの「エビータ」は、いささか宗教音楽のような清純さを感じさせるが、リューバのほうは、かなりねっちりした感じがある。イタリア語と、ロシア語の違いだけではなく、ソプラノとしての資質の違いまで想像させる。

 私はリューバのファンだが、おなじ「ジーザス・クライスト・スーパースター」なら、ブロードウェイ・オリジナル・キャストのイヴォンヌ・メリマン(ハワイ出身)のほうがずっといい。

 艾 敬(アイジン)が、加藤 登紀子の「川は流れる」を「河在流」として、沖縄の「島唄」を「島上」として歌う。
 フェイ・ウォンが、まだシャーリー・ウォンだった頃のCDを聞いて、はじめてアジア・ポップスに関心をもったが、フェイ・ウォンは中島 みゆきをカヴァーして、一躍、人気を得た。
 もう、誰の記憶にも残っていないだろう。

 やや遅れて、田 震(ティエン・シン)が、吉川 晃司をカヴァーして、歌手として大きな展開を見せるのだが、もう誰もおぼえていないだろう。

 ただ、私は考える。いま、日本のポップスをカヴァーする歌手がどこかにいるのだろうか。
 

2007/10/09(Tue)  677
 
 ある歌手の「歌」を別の歌手がうたう。カヴァー。「元歌」が流行しているときは、あまり関心をもたないが、しばらくして別の歌手がカヴァーしたものを聞いてみるのが「趣味」なのだ。たとえば、・・・

 ヴェトナム系のイーランが、エディト・ピアフの「ラ・ヴィー・アン・ローズ」をうたっている。ヴェトナム語で。これがすばらしい。越路 吹雪のカヴァーなど、可哀そうだが比較にならない。
 イーランは、日本ではほとんど誰も知らないだろうと思う。しかし、かつてのフランスのシャンソンのあまやかな美しさが、イーランの、美しい声のもつすばらしいフラグランスは、私を惹きつけてやまない。

 台湾の張 恵妹(ア・メイ)が「タイタニック」や、「ボデイガード」の主題歌を歌っている。セリーヌ・ディオンとはまったく別のものだが、ア・メイが、アジアの最高の歌手のひとりであることがわかる。
 彼女の歌う「マンマ・ミア」や「Ain’t no Sunshine」のみごとなこと!
 ア・メイとおなじように、「タイタニック」のテーマをサラ・ブライトマンがカヴァーしている。イタリア語で。たいへんな美声だが、私はア・メイのほうが好きだ。
   (つづく)

2007/10/08(Mon)  676
 
 私は、小島 なおのファンである。
 東京生まれ、20歳の歌人。

    暗闇に椅子置かれあり一脚の椅子であるという自意識もちて
    英単語書き並べいる青ペンの滲んだところノートに夏が
    地底にも夏はきにけり雨粒の滲みて溢れている音がする
    「星の王子さま」読み終えてうわばみがわたしのうちに棲みはじめたり
    踏み切りのここでお別れ真夏には断片的な思い出ばかり

たいていの子どもが、ある時期、ノートに詩のようなものを書きつける。やがてそういう時期があったことも忘れてしまう。以前と変わらないが、たいていの女の子は、ただ綺麗なだけで、頭のカラッポなオンナになって行く。
 小島 なおは、そうはならずにこのまますぐれた歌人になってゆくだろう。
 ただ、目下の彼女にないものは、幻想、残酷さ、ヒューマーなどである。資質的に、そうした要素をもたないのかも知れない。もし、そうだとすると、彼女は、もうひとりの『サラダ記念日』の歌人として知られるだけのことになる。

 私としては、彼女が挫折することなく、その感性と才能が、じゅうぶんにのびてゆくことを願わずにいられない。

2007/10/07(Sun)  675
 
(つづき)
 中尾さんによれば――
   その一九四九年であるが、富士(正晴)は一〇月二〇日に出発、二九日に帰阪している。この一週間あまりの滞在中、原 通久と富士 正晴のあいだに応酬があったのは、富士の手帳に<ランボオ>(午後三時)スルガ台下/コレ以後1時スギ/佐々木、本田、/山室)と記された一〇月二五日のことと見ていいのではないだろうか。

 中尾さんは、私の手紙によってこう推測なさっている。私としては、これで間違いないと思うけれど、それでもあらたに疑問が浮かんできた。

 <ランボオ>(午後三時)という記述と、富士 正晴が会った人々のことである。
 ふたたび、中尾さんのエッセイを引用しよう。

   林哲夫の『喫茶店の時代』によれば、神田神保町の昭森社ビル一階で開業されていた「らんぼお」は、(昭和二十四年の四月頃、<潰れ>、また、中田耕治の手紙に出る「ラドリオ」は、<昭和二十四年>に<狭い露地を挟んで>昭森社ビルの<向かい>に開業したとのことである。                  一九四九年秋の富士 上京には、すでに「らんぼお」はなく、一〇月二五日の富士手帳にでる<ランボオ>は、<ラドリオ>と見てよさそうだ。(誤記であるか、場所の勘違いであるか分からないが。

 <ランボオ>は、もし戦後文学史などというものが書かれるとすれば、その一ページを飾る喫茶店だが、昭森社ビルなどというと、コンクリート建築の堅固なビルを想像するだろう。実際は、その界隈にめずらしくない仕舞家(しもうたや)の作りで、外側に西洋風の窓、入口が扉という、よくいって和洋折衷の、じつにちっぽけな喫茶店だった。
 この<ランボオ>を経営していたのが、神田のバルザックと称された昭森社の社主で、<ランボオ>の二階、八畳間に、いろいろな出版社が机ひとつ置いて間借りしていた。
 「近代文学社」は、その階下、つまり<ランボオ>の入口の隣り、せいぜい三畳ぐらいの小部屋を借りていた。
 なにしろ狭いので、執筆者、他社の編集者がくると、すぐに<ランボオ>に案内する、という状態だった。
 ある日、ここに美女があらわれた。武田 百合子である。いろいろと恋のさや当てがくりひろげられたが、ここに書く必要はない。
 <ラドリオ>は、当時の島崎書店のすぐうしろの路地を入って<ランボオ>の斜め前。<ランボオ>からほんの数歩。
 島崎書店のすぐうしろの路地だが、<ラドリオ>までほんの十歩。いつも陽のあたらない路地なので、足もとがジケジケ湿っていた。<ランボオ>にどこかの編集者がきていて、別の編集者と打ち合わせる場合、<ラドリオ>を使うことになる。
 だから、富士 正晴が午後3時に<ランボオ>にいたとして、<ラドリオ>に移り、また<ランボオ>に戻ったとしても不自然ではない。
 なぜ、<ランボオ>ではないかというと、<ランボオ>は、店の中央に大きな(正方形に近い)テーブルがあって、横に長いテーブルは置いてなかったからである。

 私の記憶では、入口にちかいほうから、右側に、原 通久、平田 次三郎、本多 秋五、佐々木 基一、埴谷 雄高、荒 正人、山室 静。
 それと相対して、(入口にちかいほうから)安部 公房、中田 耕治、富士 正晴、野間 宏、中村 真一郎、椎名 麟三とならんでいた。

 いまになって、このときの話を記録しておけばよかったと思うのだが、いちばん後輩だった私は、そうそうたる文学者のやりとりについて行くのがせいいっぱいだった。荒 正人と中村 真一郎は、それこそ談論風発で、野間 宏は何もしゃべらない。本多 秋五がときどき何かいう。佐々木 基一が熱心に石川 淳の話をする。埴谷 雄高は座談の名手。うまくこの場の空気をもり立てるのだった。富士 正晴は、あまり発言はしなかったと思う。
 雑談のなかで、原 通久がまっすぐ背をのばして笑いながら「VIKINGと近代文学とどっちが後までつづきますかねえ」とたずねた。
 富士 正晴が書いている。「とにかく最後にはなはだ疑わしそうな微笑をうかべ、私の顔を見おろしながら『どうですかね』といった。」
 これはあり得ない。原は、長身の美男だから、富士 正晴の顔を「見おろしながら」話ができたと思う。私は、小柄で、誰よりも身長が低かったし、「VIKING」という雑誌がどういう雑誌なのかさえ知らなかった。

 一時間ほどたって、私は安部 公房といっしょに外に出た。当時、私は「世紀の会」を作るので、安部 公房とその相談で頭がいっぱいだった。そのとき、安部がにが笑いしながら、「原のやつ、なんで富士 正晴にあんなことをいうんだろう」
 私も同感だった。
 たとえば、「世紀の会」が「近代文学」と、どっちが後までつづくのか。そんなことは考えもしなかったから。原としては、戦後文学の旗手というべき「近代文学」の編集に携わっているという気負いがあったのか。

 しばらくして「世紀の会」は発足した。しかし、はじめての会合に出たあと、体調がよくないので、「世紀の会」にも出られなくなった。私の挫折であった。

 <ランボオ>は閉店すると、そのまま「ミロンガ」という、これはラテン・ミュージックの店になった。
 私は「ミロンガ」になってから、この路地に足を向けなくなった。

2007/10/06(Sat)  674
 
(つづき)
 戦後すぐに「近代文学」の人々と知りあった。1948年春までは、毎週のように「近代文学」の事務所に顔を出していたが、「『近代文学』の編集を手伝っていた」こともなかった。1948年、肺浸潤が進行して、寝込むことが多くなっていた。原稿を書いても発表できる場所がなく、前途に不安をおぼえていた。(安部 公房といっしょに「世紀の会」を考えたのも、とにかく原稿が発表できる場所を作ろう、というのが動機だった。)
 私が富士 正晴に出会ったのは、1948年か、49年か、じつは思い出せない。1948年ではなかったはずである。後年、「1948年夏まで」と題して、当時の私にあてた先輩たちの手紙を「近代文学」(終刊号)に発表した。その当時(1948年夏まで)のことを思い出しても、富士 正晴とは面識がなかったと思う。

 うかつな話だが、当時、私は「VIKING」という同人雑誌の存在さえも知らなかった。野間 宏とは親しくなっていたから、富士 正晴を紹介してくれたのが野間 宏だったことは間違いない。

 当時「近代文学」の編集を手伝っていたのは、もっとも初期に、神谷さんという若い女性だった。(後年、画家、フランス人形の研究家として知られる。)彼女が結婚したあとで、村井さんという女性が入り、さらに、中村 真一郎の遠縁の松下さんという女性が加わった。(後年、作家の三輪 秀彦夫人)。
 1948年春あたりから、宮田君(後年、児童書の翻訳、ユニ・エージェンシー)が、実務にたずさわり、やや遅れて、平田 次三郎の紹介で原 通久が入った。
 原は作家志望だった。

 中尾さんのエッセイで、50年代(おそらく1954年)に、「VIKING」の木内 孝さんが「近代文学」の編集をなさっていたというが、私は木内さんを存じあげない。「俳優座」養成所の講師になったため、「近代文学」の人々から離れて、芝居の世界にのめり込んでいたからである。
    (つづく)

2007/10/05(Fri)  673
 
 作家の富士 正晴が、「文学」(1967年2月号)に書いたエッセイがある。

   十何年か前になると思うが、当時「近代文学」の編集を手伝っていた中田耕治と東京の多分、神田のどこかで出会った時、中田耕治が笑いながら「VIKINGと近代文学とどっちが後までつづくとおもいますか」とたずねた。わたしは「それはVIKINGやね」と答えた。「何故ですか」と中田耕治が更にたずねたかどうかは忘れてしまったが、もしたずねたとしたら、「VIKING」が「近代文学」より無思想で、ずぼらであるからだと答えたかも知れない。
   とにかく中田耕治ははなはだ疑わしそうな微笑を浮べ、わたしの顔を見おろしながら「どうですかね」といった。中田耕治は「VIKING」が「近代文学」がもう任務は終ったという宣言と共に廃刊になった後もつづいて出るなどということは想像しなかったと思う。

 このエッセイを読んだとき、私は少しとまどった。富士 正晴が、私のことをこういうかたちで記憶している。富士 正晴が書いたのだから誰でもこの記述を信じるだろう。
 困ったなあ、と思った。しかし、反論するほどのことではないし、それっきり忘れてしまった。

 2003年1月、思いがけない人から手紙をいただいた。中尾 務という方で、富士 正晴の研究家だった。
 手紙の内容は――中田 耕治が富士 正晴に、「VIKINGと近代文学とどっちが後までつづくとおもいますか」と訊いた時期、場所を教えてほしい、というものだった。
 この手紙を読んだときは、ほんとうに驚いた。
                           (つづく)

2007/10/04(Thu)  672
 
 しばらく前に、小林 一茶についてふれた。
 一茶は八歳の女児が、妊娠、出産したことを日記に書きとめている。この俳人が、なぜこうしたニュースを書きとめたのか、私は不審に思った。

 偶然だが、ある著作にとりあげられていることを知った。
 候文なので、読みやすいように、段落、句読点をつけて紹介しておく。

   下総の国、相馬郡、藤代宿・・・土屋侯領分・・・百姓、忠蔵といふものの娘、八才にて男子を生む。母子つつがなし。御代官、吉岡次郎左衛門より届出。
   右、忠蔵儀、私当分預かる所、常州(常陸/ひたち)筑波郡、城中村、百姓、忠兵衛次男にて、久右衛門叔母、かな(の)婿養子に相なり、同人(之)娘、よのと夫婦に相なり、八ケ年以前、女子出生。
   とやと名付け、育て置き候うち、四才の節より、同人(とや)儀、月水に相なり、実事(じつごと)とも存ぜず、病気と心得、薬用いたし候へども、其詮これなく、不思議と存じ居り候うち、

   当、正月頃より月水止み、三、四月頃より、懐妊の体(てい)に相見え候へども、小児の儀、ことに密通などの様子かつて見聞におよばず、

   何にても幼年の者の所業に相替わる儀これなく候あいだ、これまた病気の所為と存じ、打ち過ぎ、月重り候ても同様ゆえ、不安につき、医師相呼び、とくと次第をも咄(はなし)し聞け候上、見させ候ところ、懐妊に相違なしと申し聞け候へども、

   聊(いささか)も色情の体(てい)これなく、八才の小児、懐妊すべき様これなく、いずれにても信用いたしがたく、しかし、医師も其の通り申し聞け候に付、疑惑仕(つかまつ)り候。

   所々にて占わせ申し候ところ、狐狸の業、または懐妊にこれあるべきなど種々(くさぐさ)の判断いたし、一様にこれなく、旦夕、神社の加護を祈り候ほか、他事なく相過ごし候うち、

   当、三日、六ツ時、安産いたし候。家内一同、驚き入り申し候。ことに男子にて丈夫に御座候。
   其節より乳も沢山出申し候とか。
   八才には見増し、十才くらいには見え、芥子坊主に御座候。右は御用ついでに手代ども見聞の趣、書面の通りに御座候。

 これは、原 武男著『奇談珍話 秋田巷談』による。

 八歳の女児が、妊娠、出産したのは、文化九年(1812年)九月三日である。
 信州在の一茶は、この噂を日記に書きとめている。

 秋田藩の俳僧、松窓 美佐雄の選で、「たまげたたまげた」に付けた一句、

    子を生んだ娘は 柿とおないどし

 がある。嘉永三年の作。
 「柿とおないどし」というのは、「桃栗三年、柿八年」を踏まえている。文化九年(1812年)から嘉永三年(1850年)、この事件はひろく人口に膾炙したものと思われる。セックスにかかわるこうした奇事が、私たちの性意識にどう影響しているのか。
 こうしたウワサの伝播が、どういうふうに私たちの感性に根づいてゆくのか。

 一茶が日記に書きとめたのは、好奇心からだが、あらためてホモ・エロティクスとしての一茶に、私は注目する。

2007/09/30(Sun)  671
 
 私の「文学講座」にきている女の子から、おもいがけない知らせをもらった。
 声帯をいためて、医者に「仕事以外ではなるべく声を出さないように」といわれたという。心配した。

 さいわい、もう病院通いをしなくてもすむらしい。

 女の子といっても、剣道三段。しかも、熱烈なシャーロッキアン。マンガ、アニメを語らせれば他の追随をゆるさない。
 この夏、きっと甲子園か世界陸上、声をからして声援したか、「アリオン」、「オリジン」から「デスノート」(完全決着版)まで徹夜で読みふけったせいだろう。
 せっかくの美声が聞けないのは残念。

 すぐにお見舞いを出した。赤塚 不二夫の「ウナギイヌ」が半欠けの月を見ている絵ハガキ。

    名月や とはいふものの 籠見かな

 じつは、一茶の句のパクリ。原作は、稲見かな。
 この句では「や」と「かな」を重ねている。切れ字の重なりは、俳句でもっとも忌むべきものとされている。一茶が知らないはずはない。それを承知の上で、一茶は使っていると見てよい。このあたりに、一茶の傲岸を見る人もいるだろう。
 私はむしろ、一茶が世の常識を踏みやぶって、ささやかな反骨ぶりを見る。

 ゆかりさん、はやくよくなってください。

2007/09/29(Sat)  670
 
 友人の竹内 紀吉は、私の顔を見るとすぐに切り出す。
 「先生、・・・・をお読みになりましたか。あれはいい作品ですねえ」
 私たちの話はいつもそんなふうにはじまるのだった。

 その作品に不満があっても、私はたいてい黙っている。彼の批評を聞いて、はじめて自分の判断が誤りだと気がつくことがあるから。
 私が不満をもっているのに、作家がまるで不満をもっていないことがわかるような場合、私はたいてい黙って彼の批評を聞いている。そして別の作品に話を移す。

 こっちが満足しているのに、作家としては、けっして満足していないらしいことがわかるような作品。そういう作品に対しては、私は極力ほめるようにする。

 そうなると、竹内君はちょっと不満そうな顔をするのだった。

 竹内 紀吉が亡くなって、もう三周忌になる。

(注)竹内 紀吉(元・浦安図書館長。千葉経済大・教授)
   ’05年8月23日、急逝。

2007/09/28(Fri)  669
 
 井上 篤夫が、イングリッド・バーグマンについて書いていた。(「週刊新潮」07.9.6日号)とてもいい記事だった。

 「ある日、プールのベンチに腰かけていて涙があふれてきたことがあるの。何不自由のない暮らしなのに満たされない。胸が張り裂けそうでした。」

 井上君は、バーグマンのことばを引用して、

 「女優としてじつに3度のオスカーに輝いたバーグマン。そのバーグマンにして、そうした問いかけを胸の内で反芻していたという事実は、私の心を静かに打つ。」

 このことばから私は別のことを想像した。

 バーグマンは、スクリーンだけでなく、どこでも男の注意を一身にあつめる。ハリウッドでも、ローマでも、パリでも。
 世界的なスターだから当然なのだが、彼女自身も、ある時期まではそういうことを楽しんでいたに違いない。なんのために? べつに目的があったわけでもないだろう。ほんの一瞬のよろこび、ほんの少しでも男性の関心を喚び起そうとする快楽。女優でなくても、たいていの女は、人生をつうじて、そうしたよろこびをいつも気にかけている。
 だが、女優にはいつかかならず、そうしたことが許されなくなる時期がやってくる。いわば、自分の魅力が無残に自分自身を裏切るような瞬間が。

 それこそがひどく孤独な瞬間として、立ちはだかってくる。プールのベンチに腰かけていなくても涙があふれてくるだろう。それは、ことばではつたえられないほどの孤独感だったに違いない。

 きみはいくつなの、マリアンヌ? 十八歳? ひとに愛されるのはあと五、六年。きみがひとを愛するのは、八年か、十年。あとは神に祈るための年月……
 これは、ミュッセの芝居に出てくる。
 私は、マリリン・モンローが死ぬ十日前に、「ライフ」のインタヴューで語っていたことばを思い出す。
 バーグマンもマリリンも、女としてのぎりぎりの声をあげていた。それを思うと、なぜか、いたましい。

 むろん、女優でなくても、こうした瞬間は誰にでも訪れるかも知れない。しかし、ラッキーなことに女はたいていすぐに忘れる。

2007/09/27(Thu)  668
 
 暑い夏の一日、井上 篤夫君と話をした。

 それまで貞節だと思われていた「戦後」の女優、イングリッド・バーグマンが、夫を捨て、イタリアの映画監督、ロベルト・ロッセリーニのもとに奔ったため、世界中のジャーナリズムから非難された。
 このとき、作家、アーネスト・ヘミングウェイがバーグマンに手紙を送った。

 JFK記念図書館が、最近、この手紙を公開したので、井上君がさっそく私に見せてくれたのだった。
 この手紙をめぐっていろいろと語りあったのだが、話をしているうちに、私はいろいろなことを思い出した。

 映画スターという名のアイドルは、通俗小説のヒロインにはなっても、忌まわしい犯罪などに関係するはずがないと思われてきた時期がある。
 映画スターはスクリーンの上に君臨してきたが、そのためさまざまな神話や伝説が生まれた。そうした神話や伝説を身にまとうことで、スターはスターであり得た部分もある。
 やがて、観客の側のいわば身勝手な想像と、生身のスターの虚実の差は、たとえば犯罪事件によって、はっきりあらわれてくる。
 スターは、まさに人間のかたちをとった神々として崇拝されてきた。こうした聖性(サントテ)は、現実のスター自身が不思議に思うようなたくさんの人格の混合からあらわれる。つまり、観客によって作られながら、逆に観客自身の何か、ときには運命さえも支配する現実的な力なのだ。こうした二重性は、ほとんど背理的なものだった。

 ルドルフ・ヴァレンティノやジェームズ・ディーンのように、死んでしまってからも不死の存在になった俳優もいる。ガルボのように生ながら神話的な存在になった女優もいた。クラーク・ゲーブルやジェームズ・キャグニーのように、ときには人間を超越した半神的な存在になったりする。

2007/09/26(Wed)  667
 
 そういえば、其 角に、

   十五から 酒を呑み出て けふの月

 という句がある。

 『北窓瑣談』の著者は、

   十五に春情きざせるをいひ取り、酒に全盛を尽し、けふの月五文字に零落の姿をうつす。絶妙の作といふべしと評する。

 其 角はこの批評をどう読んだのか。

   朝ごみや 月雪うすき 酒の味

 チェッ、にくいね、このひと。
 いまの感覚では「朝ごみ」といっても、朝のうちに分別ゴミを回収に出すぐらいしか想像できないだろう。
 むろん、こういう酒の味は私の世代では経験がない。
 いい時代だったんだろうなあ。其 角さんがうらやましい。

 私は其 角のようなえらい詩人ではないし、酒に全盛を尽すような風流を知らない。まして、「朝ごみ」の酒の味にも無縁だった。しかし、けふの月に零落の姿をうつしていることはおなじだろう。
 これもあわれ、というべきか。

2007/09/25(Tue)  666
 
 9月、ようやく秋の気配。

 夏のはじめに、田栗 美奈子が、「今年もまた、暑い暑い夏がやってきました。地球温暖化とやらで、年々、イヤな感じの暑さが増していくようです」と、書いてきた。
 ペルーの地震、北極圏の氷河の崩壊、パリの酷暑、フロリダのハリケーン、ギリシャの広大な山火事、まったく異常な現象がつづいた。
 そして、1929年前夜を思わせる株式市場の激烈な乱高下。北朝鮮の核配備。タリバンによる韓国人の拘束。軍の高度機密漏洩。朝青龍のふてくされ。モンゴルの反日感情。
 こんなことが毎年つづいて、やがて確実に大異変が起こると思うと、さすがに背筋が寒くなる。

 酷暑の日々、本を読むスピードが落ちた。セミもめっきり数が少なくなっている。こうなったら、キリギリスのように遊び暮らすしかない。

 秋になると、ご近所で家の新築がはじまって、私の住んでいる界隈も少しづつ変化してゆく。

     家こぼつ 木立も寒し 後の月      其 角

 九月の十三夜。陰暦の九月だから、木立の景色もさむざむしい。
 私の住んでいる界隈にこうした風情はない。木立さえもないのだから。

2007/09/24(Mon)  665
 
(つづき)
 別な質問。

   目を大きく見せるお化粧法をお教えくださいませ。
   まつげを長くするには――(岐阜県 一愛読者)

 この回答は――

   眼のまわりの白粉を少し淡めにして、頬紅を淡く眼のまわりにつけると、少しは大きく見えます。あまり強く頬べにをさしますと、眼がくぼんで見えます。まぶちへ淡く黒ぐまをとる方法もありますが、それは顔を凄くして上品ではありません。
   まつ毛を伸ばすには、眼をかるくつむって、まつ毛の先の不ぞろいのところをほんの少し切るのです。伸びては切り伸びては切りたびたびくり返すと美しいまつ毛になります。ただしあまり切り過ぎると悪いのです。ふだんは就寝時にオリーブ油を指の先につけて軽くなでて置くと毛につやがでます。

 昭和初年の女たちも苦労しているなあ。

2007/09/23(Sun)  664
 
 「人生相談」。英語では、Agony Column という。(シャーロック・ホームズを読んでいて知った。今でも使われているかどうか。)
 私は「人生相談」を読むのが好きである。質問がおもしろいだけではなく、回答者がどういう答えを出しているか、いつも興味がある。回答者は、精神科医、作家、デザイナーとか、各界の有名人たち。
 私が感心するのは、作家たちの回答で、立松 和平、落合 恵子、出久根 達郎といった人びとの回答に敬服している。
 ある有名なデザイナーの回答を読むと、こいつ、バカじゃないのか、と舌打ちしたくなることがあって、たいていは軽蔑する。
 古雑誌に出ている「美容流行相談」も読む。

  元来私は頬がこけて、頬骨が出てゐますので、当年二十一才の処女ですが、二十五六才に見え、時には三十才位に見えます。着物の柄は年相当のものを着てゐますが、化粧着付、髪はどうしたらよいでせうか。(珠江)

 回答者は、銀座美容院の早見 君子女史。(昭和4年「婦人世界」12月号)

  お若いのに年がふけて見えるのは嬉しいことではありませんか。ふけて見えるのに年相応のみなりでは調和の問題がどうなりませうか。さうかと申してあまり地味なものはいけませんから、柄ははでにして、色を地味にしてはいかがですか。中年の人を若く見せるにしてもこの方法をとります。

 いまどき「お若いのに年がふけて見えるのは嬉しいことではありませんか」なんてヌカしたら、たいへんだろうね。
 それにしても、ことば使いがいい。「調和の問題がどうなりませうか」。これがいまならハーモニーというより、バランスというところだろう。
 巻頭グラビアの美女は、伯爵夫人、堀田 秀子。子爵夫人、岡崎 岳子。
 グラビアに「年々毎に洋装の方が殖えて、すっかり御自分のものとして着こなしてゐらっしゃる方の多くなりましたことはほんとうに嬉しいことでございます。けれどまだまだ正しい下着の着方について考へてゐらっしゃる方が余りないと存じます」とあって、すらりとした(ただし、貧乳の)上品なモデルさんが、メリヤスシミー、ガーター(コールセット)、ブラジェアー(乳押え)、ブルーマーをつけてお立ちになっている。
 最後に、羽二重シミーズをつけたところ。
 (つづく)

2007/09/21(Fri)  663
 
 音楽を聴く。
 自分の時間ではないような時間のなかで、自分ではないような自分のことを考える。

 ロックの時代の終焉という。私の意見ではない。だが、私にいわせれば、ロックの時代はとっくの昔に終ってしまったのだ。

 ロックにかぎらないが、いい音楽というものは、作曲者、演奏者が作りあげたものとは、ほんらい別のもののように聞こえるかどうかにかかっている。
 おびただしいグループのおびただしい曲がほんの一時演奏されては消えて行った。
 けっきょくほんの少数のアーティストだけが残って、あとは、ほんとうに雲散霧消してしまう。どういうジャンルでもおなじことだ。

 それでいいと思う。

 ただし、いい曲は、かならず変化する。だから残るともいえる。いろいろと変化したり、いろいろなアーティストによって変奏されることによって、その価値(というか、永続性)が保有されてゆく。

 いい例が、テレサ・テンの「但願人長久」。この曲が、王 菲によってみごとに変化していること。そのすばらしさに甲乙はつけがたい。

2007/09/20(Thu)  662
 
 しばらくぶりにCDを聴いた。
 去年からの私はしばらく音楽から離れていた。別に深い理由があってのことではない。ただ、親しい友人がつぎつぎに亡くなって、自分だけの喪に服していたので音楽を聴くことがなかった。

 マリア・グレギナ。
 私は、リューバ・カザルノフスカヤのファンなのだが、リューバ以後のオペラ歌手としてはマリア・グレギナにもっとも期待していた。
 サントリー・ホールのコンサートも聞いている。その後、世界的な名声を博していたマリアを実際に見たのは、98年に新国立劇場、『アイーダ』だった。

 久しぶりに聴いたマリアは、オペラではなく、グリンカ、ラフマニノフ、チャイコフスキーの歌曲。

 久しぶりにロシアの曲を聞いて感動した。
 私はロシア語を知らないのだが、ルインディンの詩句、

   きみといっしょにいて
   黙って きみのバラ色の瞳に
   心を沈めることは なんと楽しいことか

 あるいは、

   ぼくはきみを見つめるのが好き
   その微笑には なんと多くのなぐさめが
   そのしぐさには なんと多くの
   優しさが あふれていることか

 といったことばが、マリアの声になったとき、私は、ある夏の日のことを思い出した。
 ある画家のアトリエを訪れたのだが、私の住んでいる千葉からは遠いので、前の晩、ある温泉に泊まって、翌朝、田舎の鉄道に乗って、やっとたどり着いたのだった。

 マリア・グレギナの歌う、プーシュキンの「私はあのすばらしいいっ時をおぼえている」を聞きながら、私はまたしても、はげしく心を動かされた。

   私はあのすばらしいいっ時をおぼえている
   私の前にきみは姿をあらわした
   たまゆらの まぼろしのように
   きよらかな 美の化身のように

 生涯、もっとも幸福だった夏の日。・・

2007/09/19(Wed)  661
 
 アメリカ。野球の殿堂。鉄人、カール・リプケンの殿堂入りのニューズ。(07/8/1)リプケンが、記者会見の席上でユーモラスに挨拶した。

 つい最近、私は10歳の少年のコーチをしました。素質のいい子で、しばらくすると、けっこうバットがふれるようになりました。
 少年が不思議そうに私に訊いたんです。
 『おじさん、前に野球をやっていたの?』

 かつてアメリカン・リーグで、最多出場記録をもつリプケンを知らない子どもたちがそだっている。それは当然のこととして、私が感心するのは、功なり名をとげた選手が、小学生を相手に熱心に野球を教えている姿である。
 これこそが伝統というものなのだ。
 この日、「ヤンキース」の松井 秀喜が月間MVPになった。7月、13本のホームランが評価されたのだろう。野茂、伊良部、イチローにつづいて、日本人選手としては4人目。

2007/09/18(Tue)  660
 
 中世の騎士、オリヴィエは、日頃、自他ともに認める精力絶倫の男性だった。どれほど絶倫だったか。一度の性行為で、百回は果たせると豪語していた。

 その噂を聞いたカルル大帝は、さっそくオリヴィエを召し出して、噂が事実かどうか、ご下問あそばされた。騎士はもとより事実であると答えた。たまたま、うら若い処女の身ながらこの席に列していた大帝の皇女がこれを聞いて、それが事実かどうかたしかめてみよう、ついては姫御前みずからが相手をつとめよう、と仰せられた。
 ただし、それが事実にあらざるときは、死罪をもってむくいるがよいか、と姫御前が仰せられた。
 騎士において、もとより、いなやはない。

 さて、ふたりはさっそくに一儀に及んだ。
 結果は、さしもの騎士も、三十回でついに降参した。

 姫君は、もとより恍惚としてひたすら陶酔していたため、これほどの男にめぐり逢うたしあわせを失う気はなかった。
 父、大帝が、オリヴィエ殿の噂ははたして事実なりしか、とご下問あそばされたとき、姫は婉然たる風情で、騎士殿の噂はもとより事実で、百回に及んだと答えて、父をあざむいた。

 こういう民話から何が見えてくるか。
 素朴なかたちだが、中世の男性の性的エネルギーに対する称賛はもとより、女性の処女性に対する攻撃の正当性、性を磁場とする女のオーガズムに対する(男の)期待が見られる。
 そして、オーガズムはあくまで膣=ペニスの結合の回数に支配されるものとして考えられていること。
 まだ、いくらでも考えられることがある。みなさんが考えてください。

 ヒント。自分が実際にセックスしていることと、自分がしていると思っているセックスの違い。

2007/09/16(Sun)  659
 
 授賞式の会場はごった返していた。
 今年の「ノン・フィクション賞」の受賞者が2名、「エッセイ賞」が2名、「科学出版賞」が1名。それぞれの知人、友人が祝賀のために集まっているのだから、大きなパーティー会場に人があふれていても当然だろう。

 式次第はきまりきったもので、まず主催者側の挨拶、賞の贈呈、そして選考経過の報告。6時過ぎにはじまったが、受賞者が挨拶したのは、七時になっていた。
 1時間以上も、パーティー会場に立たされているのは、高齢者にとっては苦痛であった。
 ああいうパーティーにもある種の「演出」が必要で、司会者が機敏にその場の雰囲気、空気の流れをみて、てきぱきと進めてゆくほうが、参加者としてはありがたい。まさか、ハリウッドの「アカデミー賞」や、ニューヨークの「トニー賞」のようにはいかないだろうが、だらだらと進行してゆくだけの授賞式というのは退屈なものだった。

 去年のパーティーでは、選考委員のひとりが、35分もしゃべりつづけたという。それを聞いたほかの人たちが、同程度の時間をかけて挨拶したらしく、出席者はげんなりしたにちがいない。

 「ノン・フィクション賞」の委員が出席できなかったため、急遽、柳田 邦男が挨拶にたった。今回をもって、選考委員を勇退するらしく、感慨深げにそれまでの受賞作にまでふれていたが、話はうまくなかった。
 このとき、雛壇からそれほど離れていない(ただし、柱の横)に陣どった作家、・・・・が携帯を出して、誰かに連絡した。無神経というか、傍若無人というか。作家は声を低くして話しているのだが、静まり返った場内にその声が響く。どうやら、作家は予定していたつぎの会合に間にあわないらしい。15分、遅れると連絡していた。
 かなり離れていた私にも、その声は聞こえたのだから、ほかの人々にもきっと聞こえたにちがいない。
 いくら多忙な流行作家でも、無神経というべきだろう。選考経過を報告している人の話の邪魔になる。失礼なことだと思う。
 テレビで話をするこの作家を見たことがある。しかし、こういう場所にきて、柳田 邦男の話が長くなって予定が狂ったにせよ、その場をはずして、会場外の受付あたりで、携帯で連絡すべきだろう。
 ちかごろはマナーも知らない連中が、作家になっている。私はこの作家さんに対する敬意を失った。

 昔、おなじ場所で、小林 秀雄が挨拶した。
 最近、小林の語りが、志ん生に似ていると書いている人がいたが、私の聞いた感じでは、むしろ文楽によく似ていた。大学で講義を聴いた時分の小林とは、すいぶんちがっていた。そのあと、小林は井伏 鱒二と話をしたが、しばらくぶりに会ったらしく、お互いに話に興じていた。
 偶然、近くに立っていたので、私はふたりの話を立ち聞きするかっこうになったが、お互いに昨日別れたばかりで、すぐに話をつづけている友人のようだった。こういう一流の文学者の姿ははたで見ていてもじつに美しいと思った。
 あの頃は、・・・・のような作家はいなかったな。少しだけ苦いものを感じながら、選考の経過報告を聞いていた。
 柳田 邦男の話の内容はいいものだったが、長時間、立ちっ放しで、受賞作の講評を聞かされると、うんざりする。こういう席では、話し手は参加者の空気の流れを読まなければならない。
 文学関係のパーティーではなかったが、フランス大使館で行われたパーティーで挨拶したイヴ・モンタン。そのときの話に私は驚嘆した。これに対して、日本側を代表して挨拶した三船 敏郎の話の空虚だったこと。つづいて三国 連太郎の話のひどかったこと!  モンタンの教養の深さと、ことばの一つひとつににじみ出る高潔な人柄といったものが、日本の俳優にはまったくなかった。通訳の女性も困ったらしく、三国 連太郎の話の何カ所もカットしたことを思い出す。
 それにしても小林 秀雄の挨拶は、洒脱で、しかも犀利、いなせな江戸弁の語りくちが綺麗だった、などと思い出したところで、やっと受賞者たちの挨拶になった。

 受賞者たちの挨拶は、それぞれにすばらしいものだった。最相 葉月が、星 新一の評伝を書くにあたって、サン・テクジュペリの伝記に触発されたことをあげた。これが心に残った。

 岸本 佐知子の話は、短いものだったが、ウイットがきいて、場内に明るい笑い声があがった。
 「翻訳の世界」にエッセイの連載をはじめたとき、知らない読者が編集者に電話で抗議してきたという。「翻訳の世界」には、語学や文章にかかわるまじめな研究や指針が掲載されているのに、岸本 佐知子のエッセイは、何の役にも立たないことばかりしか書いていない。すぐに打ち切ってほしい、といった内容だったらしい。
 世間には、こういうバカが多い。本人も翻訳家志望だったのだろう。こういうバカが翻訳したところで、ろくな翻訳ができるわけもない。
 編集者からそれを知らされた岸本 佐知子はいう。
 「その話を聞いたときに私の方向性がきまったんです。役に立つものなんか死んでも書いてやらん、と」
 会場に明るい笑い声があがった。それまでの堅苦しい、気鬱っせいな空気がいっぺんに消えた。ウイッティな彼女の話はみんなが好意をもって聞いたにちがいない。

 それからあとは参加者たちのパーティーになる。
 いっせいに人の動きが起きて、受賞者たちを囲む人の輪がいくつもできた。ごった返している。私は隅に立って、誰か知人はきていないだろうか、と視線を動かしていた。
 ひとごみのなかに山本 やよいと田栗 美奈子がいた。私はほっとした。
 ふたりとも有名な翻訳家で、山本 やよいはサラ・パレツキーのシリーズで、田栗 美奈子は『Itと呼ばれた子』で知られている。ふたりとも岸本 佐知子の親しい友人として出席したのだろう。
 山本 やよいは上品な和服。美奈子ちゃんはすっきりしたドレス。ふたりが私を見つけて歩み寄ってくると、あたりの人たちはいっせいに私に注目した。こんな美しい女性がなつかしそうに話しかける老人は何者だろう?
 やよい女史は、私の顔を見るなり、
 「先生、お久しぶりでございます。・・」
 私の風躰を見て、
 「先生、おいくつになられましたの?」

 田栗 美奈子は私に挨拶したあと、美しい蝶のように飛び去ると、雛壇の前までたどりつき、しきりに佐知子の写真を撮っていた。
 この夜、岸本 佐知子は、ごった返す会場のなかで、たくさんの友人たちにとり囲まれながら、私のノートに走り書きで、

     なんだか動物園の珍獣の気持ちがわかりました。

 と書いてくれた。

 若い頃の私は、知人の出版記念会や文学関係のパーティーによく出席したものだった。先輩の作家に紹介してもらったり、同時代の気鋭の文学者の姿をまのあたりに見ることがうれしかった。
 いつしか、そうした会合に出席しなくなった。文学関係のパーティーに出席しなくなって、かれこれ三十年になる。
 ようするに「文壇喜劇」(コメデイ・リテレール)に興味がなくなった。私は登山に熱中するようになっていたし、ルネサンスに生きた人々の運命をたどることに精力をそそいでいたから。

 その私が岸本 佐知子の授賞式に出たのは異例のことであった。私にとっては、岸本君はそれほどにもたいせつな友人のひとり。
 今後はたとえ知人の出版記念会であっても、文学関係のパーティーに出席するつもりはない。

2007/09/14(Fri)  658
 
 パヴァロッテイが亡くなった。
 NHKのニュース。(07・9・6/午後7時50分)。
 この夜、台風9号が接近中で、風雨が強くなっていた。
 午後8時、伊豆の石廊崎の南南西100キロの沖合を、北上している。
 中心気圧、965HP。半径、170キロは風速、25キロ。最大風速、46メートル。
「パヴァロッテイさんは、トリノ・オリンピックで優勝した荒川 静香選手が使用したオペラ、「トゥーランドット」を、開会式で歌いました」
 なんとなくへんな気がした。これだと・・・トリノ・オリンピックで荒川 静香が使ったので、パヴァロッテイが「ネッスン・ドルマ」を歌ったように聞こえる。
 NHKがパヴァロッテイの訃報を流したのはこのときだけだった。あとは、台風関係のニュースだけ。

 私はアトリエにもぐって、パヴァロッテイのCDを探した。
 パヴァロッテイの死が、私に悲しみや、絶望を与えたわけではない。ただ、ある時期まで、パヴァロッテイを多く聴いていたので、彼の死を知って、もう一度、ありし日のテノールを聴くというのはごく自然なことだろう。

 『蝶々夫人』を選んだ。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮。ヴィエンナ・フィル。ミレッラ・フレーニ、ルチャーノ・パヴァロッテイ、「スズキ」は、クリスタ・ルートヴィヒ。(LONDON/1974年1月)
 さまざまなことが心をかすめてゆく。パヴァロッテイとはまるで無関係に。

 パヴァロッテイを聞いていた頃の私はほんとうに苦しい思いをしていた。ある作品を書こうとしていた。書いている本人にもいつ終わるのかわからない。シジフォスのように。
 ほんとうにいい作品は、書いている本人の秘密がいつまでも長くたもたれている作品なのだ。それを読んだひとはそんな秘密が隠されているとはまったく気がつかない。
 幕切れ。パヴァロッテイの「ピンカートン」が空しく呼びかける。まるで、映画音楽だなあ。そう思いながらここにきて感動した。

 つづいて、ヴェルデイの『メサ・ダ・リクェム』。リッカルド・ムーテイ指揮。スカラ。これは、ソヴィエト崩壊前夜のモスクワのライブ(1989年)、テノールはパヴァロッテイではなく、ルチャーノ・デインティーノ。ソプラノは私の好きなリューバ・カザルノフスカヤ。

 閉めきった室内で、カザルノフスカヤを聞いている。不吉にうなりながら、板戸をなぐりつけてくる風の音、はげしい雨とまざりあって、音楽ではない何かを聞いているようだった。

 パヴァロッテイ、71歳。
 昨年、アメリカで、膵臓ガンの手術をうけてから帰国。モデーナで静養していた。
 死因は、ジン不全という。
 残念としかいいようがない。

2007/09/13(Thu)  657
 
 アンジェリーナ・ジョリーを力のない女優ときめつけたが、あまり生意気なことは、できるだけいわないようにしている。
 よくいう岡目八目とやら、ひとさまのアラは眼に立つもので、へたな芝居なんぞ見ているうちに、
 チョッ、なんだよ、ありゃあ。おれがやればこうするところだがなあ。
 などと、つい思ってしまう。

 ついついテングが出たがる。よくない性分。

 悟りなんぞは開こうにも開けない。まだまだ修行が足りないね。

2007/09/12(Wed)  656
 
 最近は映画をあまり見ないのですか、と聞かれた。やっぱり見なくなりましたね、と答える。とくに、ハリウッドの映画を。

 テレビで「トゥームストーン」(サイモン・ウェスト監督/01年)を見た。
 当時、「チャーリーズ・エンジェルス」などの女戦士ものが流行していたので、そんな1本だったらしい。テーマは惑星直列にからむ秘宝の奪いあい。セクシーな美女が、冒険につぐ冒険、ハラハラドキドキのスリル満点。期待したのだが――
 ジョン・ボイドがヒロインの父親をやっているので、つい、見てしまった。これは、ほんのおつきあい程度。

 私はけっこう三級電影片迷なので、セクシーな美女の冒険、ハラハラドキドキのスリルは大好き。
 つまらない映画も見て、ああ、つまらなかった、とつぶやくのが趣味だが、「トゥームストーン」ぐらいつまらない映画を見てしまうと、何もいえなくなる。
 似たような「女戦士アクション」ものでも、香港映画のほうがはるかに高級だよ。女優だって、林 青霞(ブリジット・リン)、張 曼玉(マギー・チャン)は別格としても、呉 辰君(アニー・ウー)、呉 君如(サンドラ・ン)、邱 淑貞(チンミー・ヤウ)、すばらしい女優たちがいくらでもそろっている。

 「トゥームストーン」は、公開されて1カ月もしないうちにもう忘れられてしまうジャンク映画。サイモン・ウェストは、まったく無能な監督。アンジェリーナ・ジョリーも魅力のない女優だった。
 ハリウッドも落ちたものだなあ。

2007/09/11(Tue)  655
 
 よく、こんな批評がある。「……なんて、文学じゃないよ」とか、「……は、ありゃあ芝居になってない」などと。
 私は何かに対して否定的であっても、「……は……ではない」といういいかたをしたことがない。

 食いものは別。

 千葉駅の地下のそば屋。午後の2時過ぎに一杯のカケソバを食った。イヤ、驚きましたナ。
 関東ひろしといえども、ここのソバほど不味いものは食ったことがない。
 ソバ屋の若い衆が昼どきに半茹でにして、しまっておいたものを、そのまま遅い客に出そうって魂胆でしょう。ツケ汁がまた、まずいのなんの。
 チェッ、こんなもののどこがソバだよ。こんなノは、ソバじゃねえや。薬味のそばにねばりついてやがるから、ソバってンだろう。べらぼうめ。
 これは、ソバではない。
 千葉名物だね、こうなると。千葉においでの皆さんに、ぜひ一度、召し上がっていただきたい、くらいのものでしたな。これだけで、生きていることがうれしくなることうけあい。お店の名前は――
 ヤボはよしませう。それをいっちゃあ、おしめえよ。益のねえ殺生を――
 揚幕から駕籠で出た長兵衛が、いい心もちにウトウトしているところに、いきなりカゴ屋が、権八の白刃の光を見て、驚き、だしぬけにドシンと駕籠を落として逃げる。それで、長兵衛がハッと眼をさます。
 ただならぬその場のようすに、長兵衛がカゴの前方(まえかた)にあたるスダレ越しに、じっと暗闇をすかして権八のようすをたしかめる。
 タレをあげてから、いっぱいにからだをのばして、腕組みをして、じっと権八を見据える。
 そこで、「お若えの、お待ちなせえ」

 伊井 蓉峰が本郷の「春木座」でやった、とか聞きましたが――
 これを読んで、ピンとくる人のために。

2007/09/10(Mon)  654
 
 作曲家の武満 徹が亡くなったとき、小さなエピソードを思い出した。
 武満 徹の処女作は「二つのレント」というピアノ曲だった。これが発表されたとき、音楽評論家の山根 銀二が、これは音楽ではない、音楽以前のもの、と批評した。
 この批評を読んだ武満 徹は、映画館に入って暗がりにまぎれて泣いたという。

 後年、指揮者の岩城 宏之がこれにふれている。

   僕は山根銀二さんの批評を軽蔑しながら読んだものですが、しかし、ある意味では偉いと思うんです。『二つのレント』はいま聴くと斬新でもコンテンポラリーでもないんだけれど、山根銀二の感性ではこんなのは音楽ではないというふうに聞こえたわけです。それを正直に書いた批評家がいたということは、ある意味で<素晴らしいこと>だと思います。
   いまの批評家だって、新しい音楽を一度聴いたくらいでは、本当は何が何だかわからないはずなんです。でも何か書かなければならないので、わけのわからないことをくどくどと書いて、わかったような嘘をつくという例がとても多い。それに比べれば、何だこんなものは音楽なんていえない、と書くほうがずっと勇気があります。そうした批評家がもっと出てもいいと、僕は思っています。

 ここに、岩城 宏之の痛烈なアイロニーを見てもいい。実作者と批評家の、宿命的な介離(アンコンパティビリテ)を見てもいい。
 ある批評家には、しばらくすれば「斬新でもコンテンポラリーでも」なくなるような作品に対する本能的な警戒が働く。そういう例も少なくない。
 私も「それを正直に書いた批評家がいたということは、ある意味で<素晴らしいこと>だと」思うけれど、私としては逆に、それほどの権威のある批評家が存在するだろうか、という疑問が先に立つ。

 批評など「馬のシッポにたかるハエ」のようなものだと見たほうがいい。
 ただし、ハエのなかには、ツェツェバエのような危険なヤツもいる。

2007/09/08(Sat)  653
 
 私の俳句。
 街を歩いていると、ふと俳句のようなものがうかんでくる。

 夏の句。旧作。

    蔦からむ廃屋の昼 犬吠える

 俳句とはいえないね。廃屋なのだから誰も住んでいない。だから、このイヌは飼い犬ではない。真昼に、軒のかたぶいたような家のそばを通り抜けようとしたら、イヌに吠えられた。

    ザクロ割れて 蟻の歩みに日の昏(く)れる

 これまた、俳句とはいえないようなしろもの。
 夕方、散歩の帰り、ご近所のザクロの割れているのを見た。それだけのこと。

    日の暮れに 天つ空なるひと在りや

 これは「恋」の句のつもり。

    まくなぎを払いつ 白昼(まひる)ヌード描く

 私の小さな仕事部屋の壁に、女子美の生徒が描いてくれた自分のヌード(50号)のキャンバス。書棚の横に、トム・ワッセルマンのヌードの絵ハガキを小さなフレームに入れて飾ってある。ある女性が暑中見舞いにくれたもの。
 ある時期、油絵やアクリルで描いていた。そのまま戸棚に放り込んでおいたところ、おびただしい亀裂ができたり、カビがひろがっていた。みんな焼き捨ててしまった。
 最近は、水彩しか使わない。

2007/09/07(Fri)  652
 
 今年の夏は暑かった。毎年、そんなことをつぶやいている。

 本も読まない。いちばん、熱心に読んだのは、最近、ボストンのJFK記念図書館が、公表したイングリッド・バーグマンにあてたヘミングウェイの手紙。井上 篤夫が、わざわざコピーして送ってくれた。
 バーグマンは、ハリウッドを去って、ロベルト・ロッセリーニと結婚したため、世界中から非難の眼をむけられていた。映画に出る機会を奪われて、いわば失意のどん底にあった女優に、『老人と海』を発表する前の作家がどういう手紙を送っていたのか。

 いずれ、井上君が書くだろう。

 暑いので、三遊亭 圓朝の『真景累ケ淵』(岩波文庫)を読んだ。これは凄い。
 これまでの文学史では、圓朝などはほとんどとりあげられることがなかった。とりあげられても、講談、講釈師としての圓朝にとどまっている。
 私は、むしろ、作家としての圓朝をあらためて評価すべきだろうと考える。ホラーの作家として見てもいいし、不条理の作家として評価してもいい。ただし、圓朝の人間観察、洞察の深さを前にして、絹友社の作家たち、自然主義の作家たち、さらには志賀 直也、武者小路 実篤たちの文学など、どれほどのものでもない。

 私はなにより語りくちのみごとさに気がついた。これだけのストーリー・テリングが、日本の文学から失われてしまったと思うと、背筋が寒くなった。だから、夏に読んでよかった。

 久しぶりに音楽を聞いている。どれも、私の好みのものばかり。
 たとえば、ギリシャのハリス・アレクシーウ、ポーランドのエワ・マルツィーク。イスラエルのヤルデナ・アラージ。そしてポルトガルのマドレデウス。
 彼女たちの「声」を聴いたあと、アメリカのポップシーンに関心がなくなってくる。
 つまり、私の好みはますます偏狭なものになっているだろう。それでいいのだ。

2007/09/06(Thu)  651
 
 現在の私たちの誰しもが、あらぬ不安を抱いたり、いやな予感が頭をかすめているとしても自然かも知れない。

 今週だけにかぎっても、「道路や建物の被害は費用さえかければ修復できるが『心の傷』はそうはいかない。(地震の)復興は一人ひとりの声に耳を傾け、『思い』を受けとめたものであってほしい」。これが、新潟地震から1カ月の状況なのである。

 しかし、日本は元気です。

 いわゆるホワイトカラー向きのビジネス書、修養書は、がんばっている。
 55万部のベタ・セラー、『なぜ生きる』を読んだ12歳の女子中学生は、「この本は私に生きる力、勇気をくれました」と書いている。

 これもベタ・セラーらしい『思いやりの心』には――
 日本人は、昔から「思いやり」を大切にしてきました」というキャッチコピーがついている。『思いやりの心』には、優しさ、謙虚さ、美しさがあふれている。
 8万部のベタ・セラーは『今日から始める「やる気」勉強法』。
 10万部突破の『身につけよう! 江戸しぐさ』は、美しい心、美しい習慣が人を幸せにするという本。おなじ著者の『子どもが育つ 江戸しぐさ』は、日本人の心と体にしみ込んで生かされてきた、すばらしい知恵の数々がいっぱい。

 スポーツ、体育系なら、アントニオ猪木の『元気があれば何でもできる!』や、三浦 雄一郎の『人生はいつも「今から」』を読めばいい。

 こういう時期に、『社内の「知的確信犯」を探し出せ』(真喜志 順子訳)を読むのは、はっきりした対抗療法になるだろう。
 なにしろ、キミの隣りにいる人物がじつは、サイコパスかもしれないのだから。

2007/09/04(Tue)  650
 
 「サイコ」という概念が一般に知られるようになったのは、ヒッチコックの映画からだった。その後、精神病質に関して研究が広範囲にひろがった。
 サイコパスという概念も、いまではひろくもちいられている。
 だが、厳密にいえば、サイコパシー(精神病質)、ソシオパシー(社会病質)、反社会性パーソナリティー障害(PPD)は、しばしば混同される。

 サイコパシーはパーソナリティー障害。サイコパスは、良心もなく、他人に対しての共感がない。何につけ罪悪感がない。そして、何か、たとえば、神、自然、自分の属する環境、組織、いっさいに対する忠誠心がない。
 最近の事件の報道を見ると、こうしたサイコパシックな「人間」による、非情な犯罪が多くなっているのではないか、と思える。

 真喜志 順子が訳した『社内の「知的確信犯」を探し出せ』(ポール・バビアク/ロバート・D・ヘア共著)を読んだ。(「ファーストプレス/07・7・25刊/2200円」
 真喜志 順子は『メンデ』、『囚われの少女ジェーン』などの訳で知られているが、この『社内の「知的確信犯」を探し出せ』のおもしろさは、全面的に訳のみごとさによる。
 私のように、精神病理学にまったく知識のないもの書きにとっても、とても刺激的な本だった。以下は、書評ではなく、私の勝手な読後感である。

 原題は SNAKES IN SUITS(スーツを着たヘビ)。私はすぐに、戦後すぐに登場した企業小説、『灰色の服を着た男』と、鬱質で、いくらかサイコパシックな性格をもった女性が精神病棟に入れられた女性を描いた『蛇の穴』を思い出した。
 そういう意味で、『社内の「知的確信犯」を探し出せ』は、企業内サイコパス+サイキック・ストーリーの複合と見ていい。
 まず、著者のひとり、ロバート・D・ヘアの調査(「精神病質チェックリスト」PCLーSV」)によるサイコパスの領域と特性のリストをあげてみよう。

 ■対人関係    ■感情 
  表面的     良心の呵責がない
  誇張的     共感能力がない
  欺瞞的     責任を回避する
   
 ■ライフスタイル ■反社会性 
  衝動的     行動のコントロールがニガテ
  無目的     青年期の反社会的行動
  無責任     成人後の反社会的行動

 著者は書いている。このリストの特性を見ていると、あらぬ不安を抱いたり、いやな余感が頭をかすめるかも知れない。

 「ひょっとして、オレもサイコパス?」

2007/09/03(Mon)  649
 
 「キスリング展」を見る。

 ずいぶん前に、ジュネーヴの「ブティ・パレ」で見た絵をもう一度見たいと思って。

 これは「ブロンドの少年」(1937年)で、以前、ジュネーヴの「ブティ・パレ」で見た絵だった。濃いブルツシャン・ブルー、グリ、淡いコバルト・グリーンの縞模様のついたセーター。両手を腿のうえで交差させたポーズ。少年は少し頸をかしげて、どこか哀愁をたたえたまなざし。
 日本でも、キスリングの代表作として知られている。この絵をもう一度見たいと思っていた。

 戦時中、キスリングの小さな画集を見つけた。小型で、紙質のよくない画集だったが、そのなかに1枚のヌードの写真版があった。
 若い女が、上半身をねじるようにして、ふくよかな臀部をこちらに見せて、ベッドに横たわっている。今回の「キスリング展」では見られないポーズで、私自身はこの絵をキスリングのヌードのなかでも最高の傑作と、勝手に信じている。
 しかし、この絵はついに見ることができなかった。むろん、今回の「キスリング展」にも出品されていない。

 キスリングのヌードのなかで、とくに傑出した2枚、「赤毛の女のヌード」(1949年)と「アルレッテイのヌード」(1933年)。これは、今回の「キスリング展」でも、その美しさからいってほかのヌードよりもさらにすぐれている。
 女優、アルレッテイは、私たちには「天井桟敷の人々」の「ガランス」で知られているが、もともとブールヴァールの芝居の女優で、粋で、美貌のパリジェンヌとして人気があった。
 キスリングは、女優、アルレッテイを愛していた。あの多情で、たくさんの男たちの心を奪い、しばらくすると、もうどこにも存在しない女を。

 私がこの絵に見るものは――画家の内面にたゆたっている思いなのだ。女優、アルレッテイに対する名状しがたい思いが、この絵を描かせた。この絵の女優のまなざしには、あの creation のあとの、けだるさと、男に対するかすかな憐憫がひそんでいる。

 もう1枚の「赤毛の女のヌード」(1949年)については、カタログの解説を、引用しておこう。

   女性は官能的なしどけないポーズで、モデルお決まりのポーズではない。この作品は伝統的な絵画に匹敵する大きさを持つが、実際そこに描かれる図象は当時の大衆雑誌のようなものだ。

(ここで、解説者は、大衆雑誌に掲載された写真を使ったピカビアをひきあいに出しながら)

   キスリングは新人スターや挑発的なポーズを取る若い女性の写真をアトリエの壁に貼った。キスリングの一部の作品はそれらの写しであるが、単に写真のイメージに絵画の力や広がりを与えるだけでなく、モデルのポーズも大胆にさせていた。
   しかしながらこの大胆さは、古典絵画のように背景に配置された低いテーブル上の皿の上の果物(桃や葡萄)などによって幾分和らげられている。

 という。カタログの解説にしても美術の研究者の書くものはどうしてこんなにつまらないのだろう。

 これも、キスリングらしいポーズだが、この程度に官能的なしどけないポーズなら、ヴァン・ドンゲンや、ジュール・パスキンにいくらでも見つかる。キスリングはモデルのポーズをことさら大胆にさせてはいないだろう。まして、彼が描いたヌードは、当時の大衆雑誌に出ているようなものではない。
「赤毛の女のヌード」もまた、キスリングにとっては、creation のあとの「ニルヴァーナ」ではなかったか。その証拠に、女が頭を上にしている織物の渦巻きは、あきらかに女のヴァジャイナを象徴化しているのだ。

 キスリングは新人スターや挑発的なポーズを取る若い女性の写真をアトリエの壁に貼った、という。別に驚くほどのことではない。
 ピカソは、日本の舞妓の写真をヴァローリスのアトリエに並べていた。(これは、私自身が実見している。)ピカソや、モジリアーニや、キスリングのようにエロティックな芸術家にとって、「新人スターや挑発的なポーズを取る若い女性の写真をアトリエの壁に貼る」のは、いってみれば songears villants (醒めた夢想)であり、つかのまのエクスタシーを約束するだけなのだ。
 

2007/09/02(Sun)  648
 
 夏休み。
 夕方になると、子どもたちが横町の角に集まる。日ざかりで遊ぶのを避けていた。

 その時間に、紙芝居のおじさんがまわってくる。子どもたちにとっては、活動写真につ
ぐ楽しみだった。

 ある日、紙芝居がくる前に、その街角で、道端に見知らぬオジサンが休んでいた。修験
道の行者か修行僧らしく、異様な風体だった。おそらく六部だったのだろう。
 頭に六部笠。ぼろぼろで汚れた衣。素足にわらじ。赤銅色に日焼けした肌。
 道端に、笈(おい)が置かれて、子どもたちが外の扉をのぞき込んでいた。
その笈(おい)は、まわりに金網が張りめぐらされて、なかのものに手をふれることが
できないようにしてあった。
私も子どもたちのうしろからのぞいて見た。

 笈(おい)の扉が開かれて、そこにびっしりと何かが貼りつけてあった。どれもおなじ
サイズ。縦が2・5センチほど、横幅がせいぜい2センチの小さな写真。
 全部が、子どもたちの顔写真ばかり。その数、ざっと二、三百はあったような気がする。

 なかには、色が褪せて、黄色や褐色になっているものもあった。

 写真の子どもたちの表情は、どれもぼんやりしている。しかし、それぞれが子どもたち
の顔だということはわかった。しばらく見ているうちに、その子どもたちのなかに、女の
子らしい顔が見わけられるようになった。

 その写真の子どもたちは、みんな、行方不明になったのだった。人買いにさらわれたり、
家出をしたり。神隠しにあったのかも知れない子どもたちばかりだった。

私はいいようのない恐怖におそわれた。夏休みの期間、私はその横町に足をむけなかっ
た。家の近所に住んでいる友だちと遊んでも、あの六部笠にぼろぼろな衣の放浪の修験者
が、道端に、笈(おい)を置いて、私を見ているかも知れない。
 金網を張った厨子には、おびただしい子どもたちが無心にこちらを見つめている。

こわくてたまらなかった。

2007/08/31(Fri)  647
 
(つづき)
 ミケランジェロ・アントニオーニが亡くなった。ベルイマンは、スウェーデン南部のフェラ島の別そうで亡くなったが、おなじ日にミケランジェロ・アントニオーニがローマで亡くなっている。94歳。

 フェラーラ出身。少し強引な類推だが、ジョルジョ・バッサーニを読んでいて、なんとなくアントニオーニを思い出したことがある。むろん、ベルイマンを見ていてスティ・ダーゲルマンを思い出す程度の連想に過ぎないのだが。
 ベルイマンが「処女の泉」を撮っていたとき、アントニオーニが「情事」(60年)を撮っていたと思うと、私の内部に、すぐにあざやかな対比がうかびあがってくる。

 アントニオーニもほとんど全部見たと思う。
 しかし、彼の映画を高く評価しながら、なぜか惹かれなかった。「欲望」(66年)などは傑作と見ていいけれど、彼の思想が私に似あうか、または、彼の思想を生きることができるか、と考えたとき、私はいつも違和感を覚えてしまうのだった。(フェリーニ、パゾリーニに対しては、そうした違和感はなかった。)

 逆にいえば、私は、いつもアントニオーニ的なものを破壊するか、さもなければ放棄してしまうようだった。だから、彼の映画にあらわれる現代人の孤独感といったものに、私の内面はあまり照応しない、あるいは共鳴しないのだった。

 彼の映画に出てくるモニカ・ヴィッテイという女優も好きになれなかった。

 しかし、イングマール・ベルイマンと、たまたまおなじ日にミケランジェロ・アントニオーニが鬼籍に入ったことは、私を驚かせた。「奇しくも同じ日に」などとはいわない。たまたま偶然にこの世を去ったというだけのことだろう。
 それでも、パゾリーニ、ヴィスコンテイ、フェリーニ、ズルリーニ、ザヴァッテイとつづく葬列に、ついにミケランジェロ・アントニオーニが加わった、という思いがある。
 ベルイマンと、アントニオーニの死は、20世紀の映画芸術の終焉を象徴しているような気がする。
 われながら平凡な感想だが。

2007/08/30(Thu)  646
 
 映画監督のイングマール・ベルイマンが亡くなった。享年、89歳。(2007年7月30日)

 ベルイマンの映画はほとんど見た、と思う。当然、私なりに感慨がある。

 はじめて見たのは「夏の夜は三たび微笑む」(55年)だったが、スウェーデンの若い娘が白夜の湖畔にみずみずしい裸身をさらすシーンに眼をうばわれた。このときは、ただ青春映画の監督という印象しか受けなかった。当時、そんな映画がヨーロッパじゅうに氾濫していたせいもある。
 中世の騎士の遍歴を描いた「第七の封印」(56年)で、はじめてこの監督の資質に気がついた。それは、やがて私自身がヨーロッパの中世に眼をむける端緒になったといえるかも知れない。おなじ時期、ごく少数の人だけが試写を見たチェッコ映画(題名失念)や、修道院の若い尼僧を描いたポーランド映画なども中世への関心を喚びさましたが、ほんとうは「第七の封印」を見てから、私は中世に惹かれはじめたような気がする。
 私はスティ・ダーゲルマンの戯曲を訳したことがあるのだが、スウェーデンの小説や戯曲、ひいては北欧の文学に眼をむけるようになった。そして「処女の泉」(60年)に私は大きな衝撃を受けた。

 私が、五木 寛之に早くから惹かれたのも、彼の「北欧」に関心をもったからだったし、ヴィーゲランに心を奪われたのも、私の内部においてはいつもおなじ根から発していた。ベルイマンもそのひとり。私たちのはるか遠くへ投げられているそのまなざしの先に、光はふるえている。

 その後もベルイマンの映画はほとんど見てきた。ウディ・アレンが好きなのも、ベルイマン=ウディといったリーニュが私の内部に何か響いているせいかも知れない。

 だが、この日、もう一つの驚きが待っていた。
  (つづく)

2007/08/29(Wed)  645
 
 匂い。

   おまえの髪の熱い炉のなかに 私は嗅ぐ、阿片と砂糖といりまじった タバコの匂いを。おまえの髪の夜のなかに 私は見る、熱帯の蒼穹の 無限が 光り輝くのを。おまえの髪の うぶ毛のはえている岸辺に 私は酔う、瀝青と 麝香と 椰子油との からみあう薫香に。

 ボードレール。黒い「恋人」ジャンヌの匂い。

 こういう匂いなら、いくらかでも想像できる。
 だが、私たちは酒や、マリワナ、コケインの匂いを表現できるだろうか。むろん、できないことはない。だが、「雅歌」や、『巴里の悒鬱』のようにはもはや誰にも表現できないだろう。

 私たちは、もはや熱帯の蒼穹の無限が光り輝くのを見ることはないかも知れない。

2007/08/27(Mon)  644
 
 匂い。

 旧約聖書の雅歌のなかに「なんぢの衣裳の香気はレバノンの香気のごとし」とある。これは「わが妹、わが花嫁」について詠まれている。

「わが妹よ、わが花嫁よ、なんじは閉じたる園、閉じたる水源、封じたる泉のごとし。なんぢの園のなかに生い出づるものは、ザクロおよびもろもろの佳果、またコペル、ナルダの草、番紅花、ショーブ、桂枝、さまざまの乳香の木、さらに没薬(もつやく)、芦茴、いっさいの高貴な香物なり。なんじは園の泉水、生ける水の井、レバノンより出づる流水なり。北風よ起これ、南風よ来たれ、わが園を吹いてその香気をあげよ」

 きっと、すばらしい匂いなのだろう。

 最近のレバノン、さらにパレスチナ情勢を考えるとき、ふと、この雅歌の一節が心をかすめる。世界最古の匂いの表現という。

 コペル、ナルダの草とはどういう草なのか。どういう匂いなのか。

2007/08/25(Sat)  643
 
 戦争が末期的な状況になっている、誰もがそう思っていながら、口に出すことがなかった。

 長年、外国の商社ではたらいていた父の昌夫は、戦時中は「石油公団」に配属されて、戦局が悪化してからは、軍の上陸用舟艇のエンジン部門の技術者になっていた。帰宅時間は私より遅かった。
 私の場合は、工場は定時に終わっても私鉄をいくつも乗り換えるので、どうしても8時過ぎになる。帰宅しても、灯下管制で本を読むこともできなかった。それに、私には早く帰りたくない理由があった。

 いくら罹災者どうしであっても、二十歳ぐらいの娘とおなじ部屋で寝るというのは息苦しかった。お互いにまったくことばをかわさなかったが、若い娘の肉体がすぐ近くにあるというだけで、私は胸苦しくなるのだった。
 よそめには、無一物の家族が必死に寄りそって暮らしているように見えたかも知れないが、警戒警報が解除されるまで、外に出ていると、いつのまにきたのか、娘さんが私のとなりに立っていた。横浜あたりの空が赤くなっている。
 娘が黙って、私にしがみついてきた。からだのふるえがとまらなくなっている。
 私は、ふるえている娘さんに腕をまわして、黙って赤い空を見つめていた。
 その晩、父がなかなか帰ってこなかった。

 夜明け前に父が疲れきってもどってきたが、その娘さんが起きてきて、父を抱きかかえるようにして部屋につれていった。父は空襲で途中の駅で下ろされ、乗り換えの駅まで数時間かけて歩いたらしい。誰も口をきかなかった。まるで、芝居のだんまりのようだった。私は父のとなりに倒れるようにして眠った。
 私が眼をさましたとき、いつものように娘さんは出勤したあとだった。

 父の昌夫も私もひどい栄養失調だった。昌夫はげっそり痩せてきた。私はいつも飢えていた。父もおなじだったはずだが、そのことはお互いにふれなかった。
 闇で食料を買うにしても、職場ではどうにもならない。田舎に買い出しに行きたくても、工場を休むこともできない。
 戦争末期のあわれで、悲惨な日々。

 7月、私の工場(当時、皇国5974工場と呼ばれていた三菱石油川崎工場)は、爆撃を受けて壊滅した。このとき、九州の小学校を卒業してすぐに集団で徴用されてきた少年工が多数爆死、焼死した。
 私は、3月の大空襲でやられ、5月に渋谷で、6月に横浜で、7月に川崎で、空爆、機銃掃射をうけたが、なんとか生きのびてきた。私程度の経験はめずらしくもないだろう。
 だが、私はあまりにも多くの死を見てきた。そして、いつも飢えていた世代なのだ。

2007/08/23(Thu)  642
 
 テレビで、マンガ家のやなせ たかしが話していた。
 当時、中国戦線に配属されていたらしい。
 「戦争でつらかったのは、飢えたことだった。何も食べるものがありませんでした。つらい日々でしたね。」(07/7/6 NHK1 9:20am)

 1945年。私は学徒動員で川崎の石油工場にいた。3月の大空襲で本所で罹災し、まったく無一物になったあと、5月に渋谷でまた焼け出された。空襲の翌日、母は食料を確保するために栃木県に疎開した知人をたよって那須に行った。当時、渋谷の女学校に通っていた妹は埼玉に疎開した祖母にあずけられた。学業をつづけるために田舎の女学校に転校した。
 私の一家は、この空襲で、わずかな家財道具もすべて失って、ついに離散したのだった。

 父、昌夫と私は、当時の渋谷区の斡旋で、沼袋に移った。緊急に罹災者の宿泊場所が割り当てられて、私たちにあてがわれたのは、海軍の将官の屋敷の女中部屋だった。
 六畳間だったが、渋谷か三軒茶屋あたりで焼け出された家族と同居することになった。この人たちも着のみ着のままで逃げた母娘ふたりだった。
 母親は上品な初老の婦人だった。娘は私より年上で、はたちか二十一、徴用の女子挺身隊で丸の内かどこかに通っていた。私は17歳。中学を卒業せずに、明治の文科に進んだので、いちおう大学生だった。
 よそめには、まるで4人家族がそろって暮らしているように見えたかも知れない。

 同居している母娘は、私たちの帰りを待ってから、遅い夜食をとるようにしていた。これにも理由があった。3人がそれぞれ職場に出て行くのだから、昼間この部屋にいるのは老女だけなので、私たちの配給物資もいっしょに受けとってくれた。
 配給といっても、絶対量がきょくたんに少ない。なにしろほんの一升程度の大豆が、配給されるだけだった。私たちが帰宅してから、それをきっちり二等分する。
 つまり、少しでも不正に見られるのがいやだったらしい。
 老女が私たちにそこまで気を使わなければならなかったのは、食料の多い少ないでみにくい争いが起きるからだった。
 食事といっても、大豆を老女がゆでたものが、丼にはんぶんばかり。一滴の醤油もなかった。かすかに塩味がついていた。
 四人そろって、無灯火の、暗い闇のなかで小さなテーブルを囲む。お互いにほとんど話題はなかった。食事あと、お茶の一杯も出なかった。
 毎晩、敵機の来襲が知らされて、防空壕もない屋敷で、知らない他人どうし、父子、母娘が息を殺すようにして過ごす時間はつらいものだった。
 戦争でつらかったのは、飢えたことだった。何も食べるものがなかった。つらい日々だった。

2007/08/21(Tue)  641
 
 メキシコを舞台にした芝居(翻訳劇)を演出したとき、これを見てくれた外国人が感想をのべてくれた。いまでも忘れられない。
 とてもいい芝居だったけれど、女優さんたちがみんな可愛いので困ったね。

 私としては自信のあった舞台だけに、ちょっと動揺した。

 外国の芝居なのだから、舞台にあらわれる女として、日本の女性では肉体的な意味でつりあいがとれない。しかも、表現がまずい。女としての「色気」がない。
 つまり、芸の未熟ということになる。
 さらには、そのまま演出がよくなかったということになる。

 日本の女性と外国の女性の体躯の違いについては、どうしようもない。だから、これはどうすることもできない。当時の私はそう考えた……と思う。
 しかし、現在の女性は、一般的に、身長、体重、栄養状態、からだつき、動作からファッションまで、いちじるしく洗練されてきて、外国の女性にひけをとらない。
 舞台に出て、みごとな姿態を見せている女優さんたちも多い。
 これは女性美というものが、女としてのスポンタネ(生まれついて)の美が、自然にあふれ出すだけにとどまっているからではないだろうか。

 外国の舞台女優がかもし出す、それこそ名状しがたい「色気」、ちょっと表現できないうまさは、日本の舞台女優にはなかなか見られない。
 これは女優のもつフレグランス(香気)としかいいようがない。

 名女優たちの舞台を見てきた。

 たとえば、水谷 八重子(先代)、田村 秋子。
 市川 紅梅、筑波 雪子、森 律子、夏川 静江。

 残念ながら、舞台の岡田 嘉子は見たことがない。私は杉村 春子を映画の名女優と見ている。竹久 千恵子も映画の名女優のひとり。
 ガルボは今でもすばらしいが、ノーマ・シァラー、ジョーン・クロフォード、メエ・ウェストなどは少しも大女優に見えない。かえって、マール・オベロン、ジンジャー・ロジャース程度の女優のほうが輝きを失っていない。

 なぜ、ある女優にそれがあって、別の女優にはそれがないのか。
 私にとっていまだに答えの出ない難問の一つ。

 さらに、この問題は長い年月をかけて、私の内面でさまざまに発展して行った。もし、これが才能の問題とすれば、たとえば、ある芸術家に才能があって、なぜ、私には才能がないのか。

2007/08/19(Sun)  640
 
 夕涼み。
 路地に縁台を出して、浴衣の胸もとに団扇で風を送る。銭湯帰りに、酒屋の店先で、一合枡にたっぷり注いだ配給の酒をキュッとあおる。空襲がひどくなるまでは、そんな姿をよく見かけた。

   夕すずみ よくぞ男に生まれけり

 この句が其角の作ということは忘れられている。

 其角の句は、「洒落ふう」とよばれる、通俗的なものが多い。同時代の評判記、「花見草」は、其角を花魁の太夫に見立てて、「松尾屋の内にて第一の太夫也」という。
 琴、三味線、小唄、どれも特別に習ったこともないけれど、生まれつき器用な「品」があって、小袖の模様、ヘアスタイルまで自分で工夫してしまうほどの「いやなはなし」が身についている。「国々にても恋ひわたるは此の君也」という。つまり、一度はこの花魁と寝たり、見たこともないのにこの花魁にあこがれる男は各地にいる、という。

 おなじ芭蕉の門下、許六は、芭蕉と自分の作風は「俳諧をすき出る時、閑寂して山林にこもる心地するを」よろこぶのだが、其角の句は「伊達風流にして、作意のはたらき面白き物とすき出たる相違」がある、と批評している。「閑寂」は、わび、さびのことだろう。其角の句は、わび、さびよりも、発想のおもしろさを見るべきだという。

 其角の句は、無学な私にはよくわからない。そのかわり、其角の作なのに、

   これはこれはとばかりちるも 桜かな

 むろん、貞室の「これはこれはとばかり花の吉野山」のパロディー。

   雨蛙 芭蕉にのりて そよぎけり

 師の名句「かわず飛び込む水の音」を意識して、芭蕉門下の自分のありがたさを詠んだか、それともおのれのつたなさを卑下してみせたか。

   京町のねこ かよひけり揚屋町

 もともと「伊達風流」なのだ。通俗でどこがわるいのか。其角はそういっているような気がする。「鐘一つ売れぬ日はなし 江戸の春」も、私たちは其角の作と知らない。まさか、こんな句が後世に残るとは其角も想像してはいなかったろう。

 そういう其角が私は好きなのだ。

2007/08/17(Fri)  639
 
 1903年、エジプトの王家の谷で発掘された女性のミイラは、古代エジプト、第18王朝のハトシェプスト女王と判明した。(07/6/28)
 この女王は、在位、BC1502−1482年。女人ながら「ファラオ」を名乗った例外的な女王。古代エジプトとしては、最長の20年以上の在位期間で、前例のない権力をふるった。
 身長、165センチ。推定年齢、50歳。死因はガンらしいという。

 ミイラの頭蓋骨の写真を見たが、鼻梁が高く、眼の大きい美貌の女王だったのではないかと想像した。いいなあ。でも、きっと、こわい女王さまだったんだろうなあ。

 考古学、古代エジプト学について何も知らない。それでも、このニュースから、たちまち短編の二つ三つは書けそうな気がした。
 私が書くなら、短編ではなく芝居がいい。たちまち、頭のなかに装置(カザリ)、照明(アカリ)のプランがうかんできた。昔、「王家の谷」という映画があったっけ。内容もおぼえていないのだが、主演、スチュワート・グレンジャー、それに美少女、ジーン・シモンズ。それにしても、スチュワート・グレンジャーはへたな役者だったなあ。

 私が映画を撮るとして、ハトシェプスト女王は、ジーン・シモンズじゃないほうがいい。イギリスの女王だったら、これはもうヘレン・ミレンだが、中近東、エジプトの女王だからなあ。エリザベス・テーラーはダメ。「クレオパトラ」のイメージが強すぎる。それにうっかり彼女を使うと映画会社が破産してしまう。
 ハトシェプスト女王は50歳で死ぬのだから、年齢的に30歳前後で即位しないといけないだろう。まあ、20代の後半でいい。そうなると誰がいいか。鼻が高くて、美人となると、なかなかいないかも。
 ミイラのお顔から想像すると、ロザリンド・ラッセルあたり。眼つきがキツければ、アレクシス・スミス。少し低めなら、オルネラ・ムーテイ。
 もし、シナリオがすばらしかったら、コン・リーでもいいや。

 というふうに私の妄想はつづいて――
 私はこういうニュースが大好きなのだ。いろいろと妄想がうかんでくるから。暑さしのぎになる。

 暑い。

2007/08/15(Wed)  638
 
 教室にきている人たちの写真を撮る。ただのスナップショット。
 写真はつぎに会ったときに進呈する。ただのスナップなので、ありがたみはない。撮られた本人としては記念写真にさえもならない。

 やがて時間がたって、アルバムの片隅にそんな写真を眼にしたとき、その頃のことを誰も思い出さないだろう。私のことも思い出すかどうか。

 しかし、私はそういう写真を撮ってはみんなにわたしてやる。趣味といってもいいのだが、自分では勝手に理由をつけている。

 戦時中、勤労動員で川崎の工場で働いていた。大学の授業はない。それでは可哀そうだというので、山本 有三、小林 秀雄が、わざわざ工場まできて講義をしてくれた。
 講義といっても質疑応答のようなもので、学生が何か質問すれば、先生が答えてくれるのだった。

 学生のひとり(むろん、私ではない)が、小林 秀雄に質問した。

 小説を書きたいのですが、小説を書く秘訣のようなものはあるのでしょうか。

 小林 秀雄は、どんな幼稚な質問を受けてもすぐに考えて答えてくれた。このときの答えは私の心に深く残った。いろいろ答えてくれたが、その一つ――あるイメージをいつでも心のなかによみがえらせる能力が必要だという意味のことを語った。(正確に小林 秀雄のことばを思い出しているわけではない。ここでは、私が彼のことばをどう受けとったか、ということになる。)
 こう語ったことは間違いない。
 暗闇のなかで、火のついたお線香をぐるぐるまわすと、まるい残像が眼に見える。あれとおなじことだ。自分の描こうとする人物が、いつでもいきいきと心に思いうかぶ。そういうことを作家は、倦むことのない鍛練で身につけてゆく。それは方法などではない。

 小林 秀雄が火のついたお線香と残像という比喩を使ったことをおぼえている。
 後年の私はこのことばを自分流にいろいろとパラフレーズして行く。

 はるか歳月をへだてて、私は自分のクラスにきている人たちのスナップ写真をとりはじめた。
 そんな写真になんの意味もない。しかし、時間がたって茶色に変色した写真の一枚を見たとき、彼女はそんなものから、ふと何か思い出すかも知れない。そこに写っているのは、教室や街路、近くの公園といったとりとめもないヒトコマだが、もしかすると、それは思いがけない残像を喚び起こすかも知れない。

 ただのスナップなので、撮られた本人にとっては記念写真にさえもならない。それを承知で私は写真を撮ってはみんなにわたしてやる。

2007/08/13(Mon)  637
 
 島崎 藤村の『夜明け前』の出版の祝賀会は、おそらく昭和11年(1936年)。私は小学生。

 戦後、もの書きになりたての頃、私もよく友人、知人の出版記念会や、いろいろなパーティーに出た。先輩の作家、評論家のお顔を眺めるだけでうれしかった。

 中村 真一郎のはじめての長編『死の影の下に』の出版記念会に、友人の小川 茂久といっしょに出た。このとき、中村 光夫がスピーチをした。これは、かなり手きびしい批判で、中村 真一郎はおもてを伏せて聞いていた。
 中村 光夫はこういったのだった。
 「中村 真一郎君は、この作品を筐底に秘めておくべきだった」と。
 つまり、出版すべきではなかった、という意味になる。『死の影の下に』は、中村 真一郎のデビュー作で、5部作の最初の長編だった。処女作といってもいい。中村 光夫としては、東大仏文の先輩として「どなたもほんたうの事を云って」やらないことにいらだっていた、と見てもよい。
 中村 真一郎は眼を伏せて黙っていた。会場の人々は粛然と静まり返った。いや、私の印象としては、誰の胸にも中村 真一郎に対する同情があって、中村 光夫の発言に対する無言の非難があったと思う。

 私といえども、中村 光夫の批評が徹頭徹尾、不当なものだったとは思わない。

 しかし、この発言は、中村 光夫の批評にひそむ侮蔑、少なくとも後輩に対する底意地のわるいまなざしを感じさせた。その後、私自身が中村 光夫の悪罵を受けたことがあって、中村 光夫に対していつも警戒するようになった。

 やがて、私は知人の出版記念会にもほとんど出なくなった。そういう場所で見てきた「文壇喜劇」に興味がなくなったから。

 おかしなひとを思い出した。『死の影の下に』の初稿はどこかの『近代文学館』に所蔵されている(はずだが、実見したわけではない)。これについても誰も知らない、喜劇があるのだがここには書かない。

2007/08/11(Sat)  636
 
 島崎 藤村の『夜明け前』の出版の祝賀会があったとき、そうそうたる出席者が祝辞を述べた。
 そうした人々のスピーチが終わって、藤村が謝辞を述べた。

    藤村は感慨に耽り込んだやうな、そのために少しぼんやりしたやうな顔付きで静かに立上がり、暫くうつむき加減に黙って立ってゐたが、やがて顔をもたげ、太い眉をきりりと上げて、そしてゆったりした口調でかう云ったのである。
    「わたしは皆さんがもっとほんたうの事を云って下さると思ってゐましたが、どなたもほんたうの事を云って下さらない……」
    そのまま又眼を伏せて暫く黙ってしまった。――人々は粛然と静まり返った。
 広津 和郎が書いている。

 藤村はつづけて――今日までやっとのことでたどってきた。自分でも、よくここまでやってこられたと思っている。さっき、徳田(秋声)君は、『暫く休息したら、又次の仕事にかかってもらいたい』といってくれましたけれども……いいえ、どうしてどうして、わたしはけっしてそんな鋼鉄のような人間ではありません。私はもうへとへとに疲れ切っています。わたしは、ゆっくり休みたいと思います、といった。

 私はこのときの藤村を想像して感動した。同時に、こうしたことを書き残してくれた広津 和郎に感謝したい気がした。
 ただし、すぐつづいての感想はもう少し違ったものだったが。

 『夜明け前』は、藤村一代の傑作である。昭和前期を代表する作品といっていい。それほどの作品の出版の祝賀の席で何がいえるだろうか。
 私は島崎 藤村の高潔さ、誠実に打たれながら、心のどこかで、ほんまにヤボなおひとやなあ、と舌打ちしたくなった。

 徳田 秋声が、「暫く休息したら、又次の仕事にかかってもらいたい」といったのは、友人としての心からのねぎらいだったに違いない。
 いずれ名だたる文士の集まる出版記念会の雰囲気で、「どなたもほんたうの事を云って下さらない」のは当然といってよい。まして『夜明け前』ほどの作者を前に何ほどのことがいえようか。
 まともな作品論を開陳したところで、それこそ誰も聞いてやしないだろう。
 そんな出版記念会で、心から祝辞を述べても主賓に「ほんたうの事を云って」ないと思われるのはたまらないだろう。
 作家がほんとうに「もうへとへとに疲れ切っている」とき、どんなことばも慰めにはならないのだ。
 私は島崎 藤村の誠実に打たれながら、「ヤボな」作家だと思っている。

 作者としてはそんな祝賀会のあと、ほんの数人の「仲間」と心おきなく杯をあげ、酒をくみかわしたほうがよほどうれしいだろう。
 藤村にはそうした「仲間」がいなかったのではないか。
  (つづく)

2007/08/09(Thu)  635
 
 子どものころから、おっちょこちょい。

 「耕ちゃん、お使いに行っとくれ」
 母の声がする。
 「はーい」
 つぎの瞬間、学校帰りに脱ぎすてたズックをつっかけて、外に出ている。二、三歩あるきはじめると、母の声が追ってくる。
 「どこへ行くの?」
 「だって、お使いに行くんだろ」
 「用事も聞かないで飛び出すなんて、そそっかしい」
 「ああ、そうか」

 じつは、お使いの帰りに駄菓子屋に寄って、アメダマ、ラムネ、オセンベなどを買うことだけは忘れていない。トシケという子ども相手のクジがあって、うまく当たればアンコ玉がもらえる。
 はじめから駄菓子屋に駆け込む寸法なので、お使いを頼まれるのがいやではなかった。
 「ほんとに、おっちょこちょいだねえ、おまえって子は」
 こんなことはしょっちゅうだった。

 小学校の帰り、友だちから借りた本に夢中になって、ときどき電信柱に頭をぶつけた。山中 峯太郎、佐藤 紅緑、南 洋一郎、たいていの作家は頭にゴチンときた。
 中学生のとき、人にぶつかったことがある。前が見えない。巨漢だった。眼をあげると、よく知っている顔があった。
 その頃、古川 ロッパの劇団にいた、デブのコメディアン、岸井 明だった。私は、彼の舞台も、映画もよく見ていた。
 チビの私は、彼の股間にもぐり込むようにしてぶつかったらしい。
 「ごめんなさい」
 私は帽子をとって、おじぎをした。
 岸井 明は不愉快そうな顔だったが、私をジロリと睨みつけて、ノッシノッシと去っていった。

 そのとき読んでいた本は、忘れもしない矢野 龍渓の『浮城物語』。

 いまの私はこれほどそそっかしくない。

 「お使いに行ってきてください」
 家人に声をかけられても、私は黙っている。
 近頃どういうものか耳が聞こえない。自分に都合のわるいことは聞こえない。特殊な「病気」、あるいは「超能力」が身についてしまった。(笑)

2007/08/07(Tue)  634
 
 「彷書月刊」(7月号)の特集、「坪内祐三のアメリカ文学玉手箱」を読んでいたら、思いがけず私の名が出ていた。

    そのころある連載で、この本の訳者である常盤新平は、この文庫本についてこう書いていた。
    「学生時代に中田耕治氏に教えられて、私はペイパーバックのシグネット・ブックではじめて読んだ。すごい小説だと思った。それから十五年ほどして、これが映画化されたとき、私は幸運にも翻訳する機会にめぐまれたのである。(後略)

 常盤新平の文章は『ニューヨーク紳士録』に出ていたものらしい。
 この「本」は、ホレース・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』(角川文庫)である。

 戦後、私はアメリカ兵が読み捨てたペイパーバックをやたらに買いあさった。アメリカ文学についてまったく知らなかったので、とにかく何を読んでも、自分がいちばん先に「発見」したような気がした。
 『やつらは、廃馬を射殺するじゃないか』というのが、当時、私の頭にあった題名だった。はじめて読んだとき、私はしばらく茫然とした。アメリカの作家で、こんな小説を書くやつがいる! それからは、友人たちにホレース・マッコイを吹聴しては、しきりに読むようにすすめた。柾木 恭介(のちに左翼の映画評論家)も私のすすめで読んだひとり。まだ学生だった常盤 新平にもすすめたのだった。
 しばらくして、<NRF>の作家たち、とくにサルトルや、カミュが、私と同じ時期にこの作品を読んでいたことを知った。なんとなく自分の眼がただしかったような気がした。なまいきな文学青年だった。

 都筑 道夫はミステリーとSFが専門で、福島 正実はSFを専門に読んでいた。私はミステリーもSFも読んだが、このふたりにかなうはずがない。結果的に、ふたりが読まないものを手あたり次第に読みつづけたことになる。
 当時、ホレース・マッコイを読んでいたのは、植草 甚一さんぐらいだった。私は、ホレース・マッコイのほかの作品を探し出して、5冊ばかり読んだと思う。しかし、『彼らは廃馬を撃つ』を読んだときほどの驚きは消えていた。

 はじめて読んだときから、いつかこの小説を翻訳したいと思ったが、無名だった私に翻訳できるチャンスはなかった。

 ジェーン・フォンダの出た映画は何度も見た。ついでに書いておくと、この映画を見てからジェーンに関心をもつようになった。
 この映画の公開をきっかけに常盤新平訳で『彼らは廃馬を撃つ』が出たときはうれしかった。常盤の訳なら私が訳すよりずっといいはずだったから。

 ホレース・マッコイは、私の青春の一ページだった。もう一人、私が夢中になったのは、B・トレヴン。彼もすごい作家だった。

 評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかにこのふたりの名前を書きとめたのも、私なりの思いがあってのことだった。

2007/08/05(Sun)  633
 
 一茶の文章を読んでいて、こんな話を見つけた。(以下は、私が要約したもの)

 下総の国、藤代という里に忠蔵という貧しい百姓がいた。老母とともに暮らしていたが、やがて夫婦に子がめぐまれた。貧しい暮らしなので、子守を雇えるわけでもなく、この女の子は地べたを這いまわりながらそだった。
 ことし八つになったが、とういうわけか、この子が「ただならぬ身」となって、九月三日に、あの桃太郎のように、くりくりした男の子を出産した。乳の出がよく、大甕の栓を抜いたように、部屋のムシロの外までほとばしるほどで、百姓夫婦は大よろこび。
 近所の人々も、押しかけてきて、まだ「井筒のたけにもたりない」のに、こんなめでたいことは、いまの世にくらべるものもない。永録の昔を眼の前にするような気がする、とはやしたてた。このうわさは、村から村にひろがって、やがて殿様のお耳に達した。
 殿様は、この男の子の名前をつけてやろうと仰せになった。
 そんなことから、ますます噂はひろまるばかり。見物にくる人はひきもきらず、お祝いに産着を贈るひともあり、五十文、百文の「おひねり」をくれる人も多く、まるで雪が降ったように、部屋のところところに山になっている。
 この百姓夫婦は、長年の貧乏暮らしも忘れて、老母を養うことができた。
 おそらくは、この老母を救うために、救世観音さまが男の子になってあらわれたまもうたのでもあろうか。このことを思えば、大きな竹の節々を切ると、そこから黄金がこぼれ落ちたという昔の伝説も、けっしてウソではないだろう。
 これは、デマではない。市川の月船という男が、昨日、わざわざ現地に行ってみたところ、その娘は少しも恥ずかしがらず、おもちゃのお人形さんでも生んだように、人々に見せていたという。

 一茶の文章をできるだけ忠実に書き写した。
 殿様は、土屋 治三郎。藤代の百姓、久右衛門方、忠蔵。老母は、かな(57歳)、せがれ、忠蔵は39歳。妻、よの(30歳)、八歳の娘、とや。九月三日生、男子、久太郎。
 一茶は、ちゃんと氏名まで記録している。

 八歳の女児が出産することがないとはいえないだろう。昨年、ペルーで、たしか七歳の女児が、妊娠、出産したことが報じられていた。

 私の関心は別のことにある。

 俳人、一茶がこうした「奇瑞」を記録したこと。一茶の生活も、百姓、忠蔵の暮らしむきとそれほど違っていたわけではない。
 一茶は「救世観音さまが男の子になってあらわれたまもうた」のでもあろうか、と考える。私は観音さまに対する人々の素朴な信仰心をありがたいものに思うけれど、一茶が、八歳の娘を妊娠させた相手をまったく気にとめていないことに気がつく。
 あえていえば、一茶がこうした素朴な民衆の物語に、宗教的な説話以上のものを見たのは、なぜか。

 「井筒のたけにもたりない」というのは、紀ノ有常の娘が幼いころ、着物の丈をくらべあった相手の在原 業平と、のちに結ばれることをさす。しかし、「永録の昔を眼の前にする」というのは、私にはわからなかった。どなたかご存じの方がいらしたら教えていただきたいと思う。

2007/08/03(Fri)  632
  
 香港返還10周年の記事で、思いがけず、艾 敬(アイ・ジン)のインタヴューが出ていた。最近、「私の2007年」というアルバムを出したという。これは是非にも聞かなければ。アイ・ジンは私がもっとも好きなアーティストのひとり。

 1997年、中国への主権返還の祝典で、王 菲が中国国歌を歌った(はず)が、日本のテレビはその直前に別のシーンに切り換えたので、これは見られなかった。
 私はその瞬間の中国民衆の顔を見たかったし、アーティストとしての王 菲がどういうふうに歌うのか、つよい関心をもっていた。見られないのでは仕方がない。

 日本のテレビ報道のウスノロぶり、センスのなさにあきれた。おなじことは、その後の9・11でも、ロンドンのテロでも、いやというほど見せつけられてきたものだが。

2007/08/01(Wed)  631
 
 7月1日は、香港返還10周年の記念日だった。
 返還10周年を記念して、香港映画を見ることにした。

 「刀馬旦」はぜひ見たいし、王 家衛(ウォン・カーウァイ)も選びたいのだが、この「刀馬旦」と「重慶森林」は、スランプのときに見ることにしているので割愛した。
 そこで私がまず選んだのは、「覇王別姫」(陳 凱歌監督)。これは、張 國榮追悼の意味もこめて。それに、コン・リーがいい。
 つぎに、「風雲再起」(程 小東監督)を。「東方不敗」の続編だが、ストーリーのなかに葵の紋章の下に結集した日本の忍者群が出没する。その大将が「霧隠雷蔵」という。 さすがに徐 克(ツイ・ハーク)らしいゲテモノ。あまりのアホらしさに驚倒するが、私には、林 青霞(ブリジット・リン)と、王 租賢(ジョイ・ウォン)が出ているだけでいい。この時期のブリジットを見ていると元気がでる。

 もう1本はどうしよう。
 周 潤発の「上海灘」というわけにはいかない。劉 徳華の「新上海灘」も、返還10周年に見る映画じゃないし。ロザムンド・クァン、レオン・カーフェイの「愛よりはやく撃て」も、香港の「黒社会」を描いているので返還10周年の記念に見る映画じゃないなあ。レオン・カーフェイの「天上の恋人」なんか見たら、一日、暗い気分になる。

 ピーター・チャンの「金枝玉葉」もいい。私の好きな袁 詠儀(アニタ・ユン)がかわいいから。しかし、「覇王別姫」で張 國榮(レスリー・チャン)を見てしまったから、あらためてレスリーを思い出して悲しくなると困る。
 いっそ「甜蜜蜜」(陳 可辛監督)にしようか。「金枝玉葉」でレスリー・チャンとアニタ・ユンがキスする。この「甜蜜蜜」では、黎明(レオン・ライ)が張 曼玉(マギー・チャン)とキスする。ちょっと「また逢う日まで」みたいに。

 もう1本、周 星馳(チャウ・シンチー)。
 ただし、「少林サッカー」は返還後の映画なので、「チャイニーズ・オデッセイ」みたいな映画がいい。笑える。
 おバカ映画が好きな香港電影三級片迷の私でも、王 晶(バリー・ウォン)を見るほど耄碌してはいない。

 香港返還後、あまり香港映画は作られなくなった。製作本数も激減している。そのかわり海外に進出した有名スターが多い。それはそれでいいのだが、新作の映画はすぐに海賊版のDVDが作られて、その被害ははかり知れない。
 香港電影迷の私にしても、返還後に見たものではサム・リーの「凶女」ぐらいしか記憶にない。

 笑うしかない。

2007/07/30(Mon)  630
 
 冬はまるで爆弾をかかえたアナーキストのように襲いかかってきた。
 あらくれた眼つきで、すさまじい叫びをあげ、激しい息づかいをしながら、全市を冷気でつかみ、骨の髄まで凍らせ、心臓を凍らせた。

 エド・マクベインの『麻薬密売人』の書き出し。私の訳。
 これは「87分署シリーズ」の第三作にあたる。あとで、井上 一夫が、にやにやしながら、「中田さん、冬はまるで爆弾をかかえた虚無党員のように襲いかかってきた、と訳してよかったね」と皮肉をいった。私はにやにやした。

 夏のニューヨークはどうだろうか。

 殺人的な暑さだった。七月はその汗みずくの筋肉を引きしぼり、ゴールを見据え、ニューヨークをドロップ・キックして、夏といううだるスチーム風呂へ蹴りこんだ。ある者はほうほうの態で逃げ出し、冷たい飲み物をちびちびやり、潮風を受けながらテレリンクで仕事をこなそうと、水辺の別荘へ逃れた。またある者は、包囲された部族のように糧食をたっぷりたくわえ、エアコンの効いた家に閉じこもった。

 J・D・ロブの「イヴ&ローク」シリーズ15作、『汚れなき守護者の夏』(ヴィレッジブックス)の書き出し。訳者は、青木 悦子。’07/6/20刊。
 このシリーズは前作『イヴに捧げた殺人』につづくもの。このシリーズは、『この悪夢が消えるまで』、『不死の花の香り』、『死にゆく者の微笑』から、青木 悦子の訳したものを読んでいる。
 どれを読んでもサスペンスフルだし、ヒロインの「イヴ」が魅力的で、気に入っている。それに、青木 悦子の訳がいい。

 ところで、ニューヨークに行くならやっぱり夏か冬がいい。天の邪鬼のせいだろうか。


  J.D.ロブ著 イヴ&ローク<15>、『汚れなき守護者の夏』(ヴィレッジブックス)青木悦子訳 

2007/07/29(Sun)  629
 
 いちおうは英語の専門家として、ときどき気になることがあった。

 最近はあまり使われなくなったが、ひところ、「ムーディ」ということばがはやった。美しい室内に、綺麗なモデルが立っていて、「ムーディな着こなし」とあった。これには、さすがにおどろいた。
 このモデルさんは、にこやかに微笑しているのに。

   Moody(形容詞) 気まぐれな むら気な
       気むずかしい 不機嫌な 暗い気分の
 
 こういう誤用に気がついたときは、私でも「ムーディな気分」になる。

 うっとうしい。今の季節のように。

2007/07/27(Fri)  628
 
 私はまとまったかたちで詩を訳したことがない。
 ロラン・バルトの短詩を短歌形式でパロディしたり、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ファリンゲッティを少し、マリリン・モンローの数編を訳した程度。
 詩を訳さない理由は簡単で、私の語感、才能、語学力では訳せないからである。

 たとえば、イギリスの春歌を読む。
 どれもおもしろいのだが、江戸時代の俳句、川柳ほども理解できない。

 思想家、バートランド・ラッセル卿の作とつたえられる春歌がある。

   上海そだちの姑娘(クーニャン)は
   人目を気にする はずかしがりや
   夜は 紙燭を消してから
   裙子をぬいで もぐりこむ
   天帝さまのご覧になるのが こわいので

 私の訳ではせいぜいこんな程度。

2007/07/25(Wed)  627
 
 也有の支考批判は、俳諧史の小さな、小さなできごとにすぎない。いまの俳句の作者たちは誰も知らないだろう。也有が支考を論難しつづけたこと、その批評史的な問題は、私の眼には――遠く、正岡 子規の革新や、桑原 武夫の「第二芸術論」、はては虚子、秋桜子、さらには碧梧洞、井泉水の対立などと重なってくる。

 也有は、支考の「俳諧を以て日用を行へという邪説」に激した。許しがたい「邪説」であった。なぜなら師の芭蕉のいう「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」という思想にそむくものと見えたから。

 也有の支考批判の動機には、もとより支考の「変節」があった。元禄、宝永期の支考の俳論は、正徳、享保にかけて、たしかに変化している。私は、支考が芭蕉の思想を自分の内部で発展させて行ったものと見る。もとより逸脱と見ない。逆にいえば、支考はそれほどにも大きく師の教えの影響をうけていたのである。
 ところが、也有は、芭蕉亡きあと、凡兆、路通はもとより、其角の大きな逸脱、許六の逃亡といった蕉門の人びとの離散をうれい、蕉風に還れと叫びたかったに違いない。

 されば蓮二はよし。蓮二をまねぶはあしからむ。

 いまの私には、也有の支考批判がにわかに悲劇的に見えてくる。
 そして、支考の非運も。

2007/07/23(Mon)  626
 
 也有が執拗に論難をくり返した相手、各務 支考のことを考えた。
 支考のどこが也有の非難をこうむったのか。

   世情の物に逢て物に感ずる事は、いにしへ猶今にたがふ事なし。

 市井に見られるもの、世間に行われることどもに心を動かされる、感動することは、昔も今も変わっていない。だから、

   さりとて世情にうとき人は 蛙の土中に冬籠りたるやうにて、それも物の理なかるべし

 世情、それもいろいろなできごとに目を向けない人は、蛙が冬眠しているようなもので、そういう姿勢は正当なものではないだろう、という。

   されば俳諧は平生をはなれず

 そして、

   俳諧の平生をはなれぬというは、平生を俳諧とおもふ事なるべし

 というのが、支考の制作理論だったと思われる。これのどこがいけないのか。むろん、支考にしても、ただ、世態人情を俳句にすればよいと考えていたわけではない。

   しかるに世の人の食くらひ酒のみ、灯をかかげ硯にむかひて、口にいひ紙に書きつけたれば、是を今宵の俳諧とおもへる。さるはなきにしもあらねど、ただ俳諧の日用といふべし。

 という。つまり、世情、それもいろいろなできごとに目を向けても、ただ見たもの、頭にうかんだことを、五、七、五にしたところで、例外はあるにしても俳句ではない、ということになる。
 私のような門外漢には、支考の説のほうがすっきりしている、と思う。
 では、なぜ也有は支考を執拗に攻撃したのか。
   (つづく)

2007/07/21(Sat)  625
  江戸中期の俳人、横井 也有(1702〜83)は、いつも各務 支考(1665〜1731)を批判しつづけた。
 彼の俳論を読むと、支考のことが徹底的に気に入らなかったらしい。
 性格的に粘液質というか、オブセッシヴなタイプ。固着的で、頑固な批評家らしい。こういう人が論敵になったら、こわいね。

 也有さんは支考の俳論『続五論』(元禄12年)をほめそやしながら、『俳諧十論』(享保4年)を痛烈にこきおろしている。支考の実作についても、

 蓮二房(支考)の俳諧は名人なり。天下無双といふのみならず古今に独歩すともいうべし。

 と手放しでほめていながら、批評はただちに反転して、

 老後世法の偽作はいかなる天魔の入かはりたりや。おしむべし、嘆くべし。

 と非難している。「偽作」は盗作の意味ではなく誤った論旨の批評という意味。

 もっとも私にいわせれば、也有の批評上の論点にどうも誤解があるように見える。

 享保以後の支考の「文体」も大きく変化したらしい。これが也有には、師の芭蕉の教えから大きく離脱したように見えた。あるいは、路通、許六の逃亡に通じると見たのか。

 されば蓮二はよし。蓮二をまねぶはあしからむ。

 おもしろい。私のような平凡な批評家には真似しようもないが――批評上のダィアレクティックスとしておぼえておこう。

 さればピカソはよし。ピカソをまねぶはあしからむ。
 さればスタニスラスキーはよし。スタニスラスキーをまねぶはあしからむ。
 されば小林 秀雄はよし。小林 秀雄をまねぶはあしからむ。
 さればフーコーはよし。フーコーをまねぶはあしからむ。
 すごいね。批評として難攻不落の論理だよ、也有さん。
  (つづく)

2007/07/19(Thu)  624
 
 萩原 朔太郎は音楽に造詣が深かった。ベートーヴェンの『月光』や、グノーの『ファウスト』などを聞いていた。

  外国文芸に私淑し、洋画の心得があり、自ら新しいと称して居る最も進歩的の青年の仲間でさへも音楽に対しては驚くべき程鈍感無智である。」
 と書いている。

 私は『ショパン論』を書くことで批評の世界に入ったが、それ以後の音楽遍歴はごくありきたりのもので、とても音楽に造詣が深いとはいえない。好きな音楽、とくに好きな歌手にぶつかると、その人のものばかり聞いてきただけで、趣味も音楽鑑賞などではなかった。
 たしかに私は「外国文芸に私淑し」てきたが、「洋画の心得が」あるともいえない。朔太郎のいう「洋画」はむろん美術をさしているが、映画の「洋画」ならいくらかくわしい程度だろう。

