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2009/05/29(Fri)  1019
 
 人生の出会いのありがたさは知っているつもりである。現在の私が在るのは、けっして数多くはないけれど、人生のそれぞれの時期に、いろいろな人に出会えたからだった。

 もの書きとしては、荒 正人、埴谷 雄鷹、佐々木 基一、本多 秋五、山室 静、平田 次三郎といった先輩批評家たち。野間 宏、安部 公房たち。

 芝居の世界では、内村 直也、原 千代海といった劇作家たち。この人たちのことを、書いてみようか。
 そして、たくさんの役者たち、女優たち。これは書けないだろう。

 年をとってからは、やはり出会いはなくなってくる。
 まして、刎頸の友というほどの友だち、知友は少なくなってくる。もはや、幽明境を異にしてしまった友だちが多い。

 エディット・ピアフは、アメリカに行ったとき、たくさんの有名人と知り合ったが、そのなかで、ただひとり、マルレーネ・ディートリヒとは、一目見たときからすっかり意気投合して、親友になったという。
 こういう出会いは、運命的なものかも知れない。

 私は、芸術家どうしの反目、確執に興味がない。そうではなく、死友というべきかかわりをもつ芸術家どうしの出会いに関心をもつ。
 そういうかかわりを『ルイ・ジュヴェ』で書いたが、いま書き続けている仕事でも、それがひとつのテーマになる(と思う)。
 いつ完成するのかわからないのだが。

2009/05/28(Thu)  1018
 
 ジャニス・ジョプリンは、27歳で亡くなっている。
 パッツィ・クライン、享年、31歳。
 マリリン・モンロー、享年、36歳。
 ダイナ・ワシントン、享年、39歳。
 ヘレン・モーガン、享年、42歳。
 ベッシー・スミス、享年、44歳。

 みんな、若くして亡くなっているなあ。可哀そうな女たち。
 彼女たちは、それぞれが輝かしい栄光のなかに生きた。だが、そういう人生が、現実には、悲惨といっていいほどの苦しみにさいなまれて、それぞれの人生を終えている。

 私は思いがけず長寿にめぐまれている。長生きできたことは幸運としかいいようがないが、いのちをながらえたことがかならずしも幸福だとは考えられない。むろん、不幸とはいえないだろうけれど。

 長生きしたおかげで見えてきたこともある。
 しばらく前から、ある仕事にとりかかっているのだが――若くして亡くなった女たちに対するレクィエムになるだろう。

 私はペシミストなのだ。しかし、彼女のことを書こうとしているときは、はっきりオプティミストになる。

2009/05/26(Tue)  1017
 
    人の貧富は天なり命なり、よしや生涯 薪(たきぎ)を樵(こり)て世をわたるとも、心清くは、朱買臣(しゅばいしん)にも耻(はづ)べからず、死灰(しかい)の人に愛せられんは愛せられざるにしかず

 馬琴を読んでいて、こんな一節にぶつかった。(「三勝半七」)
 江戸時代の作家が「愛」ということばを使っていたことがわかる。

 もつとも私のように無教養なもの書きには、江戸時代の作家のものはなかなかにむずかしい。引用した部分でも、朱買臣(しゅばいしん)の話が出てくる。
 前漢の人。家が貧しいため、薪(たきぎ)を切って売ったが、いつもふところに本を入れて歩きながら読んだ。妻は愛想をつかして、去った。
 のちに、会稽の太守として、故郷の町を通ったとき、前妻はこれを見て恥じ、みずから縊れて死んだという。
 死灰(しかい)がわからない。簡野 道明先生の『字源』には、死灰復然(しくわいまたもゆ)が出ている。
 「韓長儒伝」に・・・
 蒙の獄吏、田甲が、安国をはずかしめた。安国はいう。「死灰ひとり、また燃えずや。」甲いわく、「燃ゆるは すなわちこれに溺る」と。

 江戸時代の読者にはこれでわかったのだろう。「然」は、「燃」の正字という。これも、はじめて知った。
 とにかく無教養な私は、馬琴先生の学識の深さはわかるけれど、「死灰(しかい)の人に愛せられんは」がよくわからない。

 ついでに、馬琴の書いたエロティックなシーンを。

    さてなん、淫婦(たおやめ)密夫(みそかお)は折を得て、終(つい)に膠漆(こうしつ)の思ひをなしぬ。     (「お旬傳兵衛」)

 これだけ。
 江戸時代に生まれなくてよかった。(笑)

2009/05/25(Mon)  1016
 
 水上 滝太郎の随筆を読む。

     大ざっぱな言方だが、吾々の父母の時代迄は、他を評しおのれを語ることをいやしみさげすむ風が強かった。それが何時の間にか、男も女も、老も若きも、地位職業の別無く、口を以て筆を以て、他を評しおのれを語るに暇なきが如き時代相を現出するに至った。よりて来るところの社会的原因の存することはいふ迄も無いが、狭く文筆の方面に限り、直接の誘引を求むれば、随筆の流行を数へることが出来る。彼(か)の自然主義の運動が現実暴露を引っ提唱し、平面描写を推奨し、やがて崩れて日本独得の心境小説の発達をみるに及んで、作家は各自日常身辺の雑事を綴ることになづみ、その傾向の赴くところ、随筆の流行を招来し、この文学の形式は、最も自由に手軽に他を評しおのれを語るに適するため、専門文学の士にあらざる人にも筆を執ることを容易ならしめた。

 むずかしい文章ではない。それに、こんなみじかい一節からも、大正から、昭和初年にかけての作家たちは、みんな早くから老成していたことがわかる。それは認めなければなるまいが、いまでは、やはり、読みにくい。
 たしかに、ネコもシャクシも、馬の骨も牛の糞も、随筆という表現形式になづむようになった。昭和初年には、森田 たまのような随筆専門のもの書きが登場する。

 久しぶりで、昭和初年から戦後にかけての森田 たまの随筆を読んでみたが、これはもう論外だった。
 日中戦争のさなかに、従軍作家として中国に行く。このときの「揚子江」、「支那服」、「一角二角」などという文章を読むと、戦前の日本の女のバカさかげんが、悲しくなる。(この「悲しくなる」は、森田 たまのお使いになることばのパロデイ。)

 水上 滝太郎の随筆には、おのれを持することのきびしい気骨が感じられるのだが、森田 たまの文章には大和撫子といった気韻などはない。生きながら死臭をあげているような感じで、読めたものではなかった。

 私が大嫌いな女もの書きは、森田 たま、芝木 好子のふたり。いや、まだほかにもいるのだが、いずれあとでとりあげるつもり。

2009/05/23(Sat)  1015
 
 若いくせに年寄りじみたことをいう人間を見ると、片腹痛く思うが、年寄りのくせに若がっているのを見ても、しばしばキザに感じる。

 私の意見ではない。四十代になった水上 滝太郎が書いていた。(昭和8年)

      同じ四十代になってみると、いずれも頭髪は薄くなり、白髪もちらちらまじり、或者は持病に悩み、或者は下腹や頸の廻りに無用な脂肪の溜った年寄型となり切って、前途の夢は乏しくなり、……(後略)

 水上 滝太郎は年齢とともに、食物の嗜好がいちじるしく変わり、「西洋料理はつとにいやになり、支那料理さへも嬉しくなくなり、まぐろの刺身に箸が向かず、混合酒の技巧が鼻について来たが……」と書いて、文学の好みまでも変化してきたと書いている。

 作家はさらにつづける。
 年齢は人の性質をやわらげることもあるが、ときには、人を頑固にし、融通をきかなくさせる。多年努力して築きあげた自分の立場から、一歩も外に出たがらなくなる。個性の違いがはっきりしてきて、合唱がへたになり、人真似ができなくなる。

 私は水上 滝太郎を尊敬している。彼の意見におおむね賛成する。ただし、いささかの憫笑をもって見ているといわざるを得ない。(私は舞い舞いの古狐に魅いられた老いぼれの、しれ者。相手が水上 滝太郎だろうと何だろうと気にならない。)

 水上 滝太郎がこれを書いた当時、やっと40代の半ばだったはずである。
 「はなやかな夢想はけしとんだが、四十代には四十代の人生があり、活動があり、努力があり、文学があると思つている。感覚は鈍り、花火のやうな感激はなくなつたが、者を見る眼は深く広く、社会人事に関して総合的に考える力は加つた。人生を短編小説的見方では見ず、長編小説的に見る能力は、次第に恵まれて来るやうである。」
 やっぱり、大作家はいうことが違うなあ。(笑)
 いささか皮肉をこめて、こういう人生観、文学観で、社会人事に関して総合的に考える力をたくわえた作家を尊敬したくなる。
 私などは、アメリカの金融危機が日本の産業を直撃するなど、どう考えても理解できないことばかりだし、社会人事に関しても、大きく緩和された労働市場の規制、雇用の悪化、ハウジング・プアと呼ばれる人々があふれている現実を長編小説的に見る能力などまったくない。いじめ、不登校、自殺、そんな子どもたちの人生を長編小説的に見るどころか、短編小説的見方でも見られない。

 私ぐらいの年齢になれば、前途の夢どころではなくなるが、四十代になって頭髪が薄くなったり、白髪まじり、なかには持病に悩み、下腹はメタボといった中年になり切ってしまうのは早すぎる。そこのところだけ、水上 滝太郎に賛成。

2009/05/22(Fri)  1014
 
 去年の9月。ロシアが急速な経済発展をつづけ、まさに世界経済を牽引するとみられてきた時期。日本とロシア間に、光海底ケーブル(RJCN)が開通した。

 このRJCNは、新潟の直江津と、ロステレコムのナホトカをむすぶ大容量の光海底ケーブル。南北の2ルート。それぞれの長さ、約900キロメートル。伝送容量は、それぞれのルートが、640Gbpsという。

 これまで使われてきたインド洋経由、ないしはアメリカ経由のルートに較べて、新ルートでは、東京=ヨーロッパ間を最短ルートでむすぶことになる。

 光海底ケーブルについて何も知らない私がこんなことを記録しておくのは、なんともおかしいことに違いない。遠い将来、誰かがこれを読んで思うかも知れない。
 なんだ、21世紀の老作家はこんなことぐらいに驚いていたのか、と。

 私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』(第二部/第1章)で、1925年にルイ・ジュヴェが書いたエッセイをとりあげた。ほんの少し前の1923年という時代を、ジュヴェがどう見ていたか。
 その一節に・・・・

    ドイツでは「カリガリ博士」、ロシアでは「戦艦ポチョムキン」。チャーリー・チャプリンは栄光のさなかにある。(中略)真空管ラジオを発明したマルコーニは無線電信網が世界をおおうと宣言し、あまり知られていない学者、ポール・ランジュヴァンの海底通信の研究。
    オランダのニールス・ボーアは核の構造についての研究でノーベル章を受けた。ジャーナリズムは、ツタンカーメンの発掘、ヴァルター・ラテナウの暗殺、レーニンの引退、ムッソリーニのローマ進軍の報道に忙殺されている。

 と書いている。

 ジュヴェが、こういうふうに「過去」を回想したことは一度もない。1923年、彼はコポオと別れ、自分の劇場で旗揚げをする。なんでもない事実の羅列に、じつはジュヴェの痛切な感慨、自負が秘められている(と、私は見たのだった。)
 私が光海底ケーブルについて書きとめておくのは、そんな意味はない。ただし、こんなことまでブログに書いておく。ある人への深い感謝の想いをこめて。

2009/05/21(Thu)  1013
 
 私の「宝塚」。
 淀 かほる、明石 照子、毬 るい子たち。もっともっとたくさんのスターたちをおぼえているけれど、名前だけははっきりおぼえていながら、顔や姿は記憶が薄れている。

 へんなことだが――春日野 八千代、越路 吹雪までさかのぼったほうが、かえって忘れていない。

久慈 あさみ、淡島 千景、南 悠子、寿美 花代あたりの時代になると(久慈、淡島、寿美の映画はおぼえているけれど)、どういうものか那智 わたる、深山 しのぶなどの舞台のほうが鮮明に思い出せる。
 いい舞台だったかどうかよりも、おそらくその頃に見た回数の多寡によるのだろう。

 されば――これより女護の島にわたりて、つかみどりの女を見せん、といきたいところだが。
 本城 珠喜は美女だったなあ。ああ、去年の雪、いまいずこ。
 ほかにもたくさんの美男美女がいた。……
 美山 しぐれ、緑 八千代、星空 ひかる、平 美千代、小文字 まり、大路 三千緒、都路 のぼる……
 桜も散るに嘆き、月はかぎりありて入佐山……
 名前が出てきても、それぞれがどんな女の子だったか、目鼻だちさえよく思い出せない。中村 光夫のセリフではないけれど、年はとりたくないものです。(笑)

 奥山は六区(浅草)のコメディアンたち、新派(新劇)の舞台役者ともなれば、まだしもおぼえている。おかしな話だが。

 かなりボケがきている作家がおかしなことを書いても、「コージートーク」の読者のみなさん、どうかお咎めなさいませんように。なにせ、認知症直前作家なのだからお見逃しあれ。(笑)

 テレビで宝塚音楽学校の入学式にのぞむ女の子たちを見た。たまたま、安蘭 けい、遠野 あすかの最後の公演を見て、この新入生たちから、やがては安蘭 けいや、遠野 あすかたちが出てくることを考えて、なんとなく感動した。
 つまり、私はそんなミーハーなのである。

2009/05/20(Wed)  1012
 
 つい最近、トウコさん(安蘭 けい)の退団公演、ミュージカル、「My dear New Orleans 愛するわが街」を見た。
 舞台に感動したばかりではなく、もはや二度とこのふたりを見ることがないと思うと、悲哀が胸に迫ってくる。

 安蘭 けいがすばらしかったのは当然だが、遠野 あすかは、この前の「スカーレット・ピンパーネル」よりもずっといい。もともと芸域のひろい女優さんだが、「マルグリート」が清純な役というだけでよかったのに、今回の「ルル」には、あだっぽさ、あえていえば、淪落の女といった翳りまで、みごとに演じてみせた。

 このミュージカルの台本と演出のレベルの高さ。そして、ショー「ア・ビアント」を見て、現在の「宝塚」が、どれほど大きく発展してきたか、あらためて感慨をおぼえた。

 おなじ、星組で思い出すのだが、明石 照子、淀 かおるたちと、安蘭 けい、柚希 礼音の違いの大きさを思う。(なにしろ、古いね。)

 ショー「ア・ビアント」は、あくまで安蘭 けいの「さよなら」仕様のショーに仕立てられているが、かつてのグランド・レヴュー「シャンソン・ダムール」(高木 史郎/構成・演出)とは、やはり比較にならないほど高度の洗練を見せている。
 演出上、かつての「シャンソン・ダムール」には、宝塚に独特のスペキュタキュラーな要素や、戦前のノスタルジックなレリッシュ(風味)があった。シャンソンにしても、「サ・セ・パリ」、「シャンソン・ダムール」、「パレレ・モア・ダムール」あたり。
 ところが「ア・ビアント」では、たとえピアフや、「パダム・パダム」などがメロディーとしてちりばめられていても、かつてのパリ、たとえばモンマルトルを連想させない。
 私などが知っているシャンソンは、音楽的なレリック(遺物)にすぎない。
 ここにあるものは、まったくあたらしい感覚の音楽なのである。

 時代は「宝塚」においても、はげしい変貌を迫っているのだ。

 このミュージカルを見た数日後、たまたまテレビで宝塚音楽学校の入学式を見た。(’09・4・18)
 なんといっても宝塚の入学式なので、若くて可愛い女の子たちがたくさん出てきた。97期生。40人。27倍の難関を突破した選り抜きの才媛ばかり。
 グレイの真新しい制服もまぶしいばかり。

 彼女たちの姿に――かつて私の胸をときめかせた美女たち、美少女たち――星空 ひかる、畷 克美、南城 明美、槇 克己といった遠い日の美しいカップルズ、さらには、本城 珠喜や、天城 月江たちのまぼろしが重なってくるようだった。

 いつの日にか、97期生たちのなかから、安蘭 けい、遠野 あすかたちが、そのときのファンの心をときめかせ、そのイメージは朽ちることなく、ファンの内面に棲みつくだろう。

 やがて人々の熱狂的な支持をえるはずの人も、今はまだ誰にも知られずに、ようやく地平の彼方に姿あらわしている。
 私はそのことに感動していた。

2009/05/19(Tue)  1011
 
 ある政治家のことば。

 1981年、日本の首相が、アメリカの議会で演説をした。

    日本は吠えるライオンであるよりも、ハリネズミであるべきだと思います。

 まだ冷戦が続いていた時代、日本の覇権主義といったものを、中国などがしきりに気にしていた。これに対して、日本はもっぱら専守防衛の姿勢をとっていた。
 そこで、この首相は「吠えるライオンであるよりも、ハリネズミ」という政治的信条を表明したのだろう。

 なぜ、ハリネズミなのか。この当時、政治学者、アイザイア・バーリンの著作、『キツネとハリネズミ』が読まれていたため、外務官僚の誰かが「ライオンとハリネズミ」という比喩を思いついたのではないか。私はそんなことを想像した。
 演説の原稿を棒読みにした首相が、まさかアイザイア・バーリンを読んだとは考えられなかった。

 ここからファルスになる。
 通訳が「ハリネズミ」を「賢いネズミ」と訳したという。
 ネズミは誰でも知っている動物だが・・・ハリネズミはあまり一般によく知られている動物ではない。「ミッキー・マウス」は可愛いネズミだが、ふつう、アメリカ人のネズミに対する観念は、薄汚い、狡猾な、いやしい動物であって、あまりいい印象をもっていない。スラングでも、ネズミといえば、密告者とか裏切りを意味する。
 (ジェームズ・キャグニーのギャング映画でつかわれていた。ネズミに対する反感は、ウデイ・アレンの映画、「ギター弾きの恋」を見ればわかるだろう。)

 せっかくの演説も、こんな誤訳のおかげで、列席のアメリカ人に驚き、あるいは不快感をあたえた。もっとも本人は何も気がつかなかったらしい。
 この首相のお名前は、鈴木 善幸という。
 われらが世紀末、「失われた10年」のかぎりなく無能に近い宰相のおひとり。

2009/05/18(Mon)  1010
 
 作家のことば。

     恋には二つのことしかない。からだとことば。

 ジョイス・キャロル・オーツ。
 いいことば。Bodies と Words は複数。

     まったく知らないヤツがキスしてくれるなんていいわねえ。まったく知らないヤツなら。

 ウン?
 こういうノも、うっかりすると意味がよくわからない。ただし、こっちの頭がわるくても、シチュエーションはわかるような気がする。(笑)
 さすが、メエ・ウェスト。

2009/05/16(Sat)  1009
 
 ときどき、誰かのことばを読む。たいしたことばでなくても、読んだときに、何かしら考える。たいていはそのまま忘れてしまうけれど。

    本当のエレガンスというものは、あくまで内面のものです。もし、それが身につけば、あとはそこからつづくのです。

 ダイアナ・ヴリーランド。どういう女性なのか知らない。
 いいことばだよね。しかし、よくよく考えると、少しわからなくなってくる。「本当のエレガンスというものは、あくまで内面のものです」といわれても、内面からにじみ出てくるエレガンスなんて、なかなか見えるものではない。まして、かんたんに身につくものでもないだろう。
 文学上の鍛練(ディシプリン)とおなじで、あくまで内面のものだが、それが身につくまでがたいへんで、鍛練したあとはそこから書けるといわれても得心できない。

    優しさはハートの優雅さです。スタイルがマインドの優雅さであるように……

 これはメイ・サートンのことば。
 これもいいことばだが、ほんとうは意味がよくわからない。なんとなくわかるような気はするのだが。こっちの頭がわるいせいだろう。(笑)

2009/05/15(Fri)  1008
 
(つづき)
 当時の女優たちのアンケート。テーマは「私淑する俳優」。これもおもしろい。

 浦辺 粂子 → 尾上 菊五郎、中村 翫右衛門、フランソワズ・ロゼエ、アドルフ・マンジュウ。
 霧立 のぼる → ゲーリー・クーパー、ジーン・アーサー、クローデット・コルベール。
 高山 広子 → 田中 絹代、徳大寺 伸、佐分利 信、飯田 蝶子、浅香 新八郎。
 椿 澄枝  → 小杉 勇、三宅 邦子、ミリアム・ホプキンス、ベット・ディヴィス、アナベラ、ハーバート・マーシャル。ツアラ・レアンダー。
 真山 くみ子 → マーナ・ロイ。
 三浦 光子 → 田中 絹代、ジーン・アーサー。
 水戸 光子 → クローデット・コルベール。
 三宅 邦子 → シャルル・ポワイエ、ポール・ムニ、マルセル・シャンタル、シルヴィア・シドニー、ベッテイ・ディヴィス。
 村田 知英子 → 小杉 勇、三宅 邦子、ベット・ディヴィス、ハーバート・マーシャル。
 山田 五十鈴 → 尾上 菊五郎、中村 翫右衛門、田中 絹代、吉川 満子。
 山路 ふみ子 → 岡田 時彦。
 森川 まさみ → エリザベート・ベルクナー、クローデット・コルベール、マーゴ。
 若原 春江 → ベット・ディヴィス。

 高山 広子、三浦 光子、山田 五十鈴が、田中 絹代をあげている。
 田中 絹代は「マダムと女房」、「花ある雑草」、「愛染かつら」から、戦後、「不死鳥」で失敗したあと、「好色一代女」、「サンダカン八番娼館」まで、長いキャリアーを積み重ねて行った名女優だった。
 日本の女優たちが「私淑」したハリウッドの俳優、女優たち。ベット・ディヴィス、クローデット・コルベールのふたりがリーディング・レイデイだったらしい。
 クローデットは、アカデミー賞の「或る夜の出来事」の余波だけではなく、「淑女と拳骨」が公開されたせいたろう。
 椿 澄枝がツアラ・レアンダーを、三宅 邦子がマルセル・シャンタルを、森川 まさみが、エリザベート・ベルクナー、マーゴをあげていることに驚かされる。

 日米戦争はまだ少し先のことだが、外国のスターたちの誰が人気があったのか。なぜ、人気があったのか。その理由は何だったのか。そんなことを考えながら、このリストを見ていると、もう誰も知らない俳優、女優たちの顔や姿があざやかに浮かんでくる。
 当時、フランス映画「格子なき牢獄」が公開されようとしていた。雑誌の表紙に、美しいコリンヌ・リュシェールの写真が出ている。
 その裏は「光と影」の宣伝。島津 保次郎/「東宝」入社第一回作品。原 節子、佐分利 信の写真が出ている。
 1939年。数年後に日本が壊滅するとは誰ひとり考えもしなかった時代。

2009/05/14(Thu)  1007
 
 戦前の映画雑誌を見ていて(読んでいたわけではない)小さなアンケートを見つけた。 「松竹」、「東宝」、「大都」のスターたちがめいめい「私淑する俳優」をあげているのだが、「私淑する」というあたりがなんとも奥ゆかしい。

 大川 平八郎 → ポール・ムニ、スチュワート・アーウィン、ハーバート・マーシャル。
 大日向 伝 → ゲーリー・クーパー、スペンサー・トレイシー、小杉 勇。
 岡  譲二 → コンラッド・ファイト、ヴェルナァ・クラウス、ポール・ムニ。
 斉藤 達雄 → アレクサンダー・モイッシ。
 佐伯 秀男 → クラーク・ゲーブル、ゲーリー・クーパー、フランチョット・トーン、スペンサー・トレイシー。
 菅井 一郎 → ルイ・ジューヴェ、小杉 勇、原 節子。
 丸山 定夫 → 井上 正夫、曾我廼家 五郎、藤原 鎌足。
 見明 凡太郎 → 小杉 勇、河村 黎吉、スペンサー・トレイシー、ベット・ディヴィス。
                                        
 丸山 定夫は、移動演劇で公演した広島で原爆死した俳優。
 藤原 鎌足は、黒沢 明の「七人の侍」に出たから知っている人も多いと思う。ほかの俳優たちはもう誰もおぼえていないだろう。
 戦前、小杉 勇の演技が高く評価されていたことがわかる。「土」や、「裸の町」、「五人の斥候兵」といった映画が代表作。戦後はまったく姿を見せなくなった。一度、何かのコマーシャルで見たけれど。
 ハリウッド映画では、スペンサー・トレイシーをあげている人が多い。
 女優をあげているのは見明 凡太郎の、ベット・ディヴィス。菅井 一郎が原 節子。 私としては、斉藤 達雄がアレクサンダー・モイッシをあげていること、菅井 一郎がルイ・ジュヴェをあげていることに驚かされた。  (つづく)

2009/05/13(Wed)  1006

 ドイツ語がわからないため、ヘルマン・ケステンの作品はほとんど読んだことがない。それでも「現代ドイツ作家論」という評論は、何度も繰り返して読んだ。
 原題は「わが友/詩人たち」。
 作家論というよりも自分の知っている19人の作家、詩人たちについての回想というべきもので、ホフマンシュタール、ツヴァイク、トーマス・マン、ハインリヒ・マンといった著名な作家たち、トラー、ヨーゼフ・ロートといった、あまり知られていない劇作家、詩人たちがとりあげられている。

 この19人のなかで、ツヴァイクはブラジルで、トラーはニューヨークで、クラウス・マンはカンヌで、ヴァイスはパリで自殺している。そのほかにも、ロートはパリの施療院で、カイザーはスイスで窮死している。
 ツヴァイクは、日米戦争が始まって、日本軍がシンガポールを攻撃したことを知って自殺しているし、エルンスト・ヴァイスは、ドイツ軍がパリを占領したとき、浴槽のなかでいのちを絶っている。
 ほかの作家たちも、ドイツから亡命しなければならなかった人々ばかりだった。
 ドイツの文学者たちの、きびしい生きかたに較べれば、私などは、まるっきりのほほんと「戦後」をかいくぐってきたもの書きにすぎない。

 人並みに戦争で苦労はしたが、戦後になってから活動しはじめたため、ドイツの亡命作家たちの言語に絶する辛酸を知らない。だから、私はドイツの亡命作家について語る資格はない、といううしろめたさがある。それでいて、こんな悲惨な時代に生きた作家、おそろしく陰惨な時代にまつわっている苦難は、忘れてはならない。そういう思いから『ルイ・ジュヴェ』を書いた。私なりの決着のつけかただった。
 スターリンが死んだとき、わざわざ狸穴のソヴィエト代表部に出かけて、備え付けのノートに、「最も高潔な人の名に、人類の記憶よ、ながくとどまれ」などと、ベタベタに感傷的な弔辞を書きつけた中野 重治のような決着のつけかたではなかった。私は中野 重治に対して冷たい侮蔑しかおぼえない。

 いま、私がヘルマン・ケステンを読むのは、ドイツの作家たちに対する敬意を忘れないためと――自分の「戦後」をあらためてたしかめるつもりで読む。むろん、自分をケステンと比較するつもりはまったくない。もとより自虐の思いではない。

2009/05/12(Tue)  1005
 
 ヘルマン・ケステンのことば。

   すぐれた散文家かどうかは、書き出しの1ページを読めばわかる、わるい散文家かどうかも。

 これは本当のことだ。

 私のクラスから、かなり多数の翻訳家たち、けっして多くはないが、エッセイスト、作家が出た。自分のキャリアーについては語るべきこともないが、このことだけはうれしく思っている。
 私がクラスでいい続けてきたのは、じつに平凡なことだった。

     いい翻訳かどうかは、書き出しの1ページを読んだだけでわかる、おもしろくない翻訳かどうかも。原作者は、たぶん自分の作品をおもしろいと思って書いているのだから、きみもおもしろく訳さなきゃ。

 こういう私の考えかたは、

     いいか、きみの演じる人物には、劇場の色彩ゆたかな幕、脂粉の匂いが感じられなきゃ。お客は、自分が芝居小屋にいるっていうイリュジォンを味わうために金を払っている。……観客からその幻想を奪うってノは、間違いもいいところだぜ。

 ということばを私なりに(つまりは勝手に)発展させたものだった。
 ルイ・ジュヴェのことば。映画「俳優入門」から。

2009/05/11(Mon)  1004
 
 絶世の美女を見たことがある。至近距離で。「パリ・ソワール」の横の坂道に出たとき、車が坂を登ってきた。私は車をよけた。バック・シートの女性が顔をあげた。ダニエル・ダリューだった。まさか、こんな場所でフランスの美女とすれ違うとは予想もしなかった。一瞬、私の顔に驚きがひろがっていたに違いない。
 彼女はちらっと私を見ただけだった。車は私の横を通りすぎて行った。
 それだけのこと。私は茫然自失して彼女を見送っていた。
 ひょっとすると、あのダニエル・ダリューは白日夢だったのか。それとも、私の妄想だったのか。

 日本でもダニエル・ダリューはよく知られていたが、実際にはわずかな映画しか輸入されなかった。

 戦前の「うたかたの恋」(36年)も、日本では公開されず、戦後になってから見ることができた。戦後、「輪舞」(50年)などでダニエルの健在を知ることができた。

 私は「不良青年」(1931年)を、戦後すぐの池袋で見た。この映画は、戦後の混乱のさなか、突然単館で公開されたもので、わずか一週間で消えた。この映画を見たのは偶然だったが、私にとっては幸運としかいいようがない。
 だが、ダニエル・ダリューが、ハリウッドで撮った「パリの怒り」(38年)も、パリでとった戦争直前の「心のきず」(39年)、戦時中の「はじめてのランデヴ」(44年)などは見ることができなかった。
 こうした映画は、フランスではビデオにもなっていない。
 つまり、もっとも美しかった時期のダニエルを私たちは知らない。

 私たちの外国文化に対する理解はいつも偏頗なものなのだ。ダニエル・ダリューのことにかぎらないが、私の外国文化に対する理解が偏っているという自覚は、いつも私の心から離れない。

2009/05/09(Sat)  1003
 
 「私の愛した男たちは、みんな天才ばかり。これこそは、私が主張するただひとつのこと」と、イサドラ・ダンカンはいう。
 すごいね。さすがだなあ。こういうイサドラを私は尊敬する。と同時に、いささかあきれる。

 ロダンは、イサドラをモデルに彫刻を作った。このとき、イサドラのあられもない姿態を水彩で描いた。ロダンは終生、このデッサンを筐底に秘めていた。それはきわめてエロティックなものだったが、ポルノグラフィックなものではなかった。ロダンはほかの女たち、たくさんの貴族の女性たちや、下層の娼婦たちまで、ほんとうにエロティックなヌード・デッサンをたくさん描いている。
 20世紀の最後になって、ようやくこのデッサンは発表されたが、芸術家として女の本質をとらえようとしたロダンのすさまじい執念を見ることができる。

2009/05/07(Thu)  1002
 
 あきれ返ってものもいえねえ。そんな話を書いておこう。

 東京都の下水局が制服、20000着を新調した。やがて、できあがってきた。
 ところが、胸につけるワッペンが違っている。
「東京都下水局」という文字の下に添える水色の波線が、内規と違ったらしい。それを削ったという。
 この作り直しの費用が、3400万円。

 このニュースは、「読売」(’09・4・14)に出ていた。

 えらい! 「東京都下水局」を褒めてつかわす。
 現在、非常な危機といわれる経済危機のさなかにあって、よくぞ、ここまでアホウなことを仕出かした。「東京都下水局」、あっぱれである!

 東京都の「下水局」なのだから、所管の長は、石原 慎太郎ということになる。石原君が、これをどう処分するか。

 私が東京都知事なら、以下のように裁定する。

 胸につけるワッペンのデザインをしたヤツに、報償金、100円をさしつかわす。
 理由は「東京都下水局」という文字の下に添える波線などという、まぎらわしいものをつけた功績に対して。その氏名、身分を公表して、その功績を表彰しよう。

 つぎに、このワッペンを発注した係の者に、報償金、50円を与える。水色の波線というごとき内規を忠実にまもったコッパヤクニンの典型として表彰に値する。

 さて、このワッペンをつけた制服ができあがったとき、この水色の波線が内規と違ったことに気がついたコッパに、監督不行き届きとして、3千万円の罰金、または、それに該当する給与削減を行う。「下水局」だから水色などという発想がよろしくない。むしろ、ドロ水色をもって波線とすべきである。

 さてつぎに、このワッペンを取り替えるよう命令したコッパの上司に対して、3400万円に該当する額の退職金削減をもって、即日、ご退職をお願いする。これほどの輝かしい退職者として、その氏名を公表、都庁前に「下水局」全員が整列し、お見送り申しあげる。これは最高の栄誉礼である。

 最後に、「東京都下水局」局長に、在職中、ずっとこの制服の着用を命じる。デザインはいいし、綺麗なワッペンはついているし、どこに出てもはずかしくない。
 この制服の着用をこのうえなき名誉と心得るべし。

 石原都知事も、今後、せいぜいこの制服の着用に相つとめられるべきこと。

2009/05/05(Tue)  1001
 
 「コージートーク」は、その日そのとき、何かを見たり読んだりして、ふと心に浮かぶよしなしごとを書きとめてきたもの。書く材料はいくらでもある。ただし、自分ひとりでおもしろがっているようなことも多い。
 落花、紛々として、やや多きをおぼえ、美人、酔わんと欲して顔を赤く染める。そんな一日、「コージートーク」の1001本目を書く。(’09・5・5)

     君起舞   きみ 立ちて舞え
     日西夕   日 西に 夕づく

 うろおぼえの李白の一節を口ずさんで、一杯をもって咽喉をうるおす。

 思いがけず長生きしたおかげで、いろいろな人や、ものごとに接してきた。私なりに感動したこと、おもわず見とれてしまった女人のこと、あるいは、あきれたことなど、いろいろとある。
 今後もそんなことを書いてみようか。
 あるいは、もう少し別な工夫をしてみようか。格別、何も思いつかないのだが。

 感動したことを書く。もとよりもの書きとしての願いだが、自分が感動したことを書いて、人さまに感動してもらうなどという了見はもたない。そもそも不可能なことだから。「仕事をしている日が、自分には最高の日なのだ」と、ジョージァ・オキーフがいう。私は感動する。しかし、こういうことばはジョージァ・オキーフだからカッコいいのであって、私などがいうと冗談にもならない。

     胡姫貌如花   ハリウッド・スターの美貌 花のごとし
     笑春風     春風に ほほえみ
     羅衣舞     うすぎぬの舞

 こんな女人のことを書いてみたら、さぞ楽しいだろうと思う。これがなかなかにむずかしい。日本の狂言のように――美人に恋をするという趣向は、枕物狂いの老人が美少女に恋いこがれて、孫たちに心配をかける。
 もう一つ――天下に名を得た画工の金岡が、大内の女房を恋して、自分の妻君の顔に彩色してみるが、どうにも似た顔にならない。
 狂言には、せいぜいこのふたつのプロットしかない。
 私が女人のことを書いたら、おそらくファルスにしかならない。いっそ、芝居仕立てで書きたいものだが、そんな余力も残ってはいない。

 さて、これから「コージートーク」はどう変わるだろうか。
 感動したこと。女人のこと。あきれたこと。なんでもない瞬間のこと。白日夢であれ妄想であれ、日頃はすっかり忘れていながら、どうかして心のなかにまざまざとよみがえってきたことども。
 しばらくはそんなことを書きつづけよう。

 「コージートーク」を読んでくださる方々には感謝している。そして、田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに、心からの感謝をささげよう。きみたちのおかげで、「コージートーク」は1001本目、つまり今日を迎えることができた。ありがとう。

2009/05/02(Sat)  ☆1000☆
 
(つづき)
 ノエル・カワ−ドの“Shadows of the Evening”。幕切れ。
 「ジョ−ジ」は、愛人と妻の前で語る。

ジョ−ジ 人生は神さまがくれるすばらしい贈りもの、というならそうかも知れない。それに、人間はその発明の才や勇気、いとおしいまでの優しさで、さまざまな奇跡を起こしてきたかも知れないし、それが違うとはいわない。
     ただ、おれは嘆かわしいんだ。そうやってどんなに奇跡を起こそうと、理不尽なまでの冷酷さ、強欲、恐怖心やうぬぼれとかのせいで、どんどん帳消しにされてしまう。
     おれのいいぶんが100パ−セント正しいなんていってるわけじゃない。
     天国のどこかから、世界のあやまちを匡せ、なんて特命を受けているわけじゃない。
     おれなんざ、ただ、そこそこに注意深い男ってだけさ。
     もうじき死ぬけど、やれ神秘だのロマンティックな絵空事なんかにはぐらかされるのは、まっぴら御免、そう思っているだけの男だよ。

リンダ  そうとは言い切れないわ。神秘としかいえなかったことが、ある日、突然はっきりするかも知れないし、ロマンティックな絵空事が現実になることだってあるのよ。

ジョ−ジ そうかも知れない。天国、地獄、煉獄、わるい鬼とかサンタクロ−ス、お伽ばなしの夢ものがたり、みんなそうだ。
     何でもわかる人間だとは思っていない。何もわかっていないってことはわかっている。
     それにこの説明不可能なナゾの前に立てば、世界じゅうのどんな司祭だの哲学者、科学者、いや、手相見だって、おれとおなじくらい何もわかっちゃいない。
     結論の出ない憶測にかまけている時間なんか、ますますなくなる。だから、残された日々、ひたすら恐怖に負けないような心を鍛えて過ごそうと思っている。
     歴史を見てごらん、おれよかりっぱな連中は、みんな、勇気とユ−モアをわすれず、冷静沈着に、迫りくる死と向きあってきた。
     だから、おれも、せいぜい意志の力をつよくして、たぐいまれなご一統さまのひとりとして死ねればと思っている。
     臨終の床で悔恨にくれる、そんな甘ったれたことはしないさ。
     ごめんなさいをいう前に、忘れちまうさ。
     ひれ伏したり、すがりついてまで、魂の救済を祈りたい、とは思わないね。
     おれの魂ってったって、ナニ、核だの、染色体だの、遺伝子だの、もしかしたら霊魂みたいに実態のないものが、ゴニャゴニャまざりあっただけのものかも知れないさ。とにかく、いちかばちか、賭けてみるっきゃない。くたばってゆくこのからだだって、五十年も、ずっといちかばちか、賭けつづけてきたんだ。
     子どものとき、いよいよ夏休みがおしまい、って日がくる。今のおれが、そんな感じなんだ。
     まだ時間はある、楽しかったことをちょっとふり返ってみる。前にピクニックに行った入江に、もう一度行ってみてもいい。クラゲが浮いていた洞窟まで泳いでみるか。木の枝にぶら下げたブランコをこいだり、砂のお城を作ったり。
     今のうちに、食ったり飲んだり、そこそこいい気分になってみようか。
     バカラで大当たり、色とりどりのチップスをごっそり、なんていうのもいい。きみたちふたりが、ほんのちょっと力を貸してくれるだけでいい。
     どうしたって気弱になっちまう瞬間てのがあるだろうから、そいつを乗り越える手助けをしてほしいんだ。

     (外の湖から、サイレンが三回きこえる)

     汽船が出る。何時も出航10分前に鳴るんだ。乗り遅れないように合図する。さあ、二人とも、パスポ−トはもってるね。おれのもある。まだ期限切れじゃない。

    ジョ−ジはアンがコ−トを着るのを手つだってやる。それぞれ持ち物をたしかめて、三人が出てゆく、同時に 幕が下りる

 私の訳だからあまりうまくないが、これを読んでくださった方は、自分の声にのせて、このセリフを全部読んでみてほしい。
 役者ではないのだからうまく声に出せなくていい。ヘタでもいいのだ。

 私の「コージー・トーク」は、今日で1000回に達した。つたない私の「一千一夜ものがたり」を、今後ともつづけるべきや否や。
 江戸の作者の口まねをしようか。

 中田 耕治これを稿じ終わるの夕(ゆうべ)、灯(ともしび)を掲げ、案を拊(ふ)し、ひとり嘆じていわく、
 才の長短と、ものの巧拙は旦(しばら)くいわず、HPに雅俗あり、また流行あり。そり流行は人にあるか、はた我にあるか。われいまだこれをしらず。呵々。

 このブログをはじめるに当たって、いつも私を励まし、書きつづけさせ、あわせて管理の労をとってくれた田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに心から感謝している。また、私の「文学講座」を推進してくれている安東 つとむ、真喜志 順子、竹迫 仁子、私を中心にしたグループ「NEXUS」と、私塾「SHAR」のみなさんには、どれほど感謝していることか。
 そして、これまで私のブログを読んでくれた人々、いろいろ連絡してくれた方々、老いのくりごとにつきあって下さったみなさんにあらためてお礼を申しあげよう。

 ほんとうにありがとう。

2009/04/30(Thu)  999
 
 少し前に、私のクラスで、ノエル・カワ−ドの戯曲、“Shadows of the Evening”を読んだ。
 いろいろなテキストを読んできたが、カワードをとりあげたのは今回がはじめて。
 いかにもカワードらしい手だれの劇作で、底の浅い芝居。いわゆるウェル・メイド・プレイだが――ラストで、観客はつよい感銘を受けるだろうなあ、と思う。劇作家の技巧もさることながら、やはり年輪というか、成熟を物語っているだろう。幕切れに近く、ぐっと感動がやってきて、観客は、いい芝居を見たことに満足して劇場を出るだろう。
 こういうところ、ある時期の劇作家はみごとに見せている。私はみんなにこまかく説明してやる。わかってもらえたかどうか。この幕切れは、もうチェホフだよ。

 第二場の「トガキ」だけを引用してみよう。

     第一場から1時間が過ぎている。窓の外に夕闇がひろがっている。湖の対岸にちらほら明かりがともり始めている。高い山の彼方の空だけが、まだわずかに明るい。

    召使が、シャンパンの壜を入れたアイスペ−ル、グラスをのせたトレイをもって、ドリンクテ−ブルの仕度をととのえる。
    ややあって、寝室からリンダが出てくる。イヴニング・ドレス。腕にイヴニング・コ−ト、白い手袋。

 こんな「トガキ」だけでは、何も見えてこないだろうが――湖畔の避暑地、「リンダ」は、まさにノエル・カワ−ド・ヒロインである。そして、ジョ−ジが登場する。タキシ−ド。胸に赤いカ−ネ−ション。

 「リンダ」は、リリー・パーマー。「ジョン」は、レックス・ハリソン。
 これだけで舞台にぐっと立ちこめてくるものが想像できる。    (つづく)

2009/04/28(Tue)  998
 
 ビョーキの話。

 文化9年(1812年)、小林 一茶は、茨城から、下総(千葉県)流山に入った。途中の部落で、若い娘を見かける。

    十二日、まれの晴天なれば、籠山を出てあたご町といふ所を過るに、いまだ廿にたらぬと見ゆる女の、荒布(あらめ)のやうなるものを身にまとひ、古わらじ、馬の沓(くつ)のたぐひ、いくつともなく腰にゆひつけつ、黒髪に箸あるひはきせるなどさして、かくす所もかくさず、あらぬさましてさまよふ者あり。人にとへば、おすが気違ひとて、此里のものなるとぞ。何として仏紙に見はなされたるや、盛りなる菖蒲(あやめ)の泥をかぶりて折る人さへもなく思はれて哀也。汝、父やあらん。母やあらん。

 これに説明の必要はないだろう。
 一茶は、父母の愛を知らずに育った人だった。その一茶が、若い狂女をどういう思いで見たのか。年端もゆかない哀れな狂女をとらえた一節に、一茶のまなざしのきびしさ、やさしさが、まるでミニマリズムの短編でも読むような緊張を感じる。

 ここで、十七、八の若い狂女がヒロインの、中村 吉蔵の喜劇、『檻の中』を思い出した。たしか大正末期か、昭和2、3年頃の作品だったはずである。喜劇というよりファルスといっていい芝居だが、劇中のあらわな女性蔑視、「キチガヒ」に対する無理解など、その眼の低さは隠すすべくもない。
 中村 吉蔵は、いっとき真山 青果と並び称された劇作家だったが。

 一茶は、この文化9年、二度故郷を訪れる。二度目は冬であった。

    これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺

 あまりにも有名な句だが、ただの慨嘆、自嘲を見るべきではないだろう。

 翌年1月、父の法要をすませ、異母弟と和解する。故郷に帰ってちょうど一年目に、皮膚にできものができて、6月から75日も病臥した。
 このときの皮膚病は、文化13年(1816年)の「ひぜん」とは違うだろう。私は、なんとなく帯状疱疹ではなかったかと想像している。一茶の「ひぜん」は、おそらく、栄養失調によるもので、敗戦後の私たちも苦しんだ「カイカイ」ではないかと思う。皮膚科の専門の先生にお尋ねしたいことなのだが。

 私はめったにビョーキの話をしないのだが――つい最近、帯状疱疹になったのでビョーキの話を書く気になった。一茶さんに同情をこめて。(笑)

2009/04/26(Sun)  997
 
 若き日の尾崎 咢堂が、福沢 諭吉に会いに行った。大先輩のご意見を伺うつもりだったらしい。

    そのとき、先生は、毛抜きで鼻毛を抜きながら、変な目つきで斜めに私の顔を見て、『おめえさんは、誰に読ませるつもりで、著述なんかするんかい』と問われた。私は、その態度やことばづかいにおもわずムッとしたが、つとめて怒気をおさへ、エリを正して厳然と『大方の識者にみせるためです』と答へた。すると、先生は、『馬鹿! サルにみせるつもりで書け! おれなどは、いつもサルにみせるつもりで書いてゐるが、世の中は、それでちょうどいいのだ』と道破したのち、例の先生一流の、人をひきつけるやうな笑いかたをされた。私はしかられたのかほめられたのか、なんだかわからなかったが、その後はなるべく先生を訪問しないやうにした。だが、これは私の誤りで、先生は、このとき、実用的著述の極意を示されたのであった」

 という。
 おもしろい話だ。さすがは、福沢 諭吉、おサツに印刷されるほどの大人物である。
 私たちも「サルにみせるつもりで」書かかなければならない。
 だが、ひるがえって考えてみれば、尾崎 咢堂と福沢 諭吉のどちらが、奇人、変人に見えるだろうか。私には、ふたりともごくふつうのお人柄のように見える。もっとも、私がサル並みの平凡なもの書きだからだろう。

    世間ではよく<音楽家は誰しも少しばかり頭がいかれている>という。これを、正規のドイツ語でいうと、一般社会で、奇人、変人といわれる連中が、音楽史にはうじゃうじゃいるということだろう――そして、こんにちまで、誰ひとり、音楽史におけるこの方面の研究をしたひとはいない。

 これは、W・H・リールという人のことば。

 最近は、リール先生のいう「音楽史におけるこの方面の研究」もけっこう多く書かれているような気がする。おなじように俳句の世界の奇人、変人の研究も多い。
 私が俳句が好きなのも、俳句の世界にかなり奇人、変人が多いせいかも知れない。そのくせどこにでもいる程度の奇人、変人には、あまり関心を惹かれない。
 その程度に私も奇人、変人に近いのかも。いや、サルに近いのかも。(笑)

2009/04/24(Fri)  996
 
 ふたりの中国人留学生(女性)に中国語の初歩を教えてもらった。
 そのおひとりは、イギリス人と結婚して、現在ロンドンに住んでいる。
 もうひとりの彼女は、日本の国立大の工学部で、コンピューターの最先端の研究をしていた。在学中に発表した論文で、工学博士号をとったほどの女性だった。
 ある日、彼女が浮かぬ顔で、
 「大学の図書館が、私の専門分野の雑誌の講読をやめたんですよ」
 といった。
 彼女の話によると、その専門誌を読まないと、世界の研究のレベルにとても追いついてゆけないらしい。私は訊いた。
 「大学の学生たちも読むの?」
 彼女の説明によれば、高度な内容の学術雑誌なので、実際に読めるのは10人程度。
 個々の論文を完全に理解できるのは、ほんの数人にかぎられるというのだった。
 大学当局は、利用者がきわめて少ない学術雑誌なので講読を打ち切ったらしい。
 彼女は、ちょっと悲しそうな表情で、
 「日本の研究は、これで遅れますね」
 といった。
 このことばが私の心に重く沈んで行った。

 せっかくこんな優秀な女性に教えてもらったのに、私の中国語の勉強は途中で挫折してしまった。彼女がある研究所に入ったため、中国語を教えるどころではなくなったから。
 つい最近、(09.2.1)知ったのだが、理論物理学の論文を掲載する雑誌に、「プログレス・オヴ・セオリティカル・フィジックス」という学術雑誌がある、そうな。
 この雑誌は、敗戦の翌年、湯川 秀樹博士が呼びかけて創刊されたもので、ノーベル物理学賞の小林 誠、益川 敏英先生の論文も発表されたことがあるという。しかし、現在は赤字がつづいている。そのため、存続できるかどうかというところまで追つめられているらしい。

 一方、国内の科学研究者の論文の8割までが、外国の雑誌に発表されているという。国立大学で最先端科学の雑誌さえ、講読を打ち切ってしまうような国の教育に、はたして未来はあるのだろうか。
 20年後、30年後に、小林 誠、益川 敏英先生のような俊英があらわれなくなる可能性があると考えるだけで、この国のみじめさ、憐れさがひしひしと感じられてくる。

2009/04/22(Wed)  995
 
 私は、もはや「死とか病気とかを超えている」つもりなので、1931年に亡くなった人のことを調べてみた。別に理由はない。ただ、おもしろそうなので。
 ディヴィッド・ベラスコが78歳で亡くなっている。ほう。おなじ年に、ロン・チャニー、フランク・ハリス。
 ロン・チャニーの映画は何本か見ている。
 フランク・ハリスは作家。彼の本も読んでいる。
 チャールズ・E・マンチェス。この人のことはあまり知られていない。アイスクリーム・コーンを発明した人。あのコーンは、じつはコニー・アイランドの象徴、ってご存じでしたか。まさか、知らないよね。(笑)

 DVDで、古い映画を見る。「巨星ジーグフェルド」を見ていて、フローレンツ・ジーグフェルドの亡くなった年のことが気になった。
 映画でも、彼の生涯のアップス&ダウンズがえがかれているが、大不況で、ショー・ビジネスと、ウォール・ストリート、両方の富を失った。当時の金額で、200万ドル。
 最後の公演、「ハッチャ!」HotーCha! が失敗したため、急遽、以前に出した「ショー・ボート」にさし替えた。これで、破産はまぬかれたが、1932年7月、ジーグフェルドは失意のうちに亡くなっている。

 おなじ年に、ウィリアム・モリスが、没。(イギリスの思想家、ウィリアム・モリスとは別人)。ブロードウェイの、それもヴァラィエティーの世界で、終生の敵、E.F.オールビーと戦いつづけた、ショー・ビジネスの雄。「ブロードウェイ最高、もしくは最高でないにしても、最高のエージェント、マネージャー」といわれた。享年、59歳。
 私は、モリスvsオールビーの争いをを書いてみようと思ったことがある。

 この年、女優のフィスク夫人(ミニー・マダーン・フィスク)が67歳で亡くなっている。チョーンセイ・オルコットが71歳、ビリー・ミンスキーが41歳、ジョージ・イーストマンが77歳で。イーストマンは、「イーストマン・コダック」の創業者。

 作家の、エドガー・ウォーレスが56歳で亡くなっている。
 その生涯に、長編が200冊。戯曲が23曲。
 残念ながら、エドガー・ウォーレスは読んだことがない。たしか、私の先生だった吉田 甲子太郎がミステリーを1冊、訳していたはずだが。

2009/04/20(Mon)  994
 (つづき)
 ある雑誌で、大槻ケンジがファンキー末吉と対談している。(「週刊アスキー」’09.2.24号)私は、作家としての大槻 ケンジに敬意をもっている。
 ところが、ふたりの話は病気のことばかり。
 大槻 ケンジは、ライブに出演したとき、ヒザの調子が悪くて楽屋でひっくり返っていたという。ファンキー末吉は、病院で診察を受けたが、ある有名な病気……というか、バイ菌がみつかった。

  大槻  え、菌!?
  ファンキー  ピロリ菌が! 「この世の中にピロリ菌をもってる人なんているんだ!」と思ったら、実は大人の3分の2はもってたりするんだって。
  大槻  へえー! もともとなにか、ピロリ菌が原因の不調があったんですか? 
  ファンキー  うーん、飲みすぎると胃が痛いなとか。(後略)

 ふたりは楽しそうに病気談義を続けているが、最後の部分で、

  大槻  こないだムッシュかまやつさんや、マチャアキさんがトークしている番組を見たんだけど、70代になると、また違いますよね。なにかを超越してるというか、霊界の話みたいになってました。
  ファンキー  ハハハ!
  大槻  雲の上の会話のよう。
  ファンキー  50でだれそれが死んだっていう話になるんなら、60、70ではまたいろいろあるんでしょうね。もう、死とか病気とかを超えているんだね。

 これには笑ったね。

 40代になった大槻 ケンジが、ファンキー末吉といっしょになって楽しそうに病気の話をしている。
 大槻 ケンジでさえこうなのだから、もっとご高齢のデーモン小暮閣下なんかも、病気の話をしてくれるといいのに。
 病気の話もヤッパおもしろくなきゃ。

 私も「死とか病気とかを超えているんだ」よなあ、きっと。(笑)

2009/04/19(Sun)  993
 
 私がとりあげなかったテーマは、食べものと病気。
 そこで病気の話。

 その前に――なぜ病気の話をしなかったか。私なりの理由があった。

 ずいぶん昔のことだが・・・・「近代文学賞」というささやかな文学賞をいただいたことがある。
 受賞式に、先輩批評家のみなさんが集まってくださった。私が30代だったのだから、みなさん50代で、いちばん若い荒 正人さんも、やっと50代に入ったばかりではなかったか。
 この賞は藤枝 静男さんの援助によるものだったので、藤枝さんも出席なさった。
 この席でみなさんが話題になさったのは、もっぱら病気の話ばかり。藤枝さんは有名な眼科の先生だったから、みなさんも気軽に医学的なことを相談なさったのだろうと思う。
 平野 謙が藤枝さんをつかまえて、いろいろな病気の話をはじめたが、たちまち話題は病気のことに集中した。みんな、楽しそうに自分の病気の話をする。
 いろいろな病気の話が出た。

 本多 秋五さん、佐々木 基一さんまでが、病気の話をひどくたのしそうに話しあっている。「最近、階段の上り下りがつらくてねえ」といえば、「ぼくも、膝にヒビがはいっちゃって、走れないんだよ」とか、「それゃあ、オスグッド・シュラッター病だよ」とか、「最近になって、どうもアレルギーじゃないかという気がしてきた」とか、「いやぁ、ツーフーってノは、痛いモンだねぇ」とか。
 当時はまだ、バイアグラは出現していなかったが、もし、バイアグラが実用化されたとして、埴谷 雄高さんはじめ先輩の方々が、それを話題になさったかどうか。
 おそらく話題にもならなかったに違いない。

 私は先輩の方々から受賞理由なり、講評なりを聞かされて、かなり突っ込んだ批判を受けるものと覚悟していたが、まったく話題に出なかった。最初から最後まで、和気あいあいといった雰囲気でひとしきり病気の話で盛り上がってから、山室 静さんが、
 「はい、これ、副賞です」
 といって、見事な堆朱のタバコ入れを下さった。

 ある世代、またはある年齢になると、病気はけっこう社交的に有効な話題になり得るだろう。その場合、いくら病気を話題にしたところで、あるいは生きることに対してシニックに、自虐的になるわけのものでもない。
 現在なら、自分がホモセクシュアル、またはレズビアンなどとカミングアウトしても、非難されることはない。それとおなじことだろう。
 まして、平野さん、本多さん、藤枝さんはお互いに親しい友人だから、いくら病気の話をしたところでかまわない。

 しかし、私は決心したのだった。自分からはけっして病気の話をしないこと。

     (つづく)

2009/04/17(Fri)  992
 
 登山の帰り。やっと山から下りて麓にたどりつく。とっぷり日が暮れている。
 ラーメン屋か一膳飯屋があれば、ビールを一本飲む。無事に下山できた自分を祝福する意味もあった。
 ラーメン屋もない土地。しばらく歩いていれば豆腐屋ぐらいは見つかる。そこで豆腐を一丁、地酒を一本買って、誰も通らない道ばたで、湯ドーフを作る。

 トーフの水切りは、ガーゼにくるんでマキスで巻くのがいいのだが、非常用のガーゼではなく、登山用に持っている三角巾でくるむ。
 だしコンブは15センチばかり、非常食としてザックに投げ込んである。
 アメリカ軍の放出品のフライパンにだしコンブをしいて、最後まで残しておいた水を張る。登山用のアルミカップに、醤油、ダシ汁、ミリン、削りブシのツケ醤油を入れて、フライパンに据える。
 このとき、カタクリコをほんのひとツマミ、ふたツマミ入れておくと、おトーフが固くならない。

 日本酒のお燗もできるけれど、フライパンが小さいので冷やで飲む。お燗の火加減もむずかしいので。

 湯ドーフが煮えてくる。
 真っ暗ななかで、ガスコンロの炎を見つめながら、その日の登山ルートを思い出したり、つぎはどこの山に登ろうかなどと考えながら、グビリグビリ。まっくらな山裾で、湯ドーフで一杯、われながらオツなものだった。

2009/04/16(Thu)  991
 
 私がとりあげなかったテーマは、食べものと病気。
 たまには食いものの話もしないといけないね。ただし、お惣菜の話。

 きんぴらごぼう。

 ゴボウを片手でつかんで、タワシでごしごしやる。綺麗になったヤツを、斜めにササ切り。歯がわるくなってきたから、タテに細切り。そいつをしばらく水にひたして、アクを抜く。

 ニンジンも、おなじ。

 フライパンでいい。お鍋にアブラをしいて、熱をくわえる。熱くなったら、水気をとったゴボウを放り込む。しんなりしてくる。そこで、ニンジンも投げ込む。いためているうちに、こっちもしんなりしてくる。

 お砂糖をひと振り、ふた振り。ちょいと息をととのえて、ミリンを少々、お醤油、だし汁、まあ大さじに2杯ってところか。

 シャキシャキしなきゃ、キンピラじゃない。だから、弱火でトロトロはいけない。
 山に登っていた頃、アメリカ軍の放出品のフライパンでキンピラを作った。時間をかけずに豪快にいためる。ゴボウは前の晩にタワシでみがいたヤツ。雪に突っ込んで、アクを抜く。だしのミリン、醤油、だし汁は、フィルムのプラスチック容器にいれておく。歩いているうちに、よくまざって、味もねれてくる。

 飯盒でメシを炊いていたから、このキンピラがお惣菜。飯盒の蓋でお湯をわかして、インスタント・ラーメンを1/3ばかり放り込む。これがスープ。七味をブチ込む。

 コンニャクを刻み込むのもいいが、時間がないので2品ですませた。お砂糖のかわりに、ミソをまぜてキシメンを放り込めば、キシメンのミソ煮になるが、これは別のお惣菜。 ブタ肉のこまぎれ、トリのささみ、何を放り込んでもいい。雪の中から頭を出しているフキノトウもいいけれど、アク抜きがちょっとむずかしい。

 雪山のきんぴらごぼうのおいしかったこと!

