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2011/09/20(Tue)  1326
 
 作家としては、「サンケイ」の連載コラムを書いていた時期が、いちばん幸福だったような気がする。

 担当してくれた編集者は、旧知の服部 興平だったが、私は、いつも「サンケイ」ビルの喫茶店で、彼と話をした。もともと「週刊サンケイ」の記者で、いろいろな機会に私に原稿を書かせてくれた。

 服部君は、私にアメリカの小説の翻訳を依頼してきたのだった。当時の私は、何冊も翻訳をかかえていて、動きがとれなかった。しかも、大学で講義をつづけていたし、「バベル」という翻訳家養成学校の先生になった頃で、私自身の生活環境が変わってしまった。かんたんにいえば、翻訳に時間をとられるのがいやだった。
 服部君は「気分転換にマンガのコラムを書きながら、翻訳をしてくれないか」といってくれたのだった。
 私は承知した。日程としてはどうにも無理だったのだが、そこまで私を信頼してくれていると知って服部君の期待にこたえようと思ったのだった。

  このコラムの第一回に何をとりあげたか、よくおぼえていないのだが――たぶん登場したばかりの高河 ゆんをとりあげたと思う。

 高河 ゆんは、やがて「源氏」の連載や、「ローラーカイザー」あたりから流行作家になったはずで、私はこのコラムで、だれより早くこのマンガ家をとりあげたことがうれしかった。
 私は、「文芸」で同人雑誌の批評を続けてきた経験があった。マンガの批評にも自信があった。月刊誌に書くのと、週一回のコラムを書くのと、それほど違いはない。
 私がコラムでとりあげた作品に、それぞれ脈絡もなく、ジャンル別にもこだわらなかった。そのため、せいぜいマンガ好きの作家の「お趣味」の行きあたりばったりの選択に見えたはずである。たしかに、そうに違いなかったが、私には私なりのクライテリオンがあった。
 小さなコラムだからこそ、私がとりあげるのは、すでに有名な作家よりも、できるだけ将来性のある新人作家をとりあげようと思った。
        (つづく)

2011/09/17(Sat)  1325
 
 ある時期の私は、かなり多数のマンガを読んでいた。

 服部 興平は私にとってはわすれられない編集者のひとりだった。
 せっかちな人柄で話をしていると、話題はいつも私の3倍ぐらい多かった。そして、その話題は、いつも多岐にわたって、ミステリーの話をしていたかと思うと、宇宙論になったり、映画の話から、たちまち女性論になったりする。
 才気煥発なジャーナリストだった。
 何かのシリーズものの企画を立てると、まっさきに私に連絡してくる。
 「トップに中田さんが書いてくださると、あとで書く人に話をもって行きやすいんですよ」
 「へえ、どうして?」
 「中田 耕治が書くんなら、(自分も)書いてもいいとおっしゃるんですよ」
 「ふぅん、そうなの?」
 服部 興平はニヤニヤしていた。

 「サンケイ」が、マンガ時評といったコラムを新設して、私が担当することになったのも服部 興平のおかげである。
 毎週、いろいろなマンガをとりあげて紹介しながら批評するというふれこみだった。
 むろん、私以外に適当なマンガ専門の評論家がいないわけではなかったはずだが、マンガについて書いたことのない作家が、マンガをどう読むか、そのあたりを期待していたはずである。

 私はマンガを読みつづけていた。大きな仕事をしていると、どうしても気分転換が必要で、そんなとき、手あたり次第にマンガを読む。ジャンルは問わない。青年マンガ。レディース・コミック。ナンセンスもの。ホラー系。
 だいたい、単行本が多かったが、少女雑誌、女性誌、少年雑誌、青年誌。はては、ごく一部だったが、同人誌まで。

 自腹を切ってマンガを買うのだから、けっこう出費がかさむ。そこで、「集英社」の編集者だった桜木 三郎に頼んで、「集英社」新刊のマンガを送ってもらったこともある。

 (桜木 三郎よ、いまとなっては、せんなきことながら、きみがマンガを送ってくれたことに感謝している。新刊のマンガだけだって、たいへんな金額だったはずである。ほんとうに迷惑をかけた。今でも申し訳なく思っている。)

 何でも読んだ。

 今でも、何人かのマンガ家は、作品の印象といっしょに思い出せるくらいだ。
 怱領 冬実。
   岡野 玲子。
     ささや ななえ。
      「プチ・コミック」で読んだ佐伯 かよの。
         別冊「フレンド」の、松本 美緒。

 長いシリーズでは、窪之内 英策の「ツルモク独身寮」。
 魔夜 峰央の「パタリロ」。これは「花とゆめ」で読んだっけ。

 有名なマンガ家のものもずいぶん読んだ。
 水木 しげる。ただし、「ミスター・マガジン」で連載がはじまった「猫楠」などで、「ゲゲゲの鬼太郎」は、もっぱらテレビで見ていたはずである。
 ホラー系では、「夜中にトイレに行けなくなる話」系のマンガを、夜中にトイレで読んだり、北条 司の「CITY HUNTER」が、終わってがっかりしたり。
 「リョウ」の恋人、「香」が現実にいたら、私はすべてを投げうって――
 いや、怱領 冬実の「3 THREE」の「理乃」も好きだったなあ。

 沢井 健の「イオナ」は――昨年、私が救急車で病院にかつぎこまれたとき、吉永珠子が、いとばん先に届けてくれたっけ。うれしかったナ。
 とにかく、マンガを読むたびに、たちまちヒロインに恋をするような読者だった。
            (つづく)

2011/09/14(Wed)  1324
 
 もう一つ、私の心に残ったことがある。
 それは、ある時点で、何かの現象をかなりの確度、ないしは精度をもって総括することの困難さである。

 フランス演劇について、原 千代海が書いている。その一節に、

   すでにしてジロォドゥは病没し、その遺作「シャイヨの狂女」がジューヴェに
   よって脚光をあびたのは一九四五年であるが、間もなくコポオが死し、デュラン
   が去ると、その後の劇壇に唯一の希望として法灯を掲げていたジューヴェその人
   さえ、今秋、思いがけなく去って行った。ばてぃは、戦後田舎に引退して、ずっ
   と沈黙を守っている。

 原さんがこの原稿を書いたのが、1952年だったことがわかる。

 私は、やがて「俳優座」の俳優養成所の講師になった。これも、内村先生のおかげで、おもにアメリカ演劇を勉強しはじめるのだが、自分では演出家になるつもりだった。
 しかし、この志は果たせず、もの書きとして生きてきたので、結果として私の目標は大きく変わってしまった。

 戦後演劇の小冊子だが、この「新劇手帖」は、 私にとっては、なつかしい本だった。
 いろいろなことをかんがえることができた。

 たとえば、野崎 韶夫(ロシア演劇研究家)はいう。

   ひとりドラマに限らず、オペラ、バレー、オペレッタ、児童のための演劇(中略)、
こうした劇場の繁栄は営利や採算に拘束される資本主義社会では決して見ら
   れない現象であろう。(中略)劇場が国家・社会の理想と目的に心から同感し、
   その達成に協同するとき、そして国家・社会が劇場の成立と活動のあらゆる条件
   を保証するとき、真に高い思想性と芸術性をもつ演劇の開花することを、現代の
   ソヴェート劇場は証明している。

 こういう文章を読むと、胸が痛む。
 ソヴィエト崩壊後に、ソヴィエト最高のバレリーナ、プリセツカヤは――「私たちは、70年間、きょうふのうちに生きてきました」と語ったが、この声の前に、野崎 韶夫の文章は一瞬にして意味を失うだろうから。

 これとは別に私の考えたことの一つ。

 現在ではかつてのブルクハルトや、ホイジンガのような文化史を越える様な研究は、いくらでも見つかる。文化という広大な分野を一身にひきうけて、そのうえで、私たちの理解をいっきょにくつがえす研究や、ごく狭い領域に限定して、その研究が、その時代の全貌をあきらかにする、といった研究もめずらしくない。
 私は、ここでル・ロワ・ラデュリの仕事を思い浮かべているのだが――それでも、なぜか、ブルクハルトや、ホイジンガのもっていた魅力は少ないように思う。

 へんぺんたる小冊子だが、はるかな時代をへだてて、もはや残り少ない私自身の仕事のありようまで考えさせられたのだった。

2011/09/09(Fri)  1323
 
 戦後、日本の「新劇」は、チェーホフ「桜の園」の合同公演で復活した。
 演出は、青山 杉作。
 ラーネフスカヤ(東山 千栄子)、アーニャ(丹阿弥 谷津子)、ヴァーリャ(村瀬 幸子)、ガーエフ(薄田 研二)、ロパーヒン(三島 雅夫)、トロフィーモフ(千田 是也)、ピーシチック(三津田 健)、シャルロッタ(岸 輝子)、エビホードフ(滝沢 修)、フィルス(中村 伸郎)、ヤーシャ(森 雅之)

 このキャストに眼をみはった。
 その後、私は、ソヴィエトの「桜の園」や、イギリス、アメリカの「桜の園」、めずらしいものとしては、ポーランドの「桜の園」まで見てきた。
 しかし、私は、いつも「桜の園」を見るたびに、戦後すぐの日本の新劇人たちの合同公演の舞台を思い出した。今思えば、装置や照明もずいぶん貧寒なものだったし、ラーネフスカヤを中心とする女たちや、とくにトロフィーモフ、シャルロッタをやった千田 是也、岸 輝子夫妻の、教条主義的な芝居には、築地小劇場いらいの、なんとも古風な感じがまとわりついていたが、それでも、私たちはこれからの日本の芝居を見ていたのだった。
 あれ程、大きな感動をもって舞台を見たことは、あまりなかったと思われる。

 私は、この「桜の園」を見て、自分も演劇という世界で何か仕事をしたいと思った。

 私が見た芝居は、「どん底」、「愛と死との戯れ」(俳優座/1946年)、川口 一郎の「二十六番館」、「或る女」(文学座/1946年)、そして、「夏の夜の夢」、「人形の家」(東京芸術劇場/1946年)など。
 戦災でまったく無一物になった若者にとって、芝居のチケット1枚を手に入れることが、どんなにたいへんだったか。私が、戦後すぐに原稿を書き始めた理由は、ただひたすら新劇を見るため、新刊書や古本を買うためだった。

 やがて、戦時中にかかった肺結核が進行していることに気がつく。
 みじめな青春だったが、私は、こうして「戦後」を生きはじめたのだった。
         (つづく)

2011/09/07(Wed)  1322
 
 これも最近、私としてはめずらしい本を見つけた。

 田中 千夭夫、内村 直也・編 「新劇手帖」(創元社)昭和27年刊。250円。

 かんたんに、内容を紹介すると――

 「演劇とはどういうものか」という大項目に、岸田 国士、田中 千夭夫、装置家の伊藤 喜朔のエッセイが並び、つぎの「世界の演劇」という大項目では、イギリス演劇(内村 直也)、ドイツ演劇(遠藤 慎吾)、フランス演劇(原 千代海)、ロシア演劇(野崎 詔夫)、アメリカ演劇(杉山 誠)、日本演劇(菅原 卓)といった、当時、錚々たる人々が、それぞれの分野の演劇事情を紹介している。
 その末尾に、「世界の演劇人」という項目があって、筆者は内村 直也、中田 耕治。
(むろん、内村先生が執筆したわけではなく、項目の選択、執筆、すべて私が書いた。つまり、こういうかたちで、私は原稿料を稼ぐ機会をあたえていただいたわけである。)
 内容は――16ページに、百人ばかりの演劇人をとりあげて、かんたんな経歴を書いただけのもの。まあ、バカでもできる仕事だろう。
 たとえば――ルイ・ジュヴェの項目は、

   ジューヴェ  ルイ  Louis Jouvet(1887ー1951)
    仏 演出家・俳優。ヴィュ・コロンビエ座出身。コメデイ・デ・シャンゼリゼ
    に移り、後にアテネ座を主宰す。代表的な上演目録は「トロヤ戦争は起らない
    だろう」「シグフリード」「アンフィトリオン38」「オンディーヌ」「シャ
    イヨの狂女」「女房学校」「ドン・ジュアン」「タルチュフ」「海賊」「地獄
    の機械」など。驚異的な迫力をもつ演技と、特異な風貌をもって知られる。ジ
    ロードゥとの友情は有名。近代フランス劇壇の偉材。

 とある。(10行)ジロードゥーは6行。シャルル・デュランが3行。
 バーナード・ショーが8行。ロバート・シャーウッドが5行。ローレンス・オリヴィエが3行。
 1947年、ルイ・ジュヴェに対する私の関心が大きかったことがわかる。

 後年、私はルイ・ジュヴェの評伝を書いたが、おかしなことに――ここにリスト・アップした人々の大部分(ただひとり、中国の劇作家としてとりあげたツァオ・ウまで)を登場させている。
 このことに気がついたとき、われながら茫然とした。

 つまり、私は「戦後」すぐに自分がとりあげた百人ほどの人々の仕事をずっと追いかけつづけてきたことになる。
 この「新劇手帖」でとりあげたときは何ひとつ知らなかったのだから、それだけ勉強してきたことになるけれど――じつは、私のやってきたことは、この百人の人々のことをひたすら理解しようとしてきただけなのか。
 そう思うと、なぜか、総毛だつような思いがあった。「この小さな「新劇手帖」の、わずか十数ページに、私の未来の全てが凝縮されていたのかも知れない。
 このおもいがけない「発見」に、私はしばらく考え込んでしまった。

 驚きのひとつは――私の演劇の知識はこの時期からほとんど変化していない。ということだった。
 ゲッ、おれの頭は半世紀にわたって、ほとんど進歩しなかったのかヨ。
 つまり――私の演劇観のほとんどは、このへんぺんたる小辞典によって作りあげられたものなのか。(ほかの分野の知識にしたところで、私の勉強などたかが知れている。)
 むろん、その後の私は、かなり多数の芝居を見てきたし、実際に舞台の仕事にたずさわってきた時期もある。

 しかし、私の頭は半世紀にわたって、ほとんど進歩しなかったらしい、という思いは、さすがにコタえた。
 その私のそもそもの出発のすべてがここにあると知って、驚きよりも何も、自分の知識の貧しさ、とぼしさにあきれた。おのれの才能がなかったことに、うちのめされたといっていい。

 こうなると、笑うしかない。

 もっとも――こんな機会に、私に少しでも世界の演劇について勉強をさせてくださった内村先生に対する感謝の思いがよみがえってきた。
         (つづく)

2011/09/05(Mon)  1321
 
 私は、他人の翻訳を批判しない。
 そんな暇があったら、黙って、別の本を読んでいたほうがいい。

 それでも、たまに、もう少しましな翻訳ができなかったものか、と思う本もある。

   本通りには鉄製のアーチが備え付けられ、そこに取り付けられたネオンサインに
   は<歓迎世界最高の小都市リーノー>と書かれている。

 ある長編の書き出し。これを読んだ瞬間に、これはダメだな、と思った。翻訳は、すぐにつづけて、

   静かな小都会である。車のフロントガラス越しに、十二ブロック先の、本通り
   の端近くまでが見える。この高度では何もかもが眼に鮮やかに映る。空には染み
   一つなく、車の計器盤から流れ出る朝のジャズ音楽は生き生きとしている。きれ
   いな町である。賭博場の豪華な建物は、どれも現代風で、薄い灰色をしており、
   どのネオンサインも陽の光のなかで輝いている。交通信号が変わり、車は慎重に
   進む。だが、一ブロック進むと、警官に停止させられる。警官は歩道を離れて、
   反対方向へ行くトラックを停め、一人の老婆に付き添ってゆっくりと通りを横切
   る。老婆はしずかな雰囲気の銀行に入る。その隣には上品な婦人洋装店があり、
   更にその隣の店には、窓がらすに金文字で<さいころ賭博>とある。<競馬賭博>
を呼び物にしている店もあれば、<カジノ>の店もあり、<結婚指輪>の店も
   ある。停車しているわずかの間に、かなり騒々しい音が聞こえ、そちらに人の注
   意が向く。左手の、店内の煌々とした賭博場から騒音が通りへと伝わり、歩道の
   上の方では店のネオンサインがきらめいて<大当たり>とでる。それは店の中の
   どこかで客が満点を射止めたことを示している。

 これは、この小説の舞台になっているリノの描写。
 語学的には間違いのない訳だが、なんという魅力のない訳だろう。それに、この訳は――ぜんぺん、説明にすぎない。原作者は、これからはじまる小説に、いきいきとした命を吹き込んでいるのだが、それがこの訳にははじめから欠けている。

 作者はアーサー・ミラー。じつは「荒馬と女」の原作だが、日本訳の題名は「はみだし者」となっている。
 1989年7月刊。もう4半世紀も昔の本だから、営業妨害にはならないだろう。

 原題の「ミスフィッツ」は日本語になりにくいことばだが、「はみだし者」とはおそれいった。
 アーサー・ミラーが劇作家なので、全編、いきいきとした会話がつづくのだが、

   「荒れ狂った牛が野放しで走っているというのに、俺はあの若僧を助けに飛び込
   んだんだぜ――君は何を話しているつもりなんだ? 俺だって、今こんなとこ
   ろに坐っているのは、べらぼうに運がいいんだぜ、君にはそれが分らんのかね?」
   「分るわ。そうだったわね」彼女は突然彼の手を取って、それに口付けし、自
   分の頬に彼の手を押し当てる。「そうだったわね!」彼女は彼の顔に接吻す
   る。「あんたは実にいい人だわ……」

 映画では、マリリン・モンローが、クラーク・ゲーブルの手をとって、キスするシーンだが――

 私の「みんな我が子」の訳も、きっとこんな程度のものだったに違いない。自分では、けっこういい訳のつもりでいたのだから、救いようがない。
 今の私は、菅原 卓の仕事、翻訳に対して批判をもたないわけではない。しかし、駆け出しの私を叱責して、戯曲の訳が上演に不適当な訳だということ、セリフがセリフとして生きていないことを、逐一、完膚なきまでに批判してくれた菅原 卓には、いまでも感謝している。私は、ふるえあがった。
 その後、私は「中田君、きみ、腹を切りなさい」ということばの重みはけっして忘れたことがない。

2011/09/04(Sun)  1320
 
 当時、私は、生活のために翻訳をするようになったが、いつか、テネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲を訳してみたいと念願していたのだった。
 私のような駆け出しの新人が、テネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲を訳せる機会はなかった。
 それでも、アーサー・ミラーの戯曲を訳すことが出来たのは――私にとっては僥倖というべきだったろう。
 当時、私は小さな劇団で俳優の訓練用に、アメリカの短編を訳していた。まだ日本では誰も読まなかったヘミングウェイという作家の「キリマンジャロの雪」という短編だった。私は、ヘミングウェイがどういう作家なのかも知らず、ただ、この短編は、いろいろなシーンが出てくるので、若い俳優/女優たちに読ませるのに都合がいい。そんな単純な理由で訳したのだった。
 たまたま、この時期、「新協」から脱退した俳優の三島 雅夫が独立の劇団を起こして、その旗揚げ公演に、アーサー・ミラーは「セールスマンの死」で世界的に知られていたが、三島 雅夫が選んだのは、それに先立つ戯曲、「みんなわが子」であった。
 その翻訳者をさがしていて、たまたま、私の「キリマンジャロの雪」を読み、「みんなわが子」の翻訳を依頼してきた。

 私は、三島 雅夫が私を選んでくれたことがうれしかった。それまで芝居の台本の翻訳など経験もなかったが、翻訳できないことはない。そう思った。

 ここから先は、今思い出しても、恥ずかしいことになった。

 私の翻訳は、まったく使いものにならなかった。
 稽古が途中で中断された。

 演出家は菅原 卓。(私にとっては、恩師にあたる内村 直也先生の実兄にあたる。)私は、急遽、菅原 卓に呼びつけられた。三島 雅夫が同席していた。

 「中田君、きみ、腹を切りなさい」

 菅原 卓の声はきびしいものだった。私は、一瞬、何をいわれているのかわからなかった。しかし、私がなにか重大な失態をおかして、菅原 卓が激怒しているらしいことはわかった。
 そして、菅原 卓は、私の訳をとりあげて、戯曲の翻訳としてまったく使えないことを次々に指摘して行った。
 私は、それまでの自信がケシ飛んでしまった。穴があったら入りたい、どころではなかった。どうしょう、どうしょう。私はただうろたえていたし、菅原 卓の指摘する誤訳、拙劣でこなれていない訳、ようするに、作品を読みこなす力がないのに、戯曲を訳すような無謀、無恥な自分の厚顔に気がつかされたのだった。同席していた三島 雅夫が、憫然たる表情で私を見ていたことは覚えている。

 けっきょく、菅原 卓が全編に手を入れることになった。公演のポスター、パンフレットに、私の名は共訳者として残ったが、実質的に、私の訳は一行も残らなかったといってよい。

 このときから、私は、翻訳の仕事で、原作者に対する敬意は、誤訳をしないこと、というより、原作に対して、おのれの才能のありったけをあげて肉迫することなのだと覚悟するようになった。
            (つづく)

2011/08/31(Wed)  1319

 私は、自分の著書、訳書が、ほとんど手もとにない。出版されたときは、著者用に届けられるのだが、親しい知人に送ったりさしあげるので、一冊も手もとに残らない。いずれ1冊ぐらい手に入るだろうと思っているうちに、たいてい忘れてしまう。

 何年かたって、古本屋の棚の隅っこに、自分の本を見つけたりすると、「へえ、こんな本を出したっけ」と感心する。

 最近、ある古書店のカタログで、自分の本や、私が中心になって出した同人誌がリストに載っているのを発見した。

 「XXXXXX」シミ ハガレアト 初版 中田 耕治署名  4000円

 「ヒェーッ、こんな値がついているのか。これじゃ誰も買わねえだろうな」

 「山川 方夫、北村 太郎、中田 耕治、常盤 新平 少イタミ 制作 1/3号」
7000円

 「冗談じゃないぜ、まったく」

 私は、別の本を買うことにした。これがまた、とんでもない高値。届いてきた本を見たら、わずか19ページ のパンフレット。3000円。
 アチャー。

 しかし、おかげさまで遙かな昔をいろいろ思い出した。むろん、ブログに書くほどのことではない。
 当時の私は、英語もろくに、読めなかったが、それでもテネシー・ウィリアムズや、アーサー・ミラーの戯曲などを読みはじめたのだった。

 「制作」は、私を中心にして出した同人雑誌。
 私がお願いして、牟礼 慶子、大河内 令子たちに、詩の原稿をもらった。北村 太郎も、私の依頼で書いてくれたはずである。
 山川 方夫は何を書いてくれたのだったか。
 それにしても――山川 方夫、北村 太郎が、もはや白玉楼中の人となっていることに胸を衝かれた。

 いろいろな思い出がむねにふきあげてくる。思い出すだけでも、腹を切りたくなるような思い出もふくめて。  
   (つづく)

2011/08/29(Mon)  1318
 
 あまり、人の注意を惹かなかったらしいが――呼吸器系の病気で、マレーシァ、クアラルンプールの病院に入院していたグェン・カオ・キが亡くなった。享年、80歳。
 かつて南ヴェトナム共和国の副大統領だった人物である。(’11年7月23日)

 グェン・カーンが大統領だった頃、南ヴェトナム空軍の司令官で、「ヤング・タークス」の一人だった。「ヤング・タークス」は、直訳すれば若いトルコ人だが、当時、南ヴェトナムの軍関係者で、頭角をあらわしていた少壮指導者たちを意味する。
 グェン・カーンが失脚したとき、後任にグェン・バン・チュー将軍が登場する。
 グェン・カオ・キは、共和国の副大統領として1967年から71年にかけて、先輩のグェン・バン・チューを補佐した。

 当時のグェン・カオ・キは、首に白いスカーフを巻いて、みずから戦闘機を操縦するような空軍司令だった。1975年、戦況が悪化して、サイゴンが陥落したとき、タン・ソン・ニュット空港から、戦闘機に妻子を乗せて、脱出したというウワサを聞いたことがある。

 その後、まったく消息を聞かなかったが、アメリカに亡命して、どこかで大きなスーパーマーケットを経営して成功したという。一度だけ、テレビで見た。風貌はおなじだが、成功した華僑の商人のような感じになっていた。

 この軍人・政治家に関心はない。しかし、亡国の政治家として、自分の運命も、周囲の人々の運命も、はげしく変わったに違いない。アメリカに亡命してから、彼はまったく沈黙したはずだが、ヴェトナム戦争に関して何らかの感想は持っていたはずだと思う。ヴェトナム戦争の推移に関しては指導者のあいだでも、戦争に対する考えかたや、未来への予測は大きく違っていたはずで、グェン・カオ・キが何を考え、どういう行動をとったか、私としては知りたいと思う。
 グェン・カオ・キは、何も語ることがなかった。このことを、私としては残念に思う。

 当時、アメリカ側で、ヴェトナム戦争の遂行に大きな役割を果たしたロバート・マクナマラが、死の直前に、痛切にこの戦争に対する反省を語ったが、グェン・カオ・キは何も証言をしなかったのだろうか。

2011/08/25(Thu)  1317
 
 先日、空に月を見た。なにをいい出すのか、といぶかしむ方もいるだろう。

 なぜかみごとに美しい月だった。

 福島原発事故のニューズで、みんなが暗然たる思いにかられていた時期、私が目にした美しい月は、日本の美しさにあらためて気づかせてくれたような気がする。

  月天心 貧しき町を通りけり   蕪村

 この句の季は秋だが、原発事故のニューズにおののいている私の町なども「貧しき町」といっていいかもしれない。

 残念ながら、夏の月を詠んだ、いい句をほとんど知らない。
 歳時記をあたってみれば、きっと見つかるはずだが、そんな暇はない。
 いくつか挙げておこう。


  月はあれど 留守の用なり 須磨の夏   芭蕉

  夏の月 御油より出て 赤坂や

  夜水とる 里人の声や 夏の月      蕪村

  馬かへて 後れたりけり 夏の月


 月を見たり、時代を離れた俳句を思い出して大震災の悲しみを忘れようとする。私は、そんな日本人のひとりなのである。

 一茶にもあるはずだが、

  なぐさみに 藁を打ちけり 夏の月    一茶

 こんなところだろうか。

 おっと。また、ヤナことを思い出しちまった。
 放射線に被爆した飼料のワラを食べていた東北の牛が、牛肉として出荷されたことが問題になって、各県で放射線量を計測しはじめている。

 三月に、何かといえば――「この程度の放射線量を摂取しても健康に影響はない」としきりにヌカしていたやつらに、こんどはワラでも食わせてやりたいね。

  月はあれど 放射線なり この夏は   香遅庵

  なぐさみに 肉も食えぬか 夏の月

 イヒヒヒ。

2011/08/24(Wed)  1316
 
 暑い。例によって、頭がろくに動かない。(ウゴかない、のではなく、イゴかない。)そこで、またまた俳句の話。

   炎天に 照らさるる蝶の 光かな   太 祇

 いいなあ、さすがは太 祇先生。いいよ、これ。
 今年の夏は、わが家の庭で蝶々を多く見かけた。
 わが家のバカネコがつかまえて見せにくる。
 「バッキャーロ。せっかく遊びにきてくれた蝶々をとって、鬼の首でもとったような顔で見せにくるんじゃねえ!」

   炎天の 空に消えたる 蝶々かな   冬 葉

   炎天や 水盤に憩ふ 蝶を見る    百 竹

 こんな風情は、もうどこにもない。どこでも見られない。

   炎天の日に いらいらと 毛虫かな   橡面坊

 今のご時世なら――「炎天の日に いらいらと 放射量」だね。
 「炎天の日に いらいらと 菅首相」でもいいか。内閣支持率、18パーセントだってさ。(’11.8.8)鳩ポっポでさえ、19パーセントだったから、こらまた、いらいらだなあ。
 ま、退陣の日程がきまりかけているのだから、ま、いっか。

 私の住んでいる界隈は、台風も寄りつかない。だから、ほかの土地では「八大龍王雨やめたまえ」と祈っているのに、雨さえも降らない。

   三五つぶ 蓮に落ちけり なつのあめ   大江丸

 夏になると、わが家の近くの公園に、天然記念物の大賀ハスが咲くのだが、「三五つぶ」の雨も降らないせいで、干割れた泥のあいだに、申しわけなさそうに立っている。

   降る雨の ただ夏らしくなりにけり    公孫樹

 先日、ニューヨークの株が、一時、385ドル安。(’11.8.9)株価暴落。東京、アジア、ヨーロッパと連鎖反応をおこした。
 東京市場だけで――6月末から8月にかけて、株式の時価総額は約27兆円、フッ飛んじまったという。

 背筋が寒くなった。涼しくていいが、ここにきて、世界的な恐慌(デプレッション)なんて、冗談じゃないぜ。……
 私のような貧乏人が気に病んだって、仕方がない話だが。

2011/08/18(Thu)  1315
 
 暑いぜ。まだ、暑い日がつづいてやがる。
 本を読む気になれない。

 ところで、芭蕉に

    涼しさを 絵に写しけり 嵯峨の竹

 という句がある。
 若竹の新月になびくさまをデッサンするさえ、涼味あり。いわんや、嵯峨野の緑陰をめぐり、るいるいたる古墳、爛班(らんはん)たる青苔のほとり、一椀の茶を喫し、そぞろ、いにしえを回顧するにおいて、清涼、いうべからざる趣きのあるべし。
 KDDIのPR雑誌「TIME & SPACE」最近号(2011.8/9)の表紙に――ライトアップされた嵯峨野の竹林が、表紙になっている。
 風景写真として、芭蕉さんに見せてあげたいすばらしいショット。きっと、名句が生まれるにちがいない。

 ただし、私のようなぼけ老人は、この暑さで頭がおかしくなるばかり。

 このブログ、ときどき俳句が出てくる。何も書くことがないので、せめて俳句でも、というさもしい了見が見えるだろう。ヤキが回ったのは暑さのせいだけではない。
 さて、一茶の句に、

   蓮の葉に のせたようなる庵かな  一茶

 という句がある。この句について、明治32年の雑書に、

   斯(かく)の如き詩趣はすでに旧(ふる)く、したがって涼味も浅し。

 とあった。おやおや。一茶もバカにされたものだ。
 もっとも、おなじ一茶の

   湖に 尻を吹かせて セミの鳴く

 といった句は感心しない。むしろ、

   朝顔に 涼しく食ふや 一人めし

 などは、一茶らしくていいのだが。

 さて、メシでも食うか。ネコの「チル」にも食事をさせなければならないので。
 チョッ、くそ暑いぜ。

2011/08/17(Wed)  1314
 
 ヴエトナムからの帰り、香港で知りあった女性がいる。
 私がしばらくサイゴンにいたと知って、興味をもったらしかった。私は、彼女の案内で、ニュー・テリトリーや、シャーティン(沙田)で遊んだり、いろいろなナイトスポットに行った。ただ、このときはじめて香港ポップスの美しさに気がついた。シャーリー・ウォンが生まれたばかりの頃のこと。まだ、テレサ・テンも登場していない。私は当時の歌姫たちのテープを買い込んだ。

 いよいよ、香港から離れるという日に、彼女が
 「どうだった?」
 と訊いた。
 私が、にやにやしたことはいうまでもない。

 帰国後、彼女をモデルにして長編を書いた。旅行はたしかに私の想像を刺激したが、私にできたのは外から眺めただけで、香港の内側に入り込み、自分もその一部になるようには書けなかった。

2011/08/14(Sun)  1313
 
 たとえば、サイゴンの夏の夕暮れ。

 カフェで、通りすがりの若い娘たちを眺めている。彼女たちのアオザイ(長衣)は、かろやかなブロケ、下着はブラジャーと純白のクーツ(ズボン)だけで、ほっそりしたからだにぴっちり張りついている。

 サイゴンの美少女たち。しなやかなからだの線が、薄いアオザイを透して、はっきり感じられる南ヴェトナムの乾季。ほかにどんなすばらしい眺めがあろうと、メコンの岸辺に、涼をもとめてゆっくり歩いてゆく若い娘たちほど、美しい眺めはなかった。

 サイゴンの娘たちは美しかった、などといおうものなら、友人たちはみんなにやにやしたが、東京にいて、ヴェトナム戦争下のサイゴンのやすらぎにみちた風景は想像もつかないものだった。

 私自身、戦乱のサイゴンの絶望的な様相といったものを予期して行っただけに、戦争に明け暮れるヴェトナムの姿などどこにも見あたらなくてとまどったくらいだった。こういうチグハグな印象はどう説明してもうまくつたわらないので、私はいつも黙っていた。

2011/08/10(Wed)  1312
 

 今年の夏も暑い。まあ、あたりまえの話。
 涼しいことを考える。

   夏河を越すうれしさよ 手に草履

 有名な句。なんともうらやましい。暑さしのぎに、わざと橋をわたらずに、川の中をジャブジャブ渡ってゆく、という趣向がうれしいけれど――私の住んでいる町には、そんな川もない。小さな川はあるのだが、両岸ともコンクリートの護岸工事で、うっかり川に入ったら這いあがれない。

   涼しさや 掾(えん)から足をぶら下げる   支考

 これぐらいなら私にもできる。しかし、わが家には掾側(えんがわ)もない。ビルの窓から、足をぶら下げたら、さぞ涼しいだろうが、すぐに防犯カメラに撮られて、警備員につかまっちまうね。ボケ老人の徘徊ということになるかも知れぬ。
   此のふたり 目に見(みゆ)るもの みな涼し  芭蕉

 私の詠む句なら――このふたり 目に見(みゆ)るもの 暑苦し。

 私が、ときどきこのブログで俳句をとりあげるのは――もはや、はるか遠く過ぎ去った風物を、心のスクリーンに映すようなものかも知れない。

   関守の宿を 水鶏(くいな)に問はふもの    芭蕉

   ほととぎす 声横(よこた)ふや 水の上    芭蕉

 涼しさ、かぎりなし。ただし、水鶏(くいな)も、ほととぎすも、見たことがない。

 そこで、とっておきの一句を。

   河童の戀する宿や 夏の月

 これなら涼しいが――私の場合は、

  河童 また失戀したか 夏の月

 どうも暑苦しい句で、ごめんなさい。

2011/08/08(Mon)  1311
 
 暑いので仕事にならない。仕方がない。部屋のゴミを片づけようか。

 色々なものが出てくる。古雑誌、古い写真、古い手紙。みんな大切に保存しておいたものだが、残念ながら、残しておく価値もないものばかり。

 ときどき、古いノートが出てくる。
 そんな中に、私が何かから書き写しておいたメモがあった。

   ある日、ジュヴェは劇作家のトリスタン・ベルナールに会いに行った。

  ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい階段の上にあった。

 私は、当時、ルイ・ジュヴェの評伝を書いていたので、ジュヴェのエピソードはかならずメモすることにしていた。トリスタン・ベルナールは有名な喜劇作家だから、俳優のルイ・ジュヴェが会いに行っても不思議ではない。問題は、ジュヴェはトリスタン・ベルナールと何を話したのか、ということになる。
 そこで、私は、当時のトリスタン・ベルナールについて調べはじめた。
 けっきょく、ジュヴェがトリスタン・ベルナールと何を話したのか、わからずじまいだった。ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい。話を終えて、トリスタン・ベルナールは、ジュヴェを送って外に出たらしい。

   帰り際に、ジュヴェは大真面目な顔で、
   「先生、注意してくださいよ。この階段、二段ばかりカトリックじゃありません
   ね」
   トリスタン・ベルナールは答えた。
   「だけど、おれだって違うからね」

   後日、この話をしてくれたジュヴェは、途中でたいへんなことに思い当たったよ
   うに、気の毒なほどうろたえて、
   「ひょっとして、劇作家先生、気をわるくしたんじゃないだろうか」
   「まさか! そんなことで気をわるくするトリスタンじゃないさ」
   「ああ、よかった! 安心したよ」

   泣きそうな顔で、胸をなでおろすジュヴェを見ると、つい、いってやりたくなる
   のだった。
   「まったく、ルイときたら……つまらないことにこだわるからなあ」

 このエピソードを私は使わなかった。ジュヴェはトリスタン・ベルナールの芝居を一度も演出しなかったからである。

 評伝を書く仕事は、地図をもたずに登山をするようなところがある。自分ではしっかりしたルートをたどっているつもりでも、思いがけない方向に迷い込むことが多くて、自分でも因果な仕事だなあ、と嘆いたりする。

 このエピソードを私は、使わなかった。ただ、メモしただけで忘れてしまったのだろうか。それも、今となっては思い出せない。
 だから、このエピソードはいつ、誰が書いたのか。これも、もう調べようもない。

 これだけのエピソードから見えてくるものはいくつもある。
 フランスふうのジョーク。トリスタン・ベルナールのすました顔つき。ジュヴェの「小心」、または「臆病」。
 私は、ジュヴェの「臆病」(プールー)について、たとえば「第三部/第一章」で書いた。この「臆病」(プールー)は、私の評伝の伏線の一つ。あえていえば、この「小心」や「臆病」は、俳優がほんとうの力や影響力を得るための唯一の手段とさえいってよいのだが、そうした俳優や女優を、じつは私たちは本気で見てはいない。

 人は何故、俳優になるのか。私たちは、なぜ、ある俳優、女優を、名優、名女優というのか。では、名優、名女優とは何か。
 最近の私は、そんなことを考えつづけている。

 部屋を片づけていて、自分のメモを見つけて、いろいろなことを考える。
 しばらく考えたあとは破り捨ててしまう。
 ボケたもの書きだなあ。

2011/08/07(Sun)  1310
 
 ある年の夏、庭の紅葉がなぜか枯れ始めた。
 丈の低い紅葉を1本だけ植えてあるのだが、すっかり元気がなくなったのである。

 紅葉が弱ってしまった原因は、すぐにわかった。日頃、気にもとめなかったのだが、この紅葉の幹に大きな空洞ができている。地上から1メートルばかり、幹の先、枝が二本に別れている部分に、洞穴の入り口があった。ここに、アリがうごめいている。
 アリが巣を作ったらしい。

 入り口はせいぜい2センチほどの大きさだが、幹の内部はおそらく大きな空洞になっているらしい。少し観察すると、小さな、黒いアリが、無数にうごめいている。
 私は、このアリどもを駆除することにした。

 アリ駆除のクスリを地上、紅葉の根元にぐるりと散布する。直径、20センチ。幅は1センチ程度。オカルト映画に出てくる魔除けの円圜(えんかん)のように。
 これで、まず、アリの退路を断つ。効果があった。外に出ていたアリどもは、紅葉の幹にもどれなくなって、悪魔のサークルのまわりをぐるぐる歩きまわっている。

 いまや、これは「ベルリンの壁」であった。アリ遮断の壁。
 私はベルリンの封鎖を命じたスターリンのように、冷酷無残な微笑をうかべて、周章狼狽するアリどもを睥睨したのであった。

 つぎに、幹の空洞の入り口からクスリを降りそそいだのである。ジュータン爆撃のように。

 巣から出た長いアリの列は、突然の障害物に遮断されて、たちまち算をみだして、大混乱になった。幹をつたって地上に下りたアリたちもおなじで、みるみるうちに、「壁」の内側と外側に、アリの大渋滞が起きた。

 私はアリに対するおそろしいホロコーストを決行したのであった。


 私がアリの巣めがけて注ぎ込んだのは、粉末のようなクスリだが、一つひとつが微細で透明な結晶体で、巣穴の周囲にみるみるうちに積みあがった。
 まるで、北極の氷山のように。
 アリたちは、不意に降りかかってきた大災厄にあわてふためき、われがちに巣から逃げようとしたり、触覚がクスリにふれると、急いで穴にもぐり込んだり。大混乱になった。

 私は冷酷無残な殺戮者として、圧倒的多数のアリたちを睥睨している。
 モスクワから雪崩を打って敗走するナポレオン軍を追尾して、これを殲滅しようとするクトゥゾフのようなまなざしをもって。

 巣から飛び出してきたアリたちの大多数は、ただ右往左往するだけだった。
 そのなかで、ほんのわずかな数のアリたちが、おそろしい事態を見て取って、穴の周囲に積みあげられた結晶の一粒をかかえあげ、穴の外に投げ落とそうとする。
 愚かなヤツばらめ。
 私は片頬に残忍な笑みを刻んだ。必死にクスリの結晶を排除しようとするアリどもの行動に軽蔑の眼を向けたのであった。
 バカなことを。そんなことをしたところで、途方もない量のクスリの始末がつくはずもない。原発のメルトダウンに、右往左往する人間のように。

 だが、その1匹が、必死にクスリを抱きかかえては、穴の外に投げ捨てるのを見て(?)、近くにいたアリが、おなじように、クスリをつかんでは外に投げ出しはじめた。
 ほかの大多数は、ただうろうろ走りまわったり、逃げ場をうしなって、そのうちにクスリにやられて動かなくなるのだった。

 私は、最初にクスリに挑みかかって、一個々々を、必死に運びだそうとしていたアリを見つづけていた。私はいつしか彼の働きに感動していた。
 彼の努力にも係わらず、やっと十数個のクスリを外に投げ落としただけで、彼はあえなく崩れた。
 おそらく神経をやられたらしく、穴の近くまで戻ったと思うと、最後の一個にすがりついて、キリキリ舞いをすると、そのまま紅葉の幹からまっさかさまに落ちて行った。彼にとっては千仞(せんじん)の谷にむかって。
 このアリの行動は、壮烈、鬼神を哭(な)かしむる戦いぶりであった。私は、このアリの死を悼んだ。

 私の戦果で、紅葉の木は元気をとり戻した。アリの巣になっていた樹幹内部のおおきな洞窟は、石膏をとかして流し込んだ。チォルノブイリの原発のように、要塞かトーチカのように固めて、二度と憎ッくきアリどもが潜入できないようにした。
 この紅葉は、秋になると、もとのようにみごとに赤い葉を見せてくれた。

 私は、ある年の夏――私に対して、最後まで必死に抵抗し、従容として死を選んだアリに哀憫(あいびん)の思いを禁じ得ないのである。

2011/08/06(Sat)  1309
 
 北海道大学の進化生物学者、長谷川 英祐先生はアリの行動について、

  働かないアリは、サボろうとしているのではなく、働く気はあるのに、反応が遅
  いため、先に仕事をとられてしまって、結果として働けないのです。

 と、いわれる。
 ひゃあ、そうなのか。私は、最近の自分の沈滞ぶりを――働く気はあるのに、反応がにぶくなったため、何も書けないのだと思うことにした。(笑)
 これは、冗談だが、長谷川 英祐先生のインタヴューは、私にいろいろな「刺激」をあたえてくれた。

 長谷川 英祐先生は、アリがいっせいに働く場合と、いちぶがかならず休んでいる場合を比較する。
 当然、全員が働くシステムの方が効率は高い。時間あたりで、多くの仕事を処理できた。しかし、「働いた者は休まなければならない」という条件と、「作業が途切れると、コロニーが絶滅する」という条件を加えると――
 働かないアリがいるコロニーのほうが、長い時間持続できるという結果がでたという。

 長谷川 英祐先生のすごいところは、これを推論からではなく、実際のかんさつから導きだしたことにある。

 長谷川 英祐先生の研究対象は多岐にわたっているという。このインタヴューで、先生は、

  研究対象を絞るというよりは、面白い研究をしたい。基礎科学は芸術と同じで、
  驚きや感動をもたらさない研究は駄目だと思っています。

 私は、科学に関してまったく無知な人間だが――「基礎科学は芸術と同じで、驚きや感動をもたらさない研究は駄目だと思っています」という長谷川先生に共感した。
           (つづく)

2011/08/03(Wed)  1308
 
 北海道大学の進化生物学者、長谷川 英祐先生はアリの行動を詳細に観察なさった。

 その結果、ハタラキアリのなかには、まったくはたらかないヤツがいるという事実を確認したという。先生のインタヴューが、(TIME & SPACE 2011.4/5)に掲載された。
 <ついでにいっておくと、この「TIME & SPACE」は、KDDIのPR誌だが、現在のPR誌のなかでは抜群にレベルの高い雑誌である。>

 よく働くアリは、観察した集団(コロニー)の20パーセント程度。
 まったく働いていないアリも、やはり20パーセント程度という。

 ここから先は――先生の観察をそのまま引用しておく。

  そこで、よく働くアリを30匹、働かないアリ30匹をとり出して、それぞれ新
  たなコロニーを作り、観察を1カ月間続けると、働かないアリだけからなるコ
  ロニーでは一部はよく働くようになり、よく働くコロニーでも、一部は働かなく
  なったのである。

 この結果は、「反応閾値(いきち)モデル」という仮説に一致するという。

  多くの人がいる部屋が散らかってくると、いちばんきれい好きな人が掃除をし、
  また散らかってくると、同じ人が掃除をします。昆虫も同じように、刺激に対す
  る反応、働きアリなら仕事に対する腰の軽さが個体によって異なっているのでは、
  という仮説です。実際にミツバチやマルハナバチで、刺激に対する反応性が異
  なることが確かめられています。

 先日の地震で、書棚に並べてあった本が崩れ落ちて、私の仕事部屋はまるで津波のあとのようになっている。本がゴチャゴチャになってしまったので、少し掃除をした。途中で、この際いろいろな本を始末しようと思った。
 思っただけで、何も手をつけていない。いまや、私は「働かないアリ」なのである。
     (つづく)

2011/08/01(Mon)  1307
 
 夏のまっさかり、毎日、アリを観察していた時期がある。
 朝から晩まで、アリたちの動きを追っていた。むろん、私の観察は科学的なものではない。ただ、アリが何かのエサ、エモノを見つけたとき、どういう行動をとるのか、それをどのようにして仲間に伝達するのか。巣に待機している連絡をうけたアリたちは、どう対応するのか。
 毎日、庭にしゃがみ込んで、アリばかり見ていた。当然、近所の人たちは、私を奇人、よくいっても変人と思ったらしい。
 隣家の若い主婦は、家人に「お宅のご主人は、代書屋さんですか」と聞いたらしい。
 私は大笑いしたが、「代書屋」どころか、まったくの無名作家といったほうがよかった。夏の日ざかりに、庭にしゃがみ込んで、アリを見ているのだから、ノイローゼぐらいにみられても仕方がない。

 ほんとうは仕事をしたくても、どこからもクチがかからなかっただけ。売れないもの書きだった。時間だけはたっぷりあったが、前途に希望はなかった。
 原稿の注文がないということは、読みたい本も買えない、ということなので、ほかにすることもないからアリを観察していたにすぎない。

 毎日、観察しているうちに、アリの集団のなかにも、ズルいヤツがいることがわかってきた。
 たとえば、何かの情報に接して、みんなが色めき立って巣の中からいっせいに飛び出してくる。なかには、不退転の決意を見せて、まっしぐらに自分の目的に向かって進んで行くヤツもいる。
 ところが、巣から出てきても、ほんの数秒あたりのようすをうかがっただけで、急いでもとの巣に戻って行くヤツもいる。自分が出てきた「出口」のすぐ近くの「入り口」にもぐり込むヤツもいる。

 とにかく、アリのなかには、いろんな行動をとるヤツがいる。そのなかで、アリとして、当然のことさえしない、ようするに働かないヤツがいるのだった。
      (つづく)

2011/07/30(Sat)  1306
 
 マリリン・モンローが、「七年目の浮気」で着ていたドレスが、ビヴァリー・ヒルズのオークションで、460万ドルで落札された。
 (AP・CNN/電子版・ニューズ<’11.6.18,>

 ニューヨークの夏。マリリンが、隣人のトム・ユーエルといっしょに映画館の前まで歩いてくる。
 地下鉄のダクトから風が吹き上げてくる。ダクトの上に立ったマリリンのスカートが風をはらんで舞い上がる。マリリンの生足が見える。白いパンティーが見えそうになるので、マリリンがスカートの前を押さえる。

 有名なシーンである。

 ビリー・ワイルダーがこのシーンを撮影したときは夕方で、ニューヨークじゅうの見物人が集まってきた。そのなかに、有名な新聞記者、ウォルター・ウィンチェルがいた。私はマリリン・モンローの評伝めいたものを書いたことがあるのだが、この部分は、ウィンチェルの記事を参考にした。
 マリリンの撮影現場には、新婚の夫、ジョー・ディマジオがいた。彼は、マリリンが、地下鉄のダクトに立って、下から吹き上げてくる風をうけるという「演出」が気に入らなかったらしい。
 ウィンチェルは、目ざとくディマジオの姿を見つけて、この撮影の感想をもとめた。ディマジオは、公衆の見守るなかで、妻のマリリンのスカートがふわりと舞い上がり、マリリンの下半身があらわになる、というシーンに屈辱的な思いをもったらしい。
 ウィンチェルを睨みつけると、語気するどく、「ノー・コメント」ということばを残して現場を去った。ディマジオは嫉妬深い男だったらしい。
 このときから、ディマジオ/マリリンの不仲がはじまったという。

 今の感覚からいえば、ディマジオがヤキモキするほどエロティックなシーンでもない。このときのマリリンの巨大な看板が「ロキシー」の正面をかざって、当時、大評判になったが、私などは、このシーンのおかげで、当時のマリリンの下半身、とくに白いパンティーにおおわれたアブドーメンが拝見できるし、マリリンのおかげで、このシーンは映画史に残るほどのものになったではないか、と思う。

 このシーンを撮影したとき、暗くて、暑苦しいダクトの下に、巨大な扇風機をもち込んだスタッフは3人。わずか数秒のシーンのために、酷暑のニューヨーク、それも夕方から夜9時近くまで、何度も何度もテストをくりかえしていたスタッフたち。
 もし私が、ウィンチェルのように撮影現場にいあわせたら、まっさきにこの連中のコメントをとるだろうな。

 この撮影シーンのことから、やがて私の考えは別の方向に向かった。
 その一つは――嫉妬である。
 私自身、他人に嫉妬したことがないとはいえない。女の嫉妬は、いわば本能的なものだが、男の嫉妬は本質的にいやらしい。自分が恋した女がみるみるうちに離れて行ったようなとき、私はその女を奪い去った「誰か」に嫉妬しなかったか。しかし、苦しみつづけても仕方がない。女なんてものは、バーゲンセールの見切り品のように飛び去ってゆく。
 これは、ヘミングウェイのことば。

 嫉妬は人の心を腐らせる。そう思うことで、私はやっと自分をささえてきたのだった。

 ディマジオの哀れは、私にもよくわかったけれど。

 いつまでも、そんな女やその女の相手を嫉妬するな。どうせバーゲンセールの見切り品だから。そう考えればいい。

 「七年目の浮気」でマリリンが着たドレスが貧乏作家の私に買えるはずもないが、私は、もの書きとしてマリリンからいろいろなテーマをもらったと思っている。

2011/07/27(Wed)  1305
 
 タレントの はいだ しょうこ が、昼のテレビに出ていた。

 じつは、このタレントさんについては何も知らない。
 小学6年生のとき、童謡の全国コンクールで、グランプリをとったことがあるそうな。むろん、私はこのときの彼女を見ていない。
 ひょっとして――宝塚在籍の頃の、はいだ しょうこを見たことがあるはずなのだが、これももう、記憶も薄れている。かりに、おぼえていたにしても、ただ綺麗で、可愛い女の子が舞台で飛んだりはねたりしていたという印象だけで終わったのだろう。

 「うたのおねえさん」の、はいだ しょうこは知っていた。

 孫たちといっしょにずっと「うたのおねえさん」を見ていた。(例えば――私は、「花とゆめ」、「少年ジャンプ」、ようするに「ガロ」から「ぱふ」まで、ある時期のマンガにくわしかったのも、おなじ理由による。)

 はいだ しょうこが「うたのおねえさん」だった当時は、いちばん下の孫がまだ赤んぼうだったので、残念ながら、あまり見なかった。(私の人生には、こういう偶然で知らないまま過ごしてしまうことが多かった。)

 私が、はいだ しょうこを知るようになったのはずっと最近で、ミュージカル「若草物語」や「回転木馬」を見た頃からではなかったか。
 ただし、はいだ しょうこについては、ごく普通の美少女というだけの、眼のくりくりしたタレントといった程度の認識しかもたなかった。
 だから、AKB 48 の女の子のだれかれを見ている程度の関心にすぎない。

 その、はいだ しょうこが、昼のテレビに出ていた。
 フジテレビ。小堺 一機の司会で、ゲストのタレントがサイコロをころがして、そのメによって「情けない話」とか、「いまだからごめんなさい」などというテーマで話をする。この番組はたいてい毎日見ている。
 この日、いっしょに出ていたタレントは、京本 正樹、神田 さやか、(6月20日、1:20p.m.)