 私たちは、朔太郎とは比較にならないほど音楽について知識をもっている。しかし、「最も進歩的の青年の仲間」の無知を嘆く詩人の内面の悲しみをもってはいない。

2007/07/17(Tue)  623
 
 男はなぜ浮気をするのか。さまざまな要因がある。

 まず快楽がある。はじめての出会い、そしてさまざまな誘惑。べつにめずらしいことではない。そして、はじめての性行為。
 男にとって、その creation の瞬間こそが最大の快楽なのだ。
 未知の肉体。さまざまな発見がきみを圧倒する。相手がはじめて、きみにしかわからない真実の姿をあらわす。セックスのよろこびよりも、ときには、その「発見」のよろこびのほうが強い。

 相手にふれる。その肉体を受けとる。快楽はそれだけではない。この瞬間から、きみは相手を作りあげるのだ。
 これほど大きな快楽はない。

2007/07/15(Sun)  622
 
 BS11、「ティファニーで朝食を」をやっていた。(07/6/1)もう、何度も見ている映画だが、見ているうちに、いろいろなことを考えた。
 後年のトルーマン・カポーテイは『冷血』を書く。当時、NHKで『冷血』をとりあげたことがあって、出席者は、武田 泰淳、中村 光夫、開高 健、司会は私だった。
 当然、この座談会のテーマは、およそ、カポーテイのような作家には考えられない主題だったので、なぜこういうノン・フィクションを書いたのか、というあたりに集中した。このなかで、中村 光夫が私に嘲笑的な言辞を浴びせた。私は、このときから、中村 光夫を文学上の敵として意識するようになった。
 私は論争を好まない。文壇仲間の確執などに興味はない。しかし、トルーマン・カポーテイがきっかけで、それ以後、中村 光夫の書くものに侮蔑の眼を向けたのだった。

 「ティファニーで朝食を」の主演女優は、オードリー・ヘップバーンだった。むろん、オードリーは可憐で、とてもいい女優だった。しかし、この映画のコールガールは、「娘役」(ジュンヌ・プルミエール)としてのオードリーに向かなかった、と私は思う。
 じつは、カポーテイ自身はマリリン・モンローを希望していたのだった。
 私のいう「マリリン」は「人生模様」に出たマリリン・モンローで、「ナイヤガラ」のマリリン、「七年目の浮気」のマリリンではない。このあたりは説明がむずかしいのだが、ふたりの演技、キャラクターから見て、オードリーでは無理だったと見る。
 たとえば、ソヴィエト映画の「戦争と平和」のナターシャ・サベリエヴァと比較しても、オードリーのほうがもっとすばらしかった、と思う。おなじ「戦争と平和」でアニタ・エクバーグがどんなに殊勝に演じていても、「8 1/2」ののびやかなエグバーグにおよばなかったように。
 結果として、「ティファニーで朝食を」は、世間の評価と違って、オードリーの代表作とまではいかなかった、と思う。

 映画俳優のトム・ハンクスがいっていた。

 「カサブランカ」のなかで、イングリッド・バーグマンは、酒場で黒人のひくピアノを黙って聞いている。それだけで、バーグマンはひと(観客)を魅了する。役者にはそれだけの力がある、と。

 「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘツブバーンにはそういうシーンがない、と私は見た。だいいちコールガールに見えない。
 私はいつも大方のみなさんの意見とは違ってしまうせいか。

2007/07/13(Fri)  621
 
 モリエールの『タルチュッフ』は、ルイ・ジュヴェの生涯をつらぬく劇的主題だった。私は評伝『ルイ・ジュヴェ』でも『タルチュッフ』をくり返しとりあげている。
 1950年の『タルチュッフ』には、それまでと違った異様な執念のようなものが渦巻きはじめる、と書いた。こんな一行にも私のジュヴェに対する共感があった。

 私たちのモリエール理解に大きな転換をもたらしたポーランドの演劇学者、ヤン・コットの『われらの同時代人モリエール』の主題は――あくまで私の推測だが、コットがルイ・ジュヴェの舞台を見たために、コット自身がジュヴェのテーマを発展させたもの、と見ている。コットは、ジュヴェによってモリエールを「発見」したのだ。
 ただし、ポーランド語ができない私は、コットの資料にあたることができなかったため、読む人が読めばわかる程度に書いただけだった。

 『タルチュッフ』は、モリエールの全作品のなかでもいちばんおもしろい。当然ながら、私は何度となく読み返した。その上演史にも眼をくばった。

 主人公、「タルチュッフ」はだれでも知っている。ジュヴェ以前にも、たくさんの名優が「タルチュッフ」を演じてきた。リュシアン・ギトリ、コクラン、コポー、デュランというふうに。
 その伝統のなかで、ジュヴェの「タルチュッフ」は画期的だったと思われる。

 最近、また『タルチュッフ』を読み返した。
 ふと、へんなことを考えた。モリエールが上演した当時の観客は、主人公の「タルチュッフ」にまず何を見たのか。

 しばらく考えて、あっと驚いた。
 ひょっとすると、そうだったのではないか。いや、間違っているかも知れないなあ。
 しかし、モリエールのことだからそのくらいの「いたずら」はやるだろう。

 しばらくこんな自問自答をくり返していたが、だいたい間違いないと推測した。むろん、小場瀬 卓三先生や、鈴木 力衛のような研究家は、こんなことを書いてはいない。世界のどこかに、私とおなじことを書いている学者はいるかも知れないが、不勉強な私はとてもそこまで手がまわらない。

 『仮名手本忠臣蔵』という外題に、作者(ひいては、民衆)のひそかな心情が隠されていたように、「タルチュッフ」という外題を見ただけで、当時の宮廷人(ひいては庶民)は、ただちにこの新作が喜劇だということに気がついたに違いない。

 「タルチュッフ」は、じつはじゃがいもである。まず間違いないと思う。
 フランス語でじゃがいもはポム・ド・テールだが、イタリア語でじゃがいもはタルトゥッフォロという。
 もし、私の説がただしければ、わが国の狂言の外題から内容が想定できるように、当時の民衆は、イタリアふうのコメディア・デッラルテふうの喜劇を思いうかべたはずである。おそらく、外題を見ただけでおもわずニヤニヤしたのではないだろうか。

 われながらくだらない「発見」だが、『検察官』のゴーゴリの「いたずら」や、チェホフの『かもめ』のチェホフの「いたずら」を知っているだけに、モリエールの「いたずら」も、「いたずら」好きな私をうれしがらせる。

2007/07/11(Wed)  620
 
 「誰も書かなくなっちゃったわ……真劇を。(舞台に)出てくるのは、くだらないギャグばっかり」

 バーバラ・スタンウィックのことば。ハリウッド黄金時代の大女優のひとり。
 それで思い出した。子どもの頃、私は夏休みは毎日、浅草に遊びに行った。なにしろ、子どもの足で十数分、六区の劇場街に出られる。
 まさか、ガキの私が池のほとりにつっ立って、コイにフをちぎってやるはずもない。

 当時の少年としてはどこの劇場にもぐり込むだろうか。
 剣劇、とくに女剣劇を見物するはずはない。「萬盛座」や「玉木座」、まして「義太夫座」には入ったことがない。それでも「観音劇場」や「花月」にはときどき行った。
 エノケンが出ていれば文句なしだが、「笑いの王国」かオペラ館か、「金龍館」、「江川劇場」。祖母につれられて遊びに行くなら、五九郎か五一郎にきまっていた。ただし、芝居の内容はまるでおぼえていない。

 五九郎、五一郎は、人気が下り坂になってから合同で芝居をうつようになった。五九郎は、背が低くて、頭から毛が離れていた(つまり、ツルッ禿)が、モテることモテること、劇場(こや)を一歩出たとたんに、粋すじから素人の若い娘やら中年増が、黄色い声をあげて押しあいへしあい。たいへんな艶福家で、常時、二号さんから五号さんまでそろっていた。子どもだってそれぐらいは知っていたのである。
 五九郎の舞台には、モトカノの木村 光子、その頃つづいていた若月 孔雀、本妻の妹で、なにやらモヤモヤッとしたウワサの武智 桜子が出ていた。

 芝居の内容がよくわからなくても、子どもの私はおかしくて笑いころげた。

 「江川劇場」の橘 花枝はよくおぼえていない。木村 時子、桂 静枝などが出ていた。ここのシバヤ(芝居)もバカバカしくって、楽しくって。楽しくってバカバカしかった。それはおぼえている。
 今でも喜劇やファルスが好きなのは、こうした芝居を見て育ったからかも知れない。

 まだ、日中戦争が起きていなかった頃のこと。

2007/07/09(Mon)  619
 
 仙花紙(仙貨紙)の本。
 くず紙をすき返して作った質のわるい洋紙で、戦後、印刷用紙がなかった時期に、この仙花紙に印刷された本があふれた。
 今では古本屋でもめったに見かけない。

 三好 一光という作家がいた。おそらく誰も読んだことがないだろう。いわゆる「倶楽部雑誌」の作家だった。作家といっても、無名に近いひとだった。
 「新派」が大阪の歌舞伎座で芝居を打つようになって、たとえば、山本 有三の『路傍の石』、田口 掬汀の『女夫波』と並んで、三好 一光の『戀すてふ』を出した。娘義太夫の世界の「いき」を描いた傑作という。
 当時、山本 有三は大劇作家だったし、『路傍の石』は片山 明彦の主演で映画化されてたいへんな人気だった。
 田口 掬汀は明治末期のベストセラー作家。作家、高井 有一の父君である。こういう作家と並んで、「新派」の芝居(喜多村 緑郎、花柳 章太郎)の初日、三好 一光の前途は洋々たるものだったはずである。だが、『戀すてふ』の上演は、不運だった。

 1937年(昭和12年)7月、一発の銃声が世界の運命を変えた。日中戦争の勃発である。

 戦争中の三好 一光は沈黙を余儀なくされた。ほとんど無名のまま。

 戦後、このひとの消息は友人の鈴木 八郎からよく聞かされた。
 鈴木 八郎も無名のまま終わったが、戦前の「劇作」の人々と親しく、内村 直也先生の門下といってもいい人だった。私よりもひとまわり以上年上で、ホモセクシュアルだった。仲間に、西島 大、若城 希伊子、山川 方夫たちがいた。

 鈴木 八郎も下町に住んでいたが、三好 一光は戦中戦後をつうじて、東京の下町に住んでいた 。
 戦後、二、三冊、小説を出した。仙花紙の本で、たいして注目されなかったと思われる。時代の激変のなかで、三好 一光は俗悪なカストリ雑誌に小説を書いて、かつかつに生活していたらしい。
 いくら戦後のクラブ雑誌、カストリ雑誌の安い稿料であっても、作家が原稿料をもらうのは当然であった。しかし、この作家は、年間、収入がある金額に達すると、それ以上、その年になにひとつ書かなかった。

 この姿勢は徹底したもので、戦後、この作家は、税金を国に払うことをいさぎよしとしなかった。つまり、課税される寸前のところで、その年度の執筆活動を停止する。
 だから、有名になるはずもない。
 こうした姿勢をとった理由を、三好 一光は誰にも語らなかった。どうやら、空襲でおびただしい人命が失われるのを見届け、敗戦という事態で、庶民に塗炭の苦しみをなめさせている国に対する憤りから、下町の隠士として過ごすことにきめたらしい。
 私は、鈴木 八郎から、その暮らしぶりを聞いて、この作家のものを読むようになった。クラブ雑誌の短編ばかりだったが、年季の入った仕事ぶりが感じられた。時代もの、それも情痴小説ばかりだったが、下町の人情、気風を描く、奇特な作家だった。

 奇人といってもよい。しかし、清貧の人といっていいだろう。

 三好 一光を読んでから、私は世に容れられないままに自分の世界を築きあげて行った人たちの仕事に関心をもつようになった。

2007/07/07(Sat)  618
 
 奇人、変人が好きである。

 いつの時代か忘れたが、中国に、赫隆という人がいた。非常な多読であった。それこそ万巻の書を読んだのだろう。
 七月七日の昼ひなか。赫隆さんは家の外に出て、気もちよさそうに昼寝をしていた。
 そこに、友だちのひとりがやってきた。
 「おやおや、赫隆先生。この暑い日ざかりに外に出て寝そべって、いったいどういう了見なんだ?」と訊いた。
 赫隆さんは、気もちよさそうに、薄眼を開けて。
 「いやぁ、おなかの本の虫干しなんだよ」

 夏の日中、読書に倦んで、樹陰に竹の腰掛けか何かを出して、のうのうと寝そべっていたら、さぞ気もちがいいだろうなあ。
 私は赫隆さんのように多読ではない。異常気象で、酷暑がつづいたりすると、本を読む気力もうせてしまう。ただ、ぐったりして、何を考えるでもなく喘いでいる。
 昔は夏が好きだったので、たいてい大きな仕事にとりかかっていた。『メディチ家の人びと』も、『ルイ・ジュヴェ』の、ラテン・アメリカ巡業も、真夏、汗を流しながら書きつづけていた。
 最近、また新しい仕事に集中しているのだが、日さがりの樹陰に竹の腰掛けか何かを出して、のうのうと寝そべっていられる余裕もない。

 七月七日。
 私は牽牛織女の物語よりも、赫隆さんの生きかたを羨むばかりである。

2007/07/06(Fri)  617
 
 十九世紀のイギリス。女性が小説や物語を読むことは道徳に反することときめつけられていたのは、ヴィクトリア時代だった。

 社会通念(イデ・レシュ)なるものが、どんなに脆い基盤の上に立っているものか私たちもよく知っている。

 フランスの銅版画に、うら若い女性が本を読みながら、思わず知らず、性器に手を当てているという構図のものがあって、小説や物語を読むような女は堕落すると見られていた。

 いまの日本の若い女性は本を読まなくなっているだろうか。小説や物語を読んで堕落する女の子などいるはずもない。もはや、小説や物語はそれほどの魅力がない。それに、若い女性がマスターベーションをしたところで誰が非難するだろうか。彼女たちはこの時代のオーガズムを「発見」しているのだ。

 ところで、ポーノグラフィーがいちばん盛んだったのはヴィクトリア時代だった。

2007/07/04(Wed)  616
 
(つづき)
 さて、いよいよ最後のテストだが、8)「身だしなみに無関心になる」というのも、ボケのはじまりなのか。
 私はまるで身だしなみに関心がない。最近はさすがに着なくなったが、大学の講義はジーンズにアメリカ軍放出のアーミー・ジャケットで押し通した。
 講師控え室には顔を出さなかった。私のような講師はいなかったから。

 私は思い出す。
 戦後すぐに、定年で東大を退任した歴史の教授が私の大学に移られた。渡辺 与助先生である。痩せこけたご老体であった。
 戦後すぐのことで、ヨレヨレの中折れ帽子に、色褪せた上着、縞のズボンはツンツルテン。ズボンのすそと靴のあいだが10センチも離れていた。身のこなしがおかしくて、どう見ても無声映画のキーストン喜劇に出てくるような老人だった。
 いつも分厚な本や資料を数冊、小わきにかかえて、前にツンのめりそうな足どりで、本郷から駿河台までお歩きになっていた。電車賃を節約なさっていたという。
 私は歴史の専攻ではなかったので、直接に先生の講義を受けたことはない。しかし、この先生の著作も少しは読んでいた。
 だから駿河台の坂の途中で、先生を見かけると、いつも挨拶した。
 むろん、学生の私に見覚えがあるはずもない。
 渡辺先生は帽子をつかむと、真上にヒョイっとあげるだけで、そのまま研究室にいそがれるのだった。

 身だしなみに関心をもつ時間も惜しんで研究に没頭していた先生の姿は、戦後の学生だった私に、ほんとうの「学者」のありようというか、あらまほしき姿を教えてくれたといっていい。

 私はボケたせいで身だしなみに無関心になることはない。そもそも、はじめから関心がないのだ。

 さて、9)だが、目下のところ、私は「外出が億劫になる」ことはない。毎日、食料品を買いに行く。ときどき映画を見に行く。芝居は見たいけれど、チケットがなかなかとれないので、はじめから見に行かない。外出しても楽しいことはない。それでも神田の古本屋はまだ歩いている。

 もし、きみたちがどこかで私を見かけたら声をかけてほしい。もし、私が「ボケ」ていたら、さっそく近くの喫茶店に誘ってコーヒーの一杯でもふるまってくれればありがたいのだが。

2007/07/03(Tue)  615
 
(つづき)
 昭和初期の世代には、いくつか特徴があるという。
 たとえば、ダンスができない。語学ができない。スポーツが得意ではない。女心の機微がわからない。仕事に熱心でも、機械にヨワい。何かの器具を買っても、かんじんの説明書が読めない。
 私もその典型のひとり。私は機械にヨワい。
 だから、説明書を読むのが面倒くさいのではない。読んでもわからないのである。

 つぎに、7)の「理由もないのに気がふさぐ」。
 私の場合、これはあてはまらない。自分では「北方型」の陰鬱な性格だと思っているが、理由もないのに気がふさぐことはない。いつも、はっきりした理由がある。自分に才能がない、とか、失恋するとか、親しかった知人が亡くなるとか。はっきりいえば、この数年、私の心が晴れたことはない。いつも、暗澹たる思いで生きてきた。
 しかし、そんなぶざまを人さまに見せるわけにはいかない。ならば、いくらでもふざけてやろう。どうせなら、世間を茶にして阿呆陀羅経でも歌ってみよう。

 「そもそも、かかる鬱性の原因は、横隔膜のへこみの中に発生したる体液の刺激に起因するもので、その悪性を有するからして、とどのつまりは、オッサバンズス、ネクエイス、ネクサス、ポタリスム、クイブサ、ミルス、となるわけで。」
 モリエール先生の『にわか医者』、「スガナレル」の台詞。

 理由もなくて気がふさぐなら、こんなセリフでもつぶやくほうがいい。
   (つづく)

2007/07/02(Mon)  614
 
 (つづき)
 さて、物のしまい場所を思い出せない。
 こんなことは、しょっちゅうある。そのかわり、何かをさがしていて、思いがけず、別のものを見つける。おや、こんなものがここにあったのか。
 これはうれしい。
 自分の書いた作品が見つかったりする。へえ、こんなものを書いていたのか。くだらねえものを書いたなあ。また、そのまま放り込む。
 発表しないまま放り出した生原稿が見つかったりする。読む。げんなりする。燃しちまえ。油絵も焼き捨てた。
 4) 「漢字を忘れる」。ワープロを使うようになって、漢字を変換するようになった。ワープロを使うと漢字を忘れるといわれていたが、さいわい私の場合、それはなかった。そのかわり、字を書く機会がなくなって字がへたになった。
 最近、中国の女性が私の漢字を見てほめてくれた。これはうれしかった。

 「今しようとしていることを忘れる」。これもしょっちゅうなので、自分では気にならない。とにかく、何かをしようとしていたことは忘れないのだから。
 今、少し長い作品を書きはじめているのだが、ルネサンス関係の資料を読みつづけているうちに、それがおもしろくなって、自分が書こうとしているテーマも忘れてしまう。
 気分転換のつもりで、昔の本を読む。こんどはそれに心をうばわれて、ルネサンスなんかどこかに消えてしまう。
 為永 春水の『英對暖語』第一編を読みはじめたらおもしろくて、ついつい全部読んでしまった。自分が何を書こうとしているか、忘れてしまうのだから始末がわるい。
 だから、「物が見つからないと他人のせいにする」ことはない。
     (つづく)

2007/07/01(Sun)  613
 
 認知症ケアの一つに、「ボケ予測テスト」というものがあるという。
 1)おなじ話を無意識にくり返す。
 2)知っている人の名前が思い出せない
 3)物のしまい場所を思い出せない
 4)漢字を忘れる
 5)今しようとしていることを忘れる
 6)器具の説明書を読むのが面倒くさい
 7)理由もないのに気がふさぐ
 8)身だしなみに無関心になる
 9)外出が億劫になる
10)物が見つからないと他人のせいにする

 これはおもしろい。さっそく、自分のボケ予測をテストしてみる。

 1)「おなじ話を無意識にくり返す」。たぶんその通り。ただし、自分では気がつかない。聞かされるほうはすぐに気がつく。そんなとき、私の周囲の心やさしい女性たちは、「また、おなじ話をくり返しているわ」と思っても、黙って聞き流してくれるだろう。 もっとも、私はときどき意識して、おなじ話をくり返す。
 「やれやれ、またおなじ話をくり返しているわ」と思っている相手に、「やれやれ、またおなじ話をくり返して話さなければわかってくれないのか」と、思いながら。

 2)「知っている人の名前が思い出せない」。
 私はこのところ「文学講座」めいたものをつづけているのだが、ひどいもので、自分ではよく知っている名前が出てこないことがある。
 『嵐が丘』に出ていた女優さん。えっと、誰だったっけ。オデコの女優さんで、綺麗なヒト。うーん、名前が……出てこない。ほら、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』の妖精とおなじ名前のコ。なんてったっけな」
 講義をおわってから、不意に、マール・オベロンを思い出した。こんなことがよくある。
 先日も、『富士に立つ影』のストーリーを説明しているうちに、「佐藤公太郎」の子どもの「城太郎」が父の仇「兵之助」を、湯島の境内で討ちはたすところで、「公太郎」だったか、「城太郎」だったか、いや「光之助」だったか、自分ではよく知っているはずの名前が思い出せなかった。
 私の講座にきてくれている人たちが教えてくれた。
 私のボケは、この程度に進行しているらしい。
     (つづく)

2007/06/29(Fri)  612
 
 朝、ロシアのニュースを見ていると、思いがけずソルジェニーツィンが出てきた。プーチン大統領が、ソルジェニーツィンに国家最高名誉章か何かを贈った。理由は、反スターリンの姿勢をつらぬき通した作家に対する評価であり、旧ソヴィエト体制の崩壊後の混迷のなかで、ソルジェニーツィンが真のロシア精神の復興を主張しつづけたことによる。(07/6/12)最近のソルジェニーツィンの仕事を知らないので、このニュースは私の関心を惹いた。

 とっさに私が考えたのは、プーチン大統領がソルジェニーツィンに何を見ているのだろうか、ということだった。いいかえれば、現在、プーチンはなぜソルジェニーツィンをあらためて評価しているのか。
 ここでくわしく論じるわけにはいかないが、ソルジェニーツィン受賞には、おそらく、プーチンの内面にひそむドストエフスキーいらいのロシア至上主義が響いている。かんたんにいえば、アメリカ文明の物質的優位に対して、ロシアの精神性の再認識、またはその使命の体現者を、プーチンはソルジェニーツィンに見ているのではないか。つまりは新しいスラヴ思想の再認識ではないかと考える。
 この思想では、ロシア人は、やさしさ、従順、敬意にみちて、キリスト教の理想においても一致している。
 こうした思想から、ドストエフスキーは「ロシアこそヨーロッパ(に対して)の公平無私な兄である」と考える。1876/77年の「作家の日記」に見られる熱烈なロシア民族主義の主張、しかも好戦的な姿勢が、おそらくプーチンにも潜在している。
 プーチンの内面には、ソヴィエト崩壊以後の「手のつけようもない腐敗、精神的な窒息のなかに座して、息もつまりそうになっている」(ドストエフスキーのことば)状態を打破しようとする意欲が脈打っている。それは、すでにソルジェニーツィンにおいて見られたものではなかったか。

 ニュースに出てきたソルジェニーツィンは、きびしい修行を続けた修道僧のように瞑想的な顔をしていた。ただし、無表情で、ビュッフェの描いた道化のような顔にも見えた。 一方、プーチンはこの作家と親しく話ができることがうれしかったらしい。とてもいい顔をしていた。このシーンは私の心に刻みつけられた。

 (このプーチンのニュースを日本の新聞はまったくとりあげなかった。私にはきわめて重大なもの、ロシアの今後を暗示するほどの「意味」があったと見た。しかし、日本のジャーナリズムは、現在、ソルジェニーツィンの受賞に興味をもつ読者はいない、と判断したのか。)

2007/06/28(Thu)  611
 
 ふと思い出す。詩の一節というか、ある夜明け、眼の裏に映った夢の残像。

    ほとんど裸の女
    その足が 本を踏みつけている
    片隅に <ひとで>
 マン・レイの映画、「ひとで」のオープニング・シーン。原作はロベール・デスノス。1924年、当時はまだ無声映画の時代だった。映画という表現形式に、若い芸術家、詩人たちは大きな可能性を見ていた。

 「アンダルシアの犬」、「秋のメランコリー」、「貝殻と血」。

 若い芸術家、詩人たちにとっては幸福な時代だったに違いない。

 世界の終末が近いと信じた中世の修道僧たちは、まなじりを決して、必死に「悔い改めよ」と叫びながら、街路を走りまわった。その信条、心情に一点の曇りもなかったに違いない。

 若き日のジェルメーヌ・デュラック、ジャン・エプスタン、マルセル・レルビエ、キルサノフ、マン・レイたちも、中世の修道僧たちとおなじような表情をしていたかも知れない。
 今の私にはそれが羨ましい。

2007/06/25(Mon)  610
 
 「コージートーク」を書く。

 亡くなった亀 忠夫が最後の手紙に書いてきた。

    毎日、あれだけのことを書くのは、たいへんなエネルギーですね。

 そんなご大層なものじゃないよ、亀君。

 毎日、心に浮かぶよしなしごとを、そのときそのときに書きとめる。どれほどのエネルギーが必要だろうか。
 あとになって、ほう、あの頃はこんなことを考えていたのか、とか、あい変わらず、くだらねえことを書きやがったなあ、とか、そんなふうに思えるだけでいい。
 だから、ほとんど推敲もしない。
 はじめから、いい文章を書こうという気もない。推敲したところで、いい文章になるはずもないし。

 だが、この「コージートーク」を読んでくれるきみは、わかってくれるかも知れない。
 私のかてになるものは、わずかな思い出にすぎない。
 それでも、過去はすべて語りつくされたわけではない。
 私たちに、現在がある、ときみはいうだろうか。それはそのとおり。しかし、私たちの現在は、それぞれ違った、それぞれに遠くへだたった現在にすぎない。

 こんなものを書いているとき、私はかつてないほど、自分がスタンダールや、ルイ・ジュヴェに近いと感じている、と。

2007/06/20(Wed)  609
 
 「文学講座」めいたものを続けている。

 たとえば――ヴォルテールは、20世紀の読者が『カンディード』を読むなどということは考えもしなかったろう。
 その一方で、『ザイール』が上演されないと知ったら、ひどく驚くにちがいない。
 ボードレールは、後世、自分の詩が読みつがれているばかりか、研究者たちが、自分の詩の一行々々まで克明に分析したり、自分とジャンヌの性生活まで調べあげられるとは夢にも思っていなかったはずである。
 スタンダールはまったく売れない作家だったから、自分を理解してくれるはずの「幸福な少数者」のために書いたといっていい。しかし、彼の『赤と黒』や『パルムの僧院』は、世界じゅうで読まれている。
 そのスタンダールは、昂然として書いていた。ラシーヌの生命は終わった、と。
 しかし、「コメデイ・フランセーズ」は、いまでもラシーヌを上演している。

 日本の作家は……いや、よそう。

 そういえば、『神曲』について、ヴォルテールが語っている。「世界でもっとも有名で、もっとも読まれない名作」と。
 どこの国の文学史にも、こうした「お笑い」がいっぱいつまっている。

2007/06/17(Sun)  608
 
 最近は、「お笑いブーム」だそうである。
 そういえば、若手の喜劇人がぞくぞくと登場して人気を集めている。ほとんどが、吉本系の芸人で、テレビに出るようになって人気が出て、テレビのバラエティで活躍している。
 若手の、素質のいい落語家も登場してきた。

 「お笑い」を考えるとき、流行語を見れば、その性質が直ぐに見えてくる。
 たとえば……わざと、お古いところをあげるのだが、

 「ウハウハ」、「ハヤシもあるでよ−」、「ん、やめて!」、「おぬし、やるな」。
 これは「アッとおどろく為五郎」や、「オンドリャー」、「アサー」の時代。
 翌年(1971年)になると、「シラケる−」、「メタメタ」、「フィーリング」。
 「古い奴だとお思いでしょうが」、「ウーマン・リブ」、「がんばらなくちゃ」に重なってくる。
 そして、「若さだよ、ヤマちゃ−ん」、「ワレメちゃん」、「総括する」時代。
 「あっしにはかかわりのねえことで」、「流れを変えよう」ということになる。
 そして、1973年になると、「じっと我慢の子であった」、「いったい日本はどうなるのであろうか」、「狭い日本、そんなにいそいでどこに行く」という不安がひろがってくる。

 私たちは、いつの時代にも、笑いに飢えている。だから、いきのいい芸人がたくさん出てきたほうがいい。
 芸人もたくさん出てくれば、当然ながら淘汰される(消える)やつも、たくさん出てくる。すでに、消えてしまった連中も多い。

 私は、ここでも「古い奴だとお思いでしょうが」、ある女優のことばを思い出す。

 「誰も書かなくなっちゃったわ――真劇を。(舞台に)出てくるのは、くだらないギャグばっかり」

 バーバラ・スタンウィック。ハリウッド黄金時代の大女優のひとり。
 1953年、映画ジャーナリズムの大御所だったヘッダ・ホッパーのインタヴューで。
 彼女のことばに苦い感慨がこめられているのだが、笑いをもとめる一方で、こうした苦さは、たえず私たちの内面にひろがっているのだ。

 近頃は、「お笑いブーム」だそうである。

 おあとが、よろしいようで。

2007/06/15(Fri)  607
 
 1974年。

   あたしは自分でお金を稼いで自分で使っているのよ。今の女性にはそういうひとが多いわ。なぜ、結婚しない女だけが差別されなければいけないのかしら……結婚しない男は差別されないのに。

 ダイナ・ショア。
 1974年4月16日 ロサンジェルス・タイムズのインタヴュー。

 当時、彼女は離婚していた。ダイナ・ショアほどの歌手でも、性差別を感じていたことがわかる。

 1974年。
 日本はどんな時代だったのか。
 「あっしにはかかわりのねえことで」
 「流れを変えよう」
 日本人はみんな「ぐうたら」か、「じっと我慢の子だった」。

 この年、ソルジェニーツィン、国外追放。
 「ハヴ・ア・ナイス・デイ」で「ちょっとだけよ」。
 「ワレメちゃん」が「ひそかに情を通じ」、「未婚の母」になっても、「いいじゃないか」。
 「総括」すれば、「いったい、日本はどうなるのだろうか」。「狭い日本、そんなにいそいでどこに行く」。「日本沈没」。
 なんだか、いまの日本人もおなじことを考えているんじゃないかナ。

 ダイナ・ショアのことばから、こんなことを思い出して、「しーっれいすました。」

2007/06/13(Wed)  606
 
 ソフィスティケート。日本語にうまく訳せない。

   セックス・シンボルは、いつの時代にも残るものよ。でも、ソフィスティケーテッドな女なんて、じきに、昔の帽子みたいになっちゃうわ。

 ロザリンド・ラッセルのことば。(1974年3月、ロサンジェルス・タイムズ)

 美貌だった。あまり好きな女優さんではなかったけれど。

2007/06/11(Mon)  605
 
 友人の画家、小林 正治君が亡くなった。(07/6/4)享年、70。


 おもえば長いつきあいになった。
 小林 正治には、私の著書『ルクレツィア・ボルジァ』(集英社)、『マリリン・モンロー・ドキュメント』(三一書房)の装丁を描いてもらった。ほかにも、『ブランヴィリエ侯爵夫人』(自家版)の表紙。私の企画した「マリリン・モンロー展」に出品してもらった。その意味で、彼にはずいぶんお世話になったのだった。

 女性の裸身の魅力を描きつづけた。彼の描くヌードは、いつも優美で、典雅で、ほんとうにエロティックだった。その背景は、すみきった深い青い空。ときには、ヨーロッパの古城の城壁。ときには、海のひろがり。
 女たちは手をひろげたり、指先をひらめかせたり、片膝を立ててすわったり。ときには大きく股をひろげている。

 はじめて小林 正治の絵を見たのは、京橋の小さな画廊の個展でだった。美しいヌードが並べられていた。女の裸身、とくに白皙といってよい肌の美しさ。のびやかな肢体。
 私がとくに心を惹かれた一枚があった。しかし、すでに売約済だったので、それに似たポーズの一枚を買った。
 たまたま、あるホテルで仕事をしていたので、翌日、画家自身がわざわざその絵を届けてくれた。私は、自分が買えなかった一枚のすばらしさと、私が入手した一枚の、微妙な違い、優劣、さらに画家自身の、その絵を描いた制作上の姿勢の違いを、いちいち指摘した。
 私としては、いちばんいい絵が買えなかった、次善の作品を手に入れた、という思いもあって、ことさらそんなことを指摘したようだった。
 その指摘を、小林君は素直に聞いてくれた。彼の誠実な人柄に、私は心を打たれた。
 これが小林 正治との出会いになった。

 しかし、いやらしさはまったくなかった。むろん、どのヌードにも、エロスは匂いたっているが、女体が芸術作品そのものだった。
 このことは、小林 正治の対象が、ほとんどの場合、破瓜期の少女、ティーンの少女が多く、成熟した女性の裸身はあまり描くことがなかったからだと思われる。
 もう一つ、大きな特徴としては、彼の描いたヌードに顔がなかったこと。おそらく美貌に違いないのだが、容貌がまったく描かれないので、見ている私たちの想像にゆだねられている。
 どういう絵画でも、私たちの美的な体験は、それを見ることで、いわば完結する。ボッティスチェッリ、ラファエッロの美女の裸身に、ひたすら賛嘆のまなざしを向けても、その鑑賞のつぎに、東郷 青児、石本 正の美少女に心をうばわれれば、それで満足する。
 しかし、内面には、ボッティスチェッリ、ラファエッロの美女によってかきたてられたエロスへの欲求は、まるで埋み火や、灰の底にかくれた澳火のように、燃えつづけるだろう。
 小林 正治のヌードは、そういうエロスを秘めていた。彼の描くヌードを見る人は、その美しさに驚く。それを見た瞬間から、この画家はなぜ顔をえがかないのか、という疑問にとらえられる。それは、人面獣身のスフィンクスがなげかける問いのように、私たちの心のなかでひろがってゆく。

 小林 正治の絵には(その場でただ一度見ただけの印象ではわからないもの)、こちらがゆっくり時間をかけるうちに、ゆっくりと熟成してゆくワインのような味があるのだ。 その酔いのなかで、小林 正治という画家がどうしてこのヌードを描くようになったのかという画家の想像の秘密をさぐりはじめる自分に気がつくだろう。
 たとえば、彼の絵には、男性がまったく登場しない。はじめから、この世に存在しないかのように。

 たとえば、スズキ シン一も、生涯、女性のヌードを描きつづけた。しかし、彼の描くヌードは無数の<マリリン・モンロー>だった。そのマリリンたちが、どんなに可愛らしかったか。ときには、男の腕のなかで、苦しそうにあえぎながら、いつも信頼しきったまなざしをもっていた。
 小林 正治も、スズキ シン一も<男>を描かなかった。だから、このふたりの絵を見る私たちは、偶然にすれちがった、ゆきずりの美しい女たちと、すばらしい、しかし、明日のない、一夜をすごすような気がするだろう。
 静かな非現実の世界から、ミスティックな<風景>にあらわれたヌードの女たちは、現実を超えた美しさを失うことなく、ひっそりと小林 正治の孤独に戻ってゆく。
 画家は美しい女性のヌードを描くことで、ひたすらおのれの孤独に向かって行く。いってみれば、彼の絵はあくまでおのれの孤独からやってくるのだ。
 だから、彼の孤独は顔をもたない。

 小林 正治は、昨年、川越で大きな個展を開いた。このとき、『ルクレツィア・ボルジァ』、『マリリン・モンロー・ドキュメント』の原画や、「マリリン・モンロー展」に出品した作品も展示されたという。
 小林 正治の代表作は、山梨県立美術館にある。

 おそらく晩年の作品と思われるが、小林 正治の作風はかなりの変化を見せていた。その一枚は、青をバックに、横顔を見せた若い女のヌードだった。まるで逆光線のヌードといってもいいもので、全身ブラックで描かれている。
 小林 正治はその絵を私に贈ってくれたが、これを見た私は画家の孤独をまざまざと見るような気がしたのだった。
 今の私は新しい仕事に手をつけているのだが、この本の装丁は彼に依頼する心づもりだった。だが、それももはやかなわぬことになってしまった。

 小林 正治の訃報は、令息が電話でつたえてくれたのだが、その電話のあと、いろいろな思い出が堰をきったようによみがえってきて、私はしばらく茫然とした。
 まだ気もちの整理もつかないまま、こんなかたちで哀悼の文章を書いている。一週間後、一月後、一年後、古い友人として、私がひかえめながら、どんなに小林 正治の死を深く悲しむかわからない。

 芸術家はいつも自分自身の死に向かって歩みつづける。芸術家の仕事は、いつもそうしたものなのだ。そのことを彼によって教えられたような気がする。合掌。

2007/06/10(Sun)  604
 
 私がたいせつにしている「フランスの伝統色」という色見本(カラー・ガイド)がある。
<Nuances actuelles des couleurs tradetionaire francais>  (大日本インキ化学)

 フランス人は、その自然や、生活習慣のなかから、季節の色をひろいあげ、その色調からいかにもフランスらしいエレガンス、単純さ(サンプリシテ)を生み出す。
 たとえば、バラ色といっても、「インディアン・ローズ」、「ローズ・イビス」、「ローズ・パール」、「ローズ・ペーシュ」、「ショッキング・ローズ」、「ローズ・タンドル」、「ローズ・ソーモン」といったさまざまな変化する。そして「ルージュ」に移ってゆく。
 この見本を見ながら、ルノワールの少女の頬のいろ、マリー・ローランサンの女たちのバラ色、ヴァン・ドンゲンのソワレの女たちの肌のいろ、ピカソの「恋人」、マリー・テレーズのヌードを思い出す。

 私にとって興味があるのは、この「色見本」には、紫系統の色(ヴィオレ、プルプルなど)がきわめて少ないことだった。日本人の眼には、紫という色彩はじつに多様で、微妙な変化を持っている。こんなことにも、日本人とフランス人の国民性の違いというか、美意識、感受性の違いを見てもいいだろう。
 (エゴン・シーレに半裸の女性を頭上からとらえた水彩画があって、この一枚が日本にある。この女が身につけているシフォンの紫がじつに鮮烈だった。この絵はめったに展示されないし、シーレの研究家もほとんどとりあげない。)

 現在の私は油絵も描かない。「油一」(ゆいち)も使ってみたいが、そんな機会ももうないだろう。
 私がたいせつにしていた色見本(カラー・ガイド)ももう必要がなくなった。どなたかほしい人がいたら、よろこんでさしあげるのだが。

2007/06/09(Sat)  603
 
 このほど東京芸術大学は、創立120周年を記念して、芸大ブランドの油絵具を販売した。(’07/5/8)「油一「(ゆいち)という。
 大学の技法材料研究室と、「ホルベイン」が5年かけて開発したもの。

 東京美術学校に西洋画科が設立されたのは、1896年。
 当時、黒田 清輝は、日本人の頭脳で調合した絵具を、日本の画家が使って、はじめて日本人の油絵ができる、と考えたが、これは実現しなかった。
 ある時期まで、たいていの画家は「ルフラン」を使っていたはずである。

 私は、ある時期、絵を描いていた。むろん、絵と呼べるほどのものではない。
 小説を書いたり、評伝を書いていると、どうしても気分転換が必要になる。絵もその一つ。
 絵とはいえないようなものを描くだけでもたのしかったので、つぎからつぎにデッサンやクロッキー、はては油絵、アクリル画を描いた。描いては棚に放り込んでおいた。それっきり忘れてしまった。かなり経ってひっぱりだしてみたところ、驚いたことにほとんどの絵に亀裂が入っていた。
 油絵具について何も知らなかったせいだった。くやしいので、絵は全部焼き捨てた。それからは、登山に熱中したため、油絵を描く時間もなくなって、たまに水彩を描くようになった。

 絵具は、その国によって色彩がずいぶん違う。私は、一時、中国の水彩絵具を愛用したが、青、赤などの色が、私の色彩感覚とはまったくちがっていた。
 そんなことから、中国の絵画にも関心がひろがっていった。

2007/06/08(Fri)  602 Revised
 
 こういう考えがある。

   男女の関係というもの、性欲とか結婚というものは、ほんらい人間の快楽のために存するものではない。(社会の)役に立つ人間を増やして、その国土をよくするためにすることだ。だから、悪い子供を産むのはいけない、肉体も精神も、これならという人間だけに限って結婚をさせ、子供をうませる……その他の人間には、結婚して子供を産むことは許さない。

 どこかで聞いたことのある優生学的な理論のような気がする。

   男子は二十一歳から、女子は十九歳から、性交が許される。二十七歳まで童貞を守れば名誉として表彰される。
   一方、性交年齢に達しないうち、どうしても性欲に堪えられない早熟者には、かねてその旨を定めている媼(ばあ)さんなり、役人なり、或いは医者なりに申し出ると、これもかねて選定してある石女――すでに妊娠中の女を提供してその満足に供する。
   十九歳以上の女子、二十一歳以上の男子、身体、精神ともに健全で、出産の有資格者は、週に二回だけ同衾が許される。その際には男女ともに沐浴して、『すこやかにして美しき子を与えたまえ』と神に祈らなければならぬ」

 このままナチスの優生思想をつよく連想させるが、じつは中里 介山の『大菩薩峠』の終章に近い「農奴の巻」に出てくる。
 興味があるのは、この優生論が出てくるすぐ前の章で、盲目の剣士、「机 龍之助」は「お雪さん」と小舟に乗って、潮に流され、死にたいと願う「お雪さん」の首を平然と絞めるシーンが置かれている。

『大菩薩峠』は、明治45年に書きはじめられ、継続的に発表されたが、昭和9年に、中絶している。その後、事実上の最終章になった「椰子林の巻」を介山が書き終えたのは、対米戦争が起きる半年前だった。
 介山がカンパネッラを読んだことから、日中戦争のさなかに、こうした結婚観、性関係論に関心をもっていた(と私は想像する)ことはおもしろい。

 ただ、私はこれを読んだとき、ゴダールの映画、『男と女のいる舗道』や、(題名を失念したが)これもゴダールの映画――ある全体主義国家の旅行者が、空港からホテルに直行したとたんに、美貌だが、まるでロボットのような「娼婦」(国家公務員)がスケデュール通りにあてがわれて、性的な処理を「配給」してもらうシーン。アラン・シリトーの逆ユートピア小説、『ニヒロンへの旅』を思いうかべた。

 ウシシシ。

2007/06/07(Thu)  601
 
 私はあまり退屈しない。退屈したときは、なにかしら消閑の手段を考え出すから。
 どうしても退屈したときは、へたな絵でも描けばいいし、CDをつぎからつぎに聞きつづける。もし若かったら、私はテレビゲームにハマっていたに違いない。
 ほんとうに退屈したとき、本を読むことはない。そんなときに、本を読んでも退屈するだけだから。退屈したときは、誰かしらの退屈なセリフを思い出すようにする。

 たとえば「諸君、この世は退屈だ」とボヤくのが私には似つかわしい。「フレスターコフ」のセリフ。
 だが、一方で、

 「誰だ、この世が退屈だなんてヌカすやつは!」

 といい放ってみたい気もする。
 アルセーヌ・ルパンのセリフ。

2007/06/06(Wed)  ☆600☆ Revised
 
 「コージー・トーク」をはじめたとき、どうせ誰も読まないだろうと思っていた。ところが、少数ながら熱心に読んでくれる人がいる。これは驚きだった。
 メールで近況をつたえてくれた人もいる。私の書いたミステリーに関して、精細な質問をしてきた人もいる。昔、私がラジオで放送したプログラムを、CDにして贈ってくれた人もいる。ときには、自分の書いたものを読ませてくれた人もいる。私は、いつも感謝したのだった。

 私の「コージー・トーク」は、いつもある人を相手の対話なのである。自分の心づもりではいつも特定の相手、つまり、きみにあてて書いている。
 私にとっては表現のひとつのありようで、お互いに相手のことを心にとめて、自分と相手のあいだに、いきいきとした関係性を作って行く。そこから何かがうまれないはずがない。そう思っている。

 翻訳家を志望している人たちのための勉強をつづけてきた時期がある。私のクラスからたくさんの翻訳家が登場した。当時、よく聞かれたものだった。翻訳家を育てるコツみたいなものがあるんですか。
 冗談じゃねえや、そんなもの、あるわけねえだろ。
 私は、何時もその人の「翻訳」を見て(読んで)きたのだ。どうすれば、翻訳がうまくなるのか。そんなことは考えたこともない。

2007/06/05(Tue)  599 Revised
 
 女のゆかしさ。こんな一節を見つけた。

   後朝(きぬぎぬ)に、階段の下までようやく送りに出ながら、わきを向いて「また、きてくださいね」などと挨拶する。
   それだけならまだしも、夜更けに、若い衆が客を門から送り出すとき、客が出たとたんにカラカラとくぐりを閉めて、ピンと錠をおろす。なんともすげない音。
   そうかと思えば、客を見送りに階段の下まて降りながら、
   「じゃあね」
   などと声をかけて、客が外に出るのも待たず、バタバタと二階にかけあがるような、つたないやりかたでは、客がまたきてくれるはずもありません。
   こうしたことを、よくよく考えて、客をとりあつかうべきでしょう。
   客がお帰りになるときは、表まで出て、その行方を見てあげる。じっとうしろ姿を見つめていれば、表まで見送られた客も気もちよくふり返って、お女郎が立って見送っている姿に、心もうきたってお宿に帰るものです。その姿が眼に残って、しばらくしてまた遊びにきてくれるものです。
 
 これが女のゆかしさ。「三浦屋」の花魁、「総角」のことば。
 いまどき「総角」のような女がいるはずもないが。

 いまの女は後朝(きぬぎぬ)のふぜいなどということばさえ知らないだろう。

 「是等のことをよくよく思ひやり取扱ふべき事也」。この、本人の心構えがゆかしい。つぎに、同輩、後輩に対する気くばりがゆかしい。

2007/06/04(Mon)  598
 
 昭和初期。
 保田 与重郎にいわせれば――「昭和初年より数年にわたる期間の情態は、破壊といへない崩壊であり、慰戯ともならぬ浅薄な甘さへの堕落」の時代ということになる。

 そこで「慰戯ともならぬ浅薄な甘さへの堕落」の例として、新興芸術派の作家たち、龍胆寺 雄、中村 正常、吉行 エイスケなどを読んでみた。べつに「破壊」も「崩壊」も見られなかったし、「浅薄な甘さへの堕落」といったところで、なんとも可愛らしいものだった。
 そこで、もっと通俗的なものとして、大泉 黒石、生方 敏郎、奥野 他見男などを読んでみた。保田 与重郎はこうした作家たちを読んだこともないだろう。

 ある長編の書き出しのシーン。銀座のまんなかで、ある作家が若い女性に「ピタリと逢った」。

   「ヨー春ちゃん」
   「あらッ」
   「暫くだねえ」
   「ほんとに久濶(しばらく)、どちらへ?」
   「なァに銀座の夜の気分を味はひにさ、君は?」
   「あたし? 矢っ張り左様(そう)よ、買物旁々(かたがた)」
   「女の夜遊びは曲者だぞ」
   「大丈夫よ、私だから」
   「その私があんまり綺麗だから危険だて」
   「他見男さんは私の顔さへ見ると綺麗だの美しいだの仰言(おっしゃ)るけれども駄目よ私も。二十二ぢゃお婆さんぢゃないの」

 この「春子」さんは、今年、女子大学英文科二年生。「麗質玉の如く鮮かに且つ美しい」らしい。

 ほう、「昭和初年より数年にわたる期間」の先端的な女性は、(内心ではそう思っていないのに)22歳で「お婆さん」という自意識をもっていたのか。
 むろんジョークだが、むしろ、これは若い娘のコケットリー、あるいは羞恥として見たほうがいい。

 保田 与重郎などが読んだところで何がわかるはずもない。

2007/06/03(Sun)  597
 
 ある日、詩人のリルケはワイマールを訪れた。
 彼が泊まったのは、いかにも古風な趣きで、昔のワイマールふうのたたずまいをもっていたなんと「象」とい名のホテルだった。同行したのは、バイエルンの王家につながる名流の公爵夫人。
 ホテルからの散策に、ふたりは「ゲーテ・ハウス」をえらんだ。そこまで行って、ゲーテの園と呼ばれるひろい公園に出る。

 ところが、一天にわかにかき曇り、はげしい風が起きた。暗い並木が突然のあらしに揺れて、奇怪な姿に見え、くろぐろとした影になって、ぼうっと灰色の光のなかに浮かぶ。空は巨大な雲がちぎれちぎれに疾走して行く。しかも、リルケたちの周囲に、もうもうとした白い霧が立ちこめてきた。リルケたちは、森のなかで迷って、ワイマールに引き返す道がわからなくなった。

 さらに、はげしい夕立が降りはじめたので、途方にくれたとき、近くにぼうっと人の姿が三人を認めた。リルケは、いそいでその三人にめがけて走って行った。

 まもなく、リルケはあきれたような顔で戻ってきた。
 「われわれは、どうもキツネに化かされたらしいんだ」リルケは叫んだ。このとき貴婦人はギョッとしたに違いない。

 「てっきりワイマール人だと思って、ひとり目の男に近づいてみたら、黄色い顔に、切れ長の眼があらわれてきた。声をかけても返事をしない。ふたり目の男を向くと、こっちもやっぱり黄色い顔で、これまた口をきかない。三人目の男に近寄ってゆくと、これまた、まぎれもない日本人なんだ。それで、道を聞いたら教えてくれたけれど、いったいこの日本人たちは、ワイマールで何をしようっていうんだろう。木立は、あんなに妖異な姿をしているのに、幽霊のような彫像がたった一つ立っているだけのこの庭園の霧のなかで、生きているものといえば自分たちだけなのに、どうしてあんな人たちが突然あらわれてきたのだろう」

 タクシス公爵夫人の回想では…… 
 自分たちの生活にかかわりのない、異国人の夢のなかに私たち(リルケとタクシス夫人)がうっかりまぎれ込んでしまったのだ、という。
 その異国人の夢というのは−−どうやらヨコハマで深い眠りについているサムライの夢だろう。
 リルケは笑いだしたが、いくら夢でも、ワイマールと遠い日本では、場所柄も雰囲気も違いすぎる、と反論したらしい。

 こんな話から、当時のヨーロッパ人の日本理解の程度がうかがえるのだが、このときリルケがことばをかわした日本人は誰だったのだろうか。

 じつはこの三人、ドイツ留学中で、ひとりはのちに世界的にしられ、アフリカで黄熱病でたおれた人物(私たちも紙幣で彼を見ている)、もうひとりは、後年、日本ではじめて物療内科をはじめた偉大な学者、もうひとりは栄養学が専門で、これも世界的な発見をした学者になる。……

 ……という短編を書こうと思ったが、私の力ではとても書けなかった。

2007/06/02(Sat)  596
 
 もう、誰もおぼえていない映画。
 ニール・サイモンの「スーパーコメディアンと7人のギャグマンたち」(原題「23階のお笑い」/2000年)。テレビの草創期にあったアメリカ芸能界の小味なインサイド・ストーリー。映画の背後に、マッカーシズムの恐怖がある。このあたりに、ニール・サイモン喜劇らしい、スジの通しかたがある。

 若き日のニール・サイモンは、シド・シーザーのギャグを書いていたから、いわば「私小説」と見ていい。ただし、日本ではまったく評判にならなかった。私も映画批評を書かなくなっていたから、どこにも書かなかった。

 1950年代、NBCで圧倒的な人気を誇っていたコメディアン「マックス・プリンス」(ネイサン・レーン)は、7人の台本の構成作家(ギャグマン)を使っている。しかし、人気に翳りが見えはじめている。局の上層部は、視聴率の低下におびえ、90分の番組を1時間の枠に落とす。放送内容にもきびしい制約がのしかかってくる。
 人気の低迷にくるしむ「マックス・プリンス」は、酒と薬物漬けで、食事中に眠ってしまうような状態。
 ハリウッドに吹き荒れたマッカーシズムは、テレビにも影響をおよぼし、「マックス・プリンス」のリハーサルにも、稽古内容を逐一チェックする要員が配置される。
 おそろしい監視社会の姿が重なってくる。
 二流、三流の俳優ばかり集めて一流の舞台を作ることは、けっして不可能なことではない。しかし、二流、三流の俳優ばかり集めて一流の映画を作ることは、おそらくむずかしい。

 この映画の主役に、たとえばジャック・レモンやウォルター・マッソーをつかっていたら、まったく違っていたはずである。ただし、この映画のような「低額予算」のプロダクションでははじめから不可能なプランだが。
 50年代なら、さしづめミルトン・バール、バール・アイヴズ。
 みるみるうちに、映画の厚みが増してくるだろう。

 もう、誰もおぼえていない映画を見直して、(空想で)自分の好みのキャストでリメイクする。私のアホらしい悪徳のひとつ。

2007/06/01(Fri)  595
 
 (つづき)
当然ながら、このレィディーはどぎもを抜かれた。
 「まあ、そうなんですか! で、それはなぜでございましょう?」
 「それはですな、奥さま」先生は答えた。「バイロンは男色でして」

 青天の霹靂だった。レィディーは思わずナイフをとり落とし、(モームの表現によれば)この先生をたしなめるかのように、
 「あら、まあ。そんなこと、絶対にございませんわ」
 狼狽しきった彼女は、右側の最高権威に、とりすがるように、
 「そんなことって、ございますでしょうか。間違いですわね?」

 最高権威は沈鬱な声で、
「いや、まったくその通りでございまして。ご質問には、はっきり男色者とお答えしなければなりませんな」

 レィディーは、この夜のパーティーがめちゃめちゃになったため、ただ、もう、「あら、まあ」とか「おや、まあ」とつぶやくばかり。

 左にすわっていた先生は、自分の発言がレィディーを狼狽させ、うろたえさせたことを見てとって、彼女の腕にふれながら、
 「でも、ご安心ください。晩年のバイロンは、過去のあやまちをつぐないました」
 かすかな微笑がレィディーの唇にゆらめいた。
 先生はこうつけ加えた。
 「バイロンは、自分の妹と熱烈な恋愛に陥りましたから!」

 私は、このエピソードがとても気に入っている。こういう話にも、モームらしい辛辣さと、するどい人生観察が見えてくる。モームはこの話を、ずっと後輩の劇作家、ガースン・ケニンにしている。
 私は、こういう話を後輩に聞かせているモームが好きなのである。きっと、苦虫を噛みつぶしたような顔で、おもしろくもなさそうに話していたのではないだろうか。
 オチがいい。

 「楽しく思い出せるディナーパーティーというのは、こういうやつだね」

2007/05/31(Thu)  594
 
 ある日、サマセット・モームは、さる貴婦人のパーティーに招かれた。
 このご夫人は、ロンドンきっての名流夫人で、格式の高いサロンを開いていた。そのサロンは、毎回、ご夫人みずからテーマをお決め遊ばされる。たとえば、大都市のスラムを一掃する計画だったり、猛獣のハンティングだったり。その道の権威とされる人ばかり、十人から、二十人ばかりが招待される。
 レィディーは、パーティーのさなかに適切なタイミングで、いかにも見事な質問をなさる。それに対して出席者の誰かれが答えると、彼女自身もご自分の見解を述べるのだが、それがまた肯綮せしむるようなものだった、という。

 モームが招かれた日のテーマは、大詩人、バイロン卿だった。モーム自身は、自分がなぜ招かれたのかわからない、という。バイロンについては書いたこともあるし、いろいろな機会にしゃべったりもしているが、研究しているわけでもないし、とても権威などとはいえない。このレィディーだって、モームをバイロンの権威とは思っていなかったらしい。客の席順は、その晩のテーマについての権威、専門知識の程度によるもので、モームは末席に列していただけであった。

 このレィディーの右にすわっていた最高権威が、いちばんよくしゃべった。彼女としても、バイロンについて最高権威と見なされている人物にいろいろと質問することで、列席しているお歴々に、自分の教養の深さをご披露できるわけだし、名だたる人々の称賛をほしいままにできるだろう。

 パーティーの雰囲気がたけなわになった頃、このレィディーは左にすわっている、もうひとりの最高権威が、まったく発言しないことに気がついた。この先生は、ほかの人々の発言に耳をかたむけながら、つぎつぎに出される豪華な食事にも熱心に興味をもっていたらしい。
 レィディーは、しかるべきタイミングで、この先生を会話に誘い込もうとして、
 「先生のご意見をまだうかがっておりませんけれど」
 先生は顔をあげた。
 「私の話など、お耳に入れないほうがよろしいでしょう。わたくし、バイロンには、まるで関心がごさいませんのでして」
                            (つづく)

2007/05/30(Wed)  593
 
 (つづき)
 舟橋 聖一としては、私の訪問が迷惑だったにちがいないが、しばらく私を相手に雑談してくれた。
 現実の文学者に直接会って、こちらがいろいろ勝手な質問をしてもそれに答えてくれたのだった。このときの印象はいまでも心に残っている。蔵を改造した仕事場に、志賀 直哉のみごとな書が衝立にしつらえてあった。

 彼は小説を書くうえで、いくつかのことを話してくれた。私が程度の低い質問をしたのだろう。そのとき伺った話は私の心に残ったが、ほんとうのことをいえば流行作家の小説観、その方法論を聞いて仰天したのだった。
 舟橋 聖一が語ってくれたことのいくつかは、後年、小説を書くようになって、私にもようやく理解できたことが多かった。(これは別の機会に書く。)

 なにしろ礼儀知らず、傍若無人の学生だった。教室で講義を聞いたこともなかったが、高名な文学者に直接会って、いろいろ勝手な質問をしても、作家がそれに答えてくれている。彼は、私が批評を書いていることを知っていた。
 舟橋 聖一がなぜ、私にいろいろなことを話してくれたのかわからない。私の幼稚な質問に答えてくれただけのことだったかも知れない。自分の制作上の苦心を語ることで、何もしらずに批評めいたものを書きはじめていた私に、現実に文壇で活躍する作家の姿を見ておけ、ということだったのかも知れない。
 私に好意をもってくれたせいもあったと思われる。
 礼儀も常識もわきまえない学生の話を聞いてくれた舟橋 聖一に、いまの私はほんとうに感謝している。

 「今月は、小説を29編、書くんだよ」
 いくらカンのにぶい私でも、多忙をきわめている作家が、貴重な時間を割いてくれていることはわかった。月に29編といえば、一日に1編は書くことになる。いくら流行作家でも、そんなこともできるのだろうか。
 失礼な訪問のタイム・アップを示唆していることはわかった。私はあわてて辞去した。
 廊下まで見送ってくれながら、舟橋 聖一は、ここにある本でほしい本があったらあげるよ、といってくれた。
 信じられないことばだった。私は舞いあがった。案内されたときに、眼をつけていた本を手にとった。
 堀口 大学の署名入りのジッド、小林 秀雄の署名入りの「おふぇりや遺文」、中島 健蔵の献呈サインの入ったヴァレリーをもらった。
 あとで気がついたのだが、舟橋 聖一は自分の気に入った本の隅に、鉛筆でアルファベットをつけていた。彼なりの評価らしい。私がもらった本についていたサインは、全部、おなじだった。
 それから判断すると、この作家にとってあまり価値のない本、つまり読み返す必要のない本を分けていたらしい。

 教室にもろくに出たことがないのに、毎日、研究室に遊びに行っている学生だった。舟橋邸からそのまま大学に戻って、斉藤 正直先生に会った。彼は助教授でフランス語を教えていた。(ただし、私は斉藤 正直のクラスに出なかった。)斉藤 正直に、平野 謙のことで舟橋 聖一にお願いに行ったとつたえた。
 戦時中、勤労動員で、斉藤 正直は、大木 直太郎といっしょに私たちの監督をつとめていたから、毎日のように工場で話をしていた。だから、大学の先生と学生というよりも、もっと特別な、いってみれば戦友のように親密な関係が生まれていた。
 いまの学生には考えられないことだろうが、先生と学生のつながりはふつうよりずっと親しいものだったと思う。
 大木先生は、誰よりもよろこんでくれて、さっそく教授会に出してみようと答えてくれた。

 平野 謙は明治大学で教えることになった。

 もうひとつ、これも時効だから書いておく。
当時、斉藤 正直は「近代文学」の同人になりたがっていた。斉藤 正直を佐々木 基一、埴谷 雄高に紹介したのも私だった。その後、「近代文学」の同人が拡大されたとき、私は安部 公房、関根 弘たちといっしょに同人になったが、斉藤 正直もこのときいっしょに同人になった。

 遠い遠い昔のことである。

2007/05/29(Tue)  592
 
 ある日、平野 謙が私にいった。

 「明治(大学)の文学部で、先生、やらせてくれないかな。きみ、学校に行って聞いてみてくれないか」
 「ええ、いいですよ」

 当時、荒 正人は「第二の青春」で、一躍、戦後のジャーナリズムの売れっ子になっていた。平野 謙は、その荒 正人といっしょに、中野 重治の批判にあっていた。平野 謙は島崎 藤村論などを書いていたが、今から考えると、それほど原稿を書いてはいなかった。荒 正人ほど活躍する機会はなかったと思われる。そこで、大学の講師のクチでもいいから定期的な収入を確保したかったのではないか、と思われる。
 当時の私はそんなことなど考えもしなかった。平野 謙のようなすぐれた批評家が、大学にきてくれれば、学生にとってはこれほどありがたいことはない。
 誰に相談すればいいだろう。大木 直太郎先生なら話しやすい。しかし、先生は世田谷区に住んでいる。行くだけならいいが、帰りの電車賃がなかった。
 もっと近くに住んでいる先生に相談しよう。
 まっすぐ目白の舟橋 聖一のところに行った。舟橋 聖一は戦時中から戦後にかけて、明治大学で教えていたからである。戦後は、エロティックな作品を書きつづけ流行作家になっていた。
 戦後まもない時期で、公衆電話もなかった。だいいち電話をかけることも考えなかった。相手の都合もたしかめずにいきなり作家の自宅を訪問することが、どんなに失礼で、相手に迷惑なことか。私は何も考えない阿呆な学生だった。
 いきなり学生が訪問したので、舟橋 聖一も驚いたに違いない。美しい女性が用向きを聞いてくれて、仕事場に行ったらしく、また戻ってくると応接間に通してくれた。
 舟橋先生は、小説を書いている途中だったらしい。作家なら誰でも、知らない人物の不時の訪問で仕事を中断されたくないのは当然だろう。私はそんなことも考えずに、のこのこと応接間にあがり込んでいた。

 やがて美しい女性が先生の仕事場に案内してくれた。仕事場まで長い廊下になっている。外付けの長い廊下だが、腰板が作りつけの書棚になっていて、長廊下がそのまま書庫になっていて本がぎっしり並んでいる。

 蔵を改造した仕事部屋に、和服の先生がいた。
 戦後すぐから、私はいろいろな作家を「見た」(会ったとはいえない)が、自宅を訪問したのは、土岐 善麿につづいて、舟橋 聖一が二人目ということになる。

 挨拶もそこそこに、平野 謙が明治大学の文芸科の講師になりたいと希望していることを告げた。先生は、私が別の用件で訪問したものと思ったらしいが、平野 謙のことは考慮すると答えてくれた。
     (つづく)

2007/05/27(Sun)  591
 
 私の朝食。こんがり焼いたパン1枚。焼いている途中でバタをのせる。だからバタがよくしみ込んでいる。好きなのはマーマレード。ゴマのペースト。ほんとうはイングリッシュ・マフィンのようにしたいのだが、うまく焼けない。(バークレーに行ったとき、私ははじめてイングリッシュ・マフィンのおいしさを知ったのだった。)

 大森 みち花訳の「記憶のなかの愛」を読んでいたら、後朝(きぬぎぬ)のヒロイン、「グレース」がベッドにトレイを運んでくる。メニューはイングリッシュ・マフィン、コーヒー、スクランブルド・エッグ、ベーコン。
 羨ましいシーンだった。愛する女性とはじめてベッドをともにして、イングリッシュ・マフィンとコーヒーを運んでもらう「ニック」に反感をおぼえたくらいである。

 ついでにいっておくと、大森 みち花訳は、とてもすばらしい。いままで、私が読んだロマンス小説の訳のなかで、最高の訳といっていい。

 朝食にベーコン・エッグ。「フィリップ・マーロー」も自分で焼いていたっけ。
 コーヒー。ブラジル、モカ、いろいろなコーヒーを飲んでいたが、けっきょく、インスタントになってしまった。なにしろ面倒なことがいやになっている。
 コーヒーは何杯も飲む。オスカー・レヴァントのように。私とはまるで違ったタイプのアーティストだが。

 オスカーはコーヒーを飲まないときは酒を飲んでいた。コーヒーや酒を飲んでいるときもタバコを喫っている。食事はとらない。本職はピアニスト。
 背が低くて、顔色がどすぐろく、ぶおとこで、ふてくされた顔をしていた。いつもタキシード。あまり、しゃべらない。しかし、ときどき辛辣なことばをボソッという。しかし、他人を傷つけるようなことはけっしていわない。誰からも一目置かれていた。
 いつも人生なんてつまらないものだ、という顔をしていたピアニスト。完全な夜行性。ナイトクラブ、パーティー、ときどきコンサート。ときどき映画に出ていた。ある晩、パーティーで酒をのんでいて心臓発作で死んだ。

 食後。冬場はミカン、最近はトマト。まるかじり。私の朝食はこれだけ。「記憶のなかの愛」のカップルは、またセックスをする。そのあとでフレンチ・トーストを食べる。
 ほんとうに羨ましい。私は、「グレース」のような女性にイングリッシュ・マフィンとコーヒーを運んでもらうような幸運についぞめぐまれなかった。人生なんてつまらないものだ。

 「記憶のなかの愛」スーザン・メイアー 大森 みち花訳
    ハーレクイン・イマージュ 680円

2007/05/26(Sat)  590
 
 ときどき、おもしろいことばを見つける。そのときはおぼえているのだが、じきに忘れてしまう。

   現代女性のオーガズム発見は(現在の避妊とむすびついて)、女が男性支配という棺桶を爪でバリバリ突き破ってやったことなんですよ。
 エヴァ・フィジズ。1972年。
 この女性については知らない。ドイツ系イギリス人の作家という。エレイン・モーガンの本に出ていることば。

 ふ−ん。女性がオーガズムを「発見」したのはこの時期からだったのか。
 そのとき、すでに「男性支配という棺桶」the coffin of male dominance があって、女たちが爪を立てていたことは知っていたのだが。

 この短いことばから、じつにいろいろなことを考える。むろん、まずは女性のオーガズム。(これは別の機会に書く。)
 1972年。沖縄が本土に復帰した。
 この年、川端 康成が亡くなった。私は何も書かなかった。浅間山荘事件。私は何を考えたか。
 男性支配。ウーマン・リブ。あの時代に輝いていた「アマゾン」たち。
 この場合、「棺桶」はどういう形だったのか。
 女の爪。爪のかたち、あるいは美しさ。闘争のトゥールとしての爪。まだ、ネイル・アートは流行していなかったことはたしかだが、もしネイル・アートがあったら。サイケデリック・デザインだったろうか。
 有吉 佐和子の「恍惚の人」、北 杜夫の「酔どれ船」、山崎 正和之「鴎外 闘う家長」。私は何をしていたか。

 考えることはいくらでも出てくる。
 忘れないうちに書きとめておこう。

2007/05/24(Thu)  589
 
 「亀忠夫句集」を読む。

 その句は、長年にわたる修練を思わせて、作者の澄みきった心境がかたられている。
 ひといきに句を読んで、しばし作者の心境を思うべきものも多い。

   花冷えの 石庭にをり 一人旅
   文書きつ 文待つ 三寒四温かな
   探梅や 晩年の恋 胸の底
   花吹雪 妻と散歩の 余命かな

 おだやかな作風だが、読むひとの心に響いてくる。この俳人の句作は、長い、孤独な道をたどる旅人の行程だったのかも知れない。
 句集の序文に、自分がどうして作句に向かったかをのべている。

  私は当時十代の終わりだったが、既に評論家としてデビューしていた小学校の同級生、中田耕治氏の影響で、ドストエフスキーやカミュなど西洋文学をよく読んでいたせいもあって、桑原氏の論旨に賛同して、俳句から離れることになった。

 後年、「杉」、「鶴」、「沖」、「NHK俳壇」などで句作にはげんだ。

   大病の癒えつ 余寒のつつきけり
   冬の虹 道ならぬ恋 ありしこと
   菜の花や 故郷の色 恋の色
   すき焼きの 葱を好みし 母のこと
   駅を出て 野分の中を 行きにけり
   晩年に 出会い人よ 冬桜

 かくべつ解釈を必要としない句ばかりだが、この俳人の歩みのありがたさを思う。

 何にもさまたげられないこうした心境や、老いてもひそかに抱く異性への思慕、こうした作に華やぎがある。

     道一つ 命も一つ 秋の暮

 これは、芭蕉を仰ぎ見ての絶唱というべきだろう。

2007/05/22(Tue)  588
 
 今でもつきに二度は神田の神保町を歩いている。
 私の知っていた界隈もすっかり変わってしまった。

 戦後すぐの神保町を思い出す。
 駿河台から神保町にかけて、空襲でも焼け残ったが、淡路町、小川町から多町、司町一帯は全焼していたし、水道橋の駅はホームの屋根が焼けただれて、鉄柱もなくなっていた。(酒に酔った小林 秀雄が、このプラットフォームから転落したのは、この後のことである。)
 戦争が終わったばかりで、毎日、大きなニューズがつづいていた。特高警察が廃止され、内相、警視総監をはじめ、軍の上層部、右翼の指導者がぞくぞくと逮捕され、治安維持法が廃止され、言論の自由が指令されて、国民に重くのしかかっていた軍国主義の暗雲がはれたばかりだった。
 大学は再開されたが、教授たちは疎開先から戻ってこなかったため、授業はほとんどが休講だった。私と、友人の覚正 定夫(柾木 恭介)はほかに行くところがないので、毎日、大学の教室に行った。教室にいると、召集されて入隊した友人の誰彼が、よれよれの復員兵の姿で真っ先に教室に戻ってくるのだった。

 戦後すぐに「岩波」が文庫を出したとき、店の前に徹夜でたくさんの客が並んだ。まだ新刊書もろくに出なかったし、「岩波文庫」の復活は、誰にも自由の到来を実感させた。古書は店の棚もガラガラだった。しばらくして、まだ営業できなかった「神田日活」の前の歩道にムシロを敷いて、その上に占領軍の兵士が読み捨てたポケットブックや、けばけばしい表紙の雑誌を並べて売る露天商人が出た。
 外国の本に飢えていた学生たちが群がっていた。

 ゴザの上に5〜60冊ばかり、ポケットブックが投げ出されている。半分は、横に細長いアーミー・エディションで、手にとって見た。活字がぎっしり詰まっている。二、三行、読んでみた。なにが書いてあるのかわからなかった。
 次々に手にとって見たが、私の英語では、まったく歯が立たなかった。

 その中に一冊、なんとか読めそうな小説があった。短編集らしい。作者は、ウィリアム・サローヤン。知らない作家だった。農村らしい風景に少年が立っている表紙。内容は、私でも何とか読めそうな気がした。
 もう一冊、買うことにした。やさしい文章で書かれたものをさがして、全部の本をひっくり返したあげく、やっと一冊見つけた。
 作者は、ダシール・ハメット。むろん、この作家も知らなかった。二冊で20円。

 当時、食料は配給制で、外食するときは、外食券が必要だった。ソバ一杯が、17円。つまり本を二冊買っただけで、一食抜きということになる。空腹を抱えて、やっと買った本であった。

 帰宅して、辞書と首っぴきで読みはじめた。最初にサローヤンを読みはじめたが、主人公がアラムという少年とわかった程度で、あとはまるでわからない。そこで、ハメットを読むことにしたが、こちらは冒頭から何が書いてあるのかまるっきり見当もつかなかった。このとき私の内面にあったものは、なんともいいようのない思いだった。オレはバカだ、と思った。そのことに絶望した、というより、ひどい空虚感があった。そもそも語学もろくにできないのに、いきなりアメリカの文学にふれたいと思った、なんという傲慢だろう。自己嫌悪があった。
 そもそも英語もろくに勉強していないのに、こんな本を買おうと思った自分の思いあがり、うかつさに腹が立った。わざわざ読めそうな本を探して、まるで読めないていたらくであった。
 空腹で眼もくらみそうなのに、食事を抜いてまで、読めもしない本を買い込むのは、バカとしかいいようがない。少しでも読めると思っていながら、まるっきり読めない。なんという阿呆だ。

 その日から、アメリカ小説を相手の悪戦苦闘がはじまった。

2007/05/20(Sun)  587
 
中国の「瞭望東方週刊」が、大学生を対象に行った意識調査で、日本の大学生があげた「好きな中国人」(自由回答で3回まで)のリストを見た。
   1 チャン・ツーイー  119   8・0%
   2 ジャッキー・チェン  89   6・0%
   3 孔 子        61   4・1%
   4 諸葛孔明       57   3・8%
   5 劉 備        40   2・7%
   6 曹 操        25   2・2%
   7 関 羽        23   1・5%
   8 毛 澤東       23   1・5%
   9 楊貴妃        18   1・2%
  10 孫 文        18   1・2%

 チャン・ツーイー(張 子怡)、ジャッキー・チェン(成 龍)が選ばれているのは、日本でも人気のある映画スターだからだろう。
 孔 子は、当然として、諸葛孔明、劉 備、曹 操、関 羽があげられているのは『三国志』の登場人物だが、おそらくテレビゲームからの連想だろう。
 毛 澤東、孫 文があげられているにしても、現代中国史に関心があってのことではないだろう。

 私も、「好きな中国人」をあげてみようか。
 1) 張 慧敏/2) 張 曼玉/3) 林 青霞/4) 王 菲/5) 張 子怡/ 6) 趙 薇/7) 梅 艶芳/8) 鞏 悧/9) 王 租賢/10) 陳 明(広州のシンガー/同名、日本でよく知られている二胡奏者ではない)
 補欠に、劉 暁慶、那 英、王 馨平、黎 姿、彭 羚、小 雪(これも日本の映画スターではなく、香港の美少女)……きりがない。
 

2007/05/19(Sat)  586
 
 「雨の国の王者」さんへ。

 前にも書いたように、私のミステリー作品など誰の興味も惹かないだろう。そう思っていただけに、きみのように奇特な読者にはほんとうに感謝している。

 小説を書きながらジャズを聞いていた。というより、ジャズを聞いていれば小説が書けた。ジャズ喫茶に立ち寄って、アルテックか何かのスピーカーで、パーカー、コルトレーン、マイルズ、ドルフィーをガンガン聞きながら、短編を書きとばしていた時期もある。
 書きおえると、そのままバーに直行する。そんな生活だった。

 別のことを思い出した。当時、小さな劇団で演出していた。
 たまたま友人の戯曲を演出している途中、稽古場に電話がかかってきた。その日の稽古でどうにもむずかしい部分があって、私もあせっていたのだった。初日を間近にひかえていろいろ演出を変えてみたがどうもうまく行かない。電話がかかってきたので、稽古を中断して電話に出た。埴谷 雄高さんからだった。埴谷さんのお話によると、「近代文学賞」という小さな文学賞を私がもらえるらしかった。
 「思いがけないことですが、ありがとうございます」
 私はこたえて、すぐに稽古場にもどった。そのまま黙って稽古を続けた。
 夜も稽古をつづけた。やっと稽古が終わってから、みんなに文学賞をもらうことを告げた。稽古中に私がどなりつけたり、文句ばかり並べていたので、すっかり落ち込んでいた役者たちが、とたんに、うきうきした気分になった。拍手が起きた。それまでうかぬ気分だった私もきゅうにうれしくなって、買ったばかりのコルトレーンを女優さんのひとりに、あっさりくれてやった。
 その晩、近くの酒場でワイワイやっているうちに、こんどは私をさがしていた別の編集者につかまって、逃げるわけにもいかず、徹夜で短編を書いた。
 コルトレーンを聞きながら書きたかったのに。
 いや、もっとほんとうのことをいえば、コルトレーンを進呈した彼女と……つもりだったのに。……(笑)

 「雨の国の王者」さんの質問のおかげで、つい、ろくでもないことを思い出してしまった。きみのメールも思い出も楽しかったけれど。

 「風のバラード」という短編。これはどの短編集にも入れず、のちに中島 河太郎編のアンソロジーに入れてもらった。私としては気に入っている短編。

 私はそういう作家、そんな程度の作家なのだ。
 さればこそ、「中田耕治書誌」などこの世に存在すべきではないと考えているので、あしからず。

2007/05/16(Wed)  585
 
 「雨の国の王者」さんへ。

 連休中に、書斎のご本を片づけていて、私の本を見つけたそうでご苦労さまでした。
 私の著書に関していろいろとご質問をいただいて、ちょっとおどろいています。

 じつは手もとには自分の著訳書がほとんど残っていない。おかしな作家なので。
 出版社から本がとどいてくると、親しい友人、知人たちにさしあげるのだが、わずかな部数、手もとに残しておいた本も、いつの間にかなくなっている。
 なにしろ自分の書いたものに興味がないので、本をとっておく習慣がない。だから、きみが「中田耕治書誌」を探しているというので本人が驚いている次第。

 私の略歴にミステリー関係の著・訳書がほとんど記載されていなかったのも、ことさら隠蔽しようとしたわけではなく、そんな本を書いたこともすっかり忘れてしまったからなのだ。

 「明日のない男」や「死を呼ぶ女」が、どの短編集に入っているのかと聞かれても返事のしようがない。未収録とすれば初出誌は何かと問われても、私自身、まるでおぼえてもいない。
 だから、私(中田耕治)はそういう作家なのだと思っていただければいい。
 きみの熱心な質問を受けて、自分がどんなにボケているか、はじめて気がついたのはわれながらあきれた。いそいで書棚を探してみたら、やっと『殺し屋が街にやってくる』が見つかった。本の扉を開けてみると、最初のページに、

  中田耕治さま
   ビッグボックスの古本市で見つけました
   ゲストとして来ていただきましてありがとうございます
           木村 二郎

 とサインしてあった。してみると、自分の著書をひとさまから頂戴したわけである。

 これで思い出したが、あるとき、小鷹 信光さんが主宰なさっていたミステリー研究会に招かれて、早川ミステリの草創期の頃のことをしゃべった。そのとき、同席していた木村 二郎さんが私の本をもっていたので頂戴したのだった。
 私としては木村 二郎さんのご好意がうれしかった。
 著者が自分の本を手もとに一冊も置いていない、と知った木村さんはあきれたかも知れない。
 だから、『傷だらけの逃亡』が長編なのか短編集なのか、と聞かれても、ほんとうにおぼえていない。こうなると、どうやら重度の認知障害だなあ。(笑)

       (つづく)

2007/05/14(Mon)  584
 
 ボリス・エリツィンが死んだ。(’07/4/23)

 旧ソヴィエト解体に大きな役割を演じて、一時はクレムリンの頂点にたった。しかし、その政治家としての顔は、民主的な改革派、強権主義、政治的なポピュリズムなどいろいろで、民主化、資本主義的な市場経済の道をたどった新生ロシアで、功罪あいなかばする足跡を残した。
 新聞の記事には、エリツィン氏ほど歴史的評価のむずかしい政治家はいないだろう、とあった。

 1991年6月、共産党保守派と軍の一部によるクーデタ未遂事件が起きた。このとき、ソヴィエト連邦大統領だったゴルバチョフは、避暑地で軟禁された。
 やがて、ゴルバチョフは無事にモスクワに帰還して、人民会議場で大統領としての演説をしようとした。
 ゴルバチョフが一枚の原稿を手にしてにこやかに笑みを浮かべて演壇に立った。ゴルバチョフは、無事に戻ってきたと挨拶して、手にした書類に眼をやって「この報告はまだ読んでいませんが」といった。そのとき、上手にひかえていたエリツィンがつかつかと寄ってきて、語気するどく、
 「あんたは、ここで読めばいいんだ!」
 と浴びせた。
 ゴルバチョフが、一瞬、顔色を変えた。鼻白んだ表情というか、ムッとした顔で、エリツィンを睨み返した。ソ連邦大統領ともあろうものが、ロシア共和国大統領からこんな無礼な指示を受けたことはなかったに違いない。
 エリツィンは尊大な表情で、またもや語気するどくおなじことばをくり返した。
 さすがに、ゴルバチョフもその場の空気を察したらしく、固い表情に微笑をはりつけて、そのメッセージを読んだ。
 この瞬間、ソヴィエト体制が崩れたのだった。

 私はこのシーンをテレビで見たが、旧ソヴィエト解体のきっかけになったのは、まさにこの瞬間だったと思う。すごいシーンだった。
 私はソヴィエトという巨大な虚構(フィクション)、あるいは幻想(ファラシイ)が地響きをあげて崩壊してゆく音を聴いたような気がした。
 この直後に、共産党保守派と軍の一部によるクーデタが起きたが、エリツィンは戦車のうえに立って民衆に抵抗を呼びかけた。このシーンもテレビで見たが、これにはあまり心を動かされなかった。

 エリツィンは、ゴルバチョフの運命について回想している。
 「このクーデタが成功していたら、コルバチョフは、廃帝ニコライや、失脚したフルシチョフとおなじ運命をたどっていただろう」と。
 つまり、ゴルバチョフを銃殺しなかったのは、自分の庇護があったからだった、ということになる。エリツィンの傲慢な姿勢、政敵や同輩の生殺与奪までにぎろうとした非情な表情が透けて見える。

 エリツィンの葬儀の模様をテレビで見た。(’07/4/26)途中で、故郷のスヴェルドロフスクからモスクワに向かう日のエリツィンの姿が出てきた。
 アマチュアの撮影だろうか。ほんの数分の映像。ちいさなアパートの一室。大きなからだのエリツィンが、長椅子に腰かけている。服を新調したらしく、表情もわかわかしい。まったく「非情」な印象はない。やおら身をかがめて、長椅子の下から小さなバッグを出し、無造作にかかえて狭い部屋から出てゆく。まったく無音で。
 つぎのカットは、外に出たエリツィンが、街角に駐車している車まで歩いて行く。ロシアの地方都市だが、人通りもなく、車も走っていない。エリツィンの大きな背中が遠くなって、黒く写っているだけ。サイレント映画のように。
 共産党の中央委員に選出されて、モスクワに向かうエリツィン。
 このとき、自分が世界史に残るような運命を担っているとは考えもしなかったに違いない。

 エリツィンの尊大な表情と、動揺したゴルバチョフが、一瞬、顔色を変えたのは、自分の生殺与奪が誰の手にあるのか察知したからではなかったか。あのシーンは、私がテレビで見たもっとも忘れられないシーンのひとつ。それに、このスヴェルドロフスクのシーンが重なってきた。

 エリツィン氏ほど歴史的評価のむずかしい政治家はいないだろう、てか。笑わせる。

2007/05/12(Sat)  583
 
 もう前のことだが、テレビで「三大テノール・ガラ・コンサート」を見た。(05年10月5/6日。サントリーホール)。たぶん再放送だろうと思う。
 指揮、ニコラ・ルイゾッティ。東響。ヴィンチェンツォ・ラ・スコラ、ジュゼッペ・サバティーニ、そしてニール・シコッフ。
 その内容をここに書くつもりはない。

 第二部「ナポリ民謡」が終わって、万雷の拍手。三人が舞台から引っ込む。むろん、アンコールの拍手が続く。最後に三人の「サンタ・ルチア」でおひらき。しかし、観客は、それだけではおさまらない。拍手がつづく。
 すると今度は、スコラがチェロを抱えて出てきた。え、歌うんじゃないのか。観衆がちょっと驚く。それを見たルイゾッティがピアノに向かった。おやおや、何をやるんだろう。
 ふたりはサン・サーンスの「象」を演奏した。むろんご愛嬌だが、場内は大喜び。驚いたことに、つぎにルイゾッティが「フィガロ」を歌った。けっこう聞かせる。ウケた。
 つづいてサバティーニがフルートをもって出てきた。当然、スコラの隠し芸に対抗して、何かご披露するのだろう。ベルリーニの「ノルマ」のアリアを演奏した。これがまたウケた。
 こうなると、観客もやたらにうれしくなってくる。さて、つづいてはシコッフが何をやるのか。ますます期待が高まってくる。
 シコッフは、昔のオリヴァー・ハーディー(相棒がスタン・ローレル。サイレント時代からトーキー初期に大変な人気があった喜劇役者)みたいな動きで、ヴァイオリン・ケースを抱えて出てきた。なんと、シコッフの演奏が聴けるとは!
 シコッフがヴァイオリン・ケースのふたを開く。楽譜を引っかきまわす。演奏するはずの楽譜が見つからない。次々に、楽譜をつかんでは舞台に放り投げる。あとの二人も、心配そうな顔で寄ってきて、出番が終わったサバティーニたちも見るに見かねて、あわてて寄ってくると、いっしょになって楽譜をつかみ出す。ステージに紙クズが散乱する。
 シコッフが青いハンカチーフをつかんで放り出す。ここまできて、観客はシコッフのかくし芸は手品らしいと気づく。
 最後に、やっとお目当ての品(楽譜)が見つかったらしい。シコッフの顔に笑みが広がる。観客も安心する。と、彼がとりだしたのは、なんとトライアングル。観客がどよめく。
それはそうだろう。スコラがチェロ、サバティーニがチェロなのだから、シコッフが何かの楽器を出して、みごとに演奏すると思っているのだから。観客に笑いがひろがった。

 観客がしずかになったとき、シコッフは耳元に寄せて、その楽器をかるくたたく。音はほとんど聞こえない。観客はこの寸劇に大爆笑で、シコッフも、してやったり、という感じでうれしそうな顔になる。このシコッフは、一流のコメディアンの風格さえ見せていた。

 誰の記憶にも残らないようなシーン。しかし、日本のオペラ界でこういうパーフォーマンスはほとんど見られない。だから、こんなことにも一流のアーティストの風格から文化の成熟、芸術を楽しむ余裕といったものが見えてきて、それが、私にはうらやましかった。

2007/05/10(Thu)  582
 
 小説の中で、一番早くラジオを登場させた作家は、菊池 寛だそうな。どういう作品にラジオが出てくるのか知らない。1923年、真空管ラジオを発明したマルコーニが、無線電信網が世界をおおうと宣言した時期、『真珠夫人』から通俗小説に転向して、圧倒的な人気作家になっていた菊池 寛が、いち早くマス・メディアとしてのラジオを自作に取り入れたとしても不思議ではない。

 では、小説に一番早くテレビを登場させたのは誰だったか。
 中田 耕治である。本人が言うのだから間違いない。『闘う理由、希望の理由』という短編にテレビ・カメラを登場させた。当時、敗戦国の日本は占領下にあって、まだテレビ放送も認可されず、現実にテレビなどどこにも存在していなかった。
 そういう状況のなかで、ありもしないテレビを書きこんだ。この短編を「三田文学」に載せてくれたのは山川 方夫だが、彼はニヤニヤしながら、中田さん、いたずらですね、といった。

 もうひとつ、それまで誰も使わなかった(セックス関連の)禁止用語を小説にはじめて書いたのも私だった。今では別にめずらしくもない名詞だが、これも私のいたずらだった。むろん、自慢になることではないが。

2007/05/08(Tue)  581
 
 WHO(世界保健機関)の発表。(2007.2.27)
 2005年、認知賞の患者数が、約2千400万人。
 2030年には約4千400万人(ほぼ1.8倍)になる、という。

 日本のように高齢化が進んでいる国や、ヨーロッパ、アメリカなどの高所得層の多い国では、05年、人口、1千人当たり、患者数は約11.4人。30年には、これが約17.5人に増加する。世界の平均では、05年に約3.8人。これが、2030年には、約5.6人。

「先生、お元気ですか」
 こう訊かれたときは、「ハイ、マアです」と答えている。ハイ、マア元気ではアルツれど、というおフザケ。しかし、WHOの報告を読むとふざけてもいられない。
『ルイ・ジュヴェ』の中で、演出家、ジャック・コポォの晩年を描いた。彼は認知症であった。知的機能が衰え、記憶も病的に低下した。(第六部 第九章)
 俳優のジャン=ルイ・バローは、
「コポーのようなみごとな知性が、全盛の輝きを放ったあとで、まるで日食のように、一瞬に隠されてしまうのをじっと耐えて見ていることは、私たちにはひどくつらいことだった」
 と書いている。

 私の場合は、せいぜいボケ老人になるだけのこと。これはもう仕方がない。ただ、自分の気もちとしては、できれば任痴症でありたい。痴に任せる。もともと愚かな人間なのだから、愚かに生きるしかない。
 この「コージートーク」を書いているのも愚行のひとつ。

2007/05/06(Sun)  580
 
 大学の近くにそば屋があった。
 学生時代、敗戦直後は食糧の配給券をもって通ったが、そばが1ぱい17円だった。そばを食う金を倹約して、アメリカ兵の読み捨てたポケットブックを買うことにしていた。1冊20円。だから、そばも食えなかった。
 大学で講義をするようになって、たまに立ち寄ることがあった。店の様子は変わったが、もともと、たいしてうまいそばを出す店でもない。

 大学で講義を続けたが、講義のあとは、いつも友人の小川 茂久といっしょだった。小川はフランス語の教授で、斗酒なお辞せずという酒豪だった。行き先はいつもきまっていて、「あくね」という酒場か「夕月」という居酒屋だった。

 お互いに忙しくて時間があわないときがある。
 そういうときは、おなじ神田の裏通りのそば屋にきめていた。火鉢形に細長く切った囲炉裏の前に箱膳を据えて、とっちりこと腰を下ろして、サカナはほんの少しの塩けがあればよし、手酌で二合、一口飲んでは舌鼓。浮世の何を思うでもなく、用がなければ何を言うでもなく、箸休めをしてはまた一口、チビリチビリとまた一口、二銚子ばかりを小一刻、そばをツルツル半時間、ほろ酔い機嫌で外に出る。

 これが、小川 茂久といっしょの十年一日の紋切り型。小川は、佐藤 正彰先生、斉藤 磯雄先生などにつかえて明治の仏文科をささえつづけた。中村 真一郎氏と親交があった。私より2歳上。少年時代から大人(たいじん)の風格あり、酒に弱い私につきあってくれたものだった。

 私が16歳のときに会って、50有余年親しくした友人だった。

2007/05/04(Fri)  579
 
 元気がないときの対症療法がある。その一つは、好きな映画を見ること。ビデオ、DVDで。
 私が見るものはだいたい決まっている。

「ファウル・プレイ」、「ローラ・ラン・ローラ」、「ファイアー・ストリート」といったB級映画である。こういう映画が見たくなるときは、きまって元気がない。つまり、見ているうちに、元気を回復してくる。私にとっては、大切な疲労回復薬のようなものである。

 それでも元気にならないときはどうするか。
 いよいよ最後にとっておきの映画を見る。
「刀馬旦」か「ウォリアーズ」の2本。これまたB級映画だが、これに「重慶森林」を加えれば、だいたい私の精神的な疲労や、悩みは解消する。

 それでも回復しなかったら?
 そうなったら仕方がない。寝込んでしまう。

2007/05/02(Wed)  578
 
 坂口 安吾は「風博士」で認められた。つづいて「村のひと騒ぎ」(昭和7年10月)を発表する。(彼の初期の作品としてはあまり高く評価されていない。)
 当時、新進作家として高い評価を受けていた竜胆寺 雄は、翌日、坂口安吾を取り上げて批評している。

   物語の中の主人公たちが脱線するのは、いくら脱線してもいい。作者がかうハメをはづして脱線したんでは仕方がない。作者が一人でドタンバタンと百面相騒ぎをして、ひとを笑はさうとしているのは第一下品である。いい素質をもったこの作家は迷路を彷徨しているもののやうだ。何しろこれでは青クサくて下手な落語にも及ばぬ。

 たしかに坂口安吾は、その後「迷路を彷徨して」いたが、戦後、「白痴」でそれまでとまったく違った姿を見せて登場する。一方、竜胆寺 雄のほうも、戦前すでに文壇から去って(本人は抹殺されたと思っていたらしい)、それこそ迷路を彷徨していた。戦後は、『不死鳥』などで復活をはかったが果たさず、サボテンの研究家になった。
 私は、竜胆寺 雄の『アパアトの女たちと僕と』は昭和初期を代表する作品だと思っている。
 この二人の文学的な軌跡にさえ、戦前の作家の不幸な運命を見るような思いがある。
 同時代の批評は、後世の眼から見ると、ずいぶんおかしなところがある。しかし、そうした批評上のバイアスがじつにおもしろい。おなじ時代に生きている息吹のような物が感じられるからだろう。竜胆寺 雄は、『村のひと騒ぎ』を散々ケナした挙句、最後になってわずか一行、付け加えている。

   因みに、――この作品の骨子と構想とは大変に面白かった。

 私は、こう書いたときの竜胆寺 雄の表情を想像するのである。

2007/04/30(Mon)  577
 
「お買いものに行ってちょうだい」
 母にそういわれて、私は5銭玉を握りしめて勝手口からかけだした。路地を出た先に小さなお店があった。食料品が主で、ほかに日常の雑貨を並べた便利屋で、店先に、大豆、ウズラ豆、サツマイモを入れた木の箱、野菜の隣にイワシ、サバの干物、トウフや佃煮が並んで、棚のクギに下げたザルに生みたてのタマゴが盛られている。
 鶏卵は毎日の食卓に並ぶにしても、たいていはその日の朝に買う習慣だった。冷蔵庫もない時代で、タマゴは足の早い(腐敗しやすい)食品だったし、値段も高かった。

 下水に格子のフタがはめ込んである。それを避けてピョンと飛び越えた。とたんに、小さな手の中から白銅貨が飛び出した。大切に握りしめてきたのに、道路に飛び出した拍子に手のひらを開いてしまったらしい。
 5銭玉は私の目の前で転がってゆく。あわててそれをつかもうとしたが、そのはずみに前にバッタリ倒れた。白銅貨は転がり続けて、排水溝のフタのあいだに吸い込まれた。

 信じられない出来事だった。私は泣き出した。
 私の様子を見ていたらしい近所のおばさんがすぐに駆け寄って、私を抱き上げてくれた。
「おう、可哀そうに。痛かったねえ」

 膝をすりむいたらしく、少しだけ血がにじんでいた。痛みは感じなかった。
 私はなぜ泣いたのだろうか。5銭銅貨が自分の見ている前で転がって、それをつかむことができなかった。これはありえないことだった。それが信じられなくて泣いたのだった。

 このできごとは幼い自尊心を傷つけたような気がする。泣きながら家に戻って、母にすがりついた。母は私から事情を聞こうとしたが、私にはうまく説明ができなかった。はじめてのお使いに失敗した。だから泣いたのではなかった。お金を落としたためではない。他の理由でもないようだった。自分でも何がどうなったのかわからない。だから泣きだしたのだろう。そういうことが、幼い私には言葉で説明できないのだった。ただ私は母にとりすがって泣いていた。

 三歳半か四歳の私の記憶。

2007/04/28(Sat)  576
 
 ありえない血縁関係。
 マルグリット・デュラスの言葉。
 ジャンヌ・モローは誰の孫娘だろうか。デュラスは言う。ルイ・マルを介して、スタンダールの孫娘、と。デルフィーヌ・セイリグは? アラン・レネを介して、プルーストの孫娘。
 とてもエスプリのきいた言葉だと思う。
 
 こういういいかたで、いつか日本の女優が語られるようになる日がくるだろうか。

2007/04/26(Thu)  575
 
 BS11で、ルネ・クレマンの「しのび逢い」(1954年)を見た。主演はジェラール・フィリップ。
 この映画は何度も見ている。ジェラール・フィリップは、私の『ルイ・ジュヴェ』に登場してくる。ありし日のジェラールをしのびながら、いろいろなことを思い出した。

 原作は『白き処女地』のルイ・エモン。戦前のフランス映画ファンなら、ジュリアン・デュヴィヴィエの映画を思い出すだろう。若き日のジャン・ギャバン、マドレーヌ・ルノーの姿も。
 この「しのび逢い」のなかで使われているテーマのシャンソン、作詞がピェール・マッコルラン。作家としてのマッコルランは、日本ではほとんど知られていないが、私たちは、おなじデュヴィヴィエの『地の果てを行く』の原作者だったことをおぼえている。

 古い映画を見ていると、もはや失われた風俗、ファッション、街の風景が、あらためてよみがえってくる。現在のロンドンの人がこの映画を見れば、なにがなしノスタルジックな思いにかられるかもしれない。この映画で、私たちはイギリスの「戦後」を見ることができる。
 ルネ・クレマンは、『禁じられた遊び』を作ったあとで、この映画をロンドンで撮っている。そんなことから、別のことを考えはじめた。
 おもに女性の風俗を描く作家は、風俗作家として、いささか不当にあつかわれてきた。 志賀 直哉が文学の神様のようにあつかわれていた時代が長く続いたが、今では志賀 直哉よりも、里見 敦や、芥川 龍之介、久保田 万太郎のほうがずっとおもしろい。
 中村 光夫のような批評家は、風俗作家を徹底的にコキおろした。たしかに、たいていの風俗小説は書かれてしばらくは読まれるかもしれないが、すぐに命脈が尽きてしまう。しかし、一世代、二世代たって読み直すと、意外に新鮮に見えたり、あるいはその時代の姿を想像させてくれることが多い。最近の文学の動きのなかで、中村 光夫のような批評が消えただけでも、ずいぶん風通しがよくなった。

 「しのび逢い」は、艶笑ものといっていい。家賃も払えずにアパートから逃げ出す主人公が、よれよれのレインコートに隠して持ち出したカセットを、路上に落としてしまう。つぎの瞬間、通り過ぎた車のタイヤが轢いて、ラジオが壊れる。残骸をひろって立ちつくす「リポワ」。茫然自失するその表情に、俳優、ジェラール・フィリップのすごさがみられる。惜しい俳優だったなあ。

 「しのび逢い」という邦題はよくない。ジェラール・フィリップが、どこか哀愁をおびた二枚目なのでこんな題になったのだろう。原題は「ムッシュウ・リポワ」。今ならこのままの題名で公開されるだろう。

 古い映画を見ながら、とりとめもないことを考える。私の悪徳のひとつ。

2007/04/24(Tue)  574
 
 その事件は、昭和17年(1942年)1月、奄美で起きた。当時、旧制中学4年だった少年が、最近になって書いている。

    (前略)私が目にし、そして記憶にとどめているのは昭和十七年正月明け早々のことである。旧制中学四年の冬休みのことである。突然、防空演習が行われた。その前年の十六年十二月八日に大東亜戦争(真珠湾攻撃)が始まっているから、その時防空演習が行われるのも不自然ではない。しかし、それは、要塞司令部の参謀の指導の下に、実は防空演習に名を借りたカトリック教の隠れ信者と黙された人々いじめだったことは明らかだと思われる。
    (中略)演習に参加した人々も所どころに集まっていたが、目標にされた建物は、それは防空演習の跡というよりは、どうしても火災現場を想像させる感じのものだった。私たちの学級にもクリスチャンと思われる者がいたが、皆同様に接していた。しかしその時以来姿を見せず、一人は家族で本土に引き揚げて行き、一人は何処かに転校したらしかった。

 奄美では、昭和七、八年頃から、要塞司令部の参謀を中心に街の一部の人たちがいっしょになってカトリック排撃運動が起こっていたという。その結果、外人神父は島外に追放され、教会の所有はすべて没収、信者は改宗を強要されたらしい。
 ほんとうに小さな事件だが、戦時中の軍国主義者の狂気じみた行動を、いくらかでも知っている世代の私としては遠藤 周作に教えてやりたかったと思う。

 それよりも、私としては、この参謀たち(昭和7、8年当時の参謀と、その後に歴任した参謀たち)、とくに昭和17年に在任していた参謀たちのその後を知りたいと思う。

 奄美が要塞地帯だったから、沖縄の地上戦に参加した人もいたかも知れないが、戦後まで生きていたとすれば、どう生きたのか。

 この少年は、奄美在住の詩人、進 一男である。最近の彼は全詩集をまとめて出しているが、奄美のカトリック排撃の動きについて、はじめて書いている。
 遠藤 周作が生きていたら、どんな思いで読んだろうか。

(注)進 一男著「続続 進 一男全詩集」(沖積舎/’07年2月刊 9000円)

2007/04/23(Mon)  573
 
 ある日、澁澤 龍彦が、たまたま買ったばかりのフランス語の本を見せてくれた。そのことを、私が座談会でしゃべっている。

 中田  いつかご自分の買った本を見せてくれた。ぼくなんか読めない本だけど、澁澤さん、それはそれはうれしそうなの。中世の秘蹟か何かの研究書だったけど、その本を手にしてることがもううれしくってたまらないの。ぼくまで、うれしくなってくるようで、ああいう澁澤さんはすばらしいなあ。
 高橋(たか子) 子供が自分のもっているオモチャを、友達に喜んで見せるように、ニコニコしてお見せになりますね。
 中田  お人柄というより、何か純潔なんだなあ。ぼくが(澁澤邸の)壁にかけてある絵を見ていると、それがうれしいみたい。ぼくは好奇心がつよいので、無遠慮にジロジロ見るんだけど、澁澤さんはそういう無遠慮が恥ずかしくなるほど、やさしいんだ。
 種村(季弘) 垣根を作ってここからこっちに寄せつけないということは、全然しませんね。

 この座談会は、高橋 たか子、種村 季弘、四谷 シモンのお三方、私が司会役だった。(別冊新評『渋澤龍彦の世界』昭和48年10月刊)
 澁澤邸で私の見た絵は、葛飾 北斎。大きな女陰から男が外に出ている有名な一枚。

 人生にはさまざまな偶然がある。澁澤 龍彦と出会えたことは、ほんとうにありがたいことだった。彼の慫慂がなかったら、私の仕事のいくつかは書かれないままで終わったにちがいない。
 今にして彼の知遇を得たことを人生の幸運のひとつと思っている。

2007/04/21(Sat)  572
 
 近くの古本屋が廃業するというので、日頃は読みそうもない本を買い込んだ。暇があったら読んでみようと思って。
 たとえば、書棚の片隅にころがっていた一冊の本。
 「東西感動美談集」(講談社/非売品/昭和3年)。800ページ。

 昭和2年(1927年)、芥川 龍之介が自殺した。この年、金融恐慌がはじまっている。この本が出た昭和3年、特高警察が設置された。戦前の、もっともいまわしい凶悪な言論統制がはじまる。

 この本は800ページの大冊なのに非売品だった。円本ブームに参加しなかった講談社が雑誌のキャンペーンでバラまかれたからだろう。
 執筆者と内容をざっと見て買ったのだが、100円。いまどき、こんな本を読む人はいないだろう。これまで買い手のつかなかった本だったらしく、古本屋のおニイチャンが50円にまけてくれた。

 帰宅して、804ページ、3時間で読んだ。文学的にはほとんどとるに足りない。いや、まったく得るところがなかった。昭和初年の読者はこうした通俗読物、ないしは通俗的な伝記ものに感動したのだろうか。

 大正3年、青島(チンタオ)攻撃に倒れた歩兵下士官の実話。熊谷次郎直実の馬を世話した忠僕。児玉源太郎(陸軍大将)とヤクザの話。姫路の町大工の悲劇、といった実話がならんでいる。そのなかに、オーストリア軍を迎撃したナポレオン麾下の一将校が、山峡の古塔をわずかな守兵をひきいて死守し、最後まで戦ったドーベルヌ。清国の弓師の子、燕揚が身をもって父を助けた美談など、53本がぎっしりつまっている。

 執筆者もほとんど私の知らない人ばかり。しかし、よく見ると沢田 謙、池田 宣政(南 洋一郎)、安倍 季雄、野村 愛正などが書いている。少年時代に、私はこの人たちの本を読んだものだった。
 さして意外というほどではなかったが、執筆者のなかに、後年、左翼作家として知られた間宮 茂輔、詩人の岡本 潤、流行作家になった尾崎 士郎などの名があった。この人たちは無名ではないにしても、まだ、有名とはいえなかったに違いない。
 菊地 寛が最後になって登場する。「名君物語」と題して、将軍吉宗の行状を描いている。後年の作家が、読み物として、日本人の逸話や美談を書きつづけたことを私たちは知っている。してみれば、彼の、もっとも早い時期の作品だろうか。この菊地 寛を読んで私がさまざまな感慨を催したとしても当然だろう。
 あくまで私の推測だが、菊地 寛はこの本の企画に深くかかわっていたのではないだろうか。苦労人だった彼は、貧乏作家たちを救済しようとして、執筆者たちに稼ぐ機会をあたえてやったのではないか。
 菊地 寛が「劇作家協会」、「小説家協会」を作ったのは、大正9年(1920年)、無名ではないにしても、まだ未知数の存在だった人たちは、その後、関東大震災、大不況の影響をうけたはずである。やがて、大正15年、(1926年)、「劇作家協会」、「小説家協会」が合併して「文芸家協会」が発足する。

 この本の口絵は、荒木 十畝。挿絵画家は30名。そのなかに伊藤 幾久造、斉藤 五百枝、樺島 勝一の名があるのは当然だが、名取 春仙、山川 秀峰、五姓田 芳柳、神保 朋世などが描いている。これにも感慨を催した。

