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2010/04/24(Sat)  1185
 
 鈴木 八郎は、一幕もの、『黛(まゆずみ)』を「新劇」に発表しただけで、劇作家としては挫折したが、一方で、クラブ雑誌と呼ばれる読みもの雑誌に、おもしろい時代小説をいくつも書いている。八郎の先輩だった、三好 一光は世をすねた作家として生きたが、鈴木 八郎は小説を書くのが楽しくて時代小説を書きつづけていた。
 後年の私はクラブ雑誌にも通俗小説を書いたが、鈴木 八郎が、程度の低い書きなぐりの作品を書かなかったことを見てきたことも影響していたと思う。
 その頃、純文学を志しながらクラブ雑誌などに書けば筆が荒れるという人がいた。それに、一流の雑誌の編集者は、一度でもクラブ雑誌などに書いた作家を相手にしない、ともいわれていた。
 私はそんな連中を軽蔑していた。なんという狭量だろう。クラブ雑誌に書いて筆が荒れるようなやつは、どこに書こうといずれ筆は荒れるのだ。クラブ雑誌だろうと一流の雑誌だろうと、てめえの書く作品に変わりがあろうものか。
 西島 大がテレビで「Gメン’75」や、「西部警察」の脚本を書いたからといって、劇作家としての評価が低くなるだろうか。そんなことはない。そんな了見で、競争のはげしい芝居の世界を生き抜いていけるはずもないのだ。

 鈴木 八郎が不遇のまま亡くなったとき、私は若城 紀伊子といっしょに葬儀に出たが、そのあと、西島と三人で酒を酌みかわした。
 彼は何を思ったか、私にむかって、
 「お互いに偉くなれなかったなあ」
 といった。
 私は笑った。
 「そうだねえ、ろくなもの書きになれなかったなあ」
 すると、若城 紀伊子がにこにこしながら、
 「何いってるの、西島さん。中田さんはルネッサンスの大家で、何冊もすごい本を出してるのよ。ほんとは偉いのよ、中田さんて」
 といった。
 「ふうん、そうかあ」
 西島は、にやりとしてみせた。
 ごめんな、きみの仕事のことを何も知らなくて、とでもいいたそうなその笑いは、不愉快なものではなかった。
 当時、私は『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、ジャーナリズムで仕事をすることがなくなっていた。だから、「お互いに偉くなれなかったなあ」といわれても仕方がなかった。それに、お互いに仕事のジャンルが違うと、相手がどういう本を出しているのかさえもわからなくなる。それでもいいのだ。お互いに、しがないもの書きとして生きているのだから、偉くなろうと考えるほうがおかしい。
 酒を飲んで、鈴木 八郎の思い出を語りながら、私たちが、一時期いっしょに悪場所に遊んだことさえも楽しく思い出されるのだった。そのあと西島は、イタリアで買ったブリューゲルの画集を私に贈るといい出した。
 「おれ、イタリア語、読めないからもっててもしようがないんだ」
 私は笑った。こういうかたちで、大は、私に対して気遣いを見せている。それが、うれしかった。

 『ルイ・ジュヴェ』が出たとき、いちばん早くハガキで祝意をつたえてきたのは、西島だった。岑 参(しんじん)の詩を思い出した。

     庭樹不知人去盡   庭樹は知らず 人 去りつくすを
     春来還発舊時花   春 きたりて またひらく 旧時の花

 庭の木々は、むかしの人がみんな死んでしまったのも知らないように、はるがくれば、また、おなじ花をつけて咲いている。

 「青年座」の創立メンバーは、全員、あの世に疎開してしまった。今頃、西島は、東 恵美子や、山岡 久乃、初井 言栄たちと、いっしょに乾杯しているかも知れない。
 大よ、おれもそのうち、そっちに行くさ。おれが着いたら、久しぶりにサシで一杯やろうじゃないか。

2010/04/21(Wed)  1184
 
 西島自身は誰にも語らなかったが、戦時中は熱烈な愛国者で、敗戦の詔勅を聞いた日、悲憤のあまり皇居前に馳せ参じて、同志とともに自裁しようとした少年だった。
 おそらく兄の影響もあったのではないかと私は想像する。彼の兄は、「日本浪漫派」の詩人として知られた田中 克己である。これも、西島は、けっして口外しなかった。
 私は田中 克己の「楊貴妃伝」をすぐれた評伝として敬意をもって読んできた。おそらく、西島が劇作の道を選んだのは、兄と違った世界を選びたかったのではないか。少なくとも、兄の後塵を拝することを避けようとしたからではなかったかと推測していた。
 彼がいずれ劇作家として成功することを私は疑わなかった。

 戦後まもなく、西島 大とおなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと知りあった。この人たちが、戯曲専門の同人誌「フィガロ」を出すことになった。その中心にいたのが鈴木 八郎だった。
 内村先生からはじめて紹介されたのだが、その後、いつも西島 大といっしょに頻繁に会うことになった。

 鈴木 八郎も奇人といってよかった。正確な年齢はわからない。歯切れのいい江戸弁で、いつも和服に、すこぶる上品な草履、頭に宗匠頭巾。私よりも十歳以上も上だったはずである。「戦後」の猥雑な世界に、彼の周囲だけは、江戸の匂いがただよっていた。八郎の話を聞いていると、大正末期、または昭和初期に20代だったような気もする。しかも本人みずから男色者であることを隠さなかった。
 ときどき私の母を相手に、六代目や、もっと前の沢村 源之助などの話をしていたから、年齢がわからない。たいへんなもの知りだった。

 ほんとうなら軍隊にとられるはずもなかったのだが、戦局の悪化で、北方、キスカの守備隊に送られた。アッツ島の日本軍が玉砕して、キスカから転進(退却のこと)し、無事に内地に戻って終戦。その後は、ただひたすら劇作家を志望して、いつも戯曲を書きつづけていた。
 鈴木 八郎は、多幕ものを書いては商業演劇の脚本の公募に出していた。
 まともな学校教育を受けたわけではないのに、芝居に関して知らないことがないほどの大知識で、私などは新劇、歌舞伎の、役者のこと、劇団の内情、思いがけない秘話まで教えてもらった。外国の演劇についてもくわしかったが、私が読んでいた外国の戯曲の話をしきりに聞きたがった。
 西島 大とは大の親友で、おなじ「フィガロ」の若城 紀伊子とも親しかった。(若城 紀伊子は、戯曲が専門だったが、のちに「源氏物語」の研究者として知られ、作家としては女流文学賞を受けている。)

 「フィガロ」のグループのすぐ近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はやがて、桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。

 西島 大の処女作は「フィガロ」に発表されたが、つぎの「メドゥサの首」は、山川 方夫の編集した「三田文学」に発表されている。それを私が演出したのだった。
       (つづく)

2010/04/19(Mon)  1183
 
 若い頃の私が西島 大ととくに縁が深かったのだが、それには理由がある。

 文学上の 師弟関係というものは、はた目から見るほど単純なものではない。師匠にすれば、たいして才能に恵まれていない、どうしようもない弟子を見て、不甲斐ないと思うこともあるだろう。逆に、弟子が鬱勃たる野心に燃えているような場合に、師匠として弟子をうとましく思うこともあるだろう。
 私は、内村さんが期待していたほどの才能がなかった。はっきりいって、内村さんのお書きになる芝居に関心がなかった。私は、ある時期まで小林 秀雄を相手に悪戦苦闘していたし、やがて、ヴァレリーやジッドから離れて、ヘミングウェイに夢中になった。
 だから、戯曲を書くよりも、別の、違った分野をめざしたため、まるっきり内村先生の期待を裏切ったのだった。
 私とは違った意味で、内村さんの後輩だった梅田 晴夫も、やはり先生の期待を裏切ったひとりではなかったか。

 私は内村先生の連続ドラマ、「えり子とともに」のライターのひとりだった。日本で最初のアメリカン・スタイルのホームドラマで、これが成功すれば、長期間にわたって放送がロングランする。当時、内村先生は40代だったので、50代だった伊賀山 昌三、30代だった梅田 晴夫、20代だった私が脚本を書いたり、アィディアを出すグループに加わったのだった。
 「えり子とともに」は、1949年10月にはじまって、127回の連続ドラマになった。(フィナーレは、1953年4月)。
なにしろ長いドラマになったため、途中で、音楽の担当が芥川 也寸志から中田 喜直に交代した。これが実質的に、ドラマの前半と後半の変わり目になったが、西島君は後半から、内村先生の原稿の口述を筆記することになった。

 当時、私と西島 大は、毎月、内村先生からポケットマネーを頂戴していた。
 私はそれを学資にして、母校の英米文学科に戻ってアメリカ文学を勉強したが、フランス語を勉強するように申しわたされた西島君は、「お給料」をみんな飲んでしまった。
 たまに、ふたりとも懐が暖かかったとき、いっしょに酒を飲んだあげく、吉原にくり込んで、翌朝、近所の一膳飯屋でお茶漬けを食らって、そのままに千葉の浜辺まで足をのばしたこともある。
 このとき、たまたま浜辺で釣りをしていた竹田 博(編集者)と会った縁から、私は坂本 一亀と親しくなった。その後、「河出書房」でいろいろと仕事をしてきたが、今となっては、私にとっては、ありがたい出会いだったと思う。
 やがて、私は「東宝」にいた友人、椎野 英之に西島 大を紹介した。「東宝」では西島といっしょにシナリオを書くようになった。
 最近、「アバター」という映画が公開されて、3次元映画がさかんに作られるようになったが、私たちが「東宝」でシナリオを書きはじめた時期に、はじめて3次元映画が登場した。私たちも、3次元映画のためのシノプシスを提出したものだった。むろん、この時期の「東宝」では、一本、試作品ができただけでまともな成果は出せなかったのだが。
 しかし、西島 大は、戦後、沈黙していた熊谷 久虎(映画監督)のために「狼煙は上海にあがる」を書いて、シナリオ作家としての道を歩きはじめた。
 私は才能がなくてシナリオを断念したが、西島はつぎつぎにすぐれた脚本を書くようになった。このとき、いっしょだった仲間が、矢代 静一、八木 柊一郎、池田 一朗である。矢代も、八木も、はじめからシナリオ作家を志望したわけではなかった。後年、ふたりとも劇作家として大成する。池田 一朗は、後年、隆 慶一郎として一斉を風靡する時代ものの作家になる。

 人と人の出会いの不思議を思う。そして、この時期が、私や西島にとってまさしく青春というものではなかったか、という思いがある。

2010/04/18(Sun)  1182
 
 つい先日、私は書いたのだった。知人たちがつぎつきに鬼籍に入ってゆく、と。
 女流作家、宇尾 房子さんが、昨年10月13日にガンで亡くなった、という。
 最近まで知らなかったので、訃報に驚いた。

 つづいて劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞記事で知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4,)
 ただ、宇尾さんの訃を知ったばかりだったので、眩暈のようなものにおそわれた。

 西島 大。本名、西嶋 大(ひろし)。友人たちは「ダイ」と呼んでいた。

 3月3日、肝細胞ガンで死去。82歳。1954年、「青年座」創立メンバーのひとり。「昭和の子供」、「神々の死」などの戯曲のほか、映画、「嵐をよぶ男」や、テレビで「Gメン’75」の脚本をてがけた。

 私は、まだ無名の西島が、内村 直也先生の口述を筆記していた頃に、先生に紹介されて親しくなった。
 その頃、内村先生の周囲に集まっていたグループが、「フィガロ」という戯曲専門の同人雑誌を出すようになって、私も戯曲を書くようにいわれたのだが、戯曲を書くかわりにカットを描いたりした。
 この「フィガロ」に、西島 大の処女作『光と風と夢』が発表された。ある小さなホールで、内村先生演出で上演されて、西島君の出世作になった。
 内村先生も私に劇作を書くよう勧めてくださったが、私自身は演出を志望していたので、内村先生の期待を裏切ることになった。
 それでも西島 大のおかげで、おなじように劇作家志望だった鈴木 八郎、若城 紀伊子たちと親しくなった。そのグループの近くに、慶応系の梅田 春夫を中心にした山川 方夫のグループがいて、私はさらに桂 芳久、田久保 英夫たちを知った。
 私がはじめて演出したのは、青年座の芝居で西島 大の『メドゥサの首』という一幕ものだった。そのつぎも西島 大の『刻まれた像』だったから、当時の西島君とはよほど縁が深かったような気がする。
 あえていえば、私は西島 大といっしょに青春の一時期を過ごした、という思いがある。とにかく、毎日のように会っていたのだった。

 やがて、私は生活のために翻訳の仕事を中心にしなければならなくなって、「青年座」を離れた。私としては、外国の戯曲、それもアメリカの芝居を演出したかったのだが、創作劇を専門に上演していた「青年座」にいても演出できる状況がなかった。それに千葉に住むようになって、渋谷、さらには下北沢の稽古場に通うことがむずかしくなった。

 西島 大と私はお互いに進む方向が違って、その後は疎遠になってしまった。

2010/04/16(Fri)  1181
 
 助詞止めの句をいくつか挙げてみよう。

    夢によく似たる夢かな 墓参り        嵐雪

    啄木鳥(きつつき)の枯木さがすや 花の中  丈草

    暁や 人は知らずも 桃の露         暁臺

    お手打の夫婦なりしを 更衣         蕪村

 さすがにいい句ばかりがそろっている。

    山吹の露 菜の花のかこち顔なるや      芭蕉

    春の雨 別れ別れに 見ゆるかな       鬼貫

    物言はず 客と 亭主と 白菊と       蓼太

 ここまでくると、私などはうっとりとするだけである。こうした一句を読んでいるだけで、いろいろな連想がはたらく。直接、その句にかかわりがないにしても、その句を口にのせてみるだけで、自分の内面にひたひたとひろがってくるものがある。

2010/04/13(Tue)  1180
 
 あまり、好きではない句もあげておこう。

    初雪や 門に橋あり 夕間暮      其角

 情景も眼にうかぶ。いかにも其角らしいが、おのれの才気をたのむ衒気が見えるようだ。そこで、おなじ其角の

    流るる年の哀れ 世につくも髪さへ漱捨つ

 といった破調の句を軽蔑したくなる。

    桟(かけはし)や あぶなげもなし 蝉の声  許六

 これも、おなじ。

    かかる夜の 月も見にけり 野辺送り  去来

 これまた、おなじ。

    よい声の つれはどうした ヒキガエル 一茶

 以上、四句。用言の終止形でとめてある。いずれも、作者の力量はわかるけれど、あまり感心しない。
 たとえば、

    鶯(うぐいす)の かしこ過ぎたる 梅の花  蕪村

 これも好きになれない。

2010/04/11(Sun)  1179
 
 今更ながら――すぐれた俳句なり短歌なりを読むありがたさはどうだろうか。
 短い詩形にどれほど豊かなものが盛り込まれているか。

 たとえば、私の好きな句を選んでみようか。

    一日の春を歩いてしまいけり      蕪村

 ほかにも好きな蕪村の句はいくらでもあるが、こういう句は、一編の短編を読むほどにもすばらしい。むろん、こういう時間の過ごしかたは、今の私たちにはない。ということは、私たちには季節としての「春」もないということにならないか。

    桐の葉は 落ちても 庭にひろごれり  鬼貫

 これもやさしい平叙体の一句だが、私たちの書く作品には季節としての「秋」も失われてしまったような気がする。

    道ばたの木槿は 馬に喰はれけり    芭蕉

 これはもう、私たちが見ることのない風景だろう。俳句を読む。私にとっては、もはや見ることがないからこそ芭蕉の見た季節を見ようとすることにひとしい。
 私がへんぺんたるメッセージを書く姿勢も、こういう俳句を詠む人々の姿勢に、それほど違ってはいない。ただ、私には才能がないだけの話だ。

2010/04/09(Fri)  1178
 
 月に一度、小人数の寺小屋で英語のテキストを読んでいる。
 生徒たちがテキストを訳して、私が指導するグループ。生徒たちは優秀だが、先生のほうは老いぼれGさんである。

 この寺小屋は、だいたい八丁堀のちっぽけな区民館でつづけられている。

 誰も知らないことだが、八丁堀には小林一茶の庵があった。

    うめ咲くや くてうむこうに鳴く雀
    梅さくや ちるや附たり 三日月
    うめ咲くや 現金酒の 通帳
    うめの花 家内安全と咲きにけり
    梅が香や 知った天窓の 先月夜

 よく調べたわけではないが、一茶は八丁堀でこうした句を詠んだらしい。どれも、あまり感心できない句ばかり。
 私の好きな一茶の句は、もう少し違うものである。

    生き残り 生き残りたる寒さかな
    合点して居ても 寒いぞ 貧しいぞ
    しんしんと しん底寒し 小行灯(こあんどん)

 自分の姿を見て、

    ひゐき目に見てさへ 寒き そぶりかな

 東(関東)に下ろうとして途中まで出て、

    椋鳥と 人に言はるる 寒さかな

 箱根、六道の辻と題して、

    寒そらに はなればなれや 菩薩たち

    はなれ家や ずんずん別の寒の入り
    雨の夜や しかも女の 寒念仏
    降る雨の中にも 寒の入りにけり

 一茶の辞世も紹介しておこう。

    ああ ままよ 生きても亀の 百分一

 ところで、私の八丁堀の私塾だが、私は何を教えているわけでもない。ほんとうは、心優しい生徒たちが、月に一度集まって耄碌Gさんの相手にしてくれる集まりなのである。

2010/04/07(Wed)  1177


 アメリカ、ヴァ−ジニア州、フェアファックス・カウンテイ。
 ここでは、小学校の授業の半分は英語以外の言語で授業がおこなわれている、という。

 日本語教育も四つの小学校で行われている。
 ふつうの日常会話などを勉強させるのではない。理科、算数、家庭科を、日本語で教え、幼い子どもたちに日本の文化を理解させる教育である。

 20年前に、日本企業の駐在員たちの支援や、日本企業の後援があって、こうした教育がはじまったという。現在、26の学校で、500人の小学生が、日本語だけで、先生の授業をうけている。みんな日本語を達者に話したり、日本の童謡を歌っている。

 ところが、アメリカの不況で、年間、1億3000万円(円換算)の経費がカウンテイに重荷になって、日本語教育が廃止か、継続か、存続があやぶまれている、という。(’10.1.20.「NHK/ニュース」7;35.am)

 戦時中、アメリカは速成で日本語教育をひろめたが、その成果としてドナルド・キーン、サイデンステッカー、アイヴァン・モリスたちを生んだことを考えれば、フェアファックス・カウンテイの日本語教育がどれほど大きな可能性を秘めているか。

 一方、中国は、アメリカの中、高校でも、中国語の普及を目的にぞくぞくと教室を開いている。中国語を教える学院数は、昨年末までに、88カ国の地域の554校に達している。
 「事業仕分け」とやらで、科学教育研究費、とくにスーパー・コンピューターの開発にカミついた憐呆(れんぼう)などにこの問題の重さが見えるはずもないが。
 いや、憐呆(れんぼう)どもはヒャクも承知で仕切ったか。

2010/04/05(Mon)  1176
 
       ある生


    朝起きると ああ生きているなと思う
    きょうもまだ 頭は大丈夫なのだと思う
    安心する反面 多少 情けなく思うことでもある
    年取るにつれて得た これもまた
    ある一つの生の あるひとこまなのだと思う

 私の場合も、朝起きると、ああ生きているなと思う。ただし、以前のように、さわやか
な目覚めはない。今日もまだ、くたばっていないらしいと思う。安心などはないし、情け
ないかぎりとも思わない。
 くそおもしろくもない現実に腹を立てても仕方がない。できることなら、いろいろな本
を読んで、知らない世界に遊んでいたい。
 奄美大島の詩人、進 一男の詩。短い詩だが、おなじように老年の私には、素直に同感
できる。そして、進 一男の詩を読むことで、その日いちにち、心にかすかなぬくもりを
感じていられる。
 もう一編、「その日まで」を引用しておこう。

    今のこの事は
    近い時が片づけてくれるでしょう
    焼けつく暑い日々が過ぎて
    せめて一輪のコスモスを見るまで
    思いを内に秘めて
    ともかく生きて行きましょう

 この詩が私の心にまっすぐ届くのは、生きているうちに語っておくべきことをごく自然
につぶやいているからである。

 進 一男については、以前にも紹介したことがある。
 年にほぼ1冊のペースで、詩集を出しつづけている。

    詩集「小さな私の上の小さな星たち」  非売品
  〒894−0027鹿児島県奄美市名瀬末広町10−1  進 一男

2010/04/03(Sat)  1175
 
 恐竜が絶滅したのは何千万年も昔のことらしい。
 私の頭脳はトカゲなみの容量しかないので、「らしい」としかいえないのだが――絶滅の原因は、メキシコ・ユカタン半島に、巨大な隕石が落下、地球に衝突したためという。私は、その隕石がどこから飛んできたのか知らないし、メキシコ・ユカタン半島を歩いたこともないので、これが事実かどうか知らない。

 ただ、東北大をはじめ、世界の12の研究機関が合同で、さまざまな分野の研究者が、各地の地層、クレーターなどを調査し、この隕石衝突説を詳細に分析したという。

 このチームの研究で――直径、約10キロから15キロの巨大な隕石が、秒速、20キロの速さで、当時、浅い海だった地表に衝突した。
 そのエネルギーは、ヒロシマに投下された原子爆弾の約10億倍。

 隕石が衝突してできたクレーターの直径は約180キロ。

 この衝突で、大気中に飛散した膨大なチリが、太陽光を遮断した。
 光合成をおこなう植物などが死滅したため、恐竜などが絶滅に追いやられた、という。

 これまでに、隕石の衝突説は、地質学や、古生物学など、個々の分野の研究で追求されてきたが、全世界的な研究で、恐竜絶滅の原因がつきとめられたことになる。

 今後、人間が何千万年にもわたって生きつづけるかどうか私は知らない。
 かりに生きつづけるとして――巨大な隕石が落ちてこないように祈るしかない。
 それでも、今、隕石が落ちてくると予知されたら、どうしようか。

 さっそく、スティーヴン・スピルバーグか、「アバター」の監督、ジェームズ・キャメロンにドキュメントを撮らせたい。ただし、スピルバーグやキャメロンの映画が完成しても、誰ひとりそんな映画を見る観客はいないだろうけれど。

 オバマ氏と、メドベージェフ、プーチン氏たちにお願いして、それぞれ保有している原爆、水爆を全部、宇宙空間にむけて発射していただく。
 少しは、命中するだろう。この作業専任の部隊には、「ハート・ロッカー」(キャスリン・ビグロー監督)に出てくるジェレミー・レナーのような人物を選ぶことにしよう。むろん、巨大隕石相手に、小人数の爆発物処理班で対抗できるかどうか知らない。

 6千650万年の空間に、いつか地球に衝突するかも知れない隕石があって、時々刻々に、地球に向かっている、と考えると……

 こんなアホらしい宇宙的虚無感が、私にはけっこう楽しい。

2010/03/31(Wed)  1174
 
 ある日、新聞でカメラの広告を見た。(’10.3.5.)