2009/04/14(Tue)  990
 
 好きなことば。

  ぼくはことばを音楽的に見るだけだ。ことばを歌うものとして見るだけだ。ことばが歌いだされるのは曲があるからなんだ。ぼくが歌をつくるのは、何か歌うものが必要だからだよ」
――ボブ・ディラン。

 うっかり読めば、このことばはほとんど何も意味していない。しごく当たりまえのことばに聞こえるだけだ。しかし、「ジョン・ウェスリー・ハーディング」の直後(1968年2月)に語られているこのことばに、私はひとりのシンガーの、じつに明快、率直な確信を聞きとる。
 ことばを歌うものとして見るだけだ、という無類に単純ないいかたには、なぜ、山に登るのかと聞かれて、そこに山があるからだ、と答えた登山家のことばに近い、あふれるような自負さえ感じられる。

 ほんとうのアーティストたちは、その発展の折りふしに、私たちの心にきざみつけられる、なぜかわからないけれど、間違いなくその時代にふさわしいイメージをもつ。
 当の本人が風のように転身すると、あとに残された映像は、たちまち明確な像をむすばなくなり、やがては拡散して、やがてばらばらな記憶になってしまう。
 たとえば、ビートルズ。

 ジョージ・ハリソンは語っている。
 「大衆が変わろうとしているとき、ぼくたちが出てきただけさ」と。
おなじ時期に、ジョン・レノンはいった。
 「ぼくたちの音楽をほんとうに理解してくれるやつなんて、百人もいないさ」と。
 ビートルズは大衆を変えた。彼らの音楽をほんとうに理解したのは、百人ではなかったからだろう。
 おなじことは、ボブ・ディランだっていえたはずだ。だが、ジョージとジョンの言葉のあいだにある深淵にも似た距離は、ジョージとボブ、ジョンとボブのあいだにもあったはずなのだ。

 ボブが歌を作るのは、なにか歌うものが必要だからだった。ボブの「風に吹かれて」は、いま青春をまっとうに生きている若い人たちに、なんらか痛切な思いを喚び起さずにいない。それはやがて「ジョアンナのヴィジョン」になってボブにまつわりつく。一瞬ののち、私たちもまた風からめざめるのだろうか。

2009/04/12(Sun)  989
 
 私は大学、その他で講義したり、いまも「文学講座」のようなものをつづけている。しかし、一度も自分を教育者だと思ったことはない。
 私のようにずぼらで、いいかげんな人間は、教育者としては不適格だろう。
 最近の教育改革の論議を見ていて、大きな問題になっているのは、教える側に不適格者が多いということだ。
 私の教えた人たちからも、教育の現場にいる教師が多い。その人たちからいろいろと話を聞くのだが、教師のなかには、精神的に追いつめられて鬱に陥る人が少なくないという。それとは別に、教員としての素質も、適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは、教員の教育能力を向上させなければならない。
 ひろく検定試験を実施したり、少なくとも何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。

 私は疑問をもっている。何かの事態が起きると、きまってこういう「正論」が出てくる。私はこういう「正論」に反対はしないが、こうした対症療法がはたして有効なのか、と疑う。こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。

 私は小学校から、ひとりも「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だった。

 小学生たちは、はっきり見ているのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は表面は「よくできる」ように見えて(見せて)いるが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしている、とか、あの先生はどの生徒をヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。
 子どもたちは、かなり正確に「教育喜劇」を見届けている。

 個人的な資質、教育に対する熱意、その程度のことは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。そして、教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。(だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、かつは誤りである。)
 教員たちの個人的なレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんなことで、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるだろうか。
 問題は、教員たちの個人的な資質や、努力にはない。
 現在の教育システムの破綻にあるのだ。

たとえば――ジャック・ラカン。

     教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所につれてこられると、少なくとも見かけ上、 誰でもいちおうそれなりの役割は果たせます。(中略)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねにじゅうぶんに知っているのです。
       「教える者への問い」

 これは、教育について私がこれまで読んだ言葉の中でもっとも正しい言葉である。
(内田 樹/「教育に惰性を」 「本」07/2月号)

2009/04/11(Sat)  988
 
 子規の批判いらい、談林の俳句はあまり高く評価されない。なにさま貞門の句の低俗な趣きはあまり歓迎されないが、私はいっこうにこだわらない。
 談林の句にもいい句はいくらでもころがっている。もしや、談林の句がおもしろくないのは、こちらに教養がないせいでもあって、私は近代の写実ばかりを俳句の王道とは思わない。

    花むしろ 一見せばやと存じ候       宗因

 お花見。花を見るのにいい場所は、先にとられて、幔幕などで隠されている。そのなかに、どんな美人がきているのだろうか。ひとつ、ぜひにも見たいものだ。
 そんなところだろう。
 むろん、お花見の客にまざって、私も一緒に花を賞でよう、ということでもいい。しかし、この句には、男なら誰でももっている、いたずらな voyeurism めいた、うきうきした気分がある。むろん、「一見せばやと存じ候」は謡曲のパクリだが、これだけで、花にうかれ、いささか酒に酔った男の、かすかないたずら心まで見えてくる。

 近代俳句が身につけなかった遊び。

2009/04/10(Fri)  987
 
 雨が降っている。春雨。
 昔の映画のDVDを見ている。

     春雨や 火燵の外へ足を出し         小西 来山

 おなじ来山に、

     春雨や 降とも知らず牛の目に

 という句がある。昔、春雨が降る道路を、牛のひくオワイ屋の車が通って行くと、タプンタプンと音がしていた。その牛の大きな目が、霧のような雨滴に濡れていたことを思い出す。もう、こんな風景は日本のどこにもなくなっているだろう。
 ところで春雨といえば、やはり蕪村をあげなければならない。

     春雨や 小磯の小貝ぬるるほど

 こういう詩情も、もはや私たちが失ったものかも知れない。

     春雨や 暮れなんとして今日もあり

 昔の映画などを見て過ごしていると、この句にはなぜか別種の趣きが感じられる。

 1926年。
 スウェーデンからきたグレタ・ガルボという女優が、「メトロ・ゴールドウィン」で、第一回作品として、ブラスコ・イヴァニェズの原作の映画化「激流」The Torrent(モンタ・ベル監督)に出た。
 まだ、誰ひとり知らない。グレタ・ガルボが、ハリウッドの黄金期を作ることを。

2009/04/08(Wed)  986
 
 ときどき、俳句のようなものが頭をかすめる。
 たいてい、すぐに忘れてしまう。俳句ともいえない駄句ばかりだから、忘れてもいい。
 歳末、小雨の午後、何も仕事をしない一日。

       さし迫る用事もなしに師走かな

       落雷はげし 年の瀬の夜明け前

 そういえば、歳末に山に登ったことがある。ほかに登山者がいなかった。疲労しきって、やっと下山したのだが、ほとんど客のいないランプの宿で。

       山の湯は大つごもりの薄明り

 そういえば、病気で寝正月ということもあった。

       つごもりをつたなく病んで薄き粥

 最近の私は登山もできなくなっている。哀れというべきか。
 桜が咲いたが、お花見もしなくなった。

2009/04/06(Mon)  985
 
 古い小説をよんでいると、「細君」ということばにぶつかる。
 「妻君」という意味だということはわかる。どうして、「細君」なのだろうか。

 「広辞苑」では・・・・「細」は、小の意。「妻君」と書くのは当て字。
1) 他人に対して、自分の妻をいう語。
2) 転じて、他人の妻をいう語。

 ようするに、妻、奥さん。
 しかし、ほんらいは違うことばだったらしい。

 漢の武帝は、強大な匈奴の侵入に悩まされていた。そこで、烏孫(うそん)の王、昆莫(こんばく)に、姪の細君をつかわすことにした。兄の劉建の女(むすめ)で、後世、烏孫(うそん)公主として知られる女性である。もとより政略結婚であった。
 烏孫は今の新彊ウィグル地区という。

 清の歴史官、齊 召南の『歴代帝王年表』には、わずかに一行、
     元封六年 宗室の女を以て烏孫に嫁せしむ。
 と出ている。名前の記載もない。キリスト紀元前104年。
 昆莫(こんばく)は、しばらく公主と親しんだが、孫の岑陬(しんすう)に与えた。「細君」の名のように、ほっそりした美少女だったのだろう。

 烏孫公主の詩がつたえられている。「悲愁の歌」という。

     居常 土思(どし)して 心内 傷(いた)む
     願わくば 黄鵠(こうこく)となり 故郷へ帰らむ

 いつもいつも、漢土を思って、私の心は悲傷がこみあげる。願わくば、おおとりになって、遙かな故郷に帰りたい。

 いまでは、妻、奥さんの意味の細君は死語となった。しかし、こんなことばにも、女の歴史が秘められている。

2009/04/04(Sat)  984
 
 マリリン・モンローの出た「王子と踊り子」は、アーサー・ミラーと結婚したマリリンが、はじめて外国で撮影した映画だった。
 公開当時は、イギリスを代表する俳優、ローレンス・オリヴィエの重厚な演技に、マリリンの演技は拙劣に見えるという批評が出た。
 ところが、この映画では、ローレンス・オリヴィエの芝居がへんに重ったく見えるのに、マリリンの演技は、とても自然で、終始、オリヴィエを圧倒していることがわかってくる。
 これには、いろいろと考えさせられたものだった。

 ところで、この「王子と踊り子」は、ヨーロッパの(架空の国の)王子さまと、しがない劇場の踊り子の恋物語だが、なんとなくハプスブルグ的な雰囲気がただよっていた。
 むろん、なんとなくそんな気がしただけのことである。

 最近になって、昔のドイツ映画におなじ「王子と踊り子」Der Prinz und die Tanzerin という活動写真があることを知った。
 レオ・ビリンスキー原作。リヒアルト・アイヒベルク監督。主演は、ウィリー・フリッチュ、ルツィー・ドレイン。1926年の作品。

 レオ・ビリンスキーは、この時期に「私はこの女を買った」というメロドラマの原作者だったという以外何も知らない。リヒアルト・アイヒベルクという監督についても何も知らない。
 ルツィー・ドレインという女優さんも知らないのだが、ウィリー・フリッチュなら私も見ている。

 マリリン・モンローの「王子と踊り子」が、活動写真の「王子と踊り子」のリメイクだったかどうか、にわかに断定できないが、おそらくそういうことだったのだろう。
 植草 甚一さんに伺いたいところだが。

2009/04/02(Thu)  983
 
(つづき)
 野村先生はこの質問を三人の中国人俳優に投げかけてみたが、「ノー」と答えなかったのは秋 夢子だけだった。
 「やめたいと思ったんです。もう使える物は全部使っちゃったという感じになって。これから充電しないとだめかなと思って……」
 そこをどう乗り越えたのだろう。
 「なんとなく乗り越えた気がする。そう、何となく乗り越えましたね」
 自分に言い聞かせるように言った。

 野村先生はいう。

    彼女の『キャッツ』への出演は、すでに七百回を超えている。三百回から七百回へ至るまでのあいだに、新しい革袋にはいった新酒が徐々に発酵して行くような時が流れたのかもしれない。

 さて、ここから私の「問題」になる。

 舞台に立つ俳優にとってロングランとは何か。上演回数が、三百回に達したとき、秋 夢子は語っている。

 「もう頭の中に何もなくなった」と思ったことがある、と。

 俳優が、もう、やりたくなくなった、と思った舞台が、はたして観客にとって最高の舞台といえるかどうか。

 ロングランの舞台に立つ俳優が、いつも安定した演技を見せる。これはすばらしいことだと思う。しかし、上演回数が三百回を越える舞台におなじ役で立ちつづけるというのは、かならずしもいい結果をもたらさない。
 ルイ・ジュヴェは、ジロドゥーの『シャイヨの狂女』で大当たりをとったが、まだいくらでも続演できるのに、あえて打ち切った。ジュヴェはいう。

    まだ当たっている最中だが、『シャイヨの狂女』を引っ込めるつもり。成功に溺れてはならないし、芝居は脚本(ほん)によって歪められてはならないと思う。それに、一年もおなじセリフをしゃべりつづけ、あえておなじ言葉を響かせる俳優というものを、どういったらいいのか。彼はどうなってしまうのか。それに、劇場はいつもおなじ芝居を演じるものなのか。それでは、<劇場>という一つの楽器であることをやめてしまう。

 「劇団四季」の俳優、女優たちの交代を見ていると、その後の、それぞれの身のふりかたが気になる。
 俳優、女優は、けっして expendable ではないのだ。

2009/03/31(Tue)  982
 
 「本」(2009年2月号)の野村 進が、劇団「四季」のミュージカル、『キャッツ』に出ている女優について書いている。
 野村 進は、ジャーナリストで、拓殖大の国際学部の教授という。

 この人は、劇団「四季」に在籍している中国人の俳優が多いことから、彼らがどうして日本の舞台に立つことになったのか、に関心を抱いた。どういう困難に直面し、それをどのように乗り越えてきたのか。いま、何を考え、どんな夢をみているのか。

 私は、大きな興味をもってよんだが、じつは野村先生のテーマとは少しズレた論点で、少し考えさせられた。それを説明するために、先生のエッセイの一部分を私なりに要約しながら引用させていただく。

 「秋 夢子」という女優さんがいる。本名、鄭夢秋(ジェン・モンチュウ)。

 2007年3月、「四季」入団わずか三年半で、ミュージカル『アイーダ』の主役に抜擢された。もともと広東省で、少女歌手として数々のコンテストに優勝して、中央戯劇学院にすすみ、ミュージカルを専攻した。

 このエッセイでは、秋 夢子の経歴や、その後の「役」への取り組みが、要領よく紹介されている。

 私も、今回の取材中、幾度か疑問に思ったものだ。『キャッツ』や、『ライオンキング』のようなロングランでは、同じ役を何百回も舞台で演じる俳優がざらにいる。単純に言って、飽きないのだろうか。
  (つづく)

2009/03/29(Sun)  981
 私は、トウ子さんのファンである。
 トウ子こと、宝塚歌劇団。星組トップ・スター、安蘭 けい。おなじ宝塚のトップ・スターのなかでも、現在、もっとも注目すべき男役スターだと思っている。

 その安蘭 けいが、星組を退団するという。
 ファンとしては、かねて覚悟はしていたものの、実際に発表されてみるといささかショックであった。

 彼女の代表作は、「雨に唄えば」、「王家に捧ぐ歌」(03年)、トップになってからの「エル・アルコン」(07年)、さらには「スカーレット・ピンパーネル」(08年)あたり。ブロードウェイ作品としての「スカーレット・ピンパーネル」は、昨年度の各紙でもとりあげられ、「読売」演劇賞を受けている。

 安蘭 けいの特質は、なんといっても抜群の歌唱力である。宝塚のトップ・スターなのだから歌がうまいのは当たり前だが、いろいろな過去や現在を背負って、いろいろなー役」をこなしてきたスターらしい存在感をもったひとは少ない。

 たとえば、今のブロードウェイに出て、即戦力として通用するミュージカル女優が「宝塚」にいるだろうか。大半の女優は、オーディションの段階で落ちるだろう。ブロードウェイ・ミュージカルどころか、地方のコミュニテイ・シアターあたりにも、タカラジェンヌ程度の女優は掃いて捨てるくらいいる。

 しかし、安蘭 けいなら、このままブロードウェイに出ても、圧倒的な存在感を見せるだろう。それほどにも器量は大きいのである。
 たとえば、「王家に捧ぐ歌」の「アイーダ」の可憐さ。
 エチオピアの王女として、敵将、「ラダメス」への愛、祖国への愛、親子の情の揺れる心を、華麗に歌いあげた。男役としての声域なのに、ほんらいの女性としてのソプラノをみごとに歌った。(私は、ゼフィレッリ演出の、マリア・グレギナを思い出しながら、これを書いている。)
 「スカーレット・ピンパーネル」では、彼女の声を聞いた作曲家、ワイルド・ホーンがわざわざ新曲を書いた。その一つ、「ひとかけらの勇気」は、観客の心にまっすぐ届くひたむきな歌声とともに、このミュージカルの名曲になった。

 むろん、彼女にも欠点はある。
 はっきりいって、安蘭 けいのセリフ、エロキューション、それも発声、ディクションに難がある。もっともっと、ことばをたいせつに、かつ、正確につたえてほしい。
 歌ではまったく気にならないが、セリフになると関西のアクセントが見え隠れする。以前よりは、ずいぶんよくなっているとはいえ、それでもそのアクセンチュエーションが耳ざわりである。
 「エル・アルコン」の「ティリアン」では、クールで冷酷な役柄のせいか、静かなモノローグが多く、正確さがもとめられる場面では、アクセント、エルキューションの弛緩は、どうしても気になる。感情の激発でこの欠点がはっきりしてくる。
 彼女自身は何も気がついていないかも知れない。演出家も、トップ・スターには何もいえないのかも知れない。しかし、この難点を克服できれば、もともとすぐれた資質にめぐまれているのだから、ミュージカルの名女優として記憶されるだろう。

 私たちは、あまりに多くの宝塚スターたちが、ついにおのれの欠点に気づくことなく、舞台を去って行ったのを見てきたのである。

2009/03/27(Fri)  980
 
 日本で、シャルル・デュランが知られたのはいつ頃だったのか。私は評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期から、このことはずっと気になっていた。

 最近になって、ようやく、デュランに関して、もっとも早い記述と思われるものを見つけた。題も「Charles Dullin」である。

    サロスに入つたアンリ・デ、ブュイ・マジェル原作、レエモン・ベルナアル作品「狼の奇蹟」は大なる歴史物で知名の名優が雑然と入り亂れて沢山に出てゐる。がその混然たる中で一番よかったのは路易十一世である。これはまた他と比較して段違ひに巧い。それもその筈、路易十一世を演つたのは、別人ならずシャルル・デュランその人なのである。
    と云つた丈で合点が行かないのならもう一言云ひ添へやう。ジャック・コポオのヴィユウ・コロムビエ座の没落以来、新劇運動の為めに活躍してゐる唯一の劇団とも称す可き「アトリエ劇団」の総大将こそシャルル・デュランなのである。即ちデュランなのである。即ちデュランは座長並俳優として此の劇団をひつさげ、八面六臂の勇を振って、佛劇壇に悪戦苦闘を続けてゐる男なのだ。そこらにもゐる有象無象とは理が違ふ。

 わずかこれだけだが、おそらくこれが最初の記述だろう。(「キネマ旬報」大正15年2月15日号)

2009/03/25(Wed)  979
 
 日本に、ルイ・ジュヴェの名がつたえられたのはいつ頃だったのか。

 昭和初年の「英語研究」という思いがけない雑誌に、フランス演劇の紹介記事で、ルイ・ジュヴェの名前を見つけて驚いたことがある。
 大正時代の映画雑誌、「キネマ旬報」を読んでいるうちに、飯島 正の「ジャック・フエエデに就いて」(「キネマ旬報」大正15年11月1日号)のエッセイで、

    これは又話の別になるが、今年の春、一夕、森 岩雄氏、内田君、佐藤君がわたくしの宅を訪れられた時のことを思ひ出す。森 岩雄氏の話は多岐に渉った。ミスタンゲットのこと、ガストン・バティのこと、ルイ・ジュウヴェのことなど。その時、話が「面影」に言及されたとき、「あの映画のよさが日本の見物にしつくりと分るだらうか少し怪しい」といふ意味のことを云はれた。

 という一節をみつけた。筆者は、飯島 正。
 エッセイに出てくる森 岩雄はプロデューサー、のちに「東宝」の重役、晩年は仏門に帰依した。内田は「キネマ旬報」同人の内田 岐三雄、佐藤はおそらく佐藤 雪夫だろう。ともに、戦前から戦後にかけての映画評論家である。
 このとき、バティ、ジュヴェの話が出たのだから、おそらくコポオ、デュランも話題になったのではないか。
 ミスタンゲットが、まだ少年のジャン・ギャバンを「若いツバメ」にした頃かも知れない。(私は、この頃のギャバンのシャンソンをたいせつにもっている。)

 飯島 正がルイ・ジュヴェの名をあげても不思議ではないが、私はこのことを知ってうれしかった。きわめて短い期間だったが、戦時中に、私は飯島さんの講義を聞いた学生だった。
 去年、「彷書月刊」という雑誌の「私の先生」という特集で私は飯島先生のことを書いたのだった。
 はるか後年、私は映画批評を書くようになって、試写室や、いろいろなホールで、飯島さんにおめにかかることがあった。
 私にとっては、なつかしい先生のおひとり。

2009/03/23(Mon)  978
 
  きぬぎぬや あまりかぼそくあてやかに  芭蕉
   かぜひきたまふ 声のうつくし     越人

 こういう情緒は、いまの私たちには想像もつかない。私は戦前の吉原を見ているし、戦中の吉原も知ってはいる。だが、こういう情緒は知らない。
 きぬぎぬは「後朝」と書く。「あてやか」は、貴やか。「あでやか」というと、いささかなまめいた匂いがたちこめるが、貴やかとなれば、上品でみやびやかな感じになる。
 私などは、つい、古川柳を思い出す。

   京は君 大阪は嫁 江戸は鷹

 (むろん、こんな古川柳も、いまでは通用しないよね。)。
 京都の四条、大阪の道頓堀ときて、いまの東京なら、新宿か渋谷、いや、原宿か。まさか、上野、浅草をあげる人はいないだろう。となれば、秋葉原だなあ。

 浅草。伝法院通り。この2月、東商店街のビルの壁や、店の屋根などに、大きな人形が出現したという。見に行きたいと思った。

 人形は、白浪五人男。
 河竹 黙阿彌が、この近辺に住んでいたことにちなんで。

2009/03/21(Sat)  977
 
 DVDで、イギリス映画「銀の靴」Happy Go Lovely(H・ブルース・ハンバーストーン監督/51年)を見た。主演、ヴェラ・エレン、デヴィッド・ニーヴン。

 国際演劇芸術祭で知られているエジンバラ。プロデューサー、「フロスト」はここの劇場で、つまらないミュージカルを上演しようとしている。
 稽古に遅れそうになった女優の「ジャネット」は、偶然、富豪「ブルーノ」の車に乗せてもらった。
「フロスト」は「ジャネット」を、大富豪の情婦とカン違いして、資金をださせようとする。一方、富豪「ブルーノ」は、新聞記者になりすまして、「ジャネット」に接近する。……

 「活動写真」時代の喜劇を見せられているような気になる。ヴェラ・エレンのダンス・ナンバー、「ピカデリー」はおもしろい。(ジーン・ケリーが、シド・チャリシー相手のダンス・シーンで、おなじテーマを発展させている。)

 ヴェラ・エレンは小柄で、大した美人ではないが、いつもキビキビした動き、ひきしまった体型で、「戦後」のミュージカルのトップだった。代表作は「On The Town」(49年)だろうか。
 50年代に入って、きゅうに出演作がなくなる。この「銀の靴」がイギリス・ミュージカルだったように、最後の「Let’s Be Happy」も、イギリス・ミュージカルだった。
 MGM相手に大ゲンカ。さっさと大富豪と結婚して、映画から去って行った。

 後年のデヴィッド・ニーヴンはそれこそ名優だが、この映画ではもっぱらヴェラ・エレンを引き立てている。ほんとうにいい役者だった。

 「彼は、それはそれは大根だった。しかし、そう演じることを絶対的に愛していた。」
 ニーヴン自身がそう語っている。

2009/03/19(Thu)  976
 
 アメリカの金融システム不安が再燃して、世界じゅうの株式市場が混乱した。
 ニューヨークで、ダウ平均が、いっきに7000ドルの大台を割り込み、一時、前週末から307・76ドル安。6755ドル・17ドルまで値下がり。(’09.3,3)  こういうシーンをテレビで見ていると、ワクワクしてくる。
 東京市場でも、みるみる大幅に下落して、一時、7088円47銭まで下がった。
 アジア市場もおなじ。香港のハンセン指数が、前日終値比、2・84パーセント安。シンガポールの指数が、1・56パーセント安ではじまり、いずれも、今年の最安値。
 韓国の指数は、2・45パーセント安で、取引がはじまり、一種の基準値である1000ポイントを下回った。

 株式に無関係(つまり貧乏)な私が――こういうことを記録しておくのは、将来、誰かがこれを読んで、何か感じることがあるかも知れないと思うから。
 テレビで見ていてワクワクした。自分が、現実に大不況を見届けているような気がしてきた。こんな機会はそうそうあるものではない。

 12年ぶりに記録的な安値をつけたニューヨーク、その余波を受けている東京、アジア市場。ここに見られるのは、「この金融危機がいつになったら終わるのかわからない」という不安だろう。
 オバマ新大統領が登場して、AIG、シティーグルーブ、GMなどに、巨額の政府援助をあたえた。しかもなお、支援をうけた企業の低迷はとまらない。

 世界の市場で、消費の落ち込み、雇用の悪化、実態経済が雪崩をうってくずれ、しかも金融システムへの不安がからんでくる。
 日本の文学などどうでもいい。こういう時代に、アメリカ、ロシア、中国で、どういう作家が登場してくるか、つよい関心をもっている。

 こういう時代だからこそ、新しい作家の登場につよい期待が私の内部にはある。
 これまた老いぼれのたわごと、これまたなんとも滑稽な図柄ですが。(笑)

 

2009/03/17(Tue)  975
 
 シュテファン・ツヴァイク。もし、彼の作品を読まなかったら、私はずいぶん違った仕事をしていたと思う。つまり、私はツヴァイクを尊敬していた。
 彼の作品から影響を受けたわけではない。
 彼の「ジョゼフ・フーシェ」や、「メァリ・スチュワート」といった評伝を読んで、自分もいつかこういうジャンルのものを書いてみたいと思うようになった。むろん、はじめから関心をもつ対象が違うし、私にはツヴァイクのような知性、教養もなかった。ただ、どこか一点でもいい、ツヴァイクの評伝を越えようとおもった。
 私の『ルイ・ジュヴェ』で、シュテファン・ツヴァイクに何度もふれているのは、そういう思いがあったからだった。

 ツヴァイクは、第二次大戦に日本が参戦してから自殺している。
 自分の生涯は精神的なことのみにささげられた、と彼はいう。そして、自分の信じたヨーロッパの文明が崩れさる音を聞いたのだろう。
 最後にとりかかっていたのはモンテーニュの評伝だったが、これは完成しなかった。私たちの文学史にとって、ほんとうに残念なことのひとつ。

 ヘルマン・ケステンにあてた手紙で、ツヴァイクは

     あの神秘的な「のちの世界」にたどりつくまで、忍耐に変わらざるをえないあの勇気、私はもともと、その「のちの世界」を体験したいものとせつに願っているのですが・・

 と書いた。
 ケステンは、この「のちの世界」は死後の世界ではなく、戦後の世界をさしていたと考える。そうとすれば、神秘的と訳すよりは、「ミステリアスな世界」と訳したほうかいいだろう。あれほど明晰なツヴァイクが、何やら神秘主義的な作家のように見えてはよくない。

 いつか、ツヴァイクの『昨日の世界』を読み返してみよう。

2009/03/14(Sat)  974
 
(つづき)
 私が「劇団」を出たあと、彼女も別の有名劇団に移った。この主宰は、私もよく知っている人だった。(彼のことも、いつか書いてみよう。)
 その週刊誌の記事には、

    T.F.(劇団の主宰)も、これからよくなる役者と期待していたんです。テレビの脇役にも出ていた。ところが、ご主人がヒモみたいな人で、彼女、食べるために役者をやめて銀座に出たんです。(劇団員)
    銀座のクラブ「S」での彼女、「知的な会話が売り物」とかで、月収五〇万円。「Y.I.サンは、Sを働かせて自分はゴルフ、クルマ、釣りの遊び人。普段はペアルックなんか着て、年がいもなくべたべたしていたが、ひどいヤキモチ焼きでね。彼女が店の客と食事で遅くなるだけでバカヤローとどなる。Sが愛想をつかすのも当然」
    そして愛人ができた。Y.I.サンにバレて連日の大ゲンカ。そして<女優>は自ら人生の幕を下ろした。

 下品な記事だったが、これを読んだ私は、ほんとうに胸が痛んだ。

 研究生だったS.Y.を、はじめて舞台に出したのは、私だった。八木 柊一郎の『三人の盗賊』という芝居だった。このとき、彼女がなかなか勉強していることを知った。どことなく、さびしそうな翳りがあった。おそらく、貧しい生活をしていたに違いない。
 そのあと、劇団員に昇格したのも、S.Y.がいちばん早かった。
 私は、テネシー・ウィリアムズの『浄化』という芝居で使った。その後、レスリー・スティーヴンスの『闘牛』という芝居で、大きな役をふったのだが、S.Y.は辞退した。ここには書く必要はないが、ひどく恥ずかしそうに理由を語った。これも私にはショックだった。
 私が、小さな劇団をはじめ、S.Y.を誘いたかったのだが、いまさら弱小劇団で苦労するよりも、もっと大きな劇団のオーディションを受けたほうがいい。私はそう思った。だから、私はS.Y.を誘わなかった。

 その後、S.Y.は、NHKのテレビで子ども番組にレギュラーで出演していた。私は、彼女のためによろこんだ。生活も安定しているらしく、表情もいきいきとしていた。
 彼女の舞台も何度か見たおぼえがある。

 S.Y.の死は、ほんとうにショックだった。これから、かなりいい女優になれたはずだった。その彼女が、突然、こんなかたちで人生に見切りをつけるなんて、ぜったいあってはならない。私の胸にあったのはそういう悲しみだったのだろう。
 ひとかどの才能に恵まれて、美貌で、自分でもずいぶん努力してきたはずの、だが、それほど有名ではなかった女優が、おもいがけないことで死を選んだ。
 もし、あのとき私がS.Y.を誘っていたら、という思いもあった。

 もう25年も前の3月14日のこと。

2009/03/11(Wed)  973
 
 その当時、私はもう演出の仕事から離れていた。雑誌に短編を書いたり、ある新聞に評伝小説のようなものを連載したり、翻訳をしながら明治の文学部と、ある女子大で講義をつづけ、翻訳家養成センターで実践的な指導をつづけていた。

 そんな多忙ななかで、ある週刊誌に、こんな記事を見つけた。

    「女房とケンカした。生きがいがないから死ぬ」と、酔った男の声が一一〇番に入ったのは、先月末の夜十一時。警察官が中野区中央のアパートヘ駆けつけると、室内では首を切った女性がフトンの上で失血死。やはり首を切った男性が倒れていた。
 女性は<元女優>のS.Y.。男性は自称シナリオライターのY.I.サン。ふたりは十五年前から内縁関係に。
    警察は当初、S.Y.の男性関係に悩んだY.I.サンが無理心中をはかったものとみた。ところが調べてみると、事実は逆で、新しい愛人とY.I.サンとの三角関係を清算するためにS.Y.が、登山ナイフで、Y.I.サンを刺したが、結局、自分だけ死んでしまった。

 この記事を読んで、胸を衝かれた。驚きがあった。こともあろうに、あのS.Y.が愛人と無理心中をくわだてて、自分だけが死んでしまうなんて。

 私は彼女を知っていた。演出家と女優というだけの関係だから、親しいとまではいえないにしても、ある程度まで知っていた。小さな劇団で一つ釜のメシを食った仲間、といった感じといえばわかってもらえるだろうか。
 はじめは研究生のとき、つぎには劇団員に昇格した彼女を芝居で使った。稽古場で会えば、いつも明るい声で挨拶する女の子だった。短い台本をとりあげて、稽古をつづけたこともある。したがって、ある時期まで、彼女を見まもってきたといっていい。
 やがて、劇団の内紛にまき込まれて「劇団」を離れた私は、自分で小さな小さな劇団をひきいることになった。経済的な基盤が何もないのだから、なにもかも私の肩にのしかかってくる。この時期の私は、芝居の公演をつづけるために、ただひたすら雑文を書き、小説を書きとばしていた。
 S.Y.の自殺の記事といっしょに当時の私のメモが残っている。

    「五木寛之全集」田近さん、「SES」本田さん、督促。
    川久保さん、「ボルジア家」問い合わせ。私あての礼状。
    五木寛之氏に、豆本「風に吹かれて」の礼状。
    「集英社」からジャニーヌ・ワルノー。
    「北沢書店」からパトリックの『ピカソ』。グィツチャルディーニ、18万円。
   「週刊XX」今夜、12時まで。北原君、くる。

 私が連載を書いていた週刊誌に、S.Y.の事件が出たのだった。
     (つづく)

2009/03/09(Mon)  972
 
 いまの女性は、19世紀から20世紀にかけての女性たちとは、比較にならないほどの自由を獲得している。
 クラフト・エービングは、女が個人としての存在になることを期待していた。その当時は(20世紀初頭)まだ、女性の社会的な地位は男性よりもはるかに低いものであっても、次第に女としての権利をもち、自立的に行動できるようになれば、自分から求めるのでなければセックスをしなくなる。そうなってはじめて、性生活は洗練された発達を見るようになる、と考えた。

 現実に、いまの女性は性的にも自由を獲得している。クラフト・エービングの希望、期待は果たされたと見ていい。
 だが、論理的にいえば、ここにもう一つの論点が生じる。
 男におけるマゾヒズムという問題である。なぜなら、男が自分の動物的な情動・・・リビドーといっていいかも知れない・・・が女によって抑えつけられる場面を演じたいという、コンパルシヴな欲求が、まさにこのクラフト・エービング原理をささえるからである。つまり、女性は性的にも自由を獲得した状況は、マゾヒスト(男)にとっては、願ってもない場所ではないか。

 ジョン・K・ノイズの『マゾヒズムの発明』を読んで、私は、あらためてドストエフスキー、ザッヘル・マゾッホ、谷崎 潤一郎などについて考えはじめている。
 (女のマゾヒズムについては、ある映画女優の生涯にふれて書くつもり。)

2009/03/07(Sat)  971
 
 あるとき、芝居の劇評を書いた。雑誌の「テアトロ」に書いたのだが、雑誌の劇評なので、芝居を見てから、しばらく時間的な猶予があった。
 当時、私は週刊誌や雑誌でいろいろな仕事をしていたので、けっこう忙しかった。毎日、仕事に追われていたので、いつしか自分の見た芝居の印象が薄れてしまった。締め切りがきたので、あるホテルのロビーまで編集者にきてもらって、その場で書いた。
 うっかり、主役の名前を書き間違えた。劇評で出演者の名前を間違えるなど、言語道断だろう。
 編集者は、その場で私の誤りに気がついたが、そのまま掲載したのだった。締め切りをすぎていたので、時間がなかったということになる。
 私の劇評が出た翌月、その俳優が抗議文を投書してきた。
 私は、すぐに編集部に電話をかけて、謝罪文を載せてほしいとお願いした。そして、その俳優に対する謝罪の文章を書いた。

 私と関係がないエピソードを思い出す。
 明治時代の作家、翻訳家だった森田 思軒が、「宮戸座」の劇評を読んで、『縮屋新助』を見に行った。九蔵(七世・團蔵)の「新助」、栄次郎の「美代吉」だった。
 栄次郎が、桟敷に挨拶にきた。

 思軒が栄次郎に向かって、
「美代吉がハンケチを持って居るのは変だと言った評を見たがハンケチじゃないね」
 というと、栄次郎は、
 「あんな無茶な評を書く先生があるから、口惜しう御座います。私は此の役をするので辰巳(深川)の芸妓のことをいろいろと聞きました。縮みの汗鳥を持って居たと聞きましたから、それを使ったのをハンケチと見られたのは弱りました。」
 と答えたという。

 鶯亭 金升の資料に、こんなエピソードが出ていた。
 栄次郎は、いっとき五代目(菊五郎)の養子になった役者。
 これを読んで、私は劇評など書かなくてよかったと思うようになった。

 その後、劇評はいっさい書かなくなった。
 私の原稿を読んでカン違いにすぐ気がつきながら、おもしろがってその原稿を載せた編集者に対する不信は心にくすぶっている。私は自分の非をじゅうぶん認めるけれど、その編集者が私をはずかしめようとしたことを忘れない。
 もう何十年も昔のこと。

2009/03/05(Thu)  970
 
 前に書いたことがある。
 もう一度、くり返しておこう。
 「俳優という職業はつらいものだ」と、サマセット・モームはいう。モームがいっているのは、自分が美貌だからという理由だけで女優になろうとする若い女性や、ほかにこれといった才能もないので俳優になろうと考えるような若者のことではない。

     「私(モーム)がここでとりあげているのは、芝居を天職と思っている俳優のことである。(中略)それに熟達するには、たゆまぬ努力を必要とする職業なので、ある俳優があらゆる役をこなせるようになったときは、しばしば年をとり過ぎて、ほんのわずかな役しかやれないことがある。それは果てしない忍耐を要する。おまけに絶望をともなう。長いあいだの心にもない無為も忍ばなければならぬ。名声をはせることは少なく、名声を得たにしてもじつにわずかばかりの期間にすぎない。報われるところも少ない。俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気にいられなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら大衆の偶像に祭りあげられていたことが、なんの役にも立たない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。これを考えるとき、私は俳優たちが波の頂上にあるときの、気どった態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、バカをつくそうと、
    勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。」

 私はモームに賛成する。だから俳優や女優のスキャンダルを書きたてる芸能ジャーナリズムにはげしい嫌悪をおぼえる。

 ある女優(というより、タレントといったほうがいい)の不審死。
 名優といわれていた俳優の死。
 それぞれの死に対する、私の思いはここに書く必要はない。ただ、この女優の死に、私たちの時代をおおっている何か忌まわしいものを重ねた。そして、この俳優の死を悼みながら、ほんらい舞台人だった彼が、映画やテレビに力をふり向けなければならなかったのは、私たちにとって不幸なことではなかったか、と思った。

 俳優や女優の死は、本人の不幸というよりも、私たちにとって不幸なのだ。

2009/03/03(Tue)  969
 
 『出世景清』のなかで、獄につながれた「景清」を「十蔵」がおとしめる。「景清」はあまりの雑言(ぞうごん)に「二言と吐かば掴み挫いで捨てんず」と睨みつける。

    十蔵かんらかんらと笑ひ、「其の縛(いましめ)にあひながら某(それがし)をつかまんと。腕無しのふりづんばい、片腹痛し事をかし。幸ひ此の比(ごろ)ケンピキ痛きに、ちつとつかんでもらひたし」と空うそぶいてぞ居たりける。

 ケンピキの「ケン」は、病だれに玄。「ピキ」は、癖。肩凝りという。「十蔵」は、小手も固く縛(いましめ)られている「景清」を嘲っている。
 古語を知らぬかなしさ、この「ふりづんばい」がわからない。

 けれども、かんらかんらと笑うとか、「片腹痛い」とあざけるといった表現は、私の内部に生きている。少年時代に読みふけった講談や落語、あるいは歌舞伎のおかげで、そんなことばが心に残ったらしい。

 若い頃は他人の批評が気になるもので――自作があしざまに批評されたとき――かんらかんらと打ち笑ひ、よくもよくも、腕無しのふりづんばいが、某(それがし)の作を罵りおったナ。片腹痛い、とはこのことだわ。
 と、空うそぶいているうちに悪評など気にならなくなった。

 残念ながら、自作に使ったことは一度もない。作中人物がかんらかんらと笑いつつ、「うぬめら、片腹痛いわ」とドスのきいたセリフを吐くや、腥血淋漓、悪人輩(バラ)をバラリンズンとまっこうからたけわり。

 もう、遅すぎるか。ムフフフ。(笑)

2009/02/28(Sat)  968
 
 近所の古本屋の棚に、岩田 豊雄の『フランスの芝居』があった。昭和18年2月20日発行。生活社。定価。二圓。つまり、戦時中に出た本で、初版、1500部。
 なつかしいので買ったのだが、150円。

 この本が出た当時、私は明治大学の文科に入ったばかりで、著者が、作家、獅子 文六だということも知らなかった。ただ、この本で、はじめて現代フランス演劇を知ったのだった。何度もくり返して読んだ。空襲で焼いてしまったので、戦後になって買い直した。この本もくり返して読んだ。

 私の内部に、この本に出てくる多数の演劇人の名前とその仕事が重なっていた。

    巴里の前衛劇場と目すべきものに、ルイ・ジュウヴエの劇団、シャルル・デュランのアトリエ座、ガストン・バチイのモンパルナス座、ジョルジュ・ピトエフの劇団の四つがある。
    ジュウヴエの一座はコメデイ・シャンゼリゼエに立籠り、舞台と座員の充実せる点で、一歩を抽ん出てる観がある。この一座の特徴は、純粋に、仏蘭西的な新興舞台芸術を示すことで、ジュウヴエはただ一回ゴオゴリの『検察官』を採用したのみで、嘗て外国戯曲に手を触れたことはない。また彼自身の手になる舞台装置も、意匠に於て色調に於て、独露のそれと全然別種の近代性を持ってゐる。それは彼の明朗な、快活な、多彩な演出法についても窺はれる特色である。彼はいかなる国外の影響すらも免れた。ただ、仏蘭西劇壇の二大恩人の一人ジャック・コポオの理論は、多分に彼の芸術のなかに享け継いだ。彼はコポオのヴイウ・コロンビエ座で共に働き、やがて現在の一座をつくった。ファンテェジイと機智(エスプリ)を、彼ほど巧みに舞台に生かす演出者はあるまい。

 当時の私は16歳。はるか後年、評伝『ルイ・ジュヴエ』を書いた。
 はじめて、岩田 豊雄を読んだときとは比較にならないほど多くの知識を身につけていたが、私の書いた評伝は、岩田 豊雄が書いた部分からそれほど遠いものではなかった。
 私の評伝の出版がきまったとき、女の子たちといっしょに岩田 豊雄の墓に詣でた。
 生前の岩田さんの知遇を受ける機会はなかったが、自分なりに感謝をこめて挨拶したのだった。

2009/02/25(Wed)  967
 
(つづき)

 ところで――

 「わたしはいったいどうしたらいいんでしょう?」

 チェホフの「退屈な話」に出てくる老いぼれの大学教授は、養女で「恋人」のカーチャの問いに、ただ、
 「私は知らない」
 と答える。

 私にはこのシーンがすばらしくドラマティックなものに見える。悲しいセリフだなあ。しかし、いいセリフだなあ。私が演出したら、どういうふうに演出するだろう。

 きみからメールをもらって、こんなことを考えた。
 またいつか私を思い出したらメールをくれないか。

2009/02/23(Mon)  966
 
(つづき)

 八木 柊一郎の『三人の盗賊』のときは大川を演出助手に起用した。
 『闘牛』のときは、舞台監督に使った。
 きみも知っての通り、芝居の世界は稽古に入ったときから思いもかけないことの連続で、トチリや、失敗、仲間どうしのねたみや嫉妬、ときには日常では起きることのない昂揚、<Sternstunden>(たまゆらのいのちのきわみ)、それこそ笑ったり泣いたりをくり返してきた。
 この芝居の稽古中にも、いくつも奇事、奇ずいめいたおもしろいことが重なって、みんなの泣き笑いのなかで、芝居の成功を確信した。芝居者の迷信に近いものだが、とにかく大川がいてくれたおかげで、この芝居はいつもと違うものになると思った。
 そして成功した。それもこれも、大川がいてくれたおかげだった。

 また別の芝居だったが、劇中のラヴシーンで、大川は、「先生、舞台いっぱいに綺麗な花を飾りましょう」という。それはいい。しかし、「キエモノ」の経費を考えただけで、はじめから不可能な話だった。
 そこで考えたのは、費用をかけずに花がつくれないか、ということになる。大川といっしょに考えた。そして、考えたのは――現在の物価でも、せいぜい1500円程度で――それこそ百花繚乱のシーンだった。
 われながらとてつもないアイディアで、大川とふたりで大笑いした。そうときまれば、こっちのもんだ。ソレっとばかりに役者たちを督励しながら「花作り」に精を出した。
 舞台いっぱいとはいかなかったが、タテに5メートル、幅は2メートルの花のタワーを作ったのだった。
 この芝居もなんとかうまく行った。

 「木地のままの縁台(トントオ)が一つあれば、それでいいのだ」
 と、コポオはいった。私は、このコポオを尊敬していた。
 だから私はほとんどすべての舞台で、まったく赤字を出さなかった演出家だった。

 大川というと、いつも元気に舞台を作っていた姿を思い出す。
 その彼が、きみの土地でバレエの台本を書いていたことは知っていたが、一度も見に行けなかった。残念というより、おのれの不実がくやまれてならない。
 村上君
 きみが市民演劇のために戯曲を書きつづけていたことは知らなかった。
 戯曲は、上演されないかぎり、人の眼にふれることはない。活字として発表されることが少ないため、残念ながら、そのまま忘れ去られることが多い。
 いつか、私にきみの戯曲を読ませてくれないだろうか。

 楽しみにしているよ。
 
 (つづく)

2009/02/21(Sat)  965
 
 村上君
 
 きみから思いがけないメールがあってうれしかった。ありがとう。

 こんなかたちで、とりとめもない文章を書いていると、ときどき思いがけない人からメールをいただく。ほとんどが未知の人からのものだが、きみのようにずっと消息がとだえていた人からのメールは、なつかしさと同時に、遠く離れた土地で私のブログを読んでくれる人がいることがわかってうれしいのだった。

 「私のことをおぼえておいででしょうか」と、きみは書いている。

 私が富山を去るとき、きみはわざわざ深夜の駅まで見送りにきてくれたね。夜行列車だったから、プラットフォームにはもう誰もいなかった。ただの旅行者といっていい私を、わざわざ駅まで見送ってくれたきみの好意は忘れるはずもなかった。
 あれから、おびただしい歳月が過ぎてしまった。

 お互いに共通の友人だった桜木 三郎も亡くなっている。大川 三十郎も。
 自分の人生でめぐりあった貴重な友人たち。
 大川は、私の小さな劇団で、演出助手、舞台監督をやってくれた。私のように空想家で、実際の舞台ではとてもできそうもないことばかり考える演出家にとって、彼ほど有能で実際的な助手はいなかった。
 私もそうだったが、彼も芝居のことしか頭になかった。しかも、じつにいろいろな本を読んでいた。いちばん好きな作品は、ドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』だった。ドリュは、当時ひどく評判の悪い作家だったから、私は驚いたおぼえがある。
 『ルイ・ジュヴェ』のなかで、しばしばドリュについてふれたのも、じつは大川を思い出して書いたのだった。
 大川は、私の訳した『闘牛』が気に入っていた。登場人物が、30名。小劇団ではできそうもない台本だった。「先生、あのホン、ぜひやりましょうよ」といいつづけた。
 私は、彼の熱意にほだされて演出を決意したのだった。   (つづく)

2009/02/20(Fri)  964
 
 ぶさカワイイ。不細工だが可愛い。最近の新造語。

 青森のオバサンが、ノライヌを育てている。このイヌは秋田犬(あきたけん)だが、顔つきがライオンに似ているので「レオ」と名づけた。
 たまたま、よそのオバサンがこのイヌを見て「わさお」という名前をつけた。「わさおくん」は、なんともぶさカワイイ。彼はネットで紹介されて評判になり、多数のファンがアクセスしてきた。地元では「わさお」をデザインしたTシャツが作られたり、ファンクラブができたり。
 近頃、ろくでもない話題ばかりが多い時代にこういう話を聞くのは楽しい。

 私たちには「可愛い」モノに対する愛情がある。
 やがて、そうした感情に別のファクターがくわわる。たとえば、グロテスクなもの、エグイもの、こわいもの、エロいものまでも、ひとしなみに「カワイイ」に変換させる。このファクターは「カワイイ」ものに対する崇拝 worship といってよい。
 たとえば、少女マンガによく見られる。

 前世紀末に、『ノンセクシュアル』、『ハンサムウーメン』、『カサブランカ革命』、『花になれっ』といったヤングアダルトや、少女マンガがぞくぞくと出てきて、これが何かの流れになりそうな気がした。私の予想は外れた。
 9.11.の余波もあったのか。こうした傾向は、私の予想と違って綺麗に消えてしまった。いまになってみると、こうした作品も「ぶさカワイイ」例だったのかも知れない。そんなことを考えた。

 テレビが、このイヌ「わさおくん」を紹介していた。(’09.1.20.NHK/総合 5:48.am)「青森」の若い女性アナウンサーが、秋田犬を「アキタイヌ」と呼んでいた。間違いではないが、ちょっとあきれた。
 ぶさカワイイから、ま、いいか。

2009/02/18(Wed)  963
 
 東京オリンピックのマラソンで、アベベが優勝した。このとき、日本代表だった円谷 幸吉は最後まで力走して、3位になった。
 だが、その後、円谷 幸吉は自殺した。どうして自殺しなければならなかったのか。長いこと疑問に思ってきた。

 東京オリンピックから、円谷 幸吉は岐阜の国体で、優勝を期待されながら2位。メキシコ・オリンピックをひかえて、不調がつづく。2年後、26歳の円谷 幸吉は自衛隊幹部候補生学校に在学中だった。
 この頃、彼はある女性と結婚して、再スタートを切ろうと決心していた。相談を受けた父も、コーチも結婚に賛成だった。

 ところが、思いがけないところで反対された。
 自衛隊体育学校の校長が反対した。大事なときに、結婚とは何事か、という叱責だったらしい。
 円谷 幸吉の家族と、相手の女性の家族が、福島県の郡山市で会ったとき、この校長も同席したが、その場で、「私は賛成できない」と放言した。
 けっきょく、先方からこの縁談を断ってきたという。

 円谷に結婚をすすめたコーチは、この直後、札幌のスキー訓練部隊に転属された。
 1968年9月、円谷 幸吉は自衛隊幹部候補生学校を卒業。教官に任命されたため、ランナーとして鍛えるべき時期を教官という激務で制約された。

 歳末、故郷の実家ですごした円谷 幸吉は、正月、自衛隊体育学校に戻って、松がとれてすぐに自殺している。

 その後、この自衛隊体育学校の校長は平時の武官としては最高の栄誉を受けて退任したはずである。さぞ、ご満悦だったに違いない。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 作家としての私は、この自衛隊体育学校の校長が、円谷 幸吉の自殺を知ったときどう思ったかを知りたい。むろん、何を語るはずもない、とは思うけれど。

 自分の勲功が、じつは円谷 幸吉に多くを負っていたことを考えたろうか。おそらく、そんなこともなかったのだろう。

 もっとも嫌いな日本人をあげるとすれば、私は躊躇することなく、この自衛隊体育学校の校長をあげるだろう。おのれの権威を笠に、傲慢、低劣に人生をうまく立ちまわってきた典型的な軍人として。

 この人物のことをもっとも恥ずべき日本人として、憎悪をこめて心に刻みつけておく。

2009/02/15(Sun)  962
 
 1作や2作、戯曲を書いたところで、劇作家として通用するはずはない。
 小さな劇団でも結成して、自分で公演を企画するのでもないかぎり、自作を舞台にかける可能性はほとんどない。
 せめて、読者に読んでもらいたいという思いも、雑誌に発表される可能性はない。
 同人雑誌でも、戯曲を掲載する機会は少ないだろう。
 たったひとりの観客も、たったひとりの読者も得られないまま、芝居を書きつづけてゆく、というのは、あまりにも過酷な試練になる。
 むろん、それが表現者の宿命であるというのは――誤りなのだ。もの書きの孤独は、書くという営みの結果ではなく、条件なのだ、というのか。

2009/02/13(Fri)  961
 
 少し古い統計だが、イギリスの避妊具メーカーが、’05年に41カ国を対象に実施した。年間、性交回数の調査。これによると、
 トップはフランスで、平均、120回。
 日本は、45回。最下位。

 かんたんにいえば、フランス人はセックスがお好きということになる。
 日本人は、もともと淡白で、あまりセックスが好きではない・・・ということにはならない。体力(精力)がないのか、セックスする時間がないのか、アセクシュアルな状況にあるのか。
 おもしろいことに、フランスでは、昨年の統計で、婚外子率が52パーセント。
 日本では、わずかに、2パーセント。

 フランスでは、当事者が結婚していようといまいと、妊娠した子どもは生まれてくる。ところが、日本では、子どもは結婚してから生まないと、世間体がわるいという考えかたがつよい。だから、「デキちゃった結婚」が多い。

 こんなことからも、フランスでは、女性が働きながらでも子育てができる環境が整備されていると想像できる。
 日本の女性はそういう状況におかれてはいない。

 活動写真のロマンスは、いつも性的に惹かれあう男女を描いてきた。ただし、その恋愛は、かならず未婚の男女のあいだに生ずべきものであって、ふたりのロマンスのゴールは結婚であった。
 ところで、詠歌のなかにボーイ・ミーツ・ガール主題が登場する。
 男と女は、そのまま結婚にゴールインできるわけではない。かならず、なんらかの障害にぶつかる。だが、世間の荒波にもまれた男は、ここで奮起して、さまざまな障害を乗り越えて、みごと女を手に入れる。これが、ダグラス・フェアバンクスの冒険活劇からハロルド・ロイドの喜劇まで、おきまりのテーゼだった。
 その障害のなかで、少子化などはついに一度も問題になったことはない。

 2兆円規模の定額給付金をめぐって、自民、民主、両党がすったもんだやったが、チイせえ、チイせえ。
 いかがでござんしょう? どうせのことだ。いっそ、赤ちゃんから、中、高校生限定の定額給付金として、ドーンと月額、みんなに1万円給付というわけにはいきませんかね。おそらく、10兆ぐらいはかかるだろうが、経済効果は抜群だし、少子化に対する歯止めになる。
 結婚、非婚にかかわらず生まれてくる子どもには援助する。そうでないと、現在の金融危機につづく時代に、日本の活力は大きく衰退する。
 現在の金融危機は、100年に一度の危機という。
 少子化は、100年におよぶ危機と認識したほうがいい。

 麻生さん、小渕さん、枡添さん、いかがでしょうか。



2009/02/09(Mon)  960
 
 男はどうして女に恋するのだろうか。そして、ヴァイス・ヴァーサ。
 恋は、16カ月から3年しかもたない。

 ラトガース大教授のヘレン・フィッシュー博士の説。

 へえ、そうなのか。もっと早く教えてくれればいいのに。私は、本気でそう思った。もし、そういう恋の機微を知っていたら、失恋しても、あとあとまで悩んだり苦しむようなこともなかったのに。

 2千人の夫婦のすれ違いを研究なさっているワシントン州立大のジョン・ゴトマン博士は、15分、こうした夫婦の会話のやりとりを観察していれば、その夫婦が別れるかどうか予測できる、という。

 これは凄い。そこまでわかってしまうのなら、もう、小説なんか読むやつはいないよなあ。

2009/02/05(Thu)  959
 
 1919年。
 第一次世界大戦が終わった直後。
 当時の活動写真は、チャップリンが「ミューチュアル」を離れて、「犬の生活」からはじまるあらたな喜劇を創造する。一方、「アメリカの恋人」、メァリ・ピックフォードが、すでに登場している。前年、はじめてのターザン映画が登場して、エグゾティックな冒険活劇から動物映画まで、活動写真の可能性がひろがっている。
 この年、敗戦国、ドイツでは、ベルリンに高価な映画館「ウーファ・パラスト」が出現している。
 1919年、シカゴ。
 ある映画関係の公聴会で、医師が証言した。

 映画を見る人は、ノイローゼ、あるいは舞踏病を起こす可能性が大きい。
 委員の質問に対して、

 映画は観客の視覚をそこなうばかりか、間違いなくメガネの使用者がふえる。しかも、夜遅く映画を見に行くのは、必要な睡眠をへらして、人体に有害な結果をもたらす。何年にもわたって、映画を見つづければ、ノイローゼから器官に変調をきたす。
 これに対する有効な処置はまったくない。

 と、証言した。

 そうだったのか。私が近眼になったのは、映画ばかり見てきたからだったのか。
 しかし、私の知っている映画評論家でも、飯島 正、植草 甚一さんは、メガネをかけていなかった。映画監督だって、メガネをかけていない人は多い。

 私の場合、夜遅く映画を見に行っても、ぐっすり眠れたし、かりに睡眠時間をへらしても、あまり有害な結果は出なかったような気がするね。
 映画を見つづけたからノイローゼになったという気もしない。器官に変調をきたしたとすれば、もともと頭がわるかったせいか、ますますボケてきたぐらいか。

 この医師は結論づけている。
 映画を見る若者たちは、精神的に怠惰になってしまう。ゆえに、若者たちにはできるだけ映画を見せないほうがいい。

 昔からこういう議論があきもせずくり返されてきたことが・・・私にはおもしろい。
 それで思い出すのだが・・・私が中学生だった頃は、映画を見に行っただけで、停学、わるくすると退学処分になる、と脅かされていた。ところがどっこい、悪童どもはけっこう映画館に出没していた。

 中学の校庭の隅っこで、三、四人の少年が、めいめい、自分の見たチャップリン、キートン、ジーン・アーサー、ディアナ・ダービン、そして高山 広子や、高峰 秀子の映画を語りあっていた。日米戦争がはじまる直前の風景が、今の私に幻影のように蘇ってくるのだが。

2009/02/02(Mon)  958
 
 1947年、シャルル・デュランは、本拠の「アトリエ」を人手にゆずらなければならなかった。
 戦後のデュランは、アルマン・サラクルーの芝居が当たっただけで、最後にはデュランのために新作を書いてくれる劇作家もいなくなった。デュランは気がつかなかったが、ガンがひろがっていた。それでも、デュランは悪戦苦闘を続ける。最後には、恋人のシモーヌ・ジョリヴェが脚色したバルザックの『継母』と、モリエールの『守銭奴』をもって、南フランスのリオン、サンテチェンヌ、グルノーブルの旅公演に出た。
 この巡業中のデュランは、病気が悪化して、幕間に、医師に栄養剤の注射をしてもらってやっと舞台に立つようなありさまだった。
 エクサン・プロヴァンスの劇場で、巡業の全日程を終えた。みんなをパリに帰してやって、やっとマルセイユに戻ったが、ここでたおれて、聖アントワーヌ施療病院にかつぎこまれた。

 デュランの友人たちが病床にかけつけた。ジャン=ルイ・バローが見舞ったとき、デュランは施療病院にかつぎこまれたのでは外聞がわるいと思ったのか、別の私立病院に移してほしいと訴えた。
 バローは、フランス随一の名医、モンドール教授に診察を依頼した。教授の診察では病気は重く危篤状態なので、絶対安静が必要だった。デュランはそのまま施療病院にとどまることになった。
 このとき、ルイ・ジュヴェも、パリからかけつけた。サラクルーやアヌイも。
 デュランは昏睡状態に陥って、ときどきわずかに意識が戻るようだった。
 「新聞を見せてくれ」
 苦しい息の下から、デュランがいった。
 病室には新聞もなかった。デュランは、頬にかすかな笑いをうかべて、

 「みんな、おれの死亡記事を読んで、きてくれたんだろう?」

 デュランは洒脱な役者だった。

 私は、マルセイユにしばらく滞在したことがある。ピカソのお嬢さん、マヤに会うためだったが、毎日、午前中にインタヴューするだけなので、あとの時間をつぶさなければならなかった。デュランが亡くなった施療病院に行ってみた。
 その後、マヤの案内で、ヴァローリスのピカソのアトリエに行ったが、このときは、名女優、ヴァランティーヌ・テッシェのお墓を探した。
 当時の私は、はるか後年、評伝、『ルイ・ジュヴェ』を書くなどということは、まったく考えもしなかったが。

2009/01/29(Thu)  957
 
 明治45年、明治座に拠った市川左団次は、年頭から奮闘したが興行はあたらず、この夏、ついにドサまわりを決意した。
 表向きは旅興行とはいいながら、はるかに遠い九州落ちであった。

 昔の旅のことだから、停車場(すてんしょ)には、駅弁売りや、新聞売りが声をからして走りまわっている。
 新聞! 新聞! 
 左団次は、その呼び声を聞いていた。売り子がプラットフォームを走って、左団次の車窓までやってきた。
 「新聞を買ってくれ」
 左団次は同行した興行主任に頼んだ。
 「いや、新聞なんかつまらねえ」
 興行主任が、にべもなくそう答えたという。

 このエピソードが私の心に残った。というより心を揺さぶられた。

 当時の左団次は、亡き父の借財に苦しんでいたし、本拠の明治座は不入りがつづいて、まったく動きがとれなかった。この八月、先代いらいの由緒ある明治座を、新派の伊井 蓉峰に売りわたしている。左団次の胸に、深い挫折の思いが刻まれていたと想像しても、それほどあやまりとはいえないだろう。
 都落ちを決意して乗り込んだ汽車のなかで、一部の新聞が買えないほどの貧乏を味わうことが、どんなに屈辱的だったか。

 人間の一生には、自分でもどうしようもない挫折、破綻がつきまとうことがある。

 ドサまわりから戻った十月、左団次は、ついに松竹に膝を屈した。大正時代に入って、八百蔵(のちの中車)と組んで、演劇史にかがやく仕事をつづける。

 最近、全国で3月までに失業する非正規労働者が8万5千人になるという。サラリーマンの平均年収は、97年(467万円)から、9年連続で下落している、といった話を聞く。これは、とり返しのつかない事態で、日本の政治のどうしようもない停滞を物語っている。
 これと左団次の悲運には何の関係もないのだが・・・私たちも不運に見舞われた場合、まずはその悲運にまっこうから立ち向う気概、姿勢が必要な気がする。時代の変化よりも、私たちの変化のほうに解決の可能性があるような気がする。

2009/01/26(Mon)  956
 
(つづき)

1)  世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある。特に、中国、インドの重要性がまして、アメリカの重みが減少してきた。

 この大前提は、いちおう間違いはない。たしかに今後の政治・経済状況の動きで、中国、インドの重要性がましてくる。かんたんにいえば、パクス・アメリカーナの終焉ということになる。
 しかし、現在、世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある、とまではいえないだろう。
 アメリカの重みが相対的に減少してきたのは、イラク戦争の終息過程に大きな誤算があったからだし、これに金融経済の破綻が重なったからであって、これを切り抜ければ、ふたたび、アメリカの重みが上昇してくる。

2009/01/22(Thu)  955
 
 2009年の年頭に、たくさんの人々の現状分析、未来への予測を読んだ。
 ほとんどの意見は、妥当なもので、いろいろと 教えられるところがあった。

 元/西ドイツ首相、ヘルムート・シュミットは語る。

1)  世界経済・政治の重心は、あきらかに、アメリカから東アジア、太平洋地域に移りつつある。特に、中国、インドの重要性がまして、アメリカの重みが減少してきた。

2)  内政上で、不測の事態がおきなければ、中国は今後40−50年で、テクノロジー面では、最先端に到達すると思う。

3)  私(ヘルムート・シュミット)は、21世紀に世界的影響力をもつ大国の顔ぶれを「アメリカ、中国、ロシア」と予測してきた。
    EUは、すくなくとも、21世紀前半には、こうした世界的な大国の一角をしめることはない。

4)  デモクラシー、人権といった、いわゆる西側の価値観は、もっぱら西側諸国のもので、アジアでは通用してこなかった。日本は例外である。今後も、西側の価値感は、アジアでは大きな役割を果たさないだろう。中国には、四千年の文化があり、儒教や道教が受け継がれてきた。21世紀の世界で、異なる価値観が存在することは、事実として受け入れるべきだろう。