 この本が出版されたとき、私は1歳。むろん、こんな本が出ていたことを知らない。
 少し前の私なら、まったく手にすることもなかったに違いない。

 この本を読んでいるうちに、いつしか戦争に向かって歩みはじめている昭和という時代の足音がかすかに聞こえてくるようだった。

2007/04/20(Fri)  571
 
 女性が、離婚して300日以内に出産した子を、すべて「前夫」の子とする民法の規定がある。
 これに対して、例外を認める法案が提出されるはこびになったが、反対が多く、見送られることになった。(’07/4/11)

 衆議院議員、稲田 朋美が反対する理由は……
  (離婚前に妊娠するような)行為は、法律婚の間の不貞行為は、不法である。実質的に別居しているケース等の例外を保護する場合は、裁判上の手続きでみとめればよい。
 ということにある。
 また、おなじく衆議院議員、西川 京子が反対する理由は……
   この民法規定の見直しによって、婚姻制度が崩壊する危険性がある。
 という論点である。

 私は、この意見に集約されている考えかた、と同時にこういう意見を「良識」とする見解に反対する。
 稲田 朋美がいう「法律婚の間の不貞行為」といういいかたには、離婚した女性への(無意識にせよ)差別がひそんでいるし、こういう発言には戦前に姦通罪を成立させた悪しき法律論、それを「善」と思い込む愚劣な観念がひそんでいる。
 離婚は、法的には「婚姻関係終了」である。正式に離婚をすればいいではないか、といわれるかも知れない。しかし、離婚手続きに手間どったり、離婚までのさまざまな葛藤があったに違いないことを斟酌しない意見に過ぎない。
 裁判にのぞむ当事者たちの負担もおそらく大きいだろう。

 裁判の結果、300日以内に生まれた子を戸籍に入れることが認められても、その戸籍には、前夫の氏名、裁判による手続きまでがれいれいしく記載される。これこそ戦前の戸籍に「私生児」の記載があったこと以上の悪例になる。つまり、国家がその子の生涯にいまわしい「傷」を押しつけ、生涯、屈辱を強制するようなものではないか。
 西川 京子が、この民法規定の見直しによって、婚姻制度が崩壊する危険性があると見ているなら、誤りもはなはだしい。よくいっても歴史、社会、性に対する無知、きわめて粗略な思い過ごしである。人倫上、婚姻制度が崩壊することはない。逆にいえば、離婚して300日以内に出産した子に例外を認める法案が提出されたぐらいで崩壊の一歩をたどるほどの制度なら、そんなものはすぐに崩壊してもいいのである。

 私が、裁判員制度を手放しでよろこべないのは、この種の「良識」が裁判の審議を支配するのではないか、と危惧するからである。

2007/04/18(Wed)  570
 
 私がホレース・マッコイをはじめて読んだのは1946年の冬だったと思う。
 アメリカ文学は、私にとってはテラ・インコグニタ(未知の大地)だった。

 これも私にとっては未知の作家だったが、やがてヘミングウェイという作家に出会って、『キリマンジャロの雪』を訳した。当時、私は芝居に関係しはじめていたので、俳優の訓練のためのテキストとして使った。これが、私のはじめての翻訳になった。
 とにかく、手あたり次第にいろいろな作家を読みはじめていた。なにしろ、それまで読んだことのない作家ばかりだったから、毎日、新しい「発見」をしていたような気がする。むろん、こっちが知らなかっただけのことだが。

 そんなことから、別の人のことを思い出した。

 戦後すぐの昭和20年(1945年)から21年冬にかけて、日本の山村を訪れたアメリカ人ジャーナリストがいた。敗戦直後、日本の国内情勢が混乱をきわめていた時期で、一ジャーナリストが来日したことなど、誰の記憶にも残っていないだろう。
 ただ、私としては、この俊敏なジャーナリストの眼に何が映っていたのか、知りたいと思ってきた。
 この人は、東京を中心に、関東、中部を熱心に歩きまわったらしい。
 栃木、那須の、ある村を訪れたとき、たまたま雪が降ってきた。淡雪だったらしく、すぐに溶けてしまった。
 彼が出発するときに、宿の主人が宿帳か何かを出して、記念に署名をもとめた。
 そのアメリカ人は、思いがけないことでとまどったのかも知れない。しかし、こころよく応じて、「それでは日本の歌を書きましょう」といって、二行詩らしいものを書きつけた。むろん、英語である。

    The Snow Came To The Garden
          But Not For Long
 このアメリカ人ジャーナリストは、エドガー・スノウ。

 この俳句を訳すのは、至難のわざである。しいて意訳をすれば、

   淡雪の庭に降りては消えにけり
   いまし降る雪のつづかぬ庭にして
   降りながら庭に小雪のとどまらず

 ぐらいだろうか。しかし、前の訳では Not For Long が生きていない。あとの訳では、理が勝ちすぎるだろう。
 参考に、いくつか雪の句をひろって見よう。

   雪降るや 小鳥がさつく竹の奥     多代
   初雪や 松のしずくに残りけり     千代
   草の戸や 雪ちらちらと夕けぶり    よし女
   雪ふんで 山守の子の来たりけり    なみ
   雪ひと日 祝いごとある出入りかな   はぎ女

 どの句も気韻において、私の訳などのおよぶところではない。
 もう一つ、疑問が出てくる。スノウは日本の誰かの句を思い出して書いたのだろうか。では、誰の? これがまた見当もつかない。
 スノウ自身の句と考えてもいい。日本にくる前に、俳句まで眼を通していたに違いない。

 スノウは日本を去った直後、半年にわたってソヴィエトに滞在して、ルポルタージュを書いた。これは「サタデイ・イヴニング・ポスト」に発表されたが、当時、敗戦国の人民が読む可能性は絶無だったはずである。まして、18歳の私が知るはずもなかった。
 スノウは、このルポルタージュを書いたために、アメリカでは左翼として攻撃されたが、皮肉なことに、当時のソヴィエトは、スノウを悪質な反共主義者として入国を禁止している。

 私はスノウの著作をまったく知らない。しかし、敗戦直後に日本の田舎の宿屋に泊まって、俳句を書いたスノウになぜか親しみをおぼえる。
 この句には、敗戦にうちひしがれている日本人を思いやる気もちが含まれているような気がする。あるいは、ジャーナリストとして日本の運命を見ていたような気がする。

2007/04/17(Tue)  569
 
 「雨の国の王者」さん。きみは書いてくれた。

    そんなことはどうでもいい、いまからでも遅くはない。ハードボイルド・ミステリーを書け!」という類の、それでも、わたしの本心の、不遜な注文をメール送信しました。

 少し前だったら、私もグラッときたかも知れない。
 そろそろ何かあたらしいことをやってみようか、と思いはじめていたから。
 しかし、今のところ、とてもミステリーを書く気力も、体力もない。いや、もうミステリーを書く才能がない、というべきだろう。

 もう一つ、書いておくことがある。
 私がホレース・マッコイをはじめて読んだのは1946年の冬だったと思う。戦後のこの時期に、アンドレ・ジッドがホレース・マッコイを読んでいた。このことを知った私は大きな「衝撃」を受けた。そればかりではなく、やがてサルトルやカミュも読んでいたことを知った。このあたりのことは『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第一章)で、ふれておいた。

 きみのメールを読んで、一瞬、グラッときたことは事実である。
 昔、一時の気の迷いで、長編の原稿を焼き捨てて惜しい気がした(笑)が、どこかで「川崎 隆」を登場させてみようか。そう思った。しかし、これは無理な話だ。たとえ「川崎 隆」が登場したところで、ほんのちょっとした冗談にすぎないけれども。

 ふと、蕪村のことばを思い出す。

    発句集はなくてもありなんかし。世に名だたる人の発句集出て、日来(にちらい)の聲誉を減ずるもの多し。況んや凡々の輩をや。

 お元気で。

2007/04/16(Mon)  568
 
 「雨の国の王者」さん

 ホレース・マッコイについて、きみがメールをくれた。

   先日、『彼らは廃馬を撃つ』を再読して、その訳者(常盤新平)あとがき(角川文庫版)に、「……この『彼らは廃馬を撃つ』を私に教えてくれたのは、中田耕治氏である。もう十五年も前のことだ。……」
   この傑作『彼らは廃馬を撃つ』を再読して、これは、よい、と唸ったあとに、その、あとがきに、中田耕治氏の名前を見つけて、やあなんだか、ちょっと、うれしくなりました。
    それは、ほんのちょっとのことなんですけれども。
    (計算すると、それは、五十五年前のことなのですね。)

 またしても思いがけないメールで、はるかな「過去」を思い出した。
 じつは、ホレース・マッコイの存在を知ったのは、(「コージートーク」で書いたように)神保町の露天の古本屋だった。ゴザの上に積みあげてあるポケットブックをゴソゴソヒックリ返して、見つけた一冊。私の語学力でも、なんとか読めそうな気がしたからだった。
 その直後に、植草 甚一さんがある雑誌で紹介なさった。私は、植草さんに先を越されたと思った。そのときから、私はホレース・マッコイの全作品を読みつづけてきた。
 ホレース・マッコイは、しょせん三流作家に過ぎない。当時のベストセラー作家たち、ハロルド・ロビンス、レオン・ユリスのようなおもしろい小説が書ける作家ではなかった。そして、ドナルド・ヘンダスン・クラーク、オグデン・ステュワートのように、いつも読者にウケる作品しか書かない作家でもなかった。
 しかし、彼の『彼らは廃馬を撃つ』は暗い輝きを失わない。私はそういう作家に、いつも関心をもってきたのだ。
 たとえば、デューナ・バーンズ、アナイス・ニン。たとえば、B・トレヴン。

 いつかぜひ翻訳しようと思っていたが、機会がないまま過ぎてしまった。やがて、常盤 新平が訳したと知って私はよろこんだ。常盤君が訳したのなら、作家にとっても幸運だったと思う。
 (私が書くべきことではないが、常盤 新平の『遠いアメリカ』をお読みになれば、この頃の私のことがおわかりになるはずである。)

 これもご存じのはずだが、『彼らは廃馬を撃つ』はジェーン・フォンダの主演で映画化されている。私がこの女優に関心をもちつづけてきたのも、ホレース・マッコイへの関心から派生したものだった。
(「私のアメリカン・ブルース」、「映画の小さな学校」)

 まだ、ポケットブックもろくに買えない頃、サローヤン、ハメット、ヘミングウェイにつづけて、私が読みつづけた作家がホレース・マッコイなのである。
 文学、人生、社会について何も知らなかった私が、ようやく自分の内部に測鉛をおろして、まったくあたらしいものを発見させてくれた作家のひとり。
      (つづく)



2007/04/14(Sat)  567
 
 1945年(昭和20年)の冬から翌21年にかけて、アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノウは日本を歩いている。敗戦直後の日本が、彼の眼にどう映っていたのか。当時の日本は、無条件降伏したあと、敗戦国として疲弊しきっていたし、政治、経済、すべての面で混乱を極めていた。国民は生きるのに必死だったので、エドガー・スノウのルポルタージュなど誰も知らなかったに違いない。
 むろん、少年だった私が知るはずもなかった。

 スノウは、この滞在中に、栃木県那須に立ち寄った。旅館に泊まったのだから、温泉で旅の疲れを休めたのだろう。
 彼が出立するとき、宿の主人が宿帳に署名をもとめた。
 スノウは、にこやかに「それでは日本の詩を書きましょう」といって、英語で二行の詩を書きとめた。

  The Snow Came To The Garden
   But Not For Long

 直訳すれば、「雪が庭に降った/しかし、長続きはしなかった」ということになる。誰の句だろう。私は、俳句に詳しくないので、ご存知の方のご教示を仰ぎたい。
 スノウが「ハイカイスト」だったはずはないが、こんな俳句に、アメリカ人らしいユーモアが感じられる。むろんスノウを「雪」にかけてある。那須の一夜はこの俊敏なジャーナリストの旅情を慰めたと見ていい。
 これをスノウの俳句として訳してみたらどうなるか。「逗留も長くつづかぬ庭の雪」とするか。あるいは、ただ、「淡雪は庭をしばしに消えにけり」くらいにするか。私のようなものには、どうせ月並みな俳句しか浮かばない。

 エドガー・スノウは、左翼ジャーナリストとして知られている。日本を去ったあと、ソヴィエトを訪問してルポルタージュを書いた。当時、手放しのソヴィエト礼賛としか見られなかったが、ロシアの硬直した体制を鋭くとらえていた一人。しかし、もう誰も読まないだろう。

 この三月、東京で初雪が降った。観測史上、もっとも遅い初雪だったらしい。わが家の庭にも、白いものがチラついた。そこで一句。

   庭の雪 たちまちにして 消えてけり

2007/04/12(Thu)  566
 
 ひとはどうして芸術をこころざすのか。

 菊池 寛は、「小説家たらんとする青年に与う」という文章の中で、

   小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い時代の苦労が第一なのだ。金のあるひとなどは、真に生活の苦労を知ることはできないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸を嘗めることが大切である。

 という。いかにも菊池 寛らしい実際的な見解である。

 画家の東山 魁夷は、東京美術学校の在学中に「帝展」に入選したほどの才能を持ちながら、ドイツに留学のあと、惨憺たる道を歩んだ。父の商売が破綻して、貧困の中で母、弟の病気、父の死、応召と、立て続けに不幸に見舞われている。「私の履歴書」というエッセイに、魁夷は書いている。

   若いときの苦労は薬だとよく言われるが、それは結果的に見て薬であって、本当は薬というよりも毒であると私は思う。

 という。
 私は、このお二人とは比較にもならないしがないもの書きだが、自分なりに意見を述べることは許されると思う
 若いときに人生の辛酸を嘗めることは、芸術家にとってけっして必要条件だとは思わない。できれば苦労などしないほうがいい。ほとんどの人は、苦労すればするほど人生に押しひしがれてしまうのだ。私にしても、あたら才能を持ちながら、人生に敗れて自殺したり、消えていった人々をいくらでも見てきた。それこそ死屍累々といってよい。
 だから、菊池 寛のように「小説を書くには、若い時代の苦労が第一」などとは、けっして思わない。
 問題は、もっと別のところにある。

   私は、もっとも親しい身辺の人々を、妻以外には全部失ってしまったときから、芸術に徹する生活が始まったのかもしれない。

 東山 魁夷はいう。さりげない言葉だが、芸術家が芸術家であろうとする覚悟はこういうものだろうと考える。
 かつて文壇の大御所といわれた菊池 寛の作品は、もう誰も読まない。東山 魁夷の作品は、これからもたくさんの人に何事かを伝え続けるだろう。
 もとより、文学と絵画といったジャンルの違いに問題があるのではない。

2007/04/10(Tue)  565
 
 詩人、ハイネは日本に関心を持っていたらしい。直接には、ゴロブニンの『日本幽囚記』を読んで、遠い異国にあこがれた。
 1825年10月、詩人は手紙の中で、
「日本人は世界中でもっとも文化が高く、もっとも優雅な国民という。私は日本人になりたい」
 と書いている。
 文政時代で、この年の5月、イギリス船が陸奥沖合いにあらわれている。幕府は、異国船打ち払い令を出している。翌年、シーボルトが、将軍に謁見する一行の随員になる。そんな時代に、ハイネが日本に関心を持っていたというのも意外ではなかったかも知れない。

 モスクワに行ったことがある。当時の「作家同盟」が、毎年、作家を3名招待してくれたのだが、その年、たまたま私が選ばれただけのことである。
 モスクワでは何も見ることができなかった。たまたま街角にポスターが貼ってあって、ハイネの生誕150年の催しらしく、講演や詩の朗読が行われるらしかった。私はこの催しに行ってみたかった。ドイツ語もロシア語もわからないので、行ってみたところで何の役にも立たない。しかし、モスクワの市民が、どういう思いでハイネを聴くのか、その程度のことはわかるだろう。
 しかし、同行した高杉 一郎も、畑山 博も、こうした催しにはまったく関心を見せなかった。私はすぐにあきらめた。

 帰国したらいつかハイネを読み返そうと思った。しかし、そう思ってから30年、いまだに読み返す機会がない。ごめんね、ハイネさん。

2007/04/09(Mon)  564
 
 吉原、三浦屋の遊女、奥州は深く契った男がいたが、心ない人の中傷で、愛想づかしされて、彼のあいだも途切れかけた。かねて心を決めていたので、
   恋死なば わが塚でなけ ほととぎす
 の辞世を残して世を早めたという。
 奥州は、「吉野さぞ 郭あたりの菜種さへ」の句がある。
 吉原界隈でさえ菜の花が咲いている。遠い吉野の桜は、さぞみごとに咲いているだろう。遊女の悲しみまでも感じられる。

 ほかの遊女の句もあげてみよう。

   思ふこと 伏籠(ふせご)にかけて おぼろ月  野里
   おしどりに 霞かかるや 夢心   なる
   擂り箔の小袖に吹けや 春の風   花讃
   難波女のふところ寒し 春の風   うめ

 最後の句なんか、私のような貧乏作家も身につまされる。

2007/04/08(Sun)  563
 
 ときどき想い出しては女流の俳句を読む。読むといってもせいぜい20〜30句ばかりを読む程度だが。

   嫁ぎける其夜や 寒き春の月
   春月や 伽藍の蔭の ちさき宮
   浮かれ歩く人の女房や 朧月
   鏡中や わが黒髪に風光る
   陽炎(かげろう)に 髪解きいるや 頭痛性

 以上、五句、はぎ女。どういう女性なのか。私は、なぜかこのひとの句が気にいっている。ほかに「春雷や 道頓堀の旗の上」、「貝寄せや 問屋ばかりに古き町」などがあって、大阪の商家の女とわかる。加賀の千代を尊敬していたらしく、「千代の墓に赤き草花や 春の霜」という一句がある。このひとの優しい心根がうかがえよう。

   日永魚 鼻を並べて泳ぎけり
   おのが句の屑の多きや 暮れの春

 自分の句にクズが多いと認めている、こういうしおらしさがいい。

2007/04/07(Sat)  562
 
 彼女が自殺した(06/2/10)。26歳。
 今年になって、女性シンガーのユニが自殺しているので、韓国の芸能界にとってはいたましい出来事が続いたことになる。
 チョン・ダビンが死を選ばなければならなかった理由は知らない。

 戦後、『文学座』から舞台女優として出発した女優がいた。登場したときから、『戦後』に登場したもっとも才能のある舞台女優として期待された。実際、美貌だったし、演技もすばらしいもので、たちまち注目を浴びた。
 だが、いくつかの舞台に出ただけで、彼女は自殺した。
 堀 阿佐子。もう誰もおぼえてはいないだろう。

 彼女が自殺した直後にある集まりがあって、劇作家の内村 直也さんが、ある有名な女優に、
「堀 阿佐子は惜しいことをしましたね」
 と声をかけた。その女優はちらっと内村さんを見つめたが、唇をゆがめて何もいわなかった。
 私はたまたますぐ近くにいたのでこのときのことをよくおぼえている。この女優が、どうして唇をゆがめたのかわからない。何をいいたかったのか。あるいは、何をいいたくなかったのか。しかし、その女優の表情には何か冷酷なものがひそんでいた。

 堀 阿佐子や、チョン・ダビンの死の背後にひそむもの、あるいは原因を探る必要はない。
ただ、彼女たちの死から、私は今までずっと一つの確信を持ち続けてきたと思う。

 女優には、いつか必ず何らかの障害を克服しなければならなくなる時期がくる。とくに『娘役』(ジュンヌ・プルミェール)として出発した女優の場合、これはしばしば危機的な障害を引き起こす原因になる。だが、どんなに大きな障害であっても、死を代償とするほどの価値はない。

 人にはそれぞれの人生観がある。そして、誰も自分の人生観を他人に押しつけることはできない。それを承知の上で、いっておきたい。
 自分が美貌だから女優になれるだろうとか、ほかにすることもないので舞台に立ってやろう、といった女の子たちは別として、女優として地道に勉強をつづけている若くて美しい女性に、考えてほしいことがある。君は、若くて美しいことにだけ責任を持てばいい。
 そのかわり、どんなに苦しいことがあっても、死ぬに値するほどのものはない、と覚悟すること。

 死ぬな。

2007/04/06(Fri)  561
 
 つい最近、ある歴史家が書いていた。
 うがい(嗽、含嗽)が広まったのは、明治初年からという。なんでもない記述だし、歴史家の書いていることなので誰でも信じるだろう。うっかりすると、私たち日本人の生活にはうがいの習慣がなかった、ということになる。
 そこまではいいとして、よろしくないのは、明治新政府の成立から、日本人がにわかにヨーロッパの文明開化を受け入れて、石鹸で顔を洗ったり、ガラガラうがいを始めたと思われること。
 私としては、歴史家にまことしやかなことをいわれると、ついムカつく。冗談じゃない。

 天明期の雑俳、『武玉川』(二編)に、
     うがひに手間の とれる浪人
 という付け句が出ている。
 平がな書きだが、まさか「鵜飼」ではないだろう。朝起きて口をそそぐくらいのことは、明治になってからの流行ではない。おてんとさまを仰いでガラガラやるくらいのことは長屋住まいの素町人だってやっていた。
 ついでに書いておくと、石鹸だって、さまでめずらしいものではなかった。
     しゃぼんの玉の門を出て行(く)
 という句もある。(おなじく『武玉川』二編)
 子どもがしゃぼん玉を吹いて遊んでいる。そのしゃぼん玉が、風に吹かれて門を出て行ったという景色。

 歴史の記述は、その時代に生きた人々に寄り添ったものでなければいけないだろう。
 永井 荷風は歯磨きに「コルゲート」を使っていた。当時としてはめずらしいハイカラぶりである。コカコーラは、敗戦後に日本人が飲むようになったと誰でも思っているが、じつは芥川 龍之介が飲んでいた。いずれも本人が書いているのだから間違いはない。

 歴史家がよく調べずに、さも自分が「新発見」したような顔をして、いいかげんなことを書く。世間の人がそれをあっさり信じてしまう。ムカつく。

2007/04/05(Thu)  560
 
 中学生がいじめを苦にして自殺する。そんなニューズに心が暗くなる。いじめで死を選ぶ子どもの内面には、ほんとうは恐怖がひそんでいる。それを大人にいえないから、追いつめられて、自殺まで考えるのだ。
 
 小学生のころ、いじめられたことはない。仙台で中学に入ってから、いじめられるようになった。
 いっぱしに生意気だったし、学校の成績もそこそこだったが友だちがいなかった。子どもにとっては、時分の住んでいる場所から通学する友だちがいるかどうかは大きな問題になる。

 私と同じ地域に住んでいる生徒が一人いた。毎朝、私をさそってくれるので、いっしょに通学することになったが、これがかなりのワルだった。

 私はこの生徒のことを思い出すと、今でも不快な気分になる。

 私が、彼を避けるようになってから、毎日、学校の行き帰りが恐怖の連続だった。登校時間をズラしたり、帰りはわざわざべつの道を選ぶようになった。それでも、三度に一度はつかまってしまう。いっしょに帰りながら、彼はニヤニヤして、途中の店で私にお菓子や、子ども向きのゲームのようなものを買わせるのだった。
 いつも私が自発的に買って、それを彼にくれてやる、という格好になるのだった。だから、脅迫ではなかった。しかし、下校の途中、待ち伏せしていた彼につかまると、蛇ににらまれた蛙だった。

2007/04/04(Wed)  559
 
 西鶴の『好色一代女』に、大名の側室にあげられる女の条件として、

   十五より十八まで 当世顔はすこし丸く 色は薄花桜にして 眼は細きを好まず 眉あつく 鼻の間はせはしからず 次第高になりて 口ちひさく 歯並白く 耳は根まで見え透き 首筋立ちのびて をくれ毛なしの後髪 手の指たよはく 長みあって爪うすく 足は八文三分に定め 親指反って 胴間のつねの人より長く 腰しまりて物ごし衣裳つきよく 姿に位そなはり 心立おとなしく ほくろひとつもなき 云々

 とある。元禄の美女の基準とはこういうものだったのだろう。
 現在でも、基本的には美女の条件はさほど変わってはいない。大名の側室という身分がなくなったが、今だって誰かの側室になりたい女性は、いくらでもいるだろう。
 ただし、最近の小説には、心に残る美女はあまりいなくなっている。作家も美女に感心がなくなったのか。西鶴ほどの才能がいなくなったというべきか。

2007/04/03(Tue)  558
 
 本所で育った。つまりは隅田川を毎日見て育ったことになる。
 同級生に口の悪いノがいて――
 おめぇ、本所ッ子かぁ、隅田川の向こうから、ひらりひらりと、風吹きカラスで飛んできたか。

 島崎 藤村を読んでいて、

   流れよ、流れよ隅田川の水よ。少年の時分からのお前の旧馴染(むかしなじみ)が複たお前の懐裡(ふところ)へ帰って来た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなどの河畔に立って私が思い出すのは何時でもお前のことだった。

 という一節にぶつかったとき、なんともいいようのない気分になった。
 えらい作家は違うなあ。私などは、とてもじゃないが、流れよ、流れよ、隅田川の水よ、なんて口に出せない。だいいち、隅田川に向かって、お前なんぞといえるわけがない。
 セーヌ、アルノ、ネヴァの河畔に立ったことがある。ついぞ隅田川のことなどや思い出しもしなかった。

 島崎 藤村はどうも好きになれない。本所ッ子のひがみだろう。

2007/04/02(Mon)  557
 
 韓国の俳優、女優さんは、セリフをいう前に、かるくsighをすることが多い。おそらく、息づかいaspirationの特徴といってよい。ドラマの流れで、セリフを口にする前に、きわめてわずかな時間、間をおく。これは別にめずらしいことではない。
 芝居の世界でいう『半間』だが、しかし、その半間が、韓国の俳優の多数に共通して、かすかなsighを置く、というのは注意していい。
 理由はいろいろ考えられるのだが、一つには韓国の演技論、ないしは、俳優術にあるような気がする。もっと別の要因として、韓国の古謡、フンタリョンなどにあらわれる発声からきているのだろうか。

2007/04/01(Sun)  556
 
 評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期、毎日、彼の演出した舞台の写真を見ていた。
 実際に舞台を見たことがないのだから、せいぜい写真でも眺めて、彼の演出を想像するしかなかった。

『シャイヨの狂女』を演出したとき、ジュヴェは新聞にエッセイを書いた。

   読者のみなさんのなかには、衣裳ダンスや、屋根裏部屋に、四、五十年も前の、1895年から1910年あたりのご婦人がたの衣裳とか、アクセサリーなどをお持ちか、ご所蔵の方をご存知の人もいらっしゃると思います。
   お母さんがた、お祖母さんがたがお召しになったドレスなど、レース、リボン、スパンコールなどのついたタフタや、シルクのローブ、ガチョウの羽飾り、造花をあしらったハット、インレイの網タイツ、ハンドバッグ、アンクルブーツ、要するに、当時のファッションなら何でもかまいません。今からでもお送りいただければ、ジロドーの芝居に出る役者たちに着せてやれます。傷んでいても結構です。むしろ大歓迎なのです。

 翌日、ジュヴェの劇場に、おびただしい人たちが集まってきた。さまざまな衣裳や、宝石、扇、アクセサリーを手にして……

 戦後すぐの疲弊しきったパリで、ジロドーの芝居を演出しようとしていたジュヴェに私は感動していた。

2007/03/31(Sat)  555
 
 ある女子高校の話。
 先生は生徒に対して呼び捨てしない。お互いに、おしとやかに会話をなさる。教室で先生が質問する。「XXさん、質問にお答えください」。生徒が答えると、「ありがとうございました」と先生がおっしゃる。
 授業が終わると、級長さんの号令で、「ありがとうございました」と御礼を申しあげる。先生も「ありがとうございました」とお答え遊ばされる。

 お嬢さま学校という。

 学校にはそれぞれ校風がある。私はこうした教育を否定しない。むしろ美風として賞賛してもいい。ただ、こういう教育の、眼に見えないうしろ側に、鼻持ちならない偽善性、いやらしいお上品ぶり、ひたすら表面だけを飾るヴィクトリア時代ふうのいやらしさを感じる。

 私がはげしく嫌悪するのはこういうプジャニーム(カマトト)ぶりである。

2007/03/30(Fri)  554
 
 冬のある日、椎野 英之(当時、「時事新報」の記者だった)が、私をつかまえて、
「耕ちゃん、すまないが原稿を取りにいってくれ」
 という。私はこころよく引き受けた。親友の椎野に頼まれて、いなやはない。戦後すぐのはげしい混乱のなかで、有名な文人がどういう生活をしているのか見ておきたかった。それにまったく無名の私は暇だったから。

 玄関先で来意をつたえると、上品な夫人が書院に案内してくれた。
 明窓浄机という言葉がふさわしい和室で、みごとな軸が一幅、これもみごとな黒檀の机。
 私は、どこに控えていいのかわからずに、和室の隅にかしこまっていた。先ほどの夫人がお茶をふるまってくださった。
 しばらくして、主人が姿を見せた。

「原稿はまだ書いていないので、これから書きます。待っていてください」

 いくらか太めの万年筆で、すぐに書き始めた。私は驚いて見ていた。私の見ている前で正座したまま、机に置いた原稿用紙にすらすら書いてゆく。
 古風にいえば、白雪の音も聞こえる静けさだった。

 やがて、原稿を頂戴した私は深く頭を下げた。その先生は丁重に頭を下げて、
「お待たせしました。椎野君によろしくおつたえください」
 と声をかけてくれた。

 何もかも驚きだった。新聞社のお使いさん、せいぜいアルバイト学生にすぎない私を丁重に扱ってくれた。なによりも驚いたのは、私の見ている前で即座に原稿を書きあげたことだった。
 戦後すぐのことで、日刊新聞も裏表2ページ、紙面にまったく余裕がなく、この原稿もせいぜい8百字程度の随筆だったと思う。
 現在の私でもさほど苦労せずに書ける枚数だが、そのときの私は驚くばかりだった。その筆跡にはまったく渋滞のあともなく、書き込みや修正もなかった。
 この人が土岐 善麿出会った。未成年の私が戦後初めて会った文学者ということになる。当時、還暦を迎えたぐらいの年齢ではなかったか。
 当時、私は18歳。

2007/03/29(Thu)  553
 
 中原さんという方から、思いがけない質問をいただいた。
 
 中田耕治の「日本海軍の秘密」(昭和47年)は単行本に収録されているかどうか。

 残念ながら、本になっていない。今後も本になることはないだろう、とお答えしておく。

 明治の日本が戦備の拡張のためにイギリスの造船所に発注した戦艦が、日本に向けて回航中に、南シナ海で忽然と姿を消した。これは、実話だが、この事件を日本側が調査したとき、ひそかにイギリスから初老の人品いやしからざる老人が来日して、事件の解決に当たった。その老人こそ、誰あろう、シャーロック・ホームズその人であった、というまことに荒唐無稽なストーリーである。担当の編集者は北原 清君だった。

 私のようにしがない作家の場合、既発表の作品をあつめて一冊の短編集を作る機会は少ない。そのときそのときに注文があって書くだけで、一度発表してしまえば、あとはたいてい忘れてしまう。今頃になって「日本海軍の秘密」を探している奇特な読者がいると知って私のほうが驚いている。

 この作品の主人公は、海軍中尉、「桜木三郎」という。若年ながら有能な「桜木中尉」は、「ホームズ」と協力して事件の捜査に当たる。これも私のいたずらで、若い友人の、当時、「少年ジャンプ」の編集者だった桜木 三郎君の名前を拝借した。桜木君は大学で私のクラスにいたが、後に美しい女性と結婚することになって、私が媒酌をつとめた間柄だった。
彼は「週刊大衆」の北原君とも親しかったので、この原稿を手にした北原君も私のいたずらにすぐ気がついて、ニヤニヤした。なつかしい思い出である。

 はるか後年、日本作家による「シャーロック・ホームズ」もののアンソロジーが河出書房から出たが、これにも収録されていない。このときの編集者は飯田 貴士君だったが、あとで私がそんな短編を書いていると知って、とても残念がっていた。
 日本の作家が書いた「シャーロック・ホームズ」ものとしては、おそらくもっともはやいものだろう、と思う。

 飯田 貴士も、桜木 三郎もすでにこの世の人ではなくなっている。晩年の桜木君は最後まで、私の『ルイ・ジュヴェ』を出そうと努力してくれた。私の内面には、なつかしい思い出と、ありがたさがこんな短編ひとつに重なっている。

2007/03/28(Wed)  552
 
「諸君」に、フランシス・フクヤマのインタヴューが出ていた。

 フクヤマは、日本の核武装に反対している。その理由は、
「現在の日本が自主防衛能力を持つことは、東アジアのパワー・バランスを崩すことになる。したがって、アメリカの視点からは、日本が急速に国防力を増強することは望ましくない」
 これに対して、インタヴュアーの伊藤 貴は、中国の経済的、軍事的な発展を指摘しながら、
「今後20年間に、東アジア地域のパワー・バランスは激変する。2020年代に入って、東アジア地域におけるアメリカ・中国の軍事バランスが逆転する可能性が強い。そうなったとき〈アメリカの傘〉は万全なのか」
と問いただしている。フクヤマは答えている。
たとえ日本が核攻撃を受けた場合でも、アメリカが北米大陸から、ICBMを発射してそれに報復するということはありえない、と。
考えてみれば、フクヤマの論点はきわめて明快でほかに答えはない。

2007/03/27(Tue)  551
 
 ジュディ・バドニッツという作家は、現在、もっとも不思議な作家の一人。

 ストーリーは千変万化。一作ごとに、内容はもとより語り口、ひいては想像の性質までが変化する。こういう作品を読まされる読者は、驚きながら笑い出すだろう。その笑いは、ただおかしいから笑うのではない。こんなバカなことがあるはずはない、という疑いと、いや、いわれてみれば、そうなんだなあ、というへんな安堵感が交錯して、とりあえず笑ってしまえ、という感じだ。だが、その笑いには、なぜかうそ寒いものが響く。作家は、私たちを笑っているのではないだろうか。そんな気がしてくる。
 しかし、そうではないかも知れない。もしかすると私たちは、この小説を読んで、自分の内面にきざしはじめる、いいようのない恐怖や戦慄をごまかそうとして笑うのではないだろうか。
 ここまできて、きみは気がつく。この笑いは、自分を笑うように作家が仕向けていることに。

 この作家を不思議な作家というのは、私なりにいうと、マジック・ファラシイ Magic Fallacyの文学だからなのだ。以前は、よく「奇妙な味」とか幻想小説といったいいかたで、こういう作品をくくろうとしたものだが、そんな概念でくくれるものではない。いっそ「妄想小説」といってもいいのだが、作家は妄想をたくましくしているわけではない。
 この作家にとって、すべてが自然なのだ。だからこそ、私たちは、ときに笑いながら、戦慄するのだろう。

 なんといっても岸本 佐知子の訳がすばらしい。

2007/03/26(Mon)  550
 
 幼い頃、私の家に竈(かまど)があった。へっついという。火を起こすのは子どもの仕事で、火吹き竹でふうふうやった。けむりが眼にしみて、涙を流しながら。

 今ではどこの家庭にも電気釜が普及しているので、お米の炊き方を知らない女性もふえている。若い女性のほとんどが知らないだろう。
 たとえば、地震や火災で被害をうけた人々が、ご飯を口にできるまでかなり時間がかかっている。お米はあっても炊き方がわからない。そこで、私流のお米の炊きかたを。

 何時間か前にお米をといで、ザルにあげておく。
 水かげんは、好みによって違うが、昔は米一升に水が一升二合というのが、だいたいの目安だった。
 釜の口を蔽う大きさのフキンにじゅうぶん水をふくませて、濡れたままを釜にかぶせる。その上から木のフタをして、〈ときには、重石(おもし)で〉おさえる。
 火は最初から強火。一升なら、十分ぐらいで、ふいてくる。重湯がふき出さないうちに、火を全部ひいてしまう。
 それから、四、五分して、お米の煮え立つ音が静まるのを待って、古新聞、オガクズ、古縄、段ボールなどを燃やす。これで、もう一度、沸騰させてから、しばらく蒸しておく。これを、仕上げ炊きという。

 この仕上げ炊きで、ご飯につやが出て、ふっくらと炊きあがる。しかし、火加減によっては、釜の底が焦げついて、オコゲができた。このオコゲをショウユで食べるとおいしかった。
 地震や火災にそなえて防災訓練をするのも必要だが、そうした訓練には、被災した場合手持ちの食材をかき集めて、すぐに料理ができる練習もしておいたほうがいい。

 登山に熱中していた頃、ご飯はたいてい旧陸軍の飯盒(はんごう)で炊いていた。私のアナクロニズムだが、夏、アルプス銀座に登るような連中を軽蔑していたせいもある。
 ただし、飯盒の炊きかたはけっこうむずかしい。
 はじめチョロチョロ、中パッパ、と呪文のように唱えながら炊くのだが、最後に、登山靴で蹴って、飯盒をひっくり返してムラす。このタイミングがむずかしい。
 誰も登らないコースで悪戦苦闘したあと、飯盒で炊いた「銀しゃり」をパクつくのは、登山のよろこびのひとつ。
 非常食はお米一合、仙台のゆべし(伊達 政宗の戦陣食)、塩、味噌、サラダオイル。小さなフィルムケースにつめておく、角砂糖4〜5個ときめていた。小さなケースなので、浄水用の錠剤といっしょに、輪ゴム、麻紐をぐるぐる巻きつける。止血用その他に応用できる。
 しばらくして調理はアメリカ軍払い下げのパン(なべ)ですませるようになって、飯盒とも縁が切れた。

 なぜ、こんなことを書いておくのか。理由はある。いつか時代をへだてて、私のコラムを読んでくれる人がいないともかぎらない。ひょっとして……かつて日本人がどういうふうにお米を炊いて食べていたか、興味をもつかも知れない。
 私がいろいろなトリヴィアを書きとめておくのは、それ以外の理由からではない。

2007/03/25(Sun)  549
 
 ビューティー・スポット。数年前からよく耳にするようになった。
 「あいつ、モエなところがビューティー・スポットなんだ」
 電車で、高校生がこのことばを使っていた。「あいつ」は女の子のことらしい。
 ふ〜ん、そういうふうに使うのか。

    beauty spot n.付けぼくろ(patch):ほくろ、あざ(mole):わずかな汚点:景勝地 (「リーダース英和」研究社)

 私などは、こういう意味だと思っていた。

 日本ではいつ頃から、使われていたのだろうか。

    西洋の化粧法に、ビューテイー、スポットといふのがあるが、これは、顔の大切のところに、わざとホクロを描き、単調を破ることによって、自らの美点を強調せんとする計略なのださうである。然るに彼の人間に、全くビューテイー、スポットを欠ゐていた。 ({中央公論」1938年4月号)

 安部 磯雄(1865〜1949)をとりあげた匿名の人物評の一節。(山浦 貫一あたりが書いたのだろう。むろん、確証はない。)

 ふ〜ん、こういうふうに使われていたのか。

2007/03/24(Sat)  548
 
 井月。
 ほとんど知られていない俳人。文政5年(1822年)、長岡に生まれた。それ以外、出自、係累、事跡などは不明。放浪、漂泊の人生を送った。

 作風はおだやかで、さしてすぐれた句とも見えないが、私はこの俳人に幕末の庶民の心情を思う。

     子どもらが寒うしてゆく炬燵かな

 私の部屋の窓から学校に通う子どもたちの姿が見える。それを見ながら、井月の句を思いうかべる。

     行きくれし越路(こしじ)や ほだの遠明り

 漂泊のさびしみが感じられる。越路は、越後の道をさすが、おのれの過ぎこしの人生も重なっていよう。

     春寒し 雨にまじりて何か降る

 だが、春になれば、

     のどかさや 鳥の影さす東まど
     鯉はねて眼のさめにけり春の雨
     箒目の少しは見えて 別れ霜

 さらには、

     どこやらに鶴の声聞く霞かな
     見るものの霞まぬはなし 野の日和
     春風に まつ間ほどなき白帆かな

 という風景がひろがる。

2007/03/23(Fri)  547
 
 原 敬(はら たかし/1856〜1921)の日記。

    近頃財政甚だ悪し、両三日前客ありて鰻を馳走せしに其価八十銭余なり、最初は通帳にて払ふ積(つもり)なるに、鰻屋は本月限り現金にて受取たしと云ふ、然るに銭なし、五度まで取りに来れり、巳むを得ず友人より借りて払ひたり、貧乏は常の事にて記載せし事なけれども、フト思ふことありて記せり、呵々。

 当時、原 敬は、パリの公使館の勤務を終えて、農商務省参事官になったが、外相、大隈 重信が狙撃される事件が起こって、黒田内閣が倒れ、山県 有朋の内閣が成立(第一次)したとき、農商務省の秘書官になった。
 その頃、80銭のウナギの代金が払えなかったのだから、たいへん貧乏だったらしい。
 原 敬ら平民宰相と呼ばれた政治家だった。1921年、東京駅で暗殺された。これは大正デモクラシーの終焉でもあった。

 私も「貧乏は常の事にて記載せし事なけれども」ことのついでに書きとめておく。「フト思ふことありて」書いたわけではない。呵々。

2007/03/22(Thu)  546
 
 アナトール・フランスについて、あまり関心がなかった。
 もはや誰にも読まれない大作家であり、時代に対していつも一定の距離をおいて発言していた微温的な思想家、精神のエピキュリアン、おだやかなペシミストとしか見ていなかった。芥川 龍之介が影響を受けたということからの連想が働いたかも知れない。
 ただし、芥川は知らなかったらしいが、日露戦争のあと、黄禍論をとなえたことも気に食わなかった。ようするに、アナトール・フランスに関心がなかった。

 ある日、こういうことばを知った。

   論証によって、「神」を支持し、自分は「神」を所有していると思い込み、「神」にもとずいて生活し、しかも「神」を利用し、神について自分と違ったイメージを抱く人々を危険な存在として弾圧し、自分ははかり知れない叡知を手にしていると断言し、その叡知なるものを拷問によってつたえようとする。そうしたことから、異教はほとんど関係がなかった。少なくとも、ギリシャにおいては。

 私はいま現在進行しているイラクの悲惨な状況を思いうかべた。

 アナトール・フランスについて知らなかった、むしろ、読み違えていたことに気がついて恥じている。

2007/03/21(Wed)  545
 
 ある女性。30代。子どもがひとり。夫とのあいだは完全に冷えきっている。子どものためだけに結婚をつづけている。
 今、40代の男性と関係がある。
 しかし、最近、友人にうちあけたところ、「自己中心的で、自己陶酔しているだけ」といわれて、ひどく傷ついた。しかし、自分では、「彼」への思いはほんものだと思っている。
 「大切な人と、純粋な気もちでつきあって行くことが、それほどまでに批判されることなのか。遊びや、いいかげんな気もちではなく、まじめで、ほんとうの恋だと思っているけれど、私は間違っているのでしょうか」

 ある女流作家が答えていた。

   あなたが彼を愛していることに偽りはないのでしょう。しかし、お友だちの言葉も、否定できません。
   夫があなたと同じことをしたとき、あなたは許せるでしょうか。裏切りとは感じませんか。

 そうなのだ。こういうケ−スで、夫を嫉妬しない女はまずいないだろう。いくら「夫とのあいだは完全に冷えきって」いても。
 その女流作家はつづける。

  「本気」であるなら、家族を傷つけ、周囲のひとを巻き込み非難されることも、お互い一身に負って、その「恋」を貫くのが、身勝手であっても「純粋」というものではないでしょうか。
   また、夫との関係が「冷め切った」ものであるなら、彼の存在とは別に、結婚生活をつづけるかどうかを考える必要があると思いますが、いかがでしょうか。

 私が回答しても、おなじようなことしかいえないだろう。
 これは正論だが、この女性に、そういう「恋」を貫くほどの姿勢をもとめるのは無理だろうと思う。お互いの家族を傷つけ、周囲のひとを巻き込み、非難されることも辞さないというのはとてもできることではない。

 ただ、離婚した場合、子どもが傷つかないとはいえない。誰よりも子どもが傷つく。

 私がアドヴァイスすれば、一つ。このことについて、けっして口外しないこと。「人生案内」に投書するなどもってのほかである。世間的に、悪妻や浮気女と見られないこと。夫との関係が「冷め切った」ものなどと見られないように努力すべきである。

 ほんとうに賢明で、善良な妻は、ひとりの男に出会って彼を愛したところで非難されない。夫との結婚生活はいずれ終わる。早く離婚したほうがいい。
 もはや愛情のない夫とのうつろい行く日々のむなしさ、苦さをどゅうぶんに味わってきた。幻滅のさなかに「ほんとうの恋」に出会ったのは僥倖というべきだろう。つまり、彼女にはどこか大胆なところがある。

 もう一つ、アドヴァイスしておこう。
 ほんとうに大胆で、夫がおなじことをしても許せるほど賢明な妻は、相手の男性と別れることも覚悟したほうがいい。そのときにそなえて、自立できるように準備する必要がある。できるだけ早く、とくに「親しい」誰にも知られないように。

 まかり間違っても、「冷えきった関係」を理由に、夫を殺害して、死体をバラバラにして、いろいろな場所に投げ捨てるなどという行為はしないこと。ああいう事件を起こす女は頭がよくない。

2007/03/20(Tue)  544
 
 チュリッヒの駅はそれほど大きくない。東京駅の北口ほどの大きさだった。大理石のフロアに、女性がひとり、ホールの中央に大きなトランクを2個置いて、足を組んで腰をおろしている。ペール・グリーンのコート、黒と白のチェックのスカート。服装が派手で、遠くから見てもアメリカ人の旅行者とわかった。ブルジョアの奥方が、ヨーロッパ旅行のついでに、チュリッヒに立ち寄ったという感じだった。
 平日の午後。ほかにあまり旅行者の姿はなかった。誰も彼女に注意を向けなかった。

 私は、小形のトランクを引きずって、改札口を出た。まっすぐ歩いて行く。彼女のそばを通った。その顔を見た。なぜか、見おぼえがあった。

 誰だったろう?

 私は案内所をさがすふりをしながら、彼女に近づいて行った。思い出した。私の顔には、かすかな驚きがあったと思う。

 彼女が私を見た。その顔にかすかな驚きがあった。
 見知らぬ東洋人が、どうして私を知っているのだろう? 一瞬、そう思ったのではないだろうか。しかし、この東洋人が私を知っていても、べつに不思議ではない。
 そういう表情だった。

 私は、きわめてわずかな瞬間、彼女を見ただけで眼をそらせた。心のなかで、
 ハロー、アグネス!
 と声をかけた。

 彼女もそれに気がついたのではないだろうか。
 私に向けた眼に、よく、私のことがわかったわねえ、という意味がひらめいたような気がする。
 彼女はかすかに微笑して、バッグからサングラスを出した。
 これだから困るのよ。どこに行っても、人の眼がうるさくて。

 アグネス・ムアヘッドだった。

2007/03/19(Mon)  543
 
 中学校の帰りに、駿河台下の「三省堂」で新刊書の棚に出ている本を見る。懐がピイピイしていたから、しばらく眺めて、一冊も買わずに外に出るだけのことだったが。
 「三省堂」の前から市電に乗る。須田町乗り換えの、「柳島」行き。須田町で乗り換えずに、本所緑町に出て、ここから「押上」行きに乗っても帰れるのだった。

 「三省堂」を出てから、神保町の友達の家に遊びに行くこともあった。
 「神田日活」の前を通る。おおきな看板、スターのポスターを見たり、スチール写真をながめてから、少し先、表通りから一つ裏の通りに出る。神保町二丁目。
 友人の家は、この通りのお菓子屋さんだった。
 路地に入ると、焼きたてのパンのこうばしい匂い、あまいクリームや、シュガーの匂いがただよっている。
 表通りに面したお菓子屋さんだが、典型的な家内作業で、店のすぐうしろに、パンを焼く大きなレンジや、作業台があって、ご両親がケーキを作っている。そのパンやケーキは、すぐ近くの有名なケーキ屋に卸している。ケーキも下請けの工場で作っていることをはじめて知った。

 「Kく〜ん」
 と、二階をめがけて声をかける。とん、とんと階段を下りてきた年上の姉さんが、少年の姿を認めると、
 「あら、中田くん」
 美しい娘が立っていた。
 その頃の下町娘らしい綺麗な顔だが、きりっとした眉の下には、はげしい気性らしい眼があって、少年を見ていた。しかし、すぐに弟の同級生とみて、
 「遊びにきてくれたの? ・・・だけど・・・」
 ちょっと二階を見上げるようにして、
 「あがって待っててくださる? Kはお店にお品物を届けに行ってンのよ」
 おとなびた、冷たくかしこい顔と見たのが、愛嬌のあるお侠ないいかただったので、少年の顔に、当惑のいろが見える。
 「じゃ、また、明日きます」
 「かまわないわ。あがってちょうだい」
 「でも、なんだか・・」
 「かまないのよ」
 姉さんは、少年を二階に導いた。
 眼の前の階段を、うっすらと紅いろのくるぶしがトントンとあがって行く。すっきり伸びた足の白さに、眼がくらみそうだった。
 階段をあがって左側に姉さんの部屋があって、ハンガーにかけられた女学生の制服がちらっと見え、ワニスのきいた本棚に綺麗な本がずらりと並んでいた。
 女学校上級の姉さんの姿は、少年の眼にはあやしいまでに美しかった。じっと、自分を見るそのまなざしのなんという charming な輝き!
 「さ、どうぞ、お入りになってちょうだい」
 友人の部屋は、小学生の弟といっしょで、机が二つ並んでいた。三人姉弟と分かった。
 「中田くん、いろんな本を読んでいるんですって?」
 まともに姉さんに見つめられた瞬間、くらくらと眼がまわるような気がした。

 その日から、毎日のように友人の部屋に遊びに行った。姉さんに会うことはほとんどなかった。女学生で、しかも上級生なので、帰宅の時間も違っていた。夕方、暗くなりかけて、神保町の電停あたりで、帰宅する姉さんに会って、おじぎをするくらいが精々だった。しかし、姉さんの本を借りることができたので、それを返しに行くという口実で、友人の部屋に行くのだった。

 ある日、友人に、さりげなくいってみた。
 「きみの姉さん、ほんとうに綺麗だね」
 そんなことをいっただけで、胸がどきどきした。 
「あいつ、このごろ女になりかけているんだ」
 Kくんがいった。

 その年の冬、日本とアメリカの大きな戦争がはじまった。

2007/03/18(Sun)  542
 
 著者は謹厳な哲学者。翻訳者はえらいドイツ文学者。ところが、いい翻訳なのに読んでいてすっきり頭に入ってこない。むろん、こっちのアタマがわるいせい。
 しかし、頭になかなか入らない翻訳を読んでいると、つい、ふざけてみたくなる。

  けっきょく、おれがいつも舞い戻ってゆくのは、ごくわずかな、ちょっと前のフランスの連中のところなんだ。おれ、フランスの知性しかしんじてないもんな。
  ヨーロッバのやつらで、自分で知性とかなんとかほざいている連中、どいつもこいつも、ひどいヤブにらみだぜ。ドイツ的教養なんてノは論外だよ。・・ごく小人数だけど、ほんとに高い教養をもった方々に、ドイツで、会ったけど、どなたさまもみんなフランス系統ばっかしだったよ。
       (中略)
  おれ、パスカルを読むんじゃないいんだ、ぞっこんだよ。
  モンテーニュの気まぐれ、いくぶんはおれの心に、いや、ひょっとすると、からだのなかにもってるかも知れないなあ。おれの芸術家のご趣味ってノは、モリエールとか、コルネイユとか、あ、ラシーヌとかさ、ああいうノを、シェイクスピアみたいなワイルドな天才の猛威に対する防衛ラインとして擁護するんだ。ちょっとムカつくけどさ。
   だけど、こういう少し前のフランス人にぞっこんだっても、最近のフランス人が、おれにとって、最高に魅力あるダチだってことの邪魔になるってわけじゃないね。けっこう多いんだよ、これが。(中略)
   名前をあげようか。ポール・ブールジェとか、ピエール・ロティとか、ジップ、メイヤックとか、アナトール・フランスさん、ジュール・ルメートルさん。こんなすげえご一統さまのなかで、たった一人をあげようものなら、おれが格別入れあげている、生粋のラテン人、ギー・ド・モーパッサンだなあ。

 ふざけてごめんなさい、ニーチェ先生。

2007/03/17(Sat)  541
 
 若き日のヴァレリーは、友人のピエール・ルイスにあてて、ユーゴー、ゴーティエの栄光も、フローベルの「黄金なす朱色の燃ゆる光に色褪せた」と書いた。
 『聖アントワーヌの誘惑』(1849年)が、ヴァレリーの心をとらえていたことはわかるのだが、なぜ『ボヴァリー夫人』や『感情教育』のフローベルに関心をもたなかったのか。『聖アントワーヌの誘惑』に、あれほど心を奪われたのに、『サランボー』には眼もくれなかった。
 私にとっては、これは難問の一つだった。

 はるか後年になって、ヴァレリーは『聖アントワーヌの誘惑』と『さかしまに』 を、ほとんど同時に読んだと知った。

 もっと後年になって、『聖アントワーヌの誘惑』の改稿が1908年になってから出版されたことを知った。ヴァレリーは、この『聖アントワーヌの誘惑』を読み返したのではないか。

 そうだったのか。ヴァレリーは、もう30代も後半で、すでに詩作を放棄していた。かれの文学的沈黙はまだつづくのだが、『聖アントワーヌの誘惑』の改稿が『若きパルク』の制作になんらかの刺激になったのではないか、と思った。むろん、仮説にすぎないが。
 私の内部には、いつもこうした、とりとめもない疑問がおびただしくころがっている。けっきょくは、わからずじまいに終わるのだろう。
 しかし、すこしでもわかりかけてきた、と思えるときはうれしい。

2007/03/16(Fri)  540
 
 へちゃむくれ。
 人をののしることば。広辞苑には、そんな程度しか出ていない、むろん、今では誰もつかわない死語。転じて、おへちゃ。
 いささか芳しからぬ面立ちの女の子のことを「おへちゃ」と呼んだりする。

 少年時代に、よく聞いた。自分でもつかったことがある。
 「あいつの姉さん、おへちゃだぜ。こないだ、遊びに行ったら出てきやンの」
 どうして、へちゃむくれなのか。そも、いかなる語源からきたのか。知らないままに過ごしていた。まあ、知らなくても不都合はなかったが。

 知らないまま長い時間がたった。ある作家の随筆を読んでいて、これが出てきた。
 編茶目蓮。へちゃもくれん。
 吉原の名代の茶屋に縁のある老人が教えてくれた、という。
 江戸っ子が相手をバカにして、よくつかったもの。江戸といっても、山の手のものは江戸っ子ではない。ノ手っ子はやぼな「やの字」の屋敷者。江戸の者とはいわなかった。

 編茶目蓮。れんはおそらく連だろう。連中の略。
 とにかく、長年の疑問がとけたような気がした。へちゃもくれんはわかったが、どうして、へちゃむくれになったのか。

 むろん、見当はつく。ご本人は人並みの美人のつもりでいる。よせやい。へそが茶をわかさァ。お嬢、何かといえば、プイと怒って、むくれる。そこで、へちゃむくれ。

 いまなら性差別だなあ。

2007/03/15(Thu)  539
 
 私の住んでいる千葉市中央区。

 私の住んでいる界隈だけでいうと、
 人口、4287人。そのうち、0歳〜14歳は、461人。10.8%。
 65歳以上のみなさんが、769人。17.9%。(’06年3月現在)

 典型的な過疎の町になってしまった。

 私の住んでいる界隈で、警察のパトロールカーが走るようになった。ひったくりが多発している。被害者はほとんどが老人で、うしろからオートバイで走ってきて、いきなり籠、手提げなどをひったくって逃走する。

 深夜の弁天町は、ゴーストタウンさながらのたたずまいで人通りが絶えてしまう。一昔前は、石焼きイモ、屋台の中華そばぐらいは出たものだが、この十年、見かけなくなってしまった。

 近くに、少し大きな公園がある。わりに大きな池があって、春さきから夏にかけて、ボートをこぐ人もいたし、小魚を釣る子どもたちもいたものだった。小高い丘のあたりのベンチには、若い男女が寄り添う影もほの見えたものだった。
 今では、ダートロードも舗装され、照明がぎらぎら明るくなって、夜の公園を散策する人もいなくなった。
 ゴーストタウン。そうだよなあ。私のようなオバケが住みついているのだから。

2007/03/14(Wed)  538
 
 和漢古典の教養がない。
 自分ても恥じているのだが、これはまあ仕方がない。

 「一寸法師」を読んでみた。
 最後に、彼は鬼をやっつける。鬼に食べられるのだが、鬼の眼から飛び出して、あばれまわる。とうとう鬼は逃げ出す。

   これはただ者ならず、ただ地獄に乱こそ出で来たれ。ただ逃げよ。」と言ふままに、打出の小槌、杖、しもつ、何に至るまでうち捨てて、極楽浄土の乾の、いかにも暗き所へ、やうやう逃げにけり。

 そうだったのか。これで、地獄がどこにあるのかわかった。それまで、地獄は六道の最も下層、瞻部州の地下にあって、閻魔さまがおいでになる場所と聞いていた。むろん、鬼が罪人を呵責するおそろしい場所である。
 そこでは、褌ひとつ、腰巻き一枚の男女の亡者が、鬼どもの手で首かせをはめられて、閻魔大王の前にひきだされる。そこにある照魔鑑に、生前の罪業がうつしだされる。それをごらんになった閻魔さまが、亡者たちの行く地獄をおきめになる。いってみれば、ダッハウ送りか、アウシュヴィッツ送りか、選別、分別されることになる。

 ところが、鬼どもは、極楽浄土の乾の方角に逃げている。いぬい、すなわち西北である。「一寸法師」の話に出てくるのは、摂津、住吉神と見ていいとすれば、「いかにも暗き所」がどこあたりなのか。

 それに、亡者が、性別のためとはいえ、たふさぎ、こしまきだけは身につけることを許されていたことはどういう理由からなのか。

 せっかく古典を読みながら、ろくなことを考えないのでは地獄に落ちるのは必定(ひつじょう)。

 古典の教養がないことを恥じているのだが、仕方がない。

2007/03/13(Tue)  537
 
 島を描いた文学作品に、私の関心があった。
 たとえば、『ガリヴァ−』の「リリパット」から、「ハックルベリ・フィン」まで、モ−ムの『雨』。ノ−ドホフ&ケ−ン。
 さらにはオイゲン・ヴィンクラ−の『島』、アルジャ−ノン・ブラックウッドの『くろやなぎ』。
 おそろしいSF、レジス・メサックの『滅びの島』。

 『滅びの島』は、現代文明に対する暗澹たる絶望にいろどられた小説だが、作品の舞台になる「ヴァルクレタン島」が、女性性器のかたちをしている。

 クレタンは、クレチン症(先天性の甲状腺機能低下)の意味で、作家のイメ−ジには小人があって、『ガリヴァ−旅行記』に通じる。同時に愚鈍な人間をさす。
 これに谷間を意味する「ヴァル」を重ねたあたりに、図像学的に作家のヴァジャイナルイミジャリ−を想像できる。

 愚者の谷間。あるいは、おろかなる亀裂。

 福島 正実は、レジス・メサックについて、

   ことによるとメサックは、科学・技術や、現代文明に汚される以前の人類――人間にも、すでに絶望していたのではあるまいか。人間の本来的に持つ攻撃性、偽善、悪辣さ、愚劣さに耐えられなかったのではないか。そうでなければ、あのクレタンたちの狂乱ぶり、暴行凌辱の徹底ぶりは、むしろ必然性を失ってしまう。人間そのものに絶望した上、迫り来る第二次大戦の暗雲に焦らだった結果の悪夢ととれないこともない。

 と書いた。

 私がアルフレッド・ベスタ−や、シァド−・スタ−ジョン、カ−ト・シオドマクなどを訳したのも、すべて福島 正実の依頼による。(ただし、フィリップ・K・ディックの翻訳は都筑 道夫が依頼してきた。)

 今の私は、レジス・メサックから、福島君とは別のことを考えているのだが、若き日に福島 正実に出会わなかったら、少しでもSFに関心をもったろうかと、そぞろ当時の彼を思い出さずにはいられない。

2007/03/12(Mon)  536
 
 愛について。きみは私に何を聞こうというのか。

 愛することによってしか、愛について知ることはできないのだから。

2007/03/11(Sun)  535
 
 戦時中、中学生は映画館に行くことを禁止されていた。
 文部省推薦の映画なら父兄同伴で見に行ってもよかったし、学校側が、「ハワイ・マレー沖海戦」とか「陸軍航空戦記」といった映画を見せることはあった。
 私は浅草が近かったし、近くに場末の映画館があったので、しょっちゅう映画館にもぐり込んでいた。警察や学校の補導も、そこまで眼が届かなかった。

 「阿片戦争」という映画を見た。マキノ正博監督。主演、市川 猿之助(のちの猿翁)、青山 杉作、高峰 秀子。
 映画の内容はイギリスの侵略を批判したもの。それほどいい映画ではない。しかし、戦時中、高峰 秀子という少女スターにあこがれていた中学生としては、ぜひにも見たい映画だった。

 イギリス軍の砲撃に逃げまどう清国民衆のシーン。ロングショットで、建物から無数のアリのように人間があふれ出して、路上を埋めつくす。
 当時の日本は映画の特撮技術も発達していなかったので、どうやって撮ったのだろう、と思った。
 同時に、このシーンはどこかで見たような気がした。どこで見たのだろうか。

 ある日、岸という同級生が声をかけてきた。「阿片戦争」を見たという。

 「中田君、気がついたろ? あれ、すげぇなあ」
 「何が?」
 「ほら、中国人が逃げるとこさ」
 「ああ、あのシーンか」
 「やっぱり、気がついたか。きみなら気がつくと思った。アリス・フェイ。よかったなあ」
 岸という少年は私の顔を見て、ニヤリと笑ってみせた。
 その瞬間、彼のことばの意味がわかった。
 アリス・フェイ。小柄だが、くらくらするような輝き。
 この女優のことを知っているのは、クラスでも岸と私だけだったに違いない。
 おそらく私は動揺していたと思う。
 「阿片戦争」の群衆シーンは、アメリカ映画「シカゴ」の大火のシーンのワン・カットをつないだものだった。「シカゴ」。ドン・アメチー、アリス・フェイが出ていた。戦争がはじまる前に下町の場末の映画館で上映されていた。私は向島の場末で見たのだが、いまでは内容もよくおぼえていない。
 しかし、シカゴの大火が「阿片戦争」で使われていたことは、ぜったい間違いではない。まったくのトリヴィアだが、このことは私の心に残っている。

 このシーンのことは岸君と私だけの秘密になった。
 中学生が映画館に行くことも禁止されていたのだから。

2007/03/10(Sat)  534
 
 はるか後年になって、「リンゴの唄」が書かれた事情を知った。

 じつは、この歌詞は戦争中に書かれたものという。

 戦時中に軍歌や戦意昂揚の歌が歌われていたのは当然だが、庶民が好んで歌った流行歌には、戦争に関係のないメロディアスな曲もあった。

 「湖畔の宿」、「伊那の勘太郎」、「狸御殿」、「お使いは自転車に乗って」といった流行歌である。わずかだが、これらの歌は、現在でもすぐれたものである。

 サトー・ハチローは、戦時中の庶民のために「リンゴの唄」を書いた。ところが、「聖戦遂行」に反するものとして、軍の検閲に通らなかった。
 当時の軍部の頭脳程度の低さ、横暴ぶりは、いまさら指摘するまでもない。「頭のわるいやつがごろごろしていた」ものだ。おそらく大本営/陸軍部の松村(大佐)あたりが激怒したのだろう。

 検閲の忌避にふれたのは「赤いリンゴに 唇寄せて」という歌詞が、色情的、つまりエロティックだという理由だったらしい。
 さらに、この非常時に、青い空を黙って見ているとは何事か、といった愚にもつかない叱責を浴びせたという。

 サトー・ハチローの「リンゴの唄」はそのまま埋もれた。

 戦争が終わって、レコード会社は、それまでの戦争協力の態度を一変する。
 といって、すぐに出せるレコードがあるはずもない。とにかく、何かださなければならないので、オクラになった作詞、作曲をひっかきまわしていて、「リンゴの唄」が出てきた。とりあえず、これを新譜として出すことになった、という。

 レコード制作の現場のいい加減さ、オポチュニズム、コンフォーミズムは、昔も今も変わらない。だが、結果的にこの歌は空前のヒットになった。

 このことを知ったときから、私の「リンゴの唄」に対する嫌悪は消えた。というより、私の内部にひそんでいる大衆に対する不信が、どんなに軽薄なものだったか、したたかに思い知らされたといってよい。
 そして、「検閲」のおそろしさを。

2007/03/09(Fri)  533
 
 戦後すぐに「リンゴの唄」という明るい曲が流行した。サトー・ハチロー作詞。歌手は並木 路子。今は、由紀 さおりが歌っている。

 私は、これまで一度も歌ったことがない。

 あの戦争が終わったあと、たちまち大ヒットしたが、私には悲しい唄に聞こえるのだった。敗戦後、日本がどうなって行くか見当もつかない。焼け野原になった東京の、庶民は、食料の配給さえ滞って、飢えていたし、明日のこともわからない。とにかく、これからどう生きて行くかわからない。そんな生活のなかで、

    赤いリンゴに 唇寄せて
    黙って見ている 青い空

 などと口ずさむと、焼け野原になった東京の、やりきれない無力感にぴったりだった。そのくせ、奇妙に明るい空虚感がまつわりついているようだった。

    リンゴはなんにもいわないけれど
    リンゴの気もちは よくわかる

 私は「リンゴの気もち」など、わかりたいとも思わなかった。リンゴだって、自分の気もちを、そうやすやすとわかられたら、たまったものではないだろう。

 戦争が終わってすぐに、まるで戦争などどこにも存在しなかったような、ただ空虚に明るい歌を書くサトー・ハチローの大衆迎合に、侮蔑をおぼえた。

 私は「リンゴの唄」がきらいだった。少年だった私は、この唄をほとんど憎悪したといってよい。
       (つづく)

2007/03/08(Thu)  532 〈東京大空襲 その4〉
 
 三浦 哲郎の『忍ぶ川』のヒロイン、「志乃」は、戦前、州崎遊郭のなかにあった射的屋の娘だったが、州崎も3月10日に爆撃され、多数の女たちが焼死した。

 戦後、ほぼおなじ地域に「州崎パラダイス」として、売春地帯になった。
「志乃」は、恋人を生まれた土地につれて行く。
 これが州崎橋といってから、

    志乃は、焔になめられたあとが黒い縞になっている石の欄干を、なつかしそうに、手のひらでぴたぴたとたたいた。

 戦後、50年以上もたってから、私はやっと吾妻橋から押上、ぐるりとまわって向島、州崎、小梅と歩いたが、業平橋の大理石まがいの橋をなつかしそうに手のひらで、ぴしゃぴしゃたたくことはできなかった。

 低い橋桁にこびりついている、小さな、黒い縞のような斑点を見ているだけで、あの日の焦熱地獄の阿鼻叫喚が胸にたぎり、あふれてくるのだった。

 当時、業平橋に住んでいた関根 弘は、この晩にまだ幼かった妹を失っている。彼はこのことをただ一度だけ、短い文章に書いている。おなじように、業平橋に住んで、戦後に作家になった峰 雪栄も、悲惨な体験をしているが、ついに一度も書かなかった。

 これまで私は、業平橋の黒い斑点のことを人に話したことはない。むろん、一度も書いたことはない。

2007/03/07(Wed)  531 〈東京大空襲 その3〉
 
 業平橋のたもとに、模造大理石らしい低い橋桁がついている。誰も気がつかないだろうが、よく見ると最下部のあたりに、黒い斑点がひろがっている。
 ただの汚れにしか見えない。斑点は輪郭がぼやけて、小さな黒点も飛び散っている。
 こんなものに気をとめる人はいないだろう。

 1945年3月10日の深夜、私たちは猛火に包まれながら、業平橋の橋桁にとりすがって、焦熱地獄のなかを這いずりまわっていた。私は何度か意識を失ったと思う。はっきりおぼえているのは――自分は何もすることなく死ぬ、と思ったことだった。何かをなしとげたかった。しかし、このまま何もせずに死ななければならないのか。ぼんやり、そんなことを考えていた。

 夜明け。私は眼を火と煙にあぶられて、睫毛もなくなってほとんど失明状態だった。やっと眼が見えるようになってからも、あたりがぼんやりとしか見えなくなっていた。
 押上から柳島、北は向島、すべて焼け跡になって、まだ煙のたちこめる中に異様な赤みを帯びて太陽がのぼった。
 私たち一家はなんとか生きのびたが、私たちといっしょにおなじ業平に逃げた隣組のひとたち、十数人のうち、4人が死んでいる。隅田公園に逃げた人たちは全員が焼死した。

 戦後になって、50年以上、業平橋界隈に行くことがなかった。吾妻橋までは何度か行ったし、源森橋までは行っても、業平橋まではどうしても足を伸ばすことができなかった。
     (つづく)

2007/03/06(Tue)  530 〈東京大空襲 その2〉
 
 3月10日のことは私の内面に深く刻みつけられている。
 私は作家なのに、この夜のことは書けなかった。いくら書こうとしても書けない。あまりにもおそろしい、悲惨なできごとだったから、いくら書きたくても私の手にあまるものだった。思い出すことはできる。だが、いくら思い出そうとしても、何かが欠落しているのだった。私の内面には絶望しかなかった。

 吾妻橋二丁目に住んでいた私たち家族四人は、隣組の人たちと、一カ所にかたまりあうかたちになって、渦まく炎と風にあぶられつづけた。前後左右、とくに背後から猛火に追いつかれ、前に進もうとしてももはや1メートル先は、ごうごうと音をあげる火の渦だった。
 火に巻かれた人間は火を吹く髪をむしり、虚空をかいて爪を剥がし、われとわが身を破り、手足をひきちぎって、血と、煙と、火炎といっしょにすさまじい叫びを、口から噴きあげる。生きながら燃えあがって人間が倒れ、みるみるうちに炭化してゆく。

 私たちは防火用水の水をかぶって、熱した地面を這いずりまわった。
 業平橋から先の、わずか数分前に焼け落ちたあたり、猛烈な劫火にあぶられ、火焔の飛沫が、縦横無尽、滝のように襲いかかってきた。炎のなかに黒い影が動く。つぎの瞬間には、この世のものとも思われない悲鳴が聞こえる。それは人間の声というより、野獣が咆えるような声だった。それはつぎつぎに起きては、すぐにとだえた。

 母が、必死に防火用水のへりにしがみついて、毛布をたたき込み、やっと水にひたした毛布を頭からかぶせてくれた。火の粉が頭上から降りそそぐ。というより、無数の火のかたまりが瀧のようになだれ落ちてくる。
 父と母、私と妹の四人は橋の上を這いずりまわりながら、数十分かけて、やっと業平橋をわたり終えた。途中、市電のレールに手や頬がふれると、火傷するほどの熱さだった。
 業平橋界隈が、ほんの数分前に猛火につつまれ、火が風を喚んで、みるみるうち押上方面に延焼した、という偶然が――結果として、先に焼け落ちた場所に逃げるしかなかった私たちに幸いしたのだった。
     (つづく)

2007/03/05(Mon)  529 〈東京大空襲 その1〉
 
 
 芥川 龍之介の「本所印象記」に、
 
 「椎の木松浦」のあった昔は暫く問はず、「江戸の横網鶯の鳴く」と(北原)白秋の歌った本所さへ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったといふ外はない。
 いかに万物は流転するとはいへ、かういふ変化の絶え間ない都会は世界中にもめずらしいであらう。

 「本所印象記」が、彼の死後に発表されたことを思うと、私には格別の思いがある。

 1945年3月10日の大空襲で、深夜、空襲を知らせるサイレンに飛び起きて、闇のなかでゲートルを巻き、防火用水の水をたしかめたとき、すでに深川、両国あたりが炎上していた。本所の吾妻橋二丁目に住んでいた私たちは、この空襲が尋常いちようのものでないことを直感した。火とともに、暴風のような風が吹き荒れて、下谷、浅草の空も真赤に燃えあがっている。私たち一家は業平橋方面に逃げようとした。横川、緑町、さらには深川の空が赤く炎上し、その中をB29が白くうかびあがって飛んでいる上野、浅草方面には逃げられない。私たちは、四方八方を火に囲まれて、逃げ場を失っていた。
 私の家族や、近くの十数人は折り重なるように身を屈め、這いずりまわって業平橋方面に逃げて、燃えさかる炎を避けようとした。だが、ここが地獄の入口だった。

 すでに業平橋の角にあった医院が炎上していた。吾妻橋側から、北十間川支流の堀割をへだてただけの距離で、業平橋界隈から押上、柳島までが猛火につつまれている。
 私の見たものは、絶望が燃えさかっている姿だった。
     (つづく)

2007/03/04(Sun)  528
 
 ブラスコ・イバニェス(1867〜1928)は、スペインの大作家だが、もう誰も読まない。日本では昭和初期に『血と砂』の翻訳が出て知られている程度だろう。

 『裸体の女』という長編は、自分の芸術に対する無知な妻に愛情をささげ、そのヌ−ドを描く画家が、妖艶な伯爵夫人「コンチ−タ」を知って惹かれてゆくという物語。
 大正13年に翻訳が出た。

 当時、文学作品の翻訳のスタイルが、どういうものだったか。

  「マリア−ノ、貴方は、妾を棄てちゃいけないわ。棄てないで下さい。ね、貴方、貴方」
  もう、泣くのをやめた彼女は眼を閉じて居たが、彼の頑強な頸に熱い接吻をした。暗がりの中に彼の顔を探しながら、沈んだ瞳を光らして居た。ほの白く、姿も見えず、神秘的な黄昏は室の中に流れ、もの皆、夢の中にさまよって居た。濃厚な、そして暖かな、湯気のやうな肉香が、彼の身体を圧して居た。
  突然、彼女は身を引いて、恐ろしい予感に、彼から飛びのいた。彼は、暗黒の中に、貪欲な手を戦かせ乍ら、じりじりと彼女の方に進んだ。
  「いいえ、いけません。其れは、いけません。嫌やです。唯お友達だわ。お友達よ。唯常に其れだけよ。」

 そして、当時としては、エロティックな描写がつづく。

  彼女の狂わしく叫ぶ、声は努力して居るにもかかはらず弱々しく聞こえた。窓からはほの青い光りがさして、人魚のやうな寝衣姿の彼女を照した。幻のやうな豊艶な肉体からは、女性の爛熟期の芳醇な肉香が、其のあらはな腕から、其腰から、其両脚から、悩ましい女性の逸楽を漂はせ、蒸し熱い霧のやうに、彼の心を蕩かした。暗闇の中に残った画家は、砂漠の中の長い闇の飢餓に、獅子のやうな唸り声をあげ乍ら、原始的戦士の抱いた劇しい欲望を感じた。

 ことが終わったあと。

  コンチャは、彼の側で悲しんで居た。何んと、取り返しのつかぬ馬鹿な事をした事だらう!

 ということになる。しかし、すぐに彼女は平静になる。

  「貴方、到頭・・ねえ、ほヽほほヽヽヽ。」
  彼女は、明瞭に笑った。
  「事当に、危険な遊戯だったわ。だって、かうなったんですもの。仕方がなかったのだわ。妾は今、貴方を愛して居る事が、初めて解ってよ。事当に妾が愛して居る唯一人の方だわ。」

 こういう翻訳で紹介されたためイバニェスが読まれなかったのかも知れない。
 もし、そうとすれば、イバニェスにとっては不幸なことだったし、日本の読者にとっても不幸だった。

 翻訳家の才能というものを考える。おもしろい原作をこれほどつまらないものにするのもひとつの才能かも知れない。

2007/03/03(Sat)  527
 
 戦後すぐの昂揚した気分のなかで、いちばん盛んになったのは草野球だった。

 ある日、「近代文学」の人びとが、ほかのグループと親睦を深めるため、(みんなで八方手をつくして集めた酒、ビールの「飲み会」が目的で)野球をすることになった。しかし、メンバーが足りない。安部 公房から連絡があって、きみも参加するように、といわれた。
 相手は「中国文学」の人たちが中心で、ほかに画家たちも加わった強豪チームという。
 当時、私は肺浸潤でスポーツどころではなかったが、それでも、安部 公房の頼みでは断れない。大宮から上井草まで出かけて行った。
 球場は見るかげもなく荒れ果てていた。
 すぐに試合がはじまった。私は補欠だった。
 このときの「近代文学」のメンバーは、埴谷 雄高、平田 次三郎、佐々木 基一、安部 公房、関根 弘にまじって、寺田 透、栗林 種一など。三十代ばかり。
 相手の「中国文学」の人たちは知らない人が多かったが、武田 泰淳、千田 九一など。ピッチャーがなんと岡本 太郎だった。
 日頃、バットをもったこともない選手ばかりなので、試合は大荒れ。好プレイ珍プレイの続出に爆笑、哄笑。最後まで笑いが絶えなかった。しかし、岡本 太郎のピッチングで「近代文学」側はきりきり舞いをさせられた。
 安部 公房がホームランを打った。拍手喝采。それでも、「近代文学」は負けた。

 私はピンチヒッターで出してもらったが、最初のバッターボックスは三振。そのまま二塁をまもったが、つぎに打順がまわってきたときヒットを打って塁に出た。しかし、せっかく塁に出たのに、岡本 太郎の牽制に刺されて、あえなくアウト。

 試合のあとは、ビール(当時アルコール飲料は貴重品だった)で乾杯。私は、いちばん年少だったし、大宮に住んでいたので早く帰った。疲れが出た。

 その晩、私は発熱して寝込んでしまった。母が私を叱りつけた。

 1947年。みんな若かった。私は20歳。

 私にとっては、「よごれた古着を洗濯するみたいな昔の文壇の楽屋ばなし」ではない。若き日の貴重な思い出なのだ。

2007/03/02(Fri)  526
 
 あるインタヴューで、ヘミングウェイが語っていた。

  35年前の、よごれた古着を洗濯するみたいな昔の文壇の楽屋ばなしなんか。おれはきらいだね。

 エズラ・パウンドのことを話したときの台詞。相手は、たしか、ジョージ・プリントンだったと思う。 

 これを読んだとき、いかにもヘミングウェイらしいなあ、と思ったおぼえがある。
 私は文壇と関係のない仕事をつづけてきたので、「昔の文壇の楽屋ばなし」などまるで知らない。だから語りようもない。
 ただ、私が出会った少数の先輩たち、同時代の作家や評論家のことは、いまでもよく思い出す。その人たちを私は尊敬の眼で見ていたから。

 むろん、私の嫌いな連中もいた。向こうも私のことを嫌っていたのだからお互いさまだが。

2007/03/01(Thu)  525
 
 古典の教養がないので、歌学の知識がない。残念に思ってきた。
 江戸の文芸にしても、せいぜい川柳、草草紙の類を読んできただけで、趣味ともいえない。しかし、かりにも文芸批評を試みようというのだから、古典についてまったく無知というわけにはいかない。
 ただし、アカデミックな批評とはまるで無縁である。

 好きな古典はいくらでもある。紫も『日記』、和泉も『日記』。『伊勢』、『土佐』よりは『方丈記』、『徒然草』。
 西鶴ならば『永代蔵』、『胸算用』。

 むろん、教養がなくても何かを読めばそれなりの感想はうかんでくる。

2007/02/28(Wed)  524
 
 鼻の先でピシャリとやられる。フラれる。
 それをどういっているか。

  「鼻の先でぴしゃり?」
  「いや違います。わが国では、巷間、これを振ると云ひますね。振る、または、振りつける」
  「あら、それなら平凡ですわ」
  「ところが、これが男性の心胆を萎縮させる言葉でしてね。荒涼たる感じの用語です。これと同じ手の用語は、まだそのほかにたくさんある。愛想づかし。厭やがらせ。厭やみ。おどかし、わるふざけ、ひやかし、やまひづかせ、おもはせふり、うれしがらせ、おためごかし、その他いろいろありますが、みんな一つ一つその味はひが別個の感じを持ってゐて、それでありながらその感じの後味は一味ほろにがいものがあるやに思はれますね」

 この説を聞かされた「女子医専」の女の子は、相手が自分に気があるのではないかと警戒して、ストッキングをはいている足をそれとなくスカ−トのなかに隠す。それを見ていた、別の男が、彼女の顔に「空気が集まってきた」という。

  「空気ですって?」
  「左様、空気が立ちこめました」

 この空気については、具体的に説明できない、という。たとえば・・・同じアパ−トに住んでいるマダムのように、見るからに裕福に稼いでいる女の顔には、少しも「空気がないようなもの」という。
 マダムが商売女として稼いだか稼がなかったかということは、この「借問先生」のような苦人には一目瞭然でわかるという。

 笑ったね。こいつぁいいや。
 私も、今年から「空気が集まってきた」とか「空気が立ちこめてきた」ということばを使うことにしよう。

 井伏 鱒二先生の初期の短編『末法時論』(1938年)に出てきた。

2007/02/27(Tue)  523
 
江戸の道楽者が、朝湯に入る。そういう道楽者が例外なしに、お女郎や芸者にもてる。そういう世話講談を聞いていると、羨ましくってたまらなくなる。
 堅気の商家では、朝湯に入るのは、堕落の第一歩ぐらいに思っていた。小原庄助さんの例もある。小島政二郎の祖父は、朝湯に入るとからだがナマになって、怠けものになる、といましめていたという。ところが、小島政二郎はさっそく朝湯を実行してみる。最初のうちは、からだがだるくなって、何をするのもイヤになった。ところがなれてくると、朝飯がおいしい。これで一日の仕事がはじまる、という爽快な気分になった。
 こういうオッチョコチョイなところが、じつは、世態人情に向ける眼を養った。彼の作品にひそんでいる実際性、プラグマティックな性質、世間の常識に背をむける意地っぱりな姿勢が流行作家として成功した遠因だろう。

2007/02/26(Mon)  522
 
 明治初年の英語入り都々逸。

   ダルク思ひも 今宵は晴れて
   ほんにうれしき ベドル−ム

 いいねえ。いかにも「文明開化」の匂いがする。

  ほれている  アイライキ I like ・・
  うれしい  ラ−プ   Love, lovely
  かわいい  ロ−プ   Love, lovely
  口を吸う  ツンキ   tongued Kiss

 「うれしい」と「かわいい」では発音を変えるとき表情も変えるらしい。

 『和英言葉ノ通シ』や『風流英国言葉』などに出ている単語を見ていると、戦後すぐに大ベストセラ−になった『日米会話』を思い出す。

2007/02/25(Sun)  521
 
 明治末期から大正にかけて、投稿雑誌が多く出ている。女性雑誌でも、「女子文壇」とか「文章世界」などに、たくさんの女性が投稿している。
 そのなかから、やがて作家、歌人になった人も多い。

 こうした投稿雑誌は、昭和に入ってからもつづいている。戦時中、紙の不足から不要な雑誌が強制的に廃刊させられたり、おなじ分野の雑誌の統合が行われるまで、つづいていた。
 私も中学生になって投稿するようになった。

 はじめて詩のようなものを投稿した。優秀、秀逸、佳作、選外佳作とわけて、五、六編がならんで、雑誌に掲載される。翌月号に、選者の短評がついて、私の作品がトップに出ていた。選者は、当時有名だった作詞家で、私はその人の名前をおぼえた。

 うれしい、と思ったかどうか。むしろ、自分の書いたものが活字になったことが不思議だった。活字になると、とても綺麗だが、よそよそしい気がしたのだった。
 たしか二円程度の図書券か何かもらったとおぼえている。それがうれしかった。

 やがて別の雑誌にも投稿するようになった。ずっと後年になって、友人の小川 茂久もそうした雑誌に投稿していたことを知った。いつも小品を投稿していた、という。
 小川 茂久は、大学の同期で、のちに明治の教授としてフランス語を教えていた。私も講師になったので、週に一度、顔をあわせると、近くの居酒屋で飲む。親友はありがたいもので、黙って酒を酌みかわすだけで楽しかった。

 小川が投稿していたことを話してくれたとき、私はすぐに思い出した。
 「そういえば、おまえの書いたヤツ、読んだような気がする」
 私がいうと、小川はケッケッケと笑った。
 「おれもおまえの書いたヤツ、読んだよ」

2007/02/24(Sat)  520
 
 イギリスでは、美しい女性はなんとなく白眼視されます。おまけに才能がある女となると、よけい肩身がせまくなります。美貌と頭脳となると、ただのお楽しみではなくなって、まるっきり怪物あつかいなのです。

 1968年のヴィヴィアン・リーの言葉。

 今の日本の女優さんたちはどう思うだろうか。
 ヴィヴィアン・リーに劣らない美女だっているだろう。

 ただし、どこを押してもこんな台詞が出てくるはずはないが。

2007/02/23(Fri)  519
 
 せっかく同窓会の通知をもらっても欠席する。

 昨年、大学で同期だった人から通知をもらって出かけた。これが最後の同窓会という。もう残っている人も少ない。久しぶりに会ってみると、みんなおじいさん、おばあさんになっていて、街ですれ違ってもわからないだろう。

 あらためて自己紹介をしなければ、お互いにわからなくなっていた。顔を見ているうちに、少しづつ思い出したが、名前を聞いても思い出せない人もいた。
 みんながそれなりに人生の経験をへて、現在にいたったに違いない。しかし、半世紀も会っていないのだから、経歴を聞かされても、どういう仕事をやってきたのか、どういうふうに、それぞれの老いを過ごしているのかまるでわからない。
 出席している人々も、私がどういう仕事をしてきたか知らない。

 欠席者も、ほとんどが病気が理由で出られないという。

 共通の話題は、教えをうけた教授たちのこと、同窓会に出られなくなった同期の誰かれのこと、家族のこと、とくに孫たちのこと。あとは、自分の病気のこと。
 私はろくに教室に出なかったので、そうした話題に興味がなかった。同窓会に出られなくなった、つまり亡くなった誰かれのこともまるで知らないのだった。

 どうせお互いに孤独なのだ。わざわざ同窓会に出ておのれの孤独を思い知らされるなどというのは私の趣味にあわない。

2007/02/22(Thu)  518
 
 冬になると、月に一度はカンピンパンを食べる。
 中国。明清の時代から中国の苦力(ク−リ−)たちが食べていたという。だから寒貧飯。その名の通り、さむざむしくて貧しい飯である。

 お鍋にサラダ油(ゴマ油をほんの少しまぜてもいい)を入れて、ブタのコマギレ一つかみ、野沢菜をこまかく切って、いっしょに炒める。好みによって、チリメンジャコ、アブラゲ、シイタケ、何を放り込んでもいい。
 半分ほど火が入ったところで、水を入れ、ご飯をまぜるだけ。
 誰でも作れる。ある有名な作家が食べていたと知って私も作るようになった。

 寒貧飯の具はいろいろ工夫してみたが、基本はブタのコマギレに野沢菜がいちばん。
 野沢菜の塩分が肉にからみあって味がいい。

 冬山に登っていた頃は、前の晩にブタと野沢菜を炒めたものを冷凍しておく。コチコチに固まったものをポリエチレンの袋に入れてザックのポケットに放り込んでおく。
 山に登りはじめる。昼食の頃には解凍できて、(まだ冷凍状態でも)その固まりを鍋に乗せ、沢のへりの氷のかけら、雪、ときには貴重な水筒の水を張り、ご飯を入れて、登山用のコンロか焚き火にかけて煮る。
 豪雨や、雪でビバークするときも、ツェルトをひっかぶって、ガタガタふるえながら、寒貧飯を作った。

 私のおもな登山用品は、アメリカ軍放出の小さなフライパン一個と、スゥィスのアーミーナイフ、ツェルトときめていた。これさえあればもう大丈夫。
 このフライパンで、煮炊きからコ−ヒ−、紅茶、ホットケ−キ、どんど焼き、ときには木の芽のてんぷら、何もかも間にあわせていた。

 冬、寒貧飯を食べながら、今では登れなくなった山を思い出す。

2007/02/21(Wed)  517
 
 アンナ・マニャーニがいっていた。
  
 大いなる情熱なんて、あなた、そんなものは存在しないのよ。ウソつきの幻想ね。実際には、短かったりちょっと長つづきはしても、ごくありきたりの色恋沙汰だけよ。

 やっぱり、大女優のいうことは違うなあ。
 オリアナ・ファラーチのインタヴューに答えて。

2007/02/20(Tue)  516
 
 近眼になってよかったことは何ひとつない。

 ふつう、25歳になると、視力の低下はとまるといわれている。私の場合、30代なかばまで、何度もメガネを変えなければならなかった。

 マリリン・モンロ−が「百万長者と結婚する法」で、メガネをかけて、いろいろドジを演じているのを見て可哀そうになった。
 中年になって登山に熱中した。冬山を登っていて地図を見たとき、5万分の一の文字が揺らいで、よく見えなくなった。はじめて老眼になったのではないかと疑った。その後、映画を見ていてたまにスクリ−ンがボケることがあった。
 おやおや。映写技師がどうかしてレンズのフォ−カスを変えたのだろう、ぐらいにしか思わなかった。いい気なものである。

 まだコンタクトがそれほど普及していなかった頃、ある女優さんがコンタクトをしていることを知った。芝居の演出をしていて、その女優さんの芝居がどうも気に入らなかった。そこで、わざとメガネをかけさせて芝居をさせた。メガネをかけると、それまでとは違った演技になったし、どこかエロティックな感じになった。

 若いときから眼がよくて、視力が高いほど、老眼になってから苦労するのではないかと思う。

 最近はコンタクトが普及して、メガネをかける人は少なくなっている。
 しかし、小学校5年のときから近視になった私としては、近眼の子どもたちが多くなってきたことを心配している。

2007/02/19(Mon)  515
 
 最近、学校保健の統計で、2006年度、子どもたちの視力の低下が続いて、1.0未満の子どもは、小学生で30%近く、中学生では二人に一人に達しているという。
 この調査は、全国の幼稚園から高校生徒まで、約336万人を対象にしたもの。

 幼稚園児でも視力が、1.0未満の子どもは24%、高校生では58.7%というから、ゆゆしき一大事。
 テレビゲ−ムやパソコンの影響によるという。

 私は小学校5年のときから近視になった。
 窓際の席だった。ある日、担任の壺 省吾先生が黒板に何か書いて私に質問した。私は答えられなかった。黒板の字が読めなかったから。先生が意外そうな顔をしたのをおぼえている。まさか、こんなやさしい問題がわからないとは思っていなかったらしい。

 その晩、母にメガネを買ってもらった。クラスでメガネをかけたのは私がいちばん最初だった。その後、メガネをかけた生徒はこくわずか、せいぜい二人ぐらいだったと思う。
 メガネをかけると世界が一変した。それまで、ぼんやりとしか見えなかった風景が新鮮に見えた。
 メガネをかけてからも、走りまわっていたし、仲間と取っ組みあいをしていたので、メガネが割れたり、ツルが飛んでしまったり、毎週のようにメガネ屋に通った。
 母があきれて、しまいにはメガネのツルのかわりに黒い糸をくくりつけて、耳にかけさせられた。さすがにカッコ悪いと思った。

 視力はどんどん低下して強度の近視になった。

2007/02/18(Sun)  514
 
 「新しい小説の新しさを評価する」ことから別のことを考える。

 80年代になると、キ−ス・ヘリングもどきみたいな流行に乗った絵を描いていた連中がたくさんいた。

 ――バスキアもどきも多かったよね。やっぱりあれは誰でも描けると思うんだろうな。

 あの連中は、今、どうしているんだろう?

 ――キ−ス・ヘリングはけっこう記号的なおもしろさだけど、バスキアはやつぱりペインティングだから、当時の美大生とかは「これだ〜!!」みたいになったんだろうね。

 でも、その連中は、もうどこにもいない。

 ――やっぱり追って消えたんだよ。それふうに描けるようになった時はもう次だった。で、そこでやめちゃうんじゃない?