 はいだ しょうこは、こんな話をしていた。

 コンサートで、場内の子どもたちがいろいろと質問する。彼女はそれに答える。
 「サンタさんはどこにいるの?」と訊かれて、
 「ええ、心配しなくて大丈夫よ。サンタさんは天国にいるのよ」

 名古屋で、ファンに訊かれた。
 「お好きな食べものは?」
 「トリの指先」
 手羽先というつもりだったらしい。

 スキヤキのお店で、すき焼きを注文した。
 焼き方は? と訊かれて、
 「ウェルカム」と答えた。
 店の人が、うやうやしく、
 「こちらこそ、ウェルカムでございます」
 とこたえた。うっかり「ウェルカム」といったらしい。

 ジョークが大好きな私は、このときから、おっとりしたこの女優さんが好きになった。こういうジョークは、恵まれた家庭環境で、おっとり育った女優さんにしばしば見られる「天然ボケ」なのだ。

2011/07/22(Fri)  1304
 
 東日本大震災で、私は、あらためて、日本のジャーナリズム報道の姿勢に、はげしい不信を抱くことになった。

 たとえば――

 6月27日、菅 直人(首相)は、内閣の閣僚交代の人事を発表した。
 かんたんにいえば――震災後の復興を念頭にした内閣改造人事といってよい。
 これをトップに出した大新聞の記事を、そのまま引用しておく。

  菅首相は、27日、復興相と原発相の親切に伴う閣僚交代人事を決めた。復興相
  には松本防災相を正式に任命するとともに、原発相には細野豪志首相補佐官を起
  用した。これに伴い、蓮ボウ行政刷新相が退任し、松本氏が兼務していた環境相
  は江田法相が兼ねる。自民党の浜田和幸参院議員(58)(鳥取選挙区)総務事
  務官に充てることも決めた。だが、浜田氏の起用などを巡って自民党などが強く
  反発しており、延長国会の審議に大きな影響が出ることは必至だ。

 以上である。
 何の変哲もない記事に見える。しかし、これだけの記事に、一つの疎漏、というより、恐らく意図的な隠蔽が見える。

 閣僚交代の人事に関しては、当然ながら間違いはない。
 問題は――「これに伴い、蓮ボウ行政刷新相が退任し」という一節にある。この記事を読むかぎりでは、「蓮ボウ行政刷新相」が退任しただけとしか読めない。
 だが、この「閣僚交代人事」で、「蓮ボウ」は、そのまま退任したのではない。この人物は、ただちに「首相補佐官」に任命されたのである。
 この記事は、その事実を無視したのか。そうではあるまい。まったくふれないことで、ことの重要さを私たちの眼からそらせようとしたのか。

 おなじ、6月27日、菅 直人のとった行動を、おなじ一面の記事から引用する。

  「副総理として入閣をお願いしたい」
  27日午後、首相官邸。菅首相は執務室で向き合った国民新党の亀井代表にこう
  言って頭を下げたが、亀井代は固辞した。亀井代が求めてきた大幅な内閣改造が
  行われないことがわかったためだ。「大幅改造だったら、副総理も受けたが、そ
  うじゃなかった」と周囲に不満を漏らした亀井代だが、首相が続いて就任を要請
  した「特別首相補佐官」というポストは受諾した。法律的には他の首相補佐官と
  同じだが、「特別」と付けた首相の言葉に、延命への執念を感じ取ったからだ。
   (以下、略)

 この交代人事が、さまざまな思惑に彩られていることを問題にしているのではない。現在の政局で、いくら大幅な内閣改造をしようが、無能内閣の命脈はすでに尽きているのだから。
 私が、不快に思うのは――「蓮ボウ」が「首相補佐官」というポストに横すべりしたことを巧妙に隠している大新聞の姿勢である。些細な人事異動にすぎないのか。そもそも、このニュースを黙殺した意図は何なのか。
 だれが見たって、「蓮」が「亀」と仲よく、無任所大臣になったわけで、ようするに、菅という狙公(そこう/猿まわし)のヒモの先で踊ってみせようというだけのこと。
 いまや「蓮」は妖彗(ようすい)のたぐいだろう、と私は見る。

 大震災から4カ月。
 現在のようなかたちで着々と進められている菅内閣の「復興政策」に、私は妖気を感じている。

2011/07/21(Thu)  1303
 
 東日本大震災が起きた直後、私は、民主党の小沢某、鳩山某が、政権の中枢にいなかったことを、せめてもの「幸運」と見た。
 その鳩山「宇宙人」に、名誉ある「勲章」が授与されたという。じつに、オメデタイ!
 近来の快事(怪事)で、またまた、思わず笑ったね。

 これも、簡単に記録しておく。

 来日中のロシアのナルイシキン大統領府長官は、(11年7月)5日、都内のホテルで記者団に対し、北方領土問題について研究するための歴史学者による日ロ合同委員会の第一回会合が、今年12月に開かれるとの見通しを明らかにした。

 この委員会設置は、同長官が、昨年12月の訪日時に提案していた。

 平和条約交渉の難航について、長官は第二次世界対戦の原因と結果に対する(日ロの)見解の相違によるものだ」と述べ、委員会での議論が交渉の前進につながることに期待感をしめした。
 これより先、同長官は、鳩山 由紀夫前首相と面会し、両国交流に寄与したとして、ロシア大統領令にもとずく「友好勲章」を授与した。

 ロシア人は、勲章が大好きで、公的な会合に出席する場合、胸もとにベタベタと勲章をぶら下げる。
 鳩山某も、今後は、ぜひ、国会にもこの勲章をつけて出席してもらいたい。ダテや酔狂で、いただける勲章じゃないよ。メドベージェフの「友好勲章」なんぞ、鳩山 春夫、鳩山 一郎、鳩山 威一郎だって、もらえなかった。
 よっぽどの「宇宙人」でもなけりゃ、いただけるシロモノじゃない。

 まことに慶賀のいたり。(笑)

2011/07/18(Mon)  1302
 
 東日本大震災いらい、私は日本のジャーナリズムをほとんど信用していない。

 松本防災相を復興相に横すべりさせたとき、蓮ボウ某が行政改革相をやめた。これをほうじた新聞は少なかった、ただし、この蓮ボウ某は、即日、首相の報道官に任命されている。それまで首相の報道官だった某が、原発担当相に昇格したのだから、妖細依然として宰相の帷幄(いあく)にはべるということになる。
 しかし、このニュースを大新聞はとりあげなかった。
 つい最近もこんなニュースが出た。

   菅直人首相は(11年’7月)日の衆院予算委員会で、自身の政治管理団体が、
   日本人拉致事件容疑者の長男(26)が所属する政治団体「市民の党」から
   派生した政治団体「政権交代をめざす市民の会」に6250万円の政治献金を
   していた問題について「事実だ」とみとめた。
            「産経/11.7.6(金)」

 この記事を出したのは、「産経」一紙だけで、ほかの大新聞はまったくふれていない。これは、どういうことなのか。他紙の報道だから事実かどうか検証している、というのだろうか。あるいは――お得意の隠蔽工作なのか。
 しかも、おなじ政治団体に、鳩山前首相も、7250万円を寄付している、という。このニュースも、大新聞各紙は報道していない。アハハハ。こいつはいいや。
 毎月、1500万円の「お小遣い」を母親からもらえる「宇宙人」にとっては、7250万円程度の寄付はたいした負担にはならないだろう。
 しかし、しばらく前は、お遍路まわりの白装束、金剛杖で、首相(いや、間違い)殊勝なお遍路さんになりすました新発知(しんぼち)にしては、豪気(ごうぎ)なものだねえ。

 いっそ、もう一度、白装束、金剛杖で、被災地参りという趣向はどうだろうか。

 ついでに、「大新聞」の幹部もひきつれて大ツアーというのも一興だろう。

2011/07/16(Sat)  1301
 
 松本某が復興相を辞任したとたんに、こんどは九州電力、玄界原子力発電所の、2号機、3号機の再稼働をめぐって、またまた、たてつづけにファルスを見せつけられている。

 まず、発端は――海江田経済産業相が、玄界原子力発電所の再稼働の承認をもとめて、玄界町(佐賀県)の町長の説得にあたった。(7月5日)
 それで玄界町の町長はこれを了承して、いったんは玄界原子力発電所は再稼働が可能になったと思われた。
 ところが、こんどは菅首相が、すべての原子力発電所を対象に、ストレス・テスト(耐性検査)を実施することを発表した。そうなると、玄界原子力発電所の再稼働は見送られることになる。玄界町の町長は、アタマにきて、再稼働の承認は見あわせる、といい出す始末。海江田経済産業相も、面子をつぶされたわけで、「いずれ時期がきたら辞任する」と発言した。

 この背後に見えてくるのは――松本某が復興相を辞任した直後に、菅首相が、衆院予算委員会で、「経済産業相が判断して、いいときめたのでは国民が納得しない」と発言した。つまり、急遽、松本某の後任に据えた細野原発相にも、美味しい話をわけてよこせ、ということだろう。
 閣内不統一などというのは、外側のことではないか。

 7日、東京の株式市況で、電力株は急落。
 関西電力は、前日比、133円安。1442円。
 九州電力は、前日比、110円安。403円。

 こうなると、夏場の電力不足の影響を懸念して、自動車関連株ものきなみ下落。

 菅首相は、ストレス・テストをめぐる政府内部の混乱を、自分の指示の遅れが原因だったという認識をしめして陳謝した。
 キツネ、尾を濡らす。
 最近の菅 直人を見ていると、こんなコトワザをおもいだす。

 私が、わざわざこんなことを書いておくのは、いつか誰かがこのブログを読んで、ゲラゲラ笑うだろうと思うからである。

 ファルスは、これだけにとどまらない。

 九州電力は、玄界原子力発電所の再稼働をめぐって、社員たちに「ヤラセメール」を寄せるように指示した。つまり、子会社をふくめて、社員たちに――原子力発電所の再稼働に「賛成」のメールを説明会に送るように仕向けた。
 こうなると、これから先、私たちはどんなファルスが見せられるか、この「人災」を見るのがけっこう楽しみになってくる。

2011/07/14(Thu)  1300
 
 私の好きな悪態は――てめえ、何さまのつもりでいやがる、ということば。ただし、私は他人さまに向かって、どなりつけたことはない。しかし、こんどばかりは、思わず、てめえ、何さまのつもりだ、とどなりつけた。

 松本防災相という人物が、復興相に横すべりした。
 この松本某は、承認してさっそく、被災地に出向いて、知事に面会した。
 このときの模様がテレビで報道されたが……その態度のわるさは特筆すべきものがあつた。
 ふてぶてしい面構えで、岩手県知事を見据えて、ドスのきいた声で、「知恵を出したところは助けるが、出さねえところは助けてやらん」、とヌカした。
 宮城県知事に対しては――県ではコンセンサスをだせ、そうでなければ何もやらんぞ、とホザいた。
 被災地に対する、あまりにも傲岸なもののいいように、世間の批判をあびると、「私は、九州の人間で(血液型が)B型ですから、口のききかたを知りません」とさ。よくもヌケヌケ、ぬかしやがる。
 九州出身で(血液型が)B型の人間は、みんな、ああいう口の聞き方をするのか。
 冗談ではない。そんな理由は、まともな弁解にはならない。
 まるで非論理的ないいかたに、この人物の低劣な資質、性格、傍若無人に過ごしてきた過去のいかがわしさが集約されている。

 菅首相に呼ばれて、辞表を提出したが、このときのいいぐさに、注目すべき部分が二つあった。
 一つは――宮城県知事とのやりとりは――「ナゾかけ」だったという。つめかけた報道陣から、何の「ナゾかけ」か、と質問されて、黙秘した。松本復興相なる人物の言動を読み解く「鍵」がここにある。
 この「ナゾかけ」の意味は、わかる人にはピンときたはずである。

 さて、もうひとつは――この人物は、ボソリと謝罪の言葉をのべたあとで――「私は、被災された人たちからは離れませんから」とくり返した。
 じつに、おそろしいことばである。

 松本某は、38歳で福岡県から衆議院議員に当選した。この輝かしい経歴だけを見れば、だれしも非常に優秀なエリートを想像するだろう。だから、日頃、傲岸なものいいを身につけたと思うのは間違いだろう。土建屋あがりのこの人物の背後に何があるのか。

 私は他人さまに向かって、てめえ、何さまのつもりだ、などと、悪罵を浴びせたことはない。しかし、こんどばかりは、テレビに向かって、てめえ、何さまのつもりだ、思わず、どなりつけた。

2011/07/08(Fri)  1299
 
 「すばらしい墜落」のなかで、もっとも好きな短編を選ぶというのはむずかしい。
 私は、「選択」を、その一つに選ぶだろう。

 大学院で修士論文の準備をしている学生、「デイヴ」は、求人広告を見て、大学進学をめざしている少女の家庭教師になる。
 彼を迎えたミン家の当主、「アイリーン」は、魅力のある若い未亡人で、小さな出版社を経営している。教える相手の少女、「サミ」は17歳で、思ったよりずっと利発な子だった。

 「デイヴ」は、大学院の授業があるので、夜しか教えにこられない。やがて、「デイヴ」は「アイリーン」の手づくりの家庭料理を、母娘といっしょにたべるようになる。

 こういう大学生を描いた青春小説は、いくらでもある。しかし、ラヨシュ・ジラヒの「瀕死の春」、セバスチャン・ジャプリゾの「出発」、ジョナサン・コゾルの「罌粟の匂い」のような傑作はすくない。

 ここまで書いてきたとき、作家の楊 逸(ヤン・イー)の書評が出た。(「朝日」5.22。)

   ニューヨークにはフラッシングという町があるという。そこに、まずしい留学
   生をはじめ裕福なインテリや会社員、小金持ちの老人やその介護をするおばさ
   ん、寺のお坊さんから若い売春婦まで、さまざまな中国系移民が生活している。
   忍耐つよくがむしゃらに生きる彼らの姿を覗かせてくれるのがこの短編集だ。

 こういう書き出しで、作家らしい見方を展開している。
 私は、この書評を読んでうれしかった。
 こういう書評がでたのだから、私ごときが、つまらない読後感を書きつづける必要もない。もともと、これほどいい作品集なのに、どこにも書評が出ないことにいささか伎癢(ぎよう)の念をおぼえて、とりあげたのだった。
 私は、台湾の「時報文化出版」の原作を送ってもらって、それぞれの原文と日本訳を照合しながら読んだのだった。
 立石 光子の訳は、ほんとうにみごとな訳で、その苦心のほどがうかがえるものだった。
 そして、 こういう情理をつくした書評が出たことを、訳者のためによろこんでいる。

 私のブログは、ここで中断。いずれまた、そう遠くない時期にハ・ジンについて語ることもあるだろう。

2011/07/06(Wed)  1298
 
 ニューヨークの冬。
 この界隈でも評判の美人と結婚している主人公、ダン・フォン(馮丹)は、妻のジーナ(吉娜)がやっている宝石店に寄ってみようと思って、ホテルのロビーにあるバーに行く。このバーでフロントの責任者、ユイ・フーミン(余富明)と親しそうに話をしていた妻を見てしまう。相手は、主人公が結婚する前に妻に言い寄っていたらしい。
 主人公は、妻の浮気性に、ぶつくさいいながら、ふたりにみつからないようにその場を離れる。

 ジーナはすらりと背が高く、鼻筋が通って、ふたえまぶたに繊細な口もと、肌も絹のようになめらかというのに、生まれてきた子どもは、器量がわるい。ダン・フォン自身も、美男で、ふたりがそろって人前に出ると、注目のまとになる。ところが、昨年、娘のジャスミンが生まれてから、ずっと妻の不貞をうたがっていた。
 美男美女の間に、こんな不器量な子どもがうまれるはずがない。ひょっとすると、富明がほんとうの親かも知れない。もし、そうなら、結婚後のジーナは富明と切れていないのではないか。

 短編、「美人」は、妻の浮気を疑う夫の話だが、ありきたりの「コキュ」の嘆きを語ったものではない。夫は私立探偵を雇って、妻の素行を調べさせる。妻は、夫に疑われていると知って傷つく。
 この私立探偵は、まるでひと昔前の俗流ハードボイルド小説に出てくるような私立探偵で、捜査の途中で、フーミンにノサれてしまう。しかし、妻の履歴に関しては何もわからない。何もわからないことが、かえって不思議だという。

 そればかりではなく、主人公も、その界隈のヤクザに襲われてしまう。

 この短編のおもしろさは、まさに短編としての起伏があざやかで、アメリカにやってきて、おなじ中国人でも市民権を獲得した階層と、過去を伏せて入国したため、国外追放の処分を受けることを恐れて生活している階層の「格差」がうきぼりになってくる。
 実際には、もっと複雑な要因があって、ジーナがどうして「美人」になったかという理由とかかわってくる。

 「すばらしい墜落」の作家、ハ・ジンは、現代アメリカの華僑の直面している状況を、しっかり見つめながら、アメリカに住む中国人の生活を描いている。しかし、たんに華僑の人生喜劇(ヒューマン・コメデイ)を描いているわけではない。華僑といった国籍、人種、あるいは性差別を越えて、現在の人間の本質的な悲しみを、いつもどこかコミックにとらえているような気がする。
 つまり、私には、ハ・ジンは、チェホフから、ジョイス・キャロル・オーツに到る短編小説の伝統の最良の部分を代表しているように見える。
 (つづく)

2011/07/05(Tue)  1297
 
 「すばらしい墜落」の最初の短編、「インターネットの呪縛」は、アメリカ在住の女性と、その妹で中国の「現在」を生きている女性を描いて、アメリカと中国をたくみに対比させているように見える。

 つぎの短編、「作曲家とインコ」は、オペラの作曲を依頼された作曲家が、映画女優の「恋人」からインコをあずかった。彼女と結婚しようと思っているのだが、結婚が女優生命に影響すると考えているらしく、積極的に話にのってこない。
 そんな芸術家どうしの、少しマンネリ化した関係のなかで、もとの飼い主の女優にほとんどなつかないインコ、「ポリ」は、作曲家の肩に乗ったり、掌からエサをついばむほどなついてくる。

 作曲家は実在した放浪の楽士をモデルにしたオペラの作曲に熱中する。

 ある日、作曲家は原作者に会いに行った帰り、ブルックリンのフェリーに乗る。「ポリ」は、作曲家の肩から離れて、波にむかって飛んでゆく。そして、波の上に落ちてしまう。作曲家は、波間に浮き沈みしているインコを救おうとして、フェリーから飛び込む。

 ペットを飼っていて、そのペットが可愛くてたまらないという心情は、誰にも共通しているだろう。ハ・ジンの短編では、どのシーンにも、主人公が作曲している音楽が少しづつ聞こえてくるような作品だった。

 「インターネットの呪縛」よりも、いくらか長い短編だが、短編のうまさからいって、この「作曲家とインコ」のほうが上だと思う。
 そして、つぎの短編、「美人」が、もっとすばらしい。
     (つづく)

2011/07/03(Sun)  1296
 
 ハ・ジンの短編集、「すばらしい墜落」の最初の短編、「インターネットの呪縛」は、四川省に住んでいる妹と、インターネットでやりとりしているニューヨーク在住の姉の話である。
 妹は、4年前にアパートを買ったので、姉は頭金の一部に2000ドルを送金した。最近になって、妹は、「自分がどんなにいい暮らしをしているか、別れた夫に見せつけてやりたい」一心で、車を買いたいといいだした。ニューヨーク在住の姉は、車ももっていない。毎週、休みもなしに、スシ・バーでアルバイトしている。
 四川省の故郷は車をはしらせる必要もないほどの小さな町だが、車の維持費、ガソリン代、保険、登記、道路の料金と、かなり負担が大きい。
 そして、路上試験にパスした妹は、3000元の受験料と、別に試験管に500元の袖の下を渡したとメールでつたえてくる。

  昨日、姪のミンミンがフォルクスワーゲンの新車に乗って町にやってきました。
  ぴかぴかの新車を見たとたん、一万本の矢にむねを射抜かれたような気がしたわ。
  みんなにおくれをとっているなんて、いっそ死んでしまったほうがまし!

 妹は、このメールで姉に借金を申し込む。
 彼女は中国の国産車を買うことにひどい劣等感をもっていて――日本やドイツの新車は高すぎるので、せめて韓国のヒュンダイか、アメリカのフォードを買いたいと思いつめる。そのために、姉に送金を依頼する。
 姉は断る。すると、妹はとんでもない決心をメールでつたえてくる。

 私は、ときどきにやにやしながら読んでいた。

 こんな短編ひとつに――毎年、10%の経済成長率という好景気にわき返って、国をあげてのモータリゼーションの波にのみ込まれている中国の姿が浮かびあがってくる。そして、アメリカの華僑たちが中国の同胞に投げかけている、いささか皮肉な視線が感じられる。

 「インターネットの呪縛」の原題は、「互聨網之災」である。インターネットという通信手段が、たとえば、ウィキリークスの流している機密文書の「災い」や、どこかの国のハッカーがソニーの膨大な個人情報を盗み出したという「災い」をもたらしていることと、ハ・ジンの短編にあらわれる中国人の姉妹の「災い」は、まったく関係がない。しかし、私は、この姉妹は、まさに私たちとおなじ世界に生きていること、つまり私たちもまた、「互聨網之災」に生きているという思いだった。この短編の中国女性には、まさに今の中国の真面目(しんめんぼく)がある。

 作家、ハ・ジンの世界は、アメリカ在住の華僑社会を取り上げているのだが、私たちに無縁の世界ではない。

 それらが、わたくしたちの心のなかに喚びさます共感のなかには、どこかアジア的な趣があり、私たちはそれを通して、一つの困難な時代の相を見る。

 外国の現代作家の作品を読んで、われとわが身の不幸を考えるなどということは、あまり体験しないのだが、私にとってハ・ジンは、私たちもまたおなじ「災い」を経験しつつあることを教えてくれた作家なのだった。
      (つづく)

2011/07/02(Sat)  1295
 
 この3月、私は、アメリカの作家、ハ・ジンの短編集、「すばらしい墜落」(立石 光子訳/白水社/2011.4.5刊)を読んだ。
 全部で、12編の短編を毎日1編づつ読みつづけた。
 たまたま訳者、立石 光子から、中国語訳、「落地」(時報出版/台湾)を贈られたので、これを参照しながら読みつづけた。毎日、一編を読むことにしていた。

 途中で、想像もしない事態が起きた。東日本大震災である。未曾有の天変地異であった。巨大な地震と、それにともなう大津波、さらには沿岸の原子力発電所が破壊され、数時間後には、その一基が溶融(メルトダウン)した。その当時はわからなかったが、政府、東京電力、原子力保安院、さらにはマスコミが、被害を隠蔽したり、極度に低い評価しか発表しないという人災の最たる大惨事を惹起したのだった。
 私は未曾有の大惨事の日々のなかで、テレビにかじりついていたので、ほとんど本を読まなかったが、ハ・ジンの短編だけは、毎日、一編づつ読みつづけていた。

 大災害の混乱のさなかに、書評らしい書評が出るはずもない。私はこのすぐれた作品集、そしてそれを訳した立石 光子のすぐれた翻訳が、だれのめにもとまらないまま忘れられてしまうことに義憤のようなものを感じた。
 これほどすぐれた仕事が、津波で海岸に打ち上げられた無数のデブリのようにむなしく朽ちて行くは、あってはならない。

 私としては、せめてこの短編小説を読んで感動したことを書きとめておこうと思う。
 ただし、書評ではないので、ときどき思い出したときに書きつづけよう。

2011/06/30(Thu)  1294
 
 友人の安東 つとむのおかげで――この1年、短いエッセイを書きつづけている。いまではもう誰ひとり思い出すこともないサイレント映画のスターたちのことを。

 グレタ・ガルボは別格だが、リリアン・ギッシュ、アラ・ナジモヴァ、ビーヴ・ダニエルズ、オリーヴ・トーマス、コリーン・ムア、メェ・マレイ、リアトリス・ジョイとかについて。これから書くのは、たぶん、メァリ・ブライアンか、アンナ・Q・ニルツソンあたり。
 どうして、こんなものを書いておくのか。

 すぐれた短編小説を読む。そうした作品は、私たちの関心を惹きつけるが、そこに描かれている人たち、たいていの場合は、一度も会ったことのない種類の人たちに対して、なぜかひどく親しい感情をおぼえるような気がする。

 よほどすぐれた短編でもないかぎり、その作品が作者の死後もなお生きつづけることはない。その短編の思い出は、その時代の人々の記憶とともに消え去ってしまう。「戦後」の名作といわれた作品でさえ、たかだか半世紀も経ってしまうと、ほとんどがどこかに消えてしまう。

 すぐれた短編小説を読んで感動した、私たちの思いは、かつて私たちのあこがれ、ひそかな欲望の対象だったスクリーンの女優たちに、私たちをむすびつけていた思いと同様に、いつしか過ぎ去ってしまう。

 私が、いつも感嘆を惜しまなかった、みごとな短編小説の数々。
 アンソロジーを作ってみようか。
 たとえば、「白い象に似た丘」、「ミリアム」、「ガラスの鐘の下で」……
 私の好きなアナイス・ニン、アーシュラ・ヒージ、ジャマイカ・キンケードたちの短編から選ぶとしても、サテ、どの一編を選んでいいか。

 そして、また、もはや古典というべき――「たそがれの恋」、「チリの地震」、オイゲン・ヴインクラーの「島」など。
 ロシア、フランスとなれば、たちまちあげきれないほどの数の短編小説がうかんでくる。
 そのリストのなかに、私は、ハ・ジンの一編をくわえておきたい。

 サイレント映画の女優たちはけっして不滅の存在ではなかった。おなじように、私が読みつづけてきた短編小説たちも、不滅のものではない。だが、もう誰も思い出すことのないサイレント映画のスターたちのことを考えることも、折りにふれてかつてのすぐれた短編小説を心のなかに喚び起すのも、じつは私たちの精神が死んでいないことの証(あかし)なのである。

 今はもう誰ひとり思い起こす人もいない女たちのことを書いておきたい。

2011/06/27(Mon)  1293
 

 昨年、私はカナダの女流作家の処女作を訳した。
 オノト・ワタンナという女流作家だが、おそらく誰ひとり、彼女の作品を読んだ人はいないだろう。
 なにしろ、19世紀末に書かれた古色蒼然たるロマンス小説なのだから。
 題名は「お梅さん」という。

 最近の私は、あまり本を読まなくなっている。眼がつかれるせいもあるのだが、短い短編の一つでも読むだけで満足してしまう。大震災このかた、いろいろと考えることができるし、短編を読んでも、若い頃にはわからなかったことにあらためて気づいたりする。

 もともと経験というものは、それを味わった瞬間から、私たちを見捨ててしまう。その経験を自分の内部に刻みつけておくのがどんなにむずかしいことか。
 小説を書くということは、そんな経験をあらためて自分の内部に刻みつけようとすることでもある。

 ただし、どんなにすぐれた小説にしろ、それが書かれてほんの二、三年、よくって十年、二十年もすれば、もう誰も読まなくなってしまう。一世紀もすれば、文学史に一行でも名前が残ったところで、そんな短編を書いた作者のことなど誰もおぼえてもいない。
 まして、アメリカの少女が19世紀末に書いた「ロマンス小説」など、あらためて訳す価値もない。むろん、この作品には、残念ながら小説としてのレーゾン・デートルなど、どこにも見つからない。
 ところが、私にとっては、この小説の翻訳は、長年の心願をはたす仕事だった。
 え、老骨に鞭打って? よせやい。あんた、冗談きついぜ。(笑)

 とにかく、オノト・ワタンナの「お梅さん」が、いよいよ書店に並ぶことになる。

2011/06/24(Fri)  1292
 
 誰でも経験することだが、いろいろな本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うようなことばを発見することがある。
 そういう言葉は――たとえ、その言葉を読んだ本を忘れてしまっても――その言葉をはっきり思い出せなくなっても、そんなことはどうでもいい。

 私は、そのことばを知らなかった以前の私に返ることがない。

 そういうことばの力は――そのことばを、以前に知らなかった私、つまり中田 耕治のある部分を啓示してくれる。そういうことばが、私は好きなのだ。

 私の好きなことばは、やはり私の好きな作家のコトバになる。いつも自分の身にひきつけて考えるので、そうなると、たとえばヘミングウェイをあげることになる。

  No one ever learned literature from a textbook.
  I have never taken a course in writing. I learned to write naturally and on my own.
  I did not succeed by accident;I succeed by patient hard work.
  Verbal dexerity does not make a good book.

  教科書から文学をまなぶやつなんて、ひとりもいない。
  私は、創作コースといった授業を受けたことはない。ひとりでに書くことを身につ
  けて、独力で書いてきた。
  偶然に成功したのではない。忍耐づよく、苦しい仕事を続けてきて成功したのだ。
  ことばの器用さだけでは、よい本は書けない。

 私はいろいろな機会に、若い人たちといっしょに勉強してきたが、自分のクラスで、ヘミングウェイの”若い人たちへの助言”のことばを忘れたことはない。

 ヘミングウェイは、いつも自分の仕事にきびしい芸術家だった。彼のことばでいうと、いつも real thing (ほんとうのもの)をつかもうとしたからだった。

 きみたちのなかにも、詩を書いたり、小説を書こうとしている人がいるかも知れない。その人は、いつか、このヘミングウェイのことばを真剣に考えるときがくるだろう。

 もう一つ、私の好きなことばをあげておく。

   Writing must be a labor of love or it is not writing.

 やさしいことばだから訳す必要はないが、その意味は深い。何でもないことばだが、あれほど人生を愛し、美しい女たちを愛し、仕事を愛した作家の確信にみちたことばなのだ。
 そのヘミングウェイでさえ、ときには失敗作を書いたし、何度も愛に傷ついたことを思いあわせれば、この言葉には、やはり、他人にわからない、つらい真実が秘められていることに気がつく。

 私が好きなのは、こういう作家なのだ。今では、もう、誰もヘミングウェイのことなど思い出しもしないけれども。

2011/06/24(Fri)  1292
 
 誰でも経験することだが、いろいろな本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うようなことばを発見することがある。
 そういう言葉は――たとえ、その言葉を読んだ本を忘れてしまっても――その言葉をはっきり思い出せなくなっても、そんなことはどうでもいい。

 私は、そのことばを知らなかった以前の私に返ることがない。

 そういうことばの力は――そのことばを、以前に知らなかった私、つまり中田 耕治のある部分を啓示してくれる。そういうことばが、私は好きなのだ。

 私の好きなことばは、やはり私の好きな作家のコトバになる。いつも自分の身にひきつけて考えるので、そうなると、たとえばヘミングウェイをあげることになる。

  No one ever learned literature from a textbook.
  I have never taken a course in writing. I learned to write naturally and on my own.
  I did not succeed by accident;I succeed by patient hard work.
  Verbal dexerity does not make a good book.

  教科書から文学をまなぶやつなんて、ひとりもいない。
  私は、創作コースといった授業を受けたことはない。ひとりでに書くことを身につ
  けて、独力で書いてきた。
  偶然に成功したのではない。忍耐づよく、苦しい仕事を続けてきて成功したのだ。
  ことばの器用さだけでは、よい本は書けない。

 私はいろいろな機会に、若い人たちといっしょに勉強してきたが、自分のクラスで、ヘミングウェイの”若い人たちへの助言”のことばを忘れたことはない。

 ヘミングウェイは、いつも自分の仕事にきびしい芸術家だった。彼のことばでいうと、いつも real thing (ほんとうのもの)をつかもうとしたからだった。

 きみたちのなかにも、詩を書いたり、小説を書こうとしている人がいるかも知れない。その人は、いつか、このヘミングウェイのことばを真剣に考えるときがくるだろう。

 もう一つ、私の好きなことばをあげておく。

   Writing must be a labor of love or
   it is not writing.

 やさしいことばだから訳す必要はないが、その意味は深い。何でもないことばだが、あれほど人生を愛し、美しい女たちを愛し、仕事を愛した作家の確信にみちたことばなのだ。
 そのヘミングウェイでさえ、ときには失敗作を書いたし、何度も愛に傷ついたことを思いあわせれば、この言葉には、やはり、他人にわからない、つらい真実が秘められていることに気がつく。

 私が好きなのは、こういう作家なのだ。今では、もう、誰もヘミングウェイのことなど思い出しもしないけれども。

2011/06/24(Fri)  1292
 
 誰でも経験することだが、いろいろな本を読んでいるうちに、まるで自分のために作家が書いてくれたのではないかと思うようなことばを発見することがある。
 そういう言葉は――たとえ、その言葉を読んだ本を忘れてしまっても――その言葉をはっきり思い出せなくなっても、そんなことはどうでもいい。

 私は、そのことばを知らなかった以前の私に返ることがない。

 そういうことばの力は――そのことばを、以前に知らなかった私、つまり中田 耕治のある部分を啓示してくれる。そういうことばが、私は好きなのだ。

 私の好きなことばは、やはり私の好きな作家のコトバになる。いつも自分の身にひきつけて考えるので、そうなると、たとえばヘミングウェイをあげることになる。

  No one ever learned literature from
 a textbook.
  I have never taken a course in writi
 ng.I learned to write naturally and
 on my own.
  I did not succeed by accident;I succ
 eed by patient hard work.
  Verbal dexerity does not make a good
 book.

  教科書から文学をまなぶやつなんて、ひとりもいない。
  私は、創作コースといった授業を受けたことはない。ひとりでに書くことを身につ
  けて、独力で書いてきた。
  偶然に成功したのではない。忍耐づよく、苦しい仕事を続けてきて成功したのだ。
  ことばの器用さだけでは、よい本は書けない。

 私はいろいろな機会に、若い人たちといっしょに勉強してきたが、自分のクラスで、ヘミングウェイの”若い人たちへの助言”のことばを忘れたことはない。

 ヘミングウェイは、いつも自分の仕事にきびしい芸術家だった。彼のことばでいうと、いつも real thing (ほんとうのもの)をつかもうとしたからだった。

 きみたちのなかにも、詩を書いたり、小説を書こうとしている人がいるかも知れない。その人は、いつか、このヘミングウェイのことばを真剣に考えるときがくるだろう。

 もう一つ、私の好きなことばをあげておく。

   Writing must be a labor of love or
   it is not writing.

 やさしいことばだから訳す必要はないが、その意味は深い。何でもないことばだが、あれほど人生を愛し、美しい女たちを愛し、仕事を愛した作家の確信にみちたことばなのだ。
 そのヘミングウェイでさえ、ときには失敗作を書いたし、何度も愛に傷ついたことを思いあわせれば、この言葉には、やはり、他人にわからない、つらい真実が秘められていることに気がつく。

 私が好きなのは、こういう作家なのだ。今では、もう、誰もヘミングウェイのことなど思い出しもしないけれども。

2011/06/21(Tue)  1291

 世間には、運のわるいやつ、不運なやつは、いくらでもいる。

 菅 直人もそのひとり。

 もし、この災厄がかつてないほどの規模のものという報告を受けたら、ただちに、首相直属の「対策統合本部」を設置すべきであった。

 東日本大震災が起きて、福島原発の1号機が、メルトダウンの危機にさらされた。そこで、緊急に冷却するため、1号機に海水が注入されたのは、翌日、3月12日午後7時4分だった。
 ところが、東電から、冷却のためそれまでの淡水から海水に切り換えるという報告をうけた菅 直人首相は、午後6時に、原子力安全委員会と、経産省の原子力安全/保安院に対して、海水の注入による再臨界の可能性についてくわしく検討するように指示した。
 その報告をまっている間に、福島原発から半径20キロの住民に対して、避難を指示した。
 つまり、この時点で、メルトダウンがおきていたことを知りながら、菅 直人首相は、そのおそるべき事態をできるだけ軽いものに見せ掛けようとしていたことになる。

 もっと、おそろしいのは、菅 直人首相が、海水に切り換えることに懸念を表明したため、東電は、海水注入の開始から約20分後に、注入を中止したという。その後、実は中断していなかった(所長判断で継続していたという)ことが判明。いったい何の騒ぎだったやら……という展開になってしまった。
 これは、当時首相に適切なアドヴァイスができなかった諮問機関の責任が大きい。菅 直人ばかりを責めるわけにもいかないが、これまたファルス、またまたファルスの一例である。

 菅 直人が首相として有能だったとはまったく考えていないのだが。
 もっとおそろしいことは、この3月12日、放射性物質の拡散を予測する報告が、いち早く首相官邸に、ファックスで届いていた。ところが、この報告は担当の部内でとどまって、首相、官房長官には報告されていなかった、という。
 私は、これを知って、ムカついた。
 菅 直人は、この部局の担当の下僚ども、および、その上司を、即刻、罷免すべきだった。そんなこともできないヤツに、首相がつとまるはずもない。

 菅首相の名はまちがいなく歴史に残るだろう。歴代宰相のなかでも、きわめて無能だった例として、菅 直人の名は輝いている。幸か不幸が、私たちは菅 直人を21世紀の日本の宰相としてえらんでいる。

 大震災のあと、かれは震災対策、被災地救援、原発事故対策と、政府部内に、26の委員会をつぎつぎに設置した。だから、首相としての責務を放棄してきたとはいえない。
 だが、菅 直人がどれほど無能だったか。どれほど、ドアホだったか。
 大震災発生の2日後、3月13日、蓮ボウ某という行政刷新担当相に、節電啓発担当相を兼務させる人事を発表している。
 「事業仕分け」で、一躍名をあげた牝鶏(ひんけい)である。

 菅 直人はその3日後(3月15日)になって――政府と東京電力が一体となって原発事故対策にあたる「対策統合本部」なるものを立ち上げている。
 その後、牝鶏(ひんけい)は何をしたか。

 そもそも、菅 直人は大震災発生の報告をいつうけたのか。

 3月15日の時点で、蓮ボウだかレンポコだか、行政刷新担当相とかいうアホウはただちに罷免すべきだったと考える。お役御免だね。地震が行政を刷新してくれたのだから。

 しかも、この時点で、福島の原発のメルトダウンの事実を知っていなかったはずはない。これほど大きな「危機」に際して、蓮ボウのような人物に「節電啓発」をさせるという神経には、おそれいってことばもでない。
 では、蓮ボウは、どんな「節電啓発」を行ったのか。

 いや、そもそも、彼が作った26の委員会は、具体的に、いつ、どこで、何の仕事をしたのか。それが、現実に菅 直人首相の政治にどういうふうに反映したのか。

 戦前のフランス政治に大きな存在だったクレマンソー(大統領)が、政治家について語ったことがある。
 俗物はおそろしい。俗物は、人類のなかでもっともふまじめなものだから、と。

 先日、民主党の小沢某と、その子分で、暫く前まで首相をつとめていた鳩山某が、首相の引きずり落としを画策したが、これはうまく行かなかった。
 すると、こんどは参院議長をつとめている西岡某が――震災・原発の対応をめぐって、菅首相の対応の遅れ、拙劣さを批判して、一刻も早く退陣するよううながした。
 参院議長が、こうした批判を公表するのは異例のこととされる。(’11.5.19)

 東日本大震災という未曾有の事態が起きたとき、日本にとってただ一つ、ほんとうにラッキーだったのは、小沢某が政権の中枢にいなかったこと、当時の宰相が鳩山某でなかったこと。私はこのことを、神に感謝したくらいである。
 西岡某という参院議長が、菅 直人の退陣を要求したことなどは――どうでもいい。そんなものは、しょせん、茶番にすぎない。

 小沢某ほど、狡猾きわまる政治家は少ない。
 もし、小沢某、鳩山某が、権力の中枢にとぐろを巻いていたら、まさしく亡国の道を転げ落ちていたにちがいない。小沢某は震災発生直後ただちに、議員の大デレゲーションを躬率(きゅうそつ)して、満面笑みを浮かべて、したり顔で日本沈没をご注進に及んでいたであろう。そんな小沢某の顔つきを想像するだけで、私は慄然とする。小沢某、鳩山某、このふたりほど低劣な俗物はいないのだから。

 社民党の国会議員のひとりが語っていた。
 小沢某のような人物が、四半世紀ものあいだ、いつも政局の中心で動いていたというのは、スキャンダルだ、と。
 天災にともなう「ふまじめな」俗物たちの人災を、政治の世界の巨大なデブリとして残してはならないと考える。

 私は、この震災を天罰、天譴とは見ない。まして国難などとは見ていない。
 私は、毎日、つぶやいている。

   自然はおまえさんに相談なんかしやしない。あんたの希望なんかにかまっちゃい
   ないし、自然の法則が、あんたのオ気に召すかどうかなんて、どうでもいいのさ。
あんたは、自然をそのままに受けいれるっきゃない。だから、その結果ってや
   つも、いっさいがっさい、手前で引き受けなきゃ。つまり、壁は壁ってこと。

 誰のことばだと思う?

 「みぞれまじりの雪降る晩に」、ペテルスブルグの地下室で毛布をひっかぶっていた奴のひとりごと。これで、私のいいたいことが、いくらかわかってもらえるだろうか。

2011/06/16(Thu)  1290
 
 この6月5日(日)昼の12時、親しい仲間たちに集まってもらった。
 駅前(東口)から、バスに乗って、終点でおりて、放射線の降りそそぐ緑地でお弁当をつかって、さて、北にむかって、しばらく歩く。いずれは冥土につづく死出の旅。もっとも、せいぜい30分ばかり。

 この付近、古代の古墳群のわきの自然歩道をたどっても、せいぜい2時間のコースにすぎないので、ピクニックともいえないただのお散歩コース。

 このあたり、かすかに戦前の面影を残しているが、まさかホトトギスがいるはずもないが、せめて古句の風流を思いうかべれば、

    ホトトギス 何もなき野の 家構え

    西ひがし 泣くべき夜あり ホトトギス

    われ汝(なれ)を 待つこと久し ホトトギス

 されば青葉・若葉の詩趣や、如何(いかん)。

    一いきれ 蝶もうろつく 若葉かな

    桐の葉の 悠々然と 若葉かな

    若葉して 中ぶらりんの 曇りかな

 その程度の詩趣、盃いっぱい程度はあるかも知れない。アハハ。

 この「遠足」の趣旨は、ある石碑を皆さんに見ていただくことが目的だった。

  たまゆらの いのちのきわみ ゆめのごと
   季節(とき)のながれと 花のうつろい

 こんなものは笑いものになるのがせいぜい、と知ってのうえの艶のすさび。

        **********

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  『お梅さん』 オノト・ワタンナ  著  中田耕治 訳

   柏艪舎(はくろしゃ)より、2011年6月下旬発売予定

2011/06/13(Mon)  1289
 
 つい先日、五月になったという文章を書いた。
 大地震、津波、福島の原発事故、そして被災したひとびとのことを考えると、くだらない閑文字を並べるなど申し訳ない気がする。

 そして、いつの間にか六月になっちまったなあ。

  ありとも知られぬからたちの花白くあらく、小雨そぼ降る朝の井戸に、水汲む女
  の傘ささぬが目につきと、はね釣瓶はね釣瓶と暫しは繰返したれど、口には出で
  ず遂に止みたり。後、谷中を過ぎて、
        むらさきの豆の花咲く垣根哉

 明治31年、斉藤 緑雨の句。

 いいなあ。しばし、この句を口にして、初夏の季節を楽しんだ。

 斉藤 緑雨については「文学講座」で講じたが、まともに「斉藤 緑雨論」を書く機会はなかった。
 私は、五木 寛之の推輓で、鈴鹿の「斉藤緑雨文学賞」の審査にあたった時期があって、いつか「斉藤 緑雨論」めいたものを書く機会をと念願しているのだが、いまだそれは果たしていない。
 しかし、斉藤 緑雨は、いつしか私にとっては身近な存在となってきて、その作品に親しむことが多くなっている。

 批評家、緑雨は毒舌をもって知られるが、余技たるべき俳句もみごとなものが多い。

    五月雨や お手紙まさに拝見す

    夏の月 誰れ彼れいはず美しき

    木枯(こがらし)や 夕日突き抜く 塔の先

    菊枯れて 黒き手筥の ほこり哉

    菊枯れて 庭に炭ひく あるじ哉

    月痩せて 露の白菊 枯れにけり

    枯れ菊の 沓脱ぎ石に置かれけり

    おぼろおぼろ 花降りかかる三の糸

    枝折戸(しおりど)の闇を さくらのそっと散る

    散るさくら 散らずばおれが 散らそうか

 ゆうに子規に比肩し、虚子にすぐれること、数等。

2011/06/09(Thu)  1288
 
 もう六月になっている。
 依然して、大震災とその被害のニューズに、心の晴れない日々がつづいている。

 福島/原発事故にたいする政府の対応の遅さ、さらには放射性物質の飛散・拡大をできるだけ過小評価しよう、もしくは、隠蔽しようとする姿勢に、憤りをおぼえる毎日であった。
 私のようなしがないもの書きでさえ、毎日、切歯扼腕していたといってもよい。

 されども、桜花(おうか)すでに梢を謝して、緑林(りょくりん)影(かげ)濃(こまや)かならんとす。しばし、震災の憂鬱を忘れんとして、放射性物質のおよばざるところ、願わくば神韻を山林にたずねたり。渓流の岩にむせぶところ、涼味湧くがごとく、杜鵑(とけん/ほととぎす)月をかすむるほとり、まさに、

     目に青葉 山ほととぎす 初鰹

 初夏の景物(けいぶつ)、これにしかず。
 もとより放射性物質のベクレル量おそるべきにせよ、一日(いちじつ)紅塵を去って、緑陰の神韻を訪(おとの)うべきなり。(笑)

 けっきょく、6月に入って、菅 直人首相の早期退陣をもとめて、内閣の不信任決議案が提出されたが、これは否決された。
 すると、こんどは、首相が早期退陣を否定したため、鳩山某が、
 「不信任決議案が(議会に)出る直前には、<辞める>といっていながら、(議案が)否決されたら<辞めない>という。これでは首相ともあろうものが、まるでペテン師ではないか。ウソをついてはいけない。ウソをつくのは人間としての基本にもとる行為である」
 と、コキおろした。(’11,6.3)

 「宇宙人」が、人間をコキおろすのだからおもしろい。(笑)

 菅首相は、鳩山宇宙人と会談した際、早期退陣を約束したといわれるが、国会で不信任決議が否決されると、たちまち、「早期に退陣を約束したおぼえはない」といいだした。
 君子は豹変する。
 これに対して、閣内からも異論が相次ぎ、野党は、不信任決議が否決されてショボンとしたが、こんどは、首相に対する問責決議案を提出するとか。(’11,6.4)

 まあ、例によって、霞が関の一場のファルス。(笑)

2011/05/26(Thu)  1287
 
 私は、金言、格言、ときにはアフォリズムなどが好きで、けっこういろいろな人の寸言隻句に興味をもっている。反対に、流行語にあまり関心がない。
 テレビの芸人が、そんな流行語の一つ二つを考え出す。それがウケて、人気が出る。私は、別に不快には思わない。そんな流行語はほんのいっとき人の口の端にのっても、すぐに忘れられてしまう。そんなものは芸でも何でもない。だから私は自分では口にしない。

 アフォリズム、警句、格言だって、自分につごうのいい場合に使うのが気になって、私はあまり使わない。

 「少年よ、大志を抱け」という言葉は、誰でも知っている。
 だが、このことばには、もう一つ、別の言葉がついている。直訳すれば、

 学生諸君、野心的であれ、善きキリスト教徒であるために。

 ということになる。私たちは後半の部分をまるっきり無視して、「少年よ、大志を抱け」という部分だけを心に刻みつけたらしい。

 「紳士は金髪がお好き」。これは格言ではないけれど、このことばは私たちも知っている。だが、原作者のアニタ・ルーズは、もう少し別のニュアンスをこめて使っている。

   紳士は金髪がお好き。だけど、ブリュネットと結婚するのよ。

 もう一度くり返すけれど――私はアフォリズムが好きだし、いろいろな人の寸言隻句に興味をもっている。

 私の好きなことばは――それを語った本人の人柄、本人の立場などが、すぐに理解できるような言葉。
 誰もが使う言葉で語りながら、その人でなければいえないことを語っていることば。

   有名スターになったとき女優に注ぎこまれる毒ってものがあるのよ。

 キム・ノヴァクのことば。
 ただし、その毒が何なのか、どういうふうに毒が効いて、致死量がどの程度なのか、キムは語らなかったけれど。

2011/05/23(Mon)  1286
 
(つづき)
  好きな女のところに通いつめたが、なにせ人にしられぬ恋路、犬までがあやしんで
  吠えかかって、毎晩、さわがしい。犬なんかいっそブッ殺してやりたい。手紙を出
  そうかとも思ったが、犬を手なづけたほうがいい、食べものをくれてやって、なん
  とか、シッポをふるところまでこぎつけた。この憎らしい関守に、ものを与えよう
  などと、心づかいをするのもひと苦労。女のほうは――誰とも知らない人が、い
  つもの時間ぴったりに、尺八を吹いて通って行く。今宵もあなたにあこがれてきて
  います、という知らせでもあろうか。古歌にいう、シギ立つ沢の秋の夕暮れなどを
  連想して、やさしい殿方だよ、と思ってくれるかもしれない。

  やがて、夜空の星が遠くかたぶき、空を吹きわたる風の音もさびしくなって、籬(
  まがき)のかたわらに立ちつくして、他人のいびきが聞こえてくる頃、女の寝所の
  に、しのびやかに、着物のすその音がして、ああ、ついにそのときは至れり、と胸
  がときめき、これまでどんなに長い時間待っていたか、と、たもとを引く手もふる
  え、絹のような下腹部をさぐりさぐり、からだを横ざまにひそかに入って、音をた
  てないように迫り、声も出さずにため息したのも、心ときめくうれしさ。

  からだをあわせようとして、枕を傾け、行灯(あんどん)を離すと、女の顔がほの
  かに見えて、さし向かいながら、床についているような気がしない。長い間、つれ
  ない仕打ちばかりだったと責めたり、心をつくしてお慕い申しておりましたのに、
  などと恨みも交えて語りあう。いつわりの多いおかたなど、相手にするつもりでは
  なかったのに、いつかのお手紙から、あなたが好きになりました、と顔を赤くする
  のも、言葉多く語るよりもずっとまさっている。

 まだまだ続くのだが、鬼貫の「戀愛論」はこれくらいにしておく。

 鬼貫は、追悼の句を多く詠んでいるか、恋の句は少ない。

          契不逢戀
     油さし あぶらさしつつ 寝ぬ夜かな

 さしていい句でもないが、ここにあげておく。
 題は「ちぎりて、逢わざる恋」なのか。逢わざる恋をちぎりて、なのか。その読みかたで、私の想像はかなり違ってくる。
 やや遅れて、「遇不逢戀」という狂歌があって、

   うつり香の残りて としをふる小袖
     今は身幅も あはできれぬる   於保久 旅人

   きみに逢ふ 手蔓も切れて うき年を
     ふる提灯の はりあひもなし   網破損 はりがね

 こんなものより、鬼貫の句のほうがずっといい。

2011/05/19(Thu)  1285
 
 鬼貫の俳論、『ひとりごと』に、「戀」というエッセイがある。
 ただし、冒頭から――「心は法界にして、無量なる物ながら、一念まよふ所は、大河の水のわずかなる塵によどむがごとし」といった文章が切れめなくつづくので、すっきり頭に入りにくい。
 エッセイ自体は、それほど長くないのだが、もう少しわかりやすく、現代語に訳してみよう。

  逢ったこともないのに、どこどこの土地に美しい女がいると聞いただけで、もう忘
  れられなくなる。一度遊んだだけの遊女から、手紙が届いたりして、その筆づかい
  を見て、やさしい女心を思う。あるいは、茶屋の娘の接待する物腰のきよらかさが
  うわさになっているので、せめて水の一杯でも所望してその姿を見届けよう、ただ
  通りすがりに、窓格子からちらっと顔を見せたりすれば、近くの商店に立ち寄って
  その店の品物の値段を聞くふりをして、さりげなくめあての女の家名を聞いたりす
  る。

  春、お花見の頃、あるいはお祭りやお寺参りの頃、魅力のある女たちが立ちあらわ
  れる。そんな女たちに恋をしては、あわよくば首尾を遂げようとおもっていると、
  にわかにつよい雨ふりになって、傘をさしつさされつ、あるいはタバコの火を借り
  たり、ときには近くの道を教えたりする。そんなきっかけから、お互いの心のふれ
  あいができたりする。そんな出会いのなかでも、女のうしろ姿がひとしお美しいの
  に心を惹かれて、すぐさまあとを追いかけ、足を早めて女の前に出て、後ろ姿に似
  あわぬブス、あまりのことに落胆するというのもおかしい。
  あるいは、ひとを恋しても自分から口に出さないまま、ふつうのつきあいをしてき
  て、いつか折りを見てうちあけようと思って、いつしか時間がたってしまった。こ
  の思いはいつかうちあけようと思っていると、何かのことばのはしはしから、相手
  もこちらの恋心を承知しているとわかる。そのうれしさよ。

  また、メモをもらって、いそいでふところに隠した。人目につかない隅っこで、紙
  の皺をのばして読もうとする風情は、まるめてポンと投げ捨てられるよりもずっと
  いい。

 鬼貫の「戀愛論」はもう少しつづく。
        (つづく)

2011/05/16(Mon)  1284
 
 上島 鬼貫(1661―1738年)は、元禄の頃に登場した俳人だが、私はあまりくわしく知らない。
 ただ、この人の句に、

   惜めども 寝たら起きたら 春である

 という句があって、驚いた。江戸時代に、すでに現代国語の格助詞、「である」を俳句に使った例「である」。「である」は、明治の言文一致からはじまったとばかり思っていたからである。
 すっかりうれしくなった私は、さっそくこの句をパクって、

   我が輩は 寝ても起きても 猫である

 という一句を詠んだ。去年から、私の飼っているネコを詠んだもの。
 漱石先生のお叱りをいただきそうだが。

 昨年の夏に、我が家の飼猫が他界したので、喪があけてから「動物愛護センター」にお願いして子ネコをもらってきた。
 名前はチル。じつはこれもパクリで、ルイ・ジュヴェが飼っていた愛犬の名前を頂戴した。(ジュヴェだって、きっとメーテルリンクから頂戴したに違いない。)

 さて、鬼貫のことに話を戻すことにしよう。
 私の好きな句 を選んでみた。

   春雨の 今日ばかりとて 降りにけり

   くらがりの 松の木さへも 秋の風

        遊女の絵に讃す
   殿方を おもうてゐるぞ 閨の月

   いつも見るものとは 違う 冬の月

   雪に笑ひ 雨にもわらふ むかし哉

    久しく交りける友の身まかりけるときこえはべりければ、
   いとどさへ旅の寝覚は物うきを
  
   木がらしの 音も似ぬ夜の おもひ哉

 ほかのひとには、私の選句は気に入らないかも。鬼貫の句は、もう少しヴァライェティーに富んでいるからである。
     (つづく)

2011/05/11(Wed)  1283
 
 1965年2月から3月にかけて、私はヴェトナムにいた。
 そんなある日、母に手紙を書いた。ほんらいなら公表すべきものではないが、ある親子の間にかわされた、わずか一通の手紙なので、ここに公開する。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  お母さん

  毎日ぼくのことを考えていてくださるのでしょうね。無事に旅をつづけています
  からご安心下さい。

  サイゴンの印象は、やはりぼくにとって強烈なものでした。久しぶりで、自分がほ
  んとうに生きているような実感がありました。それを小説に書いてみたいのですが、
  うまく行くかどうか。
  ユエに行きましたが、ここでは一生忘れられない経験をしました。ユエの街はとて
  も小さい町で、かつての王城のあとが、それこそ夏草のなかにむなしく残っている
  だけなのです。
  ぼくは町を歩き、歩き疲れて、一軒の酒楼に入ってビールを飲みましたが(水のか
  わりです。水質がわるいので、その頃ひどい下痢にくるしみつづけでした。)人な
  つっこいおじいさんが寄ってきました。むろん話は通じません。すると、あと二人
  (おまわりさんと地方裁判所の書記ということがわかりました)中年の男たちが僕
  に寄ってくるではありませんか。
  書記の人がフランス語を話すので、すっかり仲よしになりましたが、ぼくがビール
  をおごったら、その晩、六時におじいさんが家に招待するというのです。何しろ知
  らない土地ですし、聞けばユエの街ではなく、かなり離れているらしく、夜なので
  こまったなと思いました。断ろうとしたのですが――その前に自分の家へきて泊ま
  れというのを断ったものですから――どうにも理由がなく六時に会うことにしま
  した。
  六時に旗亭に行ってみると、おまわりさんがひとりいるだけです。この人はフラン
  ス語も英語もダメで、何が何だかわからないし、旅費としてかなりの金額をぼくは
  身につけています。危険な行動になるかも知れないと覚悟をしました。
  ユエの街には大きな湖(ラツク)がありますが、もう日が暮れかかり、船も通らな
  いのです。暗い水面を見つめながら、この湖の付近にもヴェトコンが出ると聞いた
  ことを思い出したりして不安でした。
  やがて村につきました。(トレガという貧しい村です。)貧しい村でした。ところ
  がそこに、昼間のおじいさんが村の人を八人ばかり招んで待っていたのです。
  お互いに言葉は通じませんが、いくらか安心しました。やがて書記の人がきてくれ
  て、これが純粋にぼくを接待してくれる集まりだということがわかりました。

  貧しい食事でしたが、ほんとうに心あたたまる思いをしました。十時近くまでいま
  したが、やがて最後におなじ席にいたおばさんが、私のためにヴェトナムの歌を歌
  ってくれました。ヘタな歌でしたし、意味も何もわからない歌ですが、それはそれは
  哀傷を帯びた歌で、黙って聞いているうちに、いろいろな感情がむねに迫ってきて
  思わず涙ぐんでしまいました。こんなに質朴な人たちが、ぼくのために集まってく
  れたこと、そして、こんなにやさしい人たちが、今、はてしない戦乱にくるしんで
  いるのだと思うと、その哀しみが自分に揺れ返ってきて、大きな感動が測測と迫っ
  てきました。酒の酔いもあったのでしょうし、それまでの不安な思いが消えたこと
  もあったのでしょう。旅先で孤独だったことの感傷もあったのでしょうが、涙がと
  めどなく頬をつたわりました。
  すると、おばさんも泣きながら歌いつづけたのです。

  帰途は、若いヴェトナム兵が一人、ぼくを送ってくれましたが、彼は私の名を聞い
  て舟の上で即興で歌を歌ってくれました。これも意味はわかりませんが――ある
  日、私の村に見しらぬ日本人がきた。名はナカダという。彼のために、私たちは一
  席の宴を張り、XXおばさんが彼をもてなすために歌を歌ったが、ナカダは感動の
  あまり泣いた。日本人が私たちのために泣いてくれたのだ――そういう意味に
  間違いないと思います。これも切々たる哀調を帯びた歌でした。

  この夜のことは一生忘れられない経験になるでしょう。おそらく、ぼくのことは、
  あの貧しい村では、いつまでも語りつがれて、いつか一つの伝説になるような気が
  します。

  サイゴンや、バンコックや、香港のことはまたあとで書きます。さよなら。
  お元気で。                                中田 耕治

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私にとって、ヴェトナムの印象は「強烈なもの」だった。しかし、この時期、私はヴェトナムに取材した小説を書くことはなかった。

 はるか後年、ヴェトナムを舞台にした長編を書いたが、新聞に連載しただけで、そのまま出版することがなかった。

 サイゴンの印象は、中編、「サイゴン」だけは、私の撰集(三一書房版)に収めた。

 この手紙は、亡くなった母の遺品を整理していて文箱のなかから見つけた。焼き捨てるつもりだったが、私が母にあてて書いたわずか一通の手紙なので、ここに残しておく。

2011/05/09(Mon)  1282
 
 「午前十時の映画祭」で選ばれた「名作」50作品に、「風と共に去りぬ」や「ローマの休日」がはいっていなかった、というのも驚きだが、著作権、上映権などの問題がからんでいるにちがいない。
 私が「あらたに選定した50作品」を選ぶとすれば、まるっきり別の名作をあげるだろう。なにしろ、徐 克(ツイ・ハーク)や、王 家衛(ウォン・カーウェイ)の映画のほうが、「2001年宇宙の旅」や、「小さな恋のメロディ」、「E.T.」よりも、よほど高級と見ている、つむじまがりだからね。

 「午前十時の映画祭」なら、その日いちにち、うきうきして過ごせる映画のほうがいいと思う。そこで、私が企画するとしたら、

     「ウォリアーズ」
     「リリー」
     「題名のない映画」(ドイツ映画)
     「キャリー」
     「ストリート・オブ・ファイアー」
     「殺人幻想曲」
     「ガルシアの首」
     「ファウルプレイ」
     「運命の饗宴」
     「北京オペラブルース」(香港映画)

 私にとっては――こういう映画のほうが「ニュー・シネマ・パラダイス」や、「フォロー・ミー」や、「スタンド・バイ・ミー」よりも、はるかにすぐれた名画なのである。

2011/05/05(Thu)  1281
 
 「午前十時の映画祭」という催しがあるという。昨年の2月から1年かけて、50作品を上映してきたらしい。(私は、一度も見に行かなかった。)
 今年も、あらたに選定した50作品を加えて、継続されるという。

 1年目の観客党員数は、58万6838人。興行収入は、5億円を上まわった。

 今年の目標は、観客の動員目標が、百万人、収入が100億円。

 今年の上映リスト。一般投票の上位、10作品。

     「ショーシャンクの空に」
     「サウンド・オヴ・ミュージック」
     「ニュー・シネマ・パラダイス」
     「フォロー・ミー」
     「風と共に去りぬ」
     「ローマの休日」
     「スタンド・バイ・ミー」
     「2001年宇宙の旅」
     「小さな恋のメロディ」
     「E.T.」

 たしかに、名作ばかりだから、若い人たちが、こういう映画を見に行くようになればいいと思う。
 「風と共に去りぬ」については、批評めいたものを書いたが、「ローマの休日」、「スタンド・バイ・ミー」、「2001年宇宙の旅」については何も書かなかった。私が書くよりも別の批評家が書けばいい。
 「E.T.」よりも「激突」や「ジョーズ」のほうがはるかにすばらしい。
 「スタンド・バイ・ミー」や「小さな恋のメロディ」よりも、「ハックルベリ・フィン」や「にんじん」のほうがずっといい。
 (つづく)

2011/05/02(Mon)  1280
 
 明暦の大火。
 江戸市中が猛火につつまれ、数万の民衆が焼死するという惨事だったという。この災害の犠牲者のために、両国の回向院が建てられている。

 このとき、焼け出された人が国許(くにもと)に送った手紙がある。読みやすくするために、平易に書き直してみよう。

   近年、大身(たいしん)の人々はもとより、私ども、または下々の
   者まで、皆、五十余年の大平(泰平)になれて、浮薄に流れ、
   驕奢(きょうしゃ)に長じ、分に過ぎたる栄耀をこととしている。
   したがって財宝足らざる故に、自然に、上(かみ)は民百姓に
   むさぼり、下(しも)はたがいに相むさぼる、このたびの大変
   (たいへん)はじつに天罰である。天道(てんどう)よりまことに
   よき意見を受けたのである。
   ついては人を翻然(ほんぜん)として、積年の非を悔いあらため、
   まず真の士風俗(さむらいふうぞく)に復すことに、一統努力
   するほかはなかろう。

 江戸文化の研究家、三上 参次は、この手紙にふれて、

   今日(こんにち)も明暦の昔とおなじように、感慨無量、長大息
   する人が少なくないことと思う。この手きびしい意見、この峻烈な
   る天罰を、七千万日本人の身代わりとして引受けられた幾万の同胞
   に対して、深厚なる感謝の意を表したいというのはこの意味に
   外(ほか)ならないのである。

という。
 これを読んだとき、私は日本人の心性はまったく変わらないのだという感慨をもった。
 じつは、私は東日本大震災が起きた瞬間に「このたびの大変はじつに天罰である」というふうに感じた。そして、私たちが「皆、五十余年の大平(泰平)になれて、浮薄に流れ、驕奢(きょうしゃ)に長じ、分に過ぎたる栄耀をこととして」きた代償として、大震災が起きたという意見を眼にした。
 しかし、私としては――この災害を「天よりまことによき意見を受けた」などと考えない。もとより私たちの無数の誤謬、過失、失策の結果として、この惨状があると見て、ただ謙虚に、わるびれずに、この事態をわれとわが身に引きうけるべきだろう。

 福島原発について、NHKのニュースは、いつも「深刻な事態に見舞われている福島原発」という形容をつけていた。これは、4月になってから、この形容はつけなくなったが、いつもおなじ形容、修飾語を重ねることで、かえってクリシェとして、空虚に響いたのではなかったか。

2011/05/01(Sun)  1279
 
 福島原発のニュース。

 死者、1万4001人。行方不明、1万3660人、避難者、13万6127人。(4月19日午後6時、警察庁調べ)
 この大震災で、検視した死者、1万3195人のうち、津波による死者が、92.5パーセント。身元、年齢が判明した犠牲者の65パーセントが60歳以上。
 つまり、高齢者の犠牲が大きい。
 東京大空襲の記録では、60歳以上の高齢者は、自宅から150メートルの範囲で死亡していたという。若者では、自宅から4.5キロの距離まで逃げて、落命した例がある。

 福島原発。2号機の汚染水、4月1日〜6日の流出、総量、520トン。
 放射性物質の量は、4700テラ・ベクレル(1テラは、1兆という)。
 4月21日、このニューズを読んだとき、私は心の底から憤りをおぼえた。この事実を、東電や、原子力安全保安院は、なぜ今まで伏せていたのか。
 4月1日から6日の時点で、この恐るべき事態はすでに判明していたはずである。それなのに、2週間もこの事実を伏せていた。
 その間に、統一地方選挙があったから(その影響をおそれて)伏せたのではないか。

 私は激怒している。まず、これを報じた大新聞について。
「読売」は、この記事を一面でとりあげている。ただし、下の4段目、わずか2段、32行という短いあつかいだった。その記事の末尾に――「深刻な数値」という見出しで、2面であつかっていることが出ている。

 その2面の記事は、34行。2行の小見出しに――

  「4700兆ベクレル」大気放出の尺度で
  レベル5から6相当

 とある。(「読売」4月22日/朝刊)

 大震災以後に書かれた無数の記事のなかで、日本のジャーナリズムがとった、もっとも陋劣(ろうれつ)で、もっとも「悪しき行動」の最たるものの一つ。
 なるほど、この記事は事態の「深刻さ」をきちんと報道しているように見える。しかし、実際は、事態の「深刻さ」を国民の眼からそらすように工夫されている。
 この2面の記事には、放射性物質による汚染の例として、1950年代から80年代にかけてのイギリス、セラフィールドの汚染水の海への放出(9000兆ベクレル)、また、1952年〜92年におよぶ極東海域におけるロシアの汚染物質の日本海への投棄の事例もとりあげてある。

 私は怒っている。「4700兆ベクレル」という記事は、1面のトップに出すべきだったといいたい。1面のトップに出したのは――20キロ圏「警戒区域」設定 一時帰宅 数日中に開始 という記事だった。もう一つは、「節電目標15パーセントに緩和 政府調整 大企業・家庭に一律」という記事だった。
 いずれも重要な記事にはちがいない。しかし「20キロ圏」に「警戒区域」を設定しなければならない事態は、4月6日に判明していたのではないか。
 それなのに、「さしあたって人体に影響をおよぼさない」と強弁しつづけたヤツがいたのではないか。
 私が、かつての大本営(松村秀逸、平出孝雄両大佐)の発表を思い出していたのは、けっして偶然ではないのだ。彼らは、いつも陸海軍の被害にはふれなかったし、ふれたとしても「わが方の損害は軽微なり」として、頬かむりしつづけた。この連中を、日本人としてまったく恥を知らない最低の人間と見るように、私は、東電、および原子力安全保安院、さらに政府の当局者に侮蔑の眼をむけざるを得ない。
   (つづく)

2011/04/29(Fri)  1278
 
 4月21日。
 この日が、私の内面に暗い翳りをもたらそうとは、まったく予想もしなかった。
 私はこの日付を忘れることはないだろう。
 この日、私は病後はじめてお茶の水に出たのだが――

 3月11日から、私はほとんど本を読まなくなっていた。私が読んだ本は、ハ・ジンの短篇集『すばらしい墜落』(立石光子訳/白水社)。安部ねり著、『安部公房伝』(新潮社)、そしてアナイス・ニン。

「きみという女は、惜しみなく自分をあたえることを知らない」エドワルドがいう。
 でも、ほんとうにそうかしら?(アナイスは考える)。

 非のうちどころのないヒューゴーの人格は、心から尊敬しているし、ヘンリー・ミラーのセックスにも、エドワルドの美しさにも、アナイスは身を投げ出している。

 ヘンリーはいう。
「きみはいつもポーズをつけてるなあ」

 私もそんなふうにいってみたいと思う。
 わるいことに、私は3月から何も書かなくなっている。書こうとしても書けないのだった。スランプというわけではない。今はもう誰も知らない女優、メェ・マレイについて、短い、とても短いエッセイを書いた。
 とても短いエッセイを書いていると、なぜか散文詩を書いているような気になる。
 大震災、津波、原発事故。こんな時期なのに、もの書きとしてはむしろ充実しているような気分があった。ハ・ジンを読んで、この作家の短篇のすばらしさに瞠目した。安部ねりを読んで、世界的な作家になった安部公房のことをあらためて尊敬した。
 最近の私には、つらいことが重なってきている。
 なんでもない一日なのに、忘れられない一日。
 アナイスを読んで、アナイスのような女性とほんの一時期でも親しくなれたことのありがたさを思う。
  (つづく)

2011/04/27(Wed)  1277
 
 私の好きなことば。

    私はたしかにここにいるが、私はすでに変化している。すでにほかの場所に
    いるのだ。けっしておなじばしょにとどまってはいない。

 ピカソのことば。

 ピカソは、ひとりの女を愛していながら、同時に別の女を愛しはじめる、という錯綜した女性遍歴を重ねてきた。ピカソは、相手の女性が変わるたびに、作風までが変わってゆくという。
 「青の時代」から「バラ色の時代」に移ったように。