 不景気な時代のなかで、デジタル・カメラの激戦がつづいている。
 画質のよさと、ハンディーなところがうけて、軽量で小型の一眼デジタル・カメラは人気が高い。
 そのなかで、キャノン、ニコンが、圧倒的なつよさを見せている。
 だが、3月に入って、パナソニック、オリンパスが新型カメラを登場させているし、ソニーも、ただちに満を持して参入してきた。(’10.3.9.)

 私の見た新聞広告は、キャノンの新製品 EOS KISS X4 {イオス キス エクス フォー}の広告だった。
 7ページにわたって、各ページの下の4段をぶち抜きの大きな広告である。

 いちばん最初の広告のキャプションは――「うちの子は、世界一 カワイイ」。
 写真は――「ドラキュラ伯爵」か、「アダムズ・ファミリー」のお父さんのような、中年の吸血鬼がカメラを片手に、可愛らしい男の子を抱きあげている。

 つぎのページには、大きな帽子をかぶった魔女の母子。「ドラキュラ伯爵」の父子とコントラスト。女の子は小学校の低学年だろうか。こちらのキャプションは――「うちの子は、世界一 才能がある」。
 そのつぎは、モジャモジャの髪の毛、頬も口のまわりもヒゲモジャの親子。狼男だろうか。父親は、サイレント映画のベラ・ルゴシに似ている。
 キャプションは――「うちの子は、世界一 元気だ」。

 つぎの写真は、どうやらハンナ・バーべラのテレビ・アニメのパロディーらしい。
 原始人の家族たちだが、父親に、子どもが3人。母親不在というのは、なにやら意味深長。キャプションは――「うちの子は、世界一 たくましい。」

 こんなふうに、あと三つがつづく。
 この新聞広告が出たのと同時に、テレビで、おなじメンバーのコマーシャルが流れている。気がついた人もいるかも知れない。
 テレビのCMは、むろん動画だから、新聞の広告は、テレビCMの1シーンを使っているのかも知れない。ただし、大型カメラで同時にスティル写真を撮影して、それを使っているのかも知れない。いずれにせよかなり費用をかけているだろう。

 この広告を見た私の感想は――
 じつはたいへんに感心した。これまで、無数にコマーシャル・フォトを見てきた。しかし、ほんの一瞬でも心に残るようなものは極めて少ない。広告を担当した商業フォトグラファーだって、スポンサー側の要求にこたえる「現ニコ写真」を撮れば、それでいい。 もともと「現ニコ写真」にそれ以上を期待する会社はないだろう。
 「現ニコ写真」というのは、広告する現物を手にとって、モデルがニコニコしているフォト。たいていの場合は、若い女優やタレントが商品をもって、ニコニコしている。
 こういう写真が心に残るようなことはない。
 「うちの子は、世界一」シリーズだって、つぎに新製品が出れば忘れられるだろう。

 デジタル・キャメラの市場は、キャノン、ニコンが、圧倒的なつよさを見せているというが、それをささえている現場の優秀さが、このシリーズからも想像できるような気がする。
 私の心に残ったCMは、雨のそぼ降る古い町並みを小犬が、一所懸命に駆け抜けてゆく「サントリー」の名作。おなじ「サントリー」でも、ウーロン茶で、中国の老爺ふたりが、中国語でスキャットするCM。すっとぼけていて、とてもよかった。ドアにかけたダーツでジェームズ・コバーンが遊んでいる。矢を投げようとする瞬間にドアが開く。と、そこに可愛い少女が立っている、というサム・ペキンパー演出の一本。地方局のCMだったが、美少女が田舎の温泉につかっている。入浴シーンだから、両肩をあらわに見せている。なんと、この美少女がアニタ・ユンだった。私は、陶然としてアニタの艶姿を見たものだった。まだ、ほかにもすばらしい作品があったことを、私は忘れない。
 そのなかで、キャノン、EOS KISS のCMは出色のものだと思う。
 このシリーズを企画した宣伝部や、コピー・ライターや、キャスティング・スタッフ、現場のディレクターたちが、真剣にとりくんでいるシーンを想像した。むろん、みんなで楽しく笑いあいながら、撮影がつづけられたのではないか。そんなことまで考えた。

2010/03/28(Sun)  1173
 
(つづき)
 宮 林太郎の最後の長編、『サクラン坊とイチゴ』は、マリリン・モンローに会いに行くという口実で、死んだ有名人のパーティーに出席する宮さんの姿がえがかれている。そのお供を仰せつかった、ウスラバカの作家「中田耕治」が登場してくる。
 ほかの作家がそんなイタズラを仕掛けたら、温厚な私といえどもただちに反撃するだろう。しかし、宮さんがそんなイタズラをしても、別に不快な気分はなかった。
 私がヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーを尊敬し、コクトォについても、宮さんと語りあえる程度の理解をもっていたことから、私に対して親近感を寄せてくださったものと思われる。
 晩年の宮さんは、「無縫庵日録」と題して、膨大な日記を書きつづけていた。そのなかに、私も登場してくる。

    久し振りに中田耕治さんからお便りをいただいた。中田さんの笑顔が目にうかびます。そのご返事を書いた。

    ぼくにとって現在愛する友人はみんな死んでしまってあの世ゆき、中田さんだけが愛する一人になりました。つまり、心の通う友ということです。こんなことを言って申し訳がありませんが、今やあなた一人が尊敬する心の友です。とても寂しいです。ぼくは八十九歳です。もう死んでも文句の言えない限界に達しています。(後略)

  「無縫庵日録」第八巻 平成12年(2000年)3月22日。

 現在の私は、当時の宮さんの孤独がいくぶんでも理解できる年齢になっている。老年の宮さんの孤独も。
 月並みな感慨だが、劉 廷之の詩の一節を思い出す。

      年年歳歳花相似    年々歳々 花はあい似たり
      歳歳年年人不同    歳々年々 人はおなじからず

 宮さんが細いボールペンで、びっしり書きつけたメモを、古雑誌のなかに、しかも私自身のエッセイのページに挟んであるのを見つけた。そのとき、無数の想念のなかに、そんな感慨が胸をかすめたとしても、不自然ではない。

 現在の私は少し長いものを書きつづけている。例によって、なかなか進捗しない。
 たまたま、まったく偶然に、自分の書いた作品の掲載された古雑誌をみつけた。これとてめずらしいことではない。
 しかし、そのなかに、思いがけず、宮 林太郎が私にあてた手紙の下書きが入っていた。それを「発見」したとき、私がどんなに驚いたことか。それだけではない。故人に対するなつかしさ、たまたま人生の途上で知りあうことのできたありがたさ。この古雑誌が私の手もとに戻ってきたことに、いいようのないよろこびを経験したのだった。
 因縁とまではいわないにしても、すでに亡くなった人の呼び声を聞き届けたような気がした。一瞬、夢を見ているような気がした。だから雑誌に挟まれていたメモを、ひそかなメッセージとして読んだとしてもおかしくないだろう。
 世の中には不思議なこともあるものだなあ、という思いがあった。

      春夢随我心      春夢 我が心にしたがって
      悠揚逐君去      悠揚として 君を追って去らん

 春の夢かもしれないが、私の心のままに、別れを惜しみ、在りし日のあなたのことを考えながら、ゆめのなかであなたを思いうかべよう。包 融の詩の一節である。
 冥界におわします宮 林太郎は、私がぐずぐずして、いつまでも新作を出さないのに業を煮やして、こういう形で激励してくれたのかも知れない。

 宮さん、ありがとう。
 私の近作はもうすぐ完成します。あまり期待されても困りますが、そのうちにご報告できるかと思います。

2010/03/26(Fri)  1172
 
(つづき)
 宮さんのメモは、細いボールペンで、一字々々、丹念に書きつけてある。ただし、ところどころ判読できない。赤ペンの大きなバッテンで消してある部分もある。

    これはとてもすばらしい作品です。これについては書かずばなるまい。それにオペラについて勉強が出来ました。
    中田さんがオペラについてこんなに詳しいとは知りませんでした。
    メルバを知っているのかなと思っていると、メルバもちゃんと (以下 欠)

 別のメモには、

    中田さんのお作、まずびっくりしたのは、イサドラ・ダンカン、コポオ、テトラッチーニ、ガリ・クルチ、フアーラー。今では誰もその名を知らない存在のハンランです。しかし、まだ、メルバ、カラスなら知っている人はいるかも知れない。消えていった女たちよ、その面影、その踊り、 (以下 欠)

 さらにもう1枚のメモには、

    自分だけで愛していると思っていたのは、人に横取りされたような気持ち、そうなるとぼくは自分の愛人をとられたような、いや、自分の愛している女が、タレントで、有名になりすぎて、僕の手から離れてゆくような、そういう女はもう愛せません。ぼくの力ではどうすることも出来ません。そんなのいやです。しかし、テトラッチーニは忘れ去られた女、それから僕は昔、トチ・ダルモンテというプリマドンナを愛しました。これも忘れられた女です。自分ひとりで愛せるような女が好きです。

 宮さんは「星座」という同人誌を主催していた。戦前の「星座」では、石川 達三、評論家の矢崎 弾などと親しかった。戦後すぐの時期には、カストリ雑誌にまで短編を書いていた。長編は10冊を越えるし、90歳を越えても小説や詩を書きつづけたが、自分の周囲にいる文学仲間を集めて「全作家」という雑誌を出していた。
 宮さんはパリを愛し、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラーに私淑し、コクトォを尊敬していた作家だった。自宅の壁には、アイズピリの油絵や、フランスの画家のエッチング、デッサンがずらりと並んでいた。            (つづく)

2010/03/24(Wed)  1171
 
(つづき)
 宮 林太郎は一部では知られた作家だったが、本業は医師で、祐天寺では誰知らぬものもない名医だった。
 新築のマンションの壁面に、パリ市内で見かけるものとおなじ青いプレートで、Rue Hemingway という看板を掲げていた。
 私にあてた手紙の住所表記も、すべて「ヘミングウェイ通り」となっている。私も、冗談で、一時、「ヘミングウェイ通り」を僭称したことがあった。(このいたずらは千葉の中央郵便局のお気に召さなかったらしく、フランスから送られた雑誌が返送されたと知って、私は、このアドレスを抹消したが、宮さんは、東京の「ヘミングウェイ通り」を押し通していた。)
 石川 達三の回想記、『心に残る人々』(「文芸春秋」昭和43年)のなかに、宮さんとの交遊が語られている。

   彼と私との交遊は三十五年ぐらいになる。いまでも彼は、(文学を離れて卜の人生は無いです)と言う。それほど好きなのだ。しかし作家として著名でないことを、あまり苦にしてはいないらしい。こういう人が却って本当に文学をたのしんで居るのかも知れない。また逆にいえば、文学はこういう人によって最もその価値をみとめられるのだとも考えられる。

 石川 達三と宮さんの交遊が三十五年というのだから、逆算すれば昭和8年(1933年)だが、この年、宮さんは故郷の淡路島から上京したらしい。
 石川 達三が亡くなったのは、昭和60年(1985年)だが、この作家の最後も、宮さんが見とったのではないかと想像する。
 私が親しくしていただいたのは、宮さんの晩年、1994年あたりからだった。
 「フリッツイ・シェッフ」が載った「SPIEL」6号を宮さんに送ったのは、1995年7月12日だった。
 なぜ、そんなことがわかるかというと、私の送ったハガキがこの雑誌に挟んであった。
 その裏に、宮さんがメモのようなものを書いているのだった!

    中田さんがこんなにオペラにくわしいとは知らなかった。わが身が恥ずかしい。ぼくはフリッツイのことをまったく知りません。それは当たり前で僕の生まれる前の話です。テトラチーニ、ファーラー前の歌手です。しかし、中田さんの文を読んで、大いに興味をそそられました。
    こんな歌姫がいたのかという驚きです。それにしても中田さんの筆はこの女を生かしていますね。目の前にいるようです。
    曲は残っても歌った本人はいない。その歌は別な新人歌手によって歌われる。しかもそれは現代ではデジタルでキャッチされる。例のメルバのレコードをぼくはもっていますが、蚊の鳴くような音で雑音の中から彼女の声が聞こえてくるのです。蚊の鳴くようなオーストラリアの鶯。

 これを読んで驚きは深まるばかりだった。
    (つづく)

2010/03/22(Mon)  1170
 
(つづき)
 私の「フリッツイ・シェッフ」が掲載された雑誌、「SPIEL」6号(1995/7)のページをめくったとき、これを読んだ人のメモが見つかった。

  「SPIEL」をありがとうございました。大変シックな雑誌でスカッとしています。中田さんのお作「まぼろしの恋人」にはびっくり仰天、言葉も出ぬくらい感動しました。
  それについては、ゆっくり感想を書かせていただきます。
  それから、この雑誌の編集者、福島礼子さんの知性にも驚きました。「未来のイヴ」は大変な知的産物です。
  女というのは、大抵はバカが多いのですが、この人は違います。中田さんのお許しを得て、その人にお手紙を差し上げたいと思っております。この人の書いたものをもっと読みたいのです。ぼくはどうもアケスケとものを書くので、人にいろいろいわれます。おゆるしください。
  それにしても、中田さんのオペラ通には目を丸くして、肝を冷やしました。この作品、傑作で心に残ります。

 これを書いたのは、作家の宮 林太郎さんである。

 私が驚いたのは当然だろう。生前の宮さんが私にあてた手紙が、ゆくりなくも14年後に私の手に届いたのだから。
 こういうこともあるのか、と、しばし茫然とした。

 私にあてた手紙だということは間違いない。私が宮さんにあてたハガキが入っていたからである。
 宮さんは手紙を書く前に、メモをとる習慣があったらしい。
 つまり、これとおなじ内容の礼状を清書して、私に送ってくださったのではないかと思う。
 メモは、ほかに3枚あって、その1枚も、手紙の下書きらしい。
 話の順序として、私が宮さんに送ったハガキの内容を掲げておく。

  宮 林太郎様
  こんなものを書きました。お読み頂ければ幸甚です。
  去年から書きはじめた評伝は、やっと三分の一、七百枚になりました。もう少し頑張ろうかと思っています。
  暑くなりそうです。
  どうかお元気で。

 日付は、1995年7月12日。
 「去年から書きはじめた評伝」は、『ルイ・ジュヴェ』だが、これを書いていた時期の私は、それこそ悪戦苦闘していたのだった。
    (つづく)

2010/03/21(Sun)  1169
 
 このブログを書く。アクセス数が5万をこえたので、何かおもしろいことでも書きたいと思っている。

 おもしろいこと。
 つい最近、おもしろいことにぶつかった。もっとも、私以外の人にとっては意味もないことなのだが。
 みなさんに聞いてもらうほどのことではないが、私にしてはめったに経験したことがないので、ここに書きとめておく。

 2010年の冬季オリンピック。日本がイギリスを11−4で圧勝したカーリングの第4戦を見たあと、外出した。私の場合は古本屋めぐりの散歩である。私の住んでいる都会は古本屋らしい店も激減していて、近郊の小さな町まで、私鉄に乗って出かけることも多い。この日、私が行ったのは、電車で20分、ある私立大学のキャンパスがある町の古書店だった。映画関係の本が多いので、ときどき立ち寄ってみることにしていた。

 表通りに面して、雑書や、文庫などの棚が並べてある。値段もだいたい100円どまり。雑書の背中を見て、少しでもおもしろそうなものは手にとってみる。ざっと本の内容をたしかめて、棚に戻す。
 ふと、1冊の古雑誌が眼についた。おや、と思った。見おぼえのある雑誌だった。

 「SPIEL」6号(1995/7)。
 三重県鈴鹿市の福島 礼子さんが編集して出していた個人雑誌だった。発行部数は、おそらく、きわめて少なかったと思われる。

 福島 礼子さんは、同志社大卒。三重県文学新人賞(評論部門)を受賞した女性で、著書に『文学のトポロジー』、『化粧パレット』、『都市のモルフェ』、『セクシュアリティーの臨界へ』などがある。
 私は、斉藤緑雨賞という文学賞の審査にあたったことがあって、そのとき、福島 礼子さんの面識を得た。そんな縁で、福島さんの「SPIEL」に、「フリッツイ・シェッフ」というエッセイを発表した。
 「SPIEL」6号(1995/7)に、それが掲載されている。

 私は驚いた。「SPIEL」のような、へんぺんたる雑誌(失礼!)を、千葉県の片田舎の古本屋の店先で見つけた。これか、最初の驚きだった。
 さらには、ひょっとして、私のエッセイを読んだ人がいるかも知れない。
 そのころ、私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書きつづけていたが、まったく先が見えず、悪戦苦闘していた。福島さんから「SPIEL」に何か原稿を書いてほしいと依頼されて、ルイ・ジュヴェと関係のないオペラ歌手、フリッツイ・シェッフのことを書いたのは、いわば気分転換のつもりもあった。
 斉藤緑雨賞でお世話になっている方からの依頼なので、私としては、そのときの自分の最高の作品を提供した。「まぼろしの恋人」と題した「フリッツイ・シェッフ論」は、今でも、私の代表作のつもりである。

 その「フリッツイ・シェッフ」の掲載された雑誌を見つけた。すぐに買った。100円だった。
 驚きはあとからやってきた。
     (つづく)

2010/03/19(Fri)  1168
 
 いろいろな人の訃報を聞いた。
 たとえば、東 恵美子。劇団「青年座」の創立メンバーのひとり。彼女は、私が演出した芝居に出てくれたし、当時、私はラジオドラマなど、放送の仕事をしていたので、何度か出てもらった。
 つづいて、これはイギリスの女優、ジーン・シモンズが亡くなった。つづいて、双葉 十三郎さんの訃報を知った。私は、ただ面識があったていどだか、双葉さんのお書きになるものにはいつも敬意を払ってきた。さらに、映画評論家の登川 直樹さん、作家の立松 和平の訃報を聞いた。
 私の知っていた人たちが、つぎつぎに鬼籍に入った。
 そして、宇尾 房子の訃報を聞いた。昨年10月にガンで亡くなった。
 私は、つい最近まで知らなかったので、この知らせに驚いた。
 宇尾 房子さんの死を知った翌日、劇作家、西島 大の訃を知った。こちらは、新聞のオービチュアリで知ったので、それほど驚いたわけではない。(’10,3.4)
 しかし、私にとっては、ひとつらなりの訃報であった。私の知っている人たちがつぎからつぎに鬼籍に入った。無常迅速の思いがある。

「朝」の中心にいた竹内 紀吉が亡くなって、もう4年になる。
 宇尾 房子さんを紹介してくれたのは、竹内君だった。いつか、宇尾さんのことを書くつもりだが、たまたま最近届いた「朝」28号は、同人の古瀬 美和子さんの追悼がならんでいた。
 そのなかに、病中、古瀬さんの死を知った宇尾さんが、追悼の辞を口述したことが出てくる。千田 佳代さんの記録による。

 宇尾さんは、千田さんに、「古瀬さんの、追、悼号のね、原稿、書きたいけど」という。おそらく、途切れとぎれにいったのだろう。そして小さく咳をする。
 千田さんは、いそいで筆記するのだが、宇尾さんの口にしたことばは、
 「ながいこと、あり、がとう」
 というものだった。けっきょく、

    三人は無言で、宇尾さんを見つめた。唇がすこし荒れている。はるか遠くをのぞむ目が、そらされると、再び咳。
   「たくさん、書くつもり、だったけど……」
    そこで、彼女は目を閉じると、
   「心から、心より、ごめい福を、お祈り、します」

 このくだりを読んで、私は感動した。
 作家を志して、ただひとすじに美しく生きたひとが、おなじように小説を書きつづけてきた人の死を聞いた。そのとき、宇尾さんの内面に何があったか、私などに忖度できるものではない。
 途切れとぎれのことばに、千万無量の思いがこめられていたにちがいない。
 そのとき、彼女を見舞った三人の仲間に、やはり、「ながいこと、あり、がとう」と語りかけていたにちがいない。

 いろいろな人の訃報を聞いた。
 3月8日の新聞で、寺田 博の訃を知った。元「文芸」の編集者で、さらに「海燕」の編集長だった。享年、78歳。
 宇尾 房子さんが、追悼のことばを述べた古瀬 美和子さんの弟にあたる。