5)  日本の未来を考えるうえで、ドイツと比較したい。両国はともに、第二次大戦後の半世紀で、当初想像もできなかった経済的成功をおさめた。大きな相違点は、ドイツがEUの中に根づいているのに対して、日本は近隣諸国から孤立していることだ。政治家をはじめ、日本の指導者は、隣人と友好的な関係を打ちたてようとする努力が不足していたと思う。ドイツは、戦後、近隣諸国とのあいだで、ある程度友好的な関係を構築できた点で、日本より幸福である。

6)  中国と比較した場合の日本の経済的先進性は、20年もすれば意味がなくなるだろう。日本は自国の経済的優位にあまりに長く依拠してきたのではないか。その優位は消滅しつつある。

 これは、現在の日本に対する弔鐘のように響く。
 ヘルムート・シュミットの意見は、おそらくアメリカにも共通してみられる日本観だろうと考える。(数字は、反論のために私が便宜的につけたもの)。

2009/01/19(Mon)  954
 
 正月、テレビで「寧々(ねね)おんな太閤記」を見た。
 昭和56年、NHKで放送された「おんな太閤記」のリメイクで、テレビ東京開局45周年の記念作品という。
 主演は、仲間 由紀恵、市川 亀治郎。
 おもなキャストをあげておこう。

「秀吉の母/なか」 十朱 幸代。「織田 信長」 村上 弘明。「お市の方」 高岡 早起。「前田 利家」 原田 泰造。「明智 光秀」 西村 和彦。「徳川 家康」 高橋 英樹。「石田 三成」 中村 俊介。「淀殿」 吹石 一恵。「大蔵卿の局」 池上 季実子。

 昔の作品と比較したわけではないが、市川 亀治郎は、あたらしい「秀吉」を描き出している。仲間 由紀恵はこれから先が楽しみというところだろう。
 残念なことに、十朱 幸代はミス・キャスト。これ以外、それぞれの俳優、女優の芝居が、前作よりも格別すぐれているとか、劣っているという印象はない。前作ほどの感銘は受けなかった。
 全編のナレーションを森 光子がやっている。これがひどかった。
 森 光子は名女優といわれているが、こういうドラマのナレーターとしては不適格で、声は沈んでいるし、滑舌がおかしいため不明瞭に聞こえた。
 このドラマがもう一つあざやかな印象をもたなかった理由の一端は、拙劣なナレーションにある。

 舞台の名女優をナレーションに起用すべきかどうか、それは演出家がきめることだ。森 光子より下の世代の女優たちは、ディクションなりディクラマシォンをきちんと身につけている。山岡 久乃、初井 言枝、奈良岡 朋子、文野 朋子、加藤 道子などをあげただけで、それぞれのみごとなナレーションが思い出せる。
 いい役者だから、いいナレーターになれるとはかぎらない。
 新しい大河ドラマ、「天地人」のナレーションは、宮本 信子。さすがに、森 光子よりはいいが、ドラマ自体、精彩がないだけに、この先どうなるか、まだわからない。

 70代になって「ロクサーヌ」をやる女優がいてもいい。私としては、あわれを催すけれど。しかし、声が衰えてから、大きなドラマのナレーションはやるべきではない。

2009/01/16(Fri)  953
 
 新年早々、イスラエルが、ガザ地区で大規模な地上戦を開始したことは、私の心を暗くした。
 ガザ地区はイスラーム原理主義の組織「ハマス」が支配している。昨年12月27日からの攻撃で、死者はすでに500名におよんでいる。この地上戦が、「ハマス」のロケット弾発射拠点を制圧して、「ハマス」の攻撃を阻止することにある。
 これに対して「ハマス」側は、ガザはイスラエル軍の墓場になるだろう、と言明した。
 イスラエル、「ハマス」の対立、衝突は、今後もつづくと見るべきだし、はるか後代の歴史家は、人間の愚行としてこれを記述するだろうと考える。つまり、私はパレスチナ問題に関するかぎり、きわめて悲観的なのだ。

 文明の衝突といった観点から、この問題をとりあげるつもりはない。宗教的な対立という観点も、はじめから私の手にあまる。
 文明も宗教も、たしかに私たちの良心をうごかす原動力になっている。しかし、年齢を重ねてくれば、そんな考えにかならずしも確信がもてなくなってくる。

 後期高齢者ともなれば、たいてい混乱しはじめるし、さまざまに矛盾したことをいい出すだろう。誰だって、何十年もかけて、自分の人生を何かしら調和のとれたものにしようと努力する。しかし、いくら努力しようと人生はたいしてよくもならなかった。

 そうなったら、もうどうしようもない。
 人間なんてそんなものだ、と覚悟をきめるしかない。厳しい正義などというものを信じるよりは、むしろ寛容をもとめるほうがいい。

 ところで、寛容などというものを、きみはもちあわせているか。

2009/01/13(Tue)  952
 
 イリノイ州立大学の医学研究チームの報告。

 「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせて、心臓マッサージを行うのが、いちばん効果的という。
 アメリカの心臓協会は、心肺機能蘇生時にほどこす心臓マッサージでは、1分間に、100回のペースで、胸部を圧迫することを推奨しているが、「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせると、ほぼ このペースになるとか。

 私は、こういうトリヴィアをみると、すぐにメモしたくなる。
 このニュースには、別の意味で関心をもった。

 ジョン・トラボルタ主演の映画、「ステイン・アライヴ」は、日本でも公開されているが、原作を翻訳したのは――私であった。
 出版社側は、日本でもヒットした「サタデイナイト・フィーバー」の続編なので、翻訳すれば売れると思ったのかも知れない。しかし、映画の公開日時が迫っていた。まともな翻訳家なら、誰もこんなノベライズものの翻訳を引き受けない。
 映画の公開まで、せいぜい2週間やっと。そんなせっぱつまった状況で、翻訳を引きうける物好きはいないだろう。そこで、窮余の一策、中田 耕治に押しつけようということだったのではないか、
 私は、その日の夜から「山ノ上」にカンヅメになった。ホテルにはワープロを届けてもらって、部屋に入った瞬間から、夜を日についで仕事をつづけ、予定より数時間遅れで、翻訳を終えた。さすがに疲れた。

 試写で「ステイン・アライヴ」を見た。ジョン・トラボルタの相手をやった女優さんはブロードウェイ・ミュージカルの舞台女優だったが、まるで魅力のない、はっきりいえばいやなタイプの女優で、映画を見ながら、この映画は当たらないだろうなあ、と思った。当たりそうもない映画の原作を訳すほど味気ないものはない。早く訳してしまおう、と思いながら訳していた。

 ある時期から、年に一冊のペースで、翻訳をすることにきめていた。翻訳以外の仕事がふえていた。翻訳だけではもの足りなくなっていた。それでも翻訳はつづけていたかったので、毎年一冊だけでも翻訳をつづけたほうがいい。
 「ステイン・アライヴ」以後、私はこのペースで翻訳をつづけてきた。
 編集者たちも、私を「山ノ上」にカンヅメにしてしまえば、期日までに間に合うと安心していたらしい。

 「ステイン・アライヴ」のメロディーにあわせながら、翻訳をつづけたわけではなかったが。

2009/01/9(Fri)  951
 
 浮世絵は、無数の遊女を描いてきた。
 それぞれ時代の違い、あるいは美意識の違いによって、遊女たちの絵姿がことなる。これは当然のことだが、現在の私たちが毎日見ている女性像、あるいは顔の目鼻だちとは、ずいぶん違っている。

 その時代、全盛を誇った女たちを描いたに違いないのだが、私にはあまり魅力が感じられない。どうしてだろう? その前に、そもそも美女とはいったいどういうものなのか。
 私が読んだなかで、この問題に明快な答えを出している人がいた。張 競という中国の学者で、比較文化論を専攻なさって、日本語による著作も多数ある。

    日本と同じように、昔中国の絵画、彫刻にあらわれた美人は例外なく一重まぶたであった。ところが、明代以降になって、二重まぶたの美人が描かれるようになった。(中略)ほかの年画でも二重まぶたは美貌の象徴として描かれている。むろん、二重まぶたが一重まぶたよりも美しい、という審美観がすでに成立していたかどうかは断言できない。少なくとも二重まぶたも美しいとされ、しかもそれは近代西洋文化の影響と関係がなかったことはまちがいない。
      『美女とは何か』(第三章)角川文庫版 P.111

 これを読んで、モンゴロイド系に属する日本人が、一重まぶたの女性を美しいと見てきたことを納得した。
 一般に、日本人が、二重まぶたの女性を美しいと認識するようになったのは、明治30年代後期、ないしは40年代に入ってからかも知れない。
 明治40年代、赤坂の名妓、「万龍」や、新橋の名妓、「清香」をえがいたポスターでは、ふたりともはっきり二重まぶたの美人である。
 その後、初期ハリウッドの無声映画に登場したマック・セネットの水着美人、ジーグフェルド・フォーリーズの美女たち、さらに、メァリ・ピックフォード、ノーマ・タルマッジ、MMM(メァリ・マイルズ・ミンター)といったニンフェットたちが、例外なく二重まぶただったことから、私たちの美人観は確立して行ったのだろう。

 張 競先生のおかげで、今年は、そのあたりのことを考えてみようか。

2009/01/06(Tue)  950
 
 日頃、まるで縁がないのだが、たまに銀座、新宿、渋谷などを歩く。外国のファッション・ブティックの進出に驚かされる。つい最近も、青山に「ステラ・マッカートニー」がオープンしている。
 外国の街を歩いていて、ふと、孤独な旅行者でしかない自分に気がつくときがある。自分でも意外なのだが、渋谷、青山などを歩いて、そんな気分に襲われることがある。
 むろん、理由はあるだろう。
 最近の私は、浮世離れした「文学講座」などをつづけていて、とくに昭和初期の文学、映画、風俗などに眼をむけることが多い。そのせいで、現実と自分の世界のあまりの懸隔にただとまどっている。

 ふと、思い出したメロディーがある。

   シネマ見ましょか お茶のみましょか
    いっそ小田急で逃げましょか

 昭和4年(1929年)、西条 八十作詞。中山 晋平作曲。
 東京は銀座、丸の内、浅草、新宿という四つのアミューズメント・センターが形成されていた。西条 八十は、それぞれの土地をとりあげている。

 松がとれたら、荷風の『日和下駄』でも読み返そうか。

2009/01/05(Mon)  949
 
 お正月のうららかな日々。
 何か読もうと思いながら、明治の浮世絵などを見てのんびり過ごしている。

 応需 勝月の「教育誉之手術」という絵。明治も20年代の作。三曲。
 前景に6人の女たち。後景に10人の女たち。(私が数えたのだが)。

 前景、右手、日本髪に前櫛、コウガイの3人の娘が、お裁縫をしている。
 中央に、黒のローブ・デコルテの女性。髪に赤と紫の花(二輪。ブーケだろうか)を挿した貴婦人。ほっそりした体型なので、洋装を着こなすセンスも感じられる。腰はフープ。大きな花の飾り。西洋バサミを手に、赤いドレスをカットしている。
 左に、おなじく束髪に赤い造花、赤の洋装に羽織のようなコートを着た女性が、手動のミシンで何かを縫っている。それを、ローティーンのお嬢さまが熱心に見ている。

 後景、右は和室。女が、若い娘の髪をととのえている。おなじ部屋で、別の女たちが何か話をしている。
 奥は別棟。ここでは、三人の女がお茶をたてている。お点前だろう。

 左、遠景は低い連山。空にわたり鳥の列。低い山系の手前に大きな池。その池のほとり、絵の左端、洋装にハットのご婦人が散策している。

 こんな説明では何もわからないだろうが、世は鹿鳴館の時代で、和洋折衷というか、和洋混合の風俗が描かれている。

 応需 勝月という画家については知らない。ただ、この絵の「教育誉之手術」という題に興味をもった。明治20年代に「手術」ということばが使われていたことがわかる。私たちは、外科の手術という意味でしか使っていないが、明治の人々は、手の作業、工作、運用法といった意味で訳したものと思われる。

 お正月、ぼんやり一枚の版画を眺めて、いろいろなことを考える。
 楽しい。

2009/01/04(Sun)  948
 
 紅白歌合戦などというものがなかった時分、下町の大晦日は、どこの家でも夜通し起きていた。夜になってから、借金とり、掛けとりがきたり、正月のお料理の仕度をしたり、掃除が終わっていなかったり、けっこう忙しい。子どもたちは、年越しそばを食べたあと、火鉢に手をあぶりながら、みかんを食べたり、カキ餅を網に乗せて焼けるのを待っている。

 初夢は一月一日の晩に見るものと思っていたが、いつ頃からか、二日の晩に見る夢ということを知った。七福神が乗っている宝船の刷りものを、朝から売り歩く男がいて、縁起ものだから、これを枕の下に敷いてねるのだった。
 ただし、少年の夢には、一富士、二鷹、三なすびなど一度もあらわれなかった。翌朝、眼がさめて、いつもがっかりしたものだった。

    ふく神を乗せた娘の宝船

 という川柳がある。この「ふく神」は、明治時代から富貴紙という名前で売られていたらしい。やわらかい上質の和紙。これ以上、説明する必要はない。

2009/01/01(Thu)  947
 
 2009年を迎えた。
 みなさんに心からおよろこびを申しあげる。今年が、みなさんにとって、よい年になりますように。

 誰もが感じているように、私もまた、世界的なパラダイム・シフトが起きていると思っている。かんたんにいえば、社会全体の価値観の移り変わりである。こういう事態は、そう何度も起きることではないので、これからの推移はまさに注目すべきだろう。
 私は大正の関東大震災を知らないのだが、その後の不況の影響は知っている。それに、1941年に開始された日米戦争の推移と、敗戦後の日本を見てきた世代である。この時代が、日本の戦前・戦中と、いわゆる戦後の決定的な境界で、人心も生活も一変する。これを、パラダイム・シフトとして見ることはできるだろう。

 世界史的には、パックス・アメリカーナの時代が、別のパラダイムに移行しつつあると見ていいかも知れない。最近のロシアの動き、とくに大統領の任期の延長の決定や、石油、ガスなどの資源を武器にした近隣の諸国に対する姿勢には、紛れもなく大ロシア主義への回帰と、きたるべき資源戦争への準備が認められる。
 中国は、国内に大きな反体制の動きが生じているが、対外的にはますます強大な発言力をまして行く。これに対して中東の産油国は、今世紀末には現在の地位を失うだろう。
 アフリカ諸国は、国家形態の再編成が大きな条件だが、独裁者たちの恣意的な統治が、民族の合意形成をさまたげる。
 グローバル化が進むということは、戦争の危険がいつも存在するということなのだ。このまま事態が悪化しつづければ。いつ、どこで戦争が起きてもおかしくない。私はそう思っている。

 1937年に日中戦争が起きた。連日、出征兵士のために、千人針を、さかり場の道行く女性か縫っていた。手拭いほどの布地に、千人の女性が手づから赤い糸を縫いつける。それが千人針で、その布を肌身につけていれば、兵士は戦死しないと信じられていた。
 私は、街頭で千人針を縫いつけていた女たちを心から尊敬する。ほんとうに、いとしい女たちだったと思う。だが、その千人針を肌身につけていた兵士の多くも戦死した。そのことを心に刻みつけておきたい。

 非正規の労働者が今年の3月までに、約8万5千人が失職するという。再就職先が見つかった人は、そのうち1万7千人の10パーセント強にとどまる。
 2009年は、世界経済の危機と重なって、急速な景気減速、将来がまったく見えない深刻な貧困を作りだしている。だが、もっと困難な時代の到来を予想すべきかも知れない。
 つい先日(つまり、昨年の歳末)に、ホンダがFIから今季かぎりで撤退すると発表した。世界ラリー選手権では、スズキ、スバルが撤退するそうだが、たてつづけに有力企業が撤退する事態をだれが予想したろうか。
 一部のチームのように、年間2億(約180億円)も使いつづければ、いつかは破綻がやってくる。2004年にジャガーが撤退したときに、ホンダが撤退すれば、こんな非運を見なかったかも知れない。
 今年は、もっときびしい年になることは覚悟しておこう。

 こういう、くそおもしろくもない時代に生きるのは、私もきみもおもしろくない。そこで、少し見方を変えれば、これほどおもしろい時代はない。しっかり見届けておくことだ。困難な時代を乗り切るために、何をすればいいのか。その困難を見据えることしかない。

 今年の「中田 耕治ドットコム」では、これまで避けてきたアクチュアルな問題に関しても少し発言しようと思う。もう少し視野をひろげて、今年見たドラマや映画、芝居について書いてみようか。老いのくりごとと受けとられたくないけれど。

 これが私の年頭所感。

2009/12/31(Wed)  946
 
 歳末の寒さが身にしみる。

「句はさびたるをよしとす。さび過たるは骸骨を見るがごとし。皮肉をうしなふべからず」

 天保期の俳人、田川 鳳朗の説。この「皮肉」はアイロニーではないが、私は勝手に、自分の書くものに「皮肉をうしなふべからず」ときめている。

 さて、年の瀬にわれと我が身をふり返る。誰にもあることだろう。私は、あまりわれと我が身をふり返らない。私には、2008年がまことにつまらない年だったという思いがあるのだが、反省したってはじまらない。
 景気もしばらく回復しないし。
 どうせ、このままオヤマカチャンリンさね。

   我が寝たを 首上げて見る 寒さ哉    来 山

 上五がどうもよくないが、冬の寒さがそくそくと身に迫ってくる。ゾクゾクでもいいけれど。
 このまま寝ていれば、もうすぐお正月。

 「中田 耕治ドットコム」につきあって下さった皆さんに心からお礼を申しあげ、いよいよ2008年に別れを告げる。
 まだ、年賀状を書いてない人は、いまからでも遅くはない、私にあててハガキをチョーダイ。
 よいお年を。

2008/12/30(Tue)  945
 
 歳末である。

 年の瀬を詠んだ句は、いくらでもあるけれど、名句といえる句は少ないのではないか。むろん、私が知らないだけのことだが。

     世に住まば 聞けと師走の 碪(きぬた)かな    西 鶴

 きぬたは、衣板(きぬいた)からきたことばという。女が木のツチ(きづち)で、布を打って、やわらかくしたり、つやを出したりする。その布を置く木、または石の台をいうらしい。私は見たことがない。ただ、「冬のソナタ」で、チェ・ジウが、洗濯をするシーンがあって、彼女が布を叩いているのを見た。きっと、昔の日本人も、ああいうふうにして、布を打ったのだろうと思った。

 「きぬた」は秋の季語らしい。もし、秋の季語とすれば、師走が冬だから、季重リだが、西鶴はそんなことを無視している。むしろ、この句に、さびしみ、またはアイロニーを読むことができよう。
 いろいろと忙しい年の瀬になって、女がきぬたを打っている。もっと早く、やっておく仕事なのに。あわただしいことで、いよいよ押し迫ってから、きぬたの音を立てている女のあわれが感じられる。これが一つ。
 年の瀬が迫ってきている。それなのに、師走の夜を懸命にきぬたを打っている。やすまずに働きつづける女の殊勝なふるまい。これがひとつ。
 「聞けと」という言葉に、師走に聞くきぬたの音のかなしさも響いている。

 「世に住まば」は、世間に住んでいれば、という意味だが、そうではなく、かつがつの暮らしぶりをしていても、このきぬた打ちの音を聞いてください、貧乏なんぞに負けていませんよ、というけなげな心根さえ聞き届けられよう。

 歳末のいい句だと思う。

2008/12/29(Mon)  944
 
 いまから半世紀前に、どんな映画を見たのだろう?
 誰がもっとも輝いていたのか。

 私が思い出すのは、イタリアのロッサノ・ブラッツイ。「旅情」で、キャサリン・ヘップバーンの相手をやっていた。あるいは、ミッツイ・ゲーナーを相手のミュージカル、「南太平洋」をおぼえている人がいるかも知れない。
 日本では、「トスカ」ではじめて知られた。ジューン・アリソン、エリザベス・テーラーの「若草物語」や、アンナ・マニャーニの「噴火山の女」。「裸足の伯爵婦人」、「愛の泉」、「雷雨」といった映画に出ていた。

 洋画では、ヘミングウェイの「日はまた昇る」が、映画化された。ヘンリー・キング監督。タイロン・パワー、エヴァ・ガードナー。エロール・フリン、なんとジュリエット・グレコ。ただし、ひどい駄作。当時、私は、ヘミングウェイを翻訳しようと思っていたので、この映画を見てあきれたことを思い出す。

 ルネ・クレールの「リラの門」。マリリン・モンローの「王子と踊り子」。
 日本では、美空 ひばりの「競艶雪之丞変化」あたり。
 市川 右太衛門が「富士に立つ影」、長谷川 一夫が「雪の渡り鳥」で、「鯉名の銀平」を。マキノ 雅弘の「一本刀土俵入」、衣笠 貞之助の「鳴門秘帖」、稲垣 浩の「女体は哀しく」。
 「富士に立つ影」では、北大路 欣也が出ていた。
 佐伯 清の「佐々木小次郎」。この「小次郎」は、東 千代之介だったっけ。女優陣は、花柳 小菊、大川 恵子、三条 美紀、千原 しのぶ。
 吉村 公三郎が島田 清次郎の「地上」を、中平 康が三島 由紀夫の「美徳のよろめき」を、中村 登が井伏 鱒二の「集金旅行」を。
 松林 宗恵が石坂 洋次郎の「青い山脈」のリメイクを。千葉 泰樹が林 芙美子の原作を、三船 敏郎、山田 五十鈴で「肉体の悪夢」。後年の「蜘蛛巣城」の三船、山田よりもずっといい。
 新人たちは・・・前田 通子、泉 京子、筑波 久子、万里 昌子。中原 ひとみ、江原 真二郎。水野 久美、田村 高広がそろそろ出てくる。
 1957年12月。
 日本映画が活力にあふれていた時代。

2008/12/28(Sun)  943
 
 歳末。
 別に何かすることもない。

 退屈なので、映画でも見ようと思った。何がいいだろう?
 私が選んだのは、「戦場にかける橋」(デヴイッド・リーン監督)だった。なんと、半世紀も昔の映画である。
 イギリスの俳優、アレック・ギネス、ジャック・ホーキンズ。ハリウッドのウィリアム・ホールデン。日本の早川 雪州。1943年、ビルマ国境に近いタイのジャングルのなかに作られた日本軍の捕虜収容所。ここにニコルソン大佐(アレック・ギネス)のひきいるイギリス軍兵士の一隊が送り込まれる。捕虜収容所の所長、「斉藤大佐」(早川 雪州)は、タイとビルマをつなぐ泰麺鉄道を完成させるために、クワイ河に橋をかけるため、捕虜を使役する。「ニコルソン大佐」は抵抗するが、やがて「斉藤大佐」の説得に応じて、部下に架橋作業への参加を命じる。日本軍に協力することを拒否したアメリカの海軍少佐「シャース」(ウィリアム・ホールデン)は、脱走に成功する。・・
 いま見ても、いい映画だった。

 この映画が作られた時期、ジョゼフ・スタンバーグが「ジェット・パイロット」を監督していた。ハワード・ヒューズの製作、ジョン・ウェイン、ジャネット・リー。
 ベーリング海峡の哨戒にあたっている「シャノン大佐」(ジョン・ウェイン)のひきいるジェット戦闘機隊は、不法に越境したソ連のジェット機を追尾する。空港に不時着したソ連のジェット機から降りたのは、以外にも女性の空軍中尉(ジャネット・リー)で、過失のため銃殺されそうになったため、空路、亡命をはかったのだった・・。
 これは、かつてディートリヒとともに、「モロッコ」をはじめ、数多くの名作を撮ってきたスタンバーグが再起をかけた映画だったが、彼はまったく映画的な創造力を失って、没落して行く。

 私は、このときのスタンバーグ、そして、「アナタハン」という愚作を撮ったスタンバーグを見て、ある芸術家が、どうして失速したり、すぐれた才能を失ってゆくのだろうか、と考えたのだった。

2008/12/26(Fri)  942
 
 歳末。
 殊勝にも、この1年をふり返ってみる。私にとって、ろくなことのなかった1年。
 もっとも、いまさらろくなことの、ありえようはずもないのだが。
 子どもの頃、CO2 など、考えたこともなかった。

 つい、最近、アメリカのシカゴ大学の研究チームが8年におよぶ測定の結果を発表した。
 ワシントン州沖のタトゥーシュ島で、2000年から、毎年、夏に、30分ごとに、水質を検査してきた。総計、2万4519回におよぶ測定値を分析した。
 その結果、酸性度をしめすPH(水素イオン指数)の平均値は、年々、低下しつづけている。その割合は、1年に0・045。はじめに予想していた年に0・0010を大きく越えている。

 これは、海水の酸性化が、一般の予測より10倍も早くすすんでいることを意味する。
 その理由は、大気中にふえた二酸化炭素が海水に溶け込んだことが原因という。

 私は科学的な知識がないので、ただ、2008年の歳末に届いたもっとも警戒すべきニューズのひとつとしてあげておく。
                      

2008/12/23(Tue)  941
 
 私の内部に巣くっている一種の固定観念がある。それは芸術家の運命に関する見方だが、他人の眼から見て、たわいもないことかも知れない。
 ある人は自分の運命にしたがって新しい仕事にのぞみ、うまく成功する。ところが、別の人は一度そこで経験したことにおぞ毛をふるって寄りつかなくなったり、あるいは、今度こそ事情は違っているかも知れないと期待に胸をはずませながら、失敗する。ときには何度も何度も性懲りもなくくり返して、最後には幻滅しながらあきらめてしまう。それはなぜなのか。

 抽象的な議論ではない。きわめて具体的なこと、あえていえば、芸術を志す人間の生きかたに関して。
 この問題は・・・ある人には才能があって、別の人にはその才能がないということにかかわってくる。なぜ、ある人は才能に恵まれているのか。それにひきかえ、なぜ、私はそういう才能をもっていないのか。

 私は、いつもこういう問題を考えつづけてきたような気がする。

2008/12/21(Sun)  940
 
 (つづき)
 いまなら、ビデオやDVDで、キャストをたしかめることができるかも知れない。しかし、まったく無名のマルレーネ・ディートリヒの名がキャストに出ているだろうか。

 その後、ガルボの伝記、ディートリヒの伝記を読んだ。しかし、どういう本を読んでも、『喜びなき街』にディートリヒが出たという記述はなかった。
                                         そのため、私自身、自分が見たガルボとディートリヒがすれ違うシーンは、ひょっとすると、私の錯覚かも知れないと思った。むろん、「戦後」のドイツに、ディートリヒによく似た娘が歩いていたとしても不思議ではない。しかも、当時の私は、スクリーンのディートリヒを一度も見たことがなかった。だから、無名のドイツ娘が、ディートリヒだという確証はない。ガルボだってはじめて見たのだった。
 まったくあり得ない妄想だったのかも知れない、と思うようになった。

 だが、ガルボが別の娘とすれ違った一瞬のカットは、当時、17歳の私の心に深く刻まれたのだった。

 それから、何十年という歳月が過ぎた。
 ある日、オットー・フリードリク著、『洪水の前 ベルリンの20年代』(1985年/新書館)という本を読んだ。
 そのなかに、若き日のディートリヒについての記述があった。

     G・W・パプスト監督の名作、『喜びなき街』でちょっとした役にありついた。その映画の中で、グレタ・ガルボと一緒に闇市の肉屋の前の行列に並んだのである。

 私はこの2行を見たとき、茫然とした。私は間違っていなかった!
 戦争が終わったばかりに・・・何ひとつ予備知識なしに見た映画、G・W・パプスト監督の『喜びなき街』で、ガルボが一瞬、別の娘とすれ違う。その娘が、まさしくマルレーネ・ディートリヒだった、という喜びだった。
 あれは、白日夢ではなかった。私の直観はただしかった!
 そして、長年、心にひっかかっていた疑問が解けた。
 たが・・・もう一つ、別の疑問が胸にひろがってきた。
 あの映画の中で、マルレーネ・ディートリヒはグレタ・ガルボと一緒に闇市の肉屋の前の行列に並んだのか。私の記憶では、ディートリヒはガルボとすれ違うだけである。敗戦後のウィーンの雑踏のなかで、お互いに顔を見合わせるわけでもなく、ただ、一瞬、すれ違う。
 ガルボはからだにぴったりフィツトした、黒い堅苦しいスタイル。画面右からよろめくように雑踏に出てくる。疲れきっている。
 と、左から、安っぽいプリント模様、白いワンピースの娘が歩いてくる。一瞬、肩がふれあいそうな距離ですれ違う。むろん、お互いに眼をあわせることもない。
 ディートリヒは「ちょっとした役」ともいえない、ただの通行人だったのではないか。
 どなたか教えてくださる方はいないだろうか。

2008/12/20(Sat)  939
 
 1945年8月15日、戦争が終わった直後、私は、敗戦の大混乱のなかで、毎日のように映画を見て歩いた。
 戦災で家を焼かれ、私が通っていた工場も空襲でやけて、勤労動員も解除ということになってしまった。母親は栃木、妹は埼玉に疎開したまま、父親は失業、私の大学は授業再開も未定という状態だった。召集されて軍隊に入った友人たちも、まだ、誰ひとり復員していなかった。
 私は、まるで浮浪児のように浅草をうろついていた。戦争が終わって、大混乱のさなか、大学は再開のめどもたっていなかった。浅草をうろついて映画でも見る以外、ほかにすることもなかったから。

 何もかも大混乱だった。終わるはずもない戦争が終わったという虚脱状態で、誰もが歓楽街に押し寄せたのではないだろうか。敗戦の翌日には、三方に柱を建てて、ぐるりとヨシズを張っただけのバラックが並びはじめ、闇市(ブラック・マーケット)が形成されはじめた。フカシイモ、スイトン、雑炊など、おもに食料が中心だが、それまで見かけたことのない日用品、雑貨、古着などの衣料、並べたそばから飛ぶように売れた。

 1945年8月15日以後、日本映画の製作はすべてストップした。それまで国策映画、戦意昂揚映画を撮っていたスタジオは、戦後、どういうことになるかまるで見当もつかなかったはずである。
 当然ながら、それまで、国策映画ばかり上映していた映画館の大半はブッキングがとまったので、ガラガラ。ただし、敗戦の翌日には、戦争が終わったドサクサにまぎれて、どこから見つけてきたのか、戦前の映画、それも活動写真、戦前公開されたままおクラ入りだった外国映画などを上映する映画館がぞくぞくとあらわれた。
 浅草はただひたすらごった返していた。
 このとき私が見た映画では、マキノ 正博の「雪之丞変化」、ソヴィエト映画の「愉快な連中」や、G・W・パプストの「喜びなき街」など。

 『喜びなき街』(1925年)は、グレタ・ガルボがはじめて出た外国映画である。監督はG・W・パプスト。
 若い娘が「戦後」に惨憺たる生活をつづけ、彷徨する暗い内容だった。
 敗戦直後の日本で、第一次大戦の「戦後」ウィーンを描いた映画を見る、などということは、いまの私には途方もなくファンタスティックなことに思える。

 この映画のラスト・シーンに私は衝撃をうけた。

 敗戦後のウィーンの街角。わずかな肉の売り出しに、人々が殺到する。その群衆のなかをあてどもなくガルボがさ迷い歩く。その一瞬、別の若い娘が彼女とすれ違う。お互いに顔を見合わせるわけではない。ただ、すれ違うだけである。その娘を見た時、私はアッと驚いた。見覚えがあった。どこかで見た覚えがある。誰だったろう?
 思い出した! マルレーネ・ディートリヒだった。      (つづく)

2008/12/17(Wed)  938
 
 私は「文学講座」を続けているのだが、そのなかで鴎外、漱石に言及するときは、きまって鴎外先生、漱石先生というくせがある。日頃から、鴎外さん、漱石さん。むろん、鴎外先生、漱石先生に面識はない。
 「戦後」の浅草で「荷風さん」を見かけたことがあるけれど、だいたいは荷風。荷風先生とは呼びにくい。
 個人的にどうのこうのというわけではないし、文学的に影響を受けたというわけでもない。つまり、こういう使いわけには特別な理由もないのだが。

 内村 直也、植草 甚一のおふたりは「さん」。
 五木 寛之も「五木さん」。
 澁澤 龍彦は「渋沢くん」。

2008/12/15(Mon)  937
 
 1931年、映画女優、ルイーズ・ブルックスが映画に出なくなった。彼女はそのまま忘れ去られた。(実際には、その後も映画には出ていたのだが。)
 彼女のことを忘れない人もいた。
 大岡 昇平。
 彼はルイーズ・ブルックスについて、いくつも重要なエッセイを書きつづけた。
 その後、フランスで、ルイーズ・ブルックス再評価の機運が起こり、老齢に達していたルイーズ自身も自分の回想を発表して、あらためて彼女がどんなにすばらしい女優だったか、私たちに思い出させた。そして、現在、筒井 康隆の「カナリアが殺されるまで」、四方田 犬彦の「パンドラ・コムプレックス」のように、世界最高のルイーズ・ブルックス論などがある。

 「世界猟奇全集」というシリーズものの1冊から、ゆくりなくも、ルイーズ・ブルックスのことを連想して・・・私はしばらく幸福だった。
 なぜ、ルイーズ・ブルックスを思い出したか、これは別のこと。

2008/12/13(Sat)  936
 
 昭和初期、いわゆるエログロ・ナンセンス盛んなりし頃、川端 康成の『浅草紅団』が出ている。私は川端 康成の傑作と見ているのだが、おなじ頃、「世界猟奇全集」という、ちょっといかがわしいシリーズものが出版された。そのなかに「世界スパイ戦秘話」という1冊がある。昭和6年(1931年)12月刊。

 こんな記述がある。

    墺洪国皇室には、不絶(たえず)呪っているものでもいるように、不吉な宿命がつきまとっていた。古いことではあるが、フランシス・ジョゼフ陛下が、王位に昇られた第一年には、洪牙利(はんがり)の一無頼漢の為に、行幸の途中を襲撃され、幸運にも凶漢の銃火を脱れた。その後皇后陛下が、無名の伊太利(イタリ)無政府党員の為に、ジェノアで射撃され、遂に薨去された。次いで唯一人の皇子は、病原不明の奇怪な急病に襲われ、俄に世を去られた。気の毒な皇帝は、引き続く悲しい不幸の後、甥に当るフエルヂナンド大公を皇太子に選ばれた。

 このフエルディナンド大公が、1914年6月28日、サラエヴォで暗殺され、世界大戦が勃発する。
 ハプスブルグ帝国のルドルフ皇太子が、男爵令嬢、マリー・ヴェッセラと情死した事件は、当時、厳重に秘匿されていた。「病原不明の奇怪な急病」という表現に注意しよう。

 ルドルフ皇太子が、男爵令嬢、マリー・ヴェッセラと情死した事件が私たちに知られたのは、戦後になって、フランス映画、「うたかたの恋」が公開されたからだった。
 ハリウッド黄金期の大スター、シャルル・ボワイエと、当時フランス映画最高の美女だったダニエル・ダリューの主演。原作はクロード・アネ。

2008/12/10(Wed)  935
 
 「プレイボーイ」の「終刊前号」に、過去のインタビューのいくつかが抜粋されている。これがおもしろい。
 ロバート・デニーロがいう。

   『PLAYBOY』インタビューとシェイクスピアを一緒に読むやつはいないよ。

 それはそうだと思う。しかし、私は「プレイボーイ」インタビューとシェイクスピアを一緒に読んできたのだ。そういうヤツもいることは、いる。

 私は初期のディズニー・アニメを、かなり熱心に見てきた。たとえば「牡牛のフェルディナンド」、「ファンタジア」、「白雪姫」といったアニメは、今でもすばらしいと思う。しかし、「ダンボ」以後のディズニー・アニメにはほとんど関心がなくなった。

 おなじように、「プレイボーイ」に毎号掲載されているアメリカのヌードにも、まったく関心がなくなってしまった。あんなものよりも、日本のAVに出てくる女の子のほうが遙かに美しい。いつかそう思うようになった。不謹慎だろうか。

2008/12/06(Sat)  934
 
 東京株式市場(’08.10.27.)で、「日経平均」が、一時、7486円を割り込んだ翌日、雑誌の「プレイボーイ」(日本版)が届いた。
 「終刊前号」という。33年の歴史が、ここに終りを告げようとしている。

 「プレイボーイ」(日本版)は、1975年5月、創刊された。43万8千部。全国の書店で、発売後、3時間で売り切れた。このため、2万2千部が増刷されたという。
 この年、サイゴン陥落。ヴェトナム戦争が終わった。
 金子 光晴、林 房雄が亡くなっている。
 アメリカ、ソヴィエトの宇宙船がドッキング。

 創刊号から、毎号、かならずアメリカン・ビューティー(プレイメイト)のヌードが掲載された。たしか、マリリン・モンローのヌードが、創刊号を飾ったのではなかったか。 そのほか、マドンナのヌード、シンデイ・クローフォードのヌード。
 ナオミ・キャンベルのヌードなんか、「ハスラー」誌で見た黒人女優の性器ほどの衝撃もなかった。

 ある日、植草 甚一さんが私に訊いた。
 ・・・中田さんは「プレイボーイ」を読みますか。
  はい、目ぼしい記事はだいたい眼を通していますが。
 ・・・「プレイボーイ」がお好きなのですか。
  別に、好きな雑誌というわけではありませんが。
 植草 甚一さんは、私の顔を見ずに、
 ・・・私はきらいですね、ああいう雑誌。

 それ以後、植草 甚一さんは二度と「プレイボーイ」のことを話題になさらなかった。
 なぜ、植草さんは「プレイボーイ」がおきらいだったのだろうか。

 植草さんが「プレイボーイ」がおきらいだった理由はわからないが、なんとなく納得できるような気がする。げんに、この「終刊前号」で「最もセクシーな世界の美女50人」という特集があって、アンジェリーナ・ジョリー以下、50人の美女たちが登場しているが、アジア系の箇所は、43位に、チャン・ツィイーが選ばれているにすぎない。
 私はこういうセレクションにひそかな軽蔑をおぼえる。

2008/12/03(Wed)  933
 
 現在、私たちは未曾有の不況に見舞われている。(麻生首相にいわせれば、「みぞゆう」と読むらしいが。)
 100年に一度の非常事態という。(グリンスパンの発言という。)私のように、世界の金融、経済の動きに無関係な人間でも、100年に一度の金融危機ならば、大きな関心をもってもおかしくない。
 さる10月27日、テレビで市況を見ていた。
 凄いね。何も知らない私の眼にも、この日の株式市場の暴落は、ただごとならぬものに見えた。「日経平均株価」は、取引開始直後、あっさり最安値を更新した。うわぁー、なんだなんだ、なんなんだ! 一時、7486円を割り込んだぜ。
 私はマラソンの中継が好きで、かならず見ることにしているのだが、マラソンを見ているよりも、ずっとおもしろかった。この日、バブル崩壊期(’03.4.28)の最安値、7603円を割り込んでしまった。1982年11月以来、26年ぶりの水準という。 おいおい、冗談じゃないぜ。どうなるんだい。
 昔のSF映画、「禁断の惑星」に出てくる、わけのわからない怪物が、人類に襲いかかるシーンを見るような気がした。(ついでに書いておくと、この映画はSF映画のプロトタイプのひとつ。ウォルター・ピジョンが、アカデミー賞なみのいい演技をしていた。アン・フランシスは、少し肥り気味だったが、若くて肉感的だったなあ。)
 けっきょく、この日は、前の週末の終値から80円72銭安。

 この日、外国為替の円相場は、アメリカ、ヨーロッパの景気減速を警戒して、円高が急伸、1ドル=93円63 64銭で取引されている。
 ゲッ、円高だってさ。ほんまかいな。本気かよ。
 わけもわからずに、円がやたらに高く高く高くなっちまった。

 昭和初年、いわゆる「大不況」の余波を受けて、父が失業したことを思い出す。彼は三日間、東京じゅうをかけずりまわって仕事を探したらしい。当時としてはめずらしい英文の速記者(ステノグラファー)だったので、面接に行った「ロイヤル・ダッチ・シェル」にひろわれた。やがて地方支店の速記者、翻訳者になった。本人にすれば、都落ちの思いがあったに違いない。

 幼年時代の私は、何度も「不況」(デプレッション)ということばを聞かされて育った。何だかわからないが、「不況」というおそろしい生きものが私たちのすぐうしろに立っているような気がした。幼い私にとって「不況」は落語の「ムル」のようなものだった。この「不況」を私なりに翻訳すれば、「ムル」になる。
 虎、狼よりも「ムル」がこわい。

 最近の金融不安は、私のようなノン・ワーキング・プア(ルンペン・プロレタリア)には関係がないが、この1カ月、中国、香港の株式市場の低落ぶりをじっくり見ていた。

 つい数カ月前まで、資産総額が1211億元で、中国のトップだった女性実業家は、資産がなんと181億元に縮少したという。
 おなじく個人資産、430億元(約6020億円)で、今年の富豪のトップが、株価の違法な操作で司直の捜査を受けているそうな。
 いやぁ、「ムル」はこわいなあ。

 「ルンペン・プロレタリア」ということばはなくなったが、「ムル」はこわい。私流に翻訳すれば、さしづめ(貧富の格差)になる。

2008/12/01(Mon)  932
 
 たとえば、最近の金融不安について、私は何を考えたか。何も考えなかったわけではない。むしろ、いろいろなことを考えた。私が経済学者だったら、1編の論文を書くこともできたはずである。
 たとえば、トラックを秋葉原に乗りつけて、ダガーナイフをふるって、つぎつぎに通行人を殺傷した男について、私はなんらかの意見をもたなかったか。
 31年前に保健所にイヌを処分されたという理由で、かつての厚生省事務次官夫妻を殺害し、さらに隣県に住む別の元事務次官の夫人も襲った犯人について、私は何も考えなかったか。
 テレビを見ると、現実に起きているさまざまな事件、事象について、いとも明快に解説してくれる人々がいる。
 だが、それを見ながら、私は逡巡する。私はそれほどスムースに自分の考えを述べることができるだろうか、と。何かについて、なんらか誤りなく言及することは、私などのよくするところではない。


 トークを聞いている私の内部には、したり顔で、えらそうに言及なさるコメンテーターに対する不信、あるいは、ひそかな侮蔑が渦巻いている。
 そうしたコメンテーターの「コメント」は、その場その場ではいかにも正しいように聞こえるけれど、こちらが心のなかでたどり直してみると、じつはたいしたことを語っているわけではないことに気がつく。私がひそかな侮蔑をおぼえるのは、それを「良識」、ないしは「常識」として自認しているらしいところなのだ。
 彼らはしばしば、私たちの判断を別の方向に向けようとする。
 私は、冷たい怒りをおぼえながら、そういう人物を見ている。

 いつか、私はそういう連中に対してフィリピクスを試みるかも知れない。
 渾身の力をこめて。

2008/11/29(Sat)  931
 
 ある日、トルストイがチェーホフに向かって、こんなことをいったという。

 「君はなかなかいい人間で、私も君が好きだ。君も知っての通り、私はシェイクスピアってやつが、我慢がならぬ。それでも、あいつの戯曲は、きみの芝居よりはましだ。」

 このエピソードを知って、一日じゅう愉快な気分になった。
 トルストイが、チェーホフのどの戯曲に言及しているのか知らないが、かりに『桜の園』や『ワーニャ伯父さん』をくさしたとしてもこの話はおもしろい。
 チェーホフは、どんな顔をしたのだろう?

 かりに、私がえらい作家にとっつかまって、

 「君はなかなかいいやつで、私も君が好きだ。君も知っての通り、私はルネッサンスという時代が、我慢がならぬ。それでも、マキャヴェッリの芝居は、きみの書く評伝よりはずっとましだ。」

 といわれたら、どうしようか。
 どうもすみません。ペコリと頭をさげて逃げ出すだろう。

 「君はろくなやつではないし、私は君が嫌いだ。なにしろ、私は芝居も役者も、我慢がならぬ。それでも、団十郎の芝居は、きみの書いたルイ・ジュヴェ評伝よりはずっとましだ。」

 こんなことばを浴びせられたらこっちもキレる。さて、どうなるか。
 日頃はおとなしい男だが、ほんとうはやたらと短気なのだ。

2008/11/26(Wed)  930
 
 しばらく前に、BS11で、香港映画、「アゲイン 男たちの挽歌 3」(「夕陽之歌」)を見た。(’08.10.1)。香港映画、黄金期の映画。
 監督は徐 克(ツイ・ハーク)。周 潤発(チョウ・ユンファ)、梅 艶芳(アニタ・ムイ)、梁 家輝(レオン・カーウァイ)、日本の俳優、時任 三郎が出ている。
 映画のなかで、「香港返還は、20年も先のことだ」というセリフが出てくる。
 徐 克(ツイ・ハーク)は、私の好きな映画監督のひとり。

 忘れないようにメモしておいた。
 ストーリーの背景は、ベトナム戦争のさなか、サイゴン陥落までのヴェトナムの華僑社会。ウォーターゲート、ニクソン辞任。戦火から脱出しようとするボートピープルが、香港に押し寄せている。
 周 潤発(チョウ・ユンファ)は、サイゴンでのしあがってきた華僑/黒社会の一員。梅 艶芳(アニタ・ムイ)は、凄腕の女ヒットマン。ほんらい逢うはずのないふたりが、ヴェトナム戦争下に運命的な出会いをもつ。

 「夢は大きければ大きいほど、失望もふくらむ。だから、俺は多くをのぞまない」と、主人公(チョウ・ユンファ)がつぶやく。

 この映画を見ながら、私はサイゴンを思い出していた。作家として、2作目の長編が失敗したため、気分転換のつもりで、ベトナム戦争のさなか、サイゴンに行ったのだった。映画のなかで、私の知っている旧サイゴン(西貢)の風景(とくにレ・ロイの通り、カトリック聖堂、タンソンニュット空港など)が出てきてなつかしかった。
 さらには、ヴェトナムで知りあった十代の歌手、マリー・リンや、これも若い娘だったブ・ニャットフォン(武 日紅)のことが、アニタ・ムイの「キット」に重なってきた。
 このブログ(No.929)で、作家として、2作目の長編(『暁のデッドライン』)で失敗したと書いた。
最近になって、この長編が戦後のミステリー、99本に選ばれていることを知った。
 このコラムを読んでくれた「雨の国の王者」が教えてくれたのだった。

    『暁のデッドライン』を、中田 耕治探偵小説の最高作と見る向きは多いようで、たとえば探偵小説専門誌(幻影城)では、日本推理小説ベスト99の一つに、選出しているし、(中略)
    わたくしは、両方とも、好きだが、どちらかと言えば、天衣無縫(わるくいえば八方破れ)な『暁のデッドライン』よりも、端正で、みずみずしい『危険な女』の方をかうが、あくまでも、それは好みの問題だ。

 私は「雨の国の王者」に感謝している。

 『暁のデッドライン』が失敗した大きな理由・・・天衣無縫(わるくいえば八方破れ)なものになった理由は、外からいろいろと指示されて書いたことによる。かけ出しの新人だったから、担当の編集者が、いろいろとアドヴァイスしてくれるのにしたがったのだが、結果的に、はじめ私の書こうとしていたものと違った主題になった。

 この失敗は、私の最初の挫折。

2008/11/24(Mon)  929
 
 本を読んでいて、こんなことばを見つけた。

    われわれの最初の50年は、錯誤のうちに過ぎ去る。それからは一歩踏み出すことさえためらうようになる。自分の弱点があまりにも眼につくからだ。そして、さらに20年、いくたの艱難辛苦をすぎて、ようやく身のほどを心得るようになる。ここにきて、やっと一条の希望の光がさし、ラッパの音が聞こえてくる。だが、そのときにはもうこの世を去らなければならない。

 エドワード・バーンジョーンズ。

 思わず笑い出した。
 身につまされたからではない。複雑な思いがあった、というわけでもない。むしろ、この芸術家と私の、あまりの懸隔(違い)に苦笑、失笑しただけである。
 私は、1946年、「戦後」すぐにもの書きになったが、最初の50年は、まさに錯誤のうちに過ぎ去って行った。というより、たてつづけにやってくる打撃と挫折のなかで、いつもいつもアップアップしただけである。
 作家としては2作目の長編(『暁のデッドライン』)で失敗したのだった。

 エドワード・バーンジョーンズはえらい画家だが、私ときたら、「いくたの艱難辛苦をすぎて」、現在の私自身をかえり見て、「やっと一条の希望の光がさし、ラッパの音が聞こえてくる」どころではない。まあ、オレはアホやからなあ、と思ったけれど、そういう思いに自己憐憫はない。

 いつも一歩踏み出すことをためらったわけではない。理由は簡単で、一歩でも踏み出さなければ、オマンマにありつけなかったから。
 自分の弱点が眼につくどころか、はじめから弱点だらけ、ろくに才能もないので、もの書きとしては苦しいばかりだった。それから、さらに30年、一条の希望の光がさすどころではなかった。ごらんの通りのていたらくである。

 エドワード・バーンジョーンズ。私は、この画家にほとんど関心がない。

 クェンテイン・タランティーノの映画、「パルプ・フィクション」に出てくることばのほうが、ずっと身につまされる。
 この映画で、しがない三流ボクサー「ブッチ」(ブルース・ウイリス)は、ギャングのボスに八百長を命じられる。

    いいか、ブッチ、今のおまえは腕が立つ。だが、おそろしいことにお前はもう峠を越えてしまった。つらいことだが、現実は認めなければならぬ。(中略)
    おまえの周囲のやつらはクズばかりだ。自分は年とともに熟成するワインだと思っている。ほんとうは酢っぱくなって行く奴ばかりさ。おまえは、あと幾つ、戦える? せいぜい二つだ。いまさら、トップに立つなんて、無理なんだよ。

 「ブッチ」はギャングを裏切って、リングで相手の選手を殺したため必死に逃げる。ことのついでに、追跡してきたギャングの殺し屋(ジョン・トラボルタ)も殺してしまう。 (この映画で、死ぬやつは8人。タランティーノのスプラッター映画。)
 ブルース・ウイリスは、どんな映画に出ても大根だが、この映画の「ブッチ」はいい。
 映画女優、ロザンナ・アークェットが撮ったドキュメント、「デブラ・ウィンガーを探して」(2004年)のラストで、デブラがロザンナに語っている。

    期待が大き過ぎると、失望も大きくなるわ。だから、私は何も期待せずに仕事をつづけてきただけ。

 この映画のデブラ・ウィンガーこそ、「年とともに熟成するワイン」のような女性だと思った。

2008/11/22(Sat)  928
 
 「後期高齢者」ということばに、私は心のなかで「くそGG」とルビをふる。最近は、「特定高齢者」ということばもあるらしい。
 役所がアンケート用紙を送りつけてくる。いろいろな質問が並んでいるのだが、たとえば「バスや電車で一人で外出していますか」というのが最初の質問。(どうも、日本語として語感がよくないね。)
 「階段を手すりや壁をつたわらずに昇っていますか」とか、「半年前に比べて固いものが食べにくくなりましたか」などという質問がつづく。(ご親切はありがてえが、薄ッ気味がわるいぜ、まったく。)
 こうした質問に答えて、返送すると、しばらくして「お役所」から判定のプリントが届けられる。基本的なチェックを判定した結果、あなたは介護予防をはじめる必要のある「特定高齢者」ということになりました、というプリントだそうな。
 私は、この「特定高齢者」ということばに、「くたばれGG」とルビをふることにしよう。

2008/11/20(Thu)  927
 
 好きな女優はたくさんいる。
 たとえば、(昭和)60年代の「キャッツ」に出ていた保坂 知寿。最近、ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」に出ていた柚希 礼音。
 舞台やスクリーンを見ていてゾクゾクするほどエロティツクな女優は多くない。私の場合、たとえば、カティー・ロジェ。
 誰も知らない、誰の記憶にもないような女優さんだが。
 アラン・ドロンが、冷酷(というより非情で、どんな事態にも冷静)な殺し屋になっていた、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の「サムライ」(1968年)という映画。
 ストーリーはじつにシンプルで、殺し屋がナイトクラブの経営者を殺す。たまたま、黒人女性のピアニストに目撃されてしまう。ただちに非常線が張られて、殺し屋も検挙されるが、彼は巧妙にアリバイを用意していた・・
 殺し屋は釈放されるが、警察は有力な容疑者と見て、盗聴、盗撮で、ひそかに彼の行動を監視する。一方、殺し屋は、黒人ピアニストに証言させないために、ふたたびナイトクラブに潜入しようとする。こうして、パリの地下鉄を舞台に、動き出した殺し屋を警察が全力をあげて追跡する。・・

 映画監督は、アメリカの作家、ハーマン・メルヴィルを尊敬して、ジャン・ピエール・メルヴィルと名乗った。戦時中、抵抗運動に参加したこともあって、映画監督としての処女作、ヴェルコールの『海の沈黙』(1948年)の映画化で知られている。私たちはコクトオの「オルフェ」に出たジャン・ピエールを見ている。その後、「ギャング」(66年)、「サムライ」(67年)、「影の軍隊」(69年)、「仁義」(1970年)といったフィルム・ノワールで自分の世界を築いた。
 私は戦後のフランス映画では、ジョルジュ=クルーゾォ、ロベール・ブレッソンなどよりも、ジャン・ピエール・メルヴィルのほうが好きだったし、ヌーヴェル・ヴァーグの映画よりも、当時、まったく評判にならなかったマルセル・アヌーンの「第八の日」のような映画のほうがずっとすぐれている、と見た。
 現在でも、クェンティン・タランティーノや、徐克(ツイ・ハーク)の映画のほうが、ゴダール、ルイ・マルよりもよほど高級な映画作家だと思う。
 ようするに、ものの見方のひねくれた映画批評家だったが、女優の好みも大方のファンとはまるで違っているかも知れない。

 カティー・ロジェは、当時のフランス映画ではまだめずらしかった黒人女優だった。そして、私の知るかぎりでは、「サムライ」(67年)に出ただけの女優だった。
 はるか後年、ハリウッドでも、ジェニファー・ビールス、アイリーン・キャラ、(まるっきり美少女どころではないが)ウーピー・ゴールドバーグ、(こちらは美少女だが)ハル・ベリーなど魅力的な黒人女優がぞくぞくと登場する。
 その私にとってカティーは、もっとも魅力的な黒人フランスの女優なのだった。

2008/11/18(Tue)  926
 
 宝塚星組公演、ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」は終っている。だから、これは劇評ではないし、ただのひとりごと。気楽に書いている。

 「スカーレット・ピンパーネル」の原作は、いうまでもなくオルツィ(オークシイ)男爵夫人。ミュージカルの脚色、作詞はナン・ナイトン、音楽はフランク・ワイルドホーン。
 星組のメイン・キャストは、「パーシイ」が安蘭 けい、「マルグリート」が遠野 あすか、「ショーヴラン」が柚希 礼音。
 ずいぶん昔の事だが、私の訳した『紅はこべ』を脚色して、宝塚が上演したことがある。これは見なかった。理由がある。宝塚側は上演料も何も、まったくの頬かむりで押し通した。芝居の世界ではよくあることなので私は何もいわなかったが、このことがあってから、ずっと「国際劇場」を贔屓にしたのだった。

 今回の星組の公演は、私にとってはじつに久しぶりだったし、ミュージカルということもあって興味をもった。昭和元禄時代といわれた60年代、「コーラスライン」、「ガイズ、アンド・ドールズ」、「ラブコール」、「チタ・リベラショー」など、日比谷、銀座界隈にかかったミュージカルをのきなみ見て歩いた頃から、ミュージカルのアフィシオナードを気どっていたほどである。
 当時、ご贔屓は保坂 知寿。「キャッツ」に出ていた。「コーラスライン」では「ヴァル」をやっていたっけ。小柄で可愛い女の子だったが、キュンとひきしまったからだから勁いエネルギーが発散されて、「チズちゃん」が踊りだすだけで舞台の色彩が一変するようだった。私は小柄で可愛い女の子が好きなのである。
 そういえば、その後の「チズちゃん」はどうなったのだろう?
 「レ・ミゼラブル」も、「ミス・サイゴン」も、「オペラ座の怪人」もまだ、ミュージカルの地平に姿を見せていなかった時代だった。

 ところで、今回の「スカーレット・ピンパーネル」は、ミュージカルとしては涼風 真世の出た新作「マリー・アントワネット」よりもできがいい。ストーリーの展開が、もともと通俗的なサスペンス・スリラーのせいもあるだろう。主人公(「パーシイ」)は、安蘭 けい。美貌といい、ジェストといい、まったくあぶなげのない大スター。
 ただし、この女優さんは、あれほど大きな器量をもっているのだから、エロキューションに気をくばる必要がある。おそらく、あまりに大きな存在なので、演出家も何もいわないのだろう。ほんのわずか修正するだけで完璧に近づく。
 遠野 あすかの「マルグリート」も、魅力のある女優。オペラでいえば、佐藤 しのぶに近い。
 私としては、柚希 礼音の「ショーヴラン」が気に入った。星組でももっとも将来性のある女優のひとり。原作の「ショーヴラン」は、もっと老獪で、もっといやらしい人物だが、このミュージカルの「ショーヴラン」は、かつて「マルグリート」とともに革命に参加したという設定なので、まさに宝塚的なメナージュ・ア・トロワになる。ということは、安蘭 けいに対抗できるだけのポジションになるわけで、柚希 礼音が、それだけの重みをもち得たということになる。
 私は柚希 礼音のいくつかの特質に注目している。たとえば、エロティシズム。まだ、それについて書くことはないが、またいつか、この女優さんの舞台を見たいと思う。
 星組全体としていいところは、ガヤのひとりひとり、いつも(演技的に)なんらかの工夫をしていること。そういう工夫が舞台に張りをもたらすものだ。バックのひとりひとりの動き、踊り、ミミックリーまで。

2008/11/16(Sun)  925
 
 ジャンセンの描く少女たちは、特別な女性である。ひたすら清らかで、イノセントで、ふれれば、いまにもこわれてしまいそうな、ガラスのように脆い。
 その気になれば、彼女をとらえて、犯すことさえ許されそうな気がする。
 しかし、そんな想念はすぐに消えて、彼女を世にも貴重なたからもののように守ろうとする。

 ジャンセンの描く少女は、カッセニュール、テレスコヴィッチ、さらには、ジャック・ボワイエたちと共通している。美少女たちだが、どこかネフロティック(神経症的)なものを感じさせる。

 まだ幼いわき腹のくびれから、腰のふくらみまで、しっとりと弾むような手応えもふっくりしているだろう。
 なにもかも自分の意のままになる、素直で、ただパッシヴな存在であるジャンセンの少女に手をさしのべたくなる。
 ジャンセンの描く、輪郭線のせいだろうか。そのドローイングは、けっしていっきには描かれない。正確な線なのだが、少女の内面のゆらぎのように、少しの距離で立ちどまり、おののき、また気をとり直すように走り出す。たちまちこの少女の運命そのもののようにその線の流れが、少女の姿をとらえる。それは、少女が、自分では少しもかかわりのない、深い孤独のように。少女はそれを少しも理解していないか、気がつかないのかも知れない。

 ジャンセンの描く少女と、ルノワールの描く少女とは、まるで別の世界に生きているようだ。ルノワールの少女は、いずれ、成熟した女性になる。私たちは、たとえかすかにせよ、それを予感する。しかし、ジャンセンの少女たちにおいて、時間は、あくまで静止していよう。そこに見られるのは、少女の肉体という時間なのだ。それは、けっして動かない。彼女はまだ男を知らない。とすれば、過ぎ去った歳月が、この繊細なからだにどんな跡を残してきたというのか。

 私は、けっして届かない虚空にむかってまなざしを向けている。

   「バレリーナを描く ジャンセン展」
     ギャレリー「ためなが」(’08.9.16.〜 10.11)

2008/11/13(Thu)  924
 
 ある芸人(アーティスト)のエピソード。

 1920年代の終わり。(調べればすぐにわかるはずだが、そんな気もない。) 見るからに田舎者らしい若者が、何かを大事にかえてブロードウェイをうろつきまわっていた。音楽専門の出版社を探していたのである。
 そうした出版社の一つ、「ジャック・ミルズ」を探しあてた彼は、主人に会いたいと店員に告げた。
 こうした出版社がどういうものか、「アメリカ交響楽」、「ブロードウェイのダニー・ローズ」、「レイ・チャールズ」などの映画を見れば見当がつく。

 ミルズは心おきなく若者を迎え、さっそくピアノの前にすわらせて、彼が大切にもってきた曲を弾かせた。
 それまで聞いたことのないメロディーとリズムのテューンだったが、ミルズは気に入って、その場で楽譜の出版をきめた。

 当時はいわゆるジャズ・エイジで、チャールストンが流行していた時代。この新作の楽譜はまったく世間の関心を惹かなかった。結果として、その後、4年間、倉庫に眠ったままだった。

 若者は安酒場のピアノ弾きで、その日暮らしの生活を続けていたが、4年たって、もう一度、「ジャック・ミルズ」に行ってみた。こんどは、その店のポップス・マネジャー、ジミーが楽譜を見た。
 ジミーは、この曲のホット・ジャズ的なトーンに感心せず、メロディーはそのままで、ムーディーな、哀愁を帯びたものに直した。このピアノを聞いた若者は、カンカンになって怒った。二度と、この楽譜出版社に足をはこぶ気はない、と決心して店を出て行った。
 しばらくして、ジミーはこの曲をラジオで放送した。これがきっかけで、この曲は大ヒットして、「ジャック・ミルズ」の楽譜の売り上げでトップになった。たいへんな評判になった。