 私はピカソが好きなので、ピカソのことばをパラフレーズして――私も「ひとりの女を愛していながら、同時に別の女を愛しはじめる」といいたいところだが、現実の私にはそんなことはあり得なかった。
 ただ、教育者としての私は、おなじようなことを考えてきた。ある時期、たしかにここにいるが、やがて変化する。気がついたときには、すでに変化している。すでにほかの場所にいるのだ。

 私の大学で、ある先生がシャーウッド・アンダスンの短編を教えていた。不勉強な学生だったから、二、三度、このクラスに出ただけで、あとはサボッていた。
 翌年、単位をとる必要があっておなじ先生のクラスに出た。
 テキストは、おなじシャーウッド・アンダスンの短編だった。
 たまたま二年つづけてこのクラスに出ていた学生はいなかったはずである。その教授は黒板に、おなじ箇所でおなじ訳を書き、おなじ冗談を聞かせてくれた。一年前の講義と、まったく変わっていない内容に私は驚いた。

 はるか後年、私はおなじ大学で講義をつづけることになった。
 一度でもおなじことをくり返すような講義をしないことだけを心がけた。

 やがて私は、翻訳家の養成を目的としたクラスで、授業をはじめた。せいぜい、二年ぐらいのつもりだったが、20年以上も、この授業をつづけた。
 おなじテキストをくり返して教えたのは、ギャビン・ランバート、アナイス・ニン、アーシュラ・ヒージなど数人の作家だけだったが、おなじテキストを読みつづけることが生徒にとって有効と信じたからだったし、くり返して読むことで自分の「読み」が深くなると思ったからである。

 生徒は、私の教室にきている。たしかに教室にいるが、私のレクチュアをうけたときから、すでに変化している。すでにほかの場所にいるのだ。けっしておなじばしょにとどまってはいない。
 おこがましいいいかただが、私の教育は、いつもその「場所」をたしかめることだったと思う。

 私は翻訳を教えたのではない。それぞれのひとの才能を発見しただけなのだ。

2011/04/23(Sat)  1276
 
 今では誰でも知っていることだが――イタリアのスター、マルチェロ・マストロヤンニは、フランスの名女優、カトリーヌ・ドヌーヴを愛していた。
 ふたりの「不倫」が世界的な話題になったとき、マルチェロはいった。

   私は妻を愛しているし尊敬している。
   おなじように、カトリーヌ・ドヌーヴを
   愛しているし尊敬している。

 この発言で、ヨーロッパのジャーナリズムは、ふたりの「不倫」をとりあげなくなった。日本のジャーナリズムとは、やはり違うなあ。

2011/04/20(Wed)  1275
 
 ジョージ・バーナード・ショーは、20世紀前半の大劇作家だが、痩せて、小柄な体格だった。世界的な舞踏家、イサドラ・ダンカンに言い寄られたとき、こう語った。

    私の肉体と、きみの頭脳をもった子どもが生まれると困る。

 はるか、後年、映画女優、ジーン・アーサーは、

    あたしが、ジョージ・バーナード・ショーと結婚しなかったのは、実際に会って
    ひどく失望したからよ。

 笑った。

 それにしても、ジュリー・アンドリュース、ジューン・アリソンだって、もう誰も知らないだろう。まして、ジョージ・バーナード・ショーや、イサドラ・ダンカンの名をあげたところで何の意味もない。
 だから、ひとりでおもしろがっているのだが、私がおもしろがっていることを面白がってくれる人がいるかも知れない。
 もう忘れられているハリウッド女優たちを、ときどき思い出して書いてみようか。
 ゴシッブを書くのではない。ある時代に生きた一人の芸術家の、ひたむきな姿を忘れないために。

2011/04/16(Sat)  1274
 
 いきなり美しいアルプスの大自然が壮大な姿をあらわす。映画のフェイドイン。
 映画史上はじめてといっていい空撮だった。思わず息をのむような山脈の流れがつづいて、山頂の高原にフォーカッシングする。その広大な原っぱに、美しい歌声が響いて……
主役の「マリア」(ジュリー・アンドリュース)のアップになる。
 こうした空撮のフェイドインは、その後、「シャイニング」や、韓国ドラマの「オール・イン」、最近では、大河ドラマ「天地人」のオープニングまで、ごくふつうのものになっているが、「サウンド・オブ・ミュージック」のオープニングが見せた迫力は忘れられない。

 この映画に主演したジュリー・アンドリュースは、ブロードウェイで、「マイ・フェア・レイディ」で空前の成功をおさめて、映画界入りをした。出演作品は、いがいなほど少ないが、ミュージカルだけでなく、ストレート・プレイでも成功した。

   映画スターになったら、どうなのかって? 
   あたしは、しょっちゅう親指を吸ったものよ。

 さすがに、大女優らしいことばだと思う。
 なんでもないセリフだが、別な読みかたもできる。

 ジュリーより少し前の映画女優、ジューン・アリソンのことば。

   わたしは、いつも映画スターになりたかった。
   有名になれるし、ベッドで朝食がいただけるから。
   まさか、午前4時に起きなきゃいけないなんて知らなかった。

 ジューン・アリソンは、戦時中から「戦後」にかけて、青春スターの代表といってよかった。ジュデイ・ガーランドと交代して、ミッキー・ルーニーのハイティーンの学園ものに出たり、やがて、ピーター・ローフォードなどを相手に、天真爛漫な女子大生をやっていた。
 たくさんの映画に出ている。
 しかし、ジュリー・アンドリュースと違って、代表作といえるものはない。おそらく「若草物語}(1949年)、「グレン・ミラー物語」(1954年)ぐらいだろうか。
 ほとんど失敗作がなかった。誰からも愛されてそれでいて、一流のスターでいながら、代表作といえるほどの作品がない。スキャンダルも、なかった。
 こういう女優さんの内面を想像することはむずかしい。

 ただし、「まさか、午前4時に起きなきゃいけないなんて知らなかった。」ということばも、別な読みかたもできる。
 午前4時に寝なきゃいけないなんて知らなかった、というふうに。

2011/04/12(Tue)  1273
 
 ヘミングウェイはプラード美術館に入ると、たくさんの絵に眼もくれず、特別な絵だけを見たという。
 巨大なイタリア絵画ばかりが展示されているメイン・ホールから横に入ると、小品だけを飾った室内に、アンドレア・デル・サルトーの絵が二枚並んでいる。その一枚、「ある女の肖像」の前に立ったヘミングウェイは、いつまでもこの絵を眺めていたらしい。

 私もこの絵が好きだった。大きな絵ではない。やっと8号ぐらいの絵だが、すずしい瞳を真っ直ぐに向けてくる若い娘。そのふくよかな胸もとが眼の前にあった。ロンバルディアの農家の娘だろうか。深いえりぐりのあわいに、乳房の谷間が刻み付けられている。その乳房のふくよかさと、純白の輝きは、ルネサンスの女の清純な美しさそのものといっていい。
 若き日のピカソもこの絵は見たのではないだろうか。

 私が大切にしている家宝がある。
 ピカソのもっとも初期の、デッサンのノート。もっとも自分で買ったわけではない。作家の五木 寛之さんから頂いたものである。
 この手帳は、1989年3月12日から22日にかけて、少年ピカソが、デッサンの練習のためにいろいろな対象を描き散らしたもの。手帳というより、メモ帖といったもので、タテが10cm、ヨコ12.5cm、表紙は手垢で薄汚れている。

 大切にしまってあるので、めったに眼にすることはないが、これを手にするたびに、私は五木 寛之の友情に感謝している。

2011/04/09(Sat)  1272
 
 私は、西島 大の芝居の演出に失敗した。

 この失敗もあって、私はやがて「青年座」から離れた。その後、西島 大は映画のシナリオで成功した。一方、私はほかの劇団でいろいろと演出したが、やがて「鷹の会」という小劇団を作った。この時期から悪戦苦闘がつづいた。
 お互いの「環境」(ミリュー)が、ひどく違ってしまったのだから、私たちが疎遠になったのも当然だったろう。

 私は、その後、小説を書いたり、やがてイタリア・ルネサンスの世界に足を踏み入れることになった。
 私は自分の世界を築くことしか考えなかった。
 だから、劇作家としての西島 大がどういう仕事をしているか、まったく関心をもたなかった。

 長い歳月をへだてて、西島 大と再会したのは、かつて共通の友人だった鈴木 八郎(劇作家)が亡くなって、そのお通夜の席だった。
 鈴木 八郎はついに無名の劇作家でおわったが、女流劇作家、若城 希伊子と親しかった。私は若城さんの芝居を演出したこともあって、ずっと親しくしていた。これも共通の友人だった鈴木 八郎が亡くなったので、若城さんといっしょにお通夜に行った。その席で西島 大と再会したのだった。
 その晩、西島 大、若城 希伊子とつれだって、近くの居酒屋で酒を酌み交わしたのだが、鈴木 八郎が無名の劇作家でおわったことから、西島はしみじみと、
 「中田もおれも、えらくなれなかったなあ」
 といった。
 「うん、お互いにえらくなれなかったなあ」
 当時の私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書くために悪戦苦闘していた。
 「あら、西島さん、知らないの? 中田さんは、ルネサンスの本を出したりして、えらいのよ」
 若城さんはいった。
 「へえ、そうかあ」
 そのあと西島は、テレビの仕事で、ローマに行ったことを話した。たまたま、書店でブリューゲルの画集を買った。むろんイタリア語なので解説は読めない。
 「中田君にあげるよ」
 しばらくして、ブリューゲルの画集が送られてきた。

 さらに後年。ある時期から、西島 大、若城 希伊子、私の三人が、もちまわりで内村 直也先生の誕生日をお祝いする集まりをもつことになった。
 その年の幹事が、会場、ゲストをきめて、内村さんを囲み、一夕、楽しく歓談するという集まりだった。けっこう、いろいろな趣向をこらして、内村さんをよろこばせた。

 西島 大が幹事の年は、赤坂の料亭で、女優の富士 真奈美がきてくれたこともある。
 西島が声をかければ、「青年座」の女優たちもよろこんできてくれたと思うが、私が「青年座」をやめているだけに西島 大が遠慮したのではないだろうか。
 若城さんが幹事の年には、慶応関係の人たちが招かれた。内村さんが、慶応の出身だからだった。
 私が幹事の年には、内村さんに私のクラスの女の子たちを紹介した。後年、一流の翻訳家になった羽田 詩津子、成田 朱美、早川 麻百合、大久保 庸子、作家になった長井 裕美子、バレリーナになった尾崎 梓、シャーロッキアンの籠味 縁たち。
 内村さんは、若い女の子に囲まれて、すこぶる上機嫌だった。

 1979年、内村先生が亡くなられて、この集まりは自然消滅した。

 若城 希伊子は、1999年、私の『ルイ・ジュヴェ』の出版の直前に亡くなっている
 西島は『ルイ・ジュヴェ』を、おもしろく読んだというハガキをくれた。
 その西島 大は昨年(2010年)に亡くなっている。
 後年、作家になった長井 裕美子も、2008年に亡くなっている。

 ジャン・コクトオのことばをかりていえば――こうして私の生きる航路の船のブリッジから、しだいに人影が消えてゆく。

2011/04/06(Wed)  1271
 
 西島と私は思わず顔を見合わせていた。
 ひょっとして、新手のストリート・ガールだろうか。一瞬、私は思った。
 「どうしたの?」
 西島が訊いた。
 「家に帰れなくなったんです」
 「遊びすぎたのか」
 「そうじゃなくて、家に帰りたいんだけど、お金が足りなくなっちゃって……」

 「おれたち、これからどこかに行こうかと相談してたとこなんだ。きみたち、ついてくるかい」
 すかさず、美少女がコックリした。
 「どうする?」
 西島に聞かれて、私はひるんだ。へんなことにまき込まれやしないか、と警戒心が先に立った。
 「ねえ、いいじゃない」
 美少女がつれの事務員のような女の子にいった。私はその娘をみた。眼と眼があった。一重まぶたのぼってりした眼をして、その眼に何か切迫したものがあった。
 「お兄さんたちも帰りの電車、ないんじゃないの?」
 美少女がいった。
 あらためて顔を見た。やはり美少女だった。目鼻だちのととのった、可愛い顔をしている。当時、西島が好きだったのは、小柄で、動作のキビキビした、お侠なタイプ、たとえばヴェラ・エレンのような女優だった。西島はこういう美少女が好きなのだった。

 1時間後に、私たちは道玄坂の奥の和風旅館にいた。
 隣りの部屋に西島が美少女と、私は事務員ふうの女の子といっしょに泊まった。私は、芝居のことが頭から離れなかったので、女の子を抱く気分ではなかった。
 となりの部屋であの女の子がせつなげな声をあげはじめた。すると、私の隣りに寝ている女の子が、黙って私の上にのしかかってきた。

 My wicked、wicked days.
 何十年もたった現在、まるで夢のなかのできごとのようにこの夜のことを思い出す。
               (つづく)

2011/04/05(Tue)  1270
 
 一年前に友人の劇作家、西島 大が亡くなった(2010年3月3日)。

 彼の訃報を新聞で知ったのだが――

   肝細胞ガン。享年、82歳。1954年、劇団「青年座」創立メンバーの一人。
   「昭和の子供たち」、「神々の死」などのほか、映画「嵐を呼ぶ男」、テレビ・
   ドラマ「Gメン’75」の脚本を手がけた。

 20代のはじめの頃からの友人で、一時は親友といっていいほどだった。
 西島 大は伏せていたが、「日本浪漫派」の詩人、田中 克己の実弟だった。敗戦の日に皇居前で自決しようとしたほどの憂国少年だったという。
 私は、内村先生の「えり子とともに」のスタッフだったが、西島 大は内村先生の口述筆記をしていた。そんなことから、親しくなったのだが、当時の西島 大のことは、私の『おお 季節よ城よ』のなかにチラッと出てくる。

 私がはじめて舞台の演出を手がけたのは、発足してまもない「青年座」の公演で、西島 大の「メドゥサの首」という一幕ものだった。
 この芝居に東 恵美子、山岡 久乃たちが出たためか、「芸術新潮」に劇評が掲載された。「芸術新潮」に劇評がでるのはめずらしいことだった。いくらか世間の注目を浴びたのかも知れない。
 私は「青年座」で、西島 大の「刻まれた像」という一幕ものを演出したが、これは失敗だった。戯曲のできがよくなかったというより、私の演出がひどかったせいだろう。

 私は、芝居を終わったあと、出演者たち一人ひとりにダメ出しをしたり、部分的に稽古をやり直して、明日にそなえた。終演後の手直しだったから、11時を過ぎていた。

 楽屋口を出たところに、西島が待っていた。
 失敗した芝居の劇作家と、その演出家の気分がどういうものか想像できるだろうか。
 まして、お互いに友人で、お互いにそれなりの自信をもって初日を迎えたはずだった。
 西島が私を心配して劇場に戻ってきたとき、私が芝居の稽古をしてきたことはすぐにわかったはずだった。
 お互いに何もいわなかった。

 まっすぐに、西島が行きつけの酒場に行った。

 私はあまり酒を飲む気分ではなかった。芝居のことが頭から離れなかった。どこがわるいのか。台本のできがよくないのか。もし、そうなら作者にどう書き直してもらえばいいのか。私の演出はどこで間違ってしまったのか。
 俳優や女優たちがよくなかったとして、どういう指示をあたえればいいのか。その指示がまちがっていたらどうなるのか。
 無数の疑問が心のなかにわきあがってくる。
 じつは、この芝居の娘役に、私が教えていた俳優養成所の女の子を起用していた。本人も、私の抜擢にこたえて、いい芝居をしていたが、ベテランたちのなかでは、どうしても見劣りがする。私は、それをカヴァーするために、いろいろと工夫をしていた。それがあまり効果がなかったのかも知れない。
 私は、芝居のことなど、少しも気にしていないふりをして酒を飲みつづけた。西島も、自分の芝居のことなど、まったく口にしなかった。

 もう、終電車はなくなっていた。
 西島といっしょに渋谷の坂を歩きはじめたとき、私はすっかり酔っていた。まだ、人通りが多く、ネオンサインがきらめいている。若い女たち、ホステスたちが嬌声をあげていた。タクシー乗り場に長い列ができていた。
 私たちの前に、若い娘がふたり、歩いていた。
 思いがけないことに、西島がその一人に声をかけた。

 「ぼくたちといっしょに飲まないか」

 ふり向いた顔に、いたずらっぽい表情があった。美少女だった。
 もうひとりはごくふつうの娘で、不動産の会社か何かの事務員といった感じだった。
              (つづく)

2011/04/02(Sat)  1269
 
 ジェーン・ラッセルとマリリンには、どこか共通するところがある。

 無名の頃、ジェーン・ラッセルは、ロシア出身の女優、マリーア・ウスペンスカヤの指導を受けている。やはり無名の頃のマリリンは、これもロシア出身の演出家、マイケル・チェーコフ(劇作家、チェーホフの甥)の指導を受けている。
 それほど重い意味があるはずはないが、ジェーンとマリリンの「役作り」にはおそらく共通するものがあったのではないかと私は見ている。

 ジェーンは無名の頃、舞台女優として演技を勉強していたこと。
 彼女が指導を受けたのは、マリーア・ウスペンスカヤ。この名前から、マリーアの芝居を思い出すひとは、もういないだろう。

 マリーア・ウスペンスカヤは、1923年、「モスクワ芸術座」のアメリカ巡演に参加したが、ソヴィエトの革命をきらってそのままアメリカに亡命した。私たちが、マリーアを見ることができるのは、DVDの「孔雀夫人」(ウィリアム・ワイラー監督)ぐらいなものだろうか。この映画で、マリーアは、アカデミー賞、助演女優賞にノミネートされている。
 小柄で、上品な、おばあさんといった役で、よく映画に出ていた。題名を忘れたが、フランソワーズ・ロゼーが出たハリウッド映画に、マリーア・ウスペンスカヤがロゼーの義母の役ででていたのを覚えている。

 女優の評価はむずかしい。
 生前は、マリリンを圧倒するほどの人気があったジェーン・ラッセルでさえ、今では、ただ一度マリリンと共演しただけの女優といったあつかいなのだから。

 昔、映画、「黄昏」が公開された頃、作家の中井 英夫が書いていた。

 キャサリン・ヘップバーンはいいが、ヘンリー・フォンダの方は、痛ましいほど老いすぎて、映画を見る気になれない。たしか、そんなことを書いていた。
 スターという存在は、男女を問わず、老いるはずがない、という信仰がある、という。

 「レッズ」のウォーレン・ビーティーだっていずれ似たようなことになるのだろ
  うが、こちらはまだ保(も)ちそうだとかなにとか、スクリーンの外側でやき
  もきするうち時間はダリの絵さながら柔らかく腐蝕されてゆく。老いの砂。も
  ろく崩れて流れ出すそれに、観客もまた巻き込まれずにいない。

 こう書いた中井 英夫も、もうこの世の人ではない。

 大きな時代の変化が私たちに迫っている。それをひしひしと感じながら――福島の原発の大事故を知らずに、この世を去った作家や、女優たちのことを考える。
 これも、私の内部で、柔らかく腐蝕されてゆく。

2011/03/30(Wed)  1268

 ジェーンの出演作品は、「ならずもの」以外は、「腰抜け二挺拳銃」(48年)、「犯罪都市」The Las Vegas Story(52年)、「紳士は金髪がお好き」(53年)、「紳士はブリュネットと結婚する」(55年)など。

 マリリンが、現在でも、多数の人々に記憶されているのに対して、ジェーンはただ肉体派のスターとして、知る人ぞ知るといった存在にすぎない。

 ジェーンの登場後に、ハリウッド映画は、女優のディスヌーダがつぎつぎに登場する。1953年12月に、ヒュー・ヘフナーが、「プレイボーイ」の創刊号に、マリリン・モンローのヌードを掲載した。
 マリリンが、朝鮮戦争の最前線に、軍の慰問に出かけたように、新人女優のテリー・ムーアも、朝鮮戦線の軍の慰問に出かけたが、純白の貂の毛皮の水着を脱いで、ストリップ・ショーを見せた。これは、日本では報道されなかった。
 ダイスターのマルレーネ・ディートリヒは、ラス・ヴェガスのショーで、乳房の部分を透明なラミネートですっぽり蔽っているだけ、ノーブラのガウンで登場した。
 そうした動きが、すべてジェーンの登場の作用的結果とはいえないだろうが、ジェーンのエロティシズムはそうした流れの先頭を切っていたと、私は見ている。

 ジェーン・ラッセルとマリリンには、どこか共通するところがある。

 ジェーン・ラッセルが、ずっと後輩のマリリンに対して、親身につきあってやったのも、その時代の「セックス・シンボル」として生きなければならなかった(利点は大きかったが)つらさ、ジェーンとハワード・ヒューズとの関係、マリリンとハリー・コーンとの関係、監督、ハワード・ホークスに対する距離のとりかた、といった点で、共通するところがおおかったと見てよい。

 映画監督、ハワード・ホークスは、ジェーン・ラッセルとマリリンについて――

  「紳士は金髪がお好き」をつくるときは、ジェーン・ラッセルとの助力が大きか
  った。この映画を取るのはとても楽しかったが、何度も中止しようと思ったこと
  がある。ジェーン・ラッセルがいうんだ。「ちょっとこっちを向いてよ――監
  督さんは、それだけやってほしいのよ」すると、マリリンは、「あら、そんなら
  そうといってくれればいいのに」とさ。だけど、後年、マリリンと仕事をした監
  督に較べたら、ずっと楽だったね。後にマリリンがエラい女優になると、ますま
  す、ビビリはじめて、カメラの前で演じるのを拒みはじめたからね。何も演技が
  できないと思うようになっちゃって。

 私はジェーン・ラッセル追悼のつもりで、「紳士は金髪がお好き」を見た。
          (つづく)

2011/03/27(Sun)  1267
 
 3月23日にエリザベス・テーラーが亡くなった。
 彼女については、いずれあとで書く。

 同じ3月に、ジェーン・ラッセルが亡くなっている。享年、89歳。

 新聞に短い訃報(オービチュアリ)が出たか、「紳士は金髪がお好き」で、マリリン・モンローと共演したという記述がある程度だった。
 あれほど有名だった映画女優でも、この程度にしかあつかわれない。さすがに感慨があった。

 ジェーン・ラッセルは、マリリン・モンロー以前の「セックス・シンボル」だった。はじめてスクリーンに登場したのは、ハワード・ヒューズの「アウトロー」(1943年)だが、ジェーンの野性的な魅力は、たちまち保守的な階層からはげしい非難を浴びせられた。この攻撃のすさまじさは、その後のイングリッド・バーグマンに対する非難の嵐を思わせるものだった。
 アメリカにかぎらない。どこの国にも「良識」という名の、はげしいフィリピックスは見られるが、ジェーンは、それを逆手にとって、したたかにハリウッドで生きのびた。

 映画「ならずもの」Outlaw(42年)は、当時としては、大胆な露出で、上映中止になった。1941年に、ごく一部で公開されたままオクラ入りになり、戦後の1950年になって、ようやく公開された。
ジェーンは、一躍、有名になったが、映画としては、ハワード・ヒューズの「お遊び」で、ほとんど取り柄がない。

 後年、ジェーンは語っている。
 「私は戦った。ズタズタにされ、議論の的にされた。ダンスで、私に着せようとした衣裳のことで、つらい時期を過ごした。ほんとうにひどい衣裳で――何も着ていみたいな衣裳だったわ。」
 ところが、ヒューズは、この衣裳が気に入っていた。ダンスも気に入っていたし、ジェーンの胴体(トルソ)も気に入った。
 なによりも、撮影スタッフの眼をよろこばせたのは、大きな、褐色に日灼けした乳房だった。スタッフはジェーンに「チェスナッツ」(クリちゃん)というアダ名をたてまつった。
 映画は公開されなかったが――ジェーン・ラッセルは、巨乳女優として、世間の耳目を衝動させた。

 私たちは、戦後すぐにボブ・ホープの喜劇、「腰抜け二挺拳銃」で、ジェーン・ラッセルを知ったが――ジェーンの登場で、ハリウッドの「乳房崇拝」(ブレストカルト)が決定的なものになったと考えている。バストラインは38インチ。「巨乳女優」ジェーンの存在はそれほどにも大きかったと見ていい。
    (つづく)

↓「フレンチ・ライン」のジェーン・ラッセル

2011/03/25(Fri)  1266
 
 震災で、私もひそかに覚悟をきめた。
 さしあたって身辺の整理をはじめよう。これまでにも、多数の蔵書を整理してきたが、まだ残っている本が多い。書棚におさまりきれずに積みあげてあるのだが、この地震で崩れて散乱した。もっとも、たいして価値のある本はない。
 揺れがおさまると、すぐに積み直すのだが、余震のたびに崩れてしまう。

 もともと乱雑に積んであったのだから、どこが被害を受けたのかわからない。
 本の整理をしていると、書きかけの原稿、ヘタクソなデッサン、いちおう描いた絵などが出てくる。未発表の長編が出てきたが、読み返す気にならない。そのまま焼き捨てた。
 田栗 美奈子がお見舞いの電話をくれたので、そのことを話したら、ヒェーッと悲鳴をあげた。
 どうせ、くだらない作品だから、焼き捨ててもいい。
 そういうと、美奈子ちゃんは、
 「そんなことをなさるのなら、私が預かっておきます」
 という。
 私は笑ってしまった。

 今度の震災で、いろいろなものが失われてしまった。罹災者の人々にとっては、かけがえのないものだったに違いない。
 それに較べて、私の原稿などは、そもそも存在する意味も価値もないものばかり。別に惜しいものでもない。

 今も、本を片づけているうちに、昔、描いた絵のごときものが出てきた。いずれ焼き捨てるつもりだが、ほしい人がいたらさしあげてもいい。いや、誰もこんなものをほしいとは思わないだろう。
 仕方がない、焼き捨てるか。

 これから、時代は大きく変わるだろう。そうした変化をしっかり見届けたい。
 このブログは、社会の片隅にひっそりと生きている老作家のつぶやきにすぎない。ただし、まだまだ見るべきほどのことを見てはいないのだ。

2011/03/22(Tue)  1265
 
 今度の大震災は、さまざまなことを私たちにつきつけている。

 福島の原子力発電所(福島県/双葉町、大槌町)の惨憺たる事故で、一号炉、三号炉、続いて二号炉の爆発、あるいは炎上、さらに、高濃度の放射能が漏れ出して、自衛隊のヘリコプター、警視庁の放水車まで動員して、必死に冷却作業がつづけられている。

 東電は、はじめ10キロ、すぐに20キロの半径の住民たちの避難を要請したが、避難域はさらに拡大している。
 いち早く、アメリカ大使館は東京から疎開したばかりか、自国民に日本国外に退去するよう勧告した。福島県沖に向かった空母、「ロナルド・レーガン」、及びイージス艦をふくむ艦隊も反転し、西太平洋に退去した。
 フランスも、大使館員を帰国させている。むろん、ほかの各国も、おなじ行動をとっている。

 被災した原発付近の住民の県外避難もはじまって、避難先を転々とする人たちも疲労と不安のいろが濃くなっている。
 私は、戦時中の「疎開」を思い出した。

 私の知人の中国人女性、張さんも、17日に、家族といっしょに成田から帰国した。私は、千葉駅で会ったが、あわただしい別れだった。千葉駅は、「計画停電」で構内は薄暗くなっている。
 もうひとりの女性、路さんも、19日にマレーシアに旅立った。電話をくれたが――何かあってからでは遅い。幼い子どもを少しでも安全な場所に移したい、という。屈託のない、明るい声だった。

 私は、刻々と報道される福島の原子力発電所の惨状をつたえるNHKの報道、特に放射能の人体におよぼす危険性は、ほとんどないとするコメンテーターの論理、そして政府の枝野官房長官の発表を見ながら考えた。
 何かに似ている。さて、何に似ているのか。

 不意に思い出した。戦時中の大本営発表によく似ているなあ。陸軍報道部の松村 秀逸大佐や、海軍報道部の平出 孝雄海軍大佐の発表にそっくりじゃないか。

 第2号機のサプレッション・ルームの一部が損傷し、外部に放射性物質が流れ出した(15日午前6時)からあとの対応が遅れた。おなじ時刻に、第4号機が爆発し、さらに9時に火災を起こした。
 政府と東電は、ようやく事故対策統合本部を立てた(15日)。

 このときの東電側の発表、それを解説したNHKのコメンテーターの顔つきのしらじらしさ。人体に影響のない程度の放射能漏れという。まことしやかに、ウソをついている、ぬけぬけとした顔つきのようすが大本営発表にそっくり。

 今度の大震災は、さまざまなことを私たちにつきつけている。

 地震被害の拡大、原子力発電所の深刻な事故に乗じて、東京の株式市場での、日経平均株価が、急激に下落し、円高、株価の歴史的な全面安という事態に見舞われている。
 閣僚の与謝野某は、このニューズに、ただひとこと、「不見識」といい捨てたが、そんなことをいうほうが不見識なのだ。ハゲタカは、いつも屍肉をねらっている。

 戦争は平和の裡にある。天災は、じつは人災にほかならない。
 天災は忘れた頃にやってくる。そうではない。天災は私たちが忘れようと、忘れまいと、そんなことにおかまいなしにやってくる。

 そして、ガソリン、軽油、灯油の払底。庶民の買いだめ。買いあさり。

 日本人は、大正12年の関東大震災から、何度もおなじ行動のパターンをくり返している。やがて、私たちは思い知らされるだろう。
 繁栄のなかにこそ、欠乏があるという逆説的な事態を。

2011/03/16(Wed)  1264
 
 3月11日午後3時半。私は外出しようとしていた。
 家を出て、ほんの数十メートル歩いたとき、突然、ふらつくような感じがあった。地面がうきあがっている。眩暈を感じたのか。そうではなくて、直覚的に地震だと思った。いつもの震度3程度のものではない。かなり大きな揺れだった。
 この揺れがおさまったとき、私はこのまま歩きつづけようかと思ったが、またしても強い揺れを感じた。
 これが、東北/関東大震災の最初の印象だった。

 家に戻ったとき、たまたま通りかかった車が急停車した。やはり、これまでの地震と違う異常な揺れを感じたのだろう。しばらく運転席にいた人が、ドアを開けて外に出てきた。家の前の電線が大きく波うって揺れている。

 それからあと、テレビは、地震速報だけを流しつづけていた。

 観測史上、最大規模の地震という。
 震源は三陸沖、約10キロ。(マグニチュードは、その後、3回も訂正された。3月12日、最終的には、9.0と修正。このブログを書いているときは、8.8)。東北から関東各地、さらに新潟、長野、富山、石川にかけて。
 この地震によって発生した津波が、福島、宮城、岩手の沿岸に襲いかかっている。
 私の住んでいる地域でも、「コスモ石油」の製油所のタンクから火が出て、やがて隣接する石油コンビナートの施設に類焼する危険があった。(のちに延焼した。後記)

 この日、私の孫が就職して、その研修のため、東京に出かけている。
 地震から二時間ばかりたって、その孫から電話があって――首都圏の交通網のほとんどすべてがストップしている、という。当然、本人も帰宅できない。
 ほんの十数秒で、電話が切れた。

 テレビは地震のニューズだけを流しつづけている。各地の被害状況が断片的に入るだけで、全体の被害状況はまったくわからない。それでも、被害の大きさが刻々とわかってきた。

 大きな地震であることにまちがいはない。
             (午後七時/記)

              ★

 深夜、2時に眼がさめた。余震がつづいている。だいたい震度4、または3程度。

 3時14分、千葉、茨城を対象にした緊急地震速報が出た。
 これまで試験的に放送されたものを聞いたことはあるが、実際に速報を聞くのははじめてだった。ついにきたか。
 このあと10秒ばかりして、地震になった。震源は福島沖。マグニチュード、6.3。

 3時59分、こんどは長野、群馬、福島に、緊急地震速報。
 長野北部で、震度6強の地震。震源は、中越、深さ10キロ。マグニチュード、6.6。千葉県では震度4。

 4時09分、またしても、千葉、茨城を対象にした緊急地震速報。
 こうつづいて速報が出ると――あまり気分はよくない。
 これは千葉県では震度4。

 私は両親が大正12年の関東大震災を体験している。ふたりとも地震に対してつよい恐怖心をもっていたので、わずかな揺れにもすぐに反応するのだった。それかあらぬか、私も少年時代から地震に対しては敏感になった。
 その後、空襲を経験してからは、天災に対してあまり恐怖をおぼえなくなってしまった。

 今回の地震も、あまり気にならなかったが――
 翌日、田栗美奈子、吉永珠子、立石光子たちが、お見舞いの電話をかけてくれた。これはありがたかったし、うれしかった。

           ★

 東北/関東大震災は、おそらく現代史の大きなできごとになるだろう。
 この地震を契機に、私たちの時代が変わることは予想できる。かつての関東大震災が、私たちの意識、世界観にまで影響したように。

 千年に一度の大地震という。

   道喪向千歳  道はほろびて千歳になんなんとす

 ふと、私の胸にこんな一節がうかんでくる。むろん、ここでいう「道」は、大津波に襲われて壊滅した、三陸の町の道をさすものではない。しかし、その惨状を見て、私たちがおのがじし道がほろび去ったと観じても不自然ではない。
 テレビは、つぎつぎに女川、石巻、名取といった町を襲う巨大な津波のおそろしい様相をとらえている。高台に逃れた人々が、潰滅する直前の町にいて逃げまどう姿に声をあげる。
 音もなく、無数の家や車を飲み込んで進んでくる巨大で不吉な波の動き。私たちは、叫び声をあげたり、声を失って見ているしかない。
 そこにあるのは、まさに超自然的な現象に対する畏怖だろう。私たちの内面には、ことばにならない畏怖と、何かに対する絶望しかない。それは、少したってから嘆きになる、まだ感情とならない怖れなのだ。
 人間は、これまでに何度、こういう怖れに見舞われてきたのか。

 天変地異を前にして、人間の無力を感じないわけにはいかないのだが――作家は、こうした現実が、さまざまな場合の、まさに不条理な、まるで無秩序な現象の無限のつらなりを、しっかり認識しなければならないだろう。

  從古皆有波  いにしえよりみなほろびあり

  念之中心焦  これを思えば中心焼きつくす

 陶淵明の詩(己酉(きゆう)九月九日)を思いうかべる。私の勝手な解釈だが――昔から、生きとし生けるもの、すべては滅び去ってゆく。そういうことを思えば、自分の胸は焼けただれる。
 詩人の思いは、私たちにも親しいだろう。

 私は、この事態を第二の敗戦と見ている。

                 (3月14日 記)

2011/03/15(Tue)  番外
 
――管理人より――

  ☆中田耕治先生をご心配されている皆様へ
    先生はご無事でお元気にしていらっしゃいますので、ご安心ください。
    本コーナーは近日中に更新の予定です。


       

2011/03/10(Thu)  1263
 
 大学に舞い戻った頃、結婚を考えていた。
 在学中に翻訳をはじめた。最初の本が出たら結婚するつもりだった。
 月下氷人を内村 直也先生ご夫妻にお願いして、ささやかな結婚式をあげたのだが、このとき司会をつとめてくれたのは遠藤 周作。この式に、数少ない友人として鈴木 八郎、若い友人として常盤 新平が出席してくれた。

 結婚してもひどい貧乏だったので新婚旅行どころではなかった。
 三ケ月ばかりたって、仙台で、演劇講座のようなものがあって、私は講演を依頼された。このとき、私は妻といっしょに旅行した。これが私の新婚旅行になった。
 主催者側に、当時まだ東大在学中の木村 光一がいた。仙台で、私は常盤 新平に再会する。彼はまだ早稲田在学中ではなかったか。
 お互いにそれぞれの道に歩み出していた時期であった。

 鈴木 八郎は、「フィガロ」に、「とりかぶと」(一幕)、「長い夜の渇き」(一幕)を書く。

 彼は私から、しきりに新しいアメリカ文学の話を聞きたがった。たまたま私がミステリーや、新作の戯曲を話題にすると、じつに熱心に聞くのだった。私のほうは、彼から歌舞伎の話や、私の知らない戦前の芝居の話を聞くことが多かった。実際、鈴木 八郎はたいへんなもの知りで、芝居のことになると、知らないことがないくらいだった。

 私のところにくるときは、いつも俳句の宗匠のような恰好で、雨の日には、じんじんばしょり、ふところに足袋を隠して、雑巾で足を拭いてから、足袋にはき替えてあがるのだった。
 生まれは新潟だが、ことばは、いなせな江戸弁だった。私の母と、よく話があって、少し昔の歌舞伎役者や、芸事の話になると、それこそ玄人はだしだった。
 歌右衛門の熱烈なファンで、「黛(まゆずみ)」(一幕/「新劇」1955年4月号)に、そのあたりの機微がうかがえる。

 1953年12月、クリスマス・イヴの日、敬愛していた劇作家、加藤 道夫が自殺した。鈴木 八郎は、銀座の街を泣きながら、歩いたという。

 私にとっても加藤 道夫の死はつよい衝撃だった。まさか、泣きながら街を歩いたわけではなかったが。

 少し脱線するが――現在の私は、加藤 道夫が、クリスマス・イヴの日に死を選んだのは偶然ではないと考えている。じつは、この日はルイ・ジュヴェの誕生日にあたる。ジロドォーにひたすら私淑していた加藤は、当然ながらジュヴェにも絶大な関心をもっていた。私が評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いたのは、いってみれば、加藤 道夫へのレクィエムだったと思っている。
 加藤 道夫の死の直後に――当時、友人だった矢代 静一から、加藤が死を選んだ理由を知らされた。矢代は、「俳優座」から「文学座」に移籍したばかりだった。彼自身は伏せているが、矢代にはじめて戯曲を書かせたのは私だった。
 加藤が死を選んだ理由を知った私は暗澹たる思いだった。

 原 民喜の自殺とともに、加藤の死ほど衝撃的な事件はなかった。

 中村 真一郎や、堀田 善衛、原田 義人たち、そして矢代も書かなかったのだから、私も書くつもりはない。

 やがて、鈴木 八郎は、私がすすめたミステリーを読んで、たくみに換骨脱胎して、捕物帳仕立ての時代ものを書いた。ひどく達者な書き手だった。
    (つづく)

2011/03/07(Mon)  1262
 
 大畑 靖のことから、昔の友人たちのことを思い出した。
 すでに鬼籍に移った仲間たちのことを。

 たとえば、鈴木 八郎。

 1940年(昭和15年)、22歳のとき、内村 直也先生の薫陶を得た。
 太平洋戦争で、1943年、アリューシャンのキスカ島に派遣されたが、アッツ島の守備隊が玉砕したあと、キスカを撤退した。
 ただし、私たちはお互いの戦争体験をついに語りあったことはない。私はいっさい口にしなかったし、鈴木 八郎も自分の戦争体験を語ったことがない。だから、彼の体験は、鈴木 八郎の文学仲間だった若城 希伊子から聞いた。
 はるか後年(1969年)から、キスカ駐留の軍隊生活を小説に書くようになる。「馬と善行章」、「精霊とんぼと軍隊」、「草づたう朝の蛍よ」、「四日間の休暇」など。
 しかし、これらの作品はついに未発表のままに終わった。

 私が鈴木 八郎に会ったのは、1948年の早春。銀座の小料理屋の二階。
 銀座の復興はめざましかったが、築地、八丁堀、京橋界隈は無残な焼け跡が残っていた。食料の不足がつづいて、人心の荒廃が、戦後の不安が色濃く残っていた時期だった。
 この席では、お茶の一杯も出なかった。

 戦前、継続的に出ていた演劇雑誌、「劇作」が、菅原 卓、内村 直也を中心に復刊をめざしていた頃で、戦後演劇の研究会のような集まりだった。
 この席に、劇作家、田中 千禾夫、川口 一郎、小山 祐士、翻訳家の原 千代海がいた。ほかに、「文学座」の芥川 比呂志、慶応の芝居仲間だった梅田 晴夫。
 私はいちばん末輩だったが、この集まりで内村 直也先生から鈴木 八郎を紹介されたのだった。鈴木 八郎、32歳。中田 耕治、21歳。

 やがて、青山の内村 直也先生の邸宅の一室で、毎月、戯曲研究会が催されて、鈴木 八郎はその集まりの有力なメンバーだった。
 この戯曲研究会から、戯曲中心の同人誌「フィガロ」が生まれた。
 私は、おもに「近代文学」、「三田文学」に批評を書くようになっていたので、この戯曲研究会には顔を出さなかった。劇作志望でもなかったので、「フィガロ」にも関係しなかった  。

 「フィガロ」創刊当時の同人は、鈴木 八郎はじめ、蟻川 茂男(後年、TBSの芸能プロデューサー)<三国 一朗(TVのパーソナリティー)、三寿 満(劇作家)、西島 大、若城 希伊子たちだった。
 しばらくして、慶応出身の藤掛 悦需が参加する。劇作家、加藤 道夫、放送作家、梅田 晴夫の仲間だった。

 私は、鈴木 八郎とは親しくなったし、内村 直也先生を通じて、西島  大、若城 希伊子を知って、「フィガロ」にイラストを描くようになった。
 翌年、1940年(昭和15年)10月、NHKで、内村 直也先生が連続放送劇、「えり子とともに」を書くことになって、私はスタッフ・ライターのひとりに起用された。
ほぼ同時期に、西島 大が、内村先生の口述筆記をするようになっていた。
 (あとで知ったのだが、内村先生は、西島 大にフランス語を勉強させるつもりで援助なさっていた。西島は、フランス語のかわりに、もっぱら居酒屋などで勉強していた。)

 私は先生から毎月ポケットマネーを頂戴していたが、まるで無能なライターだったから、先生の期待を裏切った。
 この時期の私は、才能もなかったし、ろくに勉強もしなかった。だから、大学の英文科に舞い戻ったのだが、講師になっていた加藤 道夫が、私をつかまえて、
 「きみ、大学に戻ったんだって?」
 と声をかけてくれた。
 私は、批評家にもなれず、芝居の世界でも無名のままだった自分を恥じた。

 大学に戻ったのは、ほかにすることもなかったし、内村先生から経済的な援助を頂いていたからだった。大学に戻っても、教室にはほとんど出なかった。アメリカ兵の読み捨てたポケットブックを買いあさって、一日に1冊は読みあげることにしていた。大学の教室には出なかったから、英文学の講義もろくに聞かなかった。
 大学ではいつも研究室にたむろして、助手になった覚正 定夫(後年の映画評論家、柾木 恭介)、小川 茂久(後年、仏文の教授)、木村 礎(後年、学長になった)たちとダベっていた。だから、先生たちも私は学生ではなく、どこかの科の助手か何かだと思っていたらしい。

 私が酒の味を知るようになったのは、まず鈴木 八郎、西島 大、そして、私が学生として大学に戻ったとき、すでに仏文研究室の助手になっていた小川 茂久だった。
 戦後すぐに、ある雑誌で西村 孝次にやつつけられたことがある。数年後、大学の研究室でぶらぶらしていた頃、雑談しながら、
 「じつは先生にやっつけられたことがあります」
 というと、西村 孝次が驚いて、
 「きみをやっつけたって?」
 「中田 耕治といいます」
 西村 孝次は驚いた顔になった。
 その後、私は西村 孝次のクラスで少し勉強した。ときどき、神保町の「あくね」で、いっしょに酒を飲んだこともある。そういうときは、西村 孝次を先生などと思わなかったし、西村さんも私をもの書きとして扱ってくれた。おもしろい先生だった。
                           (つづく)

2011/03/07(Mon)  1262
 
 大畑 靖のことから、昔の友人たちのことを思い出した。
 すでに鬼籍に移った仲間たちのことを。

 たとえば、鈴木 八郎。

 1940年(昭和15年)、22歳のとき、内村 直也先生の薫陶を得た。
 太平洋戦争で、1943年、アリューシャンのキスカ島に派遣されたが、アッツ島の守備隊が玉砕したあと、キスカを撤退した。
 ただし、私たちはお互いの戦争体験をついに語りあったことはない。私はいっさい口にしなかったし、鈴木 八郎も自分の戦争体験を語ったことがない。だから、彼の体験は、鈴木 八郎の文学仲間だった若城 希伊子から聞いた。
 はるか後年(1969年)から、キスカ駐留の軍隊生活を小説に書くようになる。「馬と善行章」、「精霊とんぼと軍隊」、「草づたう朝の蛍よ」、「四日間の休暇」など。
 しかし、これらの作品はついに未発表のままに終わった。

 私が鈴木 八郎に会ったのは、1948年の早春。銀座の小料理屋の二階。
 銀座の復興はめざましかったが、築地、八丁堀、京橋界隈は無残な焼け跡が残っていた。食料の不足がつづいて、人心の荒廃が、戦後の不安が色濃く残っていた時期だった。
 この席では、お茶の一杯も出なかった。

 戦前、継続的に出ていた演劇雑誌、「劇作」が、菅原 卓、内村 直也を中心に復刊をめざしていた頃で、戦後演劇の研究会のような集まりだった。
 この席に、劇作家、田中 千禾夫、川口 一郎、小山 祐士、翻訳家の原 千代海がいた。ほかに、「文学座」の芥川 比呂志、慶応の芝居仲間だった梅田 晴夫。
 私はいちばん末輩だったが、この集まりで内村 直也先生から鈴木 八郎を紹介されたのだった。鈴木 八郎、32歳。中田 耕治、21歳。

 やがて、青山の内村 直也先生の邸宅の一室で、毎月、戯曲研究会が催されて、鈴木 八郎はその集まりの有力なメンバーだった。
 この戯曲研究会から、戯曲中心の同人誌「フィガロ」が生まれた。
 私は、おもに「近代文学」、「三田文学」に批評を書くようになっていたので、この戯曲研究会には顔を出さなかった。劇作志望でもなかったので、「フィガロ」にも関係しなかった  。

 「フィガロ」創刊当時の同人は、鈴木 八郎はじめ、蟻川 茂男(後年、TBSの芸能プロデューサー)<三国 一朗(TVのパーソナリティー)、三寿 満(劇作家)、西島 大、若城 希伊子たちだった。
 しばらくして、慶応出身の藤掛 悦需が参加する。劇作家、加藤 道夫、放送作家、梅田 晴夫の仲間だった。

 私は、鈴木 八郎とは親しくなったし、内村 直也先生を通じて、西島  大、若城 希伊子を知って、「フィガロ」にイラストを描くようになった。
 翌年、1940年(昭和15年)10月、NHKで、内村 直也先生が連続放送劇、「えり子とともに」を書くことになって、私はスタッフ・ライターのひとりに起用された。
ほぼ同時期に、西島 大が、内村先生の口述筆記をするようになっていた。
 (あとで知ったのだが、内村先生は、西島 大にフランス語を勉強させるつもりで援助なさっていた。西島は、フランス語のかわりに、もっぱら居酒屋などで勉強していた。)

 私は先生から毎月ポケットマネーを頂戴していたが、まるで無能なライターだったから、先生の期待を裏切った。
 この時期の私は、才能もなかったし、ろくに勉強もしなかった。だから、大学の英文科に舞い戻ったのだが、講師になっていた加藤 道夫が、私をつかまえて、
 「きみ、大学に戻ったんだって?」
 と声をかけてくれた。
 私は、批評家にもなれず、芝居の世界でも無名のままだった自分を恥じた。

 大学に戻ったのは、ほかにすることもなかったし、内村先生から経済的な援助を頂いていたからだった。大学に戻っても、教室にはほとんど出なかった。アメリカ兵の読み捨てたポケットブックを買いあさって、一日に1冊は読みあげることにしていた。大学の教室には出なかったから、英文学の講義もろくに聞かなかった。
 大学ではいつも研究室にたむろして、助手になった覚正 定夫(後年の映画評論家、柾木 恭介)、小川 茂久(後年、仏文の教授)、木村 礎(後年、学長になった)たちとダベっていた。だから、先生たちも私は学生ではなく、どこかの科の助手か何かだと思っていたらしい。

 私が酒の味を知るようになったのは、まず鈴木 八郎、西島 大、そして、私が学生として大学に戻ったとき、すでに仏文研究室の助手になっていた小川 茂久だった。
 戦後すぐに、ある雑誌で西村 孝次にやつつけられたことがある。数年後、大学の研究室でぶらぶらしていた頃、雑談しながら、
 「じつは先生にやっつけられたことがあります」
 というと、西村 孝次が驚いて、
 「きみをやっつけたって?」
 「中田 耕治といいます」
 西村 孝次は驚いた顔になった。
 その後、私は西村 孝次のクラスで少し勉強した。ときどき、神保町の「あくね」で、いっしょに酒を飲んだこともある。そういうときは、西村 孝次を先生などと思わなかったし、西村さんも私をもの書きとして扱ってくれた。おもしろい先生だった。
                           (つづく)

2011/03/05(Sat)  1261

 
 昨年の歳末、同人雑誌、「時間と空間」が、64号をもって終刊した。

 「時間と空間」は、庄司 総一(戦時中に『陳夫人』を書いた作家)の夫人、庄司 野々美、浜田 耕作、いしい さちこ、郡司 勝義といった人びとがいた。
 この雑誌、「時間と空間」に、大畑 靖は、毎号、小説を書きつづけてきた。

 私は、戦後しばらくして、大畑 靖を知った。
 彼も内村 直也先生の教えをうけたひとりだが、私と違って、ラジオドラマから出発したのだった。昭和29年、私は同人雑誌「制作」をはじめた。この同人に、常盤 新平、志摩 隆、若城 希伊子、鈴木 八郎などがいた。

 「制作」があえなくつぶれたあと、大畑 靖は「時間と空間」に移って、いらい営々として小説を書きつづけてきた。
 創作集に「ミケーネの空青く」(審美社)、「ある目覚めのひと時に」、「夢一つ」(ともに沖積舎)、「パパイヤの丘で」(新風舎)などがある。
 おだやかな作風ながら、だいたい私小説が中心で、一作ごとに自分の人生の年輪というか、じっくりと熟成された芳醇な味わい、生きることへの思いの深まりを感じさせる作家だった。私は「時間と空間」に発表された彼の創作は必ず読むようにしていた。
 ひとりの作家が年輪を加えながら成長してゆく姿を、二十年にわたって見つづけてきたことになる。寡作ながら、おのれの名利を求めず、ひたすら誠実に、身辺、心境を書きつづけた作家なのである。

 大畑 靖は「時間と空間」の終刊号に、「思い出箱」という短編を書いている。
 夫人が病いを得て入院したため、主人公が毎日、病院に通って介護につとめている。主人公も高齢のため、往復2時間もかかる通院はつらいのだが、老妻のために、苦労もいとわず介護につとめている。そんな日常を淡々と描いた小品だった。私はこれを読んで感動した。すぐにその読後感を書き送った。

 大畑 靖から礼状が届いた。そのなかに、

  「時間と空間」は、64号で終刊号を迎えました。よく続いたと思います。私は
  さいしょラジオドラマから出発しましたが、文学の本質を教えて下さったのは中
  田さんです。
  中田さんの才能、ひらめき、情感、そして根底に息づくやさしさ、そのすべてが
  私にとっての光であり宝でした。中田さんとの出会いこそ神様が下さったお導き
  だと心から感謝しております。

 ありがとう、大畑君。

 私も、大畑 靖も、おのれの信ずる道をただひたすら歩きつづけてきた。そして、お互いに老いた。そのことに悔いのあろうはずはない。
 私こそ、きみと出会えたことを心から感謝している。

2011/03/01(Tue)  1260
 
 溝口 健二の「楊貴妃」(1955年/大映)が公開された1955年。

   八十五マイルの急速で疾走してきたスポーツカー、ポルシェは、瞬間、横合
   いから飛出してきた一学生の車を避けることができなかった。轟音。血。ポ
   ルシェの主である二十四歳の青年は、車から跳ね出されて……死んだ。
   一九九五年九月三十日、ジェイムズ・ディーンが未来を”創る”チャンス
   を永久に閉ざしてから、一年が経つ。せっかちで非人情の映画界には決して
   短い月日ではない。

 映画評論家、荻 昌弘のエッセイから。(「ジェイムズ・ディーン論」)
 同時代を生きた若い俳優の死に対する、哀惜、憐れみが感じられる。

 石原 慎太郎の『太陽の季節』が発表されたのも、この年。

 まだ、作家になっていなかった山川 方夫が、私相手の雑談のなかで、
 「『太陽の季節』を読みましたか」
 「うん、読んだけど」
 「どうでしたか」
 「ああいうのが、新しい文学なのかな」
 山川 方夫は、当時、「三田文学」の編集をしていた。一方で、「文学共和国」という同人誌に「安南の王子」といった習作を発表しはじめていた。
 「石原 慎太郎なんか、たいした才能じゃありませんよ」
 彼はいった。

 石原 慎太郎を「文学界」に紹介したのは、斉藤 正直だった。このことは、誰も知らない。おそらく、石原 慎太郎も知らないだろう。
 斉藤 正直は豊島 与志雄の女婿で、戦時中に「批評」の同人だったが、後年、明治大学の学長になった。

 1955年。
 私は「俳優座」養成所の講師として戯曲論めいた話をしながら、翻訳をしていた。ひたすら雑文を書きとばし、ラジオドラマを書く、ようするに金が目当ての書きなぐり(ポットボイラー)だった。

 常盤 新平の『片隅の人々』に、当時の私の姿が描かれている。
 私は倨傲でおろかな文学青年だった。遠く、はるかな時期。

2011/02/27(Sun)  1259
 
 さしあたって何もすることがない。昔の映画でも見ようか。

 昨年、サイレント映画「ベン・ハー」は、リメイクものの「ベン・ハー」しか見られないと書いた(’10.12.10)ところ、このブログを見た池田 陽子さんが、「ベン・ハー/コレクターズ・エディション」というDVDでサイレント映画が見られる、と教えてくれた。「アマゾン」で買えるという。
 知らなかった。ありがとう、池田さん。

 ところで、私は昔の「ベン・ハー」を見るような気分ではないので、「戦後」の溝口 健二の「楊貴妃」(1955年/大映)を見ることにした。

「絶世の美女・楊貴妃の波瀾万丈の人生を、壮大なスケールで描く悲恋ロマン!」
 という。こういう惹句に意味はない。溝口 健二の作品でも、あまり評判にならなかった。つまりは、空虚な作品らしい。

 「楊貴妃」は、溝口 健二のはじめてのカラー作品。
 この年度の「毎日映画コンクール」で「色彩技術賞」を受けているのだから、当時としては最高のカラー作品だったと思われる。ただし、当時の撮影現場では、フィルムの色彩再現能力、レンズの性能からみて、おそらくたいへんだったと想像できる。京 マチ子の頬が削げて見えるのも、照明の輝度をあげるために、メークも変えたのではないか。この映画が、「日本映画技術賞」の照明賞を受けていることも、おそらくそのあたりにあるのではないだろうか。主演は、京 マチ子、森 雅之。

 京 マチ子は、戦時中に、溝口 健二の「団十郎三代」(44年)に出ているので、この監督の演出を体験していた。だから、溝口 健二の映画に出てもそれほど違和感はなかったはずである。
 京 マチ子の代表作は――「羅生門」(黒沢 明/50年)だろう。この映画で森雅之と共演しているが――夫と旅をしている途中、山賊(三船 敏郎)に犯される若妻を演じた。これは武士の女房という「役」だったが、眉を剃り落とした女の、能面のような無表情が強烈な印象をあたえた。
 「羅生門」のあとも、溝口 健二の「雨月物語」(53年)、衣笠 貞之助の「地獄門」(53年)などのコスチューム・プレイで世界的に知られる。
 ほかにも、「鍵」(市川 菎/59年)、「浮草」(小津 安二郎/59年)など、日本映画を代表する女優になっている。

 京 マチ子は、その後も谷崎 潤一郎原作の「痴人の愛」あたりで、みごとな肢体を見せているのだが、この映画の京 マチ子は、頬が削げて、「春琴物語」(53年)、「赤線地帯」(56年)ほどの魅力がない。相手の森 雅之も、それほどいい芝居をしていない。

 もっと可哀そうなのは、戦前のスターだった霧立 のぼるが、この映画では、ろくに台詞もない端役で出ていること。
 新人の南田 洋子が、せいいっぱいがんばっている。(この女優は、昨年、亡くなっている。)                     (つづく)

2011/02/23(Wed)  1258
 
 昨年の夏、飼い猫の「ゲレ」が老衰で死んだ。2010年の私にとっては、つらいできごとの一つになった。

 昨年は猛暑がつづいたが、夏になって、ネコは、しきりに私の身辺に寄ってくるようになった。いつもしきりに鳴いて何か訴えるのだが、それがうるさかった。エサが足りないのだろうか。
 私がそんなふうにいうと、老妻は、
 「エサは、ちゃんとやってありますからね」
 といった。

 「ゲレ」があまりエサを食べなくなって1年になる。まったく食べないのではなく、ひどく少ししか食べなくなっている。小皿のキャットフードも、せいぜい大さじに1杯程度。それもやっと食べたり、食べ残したり。
 食べ残したぶんをあとで食べれはいいのだが、自分の唾液で小皿が濡れるせいか、残ったぶんには口をつけない。

 それに、目がよく見えなくなっているのか。目の前にエサが置いてあっても、よわよわしくないている。
 ネコも食欲をなくすような酷暑だった。

 ときどき、私に寄ってきて、かるく私の手や腕を噛む。私の注意を惹こうという魂胆だろう。何を訴えようとしていたのか。

 そんなことがつづいて――ある朝、私が見ている前で倒れた。そのまま、20分ばかりして絶息した。

 哀れだった。

 16年の生涯だったから、大往生といっていいのだが、私には打撃だった。
 たかがネコが死んだ程度のことで落ち込むはずもなかったが、私はそれまで書いていた小説を中断してしまった。

 夏の終わり、私は「動物保護センター」という機関に連絡して、コネコをもらってきた。とても綺麗な白いネコだが、まるっきりダネコである。もらってきた当座は、片手の掌に乗るほどの大きさだったが、今はもう、両手で抱きあげると、たちまち噛みついたり、ひっかいたり。
 いまや、いたずらざかりのバカネコに変身している。

2011/02/19(Sat)  1257
 
 折口先生によれば、「あはれなる」ということばは、善悪を超越して、「心の底から出てくる」ことばなのである。

   其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所の、作者を遊離した――言ひ
   かへれば、其性別を超越した、中性の歌と見るべきものが多くなって来た。つま
   り、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情詩を作る様になってゐたのである。
   だから、かうした「あはれなる」が、平気に用ゐられたのだ。つまり、特殊な内
   容を持つたぶん学用語であつた訳だ。

 私(中田)はこういう部分に感嘆する。まさに、折口先生の卓見にちがいない。「恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情詩を作る様になってゐた」というだけのことだが、私などは、一度でいいから、こういうみごとな断言をしてみたいと思う。

 折口先生は――俊成卿女の歌の、「心ながい」人の恋の執着を自分のものとして表現しながら、「他人の境涯」を見るように見ている、という。

   自分の心を、あはれと観じているので、いわば、身に沁むやうな感傷を享楽して
   いるのだ。われながら言ひ表されぬ程に思はれるこの心のながさ、と言つた意味
   なのだ。まづ普通と見られる解釈の本筋に叶ふ様に、此語をとけば、さうとる外
   はない。

 折口先生の見方では、公経(きんつね)の作のテーマ、「あはれなる心の闇のゆかりとも」には「恋人をあはれと思ふ」と詠んでいるだけのものということになる。

 俊成卿女の「心ながい」は――長続きのする心の程が詠まれている。

   いつまでも人(恋人 中田注)を忘れず、捨てず、あはれを続けてゐる事だ。こ
   の場合も、「さ」という語尾によって固定さした処――文法的には、名刺化して
   ――を見ると、自由な抒情的な表現としては、固定してゐる様に見える。だが、
   一種の戯曲味から見れば、咎めることもない。だが、未練とか、執着とか言ふ風
   に訳すべきではない。美化した誇りをもってゐる。

 折口先生の注釈は、もう少しつづくのだが、私は、ここまで読んできて、ほんとうに心から感嘆した。ほんとうの批評は、こういうものなのだ。
 俊成卿女の歌を「きはまれる幽玄の歌なり」とした批評を、現代の大歌人がみごとに批評している。
 この短い注釈は、私がまじめにものを書くとき、そして芝居の演出をするときの目標になった。翻訳するときにさえ、この一節が心のどこかにあった。
 わずか一語、「心の長さ」の「さ」について。そして、おのれの書くもののどこかに「一種の戯曲味」をこそ。
 そして、恋の未練や、執着よりも、美化した誇りを。

 人を愛すること。あるいは、恋すること。

 折口先生から離れて、私の内面にもそういう願いがあった。

2011/02/17(Thu)  1256
 
 じつは、俊成卿女の歌には、「新古今」に別の作者の先例があるという。

    あはれなる心の闇のゆかりとも、見し夜の夢を だれかさだめむ

 権中納言 公経(きんつね)の作。
 そして、俊成卿女の歌集に、この「あはれなる心ながさのゆくへとも」の歌は出ていないという。
 今なら、俊成卿女は盗作問題で攻撃されるだろう。

 折口先生はいう。

   一人が、新しい技巧、詳しく言へば、表現法の異風なものを発表すると同時に、
   直に幾多の類型が現れた。其は単に模倣だとか、流行だとか、一言にかたづける
   ことの出来ないものだ。つまり、新しい共同発想の出現した訳になるのだ。此事
   実は、注意深い学者なら、既に心ついている筈だ。一部分の発想法――即、すが
   た――だけの問題ではない。
   却て意義は変化してゐても、全体の印象即おもむきが一つだ、と言はれるのだ。

 ここから、折口先生は「あはれなる」ということばの検討に入る。

   あはれなる――こうした語が先行して熟語を作る場合、或は結末の語となる場
   合を考えると、其処に、王朝末期から鎌倉へかけての、文学意識の展開が思はれ
   る。つまり、文学者たちの特殊な用法で、同時に、どんな用語例にも、多少なり
   とも小説的な内容を含んでゐるものと見なければならぬ。

 和歌史を知らないのだが――「あはれなる」という一語にこめられた感性、観念に「多少なりとも小説的な内容を含んでゐる」という意見に心を動かされる。
 折口先生にしたがって、「あはれなる」ということばには、感傷どころか、じつは人間の肺腑をつらぬくことばとしてうけとめるべきものと考える。
                          (つづく)

2011/02/14(Mon)  1255
 
 人を愛すること。あるいは、恋すること。

 ある人の文章を、年に一度は読み返す。
 ただし、ごく短い部分だけ。折口 信夫の「難解歌の研究」。
 ここで全文そのまま引用したいのだが、そうもいかないので、ごく短い部分、短い説明をつけながら書きとめておく。

    あはれなる心ながさのゆくへとも、見しよのゆめを だれかさだめむ

 俊成卿女の歌。

   きはまれる幽玄の歌なり。そのよの密事をば、その人と我とならではしらぬ也
   ただひとり心ながく持ちゐたるをも、人がしらばこそ、ありしちぎりをば、ゆめ
   ともさだめんずれ、と言ひたる心也。

 これを、折口先生がさらに解釈なさっている。

   この歌は、このうえもなく幽玄の歌だ。あの夜の(その頃の、という気分も含ま
   れていると見なければならぬ)二人の隠し事は、あの人と自分とを除いては(で
   なくては)他人は知らないのだ。

 折口先生はつづけて、

   だから、其後また逢ふ事をこころの底に持って、唯一人こころがはりもせずに
   待ってゐた、この心持ちをも、あの人が知ってくれるとしたら、この当時あった
   関係をば、きれいに諦めて、夢ともかたをつけて了はう、が併し、あの人は忘れ
   てしまつてゐるので、却つてあきらめられぬ、と言うふ風に吹いているものらし
   い。

 中田 耕治は考える。この歌は、なぜこのうえもなく幽玄の歌なのだろうか。ふたりだけのみそかごと。つまり、男と女という磁場で、それぞれのいのちの極みを生きたことは、だれも知らない。また、知られてはならないのだ。そして、それをしも、夢と観じることは、恋のはかなさ、というより、恋ほんらいの哀歓ではないか。
                             (つづく)

2011/02/12(Sat)  1254
 
 このブログは、たまたま心に思いうかんだだけの、よしなしごとを書きとめている。
 はじめから、トリヴィアだけをとりあげるつもりだった。

 ただし、それだけではどうも芸がない気がしてきた。
 そこで――これからは、自分が気に入った写真や、カット、デザイン、その他もろもろ、めずらしいもの、くだらないもの、皆いりごみのまま、ときどきここに出してみようか。
 だいたいは説明をつけないままで。
 ようするに、私のいたずら、あるいはダスト・ボックスと思っていただけるとありがたい。

 なぜ、そんなことを考えたのか。
 最近になって――自分がほんとうに考え続けてきたこと、心から敬愛してきた人びとのことを、これまでほとんど書かなかった――ような気がしてきた。

 たとえば、スタンダール。たとえば、ボードレール。たとえば、たとえば……とつづくなかに、ヴァージニア・ウルフ、アナイス・ニン、さらにアーシュラ・ヒージ。そのほかにも無数の魂がつながっている。……
 こうした人びとのことは、やはり、かんたんには書けなかったせいもある。

 Such subjects are like love. It should be entered into with abandone or not at all.