 いろいろな人の訃報を聞いて、私の胸に去来するのは、月並みな感慨だが、

    春夢随我心    春の夢 我が心にしたがって
    悠揚逐君去    悠揚として 君を追って 去らん

 春の夢かも知れないが、心のままに別れを惜しみ、夢のなかで在りし日のあなたのことを思いうかべて別れよう。包 融の詩の一節である。
 私も、おなじことばをささげよう。

 宇尾 房子さん、「ながいこと、あり、がとう、と。

2010/03/17(Wed)  1167
 
 ヤツガレ、ご幼少のみぎり――なんて気どったところで、はじまらねえか。

 夜が明けると、町を流して歩く売り声がひびく。納豆売り、シジミ売り、トーフ屋。

 私の通った小学校では、おなじ小学校を卒業した大先輩で、海軍の提督になった斉藤 七五郎中将の少年時代が唱歌になっていて、毎日のように歌わされた。誰の作詞だったのか。そのなかに、

    身は、幼少の納豆売り

 という一節があった。私の少年時代(昭和初期)には――さすがに小学生の納豆売りは見かけなかったが、それでも自転車に乗って、ツト納豆を売り歩く若者を見かけた。
 煮豆屋もかかさずまわってくる。これは、リヤカーを改造したクルマに、白木の箱が重ねてある。その箱の引き出しに、よく磨いた真鍮の把手がついている。引き出しの中には、フキマメ、ウズラマメ、クロマメなどが、いっぱい入っている。
 町家のおかみさんが、ドンブリをかかえて煮豆屋を呼びとめる。
 注文を聞いた煮豆屋が、朱塗りのシャモジで豆をしゃくって、ドンブリに入れる。

 どこの家の朝飯もオカズはだいたい似たりよったり。
 オミオツケ、煮豆、おシンコ。おシンコは、白菜の漬物やタクアンなど。
 今からみれば、粗食というか、貧しい食卓だった。

 昼のお惣菜は、イリドーフ、オカラ、ヒジキ、ゼンマイ、ツクダ煮、アサリ、ハマグリ、ミガキニシンといった献立で、たまに焼きザカナが出たりする。
 肉ジャガなどは、めったに食べられなかった。そもそも、あまりジャガイモを食べる習慣がなかった。ルーサー・バーバンク種の「男爵」が、まだ普及していなかった。

 仙台では、笹カマボコがおいしかったが、あまりサツマアゲは食べなかったような気がする。東京の下町では、カマボコ、サツマアゲの両方を食べたが、笹カマボコを食べることはほとんどなかった。

 最近の中国のGDPは、日本を抜き、アメリカについで、世界第二位になる勢い。
 それかあらぬか、かつてはナマザカナをたべる習慣のなかった中国人が、いまや寿司やおサシミをよろこんで食うようになっているとか。
 おサシミ用のマグロの消費量は、2000年に、約二百トン。2008年には、約一万トン。ほぼ、50倍の伸びという。
 海産物の消費量は、この10年で、約1000万トン。日本の約900万トンをかるく追い抜いた。

 今の中国は、それでも発展途上国だそうな。つい最近、中国政府がそう言明していた。

 友愛のおかげで、マグロどころかメザシも食えなくなるかも。(笑)

2010/03/15(Mon)  1166
 
 たまたま古道具屋で「ハリウッドからの遺書」という1本のビデオを見つけた。このときの私は、関係のないことを思い出していた。

 『ルイ・ジュヴェ』を書いていたとき、神田の古書店の、ゾッキ本だけを並べた棚に、ジュヴェの著書が3冊並んでいた。いっしょに本を探してくれた田栗 美奈子が、まったく偶然に見つけてくれたのだが、私は眼を疑った。
 私がずっと探していた本が、こんなところにあった! まさか、こんなところでジュヴェの本がころがっていようとは。驚きと同時に、天の配剤のようなものを感じた。

 むろん、ただの偶然と見ていい。たまたまジュヴェの本を売り飛ばした人がいた。古本屋は、今どきこんな本を買う客はいないと判断してゾッキ本の棚に突っ込んだ。それだけのことだろう。たまたま私はルイ・ジュヴェの評伝を書きつづけていた。ウの目タカの目で資料をさがしていた私が、偶然見つけただけのことだろう。
 しかし、この時の私は因縁のようなものを感じた。この本たちは、私に訴えている。『不思議の国のアリス』に出てくる Drink Me の呪文のように。
 さっそくこの本3冊を買い込んだ。
 私にとって至福のときであった。

 私が見つけたビデオ、「ハリウッドからの遺書」は、1本、30円。私にとっては、まさに掘り出しものだった。さっそく電話で自慢すると、美奈子ちゃんもいっしょに喜んでくれた。

 ビデオの「ハリウッドからの遺書」を見つけて、なぜこんなに嬉しがっているのか。いずれ、みなさんにもわかってもらえるかも知れない。

2010/03/13(Sat)  1165
 
 ちょっと嬉しいことがあった。ここに書くほどのことでもないが、ちっとばかし嬉しいので、書きとめておく気になった。

 近くの古道具屋で、1本のビデオを見つけた。「ハリウッドからの遺書」というラベル。あとは何もない。こんなビデオが古道具屋にころがっている。可哀そうな気がした。値段はあってなきがごとし。

 帰宅して、そのビデオを見た。なんと、コメンテーターがローレン・バコール。(むろん、もう誰も知らない女優さん。俳優、ハンフリー・ボガート夫人。)すっかりオバァサンになっている。アメリカで、こんなドキュメントが作られても不思議ではない。だが、私はその内容に――驚かされた。
 サイレント映画の時代に起きたファッテイ・アーバックル事件、ウィリアム・デズモンド・テーラー事件、ポール・バーン事件などが――つぎつぎに出てくる。
 いまどき、こんな無声映画時代の事件に関心をもつ人はいないだろう。だが、私は――あの可憐なメァリ・マイルズ・ミンター、お侠なメイベル・ノーマンドたちのフィルムが出てくるだけでうれしくなった。
 そればかりではない。メァリ・マイルズ・ミンターの「肉声」の録音も聞くことができた。そして、ヴァージニア・ラップが出た映画の1カットまでも。
 この新人女優の怪死が、ハリウッドじゅうを震撼させた。その結果、頭に単純な思想を詰め込んだ、貧相な顔つきのヘイズ(当時、郵政長官をやっていた)が、ハリウッドに乗り込んで、検閲、規制、風紀の粛清に当たった。この人物のごりっぱなご託宣も見ることができる。
 アメリカには、ときどきこういう Do−gooder があらわれる。しばらくたつと、その時代を代表する道化師に落ちぶれるのだが。

 ヘイズの演説におもわず笑ってしまったが、このドキュメント自体にはほとんど茫然とした。各シーンに驚きがあった。ドキュメントとして、全体にそれほど高いレベルの作品ではない。しかし、ここには、自分たちの「過去」をひとつの文化として見ようとする姿勢がある。
 私は大島 渚が監修した日本映画の100年史といったドキュメントを思い出した。いかにも安易なドキュメントで、拙速というか、周到な準備もなく、思いつきでフィルムをかき集めて、つなぎあわせたような作品だった。大島 渚は日本映画のみじめな発展さえ、まともにとりあげなかった。

 たとえば、若き日の川田 芳子、五月 信子、英 百合子の姿を、ビデオで見ようと思っても、ほとんど不可能だろう。まして、入江 たか子、夏川 静江、砂田 駒子などの水着姿などを見ることはない。

 後年の化け猫女優、鈴木 澄子の若い頃は胸をくりぬいたような水着、歌川 八重子が背中をまるだしにした水着だった。そんなことは誰も知らない。
 いまの女の子に較べて可哀相なくらい短足で、メタボな松枝 鶴子。下腹部がホコッと出ていた高津 慶子。痩せっポチの田中 絹代。胸が平べったい及川 道子などをビデオで見ることはない。

 日本の映画界に、すぐれたドキュメンタリストがいないわけではない。
 将来、日本の映画の発展をまっすぐ見すえた、すぐれたドキュメンタリーが作られることを期待している。

2010/03/10(Wed)  1164

  立○ ○子さん

 お手紙、ありがとう。とても、うれしかった。

 私は、今、少し長いものを書きはじめたところなんだ。
 何を書くのか自分でもわからない段階の作家は、内心、いい知れぬ不安をかかえている。これから書こうとしているものが、ほんとうにおもしろいものになるかどうか。実際に書きつづけるとして、作品の長さ、サイズはどうなるのか。読みやすいかどうか。
 はたして読者が読みたいと思ってくれるかどうか。それに、だれが読んでくれるのか。読んでもらえるほどの魅力があるかどうか。
 不安は、つぎからつぎに重なってくる。
 だいいち、書きあげることができるのかどうか。

 だからたいていの作家は、自分の前にしらじらしく広がっている茫漠たる空間に、ただ立ちすくんでいる。きみのいう「炯々たる虎のまなざし」なんて、とんでもない。
 もはや老いぼれて、シマシマも色褪せ、牙も抜けて、ヨタヨタの虎は、果てし無い密林(タイガ)をのろのろと歩きまわっている。たまに吠えても、ほんの退屈しのぎか、自分がまだ声をだせるかどうか心配で、よわよわしく咆哮してみせるだけのことなのだ。
 きみは私が「どんな分野でも自由自在に書きわける」才能をもっていて、その幅のひろさに驚いている、という。これまた、とんでもない。私はひどく狭い分野をうろついていただけのことさ。

 はじめてものを書きはじめた頃、先輩の荒 正人がハガキをくれた。
 若い頃のチェホフは、アントーシャ・チェホフというペンネームで、おびただしいコントや、ファルス、滑稽な雑文を書きとばして、医科大学を出た、と。当時、まだ学生だった青二才にこんな助言をあたえてくれた荒 正人の励ましがどんなに嬉しかったことか。
 そこでチェホフにならって、いろいろなものを書きとばしてきた。
 ただし、肝心なことを忘れていた。私には才能がなかった。もう少し才能に恵まれていたら、今頃もう少しなんとかなっていたはずだよ。アホな話だよ、まったく。

 たとえば、児童むきの小説、ジュヴナイルものを書きたいと思ってきた。1冊でも書けたか。児童むきの絵本を翻訳する機会さえなかった。たとえば、ファンタジーを書きたいと思った。1冊でも書けたか。残念なことに、そんな機会もなかった。
 若い頃の私は、依頼された原稿を書きとばしてきた。放送劇からポルノまで。馬琴は、良書を得るために悪書を書くと称したが、私の場合はポットボイラーの仕事ばかりで、まともな作家のやる仕事ではなかった。
 何しろ貧乏作家だったからねえ。
 きみは――「先生のほかに(そんな仕事をする人は)ちょっと見当たらない」という。
 正直のところ、耳が痛い。きみは、私を多才なもの書きと見てくれているようだが、ひいきの引き倒しってヤツだよ。

 きみが久しぶりに手紙をくれた。せっかくだから、もう少しさらりと「アントーシャ・チェホフ」をやってみるか。
 荒 正人に対する感謝の思いは変わらないように、私に手紙をくれたきみにも感謝している。

2010/03/06(Sat)  1163
 
 其角の句は、じつはとてもむずかしい。私には元禄の俳諧をすんなり理解する力がないからである。

    雪の日や 船頭どのの 顔の色

 雪が降っている。渡し船に乗ったが、船頭さんの顔は長年の渡世に日焼けして、雪とつよいコントラストを見せている。
 なんとなく、ヘミングウェイの『老人と海』の主人公を思い出す。
 謡曲の「自然居士(じねんこじ)」の一節、「ああ船頭殿のお顔色」を踏まえての句と聞いても、ふぅん、そんなことなのか、と思う。

 子どもの頃、よく遊んだ向島、三囲(みめぐり)神社、絵馬堂の裏に、

    夕立や 田を三囲の 神ならば

 という句碑があって、其角の名をおぼえた。
 そういえば――あのあたりには、十寸見 河東の碑や、長命寺に芭蕉の碑、成島 柳北の碑などがあったはずだが、大空襲で焼け出されてから一度も行ったことがない。

 暖かくなったら行ってみようか。

2010/03/03(Wed)  1162
 
 其角の句を読みながら、テレビを見ていた。

     世の中は 何がさかしき 雉の声

 テレビは鳩山政権が発足してはじめての通常国会。
 国会が招集される直前、民主党の小沢 一郎幹事長が、政治とカネのスキャンダルにまみれる。土地購入の代金は4億円という。ヤルもんだねえ。
 小沢の資金管理団体、「陸山会」の土地購入をめぐって、小沢の秘書、衆議院議員が逮捕された。(小沢は、昨年10月にも、「西松建設」の違法献金問題で、秘書が逮捕されている。)この秘書は、保釈後、民主党を離れた。
 小沢は政治資金規制法違反(虚偽記入)で告発されたが、ナァニ、嫌疑不十分で不起訴になったトサ。
 昨年11月にはじまった茶番は、これにて一件落着。(’10.2.3)祝着至極。

 泰山鳴動してネズミ一匹。まあ、あんなこった。こんなこった。

     あれ 春が 笠着て行くは 着て行くは   一茶

 テレビで小沢 一郎を見ているとなかなかおもしろい。自分の談話で、一言づつ、ラストのフレーズになると、かならず、力をこめてつよい語勢(ストレス)を出す。口を「への字」にゆがめる。 私自身が・ 刑事責任を・ 問われることにな・れ・ば・非常に責任は、重・い・ と思われま・す・ というふうに。

 さて、其角の句に戻ることにした。

    分限者(ぶげんしゃ)に成たくば。秋の夕暮をも捨よ

 其角のへんな趣味で、句のまんなかでブッちぎってある。分限者(ぶげんしゃ)は、ミリオネアー。
 ミリオネアーになりたい人は、秋の夕暮にあわれをもよおすようなセンチメンタルな感性を捨てたほうがいい、という意味。
 其角の句でも、あまり感心できない一句だが、小沢 一郎ふぜいを連想するには、ちょうどいい。もっとも、おなじ其角の句、

    憎まれて ながらふる人 冬の蠅

 このほうが、小沢 一郎にはふさわしいかも。

2010/02/28(Sun)  1161
 
 東 恵美子、ジーン・シモンズの訃につづいて、双葉 十三郎の訃を知った。
 双葉さんは、私にとっては大先輩の映画批評家だった。よく試写で見かけたが、口をきいたことはない。しかし、映画、ミステリーについて、じつにさまざまなことを教えていただいたような気がする。
 双葉さんに『映画の学校』という著書がある。私が『映画の小さな学校』という編著を出したのは、双葉さんに対するささやかな敬意のつもりもあった。

 双葉 十三郎さんが亡くなられて、すぐに登川 直樹さんの訃報を聞いた。

 この世代の人々では、南部 圭之助、海南 基忠、内田 岐三雄、野口 久光といった人々がすでに白玉楼中の人となった。
 私は個人的に飯島 正さん、植草 甚一さんに親しくしていただいたが、双葉 十三郎さん、登川 直樹さんの話を伺う機会がなかった。それでも、おふたりのお書きになるも
のにはいつも敬意を払っていた。

 そして、立松 和平が亡くなった。

 たとえ縁は薄かろうと、私の知っている人たちがつぎつぎに鬼籍に入ってゆく。心から残念に思う。それぞれの人の死は一つの時代の終わりと見える。
 月並みな感想といわばいえ。月並みでは切実な思いではないと誰がいえるか。

2010/02/25(Thu)  1160
 
 いろいろな人の訃報を聞く。わずかにその名を知っている程度の人々は別として、はからずもめぐり会ったことの不思議さ、そうした人がついに不言人となるを聞けば、追憶の心をおぼえるのは当然だろう。

 女優の東 恵美子が亡くなった。
 創立間もない「青年座」で、彼女は私の演出につきあってくれた。当時、私はよくラジオドラマを書いていたので、放送劇にも出てもらった。
 東 恵美子自身は口にしなかったが、浪曲師の東 武蔵の娘だった。浅草でいろいろと浪曲を聞いていた私は、そのことに関心をもったと思う。東 恵美子が、もともと放送劇団をへて「俳優座」に入ったという経歴も、私には近しい位置にいるような気がした。私も似たような運びで、「俳優座」の養成所にかかわり、やがて演出を手がけるようになったからである。
 彼女は、おなじ劇団の、山岡 久乃、初井 言栄とともに、私の女優観――(そんな大仰なものではないが)――の根っこに、いつも存在していた。つまり、私が女優を見たり、女優について考えるときは、この三人の女優たちや、ほかの数人の女優たちの姿、気質、性格、芸風などとひき較べたり、そこから何かを推し測るといった、一種のクライテリオンになった。
 まだ、結婚する前の彼女が南 博とつれだって歩いているところを見たとき、思いがけず、南さんから声をかけてきたことを思い出す。

 私にとっては、なつかしい女優さんのひとり。

 しばらくして、ジーン・シモンズの訃報を聞いた。

 イギリスの女優にはアングロサクソンに特徴的な香気(フレグランス)がある。ここでは説明しないが、ヴィヴィアン・リー、マーガレット・ロックウッド、グリア・ガーソン、クレア・ブルームと挙げてくると、ジーン・シモンズが典型的にイギリスの女優としての香気をもっていたことがわかる。
 戦後、「大いなる遺産」の「エステラ」や、「ハムレット」の「オフィーリア」を演じたジーン・シモンズのすばらしさは忘れられない。しかし、その後、女優としては空疎な歴史ロマンスに多く出た。マーロン・ブランドを相手にした「デジレ」などが記憶に残っているが、女優としては進むべき方向を誤ったとしかいいようがない。

2010/02/23(Tue)  1159
 
 一月の末に、J・D・サリンジャーが亡くなった。
 私は、サリンジャーをもっとも早く読んだひとりだったから、この作家の訃に深い感慨があった。
 それとは別に、私の内面にはサリンジャーの紹介に関して感慨があった。

 現在は村上 春樹の訳がひろく読まれているが、日本で誰よりも早くサリンジャーを先に訳した翻訳家、橋本 福夫の仕事は誰の注目も浴びなかったと思われる。
 しかし、橋本 福夫の訳は、後発の某先生の訳に比較して、いささかも劣らない、みごとなものだった。ある部分、橋本訳のほうがすぐれていたと思う。
 ただし、原題の『ライ麦畑でつかまえて』ではなく、『危険な年齢』などという愚劣な題名で出版された。(出版社は、ダヴィッド社)
 当時、アメリカ映画の「理由なき反抗」とか、フランス映画の「危険な都市小室」といった映画にあやかったネーミングだったのだろう。そのため、ティーンエイジャー向きの読みものの原作か何かと見られたのではないか。
 むろん、橋本 福夫の責任ではない。橋本 福夫訳は、当時としてはやむを得ない誤訳があるにしても、サリンジャーの本質をただしくとらえた、優れた翻訳だったことにかわりはない。翻訳史上、これは特筆していいと思う。
 これから翻訳家を志す人は、まず橋本訳を探し出して一行々々、吟味して読むことをすすめる。一介の翻訳家の仕事などと見くびってはならない。
 橋本 福夫は、田中 西二郎、中村 能三、宮内 豊などとおなじ世代の、もっともすぐれた翻訳家なのである。『危険な年齢』は、たいして売れなかったはずだが、ときどき古書市で見つかる。

 サリンジャーの追悼とは無関係に、私の胸に、あまり恵まれなかった(と、想像するのだが)、すぐれた翻訳をしながらついに不遇だった先輩の翻訳家に対する敬意と、ひそかな同情がかすめてゆく。

2010/02/20(Sat)  1158
 
 歌舞伎の世界は、若手がぞくぞくと意欲的な芝居を見せている。市川 海老蔵が早変わり十役をつとめたり、右近が「黒塚」をやったり。
 後世の人は、平成になってからの歌舞伎を、名優が輩出した時代と見るかも知れない。
 あたかも、明治の人たちが、文化、文政の頃を名優が輩出した時代と見たように。

 実悪の松本 幸四郎(五世)、所作の中村 歌右衛門(三世)、板東 三津五郎(三世)などが、名優として知られていた。

 この三津五郎が、舞台で家老の役を演じた。湯呑みを手にする。舞台に置いた時計の音にあわせて、爪ではじく。これで道具替わりの合図にした。
 観客にウケた。大いにウケて、評判になった。
 これを見ていたのが、作者の桜田 治助。
 せっかく評判の湯呑みも、張り子の小道具なので、どうにも栄(は)えない。わざわざ、本物の湯呑み茶碗を買い求めて、取り替えて置いた。

 幕を終えた三津五郎は、楽屋に戻ったが、不機嫌な顔で、
 「誰が、余計なことをしやがった?」
 と怒った。
 桜田 治助は、意外に思って、
 「じつは、湯呑みを替えたのは、あたしだが」
 というと、三津五郎も作者のしたことなら仕方がない、と、いくらか顔色をやわらげたが、
 「瀬戸ものを瀬戸ものに見せることは誰にもできる。張り子の小道具をほんものの瀬戸ものに見せるのが役者のウデだ。この頃、ようやく張り子がほんものにみえるようになったのを、惜しいことをしてくれた」
 と嘆息した、という。

 この三津五郎の和事、実事、いずれにもすぐれ、老女の覚寿、岩藤なども評判の当たり役だった。天保二年、法界坊、五三桐を演じたのが、江戸芝居の最後で、その年(1831年)の暮れに亡くなっている。五十七歳。

 こんなエピソードからも、いろいろと考えることができる。

2010/02/17(Wed)  1157
 
 雪が降っている。
 にぶい明るさを秘めた空から、かぎりなく落ちてくる。ときおり、わずかな風に一斉に揺らいで、きた地面に落ちてくる。
 あとからあとから、ひらひらと落ちてくる、雪、雪、雪。気の遠くなるような、無限の動き。
 私たちは、ただ黙々と歩き続けていた。