 その後、ジミーは映画にも出演して、そのなかでこの曲を何度も弾いている。
 顔のまんなかに大きな鼻がついているので「シュノッズル」というあだ名で呼ばれた。 ジミー・「シュノッズル」・デューランティ。私が見た映画のジミーは、初老にさしかかっていて、半白の髪はまる刈り、ひどいガラガラ声で歌う。洒脱な人柄は、いかにもニューヨークの裏町育ち。まるっきり品がないが、芸人としては一流だった。
 曲は「スター・ダスト」。作曲は、ホーギー・カーマイクル。


 有名なエピソードらしく、戦後まもない1950年代に何かで読んだ。背景は大不況。「ワンス・アポンナタイム・イン・アメリカ」。いかにもアメリカ人がよろこびそうなサクセス・ストーリー。アメリカ人の「機会」と「夢」、そして思いがけない「成功」がやってくる。
 こんなエピソードをもとにして短編がいくつも書けそうな気がする。たとえば、ディモン・ラニョンふうに。

 古いね。(笑)

2008/11/11(Tue)  923
 
 たくさんの美女が私の内面に棲んでいる。誰も知らない美女たちが。

 夢のヒロイン。詩のなかの女性。たとえば、ホラティウスによってうたわれ、はるかに時をへだてて、アーネスト・ダウスンが愛した「まぼろしの恋人」。
 シナラ。

 さらに、トーキー映画草創期を飾るキング・ヴィダーの「シナラ」。

 中年の弁護士夫妻(ロナルド・コールマン/ケイ・フランシス)と、若く美しい女性(フィリス・バリー)の三角関係。

 フィリス・バリーは、ジョン・テイリーの一座のダンサーから出発して、ファンチョ・マルコスの劇団などで、ミュージカルの舞台をふんだ。
 やがてトーキーが、映画を一変する。
 サミュエル・ゴールドウィンが、フィリスの舞台を見て、エディー・カンターの喜劇「闘牛士カンター」に抜擢しようとした。
 ところが、ほとんど同時に、キング・ヴィダー(映画監督)が「シナラ」に起用した。
 フィリスは、素直な演技、わかわかしいエロティシズム、チャーミングなエロキューションで、ゆたかな才能と素質にめぐまれた女優として登場した。
 その後のフィリスを知らない。

 映画の世界で挫折したのか。それとも、草創期の映画よりも、もっと着実でしっかりした表現ができるミュージカルの舞台に戻ったのか。

 現在、DVDで見ることのできるキング・ヴィダーの「シナラ」。
 フィリスも私の「まぼろしの恋人」のひとりなのである。

2008/11/09(Sun)  922
 
 人生をふり返って幸福だったと思えることが少しある。
 たとえば、通勤ラッシュをほとんど知らずに過ごせたこと。

 中央線/快速の「モハ」型の車両の定員は136人。ところが、この車両に、640から650人もつめ込まれた記録があるという。
 こうなると、押しあいへしあい、どころのさわぎではなくなる。

 酸素消費量などによって調査したエネルギー消費量は、60分←→70分の通勤で、平均190〜200カロリー。
 一日8時間の労働で消費するエネルギーは、1300カロリーといわれるが、電車の通勤ラッシュで、一日の労働の一割から二割のエネルギーを消耗することになる。

 私は、週に二度、千葉から総武・中央本線で新宿に出て、大学に通った時期がある。
 杉並の和田にあった大学のキャンパスに通ったのだが、やがて、大学は神奈川県相模大野に移った。
 私は千葉から新宿に出て、(所要時間/1時間15分)、さらに小田急線で、相模大野まで出る。ざっと2時間半はかかる。さらに、相模大野からバスで20分。
 大学にたどり着いて、2コマの授業を終わると疲労をおぼえた。

 押しあいへしあいの通勤ラッシュを経験したのも、これがはじめてだった。

 なんとか解決する方策はないものか。
 けっきょく、西新宿の安アパートに入って、地下鉄で新宿に出て、相模大野まで通勤するようになった。早朝6時には電車に乗ったので、なんとかすわれたし、それほどひどい通勤ラッシュにあわずにすんだ。
 早朝から大学で制作するらしく大きなキャンバスをかかえた女の子が、私を見かけて驚いたような顔でお辞儀をする。そんなときは、ほんとうにうれしかった。

 冬の朝、しらじら明けで門も開いていないので、大学の近くの森や、低い丘などを散歩することもあった。
 誰もいない研究室に入って、しばらく原稿を書く。しばらく本を読む。ときには翻訳を1冊仕上げたこともあった。
 仕事にあきると、階下の「芸術学部」の研究室に行く。私はこの学部にまったく関係がなかったが、助手の吉永 珠子、寝占 優紀たちが、コーヒーを入れてもてなしてくれるのだった。

 私にとっては、この大学ですごした頃がいちばん幸福な時間だった。

2008/11/07(Fri)  921
 
 女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる。私も同感する。

 オヴィディウスは「恋愛術」のなかでいう。

 いまから来たるべき老いの日々を心にとめておくがいい、さすれば、そなたたちにとって、時は些かも無為に過ぎ去ることはない。

 ここから、オヴィディウスはかなり残酷なことにふれる。

    悲しいことだが、なんと早くからだにシワができて、たるんでしまうばかりか、つややかな顔色も消え失せてしまうことか。娘の頃からの若白髪だとそなたがいい張る白髪も、たちまち頭ぜんたいにひろがりつくす。(中略)人の身の美しさは逃げ去って、こればかりはなすすべもない。花は摘みとるがいい。摘みとらずにいれば、おのずと醜く枯れてしぼむ。さらに、出産も、若い盛りを一層早く老けさせる。たえまなく収穫をあげていれば、畑だって老け込む。(中略)人間の女たちよ、女神たちのお手本に従うがよい。そなたたちがもつよろこびを、愛に飢えた男たちに拒んではならぬ。

 いいこというなあ。(笑)

2008/11/05(Wed)  920
 
 女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる。そう思う人は55%で、そう思わない人は39%という。(「読売」’08.8.27)
 1978年の調査では、女性は結婚しなくても、幸福な人生を送ることができる、と考える人は26%で、これに反対の人は50%だった。
 この30年で、結婚の意識が大きくかわってきたことになる。

 ただし、人は結婚したほうがいい、と思う人は65%なのに、かならずしも結婚しなくてもいい、と考える人は33%。

 5年前(’03年)には、結婚したほうがいい、と考えた人は54%だったので、じつに11%もふえている。つまり、結婚は望ましいと考えるようになっている。

 私は、こうした調査にさして関心がない。ただ、社会的な格差がひろがっていて、経済的にむずかしい状況のなかで、こうした変化を見ることは興味深いと思う。
 実際に、未婚率が男女ともに増大しているのだから、高齢化、少子化のすすむ日本の前途がきびしいことも見えてくる。

 私は、前に書いたように、人はできるだけ結婚しないほうがいい、という考えをもっている。ただし、女性は、できるだけ一度は結婚したほうがいい、と考えている。
 いずれにせよ、今後の結婚観の変化は、いずれ性観念の大きな変化を惹起すると私は考える。

 確実なことは――今後の一世代にすぐれた女性作家がぞくぞくと登場してくること。

2008/11/03(Mon)  919
 
 ハリウッド女優/出演料ベスト10 (「ハリウッド・リポーター」)

      1   リース・ウィザースプーン
      2   アンジェリーナ・ジョリー
      3   キャメロン・ディアス
      4   ニコール・キッドマン
      5   レニー・ゼルウィガー
      6   サンドラ・ブロック
      7   ジュリア・ロバーツ
      8   ドリュー・バリモア
      9   ジョデイ・フォスター
     10   ハル・ベリー

 いずれも美女ばかりだが、名女優と呼べるのは、せいぜいジョデイ・フォスターぐらいか。ただし、私が好きなジョデイは「トム・ソーヤーの冒険」、「アリスの恋」、「ダウンタウン物語」、そして「タクシー・ドライバー」。
 「他人の血」や「シェスタ」の頃のジョデイは、女優としてたいしたことはない。
 「羊たちの沈黙」はアンソニー・ホプキンスの映画だったが、「ウデイ・アレンの影と霧」、「マーヴェリック」あたりから、ほんとうの女優に見えてきた。

 このリストのなかに好きな女優はいる。たとえば、レニー・ゼルウィガー。キャメロン・ディアス。
 しかし、このリストに出ていない女優たちに、好きな女優は多い。たとえば、メグ・ライアン。グウィネス・パルトロウ。ナタリー・ポートマン。

 きらいな女優は、ドリュー・バリモア。もっときらいな女優はアンジェリーナ・ジョリー。

 少し失望しているのは、ハル・ベリー。「ダイ・アナザー・デイ」の彼女は、よくがんばっていたが、まあミス・キャストだったなあ。

 というわけで、このランキング・リストの女優たちの映画は見るつもりがない。

2008/11/01(Sat)  918
 
 長年知りたいと思っていながら、手がかりもないまま、とうとうわからずじまいになってしまう。そんなナゾの一つやふたつ、誰にもあるにちがいない。

 1812年、ナポレオンはついにモスクワから撤退した。このとき、おびただしい金塊をはじめ、貴重な宝石、骨董などを略奪した。これは間違いのない史実という。
 ところが、このロシアの財宝をどこに隠したのか。

 いくつかの通説がある。
 クトゥーゾフ麾下のロシア軍に追跡されたナポレオンは、この年11月2日、軍用の行嚢につめこんだ財宝を、スモレンスク近郊の小さな湖底に沈めて敗走した。

 その後、旧ソヴィエト時代(1967年)、ロシア帝国/外務省の未公開文書が発見されるまで、ナポレオンの秘宝はまったくナゾにつつまれたままだった。

 その古文書に、プロシャ帝国首相、エンゲルハルトが、プロシャ皇帝に贈った所感がある。(1815年10月21日付)。
 この手紙には・・・ロシア戦線から復員したフランス軍の士官ふたり(当然、フランス軍の最高級クラスの軍人と見てよい)が、エンゲルハルト邸に泊まり、エンゲルハルトと雑談したが、たまたま財宝隠匿の目撃談がとび出した。

 ふたりは、コブノ市(リトワニア/カプナス)郊外の、とある教会付近で、作業中のフランス砲兵部隊に出会った。そのとき、約80万フラン相当の秘宝の入った頑丈な木箱を地中に埋めたことを聞かされた、という。

 その後、1823年、生き残ったドイツの傭兵の証言にもとずいて・・・このとき埋められた(とされる)金塊、4樽を発掘する一隊が編成され、旧ミンスク(白ロシア)/ボリソフ市のベレジナ川の流域をくまなく調査した。このときは、何も発見できなかった。
 旧ソヴィエト時代、ナポレオンの秘宝は伝説化した。1939年から40年に書けて、大創作がおこなわれたが、このときも成果はなく、ヒトラー・ドイツの侵略によって、「大祖国戦争」に突入してゆく。

 財補遺の隠匿場所も、リトワニア/ビリニュス、白ロシア/ドロゴブージ、白ロシア/オルシア、ロシア/スモレンスクといったふうにわかれている。

 ナポレオンは敗走中、これらの秘宝をいくつもの行李に分散して、担当の士官に護送を命じたが、すさまじい飢えと寒さ、ロシア軍の追撃のなかで、士官から兵士、さらには外国の傭兵の手に移され、ついには遺棄されたり、ひそかに隠匿された。

 私は、トルストイの『戦争と平和』(マニュエル・コムロフ編)を訳したことがあって、「ナポレオンの秘宝」のことを知った。当時は、まったく関心もなかったが、ナポレオン個人の行嚢が、ロシア/ウェージマから39キロに位置するストカーチュエ湖に投げ込まれたという説を知った。当局が調査したはずだが、結果は知らない。

 小説を書くようになって、何かに使えるかも知れないと思ってノートしておいたが、けっきょく何の役にも立たなかった。
 今でも、ちょっと気になる。

 どなたかご存じの方がいらしたら教えて頂けないだろうか。

2008/10/31(Fri)  917
 
 ジャン・コクトォのことば。

 もし、礼儀がそれを必要とするなら、立ったまま死ぬことができなければならぬ。

 少年時代のコクトォは、母からそう聞かされていたらしい。

 このひとことだけでも、私はコクトォを尊敬する。

2008/10/28(Tue)  916
 
 自分が一年前のことをおぼえている、などというのは、まるで信じられない。なにしろ「後期高齢者」だからねえ。(この「後期高齢者」には、「クソGG」か「くたばれご長寿」とルビをふること。)自慢じゃないが、いまや、私はなんでも片ッ端から忘れてしまうのが特技。(笑)
 どうかすると、いきなり過去の1シーンが、ゆらりと立ちあがってくる。

 1年前の8月、やたらに暑い日だったが・・・横浜の「そごう」で「キスリング展」を見た。キスリングは好きだが、ほんとうにいい作品はわずかしかない。このときの印象は、HPに書いた。
 最近、キスリングのヌードが頭のなかに立ちはだかってきた。

 暗い色彩の花模様のクッションに、放心したようなまなざしの若い娘がつややかな裸身をさらしている。
 その瞳は、何を訴えているのか。
 この絵を見ただけで、この絵を見にきてよかったと思った。

 アルレッテイ。

 「天井桟敷の人々」、「北ホテル」、「悪魔が夜来る」の女優。

 戦後はじめて「天井桟敷の人々」の「ガランス」を見たとき、あまり関心をもたなかった。それほど美貌とは思えないし、なによりも中年にさしかかっていた。

 キスリングがアルレッテイのヌードを描いている!
 それも、20代のわかわかしい裸身だった。ベッドに寝そべっているだけのポーズで、顔、とくに眼が、まるっきりキスリングの美女まるだしだが、まさに「戦後」(1920年代)のおんなが、ベッドにデンと寝そべっている。
 おなじキスリングが、もう一つの「戦後」(1950年代)に描いた女優、マドレーヌ・ソローニュ(川端 康成が買ったため、日本にもたらされた)が、どこか憂愁を漂わせているのに、アルレッテイのヌードは、清潔な肢体に、どこか奔放なエロティシズムがあふれている。このヌードはすばらしい。

 もう一枚は「赤毛のヌード」。
 このポーズも、アルレッテイのヌードとほとんどおなじだが、これがまたすばらしい。あとで「カタログ」の解説を読んだが、通りいっぺんのものであきれた。

2008/10/27(Mon)  915
 
 女の印象は、ほんのしばらくでも時間をおくと、まるで変わって見えることが多い。
 とくに、少女が成熟した「おんな」になっている場合には。

 敗戦後、アメリカ映画が公開されるようになった。最初に上映されたのは「春の序曲」と「キューリー夫人」の二本だった。もう、こんなことをおぼえている人もいないだろう。
 「春の序曲」と「キューリー夫人」という選定にもアメリカ占領軍の占領政策が見えるのだが、戦時中は上映されなかったアメリカ映画が公開されるというだけで、戦後の日本に押し寄せてくる巨大な変化が実感できるようだった。
 「春の序曲」はデイアナ・ダービン主演。私は、戦前、「オーケストラの少女」を見ていたので、デイアナ・ダービンがすっかり成熟した女性になっていることに驚いた。
 映画のなかで大きなショートケーキが出てくるシーンがある。観客のどよめきが場内からわきあがった。戦後すぐのひどい食料難で、ショートケーキなど見たこともなかったし、誰もがケーキの大きさに度肝をぬかれた。(今なら、どこでも売っているやや大きめのサイズだった。)

 「春の序曲」でデイアナ・ダービンがオペラのアリアを歌う。「オーケストラの少女」のダービンがすっかり成熟したシンガーになっていることに驚いた。
 後年になって聞き直してみると、リリー・ポンス、ジャネット・マクドナルドといったハリウッド女優に比較して、けっしてすぐれてはいない。
 このことは、デイアナ・ダービンが「オズの魔法使い」の最終段階で、ジュデイ・ガーランドに主役をゆずってハリウッド・ニンフェットから消えて行ったことをつよく思い出させる。

 戦前、「オーケストラの少女」を見た室生 犀星が、当時の映画雑誌に、デイアナ・ダービンの舌の厚み、そのみずみずしい赤みを随筆に書いていた。少年の私は、この短い随筆に、犀星独特のまなざしを感じて驚いたが、戦後の「春の序曲」を見て、私はまるで女というもののあらたな発見がひそんでいるかのように、ケーキを口にはこぶデイアナ・ダービンの舌の厚みを見ていた。

 ひょっとすると、私の「戦後」は、デイアナ・ダービンの舌から始まっているのかも。(笑)

2008/10/25(Sat)  914
 
 もともと、おっちょこちょいで、がさつで、口がわるい私は自分の周囲にいる女の子をつかまえて、うっかりおまえ呼ばわりをすることもある。
 「おめッチの本、読んだ。ずいぶんイイと思ったナ。だけど、おめえ、・・・・ンところは、ありゃぁ何だい。あの程度ッきゃ書けねえのカヨ。もソッと、イキのいい文章じゃねえと、いただけねえなあ」

 私としては、種彦流に「丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に」見えるように書いてほしい、という意味なのだが。

 おめえよばわりにおそれをなして逃げてしまった女の子も多かった。

2008/10/23(Thu)  913
 
 「駿河台文学」の終刊号は、作家、豊島 与志雄の特集で、私は短い「豊島 与志雄論」を書いた。そのなかで唐木 順三にかみついた。唐木は、私よりもずっと先輩で、当時、まだ文学部の教授だったはずである。
 小川 茂久は何もいわずにそのまま掲載してくれた。

 その後、小川と私のあいだで「駿河台文学」が話題になることは二度となかった。

 はるか後年、私はある作家の本を出してくれる出版社をさがしていた。小川に相談したところ、当時、坂本 一亀がやっていた出版社を紹介してくれた。この話は坂本 一亀が了承してくれたため、すぐにまとまった。5分もかからなかったと思う。
 作家は編集の打ち合わせがあるので、その場で別れたが、帰り際に小川が訊いた。
 「おい、中田、これからどうする?」
 「おまえといっしょなら、(行き先は)きまっているじゃないか」
 私は答えた。

 あとになって、その作家は、
 「中田さんが羨ましい」
 といった。
 「どうしてですか」
 「お互いに、おれおまえで通じる友人がいるからですよ。私には、そういう友人がいませんので」

 なぜか胸が熱くなった。小川 茂久とは半世紀におよぶつきあいだった。
 戦争中は、工場労働者の服に戦闘帽、ゲートルを巻いて、毎日、川崎の石油工場に通っていた。小川は、いつも分厚な鴎外全集の一冊をかかえて、通勤の往復に読みふけっていた。戦争が終わった直後に、同級の覚正 定夫(柾木 恭介)が撮ってくれた写真が残っているが、私も小川 茂久も、まるで戦争で身寄りをなくした孤児のような、うす汚れた少年だった。
 50名の同級生のうち、戦死、戦災死、病死、自殺、ヤクザに切り殺された1名をふくんで26名が死んでいる。つまり、戦後に生き延びた24名のなかで、私と小川は親友として過ごしてきたのだった。
 その歳月の重みが、いきなり堰を切って押し寄せてきた。

 だから、「お互いに、おれおまえで通じる友人」といっても、フランス語の「チョトワイエ」などではなかった。

2008/10/21(Tue)  912
 
 おなじ大学を出て、いちおうおなじような知性をそなえて、おなじ大学で教えていた。似たようなことを続けていれば、黙っていてもお互いの意志の疎通もスムーズにゆく。
 小川 茂久とは、親しい友だちなので、相手のささいな心の動きまでわかっている。黙っていても、相手の心がつたわってくる。
 大学の事務室で会って、
 「あとでナ」
 といえば、それからの予定はきまっていた。

 桜木 三郎(「集英社」の編集者)が、明治の旧文芸科の出身者だけの文学雑誌を出そうとして私に相談にきた。彼の心づもりでは、「早稲田文学」や「三田文学」が出ているのだから、明治もおなじような雑誌を出すべきだという。
 私は小川 茂久が「やろう」といえば、どこまでも協力しようと答えた。私は明治出身者だけの同人雑誌などというものに少しも幻想を抱いていなかったが、これが「駿河台文学」という雑誌のはじまりになった。
 創刊号を編集したのは、私だった。
 「駿河台文学」の創刊号を編集することになったが、まるっきり経済的な基盤がなかった。なんとか雑誌を出す費用を捻出しなければならない。
 そこで、翻訳のアンソロジーを作って、その印税を雑誌の費用にあてようと考えた。
 これが『ミステリーをどう読むか』(三一書房)という本になった。訳者に明治の出身者を集めたが、ドイツのブロッホを入れることにしたので、これだけは友人の深田 甫(慶応大/教授)に翻訳を依頼した。
 深田君に事情を話して、稿料は半分だけで勘弁してもらうことにしたが、あとの訳者たちのぶんは、全額、「駿河台文学」に寄付というかたちをとった。
 ずいぶん強引なやりかただったが、ほとんどの訳者がこころよく応じてくれた。

 「駿河台文学」の創刊号は出せた。しかし、雑誌の内容をめぐって、さまざまな悪評が起きたのだった。小川 茂久は、私に対する批判を一身にひきうけてくれたようだった。もともとそんな同人雑誌に幻想を抱いていなかった私は、これで熱意がさめた。
 結果として「駿河台文学」は4号を出して終わったが、最後の号を編集したのは、小川 茂久だった。
 小川 茂久は、いい出しっぺの私が手を引いたため敗戦処理のクローザーというかたちで、「駿河台文学」の終刊号の編集を引き受けたのだった。
     (つづく)

2008/10/19(Sun)  911
 
 友人から手紙をもらうほど、うれしいことはない。
 小川 茂久は、ほとんど手紙をくれたことがなかったし、手紙をくれるときはいつもハガキだった。なにしろ毎週、2回は会っていたのだから、お互いに手紙を書く必要がなかった。その彼のハガキが出てきた。

    佐々木基一『昭和文学交友記』読了。だいぶ以前、佐々木氏が『東京』紙上で回想記を書いていることを耳にしたことはあったが、これほど長く、まとまったものとは思っていなかった。戦前の共産主義運動を経験した方と、戦前は幼く戦中の小中教育ではすなおに学び、大学ではどたんばの時を迎えて、生をあきらめ軍隊に入った私のような者との違いがひしひしと感得された。君の写真はいつごろのものだろうか、いい目つきをしているね。覚正、関口の名も出てきて、昔のことを思い出し、興味深い。佐々木氏はきびしいがやわらかい、するどいがやさしい心の持ち主だ。
 消印は1984年1月8日。

 佐々木基一の『昭和文学交友記』は、小川が書いているように「東京新聞」に連載された回想。
 覚正 定夫も私の友人で、戦後、小川 茂久、関口 功とともに、明治大学文学部の助手として残り、共産党に入った。柾木 恭介というペンネームで映画評論を書いた。
 私はその後、柾木 恭介とは、まったく疎遠になった。
 後年、小川 茂久は明大仏文科の教授、関口 功は英文科の教授になった。

 ここでふれられている私の写真は、戦後、何かのことで「東京新聞」文化部にわたしたもの。

 小川 茂久はフランス語の先生だったし、私はもの書きが本職で、明治では別の科の講師だったので、大学でのつきあいはなかった。お互いに、授業のあとは以心伝心、行きつけの居酒屋、酒場に足を向ける。山形/庄内の酒が飲める「弓月」か、ママさんが鹿児島ガ阿久根出身の「あくね」。行き先がきまっているので、小川にかならず会えるのだった。
(つづく)

2008/10/18(Sat)  910
 
 シェイクスピアの『リア王』が、ハリウッドで映画化されるらしい。

 「リア王」は、アンソニー・ホプキンス。三人の娘たちは、グウィネス・バルトロウ、ナオミ・ワッツ、キーラ・ナイトレイ。

 監督は、「スウィング・ヴォート」が公開されたばかりの、ジョシュア・マイケル・スターン。

 最近のハリウッド映画にほとんど関心をもたない私でも、つい期待したくなる。「リア王」がアンソニー・ホプキンスでは、およその見当がつくので見たくもないが、グウィネス・バルトロウ、ナオミ・ワッツ、キーラ・ナイトレイたちは、ぜひ見ておきたい。

 はじめてアンソニー・ホプキンスを見たのは「冬のライオン」だった。
 ピーター・オトゥールの「王」と、キャサリン・ヘップバーンの「王妃」が、三人の息子の誰をつぎの国王にするかで、モメている。このとき、ろくでなしだが、いちばん度胸のいい息子が、ほかの兄弟にむかって宣言する。
 「おれはつねに兵士にして、ときに詩人、将来は国王になる!」と。
 のちの獅子心王、「リチャード」。
 アンソニー・ホプキンス、ときに31歳。今思い出しても、凄い役者だと思った。
 その後のアンソニーは、まさに名優といっていいのだが、「羊たちの沈黙」、「ドラキュラ」、「日の名残り」と見てきて、最近のアンソニー・ホプキンスのシェイクスピアものなら、だいたい想像がつく。
 アンソニーの器量では、昔のジョン・ギールガッド、ローレンス・オリヴィエ、ラルフ・リチャードソンなどにはおよばない。

 そういえば、シャネルの「ココ・マドモアゼル」のCMに出ていたキーラ・ナイトレイにかわって、エマ・ワトソンが起用されたとか。
 おやおや。
 あの可愛らしい「ハーマイオニー」が、もう、そんなお年頃なのか。

2008/10/16(Thu)  909
 
 アメリカの、コーヒー戦争が激化して、スターバックスがマクドナルドに追い越されて、はじめての赤字に転落。サブプライム問題によるアメリカ経済の低迷の影響という。ふーん、そうなのか。経済学にうとい私は、こういうニューズを読むと、その因果関係を考えようとする。むろん、私にわかるはずもないのだが。

 スターバックス。4月から6月の純利益で、670万ドル(約7億3千万円)の損失。消費者が、1杯4ドル(約432円)のコーヒーの価格を割高に感じはじめたらしい。
 そこで、スターバックスは、アメリカ国内の600店舗、従業員の7パーセント(1万2千人)を削減する予定。ほら、すぐにこうくる。
 こういう経営者側の対応に、アメリカ経済の先行きがますます気になる。

 私にいわせれば、600店舗、1万2千人の従業員を削減する前に、まだやることがあるじゃないか、といいたくなる。
 従業員の大幅な削減よりも、経営側が退陣すべきだと思う。自分たちの失敗を、従業員の削減で切り抜けようとするのは許せない。トップの交代と同時に、コーヒーの価格を半分に抑え、幹部たち、各店舗の店長たちの給料を一律に10パーセント削減すれば、スターバックスの再建はすぐにも具体化するのではないか。

 アメリカに行ったことがある。アメリカのマクドナルド、ドトール、スターバックスのコーヒーは、だいたいおいしかった。
 現在、マクドナルドの純利益は、約11億9千万ドル。昨年同期の7億3千万ドルの赤字から大きく改善した。
 マクドナルドの国内価格は、コーヒー1杯が1ドル(約108円)。
 スターバックスのコーヒー、4ドルは高すぎる。

 日本でも、マクドナルドはコーヒーの品ぞろえを拡充しているが、ドトール、スターバックス・ジャパンは、今年に入って来店客数が激減している、という。
 ただし、私は、日本のマクドナルド、ドトール、スターバックス、いずれもほとんど立ち寄ったことがない。
 コーヒーがおいしくないから。

2008/10/15(Wed)  908
 
 最近、中央線は事故で運転中止が多い。そこで、すかさず、

    中央線のトンネルは 水がわき

 ろくな連想ではない。私のどこかに、幕末から明治にかけて流行した芝居ばやしのリズムや、メロディーのかけらが残っているのかも知れない。えへへへ。

 千葉の方言に気に入ったものがある。
 いいご機嫌で人と別れる。このとき、「アントネェ」と声をかける。

 語源的には「安堵にね」ぐらいの意味だろう。

 かるく鼻にかかった声でいうと、まるでフランス語のように聞こえる。すこし、サビをきかせると、なにかスラヴふうに響く。(笑)
 千葉でももうほとんど使われていない。ぜひ、これを復活させよう。
 みなさん、「アントネェ」。

2008/10/13(Mon)  907
 
 いつ、どこで、どうして、こんな言葉をおぼえたのかわからない。

 原稿を書きあげると、「ケラケンミョー ミョーウッス ビックリペケペケ」などとあらぬことばを口走り、三枚の短い原稿を書きあげると、ついうれしくなって、

    いんちょ にんちょ ちょちょんが 長三郎

 などとうかれる。

 マージャンであがったときは、ロンと声をかける。ところが、実際には、ドカン、どしん、デンなどと口走るやつがいる。「ほれ、デタデタ」などというのもある。
 リーチで、イッパーツ。エーイ、あがっちゃえ。

 あれとおなじで、まあ、私が、ろくなもの書きではないことがおわかりだろう。
 いつも鼻唄まじりで原稿を書き上げるわけではない。けっこう、あぶら汗をかいているので。だから、原稿を書きあげるとうれしくなる。書きあげた原稿をまるめて、鉦をたたくように、チーンチーン チンチンチン などと唱えたり、トントントン トントントン と、ずり足をしながら茶封筒に入れる。さっそく宛名書き。郵便局にもって行く。

    浅間山には けむりが絶えぬ おいらの胸には 苦が絶えぬ

 などとつぶやきながら原稿を発送してしまえば、あとは野となれ山となれ。(笑)

 「やれやれ、これでシューハミョー、おれの原稿、ポコミョーミョー」などと唱えて、さっそくなじみの酒場に直行したものだった。むろん、トラになるために。(笑)

2008/10/11(Sat)  906
 
 赤塚 不二夫のマンガ、「おそ松くん」のキャラクターたち。
 「イヤミ」のシェーッ。レレレのおじさん。ドジョーウナギ。ハタぼう。
 赤塚 不二夫のキャラクターは、はやし言葉めいたフレーズを奇声とともに発するのだが、これがいい。

 私は、全国各地の民謡のはやしことばのかずかずに興味がある。
 たとえば・・・・

     ケンソン ケンソン ケンペロリン
     スイポウ チンカン チャチャラカペン

 浦賀の虎踊り。これに、「レゲール」といった踊りがつく。

     レゲール カンロンオース エンエン ブツブツ フルルレオース
     ウタント クワント シゼント メエレンニク テレキン
     ニンニョーニョー オケラケン

 虎踊りの「チャラチャラ」になると、奇妙キテレツ、まったくわからない。

     チャチャーラ チャチャーラ チンカラ ケンプリ オケケンケラケン
     ケラケンミョー ミョーウッス ビックリペケペケ。
     バンニャ カクサン キンナイロー ペッペケ キンナイロー ジョユ
     シューハミョー オンチカロクシン キュー シンポコポコ ポコミョーミョー
 ナカナカサカリキ エスエーエ エース エススリャ オンリャコッチュー 
チーヤッチ オンリャコッチュー

 さながら呪文のつらなりだが、歌は和藤内の虎退治にまつわるもの、その背後になにやらエロティックな暗喩が隠されている・・・ように見える。

2008/10/09(Thu)  905
 
 テレビで、ホラー映画「ハイド・アンド・シーク」(’05年)を見た。
 ダコタ・ファニングという子役女優を見たかったから。この女の子は、まさに「ハリウッド・ニンフェット」のひとり。
 彼女は、やがてハリウッドの「現在」を代表する女優になる可能性を秘めている。
 ただし、少女スターだったマーガレット・オブライエンのような例もあるので、私の期待だけに終わるかも知れない。もっと美少女だったリンダ・パールとか。「ダウンタウン物語」で、ジョデイ・フォスターと共演した美少女、フローリー・ダガーとか。

 この映画のイントロダクションで、ヒロインの母親が、浴槽で手首を切って自殺する。なんと、エミー・アーヴィングだった。おぼえている人がいるかどうか。「キャリー」の女子高生。「デランシー・ストリート 恋人たちの街角」で、とても善良な男、ピーター・リガートを愛してしまう女性。エミーが誰と結婚したか、ここには書かない。残念なことに、エミーはそれほどいい女優になれなかった。

 自分が「後期高齢者」(ルビ/くそGG)になっているのだから、かつてスクリーンではじめて見た女優が年齢を重ねても不思議ではない。それをわかっていながら、リンダ・パールは消えてしまったし、エミーがいい女優になれなかったことは残念な気がする。

2008/10/07(Tue)  904
 
 かつて名人と呼ばれた歌舞伎役者に、中村仲蔵がいる。
 はじめ、秀鶴といった頃は、芸も未熟で、俗にいうペイペイ役者だった。あるとき、並び大名で舞台に出たが、顔(メーク)は赤く隈どり、着ている衣裳は糊のきつい麻の素袍(すほう)。二日、三日と舞台をつとめれば、糊が落ちてシワが出る。
 クタクタになって見ぐるしいのに、役者たちは、楽屋に入っても、付き人に衣裳をまかせっきり。たたみもせずに、衣裳棚にあげておいて、翌日も、そのままおなじ衣裳で舞台をつとめる。だから、ひどく見ぐるしかった。
 秀鶴ひとりは、衣裳を人手にかけず、その衣裳を水のしする。(麻は汗を吸い込むので、脱いだあと水にさっとつける。そのうえでピンと渇かす。これを水熨斗という。)
 きれいにたたむ。毎日、こういうふうに丁寧に始末しておく。翌日、その衣裳を着て舞台に出て、列座の役者たちとならぶと、ひときわすぐれて、りっぱに見え、いかにも上手らしく見えたので、観客の注目を浴びた。
 そのため、劇場の経営者も眼をつけて、
 「あいつには一器量がある。つぎの狂言(レパートリー)には、これこれの役が似つかわしい。その役に抜擢してみよう」
 同輩の役者たちのなかから、秀鶴を起用すると、その役も相応につとめたので、次第しだいに、いい役をつとめるようになった。役者としての位もあがってくる。やがては名人といわれて、今にその名を残した。

    天下に名を轟かす者は、初めより其の器量衆に超へたり、戯作も此の秀鶴(のちの仲蔵)が心懸(こころがけ)にて、常に心を用ゐ、一句一章たりとも疎かに書くまじきものなり、丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に書きたけれ、画わりにも工夫を凝らすべきか

 ということになる。
 (つづまやかという表現は美しいが、死語になっている。)

 仲蔵のアネクドートは、種彦の書いたものを私が忠実に訳したもの。

2008/10/05(Sun)  903
 
 柳亭 種彦(1783〜1842)が亡くなったのは、天保13年7月18日。享年、60歳。水野越前の天保の改革で死ぬことになった作家である。

 辞世の句に、

    散るものに さだまる秋の柳かな

 おのれの死を見つめての作なので、軽々に批評すべきものではないが、

    源氏の人々のうせ給ひしも大方秋なり
    秋も秋 六十帖をなごりかな

 この句のほうがずっといい。種彦の内面がつたわってくる。

 種彦は「田舎源氏」が絶版を命じられた。いわゆる天保の改革で、この結果、作品は中絶し、作者は心痛のうちに死んだ。(ついでに書いておくが、私は歴代の江戸幕閣で水野越前守、その下僚どもをもっとも唾棄すべき連中と見ている。)

 種彦については、あまりよく知らない。小林 秀雄が一度だけ種彦の名をあげたことがあって、小林 秀雄がとりあげている以上、ぜひ種彦ぐらいは読んでおこうと思った。
 当然、『田舎源氏』は読んだほか、ほかには初期の怪談、『近世怪談霜夜星』とか『浅間嶽面影草紙』、『逢州執着譚』などを読んだ。出てくる登場人物がそろっていい加減で、出てきたと思うとあっという間に死んでしまったり、やたら偶然に出会ったりするのに辟易した。こういうご都合主義というか、偶然の頻発を見ると、江戸時代の作家が羨ましくなる。
 『浮世形六枚屏風』は、英訳があるそうな。英訳をさがす気もないので、種彦の原作を読んでみたが、主人公がイヌをめがけて石を投げたとき、うっかり懐中にした百両を投げてしまう。途方にくれて、死ぬ気になった男が、腹いせに犬張り子に八つ当たりをする。なんと、そのなかから百両の包みがころがり出して、めでたしめでたし。
 あまりのアホらしさにいささかあきれた。

 それでも、種彦の創作観を知って興味をもった。
 種彦は、名人といわれた俳優、中村仲蔵のエピソードにふれながら、
 「後に上手と人に云はるる者は未熟なる初めより其の器あらはるるなり」という。

    天下に名を轟かす者は、初めより其の器量衆に超へたり、戯作も此の秀鶴(のちの仲蔵)が心懸(こころがけ)にて、常に心を用ゐ、一句一章たりとも疎かに書くまじきものなり、丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に書きたけれ、画わりにも工夫を凝らすべきか

 これでわかるように、種彦の創作論は、平凡だが、かなりきびしいものだったといえるだろう。(仲蔵のエピソードは、あとで紹介する。)
 ずっと後年の紅葉あたりまで、種彦の創作論は継承される。

 「後に上手と人に云はるる者は未熟なる初めより其の器あらはるるなり」

 たしかにそうだよ。谷崎 潤一郎、三島 由紀夫などの登場を見れば納得できる。
 おなじことはたぶんほかのジャンルでも共通で、翻訳でも、お笑いでも、芝居の役者でも、「丁寧反復してつづまやかに筋の通る様に」見えないといけない。

 「画わりにも工夫を凝らすべきか」という意見は、アニメーション、マンガ作家にそのまま聞かせてやりたいね。
 これもついでに書いておくと、種彦のイラストは、はじめのうちこそ北斎、重政などだが、のちに圧倒的に国貞が多くなる。
 作家とイラストレーターの幸運なめぐりあい。

2008/10/03(Fri)  902
 
 「プレイボーイ」(’08・10月号)に、マリリン・モンローの記事と写真が掲載されている。有名なイラストレーター、アール・モランのモデルになったときの写真で、わずか2枚だが、久しぶりにマリリンに会えた。
 まだ、まるっきり無名のモデルとしての修行時代のマリリン。

 アール・モランの短い説明がついていた。

 無名のモデルだったマリリンは、はき古した靴をはいていた。あまりボロボロだったので、前にきたモデルの靴を与えたという。
 その後、マリリンは、いわゆる「モンロー・デスヌーダ」(ヌード・カレンダー)のスキャンダルをきっかけにスターへの階段をかけ登ってゆく。
 やがて、マリリンは「アスファルト・ジャングル」で使った衣裳を、アール・モランに贈ったという。

 おそらくほんとうのことだろう。いい話だ。ただ、ここには、おそらくアール・モランが気づいていないことがある。

 私は、このみじかい「説明」から、マリリンの人生に関して、いくつかのことを考え、かつ、(私にとって)興味深いことを想像する。
 当時、無名のモデルだったマリリンは、毎日、ボロボロにはき古した靴をはいていたこと。なにしろ貧乏だったから買えなかった。誰でもそう思うだろう。
 私はもう少し別のことを想像する。自分が日常はいている靴がボロボロになるまではき古しても、気がつかなかったか、気にとめなかったか。靴がボロボロになっても使えるあいだは平気ではいていた、というノンシャランな姿勢。

 若い女が、ボロボロになるまで靴をはき古しても、気がつかなかったとは考えられないだろう。しかし、当時、マリリンは、イタリアの名女優、エレオノーラ・デューゼの評伝を読んで感動していた。そのデューゼに私淑していたマリリンが、無名の頃の名女優・デューゼが、それこそ食うや食わずで切磋琢磨していたことに心を動かされていた、と見てもいい。
 私としては、当時のマリリンはもう少しあっけらかんとしていたかも知れないと思う。自分のはいている靴がボロボロになっても、そのうち誰かが買ってくれるだろう、ぐらいに考えていたとしても不思議ではない。マリリンには、そういういい加減さ、図太さ、わるくいえば自堕落なところがある。そこが、マリリンの可愛らしさでもあるのだが。

 「プレイボーイ」に出た写真のマリリンはわかわかしい。アンドレ・ド・ディーンズの写真よりはあと、トム・ケリーの写真よりは前。その1枚は、めずらしいスナップショット。マリリンが、ちょっと口を尖がらせている。こうした sulky な表情のマリリンはめずらしい。といっても、怒っているわけではない。もっと幼いシャーリー・テンプルが、よく見せる不機嫌な表情に近いもの。むろん、マリリンはハリウッド・ニンフェットではない。

 アール・モランが何も気づいていないこと。
 ――「アスファルト・ジャングル」の衣裳を、アール・モランに贈ったという一節に私は注目する。むろん、感謝の心をこめて贈ったはずだが、はたして、自分がスターレットとして「アスファルト・ジャングル」の大きな役をつかんだという報告のために贈ったのか。

 マリリンが恋人だったフレッド・カーガー、アーサー・ミラーの父親、イシドア・ミラー、あるいはイヴ・モンタンに贈ったものを思い出してみると、これはなかなかおもしろい。

2008/10/01(Wed)  901
 
 俳優、ルイ・ジュヴェは、何かむずかしい問題にぶつかると、さっそく誰かれなく、その問題について知っていそうな人のところにとんで行ってお伺いを立てる。
 むろん自分でも徹底的に考えるのだが、自分が到達したところと違う答えが聞けるかも知れない。ジュヴェはそう思うのだった。

 ある日、劇作家のトリスタン・ベルナールに会いに行った。ベルナールのオフィスは、ひどく狭苦しい階段の上にあった。
 ふたりが何を語りあったのか。残念ながら、私は知らない。

 ベルナールは、フランスきっての喜劇作家なのである。ルイ・ジュヴェは、熱心なカトリックだった。

 帰り際に、ジュヴェは大真面目な顔で、ベルナールにいった。
 「先生、注意してくださいよ。この階段、二段ばかりカトリックじゃありませんよ」(つまり不信心でぐらぐらという意味だろう・中田注)

 「ああ。だけど、おれだって違うからね」

 後日、友人にこの話をしたジュヴェは、途中でたいへんなことに思い当たったように、気の毒なほどうろたえて、
 「ひょっとして、劇作家先生、気をわるくしたんじゃないだろうか」
 友人はにやりとして、
 「まさか! そんなことで気をわるくするトリスタンじゃないさ」
 「ああ、よかった! 安心したよ」

 いまにも泣きそうな顔で、胸をなでおろすジュヴェを見ると、つい、いってやりたくなるのだった。
 「まったく、ルイときたら・・つまらないことにこだわるからなあ」

 このエピソードを私は評伝『ルイ・ジュヴェ』でつかわなかった。しかし、ジュヴェの「心配症」がよくわかる。
 名優なのに、人づきあいが下手で、不器用で、他人からひどく剛腹な人間にみられて、いつも無用の誤解をうけていた男のかなしさ、おかしさが、こんなエピソードからもよくわかる。

2008/09/29(Mon)  ☆900☆
 
 「俳優という職業はつらいものだ」と、サマセット・モームはいう。モームがいっているのは、自分が美貌だからという理由だけで女優になろうとする若い女性や、ほかにこれといった才能もないので俳優になろうと考えるような若者のことではない。
 「私(モーム)がここでとりあげているのは、芝居を天職と思っている俳優のことである。(中略)それに熟達するには、たゆまぬ努力を必要とする職業なので、ある俳優があらゆる役をこなせるようになったときは、しばしば年をとり過ぎて、ほんのわずかな役しかやれないことがある。それは果てしない忍耐を要する。おまけに絶望をともなう。長いあいだの心にもない無為も忍ばなければならぬ。名声をはせることは少なく、名声を得たにしてもじつにわずかばかりの期間にすぎない。報われるところも少ない。俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気にいられなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら大衆の偶像に祭りあげられていたことが、なんの役にも立たない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。これを考えるとき、私は俳優たちが波の頂上にあるときの、気どった態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、バカをつくそうと、勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。」
 いかにもモームらしい辛辣な意見だが、私はモームに賛成する。だから俳優や女優のスキャンダルを書きたてる芸能ジャーナリズムにはげしい嫌悪をおぼえる。
 ジュヴェもまた傷ついたに違いない。だが、けっしてわるびれることなく生きた芸術家なのである。悪戦苦闘をつづけてきたジュヴェの生きかたをたどりながら、私の内面にジュヴェの姿が浮かびあがってきた。少し時間がかかりすぎたが、八年という歳月はさして長いものではない。書けないときは仕方がない。花をデッサンしたり水彩で描いたり写真を現像したりしながらジュヴェのことを考えつづけていた。

 この評伝を書きながら私がいつも思い出していたことばがある。
 「この世には、短時日では学べないことがいくつかある。それを身につけるには、私たちがもっている唯一のものである時間というツケをたっぷり支払わなければならない。ひどく単純なことだが、それを知るには一生かかってしまうので、一人ひとりが人生から手に入れるわずかばかりの知識はやたらに高いものにつく。それだけが、後世に残すただ一つの遺産なのだ」と。
 ヘミングウェイのことばである。

2008/09/27(Sat)  899
 
 地方の小都市の駅前に立ってみよう。荒涼とした風景がひろがっている。
 商店街は軒なみ昼間からシャッターを閉めて、まるで活気がない。まるで死んだような土地が多い。生活必需品はコンビニで買うにしても、その土地名産の和菓子などの店も元気がない。「美しい日本」などどこにもないし、「安全実現」もない。
 数年前までは、たとえば古本屋の一つふたつ、ほそぼそながら商売をしていたものだ。しかし、いまでは小都市にかぎらず、大都市の古本屋までが、量販専門の大型ブックショップに駆逐されてしまった。

 大多数の日本人は、古典はおろか、明治、大正、昭和前期の文学さえ読むことがなくなっている。直接には国語力のいちじるしい低下によるが、そうした教育を推進してきた教育の責任も大きい。
 むろん、文学作品などは読まなくても生きていける。
 日本赤軍のリーダーだった永田某という女性は、古典にかぎらず、およそ文学作品などは読まなかったという。あれほど陰惨な「総括」を行ったこの女性が、文学作品などは読まなくてもいいと思っていたことは間違いないが、革命家として、先天的に何かが欠落していたはずである。
 秋葉原で無差別殺人を起こした加藤某は、どんな文学作品を読んだのか。幼い少女をつぎつぎに殺した宮崎某は何を読んだのか。ぜひ知っておきたい。

 こういう荒廃は直接には誰に責任があるのか。

 免疫学者の多田 富雄先生は、その原因の一つに、経済効率を優先して、地方文化を無視した行政改革で強行された、無秩序な市町村合併をあげている。

    古い伝統ある地名が、惜しげもなく捨てられ、ききなれない珍奇な名前に変わった。地方文化は破壊され、愛郷心は失われ、住民のアイデンティティーはなくなった。それは故郷を奪い、国を愛する心を失わせる行為であった。

 その無秩序な市町村合併を推進したのは、小泉内閣だった。そして、大型店舗の地方進出をバックアップしたのは、中曾根内閣だった。
 小泉 純一郎、中曾根 康弘の名を忘れないようにしよう。

2008/09/25(Thu)  898
 
 福田首相が突然辞任して(’08.9.1)、麻生新内閣が発足した。いずれ総選挙ということになって、蝸牛角上の争いがつづいている。

 私の「文学講座」は、いよいよ戦後にさしかかってきた。私流の「文学史の書き換え」なのである。
 この夏、ろくに本も読めなかったので、少しづつ本を読みはじめている。

 話は違うが・・・私などにも、いろいろなひとが著書を送ってくださる。ありがたく頂戴して読みはじめる。同人雑誌で、すでに作品を発表している女性作家のものは、なまじ文学的なグループに参加しているだけに、いかにも書き慣れた作品が多い。そして、主宰の著書は読んでいても、古典も、外国の作家もほとんど読んだことがない(と、判断する)。
 ほとんどの作品は、自分の書きたいことをまとめただけで、ものを書くという緊張はない。だから、せっかく頂戴しても大概の作品に感心しない。

 著者にはかならずお礼のハガキを書く。
 そういう作品を読むことで、じつにいろいろな問題を考えることができるから。
 チャットやネットで、しごく簡単におなじ趣味をもつ仲間を探すことができる時代に、顔も見たことのない私に、わざわざ本を贈ってくださるのだから、お礼を申し上げなければ罰があたる。

 いま、たまたまこんな文章を読んでいる。

    秋のけはひの立つままに土御門殿の有様、いはんかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの叢、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艶なるに、もてはやされて、不断の御読経の聲々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。

 ある作家の日記のオープニングだが、わずか数行ながら、秋の季節の訪れを感じている作者の内面の動きがみごとにとらえられている。
 そして、何をおいてもまず緊張がある。

 私は考える。作品を書くということは、こういう文章に、せめてひとすじ、どこかでつながることではないだろうか。

2008/09/24(Wed)  897
 
 私の好きな俳句。

    初恋や 灯籠によする顔と顔    太祇

 この「灯籠」(とうろう)は、もともと常夜灯の謂(いい)だが、7月朔日から晦日ごろまで、盂蘭盆にどこの家でも新仏(しんぼとけ)のために飾られる。ペール・ブルー、ないしはエメラルド・グリーンを基本にした美しい飾り灯籠。(とうろ)と呼んでもいいらしい。私は、わざと(ひかご)と呼んだりする。
 この灯(ほ)かげに、顔と顔を寄せあって恋をささやいている。
 あるいは、何も語らずに、お互いに眼と眼を見つめあっているのか。

 初恋だから、エメラルド・グリーンの灯(ほ)かげがいい。

 炭 太祇、江戸中期の俳人。島原の妓楼の宗匠だったせいか、あまり人気がない。蕪村とはとうてい比較にならないマイナー・ポエットと見られている。

 蕪村の

    水鳥や 提灯遠き西の京 

 に対して、太祇の

    耕すや むかし右京の土の艶 

 を並べても、さして遜色はない。

    ふりむけば 灯とぼす関や 夕霞

 これは旅の一句。
これもいいけれど、「初恋や」のほうがいい。私としては、この人の俳句に好きなものが多い。

 ところで、「広辞苑」で、太祇(たいぎ)を引いたところ、

太祇(たいぎ) 炭 太祇。

 とあった。これだけである。「たん・たいぎ」の記述はない。
 「広辞苑」でさえこうなのだから、太祇はもはや忘れられた俳人と見ていい。しかし、「広辞苑」に記述がなくとも、太祇のすぐれた俳句は心に残る。

2008/09/23(Tue)  896
 
 大植 英次という指揮者のことば。

    指揮者は作品を通じて、モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日付きあえる。こんな幸せな職業がほかにあるとでしょうか。

 いいことばだと思う。

 私は批評家として、じつにいろいろな作家を読んできた。むろん、私といえども、作品を通じて、ドストエフスキーやヘンリー・ミラーのような天才と毎日つきあってきた。しかし、私は天才ばかりとつきあってきたわけではない。
 その意味で、批評家なんてちっとも幸せな職業ではない。

 いろいろな作家を読んできたことは、それだけいろいろな運命を見つめてきたことでもある。
 モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日つきあえても、かならずしも幸運ではない。私は、もっとずっと平凡な才能たち、あるいは、もっとずっと俗悪な連中ともつきあってきたし、うんざりするほど才能のない連中も見てきた。

 それでいい。そのことに悔いはない。

 私の内面にどっかり腰をおろしている、ひたすらなる混沌は、才能もないのに文学の世界に飛び込んだせいだろう。しかも私は、そのことをいささかも後悔していない。モーツァルトやベートーヴェンのような天才と毎日つきあえなくても、それはそれでいいのだ。

2008/09/22(Mon)  895
 
 (つづき)
 国運をかけた戦争をしている最中に、こんなことがあっていいのか。眼がくらむような気がした。
 そういう考えのうしろには、私がまだまったく知らない女たちのなまぐさい生理の匂いをかぎあてたからではなかったか。若い娘たちは、戦争にまったく関係なく、ひそかに憧れている男の前で裸になって、自分の性器に男のペニスをうけいれたがっている。

 私は、そういう娘たちが灰田 勝彦に抱かれるところを想像した。少しも実感はなかった。中学生が、かりにそういう娘たちを相手にして何かが起こることを期待していたとは思わない。しかし、自分の知らない世界が、いきなり眼の前につきつけられたことにひどく狼狽したのだった。

 四谷は意外に起伏が多く、暑い日ざかりに自転車で郵便物を配達するのは、中学生にはきつかった。四谷見附から大木戸にかけての新宿通りはゆるやかな鞍部になっているが、北の荒木町、舟町、愛住町といった地域は、靖国通りに向かっての下り坂。
 東南は赤坂に向かっての谷。
 外苑からあがってくるのは、安珍坂。
 四谷の名前にふさわしい風景がひろがる。

 私は、四谷の町が好きになっていた。後年、『異聞霧隠才蔵』という時代ものを書いたとき、四谷の左門町あたりを思いうかべて書いた。
 左門町から信濃町に向かって行くと、お岩稲荷がある。後年、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を読みふけったのも、この頃、四谷を歩きまわったせいだろうと思う。

 それはそれとして・・・若い娘たちが、逢ったこともない男に裸身をさらして悔いない、と知ったときの驚きは、私の心のなかで、別のかたちで発展して行った。

 この驚きは、いまの私のエロティシズムの研究までつづいている。

 いまの私は・・・戦争にまったく関係なく、ひそかに憧れている男の前で裸身を投げ出そうとまで思いつめていた娘たちに感嘆する。むろん、論理的にうまく説明はできないのだが。
 彼女たちは戦争についても、自分のセックスについても、まったく言挙げしなかったが、逢ったこともない男に裸身をさらしてでも女としてのスポンタネ(生得的)な権利を主張していたような気がする。それを非難する権利は男にはない。

2008/09/20(Sat)  894
 
 ある年の夏の日ざかり、中学生の私は、毎日、四谷区内を自転車で走りまわっていた。
 勤労動員で、四谷の郵便局に配属された。全学年のうち、三年生が都内各地の郵便局にそれぞれ配属されて、私のクラスは、四谷の郵便局を担当したのだった。
 私たちの作業は、その日に投函されたハガキを集めて、機械で消印を押す。封書は、台の上に並べて、片手で木槌のようなスタンプを打つ。簡単な作業で職員が手本をやってみせたが、中学生には半分の能率もスピードも出せなかった。

 郵便物をあつかっていると、社会のさまざまな動きが眼に見えるようだったし、戦争についても、意外な事実が分かるのだった。私たちには、その存在さえ秘密にされていた戦艦「大和」の乗組員にあてた手紙があったり、中国大陸からの軍事郵便があったりして、漠然と戦況が想像できるのだった。

 その郵便物を都区内、全国各県別にわける。当然、全国からも四谷あての郵便物が殺到してくる。四谷区内あての郵便物は、それぞれの町名でわけられて、50名ばかりの中学生が、赤い自転車に乗って配達する。
 いまでいうArbeitだが、この配達は楽しいものだった。

 新宿が管轄区域だった。

 当時、歌手、映画スターとして、たいへんに人気の逢った灰田 勝彦が、新宿第一劇場に出ていた。
 毎日、ファンレターが殺到してくる。午前の最初の集配で、ビリヤード台ほどの大きな台にうず高いファンレターの山ができる。
 これを、仕分けるのも私たちの仕事で、新宿の劇場に届けるのは、局員の仕事だった。クラスのなかに不良少年がいて、そのファンレターを何通ももち出して、昼休みになると、仲間どうしで開封した。
 私は外まわりの配達ばかりやらされていたので、その手紙を盗み読む機会はほとんどなかったが、不良どもが読みふけっているところに戻ってきて、肩ごしに何通か読んだ。

 若い娘たちが書いた手紙というだけでも好奇心をそそるにじゅうぶんだったが、その手紙を読んで、ファンの心理を知った、というより、いきなり若い娘の生理を眼の前につきつけられたような気がした。
 大部分は、純真なファンらしい手紙だったが、いい匂いのするレターペーパーに、口紅のキスマークをつけたものなどがあった。
 そのなかに、やはり口紅で花か何かのプリントを押しつけたものがあった。しばらく見ているうちに、私はやっと理解したのだった。あえていえば、その美しさに茫然としたといってよい。
 そのなかに、中学生の私の内面を震撼させた内容のものもあった。それは、灰田 勝彦に面会をもとめたり、処女をささげたい、といった露骨なもので、悪童たちを驚かせた。
 娘たちは、こんなことばかり考えているのだろうか。
 私はひどいショックをうけた。
     (つづく)

2008/09/19(Fri)  893
 
 (つづき)
 昭和二十年十一月二十九日という日付から、私の内面にさまざまなイメージがかけめぐった。
 戦火に焼けただれた街にアメリカ兵が颯爽とジープを走らせている。戦争が終わったばかりの都会には、おびただしい数の浮浪者があふれていた。いまでいうホームレス。そして、浮浪児たちの群れも。
 若いGI(兵士)をめあてにあらわれるパンパンと呼ばれる街娼たち。女たちはGI(兵士)をホテルなどにつれ込まない。路上に駐車しているジープ、夕暮れのビルの屋上、焼け残った公衆便所、皇居のお堀端の土手、地下鉄の階段、防空壕の盛り土、女たちのベッドはいたるところにあった。
 夜更け、焼けビルにつれ込まれて強姦される女たちの悲鳴。
 こうした混乱と頽廃が、あわれな敗戦国の現実だった。

 山口 茂吉は、敗戦直後の日々に、この歌集『あづま路』の選を続けていたはずである。だが、この歌集には戦時中の生活の苦しみ、あるいは、敗戦という衝撃はまったくうかがうことはできない。しかも、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)にかけての作歌だけを選んでいる。つまり意識的に戦争を排除したと見ていい。ここには再出発にあたって敗戦直後の日々を生きていた歌人の、静謐な心境などはない。むしろ、いいがたい動揺を私は見る。
 山口 茂吉の「あとがき」は、戦争が悲惨なかたちで終わったことに関してまったく言及がない。だから、自選歌集『あづま路』には、そもそも戦争の翳りなどさしていない。このことに歌人の動揺を私は見る。
 昭和二十年十一月二十九日夜半。すでに、連合軍の占領がはじまっている。時代の激変のなかで、歌集の歌を選ぶにあたって「みづからの心に期するところがあって、これを一気に選び了へることができた」という。
 日本の将来さえ見えていない時期に、山口 茂吉がのうのうとして歌集を編んだわけではないだろう。だが、「みづからの心に期するところがあって」という感懐には何があったのか。
 「戦後」の斉藤 茂吉のはげしい懊悩を、山口 茂吉はどこまで気がついて、理解していたのか。

 いま、歌集『あづま路』(1946年)を手にして、敗戦直後の歌人が語らなかった、あるいは語ることのできなかった痛みを思い描く。

2008/09/17(Wed)  892
 
 暇なので、歌集をひもとく。川柳ばかり読んでいるわけではない。

 歌集『あづま路』(1946年)を手にとってみよう。

 山口 茂吉(1902〜1958)は、「アララギ」系の歌人。生涯をつうじて、斉藤 茂吉に師事した。この『あづま路』は、戦後最初の自選歌集。

    六層の階下るとき正午(ひる)を告ぐるサイレンの音しばらく鳴りぬ

    陸橋の下の舖道に冬の日のふかく差せるを見つつ通りぬ

    新しき年の来むかふ夜のほどろ眼を病みたまふ母しおもはゆ

    銀座にてきぞの夜逢へるをとめごは貞操のことなどを語りつ

 「冬の日」から。暑いので、わざと冬の歌を選んだ。
 山口 茂吉は斉藤 茂吉のお供で石見に旅行したとき(斉藤)茂吉が病気になったらしい。

    石見のくに行きつつ君は旅ぐせの下痢に一夜をなやみ給ひし

    夜中すぎ下痢をもよほし起きたまふ君がけはひに覚めてかなしむ

    旅にいでて下痢をすること癖のごとくなりつつやうやく君老いたまふ

 斉藤 茂吉に対する深い敬愛がうかがえる。
 しかし、旅先で下痢をしたことまで詠まれては、先生としてはツラいだろうなあ。私は、高村 光太郎を思いうかべた。
 おなじように東北の厳しい風土に隠遁しながら、斉藤 茂吉における山口 茂吉のような弟子をもたなかった高村 光太郎のいたましさを。

 ところで・・・この自選歌集『あづま路』は、大正15年(1926年)から昭和15年(1935年)の作歌、518首を選んだもの。作者、二十五歳から三十四歳の時期。
 「あとがき」に山口 茂吉は書きつけている。

    時雨のあめの降りそそぐ寒い庭に対つてこの集の歌を選びながら、幾たびとなく斉藤茂吉先生の居られない東路の寂しさをおもはぬ訳には行かなかつた。私はみちのくへ疎開して居られる先生の上をはるから偲びつつ先生の御幸福を切に祈つてやまないものである。昭和二十年十一月二十九日夜半、東京麻布にて、山口 茂吉しるす。

 この一節に、私の胸に複雑な思いがあった。昭和二十年十一月。
 日本が敗戦の苦痛と、再建へのわずかな希望にのたうちまわっていた時期である。
                            (つづく)