 さて、私のいたずらだが、今回は――昔の雑誌に掲載されたマリリン・モンローの記事を。
 ごくありふれたピンナップ。(トルー・ストーリー/1953年12月号)である。
 よく見れば、おもしろいことに気がつく。

 ヒルデガード・ジョンスンというサインの入った「3D時代のピンナップ・ガールズ」(3ーD PINUP GIRLS)という記事のトップ。

   立体映画とワイド・スクリーンの時代になってから、ハリウッドにはさまざま
   の異変がおこった。とにかく、3D、シネマスコープ・シネラマと、つい二、三
   年前までは名前を聞かなかったことばがどこへ行っても聞かれるようになり、
   カメラもライトも、演出のテクニックも変わってきた。ポラロイド眼鏡など
   という、夢にも考えていなかったアクセサリーもあらわれた。

 この記事は――立体映画には立体映画に向いた肉体が必要なのだ、というテーゼから、いままで美しい肉体で売っていた女優はどうなるか、そのあたりにふれている。
 「ハリウッドはじまって以来の異変といっていいかもしれない」という。

 2010年、「アバター」、「不思議の国のアリス」などの登場から、ハリウッドに3D時代が到来したといわれているが、じつは、今から60年も前に、立体映画が実現しているのだった。これが、一つ。

   おそらく、みなさんもすでに確信していることと思うが、マリリンはまさに
   立体映画むきの女優である。しかも、マリリンはこの一年間にあの有名なお
   尻のまわりを一インチ大きくしている。

 ヒルデガードさんの予想と違って、この時期、立体映画は「ハリウッドはじまって以来の異変」にはならなかったし、「マリリンが立体映画むきの女優」ではなかった。
 今だって、立体映画には立体映画に向いた肉体が必要なのだ、ということはないだろう。私たちは、もっと別のことを考えたほうがいい。
 メジャーの没落と、9.11、そしてリーマン・ショック以後の世界的な経済不況のまっただなかに立体映画が登場したことこそ「ハリウッドはじまって以来の異変といっていいかもしれない」のではないか。

 昔のトリヴィアを見つけていろいろとアホなことを考える私は、やっぱりアホの変人なのである。(笑)

2011/02/08(Tue)  1253
 
 私の母、中田 宇免(うめ)は、昭和51年2月8日に亡くなっている。享年、68歳であった。

 父の昌夫が亡くなったあと、母は私の住んでいる千葉に移った。私の家から歩いて十分足らずのアパートでひとり暮らしをするようになった。空地を庭にして、いろいろな植物を育てるのが趣味になったし、すぐ近くに大きな病院があるので、急病の際にも安心だった。
 この冬の寒さのせいか、ときどき、心臓発作を起すようになった。
 この8日の深夜、母から電話で、また発作を起した、と知らせてきた。私はすぐに駆けつけたが、母のようすを見ただけで、今回の発作はただごとではないと思った。
 すぐに救急車を手配したが、すぐ近くの国立病院の担当医は、自分たちでは対応できないと判断した。
 消防署員はつぎつぎに別の病院に連絡したが、深夜だったためか、どこの病院も急患の受入れを拒否した。やっと一つ、労災病院の許可がとれて、救急車はそちらに向った。
 
 私は母につききりで、救急車の中にいたのだが、消灯のために母の顔はやっと見わけられる程度だった。母は苦しんでいた。
 私は母の手を握りしめながら、
「お母さん、お母さん」
 と必死に呼びかけていた。

 ふと母が眼を開いて、じっと私を見ていたが、つぶやくように、
「ここはどこ?」
 と訊いた。
 それが最後のことばだった。

 労災病院に到着したとき、すでに母は死亡していた。

 母の死によって、私は大きな打撃をうけた。母は、私の日常にかかわりをもつ存在というより、私の内部にある何か永遠なるものだった。

 私がルイ・ジュヴェの評伝を書いた動機の一つは――私の母が、ジュヴェの熱心なファンだったからである。

 もう一つ。
 私が、百年も前のアメリカの無名作家の作品を訳したのは、ヒロインの名が「お梅さん」だったことによる。
 ほとんど知られていないこの女流作家の作品を、ヨネ・ノグチが読み、永井荷風が読んだというだけの理由で翻訳を思いたったのだが、このヒロイン、「お梅さん」に、どこか、宇免に近いものを感じたせいでもあった。

2011/02/08(Tue)  1252
 
 時代ものの作家では、長谷川 伸を尊敬している。

 こんなことばを見つけた。(出典は忘れたが、長谷川 伸のことば)。

     この歳になってよくある話。……ああ、あれを聞いておけばよかった。それが
     長丁場でなく、たった一言、別れてしまってから、あとを振り返ってみても、
     もう相手はいない。しまった、と思ってみてももう遅い。

 私なども、この歳になるまでに、「しまった、と思ってみてももう遅い」という思いをくり返してきた。

 長谷川 伸の随筆集に『我が「足許提灯」の記』(昭和38年刊)がある。短い文章ばかり集めたものだが、内容はおもしろいものばかり。

 九代目、団十郎は、芸は教えるものではなく、覚えるものだ、という信条をもっていたという。
 いっしょに舞台に出ている役者にいけないところがあると、叱る。それで直らないと、また叱る。それでも直らないと、またまた叱る。
 それでも直らないと、もう、そばから追いはらってしまう。

 五代目、菊五郎は、芸は教えることで上達する、と信じていたという。

 私は、むろん、九代目、団十郎も、五代目、菊五郎も見たことがない。ただ、長谷川 伸の随筆を読んでいて、五代目、菊五郎が、「芸は教えることで上達する」といったのは、教えた弟子の芸が上達するというだけではないような気がした。
 このことばの真意は――大名題ほどの役者なら、教える相手の芸が上達するようにしむける。これは当然だが――じつは、そのことで自分の芸も上達すると考えていたのではないか。

 長谷川 伸を読む。いろいろと教えられるので、ありがたい。

2011/02/06(Sun)  1251
 
 湯浅 真沙子という歌人の出自、境遇については何も知らない。
 戦後しばらくして、最愛の夫と死別したらしい。真沙子自身も病いに倒れる。あまりにも不幸な女性だった。

   何ゆえにああ何ゆえにわが夫は われを見すてて此世去りにし

 戦後の混乱のなかで、夫と死別した女の境遇を思えば、憐れとしかいいようがない。おそらくは肺結核の身で、ダンサーとという職業を選んだことも不幸だった。

    わが涙 乾くひまなし 長椅子のかげのスタンドにレコードきくとき

    所詮われただ浮草のかなしさよ 戀もなし情欲もなし ただに悲しむ

    かへりきて踊衣裳のさみしくもかかれる壁みて 涙ながるる

    うつ蝉のこの世か 食ふにも事欠きて 日々を苦しくただ生くる吾

    今日は今日 あすは明日 ただそれでよし ゼロの生活

 その歌に、嘆き、涙、素朴なニヒリズム、孤独感などの暗い倍音(オーヴァートーン)が響いている。そして、最後に詠んだ一首。

    われひとを怨まじ世を怨まじ これがさだめとおもふこのごろ

 これが辞世だったらしい。すべてを「さだめ」と観じて、真沙子は消えた。薄幸の女歌人であった。

 湯浅 真沙子の遺稿、『秘帳』が出版された年、高群 逸枝は、

    わが家の杉の梢にあかねさし 革命の世紀あけそめにけり

 という歌を詠む。
 こんな空疎な歌よりも、いまの私は湯浅 真沙子の諦念に心を動かされる。

2011/02/05(Sat)  1250
 
 私たちは、短歌に出会ったすぐれた女たちを知っている。
 樋口 一葉、菅野 スガ、梨本 伊都子、生田 花世、そのほか多数の女たち。湯浅真沙子もそのひとり。
 『秘帳』は、赤裸々に女の性を歌ったとして注目されたが、長い歳月を経た今となっては、庶民の女として、素直に女の性のよろこびを見つめた歌人として評価すればよい。

    緋ちりめんの腰巻前を乱しつつ 淫らのさまを鏡にうつす

    淫欲の果なき吾のこのおもひ かなへたまふひと 君よりぞなき

    二十分かかりてもまだ技(わざ)終へぬ甘き心地にひたるこのごろ

    灯を消して二人抱くとき わが手もて握る たまくき太く逞し

    眼つむりて 君たはむれの手に堪えず 思はず握る 太しきものよ

 これを露骨な性描写と見るだろうか。
 くり返していう。メディアで、セックスが堂々と書きたてられる時代とは、およそ遠いエロティシズムの世界ではないか。
 やがて、湯浅 真沙子はレズビアニズムの経験に眼を向ける。これは、結婚前の回想ともうけとれるのだが――ターキー(水之江 滝子)、川路 龍子といったスターたちのファンだったらしい――同性愛の経験から、あらたな世界が展開したと思われる。

    かの子おもへば堪えがたき夜あり わが肌狂ふ血汐に燃えたちにけり

    かの子おもへばひしといだきてその肌(はだへ)合わせてみたし乳房と乳房も

    こころもち涙ぐみたる瞳もて わが肩に倚るをひしと抱きにし

    よりそひて抱けばふるる乳なでて赤らむ顔を なつかしく見る

 この女流歌人の歌には、そのときに生きたすがたが塗りこめられている。その歌の背後に秘められた思いは、おのがじし時代とまっこうから対峙する。そうした思いは、熱く、重い。

 湯浅 真沙子とほぼ同時代に、石牟礼 道子は、

    それより先はふれたくなきこと夫もわれも意識にありてついに黙しつ

 と歌う。(昭和26年)

 湯浅 真沙子の歌には、こうした苦悩、沈黙はない。だからといって、石牟礼 道子に劣っているということにはならない。
   (つづく)

2011/02/03(Thu)  1249
 
 湯浅 真沙子の歌は、まぎれもなく「戦後」の混乱と、庶民の貧しい生活から生まれたものである。彼女の歌は、当時の左翼の「歌声よ よみがえれ」などとは、まったく無縁だった。彼女は、戦後の混乱のなかで、めぐりあった夫を愛し、はじめて知った性愛を深めてゆく。
 彼女の歌には、女としてのよろこびがあふれている。まだ、ロレンスも、ヘンリー・ミラーも、ましてサドが、裁判にかけられることなど想像もしなかった時代であった。オーガズムということばさえ知られていなかった時代に自然に女のセックスを歌いあげた。そのことに、彼女の短歌の存在理由、価値がある。
 歌人にとって、性愛はどういうものだったか。

    いかにせん かのたまゆらは 髪みだし 狂ひて 君の頬をば噛みにし

    こころよく死ぬるここちのつづくとき 吾は知らじな泣きてありしと

    朝あけに君なつかしむ わが床に乱れて散りし 桜紙かな

    旅の宿に隣りにきこゆ もの音に 吾らほほえみ抱き合ふ床

    五月野の晴れたるごとき爽やかさ 情欲(おもひ)充たせしあとの疲れに

 ここに歌われているのは、ひたすらな性のよろこび、オーガスミックな発見といったものではない。平凡な主婦のごくつつましい官能のめざめ、性に対する好奇心、その充足の感動というべきだろう。

 戦後に、中城 ふみ子、葛原 妙子、大西 民子、河野 愛子、河野 裕子、鳥海 昭子、浅野 美恵子など、多彩な女流歌人が登場したが、湯浅 真沙子は、こうした歌人たちとは無縁で、文学的に、その作歌のレベルにおいて比肩できるような歌人ではない。
 しかし、名もなき庶民の女として、おめず臆せず、女の性のよろこびを見つめた。そういう歌人だったことを記憶すべきだろう。

 たった1冊の遺作歌集、『秘帳』は、いみじくも短歌による私小説であった。
                           (つづく)

2011/02/02(Wed)  1248
 
 戦後すぐに、ヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』がベストセラーになった。性の解放は社会的な現象になる。おびただしいカストリ雑誌が氾濫する。解禁された性、エロティシズムに対する関心が、戦後の気分の大きな流れになった。戦時中きびしく抑圧され、禁圧されてきた「性」が、戦後、あからさまに表現されるようになった。(『完全なる結婚』の初版は、1946年11月)。

 5年後(昭和26年/1951年)、湯浅 真沙子の歌集、『秘帳』が出版され、もうひとりの女性歌人、中城 ふみ子の『乳房喪失』とともに注目される。
 さらに5年後(昭和31年)、別の出版社から再刊されたが、このときはもはやほとんど話題にならなかった。戦後のエロティシズムは、『秘帳』のレベルをはるかに越えたものになったからだろう。
 私自身は、昭和26年にも、昭和31年以後にも、この歌集、『秘帳』を読まなかった。ただ、関心がなかった。

 現在、「文学講座」というかたちで、さまざまな分野の作品を読み直しているのだが、たまたまこの歌集を読んだ。

 詩人の川路 柳虹が序文を書いている。

    この歌集は女性みづからの肉体的欲情を露はに歌ったといふ点で、一寸類がないものかと思ふ。いはば暴露的表現で、中には露骨だけで歌としては拙劣なものがあると思うが、大胆率直といふ点と、自ら臆せず性欲と肉体愛を歌ふことの正義感をもつてゐるような点で、一つのドキューメントとしても男性の歌にさへかつて無かったものである。

 なるほど、戦後すぐに「女性みづからの肉体的欲情を露はに歌った」ものと見ていいが、短歌として、さほどすぐれた歌集ではない。作者には「性欲と肉体愛を歌ふことの正義感」といった気負いはないだろう。全体に「大胆率直」というより、戦後の女性が素直に「性欲と肉体愛を」歌ったものと私は見る。
 この歌集が注目に値するのは、ごく普通の女性が自分の境涯を見つめながら、性生活の自然な感動を歌ったことにある。

 歌集『秘帳』は新婚のよろこびを詠んだ歌からはじまる。

    おとめの日おもひいでては夢のやう わが肉体を流す湯の水

    処女膜はすでに手淫にやぶられてありしか 痛みそれとおぼえず

    愛情のきわまりつひに肉体のまじはりとなる戀ぞうつくし

    片時もそばにあらでは休まらぬ この心知るひとは君のみ

    おもはずも声立ててける吾が口を 手もて蓋ふ 君憎らしき

    色情狂と人のいふらし 狂ふまでの愛あらば いかに嬉しからまし

 『秘帳』にはまったく露骨な表現はない。「戦後」、この程度の表現が世間の耳目を聳動させたのか。
 「愛情のきわまりつひに肉体のまじはりとなる戀」が、「戦後」のあらたな希望だった。比較のためにあげておくが、現在の日本では――あるアンケート調査によれば、セックスレスでもかまわないと答えた男性が37.8パーセント。女性は、37.2パーセント。
 セックスレスのほうがいいという回答は、男性で5.9パーセント。女性は、21.5パーセント。

 湯浅 真沙子が、現在のような、セックスレス、「草食系」、あるいは、雑誌、週刊誌などのセックスの特集記事を見たらどんな歌を詠んだろうか。
 つい、くだらないことまで連想してしまった。     (つづく)

2011/01/27(Thu)  1247
 
 すっと読んだだけでは、さほど優れているとは見えない。しかし、人事、風俗に関して、好きな俳句がある。

   行く女 袷(あわせ)著なすや にくきまで   太祇

 袷(あわせ)は、おもて、裏をあわせて作った着物。つまり、裏地つき。
 昔は、四月一日から五月四日まで、そして九月一日から八日までと、着る習慣になっていたとか。つまり、期間限定だったらしい。
 「著なす」は、着こなすの意味だろう。心にくいほどの着こなし、という。さぞやいい女だろうなあ。こんな句に思わずうっとりする。

   蚊帳に居て 戸をさす腰を ほめにけり    太祇

 たいして優れた句ではないが、繰り戸を閉める女の腰にいささか力がこめられて。それを見ている風情は、なかなか粋だねえ。
 この夏、尖閣諸島沖で、領海を侵犯した中国の漁船が、日本の海上保安庁の巡視船に故意に衝突した事件が起きた。このとき、官房長官の仙石某が、わが国の外交方針を「柳腰」と唱えた。(’10.9月)私は仙石某の無知にあきれたが――こういうバカはこの句を読んでも何ひとつ見えるはずもない。

   彼の後家の うしろに踊る 狐かな     太祇

 これまた、なかなかおもしろい。
 いたずら好きな人なら、いろいろパロディーできるだろう。

2011/01/26(Wed)  1246
 
 風邪がはやっている。

 私は虚弱な子どもだったので、よく風邪をひいた。学校を休んで、ふとんに寝かされているのは退屈だった。枕に頭をつけて見ていると、閉めきったガラス戸からもれる光に、小さなゴミが浮遊するのが見えた。

 発熱した頭で、ぼんやりゴミの動きをいつまでも見ている。

 母親が手当てしてくれるのがうれしかった。

 風邪のひきはじめには、ネギをミジン切りにして、生ミソをくわえたものに熱湯をそそいで、寝る前に飲む。

 大根オロシに、ショーガをすりおろしたものを混ぜて、ショーユをかけ、あつい番茶をかける。それが風邪に効く、とされていた。
 母親が、枕もとにもってきてくれるので、腹這いになって飲む。おいしいものでもなかった。

 火鉢に炭火がおきている。鉄瓶がジンジン音を立てている。

 灰の中に、キンカンの実を埋めて、まっくろになるまで焼く。皮がくろくなったキンカンの実をとり出して、お湯をかける。

 いまどき、どこの家庭でもこんな療法はやらないだろう。こんな民間療法にどんな効果があったのかわからない。
 私は、あまり風邪をひかなくなっている。
 風邪をひいてもお医者さんの診察をうけることはない。
 台所で――大根オロシに、ショーガをすりおろしたものを混ぜ、ショーユをたらしてお湯にまぜて飲む。
 ふと、亡き母親のことを思い出す。

2011/01/21(Fri)  1245
 
 しばらく前に、ワキ役俳優、アンデイ・デヴァインのことを書いた。
 舞台や映画で、たくさんの俳優や女優を見てきたので、アンデイのようなワキ役専門の俳優のことが心に残っている。

 有名なスターたちと違って、ワキ役の俳優、女優たちのことはほとんど知られていない。私は、そのときどきに見た「彼」や「彼女」の姿、演技、ときには声まで思い出す。なつかしさもあるが、その俳優、女優たちの存在が、映画芸術をささえてきたことが思いがけないあざやかさでよみ返ってくる。

 たとえば、ジェームズ・グリースン。
 小柄で、痩せたアイリッシュの老人だった。今の私たちが、ビデオやDVDなどで見られる映画は、「毒薬と老嬢」ぐらいだろうか。
 この映画では、頭のおかしい殺人者の老嬢たちの邸にやってきて、主役のケーリー・グラントをあわてさせる刑事をやっていた。タフで、鼻っ柱がつよいが、人情にあつい。そんな「役」が、ジェームズ・グリースンにぴったりだった。
 (ニューヨークの警察官、刑事には、アイルランド系が多い。)

 もともとブロードウェイ出身の演劇人だった。劇作家、演出家として知られたが、プロデューサーをやったり、俳優として舞台に立ったり。
 やがて、映画、さらにはTVに出るようになった。
 それだけに、舞台というものを知りつくした俳優だったはずである。そして、ほかのおびただしい俳優、女優たちの「運命」を見つづけてきたはずである。

 「幽霊紐育を歩く」Here Comes Mr.Jordan(1941年/コロンビア)に出て、42年のアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた。
 (「天国からきたチャンピオン」(1978年)は、この映画のリメーク。)
 私は戦後に見たのだが、主演のロバート・モンゴメリがへたくそな芝居をしているのに、ジェームズ・グリースンがやたらに達者な芝居をしているので感心した。
 このあたりから、ジェームズ・グリースンが出ている映画は必ず見ることにしたのだった。「ブルックリン横町」、「タイクーン」、「恋は青空の下」など。

 まず、「ブルックリン横町」は、エリア・カザンの監督第一作。ドロシー・マッガイアー、ジョーン・ブロンデルという異色女優の起用に若いカザンの気負いが見える。
 「タイクーン」は、ジョン・ウエインのアクションもの。まだ、それほど知られていなかったアンソニー・クィンがワキで出ていた。
 「恋は青空の下」は、フランク・キャプラが戦前に撮った「其の夜の真心」のリメークもの。「戦後」のキャプラの彷徨と枯渇がまざまざと感じられる。
 ジェームズ・グリースンは、戦前の「群衆」(41年/フランク・キャプラ)にも出ているが、この映画ではほとんど目立たない。

 戦時中、アメリカに亡命したジュリアン・デュヴィヴィエが、ハリウッドで撮った映画に「運命の饗宴」(Tales of Manhattan/42年)がある。
 これは、オムニバス映画。第3話は、貧しい音楽家が、大指揮者に認められて、カーネギー・ホールで自作の交響曲を指揮することになる。貧しいので、当日着て行くタキシードがない。教会の神父さんの計らいで、妻が質流れのタキシードを手に入れて、破れたところをつくろって、夫の門出を祝うのだが……

 貧しい音楽家の夫婦を、チャールズ・ロートン、エルザ・ランチェスターがやっていた。ふたりは、現実にも名優・名女優のカップルで有名だった。
 音楽家が、満場の嘲笑を浴びたとき、厳然として彼をかばう大指揮者を、フランスの名優、ヴィクトル・フランサン。
 ジェームズ・グリースンは、ニューヨークの貧しい教区で、しがない人々の生活を応援している神父さん。セリフもほとんどない「役」だが、これがとてもよかった。

 戦後の映画のなかで、ジェームズ・グリースンの存在はいつも輝いていた。

 ジェームズ・グリースンの最後の出演作は、スペンサー・トレイシー主演の「最後の挨拶」だが、日本では公開されていない。

 ジェームズ・グリースンは、1959年に亡くなっている。

 こんなことばかり書いているから――きみのブログは「地味」だねえ、といわれるのだが。

2011/01/20(Thu)  1244
 
 高津 慶子という女優がいた。私は高津 慶子のファンだったけれど、あまりに幼い頃に見たので、彼女の顔も思い出せない。

 経歴は、少しだけ知っている。

 1929年(昭和4年)、17歳で「松竹楽劇部」に入った。この年(昭和4年)7月、「帝キネ」に移る。おそらく「恋のジャズ」という無声映画が、最初の出演作ではないだろうか。

     初めての「恋のジャズ」の試写を初めて見た時は、何だか変な気持でしたわ。
     自分はこっちにゐるのに、向ふでは別の自分が動いてゐますでせう。そして、
     あそこではかう動いたのにと思ってるのに、変な風に動いてゐますし……
     ほんとに、踊る幻影といった気持ですわ。
     彼女はちょっと眼を細くして、その当時を思ひ出す。

 当時のインタヴュー記事から。

 1930年、19歳で、「腕」という映画に主演している。このあたりから、トップスターになった。

 高津 慶子は藤森 成吉の傾向小説、「何が彼女をそうさせたか」に主演している。傾向小説というのは、プロレタリア文学のこと。
 パート・トーキーにする企画だった。

 偶然だが、私は高津 慶子を2、3本、見ている。
 題名もわからないのだが、河津 清三郎と共演した映画では、愛する男が失業し、別の女のもとに走ったため苦しみぬいて、最後には男と心中して果てる女をやっていた。お涙頂戴のメロドラマだった。小学生の私は、美しい高津 慶子が不幸なまま人生を終えてしまうその姿に戦慄した。そして、彼女をさんざん苦しめたあげく、まるで無理心中のようなかたちで死んでしまう河津 清三郎がきらいになった。

 はるか後年、高津 慶子の写真を見て、もう忘れていた顔を思い出した。今の女優でいうと、水野 美紀にかなり似ている。私は、舞台劇『ユートピアの彼方へ』で見ていらい水野 美紀の熱心なファンなのである。

 自分の感性をずっと遡って行くと、高津 慶子と森 静子が浮かんでくる。
 この二人の女優が好きだったことは、ひょっとすると、その後の私の女性観になんらかの影響をおよぼしているかも。(笑)

2011/01/18(Tue)  1243
 

 1929年から、30年にかけての日本映画。

 「松竹」は、村上 浪六原作の「原田 甲斐」。市川 右太衛門、鈴木 澄子。
 鈴木 澄子は、後年たくさんの怪談映画に主演した女優さん。この頃は、可憐な娘役で、はるか後年、多数の怪談に出るようには見えない。まったく、女はこわいね。

 この頃、浪六の人気が高かった。つぎつぎに映画化されている。「東亜映画」が「三日月次郎吉」を、嵐 寛寿郎、原 駒子で。おなじ浪六の『かまいたち』が、澤村 國太郎、マキノ智子の主演で。これは「マキノ映画」。
 その「マキノ映画」が、「敗戦の恨みは長し」というロマンス・メロドラマを出している。帝政ロシアから亡命した音楽家と、その門下で音楽勉強に勤しむ日本娘のせつせつたる恋物語。秋田 静一がロシア系のハーフの芸術家。彼の行く手には松浦 築枝。彼はミューズの愛に救われる。別に深い意味はないはずだが――「敗戦の恨みは長し」という題がはるか後年の日本の運命を暗示しているような気がする。

 「松竹」の現代劇は、北村 小松の「抱擁」を。岡田 時彦、及川 道子。「アラ、その瞬間よ」などという映画も。及川 道子はいい女優だった。この題名は流行語になった。及川 道子に魅力があったからだろう。
 当時、日本はアメリカの大不況の影響を大きく受けていた。(今と似たようなものだ。)だから、「不景気時代」などという映画が作られている。川崎 弘子、斉藤 達夫。
 「奪はれた唇」というメロドラマに、渡辺 篤、筑波 雪子。
 「女は何処に行く」は、栗島 すみ子、田中 絹代。

 「日活」の時代劇では、「大岡政談 魔像編」で、大河内 伝次郎、伏見 直江。
 「帝キネ」は、独立10周年記念で、「江戸城総攻め」。大仏 次郎の「深川の唄」を。佐々木 邦の「新家庭双六」に、杉 狂児。
 バンツマ(板東 妻三郎)は、大仏 次郎の「からす組」の撮影に入っている。

 残念ながら、私は、これらの映画のほとんどを見ていない。     (つづく)

2011/01/14(Fri)  1242
 
 1929年のベストテン。

      「ディスレリー」
      「マダムX」
      「リオ・リタ」
      「ブロードウェイの妖婦」
      「ブルドッグ・ドラモンド」
      「懐かしのアリゾナ」
      「藪睨みの世界」
      「チェニー夫人の最後」
      「ハレルヤ」

 ベストテンなのだからもう1本あっていいはずだが、資料がない。
 さすがにこの時期あたりから、私の映画知識も多少はしっかりしてくる。

 「ディスレリー」は、日本では「市民宰相」として公開された。主演はジョージ・アーリス夫妻。「マダムX」は、連続活劇のポーリン・フレデリックの「母もの映画」だが、ストーリーは――戦後、ラナ・ターナーがリメイクに出ている。この「母の旅路」で見ている人がいるかも。
 「リオ・リタ」は、もともとブロードウェイでヒットしたミュージカルだが、この映画はビーブ・ダニエルズが主演したもの。
 「懐かしのアリゾナ」は、ラウール・ウォルシュが撮ったはじめてのトーキー。この頃には、サイレント映画のスターたちが凋落して、ぞくぞくと新人俳優、女優が、ハリウッドに押し寄せている。

 このベストテンのなかで、私がいちばん見たい映画は「藪睨みの世界」。じつは、これもブロードウェイでヒットした The Cock−eyed Worldという喜劇。マクスウェル・アンダーソン、ローレンス・ストーリングスの合作。
 主演は、ヴィクター・マクラグレン、リリー・ダミタ。
 リリー・ダミタは、後年、エロール・フリンの夫人。

 マクスウェル・アンダーソンは、やがて『春浅き冬の頃』から大きく発展し、ついには壮大な歴史劇に移ってゆく。(私はマクスウェル・アンダーソンについて、みじかい紹介を書いたことがある。「現代演劇講座」河出書房刊)

 そういえば――リリー・ダミタの息子は、ヴェトナム戦争で従軍記者として活躍したが、70年代、冷戦のさなか、ウィーンで取材中に失踪している。当時のソヴィエト側の秘密情報機関による暗殺と見られる。                (つづく)

2011/01/11(Tue)  1241

 (No.1237からつづく)

 この夏、船橋で「第七天国」(フランク・ボゼージ監督)を見た。この映画は、戦後すぐに池袋の焼け跡にできたバラックの映画館で見ている。私が、はじめて見た戦前のハリウッド映画だったが、あらためて60年ぶりに見直したことになる。
 この日、私はかぎりなく幸福だった。まるで天使が私のとなりに舞い降りてきたようだった。
 戦後、アメリカ映画を自由に見られるようになったが、「第七天国」を見たとき、隣りに美しい女性がいて、胸がどきどきした。私は、ほんとうに解放感を味わっていた。
 この映画を見直して、連日の暑さで枯渇していた内面に火がついた。はじめて恋をしたようだった。私が長年心に秘めてきたのは、こういう思いだったのか。

 「第七天国」は、アカデミー賞最初の最優秀作品賞。ジャネット・ゲイナーはこの作品で主演女優賞を受けている。

 1928年のベストテン。

      「愛国者」
      「ソレルとその子」
      「最後の命令」
      「四人の息子」
      「街の天使」
      「サーカス」
      「サンライズ」
      「群衆」
      「キング・オブ・キング」
      「港の女」

 私の見た映画は、「サーカス」、「群衆」、「港の女」だけ。
 私はとても映画研究家にはなれない。

 「サーカス」は日本では未公開だったが、戦後、パリの「オデオン」で見た。日本では見られなかったチャプリンの活動写真をパリで見た。観客は、子どもたちが多かったが、日本人は私ひとりだったのではないだろうか。これも忘れられない。この映画を見て、コメディを見る無上のよろこびといったものを知った。

 私が生涯の大半をかけてもとめつづけてきて、最近になってやっと手に入れたものを、チャプリンは、とっくの昔に手にいれていたような気がする。

 それをなんと表現していいのか。ミューズとの邂逅といおうか。   (つづく)

2011/01/01(Sat)  1240
 
 2011年である。

 気のきいたことの一つもいいたいのだが、何もうかばない。

 ルネサンスに生きた、ポッジオ(1380〜1459年)の話を思い出した。
 ローマにさる有名人がいた、という。
 ある日、何を思ったか、葦でかこまれた壁の上によじ登った。(湿地帯で、あたりに葦がいっぱい生えていたらしい。)
 その葦にむかって、彼は演説をはじめた。市政を論じはじめたのである。むろん、人間相手ではないから、日頃、胸懐に秘めた不幸、不満、はては、天人ともに許さぬ者どもに対する激烈なフィリピクスもふくまれたことだろう。

 熱弁をふるっていたとき、一陣の風が吹きわたり葦の葉をそよがせた。
 それを見た雄辯家は、自分の話に賛成して頭をたれた人々と見立てて、
「ローマ人諸君、そんな敬礼にはおよびませぬ。私は、みなさんの中でも、もっとも卑小なる一人に過ぎません」
 と呼びかけた。
 このことばは、このときからローマの格言になったという。

 これだけの話。
 この男は、民衆にへりくだって見せたのか。それとも、謙虚な人物だったのか。あるいは、世間にむかって声をあげることのできない臆病者だったのか。ひょっとすると、おのれの夢想に生きたロマンティスト。いや、ナルシストだったのか。
 ポッジオは、この短いエピソードを、どうして自分のエッセイに書きとめたのか。

 2011年、新年を迎えて、私はぼんやりとこのローマ人のことを思い、このホームページに書きとどめて、春風駘蕩たる気分を味わっている。

 みなさんのご多幸を祈りつつ。

2010/12/29(Wed)  1239
 

 2010年が終わろうとしている。
 例年のことながら、私の身辺にもさまざまなことがあった。
 そうした哀歓に私はおろおろしながら向きあってきた。ただ、黙って対処してきただけのことであった。
 おかしなもので、わるいことがふりかかってくると、それを上回るようないいことがやってくる。人間万事、塞翁が馬。そう心得て生きるしかない。

 かつて私は書いた。

 「青春というものは、ある意味では、ながい模索の時期でもある。たとえば、自分の周囲をおしつつむすべてのものを理解しようと努め、それができないときに不安におそわれ、なかなか前に進めない状態。
 私自身にしても、自分の過去をふりかえってみると、未決定の将来に対して、ある野望をもち、しかも、その実現をはばまれているといった時期に、何度遭遇したことだろう。
 また、たとえば愛。
 自分の過去をふりかえるとき、その追憶の入口に大きく立ちふさがって動かない女たち。
 私の青春のはじめに、この現実の意味を痛切に思い知らされた女たちについての、くるしい模索があった。」

 これは、私がやっていた演劇グループの公演のパンフレットに書いた文章の一節。
 半世紀後の私自身が、おなじ思いで生きていることに気がつく。滑稽というか、哀れというか。

 2010年は、私にとって「くるしい模索」のつづいた不幸な年だったが、あらためておのれに許された幸福に感謝したい年でもあった。

 2011年が、どういう年になるかわからない。ただ、自分にできることを少しずつ実現してゆく。眦を決して、というのではなく、ただ自然に生きてゆく。

 このブログを読んでくださっているみなさんに心からの挨拶を送る。

2010/12/17(Fri)  1238
 
 歳末、思いがけないことから阿佐ヶ谷の、さる病院に緊急入院した。

 最近の私は、幸運と不運が折り重なってやってくるらしい。
 12月11日、私はほんとうに幸福だった。この数年、私は「現代文学を語る」という連続講座をつづけているのだが、この日は「戦後の映画批評について」語った。
 たまたま、映画批評家、荻 昌弘の仕事を論じることになったのだが、令嬢の荻 由美さんが、わざわざ軽井沢から聞きにきてくれた。おなじ軽井沢在住の作家、山口 路子さんが知らせてくださったという。ありがたいことであった。おふたりに心から感謝している。

 さて、講義を終えたあと、暮れなずむ冬の繁華街、小さな旗亭で、私を中心に、クラスの有志によってささやかな忘年会が開かれた。とても楽しい集まりになった。

 現在の私はほとんど酒をたしなむことがなくなっているのだが、この夜はほんのわずかアルコホルを頂くことにした。
 その宴の終わりに――不覚にも意識が途切れた。

 私のようすがおかしい、というので救急車が呼ばれたらしいが、担架に乗せられたときはもう意識も恢復していた。
 だが、たちまちにして私は救急患者とあい成った。おのれの運命の拙なさにあきれるばかりである。

 現在、まったく心身爽快。

 日曜日の夜、評判のドラマ「坂の上の雲」(子規逝く)を病室のテレビで見た。兄、子規の死をみとった妹(菅野 美穂)を見ていて涙が出てきた。病室で、このドラマを見たせいもあるだろう。
 あとは「文学講座」のために準備した新刊の『映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエ』という500ページの大冊を読みつづけている。
「舞踏会の手帳」、第二次大戦のデュヴィヴィエのアメリカ亡命に関して、私の『ルイ・ジュヴェ』に言及がある。

 以上、近況報告。
 いろいろ世話をしてくれた安東 つとむ、田栗 美奈子、村田 悦子、濱田 伊佐子、真喜志 順子、見舞いにきてくれた立石 光子、池田 みゆき、吉永 珠子、そして私の身を案じてくれたみなさんに、心から感謝している。

2010/12/10(Fri)  1237
 
 アメリカ人もあまり知らないことを書いておこう。

 もっともアメリカの資料をあたって調べるのだから――アメリカ人が知らないことではない。そこで、「アメリカ人もあまり知らない」だろうこと。

 映画専門の日刊紙、「フィルム・デイリー」が、1922年から、歳末に、全米の映画ジャーナリスト、映画担当の新聞記者、新聞の映画批評家、全国紙の映画評論家、そして映画プロデューサー、著名な映画製作のスタッフ、映画館主などによる投票の集計がはじまっている、だってサ。

 1927年のベストテン。

      「ボー・ジェスト」
      「ビッグ・バレード」
      「栄光」
      「ベン・ハー」

 当時の投票システムでは投票者の所在地で、公開されたものを選ぶことになっていた。そのため、1926年製作の映画、この4本が含まれている。
 日本の映画ファンなら、たいてい見ているような気がする。むろん、誰ひとり見ているはずはない。

      「肉体の道」
      「第七天国」
      「チャング」
      「暗黒街」
      「復活」
      「肉体と悪魔」

 私が見たのは「ボー・ジェスト」だけ。UCB(カリフォーニア大学・バークレー)の映画科の付設劇場で。
 現在、ビデオやDVDで見られるのは、「第七天国」と「肉体と悪魔」あたりか。
 つい最近、「第七天国」を見直した。じつに60年ぶりに。
 ところどころおぼえていなかったので、新鮮だった。
 「ベン・ハー」や「復活」はリメイク作品でしか見られない。    (No.1241につづく)

2010/12/08(Wed)  1236
 
 さすがに冬である。すっかり寒くなってきた。
 映画のことでも書こうか。

 じつは、文学の世界で「現代作家 現在活躍している作家の作品」を、ほとんど読んでいない。好きな作家は多い。私の好きな作家は、山口 路子、多和田 葉子、角田 光代、西 加奈子、千野 帽子たち。

 翻訳家には――現在活躍している翻訳家には好きな訳者がいる。

 岸本 佐知子、田栗 美奈子、堤 理華、大友 加奈子、谷 泰子、田村 美佐子、高橋 まり子、圷 香織など。あげたらきりがない。

 最近に、公開された映画をほとんど見ていない。
 少し前までは、好きな時間にふらりと映画館に入って、途中から見て、次の回をアタマから見直して、自分が見たところまで見て、映画館を出る。そんなこともできたのだが、最近の映画館は、入場の時間がきめられていて、好きなときに勝手に映画館に入ることもできない。
 そもそも、こんなシステムがおもしろくない。だから、映画館に足を向けない。
 今年度、アカデミー賞に選ばれる作品は何だろう?
 そんなことも気にならない。勝手にしやがれ。

 ところで――アメリカ映画が、年間をつうじてベスト・テンを選ぶようになったのはいつ頃からだろう? そんなことを考える。エフレム・カッツの「映画事典」を調べればすぐにわかるのだが。めんどうだから調べない。
 寒いので、書庫に行くのがおっくうなのだ。

2010/12/03(Fri)  1235
 
 講座の初日、私は少し緊張していた。
 クラスに入って、みなさんの水をうったような静けさや、いま自分の目の前で、じっと私を見つめている人々に、当惑をおぼえたわけではない。自分のことばが熱心に聞かれている。と同時に、中田 耕治という、見たことも聞いたこともない、もの書きが、何をしゃべるのか、観察している。
 私は、熱心に、自分の知っていることをつたえようとしていた。
 みなさんが、おそらく一度も考えなかったことを、この教室ではじめて考えてもらおうとしている。「文学の楽しみ」について私の考えていることを、みなさんとおなじように味わうことができるだろう。

 むずかしい話はしなかった。さりとて、話のレベルをさげるつもりもなかった。
 ただ、短い時間のなかで、できるだけいろいろな話をしようとしたのだった。

 聴講している人たちが、だいたい高齢者だったので、その人たちが関心をもってくれそうなことをえらんだ。川端 康成の「浅草紅団」の一節を読んでもらう、ときに――
 昭和初年のエロ・グロ・ナンセンスの風俗を描いた細木原 一起と、「戦後」になって、かつての昭和初年の風俗を描いた杉浦 明雄のマンガといっしょに見てもらう、というふうに。

 この講座は、わずか4回だったから、すぐに終わってしまったが――いちおう責任は果たせたという満足感もあった。その反面、あれも話せばよかった、これもとりあげたほうがよかった、と残念な気もちが残った。もっともっと語るべきことも多かった。
 大学などでの講義と違って、いろいろと反省すべきことも多かった。
 そして、このクラスに参加してくださった方々に心からお礼を申しあげたい。

 あらためて、船橋の中央公民館の塙 和博氏に感謝している。

2010/11/29(Mon)  1234
 
 これまで、大学や専門的な教育機関、または図書館などでレクチュアをしてきた経験はあるのだが、地方都市の公民館が企画した「文学講座」で、一般市民のみなさんにお話をする機会はあまりなかった。
 故・竹内 紀吉君の依頼で、浦安市の図書館で、イタリア・ルネサンスについて連続の講義をしたり、千葉市の老人大学で、永井 荷風について講義をした程度だったはずである。

 船橋市の中央公民館が私に講座を依頼してきたのは、おそらく偶然だったが、船橋は私にとってはゆかりが深く、なつかしい都会だった。
 しかも偶然ながら、この夏、たまたま中央公民館で、サイレント映画、「第七天国」を見たのだった。これまた私にとっては、忘れられないできごとになった。
 その中央公民館から講座を依頼してきたのだから、私としてもうれしかったし、それだけに、熱心に話をしたのだった。

 講座の最終回に、参加者にアンケート用紙がくばられた。質問の項目のひとつに――
 「今後、文学関係の講座で取り上げてもらいたい内容(作家、作品、時代など)は何ですか――」とあった。
 いろいろな回答がある。
 このリストだけでも市民講座のレクチャアのむずかしさが、うかびあがってくる。

  古典 なんでも
  万葉集、源氏物語
  万葉集 (古典を勉強しているので)
  徒然草
  良寛
  芥川龍之介
  夏目 漱石、ゲーテ、トルストイ
  夏目 漱石、森 鴎外、樋口 一葉
  永井 荷風
  小林 多喜二、遠藤 周作、吉村 昭
  川端 康成、芥川龍之介
  太宰 治
  三島 由紀夫
  村上 春樹、司馬 遼太郎
  岡部 伊都子
  萩原 葉子
  現代作家 現在活躍している作家の作品
  山本 周五郎、藤沢 周平
  長谷川 伸の「関の弥太っぺ」
  ノーベル賞を最近受賞した作家

  ひゃあ! これは凄いね。

 こういう要望に答えるためには藤村 作、斉藤 茂吉、柳田 泉、木村 毅、伊藤 整、さらには大衆文学のイデオローグだった尾崎 秀樹、そして佐伯 彰一、磯田 光一をいっしょにしたほどの学識が必要になるだろう。

 残念ながら、私には、こんなにいろいろな作家、作品、時代をとりあげる力はない。


 講座のテーマが「文学の楽しさ」だったから、私としても、なるべく「楽しい」ことを中心にしゃべった。
 だが――「文学を楽しむ」ことには、自分が絶望したときの「なぐさめ」として役に立つということも含まれているだろう。

 私は、聴講者たちと、いっしょに、これまであまり気にかけていなかった世界にいっしょに入っていきたいと思った。その世界では、深い叡知が秘められていて、その作品がもたらす感動が、ちからづよく表現されているのだ。
 私が、太宰 治や、梶井 基次郎の短編といっしょに、桂 歌丸や、海野 弘のエッセイを並べたのも、そして、亡くなったばかりの池部 良のエッセイをとりあげてレクチュアしたのも、そこで語られている人生のおもしろさに眼を向けたからだった。

    塔も 船も そこに住む人間なしには 役に立たない

 からである。(これは、ウロおぼえのソフォクレス。)   (つづく)

2010/11/27(Sat)  1233
 
 この秋、船橋で、文学について語る機会があった。今年は「国民読書年」とかで、私のような老いぼれ作家まで講座にひっぱり出されたらしい。

 題して「文学の楽しみ」。4回。

 (1)「小説を読む楽しさ」  テキスト  梶井 基次郎の「檸檬」
 (2)「エッセイを読む」   テキスト 海野 弘の「蘆花公園から実篤公園まで」
 (3)「作家は何を見ているか」テキスト 太宰 治の「満願」ほか
 (4)「読む」から「書く」へ テキスト 桂 歌丸の「心の風景」ほか

 応募者が多かったため、抽選で、参加者、48名。

 最終回に、アンケート用紙がくばられ、30名以上の回答を得た。

     講座「文学の楽しみ」の内容はいかがでしたか。
     1.大変良かった
     2.まあまあであった
     3.良くなかった
     4.難しかった
     その理由をお書きください。

 いろいろな回答がある。いくつか、無作為に選んでみよう。

 (1)「小説 又はエッセイの捉え方を改めて考えた事がなかったが、先生の見方があって、いろいろな捉え方がある事が解った」。
 (2)「先生のお話が大変良かった。文学について自分の知らない事をイロイロ教えて下さった。」
 (3)「小説の読みかた、自分にあった文学を読む。それが文学を楽しめばよいということを学んだ気持ちです。」
 (4)「作家の背景、生活状況のイメージが掴めた。」
 (5)「もう少し、テキストの内容に添った解説が欲しかった。」
 (6)「豊富な先生のお話に自分の考えも広がり、読むことに又興味も持てました。」
 (7)「豊富な話題で捉示していただけたのが面白かった。哲学的な思考へと導いて下さり、私の、もう使わず、ぼけてしまった頭脳への刺激となった。ただ、毎回、家に返って復習したが、今日のポイントは何だっけ? と今一つ、しっかりとまとめられないときがあった。「文学の楽しみ」との観点で、先生のお話に少し飛躍(?)があったのか、それとも、私がついてこれなかったのか・・」
 (8)「講師が聴講者の我々に対して、尊重の気持ちを込めて、すばらしい講義を出し惜しみなく熱心に。読書年にふさわしいすばらしい企画だったと思います。
 私達が先生の講義を聴くに値することを前提に、時間があっという間に過ぎる様に感じるお話でした。読むだけでなく、書きたい、実際に書いているアマチュアの私には、とても充実できたものでした。
 (9)「文学の奥深さ、幅広さ、楽しみといった事柄を再確認させてくれる内容であった。実りの多い、心豊かに過ごした2時間でした。
 (10)「自分流の小説の読み方から、講師の話を聞き、中身を変えて読んでみる事がわかりました。

 無記名だが、みなさんが熱心に聞いてくださったことがわかる。ありがたいことだった。
 ほかにも、いろいろな意見があった。

2010/11/21(Sun)  1232

 
 仙台市の荒町尋常小学校の卒業写真に、私たちのクラスの担任だった先生たちの姿をみることができた。
 昭和14年(1939年)の、2月頃に撮影されたものである。

 前列、左側から、佐藤 清吉先生。2年のときの担任だった。県展の審査をつとめた画家。私が、美術に関心をもったたのは、この先生の影響かも知れない。

 その隣に、校長、横山 文六先生。胸に勲章をつけている。
 つぎに、3年の担任だった佐藤 喜三郎先生。柔道の達人だった。
 そして、壺 省吾先生。4年、5年、6年と担任してくださった。

 この写真にはいないのだが、1年担当だった佐藤 実先生の姿はない。おそらく退任なさったのだろう。
 私にとっては、やさしい先生のおひとり。

 これも偶然だが、私は、三人の「佐藤先生」と、一人の「壺先生」に教えていただいたことになる。この4人の先生たちの薫陶をうけたことを、私はありがたく思っている。

 横山 文六先生には、直接、教えていただいたことはない。
 祝日になると、全校生徒が講堂に集められる。やがて、モーニングの正装で、紫の袱紗に包まれた巻物をうやうやしく奉持して、演壇に校長先生があらわれる。
 教頭先生の号令で頭を垂れている生徒たちに、かしこくも天皇の勅語を拝読するのが、横山校長の役目だった。へたな朗読で、生徒たちはいつも必死に笑いをこらえていた。

 あんまりたびたび勅語を聞かされるので。私はすぐに暗記してしまった。

 私は、四年から六年まで、壺先生に教えていただいたことを、生涯のよろこびとしている。
 残念なことに、壺先生は数年前に亡くなられた。

2010/11/17(Wed)  1231

 
 私は昭和14年(1939年)、仙台市の荒町尋常小学校を卒業した。
 思いがけず、その小学校の卒業記念の写真が出てきた。


 この年になると、小学校の思い出も茫々たるもので、荒町の通りに並んでいたわずかばかりの店や、小さな神社のお祭りに出る小屋掛けの見世物、呼び込みの胴間声、子ども相手の屋台店のアセチレンの灯、ときには田舎芸者の手踊り、ぞめき歩く見物人の流れ。そんな光景が、ぼうっと眼にうかんでくる。
 日中戦争がいつ終わるかわからないのに、ヨーロッパで戦争が起きていた。どこの町でも、赤紙一枚で出征する男たちを見送る人々の集まりが見られた。まだ小学生の私には、戦争は切実なものではなかった。

 その後、東京に戻ったが、少年時代の思い出にかかわるものは戦災ですべて焼失した。

 戦後になって、友人、亀 忠夫が、小学校卒業の記念写真をコピーして贈ってくれたのだった。

 ずっと大切に保存していたのだが、どこかにまぎれてしまって、いつしかこの写真のことも忘れてしまった。

 ここに写真の一部をのせておく。
 私は最前列にすわっている。1クラス、60人のクラスが四つ。私は、第29学級だった。
 他人には何の意味もない写真だが、老作家の身には、はるかな過去が不意によみがえってきた思いがあった。

 この写真、同級生のなかで、いちばんのチビだった。
 子どもたちは、みんながくったくのない表情を見せているが、私ひとりは少し斜めに顔を向けている。未決定の将来に、わずかながら恐れを抱いているように。

2010/11/11(Thu)  1230(Revised)
 
 この11月5日、西鶴を読んだ。
 むろん、偶然だが、次回の「文学講座」で吉行 淳之介をとりあげるので、勉強しようと思って。吉行 淳之介が、西鶴の現代語訳を試みているので、西鶴を読み返しただけのこと。
 ただし、無学な私は西鶴を読みこなす学力がない。

   さても、いそがしき遊興、角に、かたづき屏風、引き廻し、さし枕二つ、立ちながら、帯とき捨て、つらきながらも、勤めとて、ふし所を、口ばやに語り。すこし位をとる男を、耳引き、銭の入る事でもないに、ここらを少し洗はんせ。こちらへ御ざんせ。さてもうたてや、つめたい手足と。そこそこに身動きして、其男、起き出れば……  (石垣戀崩)


 こんな部分が、戦前には伏せ字になっている。
 あらためて、戦前の検閲の愚劣に怒りをおぼえた。

 西鶴のエロティシズムといっても、

   丸裸になって、くれなゐの、二布ばかりになりし。其身の、うるはしく、しろじろと、肥へもせず、やせもせず。灸の跡さへ、なくて、脂ぎったる、有様を見て……  (「墨繪浮世風」)

 こんな表現が当時の検閲に引っかかったのだから、呆れる。
 それにしても、西鶴らしい的確な描写で、女の美しい裸身をうかびあがらせている。
 西鶴のことばに――「われも老楽の何がなと思ふに鞠には足よはく揚弓に眼定まらず」という一節があった。(貞享2年=1685年)
 私も年老いて、何か楽しいことはないものかと思ったが、サッカーをしようにも足腰が弱っているし、矢場で遊ぼうと思っても、眼はかすんでいる。
 そんな意味だろうと思う。

「美扇戀風」に登場する老爺は、たいへんなエロジーさんで、立ち居も不自由なので「年は寄るまじきもの」と、相手の女が同情する。女は、「いとしきおもひながら、そこそこにあしらふ」。
 ところが、このオジーさん、「夜もすがら、すこしも、まどろむこともなく、今時の若いやつらが、うまれつき、おかしや」と女を弄ぶ。この部分も伏せ字。
 西鶴を読んで、私も考えた。このブログももう少し違った方向性を見せたほうがいいかも知れない。

2010/10/21(Thu)  1229

          5

 宇尾さんの訃を知った翌日、劇作家、西島 大の訃を知った。若い頃、私は彼の芝居を演出した。その劇評が「芸術新潮」に出たことも、いまとなってはなつかしい。
 私の知っている人たちがつぎつぎに鬼籍に移ってゆく。無常迅速の思いがある。

 佐藤 正孝君が亡くなって、やがて竹内 紀吉君が亡くなった。そして、今、宇尾さんの訃を聞いた。幻化夢のごとし。私にとって、すべては茫々たる夢に似ている。
 かつて、あなたは語った。
 生きている者も、死んだ人もそれぞれのばしょに戻ってゆく。静かにめぐる輪は、この場から立ち去る前の所作ごとなのだろう、と。
 宇尾さん。
 仲間うちで、いつも楽しく語りあいながら、あなたはいつも何かを学びとろうとしていた。作家としてのあなたの誠実さは、あなたの作品にいちだんと光彩をそえるものだった。そのことを、私はほんとうにありがたいものに思う。
いま、おのがじし心のままに別れを惜しみ、在りし日のあなたのことを思い浮かべて別れよう。
 そして、私はあなたに告げよう。

 宇尾さん、ながいこと、ありがとう、と。


※画像は宇尾房子さんと竹内紀吉君

2010/10/18(Mon)  1228
 
              4

 宇尾さんは、昨年の十月に亡くなったという。
 その十月、私にあてた手紙のなかで、

     女学校時代に依田という怖い老嬢先生に教わったことで、恐怖心が植えつけられ、外国語と親しくなることができずに一生を終ろうとしております。でも、外国の小説は好きですので、中田先生をはじめ、翻訳家の方々のおかげをいただいているわけでございます。
     中田先生のお弟子さま方もすぐれたお仕事をなさり、よき師に恵まれた皆様のお幸せをおもわずにはいられません。そのオデュッセウス氏さまのお一人、高野 裕美子さまの早すぎる死にはどんなにお心をいためられたことかと、お心の内をお察しいたしました。
     中田先生のお書斎で一緒だった、あの方が高野さんだったのかしら、とふっと思ったりしております。

 これが私あての最後の手紙の一節だった。
 高野 裕美子は、私の周囲にいた女の子のひとりで、後年、作家になった。ミステリー大賞をうけてまもなく亡くなっている。高野 裕美子のことにふれながら、宇尾さんはひそかにご自分の死を見つめていたのではないだろうか。
 宇尾さんから、よく手紙をいただいた。私がさしあげた雑誌の感想、私の作品に対する批評が綺麗な字で書かれている。私はいつもありがたく読んできたが、もう宇尾さんから二度と手紙をいただくこともない、と思うと、何かしら、涙ぐむような思いでむねがいっぱいになった。手紙をいただきながら、私からはろくに礼状もさしあげなかった。宇尾さんは、たいていの場合、私の作品を褒めてくれたので、お礼をいうのは気恥ずかしいことであった。だから、あらためてお礼も申し上げなかったのだが――おのれの傲慢に耐えられなくなって、宇尾さんの書状を前に、しばらく声もなくたたずむばかりであった。

2010/10/15(Fri)  1227
 
              3

 あるとき、私は自分の周囲にいる若い女の子たちに、短い長編を書かせた。このシリーズはいくらか評判になったが、宇尾さんにもお願いして長編を書いてもらった。私が期待したものとは違う内容になったが、宇尾さんにが書いてくれたことがありがたかった。宇尾さんは、ペンネームを使っていたから、あまり知られていないかも知れない。(注)
 宇尾さんは、生活のためにいろいろな仕事をしていたが、どんな仕事をしても、宇尾さんの誠実さは感じられた。
 室生 犀星のことばだが――もの書きは一人前になって、あなたの作品が好きだとか何とかいっても、いわれたほうがきまり悪い思いがするから、いっさいそんな見え透いたことはいわなかった、という。おなじような意味で、私は宇尾さんの作品について批評めいたことはいわなかった。
 「朝」の仲間といっしょに出したアンソロジー、『姥ケ辻』に、「花ばたけは春」という作品を書いている。老年をむかえた女性の境遇、内面を描いたもので、老年の華やぎといったものが感じられた。
 おなじ時期に、宇尾さんが、聖ハリストスのイコンの画家、山下 りんの生涯をたどっていたが、この評伝が完成しなかったのは痛恨のきわみだったと思われる。
 そのとき、宇尾さんの内面に何があったか、私などに忖度できるものではない。

注)『愛の雫はピアノの音色』 森 扶紗子著 双葉紗 1989年2月刊

2010/10/10(Sun)  1226
 
          2
 
 たまたま私の住んでいる土地に、小さな文学賞があって、私はかなり長く審査をつとめた。これが「千葉文学賞」で、初期の頃は、恒末 恭助、峯岸 義一、福岡 徹、窪川 鶴次郎の諸先生が審査にあたっていた。ある時期からは、長老の恒松 恭助さんを中心に、宇尾 房子、竹内 紀吉、松島 義一、私の五人が、審査にあたるようになった。この審査会は年に一度だったが、恒松さんのお人柄もあって、いつも楽しい集まりになった。
 審査の席で、宇尾さんと私の意見はだいたいおなじになった。文学観が違っても個々の作品の評価になると、不思議に似たような評価になる。そんなとき宇尾さんは私の面子を立ててくれたのだろうか。いや、宇尾さんにそんな成心のあろうはずはなかった。
 審査のあと、すぐには別れがたい思いで、宇尾さん、竹内君、松島 義一君と、近くの旗亭で、酒を酌みかわす。いろいろな話題が出たが、これがじつに楽しかった。
 だいたいは有名作家の作品が話題になるのだが、竹内君が何かの意見を述べと、松島君が切り返す。竹内君がムキになって反論する。宇尾さんは、かるく手をあげてふたりを制する。ときには顔に笑いをうかべたまま、これだから男衆は……とでもいいたげに、ハンカチを出して、口にあてるのだった。
 私たちが何を話したのか。今となっては茫々として思い出せないが、まるでたあいもない話題に私たちはいつも笑いころげていた。


 宇尾さんは、この「千葉文学賞」以外にも我孫子市の教育委員会編の「めるへん文庫」の審査などもやっていた。
 その「選評」に「みんなが幸福であってほしいとねがう優しい心や、この世の不思議になぜ? と問いかける心があったから物語ができあがったのです」と書いている。こんなことばにも宇尾さんのひたむきな制作の姿勢がうかがえるようだった。