 下山の途中から、風が出てきて、雪がはげしくなってきた。雪は降りつづけ、視界はただ白く明るい起伏に、雪はぐんぐんひろがって落ちてくる。
 コースは間違いないと思ったが、いちめん雪に蔽いつくされて、ただしいコースを選んでいるかどうか、自信はなかった。
 眼の前につづく、すでに降りつもった雪の高さが、ついさっきよりもすこし多くなってきたような気がする。
 私のうしろに、彼女が歩いている。頭にかぶっているフードが少し斜めになって、全身真っ白に雪がつもってきた。

 「少し、休もう」私はいった。

 彼女は黙って足をとめた。私は、携帯カップの底に固形燃料を押し込んだ。手袋をとるとたちまち手が凍えて、ライターの火がつけられない。やっと火をつけた。
 「このコースでいいのかしら」彼女がいった。手がふるえていた。
 「わからない」私はいった。

 すでに暗くなりはじめていた。それでも、空から降りつづける雪はいっそう白さをましている。まるで空がくだけたように雪が落ちてくる。空のてっぺんのほうに、なぜか灰色の部分がのこっている。
 暗くなって降りしきる雪は、頭上まで近づいてきて、白い無数の渦になってくる。

 お湯に、インスタントのティーバッグを入れる。そして、シュガーも。
 彼女が、半分ほど飲んで私にカップを返した。残った半分が私の喉に流れてゆく。

 「少しキツいかも知れないが、急ごう」

 私たちは、もう3時間も歩きつづけていた。下山のコースは、雪が降りつもった岩や樹木の肌にしがみつきながら下りる、危険な箇所が続いていた。最悪の場合、途中で、岩と岩の間にツェルトザックを張って、緊急にビバークしよう。事態はそこまできている。
 自分では冷静に行動しているつもりだったが、彼女が疲労していることはわかった。あと、どのくらい歩けるのか。私も疲労しはじめている。
 彼女が疲労しきって歩けなくなる前に、ビバークの場所を確保しよう。
 彼女をつれてきたことを後悔しはじめていた。

 それから、20分後、私は木の根の下に、ふたりがやっともぐりこめる隙間をみつけて、風のなかで、ツェルトをくくりつけた。ふたりで折り重なって、やっと風を避けるような状態で、ずしりと重い彼女の冷えきった感触が、私のからだにつたわってきた。

 彼女のふるえがつたわってくる。

2010/02/13(Sat)  1156
 
 あなたは、3分ですか、4分ですか。
 私の質問にすかさず、3分半です、と答えてくれたレディがいた。
 このやりとりの下敷になっているのは、ジェームズ・ボンド。彼がボイルド・エッグ、半熟タマゴと指定する時間である。アホな私は、ジェームズ・ボンドの真似をして、ボイルド・エッグは3分半ときめていた。
 だから、このレディが私の質問をすぐに理解してくれたことがうれしかった。

 タマゴをゆでているうちに、うっかり時間をまちがえてゆで過ぎることがある。(うっかり、じゃない。しょっちゅうだね。)すっかり、ハードボイルドになってしまう。
 つい先日、久しぶりにゆでタマゴにしようと思った。当然のようにうっかりして、ガチンコのボイルド・エッグになってしまった。さて、どうしようか。
 タマゴをふたつに切ることにした。包丁で切ってもいいが、黄身がくずれるかもしれない。糸を口のハジッコでくわえて、タマゴを手に、糸で切る。うまくいった。
 フライパンに、バターを落として、メリケン粉を大サジ2杯、こいつをトロ火でいためて、ミルクを少しづつ。塩、コショーで味をととのえて、私のホワイト・ソースのできあがり。

 このなかに、タマゴをしずかに入れて、トロ火で10分ばかり煮込む。

 サクラエビ、ホウレンソウの青ゆで、大根の葉ッパをさっとゆでたヤツをつけあわせにする。

 けっこう、おいしかったナ。

 私と、タマゴ問答をしたレディは、私のクラスで翻訳を勉強なさっていたが、残念なことに亡くなられた。

2010/02/09(Tue)  1155
 
 つい先日、私は書いたのだった。
 「和歌や短歌は、はじめから私などの立ち入るべき世界ではない」と。
 理由をあげるとすれば、私が和歌や短歌を敬遠してきたのは、じつは記憶できないせいではないか、と思う。

    わが恋の 果てはありけり 蝶の凍      はぎ女

 おなじ作者の

    茶の花や 丘ばかりにて 川もなし      はぎ女

 といった句はおぼえやすいが、

    今日来ずば 明日は雪とぞふりなまし
           消えずはありとも 花と見ましや   在原 業平

 いくら名歌でも、私の、くたびれきった脳にはすぐにうかんでこない。さなきだに(そうではなくても)いまや私の脳には、あわれ、ベータ・アミロイドが「雪とぞふりつもって」いるので、和歌や短歌はおぼえられない。おぼえても思い出せない。

 暇なときに和歌を読む。ときどき、笑いたくなるからいい。

  冬川の上は氷れる我なれや 下に流れて恋わたるらむ   宗岳大頼

 冬の川水は、氷の下を流れる。私の恋は、氷の下を流れる冬の川のようなものだ。それだけの歌だが――私の思いは、氷の下、つまりは硬く凍った心のなかに流れているので、氷を溶かすことはない。だから、私がひそかに恋しているひとに気づかれることもない――そう見てくると、無残な歌に見える。思わず、ニヤニヤしたくなる。

 眼にした一首を、ためつすがめつ読む。けっこう楽しい。
 あるお坊さん、さる女人に、あの老法師を見よ、と笑われた。そこで詠んだ一首。

    形こそ み山がくれの 朽木なれ
           心は花に なさばなりなむ      兼芸法師

 それほどいい歌には見えないし、ひとによっては老人のいやらしさを不快と感じるかも知れない。
 私は笑った。ゲラゲラ笑ったわけではなく、イヒヒヒぐらい。身につまされたせいもある。今年は、せめてこのくらいの気概をもってくだらぬことを書くことにしよう。

2010/02/06(Sat)  1154
 
 年末、その年の総括として、どこかの寺の坊主が、一字を揮毫する行事をみた。この坊さん、一昨年は「変」の一字、去年は「新」という一字を、大きな紙に墨痕あざやかに揮毫なさった。

 「新」などという言葉で何がいいあらわせるものか、とひそかに思ったが。

 一字をもって世相をあらわそうというのだから、最大公約数のようなもので、何をもってきても通用する。お坊さんも、政権交代で鳩山内閣が登場したことを「新」と表現なさったのであろう。もとより、たいした趣向のものではない。つまらぬ 浮辞に過ぎない。こんなものは――小人の情を動かす所以に過ぎない。

 私は思い出す。――まさに100年前、明治43年(1910年)の坪内 逍遙のことばを。逍遙は、この年、早稲田で、「近世文学思想の源流」という講義をはじめたが、その冒頭で、

     新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼
     声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる。

と語った。(「早稲田大学文学科「講義録」(第二号)。

 逍遙は、日清戦争前後から俄然として形勢が一変し、外国思潮の浸入がにわかに急になった、という。18世紀末から19世紀末にいたる100年の「彼方の分断に瀰浸したあらゆる思潮は、時を同じうし、もしくは密接に相前後して何の前知らせも無しに浸入」してきた。
 早い話が――西洋の文壇が最近一百年間に経験した種々雑多な重大な変動――利弊相半ばする大変動を、日本の文壇は、わずか15、6年に、ほとんどことごとく接触したと逍遙はいう。

 その結果、いわゆる自然主義の世の中になった。ところが、これと同時に、印象主義、標象主義(象徴主義)も唱えられる。沙翁(シェイクスピア)やゲーテやシルレルを激賞する声がひろく行きわたったかと思うと、もはやこれを貶す声が聞こえる。ワグネルを紹介する評論が少々ばかり見えたかと思うと、いつしかオペラ熱(逍遙はオペラ沙汰と書く)は忘れられる。
 イプセン、トルストイの研究がはじまったかと思うと、すぐに捨てられて、ロシア、フランスの最近の文学に注意を傾倒するというアリサマ。そして――「新しいと言ふ語は御符や呪文の如くに今の人心を魅し、陳(ふる)いと言ふ呼声はさながら死刑の宣告のやうに畏怖せられる」という言葉になる。

 明治43年の逍遙は、私財を投じて演劇研究所を発足させている。やがて、帝国劇場で『ハムレット』を上演する。
 逍遙の論敵、森 鴎外は「スバル」を創刊し、旺盛な活動を見せている。
 谷崎 潤一郎が、『刺青』で文壇に登場する。

 2010年が「新」などと見るのは、へたな冗談にすぎない。

    稲妻や きのふは東 けふは西    其角

 このくらいに見とけばいいやな。どうだろう、其角さん。

2010/02/03(Wed)  1153
 
 テレビで、「坂の上の雲」(司馬 遼太郎・原作)を見ている。
 伊予出身の秋山 好古、真之兄弟と、親友の正岡 子規を中心に、明治という時代の息吹を描いた大河ドラマである。
 秋山 好古を阿部 寛、秋山 真之を本木 雅弘、正岡 子規を香川 照之。
 子規は大学を中退して、新聞に勤めるようになった。
 私は子規を勉強したことがあって、テレビを見ているうちに、この時期の子規の作品を少し読み返してみた。

 明治25年12月、子規は内藤 鳴雪といっしょに、高尾山に「旅行」している。
 本郷から、新宿まで歩いて、新宿から汽車に乗る。

    荻窪や 野は枯れはてて 牛の声         鳴雪
    汽車道の 一筋長し 冬木立

 八王子から府中まで歩く。

    鳥居にも 大根干すなり 村稲荷         鳴雪

 府中から、国分寺まで。ここで汽車を待つ。新宿に着く頃には、「定めなき空淋しく時雨れて、田舎さして帰る馬の足音忙しく聞ゆ」ということになる。

    新宿に 荷馬ならぶや 夕時雨          子規

 この小旅行で、子規が詠んだ5句は、全部、馬糞ばかり。

    馬糞の ぬくもりに咲く 冬牡丹
    鳥居より 内の馬糞や 神無月
    馬糞の からびぬはなし むら時雨

 子規は――風流は山にあらず水にあらず、道ばたの馬糞累々たるに在り、とうそぶいている。若者らしくていいや。

2010/01/31(Sun)  1152
 
 ジョン・ダンの詩をあまり知らない。ヘミングウェイが自作の題名にしたので、とりあえず読んだ程度。

 彼の「おはよう」The Good−morrow という詩が好きだった。

 朝の眼ざめをむかえた恋人たちの詩。私にはとても訳せないので、まことに散文的で平凡な説明しかできない。朝、眼ざめたばかりの恋人たちが、お互いの眼を見つめあっている。第一連の冒頭は――きみとぼくが互いに愛しあうまで、いったい何をしてきたのだろう? 乳離れもしないおさな子みたいに、世なれぬたのしみにふけってきたのか。
 しかし、こうしてお互いのうつそ身をふれあわせてみると、この愛のよろこびのほかは、何もかもまぼろしなのだ。
 以前のぼくが、どこかの美人に出会って、欲望のままにものにしたことがあったにしても、それもじつは、きみというまぼろしを追っていたからなのだ。

 そして、第二連。

 こうして眼ざめたぼくたちの朝の挨拶。互いに見つめあっていて、なんの気づかいもない。愛すればこそよそ見をする気もちは起きないし、こんな小さな部屋なのに、これが世界のすべてになる。
 新世界をもとめて大わだつみを航海する冒険者、はたはまた、地図を見ながらつぎつぎに世界を知る人たち。ぼくたちも、それとおなじで、一つの世界を抱きしめる。お互いが一つの世界を手にして、しかもおなじ一つの世界なのだ。

 第三連。

 きみの瞳にぼくがいて、ぼくの瞳にきみがいる。ふたりの顔に、真実の心がやどる。
 きびしい北も、日の沈む西もない。これほど、ふさやかな半球ふたつが、どこにある。
 おぞましいもの、いまわしいものは、ここにはまざらない。きみとぼく、ふたりが一つにとけあって、衰えることなく、ひとしく愛しつづければ、死ぬことはない。

 こんな小曲にも、ルネッサンスの恋人たちの姿がうかんでくる。

 好きな詩さえ訳せなかった私だが、せめて訳詩集の一冊ぐらいは出したかったと思う。もはやとり返しのつかないことだが。

2010/01/27(Wed)  1151
 


 ある人生相談。

     70歳代の祖母。
     20歳代の孫娘は、大学をでて一流の会社に勤務しています。
     ときどき外泊するので心配していたところ、男性の家に泊まっていたことがわ
     かりました。深い仲でした。その男性は給料も安いし、ボーナスもなし。ずい
     ぶんと反対もしましたが、孫は聞きません。
     相談もなく勝手に婚姻届けを出し、2人でアパートに住み始めました。
     いくら愛があるといっても、お金がないからと、結納もせず、結婚式もしない
     なんて。男性に都合の良いことばかりです。男性は平然としています。こんな
     ことでよいのでしょうか。私は夜も眠れません。
     男性は、私の家にはほとんど来ません。孫娘は母親を訪ねては食品をもらって
     いくようです。私は何もあげないでいます。
                           (福島・N子)

 こういうババアを業突張り(ゴウツクバリ)という。
 孫娘は「大学をでて一流の会社に勤務している」のだから、分別のある、しっかりしたお嬢さんなのだろう。近頃は「一流の会社に」勤務する女の子だって、「婚活」とやらにうきみをやつすようなご時世だよ。そんな女の子と違って、好きな相手を見つけてさっさと結婚する娘さんのほうがよほど利口だし、本人もどれほど幸福かわからない。
 そういう孫をみとめてやるのが、話のすじ道ってものだぜ。

 このオババにいわせれば、相手の男性は給料も安いし、ボーナスもないという。「お金がないからと、結納もせず、結婚式もしない」ことを非難する。
 バッサよ、あんダ、古いねえ。白虎隊の子孫かどうか知らねえが、あんた、化石化しているゴウツクバリだナヤ。

 このババアの心には抜きがたい貧乏人に対する差別がひそんでいる。そして、はっきりした「男性蔑視」がひそんでいる。まず、そのあたりに気がついたほうがいい。
 世間にはりっぱに結納をかわして、ケンラン豪華な結婚式をあげても、あっという間に離婚するカップルだっている。あんたの孫娘は、結納もいらないし、結婚式もしないでいい、と思って結婚に踏み切った。けなげなお嬢さんだぜ。まったく。
 実をいやぁあ、孫娘はあんたに内緒で母親にけっこう苦労をかけているはずだよ。そこンとこ察してやッたらどうなんだ、バサマ。
 娘としては母親に援助してもらっている身にひけめも感じているかも知れねえ。「母親を訪ねては食品をもらっている」のは、むろん、新婚そうそうで家計が苦しいせいだろうが、ひょっとして、そういうおねだりに、娘としての甘えもあるんじゃなかろうか。母親だって、内心は心配しながら、娘のためにせっせと食品をわたしてやる。それがうれしいかも知れないやね。
 ババアは、そんな母娘に嫉妬しているのかも。

 母親だって、自分の新婚当時、あんたのようなゴウツクバリの母親をもったおかげで苦労したことを思い出しているかも知れねえ。

 さて、このバンツァン、頭にきて、孫娘には「何もあげない」。ケッ。どだい、このイイぐさ。クソババアめ。
 孫娘のほうだって、こんなクソババアから何ひとつ貰いたかねえだろう。
 「夜も眠れません」だと? 胸クソが悪いゼ。心配で夜も眠れませんときたか。せいぜい、世間の同情惹くがいい。広い世間だ、あんたの味方につくやつも出てくるカモ。

 ほんとうに孫娘が心配だったら、娘たちのアパートに、ほんのわずかでいい、お赤飯とメザシでも、カンヅメでも、野菜でも、小さな花束でも、宅配で届けてやればいい。突っ返されたってたいした失費じゃァあるまい。
 あんたが一度だけでも心からふたりの結婚を祝福してやる。それだけですむ。

 こういう投書を読むと、短編の一つふたつはすぐに書けそうな気がする。
 むろん、そんなものを書く気はないが、自分のブログで、モンスター・クソババアの悪口を書く。

 君子は三端を避けるという。私は君子ではない。世はまさに草昧のとき、嚇怒せずんばやまず。

2010/01/25(Mon)  1150
 


 名投手、ランデイ・ジョンソンが引退する。新年そうそう、このニュースを聞いてちょっと驚いた。同時に残念な気がした。      (2010.1.5)

 私はランデイのファンだった。
 まるで猛禽類のような顔のランデイがマウンドに立つと、それだけで相手が萎縮するような、圧倒的な存在感があった。
 顔を見ていると不精髭に白いものがまじって、野球選手にしてはずいぶんくたびれて見えた。ところが、その鋼鉄のような左腕からくり出される速球の凄さ!
 ボールが空気を裂き、うなりを生じて、キャッチャーのミットに飛び込んでゆく。

 「ダイアモンドバックス」の頃から、4年連続で、サイ・ヤング賞をうけているほどの大投手だった。私は一度しか球場の彼を見たことがない。テレビで見つづけてきただけのファンだが、相手チームの名だたるバッターたちが、つぎつぎにきりきり舞いをさせられる。舞台で名優を見るような思いというか、ときには、膚(はだえ)に粟を生ずるような思いがあった。
 メジャーリーグには凄いピッチャーがいるなあと感嘆した。

 昨年、「ジャイアンツ」に移ったが、6月、「ナショナルズ」相手に、300勝を達成した。45歳になっての300勝だから、たいへんな記録といってよい。成績は、8勝6敗。ふつうの投手ならりっぱな成績だが、ランデイとしてはあまり芳しくない結果に終わった。防御率も、4.88。
 このシーズン後に、フリー・エージェントになった。
 野球人生にどういうかたちで幕を引くのか。ファンとしても、気が気でない思いはあったはずである。
 そして、引退を表明した。

 通算成績は、303勝166敗。防御率、3・29。
 サウスポウでは、通算、4875三振という記録で、歴代1位。

 年をとって、自分のからだやゲームが、もうしおどきだと教えてくれるのは、自然の流れだと思う。何度も手術をしながら回復して、健康な体調で投球がつづけられたことを心からよろこんでいる。
 引退にあたっての、ランデイのコメント。

 感動した。

2010/01/22(Fri)  1149
 
 親しくなったばかりの友だちの姉さんの裸身を見てしまった。窓は、まるで汽車の寝台のようにカーテンが吊ってあり、若い娘の部屋らしいデザインのチュリップの花の刺繍に、白い鳩が差し向きになっている。私はそこまで見届けていた。

 私ははじめて女の乳房を見たのだった。ただし、女の乳房を見たという思いはなく、U君の姉さんの胸に見たこともない白いふくらみがあるということに気づいて、ぼんやり眺めていただけだった。
 そのふくらみの先には、ほのかなピンク色の蕾がついていた。そこまで見て、私はそれが乳暈で、その先に小さな乳首がついていることに気がついたのだった。
 時間にして、ほんの二、三秒ぐらいではなかったか。

 いつものように、U君がくぐり戸から出てきた。私はU君か出てきたことに気がつかなかった。まだ、二階の窓に眼を向けていた。U君の姉さんは、くぐり戸をぬけたU君にも、まったく気がつかなかったらしい。
 U君の姉さんは何かを手にして、それを胸に当てた。まだブラジャーということばではなく、乳当てと呼ばれていたものだった。姉さんが乳当てを胸もとに当てがうと、たちまち綺麗な乳房が見えなくなった。
 U君は私の視線を追って、私が何を見ていたのか気がついた。U君の顔が真っ赤になった。

 姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られた。その恥ずかしさが、U君が赤面した理由だった。私は顔を真っ赤にしているU君の反応に驚いた。

 その頃に、ブラジャーということばはなかった。ほとんどの場合、「乳おさえ」、あるいは「乳バンド」といっていたはずである。それも、日常の会話でこうしたことばが使われることはなかった。
 だから、顔を真っ赤にしたU君が「行こう」とだけ声をかけて、いきなり走り出したとき、姉さんがブラジャーをつけるところを友だちに見られたというふうにU君が考えたとは思えない。ただ、どうしようもない羞恥に混乱していたのだろう。私は少しうろたえていた。
 U君が「行こう」と声をかけて、停留所まで走り出したので、あとを追った。
 電車に乗ってからも、U君は私に眼をむけなかった。
 それからあとのことは、よくおぼえていない。

 翌日から、U君は私を避けるようになった。
 翌朝、いつものように門の外から声をかけたが、意外にも、
 「もう出かけちゃったのよ。ごめんなさいね、中田君」
 姉さんが返事をした。
 私はU君の姉さんの顔を見なかった。こんどは、私が乳房を見てしまったことを思い出して、ひどい羞恥にいたたまれない思いで路地から離れた。

 そんなことが、二、三度続いて、U君か私をきらっているらしいと気がついた。
 それからはU君を誘って学校に行くことがなくなった。
 姉さんの二階の窓も二度と開け放しにされなくなった。
 それまで親しくしていた友人が不意に離れてしまった。私はそのことがショックだった。U君は私をきらっている。彼にも私にも、うまく説明のつかない理由で。

 翌年、父が外資系の会社から国策会社に移ったため、一家をあげて東京にもどった。
 私は神田の中学に転校した。その後、U君のことは思い出さなかった。

 いまの私は、U君の姉さんの顔もおぼえていない。ただ、真っ赤になったU君の顔を忘れてはいない。あの日はおそらく夏休みの少し前だったのではないだろうか。さわやかな朝、U君の姉さんの綺麗な乳房を見たことだけが切り離されたように心に残っている。まるで、何かのまぼろしのように。

    若き娘の窓辺に立ちし胸もとに
            白き乳房をあらわにも見つ

 後年、こんな歌を詠んだ。

 とるに足りない小さなできごとなのに、私の内面に意外に大きなものを残したできごとのひとつ。

2010/01/20(Wed)  1148
 
 ひどく小さなできごと。ずっとあとになって、自分の人生に大きなものだったことに気がつく。私にもそんなできごとがいくつもあった。

 中学生になったばかりのとき、あたらしい友だちができた。
 たまたま近所に住んでいる少年だったが、別の小学校に通っていた。中学でもクラスは違ったが、おなじ路線の電車で通学していたから、友だちになった。
 名前はUといった。背丈も私と似たりよったりの、チビだった。

 U君の家まで、歩いて数分。私の家のすぐ近くにお寺があって、その境内の裏、路地の先の二階建ての家だった。
 私は、毎朝、境内を通り抜けて、その先の路地の門の前まで行く。
 「U君!」
 声をかけると、門のくぐり戸から、中学生が飛び出してくる。
 電車の停留所まで、これも歩いて数分。電車に乗ってからもおしゃべりをつづけた。中学では別々のクラスなので、校内ではほとんど話をしない。下校の時刻も違っているので、いっしょに帰宅することはなかった。
 つまりは朝だけの友だちだったが、私にとっては中学生になってできた親友なのだった。

 U君には美しい姉さんがいた。
 女学校を卒業して、どこかの会社に採用されたという。颯爽とした洋装で、勤務先でも評判の美女だったらしい。
 毎朝、U君といっしょに学校に行くようになって、姉さんと路地ですれ違うこともあった。一度だけ、彼女から声をかけてきたことがある。
 「お早よう! 弟をよろしくね、中田君」
 私はあわてて帽子をとってペコリとお辞儀した。彼女は、そのまま去って行ったが、私は声をかけられたことがうれしかった。
 どうして姉さんが私の名前を知っているのだろう?