 大竹 伸朗と永江 朗の対談。(「ユリイカ」06,11月号」)

2007/02/17(Sat)  513
 
 ある若い批評家が書いていた。

    新しい小説の新しさを評価できない人間は退場すべきである。

 いいことばだと思う。

 ただ、「新しい小説の新しさ」というものは、いずれすぐに新しくなくなってしまうし、わるいことにひどくあっさり古びてしまうのだ。
 『日輪』、『ダイビング』、『幽鬼の街』、『太陽の季節』、いくらでも例がある。

 「新しい小説の新しさを評価する」ことなどはおやすいご用。ただし、私はもうとっくの昔に退場している。

2007/02/16(Fri)  512
 
 1936年、ドロシー・キルガレンが書いている。(『女の世界一周』)。

   バグダッドの特産は歴史の日付と・・族長たち。

 2007年、中田 耕治が考える。

   バグダッドの特産は憎悪と敵意と・・テロだけ。

2007/02/15(Thu)  511
 
 鼓笛隊の少年を描いた名作がある。
 少年の頃、ああ、これがジャンジャカジャなのか、と思った。まだ、映画の「戦争と平和」や「ナポレオン」も見ていなかったから、鼓笛隊の少年といっても、自分とおなじ年代の少年が軍装して、鼓笛を手に戦場に立ったことが想像できなかった。

 幕末、尊皇攘夷で国論が分裂していたとき、幕府はフランス式調練をとりいれた。このとき、閲兵訓練や、号令に鼓笛が使われた。
 これがジャンジャカジャである。
 文久の頃にはやった俗謡に、

    一夜どまりのジャンジャカジャに惚れて、ついて行かれず泣き別れ

 という歌がある。この歌は、成島 柳北が記録している。

 幕末、江戸の町娘たち、遊女たちの姿が見えてくる。

2007/02/14(Wed)  510
 
 初夏。勤労動員で農家で働いた。最初の仕事は、水田に苗を植え付ける作業だった。なれない作業で中腰になるので、田植えはつらかった。
 ふと足元を見ると血が流れている。くるぶしの上から出血している。あわてて田んぼからあがった。
 数匹のヒルが脛(すね)に張りついている。あわてて払い落とした。しぶといヒルはそれでも離れない。払い落としたやつはくねくね動いている。見るもおぞましい姿で。
 田の畔(くろ)に生えていた草の葉にヒルをのせて、そのまま農家に戻った。台所の棚から塩をつかんでヒルにふりかけた。ナメクジとおなじだろうと思ったから。
 よりによっておれの血を吸うとは、不届き千万。このヒルだけは許さない決心をした。ほんとうは、農作業をサボりたかったのだが。
 いつまでも観察していた。やがておびただしい血を吐いてヒルはくたばった。

 中年過ぎてから登山に夢中になった。
 あるとき、安東 つとむ、吉沢 正英、ほかに数人の女の子たちといっしょに、登山道を歩いていた。このグル−プにKという女の子がいた。
 深い木立を抜けてやっと中腹にさしかかったとき、ひとりの靴に見なれないものがべったりついていた。ヒルだった。私たちは完全装備だったから、ヒルが靴下に張りついても、すぐに皮膚まで食い破る危険はない。私はヒルから眼を離さずにザックの片手を外して、ポケットの食塩を出しながら歩きつづけた。女の子は気がつかない。
 ヤマビルは、自分の10倍も血を吸う。南アルプスには、ヒルがたくさんいる山があって、こういう山を登るときはとくに注意しなければかならずやられる。

 Kという女の子は、とてもまじめな、おとなしい性格で、登山の初心者だった。
 彼女には、ほかの誰にもまねできない特技があった。どんなに浅くて幅の狭いクリ−クでも、かならず足をすべらせる。私は水流をわたるときはいつも彼女をサポ−トしたが、それでもかならず水に落ちて、靴を濡らしたり、片足を流れに落としてしまう。むろん、たいした事故ではない。ほんの2、30センチ、チョロチョロ流れる谷川のせせらぎをわたっても水に落ちる。
 「あ、また落ちた!」
 みんなが笑いだす。その笑いには少しも悪意はなく、彼女の「水難」がかえってみんなの笑いを誘う。それが、いつもみんなの結束をつよめた。

 しばらく歩いてから、私は声をかけた。
 「Kくん、きみのクツを見てごらん」
 はじめてヒルに気がついた彼女は悲鳴をあげた。みんなが足をとめた。どこかに、小さな水たまりでもあったのか。みんながけげんな顔をした。私はそのヒルをKの靴下の上からもぎとって塩をふりかけた。ヒルは死の舞踏をはじめた。
 「ここで休憩しよう」
 私はみんなにヒルを観察させることにした。誰もヒルを見たことがなかったから。
 塩をかけたのになかなか死なない。登山靴で踏みにじった。

 彼女は、やがて私のパ−ティ−でもベテランになっていったが、ほかの誰にもない特技はなかなかなおらなかった。
 私はヒルにはげしい敵意をもっているらしい。

2007/02/13(Tue)  509
 
 私は他人の幸福を羨むことをしない。自分の不幸を他人に話すことをしない。

 ひどく不幸だと思うときは・・・手あたり次第にCDを聞いている。
 今、リス・スジャント(Lis Sugianto)を聞いている。

 ことばがわからないのが残念。ラテン・リズムをとりいれた曲が多い。新しいポップスなのだろう。こういう曲は、あまり関心がないのだが、それでも、「アジザ」(Azizah)、「ティガ・マラム」(Tiga Malam)、「セリブ・タフン・ラジ」(Seribu Tahun Lagi)などを聞いているうちに、気分が落ちついてきた。
 マレ−シア/インドネシアのポップスは、エミ−・マストゥラ、ジャシンタ、マイズ−ラ、メイ・イ−たちが好きである。フランス語で歌ったアングンよりも、インドネシア語で歌うアングンのほうがすばらしい。
 リス・スジャントは、彼女たちのあとに登場したシンガ−ではないか、と思うのだが、むろんわからない。
 ただ、なぜかアジア・ポップスを聞くほうが心を慰められるような気がする。

2007/02/12(Mon)  508
 
 内閣府が、独居老人の意識調査を行った。(06年1月。発表、06年11月21日) 対象は、全国、65歳以上の高齢者、4500人。回答率、61.2%。

  近所つきあいはない男性、24.3% 前回比(8.9〜 ↑)
        〃  女性  7.1% (0.2〜 ↑)

  親しい友人のいない男性、41.3% (3.6〜 ↓)
        〃  女性 22.4% (3.7〜 ↓)

  老人クラブ、町内会などのグル−プ活動に所属していない
         男性 47.6% 前回比(3.6〜 ↓)
      〃  女性 37%
 こんな無機的な数字からも、孤独に暮らしている老人の姿が浮かび上がってくる。
 随筆家の森田 たまなら、これを見て「孤独ほど耐へ難いものはない。しかしまた孤独ほど尊いものはない。」というかも知れないが。

 私の場合、やはり、近所つきあいはまったくない。道であっても、せいぜいお辞儀をする程度。だいいち、その人が隣近所の人かどうかもわからない。
 老人クラブ、町内会などのグル−プ活動に所属していない。公園などで楽しそうにゲ−トボ−ルをやっているお年寄りを見て、いいなあ、と思う。それくらい。

 だが、冬の黄昏どきに、寒そうに肩を落として繁華街の裏通りを徘徊している老人がいたら、それは私である。人通りのたえた横町かどこかで行き倒れている老人がいたら、それは私である。

 さいわい親しい友人はまだいる。だいたいは女性だが。

2007/02/11(Sun)  507
 
 もう、ずいぶん前のことだが――テレビで、韓国ドラマ「忘れ物」を見ていた。ホ・ジノが出ているので。この俳優は、「火山高」、「シルミド」、テレビで、イ・ビョンホンの主演した「オ−ルイン」で見てからずっと関心をもってきた。
 「忘れ物」では、少し若い頃のホ・ジノを見ることができた。

 ところが、ドラマがはじまって間もなく、突然、画面が切り替えられて、津波警報が出た。(06.11.15.)
 震源は、エトロフ東北東390キロ、シムシル島の沖合、深度、約30キロ。マグニチュ−ド、8.1。北海道各地の沿岸に津波警報が出され、さらに東北から静岡県までの太平洋沿岸に津波注意報が出た。
 それからはこのニュ−ズだけで、当然ながら「忘れ物」は中断されてしまった。

 さらに5年前、これもテレビで、たまたまドラマ「ウソコイ」の最終回を見ていた。王 菲(フェイ・ウォン)が出ていたから。
 あと数分で終わるときに、突然、画面が切り替えられて、ニュ−ヨ−クの貿易センタ−に国籍不明の旅客機が突入したというニュ−ズが流れた。私はテレビを見つづけていた。 この日以後、現代史の流れが大きくはげしく変化したのだった。

 あとになって、「ウソコイ」の最終回の再放送があった。ある女性からこのビデオを借りて、ドラマの結末を見たことを思い出す。
 (王 菲(フェイ・ウォン)は、中国で、あるインタヴュ−で「こんなドラマ、誰が見るのかしらね」と語っていた。たしかにアホらしいドラマだった。もっとひどかったのは、チェ・ジウが出た「輪舞曲(ロンド)」だった。)

 「忘れ物」もいつかもう一度見直したいと思う。何か忘れものをしているようで気になるので。


  後記(「忘れ物」は06.11.26日、午前10時から再放送された。)

2007/02/10(Sat)  506
 
 キ−ス・ジャレット。
 「ぼくはピアノとともに育って、人間のことばとピアノの言葉を同時におぼえた」という。そういえば、一度だけ、キ−スについて書いたことがある。

 キ−スの評伝を読んでいて、こんな記述にぶつかった。

   ジャレットは何かひとつのことを探究しはじめると、いつも100%のめり込んでしまう。全面的に本格的な行動を開始する。彼の関心の所在をあきらかにできるまでには、いつも何年もかかってしまう。
   おまけに、そこまで行くためには、一つの面に集中してしまうので、ほかのことはなおざりにしてしまう。こうして彼の活動のありかたが、そのつど変化するので、多くの批評家たちを混乱させる結果をまねいた。

 私はキ−スのような天才ではない。だから、キ−スに自分をなぞらえることは出来ないが――どこか似たところがある。
 何かひとつのことに関心をもつと、ひたすらのめり込んでしまう。ここ数年、江戸の遊女から明治、さらには戦後の娼婦のことを熱心に調べてきた。本格的に勉強をはじめたわけではない。ルネサンスの王女で、当時、最高級の娼婦だった女性について書こうと思っているうちに、そこまで関心がひろがってきただけなのだが。
 ルネサンスの王女については、なんとか書けそうな気がしはじめたのだが、ここまでくるあいだ、一つの主題に集中したため、ほかの仕事がなおざりになってしまった。
 けっきょく、まだ何も書かない。書くチャンスがないから書かないだけのことだ。
 これから、私がどう変化したところで、批評家たちが混乱する気づかいはない。だいいち変化しようにも何ももうどうしようもない。批評家の私がいうのだから間違いはない。

2007/02/09(Fri)  505
 
 歳末、鈴鹿の藤田 充伯さんから蕷芋(とろろいも)をいただいた。
 私がいただいた品種は伊勢いもという。
 ベ−スボ−ルの硬球よりももっと大ぶりで、皮を剥いてすりおろす。伊勢いもはコシがつよくて、すりおろして箸をつけても、途中で切れない。ふつうのヤマノイモ、ナガイモは、これに較べると、水っぽくて、箸にべたべた貼りついてくるだけだが、伊勢いもは、塗りの箸ですくっても、しっかり形をとっている。
 私は麦とろろが好きで、駒形はもとより丸子宿まで足をのばしてみた。とろろにするのは、ヤマイモ、ナガイモ、ツクネイモ、いろいろあって、それぞれにおいしいのだが、薯蕷芋(とろろ)としては、いずこも伊勢におよばない。
 味は・・ただ、ひたすら風味絶佳としかいいようがない。

 歳末になると、私は伊勢いもを酒菜に、信州は松本、亀田屋の銘酒、「大吟醸 アルプス正宗」を酌む。
 人生、至福のとき。

2007/02/08(Thu)  504
 
 この「人生案内」は、現在の私にさまざまな波紋をなげかけるようだった。
 これに、作家、立松 和平が回答している。

   短いお手紙の中で、一代記を読ませていただいた気がいたしました。誰でも自分の半生を振り返るものでしょうが、悲しいと思えば悲しみの色に染まり、うれしいと思えばうれしさの色に染まります。おなじ人生でも、気持ちによってどのようにでも変わるものです。
   あなたのお年で、あなたより健康に恵まれていない人は、身の回りにたくさんいます。その人たちがすべて心まで弱っているとは私には思えません。死の床に横たわって余命幾ばくもなくとも、その日その時間その瞬間を、希望を持って生きている人もいます。
   あなたがこれまでの自分の人生を否定的にとらえていることが、若輩で申し訳ないのですが、私には気になりました。生きたくとも80歳まで生きられない人は、たくさんいます。100歳まで生きられるというなら生きるべきではないでしょうか。死を自分で決めてはいけません。目や耳は誰でも年とともに衰えてきます。散歩が楽しみというあなたは、足がしっかりしているのですから、方々歩いて、一人でも多くの人に出会ってください。

 私は立松 和平に敬意をもっている。かりに、私が答えたとしても、似たような答えになるに違いない。
 短い紙数で何ほどのことも書けないと承知しているが、この老人ははたしてこの答えで安心するだろうか。
 この老人は、散歩を楽しみにしている。足がしっかりしているのだから、方々歩いているだろう。だが、たかが散歩するくらいで、どれほど多くの人に出会えるだろうか。
 私もよく散歩をする。近くの公園に集まった老人たちが、木蔭で将棋を楽しんでいる。しかし、ベンチに腰かけて、ただぼんやりしていたり、うつらうつら眠りこけている姿を見る。その老人たちは一人でも多くの人に出会うことはない。
 私にしても似たようなものだと思う。

 老人は長く独身だったが、ある女性と結婚した。子どもにも恵まれたが、不幸なことに5歳の子どもと死別。夫婦で悲嘆のどん底に陥った。
 その妻も3年前に亡くなって、最近死にたくなってきたという。
 ここに語られている孤独に、私たちはどう答えることができるだろうか。

 生きているかぎりどのような人の愛別離苦も私たちに無縁なものではない。
 この「人生案内」は、おなじ老人の私にさまざまな波紋をなげかけてくる。
 むろん 私はこの老人に答えるのではない。そんな資格は私にはない。
 ただ、立松 和平とは、まったく別の問題について考えてみようと思う。

 たとえば愛別離苦にかかわるエロスについて。

2007/02/07(Wed)  503
 
 ある新聞の「人生案内」にこういう投書があった。

   80歳男性。若いころは、就職も思うにまかせず、人里離れた土地で、養鶏の仕事をしていました。恋をしたこともなく、20年以上一人暮らしを続けました。
   しかし時代とともに、採算が取れなくなり廃業。町に出て、商家の物置を借りて住みました。どぶ掃除などのアルバイトをしながらのその日暮らしでした。
   そんなとき、ある女性と知り合い結婚しました。仕事も得て、44歳で子どもにも恵まれました。楽しい生活でした。しかし、子どもは5歳のとき海で水死してしまいました。夫婦で悲嘆のどん底に陥りましたが、何とか立ち直り、生きてきました。
   その妻も3年前に亡くなりました。最近死にたくなってきました。健康診断を受けると、「あと20年は生きられる」と言われました。
   でも目はだんだん見えなくなり、耳も次第に聞こえなくなっています。散歩は楽しみですが、他に趣味はありません。これからどうして生きていこうか迷っています。

 三重県の老人の投書であった。(06.11.14.「読売」)私は、この短い文章に心を動かされた。

 老年の孤独がまざまざと感じられたからである。

 若いころは、就職も思うにまかせなかったというのは、おそらく「戦後」の激烈な混乱のなかで、就職したくても就職できる状況ではなかったのだろう。
 都会には空襲で焼け出された人たち、敗残の復員兵があふれ、道義は地に落ちて、巷にはヤミ、誰もが犯罪におびえきっていた。庶民はタケノコ生活、若い女たちはストリップ。戦前のエログロなど比較にならないすさまじい時代になった。
 「欲しがりません、勝つまでは」は「とんでもハップン」で、どこを見ても「てんやわんや」と「やっさもっさ」の時代だった。
 私の大学の同期でも戦後になってから自殺した者が二、三名いるし、ヤクザになって惨殺された者もいる。

 戦後、人里離れた土地で、ひっそりと養鶏の仕事をしていた若者の心情も、私には想像できるような気がする
 この「人生案内」は、おなじ世代の私にさまざまな波紋をなげかけた。

        (つづく)

2007/02/06(Tue)  502

 出雲の阿国は別として、日本ではじめて女優になったのは誰だったのだろう。

 演劇史は知らない。

 明治16年、新富座で菊五郎(五代目)が実録ものの『千種花音頭花唄』河竹 黙阿弥・作)を出した。座主の守田 勘彌の企画で、これに花柳界総出の踊りを出すことになった。
 新富町、葭町、霊岸島、日本橋、下谷、講武所、東京じゅうの花柳界がわき立った。
 たちまち警視庁から「男女混合の芝居は規則の禁止するところ、芸妓の出演まかりならぬ」と横やりが出た。勘彌が動いた。
 なにしろ、勘彌の二号さんは、新橋の「岩井屋」のお貞である。当時、お貞は・・・ 西園寺 公望のご贔屓が「蓬莱屋」のお玉、井上 馨が「窪田屋」の鳥介(とりすけ)、大倉 喜八郎が「田中屋」のお愛、堀田 瑞松が「若菜屋」の島次と並んで名妓五人にかぞえられていた。この女たちが、ちょいと耳うちしただけで、警視庁の幹部の首が飛ぶ。 そこで警視庁も黙認。

 初日、楽屋に張り紙が出た。
 「男女混合の芝居は其筋に於て許可されざりしを種々懇願の末、猥りがましき事の無きやう、十分注意せよとの厳命を受け、ここまで運びたるに付、一同其心得にて謹直に身を持すべき事」

 いずれ名だたる美男美女が楽屋にごった返しているのだから、こんな張り紙一枚にききめがあるはずもない。
 まっさきに禁を破ったのは、家橘(のちの羽左衛門)と葭町の米八。これが露顕して、あわれ、米八は芝居の途中から舞台からパ−ジされた。

 ほかにもイロイロと隠れた粋な話があるのだが、この米八が発奮して、のちに女優として舞台に立った。だから、本邦最初の舞台女優。

 千歳 米坡(ちとせ べいは)である。

2007/02/05(Mon)  501
 
 戦後すぐに里見 敦が書いた随筆に、電車に乗っている女、あるいはカップルを見ただけで、その女なりカップルのことがだいたい想像がつくとあった。作家の眼はおそろしいものだ、と思ったおぼえがある。
 たとえば、レストラン。
 楽しそうにしゃべっているのもいれば、押し黙ったまま食べているのもいる。このふたりはどうして知りあったのか。男と女だから、どういうわけか親しくなって、現在にいたっているわけだが、ベッドの中ではどうなのか。作家でなくても誰しもそんなことを考えるだろう。

 里見 敦という作家の眼力はすごいものだが、いまの私にしても里見 敦程度のことならいえるような気がする。

 年配のふたりづれがテ−ブルで向きあって食事をしている。

 沈黙の長さが、結婚生活の長さとほぼ正比例する。

2007/02/04(Sun)  ☆500☆

 教育改革が問題になって、教育再生会議なるものができた。「ゆとり教育」の見直しという観点から、全体に教員の質の低下とか、教育の現場に不適格な教員が多いということが問題になっている。
 教員としての素質も適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは教員の教育能力を向上させなければならない。ゆえに、ひろく検定試験を実施し、何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。

 おいおい、冗談じゃねえや。
 何かいまわしい事態が明るみに出ると、きまってこういう「正論」が出てくる。私が、もっとも軽蔑するのは、こういう「正論」なのだ。「正論」というやつは、正面きっては誰も反論できない。だから、こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。

 数学だけに限定しても、各国の7〜14歳の児童のうけている授業時間は、
      フィンランド   2018時間
      韓国       2182 〃
      日本       2359 〃
 しかし、成績のレベルは、1位が香港、2位がフィンランド、3位、韓国とつづいて、オランダ、リヒテンシュタイン、日本は6位。
 つまり、日本の数学の授業は、授業時間に比して効率がわるいということになる。

 では、日本の小学6年生の国語の授業時間は、
    1970年代   245時間
    2004年    140時間
 哀れだなあ。言霊のさきわう国の国語力のいちじるしい劣化がわかるだろう。

 教員の再検定とか、免許の更新ということが問題になっている。
 これにも笑ったね。車の免許じゃあるまいし。そんなことが実施されたら、現場の教師は、検定のための「勉強」に終われるだろうし、いろいろ苦労させられるだろう。
 そんなことを考えることにこそ、現在の教育システムの破綻があるのだ。
 個人的な資質、教育に対する熱意、その人格の程度くらいは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。私は小学校のときから、「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だったと思う。
 今だって、小学生、生徒たちは、はっきり見ているはずなのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は、表面は「よくできる」先生だが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしているか。uu先生は誰それさんをヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。etc、etc・・。
 たいていの子どもたちは、いつだってかなり正確に「先生喜劇」を見届けている。

 クラスにおける教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、権威主義的であり、教育学的に誤りである。

 私は教員のレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんな小手先の改革で、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるものなのか。
 むしろ、府県単位の教員免許制度を廃止すべきである。ただし、全国共通の教員試験を実施せよ、というのではない。一府県で教員免許を取得した人は、どこの府県でも教育者として採用できるシステムを確立すべきではないか。

 最近、いじめの問題が深刻化して、自殺する児童、生徒が出てきたが、これまで文部科学省には、そうした深刻な事例は一件も報告がなかったという。
 そういう連中が、教育界を停滞させ、ひいてはレベルを低下させてきた。その責任を問うべきなのだ。
(「児童虐待防止法案」なるものは、すでに昭和4年に、当時の帝国議会に提出されているくらいなのだ。ウソだと思ったら調べてみるがいい。こういう「いじめ」が、戦前の日本の陸海軍にはびこっていたことは否定できない。下級兵にかぎらない。下士官クラスの新兵いじめ、部下いじめのひどさ、悪辣さ、陰湿さを思い出すがよい。)

 教育問題については、いずれまたとりあげよう。

2007/02/03(Sat)  499
 
 本を読むのにあきたり原稿が書けないとき、CDを聞く。

 中国、韓国、香港、台湾のシンガ−もずいぶん聞いた。ただ聞いているだけだから、少し前の有名歌手も、最近の新人も区別がつかない。
 好きなシンガ−もたくさんいるし、好きなCDも多い。

 たとえば、子小 悦 を聞く。田 震、陳 明以後の歌手だが、とてもいい歌手だった。アルバムのタイトルは「快楽指南」(上海声像出版)。タイトル曲はあまり感心しないが、つぎの「情舞」から「新人愛語」を聞いて、関心をもった。
 「黄昏放牛」でまるっきりのヨ−デルも歌っているのだが、「漂漂亮亮」あたりがいい。

 このひとの別のCDが入手できないのが残念だが、そのうちにまた別のシンガ−が見つかるだろう。

2007/02/02(Fri)  498
 
 映画の撮影には困難をきわめた。クランクアップしても、打ち上げをする余裕がなかった。現地から逃げるようにしてスタジオに戻った。
 撮影、録音、編集をすへて終わって試写にかけたとき、会社の人々は欣喜雀躍した。
 だが、検閲が残っている。

 「いい映画です」
 ゆっくり担当官がいった。
 「外国人にはウケるでしょう」
 担当官はつづけた。
 「しかし、外国人が喜ぶのはかならずしもいいことではない」
 主演女優は、頭がくらくらして、担当官の声が遠のきはじめた。
 「この映画は国外では上映してはならない。国内でならかまわない」

 国内各地で上映された日、観客からは絶大な称賛の拍手が起きた。しかし、それも束の間、当局から、全国の上映館に、即日上映禁止、フィルムの回収が通達された。

 中国の映画女優、劉 暁慶(リュ−・シャオチン)の回想を読む。
 残念なことに、「芙蓉鎮」、「西太后」しか見たことがない女優さんだが、彼女は自分のスキャンダルを臆せずに語り、政治に翻弄されていた中国映画界の裏面を知ることができる。

2007/02/01(Thu)  497
 
 バイロンの詩は好きではない。しかし、その女性観は興味深い。

 「私に感心するだけの賢さはもっていてもらいたいが、自分が賛美渇仰のまとになりたいと思うほど利口であっては困る」という。

 三島 由紀夫なら、おなじことをいいそうな気がする。

 少し論点を変えれば・・・・自分が賛美渇仰のまとになりたいと思うほど愚かな女はいくらでも見つかる、ということになる。
 たとえば、毎月の「プレイボ−イ」に出てくるヌ−ド。

2007/01/31(Wed)  496
 
 明治時代の邦楽で、ほんとうの名人といわれたのは、常磐津 林中(りんちゅう)、七世、松永 鐡五郎、その義兄の三世、松永 和楓(わふう)といわれている。
 和楓(わふう)は非常な美声だったという。

 和楓(わふう)の独吟や、大薩摩とくると、声は劇場をつきぬけ、表通りを越えて、向こう側の芝居茶屋の奥座敷まで聞こえたという。体格がよくて、大兵(たいひょう)肥満だった。それだけに、声に深みがあって、腹に響く。オペラでいえば、最高のバリトンだったらしい。
 当時の劇場建築は鉄筋コンクリ−トではないし、木戸は開けっ放し、大通りにしても狭かったから、前の劇場の長唄が聞こえても不思議ではないが、それでも和楓(わふう)の美声が聞こえては、向い側の役者の芝居もやりにくかったに違いない。

 芸は日本一、性格のわるさも日本一。晩年、落魄したが、ずっと後輩の和風(わふう)たちが丁重に挨拶しても、返事もせず、ギロリと一瞥をくれるだけ。
 傲岸不遜をきわめていた。

 ある日、両国に花火を見に行った。
 でかい図体(づうたい)に浴衣をひっかけたまま、座敷に大あぐら。
 そこに、団十郎(九代目)の妻が通りかかった。
 「まるで、破落戸(ごろつき)だねえ」
 といったとか。和楓(わふう)はすかさず、
 「なんでえ、河原乞食のくせしやがって」
 とやり返した。

 やがて、和楓(わふう)は大歌舞伎から去った。その後、流転をつづけて、舞い戻ったが、最後まで傲岸な人間だったらしい。大正五年に亡くなっている。

 こんなエピソ−ドを、少年の頃、母から聞いた。
 母は三味線をやっていて和風、佐吉を尊敬していたので、見たこともない和楓(わふう)のことも噂に聞いていたのだろう。
 芸術家にもいろいろな人がいる。私は和楓(わふう)のような人に出会うことがなくてよかった。

2007/01/30(Tue)  495
 
 少年は黙りこくって、寒さにふるえながら人の流れに身を委ねている。クリスマスの近い季節。買い物のために混雑している人の流れはどこからきてどこまで流れて行くのだろうか。
 母が死んだ。
 「だれでも死ぬと、いちばん幸福なところに行くっていうだろう。ママはここで幸福だった。だからこの家にいるんだ」
 少年は残された13人の弟たちにそういい聞かせる。
 そして弟たちのためにクリスマスの七面鳥を手にいれようとしてロンドンの街をウロつきまわる。弟たちをひきつれて。
 母のいないクリスマスの街の喧騒は、幼い子どもたちの心に空虚さと、同時に、みんながいっしょに生きて行こうとする勇気をもたらす。だが、師走の冷たい風は子どもたちの肌にまつわりついて離れない。
 その夜、火をともしたキャンドルをかこんで、やっと手に入れた七面鳥の切れっぱしを見つめる28の瞳は澄みきっている。

 イギリス映画「別れのクリスマス」(デヴィッド・ヘミングス監督)は、実話にもとづいた作品で、12人の男の子、2人の女の子たちが、都市計画でとりこわされることになったロンドンの貧民街のボロ家に立てこもり、福祉事務所のおばさん、おじさん、孤児を収容する修道院の尼さんたちを手こずらせる、愉快な、しかし、逆にいえば、深刻な物語だった。

 もう忘れられた映画。誰もおぼえていないだろう。
 この「別れのクリスマス」を見たとき、ディッケンズ以来のイギリスの少年小説を思いうかべた。少年たちの腕白ぶりに右往左往する姿に、発足まもないサッチャ−政権の社会政策のどうしようもない停滞ぶりを見せつけられるような気がしたっけ。

 主演は、「小さな恋のメロディ−」のワルガキ、ジャック・ワイルド。見るからに下層階級の出身らしく、ふてぶてしい少年だったが、思春期の男の子らしい内面の翳りを見せていた。ラストで、少年たちは田舎の牧場にひきとられる。少年「レジ」は恋人の「リ−ナ」にいう。
 「みんなで暮らせる大きな農場をもとう!」
 田舎の美しい風景が次第に遠のいてゆき、自分たちの子どもをもとうとしている恋人たちの姿が、ふたりだけ世界から隔絶しているようにうかびあがってくる。

 私がディッケンズを思いうかべたのは酔狂だが、イギリス映画には、戦後すぐのチビッコたちのすさまじいエネルギ−を描いた傑作、「ヒュ−・アンド・クライ」などがあって、この映画もその系列に入るだろう。
 こういう映画を、ハ−トウォ−ミングな映画と呼ぶ趣味は私にはない。社会的な善意、福祉などが、少年少女たちの感情を少しも理解せずに行われる冷酷さは、あの時代に比較してずっと豊かになった私たちの社会でもおそらく変わらない。
 「小さな恋のメロディ−」や、この映画から見てとれるものは、まぎれもなくイギリス社会の衰弱と混乱であり、それを克服しようとする意志というべきか。


 戦前、(わずかに清水 宏のような映画作家、「生まれてはみたけれど」、「綴方教室」、「家に三男二女あり」といった作品を例外として)・・・日本でこうした映画が作られることは少なかった。
 むろん、少年少女を中心にした映画なら、ファンタジ−からホラ−まで、無数に氾濫している。だが、80年代から急速、かつ広範囲にひろがったポルノ・ビデオとおなじようなもので、ほんとうに少年少女の姿をとりあげた作品は少ない。
 それでも、「瀬戸内野球少年団」や「象にのった少年」まで、映画の主題として少年少女をメイン・テ−マとした作品が登場する。
 テレビドラマの「おしん」が人気になったのは、じつは少女時代の「おしん」の姿に感動したからであって、「おしん」の波瀾万丈のサクセス・スト−リ−に共感したからではない。
 私がここで思いうかべる少年映画は、たとえば「思春期」(ジャンヌ・モロ−監督)や、韓国映画「故里の春」(イ・グァンモ監督)のような作品である。

 それにしても、「別れのクリスマス」の少年の夢は実現できたろうか。

2007/01/29(Mon)  494
 
 長いあいだ知らなかったことがある。

 何かの買い物をしておつりをもらう。
 銀行や郵便局でも、紙幣や小銭をまるいお皿、ゴムのイボイボのあるまるい受け皿に入れてくれる。
 あのお皿のことを英語で何というのだろうか。

 
 Carton だそうな。そこで英和辞典でたしかめた。

 Carton n ・ カ−トン ボ−ル箱;[牛乳などの]蝋紙[プラスチック]製の容器;カ−トン[ボ−ル箱]の中身;ボ−ル紙(cardboard)・ 標的の白星;的中弾          「リ−ダ−ス英和辞典」研究社

 Carton n ・ [大きい]ボ−ル箱;板紙 ・ カ−トン箱入りのもの 〈a carton of cigarettes 巻きたばこ1カ−トン ・ 標的の白星;命中弾           「英和中辞典」旺文社

 では、日本で「カ−トン」という言葉が実際に使われたのだろうか。使われたとすれば、いつ頃からなのか。調べてみた。
 私が調べたところでは、昭和8年には実際に使われていた。ただし、おつりを出すほうも、こんなものをいちいち「カ−トン」と呼ぶ必要もなかったから普及しなかったのだろう。
 つまらないことでも調べてみるとおもしろい。なにしろヒマだからなあ。(笑)


 ことのついでに、英和辞典の編纂者にお願いしておく。
 Cartonの訳語に、釣り銭皿という訳語を補足してもらいたい。私のように、何も知らない、ただ好奇心のつよいアホもいるのだから。

2007/01/28(Sun)  493
 
 自分史を書く。それが本になる。
 自分がどういう人生を過ごしてきたのか、ふり返ってみることも必要かも知れない。
 とすれば自分史を書くのはいいことだ。誰でも1冊は書けるはずだから。

 自分史もまた文学作品なのだ。文学的にまったく無価値であっても、なおかつ、まぎれもなく文学と見るべきだろう。

 本が読まれなくなっている。
 最近の、読書に関する調査(「読売」06.10.30)では、この1か月に1冊も本を読まなかった人は、49パ−セントという。去年の調査より、3パ−セント減っている。
 この数字は、過去10年、だいたいおなじレベルを推移している。
 年代別では、20代で、本を読まなかった人は、48パ−セント。去年の調査より、7パ−セントも高くなっている。若者の「本離れ」という。いいねえ。もともとこの世代の連中、本を読みそうな顔をしていない。本を読む学力もないのだから。

 中高年では、50代、60代で、「読まなかった」がそれぞれ49パ−セント。つまり、「団塊の世代」と呼ばれる連中が、平均して本を読まないことがわかる。これもいいことだね。はじめから何も考えない連中だから。
 ただ、50代では、前年比、9パ−セント。60代で、10パ−セントが、本を読むようになっている。少しは余裕が出てきたということか。

 本が読まれるといっても、脳を活性化するというハウ・ツ−本や、「団塊の世代」関連本が読まれているだけで、まともな本が読まれているわけではない。

 私は日本人の本離れを心配しているか。
 まったく心配していない。旧文部省の国語教育の結果が、こういう数字になってあらわれただけのことだ。
 もの書きとして、自分の作品や翻訳が読まれないのは、少しだけ残念だが、私の書くものなど読まれなくても仕方がない。

 いろいろな人が自分史を書く。だれも読まない本ができる。
 しかし、誰かが読んでくれるかも知れない。他人がどういう人生を過ごしてきたのか、その本を読むことで自分の人生とひき較べてみるのも楽しいかも知れない。
 とすれば自分史を書くのはいいことではないか。

2007/01/27(Sat)  492
 
 最近、映画も見なくなった。
 とくにハリウッド映画を。公開されてしばらくすると、DVDが出るので、わざわざ映画館に行く気にならない。
 ハリウッド映画を見なくなったのは、つまらないからである。

 世界的に話題になった「ダ・ヴィンチ・コ−ド」も見たが、こんなものか、と思っただけ。こんな映画よりも「パイレ−ツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」のほうがましだろう。
 「オ−メン」も見た。旧作の「オ−メン」のリメイクだが、主演の俳優、女優に、前作のグレゴリ−・ペック、リ−・レミックほどの存在感がないので、まるで魅力のない映画になっていた。
 ハリウッド映画の、シリ−ズもの、リメイクものを出すときは、もともと想像力もない連中が柳の下のドジョウをねらって企画するので、たいていはうまく行かない。映画監督がいくら前の映画と違ったものを出そうとしても、へたをすると二番煎じ。

 「クラッシュ」は、アメリカの人種差別をとらえているが、スパイク・リ−のほうが、はるかにするどい映画感覚を見せている。

 つまらない作品を見て、ああ、つまらなかった、と思うのが私の趣味である。はじめから、おもしろいにきまっている映画は見る必要がない。だから「ロ−ド・オブ・ザ・キング」のような映画は、歳末のテレビで見ればいい。
 やっぱり、つまらない、と思ったのだが。

2007/01/26(Fri)  491
 
 晩年の宮さんの日記には、私がしばしば「登場」する。自分でも不思議だが、およそ社交的でない私が宮さんに親しくしていただいたのは、おたがいにヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーに関心があって、宮さんが私に好意をもってくれたからだった。
 宮さんは完全な「西欧派」だった。何であれ、ユーロピアンを基準にする。日本の俳句などにまったく関心をもたなかった。
「夜。われパリを愛す! この都の魅力に酔どれのように毎日パリを夢みる。やっぱりいいものはいい。」
 晩年の宮さんにとって、パリはひたすら憧れと愛情の対象であり、文学、芸術、すべての美の基準なのだった。『パリ詩集』を読めば、宮さんの「パリ」がよくわかる。
 フランスの美女のモデルが出ているというだけで、わざわざ新刊の雑誌を私に送ってくれたりする。
 そのくせ、女優ではジュリア・ロバーツが大好きだった。これも、わざわざ私のためにジュリア・ロバーツのビデオを送ってくれるのだった。
 シャンソンではマリアンヌ・フェイスフル。

 私が、マリアンヌとミック・ジャガーの話をすると、眼をまるくしていた。

 大阪の同人雑誌作家が、宮さんを天衣無縫の作家と批評したとかで、さっそく自分の日記を「無縫庵日記」とつけた。私は宮さんを天衣無縫の作家とは思わない。ただ、こういう無邪気なところが好きだった。

2007/01/25(Thu)  490
 
 宮 林太郎の日記を読み返していて、こんな短歌を見つけた。

   新宿の樽平という酒場にて友と語りし春の宵かな
 
 昭和十年、「星座」という同人雑誌の創刊号に掲載された石川 達三の『蒼氓』が、第一回、芥川賞をうけている。宮さんは、翌年、石川 達三の知遇を得て、「新早稲田文学」に参加して、作品を書きはじめる。二十二歳。「星座」に参加したのは、さらに翌年だった。
 新進評論家だった矢崎 弾が、上海に旅行して、帰国したとき、宮さんは神戸に迎えに行った。お互いに初対面だった。
 下関から急行が着いたとき、宮さんは矢崎 弾とすっかり意気投合して、そのまま列車に乗ってしまった。東京駅に着いたのは、つぎの日の朝。
 その日の夜、新宿の樽平で開かれた「星座」の同人会に加わって、「星座」の同人に迎えられたという。

 その晩、同人の秋山 正香が新聞記者とケンカをはじめ、矢崎 弾と中井 正文がケンカをはじめた。宮さんは、中井をなだめて下宿まで送った。当時、中井は東大の独文の学生で本郷に下宿していた。下宿に着いても腹のムシがおさまらない中井が、あまりうるさいので、宮さんも腹をたてて、「勝手にしろ!」とどなってホテルに帰った。
 秋山は、ケンカ相手と吉原の土手のドジョウ屋で夜明けまで飲みつづけ、やがて隅田川の土手で着物をぬぎ、いきなり川に飛び込んだ。
 新聞記者は着物をかかえて言問橋をわたった途中で、警官の不審尋問にあってしまった。「どうしたのか」と聞かれて川を指さした。その先に抜き手をきって泳いでゆく秋山の姿があった。
 警官はあきえて、「早く行ってやれ」といった。
 このときのことを、のちに秋山は小説に書いた。この作品は、芥川賞の候補になったが、受賞できなかった。秋山 正香はのちに自殺している。

 この話は宮さんから聞いた。
 私は「星座」を読んだことがない。(昭和12年、私は小学校の低学年だった。)むろん、石川 達三は読んだし、矢崎 弾も読んでいる。
 その頃の文学青年の生きかたも想像できた。

 宮さんが、若い頃、こんな短歌を詠んでいたと知って、なにか不思議な感動をおぼえる。そこで、私もざれ歌を。

  祐天寺ヘミングウェイ通りの春の宵 宮 林太郎の語りしことども
 
   (つづく)

2007/01/24(Wed)  489
 
 歳末、テレビを見ていた。
 ある番組で、ティレクタ−がアフリカに行く。現地で出会った人々に声をかける。そのやりとりをビデオに収録する。ありきたりの番組だが、知らない土地の人々の生活、風俗、習慣が見えてくるのでおもしろい。

 路傍というか、道ばたで、小刀で木彫りの人形を作っている現地の人に声をかける。
 真っ黒な顔に笑いがひろがる。そして、挨拶のことば。

     ナカダデブ!

 驚いた。中田でぶ! 相手は何度かくり返した。「ナカダデブ! ナカダデブ!」

 セネガル語で「お元気ですか」という意味だという。

 笑ったなあ。

 私は「デブ」ではない。しかし、この挨拶はすぐにおぼえた。さっそく使うことにしよう。

 みなさん、ナカダデブ!

2007/01/23(Tue)  488
 
 戦前の浅草オペラに熱中したペラゴロたちの眼には、「茶色の毛をつけた日本人たち大勢の顔やからだや仕草」はエグゾティックに見えたにちがいない。
 だが、戦後、日本のオペラをささえてきた人々は、いつも山崎 清のような指摘にたえながら、それぞれが自分の信じる道を歩みつづけてきたはずである。

 たとえば、50回をむかえた「新春オペラ・コンサート」は、こうした批判とはかかわりなく日本人が到達した結果とみていい。むろん、日本人は『トスカ』のアリアで、パヴァロッテイ、ドミンゴ、カレーラスにおよばない。しかし、そうした比較は、やがて無意味なものになる。

 これは、別の領域でもおなじことなのだ。たとえば、現在の翻訳が、明治、大正の翻訳家の仕事とは比較にならないほど高度なものになっていることを見ればよい。
 私たちのミュージカルが、ブロードウェイの絢爛をもたないとしても、少しも恥じることはない。あえていえば、一部の人たちはすでに才能において劣ることはない。

 すでに、私たちのディーヴァたちの顔やからだや仕草が、イタリア・オペラとはそれほど異質なものとはいえなくなっている。
 NHKの「新春オペラ・コンサート」を見て、考えたこと。

2007/01/22(Mon)  487
 
 NHKの「新春オペラ・コンサート」を見た。

 もう、40年も昔のことだが・・・イタリア歌劇団の来日公演で、『フィガロの結婚』が上演された。
 これを見た山崎 清博士が書いている。

 イタリアのオペラ歌手たちの間にはさまって、幾人かの日本人歌手が出場しているのだが、からだの貧弱なのは、いたしかたないとしても、あの顔――。なんという顔だ。見物席の日本人は、ぞーっとするのである。

 山崎 清は、人類学、とくに頭蓋計測から発展した歯科学における「顔」の研究の専門家だった。随筆家としても知られている。
 博士の気に入らないのは、オペラ歌手としての才能の比較ではなかった。

   イタリア人に真似したつもりか、茶色の毛をつけた日本人の青年男女のふんしている村人たち大勢の顔やからだや仕草が、イタリア・オペラとはまったく異質なものなのだ。

 たしかに、山崎 清の指摘するとおりに違いない。私も、翻訳劇を演出してきたので、こういう指摘には反論できない。
 だが、昔からこういう論理はくりかえされてきたのだ。明治初年の文明開化と、それに対する『千紫万紅』などの日本主義の論客の批判や、芝居の世界でも、島村 抱月の誤訳を徹底的に批判した『八当集』の筆者などを思い出せばよい。

 むしろ、この問題は人種的な違い、容貌、体格、肢体、挙措動作の違いが、「見物席の日本人の内面を、ぞーっとさせるものかどうか」ということにある。
      
     (つづく)

2007/01/21(Sun)  486
 
 初等/中等教育に、いろいろ問題が出てきて、「教育基本法」なるものが成立した。

 私は、ごく狭い分野で教育にかかわってきただけだが、教育の基本は「読み、書き、そろばん」にあると考える。まさか、江戸時代に逆行するような考えと見る人はいないだろうが・・・まず、国語教育を徹底的に行うこと。国語ができる子どもは、かならず英語その他の外国語にも習熟する。
 小学校で英語を必修科にすることに私は反対する。

 作文教育を、まず、徹底的に行うこと。ただし、かつての作文指導のようなものではなく、時候の挨拶、慶弔の文章まで、候文から、恋文まで、いくらでも教える材料はある。
 日本語の美しさを教えること。

 入学試験に、太宰 治の『走れメロス』がとりあげられて、その文章を細切れにして、子どもに判断させる文例を見たことがある。怒りをおぼえた。
 その「問題」では、たとえば作中人物の心理、性格、事件の内容に関して、いくつかの例をあげて、子どもに判断させる。そういうやりかたはただちに廃止すべきである。
 文学作品は、誰がどう読んでもいいのだ。いくつかの選択肢をあげて、その一つに正解がある、などとする文部官僚は、文学の敵なのだ。
 それよりも、太宰 治の教科書に出ている作品を、生徒に声に出して読ませる。さらに、太宰 治のほかの作品を教師自身が読み聞かせる。
 そのほうがずっと国語力が身につく。

 そろばんを復活せよ、とまではいわない。しかし、算数の暗算能力を高めることは、高学年になってからの思考力、想像力、論理力を発展させる。

 小学校から知識を集中的にたたき込む。

 初等/中等教育にレッセ・フェ−ルはないのだ。「学校群」から「ゆとり教育」まで、文部官僚はひたすら初等/中等教育の衰微、劣化に力をつくしてきたではないか。
 彼らの責任は大きい。

 「教育基本法」よりも、まず現場の教師たちの意識をかえる必要がある。

2007/01/20(Sat)  485
 
 「千の風になって」。
 作者不詳の詩という。

 この詩は、ニユ−ヨ−クで9・11一周年の追悼式に読まれた。ロサンジェルスでは、マリリン・モンロ−没後30年の追悼で読まれた。もっと前の、アイルランド、タブリン、1RAの爆弾テロで亡くなった市民の葬儀でも読まれた。

 やさしい内容が人の心にまっすぐ届く詩。

 死者に対する私たちの哀しみを素直にあらわしている。

 詩について考えるとき、私はいつも心の片隅にこの詩を置いておく。あらゆる詩法、詩学よりも、私にはわかりやすいから。

2007/01/19(Fri)  484
 
 ギュンタ−・グラスが、戦時中、17歳で、ナチス親衛隊に編入されたことを告白したとき、さまざまな批判にさらされた。
 私は、最近のドイツ文学にうといし、ギュンタ−・グラスのいい読者ではなかった。それに、批判できる立場でもなかったのでしばらく考え続けてきただけである。

 私は、17歳のギュンタ−・グラスが、ナチス親衛隊に編入されたことを誰が責めることができるのか、と考える。しかも、実際に戦争を知らない人々が。

 そして、ギュンタ−・グラスをとらえつづけたものは、自分ではどうしようもなくナチス親衛隊に編入されたことに対する恥辱感だったと思うようになった。
 これは、彼の短いエッセイ、「羞恥と恥辱」(1989年)を読んだせいもある。
 彼は、このなかで、戦争によるポ−ランドの悲惨な運命を語りながら、

   私たちが50年後の今日、ポ−ランドの苦しみとドイツの恥辱を思い返すとき、私たちがどれほど厳しく罰せられたとしても――そして時が過ぎ去ったにもかかわらず、罰が軽減されることはなかったが――語ることで払いきれないこの滓のような責任は、いつまでもたっぷり残る。そして新たな努力の結果、ある日、私たちの責任が片づいたとしても、羞恥は残るだろう。


 私は、このギュンタ−・グラスを信頼する。
 それだけでいいのだ。

2007/01/18(Thu)  483
 
 雨の日の神宮外苑で、学徒出陣の壮行式がおこなわれた。
 今でも、テレビのドキュメントで、戦時風景として放映されることがある。そのシ−ンのなかで、38式歩兵銃を肩にになって、水しぶきをはねあげながら行進する角帽の大学生たち。
 観客席には、各大学から動員された数万の学生が、校旗をかかげ、大きな白地の幟(のぼり)や幔幕(まんまく)を立てて、観客席から熱狂的な大歓声をあげていた。
 私もその学生たちのなかにいた。
 むろん、フィルムに写っているわけではない。観客席のどこか隅っこにいたのだから。隣りに女子学生たちが日の丸の鉢巻きをつけて並んでいたことを思い出す。同年代の女の子と隣りあわせに並ぶことなど考えられない時代で、彼女たちの黒髪が雨に濡れそぼって、雫が白い頬やうなじを流れていた。見てはならないものを見たように息苦しかった。

 その日、東条秀樹首相が壇上に立って、学生たちの士気を鼓舞する演説をした。内容はまったくおぼえていない。ただ、その声と独特の抑揚がかすかに耳に残っている。
    
 『ブリキの太鼓』の作家が、17歳で、ナチス親衛隊に編入されたことを告白したとき、まっさきに雨の日の神宮外苑の、学徒出陣の壮行式の情景を思い出していた。
 私は17歳だった。

2007/01/17(Wed)  482
 
      ショ−ト・ショ−ト・コメデイ 

 社員  部長、今度の木曜日、休ませていただきたいんですが――
 部長  困るねえ。歳末、このいそがしいさなかに。つい、このあいだも、きみは休んだじゃないか。
 社員  どうも申しわけありません。じつは、友人が結婚することになりまして。
 部長  この前もたしか、友人が結婚するとかいってたね。
 社員  この前の友人は離婚しまして。それが、こんど再婚することになったものですから。
 部長  それはまた早い話だな。女のほうも、もう少し考えてから結婚すべきだよ。
 社員  彼女がこんど結婚する相手、というのが、じつは、わたしなんで。

     ――幕 

2007/01/16(Tue)  481
 
 長谷川 伸のことば。


  この歳になっても、よくある話。――ああ、あれを聞いておけばよかった。それが長丁場ではなく、たった一言。別れてしまってから、あとで振り返ってみても、もう相棒はいない。しまった、と思ってももう遅い。

 おなじ思いをしている人は多いだろう。私も、両親に聞いておけばよかったと思うことがいろいろある。

 つまらない私小説を読むくらいなら、長谷川 伸を読んだほうがいい。人間について、人生について、なによりも日本人について考えることができる。

2007/01/15(Mon)  480
 
 記憶について。

 記憶をつかさどっているのは海馬という部分。脳内の神経ネットワ−クに、シナプスという結合部があって、ある刺激に大して反応しやすくなった状態が一定期間つづくのが記憶の基本をなす、という。
 年老いて記憶がわるくなるのは、記憶を引き出す海馬の部分に障害が出るからだ、という。
 驚異的な記憶能力をもつ男性がいて、本の1ペ−ジを10秒で読み、自分の読んだ1万2千冊のすべてを記憶しているという。ただし、これは「サヴァン症候群」という病気で、おぼえたことを総合する抽象的な思考ができない。

 若くして天才的な指揮者として活躍しながら、ウィルス性の疾患によって海馬が破壊され、記憶がわずか15秒しかつづかない音楽家のドキュメントをBBCで見た。
 この人を知ったとき、人間としてもっとも悲惨な状況におかれていると思った。たとえば、自分の思考に異常があると自覚して、自殺を考えたとしても、その15秒後には、そう考えたことさえも忘れてしまうのだから。
 ピアノを演奏する能力は残っていて、実際にピアノを演奏するのだが、その瞬間は何を弾いているのかわかっても、数小節先を弾くときには、自分が何を演奏しているのか忘れている。
 N氏はこれほどおそろしいドキュメントを見たことがなかった。

 N氏にしても、けっこうたくさん本を読んできた。しかし、それは読んだという記憶があるだけで、どのペ−ジに何が書いてあったのか、ほとんどおぼえていない。だから、何度もくり返して読み直したり、まるではじめて読んだような感動をおぼえたりする。

 N氏はごく平凡な記憶力しかもたなかったことを感謝しなければならないだろう。
 誰に? 
 自分の海馬に。

2007/01/14(Sun)  479
 
「雨の国の王者」さんへ

 思いがけないメール、ありがとう。
 
 『ゼロ大陸/サイゴン』を探してくださったようですね。

 きみは書いてくれた。――「著作リストに、『死角の罠』、『殺し屋が街にやってくる』、『孤独な獣』、『週末は死の恋人』なぞが、挙げられていないのは、ううむ、やはり、さびしい、それも、とてもさびしい」と。

 じつは、去年、おなじことを評論家の小鷹 信光さんからも指摘された。
 私の略歴にミステリー関係の著・訳書がほとんど記載されていない。私がミステリー作品をあげていないのは、意図的に過去を隠蔽しようとしているのではないか。そういうお叱りをうけた。
 思いがけないことで恐縮した。

 これまでいろいろな仕事をしてきた。自分の過去の作品群を隠したわけではないが、わざわざ略歴にあげるようなものではない。そう思ってはぶいたのだった。むろん、韜晦する気もなかった。私のミステリー作品など、誰の興味も惹かないだろう。そう思っていただけに、きみが「川崎 隆」や「美谷 達也」の名をあげてくれたことにおどろき、世間には奇特な読者がいるなあ、と感謝したのだった。

 ミステリーの翻訳をやめたのは、先輩の宇野 利泰さんの忠告による。
 宇野さんがどういう理由で忠告なさったのか忖度のかぎりではないが、私は『マキャヴェッリ』というモノグラフィーを書いたばかりだった。宇野さんはそれを読んでくれたのだと思う。
 私は宇野さんの忠告に素直にしたがった。たまたま手許に10冊ばかり翻訳の依頼があったので、動きがとれなかった。そのことで、やはり先輩の福田 恒存に相談したのだった。
 一年半後に、私はミステリーから足を洗った。翻訳よりも小説を書くことにきめたのだった。

 ミステリーを書かなくなったのは、『メディチ家の人びと』を書いてからだった。それまでは、パルプ・マガジンにミステリーからポルノまで書きとばして、ルネサンス関係の資料を買ったものだが、『メディチ家』を出したとたんに、どこからも注文がこなくなった。これにも驚いた。つまらないミステリー、ポルノを書きとばしている大学の先生が、ルネサンスの研究をしていると知って敬遠したらしい。
 当時、長編を一つ書いた。「川崎 隆」もの。500枚。しかし、どこからも出せなかったので、えいっとばかり、焼き捨てた。どうせたいした作品ではない。この事情は、ある編集者が知っている。

 今年から、「中田耕治ドットコム」で、少し長い小説を書きはじめる予定だが、おそらくへんてこな作品になるだろう。
 私はふたたびミステリーに興味を向けないだろうか。それはわからない。もし書くとすればこのサイトに発表する。

 きみのメールがもう少し早く届いていたら、たちまちミステリーを書く気になったかも知れないなあ。

 きみにはほんとうに感謝している。ありがとう。

2007/01/13(Sat)  478
 
 江戸の遊女たちには、つれづれに俳句を嗜む女が多かったと思われる。むろん、いい句もあれば、それほどいい句と思えないものもある。吉原の遊女、薄雲や、京都、島原の遊女、長門などの俳句はなかなかすばらしい。
 長門は、紋に花筏をつけていた。それを見た客が、なかなか初心なことだと褒めた。半分は嘲りを隠していたのだろう。

   流れなる身に似合しき花筏を    長門
 
 遊女という特殊な女でなければ詠めない俳句には哀切なものが多い。

   碁一目 苦界の暑さ忘れけり    歌之助

 遊女の哀しい生活が想像できる。

   暑き日や 女の罪の鉄漿(かね)匂ふ   花 讃

 私は、どうも加賀の千代女や、智月尼などの句にあまり関心がない。しかし、遊女たちの句に胸を打たれることがある。

   猪も抱かれて萩のひと夜かな    高尾

2007/01/12(Fri)  477
 
 芥川 龍之介は「闇中問答」のなかで、

  シェクスピィアや、ゲーテや、近松門左衛門はいつか一度は滅びるであろう。しかし彼等を生んだ胎(たい)は、・・・大いなる民衆は滅びない。

 という。
 芥川の民衆礼賛を私は素直に信じる。
 ただし、

  芸術家は或は滅びるかも知れない。しかしいつかは知らず識らず芸術的衝動に支配される熊さん八さんは滅びないね。(「妄中問答」)

 という芥川にはあまり感心しない。たとえ、これが関東大震災の後で、彼の内面に暗澹たる思いがあったとしても。

 いっそ、ゲーテや、近松門左衛門は、すでに滅びてしまったような気がする、といったほうがいい。ゲーテがドイツ人の誇りでありつづけていても、舞台で近松が上演されつづけているにしても。
 セリーヌや、ブコウスキーのように、ゲーテくたばれ、近松門左衛門くたばれ、といったほうが気が楽だろう。

 大いなる民衆などというものをどこで探せばいいのか。私のつぶやき。

2007/01/11(Thu)  476
 
 芥川 龍之介は『侏懦の言葉』のなかで、

  俳優や歌手の幸福は彼等の作品ののこらぬことである−−と思うこともない訳ではない。

 という。
 たしかに、俳優や歌手の幸福は彼等の作品が残らないことだが、それは私たちの「現在」にとって不幸なことなのだ。
 しかし、百年前の一流歌手のレコードは、かなり残っているし、どうかすると俳優の舞台さえ実写や活動写真で見ることができる。今ならビデオ、DVD、PCで見ることもできよう。
 そして、「現在」の眼には、しばしば滑稽に見えたりする。

 芥川 龍之介はいう。(「澄江堂雑記」)

  時々私は廿年後、或は五十年後、或は更に百年後、私の存在さえ知らない時代が来るという事を想像する。

 しかし、これから20年後、半世紀後、百年後でも芥川 龍之介は読まれるだろう。たとえ一部の人でしかないにしても。彼は、落莫たる百代の後に当って、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を、と書いた。逆説的に、彼の自負、あるいは自恃のつよさを見ていい。

 本所でそだった芥川 龍之介に、私はひそかな共感をもっているのだが、しがないもの書きなので、20年後、半世紀後、百年後どころか、現在でさえ私の作品を読む読者がいるかどうか。ごくわずかな人が、このHPを読んでくれるだけでありがたいと思っている。
 もっとも百年後に私の文章を読む人がいたら−−何が書いてあるのかさえわからないだろう。(笑)

2007/01/10(Wed)  475
 
 最近になって、ご近所の人から声をかけられる。ほとんどが、私と同年輩の老人ばかり。これまでは、かるく頭をさげるだけか、「おはようございます」とか「お出かけですか」といった挨拶をする程度だった。

 「よく、町中を歩いていらっしゃるのをお見かけしますよ」
 「それはどうも。ほかに楽しみもないものですから」
 「姿勢がいいんで感心しているんですよ」
 私はにやりとする。

 ある日、映画の試写の帰り、階段を降りはじめて、いきなり声が降ってきた。
 「君の歩きかたは変わらないねえ」
 追いついてきた作家がいった。私よりずっと先輩の中村 真一郎だった。

 中村さんは戦後すぐに私の友人の椎野 英之の家に移った。当時、大森に住んでいた私もその頃に知りあっている。中村 真一郎がまだ独身だった頃である。
 だから、映画の試写のあとで私を見かけて中村 真一郎が声をかけてきても不思議ではない。
 歩きかたが変わらないといわれても、返事のしようがない。それに、相手が作家なので、何か書かれると困る。うっかりした返事はできない。
 階段を降りながらその映画のことを話した。別れぎわに彼がいった。
 「映画監督の歩きかたも変わらないもんだねえ」

 いろいろな作家の歩きかたがある。
 ある日、舟橋 聖一が小林 秀雄といっしょに銀座を歩く。舟橋 聖一は歩きながらブティックを見たり、通りすがりの若い女の服装や肢体、歩きかたを見て、一瞬でその「女」の生態まで見届ける。
 ふと気がつくと、小林 秀雄はずっと前方を歩いている。

 「あいつの歩きかたは学生のときから変わらないんだよ」

 舟橋 聖一から直接聞いた話。
 蔵の中、茶室仕立ての小部屋で、大きな黒檀の机。小屏風。ただ一字、志賀 直哉が揮毫したみごとな書が置かれていた。

2007/01/09(Tue)  474
 
 ドナルド・キ−ンの『私と20世紀のクロニクル』に、ソヴィエトを旅行したことが出てくる。安倍 公房の小説を翻訳したリヴォ−ヴァ教授に会うためだった。
  
 「ソ連を出国するにあたって形式的手続きが済むまで、随分と時間がかかった。ソ連国民が最後の瞬間になって、何かの理由で飛行機から下ろされたという話を、私は聴いていたことがあった。ついに飛行機は離陸した。その瞬間、誰もがはじけるように笑い出した。何か、おかしいことがあったわけではなかった。笑いは、緊張から突然開放されたことが原因であったに違いない。スウェ−デン人のスチュワ−デスは、言った。飛行機がストックホルムに向けて飛び立つ時は、いつもこうです、と。」

 私もおなじような経験をしたことがある。

 私は、作家の高杉 一郎、畑山 博といっしょに、当時の「作家同盟」に招待されて、ソヴィエトを旅行したのだった。私たちを案内してくれたのは、「作家同盟」のエレ−ナ・レジナさんだったが、この旅行で、私はソヴィエトの驚くほどの硬直ぶり、頑固さ、けっして外には見せないが民衆の内部にひそんでいる、やりどない思いをかいま見ることができた。
 いよいよ明日、モスクワから帰国するとき、私たちは自宅に電報を打つことを許された。日本語でも英語でもいいという。どうせ、この電報もエレ−ナ・レジナさんが翻訳して、しかるべき部署に報告されるだろう。そう思った私は、英語で書いた。
 ラストに From Russia With Love として。

 私のいたずら。

2007/01/08(Mon)  473
 
 東京から、千葉まで。
 幕張あたりで、めずらしく和服の若い女が乗ってきた。せいぜい二十歳。なかなかの美形だった。小股の切れあがった娘だが、身のこなしが粋で、水商売の女なのか。この娘が私の横に身をかがめて何かしている。何を探しているのか。そのうちに私のとなりにぺたっとすわった。へえ、めずらしいこともあればあるものだと思った。
 むろん、私に関心があってすわったのではない。何かを拾おうとして、こんどは私のとなりの男の横から身をかがめて何かしきりにさぐっている。その男は、娘の動きに驚いたのか、あわてて席を立ってドアに向かった。娘は、空いた席にすっと腰を下ろした。おやおや。
 よく見ると、腕にからめた大粒の木のお数珠のようなものをまさぐっている。紐が切れて、その珠が何個かころがり落ちたらしい。それを拾おうとして、私のそばをうろうろしたらしい。
 なんでぇ、つまらねぇ。
 帰宅。

2007/01/07(Sun)  472
 
 俳句は短い詩型なので、誰でもかんたんに俳句を詠む。

  今の世の理解にうとき頭巾かな     この女

 江戸の俳句にこの一句を見つけて、少し驚いた。俳句に「理解」といったことばが使われている。
 いろいろと苦労してきたけれど、いまは仏門に帰依しています。おかげで、世の中のことにはすっかりうとくなってしまったわ。これが、私の注釈。
 「頭巾」は冬の季題で、ほかに、

  持仏堂どの尼見ても頭巾かな     はぎ女
  思ふやうに冠(かむ)れぬ風の頭巾かな   信子

 といった例がある。「この」さんはどういう境遇の女性だったのか。ほかに、

  河豚(ふぐ)提(さ)げて源太が女房通りけり

 という句を見つけた。きっと庶民的なひとだったに違いない。
 このフグの種類は何だったのか。それよりも、江戸の庶民が自分でフグをさばいていた(らしい)ことに驚いた。

2007/01/06(Sat)  471
 
 カマトト。『広辞苑』(岩波)では、

  かまとと[蒲魚] 蒲鉾(かまぼこ)を、「これは魚(とと)か」ときくことからいう。わかっているくせにわからないふりをすること。なにも知らないような顔をして上品ぶり、またおぼこらしくふるまうこと。また、その人。

 『新潮国語辞典』(新潮社)では、

  かまとと[蒲(魚)(蒲鉾(カマボコ)を、「これは魚(トト)か」と聞く意という)知っているくせに知らないふりをすること。おぼこらしくふるまうこと。また、その人。

 ほとんどおなじ記述である。

 幕末の上方方言で、かまとと、というのも、「おぼこらしくふるまうこと」を意味したが、ある通人にこの魚のことを伺ったところ、おいおい、そういうノをカマトトってンだヨ、といわれた。
 昔の本に・・・「釜ととなる魚は、生きがよいので、一箸は頂けるが、深入りすると毒がある。よって通人は食わず。昔はこの魚(うを)、玄人のあいだに多かりしも、今は変りて、素人のあいだにあり」とある。

 当然、年若い芸妓や舞子の品定めにかかわる、という。
 釜というのは女性の性器。おととは魚だが、要するに、「おぼこらしく」ないもの。だから、こういうのは(最初の)一箸は頂けるが、深入りすると毒がある。

 「なんだ、おまイ、そんなことも知らねぇのか」

2007/01/05(Fri)  470
 
 お正月から、大正オペラの美人たちを眺めている。
 原 信子、木村 時子、澤 モリノから、明石 須磨子、英 百合子、相良 愛子まで。

 彼女たちの出現した時期、それまで全盛だった娘義太夫がみるみる凋落してゆく。
 「どうする連」にとってかわったペラゴロたちは、澤 モリノたちの歌に酔いしれ、その動き、その肢体におののき、心臓の鼓動が高鳴った。ときには、「彼女」が歌いだそうとした瞬間に、いま、おのれの人生に何かきわめて重要なことが決定されるという思いにかられながら。・・
 誰もが、劇場につめかけて、舞台にあらわれた美少女たちの一顰一笑(いちびんいっしょう)に胸ときめかせ、とりとめもない恋の夢想に憑かれた。そういうペラゴロたちが、浅草にいっぱいあふれていたのだろう。
 ああ、今日の紅顔可憐は、明日の皺顔曲腰たるは誰も知るひとの運命(さだめ)なれども、今、この歌劇女優の写真を眺めつつ、若き昔は彼女等が花前の蝶のごとく、光煌く舞台に嬋娟たる肢体をあらわし、箆吾郎の目を奪いしかと想像するに、如何にその時の隔たりたるかを思い給え。

 彼女たちは「洋装」の美人であった。ゆたかなブロンド、ブリュネットは、すっきりした頬にまつわり、あらわな肩や胸もとに落ちている。これほど美しい肩や胸もとを見たことがあったろうか。しかも、その肌の白さ。
 それは日本の女がもたないものだった。
 もし、推測がゆるされるとすれば、大正オペラは、「自由劇場」から「築地小劇場」に発展してゆく中間にあって、やがて、「カジノ・フォ−リ−」や「笑いの王国」のような大衆演劇と、いわゆる「新劇」の分水嶺をなしていたのではないだろうか。
 荷風の『腕くらべ』、藤村の『新生』、万太郎の『末枯』の時代。にせ画学生、今 東光、不良少年サトウ ハチロ−がヨタっていた頃。

 一枚の番付から、自分では見たこともない時代の美女たちを思う。これも私の趣味なのである。

2007/01/04(Thu)  469
 
 お正月。大正時代の歌劇女優番附を見ながら、酒を飲む。
 実際に大正オペラは見たことはないし、歌劇女優で多少とも知っている名前はごくわずか。

    東           西
 横綱 原 信子     横綱 清水 静子            
 大関 井上 起久子   大関 天野 喜久代
 関脇 花房 静子    関脇 神山 仙子
 小結 松木 みどり   小結 平野 松栄
   おなじく        おなじく
 横綱 安東 文子    横綱 澤 モリノ
 大関 木村 時子    大関 河合 澄子
 関脇 岩間 百合子   関脇 岡村 文子
 小結 一条 久子    小結 松本 徳代
    別格         別格
 大関 原 せい子    大関 今村 静子
 小結 明石 須磨子   小結 白川 澄子

 東方、55名。    西方、554名。
                   
 西の前頭三枚目に英 百合子がいる。

 写真がついている。上段に、原 信子、木村 時子、澤 モリノ。
 中段に、松木 みどり、明石 須磨子、瀬川 鶴子(東の前頭二枚目)。
 下段に、岡村 文子、英 百合子、相良 愛子(東の前頭十枚目)。
 みんな若くて可愛い。それぞれたいへんな人気があったに違いない。
 当時のハリウッド女優のメ−クを真似ているせいか、だいたいエグゾティックな顔をしている。レパ−トリ−がわからないし、ソプラノ、コロラチュ−ラの区別もつかないのだが、トラジェディエンヌ、コメディエンヌ、コミック、スブレット、なんとなく想像はつく。
 残念なことに、当時のレンズ、フィルム、シャッタ−・スピ−ド、照明のせいで、ハリコの美しい女優たちそろって白塗り。そのせいで、あたら美貌に個性的な魅力は薄れている。

 澤 モリノは私でさえ名前を知っているオペラ女優だが、失礼を承知でいえば、それほど美人ではない。ということは、おそらく歌唱力、演技力が抜群だったのだろう。
 木村 時子は、後年、劇作、舞踊劇の作者になった才女だが、この写真では、まさにテイ−ンの娘役(ジュンヌ・プルミェ−ル)である。さぞ可愛かったに違いない。原 信子はおなじ娘役でも、もう少し成熟した感じがある。
 英 百合子は「夢見る乙女」タイプのお上品な娘役。
 はるか後年、英 百合子は、岡村 文子とともに多数の映画に出ているので私も見ている。
 松木 みどりは、江戸から明治にかけてのおとなしい、古風な美人だが、瀬川 鶴子は輪郭がはっきりしていて舞台映えのする顔。
 相良 愛子はセダ・バラのようなアイ・メ−ク。おそらく小柄で、お侠な「役」が得意だったのではないだろうか。

 私がいちばん惹かれたのは、明石 須磨子。今の女の子にもときどき見かけるタイプ。どこにでもいるタイプだが、昭和初期のモガを先取りしたような感じがある。

 私はサラ・ベルナ−ル、レジャ−ヌを想像するように、彼女たちを見てはいない。そうではなく、ついさっきまで舞台に出ていた女優さんを見るような眼で見ている。
    (つづく)

2007/01/03(Wed)  468
 
 日本人は、なにごとにまれランク付けが好きらしい。文化年間の、遊廓の番付に「諸国遊所 見立角力 竝ニ 直段附」というのがあって、東、大関が大坂の新町、関脇がおなじく潟之内、小結が京、祇園新地。西は、大関が吉原、関脇が京、祇園、小結が大坂の北新地。
 行司に、江戸の品川、九州の博多と並んで、千葉の寄合町とあって驚いた。その下に、塩釜、山ノ目、水沢などがつづく。
 毎年、映画のベストテンを選ぶのも、番付けの変形と見ていいだろう。
 ただし、今では女優たちが相撲見立ての番付に並ぶことはない。
 大正時代の歌劇女優番附を見ながら、初春をことほぎつつ酒を飲む。

2007/01/02(Tue)  467
 
 賀状をいただく。
 自分では出さないのに、賀状が届いてくるとうれしい。御歳暮をいただくのとおなじで、自分ではお返しも差し上げないのに、いただくことはありがたい。まことにムシのいい、さもしい人間なのである。御歳暮のお返しもしないのは、私が貧しいからで、お返しをしたくてもできないからである。

 賀状を出さなくなったことにも、私なりの理由がある。

 しばらくまえまでは律儀に賀状を書いていた。印刷した賀状を出すのも気がきかない。たとえ印刷した年賀状でも、かならず干支にちなんだ一筆描きのようなもの、挨拶を添えて。
 マンガや、デッサンめいたものを描いたり、けっこう楽しかった。ところが、年々、賀状をさしあげる数がふえて、ある年からとても間にあわなくなった。
 そうなると、絵を添えるどころか挨拶も雑になる。祝詞を印刷した賀状に、自筆で「お元気ですか」と一行書き添える自分に愛想がつきた。

 住所録のアイウエオ順に書いてゆくのだが、サ行の途中あたりまで書くと、くたびれ果ててしまう。そのためタ行からの友人、知人には、年賀欠礼という仕儀にあいなった。
 御歳暮とおなじで、賀状をいただくのはありがたいのだから世話はない。要するに老人の身勝手さなのである。

 ある年、植草 甚一さんから賀状をいただいた。これには驚いた。植草さんは暮に亡くなられたのだから。
 おそらく、ご病床にあって書かれたのだろう。ご自分ではご病気の回復を信じていらしたと思われる。あのユニ−クな字体で書かれた賀状を押しいただきながら、個人を偲ぶと哀しみが胸に迫った。

 このときから、私はもう賀状を出すまいと思ったのだった。

 手紙も、私はワ−プロ、パソコンでは書かない。金釘流でも自分の字で書くようにしている。むろん、よそさまからいただく手紙は、ワ−プロ、パソコンでもうれしい。

 今年も賀状は書かなかった。

2007/01/01(Mon)  466
 
    明けましておめでとうございます。

 あらたまの年の始めに思うこと。さりとて別に思うこともない。

 ただ、私としては、正月を迎えて、友人、知人から賀状をいただいて、その人その人の健康をことほぎ、あらたな幸福を祈っている。
 もともと座右の銘などもたないが、今年は、つぎのことばを心に置きたい。

  行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あづ)からず我に関せずと存候。

 勝 海舟のことば。

2006/12/31(Sun)  465
 
 歳末。
  
    すすめられつつ、ついしわすれど、
    こともおろかや、よいことはじめ、
    陽気うわきの、ほうき客とて、
    西や南をはいてまわるが 煤とり、
    あとにゃ くたびれ、
    ほんにもちつき、はやせつぶんや、
    けがれ不浄の 厄をはらうて、
    まめの数とりゃ、つい三百六十ついた、
    ひいふうみいよ。

 近松 門左衛門の作という。竹田 出雲が加筆したともいう。
 それほどむずかしくはないが、裏にはエロティックな含意がある。「ついしわすれど」は、うっかり、大掃除をするのを忘れた、に師走がかけられている。
「ことはじめ」は、むろん、セックスのこと。ただし、昔は旧暦だったから、12月13日。歌舞伎や粋筋では、この日をあらたまの年として、顔見世がはじまる。
 「ほうき客」は、お座敷を掃除する箒にかけて、女をつぎつぎにとりかえる客。
 西は福原、西門筋。南は大阪の遊廓。関東者の私にはよくわからない。
 そこで「もちつき」、「せつぶん」にもなにやら見えてくる。
 厄払いは、大晦日に子どもが近隣の家々をまわって、おゼゼ、お豆をもらう。最近、東京の子どもたちがアメリカン・スタイルの仮装で、ハロウィンに近所をまわると知ったら、江戸の子どもたちは羨ましがるだろうか。
 「まめ」、「つい三百六十ついた」も想像がつく。

 禿(かむろ)、舞子の子どもたちから、ひろく江戸の子どもたちにはやった歌で、私の「コ−ジ−ト−ク」も、これでおしまい。
 どちらさまも、よいお年を。

2006/12/30(Sat)  464
 
 へたな俳句を詠んだ。(1986年)

 歳末、小雨の午後、何も仕事をしない一日。

    さし迫る用事もなしに師走かな

    落雷はげし 年の瀬の夜明け前

 この歳末、山に登った。ほとんど客のいない麓の宿で。

    つごもりをつたなく病んで薄き粥

    山の湯に大つごもりの薄明り

 いつも歳末をこんなふうにすごしていた。もう、20年前のこと。

2006/12/29(Fri)  463
 
 私の好きな音楽。

 戦時中ずっと沈黙していた小林秀雄が、戦後に『モーツァルト』を発表したことはほとんど一つの事件だった。私は小林秀雄に大きな関心をもっていたので、『モーツァルト』を読んで、しばらくモーツァルトばかり聞いていた。
 ブルーノ・ワルターのモーツァルトが好きになった。もっとも、ブルーノ・ワルターのレコードしかもっていなかったのだから当然だろう。
 ずいぶんあとになるが、「フルトヴェングラーと巨匠たち」という映画で、ブルーノ・ワルターがモーツァルトを指揮しているのを見てうれしかった。これとは反対に、シゲッティが来日したとき、たしか「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」を聞いたが、ブルーノ・ワルター指揮のシゲッティとずいぶん印象が違うような気がして、内心がっかりしたことをおぼえている。
 そんなこともあって、まず、モーツァルトをあげておこう。

 私には『メディチ家の人びと』という評伝めいた作品がある。これを書いたときは、朝から晩までベートーヴェンばかり聞いていた。メディチ家と『皇帝』にはなんの関係もない。しかし、私はこの曲を聞くと、なぜかメディチ家の運命を聞くような気がするのだった。好きだったのは、ギーゼキングやゼルキンの「皇帝」。両方ともワルターの指揮。途中から、オイゲン・ヨッフムのレコードに換えたが、これはワルターのレコードがボロボロになってしまうことが心配だったからだった。ついでに、最近のグルダのものをあげておこうか。

 もう一曲となるとこれがむずかしい。
 ショパンをあげようと思ったが、誰のショパンが好きなのか、自分でもきめられない。ほんとうに困った。
 いっそオペラにしよう。
 そこで、マリア・カラスの『ランメルモールのルチア』をあげようかと思ったが、ジューン・サザーランドとパヴァロッテイの『ルチア』もすばらしいし、そんなことをいえば、チェリル・チューダーとドミンゴの『ルチア』もいい。
 さあ、困った。そこでちょっとズルをすることにした。

 私があげたのは・・ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッテイの三人がいっしょに出ているビデオ。つい、数年前にテレビで放送されたものだから、よく知られているだろう。三人がいろいろなミュージカル、民謡などをつぎつぎに歌ってくれるので、肩のこらないコンサートになっている。なにしろ現代最高のテノールの顔見世興行だから楽しいが、最後にパヴァロッテイがプッチーニの「誰も寝てはならぬ」を歌ってからがいい。「オ・ソレ・ミオ」を三人が合唱する。ここのやりとりを見ていると、ヨーロッパの音楽、舞台の厚みを見せつけられるような気がした。
 これはビデオで見られる。

 ただし、この三人のジョイント・コンサートでほんとうによかったのは、この第一回のときだけ。あとは、だんだんわるくなってくる。東京でやったものは、とくにひどいものだった。
 最後に、主催者側の要請(または強制)で、美空ひばりの「川の流れのように」を歌ったが、パヴァロッテイははじめから投げていた。カレ−ラスは途中まで。最古までなんとか歌ったのはドミンゴひとり。
 私は、この三人に美空ひばりを歌わせたテレビにはげしい怒りをおぼえた。と同時に、自分の意に添わないものでも、しっかり歌おうとしたドミンゴに敬意をもった。

 今の私はもうこの三人にもう興味がなくなっている。

 ブルーノ・ワルター「皇帝」 NYフィル ゼルキン SONC 15025
 フリードリヒ・グルダ「ベートーヴェン」 ウィーン・フィル ロンドン KICC 9061−2
「パヴァロッテイ、ドミンゴ、カレーラス 3大テノール 世紀の競演」ロンドン  POVL 1003

2006/12/28(Thu)  462
 
 父は昭和45年(1970)に亡くなったのだが、父が危篤に陥った夜に、私はある座談会で、植草 甚一、五木 寛之に会っていた。私が司会したのだが、この座談会は、植草さんの『ワンダ−植草 甚一ランド』に載っている。このときの司会は、私としてはうまくいかなかったのだが、植草さん、五木さんの話はおもしろかった。
 このときのことは、五木 寛之も書いているし、私ものちに「五木寛之論」で触れている。
 座談会を終えて、すぐに父のもとに駆けつけたが、すでにこの世の人ではなかった。

 この日、三島 由紀夫が市ヶ谷で自裁するという事件が起こっていた。
 その直後に、当時、週刊読書人の編集者だった森 詠(今は作家になっている)から、至急、三島 由紀夫・追悼を書いてほしいと依頼されたのだった。
 私は三島 由紀夫の行動に衝撃を受けていたので、その晩までに書くと約束した。
 しかし、父の通夜のさなかに、三島 由紀夫の追悼など書けるはずがなかった。

 締め切りの時間はすぎている。私は森 詠に電話で、原稿は書けそうもない、と詫びた。父が亡くなったことは伏せていた。しかし、森 詠は、すでに大日本印刷の校正室に入っていた。
 森 詠としてもここにきて別の原稿にさしかえたり、ほかの執筆者に原稿を頼むことは不可能だった。私もそれは承知していたが、病院から父の遺体を移し、親族や知人に電話や電報で知らせ、葬儀の手配や、通夜にきてくれた人々に挨拶するという状況では、まったく書けない。何かを考えられる状態ではなかった。
 とにかく明日の早朝、大宮まで原稿をとりにきてほしい、と森 詠に頼んだ。

 何もかもごった返していた。
 つぎつぎに弔問に訪れた人々に挨拶をする。その合間をみては机に向かって、ほんの二、三行、原稿を書いては、また弔問の人々に挨拶したり、読経、精進の手配、親族や知人に電話をしたり。ときどき柩の前から離れては書きつづけた。
 父を失った悲しみと、三島 由紀夫の自裁というショックで動揺していたため、自分でも何を書いているのかわからないくらいだった。

 翌朝、6時頃、約束通り、大宮で森 詠に原稿をわたした。森 詠はその足で大日本印刷に戻った。そして、予定していた原稿を私のエッセイに差し替えたのだった。
 このときの私の印象が彼の作品に書きとめられている。私は憔悴しきっていたという。森 詠は私が三島 由紀夫の死に激甚なショックを受けたと思ったらしい。
 たしかに、ひどいショックを受けていたが、別な要因が作用していたことは森 詠も気がつかなかった。父を失ったことは、私個人にかかわることだったから。

 翌日、大新聞も週刊誌もいっせいに三島 由紀夫の特集を組んで、多数の人が意見を発表していた。「週刊読書人」の発行は事件の1週間後だったが、作家の反応としては、私の文章はもっとも早いものの一つだったと思う。
 私としては、自分が書かなければならないと思ったことだけを書いたにすぎない。しかし、私のエッセイが出たあと、おなじように三島 由紀夫の事件にふれた本多 秋五、澁澤 龍彦、平岡 正明たちが、それぞれ私の文章に言及していた。(ただし、澁澤 龍彦は、後でその部分を削っている。)

 三島 由紀夫と面識はあったが、親しくはなかった。しかし、彼の死はその後も文学的な主題として私の内面に深くきざまれている。

2006/12/27(Wed)  461
 父には一つだけ、特技があった。
 水練が得意で、古泳法、水府流の達人だった。
 五、六歳から泳いでいたらしい。隅田川の中州に、芦が生えていたころで、アサリや白魚がとれた時代だった。大川端のこっち河岸(かし)には、ヤッチャ場があったし、本所寄りの岸には、百本杭。よくセイゴなどをしゃくったという。
 水練の先生は、ゆたかな白髯(はくぜん)をたくわえた老人だった。普通なら、髯が水で濡れる。いくらりっぱな髯でも、水に濡れればチョロッとたれて、水がしたたるはずだが、この先生はけっして髯を濡らさず、子どもたちを叱咤し、水泳を教えた。
 昌夫は水府流の泳ぎなので、へそ下しか水につけず、立ち泳ぎをしながら、弓矢も射るし、筆も使う。なにしろ、鎧兜をつけても泳げる戦闘泳法なのである。
 水府流。元禄時代、水戸の島村 孫左衛門正広が編み出した泳法という。
 ついでに書いておくが・・・向井流は、幕府の旗本、お船手組の組頭、向井 将監(しょうげん)のはじめた泳法。木村 荘八が少年の頃にこの泳法を習ったという。

 父といっしょにプ−ルに行く。これが、いやだった。
 はじめのうちは誰も気がつかないが、しはらくすると、泳いでいる人たちがみんなプ−ルから出てしまう。プ−ルサイドに立った人々が、奇妙なものを見たような顔をする。
 昭和の初期でも、日本の古泳法はすでにすたれていた。それどころか、古泳法そのものを知る人もいなかったのだろう。
 父はひとりで泳ぎつづける。スピ−ドを重視するクロ−ルや平泳ぎを見慣れている眼には、ひどく奇妙な泳ぎかたとしか見えない。

 水府流の泳ぎかたでも胸から下は沈めない。上半身、へそから下を沈めて泳ぐこともあった。それでいて、いくら泳ぎ続けても息が乱れない。抜き手、ノシを切っても、水面がまったく波立たない。そのかわりスピ−ドの遅いこと遅いこと!
 みんなが茫然として見ていた。失笑する人もいた。なにしろ誰も見たことのない泳ぎかただったから。一度だが、頭に鉢巻きを巻いて墨を含ませた筆を挟み、立ち泳ぎで、和紙に文字を書いたことがある。むろん、両手も和紙も濡らさなかった。見ていた人たちから拍手がおきた。
 バサロのように水にもぐる潜水泳法もあるのだが、息つぎの長さは驚くべきものだった。昭和になって元禄の古式ゆかしい泳法を見たら誰だって驚くだろう。

 父といっしょにプ−ルに行くのが恥ずかしかった。父が泳ぐと、みんながおもしろがって見物するのだから。私が人前で泳がないのは、これが原因だったような気がする。

 江戸ッ子のくせに、朴念仁で、まったくの無芸。まるっきり社交的ではなかった父、昌夫に私も似ているらしい。
     
(つづく)

2006/12/26(Tue)  460
 
 若い頃の父は登山やスキ−に熱中していた。冬になると、小学生だった私は、毎週、父につれられて、日帰りで作並、鳴子、八ッ森といったスキ−場に行った。土日には、山形側の蔵王高湯のゲレンデから地蔵の樹氷まで山スキ−。
 当時としては、めずらしいウィンタ−・スポ−ツで、小学生にはむずかしいコ−スだった。樹氷の中で、ガスに巻かれて、遭難しそうになったこともある。
 私にスキ−、スケ−トを教えてくれたのは、小学校で担任だった壺 省吾先生だった。壺先生はスポ−ツ万能で、後年は東北の体育関係の組織の会長などを歴任なさった。
 帰りは、たいてい壺先生をリ−ダ−に、父の同僚、それに小学生の私。数名のチ−ムで、蔵王からいっきに麓の山の上(やまのかみ)のバス停まで滑降する。

 後年の私が、中年過ぎて登山に熱中したのも、壺先生や父の影響だったかも知れない。
                             (つづく)

2006/12/25(Mon)  459
 
 私の父、昌夫は明治32年(1899)、浅草、田原町で生まれた。
 チャキチャキの江戸ッ子だが、9歳からイギリス人の家庭でそだてられた。江戸ッ子のくせに、19世紀のイギリスふうに倫理的で、堅苦しい朴念仁で、まったくの無芸。まるっきり社交的ではなかった。
 当然、英語ができたので、戦時中に石油公団につとめた以外は、外国系の商社につとめた。戦後、ピットマン速記を使ったステノグラファ−は、東京でもわずか二人しかいなかった。父はその一人だった。
 ほかに、フランス語もある程度まで堪能だった。戦争中に、フランス語のブラッシアップのために、「慶応」で講義していた串田 孫一先生のクラスに通っていた。串田さんの日記に、一か所だが父のことが出てくる。ほかに誰も出席していない教室に、年長の生徒がひとりだけ出席しているので、串田さんもやむなく講義したらしい。
 昌夫は、終生、串田さんに感謝していた。
                             (つづく)

2006/12/24(Sun)  458
 
 ベルリンからパリに。それほど時間がかかるわけでもない。
 ルフト・ハンザ。私の隣りに、8、9歳の少年がすわった。服装はふつうだったが、中流の上ぐらいの家庭に育ったらしく、態度が上品で、まだ幼いからだつきながら、明るくてとても可愛らしい。
 しばらくして私は、この少年に話しかけてみた。
 「失礼だけど、きみはどこに行くの?」
 「パリ」
 「いつもひとりで旅行するの?」
 少年は私の質問に不思議そうな顔をした。
 いつもひとりで旅行している。
 少年は小学校2年生。ベルリンに住んでいて、5日間の休みに、フランスの友だちのところに遊びに行くのだった。
 私に答える少年の態度には、年長者に対する敬意が見られた。見知らぬ外国人、それも日本人に話しかけられたことはなかったに違いない。きちんと座席に腰かけて、どんな質問にもきちんと答える少年に私は感心した。

 ドゴ−ル空港に着いたとき、彼は私に向かって、きちんと足をそろえて、
 「あなたとお話できてうれしかったです」
 といった。

 少年の名前も知らない。私も名前を告げなかった。
 しかし、この少年のことば、その姿、マナ−、凛然とした態度は、いつまでも心に残った。

 まだ、私たちのあいだで、国際化とか、小学校からの英語教育などが問題になっていない頃のこと。

 それだけのことである。

2006/12/23(Sat)  457
 
 ハプスブルグ王家の歴史。

 ルドルフからはじまって、アルブレヒト二世、ルドルフ四世。
 しばらくしてマキシミリアンが出てくる。
 なんといっても、カルロス(クィント)五世、フェリ−ペ二世、フェルディナンド一世の時代がおもしろい。
 やがて、バロックの時代のレオポルド一世。
 さらには、マリ−ア・テレジア。

 いつだったか、種村 季弘と話をしていて、たまたまマイエルリングの悲劇が話題になった。ハプスブルグ最後の皇太子と男爵令嬢の悲劇。
 私は、ハンチュカ、カ−ンあたりから、ヴァンドルシユカなどの研究家のものを読んで、ハプスブルグを少しづつ勉強していた。
 フィリップ・エリアの小説を読んでいた私は、小説ではこれを越えるのはむすかしい、と思った、しかし、評伝という形式なら、この王室の悲劇を書いてみたいと思った。
 種村 季弘がにやりとした。
 「ボワイエとダリュ−だね」

 ハプスブルグ王家について書く気がなくなった。

2006/12/22(Fri)  456

 私たちの内面には、どうしようもなく暗いもの、他人にはけっして知られたくないにがいものが隠されている。
 いったんそれに気がついてしまうと・・・生きているのがほんとうにいやになったりする。

 さて、どうするか。

2006/12/21(Thu)  455
 
 ヘラヘラヘッタラ ヘラヘラヘ。

 映画、というより活動写真でおぼえた。エノケン(榎本 健一)の活動写真だったと思うのだが、間違っているかも知れない。ずっと後になって、これは落語家の三遊亭 万橘が、明治十三年頃、高座でヘラヘラ踊りを披露したときのものと知った。

     赤い手拭い 赤地の扇 それを開いて おめでたや
     ヘラヘラヘッタラ ヘラヘラヘ
     太鼓が鳴ったら にぎやかだ ほんとにそうなら すまないよ
     トコドツコイ ヘラヘラヘ

 明治十八、九年頃には、

     親がちょんこして わしこしらえて
     わしがちょんこすりゃ 意見する ちょんこ

 これは「ちょんこぶし」。
 俗謡、流行歌には、その時代の民衆の欲求、そのひそかな願望、ときには挫折、あきらめが隠されている。ポップスもおなじことだが、ポップスのことばが、民衆の内面に根づくことは少ない。
 むろん、時代の変化のスピ−ドが違うからだが、歌詞の一部が流行語になる基盤がないからだろう。
 しかし、「ほんとにそうなら すまないよ」とか「おやまかちゃんりん」、「テケレッツのパ−」、「オツだねえ」といったことばが、明治の俗謡からつたえられてきたことに気がつく。
 そのあたりから、日本人の心性、品性、さらには性意識といった問題を考えている。

 もっとも、「真実ねえ、あきれるねえ」(明治42年)とか、「いやだいやだ、インテリさんはいやだ、頭のまんなかに 心狸学 社怪学 なんてマがいいんでしょ」という声が聞こえてきそうな気がする。
 「なんてマがいいんでしょ」は、明治43年頃の「ハイカラぶし」から。

2006/12/20(Wed)  454
 
 私は実直なサラリ−マンの家庭で育ったが、半分は下町の零細な工場にいりびたっていた。だから、私自身は律儀で、まじめな(と自分では思っている)のだが、半分はどうやらヘラヘラヘェ的にふざけた、いい加減なところがある。

 叔父、西浦 勝三郎は、本所、吾妻橋で段ボ−ルの製造工場をやっていた。下町の大きな工場の下請けでの箱を作る家内工業で、住み込みの職人が二人、通いの職人が二、三人。忙しいときは、母親、嫁さんも手つだう。中学生の私も、ときどき駆り出されて断裁の機械で、大きな段ボ−ルを切ったり、小さなボ−ル紙の端をハリガネでとめる作業をさせられた。つらい仕事ではない。それに職人たちの話を聞くのが楽しみだった。

 日がな一日、おなじ作業をしているのだが、勝三郎がオ−ト三輪で製品を届けに行く。
 浅草まで歩いて十分。若い職人は仕事を終えると、たちまち外に飛び出して、吉原ぞめき。寄席や演芸場に行ったり、評判の活動写真を見たり。
 花電車を見てきたといって、とくとくとして仲間にご披露するやつがいて、私が顔を出すと、あわてて話をやめたりする。私にはよくわからなかった。
 あとで、この職人さん、私の祖母によびつけられて、こっぴどく叱りつけられていた。
 勝三郎の帰りは夜遅く、どこかに立ち寄って、いいご機嫌になっていた。
 もう寝静まっている。
 「勝さん、今、お帰りかい」
 「へい、おっかさん、ただいま戻りやした」                   
 「何時だと思っているんだえ。いいかげんにしないと、妾(ワツチ)だって怒りますよふんとに」
 「へい、もう二度と致しませんので、どうぞご勘弁を願います」
 これが、勝三郎の自作自演。

 たいていは落語だが、ときには梅沢、虎造でやる。

 翌日、私の母、宇免のところに祖母がくる。この話に母も私も大笑いする。

2006/12/19(Tue)  453
 
 横浜国立大/名誉教授の宮脇 昭という人のことを読んだ。
 日本各地の土地を歩いて、その土地ほんらいの自然が残っている森、「鎮守の森」を拡大しようとしている。
 
 日本では、もともとその土地に根づいた森がなくなってきている。
 その土地ほんらいの森に見える里山の雑木林にしても・・・じつは、燃料や肥料に使うために、人間に都合のいいように変えられた二次植生だという。
 ところが、住人が勝手に手をつけることのできない神社、鎮守の森などには、その土地ほんらいの自然が生きつづけている。
 
 いまでは常識になっている宮脇先生の考えも、60年代半ばには、生態学者さえ半信半疑だった、という。

 宮脇先生は、80年代に『日本植生誌』(全10巻)を出された。10年におよぶ労作である。その研究をつらぬいているのは・・・「鎮守の森」には、防音、集塵、空気の浄化、水質浄化、保水といった機能が集約されているという思いだった。

 宮脇先生は、われわれの先祖のいとなみについて、

 「(われわれの先祖は)ふるさとの木によるふるさとの森を残してきた。愚か者が破壊しないように、神社やお寺やお地蔵さんをまつって、この森を切ったらバチが当たるというふうにしてきた。この日本人の叡知を見直すべきだと私は思います。」

 宮脇先生がこう語ったのは、1989年だった。
 
 そして今、私たちは2007年をむかえようとしている。

2006/12/18(Mon)  452
 
 シオランは、カミュが亡くなったときに書いた。
 「彼にはもう語るべきことは何もない、そのことを誰もが、おそらく彼自身にしても知っていた」と。
 シオランには失礼だが、これも笑ったね。作家の死に対して、彼にはもう語るべきことは何もない、そのことを誰もが、おそらく彼自身にしても知っていた、というのは、手きびしい批評に見えながら、じつは何も語ったことにはならない。

 ヤスナヤ・ポリヤナで亡くなったトルストイは、もう語るべきことは何もない、そのことを彼自身が知っていなかったか。『最後の夏』を書き終えながら、ついに発表しなかったヘミングウェイは、もう語るべきことは何もない、と思いつづけ、しかもそのことを彼自身が知っていたといっていい。ジッドは、もう語るべきことは何もない、と思いながら、まだまだ書きたいという思いはつきまとう、最後の瞬間になっても、おそらく書き加えるだろう、と書く。そして死ぬ。
 自動車事故で不慮の死をとげたカミュに、彼にはもう語るべきことは何もない、というのは死屍に鞭打つにひとしい。

 シオランふうにいえば、三島 由紀夫にあてはまるかも知れない。『豊穣の海』を書き終えたとき、もう語るべきことは何もない、そのことを彼自身も知っていた」ということはできよう。
 だが、シオランは見ていないのだ。ある種の芸術家にとっては、死こそ究極的、かつ、完璧、最高の自己表現なのだということを。三島 由紀夫を知らなかったから仕方がない、というのは正当な反論にならない。
 私はシオランに敬意をもっているが、芸術家は、もはや語るべきことは何もない、そのことをほかならぬ自分が知っていればこそ、最後の自己表現をめざすのではないか。
 モリエ−ルを見よ。

2006/12/17(Sun)  451
 
 土岐 哀果。大正七年から、土岐 善麿。

 戦後まもなく、一度だけ土岐 善麿先生の原稿をいただきに伺ったことがある。
 友人の椎野 英之に頼まれて土岐 善麿の自宅に原稿をとりに行った。土岐 善麿は、私を新聞社のアルバイトと見たに違いない。原稿はできていなかった。

 「申しわけないが、これから書くので、少し待っていてください」
 塵ひとつない茶室のような書斎に招き入れられた。明窓浄机というのはこういう仕事場をさすのだろうか。私はかしこまってすわっていたが、土岐 善麿は私を前にして、大きな黒檀の机にむかうと、随筆をすらすらと書きはじめた。
 戦後すぐで、随筆のスペ−スとしてはたぶん二枚程度だったと思う。それでも私は驚いた。この先生は、いつでもすらすら原稿が書けるのか。

 このときの印象はその後いつまでも心に残った。

 私はどこででも原稿を書く。ある時期まで、喫茶店で書いたり、電車に乗ってすぐに原稿を書きはじめ、担当の編集者に原稿を届けるような「芸当」をつづけてきた。

 私の書斎ときたら、本、雑誌、マンガ、クラシックから邦楽まで、CD、ビデオ、DVD、女の子たちが描いてくれた油絵からエロティックなデッサン、おまけに各地のおみやげまで、何もかも放り込んで、まるでゴミ収集場かゴミ焼却場のようなていたらく。
 その私が心のどこかでは、土岐 善麿の茶室のような書斎をもちたいと思ってきた。
 しょせん、かなわぬ夢だったが。

 ときどきテレビで、ゴミをひろってきて、近所に迷惑をかける「困った人」がとりあげられると、自分の書斎兼仕事場を見せつけられるような気がする。
 だから、土岐 善麿の茶室のような書斎を思いうかべて、いつも、えらい人は違うなあ、と思う。

 私は土岐 哀果にさして関心がない。土岐 善麿さんに敬意を持っているけれど。

2006/12/16(Sat)  450
 
 歳末。
 ふと、口ずさむ一首。

     『働かぬゆゑ、貧しきならむ、』
     『働きても、貧しかるべし、』
       『ともかくも、働かむ。』

 作者には失礼だが、笑ったね。ただし、嘲笑したわけではない。しがないもの書きとしては苦笑するしかないが、自嘲の笑い、または羞恥の笑いでもあった。

 私が貧乏なのは、「働かぬゆえ」に違いない。 
 しかし、いくら働いても貧乏だろうなあ。
 最近は、ともかくも働こうという意欲がない。

 さて、『働かぬゆゑ、貧しきならむ、』と、『働きても、貧しかるべし、』にも、おなじようにト−トロジックなものが感じられないだろうか。私の笑いは、そのあたりに向けられている。
 そして 同時に、これをしも短歌と見るべきか、という疑いもあった。羨望もまた。
 いささか皮肉にいえば、こういう短歌を詠むことで歌人として生きることのできた時代のありがたさを思った。

 作者は、土岐 哀果。
         (つづく)

2006/12/15(Fri)  449
 
 2008年の北京オリンピックのマスコット。
 英語で Friendlies だった。ところが、英語のわかる人たちからメッタメタに批判されたとか。
 Friend lies に見えるから。
 発音がわるいと Friendless に聞こえる、って。

 北京五輪組織委員会は、中国名の「福・ 女圭」を Fuwa に変更した。

 口に出してごらんなさい。中国語で発音できない日本人は、思わずぎょっとする。ちょっと困るなあ。(笑)

2006/12/14(Thu)  448
 
 ベスト・セラ−。

   自分の小さな「箱」から脱出する方法
   鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のル−ル
   子供の領分REMIX・・be under・・
   アフィリエイトの神様が教える儲けの鉄則50
   「感動」と「幸せ」の法則
   アメ−バ経営 ひとりひとりの社員が主役
   若者はなぜ3年でやめるのか? 年功序列が奪う日本の未来

 すばらしい本ばかり。
 こうしたベスト・セラ−を読めば、きみもきっと成功する。

 だいいち、こんなに長いタイトルの本でないとベスト・セラ−にならない。 
 人生のどんな問題も解決する魔法のル−ル。もっともっと前にこの本が出ていたら。私も幸福になれたのに。その前に、少しはましなもの書きになれたかも知れない。

2006/12/13(Wed)  447
 
 本を読む。たいていは二度と読まなくてもいいと判断できるから。いつか、また読み直そうと思うような本もある。
 生涯に何度も読み直す本もある。

 結婚もおなじようなものだ。たいていは二度と結婚しなくてもいいから結婚する。

2006/12/12(Tue)  446
 
 冬の日。

   冬の日の晴れたる空の底深く潜(ひそ)みてものをおもふべきかな
    −−金子 薫園

 いい短歌だと思う。「ものをおもふ」は、ほのかに恋の含意。想う、ということばを忘れてしまった今の私たちは、思う、としか書かない。
 冬の日、よく晴れた空を見つめながら、私の内面にひそむ想い。

   黄なる葉の落ちつくしたる木の間より見る大空の青のつめたさ
    −−尾上 柴舟

 これは自然詠で、風景としては平凡だが、くり返して口にのせていると、もう私たちが気がつかない空の青が心に見えてくる。
 場所はどこでもいい。公園でもいいし、旅の途中で見かけた風景でもいい。

   籠居(こもりゐ)の庭冬さびて愁はしく 雲のかげ落ちおちては去るも
    −−中村 憲吉

 憲吉としては、それほどいい作ではない。どうも下五、「落ちおちては去るも」が気になる。ただ、「籠居(こもりゐ)」とか、「冬さびて」とか、「愁(うれ)わしく」といったことばが消えてしまったことを惜しむために書きとめておく。
 おなじ憲吉に、

    曇る日のこころを傷み野の空に虚(うろ)吹く風を寒みつつ行く

 という一首があるが、こういう歌にははじめから心を動かされない。作者としては、なにか切実な思いをこめての作だと思うけれど。

2006/12/11(Mon)  445
 
 ドキュメント「その時歴史が動いた」は、だいたい見ている。ただし、キャスタ−をやっている松平 定知を見るためではない。ゲストの意見を聞きたいからである。
 松平 定知は、「読み」のナレ−ションは優秀、ゲスト相手のト−クはあまりよくない。誰しもそれは感じているらしい。
 「その時歴史が動いた」(06.11.8)の批評に、

 「キャスタ−の松平 定知アナウンサ−には失望した。大仰な身ぶりといきぐるしそうな語り口は変わらず、歴史ロマンに思いをはせる余裕を見る側に与えてくれない。」(06.11.8.「読売」)

 と書かれていた。
 可哀そうに。
 ラストで、視聴者に挨拶する。このとき、きまって両手を机におく。両手を大きく横において構えるので、いかにも肩肘いからせ、威張って見える。それがひどく尊大に見えるのだが、キャスタ−が偉すぎるので誰も注意しないのだろう。
 ああいう番組のキャスタ−はもう少し自然に見えたほうがいい。

 私がもっと気に入らないのは、松平 定知よりも、あきらかに松平そっくりのト−ク、ジェストがNHKの若いアナウンサ−にひろがっていること。
 若い女性のアナウンサ−にもひとりいる。松平 定知よりも、もっと松平的な女性。きっと自分は大NHKのアナウンサ−だという気負いがあって語り口に押しのふとさ、ひいては傲岸さを感じさせる。
 ひと昔前の宮田 輝のような、ネコっかぶりで、ニコニコしながら、視聴者をナメきっていたような感じに似ている。
 まあ、チャンネルを変えればすむだけのことだが。

2006/12/10(Sun)  444
 
 今年の夏は各地にクマが出没して、人を襲った。森林の伐採や開発が進んで、クマの食料不足が原因らしい。
 クマばかりではなく、シカやイノシシなどによる農作物被害も大きい。’04年度の被害は206億円。イノシシが56億円。シカが40億円。
 たいてい、地元のハンタ−たちが集まって、ものものしく警戒する。ときには、クマを射殺する。私にとっては、もっともいやなニュ−スの一つ。

 むろん、被害を放置するわけにはいかない。
 対応できるハンタ−が必要だが、高齢化がすすんで、ハンタ−の数は30年前の1/3以下、約15万人に減少している。
 そこで環境省では、来年度から、ハンタ−の育成にあたることをきめた。鳥獣管理の「専門家登録制度」を創設して、ハンタ−や、狩猟計画策定にあたる研究者を全国的に募集する、という。
 初心者がハンティングの経験をつむことが必要なので、環境省は全国34カ所の猟区で、狩猟期間を延長するという。ハンタ−たちは欣喜雀躍としているだろう。(’04.11.10.)