 宇尾さんの小説に出てくる、ごくふつうの日常のなかに、ときどきギラリとひらめく異様な輝きのようなもの、ときには生理的にドキッとさせられるような部分。いかにも女流作家らしい、ゆたかな肉感性や、息苦しい背理といったもの。「日本きゃらばん」に発表された作品は、だいたいそういうものに彩られてはいなかったか。

2010/10/08(Fri)  1225
 
【No.1225〜1229は、「朝」29号(追悼・宇尾 房子)平成22年8月刊に発表されたエッセイです】


         1


 宇尾さんの訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなったという。私は、ただ茫然として、この知らせを聞いた。


 はじめて宇尾さんに会ったのは、いまからどのくらい昔のことだったのか、まるで思い出せない。そのとき、「文芸首都」の作家と聞いて、いささかたじろいだ。
 「文芸首都」は新人の育成をめざした同人雑誌で、この雑誌からすぐれた作家が輩出している。その程度のことは知っていたが、だからといって宇尾さんが「文芸首都」の出身と聞いておそれをなしたわけではない。
 私は「戦後」すぐから批評を書きはじめたが、いつも文壇とは関係のない場所に立っていた。文壇に知りあいはいなかったし、文壇関係の出版記念会や何かの集まりにはいっさい出席しなかった。まして同人雑誌の作家たちとは全く面識がなかった。
 千葉に住むようになって、たまたま「文芸首都」出身の福岡 徹さんと知りあいになった。福岡さんが主宰していた「制作」にエッセイを書いたりするようになって、やはり「文芸首都」出身だった庄司 肇さんに紹介していただいたように思う。
 その庄司さんが、これまたいろいろな方を紹介してくださった。宇尾 房子さんを紹介してくれたのも、庄司さんだった。
 宇尾さんは、庄司さんが主宰していた「日本きゃらばん」に作品を発表していた。この「日本きゃらばん」の関係で、私は宇尾さん、竹内 紀吉君と親しくなった。
 誰とも交際のなかった私の不器用な生きかたを気にかけて、いろいろな方がいろいろな人とひきあわせてくれた。そういう機縁でもなければ、竹内 紀吉君や、佐藤 正孝君、宇尾 房子さんと知りあうこともなかったに違いない。
 べつにめずらしい話ではない。ただ、このおふたりとは、世にありがちな同人雑誌の離合集散などと関係なく、はじめから親しい友人として交際したことになる。
 宇尾 房子さんが「文芸首都」で修行した作家と聞いて、私がひるんだことは事実だった。
 「文芸首都」の作家では、北 杜夫や、佐藤 愛子には、いまでも親しみを覚えているが、「文芸首都」のように文壇に出ることだけを目的に修行し、その合評会では、なみいる論客がそれぞれ怪気炎をあげるという雑誌には、およそ関心がなかった。
 もう一つ、この雑誌を主宰していた保高 徳蔵に、私はひそかな軽蔑をもっていたせいもある。
 この作家は、戦時中にグレアム・グリーンの『第三の男』を読んでいたと書いていた。
 私の知るかぎり、戦時中にグレアム・グリーンを読んでいたのは、わずかに植草 甚一、双葉 十三郎のおふたりだけで、ふたりともグリーンが「スペクテーター」の映画批評家だったと知っていたから読んだと思われる。しかも、当時、英米の作家たち、とくに、まだ無名に近いグリーンの小説は、上海の海賊版でしか読めなかった。植草 甚一さんは苦心の末に、ひそかに一本を入手して狂喜したという。(私は、植草 甚一さんから直接、この話を聞いている。)さらにいえば、グレアム・グリーンの『第三の男』は、戦時中の作品ではない。こういうことをぬけぬけと書く作家など信用できるだろうか。

 批評家としての私は、それほど好悪の感情をむき出しにすることはないのだが、「文芸首都」から作家になった芝木 好子などは嫌いだった。この作家は、戦時中に書いた『青果の市』で、芥川賞をもらっているが、発表当時、警察権力の出没する部分を削ってまで芥川賞をねらった。その心根がいやしい。戦後の第一作は、エロの流行に乗ろうとして「州崎パラダイス」で娼婦を描いている。私には凡庸な作家と見えた。
 そんなことも重なって、「文芸首都」の作家と聞くと、敬遠したくなったのだった。
 かなり長い歳月、宇尾さんと親しくしていただいたが、文壇的なこと、お互いの身辺のことなど語りあったこともない。私たちの話題は、いつも文学に関してのものであって、その時その時のお互いの視野にあった文学に限られていた。
 だから、この追悼で、私は何を語ればいいのか。あるいは、何を語ることができようか。

2010/10/02(Sat)  1224
 
(つづき)
 一茶が有名になったのは大正12、3年の頃からだった、という瓢齋の記述は間違いではないだろう。
 とすれば、俳人、一茶が知られたのは、たかだか80年前のことになる。もっとずっと前から、一茶の存在が知られていたものとばかり思っていた。

 たしかに、一茶は、芭蕉、蕪村などとちがって、生前からひろく知られた俳人ではなかった。明治に入ってからも、一茶の名はひろく知られていたわけではない。

 私の好きな一茶の句をあげておこう。

    信濃路や 上の上にも 田植唄

    わが里は どう霞んでもいびつなり

 小林家は、柏原の本通りに面して、間口9間、奥行き4間、大きな藁屋だったという。

    これがまあ 終(つい)の住家か 雪五尺

 後年、この家を半分に区切って、一茶と、継母、その継母の子(異母弟)仙六が、隣あわせに住んでいた。
 これが一茶の実家だが、一茶が亡くなった年に、焼けてしまった。

 一茶は生涯、貧窮に苦しんだという。
 だが、一茶の父の代には、150俵ほどの収納米があったという。
 間口9間、奥行き4間の家屋といえば、かなりの広さだし、150俵ほどの収納米というのば、ただの貧農には考えられない量で、一茶が貧しい農民の出身ではなかったと見ていい。

    故郷や 蠅まで人を刺しにけり

    信濃路は 山が荷になる 暑さ哉

 北アルプスを歩いていた頃、よく、この句を思い出した。ザックの重さが肩に食い込んで、見はろかす山脈(やまなみ)が「荷になる」実感があった。

 釋 瓢齋のつまらない随筆を読んだおかげで、しばらく一茶の境遇を思い出すことができた。これだけでもよしとしなければなるまい。

2010/09/28(Tue)  1223
 
 短い文章を書く。
 べつにむずかしいことではない。

 釋 瓢齋は、昭和初期、戦前の「天声人語」の執筆者として知られている。『白隠和尚』、『俗つれづれ』といった著書は、十数版を重ねたベタセラーだった。
 先輩の徳富 蘇峰は、

    瓢齋君の筆は光ってゐる。其の短章を用ゐる技倆は天下に公評がある。然も其の長編にも亦た同様の特色がある。何となれば短章の累積が、則ち長編であるからだ。

 という。
 私は、蘇峰にまったく関心がない。瓢齋を褒めているようだが、これでは褒めるどころかむしろ貶しているように見える。
 もっとも、瓢齋のほうも、あまり褒められたもの書きではない。
 私は『瓢齋随筆』を読んだだけだが、失礼ながら退屈な随筆集で、今となっては読むにたえない。

 なぜ『瓢齋随筆』などを読んだのか。森田 たまを軽蔑している私は、どうして、こんなオバサンが名随筆家としてもてはやされたのか、そんな興味から、昭和初期の随筆というジャンルの文学的なレベルを知りたくなった。
 瓢齋は、一茶について、誰よりも早く、熱心にとりあげたひとり。

 釋 瓢齋の随筆、『瓢齋随筆』(昭和10年)を読んでいると、こんなことが出てきた。
 「一茶が俄に有名になったのは大正12、3年の頃からではなかったか」という記述にぶつかった。
 思わず眼を疑った。  (つづく)

2010/09/25(Sat)  1222
 
 最近の私は、あまり笑わなくなった。
 いろいろな理由がある。

 女がいう。
 「結婚するのは、お互いに理解しあって、愛しあうようになってからにしましょう」

 男はいう。
 「まず結婚して、理解しあい、愛しあおう」

 たいていの恋愛は、この食い違いをめぐっての喜劇である。見ていて、おかしな喜劇だから笑いを誘う。ときには、生涯をつうじての悲劇になる。
 これは、見ていてつらいだけだ。まして、当事者だったら、どんなに後悔したところで、幕が下りるまでは終わらない。

    女がいう。その眼が不安そうな色を帯びている。
    「結婚するのは、お互いに理解しあって、愛しあうようになってからにしましょうね」
    男はいう。
    「まず結婚して、理解しあい、愛しあおう」
    そういわずにはいられなかった。内面の深い底に、冷たい石のような不安が有るのを感じながら。

 ある小説の一節。作家は、アメリカの有名な作家。

 いつだったか、アダルトもののDVDを見た。テレビのリポーターを装った男が、繁華街で若い素人の娘をつかまえて、ホテルにつれ込む。
 若い女は抵抗らしい抵抗もせずに、脱がされてしまうのだが、
 「セックスするのは、お互いにもっとよく理解しあって、愛しあうようになってからするものよ」
 といった。
 ハンディカメラで撮影しながら男は、
 「まずセックスして、お互いに理解しあったり、愛しあったりするんだよ」
 といった。
 
 私は思わず苦笑した。

2010/09/23(Thu)  1221
 
 最近の私はあまり笑わない。

 吉永 珠子は、そんな私を心配してときどき手紙をくれる。

 なにしろ、手紙の表記に、中田 麹先生と書いたり、中田 工事先生、と書いてくる。悪意があってのことではない。私がこういういたずらが好きと知っていて、わざとふざけて書くのだった。

 麹(こうじ)は、お米やムギをセイロで蒸して、暖かいムロに入れ、発酵させて、麹カビをつくる。うまく発酵すれば、おいしいお酒ができる。つまり、暗黙のうちに、文学的な杜氏(とうじ)として、私に敬意を表してくれているらしい。
 工事というのは、たぶん、土木建築の工事のことで、毎日あくせく原稿を書いている私に対する、いささかの応援をふくんでいるだろう。
 私は、彼女から手紙をもらうと、思わず破顔一笑して、さっそく読むのである。

 ふと、考えた。
 もし、中田 金之助、とか、中田 林太郎といった名前だったら、もう少し偉くなれたかも知れないなあ。一歩ゆずって、ペンネームでもいいかも。

 どうせなら、中田 小鴉とか、中田 根っこ、または、中田 ひよこ、さては中田 メッキといったペンネームがいい。

 小鴉はコルネイユ、根っこはラシーヌ。ひよこは、プッサン。メッキは、ドレ。

 オレの作品に、コルネイユとかラシーヌの名がついていたら、サマにならねえ。(笑)

 私が少し元気がなかったり、少しスランプ気味だったりすると、きまって吉永 珠子から手紙が届く。それを読むとすぐに元気になるし、書きあぐんでいた原稿もなんとか書けるようになる。
 そもそも、こういうことを考えるのはヤキがまわった証拠だね。やっぱり、中田 麹か中田 工事ぐらいがお似合いだよなあ。(笑)

2010/09/18(Sat)  1220
 
 最近の私はあまり笑わなくなった。
 いろいろな理由がある。
 その一つ。ホラティウスのことばを知ったから。

 詩人はいう。

  Quid rides? Mutato nomine,de te fabula narratur.

     なぜ笑う? 名前を(置き)変えたら、おまえさんのことだぞよ。

 文章を書くとき、できるだけこの言葉を思い起こすことにしよう。うっかり笑えなくなる。
 うっかり忘れたら、そのときは笑うことにしよう。(笑)

2010/09/14(Tue)  1219
 
 私は詩について、あまり知らない。不勉強だったから。

 それでも、イエーツなどは、いくらか読んでいる。イエーツは劇作家でもあって、私はイギリスの戯曲はいちおう読んでいたからである。シングや、グレゴリー夫人の戯曲を読んだ動機もおなじだった。
 それでも、イエーツの詩に関心をもった。

  Knowing one,out of all things,alone,that his head
  May not lie on the breast nor his lips on the hair
  Of the woman that he loves,until he dies.

  我が知れることのひとつは、ひたすらに
  頭を 愛する女の胸にやすめたり 唇を 髪につけるなど
  なすあたわざることなり ということ
  死にいたるまで             (大意)

 こんな詩句を読むと、ついついイエーツの恋人、モード・ゴーンのことを想像する。
 モードは、終生、イエーツの恋人だった女人だが、イエーツの求婚を拒みつづけた。
 そして、別の男性と結婚したが、その後まもなく離婚する。
 モードを忘れられなかったイエーツは、わざわざノルマンデイーまで、モードに会いに行き求婚するが、またしても拒否される。

 イエーツがはじめてモードに会ったのは、24歳のとき。
 モードが、イエーツを振り切って結婚したとき、イエーツ、37歳。
 そして、ノルマンデイーにモードを訪れたとき、イエーツ、51歳。

 All true love must die,と、イエーツはいう。それは、やがて Into some lesser thing になる。

 なぜか、こちらまで苦しくなってくる。

 イエーツの場合、恋の苦しみがそのまま詩のみごとさに変わってくる。

2010/09/10(Fri)  1218
 
 またまた古い話になる。ジュリアン・デュヴィヴィエの映画『旅路の果て』のなかで、老優に扮したルイ・ジュヴェが、かつてのプリマ・ドンナを見て思わず呟く。「老年は醜い」と。
 老年をどういうふうに受け入れていくのか。これは、思想的な問題であり得るだろう。げんに、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』のようなすぐれたエッセイもある。しかし、平凡な作家には、老いを主題にしてシモーヌのように書けるはずもない。

 つい最近知ったのだが――
 1950年から、1990年まで、わずか40年間の経済生産のすさまじい拡大は、有史いらい1950年までの5000年間のそれよりも、じつに4倍になったという。

 私たちは、毎日、そうした経済、および様々な生産体制の発展のなかで生きている。誰ひとりそのこと(そうした経済状況を)別に不思議に思ってはいない。

 だが、計算しただけで、私たちの1年は、老いぼれた地球の1世紀ということになる。

 つまり、私たちは、毎日、かつての歴史の数年というスパンを生きていることになる。

 もし、地球がつぶやくとすれば――地球の「老年は醜い」というかもしれない。

 私はいまや地球の未来に関してはっきりペシミストである。自分の未来については、オプティミストだが。

2010/09/07(Tue)  1217
 
 シェイクスピアの詩で思い出したが、昔は、黒は美しい色ではなかったらしい。

   In the old age black was not counted fair,

 つまり、(シェイクスピアが若かった頃)、黒は美しい色ではなかった。少なくとも、美人の色ではなかった、ということ。

 しかし、今では、黒だって、美の後継者になれるおかげで、美 Beauty が、無残にも恥ずかしさ bastard shame にかられている。

 シェイクスピアの「恋人」Mistress の眼は、鴉のように黒い。

 黒が女性美を際だたせるようになったのはいつ頃からなのか。
 ファッション史を調べれば、だいたいの見当がつくだろう。では、現代の「黒」が女性美を際だたせるようになったのはいつからなのか。
 「マネ展」を見に行って、「ベルト・モリゾ」や「オランピア」を見ながら、19世紀末のパリ・ファッションの「黒」に心を惹かれた。

 私は黒いファッションをみごとに着こなしている女性を知っている。

 無声映画のスクリーンでは白と黒のコントラストは、早くから強調されていたが、無声映画に登場する女性美を「黒」が強調するようになったのはいつからなのか。
 たとえば、第一次大戦の「戦前」の、フランス美術、とくに「サロン」の女性のヌードに、「黒」はほとんど見られない。
 これが、劇的に変化したのは――おそらく、フランスの女優、ジョゼット・アンドリオが、全身に薄い黒のシルクをまとって登場した1919年からだった。つまり、第一次大戦の「戦後」、私たちは、はじめて女性のヌードを隠蔽し、しかもエロティシズムを強調するパラドクサルな時代に入った、と見ているのだが。

 これからフランス官展、「サロン」の女性ヌードを研究してみようか。

2010/09/03(Fri)  1216
 
 最近、私の書くものは、だいたい昔のことばかりである。
 これは、いたしかたのないことだろう。年が年なのだから、現在の時代を理解できなくなっているし、理解できたとしても、その理解はごく浅いものに過ぎないだろう。
 それは仕方がない。

 たとえば、詩を読む。
 ずっと以前は、フランス、イギリス、アメリカの詩人たちのものも読んできた。しかし、外国の雑誌を読まなくなってから、詩の世界にまるで疎遠になってしまった。
 いまの私が読むものは、せいぜいポップスの歌詞ぐらいなもので、それも自分の好きな歌手のものに限られている。

 たまに、シェイクスピアのソネットを読んだりする。

     Or I shall live your Epitaph to make,
     Or you survive when I in earth rotten,
     From hence your memory death cannot take.
     Althou in me each part will be forgotten.

 若い頃、こんなことを読んでも、べつに感心もしなかった。へえ、そうなのか。たかだかそんなふうにうけとめただけだったにちがいない。
 今の私には、もっと重みのあることばとして迫ってくる。

    私がきみより長生きをして、墓碑銘を書くとして、
    いや、私が地中に腐っているとき、きみがまだ生きていたとして、
    きみの思い出がかき消されることはない
    私のことなど、ことごとく忘れ去られるにしても   (大意)

 私ごときは、死ねばこの世のすべては終わる。しかし、君の名は永遠に生きつづける。

 詩はそうつづくのだが、私(中田 耕治)は、有名人の誰かれの訃を聞くと、この一節をひそかにつぶやく。私はただ墓地の土にうずめられるだけだが、きみは人びとの眼のなかに横たわる。 When you entombed in men’s eyes shall lie.

 大急ぎで断っておくが――シェイクスピアは、自分の詩が記念碑になって、「今はまだこの世に生まれていない人が読む。今、生きている人びとが死にたえても、これからこの世に生まれてくる人が(シェイクスピアの)詩を読んで、きみのことを語るだろう」という。私などに、そんなことがいえるはずもない。

 シェイクスピアは、自分のペンには、それほどの Virtue がある、という。
 ルネサンス人の凄さといっていい。

 私は――しばらく前まで、スクリーンで見ることのできた美しいスターたちが亡くなったとき、ふと、この詩の一節をつぶやくだけ。
  When you entombed in men’s eyes shall lie.

2010/08/27(Fri)  1215
 
 たくさんの香港ポップスを聞いてきた。
 テレサ・テンから、フェイ・ウォンをへて、彭佳慧(ジュリア)まで。

 80年代から90年代にかけて、周 慧敏、フェイ・ウォン、陳 慧琳(ケリー・チャン)がトップを切っていたとき、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)は、いつもトップ・グループにいた。これだけでも、たいへんなことだったと見ていい。
 黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の声の美しさ、そしてこの時期の香港ポップスのあまやかさ。どう表現すればいいのかわからない。

 黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)が、との程度の歌手だったか、これは簡単に説明がつく。

 1991年、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)は「我従這裡開始」で、香港の金賞を得ている。
 1993年、「一人有一個夢想」で、ヒット曲の金賞。
 1994年、10大心情歌手にえらばれて、「金心優異特別賞」を受けている。

 おもしろいことに、関 淑怡、王 慧平、那 英たちの世代の歌手たちは、それぞれきわだって個性的でいながら、声や、歌唱法、曲のメロディー、それぞれどこか似ているのだった。
 むろん、ある時代に活動した歌手たちが、それぞれの声や、歌唱法において似かよっているとしても、不思議ではないかもしれない。
 1930年代の、中国ポップス、たとえば、白光を聞いて、すぐに李 香蘭や、チャン・シュアン、張 露、白 虹を聞けば、それぞれがひどく似ていることに一驚をおぼえるだろう。
 だから、黎 瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)が、周 慧敏や、陳 慧琳と似ていたとしても、あやしむ必要はない。
 私は、「秘密」(1995年)をときどき聴く。
 このアルバムに、「一人有一個夢想」(デュエット)がはいっているのだが、この黎瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の歌に、香港返還の直前の哀愁と、不安がかすかに響いているような気がする。

 私は、もう誰もアジア・ポップスを聞かなくなってからも、できるだけ聞いてきた。
 その私が黎瑞恩(ヴィヴィアン・ライ)の歌を聞かなくなって、もう10年以上たっている。とても残念な気がする。

2010/08/23(Mon)  1214
 
 原稿を書く。
 書いている原稿と何の関係もない音楽を聞きながら書く。
 ムード作りのようなもので、音楽を聞いていながら、まるで別のことを書いているほうが楽しい。
 もっとも自分がよく知っている曲を聞きながら原稿が書けるかどうか。ひきずられてしまうだろう。

 いちばんいいのは、中国の二胡の演奏。
 たとえば「二泉映月」。誰の演奏でもいいのだが、へんに洋楽ふうにアレンジされた「二泉映月」は聞きたくない。そこで朱 昌燿の演奏を聴く。
 二胡の曲には、「空山鳥語」、「聴松」などいろいろ名曲が多いのだが、「漢宮秋月」などを聞きながら、高橋 まり子が贈ってくれた宮古島のお菓子、「ちんすこう」をいただきながら、これも田栗 美奈子が贈ってくれた狭山の新茶をいただく。別世界に遊ぶような気分になる。
 二胡の演奏では、日本では、陳明(チェン・ミン)が有名だと思う。NHKで放送した「アジア古都物語」のテーマで知られている。彼女の二胡の演奏もよく聴く。
 もうひとり、同名の歌手、広州の歌手、陳明(チェン・ミン)の歌が、私は好きなのである。
 こちらの陳明(チェン・ミン)は、私のひそかな評定では、王 菲(フェイ・ウォン)に比肩するほどの歌手なのである。

 たとえば、映画のサウンドトラックを聞きながら原稿を書く。ヴァレリー・ルメルシェ監督の映画、「カドリーユ」。

 私はこの映画を見ていない。原作はサッシャ・ギトリの戯曲。ヴァレリーは有名な歌手で、映画の監督。

 映画を見ていないのだから、音楽を聞いて映画を思い出すこともない。ただ、軽快なムード・ミュージックとして流しているだけ。

 ついつい原稿を書くどころではなくなって、ワインを飲みしこる。私の悪癖。

2010/08/17(Tue)  1213
 
 北欧のポップスを聞きはじめたのは、たぶん、80年代の終わり頃からだったと思う。もっとも早く聞いたのは、アンヌ・トウルート・ミキールセンで、彼女の歌にはただひたすら驚嘆した。
 ハンナ・ボエルを聞いたのは90年代になってから。
 これも偶然のことで、ハンナ・ボエルがどういうシンガーなのか知らなかった。
 最初のアルバム、「秘めた焦熱」DARK PASSION を聞いたとき、デンマークの歌手ということさえも知らず、アメリカのポップス、それも叙情的な、やわらかな唱法のシンガーなのかと思っただけだった。
 ただ、このハンナが、この年のデンマークの最優秀ヴォーカルという程度のことは知っていたような気がする。

 スカンジナヴィア・ポップスにかぎらず、ポップスについての私の知識はいいかげんなもので、そのアルバムのなかに、一曲、二曲、気に入った曲があれば、もう気がすむといったものだった。
 この「秘めた焦熱」(DARK PASSION)のなかに、

 「メイク・ラヴ・トゥ・ユー」 1 Wanna Make Love To You
 「私を欲しいなら……」 If You Want My Body
 「ウォーム・アンド・テンダー・ラヴ」 Warm And Tender Love

 といった曲があってよろこんで聞いたのだが、ブラック・ミュージックに、叙情的なテイストをくわえたといった感じがどうも私の好みにあわなかった。
 曲としては、最後の「クライ・フォー・ミー」だけは、ちょっとブルースふうで、心に残ったが、其れだけの印象だった。

 それっきり忘れてしまったのだが、つぎのアルバム、「マイ・キンドレッド・スピリット」を聞いたとき、私は自分の不明に気がついた。
 まるで印象が違っていた。

 「カム・イントゥ・マイ・ガーデン」 Come Into My Garden
 「フォーリング・イン・ラヴ」  Falling In Love
 「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」 Time To Say Goodbye

 どれを聞いても、前に聞いたハンナ・ボエルとは違っている。このときの私は、つくづく自分の耳が信じられなくなっていた。
 ただし、私は、ハンナが、人気、実力、ともにトッブ・シンガーと知って、ハンナに関心をもったわけではない。

     0ne by one I’ve watched them fall
     Slowly leave then die
     Now comes the hardest part of love
     When it’s time to say love

 そんなことばに心を動かされた。

 ハンナ・ボエル、1957年、コペンハーゲン郊外に生まれた。1990年度、ワールド・ミュージック・アワード。

 私にとって、忘れられないひとり。

2010/08/11(Wed)  1212
 
 ファドの歌い手といえば、ドゥルス・ポンテスを思い出す。
 久しぶりに音楽を聴きはじめたとき、まっさきにドゥルス・ポンテスを聞いた。

 ドゥルス・ポンテスの「海の歌」は、ファドの大先輩のアマリア・ロドリゲスが「孤独」という題で歌っている。アマリアの歌には、いたましいほどの孤独感がみなぎっているのだが、ドゥルスの歌には、おなじ孤独でも、なぜか華やいだ、イベリアの女のあまやかな感じがある。

    ある日 ファドはうまれた
    風が ほとんどなくて
    空が 海のつづきのような日
    海に出た帆舟の 舟べりで
    舟乗りの 胸のなかにうまれた
    かなしい 歌をうたいながら

 アマリアとドゥルスを比較するわけではない。だからアマリアとドゥルスのどちらがいいなどという問題ではない。ただし、おなじファドでもアマリアとドゥルス、それぞれの芸術家の資質、悲劇性、肉感性、大げさにいえば運命の違いのようなものを感じてしまう。うまくいえないけれど。
 ドゥルスでは、「オス・インディオス・ダ・メイア・ペライア」のような明るい歌もいい。この歌を聞いていると、やがて、「エストイ・アキ」のシャキーラが重なってくる。アメリカで大ブレイクする以前の、みずみずしい、まだ無名のシャキーラだが。

 いまの私は、アメリカのシャキーラを聞かない。ドゥルスは聴く。

 「涙」のなかで、ドゥルスは「あなたがこんなに好き この思いは 絶望」という。

    私を絶望させるのは
    私の内部の
    私を責め さいなむこの罰
    あなたが きらいなのよ
    私はいいきかせる あなたがきらい と
    そして 夜に
    あなたの夢を見るのよ 夜には

 ドゥルスを聴くと、たちまちドゥルスの歌の華やぎ、あまやかな感じがからみついてくる。私は他人にはいえない、つらすぎる思い出のように、ドゥルスを聴く。ドゥルスを聴くこと、私には悲しみを聴くことなのだ。
 「運命のファド」Fado Da Sina のなかで、

    逃げられやしないさ
    過酷で 暗い 宿命から
    おまえの 不吉な 運命からは
    邪悪な星が支配しているからさ

 と、ドゥルスはいう。

 いつかまた、ドゥルスを聞き直すだろう。

 注   ドゥルスは「ラグリマス」(東京エムプラス)
     シャキーラは「PIES DESCALZOS」(SONY)

2010/08/05(Thu)  1211
 
 孫の運動会を見に行く。
 少子化の影響で生徒数が減少しているので、1年生から6年生まで紅白に分かれている。
 行事全体が赤組、白組の対抗戦になっているようだった。

 競技ごとに若い女先生のアナウンスがある。

 「2年生までは、50メートルでしたが、3年生からは80メートル走になります。いちだんと成長した生徒たちの元気な走りをとくとご覧ください!」

 そして、生徒たちの競争がはじまった。……

 私は、「とくと」スポーツを観戦したことがない。相撲や、野球の解説で、「とくとご覧ください!」という言葉を聞いたこともない。
 この女先生は、しきりに「とくとご覧ください」をくり返した。

 きっと、何かの機会にこのことばを「とくとご覧」になってそのまま「とくと」おぼえたのだろう。この先生が相撲の解説をなさったら、
 「本日、春場所千秋楽、いよいよ白鵬/把瑠都の一線であります。みなさん、とくとご覧ください!」
 こんなことをおっしゃるかも。(笑)

 NHKのアナウンサーにも――「その一翼を担う」ということばを、「その一翼をカウのは」とヌカしたヤツがいる。(5/15。6:38a,m,)
 「ゆとり教育」の世代で日本語もろくに読めないのだろう。

 放送前に原稿を「とくとご覧ください」といってやりたくなる。
 とくと。入念に。とっくりと。つらつらと。篤とご覧うじろ。

2010/08/01(Sun)  1210
 
 最近まで音楽を聞かなかった。さしたる理由があってのことではないが、しばらく音楽を聞くまいと誓った。むろん、自分から求めて聞くことをしないというだけで、聞こえてくる音楽まで断ったわけではない。

 その私が久しぶりでCDを聞いた。

 旧ソヴイエトのソプラノ、リューバ・カザルノフスカヤ。

 彼女の存在を知ったのは90年代の半ばだった。まだソヴィエト崩壊前のこと。
 たった一枚しか出ていないCD、「イタリア・オペラ・アリア集」(メローデイア)を聞いたのだった。
 はじめて聞いたときから、私はリューバに魅せられた。私がさわぎまわったので、私の周囲にいたお嬢さんたちも、リューバを聞いてくれた。

 その後、ソヴィエト崩壊から、彼女の消息はわからなくなった。私はひそかに心配していたが、その混乱のなかで彼女のCDを探しまわって、やっと、2枚手に入れたのだった。その1枚は、ガーシュインや、アメリカのミュージカルまで入っているもので、ロシアの変貌ぶりがわかったが、カザルノフスカヤの健在を知ることができた。

 さらにその後、カザルノフスカヤが来日して、リサイタル形式で『サロメ』全曲を歌った。このコンサートに、青木 悦子、鈴木 彩織、竹迫 仁子たちといっしょに行った。このとき、終幕近く、リューバの声がみだれた。おそらく、旅行の疲労も重なっていたのだろう。
 しかし、私は長年関心をもちつづけてきたソプラノを、東京で、実際に聴くことができたよろこびにひたっていた。
 その後、リューバ・カザルノフスカヤは世界的な名声を得ている。

 私は、人生の途上で、たくさんのすぐれた芸術家に出会うことができた。現実に知り合う機会はまったくなかったが、そういう人々の仕事にいつも鼓舞されて、自分もやっと仕事をしてきたという思いがある。

 そして、今、またリューバを聞いてあらためて感動した。
 ソヴィエトで、はじめて、たった1枚だけ出せたCDで、リューバのみずみずしい声のすばらしさがいきずいている。こんな1枚をもっている人は、私たち以外にはあまりいないだろう。
 リューバを聞いたことから――しばらく封印してきた音楽にふたたび親しむことを自分に許そうと思っている。

2010/07/27(Tue)  1209
 
 私は夏が好き――だった。好きな理由の一つは、女の子の浴衣姿が見られる季節だから。

 女たちは、木綿の中形、紗、絽のような、からみ織り、麻の上布などの夏姿にかわる。
 ただし、私の好みは、あくまでも浴衣であって、夏御召、薄御召などの女人たちにさして関心はない。

 最近、若い女性のあいだで、着物をふだん着として着ている娘さんを見かける。その着物も、それほど高価なものではない。
 夏帯にしても、昔なら塩瀬の羽二重、絽がおもだったが、博多や、桐生のように単(ひとえ)帯にみえるものも、じつは中国産の安い生地のものや、リサイクルものの帯という。だから、和服を着るといっても、ふつうのワンピースを買う程度とかわらない。
 それならば、ごくふつうの浴衣を着たほうがいい。
 日本の女性、とくに浴衣を着ている若い娘の美しさは、いかなる民族の女性美にもおさおさ劣らない。
 いや、浴衣姿の日本の女は世界最高の美女なのである。

 浴衣といえば、下駄。
 塗りゲタ、コマゲタ、日和ゲタ。
 ゲタをはいた女の子の素足の美しさに、思わず眼を奪われる。私が久米の仙人だったら、やはり雲間から落ちてしまうかも知れない。

 最近、ときどき見かけるジーンズ姿の女の子も、半襟をストールがわりにしたり、帯紐をベルトにしたり。どうやら和のよそおいの見直しが流行しはじめているのか。

2010/07/22(Thu)  1208
 
 食料は肉から魚まで、闇市でなんでも買えたが、その前に金がなかった。
 私は7月まで、学生の勤労動員で、川崎の軍需工場で働いていたが、日給は2円だった。(おなじ工場に動員されていた、九州の小学生たちは、日給、1円。)
 戦争が終わってすぐにインフレーションが起きたので比較にならないのだが、敗戦直後の父の給料が300円程度だったから、闇市の食べ物が私にとって高価だったことは間違いない。

 とにかく飢えていた。
 食料といっても、私たちの口に入るものは、ほとんどサツマイモだけだった。戦時中に、食料増産のために「農林1号」、「農林5号」という品種が作られたが、これが、ただ図体ばかり大きくて、水っぼい、まずいものだった。これを五切れぐらいに切ったものが、5円。ミカン、10個で10円。カキ、3個で10円。

 オニギリ、3個で10円。大きなセイロで蒸した蒸しパン、1個で5円。

 敗戦直後の関西は、台風に教われて、甚大な被害をうけた。戦災で大きな被害をうけた大阪は大洪水にやられる。床上浸水、4万4994戸、床下浸水、1万490戸、被災者は15万9千人あまり。
 アメリカ軍が上陸してわずか1週間後のことだったので、関東の私たちは、関西の被害の大きさに気がつかなかった。むろん、気がついたところで、どうしようもなかったのだが。

 そして、冬がやってきた。
 暖房などあるはずもなかった。そこで、電熱器で暖をとるようになった。ところが、電気の配給が少ないので、すぐにヒューズがとんだ。変圧器が焼けて、たちまち停電する。
 敗戦で、電力の制限は解除されたが、実際にはひどい電力不足がつづいた。
 さらには水不足、燃料不足という非常事態が重なって、国民の生活に敗戦の重圧がひしひしとのしかかってくる。
 電力不足は、翌21年(1946年)になっても好転せず、一日おきに、午前5時から午後5時まで停電といった悲惨な事態になった。こうなると、夜、本を読む時間もかぎられてくる。

 昭和22年(1947年)になって、一般家庭には、4日に一度の送電、夜間も夕方から2時間しか電気がつかないような悲惨な毎日がつづく。
 銭湯も連日休業で、なかには薪持参でないと入れないという張り紙を出したところもあった。それでも、銭湯には昼間から人々がつめかけて、それこそイモを洗うような騒ぎだった。
 カランから出すお湯も、めいめいが持参する洗面器に2杯といった制限をつけられた。入浴もままならない日常なので、どうしても不潔になる。栄養失調のところに、ノミ、シラミ、ダニがひろがって、悪質な疥癬が流行した。かゆみがひどいので、この皮膚病はカイカイムシと呼ばれた。
 アメリカ占領軍が、日本人の頭からDDTを散布して、この流行は、ようやく沈静化したが、当時はだれひとり薬害など考えもしなかった。

2010/07/16(Fri)  1207
 
 東京に闇市が出現したのは、いつからだったのか。
 敗戦直後の9月といわれているが、実際には、もっと早かったのではないだろうか。
 ほとんど自然発生的に、駅前に人が集まり、食料はもとより、日用雑貨、繊維製品など、それぞれ物々交換で、必要な品物を手に入れようとしたと思われる。
 それは、あっという間に、ひろがってゆく。
 一方で、軍の組織が崩壊して、各地で軍の物資の処分がはじまっていた。内地の軍の正規の復員業務は、もう少しあとだったにせよ、8月下旬には多数の現役の兵士が、現地の部隊から帰郷しはじめていた。(私の友人、小川 茂久は8月の初旬に招集されたが、8月中に除隊されている。)

 はじめは、各地の復員兵めあてに、にぎり飯、フカシいも、蒸しパンなどを売る人々の群れがあらわれた。はじめはせいぜい十数人の規模だったのが、午後には数十人になり、翌朝は数百人の闇商人がひしめきあうありさまだった。
 こうして、一般市民を相手に種々ざったな食べ物、衣類など、ありとあらゆるものを供給する市場が形成されて行く。

 やがて(といっても、ほんの二、三日から、せいぜい一週間で)ヤキトリ、ホルモン焼き、雑炊、オデン。ショーチュウ、ドブロク、酒、ビールなどを売る屋台ができた。ぐるりを葦簾張りにして、長いベンチを据えて、そのなかで煮炊きをするのだから、れっきとした屋台であった。
 こういう店がならぶ路地ができて、飢えた人々がひしめいていた。

 それまで見たこともないほど雑多な品物が並べられた。鍋、カマ、お茶碗といった日用品、靴、とくに軍放出の軍靴、地下足袋、戦闘帽、雑農、古着から、鋸、鉄槌、シャベル、電気コンロ、ラジオ、とにかくありとあらゆるものが並んでいる。
 9月以後になると、アメリカ兵の売り払ったタバコ、チョコレート、Kレーション、ライターなどが氾濫する。

 そして、アメリカ軍が上陸して、数時間後に、若い女たちが、アメリカ兵に群がりはじめる。これも、敗戦国の、すさまじい、みじめな風景だった。
 白昼、スカートをとられたらしく、下半身をむき出しにして、素足のまましらじらとした新橋の裏通りをぼんやり歩いている女学生ふうの少女を見たことがある。

2010/07/12(Mon)  1206
 
 終戦直後に、浅草で思いがけず、G・W・パプストの映画、「喜びなき街」を見たあたりから、私の「戦後」がはじまっている。
 もっと切実だったことどもは――もはやほとんど薄明の彼方に沈んでいる。あの頃のひどい貧困や飢えさえも、もはや思い出せなくなっているらしい。

 私の「戦後」は、まず、食べることからはじまった。一方で、戦争継続を訴えて、海軍航空隊の戦闘機が超低空飛行で、ビラをまいていたとき、わが家の米ビツは空だった。配給も停止したからだった。
 いつ配給があるのかわからない。そんなものをアテにしていたら、餓死することは目に見えている。
 栃木県に疎開していた母は、我が家に戻ってきたとき、わずかながら食料を仕入れてきたが、そんなもので間にあうはずもなかった。母は疎開しておいた自分の和服などを売り払って食料に交換しようと考えた。
 こういうときの母の行動力はたいへんなもので、どこに行けば食料があるのか、猟犬のように嗅ぎつけて、その日のその日の食料を確保してくるのだった。
 むろん、苦心惨憺、やっと買い込んできた食料は、母の努力に比較しておそろしくみじめで貧しいものだったが。

 母は毎日焼跡を歩いた。三月十日の空襲に母は、猛火の迫るなかで、ミシンの頭を外して、毛布にくるんでもち出していた。むろん、それだけでは遣いものにならない。
 戦後すぐの焼跡で、焼けただれたミシンの足を見つけてきた。それを洗って、自分で組み立てた。
 つぎにどこかから木綿の生地を仕入れてきて、手製のワイシャツを作りはじめた。
 母は和裁、洋裁、どちらも得意で、ワイシャツを何枚も作った。
 「耕ちゃん、ここからここまでミシンをかけといて」
 私は母に教えられた通り、ミシンを踏んだ。
 とにかく生きるために、何でもしなければならなかった。

 できあがったワイシャツはきちんと畳んで、母がすぐに闇市にもって行く。手製のワイシャツでも、りっぱな新品で通用した。
 その代金で、にぎり飯、フカシいも、蒸しパンなどを買ってくるのだった。

2010/07/10(Sat)  1205
 
 戦後の私たちはそれこそ右往左往していた。
 とにかく歩いた。

 衣食住、何もかも不足していたので、生きてゆくために必要なものを探して歩いた。戦争が終わった直後に闇市場ができた。駅の周辺に人が集まる。なにかを売って稼ごうというひとたち、生活のためになにかを買う人たちが自然発生的に、闇市を作った。
 生きてゆくためには、食い物、衣料が必要だった。しかし、生活してゆくには、それだけでは足りない。
 私たちは、いささかの笑い、わずかな希望、なぐさめ、直接、腹のたしにはならないにしても、心の飢えをみたしてくれるものを求めていた。よくいえば、混乱と絶望のなかでも、文化のようなものが必要だった。文化は享楽でもあった。
 戦争が終わった直後、ワラを編んだ大きなかぶりものを頭にいただいて、それにアメの棒をぐるりとさして、三味線でおどりながら売る女、ヨカヨカ飴が出た。
 闇市の、葦簾(よしず)張りに幕を張りめぐらして、女が裸の下半身をむき出しにして、見物にタンポ槍で突かせる、いかがわしい見世物も出た。敗戦の東京に、いきなり江戸時代が戻ってきたようだった。

 大阪では、敗戦の混乱がひどく、映画、演劇の興行が緊急に停止された。これが、一週間続いた。8月22日からいっせいに再開されたという。
 東京はどうだったのか。
 (私は、8月17日の早朝に東京にもどってきた。那須に疎開していた母は、8月15日、ラジオで天皇の終戦詔勅を聞いてすぐに家財いっさいを売り払って、まっしぐらに東京に向かっていた。つまり、私と行き違いになったのだった。)
 その日、徹底抗戦を主張する海軍航空隊の戦闘機が、超低空飛行で飛びまわり、抗戦をうったえるビラをまいていた。

 私は、この日、映画館に行ったわけではない。しかし、娯楽に飢えていた人たちは、盛り場に出かけたり、もうたいへんな勢いでひろがっていた闇市に出かけていた。

 この時期、どういう映画が公開されていたのか。

 「河童大将」(嵐 寛寿郎・主演)
 「韋駄天街道」(長谷川 一夫・主演)
 「愛の世界」(高峰 秀子・主演)
 「団十郎三代記」(田中 絹代・主演)

 残念ながら、私は、こうした映画を一本も見ていない。

2010/07/06(Tue)  1204
 
 敗戦直後、それまでの日本をかたち作っていたものが音をたてて崩壊して行く。それは、かつて経験したことのない虚脱感として私たちに襲いかかってきた。
 と、同時に私たちに重苦しくのしかかっていたものが一挙に吹き飛んで、なんとも奇妙な、あっけらかんとした解放感があった。
 8月15日に、わずかながら食料の配給があった地域は多かったかも知れない。しかし、その後の混乱のなかで、鉄道ほかの交通手段が停滞し、配給システムがみだれ、私たちは途方にくれた。
 私は、8月16日に、栃木県に疎開した母にわずかな食料を届けるために、早朝から上野駅に向かったが、東北本線は1本も動いていなかった。上野駅には、東京から脱出しようとする無数の群衆がひしめきあって、プラットフォームは、それこそ立錐の余地もないくらいだった。
 私は朝の6時からプラットフォームにいたが、はじめての列車が駅に到着したのは、もう10時をかなり過ぎてからだった。群衆がわれがちに乗り込む。車窓から荷物を放り込む。その窓から車内に乗り込む。まるで暴動のようだった。その後もこれほどの状況は、見たことがない。
 たまたま、私のとなりに同年輩の少年がいた。押しあいへしあいしているうちに、私たちは、入口から離れてしまった。
つぎの列車がでるとは考えられない。どうしてもこの列車に乗らなければ、と思った私は少年に、
 「おい、あそこに乗ろう」
 と声をかけた。
 少年は私の視線の先をみて、すぐにうなずいた。そこは、車両と車両をつなぐ蛇腹のような蔽いの上だった。その蛇腹に乗れば、車両の先端に腰かけられる。
 少年は、猿のように蛇腹に手をかけた。私は、少年の腰を押し上げてやった。つぎは、少年が私に手をさし伸べて、私の手をつかむと引きずりあげてくれた。
 蛇腹に足を置いて、車両の先に並んで腰を下ろした。
 なかなか快適だった。

 いまから考えると、ずいぶん危険な行動だが、その時の私たちは危険だとは思ってもみなかった。私たちを見た人たちも、おなじように、連結の部分から屋根にのりはじめた。むろん、そんなことをする人たちは少なかったが、それでも各車両に2名づつはいたように覚えている。
 こうして、私たちは、国鉄史上はじめて違法乗車をやったのだった。

 敗戦翌日の国鉄がほとんど運行せず、ダイヤは麻痺状態、大混乱になった。駅に殺到した乗客は殺気だっていた。
 このときのことは、後年、小説に書いた。         (つづく)

2010/07/03(Sat)  1203
 
 私の人生に多少の影響をあたえた映画がある。

 戦後すぐに、私は、ドイツ映画「喜びなき街」を見た。グレタ・ガルボがはじめて主演した映画だが、私はまったく何の予備知識ももたずに見たのだった。
 これは、第一次大戦の「戦後」のウィーンのすさまじい荒廃を描いたもので、この8月、敗戦国家になった日本の運命を予感させるような内容のものだった。
 監督や出演者の名前もしらなかった。

 第一次大戦の、戦後のウィーンは、30年後の、ヒトラーの敗戦後とちがって、空襲を受けたわけではない。しかし、人々は飢えて、何の希望もなく、ただ街を歩いている。衣食住すべてがなかった。みすぼらしい服装、口腹の欲をみたすもの、ただゆっくり眠れる場所をもとめて人々は廃墟を歩きつづけている。
 これが敗戦国の「現実」なのか。
 当時、17歳だった私は、敗戦後の日本の「現実」――まだ、少しも現実のものになっていない「現実」を、無意識に、この映画に重ねていたような気がする。

 この映画のラストで、ヒロイン(ガルボ)は混乱と絶望に蔽われた市街を放浪するのだが、雑踏のなかを右から歩いて、中央で立ちどまる。
 左側から歩いてくる若い娘とすれ違う。お互いに視線をからませるわけでもない。ただ、一瞬、すれ違うだけ。その娘は、画面、右側から消えてゆく。

 このシーンを見たとき、ふと、どこかで見たことのある女性だと思った。というより、一瞬、直覚したのだった。
 あっと思った。
 マルレーネ・ディートリヒ。私は、まったく無名のディートリヒを見たのだった。

 その後、ガルボの伝記も、ディートリヒの伝記も読みつづけてきたが、無名のマルレーネ・ディートリヒが、これも無名に近いグレタ・ガルボがはじめて主演した映画に出たことにふれた資料はなかった。

 ディートリヒ自身が、無名のエキストラ時代に関して、まったくふれることがなかった。つまりは、ディートリヒとガルボには、まったく接点がない。
 私が見たワン・シーンも、きっと私の幻想だったのだろう。いつしか、私は自分でもそう思うようになった。

 その後、「喜びなき街」を見る機会はなかった。

 数十年後。ドイツの都市とナチスの歴史を研究した本を読んでいるうちに、まだ無名のディートリヒが「喜びなき街」に出たという記述を見つけた。
 私は、茫然として、その一行を見つめていた。……

 おなじ頃、フランスの俳優、ジャン・ギャバンの伝記を読んだ。戦時中、アメリカに亡命したギャバンがハリウッドでディートリヒと同棲していたとき、隣に住んでいたガルボがふたりに興味をもって、しきりに監視していたという記述を読んだ。
 私は思わず笑ってしまったのだが――

 敗戦直後の大混乱のなかで、一家離散の状態で、まるで戦災孤児のように、上野、浅草をうろついていた私が、どうして「喜びなき街」のような映画を見たのか、あらためて不思議な気がしはじめた。

2010/06/30(Wed)  1202
 
 昔、同人雑誌の批評をつづけていたせいか、今でもときどき知らない方から、創作集などをいただく。かならず眼を通すことにしていたが、ちかごろはさすがに疲れてきた。

 「文学書を読むとき、文体の外見に感心するのは阿呆の習性である。」

 スタンダールのことば。私の批評上の心得のひとつ。

 「はっきりした思想が単純な文体で述べられている本だと、これはちっともうまく書けていないという。そのくせ、誇張したいいまわしには、手放しで大喜び。こういうのが、成りあがりの田舎者なのだ。」

 すぐにつづけてのスタンダールの痛烈な言葉。これもすごい。

 こういう連中は、たとえば、
 「私の心の中に冬がある――私の魂の中に雪が降る」
 といったたぐいの文章に感心する。

 ただし、スタンダールと違って私は、たとえば流行歌の作詞家が、
 「私の心の中に冬がある――私の魂の中に雪が降る」
といったたぐいの歌詞を書くことに賛成する。
 大衆にウケなければならないからだ。

2010/06/25(Fri)  1201
 
 あい変わらず、ろくでもないニューズばかりだが、私がうれしくなったニューズがひとつ見つかった。
 私たち現代の人間とは別の種類の人類に、ネアンデルタール人がいる。そのネアンデルタール人が、私たちの初期の人間と交雑していた。
 ドイツの「マックス・プランク進化人類学研究所」のスパンテ・ベーポ教授のグループがつきとめた、という。

 私は、進化人類学については何も知らない。ただ、今の人間の、遠い、遠い、遠い先祖の誰かが、ネアンデルタール人の男か女と、セックスして、相手を妊娠させたか、こっちが妊娠したか、とにかくムニャムニャして、現在の人間になっている、ということになる。私は、このニューズに感動した。

 アフリカ以外の地域の現代人のゲノム(全遺伝情報)のうち、1〜4パーセントが、ネアンデルタール人に由来する、とか。
 ひょっとして、おれッチも、1パーセントぐらいはネアンデルタール人の血がまざっているかも。いや、まてよ、ひょっとして……

 ネアンデルタール人とは何か。
 40万年から30万年も昔に、現生人類の共通の祖先から枝別れした人類。3万年前に絶滅した。それまでは、ヨーロッパや、西アジアにぶんぷしていた。
 特徴として、顔の彫りが深く、頑丈な体格。
 日照の少ない高緯度地方に生息していたため、肌が白く、神の色も薄かったらしい。

 なんでえ、これじゃ、可能性としては1パーセントもあぶねぇじゃあねえか。

 「マックス・プランク進化人類学研究所」のグループは、3万8千年前に生きていたネアンデルタール人の女性3人の化石から、4年がかりで、ゲノム配列の60パーセントをつきとめた。
 現生人類の祖先が、故郷のアフリカを出て間もない10万年から5万年前に、中東などの地域で、先住民のネアンデルタール人の異性に出会った。
 その後、現生人類が世界じゅうに進出したため、アフリカ以外の各地で、ネアンデルタール人の遺伝子が検出された、と研究グループは推定している。
 これは科学雑誌「サイエンス」に発表される、とか。

 ゾクゾクするほど、うれしくなってきたね。

 私がネアンデルタール人の遺伝子をもっている可能性は、1パーセントもないかも知れないが、何万年も昔の祖先が、異性に出会ったことぐらいは想像できる。
 やっぱり「ボーイ・ミーツ・ガール」だろうなあ。
 阿部 知二のもっとも初期の作品に、「戀するアフリカ」という短編があるけれど、私も「恋するネアンデルタール女」でも書けばよかったなあ。(笑)

2010/06/22(Tue)  1200
 
 少年時代のことを思い出す。

 ラジオで相撲の実況を聞いていた。野球の実況放送も聞いたが、そのナレーション、テンポ、エロキューションなど、今の人には想像もできないだろう。

 ただ今、1時30分でございます。ただいまより、六大学野球、早慶第一回戦を放送いたします。少しくお待ちを願います。
 ……
 ただいまの拍手は、慶応のシートノックがすんだところでございます。かわって、早稲田の練習でございます。ノックは、キャブテン、XXでございます。
 ……
 本日は、朝は曇っておりましたが、ただいまはよく晴れまして、五月晴れとなりました。一塁線から外野センターのところまで、慶応の応援団、1万人以上。一方、早稲田の応援団、500人ばかし。三塁側に慶応の1万人に対しての涙ぐましい応援でございます。  …… フレーフレー ワセダ
 かくて、早大、春の緒戦を勝ちとりますか、慶応、ふたたび王座をめざしますか、早慶、神宮グラウンドにあいまみえ、互いに一歩もゆずらず、竜虎あい打つ試合でございます。
 ……
 早稲田の応援団、意気さかんに応援をしております。
 ……
 いよいよ、試合の開始となりました。

 少年の私は、ラジオにかじりついている。

 ……
 やぁ、打ちました打ちました! 安東は、予定通りバントと見えましたが、みごとにヒット。やりましたやりました、1点。ランナー、真喜志、たちまちにしてホームイン!
 ……
 次打者、田栗、ショートを抜けば、田村、懸命に走っております。やあ、ホームイン、ホームイン。吉永の返送球、やや高く、この間に三塁セーフ。これで早大、3点。田栗も一塁でセーフ。

 本日は、投手戦というより、打撃戦になりまして、またもや、立石、ホームを踏みました。
 さて、定期のお時間でございます。これよりしばらく経済市況を申しあげます。最初に、大阪の株式市場では……

 私は、ラジオから離れて、母親のところに行く。

 なんか、おやつ、ないの?

 ――何もないよ。コーセン、作ってあげるから、食べて。

 香煎(こうせん)。クズ米を煎って、チンピなどとまぜた粉。ほんの少し、お砂糖をまぜて、白湯(さゆ)をそそぐ。たいしておいしいお菓子ではない。白湯をまぜないまま、口に入れると、口のなかが粉だらけ。むせたりする。

 しばらくすると、

 これで、経済市況をおわりまして、ひきつづき、早慶戦の放送でございます。
 中断中に、慶応、三者凡退、ただいま、X回の表、早大の攻撃でございます。……
 みごと、ストライク。これを、入江、見送って、安東、大きなモーション、ファール。アウトコーナーをややはずれたボール。2ストライク、1ボール。ランナーは笠井……

 私はラジオにしがみつく。……やぁ、おもしろくなってきたぞ。ここで1点、入れるかなあ。

 打ちました打ちました! 大飛球、大飛球。外野に向かって飛んでおります。
 ……
 あ、レフト線上、堤、走る走る、ついにみごとにキャッチ。アウト、アウトでございます。打者がボールを打てば、野手がとるのであります!