 私は中学生の制服を着ていたし、U君とおっつかっつのチビだったから、弟の友だちとわかったはずだった。

 ある朝、いつものようにお寺の境内を抜けて、U君の家のある路地に入った。眼をあげると、二階の部屋の窓が開けられているのが見えた。開け放たれている窓に若い女の姿が動いていた。U君の姉さんだった。
 その窓から路地を見おろしても、私の姿は見えなかったに違いない。朝早く、その路地に入ってくる人はいないだろうし、私はチビだったから、その部屋からは見えなかったはずだった。
 U君の姉さんは、上半身、裸になっていた。私は、彼女の胸につややかなまろみが左右に並んでいるのを見た。

 その瞬間の私は、自分の見ている光景にどう反応したのだろうか。
 おそらく、何も考えてはいなかったのだろう。見てはいけないものを見たという気もちもなかったにちがいない。              (つづく)

2010/01/18(Mon)  1147
 
 北原 白秋の

     ただ飛び跳ね 踊れ 踊り子 うつし身の 沓のつまさき 春暮れむとす

 これはステージに立つ踊り子を詠んだものだろう。

 当時、マック・セネットの「水着美人」が、日本男子のあこがれだった。
 たとえば、笑うと、くっきりとえくぼが刻まれるフィリス・ヘイヴァー。メアリ・サーマン。
 いつも額のうえに、ヘアーを巻きつけているルイーズ・ファゼンダ。

 セネットの「水着美人」を見慣れたファンの眼には、五月 信子の水着は、失望でしかなかった。胸の貧弱なこと! 筑波 雪子の笑いには、海辺で笑いころげるマリー・プレヴォの自然な美しさはなかった。
 駒田 砂子の痩せこけた肉体は、そのまま当時の日本映画の貧弱さにほかならなかった。高島 愛子だけは、豊満な肉体をゴムまりのようにはずませて、海辺を走っていても見劣りはしない。

    「活劇などによく女が誘拐されるシインがある。あんな時の身悶えが、実に自然
    で良い。女優が自分でも気がつかないところで、さすがに女らしくスカートに気
    を取られたり、思わず知らず髪を撫でたりする所がある。ことにあの肥大な腰部
    や長い太い足、肩などにある獅子の様に立派な肉塊、可愛らしい熟した棗のやう
    な小さい女靴、さう云ふ所にはとても日本で見られないものがある。

 こう書いたのは室生 犀星。
 彼は、どういう女優に関心をもっていたのか。そのなかに、マリー・プレヴォ、ハリエット・ハモンド、マートル・リンド、アネツト・ド・ガンティスといったマック・セネットの「水着美人」がいたとしても不思議ではない。

 北原 白秋の一首から、マック・セネットの「水着美人」まで連想する。
 もはや誰も知らない女たちにひそかにあこがれるのも、私の悪徳の一つ。

2010/01/15(Fri)  1146
 
 王朝末期から鎌倉にかけての頃、盗作など問題にならない。
 だれかが新しい表現をもち込めば、ほかの歌人たちも、たちまち類型の作を披露するだろう。それは模倣とか流行とはかかわりがない。あたらしいモード、ファッションなのだから。

 私は、折口先生の評釈を読んで、俊成卿女の作のみごとさを知ったが、折口先生の凄さは、じつは、もう少し先にあつた。

     あはれなる――かうした語が先行して熟語を作る場合、或は結末の語となる
     場合を考へると、其処に、王朝末期から鎌倉へかけての、文学意識の展開が思
     はれる。つまり、文学者たちの特殊な用法で、同時に、どんな用語例にも、多
     少なりとも小説的な内容を含んでゐるものと見なければならぬ。

 凄い。ここにきて、私などは茫然としたどころではない。
 いやぁ、そうですか。そうでしたか。先生のおっしゃる通り、そう見るべきですねえ。
 折口先生の説を引用しておこう。

     此語の中心意義は、言語・善悪を超越して、心の底から出て来るを言ふことに
     なって来てゐるのである。其と同時に、千載・新古今に亘つて行はれ始めた所
     の、作者を遊離した――言ひかへれば、其性別を超越した、中性の歌と見る
     べきものが多くなつて来た。つまり、恋愛小説を作るのと同じ心構へで、抒情
     詩を作る様になつてゐたのである。だから、かうした「あはれなる」が、平気
     で、用ゐられたのだ。つまり、特殊な内容を持つ文学用語であつた訳だ。

 これほど明快な解説をうかがうと、大方の「もののあはれ」についての論議など笑止に見える。
 俊成卿の女(むすめ)の一首は、「心ながい」ひと(女人)の、愛する人へのつよい執着を、自分のもの(恋)として表現しながら、しかも、それを他人の境遇を見るように見つめている、ということになるだろう。
 折口先生の考えの凄さが、私にも見えるようだった。

 「心ながさのゆくへ」は――いつまでも、愛する人を忘れず、捨てず、「あはれ」をつづけること。そういう生きかたのことになる。

2010/01/14(Thu)  1145
 
 もともと教養がないので、和歌、短歌については、ほとんどふれなかった。和歌や短歌は、はじめから私などが立ち入るべき世界ではない。

 さはさりながら、和歌や短歌をぼんやり考えるだけでもいい。そう思いはじめた。

 俊成卿の女(むすめ)の一首について。

    あはれなる心ながさのゆくへとも 見しよの夢を 誰かさだめむ

 この歌について、ある評釈は――きはまれる幽玄のうたなり、という。
 つまり、最高の傑作ということになる。へぇえ、これが、和歌史の最高の傑作なのか。

 まず、評釈を見ておこう。

     この歌は、このうえない幽玄の歌である。あの夜の……あの頃の、という気分
     も含まれている――ふたりのあいだの隠しごと(秘事)は、あの人と自分以
     外に誰も知らない。だから、その後また逢うことを心の底にもって、お互いに
     心変わりもせずにまっていた。この気もちを、あの人が知っていてくれるとし
     たら、あの当時の関係はきれいにあきらめて、夢ともかたをつけてしまおう。
     が、しかし、あの人は忘れてしまっているので、かえってあきらめられぬ。そ
     んなふうに解釈されているらしい。

 これは凄い。私はしばし茫然とした。この評釈の評釈は、だれあろう、折口 信夫。

 この歌は、じつは本歌どりという。権中納言、公経(きんつね)の作に、

    あはれなる心の闇のゆかりとも 見し夜の夢を たれかさだめむ

 という一首がある(そうな)。これも、折口先生に教えていただいた。凄いね。
 しばし茫然とした。この凄さは――これほど完璧なパクリなのに、権中納言の作は、まあ、その時代の平均よりほんの少し上の作なのに、俊成卿女の作は、当代きっての幽玄の歌、という評価の違い。
 これほど完璧なパクリでは、今なら盗作騒ぎで、俊成卿女は週刊誌に書き立てられるだろう。宮廷を中心にして、和歌の才能がいちばん重要な時代である。
 俊成卿女はきっと美女だったに違いない。まさか顔の整形手術はしないだろうが、しばらく行方不明になるか。(笑)

2010/01/08(Fri)  1144
 
 先日、このコラムに劇評めいたものを書いた。
 トム・ストッパードの『ユートピアの岸へ』という芝居で、三部作、通しで9時間という長い芝居だった。
 要領のいい私は座ぶとん(登山のビバーク用)を用意して行ったから、けっこう快適に見られた。

 長い芝居といえば、オニールの『奇妙な幕間狂言』や、ノエル・カワードの『カヴァルケード』などを思い出す。
 映画にも長い作品はある。ヴィスコンティの「ルードヴィヒ」や、旧ソヴィエト映画の「戦争と平和」など。

 長い映画を作ろうとした映画監督は多い。エリッヒ・フォン・シュトロハイムは「グリード」を撮ったが、40巻、上映時間は10時間の予定だった。プロデューサーのアドルフ・ズーカーがふるえあがって、製作中止。
 この映画はメタメタにカットされたあげく、2時間に短縮されて公開された。だから傑作になるはずだったが、平凡な愚作に化けてしまった。フォン・シュトロハイムは、映画が撮れなくなってしまった。誰も監督を頼まなくなったから。
 私はアドルフ・ズーカーのような人間を心から軽蔑しているのだが。

 テレビでは、ジェームズ・ミッチナーの長編、『センティネル』の放送。アメリカ独立記念番組として放映された。たしか、24時間、ぶっ通しのテレプレイだったはずである。このドラマを全部見た人は、ほとんどいなかったのではないか。

 私はこの原作を読んで――というより斜め読みしたが、本の厚みが、12センチもあった。翻訳した場合、推定で5千枚。なにしろ分厚い本なので、昼寝の枕にちょうどいい厚みだった。
 ミッチナーは『南太平洋』、『トコリの橋』のベストセラー作家だが、『センティネル』以後は何も書かなくなった。ひどい不評だったので作家を廃業したのかも知れない。
 19世紀に長い芝居を書いた劇作家に、アレクサンドル・デュマ(父)がいる。
 息子が『椿姫』を書いたとき、父は『女王マルゴ』を書いた。この芝居は、午後6時に開幕、朝の3時に終わるという大作。

 デュマの友人、テオフィル・ゴーチェは、翌日の新聞に書いた。

    アレクサンドル・デュマは、ぶっつづけで9時間、観客全員に食事もとらせず、桟敷にクギづけにするという奇跡をおこなった。
      (中略)
    将来は、はじめにプロローグ、終わりにエピローグつきの、15場の芝居を上演する場合は、ポスターに<お食事つき>と付けたす必要がある。

 アレクサンドル・デュマはフランス演劇史に劇作家としての名声を残さなかった。
 そのかわり、『モンテ・クリスト』や『三銃士』を書いて文学史に不朽の名をとどめたのだから、人生、何があるかわからない。

2010/01/06(Wed)  1143
 
 女優、グレタ・ガルボは、孤独な生涯を過ごした。
 彼女が自閉症に近い生きかたをつづけたのは、いろいろと理由が考えられるらしいが、ひとつには、少女時代に極端に人見知りがつよい、引っ込み思案の子どもだったことにかかわりがあるという。
 ほんのひとにぎりの、おなじ年頃の少女たちとしか仲よしにならない。何かで気があったら、その瞬間からほんとうに気を許して、親友になった。そのときほかの人が入り込む余地はない。そんな子どもだったらしい。

 ガルボのエピソードを読んで、すぐにバスター・キートンや、マリリン・モンローや、マイケル・ジャクスンたちを思いうかべる。
 ガルボとおなじ精神圈に生きたスターたち。

 一方で、シャーリー・テンプルや、エリザベス・テーラーや、ナタリー・ウッドや、ディアナ・ダービンや、あるいは、ジュデイ・ガーランド、マーガレット・オブライエンといった「チャイルド・ウーマン」たちを思い出す。

 彼女たちは、いずれも強烈なパースナリテイーをもった女優だったが、お互いに共通するところはなかったと思われる。

 もし、共通するところを一言で表現すれば――子どもっぽい、あまえ、あまったれが魅力だったのではないか。

 逆に、高年齢の連中はどうだろう?

 インドゥゲ・セニプス(年寄りのあまえ)が見られるのではないか。私の書くものも、みっともない例だが。

2010/01/03(Sun)  1142
 
 お正月。かつては、一杯一杯復一杯と、ひたすら酒を飲みしこる私だったが、いまはわずかに口にふくむだけで、終日、酔うては頽然として臥して寝正月。

      処世若大夢 胡為労其生
      (しょせい 大夢のごとし なんすれぞ その生を労する)

 などと寝言をいう。
 覚めきたって、庭前をかえりみれば、一鳥、花間に鳴くことになる。詩人は考える。借問す、これ何の時ぞ。李白の詩、「春日酔起言志」である。
 そこで・・・春風、流鶯は語る、ということになって、詩人は、これに感じて嘆息せんと欲す。また、酒を飲む。

      對酒還自傾 浩歌待明月 曲盡巳忘情
      (酒に対して また みずからかたむく 浩歌 明月をまち
      曲つきて すでに じょうをわする)

 思わず、李白の詩に感じて嘆息せんと欲す、という心境になる。

 貝原 益軒先生も いわれたではないか。
 口中に入るもの、すべて薬と心得よ。食しかり、酒またしかり、と。
 ろくに酒も飲めないのだから、生きていておもしろいはずもない。

 ただし、わが庭前、一鳥、花間に鳴くこともない。
 そこで寝正月。

   うつし身ははかなきものか 横向きになりて 寝(い)ぬらく 今日のうれしさ

 古泉 千樫の歌。まさか寝正月を歌ったものではないが。

2010/01/01(Fri)  1141
 
 明けましておめでとうございます。
 今年が、みなさんにとってよい年でありますように。

 新年を迎えて、今年こそはと思う。私も、毎年、人並みにそんなひそかな誓いを口にしてきた。しかし、もはやそんな愚にもつかぬことはくり返さない。
 ひとつには――江戸の三文作家で、のちに出家して禅を説いた鈴木 正三(すずき しょうさん)に共感をおぼえるからである。

    年月は重り候へども、楽みは無して、苦患は次第に多く積るに非や
    (としつきはかさなりそうらえども たのしみはなくして、くげんは しだいにおおくつもるに あらずや)

 私にしても、歳月とは降りつもる苦患の数々にほかならぬ。

 さらにいえば、「人生の真実は寂寞の底に沈んで初めて之を見るであらう」とする荷風に共感する。「四月は残酷な月」ならば、五月も、六月も、夏も秋も、さらには冬もそれぞれに残酷な季節に変わりはない。それならば、おのれの修羅を生きなければならぬ。それが寂寞というものだろう。
 さて、江戸の作家、鈴木 正三はいう。

    人間の一生程、たはけたる物なし。

 笑った。こいつはいいや。さすがに江戸の文人は、平成のもの書きと違って肚のすわりかたがちがう。
 画家、谷 文晃の辞世を思い出す。

   長き世をばけおおせたる古狸 尾さきな見せそ 山の端の月

 正月早々、辞世などとは縁起でもないとお叱りをこうむりそうだが、ここにも人間の一生程、たはけたる物なし、と覚悟した男のみごとさがある。これをしも、めでたいと観じてどこがわるいか。

 その私が、あらたまの年に、ひそかに心に刻みつける一首がある。

   いきのをに思ひひそめてありしかば、逢ふこともなく人はなりつも

 釈 超空。

2009/12/30(Wed)  1140
 
 年の暮れ。
 いまの日本の地方都市の駅前なんて「島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むる」状態だよ。

    市中一般の職業は歳の暮れともなれば夜さえ碌々寝(やす)む暇さえなきまでに繁忙を極むるが習いなるに、この島にてはこれに反してほとんど休業同様の姿となるなり。されば大道芸人らは本月十四、五日頃よりは全く稼ぎに出ること能わずいずれも一日千秋の思いをなして新玉の春を待てり。

 これは、明治30年11月から12月にかけて「報知新聞」に連載されたルポルタージュ「昨今の貧民窟」(執筆者、不詳)の一節。(中川 清編『明治東京下層生活誌』岩波文庫/収載)
 私は、戦前の東京の下層生活を見てきたので、芸人たちの暮らし向きが眼にうかぶようだった。
 芸人たちは十二月十四、五日頃からは稼ぎに出かけることができない。

    その間の困難は実に甚だしきものにてほとんど五月雨(さみだれ)の頃か時雨時の如くすべての芸道具を質入れして、わずかに兵営の残飯を粥となしたるを一、二度ずつ啜りて半月の露命を繋ぎおるに過ぎず。

 この「シマ」は、芝、新網町というが、浅草、本所、深川、どこに行ったって、たいていて似たような暮らしだった。

    古昔(むかし)は節分の年越しと称(とな)うるが年の内にあること多く、また「せきぞろ」と称(とな)うる袖乞いありしかば芸人の多くは「厄払い」または「せきぞろ」に出(い)でて鳥目(ちょうもく)あるいは餅などの貰い多かりしため正月の支度にもさして困難を感ぜざりしに……

 「せきぞろ」は、節季に候。ただし、実物を見たことはない。
 芸人が、二、三人、赤い絹で顔(おもて)をつつみ、「せきぞろでござれや」とはやしたてて、歌い、踊りながら、お正月の祝詞を述べて、米や銭をもらう。
 しかし、明治も30年代になって、大道芸人もそんな悠長なことでは年も越せなくなったのだろう。

   近来、「せきぞろ」は全く廃(すた)れ、「厄払い」は二月の頃となりぬれば、暮れの内には更に稼ぐべき道なく島全体火の消えたらんが如く寂寥を極むるなり。


 さて、みんなで「せきぞろ」に出るか。

     せきぞろの来れば 風雅も 師走かな    芭蕉

2009/12/28(Mon)  1139
 
 江戸女の句を並べてみよう。

     日の筋や 岩間離れて ならぶ鴛(おし)   多代

     木々の冬 湯女(ゆな)いる温泉場(いでゆ)となりにけり  きよ子

     寒き夜や 戻らぬ人を待ちにける       壺中女

 いずれも恋の句。壺中女とはめずらしい俳号だが、おそらく遊女なのだろう。おのが閨を壺中天と洒落た女の粋、または「あわれ」を見るべきだろう。
 遊女の句では、一夜の交情のあと、「後朝(きぬぎぬ)の文に」、

     別れ行く 身はあとさきの 寒さかな     幾代

 私の好きな句。女のあわれが見えてくる。(さくしゃの名前がいい。)

 京都、島原に、長門という遊女がいたという。日頃、花いかだの紋をつけていたが、この紋を初心なりとして、嘲笑した人がいた。(どこにでもこういう阿呆がいる。)
 長門は答えた。

     流れなる身に 似合(にあわ)しき 花いかだ

 この一句、たちまち遊廓の女のかなしさ、ひいては美しさが眼に顕ってくる。

     わが袖の蔦や 浮世の村時雨         薄雲

 これは吉原の太夫の句。これは、すばらしい。

 師走。江戸の女の句を読みつづける。
 今年の師走も、そんなふうに女人の句を読んで過ごすことにしよう。私の年忘れ。

2009/12/26(Sat)  1138
 
 加賀の千代女の句は好きになれない。どうして千代女が嫌いなのですか、と質問されて困った。
 嫌いな理由を聞かれても答えられない。ハリウッドの女優なら、ノーマ・シャーラー、ジョーン・クローフォードが嫌いだが、なにしろ好きになれないから、嫌いなのです、と答えようか。

     道くさの 草にはおもし(重し) 大根引   千代
     水仙は 名さへ冷たう 覚えけり
     船待の 笠にためたる落葉かな
     春の夜の 夢見て咲くや 帰り花
     折々の 日のあし跡や ふゆの梅

 こんな俳句のどこがいいのだ?
 落ち葉を詠んでも、良寛さんの――「焚くほどは 風がもてくる 落葉かな」のような飄逸な句がある。多代さんが落葉を見れば、「吹き上げて 風のはな(離)るる 落ち葉かな」となる。

     知る人の家でありけり ふゆ椿        多代
     さまでなき 山ふところや ふゆ椿
     茶の花や 坂を登れば 日も昇る
     吹き上げて 風のはな(離)るる 落ち葉かな
     稲塚を さし出た枝や 冬の梅

 ここに挙げた五句だけでも、多代女のほうが格段にすぐれている。
 多代女の句には、千代さんの句のポピュラリティーはない。それほど残念な気はしない。
 いつの時代でも、千代女のような人気作者の場合は、大衆の好みが変わらないかぎりそうした人気は消えることはない。多代女の句は誰も知らないが、それでいいのだ。どんなに人気があったところで、その作品がかならずすぐれているとはかぎらない。