 ところで、日本には女性ハンタ−はいるのだろうか。あまり聞かない。

 戦前に演劇評論家として知られていた渥美 清太郎を読んでいて、「婦(おんな)風景十二ケ月」のなかに、
 「近頃は女も山でポンポンやるのが流行(はや)りますな。このひとは、山鳥をねらっているのですか。」
 とあった。
 この「近頃」は、昭和10年(1935)秋。絵の女性はススキを踏みしだいている。
 狩猟服、ガンベルト。ぶっちがえの革ベルト、左に雑嚢、右に水筒。足にゲ−トルというスタイルで、ライフルを構えている若い女性を描いたイラスト。獲物はキジ。
 日本画家、清水 三重三のイラスト。

 まだ日中戦争は始まっていない。
 このお嬢さんは当時のモガのひとりだろう。戦前、おそらく一部にかぎられていたはずだが、女性のハンティングが流行していたとは知らなかった。

 そこで、私としては・・・今後、環境省のハンタ−の育成や、鳥獣管理の「専門家登録制度」には女性をどんどん積極的に採用してもらいたい、と思う。

 頭のお不自由なお役所のことだから、こんな提言が聞かれるはずもないだろうが。

2006/12/09(Sat)  443
 
 ある女流作家がエッセイ集を出した。
 関東の居酒屋をめぐり歩いて、ほろ酔いまかせに思い浮かんだあれこれ をつづったものという。『東京居酒屋探訪』。おもしろそう。
 この人が「これまた乙なもの」というエッセイを書いていた。居酒屋にきている連中を観察したあと、

 「そしてみんなそれぞれ、かならず帰ります。闇に飲まれて家路を辿ります。そのさびしさも、これまた乙なものでした。」

 わかるなあ、こういう気もち。
 それはそれとして・・・ほう、と思ったのは「乙なもの」といういいかた。今でも使われている。このことに感動した。感動というのも大げさだが。

 オツなもの。もともとは鼓打ちからきたらしいが、気がきいている、とか、味なものといった意味で使われる。漱石の『坊ちゃん』にも出てきた(と思う)。
 こういうことばが、今の若い女性に使われていることがうれしい。
 ただ、このことばには、もう一つ、微妙なニュアンスが重なっている。あまり見かけない、ちょっとスジが違う、奇妙な、といった感じ。外国語ではうまく表現できない。
 奇異  strange でもないし、おかしい funny ともいえない。
 「彼はいつもオツにすましている」というように使われる。和英辞典 をひいてみると He always puts on airs.という例が出ていた。
 私の感じでは、すこし queer で、weird なもの。

 こんなことを考えるのは、あまりオツじゃねえな。

2006/12/08(Fri)  442
 
 鍋料理のおいしい季節になった。

 ひどく簡単な鍋料理だが、細いソ−セ−ジをいためる。その脂でザウワ−クラウト(キャベツの塩漬け)をいためて食べる。まるっきりアルザスの農家の味。

 私のちゃんこ鍋、といってもお相撲さんのちゃんこ鍋とはべつのもの。寄せ鍋。
 お相撲さんのちゃんこ鍋には、つくねをメインに17種類の具という豪勢な鍋もあるが、私の鍋は残りものや、冷蔵庫にあるものを利用するだけ。
 お上品な鍋ではないので、ダシは必要ない。
 肉といっしょにサカナや貝(何でもかまわない)、野菜、とくに白菜。春菊。
 肉は牛肉なら少し(アクが出る)、ブタ、トンソク、トリ。魚は白身がいいのでタラにするが、なんなら鯛の切り身を入れてもいい。
 シラタキ、ト−フ、タケノコ。シイタケ、ナルトの切れっぱし。ごった煮。
 眼目は、うどん、キシメン、キリモチ、なんならハルサメでもいい。
 煮あがったら、ショ−ユ、酢、これにラ−ユかマスタ−ドを溶かしたヤツで、フ−フ−いいながら食べる。

 もう一つ、冬の季節、私がときどきいただく「寒貧飯(カンピンパン)」。清国の車夫馬丁のやからが食べたというから、文字通り、貧乏人の食うオマンマ。ぐるめのお方には、おすすめしない。
 ブタ肉のコマギレ少々を鍋でいためる。少しいためたら、こまかく(1センチ〜2センチ)切った野沢菜をひとつかみ放り込む。好みで塩をふりかけてから、お湯をひたひたにそそぐ。煮立ったところに、ご飯をまぜてお粥ふうにする。
 所要時間、2〜3分。自分でつくれるところがいい。

 いかにも貧乏作家の昼メシだが、けっこうオツなもんで。

2006/12/07(Thu)  441
 
 日本映画に、はじめてキスシ−ンが登場したのは戦後だった。それまでは、恋愛映画でも恋人がキスするシ−ンはまったく存在しなかった。日本の風俗、習慣に反するという理由による。外国映画でも主演のスタ−がキスする場面はカットされていた。

 「大映」の「ある夜の接吻」で、恋人が相合い傘の下でお互いに顔を寄せあってキスらしい行為におよぶ。これだけで観客はショックをうけた。「松竹」の「はたちの青春」で、幾野 道子と大阪 志郎が、はじめて唇を重ねるキスシ−ンを演じた。

 当時の大スタ−たちが、スクリ−ンでキスするようになるのはもっとあとで、「不死鳥」(木下恵介監督)で、田中 絹代が佐田 啓二を相手に(本格的な?)キスシ−ンを見せた。
 つづいて、「我が生涯の輝ける日」の、森 雅之と山口 淑子(戦前の李 香蘭)のキスシ−ンは迫力があった。
 山口 淑子はハリウッドに進出しようとして渡米したが、アメリカのジャ−ナリストのインタヴュ−で、渡米の目的は何かという質問に、「キスの仕方を勉強にきました」とやってのけた。これはウケた。こういうアテコミは当時の日本人の反感を買った。
 アメリカでせいぜい勉強してきたおかげか、山口 淑子は「暁の脱走」で池部 良と熱烈なキスシ−ンを見せている。

 左翼映画でも「女の一生」で、亀井 文夫監督は、沼沢 勲と岸 旗江にキスさせた。
 労働者の恋愛は、開放的でなければならない。恋愛を秘事と考える思想と闘うため、屋外でキスをさせ、不快な感情を感じさせない健康的なものを描く、と語っている。
戦後の映画のキスシ−ンでつよい印象をあたえたのは「また逢う日まで」(今井 正監督)で、当時の青春スタ−、久我 美子と岡田 英次がガラス越しにキスするシ−ンだった。
 ある女学生がこの映画を見に行って感動した。さっそく父親が見に行ったが、このキスシ−ンに激怒したらしい。帰宅した父親は娘を叱りつけて、いわく、
 「あんな連中がいるから戦争(「太平洋戦争」)に負けたんだ」。

 これは実話である。

2006/12/06(Wed)  440
 
 桑野 道子は松竹の女性映画をささえたスタ−のひとり。田中 絹代、高杉 早苗、高峰 三枝子が大スタ−だったので、そのあとにつづく水戸 光子、木暮 実千代たちのスタ−と並んでいたような気がする。
 芝の洋食屋の娘で、美少女だった。「森永」のキャンペ−ンで、スウィ−ト・ガ−ルに起用されたあと、ダンスホ−ル「フロリダ」のダンサ−になった。ここでスカウトされた。都会的な若い娘を演じたとき、桑野 道子は新鮮な魅力を見せた。明るい微笑を口もとにたたえながら、銀座あたりを闊歩していた「新しい女性」だった。

 小学校から親友がいた。桑野 道子がダンサ−になってからも、この友人がかげでいろいろつくしたという。スタ−になってから、桑野 道子は芸能界の不安定な生活を考えて、お汁粉屋を出した。そのため、かげでいろいろ悪口をきかれた。
 この親友が病気になった。身寄りもなく、独身のアパ−ト暮らしで、病気になったため、桑野 道子が毎日、大船撮影所から通って看病した。
 しかし、病状はよくならず、寝たきりの生活をしなければならなくなった。
 桑野 道子は、この親友が生活できるように、美容院を経営するようになった。そのため、桑野 道子は、映画女優にあるまじきマンモニストのように見られた。
 戦争がきびしくなって、映画製作が惨憺たる状況になって、スクリ−ンで桑野 道子の姿を見ることがなくなった。
 戦後すぐに、桑野 道子は映画に復帰したが、彼女自身が病に倒れて急死した。

 その後、遺児の桑野 みゆきが青春スタ−として登場した。恵まれた環境に育ったお嬢さんだけに、将来を期待されたが、桑野 みゆきも早世している。

 さまざまな芸術家の姿を見てきた。私は『ルイ・ジュヴェ』のなかで書いた。

 今では誰も思い出すことのない俳優、女優たちにふれるのは、それぞれの時代の俳優たち、女優たちの姿やおもざしをなつかしむためではない。それぞれが、時代を生きて、いずれも「時分の花」としてときめいていた事実を忘れないためである。
                      (『ルイ・ジュヴェ』第四部第二章)
 このとき私の内部に桑野 道子の姿がなかったか。

2006/12/05(Tue)  439
 
 とてもいい伝記を読んだ。

 私にとって「いい伝記」は、それを読む前と読んでしまったときの自分がなぜか違ってきたと感じられるような作品にかぎられる。自分が思いもかけない人物の人生を知ったというだけではなく、何か底知れぬ領域にのめり込んでしまっているような気がするとき。
 ただその「人物」の生きかたに心を奪われて、ひたすら感嘆しているというのではなく、「ふ〜ん、そうなのか。おれもそういうふうに生きているのかも知れないなあ」とか、「へへえ、これはアイツだよ、アイツにもこんなところがあるよなあ」といったふうに、自分の身にひきつけて考えたりする。
 小説を読んでおなじような感じをもつことはあるのだが、いい評伝を読むほうが、こちらの感情移入が多い。

 リットン・ストレ−チ−の書く短い伝記でも、いい評伝を読んだという充実感はあるが、やはり長い評伝を読んだときのほうが、つぎからつぎに引き寄せられて、出自から老年、はては、その死まで、(自分の人生にはまるで関係がないのに)読み終えるのが惜しいような気がする。
 たとえば、モ−ロアの『マルセル・プル−スト』。ツヴァイクの『バルザック』。

 伝記のおもしろさは、やはり、対象の人物の魅力に還元される。

 何かの研究者がその研究対象を書いた伝記の大半には、どういうものか、伝記のおもしろさがない。ない、というより、はじめから気にしていない。専門家だから間違ったことは書いていないので、私はいつも敬意をもって読む。当然、教えられることも多い。しかし、かんじんの研究対象がいきいきと描かれていなければ、伝記を読むよろこびがない。
 「よい伝記を書くことは、よい人生を生きることとおなじくらいむずかしい」とは考えない。リットン・ストレ−チ−。このことばにはおそろしい冷徹さがある。

 私が最近読んだとてもいい伝記は、ロマン主義の文学者をとりあげたもので、ほんとうによく調べて書いたものだった。それでも、もう少しいきいきと描かれていれば、伝記の傑作になったのに、と残念な気がした。

 いい伝記を読むことは、美術館で画家の回顧展を見ることに似ている。

2006/12/04(Mon)  438
 
 くわばら、くわばら。

 これも死語。祖母のアイが使っていた。

 弘化4年3月24日、信濃に大地震が起きた。死者、2486人。
 さっそく、江戸のはやり唄が、この地震をとり込んで、

     わたしゃお前と 信濃の地震 揺れば割り(割れ)出し 死にまする
     唾つけなんせ 前は稲荷山 火になる水になる 床の海
     あとの話は 寄る(夜)のこと 買わ(皮)なきゃひとつの丹波縞
     評判となり 近所はうろたえ あわてて耳ふさぐ
     桑原じゃ 桑原じゃ

 もともと「くわばら、くわばら」は、雷よけのおまじない。
 なにしろ、地震、雷、火事、親父がこわいものの代表だった時代である。今では父親なんぞこわがるやつは誰もいない。

2006/12/03(Sun)  437
 
 天保銭。

 天保6年10月から鋳造されたという。裏側に当百とあって、百文(もん)に通用したが、ペルリ来航からの物価騰貴で、貨幣価値が下落した。

  一つとせ  人のほしがる 当百(とうひゃく)も
  今じゃ 世間にいやがられ この 天保銭

  二つとせ  ふびんなことには 百銭が
  百で世間がわたられぬ この 天保銭

 これは、一つとせ節(ぶし)。
 ここから・・・世間並みでない、ちょっと足りないやつ を「天保銭」というようになった。
 私の少年時代には、まだこの「天保銭」が実際に使われていた。
 「あのヤロ−、天保銭のくせしやがって」とか「なんでぇ、この天保銭!」といったいいかただった。

 戦争がはじまってからは、「天保銭」は別の意味をもったが思い出す必要もない。

2006/12/02(Sat)  436
 
 ビデオ・リサ−チの「テレビ・タレント/イメ−ジ調査」の結果が発表された。
 
  1  仲間 由紀恵
  2  DREAMS COME TRUE
  3  天海 祐希
  4  山口 智子 
  5  松嶋 菜々子 
  6  久本 雅美
  7  小林 聡美
  8  黒木 瞳 
  9  深津 絵里 
 10  優 香   

 まあ、一般の人気はこんなものだろうなあ。
 さて、歳末の私も、2006年の「ごひいきタレント」ベスト・テンを選んでみよう。私の毒断と変見によるものだから、まるっきり違うものになるのは仕方がない。

  1  涼風 真世  
  2  チョン・ドヨン
  3  長谷川 京子 
  4  上野  樹里 
  5  ソン・イェジン 
  6  ミ−シャ・バ−トン 
  7  渋谷 飛鳥 
  8  ジョデル・フェルランド 
  9  半井 小絵    
 10  ジョ−ジ−ちゃん 

 それぞれを選んだ理由はあるのだが、ここでふれる必要はない。
 ジョ−ジ−ちゃんは『ナルニア国ものがたり』の女の子。今年のチェ・ジウがいい作品に出ていたら、当然、トップにくるのだが、「連理の枝」では残念ながらあげるわけにはいかない。半井 小絵はNHKの気象情報を担当している気象予報士。ほかに、つい最近、医療保険「EVER」のCMに出ている女の子に注目しているのだが、名前がわからない。(あとで知ったのだが、朝ドラに主演していた宮崎あおいというそうだ。)
 私がビデオ・リサ−チの選ぶメンバ−にほとんど関心がないことはわかってもらえるだろう。
 きみは私のリストから何を読むだろうか。

2006/12/01(Fri)  435
 
 日本に、食料の輸入が途絶した場合・・・1食分は、普通の10分の一から5分の一の量、1食は約113キロカロリ−として、1人あたりのブタ肉が、約10グラム。
 ご飯やジャガイモなども、ほんの二口か三口で食べてしまう、という。

 こうした「現実」が、たとえシミュレ−ションにせよ、「仮想的」ではなく「蓋然性」のつよい「問題」として農林水産省が発表したことに注意すべきだろう。

 私は警告しておきたい。こんなものは、あくまで数字の問題であって、実際の飢餓は、こうした数字ではけっして想像できないということ。
 第二次大戦の末期から、敗戦後の飢餓を知っている人なら、「ご飯やジャガイモなども、ほんの二口か三口で食べてしまう」どころか、ほんの二口か三口で食べてしまうほどのコメの配給もとだえて、飢えに苦しんだことをおぼえている。
 おコメのかわりに脱脂大豆が配給された。これは、大豆をしぼってアブラをとった残りで、ブタやニワトリの飼料になるものがアメリカの緊急援助で配給されたのだった。
 主食のかわりに、ザラメ(砂糖)や澱粉だけが配給されたこともしょっちゅうだった。
 こうなると、闇(ブラックマ−ケット)に頼らなければ生きて行けない。いちじるしいモラルの低下が起こり、人倫上、かならず道徳的な頽廃をともなう。

 必然的な結果として、凶悪な犯罪が増加し、金融システムは崩壊し、通貨インフレ−ションによって、国家の政治・経済はみるみるうちに破綻にむかうだろう。
 私がゾッとするのも当然だろう。

 もう一つ、ゾッとすることがある。
 シミュレ−ションというものは、すべてものごとを過度に単純化するものだということ。なにかのシミュレ−ションを眼の前にしたとき、自分のもっているイメ−ジを、極度に正確にまで押し進めてみよう。そうなると、そのイメ−ジに、自分の感性や、知識が、どういう性質のものなのか、よくわかる。

2006/11/30(Thu)  434
 
 ゾッとした。

 2015年、日本に食料の輸入がすべてストップしたら。農林水産省が発表したシミュレ−ションでは、
 主食のコメが、朝食・夕食 それぞれお茶碗に1杯だけ。ただし、これは理論上のことで、実際の朝食・昼食は、ジャガイモ、サツマイモが代用食。
 お味噌汁は、2日に1杯だけ。
 おかずは、夕食に、焼きサカナが一切れ。
 肉は、9日に一度。
 タマゴは、1週間に1個。
 牛乳は、6日に、コップ1杯。

 ゾッとした理由は・・・この予測は、日本の食料の自給率が、現在の40%から45%にふえたという仮定が前提になっていること。
 ある小学校では、子どもたちに「飢餓でくるしむ国の人々とおなじ量の食事をする」体験学習を行っている。      → (’6.9.16.「読売」16面)
 1食分は、普通の10分の一から5分の一の量、1食は約113キロカロリ−として、1人あたりのブタ肉が、約10グラム。
 ご飯やジャガイモなども、ほんの二口か三口で食べてしまう。

 こうした「現実」が、たとえシミュレ−ションにせよ、「仮想的」ではなく「蓋然性」のつよい「問題」として農林水産省が発表したことに注意すべきだろう。
  私たちは、いつこういう状況にさらされても不思議ではない。そう聞かされれば誰でもゾッとするだろう。
 だが、私がゾッとしたのは、もう少し違うことなのだ。    (つづく)

2006/11/29(Wed)  433
 
 現在、世界には57億に近い人間がいて、今世紀の終わりまでには毎年、平均9百万の率で増加している。国連の専門家たちの試算では、2050年には現在の倍ないし百億に達する、とか。
 人口は、世界のある地域ではほかの地域よりも急増している。1990年から2050年の人口増加の97%は、こんにちの発展途上国にあらわれる。もっとも急増している大陸はアフリカで(3.2%)、ラテン・アメリカは(1.9%)。アジアは三番目で(1.8%)である。しかし、アジアの現在の人口はすでに、今世紀末までに、各大陸の総人口よりも多い。

        2
 人口の急増がもたらすもっとも緊迫した問題は、食糧不足である。毎年、多数の幼児に食糧が必要になるが、現在の人口は大きな比率で、十分、かつ適性な食物をとっていない。最近の数年間、食糧の総生産量は増大しているが、もとより一人当たりの食物の量はそれ以上にいちじるしく少なくなっている。
 別の問題としては、急激な人口増加が、とくに発展途上国に見られることである。すでに述べたように、いまやこうした急速な人口の増加を見せている国に生きている人々のほぼ半数は十五才以下なのである。こうなると、成人は子どもたちの必要をみたすためにさらに苦しい労働をしなければならない。学校や教師も不足しているし、病院、医師、看護婦も十分ではない。農業用地(耕地)は少なくなり、その結果、田舎の人たちはよりよい生活条件を探そうとして都会に移動する。しかし、都会は住居が払底(ふってい)しているため、あらたにやってきた人々はゴミゴミしたスラムに住む。最後に、仕事があまりにも少ないため、失業者(未就業者)は貧困に陥ってゆく。
 それでは、(直訳・・人々はなぜ、より少ない子どもをもとうとはしないのか。)子どもを少なくしない理由は何か。これにも、それなりの理由はある。

        3
 先進国の統計は、出生率が低下し始めると生活水準が高くなることをしめしている。しかしながら現在の発展途上国では、さまざまな理由から、適切な社会福祉や老齢年金も整備していないし、人々は預金できるほどの収入もない。その結果、老人になったとき子どもたちに生活をささえてもらうという保証を期待している。そして、子どもたちはひどく低年齢からいろいろと生活をささえる仕事をする。いいかえれば、大家族は保険というかたちなのである。
 発展途上国の人々は、子どもを少なくすることを考えるより先に、将来のよりよい条件のはっきりしたしるしを見届けようとする。しかし、人口増加率を低く抑えないかぎり、彼らの条件は改善されない。こうしたおぞましいサイクルを打破するためには、ひろく家族計画の導入こそが必要であって、これは(生活)態度の基本的な変化を意味する。
 世界の急速な人口増加は、発展途上国だけではなくさまざまな問題を生じている。全世界がその影響を感じている。(鉱物、木材など)原料は生産が涸渇(こかつ)し、食糧は人口増加をまかないきれない。世界の資源・・食糧、燃料、土地・・に対する発展途上国の人々の要求はますます重くなって、さらなる汚染の原因になる。アメリカで生まれる子どもは生涯に、インドで生まれる子どもの三十倍の資源を消費する。
 全世界の各国が、人口爆発にたいして共同の歩調をとらないかぎり、より少なくなる土地、食糧、燃料をめぐって争いあって、未来はわれわれ全体に貧困と、悲惨と、戦争をもたらすだろう。

 ゾッとする。

2006/11/28(Tue)  432
 
 最初のキスなんて、ちっともロマンティックじゃなかったわ、と彼女はいった。

 空襲の被害はうけたが、その付近は焼け残ったらしく、牛込のその界隈には屋敷がいくつか並んでいた。その屋敷町の裏側の細い路地に入ると、片側はセメントの塀がつづいていた。この路地の先に、旧陸軍の練兵場があって、木々の繁みの間から小さな丘になる。戦後は払い下げ用地に指定されていたが、まだ放置されたままで、街灯もなく、暗闇の草むらや木立の影に若い恋人たちがまぎれ込むのにかっこうの場所だった。
 暗がりを歩いてゆくと、雑草の窪みにぼうっと白い肌をはだけた女の上に黒い影が押しかぶさっていたりする。誰もが人目につかない場所をもとめてやってくるようだった。
 木立のなかで、それまで抑えていた衝動につき動かされるように、いきなり腕をのばして康子の肩を引き寄せた。
 「だめよ、こんなところで」
 康子はあわててもがいた。しかし、はげしいいきおいで抱きしめられると、もう抵抗することができなくなった。あたたかく濡れた唇が、康子の唇にふれてきた。
 そのとき、康子は眼を閉じていた。身体じゅうの神経がざわめいて、おののくような感覚が全身に走った。
 キスがこんなになまなましいものだとは、このときまで知らなかった。
 ただ、木陰で不意に抱き寄せられたため、木に背中を押しつけたまま不自然な姿勢になっていた。康子は、そのまま少しづつ背中ごとからだを落とした。
 根元の草むらにずるずる腰を落としながら、自分から彼の舌を吸っていた。男は草の上にやわらかく康子を押し倒すと、自分も横になって腕にかかえ込み、はげしい息づかいで唇を重ねていた。

 彼女は闇のなかで遠く新宿の空が明るく輝いていたことしかおぼえていなかった。

2006/11/27(Mon)  431
 
 私の好きな辞世、絶命詩、絶命のことば。いろいろある。

 室町時代の連歌師、山崎 宗鑑は、

    宗鑑は何処へと人の問ふならば ちと用ありてあの世へといへ

 為長 春水(二世)は「春水梅暦」の作者の弟子だが、

    皆さんへ さていろいろとご苦労さま お先へ参る はい さようなら

 江戸後期の滑稽本の作者、式亭 三馬(1776〜1822)は、

    善もせず 悪もつくらず 死ぬる身は 地蔵もほめず 閻魔叱らず

 どうせくたばるなら、こういう辞世を詠んで死ぬほうがいい。

2006/11/26(Sun)  430
 
 奥野 他見男を知らない人でも、「雨の降る日は天気が悪い」とか、「高い山から谷底見れば」といったフレ−ズに聞きおぼえがあるかも知れない。これらは奥野 他見男の代表作の題名である。
 今の私が奥野 他見男を読むのは、戦前の日本人の日常にあった社会的な通念や、大不況のなかで崩壊してゆく日常的な decorum が、それなりに描かれているからである。作家自身は何も考えずに書いているのだが、昭和初年の小市民の哀れな姿や、内面の貧しさが見えてくる。その意味で、私にとっては忘れられない作家のひとり。

 この作家は、俗謡や、格言、洒落、地口などを多用している。

 万延頃に流行した「はねだぶし」に、

     曇らば曇れ 箱根山  晴れたとて お江戸が見えるじゃありゃせまい
     こちゃお江戸が見えるじゃありゃせまい
     こちゃかまやせぬ ソレ かまやせぬ

 文久の「はんよぶし」は、

     わたしとお前は お蔵の米よ
     はんよ いつか世に出て のろ千代さん ままとなる
     したこたないしょ ないしょ

 この千代さんは、渋谷、宮益坂にあった千代田稲荷。
 文久三年、徳川 家茂が上洛した。その留守に、江戸城本丸の年寄、滝山の部屋で法科事件が起きた。このとき、千代田稲荷の神使(つかわしめ)であるキツネが、女の声で急を知らせて飛び去ったという。
 幕末の不安な社会心理がうかがえるのだが、今なら「ヤマンバさん ママになる」と変えたほうがいいだろう。したこたないしょに変わりはない。

 奥野 他見男のテ−マは、かんたんにいえば何があっても「こちゃかまやせぬ」というノンシャランス、「したこたないしょ」という、くすぐりにもとずいたエスケ−ピズムで、昭和初期の暗い、かなり不安な気分にマッチしたものだった、と見ていい。

 奥野 他見男を読んでいて、昭和のナンセンスが、隔世遺伝的にお江戸の俗謡や、流行語にむすびついているのではないか、と思った。私にとっては思いがけない論点になりそうな気がする。

2006/11/25(Sat)  429
 
 奥野 他見男が湯河原に行った理由は、彼が作家として一種のデッドエンドを意識していたことにある。

 「既に己(お)れは箱根を知り、修善寺を知り、然して遙か伊東温泉まで行った者が、近くの湯河原に行ったことが無いとは何んだか自分の手落ちらしく思はれ出した。」
 そこで、たちまち湯河原行きを決心する。(ここまで朝食前に書いている。)

 国分津から電車、さらに軽便鉄道で湯河原に向かうのだが、「間ァ何んて汚い小さい汽車だらう、乃が一体汽車と云ふ名称を付けられる丈けの資格があるんだらうか、全(まる)で箱だ、否(いな)全で安永年間に出来た様な汽車だ。」と、作家は苦笑する。
 湯河原に着いたのが午後7時頃。ここで、乗合の自動車に乗ると、以前、一度だけ紹介されたことのある「若くて而かも美しき女!」が同乗しているではないか。

 その令嬢が泊まる宿屋にきめて、「今まで亀の背中に載ってゐた様な鈍い汽車に揺られてゐた」ような小説は、ようやく快調に展開する。しかし、ほんとうはここから作家はきゅうに表現を抑制しはじめる。

 あらためて、『芳子さん』を読んで、この作家が非常な人気を得ていた理由が、いくぶんわかったような気がした。
 作家が自分の生活を即時的に書く。身辺雑記なら別にめずらしくない。現代の作家ならブログという表現手段がある。だが、昭和初年に通俗小説を同時進行のかたちで書き進め、しかも執筆の経過を刻明に記録しているのはめずらしい。
 このことは、当時の奥野 他見男の絶大な人気、流行作家に対する世人の関心の大きさを物語っているだろう。

 佐々木 邦に十九世紀イギリスの少年小説の余香がひそむとすれば、奥野 他見男には江戸の滑稽本、たとえば十返舎 一九の『膝栗毛』などの流れ、さらには万延頃に流行した「はねだぶし」、文久の「はんよぶし」、明治の「世の中開化ぶし」などのエスプリが見られる。そのユーモアが、明治、大正の家庭小説と野合したもの、と見ていいかも知れない。

 流行作家として読まれながら、今はまったく顧みられない作家を読む。何ひとつ得られるものはないが、作家の運命を考える。
        (つづく)

2006/11/24(Fri)  428
 
 作家にもいろいろあって、世にときめく流行作家もいれば、ある一時期に多数の読者に読まれながら、やがて忘れられる作家もいる。
 いっとき、もてはやされながら、季節が過ぎて人の口の端にのぼることもなく、かえって否定的な評価しか与えられない作家もいるだろう。

 昭和初期に、たいへんな人気を博して、20巻ほどの全集や、10数巻の選集が出た作家がいた。当時、佐々木 邦とならぶユ−モア作家だった。
 だが、いまや奥野 他見男は完全に忘れられた作家といってよい。

 少年時代に奥野 他見男の『雨の降る日は天気が悪い』、『高い山から谷底見れば』といった作品を読んだが、内容はまったくおぼえていない。文章は雑駁、小説としての構成は投げやりで、当時はおもしろかったらしいユ−モアも、時代を隔てては無味乾燥といった作品ばかり。中学生でもおもしろいと思えなかったことはおぼえている。
 最近、彼の作品を読み返してみたが、村上 浪六ほどにも文学史的に、批評的に論じる必要のない作家だった。ここでは中編小説『芳子さん』をとりあげてみよう。

 『芳子さん』にはスト−リ−らしいものはない。身辺小説というべきか。
 冒頭は、スランプ気味の作家が、雨の日に鬱屈している。
 「此の広い東京、此の華やかな東京、此の広い東京、此の歓楽の東京、己(お)れはもう総てを尽くしてしまった。己(お)れは新しい何かを求めなくちゃならぬ。」
 妻は夫に気ばらしに旅に出たらとすすめる。ところが、はげしい雨できゅうに中止になって、ひとりで旅に出ることになる。(ここまでを、品川〜国分津間の列車のなかで書いている。)

 出かけるので靴を新調する。愛娘の「静子(ちこ)」ちゃんに銀座で靴を買ってやったこと。靴みがき。(小田原軽便鉄道、停留所前、さかい屋待合所で書いている。)

 品川から国分津行き。藤沢で乗り換える。(湯河原、天野屋旅館についた晩に書いている)流行作家だっただけに、よほどの速筆だったらしいことがわかる。
                 (つづく)

2006/11/23(Thu)  427
 
 いつ、それがやってくるかわからない。
 だが、誰しもそれぞれ、したたかに思い知らされる。まだ、未決定の将来を前にして、何ひとつ確実なものを手にしていない少年の頃。何も考えない。ただ、楽しいことがいっぱい。あるいは、もう少しおとなになって、少し考えはじめる。ただなんとなく漠然とした不安を感じたり。いつしか胸の底にひそむ、異性へのあわいあこがれが、やがて胸をえぐるいたみに変わることを知ってしまったとき。
 そして、老いてゆく。もう、何も考えない。まったく若さがなくなって、自分にもとうに見切りがついてしまった年代に。

 年齢や世代には関係がない。
 だが、いつか、かならず思い知らされる。

 この世に生きてあることのかなしみを。

2006/11/22(Wed)  426
 
 さて、ここで、日本人、イギリス人、ついでにドイツ人の血液型を比較してみよう。
  
      日本人   イギリス人  ドイツ人 
O型     31.0     51.4     31.0 
A型     38.2     34.8     44.4  
B型     21.2     9.8     12.6
AB型     9.6     3.9     4.6
被調査人数 20,297     3,899   17,982
          
 この比率は、現在、どうかわっているだろうか。

 この資料は、西村 真次の論文「日本民族性の特徴」「中央公論」(昭和13年4月号)による。わざわざ探し出して読んだわけではない。
 戦前の日本のイギリス観といつたものを調べようと思って、清澤 洌の「英国は戦えるか」という論文を読んだが、おなじ特集に西村 真次が書いていた。

 この血液型の表を見ているうちに、きみたちが何を考えるかと思ってとりあげることにした。私がニヤニヤしたのは・・・イギリスの国会が静粛なのに、日本の国会がさわがしいのは、国会議員の教養の差にあるのではなく、体質的な原因がある、といった考えかたにひそんでいる偏りがおかしい。おかしい、というか、バカバカしいというか。
 たしかに、現在のイギリスのブレア政権や、内閣をのたれ死にまで追い込もうとしている議会を見ていると、静粛どころではないし、日本とイギリスの国会議員の教養の差などは感じられない。それは別として、日本人が、相手の血液型を聞いて、それでおよその見当をつけ、何かがわかったような気になる。これがおかしなことだと思わないだろうか。
 血液型で、たとえば作家、画家のことがわかるくらいだったら、批評なんか成立しなくなる。
 日本民族の優秀性を問題にするのはいい。だが、その根拠として血液型が重要視されるような時代には・・・無意識にせよ、差別、劣等感がひそんでいる。

2006/11/21(Tue)  425
 
 あなたの血液型は何ですか。

 たいていの場合、私はニヤニヤして答えない。うっかり答えると、ああ、やっぱりそうですか、などといわれる。私は、そうした概括をあまり信用しない。たかが4種類の血液型で、かんたんに分類されていいのか。そんな相手に、私の気質、性格、はては行動までわかったようなしたり顔をされてたまるか。

 むろん、私にしても、民族性と血液型に関連が見られることを否定はしない。これまでにも、医学、心理学、人類学の分野で、研究がつづけられてきた。その成果を疑うわけではない。
 哲学者のディルタイは人格を三つにわけて・・・感覚的な人、英雄的な人、思索的な人として、これを血液型に対比すると、B型、O型、A型にあてはまるという。
 私はディルタイに関心がないので、ほう、そうですか、というだけである。

 O型の多い民族は、理知的、意志的で、かんたんに感情にながされないという。日本人とイギリス人を比較した場合、イギリス人のO型は、51.4%に対して、日本人は31.0%。
 B型は、日本人が21.2%だが、イギリス人はその半分にもみたない。
 AB型も、日本人においては、イギリス人の2倍以上。

 イギリスの国会が静粛なのに、日本の国会がさわがしいのは、国会議員の教養の差にあるのではなく、体質的な原因がある、という。

 ここまで読んだきみは首をかしげるかも知れない。(じつは、私はニヤニヤしているのである。)
                    (つづく)

2006/11/20(Mon)  424
 
 午後になって、南房総に大雨洪水警報が出た。台風が八丈島付近を北北西に進んでいる。このぶんでは、千葉も雨になるだろうと思っていたが、案の定、小雨が降りはじめた。 家にくすぶっていて、本を読んだり、へたな絵を描くのも気がきかない。とりあえず、どこでもいいから散歩してこよう。

 雨のなかを歩いた。タオルを肩に。
 つい先日、この界隈で古風な銭湯を見つけた。ゲタ箱にドタ靴を投げ込んで、ガラス戸を開けると、番台がある。金を払う。
 裸になって、お湯と水のカランを押して、からだを洗う。湯のあふれたタイルを踏みながら浴槽にむかう。入っているのは、ジジイがひとり。
 ジャグジイの熱い湯に首までつかって、のんびりした気分になる。銭湯に入るのは何年ぶりだろう。
 神祇釈教、恋、無常、みな入り込みの湯屋・・といった風情はない。午後の明るい光が天井からさしてくる。湯舟にゆつたりつかりながら、

    沈んで乳を隠す据え風呂

 そんな句を思い出した。据え風呂だから銭湯ではないのだが。こんな風俗ももう見られなくなっている。「武玉川」にある。

 帰りは雨がつよくなっていた。昔の江戸ッ子なら、近くの酒屋に立ち寄って升酒。へりにチビッと塩をのせてある。舌の先で塩をねぶって、冷や酒をクイッとやるところだが、コンビニで売っているピ−ナッツや、磯部巻きのおツマミで缶ビ−ルをあおる、などという図はいただけない。オケラ街道競輪帰りそっくりになる。

 雨に打たれながら歩く。ずぶ濡れに近い。からだから湯気が立っていた。

2006/11/19(Sun)  423
 
 ヤスナヤポリアナのトルストイの旧宅、そして墓に詣でたことがある。

 墓に寄ったあと、近くのレストランに案内された。
 ソヴィエト作家同盟の通訳、エレ−ナ・レジナさんが案内してくれた。いっしょだったのは、作家の高杉 一郎、畑山 博だった。
 ヤスナヤポリアナには、各地から観光客が集まるらしく、トルストイの人気がわかるのだが、このときも二十名ばかりの客が、それぞれのテ−ブルについて談笑していた。
 私たちは、朝、モスクワから車を飛ばしてきたので疲れていた。それに、トルストイの墓に詣でた感慨はそれぞれの胸にあったはずで、お互いに黙ってすわっていた。エレ−ナさんも、連日、私たちの相手をしていて、疲れていたと思う。
 けだるい眠りを誘うような晩夏の午後だった。


 ロシアのレストランに立ち寄って、注文したものがすぐに運ばれることは絶対になかった。早くて三十分、遅ければ小1時間は待たされる。コ−ヒ−一杯だろうと、その日の食事のメニュ−だろうと、そのくらいの時間は待たされるのだった。
 老齢の高杉 一郎は、腕を組んで居眠りをはじめた。エレ−ナも眼を閉じていた。畑山君も眠っていた。
 私は、見るともなく客たちを見ていた。
 隣りのテ−ブルに二、三人の先客がいた。ひとりは黒いコ−トを着ていた。

 不意に、フラッシュが光った。
 隣りのテ−ブルにいた男のひとりが、カメラを出して、私たちを撮ったのだった。エレ−ナも眼をあけた。
 時間にして、ほんの10秒くらいだったと思う。男たちは、コ−ヒ−を残してテ−ブルを離れた。まったく自然な動きで、そのまま出て行った。
そのとき、エレ−ナが私にむかって、低い声で、
 「いま、(彼らが)写真、撮りましたか」
 と、私に訊いた。
 エレ−ナが真剣な声で訊いていることに少し驚いた。
 「ええ、撮っていましたよ」

 それだけのことだった。しかし、私たちの知らないところで何かの動きがあるらしい、そういう気がした。
 ヤスナヤポリアナにきて、わざわざ日本の旅行者のスナップショットを撮るというのもおかしな話だった。私は写真に凝っていた時期があるので、相手はキャンデッド・フォトを撮りなれていることが感じられた。カメラマンとしてもプロ級に違いない。
 高杉 一郎も、畑山 博も、写真を撮られたことに気がつかなかったらしい。

 それだけのことだった。                             
エレ−ナ・レジナさんは、日本語の通訳としては一流で、作家同盟では日本の担当だった。日本の文学作品もいくつか翻訳していた。
 夫はKGBの大佐と聞いた。

2006/11/18(Sat)  422
 
 竹内 紀吉君の思い出を書いたが、そのなかで、語学の研修でフランスに行ったときの竹内君のことにふれた。
   →「竹内 紀吉君のこと」
 彼が日本に帰国するとなって、それまで会話らしい会話もかわさなかったポ−ランドのおばさまが、彼に別れのことばをかけてきたという。
 「お互いに異国で勉強している身で、まして当時のポ−ランドは共産圏に組み込まれていたから、フランスを去ってしまえばお互いに二度と会う機会はない。共産主義国家では旅行もきびしく制限されていたし、いくら語学の研修であっても交遊関係まで見張られていたはずで、その女性の孤独の深さが想像できるのだが、竹内君も少し涙ぐんで別れを告げたに違いない。」
 これを読んでくれた人からいわれた。
 「いくら、当時の共産主義国家でも、個人の、それも短期間の外国滞在まで、監視の眼を光らせるようなことはないでしょう」と。

 1970年、大阪万博があった。このとき、現代美術の展示があって、当時の前衛画家、彫刻家の作品がならべられた。このとき、チェッコスロヴァキアの芸術家、スタニスラウ・フィルコも参加した。フィルコは一ヵ月ばかり日本に滞在したのだが、東京の美術館、美術展を見たいという希望をもっていた。政府から支給される滞在費はわずかで、ホテル代もなかった。どういうわけか、知人の知人の紹介で、スタニスラウ/マリ−ア・フィルコ夫妻が私の自宅に逗留することになった。
 私はしがないもの書きで、大学で講義しながら通俗小説を書きとばして、その収入でちっぽけな劇団をひきいて芝居を演出していた。そんな生活をしていたが、外国の芸術家に寝室を提供するくらいの余裕はあった。
 フィルコはニュ−ヨ−クの個展で成功していたため、大阪万博にはチェッコスロヴァキア代表に選ばれたのだった。当時の私は、フィルコのことを何も知らなかったが、このときの交遊から、現代美術の世界や、画廊について知ることになった。

 私が驚いたのは・・・フィルコたちが、毎日、チェッコ大使館に当日の行動予定を通告したことだった。通告する義務があったらしい。その報告で、大使館員がそれとなくふたりの行き先に出むいて、誰に会ったか、どういう会話をかわしたか、監視するようだった。
 宿泊先の私のことも調べたらしい。
 ある日、私のところに帰ってきたフィルコは、少し表情が硬くなっていた。大使館の調査で、私がミステリ−を書いたり、ポルノも書くような「反動的な」作家と知ったらしい。そのようすから、私のことをいろいろ訊かれたらしい。

 数日後、フィルコ夫妻は帰国することになった。私は、横浜港まで送って行った。

 当時の共産主義国家は個人の旅行をきびしく制限していた。まして短期間であっても外国滞在となれば、当局が監視の眼を光らせないはずがない。

 竹内 紀吉君に別れのことばをかけてきたポ−ランドのおばさまも、おそらく大使館に報告していたはずで、私が「その女性の孤独の深さが想像できる」と書いたのは誤りではないだろう。

2006/11/17(Fri)  421
 
 カツギ屋と呼ばれるもの売りがくる。ほとんどはおばさんだった。
 それぞれの縄張りがきまっていたらしく、月に二、三度、野菜や、魚の干物などを売りにくるのだった。

 春になると、船橋からてんびん棒をかついで、ウナギを売りにくる老人がいた。痩せて、しなびていたが、肌が赤銅色だった。玄関ではなく、ずぃっと台所の横にきて、声をかける。
 原稿を書いている途中でも、私がウナギ屋の相手をした。この魚屋のもってくるサカナやウナギは、いつもおいしいものばかりだった。
 まるくて平たい桶から、ウナギをつかみ出す。背中の青墨いろ、腹の白い肌が、宙にくねったり、老人の手にまきついたりする。エラもとに指先をぐいっと当てて、大きなマナイタにのせる。ウナギがニョロニョロ動いても、老人が左の掌で撫でつけると、たちまちおとなしくなる。その手にはいつの間にか錐が握られて、つぎの瞬間、ウナギの頭につき刺さる。マナイタには、錐の跡がついていて、包丁の背でトントンと錐が打ち込まれる。
 ウナギのエラ下から腹、尾の先まで、スッと刃が動く。肝(きも)と内臓がくり出されると、返す切っ先で首をはね、カシラ付きの背骨が剥がされる。両開きになっても動いているのをさっくりと切り別けてゆく。
 ほんの数秒のことだった。

 この老人は、背丈が低く、痩せて、しなびていたが、頑丈なからだつきで、眼つきにするどい輝きがあって、いなせな感じがあった。それとなく、話をむけてみた。
 「若い頃は、ずいぶんさわがれたんでしょう?」
 老人は眼をあげて、にやりと笑った。
 「いろいろわるさをやってきやしたからね」
 ウナギをさばき終わって、老人が立ちあがった。
 「失礼でござんすが、旦那、ご商売は?」
 「翻訳をしているんだよ」
 「そうでしたか。・・いえね、いつも(家に)おいでになるんで、何をなさっているのかと不思議に存じておりやしたが・・何かお書きになってるんだろう、と思っていましたんで」
 私はアメリカの小説を訳しているといった。
 老人は遠くを見るような眼になった。
 「毎日、お勉強でござんすなあ。・・わちしも、若い時分、アメリカに行ってみようかと思ったことがありましたよ。そのうちに徴用にとられちまって。マニラからペナンあたりしか行ったことはありやせんが」
 「戦時中ですか」
 「何もできやしませんよ。敵さんの潜水艦がうようよしてやがって。こっちは、大砲も載せてなくてね。ウナギみてえにニョロニョロ逃げまわってただけで」

 四、五年ばかりきてくれたが、ある年から姿をみせなくなった。
 その老人が売りにきたウナギほどおいしいウナギは食べたことがない。

2006/11/16(Thu)  420
 
 私たちは、なぜ信仰をもつのか。
 とてもむずかしい問題で、私には答えられない。

 王 菲(フェイ・ウォン)がロサンジェルスで、キリスト教に改宗したらしいというニュ−ス(「華人週報」06.8.31)を知ったとき、不意に私の内面にこういう問いが浮かびあがってきたのは自然だと思う。
 フェイ・ウォンは世界的なポップ・ア−ティストだが、出産をひかえて芸能活動を休止していた。産後、夫の李 亜鵬、新生児(女の子)、前夫とのあいだに生まれた小竇竇といっしょにアメリカで生活しているが、その理由についてはここでふれる必要はない。
 ただ、人の子の親としての苦しみがかかわっていると想像していい。
 フェイ・ウォンは熱心な信者として毎日、教会で神に祈りをささげているという。

 それまで想像したこともないかたちで、人生の不条理に直面したとき、私たちはどうすればいいのか。
 王 菲は何かにすがりつくようにして神に祈ったのかも知れない。
 私はろくに信仰心もないもの書きだが、この王 菲を信じるひとり。

 王 菲がなぜ信仰をもったのか。
 むずかしい問題だが、私などが答えるべき性質のことではない。
 少し別な問題だが、作家、ギュンタ−・グラスが、少年時代、ナチス親衛隊に所属していたことを、最近になって告白した。これがドイツでは大きな話題になって、作家が現在まで経歴を隠していながら、ナチに対してはげしい断罪をつづけてきた不誠実を非難されている。忌まわしい過去を伏せてきた作家なのだから、ノ−ベル賞を返上すべきだとか、新作の自伝の刊行の直前だっただけに、誠実な告白者の顔の下に阿世の徒のみにくい顔を隠しているといった非難が渦巻いている。
 ギュンタ−・グラスの告白について、私などが意見を述べるべきではない。私はただ、作家が人生の最後にのぞんで告白したかったものと考える。この告白の重さを誰が非難できるのか。私はこのギュンタ−・グラスを信じる。
 判断停止と見るやつが出てくるだろうことは承知の上で、私はそう考える。

2006/11/15(Wed)  419
 
 フランソワ−ズ・ロゼェの「回想」に、ルイ・ジュヴェが出てくる。映画「女だけの都」(ジャック・フェデル監督/35年)に出たときのジュヴェについて、

 「さすがの私も結婚のシ−ンでは、彼にすっかり気押された。彼のしぐさはどれも堂に入っているばかりではなく、ラテン語まで話した。おまけに、ミサまでやってのけた。
 「どこで習ったの」
 「ぼくは宗教学校で教育を受けたし、聖歌隊員だったんですよ」
 ジュヴェの少年時代、フランスの中等教育ではギリシャ語、ラテン語がひろく教えられていた。これは、歴史、哲学をふくめた「文学」の研究、法律の研究にもっとも必要と考えられていた。
 同時に、自然科学関係のエリ−トの養成にあたった理工科大学(エコ−ル・ポリテクニック)や、高等工業専門学校(エコ−ル・サントラル)、さらには医科大学も、ギリシャ語、ラテン語の古典の教養が必須課目だった。
 古代史もまた、中等教育では重要とされて、7年間のうち2年間は勉強しなければならなかった。
 歴史/地理の学士号や、いわゆるバカロレアの資格の取得には、少なくともラテン語が読めること、そして古代史の質問に答えられることが条件とされていた。

 第二次大戦の「戦後」、フランスの教育改革で、ギリシャ語、ラテン語の必修は、完全に消えてしまった。
 それでも、古代史は、中等教員免許(アンセ−ニュマン・スゴンデ−ル)や大学教授資格試験(アグレガシォン)では必須のものとされていた。

 古典に関してジュヴェがたいへん造詣が深かったことは、『ルイ・ジュヴェ』に書いておいた。私は、これだけのことを調べてから書いたのだった。
       
   → 『ルイ・ジュヴェ』(第四部第二章)

2006/11/14(Tue)  418
 
 思考とは幻覚をともなう欲望の代用物にほかならない。

 おそろしいことばの一つ。代用物は、Erzsatzだから、代償と訳してもいいかも知れない。ジ−クムント・フロイト。

 私にもフロイトのいう意味はわかる。ただし、私は無学なので反論できない。フロイトがきらいなので、こんなことをいわれるとむかつくだけだ。

2006/11/13(Mon)  417
 
 TVで見た忘れられないシ−ン。

 いわゆるバブル経済が破綻して、日本の政治、経済が迷走していた時期。のちに「空白の十年」と呼ばれる。おなじ時期、ロシア経済はさらに危機的な状況にさらされていた。タイ経済は、禿鷹のような金融ファンドの餌食になって、国家経済までか危機に瀕していた。
 日本では無能な政治家がつぎつぎに首相になった。つぎつぎに短命内閣ができて、つぎつぎに倒れた。スタグフレ−ションの圧迫が私たちの生活をおびやかしていた。小泉内閣が登場してきたとき、日本の不況が世界に波及すれば、世界的な規模で経済危機が現実のものになりかねないとまで懸念されていた。
 当時、ある日本の経済ジャ−ナリストが、ション・ガルブレイスにインタ−ヴュ−している。日本の経済はどうして破綻したのか、と。
 残念なことに、ガルブレイスの答えを正確に引用することはできないのだが、1929年の大不況をひきあいに出してガルブレイスがいった言葉が忘れられない。
 「人間は忘れるものだ」。
 私は驚いた。ガルブレイスほどの人の意見としてはまことに平凡。さし迫った苦境に追い込まれている日本経済に対してこれでは何も語っていないにひとしい。ジャ−ナリストも苦笑した。
 そこで、インタ−ヴュア−は別の問題に移った。そのひとつひとつにガルブレイスは、きちんと答えたが、驚くべきことに、彼はおなじ「人間は忘れるものだ」、「人間は忘れるのだ」、「人間は忘れてしまう」という意味のフレ−ズを四回くり返した。

 これを見た私は、ガルブレイスの慨嘆はわかったが、日本経済の苦境の打開に関して積極的な提言をしていないと思ったのだった。もともと関心がないのだろう。失礼だが、もう老齢のガルブレイスには、苦境にのたうちまわっている日本などどうでもいいことなのかも知れない。そう思った。日本と違って、好況期に入っていたアメリカはグリ−ンスパンがみごとな判断を見せてアメリカを牽引していた。
 私は、このガルブレイスにひそかな軽蔑さえおぼえたが、それでも、「人間は忘れるものだ」という事はは私の心に残った。

 今の私は、当時のガルブレイスの慨嘆は正しかったと思う。彼の言葉には、長い人生を生きてきた人の叡知が秘められていたのだ。私はそれに気がつかなかった。そのインタ−ヴュ−で彼が語った日本の経済再建の見通しは、ほぼ正確に的中している。しかし、短時間のインタ−ヴュ−で、彼としては、たいしたことは答えられないと判断したに違いない。だからこそ、人間として忘れてはならないことがある、ということだけはいいたかったのだと推察する。
 一度ではなく、二度三度、さらに自分にいい聞かせるように、おなじ言葉をくり返したとき、ガルブレイスの表情になぜか苦渋の色が見えた。

2006/11/12(Sun)  416
 
 はら たいら(漫画家)が亡くなった。(06.11.10)

 あるとき、私がキャスタ−だったテレビで、マンガの特集を企画したことがある。このとき、「少年ジャンプ」の編集者だった桜木 三郎に相談した。
 私がこんな企画を立てた理由は、ここには書かない。当時はまだマンガに対する評価が不当に低かった時代で、私はそうした流れを変えたかった。
 桜木 三郎は、私のために奔走してくれて、松本 霊士といっしょにはら たいらが出てくれた。ほかにも出てほしかった漫画家はいたのだが、ことわられた。 みなさん、多忙だったせいだが、私の司会というので敬遠したようだった。
 このト−クはおもしろかった。ビデオ録画が残っていないのが残念だが、松本 霊士は『戦艦ヤマト』を連載中だったし、はら たいらはTBSの「クイズダ−ビ−」に出て人気があった。
 終わったあと、おふたり、桜木 三郎と酒を飲みながら雑談したのだが、このときの雰囲気は楽しいものだった。私は、見ず知らずの私の番組に出てくれたおふたりに感謝していた。
 はら たいらの作品に「モンロ−ちゃん」がある。モンロ−ちゃんは可愛い女で、いつもかろやかなお色気をふりまいていた。こういうエロティシズムは、はら たいらのおだやかな語りくちに、とてもいい香(フレイヴァ−)を添えていた、と思う。
 マンガというむずかしいキャリア−を選んで成功した彼は、とてもいいエッセイを書きつづけていた。

 桜木 三郎を思い出す。自然な連想で、いつも、はら たいらのことを思い出す。

2006/11/11(Sat)  415
 
 マリ−・ルイ−ゼ・カシュニッツというドイツの女流作家について何も知らない。旧プロシャの貴族出身。夫はウィ−ン出身の考古学者、美術史家。
 戦後に作家として登場し、ゲオルグ・ビュヒナ−賞など多数の文学賞を受けた。
 『死の舞踏』という戯曲があるという。戦時中に書かれて、1946年に初演。ドラマとしての盛り上がりと緊迫感に欠け、テ−マもはっきりせず、退屈な芝居だったという。 だが、ほんとうに失敗作だったのか。戦後のドイツ演劇の傾向にあわなかったために、失敗作と見られたのではないかと思う。
 なにしろブレヒト、ツックマイヤ−程度の劇作家がドイツ最高の劇作家でまかり通っていた「戦後」、オット−・フリッツ・ガイラルト、マキシム・ガレンティン、オット−・ラングなどが最高の演出家だった時代に、カシュニッツのような、精緻、繊細な作家の芝居が注目されるはずがない。

 なぜ戯曲を書いたのか、そのあたりは想像がつく。芝居が成功して、舞台に並んだ役者たちにソデからひっぱり出されて、万雷の拍手に迎えられ、ぎごちなく頭をさげる。そういう夢が、別の短編で語られているから。だが、舞台の夢は果たせなかったにせよ、放送劇の分野で成功した。
 カシュニッツには、15編のラジオ・ドラマがあるという。彼女の短編を読んでから、こうしたラジオ・ドラマをふくめて、ほかの作品を読みたいと思う。

 人間の悲劇を見つめ続けた作家。だが、それを前面に打ち出すのではなく、いつも非在や、あやかしに眼を向けながら、みごとな密度で短編が成立している。

 カシュニッツは、1974年、ロ−マで亡くなっている。

 私にとっては忘れられない作家になった。

2006/11/10(Fri)  414
 
 夏から秋、マリ−・ルイ−ゼ・カシュニッツの短編をいくつか読んだ。

 ロンドンのオ−ルドヴィックで『リチャ−ド二世』を見たときのこと。結婚して6年目の夫婦が劇場に行く。妻はたちまち芝居に惹きこまれるのだが、夫は舞台にまったく関心がなく、聞こえてくる台詞にも上の空で、前列の席にいる若い女に眼をうばわれている。妻は、夫が美しい女性やわかい娘を眺めるのが好きで、自分からいそいそと彼女たちに近づいて行くことを知っているので、べつに嫉妬は感じない。
 幕間に、席を立った夫妻の前を、その若い娘と、透きとおるような蒼白な顔をしたつれの若い男がとおり過ぎてゆく。娘の手からレ−スのハンカチ−フが落ちて・・

 これ以上、作品を紹介するわけにはいかない。まるで十九世紀のロマンスめいて、古風なイントロダクションに見える。だが、私はこの短編『幽霊』のみごとさに驚嘆した。これまで読んだ短編のなかで、ベスト20に入れてもいいほどに思った。

 怪奇/幻想をモチ−フにした小説に関心をもってきた。理由のひとつは・・・ホラ−小説というジャンルは、小説ほんらいの想像的な形象をもっていると信じたからだった。しかし、マリ−・ルイ−ゼ・カシュニッツの短編はホラ−小説ではない。
 生きて在ることに、ふとやってくる何か説明のつかない怖れ。ふだんはまるで気がつかないが、おのれの内部にひそんでいて、何かのことがきっかけで、いきなり姿をあらわす不安。それがカシュニッツの短編に見られる。
 彼女もまた若くして地獄を見てしまった作家ではなかったか。私が関心をもつのは、そのあたりのことなのだ。
 ただし、全部がみごとな短編というわけではない。『白熊』などは、あまりに頭脳明晰な作家にありがちな計算違いが見られて、この作家の弱点が見える。

 アナイス・ニン、ア−シュラ・ヒ−ジ、シャンヌ・ロランスなどに惹かれるのも、そのあたりのことがあるのではないだろうか。

 (ただし、原題“Gespenster”を『幽霊』と訳すべきだろうか。)
                               (つづく)

2006/11/09(Thu)  413
 
 ニュ−・ジャ−ジ−州の裁判所が・・・男と男、女と女の婚姻を合法的なものと認める決定をくだした。(06.10.25)同性愛のカップルにとっては朗報だろう。   
 私は『ルイ・ジュヴェ』のなかで書いのだった。 

   現在の私たちは同性愛に対して、さして反感をもたない。ただし、ジッドが     『コリドン』の注に書いたように・・・《はじめのうちは知らないふりをして     いたこと、あるいは、知らないほうがよいと考えていたことを、以前ほどおそ     れをなさず、冷静に見るようになってきた》だけのことだろう。

 こう書いたとき、私なりに感慨があった。
 戦後すぐに、内村 直也先生が指導した「フイガロ」という、劇作を中心にした若手のグル−プの人たちと親しくなった。後年、〈青年座〉の劇作家になった西島 大、作家として女流文学賞をうけた若城 希伊子たちがこのグル−プにいたのだが、リ−ダ−格のひとり、鈴木 八郎がホモセクシュアルだった。
 鈴木 八郎はたいした作品も残さなかったが、私よりひとまわり以上も年上で、その頃の演劇界ではけっこう名の通った存在だった。ホモセクシュアルだったことを隠さなかったせいもある。

 彼の話は驚くべきものだった。鈴木 八郎は陸軍に配属されてアリュ−シャンに派遣された経験があった。アッツの日本軍が「玉砕」したため、「キスカ」から撤退した部隊にいたらしい。その体験も驚くべきものだったが、戦時中の軍隊内で、ホモセクシュアルであることで受けた侮辱や、冷遇、苦しみや、上官のいじめ、おなじ内務班の兵たちによるきわめて反社会的ないじめ、制裁のきびしさもつぶさに教えられた。
 ただし、鈴木 八郎は、まったく深刻な顔をせず、まるで浅草の軽演劇や、ドサまわりの芝居の話でもするようで、こういう話をきいて私たちはゲラゲラ笑いころげた。

 それまで同性愛についてまったく知らなかった私は、鈴木 八郎と親しくなってから、はじめて同性愛について性科学的に考えるようになった。
 それだけではなく、同性愛に対する社会的な偏見や差別が牢固として存在することを知ったのだが、現実にも、犯罪、とくに同性愛にからむ殺人事件が多いことを知った。

 私は日本でも男と男、女と女の婚姻を合法的なものと認めるべきだと考える。
 ただし「美しい日本」では、まだまだ同性愛の人々が、ホモセクシュアルであることを秘匿して生きなければならない。私たちのいじめや差別がなくなるとも思えない。

2006/11/08(Wed)  412
 
 安倍 晋三さんが首相に就任したとき、「美しい日本」というスロ−ガンを強調した。 笑ったね、こいつはいいや。安倍 晋三さんは川端 康成さんを読んだらしい。

 日本はみにくいから美しくしようというのか、それなら日本の美しさとは何なのか、と考えた。同時に、美しい日本がある、日本の美しさなどというものはない、と思わずパロディ−レンしたくなったが。

 こういうことばを聞くと、日本という国がまるで無価値な見本みたいな気がしてくる。美しいスロ−ガンに対して、いつもはげしい拒否反応をもつひとりなのだ。私は。

 われわれを「美しい日本」と見るかどうかは、他国のまなざしによる。どういう女でも、どこかしら自分を美しいと思っているだろう。世間では、みんな好き勝手に、あいつはいい女だとか、ブスと呼んでいるだけのことだ。いい女なのに性格ブスというノもいるし、本人たちは美人と思っているらしいが、ちっともそそられない女もいる。

 「美しい日本」といういいかたには、なぜか途方もないうぬぼれが見える。

 存在しないものほど美しいものはない。

2006/11/07(Tue)  411
 
 「ワールド・トレード・センター」、「16ブロック」、「スネーク・フライト」。
 どれも見たいと思わない。「カポーテイ」は見るつもり。
 ろくに見たい映画もないときは、少し古い映画、それも公開当時、評判にならなかった映画を見直すことにしている。今見てもけっこうおもしろいものもある。

 たとえば、「シリアル・ラヴァー」(ジェームズ・ユット監督/98年)。ミッシェル・ラロックという女優さんを見るつもりで見直した。
 35歳になった「クレール」(ミッシェル・ラロック)は、誕生日の夜、自分に関心をよせている3人の男をディナーに招待する。この夜、彼女は結婚の相手を選ぶ決心をしていた。3人そろって彼女に求婚するのだが、彼女にはきめられない。そこで、3人の話あいできめさせようとするのだが、偶然というか必然というかその1人を、「クレール」が、殺害(?)してしまう。おまけに、彼女のアパルトマンでは、折りしも強盗事件が発生して、その捜査に警視庁の刑事がやってくる。
 「クレール」は死体を隠さなければならないのだが、ほかの男たちがつぎつぎに死んでしまうから話がややこしくなる。おまけに、彼女の誕生日のお祝いに、妹が仲間の、わけのわからない連中をひきつれて乗り込んできてから、ますます事態は紛糾してしまう。
 まるっきりフランスのおバカ映画。ハチャメチャ・ミステリー・コメデイ・スプラッターとしては「毒薬と老嬢」などの系列に属する。
 おなじハチャメチャ・ミステリー・コメデイでも、「オースチン・パワーズ」のような下司な作品ではないので、私としてはけっこう気に入っている。

 この秋、ニコラス・ケージや、ブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクスンなんかの映画を見るより、「エリー・パーカー」のナオミ・ワッツ、「サラバンド」のリヴ・ウルマン、「チャーミング・ガール」のキム・ジスを見たほうがよほど勉強になる。

 そして、少し昔の映画、公開当時、評判にならなかった映画を見直すのは、自分の映画感覚、ひいては批評意識を問い直すことになる。

2006/11/06(Mon)  410
 
 眠る前になにかしら読む。これは、長年の生活習慣になっている。活字中毒だろう。
 むずかしい本を読むと、眼がうろうろして何度もおなじ行をたどったりする。すぐに眼を閉じる。

 眠る前に、うっかり翻訳ものを読む。私には危険なことなのだ。おもしろければおもしろいで心停止は間違いない。つまり、いのちにかかわる。
 そういうときは、すぐに本をほうり出して、眠ることにする。だからよく眠れる。
              
 寝る前に俳句を読むのもいい。できれば昔の女性の俳句を。

   傾城のすてし扇や 閨のそとなみ

 こういうのを読むと、いろいろ想像が働いて楽しい。作者がどういう女性なのか、まるで知らないのだが、なみさんの句には、

   押し入れや ふとんの下に秋の蚊帳
   菖蒲刈る水のにごりや ほととぎす

 もう、どこにも見られない風景。
 千代といえば加賀の千代女だろう。読んでみよう。

   縫い物に針のこぼるるウズラか
   売られても秋を忘れぬウズラかな
   虫の音や 野におさまりて庭のうち

 この千代さんは有名な女流だが、すぐに眠くなるからいい。

   セミ鳴くや 我が怠りを思うとききせ
   セミ鳴くや あぶら流るる 呪いクギ 花讃

 こわい。これ以上読むと危険。この花讃という女性の句に、

   ムクドリや 夜も白川の関の上

 こういう句を読むと、すぐに白河夜船。おっと、いけねえ。こんなことばも、もう誰も知らないよなあ。

2006/11/05(Sun)  409
 
 今日は私の誕生日である。

 別に感想も思いうかばないのだが、正直のところ、自分ではこれほど長生きするとは思っていなかった。
 誕生日だからといって誰も祝ってくれるわけではない。自分で自分を祝うつもりもない。ただ、今日の一日、無事に過ごせればそれだけでありがたい。

 当然ながら、記憶がわるくなった。
 外国語を読むのが億劫になっている。どうかすると、よく知っている単語がわからなくなる。しばらく思い出そうとしているうちに、あ、そうだったっけ、なんてこった、などとつぶやく。
 どうしても思い出せない場合は辞書を引く。なあんだ、こういう意味だったのに。しっかり記憶していたはずのことばを忘れている自分にあきれる。腹立たしい。
 
 老いてくるとどうして記憶がわるくなるのか。あるいは、新しい記憶が身につかず、かえって昔のことばかり、よく思い出すのか。
 蒔絵の箱が古くなる。塗りがはげてしまって、下塗りが見えてくるようなものだ。その下塗りも、しっかりしたウルシでも使ってあればまだしも、いい加減な材料をいい加減に塗っただけだったら目もあてられない。
 
 ときどきテレビで、昔見た映画をやっている。内容もおぼろげなので、新作映画を見るようなものだ。内容にあらためて感心することはないにしても、その映画を見た頃の自分を思い出したり、その映画に出ていた俳優、女優たちがそれぞれたどった運命を見届けているだけに、いたましい思いにかられることがある。

 ひそかな楽しみがないわけではない。
 なつかしさという感じではない。もっと別の思いなのだが、自分の感性が少しはみずみずしかった(はずの)頃の記憶が不意にまざまざとよみがえってくる。

 私の人生にあらわれた「花」を見ることと変わらない。

2006/11/04(Sat)  408
 
 日本の音楽環境に登場したシュ−・ピンセイ、ダイヤオたちが、あれほどすばらしい才能を発揮しながら、ついに成功しなかった理由はいろいろあるだろう。日本語のむずかしさもある。だが、根本的に、たいして才能もない人たちがブロデュ−スしたり、舌ったるい作詞ばかり歌わせたことも、成功しなかった大きな要因だったと思う。
 なにしろ、艾 敬(アイジン)に、70年代のつまらない日本ポップスをカバ−させるというセンスのない連中が、プロデュ−スしていたのだから。
 日本語を使っても、台湾の林葉 亭の「SUBWAY」の「吹泡泡等尓」(玉置 浩二のカバ−)、曲で使われる「サヨナラ」というフレ−ズは少しも気にならなかった。おなじ1993年に出た香港の鄭 秀文の『快楽迷宮』、最初の曲が「Chotto等等」で、日本語の「ちょっと待って」というフレ−ズがくり返される。
 Chotto mate yo
 愛心尓不必一次盡傾
 というフレ−ズがひどく耳ざわりだったことをおぼえている。

 王 菲の「Separate Ways」が、アジア人による日本のポップスとしての最後の輝きだったと思う。
 その後、「女子十二楽坊」が登場してきたが、あくまで美しい中国姑娘たちのみごとな中国楽器の演奏が成功したのであって、あえていえば、楊貴妃べにに蛾眉ひたいの美少女たちに、観衆がうっとりしただけのことだったろう。演奏された曲のほとんどはつまらないものばかりだった。

 あれから十数年、日本のアジア・ポップスへの関心は消えた。香港返還を境に、誰もアジア・ポップスを聞かなくなった。
 日本からアジア・ポップスが去ったのではない。アジアから日本ポップスが去ったのである。

2006/11/03(Fri)  407
 
 テレサ・テン、アグネス・チャン、欧陽 菲菲たちが日本で成功してから、日本デヴュ−をめざしたシンガ−が出てくるのは当然だった。
 香港返還の一年前に作られた映画「ラヴソング」(ピ−タ−・チャン監督/1996年)では、テレサ・テンの曲(平尾 昌晃ほか)が象徴的に使われていた。これだけでも、80年代のテレサ・テンの存在の大きさがわかる。

 当時、日本ではアジア・ポップスに関心が集まって、周 慧敏(ヴィヴィアン・チョウ)が吉田 栄作とデュエットしたり、關 淑怡(シャ−リ−・クァン)が日本からデヴュ−したほどだった。たとえば、区 麗情などが、日本でデヴュ−していた。
 ある時代に、すぐれた芸術家がぞくぞくとあらわれるように、大陸、香港、台湾、さらには東南アジアに、すぐれたシンガ−がぞくぞくと登場してきた。当然ながら、日本ポップスを意識したシンガ−も輩出する。
 頼 冰霞は作曲者の名を「佚名」としたり、別の中国人の作曲に見せかけながら、日本演歌のそっくりさんだった。台湾の林 美莉も、日本の演歌の絶大な影響を受けていたし、林 晏如は日本のポップスの影響が大きかった。

 1993年、「チャイニ−ズ・ゴ−スト・スト−リ−」で日本でも人気の高いショイ・ウォンが全曲、日本語のアルバム「アンジェラス」を出した。これも期待したほどのものではなかった。1995年には、林 憶蓮(サンディ・ラム)が「オ−プン・アップ」で、5曲、日本語による曲を歌った。しかし、EPOの一曲以外は、日本語の歌詞が弱く、ほとんど成功していない。サンディ・ラム自身も、これ以後、しばらく方向を見失っている。

 こうして、日本で活動するシンガ−もあらわれる。
 「Suna no fune」(砂の船)で登場したス−レイ。「Love Songs」で登場したシュ−・ピンセイ(周 氷倩)。「夢・ 物語」のダイヤオ。
 ス−レイは表題曲がよくなかった。これに較べて、シュ−・ピンセイは二胡の演奏も聞かせたし、日本の新人よりもずっと歌唱力もあった。しかし、成功しなかった。
 ダイヤオはホリプロが開催したオ−ディションでグランプリを得て登場しただけに、中国でも成功したが、日本語による曲は、「夢先案内人」、「星月夜」といった質の低いものばかりで、彼女の日本デヴュ−は成功しなかった。
                             (つづく)

2006/11/02(Thu)  406
 
 私はだいたい熟睡する。睡眠薬のかわりになにかしら読んで寝るから。
 最近は、『朝鮮童謡集』(金 素雲訳)を愛読している。
 メロディ−を知らないので残念だが、韓流ドラマや映画を見るようになって、こんな童謡を読んでも、ずっとよくわかるような気がする。金 素雲の序文を読むと、戦前の日本に母国の童謡を紹介しようとしたこの詩人の内面の声が聞こえてくるような気がする。
 韓国ドラマ「チュオクの剣」を見て、捕盗庁(ポドチョン)という警察の活動を知ったが、こんな童謡がある。渡り鳥が空を飛んで行く。雁を見上げて、

     前(さき)のが 盗人(ぬすっと)
     後(あと)のが 捕盗使令(ポドサリョン)

 咸鏡南道の童謡。おなじ渡り鳥を見て、

     前(さき)のが 大将
     後(あと)のが 盗人(ぬすっと)
     中のが 蜜壺。

 これは京畿の童謡。おもしろい。

     とんび(鳶)は 眼が敏(さと)い
     捕盗使令(ポドサリョン)は どうじゃいな

     ツバメは 衣裳がよい
     平壌妓生(キセング)は どうじゃいな

     カラスは 黒装束
     都監砲手(トガムポス)は どうじゃいな

 都監砲手は猟師のことらしい。
 女の子たちが遊んでいる。あとから仲間に入れてほしい子が歌う。

     黒ゴマ 白ゴマ 遊んでる
     荏(え)ゴマも一緒に 入れとくれ

 金 素雲はいう。「なるほど、胡麻の中に胡麻が混ったからとて何の不思議はないね。君たちの巧まぬ知恵にかかっては閻魔さまだってかぶとを脱ぐよ」と。
 こう書いたときの詩人の胸に何があったか。

 童謡を三つ四つ読む。いろいろなことを想像する。そのうちに眠ってしまう。

2006/11/01(Wed)  405
 
 小学生の頃、ナンセンスなことば遊びがはやった。おおかたは忘れているのだが、こういう「ことば」である。
 「ぺ−チャ・ジンジン・・・・・・・ナンバン、カラクテクエネ」

 朝、学校に行くと、まるで挨拶のように誰かれなしに、「ぺ−チャ・ジンジン」と声をかける。かけられた相手は当意即妙にいい返さなければならないのだが、即興で答えるので、この部分は忘れている。すかさず、相手が「ナンバン、カラクテクエネ」と答える。どうってことのない、つまらないことば遊びだが、小学生には楽しいやりとりだったらしく、しばらく流行した。

 「ナンバン、カラクテクエネ」。唐がらしは辛くて食えない。

 関西ではトウガラシのことを南蛮(なんばん)という。この(ナンバン)だけが、どうして東北に残ったのだろうか。
 南瓜は、インドシナから伝来したところからカボチャと呼ばれているらしいが、九州あたりではボ−ブラという。私の育った下町では、ト−ナスといっていた。唐茄子である。悪口をたたくとき、「あの唐変木(とうへんぼく)め」というのとおなじで、「あの野郎、ト−ナスカボチャのくせしやがって!」と、ごていねいに二重かさねの悪口になった。
 太宰 治が河口湖に滞在して『富嶽百景』を書いていたとき、宿の女将がホ−トウ料理を出した。ホ−トウは武田信玄の戦陣食として知られている。太宰 治はこれを「放蕩」と聞き違えて不機嫌になったという。

 唐木 順三のものを読んで、「なんでえ、この唐変木(とうへんぼく)め」と悪態をつく。中村 光夫の『明治文学史』には「ケッ、ト−ナスカボチャのくせしやがって!」と悪口をたたく。別に悪意をこめるわけではないが、けっこう楽しい。

 小学生のたあいもないことば遊びを、老いぼれ作家がふと口にする。記憶中枢に刻まれた「ことば」は不思議な働きをするものだ。

2006/10/31(Tue)  404
 
 久隅 守景(くすみ もりかげ)という画家。
 江戸前期。狩野 探幽の門下。のちに狩野派を離れ、加賀に赴き、当時の農村の風物、農民の生活を描いた。「夕顔棚納涼図」は国宝という。
 不精ひげの男と、上半身はだかで涼んでいる若い嫁さん、赤んぼうに近い男の子。
 見ているだけでいろいろと想像が生まれてくる。
 守景の晩年の作、「人見四郎出陣」。どういう武将か知らない。鎧に身を固めているが、討ち死にを覚悟しているにちがいない。そのひげづらの決意に、どこかかなしみが見られる。その賛に、

    花咲かぬさくらの老木朽ちぬとも その名は苔の下に隠れじ

 きっと辞世の一首だろう。
 あまりうまい歌ではない。しかし、これを描いた画家の心境をうかがうことができる。
 こういう思いは、いまの日本人にはわからなくなっているのだが。

2006/10/30(Mon)  403
 
 戦争が終わって、9月上旬、占領軍が上陸してきた。
 有楽町ではじめてアメリカ兵を見たが、兵士たちにまつわりつく若い女の子を二、三人見た。戦争が終わったばかりで、もんぺ姿だったり、やぼったいセ−タ−、スカ−トを着た女たちだった。敗戦直後の解放的だが、みじめな、屈辱的な風景のひとつ。
 彼女たちは、その後すぐにパンパンとよばれるようになった。
 パンパンガ−ルはあくまで金をかせぐために男と寝る街娼のこと。これと違って、もともとズベ公で、気に入った男にだけ、からだをまかせて、毎日、おもしろおかしく遊び暮らしている女がパンスケだった。自分でもスケちゃんと称していた。好きになった男がアメリカ兵だった場合は、オンリ−で、ほかの女たちより高級な存在のように思っていたらしい。おKちゃんもそのひとりだった。

 戦時中は軍需工場の優秀な女子工員だったが、戦後、家業がまったくふるわなくなって、10月にはパンスケに転向して、その年(1945年)の暮れにオンリ−さんになった。私より五、六歳、年上の女性だったが、その変身ぶりに驚かされた。
 こうした女たちは日本じゅうどこにでも発生して、パンパンガ−ルと呼ばれることになる。

 パンパンガ−ルは街娼だが、それまでの娼婦とは違った考えをもっていた。おKちゃんはいう。いやな戦争が終わった。戦争のおかげで、私なんかさんざん苦労してきた。戦争責任なんか私たちにはない。せっかく自由になったのだから、これからは世間をおもしろおかしく生きて行くほうがいい。敗戦の混乱のなかで、まともな仕事があるわけではない。だから、自分の気に入った男にからだをまかせて、お小遣いをもらう。だから、金をもらうためにからだを売るのとは違う。

 パンパンガ−ルにせよ、パンスケにせよ、共通していたのは、戦前からつづいていた公娼に対する反感なり侮蔑だった。なぜなら、特定の家(娼家)に囲われ、与えられた食事を黙って食べ、衣装を借りて、男たちを迎える女たちこそ、まぎれもないパンパンで、しかも前借でしばられたまま男たちに身をまかせるのだから、最下等な淫売ということになる。

 逆に、戦後ようやく復興した吉原の女たちの論理はまったく違うものだった。
 彼女たちは、ノライヌのように街から街をうろついて男の誘いを待ちかまえるみじめな女たちと違って、それなりにきちんとした居住空間をもっていて、独立した暮らしをしている。この社会に落ちたのは境遇のせいで、春をひさぐのは生活の方便であって、いつかはまともな暮らしに戻ろうと思っている。だから、パンパンガ−ルやパンスケなどは女のクズなのだ。
 こうした考えかたは、たとえば吉原は日本のシマ、日本人のシマなのだという、いわば誇りがささえていた。そのうしろには、「降るアメリカに袖は濡らさじ」という考えが生きていた。
 戦後の吉原の女でパンパンになった女はいたが、パンパンから吉原の女になった女はほとんどいない、といわれている。

 フェミニストたちは性差別を考える。私は、差別のなかの差別を考える。

2006/10/29(Sun)  402
 
 作家がおかしなことを書いていても、私は別に気にしない。ただ、こんなことは書かないほうがいいのに、と思うだけである。
 保高 徳蔵の最後の作品に、戦時中にグレアム・グリ−ンの『第三の男』を読んだと書いていた。
 この作家は明治22年生まれ。英文科の出身。むろん、戦時中にグレアム・グリ−ンを読んだ可能性がないとはいえない。
 植草 甚一(明治44年生)は、戦時中にグレアム・グリ−ンを読んでいたという。このことは、直接、植草さんから話を聞いた。読んだのは上海の海賊版だったという。当時、グレアム・グリ−ンの名前を知っていたのは、おそらく植草 甚一ぐらいのもので、それも「スペクテ−タ−」の映画批評あたりから関心をもったと思われる。植草 甚一を通じて、双葉 十三郎、飯島 正なども読んだはずである。
 私が植草 甚一の名を知ったのは、昭和19年だった。当時、「ポ−ル・ヴァレリ−全集」(筑摩書房)の月報の片隅に、編集部がヴァレリ−の『ヴァリア』を探している旨の告示が出ていた。そのつぎの月報に、世田谷在住の植草 甚一氏から『ヴァリア』を所持しているという知らせがあったという短い報告が出ていた。
 ヴァレリ−に関心をもっていた私は、戦時中に、そんな貴重な本をもっている植草 甚一という人物の名がはっきり心に刻みつけられた。
 はるか後年、私は植草 甚一と知りあう幸運をもった。ここには書かないが、戦時中にどういう経緯でグレアム・グリ−ンを入手したか聞いて驚かされた。

 植草 甚一の話から・・・戦後まもなく私がヘミングウェイの『持つことと持たざること』をはじめて読んだのも、じつは上海の海賊版だったことを思い出す。

 保高 徳蔵が、戦時中に、グレアム・グリ−ンを読んだとしても『第三の男』を読むはずがない。なぜなら、この作品は戦後に書かれたもので、それもキャロル・リ−ドが映画化するまで誰も知らなかったはずだから。
 小説家は何を書いてもいい。しかし、こういう誤りは書かないほうがいい。

2006/10/28(Sat)  401
 
 1943年(昭和18年)10月21日、私は明治神宮外苑競技場にいた。現在の国立競技場である。この日、降りしきる雨のなかで、出陣学徒壮行会が開催された。
 私は中学生だったが、全校生徒がこの競技場に参加させられた。数万の大学生、高校生、中学生がスタンドを埋めつくした。
 4月に、連合艦隊司令長官、山本五十六が戦死して、戦局がただならぬ状況に立ち至っていることは中学生にも想像がついた。それまで、学生は徴兵猶予という措置で、戦争にかかわりなく勉学にいそしんでいられたが、これが撤廃されて、在学中の学生も招集されることになったのだった。
 東大を先頭に各大学の学生たちが担え銃でつぎつぎに大行進をつづけていた。私は、観客席のなかで息づまるような思いで大行進を見ていただけだったが、見送っている学生たちから昂奮しきった大歓声がわきあがった。私も声をからして叫んでいたひとりだった。

 首相だった東条 英樹が激励の演説をしたが、私のすわっている席からは豆粒のように見えただけだった。国家未曾有の非常時にあたって学生諸君は粉骨砕身、米英撃滅に邁進せられんことを、といった内容の演説だったと思う。しかし、群衆は熱狂していた。観客席にいた学生たちの激烈な歓声が神宮競技場を揺るがした。
 このとき中学生の胸に何があったか、今になってもあざやかに思い出すことができる。

2006/10/27(Fri)  400
 
 夏目 漱石は、大学をやめて「朝日新聞」に移り、本格的に作家活動に入るのだが、このとき、ある人にあてて手紙を書いた。

   小生の文章を二三行でも読んでくれる人があれば有難く思ひます。面白いと云ふ人があれば嬉しいと思ひます。敬服する抔といふ人がもしあれば非常な愉快を覚えます。

 私も、この「コ−ジー・ト−ク」を一つでも読んでくれる人がいればありがたいと思っている。おもしろいという人があればうれしいと思う。
 敬服するなどという人はいるはずがない。軽蔑するという人がいれば、「非常な愉快を」おぼえるかも知れない。私にはマゾヒスティックなところはないが、そうした軽蔑にはかならず羨望がひそんでいるからだ。

 私は漱石先生の足もとにもおよばない、しがないもの書きだが、こんなものを書きつづけていると、自分の考えの動きが見えてきてけっこう楽しい。

 きみが読んでくれるだけで、ありがたいと思っている。

2006/10/26(Thu)  399
 
 ある女性からハガキをもらった。このコ−ジ−ト−クを読んでくれたらしい。

 「はじめてサイトを開いたときの感動、おどろくほどでした。変化成長するものの中で、「変らないもの」の大切さも感じさせていただいています」

 誰かが読んでくれている。これはうれしい。ただし、モ−ムふうにいえば・・・私のようなもの書きは、もはや変化したり成長できるはずがない。
 しかし、さまざまに変化し成長するものの中で、私は「変らないもの」だけを語っているわけではない。それでは、まさしく時代からとり残された化石か石器、まるで違った種に属する動物ではありませんか。

 鳥は空を飛ぶ。サカナは水を泳ぐ。お互いにおなじものを見るわけではない。お互いに出会うこともないし、お互いに相手を知らないままに生きるしかない。

 私は、トンボのように空を飛びたいし、カエルのように水を泳ぎたい。できれば、ヤシガニのようにときどき木に登って身を休めたり、チ−タのようにしなやかに砂漠を走りたい。

 獲物を追って。

2006/10/25(Wed)  398
 
 『ルイ・ジュヴェ』の第六部を書きながら聞いていたのは、オランダのエディタ・ゴルニァクだった。すぐれたア−ティストだが、シャキ−ラのように有名にはならなかった。
 『ルイ・ジュヴェ』を書きあげてから、旧ソヴィエトのリュ−バ・カザルノフスカヤを「発見」して、彼女のCDを探しまわった。ソヴィエトでは、彼女のCDはこの1枚しか出ていなかった。(現在は、それ以後のものも入手できる。)ソヴィエトが崩壊してから来日した彼女の『サロメ』を聞きに行ったことも忘れられない。

2006/10/24(Tue)  397
 
 自分の好きな女優を勝手に「発見」すること。私の場合、ほかのジャンルでもおなじことで、香港ポップスでも、王 菲(フェイ・ウォン)がシャ−リ−・ウォンとして登場した1992年にCDを聞いた。このときからファンになった。やがて、王 菲(フェイ・ウォン)から逆に、梅 艶芳、黄 鶯鶯、テレサ・テン、さらに戦前の白 光、チヤウ・シャンとたどることになった。誰もふれないが、ア−ティストとしての李 香蘭は三十年代の中国ポップスを代表している。

 『ルイ・ジュヴェ』の第五部を書いていた時期、ジュヴェが劇団をひきいてラテン・アメリカを巡業した頃のことを書くために、ラテン音楽ばかり聞いていた。当時、シャキ−ラが登場してきたので、毎日「エストイア・キ」を聞いていた。あとになって鈴木 彩織がシャキ−ラのおなじアルバムを贈ってくれた。私がラテン音楽を聞いていることは誰も知らないはずだったので、偶然にせよ、彼女がシャキ−ラを贈ってくれたことにちょっと驚いたことを思い出す。

 シャキ−ラはその後、世界的にブレイクする。

 先日のサッカ−のw杯、フランスvsイタリアの優勝決定戦の開幕で、シャキ−ラが歌っていた。(このとき、プラシド・ドミンゴが『トゥ−ランドット』のアリアを歌っていた。)シャキ−ラの人気のほどがわかる。

 しかし、いまの私はシャキ−ラに関心がない。

 *注)鈴木 彩織は『ハリ−・ポッタ−ともうひとりの魔法使い』(メディア・ファクトリ−刊)などで知られている翻訳家。

2006/10/23(Mon)  396
 
 どういう女優がお好きなのですか。

 こういう質問には、できるだけ知られていない女優をあげることにしよう。
 たとえば、スペインのロレ−ナ・フォルテ−ザ。ペネロ−ペ・クルスに似た美女。とてもいい女優さんだが、スペインの女優なので「踊れ トスカ−ナ」1本しか見ていない。
 もう誰も知らない女優をあげてもいい。田中 絹代、入江 たか子あたりは、よく知られているだろうが、沢 蘭子、及川 道子、伏見 直江、その妹の伏見 信子、琴 糸路あたりになると、もう誰も見ていないだろう。まして、佐久間 妙子、光 喜三子となれば誰も知るはずがない。
 彼女たちはそんなに魅力があったのか。そう聞かれると答えに窮する。
 最近の女優さんほど美貌ではない、といっておこう。演技にしても、ファッションや挙措、それほど洗練されていたとは思えない。

 しかし、それぞれが私の心を奪った美女だったことは間違いない。

2006/10/22(Sun)  395
 
 私は書いたのだった。
 「今では誰も思い出すことのない俳優、女優たちにふれるのは、それぞれの時代の俳優、女優たちの姿やおもざしをなつかしむためではない。それぞれが、時代に生きて、いずれも『時分の花』としてときめいていた事実を忘れないためである。」(「ルイ・ジュヴェ」第四部第二章)

 この「時分の花」が、『花伝書』からのものであることはいうまでもない。

 女優だけに関心をもったわけではない。主役のスタ−よりもワキで、つよい存在感、あるいはその役者しかもっていない魅力を見せる連中がいた。

 いつも眼をギョロギョロさせながら、ドタドタ歩いていたミッシャ・アウア。(父が有名な音楽家で、ほんとうに「不肖の子」だった。)
 いつもいつもトボけたような顔をしていたエドワ−ト・エヴァレット・ホ−トン。(若い頃は、ブロ−ドウェイの二枚目だった。)
 天性の悪声というか、頭のテッペンからひんがら声を出していたアンデイ・デヴァイン。
 老齢で、ひどく痩せこけていたが、いつも気品のある役をやっていたハリ−・ダヴェンポ−ト。
 ふてぶてしい悪役ならワ−ド・ボンド。(晩年、ジョン・フォ−ドの映画では、いい「役」、たとえば勇敢な軍人役をやっている。)
 フランス映画では、いつもチンケな悪党、よくいって下層社会の庶民といったレイモン・エイモス。

 こういう「さしたることもない」役者たちにつよい関心をもちつづけてきたが、こうした関心が私の批評をささえているような気がしている。
 (『ルイ・ジュヴェ』(第一部第十二章)

 すでに過ぎ去った時代の俳優や女優たちに、若き日の私が見たもの、あるいは期待したものを考えると、やはり感慨なきを得ない。

2006/10/21(Sat)  394
 
 今でもマリリン・モンロ−がお好きなのですか。
 ええ、好きですよ。
 マリリン・モンロ−以外の女優はお好きではないのですか。
 とんでもない。私は、たくさんの女優が好きです。
 たとえば?

 こういう質問にどう答えればいいのだろう?

 映画を見ると、いつも女優に関心をもってきた。しかし、私の場合、まだあまり知られていない女優のほうが、スタ−女優よりも好きになるのだった。
 その意味で、「臥虎伏龍」や「八面埋伏」よりも「初恋のきた道」の章 子怡のほうが好きなのだ。「ドア−ズ」のメグ・ライアンは、スタ−になってからのメグよりもいい。 たとえば、グロリア・デ・ヘヴン。(「ゴッド・ファ−ザ−」第一部で、アル・パチ−ノがはじめてラス・ヴェガスに行く。その背景のシ−ンに、グロリア・デ・ヘヴンのショ−の大きな看板が出ていた。私は、グロリア・デ・ヘヴンが映画では見られなくなったグロリア・デ・ヘヴンがショ−・ヒズネスで成功したことを知ってうれしかった。彼女の「アウト・オヴ・ブレス」は、私にとっては忘れられない一曲。
 たとえば、「五番街の出来事」のゲイル・スト−ム。もう少しいい女優になるかと期待したリンダ・パ−ル。名前も忘れてしまったが、「赤い家」でエドワ−ド・G・ロビンソンを相手に、一作だけで消えてしまった美少女。
 ずっと成熟した女性をあげれば、最近ではスペインのビクトリア・アブリル。アルモドバルの映画に出ているが、「彼女の彼は、彼女」では完璧なフランス語を話している。
              (つづく)

2006/10/20(Fri)  393
 
 若い頃のバ−ナ−ド・ショ−は、三編の小説を書いて、出版社に送ったが、どれもすぐに送り返されてきた。
 「今でも茶封筒の包みを見るとゾッとする」
 と語ったことがある。
 9年間にもらった原稿料が、たった6ポンド。
 そのうち、5ポンドは、製薬会社のコマ−シャル・コピ−の原稿料だった。
 バ−ナ−ド・ショ−でさえ、そういう時代があった。そう考えれば、原稿が売れなくてもあきらめがつく。

 ノ−ベル賞をうけたとき、バ−ナ−ド・ショ−はいった。
 「なんで、おれにそんなものをくれるのかね。きっと、去年、何もしなかったご褒美だろうな」

2006/10/19(Thu)  392
 
 ある日、銀座の試写室で、その老人を見かけた。それまで一、二度見かけたことはあったが、どういう人なのか知らなかった。
 むろん、映画関係者には違いないが、かなり前に退職した重役か何かで、たまたま試写室に姿を見せる程度の人だろうと思った。
 その老人のお帰りになるときには、現役の部長が手をとらんばかりにしてエレベ−タ−までご案内するのだった。
 その日の映画は、エロティックな内容で、前評判も高く、せいぜい三十人程度しか収容できない試写室に人がつめかけていた。大多数は、週刊誌の芸能ライタ−だが、有名な作家や、映画批評家の顔も見えた。

 その日の試写で、ご老人がたまたま私のとなりにすわった。
 映画がはじまると、すぐに寝息が聞こえた。

 試写が終わって、観客が席を立つと、ご老人が眼をさまして、ヨタヨタしながら外の廊下に出た。外にいた若い担当者は挨拶もしなかったが、部長は丁寧に挨拶して、エレベ−タ−までご案内した。ご老人はご機嫌よく帰って行った。

 当時の私は、この老人をどう見ていたのか。
 いくら前評判のいい映画でも、試写を見にきて眠ってしまうくらいなら、見ないほうがいい。それに、試写室は満員になれば入場を断られる人も出てくる。マスコミ関係者、とくに新聞の芸能貴社たちは時間をやりくりして映画を見にくるのだから、試写を見るかどうかで、とりあげかたが違ってくる。
 だから、暇つぶしに試写室にくるような老人はできれば遠慮してほしい。
 そんなことを考えたかも知れない。
 若気のいたりであった。今の私は、おのれの不遜を恥じている。

 彼はほんとうに映画を愛していたのだと思う。自分では、もう映画制作の現場にかかわることがなくなっている。しかし、かつて彼が作ってきた映画が、その後どれほど発展をとげたか。おそらく、どんな映画を見ても、自分が想像もしなかったほどの変化に驚かされていたのではないか。

 あるいは、彼は幻を見ていたのか。豪華なセットや、たとえようもなく美しい異国の女たちは、ことごとく虚しい見せかけの仮像にすぎない。
 だが、そうしたシ−ンの一つひとつに、(はじめから比較にならなかったにせよ)かつて自分が作り出した豪奢や、イメ−ジの優雅さ、たくさんの役者、女優たちの、おかしな、悲しい物語を重ねてはいなかったか。
 あるいは、かつてフィルムに現像し、焼き付けた自分の信念や、希望を見てはいなかったか。

 そのご老人は伊藤 大輔。昭和初期の映画監督。
 しばらくして、彼の姿を試写室で見ることがなくなった。

2006/10/18(Wed)  391
 
 熱心な映画ファンは公開前に大ホ−ルの試写を見ることがある。
 しかし、それより前に行われる社内試写、試写室のようすを知っている人は少ないだろう。
 試写室には、名だたる映画批評家たちが顔を見せる。淀川 長治、植草 甚一、双葉 十三郎、飯島 正といった有名な映画批評家や、荻 昌弘、田中 小実昌、小川 徹、佐藤 重臣、渡辺 淳といった人たちが居ならぶとなかなか壮観だった。
 私はある時期まで映画批評を書いていた。週刊誌で5年、新聞で10年、映画批評をつづけていたので、週に3日は都内の試写室に通っていた。
               → (「コ−ジ−ト−ク」No.86)

 映画を見たあと、親しい人たちが近くの喫茶店に寄って、見てきたばかりの映画の話をする。植草 甚一さんに誘われたときは、映画の話よりも小説の話が多かった。
 たまにその映画の宣伝担当の人が座談会を用意する。そんなこともあったが、たいていはつぎの試写に急行することが多かった。
 それでも、多くて200本見るのがやっとだった。

 戦後すぐ、ある映画のホ−ル試写に志賀 直哉が見にきていた。ただの偶然だったが、帰りの客で混雑する階段を、ずっと志賀 直哉のすぐうしろについて降りたことがある。
 観客たちは長い列になって、階段を降りるのだった。
 私は雑誌の写真で作家を見ていた。これが有名な志賀 直哉なのか、と思った。
 やがて階段を降りきって銀座の通りに出たとき、たまたま前方から歩いてきたアメリカ占領軍の兵士が、志賀 直哉を見た。不意に足をとめた兵士は、さっと不動の姿勢をとって挙手の礼をした。どうやら日本の将軍とでも思ったらしい。
 志賀 直哉はごく自然に会釈してその前を通りすぎた。
 私はすぐうしろを歩いていた。ただ、それだけのことだが、後年、その試写会場に行くたびに、まだ焼け跡ばかりで見るかげもない銀座の風景と重なって、志賀 直哉のことを思い出した。

 長い期間、試写室の暗がりで過ごしてきたせいか、最近の私はほとんど映画を見ることがなくなった。

2006/10/17(Tue)  390
 
 哲学者のベルグソンを日本人が訪問した。彼の著作を翻訳したいという。
 ベルグソンは喜ばなかった。
 「私は日本語を知らないので、あなたの翻訳が私の思想をほんとうにつたえているかどうかわからない」
 彼はそう答えた。
 このエピソ−ドは、いつまでも私の心に残った。

 ベルグソンには、無意識にせよ、日本人の理解する「ベルグソン」と自分は違うのだという思いがあったと思われる。そして、これも無意識にせよ、日本人に対する警戒がはたらいたのではなかったか。
 それはそうだろう。私のところにホッテントット人がやってきて、きみの『ルイ・ジュヴェ』を訳したいといわれるようなものだから。私はきっと卒倒するだろう。
 婉曲なかたちで、「日本人に私の思想がわかるのだろうか」と疑問を投げかけたはずである。

 ただ、こういうふうにも考える。
 「日本人に私の思想がわかるのだろうか」といういいかたには、無意識にせよ、日本人に対する否定が隠れているのではないか。

 たとえば、この論理は、サルトルのいう「飢えた子どもの前で文学は可能か」という論理に、どこかでむすびついている。
 大岡 玲が、このサルトルのことばにふれて、
 「私には問いかけの立脚点がよく見えない感じがするし、はるか高みから下界をみおろしているような不遜な臭気がただよう気がして、どうも好きになれない」
 という。
 私がベルグソンのいいかたに感じるものも、これに近い。

 もう一つ、ここから翻訳という仕事について自分なりに考えることができる。

 むずかしい問題なので、私はまだ考えつづけているのだが。

2006/10/16(Mon)  389
 
 野茂 英雄がMLBに移ってから、NHKで中継を放送するようになった。おかげで、本場の野球が見られるようになって、いろいろなプレイヤ−の動きや、ときには内面まで想像しながら、ベ−スボ−ルを楽しむようになった。

 サウスポウのピッチャ−。

 “サウスポウ”という用語は1885年からのもの。たいていの野球場は、バッターの位置を東にして、太陽が西に沈むとき目が眩まないように設計されている。したがって、ピッチング・ポジションに立った投手が左腕投手なら、左“手首”(ハンド)は南を向く。もともと“サウスポウ”は左腕投手の意味だったが、今ではしばしば左ギッチョ一般をさすようになった。
 いいサウスポウ・ピッチャーがどこのチームでも歓迎されるのは、左利きのプレイヤー(選手)は左腕投手に向かうと、右利きの投手ほど打てないから。
 野球で左ギッチョが有利なのは一塁手で、打たれたボールを二塁、三塁に投げるのが楽だからである。しかし、ほかの内野の守備では左ギッチョの選手は左側に打たれたボールを投げるときからだをぐるっと廻さなければならないという重大なマイナスがある。
 野球史上、もっとも有名な“サウスポウ”は「レフテイ」ゴメス、「レフテイ」グラヴ、サンデイ・コウファックス、ウォーレン・スパーンなど。全員、「野球の殿堂」入りを果たしている。ベーヴ・ルースは偉大なバッターとして知られたが、野球選手になった当時はサウスポウ・ピッチャーとして野球人生を始めた。

ついでにいっておくと、サウスポウ・ピッチャーがそうザラにはいないのは、左ギッチョは全人口の約一割に過ぎないからである。

 なぜ、こんなことを書いておくのか。じつは、クリフォ−ド・オデッツの芝居を読んでいた時期、調べたから。

2006/10/15(Sun)  388
 
 何世紀も昔、すべての衣服は左側にボタンがついていたそうな。

 中世になって、剣をすばやく引き抜けるように男の衣服は右ボタンになり始めた。

 あたらしいデザインでは、すばやく左手で上衣のボタンをはずして、右手で剣をとるように考案された。しかし、実際に剣を抜く目的からはなれて、男の右ボタン、女の左ボタンは、現在までずっとつづいている。
 「実際に剣を抜く目的からはなれて」の意味は、きみの想像にまかせよう。

 現在では、男のコートの袖のボタンはあくまで飾りだが、これも実際的な目的から始まっていると思われる。今よりもコート袖が広くたっぷりしていた時代にボタンがはじめて使われたらしい。ボタンで袖をしっかりとめれば、両手がらくに使える。

 別の説もある。プロシャのフリードリヒ大王は兵士が袖口で顔を拭くので、制服の袖をボタンでとめるように命じた。

 ボタンにまつわるいろいろな迷信がある。ボタンの穴を間違えてボタンをかけ違えると、悪運に見舞われる。服を外に出してキチンとボタンをかけ直すと悪運は免れるという。
 こういうのは雑学だが、芝居の演出をするには、こんなアホらしいことまで知っておく必要がある。一度、役者にボタンの穴を間違える芝居をさせた。それに気がついてあわててボタンをかけ直す。それだけで、観客はどういう「役」なのか理解する。ただし、いつもそんな芝居をさせていたわけではない。

2006/10/14(Sat)  387
 
 握手は中世の頃に始まっている(らしい)。
 「ロミオとジュリエット」を見ればわかるのだが、中世の気風はまことに殺伐で、見知らぬ人と会ったとき、どうかすると、たちまち武器を手にしなければならない場合もあった。右手はさっと腰の短剣に伸びる。
 ふたつのグループは、お互いに武器を手にして相手のまわりをぐるぐる回る。やがて無言のまま武器をおさめるまで。そうなると、武器をもっていないことを見せるために右手をさし伸べて、お互いに握りあう。これが握手の始まりだった。

 今でこそ異性と握手しても、誰も不審な眼を向けないが、こういう風習はあまねくひろがっているわけではない。香港映画でおなじみだが、胸の前で固めた拳に右の手を重ねる礼。あれだって、他人に会ったときは武器をもっていないあかしに、相手の前で自分の手を握ってみせたことから起きている。ジェット・リ−がやるとカッコいい。
 握手は仕事の取引のあかしにも使われる。手をクロスさせて握りしめるのは、その仕事を祝福すること、それぞれお互いの名誉をかけた意思をしめすため。

2006/10/13(Fri)  386
 
 私たちのあいだでも、握手をする習慣がある。
 たとえば、親しいひとと会ったり、別れるときに、手をさしのべる。相手の手をにぎりしめる。それが自然にできるようになっている。
 若い頃には、女性と握手するようなことはなかった。
 男の子と女の子がいっしょに仲よくしているだけで、

    ヤ〜イ、男と女のマ〜メいり、
    いってもいっても、いりきれない

 などと、囃子(はやし)たてる。
 私は中学生のとき、まだ小学校の三年か四年の妹と歩いていて、悪童どもに囲まれたことがある。
 焙烙(ほうろく)で大豆を煎る、これが煎り豆だが、これは性的な暗喩だった。戦前の日本人の内面には、こうした軽侮のうしろにいつも陰湿な羨望がひそんでいた。
 こういう「やっかみ」が、日本の文化に独特の歪みをもたらしているかも知れない。
 気のつよい女の子は、きっとした顔で、囃したてた男の子たちを睨みつける。

 いまでは、私たちばかりではなく、世界じゅうの地域で、お互いに善意をしめすジェスチャーとして相手の人と握手する。異性と別れるとき、握手しても、誰もとがめない。

 そこで、少し考える。
 握手という習慣を、どういうかたちで身につけてきたのか。
 フランスでは、人に会えばお互いの両頬にキスする。マヤ・ピカソを成田空港に送って行ったとき、そういうキスをしなさい、といわれた。
 南洋のある島々の住民の挨拶は鼻をこすりあわせる。あいにく、こういう挨拶はしたことがない。一度、やってみたいものだが。(笑)        (つづく)

2006/10/12(Thu)  385
 
 パリ。深夜にタクシ−に乗った。
 初老の運転手が私を旅行者と見て話しかけてきたと思う。どこからきたのか、とか、パリにきてどのくらいになるのか、といった、ごくあたりさわりのない話だった。
 そのうちに、私はこの運転手が、スラヴ系の出身者らしいことに気がついた。
 しばらく話をしているうちに、どういうことからそんな話題が出てきたのかもうおぼえていないのだが、彼の境遇を聞かされることになった。ロシア革命当時、貴族の子弟として士官学校に入っていた彼は、赤軍と戦って遠くシベリアで転戦した。
 自分の部隊が壊滅したため、必死に戦線を離脱して、難民としてパリに落ちのびたという。
 彼の口から、思いがけない人の名前が出た。
 ベルジャ−エフ。
 士官学校で彼の講演を聞いてから、個人的に親しくなったという。
 私はベルジャ−エフを読んではいたが、おもにドストエフスキ−に関しての著作だけで、ほかのものはあまり知らなかった。それでも、『ドストエフスキ−論』を読んだことがある、といった。
 そのときの彼の驚いた表情は、いまでもよくおぼえている。車をとめた。

  小柄で、風采のあがらない、おまけに頭のわるそうな日本の若者が、ベルジャ−エフを読んでいる。信じられないことだったに違いない。
 私のほうも、ロシアの元貴族がパリでタクシ−の運転手をやっていて、少年時代にベルジャ−エフと親しかった話を聞かされる、などとは想像もしなかった。
 それから、ひとしきりベルジャ−エフの話になった。

 いつか短編にしようと思っていたが、とうとう書かずじまいだった。
 メ−タ−をとめて話をしたのだが、別れぎわに私からタクシ−代をうけとらなかった。だから、旅行者と見てたくみにだます雲助ではなかった。
 私にとってはパリの思い出のひとつ。

2006/10/11(Wed)  384
 
 作家、翻訳家になるのはそれほどむずかしいことではない。小説を書く、翻訳をする。それだけできみは作家なり翻訳家になれる。同人雑誌にはそういう作家がいっぱいいる。
 では、作家や、翻訳家になることが、きみの目標なのか。
 そのためには、きみの過去、現在が、そのための手段ということになる。
 きみはどれだけの過去を生きてきたか。それを現在、誰にむかっていきいきと語ることができるのか。
 むずかしいのは、最初の小説を書き、最初の翻訳をしてからなのだ。つぎの小説が書けるのか。さらに、そのつぎの小説が書けるのか。
 一冊の本を翻訳をする。つぎにまったく違う作家のものを翻訳できるのか。または、それまで手がけたことのないジャンルのものを翻訳できるのか。
 大学の先生たちの翻訳が、たいていおもしろくないのは、こんなことを考えもしないからだ。自分の好きなことをやっていればいいのだから。
 こうなると、作家なり翻訳家になることなどたいした目的にはならない。
 いい小説を書く。ほかの翻訳家のやらないような作品を選ぶ。つまり、いつもいい小説を書き、いい翻訳をしたいという願望が、きみをほんとうの作家なり翻訳家にするのだ。

2006/10/10(Tue)  383
 
 香港で、張 國榮(レスリ−・チャン)の没後、5周年を記念して、大きな回顧展が開かれた。(’06.8)
 私は、自宅でレスリ−を偲んで、「ダブル・タップ」(ロ−・チ−リョン監督/00年)を見た。
 これはサイコ・キラ−。張 國榮(レスリ−・チャン)が、めずらしく殺人者をやっている。ダブル・タップというのは目標にむかって2連射して、おなじ位置に命中させる射撃用語。香港返還後の香港の姿がいくぶんでも見られるが、全体に停滞した空虚な気分が読みとれる。映画もかっての輝きは見られない。演出も迫力がない。香港映画の衰退。

 ついでに、 「ハッピ−・フュ−ネラル」(「大腕」フォン・シャオガン監督/01年)を見た。映画界の内幕を描くと見せて加熱する広告業界、ひいては中国のバブル経済の風刺と見ていい。ドナルド・サザ−ランド、シャ−リ−・クワン。こういう映画が作られるだけ、中国映画界が成熟してきたと見ていい。ベルトルッチの「ラスト・エンペラ−」を意識していると見せて、中国の経済発展を皮肉ったおもしろい映画だが、その批判は党の「走資主義」に向けられてはいない。どうせこういう映画を作るなら「題名のない映画」や「グッドバイ、バビロン」のような視点で描いたほうがもっとおもしろいものになったと思われる。

2006/10/09(Mon)  382
 
 香港映画迷だった。香港映画では、映画監督の徐 克、王 家衛に、いつも関心をもってきた。

もう、誰の記憶にも残ってはいないだろうが、「ハッピ−・ゴ−スト(開心鬼撞鬼)」(ジョニ−・ト−監督/86年)について。
何かの事件で死んでしまった女が幽霊としてこの世に戻ってくる。香港映画では、「チャイニ−ズ・ゴ−ストスト−リ−」などでおなじみだが、この映画はおなじテ−マでも、幽霊が現実の事件にからんでくるバカバカしいドタバタ喜劇。まだ新人だった張 曼玉が可愛い。
 ブレイク・エドワ−ズ監督の「スウィッチ」(91年)を見たとき、「ハッピ−・ゴ−スト(開心鬼撞鬼)を思い出した。
 こちらのスト−リ−は・・・女たち3人に殺されたビジネスマンが、最後の審判で地上に戻される。ところが悪魔の仕業で、戻ったときには、女になっていた!
 ブレイク・エドワ−ズの映画ではおもしろいほうだった。エレン・バ−キンは美女とはいえないが、私の好きな女優。この作品で「ゴ−ルデン・グロ−ヴ」にノミネ−トされたが、受賞はしなかった。これで受賞していたら、もっといい女優になっていたはずだが。 私はこういうバカバカしいドタバタ喜劇も好きなのである。

 「ハッピ−・ゴ−スト(開心鬼撞鬼)」に、サッカ−・シ−ンが出てくる。この部分、徐 克のアイディアだが、後年の周 星馳の「少林サッカ−」がこれを発展させたものだったことがわかる。
 なぁんだ、あのサッカ−・シ−ンは周 星馳の「独創」かと思ったら、徐 克(ツイ・ハ−ク)がとっくに先鞭をつけているじゃないか。
 あらためて、徐 克に敬意をもったが、そのツイ・ハ−クが、俳優としてこの映画に出ているのだからおかしい。
 自分の映画に出ていた映画監督としては、「キ−プ・ク−ル(有話好好説)」(97年)に出た張 藝謀(チャン・イ−モ−)がいい。ほんのわずかなシ−ンに出てくるだけで、演技といえるようなものではなかったが、まじめな顔をしているのがおかしい。やはり一流の監督になると、面がまえが違うなあ。

2006/10/08(Sun)  381
 
 冥王星が、太陽系の惑星から外されてしまった。可哀そうに。

 プラハで開催された国際天文学連合(IAU)の総会は、惑星の定義をめぐって討議し、冥王星を惑星から格下げして、太陽系の惑星を8個とする最終決議案を採択した。(’06.8.24)
 理由は・・・冥王星はほかの惑星と比較して軌道や大きさが異質で、冥王星を惑星とみとめないという。これまで幕内にいたのに、いきなり三段目に落とされたようなもので、冥王星はボヤいているかも知れない。
 1930年に発見された「冥王星」は、わずか76年で、栄えある資格を剥奪されてしまったことになる。
 とばっちりを食ったのは、冥王星の衛星「カロン」で、原案では12惑星に認定されるところだったのに、最終案では惑星の候補にもあげられなかった。

 しばらく前に「冥王 まさ子」というペンネ−ムの女流作家がいた。他人のご趣味をとやかくいうつもりはないが、大仰なペンネ−ムに違いない。この方はいつもペンネ−ムにこだわっていたらしく、翻訳では別に2種類の名前を使っていた。
 アナイス・ニンの翻訳のことで、一度だけ電話をかけてきたことがある。ひどく高飛車ないいかたで、「中田さんがおやりにならないのでしたら私がやりますから」という。私としては、むろん否やはない。長年、日本でアナイスを出したいと思って苦労してきただけに、翻訳してくださる方が名乗りをあげたのはありがたい。どうぞ、おやり下さい、と答えた。
 私のいちばん苦手なタイプの女流だった。

 あとで聞いたのだが、直接、アナイスのところに押しかけて行ったらしい。アナイスは彼女が翻訳することをよろこんだが、親しい友人には「へんな女」と語っている。これを聞いた私はおもわず苦笑した。

 この女流作家が・・・「冥王星被錫出九大行星」というニュ−スを聞いたらどんな顔をなさったか。そんなことを想像すると、また苦笑したくなった。

2006/10/07(Sat)  380
 
 ヒラリ−・クリントンの胸像を作った彫刻家がいる。ただし、上半身のニュ−ド。題して「大統領の像」。ニュ−ヨ−クの、ある美術館で公開された。
 このニュ−スは中国語の新聞「半月文摘」(06,8.16.)で読んだ。
 なぜ、こんな題をつけたのかと聞かれて、作者、いわく、
 「ヒラリ−はアメリカの歴史で第一位の女性大統領だから」
 この「大統領の像」のヒラリ−の眼に深い叡智がたたえられている(という)が、目尻の皺まで克明に再現されている。豊満な乳房。まるで、ロココの女の彫像のようだが、乳首、乳暈は花びらで表現されている。

 私は、エロティック・ア−トをエロティックであるという理由で否定しない。むしろ、芸術がどんなにエロティックであっても、そのことは積極的に容認する。たとえば、日本の浮世絵、ロダンの多数の秘画。コクトオが描いた「恋人」の勃起するペニス。いつも性器を露出させているピカソの女とおなじように、マリリンのニュ−ドを描きつづけたスズキ シン一。

 ヒラリ−は、来年の選挙に向けて各地の遊説に動いている。(’06.9)
 かなり人気が高い。有権者の関心は・・・ヒラリ−がつぎの大統領選挙に出馬するかどうか。出馬を表明すれば、国会議員としての仕事を途中で下りるわけだから、有権者としても気にしないわけにはいかない。マスコミをシャットアウトしているだけに、彼女の動向が注目されているのだが、この「大統領の像」を彼女が見たらどう思うだろうか。

 私はこの「大統領の像」にはげしい嫌悪の眼をむける。
 まず、まったく芸術的にすぐれているとはいいがたい。もっとも不愉快なのは、有名人に対するねじれた、いじましい凝視であり、芸術というかたちをとった売名行為にほかならない。

2006/10/06(Fri)  379
 
 夏休みも終わって、私の「文学講座」も再開したが、明治の文学を終えて、ようやく大正の文学に入った。最初にとりあげたのは『こころ』だったが、あらためて漱石さんに敬意をおぼえた。そこで、しばらく漱石を読み返した。

    彼は斯う云つて、依然として其女の美しい大きな眸を眼の前に描くやうに見えた。もし其女が今でも生きて居たら何んな困難を冒しても、愚劣な親達の手から、若しくは軽薄な夫の手から、永久に彼女を奪ひ取って、己れの懐で暖めて見せるといふ強い決心が、同時に彼の固く結んだ口の辺に現れた。

 この一節を読んだとき、私はつよく心を動かされた。
 明治の作家は恋愛を描いても、これほどはげしい情熱を見せたことはないような気がする。意志的で、理知的な漱石の内面には、なにかおそろしく緊張したものがあったのではないか。
 ただし、「其女が今でも生きて居たら」という仮定が語られている。もはや、とり返しのつかない悔恨、そして人生の不条理に、漱石のテ−マを見てもいいような気がする。

2006/10/05(Thu)  378
 
 横浜から、桜木町に出た。クィーンズの動く歩道。横浜美術館に行く。「ヴェナンツォ・クロチェッテイ展」。これは、ぜひ見たいものの一つだった。
 クロチェッテイは、マンズー、マリーニなどとともにイタリア現代彫刻の代表的作家として知っていた。一九三八年、ヴェネツィア・ビエンナーレで、彫刻大賞を得たが、二十三歳。つまり、戦前、すでに芸術家としてその存在が認められていたわけである。
 だが、実質的には戦後からその活動が知られるようになる。
 私たちには、マンズー、マリーニなどのほうがよく知られていたのも当然だったろう。実際に見た印象としては、千葉でマイヨールを見たときほどつよいものではなかった。しかし、女性のヌード、セミ・ヌードは魅力がある。

 彫刻のなかでも、いのちの啓示が輝いている女のヌ−ドほど美しいものがあるだろうか。生身の女のヌ−ドも美しいけれど、彫刻のヌ−ドは女が女であることを越えて、何か違った精神性をもったものとしてあらわれる。絵のなかのヌ−ドにはないものだと思う。

 私が気に入ったのは、「岸辺で会釈する女」(69年)、「脱衣のモデル」(76年)、大理石の「帽子をかぶった少女」(60年)の三点。

 驚いたのは、裸の上半身を前に折って両手で顔を蔽っている「マグダラのマリア」(80〜81年)だった。それまで、入浴したあとからだや髪を拭くヌードをいくつも制作しているので、そのシリーズの一つとしか見えないが、このマグダラのマリアが、はっきり妊娠していることがわかる。クロチェッテイが隠したものが見えるようだった。
 見てよかったと思う。そのほかデッサンに興味があった。じつにのびやかですばらしい。外に出たときは、もう夕方になっていた。

2006/10/04(Wed)  377
 
 ミッキ−・スピレ−ンが亡くなった。(2006.7.17)

 翌日、ある有名な評論家の方からこんな手紙をいただいた。
 「じつはホ−ムペ−ジを拝見して、海外ミステリ−に関するお仕事をほとんど省いていらっしゃるのを知って(ケイン1冊のみ! スピレイン、ロス・マクの中田耕治が消えている!)、はっきりしたお考えをお示しになっているように思ってしまったのです。(昨日、スピレイン没!)