 私は思わずむせる。コウセンの粉が咽喉の奥にはりついた。

 今でも忘れられないことがある。
 私のクラスの、荒井君という同級生が作文を書いた。そのなかに「アナグソ」という言葉が出てきた。小学生の耳にはアナウンサーが「アナグソ」と聞こえたらしい。

 今から70年以上も昔のこと。

2010/06/18(Fri)  1199
 
 昔のゴシップ記事を読む。

    エロの総本山、イットの元祖、クララ・ボウが肥り過ぎて、近頃、とんと売り物
    のイットが発散しなくなったので、何とかして痩せたい痩せたいと苦労している
    ことは皆様ご存じの噂。
    ところが、わが国でも、肥り過ぎて困っている女優は沢山ある。
    日活の夏川 静江、ますますポチャポチャと円くなり、マキノの大林 梅子、む
    くむくとふとり、蒲田の新進、伊達 里子もまた脂肪分充満して、おのおの「痩
    せたいわ痩せたいわ」と嘆いている。
    蒲田の栗島 すみ子も、先ごろまで肥って困るとこぼしていたが、某博士発明の
    「痩せ薬」を常用し初めてからメキメキと、痩せだし、近ごろではなよなよとし
    たすみ子独特の美しさを発揮し出した。
    女優連中が、すみ子を取り巻いて、
    「まあ、羨ましいわ、その痩せる薬を教へて頂戴よ」といってるところへ、通り
    かかった八雲 恵美子、その話を聞いていたが、やがてホッと一つ息をして行っ
    てしまった。
    無理はない、八雲 恵美子の念願は、「何卒神様、私を肥らせ給え」であった。
    やせるもふとるも神のみこころ、こればっかりは、スター諸嬢にもままならぬと
    見える。         (「サンデー毎日」昭和5年11月2日号)

 別にコメントする必要もない。
 こんなゴシップ記事に興味をもつのは、この程度の内容でもじつにいろいろなことがわかるからである。
 栗島 すみ子は日本のサイレント映画を代表するスターだった。この昭和5年3月、「日活」は、藤原 義江主演で「ふるさと」で、トーキーに先鞭をつけた。つまり、栗島すみ子の時代は、確実に終わりを告げていた。
 夏川 静江は、スターの地位はたもったが、マキノの大林 梅子、蒲田の伊達 里子もスターの座を去ってゆく。
 世界的な大不況の影響もあって、昭和5年から7年にかけて、日本の映画界は激動の時代を迎えていた。撮影所だけでなく、映画館でも争議が続出している。

 昭和5年、日活で撮影中の映画の題名は「娘尖端エロ感時代」。
 一方、日本で公開されたハリウッド映画は、「アンナ・カレニナ「(グレタ・ガルボ主演)、「リオ・リタ」(ビーブ・ダニエルズ主演)、「ジャズ・シンガー」(アル・ジョルスン主演)、「ラヴ・パレイド」(モーリス・シュヴァリエ、ジャネット・マクドナルド主演)。「ブロードウェイ・メロデイ」(アカデミー賞作品賞)など。

 優劣の差ははっきりしていた。

2010/06/14(Mon)  1198
 
 電信柱に貼ってあった広告のチラシを思い出した。
 アメリカから、テレル夫人という女性が来日したという内容のものだった。私が小学校の低学年だった頃。昭和10年代。

 テレル夫人はたいへんな肥満で、関取の小錦よりももっとデブだったはずである。
 来日したときも、当時の鉄道の客車には乗れず、わざわざ貨物車に椅子兼用の寝台を用意して各地を巡業した。見世物だったらしい。
 私はテレル夫人を見なかった。見たいとも思わなかった。
 ただ、毎日、電信柱にベタベタ貼りつけられたチラシを見ながら通学したので、テレル夫人の名前をおぼえてしまった。

 つい最近、こんな人生相談の投書を読んだ。

     育児休業中の30代女性。
     幼い頃から続けてきた水泳を、中学時代に一時期やめて体重が15キロふえた
     ことがありました。
     高校になって水泳を再開して体重はもとに戻りましたが、以来、体重の増加が
     過剰に気になるようになりました。1キロでも増えると落ち込んだり、イライ
     ラしたり。毎日、体重計に乗ってイライラする自分が嫌になります。
     べつに、やせて綺麗になろうとは思っていないのです。増えてしまうのが恐ろ
     しい。今、太ったら、もうもとには戻らないだろうと思います。
     体重が気になるのは自分に自信がないのが原因かも。本来、食べることは好き
     なのですが、カロリーばかり気にして、毎日歩いて、野菜中心の食事にしてい
     ます。それでも太ってしまうのではと心配。こんなことをずっと考えて暮らし
     ていくのはつらいです。たべたいものを楽しく食べていきたいのですが……

 この女性にとっては、わずかな体重の増減が人生の重大事なのか。
 はっきりいって、こういう考えが――まず精神的によくない。1キロでも増えると落ち込んだりイライラするというのは、潜在的な鬱病の初期症状と見たほうがいい。
 「べつに、やせて綺麗になろうとは思っていない」というのは、Evasive な表現で、はっきり「やせて綺麗になろう」と考えたほうがいいのではないか。
 むろん、やせたから綺麗になるとはかぎらない。
 若い女性のほっそりした足が魅力的に見える、といっても、外国人の眼には、日本の女性の、むしろぼってりした大根足のほうが、けっこう魅力的に見えていることを考えればいい。
 テレル夫人のような極端な肥満は論外だが、やせている女性より、いくらかふとりじしの女性のほうが好まれることも多い。
 「イヴのすべて」で主演したアン・フランシスという女優さんは、小柄だが、ぼってりしたからだつきだった。いまの女優でもアンジェリーナ・ジョリーなどは、ふとりじしといっていい。
 だから、体重が15キロふえたぐらいで悲観する必要はない。30代で、育児休業中の女性なら、ホルモン・バランスから見て、多少ふとっても自然ではないか。
 「今、太ったら、もうもとには戻らないだろう」などと考えないこと。

 毎日、体重計に乗ってイライラするのはやめたほうがいい。

 自分のからだをよく知って、いちばん貴重な体重をいつまでもたもちつつ、これからやってくる40代、50代を楽しみにしながら、好きなものを食べる。(むろん、食べすぎはよくないが。)30代といえば、女としても最高の時期ではないか。
 毎日歩いて、野菜中心の食事にしようというのは殊勝だが、カロリーばかり気にするのはよくない。
 私たちの幸せは毎日の食事をおいしくいただくことにある。私たちはカロリーばかり気にするために生きているのではない。

2010/06/08(Tue)  1197
 
 スランプで何も書けないときはどうするか。

 私のようなもの書きでも、ときどきスランプを経験した。そんなときは映画を見るとか、音楽を聞く。そういう対症療法がきかないスランプだったらどうするか。
 地図をポケットに押し込み、知らない山を登りに行く。たいていのスランプは癒ってしまう。

 老齢になると、どんな映画を見てもあまり楽しめないし、まして最近の音楽にはついて行けない。
 一度スランプに陥ると、悪化するばかりで、予後もおぼつかない。

 そこで、昔見た映画で好きだったものをビデオやDVDで見直す。
 スランプのときに私がえらぶのは、「ファールプレイ」、「ウォリアーズ」、「ガルシアの首」、あるいは、ツイ・ハークや、チャウ・シンチーの映画なのだ。
 どれもこれも、映画史に残るような傑作ではない。名画でもない。誰ひとりおぼえていないような映画ばかり。
 「ファールプレイ」のゴールデイ・ホーンが好きだし、「ウォリアーズ」では無名だった少年や少女たちを見て――かつてのニューヨークを思い出す。
 ツイ・ハークの女侠たち、とくにブリジット・リンや、内容はまったく「おばか映画」なのに「詩人の大冒険」のコン・リーが、どんなに美しかったか。

 ただし、そういう「お気に入り」でも、あまり何度も見たせいか効果がない。こうなったら重症である。最後の最後にとっておきの1本を見て、やっとなんとか元気になる。
 これは、いずれ友人の竹内 紀吉に見せてやる約束だったが、彼はスランプなど一度も経験しなかった。
 だから、彼にも見せなかったのが――残念だった。

 どんなにくだらないものでも、見落としている部分が少しはあるかも知れない。いつも、そう思って見ている。トリヴィアルなことでもいいのだ。ひとりの登場人物が、ほかのどんな女とも違って見えてくる。
 それがすばらしい。

2010/06/03(Thu)  1196
 
 作家、ジャン・ジロドゥーは、長い期間、何も書かない。何かを書きたい欲求がない。だからみんなはジャンがスランプなのだろうと見ている。
 ある日、突然、作家は何か書きたいという気もちになる。
 窓辺か、暖炉のそばに、ブリッジ用の小さなテーブルを出す。
 さて。原稿用紙をひろげて書き出す。一気呵成に。
 こうして二週間か三週間、書きつづける。

 作品が仕上がると、小さなテーブルをしまって、それまで一心不乱に書いていたことを忘れたように、本業の外務省の仕事に専念する。

 書きあげた原稿はタイプでコピーをとって、親しい作家や批評家に読んでもらう。戯曲の場合は、俳優のルイ・ジュヴェに読んでもらうのだった。
 彼の原稿は、数十ぺージにわたって流れるように書きつづけられているが、途中、一語たりとも削ったり書き込みがなかった、という。

 さすがに凄い作家だなあ。
 私などはまったく正反対のタイプ。

 作家、山川 方夫は、まだ無名の頃、「三田文学」の編集をしていた。たまたま、だれかの原稿が落ちた(間にあわなくなった)とき、急遽、自分の創作を掲載した。ほんの数時間で短編を書いたらしい。
 たまたま、その翌日、私は山川に会った。しばらく雑談をしたが、山川は、徹夜で書いたばかりの短編を私に聞いてくれといった。原稿を読んでくれ。というのなら話はわかる。ところが、原稿を聞いてくれというのだった。
 そして、山川はその短編、「春の華客」の冒頭から暗誦してみせた。

 私は山川の暗記力におどろかされた。いくら自作の短編にせよ、まるまる全部暗記する芸当は私にはとても考えられないことだった。
 私ときたら、自分が書いたばかりの短いエッセイでさえ、正確にそらんじてみせる、などという芸当はできなかった。その雑文で何を書いたか、内容さえろくにおぼえていないのだった。
 山川は小説を書くのが好きでたまらなかったのだろうし、いつも自作に自信をもっていたに違いない。

  山川は、ほんとうに才能のある作家だった。彼の周囲にいた人々は、誰しも、彼がいずれ作家として登場するだろうことを疑わなかったはずである。
 「春の華客」を書いた彼は20代の前半で、私ははじめての訳書が出たばかりだった。

 その日、山川 方夫は私に小説を書くようにすすめてくれたのだった。

2010/05/30(Sun)  1195
 
 久しぶりに、知人に会って、自然に口を衝いてでることば。
 「やあ、しばらく」

 相手が親しい知人であれば、会わなかった時間をいっきに埋めて、なつかしさが迫ってくる。だからこそ、これだけのことばで挨拶として通用する。

 日本人は、いつ頃からこんな挨拶をするようになったのか。

 昔の俳句を読んでいて、思いがけず、

      やあしばらく 花に対して 鐘つくこと      維舟

 という句を見つけた。

 作者は貞門の俳人で、ずいぶん剛腹な人だったとか。俳諧の道では、いろいろな人と争ったらしい。しかし、鬼貫、言水が門人だったというから、一門の指導者としてはすぐれていた人物。
 どこの世界にも、こういう人はいる。人間的にいやなやつだったのだろう。延宝8年、76歳で亡くなっている。

 ところで――
 親しい人から近刊の本を頂いた。手紙がついている。

 その結びの部分は、

   どうか、お風邪など召しませんように。ご会拶に伺える日を楽しみにしております。

 まさか、挨拶という言葉が書けないはずはない。してみると――わざと「会う」という言葉にひっかけて、造語(ネオ・ロジスム)とシャレたらしい。

 こういういたずらは楽しい。というより、こういうさりげない「いたずら」が好きな人が好きなのである。

 いただいた本は私にはむずかしい内容だったが、これから少しづつ読むことにしよう。

2010/05/27(Thu)  1194
 
 フランスの芝居で、私たちがすぐに思い浮かべるのはコメデイ・フランセーズだろう。モリエールの劇団が旅から旅に巡業をつづけたことはよく知られているが、一六七三年、劇作家で俳優のモリエールが亡くなったあと、残された劇団は、ルイ十四世の勅命によって一六八〇年、これも王立のブルゴーニュ劇団と合同した。
 ルイ十四世はこの劇団にパリにおける独占上演権を許し、俳優に年金をあたえる特権をあたえた。この新劇団は、ラシーヌ、コルネイユ、モリエールをはじめ古典の上演を使命とすることになった。一七七一年から八〇年代にかけて、パリの劇場はテアトル・フランセ、テアトル・イタリアン、テアトル・ド・ロペラ(オペラ座)が、ほんらいのフランス演劇(コメデイ・フランセーズ)である。(現在でも、コメデイ・フランセーズは「モリエールの家」と呼ばれている。)

 ところで、コメデイ・フランセーズの成立ととかかわりなく民衆はエンターティンメントをもとめていた。パリでは縁日の市場に掛け小屋で喜劇を演じるような芝居者が多数あらわれる。一七五九年から、パリ市内、北東にあたるブールヴァール・デュ・タンプル(寺院通り)には常設の芝居小屋が並ぶようになった。サン・ジェルマンや、サン・ローンの修道院では、二ヵ月のロングラン興行さえめずらしくなくなる。ブールヴァール(大通り)芝居とよばれるものの濫觴(ルビ らんしょう)である。
 こうした劇場でとりあげるレパートリーは、パリ市民の好みにあわせた、ひどく猥雑な笑劇、見世物、パントマイムによる夢幻劇、犯罪劇ばかりだったが、いきいきとした民衆のエネルギーにささえられていた。この通りに集まってくる連中のなかには、よからぬ風態のもの、ヤクザや娼婦たち、スリ、強盗なども多く、寺院通りはブールヴァール・デュ・クリム(犯罪通り)と呼ばれるようになった。
 ただし、犯罪者が集まってきたために犯罪通りと呼ばれたわけではなく、当時、「メロドラム」と呼ばれた勧善懲悪のお涙頂戴もののサスペンスで、ドラマの山場にきまって殺人シーンが出てきたためという。これは、のちのロマン主義の演劇運動に通底している。こうした雰囲気は、後年の映画「天井桟敷の人々」(1944年/マルセル・カルネ監督)に描かれている。あの映画に登場するフレデリック・ルメートルは、実在の名優で、まさにロマン派とメロドラムのヒーローとして生きた。もうひとりのジャン・バティストは、マイムの名優として、フランスの俳優術の洗練を代表していた。

 絶対王制の下で演劇活動をつづけてきたコメデイ・フランセーズは、一七八九年のフランス革命によって、特権的な地位を失った。革命の人権宣言で、劇場を開設する権利は万人のものと認められて、劇場が都市の周辺に出現する。一七九八年、コメデイ・フランセーズは再建されたが、名優、タルマと保守派の対立、俳優たちの内紛がつづいたり、火災にあったり存続もあやうい受難の時代をむかえる。
 一八一二年、遠くモスクワに遠征したナポレオンの勅令によって、コメデイ・フランセーズの機構がきめられて現在までの大まかな基礎が作られ、一八五〇年にはコメデイ・フランセーズを総括する支配人という制度が発足した。これも、第二帝政の時代の大きな演劇改良の動きによるもので、ブールヴァールがフランス演劇に大きな影響をあたえていたからだった。こうして、名女優ラシェルからサラ・ベルナール、名優フリダリクスからムネ・シュリー、リュシアン・ギトリの時代に移ってゆく。

2010/05/23(Sun)  1193
 
 イリヤ・エレンブルグを読む。
 いまどき、ソヴィエトの作家、エレンブルグを読む人はいないだろう。

 イリヤ・エレンブルグは、若き日をパリで過ごしている。
 彼の回想を読むと、コメデイ・フランセーズで、ムネ・シュリーの「エディプス」を見たことがかかれている。

 「私は芸術劇場しか認めていなかった。舞台ではすべて現実におけるがごとくでなければならないと思っていた。ムネ・シュリーはみじろぎもせず、ひとところに立ちどまると、手負いのライオンのようにうなりはじめた。『おお、われらの人生のなんと暗いことよ!……』何年かたってやっと、彼が名優だったと気がついたが、当時は芸術のなんたるかも知らなかったので、こらえきれず、大声で笑いだした。天井桟敷で、芝居の見好者(ルビ みごうしゃ)の間に陣どっていたのだが、あっと思ったときには、ぶん殴られて、通りにほっぽり出されていた」と。(「回想」1960年)

 私はこのエビソードを、『ルイ・ジュヴェ』で書いた。

 やはり若かったジュヴェは毎日のようにムネ・シュリーを見に行っていた。だから、ムネ・シュリーの芝居を見て笑いだしたロシアの青年が、パリの若者たちにひったてられても同情しなかったに違いない。

 佐藤 慶が亡くなった。
 俳優座の養成所で私の講義を聞いたひとりだが、あるとき、私が演出した芝居を見ていた彼が不意に笑いだした。私が芝居に出した俳優の芝居がひどく下手なので呆れたらしい。私は、佐藤 慶の風貌に、一筋縄ではいかぬ不定なものを感じたことを覚えている。

 佐藤 慶は養成所の生徒だった頃から、映画をめざそうと思っているといっていた。

 イリヤ・エレンブルグを読んでいて、彼が若き日をパリで過ごしていたこと、自分が若い頃に知っていた俳優の訃報がかさなってきた。

2010/05/25(Tue)  1193
 
 イリヤ・エレンブルグを読む。
 いまどき、ソヴィエトの作家、エレンブルグを読む人はいないだろう。

 イリヤ・エレンブルグは、若き日をパリで過ごしている。
 彼の回想を読むと、コメデイ・フランセーズで、ムネ・シュリーの「エディプス」を見たことがかかれている。

 「私は芸術劇場しか認めていなかった。舞台ではすべて現実におけるがごとくでなければならないと思っていた。ムネ・シュリーはみじろぎもせず、ひとところに立ちどまると、手負いのライオンのようにうなりはじめた。『おお、われらの人生のなんと暗いことよ!……』何年かたってやっと、彼が名優だったと気がついたが、当時は芸術のなんたるかも知らなかったので、こらえきれず、大声で笑いだした。天井桟敷で、芝居の見好者(ルビ みごうしゃ)の間に陣どっていたのだが、あっと思ったときには、ぶん殴られて、通りにほっぽり出されていた」と。(「回想」1960年)

 私はこのエビソードを、『ルイ・ジュヴェ』で書いた。

 やはり若かったジュヴェは毎日のようにムネ・シュリーを見に行っていた。だから、ムネ・シュリーの芝居を見て笑いだしたロシアの青年が、パリの若者たちにひったてられても同情しなかったに違いない。

 佐藤 慶が亡くなった。
 俳優座の養成所で私の講義を聞いたひとりだが、あるとき、私が演出した芝居を見ていた彼が不意に笑いだした。私が芝居に出した俳優の芝居がひどく下手なので呆れたらしい。私は、佐藤 慶の風貌に、一筋縄ではいかぬ不定なものを感じたことを覚えている。

 佐藤 慶は養成所の生徒だった頃から、映画をめざそうと思っているといっていた。

 イリヤ・エレンブルグを読んでいて、彼が若き日をパリで過ごしていたこと、自分が若い頃に知っていた俳優の訃報がかさなってきた。

2010/05/18(Tue)  1192


 私が好きな外国の女流作家。

 アナイス・ニン。私は、彼女の作品を全部読んだ。ただし、自分で訳したのは長編が一つだけ、あとは処女作、『ガラスの鐘の下で』のなかの2編を訳しただけに終わった。ほんとうは、もっと多くの作品を訳したかったが、そんな機会はなかった。

 アーシュラ・ヒージ。ドイツ系のアメリカ作家。彼女の作品はクラスで読んだ。私は作家の清冽な筆致に魅せられた。とにかく描写の一つひとつが、その作品の語り手の内面を想像させることに、心を奪われた。凄い作家がいるものだと思った。

 ジャマイカ・キンケード。この作家のものは、わずか1編しか知らない。しかし、女流作家らしく、自分の身辺のことを書きながら、それだけで人生の哀歓を感じさせる。日本の女流作家が書くことを忘れてしまったり、はじめから問題にしないような世界をきっちりとらえている。しかも。いっしゅの凄味があって、なかなかの才能だと思う。

 つぎに、私があげるのは、イタ・デイリー。アイリッシュの作家。失礼だが、アナイス・ニン、アーシュラ・ヒージと肩を並べるほどの作家ではない。しかし、この作家も、読んでいてじつにすばらしい。いまの作家の短編がどんなにおもしろいものか、イタ・デイリーを1編、読むだけで納得がゆく。

 もう、ひとり。この少女は誰も知らない。本を1冊出しただけで消えてしまった。才能はあった。しかし、高校の文芸部か何かで、小説らしきものを書いて、少しばかりいい気になったのだろう。
 ユダヤ系の少女だった。
 私は、この少女の書いたものを読んで、ほんとうに感心した。
 それから数十年たって、私のクラスで、イギリスの作家の長編を読んだ。そのオープニングを読んだとき、ずっと以前どこかで読んだことがあるような気がした。
 そして――私が関心をもったアメリカの少女の書いた短編とまったくおなじ文章だったことに気がついた。
 私は茫然としたが――その少女を非難する気は起きなかった。17歳の少女が、よくこんな長編を読んだなあ、と思った。
 そして、自分でもすっかり気に入って、イギリス作家を模倣したのだろう。しかし、模倣しきれなくなって、つい、失敬してしまったに違いない。いいかたを変えれば、少女の才能は、その程度のものだったのだろう。
 たった1冊だけ、有名な出版社から本を出して消えてしまった少女。彼女のことを考えると、なぜか私の胸には、いたましさと、その後の少女の人生が幸福だったことを願う思いが重なってくるのだった。
 彼女の作品を、いつか翻訳したいと思ってきたのだが、どうやら夢に終わるだろうな。

2010/05/16(Sun)  1191
 
 私は多代さんのファンだが、全部が全部いい句ばかり、等と思っているわけではない。

    六月や 泊りからすは 山へ行く         多代

    短夜や 雨水澄んで 有明る           多代

    夏の夜や かねなき里のおもしろさ        多代

 「かねなき」は、鐘も鳴らない鄙びた里ということだが、不況で過疎になってしまった里かも。おもわず、笑った。

    あふき立て 鳴りの止まぬや  競馬       多代

 これも、今の競馬を連想して、多代さんは馬券を買ったのか、などと連想して、われながらあきれた。

    差し上る日を 屋根越しの 幟かな        多代

 これも、いい句のように見えながら、なんとなく納得しがたいところがある。
 しかし、おなじ更衣を詠んでも、千代の、

    脱ぎ捨ての 山に積るや 更衣          千代

    日はしたに 休む大工や 衣かへ         多代
    あらためて 松風ききぬ ころもかへ       〃

 私が、多代さんを推賞する理由はわかってもらえるだろう。

    蝶々や 女子の道の後(あと)や先        千代
    蝶々や 何を夢みて 羽つかひ          〃

 よりも、おなじ多代さんの句に、

    春の雁 笠着るうちに 遠くなる         多代
    日の晴れや 幾度も来る おなじ蝶        〃
    昼船や さそわぬ蝶の ついてくる        〃

 のほうがいい。

2010/05/13(Thu)  1190
 
 おや、春雨か。仕方がない。ぼんやり俳句を読みふけることにしよう。

    世の中は 何がさかしき 雉(きじ)の声     其角

 これまた、あまり感心できない句だが、それでも、

    隠すべき事もあるなり 雉子(きじ)の声     千代

    雉子(きじ)鳴くや 仏に仕ふ 身は安き     よし女

 などよりは、ずっといい。またまた、多代さんの句を調べてみると、

    隠るるも すばやき雉子(きじ)や 草の風    多代
    首伸べて 見廻す雉子(きじ)や 草の中

 やっぱり、いいなあ。
 そこでまたもや、加賀の千代と並べてみる。

    思ひ思ひ 下る夕べの 雲雀(ひばり)かな    千代
    上りては 下を見て鳴く雲雀(ひばり)かな
    二つ三つ 夜に入りそうな雲雀(ひばり)かな

 おやおや。
 千代の技巧句よりも、

    美しい空に はらりと 雲雀(ひばり)かな    多代

 さりげなく一瞬の冴えを見せる多代さんの句のほうが好きなのである。
      (つづく)

2010/05/11(Tue)  1189
 
 女人の俳句を読んでいるうちに、俳句のことを考えた。
 俳句には用言の連体形止めが、よくみられる。えらい人の句を引用すれば、これはよくわかる。

    留守にきて棚探しする 藤の花          芭蕉

 まさか藤の花が棚探しをするわけではない。そういえば、昔の人は、よく人を訪問したものだった。たとえば、森 鴎外が新人作家の一葉を訪れたとき、一葉が留守だったので帰りを待って座敷に端然として待っていた、という。

    世の中は 何がさかしき 雉(きじ)の声     其角

 この句には「雉も鳴かずば打たれまいに」というメタフォーが隠れているだろうと思う。それはわかるのだが、どうもよくない。ごめんなさいナ、其角さん。

    鶯や かしこ過ぎたる 梅の花          蕪村

 これも蕪村にしては、「かしこ過ぎ」て、あまりいい句ではない。  (つづく)

2010/05/09(Sun)  1188
 
 以前もとりあげたが、私は多代さんのファンなのだ。桜が満開だった頃、ふと、多代さんに桜の句はないのだろうか、と思って調べてみた。ないはずはかい。

      初花や 思ひも寄らず 神詣        多代
      さむしろに 這ひ並ぶ子や 花の蔭
      花の戸に 脱ぎもそろわぬ 草履かな
      花少し散って晴れけり 朝曇り
      ややあって 雲は切れたり 峯の花
      花に月 どこからもれて 膝の上
      花に暮れ さくらに明けて 日は遅し
      木樵より 外に人なし 遅桜
      晩鐘の さかひもなくて 花に月

 注釈の必要のない平明な句ばかり。ただし、多代さんの句は、いかにも平明、平凡に見えるけれど、どうしてどうして、そんなものではない。たとえば、ほかの女性(にょしょう)たちの句と並べてみると、にわかに輝きをましてくる。

      山桜 ちるや小川の 水くるま       智月尼
      花さいて 近江の国の 機嫌かひ
      逢坂や 花の梢の 車道
      入相(いりあい)の鐘に痩せるか やま桜

 智月尼は、芭蕉の弟子。大津の乙州の母。
 それなりに姿のいい句だが、多代さんの句と読みくらべてのびやかさがない。
 多代さんよりはるかに高名な、加賀の千代の

      女子どし 押して登るや 山桜       千代
      花戻り 見るなき里の 夕かな
      晩鐘を 空におさゆる 桜かな
      あしあとは 男なりけり はつ桜

 こうした句と並べて、いささかも遜色がない。いや、それどころか、千代などとははじめから比較にならないほどに洗練された句ばかりだと思う。

 多代さんだけを褒めるつもりはない。
 ほかにも桜を詠んだ句は多いが、私の好きな句はあまりない。

      管弦の灯のはしりこむ 桜かな       花讃
      追い追いに 来る人ごとの 桜かな     園女
      草臥(くたびれ)を花にあずけて 遠歩き  志宇
      花にあかぬ 浮世男の憎さかな       千子
      殿ばらと 袖すれ合うて 花見かな     りん
      盃に影さす 夜の桜かな          可中
      追ふ人や 追はるる人や 花の酔い     そめ女
      うちにゐて 思ひにたへぬ 花曇り     はる

 園女は芭蕉の弟子だったが、芭蕉亡きあと、其角についてまなんだ。志宇は、武家の妻女、和漢の書に親しみ、和歌もよくしたという。千子は、去来の妹。りんは、豊後の国の女性。可中については知らない。そめ女、はる、いずれも遊女ではないかと思われる。

 春風駘蕩足る気分で、俳句を読む。

 昔の女人の句。あまりにも遠く隔たった世界だが、かつて生きていた女たちの息づかいが艶冶に響いてくる。
   (つづく)

2010/05/05(Wed)  1187
 
 暇である。退屈しているわけではない。暇なときには俳句を読む。詠むのではない。ぼんやりと眺めているだけ。

   あら尊(とお)と 青葉若葉の 日の光     芭蕉

 こういう句は、いまどきの俳人に詠めるはずもない。

   何とせん 五人に三つ 初茄子(なすび)    許六

 これもおなじ。私たちの日常に、こういう情景がまるでなくなった――わけではないだろうが、俳句に詠むことはなくなっている。

   我が家に 来さうにしたり くばり餅      一茶

 今ではどんな荷物でも宅急便で届けられるし、配り餅などという習慣もなくなっているだろう。この俳句のさびしみ、おかしみなどはわからなくなっている。

   思いたつ 吉野の人も 花見かな        野坡

 もう桜も散ってしまったが、こんな俳句を眺めて、せめて江戸の情調をしのぶことにしようか。
 ただし、のんびり俳句を読むといっても、

    麸といふものあり 性 水を好んで氷に遊ぶ   杉風

 あるいは、

    流るる年の哀れ 世につくも髪さへ漱捨つ    其角

 といった俳句はあまり気に入らない。杉風ははじめから好きではないから読まないが、其角にはときどき感心しながら、こんな句を読むとアホかと思う。    (つづく)

2010/04/29(Thu)  1186
 
 エチオピアの大地。
 俳優の高橋 克典が、ダロルという土地の異様な景色を歩いている。
 植物の生育などまったく見られない。ただ、赤茶けた岩と、黄褐色の砂が広がっている。そのさきに、切り立った崖があって、その頂上に、巨大な岩盤を削って作った原始キリスト教の教会がある。そこにたどり着くには、牛の革をねじりあげたロープにすがりついて、断崖をよじ登らなければならない。
 高橋 克典は、岩山をやっとのことで登りつめる。そして、これも、巨大な岩を削って作った十字架を見る。

 高橋 克典がつぎに訪れたのは、おなじエチオピアの、エルタ・アレ火山。
 これもまた異様な風景だった。ヘリコプターの空撮で、火山の噴火口をとらえている。眼下に巨大な火流がグツグツと煮えたぎっている。噴火口から噴煙をあげるのではなく、火口がひたすらすさまじい勢いで燃えつづけている。
 クレーター(噴火口)の直径、150メートル。火山だから、外輪山ができているが、これがことごとく溶岩。つまり、有史いらい、爆発をくり返してきて、すさまじい溶岩の流れがいつしか外輪山になったものらしい。
 その火口が現在もはげしい勢いで燃えつづけ、火の海、溶岩湖になっている。

 ふと、岑参の詩を思い出した。この火山とは関係がないのに。

     火山今始見   火山 いま はじめて見る
     突兀蒲昌東   とっこつとして ほしょうの東
     赤焔焼虜雲   せきえん りょうんを焼き
     炎気蒸塞空   えんき さいくうを むす

 私は、ここにきて、はじめて火焔山を見た。ごつごつした山で、西域、トルファンの東に位置する。真っ赤な焔が、はるかな異境の雲を焼いている。その火の熱気は、山をとざす空にさえぎられて、蒸し焼きにされるようだ。

 西域、トルファンと、アフリカのエチオピアでは、まるで違うはずだが、エルタ・アレ火山の風景はうまく表現できないので、中国の詩人に応援をたのむしかない。
 こういう風景を見れば、誰しもことばを失うだろう。

 高橋 克典はこの風景に感動したようだった。まるで、地球の血管が脈うっているようだという。たしかに、そんなふうに見える。心に残る、いいドキュメントだった。

   <10年3月15日(日)7.PM.「テレビ朝日」>

2010/04/24(Sat)  1185
 
 鈴木 八郎は、一幕もの、『黛(まゆずみ)』を「新劇」に発表しただけで、劇作家としては挫折したが、一方で、クラブ雑誌と呼ばれる読みもの雑誌に、おもしろい時代小説をいくつも書いている。八郎の先輩だった、三好 一光は世をすねた作家として生きたが、鈴木 八郎は小説を書くのが楽しくて時代小説を書きつづけていた。
 後年の私はクラブ雑誌にも通俗小説を書いたが、鈴木 八郎が、程度の低い書きなぐりの作品を書かなかったことを見てきたことも影響していたと思う。
 その頃、純文学を志しながらクラブ雑誌などに書けば筆が荒れるという人がいた。それに、一流の雑誌の編集者は、一度でもクラブ雑誌などに書いた作家を相手にしない、ともいわれていた。
 私はそんな連中を軽蔑していた。なんという狭量だろう。クラブ雑誌に書いて筆が荒れるようなやつは、どこに書こうといずれ筆は荒れるのだ。クラブ雑誌だろうと一流の雑誌だろうと、てめえの書く作品に変わりがあろうものか。
 西島 大がテレビで「Gメン’75」や、「西部警察」の脚本を書いたからといって、劇作家としての評価が低くなるだろうか。そんなことはない。そんな了見で、競争のはげしい芝居の世界を生き抜いていけるはずもないのだ。

 鈴木 八郎が不遇のまま亡くなったとき、私は若城 紀伊子といっしょに葬儀に出たが、そのあと、西島と三人で酒を酌みかわした。
 彼は何を思ったか、私にむかって、
 「お互いに偉くなれなかったなあ」
 といった。
 私は笑った。
 「そうだねえ、ろくなもの書きになれなかったなあ」
 すると、若城 紀伊子がにこにこしながら、
 「何いってるの、西島さん。中田さんはルネッサンスの大家で、何冊もすごい本を出してるのよ。ほんとは偉いのよ、中田さんて」
 といった。
 「ふうん、そうかあ」
 西島は、にやりとしてみせた。
 ごめんな、きみの仕事のことを何も知らなくて、とでもいいたそうなその笑いは、不愉快なものではなかった。
 当時、私は『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、ジャーナリズムで仕事をすることがなくなっていた。だから、「お互いに偉くなれなかったなあ」といわれても仕方がなかった。それに、お互いに仕事のジャンルが違うと、相手がどういう本を出しているのかさえもわからなくなる。それでもいいのだ。お互いに、しがないもの書きとして生きているのだから、偉くなろうと考えるほうがおかしい。
 酒を飲んで、鈴木 八郎の思い出を語りながら、私たちが、一時期いっしょに悪場所に遊んだことさえも楽しく思い出されるのだった。そのあと西島は、イタリアで買ったブリューゲルの画集を私に贈るといい出した。
 「おれ、イタリア語、読めないからもっててもしようがないんだ」
 私は笑った。こういうかたちで、大は、私に対して気遣いを見せている。それが、うれしかった。

 『ルイ・ジュヴェ』が出たとき、いちばん早くハガキで祝意をつたえてきたのは、西島だった。岑 参(しんじん)の詩を思い出した。

     庭樹不知人去盡   庭樹は知らず 人 去りつくすを
     春来還発舊時花   春 きたりて またひらく 旧時の花

 庭の木々は、むかしの人がみんな死んでしまったのも知らないように、はるがくれば、また、おなじ花をつけて咲いている。

 「青年座」の創立メンバーは、全員、あの世に疎開してしまった。今頃、西島は、東 恵美子や、山岡 久乃、初井 言栄たちと、いっしょに乾杯しているかも知れない。
 大よ、おれもそのうち、そっちに行くさ。おれが着いたら、久しぶりにサシで一杯やろうじゃないか。

2010/04/21(Wed)  1184
 
 西島自身は誰にも語らなかったが、戦時中は熱烈な愛国者で、敗戦の詔勅を聞いた日、悲憤のあまり皇居前に馳せ参じて、同志とともに自裁しようとした少年だった。
 おそらく兄の影響もあったのではないかと私は想像する。彼の兄は、「日本浪漫派」の詩人として知られた田中 克己である。これも、西島は、けっして口外しなかった。
 私は田中 克己の「楊貴妃伝」をすぐれた評伝として敬意をもって読んできた。おそらく、西島が劇作の道を選んだのは、兄と違った世界を選びたかったのではないか。少なくとも、兄の後塵を拝することを避けようとしたからではなかったかと推測していた。
 彼がいずれ劇作家として成功することを私は疑わなかった。

 戦後まもなく、西島 大とおなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと知りあった。この人たちが、戯曲専門の同人誌「フィガロ」を出すことになった。その中心にいたのが鈴木 八郎だった。
 内村先生からはじめて紹介されたのだが、その後、いつも西島 大といっしょに頻繁に会うことになった。

 鈴木 八郎も奇人といってよかった。正確な年齢はわからない。歯切れのいい江戸弁で、いつも和服に、すこぶる上品な草履、頭に宗匠頭巾。私よりも十歳以上も上だったはずである。「戦後」の猥雑な世界に、彼の周囲だけは、江戸の匂いがただよっていた。八郎の話を聞いていると、大正末期、または昭和初期に20代だったような気もする。しかも本人みずから男色者であることを隠さなかった。
 ときどき私の母を相手に、六代目や、もっと前の沢村 源之助などの話をしていたから、年齢がわからない。たいへんなもの知りだった。

 ほんとうなら軍隊にとられるはずもなかったのだが、戦局の悪化で、北方、キスカの守備隊に送られた。アッツ島の日本軍が玉砕して、キスカから転進(退却のこと)し、無事に内地に戻って終戦。その後は、ただひたすら劇作家を志望して、いつも戯曲を書きつづけていた。
 鈴木 八郎は、多幕ものを書いては商業演劇の脚本の公募に出していた。
 まともな学校教育を受けたわけではないのに、芝居に関して知らないことがないほどの大知識で、私などは新劇、歌舞伎の、役者のこと、劇団の内情、思いがけない秘話まで教えてもらった。外国の演劇についてもくわしかったが、私が読んでいた外国の戯曲の話をしきりに聞きたがった。
 西島 大とは大の親友で、おなじ「フィガロ」の若城 紀伊子とも親しかった。(若城 紀伊子は、戯曲が専門だったが、のちに「源氏物語」の研究者として知られ、作家としては女流文学賞を受けている。)

 「フィガロ」のグループのすぐ近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はやがて、桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。

 西島 大の処女作は「フィガロ」に発表されたが、つぎの「メドゥサの首」は、山川 方夫の編集した「三田文学」に発表されている。それを私が演出したのだった。
       (つづく)

2010/04/19(Mon)  1183
 
 若い頃の私が西島 大ととくに縁が深かったのだが、それには理由がある。

 文学上の 師弟関係というものは、はた目から見るほど単純なものではない。師匠にすれば、たいして才能に恵まれていない、どうしようもない弟子を見て、不甲斐ないと思うこともあるだろう。逆に、弟子が鬱勃たる野心に燃えているような場合に、師匠として弟子をうとましく思うこともあるだろう。
 私は、内村さんが期待していたほどの才能がなかった。はっきりいって、内村さんのお書きになる芝居に関心がなかった。私は、ある時期まで小林 秀雄を相手に悪戦苦闘していたし、やがて、ヴァレリーやジッドから離れて、ヘミングウェイに夢中になった。
 だから、戯曲を書くよりも、別の、違った分野をめざしたため、まるっきり内村先生の期待を裏切ったのだった。
 私とは違った意味で、内村さんの後輩だった梅田 晴夫も、やはり先生の期待を裏切ったひとりではなかったか。

 私は内村先生の連続ドラマ、「えり子とともに」のライターのひとりだった。日本で最初のアメリカン・スタイルのホームドラマで、これが成功すれば、長期間にわたって放送がロングランする。当時、内村先生は40代だったので、50代だった伊賀山 昌三、30代だった梅田 晴夫、20代だった私が脚本を書いたり、アィディアを出すグループに加わったのだった。
 「えり子とともに」は、1949年10月にはじまって、127回の連続ドラマになった。(フィナーレは、1953年4月)。
なにしろ長いドラマになったため、途中で、音楽の担当が芥川 也寸志から中田 喜直に交代した。これが実質的に、ドラマの前半と後半の変わり目になったが、西島君は後半から、内村先生の原稿の口述を筆記することになった。

 当時、私と西島 大は、毎月、内村先生からポケットマネーを頂戴していた。
 私はそれを学資にして、母校の英米文学科に戻ってアメリカ文学を勉強したが、フランス語を勉強するように申しわたされた西島君は、「お給料」をみんな飲んでしまった。
 たまに、ふたりとも懐が暖かかったとき、いっしょに酒を飲んだあげく、吉原にくり込んで、翌朝、近所の一膳飯屋でお茶漬けを食らって、そのままに千葉の浜辺まで足をのばしたこともある。
 このとき、たまたま浜辺で釣りをしていた竹田 博(編集者)と会った縁から、私は坂本 一亀と親しくなった。その後、「河出書房」でいろいろと仕事をしてきたが、今となっては、私にとっては、ありがたい出会いだったと思う。
 やがて、私は「東宝」にいた友人、椎野 英之に西島 大を紹介した。「東宝」では西島といっしょにシナリオを書くようになった。
 最近、「アバター」という映画が公開されて、3次元映画がさかんに作られるようになったが、私たちが「東宝」でシナリオを書きはじめた時期に、はじめて3次元映画が登場した。私たちも、3次元映画のためのシノプシスを提出したものだった。むろん、この時期の「東宝」では、一本、試作品ができただけでまともな成果は出せなかったのだが。
 しかし、西島 大は、戦後、沈黙していた熊谷 久虎(映画監督)のために「狼煙は上海にあがる」を書いて、シナリオ作家としての道を歩きはじめた。
 私は才能がなくてシナリオを断念したが、西島はつぎつぎにすぐれた脚本を書くようになった。このとき、いっしょだった仲間が、矢代 静一、八木 柊一郎、池田 一朗である。矢代も、八木も、はじめからシナリオ作家を志望したわけではなかった。後年、ふたりとも劇作家として大成する。池田 一朗は、後年、隆 慶一郎として一斉を風靡する時代ものの作家になる。

 人と人の出会いの不思議を思う。そして、この時期が、私や西島にとってまさしく青春というものではなかったか、という思いがある。

2010/04/18(Sun)  1182
 
 つい先日、私は書いたのだった。知人たちがつぎつきに鬼籍に入ってゆく、と。
 女流作家、宇尾 房子さんが、昨年10月13日にガンで亡くなった、という。
 最近まで知らなかったので、訃報に驚いた。

 つづいて劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞記事で知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4,)
 ただ、宇尾さんの訃を知ったばかりだったので、眩暈のようなものにおそわれた。

 西島 大。本名、西嶋 大(ひろし)。友人たちは「ダイ」と呼んでいた。

 3月3日、肝細胞ガンで死去。82歳。1954年、「青年座」創立メンバーのひとり。「昭和の子供」、「神々の死」などの戯曲のほか、映画、「嵐をよぶ男」や、テレビで「Gメン’75」の脚本をてがけた。

 私は、まだ無名の西島が、内村 直也先生の口述を筆記していた頃に、先生に紹介されて親しくなった。
 その頃、内村先生の周囲に集まっていたグループが、「フィガロ」という戯曲専門の同人雑誌を出すようになって、私も戯曲を書くようにいわれたのだが、戯曲を書くかわりにカットを描いたりした。
 この「フィガロ」に、西島 大の処女作『光と風と夢』が発表された。ある小さなホールで、内村先生演出で上演されて、西島君の出世作になった。
 内村先生も私に劇作を書くよう勧めてくださったが、私自身は演出を志望していたので、内村先生の期待を裏切ることになった。
 それでも西島 大のおかげで、おなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと親しくなった。そのグループの近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はさらに桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。
 私がはじめて演出したのは、青年座の芝居で西島 大の『メドゥサの首』という一幕ものだった。そのつぎも西島 大の『刻まれた像』だったから、当時の西島君とはよほど縁が深かったような気がする。
 あえていえば、私は西島 大といっしょに青春の一時期を過ごした、という思いがある。とにかく、毎日のように会っていたのだった。

 やがて、私は生活のために翻訳の仕事を中心にしなければならなくなって、「青年座」を離れた。私としては、外国の戯曲、それもアメリカの芝居を演出したかったのだが、創作劇を専門に上演していた「青年座」にいても演出できる状況がなかった。それに千葉に住むようになって、渋谷、さらには下北沢の稽古場に通うことがむずかしくなった。

 西島 大と私はお互いに進む方向が違って、その後は疎遠になってしまった。

2010/04/16(Fri)  1181
 
 助詞止めの句をいくつか挙げてみよう。

    夢によく似たる夢かな 墓参り        嵐雪

    啄木鳥(きつつき)の枯木さがすや 花の中  丈草

    暁や 人は知らずも 桃の露         暁臺

    お手打の夫婦なりしを 更衣         蕪村

 さすがにいい句ばかりがそろっている。

    山吹の露 菜の花のかこち顔なるや      芭蕉

    春の雨 別れ別れに 見ゆるかな       鬼貫

    物言はず 客と 亭主と 白菊と       蓼太

 ここまでくると、私などはうっとりとするだけである。こうした一句を読んでいるだけで、いろいろな連想がはたらく。直接、その句にかかわりがないにしても、その句を口にのせてみるだけで、自分の内面にひたひたとひろがってくるものがある。

2010/04/13(Tue)  1180
 
 あまり、好きではない句もあげておこう。

    初雪や 門に橋あり 夕間暮      其角

 情景も眼にうかぶ。いかにも其角らしいが、おのれの才気をたのむ衒気が見えるようだ。そこで、おなじ其角の

    流るる年の哀れ 世につくも髪さへ漱捨つ

 といった破調の句を軽蔑したくなる。

    桟(かけはし)や あぶなげもなし 蝉の声  許六

 これも、おなじ。

    かかる夜の 月も見にけり 野辺送り  去来

 これまた、おなじ。

    よい声の つれはどうした ヒキガエル 一茶

 以上、四句。用言の終止形でとめてある。いずれも、作者の力量はわかるけれど、あまり感心しない。
 たとえば、

    鶯(うぐいす)の かしこ過ぎたる 梅の花  蕪村

 これも好きになれない。

2010/04/11(Sun)  1179
 
 今更ながら――すぐれた俳句なり短歌なりを読むありがたさはどうだろうか。
 短い詩形にどれほど豊かなものが盛り込まれているか。

 たとえば、私の好きな句を選んでみようか。

    一日の春を歩いてしまいけり      蕪村

 ほかにも好きな蕪村の句はいくらでもあるが、こういう句は、一編の短編を読むほどにもすばらしい。むろん、こういう時間の過ごしかたは、今の私たちにはない。ということは、私たちには季節としての「春」もないということにならないか。

    桐の葉は 落ちても 庭にひろごれり  鬼貫

 これもやさしい平叙体の一句だが、私たちの書く作品には季節としての「秋」も失われてしまったような気がする。

    道ばたの木槿は 馬に喰はれけり    芭蕉

 これはもう、私たちが見ることのない風景だろう。俳句を読む。私にとっては、もはや見ることがないからこそ芭蕉の見た季節を見ようとすることにひとしい。
 私がへんぺんたるメッセージを書く姿勢も、こういう俳句を詠む人々の姿勢に、それほど違ってはいない。ただ、私には才能がないだけの話だ。

2010/04/09(Fri)  1178
 
 月に一度、小人数の寺小屋で英語のテキストを読んでいる。
 生徒たちがテキストを訳して、私が指導するグループ。生徒たちは優秀だが、先生のほうは老いぼれGさんである。

 この寺小屋は、だいたい八丁堀のちっぽけな区民館でつづけられている。

 誰も知らないことだが、八丁堀には小林一茶の庵があった。

    うめ咲くや くてうむこうに鳴く雀
    梅さくや ちるや附たり 三日月
    うめ咲くや 現金酒の 通帳
    うめの花 家内安全と咲きにけり
    梅が香や 知った天窓の 先月夜

 よく調べたわけではないが、一茶は八丁堀でこうした句を詠んだらしい。どれも、あまり感心できない句ばかり。
 私の好きな一茶の句は、もう少し違うものである。

    生き残り 生き残りたる寒さかな
    合点して居ても 寒いぞ 貧しいぞ
    しんしんと しん底寒し 小行灯(こあんどん)

 自分の姿を見て、

    ひゐき目に見てさへ 寒き そぶりかな

 東(関東)に下ろうとして途中まで出て、

    椋鳥と 人に言はるる 寒さかな

 箱根、六道の辻と題して、

    寒そらに はなればなれや 菩薩たち

    はなれ家や ずんずん別の寒の入り
    雨の夜や しかも女の 寒念仏
    降る雨の中にも 寒の入りにけり

 一茶の辞世も紹介しておこう。

    ああ ままよ 生きても亀の 百分一

 ところで、私の八丁堀の私塾だが、私は何を教えているわけでもない。ほんとうは、心優しい生徒たちが、月に一度集まって耄碌Gさんの相手にしてくれる集まりなのである。

2010/04/07(Wed)  1177


 アメリカ、ヴァ−ジニア州、フェアファックス・カウンテイ。
 ここでは、小学校の授業の半分は英語以外の言語で授業がおこなわれている、という。

 日本語教育も四つの小学校で行われている。
 ふつうの日常会話などを勉強させるのではない。理科、算数、家庭科を、日本語で教え、幼い子どもたちに日本の文化を理解させる教育である。

 20年前に、日本企業の駐在員たちの支援や、日本企業の後援があって、こうした教育がはじまったという。現在、26の学校で、500人の小学生が、日本語だけで、先生の授業をうけている。みんな日本語を達者に話したり、日本の童謡を歌っている。

 ところが、アメリカの不況で、年間、1億3000万円(円換算)の経費がカウンテイに重荷になって、日本語教育が廃止か、継続か、存続があやぶまれている、という。(’10.1.20.「NHK/ニュース」7;35.am)

 戦時中、アメリカは速成で日本語教育をひろめたが、その成果としてドナルド・キーン、サイデンステッカー、アイヴァン・モリスたちを生んだことを考えれば、フェアファックス・カウンテイの日本語教育がどれほど大きな可能性を秘めているか。

 一方、中国は、アメリカの中、高校でも、中国語の普及を目的にぞくぞくと教室を開いている。中国語を教える学院数は、昨年末までに、88カ国の地域の554校に達している。
 「事業仕分け」とやらで、科学教育研究費、とくにスーパー・コンピューターの開発にカミついた憐呆(れんぼう)などにこの問題の重さが見えるはずもないが。
 いや、憐呆(れんぼう)どもはヒャクも承知で仕切ったか。

2010/04/05(Mon)  1176
 
       ある生


    朝起きると ああ生きているなと思う
    きょうもまだ 頭は大丈夫なのだと思う
    安心する反面 多少 情けなく思うことでもある
    年取るにつれて得た これもまた
    ある一つの生の あるひとこまなのだと思う

 私の場合も、朝起きると、ああ生きているなと思う。ただし、以前のように、さわやか
な目覚めはない。今日もまだ、くたばっていないらしいと思う。安心などはないし、情け
ないかぎりとも思わない。
 くそおもしろくもない現実に腹を立てても仕方がない。できることなら、いろいろな本
を読んで、知らない世界に遊んでいたい。
 奄美大島の詩人、進 一男の詩。短い詩だが、おなじように老年の私には、素直に同感
できる。そして、進 一男の詩を読むことで、その日いちにち、心にかすかなぬくもりを
感じていられる。
 もう一編、「その日まで」を引用しておこう。

    今のこの事は
    近い時が片づけてくれるでしょう
    焼けつく暑い日々が過ぎて
    せめて一輪のコスモスを見るまで
    思いを内に秘めて
    ともかく生きて行きましょう

 この詩が私の心にまっすぐ届くのは、生きているうちに語っておくべきことをごく自然
につぶやいているからである。

 進 一男については、以前にも紹介したことがある。
 年にほぼ1冊のペースで、詩集を出しつづけている。

    詩集「小さな私の上の小さな星たち」  非売品
  〒894−0027鹿児島県奄美市名瀬末広町10−1  進 一男

2010/04/03(Sat)  1175
 
 恐竜が絶滅したのは何千万年も昔のことらしい。
 私の頭脳はトカゲなみの容量しかないので、「らしい」としかいえないのだが――絶滅の原因は、メキシコ・ユカタン半島に、巨大な隕石が落下、地球に衝突したためという。私は、その隕石がどこから飛んできたのか知らないし、メキシコ・ユカタン半島を歩いたこともないので、これが事実かどうか知らない。

 ただ、東北大をはじめ、世界の12の研究機関が合同で、さまざまな分野の研究者が、各地の地層、クレーターなどを調査し、この隕石衝突説を詳細に分析したという。

 このチームの研究で――直径、約10キロから15キロの巨大な隕石が、秒速、20キロの速さで、当時、浅い海だった地表に衝突した。
 そのエネルギーは、ヒロシマに投下された原子爆弾の約10億倍。

 隕石が衝突してできたクレーターの直径は約180キロ。

 この衝突で、大気中に飛散した膨大なチリが、太陽光を遮断した。
 光合成をおこなう植物などが死滅したため、恐竜などが絶滅に追いやられた、という。

 これまでに、隕石の衝突説は、地質学や、古生物学など、個々の分野の研究で追求されてきたが、全世界的な研究で、恐竜絶滅の原因がつきとめられたことになる。

 今後、人間が何千万年にもわたって生きつづけるかどうか私は知らない。
 かりに生きつづけるとして――巨大な隕石が落ちてこないように祈るしかない。
 それでも、今、隕石が落ちてくると予知されたら、どうしようか。

 さっそく、スティーヴン・スピルバーグか、「アバター」の監督、ジェームズ・キャメロンにドキュメントを撮らせたい。ただし、スピルバーグやキャメロンの映画が完成しても、誰ひとりそんな映画を見る観客はいないだろうけれど。

 オバマ氏と、メドベージェフ、プーチン氏たちにお願いして、それぞれ保有している原爆、水爆を全部、宇宙空間にむけて発射していただく。
 少しは、命中するだろう。この作業専任の部隊には、「ハート・ロッカー」(キャスリン・ビグロー監督)に出てくるジェレミー・レナーのような人物を選ぶことにしよう。むろん、巨大隕石相手に、小人数の爆発物処理班で対抗できるかどうか知らない。

 6千650万年の空間に、いつか地球に衝突するかも知れない隕石があって、時々刻々に、地球に向かっている、と考えると……

 こんなアホらしい宇宙的虚無感が、私にはけっこう楽しい。

2010/03/31(Wed)  1174
 
 ある日、新聞でカメラの広告を見た。(’10.3.5.)

 不景気な時代のなかで、デジタル・カメラの激戦がつづいている。
 画質のよさと、ハンディーなところがうけて、軽量で小型の一眼デジタル・カメラは人気が高い。
 そのなかで、キャノン、ニコンが、圧倒的なつよさを見せている。
 だが、3月に入って、パナソニック、オリンパスが新型カメラを登場させているし、ソニーも、ただちに満を持して参入してきた。(’10.3.9.)

 私の見た新聞広告は、キャノンの新製品 EOS KISS X4 {イオス キス エクス フォー}の広告だった。
 7ページにわたって、各ページの下の4段をぶち抜きの大きな広告である。

 いちばん最初の広告のキャプションは――「うちの子は、世界一 カワイイ」。
 写真は――「ドラキュラ伯爵」か、「アダムズ・ファミリー」のお父さんのような、中年の吸血鬼がカメラを片手に、可愛らしい男の子を抱きあげている。

 つぎのページには、大きな帽子をかぶった魔女の母子。「ドラキュラ伯爵」の父子とコントラスト。女の子は小学校の低学年だろうか。こちらのキャプションは――「うちの子は、世界一 才能がある」。
 そのつぎは、モジャモジャの髪の毛、頬も口のまわりもヒゲモジャの親子。狼男だろうか。父親は、サイレント映画のベラ・ルゴシに似ている。
 キャプションは――「うちの子は、世界一 元気だ」。

 つぎの写真は、どうやらハンナ・バーべラのテレビ・アニメのパロディーらしい。
 原始人の家族たちだが、父親に、子どもが3人。母親不在というのは、なにやら意味深長。キャプションは――「うちの子は、世界一 たくましい。」

 こんなふうに、あと三つがつづく。
 この新聞広告が出たのと同時に、テレビで、おなじメンバーのコマーシャルが流れている。気がついた人もいるかも知れない。
 テレビのCMは、むろん動画だから、新聞の広告は、テレビCMの1シーンを使っているのかも知れない。ただし、大型カメラで同時にスティル写真を撮影して、それを使っているのかも知れない。いずれにせよかなり費用をかけているだろう。

 この広告を見た私の感想は――
 じつはたいへんに感心した。これまで、無数にコマーシャル・フォトを見てきた。しかし、ほんの一瞬でも心に残るようなものは極めて少ない。広告を担当した商業フォトグラファーだって、スポンサー側の要求にこたえる「現ニコ写真」を撮れば、それでいい。 もともと「現ニコ写真」にそれ以上を期待する会社はないだろう。
 「現ニコ写真」というのは、広告する現物を手にとって、モデルがニコニコしているフォト。たいていの場合は、若い女優やタレントが商品をもって、ニコニコしている。
 こういう写真が心に残るようなことはない。
 「うちの子は、世界一」シリーズだって、つぎに新製品が出れば忘れられるだろう。

 デジタル・キャメラの市場は、キャノン、ニコンが、圧倒的なつよさを見せているというが、それをささえている現場の優秀さが、このシリーズからも想像できるような気がする。
 私の心に残ったCMは、雨のそぼ降る古い町並みを小犬が、一所懸命に駆け抜けてゆく「サントリー」の名作。おなじ「サントリー」でも、ウーロン茶で、中国の老爺ふたりが、中国語でスキャットするCM。すっとぼけていて、とてもよかった。ドアにかけたダーツでジェームズ・コバーンが遊んでいる。矢を投げようとする瞬間にドアが開く。と、そこに可愛い少女が立っている、というサム・ペキンパー演出の一本。地方局のCMだったが、美少女が田舎の温泉につかっている。入浴シーンだから、両肩をあらわに見せている。なんと、この美少女がアニタ・ユンだった。私は、陶然としてアニタの艶姿を見たものだった。まだ、ほかにもすばらしい作品があったことを、私は忘れない。
 そのなかで、キャノン、EOS KISS のCMは出色のものだと思う。
 このシリーズを企画した宣伝部や、コピー・ライターや、キャスティング・スタッフ、現場のディレクターたちが、真剣にとりくんでいるシーンを想像した。むろん、みんなで楽しく笑いあいながら、撮影がつづけられたのではないか。そんなことまで考えた。

2010/03/28(Sun)  1173
 
(つづき)
 宮 林太郎の最後の長編、『サクラン坊とイチゴ』は、マリリン・モンローに会いに行くという口実で、死んだ有名人のパーティーに出席する宮さんの姿がえがかれている。そのお供を仰せつかった、ウスラバカの作家「中田耕治」が登場してくる。
 ほかの作家がそんなイタズラを仕掛けたら、温厚な私といえどもただちに反撃するだろう。しかし、宮さんがそんなイタズラをしても、別に不快な気分はなかった。
 私がヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーを尊敬し、コクトォについても、宮さんと語りあえる程度の理解をもっていたことから、私に対して親近感を寄せてくださったものと思われる。
 晩年の宮さんは、「無縫庵日録」と題して、膨大な日記を書きつづけていた。そのなかに、私も登場してくる。

    久し振りに中田耕治さんからお便りをいただいた。中田さんの笑顔が目にうかびます。そのご返事を書いた。

    ぼくにとって現在愛する友人はみんな死んでしまってあの世ゆき、中田さんだけが愛する一人になりました。つまり、心の通う友ということです。こんなことを言って申し訳がありませんが、今やあなた一人が尊敬する心の友です。とても寂しいです。ぼくは八十九歳です。もう死んでも文句の言えない限界に達しています。(後略)

  「無縫庵日録」第八巻 平成12年(2000年)3月22日。

 現在の私は、当時の宮さんの孤独がいくぶんでも理解できる年齢になっている。老年の宮さんの孤独も。
 月並みな感慨だが、劉 廷之の詩の一節を思い出す。

      年年歳歳花相似    年々歳々 花はあい似たり
      歳歳年年人不同    歳々年々 人はおなじからず

 宮さんが細いボールペンで、びっしり書きつけたメモを、古雑誌のなかに、しかも私自身のエッセイのページに挟んであるのを見つけた。そのとき、無数の想念のなかに、そんな感慨が胸をかすめたとしても、不自然ではない。

 現在の私は少し長いものを書きつづけている。例によって、なかなか進捗しない。
 たまたま、まったく偶然に、自分の書いた作品の掲載された古雑誌をみつけた。これとてめずらしいことではない。
 しかし、そのなかに、思いがけず、宮 林太郎が私にあてた手紙の下書きが入っていた。それを「発見」したとき、私がどんなに驚いたことか。それだけではない。故人に対するなつかしさ、たまたま人生の途上で知りあうことのできたありがたさ。この古雑誌が私の手もとに戻ってきたことに、いいようのないよろこびを経験したのだった。
 因縁とまではいわないにしても、すでに亡くなった人の呼び声を聞き届けたような気がした。一瞬、夢を見ているような気がした。だから雑誌に挟まれていたメモを、ひそかなメッセージとして読んだとしてもおかしくないだろう。
 世の中には不思議なこともあるものだなあ、という思いがあった。

      春夢随我心      春夢 我が心にしたがって
      悠揚逐君去      悠揚として 君を追って去らん

 春の夢かもしれないが、私の心のままに、別れを惜しみ、在りし日のあなたのことを考えながら、ゆめのなかであなたを思いうかべよう。包 融の詩の一節である。
 冥界におわします宮 林太郎は、私がぐずぐずして、いつまでも新作を出さないのに業を煮やして、こういう形で激励してくれたのかも知れない。

 宮さん、ありがとう。
 私の近作はもうすぐ完成します。あまり期待されても困りますが、そのうちにご報告できるかと思います。

2010/03/26(Fri)  1172
 
(つづき)
 宮さんのメモは、細いボールペンで、一字々々、丹念に書きつけてある。ただし、ところどころ判読できない。赤ペンの大きなバッテンで消してある部分もある。

    これはとてもすばらしい作品です。これについては書かずばなるまい。それにオペラについて勉強が出来ました。
    中田さんがオペラについてこんなに詳しいとは知りませんでした。
    メルバを知っているのかなと思っていると、メルバもちゃんと (以下 欠)

 別のメモには、

    中田さんのお作、まずびっくりしたのは、イサドラ・ダンカン、コポオ、テトラッチーニ、ガリ・クルチ、フアーラー。今では誰もその名を知らない存在のハンランです。しかし、まだ、メルバ、カラスなら知っている人はいるかも知れない。消えていった女たちよ、その面影、その踊り、 (以下 欠)

 さらにもう1枚のメモには、

    自分だけで愛していると思っていたのは、人に横取りされたような気持ち、そうなるとぼくは自分の愛人をとられたような、いや、自分の愛している女が、タレントで、有名になりすぎて、僕の手から離れてゆくような、そういう女はもう愛せません。ぼくの力ではどうすることも出来ません。そんなのいやです。しかし、テトラッチーニは忘れ去られた女、それから僕は昔、トチ・ダルモンテというプリマドンナを愛しました。これも忘れられた女です。自分ひとりで愛せるような女が好きです。

 宮さんは「星座」という同人誌を主催していた。戦前の「星座」では、石川 達三、評論家の矢崎 弾などと親しかった。戦後すぐの時期には、カストリ雑誌にまで短編を書いていた。長編は10冊を越えるし、90歳を越えても小説や詩を書きつづけたが、自分の周囲にいる文学仲間を集めて「全作家」という雑誌を出していた。
 宮さんはパリを愛し、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーに私淑し、コクトォを尊敬していた作家だった。自宅の壁には、アイズピリの油絵や、フランスの画家のエッチング、デッサンがずらりと並んでいた。            (つづく)

2010/03/24(Wed)  1171
 
(つづき)
 宮 林太郎は一部では知られた作家だったが、本業は医師で、祐天寺では誰知らぬものもない名医だった。
 新築のマンションの壁面に、パリ市内で見かけるものとおなじ青いプレートで、Rue Hemingway という看板を掲げていた。
 私にあてた手紙の住所表記も、すべて「ヘミングウェイ通り」となっている。私も、冗談で、一時、「ヘミングウェイ通り」を僭称したことがあった。(このいたずらは千葉の中央郵便局のお気に召さなかったらしく、フランスから送られた雑誌が返送されたと知って、私は、このアドレスを抹消したが、宮さんは、東京の「ヘミングウェイ通り」を押し通していた。)
 石川 達三の回想記、『心に残る人々』(「文芸春秋」昭和43年)のなかに、宮さんとの交遊が語られている。

   彼と私との交遊は三十五年ぐらいになる。いまでも彼は、(文学を離れて卜の人生は無いです)と言う。それほど好きなのだ。しかし作家として著名でないことを、あまり苦にしてはいないらしい。こういう人が却って本当に文学をたのしんで居るのかも知れない。また逆にいえば、文学はこういう人によって最もその価値をみとめられるのだとも考えられる。

 石川 達三と宮さんの交遊が三十五年というのだから、逆算すれば昭和8年(1933年)だが、この年、宮さんは故郷の淡路島から上京したらしい。
 石川 達三が亡くなったのは、昭和60年(1985年)だが、この作家の最後も、宮さんが見とったのではないかと想像する。
 私が親しくしていただいたのは、宮さんの晩年、1994年あたりからだった。
 「フリッツイ・シェッフ」が載った「SPIEL」6号を宮さんに送ったのは、1995年7月12日だった。
 なぜ、そんなことがわかるかというと、私の送ったハガキがこの雑誌に挟んであった。
 その裏に、宮さんがメモのようなものを書いているのだった!