2009/12/24(Thu)  1137
 
 多代さんのことは、ほとんど知らない。ただし、私が知らないだけで、案外、世に知られている女性(にょしょう)なのかも知れない。

 奥州岩瀬郡須賀村に生まれた。(これがわからない。どこだろう?)
 市原氏。夫と死別したのは、三十一歳。女ざかりで、やもめになったという。
 文政6年、江戸に出た。
 亡くなったのは慶応元年(1865年)8月20日。享年、93歳。
 自選の句集、『晴霞集』がある。

 江戸に出てから幕末の物情騒然たる時代を生きて、当時としてはたいへんに長寿だった女性。そんな、多代さんの身の上、境遇をもう少し知りたい。
 とりあえず多代さんの句をかきあつめて、紹介しておこう。

     夕ばえや こころのひまに 帰り花      多代
     木の間もる 日のはつはつや 八ツ手咲く
     垣くぐる 日はつれなくも ツワブキに
     水仙や 根はつつまれて 市へ出る
     菰(こも)かけて 一夜越しけり 積大根(つみだいこ)

 画讃、追悼句なども挙げておく。

     少将のすがたは 雪に立つ かかし (画讃。深草の少将だろう)
     どの坂も 小春ならざる木蔭なし
     おもひ入 枯野を けふ(今日)の 障子こし
     折からの しぐれも聞くや 板ひさし(庇)
     目になれて 明け暮れもなし 枯すすき

 だいたい自然詠がいい。ただし、「日はつれなくも」は、尊氏の名歌、芭蕉の名句があるだけに、むずかしいところ。「水仙」は下五が気に入らない。
 もう少しきびしく見れば――「少将」の句の滑稽が「あはれ」にならないのが残念。
「どの坂も」は二重否定がうるさい。しかし、「枯すすき」など、このひとの落ちついた句境が偲ばれる。羨ましいねえ、こういう女性(にょしょう)は。

 師走。江戸の女流の俳句を、二、三句づつあじわう。ほかに楽しみもない老残の身にしては風雅な趣き。エヘヘヘ。
 

2009/12/22(Tue)  1136
 
 多代さんの句をいくつか挙げておく。

     影澄むや 江越しに 行きの小松山      多代
     黄昏や 馬屋出てゆく 雪の鹿
     積雪や 門(かど)は月澄む 細ながれ
     よい月の出て 果てもなし 雪の原
     起きて先(まず) 雪にしばしや もの忘れ

 一見おとなしい、平凡な句ばかり。わざとはぶいたのだが、多代さんには「雪降るや 小鳥がさつく 竹の奥」といった駄句もある。それでも、千代女の句、

     初雪は 松の雫に 残りけり         千代
     初雪や 鴉の色の 狂ふほど
     初雪や 落葉拾へば 穴があく
     初雪や 水へもわけず 橋の上
     青き葉の 目にたつ比(ころ)や 竹の雪

 といった句よりも、ずっとマシに見える。
 これもわざとはぶいたのだが、「行く雲の 霰こぼして 月夜かな」という駄句があって、

     逆しまに 傘さし出(いだ)す あられかな  多代

 あるいは、また、

     海越しに 木枯らし吹くや 磯の松      多代
     木枯らしの中に走るや 使いの子

 などのほうが、

     木枯らしや すぐに落ちつく 水の月     千代

 よりも、ずっといい。 
  (つづく)

2009/12/21(Mon)  1135
 
 師走。
 毎年のことだか、年の瀬はなにかと気忙しく、ろくに本も読めない。いまの私は、少しおかしなテーマで、少し長いものを書いているので、どうも心の余裕がない。
 そういうときは、俳句を読む。まったく知らない人の句を。

     三弦も 歌もへたなり 年忘れ        多代

 こういう句はいい。人並みに三弦や歌を修行してきた。しかし、とても上手の域に達したとはいえない。そして、今年もいつしか年の瀬を迎えてしまった。
 もっとも、たいして才能のない自分を悲しんでいるわけではない。むしろ、三弦や歌をつづけてきたという、女としての艶冶(えんや)な気分がある。いいなあ。

     内蔵に 餅のこだまや 夜もすがら

 これは、中の「餅のこだま」が大仰て、あまりいい句ではない。しかし、もう年も押し迫って、夜もすがら餅をついて、さざめきあっている風情がいい。冬の句だけでも、

     あら川の 音に添ひゆく 時雨かな      多代
     吹きゆれし 木に鳩鳴くや 夕時雨
     這出して 時雨にあふや 藪の蟾(ひき)
     たぎる湯に 取りあふ竹の 時雨かな
     リンドウのなりも崩さず はつ時雨
     ききふるす 萩にまた聞く しぐれかな

 いずれも自然詠ながら、女性らしい内面を想像させる句が多い。
 加賀の千代の句と並べてみれば、多代の、気負いのない句のゆかしさが納得できよう。


     日の脚に 追はるる雲や はつ時雨      千代
     京へ出て 目にたつ雲や 初時雨
     晴れてからおもひ付きけり 初時雨

 千代女の句はどこかさかしげで、どうも好きになれない。
 私はあまり好き嫌いのないほうだが、たとえば、森田 たまの随筆、芝木 好子の小説が大きらい。こんな連中よりは、千代女のほうがまだマシなのだが。
 多代さんは加賀の千代ほど有名な俳人ではない。というより、まったく無名の俳人なのだろう。
     (つづく)

2009/12/19(Sat)  1134
 
 友人の井上 篤夫君が教えてくれた。

 2006年、全米映画協会の発表したところでは、「アメリカ人が好きな映画」の1位は、フランク・キャプラの「素晴らしき哉 人生」だそうな。

 へぇえ、知らなかったなあ。

 私も自分の好きな映画を考えてみた。

 まず、「ウォリアーズ」がくる。
 そのあとは――「キャリー」。
 つづいて、「運命の饗宴」。全部カットされたW・C・フィールズのエピソードをふくめて。
 「パルプ・フィクション」。タランティーノはみんな好きだが、この映画、ボクサーのエピソードで、タクシー・ドライヴァーをやっているラテン・アメリカ系の女優がいい。
 「人生模様」。むろん、新人女優のマリリン・モンローが、名優、チャールス・ロートンに、まっこうからぶつかっているから。
 「ゼンダ城の虜」。ただし、レックス・イングラム監督作品ではなく、ジョン・クロムウェル監督作品。ロナルド・コールマン、デヴィッド・ニーヴン、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア。
 「デブラ・ウィンガーを探して」。映画女優のロザンナ・アークェットが、おなじハリウッドの映画女優たちをインタヴューしたドキュメント。
 「殺人狂想曲」。これは、プレストン・スタージェス。後年、ダドリー・ムーア、ナスターシャ・キンスキーでリメイクされたが、まるで問題にならない愚作だった。

 番外に「ファウル・プレイ」。ゴールデイ・ホーンが可愛いので。

 わざと三流映画ばかりをあげているつもりはない。私の好きな映画は、すべて一流の映画なのだ。むろん、こんな映画ばかりをあげるのは、われながらあまのじゃく、つむじまがりと承知している。最近のハリウッド映画は徹底的に無視している。
 ただ残念なことに、私のリストの半分は、もう見られなくなっている。

 映画も思い出せなくなったら、生きていてもつまンねぇやナ。

2009/12/17(Thu)  1133
 
 ドイツ映画祭。
 カイ・ヴェッセル監督の「ヒルデ」(’08年)を見た。すばらしい映画だった。
 映画のヒロインは、戦後、ドイツ映画に登場した女優、ヒルデガルド・クネッフ。
 戦時中にバーベルスベルク国立映画学校で学んで、ナチの有力者と恋愛し、映画女優としてデビューした。やがて、ソヴィエト軍がベルリンに侵攻したとき、前線で銃をとって戦ったが、捕虜になり、収容所に入れられたが脱走。
 戦後、舞台女優として再起し、敗戦後のドイツ映画界を代表する女優になる。しかし、ナチスとの関係をうたがわれて、ドイツ映画界を去り、ハリウッドに移ったが、プロデューサー、セルズニックに冷遇される。
 ふたたびドイツ映画に復帰し、やがてまたハリウッドで成功する。
 私は、「題名のない映画」(47年)、「罪ある女」(51年)でヒルデガルド・クネッフを見たのだった。

 映画のあとで、カイ・ヴェッセル監督がステージで、観客の質問をうけ、それに答えたが、その応答に監督の誠実な人柄がうかがえた。
 このとき、私には質問したかったことが一つあった。

 カイ・ヴェッセル監督は、映画女優、ヒルデガルド・クネッフの映画には、残念ながら、見るべきものがないと語ったのだった。(たとえば、ジャンヌ・モロー、アリダ・ヴァリ、マリア・シェルなどと比較して)私もそういう気がしないでもないのだが、それでも、「題名のない映画」、「キリマンジャロの雪」などのヒルデガルドにはつよい印象を受けた。カイ・ヴェッセルは、「題名のない映画」にまったく関心を見せないのだが、その理由はなぜなのか。

 むろん、私は質問をしなかった。素晴らしい映画をみたという感動のほうが大きかったからである。

 そういえば――カイ・ヴェッセルさんは、若い世代の監督だから、たぶんご存じないだろうと思う。戦前の日本で、「題名のない映画」という映画が公開されたことを。
 ドイツ/トービス映画。監督はカール・フレーリヒ。シナリオは、女流脚本家のテア・フォン・ハルボウ。主演は、アドルフ・ウォールブリュック。相手の女優は、新人のマリールイーゼ・クラウディウスだった。
 私の読者のなかには――アドルフ・ウォールブリュックの名に聞きおぼえがある人もいるだろう。この1937年、ドイツ/シネ・アリアンツ映画で、ウィリー・フォルスト監督の「ひめごと」Allotria に主演している。女優は、レナーテ・ミューラー、ヒルデ・ヒルデブラント。この映画にはウィーンの濃密なエロティシズムがみなぎっていた。
 アドルフ・ウォールブリュックは、はるかな戦後、マックス・オフュールスの映画、「輪舞」の狂言まわし、「赤い靴」でモイラ・シャーラーが所属するバレエ団をひきいる団長を演じたアントン・ウォールブルックである。
 彼は、ヒトラーと同名であることを恥じて、アントンと改名したのだった。

 今でも思い出す。ウィリー・フォルスト監督の映画、「題名のない映画」はまったく評判にならずに消えてしまった。なにしろ、おなじ時期に、日本ではジャック・フェーデルの「鎧なき騎士」、ジュリアン・デュヴィヴィエの「舞踏会の手帳」、アメリカ映画でも、チャップリンの「モダン・タイムス」、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」などがいっせいに公開されようとしていた時期である。

 もはや、だれの記憶にも残っていないトリヴィアだが。

2009/12/15(Tue)  1132
 
 1916年。ヨーロッパでは、連合国とドイツ帝国が死闘をつづけている。

 メァリ・ピックフォードという美少女が、「農場のレベッカ」や「小公女」に出た。それまでただの「リトル・メアリー」だったメァリ・ピックフォードはアメリカの恋人になる。

 この年、ノーベル文学賞を受けたのは、ロマン・ロランだった。
 作家は、その賞金をそっくり赤十字に寄付した。

 詩人、ライナー・マリア・リルケは、遺作になった原稿をパリに残していた。この原稿が散逸しないために、ロマン・ロランはフランスの文学者たちに呼びかけた。ジャック・コポーがこれに応じて、ロマン・ロランに協力した。

 私たちが、現在、ライナー・マリア・リルケの、かなり多量の作品を読めるのは、このときのロマン・ロラン、ジャック・コポーたちのおかげなのである。

 戦時中に敵国の文学者の原稿を守ろうとした人々がいたことを知って、私はこれが戦時中の日本だったらどうだろう、と考えた。

 私が、心から憎悪するのは、大衆のマス・ヒステリアである。

2009/12/12(Sat)  1131
 
 歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
 たとえば、天野 桃隣という俳人がいた。

 初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで俳句を詠んだ。

    三日月や はや手にさわる草の露
    白桃や 雫も落ちず 水の色
    昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花

 などが佳句とされる。

 月のかけを見て、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
 どうってことのない句だが、蕉門の人らしい、しっとりと落ちつきがある。中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはなんとなくあざとく見える。

 「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。

 「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。

 桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。

    真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺

 これは、芭蕉三回忌の作。

    初秋や 庵 覗けば 風の音

 これは、元禄八年の作。

    片庇 師の絵を掛けて 月の秋

 これは、元禄九年の作。

 ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。

    ななくさや ついでにたたく鳥の骨
    七癖や ひとつもなくて 美人草
    盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ

 どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
 考えられることは――桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々ともあまり交渉がなくなったのではないか、ということ。
 あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、とも見える。
 桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。

 いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも、それなりに楽しい。

2009/12/10(Thu)  1130
 
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 『ユートピアの岸へ』は、久しぶりに見ごたえのあるいいドラマだった。

 第三部。劇場をうずめつくした観客は、男も女も水を打ったように息をこらし、固唾をのんで、舞台を見つめている。だれしもが、ゲルツェン、バクーニン、オガリョーフたちは、「船出」Voyage しながら、「難破」Shipwreck して、ついに「漂着」Salvage したことを見届ける。
 幕切れ、居眠りからさめたゲルツェンはオガリョーフにいう。

 前へ進むこと。楽園の岸に上陸することはないのだと知ること。それでも前へ進むこと。

 苦い幻滅というべきか。あるいは、おそるべきオプティミズムというか。

 終幕は、リーザが切れたロープをもって走り寄る。ゲルツェンが、「キスしてくれ」と
いう。リーザがキスをする。

      ナターリア   嵐がやってくる。

 作者の「トガキ」では――夏の稲妻……反応して驚き、はしゃぐ……そして、雷鳴、さらなる反応……すばやい熔暗。

 このナターリアのつぶやき――「嵐がやってくる」というセリフは、はたしてゲルツェンの暗澹たる心情を暗示しているのか。

 蜷川演出は、この稲妻と雷鳴を、極度に大きなものにする。それまでの(とくに、リーザ、ゲルツェンのキス、幕切れの、ナターリアのセリフ)の印象を打ち消すように。

 蜷川 幸雄は、ときにエゴサントリックな演出を観客に強いる場合がある。よくいえば、一種のテレと見るべきかも知れない。
 この前、三島 由紀夫の『弱法師』の幕切れで、それまでのドラマの感動を断ち切るように、テープの録音をかぶせた。これが何の録音なのか、観客の大多数には理解できなかったに違いない。三島 由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して、割腹自殺を遂げる直前のテープの録音だった。
 私は、このドラマ、『ユートピアの岸へ』で、蜷川 幸雄がこの録音テープを最後にながす必然性も、妥当性もないと思ったが、『ユートピアの岸へ』のラストには、蜷川 幸雄の昂揚を見る。

 まったく個人的なことを書いておく。
 旧ソヴィエトが崩壊し、みるみるうちに解体しようとしているさなかに、偶然ながら旧ソヴィエト最後の芝居を見たことがある。
 カタンガ劇場がレーニンの最後の日々をドラマ化したものだった。テーマは――ロシア革命はあくまで正しいものだった、ゆえにロシアはレーニンに戻れ、というドラマだったが、現実にソヴィエト体制がミシミシ音をあげて崩壊している時期だっただけに、このドラマを見たとき、ロシアの運命にかかわる暗澹たる感動が私の胸にあった。
 その暗澹たる感動が『ユートピアの岸へ』と重なってきた。
 まさしく「嵐がやってくる」のだ。1868年のロシアに。
 そして、2009年のロシアにも。

 このドラマを見ながら、しばし私の頭を離れなかったのは、ユートピアとは何か、ということだった。あるいは、『ユートピアの岸へ』における「ユートピア」とは何だったのか。私の答えは――すでに書いたはずである。

 さて、私の劇評めいた感想も、このへんで終わりにしよう。はじめから劇評を書くつもりではなかったのだから。私としては、つぎつぎに心をかすめる思いを書いてきただけのことなのだ。

 これを読んでくださった皆さんに心から感謝しよう。

2009/12/11(Fri)  1130
 
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 『ユートピアの岸へ』は、久しぶりに見ごたえのあるいいドラマだった。

 第三部。劇場をうずめつくした観客は、男も女も水を打ったように息をこらし、固唾をのんで、舞台を見つめている。だれしもが、ゲルツェン、バクーニン、オガリョーフたちは、「船出」Voyage しながら、「難破」Shipwreck して、ついに「漂着」Salvage したことを見届ける。
 幕切れ、居眠りからさめたゲルツェンはオガリョーフにいう。

 前へ進むこと。楽園の岸に上陸することはないのだと知ること。それでも前へ進むこと。

 苦い幻滅というべきか。あるいは、おそるべきオプティミズムというか。

 終幕は、リーザが切れたロープをもって走り寄る。ゲルツェンが、「キスしてくれ」と
いう。リーザがキスをする。

      ナターリア   嵐がやってくる。

 作者の「トガキ」では――夏の稲妻……反応して驚き、はしゃぐ……そして、雷鳴、さらなる反応……すばやい熔暗。

 このナターリアのつぶやき――「嵐がやってくる」というセリフは、はたしてゲルツェンの暗澹たる心情を暗示しているのか。

 蜷川演出は、この稲妻と雷鳴を、極度に大きなものにする。それまでの(とくに、リーザ、ゲルツェンのキス、幕切れの、ナターリアのセリフ)の印象を打ち消すように。

 蜷川 幸雄は、ときにエゴサントリックな演出を観客に強いる場合がある。よくいえば、一種のテレと見るべきかも知れない。
 この前、三島 由紀夫の『弱法師』の幕切れで、それまでのドラマの感動を断ち切るように、テープの録音をかぶせた。これが何の録音なのか、観客の大多数には理解できなかったに違いない。三島 由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して、割腹自殺を遂げる直前のテープの録音だった。
 私は、このドラマ、『ユートピアの岸へ』で、蜷川 幸雄がこの録音テープを最後にながす必然性も、妥当性もないと思ったが、『ユートピアの岸へ』のラストには、蜷川 幸雄の昂揚を見る。

 まったく個人的なことを書いておく。
 旧ソヴィエトが崩壊し、みるみるうちに解体しようとしているさなかに、偶然ながら旧ソヴィエト最後の芝居を見たことがある。
 カタンガ劇場がレーニンの最後の日々をドラマ化したものだった。テーマは――ロシア革命はあくまで正しいものだった、ゆえにロシアはレーニンに戻れ、というドラマだったが、現実にソヴィエト体制がミシミシ音をあげて崩壊している時期だっただけに、このドラマを見たとき、ロシアの運命にかかわる暗澹たる感動が私の胸にあった。
 その暗澹たる感動が『ユートピアの岸へ』と重なってきた。
 まさしく「嵐がやってくる」のだ。1868年のロシアに。
 そして、2009年のロシアにも。

 このドラマを見ながら、しばし私の頭を離れなかったのは、ユートピアとは何か、ということだった。あるいは、『ユートピアの岸へ』における「ユートピア」とは何だったのか。私の答えは――すでに書いたはずである。

 さて、私の劇評めいた感想も、このへんで終わりにしよう。はじめから劇評を書くつもりではなかったのだから。私としては、つぎつぎに心をかすめる思いを書いてきただけのことなのだ。

 これを読んでくださった皆さんに心から感謝しよう。

2009/12/09(Wed)  1129
 
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 『ユートピアの岸へ』は、第一部でバクーニン家の物語として展開しながら、第二部からはゲルツェンを中心にシフトしてゆく。つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
 むしろ、もっと凝縮した構成の戯曲にできなかったものか、と思う。もっとも、この戯曲があの浩瀚な『回想と思索』の脚色と見れば――「1833年夏」からはじまって、「1849年1月」(第三場)、「1850年9月」、「1850年11月」という単調な場割りがつづいて、最後の最後に「1846年 夏」(第三幕)のソコロヴォ、つまり第二幕のラストにつなげる、というバックワード・タクティックス(「過去」にもどるというドラマトゥルギー)は、蜷川演出によって救われただけで、実際には(戯曲として)効果はなかったのではないかという気がする。
 あるいは、観客に重い感動をつたえるためにこういう終わりかたが必要だったというのだろうか。

 第三部、第二幕、(1860年8月)いよいよ芝居の大団円という幕に、大作家になったツルゲーネフが姿をみせる。
 この第三部、第二幕、で、ツルゲーネフの前に、医者があらわれる。この医者は、ニヒリストとして、ツルゲーネフと論争する。むろん、ツルゲーネフは、この論争では分がわるい。なにしろ、徹底的にプラグマティックな人物で、その論理の科学性に、文学者として思想的に彷徨とつづけてきたツルゲーネフがかなうはずがない。
 そして、医者は、この時代に、実用性以外に信じるに足るものはない。進歩も、道徳も、芸術も信じない、
 最後に、ツルゲーネフは問いかける。「私は、きみをどうよべばいいのか」と。
 相手は答える。「どうぞ、バゾーロフ」と。
 この「意味」がわかった観客は、ほとんどいないのではないだろうか。あえていえば、トム・ストッパードは、わかってもらえなくてもいい、として、この場面を書いたのではないか、と想像する。
 そういう意味では、この戯曲は、個々の人物を描いているというより、それぞれの人物たちがあるムードのなかで動きまわる群像劇と見ていい。
 はじめから思想劇などと見ないほうがいい。
 最後になって――それまで思想や、革命に対する戦術、戦略がことなってきたバクーニンに痛烈に批判される。