2008/09/16(Tue)  891
 
 夏の菓子はくず饅頭、水牡丹、水仙ちまき、芋羊羹、葛やき等々、すべてくず製のものを最上とする、という。万葉学者の沢瀉 久孝博士が書いていた。(「菓子三昧」昭和26年)
 沢瀉先生は和菓子がお好きだったらしく、「菓子放談」(「菓子三昧」昭和26年)の一節に、

    夏は夏らしく、冬は冬らしく、名を聞いてゆかしく、見た目に美しく、指につまんでやはらかく、ほのぼのとうるほひがあり、唇ざわり、舌ざはりなめらかに、歯にくっつかず、とろとろと溶けて、あはあはと消え行くものが私には最も好ましい菓子だと思ふ。

 と書いている。
 沢瀉先生にしてみれば、ぜんざいは困る。つぶあんはお気に召さない。「あはあはと消えて行かない」から。
 菓子は調進して三時間ばかりたったときが食べ時だという。

    わらび餅が翌日になると、その手ざわりに弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになり、唇に纏はりつくやうな、ぴりぴりとはずむ力がなくなって、わらび餅の魅力は消える、とかつても書いた事があるが、それ程でなくともすべて生菓子の宵越しを意としないのは菓子ごのみの人のわざとは申し難い。世は定めなきこそいみじけれ。缶詰にならぬところに和菓子の良さがある。(「関西大学学報/昭和26年)

 日ましのわらび餅が、手ざわりの弾力を失ひ、子をあまた生んだ女の乳房のやうになるという表現に、思わずにんまり。

 戦後、来日した詩人のエドマンド・ブランデンが、漢字制限と「かなづかひ」の混乱を見て、「美しいものがなくなってゆくのは見ていてイヤなものです」と嘆いたという。沢瀉先生はこれにふれながら、

    かういふ低俗蕪雑な世の中に、くぬぎの薪でたいた餡でつくった蒸菓子などをすすめるのはむだなことで、和菓子の色付にはならぬ毒々しい口紅をつけた女と缶詰でも開いてダンスでもおどって、空缶は道ばたへ捨てておいたらよいのかと思ふけれども・・。

 私は、夏の和菓子では葛まんじゅうが好きなので、沢瀉先生のエッセイを読んでうれしくなった。そして、考えた。沢瀉先生が、いまの和菓子を召し上がったらいかが思し召されるだろうか、と。

2008/09/14(Sun)  890
 
 この夏、テレビで北京オリンピックを見た以外は、英語の小説はたった1冊しか読まなかった。(むろん、未訳)。夏の一夜、暑気払いに、したしい友人たちと集まって、ビールを飲んだのも1回だけ。
 とにかく暑いので、せいぜい歌集、句集をひもとく程度。

    庭のままゆるゆるおふる夏草を分けてばかりに来む人もがな

 「庭のまま」は、庭のかたちのままに、という意味らしい。築山とか池とか、いろいろなきまりにしたがって作られた庭なのだろう。その庭が、いまは夏草がゆっくり、だがしどけなく伸びてきている。そのしげみを踏みわけて、私をおとずれる人はいないのだろうか。
 作者の和泉式部と、敦道親王の恋を重ねてみれば、夏の季節に、「ゆるゆるおふる」状態で萌える、女人のエロティックな内面、女人の生理までいきいきと感じられる。

    山をいでて暗き道にをたづね来し 今ひとたびの逢ふことにより

 この歌は、和泉式部にしては傑作ではないらしいが、私にはこの女性のやさしさ、おののき、よろこびが感じられる。と同時に、自分が歩いてきた山々の印象を勝手に重ねて、好きな歌のひとつにきめている。
 この一首、なぜか「暗き道にを」の助詞が異様に思われる。
 彼女の日記では、

    山を出でて暗き道にぞたどり来し今ひとたびの逢ふ事により

 となっている。「暗き道にぞ」という強調。「たづね来し」が「たどり来し」になっている。そして「今ひとたびの逢ふこと」と「今ひとたび」愛する人と「逢ふ事」のはげしい違い。

 私としては、「こんなに暑いと山へ行き度くなる」という思いがあって、前の歌のほうがいい。むろん、勝手な思い込みで読んで、勝手なことを連想しているにすぎない。
 山を下りて、長いルートをたどって夜になってしまった。東京に帰る夜行列車にぎりぎり間に合うかどうか。もし、遅れた場合は、駅の近くのとどかで一泊しなければならない。それでも、またいつかこの山に登れればと思いながら、疲れた足どりで暗い道を急いでいる。そんな自分の姿を重ねている。

 ごめんなさい、和泉式部さま。

2008/09/13(Sat)  889
 
 いやぁ、まだ暑いね。まいりましたな。
 「猿蓑」の附合(つけあい)に、「暑し暑しと門々の聲」というのがあるが・・・今年の7月は猛暑がつづいた。
 京都などでは、31日間、連続で「真夏日」。これは、1994年以来という。
 千葉だって、「真夏日」は23日間もつづいている。こうなると、「暑し暑しと悶々の聲」だよ。

   「暑い! いつもガンガン照りつけるならばまだ辛抱も出来る物の、どんよりとして何だか圧しつけられる様に、どうしても癪に触る暑さである。いつその事あばれてしまへと云ふ、やけくそで、コートヘと飛出してラケットで当り散らかせば、二セット目には、あれあれ! シャツからズボンまで、づつくりと水の中から出て来た様で、眼と云はず鼻と云はず滝流しである。一風呂浴びて、少しは風でも出たかと思へば、是は又どうした事かそよとも云はない。晩飯の膳に向かっても、あれほど運動したのに扨て食ってみたい物は冷(ひや)ぞうめん位な物である。
   こんなに暑いと山へ行き度くなる。」

 辻 二郎の『西洋拝見』(岩波書店刊/昭和11年)から。どうやら1936年(昭和11年)の夏も暑かったのだろう。
 辻先生は、寺田 寅彦に似て、科学者、随筆家。科学者として、当時最高の名誉だった恩賜賞を得た。随筆はおもに登山の思い出、アマチュア写真家としての観察など。
 この『西洋拝見』は、小説仕立てのヨーロッパ渡航の記録。
 残念ながら小説としてはおもしろくない。この本の後半(つまり、小説以外)は昭和9年までに書かれたエッセイ。私が引用したのは、「山とりどり」という随筆の一節。

    こんなに暑いと山へ行き度くなる。

 ほんとうにそんな気がしてくる。

 昭和初期、辻先生は、松本や大町まで、むし殺されるような夜行列車に乗って、アルプスに向かう。

    ・・重いリュックサックに登山靴を引きづりながら、歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処ばかりだと思ふと一寸うんざりする。其歩くのが又楽しみでもある訳だが、いつも帰ってくると、愉快な事ばかり覚へて居てつらかった事は忘れてしまふ様な物の、実は山登りは、なかなかもってえらい労働である。座ったまんま槍ケ岳の肩位まで行ける様になったらさぞ便利だらうと思ふ。そんな事を云ふと、山の冒涜だ等と云っていきり立つ手合もあるかも知れないが、十年後か廿年後か早晩さうなるにきまってゐる。又早くそうした方がいい。ほんとに歩きたい人間は其から先を歩けばよい訳である。

 現在では、昭和初年の辻先生の予想はほとんど実現している。「むし殺されるような夜行列車」どころか、冷房のきいたコンパートメントで、千葉から松本まで直行の特急が走っている。たいへんに便利になった。登山技術も、装備も、昭和初期とは比較にならないほど高度で、洗練されたものになっている。

 2008年7月、東京都は、近郊の低い山のハイキングコースの案内板に、番号つきの識別標をつけている。遭難者が出た場合、その識別標の管理番号を連絡すれば、ただちに所轄の消防署のヘリが出動して、遭難者の救助にあたるシステムらしい。

 登山者がしっかりしていれば遭難するはずもない山々に、番号つきの識別標をつけるなど、地方の僻地の医療に財政支援を行うこととは、まるで次元の違うことだと思う。
 厳冬の北アルプスならいざ知らず、奥多摩、奥秩父あたりで、識別標の管理番号を連絡すればすぐにヘリが出動する体制をとるなど、どうも感心しない。
 東京近郊の山々だから、こういうシステムが考案され、実施、運営されるのだろうが、むしろハイキングする人たちに、奥多摩だって「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」というふうに、考えさせるほうがいい。

 だが、昨年(2007年)だけで、1808人も山で遭難し、200名以上が死亡しているような事態など、辻先生も予想なさらなかったに違いない。
 「歩いて、歩いて、歩いて、やっと行ける処」がどこにもなくなってしまった不幸までは辻先生も予想しなかったはずである。

2008/09/12(Fri)  888
 
 「早川書房」にいた宮田 昇が、ある日、私のところにやってきて、
 「何かおもしろい小説を読んでいたら、教えてくれないか」
 といった。
 私は、たまたまミッキー・スピレーンを読んでいた。
 「これなんか、出したらきっと売れるよ」

 私は、ミッキー・スピレーンの小説を説明してやった。宮田 昇は、黙って聞いていた。彼が関心をもったことは、私にもわかった。
 宮田 昇はその日のうちに、「タトル」に行って、翻訳権の取得に動いた。当時、ミッキー・スピレーンは、5冊出ていたが、宮田 昇は2冊しか翻訳権をとらなかった。とれなかったというべきだろう。スピレーンの処女作と、最新作のペイパーバックだったが、この2作を選んだのも「早川書房」に資金的な余裕がなかったためという。
 その一冊(最新作)の翻訳を、恩師の清水 俊二さんにお願いして、もう一冊を私のところにもってきた。
 「きみがいい出したのだから、きみが訳してよ」
 宮田 昇はいった。

 その後、紆余曲折があって、これが「ハヤカワ・ミステリ」の出発になった。
 「ハヤカワ・ミステリ」は、ポケットサイズにするときめられて、とりあえず清水訳をNo.1、私の「裁くのは俺だ」をNo.5にすることになった。          
 2冊はきまったが、No.2、3、4、がなかった。
 ここでも、いろいろと紆余曲折があって、もう1冊を、植草 甚一さんにお願いすることになった。一方、宮田 昇は、同僚の福島 正美といっしょに「飾り窓の女」を訳すことにして、とりあえず「ハヤカワ・ミステリ」が出発することになる。

 「飾り窓の女」は、フリッツ・ラングか映画化したサスペンス・スリラーで、ヒロインの「飾り窓の女」の女」は、グローリア・グレアムだった。

 そういえば・・・「ハヤカワ・ミステリ」の新聞広告には、いつも、女の片目が大きくデザインされていた。ある映画女優の眼なのだが、もう誰も知らないだろう。

2008/09/10(Wed)  887
 
 当時、私はある映画会社でシナリオを書いていた。というより、シナリオ化する前段階、ストーリーのシノプシスを書くライターだった。こうしたシノプシスは、毎月、50本以上、集められる。地方紙に連載されている長編通俗小説のレジュメなども含まれていた。そういう仕事は、会社の脚本部に所属する人たちの仕事で、外部の書き手だった私には関係がなかった。

 ある日、製作本部の意向で、「立体映画」の企画が緊急の課題になった。私なども、このとき、出ているところはちゃんと飛び出して見えるし、引っ込んでいるところはちゃんと引っ込んで見える、というものを、ストーリーにどう反映させたらいいか、頭をひねったおぼえがある。

 さて、その当時の女優たちの身長、体重、そしてスリー・サイズをあげた理由が、みなさんにも理解していただけたのではないか、と思う。

 ロンダ・フレミング  身長=5・5フィート  体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/26  ヒップス/36半

 ローズマリー・クルーニー 身長=5フィート6半 体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/24  ヒップス/34

 ベテイ・グレーブル  身長=5フィート3半  体重=112ポンド
    バスト/36  ウェスト/23半  ヒップス/35半

 ローレン・バコール  身長=5フィート6半  体重=119ポンド
    バスト/34  ウェスト/23  ヒップス/35

 なつかしい女優たち。

2008/09/08(Mon)  886
 
 それまでの白黒映画がカラーと交代したときに、もっとも大きな問題になったのは、女優のからだをどこまで美しく撮影できるかというテクニカルな問題だった。
 これは、高性能レンズ、照明、メークの驚くべき発展で解決したが、立体映画となると、まるで未知の領域だった。
 映画「サンガリー」で、アーリン・ダールが起用されたことも偶然ではない。
 アーリン・ダール   身長=5フィート6  体重=118ポンド
    バスト/36  ウェスト/27  ヒップス/36

 当時、アーリン・ダールは「テクニカラー女優」という異名があったほどで、美貌と、からだの美しさは抜群だった。ただし、会社(「パラマウント」)が、あわてふためいて企画し、くだらないシナリオで、急遽製作したことが歴然としていた。つまり、映画はまったくの愚作。
 アーリン・ダールはインターヴューで語っている。

    「立体映画」に出る時は、自然に返れという姿勢がたいせつだと思うわ。ライトがきつくて、大げさなメークは禁物なの。こまかいところまで、くっきり撮られるから、あくまで自然のままのほうがいいの。それに、撮影のために、ダイエットして10ポンド落とすなんてこともなくなるわね。これまでの映画だと、からだが、平べったく写るので、実際以上にデブって見えたりするけど、「立体映画」だと、ありのままに写るのよ。

 つまり、出ているところはちゃんと飛び出して見えるし、引っ込んでいるところはちゃんと引っ込んで見える、というわけ。
 ただし、この言葉には・・・おそろしい含意(インプリケーション)があって、これまで、メークや、カメラ、ワークで美しく撮れていた女優たちには恐怖の時代がやってくる。
 たとえば、ヴェラ・エレン。身長=5フィート4半  体重=105ポンド
      バスト/33  ウェスト/21  ヒップス/33

 つまり、ヴェラ・エレンは、肉体的に不適格ということになる。なぜなら、スクリーンのワイド化もまた必至と見られていたからだった。
   (つづく)

2008/09/05(Fri)  885
 
 グローリアは、「戦後」の美女のひとりだが、グローリア・グレアム程度の美女はいくらでもあげられよう。
 しいて特徴をあげれば、二重まぶたの眼が、すっと冷酷な光を帯びると、いかにもあばずれといった感じになる。
 すれっからしの莫蓮女らしい、下品で、蓮ッ葉な女だが、どこかほかの女にない翳りがたゆたってくる。「人生模様」のマリリン・モンローにも、これはない。「欲望という名の電車」のアン・マーグレットにはとても出せない。

 ほしいままに春を枕籍にひさぐ娼婦の役、ギャングの情婦といった役を若い女優がやると、だいたいはほかの役のときよりもずっと輝いて見えるものだが、なかでもグローリア・グレアムは出色だった。もともと平凡な「娘役」をやったことがない。
 ある映画評論家が書いていた。

 ところで、これはどんな映画ファンもほとんど同じ思いだったと思うのだが、四〇〜五〇年代のモノクロ女優のなかで、だれの裸をいちばん見たかったかといえば、それはイングリッド・バーグマンでもなく、ローレン・バコールでもなく、ラナ・ターナーでもなく、バーバラ・スタンウィックでもない・・それはグローリア・グレアムだった。

 残念なことに、私はグローリア・グレアムの裸を見たおぼえがない。だれの裸を見たかとえば、マルティーヌ・キャロル、ジャンヌ・モローといったフランスの女優たちを思い出す。グローリア・グレアムといえば、(以下すべて、1958年の資料による。)

 マリリン・モンロー  身長=5・5フィート半 体重=118ポンド
    バスト/37  ウェスト/23半  ヒップス/37半

 ジェーン・ラッセル  身長=5フィート7  体重=135ポンド
    バスト/38半  ウェスト/25  ヒップス/38半

 エレン・スチュアート 身長=5フィート6  体重=118ポンド
    バスト/34  ウェスト/24  ヒップス/36

 ドリス・デイ     身長=5フィート5・3/4 体重=116ポンド
    バスト/36  ウェスト/25  ヒップス/36

 デブラ・パジェット  身長=5フィート2  体重=104ポンド
    バスト/33  ウェスト/25  ヒップス/36

 リタ・ヘイワース   身長=5フィート6  体重=120ポンド
    バスト/35  ウェスト/25  ヒップス/35

 こんなことを書きとめておくのは、いささか悪趣味だが。
 しかし、私にとっては、こうした女優のスリー・サイズを見届けておくことにはもう少し別の意味がある。

 じつは、この1958年当時、シネマスコープばかりではなく、3D(スリー・ダイメンション)も登場していた。つい昨日までは、そんなことばも存在しなかった世界がどこに行っても聞かれるようになって、カメラ、照明、ひいては演出のメトドロジーも変わるだろうと予想された。3D(スリー・ダイメンション)では、ポラロイド眼鏡などという、誰ひとり考えもしなかったアクセサリまでがあらわれた。
 ちなみに、当時、ピンナップの女王と呼ばれていたのはヴェジイニア・メヨ。
 「我らの生涯の最良の年」で、前線から復員した兵士(ダナ・アンドリュース)を裏切った不倫な人妻。「死の谷」で、愛するガンマンと国境を越えようとして、追手の銃弾に倒れる原住民の女。ヴェジイニア・メヨをおぼえている人がいるだろうか。

2008/09/02(Tue)  884
 
 グローリア・グレアムという女優がいた。もう誰もおぼえていないような女優さん。ビデオ、DVDでも「地上最大のショウ」ぐらいしか見られないだろう。この映画で、グローリアはアカデミー賞(1952年)の助演女優賞をとっている。
 ただし、アカデミー賞なんか、まるで関係のない「悪女」型の女優だった。

 一九五〇年代、私は英語がいくらか読めるようになっていたので、手あたり次第にアメリカの文学作品、通俗小説を読んでいた。雑誌、「サタデー・イヴニング・ポスト」なども読んでいたが、この雑誌に連載されていた小説が映画化された。
 監督はフリッツ・ラング。
 戦前すでに「激怒」、「暗黒街の弾痕」といったアクション・スリラーで一流監督だったフリッツ・ラングは、戦後の私には「扉の蔭の秘密」、「飾り窓の女」の映画監督だった。

 ある巡査の死に疑問を抱いた警部が動きはじめたとき、上司から捜査の中止を命じられる。このことから、警察内部を牛耳るマフィアの動きを知った警部は、車にギャングが仕掛けた爆発で妻が殺され、職も奪われる。復讐のために、警部はマフィアの動きをさぐって、ギャングの情婦に接近してゆく。

 この警部をやっていたのが、「ギルダ」、「カルメン」のグレン・フォード。
 非情なギャングの実態を知って復讐に協力する暗黒街の女。この「情婦」を、グローリア・グレアムがやっていた。

2008/08/27(Wed)  883
 
  しばらく前にこんなニューズを読んだ。(’08.7.16.)

 ストレスによって記憶力が低下することは、よく知られている。
 日本医大の太田 成男教授のグループは……水素が活性酸素をとり除き、脳梗塞による脳障害を半減させることを確認した。

 認知症は活性酸素などによって神経細胞が変性する病気とされるが、太田 成男教授はマウスの実験で……水素が大量に溶け込んだ水を飲ませたマウスと、ふつうの水を飲ませたマウスの比較から……水素水を飲まなかったマウスの海馬には、活性酸素によって作られた物質が蓄積していた。水素水が活性酸素によって低下した神経細胞の増殖能力を回復させ、記憶力の低下も抑制したと考えられる、という。

 こういうニューズはうれしいかぎり。

 北京オリンピックの開催間近に、BSで「東京オリンピック」をやった。
 これを見ながら、市川 昆のことをいろいろ思い出していて、はて、「愛人」は見たはずだったが、どんな映画だったっけ、と考えあぐんだ。オリンピックでいえば、ロサンジェルスから、マドリード、ソウル、ぐるっと地球を一周するくらいの時間がかかって、やっと森本 薫の『華々しき一族』の映画化だったことを思い出した。
 森本 薫も思い出せなくなっているのか。これはショックだったが、あの映画は、コーチャン(越路 吹雪)の映画だったなあ、などとへんに納得する始末。

 当時、私は映画の仕事をしていたせいで、この頃のことはわりによくおぼえている。

 市川 昆の「愛人」が公開された時期、「大映」は衣笠 貞之助の「地獄門」を出してきたはずで、「愛人」では長谷川 一夫、京 マチ子には敵わなかったなあ。あの映画の「清盛」は千田 是也だったが、千田 是也の映画としてはましなほうだったな、などと考える。
 外国ものでおぼえているのは、アルベルト・ラットゥアーダの「アンナ」ぐらいか。「アンナ」はシルヴァーナ・マンガーノだったっけ。
 そういえば、エリア・カザンの「綱渡りの男」もこの頃に出た。
 エリア・カザンとしてはめずらしいサスペンス。旧ソ連圏のチェッコから、必死に脱出しようとするちっぽけなサーカス団の話。反共映画だが、脚色が、ロバート・E・シャーウットだった。アメリカ有数の劇作家。映画は駄作だったが、私としてはテリー・ムア、グローリア・グレアムが気に入っていた。

 すっかりボケて何もおぼえていないくせに、好きな女のことは忘れない。(笑)

2008/08/25(Mon)  882
 
 昼間、小川 茂久と会うことはめずらしかった。たいていは、どこかの喫茶店にもぐり込んで、いそぎの原稿を書いたり、暇さえあれば古書店を歩いていた。昼間、小川の研究室に顔を出したこともない。だから、昼間、キャンパスで偶然に出会うこともなかった。
 一度、文学部の事務室で、偶然に彼を見かけた。
 昼間なので、行きつけの酒場も居酒屋も開いていない。

 「メシにしようか」
 「うん、そうするか」

 「弓月」の近くの寿司屋に行った。小川の行きつけの店だった。
 あるじは、大柄で、江戸前の寿司が自慢らしい不敵な面がまえだった。
 けっこういいネタだった。
 小川が、店のあるじに私を紹介した。
 「このひとは、マリリン・モンローの研究家なんだよ」

 あるじは、私を見ずに、ふてぶてしい口調で、
 「あっしは嫌いだね、ああいう淫売みてえな女」

 私は黙って立ちあがると、
 「すまねえが、先に帰らしてもらうよ」

 店を出た。不愉快な気分を顔には出さなかった。小川があとを追って出てくることはわかっていた。そのまま神保町に出て、私の行きつけの店であらためて小川と寿司を食べた。このとき、マリリンのことは話題にしなかった。
 たかが、寿司屋のあるじ風情が、マリリン・モンローを嫌っていても、小川にもおれにも関係はない。ただ、客の顔を逆撫でするようなセリフを浴びせるのが、江戸っ子の心意気だなぞと思い込んでいる根性が下司であった。
 神田は猿楽町に住んでいやがっても江戸っ子の風上にも置けねえ野郎め。

 その店には二度と行ったことがない。

2008/08/22(Fri)  881
 
 小川 茂久と会うのはたいてい夜の9時過ぎで、お互いに黙ってキャンパスを出て、駿河台下に向かう。
 小川の行きつけの旗亭がいくつかあって、酒場なら「あくね」、居酒屋なら「弓月」ときまっていた。
 「あくね」には、いつも小川のご到来を待っている客がいた。おなじ明治大学の先生、職員たちばかりではなく、近くの中央大学の教授たち、あるいは本郷の東大の仏文の諸先生がた、「岩波」、「筑摩」といった出版社の編集者たちが小川の顔を見ると、いっせいにうきうきする。
 酒席の小川は、それほど人気があった。
 大人の風格があって、誰とでも気さくに話をする。話がおもしろくなってくると、ケッケッケッ、と笑う。この笑いが独特だったが、じつは、恩師にあたる佐藤 正彰先生の影響をうけて、こんな笑いかたが身についたようだった。

 小川とちがって、まったく社交的ではなかった私は、カウンターの隅っこに陣どって、店の女の子たちを相手に、なんとなく世間話でもしながら飲みしこるのが常だった。
 私は小川と飲んでいられれば幸福だったのだが、小川が紹介してくれた知人たちのなかでも、何人かの人とは心おきなく話ができるようになった。
 例えば、小野 二郎。
 私とは、まるで思想も教養も違う小野も酒豪だった。お互いに酔っぱらっているのだから、めいめい勝手なことをわめいているわけで、論理的にかみあわないことが多い。それでも、何かの論点についてはお互いに譲らなかった。
 小野 二郎が貸してくれたので、マルクーゼを読んだ。内容はむずかしかったが、なんとか読んで、つぎに「あくね」で会ったとき、マルクーゼについて小野君と論争になった。
 小川は、まったく口を挟まず傍観していたか、私はめったに論争することなどなかったから、ほんとうは心配していたのかも知れない。
 「あくね」や「弓月」のことも、そろそろ書き残しておこうか。

2008/08/18(Mon)  880
 
 『インセスト――アナイス・ニンの愛の日記≪無削除版』1932〜1934』アナイス・ニン著 杉崎 和子訳(彩流社/2008年) ∴  『医学が歩んだ道』フランク・ゴンザレス・クルッシ著 堤 理華訳(ランダムハウス講談社/2008年) ∴『映画都市(メディアの神話学)』海野 弘著(フィルム・アート社/1981年) ∴『演芸画報・人物誌』戸板 康二著(青蛙房/1970年) ∴ 『艶書 覚後禅 肉蒲団』原 一平訳(東洋書林/1954年) ∴『オプス・ピストルム』ヘンリー・ミラー著 田村 隆一訳(富士見書房/ロマン文庫/1984年) ∴『オペラ館サクラ座』宇野 千代著(改造社/1934年) ∴ 『銀幕のいけにえたち』(ハリウッド★不滅のボディ&ソウル)アレグザンダー・ウォーカー著 福住治夫訳(フィルム・アート社/1980年) ∴ 『孤独なアメリカ人たち』アースキン・コールドウェル著 青木久男訳(南雲堂/1985年) ∴ 『婚姻の諸形式』ミューラー・リアー著 木下史郎訳(岩波文庫/1934年) ∴ 『宿命の女優』(「シネアスト4「映画の手帖」/1986年) ∴ 『スクリーン・デビュー−−あの名優・名監督の最初の映画』ジェミー・バーナード著 柴田京子訳(講談社・+@文庫/1995年) ∴ 『スクリーン・モードと女優たち』秦 早穂子著(文化出版局/1953年) ∴ 『スター』エドガール・モラン著 渡辺 淳・山崎 正巳訳(法政大学出版局/1976年) ∴ 『性への自由/性からの自由(ポルノグラフィの歴史社会学)』赤川 学著(青弓社/1996年) ∴ 『世界映画人名事典 監督編』(キネマ旬報/1975年) ∴ 『世界の映画作家全集’67』(キネマ旬報/1967年) ∴ 『セックス・シンボルの誕生』秋田 昌美著/青弓社/1991年) ∴ 『ヌードの歴史』ジョージ・レヴィンスキー著 伊藤 俊治・笠原 美智子訳/パルコ出版局/1989年) ∴ 『ハリウッド殺人事件』Hollywood R.I.P. 中田 耕治編・監修(ミリオン出版/1987年) ∴ 『ハリウッド黄金期の女優たち』淀川 長治著(芳賀書店/1979年) ∴ 『本当のところ、なぜ人は病気になるのか?』ダリアン・リーダー&デイヴィッド・コールフィールド著 小野木明恵訳(早川書房/2008年) ∴  『無声映画名作アルバム』編著者 無声映画愛好会(鱒書房/1954年) ∴ 『変愛小説集』岸
本 佐知子編・訳(講談社/2008年) ∴ 『The World of Musical Comedy』スタンリー・グリーン著(ニューヨーク・A・S・バーンズ刊/1960年) ∴

 いま、私の机に置いてある本。すぐ手にとれる位置に置いてある。それぞれの本を気ままに手にとって、必要な部分だけを読んでは別の本に移って行く。つまり、ほとんどが仕事に関係のある本ばかりだが、つぎつぎに入れ代わってゆく。1週間後には、大半が私の机の上から消えているだろう。
 生々流転である。

2008/08/15(Fri)  879
 
 アレクサンドル・ソルジェニーツィンが亡くなった。(’08.8.3。日本時間では4日朝)死因は、心不全。享年、89歳。

 ソルジェニーツィンの作品はだいたい読んでいるはずだが、作家としての彼にそれほど関心はない。

 旧ソヴィエトの作家同盟の招待で、ロシアを旅行したことがある。ブレジネフの時代だった。
 ある日、モスクワで、若いロシア人と文学の話をした。まだ、『収容所群島』がロシアで公開されていなかった時期、つまりソルジェニーツィンは国禁の作家だった。
 お互いにたどたどしいイタリア語、フランス語で話をしたが、私は、たまたまアンドレイ・ベールイ、アレクサンドル・ブローク、はてはレーミゾフ、ブーニン、ザイツェフなどを話題にした。彼はびっくりしたようだった。
 私が名をあげた人々の作品は、当時のモスクワではほとんど入手できないのだった。闇の古本市のようなものがあって、読者たちがひそかに連絡しあう。物々交換のシステムだったらしい。十九世紀の作家、詩人のものはなかなか出ないし、出たとしても現代作家の本何冊かと交換で、やっと手に入れるという。

 若者は外国人(それも日本人)の私がソルジェニーツィンを読んでいることに驚いていた。
 彼は残念そうに、
 「きみはいいなあ、自由にソルジェニーツィンが読めて」
 といった。
 やがて、若者は雑踏のなかに消えて行った。あきらかに外国人とわかる私と話しているところを見られるのがいやだったらしい。ソヴィエト旅行にはそんな思い出がある。

 ソルジェニーツィンの死について別に感想はない。あとになって、たとえば、ソロヴィヨフ、ベルジャーエフなどの系譜につらなる思想家としてのソルジェニーツィンについて考えてみたいと思っている。
 新聞で訃報を読んだすぐに、わずかな蔵書のなかでソルジェニーツィンの本を探したが見つからない。まるで関係のないアルツィバーシェフを読み返した。

    大きな明るい月が、黒くてお粗末な物置のかげから顔をのぞかせた。はじめ、庭のたたずまいをうかがっていたが、どうやら別にこわいものもないと見たらしく、少しづつまろみをまして、ゆるやかに登りはじめた。黄色っぽくまんまるい、にこやかな顔で屋根に乗ったものである。
    庭のなかはたち皓々としらんだが、塀や物置の下には、かぐろくミステリアスな影ができた。夜気が涼しく、かろやかに、すがすがしくひろがる。暑くて、眼がくらむような夏の一日がやっと終わって、はじめて胸いっぱいに深呼吸できるといったようすである。

 ある短編のオープニング。有名なロシア文学者の訳を私が勝手に手を入れたもの。

 ソルジェニーツィンのことを考えるとき、すでにロシア人たちに忘れられているに違いない作家たち、たとえば、クープリン、アンドレーエフ、アルツィバーシェフ、ソログープたちのことを思い出すだろうと思う。
 ソルジェニーツィンについて考えるとき、私は、エイゼンシュタインや、ピリニャークや、ナターリア・ギンズブルグなどと重ねあわせて考えるだろう。

 私はそういうひねくれた読者なのだ。

2008/08/13(Wed)  878
 
 八月になった。北京オリンピックが開催される。
 夏休みなので、本を読むつもりだが、こう暑いと本も読めない。
 手もとにある歌集、句集をひもとく。川柳でもいい。
 むろん、全部読むわけではなく、ところどころ目にとまったものを、掌にころがすようにして眺める。だから読書というより、気ままな暑気払い。

 8月1日。八朔(はっさく)である。

     八朔の 雪見もころぶところまで。

 おもわずニヤリ。
 もっとも、これを読んで、ただちに白無垢の小袖を連想する人はいないだろう。私だって、戦前の「なか」を見てはいるが、この習慣を実見しているわけではない。

     八朔の雪 物尺でつもる也

 これはむずかしい。ちょっと考えて、ニヤリ。

     一里づつ 行けば木へんに夏木立

 街道筋に道標としてエノキの木が植えてあったらしい。

 その頃、文屋という職業があったらしい。飛脚は、遠方に手紙を届けるのだが、文屋は近場に手紙などを届ける。

     文使い うそもまことも ひとつかみ

 この「文使い(ふみづかい)」も文屋のこと。

 私はもの書き。たいしたもの書きじゃないが、文章を書くことでたつきを立ててきたのだから(誤用を承知で)自分を「文使い(ふみつかい)」と称している。だから、このHPに書く文章は、「うそもまことも ひとつかみ」。

2008/08/10(Sun)  877
 
 「文芸家協会ニュース」を見て、6月6日に、作家の氷室 冴子、10日に作家の田畑 麦彦、映画解説者の水野 晴郎が亡くなったことを知った。
 この方々が亡くなったことをまったく知らなかったので、ちょっと驚いた。それぞれの人の死に驚いたわけではなく、自分がしばらく何も知らずに過ごしていたことに気がついて驚いたのだった。

 私は、作家の訃を知ったときは、できるだけその人の本を探して読むことにしている。追善の意味もあるのだが、面識はないにせよ、もの書きとしておなじ時代に生き得たことのありがたさを思うからである。

 氷室 冴子という作家のものは読んだことがなかった。ぜひ読みたいと思って、本屋に行ったが見つからなかった。コバルト文庫、56冊、2千万部の人気作家だった。私は「コバルト文庫」で、S・E・ヒントンの3冊、青春小説のアンソロジーを1冊出しただけで、総部数は20万部そこそこだったから、私などとははじめから比較にならない。 
 
 氷室 冴子、享年、51歳。
 私のクラスを出てから作家になった高野 裕美子も、同年で、今年亡くなっている。
 そんな薄弱な理由もあって、氷室さんの作品も読んで見たかったのだか、見つからないのでは仕方がない。

田畑君とは面識もあった。
 例えば「嬰ヘ短調」といったひどく前衛的な作品を書いていた。育ちのいい文学青年だったが、書くものは高踏的すぎて、私にはあまりよく理解できなかった。
 彼の本も探すのはむずかしいだろう。ただ、私は彼から送られた本をもっていたので、読み返すことができた。
 むずかし過ぎて、よく理解できなかったのはおなじだった。

 水野 晴郎とは、テレビの映画番組で、二、三度、何かの映画について対談したことがある。テレビではない場所では、「紀伊国屋ホール」でマリリン・モンローのことで、対談した程度。
 誰にも好かれるようなお人柄で、映画解説者として人気があった。
 彼の著書も私はもっていなかった。探すのはやめて、DVDで、ジョルジュ・クルーゾーの「悪魔のような女」を見た。
 たまたまシャロン・ストーンのリメークが、公開された時期で、水野 晴郎は、ハリウッド郊外で、クルーゾー映画の解説をしていた。

 私の見た「悪魔のような女」は、なんとアメリカ版の吹き替えで、シモーヌ・シニョレも、ヴェラ・クルーゾーも、アメリカ語をしゃべっているのだった。映画も、なんとなくクルーゾーらしい、ネチっこさが消えている。
 いちばん笑ったのは、子どもたち(私立学校の生徒たち)が、いともみごとなアメリカン・スラングをしゃべっていることだった。
 監修者の水野 晴郎は何も気がつかなかったのだろう。

2008/08/06(Wed)  876
 
 日曜日、NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている。宮崎 あおいのファンなので。
 いずれ公武合体の話から、皇女和宮が登場してくるだろう。どんな女優がやるのだろうか。
 金剛 右京の「能楽芸談」を読んでいて、おもしろいエビソードを見つけた。
 明治になって、能楽に衰退のきざしが見えていた頃の話だろう。金剛 氏重(右京さんの大伯父にあたる)が、黒田侯の屋敷で「融(とおる)」の袴能をつとめた。このとき、春藤 六右衛門がワキをつとめた。

 この能に、名所教(めいしをおしえ)というところがある。さしづめ、シテのサワリというべき部分。

    音羽山 音に聞きつつ 逢坂の 関のこなたに とは詠みたれども 彼方にあたれば 逢坂の 山は音羽の峯に隠れて この辺よりは 見へぬなり・・

 これを、六右衛門がすっかり謡(うた)ってしまった。ほんらい、シテの謡(うた)うところである。
 地謡、囃子かたは、もとより、居並ぶ貴顕のかたがたもこれにはおどろいて、さて、この場をどう収拾するのか、シテの金剛 氏重にいっせいに注目した。
 氏重も六右衛門の失策に仰天したには違いないが、すかさず、

    のうのう、御僧、それはこなたにて 申すことに候。

 と、ふっておいて、

    仰せのごとく 関のこなたに とは詠みたれども・・

 とつづけた。これで、こんどは六右衛門も自分の失策に気づいて、赤面したらしい。当時、幼かった右京はこれを見て、六右衛門のようすは今でも気の毒に思うと書いている。
 舞台で、相手のセリフと自分のセリフをとりちがえる、そんなトチリをずいぶん見てきた。自分の演出した舞台では、じたんだを踏んでも間にあわない。

 この氏重でさえ、生涯ただ一度失敗したことがある。
 幕末、皇女和宮が、徳川 家茂に御降嫁のみぎり、「摂待(せったい)」の能が出た。 シテは、金剛 唯一。氏重は、ツレの「兼房」をつとめたが、なにしろ前代未聞のもよおしに緊張したのか、氏重はシビレを切らせて、席から立ちあがれなかったという。

 私はこんな話を読むのが好きなのである。

2008/08/02(Sat)  875
 
 ここで私がとりあげる本は、『変愛小説集』(講談社)。

 ある家庭の主婦。ある夏の午後、とても素敵な男の子が庭の芝生を刈りにきてくれる。彼女は、その男の子を追いかけて、キスをする。彼の舌を吸ったが、吸いかたが強すぎて彼が声をあげはじめても、ますます強く吸って、彼を呑み込んでしまう。
 ジュリア・スラヴィンの「まる呑み」。

 これは凄い!

 私はこれまで、自分でもたくさん小説を読んできたが、こんなにおかしな短編を読んだことがない。私には、女という生理の外貌がはじめて私の内面にあたらしい姿をあらわしたのを見たような気がした。まさしく、ここには女の肉体の内側が語り、ときには泣き出したり、怒りを見せている。
 なにしろ、呑み込んだ相手は、いくら追い出そうとしても居すわってしまうのだから。しかも、彼女は妊娠してしまう。

 エロティックな行為をふくめてひとりの男と女の交渉が、あらゆる「恋愛」の基本をなしているとすれば、このおかしな短編の「愛」は、まさに「変愛」の現実的形態にほかならない。
 私は、この短編を前にして、批評的な評価を絶した数瞬間をこころゆくまで彼女とともにすごした。思わず、笑い出したくなるのをこらえながら。
 なんといっても岸本 佐知子の訳がすばらしい。
 こういう作品をこれほどおもしろく訳せるのは、たいへんな才能だと思う。岸本 佐知子はエッセイストとして有名だが、彼女の翻訳にも、なんともいえない、トボけたおかしみ、それでいて、みごとに語学的なきらめきが輝いている。
 私が『変愛小説集』の周辺をめぐって気ままに歩いてみたいといった理由は、これに尽きる。

 『変愛小説集』については、また、あとでふれることにしよう。

2008/07/30(Wed)  874
 
 私が書くのは岸本 佐知子編訳の『変愛小説集』の書評ではない。

 アンソロジストとして、こういう作品ばかり選んで訳している岸本 佐知子の感性に敬意をもっているのだが、この『変愛小説集』の周辺をめぐって、しばらく気ままに歩いてみたいと思う。

 ずいぶん昔、あたらしいミステリーに、それまで存在しなかったストーリー・テリングの妙、意外な展開、しばしば想像もつかないオチをもった短編が登場してきた。これを、江戸川 乱歩が概括して「奇妙な味」と呼んだことがある。たとえば、ロアルド・ダール、あるいはチャールズ・ボーモントなどの作品がこれにあたるのだが、『変愛小説集』のどの一編をとりあげても「奇妙な味」どころではない。
 ここにとりあげられている作家たちは、自分の想像力の赴くままにふる舞っている。作家たちは、自分の描くシチュエーションが「変」なものとは思っていないので、それぞれが自分の思考のバイアスを見定め、それをいわば圧縮して、そのかたちの「変」性をさだめるためにしか書かない。これは、すごいとしかいえない。
 私小説を最高の文学と思っているような連中には、おそらく何も見えてこないだろうと思う。これはもう「奇妙な味」どころか、それぞれが比較しようのない味としかいいようがない。
 私は、この短編集をいっきに読みつづけるのがもったいなくて、毎日1編づつ、たいせつに読みつづけた。まるで、おいしいケーキを、一個づつ食べるようにして。
 毎日、かなり多数の本を読みつづけてきた私が、こういう読書法をはじめて自分に強制したことでも、この『変愛小説集』がどんなに特別な作品集かわかってもらえるかも知れない。

2008/07/28(Mon)  873
 
 過去の思い出などというものは、できることなら、ふり捨ててしまいたい。不実な女の思い出などは、いま思い出しただけでも、つらいばかりだし、女が去ってしまったあとの空虚な日々など、思い出したくもない。
 同時に、人生のなかでいちばん楽しかった思い出などというものも、どうにも始末に困るのである。たしかに楽しかったには違いないが、なぜ、あんなにも楽しかったのか、思い出せば思い出すほど不可解なものに見えてくる。
 因業なことにもの書きという職業には、何かを思い出すというのが、いちばん大切な職能の一つ。何かを書く。そのストーリーにぴったりの人物、情景、時間と空間などをたちどころに思い出す能力がないと、小説ひとつ書けない。そこで、私小説を最高の文学と思っているような連中の頭は、いつもそんな思い出がいっぱいつまっていて、重宝に思い出せるらしい。
 私は、私小説を最高の文学と思っていないので、過去に生きた自分の姿など、まったく信用してはいない。すぐれた作家たちは、自分の過去からそれぞれみごとに逃げつづけている連中にかぎられる。

 こんなことを書くのも、岸本 佐知子編訳の『変愛小説集』というアンソロジーを読んで、ひたすらおかしくて、それでいて、おそろしい短編ばかりなので、驚愕したからだった。

2008/07/25(Fri)  872
 
 私の好きなことば。

    世人ノ情、楽ヲネガヒ、苦ヲハイトヒ、オモシロキ事ハタレモオモシロク、カナシキ事ハタレモカナシキモノナレハ、只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道也、姦邪ノ心ニテヨマバ、姦邪ノ歌ヲヨムヘシ、好色ノ心ニテヨマバ、好色ノ歌ヲヨムヘシ、(中略)実情ヲアラハサントオモハハ、実情ヲヨムヘシ、イツワリヲイハムトオモハハ、イツワリヲヨムヘシ、詞ヲカザリ面白クヨマントオモハハ、面白クカサリヨムベシ、只意ニマカスベシ、コレスナハチ実情也

 本居 宣長。

 和歌というものは、政治的な効用を目的として詠むものではない。ほんらいは、もののあはれを詠むものだという宣長の論理は、「只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道」という姿勢をもっていた。
 だから、姦邪ノ心ニテヨマバ、姦邪ノ歌ヲヨムヘシという。好色ノ心ニテヨマバ、好色ノ歌ヲヨムヘシ、といういいかたに逆説を読む必要はない。
 ただし、これは平凡な歌論ではない。ひどく静かないいかただが、なぜか宣長が激しているようなすさまじい緊張を感じる。

 ここから先は、私の平凡な感想。
 ときどき絵を描きたいと思う。実際にへたな絵を描く。どうかすると、アンクローシャブルなものになることもある。だからといって恥じる必要はない。好色ノ心ニテ描けば、好色ノ絵を描クベシ、と思うから。

 もののあはれを描くとすれば、どうあっても男女の恋を描くにしくはない。

2008/07/23(Wed)  871
 
 マイケル・ジャクソンの「スリラー」は、全米アルバム・チャート、37週連続トップ。売り上げ枚数、1億枚。
 私も買ったひとり。

 映画「ボデイガード」のサウンドトラックが、4200万枚。
 これも買ったっけ。

 イーグルスの「ホテル・カリフォーニア」や、ピンク・フロイドの「ザ・ダークサイド・オヴ・ザムーン」ももっている。

 映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックも。

 売れ行きベスト5まで。
 私は、エボナイト、LP、テープ、CDと、無数の音楽を聞きつづけてきた。私から音楽をとったら、あとに何も残らない――ほどではないにせよ、たいして残らない。

 私の処女作は、「ショパン論」だった。クラシックを聞いていたのだが、途中でジャズに移って、やがてロックというふうに変わった。ついにはアジア・ポップス、エスニックと、われながら無節操につぎつぎと変わってきた。小人は虎変する。
 おのれの軽佻浮薄をさらけ出すようだが、それぞれの時代のヒット・チャートに浮かんだ曲の半分はおそらく聞いている。つまり、その程度に熱心な、そしてなんとも軽薄なファンだった。

 あるジャンルに気をとられると、ひたすらのめり込む。それはかなり長く続くのだが、どういうものか、ある日、突然に離れる。そのときから、そのジャンルのものをまったく聞かなくなる。MTVも見なくなるのだった。

 クラシックも、オペラまで。好きな音楽と、そのときそのときに飲んでいた酒の好みがなぜかパラレルにならんでいるような気がする。

 ひょっとして――もうひとつの好みも。(笑)

2008/07/21(Mon)  870
 
 人生には、ひそかに願っていても叶わぬことが多い。

 『四谷怪談』の「穏亡堀」、戸板返しの実際の動きを見たかった。むろん、舞台は見ている。しかし、「伊右衛門」と「直助権兵衛」のやりとりのあいだに、奈落の黒子がどう動くのか。今の劇場ならコンピューター処理で、何もかもできるのかも知れない。

 「や、わりゃお岩、さては血迷うたな」

 大ドロドロで、戸板がひっくり返される。
 このあと、「旦那さま、クスリ下せえ」。
 「伊右衛門」が、「またも、死霊の・・」

 ドロドロに重なって、昔ならシューッと白いけむりになる。掛け煙硝。

 私がひそかに願っていたこと。
 戸板返しの実際の動きを奈落から見たかった。できれば、一度でいいからこういう芝居を演出してみたかったから。

 私はたくさんのことを実現できずにくたばるだろう。残念だが仕方がない。

2008/07/19(Sat)  869
 
 スクールガール・クラッシュ。
 女の子が学校の先生に抱く愛情。映画女優が共演した相手に惹かれるときも、このことばが使われる。
  Was it true about ”Elizabeth’s school-girl crushes on her co-stars?”というふうに。

 エリザベス・テーラーが共演者にいつもお熱、といのはほんとうだろうか。
 「ジャイアンツ」を撮影中に、ロック・ハドソンと「親密」になって、たちまち噂になった。当時、エリザベスと結婚していたマイケル・ワイルディングは、ロケ地のテキサスに飛んだ。このとき同行したのは、ロック・ハドソンの婚約者、フィリス・ケーツだったとか。

 この映画に出たジェームズ・ディーンが、突然、亡くなる。リズはこの知らせに打ちのめされた。ジェームズ・ディーンの葬儀に、リズは蘭の花を送った。ただひとこと、「ラヴ・エターナル」ということばを添えて。

 モンゴメリ・クリフトが、自動車事故で重傷を追ったとき、リズは必死に車の残骸からクリフトのからだを引きずり出して、それから1時間、クリフトの頭を膝にのせて救急車を待っていた。

 やがて、エリザベスはマイケル・ワイルディングと離婚する。

 エリザベス・テーラーが「ジャイアンツ」を撮影中、マイケルはジョーン・コリンズと親しくなっていた。あるレストランで、リズと口論しているところが目撃されている。
 つづいて、マイケルはアニタ・エクバークと親しくなった。
 エリザベス・テーラーと破局が迫ってきた時期には、マルレーネ・デイートリヒ相手の浮気がとり沙汰された。さらに、スウェーデンで映画に共演したアン・シェリダンと、親密になる。

 この映画の題がいい。「失恋」だった。

 舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多くても、いっこうにかまわない、と私が考えるようになったとしても責められるべきだろうか。(笑)

2008/07/17(Thu)  868
 
 レックス・ハリスンは、名優といっていい俳優だった。
 「クレオパトラ」のシーザー、「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授といった役のレックスをおぼえている人がいるかも知れない。

 最初の夫人はコレット・トーマス。社交界のレディーだったが、レックスはかなり長い期間、離婚訴訟で苦労した。当時、ウィーンの女優、リリ・パーマーに出会っていた。

 第二次大戦が終わった1945年、レックス・ハリスンはリリ・パーマーと結婚して、ハリウッドに移った。
 「ハリウッドは気候が単調で、刺激がなかった。贅沢はひとの身をほろぼすね。いちばんよくないのは、仲間うちのお愛想笑い、いいかげんなヨタ話だった」

 ハリウッドは、レックスにまったく将来性を見なかった。リリーもおなじで、彼女はブロードウェイに移った。舞台に賭けたといっていい。
 リリーと離れたレックスは、キャロル・ランディスという女優とわりなき仲になる。しかし、キャロルが自殺したため、最悪のスキャンダルに見舞われる。
 リリーは窮地に追い込まれたレックスを救うために、ハリウッドに飛ぶ。レックスは警察の尋問を受けたり、リリーともどもジャーナリズムの執拗な追求にさらされるが、なんとか切り抜けて、ブロードウェイに脱出する。
 のちに、ランディス事件についてレックスは語っている。
 「何カ月も精神分析医に通って、自殺について語りあったよ。自殺する理由を探しながらね。結論は、キャロルは死への欲求に憑かれていたことになった」。

 レックスはブロードウェイで、つぎつぎに名作の舞台に立つ。マクスウェル・アンダースンの『一千日のアン』もその一つ。リリーとは、ジョン・ヴァン・ドルーテンの『鐘と書物と燭台と』で共演する。

 レックスとリリーが、もっとも幸福だった時期。

 やがて、リリーは語る。

 「英国人は女が好きじゃないのよ。少なくとも、イタリア人やフランス人が女好きという意味ではね。イギリス人は、女をほんとうに見ようとしないの。レックスが私にいってくれた最高のお世辞は、私といっしょにいると、ほんとうの親友といっしょにいるような気がする、ですって。彼って男の中の男なのよ、イギリス男ってやつ」

 レックスはリリーと離婚して、イギリス女優、ケイ・ケンドールと結婚する。

 小田島 雄志の劇評にあった――「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」という一節。
 これを読んだ私は、レックス・ハリスン、リリ・パーマー、ケイ・ケンドールの「地獄」を思い出した。これだって「やわな愛」の例だろう。
 しかし、見方によっては、男女の修羅、すさまじい地獄相に見える。
 そこで、また思い出す。

    すべて人に一に思はれずはなににかはせむ。ただいみじうなかなかにくまれ、あしうせられてあらむ。二三にては死ぬともあらじ。一にてをあらむ。

    自分が愛している人には、いちばんに愛されなければ、どうしようもない。愛されないのなら、いっそ憎まれたほうがまし。二番や三番の愛なんて、死んでもいやだわ。

 『枕草子』(九七段)。

 男女の交情がどれほどお手軽でも、女が、二三にては死ぬともあらじ、と考えているなら、その恋は「やわな愛」ではない。
 舞台や、世間でどんなに「やわな愛」を見せられようと、それはそれでいい、と私は考えている。

2008/07/15(Tue)  867
 
 ある劇評の書き出し。

    このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていたら、久しぶりに「歯ごたえのある愛」に出会うことができた。

 宝塚星組の「赤と黒」(スタンダール原作)の劇評で、小田島 雄志の「芝居よければすべてよし」(「読売」/08.4.19)から。

 劇評についてはふれない。
 ただ、「このところ舞台でも世間でも『やわな愛』を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか疑問を感じた。というより、この劇評家はこういうふうに考えるのか、と私が考えただけのことだが。

 「やわな愛」といういいかたから、私はエリッヒ・フロムを思い出した。かつて、世界的に読まれた思想家である。彼の著作『愛するということ』は、わが国でもベストセラーか、ベタセラーになったはずである。
 その冒頭の部分に、

    愛は、誰でもが、自分の人間としての成熟の度合と関連なしに、手がるに耽溺できるような感傷的なものではない。

 とあった。この思想家の意見では――ある人の愛がみたされることは、その人が隣人を愛し得る力をもっていて、真の謙虚と勇気と信念と訓練を欠いていては到達できないもの、ということになる。私の曲解ではない。本人がそう書いている。
 だが、はたしてそうか。

 私は書いたのだった。
 ダンテのベアトリーチェへの愛や、バオロとフランチェスカの愛は、誰でもが手がるに耽溺できるような感傷的なものではなかった。だが、人は、いつもダンテスクな愛だけをもとめているはずはないし、手がるに耽溺できるような感傷的な愛であっても、当事者にとっては、まぎれもない人間的な真実なのだ、と。(『メディチ家の人びと』/第九章)
 私は、このエリヒ・フロムを軽蔑する。おなじような意味で、「このところ舞台でも世間でも「やわな愛」を見せられることが多い、と嘆いていた」といういいかたに、いささか傲慢なものを見る。

 たしかに、「やわな愛」を見せられつづければ、いや気がさすことはわかる。しかし、『赤と黒』が書かれた時代、フランスの舞台や、世間には「やわな愛」ばかりだったに違いない。とすれば、どういう時代の「愛」だって、手がるに耽溺できるような感傷的な愛ばかりなのだと見たほうがいい。
 人間の一生は、食ってはひって、やって寝るだけ、という江戸の庶民の卑俗な人生観を軽蔑するのはたやすいが、そういう人生観のなかで、卑猥な川柳や猥雑な俗曲があらわれてきたことを軽蔑しない。まして、庶民の交情を、「やわな愛」などと私は見ない。

 この劇評家は、久しぶりに「歯ごたえのある愛に出会うことができた」などと書くべきではない。手ごたえ、たしかな反応というニュアンスで「歯ごたえ」と表現していることもいかがなものか。

2008/07/13(Sun)  866
 
 私の好きな歌として、中国、晩唐の詩、「半睡」を引用したいのだが、私のPCには字がない。
 野口 一雄先生の読みを紹介する。

   眉山 暗く淡く 残燈に向かう
   一半の うんかん 枕稜に 墜つ
   四體 人に着(つ)きて 嬌として泣かんと欲す
   自家は 揉損す がりょうりょう

 以下は、私の訳。

   燭台の残んの火影に ウエヌスの丘も暗くほのかに見え
   頭がずれて ゆたかな髪の半分が枕からあふれ落ち
   四肢を相手にまきつけて よよとばかりに浪声をあげようとする
   その手は思わず 衾のあやぎぬを もみしだきながら

 場面は残燈一戔、おそらくはクレアシォンということになる。眉山は、山なす蛾眉ととるべきだが、あえてモンスとした。「うんかん」は、雲鬢(うんびん)をまるくまとめたヘア・スタイル。「がりょうりょう」の繚綾は、ヴェトナム産の絹という。「が」は字がないのだが、絹の輝き。今のタイ・シルクに似ているかも知れない。

   ひとすじにあやなく君が指おちて みだれなむとす 夜の黒髪

 与謝野 晶子の一首を思い出す。

2008/07/11(Fri)  865
 
 古典を読む力がない。残念としかいいようがない。

   おもかげの霞める月ぞやどりける 春やむかしの袖のなみだに  俊成卿女

 これも私の好きな歌のひとつ。
 俊成卿女の人生の起伏を思えば、「春やむかしの袖のなみだ」にも真実の傷みがこめられていよう。

   こひわびぬ心のおくのしのぶ山 つゆもしぐれもいろにみせじと

 こういう和歌にまったく心を動かされない。

   キミニチャリノッテカレタラボクニハモウ
        ハシルシカナイ キミノトコマデ
             ぴー(24歳)

   この星ではじめて走ったのはあなた
        私のもとから逃げ出すために
             ジョゼ(19歳)

 ある雑誌で見つけたケータイ短歌。
 NHKのラジオ番組「土曜の夜はケータイ短歌」の応募作という。こういう短歌なら、私にもわかる。

2008/07/09(Wed)  864
 
 文学専門の批評家なのに、古典を知らない。さらには、古典の詩歌を知らない。
 恥ずかしながら、私もそんなひとりだった。

 俳句を論じたことがある。子規からはじめて、大正期の俳句まで、二年間、講義をしたのだが、学生たちがほとんど理解できないと知って、この講座は中断した。

 短歌についていえば、「アララギ」以後の歌人のものはずいぶん読んできたが、古典、とくに中世の和歌についてはほとんど知らない。
 中世の和歌について語らない理由のひとつは――俳句なら即座に思い出せるのに、和歌となると、なかなかおぼえられない。思い出せないことが多い。

    月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
 読みやすいように上下に わざと空間を置いたが この和歌はおぼえていても、

   里はあれて月やあらぬと怨みても 誰 浅茅生に衣うつらん     良経

   身の憂さに 月やあらぬとながむれば 昔ながらの影ぞ もりくる  讃岐

 という連想がはたらかない。

 だから、読むには読む。鑑賞もするけれど、和歌についてはまともに論じる教養がない。もうすこし勉強しておけばよかったと思うけれどもう遅い。

   はるかなる岩のはざまに独(ひとり)いて人目思はでもの思はばや  西行

 こういう心境になれないのも、和歌を理解することが少ないせいだろう。

2008/07/07(Mon)  863
 
 いつも400字詰めの原稿用紙を使っていた。
 原稿用紙の枡目を、万年筆で1字々々、埋めて行く。ひどく効率のわるい仕事だが、原稿料の単価が、400字1枚でいくらいくらときめられていたから、400字詰めの原稿用紙を使うのが自然だった。

 これが習慣になって、プロのもの書きとして、原稿の枚数という感覚が身についたと思う。たとえば、30枚の短編という注文があれば、ぴったり30枚で書く。630字のコラムを書く場合には、ぴったり630字以内で文章をまとめる。

 サイズの問題は、じつはきわめて大切なのだ。

 たいていの同人雑誌作家たちの大半は、まるっきりこういう制約を知らずに書いているだろう。ほとんどの人が、自分の書きたいことをズラズラ書いているだけで、枚数という感覚が身につかない。つまりは構成力が身につかず、ジャーナリズムに適応できない。

 書きあげた原稿をじかに編集者にわたす。
 自分の原稿が、眼の前にいる編集者に読まれる。このときの、なんともバツのわるさったらない。
 自分ではけっこういい原稿を書いたという自信もある。しかし、編集者が何をいうかわからない。わるくすれば、書き直しを命じられるかも知れない。そんな不安がある。
 たいていの編集者は、少しぐらい不満があってもパスさせてくれる。締め切りが迫っているから。
 私は原稿を書くのは早かったが、ほとんどの場合、締め切りぎりぎりになってから原稿を書くことにしていた。
 原稿のできがわるくても、編集者が原稿を受けとってくれるからだった。
 今となっては、みみっちい了見を恥じるばかりだが、同時に、そんな原稿を受けとってくれた編集者に感謝の気もちがある。なつかしさも。

2008/07/05(Sat)  862
 
 たとえば、サイゴンの夕暮れ。
 帰宅をいそぐバイク。シクロの列。外出禁止の時刻が迫っている。
 私は、ベン・バク・ダン(河岸)のホテル・マジェスティックの裏側、レ・ロイ通りのカフェで、通りすがりの若い娘たちを眺めたものだった。彼女たちのアオザイ(長衣)は、かろやかなブロケ、下着はブラジャーと純白のクーツ(ズボン)だけで、ほっそりしたからだにぴっちり張りついている。

 サイゴンの美少女たち。しなやかなからだの線が、薄いアオザイを透して、はっきり感じられる南ヴエトナムの乾季。ほかにどんなすばらしい眺めがあろうと、メコンの岸辺に、涼をもとめてゆっくり歩いてゆく若い娘たちほど、美しい眺めはなかった。

 サイゴンの娘たちは美しかった、などといおうものなら、友人たちはみんなにやにやしたが、東京にいて、ヴエトナムのやすらぎにみちた風景はほんとうに想像もつかない。

 私自身が、戦乱のサイゴンの絶望的な様相といったものを予期して行っただけに、戦争に明け暮れるヴエトナムの姿などどこにも見あたらなくてとまどったくらいだった。こういうチグハグな印象はどう説明してもうまくつたわらないので、私はいつも黙っていた。
 ヴエトナムからの帰り、香港で知りあった女性がいる。
 私がしばらくサイゴンにいたと知って、興味をもったらしかった。私は、彼女の案内で、ニュー・テリトリーや、シャーティン(沙田)で遊んだり、いろいろなナイトスポットに行った。ただ、このときはじめて香港ポップスの美しさに気がついた。シャーリー・ウォンが生まれたばかりの頃のこと。まだ、テレサ・テンも登場していない。私は当時の歌姫たちのテープを買い込んだ。

 いよいよ、香港から離れるという日に、彼女が
 「どうだった?」
 と訊いた。
 私が、にやにやしたことはいうまでもない。

 帰国後、彼女をモデルにして長編を書いた。旅行はたしかに私の想像を刺激したが、私にできたのは外から眺めただけで、香港の内側に入り込み、自分もその一部になるようには書けなかった。

2008/07/03(Thu)  861
 
 はじめて海外旅行から帰ったとき、友人たちからこういう質問を受けた。
 「どうだった?」

 どうだった、というのはどういう意味だろう。思わず、相手の顔をまじまじと見てしまう。すると、相手はきまってにやにやする。
 なるほど、そういうことか、と納得する。さて、どう返事をしたものかと考えてしまう。
 「何もしなかったさ」
 といえば、
 「ウソつけ!」
 ときめつけられる。
 「よかったよ」
 などといおうものなら、
 「そうだろう。やっぱりイイんだろうなあ」
 とか、
 「チェッ! うまくやりやがったなあ」
 などと、羨望ともひやかしともつかないことばを浴びせられる。

 この主の質問には、こっちもにやにやすることにした。相手がどう解釈しようとお気に召すまま、というわけ。うっかり返事をして、ウソつきにされたり、ひやかされたり、どっちにしろ、やりきれない。

 外国旅行で、いちばん印象が深いのは、なんといってもその土地、その土地の女のことである。ふと行きずりに見かけた女でさえ、旅人の心に淡い翳りを落とすことがあるだろう。
 私にしても、旅先の土地で知りあった女たち、ほんの行きずりの女たち、そうした女たちに興味をそそられたことは素直に認めよう。
 そういうことがなかったら、旅情を慰められることもなかったに違いない。

 そういうときだけは、作家になってよかったと思った。

2008/07/01(Tue)  860
 
 ヴォルテールが、イギリスの大劇作家、コングリーヴに会いに行った。演劇論を聞くつもりだったらしい。
 コングリーヴはヴォルテールにむかって、私は劇作家というよりも紳士なのだ、と答えた。
 ヴォルテールは、少し頭にきたらしい。
 「あなたが紳士にすぎないというのなら、わざわざ訪問することもなかったのに」
 と、いったという。

 このエピソードは、サマセット・モームの『サミング・アップ』に出てくる。
 モームはいう。

   ヴォルテールは当代きっての頭の切れる人物だったが、ここでは理解力の不足をさらけ出している。コングリーヴの答えは、意味シンなものだったのだ。
   というのは、喜劇作家が、コメデイという観点からまず考察すべき相手は、劇作家ご本人だってことを、コングリーヴがはっきり自覚していたという寸法なのだ。

 わずかな引用では、あまりピンとこないかも知れない。しかし、これだけでも、私がモームの凄さに敬意をもっていることはわかってもらえるだろう。
 モームは、もともと劇作家として知られていた。モームの戯曲は、今ではふるい作劇法にもとずいて書かれているが、おもしろさは少しも薄れていない。
 どうすれば、いい芝居が書けるのか。
 モームにいわせれば、「独特のコツが必要なのだ」という。
 だが、この「コツ」はどういうものから成り立っているのか。誰にもわからない。しかも、「コツ」は習って身につくものではない、とか。

   この「コツ」は、文学的な才能とはまったく無関係なのだ。げんに、高名な作家が芝居を書いてみじめに失敗した例が多いことからもそれはわかる。楽譜なしで演奏する才能のようなもので、とくに精神的に高級なものというわけでもない。しかし、これが身についていないと、どんなに深遠な哲学があっても、どんなに独創的なテーマを考えていようと、どんなに的確に登場人物が描けていても、芝居は書けない。

 モームのいいかたはまるで不可知論だが、私はモームのことばのただしさを疑わない。ある時期まで芝居の演出を手がけてきたので、モームのいう通りだと思った。
 それに、私あてに直接送られてきた外国人の(手書きの生原稿、タイプ原稿を含めて)戯曲や、じつにたくさんの創作戯曲を読んできた。そのほとんどは、芝居の「コツ」もわかっていないものばかりだった。
 その結果、私は戯曲を書かなかった。芝居の「コツ」は、頭で理解できても現場で身につけないかぎり、どうにもならないものだと思ったからだった。

 戯曲を書けなかったのは、はじめから才能がなかったからだが、モームのいいぶんがよくわかったからだった。
 これだけでも、私がモームに敬意をもっている理由はわかってもらえるだろう。

2008/06/29(Sun)  859
 
 先日、親しい女の子たちが、気のおけない話をしていた。
 どうしてそんな話題が出たのか、よくおぼえてもいないのだが、私が、サマセット・モームが好きだというと、翻訳家の成田 朱美(「愛がこわれるとき」など)が不思議そうな顔をした。

 え、先生は、モームがお好きなんですか。

 この反問には、私のほうがおどろいた。私がモームを好きだというのはそんなにおかしいことなのだろうか。
 私がアメリカの小説ばかり訳してきたので、私のクラスの女の子たちにとっては、意外な発言に響いたかもしれない。
 私とモームの違いはじつに簡単に要約できる。モームは一流の大作家だったが、私はせいぜい四流か五流、しがないもの書きにすぎない。最初から比較にならないことを棚にあげていうのだが、モームのようなみごとな才能に恵まれなかった私は、なおかつモームに親近感をもって生きてきたような気がする。

 モームがたいへんな読書家だったことはいうまでもない。特に、哲学者のものをよく読んでいる。私は、モームがスピノザ、バークリー、ヒュームなどを、らくに読みこなしていることに驚嘆した。私は、鈴木 大拙、西田 幾太郎、和辻 哲郎などを、らくに読みこなしてきたことはない。

 「私は若い頃にたくさん本を読んだが、自分のためになると思ったからではなく、好奇心と向学心からだった」とモームはいう。
 私も、けっこうたくさん本を読んだが、ひたすら好奇心のせいだった。ほんとうはいくら読んでもよくわからなかったというのが、実情だったのだろう。

 「旅行も、おもしろいのと、作家としての資料収集に役立てるためだった」という。

 私はあまり旅行をしなかった。暇もなかったし、旅行の費用も捻出できなかった。だから、作家としての資料収集の旅行など考えもしなかった。それでも、わずかな旅行の経験が、自分に大きな影響をおよぼしたと思っている。

 モームが南海を旅行して、はじめて書いた短編は『雨』だったが、最初にもち込んだどの出版社でも断られた、という。
 モームほどの作家でも、そういう屈辱に耐えてきたと思うと、私などは出版社に原稿をもち込む気になれない。実際、出版社に原稿をもち込んだことはない。べつに気位が高かったからではない。断られるとわかっていて、原稿をもち込み、実際につき返されたときの屈辱には耐えられないと想像したからだった。

 いずれにせよ、私はモームが好きなのだ。

2008/06/27(Fri)  858
 
 私の机に本が積みあげられている。

 『変愛小説集』岸本 佐知子訳(講談社 2008年)、『孤独なアメリカ人たち』アースキン・コールドウェル著/青木 久男訳(南雲堂 1985年)、『映画都市 メディアの神話学』海野 弘著(フィルムアート社 1981年)、『ハリウッド殺人事件』中田 耕治編・監修(ミリオン出版/1987年)、『スター』エドガール・モラン著/渡辺 淳・山崎 正己訳(法政大学出版局 1976年)、『セックス・シンボルの誕生』秋田 昌巳著(青弓社/1991年)、『ヌードの歴史』ジョージ・レヴィンスキー著/伊藤 俊治・笠原 美智子訳(PARCO出版 1989年)、『宿命の女 愛と美のイメジャリー』松浦 暢著(平凡社/1987年)、『The Great Movie Stars <The Golden Years> 』by David Shipman(Hamlyn/1970年)、 ”What Every Lover Should Know”by Marquis Busby(Motion Picture Classic)June 1929.