    中田さんがこんなにオペラにくわしいとは知らなかった。わが身が恥ずかしい。ぼくはフリッツイのことをまったく知りません。それは当たり前で僕の生まれる前の話です。テトラチーニ、ファーラー前の歌手です。しかし、中田さんの文を読んで、大いに興味をそそられました。
    こんな歌姫がいたのかという驚きです。それにしても中田さんの筆はこの女を生かしていますね。目の前にいるようです。
    曲は残っても歌った本人はいない。その歌は別な新人歌手によって歌われる。しかもそれは現代ではデジタルでキャッチされる。例のメルバのレコードをぼくはもっていますが、蚊の鳴くような音で雑音の中から彼女の声が聞こえてくるのです。蚊の鳴くようなオーストラリアの鶯。

 これを読んで驚きは深まるばかりだった。
    (つづく)

2010/03/22(Mon)  1170
 
(つづき)
 私の「フリッツイ・シェッフ」が掲載された雑誌、「SPIEL」6号(1995/7)のページをめくったとき、これを読んだ人のメモが見つかった。

  「SPIEL」をありがとうございました。大変シックな雑誌でスカッとしています。中田さんのお作「まぼろしの恋人」にはびっくり仰天、言葉も出ぬくらい感動しました。
  それについては、ゆっくり感想を書かせていただきます。
  それから、この雑誌の編集者、福島礼子さんの知性にも驚きました。「未来のイヴ」は大変な知的産物です。
  女というのは、大抵はバカが多いのですが、この人は違います。中田さんのお許しを得て、その人にお手紙を差し上げたいと思っております。この人の書いたものをもっと読みたいのです。ぼくはどうもアケスケとものを書くので、人にいろいろいわれます。おゆるしください。
  それにしても、中田さんのオペラ通には目を丸くして、肝を冷やしました。この作品、傑作で心に残ります。

 これを書いたのは、作家の宮 林太郎さんである。

 私が驚いたのは当然だろう。生前の宮さんが私にあてた手紙が、ゆくりなくも14年後に私の手に届いたのだから。
 こういうこともあるのか、と、しばし茫然とした。

 私にあてた手紙だということは間違いない。私が宮さんにあてたハガキが入っていたからである。
 宮さんは手紙を書く前に、メモをとる習慣があったらしい。
 つまり、これとおなじ内容の礼状を清書して、私に送ってくださったのではないかと思う。
 メモは、ほかに3枚あって、その1枚も、手紙の下書きらしい。
 話の順序として、私が宮さんに送ったハガキの内容を掲げておく。

  宮 林太郎様
  こんなものを書きました。お読み頂ければ幸甚です。
  去年から書きはじめた評伝は、やっと三分の一、七百枚になりました。もう少し頑張ろうかと思っています。
  暑くなりそうです。
  どうかお元気で。

 日付は、1995年7月12日。
 「去年から書きはじめた評伝」は、『ルイ・ジュヴェ』だが、これを書いていた時期の私は、それこそ悪戦苦闘していたのだった。
    (つづく)

2010/03/21(Sun)  1169
 
 このブログを書く。アクセス数が5万をこえたので、何かおもしろいことでも書きたいと思っている。

 おもしろいこと。
 つい最近、おもしろいことにぶつかった。もっとも、私以外の人にとっては意味もないことなのだが。
 みなさんに聞いてもらうほどのことではないが、私にしてはめったに経験したことがないので、ここに書きとめておく。

 2010年の冬季オリンピック。日本がイギリスを11−4で圧勝したカーリングの第4戦を見たあと、外出した。私の場合は古本屋めぐりの散歩である。私の住んでいる都会は古本屋らしい店も激減していて、近郊の小さな町まで、私鉄に乗って出かけることも多い。この日、私が行ったのは、電車で20分、ある私立大学のキャンパスがある町の古書店だった。映画関係の本が多いので、ときどき立ち寄ってみることにしていた。

 表通りに面して、雑書や、文庫などの棚が並べてある。値段もだいたい100円どまり。雑書の背中を見て、少しでもおもしろそうなものは手にとってみる。ざっと本の内容をたしかめて、棚に戻す。
 ふと、1冊の古雑誌が眼についた。おや、と思った。見おぼえのある雑誌だった。

 「SPIEL」6号(1995/7)。
 三重県鈴鹿市の福島 礼子さんが編集して出していた個人雑誌だった。発行部数は、おそらく、きわめて少なかったと思われる。

 福島 礼子さんは、同志社大卒。三重県文学新人賞(評論部門)を受賞した女性で、著書に『文学のトポロジー』、『化粧パレット』、『都市のモルフェ』、『セクシュアリティーの臨界へ』などがある。
 私は、斉藤緑雨賞という文学賞の審査にあたったことがあって、そのとき、福島 礼子さんの面識を得た。そんな縁で、福島さんの「SPIEL」に、「フリッツイ・シェッフ」というエッセイを発表した。
 「SPIEL」6号(1995/7)に、それが掲載されている。

 私は驚いた。「SPIEL」のような、へんぺんたる雑誌(失礼!)を、千葉県の片田舎の古本屋の店先で見つけた。これか、最初の驚きだった。
 さらには、ひょっとして、私のエッセイを読んだ人がいるかも知れない。
 そのころ、私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、まったく先が見えず、悪戦苦闘していた。福島さんから「SPIEL」に何か原稿を書いてほしいと依頼されて、ルイ・ジュヴェと関係のないオペラ歌手、フリッツイ・シェッフのことを書いたのは、いわば気分転換のつもりもあった。
 斉藤緑雨賞でお世話になっている方からの依頼なので、私としては、そのときの自分の最高の作品を提供した。「まぼろしの恋人」と題した「フリッツイ・シェッフ論」は、今でも、私の代表作のつもりである。

 その「フリッツイ・シェッフ」の掲載された雑誌を見つけた。すぐに買った。100円だった。
 驚きはあとからやってきた。
     (つづく)

2010/03/19(Fri)  1168
 
 いろいろな人の訃報を聞いた。
 たとえば、東 恵美子。劇団「青年座」の創立メンバーのひとり。彼女は、私が演出した芝居に出てくれたし、当時、私はラジオドラマなど、放送の仕事をしていたので、何度か出てもらった。
 つづいて、これはイギリスの女優、ジーン・シモンズが亡くなった。つづいて、双葉 十三郎さんの訃報を知った。私は、ただ面識があったていどだか、双葉さんのお書きになるものにはいつも敬意を払ってきた。さらに、映画評論家の登川 直樹さん、作家の立松 和平の訃報を聞いた。
 私の知っていた人たちが、つぎつぎに鬼籍に入った。
 そして、宇尾 房子の訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなった。
 私は、つい最近まで知らなかったので、この知らせに驚いた。
 宇尾 房子さんの死を知った翌日、劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞のオービチュアリで知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4)
 しかし、私にとっては、ひとつらなりの訃報であった。私の知っている人たちがつぎからつぎに鬼籍に入った。無常迅速の思いがある。

「朝」の中心にいた竹内 紀吉が亡くなって、もう4年になる。
 宇尾 房子さんを紹介してくれたのは、竹内君だった。いつか、宇尾さんのことを書くつもりだが、たまたま最近届いた「朝」28号は、同人の古瀬 美和子さんの追悼がならんでいた。
 そのなかに、病中、古瀬さんの死を知った宇尾さんが、追悼の辞を口述したことが出てくる。千田 佳代さんの記録による。

 宇尾さんは、千田さんに、「古瀬さんの、追、悼号のね、原稿、書きたいけど」という。おそらく、途切れとぎれにいったのだろう。そして小さく咳をする。
 千田さんは、いそいで筆記するのだが、宇尾さんの口にしたことばは、
 「ながいこと、あり、がとう」
 というものだった。けっきょく、

    三人は無言で、宇尾さんを見つめた。唇がすこし荒れている。はるか遠くをのぞむ目が、そらされると、再び咳。
   「たくさん、書くつもり、だったけど……」
    そこで、彼女は目を閉じると、
   「心から、心より、ごめい福を、お祈り、します」

 このくだりを読んで、私は感動した。
 作家を志して、ただひとすじに美しく生きたひとが、おなじように小説を書きつづけてきた人の死を聞いた。そのとき、宇尾さんの内面に何があったか、私などに忖度できるものではない。
 途切れとぎれのことばに、千万無量の思いがこめられていたにちがいない。
 そのとき、彼女を見舞った三人の仲間に、やはり、「ながいこと、あり、がとう」と語りかけていたにちがいない。

 いろいろな人の訃報を聞いた。
 3月8日の新聞で、寺田 博の訃を知った。元「文芸」の編集者で、さらに「海燕」の編集長だった。享年、78歳。
 宇尾 房子さんが、追悼のことばを述べた古瀬 美和子さんの弟にあたる。

 いろいろな人の訃報を聞いて、私の胸に去来するのは、月並みな感慨だが、

    春夢随我心    春の夢 我が心にしたがって
    悠揚逐君去    悠揚として 君を追って 去らん

 春の夢かも知れないが、心のままに別れを惜しみ、夢のなかで在りし日のあなたのことを思いうかべて別れよう。包 融の詩の一節である。
 私も、おなじことばをささげよう。

 宇尾 房子さん、「ながいこと、あり、がとう、と。

2010/03/17(Wed)  1167
 
 ヤツガレ、ご幼少のみぎり――なんて気どったところで、はじまらねえか。

 夜が明けると、町を流して歩く売り声がひびく。納豆売り、シジミ売り、トーフ屋。

 私の通った小学校では、おなじ小学校を卒業した大先輩で、海軍の提督になった斉藤 七五郎中将の少年時代が唱歌になっていて、毎日のように歌わされた。誰の作詞だったのか。そのなかに、

    身は、幼少の納豆売り

 という一節があった。私の少年時代(昭和初期)には――さすがに小学生の納豆売りは見かけなかったが、それでも自転車に乗って、ツト納豆を売り歩く若者を見かけた。
 煮豆屋もかかさずまわってくる。これは、リヤカーを改造したクルマに、白木の箱が重ねてある。その箱の引き出しに、よく磨いた真鍮の把手がついている。引き出しの中には、フキマメ、ウズラマメ、クロマメなどが、いっぱい入っている。
 町家のおかみさんが、ドンブリをかかえて煮豆屋を呼びとめる。
 注文を聞いた煮豆屋が、朱塗りのシャモジで豆をしゃくって、ドンブリに入れる。

 どこの家の朝飯もオカズはだいたい似たりよったり。
 オミオツケ、煮豆、おシンコ。おシンコは、白菜の漬物やタクアンなど。
 今からみれば、粗食というか、貧しい食卓だった。

 昼のお惣菜は、イリドーフ、オカラ、ヒジキ、ゼンマイ、ツクダ煮、アサリ、ハマグリ、ミガキニシンといった献立で、たまに焼きザカナが出たりする。
 肉ジャガなどは、めったに食べられなかった。そもそも、あまりジャガイモを食べる習慣がなかった。ルーサー・バーバンク種の「男爵」が、まだ普及していなかった。

 仙台では、笹カマボコがおいしかったが、あまりサツマアゲは食べなかったような気がする。東京の下町では、カマボコ、サツマアゲの両方を食べたが、笹カマボコを食べることはほとんどなかった。

 最近の中国のGDPは、日本を抜き、アメリカについで、世界第二位になる勢い。
 それかあらぬか、かつてはナマザカナをたべる習慣のなかった中国人が、いまや寿司やおサシミをよろこんで食うようになっているとか。
 おサシミ用のマグロの消費量は、2000年に、約二百トン。2008年には、約一万トン。ほぼ、50倍の伸びという。
 海産物の消費量は、この10年で、約1000万トン。日本の約900万トンをかるく追い抜いた。

 今の中国は、それでも発展途上国だそうな。つい最近、中国政府がそう言明していた。

 友愛のおかげで、マグロどころかメザシも食えなくなるかも。(笑)

2010/03/15(Mon)  1166
 
 たまたま古道具屋で「ハリウッドからの遺書」という1本のビデオを見つけた。このときの私は、関係のないことを思い出していた。

 『ルイ・ジュヴェ』を書いていたとき、神田の古書店の、ゾッキ本だけを並べた棚に、ジュヴェの著書が3冊並んでいた。いっしょに本を探してくれた田栗 美奈子が、まったく偶然に見つけてくれたのだが、私は眼を疑った。
 私がずっと探していた本が、こんなところにあった! まさか、こんなところでジュヴェの本がころがっていようとは。驚きと同時に、天の配剤のようなものを感じた。

 むろん、ただの偶然と見ていい。たまたまジュヴェの本を売り飛ばした人がいた。古本屋は、今どきこんな本を買う客はいないと判断してゾッキ本の棚に突っ込んだ。それだけのことだろう。たまたま私はルイ・ジュヴェの評伝を書きつづけていた。ウの目タカの目で資料をさがしていた私が、偶然見つけただけのことだろう。
 しかし、この時の私は因縁のようなものを感じた。この本たちは、私に訴えている。『不思議の国のアリス』に出てくる Drink Me の呪文のように。
 さっそくこの本3冊を買い込んだ。
 私にとって至福のときであった。

 私が見つけたビデオ、「ハリウッドからの遺書」は、1本、30円。私にとっては、まさに掘り出しものだった。さっそく電話で自慢すると、美奈子ちゃんもいっしょに喜んでくれた。

 ビデオの「ハリウッドからの遺書」を見つけて、なぜこんなに嬉しがっているのか。いずれ、みなさんにもわかってもらえるかも知れない。

2010/03/13(Sat)  1165
 
 ちょっと嬉しいことがあった。ここに書くほどのことでもないが、ちっとばかし嬉しいので、書きとめておく気になった。

 近くの古道具屋で、1本のビデオを見つけた。「ハリウッドからの遺書」というラベル。あとは何もない。こんなビデオが古道具屋にころがっている。可哀そうな気がした。値段はあってなきがごとし。

 帰宅して、そのビデオを見た。なんと、コメンテーターがローレン・バコール。(むろん、もう誰も知らない女優さん。俳優、ハンフリー・ボガート夫人。)すっかりオバァサンになっている。アメリカで、こんなドキュメントが作られても不思議ではない。だが、私はその内容に――驚かされた。
 サイレント映画の時代に起きたファッテイ・アーバックル事件、ウィリアム・デズモンド・テーラー事件、ポール・バーン事件などが――つぎつぎに出てくる。
 いまどき、こんな無声映画時代の事件に関心をもつ人はいないだろう。だが、私は――あの可憐なメァリ・マイルズ・ミンター、お侠なメイベル・ノーマンドたちのフィルムが出てくるだけでうれしくなった。
 そればかりではない。メァリ・マイルズ・ミンターの「肉声」の録音も聞くことができた。そして、ヴァージニア・ラップが出た映画の1カットまでも。
 この新人女優の怪死が、ハリウッドじゅうを震撼させた。その結果、頭に単純な思想を詰め込んだ、貧相な顔つきのヘイズ(当時、郵政長官をやっていた)が、ハリウッドに乗り込んで、検閲、規制、風紀の粛清に当たった。この人物のごりっぱなご託宣も見ることができる。
 アメリカには、ときどきこういう Do−gooder があらわれる。しばらくたつと、その時代を代表する道化師に落ちぶれるのだが。

 ヘイズの演説におもわず笑ってしまったが、このドキュメント自体にはほとんど茫然とした。各シーンに驚きがあった。ドキュメントとして、全体にそれほど高いレベルの作品ではない。しかし、ここには、自分たちの「過去」をひとつの文化として見ようとする姿勢がある。
 私は大島 渚が監修した日本映画の100年史といったドキュメントを思い出した。いかにも安易なドキュメントで、拙速というか、周到な準備もなく、思いつきでフィルムをかき集めて、つなぎあわせたような作品だった。大島 渚は日本映画のみじめな発展さえ、まともにとりあげなかった。

 たとえば、若き日の川田 芳子、五月 信子、英 百合子の姿を、ビデオで見ようと思っても、ほとんど不可能だろう。まして、入江 たか子、夏川 静江、砂田 駒子などの水着姿などを見ることはない。

 後年の化け猫女優、鈴木 澄子の若い頃は胸をくりぬいたような水着、歌川 八重子が背中をまるだしにした水着だった。そんなことは誰も知らない。
 いまの女の子に較べて可哀相なくらい短足で、メタボな松枝 鶴子。下腹部がホコッと出ていた高津 慶子。痩せっポチの田中 絹代。胸が平べったい及川 道子などをビデオで見ることはない。

 日本の映画界に、すぐれたドキュメンタリストがいないわけではない。
 将来、日本の映画の発展をまっすぐ見すえた、すぐれたドキュメンタリーが作られることを期待している。

2010/03/10(Wed)  1164

  立○ ○子さん

 お手紙、ありがとう。とても、うれしかった。

 私は、今、少し長いものを書きはじめたところなんだ。
 何を書くのか自分でもわからない段階の作家は、内心、いい知れぬ不安をかかえている。これから書こうとしているものが、ほんとうにおもしろいものになるかどうか。実際に書きつづけるとして、作品の長さ、サイズはどうなるのか。読みやすいかどうか。
 はたして読者が読みたいと思ってくれるかどうか。それに、だれが読んでくれるのか。読んでもらえるほどの魅力があるかどうか。
 不安は、つぎからつぎに重なってくる。
 だいいち、書きあげることができるのかどうか。

 だからたいていの作家は、自分の前にしらじらしく広がっている茫漠たる空間に、ただ立ちすくんでいる。きみのいう「炯々たる虎のまなざし」なんて、とんでもない。
 もはや老いぼれて、シマシマも色褪せ、牙も抜けて、ヨタヨタの虎は、果てし無い密林(タイガ)をのろのろと歩きまわっている。たまに吠えても、ほんの退屈しのぎか、自分がまだ声をだせるかどうか心配で、よわよわしく咆哮してみせるだけのことなのだ。
 きみは私が「どんな分野でも自由自在に書きわける」才能をもっていて、その幅のひろさに驚いている、という。これまた、とんでもない。私はひどく狭い分野をうろついていただけのことさ。

 はじめてものを書きはじめた頃、先輩の荒 正人がハガキをくれた。
 若い頃のチェホフは、アントーシャ・チェホフというペンネームで、おびただしいコントや、ファルス、滑稽な雑文を書きとばして、医科大学を出た、と。当時、まだ学生だった青二才にこんな助言をあたえてくれた荒 正人の励ましがどんなに嬉しかったことか。
 そこでチェホフにならって、いろいろなものを書きとばしてきた。
 ただし、肝心なことを忘れていた。私には才能がなかった。もう少し才能に恵まれていたら、今頃もう少しなんとかなっていたはずだよ。アホな話だよ、まったく。

 たとえば、児童むきの小説、ジュヴナイルものを書きたいと思ってきた。1冊でも書けたか。児童むきの絵本を翻訳する機会さえなかった。たとえば、ファンタジーを書きたいと思った。1冊でも書けたか。残念なことに、そんな機会もなかった。
 若い頃の私は、依頼された原稿を書きとばしてきた。放送劇からポルノまで。馬琴は、良書を得るために悪書を書くと称したが、私の場合はポットボイラーの仕事ばかりで、まともな作家のやる仕事ではなかった。
 何しろ貧乏作家だったからねえ。
 きみは――「先生のほかに(そんな仕事をする人は)ちょっと見当たらない」という。
 正直のところ、耳が痛い。きみは、私を多才なもの書きと見てくれているようだが、ひいきの引き倒しってヤツだよ。

 きみが久しぶりに手紙をくれた。せっかくだから、もう少しさらりと「アントーシャ・チェホフ」をやってみるか。
 荒 正人に対する感謝の思いは変わらないように、私に手紙をくれたきみにも感謝している。

2010/03/06(Sat)  1163
 
 其角の句は、じつはとてもむずかしい。私には元禄の俳諧をすんなり理解する力がないからである。

    雪の日や 船頭どのの 顔の色

 雪が降っている。渡し船に乗ったが、船頭さんの顔は長年の渡世に日焼けして、雪とつよいコントラストを見せている。
 なんとなく、ヘミングウェイの『老人と海』の主人公を思い出す。
 謡曲の「自然居士(じねんこじ)」の一節、「ああ船頭殿のお顔色」を踏まえての句と聞いても、ふぅん、そんなことなのか、と思う。

 子どもの頃、よく遊んだ向島、三囲(みめぐり)神社、絵馬堂の裏に、

    夕立や 田を三囲の 神ならば

 という句碑があって、其角の名をおぼえた。
 そういえば――あのあたりには、十寸見 河東の碑や、長命寺に芭蕉の碑、成島 柳北の碑などがあったはずだが、大空襲で焼け出されてから一度も行ったことがない。

 暖かくなったら行ってみようか。

2010/03/03(Wed)  1162
 
 其角の句を読みながら、テレビを見ていた。

     世の中は 何がさかしき 雉の声

 テレビは鳩山政権が発足してはじめての通常国会。
 国会が招集される直前、民主党の小沢 一郎幹事長が、政治とカネのスキャンダルにまみれる。土地購入の代金は4億円という。ヤルもんだねえ。
 小沢の資金管理団体、「陸山会」の土地購入をめぐって、小沢の秘書、衆議院議員が逮捕された。(小沢は、昨年10月にも、「西松建設」の違法献金問題で、秘書が逮捕されている。)この秘書は、保釈後、民主党を離れた。
 小沢は政治資金規制法違反(虚偽記入)で告発されたが、ナァニ、嫌疑不十分で不起訴になったトサ。
 昨年11月にはじまった茶番は、これにて一件落着。(’10.2.3)祝着至極。

 泰山鳴動してネズミ一匹。まあ、あんなこった。こんなこった。

     あれ 春が 笠着て行くは 着て行くは   一茶

 テレビで小沢 一郎を見ているとなかなかおもしろい。自分の談話で、一言づつ、ラストのフレーズになると、かならず、力をこめてつよい語勢(ストレス)を出す。口を「への字」にゆがめる。 私自身が・ 刑事責任を・ 問われることにな・れ・ば・非常に責任は、重・い・ と思われま・す・ というふうに。

 さて、其角の句に戻ることにした。

    分限者(ぶげんしゃ)に成たくば。秋の夕暮をも捨よ

 其角のへんな趣味で、句のまんなかでブッちぎってある。分限者(ぶげんしゃ)は、ミリオネアー。
 ミリオネアーになりたい人は、秋の夕暮にあわれをもよおすようなセンチメンタルな感性を捨てたほうがいい、という意味。
 其角の句でも、あまり感心できない一句だが、小沢 一郎ふぜいを連想するには、ちょうどいい。もっとも、おなじ其角の句、

    憎まれて ながらふる人 冬の蠅

 このほうが、小沢 一郎にはふさわしいかも。

2010/02/28(Sun)  1161
 
 東 恵美子、ジーン・シモンズの訃につづいて、双葉 十三郎の訃を知った。
 双葉さんは、私にとっては大先輩の映画批評家だった。よく試写で見かけたが、口をきいたことはない。しかし、映画、ミステリーについて、じつにさまざまなことを教えていただいたような気がする。
 双葉さんに『映画の学校』という著書がある。私が『映画の小さな学校』という編著を出したのは、双葉さんに対するささやかな敬意のつもりもあった。

 双葉 十三郎さんが亡くなられて、すぐに登川 直樹さんの訃報を聞いた。

 この世代の人々では、南部 圭之助、海南 基忠、内田 岐三雄、野口 久光といった人々がすでに白玉楼中の人となった。
 私は個人的に飯島 正さん、植草 甚一さんに親しくしていただいたが、双葉 十三郎さん、登川 直樹さんの話を伺う機会がなかった。それでも、おふたりのお書きになるも
のにはいつも敬意を払っていた。

 そして、立松 和平が亡くなった。

 たとえ縁は薄かろうと、私の知っている人たちがつぎつぎに鬼籍に入ってゆく。心から残念に思う。それぞれの人の死は一つの時代の終わりと見える。
 月並みな感想といわばいえ。月並みでは切実な思いではないと誰がいえるか。

2010/02/25(Thu)  1160
 
 いろいろな人の訃報を聞く。わずかにその名を知っている程度の人々は別として、はからずもめぐり会ったことの不思議さ、そうした人がついに不言人となるを聞けば、追憶の心をおぼえるのは当然だろう。

 女優の東 恵美子が亡くなった。
 創立間もない「青年座」で、彼女は私の演出につきあってくれた。当時、私はよくラジオドラマを書いていたので、放送劇にも出てもらった。
 東 恵美子自身は口にしなかったが、浪曲師の東 武蔵の娘だった。浅草でいろいろと浪曲を聞いていた私は、そのことに関心をもったと思う。東 恵美子が、もともと放送劇団をへて「俳優座」に入ったという経歴も、私には近しい位置にいるような気がした。私も似たような運びで、「俳優座」の養成所にかかわり、やがて演出を手がけるようになったからである。
 彼女は、おなじ劇団の、山岡 久乃、初井 言栄とともに、私の女優観――(そんな大仰なものではないが)――の根っこに、いつも存在していた。つまり、私が女優を見たり、女優について考えるときは、この三人の女優たちや、ほかの数人の女優たちの姿、気質、性格、芸風などとひき較べたり、そこから何かを推し測るといった、一種のクライテリオンになった。
 まだ、結婚する前の彼女が南 博とつれだって歩いているところを見たとき、思いがけず、南さんから声をかけてきたことを思い出す。

 私にとっては、なつかしい女優さんのひとり。

 しばらくして、ジーン・シモンズの訃報を聞いた。

 イギリスの女優にはアングロサクソンに特徴的な香気(フレグランス)がある。ここでは説明しないが、ヴィヴィアン・リー、マーガレット・ロックウッド、グリア・ガーソン、クレア・ブルームと挙げてくると、ジーン・シモンズが典型的にイギリスの女優としての香気をもっていたことがわかる。
 戦後、「大いなる遺産」の「エステラ」や、「ハムレット」の「オフィーリア」を演じたジーン・シモンズのすばらしさは忘れられない。しかし、その後、女優としては空疎な歴史ロマンスに多く出た。マーロン・ブランドを相手にした「デジレ」などが記憶に残っているが、女優としては進むべき方向を誤ったとしかいいようがない。

2010/02/23(Tue)  1159
 
 一月の末に、J・D・サリンジャーが亡くなった。
 私は、サリンジャーをもっとも早く読んだひとりだったから、この作家の訃に深い感慨があった。
 それとは別に、私の内面にはサリンジャーの紹介に関して感慨があった。

 現在は村上 春樹の訳がひろく読まれているが、日本で誰よりも早くサリンジャーを先に訳した翻訳家、橋本 福夫の仕事は誰の注目も浴びなかったと思われる。
 しかし、橋本 福夫の訳は、後発の某先生の訳に比較して、いささかも劣らない、みごとなものだった。ある部分、橋本訳のほうがすぐれていたと思う。
 ただし、原題の『ライ麦畑でつかまえて』ではなく、『危険な年齢』などという愚劣な題名で出版された。(出版社は、ダヴィッド社)
 当時、アメリカ映画の「理由なき反抗」とか、フランス映画の「危険な都市小室」といった映画にあやかったネーミングだったのだろう。そのため、ティーンエイジャー向きの読みものの原作か何かと見られたのではないか。
 むろん、橋本 福夫の責任ではない。橋本 福夫訳は、当時としてはやむを得ない誤訳があるにしても、サリンジャーの本質をただしくとらえた、優れた翻訳だったことにかわりはない。翻訳史上、これは特筆していいと思う。
 これから翻訳家を志す人は、まず橋本訳を探し出して一行々々、吟味して読むことをすすめる。一介の翻訳家の仕事などと見くびってはならない。
 橋本 福夫は、田中 西二郎、中村 能三、宮内 豊などとおなじ世代の、もっともすぐれた翻訳家なのである。『危険な年齢』は、たいして売れなかったはずだが、ときどき古書市で見つかる。

 サリンジャーの追悼とは無関係に、私の胸に、あまり恵まれなかった(と、想像するのだが)、すぐれた翻訳をしながらついに不遇だった先輩の翻訳家に対する敬意と、ひそかな同情がかすめてゆく。

2010/02/20(Sat)  1158
 
 歌舞伎の世界は、若手がぞくぞくと意欲的な芝居を見せている。市川 海老蔵が早変わり十役をつとめたり、右近が「黒塚」をやったり。
 後世の人は、平成になってからの歌舞伎を、名優が輩出した時代と見るかも知れない。
 あたかも、明治の人たちが、文化、文政の頃を名優が輩出した時代と見たように。

 実悪の松本 幸四郎(五世)、所作の中村 歌右衛門(三世)、板東 三津五郎(三世)などが、名優として知られていた。

 この三津五郎が、舞台で家老の役を演じた。湯呑みを手にする。舞台に置いた時計の音にあわせて、爪ではじく。これで道具替わりの合図にした。
 観客にウケた。大いにウケて、評判になった。
 これを見ていたのが、作者の桜田 治助。
 せっかく評判の湯呑みも、張り子の小道具なので、どうにも栄(は)えない。わざわざ、本物の湯呑み茶碗を買い求めて、取り替えて置いた。

 幕を終えた三津五郎は、楽屋に戻ったが、不機嫌な顔で、
 「誰が、余計なことをしやがった?」
 と怒った。
 桜田 治助は、意外に思って、
 「じつは、湯呑みを替えたのは、あたしだが」
 というと、三津五郎も作者のしたことなら仕方がない、と、いくらか顔色をやわらげたが、
 「瀬戸ものを瀬戸ものに見せることは誰にもできる。張り子の小道具をほんものの瀬戸ものに見せるのが役者のウデだ。この頃、ようやく張り子がほんものにみえるようになったのを、惜しいことをしてくれた」
 と嘆息した、という。

 この三津五郎の和事、実事、いずれにもすぐれ、老女の覚寿、岩藤なども評判の当たり役だった。天保二年、法界坊、五三桐を演じたのが、江戸芝居の最後で、その年(1831年)の暮れに亡くなっている。五十七歳。

 こんなエピソードからも、いろいろと考えることができる。

2010/02/17(Wed)  1157
 
 雪が降っている。
 にぶい明るさを秘めた空から、かぎりなく落ちてくる。ときおり、わずかな風に一斉に揺らいで、きた地面に落ちてくる。
 あとからあとから、ひらひらと落ちてくる、雪、雪、雪。気の遠くなるような、無限の動き。
 私たちは、ただ黙々と歩き続けていた。

 下山の途中から、風が出てきて、雪がはげしくなってきた。雪は降りつづけ、視界はただ白く明るい起伏に、雪はぐんぐんひろがって落ちてくる。
 コースは間違いないと思ったが、いちめん雪に蔽いつくされて、ただしいコースを選んでいるかどうか、自信はなかった。
 眼の前につづく、すでに降りつもった雪の高さが、ついさっきよりもすこし多くなってきたような気がする。
 私のうしろに、彼女が歩いている。頭にかぶっているフードが少し斜めになって、全身真っ白に雪がつもってきた。

 「少し、休もう」私はいった。

 彼女は黙って足をとめた。私は、携帯カップの底に固形燃料を押し込んだ。手袋をとるとたちまち手が凍えて、ライターの火がつけられない。やっと火をつけた。
 「このコースでいいのかしら」彼女がいった。手がふるえていた。
 「わからない」私はいった。

 すでに暗くなりはじめていた。それでも、空から降りつづける雪はいっそう白さをましている。まるで空がくだけたように雪が落ちてくる。空のてっぺんのほうに、なぜか灰色の部分がのこっている。
 暗くなって降りしきる雪は、頭上まで近づいてきて、白い無数の渦になってくる。

 お湯に、インスタントのティーバッグを入れる。そして、シュガーも。
 彼女が、半分ほど飲んで私にカップを返した。残った半分が私の喉に流れてゆく。

 「少しキツいかも知れないが、急ごう」

 私たちは、もう3時間も歩きつづけていた。下山のコースは、雪が降りつもった岩や樹木の肌にしがみつきながら下りる、危険な箇所が続いていた。最悪の場合、途中で、岩と岩の間にツェルトザックを張って、緊急にビバークしよう。事態はそこまできている。
 自分では冷静に行動しているつもりだったが、彼女が疲労していることはわかった。あと、どのくらい歩けるのか。私も疲労しはじめている。
 彼女が疲労しきって歩けなくなる前に、ビバークの場所を確保しよう。
 彼女をつれてきたことを後悔しはじめていた。

 それから、20分後、私は木の根の下に、ふたりがやっともぐりこめる隙間をみつけて、風のなかで、ツェルトをくくりつけた。ふたりで折り重なって、やっと風を避けるような状態で、ずしりと重い彼女の冷えきった感触が、私のからだにつたわってきた。

 彼女のふるえがつたわってくる。

2010/02/13(Sat)  1156
 
 あなたは、3分ですか、4分ですか。
 私の質問にすかさず、3分半です、と答えてくれたレディがいた。
 このやりとりの下敷になっているのは、ジェームズ・ボンド。彼がボイルド・エッグ、半熟タマゴと指定する時間である。アホな私は、ジェームズ・ボンドの真似をして、ボイルド・エッグは3分半ときめていた。
 だから、このレディが私の質問をすぐに理解してくれたことがうれしかった。

 タマゴをゆでているうちに、うっかり時間をまちがえてゆで過ぎることがある。(うっかり、じゃない。しょっちゅうだね。)すっかり、ハードボイルドになってしまう。
 つい先日、久しぶりにゆでタマゴにしようと思った。当然のようにうっかりして、ガチンコのボイルド・エッグになってしまった。さて、どうしようか。
 タマゴをふたつに切ることにした。包丁で切ってもいいが、黄身がくずれるかもしれない。糸を口のハジッコでくわえて、タマゴを手に、糸で切る。うまくいった。
 フライパンに、バターを落として、メリケン粉を大サジ2杯、こいつをトロ火でいためて、ミルクを少しづつ。塩、コショーで味をととのえて、私のホワイト・ソースのできあがり。

 このなかに、タマゴをしずかに入れて、トロ火で10分ばかり煮込む。

 サクラエビ、ホウレンソウの青ゆで、大根の葉ッパをさっとゆでたヤツをつけあわせにする。

 けっこう、おいしかったナ。

 私と、タマゴ問答をしたレディは、私のクラスで翻訳を勉強なさっていたが、残念なことに亡くなられた。

2010/02/09(Tue)  1155
 
 つい先日、私は書いたのだった。
 「和歌や短歌は、はじめから私などの立ち入るべき世界ではない」と。
 理由をあげるとすれば、私が和歌や短歌を敬遠してきたのは、じつは記憶できないせいではないか、と思う。

    わが恋の 果てはありけり 蝶の凍      はぎ女

 おなじ作者の

    茶の花や 丘ばかりにて 川もなし      はぎ女

 といった句はおぼえやすいが、

    今日来ずば 明日は雪とぞふりなまし
           消えずはありとも 花と見ましや   在原 業平

 いくら名歌でも、私の、くたびれきった脳にはすぐにうかんでこない。さなきだに(そうではなくても)いまや私の脳には、あわれ、ベータ・アミロイドが「雪とぞふりつもって」いるので、和歌や短歌はおぼえられない。おぼえても思い出せない。

 暇なときに和歌を読む。ときどき、笑いたくなるからいい。

  冬川の上は氷れる我なれや 下に流れて恋わたるらむ   宗岳大頼

 冬の川水は、氷の下を流れる。私の恋は、氷の下を流れる冬の川のようなものだ。それだけの歌だが――私の思いは、氷の下、つまりは硬く凍った心のなかに流れているので、氷を溶かすことはない。だから、私がひそかに恋しているひとに気づかれることもない――そう見てくると、無残な歌に見える。思わず、ニヤニヤしたくなる。

 眼にした一首を、ためつすがめつ読む。けっこう楽しい。
 あるお坊さん、さる女人に、あの老法師を見よ、と笑われた。そこで詠んだ一首。

    形こそ み山がくれの 朽木なれ
           心は花に なさばなりなむ      兼芸法師

 それほどいい歌には見えないし、ひとによっては老人のいやらしさを不快と感じるかも知れない。
 私は笑った。ゲラゲラ笑ったわけではなく、イヒヒヒぐらい。身につまされたせいもある。今年は、せめてこのくらいの気概をもってくだらぬことを書くことにしよう。

2010/02/06(Sat)  1154
 
 年末、その年の総括として、どこかの寺の坊主が、一字を揮毫する行事をみた。この坊さん、一昨年は「変」の一字、去年は「新」という一字を、大きな紙に墨痕あざやかに揮毫なさった。

 「新」などという言葉で何がいいあらわせるものか、とひそかに思ったが。

 一字をもって世相をあらわそうというのだから、最大公約数のようなもので、何をもってきても通用する。お坊さんも、政権交代で鳩山内閣が登場したことを「新」と表現なさったのであろう。もとより、たいした趣向のものではない。つまらぬ 浮辞に過ぎない。こんなものは――小人の情を動かす所以に過ぎない。

 私は思い出す。――まさに100年前、明治43年(1910年)の坪内 逍遙のことばを。逍遙は、この年、早稲田で、「近世文学思想の源流」という講義をはじめたが、その冒頭で、

     新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼
     声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる。

と語った。(「早稲田大学文学科「講義録」(第二号)。

 逍遙は、日清戦争前後から俄然として形勢が一変し、外国思潮の浸入がにわかに急になった、という。18世紀末から19世紀末にいたる100年の「彼方の分断に瀰浸したあらゆる思潮は、時を同じうし、もしくは密接に相前後して何の前知らせも無しに浸入」してきた。
 早い話が――西洋の文壇が最近一百年間に経験した種々雑多な重大な変動――利弊相半ばする大変動を、日本の文壇は、わずか15、6年に、ほとんどことごとく接触したと逍遙はいう。

 その結果、いわゆる自然主義の世の中になった。ところが、これと同時に、印象主義、標象主義(象徴主義)も唱えられる。沙翁(シェイクスピア)やゲーテやシルレルを激賞する声がひろく行きわたったかと思うと、もはやこれを貶す声が聞こえる。ワグネルを紹介する評論が少々ばかり見えたかと思うと、いつしかオペラ熱(逍遙はオペラ沙汰と書く)は忘れられる。
 イプセン、トルストイの研究がはじまったかと思うと、すぐに捨てられて、ロシア、フランスの最近の文学に注意を傾倒するというアリサマ。そして――「新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる」という言葉になる。

 明治43年の逍遙は、私財を投じて演劇研究所を発足させている。やがて、帝国劇場で『ハムレット』を上演する。
 逍遙の論敵、森 鴎外は「スバル」を創刊し、旺盛な活動を見せている。
 谷崎 潤一郎が、『刺青』で文壇に登場する。

 2010年が「新」などと見るのは、へたな冗談にすぎない。

    稲妻や きのふは東 けふは西    其角

 このくらいに見とけばいいやな。どうだろう、其角さん。

2010/02/03(Wed)  1153
 
 テレビで、「坂の上の雲」(司馬 遼太郎・原作)を見ている。
 伊予出身の秋山 好古、真之兄弟と、親友の正岡 子規を中心に、明治という時代の息吹を描いた大河ドラマである。
 秋山 好古を阿部 寛、秋山 真之を本木 雅弘、正岡 子規を香川 照之。
 子規は大学を中退して、新聞に勤めるようになった。
 私は子規を勉強したことがあって、テレビを見ているうちに、この時期の子規の作品を少し読み返してみた。

 明治25年12月、子規は内藤 鳴雪といっしょに、高尾山に「旅行」している。
 本郷から、新宿まで歩いて、新宿から汽車に乗る。

    荻窪や 野は枯れはてて 牛の声         鳴雪
    汽車道の 一筋長し 冬木立

 八王子から府中まで歩く。

    鳥居にも 大根干すなり 村稲荷         鳴雪

 府中から、国分寺まで。ここで汽車を待つ。新宿に着く頃には、「定めなき空淋しく時雨れて、田舎さして帰る馬の足音忙しく聞ゆ」ということになる。

    新宿に 荷馬ならぶや 夕時雨          子規

 この小旅行で、子規が詠んだ5句は、全部、馬糞ばかり。

    馬糞の ぬくもりに咲く 冬牡丹
    鳥居より 内の馬糞や 神無月
    馬糞の からびぬはなし むら時雨

 子規は――風流は山にあらず水にあらず、道ばたの馬糞累々たるに在り、とうそぶいている。若者らしくていいや。

2010/01/31(Sun)  1152
 
 ジョン・ダンの詩をあまり知らない。ヘミングウェイが自作の題名にしたので、とりあえず読んだ程度。

 彼の「おはよう」The Good−morrow という詩が好きだった。

 朝の眼ざめをむかえた恋人たちの詩。私にはとても訳せないので、まことに散文的で平凡な説明しかできない。朝、眼ざめたばかりの恋人たちが、お互いの眼を見つめあっている。第一連の冒頭は――きみとぼくが互いに愛しあうまで、いったい何をしてきたのだろう? 乳離れもしないおさな子みたいに、世なれぬたのしみにふけってきたのか。
 しかし、こうしてお互いのうつそ身をふれあわせてみると、この愛のよろこびのほかは、何もかもまぼろしなのだ。
 以前のぼくが、どこかの美人に出会って、欲望のままにものにしたことがあったにしても、それもじつは、きみというまぼろしを追っていたからなのだ。

 そして、第二連。

 こうして眼ざめたぼくたちの朝の挨拶。互いに見つめあっていて、なんの気づかいもない。愛すればこそよそ見をする気もちは起きないし、こんな小さな部屋なのに、これが世界のすべてになる。
 新世界をもとめて大わだつみを航海する冒険者、はたはまた、地図を見ながらつぎつぎに世界を知る人たち。ぼくたちも、それとおなじで、一つの世界を抱きしめる。お互いが一つの世界を手にして、しかもおなじ一つの世界なのだ。

 第三連。

 きみの瞳にぼくがいて、ぼくの瞳にきみがいる。ふたりの顔に、真実の心がやどる。
 きびしい北も、日の沈む西もない。これほど、ふさやかな半球ふたつが、どこにある。
 おぞましいもの、いまわしいものは、ここにはまざらない。きみとぼく、ふたりが一つにとけあって、衰えることなく、ひとしく愛しつづければ、死ぬことはない。

 こんな小曲にも、ルネッサンスの恋人たちの姿がうかんでくる。

 好きな詩さえ訳せなかった私だが、せめて訳詩集の一冊ぐらいは出したかったと思う。もはやとり返しのつかないことだが。

2010/01/27(Wed)  1151
 


 ある人生相談。

     70歳代の祖母。
     20歳代の孫娘は、大学をでて一流の会社に勤務しています。
     ときどき外泊するので心配していたところ、男性の家に泊まっていたことがわ
     かりました。深い仲でした。その男性は給料も安いし、ボーナスもなし。ずい
     ぶんと反対もしましたが、孫は聞きません。
     相談もなく勝手に婚姻届けを出し、2人でアパートに住み始めました。
     いくら愛があるといっても、お金がないからと、結納もせず、結婚式もしない
     なんて。男性に都合の良いことばかりです。男性は平然としています。こんな
     ことでよいのでしょうか。私は夜も眠れません。
     男性は、私の家にはほとんど来ません。孫娘は母親を訪ねては食品をもらって
     いくようです。私は何もあげないでいます。
                           (福島・N子)

 こういうババアを業突張り(ゴウツクバリ)という。
 孫娘は「大学をでて一流の会社に勤務している」のだから、分別のある、しっかりしたお嬢さんなのだろう。近頃は「一流の会社に」勤務する女の子だって、「婚活」とやらにうきみをやつすようなご時世だよ。そんな女の子と違って、好きな相手を見つけてさっさと結婚する娘さんのほうがよほど利口だし、本人もどれほど幸福かわからない。
 そういう孫をみとめてやるのが、話のすじ道ってものだぜ。

 このオババにいわせれば、相手の男性は給料も安いし、ボーナスもないという。「お金がないからと、結納もせず、結婚式もしない」ことを非難する。
 バッサよ、あんダ、古いねえ。白虎隊の子孫かどうか知らねえが、あんた、化石化しているゴウツクバリだナヤ。

 このババアの心には抜きがたい貧乏人に対する差別がひそんでいる。そして、はっきりした「男性蔑視」がひそんでいる。まず、そのあたりに気がついたほうがいい。
 世間にはりっぱに結納をかわして、ケンラン豪華な結婚式をあげても、あっという間に離婚するカップルだっている。あんたの孫娘は、結納もいらないし、結婚式もしないでいい、と思って結婚に踏み切った。けなげなお嬢さんだぜ。まったく。
 実をいやぁあ、孫娘はあんたに内緒で母親にけっこう苦労をかけているはずだよ。そこンとこ察してやッたらどうなんだ、バサマ。
 娘としては母親に援助してもらっている身にひけめも感じているかも知れねえ。「母親を訪ねては食品をもらっている」のは、むろん、新婚そうそうで家計が苦しいせいだろうが、ひょっとして、そういうおねだりに、娘としての甘えもあるんじゃなかろうか。母親だって、内心は心配しながら、娘のためにせっせと食品をわたしてやる。それがうれしいかも知れないやね。
 ババアは、そんな母娘に嫉妬しているのかも。

 母親だって、自分の新婚当時、あんたのようなゴウツクバリの母親をもったおかげで苦労したことを思い出しているかも知れねえ。

 さて、このバンツァン、頭にきて、孫娘には「何もあげない」。ケッ。どだい、このイイぐさ。クソババアめ。
 孫娘のほうだって、こんなクソババアから何ひとつ貰いたかねえだろう。
 「夜も眠れません」だと? 胸クソが悪いゼ。心配で夜も眠れませんときたか。せいぜい、世間の同情惹くがいい。広い世間だ、あんたの味方につくやつも出てくるカモ。

 ほんとうに孫娘が心配だったら、娘たちのアパートに、ほんのわずかでいい、お赤飯とメザシでも、カンヅメでも、野菜でも、小さな花束でも、宅配で届けてやればいい。突っ返されたってたいした失費じゃァあるまい。
 あんたが一度だけでも心からふたりの結婚を祝福してやる。それだけですむ。

 こういう投書を読むと、短編の一つふたつはすぐに書けそうな気がする。
 むろん、そんなものを書く気はないが、自分のブログで、モンスター・クソババアの悪口を書く。

 君子は三端を避けるという。私は君子ではない。世はまさに草昧のとき、嚇怒せずんばやまず。

2010/01/25(Mon)  1150
 


 名投手、ランデイ・ジョンソンが引退する。新年そうそう、このニュースを聞いてちょっと驚いた。同時に残念な気がした。      (2010.1.5)

 私はランデイのファンだった。
 まるで猛禽類のような顔のランデイがマウンドに立つと、それだけで相手が萎縮するような、圧倒的な存在感があった。
 顔を見ていると不精髭に白いものがまじって、野球選手にしてはずいぶんくたびれて見えた。ところが、その鋼鉄のような左腕からくり出される速球の凄さ!
 ボールが空気を裂き、うなりを生じて、キャッチャーのミットに飛び込んでゆく。

 「ダイアモンドバックス」の頃から、4年連続で、サイ・ヤング賞をうけているほどの大投手だった。私は一度しか球場の彼を見たことがない。テレビで見つづけてきただけのファンだが、相手チームの名だたるバッターたちが、つぎつぎにきりきり舞いをさせられる。舞台で名優を見るような思いというか、ときには、膚(はだえ)に粟を生ずるような思いがあった。
 メジャーリーグには凄いピッチャーがいるなあと感嘆した。

 昨年、「ジャイアンツ」に移ったが、6月、「ナショナルズ」相手に、300勝を達成した。45歳になっての300勝だから、たいへんな記録といってよい。成績は、8勝6敗。ふつうの投手ならりっぱな成績だが、ランデイとしてはあまり芳しくない結果に終わった。防御率も、4.88。
 このシーズン後に、フリー・エージェントになった。
 野球人生にどういうかたちで幕を引くのか。ファンとしても、気が気でない思いはあったはずである。
 そして、引退を表明した。

 通算成績は、303勝166敗。防御率、3・29。
 サウスポウでは、通算、4875三振という記録で、歴代1位。

 年をとって、自分のからだやゲームが、もうしおどきだと教えてくれるのは、自然の流れだと思う。何度も手術をしながら回復して、健康な体調で投球がつづけられたことを心からよろこんでいる。
 引退にあたっての、ランデイのコメント。

 感動した。

2010/01/22(Fri)  1149
 
 親しくなったばかりの友だちの姉さんの裸身を見てしまった。窓は、まるで汽車の寝台のようにカーテンが吊ってあり、若い娘の部屋らしいデザインのチュリップの花の刺繍に、白い鳩が差し向きになっている。私はそこまで見届けていた。

 私ははじめて女の乳房を見たのだった。ただし、女の乳房を見たという思いはなく、U君の姉さんの胸に見たこともない白いふくらみがあるということに気づいて、ぼんやり眺めていただけだった。
 そのふくらみの先には、ほのかなピンク色の蕾がついていた。そこまで見て、私はそれが乳暈で、その先に小さな乳首がついていることに気がついたのだった。
 時間にして、ほんの二、三秒ぐらいではなかったか。

 いつものように、U君がくぐり戸から出てきた。私はU君か出てきたことに気がつかなかった。まだ、二階の窓に眼を向けていた。U君の姉さんは、くぐり戸をぬけたU君にも、まったく気がつかなかったらしい。
 U君の姉さんは何かを手にして、それを胸に当てた。まだブラジャーということばではなく、乳当てと呼ばれていたものだった。姉さんが乳当てを胸もとに当てがうと、たちまち綺麗な乳房が見えなくなった。
 U君は私の視線を追って、私が何を見ていたのか気がついた。U君の顔が真っ赤になった。

 姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られた。その恥ずかしさが、U君が赤面した理由だった。私は顔を真っ赤にしているU君の反応に驚いた。

 その頃に、ブラジャーということばはなかった。ほとんどの場合、「乳おさえ」、あるいは「乳バンド」といっていたはずである。それも、日常の会話でこうしたことばが使われることはなかった。
 だから、顔を真っ赤にしたU君が「行こう」とだけ声をかけて、いきなり走り出したとき、姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られたというふうにU君が考えたとは思えない。ただ、どうしようもない羞恥に混乱していたのだろう。私は少しうろたえていた。
 U君が「行こう」と声をかけて、停留所まで走り出したので、あとを追った。
 電車に乗ってからも、U君は私に眼をむけなかった。
 それからあとのことは、よくおぼえていない。

 翌日から、U君は私を避けるようになった。
 翌朝、いつものように門の外から声をかけたが、意外にも、
 「もう出かけちゃったのよ。ごめんなさいね、中田君」
 姉さんが返事をした。
 私はU君の姉さんの顔を見なかった。こんどは、私が乳房を見てしまったことを思い出して、ひどい羞恥にいたたまれない思いで路地から離れた。

 そんなことが、二、三度続いて、U君か私をきらっているらしいと気がついた。
 それからはU君を誘って学校に行くことがなくなった。
 姉さんの二階の窓も二度と開け放しにされなくなった。
 それまで親しくしていた友人が不意に離れてしまった。私はそのことがショックだった。U君は私をきらっている。彼にも私にも、うまく説明のつかない理由で。

 翌年、父が外資系の会社から国策会社に移ったため、一家をあげて東京にもどった。
 私は神田の中学に転校した。その後、U君のことは思い出さなかった。

 いまの私は、U君の姉さんの顔もおぼえていない。ただ、真っ赤になったU君の顔を忘れてはいない。あの日はおそらく夏休みの少し前だったのではないだろうか。さわやかな朝、U君の姉さんの綺麗な乳房を見たことだけが切り離されたように心に残っている。まるで、何かのまぼろしのように。

    若き娘の窓辺に立ちし胸もとに
            白き乳房をあらわにも見つ

 後年、こんな歌を詠んだ。

 とるに足りない小さなできごとなのに、私の内面に意外に大きなものを残したできごとのひとつ。

2010/01/20(Wed)  1148
 
 ひどく小さなできごと。ずっとあとになって、自分の人生に大きなものだったことに気がつく。私にもそんなできごとがいくつもあった。

 中学生になったばかりのとき、あたらしい友だちができた。
 たまたま近所に住んでいる少年だったが、別の小学校に通っていた。中学でもクラスは違ったが、おなじ路線の電車で通学していたから、友だちになった。
 名前はUといった。背丈も私と似たりよったりの、チビだった。

 U君の家まで、歩いて数分。私の家のすぐ近くにお寺があって、その境内の裏、路地の先の二階建ての家だった。
 私は、毎朝、境内を通り抜けて、その先の路地の門の前まで行く。
 「U君!」
 声をかけると、門のくぐり戸から、中学生が飛び出してくる。
 電車の停留所まで、これも歩いて数分。電車に乗ってからもおしゃべりをつづけた。中学では別々のクラスなので、校内ではほとんど話をしない。下校の時刻も違っているので、いっしょに帰宅することはなかった。
 つまりは朝だけの友だちだったが、私にとっては中学生になってできた親友なのだった。

 U君には美しい姉さんがいた。
 女学校を卒業して、どこかの会社に採用されたという。颯爽とした洋装で、勤務先でも評判の美女だったらしい。
 毎朝、U君といっしょに学校に行くようになって、姉さんと路地ですれ違うこともあった。一度だけ、彼女から声をかけてきたことがある。
 「お早よう! 弟をよろしくね、中田君」
 私はあわてて帽子をとってペコリとお辞儀した。彼女は、そのまま去って行ったが、私は声をかけられたことがうれしかった。
 どうして姉さんが私の名前を知っているのだろう?

 私は中学生の制服を着ていたし、U君とおっつかっつのチビだったから、弟の友だちとわかったはずだった。

 ある朝、いつものようにお寺の境内を抜けて、U君の家のある路地に入った。眼をあげると、二階の部屋の窓が開けられているのが見えた。開け放たれている窓に若い女の姿が動いていた。U君の姉さんだった。
 その窓から路地を見おろしても、私の姿は見えなかったに違いない。朝早く、その路地に入ってくる人はいないだろうし、私はチビだったから、その部屋からは見えなかったはずだった。
 U君の姉さんは、上半身、裸になっていた。私は、彼女の胸につややかなまろみが左右に並んでいるのを見た。

 その瞬間の私は、自分の見ている光景にどう反応したのだろうか。
 おそらく、何も考えてはいなかったのだろう。見てはいけないものを見たという気もちもなかったにちがいない。              (つづく)

2010/01/18(Mon)  1147
 
 北原 白秋の

     ただ飛び跳ね 踊れ 踊り子 うつし身の 沓のつまさき 春暮れむとす

 これはステージに立つ踊り子を詠んだものだろう。

 当時、マック・セネットの「水着美人」が、日本男子のあこがれだった。
 たとえば、笑うと、くっきりとえくぼが刻まれるフィリス・ヘイヴァー。メアリ・サーマン。
 いつも額のうえに、ヘアーを巻きつけているルイーズ・ファゼンダ。

 セネットの「水着美人」を見慣れたファンの眼には、五月 信子の水着は、失望でしかなかった。胸の貧弱なこと! 筑波 雪子の笑いには、海辺で笑いころげるマリー・プレヴォの自然な美しさはなかった。
 駒田 砂子の痩せこけた肉体は、そのまま当時の日本映画の貧弱さにほかならなかった。高島 愛子だけは、豊満な肉体をゴムまりのようにはずませて、海辺を走っていても見劣りはしない。

    「活劇などによく女が誘拐されるシインがある。あんな時の身悶えが、実に自然
    で良い。女優が自分でも気がつかないところで、さすがに女らしくスカートに気
    を取られたり、思わず知らず髪を撫でたりする所がある。ことにあの肥大な腰部
    や長い太い足、肩などにある獅子の様に立派な肉塊、可愛らしい熟した棗のやう
    な小さい女靴、さう云ふ所にはとても日本で見られないものがある。

 こう書いたのは室生 犀星。
 彼は、どういう女優に関心をもっていたのか。そのなかに、マリー・プレヴォ、ハリエット・ハモンド、マートル・リンド、アネツト・ド・ガンティスといったマック・セネットの「水着美人」がいたとしても不思議ではない。

 北原 白秋の一首から、マック・セネットの「水着美人」まで連想する。
 もはや誰も知らない女たちにひそかにあこがれるのも、私の悪徳の一つ。

2010/01/15(Fri)  1146
 
 王朝末期から鎌倉にかけての頃、盗作など問題にならない。
 だれかが新しい表現をもち込めば、ほかの歌人たちも、たちまち類型の作を披露するだろう。それは模倣とか流行とはかかわりがない。あたらしいモード、ファッションなのだから。

 私は、折口先生の評釈を読んで、俊成卿女の作のみごとさを知ったが、折口先生の凄さは、じつは、もう少し先にあつた。

     あはれなる――かうした語が先行して熟語を作る場合、或は結末の語となる
     場合を考へると、其処に、王朝末期から鎌倉へかけての、文学意識の展開が思
     はれる。つまり、文学者たちの特殊な用法で、同時に、どんな用語例にも、多
     少なりとも小説的な内容を含んでゐるものと見なければならぬ。

 凄い。ここにきて、私などは茫然としたどころではない。
 いやぁ、そうですか。そうでしたか。先生のおっしゃる通り、そう見るべきですねえ。
 折口先生の説を引用しておこう。

     此語の中心意義は、言語・善悪を超越して、心の底から出て来るを言ふことに
     なって来てゐるのである。其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所
     の、作者を遊離した――言ひかへれば、其性別を超越した、中性の歌と見る
     べきものが多くなつて来た。つまり、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情
     詩を作る様になつてゐたのである。だから、かうした「あはれなる」が、平気
     で、用ゐられたのだ。つまり、特殊な内容を持つ文学用語であつた訳だ。

 これほど明快な解説をうかがうと、大方の「もののあはれ」についての論議など笑止に見える。
 俊成卿の女(むすめ)の一首は、「心ながい」ひと(女人)の、愛する人へのつよい執着を、自分のもの(恋)として表現しながら、しかも、それを他人の境遇を見るように見つめている、ということになるだろう。
 折口先生の考えの凄さが、私にも見えるようだった。

 「心ながさのゆくへ」は――いつまでも、愛する人を忘れず、捨てず、「あはれ」をつづけること。そういう生きかたのことになる。

2010/01/14(Thu)  1145
 
 もともと教養がないので、和歌、短歌については、ほとんどふれなかった。和歌や短歌は、はじめから私などが立ち入るべき世界ではない。

 さはさりながら、和歌や短歌をぼんやり考えるだけでもいい。そう思いはじめた。

 俊成卿の女(むすめ)の一首について。

    あはれなる心ながさのゆくへとも 見しよの夢を 誰かさだめむ

 この歌について、ある評釈は――きはまれる幽玄のうたなり、という。
 つまり、最高の傑作ということになる。へぇえ、これが、和歌史の最高の傑作なのか。

 まず、評釈を見ておこう。

     この歌は、このうえない幽玄の歌である。あの夜の……あの頃の、という気分
     も含まれている――ふたりのあいだの隠しごと(秘事)は、あの人と自分以
     外に誰も知らない。だから、その後また逢うことを心の底にもって、お互いに
     心変わりもせずにまっていた。この気もちを、あの人が知っていてくれるとし
     たら、あの当時の関係はきれいにあきらめて、夢ともかたをつけてしまおう。
     が、しかし、あの人は忘れてしまっているので、かえってあきらめられぬ。そ
     んなふうに解釈されているらしい。

 これは凄い。私はしばし茫然とした。この評釈の評釈は、だれあろう、折口 信夫。

 この歌は、じつは本歌どりという。権中納言、公経(きんつね)の作に、

    あはれなる心の闇のゆかりとも 見し夜の夢を たれかさだめむ

 という一首がある(そうな)。これも、折口先生に教えていただいた。凄いね。
 しばし茫然とした。この凄さは――これほど完璧なパクリなのに、権中納言の作は、まあ、その時代の平均よりほんの少し上の作なのに、俊成卿女の作は、当代きっての幽玄の歌、という評価の違い。
 これほど完璧なパクリでは、今なら盗作騒ぎで、俊成卿女は週刊誌に書き立てられるだろう。宮廷を中心にして、和歌の才能がいちばん重要な時代である。
 俊成卿女はきっと美女だったに違いない。まさか顔の整形手術はしないだろうが、しばらく行方不明になるか。(笑)

2010/01/08(Fri)  1144
 
 先日、このコラムに劇評めいたものを書いた。
 トム・ストッパードの『ユートピアの岸へ』という芝居で、三部作、通しで9時間という長い芝居だった。
 要領のいい私は座ぶとん(登山のビバーク用)を用意して行ったから、けっこう快適に見られた。

 長い芝居といえば、オニールの『奇妙な幕間狂言』や、ノエル・カワードの『カヴァルケード』などを思い出す。
 映画にも長い作品はある。ヴィスコンティの「ルードヴィヒ」や、旧ソヴィエト映画の「戦争と平和」など。

 長い映画を作ろうとした映画監督は多い。エリッヒ・フォン・シュトロハイムは「グリード」を撮ったが、40巻、上映時間は10時間の予定だった。プロデューサーのアドルフ・ズーカーがふるえあがって、製作中止。
 この映画はメタメタにカットされたあげく、2時間に短縮されて公開された。だから傑作になるはずだったが、平凡な愚作に化けてしまった。フォン・シュトロハイムは、映画が撮れなくなってしまった。誰も監督を頼まなくなったから。
 私はアドルフ・ズーカーのような人間を心から軽蔑しているのだが。

 テレビでは、ジェームズ・ミッチナーの長編、『センティネル』の放送。アメリカ独立記念番組として放映された。たしか、24時間、ぶっ通しのテレプレイだったはずである。このドラマを全部見た人は、ほとんどいなかったのではないか。

 私はこの原作を読んで――というより斜め読みしたが、本の厚みが、12センチもあった。翻訳した場合、推定で5千枚。なにしろ分厚い本なので、昼寝の枕にちょうどいい厚みだった。
 ミッチナーは『南太平洋』、『トコリの橋』のベストセラー作家だが、『センティネル』以後は何も書かなくなった。ひどい不評だったので作家を廃業したのかも知れない。
 19世紀に長い芝居を書いた劇作家に、アレクサンドル・デュマ(父)がいる。
 息子が『椿姫』を書いたとき、父は『女王マルゴ』を書いた。この芝居は、午後6時に開幕、朝の3時に終わるという大作。

 デュマの友人、テオフィル・ゴーチェは、翌日の新聞に書いた。

    アレクサンドル・デュマは、ぶっつづけで9時間、観客全員に食事もとらせず、桟敷にクギづけにするという奇跡をおこなった。
      (中略)
    将来は、はじめにプロローグ、終わりにエピローグつきの、15場の芝居を上演する場合は、ポスターに<お食事つき>と付けたす必要がある。

 アレクサンドル・デュマはフランス演劇史に劇作家としての名声を残さなかった。
 そのかわり、『モンテ・クリスト』や『三銃士』を書いて文学史に不朽の名をとどめたのだから、人生、何があるかわからない。

2010/01/06(Wed)  1143
 
 女優、グレタ・ガルボは、孤独な生涯を過ごした。
 彼女が自閉症に近い生きかたをつづけたのは、いろいろと理由が考えられるらしいが、ひとつには、少女時代に極端に人見知りがつよい、引っ込み思案の子どもだったことにかかわりがあるという。
 ほんのひとにぎりの、おなじ年頃の少女たちとしか仲よしにならない。何かで気があったら、その瞬間からほんとうに気を許して、親友になった。そのときほかの人が入り込む余地はない。そんな子どもだったらしい。

 ガルボのエピソードを読んで、すぐにバスター・キートンや、マリリン・モンローや、マイケル・ジャクスンたちを思いうかべる。
 ガルボとおなじ精神圈に生きたスターたち。

 一方で、シャーリー・テンプルや、エリザベス・テーラーや、ナタリー・ウッドや、ディアナ・ダービンや、あるいは、ジュデイ・ガーランド、マーガレット・オブライエンといった「チャイルド・ウーマン」たちを思い出す。

 彼女たちは、いずれも強烈なパースナリテイーをもった女優だったが、お互いに共通するところはなかったと思われる。

 もし、共通するところを一言で表現すれば――子どもっぽい、あまえ、あまったれが魅力だったのではないか。

 逆に、高年齢の連中はどうだろう?