 バクーニンは、マルクスとは違う。マルクスの思想は「自由のないは共産主義」と見なした。その果てにくるものは、隷属であり、とどまることを知らない野獣主義と見ていた。
 ロシアの共産党政権は、70年にわたって何をめざし、何を果たしたか。
 ロシアの共産党政権が追求したものは、人民の「隷従」、そして、スターリンの「独裁」という野獣性だった。
 1921年から22年にかけて、餓死した人は、少なくとも500万に達する。
 1928年、独裁者、スターリンの命令で、1000万戸の富農を抹殺したが、中農、貧農までまき添えを食った。850万から900万の人々が追放され、その半数が1年以内に死亡した。
 1936年から大粛清がはじまる。そして大量処刑。
 芸術の世界でも、粛清の嵐が吹き荒れる。1934年の作家会議に出席した約700人のうち、スターリンの死の直後まで生き残ったのは、50人といわれる。

 演出家、メイエルホリド、詩人、マンデリシュタム、作家、ビリニャーク、バーベリなど多数が獄死、または銃殺された。
 共産主義体制下で、150万人から200万人が亡命した。粛清の犠牲者の総数は不明だが、2000万人から6000万人という諸説がある。
 帝政という怪物を倒したかわりに、スターリンというはるかに強大な「怪物」を生み出したロシアは、恐怖におののきつづけた。

 イデオロギーとしての共産主義の崩壊と、ソヴィエトの解体は、けっして小さな事件ではなかった。『ユートピアの岸へ』を見おわったとき、私の胸に去来したのは、そういう思いだった。

2009/12/08(Tue)  1128
 
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 「第三部」で、ゲルツェンは、盟友、バクーニンに痛烈な批判を浴びせる。

 こういうバカげた秘密の旅行も、暗号も、偽名も あぶり出しの手紙もみんな子どものお遊びだ。きみに疑いをもたない人間は、リーザひとりだ。無理もない。
 きみは暗号の手紙を送りながら、相手がそれをよめるように暗号表を同封している。

  バクーニンは反撃する。

 君の同盟なら参加できると思ったが、そうやって偉そうに、恩きせがましく、いったい誰にむかってそんな口をきくのか。

 出て行くバクーニンを、オガリョーフは追うが、もはや、バクーニンは戻らない。ドラマは、ここから最後のデヌーマンに向かいはじめる。
 ツルゲーネフも出てゆく。少女のタータも、ゲルツェンから去ろうとしている。
 惑乱したゲルツェンは、ナターシャを抱きしめようとする。だが、このとき、ナターシャの内部に大きな変異が起きる。彼女もまた、ゲルツェンに痛烈なことばを浴びせる。
 こうしてロシアの前途に横たわる絶望、苦い幻滅は、ゲルツェンの胸にもたちこめている。


 それまでの「オガリョーフ」は、それほど大きな「役」ではない。ところが、第三幕の石丸 幹二は、じつにみごとに阿部 寛に拮抗している。前に見た「イノック・アーデン」に、私は失望していたので、あらためて石丸 幹二の資質に感心したのだった。
 つづいて、ツルゲーネフ(別所 哲也)が登場してくる。
 ツルゲーネフは、チェルヌイシェフスキーや、ドブロリューボフに毛嫌いされていることを語る。自作の主人公が、ただのリベラリストに過ぎないという理由で。
 このあたり、ロシア文学の理想と現実を知らないと、どうしてもわかりづらい。

 別所 哲也は、ここでは(この芝居では)ごく普通の出来だった。おそらく理由があるだろう。阿部 寛がますます力をましてきているし、第三幕は「バクーニン」(勝村 政信)がこの場をさらって、客を魅了しているため、別所 哲也が輝きを見せてもあまり印象に残らない。(『レ・ミゼラブル』の別所 哲也ならもう少し違うだろう。)

 第三幕、[1861年12月]の場で、ツルゲーネフはいう。「私は裏ぎり者と呼ばれている。左派と、右派の両方から」。
 ツルゲーネフはゲルツェンに向かっていう。きみの〈カマトトぶり〉は、オールドミスも真っ青だ。きみとオガリョーフは、自分のスカートをやたらにまくって、秘所をご開帳している、と。

 ゲルツェンは怒る。
 ロシアの社会主義者は、みずからの封建性や、専制とは無縁の、(ヨーロッパの)体制と対比して、後進性と同時に、ロシアの優位を説いてきた。ヨーロッパと同じ発展の道を行くことはない。どうせ、行く末はわかっている、と。
 だが、やがて「ゲルツェン」たちの後継者として、レーニン、スターリンのソヴィエトがあらわれる。

 私たちは、スターリンのやったことが、帝政ロシアの暴政の、拡大再生産だったことを見せつけられてきた。ソヴィエト崩壊後の現在だって、プーチンは、スターリンのソヴィエトと、自分たちをひき較べて、自分たちの体制がいかに優れているかを誇示している。
 なるほど、社会主義の計画性や、指令システムは、電力、鉄鋼その他の基幹産業では、うまく機能していたかに見えた。さらにいえば、世界戦略に対応するための兵器産業の部門でも。(私が、日露戦争を思い出していたことはいうまでもない。)

 『ユートピア』(第三部)、ゲルツェンがチェルヌイシェフスキーと論争する。
 チェルヌイシェフスキーの論点は、やがてレーニン、スターリンの恐怖の論理になる。ゲルツェンは、「狼の大群がロシアの街を勝手に歩きまわることになる」という。
 私たちは、ゲルツェンの孤立と、ロシアの理想の「サルヴェージ」の意味を予感する。

 共産主義国家の政策は、人民のためなどということは絵空事にすぎなかった。「アリ塚のユートピア」なのだ。たとえば農業、農産物のマーケティングひとつとってみても、社会主義システムはまったくの失敗に終わった。
 『ユートピアの岸へ』におけるゲルツェンの「旅」Voyage は、Wreck であり、ついに「ユートピアの岸」に「漂着」Salvage することに終わった。
 私は「第三部」の阿部 寛を見ながら、「ゲルツェン」の孤独を感じて、ほとんど暗然としたほどだった。

2009/12/06(Sun)  1127
 
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 ヨーロッパに失望したゲルツェンは、ロシアの民衆に希望を見いだそうとする。そして、スラヴォフイルに接近する。やがて独特の、ロシア社会主義をとなえる。

 かんたんにいえば――農村共同体を基盤に、ヨーロッパのような資本主義の段階をへずに、独自の社会主義を実現すべきだというもの。
 チェルヌイシェフスキーとも共通する思想的な論点でもあった。
 農奴たちの悲惨な生活、その災厄から救うためには、農村共同体の土地利用を考えるべきであるとした。
(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及される。第三部では、チェルヌイシェフスキーの硬直した思想に、ゲルツェンもうんざりしているのだが。)
 ゲルツェンは、このあたりからエンゲルスとは違ってくる。エンゲルスは――「ロシア農民の世界は、閉鎖性と魯鈍の世界だ。彼らは、自分の共同体のなかにだけ、生きて、行動している」と考える。(トカチョフ批判」)マルクスもエンゲルスと、同意見だったはずである。
 マルクスがやはり狭隘な思想家にすぎないことをあらためて感じた。
 やがて、この狭隘さが、後年のレーニン、スターリンという「怪物」にひきつがれる。

 ゲルツェンは違う。
 ロシアの「オプシチナ」、あるいは、「ミール」は、古代ロシアに発生した農村共同体の流れで、農民の自治組織である。この農村共同体は、1861年の農民解放の後で、約14万、全農民の80パーセントをカヴァーしていた。さらに後に、レーニン、スターリンは、この「ミール」をコルホーズ、ソフホーズに編成しようとする。

 ドラマでは、オガリョーフが「土地と自由」という思想をとなえて、ひそかに同志を祖国に潜入させようとして、官憲に一網打尽にされる。
 ゲルツェンが批判を浴びせる。(第三部、第二幕/12場)
オガリョーフが、発作を起こしたあとのこのシーン、石丸 幹二のやりとりは、終幕でのゲルツェン(阿部 寛)の苦い感慨の伏線として、無残なほどいたましい。


              ※

 第三幕冒頭、ゲルツェンは「鐘」の出版に成功している。娘の「サーシャ」(20歳)に、自分とオガリョーフが、ロシアで最初の社会主義者だったことを語る。
 「オガリョーフ」は酒に酔っている。ゲルツェンがオガリョーフの妻、「ナターシャ」と愛しあっていることを、「オガリョーフ」は知っている。
 「ナターシャ」は、「オガリョーフ」とセックスしたと思うと、すぐに「ゲルツェン」をもとめる。三人が愛しあっている、と思いながら、妊娠したこともあって「ゲルツェン」との不倫に罪悪感を抱いて、自分は罰を受けている、と思う。
 こういう「関係」のなかで、石丸 幹二の「オガリョーフ」は、すばらしい芝居を見せていた。
 「きみが妊娠させなければよかったのだ」という。「ゲルツェン」は、皇帝(ツァーリ)が農奴制廃止の委員会を設置したというニューズに興奮して、その晩に「ナターシャ」を抱いたという。それを聞いた「オガリョーフ」の動揺や、あきらめ、さらには畏敬する友人の行動をそのまま承認しようとする、石丸 幹二はコキュの複雑な内面を、よく表現していた。そのことが、精神的な興奮から女体を征服する「ゲルツェン」の、いわば無神経なエゴイズムを感じさせる。
 このとき、「オガリョーフ」の内面には、それまでの(この芝居でいえば、第一幕、第二幕の)さまざまな思い出や、その記憶やそれに重なる感動や、「ナターシャ」を奪われた、という思いが渦巻いたはずである。

 そのときの「オガリョーフ」がウォッカをあおる芝居は、やがて「ゲルツェン」の内面の揺れにまで影響して、この幕の最後の「ゲルツェン」の孤独な内面まで際立たせるほどのものに見えた。これは、石丸 幹二のお手柄とみてよい。

2009/12/04(Fri)  1126
 
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 『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
 だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。


 ただ、戯曲そのものよりも、あくまで俳優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。

 この芝居、主役の阿部 寛はほんとうに運がいい。
役者というものは、ほんとうにやりたい芝居に、一生に一度か二度ぶつかれば運がいいという。この『ユートピアの岸へ』のゲルツェンほどの役には、めったに出会えるものではない。
 これほどの役を演じる、ということは、その努力もなみたいていのものではない、ということになる。もともとカンのいい役者で、繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている。最近のTVコマーシャルに出ている阿部 寛を見ているだけで、それがよくわかる。そんなコマーシャルに出ているだけで、すばらしい存在感があふれる。(「セキスイハイム」のコマーシャルなど。)
 この芝居の阿部 寛は、たいへんな量の科白を記憶した。
 このゲルツェンほどセリフの多い芝居は、さしづめオニールの『喪服の似合うエレクトラ』や、サルトルの『神と悪魔』などぐらいだろう。『ユートピアの岸へ』のゲルツェンのむずかしさほこれに劣らない。
 セリフをおぼえるのは、なみたいていのことではない。阿部 寛はさぞたいへんだったろうと思われる。九月に見たときは、阿部 寛もあまりにセリフの多さに、おぼえるのがやっとといった状態で、いくぶん同情したほどだった。
 しかし、千秋楽の阿部 寛はゆるぎなく勝村 政信に対抗する。この千秋楽、阿部 寛は最高のできだった。若い役者たちがこれくらい勢いよく、轡をならべてわたりあう舞台でなければ人気は立たない。
 千秋楽では、ときには鬼気せまる演技さえ見せていた。

 阿部 寛のゲルツェンはあたたかい人柄で、独特の輝きを見せている。私が「カンのいい役者」というのは、いくつかのTVコマーシャルを見ているせいだが。こうした「カン」、器量の大きさは誰もが身につけているわけではない。

 ただし、『ユートピアの岸へ』の俳優でも、昔の書生芝居か「新協」の芝居にでも出てきそうな連中もいた。阿部 寛には、はじめからそんなことがない。これほど繊細な感受性、なによりも都会人らしい人ざわりのよさをもっている俳優は、やはり少ないだろう。
 おなじことは、石丸 幹二についてもいえる。しばらく前までは、ただの美男、美声のミュージカル役者だったが、舞台経験をかさねることで、ぐっとほんもの(オーセンティック)の俳優になってきた。
 役者の、こういう境地をどう説明していいかわからないが、石丸 幹二の根性のすわりかた、昔の歌舞伎でいう「世界さだめ」に近いもので、たとえば曽我の世界、上方なら傾城の世界を役者が自在に演じる、というようなものだろう。みごとに、「ゲルツェンの世界」を見定めて、詩人のオガリョーフを演じて、原作に対する観客の感興を助けようとしていた。近頃いい役者のひとり。(ほぼおなじ時期、NHKのドラマ、『白州次郎』で、ほんのちょっと「牛島」という若い秘書官で出てきた。まあ、しどころのない「役」だったが、石丸 幹二がなかなかの美男なので、主役を張っても通用するという気がした。)
 ようするに、「ゲルツェンの世界」を現出できていたのは、勝村 政信、石丸 幹二だった。

 この芝居の役者たちにしても、これほど大きな芝居に出られる機会はめったにあるものではない。
 逆にいえば、今後しばらくは、まさか『ユートピアの岸へ』のような芝居に出ることはないだろう。しかし、主役クラスの俳優たちは、この芝居に出たことでひとまわりもふたまわりも大きくなった。少なくとも、そのきっかけにはなったはずである。
 勝村 政信にしても、砲兵士官学校の若い生徒から、激烈な革命家まで、革命家、バクーニンをのびやかに演じていた。この前にシェイクスピアに出たときにも、ずいぶん芸熱心な俳優だなあ、と思ったが、この「バクーニン」は、勝村 政信にとっても、めったに出会えない大役だったはずである。
 過激なバクーニンの、ブルジョアに対する憎しみは、ツァーリズムに対するおよそ和解の余地のない憎しみに根ざしていた。というよりも、よわい者が強い者に対して抱く、気位の高い侮蔑を、勝村 政信は見せていた。そして、長い歳月、おのれの期待にそむきそむかれて、いやというほど、辛酸を味わいつくしながら、会う人ごとに借金を申し込む、善良で愉快な人物。
 私は勝村 政信の演技の幅に感心した。第三幕で、勝村 政信が笑いをさらっているあたりは、見ていてほんとうに楽しい。

 この芝居、どうして大向こうから声がかからないのか。
 ただし、声をかけるとして、さて、なんとしよう。勝村 政信には、ヨッ、大統領! ぐらいか。
 二代目左団次は、小山内 薫と組んで、「自由劇場」でさかんに翻訳もの、新作ものを出した。その頃、左団次の意気に感じて、大向こうからしきりにヨッ、大統領! と声がかかったという。
 時代は、世界大戦が終わったばかりで、アメリカのウィルソン大統領に当てた称賛だったという。(円地 文子先生が書いていた。)いまなら、さしづめオバマ大統領に当てて声をかけてもいい。
 「コクーン」の観客から声がかかるはずもない。ただひたすらおとなしい。なんといっても、日本人はシャイなのである。
 私としては、「第一部・第一幕」の終わりに近く、バクーニンの父親、瑳川 哲朗に声をかけてやりたかったが、プーチン大統領に当てて声をかけたと思われそうなので――黙っていた。(笑)

2009/12/03(Thu)  1125
 
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 ゲルツェンは、ヨーロッパの否定的な面に強く反応した。
 1848年、パリ・コミューン。その悲惨な結末に衝撃をうける。拝金思想。物欲。ふつうの人々の平穏な生活。これに俗物性、凡庸さが重なってくる。
 おまけに、この時代にはじつにさまざまな事件が頻発していた。ザイチェフスキーの「若きロシア」の革命的な宣言、ベテルスブルグに頻発した放火、やがてアレクサンドル二世の暗殺。そして、急激な政府の政策転換。
 言論弾圧。
 リベラル派、急進派に対する執拗な追求。
 『ユートピアの岸へ』には、そうした背景のひとわたりがわかりやすく描かれている。
 ゲルツェンはバクーニン、ベリンスキー、作家のツルゲーネフなどと親しかった。(『ユートピアの岸へ』、第一部)そして、マルクスは、ゲルツェンを疑いの眼で見ていた。それが、わかるだけでも、こういう芝居を見ている楽しさがある。

 1852年から、ゲルツェンはロンドンに在住。(『ユートピアの岸へ』、第三部) 農奴制の廃止がもたらした改革運動が、じつは失敗だったという苦い幻滅は、「第三部」のツルゲーネフに現れている。

2009/12/02(Wed)  1124
 
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 『ユートピアの岸へ』は、まるでモーリス・ドリュオンの小説のように、つぎからつぎに人の集まり、人々のつながりを見せつけてくる。
 ドラマとしては、多数の人間をいちどきに出してくるのだから、進行、展開がうまく行く。
 ドラマのなかを流れる時間、場所、そこにかかわる人物は、たとえ資料や事実を踏まえていようと、あくまでフィクティシアスな存在だろう。ツルゲーネフふうにいえば、日は日をついで過ぎてゆく。あとかたもなく、単調に、かつ、すみやかに。ただし、極度に単純化されたステージと、紗幕による転換のせいで、(観客にとって)しばしば人物、場所の把握がそれほど明確には見えてこない。

 『ユートピアの岸へ』は、いいドラマだった。
 だが、戯曲、『ユートピアの岸へ』はそれほどすぐれているか。

 このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない、と書いた。
 女には、二種類しかない。勇気のある女と、勇気のない女と。
 女優にも、おなじことがいえるだろう。
 勇気のある女優と、勇気のない女優と。
 この芝居では、水野 美紀が、女優として勇気を見せていた。これは、どれほど称賛してもいいほどのものだった。
 バクーニン家の次女、ヴァレンカをやった京野 ことみは、はじめての舞台出演で、頬に赤丸をつけた田舎娘をやって、観客を笑わせていたことを思い出す。このドラマでは、それこそ「しどころ」のない役だが、なんとか見られるものにしていた。それも、私にいわせれば、勇気のあらわれだった。
 ところで、勇気のある女優として、私がすぐに思い出すのは――たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。
 この『ユートピアの岸へ』を見たあと、「ドイツ映画祭」で上映された「ヒルデ」(カイ・ヴェッセル監督/2008年)を見た。戦後、ドイツ映画を代表する女優、ヒルデガルド・クネッフの半生を描いたもので、これがすばらしい映画だった。私が感動したのは――この映画に主演した女優が、まさに勇気のある女優だったからである。
 戯曲そのものよりも、あくまで俳優たち、女優たちの努力が、この芝居に大きな感動を喚び起したことを記憶しておこう。

 水野 美紀を見たとき、なんというべきか、妥協のないきびしさにつらぬかれて、この芝居の水野 美紀を見るためにきてよかったとおもった。

 ブリュッセルで二月革命を知ったというバクーニン、マルクス、ツルゲーネフ。そして、カフェのテーブルで、自分の目撃した革命の状況の報告、これに「ラ・マルセイエーズ」の歌声がかぶさる。銃声。ゲルツェンのアパルトマンにディゾルヴする。このとき、乞食がひとり、舞台を動かない。
 ドラマが、コントラストをねらっているのはよくわかるのだが、ここでも 話題はピアニストのリストに恋した伯爵夫人の話だったり。乞食がこの場に一種の異化作用として登場していることはわかるのだが、ただ、場面をつなぐだけの意味しかないような気がする。
 ここで私がこんなトリヴィアルなことをとりあげておくのは、これが戯曲の混乱、矛盾といったものではなく、トム・ストッパードという劇作家のほんらいの資質や、このドラマの意図にかかわってくる事柄が、このあたりにひそんでいるのだろうと推測するからである。
 なにしろ、「第一部」が23場。「第二部」が20場。「第三部」が25場。
 しかも、「第三部」には、場面と場面のあいだの「つなぎ」が、二つ。このリンケージは、海辺の渓谷のシーンで、それまでの緊迫した場面とつぎの場面のコントラストになっているのだが、劇作家が、ドラマの弛緩を、このリンケージでカヴァーしているのかも知れない。荒涼たる風景である。むろん、「第三部」の副題が Salvage だから、こういうリンクが必要だったことはわかる。
 ただ、それが作劇上、成功しているのかどうか、と考えるのだが。

2009/11/30(Mon)  1123
 
       4 

 『ユートピアの岸へ』第二部(「難破」)から、私たちはゲルツェンという特異な革命家の「運命」を目撃することになる。

 ゲルツェンは、モスクワ大学でオガリョーフとともに、フランスの空想社会主義の思想家たち、サン・シモン、フーリエの著作に熱中する。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で、言及されている。)
 その後、警察に逮捕され、流刑。
 第二幕は、主人公、ゲルツェンが中心というより、ゲルツェンとその妻、ナタリー(水野 美紀)、ナタリーの友人、ナターシャ・ツチコフ(栗山 千明)、ゲルツェンの親友、オガリョーフ(石丸 幹二)たち。この人たちがめまぐるしく演じる有為転変、さらには、革命の理念をめぐって、濃密な時を舞台に織りなすとりどりの運命。
 かんたんにいえば、そういうことになる。

               ※

 『ユートピアの岸へ』では、さまざまな人がパーティーに集まる。たとえば、「1835年 3月」(第一幕/第3場)のバイエル夫人の夜会。
 「1843年 春」(第一幕/第22場)のパーティー。ここでは、「赤毛のネコ」が登場する。どういう仮装なのか、よくわからない。おそらく、皇帝直属の秘密警察「オフラナ」か何かなのだろう。
 ベリンスキーが批評家として有名になりかける。たまたま、わかい詩人が、はじめての詩集を献呈する。ツルゲーネフ(別所 哲也)という青年である。
 ツルゲーネフが去ったあと、ベリンスキーと「赤毛のネコ」が黙って、舞台に残される。お互いにじっと凝視している。ほんとうなら、ここで、異様な緊張、ないしは恐怖が走るはずだが、ベリンスキーが自分の名を告げても、「赤毛のネコ」は、パーティーにきた仮装の人物にしか見えない。
 なんだ、あれは? わからなかった。これは、私の頭がわるいせいなのか。