 今、この瞬間に、私の机の上にある本と雑誌。あるエッセイを書きはじめるために、私がかき集めてきたものばかり。
 このほかに、私が読み続けている単行本、文庫本、友人の個人雑誌などが、所狭しとばかり散らばっている。
 岸本 佐知子訳の『変愛小説集』は、毎日、短編の1つを読んでいる。どの作品もおもしろいので、いっきに読んでもいいのだが、少しづつ読んでゆくほうが岸本 佐知子の訳のみごとさをゆっくり味わうことができる。こういう仕事ができる翻訳家は、いまや貴重といってよい。ある有名な文庫で出たサマセット・モームの新訳、かつて中村 能三の訳にあったモームの凄さがまるで消えている。翻訳という仕事はむずかしいものだ。

2008/06/25(Wed)  857
 
(つづき)
 このとき、椎野 英之は、私にシナリオを見せてくれた。はじめてアメリカ映画のシナリオ作法にふれて私は驚嘆した。私は「東宝」で、シノブシスを書いたり、ほかのライターの書いたシナリオのセリフを書き直すダイアローグ・ライターといった仕事をしていたので、このシナリオ作法には大きな刺激をうけた。

 この映画でヒロインを演じる女優に新人が選ばれた。日劇ダンシング・チーム出身。根岸 明美。キワモノ映画だったし、内容がエロティックなものだったので、当時、有望だった新人女優を使うわけにはいかなかったのだろう。
 その根岸 明美が、つい最近、亡くなった。(’08.3.11.)73歳。
 黒沢 明の「どん底」、「赤ひげ」などに出ているが、女優として大成したとはいえない女優さんだった。

 芸術家は、自分ではどうしようもない非運にさらされることがある。

 映画女優、根岸 明美は、スタンバーグの「アナタハン」出演で、大きなチャンスをつかんだ。映画としては駄作だったが、根岸 明美は強烈な魅力を感じさせた。当時のスターレットとしてはめずらしいほど恵まれた肉体や、エロティックなマスクをもっていた女優だった。
 1953年(昭和28年)に、谷口 千吉の映画、「赤線基地」に起用された。この映画では、まだ、十七歳の新人だった根岸 明美は、アバズレのパンパンガールの役で、外地から帰国した素朴な青年(三国 連太郎)を相手に、エロティックな演技を披露した。むろん、今見ればエロティックでも何でもない映画の一つ。
 ところが、この映画は、アメリカ軍基地の周辺にむらがるパンパンガールを描いていたため、反米的な映画と見られて、九月の公開をめぐって論議が起こり、当時の小林社長の裁断で公開が中止された。
 映画監督、谷口 千吉はこれで挫折した。そして、女優、根岸 明美の魅力を生かした映画は作られなかった。「どん底」や「赤ひげ」などに出たといっても、黒沢 明は、いい女優を育てるようなタイプの監督ではない。たとえば、中北 千枝子を見ればわかるだろう。「どん底」や「赤ひげ」などは女優としての根岸 明美の可能性をひろげたものではなかった。

 根岸 明美の訃報が出た日に、歌手の沢村 美司子が亡くなっている。沖縄出身。66歳。戦後、マーロン・ブランドが日本人を演じた映画、「八月十五夜の茶屋」(57年)に出た。

 この日、なぜか「めっちゃくたばりそう」な気がした。

2008/06/23(Mon)  856
 
 友人の椎野 英之は戦後すぐに「時事新報」に入社したが、やがて、「東宝」に移って、製作の仕事をするようになった。
 ある日、私をつかまえて、スタンバーグ(映画監督)を知っているか、と訊いた。
 椎野 英之はあまり知らないようだった。私は「モロッコ」を見ていたので、スタンバーグがディートリヒを撮った映画について話してやった。

 数日後、びっくりするようなことを教えてくれた。

 「スタンバーグが、日本で映画を撮りたいっていってきたらしい」

 スタンバーグが「東宝」で映画を撮る可能性を打診してきた。このニュースに私は驚いた。
 ジョゼフ・フォン・スタンバーグは、私たちには「モロッコ」だけで知られていたが、映画が無声からトーキーに転換した時期、すでに映画界を去っていた。はっきりいえば、過去の名声だけを身にまとった最後の巨匠、あるいはラテだった。
 戦後、イギリスの女優、アン・トッドを使って、「超音速ジェット機」を撮ったが、演出にまるで切れがなく興行的にも失敗した。
 スタンバーグが「東宝」で映画を撮るという。おそらく映画監督としての再起をかけた仕事になる。
 この交渉には、東宝側は重役の岸 松雄、「東和」の川喜多 長政などがあたったのだろうと思う。ただし、おそらく記録はない。

 スタンバーグが日本で撮った映画は「アナタハン」という。
 南方戦線の孤島で、敗残の日本兵十数名のなかに、沖縄出身の女性がひとり、という実話にもとずいたものだった。
 スタンバーグの映画監督復活を期待したが、残念なことにこの映画はほとんど問題にならなかった。
   (つづく)

2008/06/21(Sat)  855
 
  (つづき)
 現在の私たちの環境で、ツヴァイクほど痛烈に学校教育をこきおろす人はいないだろう。当然ながら、ツヴァイクは二十世紀の教育を受ける子どもたちを心から羨望している。
 二十世紀になってからの子どもたちは、幸福に、自由に、独立して子どもじだいを過ごせるようになっている。そのことにある種の羨望を禁じえない、とツヴァイクはいう。
 子どもたちはなんのこだわりもなく、先生たちと対等に話しあっている。誰も不安をかんじないで通学している。しかも、若くて好奇心にみちた魂からはっする願いや好みを学校でも家庭でも公然と口にできること、そのようすを見ると、私(ツヴァイク)自身は、あり得べからざることに見える、と。

 そんなふうにいわれると、私などは、なんとなく居ごこちがよくない。

 学校の先生に対しても、ツヴァイクの見方はきびしい。

    彼らはよくもなくわるくもなかったし、暴君でもなければ、助けになる味方でもなく、哀れな連中だった。前例や、文部省で予定された教科の課程に、まるで奴隷のようにしばりつけられて、生徒が自分たちの「課題」を片づけなければならなかったように、先生も自分たちの「課題」を片づけなければならなかったのだ。

 と憐憫とも侮蔑ともつかないことばを投げつけている。先生は生徒を愛してもいなかったし、憎んでもいなかった。「なぜかというと、彼らは、われわれについて何も知らなかったからである」と。

 私たちの環境でも、こういう先生がいないとはかぎらない。

2008/06/19(Thu)  854
 
 教育は、それぞれの国によって違う。
 たとえば、十九世紀ドイツでは、いわゆる良家の子弟を大学に進学させるアカデミックな教育が必要と考えられていた。しかし、小学校とそれにつづくギムナジウムの8年間は、ある人々にとっては、けっしてバラ色のものではなかった。
 ステファン・ツヴァイクの回想、『昨日の世界』を読んだ人は、十九世紀の教育がどんなに陰惨なものだったかを知らされる。

 ツヴァイクについて説明する必要はない。私は、若い頃、ツヴァイクの評伝、『ジョゼフ・フーシェ』や、『マリア・ステュアート』、『バルザック』を読んだことから、のちに『ルクレツィア・ボルジア』や、『メディチ家の人びと』といった評伝を書こうと思った。その意味で、私がもっとも敬愛する作家のひとり。
 そのツヴァイクが断言している。

    私のすべての学校生活は、正直にいって、たえず退屈きわまる倦怠以外の何ものでもなかった」と。

 ツヴァイクにとって、学校とは何だったか。

    学校とは、私たちにとっては強制であり、荒涼たる場所であり、退屈なところ、「知るにあたいしないものの勉強」をことこまかに別れた科目別に習得しなければならない、しかも実際的な関心や、おのおのの関心とは何の関係もない場所だった。

 あれほど博識をもって知られている作家が、学校教育に対して、これほど否定的な姿勢をとっている。それも、ただの否定ではない。「もっとも美しく、もっとも自由であるべき生涯の一時期を、徹底的におもしろくないものにした、あの単調で、無慈悲で、活気のない学校生活で、一度たりとも、愉快だったとか、幸福だったりしたことは思いだせない」という。
    (つづく)

2008/06/17(Tue)  853
 
 古雑誌の整理。自分の書いたものが掲載されていたりする。焼き捨てる前に読み返す。こんな文章があった。


   久しぶりで、「近代文学」が機会をあたえてくれたので、しばらく勝手な仕事をさせて頂くことになった。
   自分でもまるで自信がなく、もしかすると、途中で力つきて、あるいは、あきて投げ出すかも知れないが、かなり長いあいだ書きたかったものなので、思いきって手をつけてみた。こういう仕事は、どこでも歓迎してくれないし、にもかかわらず書きたいとなれば、今のうちに手がけておいたほうがいいと思う。
   もう、数年前に、ロドリゴに関してエッセイを書いたことがあった。ある雑誌のために書いたものだったが、これは発表されずに終わった。私は、そのときから、何度か断念したり勇気をふるい起こしたりしてきたが、「近代文学」の好意がなければ、こうして、チェーザレ、ルクレツィアという人間の姿をとって、ルネッサンスにあらわれる異様な情熱を描く決心もつかなかったろう。この連載が終ったとき、資料を列挙するつもりだが、私の読み得たかぎりでは、イタリアのマリア・ベロンキ、アメリカのジョーン・ハスリップの評伝が学問的には重要らしく、そのいずれにも、私は多くを負うものだが、文学的には、フランスのリュカ・ブルトンの評伝がいちばんおもしろかった。
   しかし、私のものは評伝ではなく、むしろへんな小説として読まれてもいいと思っている。
 −−「近代文学」(1963年5月号)。連載、第一回の「あとがき」。


 この連載は「近代文学」廃刊のため、残念ながら中断した。
 当時、「近代文学賞」というものがあって、私の『ボルジア家の人々』も、この賞を受けたが、これは「近代文学」の人びとが連載を中断しなければならなかった私を憐れんで、あたえてくれたものではなかったか。

 のちに『海』の安原 顕が連載の機会をあたえてくれたので、あらためて『ルクレツィア・ボルジア』として完成した。

 今の私なら、マリア・ベロンキや、ジョーン・ハスリップよりも、むしろグレゴロヴイウスや、サバティーニをあげるだろう。評伝を書くむずかしさが身にしみてくると、グレゴロヴイウスや、サバティーニが立ち向かった時代のほうが、ルネサンス研究の進んだ現在よりも困難ははるかに大きかったと見ていい。
 この「あとがき」には、私なりの覚悟が語られている。若気の至りで、評伝を書くほんとうの困難に気がついていない。こうまで自分を納得させなければ仕事にならなかった自分が可哀そうな気もするが、一方では、若かったなあ、という感慨もある。

 長いものを書こうとすると、きまってさまざまな困難がやってくる。その都度、あっさり断念したり、ときには未練たらしくこだわったり、ときには必死に勇気をふるい起こしたりして、仕事をつづけてきたものだった。

 戦後すぐに私を認めてくれた「近代文学」の人びとに、あらためて感謝している。

2008/06/15(Sun)  852
 
 (つづき)
 戦後、私がいちばん多く読んだのはイギリスの戯曲だった。理由は簡単で、神保町の洋書専門の古書店では、たいていイギリスの戯曲が棚ざらしになっていた。誰も読まないらしい。
 英語を勉強する気で戯曲をあさった。なにしろ値段が安かったから。おかげで、戦前のノエル・カワードはほとんど全部読んだ。戦後すぐに、アメリカの民間情報局が日比谷にライブラリーを開設したが、つづいてイギリス占領軍もおなじようなライブラリーを作った。私はこの図書館に通ってはイギリスの演劇雑誌を読みふけった。

 はるか後年、私は映画批評を書くようになった。

 試写室で会う先輩の映画批評家たちに挨拶した。植草 甚一さんと親しくなって、いろいろ話をうかがうことも多かった。
 飯島さんにおめにかかって、いつも挨拶するようになった。
 戦争中に、先生の講義を聞いたとつたえると、飯島 正は驚いたような顔をした。まさか、当時の学生のなかから、もの書きになったやつがいるとは思ってもみなかったのだろう。

2008/06/13(Fri)  851
 
 戦争中にノエル・カワードを読んだ。少年時代、あの空襲の日々に、ノエル・カワードを熱心に読んでいた少年。自分でも信じられない。
 たしかに、16歳の私はノエル・カワードを読んでいた。原書を読んだわけではない。『若気のあやまち』(飯島 正訳/昭和10年/西東書林)で、はじめて彼の戯曲を知ったのだった。
 翻訳した飯島 正の名前も心にきざみつけた。

 戦局の悪化にともなって、中学生も上級の学校にスキップできることになって、私は、中学4年(いまの高校1年)から大学に入った。
 そして、幸運にも飯島 正の講義を聞いた。週に1コマ、リュミエールからの、おもにフランスを中心にした映画史の講義だった。私はもっとも熱心な学生のひとりだったと思う。
 ある日、教室に入ってきた飯島先生は、私たちの顔を見つめながら、
「今日の講義は……ほんとうはふれてはならないとされていることなのですが……映画史としては落とせない部分なので、とりあげておきます」
 と語った。
 飯島 正はエイゼンスタインの「戦艦ポチョムキン」を紹介しながら、ソヴィエト映画の大まかな歩みを教えてくれた。
 このとき、私は、知識として、ジガ・ヴェルトフや、プドフキンといったロシアの映画人の仕事をはじめて知った。飯島 正は分厚な本に出ている写真を学生たちに見せてくれたのだった。
 そのときまで何ひとつ知らなかった私は、ロシアでは何かまったく違った種類の映画がおびただしく製作されているらしいと思っただけだった。
 この講義の内容を警察なり憲兵に密告するような学生がクラスにいたら、飯島 正は検挙され、治安維持法違反で、ただちに投獄されたはずだった。

 今の私は、当時の少年たちに何かをつたえようとしていた飯島 正に感謝する。少なくとも、何も考えなかった少年に、はじめて外国にはまったく違ったイデオロジックな映画が存在することに気づかせてくれたのだから。
   (つづく)

2008/06/11(Wed)  850
 
 私は陳 明(チェン・ミン)のファンだった。広州のポップスのシンガー。
 しばらくして、日本には同名で二胡の奏者の陳 明(チェン・ミン)が登場する。
 この二胡の奏者も好きだが、ポップスの陳 明(チェン・ミン)のCDは、なかなか手に入りにくいので、最近は聞いていない。

 香港ポップスに小雪(シャオ・シュエ)という少女が登場した。なかなかいい歌手だった。
 やがて日本に、同名の小雪という映画スタ−が登場する。「ラスト・サムライ」のヒロインといえば、誰でも知っている。あるエッセイで、「小雪(シャオ・シュエ)のことを書いたが、ある日、「先生は、小雪みたいな女性がお好きなんですね」といわれた。
 このとき、はじめて日本に同名の映画スタ−がいると知った。

 一昨年あたり、私は範 冰冰という女優さんを知った。なにしろ、範美女在博客上也極盡“酸甜”という美女である。
 おなじ時期に、李 冰冰という女優さんも見た。こちらのほうは、“小女人”的な女優だった。名前が似ているので、字面だけでは区別がつかない。しばらく前に、台湾の白 冰冰という女優さんがいた。日本で、ひどいスキャンダルに巻き込まれて、その後の消息をしらない。

 韓流のドラマや映画では、女優さんの名前が似ているのでなかなかおぼえられない。
 チェ・ジウや、ソン・イェジンのように有名な女優さんなら間違えっこないが、私が好きなイ・ジーウォンなんて誰にもわからない。

2008/06/09(Mon)  849
 
 横浜、「KAORI」のクッキーは、世界じゅうどこの外国に出しても遜色のない高級品だが、これを召し上がりながら、野木 京子の詩を読む。おいしい。
 ついでに、英語の詩。テニソン、ワーズワースから、ボブ・ディランまで。ただし、英語の詩を読むといっても、一編だけ読むのだから詩の鑑賞などというものではない。
 つまみ食い。

    Innocent was she,
    Innocent was I,
    Too simple (were) we!

 こんな詩句を見つけるとうれしくなる。というより、ニヤニヤしたくなる。これが、ハーデイの作。
 ハーデイについては、いつか別に考えることにしよう。

 ついでに、アメリカの女流詩人を。
 ガートルード・ルイーズ・チェニーの詩。どういう詩人なのか知らない。

  All people made alike,
  They are made of bone.flesh and dinner
  Only the dinners are different.

 そりゃあ、そうだよネ。ガートルードさん。
 彼女の詩とは関係なく、別のことを考える。ものを食べるという行為は、人間のあらゆる行為のなかで、いちばん即物的なものだ。ところが、世間には、食通という人々がいて、「美味」という観念を頭につめ込む。
 グルメなどと称する連中は、ものを食べるという行為をはたしてどこまで徹底して考えているのか。

 おカキをかじりながらミルトンなんか読む。ほんの数行。
 けっこういい気分になる。
 カキのタネなら、詩よりもチョーサーだな。バリバリ音を立てて食べよう。
 チョーサーは「ことばは行動のいとこでなければならぬ」といった。なんとなく、カキのタネを食べたくなる。(笑)

2008/06/08(Sun)  848
 
 長谷川 如是閑はえらいジャーナリストだが、私はほとんど読んだことがない。
 古本屋にころがっていた如是閑の作品集を買ってきた。戯曲があったから。「フランス髯」、「馬鹿殿評定」、「両極の一致」、「ヴェランダ」、「五条河原」といった一幕ものが並んでいる。
 はっきりいって、まったくおもしろくない。そもそも戯曲などと呼べるシロモノではない。つまり、戯曲になっていない。さりとて、レーゼ・ドラマなどというものでもない。
 「両極の一致」は、大昔、蒲田あたりの活動写真をおもわせるファルス。実際にどこかの劇場で、誰かが上演したのだろうか。

 「如是閑語」というアフォリズムから、いくつか引用しておく。これとて、百数十のうち、今でも通用する(と思われる)ものは、せいぜい十ぐらい。

    古(いにしえ)は神、人を作り、今は人、神を作る。
    産るべき理由ある人は少なく、死すべき理由ある人は多し。
    男子は結婚によって女子の賢を知り、女子は結婚によって男子の愚を知る。
    お姫様の恋はスペキュレーティヴなり、ややもすれば独断に陥る。芸者の恋はエキスペリメンタルなり、ややもすれば懐疑に陥る。
    少女の恋は詩人なり、年増の恋は哲学なり。
    生きて孤独なるものは不幸なり、死して孤独なるものは更に不幸なり。
    純なる結婚は年少者の空想なり、純なる情死は戯作者の空想なり。
    吠ゆる犬は噛まず、噛む犬は吠えず。

 引用するのが少しアホらしくなってきた。

 長谷川 如是閑はいう。
 「元来、私のユーモアは理屈つぽくて骨つぽくて喰ひ難ひといふものがあるが、さういふ連中は、本屋へ行って私の本を購ふ代りに、鰻屋へ行って鰻を喰ふがいい。さうすれば骨のない油こいやつがいくらでも喰へる。」
 さすがに年季の入った人の啖呵だね。

 如是閑さんにならっていえば・・・「中田 耕治ドットコム」などを読むかわりに、きみはどこに行って何を食えばいいだろうか。

 どこに行ったって、食うものなんかねえ。(笑)

2008/06/07(Sat)  847
 
 すばらしいことばを見つけると、つい自分の仕事に使えないものかなどと考える。ちょっとさもしい気がする。

 子どもの頃、銭湯に行くと、背中いっぱいに倶利迦羅龍王の御姿を彫りつけた、いなせな爺さんが一人や二人いたものだった。

 倶利迦羅紋紋。くりからもんもん。これは死語になっている。

 「からだに我慢まであって」。むろん、これも死語だろう。

 『夏祭浪花鑑』で、「團七九郎兵衛」のセリフに出てくる。戦時中、市村 羽左衛門がやったとき、六代目(菊五郎)が「三河屋義平次」だった。

 AVを見ていたら、若い女の子のからだに我慢まであって驚いたことがある。

2008/06/06(Fri)  846
 
 ときどき、すばらしいことばを見つける。なぜか、うっとりしてしまう。正確にその意味がわかるわけではない。いつか自分の仕事にこういうことばが使えないものか、と考える。

  「こは、たそ。いとおどろおどろしう、きはやかなるは」

 『枕草子』(一三七段)。
 「おどろおどろしい」は今でも使われている。「きはやかな」ということばはまったく聞かない。今の表記では「きわやか」になる。
 「こは、たそ」は、「え、あなた、誰なの?」という意味。

  ものもいはで、御簾(みす)をもたげて、そよろとさし入るる、呉竹なりけり。
 というシチュエーション。この「そよろとさし入るる」もいいけれど、これはちょっと使えないだろう。

 私のHPのエッセイは、さして、おどろおどろしくないが、できればきわやかに書いてみたい。女性の心の御簾(みす)をもたげて、そよろとさし入るような。

 無理だな。(笑)

2008/06/05(Thu)  845
 
   (つづき)
 私自身、リーヌ・ノロを見たといっても、「望郷」(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)のあと、戦後に「田園交響楽」(ジャン・ドラノア監督)で見ただけである。

 「望郷」は、犯罪者としてアルジェに逃げ、カスバにひそんでいる主人公、「ペペ・ル・モコ」が、たまたまパリから観光にきたブルジョア女に心を奪われて、ひそかにパリにもどろうとする。リーヌ・ノロは、それを知って嫉妬にかられて警察に密告する現地妻をやっていた。この一作で、リーヌ・ノロは、私たちに強烈な存在感をあたえた。
 当時、舞台女優としてのリーヌ・ノロは、ルイ・ジュヴェの劇団で、ジロドゥーの芝居に出ていたし、「コメデイ・フランセーズ」の准幹部(パンショネール)になっていた。これだけでも、すぐれた舞台女優だったといえるだろう。
 戦後の私たちは、「田園交響楽」で、美女のミッシェル・モルガンの健在を知ったが、ワキの、それも村の老女を演じていたリーヌ・ノロに注目した人は、ほとんどいなかったはずである。

 評伝、『ルイ・ジュヴェ』で、私はリーヌ・ノロにふれた。この評伝は出版にこぎつけるまでずいぶん時間がかかったが、当時、私は「作家のノート」といったものを書いていて、偶然、リーヌ・ノロに言及している。(1997年8月)

    『望郷』で嫉妬に狂うアルジェ女をやっていたリーヌ・ノロは、自殺している。
    自殺という行為にはなにがなし哲学的なところがある。自殺は、最後のぎりぎりの人間愛の表現友受けとれるふしがないでもないのだが、私ときたら、およそ哲学、形而上学などと縁がなかった。そもそも自殺の意味など考えたことがなかったし、自殺すべき理由もない。とすれば自殺などできようはずもない。私などはつたない運命の波間に浮草のように漂うくらいがせきの山であろう。
    ただし、死は私にとってきわめて親しい観念だった。どういう死にざまをさらすのか、じぶんなりに好奇心がある。にんげん心臓がとまれば死ぬらしいが、ほんの一瞬、まだ脳髄が生きているとき、死に対してどういう感想をもつだろうか。おのれの未来に驚きが待っているとすれば、そんなことぐらいだろうから。

 リーヌ・ノロの自殺にふれたのは、この評伝の最終章、もうひとりの女優、(この評伝の主要な登場人物だった)ヴェラ・クルーゾーの自殺の伏線として、とりあげておいたのだった。
 この評伝の最後の最後に、ヴェラ・クルーゾーの自殺をとりあげた。少女時代にジュヴェの劇団で認められ、戦時中、ラテン・アメリカ巡業で、最後まで、ジュヴェと苦難をともにした。
 映画監督、ジョルジュ・クルーゾーの映画史に輝く「恐怖の報酬」に出たヴェラは、この映画で世界的な名声を得ながら、自殺という手段を選ばなければならなかった。

 私が書きたかったのは彼女たちに対する憐憫であり、ひそかなレクィエムだったといってよい。

 香港の俳優、張 國榮が自殺した時、私はつよい衝撃を受けた。つづいて、女優で、一流のシンガーだったアニタ・ムイが病死した。
 2005年に、韓国女優のイ・ウンジュが亡くなっている。その後、日本のポルノ女優が自殺したり、昨年は韓国のシンガー、ユニの自殺につづいて、女優、チョン・ダビンが自殺した。私はそれぞれの人の死につよい関心をもちつづけてきた。
 私が「死は私にとってきわめて親しい観念だった」と書いたのは、じつはこうした人びとの死を見つめてきたせいだった。そしてそれこそが『ルイ・ジュヴェ』の大きな主題の一つになった、と考えている。

 いま、私はリーヌ・ノロや、ヴェラ・クルーゾーより前の世代の女優の評伝を書いてみようかと思っている。
 時間があるかどうかわからないが。

2008/06/04(Wed)  844
 
 (つづき)
 リーヌ・ノロは、残念ながら岸田 国士のエッセイを知ることがなかった。
 知らないのが当然だろう。当時の日本の劇作家の片々たるエッセイが、フランスの演劇ジャーナリズムに紹介されるはずもなかったからである。

   「僕が特に「新劇女優」と呼ぶ所以は、彼女が、その驚くべき舞台的成長にも拘はらず、毫も芸人的「粉飾」によって自らを目立たしめようとしてゐないからである。言ひ換へれば、その扮する人物の、厳粛素朴な構成を最高度に生命づける「芸術的演劇」の精神が、彼女の前進に漲ってゐるのを感じたのである。」

 もし、これをリーヌ・ノロが読んでいたら、どんなにうれしく思ったことか。
 さすがに一流の劇作家らしく、この女優の本質をみごとにとらえている。と同時に、「文学座」をひきいた岸田 国士が思い描いていた「新劇女優」のタイプが、どういうものだったか。そのあたりも想像できるだろう。
 そして、このエッセイの背後にもう少し重要なことが読みとれる。
 岸田 国士は、リーヌ・ノロに、「よき環境に置かれ、よき指導者を得、彼女は遂にこれまでになったのだ」という手放しの賞賛の背後に、「よき環境」もなく、「よき指導者」もいない日本の「新劇」の状況に対する憂慮である。
 昭和12年(1937年)に、岸田 国士は、岩田 豊雄、久保田 万太郎とともに「文学座」を創設する。

 リーヌ・ノロは、その後の日本の俳優、女優たち、とくに演劇関係の養成所、研究所といった機関が整備されるような「よき環境に置かれ、よき指導者を得」られる環境作りに貢献したといえるかも知れない。
       (つづく)

2008/06/03(Tue)  843
 
 戦後の私にとって、大きな衝撃になったできごとの一つに、フランスの女優、リーヌ・ノロの自殺がある。

 私が評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかでふれた女優、リーヌ・ノロは、もはや誰の記憶にも残っていないだろう。まして、彼女について書くような人はいるはずがない。

 戦前のリーヌ・ノロについて、岸田 国士がエッセイを書いている。
 『現代演劇論』(白水社/1936年刊)を読み直していて、思いがけず「女優リーヌ・ノロのこと」というエッセイを発見した。いまさら不勉強を弁解してもはじまらないが、このエッセイに気がつかなかったのは、岸田 国士がルイ・ジュヴェに言及していないからだった。
 このエッセイを知らなかった私は、評伝、『ルイ・ジュヴェ』でリーヌ・ノロにふれている。
  〔『ルイ・ジュヴェ』(第六部・第九章)〕

 岸田 国士のエッセイについてふれておこう。

 1934年、ゾラ原作を映画化した「居酒屋」を見た岸田先生が、ヒロイン、「ジェルヴェーズ」を演じていたリーヌ・ノロを見て、それに触発されて書いたエッセイ。

   「が、何よりも僕を感動させたのは、この物語の女主人公ジェルヴェエズに扮するリイヌ・ノロといふ女優が、十三年前、巴里ヴィユウ・コロンビエ座の学校で、一緒にコポオの講義を聴いていた一研究生であり、その少女が、今、スクリインの上で、この大役を堂々としこなして、天晴れな成長ぶりを見せてゐることだった。
    彼女はたしか、僕の識ってゐる期間に於ては、平凡な一研究生として、二三度、ヴィユウ・コロンビエの舞台を踏んだことを記憶してゐるが、過分な役を振られて胸をおどらし、コポオの噛みつくやうな小言を浴びながら、臂を左右に張って、おろおろと台詞を吐き出してゐた。」

 やがて、岸田 国士は日本に帰国する。帰国して翌年(大正13年)、『チロルの秋』で劇作家として登場する。そして、「ヴュー・コロンビエ」の解散を知るのだが、その後のリーヌ・ノロをはじめ、いろいろな人たちの消息をしらないままに過ごした。
 「文学座」をひきいた岸田 国士は、このエッセイを書いた翌年、昭和10年(1935年)には『澤氏の二人娘』を書いている。
 もう一度、リーヌ・ノロについて書いた部分に戻ろう。

   「この映画に現れた彼女は、僕の観るところ、定めし「よき修行」を重ねたに相違なく、再会の喜びを割引するとしても、当今、一流の「新劇女優」たるに恥ぢない技倆を認めさせるものであった。」

 私たちはゾラ原作の「居酒屋」を見たが、これはマリア・シェルが「ジェルヴェーズ」を演じたリメークだった。マリア・シェルも、戦後の名女優のひとりだったが。
    (つづく)

2008/06/01(Sun)  842
 
 ある時期、芝居の世界にかかわった私にとって、大きな衝撃になったできごとがいくつかあった。
 その一つは、戦後すぐに登場した新人女優、堀 阿佐子の自殺であった。

 彼女は、「文学座」の研究生として出発したが、やがて「俳優座」に移った。当時、新人として注目されたのは、「文学座」の荒木 道子、丹阿弥 谷津子、「俳優座」の楠田 薫、東 恵美子、「民芸」の阿里 道子といったいろいろな女優がいっせいに開花したような印象があった。いずれも、「当今、一流の「新劇女優」たるに恥ぢない技倆が認め」られたといえよう。その中で、堀 阿佐子はトップをきっていた。当時の劇作家は、この新人に注目していた。

 「東宝」本社前、日比谷映画劇場の左奥にへばりついているように喫茶店があった。ここには、「東宝」関係の俳優、女優がいつも立ち寄っていたが、「東宝」で仕事をするようになっていた私も、しょっちゅうここに入りびたっていた。
 ある日、ここに若い女優さんがあらわれた。戦後すぐに登場した映画女優の、派手なメークの、めざましい美貌とはちがって、むしろおとなしい日本的なおもざしだった。ところが、身のこなし、動き、ひいては挙措に、ふつうの映画女優と違った存在感があって、店に入ってきただけで、あたりの空気が一変するようだった。
 ただのスターレットではない。その場に居あわせた誰もがそう感じたに違いない。「東宝」関係の女優ではないと見て、いっせいに視線が集まった。そのなかを、ごく自然な足どりで、彼女は私たちの席に寄ってきた。
 今ふうにいえば、オーラがまつわりついている。そんな感じだった。
 はじめて私が見た堀 阿佐子だった。

 それから数カ月後に彼女は自殺した。

 どういう人の自殺も悲劇的にちがいないが、堀 阿佐子の死は、敗戦後の混乱のなか、演劇界の大きなうねりのなかで起きた。当時の演劇界は、今と違って狭い世界だっただけに、誰の胸にも驚きといたましさを喚び起したと思われる。
 堀 阿佐子のデビューが鮮烈なものだっただけに、一部からは嫉視や羨望の眼で見られていたことは間違いない。
 堀 阿佐子の自殺からそれほど経っていない時期に、劇作家、内村 直也は、劇団の幹部女優にむかって、堀 阿佐子の死を悼むことばを述べた。この女優はその劇団を代表する有名な女優である。たまたま私は、その場に居合わせたので、このときのことはよく知っている。

 その女優は、蔑むような一瞥というか、冷然たるまなざしを内村さんに向けただけで、何も答えなかった。内村さんはすぐに別の話題に移ったが、この女優は、私にまでぎらりと突き刺すような一瞥をむけた。
 このときのことは忘れない。
 あの反応は何だったのだろう? その女優の見せた反応から劇団内部の大きな衝撃を感じたのだった。

 あとになって、内村 直也は私にむかって、
 「ああいうこと(おなじ劇団の女優の不慮の死)になると、冷たいものだねえ」
 と、私に語った。

 もっとずっとあとになって、堀 阿佐子が死を選んだ理由をほぼつきとめたが、ここに書く必要はない。ただ、こういう些細な経験がいくつもあって、のちに演劇人の評伝を書く動機の一つになった。

2008/05/31(Sat)  841
 
 日本のポップス。歌詞に、ベイビーということばが使われているだけで、私はそのシンガーを軽蔑する。
 たしかに、英語圏では、愛情表現の一つとして、「ベイビー」が使われる。子どものとき、母親がそういう呼びかたをしていたから、愛する対象を「ベイビー」と呼ぶ。

 フランス映画「バルニーのちょっとした心配事」(ブルーノ・シッシュ監督/2000年)のなかで、さえない中年男の主人公「バルニー」(ファブリス・ルキーニ)とベッドをともにした若い娘(ナタリー・バイ)が、英語で「愛しているわ、ベイビー」という。
 「どうして、ベイビーなんていうんだ?」
 「だって、あなた、子どもなんですもの」

 フランスの男が「ベイビー」なんていわれたら、頭にくるワな。

 ところが、日本のポップス・・・・赤ンぼうのとき、母親からベイビーと呼ばれたこともない(だろうと思う)日本のタレント歌手が、歌のなかで「ベイビー」などといいはじめると、からだじゅう、かゆくなってくる。

 うざい、死ねェ。そう叫びたくなる。
 「こんなやつとおなじ空気を吸っているだけでも死ぬーッ」。

2008/05/30(Fri)  840
 
 目下、あたらしい仕事の準備にかかっていて、いろいろ資料を読んでいるのだが、ふだん、考えたこともないようなことが、ひょっこり心に顔を出す。ときには、資料と無関係に昔のことを思い出す。

 これもボケた証拠かも。

 たとえば、『権三と助十』を見た思い出。
 アメリカ相手の戦争がはじまるほんの少し前のこと。私は中学生になったばかり。夏休み、歌舞伎座につれて行かれた。
 このとき見たのが『権三と助十』で、ミステリー仕立ての話だった。これに若い娘の悲劇と、大岡越前のお裁きが絡んで、最後にはカゴかきの権三と助十の活躍で万事解決。
 岡本 綺堂の原作だが、金子 洋文が脚色したもの。

 「権三」は猿之助。「助十」は寿美蔵。
 ふたりのカゴに乗ってくるのが、大工の娘、「お千代」。これが訥升。ところが、悪者があらわれて、「お千代」はさらわれる。「権三」も「助十」も逃げてしまう。脚色がよくないのか、芝居のメイン・プロットがゴタついて、中学生の私には話の内容もよくわからなかった。

 ただ、訥升を演じた娘が綺麗で、悪人どもにつかまったら何をされるかわからない、落花狼藉(らっかろうぜき)の意味が中学生の胸に押し寄せてきた。いまのことばでいえば、「キュン死に」しそう。(笑)。

 この若い娘が引ったてられたあと、「権三」と「助十」が、現場にこわごわ戻ってくる。とたんに、
 きゃッ、人殺し!
 と、悲鳴があがって、またまた「権三」と「助十」は腰をぬかす。
 「おい、相棒、おれゃぁ、人殺しが大嫌いなんだよ」
 「人殺しの好きなヤツが、どこにいるもんか」
 「権三」が「助十」を抱き起こすと、裏木戸から犯人がスーッと出てくる。すぐ近くの用水で匕首にべっとりついた血を洗いながして、闇のなかに消えて行く。
 この犯人が八百蔵。

 芝居ってものハおもしろいなあ。これまでとは違った眼で芝居を見るようになった。
 いつか、ほんものの役者がやれる脚本(ほん)を書いてみよう。やってくれるならどこの小屋、どんな役者でもよかった。

 ときに昭和15年。(1940年)。

2008/05/29(Thu)  839
 
 ようす。
 ようすする。
 男女を問わず、なんとなく異性を意識して、ふるまうようす。ようすするは、動詞。
 あの野郎、ようすしやがって。

 あのひと、ようすしぃやわ。

 丸谷 才一は、いい文章を書こうとするには、少し気どって書け、といった。
 少し気どって書けるくらいなら、「文章読本」など誰が読むものか。

 ようすしぃだなあ。

2008/05/28(Wed)  838
 
 芸術家の運命といったことを考える。考えたところで、たいした結論は出てこない。
 さして長くない生涯で、いろいろな才能と運命が、思わぬ時と所で、重なりあい、あるいは反発しあい、むすぼれたかと思うと、いつか離れてゆく。
 有為転変は世のならい。滄海変じて桑田となる。

 おもしろいのは、広重は国芳とおない年。豊国の門下に入ろうとしたのも、文化8年(1811年)、当時、15歳。
 ところが、豊国は門人が多くて、とても教える時間がないという理由で、広重の入門を許さなかった。
 おない年の国芳は、豊国の門下に入っている。

 広重はやむを得ず、おなじ歌川派ながら、豊国とは画風も制作の姿勢も正反対の豊廣の門に入った。
 豊国は門人が多くて、とても教える時間がなかった。国芳も入門できなかったはずだが、それが許されたのは、豊国は国芳の才能を認めたと思われる。
 はたせるかな、国芳は入門後わずか三年で、文化11年(1814年)に、合巻ものの挿絵を描いてデビューした。
 広重のほうは、入門後、じつに9年たって、ようやく処女作を発表する。

 ところが、国芳の合巻ものの評判はあまり芳しくなかった。

 私が評伝という文学形式につよい関心をもつのは、一方に充実した幸福な人生があれば、他方に、悲運にあえぐ生涯もあって、その巧まざる対比が、芸術家の運命を私につよく考えさせるからである。

 林 美一は国芳の作品を比較しながら、あまり人気のなかった頃の挿絵のほうが格段にいいとする。そして、人気とは所詮そう云うものなのだ、という。そういい切った表情を想像する。
 私は、林 美一の仕事にいつも敬意をもってきたひとり。

2008/05/27(Tue)  837
 
 林 美一の『国芳』を読んでいて、こんな一節にぶつかった。

     しかし、由来、人気と、大衆の好みとは、その芸術家の持つ実力としばしば相反するものである。この時代の国芳が既に人気のあった天保二年刊行の人情本『和可色咲(わかむらさき)』二編の挿絵と比べて見ると、むしろこの時代の作品の方が格段に上手く、情熱に溢れている。人気とは所詮そう云うものなのだ。

 国芳は、文化11年(1814年)に、合巻ものの挿絵を描いてデビューした。同13年には、当時のベストセラー作家、山東 京伝の新作に、先輩の国貞、兄弟子の国直と合筆で挿絵を描いている。私は見たことがないのだが、国貞、国直と区別のつかないほど達者な作という。

     がそれはとりも直さず、国芳自身の絵に特色がないと云うことにもなるわけで、これならば何もわざわざ国芳に頼まずとも、人気絶頂の豊国、国貞はじめ、国直、国丸、国安、国満など豊国門だけでも絵師は幾らでもいるのだから注文のこないのは当然であろう。

 と、林 美一はいう。この研究家は、文政の頃の広重もおなじだろうという。
 広重は、『東海道中五十三次』を出すまでは、何の特色もない歌川派の絵を描いていた画家で、名前もろくに知られていなかった。
(つづく)

2008/05/26(Mon)  836
 
 (つづき)
 彼は語った。
 少年時代、サンクト・ペテルブルグの陸軍士官学校の生徒だった。ある日、学校に哲学者、ベルジャーエフが招かれて講演した。その内容はすばらしいもので、少年の彼は感激したのだった。いまでも、その内容は心に残っている。その後、異郷のパリで、くじけずに生きてこられたのは、このときのベルジャーエフの思想が自分の内部に生きているからだ、というのだった。

 私は熱心に彼の話を聞いていた。士官学校の講堂で、困難な時代におけるロシアの運命について、さらには若い士官候補生たちにむかってロシア人としての使命を諄々と説いていた哲学者、ベルジャーエフの姿が眼にうかぶようだった。
 この講演には、ツァーの代理として、皇弟、イポリートが出席していたという。

 この老人と話した時間は、おそらく十五分か、せいぜい二十分程度だったのではないか、と思う。
 私は、この老人の話になぜか感動していた。彼が私に嘘を語ったはずはない。まったく縁もゆかりもない東洋人を相手に、それ以来のベルジャーエフに対する親炙と、心からの敬意を語ったところで、何の得にもならないのだから。

 もう、40年も前のことである。最近になってそんなことを思い出したところで、あまり意味はない。この初老のタクシー・ドライヴァーとの出会いが、その後の私の生きかたになんらかの作用をおよぼした、とは考えられない。
 だから、あまり意味もないと承知の上でいうのだが、この夜の私は幸福だった。おそらく、タクシーの運ちゃんも、私とおなじように幸福だったのではないかと思う。
 パリを見物にきている日本人の若い旅行者が、まったく偶然にロシアの哲学者のことを論じるなど、まずあり得ないことだろう。おなじように、革命のとばっちりで、若くしてパリに亡命したロシア人が、偶然、自分の車に乗った旅行者を相手に、士官候補生だった頃から尊敬してきた哲学者の話をするなどということは、まずあり得ないことだろう。

 こういう幸福が、どういう性質のものだったのか分析したところで、何が見つかるものでもないが、お互いに親しい友人のことを熱心に語りあったようなような気がする。

 彼の名前も知らない。むこうも私の名前を知るはずもない。ただ、それだけのことだが、私にとってのパリは、この初老の運転手の思い出に重なっている。

2008/05/25(Sun)  835
 
 パリでタクシーに乗った。
 どこで乗ったか、どこに行こうとしていたのか、もうおぼえてもいない。

 タクシーの運転手は、初老の男だった。おきまりの会話からはじまった。どこからきたのか。
 日本から。
 どのくらい旅行しているのか。

 私のフランス語よりはずっといいが、スラヴ訛りのつよいフランス語だった。ロシア革命で亡命したという。
 私がロシア文学にいくらか通じていることがわかったらしい。
 ベルジャーエフを知っているか、と私に訊いたのだった。
 「知っている。彼の「ドストエフスキー」を読んだ」
 タクシーの運転手の顔に驚きが走った。
 パリで、ベルジャーエフを知っている日本人に会おうとは思ってもみなかったらしい。
 私は、ベルジャーエフの「ドストエフスキー」を読んでいたが、あまりくわしくなかった。まして、フランス語でベルジャーエフの哲学を少しでも論じることなどできるはずがない。

 彼は通りの横にタクシーをとめてしゃべりはじめた。あたりは暗かったが、ブールヴァールには明るい光が散乱していた。「テアトル・フランセ」の近くで、車の流れが多かった。パリが華やぎをましてくる時間だった。
   (つづく)

2008/05/24(Sat)  834
 
 いまの団十郎を見ながら、昔の、明治の団十郎のことを考える。むろん、私は見たことはない。

 今は、まったくきかなくなったが、昔の役者の職業病の一つに鉛毒があった。
 役者ではないが、画家のルノワールが、晩年、鉛毒のため、絵筆がもてなくなって、右手に筆をくくりつけて描いていた。
 役者の鉛毒については、舟橋 聖一の『田之助紅』にくわしい。先代の歌右衛門も、若い時分から鉛毒におかされていたし、先々代の団十郎も鉛毒だった。
 戦後になっても、エノケンが鉛毒で苦しんでいたことが知られている。

 団十郎は女形ではなかったから、鉛毒がよくなってからはあまり白塗りをせずにすんだが、歌右衛門はそうはいかない。無鉛の白粉(おしろい)を選んで使ったらしい。それでも、やはりからだによくなかった。
 化粧については、役者それぞれに好みがあって、化粧法も千差万別だが、若い頃の団十郎は鉄の鏡を使っていた。
 歌右衛門がわきからのぞいて見ると、曇ったようにぼんやりしている。

 「おじさん、こんなに曇っていて見えるんですか」
 と訊いた。団十郎は、
 「あんまり明るいと、化粧しても果てしがないから、このくらいでちょうどいい」

 後年、団十郎も、ガラスの鏡に変えたが、それでも化粧は荒いほうだったという。
 昔の舞台は照明の輝度も低かったから、お化粧も簡単ですんだらしい。

 『ルイ・ジュヴェ』を書いた時期、ジュヴェがモリエールの『ドン・ジュアン』を演出した章で――モリエールの「パレ・ロワイヤル」の舞台はローソクが百個ばかり、これに対して、ジュヴェの舞台は、照明の光度、輝度だけで、五百倍だったことにふれた。
 私はふれなかったが、この時期から、フランスの俳優、女優のマキアージュ(メーキャップ)の方法も違ってくる。

 そんなことを考えているうちに、「コメディー・フランセーズ」の名優だったマックス・デアリーが、晩年苦しんでいた病気は鉛毒ではなかったのか、と思いあたった。

 ここに書く必要もないけれど、このまま忘れてしまうのも惜しいので書きとめておく。

2008/05/23(Fri)  833
 
 若い頃、いちばん痛烈な(と思われた)批判は、

  「・・・・なんか文学じゃないよ」

 といういいかただった。ひどく便利な批評用語で、たとえば「永井 荷風の『勲章』なんか文学じゃないよ」というふうに使う。どうして文学ではないのか、また、(その人のいう)文学がどういうものなのか、まったく説明はない。こういう批評が「文学」の名に値するかどうか、そうした検証もない。

 ここに見られるものは、じつに単純な概括であり、その背後にひそむ軽蔑と、ひどい傲慢である。それがカッコよく見えたものだ。

 私は、こういうことを口にしない。むろん、こういう発言をしたくなることはある。
 そういうときは、

  「・・・・なんかいまの文学じゃないよ」

 といえばいい。これまた便利な批評用語のひとつ。

  「中田 耕治なんかいまの文学者じゃないよ」

 ときどき考える。おれって、ひょっとすると、江戸のもの書きのなれの果てじゃねえかなあ。

2008/05/22(Thu)  832
 
 ルイ・ジュヴェはモリエールを多く上演している。『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期、私がモリエールを熱心に読んだのは当然だろう。
 ジュヴェは「コメディー・フランセーズ」に乗り込んだとき、コルネイユを上演した。そのあたりの事情を書く必要があって、コルネイユも読んだ。ずいぶん熱心に読んだつもりだが、勉強にはならなかった。
 あまりピンとこなかったというのが実状だった。わからなかったといったほうがいい。(モリエールがわかった、というわけではない。)

 コルネイユは『ぺルタリト』の序で、

     二十年におよんで労作をつづけてきたが、今の世にもてはやされるにしては、私はあまりに老いたと気がつきはじめている。

 と書いている。いたましい告白だった。
 この芝居に失敗したコルネイユは、これ以後、劇作家として衰えを見せる。

 いま、私は久しぶりにあたらしい評伝を書きはじめる準備にとりかかっている。

 まったく自信はない。ただ、あたらしい評伝を書きはじめるといっておいて、書かなかったら、引っ込みがつかない。だから、そういっておく。

 もともと才能のないもの書きなので、コルネイユのように悲痛な告白をする必要がない。何十年におよぶ労作をつづけてきたわけでもないし、世にもてはやされるようなものは一つも書けなかった。むろん、これからも書けるはずがない。
 こんどの評伝も芝居者にかかわるものだが、さて、どうなることか。

2008/05/21(Wed)  831
 
 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味。われながら、つまらんぼうである。

 では、どういうふうに、つまらないものをつまらないと見るのか。

 たとえば、アリッサ・ミラーノ。嫌いな女優さんではなかった。歌だって嫌いではなかった。今だってCDをもっている。
 「娘役」(ジュンヌ・プルミエール)として、そろそろ通用しなくなってきたアリッサが、人気が落ち目。そうなると、人気を回復するために出る映画のジャンルもだいたいきまってくる。
 「ポイズン・ボディ」というC級ソフトコア。よくいえば、お色気サスペンス。アリッサ・ミラーノ初ヌード。

 もうストーリーだっておぼえていない。女子修道院で起きる連続殺人。若い修道女たちが裸になってからみあう。若くて綺麗な尼僧のアリッサ・ミラーノだって、裸にひん剥かれて縛られてしまうのだから、期待は裏切られない。
 ところが、殺人連鎖に立ちむかう綺麗な尼僧がじつは探偵で、サスペンスとして見てもいいのだが、これかなんともアホらしい作り。
 せっかく、拝んだアリッサ・ミラーノ初ヌードのありがたみも消えてしまった。

 これほど、つまらない映画になると、試写室を出た瞬間に、出演者も、ストーリーも、まして監督の名前も忘れてしまう。だから、暇つぶしに見ただけで、こちらの精神衛生にはいちばんいい。

 この映画が、女子修道院をフル・ショットでとらえる。さあ、こわくなるんだよ、という演出。これは「悪魔の棲む家」だなあ。殺されそうになる少女が必死に森のなかを逃げる。これは「サスペリア」だぜ。若い女の子が殺されるシーンは、「13日の金曜日」だね。いよいよクライマックスの儀式に、むごたらしい死体がズラリと勢ぞろいさせられる。おやおや、「誕生日はもうこない」かヨ。

 つまり、「ポイズン・ボディ」は、70年代から80年代にかけて流行したホラー映画が、90年代に突然変移的に出現したものと見ていい。お色気サスペンスとしてはB級。ミステリーとしてはC級。ホラーとしてはD級。
 「ポイズン・ボディ」とおなじ時期に、香港映画「香港犯罪ファイル」(「沈黙的姑娘」)というスリラーを見た。金城 武、アニタ・ユンが出ている。
 この映画もミステリーとしては見おわったあと、すぐに忘れるようなC級映画。しかし、アニタ・ユンのファンとしては見逃すわけにはいかなかった。

 アリッサ・ミラーノも、アニタ・ユンも、もう消えてしまった。それでも、「ポイズン・ボディ」のアリッサが美しい裸身をさらしながら、迫りくる犯人の魔手から逃げようとして身もだえていた。
 「沈黙的姑娘」のアニタは、「金玉満堂」や「金枝玉葉」とはちがった、みずみずしさを見せていた。

 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味。試写室を出た瞬間に、その映画を見たことさえ忘れてしまうのだが、ずっとたって、(だれひとり、そんな映画があったことも知らない時期に)、なぜ、ああいうつまらない映画が作られたのか、と考えるのが楽しい。悪趣味かも知れないけれど。

2008/05/20(Tue)  830
 
 1872年。福沢 諭吉が『学問のすすめ』を書いている。

 福沢 諭吉とは無関係だが、翌年(1873年)、アレクサンドル・デュマは『クロードの妻』の序で、

  「気をつけるがいい、きみは今、困難な時代を通過しつつあるのだ……」

 と警告している。フランス人は、昔日の過失の代償として高いツケを払わされることになった、といって。

  「今は、機知や、放縦や、皮肉、懐疑、戯れに終始している時代ではない。こうしたすべては、少なくとも、いましばらくは無用のものである。神、自然、労働、愛、子どもたち、これらこそ、真剣な、しかも重大な問題であって、しかも、いままさに、きみの目の前に厳として立っているのだ。こうしたすべてを、みごとに生かすか、しからずんば、きみにとっては死があるばかりなのだ。」

 アレクサンドル・デュマは大作家だから、こういう高飛車ないいかたをしても、カッコいい。サマになっている。私などに真似はできない。

 ところで、南極海で、日本の調査捕鯨船めがけて、アメリカの環境保護団体「シー・シェパード」から、薬物入りのビンが投げ込まれた。
 中国の国防費が、前年実績比、17.6パーセント増、4177億6900万元(約6兆744億円)で、この20年連続で2ケタの伸びを見せている。
 ロシアでは、プーチンにかわってメドベージェフが(得票率、70.28パーセントで)大統領になったが、プーチンが首相に就任する。

 こうなると、「気をつけるがいい、きみは今、困難な時代を通過しつつあるのだ……」程度のことは私だっていえるのである。

2008/05/19(Mon)  829
 
 ジョニー・デップ。

 今の俳優のなかで、ジョニー・デップは私が名優と呼んではばからないひとり。

 はじめて映画で見たのは「エルム街の悪夢」だった。このときから、ジョニー・デップに注意した――わけではない。ろくにおぼえてもいない。ヒロインの恋人として登場するけれど、たちまち殺されてしまう。
 「プラトーン」にも出ていた。まるで目立たなかった。あとになって(ジョニーがスターになってから)もう一度見直して、へえ、あのG.I.だったのか、と気がついたくらい。

 そして「シザーハンズ」。ティム・バートンの映画であった。

 この俳優の存在が気になりはじめたのは、「妹の恋人」からだった。ひゃあ、この若者はキートンを狙っているのか、と驚いた。こういうタイプの俳優はめずらしい。
 「アリゾナ・ドリーム」。初老になったジェリー・ルイスと、おババになりかけのフェイ・ダナウェイが主演。ジョニーは、空を飛ぶことを夢見ているおババに恋をするヘンな若者をやっていた。いい芝居をするなあ、と思った。
 「ギルバート・グレイプ」。これは、ディカプリオの映画だったので、ジョニー・デップに感心したわけではない。
 つぎに「エド・ウッド」。ティム・バートンと組んだ第二作。これで、イカれた。

 私は、ものごとにこだわらない(と、自分では思っている)。それでも、こだわりはある。
 関心をそそられると、いつまでも心のなかで追い続ける。ただし、しつっこく考えつづける、コンパルシヴな追求ではない。ただ、折りにふれて、その人のことを思い出している。それが楽しい。
 ジョニー・デップは、なぜ名優と呼んでしかるべきか。
 このことは、私が――ロバート・デニーロ、トム・ハンクスを、才能のある俳優、すぐれた俳優と見ていながら、現在、かならずしも名優と呼ばないことにかかわってくる。 アンソニー・ホプキンスなど、私は「名優」と呼ばない。

 これは、花衫(ホアシャヌ)の名優として梅 蘭芳、尚 小雲をあげても、正旦(シャオタン)の程 硯秋を名優と呼ばないことに似ているかも知れない。

 いつか、ジョニー・デップについて何か書こうか。むろん、書かないまま終わるかも知れない。

2008/05/18(Sun)  828
 
 影勝団子(かげかつだんご)。

 こんなものを見たことのある人は、もういないだろう。かんたんにいえば、街角でお餅をついて売るお団子屋さん。それもキビダンゴ。
 半纏姿の若い衆が三、四人で、屋台(やたい)車に大きな臼と竈(へっつい)を乗せて、威勢のいいかけ声をかけながら走ってくる。街角のちょいとした広場に車をとめる。舵棒に、支えの台をあてがって、荷台を平らにする。
 荷台に飛び移った若い衆が、サビのきいた声で、ご近所に口上を述べる。