 インドゥゲ・セニプス(年寄りのあまえ)が見られるのではないか。私の書くものも、みっともない例だが。

2010/01/03(Sun)  1142
 
 お正月。かつては、一杯一杯復一杯と、ひたすら酒を飲みしこる私だったが、いまはわずかに口にふくむだけで、終日、酔うては頽然として臥して寝正月。

      処世若大夢 胡為労其生
      (しょせい 大夢のごとし なんすれぞ その生を労する)

 などと寝言をいう。
 覚めきたって、庭前をかえりみれば、一鳥、花間に鳴くことになる。詩人は考える。借問す、これ何の時ぞ。李白の詩、「春日酔起言志」である。
 そこで・・・春風、流鶯は語る、ということになって、詩人は、これに感じて嘆息せんと欲す。また、酒を飲む。

      對酒還自傾 浩歌待明月 曲盡巳忘情
      (酒に対して また みずからかたむく 浩歌 明月をまち
      曲つきて すでに じょうをわする)

 思わず、李白の詩に感じて嘆息せんと欲す、という心境になる。

 貝原 益軒先生も いわれたではないか。
 口中に入るもの、すべて薬と心得よ。食しかり、酒またしかり、と。
 ろくに酒も飲めないのだから、生きていておもしろいはずもない。

 ただし、わが庭前、一鳥、花間に鳴くこともない。
 そこで寝正月。

   うつし身ははかなきものか 横向きになりて 寝(い)ぬらく 今日のうれしさ

 古泉 千樫の歌。まさか寝正月を歌ったものではないが。

2010/01/01(Fri)  1141
 
 明けましておめでとうございます。
 今年が、みなさんにとってよい年でありますように。

 新年を迎えて、今年こそはと思う。私も、毎年、人並みにそんなひそかな誓いを口にしてきた。しかし、もはやそんな愚にもつかぬことはくり返さない。
 ひとつには――江戸の三文作家で、のちに出家して禅を説いた鈴木 正三(すずき しょうさん)に共感をおぼえるからである。

    年月は重り候へども、楽みは無して、苦患は次第に多く積るに非や
    (としつきはかさなりそうらえども たのしみはなくして、くげんは しだいにおおくつもるに あらずや)

 私にしても、歳月とは降りつもる苦患の数々にほかならぬ。

 さらにいえば、「人生の真実は寂寞の底に沈んで初めて之を見るであらう」とする荷風に共感する。「四月は残酷な月」ならば、五月も、六月も、夏も秋も、さらには冬もそれぞれに残酷な季節に変わりはない。それならば、おのれの修羅を生きなければならぬ。それが寂寞というものだろう。
 さて、江戸の作家、鈴木 正三はいう。

    人間の一生程、たはけたる物なし。

 笑った。こいつはいいや。さすがに江戸の文人は、平成のもの書きと違って肚のすわりかたがちがう。
 画家、谷 文晃の辞世を思い出す。

   長き世をばけおおせたる古狸 尾さきな見せそ 山の端の月

 正月早々、辞世などとは縁起でもないとお叱りをこうむりそうだが、ここにも人間の一生程、たはけたる物なし、と覚悟した男のみごとさがある。これをしも、めでたいと観じてどこがわるいか。

 その私が、あらたまの年に、ひそかに心に刻みつける一首がある。

   いきのをに思ひひそめてありしかば、逢ふこともなく人はなりつも

 釈 超空。

2009/12/30(Wed)  1140
 
 年の暮れ。
 いまの日本の地方都市の駅前なんて「島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むる」状態だよ。

    市中一般の職業は歳の暮れともなれば夜さえ碌々寝(やす)む暇さえなきまでに繁忙を極むるが習いなるに、この島にてはこれに反してほとんど休業同様の姿となるなり。されば大道芸人らは本月十四、五日頃よりは全く稼ぎに出ること能わずいずれも一日千秋の思いをなして新玉の春を待てり。

 これは、明治30年11月から12月にかけて「報知新聞」に連載されたルポルタージュ「昨今の貧民窟」(執筆者、不詳)の一節。(中川 清編『明治東京下層生活誌』岩波文庫/収載)
 私は、戦前の東京の下層生活を見てきたので、芸人たちの暮らし向きが眼にうかぶようだった。
 芸人たちは十二月十四、五日頃からは稼ぎに出かけることができない。

    その間の困難は実に甚だしきものにてほとんど五月雨(さみだれ)の頃か時雨時の如くすべての芸道具を質入れして、わずかに兵営の残飯を粥となしたるを一、二度ずつ啜りて半月の露命を繋ぎおるに過ぎず。

 この「シマ」は、芝、新網町というが、浅草、本所、深川、どこに行ったって、たいていて似たような暮らしだった。

    古昔(むかし)は節分の年越しと称(とな)うるが年の内にあること多く、また「せきぞろ」と称(とな)うる袖乞いありしかば芸人の多くは「厄払い」または「せきぞろ」に出(い)でて鳥目(ちょうもく)あるいは餅などの貰い多かりしため正月の支度にもさして困難を感ぜざりしに……

 「せきぞろ」は、節季に候。ただし、実物を見たことはない。
 芸人が、二、三人、赤い絹で顔(おもて)をつつみ、「せきぞろでござれや」とはやしたてて、歌い、踊りながら、お正月の祝詞を述べて、米や銭をもらう。
 しかし、明治も30年代になって、大道芸人もそんな悠長なことでは年も越せなくなったのだろう。

   近来、「せきぞろ」は全く廃(すた)れ、「厄払い」は二月の頃となりぬれば、暮れの内には更に稼ぐべき道なく島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むるなり。


 さて、みんなで「せきぞろ」に出るか。

     せきぞろの来れば 風雅も 師走かな    芭蕉

2009/12/28(Mon)  1139
 
 江戸女の句を並べてみよう。

     日の筋や 岩間離れて ならぶ鴛(おし)   多代

     木々の冬 湯女(ゆな)いる温泉場(いでゆ)となりにけり  きよ子

     寒き夜や 戻らぬ人を待ちにける       壺中女

 いずれも恋の句。壺中女とはめずらしい俳号だが、おそらく遊女なのだろう。おのが閨を壺中天と洒落た女の粋、または「あわれ」を見るべきだろう。
 遊女の句では、一夜の交情のあと、「後朝(きぬぎぬ)の文に」、

     別れ行く 身はあとさきの 寒さかな     幾代

 私の好きな句。女のあわれが見えてくる。(さくしゃの名前がいい。)

 京都、島原に、長門という遊女がいたという。日頃、花いかだの紋をつけていたが、この紋を初心なりとして、嘲笑した人がいた。(どこにでもこういう阿呆がいる。)
 長門は答えた。

     流れなる身に 似合(にあわ)しき 花いかだ

 この一句、たちまち遊廓の女のかなしさ、ひいては美しさが眼に顕ってくる。

     わが袖の蔦や 浮世の村時雨         薄雲

 これは吉原の太夫の句。これは、すばらしい。

 師走。江戸の女の句を読みつづける。
 今年の師走も、そんなふうに女人の句を読んで過ごすことにしよう。私の年忘れ。

2009/12/26(Sat)  1138
 
 加賀の千代女の句は好きになれない。どうして千代女が嫌いなのですか、と質問されて困った。
 嫌いな理由を聞かれても答えられない。ハリウッドの女優なら、ノーマ・シャーラー、ジョーン・クローフォードが嫌いだが、なにしろ好きになれないから、嫌いなのです、と答えようか。

     道くさの 草にはおもし(重し) 大根引   千代
     水仙は 名さへ冷たう 覚えけり
     船待の 笠にためたる落葉かな
     春の夜の 夢見て咲くや 帰り花
     折々の 日のあし跡や ふゆの梅

 こんな俳句のどこがいいのだ?
 落ち葉を詠んでも、良寛さんの――「焚くほどは 風がもてくる 落葉かな」のような飄逸な句がある。多代さんが落葉を見れば、「吹き上げて 風のはな(離)るる 落ち葉かな」となる。

     知る人の家でありけり ふゆ椿        多代
     さまでなき 山ふところや ふゆ椿
     茶の花や 坂を登れば 日も昇る
     吹き上げて 風のはな(離)るる 落ち葉かな
     稲塚を さし出た枝や 冬の梅

 ここに挙げた五句だけでも、多代女のほうが格段にすぐれている。
 多代女の句には、千代さんの句のポピュラリティーはない。それほど残念な気はしない。
 いつの時代でも、千代女のような人気作者の場合は、大衆の好みが変わらないかぎりそうした人気は消えることはない。多代女の句は誰も知らないが、それでいいのだ。どんなに人気があったところで、その作品がかならずすぐれているとはかぎらない。

2009/12/24(Thu)  1137
 
 多代さんのことは、ほとんど知らない。ただし、私が知らないだけで、案外、世に知られている女性(にょしょう)なのかも知れない。

 奥州岩瀬郡須賀村に生まれた。(これがわからない。どこだろう?)
 市原氏。夫と死別したのは、三十一歳。女ざかりで、やもめになったという。
 文政6年、江戸に出た。
 亡くなったのは慶応元年(1865年)8月20日。享年、93歳。
 自選の句集、『晴霞集』がある。

 江戸に出てから幕末の物情騒然たる時代を生きて、当時としてはたいへんに長寿だった女性。そんな、多代さんの身の上、境遇をもう少し知りたい。
 とりあえず多代さんの句をかきあつめて、紹介しておこう。

     夕ばえや こころのひまに 帰り花      多代
     木の間もる 日のはつはつや 八ツ手咲く
     垣くぐる 日はつれなくも ツワブキに
     水仙や 根はつつまれて 市へ出る
     菰(こも)かけて 一夜越しけり 積大根(つみだいこ)

 画讃、追悼句なども挙げておく。

     少将のすがたは 雪に立つ かかし (画讃。深草の少将だろう)
     どの坂も 小春ならざる木蔭なし
     おもひ入 枯野を けふ(今日)の 障子こし
     折からの しぐれも聞くや 板ひさし(庇)
     目になれて 明け暮れもなし 枯すすき

 だいたい自然詠がいい。ただし、「日はつれなくも」は、尊氏の名歌、芭蕉の名句があるだけに、むずかしいところ。「水仙」は下五が気に入らない。
 もう少しきびしく見れば――「少将」の句の滑稽が「あはれ」にならないのが残念。
「どの坂も」は二重否定がうるさい。しかし、「枯すすき」など、このひとの落ちついた句境が偲ばれる。羨ましいねえ、こういう女性(にょしょう)は。

 師走。江戸の女流の俳句を、二、三句づつあじわう。ほかに楽しみもない老残の身にしては風雅な趣き。エヘヘヘ。
 

2009/12/22(Tue)  1136
 
 多代さんの句をいくつか挙げておく。

     影澄むや 江越しに 行きの小松山      多代
     黄昏や 馬屋出てゆく 雪の鹿
     積雪や 門(かど)は月澄む 細ながれ
     よい月の出て 果てもなし 雪の原
     起きて先(まず) 雪にしばしや もの忘れ

 一見おとなしい、平凡な句ばかり。わざとはぶいたのだが、多代さんには「雪降るや 小鳥がさつく 竹の奥」といった駄句もある。それでも、千代女の句、

     初雪は 松の雫に 残りけり         千代
     初雪や 鴉の色の 狂ふほど
     初雪や 落葉拾へば 穴があく
     初雪や 水へもわけず 橋の上
     青き葉の 目にたつ比(ころ)や 竹の雪

 といった句よりも、ずっとマシに見える。
 これもわざとはぶいたのだが、「行く雲の 霰こぼして 月夜かな」という駄句があって、

     逆しまに 傘さし出(いだ)す あられかな  多代

 あるいは、また、

     海越しに 木枯らし吹くや 磯の松      多代
     木枯らしの中に走るや 使いの子

 などのほうが、

     木枯らしや すぐに落ちつく 水の月     千代

 よりも、ずっといい。 
  (つづく)

2009/12/21(Mon)  1135
 
 師走。
 毎年のことだか、年の瀬はなにかと気忙しく、ろくに本も読めない。いまの私は、少しおかしなテーマで、少し長いものを書いているので、どうも心の余裕がない。
 そういうときは、俳句を読む。まったく知らない人の句を。

     三弦も 歌もへたなり 年忘れ        多代

 こういう句はいい。人並みに三弦や歌を修行してきた。しかし、とても上手の域に達したとはいえない。そして、今年もいつしか年の瀬を迎えてしまった。
 もっとも、たいして才能のない自分を悲しんでいるわけではない。むしろ、三弦や歌をつづけてきたという、女としての艶冶(えんや)な気分がある。いいなあ。

     内蔵に 餅のこだまや 夜もすがら

 これは、中の「餅のこだま」が大仰て、あまりいい句ではない。しかし、もう年も押し迫って、夜もすがら餅をついて、さざめきあっている風情がいい。冬の句だけでも、

     あら川の 音に添ひゆく 時雨かな      多代
     吹きゆれし 木に鳩鳴くや 夕時雨
     這出して 時雨にあふや 藪の蟾(ひき)
     たぎる湯に 取りあふ竹の 時雨かな
     リンドウのなりも崩さず はつ時雨
     ききふるす 萩にまた聞く しぐれかな

 いずれも自然詠ながら、女性らしい内面を想像させる句が多い。
 加賀の千代の句と並べてみれば、多代の、気負いのない句のゆかしさが納得できよう。


     日の脚に 追はるる雲や はつ時雨      千代
     京へ出て 目にたつ雲や 初時雨
     晴れてからおもひ付きけり 初時雨

 千代女の句はどこかさかしげで、どうも好きになれない。
 私はあまり好き嫌いのないほうだが、たとえば、森田 たまの随筆、芝木 好子の小説が大きらい。こんな連中よりは、千代女のほうがまだマシなのだが。
 多代さんは加賀の千代ほど有名な俳人ではない。というより、まったく無名の俳人なのだろう。
     (つづく)

2009/12/19(Sat)  1134
 
 友人の井上 篤夫君が教えてくれた。

 2006年、全米映画協会の発表したところでは、「アメリカ人が好きな映画」の1位は、フランク・キャプラの「素晴らしき哉 人生」だそうな。

 へぇえ、知らなかったなあ。

 私も自分の好きな映画を考えてみた。

 まず、「ウォリアーズ」がくる。
 そのあとは――「キャリー」。
 つづいて、「運命の饗宴」。全部カットされたW・C・フィールズのエピソードをふくめて。
 「パルプ・フィクション」。タランティーノはみんな好きだが、この映画、ボクサーのエピソードで、タクシー・ドライヴァーをやっているラテン・アメリカ系の女優がいい。
 「人生模様」。むろん、新人女優のマリリン・モンローが、名優、チャールス・ロートンに、まっこうからぶつかっているから。
 「ゼンダ城の虜」。ただし、レックス・イングラム監督作品ではなく、ジョン・クロムウェル監督作品。ロナルド・コールマン、デヴィッド・ニーヴン、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア。
 「デブラ・ウィンガーを探して」。映画女優のロザンナ・アークェットが、おなじハリウッドの映画女優たちをインタヴューしたドキュメント。
 「殺人狂想曲」。これは、プレストン・スタージェス。後年、ダドリー・ムーア、ナスターシャ・キンスキーでリメイクされたが、まるで問題にならない愚作だった。

 番外に「ファウル・プレイ」。ゴールデイ・ホーンが可愛いので。

 わざと三流映画ばかりをあげているつもりはない。私の好きな映画は、すべて一流の映画なのだ。むろん、こんな映画ばかりをあげるのは、われながらあまのじゃく、つむじまがりと承知している。最近のハリウッド映画は徹底的に無視している。
 ただ残念なことに、私のリストの半分は、もう見られなくなっている。

 映画も思い出せなくなったら、生きていてもつまンねぇやナ。

2009/12/17(Thu)  1133
 
 ドイツ映画祭。
 カイ・ヴェッセル監督の「ヒルデ」(’08年)を見た。すばらしい映画だった。
 映画のヒロインは、戦後、ドイツ映画に登場した女優、ヒルデガルド・クネッフ。
 戦時中にバーベルスベルク国立映画学校で学んで、ナチの有力者と恋愛し、映画女優としてデビューした。やがて、ソヴィエト軍がベルリンに侵攻したとき、前線で銃をとって戦ったが、捕虜になり、収容所に入れられたが脱走。
 戦後、舞台女優として再起し、敗戦後のドイツ映画界を代表する女優になる。しかし、ナチスとの関係をうたがわれて、ドイツ映画界を去り、ハリウッドに移ったが、プロデューサー、セルズニックに冷遇される。
 ふたたびドイツ映画に復帰し、やがてまたハリウッドで成功する。
 私は、「題名のない映画」(47年)、「罪ある女」(51年)でヒルデガルド・クネッフを見たのだった。

 映画のあとで、カイ・ヴェッセル監督がステージで、観客の質問をうけ、それに答えたが、その応答に監督の誠実な人柄がうかがえた。
 このとき、私には質問したかったことが一つあった。

 カイ・ヴェッセル監督は、映画女優、ヒルデガルド・クネッフの映画には、残念ながら、見るべきものがないと語ったのだった。(たとえば、ジャンヌ・モロー、アリダ・ヴァリ、マリア・シェルなどと比較して)私もそういう気がしないでもないのだが、それでも、「題名のない映画」、「キリマンジャロの雪」などのヒルデガルドにはつよい印象を受けた。カイ・ヴェッセルは、「題名のない映画」にまったく関心を見せないのだが、その理由はなぜなのか。

 むろん、私は質問をしなかった。素晴らしい映画をみたという感動のほうが大きかったからである。

 そういえば――カイ・ヴェッセルさんは、若い世代の監督だから、たぶんご存じないだろうと思う。戦前の日本で、「題名のない映画」という映画が公開されたことを。
 ドイツ/トービス映画。監督はカール・フレーリヒ。シナリオは、女流脚本家のテア・フォン・ハルボウ。主演は、アドルフ・ウォールブリュック。相手の女優は、新人のマリールイーゼ・クラウディウスだった。
 私の読者のなかには――アドルフ・ウォールブリュックの名に聞きおぼえがある人もいるだろう。この1937年、ドイツ/シネ・アリアンツ映画で、ウィリー・フォルスト監督の「ひめごと」Allotria に主演している。女優は、レナーテ・ミューラー、ヒルデ・ヒルデブラント。この映画にはウィーンの濃密なエロティシズムがみなぎっていた。
 アドルフ・ウォールブリュックは、はるかな戦後、マックス・オフュールスの映画、「輪舞」の狂言まわし、「赤い靴」でモイラ・シャーラーが所属するバレエ団をひきいる団長を演じたアントン・ウォールブルックである。
 彼は、ヒトラーと同名であることを恥じて、アントンと改名したのだった。

 今でも思い出す。ウィリー・フォルスト監督の映画、「題名のない映画」はまったく評判にならずに消えてしまった。なにしろ、おなじ時期に、日本ではジャック・フェーデルの「鎧なき騎士」、ジュリアン・デュヴィヴィエの「舞踏会の手帳」、アメリカ映画でも、チャップリンの「モダン・タイムス」、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」などがいっせいに公開されようとしていた時期である。

 もはや、だれの記憶にも残っていないトリヴィアだが。

2009/12/15(Tue)  1132
 
 1916年。ヨーロッパでは、連合国とドイツ帝国が死闘をつづけている。

 メァリ・ピックフォードという美少女が、「農場のレベッカ」や「小公女」に出た。それまでただの「リトル・メアリー」だったメァリ・ピックフォードはアメリカの恋人になる。

 この年、ノーベル文学賞を受けたのは、ロマン・ロランだった。
 作家は、その賞金をそっくり赤十字に寄付した。

 詩人、ライナー・マリア・リルケは、遺作になった原稿をパリに残していた。この原稿が散逸しないために、ロマン・ロランはフランスの文学者たちに呼びかけた。ジャック・コポーがこれに応じて、ロマン・ロランに協力した。

 私たちが、現在、ライナー・マリア・リルケの、かなり多量の作品を読めるのは、このときのロマン・ロラン、ジャック・コポーたちのおかげなのである。

 戦時中に敵国の文学者の原稿を守ろうとした人々がいたことを知って、私はこれが戦時中の日本だったらどうだろう、と考えた。

 私が、心から憎悪するのは、大衆のマス・ヒステリアである。

2009/12/12(Sat)  1131
 
 歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
 たとえば、天野 桃隣という俳人がいた。

 初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで俳句を詠んだ。

    三日月や はや手にさわる草の露
    白桃や 雫も落ちず 水の色
    昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花

 などが佳句とされる。

 月のかけを見て、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
 どうってことのない句だが、蕉門の人らしい、しっとりと落ちつきがある。中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはなんとなくあざとく見える。

 「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。

 「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。

 桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。

    真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺

 これは、芭蕉三回忌の作。

    初秋や 庵 覗けば 風の音

 これは、元禄八年の作。

    片庇 師の絵を掛けて 月の秋

 これは、元禄九年の作。

 ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。

    ななくさや ついでにたたく鳥の骨
    七癖や ひとつもなくて 美人草
    盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ

 どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
 考えられることは――桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々ともあまり交渉がなくなったのではないか、ということ。
 あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、とも見える。
 桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。

 いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも、それなりに楽しい。

2009/12/10(Thu)  1130
 
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 『ユートピアの岸へ』は、久しぶりに見ごたえのあるいいドラマだった。

 第三部。劇場をうずめつくした観客は、男も女も水を打ったように息をこらし、固唾をのんで、舞台を見つめている。だれしもが、ゲルツェン、バクーニン、オガリョーフたちは、「船出」Voyage しながら、「難破」Shipwreck して、ついに「漂着」Salvage したことを見届ける。
 幕切れ、居眠りからさめたゲルツェンはオガリョーフにいう。

 前へ進むこと。楽園の岸に上陸することはないのだと知ること。それでも前へ進むこと。

 苦い幻滅というべきか。あるいは、おそるべきオプティミズムというか。

 終幕は、リーザが切れたロープをもって走り寄る。ゲルツェンが、「キスしてくれ」と
いう。リーザがキスをする。

      ナターリア   嵐がやってくる。

 作者の「トガキ」では――夏の稲妻……反応して驚き、はしゃぐ……そして、雷鳴、さらなる反応……すばやい熔暗。

 このナターリアのつぶやき――「嵐がやってくる」というセリフは、はたしてゲルツェンの暗澹たる心情を暗示しているのか。

 蜷川演出は、この稲妻と雷鳴を、極度に大きなものにする。それまでの(とくに、リーザ、ゲルツェンのキス、幕切れの、ナターリアのセリフ)の印象を打ち消すように。

 蜷川 幸雄は、ときにエゴサントリックな演出を観客に強いる場合がある。よくいえば、一種のテレと見るべきかも知れない。
 この前、三島 由紀夫の『弱法師』の幕切れで、それまでのドラマの感動を断ち切るように、テープの録音をかぶせた。これが何の録音なのか、観客の大多数には理解できなかったに違いない。三島 由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して、割腹自殺を遂げる直前のテープの録音だった。
 私は、このドラマ、『ユートピアの岸へ』で、蜷川 幸雄がこの録音テープを最後にながす必然性も、妥当性もないと思ったが、『ユートピアの岸へ』のラストには、蜷川 幸雄の昂揚を見る。

 まったく個人的なことを書いておく。
 旧ソヴィエトが崩壊し、みるみるうちに解体しようとしているさなかに、偶然ながら旧ソヴィエト最後の芝居を見たことがある。
 カタンガ劇場がレーニンの最後の日々をドラマ化したものだった。テーマは――ロシア革命はあくまで正しいものだった、ゆえにロシアはレーニンに戻れ、というドラマだったが、現実にソヴィエト体制がミシミシ音をあげて崩壊している時期だっただけに、このドラマを見たとき、ロシアの運命にかかわる暗澹たる感動が私の胸にあった。
 その暗澹たる感動が『ユートピアの岸へ』と重なってきた。
 まさしく「嵐がやってくる」のだ。1868年のロシアに。
 そして、2009年のロシアにも。

 このドラマを見ながら、しばし私の頭を離れなかったのは、ユートピアとは何か、ということだった。あるいは、『ユートピアの岸へ』における「ユートピア」とは何だったのか。私の答えは――すでに書いたはずである。

 さて、私の劇評めいた感想も、このへんで終わりにしよう。はじめから劇評を書くつもりではなかったのだから。私としては、つぎつぎに心をかすめる思いを書いてきただけのことなのだ。

 これを読んでくださった皆さんに心から感謝しよう。

2009/12/11(Fri)  1130
 
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 『ユートピアの岸へ』は、久しぶりに見ごたえのあるいいドラマだった。

 第三部。劇場をうずめつくした観客は、男も女も水を打ったように息をこらし、固唾をのんで、舞台を見つめている。だれしもが、ゲルツェン、バクーニン、オガリョーフたちは、「船出」Voyage しながら、「難破」Shipwreck して、ついに「漂着」Salvage したことを見届ける。
 幕切れ、居眠りからさめたゲルツェンはオガリョーフにいう。

 前へ進むこと。楽園の岸に上陸することはないのだと知ること。それでも前へ進むこと。

 苦い幻滅というべきか。あるいは、おそるべきオプティミズムというか。

 終幕は、リーザが切れたロープをもって走り寄る。ゲルツェンが、「キスしてくれ」と
いう。リーザがキスをする。

      ナターリア   嵐がやってくる。

 作者の「トガキ」では――夏の稲妻……反応して驚き、はしゃぐ……そして、雷鳴、さらなる反応……すばやい熔暗。

 このナターリアのつぶやき――「嵐がやってくる」というセリフは、はたしてゲルツェンの暗澹たる心情を暗示しているのか。

 蜷川演出は、この稲妻と雷鳴を、極度に大きなものにする。それまでの(とくに、リーザ、ゲルツェンのキス、幕切れの、ナターリアのセリフ)の印象を打ち消すように。

 蜷川 幸雄は、ときにエゴサントリックな演出を観客に強いる場合がある。よくいえば、一種のテレと見るべきかも知れない。
 この前、三島 由紀夫の『弱法師』の幕切れで、それまでのドラマの感動を断ち切るように、テープの録音をかぶせた。これが何の録音なのか、観客の大多数には理解できなかったに違いない。三島 由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して、割腹自殺を遂げる直前のテープの録音だった。
 私は、このドラマ、『ユートピアの岸へ』で、蜷川 幸雄がこの録音テープを最後にながす必然性も、妥当性もないと思ったが、『ユートピアの岸へ』のラストには、蜷川 幸雄の昂揚を見る。

 まったく個人的なことを書いておく。
 旧ソヴィエトが崩壊し、みるみるうちに解体しようとしているさなかに、偶然ながら旧ソヴィエト最後の芝居を見たことがある。
 カタンガ劇場がレーニンの最後の日々をドラマ化したものだった。テーマは――ロシア革命はあくまで正しいものだった、ゆえにロシアはレーニンに戻れ、というドラマだったが、現実にソヴィエト体制がミシミシ音をあげて崩壊している時期だっただけに、このドラマを見たとき、ロシアの運命にかかわる暗澹たる感動が私の胸にあった。
 その暗澹たる感動が『ユートピアの岸へ』と重なってきた。
 まさしく「嵐がやってくる」のだ。1868年のロシアに。
 そして、2009年のロシアにも。

 このドラマを見ながら、しばし私の頭を離れなかったのは、ユートピアとは何か、ということだった。あるいは、『ユートピアの岸へ』における「ユートピア」とは何だったのか。私の答えは――すでに書いたはずである。

 さて、私の劇評めいた感想も、このへんで終わりにしよう。はじめから劇評を書くつもりではなかったのだから。私としては、つぎつぎに心をかすめる思いを書いてきただけのことなのだ。

 これを読んでくださった皆さんに心から感謝しよう。

2009/12/09(Wed)  1129
 
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 『ユートピアの岸へ』は、第一部でバクーニン家の物語として展開しながら、第二部からはゲルツェンを中心にシフトしてゆく。つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
 むしろ、もっと凝縮した構成の戯曲にできなかったものか、と思う。もっとも、この戯曲があの浩瀚な『回想と思索』の脚色と見れば――「1833年夏」からはじまって、「1849年1月」(第三場)、「1850年9月」、「1850年11月」という単調な場割りがつづいて、最後の最後に「1846年 夏」(第三幕)のソコロヴォ、つまり第二幕のラストにつなげる、というバックワード・タクティックス(「過去」にもどるというドラマトゥルギー)は、蜷川演出によって救われただけで、実際には(戯曲として)効果はなかったのではないかという気がする。
 あるいは、観客に重い感動をつたえるためにこういう終わりかたが必要だったというのだろうか。

 第三部、第二幕、(1860年8月)いよいよ芝居の大団円という幕に、大作家になったツルゲーネフが姿をみせる。
 この第三部、第二幕、で、ツルゲーネフの前に、医者があらわれる。この医者は、ニヒリストとして、ツルゲーネフと論争する。むろん、ツルゲーネフは、この論争では分がわるい。なにしろ、徹底的にプラグマティックな人物で、その論理の科学性に、文学者として思想的に彷徨とつづけてきたツルゲーネフがかなうはずがない。
 そして、医者は、この時代に、実用性以外に信じるに足るものはない。進歩も、道徳も、芸術も信じない、
 最後に、ツルゲーネフは問いかける。「私は、きみをどうよべばいいのか」と。
 相手は答える。「どうぞ、バゾーロフ」と。
 この「意味」がわかった観客は、ほとんどいないのではないだろうか。あえていえば、トム・ストッパードは、わかってもらえなくてもいい、として、この場面を書いたのではないか、と想像する。
 そういう意味では、この戯曲は、個々の人物を描いているというより、それぞれの人物たちがあるムードのなかで動きまわる群像劇と見ていい。
 はじめから思想劇などと見ないほうがいい。
 最後になって――それまで思想や、革命に対する戦術、戦略がことなってきたバクーニンに痛烈に批判される。

 バクーニンは、マルクスとは違う。マルクスの思想は「自由のないは共産主義」と見なした。その果てにくるものは、隷属であり、とどまることを知らない野獣主義と見ていた。
 ロシアの共産党政権は、70年にわたって何をめざし、何を果たしたか。
 ロシアの共産党政権が追求したものは、人民の「隷従」、そして、スターリンの「独裁」という野獣性だった。
 1921年から22年にかけて、餓死した人は、少なくとも500万に達する。
 1928年、独裁者、スターリンの命令で、1000万戸の富農を抹殺したが、中農、貧農までまき添えを食った。850万から900万の人々が追放され、その半数が1年以内に死亡した。
 1936年から大粛清がはじまる。そして大量処刑。
 芸術の世界でも、粛清の嵐が吹き荒れる。1934年の作家会議に出席した約700人のうち、スターリンの死の直後まで生き残ったのは、50人といわれる。

 演出家、メイエルホリド、詩人、マンデリシュタム、作家、ビリニャーク、バーベリなど多数が獄死、または銃殺された。
 共産主義体制下で、150万人から200万人が亡命した。粛清の犠牲者の総数は不明だが、2000万人から6000万人という諸説がある。
 帝政という怪物を倒したかわりに、スターリンというはるかに強大な「怪物」を生み出したロシアは、恐怖におののきつづけた。

 イデオロギーとしての共産主義の崩壊と、ソヴィエトの解体は、けっして小さな事件ではなかった。『ユートピアの岸へ』を見おわったとき、私の胸に去来したのは、そういう思いだった。

2009/12/08(Tue)  1128
 
               9


 「第三部」で、ゲルツェンは、盟友、バクーニンに痛烈な批判を浴びせる。

 こういうバカげた秘密の旅行も、暗号も、偽名も あぶり出しの手紙もみんな子どものお遊びだ。きみに疑いをもたない人間は、リーザひとりだ。無理もない。
 きみは暗号の手紙を送りながら、相手がそれをよめるように暗号表を同封している。

  バクーニンは反撃する。

 君の同盟なら参加できると思ったが、そうやって偉そうに、恩きせがましく、いったい誰にむかってそんな口をきくのか。

 出て行くバクーニンを、オガリョーフは追うが、もはや、バクーニンは戻らない。ドラマは、ここから最後のデヌーマンに向かいはじめる。
 ツルゲーネフも出てゆく。少女のタータも、ゲルツェンから去ろうとしている。
 惑乱したゲルツェンは、ナターシャを抱きしめようとする。だが、このとき、ナターシャの内部に大きな変異が起きる。彼女もまた、ゲルツェンに痛烈なことばを浴びせる。
 こうしてロシアの前途に横たわる絶望、苦い幻滅は、ゲルツェンの胸にもたちこめている。


 それまでの「オガリョーフ」は、それほど大きな「役」ではない。ところが、第三幕の石丸 幹二は、じつにみごとに阿部 寛に拮抗している。前に見た「イノック・アーデン」に、私は失望していたので、あらためて石丸 幹二の資質に感心したのだった。
 つづいて、ツルゲーネフ(別所 哲也)が登場してくる。
 ツルゲーネフは、チェルヌイシェフスキーや、ドブロリューボフに毛嫌いされていることを語る。自作の主人公が、ただのリベラリストに過ぎないという理由で。
 このあたり、ロシア文学の理想と現実を知らないと、どうしてもわかりづらい。

 別所 哲也は、ここでは(この芝居では)ごく普通の出来だった。おそらく理由があるだろう。阿部 寛がますます力をましてきているし、第三幕は「バクーニン」(勝村 政信)がこの場をさらって、客を魅了しているため、別所 哲也が輝きを見せてもあまり印象に残らない。(『レ・ミゼラブル』の別所 哲也ならもう少し違うだろう。)

 第三幕、[1861年12月]の場で、ツルゲーネフはいう。「私は裏ぎり者と呼ばれている。左派と、右派の両方から」。
 ツルゲーネフはゲルツェンに向かっていう。きみの〈カマトトぶり〉は、オールドミスも真っ青だ。きみとオガリョーフは、自分のスカートをやたらにまくって、秘所をご開帳している、と。

 ゲルツェンは怒る。
 ロシアの社会主義者は、みずからの封建性や、専制とは無縁の、(ヨーロッパの)体制と対比して、後進性と同時に、ロシアの優位を説いてきた。ヨーロッパと同じ発展の道を行くことはない。どうせ、行く末はわかっている、と。
 だが、やがて「ゲルツェン」たちの後継者として、レーニン、スターリンのソヴィエトがあらわれる。

 私たちは、スターリンのやったことが、帝政ロシアの暴政の、拡大再生産だったことを見せつけられてきた。ソヴィエト崩壊後の現在だって、プーチンは、スターリンのソヴィエトと、自分たちをひき較べて、自分たちの体制がいかに優れているかを誇示している。
 なるほど、社会主義の計画性や、指令システムは、電力、鉄鋼その他の基幹産業では、うまく機能していたかに見えた。さらにいえば、世界戦略に対応するための兵器産業の部門でも。(私が、日露戦争を思い出していたことはいうまでもない。)

 『ユートピア』(第三部)、ゲルツェンがチェルヌイシェフスキーと論争する。
 チェルヌイシェフスキーの論点は、やがてレーニン、スターリンの恐怖の論理になる。ゲルツェンは、「狼の大群がロシアの街を勝手に歩きまわることになる」という。
 私たちは、ゲルツェンの孤立と、ロシアの理想の「サルヴェージ」の意味を予感する。

 共産主義国家の政策は、人民のためなどということは絵空事にすぎなかった。「アリ塚のユートピア」なのだ。たとえば農業、農産物のマーケティングひとつとってみても、社会主義システムはまったくの失敗に終わった。
 『ユートピアの岸へ』におけるゲルツェンの「旅」Voyage は、Wreck であり、ついに「ユートピアの岸」に「漂着」Salvage することに終わった。
 私は「第三部」の阿部 寛を見ながら、「ゲルツェン」の孤独を感じて、ほとんど暗然としたほどだった。

2009/12/06(Sun)  1127
 
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 ヨーロッパに失望したゲルツェンは、ロシアの民衆に希望を見いだそうとする。そして、スラヴォフイルに接近する。やがて独特の、ロシア社会主義をとなえる。

 かんたんにいえば――農村共同体を基盤に、ヨーロッパのような資本主義の段階をへずに、独自の社会主義を実現すべきだというもの。
 チェルヌイシェフスキーとも共通する思想的な論点でもあった。
 農奴たちの悲惨な生活、その災厄から救うためには、農村共同体の土地利用を考えるべきであるとした。
(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及される。第三部では、チェルヌイシェフスキーの硬直した思想に、ゲルツェンもうんざりしているのだが。)
 ゲルツェンは、このあたりからエンゲルスとは違ってくる。エンゲルスは――「ロシア農民の世界は、閉鎖性と魯鈍の世界だ。彼らは、自分の共同体のなかにだけ、生きて、行動している」と考える。(トカチョフ批判」)マルクスもエンゲルスと、同意見だったはずである。
 マルクスがやはり狭隘な思想家にすぎないことをあらためて感じた。
 やがて、この狭隘さが、後年のレーニン、スターリンという「怪物」にひきつがれる。

 ゲルツェンは違う。
 ロシアの「オプシチナ」、あるいは、「ミール」は、古代ロシアに発生した農村共同体の流れで、農民の自治組織である。この農村共同体は、1861年の農民解放の後で、約14万、全農民の80パーセントをカヴァーしていた。さらに後に、レーニン、スターリンは、この「ミール」をコルホーズ、ソフホーズに編成しようとする。

 ドラマでは、オガリョーフが「土地と自由」という思想をとなえて、ひそかに同志を祖国に潜入させようとして、官憲に一網打尽にされる。
 ゲルツェンが批判を浴びせる。(第三部、第二幕/12場)
オガリョーフが、発作を起こしたあとのこのシーン、石丸 幹二のやりとりは、終幕でのゲルツェン(阿部 寛)の苦い感慨の伏線として、無残なほどいたましい。


              ※

 第三幕冒頭、ゲルツェンは「鐘」の出版に成功している。娘の「サーシャ」(20歳)に、自分とオガリョーフが、ロシアで最初の社会主義者だったことを語る。
 「オガリョーフ」は酒に酔っている。ゲルツェンがオガリョーフの妻、「ナターシャ」と愛しあっていることを、「オガリョーフ」は知っている。
 「ナターシャ」は、「オガリョーフ」とセックスしたと思うと、すぐに「ゲルツェン」をもとめる。三人が愛しあっている、と思いながら、妊娠したこともあって「ゲルツェン」との不倫に罪悪感を抱いて、自分は罰を受けている、と思う。
 こういう「関係」のなかで、石丸 幹二の「オガリョーフ」は、すばらしい芝居を見せていた。
 「きみが妊娠させなければよかったのだ」という。「ゲルツェン」は、皇帝(ツァーリ)が農奴制廃止の委員会を設置したというニューズに興奮して、その晩に「ナターシャ」を抱いたという。それを聞いた「オガリョーフ」の動揺や、あきらめ、さらには畏敬する友人の行動をそのまま承認しようとする、石丸 幹二はコキュの複雑な内面を、よく表現していた。そのことが、精神的な興奮から女体を征服する「ゲルツェン」の、いわば無神経なエゴイズムを感じさせる。
 このとき、「オガリョーフ」の内面には、それまでの(この芝居でいえば、第一幕、第二幕の)さまざまな思い出や、その記憶やそれに重なる感動や、「ナターシャ」を奪われた、という思いが渦巻いたはずである。

 そのときの「オガリョーフ」がウォッカをあおる芝居は、やがて「ゲルツェン」の内面の揺れにまで影響して、この幕の最後の「ゲルツェン」の孤独な内面まで際立たせるほどのものに見えた。これは、石丸 幹二のお手柄とみてよい。

2009/12/04(Fri)  1126
 
        7  


 『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
 だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。


 ただ、戯曲そのものよりも、あくまで俳優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。

 この芝居、主役の阿部 寛はほんとうに運がいい。
役者というものは、ほんとうにやりたい芝居に、一生に一度か二度ぶつかれば運がいいという。この『ユートピアの岸へ』のゲルツェンほどの役には、めったに出会えるものではない。
 これほどの役を演じる、ということは、その努力もなみたいていのものではない、ということになる。もともとカンのいい役者で、繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている。最近のTVコマーシャルに出ている阿部 寛を見ているだけで、それがよくわかる。そんなコマーシャルに出ているだけで、すばらしい存在感があふれる。(「セキスイハイム」のコマーシャルなど。)
 この芝居の阿部 寛は、たいへんな量の科白を記憶した。
 このゲルツェンほどセリフの多い芝居は、さしづめオニールの『喪服の似合うエレクトラ』や、サルトルの『神と悪魔』などぐらいだろう。『ユートピアの岸へ』のゲルツェンのむずかしさほこれに劣らない。
 セリフをおぼえるのは、なみたいていのことではない。阿部 寛はさぞたいへんだったろうと思われる。九月に見たときは、阿部 寛もあまりにセリフの多さに、おぼえるのがやっとといった状態で、いくぶん同情したほどだった。
 しかし、千秋楽の阿部 寛はゆるぎなく勝村 政信に対抗する。この千秋楽、阿部 寛は最高のできだった。若い役者たちがこれくらい勢いよく、轡をならべてわたりあう舞台でなければ人気は立たない。
 千秋楽では、ときには鬼気せまる演技さえ見せていた。

 阿部 寛のゲルツェンはあたたかい人柄で、独特の輝きを見せている。私が「カンのいい役者」というのは、いくつかのTVコマーシャルを見ているせいだが。こうした「カン」、器量の大きさは誰もが身につけているわけではない。

 ただし、『ユートピアの岸へ』の俳優でも、昔の書生芝居か「新協」の芝居にでも出てきそうな連中もいた。阿部 寛には、はじめからそんなことがない。これほど繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている俳優は、やはり少ないだろう。
 おなじことは、石丸 幹二についてもいえる。しばらく前までは、ただの美男、美声のミュージカル役者だったが、舞台経験をかさねることで、ぐっとほんもの(オーセンティック)の俳優になってきた。
 役者の、こういう境地をどう説明していいかわからないが、石丸 幹二の根性のすわりかた、昔の歌舞伎でいう「世界さだめ」に近いもので、たとえば曽我の世界、上方なら傾城の世界を役者が自在に演じる、というようなものだろう。みごとに、「ゲルツェンの世界」を見定めて、詩人のオガリョーフを演じて、原作に対する観客の感興を助けようとしていた。近頃いい役者のひとり。(ほぼおなじ時期、NHKのドラマ、『白州次郎』で、ほんのちょっと「牛島」という若い秘書官で出てきた。まあ、しどころのない「役」だったが、石丸 幹二がなかなかの美男なので、主役を張っても通用するという気がした。)
 ようするに、「ゲルツェンの世界」を現出できていたのは、勝村 政信、石丸 幹二だった。

 この芝居の役者たちにしても、これほど大きな芝居に出られる機会はめったにあるものではない。
 逆にいえば、今後しばらくは、まさか『ユートピアの岸へ』のような芝居に出ることはないだろう。しかし、主役クラスの俳優たちは、この芝居に出たことでひとまわりもふたまわりも大きくなった。少なくとも、そのきっかけにはなったはずである。
 勝村 政信にしても、砲兵士官学校の若い生徒から、激烈な革命家まで、革命家、バクーニンをのびやかに演じていた。この前にシェイクスピアに出たときにも、ずいぶん芸熱心な俳優だなあ、と思ったが、この「バクーニン」は、勝村 政信にとっても、めったに出会えない大役だったはずである。
 過激なバクーニンの、ブルジョアに対する憎しみは、ツァーリズムに対するおよそ和解の余地のない憎しみに根ざしていた。というよりも、よわい者が強い者に対して抱く、気位の高い侮蔑を、勝村 政信は見せていた。そして、長い歳月、おのれの期待にそむきそむかれて、いやというほど、辛酸を味わいつくしながら、会う人ごとに借金を申し込む、善良で愉快な人物。
 私は勝村 政信の演技の幅に感心した。第三幕で、勝村 政信が笑いをさらっているあたりは、見ていてほんとうに楽しい。

 この芝居、どうして大向こうから声がかからないのか。
 ただし、声をかけるとして、さて、なんとしよう。勝村 政信には、ヨッ、大統領! ぐらいか。
 二代目左団次は、小山内 薫と組んで、「自由劇場」でさかんに翻訳もの、新作ものを出した。その頃、左団次の意気に感じて、大向こうからしきりにヨッ、大統領! と声がかかったという。
 時代は、世界大戦が終わったばかりで、アメリカのウィルソン大統領に当てた称賛だったという。(円地 文子先生が書いていた。)いまなら、さしづめオバマ大統領に当てて声をかけてもいい。
 「コクーン」の観客から声がかかるはずもない。ただひたすらおとなしい。なんといっても、日本人はシャイなのである。
 私としては、「第一部・第一幕」の終わりに近く、バクーニンの父親、瑳川 哲朗に声をかけてやりたかったが、プーチン大統領に当てて声をかけたと思われそうなので――黙っていた。(笑)

2009/12/03(Thu)  1125
 
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 ゲルツェンは、ヨーロッパの否定的な面に強く反応した。
 1848年、パリ・コミューン。その悲惨な結末に衝撃をうける。拝金思想。物欲。ふつうの人々の平穏な生活。これに俗物性、凡庸さが重なってくる。
 おまけに、この時代にはじつにさまざまな事件が頻発していた。ザイチェフスキーの「若きロシア」の革命的な宣言、ベテルスブルグに頻発した放火、やがてアレクサンドル二世の暗殺。そして、急激な政府の政策転換。
 言論弾圧。
 リベラル派、急進派に対する執拗な追求。
 『ユートピアの岸へ』には、そうした背景のひとわたりがわかりやすく描かれている。
 ゲルツェンはバクーニン、ベリンスキー、作家のツルゲーネフなどと親しかった。(『ユートピアの岸へ』、第一部)そして、マルクスは、ゲルツェンを疑いの眼で見ていた。それが、わかるだけでも、こういう芝居を見ている楽しさがある。

 1852年から、ゲルツェンはロンドンに在住。(『ユートピアの岸へ』、第三部) 農奴制の廃止がもたらした改革運動が、じつは失敗だったという苦い幻滅は、「第三部」のツルゲーネフに現れている。

2009/12/02(Wed)  1124
 
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 『ユートピアの岸へ』は、まるでモーリス・ドリュオンの小説のように、つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
 ドラマとしては、多数の人間をいちどきに出してくるのだから、進行、展開がうまく行く。
 ドラマのなかを流れる時間、場所、そこにかかわる人物は、たとえ資料や事実を踏まえていようと、あくまでフィクティシアスな存在だろう。ツルゲーネフふうにいえば、日は日をついで過ぎてゆく。あとかたもなく、単調に、かつ、すみやかに。ただし、極度に単純化されたステージと、紗幕による転換のせいで、(観客にとって)しばしば人物、場所の把握がそれほど明確には見えてこない。

 『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
 だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。

 このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない、と書いた。
 女には、二種類しかない。勇気のある女と、勇気のない女と。
 女優にも、おなじことがいえるだろう。
 勇気のある女優と、勇気のない女優と。
 この芝居では、水野 美紀が、女優として勇気を見せていた。これは、どれほど称賛してもいいほどのものだった。
 バクーニン家の次女、ヴァレンカをやった京野 ことみは、はじめての舞台出演で、頬に赤丸をつけた田舎娘をやって、観客を笑わせていたことを思い出す。このドラマでは、それこそ「しどころ」のない役だが、なんとか見られるものにしていた。それも、私にいわせれば、勇気のあらわれだった。
 ところで、勇気のある女優として、私がすぐに思い出すのは――たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。
 この『ユートピアの岸へ』を見たあと、「ドイツ映画祭」で上映された「ヒルデ」(カイ・ヴェッセル監督/2008年)を見た。戦後、ドイツ映画を代表する女優、ヒルデガルド・クネッフの半生を描いたもので、これがすばらしい映画だった。私が感動したのは――この映画に主演した女優が、まさに勇気のある女優だったからである。
 戯曲そのものよりも、あくまで俳優たち、女優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。

 水野 美紀を見たとき、なんというべきか、妥協のないきびしさにつらぬかれて、この芝居の水野 美紀を見るためにきてよかったとおもった。

 ブリュッセルで二月革命を知ったというバクーニン、マルクス、ツルゲーネフ。そして、カフェのテーブルで、自分の目撃した革命の状況の報告、これに「ラ・マルセイエーズ」の歌声がかぶさる。銃声。ゲルツェンのアパルトマンにディゾルヴする。このとき、乞食がひとり、舞台を動かない。
 ドラマが、コントラストをねらっているのはよくわかるのだが、ここでも 話題はピアニストのリストに恋した伯爵夫人の話だったり。乞食がこの場に一種の異化作用として登場していることはわかるのだが、ただ、場面をつなぐだけの意味しかないような気がする。
 ここで私がこんなトリヴィアルなことをとりあげておくのは、これが戯曲の混乱、矛盾といったものではなく、トム・ストッパードという劇作家のほんらいの資質や、このドラマの意図にかかわってくる事柄が、このあたりにひそんでいるのだろうと推測するからである。
 なにしろ、「第一部」が23場。「第二部」が20場。「第三部」が25場。
 しかも、「第三部」には、場面と場面のあいだの「つなぎ」が、二つ。このリンケージは、海辺の渓谷のシーンで、それまでの緊迫した場面とつぎの場面のコントラストになっているのだが、劇作家が、ドラマの弛緩を、このリンケージでカヴァーしているのかも知れない。荒涼たる風景である。むろん、「第三部」の副題が Salvage だから、こういうリンクが必要だったことはわかる。
 ただ、それが作劇上、成功しているのかどうか、と考えるのだが。

2009/11/30(Mon)  1123
 
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 『ユートピアの岸へ』第二部(「難破」)から、私たちはゲルツェンという特異な革命家の「運命」を目撃することになる。

 ゲルツェンは、モスクワ大学でオガリョーフとともに、フランスの空想社会主義の思想家たち、サン・シモン、フーリエの著作に熱中する。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及されている。)
 その後、警察に逮捕され、流刑。
 第二幕は、主人公、ゲルツェンが中心というより、ゲルツェンとその妻、ナタリー(水野 美紀)、ナタリーの友人、ナターシャ・ツチコフ(栗山 千明)、ゲルツェンの親友、オガリョーフ(石丸 幹二)たち。この人たちがめまぐるしく演じる有為転変、さらには、革命の理念をめぐって、濃密な時を舞台に織りなすとりどりの運命。
 かんたんにいえば、そういうことになる。

               ※

 『ユートピアの岸へ』では、さまざまな人がパーティーに集まる。たとえば、「1835年 3月」(第一幕/第3場)のバイエル夫人の夜会。
 「1843年 春」(第一幕/第22場)のパーティー。ここでは、「赤毛のネコ」が登場する。どういう仮装なのか、よくわからない。おそらく、皇帝直属の秘密警察「オフラナ」か何かなのだろう。
 ベリンスキーが批評家として有名になりかける。たまたま、わかい詩人が、はじめての詩集を献呈する。ツルゲーネフ(別所 哲也)という青年である。
 ツルゲーネフが去ったあと、ベリンスキーと「赤毛のネコ」が黙って、舞台に残される。お互いにじっと凝視している。ほんとうなら、ここで、異様な緊張、ないしは恐怖が走るはずだが、ベリンスキーが自分の名を告げても、「赤毛のネコ」は、パーティーにきた仮装の人物にしか見えない。
 なんだ、あれは? わからなかった。これは、私の頭がわるいせいなのか。

 とにかく、いろいろな人たちが、ゲルツェンを中心に集まってくる。
 「1847年 7月」(第二幕/第2場)、ゲルツェンのアパルトマンというふうに。
 ロシア人はお互いに自己紹介して、それぞれの考えに共鳴すると、昨日まで見ず知らずの人でも、たちまち旧知の友だちになってしまう。だから、友人の友人を心から迎え入れて歓待する。
 1848年、バクーニンは、カール・マルクス(横田 栄司)に会う。マルクスは『共産党宣言』を書いたばかり。30歳。
 ツルゲーネフが、マルクスから、『共産党宣言』を借りて、冒頭の一節を読む。
 「幽霊がヨーロッパに出没している……共産主義という幽霊が!」
 当時、ロシア・インテリゲンツィアの胸には、フランス革命の記憶が刻みつけられていることを、まざまざと見せつけられたような気分になった。
 場所は、パリ。二月革命。
 この「革命」が生んだもっとも急進的な動きは、バブーフの運動と見てよい。これは、ルイ・フィリップの時代に、秘密の革命的結社に受けつがれる。いわゆるブランキーズムである。私たちは「バクーニンの人生で、この頃がもっとも幸福な日々」だったことを知らされる。

 1848年の革命の挫折。
 ゲルツェンの期待は、失望にかわる。
 友人で、詩人のヘルヴェーグ(松尾 敏伸)、その妻エマ(とよた 真帆)と共同生活をはじめる。
 ゲルツェンの夫人、ナタリー(水野 美紀)は、ヘルヴェーグ相手の不倫に走る。

 1848年は、どういう時代だったのか。芝居を見ながら、ぼんやりと、そんなことを考えていた。バルザックがハンスカ夫人に夢中になっていた時代。
 バルザックは書いている。

 女たちは、同性にモテる男には何かしら腹立たしさを感じさせられる。おかげで、かえってその男に関心をもってしまう。

 ヘルヴェーグの妻エマも、そんな眼でみられていたのかも知れないな。気に入った芝居を見ると、きまっていろいろなことが頭にうかんでくる。私の悪癖のひとつ。
 『フインランド駅へ』を連想しながら、『ユートピアの岸へ』を見るというのは、いささかあきれるけれど。

 とよた 真帆は美貌の女優。そして、水野 美紀も。
 美人の女優は自分では気がつかないかも知れないが、真剣な演技をしているときでも、自分の表情、語りくち、身のこなしに、どこか違ったところがあって、演出家には、やはりあらそわれない、はっきりしたフロウ(欠点)として見えることがある。

 この場の、バクーニン(勝村 政信)、これがとてもいい。第一部で、士官学校をやめようとしている若者にもつよい印象をうけた。第三部で、しきりに「笑い」をとるバクーニンもおもしろいが、この第二部の勝村 政信は、終始、ゲルツェン(阿部 寛)と拮抗する。
 勝村 政信を見ていて、バクーニンが、ここにきてプロレタリアの暴力革命によってブルジョアを打倒する可能性を見たことがよくわかった。

2009/11/29(Sun)  1122
 
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 一連のドラマが起きて、多数の「群像」の織りなす運命がめまぐるしく交錯する「場」が、いきなり私たちの前に展開してゆく……。
 ドラマは、「1833年夏」からはじまって、「1833年夏」(第二場)、「1833年秋」(第三場)というふうに、時制によって進行してゆく。
 通しで見ると、9時間。役者もたいへんだが、見るほうもたいへんな芝居である。

 はじめのうち、長さはべつに気にならない。
 このドラマが、歴史劇として書かれていることはわかるけれど、だんだん、あとになって、こうした区分がうるさくなってくる。たとえば、第二幕は「1833年 3月」からはじまっているが、これが、デカブリスト反乱から9年後ということに気がつく観客がど
れだけいるのだろうか。

 そんなことから、作者、トム・ストッパードのドラマトゥルギーに対するいくらかの疑問として、私の胸にきざしはじめる。……
 『ユートピアの岸へ』第一部は、VOYAGE (船出)という副題をもつ。登場人物は、誰もが未知の「向こう」に向かって旅立とうとしている。
 だが、未決定の「向こう」に旅立つというそれぞれの決意には、「心おきなく旅立つことのできるための物語」という要因も必要だったのではないか。
 やがて、このドラマの中軸となるゲルツェンの親友、オガリョーフは、まだ、このドラマのはるかな地平にわずかに姿を見せるにすぎない。

 3年後。「1836年 8月」(第五場)、ベリンスキー(池内 博之)が登場する。後年、「凶暴なヴィッサリオン」と形容されるロシア批評の先駆者も、ここではイヌに吠えられてころんだり、ドジばかりのヴォードビリアンにすぎない。
 ストレートな舞台で、スラップスティックじみた芝居をするのは、それほどむずかしいことではない。(ほかにもおなじようなドタバタ喜劇を見せた役者がいる。)しかし、これが、「わが国には文学はない」とか、ロシアは自分の汚物にまみれた隷属と迷信の大陸などと、ご大層な熱弁をふるう若者であれば、話は別になる。池内 博之は、スラップスティックはあまりうまくないが、若者のロシア的な狂熱ぶりをよく出している。
 つぎの場が、「1836年 秋」。夏の朝まだきから、あのロシアの蕭条たる秋にうつるのだが、舞台には美しい娘たちがでてくる。
 リュボーフィ(紺野 まひる)、ヴァレンカ(京野 ことみ)、タチアーナ(美波)、アレクサンドラ(高橋 真唯)たちが。
 リュボーフィは、やがて、ニコライ・スタンケヴィッチと、タチアーナは、イヴァン・ツルゲーネフと。だが、まだだれひとり、自分を待ち受けている運命を知らない。

 1847年、ゲルツェンは妻子とともに、パリに亡命。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で言及される。)
 この舞台を見ながら、ふと、日本はどういう時代だったのかと考えてみた。おなじ時代に、為永 春水が筆禍に遭い、頼 山陽、柳亭 種彦が亡くなっている。そして、大塩 平八郎の乱が起きている。
 日本もまた激動の時代を迎えようとしていた。……

2009/11/28(Sat)  1121
 
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 第一部には青春のみずみずしさが、みなぎっている。ロシアの青春も。とすれば、この芝居を青春の群像を描いたものと見てもおかしくない。このオープニングでは、バクーニンの勝村 政信がいい。(彼については、もっとあとでふれよう。)

 アレクサンドル・ゲルツェンが出てくるのは、第二幕になってから。
 ゲルツェンの友人のオガリョーフといっしょ。ゲルツェンの阿部 寛と、オガリョーフの石丸 幹二が出てくるので、この芝居がバクーニン、ゲルツェンの二極構造で展開してゆくらしいことに気がついた。
 ゲルツェンは22歳。1812年、モスクワ生まれ。
 父はゆたかな地主貴族、母はドイツ人女性。母が入籍されなかったため、アレクサンド
ルは、ドイツ系の姓名になる。
 少年時代に、生涯の盟友、オガリョーフとともに――デカブリストの遺志をうけついで、農奴解放と、ロマノフ王朝の専制を打倒することに生涯をささげよう、と誓いあう。
 そのくらいのことしか知らない。

 阿部 寛と、石丸 幹二。この配役がよかった。いい芝居では、ほとんど互角の力量をもった役者たちが、互いに一歩もひかず、舞台のうえで火花を散らす。さしづめ、「布引」の三段目で、菊五郎、左団次が張りあう、といったおもむきのものだろう。

 やがて、ゲルツェンと不倫な関係に入るナターシャ・オガリョーフ(栗山 千明)。この役の栗山 千明は、おそれげもなく美しかった。落ちついたドレスに肌が輝き、眼を奪うような漆黒の髪に、あっさりしたアクセサリが映えて。
 そして、バクーニンの相手になるナタリー・バイエルの佐藤 江梨子。美貌では栗山 千明に劣らないのに、意外に平凡。もっとも、とよた 真帆のエマ・ヘルヴェークもおなじこと。女優がわるいわけではない。この戯曲では、どんな女優が出てもたいして光らない。
 このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない。この芝居が男たちの強烈なパーソナリティーがぶつかりあう芝居のせいだろう。(たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。)
 私にとって、意外だったのは、ナタリー・バイエルをやった佐藤 江梨子。

 尾羽うち枯らしたようなベリンスキーが、やっと雑誌の編集者の仕事にありつく。スタンケヴイッチ(ゲルツェンの娘婿)に報告するところに、ナタリーが登場する。スケート靴を脱がせてもらう。
 ほんらいはずいぶん印象的なシーンなのだが、佐藤 江梨子はこの役を仕生(しい)かしていない。あれほど美貌なのに、このナタリーがほとんど印象に残らないのは、佐藤 江梨子がはじめからナタリーに向いていないのか。まるで気がなかったのか。「この役を仕生(しい)かさない」というのは、そういう意味なのだ。
 『ユートピアの岸へ』という芝居は、女優にとっては、じつはいちばんむずかしい部類の芝居かも知れない。その「場」の自分が、ほかの俳優たちの魅力を消しているのではないか、ということをできるかぎり、自分の内部で確かめてみなければならないのだ。 なぜなのか。私の推測では――劇作家ははじめからあまり関心がないのではないか。

 ほかの女優たち、水野 美紀、とよた 真帆にしても、なんとか芝居について行っているのに、佐藤 江梨子だけがあまり輝きを見せないというのは、残念だった。
 私の好みからいえば、佐藤 江梨子は『野鴨』の「ヘドヴィグ」か、『令嬢ユリエ』でもやらせてみたい女優なのだか。

 麻実 れいも、この芝居では、ごくふつうのロシアの貴夫人にすぎない。
 私は、しばらく前に見たテレンス・ラティガンの芝居で、イギリスの上流夫人をやっていた中田 喜子を思い出した。中田 喜子は「芸術座」に出ているときと違ってまるで魅力がなかった。この『ユートピアの岸へ』の麻実 れいは、あのときの中田 喜子のレベルだった。どうしてなのか。

2009/11/26(Thu)  1120
 
    「ユートピアの岸へ」  
       

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 ある日、私は劇場に行く。渋谷の「シアター・コクーン」。開場の5分後には、客席についていた。

 劇場のなかに舞台装置はない。客席で、舞台をぶっちぎった特設のセンターステージ。いわゆる、はだか舞台だから。カーテンもない。セットもない。
 いまでは、こういうノー・カーテン、ノー・セットの舞台はめずらしくない。私は、コメデイー・フランセーズで見た『作者を探す六人の登場人物』(ジャン・メルキュール演出)を思い出した。ずいぶん昔のことである。
 「コクーン」の舞台には、メークをすませた役者たち、まだ、扮装をしていない女優たちが思いの恰好でくつろいでいる。蜷川 幸雄の舞台では、見なれたシーンである。
 観客たちは、セットのない仮設舞台にたむろしている役者たちを見ながら、三々五々、自分の席につく。日常的な時間が、ここではゆったりと交錯している。

 5分遅れで、照明が消えて、いきなり暗黒になる。もう、俳優たちは舞台にはいない。が、つぎの瞬間、フ