 このHPの年譜から、ミステリ−の翻訳はほとんど省かれている。じつは、このHPをはじめた(立ち上げる、ということばがきらいなので)とき、年譜をつけたほうがいいといわれた。自分の経歴には関心がない。だいいち、すっかり忘れているので、若いひとにお願いして作ってもらった。最近の仕事を多くとりあげてくれたので、ミステリ−の翻訳ははぶいてあるが、「はっきりした考えを示している」わけではなかった。
 もともとミステリ−から出発したとはいえないし、私の翻訳などもう誰も読まない。そこで年譜から省いたのだと思う。
 やっぱり経歴詐称かなあ。

 最近の私はミステリ−を読まなくなっている。私のクラスにいた人たちから贈られるミステリ−を読むのがやっとで、ほかに手がまわらない。

2006/10/03(Tue)  376
 
 この夏、毎晩、寝る前にモ−ロアを少しづつ読んでいた。みじかい1章を読むと、よく眠れるからだった。
 しばらく読まなかったせいで、私のフランス語はすっかりサビついてしまった。外国語を身につける根気や熱意が欠けていたのだから仕方がない。もつと努力していたら、もう少しフランス文学に精通することができたかも知れない。

 私はある大学で語学を教えていた。たまたま研究室でフランス語専門の先生たちと雑談していたとき、
 「中田先生はフランスの文学では何をお読みですか」
 と聞かれた。
 「アプレ・ラ・ゲ−ルの小説はわりに読んだつもりですが」
 と答えると、みんなが笑った。
 笑われても仕方がないと思った。だが、フランス語を専門にしているという連中が、何を読んできたのか、という思いはあった。
 きみたちはアメリカ文学では何を読みましたか、と反問すればよかった。
 しかし、私はだまっていた。
 きみたちが、サルトルや、ボ−ヴォワ−ルを読んできた時期に、私はジャック・リヴィエ−ル、バンジャマン・クレミュ−、アンドレ・ビ−、ラモン・フェルナンデス、ジュリアン・バンダを読んできたのだ。
 きみたちは、一度でもモ−リス・デコブラやジツプを読んだことがあるのか。おそらくシムノンさえ読んだことはないだろう。
 その後、私は研究室ではいっさいフランス文学の話をしなかった。

 大学の紀要に、一つか二つ、研究論文を発表するぐらい誰でもできる。だが、自分では文学にいちばん近いと思っている仕事が、じつは文学とはあまり関係のない仕事なのだ。文学の研究者には、文学とはあまり関係のない仕事をしている連中が多い。

2006/10/02(Mon)  375
 
 TVで「恐竜」のドキュメントを見る。夏休みの特別番組らしい。私は恐竜ファンなので、こういう番組は見のがすわけにはいかない。
 地球に大隕石が衝突して激烈な地殻変動や、はげしい異常気象が発生したため、巨大生物が絶滅した。
 そういう事態ははじめから私などの想像を越えている。だから、化石になってしまった恐竜さんに同情することはない。
 恐竜さんの亡骸にご対面するとき、いつも私の心をかすめるのは・・・恐竜さんほど種の絶滅を危惧してはいない私たちも、やがて生きている瞬間々々に、はげしい、異常な、すさまじい変動を目撃することになるだろう。
 そういうニヒリズムが、私のどこかにはある。

 ところで、恐竜が絶滅したとき、小さなネズミのような哺乳類がなんとか生きのびた。この哺乳類が進化してゆく。

 そうか。そうなのか。おれの先祖はネズミであったか。こいつはいいや。
 何がいいのかわからない。しかし、こういうことを知って笑えるから、それだけでうれしくなる。

 つい最近、京大の再生医科学研が、マウスの皮膚細胞から、胚性乾細胞(ES細胞)に似た性質をもつ「細胞」を作ることに成功した。(アメリカの科学誌「セル」に発表された。06.8.11.)生命医学も、発生工学も、何もわからない私でも、このニュ−スには驚かされた。

 そういえば・・・韓国のハン教授は、人間の卵子、受精卵を使ってES細胞を作ったという論文を捏造したが、京大の研究者はこれとはまったく違う発想から、誘導多能性乾細胞(iPS細胞)を作ったらしい。たいへんなことだと思う。この成果は、おそらく人間の未来にかぎりない可能性をあたえるだろう。
 たちまち、私のニヒリズムはどこかに消えてしまう。

 今年の夏も、幕張メッセでやっている「大恐竜展」を見に行った。

2006/10/01(Sun)  374
 
 女の浴衣すがたは美しい。
 幼い少女から成熟した女まで、浴衣を着ているときにこそ、日本の女は輝きを見せる。
 毎年、おどろくほど新奇なデザインが多くなって、昔ながらの古風な模様は少なくなっているが、それでも紫の矢絣(やがすり)などは、浴衣の模様としてもっとも美しいもののひとつ。

 歌舞伎の「お軽」、「勘平」は誰でも知っている。三段目、「お軽」の着付けが矢絣(やがすり)である。梅玉の「勘平」につきあった松蔦(しょうちょう)の「お軽」、矢絣(やがすり)がよかった、という。それにひきかえ、羽左衛門の「勘平」のときに、仁左衛門は矢絣(やがすり)の変わり模様にしたがよくなかったという。
 先代の仁左衛門はすこしでっぷりしていたから、振り袖にわざわざ変わり模様を工夫したのだろうがかえってよくなかったらしい。(この仁左衛門は戦後の混乱のなかで横死している。)

 これも先々代の梅幸が工夫した腰元ふうの矢絣(やがすり)は、梅幸の丈(たけ)が高いのと、白地が淡白にすぎて似あわなかった。菊五郎(六代目)は、濃紫がよく似あってこれが流行した。

 こんなことももう忘れられているが、ハイティ−ンの女の子が紫の矢絣(やがすり)を着ていると思わず見とれてしまう。
 江戸の女たちのもたなかった美しさ。

2006/09/30(Sat)  373
 
 この「中田 耕治ドットコム」を読んでくれる人からメールをいただいた。
 渡辺さんという方である。
 そのプロフィールに、趣味、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きなクラシック、嫌いなクラシック、好きな古典コメディ、嫌いな古典コメディ、好きなマンガ、嫌いなマンガ、といった項目が並んでいる。
 おもしろい。私の好みと正反対ではないが、渡辺さんの好き嫌いは、私とかなり違うところがあって、その違いを考えて楽しかった。

 たとえば、渡辺さんは好きな飲みものとして、ウィスキー、野菜ジュース、嫌いな飲みものに、ワイン、果物ジュースをあげている。
 私ときたら、ウィスキー、ワイン、日本酒、焼酎、なんでも好きなので、とても一種類にしぼれない。いちばんおいしかった一つは、台湾の三鞭酒。これこそまさに破天荒、驚天動地! 風味絶佳、春風駘蕩、青年一朶花剛開!(なんだか開高 健ふうになってきた)李白になったような、いや、胡蝶になって雲の上を歩いているような気がした。

 マヤ・ピカソ(ピカソのお嬢さん)に会いに行ったときは、南フランス各地の地酒、つまりワインばかり飲みまわったが、どこの土地のワインも、安くておいしいものばかり。パリに戻って、ヘミングウェイが好きだった「シャトオ・デ・パプ」を飲んだが、値段は比較にならないほど高いのに、それほどおいしいとも思わなかった。
 野菜ジュース、果物ジュースは、よく知らない。あまり飲んだことがないので。

 渡辺さんの好きな古典コメディは、ダニー・ケイとマルクス兄弟。私も大好き。もっとも、ほかのコメディも好きなので、エディ・カンターや、ロイド、キートン、ローレル&ハーディ、ジョー・E・ブラウン、みんな好きだった。日本にはあまり紹介されなかったW・C・フィールズまでまぜると、誰を選んでいいかわからなくなる。
 もう誰もおぼえていないけれど、ミッシャ・アウアや、アンディ・デヴァイン、エヴァレット・ホートン、さらには“シュノッズル”ジミー(ジミー・デューラント)といった「さしたることのない名前」(注)の喜劇役者たちを思い出すだけで、私は数分から数時間、幸福でいられる。
 だから、嫌いなコメディはない。

 渡辺さんのHPには、「政治的思想の話題を主に、哲学・文学論などを織りまぜた日記・論文」が掲載されるという。渡辺さんのお人柄がわかるような気がする。
 その最新作は、「性愛」の世界について。
 原稿用紙で50枚以上の堂々たる大作。私にはちょっとむずかしかった。

 しかし、渡辺さんのものを読んで――いつか近い将来、私も「性愛」の世界について考えてみようか、と思いはじめた。

    ――「未知の読者へ」No.9

*(注)チャールズ・ラムのことば →『ルイ・ジュヴェとその時代』(第1部第12章)

2006/09/29(Fri)  372
 
 今年の夏は暑かった。夏が好きな私でさえ、何もしないでゴロゴロしていた。

   めでたきも女は髪の暑さかな     太 祗

   Althou ’tis beautiful,
   How hot is woman’s hair!

 いい訳だとは思うけれど、私がこの句を読んで思い描く「おんな」と夏の暑さと、欧米の俳句作者の想像するシーンとは、ずいぶん違うだろう。「めでたさ」に、愛らしい、賞すべき、うるわしい、美しい、祝うべき、慶(よろこ)ばしい、などの意味があって、なお“beautiful”としなければならなかった訳者の苦心を思うと、私はいまさらながら、翻訳による伝達のむずかしさをかんがえる。

   夕涼み よくぞ男に生まれける    其 角

   I am enjoying th’ even’ng cool,
   How lucky I was born a man!

 このcoolは、涼しいという形容詞ではなく、cool airという意味の名詞。ただし、夕涼み、納涼といった生活習慣がないはずだから、この句のおもしろさを出すのはむずかしい。宮森 麻太郎先生は「この句を外国人に示すには、女は夏でも着物をつつましやかに着なければならないが、男は自由であるということを説明する注解が必要である」といわれた。
 今年の夏、男どもはクールビズとかでいくらかラフな服装になったが、若い女性たちは夏になって着物をつつましやかに着るどころか、思いきり肌を露出して、「よくぞ女に生まれける」とばかりに人生をエンジョイしていた。
 私が夏の季節が好きな理由は、このあたりにあるのだが。

   Taking the cool at eve, I do
   Rejoice that I was born a man.

 これは、ベイジル・H・チェンバレンの訳。
「よくぞ男に生まれける」にぴったりこない、というが、私にはこの訳のほうがずっといい。

2006/09/28(Thu)  371
 
 老作家になって、偶然、自分の若かりし頃の声を聞く。こういう経験をした人は、あまり多くないだろう。
 テレビ、ラジオで、自分の出た番組を見る人はめずらしくない。何年か後に、ビデオやPCで見直すことだって、それほどめずらしくはないはずである。
 映画化された自作を見て、懐旧の思いにふける作家がいても不思議ではない。
 しかし、40年も前の自分の「声」を聞く。当の本人にすれば想像もつかない経験だろう。これが映画俳優か何かなら、若き日の自分の姿にうっとりしても不思議ではない。
 私が聞いたのは、かつて「私」だった男の声だった。むろん「亡霊」ではない。

 私が、NHK・FMで、イギリスBBCのミステリ−“The Same River Twice”の解説をしたとき、それをテ−プにとっていた人がいる。この話を聞いて田栗 美奈子は、
 「先生はほんとうにいろいろな仕事をなさったんですねえ」
 といった。
 「旧悪露顕だなあ」
 美奈子は笑った。私も笑った。
 たしかにいろいろな仕事をしてきた。しかし、この「中田 耕治」はまだ自分が何であるかを知らなかったし、自分が何であるかを知ることもできなかった。
 もともと文壇に通用するような仕事をする気がなかった。だから、外国のドラマの解説でも何でも気がるに引きうけていたはずである。どんな仕事でも、わるびれずにやってきた。そうしなければ食えなかったのだから。
 いろいろな仕事をつづけていた「中田 耕治」は、やがて小説を書きはじめるだろう。「レオナルド・ダヴィンチ論」めいたものを書いて、ルネサンスにのめり込み、手はじめにボルジア家の歴史にとり組むことになる。
 ある日、ヴェトナムに行く。やがてロ−マ、フィレンツェ、パリに行くだろう。
 やがて、少数ながら、ほんとうに信頼できる友人たち、「恋人たち」にめぐりあうことになる。

 “The Same River Twice”・・

 久保 隆雄さんのメ−ルには、
 「あの中田先生のテ−プは当時何回も聴いて、英語以外にもサスペンスドラマの組み立てなどいろいろ勉強になり、私の青春時代の一コマが詰まっている感さえしています。」 とあった。
 私にとっても「青春時代の一コマが詰まっている」のだが、このドラマは、いまや、老年の私にとっては「Same River Twice」にほかならない。

 久保 隆雄さん。
 あなたにはどんなに感謝しても足りない。ほんとうにありがとう。
 あなたが送ってくれた「声」は、かつての私の青春の声だった。しかし、現在の私にとって、もはや返らぬ夢ではなく、未決定の未来に向けて歩こうとしていた見知らぬ若者の「声」だった。
 やがて、私はさまざまな挫折と打撃のなかで、そのつど、なんとか歩みつづけることになる。この「中田耕治ドットコム」もまた、私の血と汗と涙、そして笑いなのだが、もし、誰かの「青春時代の一コマ」であり得たら。
 それこそが私の願いなのだ。

――(「未知の読者へ」No.8)

2006/09/27(Wed)  370
 
 私にかぎらず、40年前の自分の声を聞くような経験はめったにないことだろう。
 思いがけず自分の声を聞いて驚いた。というより、想像もしなかった経験だったことに混乱したといっていい。
 “The Same River Twice”
 それにしても、なんという皮肉な題名だろう!

 私がこれを聞いたときの感想は、われながら皮肉なものだった。

 40年前の自分の声を聞いた。これが、いちばんの驚きだった。現在の私の声とはまるで違っている。
 さすがに声はわかわかしかった。しかし、これがおれの声なのか。
 自分でも中田 耕治として知っている誰かが、いかにも翻訳家にふさわしい「声」でしゃべっている。えっ、きみが中田 耕治なのか。こんなエラそうなことをしゃべっているのが、まさか、おれじゃないよナ。
 「解説」の内容はたいしたものではない。なんだ、こんな程度の「解説」しかできなかったのか。可哀そうに。
 そのくせ、まっさきに感じたのは、「中田 耕治」がなんとか自分の思い、自分の考えていることをリスナ−につたえようとしている、ということだった。
 聞いているうちに、その頃の私のことがつぎからつぎによみがえってきた。「中田 耕治」が手がけた芝居のこと、小さな劇団をひきいて、ただもう稽古に明け暮れていたこと、親しかった友人たち、徹夜でテープを聞いてメモをとり、NHKのスタジオに向かったことなどが、堰をきったように押し寄せてきた。
 なつかしさとは別の感情だった。むしろ恥ずかしさが胸の底にこみあげてきた。

 まるっきり無名ではなかったが、中田 耕治は自分がほんとうにやりたい仕事も見つからず、つぎからつぎに安易な仕事ばかりをこなしていた。この「解説」にしても、けっこう苦労はしたが、やはり安易な仕事の一つだった。
 自分の声が魅力的に響く人はいい。しかし、自分の声にどうも魅力がないことに気がつく。聴いていてはずかしい。だから新任の講師が、はじめて教室で学生を相手に緊張しながら講義している、そんな感じだった。それが可愛らしい。
 普通の講演とか大学や、俳優養成所の生徒を相手の講義と違って、外国の言語によるドラマの解説で、しかもミステリ−というしゃべりにくい部分で、なんとかおもしろさをわかってもらいたい、という気もちがよく出ていた。そういう部分は、あえてしゃべろうとしてもなかなか言葉にならない。そのあたりにけなげさがあった。自分でいうのも、へんな話だが。
   (つづく)

――(「未知の読者へ」No.7)

2006/09/26(Tue)  369
 
“The Same River Twice”
 原作は、エドワ−ド・ヴォイド。私の知らない作家だった。
 主人公「ジョニ−・マクセン」(ゴ−ドン・ジャクソン)は、別れた妻の母、「ヘレン」からの手紙でパリから急遽帰国する。そして、妻だった「ジュリア」が失踪していることを知らされる。
 「ジョニ−」が、捜索をはじめると、娘の死にかかわりのあった「サンドラ」とその恋人「トム」が殺されている現場にぶつかる。
 「サンドラ」の死を捜査している「ワ−ドロ−警部」は「ジョニ−」を容疑者と見て追跡しはじめる。
 「ジョニ−」は、毎回、奇妙な人物に出会っては、あらたなナゾにぶつかってしまう。
 なんとかスト−リ−だけはわかったが、堂々とした展開で、なまなかな翻訳家などに解説できるはずもなかった。今ならネットで調べることもできるだろうが、BBCに問い合わせる時間もなかった。原作者のエドワ−ド・ヴォイドがどういう作家なのか紹介することもできない。
 もともとミステリ−の解説は、けっこうむずかしい。解説のなかで、犯人を暗示することも許されない。ましてラジオ・ドラマの前説なので、リスナ−に真犯人をさとられてはいけない。
 私に届けられるテ−プは毎回2回分だけで、これを聞くだけで時間をとられてしまう。むずかしい仕事を引き受けてしまった、と後悔した。

 おまけに、当時のスタジオ録音だから、NHKまで通わなければならなかった。今なら、全部の解説を録画、録音するにしても、おそらく1回、時間がかかったとしても、せいぜい1時間もあればすむだろう。しかし、2回分の録音で、ドラマのアタマに入る解説なので、ディレクタ−のサイン通りに、きっちりおさめなければならない。
 日比谷にあったNHKのスタジオに4回ばかり通ったはずである。

 私は、戦後しばらくして内村 直也さんの連続放送劇「えり子とともに」のスタッフ・ライタ−として、2年ばかり、毎週、NHKに通っていたことがある。だから、スタジオに通うのは苦労ではなかった。
 制作室の廊下を歩くと、当時、出会ったり、ただ見かけただけの出演者、演出家、裏方のスタッフたちを思い出した。
 しかし、1949年のスタジオと、1967年のスタジオは、すっかり違っていた。
    (つづく)

――(「未知の読者へ」No.6)

2006/09/25(Mon)  368
 
 1967年といえば、まだ、テレビもそれほど普及していなかった頃のこと。
 FM放送を開始していたNHKの番組の一つに「English Hour」があったことも知らなかった。
 その番組で、BBC制作の“The Same River Twice”という8回シリ−ズのミステリ−・ドラマが放送されることになった。その解説者に私が選ばれたのだった。
 なぜ、私が起用されたのかわからない。
 当時、私はミステリ−の翻訳をしていたし、推理小説の批評を書いていたので選ばれたと思われる。それに、俳優座養成所で講義をしていたし、評論を書く機会がないのでせっせとラジオ・ドラマを書いていた時期だった。だから、この人選はかならずしも間違ってはいなかったと思われる。
 NHKから話があったとき、私は気がるに承諾したのだった。

 ところが、驚いたことに、かんじんの台本が送られてこなかった。シノプシスもついていない。BBCはドラマだけを送ってきただけという。つまり、私はテ−プを聞いて、ミステリ−・ドラマを毎回、解説してほしいというのだった。
 英語の台本がないのでは、私としては手も足も出ない。
 私はミステリ−の翻訳家として知られていた。しかし、それはアメリカのミステリ−が専門で、イギリスのミステリ−は翻訳したことがない。
 それに翻訳をしていても、会話ができるわけでもなかった。まして、ヒヤリングだけで、複雑なプロットをもつミステリ−・ドラマがわかるだろうか。
 さすがに、あわてた。
 しかし、引き受けた以上、なんとか解説めいたことをしゃべらなければならない。
 当時はまだカセットテ−プも普及していなかった。
 いそいでオ−プンリ−ルを用意して、ドラマを聞きはじめた。
  (つづく)

 ――(「未知の読者へ」No.5)

2006/09/24(Sun)  367
 
 人生には、想像もしないできごとがある。

 昔、NHK・FMで、イギリスBBCのミステリ−が放送された。私がその解説をしていたらしい。そういえば、そんなこともあった。
 まさか、これを録音していた人がいるとは思ってもみなかったが、当時、英語の勉強のために録音していた人がいたらしい。久保 隆雄さんという。ジャズ関係の仕事をしている方で、当時、このミステリ−を録音しておいた。私はそんなものが存在するなどと想像もしていなかった。
 吉永 珠子のところに、久保 隆雄さんからメ−ルがあった。
 もう40年も前、久保さんは商社に勤務しながら、英語の勉強をつづけていたという。最近になって、そのテ−プが出てきた。それで、当時の機械をわざわざ買って、これをパソコンに入れたらしい。

 「そんなときNHKFM放送で、中田 耕治さん解説のBBC制作The Same River Twiceという8回シリ−ズのサスペンスドラマが放送されました。当時録音して何度も繰り返し聞いて楽しんでおりました。最近そのテ−プが出てきましたので・・」

 久保 隆雄さんは、わざわざそれをCD化して、送ってくださった。
 ふたたび久保 隆雄さんのメ−ルを引用させていただく。

 「当時、その後ポピュラ−になったカセットテ−プはまだ珍しく、オ−プンテ−プで録ったものです。ところが当時のテ−プデッキは3スピ−ドがあり(中略)一番遅いスピ−ド4.75cm/秒という長時間録音を使いました。
 テ−プが出てきたとき、今私の持っているデッキは2スピ−ドで4.75/cm秒はありません。ハタと困って、ヤフオクで探したところ当時使っていたものと同じデッキが900円で出ていました。もちろん中古、というかジャンク品です。送料の方が高いわけですが貴重なのでゲットし、クリ−ニングしたり、油をさして何とか聞けるようになりました。40年前のテ−プはワカメのような状態で、音質の不安定なところもありましたがシリ−ズ全部をPCに取り込むことが出来た次第です。40年ほどタイムスリップして懐かしく聞き入りました。中田さんの解説も素晴らしく、今聴いても新鮮です。」
                             (つづく)

   ――(「未知の読者へ」No.4)

2006/09/23(Sat)  366
 
 「絶望ごっこ」という遊び。むろん、誰も知らない。

 囲炉裏のある部屋に何人かの常連があつまる。みんなで囲炉裏の火を見つめながら押し黙って、ひたすらぼんやりして仮死状態のようにしている。
 この遊びは、いささか荒涼として見えるのだが、めいめいの本心に対してむりを感じないところがいい。
 いっけんバカバカしいお遊びだが、次第に焚き火の香りが五体にしみとおるような気がして、自分の部屋に引きあげるのがつまらなくなってくるから妙なもの、だそうな。
 井伏 鱒二の初期の短編、『末法時論』に出てくる。

 山でひどい雷雨におそわれて、何もかもおっぽり出して、いそいで岩かげや、這松の根っこの下にもぐり込む。生きたここちがしない。ガタガタふるえながら、ツェルトザックをひっかぶる。何も考えられない。口に出てくるのは「ちきしょう」とか「くそっ」ということばだけ。途中で引き返せばよかった、などと考えるのは、もう少し頭が働くようになってから。
 当面の危険が去りはじめて、まだからだのふるえはとまらない。夢中でザックを引き寄せ、なんとかビバ−クの準備をする。
 やっとの思いで、携帯コップ一杯のお湯をわかす。
 バ−ナ−の火をじっと見ていると、もう少し落ちついてくる。まだ生きたここちがしないのだが、その小さな火を見つめている。
 それが私の「絶望ごっこ」だった。

2006/09/22(Fri)  365
 
 私の「文章講座」は、二年たらずで中絶した。

 それまで、翻訳を勉強している人たちといっしょにさまざまなテキストを読んできた。結果として、かなり多数の人たちが私のクラスから巣立って行った。私は英語を教えたのではない。翻訳を教えたわけでもない。翻訳をする姿勢について、いつもみなさんといっしょに考えてきたのだった。

 「文章講座」のクラスも文章の書きかたを教える場所ではなかった。ましてや、こちたき文章学を論じるつもりもなかった。文章を書くということが(きみや私にとって)どういうことなのか。そのあたりのことから、まず考えてみよう。

 「あなたも文章が書ける」式の講座や、いわゆる「文章作法」などを期待してもらっては困る。テキストに、その日のストレ−ト・ニュ−ズの原稿を選ぶかも知れないし、コラムと呼ばれる記事を選ぶかも知れない。
 このとき私の視野にあったのは、およそ時代遅れな候文、祝賀、吊祭文から、現在の新進作家の作品まで。ときにはホラ−・ビデオを見たり、落語を聞きに行ったり。とにかく自由に講義をつづけて行く。

 もともと教育者になりたいと思ったことがなかった。教えることはきらいではない。それぞれの人の内奥に秘められている能力をいち早く見抜いて、その才能の所在を指摘する。それが私のやってきた仕事だった。

 昔の映画だが、「俳優入門」(マルク・アレグレ監督/1938年)で、ルイ・ジュヴェが、多数の若い俳優や女優のたまごたちを相手に、あざやかに的確な意見を述べ、みごとなヒントをあたえてゆく。(シナリオはアンリ・ジャンソンだが、こういう部分は、シナリオにはなく、すべて実際にルイ・ジュヴェが演じてみせたもの。)
 ジュヴェのような指導ができたら、というのが私のひそかな願いだった。

この講座は、現在の『中田 耕治・現代文学を語る』という講座に発展している。

 (注)この「文章講座」に出席していた人のなかで、作家になったひとりに、森山茂里がいる。近作は『夫婦坂』。とてもいい時代小説。

2006/09/21(Thu)  364
 
 ある時期、神田猿楽町にあった「翻訳家養成センタ−」で教えていた。(現在の「バベル」である。)
 途中で、「文章教室」めいたコ−スをはじめた。

 戦後、日本の教育は子どもたちに、個性的でゆたかな発表能力を身につけさせようとしてきた。その結果、皮肉なことに、ろくな文章ひとつ満足に書けない連中ばかりが多くなった。
 私たちは、文部省の国語教育のおかげで、日本語の文章についてどれほどゆたかな知識を得たのか。もはや、日本語の文章について考える必要もなくなってしまったのか。
 残念なことに、いまの人たちが文章を書けなくなったのは、中学、高校で、まことにすばらしい国語教育、作文教育をうけてきたおかげなのである。

 どうすればいい文章が書けるのか。
 ある評論家は「あるがままに書くのはやめよう」といった。冗談じゃない。あるがままに文章が書けたらたいへんなものではないか。別の作家はいった。「ちょっと気どって書け」と。わるい冗談だね。ちょっと気どっていい文章を書いた作家がいたら、おめにかかりたいものだ。
    (つづく))

2006/09/20(Wed)  363
 
 『闘牛』はメキシコが舞台。
 メキシコを舞台にした芝居は、テネシ−・ウィリアムズの『浄化』を手がけてから二度目だった。
 メキシコが好きになったのは、サム・ペキンパ−の映画を見ていたせいもある。ペキンパ−も最後の作品一本は見るも無残ものだったが、あとの作品はいまでも好きである。
 日本のTVコマ−シャルで・・・ジェ−ムズ・コバ−ンがダ−ツをやっている。2本投げてみごとに命中する。3本目を投げようとした瞬間にドアが開いて、幼い少女が姿を見せる。投げようとしていたコバ−ンがその少女に眼をやる。緊張がほどける。
 このコマ−シャルの演出がサム・ペキンパ−だった。わずか数十秒のコマ−シャルだが、みごとな演出で、いつまでも心に残った。
 『闘牛』の演出をしながら、劇団内部の軋轢や、幹部たちの反目といった陰湿な空気、さらには稽古の途中でつぎからつぎにむずかしい問題がふき出してきたとき、私は「革命児サパタ」を思い出していた。
 スタインベックのシナリオ、イライア・カザンの演出だったが、ラスト・シ−ンは、マ−ロン・ブランドの「サパタ」が、誰もいなくなった村へ単身乗り込んで行って、不意に敵兵に狙撃され、あえなく絶命するシ−ンである。
 三百発の銃弾をうけて無残な死をとげた「サパタ」の姿に、私は感動していた。

 芸術家も、ああいう姿をさらすとき、ほんとうに芸術家の名にあたいするのではないか。そんなことを考えながら、演出していた。

 『闘牛』演出は私の最高の仕事になった。

2006/09/19(Tue)  362
 
 『闘牛』ははじめて読んだときから、いつかは手がけてみたいと念願しつづけてきた戯曲だった。
 『闘牛』を選んだのは、登場人物が多数出てくるので、日頃、舞台に立つことのない研究生たちに機会をあたえてやろうと思ったことも理由のひとつ。
 芝居の演出はそう楽な仕事ではない。弱小劇団のかなしさ、はじめに予算ありき。ぎりぎりの予算のなかで作ってゆくのだから、毎日、無から有を生じさせる経済原則をつきつけられながらものを作るようなもので、極端な例では、ライト1本でも節約して、舞台上では変わらない効果を考え出す。そんなことの連続だった。
 大劇団の演出家なら助手に命じてすませられることでも、小芝居の演出となると、ありとあらゆる困難にぶつかる。みんな貧乏で、昼、女優が食べたラ−メンの残りの汁をすすって食事がわりにするような役者もいた。ぜったいに芝居で損失を出してはならない。これが私の信念になった。ところが、『闘牛』の演出にかかってから、劇団の内紛が起きて、出演者のあいだに動揺がひろがり、さすがに一時は演出意欲もそがれてしまった。
 どうして、こんな戯曲を選んでしまったのだろう?
 それまで演出家としての自分の才能に疑いをもつことがなかったのに、このときは私の演出を延期して、別の演出家がつぎの公演に予定していたレパ−トリ−にさし変えることまで追いつめられた。こういう状況のなかで、この芝居を上演してもコケル。そんな重苦しい自責感に似た思いにおそわれていた。
 もっとも心配性の私は、よく、そんな状態になることがあった。なんど芝居を演出しても、こういう性質は直らない。むろん、出演者たちには、そんなようすは少しも見せないのだが。
                 (つづく)

2006/09/18(Mon)  361
 
 レスリ−・スティ−ヴンスの『闘牛』を演出したのは、いつだったのか。

 当時、私は「新劇場」という劇団で5本、ほかの劇団で3本、芝居を演出した。成功したものもあるし失敗したものもある。「新劇場」の演出家としては、『闘牛』がいちばん成功したものだった。
 私は、自分に演出できない戯曲は絶対に選ばなかったし、興味のない戯曲を演出したことはなかった。
 後年、福田 恆存が中村 光夫の戯曲を演出していたとき、訊いてみたことがある。
「どうして中村 光夫の芝居なんか演出なさるんですか? 福田さんが演出なさるというので期待していますが、どこが気に入られたのか、見当もつかないんですが」
「あれゃあ、つまらない芝居だよ」
「じゃ、どうして演出しようと思ったのですか」
「だってきみ、あんな芝居、どこでもやりやしないよ。だから、やってみようと思ったんだ」
 この芝居、ひどく不評だった。              (つづく)

2006/09/17(Sun)  360
 
 ヘミングウェイの『日はまた昇る』の題名が、旧約聖書からとられていることはよく知られている。
 「世は去り、世はきたる。日はいで、日は没し・・」という『伝道の書』の一節。
 ヘミングウェイが神を信じていたかどうか。あるいは、どこまで神を信じていたのか。
 ヘミングウェイを読んでいたので、当然、スタインベックも全部読んだ。
 『怒りの葡萄』のなかで、
 「ふたりはひとりになる。彼らはその労苦によって良い報いを得られるからである。すなわち、彼らが倒れるとき、そのひとりがその友を助け起こす。しかし、ひとりであって、その倒れるとき、これを助け起こす者のいない者はわざわいである」
 という、おなじ『伝道の書』の引用を見たとき、ここにヘミングウェイと、スタインベックの違いを見ることができるような気がした。
 その後、私はいつもこのふたつをめぐって考えつづけてきたような気がする。

2006/09/16(Sat)  359
 
 ずいぶん昔ヘミングウェイを読んでいたら、こんな言葉にぶつかった。

    しかし、作家というものはますます孤独になるものだな。なすべき仕事は多いのに、時間はますます少なくなって行くのだから。

 あるインタヴュ−に答えたことばだが、いまの私にもこの重みは、いくらかわかるような気がする。

 去年は去年の孤独があり、今年は今年の孤独がある。
 私はその孤独に耐えるしかない姿勢で、仕事をつづけてきたが、年々歳々、孤独は深まってゆく。

 私は、その孤独に沈潜しなければならない、などというのではない。
 ヘミングウェイのように強靱な精神力、体力に恵まれた作家でさえ、自殺しなければならなかった。私はヘミングウェイのような大作家ではないので、自分がますます孤独になってゆくことに、うろたえながら生きている。まだもう少し書きたいものはあるのだが、書けなくなっても仕方がない。もともと才能に恵まれなかったことを嘆いたところではじまらない。

2006/09/14(Thu)  358
 
 ときどき川柳を読む。

 私の中学で国語を教えていたのが高坂 太郎先生だった。世に知られることはなかったが、川柳の研究に生涯をかけた学究だった。一冊の編著を残したが、江戸時代の川柳を網羅したもので、数千枚を越える大冊で、時の文相、鳩山 一郎の序文がれいれいしくついていた。
 「あたしが自分で書いたんだよ。政治家なんざ、こんな文章も書けやしません。だから、こっちが書いて署名していただく。へへへ。こういうお墨付きがあれゃぁ警察も手が出せない」
 たいへん洒脱な人で、授業中に、安永時代の話になった。安永(1772〜81)といえば江戸中期。恋川 春町、並木 五瓶、桜田 治助の時代。
 先生は中学生を相手に川柳をちらっと披露する。

    新酒屋うらから女房度々逃げる

 銘酒屋を開業したが、女めあての客が酔っぱらって口説く。それがこわくて、裏口から逃げ出す。洒脱な語り口に教室がわいた。むろん、中学生相手だからほんとうのところは伏せてある。
 私が川柳に興味をもつようになったのはこの先生の影響だった。

 戦後、高坂 太郎先生は自分が営々と集めた尨大な川柳の資料を手放した。当時の混乱のなかでは、とうてい出版できなかったと思われる。その資料は、さる人の手にわたって、後年、その人の名で出版された。

2006/09/13(Wed)  357
 
 大学を卒業する直前のこと、ある作家からお小遣いを頂いた。
 当時の私は友人の椎野 英之の頼みで、雑誌「演劇」の編集を手つだっていた。
 身分は学生だが、貧乏なもの書きだった。注文があれば、ラジオドラマや、コントと称する読みもの、雑文などを書きながら、アルバイトで編集者、というより「パシリ」で、いろいろな作家の原稿をもらいに行く。おまけに、俳優養成所で講義をつづけている。自分でもわけのわからない仕事をつづけていた。

 しばらくして岸田 国士編で、演劇書を作ることになった。実際の編集は椎野がやったのだが、末尾に演劇史の年表をつけることになって私が起用された。
 演劇史に関心がなかった。やむを得ず、ギリシャ、ロ−マから代表的な戯曲を読みはじめて、なんとか年表らしいものを作った。
 岸田 国士が別荘でその年表を校閲することになった。

 軽井沢に行くことがきまったとき、編集室に立ち寄った作家にはじめて紹介された。そのときの話で、私が上野から軽井沢まで同行することになった。
 帰り際に、作家はさりげなく紙幣を手にして、
 「少ないけれど、とっておいてくれたまえ」
 といった。
 私はほんとうに驚いた。戦後すぐから批評めいたものを書いていたので一部では知られていたにせよ、その作家が私の書いたものを読んだはずはない。原稿料で生活していたが、先輩の作家、それも初対面の人から金銭を頂いたことはなかった。私は、仕事で伺うのだから、頂戴する筋あいのものではないとことわった。しかし、岸田 国士はにこやかに微笑して、
 「気にしなくていいんだよ」
 どうやら軽井沢に行く旅費もおぼつかないと察してくれたのだろう。ありがたく頂戴することにした。私は黙って頭をさげた。

 この軽井沢行きには、もう一つ、大学の卒業をひかえたおなじクラスの学生たちの<修学旅行>が重なっていた。あまり教室に出なかったため、親しい仲間もいなかった私にとっては、この<修学旅行>は楽しい思い出になった。
 もっとも、その晩泊まった宿屋でも、ほかの学生たちといっしょに放歌高吟することもなく、深夜まで、ひとり年表作りを続けていたのだから、最後の最後まで仲間はずれだった。

 その晩、年表にとりあげた芝居の一節を思い出す。
     「お互いに一生おぼえていよう。ぼくはきみを忘れない。きみもぼくをわすれてはいけないよ。ぼくたちはもう二度と会えないんだ。でも、ふたりは忘れやしない。ぼくのハイデルベルグへのあこがれはきみへのあこがれだった・・・そして、とうとうまたきみに会えたんだ」

 岸田 国士は、翌年、『どん底』の演出中に劇場で倒れて、そのまま亡くなった。

2006/09/12(Tue)  356
 
 マキャヴェッリの喜劇を演出したことがある。
 『クリ−ツィア』五幕。訳は中田 耕治。
 おかしな喜劇で、これをコメディア・デッラルテふうに演出した。
 劇中に、ジェフ・ベック、グランド・ファンク、ミッシェル・ポルナレフなどをつかった。若い女優たちがときどきちぶさをポロッと見せたり。当時としては奇想天外なものになった。
 マキャヴェッリといえば『君主論』の思想家。しかし、劇作家としては『マンドラゴラ』という傑作がある。マンドラゴラは曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、クリ−ツィアは向日葵(ひまわり)。

    ニコマコ いいか、計画はこういうことだ。まず、おれが寝室に忍び込む。暗闇で、静かにいそいで服を脱ぐ。さて、ピエトロのかわりに、花嫁のとなりにそっとすべり込む。
    ダモ−ネ なぁるほど。で、どうする?
    ニコマコ さて、彼女にぴったりくっついて。新婚初夜の花婿よろしく、彼女の乳房にふれてみる。彼女はおれの手をとって・・・・離さない。そこですかさずキスをする。あら、そんな、といっておれの顔を押しのける。ところが、おれは、彼女の上からのしかかる、そこで、彼女も観念して・・・

 というお芝居。天衣無縫のいやらしさ、おおらかさ。猥褻な喜劇に見せかけながら、じつは、マキャヴェッリがイタリアの現状に冷然たる侮蔑をなげつけている。どうです、おもしろそうでしょう。

 入りはよくなかったが芝居はまあまあだった。このとき、主役をやらせた女の子のひとりが、今、参議院議員になっている。もうひとり、これも主役をやらせた女の子は、劇団のゴタゴタにいや気がさして私から離れてスペイン舞踊に進んだ。

 夢まぼろしのごとくなり。

2006/09/10(Sun)  355

 ある日、石井 漠と徳川 夢声が新橋あたりを歩いていた。
 石井 漠が、とあるビルに眼をやって、
 「ねえ、きみ、あのビルは動いているのか、いないのか」
 と訊いた。
 「ビルが動くはずがないじゃないか。どんなビルだって動いていないよ」
 徳川 夢声があきれたような顔で答えた。
 「ところが、じつは動いているんだ。ほんとうは、倒れまいとして、しっかり立っているだけなんだよ」
 石井 漠が答えた。

 映画批評を書いていた頃、私はよく新橋を歩いた。この界隈には試写室が多かった。映画を見終わって、戦後から大きく変わってしまったあたりを歩きながら、ときどき、このエピソ−ドを思い出した。

 どこで読んだのか。何かの雑誌に出ていたのか、夢声の随筆で読んだのか。
 日中戦争がはじまった翌年(1938年)頃の話らしい。
 石井 漠は、当時の日本を代表する舞踊家。徳川 夢声は、活弁(活動弁士/無声映画の説明者)から漫談に転向し、さらに俳優として映画や舞台に出た。
 戦後も、吉川 英治の『宮本武蔵』や『新平家物語』のラジオの朗読で人気があった。
 石井 漠、徳川 夢声を知らなくても、このエピソ−ドからいろいろと考えることができる。

2006/09/09(Sat)  354
 
 その界隈の酒場では、毎晩、いろいろな作家や編集者たちが集まって、誰かれなしに他人の作品を批評したり、ときには口喧嘩になったり殴りあったりする。
 私はそういうバ−には立ち寄らないことにしていた。

 彼女に案内された酒場は、その界隈でも、うらぶれた酒場のひとつだった。
 ベニアに合成樹脂を張ったドアを開けると、いきなりカウンタ−になっていた。なにしろ狭い空間で、客が五、六人も入れば、もう動きがとれない。
 「おや、いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
 彼女は、この店の常連らしく、バ−テンが声をかけてすぐにウィスキ−の水割りが前に出てきた。
 「ヤッちゃん、こちら、あたしの先生。よろしくね。・・先生は何になさる? おなじものでいい?」
 やがてなまぬるい水割りが苦い味を残して喉から胃にむかって落ちて行く。

 話題はいくらでもあった。私の仕事。しめ切り。つぎの仕事。しめ切り。彼女が私に依頼してきた仕事。そのしめ切り。
 彼女の卒業制作は有名な作家を論じたエッセイだった。大学を出て小さな業界誌の編集者になった。その後、もっと大きな出版社に移った。編集者としてやってみたい仕事。自分でも何か書いてみたいという。何を書いていいのかわからない。
 私は酔っていた。
 その視線の先に壁紙がわりに外国女優の写真のポスタ−が数枚、貼りつけられていた。マリリン・モンロ−だった。一枚は有名なヌ−ドだった。

 「そういえば、マリリン・モンロ−って、たしか夏に死んじゃったのよね」
 「1962年の夏」
 「ああいう女優って夏に死ぬのよね。・・よし、きめた。あたしも、夏に死ぬことにするわ。・・ね、いいでしょ、先生・・あ、信じていない。いいわ、いまに、ぜったい夏に死んでやるから」

 彼女の何杯目かのグラスが氷だけになっていた。

2006/09/07(Thu)  353
 
 やつがれ「ご幼少」の頃、銭湯ってよかも湯屋(ゆうや)のほうが通じましたナ。
 番台にすわってるのは、たいていひからびたシジイで。たまに近所でも評判の美人の娘がすわったりするてェと、さあ、たいへん、あっという間にひろまって、若い衆がワンサと湯屋に押しかける。子どももつれて行ってもらったり。帰りのラムネ、サイダ−がおめあてで、湯屋(ゆうや)に行くのがうれしかったですナ。

 湯気でくもったガラス戸を開けると、もうもうと湯気が立ちこめて、カランの前にくりからもんもんの爺さんがからだを洗っていたり。三助がねじり鉢巻きで客の肩をもんでいる。なかなか威勢がよござんした。しばらく揉むってぇと、両手をそろえて肩を打つ。上がり口、ザクロ口、洗い場から高い天井にポ−ンと音が響く。その音がいいもので。
 どうかすると、番台に三宝(さんぼう)が置かれて、お祝儀袋が積んであったり。
 どうも物日か何かで、その日は菖蒲湯だったんでしょうなあ。まだ、どこか江戸の名残りがただよっていた。

 近頃、まるっきり、銭湯に縁がなくなっちまったが、浮世絵の美人入浴図などを見ると、やはりなつかしいもんでさぁ。
 絵に描かれてる女のからだつき、体型は変わったが、そこに描かれているのは、どう見ても江戸の女の姿だからでしょう。
 あたしも、湯屋の番台にすわるくらいやってみたいもんで。エヘヘ。

2006/09/06(Wed)  352
 
 キリスト教について何も知らない。しかし、ルネサンスを勉強していたので、いちおうキリスト教についても勉強した。
 私が好きなイエスをあげるとすれば、

 パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。イエスは彼らに言われた。「あなた方は夕方になると、『空がまっかだから、晴れだ』と言い、「また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。
 そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
                (マタイ伝 16章1〜4節)

 この一節がいちばん好きなのだ。
 政治的に仲がよくないパリサイ人とサドカイ人が、共通の敵であるイエスに対して、天からのしるしを見せるように、と迫った。
 神が生きているなら、かならず「しるし」があらわれる。だから見せてくれ、といったのだろう。
 この一節のイエスを想像するだけで、パリサイ人やサドカイ人の反応まで見えてくるような気がする。
 私は聖書学者ではないので、神学的なことに関心はない。しかし、キリスト教を知らなくても、いろいろと想像することはできる。
 まず、イエスのみごとなダイアレクティックス(反論)におどろかされる。「時のしるしを見分けることができない人々」に対する、あざやかな否定。
 ヨナのしるしというのは、クジラの腹に飲み込まれた予言者ヨナが三日たって陸に吐き出されたという旧約聖書の物語をさす。そのくらいは私も知っている。
 ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられない、ということばは、処刑後のイエス復活が「天からのしるし」であることになる。
 そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
 このエンディングはすごい。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。このイエスの姿を想像していると、物語のみごとな終わりに驚嘆する。
 こんなことしか考えないのだから、私がキリスト教徒になれるはずもない。

2006/09/05(Tue)  351
 
 エリザベ−ト・シュワルツコップが亡くなった。(06.8.3)。享年、90歳。

 ハンス・カロッサに『一九四七年の夏』という作品がある。つい最近、なんとなく読み返したのだが、ふとエリザベ−トのことを思い出していた。
 私の「なんとなく」には理由があって・・・エリザベ−ト・シュワルツコップは、戦後、すぐに、『魔笛』を上演している。敗戦直後のドイツで、劇場らしい劇場はほとんど壊滅していた。オペラの上演など考えられなかった時代で、楽器も、音響設備も、照明器具も満足にそろわない舞台で、エリザベ−トは歌いつづけた。
 戦後ドイツの最初の歌声だった。
 じつはドイツ・オペラのことは、ほとんど知らない。
 昔のマルタ・エッゲルトや、ワグナ−ならシェルメ−ヌ・ル−ビンぐらいしか聞かなかった。好きな歌手もアンネ・リ−ゼ・ロ−テンブルガ−だから、ドイツ・オペラについてはまるで無縁だった。
 それでも、エリザベ−ト・シュワルツコップの『フィガロ』、『バラの騎士』あたりは聞いている。
 ずっとあとになって、この1945年の『魔笛』の録音を聞いた。録音はよくなかったが、エリザベ−ト・シュワルツコップが、戦後、誰よりも早くモ−ツァルトを歌ったことに胸を打たれた。

 評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかで、フランスのディ−ヴァ、ルネ・ド−リアのことにふれたが、このときドイツのディ−ヴァ、エリザベ−ト・シュワルツコップを引きあいに出した。(「第六部第五章」)
 ルネ・ド−リアと並んで、エリザベ−トの歌は心に響いた。

 エリザベ−ト・シュワルツコップが亡くなった晩、『ます』と『至福』だけを聞いた。1946年の録音。
 聞きながら、カロッサを思い出していた。

2006/09/04(Mon)  350
 
 明治百年(1967年)の東京見物はどういうものだったのか。
 「人力車で市中をゾロゾロと連(つらな)って廻る様な悠長でなく、定員百人乗の空中飛行機で、スルスルと空中へ舞ひ揚り、客には銘々に双眼鏡一個づつ持たせ、案内者は口に喇叭(ラッパ)の様な拡声器(ケラフォン)を当て、音楽の如き大声で説明する」。
 東京駅らしい部分だけ引用しておく。
 「其れから少しく北方の大きな硝子屋根が、中央大停車場で、其所を中心として卓(テ−ブル)の輪骨の様に集まる鉄道が見えませう。ネ、彼れが東海道線、中央線、中仙道線、東北線、東武線、海岸線、房総線路の鉄道であります。また市街々々の間には、東京市有の電車が、蜘蛛の巣の様に軌道(レ−ル)を引っ張て、走て居ますが、まだ彼の外に、地の底にも沢山の電車線があります。」
 見物人が、こんな海に近い、地の底に電車が通るものか。土鼠(もぐらもち)じゃあるめいし、田舎漢(いなかもの)だと思って馬鹿にしなさんな、と怒りだす。
 案内人はわらいながら説明する。
 地下の電車は会社が二つ、地の底十間も下に、大きな鉄管を伏せて、そのなかに鉄軌(レ−ル)を敷設する。これも、中央大停車場を中心にして、南は品川、北は千住、西は新宿、東は亀井戸まで、十文字に通じている。
 もう一つの会社の地下電車は、煉瓦で巻きあげた墜道(トンネル)で、上野、浅草、両国、銀座、日比谷、赤坂、牛込、本郷を一周する。
 停留所には、昇降機(エレベ−トル)とて、大き箱の中へ数十人の乗客を容れて、電力で入口から下まで釣り下げ、また釣り降して居ます。
 これは、「冒険世界」(明治43年4月20日号)の記事。
 「明治百年東京繁盛記」。書いたのは、坪谷 水哉。
 ドイツ皇帝が伯林(ベルリン)から東京まで、空中飛行機で訪日する、といった予想は当たらなかったが、鉄道、地下鉄については、坪谷さんの予想はすべて実現している。

 私たちには、これから10年後の日本の変化の予想もつかないのだが。

2006/09/03(Sun)  349
 
 フランスの少女ふたりが、日本のマンガにあこがれて、日本に行こうと思い立って、06年6月22日、わずかな所持金と、マンガ本だけバッグにつめて、ベルギ−、ドイツを経由、25日、ポ−ランドからベラル−シに入ったところで警察に保護された。旅行にヴィザ申請が必要ということも知らず、韓国まではシベリア鉄道を利用するつもりだったらしい。可愛いじゃありませんか。
 この事件は「リベラシォン」の記事に出た。
 この少女ふたりは日本のマンガ、「NARUTO」や「ビ−チガ−ル」のファンで、日本のマンガ文化に夢中だったらしい。なにしろ「めぞん一刻」がフランスで放映されてたいへんな人気だったくらいだから、少女たちが日本のマンガにあこがれても不思議ではない。いまのところ日本が世界に誇れるものはマンガぐらいだから。

 もし、この少女たちが無事に日本にたどりついていたら。私は、そのあたりのことを想像する。アフリカのニカウさんが来日したときとは違うだろう。

 私のマンガの知識は、「のらくろ」、「冒険ダン吉」、「日の丸旗之助」からはじまって、「鉄人28号」、「いがぐりくん」、「赤胴鈴之助」、「ビリ−バック」あたりから。女の子むきのものでは、「少女三人」や「ママのバイオリン」あたりから。「ベルばら」はとびとび。
 ある時期、あだち 充、細野 不二彦、岡崎 つぐお、神戸 さくみ、村生 ミオといったマンガ家をずいぶん熱心に読んできた。
 アニメを見なくなったのは「F」が途中で打ち切られた頃から。
 今では「おじゃる丸」をたまに見る程度。
 だから、「NARUTO」や「ビ−チガ−ル」は知らない。

 この少女たちが日本のマンガを読まなくなるようなことになりませんように。
 その前に外国旅行には旅券が必要という「常識」を身につけてほしいのですが。

2006/09/02(Sat)  348
 
 先日、テレビの「日曜美術館」で、ジャコメッテイをとりあげていた。この彫刻家は、当時、パリにいた矢内原 伊作をモデルに、おびただしいテッサンをとり、彫刻を制作した。若い頃、矢内原さんに会っただけだが、見ていてなつかしかった。
 ある芸術家が別の芸術家のモデルになる。たとえば、ショパンとドラクロワ。想像するだけでドキドキしてくる。もっとも、ブリジット・バルド−を描いた晩年のヴァン・ドンゲンのように、画家が無残な姿をさらしている絵もあるけれど。

 ヴァレリ−が、ジャック・エミ−ル・ブランシュのモデルになった。
 画家がヴァレリ−に文句をいった。
 「ねえ、ヴァレリ−先生。ふだん、あなたほど聡明なお顔をなさっている方はいません。あなたの叡智が眼にあふれ、口もとからほとばしっている・・。ところが、今はどうです。一週間前から、このアトリエには、いきいきしたところのない、眠ったようなヴァレリ−だけが、おいでになる。あなたはヴァレリ−じゃない、そういいたくなりますよ」
 その日、画家はヴァレリ−をひきとめていっしょに昼食をとった。ご馳走はたっぷり、ワインは最高。
 「午後、またしてもポ−ズという<刑罰>がはじまって、私はつい眠ってしまったんですよ、眼は開いたまま。・・私が、うつらうつらと夢みていると、突然、ブランシュの声が聞こえました・・・≪ああ、やっと≫と、叫びましたよ。≪ようやく、ふだんの聡明なお顔になりましたね≫って」

 これは、モ−ロアが書いている。
 きみたちは、このシ−ンから何を考えるだろうか。
 私ですか? 笑いましたね。だって、どう見てもヴァレリ−のほうが一枚も二枚も上だから。

2006/09/01(Fri)  347
 
 戦時中、『ドクトル・ビュルゲルの運命』や『幼年時代』を熱心に読んだ。しかし、戦後になってからは、ツヴァイク、ヘッセ、ケストナ−を読んでもカロッサは読まなくなった。それから60年、カロッサについては考えもしなかった。
 最近になって、『一九四七年晩夏の一日』を読んだ。カロッサ最晩年の作品である。(ドイツ文学の翻訳では、手塚 富雄、原田 義人、深田 甫といった名訳者に敬意をはらってきたが、この訳はよくない。)
翻訳に責任を押しつけるわけではないが、戦後すぐに読んで、私は感動したかどうか。おそらく一顧だにあたえなかったに違いない。
 1947年、バイエルンの小都市郊外に住んでいる老夫婦の日常と、彼らがたまたまめぐり会う名もない人たちが描かれている、少し長い中編。ヨ−ロッパの春はうららかで、さまざまな植物が美しく芽吹いている。そのドイツは敗戦の混乱のなかにあった。
 国破れて山河あり、という思いを読んだのは私の感傷だろうか。

 敗戦後の日本の作家が書いたものもずいぶん読んできた。里見 敦のエッセイ、広津 和郎のエッセイ、北条 誠の小説まで。しかし、カロッサの『一九四七年晩夏の一日』を読んでみると、日本の作家の思想の底の浅いことにおどろかされる。

 私は、今頃になってカロッサの作品をはじめて読んだ。べつにはずかしいとは思わないし、いまになってカロッサを読んだありがたさを思った。
 ただ、作家の晩年の作品を読んで、その作家の内面にあった苦悩や悲しみがわかるまでに、こちらもその作家とほぼおなじ年齢に達しなければならなかったというのは、なんとも悲しい。

2006/08/30(Wed)  346
 
 長いものは読みたくない。短いものを選ぶことにした。翻訳もの。近くの古本屋にころがっていた。
 うるわしく晴れた日の午後、若いトルコ人が宝石商の店先に立つ。この若者は数日前にバグダッドに着いたばかりで、「今や愈々募る驚きを以てその市の凡ての驚く可きものの間をさまよった」という。
 この書き出しから、私はいまやいよいよ募る驚きをもって、この翻訳のすべての驚くべきフレ−ズのあいだをさまようことになった。汗がふき出してきた。
 この若者は宝石を見て感嘆する。そして、「おお宝石」と彼は有頂天になって叫ぶ。

  「御前が王様達の冠を飾る為に選ばれたのも誠に尤なことだ、何故かと言って凡ての壮麗なものが一緒に御前の中に圧縮されそして浄化されて居るのだもの、則果敢ない日光は囚へられてお前の神秘な中枢に確りし閉じ籠められ褪せ易い五彩の色も御前の中に目出度浄化され不滅の生命を得、曇りない天の元素の風や火や水も御前の中に契りを結んで居る!」

 この冒頭から、仰天した。これは凄い!
 大正十四年のドイツ文学の翻訳で、昭和十年に再版されている。この訳者のものは、戦争中に読んだおぼえがあるのだが、少しもおもしろくないので放り出した。
 私があまりドイツ文学を読まなかったのも、最初にこんな翻訳にぶつかったせいかも知れない。

2006/08/28(Mon)  345
 
 吉井 勇にこんな歌がある。

    宮戸座の看板の前にたたずめる昔のわれを見るよしもがな

 ときどき、この歌をパロデイしてつぶやいた。

    アテネ座の看板の前にたたずめる昔のわれを見るよしもがな

 実際には、宮戸座も、アテネ座も知らないのだが。
 評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期。

2006/08/26(Sat)  344
 
 いつ頃からか、日本映画をほとんど見なくなってしまった。
 そのかわり見た映画は、だいたいおぼえている。
 「軍艦武蔵」、「無能の人」、「大誘拐」、「八月の狂詩曲」、「あの夏、いちばん静かな海」、「おもひでぽろぽろ」、「夢二」、「上方苦界草紙」といった映画。
 ほとんどがもう忘れられてしまった映画だが、「おもひでぽろぽろ」は、テレビで何度も見ているし、「八月の狂詩曲」はビデオで見直している。
 なぜ、日本映画を見なくなったのか。別に理由はないのだが、ソヴィエトが崩壊しはじめた時期で、毎日、世界史の大きな変換を見るような思いで、日本映画を見る余裕がなかったような気がする。
 むろん、それ以後も少しは見ているのだが、それ以前ほど熱心に見ることがなくなってしまった
 同時に、私の見た外国映画も本数は激減した。「羊たちの沈黙」、「シェルタリング・スカイ」、「テルマ&ルイ−ズ」、「コルチャック先生」、「マルセルの夏」、そのあたりはおぼえている。その後、外国映画は見つづけていたが、本数は激減した。
 試写に行かなくなったせいもある。当時の私は大学をやめ、長い評伝を書く決心をして、その準備にかかっていた。これも映画をあまり見なくなった遠因になった。

2006/08/24(Thu)  343
 
 あるとき、小学校の同窓会があって、私も出席した。
 長い歳月をへだてて少年時代の仲間に再会したのだか、みんなすっかり変わっていた。道ですれ違っても、お互いに同級生だったとは思わないだろう。
 それでも、しばらく話をしているうちに、お互いになつかしい顔を思い出すことになった。
 学校の前の駄菓子屋の息子も出席した。でっぷりして恰幅のいい初老の商人といった感じだった。席上、各自が挨拶したが、彼は、小学校でいちばんの美少女にあこがれていたことをうちあけた。みんなが笑った。クラスの全員がその少女にあこがれていたからだった。
 私もずいぶん美少女を見てきたが、美少女ということだけでいえば、彼女ほどの美少女を見たことがない。人形のようなおもざしの優雅さ、その容姿の美しさでは、これほど非のうちどころのない、文字どおりの美少女といってよかった。
 成績もよかった。いつも全校のトップクラス。
 当然、全校で評判になって、クラスの全員がひそかにあこがれていたはずである。彼女が成人するまで待って、求婚しようとしている先生もいた、という噂もあった。

 私の住んでいた土樋から先の越路に彼女の家があったので、たまにいっしょに帰ったり、ほんの少し話をしたことがあった。それだけでもうれしかった。
 ただし、この美少女が私の初恋の人だったわけではない。

2006/08/22(Tue)  342
 
 小学校の正門の前に「出雲屋」という文房具屋があった。文房具も売っていたが、実際は駄菓子屋で、子どもたちが日に一度は、何かしら買いに寄るのだった。
 この店の息子が同級生だった。たいしてめだたない生徒だった。
 この店で売っているものは、けんだま、こま、パッタ(メンコ)、日光写真。これは、小型の印画紙、セロファンに印刷された白黒のタネイタ。これをかさねて半透明のセロファンの袋に入った古い活動写真のフィルムが1枚。
 食べ物としては、アンコ玉、ネジリンボウ、のしイカ、細く切った塩コンブ、豆モチ、ニッケ(肉桂)、コンペイトウ、カワリ玉(マ−ブル)、テッポウ玉。
 ラムネ、サイダ−。
 トシケというあてものがあって、ジグソウパズルのように、ちいさくてまるい紙、表面の紙をはがすとアタリ、ハズレの文字が出てくる。アタリをとったことは1度しかなかった。

2006/08/20(Sun)  341
 
 私の少年時代は、世の中、のんびりしたものだった。
 どこの町に行っても、たいていガキ大将というのがいて、これが(学校の成績は別として)まことに才知にあふれたヒ−ロ−ときまっていた。
 子分(といっても小学生。せいぜい中学二年まで)をひきつれて、紙芝居を見に近隣の町に出かけて、(あとで自分のテリトリ−にまわってくる)、見物場所の奪いあいから喧嘩になったりする。その喧嘩をおさめるのが、これまた別の町のガキ大将だったりするのだが、お互いに引き上げどきの駆け引きも心得ていた。
 親たちも、わるい遊びをしたところでガキ大将を睨みつけるだけで、むしろ、あの子が大将なら遊んでも大丈夫、と寛容なものだった。というより、まるっきり放任していた。ガキ大将のほうも、まとめてよその子の面倒を見るのだから、しっかり責任をとらなければいけない、と心得ていた。
 遊ぶといっても悪いことはしない。肥後守(ひごのかみ/小刀)ぐらいはポケットにしのばせているが、これは竹を切ったり、塀に相合い傘を彫りつけたり。ませたヤツは、旭日章に棒一本。どこの厠(かわや)にも描いてあったものである。
 子どもたちは横町の路地でパッタ(メンコ)かベエ、三、四人なら鬼ごっこ、女の子にまじってナワ飛び、セッセッセ。コ〜トロコトロ。遊びにあきるとゾロゾロと雁首そろえて、近くの川原に出かけたり、ヘビ、ムシ、オタマジャクシをつかまえる。
 のどが乾けば、池のほとりに片膝をつき、掌で水面のゴミをサッとはらって、すかさず水をしゃくって飲む。手練の早業。活動写真で嵐 寛寿郎(アラカン)がやったとかで、ガキ大将がやってみせる。幼い子どもが真似しても、袖口が濡れるだけだった。
 腹がへってくる。ガキ大将が、一銭か二銭、子分から銅貨をかきあつめて、焼き芋か煎餅、ときには子どもめあての屋台のドンド焼きなぞ買い込んで、みんなに分配する。
 最近の子どもたちのように、学校から帰るなり、テレビにかじりついてゲ−ムに熱中するなんてことはなかった。コリントゲ−ムが出てきたときは、たいへんなゲ−ムが「発明」されたものだと思った。
 少子化問題など、この世のどこにもなかった時代の話。

2006/08/19(Sat)  340
 
 月に一度、「文学講座」をつづけているのだが、幹事の田栗 美奈子がウ−ロン茶を用意してくれる。これも幹事の浜田 伊佐子がロンドンで買ってきたプラスティックのカップを用意してくれる。このウ−ロン茶がおいしい。
 そのことからの連想だが・・・
 TVコマ−シャルのなかでは、サントリ−のウ−ロン茶のコマ−シャルが好きである。 サントリ−のウ−ロン茶のコマ−シャルだけをあつめたCDをもっている。これがとてもいい。
 初期のコマ−シャルは、中国の少女がキャンディ−ズの「春一番」、「暑中お見舞い申しあげます」、「微笑み返し」(94年)といった曲を歌っていた。とっくに流行らなくなっている曲が、中国の可憐な少女の声でまったく別のト−ンを帯びていた。
 「遙かなる武夷山」(90年)だけは30年代の上海の歌星、白光やチョウ・シェンといった歌手の曲を使ったらしいが、こうしたリ−ニュ(ライン)はアミンを起用した「大きな河と小さな恋」(03年)につづいている。
 一方、中国少女の歌は、シュ−べルトの「鱒」(96年)や、「蘇州夜曲」(99年)、さらにマドンナの「ライク・ア・ヴァ−ジン」(01年)や、笠置 シズ子をカバ−した「上海ブギウギ」(02年)とつづく。
 中国少女が中国語で歌うのだから、それまで私たちがもっていた曲とはまったく別のものになる。ふつうの少女の歌だからうまいとはいえない。しかし、原曲にはないイノセントなものが私の心に響いてくる。アマチュアリッシュといっても、カラオケで歌われる歌とは違って、もっと澄みきった子どもっぽさ、純真さがあらわれる。こうした無邪気さが、ウ−ロン茶のおいしさに重なってくる。プロデュ−サ−、ディレクタ−のねらいはそのあたりにあったはずで、サントリ−のウ−ロン茶のコマ−シャルがいつも成功してきたのだろう。
 プロデュ−サ−、ディレクタ−がどういう人なのか知らない。しかし、このコマ−シャルだけで会社の品位の高さが感じられる。そういうコマ−シャルはすくない。
 私はこのCDを作った人にひそかに敬意をもっている。たいへんに教養のある、しかもアジアの音楽をほんとうに愛している人に違いない。
 ひところのアジア・ポップスの流行はもはや雲散霧消したが、そんな現象とは無関係に、このCDは、アジア・ポップスとして、私の心を深くとらえつづけている。

   http://www.toshiba-emi.co.jp/st/special/chai/chai/index_j.htm

2006/08/17(Thu)  339
 
 オ−クシイ男爵夫人の『紅はこべ』を訳したことがある。さいわい好評だったので、続編を訳す気になった。
 プロロ−グで、「マルニ−侯爵」は死病の床についている。ヒロインの「ジュリエット」の父である。ようやく七十歳になったばかり。なるべく、オ−クシイ男爵夫人ふうに紹介してみよう。
 彼は十二歳になったばかりで国王につかえるお小姓に召し出されて、宮廷で過ごしてきたが、かれの人生が終わりを告げたのは・・・十年ほど前の、人生のさかりのさなか、天の容赦ない手に打ちのめされた。がっしりした樫の老木がなぎ倒されるように、みるみる衰弱の一途をたどり、ついには死にいたるまで逃れられない車椅子に・・・足萎えの廃人として・・・縛りつけられたときであった。
 当時、ジュリエットは、いまだ胸のふくらみもおぼえぬいたいけな少女ながら、老公のいやはての幸福な歳月、手塩にかけてそだてられ、それこそ眼に入れても痛くない娘になった。どこか母をしのばせる憂愁のおもざしが、彼女の裡にただよっている。その心優しい母君は、何にまれしんぼうづよく耐え忍び、すぐれて雄々しい夫を心から愛し、寛容をもって夫につかえてきた女人であったが・・・いたいけな重荷を・・・生まれおちたばかりの娘を残して、あわれにもみまかったのである。
 まあ、こんな調子で、小説は展開してゆくのだが、残念ながら、この『続・紅はこべ』はとうとう出なかった。
 私の人生の途上に、さまざまな挫折や失敗が重なっている。いまだって、天の容赦ない手に打ちのめされているのだが、まだ、人生が終わりを告げたわけではない。
 しかし、もはや『続・紅はこべ』を訳す気力はない。
 ほんとうに気力、体力が充実していないと、翻訳という仕事はできないのだ。

2006/08/15(Tue)  338
 
 いまはもう誰も読まない本を読む。
 鶴田 知也の『若き日』(コバルト叢書/1945年)を見つけた。昭和二十年十二月一日発行とあった。定価、参円八十銭。すなわち敗戦後の大混乱のさなかに刊行された作品だった。
 鶴田 知也は、「文芸戦線」系のプロレタリア作家として知られている。昭和11年、『コシャマイン記』で芥川賞を得た。
 敗戦直後に、この作家は何を考えていたのか、どういう思いでこの作品を書いたのか。もしかすると作家がもっとも早く敗戦に対応した例かも知れない。
 そのあたりの興味で読んでみた。おどろいたことに、ごくありきたりの恋愛小説だった。戦争は影もかたちもない。むろん、敗戦直後の日本の姿もない。新農民をめざして北海道の酪農に従事する青年が、デンマ−クの酪農家の本に刺激されたり、老子の思想に関心をもったりしながら、美しい娘と恋愛する。それだけのことで、内容はおよそ空虚で、さりとてメルヘンを読むような楽しみもなかった。戦意高揚のために書かれたものではなかったが、小説としてはまったく見るべきところがない。これは驚きだった。というより、信じられない思いがあった。
 いわゆる「玉音放送」で戦争が終わって、占領軍が日本全土に展開する(9月12日だったと思う)まで、民衆は虚脱したようにとまどい、神州不滅を信じていた軍人たちはまだまだ狂気にとらえられていた。すべてが突然に沈黙し、すべてにわたって、絶望と希望がせめぎあい、白日のなかで佇ちつくしていた日々。日本人の誰もが、これからどうなってゆくのかという思いにかられていたなかで、この作家がこういう小説を書いている。
 おそらく戦時中に農業雑誌か何かに連載され、出版の予定だったものが、敗戦直後の激動のなかで、出版社としてはほかに出せる作品もないまま出したに違いない。
 『コシャマイン記』の作家が、戦後すぐに出した作品が、こういうものだったことに、私なりに感慨があった。というより、なんともいえないいたましさをおぼえた。
 あの混乱のなかで、この作品がはたして読まれたのだろうか。おそらくほとんど誰にも読まれずに終わったのではないだろうか。
 この小説は、書かれたときに死に、出版されたときに死んだ。そしていま、私に読まれることによってまたも死ななければならない。なんという無残なことだろう。
 私はこの小説を読んで、一日じゅう暗澹たる思いだった。
 作家にかぎらず、芸術家には、自分ではどうしようもない運命にながされることがある。この本が出たとき、鶴田 知也はみずからの運命をどういうふうに引き受けたのだろうか。

2006/08/13(Sun)  337
 
 女優のシモ−ヌ・シモンが亡くなったのは、05年2月22日。享年、93歳。
 誰か追悼のことばを捧げるのではないかと期待したが、誰も彼女の映画を知らないらしく、追悼する人もいないようだった。エドウィ−ジュ・フィエ−ルが亡くなったときだって、誰ひとり吊詞を書かなかったけれど。

 1914年4月23日、マルセ−ユ生まれ。(新聞のオ−ビチュアリでは1911年生まれになっていた。)
 母がイタリア人。1930年、パリに出て、衣装関係の工場で、デザイン助手のような仕事をしたという。まあ、お針子に近い仕事だったのだろう。30年に「知られざる歌手」(V・トゥルヤンスキ−監督)に出たというが、16歳、端役もいいところだったに違いない。
 私の調べたところでは、まったく無名の踊り子として「ボゾ−ル王の冒険」という舞台に出た。この踊り子たちのなかに、シュジ−・ドレ−ル、メグ・ルモニエたちがいた。
 翌年、映画監督、マルク・アレグレが、「マムゼル・ニトゥシュ」に起用している。さらに32年、イタリアのカルミネ・ガロ−ネ監督が「アメリカの娘」で彼女を使っている。どうやら「娘役」(ジュヌ・プルミエ−ル)として認められたらしいが、戦前の日本では見る機会がなかった。
 彼女の存在が知られたのは、「乙女の湖」(マルク・アレグレ監督/34年)だった。
 私は戦後すぐに、偶然、この映画を見た。シモ−ヌはまさに青春の輝きを見せていた。敗戦直後の日本には見られない輝き。まだ戦争の影がさしていないフランスに、こういう美少女が存在していた。いや、戦後のフランスもまた、さまざまな脅威にさらされている。そうした混乱の彼方に、なお、こういう「戦間期」の美少女を見ることが、私にとって救いに見えた。こういう輝きは、シモ−ヌを見るまでは知らなかった。これは発見だ。私はそんなふうに考えたらしい。シモ−ヌの、ほとんど高貴といっていい明るさは、清らかな水のように私の心にしみた。
 美貌だが、チンクシャでオチョボグチ、幼さと妖艶さがいりまじった美少女。まるでネコ科の動物のような魅力があった。現実にも“Femme−chatte”と呼ばれていたことをずっとあとで知って、なぜか納得したおぼえがある。この映画で妹をやっていたのがオデット・ジョワイユ−。まだ、少女だった。
 この映画のあと、シモ−ヌはすぐにハリウッドに招かれた。残念ながらこの時期のハリウッド映画は見ていない。
 フランスに戻って、「獣人」(ジャン・ルノワ−ル監督/38年)でジャン・ギャバンと共演した。かつての美少女が、まるっきりゾラの女になっていた。
 シモ−ヌがふたたびアメリカに移ったのは、第二次大戦が起きたことによる。
 この時期の映画は見ることができた。日本で公開されたときの題名は忘れたが、「悪魔とダニエル・ウェブスタ−」(ウィリアム・ディタ−レ監督/41年)や「キャット・ピ−プル」(ジャック・トゥルヌ−ル監督/42年)など。
 私にとってもっとも興味があるのは、戦後すぐにフランスにもどったシモ−ヌの「ペトリュス」(マルク・アレグレ監督/46年)である。これは、1934年、ルイ・ジュヴェが舞台で上演したもの。これは見たかったなあ。
 シモ−ヌの映画は、当時の日本には輸入されることがなかった。それに、シモ−ヌを追って、戦後はダニエル・ドロルム、フランソワ−ズ・アルヌ−ル、ダニ−・ロバンたちがぞくぞくと登場してくる。
 1950年、シモ−ヌはマックス・オフュ−ルスの「輪舞」に出た。翌年、「オリヴィア」のシモ−ヌを見たのが最後だった。

 私たちは、映画や舞台で、ほんとうにみごとな演技を見せる美少女たちをたくさん知っている。たとえば、イザベル・アジャ−ニ。たとえば、ジョデイ・フォスタ−。しかし、シモ−ヌのように、しなやかな、まるでネコのような女優、豪奢な毛並みのよさ、狡猾で、すばやい動き、そのくせどこかもの倦い感じをもった女優はほんとうに少ない。チンクシャのペルシャネコのような不思議な魅力。そこに見える、若い女のくもりのなさ。そのまなざしに残忍な光りをたたえて。その姿態はエロティックだが、激情は見せない。現在の女優では、いくらかレニ−・ゼルウィガ−が近い。むろん、シモ−ヌとはまるで似ていないけれど。

 93歳。あの美女が老婆になったところは想像もつかない。三島 由紀夫の『卒塔婆小町』のことばを思い出す。「あんたみたいなとんちきは、どんな美人も年をとると醜女になるとお思いだろう。ふふ、大まちがいだ。美人はいつまでも美人だよ。」
 そうなのだ。
 かつて胸をときめかせた異国の電影女星を想い起こす。それは、もはや過ぎ去った世界のあやかしの数々を過去から奪い返すことなのだ。そして、私の老いの横糸、縦糸のひとすじひとすじを解きほぐすことでもある。かつての銀幕の妖精たちは、いまも私の内面に美をもたらしている。
 93歳のシモ−ヌは、私にとっては異界の女、卒塔婆小町ではないか。
 さいわい、私はもはやシモ−ヌを見ることはない。

 アディユ−、シモ−ヌ。

2006/08/11(Fri)  336
 
 私が歌川 国芳の評伝を書くはずもないが・・・このエピソ−ドを書き込むだろうか。おそらく書かない。前回、そう書いた。
 書かない理由は、おわかりだろう。この逸話には、どこかうさんくさいところがある。だから、わざわざ書く必要もない。
 国芳が画家としてどんなに熱心に対象に迫ろうとしたか。結果として、国芳のリアリズムを高く評価する。こうして誰もが納得する批評が成立する。
 ここのところがうさんくさい。
 おなじ注文を受けた画家が、かならずや身分の高い諸侯の眼にふれるものと心得て、つつしんで筆をとり、美しい女たちの入浴の図を描いた。誰が軽蔑できるのか。
 国芳を称賛する人は、大名におもねって美人入浴の図を描いた国貞を冷笑したかも知れない。この逸話には、国貞に対する無意識の軽蔑、あざけりがひそんでいる。私は、こういう批評上のトリックをいつも不快に思ってきた。ほんとうは諸侯たちの審美眼など、まったく信じていない国貞が、つつしんで筆をとったと見せかけて、のうのうと美女たちの入浴の図を描いたかも知れないではないか。国貞ほどの画家はそのくらいの芸当ができないア−ティストではない。
 もし、歌川 国芳の評伝を書いて・・・このエピソ−ドを書き込むとすれば、わたしはもっと別の視点からとりあげるだろう。それは、芸術家としてのヴォワイユ−リズム(のぞき趣味)である。国芳をいやしめるためではない。ピカソなどに見られる強烈な生命のダイナミズムなのだ。ヴァン・ドンゲンのような美人画家の内面に何があったか、そんな連想から、国貞のふてぶてしい韜晦ぶり。
 私は江戸の芸術家たちを尊敬しているのである。

2006/08/09(Wed)  335
 
 評伝を書くとき、逸話(アネクド−ト)を入れるかどうか。けっこう真剣に悩んだりする。逸話は、その人の意外な一面を物語っていたり、同時に、その逸話こそがいかにもその人にふさわしいものに見えるから。
 あるとき歌川 国芳は、さる大名の依頼で一双の屏風絵を描くことになった。表は山水画だが、裏は江戸市中の女風呂の図という注文だった。
 同門の国貞もおなじ注文を受けた。国貞は身分の高い諸侯の眼にふれるものと心得て、つつしんで筆をとり、美しい女たちの入浴の図を描いた。
 町絵師の国芳にしても女湯の中までは知らないので、近所の湯屋(ゆうや)のあるじに頼み込んで、毎日、釜湯の板戸の隙間から女湯をのぞかせてもらった。
 裸の女たちの肌、からだつき、性毛ばかりではなく、女たちの年齢や、職業、階級といったあたりまで丹念に写生した。
 やがて、絵屏風がその殿様のところに届けられた。その絵には、さまざまな女の姿態があざやかに描かれていた。流し場でまともに正面を向いてかけ湯を使っている女、初心らしくつつましく腰を落としている娘、みるからに商売女とわかるあけすけな姿、たちこめる湯気のなかに、裸女たちのししむらが描きだされていた。
 某侯は、一夕、この屏風の披露の宴を張った。招かれた諸侯は、国芳のみごとな技量を称賛し、このような絵を描かせた主人をうらやんだという。
 国貞の絵には、さしたるお褒めのことばもなかったらしい。

 私が歌川 国芳の評伝を書くとして・・・このエピソ−ドを書き込むだろうか。
                       (つづく)

2006/08/07(Mon)  334
 
 何かを読んでいて、ふと眼についたことばからまるで別のことを考える。私の悪徳のひとつ。
 「限りなき回想と、とどめえぬ感傷。少なくとも僕は、新しく加わった執筆者も含めて、本誌の書き手にはそれを望まない」。                      
 清水 信は、三重県鈴鹿在住の批評家で、長年、同人雑誌の批評をつづけ、現在も新しい文学ジャンルをめざす「詩小説」を主宰して後進の指導にあたっている。このことばには清水 信らしいきびしさがある。
 これに対して、執筆者のひとりが書いている。
 「近来、ものを書こうとすると回想と感傷しか浮かんでこない。それをごまかすために、何度か奇怪な性を描いたり、歴史物に挑んだりしてきたが、それももはや種が尽きたようだ。残っているのは、とめどもない回想と限りなき感傷。」と。
 おもしろいのは、清水 信が「限りなき回想と、とどめえぬ感傷」といっているのに、こちらは「とめどもない回想と限りなき感傷」といっていること。
 わずかないい換えだが、それぞれの資質、方向、姿勢の微妙な違いが読みとれる。
 私の場合はどうだろう、と考えた。
 「限りなき回想」にふけることはない。私の思い出には限りがあるし、思い出したところで、すぐに忘れてしまう。それをごまかすために、奇怪な性を描いたり、歴史ものを書いたこともない。
 何かを思い出したときに「とどめえぬ感傷」にふける。それは私にもあるだろう。むろん、書くつもりはない。もともと自分を感傷的だと思っているから。

 何かを読んでいて、ふと眼についた一節からまるで別のことを考える。これは私の楽しみのひとつ。

2006/08/05(Sat)  333
 
 「舞踏会の手帳」(ジュリアン・デュヴィヴイエ監督)については、評伝『ルイ・ジュヴェ』でふれた。
 若い未亡人、クリスティ−ヌ(マリ−・ベル)が、身辺を整理しているうちに見つけた手帳に、はじめての舞踏会で自分に思いを寄せてきた男たちの名前がしるされている。彼女は夫を失った傷心を忘れるために、過ぎ去った日々の恋の相手をさがす旅に出る。
 ルイ・ジュヴェのエピソ−ドは第二話。
 表むきはキャバレの経営者だが、通称ジョ−と呼ばれるギャングのボス。思いがけず尋ねてきたクリスティ−ヌを、高級コ−ルガ−ルと間違える。しかし、彼女が若き日のピエ−ルの思い出のために訪れたと知って、ヴェルレ−ヌの詩をくちずさむ。

       凍てのなか ひと気なき庭園に
       いまし 影ふたつ 過ぎゆきぬ

 ジョ−は、詩の冒頭、Dans(なか)を、Par(沿って)と間違える。これだけで私たちは、ジョ−が淪落の人生を送ってきたことを知らされるのだ。このシ−ンはルイ・ジュヴェの凄みがマリ−・ベルを圧倒している。
 詩が終わったとき、警察がジョ−を逮捕する。
 “Adieu,Christine! C’est fini.”
 ジュヴェの声がいまでも耳から離れない。「こんなことは、たいしたことじゃない。連行されてゆくのはピエ−ルじゃない、ジョ−さ。ピエ−ルはきみに残してゆく」
 忘れられないセリフ。つらいことがあると・・・サ・ナ・パ・ダンポルタンス(こんなことは、たいしたことじゃない)とつぶやく。そして、je vous le laisse.と。
 女にふられたときも。

2006/08/03(Thu)  332
 
 遠い海鳴り。
 歩きつづけると、いきなり崖になる。
 海鳴りはそこからさらに遠のいて、はるかなところからわきあがってくる。
 波がしらがうねり、押し寄せて、すぐに白い砂を侵してひろがり、長くのびた汀が、ながながとくろくいろづいて行く。

 海辺の町は潮の匂い。しばらく前は漁師の家が立ち並び、白く乾いた砂ぼこりが舞いあがって、その道を日灼けした女たちが、赤いしごきに絣、醤油で煮しめたような手拭いをかぶって歩いていたものだった。
 いまは、安っぽいプレハブの小屋や、いかにも規格通りの別荘が並んでいる。

 私は、毎年、この浜辺に十人ばかりの女の子たちをつれて行った。私のクラスで翻訳の勉強をしているひとたちのグル−プや、女子学生たちだった。日帰りで帰る女の子もいたし、二、三日、のんびりすごす女の子たちもいた。
 それぞれが未決定の未来にむけて歩もうとしていた若い女性たち。
 画家の小林 正治や、人形作家の浜 いさをもいっしょに招いたことがある。

 最近、ある作家が自分の青春を回想していた。のちに結婚することになる娘さんが登場してくるのだが、彼女も女子学生の頃、私たちのグル−プといっしょにこの海辺にきたことがある。やがて、パリに去って行った私の「恋人」もそのときいっしょだった。

 もし私が青春の回想を書くとすれば、この海辺の思い出を書くことになるだろう。

2006/08/01(Tue)  331
 
 かつて志賀 直哉は小説の神様といわれていた。昭和前期の横光 利一は、文学の神様といわれていた時期がある。
 私が志賀 直哉の作品でおもしろいと思うのは、初期の短編だけで、横光 利一は、やはり初期の『機械』あたり、『榛名』などの名品のいくつか、あとは『旅愁』は最初の一巻だけである。神様には、どうやら縁がなかった。
 横光は、時代が彼に強いたせいもあるが、日本とヨ−ロッパをいつも対比的に見ていた作家だった。
 道元の、鳥飛んで鳥に似たり、魚行きて魚に似たり、ということばを引用して、こんなにも簡潔に自然と純粋をいいあらわした言葉はない、という。

      そこへ行くとヨ−ロッパの法則は中ごろからギリシャの数学のために人間を馬鹿にしてしまった。このため、これに触れた優れた人物は、陸続として眼で見たものだけを信用し、同時にこれを愚弄せずにはおられなくなり、チェホフやヴァレリィのやうに暗澹となって動かうとしない。法則が愚者を建造してその中に住むのである。

 昭和九年(1934年)十月のエッセイ。(「覚書」金星堂/1940年刊)
 当時の「文学の神様」が、こんなに雑駁なヨ−ロッパ理解しかもっていなかったと思うと憫然とする。19世紀、専制ロシアに生きたチェホフは、はたして暗澹として動かなかったか。20世紀、ヴァレリィが暗澹として動かうとしなかったのか。

      人間が人間のために立たねばならぬと云い出して敢然と立ち始めたのがジッドである。それが再び唯物論に転向したが、これもこの世を極楽にするためには、人行きて人に似たりといふ観念論的な地獄への到達から、一層のこと地獄は地獄をもつて洗ふべしと思ったことによるのにちがひない。

 こういう一節を読むと、横光 利一にあきれるしかない。頭がわるいのは仕方がない。時代の良心と見られていた作家が、一所懸命に考えていたことがこのような妄語につきる、そのことが哀れなのだ。
 もとよりこれは自戒でもある。

2006/07/30(Sun)  330
 
 私は美少女が好きである。いや、好きだったというべきだろう。
 若松 みゆき、森山聖子、星野明日香、長岡久美、川奈邦子たち。もっともっといたっけ。霧賀魔子。もう、みんな中年のオバサンになっているだろうな。
 美少女なら誰でも好きというわけではなかった。宇都宮すばる。一文字 愛。おなじ「みゆき」でも、鹿島みゆきは、それほど好きではなかった。
 若松 みゆきは、いうまでもなく、あだち 充のみゆきちゃん。
 森山聖子は、「ときめきのジン」のヒロイン。やたらに明るくて、可愛くて。村生 ミオの作品の美少女たちは、「胸さわぎの放課後」の沢田知佳にしても、ちょっとむっちりしていて、だいたい森山聖子タイプの少女が多かった。
 星野明日香は、原 秀則の「さよなら三角」。女子高生。すれ違いばっかり。
 長岡久美は、明るくて、素直。セ−タ−の胸に白いLOVEという字が浮きだして。
 川奈邦子は「翔んだカップル」の柳沢 きみおが、つぎの作品に登場させたヒロイン。どこか、いたいたしい感じがただよっていた。
 霧賀魔子は「さすがの猿飛」に出てくる美少女。しばらくして「ラムちゃん」が出てきたので、もう誰もおぼえていないだろう。

 80年代の私はマンガをよく読んでいた。いま思い出しても、すぐれたマンガが輩出していた時期だった。系統的に読んだわけではないし、気に入ったものばかりを読んだわけでもない。則巻アラレという美少女が出てきた時代に、石井 隆を読む一方、「番外甲子園」に驚いたり、「あさりちゃん」、「タラッタポン」が好きという、いいかげんなファンだったから、オタクにはならなかった。それでも、「サンケイ」でしばらくマンガ評論めいたものを書いたことがある。ルネサンス関係の本や、文壇小説の書評を書くよりずっと楽しかった。
 やがて、担当だった服部 興平が亡くなってこの連載は打ち切られてしまった。マンガについて書かなくなって、美少女にも興味がなくなった。
 その後、マンガも読まなくなったが、ちょっと残念な気がする。
 

2006/07/28(Fri)  329
 
 奄美大島に詩人がいる。詩集を何冊も出しているので、詩壇では知られている。
 進 一男である。
 1945年、19歳。偶然、武者小路 実篤を知って、日向の「新しき村」に行くことになる。ところが鹿児島に帰って召集令状がきていることを知り、九日しかない日数で、小説を書きつづけた。少年は、これが最後の作品になるとひそかに覚悟はしていたが、「これが遺書代わりだなどとは」いわない。
 彼が書いたのは『クレォパトラの鼻に就いて』という短編だった。
 これが、戦争とはまったく関係のない寓話的な、どこか皮肉な、若者らしい夢想に彩られた「奇想」の作品になっていることにおどろかされる。
 原稿は木箱におさめ、風呂敷に包んで、入隊前に母と姉に預けられた。母と姉は空襲のたびに原稿を濠に入れ、隣家まで焼けたときにはその包みをもって裏山をよじのぼったという。
 敗戦後、その原稿は復員した進 一男の手に戻った。
 現在、八十歳になった詩人が、入隊前にあわただしく書きあげた十代最後の作品を出版した。「遺書代わりになるかも知れない気がどこかに無くはなかった作品」という。

 進 一男は、私と同期で、彼が入隊してから、ついに一度も会うことがなかったが、十代最後の作品を八十歳になって出版した詩人の幸福を思う。

2006/07/27(Thu)  328
 
 岡本 綺堂のお墓に詣でたことがある。
 青山墓地に桜を見に行って、たまたま尾崎 紅葉の墓に立ち寄った。すぐ近くに岡本 綺堂のお墓を見つけたので合掌した。はるかな時代の作家に敬意を払うのもわるくない、その程度の気もちだった。
 綺堂は『半七捕物帳』の作家として知られているが、劇評は貴重なものだし、劇作家としての綺堂は、逍遙、鴎外などよりすぐれていると思う。中国の古典にも造詣が深い。ほんとうは綺堂のような人こそほんとうの知識人と見ていい。
 晩年の綺堂は、中国古典の志怪の書を訳した。その凡例に、

   訳筆は努めて意訳を避けて、原文に忠ならんことを期した。しかも原文に拠ればとかくに堅苦しい漢文調に陥るの弊あり、平明通俗を望めば原文に遠ざかるの憾(うら)みあり、その調和がなかなかむずかしい。殊に浅学の編者、案外の誤訳がないとは限らない。謹んで識者の叱正を俟(ま)つ。

 翻訳者なら、誰しもおなじ思いを知っていよう。しかも、綺堂訳は、なまなかな研究者のおよびもつかない名訳といってよい。
 私は岡本 綺堂に敬意をもっている。お墓に詣でたのは偶然だったが、うれしかった。

2006/07/26(Wed)  327
 
 宋定伯という男が夜道を歩いていた。その道で人に会った。
 「あんたは誰だ?」
 と尋ねると、
 「おれは鬼(クィ)だよ」
 相手が問い返してきた。
 「あんたは誰だ?」
 という。
 「おれも鬼(クィ)なんだよ」
 そ知らぬ顔で、いい返すと、
 「どこに行くんだ?」
 「宛(えん)の市場に行くところさ」
 「おれもそこに行くんだよ」
 そのままつれだって数里行くと、鬼(クィ)が、
 「疲れたな。交代でオンブしよう」
 鬼(クィ)がまず宋定伯を背負って、また数里行くと、
 「あんた、やけに重いぜ。鬼じゃないんじゃないか」               
 「死んだばかりなので重いんだよ」
 こんどは定伯が鬼を背負ってやったが、まるっきり重くない。何度か交代して、宋定伯が訊いた。
 「じつは、おれは死んだばかりなのでよく知らないのだが、鬼は何が苦手なんだい?」
 「人に唾を吐きかけられると、ひとたまりもない」
 さて、このつづきは伏せておく。 
この引用は、私なりに書き変えたものだが、中国の『列異伝』に出ているという。岡本 綺堂の『中国怪奇小説集』(本間 祥介・解説)で知った。
 こういうお話が好きなのだ。私に才能があったら、これを脚色して、不条理劇にするか、子どもむきの絵本にしたいところだが。
 もう三十年ばかり昔だが、香港で怪奇ものの映画を数本見てから、中国古典の志怪譚(ホラ−)に関心をもってきた。数年前に、墨子についてエッセイを書いたのも、『明鬼篇下』を読んだせいだった。怪奇現象をとりあげて、その実在を論証しようとしたもの。
 私にはむずかしい内容だったが、墨子は孔子さまを痛烈に批判している古代中国の思想家。よくわからないのに、私は墨子を尊敬している。
 今年の夏は、また中国古典の志怪譚(ホラ−)を読もうか。

2006/07/24(Mon)  326
 
 旅ゆけば、駿河の国は茶の香り・・
 広沢 虎造の名調子は小学生でも知っていた。
 いまのようにテレビがあるわけではなく、ラジオで聞くだけだったが、「石松代参」のオ−プニングが聞こえてくると、一言一句聞きもらすまいと、ラジオにかじりついた。
 浪曲のファンだったわけではない。だから鼈甲斉 虎丸の「安中草三」を聞いてもわからなかったし、木村 重友の「河内山」や寿々木 米若の「佐渡情話」を聞いても、魂を奪われるような感動はなかった。
 広沢 虎造だけに夢中になった。
 「おう、江戸っ子だってねえ。寿司食いねぇ」
 渡し舟に乗りあわせた客の話にうれしくなった「石松」が、寿司をすすめるあたりになると、「石松」の有頂天ぶりが眼に見えるようで、思わず笑いがこみあげてくる。
 その頃の浅草には、定席ではなかったが、江戸館、並木亭、遊楽館といった小屋がずらりとあって、春日 清鶴、東家 楽燕、天中軒 雲月といったそうそうたる顔ぶれがでていた。
 浪曲の定席だった音羽亭が、金車亭になって、講釈に代わって浪花節が全盛を迎えようとしていた時期だった。むろん、講談がなくなったわけではない。一龍斉 貞山の「牡丹灯籠」なぞ、聞いているうちにぞくぞく総毛だってくるほど怖かった。
 もう怖い話はまっぴらだ、と思いながら、「四谷」も「番町」もきっちり聞いているのだから世話ァない。
 そのうちに、虎造のフシをとったコミックバンド、「あきれたブラザ−ス」が出てきて「地球に朝がやってくる」と真似をするようになった。
 その頃の山ノ手の小学生たち、奥野 健男や北 杜夫たちはどうだったのだろうか。一度、聞いてみたかったと思う。

2006/07/23(Sun)  325
 
 近頃、女優ということばを使わなくなったらしい。NHKでは、一時、「俳優」と統一したが、それはじきになくなった。ところが、最近、またぞろ復活してきたようで、女優さんが出るとテロップに、俳優 ・・・さんと出た。
 冗談じゃないぜ、ほんとうに。怒りをおぼえた。
 男女差別がなくなることには賛成だが、女優さんを俳優としてカテゴライズすることに、どういう意味、または必然性があるのか。
 もともと女優という呼びかたはなかった。女役者という。
 明治の頃の女役者としては、久米八などが有名だった。女だてらに浅尾信次と名乗った女役者の一座もあった。(このことから、当時の女性蔑視が見てとれるだろう。)
 当時、大劇場といえば、いうまでもなく「帝国劇場」と「歌舞伎座」だった。
 「歌舞伎座」が中村歌右衛門、福助、市村羽左衛門といった人気俳優をかかえていたのに対して、「帝国劇場」は松本幸四郎、尾上梅幸、沢村宗十郎、宗之助、中村勘弥などが座付き、これに益田太郎冠者が女優劇の一幕を出した。森 律子、村田嘉久子といった「女優」たちが登場する。それまで「女役者」と呼ばれていたが、「帝国劇場」が「女優」という呼びかたにしたのだった。
 女優という呼びかたには、女性の社会進出を背景にしたはっきりした歴史がきざまれている。NHKなどが女優を「俳優」と呼ぶことが、女性の地位向上に役立つと考えているとすれば、かえって女性の解放の歴史を無視する暴挙だと思う。「女優」ということばひとつに、女性史の輝きが秘められているのだ。
 そもそも Actor と Actress という違いを、すべて「Actor」としている国がどこにあるのか。
 もし、NHKが「女優」ということばを抹殺するのであれば、私はあえて「女役者」と呼ぶことにしよう。料金も払ってやらないからな。おぼえてろ!

2006/07/22(Sat)  324
 
 最晩年の荷風の日記は、連日、浅草に行く、という記述がつづいていた。おそらく日記に記録する気力が失われたせいだろう。浅草に行っても、いまさら新しい感動はなかった、つまり記述すべきこともなくなっている。それで、簡単な記述ですませたのかも知れない。死を前にした荷風にはもはや何も書くことがなかったのか。
 毎日、浅草に出かけて行ったのは浅草の踊り子たちと話をしたり、食事をおごってやったりするのが楽しかったからだろう。これはわかる。老齢のため、市川に帰ってきて、疲れてしまって何も書けなくなっていたとも想像できる。                
だが、連日おなじ記述を書きつづけたことに、べつの想像が許されるだろう。
 荷風の内面には、吉原にかぎらず、どこを歩いても、過去にかかわりのあった女たちの「思い出」が油然とわき起こってきたはずである。そのいくつかは小説に描いた。だが、その思い出が切実なものであればあるほど、もう一度、それを反芻することになる。そのために荷風は日記に何も書かなかったのではないか。
 どうしてこんなことを考えたか、といえば、吉本 隆明が「八十歳を越えた僕には(思い出)がなくなってしまった」と語っていることを知って、吉本とは関係なく、私の内面に荷風の日記がうかんできた。
 荷風も、八十歳を越えて思い出がなくなってしまったのか。そういう荷風の姿は想像しにくい。

2006/07/21(Fri)  323
 
 旅に出ることがない。だから駅弁も食べなくなっている。
 新聞で知ったのだが、東日本の駅弁販売は、1993年に約890万個だったのが2000年には458万個まで落ち込んだ。ところが、最近は、1個、2千円、なかには3800円という高級な駅弁が売りだされて人気になっているという。
 けっこうな話である。そういう駅弁を食べたい人は食べればいい。
 ふと、思い出したことがある。日中戦争が激化していたころの話である。
 あるとき、有名な作家三人が地方の文芸講演会に出かけた。
 車中で駅弁を食べることになって、駅弁をひろげたが、丹羽 文雄は、白いご飯のまんなかに箸をつけて食べはじめ、おかずもおいしそうなものから食べて、いちばん早く平らげて、紐をぐるぐる巻きつけて座席の下にポンと放り込んでしまった。
 石川 達三は、はじからご飯に箸をつけて、半分ほど食べると、紐を十字にかけて、座席の下に置いた。
 高見 順は弁当箱のフタをとると、裏についたご飯つぶを丁寧に箸でとって口にはこんでから、ご飯の隅からきっちりと四角に箸をつけて、全部食べ終わると、もと通りにフタをして、紐をかけおわると自分の手荷物の上にのせた。
このときのようすを十返 一(評論家)が見届けて随筆に書いている。作家たちに同行したらしい。戦前の映画雑誌(たしか「エスエス」だったと思う)で読んだ記憶がある。このエピソ−ドは中学生の心に残った。十返 一の名前も。
 私は、この作家たちの小説をまったく読んだことがなかった。それでも、少しづつ日本の文学作品を読みはじめていたので、丹羽 文雄、石川 達三、高見 順が有名な作家らしいことは想像できた。
 この随筆から、流行作家のそれぞれの風貌や、作風の違いまで、なんとなくわかったような気がしたのだが、高見 順がお弁当のフタの裏についたご飯つぶを箸でとって口にはこんだのは、左翼運動で収監された経験から身についたものだろう。
 私は登山に熱中した時期があるが、ザックにかならず駅弁を入れることにしていた。弁当をつかいながら、いつも丹羽、石川、高見といった大作家のことを思い出していたわけではない。しかし、戦中、戦後の窮乏や食料の逼迫を知っているだけに、私は高見 順の食べかたに共感する。

2006/07/20(Thu)  322
 
 今日は何曜日だっけ。
 新聞でたしかめる。
 月曜日なら、ああ、つき曜日か、と思う。火曜日は、ひ曜日。水曜日はみず曜日。ぼく曜日、こん曜日、つち曜日。日曜日だけはサン曜日。
 小学生のやりそうないたずら、とわかっている。なぜ、こんなたあいもないいい変えをするのか。
 小学生のときからのくせ。月曜日になると、これから一週間、何か楽しいことがあるといいと考えた。そこでツキがありますように、という意味で、つき曜日ということにした。火曜日は、母親にお小遣いをせびる。たいてい1銭、運がよければ5銭もらえた。子どもの口にいっぱいのアメダマが5厘だった。その費用のひ。
 水曜日には友だちのところに遊びに行く。その母親が活動写真の小屋をまかされていた。友だちとしばらく遊ぶと、あとは客席にもぐり込む。「児雷也」や「関の弥太っぺ」、ときには「月よりの使者」といったメロドラマを夢中になって見ていた。
 木曜日は、ぼく(私)の日だった。学校から帰るとランドセルを放り出して遊びに行く。妹といっしょに遊んでやったり、まだ幼い弟の面倒をみたり。ひとりのときは、近くの丘や、川の砂州がぼくの王国だった。
 金曜日になると、買ってきた少年雑誌を読んだり、友だちに借りた本やマンガを読み返す。なにしろ、毎月一冊しか買ってもらえないので、少年雑誌は隅から隅まで読むことになった。読むところがなくなると、懸賞にあたった全国の当選者の名前まで丹念に読む。 昭和12年。やがて戦争がはじまったが、まるっきり勉強はしなかったし、何も考えない少年時代だった。
 翌年、弟の達也が亡くなったときから私は変わった。

2006/07/18(Tue)  321
 
 気分的に落ち込んだとき、きみならどうするだろうか。
 私の対症療法としては、特別なCDを聴く。
 私が聴くのは、「世紀のプリマドンナ」のCDである。
 マリア・カラス? とんでもない。テバルデイ? いいえ、いいえ。むろん、サザ−ランド、ルネ・フレミング、シミオナ−ト、そうした“ディ−ヴァ”たちの誰でもない。
 私がえらぶのはフロ−レンス・フォスタ−・ジェンキンス。
 1868年生まれだから、ルイ・ジュヴェより一歳上。
 大富豪と結婚したフロ−レンスは、オペラに夢中になって離婚された。莫大な慰謝料をもらったとたんに、これも富豪だった父が亡くなって、またまた莫大な遺産をせしめた。そこで、彼女はコロラトゥ−ラ・ソプラノの歌手として活動をはじめた。
 ところが史上まれに見る悪声。そればかりか、音程も、リズム、テンポ、すべてが狂っていた。音痴もいいところ。オペラ歌手としての素質、ゼロ。
 なにしろ金がくさるほどある。毎年、堂々たるリサイタルを開き、やがてパリに登場する。
 ヨ−ロッパを驚倒させた。あまりの音痴だったから。
 1944年、(アメリカは、ドイツ、日本と戦争している)、ついにカ−ネギ−・ホ−ルで、個人リサイタルを敢行する。
 なみの神経ではない。
 戦時中、エンタ−ティンメントに飢えていたアメリカ人が、彼女のリサイタルに押しかけた。前売りは完売、当時の貨幣価値で6千ドルの純益があったという。
 私のもっているCDは、生前の彼女の貴重な録音をCD化したもの。
 とにかく、すごい。これほどの音痴で、『魔笛』の夜の女王のアリアや、ドリ−ブの『鐘の歌』などを歌っているのだから。
 ただただ恐れ入るばかりだが、ゲラゲラ笑いながら聞いているうちに、こっちも元気になってくる。なにしろいろいろと考えさせられることも多いので、クヨクヨしている暇はない。私の「コ−ジ−ト−ク」を読んでくれる人たちにも、ぜひ、聞いてほしい1枚。
 まったく才能のカケラもないのに、本人だけはいっぱしの芸術家きどりでいるおかしさ、悲惨さを通り越して、ただもう笑っちゃうしかない。そして、元気になれる。
 ジェンキンス女史の歌は、私にいつもさまざまな問題をつきつけてくる。だから落ち込んでなんかいられない。

2006/07/17(Mon)  320
 
 先日、TVでセロという若いマジシャンの芸を見た。手品、奇術を見るのが好きなので、このマジシャンの芸もおもしろかった。
 彼はネパ−ルの山村で、マジックを見たことのない子どもたちに、やさしい奇術を見せてやる。子どもたちがびっくりする。素朴な好奇心、食い入るようなまなざし、疑い、見たこともない神秘にはじめてふれた子どもたちの驚きとよろこびの表情。じつにいきいきしていた。TVを見ている私だってネパ−ルの子どもたちとおなじようなものだが。
 外国でいろいろなマジックを見たことがある。大きな劇場の席で、驚天動地のマジックを見た。「どこの国にもすごいマジシャンがいるなあ。しかし、これを見る前と見てしまったあとで、おれの人生なんかちっとも変わりゃしねえや」とつぶやく。
 私は、どんなに大がかりな仕掛けもののマジックを見ても、驚かされこそすれ、ほんとうに感動したことはない。むしろ、ラス・ヴェガスのショ−を見て、ア−ティストの器量の大きさに感動しなかったか。
 そのあと、映画「オズの魔法使い」を途中から見た。ジュデイ・ガ−ランド。何度も見た映画。この映画の主題歌「虹の彼方」が、ベスト100のトップに選ばれている。この曲のおかげで、映画も不朽の名作になっている。
 ジュデイ・ガ−ランドという女優の運命を知っているだけに、この映画を見ながらさまざまな感慨をおぼえた。映画にかぎらず芸術作品の評価や、そのたどった運命を考えるとなぜか奇妙な感じにおそわれる。

2006/07/16(Sun)  319
 
 ある展覧会で、最近のロシア、フィンランド、グルジア、中国などの画家の絵を見た。残念ながら、ほとんどがポンピエだった。そして、アホらしい値段がついていた。
 平凡な才能の画家が平凡な売り絵を描く。私はそういう絵を少しも軽蔑しない。
 そういう絵がどこかの家庭の壁に飾られて、いつもやさしく眺められてみんなが幸福な気もちになる。それでいい。
 私がスリット・ア−トに関心をもつのは、そういう絵を描く人は、はじめから自他ともに要求するところが少なく、見る人もそういう絵を飾ることで満足している・・・素直で、けなげで、微笑ましい情景に好意をもつからだ。
 ところが、景気が少し回復してきたので、またぞろ、えたいの知れぬ美術品がえたいの知れぬ値段で市場に出てくる。そのことが不愉快なのだ。

2006/07/15(Sat)  318
 
 お日待ち。どうも近頃は聞きませんですナ。
 お正月、お盆、お祭りは、大日待ち。あとノは小日待ち。
 もともと仏教の教えにもとずいた風習でやんしょうが、ようするに休日。
 十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、庚申さま、いろいろな日待ちがごさいましてナ。 ヤツガレ、ガキの時分、お月さまァノンノさまで、ちいさな手をあわせて拝んだものでさぁ。おさな心に、無病息災、罪障消滅、家門繁昌を願ったンでしょうナ。十五夜は阿弥陀如来さま、二十三夜は勢至如来さまがお姿をあらわしたまうッてんで。
 お日待ち。戦後はすっかり変わっちまった。いいえ、アァタ、お正月、お盆、お祭りといった大日待ち、三月三日のお雛さま、五月五日、七月七日、九月九日といったお節句はなくなりませんヨ。さはさりながら、いまどき、怠けものの節句ばたらき(働き)がもの笑いのタネになるテナこたァない。(笑)
 今の私、ですかィ。イヤァ、おそれいりやす。何を隠そう、毎日がお日待ち。ゲゲゲの鬼太郎さんとおなじで、毎日、楽しく暮らすことにしようナンテ。えへへ。
 阿弥陀如来さまにおめにかかれる日を待っている。だから、お日待ち。(笑)
 おあとがよろしいようで。

2006/07/14(Fri)  317
 
 旅への誘いは、いつか私の空想(ロマン)から消えて行くだろうか。むろん、私の旅は、「せめて新しき背広を着て、気ままなる旅」に出るといったものではない。
 私の旅はどう見ても平凡なものなのだ。
 駅まで。歩いて約800歩。私の住んでいる千葉を起点にいくつかのロ−カル線が出ているので、掲示板に出ているいちばんすぐに出発する電車に乗る。どこに行く目的もない。すわれなければ、二つか三つ、先の駅まで行って降りればいいのだから。
 たまに、おにぎり、お茶、ボンタンアメなどをもって行く。
 電車に乗ってしまえば、あとはもう安心しきって、車窓から、あまり変わりばえのしない風景をぼんやり眺めて、沿線のどこかの駅で降りればいい。
 ずっと先の駅まで行ってもいい。終点まで行ってもいいのだが、歩きまわっているうちにうっかり駅に戻れなくなると困る。
 私の住んでいる千葉は、地形上、北は印旛沼や利根川の流域、あとの三面は海に囲まれているので、半島というより、どこか島といった感じがある。昔から、成田さんへの街道以外に大きな街道はないし、交通も不便なため、江戸から千葉を通過する旅人も多くなかった。
 さて、どこかの駅で降りよう。
 できれば、あたりに住宅も見当たらない、駅というには、ひどくさびれた、小さな駅で降りてみる。駅前の、広場ともいえない通りに立って、さて、どこに行こうか、と考える。こういうときは、われながら行き暮れたようなわびしい気もちになるが、それでも昔の一膳飯屋のような、うす汚れたラ−メン屋でも見つかればうきうきした気分になる。
 夏のたそがれ。さすがに駅前からすぐに田んぼがひろがっている土地は少くない。それでも、駅から少し離れると、はるか彼方に、私の知らない町の灯が見える。まったくなんの目的もなく、とくべつな用事もなく下車した私は、ホ−ムレスになったような気分で、とぼとぼと灯を目当てに歩いて行く。路傍に立っている道祖神が行きかう人に何かを語りかけてくるような風情はない。馬頭観音の石碑や、青面金剛と刻まれた道しるべの横を、トラックやバイクが、あわただしく走り過ぎてゆく。旅の気分どころではない。
 どうかすると、ドブ川のような流れにぶつかる。用水路の名残りだろうか。見るともなく眼をやると、汚れた流れにゴミが積み重なっていたり、異臭が漂っていたり。
 疲れたときは、そのまま駅にもどればいい。そして、上りの電車を待つ。千葉まで帰る人たちが乗っている。
 私は詩人ではないので・・・どこへ行ってみても、おなじような人間ばかり住んでいて、おなじような村や町で、おなじような単調な生活を繰り返していても、いっこうに気にならない。
 私の“小さな旅”は、いつもこんなものにすぎない。それでも私にとっては楽しい旅なのだ。

2006/07/13(Thu)  316
 
 萩原 朔太郎の短編『猫町』は、昭和前期に書かれた文学作品のなかで、もっともすぐれたもの。春山 行夫が編集していた「セルパン」に発表された。

   旅への誘いが、次第に私の空想(ロマン)から消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメ−ジするだけでも心が躍った。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間に於ける同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。どこへ行ってみても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。

 この書き出しの、旅が単なる「同一空間に於ける同一事物の移動」という部分に注目しよう。こうした感慨は私たちにしても無縁のものではない。ただし、おそらく平凡な感想としか見えないのだが。
 詩人の人生のある時期に、自分でもどうしようもない倦怠がまとわりついていたと想像してもよい。
 私が感嘆するのは、さりげなく書かれたこの部分が、この作品のみごとなライト・モ−ティヴであり、伏線として効果をもっていることなのだ。
 この書き出しのみごとさは川端 康成の『雪国』にも劣らない。

2006/07/12(Wed)  315
 
 インドネシアでH5N型のフル−が流行しはじめて、アメリカでは10日間の食料備蓄の実施をすすめている。かつてのスペイン風邪の死者は45万人。おなじウィルスが流行すれば、日本だけで死者は220万人と予想されている、という。
 天災地変。おまけに、戦争、テロ。これからますます何が起きるかわからない時代になる。私は、もうこの世の人ではないからいいが、家族や、友人たち、私の「恋人」たちが無事に過ごしていけることを願っている。
 いまから40年ばかり昔、占星術の本を読んだ。その本のなかに、21世紀の予想では2000年〜05年、これまで知られていなかった奇病がつぎつぎに発生し、人類はその対応に追われる、とあった。
 私はノストラダムスを何度も読んだが、ヴィジォネ−ル、ないしは詩人として読むことはあっても、予言を信じたことはない。しかし、これからも奇病が続発するらしいので、あらためてノストラダムスをもう一度読んでみようか、と思う。

2006/07/10(Mon)  314
 
 一つのことばが、別の人の一生にかかわる。めずらしいことではない。
 大正期の画家、甲斐庄 楠音は、先輩の画家、土田 麦遷に「汚い絵」という批評を受けて、それ以後、徐々に画壇からしりぞいてゆく。
 他人に非難されたとき、相手の怒りや憎悪をしずかに見きわめること。どこに原因があるのかだいたい見当がつく。てきれば文章で反論する。
 そういうとき、いちばんほんとうのことをいっているのは、怒りや憎悪からではなく、批評的に的確なことをいっている人なのだ。
 甲斐庄 楠音は土田 麦遷のことばに深く傷ついた。そして、ついには画家の仕事も断念したらしい。(晩年は、「松竹」衣装部の仕事をしていたという。)
 このとき、むしろ土田 麦遷の絵のどこが美しいのか、と反論すべきだったと思う。土田 麦遷は世間的には有名画家だったが、戦時中に描いた農村の娘の絵など、対象をとらえる気概もない、まったくの凡作だった。
 こういうときの反論の一つ。
 きみはぼくの絵を「汚い絵」という。ぼくの絵を「汚い絵」といえるほどの何ものかである君は、いったい何ものなのか。きみの絵が「汚くない」とすれば、「汚くない」絵とはどういう絵なのか。そう反論すべきだった。
 私のようなもの書きでも、いろいろと非難されたり、けっこうつらい思いをしてきた。だが、そういうとき、私が思い浮かべていたのは、ごく少数だが、私の側についていてくれる人がいるという思いだった。
 たとえば、和田 芳恵、飯沢 匡、内村 直也。五木 寛之。
 私はそういう人たちのことばを深く心に刻みつけてきた。

2006/07/09(Sun)  313
 
 むかし、沢田 謙という伝記作家がいた。
 『世界十傑伝』(大日本雄弁会講談社/1932年)という本の宣伝が凄い。
 本書を見よ! 人間は誰でも偉くなれるのだ! 英傑を倣って奮起せよ!
 とあって、数行先に、
 見よ! 現に世界を動かしつつある十傑の真骨頂は劇を見る如く躍如!