 その口上を聞きつけて、母親からもらった銅貨をにぎりしめ、大八車にとんで行く。
 私は桃太郎サンのお団子と信じていた。

 若い衆がいっせいに声をそろえて、大きな蒸籠(せいろう)から蒸しあがったキビをいっきに臼に移す。所作も動きもきびきびしている。スピードもある。若い衆たちが、小ぶりの杵で、これまた威勢のいい掛け声をかけあって、臼のまわりを踊りながら、たちまちお餅をつきあげる。
 つきたての餅を小さくちぎって、竹串に突きさして、キナ粉をまぶして、わたしてくれる。一銭で、二、三本。量の少なさからいえば、けっこう高値だった。
 つきたては熱いので、口でフウフウ吹きながら頬張るのだが、甘味がほんのりひろがってくる。

 このお団子は、享保(1716=1736)のころからあったという。その後、いったん廃れたが、安永(1771=1791)あたりにまた復活したらしい。
 この若い衆の踊りが「影勝踊り」として、歌舞伎に残った。もとのフシは富本だったが、あまりウケないので常磐津でやったとか。残念ながら、私は歌舞伎の影勝踊りを見たことがない。昔の三津五郎、半四郎(五代目)がやったらしい。
 今の半四郎は(昔、私と同窓だったが)もう影勝踊りをやれるはずもない。

 幼い私は桃太郎サンの「お腰につけたキビダンコ」が食べたかったので、母にねだって買ってもらったのだが、その後、影勝団子を見たことがない。ごくふつうのキビ団子は食べたけれど。

 昭和初期、私が四歳か五歳の頃のこと。若い衆の踊り、いでたちは眼に残っている。
 私のもっとも古い記憶の一つ。

2008/05/17(Sat)  827
 
 老年になって、ネットで阿呆な文章を書くなど夢にもおもわなかった。
 どうしてこんなものを書いているのか。

 DJをやっているようなものですヨ。
 DJといっても、テクノのDJもいるし、DJ=OZMAもいる。ポピュラリティーからいえば、私の書くものなどOZMAサンとは較べものにならない。
 なにしろPCリテラシーがない。クラブで本格的にレコードをまわすようなわけにはいかない。あまり人の知らないコトをHIP=HOPみたいに、ズラズラ書いているワケ。HIP=HOPは、いろんな音楽のコラージュみたいなところがある。
 私のHPは短いものだけ。つまり、なんでもアリ。(笑)。

 先日、ある友人が「先生の博覧強記に驚かされます」と書いてきた。わるい冗談だヨ。心にうかぶ、よしなしごとをゾロッペェに書いているだけのことだから。

   われ民間に育ち、人におもてを見知られぬをさいわいに……

 おもわずつぶやく。自然に頭にうかんできたから。「われ民間に育ち」なんて、いいじゃありませんか。『本朝廿四孝』四段目。

 すぐに連想がはたらく。
 
   行く水の流れと人の蓑作が姿見かわす長上下、悠々として一間を立ち出で……

 つまりは武田 勝頼の出場(でば)。奥から悠々と登場してくる。
 「行く水の」で、水が流れているような気分。そこから、チン、チン、チン。三味線が入ってから、ハルブシの「流れと人の」とつづく。
 このあたりの呼吸のむずかしさは、じつは私にはわからない。何もわからずに人形芝居を見てきただけで、博覧強記どころではない。

 歌舞伎の勝頼は二枚目。文楽では、むしろ武将らしい役。おなじものを見ても、ずいぶんとちがう。
 役者によっても違ってくる。いい翻訳と、それほどでもない翻訳の違い。イヒヒ。

2008/05/16(Fri)  826
 
 「助六」は、見ているぶんにはおもしろいが、脚本としてはあまりできのいい芝居ではない。桜田 治助のせいなのか。当時の劇場のマネージメントのせいなのか。
 助六のお茶番が、いまではまったく通じないので、シャレがシャレにならない。団十郎をもってしても、というのではなく、今の団十郎ではなおさらという感じだった。
 股くぐり、キセルの鉢巻き、足で出すキセル、ゲタを乗せて嘲弄するのが、あまりおもしろくない。どうも理不尽ないいがかりにしか見えない。

 そうなると、お目当ては「助六」の江戸ッ子らしい姿とタンカだけだが、昔の羽左衛門、音吐朗々、「遠くは八王子の売炭歯ッ欠けじじい」のツラネが耳に残っているせいか、今の団十郎程度ではこの芝居のほんとうのおもしろさを期待しても無理というもの。

 「助六」の作者はおもしろいやつだったそうな。
 四代つづいた治助の初代目。桜田 左交。「助六」とおなじ花川戸に住んでいた。

 芝居小屋(劇場)が、日本橋、京橋にあった頃だから、花川戸では、ずいぶんと不便だったはず。じつをいえば、治助はすぐ近くの吉原が大好きだった。
 毎晩、吉原をひとわたり歩かないと気がすまない。

     仲の町を一遍通りて、両側の茶屋女房、呼びかけるを嬉しく思ひ、江戸町より三丁目、京町の格子で話して、馴染みの女郎、あちらからも爰(ここ)からも左交さん左交さんと云はれたく・・

 という次第。いまどきの三文文士には羨ましいかぎり。

 ある年の暮れ、この吉原の「鶴屋」という店に新顔が出た。治助は、どうかして「物を云ひかけられたい」と思った。その正月に、造花の梅の枝に、手紙をかいてくくりつけ、ラヴレターの心で、花魁の名を書きとめ、こまごまとしたためて、格子の隙間からぽんと投げ込む。その晩は帰ったが、あくる晩もまた格子に立つと、

    その女郎来て、もし昨夜(ゆうべ)の御返事をと云はれ、逃げ出せしもおかし。

 ということになる。

 江戸の劇作家は、こんなことに憂き身をやつしていたらしい。これがまた、私には羨ましい。

 「助六」のなかに、いろいろな悪態が出てくる。みんな、治助が足と耳で集めたものだが、自分で「発明」したものも多い。いい時代だなあ。自分の作品に、ありったけ悪口雑言をつめ込む。
 今は、ネットで匿名、いじめ、いやがらせのメールを送りつけるような、あさましい根性のやつばかり。江戸ッ子の風上におけねえやつら。
 やっぱり「助六」でも見るしかねえか。

2008/05/15(Thu)  825
 
 (つづき)
 レックスと、リリーのあいだに男の子が生まれる。ケァリー。この子は、イギリスで教育を受ける。
 「私が受けられなかった教育を受けさせたかった」と、レックスは語っている。

 だが、この幸福な時期は、不意に暗雲に閉ざされる。理由は想像がつく。レックスとリリーの仲がみるみるうちに悪化してゆく。

 「はっきり直視すべきよ」
 とリリーはいう。
 「イギリスの男は、女が好きじゃないのよ。少なくとも、イタリアやフランスの男の女好きみたいにはいかないのね。イギリスの男は、まともに女を見やしない。レックスが、私に対して払ってくれた最大の敬意は、私といっしょにいると、友だちといっしょにいるような気がするんですって。あの人って、おとこのなかの男ってコト。つまり、イギリスの男なのよ」
 なかなか辛辣な意見だった。

 レックスは、リリーと離婚したあと、イギリスの女優、ケイ・ケンドールと親しくなる。当時、ケイは彗星のようにブロードウェイに登場していた。『ジュヌヴィエーヴ』がデビュー作。5フィート8の長身で、もともとミュージック・ホールの芸人一家の育ち。ステージ・ダンサーだっただけに、優美な身のこなし、リリーとおなじ典型的なイギリス美人。
 その後のレックス、リリー、ケイについては、もはや演劇辞典の記述にまかせよう。

 1956年、私は小さな劇団を率いて、悪戦苦闘していた。
 外国の演劇雑誌を手あたり次第に読んでいたので、実際には見たこともない外国の俳優、女優の消息、それもロマンスまで、ことこまかに知っていた。
 いまの私には、信じられないことだが。
 『一千日のアン』も発表されてすぐに読んだが、詩劇。背景はエリザベス朝、史劇なので、はじめから上演を考えるはずもなかった。ただ、「現代演劇講座」(河出書房)で、私はマックスウェル・アンダースンを紹介した。
 ジョン・ヴァン・ドルーテンは、上演を考えた。これも夢物語で実現しなかった。はるか後年、私のクラスで、ドルーテンの芝居を読んだことがある。

 私の仕事は外から見るとまるでバラバラに見えるらしい。しかし、私自身には、どれもこれもみんなスジが通っていて、何かのキッカケがあって、そこからバラバラにいろいろな根が出ている。細い地下根がひっそりとのびて、のびて、どこまでものびて行って、いつの間にか、おかしな実をつける。へんてこな実しかつかなくても誰にも文句はいえない。そんなものなのだ。

2008/05/14(Wed)  824
 
 ウイーンの女優だったリリー・パーマーと「わりなき仲」になったとき、レックス・ハリソンは、コレット・トーマスという上流の女性と結婚していた。
「女に惹かれるとイギリスの男はやたらに自意識的になるものだけれど、レックスもそうだったわ」とリリーはいう。

 レックスはコレット・トーマスに離婚されてしまった。1945年、レックスと、リリーは結婚した。戦争が終わって、「戦後」の平和がやってきた時代。
 コレット・トーマスとの離婚では、レックス・ハリソンも、リリー・パーマーも、離婚訴訟に巻き込まれたあげく、やっと離婚が認められた。
 ふたりは、ハリウッドに向かった。しかし、「戦後」のハリウッドはレックス・ハリソンに、まったく将来性を見なかった。
 「カリフォーニアの気候は単調、刺激がなくて、崩れそうな豪勢さ、仕事の話は最低だった」とレックスはいう。ここで別のトラブルに巻き込まれる。
 リリーは彼を残して、ニューヨークに移った。

 レックスは、ハリウッドでキャロル・ランディスという女優と親密になる。だが、この女優は自殺した。当然、警察の調べをうける。レックスは精神分析医にかかる。キャロルの自殺の理由にとり憑かれて鬱に陥ったが、最終的な結論としては、キャロルは死の衝迫にとり憑かれていた、ということになった。

 レックスはハリウッドを去って、リリー・パーマーと舞台に専念する。
 やがて、マクスウェル・アンダースンの『一千日のアン』で「ヘンリー八世」を演じる。これは、当代の名演だった。しばらくして、リリーと共演するが、この舞台が、ジョン・ヴァン・ドルーテンの『ベル、本、蝋燭』であった。
 この頃から、ふたりは、ラント夫妻(アルフレッド・ラント/リン・フォンテン)いらいの名コンビといわれるようになった。
 イタリアのリヴイラ、ポルトフィノに豪華な別荘をかまえた。
    (つづく)

2008/05/13(Tue)  823
 
 五月雨。こんな句を見つけた。

   五月雨はただ大黒の世界かな   徳 窓

 わからない。
 大黒さまが、七福神のひとりで、仏教の守護神、それも戦闘、憤怒、厨房の三つも兼任する自在神ぐらいのことは私も知っている。
 打ち出の小槌を片手に米俵の上に立って、小判を巻いている図を思い浮かべた。
 しかし、米俵の大黒さまと、五月雨がどこまでも「大黒の世界」というのが、野暮な私にはわからない。五月雨はオバマ、ヒラリーの世界かな。いっそのこと、ただプーチンの世界かな。これでも、けっこうおもしろい。

 しばらく考えた。あ、そうか、これは「大黒(おおぐろ)」と読むのかも知れないな。なるほどねえ。思わず、合点した。

 おおぐろ。千 利休の命名による名器。
 句意は、五月雨といっても、しとしと降りではなく、どしゃ降り。あたりか、陰々たる黒さになる。それが、あたかも名器「おおぐろ」の肌を思わせる、というのであろう。

 ちぇっ、つまらねえ。

 もっとも別のいたずらが頭にうかんだ。

   五月雨はただ大黒の世界かな

 私のいうおおぐろは、大黒 摩季。いいアーティストだった。最近は、あまりCDも聞かなくなってしまったが。

2008/05/12(Mon)  822
 
 いささか旧聞に属するが――2年前(’06年11月)、日本性教育協会の調査が発表された。

 1974年から、6年ごとに「青少年性行動調査」を行っているが、’06年の調査は第六回。
 12都道府県の、1万1千名の中高生、大学生を対象に、調査した。その結果、性交を体験している男子大学生は、63パーセント。6年前の調査と変わらない。
 性交を体験している女子大生は、62パーセント。前回の調査より11パーセント上昇している。

 高校生で、性交を体験している男子は、27パーセント。女子は、30パーセント。6年前の調査より6パーセント上昇している。
 性交を体験している高校生の比率の上昇は、90年代から見られ、1993年には、男子は、14パーセント。1999年には、27パーセント。
 1993年の女子では16パーセントだったのが、1999年には、24パーセント。
 これがキスになると、大学生では70パーセント以上。高校生では50パーセント前後。中学生では、20パーセント以下。

 私がこんなことを記録しておくのは・・・中高生、大学生の「ゆとり教育」の時代と、性行動の変化になんらか相関関係があるかも知れないと見るからである。
 中高生、大学生が本を読まなくなったこと、古典リテラシーの低下も、性行動の変化に関係があるかも知れない、などとしたり顔をしているけれど。(笑)

 ほんとうのことをいえば、今の中高生、大学生が羨ましいからだろう。(笑)

2008/05/11(Sun)  821
 
 昭和15年(1940年)、私の父、昌夫は「石油公団」に移籍した。このため、私の一家は仙台を引き揚げて、本所で住宅を探すことになった。
 私の叔父、西浦 勝三郎が小梅二丁目に空き家をみつけてくれた。

 戦前、大不況のあおりを食らって廃業した小さな銀行の小さな支店。二階建て。外側は、どこでも見かける西洋館だが、そのまま「明治村」に移してもおかしくない古風な建物だった。もともと銀行だった建物なので、住宅に転用することもむずかしい。地権者は、この廃屋をとり壊して更地にする費用を考えて、そのまま放置しておいたのかも知れない。
 近くの製薬会社が借りて、薬品原料を保管する倉庫に使っていた。(注)

 この建物の横からうしろに、まるでへばりつくようなかたちで住宅が建てられていた。L字型の家という、まことに奇妙な構造の家だった。
 当時、住宅が払底したが、どういうわけか、一戸建てなのにこの家は空き家で借り手がなかった。たまたま空いたので、私たち一家が住むことになったのだった。

 とにかく、へんな造りで、玄関からすぐに三畳、その先に六畳、ここから右手に階段。階段をあがってすぐに横に三畳、その先が四畳半。その左に三畳(これが、玄関の上にあたる)。

 あとになって意外なことを知った。この家は、賭博専門に作られた家という。
 外から見れば、なんの変哲もない仕舞家(しもたや)だが、玄関の上にある三畳は、いわば見張りのための部屋。不審者や警察が玄関先から襲っても、二階の連中は、どこからでも逃げられる。

 当時も、住宅は払底していた。この家はたまたま空き家のままになっていたものを、叔父の西浦 勝三郎が見つけて、すぐに借りてくれた。私たちは、鉄火場とも知らずに入居したのだった。

 私の考えかた、生きかたが世間さまのそれと違うのは、子どもの頃からこんな家に住んでいたせいかも知れない。(笑)

2008/05/10(Sat)  820
 
 ジャック・ニコルソンが、「おれはねっから暗い人間だよ」といったことから、まったく違う役者を思い出した。白猿である。昔の役者。

 寛政五年、名跡を息子にゆずっている。
 ある日、彼のもとを訪れた山東 京伝、弟の山東 京山、狂歌仲間の鹿都辺 真顔にむかって、

    昨日もおしろいつけさせつつ涙をおとし候。それはいかんとなれば、御素人様ならば伜へ家業をゆづり隠居をもすべき歳なり。然るにいやしき役者の家に生れし故、歳にも恥ぢず女の真似するはいかなる因果ぞと、しきりに落涙いたし候。役者としてここに心づきては芸にもつやなく永く舞台はつとまらぬものなりと、嘆息して語りけるに、はたして二三年の後寺島村(あざな向じま)に隠居せり。

 京山が書いているのだから信用していい。

 「いやしき役者の家に生れ」たという自覚は、逆に、書きたいことを書き散らして、風雅に生きる芸術家の姿勢につながる。

    何ことも古き世のみぞしたはしき。今様は無下にいやしくこそなりゆくめれ。
    いにしへは車もたげよ、火かかげよといひしを……今時はもちやげろ、かきたてろもすさまじいじやあねへじやあねへかゑ。

 白猿は、五世、市川 団十郎。向島須崎に隠居、反古庵というペンネームで、「日々の楽(たのしみ)はただ筆をとりてそこはかとなく反古の裏に書(かき)つづりて」気のあった友だちにあたえたという。
 今だったら、HPや、ブログをやっているかも。

 戦前、須崎は私の家から歩いて五、六分。少年時代の堀 辰雄が住んでいたあたりはもう少し遠く、あと二、三分ほどの距離。
 この団十郎は私が見るはずもない江戸の役者だが、もの書きとしての反古庵にはひそかな敬意をもっている。たとえば、「一きは心うきたつは春のけしきにこそ」と前書きして
    鶯に 此頃つづく朝寝かな

 さすがは、白猿さん。なかなかのものですなあ。

2008/05/09(Fri)  819
 
 ある時代にあらわれた人物をしっかり見据えておく。とはいえ意外なことを聞かされれば、まず疑ってかかるのが人情だろう。
 ある俳優が、こんなことをいっていた。

    おれはねっから暗い人間だよ。
    何の憂いもなくて、自己嫌悪や恐怖感と、まるで無縁の一日を過ごしたのは、いったいいつのことだろう。

 ジャック・ニコルソン。

 私は「イージー・ライダー」から、この俳優を(だいたい継続的に)見てきたが、あるインタヴューで、このことばにぶつかってちょっと驚いた。
 ほう、「ねっから暗い人間」なのか。ジャック・ニコルソンがそんなタイプの俳優だとは信じられなかった。
 俳優はしばしば強烈な自己顕示欲を見せることがある。そのありよう、あらわれかたはとりどりだが、ことさら卑下して見せながら、逆にそのことで自分の優越をアピールしするようなしたたかな役者もいる。
 相手が女優さんで――「あたしって、ほんとうは暗い人間なのよ」などと聞かされたらすぐ逃げ出したほうがいい。眉つばだと思う。

    おれの思うに、あらゆる有名人のなかで、人前にでると、いちばん落ちつかなくなるのが、おれなんだよ。

 ふーん、ジャック・ニコルソンて、そういう役者なのか。

  この俳優は、多分ほんとうに「暗い人間」なのだろう。
 自分の出た映画で、とくに気にいった作品があるかと聞かれて、
 「べつにないね。おれは、自分の出た映画はみんな好きになる。いつもいつも大満足ってわけにはいかないが、これはまあ、たいていの人の場合がそうだろう。おれは、いっしょに仕事をした連中や、そいつらがそのときそのときにやってくれたことを、すごく誇りに思っているんだ」という。

 私が好きなのは「愛の狩人」、「郵便配達は二度ベルをならす」あたりで、「黄昏」とか「恋愛小説家」なんか、あまり感心しない。

2008/05/08(Thu)  818
 
 ハーバート・フーヴァーは、戦後すぐに、特使として来日している。
 当時の新聞記事(1946年5月7日)によれば、

   ハーバート・フーヴァー氏一行は五日午後一時廿五分、厚木飛行場着、日本の食料問題を主宰する連合軍最高指令部、経済科学部長、マークワット少将、マッカッサー元帥の政治顧問で連合国対日理事会/アメリカ代表であるアチソン氏、連合軍最高司令官軍事秘書官、並びに対日理事会事務総長フェラース大佐らの出迎えを受け、直ちに東京のアメリカ大使館へ向かい、マッカッサー元帥と午餐を共にして後、連合軍最高司令部に入った。
   なお同特使は六日宮城前広場で騎兵第一師団の歓迎分列式を閲兵した。

 当時、敗戦国日本は激動のさなかにあって、毎日のように、衝撃的なニューズがあふれていた。その激動のさなかのフーヴァーの来日は、それほど注目されなかったのではないかと思う。
 この日の新聞には、鳩山一郎(自民党総裁)の追放による政局の混迷や、「ポツダム宣言」受諾(勅令542号)にともなって、軍国主義教育、皇国思想を推進した教職員の除去(公職追放)、就職禁止の命令、訓令が出ている。
 連合軍最高司令部においても、日本での連立内閣の可能性が論議され、自由党に対して全面的に社会主義政策への協力をもとめる(その一つに、共産党を入閣させることさえ含まれていた)ことをめぐって、はっきり対立がうまれはじめていた。

 当時の私は、フーヴァーの来日にまったく関心がなかった。というより、連合軍の占領政策についても何ひとつ知らなかった。知識がなければ関心も生まれない。
 個人的なことだが、この4月、私は「近代文学」の人々と知りあって、批評家になろうと決心をしていた。

 私は神田の「文化学院」の二階にあった「近代文学」の事務室に毎日のように遊びに行った。荒 正人、佐々木 基一、埴谷 雄高、本多 秋五、山室 静、平野 謙といった人々の話を聞くだけでもたいへんな勉強になった。
 この人たちは私がどんなに幼稚な質問をしても、まともに答えてくれたのだった。十代だった私には教養も知識も決定的に不足していた。とにかく、勉強することは山のようにあった。
 当時の私が、フーヴァーの来日にまったく関心をもたなかったのは不思議ではない。

 戦後すぐのフーヴァー来日の目的は、逼迫していた日本の食糧問題に関連していたと理解している。

 政治家としてのフーヴァーは、今の私にとってはけっこうおもしろい人物に見える。若き日のフーヴァーは、鉱山技師として清国の鉱山を調査していた。まさにその時期に義和団事件に遭遇したことも私は知っている。
 むろん、私はフーヴァーについて何か書くことはない。しかし、マケインを相手に、クリントン、オバマ両候補の激烈な争いが続いているのを見ながら、ウィルソン、クーリッジ、はてはフーヴァーの「アメリカ」について考えるのも、私の趣味なのである。

 回顧趣味ではない。ある時代にあらわれた人物をしっかり見据えておけば、別の時代に生きる別の人々の考えだって、手にとるように見えてくるのだ。

2008/05/07(Wed)  817
 
 アメリカ、大統領予備選挙で、民主党のクリントン、オバマ両候補のはげしい争いが続いている。
 史上まれに見る接戦と理解している。

 ところで、リンカーンからの大統領について調べてみると、フーヴァーまで、共和党から12名が大統領になっている。これに対して、民主党から大統領になったのは、クリーヴランド、ウィルソンのふたりだけ。

 ウィルソンは民主党の候補者として、2回つづけて当選した。クリーヴランドも2回選挙にのぞんだが、一度はハリソン(共和党)に敗れ、4年後、もう一度指名されて、こんどは当選した。
 1912年、ウィルソンがはじめて大統領になった選挙では、共和党の内部ではげしい対立が起きていた。タフト派と、ルーズヴェルト派だった。これに乗じたウィルソンが、漁夫の利をしめたらしい。(ちょっと、今のヒラリー vs オバマの大接戦を横で見ている共和党のマケインという恰好だね。)
 1916年には、世界大戦のさなかの選挙だったため、民主党のウィルソンの続投をもとめる世論が高まり、僅差でウィルソンがヒューズを破った。

 1928年の選挙では、すでに二期をつとめたクーリッジが出馬しなかった。

  I do not choose to run for President in 1928.

 この”choose”ということばが、アメリカのみならず、ヨーロッパでもさかんに論議されたという。クーリッジの真意をさぐろうとして。
 この年、ニューヨーク州知事だったスミスが、マッカドゥと争って共倒れになった。共和党のディヴィスが、うまく大統領をさらってしまった。今回のクリントン vs オバマの熾烈な指名争いを見ていると、そんな歴史のくり返しを見せられているような気分になる。
 ところが、スミスは、444×87で、共和党のフーヴァーに惨敗している。

 まるで自分が見てきたことを書いているようだが、1928年、私は1歳。

 なにかにつけて歴史をふり返る。私の悪癖。すでに決着のついた勝負の棋譜をたどって、どの一手が失着だったのかつきとめるようなおもしろさに魅せられて。

 今年の大統領選挙になぜ関心をもっているか、これには別の理由がある。
 私の友人が、今年の大統領選挙をテーマに本を書いたからだった。この夏に出る。

2008/05/06(Tue)  816
 
 私の訳した『虎よ、虎よ!』の冒頭に、ウィリアム・ブレイクの詩が引用されている。

  Tiger,tiger,burning bright
  In the forest of the night,
  What immortal hand or eye 
  Could frame thy fearful symmetry?

 ――Blake:Songs of Experience.

   虎よ、虎よ! ぬばたまの
   夜の森に燦爛と燃え
   そもいかなる不死の手 はたは眼の
   作りしや、汝がゆゆしき均整を

 この詩から「虎よ、虎よ!」という題がとられている。

 フランスの詩人、アメリカの詩人はいくらか熱心に読んできたが、イギリスの詩人はひとわたりざっと読んだ程度。ブレイクは好きな詩人のひとり。

  The moment of desire!
  The moment of desire!
  The Virgin
  That pines for man shall awaken her womb to enormous joys
  In the secret shadow of her chamber.

 学生の頃読んだ「アルビオンの娘たちなる乙女」の一節が、いま老作家の口にのぼってくる。
 エロティックなイメージが心に刻まれたらしい。

  足駄穿かせぬ 雨のあけぼの       越 人
  きぬぎぬや あまりか細く あでやかに  芭 蕉

 いまの私には、この句のほうがもっとエロティックに見えるけれど。

2008/05/05(Mon)  815
 
 最近、映画をあまりごらんにならないようですね。
 はい、ほんとうに映画を見なくなりました。
 たとえば・・・・・

   LOVERS       張 芸謀監督
   テイキング・ライブス   D・J・カルーソー監督
   ハイウェイマン      ロバート・ハーモン監督
   堕天使のパスポート    スティーヴン・フリアーズ監督
   IZO          三池 崇史監督

 こうした映画をおぼえている人がいるだろうか。
 つい、三、四年前の映画ばかりである。
 「LOVERS」のオープニング、チャン・ツイィーの太鼓打ちの舞いのシーンは、映画史に残る美しさだと思っているが、張 芸謀の映画は、ひどい駄作だと思っている。
 アンディ・ラウなんか、なんで出てきたのかわからない。
 「堕天使のパスポート」は、オドレイ・トォトゥーが出ているから見ただけ。
 あとの映画は、もう思い出すこともない。

 映画批評を書いていた時期、年間、平均して200本から250本は見ていた。しかし、映画批評を書く機会がなくなってから、見る本数は激減した。
 最近は、やっと10本見る程度。
 それでも好きな俳優、女優が出ている映画は、なるべく見るようにしている。
 たとえば・・・・シャーリーズ・セロンが、やたらババッちいメークで出ていた「モンスター」や、イザベル・アジャーニが大芝居をみせる「ボン・ヴォヤージュ」。
 ジョニー・デップを見ているうちに、原作(スティーヴン・キング)のつまらなさなどどうでもよくなってくる「シークレット・ウインドウ」。
 少年と年上の女のアヴァンチュールを描きながら、なんとも無残な感じのする「なぜ彼女は愛しすぎたのか」で、エマニュエル・ベアールを見たほうがいい。

 この映画のリストからも、私が映画を見なくなった理由は想像できるだろう。

 とにかく映画を見なくなった。

2008/05/04(Sun)  814
 
 1945年、敗戦直後から日本人は、毎日が、激烈な混乱の坩堝に生きていた。
 当時、すべての物資が統制されていて、とくに紙が払底して、新聞でさえ一枚(つまり、裏オモテ、2ページ)でやっと発行されていた。
 その一方で、「日米会話手帳」といった薄っぺらな小冊子が本屋に並んで、たちまちベストセラーになった。私もこの小冊子を買ったが、実際にはなんの役にも立たなかった。
 戦後すぐに、私は匿名批評のようなものを書きはじめた。これが私の文学的な出発になったが、いま考えても貧しい出発だったと思う。しかし、当時の私たちには同人雑誌を出すことなど考えられなかった。

 はじめて私の書いたコラムが出たのは、1946年2月11日だった。
 この日付を覚えているのは、この日、私がひそかに尊敬していた小栗 虫太郎が亡くなったからだった。

 はじめて活字になった自分の文章を眼にしたとき、私はうれしかった。私の書いたものなど誰も読むはずがない。ただ、その新聞を母に見せた。
 母は私がそんなものを書くとは夢にも思っていなかったらしい。

 私の書いたものは、いくらか評判になったらしい。ある日、知らない読者から葉書が届いた。荒 正人という人からのものだった。
 コラムを書かせてくれた椎野 英之のすすめで、私は荒 正人に会いに行くことにした。母の宇免は、それを知って――
 耕ちゃんもこれから、いろいろな人に会うようになるわね。そんなとき、恥ずかしい思いをしないように。
 といって、最後までとっておいた和服と、古着の背広を交換してくれた。

 その背広を着て私は荒 正人に会いにいった。

2008/05/03(Sat)  813
 
 国破れて山河あり。

 1945年9月、まだアメリカ占領軍が上陸していない時期。敗戦直後の日本では混乱のなかで、人々は虚脱したように右往左往していた。
 このときから数カ月、すべての日本人はまったく経験したことのない激変にさらされつづける。

 私たちを恐怖のどん底にたたき込んだ空襲はなくなったが、土浦の海軍航空隊の戦闘機が、戦争継続を訴えるビラをまいたり、夜道で強盗が出没したり、陸軍が崩壊して、脱走兵や、軍を離脱して故郷にむかった兵士たちが、なだれをうって列車に乗ったり、ほんとうに物情騒然としていた。明日はどうなるのか誰にもわからなかった。
 アメリカ占領軍の上陸は9月12日だったが、アメリカ兵が何をするかわからないというウワサがみだれとんで、女たちはおびえていた。それよりも先に食うものがなかった。飢えがどういうものなのか、私たちは知ることになる。食料の配給さえ遅配がつづき、三度の食事どころか一日一食さえおぼつかない。
 敗戦の翌日には闇市が出現した。有楽町、新橋、上野の駅前、浅草、田原町から国際劇場まで、葦簾張りや、焼け跡からひろってきたトタン屋根などの、店ともいえない規模の店がごった返していた。
 物々交換で何でも手に入るようになったが、私たちは二度も焼け出されたため、食料と交換するための品物もなかった。
 母が疎開しておいた和服なども、たちまち食料に化けてしまった。当時のことばで「タケノコ生活」という。筍の皮を剥ぐように、自分の持ちものを1枚づつ剥ぐようにして、別の物品に換えて暮らすこと。
 母のもっていたものなど、あっという間に消えてしまった。

2008/05/02(Fri)  812
 
 はじめて、アメリカのグラフィック・ポルノを見たのは、戦争の末期だった。とても信じられないことだが、これは事実である。

 戦時中、学徒動員で、私は川崎の石油工場で労働者として働いていた。隣りに、「日本鋼管」の工場が続いて、そこの一角に、竹矢来で囲んだバラックが建てられて、アメリカの兵士たちが収容されていた。ここに収容されて、「日本鋼管」で働かされていた捕虜は、おそらく50名程度だったと思う。
 私たちは昼休みに、その付近に出かけて、アメリカ兵たちにタバコをくれてやったり、カタコトの英語で話しかけたりするようになっていた。
 むろん、警戒に当たっている憲兵の眼をおそれて、ほんの数分、接触するだけだったから、たいしたことを話したわけではない。

 ある日、私は作業中に指先に怪我をしたので、工場から歩いて15 分ばかり離れた医務室に行った。
 処置を終わって工場に戻る途中で、私たち学生(40人ばかり)の指揮をとっていたS、副長のIが、地上に何かひろげて眺めていた。たまたま通りかかった私は、二人によって行った。
 アメリカの捕虜に配給のタバコをわたしてやったお礼にくれたという。

 「ライフ」とおなじサイズのグラフ雑誌で、全編、モノクロームだが、男女の性行為の写真と、短いキャプションがついていた。白人の男女がさまざまな体位で交わっている。そのときの私は、白人の「女」たちを「醜い」uglyとは思ったが、その性交を撮影したグラヴュアを「汚い」dirtyとは感じなかった。
 むろん、男と女の行為が撮影されていることに驚かされたが、それよりも、きわめて厳重な身体検査を受けたはずの捕虜たちがどうやってこんなものを収容所に持ち込んだのか、そのことにはるかに大きな驚きをおぼえたのだった。

 川崎の石油工場で働いていた時期のことは、長編『おお、季節よ、城よ』に書いたが、戦争の末期にアメリカのグラフィック・ポルノを見たことは書かなかった。
 その後、私はアメリカで多数のポルノを見たし、クロンハウゼン夫妻をはじめ、モラーヴィア、スーザン・ソンタグ、ジョージ・スタイナーなどの「ポーノグラフイー論」を訳した。そのかぎりにおいて、低いレヴェルではあったが、研究者のひとりだったといえるかも知れない。

2008/05/01(Thu)  811
 
 ノーマン・ドイジ博士は、ネットポルノ中毒は比喩ではないという。つまり、耐性ができるのであって、アディクトは、さらなる刺激を求めて、満足を得ようとする。ということは、それを自制しようとしても、薬物の中毒とおなじで、禁断症状が待ちうけている。

 なぜ、ポルノ・サイトが、それほどに関心を喚び起こすのか。
 ドイジ博士によればドーパミンの放出によって脳に可塑的な変化が起こる。ドーパミンは、性的な興奮によっても放出される。男女両性のセックスに対する欲求を高めて、オーガズムを得やすくする。つまり、脳の快楽中枢を活発にする。ゆえに、人はポルノに夢中になる。

 私は(私程度の頭では)、この論理に反対意見を提出できない。しかし、これは、単純な三段論法ではないのかという(漠然とした、だが批評家としてはかなり確信的な)オブジェクションがある。
 この程度の、そして、こうしたかたちで提出されるポルノ・アディクトという論点は、いかにも浅薄なプラグマティックなものに過ぎないような気がする。

 これについては、もう少しあとで考えてみよう。

2008/04/30(Wed)  810
 
 竹迫 仁子が訳したノーマン・ドイジ著『脳は奇跡を起こす』(講談社インターナショナル/’08.2月刊)は、私にとってはじつに刺激的な本で、いろいろと考えることができた。
 著者は精神科医、精神分析医で、コロンビア大学の精神分析研究センターに勤務、さらにトロント大学の精神医学部に勤務しているドクターがいうのだから間違いはない。
 このドクターは、作家、エッセイスト、詩人で、カナダの「ナショナル・マガジン・ゴールド・アワード」を4度受賞している。

 私の頭では、とてもこのむずかしい本の書評は書けないので、ごく一部、その1章、「性的な嗜好と愛」を読んで教えられたこと、それに触発されたことを書きとめておく。

 性的な嗜好は、あきらかに文化や経験によって影響され、後天的に獲得され、脳にコネクテッドされる。(その通り。)
 ただ「嗜好」といった場合は、先天的なものをきすが、「獲得された嗜好」といえば、学習によって得られた嗜好をさす。(これも、その通り。)
 だから、最初のうちは無関心だったもの、ないしは嫌いだったものが、あとになって快いものと感じられるのが、「獲得された嗜好」ということになる。

 ポルノに関心をもつのも、性に対する嗜好が後天的に獲得できることをはっきり示している。

 私の関心を惹いたのは――ポルノを見れば、「獲得された嗜好」の変遷がはっきりわかるという指摘だった。

    三十年前は、「ハードコア」ポルノといえば、性的に興奮した男女が性交している様子を、性器まで見せて、はっきりと撮影してあった。「ソフトコア」ポルノは女性の写真で、たいていはベッドやトイレ、あるいき色気のある場面設定で、女性があられもない肢体をさらけ出している。胸をあらわにしているが、どの程度まで見せているかはさまざまだった。(P.128)

 著者は、インターネットが急速に普及して、多数の男性がポルノを嗜好するようになった反面、一方では困惑し、嫌悪感を抱いていると見る。その結果、性的な興奮のパターンがおかしくなって、男女関係や性的な能力にまで影響がではじめた、という。

 私は、ポルノ・サイトを見たことがない。関心がないというとウソになる。関心はあるのだが、AVや、「ハードコア」ポルノといったジャンルのものはビデオ、DVDで見たほうがいいと思っているから。
 それに、インターネット・リテラシーがないから。

 私自身は「ハードコア」ポルノを見ても、困惑したり嫌悪感を抱くことはない。
 ただし、拙劣なカメラワーク、あきらかに犯罪的なシチュエーションのものには嫌悪感を抱く。
   (つづく)

2008/04/29(Tue)  809
 
 この3月、アーサー・C・クラークが亡くなった。
 福島 正実が訳したので、はじめてこの作家を知ったことを思い出す。福島 正実のおかげで、当時、私はアルフレッド・ベスター、フイリップ・K・ディックなどを訳したのだった。

 アーサー・C・クラークとは何も関係がないのだが・・・その二、三日後に、アンドロメダ銀河の、「アンドロメダの涙」についての研究が発表された。

 アンドロメダ銀河から、巨大な星の群れがまるで川のように流れている。
 「アンドロメダの涙」というそうな。
 これが、8億年前に、アンドロメダ銀河と衝突した別の小さな銀河の残骸がひろがったものという。

 専修大の森 正夫准教授らが、筑波大のスーパーコンピューターを使った模擬実験であきらかにされた。

 銀河と銀河の衝突なんて想像もできない現象だが、森先生の解析では、アンドロメダ銀河の400分の一という小さな銀河が、アンドロメダ銀河の中心に向かって北側から衝突すると、遠くまで飛ばされた星の集団が、「アンドロメダの涙」をかたち作ったという。(「読売」’08.3/25.夕刊)

 私はこうした宇宙の現象について、まったく理解する頭脳がない。しかし、このニューズに知的な昂奮をおぼえた。宇宙には無数に銀河系が存在するとして、その小さな一銀河系に、さらに小さな銀河が衝突する。これだけでも、一つの宇宙は崩壊する。しかも、その残骸が涙のように流れて、一銀河系の引力圏にあふれている。
 涙というのは、うまい「命名」だなあ。
 8億年前か。宇宙にとっては、ほんの一瞬前のことだろうなあ。

 亡くなったアーサー・C・クラークは、「アンドロメダの涙」について何か書いているだろうか。

2008/04/28(Mon)  808
 
 六代目(菊五郎)が語ったという。
 若い役者を育てるのは、植木をそだてるのとおなじ。

 いい種子をいい土壌に播いて、細心の注意を払って育てあげれば、各自もちまえの花だけは咲かせることができる。

 ある日、五木 寛之が訊いた。
 「中田さんは、若い作家を育てたことがおありですか」
 「作家を育てたといえるかどうか。ほんの二、三人ですね。翻訳家なら、いくらか育てたといえるかも知れません。六、七十人はいると思いますが」
 五木 寛之は眼をまるくした。
「私が見つけた作家は、ひとりぐらいです」
「ほう、誰ですか」
 その名前を聞いたとき、こんどは私が眼をまるくした(と思う)。しんじられない作家の名を聞いたのだから。
 ここには書かないが。(笑)

2008/04/26(Sat)  807
 
 談林から出発した芭蕉の句を読む。
 芭蕉の作かどうかわからない句も多いらしいが、真作とされている百句ばかりに、あまりいい句がないという。
 たいていの芭蕉研究でも、この時期の、とくに真作かどうかわからない句はまったく埒外に放棄してかえりみられない。

 私は研究家ではないので、この時期の芭蕉の句も、けっこうためつすがめつしながら読む。楽しい。

    年は人にとらせていつも若夷
    春やこし年や行けん小晦日
    文ならぬいろはもかきて火中哉
    町医師や屋敷がたより駒迎
    けふの今宵寝る時もなき月見哉
    天秤や京江戸かけて千代の春
    武蔵野や一寸ほどな鹿の声
 
 芭蕉、30歳から33歳の句。
 句のよしあしよりも、38歳の宗旦、14歳の鬼貫、そして芭蕉の弟子の其角が、23歳で『虚栗』を出したことを思いうかべると、芭蕉の遅い出発、あっちこっちウロウロしている感じがいい。

 芭蕉ほどの人でも、世に出たばかりはこうだったのか。

2008/04/25(Fri)  806
 
 文字あまり。「長発句(ながほっく)」という。

  踊子に穴あらば数珠につないで後生願はんものを
                  −−百丸

 おそらく芸妓が舞台で踊っているのだろう。その踊り子に穴があったら、数珠につないで、来生の極楽往生を願いたいものだ、ということ。むろん、これは表面だけ。「踊子に穴あらば」という仮定法がいやらしい。当然、踊子と一夜の歓をつくして、極楽往生をとげたいものだという意味になる。
 この作者の放埒な工夫は、女体の「竅」と数珠の数を割ってみるとわかる。

 別の異形(いぎょう)の句。

  大西瓜何値段わずかに八分百よりはやすし 
                  −−青人

 近在の百姓がかついできた大きな西瓜を買うつもりで、値をあたる。値段がひどく安くて「わずかに八分」というのではなく、百文よりはほんの「わずか」しか安くない。
 百姓に足もとを見られたか。そういう意味だろうと思う。

  あたご火や江戸鬼灯めせところてんものまいれ
                   −−同

 私にはむずかしい一句。この「あたご火」がわからない。伊丹から京都はそう遠くないので、おそらく上嵯峨の愛宕神社の鎮火祭をさすのではないか。その縁日に、境内に出た店の女が、江戸で流行している「ホウヅキ」市からとり寄せた「ホウヅキ」を買って頂戴、「心太」(ところてん)も召し上がれ、と呼びかける、という光景だろうか。ただし、よく読むとなにやらエロティックな季節感がまつわりついている。

  女郎花立てり禅僧指断村薄     −−鸞動

 これまた、私にはよくわからない。女郎花(おみなえし)は秋の七草の一つ。淡い黄色の小さな花がびっしり密生する。
 どこかの原っぱに女郎花が群生している。通りかかった禅僧が、ふと女郎花に眼をとめた。誰も気がつかないが、村のススキより、この可憐な女郎花のほうに、ずっと秋の風情があるではないか、と悲憤慷慨しているのか。禅僧の野暮をからかっている。
 「指断村薄」は、禅僧、指断ス、村ススキ、と読むのかも知れない。作者の工夫は、「禅僧」のゼ、ソ、「指断」のシ、「村薄」のスス、というサ行の音の執拗なくり返しと、「禅僧」のゼン、「指断」のダンの重なりにある。ようするに押韻の試みと見てよい。
 いくら工夫したって、つまらない句に変わりはない。

 さて、談林から出発した芭蕉はどうだったか。
   (つづく)

2008/04/24(Thu)  805
 
 このところ、暇を見ては、芭蕉や、その周辺の俳人を読み直している。何を書くわけでもない(書けるはずもないが)。ただ、楽しみのために読む。

 芭蕉が談林から出発したことはよく知られている。
 それまでの貞徳が代表する古風の俳諧が衰えて、宗旦、鬼貫を中心とする伊丹ふうの俳諧が起きる。その程度のことは私も知っている。
 そこで、宗旦に眼を向ける。

 宗旦、性はなはだ酒を愛し、しばしば門人をあつめ、老荘の書を読み、長明、兼好の文を説く。延宝二年(1674年)、京都から伊丹に移った。元禄にかけて、伊丹にいた俳人は、じつに77人の多きにおよんでいる。そのなかに鬼貫がいた。

   こいこいといえど蛍が飛んで行く

 鬼貫、八歳の作。

 今の私は別に感心はしないけれど、それでも鬼貫の才気のあらわれを見る。

 宗旦が伊丹に移った延宝二年、宗旦、38歳。鬼貫、14歳。二年後の鬼貫はどうなったか。

   かくて十六歳の比(ころ)より、梅翁老人の風流花ややかに心うつりて又其当風をいひ習ひ、猶其のりをもこえ侍(はべ)りて、文字あまり、文字たらず、或は寓言、或は異形、さまざまいひちらせし比(ころ)……

 伊丹の俳人は、先輩の宗旦が談林ふうの新風に転向したらしい。そこで、鬼貫をはじめ、木兵、百丸、鉄幽などが、いっせいに談林化してしまう。
 こういう雪崩現象は昔も今も変わらない。
   (つづく)

2008/04/23(Wed)  804
 
 女優の魅力。なかなかつたえにくいものの一つ。(私が言及しているのは、映画雑誌にあふれている記事のことではない。)

    (前略)最後に荒木道子のヘードイッヒを推賞して此稿を結びたい。荒木道子は、演劇芸術について、どういう経歴を有つ人か筆者は一向に知らないが、ヘードイッヒに扮し、この公演に於ける第一の功労者であったことを特筆したい。殆ど原人の姿を呈し、可憐で、神秘的で、父親思いのいじらしい娘を心にくいほど表現してゐた。十四歳の役としては幾分ませたところも見えたが、其一挙一動悉く快い感じを与へる演技で、そこには少しもワザとらしいものがなく、自然で、純真で、そして寂しい影のまつはるような娘であった。人の親として、此子の為ならば一命をも惜まないと思はせるほど親想ひの情も溢れてゐた。全く良きヘードイッヒである。筆者はかつて酒井米子のヘードイッヒの可憐な事に注目したが、今回荒木道子の之を見て、演出演技の進歩したことと同時に此女の秀抜な芸に目を瞠つたのである。

 これは、1940年(昭和15年)、「文学座」が上演したイプセンの『鴨』(今は、一般に『野鴨』で知られている)の劇評の一節。筆者は、安倍 豊。
 劇評で新人女優がこれだけ賞賛されれば、やはりうれしいに違いない。日本がアメリカと戦争する前に、荒木道子がもっとも将来性のある新人として期待されていたことがわかる。
 私は中学生だったが、この芝居をわざわざ見に行っている。内幸町の角にあった劇場で、狭苦しい階段をあがってゆくと、いきなり客席という小劇場だった。
 イプセンについて何も知らなかったが、新劇の芝居を見たかった。
 当時、「文学座」の研究生として、賀原 夏子、丹阿弥 谷津子、新田 瑛子たちがいたが、荒木道子はその先頭を切っていた。

 彼女が女優として大きく発展するのは、やはり戦後の季節からだった。
 私は「文学座」の芝居を見るたびに、飛行館の芝居を思い出したものである。

 その後、私は、偶然のことから、NHKの連続放送劇のスタッフに起用されたため、スタジオでも荒木 道子と口をきくようになった。私の眼には荒木 道子が大女優のように見えた。
 このドラマに出ていた「文学座」の南 美江(戦前の「宝塚」のスターだった)は別格として、私と同世代の、七尾 玲子、加藤 道子(放送劇団出身)や、「民芸」の新人で、この連続放送劇のヒロインに抜擢された阿里 道子たちのなかで、女優、荒木 道子はいつも一歩先んじているようだった。

 ある日、ある集まりで、どうしたわけか芥川 比呂志がしきりに私にからんできた。思いがけないとばっちりだった。その内容は、銀と緑は、色彩としてけっして両立しない、といったことだったが、暗に、私がひそかに好意を寄せていた女優と、まったく才能のないもの書きでは不釣り合いだということを諷刺したらしい。
 このとき、そばにいた荒木 道子が芥川をたしなめるようにドイツ語で何かいった。
 あとになってそのことばの意味を知ったが、「こんな子どもを相手にするのはよしなさい」という意味だったらしい。
 私の内部で何かが壊れた。芥川 比呂志に対する怒りではなく、荒木 道子に対するファンとしての親近感が。

2008/04/22(Tue)  803
 
 サクラの季節が終わると、いっとき華やいだ気分も消えてしまう。

   目の星や花をねがひの糸桜   芭蕉

 これは、じつは夏の句らしい。
 おや、今日は、糸桜の花が願いの糸に見える。糸桜は、しだれザクラ。
 七夕の夜、竿に願いの糸をかける風習があった。五色の糸。「ねがひの糸」と「糸桜」をかけてあるのが趣向。目の星というと眼の病気みたいだが、瞳のこと。これは「七夕」の連想から。芭蕉に叱られそうだが、この句、少女マンガみたいで好きだな。

   雨の日や世間の秋を堺町    芭蕉

 これは秋。
 雨がしとしと降っている。さみしい。
 ところが、そんな世間と違って、堺町だけはにぎやかなのだ。なにしろ、日本橋の芝居町なのだから。脂粉の匂い。「雨」のア、「秋」のア、「世間」のセ、「堺町」のサが響きあう。しかも「世間の秋」には、日常に倦きて芝居や色町にくり出す、うきうきした気分が流れている。
 談林の頃の芭蕉の作も、けっこうおもしろい。

2008/04/21(Mon)  802
 
 2008年3月、文部科学省は、小・中学校の新学習指導要領を告示した。これは、愛国心を涵養するといった教育改正基本法(改正)と連動しているものだが、そのなかで小学国語に、「神話・伝承を読み聞かせる」という記述が追加されている。これも、総則のなかで、「伝統と文化を尊重」するということの実践と思われる。

 私は、これに賛成する。ただし、愛国心を涵養するといった教育的配慮ならやめたほうがいい。まさか、いまさら、神話を皇国史観に重ねるようなアホウはいないだろう。戦後、記・紀の研究も大きくすすんでいる。
 古代ギリシャでは、ミユトスは、ほんらいは物語であり、広義には話であった。明治時代に「神話」と訳されたことには、おそらく古事記、日本書紀の「神話」なり「伝説」への連想が働いたにちがいない。
 何をもって、人はある物語をもって「神話」とみなすのか。
 これは、おそらくこのことばの揺れ、ないし、発展にかかわるだろうし、その置かれた文脈にかかわる。

 古事記は、日本の歴史資料として、現存する、もっとも古い書物。712年に、太安麻呂の撰によって成立した。上、中、下の三巻にわかれる。その上巻が、神代巻(カミヨノマキ)として、日本神話が展開している。
 上巻は、天地開闢から、海幸、山幸神話。ホデリのミコトまで。
 中巻は、初代天皇といわれる神武の東征。第15代、応神天皇の秋山・春山兄弟のイヅシオトメ(伊豆志袁登売)との婚姻にまつわる話まで。

 下巻は、第16代、仁徳から、第33代、推古まで。歴史の資料としては、第23代、顕宗天皇までで、それ以後は、家系を中心とした略歴をならべたもので、文学として読むことはできない。

 天地開闢から、海幸、山幸神話。ホデリのミコトまで。記・紀が、日本民族の物語であり、「最古の伝承文学」、最高のファンタジーとして、子どもたちに受け入れられるのはうれしい。

2008/04/20(Sun)  801
 
 批評というものは、おもしろいものだ。批評家が、ある作家の作品を読み違える。当然、まっとうに評価できない。
 よくあることで、別にめずらしいことではない。

 サント・ブーヴは、スタンダールの『赤と黒』にさして高い評価をあたえなかった。
「ジュリアン・ソレル」について、家庭内の葛藤に巻き込まれたロベスピエールよろしく、卑劣で、忌まわしい「怪物」と見ている。「小説の人物たちはまったくイキイキとしたところがなく、ほんの二、三本の糸であやつられる自動人形(パンタン)さながら」と酷評している。
 サント・ブーヴをフランス文学最高の批評家のひとりと見てきたが、こういう批評を読むと、さすがにあきれてしまう。

 ほんの二、三本の糸であやつられる自動人形(パンタン)という批評から、こんな批評を思い出した。

    神のおつげと妻のさそいによって主君を殺し一城のあるじとなるが、やはり神のおつげどおりに人望を失ってしんでゆく侍の宿命をえがいた映画である。
    (中略)
    主人公の妻が狂うのも、千秋 実の役の死も必然性がない。三船(敏郎)、山田(五十鈴)らの演技はうまくてもこわいものみせたさのつくりものの感じだ。それにこの映画は大モッブシーンはあるが「七人の侍」のような合戦シーンがない。それが迫力を欠いている。
    (中略)
    この映画の人物はいずれも運命にひき回されている人形だ。それがまた映画のねらいであるとしても、何ものかにひき回されている人間をえがく場合、もつと人間の積極性を一面にえがいてみせたほうが皮肉がきいて宿命観がつよくひびくのではないか。黒沢(明)のはじめての哲学のない映画であり、気まじめすぎた凡作。

 試写室で「蜘蛛巣城」を見て、すぐにこの映画評を書いたらしい。(「デイリー・スポーツ」昭和32年1月)
 筆者はこの映画が、シェイクスピアの『マクベス』の翻案ということに気がついていない。少なくとも、そういうことをまったく考慮していない。しかし、「この映画の人物はいずれも運命にひき回されている人形だ」と見たなら、「黒沢(明)のはじめての哲学のない映画」と判断できなかったはずである。
 にもかかわらず、黒沢(明)らしからぬ「哲学のない映画」で、気まじめすぎた凡作、と評価した点に、この映画評のおもしろさがある。

 今のように、黒沢(明)が最高の映画人として崇拝されている時代には、誰も「蜘蛛巣城」を凡作などと切り捨てることはできないだろう。

 私は「蜘蛛巣城」を黒沢(明)の傑作と見ている。ただし、映画の傑作とは見ていない。オーソン・ウェルズの「マクベス」よりはマシだが。

2008/04/19(Sat)  ☆800☆
 
 スタンダールはいう。

    自分の生きている世紀から完全に抜け出して、ルイ十四世の世紀の偉大な人たちの眼の前にいると考えること。いつも20世紀のために仕事をすること。

 ルイ十四世の世紀の偉大な人たちが、ここでは誰をさすにしても、作家としてのスタンダールは、いつもモリエールや、コルネイユ、ラシーヌたちを意識していた。
 いつも20世紀のために仕事をしてきたからこそ、19世紀の最高の作家と見られている。
 私はこういうスタンダールを尊敬してきた。

 かぎりなく無名に近い作家でも(心のどこかでは)自分の生きている世紀から完全に抜け出して、19世紀の偉大な人たちの眼の前にいると考えてきたはずである。
 きみたちもこれからはいつも22世紀のために仕事をすること。
                (私の好きなことば)

2008/04/18(Fri)  799
 
 ジュリエット・ビノッシュ。私にとっては名女優のひとり。日本の女優には、まともにインタヴューに答えられないバカが多いが、ジュリエットは違う。
 少女時代にアイドルはいたのかという質問に答えて、

    ニコラス・レイね。シェームズ・ディーンに、ジョン・フォード。マリリン。
    マリリンはわたしにとって、いちばん偉大な女優だわ。「バス停留所」にはびっくりしちゃった。彼女には、美しくありたいという、すごく強い気もちがあるの。彼女が、あんなにも美しいのはそのせいなのよ。彼女は工夫していたし、何もおそれなかったし、いろんなやりかたをためしていたわ。

 ジュリエット・ビノッシュは、それほど美貌というわけではない。ハリウッドのスター女優にはジュリエットよりずっと美女が多い。しかし、ジュリエットに比肩できるほど演技力のある女優は少ないだろう。戦後のルイ・ジュヴェによる「コメディー・フランセーズ」の「伝統」が、女優ジュリエットに生きている。少なくとも、彼女の基本を作り上げているような気がする。
 「コンセルヴァトワール」での彼女が、タニャ・バラショヴァの薫陶を受けていることから、私の想像はそれほど誤りではないだろう。若き日のタニャは、マルセル・アシャールと親しく、その関係で、いつもルイ・ジュヴェの身近にいた女優、脚本家で、のちに「コメディー・フランセーズ」の新人育成の専門家になった女性なのである。

 ジュリエット・ビノッシュが、ニコラス・レイをあげていることに驚いた。
 ところで――マリリン・モンローはじつに不思議な女優だった。
 スターになってからのジェーン・フォンダが、寝室の壁いっぱいの大きさ(絵でいえば200号以上のサイズ)の、マリリンの写真を飾っていた。ジェーン・フォンダもジュリエットとおなじように、マリリンはいちばん偉大な女優だったと語ったことがある。

 ジュリエット・ビノッシュが、マリリンを大女優と見ていることに、私としては彼女の女優観が見えたような気がする。

2008/04/17(Thu)  798
 
 ジュリエット・ビノッシュ。好きな女優のひとり。たいていのハリウッド女優より、ずっとずっとすばらしい女優。

 父親は彫刻家で、俳優。母親が女優。こういう経歴は、かなり特別に見えるのだが、フランスの女優ならさしてめずらしくもない。1964年、パリ生まれ。

 この女優さんの発想というか、考えかたがおもしろい。
 絵を見て泣き出したことが何度もあるという。

    ロンドンにいた頃、お金が全然なかったけれど、国立美術館にはかなり通ったわ。一日に、展示室を一つづつ見ることにしてた。展示室に行くたびに、前に見たものを全部、頭のなかで思いうかべる。4日目か5日目に、新しい展示室に入ったの。とたんに、ガツンとくるようなショックを受けたわ。まるでもう息ができなくなって。
    ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵があったの。
    涙がどんどん流れてきて、もうとまらないのよ。

 「とくに好きな絵がありますか」と訊かれて、

    ううん、特にってこと、ないわ。すごく美しくて、すごく心を打つ絵はたくさんあるけど。
    でも、よく思うの。絵にサインがなければいいのにって。作品に名前なんかなければいいのに。誰が作ったかなんて、知る必要ないじゃない。名前で評価がきまっちゃったりする。でも、わたしにとって大切なのは、最初からそこにあるものなのよ。
    自然は、最初から与えられているわ。空は、わたしたちに与えられている。だけど、自然にはサインなんかないわ。空にはサインしてないでしょ。

 私はこういうジュリエットが好きなのだ。 
  (つづく)

2008/04/16(Wed)  797
 
 思いつくままに、私が関心をもっている女優をあげてみよう。

 池脇 千鶴、上戸 彩。加藤 あい、菅野 美穂、木内 晶子。菊川 怜。京野 ことみ。国生 さゆり。
 柴崎 コウ。鈴木 京香、田中 麗奈、中谷 美紀、西田 尚美。
 広末 涼子、堀北 真希。松 たか子、松嶋 菜々子、松雪 泰子。
 宮崎 あおい。宮沢 りえ、矢田 亜希子、優香。
 ほかに、いくらでもあげることができよう。
 このなかには、舞台でも見た女優も多い。

 それぞれの女優の魅力。ことばではつたえにくい。

 たとえば、クリスティーナ・リッチについて。

    ぼくがクリスティーナを好きな理由は、彼女が活動写真の雰囲気をもっていることなんだ。なんともいえないフワフワした感じ。この役には、クリスティーナがもっているはっきりしないクォリテイーが絶対に必要だったと、今でも思っている。彼女を見ていると、皆何かを感じるんだけど、それが何なのかわからない。ぼくにとっては、いや、この映画にとっては、それこそがすごーく大事な部分だったのさ。こういうクォリテイーはなかなかめずらしいもので、誰もがもっているものではない。これこそ、映画をマジカルにするクォリテイーだと思うんだ。

 ティム・バートンが「スリーピー・ホロウ」について語ったことば。
 「なんともいえないフワフワした感じ」では何の説明にもなっていないけれど、クリスティーナ・リッチという女優さんには、なぜかぴったりする。
 こういうことばは、語っている本人でもうまく説明がつかないのに、聞いているこちらがなんとなく納得してしまう、つまりは女優の魅力がはじめから論理的に説明しにくいからだろう。
 おなじ映画に出たリサ・マリーについて、ティム・バートンが何も語っていないことが気になるのだが、リサ・マリーについてはこんなふうにはいえなかったのかも知れない。そのあたり、私には別の興味がある。(こんなふうに考えるのが、批評家の習性なのである。)ウフフ。

 ある時期、ある若い女優に、「なんともいえない「香気」(フレグランス)がたちこめることがある。その「香気」(フレグランス)は、いわば一過性のものでもあって、その女優が演技的に向上するにつれて、いつしか「なんとなく」消えてしまうことも多い。

 たとえば、「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」のエミリー・ワトスン。
 私としては、できればそういう瞬間の女優について書いておきたいのだが、これがとてもむずかしい。

2008/04/15(Tue)  796
 
 我が家の庭で、冬の終わりからミモザがあざやかな黄色を見せる。

 そのつぎに、辛夷(こぶし)が春のきざしを告げるかのように咲く。ほのかなピンクを帯びた白い花である。堀 辰雄の『大和路・信濃路』に美しく描かれている。

 そして、梅。

 少し遅れて、海棠が花をつける。
 この海棠は、友人の小川 茂久が、亡くなる前日に私に贈ってくれたもの。
 私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書きあげたばかりだった。小川の危篤を知らされて、いそいで川越、小仙波のマンションに向かったのだった。
 もはや死期も近かった彼は、私が長期間、書き続けてきた作品がやっと完成したことを告げると、声もなくうなづいてくれた。その眼に輝きがあった。
 その日、彼は形見の品をわたしてくれたが、病床に飾ってあった海棠の鉢も贈ってくれたのだった。

 一度、帰宅した私を追いかけて、小川の絶命が知らされた。私は、葬儀に出る支度をして、また川越に向かった。二月二十八日だった。

 あれから十年になる。
 海棠は、やがて鉢から庭に移した。今はずいぶん大きくなっている。毎年三月、私は海棠の花をみながら、小川 茂久という親友を得た生涯のしあわせを思う。

 海棠より少し先に白木蓮。
 咲きはじめたばかりの木蓮の白ほど美しいものはない。シクラメンの白など、比較にもならない。白木蓮の白は、たとえようもないほど豪奢な色彩といっていい。だが、この白の豪奢は、ほんの一日、せいぜい二日しかつづかない。
 またとない豪奢な白がみるみるうちにごくありきたりの白に変化する。散りしいた花びらは無残に散って、たちまち汚れ、褐色に褪せてしまう。
 清純な処女が、あわれ、たまゆらにその美を喪失してしまうよう。

    Every night and Every morn
    Some to misery are born:

 ふと、ブレイクの一節(「ロング・ジョン・ブラウン/リトル・メァリ・ベル」)を思い出す。

 それぞれの時代を彩った女優たちを連想する。

2008/04/14(Mon)  795
 
 ある古書店が廃業した。

 四街道には、一時期、友人の竹内 紀吉が住んでいた。私の住んでいる土地から、ローカル線で3駅。よく駅前で、酒を酌み交わしたものだった。その古書店も、そんなことから立ち寄るようになった。
 廃業すると知って、一度、本を見に行った。

 その週の日曜日にもう一度行ってみた。正午なのに、扉が閉まっていた。さては昨日いっぱいで閉店したのか。

 この古書店からずっと先に、こども向けのゲーム、CD、ビデオ、DVD、奥にアダルト・ビデオなどを並べた店がある。ここに行ってみた。むろん、買いたいものもない。

 しばらくして駅前に戻った。
 もう一度、「古本屋」の前に出た。
 おや、照明がついている。誰かいるのだろうか。

 中年のオバサンが、高校生らしい息子と、店の本を片づけているのだった。私は店内に入った。オバサンが私をみて、
 「もう、閉店しました」という。
 「いや、買いたい本があるので寄ってみただけ。見てもいいですか」
 オバサンは私を、別にあやしい者ではないと見たらしい。
 「どうぞ」
 といってくれた。

 見当をつけておいた棚に寄って行く。しかし、私が見つけた本はなかった。へえ。あんな本を買うやつがいるのか。
 仕方がない。何が別の本を買うことにしよう。
 「古語辞典」と、ある作家の小説を手にとった。

 「おさがしの本はありましたか」
 オバサンが訊いた。
 「いや、なくなっていました」
 自分の探していた本が買えなかったことが、急に残念な気がした。なぜ、買っておかなかったのか。
 「そのかわり、これをください」
 オバサンが、その本を手にとった。ちょっと見ていたが、
 「この本、もって行ってください。さしあげます」

 私は驚いた。
 「いや、いいですよ、お金は払いますから」
 「いいんですよ、さしあげますから、もって帰ってください」

 けっきょく、タダでもらうことになってしまった。
 オバサンは、私が日曜日にわざわざ閉店の店にやってくるほどの本好きと見たのだろうか。それとも、本をさがしているという口実で、何か記念に本を買っておこうとやってきたと思ったのか。

 オバサンの親切がうれしかった。タダで本をせしめた申しわけなさ、うしろめたさはあったが、まだ日本人の人情が残っているようで、いい気分だった。

2008/04/13(Sun)  794
 
 牧原 出という学者が書いている。
 この先生は、ロンドンで、いろいろとコンサートに行くようになった、という。

    もちろん最初の頃は、日本ではCDでしか聞くことができない演奏家のコンサートが続くので、演奏に心を奪われる思いだった。だが、いくつかコンサートに行くにつれ、演奏もさることながら、観客の様子を観察することもまた面白くなってきた。日本でクラシック音楽のコンサートといえば、外国の有名演奏家を拝むように聞く人たちか、さもしたり顔でミスがないかと身構えるマニア風の聴衆が目についたが、ロンドンの聴衆はもっと屈託がない。ロンドン在住の演奏家の場合は「ロンドンっ子」が演奏して、という感じだし、ヨーロッパ大陸から名だたる演奏家がやってくれば「よくぞ来てくれた」という雰囲気が漂っている。音楽を伝統の一部として日常的に受けとめているような聴衆の態度は、よくも悪くも舶来品を珍重する日本の聴衆の姿勢とは全く異質だった。

 この学者は、東大の「先端科学技術研究センター」の客員教授。

 これは、まったく同感で、私なども日本で音楽のコンサートで、よく経験したものだった。私なども「外国の有名演奏家を拝むように」聞いてきたひとり。しかし、そのうちに「したり顔でミスがないかと身構えるマニア」など気鬱(きぶ)っせい連中がいやでコンサートにも行かなくなった。

 芝居の観客も似ている。
 東京で「モスクワ芸術座」や、「コメデイ・フランセーズ」などを見た頃は、外国の有名な演出家の芝居を拝むようにして見ていた。「モスクワ芸術座」などを見て、スタニスラフスキー・システムを唯一無二の演技論とあがめ奉っていた連中がゴロゴロしていたから。
 こういう連中はルイセンコとか、ミチューリンをかついでいた連中と、おなじ顔をしていた。
 ついでに書いておく。私が見たい映画の1本は――アレクサンドル・P・ドブチェンコのドキュメンタリー、「ミチューリン」(1949年)。こんな映画に唯物論的な関心はまったくないが、旧ソヴィエト映画史的には興味がある。

 こんなゲテモノでもないかぎり、いまの私はもう舶来品を珍重する気もなくなった。

2008/04/12(Sat)  793
 
 神奈川県が、高校教育で日本史を教えることになった。
 学習指導要領では、「地理歴史」の教科で、世界史は必修、日本史と地理は選択科目になっている。
 神奈川県の計画では、世界史のほかに、
   1)日本史を履修する
   2)日本史と地理/歴史の2科目を勉強する
 新科目は、それぞれ1単位か2単位。年間、35コマ。

 私は、この計画に賛成である。理由は多数あるが、とりあえず、日本において歴史教育は必要である。

 神奈川県の県立高校の生徒の約3割が、日本史をまったく学習せずに卒業する。だから、日本がアメリカと戦争したことさえ知らない若者がいる。

 神奈川県の高教組の委員長がこれに反対している。反対する理由に、この必修化が、かつての皇国教育、軍国教育への逆行をもたらす可能性があるという。しかし、それはあり得ないたろう。日教組的な教育者が、日本史の必修がただちに皇国教育、軍国教育に直結すると考えるのはあやまりである。

 歴史はイデオロギーによって変化するものではない。戦時中の皇国教育、軍国教育が、共産主義国家の独善的な一党の支配と同根だったことは、もう誰もが知っていることだから。
 高校生の約3割が、国史をまったくしらずに卒業するような国は、けっして敬意をもって見られることはない。

2008/04/11(Fri)  792
 
 酒を飲みしこる。
 今どき、こんなことばを使う人はいない。私はわざと使う。ただし、エッセイで「酒を飲みしこる」と書くと、かならず「酒を飲みしきる」と書き直される。校正者がわざわざ訂正するらしい。

 「酒を飲みしこる」と、「酒を飲みしきる」は、おなじではない。校正者はおそらく、「しきりに」という副詞を連想するのだろう。しきりに酒を飲む。いかにも三文文士のイメージにぴったりかも。
 しかし、私は「酒を飲みしきる」とはいわない。断じて。
 「しこる」は、筋肉が張って固くなるしこりとおなじ。「酒を飲みしこる」となれば、ひたすら酒を飲むことであって、しきりに酒を飲むなどという、まあ、太平楽なものではない。
 酒を飲まずにいられない。たとえば、女にふられて、やりどない思いをまぎらすために酒を飲む。まあ、そういった気分のものである。

 こういう気分は、あうさきるさ、という。この「あうさきるさ」もいいことば。
 良寛さんの歌でおぼえた。
   むらぎもの心をやらむ 方ぞなき あうさきるさに 思ひみだれて

 むらぎもの、は、心のまくらことば。

 私流の訳で申しわけないが・・・こうして生きていると、あらぬことが心をかすめる。あれこれと心はみだれるばかり。
 良寛さんよりずっと前に、兼好さんが、切ない恋に、あうさきるさに思ひみだれて、眠れぬ夜を過ごすような男のあわれの深さをお書きになっている。

 私が、うっかり酒を飲みしこるのは、兼好さんのいう、切ない恋にあうさきるさに思ひみだれるからだったし、また、良寛さんのいう、むらぎもの心をやらむ方もないからであった。
 こうしたニュアンスを帯びたことばを、「酒を飲みしきる」などと校正で直されるのはうれしくない。だから、もう書かないことにしよう。

2008/04/10(Thu)  791
 
 前に書いたのだが、いちばん先に小説にラジオを登場させたのは、菊地 寛という。
 では、SF(空想科学小説)以外で、いちばん先に小説にテレビを登場させたのは、誰か。これは、わかっている。中田 耕治である。
 まだ、影も形もなかったテレビをわざと書きとめておいた。テレビが、現実のものになると確信していたからだった。

 それでは、映画をいちばん先に小説に登場させたのは、誰か。これが、わからない。

 活動写真が、映画と呼ばれるようになったのは、トーキーが登場してからのことと考えていいのだが、現実に「映画」が小説に登場するのは、いつ、誰によってなのか。

 佐藤 紅緑の長編『半人半獣』に、

    朝彦は今まで活動写真を見たことは数へるだけしきゃなかった。一度彼は日本の写真を見て其(その)妖怪の様な顔、岩の様に硬い線、下卑た女優の表情、丁髷(チョンマゲ)を結って尻を捲った不作法な動作などに肝を潰した。

 とあって、「活動写真」は「写真」と表記されている。この「写真」は、新撰組の近藤勇が、勤王の志士と乱闘になる。つぎの写真は、侠客、国定忠治である。
 主人公が、つぎに見る映画は「ソドムとゴモラ」という「西洋写真」である。

 おなじ佐藤 紅緑の長編『愛の巡禮』に、

    露子さんは至って話材が乏しかった。彼女は食物や衣服や、映画役者の批評より他には何も語ることが出来なかった、自分の住んでいる映画界が全世界の様に思うて居る風すら見えた。 (『愛の巡禮』「骨肉!」)

 とあって、こちらでは「活動写真」の役者ではなく、「映画役者」、「映画界」という概念があらわれる。「骨肉!」は、第14章に当たるのだが、もう終結に近い「戀の亂射」では、

    彼女等は映画俳優の人気者浦田相州を覗いて居るのであった。

 となる。この連載が進行中に、「映画役者」が「映画俳優」に変化している。どうやら映画スターに対する崇拝(ウォーシップ)という「大衆状況」に関係があるのではないだろうか。

 「浦田相州」というネーミングには、早川 雪州のイメージがあるだろう。
 昔の小説を読んで、あらぬことまで考える。私の悪癖。

2008/04/08(Tue)  790
 
「中田耕治ドットコム」のアクセス数が、3万に達した。

 はじめてHPに原稿を発表したときには、予想もしなかった数字である。そもそも、こんな個人的なHPを読んでくれる人はいないだろうと思っていた。読んでくれる人がいたとしても、ごく少数の知人たちが、最近の中田耕治は何を考えているのだろうと興味をもって、アクセスする程度だろう。
 それでも、ありがたいと思っている。
 わずかな読者を相手でも、自分の現在をつたえる、それは作家としてよろこびではないか。

 昨年亡くなった友人、亀忠夫は、私が彼の句集の感想を書いたとき、はじめて、このHPを知って「毎日のように、こういう文章を書いているエネルギーにおどろいている」と書いてきた。

 こんなものでも毎日書きつづけていると、それなりに傾向、方向性といったものが見えてくるはずだが、いろいろな時期に、まるで勝手なことを書きつづけているにすぎない。
 心にうかぶよしなしごとを気ままに書く。さして苦労ではない。文章を書くエネルギーどころか、毎回々々、出たとこ勝負のようなものなのだ。
 毎回、何かの視点をきめて書く、ないしは、意識して書くというわけでもない。私の内部に、ある程度の傾向、バイアスといったものがあって、それが思わず知らず出てくる、それはあるだろう。

 今は、ブックレヴューもさかんだし、読書ブログだって、いくらでもある。そんななかで、私は人があまり書きそうもないことを書く。
 ネットで探しても、めったにぶつからないこと、もう、あまり知られていないようなことを書く。思い出したときに書いておかないと、すぐ忘れてしまうので(笑)。

 たとえば、「パルプ・フィクション」や「マルコヴィッチの穴」については書いてみたい。その頃、何も書かなかったから。ただし、これももうよくおぼえていないのだから、うまく思い出せるかどうか(笑)。

「パッチギ!」の監督の「指あそび」を思い出す。山本 晋也を見ながら、きみの「好色透明人間・女湯のぞき」だっておぼえている、とつぶやく。
 思い出したからといって書くつもりはない(笑)。

 私は、あくまで自分が関心をもつことを書こうと思う。自分が関心をもつことを書いて、関心のない人に読んでいただく。そのために、できれば短く、おもしろく書く。

 これが「中田耕治ドットコム」のベーシックなのである。

2008/04/07(Mon)  789
 
 作家、ソール・ベローがノーベル賞をうけたとき、私はある新聞にたのまれて、いそいでエッセイをかいたことがある。夜中に新聞社から電話があって、翌朝、原稿をとりにくる、といった仕事だった。原稿はその日の夕刊に掲載される。
 ファックスも、メールもない時代だったから、こういう仕事を引き受けて、確実に間にあわせる、重宝なもの書きは少なかったのだろう。

 なぜ、ソール・ベローなのか。
 この問いは、まさにアメリカの戦後文学の核心につきあたる。サリンジャー、マラマッド、ロス、アップダイクといった、すぐれた才能がひしめきあっているなかで、ソール・ベローはほとんど孤高といってよい存在だった。

 1915年、カナダ、ケベック州ラシーヌ生まれ。ユダヤ系ロシア移民の子だった。
 幼年時代をモントリオールの貧民街で過ごし、少年時代からシカゴで過ごした。
 ソール・ベロー自身「生粋のシカゴ育ちと考えている」作家だった。シカゴが、アメリカの文学的空間、文学史的な時間のなかではたした役割を見れば、ソール・ベローがシカゴ派の作家らしい特質をもっていることに気がつく。
 少なくとも、シカゴ育ちという自覚、ないし、潜在意識は、ソール・ベローの世界の基調といってもいいだろう。

 初期の作品、『犠牲者』は、脅迫(ブラックメール)を主題にした心理的なドラマだが、ここではユダヤ系とアングロ・サキソン系の違い、ユダヤとしての自意識、と同時に、被害妄想が語られている。その背景には苛烈としかいいようのないアメリカの現実の息苦しさがひろがっているのだが、ソール・ベローは、ときとしてサリンジャー、マラマッド、ロス、アップダイクたちが見せるようなソフィストケーテッドな姿勢を見せない。
 ドストエフスキーは、自分の内面的な欲求から、作中人物を処罰する作家と見ていいが、ソール・ベローは、自分の内面の衝動から、作中人物をつぎからつぎに苦難に追いやる作家といえる。彼の主人公は、いつも受難者の顔をしている。だから、ソール・ベローを読んでいて、主人公の苦しみや悩みが、そのままこちらの苦しみや悩みになってくるような気がする。私などは、悲鳴をあげたくなるのだが、ベローはすかさず、救いを与えてくれる。『犠牲者』の「レビンサール」もその例だろう。

 現実に、あまりにも肥大化しながら物質的な繁栄をひたすら謳歌しているアメリカの内面、そこにすでにきざしている崩壊の予兆に、ソール・ベローは眼を向けている。そういう社会のなかで生きることの意味は、何なのか。
 処女作「宙ぶらりんの男」は、徴兵通知を受けながら、いつまでも入隊させられない若者の日記。こういう不安定な猶予(シュルシ)にも、生きることの意味の問いかけがあり、そこに苦悩がまつわりついている。もはや、回復しがたいところまで追いつめられながら、なおも必死に生きようとしている状態が、ソール・ベローの描く「猶予」にほかならない。

 たいへんな長編作家で、三作目の『オーギー・マーチの冒険』、六作目の『ハーツォグ』などは、質量ともに大作で、こういう長編に対する欲求は、アメリカ作家に特有なものかも知れない。
 たとえば、トム・ウルフに見られる、驚くほど執拗な自己追求、自己解析は、作風はまったく違うけれど、ソール・ベローにも共通している。
 『雨の王ヘンダーソン』の主人公が、自分でもわけのわからない欲求にかりたてられて、アフリカの奥地にもぐり込みながら、執拗に自分を追いつめてゆく姿にも、こういう原衝動がある。

 ある日、神保町の路上で、アメリカの本をたくさんかかえた植草 甚一さんに会った。すぐに立ち話をなさるのだった。
 「やあ、中田さん、いいところでおめにかかりました。この作家を読みましたか」
 私の知らない作家の原書だった。
 「いいえ、存じません」
 通行人が、私たちを見ながら通って行く。若い人たちは、たいてい植草さんをしっているらしく、その植草さんと親しそうに話をしているオジサンは何者なのか、という好奇心を見せているようだった。
 私はその原書のフラップを見た。
 知らない作家の本だった。私にかぎらず、この作家に注目した人はいなかったのではないか、と思う。
 植草 甚一さんは、その本を私の手にわたして、
 「これ、あげましょう。中田さんが、読んだほうがいい」
 その場で本を下さった。

 ソール・ベローだった。

2008/04/06(Sun)  788
 
 ハーマン・メルヴィルが好きというわけではないのだが、ほとんど全部読んできた。
 『白鯨』の「エイハブ」に見られるドストエフスキー的というか、グノーシス的な認識に衝撃を受けたからだった。しかし、メルヴィルについてはまったく書かなかった。書く機会がなかったせいもあるが、つよい畏怖に似た感情をもちつづけてきたので、たとえ書こうとしても書けなかったと思う。

 ただし、メルヴィルの専門家ではないから平気で書けるのだが、私が楽しく読んだのは『白鯨』ではなかった。むしろ、『タイピー』や『オムー』だったことも白状しておこう。
 この理由はすぐに想像がつくだろう。
 『白鯨』ほどおそろしい小説ではなかったからである。ヌクヒヴァ島の原住民たちの暮らしが、私にとっては、空想的なものではなく、はるかに現実的なものと見えた。
 当時、『タイピー』は翻訳がなくて、『オムー』の翻訳を読んで『タイピー』を知ったため、ずいぶん苦労して探しまわった。こんなところにも、戦後にはじめてアメリカ文学を読みはじめた若者の、ひたすらアメリカ文学にのめり込んで行った姿の滑稽さ、いじらしさが見られるのだが、ヌクヒヴァ島から脱出した主人公の捕鯨船の生活が先にあったので、『タイピー』を読んだときは、ほとんど羨望に近い思いさえあった。
 メルヴィルにかぎらないが、手あたり次第に本を読んできたので、こんなおかしな読みかたをするのはしょっちゅうだった。
 どんな作家も、大学の研究者に研究されるために書いているわけではない。私のように、追っとり刀で作家に肉迫してゆく三ン下批評家の読みかたで、どこがわるいのか。

 はじめからメルヴィルの専門家にはなる気などさらさらなかった。
 多島海に漂流した主人公が、原住民の娘、「イラー」と恋をする『マーディ』は、途中まで読んで投げ出してしまった。正直、メルヴィルにうんざりした。
 これを読んだ頃には、もう、『洞窟の女王』や、『ターザン』を読んでいたせいかも知れない。

 少年時代に『タイピー』を読んだことは、私の記憶に大きく残っている。戦後の混乱の日々に、アメリカ文学を読みつづけていたことになつかしさをおぼえる。
 ふと、「島」の魅力にとり憑かれていた自分が、それから逃れるために、ヘミングウェイ、さらには、ヘンリー・ミラー、アナイス・ニンに遭遇したのかも知れないと思う。

2008/04/05(Sat)  787
 
 カルミネ・ガローネという監督がいた。イタリアの無声映画からの監督で、歴史もののスペクタクルで有名だった。戦後、日本の新人女優、八千草 薫を起用して、全編オペラの「蝶々夫人」を撮っている。
 そのガローネがジュール・ヴェルヌの『ミッシェル・ストロゴフ』を映画化した。戦前に「大帝の密使」として作られた映画のリメイクということになる。これに、クルト・ユルゲンスが主演している。

 ロマノフ王朝に反乱を起こしたダッタン族に、イルクーツクが包囲される。
 そこで、モスクワから、イルクーツクの守備隊に皇帝の密使がつかわされる。身分をかくすために、ひとりの可憐な美少女が妻という名目で同行するのだが、これがジュヌヴィエーヴ・パージュ。
 この映画でも、クルト・ユルゲンスは堂々たる押し出しで、圧倒的な演技を見せていた。重厚なクルト・ユルゲンスに対して、ジュヌヴィエーヴもわかわかしく、魅力もあふれていたから、映画がおもしろくならないはずはない。
 ところが、この映画、まるっきりおもしろくなかった。

 カルミネ・ガローネの大時代な演出もこの映画をひどくつまらないものにしていた。日本での公開もおそらくコケたのではなかったか。
 この時期、すでにフエデリーコ・フエリーニの「道」が登場している。同時に、ベルイマンの「夏の夜は三度微笑む」も。カルミネ・ガローネの映画が見劣りしたのも当然だろう。私もこの映画には失望したが、それでも、インキジノフと、ジャック・ダクミーヌが出ていたので、この映画を見てよかったと思った。
 インキジノフは無声映画の大スター。私は見たことがなかった。デュヴィヴィエの「モンパルナスの夜」公開当時、私は5歳ぐらい。評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていたとき、偶然、BS11で「カザノヴァ」を見た。ジュヴェの恋人だったマドレーヌ・オズレイが出ていたので、この映画を見たのは大きなはげみになった。
 ジャック・ダクミーヌは、戦後(1951年秋)、エドウィージュ・フゥイエールが「エーベルト劇場」でやった芝居に起用された新人だった。どういう俳優なのか見ておきたかった。

 私の場合、その映画一本を見ることで得られるものは多かった。
 その映画が暗黙のうちに見せているもの、あるいは、ちょっと見ただけではわからないもの、ときには見えないものを「見る」こと。
 ・・・・うれしかったのは、まだ世界的なスターになる前の、新人女優、シルヴァ・コシナが出ていたことだった。(ユーゴスラヴィア出身の女優である。シルヴァ・コシナが好きだった常盤 新平も、おそらくこの映画、「皇帝の密使」のシルヴァは見ていないだろうと思う。)

 私は、つまらない映画を見て、ああ、つまらなかった、というのが趣味だった。つまらない映画を見ても、いろいろ考えることはできる。
 たとえば、クルト・ユルゲンスという俳優は、どうしてこんなつまらない映画に出るのだろう? しかも、ほかの俳優がまるでダメなときでも、彼だけはどうしていい芝居をしているのだろうか。
 私は、そんなことばかり考えていた。

 映画について、とくにその映画に出ている俳優、女優について考えることは、私にとって、芸術について考えることにほかならなかった。
 そして、芸術について考える私について考えることだった。

 だから、マリリン・モンローについて私なりのモノグラフを書いた。ルイ・ジュヴェの評伝を書いた。

2008/04/03(Thu)  786
 
 クルト・ユルゲンスは名優といっていい。
 戦後のドイツの俳優のなかで、いちばん存在感があったひとり。
 ハリウッド映画にたくさん出ているが、いまの私がまっさきに思い浮かべるのは、「深く静かに潜航せよ」ぐらい。ドイツ海軍の潜水艦の艦長。この潜水艦を捕捉して、執拗に爆雷攻撃をつづけるアメリカ海軍の駆逐艦の艦長が、ロバート・ミッチャム。

 ロバート・ミッチャムは、ずっと後年の「さらば、愛しき女よ」で「フィリップ・マーロー」をやったが、はじめからハリウッドの映画俳優だった。この映画では、クルト・ユルゲンスとぶつかるシーンもない。だから、この映画では芝居で勝負していない。
 一方、クルト・ユルゲンスは、狭い潜水艦の内部だけの芝居なので、演技はだいたいクローズショットが多くなる。当然、顔(フェイシアル)の芝居になる。老練、不屈のドイツ海軍の艦長が、全力をあげて敵の爆雷攻撃をふり切って逃げようとする。冷静な艦長がはじめは敵にして、圧倒的な自信をもっていながら、その軽蔑に似た思いが、やがて呪詛、さらには焦燥、怒り、敗北感に代わってゆく。
 これが、期せずして、ロバート・ミッチャムの芝居とすばらしいコントラストになっている。

2008/04/01(Tue)  785
 
 ときどき昔の名優たちを思い出す。

 たとえば、『悪魔と神』(サルトル)の「ゲッツ」をやった尾上 松緑。戦後のサルトルへの関心から見たのだが、ほんとうは、戦後、ルイ・ジュヴェが演出した戯曲なので見に行ったのだった。日本ではジュヴェの演出が失敗したという評判だけがつたえられていた。もし失敗したとすればどういう理由によるものなのか。失敗はどこの部分においてだったのか。
 ジュヴェは、その後まもなく亡くなっている。ジュヴェの芝居を見るわけにはいかない。だから、日生劇場に行くことになった。(1965年だったか。)
 松緑の芝居は、戦前、前後と、とびとびながら見てきた。松本 豊の頃から、母がひいきにしていたせいで、戦前からこの俳優のことは知っていた。父の幸四郎から菊五郎(六代目)にあずけられたためか、うまい役者、将来性のある役者と聞かされてきた。
 松緑になりたての頃、不人情な役者という評判が立っていたときでも、私の母は松緑を褒めていた。若手のなかでも、「船弁慶」の「静御前」や、「南郷力丸」などがすばらしい、といっていた。
 私は松緑も好きだったが、兄の染五郎(のちの幸四郎)も好きだった。

 戦後、しばらく歌舞伎を見なかったので、久しぶりに、「ゲッツ」の松緑を見て驚嘆した。むろん、松緑の芝居をいくらかでも継続的に見てきたせいで、こういう驚きがやってきたのだろうと思う。「ヒルダ」をやった渡辺 美佐子が可憐に見えたぐらいで、ほかの(劇団「四季」の)俳優たちの存在までがかすんでしまった。

 ずっと後年、福田 恆存の『明智光秀』で幸四郎を見た。このときの幸四郎もすばらしかった。
 私は幸四郎、松緑によって名優のもつ力の凄さを知らされたような気がする。

2008/03/30(Sun)  784
 
 暇をもてあます、ということはない。
 ほんの二、三分、誰かの句集を開いて、そのページに出ている句を読む。(短歌はあまり読まなくなった。歌集までとても手がまわらない。)詩集は一度、眼を通しておいて、あらためて読みはじめる。そうしないと頭に入らない。

 こんなものを見つけた。

     鎌倉の かぢのむすめ
     日本の天下の しゃれおんな
     しゃれおんなに 油をつけて
     オヤ 十五夜の 月を
     シャ 鏡にしょ

 鎌倉時代の民謡という。
 むろん、曲はわからない。メロディーはわからなくても、鎌倉時代の男の眼を惹きつけた「日本の天下のしゃれおんな」の姿。
 まさか十五夜のお月さまを鏡にしてその女を映してみたい、とは思わないけれど、鎌倉の鍛冶の娘は、きっと、きりりとした美しい娘だったにちがいない。

 合いの手の「オヤ」も「シャ」も感動詞。「シャ」は、さげすみ、あざけりの含意でつかわれることがあるが、ここでは感嘆だろう。あるいは接続の「さて」なのか。

 女につけるあぶらがどういうものかわからない。しかし、私としては「あぶら月」を連想する。そう見てくると、いい歌詞だと思う。

 春になったら鎌倉に行って、小林 秀雄、澁澤 龍彦、磯田 光一の墓に詣でようか。鎌倉を歩いたところで、鍛冶の娘がいるはずもないが、「日本の天下の しゃれおんな」の二、三人は見かけるだろう。

2008/03/29(Sat)  783
 
 外国語の小説を読むことが少なくなってきた。
 外国の小説を読んで感心することがなくなってきた、というのは、こちらの感性がにぶくなったせいだが、さりとて翻訳を読まなくなったわけではない。

 ときどき昔の作家のものを読む。

    「過去二十年、私はおびただしい短編を書いてきた――少なくとも、この本におさめたものの三倍も書いている。ある作品は愛のために書いたし、お金のために書いたものもある。怒りをぶちまけるために書いたり、共感や悲しみを、ときには絶望から書いたものもある。こうした作品を書いた動機が何であれ、いつも一つ、共通していたことがある。私はこの小説たちを書きたかったのだ。

 こう書いたのは、女流作家のケイ・ボイル。

 寝る前に1編を読む。とてもいい作品が多い。いい作品を読むと、ぐっすり眠れる。朝、眼がさめたとき、ストーリーの内容をだいたいおぼえていれば、その作品は私にとっていい作品なのである。
 忘れてしまったら、たいした作品ではなかったと思えばいい。
 どうせ、もう二度と読まないのだから。

2008/03/27(Thu)  782
 
 私にしても、何度も「助六」を見てきた。戦時中に見た、羽左衛門の「助六」、吉右衛門の「意休」は、いまだに眼に残っている。

 今の団十郎の「助六」を見ながら大昔の団十郎(九代目)の話を思い出した。(ただし、この役者を、昭和生まれの私が見ているはずがない。)こっちの団十郎は、養父、河原崎権之助にみっちり仕込まれた。
 この権之助は、明治元年、今戸で、凶賊に襲われて横死した役者。(戦後すぐに起きた、仁左衛門殺しに似ている。思えば、敗戦直後は、すさまじく殺伐な時代だった。)権之助殺しも幕末から明治に移った時代の混乱のなかで起きた悲劇だったが、その断末魔のうめきが凄まじいものだった、という。
 それを二階にいた団十郎が聞いていた。後年、「湯殿」の長兵衛で、これを芝居(演技)にとり入れた。この長兵衛の打たれで、肺腑をえぐるよえなうめき声の迫真に、満場、戦慄したという。ちなみに、このときの水野十郎左衛門は河原崎権十郎。

 「助六」を見ながら(実際には、見たこともない)大昔の団十郎を連想するような私の意見だから、当たっているとはいえないが・・・

 パリから戻ってきたあたりから、団十郎もようやくいい役者になってきた。

2008/03/25(Tue)  781
 
 マンガ家の安西 水丸が、歌舞伎を見て、
 「紫の病鉢巻(普通は左側に結ぶのがきまりだが、助六は、これが当時の江戸っ子というのか、今見ると奇妙な男だ)。この芝居は何度か見ているが、いつも退屈してしまう。正直に書くとどこがおもしろいのかわからないのである。――」
 と、書いていた。
 正直でいい。もともと「助六」は、退屈で、どこがおもしろいのかわからない芝居なのだ。

 初演の「助六」は、一幕で半日かかったという。これでは、いくら江戸っ子だって、たいてい退屈してしまう。なぜ、そんなに時間がかかったのか。ようするに「演出」の問題と理解していい。
 大道具を一杯に飾る。今なら裏方の技術も高度なものになっているし、各自の分担も手順よく細分化されている。劇場によっては、舞台転換もコンピュータ処理ができるけれど、昔の劇場(こや)では一度飾ったら、むやみに装置をバラせない。
 そこで、作者先生も一杯の道具のなかに、いろいろな要素を盛り込む。
 かんぺらや、朝顔、白酒、みんなコミックな要素をもっている。それが、長いあいだに、俳優の工夫も重なってどんどん整理され、今のかたちに昇華してきたと見てよい。

 竹田 出雲からあと、宝暦あたりから、上方、関東、いずれも台本の恰好がおなじようになったのも、秋成、源内、南畝、あるいは『柳多留』の登場した時代を反映していたのか。

 安西 水丸のことばから、あらぬことまで考えてしまった。

2008/03/23(Sun)  780
 
 森田 たまは、戦前から名随筆家として知られていたが、この程度の随筆家は、今の同人雑誌にいくらでも見つかるだろう。
 たとえば、「孤独の尊さ」という文章があった。日中戦争が始まる直前に書かれたらしいが、この随筆家か見つめた「孤独」はどういうものだったか。

    孤独ほど耐へ難いものはない。しかしまた孤独ほど尊いものはない。誰が太陽を二つ見たか、誰が月を二つ見たか。・・・一国の中に君主はいつも一人ときまってゐる。さすれば一家の中にただひとり生れいでた愛娘は、その親にとつて君主であり、月であり、太陽であると云つても過言ではないでありませう。一人娘はそれ程まで恵まれた星の下に生れてきてゐるのです。人知れぬなやみの多く深きこと、また当然としなくてはなりますまい。

 これが書き出し。あきれた。こんなぞろっぺぇな文章を書いて名随筆家なのか。本人が名随筆家気どりだったのだから、始末にわるい。

 森田 たまはつづける。

      ながき夜の灯に結ぶ丁字の
      燭涙となりたまるを見れば
      今はた知りぬ世のことはりを
      時めける人うれひしげしと

    これは佐藤春夫先生の著はされました車塵集の中にある訳詩で、原句は「夜半燈花落、液涙満銅荷、乃知消息理、栄華憂患多」といふのですが、まことにこの詩のとほり、世にすぐれ持てはやされてゐる人ほど、それに比例してなやみも又多いものと思はねばなりませぬ。森の中にぬきんでた樹は風あたりが強いやうに、美しく生まれた人に哀話が多いやうに、一人娘もまた人から羨まれる境涯であるだけにかへって、ひそやかな憂ひの涙に、かはかぬ袖の又しても沽れることが多いでありませう。

 森田 たまを読みながら、ふと、梶井 基次郎の短編、「冬の蠅」を思い出した。
 自分の人生の「先がどうなるか」まったくわからない。ほんとうに『お先まっ暗』な若者が、よぼよぼと歩いている蠅、指を近づけても逃げない蠅をじっと見ている。この梶井 基次郎に、私はいいようのない孤独を読む。
 梶井 基次郎の文章には森田 たまなどが、ついに知ることのなかった孤独が吹き荒れている。
 こうした無間地獄のような孤独と、森田 たまの「孤独」などはまったく別のものだろう。

 「孤独の尊さ」だと。冗談じゃねえや。

2008/03/22(Sat)  779
 
 森田 たまは、戦前から戦争中にかけて、名随筆家として知られていた。

 作家の素木 しづのことを調べていて、森田 たまの随筆にぶつかった。「素木 しづさんの思ひ出」という文章で、『随筆 貞女』(昭和12年/中央公論社)に収められている。
 この『随筆 貞女』にこんな文章がある。

    花柳章太郎さんの随筆集「べに皿かけ皿」を読んで、何か感想をのべてみたいと思つてから最早まる一年も経つてゐる。そのあひだじゅう一度も忘れたことがなく、いつも心に思ひながら一年経つてしまつたのだから、われながら呆れるほど気が長いけれども、同時にずゐぶん執念深い性質だともおもふ。さうしてどうやら、このあつさりしてゐるやうで、なかなかねつい、性急のやうで気の長い性質は花柳さんもよく似てをられるやうな気がするのである。おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家で、と私は日頃から自分で考へてゐる自分の性質を、そのまま花柳さんにあてはめてもまちがひはないやうに思ふのだけれど、ひょつとすると、それは私の希望の影にすぎないのであるかもしれない。好きな人や崇敬する人物の中に、つねに自分とおなじものを見出したいとねがふ人間の本性にたがはず、私もやはり、花柳さんの中に己れを見出さうと、しらずしらず願つてゐるのかもしれないのである。

 こういう文章が名文だったのか。それはいいとして、森田 たまはこの文章のいやらしさに気がついていない。ご本人がまるで気がついていないところが不愉快である。

 「われながら呆れるほど気が長いけれども、同時にずゐぶん執念深い性質」という女性が、すぐに「あっさりしているやうで、なかなかねつい、性急のようで気の長い性質」は、「好きな人や崇敬する人物」たる花柳さんもよく似ているような気がする、という。
 これは、自分をほめるのにじつに便利ないいかただと思う。
 「おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家」だとさ。たいていの女性は、自分のことをその程度には見ているだろう。

 私だって、「おもては陽気で、うらは陰気で、それで煎じつめたところは天性の楽天家」のひとり。
 「あっさりしているやうで、なかなかねつい、性急のようで気の長い性質」でもなければ、もの書きなんぞやってられっか。

 森田 たまの素木 しづ回想を読んで、ひどく不快なものを感じた。

2008/03/20(Thu)  778
 
 晩年の芥川 龍之介が、後輩の久保田 万太郎に、自作の俳句を見せた。久保田 万太郎は、すでに傘雨宗匠として知られていた。

    うすうすと曇りそめけり 星月夜

 傘雨宗匠はこの句をよしとした。

 数日後、龍之介先生は句をあらためて、

    冷えびえと曇り立ちけり 星月夜

 これを傘雨宗匠にしめした。傘雨宗匠は頭をふって、「いけません」といった。

 龍之介先生は後句を捨てなかった。万太郎は、ついにこの句を認めなかった。

 前句と後句のどちらがいいか。私には判定がつかない。「冷えびえと」のほうは、晴れから曇りにうつろう時間の経過を詠み込んだ感じがいいが、「曇り立ち」では理がかちすぎるような気がする。一方、「うすうすと」の句は、宛然、傘雨宗匠の世界で、それがかえって気に入らない。
 みなさんはどう思うだろうか。

2008/03/18(Tue)  777
 
 私の読書遍歴。
 いろいろなものを読んできたけれど、あまり読まなかったのはドイツ文学だった。ドイツ語を勉強する気がなかったせいもある。

 ゲーテ、クライスト、ケラー、ヘッベルなどは読んだ。
 やがて、メーリケ、シュティフター、グリルパルツァーなどを読む。シュティフターの描く少年時代の淡いロマンス、そして挫折などは、私にもわかりやすいものだったに違いない。
 こうした作家を読むことが、やがてランケ、モムゼンなどの歴史学者を読むことにつながった。ただし、これとて系統的に読んだわけではない。
 ブルックハルト、ランブレヒト、ディルタイなどの文化史、精神史なども、私の視野に入ってきたと思う。
 今の私はブルックハルトに批判的だが、彼に敬意を忘れたことはない。

 戦後すぐに、当時まだ現存していたランケの『ドイツの悲劇』を読んで、ヒトラーの独裁を経験しなければならなかったドイツ人の痛切な反省を知って感動した。
 この本と、第一次大戦の「戦後」に書かれたオットー・バウムガルテンの『大戦の人倫的反省』が、戦後、私の魂を揺さぶった。

 好きなドイツの文学者は、ツヴァイク、ホフマンスタール、エリッヒ・ケストナーなど。だれも翻訳しないけれど、オイゲン・ヴィンクラー。私は、この人の「島」という短編がいちばん好きなのである。
 ほかに好きな作品は、フォン・クライストの「チリの地震」。

 自分で翻訳してみたかったのは、ルイーゼ・ウルリッヒ。
 この名前に聞きおぼえはないだろうか。「未完成交響楽」(ウィリー・フリッチュ監督)に出ていた可憐な少女。彼女は、戦後、作家になっている。ただし、ドイツ語の読めない私は彼女に関して何も知らないのだが。

2008/03/16(Sun)  776
 
 私の読書遍歴。
 いろいろなものを読んできた。残念ながら、こちらに基本的な理解力がないために(つまり、頭がわるいせいで)、読んでもほんとうに理解できないことが多い。残念だが、もうとり返しがつかない。

 「文学講座」をはじめたのも、自分の知識がどうにもあやふやで、あらためて勉強してみたかったからである。

 学生の頃、たとえばモンテスキューの『法の精神』を読んだ。当時の私に理解できたはずもないが、モンテスキューの明晰な思考が、私にとっては一つの目標になった。
 ローマの共和政治に関して、いくらかでもはっきりした考えをもつことができたのは、イタリアの著作家たちよりも、むしろ『法の精神』を読んだおかげだった。祖国愛とか、平等といった観念が、政治的な徳性とむすびついたものであることも、モンテスキューからまなんだことの一つ。

 スタンダールに対する尊敬と、ヴァレリー(とくに『ダ・ヴィンチ』。これは、ある日、野間 宏からもらった)と、モンテスキューへの関心が、私をルネサンスに向かわせたような気がする。今になって、なんとなくそんな気がするだけのことだが。
 ただし、モンテスキューからすぐにルネサンスに推参したわけではない。はるか後年になって、やっとルネサンスの人たちについて勉強をはじめたのだから。

 ところで、『法の精神』が出版されたのは、1748年。

 日本の文学としては、芭蕉の『奥の細道』が、1702年。
 大近松の『曾根崎心中』が、1703年。『心中天網島』が、1720年。
 新井 白石の『読史餘論』が、1720年。
 室 鳩巣の『駿臺雑話』が、1731年。

 してみると・・・芭蕉、近松、白石、鳩巣たちは、モンテスキューと同時代人と見ていい。

 若き日の私は、なんとかモンテスキューを理解しようとした。しかし、当時の私は、芭蕉、近松、白石、鳩巣たちを読むことがなかった。ずっと後年になってから、これは作家として恥ずかしいことではないのか、と思いはじめた。
 それまでにも、自分にわかる範囲で、少しづつ江戸の文学を読みはじめていたのだが。
 それが、現在の「文学講座」につながっているような気がする。

2008/03/14(Fri)  775
 
  『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。
 私がこんなことをけっしていわない理由がおわかりだろうか。

 アフリカ南部、ジンバブエ。
 国家経済が破綻している。中央銀行は、昨年11月の時点で、インフレーションの年率が、2万6476に達したと発表した。(’08.2.1)
 昨年9月の時点で、インフレ率は、年間、7982パーセント。単純計算でも、2カ月で、3倍。これが現在進行形でつづいているのだから、もはや天文的な数字に達しているだろう。

 今年1月中旬には、パン、1斤が300万ジンバブエ・ドル。(公定レート換算で、日本円で1万円相当)。ガソリン、1ガロン、1500万ジンバブエ・ドル。(5万3千円相当)。ジンバブエは『お先まっ暗』どころではない。

 超インフレーションのおそろしさは、第一次大戦後の、敗戦国ドイツに見られた。
 1923年10月の紙幣流通高は、1913年のじつに4億1300万倍。金額にして2505兆弱という数字になる。
 戦前、2マルク60ペニヒだったバタ、1キロが1922年10月には、3500マルク。1923年6月には、じつに3万300マルク。ドイツのいたるところで、略奪と暴動が起きる。

 現在の中国の躍進に重なっている異常な物価高騰が、1989年のインフレーション再現の導火線にならなければいいのだが。
 インフレーションがおそろしいのは、かならず人間性の頽廃、堕落をともなうことで、テロや犯罪が多発することになる。敗戦後の日本でも超インフレーションは起きたが、これは円のモラトリアムによってなんとか切り抜けられた。

 ジンバブエはどうなるのだろうか。
 これからどうなって行くのか、誰ひとり見通しが立たない。誰もがはっきりした打開策も見いだせず、何をどうしていいかわからずに茫然としている状態だろう。
 ジンバブエのインフレーションは、国家のすべての機能を麻痺させ、あらゆる分野に壊滅的な打撃をあたえている。
 1980年から、ムガベ大統領が独裁者として統治してきた。ジンバブエは対外的に戦争をしているわけでもないし、内乱が起きているわけでもない。しかし、これは最悪のインフレで、大統領の責任はきわめて重いがこの独裁者は退陣しない。まさに、『お先まっ暗』といってよい。

 『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 なるべくなら、『お先まっ暗』よりは、せいぜい『お先まっ青(マッツァオ)』ぐらいのほうがいい。

2008/03/12(Wed)  774
 
 養老 孟司先生が、宮崎 駿という映画監督と対談なさっている。
 そのなかで、宮崎先生が、

    先がどうなるかわからない、それこそが生きるってことですよね。(中略)そんなに先のことが見えないと生きられないのか問いたいですね。

 とおっしゃる。これを受けて、養老先生が、

    『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 私は平凡なもの書きなので、お二人のことを批判するわけではない。ただし、ここから別のことを考えはじめた。
 「先がどうなるかわからない、それこそが生きるってこと」ということに関連して、私は映画スター、クラーク・ゲイブルのことば(1932年)を思い出した。

     ハリウッドにきてから、たった2年しかたっていないが、映画界に関するかぎり、2年というのは、じつに長い時間だ。にもかかわらず、私は映画に関して、ごく一部についてさえ自分の意見をもとめられたことはない。(中略)ある日、セットに入ると、私がジョン・マルバートに代わって「紅塵」(ジーン・アーサー主演)に出演することになっている、と告げられた―― 私は、どの役をやりたいかと相談されたことは一度もない。私は自分の考えをもたないことで、金をもらっているのだ。

 クラーク・ゲイブルのような大スターなら、「先がどうなるかわからない、それこそが生きるってこと」と覚悟しても生きて行ける。しかし、いくらハリウッドのスターでも、クラーク・ゲイブルのような人ばかりとは限らない。
 1930年代、ハリウッドの黄金時代のスターたちを一本の映画からつぎの映画にかりたてて行った圧力の凄まじさを考える。当時のハリウッドで、酒や、ドラッグ、セックスに溺れて破滅して行ったスターたち、スターレットたちの物語が無数にころがっている。(今だって、あまり変わらない。)

 先がどうなるかわからない、それこそが生きることに違いないが、えらい人は別として、そう、あっさりと口にはできない。

     『お先まっ暗』でいいじゃないですか。だからこの世はおもしろいんですよ。

 ほんとうに、『お先まっ暗』と思ったとき、なおかつ、この世をおもしろいと達観できる人がどれだけいるだろうか。
 養老 孟司先生のように、脳の大学者で、人生で挫折など経験したこともナイばかりか、たてつづけにベストセラーを出すような人は別として。

2008/03/10(Mon)  773
 
 ずいぶん昔(1960年代)、アメリカ人、日本人、インド人の食料摂取量の比較を読んでいて、アメリカ人1人の消費量が、インド人、50人分にあたると知った。当時、日本人1人の消費量が、インド人、20人分にあたると知って、アメリカ人は日本人の倍以上も食べているのか、と驚いた記憶がある。

 つい最近、ヴァーチャル・ウォーターなるものをはじめて知った。(「読売」08.1.22)。
 たとえば、おコメ、野菜、ウシの飼料になる穀物などを作ったりするのに、水が必要になる。その水を「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)という。

 ウシ、ブタのエサになる穀物の栽培には大量の水が必要になる。
    トリ肉、1キロに 4・5トン
    ブタ肉、1キロに 6トン
    牛肉、 1キロに 20トン
 の水が使われている。東大の「水文学(すいもんがく)」の沖 大幹先生の推計。

 すごい数字だなあ。

 「食事メニューごとに必要な「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)1人分の量は、
    牛丼(並)     1887リットル
    ハンバーグ     1859リットル
    スパゲッティ・ミートソース 1397リットル
    ポテト・チーズバーガー 1099リットル
    カレーライス    1095リットル
    ごはん        238リットル
    バター・トースト   231リットル
    オレンジ・ジュース  168リットル
 この試算によれば、牛丼(並)1杯は、お風呂(180リットル)に換算して、なんと10杯分になるそうな。知らなかった、というより、そんなことは考えもしなかった。

 この沖 大幹先生の研究グループが、日本、アメリカ、中国、ケニアの家庭の、ある一日の食事に投入されているヴァーチャル・ウォーター(仮想水)の量を調べた。

    アメリカの家庭1人あたりの(仮想水)は、 2489リットル
    中国  の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1954リットル
    日本  の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1611リットル
    ケニア の家庭1人あたりの(仮想水)は、 1351リットル

 こういう記事から、いろいろなことを考える。

 日本は資源に恵まれないのだが、水資源だけは豊富らしいこと。それでも、いつか、貴重な水資源が枯渇する可能性があるらしいこと。
 ヨーロッパの尖端科学でも、「ヴァーチャル・ウォーター」(仮想水)の研究は進んでいるのだろうか。もし、研究しているとすれば、どこの国においでさかんなのだろうか。
 いずれ、「戦略水」から降水発電戦略、「雲流るる涯」から気象資源争奪などという思想、競争概念も出てくるかも知れないなあ。

2008/03/08(Sat)  772
 
最近、人気の映画、レンタルDVDのリスト。

 1)「ラッシュアワー 3」
 2)「ファンタスティック・フォー」
 3)「タクシー 4」
 4)「トランスフォーマー」
 5)「ダイハード 40」
 6)「パイレー・オヴ・カリビアン」
 7)「オーシャンズ 13」
 8)「ウィッカーマン」
 9)「アーサーとミニモイの不思議な国」

 私はなんと1本しか見ていない。今後もおそらく見ることはない。
 たいして理由はないのだが、こちらが時代からズレてしまったせいで、これらの映画を見る必要がない。どうせ、ろくでもない映画ばかり。
 ハリウッド製のブロックバスター映画は、公開後、10年ばかりたってから見るとなかなかおもしろい。

 映画は毎日のように見ている。最近見た映画をあげておく。

    1)「悲劇の皇后」(1985年)/ 2)「ホテル」(1986年)/3)「画魂 愛、いつまでも」(1992年)/ 4)「新 野いちご」(1992年)/ 5)「キャラバン」(1999年)/6)「ペパーミント・キャンディー」(1999年)/ 7)「柳と風」(1999年) 8)「ドリフト」(00年)/ 9)「わすれな歌」(02年)/ 10)「マーサの幸せレシピ」(02年)/11)「ブラウン・バニー」(04年)/12)「スイーニー・トッド」(08年)/

 ほとんどが、ビデオ、DVD。ずいぶん昔、一度見たっきりで、すっかり忘れていて、この際、もう一度見直したものばかり。昔見た映画をあらためて見直す。忘れているシーンも多い。けっこうおもしろい。が、もう、二度と見ることはないだろう。
 「マーサの幸せレシピ」(02年)は、サンドラ・ネトルベック監督。マーサ・マルティナ・ゲデック主演。アメリカのリメイクを見て、あらためてハリウッド映画の衰弱を感じた。
 昔、デュヴィヴィエの「望郷」をハリウッドがリメイクした「アルジェアーズ」(邦題・「カスバの恋」)を見て、すっかり軽蔑したことを思い出す。主演のシャルル・ボワイエ、これがハリウッド・デビューになったヘディ・ラマールのふたりが、まるっきりのアホに見えたっけ。

 つまらない映画を見て、ああ、つまらなかったというのが私の趣味なので、愚作映画を忘れたところで困らない。ただ、軽蔑は残るのだ。

2008/03/06(Thu)  771
 
 松 たか子が、「読売演劇大賞」の、最優秀女優賞をうけた。

 『ひばり』、『ロマンス』の演技で。

 笹本 玲奈が『ウーマン・イン・レッド』で、杉村春子賞を受けた。

 ともに慶賀すべきことだと思う。
 松 たか子は、数年前にテレビ・ドラマで「金子 みすず」を演じたが、このあたりから、大きく変わったと思う。
 ただし、『ミス・サイゴン』の松 たか子が意欲的にミュージカルに挑んだことは認めるけれど、もともと声質もミュージカルにむかなかったし、結果的に魅力が出せなかったと思う。その点、今回、「読売演劇大賞」でもミュージカル専門の笹本 玲奈のほうがずっと安心して見ていられた。

 野田 秀樹の舞台(『贋作罪と罰』)の松 たか子は、四角い舞台を一所懸命走りまわっていたが、まだ役が光り輝くところまで行っていなかった。おそらくは演出家も、芝居のなかで、彼女の天性の魅力がおのずと輝き出すと見て、あまりダメを出さなかったのだろう。あるいは彼女のひたむきさにダメダシを遠慮したか。

 しかし、松 たか子は、やがて名女優と呼ばれるにふさわしい舞台を見せてくれるだろうと思う。

2008/03/04(Tue)  770
 
 映画監督の市川 崑が亡くなった。

 記録映画「東京オリンピック」は彼の代表作。
 この映画は日本の「戦後」を描いたものといってよい。前半、オリンポスの聖火が日本の各地のランナーにうけつがれて、東京に向かう。その聖火を見つめる人々の胸にあったものは、映画のなかでじゅうぶんに表現されていた。

 ところが、完成したこの映画の試写を見た、当時、五輪担当だった河野 一郎が激怒したという。
 ようするに、記録映画は、スポーツの勝敗を記録すべきものであって、映画芸術であるドキュメントである必要はない、という意向だったらしい。
 市川 崑は、河野 一郎に会って、説明や弁明をしたという。

 私は、政治家、河野 一郎をいささかも尊敬していない。

 もう少し前には、谷崎 潤一郎の『鍵』を、猥褻として告発しようとした世耕某というクズがいた。
 また、戦後、カンヌ映画祭に日本映画が出品されるようになって、日本の女優たちも映画祭に出席するようになった。このとき、ファッションのつもりで黄八丈、黒繻子の帯で出席した若い女優を下品だといって罵倒した大野某といったやからが、政治家としてハバをきかしていた。

 私は世耕某、大野某といった連中にいささかも敬意をもたない。現在、世耕、大野、河野などといった連中など誰もおぼえていないだろう。私はよくおぼえている。

 私は、ドキュメント「東京オリンピック」を日本映画の誇りと思っている。

2008/03/02(Sun)  769
 
 1942年(昭和17年)、六代目(尾上 菊五郎)が、三日間、芝居を休んだ。小さなニュースだったが、六代目が芝居を休むというのは、当時、歌舞伎ファンのあいだでは、いろいろととり沙汰されたものである。
 私は、中学二年生。このときのことは、いまでもおぼえている。もう、太平洋戦争が起きていた。
 六代目のやっていた「お軽」は家橘、「吾妻」は菊之助がかわった。

    此間(このあいだ)臍の横へにきびの大きい位な腫物が出来て、それに黴菌が入って、急に大きく腫れ上がったが、あれには驚きましたね。何でも蜂窩織炎とかいふ非常に性質(たち)のわるいものだそうで、これを放って置くとあの恐ろしい命取りの敗血症になるといふことですから、すぐに手術して貰ったんですが、黴菌てやつア却々(なかなか)こはいものですね。

 菊五郎のことば。インタヴューに答えて。

 私も、蜂窩織炎をやったことがある。私は、ある劇団で講義をしながら、翻訳の仕事をする。1冊ミステリーを訳すと、すぐつぎに別のジャンルのものを訳す、その合間に演出をする、といった日常だった。
 かなりハードなスケデュールがつづいていた。

 腰骨の上に小さな腫れものができたが、みるみるうちにふくれあがってきた。痛みがひどくて、二日二晩、まるで眠れなかった。
 ちょうど、ある長編の翻訳をしていたが、原稿は一枚も書けなかった。

 けっきょく、近くの外科の診察をうけて、すぐに手術してもらった。
 メスで切ったところにピンセットを突きたてて、グイッと病巣を引きずり出す。ブドウ状球菌の塊りをひっぱり出したが、長さが20センチ以上もあって、不思議な植物のように見えた。

 手術したあとも足をひきずって歩いた。
 ある編集者が、私のようすを見るなり、ニヤリと笑って、
 「出ましたね」
 とヌカした。

 その後しばらくして、この編集者は亡くなった。ある大出版社の名編集者だったが。
 何かのことで、からだじゅう黴菌だらけになったという。

 このとき「黴菌てやつア却々(なかなか)こはいものですね」と実感した。

2008/02/29(Fri)  768
 
 巫山の夢を結ぶ。説明の必要はない。

 ある日、『霍小玉伝』を読んでいて、「巫山・洛浦」ということばに出会った。

 主人公「李生」が美女と契りをかわす。「羅衣を解くの際、態に餘妍あり」という女性を相手に、幃を垂れ、枕を近づけ、その歓愛をきわめる。
 「李生」思えらく、「巫山・洛浦も過ぎず」と。

 「高唐賦」に、楚の「襄王」が巫山の神女とセックスしたことが出ている。だから、巫山の夢。
 もう一方は、魏の「陳思王」、曹植が洛浦の神女とセックスしたことによる。
「李生」は、「巫山・洛浦のよろこびも自分と『小玉』の性愛にはおよばない」と思う。
 私のような男には、なんともうらやましい話。

 真喜志 順子の訳した『神々の物語』(’07.12.31刊 3600円/ 柏書房)を読む。これは神話の世界をわかりやすく解析したもの。ユング派の精神分析が専門のリズ・グリーンと、同僚のジュリエット・シャーマン・バークの共著。
 その第三部は「恋愛」について。
 たとえば、「エコー」と「ナルキッソス」では、自己愛の悲劇。「キュベレ」と「アティックス」では、独占欲の危険。
 第二章では、「ゼウス」と「ヘラ」の結婚、「アーサー王」と「グウェネヴィア王妃」といった苦悩にみちた「関係」が描かれる。

 私は、気が向いたときに、おいしい料理を一品だけ食べるようにして、『神々の物語』を読み続ける。その合間に、ときどき「唐代伝奇」を読む。これは、おいしい酒を一杯だけ口にふくむようにして。

2008/02/26(Tue)  767
 
 2月10日、作家の高野 裕美子(翻訳家・長井 裕美子)が亡くなった。

 この思いがけない不幸を知らせてくれたのは、早川 麻百合だった。新聞に出ているという。いそいで、夕刊のオービチュアリーを見た。

    作家、高野 裕美子氏は、10日、くも膜下出血で死去。50歳。
    翻訳家を経て作家になり、1999年、「サイレント・ナイト」で第3回、日本ミステリー文学大賞・新人賞を受賞した。

 私は、しばらく茫然とした。
 長井 裕美子は、「バベル」という翻訳家養成を専門とするスクールで、私のクラスで勉強していた。同期に、羽田 詩津子、早川 麻百合、立石 光子などがいる。いずれも、すぐれた翻訳家として知られる。

 もともとフランス語が専門だったが、英語も堪能で、私のクラスには二年ばかり通っていたのではないかと思う。
 当時、私のクラスでは、毎月1編、さまざまなジャンル、さまざまな作風の短編を読んでいた。当然ながら、原文の難易度、スタイルも千差万別だった。私としては――それぞれの生徒がどういうジャンルの翻訳にも対応できるように、できるだけ多種多様な作家、作品を読ませたいと思っていた。翻訳する側の資質、文学的な好み、傾向といったものよりも、どういう作品であれ、翻訳を依頼された場合、それにまっこうから立ち向かうのが、若い翻訳者の必須条件なのだから。
 長井 裕美子も、それまで読んだことのない作家をつぎつぎに読み、かつ、訳すことで、たとえ漠然とであっても、おのれの方向性といったものを身につけようと努力していたはずである。

 私のクラスを出て、すぐにプロフェッショナルとして翻訳をはじめた。私は、彼女が着実に仕事を続けていることをよろこんでいた。
 やがて、思いがけないことに、小説、それもミステリーを書きはじめた。構成も文章もしっかりした、重厚な長編の本格的なミステリーで、私は彼女の才能のみごとな開花に驚嘆したのだった。私が教えた生徒たちから翻訳家は輩出している。私が小説を書くようにすすめて、小説を出版した人も多い。しかし、プロフェッショナルな作家になったのは、彼女が三人目だった。
 私は「高野 裕美子」にいつも関心と敬意をもって読んできたのだった。

 彼女が作家として、今後ともすぐれた作品を書きつづけるものと期待していたが、思いがけない訃報に打ちのめされた。今は追悼のことばもない。

 たまたま「NEXUS」(47号)の締切りだったので、追悼のことばを書く余裕がなかった。そこで田栗 美奈子、笠井 英子の努力で、「翻訳について」私が書いた小文をあつめた。これを発表する。
 長井 裕美子たちのクラスで、こんなことを考えていた私自身をあらためて見つめ直す意味で集めただけのことだが。

 長井 裕美子のご冥福を祈る。

 2008年2月15日

2008/02/24(Sun)  766
 
 さて、下戸だった話にもどるのだが――友人たちがそれぞれ結婚して家庭におさまった頃から、私も酒の味がわかってきた。からだがなれてきたせいもある。
 ようするに、自分が酒を飲んでいるのか、酒が自分を飲んでいるのかわからなくなってきた。人並みに、いろいろと苦労して、酒の味がわかってきたらしい。

 苦い酒も飲んだ。美しい酒も飲んできたし、つらい酒も飲んできた。もう、マケることもなくなった。
 ある人が、日本で外国の酒を飲むとどうもその土地で飲んだほどのコクがない、といっていた。私は、そんな通ぶったことをいう資格はない。

 どんな酒でも体調がいいときは、美味に感じる。自分が好きな相手と飲むだけで、酒の味はいやまさる。まして、好きな女と酒を酌むほどのよろこびはない。

 好きな酒はある。
 最近までたいせつにとっておいたドム・ペリニョンを、親しい友人にさしあげた。残念だが、私はもう飲めなくなっている。
 酒にまつわる思い出はいろいろあるが――ある日、澁澤 龍彦のところに遊びに行ったとき、ちょっとめずらしいウィスキーを持参した。このとき、松山 俊太郎さんもいっしょに、そのウィスキーを召し上がったが、松山さんが激賞した。
 松山さんは人も知る酒豪だから、このときお褒めのことばをいただいたのがうれしかった。

 松山さんは、その後、堀口 大学先生のところで、たまたま酒のことが話題になったとき