 この本がとりあげている人物は「何れも貧困より身を起し百折不撓! あらゆる苦難と闘い逆境を切り拓いて来た十傑!」である。
 ヒンデンブルグ、フ−ヴァ−、ガンジ−、フランスの外相ブリアン、イギリス首相マクドナルド、新聞王ハ−スト、中国の蒋 介石、チェッコのマサリック、鋼鉄王シュワッブ、トルコの大統領ケマル・パシャの十人。
 1930年代の読者は、こういう通俗的な読物で、「彼等の驚天動地の行跡には熱と力溢れ無限の教訓あり、意気に感ずるあり、明智果断にして真に一読感激、再読奮起!」したのだろう。
 少年時代に沢田 謙の『少年エジソン』という伝記を読んで「一読感激」した。後年の私が、評伝を書くようになったのも、沢田 謙の『少年エジソン』を読んだおかげだった・・・とは思っていないのだが。
 子どものために、せめて一冊ぐらい、やさしい偉人伝を書きたかったとは思う。

2006/07/08(Sat)  312
 
 「よい伝記を書くことは、よい人生を生きるのとおなじほどめずらしい」
 と、カ−ライルがいったらしい。
 リットン・ストレイチ−はこれを否定する。そういう伝記は、まどろっこしくて、洗練されていないものばかりで、葬式みたいなものだ、という。私もまた、葬儀屋の仕事のような評伝を書くつもりはない。
 ただ、ストレイチ−は、自分の伝記を書く姿勢にふれて、
 「私は何も押しつけず、申し立てもしない。ただ提示するだけだ」
 というヴォルテ−ルのことばをあげている。
 おこがましいが、私はヴォルテ−ル、ストレイチ−と違う。私は伝記で何かを押しつけたい。何かいうことがあればブロポゼしたい。ただ提示するだけなら伝記など書く必要がない。
 駆け出しの頃から、ツヴァイク、モ−ロア、ストレイチ−を尊敬してきた。はじめからおよびもつかないと承知してはいたが、せめて彼らの仕事に少しでも近づきたいという思いから『メディチ家の人びと』や、『ルイ・ジュヴェ』などを書いた。

2006/07/06(Thu)  311
 
 初夏の夕方近く、その通りの角にはその界隈の子どもたちが集まってくる。紙芝居がくるからだった。見料は一銭。ブッキリアメをもらって、口のまわりを白い粉だらけにしながら、世にも怪奇な「黄金バット」の物語に惹きこまれていた。
 ある日、その通りに子どもたちが、五、六人しゃがみ込んで何かを見ていた。紙芝居がまわってくる時間ではなかった。子どもたちがまわりをとり囲んでいるのは、道ばたに休んでいる行者(ぎょうじゃ)か雲水(うんすい)のような老人だった。老人のわきに、外に金網が張ってある六角の逗子(ずし)のような背負い子があった。
 私もその金網のなかをのぞき込んだ。棚の内部は、中央に剥げた金文字で南無阿弥陀仏と書かれた細い掛け軸が下げられている。それをとり囲んで、びっしりと貼りつけられた小さな写真。棚いっぱいにびっしりと並べられている。大半は少女か、若い娘たちだが、若い男の子の顔もあった。
 ざっと見ても百や二百ではきかない数だった。
 せいぜい2センチ平方の写真ばかり、半数は色褪せて黄ばんでいたり、銀が浮きだして顔もさだかではなくなっている。明治、大正、昭和にかけて撮影された写真だった。
 私と並んで金網をのぞいていた少し年上の子どもが説明してくれた。
 そこに並べられている顔写真は、全国各地で神隠しにあったり、誘拐されたり、親に売られて行方がわからなくなった子どもたちばかり。この老人は、行脚(あんぎゃ)の先々で、親兄弟、親戚から頼まれて、その子どもたちの所在、どんなにわずかな消息でもいいから安否を尋ね歩いているという。私はおそろしいものを見たと思った。
 神隠しというのは、子どもが不意に姿をかくすこと。昔から天狗や山ノ神のしわざと信じられてきた。そして、人さらいというおそろしい男たちがいて、さらわれた若い娘たちは南洋やシベリアに売り飛ばされたり、もっと幼い少女は曲馬団に入れられてつらい人生をすごす。そんなうわさは幼い私の耳にも入っていた。
 その日、紙芝居を見ずに家まで走った。何かおそろしいものに追いかけられそうな気がして。それが何なのかわからなかったが、生きることへのおそれだったのかも知れない。
 小学校に入ったばかりの夏休み。

2006/07/04(Tue)  310
 
 アメリカで、女の子にめずらしい名前をつける親がふえている。(ABC/06.5.19)たとえば Nevaeh。ネヴェアと発音するらしい。
 あるロック歌手が娘にこの名前をつけたとテレビで語ったことから、きゅうにひろまったらしい。現在、女の子の名前の人気では第三位。(笑)
 自分の子どもの幸福を願って、さらには他にぬきん出てほしいという思いから、独自な名前をつけるのは親として自然な感情だろう。最近のアメリカでも、それまで使われることのなかった命名がふえてきている。その背景には、福音主義宗教の影響がひそんでいるという。ネヴェアと発音してみると、Never と エホヴァ がかさなりあっているように聞こえる。
 この名前の秘密はアナグラムではない。逆に読んでみればいい。社会心理的にも興味深い現象と見ていい。
 私は外国の小説を読むことが多いのだが、しばしばヒロインの名前に関心をもつ。作家がどうしてヒロインにこの名前を与えたのか。そんなことも、その小説の印象や魅力にかかわりがある。「エンマ」と「エマ」というヒロインの名前だけで、フランスとイギリスの小説の違いさえまざまざと眼に移ってくる。
 ところで、ネヴェアは、じつは80年代の映画「スプラッシュ」(「恋する人魚」)のヒロインの名前だった。さっそく当時の香港映画がパクって、そっくり映画を作ったっけ。こちらのヒロインの名前はおぼえていないのだが。

2006/07/02(Sun)  309
 
 レジャ−ということばを聞かなくなった。
 昭和30年代になって、生活にゆとりを見いだした庶民が、それまてできなかった小旅行や、スポ−ツ関連のリクリエ−ション、あるいは趣味などに自分の時間をふりむけるようになった。東京近郊の手頃な山歩きなども、この頃からさかんになって、現在の中高年の登山ブ−ムにつづいている。
 ところで、レジャ−ということばが日本ではじめて知られたのはいつだったのか。
 Mechanical equipment should create opportunity for leisure,not unemployment.
 (訳文  機械力的装置は閑暇の機会をつくり出すもので、失業をつくり出すものではない。――合衆国上院議員 ボラ−氏)           
 私の訳ではない。「日曜報知」(昭和7年1月24日号)の「現代の言葉」というコラムに出ていた。
 こんな一節からも、いろいろなことが読みとれる。当時のアメリカは大不況に見舞われていた。失業者があふれ、労働者がレジャ−を楽しむなど考えられなかったのだろう。と同時に、老朽化した各種産業の設備投資の促進と再編成が進められていたことがわかる。おなじ論理は、この十年、景気が冷えきって、たえずデフレスパイラルの危機におののいていた日本でも、しばしば聞かれたような気がする。
 いまの日本ではレジャ−ということばを聞かなくなった。
 最近の海外旅行や、ペット・ブ−ム、サッカ−・フィ−バ−、どれをとってもレジャ−という程度のものではなくなっている。
 落語に出てくるご隠居みたいにレジャ−を楽しんでいるのは、いまどき私ぐらいなものだろうな。

2006/06/30(Fri)  308
 
 アゴタ・クリストフは、1935年、ハンガリ−で生まれた。母国語はハンガリ−語。9歳でドイツ語、11歳でロシア語。これだけで、母国、ハンガリ−の運命が想像できるだろう。
 スウィスに亡命して、1986年、フランス語で書いた『悪童日記』で世界的に知られた。フランス語も彼女にとっては未知の言語だった。
 彼女はいう。フランス語は三十年前から話している。二十年前から書いている。それでも、いまだにこの言語に習熟していない。話すときには語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない、と。
 アゴタ・クリストフのような作家でさえそうなのか。
 私は、長年、外国語の勉強をしてきた。フランス語も少しだけ読める。イタリア語はもっと少しだけ読んできた。今は、中国語をほんの少しづつ読んでいる。それでも、外国語で小説を書くなどということは到底考えられない。
 私にはもともと外国語を勉強する能力がなかった。だから努力をしてきたと思っている。なんとか翻訳をつづけてきたのは、外国語を勉強することが「日本語との格闘」だったからだろうと思う。(注)

 アゴタ・クリストフは、フランス語が「私のなかの母国語をじわじわと殺しつつあるという事実」をあげている。
 文部科学省の連中は、そこまで考えたうえで小学校からの英語教育に何を期待しているのか。

(注)「日本語との格闘」は、作家、横光 利一のことば。

2006/06/28(Wed)  307
 
 室生 犀星は70歳のとき、あるデパ−トの時計売場の女店員と知りあう。当時、19歳。初対面から惹かれる。
 つぎに行ったとき、彼女に挨拶されてうれしくなる。
 「あなたがぽかぽかと笑ってくれるので、それを見ていたら時計なんぞどうでもいいんだ」と考える。つづけて、「私はさういふ事が好きな男でありそのために小説といふ物を書き続けて来たのである」という。
 夫人が亡くなって、少女は犀星のところに身を寄せる。3年後、犀星の死去の際、彼女はその臨終に立ちあった。
 いまの私は心から犀星を羨ましいと思う。
 私も「さういふ事が好きな男」だが、「そのために小説といふ物を書き続けて来た」わけではない。
 やっぱり大作家は違うなあ。

2006/06/26(Mon)  306
 
 きみは、外国、それもコロンビアで長年過ごしてきたという。
 帰国してから、現在は東京で、シナリオ講座を受講しながら脚本、小説、詩を書いている。
「教室などでやはり白い眼で見られているようです。たぶんメンタリティーが半分外人ということでしょうか。外国人の眼で日本を見ている。」と。
 私にいわせれば、脚本、小説、詩を書いてゆくうえで、そうした体験をもっているだけでもうらやましいかぎり。
 私はコロンビアについては何も知らない。しかし、ルイ・ジュヴェの評伝を書いたとき、コロンビアについて多少なりとも調べたことがある。カルロス・イエラス・レストレボが「産業開発協会」を設立して、中小企業を育成したという一行を書くために、コロンビアの経済書を何冊も読んだ。それは、ルイ・ジュヴェが劇団をひきいてボゴタに行ったときのコロンビアの社会を読者に知ってもらうためだった。ホルヘ・ガイタンが暗殺されたことにふれたのも、ジュヴェの滞在した当時のラテン・アメリカの状況を暗示するためだった。
 コロンビアのアレーパが、フランス人の口にあわなかったこと。舞台に立つ俳優の仕事が、じつは重労働に近いため、コロンビア米に、肉、焼きバナナ、豆程度の食事では栄養のバランスがとれなくなることも書いた。
 私のようなものでも、一つの作品を書くためにどれほど調べたり、読者のために気配りをしているか、わかっていただけるだろうか。
 ほかの人から白い眼で見られている。それこそが、きみにとって他にぬきん出るチャンスではないか。日本人に特有のじめついた白眼、無意識の差別、そんなものははじめから無視したまえ。気にすることはないのだから。もし、きみがほんとうに「メンタリティーが半分外人」だったら、それだけでもおもしろいではないか。それに、「外国人の眼で日本を見ている」ことが私たちにできるのだろうか。
 これも文学的に大きな主題になる。

   ――(「未知の読者へ」No.3)

2006/06/25(Sun)  305
 
 博識について。
 きみは私を博識といってくれた。そのことをありがたいと思う。
 しかし、私は、若い頃からずいぶん「博識の人」を見てきた。
 たとえば、「世代」の同人たち。なかでも、いいだ ももの博識ぶりにはおどろかされたものだった。横光 利一の初期の短編に、自分が何かを読むと、相手はすでにそれ以上のものを読んでいて、自分がすぐにそれを読むと、相手はさらにもっと上のものを読んでいる、といった内容の作品があったが、私が何か読んでも、いいだ ももがとっくに読んでいた。後年の、いいだ ももの仕事を見ても、そのおどろくべき博引旁証を知ることができる。
 個人的に知りあえた批評家でも、私などの及びもつかない博識の篠田 一士や、磯田 光一がいた。
 そして、澁澤 龍彦。さらには、種村 季弘、松山 俊太郎。
 私は、この人たちと話をしながら、いつもその光彩陸離たる座談に眩暈のようなものをおぼえたものだった。
 だから、私は自分を博識だと思ったことはない。ただ、いろいろな仕事をしてきたので、多少なりと勉強してきたにすぎない。
 ただ、こういうふうにはいえるだろう。
 ある人が私より博識だということは、その人が私たちの内部にひそんでいるものを、私とは比較にならないほど、みごとに自分の身にひきつけている、と。
 そういう人の博識はすばらしい。逆に、クイズ番組に出てくるような博識の連中などに少しもおどろくことはない。

   ――(「未知の読者へ」No.2)

2006/06/24(Sat)  304
 
 たまに「コージートーク」を読んだ人からメールがある。こんな小さなエッセイでも誰かが読んでくれている。うれしいかぎり。
 今回のメールは――若い頃から中南米を放浪して、現在は東京で、シナリオ講座を受講しながら脚本、小説、詩を書いている人から。かりに「Sくん」とお呼びしよう。
 いろいろとお答えしたい内容なのだが、まとめて返事を書くことができないので、とりあえず、ひとつのことを考えてみよう。
「やり過ぎ、一つに集中すべし、ということは分かっているのですが、やはり全部やりたい。これも何かの病気かもしれませんね。まあその性癖のおかげで、先生の広範なテーマのコラムが好きなわけですし、こりゃ先生も同病じゃないだろうかと勝手に想像したりして、ますます親近感が沸いてくる次第です。」
 まったく無名とはいえなかったが、まだ、自分のめざす世界の見当もつかなかった頃、先輩の方々によく忠告されたものだった。中田君は創作だけに集中すればよかった。そうすれば作家になれたのに、と野間 宏にいわれた。中田君は語学をやらなければいけません、そうでないと、十返 一のような(軽)評論家になってしまう、と荒 正人にいわれた。きみは批評よりも戯曲を書いたほうがいい、と内村 直也がいってくれた。
 ようするに、気が多い、一つのことに集中したほうが成功できる、という忠告だったと思う。今、思い返してもありがたい助言だったと思う。
 ただ、このときから自分なりに考えた。一つのことに集中する、ということは、自分を作り直すということなのだ、と。しかし、これがそう簡単にはいかなかった。
 当時の私は、イギリスの戯曲を熱心に読みあさった。誰も読まないらしく、古本屋の片隅に埃をかぶっていたから。だいいち値段が安かった。内容もやさしいように見えた。戯曲を読むことのむずかしさに気がつかなかった阿呆が、私だった。
 アメリカの詩を読んだ。短いので、簡単に読めるからだった。
 こうして「勉強」らしいことをはじめたのだが――結果はごらんの通りのていたらく。今の私の語学はいまだにあやふやで、おまけにそろそろボケてきているので、ほんとうに語学を身につけることができなかった。
 ただ、こういうムチャな乱読のおかげで、ノエル・カワードも、アーチバルド・マクリーシュも、W・H・オーデンも、何もかもごった煮になって私の内部にひしめきあうことになった。
 アメリカの詩人を読んだといっても、系統的に読んだわけではないので、ホイットマンからシルヴィア・プラス、ミュリエル・ルケイザー、エミリー・ディッキンスン、とにかく手あたり次第に読みつづけた。
 小説もおなじことで、偶然に手にとった作家は、私にとってはすべて未知のものばかり。とにかく読むしかなかった。
 だからといって「気が多い」ことにはならないだろうと思う。
 それに、小説を読むのは楽しみのためで研究するためではなかった。いい小説を読んだとき、自分の思考が、不意にそれまで考えもしなかった豊かなものになる。自分では想像もしなかったほどの深みに達している。そう思える瞬間がある。
 そういうとき、眼がくらむような思いで立ちつくすような眩暈におそわれる。
私はいつも好きな作家をそんなふうに「発見」してきたのだ。
 これだって「一つのことに集中」することにならないだろうか。
            
  ――(「未知の読者へ」No.1)

2006/06/23(Fri)  303
 
 フィルムを焼き捨てる。もともと残しておく必要のないものばかり。
 それぞれの写真にはその一枚を撮ったときの思い出が重なっている。しかし、他人が見てもまったく興味がないだろう。なかにはヌ−ドもあった。
 写真は私の記憶をよみがえらせてくれる。ときには、その思い出があざやかにひろがってくる。ふと、その頃のことを書いてみようかとも思う。たいていは書かない。書こうと思ったことさえもじきに忘れてしまうのだが。
 一時、カメラに凝っていた。ハッセルブラッドがほしいために通俗小説を書いていた時期もある。今は、わずかばかりのカメラも戸棚の隅に放り込んだきり。デジタルカメラの登場で、私のカメラの運命も終ってしまった。
 いまさらながら技術の進歩の速さにおどろいている。まさか写真の現像技術がこれほどあっさりとデジタルに転換してしまうとは想像もしなかった。
 ひさしぶりにカメラを手にとると、ずっしりとした重みがつたわってくる。未使用のフィルムもまだ少し残っているのだが、もうカビだらけになっているか、カラ−フィルムは褪色がひどく、いま現像してもボヤけてしまっているだろう。
 残念だがみんな焼き捨てよう。
 カメラばかりではない。
 エボナイトからLP、ハイ・フィデリティ−からステレオ、CD、ビデオからDVD、ワ−プロからPCという変化を見つづけてきた。ただし、心の隅では、そうしたテクノロジ−の驚異的な進歩にいつもふりまわされつづけてきた自分が情けない気もする。

2006/06/22(Thu)  302
 
 この前、真昼の電車のなかで、若い女ふたりが、スラングまじりで、あけすけに自分のセックス体験を話していたことを書いた。
 羞恥を知らない、下司な女どもにあきれたからだった。
 むろん、電車のなかで若い女性がセックスを話題にしたっていい。
 ベルトラン・タヴェルニエ監督のフランス映画「ひとりぼっちの狩人たち」(“L’APPAT”/95年)のオ−プニングで、電車のなかで、少女ふたりが雑誌の性記事を話題にしていた。この映画のヒロインは、美少女のマリ−・ジラン。
 映画なら、こういうシ−ンを許して、日本の若い女が、露骨にセックスを話題にするのが不愉快だったというのは、不当ではないか、といわれた。
 私のいいかたが、セクシュアル・ハラスメントに当たるのだろうか。

2006/06/21(Wed)  301
 
 最近、ビデオで見た映画。「アメリカン・ブライド」。昔、見たのだが、何もおぼえていない。原作がマリオ・ソルダ−ティ。妻の兄が、ハ−ヴェイ・カイテル、その妻がステファニア・サンドレッリ。
 イタリア人の大学教授。しずかな知識人。安レストランで働いているウェイトレスの「イ−ディス」に恋して、やがて結婚する。おやおや、どこかで見たことのあるテ−マだなあ。(すぐに「リタと大学教授」や「恋愛小説家」などを思い出した。)
 妻の兄「パ−セル」は、主人公とは対照的で、実際的で、何につけ屈託がない。建築の現場監督。その妻「アンナ」はおどろくほど美貌。
 主人公は結婚式ではじめて「アンナ」に紹介されたときから心を惹かれる。
 何もかもありきたりの「メナ−ジュ・ア・トロワ」。そして不倫。
 「イ−ディス」は夫と親友の不倫に気がついたが、すぐに脳腫瘍であっけなく亡くなってしまう。「アンナ」にも去られて孤独になった大学教授は、アメリカに帰化しておしまい。(おいおい、マジかよ? 安手なクロ−ジングだなあ。)
 見たあとすぐに忘れてしまうような映画だった。こんな駄作でも登場人物それぞれの孤独感がにじみ出ているような気がしたのは、やはり俳優、女優がいいからだろう。
 どこか一か所でも光っていればいい。それを「発見」するのが、映画を見る楽しみなのだ。

2006/06/19(Mon)  300
 
 「中田耕治ドットコム」を書きはじめて一年になる。
 誰が読んでくれるのかわからない。誰に読まれているのかわからない。しかし、長年、もの書きとしていろいろな機会に作品を発表してきたので、どういう人に読まれてもいいと思ってきた。
 VARIA としたのは英語でいう miscellany の意味で、あくまで雑文のつもりだったが、ヴァレリ−におなじ題の評論集があることも意識していた。畏れ多いので、うしろにハイフンでVIEとつけた。
 はじめは短く書くつもりだったが、なれてくるにつれて少しづつ長くなってきた。誰に読まれてもいいと思っている、これは私にとっては当然のことだが、同時に、この短いコラムはいつも一期一会の人にあてたメッセ−ジなのだ。
 だからVIEなのである。

2006/06/18(Sun)  299

 夜はもう過ぎ去っているが、まだ朝はやってこない。太陽は、姿を見せるのをためらっている。通り過ぎてゆく車もなく、暗い灰色の靄のなかに街じゅうがしすかにうかびあがろうとしている。どの通りも空虚な時刻。そんなとき、ひどく孤独な気がする。
 いろいろなことを考える。友人が体調をくずした。別の女性が仕事を終えて帰宅したあと、頭が重くなると訴えてきた。また、別の友人は、気鬱になって仕事をやめてしまった。 私は、そういう知らせを聞くとひどく動揺する。
 毎日、誰かしら他人と接触している。日々の暮らしのなかや、さしたることのない偶然のなかで。そうしたふれあいが喜びをもたらし、情熱を喚びさます。ときには、何ものにもかえがたい貴重な時刻(とき)をあたえてくれる。
 だが、老人にとっては、すべてはひとつのことから発している。それは、どうしようもなく孤独であること。
 老人は、誰しも、死のように避けられない、こうした孤独をおぼえるのだろうか。
 私はそういう孤独を避けようとして何かを書いているのかも知れない。

2006/06/17(Sat)  298
 
 五代目、菊五郎の舞台は見たことがない。私が生まれる前に亡くなっている。
 その五代目が「戻橋」(もどりばし)を上演したとき、大道具の棟梁(かしら)を呼んだ。何かの図面を出して、
 「すまねえが、この寸法で作ってもらいたい」
 「何ですィ、これあ」
 いぶかしげに棟梁(かしら)が訊くと、
 「橋の図面さね。京都の知り合いに手紙を出して聞きあわしたんだよ。見物(観客)の眼には、そこまではわかるめえが・・」
 「わかりました。作りましょう」
 棟梁(かしら)がきっぱり答えた。
 この話、母から聞いた。
 六代目(菊五郎)の舞台は私も見ている。戦時中のこと。むろん、何がわかったわけでもない。ただ、綺麗な役者だなあ、と思っただけだった。
 菊五郎をかかさず見に行っていた母が、ある日、帰ってくるなり、
 「ひどいんだよ、あの人は。お客を見て、踊りを半分もはしょるんだからねえ」
 ぶんぷんしていた。
 六代目は「娘道成寺」を踊ったが、客の顔を見て、途中の踊りをすっぽり抜いて、早く切り上げたらしい。観客はもともとそういう演出だと思っているから、誰も不審に思わない。母は三味線をやっていたから、気がついたらしい。
 「いくら(踊りの)名人だて、ああいうこたぁ、やっちゃあいけないねえ」。
 母は六代目(菊五郎)を見に行かなくなった。

2006/06/16(Fri)  297
 
 1998年3月下旬のこと。
 東京まで1時間近く電車に乗る。たいてい眼を閉じているのだが、乗客の話が耳に入るときもある。
 途中で、若い女がふたり乗ってきた。午後1時過ぎ。
 エスニックふうの薄いペラペラの衣装、ひどく派手な原色。ふたりともかなりの肥満体で、まるでお相撲さんのような体型だった。はっきりいって、BUSU。
 席につくなり話のつづきをしゃべりはじめたが、あたりかまわず笑いころげ、お互いに肘で突っつきあったり、傍若無人にふるまっていた。
 話題はミュ−ジシャンのこと。私の知らないグル−プの誰かれの話ばかり。どうやらロックグル−プの追っかけらしい。
 混んでいる車内で、若い女たちが楽しそうに好きな音楽の話をしているだけなら、別に咎められないだろう。しかし、話題は露骨にセックスのことばかりだった。
 若い女が誰とセックスしようといっこうにかまわない。しかし、話のなかで、
 「この前、XXとファックしちゃってさあ」とか、「XXのプリック、こんなノ。笑っちゃった」などと、隠語まじりで露骨な話をしているのにはあきれた。
 女性が性的に自由であることはいい。しかし、電車のなかで声高に自分が寝た相手のことをあけすけに話す、というのはちょっと信じられなかった。
 まるっきり羞恥心もなければ慎みもない、下司な女ども!

2006/06/15(Thu)  296
 
 ヨ−ロッパ・ツア−に行った人の話。パリでのこと。
 一行に、おもしろいお坊さんがいた。
 パリには、どんな裏通りにも歴史の重みがずっしりとつもっている。しかし、パリに着いた坊さんは、歴史などに眼もくれない。観光客の行く名所にも興味はなかった。ただ、ほかのツア−客について歩くだけで、カフェ、ビストロにも立ち寄らない。
 ひたすら買い物に熱中していた。いわゆるブランドものばかり。
 パリ到着の日から、坊さんは、上から下までグッチで身を固めたのである。パリは、彼にとってはグッチであった。
 パリの毎日は、ブランド品の「移動祝祭日」であった。
 帰国したあと、その話を聞いた私は、この坊主に「グッチ坊主」というあだ名をたてまつった。もともと読経がヘタで、ろくにお説教もできないクソ坊主だった。
 いまでは死語になっているが、「まいす」ということばがある。売僧と書く。中世の「狂言記」に出てくるが、一昔前の時代小説でも、良く見かけた。
 ことばは死語になってしまったが、現実に「まいす」はこうした「グッチ坊主」のような姿で生き残っているのだった。

2006/06/14(Wed)  295
 
 子どもの頃から、メガネをかけていた。
 近眼の度は、ある年齢に達すると進まないという。ところが、私の近眼はいつまでも度が進んだ。だからド近眼であった。へんな話だが、いつ頃からか、すこしづつ昔に戻って、よく見えるようになってきた。老眼になったせいなのか。あまりメガネが必要ではなくなってきた。
 本を読むスピ−ドは落ちたが、読みたい本、買ったまま読まずにいた本、一度読んでみたが、どうもよくわからない本などがいっぱいあるので、読まないわけにはいかない。
 ずっと昔に読んだときは感心したのに、いま読み直してみるとそれほどに思えなかったり、昔に読んだときはあまり感心しなかったのに、読み直してみて、何も読めていなかったことに気がついたり。私の「文学講座」は、そうした「読み直し」の一歩なのである。
 「ロシアに不美人はいない。ウォッカが足りないだけだ」という諺があるという。
 それをパクッて(よくいえば、パラフレ−ズして)、
 「日本の女たちに不美人はいない。なにしろいまの私にはメガネが必要ではなくなってきたから」
 うん? シャレにもならないか。

2006/06/13(Tue)  294
 
 バカは差別用語。使ってはいけないといわれた。
 小説のなかで、登場人物が相手に「バカ野郎!」とあびせる。この罵声が使えるのと使えなくなるのでは、性格設定も効果も違う。そこで修正した。
 「バカ野郎。いけねえ、こいつは差別用語だったな。この頭のお不自由な野郎!」
 いらい私は自作で「バカ」ということばを使ったことがない。

 「新明解国語辞典」(三省堂)に用法が出ている。
 心を許し合える間柄の人に対しては親近感をこめて何らかの批判をする際に(と、ことわったうえで)「あのバカが、またこんなことをして」。
 女性が、相手を甘えた態度で非難していうことば。「ばかばか」。
 いいねえ。こういう辞典が出てきたのはうれしい。

 例によって、少し脱線しよう。
 女性が、相手を甘えた態度で非難していうことばに、「知らない」といういいかたがあった。「ばかばか」といって「知らない」と口をとがらせる。
 「あのう、」
 「どうしたのさ」
 「あのう、」
 「あのう・・」
 「知らなくッてよ」と肩を揺って「知らないわ、わたし」

 明治38年の日本には確実に棲息していた「女」の種族だが、いまどきこんな女の子はどこにもいないだろう。泉 鏡花の『胡蝶之曲』に出てくる。

2006/06/12(Mon)  293
 
 子どもの頃から、毎日、活動写真を見ていた。むろん、それなりに理由がある。
 私が小学校に入学したとき、栄一君を別の小学校に入学させたおばさんと、私の母が知り合いになった。このおばさんは、母より年上だったが、芸者あがりで、活弁(活動写真の解説者)に落籍(ひか)されて栄一君を生んだという。
 活弁のおじさんは中年の、堂々たる風貌で、活弁時代は人気があったらしい。
 ト−キ−時代になって、活弁たちがぞくぞくと失職するなか、おじさんは活動写真の小屋(劇場)を手に入れて、ドサまわりの小芝居の演芸場にした。無声の活動写真と発声映画が新旧とりまぜて上映されていた時期で、やがてPCL(「東宝」の前身)が発足したとき、映画館に改装して成功した。
 私は、自分のクラスの子どもたちと遊ぶより、栄一君と遊ぶようになった。遊びにあきると、映画館の二階の席にもぐり込む。「関の弥太っぺ」とか「自雷也」といった活動写真を見た。毎日、栄一君のところに遊びに行くのだから、毎日、おなじフィルムを見るのだった。栄一君は一度見たフィルムは二度と見なかったが、私は何度もおなじものを見るのだった。「四谷怪談」は一度見たが、あまりおそろしかったので、二度目に見たときは、こわいシ−ンになる前に横になって、そのシ−ンが終わるまで見ないようにしていた。 たくさんの俳優、女優の顔と名前をおぼえた。

2006/06/11(Sun)  292
 
 私は忘れない。
 ヴェトナム、メナム河口に、ドイツの赤十字の病院船(3000トン級)が碇泊していた。敗戦国ドイツは、ヴェトナム人のために、多数の医師、看護婦を派遣していた。
 おなじ時期、日本からは、わずか数人の医師たちが善意から個人的に診療していただけだった。その診療期間も、わずか数カ月だったことを。

2006/06/10(Sat)  291
 
 たいした理由はないのだが、かなり長い期間、CDを聞かなかった。
 久しぶりにポップスを聞いた。

 私が最初に選んだのは、林 青霞の「東方不敗」。徐 克の映画のサウンド・トラック。デスクに積んであったCDをとっただけだったが、あまり元気がなくなると、「白髪魔女伝」や「青蛇伝」や「倩女幽魂」といった映画を見ることにしている。
 「東方不敗」は徐 克の映画の傑作の一つ。この映画の主演女優、林 青霞は「天地酔」と「只記今朝笑」の2曲を歌っている。私は林 青霞が好きだった。
 それからはひたすら音楽を聞くことにした。
 白光、李 香蘭、チョウシェン、張 露たちまで。もう70年も昔の歌姫たち。いまどき、戦前の彼女たちの曲を聞くもの好きはいないだろう。なにがなしノスタルジックな悲しみが私の心に響いてくる。
 そのあと、ドゥルス・ポンテスを聞く。胸をえぐりつけてくるような悲しみ。

2006/06/09(Fri)  290
 
 2005年、当時、IT産業の「ライブドア」の社長だった堀江 貴文の人気は絶頂で、「ホリエモン」と呼ばれて、たえずマスコミの注目をあつめていた。
 マスメデイアに進出しようとして株式の大量取得に成功したり、選挙に立候補したり、その行動に声援を送った人も多かった。
 やがて、会社ぐるみの粉飾決算の容疑で逮捕された。東京拘置所に収監され、「ホリエモン」の栄光は失墜した。(その後、3億円の保釈金で保釈された。06.4.27)
 全盛期の彼のことばをおぼえている。深夜のレストランで食事をとりながらインタヴュ−をうけたとき、彼はいった。
 「最高の食材を、最高のレストラン、最高のシェフの料理で味わうのが最高の贅沢というものだ」といった。
 連日、深夜過ぎまでマスコミに追いかけられるのだからたいへんだなあと同情したが、こういう無邪気さが彼の人気をささえていたのかも知れない。私たちの精神の奥底には、いつもこうした人物に対する無意識の崇拝(worship)、ひそかな羨望、嫉視がひそんでいる。私は、こういういいかたに、「ホリエモン」の人間としての倨傲を感じたが、むしろ、精神的な貧しさに憐憫をおぼえた。

 ある俳優のことばを思い出す。
 「一流の劇作家の脚本を、一流の劇場、一流の俳優で上演して成功することなど、たいしたことではない」。
 ルイ・ジュヴェ。
「ホリエモン」とはまるで関係のないことだが。

2006/06/08(Thu)  289
 
 サッカ−W杯をあと1カ月にひかえたベルリンでは、それぞれの小学校に出場国の応援をふり当てている。
 日本を応援することになった小学校では生け花、アニメの模写などを通じて、それまで知らなかった日本について子どもたちが勉強している。これはいいことだと思う。
 この子どもたちは日本のことを勉強しているのではない。未知の世界を発見するのだ。これをきっかけにずっと日本に関心をもつ子が出てくるかも知れない。
 たいした費用もかからないはずで、こうした現場にドイツ的なプラグマティッシユな姿勢がある。日本の文化官僚にはこうした発想はない。
 こういう実際的で、長い目でみれば大きな効果のある教育こそ、文部科学省としては考えてしかるべきではないか。
 日本でも、おなじようなことをもっと早くから、そして継続してやっておけば、世界に対する理解がひろがっていたと思われる。文部科学省あたりが考えてしかるべきこと。外国の中高生を二、三人、せいぜい一週間か十日、ホ−ムステイさせる程度で国際協力の実があがるといった、いつも目先のことしか考えない、自分の出世に関係のないことは考えない連中ばかりだから、実現はむずかしいだろう。

2006/06/07(Wed)  288
 
 谷崎潤一郎は、戦後(昭和31〜32年)に『幼少時代』を書く。

    私は今度、自分の記憶に存する限りの一番古い出来事から書いて見ようと考へて筆を執り始めたのであるが、そのつもりで遠い昔の思ひ出をだんだんに辿って行くと、もう完全に忘却の彼方に埋没してゐた筈のことが順々に蘇生(よみがへ)って来て、よくもこんなこと迄が頭の隅に残ってゐたものだと、我ながら驚きを感じてゐる。そして、その頃のことが次々に浮んで来るに従って、それを逃がさず書き留めて行くことに限りない興味を覚えつつある。

 もともと記憶のいい作家だっただけに、『幼少時代』は戦後の代表作になっている。
 私も谷崎のひそみにならって、自分の記憶に存する限りのいちばん古いできごとを思い出そうとしてみたが、ほとんど完全に忘却の彼方に埋没している。
 身のほど知らず。おまけにそろそろ認知症かも知れないなあ。

2006/06/06(Tue)  287

 (つづき)
 泉 鏡花の人物描写がおもしろいので、もうひとつ別の例を。
 背丈があのくらい長いのは、世間に沢山あるものではない、という学校の教師。

    教師は、其時分からもみあげを剃込んで、第一色の蒼白い、油できちんと髪を分けて、雪のやうな襟の巾(はば)、縦に五寸といふので、いつも薄色の服をつけて、竹馬に乗った小児(こども)のやうに、大跨(おおまた)に、ひょいひょい。

 この奥さんがいい。

    腹へおそなへを盗んだやうに、白い服の外からもだぶだぶ見える、大きな乳を、大道で、直ぐに飲ませさうな見脈(けんみゃく)をして歩行(ある)いたのは、四十恰好の女教師で、此の又つんづら短い事、横ぶとりに肥った事。顔といひ容子(ようす)といひ、ぶくぶくした工合(ぐあひ)、真鰒(まふぐ)を風呂敷に包むだやうで。

 昔のアメリカ・マンガ「ジグス&マギ−」を逆にしたようなカップル。
 こういう描写にも明治の匂いがたちこめている。

2006/06/05(Mon)  286
 
 明治の美人はどういうスタイルだったのか。

  古代紫の頭巾を深く、紫紺縮緬の肩掛を無雑作(むぞうさ)に引かけて、鉄御納戸(おなんど)無地のお召し縮緬の薄手なコオト、絹手袋の紺淡く、ほっそりと指の長いのが、手提げの旅行鞄(かばん)繻珍(しゅちん)の信玄袋を持ち添えた、丈だちすらりと、然(しか)ればこそ風には堪えじ柳腰、梅の薫りを膚(はだえ)に籠(こ)めて、艶(えん)に品好き(ひんよき)婦人である。

 泉 鏡花の『紅雪録』(明治37年)に登場する女性の描写である。こうした風俗はもはや想像もできないが、それでも楚々とした美人の姿が眼にうかんでくる。
 小説のなかに女性の衣装や持ち道具を描く場合、その風俗が消えてしまうと、その小説もその部分から風化して行く。それは間違いないのだが、すぐれた作家の描写は、時間の腐蝕のあと、思いがけないかたちで、後世の読者に新鮮な驚きをつたえてくるだろう。
 泉 鏡花の「女」の姿態は、なぜかノスタルジックな、しかし、あざやかな魅力を見せてくれるような気がする。
           (つづく)

2006/06/04(Sun)  285
 
 意志がつよいひと。それだけで誰もが尊敬してくれる。
 しかし、よく見るがいい。やりたいと思ったことをやったというだけじゃないか。
 女にもいる。自分の意志がつよいと思っているひと。
 そういう女には近づかないほうがいい。
 やりたいと思ったことをやらなかっただけじゃないか。あるいは。やりたくないと思ったことをやってきただけではないか。

2006/06/03(Sat)  284
 
 芥川龍之介の語学力は非常に高いものだったと思われる。
(1) ところが、「僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全」だから、西洋の詩文の意味は理解できても、その作品の「一字一首の末に到るまで舌舐めずりをする」ほどには味わえない、という。(「文芸的な、あまりに文芸的な」)
 いまの翻訳家にしても、いくらかおなじ嘆きを抱いている人はいるだろう。
(2) その三年前にも、芥川龍之介は、
 「僕の語学の素養は彼等(外国の作家、詩人)の内陣に踏み入るには浅薄を免れなかった」という。そして今も外国の詩人の音楽的効果を理解できない、とする。
(3) 僕に上田 敏と厨川白村とを一丸とした語学の素養を与えたとしても、果して彼等の血肉を啖ひ得たかどうかは疑問である。」(「僻見」)という。
 私の考えは以下の通り。
(1)は、芥川龍之介のように非常に高い語学力をもった人なら当然の意見で、この論理から、野上 豊一郎のような翻訳論を展開するのは愚劣である。ある国語にまったく違う文脈のものを移植する作業は、円周率の計算を出すようなもので、未来永劫、原作と同一の結果が出るわけではない。つまり、翻訳は「一字一首の末に到るまで舌舐めずりを」しながら訳したからといって名訳ができるわけではない。
(2)については、芥川龍之介の謙虚を見るべきだろう。と同時に、(3)は、上田 敏と厨川白村に比肩するひそかな自負を見ていい。
 現在の私たちは外国について、語学的にも、情報量も、芥川の時代とは比較できないほど優位に立っている。しかし、翻訳が楽になったわけではない。だから、「僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全」という思いは、私たちにも共通しているだろう。
 私が志賀 直哉を軽蔑するのは、戦後すぐに国語のフランス語化を提言するような愚劣なもの書きだったことによる。野上 豊一郎に反発するのは、彼の「翻訳論」に、日本語は外国の文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全だから、その意味だけを訳せばよいとする無能と、原文を理解するなら直接、その言語に当たるべきとする大正教養派の傲慢を読むからである。

2006/06/02(Fri)  283
 
 小説を書く。舞台に立つ。芝居の演出をする。翻訳をする。
 すべては、それまでの自分をまるで別のものに作り変えることことなのだ。
 ところが、これがむずかしい。
 自分を変えようとしたって、せいぜいもとの自分に似たものしか出てこないのだから。

2006/06/01(Thu)  282
 
 小学生の私は腕白ぼうず、いたずらばかりしていた。学校から帰るとすぐに外に飛び出して、メンコ、ビ−玉、原っぱで忍術ごっこ、川っぺりでツブテ打ち。夜はラジオで村岡 花子先生の「子どものじかん」を聞くだけ。勉強は大きらいだった。
 見かねた母(宇免)が学習塾に頼みに行ったが、面接で先方に断られた。途方にくれた母は、隣りのクラスの級長だった杉田(慶一郎)君のお母さんに相談した。たまたま杉田君の親戚で近くの酒屋の主人が書道の達人と聞いて、私をお習字に通わせることにした。 この酒屋さんは商売熱心な人だったが、習字の練習はきびしかった。この達人に、墨硯、筆づかいの初歩から教えてもらったことを生涯のよろこびと思っている。
 酒屋さんの義兄の桜田さんは、水戸藩の剣道の達人だったが、杉田さんの縁で算数を教えてくれた。年配、四十五、六、頭を剃っていたので、禅寺の修行僧のように見えたに違いない。この人も外見は柔和だが、内面ははげしい人だった。
 この人の母親、「桜田おばさん」も私にとっては忘れられない老女である。娘の頃の美貌を偲ばせるおばあさんだったが、私をまるで孫のように可愛がってくれたのだった。躾けのきびしい武家育ちで、品がよく、昭和になってお歯ぐろをつけていたので、子どもながらに驚いた。見たこともなかったから。
 母からの届けものをしたとき、「桜田おばさん」は丁寧に手をついて、
 「お使いがら恐れ入りました。お母さんに、どうぞこのようなごねんごろにはおよばぬとつたえてください」
 と挨拶された。
 何をいわれたのかよくわからなかったので、私はペコンと頭をさげて帰ってきた。
 いまでも、私を可愛がってくれた「桜田おばさん」のことを思うと、なつかしい思いが胸にあふれてくる。
 杉田君はきわめて優秀な人で戦後まもなく理学博士になった。

2006/05/31(Wed)  281
 
 芝居を見る楽しさ。それは役者を見る楽しさにひとしい。
 じつにいろいろな俳優、女優を見つづけてきた。それぞれの役者の一瞬の姿が眼に灼きついている。芝居を見る楽しさは役者を見る楽しさでもあった。
 戦後の芝居を見つづけてきた人が、最近、三島 由紀夫の『鹿鳴館』を見た感想を私にメ−ルでつたえてきた。

      ふと気づくと、眼前の舞台に、かつての中村(伸郎)・杉村(春子)、森(雅之)・(水谷)八重子、中村(伸郎)、村松(瑛子)、平(淑恵)・佐久間(良子)、(市川)団十郎、二世(水谷)八重子のそれぞれの舞台が映って、えもいわれぬ楽しさでした。言葉の上では知っていた「団菊爺い」の列に連なる年齢に私もなっていたのです。

 私の眼にもそれぞれの舞台が灼きついている。きみがあげている俳優、女優たちには、ごくわずかな機会だったにせよ個人的に知りあい、親しく話をしたことのあるひともいる。だから、きみのいう「えもいわれぬ楽しさ」は、私のものでもあった。
 ある時代をともに生きたという思いは私の胸から消えることはない。ただ、残念なことに、私はもう劇場に足をはこぶことがなくなっている。

2006/05/30(Tue)  280
 
 自分では使わないことばを他人がどう使ってもあまり気にならない。
 山本 夏彦は、自分が使いたくない表現として、「叩き台」や「踏まえて」といういいかたをあげていたらしい。剣持 武彦は、このふたつをあまり気にならないでつかっている、という。
 その剣持 武彦がどうしても使いたくないことばとして、「もの書き」、「やぼ用」、「生きざま」をあげている。それぞれの語のひびきが卑しくかんじられるから。
 私も、「叩き台」や「踏まえて」といういいかたはしたことがない。そうしたことばが使われる会議や、人種に無縁だったせいだろう。
 たしかに、剣持 武彦のいうように「もの書き」、「やぼ用」という表現は、一見へり下ったような、てれかくしの自己表現で、使うときの心根の卑しさを感じさせる。
 私は「生きざま」という表現は一度だけ使ったが、「やぼ用」は使ったことがない。しかし、「もの書き」はよく使う。「しがないもの書き」というふうに。たいしてりっぱな作家ではないからである。
 私が嫌いなのは「なにげに」とか「よさげな」という形容。なにげにネコに眼をやると気もちよさげに眠っていた、といった表現。
 ただし、翻訳で使うことはあるかも知れない。そのキャラクタ−にぴったりくる、と判断すれば。

2006/05/29(Mon)  279
 
 鎌倉の東慶寺は何度か訪れたことがある。
 境内に晩年の鈴木 大拙が過ごした松ケ岡文庫があるが、畏れ多いのでここには立ち寄らない。墓地には西田 幾太郎、和辻 哲郎、谷川 徹三などの墓があるが、どなたも存じあげないので失礼して、小林 秀雄の墓に詣でることにしよう。
 ほかの方々の墓碑にくらべて、小林さんの墓は驚くほど小さい。しかし、そのゆかしさにこの思想家の姿が重なるようだった。
 この墓から見て裏手にあたるのだが、裏山の中腹から上のあたりに、澁澤 龍彦のお墓がある。ひとつおいて磯田 光一の墓がつづいている。
 澁澤 龍彦とは何度か酒を酌みかわしたことがあるが、磯田 光一とはコ−ヒ−を飲みながら話をしたことがある程度だった。それだけのことながら私にとってはありがたいことだった。
 澁澤 龍彦、磯田 光一のふたりとも私にとっては忘れられない文学者なのである。

2006/05/28(Sun)  278
 
 メェ・ウェスト。Queen of sexy quips.つまりは ハリウッド伝説の大女優。ブロンド、妖艶なまなざし、巨乳。男たちはひれ伏した。
 1935年、大不況のさなかに破産寸前に追い込まれていたRKOが、メェ・ウェスト主演作一本で立ち直った。
 彼女の「ことば」(wisecracker)には感心する。
 男性遍歴を聞かれて、「ベイビ−、あたしは night school を出たのよ」と答える。
 結婚について。
 「結婚はりっばな制度よ、だけど誰が制度なんかになりたがるのヨ」
 「二つのものを一つにするとトラブルね」
 1932年、ブロ−ドウェイでヒットした舞台女優について聞かれたとき、
 “I’m not a little girl from a little town makin’ good in a big town.”と答えた。
 さらにつづけて、“I’m a big girl from a big town makin’ good in a little town.”と答えた。
 あまりにエロティックだと見たハ−ストが口を出した。
 「国会でメェ・ウェストをどうにかすべき時期ではないか」と。
 ハ−スト系の新聞の論調はいまのアメリカにも見られる。

2006/05/27(Sat)  277
 
 戦後、すぐにストリップショ−が流行した。
 それまでのきびしい抑圧から解放されて、私たちに自由を実感させたのが女性のヌ−ドを見ることだった。舞台上で全裸の女性が静止した姿を見せる「額縁ショ−」が戦後の性風俗のさきがけになった。客が押し寄せたので、警察が介入した。
 こういう現象は激動期の国には共通して見られる。
 はるか後年、ベルリンの壁が崩れたとき、東ベルリンの市民が西側のポルノショップに殺到したり、ストリップショ−に眼を奪われたという。ソヴィエト崩壊の混乱のなかでも、まっ先に氾濫したのがポ−ノグラフィ−、ストリップショ−だった。
 だから、日本でも戦後にすぐに登場したヌ−ドの「活人画」がストリップショ−のはじまりと思われている。しかし、これはあやまり。
 芸者のお座敷芸はべつとして、舞台上のストリップショ−らしきものは、明治39年5月23日。日露戦争の終わった直後である。神田橋外、和強楽堂で開催された「東洋演説音楽会」というショ−のラストに登場した。
 舞台に紅白の幔幕。その中央から幕が引きあげられると、「只見る、一人の裸体美人、両手に樹枝をかざして立てり」。観客は声をのんで見つめたにちがいない。
 ただし、「満堂の視線、之(これ)に集まる刹那、幔幕は引き下ろされたり」という。 これを報じた「日本」の記事では「此瞬間、何等(なんら)活人画なるものに就いての感想は起らざるなり」と書いている。観客は、唖然、茫然、愕然、凝然、ただ声を失ったにちがいない。
 しかも、俗謡の伴奏つきだったという。記者はこのショ−をはげしく非難している。
 当時、内務省は美術作品の裸体画に対する弾圧をつよめていたことを考えあわせると、こんな記事からでも見えてくるものがある。(笑)

2006/05/26(Fri)  276
 
 ずいぶん前に、通俗雑誌の挿絵画家、ノ−マン・ロックウェル展で、『イエス生誕を見守る人々』という一枚を見た。ノ−マン・ロックウェルは、雑誌の表紙にごく平均的なアメリカ人、とくに少年少女を描いたイラストレ−タ−。
 だが、この『イエス生誕を見守る人々』は、画面中央に剣を抜き放ったロ−マ兵の下半身がえがかれ、それを囲むようにして善男善女たちが、イエス生誕を見守っている構図。描かれたのは1941年12月。うっかりすると、ただクリスマスを描いた宗教画にしか見えない。だが、この一枚はロックウェルが痛哭の思いで描いたことはひしひしとつたわってくる。
 ところが、カタログには何も説明されていなかったし、美術評論家も何ひとつ解説していなかった。この絵を見たときから、私はこの美術評論家を信用しなくなった。
 美術展のカタログには、たいてい勉強家の秀才たちの解説がついているが、そんなものを読むより、自分勝手に絵を見ているほうがよほど楽しい。
 たとえばシスレ−の一枚。『森へ行く女たち』(1866年)。
 田舎の村の真昼。石と煉瓦造り、似たような農家が三、四軒。乾いた道が斜めにのびて、手前に三人、女たちが立っている。ひとりが本か紙切れを手にして、三人が何か話をしている。やや離れて、道に馬車の輪ッカを立てた男。さらによく見ると、遠くの家の日蔭にも二、三人、女たちが立っている。みんなが森に行こうとしているのだろうか。
 なんのへんてつもない風景。美術評論家もとりあげないし、シスレ−の代表作でもない絵なのに、いろいろ想像したくなる。
 道に立って何か話をしている三人は何を話しているのだろうか。手にした本(パンフレットかも知れない)は何なのか。森に行くための地図だろうか。まさか。
 当時、フランスの農民の識字率はきわめて低かった。したがって、通俗小説にしても文学作品とは考えられないし、森に出かけて行くときに聖書をたずさえて行くとも思えない。では何か。
 手紙。誰からの? おそらく戦死公報だろう。どこから? マダガスカルから。
 むろん、私の勝手な想像である。しかし、男がひとり、女たちからややうしろ、道に馬車の輪ッカを立ててたたずんでいるのはなぜなのか。
 そんなことを想像しながら絵を見るのが私の楽しい悪癖のひとつ。

2006/05/25(Thu)  275
 
 宝井 其角(1661〜1707)に、
     京町の猫かよひけり揚屋町
という句がある。つまらない句にしか見えない。むろん、ダブル・ミ−ニング。
 たちまち、廓という異空間が見えてくる。
 吉原の芸妓はもともと、仲之町と京町(横町とよばれていた)の二つにわかれていた。昭和初期に仲之町芸者は85名、京町に70名ばかり。
 吉原芸者といえばほんらい仲之町芸者のことで、大店(おおみせ。おおだなと読むと、べつの意味になる。)に出入りするのは、仲之町芸者だけ。
 横町芸者は見番制度をとっていた。玉(ぎょく)一本が30銭。2時間を一座敷として玉4本。お祝儀が2円40銭は1時間2本。祝儀90銭のきめだった。
 明治の作家、福地 桜痴が、仲之町芸者を呼んでことごとく白無垢を着せ、当時いちばんの幇間、桜川 善孝を坊主に仕立てて、くちぐちに南無阿弥陀仏と念仏を唱えさせながら、精進料理で酒を飲んだのが法事遊び。たいへんな費用がかかったはずである。
 品川楼の花魁、清司(せいじ)は客と心中した。その名をついだ二代目の清司(せいじ)は、初代清司の菩提をとむらうために、背中に南無阿弥陀仏、袖に卒塔婆(そとうば)、裾にしゃれこうべ、木魚、鉦(かね)などを模様にした白装束で客をとった。
 昔の吉原にはそんな話がいくらでもある。
 福地 桜痴の大尽遊びを羨ましいとは思わない。二代目清司(せいじ)の殊勝ぶりにも興味はない。さりながら、夜更けの新内流しや、火の用心に廓をまわる夜番の金棒の音を寝ざめの床でしんみり聞いてみたかったという思いがないわけではない。
 そこで、其角の一句がなかなか趣きのある句に見えてくる。

2006/05/24(Wed)  274
 
 めっきり数がへったけれど、たまに各地の同人雑誌が届く。
 ずいぶん昔のことだが、ある雑誌でしばらく同人雑誌評をつづけていた時期があって、手もとに届いた同人雑誌は全部読んだ。
 当時の私は、文壇作家とは違う次元を切り拓くようなもの書きがいるのではないか、という漠然とした期待をもっていた。
 今でも全国的には、かなりの数の同人雑誌がでているものと思っている。ほとんどが経済的に苦しい条件のなかで発行されているのだろう。むろん、それぞれの同人雑誌に発表されている作品は千差万別で、ひとしなみに論じることはできないが、大別して三つにわかれている。
 まず、他人にどう評価されようと気にしないで、自分たちのグル−プだけで作品を書いていればいい、というタイプ。これは詩や俳句の結社の機関誌や、地方で結束して営々と雑誌を出しているグル−プに多い。
 もう一つは、たとえ誰にも読まれないにしても、同人雑誌で長く文学修行をつづけてきた人々の雑誌。こういう雑誌に書かれているものは、読んでいてまずあぶなげのない作品がそろっている。「季刊午前」や「季節風」、「星座」などをあげておこう。
 最後にあげるのは・・・すぐれた主宰者をとり囲んで、お互いに切磋琢磨したり、和気あいあいとした雰囲気が感じられるグル−プ。三重県鈴鹿在住の清水 信を中心にした強力なグル−プもその例だろう。これについては、「きゃらばん」の庄司 肇が、「遠望す、清水一家」というエッセイを書いている。
 これに対して清水 信は、「庄司肇ノオトA」を書いている。(「清水信文学選」63)これからのエ−ルの交換がおもしろくなりそうである。
 同人雑誌を読む楽しみはこのあたりにある。

2006/05/23(Tue)  273
 
 掲示板で、他人を傷つけるようなことばを見る。
 差別まるだしの罵倒や中傷を流す。
 見るに耐えないひどいことばがテジタル情報として流される。
 こういう風景は、匿名性と無名性、自由と制約、大きく見ればヴァイオフィラスな生きかたとネクロフィラスな志向の相剋を物語っている。個人的なレベルでいえば、その人の品性、倫理感にかかわることで、ただちに社会的な荒廃につながる。
 ITがこれからどういうふうに進化して行くか私にはわからないが、私自身は一つのル−ルをきめている。
 けっしてラッダイトを書かないこと。
 もの書きとしてこれは最低限のシネクァノン(必要条件)。

2006/05/22(Mon)  272
 
 アメリカのコミックスを上位から人気順にあげると、
      「バットマン」
      「スパイダ−マン」
      「Xメン」
      「ス−パ−マン」
      「ジャッジ・ドレッド」(これはイギリスもの)
      「超人ハルク」
      「ワンダ−ウ−マン」
 「ジャッジ・ドレッド」は、まるでファシスト国家のような厳重な管理体制のなかで、中世の死刑執行人のようなヘルメットをつけて登場する。ほかのコミックは、ほとんどが正義の味方、悪の敵といった単純なキャラクタ−ばかりだが、「スパイダ−マン」だけは少しだけ内省的で、孤独な感じがある。
 ある時期、ハリウッドがつぎつぎにアメリカのコミックスを映画化したが、ろくな映画が作れなかった。「ゴジラ」や「ス−パ−マリオ」の映画化のひどさを見てから、アメリカのコミックスにまで関心がなくなった。
 ハリウッド映画が加速度的につまらなくなった時期。

2006/05/21(Sun)  271
 
 TVアニメ「サウスパ−ク」は10年目に入ったが、長年、「シェフ」の役の声優をやってきたアイザック・ヘイズがしりぞいた。(CNN/06.3.15)。
 このアニメが出発当初と違って、無差別に反宗教的な姿勢がひろがってきたためという。アイザック・ヘイズ自身が新興宗教「サイエントロジスト」の信者で、このアニメが「サイエントロジスト」を嘲弄したため、声優を続けるわけにはいかないというあたりにあるらしい。
 「サウスパ−ク」は、アメリカの片田舎に住んでいる5人の小学生たち。ユダヤ教徒のカイル、デブでエッチでマセている悪童カ−トマン、毎回かならず死んでしまうケニ−、可愛い少女ウェンデイが好きなくせに、話かけられると、ヘドを吐いてしまうスタン。
 この子どもたちの行動が、アメリカの偽善、道徳、倫理、常識(超保守派の女市長、無能で人種差別主義の校長たちに代表される)を徹底的にちゃかしたり、有名人をコキおろしたり、スキャンダラスな番組だった。
 学校給食を担当している黒人の「シェフ」は、いつも少年たちの味方で、ときどき相談にのってやったり、短いエピグラムふうのセリフで、ピリッと皮肉や風刺をきかせる。ただし、いつもワキ役。
 彼の特技は、しぶい声で春歌をご披露すること。(アイザック・ヘイズだから当然なのだが)ずっとあとの回で、両親がヴ−ズ−教の霊能者ということがわかった。
 このアニメが10年も続いていることから人気のほどがわかるが、最近の「サウスパ−ク」はすでにピ−クを過ぎている。1999年から2000年にかけての、初期のエネルギ−、破壊力、創造性が薄れている。ハリウッド映画が力を失ってきた状況とおなじかも知れない。初期のビデオはWBで出ている。訳者の名は出ていないが、ス−パ−インポ−ズの訳がいい。私はいつも感心していた。
 ビデオの入手がむずかしい向きは、DVDの「サウスパ−ク」(99年)だけ見てもいい。これには湾岸戦争当時のサダム・フセインが出てくる。
 最近はAXN(45チャンネル)で見ることができるが、吹き替えなので、声優の違いもあっておもしろさは激減している。
 残念だが。

2006/05/20(Sat)  270
 
 中国の女流作家、林 白の短編を読んでいて、こんな一節にぶつかった。古い写真を見ながら、主人公の胸によぎる思いは・・・

「彼女の声には、なつかしさと愛しさがとめどなくあふれ、人生の黄昏を迎えた老人が胸に刻み込まれた若い頃の恋を追憶するかのようだった。そういった写真は美しく、悲劇的で、死ぬまで忘れがたい」。

 小説とは無関係に・・・このパラグラフから私の連想がはじまった。
 老人がかつて若き日に胸に刻み込んだ恋を追憶する。さしてめずらしいことではない。
 北アルプスに登っていた頃、大正池の近くから穂高連峰を遠く眺めていた老人を見かけた。おそらく昔、自分が登った山々をなつかしんでいるのだろう。その姿に胸うたれたことがある。「美しく、悲劇的で、死ぬまで忘れがたい」思い出。
 眠れない夜に、かつて愛した女を思い出すことがある。
 なつかしさと愛しさがとめどなくあふれるならいいのだが、小説と違って、そういう思い出がいつも美しいはずはない。まして、その思い出が幸福なものとばかりはかぎらない。私などは、いくら悲劇的などと気どってみても、今になってみると、われながら滑稽だったり、なんとも恥ずかしいことばかり。それでも逆説的に、そうした思い出が死ぬまで忘れがたいことになる。
 ただし、最近の私ときたら、死ぬまで忘れないどころか何もおぼえていないかも知れない。(笑)ひどい話だ。
 林 白や遅 子建などの女流作家については別の機会に書くつもり。忘れなければ。

2006/05/19(Fri)  269
 
 東京都内の霊園におもしろい墓石が作られた。(06.3.17)
 高さ130センチ、合同葬、黒御影石の墓石の表面にパソコンが埋め込まれて、磁気カードで読み取る方式。
 満開のサクラ、花火といったイメ−ジ画像が流れてから、故人の氏名、生没の年月日、写真が出てくるという。約90秒。
 核家族化、単身世帯、低価格で、合同葬の墓が急速にふえ、すでに500基もあるという。パソコンが設置された墓もめずらしくなくなるだろう。
 どうせなら、スクリ−ンで故人の生前の姿が語りかける、とか、ホログラフで故人の姿がボゥ−ッと出てくる、なんて趣向はどうだろう。
 いっそのこと、故人の命日になると、そういうヴァ−チャルなCGイメ−ジを、各家庭に配信したら。
 死ぬやつも、あらかじめ配信先をきめておく。失恋した昔の恋人のTVに、突然出てきて、ウラメシヤ−なんて。自分の作品の悪口を書いた批評家に、作家が出てきてウラメシヤ−。きっと、ウラメシヤ−・スト−カ−なんていうのも出てくるね。
 みんなにわかに信心深くなったりして。(笑)。
 おもしろいねえ。ゴ−ストもののホラ−なんかメじゃないね。(笑)。

2006/05/18(Thu)  268
 
 まったく無名の画家が、ある日突然有名になる。べつにめずらしいことではない。
 しかし、ステラ・ヴァインという女流画家のことを知って、さすがに驚いた。本名は、メリッサ・ロブソン。本職はストリッパ−。      (「花椿」06.4月号)
 ストリッパ−が絵を描いても不思議ではない。イ−スト・エンドの小さな画廊で個展を開いた。たまたま有名なコレクタ−のチャ−ルズ・サ−チが買い求めた。この絵を自分の美術館に展示したことから、ステラ・ヴァインの名が知れわたった。
 ステラの絵は、ポツプ・ア−ト系のポ−トレ−トが中心で、どの絵もスキャンダラスな有名人をモデルにしたもの。むろん、ただのポ−トレ−トではない。
 ブル−のカクテル・ドレスで、どこかに出かけるらしい女性。やたらに眼を大きく見開いている。そのまなざしは見る側につよい不安をつたえてくる。
 青紫のバックに白い字で大きく、“MURDERED? PREGNANT? EMBALMED”と書いてある。ダイアナ妃の悲劇を知っているひとは、この最後の一語に思わずドキッとするだろう。
 ほかの絵もほとんどが女性のポ−トレ−トで、スキャンダルを起こしたり、なんらかの傷を受けている「おんな」なのである。画風は現代イタリアの狂気の画家、クレメンテに近いが、あれほどむき出しに、おぞましいセックスを連想させるものではない。女性らしく繊細で、新しい美人画といった趣きもある。ただ特徴的なのは、「おんな」の眼や顔からオツユ描きのように絵の具が流れていること。だから涙を流したり、顔(表情)が内側から崩れているように見える。
 描かれた対象の苦悩や涙にちがいないが、じつは対象を見る画家自身の内面の不安、恐怖を暗示している。それがステラを見る私たちの内面に折れ返ってくるのだろう。
 ぜひ、日本で彼女の個展を見たい。

2006/05/17(Wed)  267
 
 もう悪口をいってもいいだろう。
 「オペレッタ狸御殿」(鈴木 清順監督/05年)を見て、その阿呆らしさにあきれた。この十年で最低のワ−スト映画だと思う。
 太平洋戦争のさなか高山 広子主演の「狸御殿」(木村 恵吾監督)が、たいへんな人気になった。たあいのないファンタジ−だったか、この映画に熱狂したファン心理には、果てしもなく続いている戦争の息苦しさから、ほんのいっとき解放されたいという現実逃避の思いがあったと見てよい。戦後の「美空ひばりの狸御殿」には、ごく庶民的な大衆のアイドルが、じつは歌って恋をする美しい姫なのだ、という仮説があやかしと歌のドップラ−効果のように作用したのではなかったか。
 ところが「オペレッタ狸御殿」には、なにひとつそうしたクリスタリザシオンがない。もともと鈴木 清順をまともな映画監督と思っていないが、この映画になると才能が衰えたとか枯渇したというレベルの話ではない。これほどひどい映画を撮ったとは思わなかった。
 チャン・ツイィ−は本気でまっとうな芝居をしているが、監督がこの女優の魅力を出せないのだからどうしようもない。老齢の映画監督がくだらない映画を作るほど、無残なことはない。まして、才能もない老監督が、無残な老醜をさらすのはいたましいとしかいいようがない。

2006/05/16(Tue)  266
 
 ブ−タンの首都、ティンブ−でDJをやっている若者のドキュメントを見た。
 インドとチベットのあいだに位置している仏教国。いまでも経文が書かれた布の旗(ダルシン)が山々の峰に立ち並び、きびしい寒風に吹きさらされている。女性は丈の長いキラという服を着ている。
 しかし、99年にインタ−ネットが導入され、テレビで外国のさまざまなプログラムを見ることができる。携帯電話も普及している。いまや生活も激変しつつある。外来文化と伝統のせめぎあい。ブ−タンでただひとりのDJの若者はビリヤ−ドをやる。そして新しい音楽(電子音楽)を紹介するパ−ティ−。しかし、客が帰ってしまって、はじめての音楽パ−ティ−は失敗する。夢やぶれた彼は店を両親にわたしてインドに旅立つ。
 ブ−タンのような小国が古来の伝統をまもり抜くのはむずかしいだろう。否応なく西欧文明が席巻してゆく。そのせめぎあいのなかで、ヒップホップを紹介することがどこまで必要なのか。そう思う一方、彼は自分の国の音楽よりも、先進国のポツプスのほうがはるかにすぐれていると思っている。いわば確信犯なのだ。
 テレビのドキュメントを見ていて、この若者が可哀そうになった。

2006/05/15(Mon)  265
 
 昔の映画を見る。
 たとえば「存在の耐えられない軽さ」(フィリップ・カウフマン監督/88年)。
 若き日のジュリエット・ビノッシュを見たくなって。
 ジュリエット・ビノッシュは、18歳でコンセルヴァトワ−ル(国立演劇学校)に入学して、ベラ・グレッグの教えをうけている。ベラ・グレッグの先生は、タニア・バラショヴァ。こんなことから、「戦後」のルイ・ジュヴェのコンセルヴァトワ−ル教育が、ジュリエット・ビノッシュの内面に流れているらしいことが想像できる。
 ジュリエットが先生から芝居(演技)についてまなんだことは、演技術ではなく、自分の内面にあるものに気がつくことだった。作りものの演技と、ほんとうの演技の違いがそこから生まれ、やがては演技は「言葉で語らない」芝居になる。
 彼女がチェホフの『かもめ』公演のあと、すぐに「ポンヌフの恋人」に出たと知って、私は彼女の芝居(演技)について考えるようになった。
 「何かを演ずるとき、必要なものはいつもそこにある」とジュリエットはいう。
 若い頃から映画で全裸になったり、性交する女をエロティックに演じたことも、作りものの演技ではなく、女としての真実をどこまでも女優として表現しようとしたからだった。いまやフランスを代表する女優といっていい。
 二度もセザ−ル賞を受けているし、ハリウッド映画でもアカデミ−賞も受けているが、フランス人は自分の成功をうけいれることがむずかしいという。成功にうしろめたさを感じるから。
 私にいわせれば、天性そういう「含羞」をもった女優こそ、もっとも成功する確率が高い。
 ときどき昔の映画を見直すのは、その時代のスタ−をなつかしむためではない。ひとりの女優が、いつ、どこで、どのようにして他の女優たちと違っていたのか、違ってきたのかそのあたりをたしかめる発見があるからだ。

2006/05/14(Sun)  264
 
 今では誰も知らない歌人だが、山川 登美子。与謝野 晶子に恋人を奪われ、傷心のあまり肺を病み、やがて夭折した薄幸の歌人。亡くなる半年ばかり前(明治四一年)に詠んだ歌がある。
                
 わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく

 山川 登美子としては、あまりできのいい歌ではない。
 おそらく、小野 小町の「あはれなり わが身のはてや あさみどり つひには野辺の 霞と思えば」を意識したか。
 さびしみのなかに、どこか華やぎがある。できのよしあしなど、どうでもいい。私の好きな一首。
 福井に行ったとき、ある研究家から「山川 登美子歌集」をいただいて、山川 登美子を知った。そのときから、この歌人に心を惹かれた。

2006/05/13(Sat)  263
 
 小説離れ。小説が読まれなくなっている。
 いろいろな理由があるだろう。
 戦後の教育のいちじるしい劣化がこうした作用的結果をもたらしたと見ていい。教えられたことをノ−トする、あとは暗記するだけ。試験だけ受かればおしまい。この傾斜は、今後も進むと思われるから、小説の読者層が失われてゆくことは必至と見ていい。そのかわり、小説に比較して映画、テレビ、ゲ−ム、コミックのほうがおもしろい。さらには、安手なノン・フィクションのほうが読者の心をとらえているから。
 では、「小説の時代」は終わったのか。
 ハチャメチャないいかたになるが・・・明治になって、江戸の稗史小説の流れは硯友社までで壊滅した。むろん、その流れは遠く浪六あたりまでつづくけれど。自然主義、反自然主義の流れは、一方で大衆小説のうねりに巻き込まれて昭和前期までつづく。これは戦争によって断ち切られる。戦後の文学の流れは20世紀とともに終わった。巨視的に見れば、現在は新しい表現がようやく生まれようとしている予兆の時代と見ていい。
 はっきりしているのは・・・私が深い敬意をもって見てきた「文学」、私の内部にいつもつよい影響をあたえてきたすべてが断罪されようとしている。残念だが。
 悲しむにはあたらない。いつの時代もそういうふうにして交代してゆくのだから。

2006/05/12(Fri)  262
 
 相田 翔子、鈴木 早智子というふたりの美少女のデュオ、「WINK」をおぼえているだろうか。
 1988年にデヴュ−したあと、3曲目の「愛はとまらない」が大ヒットして、平成のス−パ−・アイドルといわれた。96年に「WINK」は活動をやめている。
 その後、相田 翔子は芸能界からしばらく姿を消していた。その頃、住んでいたマンションの管理人に、いわれた。                            
「この頃、テレビで見かけないな。すっかり落ちぶれちゃったんだね」
 相田 翔子はこれがきっかけで芸能界に復帰して、現在はポップスではなく、いろいろな番組で活躍している。
 私が関心をもつのは、ここに大衆心理の典型的な本質が見えるからである。私たちの内面にはスタ−崇拝(ウォ−シップ)がひそんでいる。それは何かのチャンスには、かならず軽蔑や嘲笑に転化する。相田 翔子はこのときの管理人のことばに「悪意」を聞かなかったはずである。
 私にも似たような経験がある。
 友人の松島 義一が編集者をやめたときの集まりで、たまたま批評家の奥野 健男が私を見てにやにやしながら、
 「この頃、どこでも(きみの書いたものを)見かけないな。消えちゃったんだね」
 私もにやにやしながら、
 「だから逼塞しているよ」
 このとき、私はひそかに奥野 健男を軽蔑したのだった。当時、私は『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていた。ラテン・アメリカを巡業していたルイ・ジュヴェの暗澹たる状況に自分を重ねていたような気がする。
 私は気がつかなかった。軽蔑にはしばしば羨望がかくされていることを。

2006/05/11(Thu)  261
 
 山本 音也という人が書いていた。定年後に散歩をはじめたらしい。(「文芸家協会」ニュ−ス/06.2)
 「散歩とは名ばかりの徘徊」で、川の鯉にバンをちぎってやったり、ス−バ−でアジを買ってきたり。
 「張り合いなしの希望なし」、長生きなんかしない方がいいなあ、という。
 公園で遊んでいる幼児を見ていると、若い母親たちに睨みつけられる。
 「ほんとに厭な世の中になってきました」。ああ、いやだいやだ。
 思わず笑ってしまったが、私だって似たようなものかも知れない。山本 音也という作家の書いたものは読んだことがないのだが、このフレ−ズは気に入ったね。
 テレビで、認知症の老人たちが「大人のぬりえ」をやっていた。数字がついていて、指定された通りにぬってゆけば、まともな絵になる。みんな楽しそうにやっていた。
 デュヴィヴィエの映画、「旅路の果て」でルイ・ジュヴェがつぶやく。
 「老年は醜い」。
 昔の映画のセリフをすぐに思い出すなんて、ああ、いやだいやだ。(笑)。

2006/05/10(Wed)  260
 
 ある人が先輩にいわれた。

    チャンスはピンチ、ピンチはチャンス。

 いいことばだと思う。
 だが、チャンスがチャンス、ピンチがピンチだったら。
 私は考える。
 チャンスはチャンスであるチャンス、ピンチはピンチであるピンチなのだ。
 そんなふうに考えるから、チャンスに恵まれなかった。ピンチらしいピンチに見舞われなかった、といいわけができる。

2006/05/09(Tue)  259
 
 オデットから花をもらったような気がする。
 大切そうにかかえていたマリーゴールドだったと思う。偶然、出会った街のなかで。花などをもつにはいちばんふさわしくない彼が、これをもって帰ったときの晴れがましさ。花でなくても、その人の大切な気もちがこめられていればいるほど、もらう、あげる、という行為のありがたさ、と同時に、こわさみたいなもの。ささげるといってもいいような。なんだ、こんなもの、と鼻であしらうわけにはいかない。くれた相手が、格別、それを愛しているとわかっているだけに、こちらにその気もちがかかってくる。      「インドのバラっていうみたい」彼女がいった。
 花を知らない。インドのバラだろうが、マリーの黄金だろうが、どうでもいいようなものだった。単純にうれしいには違いないのに、なぜかその花に対して劣等感のようなものをおぼえて、少し動揺した。美しいものにたいする眩暈(げんうん)といおうか。それは、彼女の若さに対する引け目だったかも知れない。
 片手に明るい赤のマリーゴールドの花をさかさに握り、野の花のように風に吹かれているふぜいで、たよりなげでとても綺麗だった。
 コーヒーを飲んで別れたが、彼女をつつむ空気がそこだけ澄んでいる、重たい春の黄昏に彼女とホテルに行った最後の日になった。

2006/05/08(Mon)  258
 
 いよいよご臨終。できれば手鏡をとって、いってやる。
 「あばよ。やっとてめえの面を見なくてすむ。これでせいせいするだろう」って。

2006/05/07(Sun)  257
 
 未知の人から思いがけないメ−ルが届いた。

   お尋ねしたいことがあるのですが、モンロ−が来日した際、日本の著名人からビ−ズの刺繍がほどこされたジャケットをプレゼントされたという事実があるようなのですが、誰からプレゼントされたのか、その際の写真、または映像を確認できるか知りたく・・

 後年のビ−トルズの来日のときほどではなかったが、マリリンが来日したときの騒ぎはたいへんなものだった。
 当時、「東宝」は外国の映画人と合作の話がいくつか出ていたし、ルイ・ジュヴェがアメリカ、カナダ公演に出たので日本公演の可能性を打診していた。
 「東宝」の企画した映画は、スタンバ−グの「アナタハン」と、イタリアの監督、カルミネ・ガロ−ネの「蝶々夫人」として実現した。残念ながら、ルイ・ジュヴェはフランスに帰国後、その夏に亡くなってしまった。そんな空気があふれていたので、マリリンが来日したときも上層部はコンタクトをとったと思われる。製作本部長は森岩雄、砧の撮影所長は渾大坊 五郎。「東宝」からビ−ズの刺繍のジャケットをプレゼントした可能性は大きい。それを届けたのは椎野 英之だった。
 当時、私は「東宝」の社員だった椎野 英之に呼ばれて、映画のシノプシス、ダイアロ−グ、シナリオを書いていた。私といっしょに呼ばれたのは、同年代の矢代 静一、八木 柊一郎、西島 大、池田 一朗の五人だった。今からみても、そうそうたるメンバ−だった。
 やがて私は、翻訳をつづけながら小芝居の演出に移ったため、映画の仕事からまったく離れたが、矢代 静一、八木 柊一郎は、それぞれの時代を代表するすぐれた劇作家になった。西島 大は、「青年座」の代表になっている。池田 一朗は、はるか後年、隆 慶一郎として流行作家になった。西島と私以外は、すべて鬼籍の人になっている。
 椎野 英之は「東宝」で藤本 真澄、本木 荘二郎につぐプロデュ−サ−になって「三匹の侍」などをプロデュ−スした。
 椎野がマリリンに会いに行った日、私は「東宝」本社のすぐ前(日比谷映画劇場のうしろ、マリリンが泊まっていた帝国ホテルから歩いて2分)の喫茶店で椎野を待っていた。 
 思いがけないメ−ルのおかげで、このときのことを思い出した。まるで夢まぼろしのように。残念ながら、このときの写真、または映像はない。

2006/05/06(Sat)  256
 
 人跡未踏とはいえないが、ほとんど人の立ち入らない森を歩いていて、思いがけない立て札を見かけた。
    「森林ハ 兵器庫ダ  営林署」
 戦争が終わって数十年たっているのに、昼なお暗い、鬱蒼とした森林のなかで、朽ちかけた立て札が戦意高揚を訴えかけている。
 立て札をひっこ抜いて、アックスでたたき割ってやろうと思った。しかし、こんな場所でまだ戦意高揚を訴えている立て札があわれに思えた。
 これを立てた営林署員は、本心から森林は兵器庫なのだと信じていたのか。はじめから誰の眼にもふれないと承知して立てたのかも知れない。こんな森が爆撃の目標になるはずもない。もしかすると、べつの意味で森林こそ国の兵器庫なのだと信じて、わざわざこんな場所に立てたのか。
 自然破壊や、環境の公害が問題になっていなかった頃のこと。どこの山を登っていたのかそれももう忘れたが。

2006/05/05(Fri)  255
 
 登山に熱中していた時期がある。その頃の私のスタイルは、ア−ミ−・キャップ、黒いカッタ−・シャツ、黒いズボン。ヴェトナム戦争で放出された迷彩服のジャケット。冬はその上に50年代にはやっていたスキ−用のアノラック。当時でも、まるっきり「流行おくれ」(デモド)スタイルだった。
 当時の私のカリカチュアには、「まるで忍者スタイル!」というキャプションがついていた。
 名もないような山を地図でさがしては登っていた。そういう山には整備された登山道があるわけではない。いきなり崖に出て動きがとれなくなったり、地図上の峠が実際には荒れ果てて歩けなくなっていたり。そんな山ばかり登っていた。誰も知らない、見捨てられたような山でル−ト・ファインディングや、ビバ−クするのが性分にあっていた。
 日が暮れる頃、山から麓に向ってとぼとぼ歩いていると、よく村人に「ご苦労さんです」と声をかけられた。営林署の役人に間違えられたらしい。
           
*「NEXUS」43号(06.2)参照

2006/05/04(Thu)  254
 
 好きなことば。
 メネ・テケル・ペレス。
 この呪文は、バビロン王に呼ばれた予言者がこのことばを読み解いて、王国の崩壊と判読したという。数える、計る、分ける。そういう意味らしい。
 原稿を書いているとき、いつも残りの枚数を数えては、締切りまでの時間をはかって、相手にわたすまでの所要時間と、わたしたあとで飲む時間をわけていた。
 連載なんかだと、あと何枚だからまだダメネ。おやおや、困った、待っテケレ。できたぞ、これから飲むペレス。そんなダジャレをつぶやきながら書いていた。
 ファックス、メ−ルもない頃は、総武線の電車の中で原稿を書いていた。けっこうスリルがあった。今ではこれもうダメネ。

2006/05/03(Wed)  253
 
 ・・・「ロシアで『ドヴルイニャ・ニキ−チチ』(イリヤ・マキ−シモフ監督)という長編アニメ−ションが作られていますが、日本で公開されたらごらんになりますか?」

 いちおう見たいと思っている。主人公はロシア中世の三人の豪傑らしい。ただし、ディズニ−の長編の影響らしく、ヒロインの顔がディズニ−そっくり。あきれた。

・・・「ディズニ−・アニメはあまりごらんにならないんでしょう?」 

「美女と野獣」を見てひどく失望したからね。

 ・・・「どうしてですか?」

 見ているこっちが野獣になれない美女なんて、美女でもなんでもないだろう。

 ・・・「おすすめの長編アニメは?」

 「香港のツイ・ハ−クが作った長編アニメ。(題名失念。調べればすぐわかる)。韓国のエッチなアニメ、「閻魔王」。フランスのジャン=フランソワ・ラギオニ−の「ある日突然爆弾が」とか「悪魔の仮面」、カナダのTVアニメ「サウスパ−ク」シリ−ズ。

 ・・・「どれも、あまり知られていませんね」

 じつは長編アニメほど、その国の文化的な状況、政治的な環境を物語っているものはないんだよ。「閻魔王」は閻魔さまが、ヤラしくて、おおらかで、いじけていて、なかなかいい。「サウスパ−ク」はDVDで長編アニメが出ている。サダム・フセインを思いっきりコケにしている。アカデミ−賞にノミネ−トされたが、ハチャメチャで、エッチ、下品で、猥雑、差別、アイロニ−がいっぱいという非常識な作品だったから、みごとに黙殺された。

 ・・・ 「そんなアニメが好きなんですか?」

 いや、そういうわけではない。しかし、ほんらいアニメ−ションに必要な「毒」がたっぷり。大女優のバ−ブラ・ストライサンドが、途中からメカ・ゴジラに変身して、あばれまわる「Mecha−Streisand」なんか笑えるよ。
 ディズニ−・アニメのようにいつも良識ばっちり、そのくせ貧寒な想像力だけのアニメを、いくら高度な技術を駆使して作ったところで、いいものができるはずがない。
 「牡牛のフェルジナンド」がピ−ク、傑作といっていい「白雪姫」までで、私においてディズニ−・アニメは終わってしまった。だから、つまらない。

2006/05/02(Tue)  252
 
 気分的に落ち込む。誰にでもあることだろう。
 ある女性は気分的に落ち込んだとき「雨に唄えば」を見ると話してくれた。それが心に残った。そのときから、私も好きな映画をビデオ、DVDで見るようになった。「雨に唄えば」ほどにも有名な映画ではない。
 「ウォリア−ズ」、「ファウルプレイ」、「Mako」、「芸術に生きる」、「ヴォルポ−ネ」など。
 もう誰もおぼえていない映画、まるっきり評判にならなかった映画ばかり。

2006/05/01(Mon)  251
 
 コ−ヒ−を飲む。ずっと紅茶党だったが、十年ばかり前からコ−ヒ−しか飲まなくなっている。
 オスカ−・レヴァントのCDがほしい。ほんらいは一流のピアニストだったが、役者でもないのによく映画に出ていた。小柄なのに、タキシ−ドがよく似あう。生活は昼夜が逆で、夜行性のパ−ティ−人種。いつも、眼をギロギロさせて、近頃おもしろくないねえ、みたいな仏頂面。分厚い唇、すすけた顔つき。顔色がどすぐろい。セリフは、皮肉のきいたひとことかふたこと。彼が、鼻の大きいジミ−(シュノッズル)デュランテといっしょにいると、それだけでおもしろかった。ジミ−の「スタ−ダスト」の演奏は最高だった。 コ−ヒ−を飲みながらオスカ−・レヴァントを思い出すのは、彼がコ−ヒ−の飲み過ぎで顔色がどすぐろくなっていたから。

2006/04/30(Sun)  250
 
 イカサマ。誰でも知っているわるいことば。インチキとおなじ。
 しかし、違った用法で「いかさま」という副詞があった。如何様からきている。
 謡曲の『羽衣』に・・・天人の羽衣を見つけて、「いかさま取りて帰り、家の宝になさばや」という。これはどうしても、とか、ぜひにも、という意味。これも死語。
 しかし、自分がはっきり確信していういいかたの「いかさま」は、相撲名解説者だった玉ノ海のあとをついだ神風が使っていた。
 「いかさま大鵬は柏戸の動きを読んでいましたね」というふうに。
 おやっと思った。その当時でもめずらしいいいかただった。
 もう一つ。
 「いかさま腹がへってやりきれねえ。何かうまそうな料理と、熱燗で二、三本たのむよ」といった。
 戦後すぐに、ある作家の短編で見つけた。
 なつかしいいいかた。

2006/04/29(Sat)  249
 
 あまり手紙を書かなくなっている。
 むろん、メ−ルのやりとりもしない。
 もともと友人が少なかった。ほんとうに親しかった友人たちももう生きてはいない。
 都会そだちの人間は、人づきあいがいい反面、気よわなところがあって、引っ込み思案なのだ。必要以上に、相手に気兼ねするのが自分でもやりきれない。わずらわしいとも思う。
 同窓会にも出なくなった。

2006/04/28(Fri)  248

 明治の欧化を想像する。明治六年頃に流行した唄に、

    おいおいに開けゆく  開化の御世のおさまり
     郵便はがきで 事たりる  針金たよりや  陸(おか)蒸気
     つっぽに 靴はき   乗合馬車に 人力くるま
    はやるは安どまり   西洋床に 玉突き屋
     温泉は 日の丸ふらふら 牛肉屋
    日曜どんたく 煉瓦づくりに 石の橋

 針金たよりは、無線電信。陸(おか)蒸気は、汽車。つっぽは、洋服。安どまりは、いまでいうラブ・ホテル。明治6年に、もうビリヤ−ドが流行していたんだね。西洋床でザンギリにしたハスラ−もいたに違いない。

2006/04/27(Thu)  247
 
 戦後すぐの神保町に「ランボオ」という喫茶店があった。「近代文学」の人たちをはじめ、いろいろな作家、評論家、芸術家たちが集まっていた。
 この店にときどきやってくる人物がいた。アメリカの喜劇チ−ム、ロ−レル/ハ−ディ−の、小柄で痩せっぽちのオリヴァ−・ハ−ディ−によく似ていた。「戦後」すぐで、かなり色の薄れた青いオ−バ−を着ていたが、その丈がやたらに長く、裾の先から素足、すり切れたゲタという恰好だった。「近代文学」の人々の旧知の人らしかった。
 いつも隅っこのテ−ブルにつくと、コ−ヒ−を注文して、あたりを気にせず、分厚いフランス語の原書を読みふけっている。
 まだ外国語の勉強など考えもしなかった私は、辞書ももたずにフランス語の原書をすらすら読みこなす人がいることに驚いた。
 たまたま私たちの話題が江戸の文芸におよんだ。すると、少し離れたテ−ブルで、フランス語を読んでいた人が、それは・・・の何ぺ−ジに出ていますよ。書いたのは・・・で、版元は・・・で、というふうに説明した。知識をひけらかすような衒いもない、自然ないいかただった。このときもショックをうけた。その人の博識に度肝を抜かれた。
 あまり衝撃が大きかったので、何が話題になっていたのかおぼえていない。それから、佐々木 基一、荒 正人たちの質問が集中した。彼は、フランス語を読むのをやめて、丁寧に答えた。おぼろげながら柳 里恭か服部 南郭の名が出たような気がする。
 やがて、彼はコ−ヒ−代を置いて、みんなにかるく頭をさげると、青いオ−ヴァ−の胸もとにフランス語の原書をねじ込んで出て行った。
 このとき彼が読んでいたのはアナト−ル・フランスの『ペンギンの島』だった。これは間違いない。私は実際にその本の背表紙を見届けたのだから。
 石川 淳だった。戦後の「焼跡のイエス」が発表される直前のこと。

2006/04/26(Wed)  246
 
 少年時代に「立川文庫」に夢中になる。少しもわるいことではない。徳富 蘆花の『自然と人生』を読む一方で、村上 浪六を読みふける。やがて、『不如帰』、『金色夜叉』などを読みあさる。さらに黒岩 涙香、有本 芳水といった名前も、彼の心に深くきざまれる。はるか後年、この少年は有名な評論家になる。堀 秀彦。
 「要するに、いま私がやっているのと同じように少年時代にも私は行き当たりバッタリの読書しかしなかった。私はこのことを、いま、ほんとうに心から後悔しているのだが、このごろでは、そうした読書の方向が私の性格に合致していたのではないかと思いもする。」
 少年時代に「立川文庫」に夢中になったことを恥ずかしいと思うのがおかしい。徳富 蘆花を読みながら、村上 浪六をおもしろがって、どこがわるいのか。こういう考えかたの背後には『不如帰』、『金色夜叉』に涙する人々に対する無意識の蔑視がひそんでいよう。こういう人は読書論なんか書くべきではない。
 黒岩 涙香、有本 芳水といった名前が心に深くきざまれた、だと? ウソつきやがれ。涙香、芳水から何ひとつうけとらなかったくせに。
 人生のあらゆる出会いとおなじで、一冊の本との出会いはそのときの自分にとって、どうしようもないものなのだ。そう思えば、少年時代に「立川文庫」や、徳富 蘆花や、村上 浪六に出会ったことを、後年、ほんとうに心から後悔しているなどという、したり顔の反省をする愚劣な知識人にならずにすむ。
 「モンテ−ニュの『エセ−』を、文字通り座右に備えて、この上なく愛読している」だってさ。ふざけンじゃねえ。

2006/04/25(Tue)  245
 
 ある日、有名な評論家の書いた『読書のよろこび』を読んでみた。
 この人は、高校から大学にかけて、久保田 万太郎や鈴木 三重吉などの「可憐な」小説を愛読したという。この評論家は堀 秀彦。
 「ところで、そうした小説は私に何をもたらしたのか」と彼は反問する。
 ようするに、一種のセンチメンタリズムに過ぎなかった、という。
 「私はいまになって、あたら、よき青春の日を、浪費したような気がしてならない。私はもっと偉大な人間の記録をよむべきだったのた・・・いまにして思えば」という。
 私は笑いだした。このほうがひどいセンチメンタリズムではないか。
 石川 啄木や、堀 辰雄、津村 信夫を読んで感動する若い読者に、きみはあたら青春の日を浪費しているというのだろうか。
 堀 秀彦は、もっと偉大な人間の記録を読むべきだという。彼があげるのは、モロアの『ヴィクトル・ユ−ゴ−』、ツヴァイクなど。「私たち平凡な人間にとって(ここにケタはずれの実在の人間がいる!)ということを私たちにいや応なしに教えてくれるからだ」という。わるい冗談だなあ。表面には出ていないが、いやらしいエリ−ト意識と卑下慢めいたいいかたが鼻につく。なにもモロア、ツヴァイクなんか無理して読む必要はない。
 私はいまでもモロア、ツヴァイクに深い敬意をもっている。ただし、ここにケタはずれの実在の人間がいる、などということをいや応なしに教えてもらったからではない。
 私がモロア、ツヴァイクに深い敬意をもったのは、その評伝を偉大な人間の記録としてではなく、人間の偉大な記録として読んできたからなのだ。
 読書論なんか書かなくてよかった。

2006/04/24(Mon)  244
 
 60年代から80年代の中頃まで、私は映画批評を書いていた。毎日のように映画の試写を見るので、京橋から新橋にかけて歩いたものだった。
 銀座では、私よりもずっと先輩の飯島 正、双葉 十三郎、植草 甚一たちや、私と同世代の田中 小実昌、佐藤 重臣、虫明 亜呂無たちの姿をよく見かけたものだった。築地の「松竹」の試写室で見かけたばかりの人が、そのまま新橋の「コロンビア」や土橋の地下の試写室ですわっていることもあった。
 もっと昔の、敗戦直後の西銀座を思い出す。いたるところに防空壕が掘られていた。白昼、焼け跡のビルから若い女の悲鳴が聞こえてきたり、復員兵くずれの辻強盗が出たり。新橋の地下鉄の出口に、外地から復員してきたらしいボロボロの軍服の男が階段にすわり込んでいた。日に焼けているが、痩せて、眼ばかりギロギロしていた。うしろの壁に新聞紙を張りつけて、金釘流で、大きく「いのち売ります」と墨書してあった。通りすがりの人々も、ほとんどが眼も向けなかった。そんな時代だった。
 その頃、久保田 万太郎の戦後の短編を読んだが、そのなかに、
 「しかしだね、さァ、こんなものはもういらなくなったんだ、景気よく埋めようぜと、三味線太鼓でのお祭り騒ぎで埋めることができればいいが、おおきにそう行かないで、それこそ涙片手に、泣く泣く埋めさせられなくッちゃァならないことにでもなったら、そのとき、おれたちは、一たいどういうことになるんだろう?」
 とあった。
 今の西銀座、街のたたずまい、空気まで、すっかり変わってしまった。環境の破壊や汚染、耐震強度の偽装、監視カメラや、格差ストリ−ト。

2006/04/23(Sun)  243
 
 晩年のジョン・ヒュ−ストン(だったと思う。間違っていたらごめんなさい)は、よくこんなことをいっていた。
 「おれはハレ−彗星を二度も見たんだ」
 すごい。羨ましいとは思わないけれど。
 私はハレ−彗星を見なかった。
 もう少したったら、すっかりボケた私はいうかも知れない。
 「おれなんか、毎年、異常気象を見てきたんだぜ」
 ひねくれ過ぎかも。

2006/04/22(Sat)  242
 
 こんな笑い話がある。

 アメリカ人、フランス人、日本人が、ゾウをテ−マにした本を書いた。
 アメリカ人は、『ゾウでいかに儲けるか』。                   
 フランス人は、『ゾウのラヴ・ライフ』。
 日本人は、『ゾウは日本をどう見るか』。

 笑える。日本人だっておかしい。日本人のおかしさが笑える。
 ところで、少しまじめに考えてみる。中国人ならどういう本を書くだろうか。
 ロシア人なら? ロシアにはマンモスしかいないからな。(笑)。

2006/04/21(Fri)  241
 
 明治時代、「団々珍聞」に出た都々逸。

     人のうわさで また気がまよふ 思い切(ろ)う と する矢先

 まあ、そんなものだろうな。しかし、おなじ色恋を詠んでも、

     思い切らうと あきらめて それから恋になりぬとや

 作者は、松浦 静山(1760〜1841)侯。随筆『甲子夜話』で知られている。人情の機微をよくご存じだったらしい平戸の名君。

2006/04/20(Thu)  240
 

 もう、話題にならない06年の冬季トリノ・オリンピック。日本の成績は不振をきわめた。その中で、女子フィギュアで荒川 静香が金メダルをとったことはうれしかった。男子フリ−は予想通り、ロシアのエヴゲニ−・プルシェンコ。
 4年前のソルトレイクで、プルシェンコはアレクセイ・ヤグディンに敗れている。プルシェンコは、ちぇッ、ドジッたなあ、みたいな顔をしていたが、採点でヤグディンが泣き崩れたことを思い出す。
 もう、誰もおぼえていないだろうけれど。
 2002年のソルトレイクとトリノの違いはどこにあったのか。まったく個人的な意見だが、大きな違いはプレイヤ−のファッションにあったと思う。
 ソルトレイクでは、ほとんど例外なく黒が基本色だった。
 カナダのエルヴィス・ストイコは、背中にぎらぎらの金のドラゴンの刺繍だったが、黒が基調。アメリカのマイケル・ワイスは、全身、黒。フランスのフレデリック・ダビエは、純白のシャツに黒。日本の本田選手もおなじスタイル。
 いかにも田舎の純朴な青年といったティモシ−・ゲ−ブル(当時24歳)は、純白のシャツに黒いヴェスト。ロシアのアレクセイ・ヤグディンもピッチ・ブラック。わずかな例外は、ブルガリアのイヴァン・ディネフが胸いっばいに大きくアフリカの仮面をデザインして、これがダ−ク・グリ−ンだが、全体は黒。アレクサンドル・アブルは、薄い青のシャツだが、やはり基調としては黒と見ていい。時代が暗かったせいなのか。
 それにひきかえ、06年の冬季トリノ・オリンピックの男子のスタイルの華麗だったこと。

2006/04/19(Wed)  239
 
 清水小路の表通りには、小さな市電やバスが通っていたが、あまり乗客がなかった。
 商店らしい店もなく、印刷屋、糸屋、ミシン屋、タクシ−屋がならんでいるだけで、長びく不況のせいでひどくさびれていた。
 ミシン屋の横の路地を通ると、すぐに道幅がひろがって、そこに数軒の住宅が向かいあっていた。父が見つけてきた借家に移ったのだが、もとは武士の長屋の跡地だったらしく、奥に大きな武家屋敷があった。
 タクシ−屋の車は一台だけで、たまに急病人を乗せて、大学病院に行ったり、婚礼の式場に花嫁さんを乗せるぐらいで、車はいつも狭い駐車場に入っていた。
 このタクシ−屋にはマサコちゃんという娘がいた。ひどくおきゃんな、元気で活発な女の子だった。一歳下の私はいつもこのマサコちゃんと遊んでいた。オママゴトや、オハジキ、お手だまといった遊びではなく、チャンバラごっこや、石蹴り、メンコ、ケン玉などを教えてくれた。私は、マサコちゃんが好きになった。
 やがてマサコちゃんが小学校に入って、私には遊び相手がいなくなった。マサコちゃんにはあたらしい遊び相手ができたようだった。私は家で妹と遊ぶようになった。
 ある日、母からマサコちゃんがいなくなったと知らされた。車で病院にはこばれて入院したが、そのまま死んだらしい。
 仲よしの女の子が不意にいなくなってしまった。幼い私は、マサコちゃんはどこに行ったのだろうと思った。あんなに仲がよかったのだから、なぜ、さよならをいわなかったのだろう。
 それからあと、マサコちゃんと遊んだ路地や、軒の下に何度も行ってみた。マサコちゃんはどこにもいなかった。
 そのうちにタクシ−屋は引っ越してしまった。

 はるか後年、明治の作家、押川 春浪が少年時代に清水小路に住んでいたことを知った。私の住んでいたあたりだったのかも知れない。

2006/04/18(Tue)  238
 
 ずいぶん昔、東南アジアの仏教のお寺を見て歩いた。
 日本人の私には驚くばかりの違いだった。
 私の知っているお寺のひっそりともの寂びたたたずまい、幽玄な静寂とはまったく趣きを異にしている。とくに道教の影響のつよいお寺は想像をこえていた。
 元始天尊、北斗神君、さらには関帝、大伯公、謝将軍や苑将軍たちがずらりとせい揃いしておわします。赤い垂れ幕に金字の聯。やたらと派手にしか見えなかったが、畏れ多いので長居はしなかった。
 サイゴンでは、お寺の境内にくずれた面体の人たちがたむろしていて、通りすがりの私に手をさし伸べてきた。そのときのつよい衝撃は忘れられない。
 ヒンドゥ−の寺院は、入り口に大きな塔がそびえて、さまざまな人物像、動物が、びっしり幾つもの層に嵌め込まれている。ハシバミのような眼を見開いた女神は豊満な肢体をみせて、強烈なエロスを感じさせる。
 日本のお寺しか知らなかったので、それからの私の宗教観は変わった。
 どこの国の宗教も、その民族にふさわしい、それぞれの歴史に正確に対応した、あざやかな過去をもっている。
 ようするに、想像力の問題なのだ。

2006/04/17(Mon)  237

 ヴァレリ−のことば。

 自分をいつも単一だと信じている複雑な存在 A が・・・・
 自分を単一だと信じ、A にとっても単一にみえる複雑な存在 B を相手にする。

 ヴァレリ−は、その例として、友情や、恋愛をあげていた。
 国際関係だっておなじことだろう。
 これをパラフレ−ズして考える。
 自分をいつもユニ一クだと信じているシンプルな批評家が、自分をユニ−クだと信じているシンプルな作家を相手にする。あるいは、その逆。
 おもしろい。と同時に、退屈な風景。

2006/04/16(Sun)  236
 
 おれのエッセイだと?
 そんなものが何の役に立つんだ。バカになるのに役に立つだけじゃないか。
 それでいいのさ。自分のバカさかげんに気がつくかも知れないからね。

2006/04/15(Sat)  235
 
 京都のお坊さん、雲竹が、自画像らしいものを描いた。顔をあっちに向けた法師の絵だが、芭蕉に讃をもとめた。
 芭蕉は答えた。あなたは、すでに六十を越えている。私も、そろそろ五十に近い。
 「ともに夢中にして夢のかたちを顕す、是にくはうるに又寝言を以(もって)す」。
       こちらむけ我もさびしき秋の暮
 このとき、芭蕉、46歳。
 いまや認知症に近い私の書くものはまったくの寝言だが、芭蕉翁の「若さ」におどろかされる。
 私もときどきいたずら書きを描くことがある。顔をあっちに向けた女性のヌ−ド。これとても夢中にして夢のかたちをあらわしているつもり。ただし、誰も讃をつけてはくれないだろう。アンクロ−シャブルだから。

2006/04/14(Fri)  234
 
 誰も書かないので書いておこう。
 トリノの冬季オリンピック、開会式。さすがにイタリアらしいみごとな演出だった。(それにひきかえ長野の開会式のひどかったこと!)
 最後に8人の女性がオリンピックの旗を手に入場したが、先頭に立ったのはソフィア・ロ−レンだった。その旗を供奉したなかに、ス−ザン・サランドンがいた。女優が社会的に尊敬されていることがよくわかった。NHKの中継では、ス−ザンの名前もあげず、彼女が選ばれている理由もふれなかった。
 いよいよ聖火が点火されたあと、最後にオノ・ヨ−コが平和の願いをこめたメッセ−ジをアピ−ルしたときも、それまてうわずった声をあげていたNHKのコメンテ−タ−は、ただ、オノ・ヨ−コさんですねえ、程度のふれかただった。
 そのあとで、開会宣言や、選手宣誓が続いて、イタリアを代表する芸術家、ルチア−ノ・パヴァロッティが、「トゥランドット」のアリアを歌った。
 この途中で、NHKは中継を打ち切って、「お早う日本」に切り替えた。いくら時間に正確だろうと、これが日本が開催した国際的な行事だったら、日本人の非礼に世界があきれるだろう。相変わらずのNHKのバカさかげん。野球や、ゴルフなら、平気で時間を延長するくせに。
 もっとも、夜の再放送では、さすがにパヴァロッティの歌を最後まて聞かせた。だから文句をいうわけではないが、NHKの視聴者軽視、臨機応変のセンスのなさ、無神経ぶりにあきれた。
 もっとも今に始まったことではない。
 ずいぶん前に、女子マラソンで、クリステンセンという選手が、ほとんど心神喪失の状態で、トラックに戻ってきた。すでに何人もゴ−ルに入っていたから、着順に関係はない。しかし、ふらふらになりながら、必死に最後まで走り続けている姿に、世界じゅうの人が感動したはずである。
 ところが、ゴ−ルまでの直線コ−スで、立っているのもやっと、眼も見えなくなりながらよろめきながら走ろうとしているショットで、NHKは、カメラを切り替えた。アナウンサ−、松平某がへらへらとうす笑いをうかべていたが、おもわずヘドが出そうになったっけ。すぐに民放を見たが、ちゃんと最後まで見せていた。
 クリステンセンは、やっとゴ−ルしたとき、駆け寄った役員の手に崩れ落ちた。期せずして、場内からたいへんな拍手が送られた。観衆が感動していたのだった。

2006/04/13(Thu)  233
 
 私は漢字(旧漢字・正字)をほぼ間違いなく書くことができて、漢文体や成語がだいたいわかる最後の世代だろう。

  「小生近来深く悟る所あり、近く小笠原島に赴き、以て所志を成さんとす。思ふに茫々たる太平洋の浩燿嚇灼(こうようかくやく)たる、以て小生の初期を成さしむるに足る可きものあり」。

 おそらく、今の人達には、こういう古色蒼然たる文章に心をうごかされないだろう。私は、こんな空疎な文章にも、その背後に秘められている感情や、時代をうごかしていた思想をほぼあやまたず想像することはできる。
 押川 春浪の文章。「武侠世界」に出たもの。
 旧漢字が読めたり書けたところで、今では何の役にもたたないが、それでも昔の中国の才子佳人小説から武侠小説を読んで楽しむぐらいのことはできる。
 小学三年生の頃、父といっしょに夕涼みがてら縁日の露店を見て歩いた。古本を並べている夜店で、父にねだって一冊の漢和辞典を買ってもらった。
 後藤 朝太郎が小学生むきに編纂した、紙質のわるい漢和辞典だった。
 この辞典を毎日読みふけった。やさしい漢字ばかりだったが、どんなに役に立ったことか。
 その後、私が中国に関心をもつことになったのは、この碩学が小学生むきに編纂したやさしい漢和辞典にふれたからだった。

2006/04/12(Wed)  232
 
 ジャンヌ・ダルクの遺骨が、フランスの医師、歴史家によって「鑑定」される。
 この遺骨は、長さが約15センチで、炭化している。1431年にル−アンで火刑になったとき、ひそかにあつめられたという。いっしょに保存されている衣類の生地や、燃え残った木々もあわせて「鑑定」されるという。
 現在の警察の鑑識や遺伝子医学の精密さなら、この遺骨の性別、死因、処刑の時期なども確定できるだろう。担当医のフィリップ・シャルリエは、ジャンヌ・ダルクの遺骨かどうか、半年で解明できると語っている。(06.2.15)
 ポ−ル・クロ−デルが生きていてこのニュ−ズを知ったら、どういうだろうか。

2006/04/11(Tue)  231
 
      蛇くふときけばおそろし雉の声

 松尾 芭蕉の句。芭蕉にしてはいい句と思われていない。誰が読んでも、美しいキジがおそろしい声をあげながらヘビを食い殺している、おぞましさを連想する。
 類句の「父母のしきりに恋し雉子の声」のほうが、いい句とされている。
 アマノジャクな私は、「父母のしきりに恋し雉子の声」をいい句と思わない。
 「蛇くふときけばおそろし雉の声」のほうは別の連想が働く。思わずニヤニヤする。
 これはいい句だなあ。

2006/04/10(Mon)  230
 
 日韓合作のドラマ「円舞曲 ロンド」は、竹野内 豊、チェ・ジウの主演というので期待した。ほかに日本側の出演者は、橋爪 功、杉浦 直樹、速水 もこみち、木村 佳乃、風吹 ジュン。韓国側はシン・ヒョンジュン、イ・ジョンヒョン。このキャストを見れば誰だって期待するだろう。
 脚本は渡辺 睦月。スト−リ−など紹介しようもないが・・・韓国の姉妹の出生に隠された秘密。姉の「ユナ」(チェ・ジウ)と、犯罪組織「神狗」の幹部「ショ−」(竹野内 豊)の愛。じつは「ショ−」は巨大な犯罪組織「神狗」に潜入した警視庁の刑事。やがてこの組織「神狗」が、日本のすべての金融機関のコンピュ−タ−・システムのデ−タを消去する計画に着手する。サイバ−・テロリズムの恐怖をとりあげたつもりなのだろう。 まるっきり荒唐無稽なスト−リ−で、サスペンスとしては最低だった。しかし、この程度の脚本でも、すぐれた演出家ならけっこういいドラマに仕立てあげたかも知れない。
 ひどいのは平野 俊一の演出で、近未来SFでも撮っているつもりらしい。ハリウッドのB級SFでさえ、最近はやらないような全編、光学的な逆光撮影。
 登場人物の表情もわからないシルウェット、ハ−フライティング。この演出家は、俳優をまるっきり信頼していないのだろう。バックがまた、いつもいつも無機質なブル−、クラインブル−、そのなかに原色のレッド、ペ−ルブル−、赤、朱色、黄色などの散乱。これがウルトラ・モダ−ンなドラマ造りという愚劣な気負いばかりがのさばっている。気負いどころか、演出の無能を糊塗しようとしていると見たほうがいい。
 こんな演出がテレビ演出のレベルなのか。
 俳優としての竹野内 豊はなかなか魅力がある。チェ・ジウは、こんなドラマに出たところでキャリア−に傷がつくことはないが、演出がはじめから彼女の魅力に関心がなく、魅力をひき出そうとしていないのだからどうしようもない。
 最低のドラマだった。

2006/04/09(Sun)  229
 
 夏目 漱石は、胃が弱かった。明石に講演に行って、飯蛸を食べ、からだをこわして入院した。友人の長谷川 如是閑がお見舞いに行った。
 「其うちに向ふの広間の二階の廊下に、若い商家の小僧のやうな身装の男が出て来て、手摺につかまって二三度身体を前にのめらしたと思ふと猛烈に嘔吐を初めた。すると、同じやうな装をした少し年上らしい若者がよろめきながら出て来て、吐いている男の背を撫でてやる。夏目君は此方の座敷からそれを見て、「見給へ、アレで介抱してゐるつもりなんだぜ」といって、頻りに「面白いナア」「面白いナア」と繰返した。」
                 (「犬・猫・人間」 大正13年)
 このエピソ−ドはおもしろい。しきりに「面白いナア」「面白いナア」とくり返した漱石の顔が見えるような気がする。何がおもしろかったのか。それを想像するのもおもしろい。同時に、自分も猛烈に嘔吐したあげくに入院している身の漱石に、いささか許せないものをおぼえていた如是閑の不機嫌な表情も見えるような気がする。
 それよりも、少し年上の若者がゲロを吐いている男の背を撫でてやっているようすを、漱石はなぜおもしろいと思ったのか。
 ここに、漱石の「滑稽」に対する感覚、あるいはヒュ−マ−の性質を見てもいいような気がする。さらに、ゲロを吐いているひとりがくるしんでいるのに、もうひとりが生酔いで、背中をさすってやることしかできない。それでいて介抱してゐるつもりになっている。それを見ている漱石のまなざしに、なにか苛烈なものが秘められてはいなかったか。
 もっとも、こんなエピソ−ドをおもしろがっている私のほうが、よほどおもしろいかも知れないな。

2006/04/08(Sat)  228
 
 きみが、私のHPを読んでくれていると知ってうれしかった。ごらんの通り、「中田耕治のコ−ジ−ト−ク」は(たとえばきみのように)親しい友だちに読んでもらう手紙のようなものなんだ。べつにどうってことのない内容ばかりで、われながら忸怩たる思いだが、とにかく思いついたことを書きとめておく。雑然とした内容でも、読む人にはいまの私の内面の動きだけはつたわるだろう。むずかしいことを書いてもはじまらない。へえ〜〜、こんなことがあったのか、とか、中田 耕治はへんなことばかり考えているなあ、と思ってくれればいいんだ。
 インタ−ネットに大量にあふれているスパム(迷惑メ−ル)のなかで、ボケかかっている作家が、くだらないことをつぶやいている。スパムだと思って読んでくれればいい。
 アフォリズム以上エッセイ未満だが、私にとっては表現形式のひとつ。いってみれば、私流「Razzle−Dazzle」だからね。
 自分でも自分のことがわからないから書く。ただし、自分で自分のことがわからないといって、眠れない夜にいくら反省してみたところで、たいして才能もないもの書きに哲学的な問題が見つかるはずもない。
 ふと、心をかすめるよしなしごと、折りにふれてつぶやき、いろいろと書いておけば、その先はきみたちの誰かが考えてくれるかも知れない。そんな虫のいい思いもある。
 短かいものだけに、読んでくれる人のためにそれなりに工夫はしている。少しでもおもしろいものにしようと思って。なにしろ短いものなので書くのは簡単だし、けっこう楽しんで書いている。もっとも、書いたそばから忘れてしまうけれど。
 お元気で。

2006/04/07(Fri)  227
 
 学校から帰ると、母の宇免(うめ)は、手拭いを姐さんかぶりで、庭の樹に張り板を立てかけて、お張りものにいそがしい。
 湯気のたちのぼる張り板をさっと掌で撫でつける。洗濯したばかりの布を押し当て、張り板に張ってゆく。妹が遊びに行って誰もいない午後、宇免の午後はいそがしかった。
 私は庭に面した廊下で腹這になって、届いてきたばかりの「少年倶楽部」を読みふけっていた。
 雑誌に倦きると、愛犬の「トム」を相手に庭を駆けまわる。小柄なテリアで、私によくなついていた。
 「宿題はしたのかい」
 宇免が声をかけてきた。私は聞いていない。
 「なんか、ないの?」
 おやつは、せいぜい羊羹のひと切れか、ビスケットの二、三枚。何もないときは、ムギコガシ。大麦を煎って粉にしたものに、ほんの少しお砂糖をまぜる。茶飲み茶碗に半分ほど。お匙ですくつて食べるのだが、粉なので、うっかり咽喉にくっつくと、むせ込んだりする。
 おやつを食べたら、あとは一目散。愛宕橋をわたって、岡の上の愛宕神社の境内まで走ったり、その裏山の藪に踏み込んだり。ときには、愛宕橋の私の家のすぐ下の崖から、広瀬川のへりをたどって、小さな砂州に飛び移ったり。誰ひとりいない島を探検しているような気になるのだった。
 広瀬川のへりが少年の王国だった。

2006/04/06(Thu)  226
 
 明治維新まで、市ヶ谷に屋敷を構えていた五百石の旗本、榊原家は、神田、末広町に引き移って、お汁粉屋をはじめた。
 なにしろ、趙 子昂(ちょう・すごう)の筆法で、御汁粉と、墨痕あざやかな看板を出した。
 殿様自身がアンを煮たばかりではなく、奥方がお鍋のアンコをかきまわし、お嬢さまが女中になって店にお膳をはこぶ。
 お客がひやかしにきたが、お帳場に紋付き、袴の殿様がおすわりになり、奥方がお客にうやうやしく頭をさげる。お嬢さまがおはこびになられるお膳の器(うつわ)は、源氏車の金高蒔絵の定紋つき。
 アンはアク抜き、白玉を浮かして、まことにお上品な味。おまけに値段がめっぽうやすいときている。たちまち繁盛した。
 殿様もご機嫌ななめならず、イヤ、商いというものは多分の儲けのあるものよナ、と仰せられた、とか。
 ところが、客が入れば入るほど、だんだん資本が足りなくなってきた。売れていながら、金子(きんす)につまるというのは奇怪至極。殿様、大いに頭をいためた。
 殿様、奥方、お嬢さまと額をあつめて考えたあげく、ハタと思い当たったことがある。 毎日の売り上げを残らず儲けと思っていたことに気がついた。これでは、繁盛すればするほど資本がつまってくる。
 旧旗本の殿様がはからずも資本主義の経済原則にめざめたわけ。
 明治の講釈師、悟道軒 圓玉が榊原の殿様からじかに聞いた実話。

2006/04/05(Wed)  225
 
 「私のお墓に、みんながどういう文句を書くかわかる? 彼女はきびしい生きかたをしてきた、って」・・・・ベット・ディヴィス。
 「つらい生きかた」と訳してもいいと思ったが、あえてこう訳してみた。そのほうが、ベテイ・ディヴィスらしい気がして。
 たいして美人ではないが、育ちがよくて、教養があって、それだけに権高で気のつよい女性を演じたら、まずは最高の女優だった。当時、ウ−マンリヴなどという言葉もなかった時代に、女性の権利を一身に体現したようなところがあった。「化石の森」、「小麦は緑」のベテイ・ディヴィスなら今でも見直してみたい。
 あまり好きな女優さんではなかったが、「イヴの総て」が代表作のひとつ。
 ベテイ・ディヴィスが生きていて、現在では彼女の代表作「イヴの総て」が、まるっきりの端役で出ていたマリリン・モンロ−の映画として見られていると知ったら、どんな顔をするだろうか。

 今日4月5日は、ベティ・デイヴィスの誕生日。

2006/04/04(Tue)  224
 
 アンケ−トにほとんど答えたことがない。
    XXについて。簡単でいいからお答えください。XXの好きな作品をX本選べ。好きな女優をあげて、その理由をのべよ。
 私がどうしてこんな質問にこたえなければならないのだろう。もっとほかに適当な回答者がいるだろうに。そう思う。
 それに、自分がつよい関心を寄せているテ−マだったりすると、つい、回答する場合がある。いちいち気にするほどのこともないじゃないか。そう思う反面、そのテ−マをアンケ−ト形式で答えてしまえば、それでもう考えたことになってしまうかも知れない。それでいいのか、などとこだわったりする。
 たとえば、フランス映画で好きな女優を3人あげてください、などと聞かれたら、どう答えたらいいのだろう。
 フランソワ−ズ・ロゼ−、アルレッテイ、マドレ−ヌ・ルノ−、ジャンヌ・モロ−をあげてもいい。しかし、いまの人々の誰が彼女たちをみているだろうか。それに、ほんとうに好きといえるだろうか。むしろ、ミレイユ・バラン、ダニエル・ダリユ−、ミシュリ−ヌ・プレ−ル、ロミ−・シュナイダ−のほうがいい。しかし、彼女たちをあげれば、どうしても私の女性の好みが出てしまう。
 イザベル・アジャ−ニ、デルフィ−ヌ・セリ−グ、エマニュエル・ベア−ルをあげようか。いや、アナベラや、フランソワ−ズ・アルヌ−ルを落とすわけにはいかない。
 いっそのこと、無声映画のジョゼット・アンドリオやファルコネッテイをあげて、みんなをケムに巻いてやろうか。
 こうして、私は追憶、ノスタルジ−、さまざまな逡巡、懊悩、こうした質問に答えようとしている自分への憐憫、はては質問者にたいする呪詛といった思考の迷路にみちびかれる。
 だから、私はアンケ−トがきらいなのである。

2006/04/03(Mon)  223

 キャサリン・ヘップバ−ンは頬骨が高かった。だから名女優と呼ばれてもセックス・シンボルなどといわれたことはない。
 コラムニストのア−ト・バックウォルドが書いていた。
 「ド−ヴァ−の白い崖いらいの偉大なカルシウムのかたまり」だって。
 他人の肉体的な特徴を話題にするのはいい趣味でははない。しかし、こういう表現はいいね。もし私が小説でこういう比喩をつかったら・・・掲載されないだろうなあ。
 キャサリンは多数の映画で共演したスペンサ−・トレイシ−と、25年にわたって事実上の婚姻関係にあった。このことは、1967年、トレイシ−が亡くなるまでジャ−ナリズムもまったくふれなかった。
 私の好きなキャサリンの映画は、「ステ−ジ・ドア」、「旅情」、「アフリカの女王」、「冬のライオン」、「トロイアの女」。スペンサ−・トレイシ−と共演した映画は、今の私にはだいたいつまらない。

2006/04/02(Sun)  222
 
 運命というほどではないが、ツキ、ラック、運といったことを考える。とくに芸術家には、自分ではどうしようもない、おのれのあずかり知らぬ運、不運がある。
 「危険な情事」という映画にはじめてグレン・クロ−ズという女優が登場した。まだスト−カ−という言葉もなかった頃に、おそろしい悪女を演じて強烈な印象をあたえた。
 当時、ブロ−ドウェイでは、イギリス、ロイヤル・シェイクスピア劇団が『危険な関係』を出していた。グレン・クロ−ズはそのオリジナル・キャストに交代して出ることになっていた。彼女も、この舞台に立てるものと期待していたはずである。ユニオンの規定で、外国の舞台公演は、一定の期間オリジナル・キャストで上演したあと、アメリカの俳優、女優と交代しなければならない規定がある。
 ところが、この公演はフロップして、グレン・クロ−ズは舞台に出られなかった。
 舞台が打ち切られた直後に、グレン・クロ−ズの「危険な情事」がヒットした。ラストはクル−ゾ−のパクリだったが、このシ−ンのグレン・クロ−ズは衝撃的だった。
 舞台のプロデュ−サ−はさぞ後悔したにちがいない。グレン・クロ−ズが舞台に出れば大ヒットしたはずだから。
 1988年、映画で「危険な関係」がリメイクされて、グレン・クロ−ズは映画「危険な関係」でも成功して、演技派の女優として高い評価をえている。
 なぜ、グレン・クロ−ズに関心をもったのか。じつは、映画「危険な情事」が公開されたとき、その原作を訳したのは私だった。だから、その後もこの女優さんに関心をもった。まさかディズニ−映画にまで出るようになるとは思っても見なかったが。

2006/04/01(Sat)  221
 
 さる料理屋の暖簾(のれん)をくぐった。名は・・・伏せておく。場所は、赤坂。
 江戸の昔から、暖簾は粋なものとされている。この店の主人も、いなせで粋なものとしてかけているのだろう。柿色暖簾だった。
 大正に入って、牛肉屋、タバコ屋の軒先にかけられていたのも柿色暖簾。
 この色がひろく使われるようになったのは、歌舞伎の影響だろう。お披露目の口上などの儀式ばった舞台に、役者が柿色の裃(かみしも)をつけてあらわれるのも、河原者と呼ばれた頃のなごり。
 もともと柿色暖簾は売色のエンブレムだった。
 安永(1773〜80年/恋川 春町、並木 五瓶の時代。平賀 源内が獄死。)の頃に、
      へその下谷に    出茶屋がござる
       柿ののれんに    豆屋と書いて
        マツダケ(松茸)売りなら 這入りゃんせ
というわらべ唄があった。まつたけと濁らなかったことがわかる。「豆屋」もタブル・ミ−ニングだが、せっかく廓に通いつめても、客を「待つだけ」にするつれないあしらいまで見えてくる。

 この料理屋、いかにも当世ふう。あまったるくて値が張って。おかげで、すっかり熟柿くさくなっての帰り。(こんなイディオムももう通じないだろうな。)

2006/03/31(Fri)  220
 
 前に、この「ト−ク」で「シンシナティ・キッド」(ノーマン・ジュイソン監督/65年)にふれた。もう一度、エドワード・G・ロビンソンのことを書いておきたい。
 映画は、ニュー・オーリーンズを舞台に、スタッド・ポーカーの達人、「シンシナティ・キッド」と、「ザ・マン」と呼ばれる老人の対決。小味だが、いい映画だった。
 この映画のロビンソンは戦争中の「運命の饗宴」、戦後すぐの「他人の家」、さらにそれ以後をつうじて彼の最高の演技だと思う。
 ずんぐりと小柄だが、牡牛のような体躯、ひろい額に細眼のまなざし、いつも葉巻をくわえている酷薄な唇、残忍なギャングスタ−をやらせたら最高の役者だった。何かあると、ゆっくりひろがってくる不敵な笑顔がすごい。
 おれを知らないやつでも、にやりと笑ったおれの近くに寄ってきたらおもわず恐怖におののくに違いない。そんな笑いかただった。
 私にとっては、なつかしい映画スタ−のひとり。

2006/03/30(Thu)  219
 
 どうすれば作家になれるのか。
 1944年、勤労動員先の会議室に集まった学生のひとりが小林 秀雄に訊いた。私ではない。小川 茂久だった。ただし、そのときの小林 秀雄の答えは今もあざやかに私の心に残っている。
 ようするに、一瞬に心に去来するものを、いつでも自分の内面にいきいきとよみがえらせる能力を身につけること。正確に小林 秀雄がこう答えたわけではないが、私が受けとった答えは、そういうことだった。
 これに似たことを、里見 敦が語っている。(1946年)
 たとえば、電車に乗っていて、向こう側にすわっている男女の、話声は聞こえずとも、口許をかすめた微笑ひとつで、ながらくつれ添う夫婦ものか、兄妹か、恋人か、恋人でもすでにからだの関係があるかどうか、てだしはまだかに至るまで、いきなりピンとくるような観察。
 もっとも里見 敦は、どこまでが「観る」で、どこからが「察する」のか、その境界さえ曖昧模糊たるもので、実は「観察」などとはおこがましく、「観ながら空想する」ぐらいがせいぜい、と謙遜しているが。
 似たようないいかただが、じつは大きな違いがある。小林 秀雄は、このときベルグソン的な直観を語っていたはずだが、里見 敦は日本の作家の修練について語っていたと思う。
 私の内部でふたりのことばはさまざまな方向に発展して行った。

2006/03/29(Wed)  218
 
 伊勢に足をはこんだ芭蕉が、
    宮川に芋洗う女、西行ならば歌作らむ
 と詠んだ。すごい字あまりだが、さすがにいい句だと思う。
 はるか後年、「大阪朝日」の水島 爾保布がこれをもじって、漫画、漫文に、
    宮川に芋洗う女、弥次郎兵衛ならば何とせむ
 とつけた。弥次郎兵衛は、いうまでもなく『東海道中膝栗毛』に出てくるヤジさんのこと。これを岡ッ引きが見逃すはずがない。
 たちまち不敬罪ということになって、水島 爾保布はトッちめられた。
 戦前の「治安維持法」がどういうものだったか。東ドイツの「シュタ−ジ」どころではなかった。
 もっとも、今だってうっかりマンガも描けない時代になってきた。

2006/03/28(Tue)  217
 
 10年前。
 作家、遠藤 周作が亡くなった。
 私は彼の葬儀に参列したが、式場は参列者でいっぱいだった。大勢のファンが長い列をなして在りし日の作家を悼んでいた。私は教会の外の庭に立って、立錐の余地もないほどつめかけた会葬者のなかで、若き日の遠藤 周作を偲んだ。やがて聖歌の合唱になって、隣りにいた若い女性が美しい声で唱和していたことを思い出す。
 当時、私は長い評伝(『ルイ・ジュヴェ』)を書きつづけていた。遠藤 周作が生きていたら読んでもらいたかった。しかし、評伝はいつになったら完成するのか、自分でもわからなかった。それに、完成しても出版できるかどうか。私は自分の内部にうごめいている不協和音、混乱ばかり気になっていた。私の内部ひどく暗くていびつに歪んだ穴がぽっかり開いている。それまで私の周囲にいてくれた人が不意にいなくなって、私をしっかりとり囲んでいた輪がくずれようとしている。そんな思いがあった。このときの私はほんとうに懊悩のなかを歩きつづけていた。
 この年、飯島 正、司馬 遼太郎、武満 徹、大藪 春彦、増淵 健、宇野 千代といった人々が亡くなっている。
 ジ−ン・ケリ−、アナベラ、クロ−デット・コルベ−ル、ドロシ−・ラム−ア、マリア・カザレス、マルチェッロ・マストロヤンニたちも。
 「Shall we ダンス?」、「岸和田少年愚連隊」、「トキワ荘の青春」といった映画をやっていた。「楽園の瑕」や「天使の涙」なども。「42丁目のワ−ニャ」をみて、その監督をひそかに軽蔑したことをおぼえている。
 私の内面に死というイデ−が浮かんできたのは、このときからだったような気がする。

2006/03/27(Mon)  216
 
 テレビ。高野 悦子女史の「ポルトガル紀行」(1994年)の再放送。
 鉄砲伝来をテ−マに自分のシナリオ、ポルトガルの監督で映画化しようとして「大映」に話をもって行ったところ、いつの間にか、別の監督、シナリオに変えられて映画化されたという。よくある話だ。
 映画は日米合作の「鉄砲伝来記」。監督は森 一生。シナリオは長谷川某。主演は、若尾 文子。こんな映画なんかもう誰もおぼえていないだろう。
 高野さんは、最後には訴訟に持ち込んたが、映画のタイトル・クレジットに原案・高野 悦子と出ただけだった、という。
 「大映」の永田 雅一ならそんな悪辣なことも平気でやったろうな。「羅生門」が世界的に知られたとき自分がプロデュ−スしたと吹聴して歩いた。あの温厚な山本 嘉次郎(映画監督)が、めずらしく憤懣を文章にしている。
 芸能界にはこういうゲスが掃いて捨てるほどいる。今だって変わらない。

2006/03/26(Sun)  215
 
 国分寺の駅から表通りに出た。少し歩いたとき、見知らぬ若者に呼びとめられた。知り合いではなかった。にこにこして話しかけてくる。どうやら路上でインチキ商品を売りつけようとしている。さりとてヤクザではない。アルバイト学生でもない。少し警戒しながら立ちどまった。たいして利口でもなく、詐欺を常習とするほど悪辣でもない。こすッからい感じがなかった。予想した通り、携帯電話そっくりに作ってあってボタンを押すと時間が出てくるトゥ−ルを買ってくれという。
 人のよさそうな微笑をうかベながら、不況で会社が在庫処分に踏み切ったもので、品質は保証するという。明るい表情で、誠実そうな若者だった。
 だますやつと、だまされるやつ。私はだまされるほうがわるいと思っている。さては私をくみしやすし、と見たか。
 彼がどういうふうに私をだまそうとしているのか興味があった。ひとしきり話を聞いてから私は男をふり切った。
 なかなか興味があったよ。品物に、ではなく、きみに。私はいってやった。
 しばらく歩いているうちに気が変わった。たしかにペテン師には違いないが、やたらに明るくて気のいい男なので憎めない。Made in China のオモチャなのだから孫にくれてやってもいい。戻った。男の顔に不審な表情が浮かんだ。
 こんなものはいらないのだが、あんたの気のいいところが気に入った。買ってやるよ。私はだまされていると承知した上で、きみの人柄が気に入ったといってやった。
 男は唖然とした顔になったが、明るい声で、ありがとうございます、といいながら、私にオモチャをわたしてくれた。私の顔を見て、「失礼ですが、ご住職さんで?」
 「冗談じゃない。おれが坊主に見えるかい。だいいちそんな人徳のある御方じゃないよ。きみにだまされるくらいだからな」
 別れるとき手をふってやった。ちょっと楽しい気分だった。

2006/03/25(Sat)  214
 
 好きな絵。
 その前に立っていると、見ている私に無言で語りかけてくるような絵。
 はじめて見たのに、なぜかなつかしい気がするような絵。
 そういう絵は・・・・少ない。
 ヘミングウェイは、プラドに行くと、ゴヤ、ル−ベンス、ベラスケスに眼もくれず、まっすぐスペイン絵画の展示室に寄って、いつまでも一枚の絵を見ていたという。
 私も行ってみた。かなり狭い部屋で、その絵は小品といっていいサイズだった。おなじ8号ほどの二枚がならんでいる。それぞれ美少女が描かれている。
 十六世紀に生きていた若い娘の肌のしっとりした匂い。何か超自然的な美しさに女のいのちのなまなましさが重なりあっているようだった。
 ヘミングウェイはどちらの少女に惹かれたのだろうか。私はどちらともきめかねて見較べていたが、そのうちにそんなことはどうでもよくなってきた。
 はじめて見たのに、なぜかなつかしい気がするような絵だった。

2006/03/24(Fri)  213
 
 誰でも知っているほど有名だが、誰も読まない名作。たしかヴォルテールが『神曲』をあげていた・・・と思う。私は『神曲』は読んだが、ヴォルテールは読まない。
 「貫一の眼は其全身の力を聚めて思悩める宮が顔を鋭く打目戍(うちみまも)れり。五歩行き七歩行き十歩行けども彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて大息したり。
 『宜し、もう、宜し、お前の心は能く解つた。』
 有名な小説の一節。誰でも知っているほど有名だが、誰も読まない名作。
 大学で紅葉の作品をいちおう読んだけれど、批評家として論じたことはない。そこで、最近やっと『金色夜叉』を読み直した。紅葉は、短編のほうがずっといい。
 『金色夜叉』がつまらなかったのは、文体のせいではない。貫一が五歩行き七歩行き十歩行ったとき、よく歩数をかぞえたなあ、とバカなことを考えたけれど。
 岡本 綺堂さんのお墓のすぐ近くなので、ついでに紅葉さんのお墓に詣でた。
 最近まで『金色夜叉』を読み直しませんでした。ごめんなさい、紅葉さん。

2006/03/23(Thu)  212

 ファッション雑誌の記事。
 靴のブランド「イレギュラー・チョイス」の春夏は、女心をくすぐるロリータ的なデザインがいっぱい。分厚い麻のウェッジソールに小花プリントの組み合わせがロマンチックです。
 へえ、こういうのがウェッジソールなのか。ナボコフが読んだらよろこぶかも。
 スポーツウェアなどに用いる機能性の高い合繊を使ったヌードカラーのドレス。重ね着したようなドットのスカートはドレスと一体になっています。
 ふ〜ん、ヌードカラーとは恐れ入ったなあ。
 それで、思い出したことがある。
 二十世紀に入ったばかりのドイツは、外国語がどっと流れ込んだ。洗濯屋(ワイスワレンゲシェフト)はランジェリー、下着屋(ヘムデンゲシェフト)はシュミズリーになつたが、ローブ、ジュポン、コルセットといった名詞は、まったく存在していなかった。
 外国語の氾濫とあまりの変化にたまりかねた国語擁護派が、ドイツ国語省を新設せよ、と騒いだが、第一次大戦で、お風呂屋(バーデル)、理髪屋(ハールクロイスラ)、お菓子屋(ツッカーベッカー)、お裁縫(シュナイダー)、宿屋も小料理もドイツ語が消えてしまった。お裁縫はテイラー、宿屋はホテリアー。
 日本は・・・もう、ヤバいかも。

2006/03/22(Wed)  211
 
 外国語の研修について調べているうちに、明治44年、東京外語のドイツ語学科の修学旅行が、清国、膠州湾、青島(チンタオ)だったことを知った。この年、7月29日、横浜出帆、8月3日、青島(チンタオ)着。滞在期間は4週間。
 「ドイツ語の実地練習、地理および開化史的知識の増進、ことに大洋航海、植民地におけるドイツ人の生活観察」が目的という。
 旅費は、船賃が往復で33円。青島(チンタオ)滞在費、21円。計、60円。
 こまかい規定がある。旅装は・・・制服制帽、シャツ、スボン下、着替え。鉛筆、万年筆、小刀、筆記帳。洗面用具、うがい用具。毛布、袷(あわせ)帯、清心丹など。洋傘、望遠鏡、地図。
 いまの小学生の林間学校なみだね。
 おもしろいのは、団長の許可なくして、料理店、旅館、私宅、海水浴などに「立ち入るべからず」。武器の携帯禁止。禁制の場所にて写真撮影すべからず。
 最後に「清国学生と政治上の談話をなすことを禁ず」とあった。

2006/03/20(Mon)  210
 
 1906年、ライト兄弟が、世界最初の空中飛行に成功した。日露戦争が終わった翌年だったことは、あまり人が気づかない。
 レオナルド・ダヴィンチが空中飛行を考えていたことは、よく知られているが、実際に、翼をもつ飛行物体を作ったのは、1670年、イタリアのボレツソ。この人のことは、私も知らない。
 飛行機らしきものを作ったのは、1796年、イギリスのジョ−ジ・カレ−。この人のことも、じつは知らない。

→「仕立屋さん 空 飛んだ」

2006/03/19(Sun)  209
 
 巴里に於ける飛行椿事・・・五月二十一日、巴里に於いて挙行せる巴里マドリッド間の飛行競争会に於いて、出発後、一大椿事起こり一飛行機は群衆の頭上に墜落して、数多(あまた)の重傷者を生じ、内閣総理大臣、モニ−氏、陸軍大臣、ベルト−氏、及び高級武官一名、重傷を負ひしが、陸軍大臣は遂に負傷の為に死去せり。独逸大使は仏国政府に対し、独逸宰相、並びに同政府の悼詞を述ぶべく伯林(ベルリン)より電命令せられたり。
 これは、明治44年の新聞記事。
 この事故は、20米突(メ−トル)の空中から一機が墜落したもの。当日、このレ−スをみようとつめかけた観衆は「実に二十万人に上れり」という。
 首相は、両足を骨折したほか、外鼻骨を挫折、視力障害を起こした。
 この事件で、セルビア国王のパリ訪問が、急遽、延期された。
 おなじ時期、日本でも、ブレリオ式飛行機の事故で、徳川大尉、伊藤中尉が重傷を負っている。こちらの記事には・・・「とにかく、日本飛行家は未だ飛行に於いて充分の成功を収めざるが如し」とあった。
 こんな記事を読むと、じつにいろいろな感想がうかんでくる。

2006/03/18(Sat)  208
 
 2008年度から、公立の小学校で、英語が正式の科目として教えられるようになる。 これまでは、「総合学習」の一環として、英語を教えることはできたが、正式の科目として教えることはできなかった。
 英語を教えていた地域では、「小学校段階から英語の能力がついて、関心が高まった」、「教員の教える意欲が向上した」という評価する声が出ている、という。
 けっこうな話じゃありませんか。
 じつは、私は語学が好きではない。そのくせ、翻訳したり、どこかの大学で英語を教えたこともある。考えてみれば(いや、考えなくたって)そらおそろしい話だ。
 そういう私だが、公立の小学校で英語を正式の科目として教えることに反対はしない。ただし、英語以外でも、中学で教える内容の一部を小学校で教えることが可能になる、という条件で、「反対はしない」だけである。
 私は忘れない。日本の教育行政がどれほど多くの誤りを重ねてきたか。
 文部官僚の一部のほんの思いつきで、やれ「学校群」やれ「ゆとり教育」、やたらに教育制度いじりやら教育システムをコロコロ変えて、結果としていちじるしい学力低下を招いてきたではないか。もっとも、そんなことをいい出したやつは、もうとっくに退職して、今頃は天国でのんびり暮らしているだろうナ。
 ま、いまに誰もがエ−ゴしゃべっちャッて、みんなハッピ−だよ〜ン。外交だって、エ−ゴ通じたりして。ほら、9.11ンとき、アメリカにトンでって「テロに反対する」
We must fight terrorism.かなんかいっちゃった、ええカッコし、いたやんか。
 あんとき、そばにいたおエライさん、ギヨッとしてはったで。(オラ、ここンとこ、ちゃんと録画しといたもンな。)
 だけど We must fight against the terrorismぐらい、いっチャッってほしかつたな。
 フぁ〜ッ。(ナントカHGのパクリっすヨ。)
 そんじゃ、ま、小学校の英語のお勉強ヨロシコ!

2006/03/17(Fri)  207
 
 お隣りに新婚の夫婦が引っ越してきた。ある日、その奥さんが私の妻に訊いた。
 失礼ですが、ご主人はどこかおからだでも・・?
 いいえ、別にどこもわるくありませんわ。妻が答えた。
 日がな一日、家にひきこもって何か書いているのだから、えたいの知れない人間に見えたのだろう。その頃の常識では、失業者か、病人、それも肺結核か神経衰弱の患者と見たらしい。
 どんなお仕事を・・?
 もの書きですけれど。
 ああ、代書をなさっているのですか。
 あとでその話を聞いて私は大笑いした。
 当時の私は、翻訳を二、三冊、あとは雑文を書きつづけていた程度のもの書きだった。毎日、犬をつれて近くの公園を散歩したり、ときどき訪ねてくる若い人たちを妻の手料理でもてなすぐらいがせいぜいだった。私のところに遊びにきてくれた仲間に、常盤 新平、志摩 隆(後年、「パリは燃えているか」を訳した)、鈴木 八郎(劇作家)、若城 希伊子(後年、女流文学賞を受けた)たちや、若い俳優、女優のタマゴたちがいた。
 みんな貧しかったが、そろって勉強好きで、それそれ自分のめざす世界に向かってつき進んでいた。

 いわゆる土地の名士だった岳父もずいぶん肩身が狭かったらしい。何を書いているのかわからない無名のもの書きに娘を嫁がせなければならなかったのだから。
 昭和28年頃のこと。

2006/03/16(Thu)  206
 
 小間物屋。今ではまったく見かけなくなった。昔のスーパー、またはコンビニ。
 日用品ならなんでもそろっていた。店先に板の台に、石鹸、歯磨き、香水、白粉(おしろい)、椿油などが眼につくように並べられている。
 江戸と明治がまざりあっていた。
 たいていが土間で、中の棚には半切れ、状袋、筆や墨、和紙、色紙、書簡箋。
 その奥に手巾(ハンケチ)、手拭い、メリヤス、どうかすると、女ものの半襟、かもじまで。このあたりには、明治と大正の匂いがただよっていた。
 とりどりの雁首のついたキセル。なかには村田張り、千段巻きのシンチュウギセル。
 舶来タバコの綺麗な箱を飾りつけ、安ものの駒下駄、夏には麦わら帽子など。
 和菓子も、串団子、金鍔(きんつば)、豆大福、酒マンジュウ。
 売薬、ウイスケから電気ブラン、ポルト・ワインなどの洋酒まで。
 これが温泉場の小間物屋になると、店いっぱいに湯花染、ご当地名物の繰りもの細工。花筒(はないけ)。木彫りの置きもの。
 いちおう何でもそろっていた。
 永井 荷風は「コルゲート」で歯を磨いていたし、芥川 龍之介は「コカコーラ」を飲んでいた。
 今では小間物屋は根こそぎ壊滅した。江戸情緒もへったくれもない。
 戦前、価格が均一の「10銭ストア」があった。そういう移りかわりを見てきた私には、戦後になって、いたるところに進出してきたアメリカン・スタイルのコンビニも、私にとっては西洋小間物屋に見える。

2006/03/15(Wed)  205
 
 出羽ガ嶽のことを知っている人は、もういないだろう。
 斉藤 茂吉が可愛がった力士で、お正月か何かに、斉藤邸に挨拶にうかがった。幼い頃の北 杜夫は、その巨躯に恐怖をおぼえたという。これは北 杜夫が書いている。
 こんな笑話があった。
 相撲部屋でも、お正月には屠蘇を祝い、お雑煮をいただく。
 出羽ガ嶽のお雑煮に入れるお餅の大きさはハガキほどもあった。
 お相撲さんのことだから、ぺろりとたべてしまう。
 「めんどうくさい、出羽ガ嶽のお雑煮は往復ハガキにしろ!」

 出羽ガ嶽は関脇どまり、膝やからだの故障で不成績がつづいて、番付は落ちるばかりだった。やがて廃業、いつしか忘れられてゆく。
 私が土俵の出羽ガ嶽を見たのは二度。前頭の上位のときと、十両に落ちてからと。二度ともあっけなく負けてしまった。

 学校の帰り、チンドン屋が出て人だかりがしていた。電車通りに面した角にお菓子屋ができて、開店のお披露目だった。
 クラリネット、三味線、ハチに小太鼓で、「美しき天然」のメロディ−に乗って、チョンマゲ、鳥刺し姿の男女がうねり歩いているなかに、赤と白のトンガリ帽子をかぶった巨大な男が、店の名前をくろぐろと墨書した幟(のぼり)を掲げ、背中に旗指物(はたさしもの)をさして、のっそりと歩きまわっている。見物人は遠巻きにして、ゲラゲラ笑っていた。
 出羽ガ嶽の落ちぶれ果てた姿だった。
 小学生は、なんだか悲しくなって、べそをかきながら家に帰った。

2006/03/13(Mon)  204
 
 高見盛というお相撲さんに人気がある。
 制限時間いっぱい、最後の仕切りに入るとき、自分の気もちを引きしめるのだろう、いきなり自分の顔を両手でバシバシッとたたく。満面を紅潮させながら、両手の拳をにぎりしめ胸もとをドシンドシン。つづけて二、三度、両手を胸もとにグイッグイッとひきつける。まるで重量挙げの選手がバ−ベルをあげるように。
 そのウォ−・ダンスの動作が滑稽というか、見ていておもしろいので、場内に声援と笑いがどっと沸く。本人は大まじめなのである。
 こういうお相撲さんが、ほかにもいたのだろうか。
 明治14年頃、三段目に、越ノ川というお相撲さんがいた。この力士が土俵にあがると、どっと笑いが沸いて、たいへんな人気だった。なにしろ、ユルフンで、やたらと上のほうにしめている。本人はそれを気にして、両手の親指を突っ込んで、下にさげる。そのとき、おなかをペコペコさせる。仕切り直すたびに、それをくり返す。
 見物人は大喜び。本人は、なんで見物が笑うのか気がつかない。どうして笑うのかわからなかったらしい。
 少しも当てこみがなかったので滑稽が下卑(げび)なかった。
 この越ノ川は負けてばかりいたが、それでも番付はあまり下がらなかった。人気があったせいだろう。
 江見 水蔭を読んでいて、こんなお相撲さんのことを知った。

2006/03/12(Sun)  203
 
 双葉山は不世出の名横綱だった。
 ほかの横綱、玉錦、男女ノ川(みなのがわ)、武蔵山たちも、双葉山には負けつづけた。誰が双葉山を敗るか、連日、興味が集中していた。
 小学生の私のご贔屓は三役では鏡里、小結の綾昇(あやのぼり)、平幕の鯱里(しゃちのさと)たちだった。玉ノ海、名寄岩などは、性格、取り口が荒っぽいせいで、あまり好きになれなかった。
 いまでも双葉山が安芸ノ海と対戦した日のことをおぼえている。
 ラジオにしがみついて、取り組みを聞いていた。
 この日、双葉山が敗れるとは誰ひとり思っていなかったに違いない。
 結果として双葉山の70連勝が阻まれた。場内は騒然、というより、歓声、怒号、叫喚の坩堝で、座ぶとんが飛び、まるで暴動でも起きたような騒ぎになった。アナウンサ−の声も聞きとれないほどの騒ぎになった。
 私は母に知らせに走り寄った。
 「お母さん! 双葉山が負けたよ!」
 母の宇免は洗いたての割烹着、小ざっぱりした身だしなみ、おしろいもつけず、無造作に髪をたばねて台所で水仕事をしていた。まだ20代の後半で、相撲に関心がなかった。私があまり昂奮しているのであきれたらしい。私にひとこと。
 「可哀そうに。だけど、あしたッからまた勝ちゃいいじゃないの」
 私は茫然とした。

2006/03/11(Sat)  202
 
 1932年の映画スタ−名鑑。

 トップに、田中 絹代。つづいて、川崎 弘子、澤 蘭子、入江 たか子。これが三役クラス。
 平幕に、夏川 静江、梅村 蓉子、及川 道子、伏見 直江、浦辺 粂子。
 少し下だが、琴 糸路。新人では、五味 国枝、光 喜三子。
 もう誰も見たことのないないスタ−たち。私はだいたい見ている。私の好きな女優は、琴 糸路だった。このリストには出ていないが、しばらくあとで、森 光子がデビュ−する。スタ−女優の森 静子の実妹だろうと思っていた。
 アメリカ映画のトップは、ノ−マ・タルマッジ、メリ−・ピックフォ−ド、コンスタンス・タルマッジをおさえて、コ−ネリア・オ−ティス・スキナ−。少し下に、グロリア・スワンソン。新人では、メイベル・ボ−ルトン。
 無声映画のスタ−たちが、交代してゆく状況が見えてくる。

2006/03/10(Fri)  201
 
 座について、両者はまるで百年の知己のようにうちとけて語りあった。
 彼が、
 「お困り召されたかな」
 というと、相手はかるく笑って、
 「なんで、わしをこんなに苦しめなさるのじゃ。これから、わしがあんたに代わって官軍を指揮するから、あんたがわしに代わって江戸城に立てこもってもらいたいな」
 と答えたがすぐにまじめになって、
 「でも今度、あんたがきてくださったので、わしもすっかり安心しましたよ」
 といった。
 江戸城明け渡しである。西郷 隆盛、勝 海舟のふたり。場所は品川の薩摩屋敷。
 ほんとうかどうか、私は知らない。昭和初期、児童もので知られていた安倍 季雄が書いている。

2006/03/08(Wed)  200
 
 最近、私の書くものに過去のことが多くなったとしても、それは仕方がない。すでに老いぼれた作家に未来があるはずもないからである。記憶はまだ少しはしっかりしているが、記憶していることときたら、当然、過去のことばかりである。
 とすれば、私が過去のことを多く語るようになっても、それは自然なことと見ていい。老人の特徴としては、判断力の衰えと、自分ではそれに気がつかないか、気がついてもそれを認めないことにある。
 日頃の生活も、だいたいきまりきったことのくり返しになる。考えが硬直してくるのも当然だろう。
 知性も、少しづつ、または急激に失われて行く。私は、たいしたもの書きではないが、なけなしの自分の知性がこれからどうなるのか興味がある。(そもそも私に知性などというものがあったっけ?)

 変わりばえのしない一日にまたつぎの一日を重ね、一年に一年を重ねて、やがて、確実に完了する。「中田 耕治のコージートーク」は、そういう私の「現在」の小さな報告にすぎない。
 それでいいのだ。

2006/03/07(Tue)  199
 
 親しい中国人の女性から、林 月の版画を贈られた。林 月は現代中国の芸術家だが、有数の風景画家という。これを倦かず眺めていて、ふと、ある詩句を思いだした。

    みどりの雲と結ひし髪、その白さ雪を凝らす肌。眼には秋の水の波のただよい、眉は春の山の黛(うすずみ)を挿(さ)す。紅(くれない)の頬は桃の花の淡き粧(よそお)い。朱(あけ)の唇はかろやかな桜桃のふくらみ。鞋(くつ)はほっそりと可愛い足をつつみ、指(おゆび)はしなやかな春の筍の姿さながら。

 古い中国小説のなかにあった。いまの私は、こんなアーカイックなクリシェがなつかしい。唐、宋の頃の春風駘蕩たる気分がなぜか私を惹きつける。
 いつか、こんな常套的なクリシェばかり使った短編の一つも書いてみたい。

2006/03/06(Mon)  198
 
 イザベル・ディノワ−ルというフランスの女性が、顔面移植手術で、まったく別人の顔になった。(06.2.7)人間は自分の顔を他人の顔と変えるかどうかをみずからに問いかけるために生きなければならなくなる。(笑)。
 戦後すぐに、ニュロティックな映画がぞくぞくと登場したなかにハンフリ−・ボガ−ト主演の「潜入者」というフィルムがあった。まだ、性転換も心臓移植も考えられなかった頃の映画だが、ギャングが顔を手術、別人になりすましてつぎつぎに犯行を重ねてゆく。原作は、二流のミステリ作家、デヴィッド・グッディス。はるか後年の「フェイス・オフ」を並べると、自分の顔を他人の顔と入れ換えたいという希望は「変身願望」のヴァリエ−ションと見ていい。
 映画史的に見れば、ルイ・ジュヴェの出た「ふたつの顔」(ジャン・ドレヴィル監督)から、ロベルト・ベニ−ニの「ジョニ−の事情」などの「とりかえばや」喜劇、Copy−conformeテ−マにつながってくる。
 もう一つ。凍結して保存した男性の精子を使って、その男性の死後に体外受精で出産した女性がいる。そうして生まれた子どもを、生前の男性の子として認知を求めた訴訟事件は、東京高裁が棄却した。女性側は、これを不服として、最高裁にもち込んだ。(06.2.16)
 こういうスト−リ−は、いずれ映画やドラマのテ−マになりそうだなあ。
 できれば昔のパラマウントかRKOあたりのかるいコメディ−で。間違っても、「マイノリティ−・リポ−ト」や「宇宙戦争」のスティ−ヴン・スピルバ−グには作らせないでほしいな。(笑)。

2006/03/04(Sat)  197
 
 イザベル・ディノワ−ルというフランスの女性が、顔をイヌに咬まれて重傷を負った。この女性は、15時間におよぶ顔面移植手術で、まったく別人の顔になった。執刀医は、J・M・デュヴェルナ−ル。(06.2.7)
 イザベルさんは、まだ唇の機能が回復していないようだが、それでも生きる希望をとり戻したようだった。
 ジャ−ナリズムの一部は、被手術者の身辺を洗って、日頃、薬物におぼれていたとか、もともと自殺願望があった、などと報道した。そんな女だからイヌに咬まれたのも当然、そんな女に顔を移植してやる必要はなかった、というような冷嘲をあびせている。
 どこの国にも、陰湿な手口で、大衆の低俗な好奇心をあおる連中がいる。
 このニュ−スを見て、私がまず考えたのは・・・拒絶反応や、免疫抑制といった問題はどうなのか。半年か一年たてば顔面の機能が完全に戻っているのか。リンパ系の異常や、骨の壊死などが起きないのか。素人の私でもそのくらいは考える。
 顔に重度の傷をうけた女性が、あたらしい顔を得て、あたらしい人生を歩んでゆくのだから祝福すべきことだという立場もあっていい。
 アイデンティティ−の移植ではないからである。心臓移植となんら変わらない。
この手術は生命倫理に反したものではないのか。
 個人の倫理よりも医学の進歩を先行させた。科学万能の思想がますますはびこる。
 そう考える人もいるだろう。
 私は新しい顔になったこの女性が幸福になることを希望する。それは素直によろこんでいい。ただ、ことは心臓移植と少し違った次元の問題になるような気がする。じつはむずかしい「設問」が待ちかまえているような気がする。
 それは生命操作がはたして人間を幸福にするかどうか、人間を幸福にするとしてはたしてどこまで幸福にするかという問題になる。

 私たちには、いずれすべてのことが可能になるだろう。
 ヴァレリ−ふうにいえば・・・人間は自分の顔を他人の顔と変えるかどうかをみずからに問いかけるために生きなければならなくなる。(笑)。

2006/03/03(Fri)  196

 偶然だが、BS11で「シンシナティ・キッド」(ノ−マン・ジュイソン監督)を見た。スティーヴ・マックィーン、エドワード・G・ロビンソン、アン・マーグレット、チューズデイ・ウェルド。なつかしい顔ぶればかり。
 映画は、ニュ−オ−リ−ンズにポ−カ−の名人で「ザ・マン」と呼ばれる老賭博師が乗り込む。それを迎え撃つ若いスタッズ・ポ−カ−の対決。
 ニュ−オ−リ−ンズは、超巨大台風「カトリ−ナ」に直撃されて、かつての姿を失っている。そんなこともあって、この映画に何かノスタルジックな思いを重ねて見たのか。
 エドワード・G・ロビンソンは、小柄で、お世事にも美男とはいえない独特な風貌。爬虫類のような薄眼が、不意に冷酷な光を帯びる。アクのつよい演技で、悪役スターとして知られていた。こういうタイプの俳優はどうにもカテゴライズしにくいので、戦前は「性格俳優」と呼ばれていた。
 1893年、ルーマニアのブカレスト生まれ。ユダヤ系移民として、1903年、アメリカに移住。父は弁護士として成功した。
 1911〜13年、アメリカ演劇アカデミーで演技の勉強をした。つまりは、アメリカの「新劇運動」のまっただなかで育ったと見ていい。「戦後」、俳優としていささか知られてからハリウッドに移った。トーキーの登場で、セリフのしっかりした映画俳優として成功したのも当然だろう。30年代、「暗黒街の顔役」のギャングスター、戦後は「スカ−レット・ストリ−ト」、「キ−ラ−ゴ」の犯罪者といった役で、圧倒的な存在感を見せていた。しかし、「シンシナティ・キッド」を見ると、エドワード・G・ロビンソンは、「性格俳優」などという概念化ではおさまらない俳優だったことかわかる。
 ハリウッドきっての教養人で、ピカソ、マティスから現代美術まで、有数の美術コレクターだった。

 出演作が多いので、代表作をあげるのはむずかしい。私があげるとすれば、「運命の饗宴」(ジュリアン・デュヴィヴィェ監督)の、落魄した悪徳弁護士。最晩年の「シンシナティ・キッド」の老練なギャンブラー。1973年1月26日に亡くなっている。
 彼の33回忌に「シンシナティ・キッド」を見たことになる。あくまで偶然だが。

2006/03/02(Thu)  195

 ある日、高学年の生徒たちは学校の講堂に集められた。この日は特別授業とかでえらい人のお話があるのだった。
 私は四年生だったし、いちばんチビの一人だったので、最前列に並んでいた。
 どういう人がくるのか知らなかった。やがて演壇に和服で小柄なおじいさんが姿を見せた。りっぱなひげが眼についた。
 校長先生が、ひどくへりくだった態度で、私たちにそのおじいさんを紹介した。「荒城の月」を書いた人という。
 先生たちは、それぞれのクラスの横に立って拝聴していたが、私たちは、講堂のゆかにすわることを許されてお話を聞いた。おじいさんは子どもにもよくわかるように話してくれたようだったが、そのときの話はもうおぼえていない。綺麗に忘れてしまった、というより、何を話してくれたのか、そのときもわからなかったのだろう。ただ、人間の心のことを話してくれたような気がする。
 「荒城の月」を書いたと聞いて、小学生の私は「春 高楼の花の宴」のメロディ−を思いうかべた。ふ〜ん、ぼくたちはこんなおじいさんが書いた曲を歌っているのか。

 当時、土井 晩翠は二高教授を退官した頃だったのだろう。
 はるか後年、私は彼の訳で「イ−リアス」や「オヂュッセイア」を読んだ。
 今の小学校でも詩人を招いて子どもむきのお話をしてもらうことがあるのだろうか。聞いた内容はおぼえていなくても、詩人の姿をおぼえている子どもはいるだろうと思う。

2006/03/01(Wed)  194

 ゴルフ。「ビュイック・インタナショナル」のラスト(06.1.30.)。タイガ−・ウッズを見た。プレイ・オフ。この16できまらないと、つきの17(422ヤ−ド)に持ち越す。相手はジョゼ・マリ−ア・オラサバル。39歳。最初にバンカ−。
 タイガ−・ウッズはクラブを握りながら下唇に舌を走らせる。癖なのか。緊張しているのか。クラブをふりおろす。青空に白球がまっすぐ飛び去ってゆく。
 はじめにバンカ−に落としたオラサバルの第二打は、みごとにピンに寄せた。ふつうでは考えられないようなプレイ。ギャレリ−がどよめく。Masterpiece! そんな声が飛ぶ。これでオラサバルの勝利を確信したのか、ギャレリ−の多数が、早くも17コ−スに移動しはじめている。タイガ−は表情を変えない。
 だが、つぎのオラサバルの第三打はピンのへりをかすめて外れた!
 驚きと失望。タイガ−への称賛が大気をゆるがす。
 タイガ−・ウッズが白い歯を見せた。このゴルファ−は、顔つきがずいぶん変わった。堂々たる体躯は中年のオジサンだが、無数に修羅場を切り抜けてきた芸術家の顔といっていい。
 タイガ−・ウッズ(30歳)、今年の開幕に優勝。4回目。通算47勝。
 ゴルフにまるで関心のない私も見ていてドキドキした。勝負の世界には、こういう緊張したシ−ンが見られるからすばらしい。2位はオラサバルとネ−サン・グリ−ン。日本の丸山 茂樹は−3、28位。

2006/02/27(Mon)  193

 猿まわし。
 小太鼓に二尺以上もある竹のバチをあてる。猿まわしに使う小太鼓は、お祭りの小太鼓よりもずっと小ぶりのもので、バチをあてるのがむずかしいという。
 猿まわしの肩から、ひょいっとちいさなサルが飛び出す。田舎の婆さまのように、腰をかがめ、首の綱を気にしながら、ヒョコタンヒョコタン歩き出す。
 ひとまわりすると、猿まわしが背中の行李(こうり)から、半紙に描いた日の丸の旗を出して、サルの手にわたす。
      今日はめでたや  お家は繁盛
      天下太平     日の丸 出して
      今日の この日を お祝い いたそう
         とことん とことん とことんとん
 サルは、日の丸の旗をバサバサ振って、からだを左右に揺すりながら、太鼓にあわせて歩きまわる。そのようすが滑稽なので、見物人が笑った。
 次の出しものは、犬にまたがったサルの那須の与一が、棒の先に結びつけた扇を的に、竹の弓を引きしぼり矢を放つ。なかなかあたらない。
      サルも ときには 下手をする
      九郎義経 馬から 落ちる
      雲から 落ちるは 久米仙人
      首の 落ちるは 失業者
         すってん すってん すってんとん
 みんながどっと笑った。
 このときはじめて猿まわしを見た。おそらく4歳の頃。

2006/02/26(Sun)  192

 エマ−ソンの読書法。
 (1)刊行後、一年たってもまだひきつづいて版を重ねている本。
 (2)有益な本であること。
 (3)自分の好きな本。

 私の読書法。
(1)刊行後、一年たってもまだひきつづいて版を重ねている本は読まない。
 (2)有益な本かどうか、読んでみなければわからない。読んでみて、有益な本ではなかったとわかったら、書いたやつを軽蔑すればいい。
 (3)自分の好きな本は、そのときそのときで変化する。モンテ−ニュなんか好きじゃなかった。しかし、ずっとたってから、ようやくモンテ−ニュの凄さがわかってきた。自分の好きな本ばかりよんでいたら倦きるだろう。こいつはおもしろくなさそうだなと見当をつけて、やっぱりおもしろくなかったなあ、と思うのが楽しい。
 私ごときが、エマ−ソンのような思想家になれるはずもないのである。

2006/02/24(Fri)  191

 こんな文章を見つけた。
「イギリスの少年達は『ロビンソン・クルーソー』を熱心に読んで、海国男児の勇壮な魂を鍛え、イタリヤの少年達は『クオレ(愛の学校)』を読んで、愛国心やおもひやりの心を養ふのだといひます。どこの国にも、その国の人が少年時代に必ず読む本があるものであります。」
 「少年倶楽部」昭和11年(1936年)3月号、山中 峯太郎の『敵中横断三百里』のための付録。
 私なども『敵中横断三百里』を愛読した少年だったが、「その国の人が少年時代に必ず読む本」といわれると、つい別のことを考えてしまう。
 今の子どもたちが、はたして『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』を読むだろうか。誰も読まないだろう。勇壮な魂を鍛える時代でもないし、愛国心やおもひやりの心を養うことも必要もないからだが、子どもの頃に、こういう作品を知らずに過ごすことは、不幸なことの一つ。
 別の不幸は、私たちが少年文学を考えるとき、つい『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』などをもち出さなければならないことにある。
 さらに大きな不幸は、『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』をあくまでもすぐれた文学作品として読むことがなかったことだろう。

 山中 峯太郎の『敵中横断三百里』はもはや誰も読まない。それでいいのだ。
 だが、福島 安正のオリジナルは、日本人の書いたもっともすぐれたノン・フィクションの一つ。この作品をすぐれた文学としてとりあげた文学史は一つもない。これこそ、私たちにとっては大きな不幸ではなかったか。

2006/02/23(Thu)  190

 はじめてローマに行ったとき、バッグのカウンターにいたのは私ひとりだった。バッグが出てきた。すると、どこからともなく税関の役人が出てきた。いかにも人のよさそうな中年のオジサンで、やたらに明るい。パスボートを見せた。
 私の顔を見て、旅行の目的を訊く。観光と答えた。ローマにきたきみは賢明だね。私は、フィレンツェに行くつもりである。彼はニヤッとしてみせた。
 職業は? 大学講師。何を教えているのか? 文学。彼はニヤッとしてみせた。イタリアの文学は世界最高である。私はニヤッとしてみせた。
 それだけだった。バッグの中身を調べずに白いチョークで、小さな輪を描くと、通過させてくれた。所要時間、30秒。
 いくら楽な業務にしても、イタリアの簡単な入国手続きに驚いた。
 イタリアののんびりした気風は、どこに行ってもおなじだった。私はまだイタリアのルネサンスの勉強をはじめてはいなかったが、イタリアに関心をもつようになったのはこのときからだった。
 まだ、ハイジャックも、航空機によるテロもなかった時代。

2006/02/22(Wed)  189

 少年時代、毎月、「少年倶楽部」を読んでいた。私の文学観の基本的な部分に、「少年倶楽部」の作家たちの仕事があったに違いない。
 吉川 英治は『天兵童子』から読みはじめて『神州天馬峡』に夢中になった。
 高垣 眸なら『まぼろし城』よりも『豹(ジャガー)の眼』。
 軍事冒険小説としては平田 晋策の『新戦艦高千穂』。山中 峯太郎の『敵中横断三百里』。『亜細亜の曙』。空想小説なら海野 十三の『浮かぶ飛行島』。
 佐藤 紅緑の少年小説は好きだったが、池田 宣政には心を動かされなかった。好きな作家、読むには読むが、まだ出ていない「少年倶楽部」が待ち遠しいとまでは思わない作家。こうした期待や選別から幼い批評意識が生まれなかったか。それぞれの作家を読んでワクワクしながら、それぞれの文体、文学世界の違いに気がつくようになった。
 さらには山口 将吉郎、高畠 華宵、伊藤 彦造、斉藤 五百枝たちの挿絵が眼に浮かんでくる。河目 悌二の無邪気なイラスト、田河 水泡のマンガ。
 やがて、少年小説から、大人の小説を読むようになった。
 北林 透馬の短編で、はじめてエロティックな描写を読んだとき、少年の胸に驚きがあったと思う。(あとで読み直したが、少しもエロティックではなかった。)
 江戸川 乱歩の『少年探偵団』を読まなかったら、ミステリーに関心をもたなかったに違いない。
 はじめて文学作品を読んだのは、『我輩は猫である』と芥川龍之介の『黄雀風』だった。はじめて読んだ外国作家は、イエ−ツとキプリング。

2006/02/21(Tue)  188

 山形の子どもたちは、竹を割って作った竹スキ−でスロ−プをすべったり、「ベンジャ」で、雪のなかをコイヌのようにころげまわっていた。「ベンジャ」というのは、下駄の底に10〜15cm程の長さの鉄の板(テッパンというと大げさで、おシャモジの把手ぐらいの厚み、長さ)を埋め込んだもの。いってみれば、下駄スケ−ト。(秋田では、鉄の板2本を埋め込んだ「ヒキズリ」という下駄スケ−トがあって、これとは別もの。)山形ではこれがスキ−の代用品。ミカン箱のソリすべり、雪合戦。少しの晴れ間には凧あげ。 「メドチ」といって、落とし穴に仲間を突きとばしたり、「メントリ」というのは、降りつもった雪にわざと顔を突っ込んだり。わざと落とし穴を作るのは「ドフラ」という。 女の子たちは「スメズリ」。足駄の歯で横すべり。「タマワリ」は、足駄の爪先で、雪をまぁるく押し固め、お互いにぶつけあって、割れなかったほうが勝ち。
 女の子は赤い足袋(たび)をはいていたが、なかには素足で、シモヤケの子もいた。ゴムグツをはいている子はほとんどいなかった。不況の時代だった。
 家に戻って囲炉裏を囲んだり、「フクサ湯」に手足をつけるのだろうか。干した大根の葉を湯にひたしたもの。
 私は都会の子どもだったし、スキ−客だったので、土地の子どもたちと遊ぶ機会がなくて、土地の子どもたちが楽しそうに遊んでいるのを見ていただけだった。

2006/02/20(Mon)  187

 バスの窓から斜めに走る粉雪の流れに、遠く低い峰のつらなりがかすんでいる。近くを過ぎるわずかな家並みも、ぼうっとかすんでは消え去って行く。
 ウィークデイのバスは、乗客といっても私のほかにジーンズにコートの若い男女のふたりだけだった。これからスキー場に行くのだろうか。
 私は後部座席でザックによりかかって眼を閉じた。眠っておく必要があった。千葉に住んでいるので早朝、新宿から出ても、山小屋に着くのは夜中になる。少しでも眠っておかなければならない。
 吹雪になっていた。バスが停った。すぐに走り出すはずのバスが動かない。窓際に顔を寄せると、警防団の刺子を着た男が走ってきた。
 「雪崩でヨ、この先んトンネルからバスが通じねえだハ」
 もう4時過ぎで、あたりはすっかり暗くなっていた。
 「ほいでいつァ通れツだや」
 バスの運転手が聞いた。
 「さァのう、徹夜作業になッかだが」
 私はザックを肩にかけてバスを降りた。仕方がない。この先の宿屋に泊まることにきめた。4キロ近く歩くことになる。
 前に一度、その旅館に泊まったことがあった。ふたかかえもありそうな大火鉢に、枝炭を山のようにおこして、紫いろの炎の上に、古風な鉄瓶が白い湯気を吹いている。湯がしらしらと沸き立っているだろう。
 歩き出そうとして、ふり返ると、おなじバスに乗ってきた若いふたりが運転手に何か話しかけていた。
 若い女がステップから降りながら、
「すごい雪だわ!」
 吐く息がけむりのように白かった。
 「おお、寒い!」
 身ぶるいすると、若い男が抱きよせるように女の肩に手をかけた。ふたりの髪、顔、肩に、粉雪が降りかかった。
 私は歩き出した。

2006/02/19(Sun)  186


      診察室。患者がはいってくる。

   医者 どうしました?
   患者 このところ、どうもストレスがたまって、不眠症気味で・・
   医者 それはよくない。仕事を変えてみたらどうですか。
   患者 え、失業しろとおっしゃるんですか。
   医者 くよくよするのがいちばんよくない。とにかく、今夜からぐっすりおやすみなさい。
 
このシ−ン、いつか、自作の台本に使ってみたかったのだが。

2006/02/18(Sat)  185
 
 中国の国家統計局が2005年のGDPを発表した(’06.1.25.)。実質伸び率が前年比9・9パーセント増という。
 まさに驚異的な経済ダイナミックスで、この十年、経済的に苦しんできた日本とは比較にもならない。ただ、04年のGDPが10パーセント増だったことに比較して、3年ぶりに10パーセントより低くなったことに気がつく。それでも政府の目標とした8パーセント増よりも大幅に上まわっている。
 中国の場合、昨年(’05年)の統計から推計すれば、2030年に、
      鉄の消費量が世界の26パーセント。
      セメントの消費量が世界の47パーセント。
      コメの消費量が世界の37パーセント。
 これにインドがくわわるとすれば、事態は私たちの想像をはるかに越えるだろう。
 インドは、いまやIT産業で世界をリードしそうな勢いだし、国内の航空網が整備され、乗客数も年に20〜30パーセントと急増している。2010年には、年間、5千万人に達すると予想されている。(’06.1.12.)すごいなあ。
 かりに2030年に、このふたつの国の、国民ひとり当たりの資源消費量が現在(’06年)の日本の水準に達したとしよう。
 中国、インドの需要をみたすためには、地球がもう一個必要になるという。
 まさに人類史上、空前の事態になる。
 私に才能があったら、さっそくSFを書くところだが。

2006/02/17(Fri)  184
 
 スキ−が大衆化したのは、昭和初期。小学校三年の冬から春にかけて、毎週のように、父につれられて、土曜日の午後から、仙山線で、山形の蔵王高湯に出かけて、暗くなるまでゲレンデですべった。その夜は定宿にしていた「若松屋」という温泉宿に泊まることにしていた。宿の主人は斉藤 茂吉の親戚らしく、茂吉の書が掛けられていた。
 当時はまだ樹氷もほとんど知られていなかった頃で、スキ−で蔵王に登るスキ−ヤ−は少なかった。登頂したあとは、上ノ山まで、スキ−で下って行く。豪快なコ−スだった。上ノ山からは、また汽車で仙台に帰るのだった。
 山形で、スキ−がひろがつたのは、昭和4〜5年からで、芸者衆までがスキ−をはいてお座敷まわりにいそがしかった。スキ−場でよく見かけたものだった。
    雪のお山で リャ−ンとリャン
    ジャンプとテレマク リャ−ンとリャン
    走ってころんで リャ−ンとリャン
 深い雪につつまれた静かなお座敷で、女たちがさざめいていた。・・
 東京の中学に入ってから、スキ−とは縁がなくなった。

2006/02/15(Wed)  183

 ある若い女優さんが、大きなおなかでト−ク番組に出ていた。(06.1.30)これまでも人気のある女優の出産は、テレビがとりあげたり、女性週刊誌も派手にかき立ててきたが、妊娠している女優がテレビに出てきたのはめずらしい。
 ハリウッドでは、モニカ・ベルッチは、初産が40歳だったが、妊娠中にヌ−ドを撮影している。ジュリア・ロバーツは、37歳で、一昨年、双子を生んでいる。コートニー・コックス・アークェットは、不妊治療をうけていたが、40歳にあと2日というところで出産している。
 少子化が危惧されている時代なのだから、若い女優さんが妊娠するのは慶賀のいたり。できれば、もう少しベテランの女優さんたちにもどんどん出産してほしい。
 ニコール・キッドマンやシャロン・ストーンのように。
 第二次世界大戦で、フランスが敗れた遠因の一つは、いちじるしい出生率の低下にあったという。若い女優さんが、大きなおなかでト−ク番組に出ていたことから、そんなことまで・・・つい、考えてしまった。(笑)。

2006/02/13(Mon)  182

 1932年、アメリカ、レイク・ブラシッドで、第三回、冬季オリンピックが開催された。日本は、前回の冬季オリンピックでは全敗している。その後、ノルウェイ陸軍のヘルゼット中尉の指導をうけただけに、第三回に参加して、世界のレべルに少しでも追いつこうとしていた。日本の参加選手は、監督以下、22名。
 当時、フィンランドにはニッカネン、ノルウェイにはスプラウテン、ルンデ、ステ−ネンといった名選手がいた。日本からは、栗谷川、坪川、山田、保科などが出たが、彼らの実力では、まだまだ互角の勝負どころではなかった。
 スピ−ド・スケ−トは、当時のアメリカのつよい要望で、二つのトラツクを同時に数名が滑走することに変更された。まあ、横紙やぶりだね。現在は、もと通り、ユ−ロピアン・スタイルに戻っている。
 2006年、トリノの冬季オリンピック、フィギュアで、荒川 静香、村主 章枝、安藤 美姫の三人が世界のトップをめざしている。参加選手の層の厚さだけをとっても遜色はない。

2006/02/11(Sat)  181
 
 愛と言うのは、執着という醜いものをつけた仮りの、美しい嘘の呼び名かと、私はよく思います。

 伊藤 整の作中人物がいう。
 ありていにいえば、そういうことだろう。だが、かりにも美しい嘘なら、われひとともに騙されていい。たしかに執着は醜いだろうが、どうあっても執着しなければならないこともある。
 「私はよく思います」というのだから、そう思わないときも、たまにはあるわけだろう。私たちにしても「そう思う」と「そう思わない」の間に揺れることがないだろうか。

2006/02/09(Thu)  180
 
 私は泉 鏡花が好きである。小説におバケが出てくるから。
 鏡花は仲間の作家(たぶん、硯見社の誰かれだろう)に、おバケを出すなら、できるだけ深山幽谷のなかに出したほうがいい。なにも東京の、三坪か四坪のなかに出す必要はない、といわれたらしい。
 しかし、鏡花は、なるべくなら、お江戸のまんなか、電車の鈴の聞こえる場所に出したい、と答えた。
 鏡花にいわせれば、作中におバケを出すのは別にたいした理由があるわけではないという。私はこういう鏡花に敬意をもつ。いちいち理由を並べて出てくるおバケがいるはずもない。ようするに、索漠としてつまらない現実のなかで、自分の感情を具体化して、うつつとも夢ともつかぬマージナルな場所にあやかしを見る態の感受性を享けて生まれてきた作家と見ればいい。
 鏡花は「この調節の何とも言へぬ美しさが胸に泌みて、譬へ様がない微妙な感情が」起きてくる、という。この感情が『草迷宮』になり、また、ほかのおバケになる。
 「別に説明する程の理屈は無いのである」といいきっている鏡花に、文壇批評など太刀打ちできるはずがない。

2006/02/07(Tue)  179
 
 晩年、アルツハイマーに襲われた作家や芸術家は少なくない。作家のサマセット・モ−ム、演出家のジャック・コポオ、写真家のバ−ク・ホワイト、丹羽 文雄のように。
 娘として、実の母がアルツハイマーになったら、どういうふうに対処するだろうか。しかも母親が有名な文筆家で、その娘もまた作家だったとしたら。
 エレノア・クーニー著『夕光の中でダンスを』は、副題が「認知症の母と娘の物語」となっているように、アルツハイマーの母親を愛しつづけながら、娘として、作家として見つめた女性の回想である。船越 隆子の翻訳がいい。
 エレノアの母は作家として知られていただけではなく、有名な博物学者、バードウォッチャー、画家のオーデュボンの足跡をたどった評伝的なドキュメントを書いた。しかし、三度目の夫、マイク(環境問題に熱心にとりくんでいた作家)と死別した悲しみから立ち直れないまま、やがて運命の悪意のようにアルツハイマーの症状を見せる。
 母はなにごとにつけ、非常に能力のある女だった。ところが、その母に奇行や妄想があらわれ、エレノアは「女ラスプ−チン」のような母にふりまわされる。エレノアは母のことを思うと、ときどきものすごく苦しくなる。やりきれなくて。やがて母の人格が確実に崩壊してゆく。そうなった母は、いろいろなホステルや老人介護の施設からも追い出されてしまう。その姿は息ぐるしいほど、いたましい。
 ここに描かれている奇行は、外から見ればおかしなことばかりだが、当事者にとっては懊悩の日常。ときにはすさまじい葛藤が描かれる。
 ただし、母の無残な姿を描いた私小説ふうなアルツハイマー残酷物語ではない。私たちはこの本を読む途中で作家とともに考えるのだ。母がマイクをどんなに愛していたか。愛とは何か。さらに自然や、老病死苦について。ラストに近く、やっと見つけた優秀な施設に入所させた母が全裸で男のベッドにもぐり込んでいたと報告されて、娘は最後まで残った女としての母に微笑をむける。
 作家は、アルツハイマーになった母を娘の眼で見つめながら、アメリカの中産階級の生活を描いた家庭小説の伝統を受けついでいる。と同時に、母をテ−マにした芸術家小説をめざしている。
 いみじくも、登場人物のひとりがエレノアにいう。芸術的な才能をもつことの意味は、「自分にあたえられた義務」と心得ること、と。
 訳者の船越 隆子がこの作品を訳したのは「自分にあたえられた義務」と見たのではないだろうか。

 エレノア・クーニー著『夕光の中でダンスを』 船越 隆子訳
      06.2.オープンナレッジ刊 1700円

2006/02/05(Sun)  178
 
 寒い。
 私の好きな久保田 万太郎の句をあげてみよう。

      寒き灯のすでに行くてにともりたる 

 このあわれ。末五が少し気になるのだが、恋の句として読めば、やはりこうなるしかない。

      年の市 子に手袋を買ひにけり   

 「ただごと」の、どうってこともない俳句だが、これだってしみじみとした親子の姿が眼に浮んでくる。

      たかだかとあはれは三の酉の月 

 この悲しみはもう誰にもわからない。
 敗戦直後の、空襲で焼けただれた東京の廃墟のなかで詠まれた句といえば、いくらかは想像できるかも知れない。浅草にいて、すみだの向こう、本所、深川、さらには日本橋、京橋、西は九段まで、少し眼を移せば、鶯谷、三河島まで、荒涼たる風景がひろがっていた。
 この句は子規絶命の「葉鶏頭の十四、五本もありぬべし」とともに、作者の悲傷がそくそくと迫ってくる。

2006/02/03(Fri)  177
 
 楚臺(そだい)の夢は一夜の枕に驚き、驪山(りざん)の契りは万里の雲を隔つ。朝(あした)の嵐に錦帳を動かせも、李夫人が影もふたたびかをることなし。然(さ)らば、翡翠(かわせみ)という鳥は、いかなる美人の魂にかあらむ。杜子美が衣桁(いこう)になくといひけむも此鳥ならで外にはあらじ。名にめでてこれを我友となさば、はしなき人にやあやしまれむ。
 支考の文章。
 江戸文人のこういう文章が、いまの私に理解できないのは、残念だが仕方がない。支考さんのいっていることは、なんとなくわかるのだが、無学な私にはすっと頭に入らない。 しかし、翡翠という鳥の「名にめでてこれを我友となさば、はしなき人にやあやしまれむ。」というのは気にいらない。「はしなき人」に「あやしまれ」たっていいじゃありませんか。

2006/02/01(Wed)  176

 私の悪癖。いまごろ気がついたいちばん不愉快なことの一つ。 
 何かをせずにいられないこと。何もしないでいるためにはどうしたらいいのだろうか。
  

2006/01/30(Mon)  175
 
 冷戦時代の東ベルリン。
 バス・ターミナルの国営売店に、ほんのわずかながら国産のおみやげ品が並べられていた。私ものぞいてみたが、品数はせいぜい15、そのどれをとってみても品質のわるいものばかりだった。
 そのなかに、10センチほどの大きさで木綿の端切れの人形が眼についた。赤いホッペに頭巾をかぶった、エプロン姿の農民のオバサン。かわいらしい人形ではない。いかにも素朴な手づくりの人形だった。
 売り子を探した。どこにもいなかった。誰ひとりおみやげを買う気にならないのだから、売り子がいなくても不思議ではない。その「オバサン」人形を手にとって、うろうろと眼を泳がせていると、美しいドイツ娘がやってきた。
 「これをほしいのですが、いくらですか」私は訊いた。
 その答えに思わず耳を疑った。10マルクという。
 いくら素朴な人形でも、たかが木綿布の切れっぱしを大ざっぱに糸で縫っただけのしろものではないか。どんなに高く見積もっても、せいぜい1マルクが相場だろう。
 私の顔に驚きのいろが浮かんでいたに違いない。美しい東ドイツの娘は、まるで「ブリュンヌヒルデ」のように尊大な顔つきで、買いたくなければ買わなくていいのよ、といった表情を見せた。傲岸だが、ほんとうに美しい娘だった。
 私は黙ってその人形を置いて、その場を離れた。
 しばらくして、またさっきの売り場に戻った。あの素朴な「オバサン」人形を買うことにしたのだった。私の胸には、これが、東ドイツの「現実」なのだ、という思いがあった。経済的格差ではまったく比較にならない西ドイツ・マルクを相手に一歩もひかない構えといえば聞こえはいいが、こういうかたちで旅行者からマルクをふんだくる根性が汚い。これが社会主義だと? ふざけやがって。
 よし、それなら買ってやろうじゃないか。
 この人形を買った。東ドイツで買ったただ一つのおみやげだった。

 「オバサン」人形は、今でも変わらない姿をしている。笑顔も見せないが、長い歳月をへて、しっかりした働きもののオバアサンに見えてきた。しかし−−あの美しい東ドイツの娘は、この「オバサン」よりも、もっとみにくく老いさらばえているだろう。そんな思いが私の内部に根を張っている。

2006/01/28(Sat)  174

 その日は雪だった。一日じゅう降りつづいていたが、しばらくすると、どんよりした雲の一部を太陽の暈がわずかに明るく見せはじめた。彼女は不意に顔を向けた。
 その顔を見たとき、心が凍えた。苦しみぬいたような顔をしていた。
 「じゃ、帰るわ。さよなら」
 白い雪を薄く肩にのせて、くるりと背をむけると、雪が濡れてところどころ黒いペーヴメントを去って行った。
 私は、そのうしろ姿を見送っていた。もう、二度と会うことはないだろう。自分がたいせつなものを手放してしまったことはわかっていた。駅に向かって歩きながら、こんな別れかたをしたことを、ほんとうに後悔していだ。

2006/01/26(Thu)  173

 秋の海辺。彼女は明るい日ざしを受けて立っていた。ほのかにピンク色の素肌が匂いたつような、しなやかな肢体が目の前にあった。季節はずれでもう誰もいない秋の海辺。午後の日ざしは少し弱くなって、波はおだやかだった。石を組んでセメントで固めただけの防波堤がほんの十数メートル海に突き出していて、そこに寄せてくる波に少しだけ変化が見えている。片側の波の流れはきらきらしているが、反対側の波は青みが濃くなって、そのあたりが少しだけ深くなっている。彼女は防波堤のすぐ横に立っていた。小柄だが、乳房から腰にかけてふくよかで、内部に秘めたものがしっとりみなぎっている。腕のやりばがないようで,片足をわずかに曲げるように立っている姿にはじらいが見られた。大きく見ひらいた私の眼が、彼女のすぐ眼の前にあった。その眼がつややかな潤いを帯びると、その手が動いて、すっと水着のストラップにのびた。ふっくらした乳房があらわれた。そのとき小さな波が寄せてきて、うしろに下がろうとした彼女が、よろけて石の壁に片手をついた。その瞬間にカメラのシャッターを落とした。後で現像した写真には、遠い水平線と、それを斜めによぎっている防波堤と、波に洗われてボロボロになっている石と、まるでヒトデのように石の表面にはりついている彼女の片手しか写っていなかった。

2006/01/24(Tue)  172

 一の酉。
 吾妻橋をわたって、ひさご通りを千束(せんぞく)まで。すぐ裏が吉原。
 夜ともなれば、押すな押すなの雑踏で、人波にもまれていつしか鷲(おおとり)神社の境内に出る。浅草たんぼのお酉さま。江戸のなごりのひとつ。
 熊手売りが軒をつらねて、威勢のいい掛け声の三本〆め。ごった返しのあいだあいだに、切り山椒、八つがしら。ぶっきりアメ。子どもの心もうき立ってくる。
 私の住んでいた界隈では、「いちのとり」とはあまりいわなかった。初酉(はつとり)という。いや、それよりも「おとりさま」だった。二の酉、三の酉とはいう。
 ある日、新聞で雑誌の広告を見た。そのなかに、武田 麟太郎作「一の酉」と出ていた。小学生が読む小説ではない。「いちのとり」とは野暮な題名だなあと思った。
 中学生になって、改造社版の「武田 麟太郎集」で読んだ。一の酉の雑踏の雰囲気が眼にうかぶようだったが、どうも内容はよくわからなかった。
 ずっと後年になってまた読み返した。作家が舌なめずりをしながら市井の女を描いている息づかいに、「たけりん」(武田 麟太郎)一代の傑作と見ていいような気がした。
 戦後の久保田 万太郎に、
     たかだかとあはれは三の酉の月 
 という句がある。私の好きな一句。
 敗戦後、吉原焼亡。三の輪から国際劇場の通りも黒焦げ、入谷、鶯谷から言問橋までまる見えの焼け野原。この句に無残に焼けただれた浅草の姿を重ねあわせて、作家のかなしみを読む人はもういないだろう。

2006/01/22(Sun)  171
  
 ヴァレリーのことば。

 二つのことばのうち、つまらないことばのほうを選ぶこと。

 むろん、通俗的に書け、とか、万人にわかるようなことばを選べという意味ではない。だから、このことばはおそろしい。 

2006/01/20(Fri)  170
 
 明治23年、ロシアの医師、作家のアントン・チェーホフは、サハリンに旅行した。大旅行であった。イルクーツク、チタを経由して、6月26日、清国とロシアの国境が接しているアムール沿岸のブラゴヴェシチェンスクに到達する。
 友人にあてて、
 「シベリアはすばらしい土地でした。がいしていえば、シベリアの詩は、バイカルからはじまります。バイカルまでは散文です」
 と書いた。
 「ブラゴヴェシチェンスクから、日本人たち、というよりむしろ日本の女たちがはじまる。大きい奇妙なマゲを結い、美しい肢体の小柄なブリュネットで、ぼくには股が短いような気がした。」(スヴォーリンあて)
 ブラゴヴェシチェンスクに着いた日に、日本人の娼妓女を相手にする。
 「あのことにかけては絶妙な手練を見せてくれるので、そのせいで女を買っているのではなく、最高に調教された馬に乗っているような気になる」とも。
 当時、からゆきさんと呼ばれた女たちがアジア各地に進出していた。長崎は、1898年にロシアが旅順を租借するまで、冬はロシア艦隊の停泊港になっていたから、長崎、島原、天草の女たちがシベリアに売られて行ったとも考えられる。
 ただし、私は別のルートもあったと見る。
 明治23年、北海道、江差のニシン漁業は最盛期を迎えていた。海岸線に白壁の土蔵が建ち並んで、「江差の春は江戸にもない」といわれる好景気を迎えていた。明治25年、江差新地の遊廓が拡張されている。
 明治34年、新地裏町の戸数は101戸。そのうち妓楼17軒。見番に籍を置いた芸妓の数は50名から7、80名。自前は少数で、あとはみんな抱えだったという。娼婦の数は35名から多いときで70以上。ほとんどが江差の出身だったらしい。
 私はチェーホフは、江差あたりからシベリアに流れて行った日本の女を買ったのではないかと想像する。チェーホフは若くて健康だった。このときから、チェーホフの内面に日本に対する深い関心が生まれている。
 十九世紀ロシア、私はチェーホフがいちばん好きなのだ。

2006/01/18(Wed)  169
 
 最近の私はあまり画廊に行かなくなっている。
 まだ無名の画家の仕事を知るために、じつにいろいろな画廊を見てきたが、今の私は、もうそんな気力がない。体力もないし時間もない。
 こうして、好奇心も薄れてゆくのだろう。われながら哀れなものである。
 好きな画家は変わらない。
 私の好きな絵は・・見ている私の「現在」のためにこそ描かれている、と感じられるもの。と同時に、私以外のほんのわずかな人々の「未来」のために描かれていると思えるもの。その絵を見るとき、その絵を通して(直接の影響とか模倣にはまったく関係なしに)「過去」に存在したすぐれた画家の仕事を心の深いところで思い起こさせるもの。
 つまり、私の内部に賛嘆と同時に、なぜか畏敬に近い思いを喚び起す作品。
 たいていの現代絵画は、いつも独創的であろうとしてそれに成功している。しかし、もう少し時がたてば、その作品を見る人は少しも独創的とは見なくなるだろう。

2006/01/16(Mon)  168
 
 今 東光の青春小説を読んでいて、こんな部分にぶつかった。若い頃に、二つの系統の友人があった、という。
 一つの系統は名門富豪の子弟で、学費はもとより小遣いも潤沢で、おっとりと成長する。もう一つの系統は貧賤に育ち、苦学力行し、あるいは自暴自棄になって反抗ばかりし、泥沼の中を這いずり廻りながらくたばりもしないで生き抜いている奴等だ。
 私はごく普通の勤め人の家庭でそだったので、友人関係といっても、これほどはっきりわけられない。私の周囲には名門富豪の子弟などひとりもいなかったし、泥沼の中を這いずり廻っているようなひどい貧乏人もいなかった。
 敗戦後、苦学力行していた友人はいたし、特攻帰りでヤクザの仲間に入って、肩で風を切っていたが、ヤクザどうしの抗争で片腕を斬られて死んだやつもいる。共産党に入ってしょっちゅう刑事が尾行していたやつもいたし、一念発起して医学を勉強しなおして医者を開業しながら無理がたたってすぐに死んでしまったやつもいる。
 青春時代にいい友人に恵まれた人はしあわせだと思う。
 自分の過ごしてきた青春とひどくかけ離れている今 東光の連作『吉原哀歓』や、「青春図譜」といった短編が好きで、今でもときどき読み返す。

2006/01/14(Sat)  167

 「SAYURI」の章 子怡(チャン・ツーイー)が、ゴールデン・グローヴの最優秀主演女優賞の候補にノミネートされた。昨年、世界の美女100名にも選ばれているので、章 子怡(チャン・ツーイー)のファンとしてはうれしい。
 女優としてのチャン・ツーイーは、初期の出演作からすぐれた映画監督と仕事をしてきた。そのため、少女期から「娘役」(ジュヌ・プルミエール)として、のびやかな才能を見せてきた。どういう役にもたくみに適応してきた。なによりもすぐれているのは、どういう作品でも、どこかでかならず輝いている瞬間がある。     
 ふつう、「娘役」(ジュヌ・プルミエール)の女優は−−監督がかならずそういう演出をするからだが−−いつも「比類ない彼女」(uncomparable SHE)としてあらわれる。しかし、ほとんどのスターたちはこの「輝き」をもっていない。(ジョーン・クローフォード。ロザリンド・ラッセル。)
 どんな美女であっても、この「輝き」をもたないか、それがあらわれる時期は比較的、短い場合が多い。(ブリジット・バルドー。最近の孫 燕姿。少し前の折原 啓子。それよりも前なら原 節子。)もとより美貌や若さにもかかわりはあるが、平凡な顔でも高齢でもどこかでかならず輝いている瞬間、女優としての香気(flagrance)を出す女優がいる。(キャサリン・ヘップバーン。ジェシカ・タンデイ、フローラ・ロブソン。日本では、浪花 千栄子、中年過ぎてからの田中 絹代。)
 つまり、ある種の女優にとってはこの「輝き」は生まれつき(スポンタネ)なものであることが多い。
 章 子怡(チャン・ツーイー)をそういう女優のひとりと私は見ている。

2006/01/12(Thu)  166
  
 呉 倩蓮(ウー・シンレン)が、テレビドラマで、一代影星、阮 玲玉、を演じた。05年11月27日、上海で放送されたらしい。むろん、私は見ていない。
 短袖、長旗袍の呉 倩蓮(ウー・シンレン)が、女優「阮 玲玉」をどう演じているのか私としてはぜひ見ておきたいのだが、日本のテレビで放送されないだろうか。
 やはり最近、「阮 玲玉」が映画化されている。こちらは、当時の映像の記録もまぜながら、張 曼玉(マギー・チャン)が16歳から25歳までの阮 玲玉を演じているという。張 曼玉もすばらしい女優さんなので、こちらもぜひ見たいと思っている。

2006/01/10(Tue)  165

 最近の子どもたちはジャンケンをするのだろうか。
 小学校に通う生徒たちをときどき見かけるのだが、ジャンケンをしている子どもを見かけない。

     ジャンケンポン      ジャラケツポン                    紙 石 ジャンよ     ハサミなし ジャンよ 
     おイモのジャンよ     ハサミあり ジャンよ                 石 紙 くっつきジャンよ チッ チッ チッ   
     ソウ ニュッ パッ    グウ チョキ パッ  

 子どもの頃、そんなかけ声でジャンケンポンをしたと思う。かけ声は、いろいろと変化する。ジャンケン ポックリ 日和下駄、というふうに。
 今の女の子がポックリを知らないのは当然だが、私のように、日和下駄の連想で、荷風の『日和下駄』の記述をなつかしむ人もいないだろう。
 さて、今の子どもたちはカクレンボもしないのではないだろうか。

     オニさん こちら 手のなるほうへ 
     オニのいない間に 洗濯しましょ  
     オニのいない間に 洗濯 ジャブジャブ  

 今の子どもたちが、双六、おてだま遊びをするはずがない。洗濯はオート、遊ぶのはテレビゲームだから。しかし、ジャンケンをしなくなっているとすれば少しさびしい。
 庄屋、鉄砲、キツネの遊びは知らないのだが、子どもだった頃を思い出すと、明治の子どもたちの遊びがまだたくさん残っていたような気がする。

2006/01/08(Sun)  164
 
 お酒がおいしい季節になった。
 「一度でいいから、お酒を酌みかわしたい歴史上の人物は」というアンケートが雑誌に出ていた。
 1位、坂本 龍馬(13.1%)、2位、織田 信長(11.4%)、3位、聖徳太子(7.6%)、以下、徳川 家康、クレオパトラ、豊臣秀吉、紫式部、西郷隆盛、小野小町、9位に卑弥呼(1.7%)とつづく。(アサヒビール、お客様生活文化研究所)
 このリストを見たら悪酔いしそうだなあ。
 第一、織田 信長、豊臣秀吉、徳川 家康づれといっしょに酒を飲んだら、酒の味がしねぇだろう。それに、何を訊こうっていうんだ? 
 坂本 龍馬と酒を飲むより、どうせなら勝 麟太郎や河井 継之助と飲みたいね。西郷 隆盛よりも、会津の西郷 頼母のほうがいい。明治の人なら石光 真清。
 ほかにも酒を酌みかわしたい歴史上の人物は、いくらでもいる。たくさんいすぎて、誰を選んでいいかわからない。
 まず、オマール・ハイアムだね。いっしょに酒を飲んで、これほど楽しい相手がいるだろうか。こういう相手なら人生の機微についていろいろと教えてもらえるだろう。
 マルコ・ポーロもいいなあ。できれば、コカチン姫の護衛として、やっと帰国が許されたときのマルコ・ポーロと飲んでみたい。
 第二に、クレオパトラ、紫式部、小野小町などという女性と酒を飲んだら、眼がまわっちまわぁ。酒の味なんざわかるはずもない。クレオパトラと飲むくらいならテオドラか楊貴妃のほうがずっといい。
 杜甫と飲んだら、こっちまで沈痛な気分になりそうだから、やはり李白先生のほうがいい。いっしょにへべれけになるほど酔ってみたい。もっとも、こっちが先にダウンするだろうけれど。
 しんみり飲むなら紺屋高尾か、樋口 一葉さん。なんてったって美人だからねえ。
 ようするに私は織田 信長から小野小町、卑弥呼まで、このアンケートに出てきた方々とは、いっしょに飲みたいとは思わない。
 第三に、私はもともとこういうアンケートが大嫌いなのだ。だいいち酒がまずくなる。

2006/01/06(Fri)  163
 
 泉 鏡花が、芸者、桃太郎に会ったのは明治23年であった。
 恩師の尾崎 紅葉の主催する硯友社の新年宴会に出席した彼の前に、神楽坂の芸妓がいた。清元と花柳流の踊りをよくしたが、名取りではなかった。
 性格も、たたずまいも、それほど魅力があったわけではない。むしろおとなしい、むっつりしたほうで、目立たない女だった。
 本名、伊藤 すず。
 鏡花は、その名を聞いて驚く。母とおなじ名前だった。鏡花は、この少女に、亡き母のおもかげを見たといってよい。
 すずの母は、京都の商人の娘で、土佐浪人と江戸に出て、すずを生んだ。やがて、夫と死別する。やむなく、芸妓になって、商人の妾となったが、旦那が破産したため、すずを芸妓屋に預けて行方をくらました。すずは、一本立ちするまで芸を仕込まれたが、いうまでもなく血のにじむようなものであったという。
 三島 由紀夫は、「死にいたるまで鏡花が世間に吹聴してゐた亡き母への渝らぬ熱烈なアフェクション」は、いささか眉唾物に思われる、として、これを江戸っ子の特性というよりも、江戸趣味に耽溺した金沢出身の鏡花の「マニヤックな北方的な性格」と見ている。これに対して、小島 信夫がおもしろい意見を述べている。
 「名前なんかそれほどのことがあるものか、と思うとしたら、それは間違っている。名前は人間の入口である。偶然の名が同じであるということほどありがたいことはない。しかも年齢を聞けば十八歳。母が父のところに輿入れしたのとだいたい同じ年齢だ。次第にこの芸妓の過去をきき出すと、そこに涙をそそられるような哀れな話がひそんでいた。おそらくきき出すまでもなく分っていた、と彼は思ったのかも知れない。」という。
 私は小島 信夫に賛成する。
 鏡花には江戸趣味に耽溺した金沢出身の「マニヤックな北方的な性格」があったに違いない。しかし、すずという芸妓をはじめて見たとき、驚きに打たれた鏡花を信じる。こういう愛の coup d’esprit を疑う理由はないからである。
 母とおなじような不幸な女が眼の前にいる。そのときの亡き母が現前しているという思いが、たまたま同名と知ったという驚きに重なったに違いない。女の境遇もまた母に近いものであれば、鏡花にとっては運命と思われたに違いない。そんな程度の話なら江戸情話にいくらでもころがっている。しかし、それを動かしがたい運命と思うかどうか。そこにこそ、作家としての鏡花独特の心性がひそんでいた。
 三島 由紀夫という天才的な作家が、明治という時代の人情の機微を知らなかったはずはない。しかし、おそらく鏡花ほど下情に通じなかったと見ていいだろう。すくなくとも、鏡花の情に「マニヤックな北方的な性格」を見たあたりに、作家、三島 由紀夫 の無意識の倨傲を見ていいような気がする。

2006/01/05(Thu)  162

 アメリカ、ウィスコンシンの地方都市で行方不明になったネコが、なんとフランスのナンシーで見つかって、無事に飼い主のもとに戻った。(05.12.3.)
 ウィスコンシンはアメリカの中西部。ミシガン湖の西側だが、あいにく私は行ったことがない。この州のアプルトンに住む一家が飼っていたメスのエミリーは、9月下旬にいなくなった。家族は、当然、心配したに違いない。
 ところが、10月24日、フランスの北東部、ナンシー郊外の工場の隅っこで、やせ細った姿で見つかった。
 首輪につけた認識票で、身もとがわかったという。
 どうして、アメリカから遠いフランスまで漂泊の旅に出たのか。自宅近くの製紙会社の配送センターのコンテナーにもぐり込んだらしい。そのまま出られなくなった。ニューヨーク港から、はるばる大西洋を横断して、フランスの港に着いた。どこの港だったのか。
 発見されたネコのエミリーは、すぐに元気になって、一ヵ月の検疫期間をすごしたあと、航空会社が提供したビジネスクラスにおさまって空路帰国。12月1日、無事に飼い主のもとに戻った。
 こういうニューズを読むのは楽しい。
 これだけの記事から、いろいろなことを考えるし、いろいろ想像できる。こんなストーリーはどんな作家でも考えつかない。ネコの好きな作家だったら、たちまち短編の一つふたつは書けるだろう。

2006/01/03(Tue)  161

 年賀状を出さないことにしている。そのくせ年賀状が一枚もこない正月はさびしいと思う。身勝手な思いとは知っているのだが。
 ジャン・ジロドーの訃報を知ったときのルイ・ジュヴェについて、私は書いた。(『ルイ・ジュヴェ』第五部・第七章)
 「面識のあった人々や、ゆかりのあった人々が亡くなっている。死亡通知がきたり、共通の知人から電話で知らせてきたりする。長いあいだ入院して、苦しんで死んだ友人のことを思うと、むしろ、亡くなってよかった、と祝福してやりたい。
 自分の周囲に友人、知人が、一人ひとりと、クシの歯が抜けるように去ってゆく。つまりは、自分の番が近づいてくるわけで、死は確実に眼の前に現前するようだった。」と。 こう書いたときこの思いは私の実感でもあった。
 歳末になると、知人から年賀欠礼の知らせが届いてくる。
 それぞれの肉親を失った人たちの悲しみ。しかし、そんなとき、悲しみに沈んでいる人にこそ新しい年の始めを寿(ことほ)いであげたいとも思う。不謹慎だろうか。
 ある年、亡くなった方から賀状が届いた。私は驚いた。その人はこの賀状を書いて郵便局に届けたとき、まさかご自分が死ぬなど予想もしなかったに違いない。
 私はその賀状を手にしながらありし日のその人を偲んでひとり杯を傾けた。その人を思うことが楽しかった。
 賀状をくださったのは、植草 甚一さんだった。

2006/01/01(Sun)  160

  新しい年を迎えて。

 Forsam et Haec olim meminesse invabit  
 いつの日か かかることども すべてみな こころたのしき 思い出にせむ    

            羅丁格言      中田 耕治訳 

2005/12/30(Fri)  159
  
 安東 つとむ著『街を吹く風』(揺籃社/05.12月刊)を読む。
 著者はフリー・ジャーナリスト。桶川のストーカー事件、薬害エイズ、小樽運河保存運動や、阪神大震災ではヴォランティア活動をつづけた。
 ジャーナリストとしての活動に一貫して流れているものは、弱い立場の人々、しいたげられている人々に対する共感であり、その位置から、なかなか見えにくい支配や搾取にたいする果敢な反撃といっていいだろう。そして、対象に寄り添って歩いている。
 チェチェン、チベット、イラク、アフガニスタン、中国などの人権や政治犯にたいするまなざしにも、それははっきり見ることができる。
 色川 大吉先生のセミナーで学んだ。
 第二部は、「街風通信」というコラムで、これも、街を吹き過ぎる風のようにさまざまな話題をとりあげている。
 「あとがき」に、私の名をあげて、
 「『きみには好奇心がない!」と常にショックを与えられ、なんとかものかきに育てていただいた作家・中田耕治先生に、感謝の言葉をおくりたい」
 とあった。おいおい。わるい冗談だなあ。
 好奇心のかたまりだった安東君にむかって、きみには好奇心がない! などといったことがあるだろうか。少なくともビックリ・マークのつくような、いいかたはしなかったと思う。
 私がきみをものかきに育てたわけではない。きみは私といっしょに山に登ったり、街を歩いてきただけなのだ。私を見ているうちに、ひとりでにもの書きになってしまった、というのがいちばん自然ないいかたではないだろうか。
 ほんとうの俳優は「役」になるのではない。「役」が向こうからやってくるのだ。

2005/12/28(Wed)  158
     
 歳末、私の「文学講座」で石川 啄木について講義をした。
 これまで啄木について語ったことは一度もない。関心がなかった。もともと無縁といっていい。しかし、こうして読み返してみて、あらためていろいろ考えることができた。

    東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 
    かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川
    ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな

 誰でも知っている名歌に、私はほとんど関心がない。それよりも、

    さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき
    頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず   
    うすみどり飲めば身体が水のごとく透きとほるてふ薬はなきか

 といった歌に胸を打たれた。
 『一握の砂』という歌集は、現在の私には平凡な歌の羅列に見える。しかし、その二、三十首は、明治という時代をつきぬけて、実存の不幸と格闘しなければならなかった詩人の声が響いていると思う。

2005/12/26(Mon)  157
  
 7時少し前、思いがけないひとから電話があった。遅 芳だった。いつも思いがけないときに電話をくれるのだった。今、深せんにいるという。仕事は、政府系の会社で、中小企業の財政コンサルティング。多忙。母は長春に戻った。自分は長姉のところにいるという。なつかしい遅 芳。
 今日が私の誕生日と教えてやると、歓声をあげて、よろこんでくれた。さっそくお祝いの品を送るという。いいよ、そんなこと。遅 芳はうれしそうにハシャイでいた。
 電話を切って、しばらく遅 芳のことを考えた。私の人生に少しでも喜びがあったとすれば、そのなかに遅 芳を知ったことも含まれるだろう。
     (2005年11月)

2005/12/24(Sat)  156
 
 女優のアン・バンクロフトが亡くなったときの記事。
 「メル・ブルックス夫人。享年、73歳。演劇学校などで学んだ後、ハリウッドで映画デビューしたが、役に恵まれず、ニューヨークのブロードウェイに移って、舞台『奇跡の人』に出演」とあった。
 おやおや、可哀そうに。ハリウッドでも数々の名作に出演しているのに。
 BS11の追悼番組で彼女の代表作、「奇跡の人」を見た。
 アンは、世間の人が「卒業」の「ミセス・ロビンソン」ばかり称賛して、ほかの作品の演技を誰もとりあげてくれない、と不満だったらしい。世間の評判とか人気なんて、そんなものなのだ。
 たまに、「役」に自分自身をぴったり重ねることに満足する女優がいる。そういう女優は、自分が「役」を愛している動機や自信を、観客に要求するようなところがある。アンはいつも自分の役に自分で満足しているようなところがあった。
 私が舞台演出家だったら、『後妻のタンカレー夫人』や『ヘッダ・ガブラー』をアンにやってもらうだろう。
 『奇跡の人』に出た子役のパティ・デュークは、もう少し伸びるかと思ったが、それこそ役に恵まれなかった。子役がおとなになっても成功しなかった例。シャーリー・テンプル、マーガレット・オブライエン、リンダ・ブレア。パティもその例にもれなかった。

2005/12/22(Thu)  155

 小酒井 不木を読む。大正末期から昭和初年にかけてのエッセイ。当時は、この程度の知識でも通用したのだろう。隔世の感がある。今は、犯罪学、性科学、すべての分野で、欧米のレベルに比較して遜色のない研究がおこなわれている。
 たまたま「血と薔薇 2」(河出文庫)が届いた。ざっと読み返してみた。小酒井 不木を読んでいたせいか、今でも60年代の性をめぐっての熱気のようなものが渦巻いていて、当時のことがいきいきと思い出された。内容もほとんどが古びていない。
 澁澤 龍彦、種村 季弘、松山 俊太郎、みんな凄い文学者だった。一時的にせよ、そういう人たちの近くにいた幸運を思う。
 この「血と薔薇」に、私は「ポーノグラフィー論」めいたものを書いている。これは少し勉強不足。ほんとうはもっともっと深く追求できた主題なのだが。

2005/12/20(Tue)  154

 竹久 夢二の「宵待草」は誰でも知っている。
 夢二は、明治四十年に九十九里を歩いた。その五年後、明治四十五年(1912年)に、八行の詩「宵待草」が発表された。夢二、三八歳。
 ただし、この「宵待草」は平凡な作品で、詩としてはとるに足りない。
 ところが、翌年(大正二年)に三行に圧縮された。
                                              
 まてどくらせどこぬひとを 
      宵待草のやるせなさ

      こよいは月もでぬそうな

 これは、竹久 夢二の代表作になっている。
 一行アキ。
 この一行の飛躍(アンジャンプマン)は、私にさまざまなことを想像させる。
「九十九里月見草咲く浜づたい ものおもふ子はおくれがちにて」
「旅人はかなしからずや行きづりの少女を恋ひてさまよふときく」
という、牧水ふうの短歌との関連ばかりではない。明治から大正への時代の大きな変化さえ。さらには夢二の内面の断層さえも。

2005/12/17(Sat)  153

 庄司 肇さんの個人誌、「きゃらばん」59号が送られてきた。「肥後、筑紫、三老翁集」と題している。最初に高木 護論。思いがけず、宇尾 房子、竹内 紀吉の文章が挿入されていた。短いものながら、放浪の詩人、高木 護の姿がとらえられている。
 この「きゃらばん」に、庄司さんの同窓の先輩画家、九州在住の大坪 瑞樹に対するオマージュが掲載されている。
 大坪 瑞樹という画家を私は知らなかったが、庄司 肇によるエッセイ、年譜で、はじめて、この特異な画家の画業が紹介されている。この「きゃらばん」に紹介されているヌードにはいいものがある。現在、89歳。妻も毎日、水彩を4枚描くという。えらいものだと思う。


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