 とにかく、いろいろな人たちが、ゲルツェンを中心に集まってくる。
 「1847年 7月」(第二幕/第2場)、ゲルツェンのアパルトマンというふうに。
 ロシア人はお互いに自己紹介して、それぞれの考えに共鳴すると、昨日まで見ず知らずの人でも、たちまち旧知の友だちになってしまう。だから、友人の友人を心から迎え入れて歓待する。
 1848年、バクーニンは、カール・マルクス(横田 栄司)に会う。マルクスは『共産党宣言』を書いたばかり。30歳。
 ツルゲーネフが、マルクスから、『共産党宣言』を借りて、冒頭の一節を読む。
 「幽霊がヨーロッパに出没している……共産主義という幽霊が!」
 当時、ロシア・インテリゲンツィアの胸には、フランス革命の記憶が刻みつけられていることを、まざまざと見せつけられたような気分になった。
 場所は、パリ。二月革命。
 この「革命」が生んだもっとも急進的な動きは、バブーフの運動と見てよい。これは、ルイ・フィリップの時代に、秘密の革命的結社に受けつがれる。いわゆるブランキーズムである。私たちは「バクーニンの人生で、この頃がもっとも幸福な日々」だったことを知らされる。

 1848年の革命の挫折。
 ゲルツェンの期待は、失望にかわる。
 友人で、詩人のヘルヴェーグ(松尾 敏伸)、その妻エマ(とよた 真帆)と共同生活をはじめる。
 ゲルツェンの夫人、ナタリー(水野 美紀)は、ヘルヴェーグ相手の不倫に走る。

 1848年は、どういう時代だったのか。芝居を見ながら、ぼんやりと、そんなことを考えていた。バルザックがハンスカ夫人に夢中になっていた時代。
 バルザックは書いている。

 女たちは、同性にモテる男には何かしら腹立たしさを感じさせられる。おかげで、かえってその男に関心をもってしまう。

 ヘルヴェーグの妻エマも、そんな眼でみられていたのかも知れないな。気に入った芝居を見ると、きまっていろいろなことが頭にうかんでくる。私の悪癖のひとつ。
 『フインランド駅へ』を連想しながら、『ユートピアの岸へ』を見るというのは、いささかあきれるけれど。

 とよた 真帆は美貌の女優。そして、水野 美紀も。
 美人の女優は自分では気がつかないかも知れないが、真剣な演技をしているときでも、自分の表情、語りくち、身のこなしに、どこか違ったところがあって、演出家には、やはりあらそわれない、はっきりしたフロウ(欠点)として見えることがある。

 この場の、バクーニン(勝村 政信)、これがとてもいい。第一部で、士官学校をやめようとしている若者にもつよい印象をうけた。第三部で、しきりに「笑い」をとるバクーニンもおもしろいが、この第二部の勝村 政信は、終始、ゲルツェン(阿部 寛)と拮抗する。
 勝村 政信を見ていて、バクーニンが、ここにきてプロレタリアの暴力革命によってブルジョアを打倒する可能性を見たことがよくわかった。

2009/11/29(Sun)  1122
 
          3  


 一連のドラマが起きて、多数の「群像」の織りなす運命がめまぐるしく交錯する「場」が、いきなり私たちの前に展開してゆく……。
 ドラマは、「1833年夏」からはじまって、「1833年夏」(第二場)、「1833年秋」(第三場)というふうに、時制によって進行してゆく。
 通しで見ると、9時間。役者もたいへんだが、見るほうもたいへんな芝居である。

 はじめのうち、長さはべつに気にならない。
 このドラマが、歴史劇として書かれていることはわかるけれど、だんだん、あとになって、こうした区分がうるさくなってくる。たとえば、第二幕は「1833年 3月」からはじまっているが、これが、デカブリスト反乱から9年後ということに気がつく観客がど
れだけいるのだろうか。

 そんなことから、作者、トム・ストッパードのドラマトゥルギーに対するいくらかの疑問として、私の胸にきざしはじめる。……
 『ユートピアの岸へ』第一部は、VOYAGE (船出)という副題をもつ。登場人物は、誰もが未知の「向こう」に向かって旅立とうとしている。
 だが、未決定の「向こう」に旅立つというそれぞれの決意には、「心おきなく旅立つことのできるための物語」という要因も必要だったのではないか。
 やがて、このドラマの中軸となるゲルツェンの親友、オガリョーフは、まだ、このドラマのはるかな地平にわずかに姿を見せるにすぎない。

 3年後。「1836年 8月」(第五場)、ベリンスキー(池内 博之)が登場する。後年、「凶暴なヴィッサリオン」と形容されるロシア批評の先駆者も、ここではイヌに吠えられてころんだり、ドジばかりのヴォードビリアンにすぎない。
 ストレートな舞台で、スラップスティックじみた芝居をするのは、それほどむずかしいことではない。(ほかにもおなじようなドタバタ喜劇を見せた役者がいる。)しかし、これが、「わが国には文学はない」とか、ロシアは自分の汚物にまみれた隷属と迷信の大陸などと、ご大層な熱弁をふるう若者であれば、話は別になる。池内 博之は、スラップスティックはあまりうまくないが、若者のロシア的な狂熱ぶりをよく出している。
 つぎの場が、「1836年 秋」。夏の朝まだきから、あのロシアの蕭条たる秋にうつるのだが、舞台には美しい娘たちがでてくる。
 リュボーフィ(紺野 まひる)、ヴァレンカ(京野 ことみ)、タチアーナ(美波)、アレクサンドラ(高橋 真唯)たちが。
 リュボーフィは、やがて、ニコライ・スタンケヴィッチと、タチアーナは、イヴァン・ツルゲーネフと。だが、まだだれひとり、自分を待ち受けている運命を知らない。

 1847年、ゲルツェンは妻子とともに、パリに亡命。(『ユートピアの岸へ』では、第一部、11場で言及される。)
 この舞台を見ながら、ふと、日本はどういう時代だったのかと考えてみた。おなじ時代に、為永 春水が筆禍に遭い、頼 山陽、柳亭 種彦が亡くなっている。そして、大塩 平八郎の乱が起きている。
 日本もまた激動の時代を迎えようとしていた。……

2009/11/28(Sat)  1121
 
              2


 第一部には青春のみずみずしさが、みなぎっている。ロシアの青春も。とすれば、この芝居を青春の群像を描いたものと見てもおかしくない。このオープニングでは、バクーニンの勝村 政信がいい。(彼については、もっとあとでふれよう。)

 アレクサンドル・ゲルツェンが出てくるのは、第二幕になってから。
 ゲルツェンの友人のオガリョーフといっしょ。ゲルツェンの阿部 寛と、オガリョーフの石丸 幹二が出てくるので、この芝居がバクーニン、ゲルツェンの二極構造で展開してゆくらしいことに気がついた。
 ゲルツェンは22歳。1812年、モスクワ生まれ。
 父はゆたかな地主貴族、母はドイツ人女性。母が入籍されなかったため、アレクサンド
ルは、ドイツ系の姓名になる。
 少年時代に、生涯の盟友、オガリョーフとともに――デカブリストの遺志をうけついで、農奴解放と、ロマノフ王朝の専制を打倒することに生涯をささげよう、と誓いあう。
 そのくらいのことしか知らない。

 阿部 寛と、石丸 幹二。この配役がよかった。いい芝居では、ほとんど互角の力量をもった役者たちが、互いに一歩もひかず、舞台のうえで火花を散らす。さしづめ、「布引」の三段目で、菊五郎、左団次が張りあう、といったおもむきのものだろう。

 やがて、ゲルツェンと不倫な関係に入るナターシャ・オガリョーフ(栗山 千明)。この役の栗山 千明は、おそれげもなく美しかった。落ちついたドレスに肌が輝き、眼を奪うような漆黒の髪に、あっさりしたアクセサリが映えて。
 そして、バクーニンの相手になるナタリー・バイエルの佐藤 江梨子。美貌では栗山 千明に劣らないのに、意外に平凡。もっとも、とよた 真帆のエマ・ヘルヴェークもおなじこと。女優がわるいわけではない。この戯曲では、どんな女優が出てもたいして光らない。
 このドラマに出てくる女優たちは、誰もがすばらしい女優なのに、あまり輝きを見せない。この芝居が男たちの強烈なパーソナリティーがぶつかりあう芝居のせいだろう。(たとえば、作曲家、チャイコフスキーを主人公としたケン・ラッセルの「恋人たちの曲」のグレンダ・ジャクソンのように強烈な個性が必要かも知れない。)
 私にとって、意外だったのは、ナタリー・バイエルをやった佐藤 江梨子。

 尾羽うち枯らしたようなベリンスキーが、やっと雑誌の編集者の仕事にありつく。スタンケヴイッチ(ゲルツェンの娘婿)に報告するところに、ナタリーが登場する。スケート靴を脱がせてもらう。
 ほんらいはずいぶん印象的なシーンなのだが、佐藤 江梨子はこの役を仕生(しい)かしていない。あれほど美貌なのに、このナタリーがほとんど印象に残らないのは、佐藤 江梨子がはじめからナタリーに向いていないのか。まるで気がなかったのか。「この役を仕生(しい)かさない」というのは、そういう意味なのだ。
 『ユートピアの岸へ』という芝居は、女優にとっては、じつはいちばんむずかしい部類の芝居かも知れない。その「場」の自分が、ほかの俳優たちの魅力を消しているのではないか、ということをできるかぎり、自分の内部で確かめてみなければならないのだ。 なぜなのか。私の推測では――劇作家ははじめからあまり関心がないのではないか。

 ほかの女優たち、水野 美紀、とよた 真帆にしても、なんとか芝居について行っているのに、佐藤 江梨子だけがあまり輝きを見せないというのは、残念だった。
 私の好みからいえば、佐藤 江梨子は『野鴨』の「ヘドヴィグ」か、『令嬢ユリエ』でもやらせてみたい女優なのだか。

 麻実 れいも、この芝居では、ごくふつうのロシアの貴夫人にすぎない。
 私は、しばらく前に見たテレンス・ラティガンの芝居で、イギリスの上流夫人をやっていた中田 喜子を思い出した。中田 喜子は「芸術座」に出ているときと違ってまるで魅力がなかった。この『ユートピアの岸へ』の麻実 れいは、あのときの中田 喜子のレベルだった。どうしてなのか。

2009/11/26(Thu)  1120
 
    「ユートピアの岸へ」  
       

         1   

 ある日、私は劇場に行く。渋谷の「シアター・コクーン」。開場の5分後には、客席についていた。

 劇場のなかに舞台装置はない。客席で、舞台をぶっちぎった特設のセンターステージ。いわゆる、はだか舞台だから。カーテンもない。セットもない。
 いまでは、こういうノー・カーテン、ノー・セットの舞台はめずらしくない。私は、コメデイー・フランセーズで見た『作者を探す六人の登場人物』(ジャン・メルキュール演出)を思い出した。ずいぶん昔のことである。
 「コクーン」の舞台には、メークをすませた役者たち、まだ、扮装をしていない女優たちが思いの恰好でくつろいでいる。蜷川 幸雄の舞台では、見なれたシーンである。
 観客たちは、セットのない仮設舞台にたむろしている役者たちを見ながら、三々五々、自分の席につく。日常的な時間が、ここではゆったりと交錯している。

 5分遅れで、照明が消えて、いきなり暗黒になる。もう、俳優たちは舞台にはいない。が、つぎの瞬間、フラッドがあふれて、私たちはモスクワの北西部の土地にいる。
 あざやかな導入部だった。
 仮設のセンターステージが――大きな紗のカーテンを張りめぐらせることでフェイドイン、またはディソルヴする。これが「空間」になる。
 このドラマは、1833年の夏から、ほとんど時間的なオーダーに従って展開してゆく。場面転換は、大きな紗のカーテンか、照明のブラックアウトによる。これだけで、演出家の思想がどういうものなのか納得させられる。

 蜷川 幸雄演出、『ユートピアの岸へ』の開幕である。

            ★  

 モスクワ近郊。8月も終わりに近い季節。秋はもうそこまで来ている。
 ツルゲーネフなら、書くだろう。太陽は西にかたむきかけている。不意におそってきた夕立は、つい、いましがた広い荒れ野を通りすぎたばかり、と。
 1833年の夏。アレクサンドル・バクーニンの領地。

 『ユートピアの岸へ』第一部は、バクーニン家の物語として展開する。
 モスクワの北西部の土地と説明されても実感はわかないが、私は、ザゴールスクや、ツァルスコエ・セロを思いうかべた。そして、チェホフの舞台も。
 この開幕から、私はいろいろな芝居を連想した。チェホフから、マーガレット・ケネデイの「テッサ」まで。
 同時に、特設舞台での紗幕の引き回しと、わずか十数本のシラカバの樹幹で、モスクワ近郊を暗示する中越 司の美術に関心した。あえていえば、簡略化された(機能重視の)仕込みであっても美しさがある。これまでの舞台がとらえなかった美しさといったほうがいい。
 蜷川演出では、三島 由紀夫の『卒塔婆小町』で、椿の花が音を立てて落ちるオープニングを思い出す。美術、金森 馨。これはどうも感心しなかった。
 オープニングに流した録音テープは、まったく無意味だったが、この『ユートピアの岸へ』の開幕は、中越 司の美術だけで緊張を生み出した。

 バクーニン家。
 かなり専制的な老貴族、アレクサンドル(瑳川 哲朗)とその夫人(麻実 れい)。ふたりの間に、4人の美しい娘たち。そして、イギリス人の家庭教師、ミス・チェンバレン(毬谷 友子)。この舞台に、ロシアというより、イギリスの伝統的な家庭劇を見るような気がした。

 19歳のミハイル・バクーニン(勝村 政信)が登場する。軍の士官学校に進んだ若者は、わかわかしい声でしゃべりまくるが、ときおり、照れたように笑いながら、かなり辛辣な批評をしたりする。
 彼の美しい四人姉妹たち。みんなおなじドレスを着た可愛いお嬢さんなので、はじめは誰が誰なのかわからない。いちばん上のリュボーフイ(紺野 まひる)が22歳。ヴァレンカ(京野 ことみ)、タチヤーナ(美波)とつづいて、いちばん下のアレクサンドラ(高橋 真唯)が17歳。みんな、そろって可愛らしい。

 バクーニン家を訪問する、まだ無名のツルゲーネフ(別所 哲也)、23歳。
 そして、のちに「凶暴な」ヴィサリオンと呼ばれる、文芸批評家、ベリンスキー(池内 博之)、25歳。
 みんな、若い。そして若い女優が、一所懸命に舞台をつとめている姿はいいものだ。
 この幕では、ベリンスキーの変人ぶりを、池内 博之が懸命にやっている。むずかしいセリフと、おかしなドジと。池内 博之が、もっと出てくればいいのだが、残念なことに、ベリンスキーは早く亡くなってしまう。ロシア文学史にとっても残念だが、この芝居にとっても残念なかぎり。

2009/11/19(Thu)  1119
 
 いまでは死語だが、不良少年ということば。いまでいう非行少年である。

 表通りから狭い路地に入ると、清水小路5番地。
 へんにおかしな地形で、まるで巾着袋をしめるようなかたちの、狭い路地をぬける。
 路地の先が、広場になっていた。昔の馬場の跡だろうか。
 この広場の両側に普通の住宅が並んで、奥に大きな武家屋敷があった。まだ、どこかに江戸時代の名残が残っていた。
 この広場が、子どもたちの遊び場だった。

 もともと気風の荒い土地柄だったのか。近所に不良少年の兄弟がいた。
 兄貴のほうは、トシタカさんといって、高等小学校を出たあと、まともな仕事につかず、不良仲間といっしょに盛り場をうろついたり、客を恐喝したり、地の者を相手にケンカをする。屈強な体格のトシタカさんは、群れをつくらず、いつもひとりでいるゴリラのように見えた。

 弟はコウスケさん。近所の子どもたちのリーダー格だったが、彼も不良少年だった。中学4年で停学を食らった。兄のトシタカさんとは仲がわるかった。一度、幼い私の見ている前で、トシタカさんが弟をしたたかになぐりつけるのを見た。弟も抵抗したが、トシタカさんにビンタを食わされて、泣きながらあやまった。そのときから、ただでさえ仲のわるい兄弟はお互いに口もきかなくなった。
 トシタカさんは家に寄りつかなくなった。

 トシタカさんとコウスケさん。兄弟どうしなのに、ジャックナイフをかまえて、隙あらば相手のドテッ腹をえぐるようなケンカもめずらしくなかった。
 兄弟喧嘩の理由はわからない。

 兄弟の両親は、近所でも評判の働き者で、おだやかな夫婦だった。もともと下級の武士の出だったらしい。昭和初年の当時でも零細な小商人で、間口もせいぜい2間、土間からすぐに畳敷きの店先で、木箱に糸をならべて売っていた。

 幼い私はこの兄弟のすさまじい確執を見て育った。

 はるか後年、ロシアの小説を読みふけったが、ドストエフスキー、アンドレーエフ、アルツイバーシェフなどを読みながら、しばしばこの兄弟のことを思い出した。

 幼い私はいつもコウスケさんにくっついて動いていた。子分のいちばん下っぱに入れてもらったわけである。
 近くの原っぱで、チャンバラゴッコをやるとき、いつも斬られ役だった。コウスケさんはチャンバラ役者にくわしくて、バンツマ(板東 妻三郎)、アラカン(嵐 寛寿郎)、ウタエモン(市川 右太衛門)からはじまって、羅門 光三郎、大友 柳太郎、はては、田村 邦男、岸井 明といった役者の真似をやってみせるのだった。
 私は、いつか、コウスケさんがまねてみせた役者たちの出てくる活動写真を見たいと思った。

 トシタカさんは、後年、中国で戦死したというウワサをきいた。弟のコウスケさんの消息は知らない。

2009/11/17(Tue)  1118
 
 とにかく、徳川 家康のすべてが大嫌いである。

 いまさら家康を論じる気はないが、天正八年の句にいわく、

    うへて待つ 梅は久しき 宿の春

 正岡 子規に読ませたら、どういう顔をするだろう。
 また、天正十六年の聚落行には、

    みどり立 松の葉ごとに此君の 千年の数を 契りてぞ見る

 なんという偽善的な歌! いやらしい。おぞましい。ムカツクぜ。
 文禄三年、秀吉にしたがって吉野の花見に行く。

    待ちかぬる 花も色香をあらはして 咲くや吉野の春雨の音

 詩人としての信玄や、謙信の清冽な気韻とは比較にならない。

 こういう家康が格別に嫌いなのである。むろん。日光、久能山を訪れたうえで、家康を嫌っていることは申すまでもない。
 山路 愛山、中村 孝也の伝記を、家康を書いた伝記として最高のもの、と認めたうえで、心から家康を嫌っているのである。近いところでは、山岡 壮八の『私の徳川家康』なども、私はくだらない自作へのアポロジーと見ている。

 のみならず、家康を「大権現様」、「神君」などと称してあがめた連中。誰が書いたものとも知れぬ「国事昌坡問答」などというものを書いて、家康にオベンチャラを並べるようなヤツを私は軽蔑している。
 白石、鳩巣、澹泊、そろいもそろって Cranky GGども。

2009/11/15(Sun)  1117
 
 これまで嫌いなヤツのことを書かなかった。嫌いなヤツのことは、考えるだけで不愉快になる。ならば黙殺したほうがいい。だから、いつも興味がない顔をしてきたような気がする。
 しかし、人生の終わりが見えてきているのに、嫌いなヤツのことを書かないというのも芸のない話だと思う。たまには、嫌いなヤツのことを思う存分こきおろすという趣向があってもいい。なんてったって、Cranky old man だからね。

 歴史上の人物で、こいつのことを考えるだけで膚に粟を生じる、というヤツもいる。
 まずは徳川 家康。

 徳川 家康のすべてが大嫌い。人となり、外見、風貌、性格、女の趣味、歌、何から何まで反吐が出る。戦国武将のなかで、最低のクズだと思っている。
 したがって、林 道春、金地院 崇伝などは、最低のクズに拝跪して恥じぬ下郎ども。ことごとく、侮蔑、唾棄すべき奴輩にすぎない。

 関が原に敗れた石田 三成が、家康の面前に引き出されたとき、家康は三成に向かって、「良将なり、惜しい哉」と、嘆声を放った。そして、並みいる諸将に向かって、 「太閤(秀吉)恩顧の諸将、あまたありしなかに、三成ひとり、奮然たって大軍をおこしたるは忠士というべきか」と問いかけた。
 これは「国事昌坡問答」という書物(宝暦三年/1753年)にある。

 これほど鉄面皮、偽善な発言はない。
 自分の前に引きすえた敵将をほめそやす。殊勝と見える。じつはおのれの勝ちを誇り、おのれに従った諸将に、みずからの寛仁をアピールする。そして、縲絏(るいせつ)の辱(はず)かしめを三成に思い知らせる。
 かつて三成の同輩だった「太閤(秀吉)恩顧の諸将」に向かって、わざわざ、故太閤(秀吉)恩顧を語って、おのれの戦争責任を正当化してみせながら、「三成ひとり、奮然たって大軍をおこしたるは忠士というべきか」と恫喝する。そして、この「問い」に、「これ是なり」と、自問自答してみせた。
 手のこんだやりくちである。これほど、巧妙、卑劣な手口があろうか。
 家康の心事のいやしさ、醜陋、厚顔無恥は、断然、他の追随をゆるさない。

 考えてみると、徳川 家康こそいちばんの Cranky old man だね。
 嫌いな日本人の代表として、まずもって徳川 家康を眼前にひき据えよう。
    (つづく)

2009/11/11(Wed)  1116
 
 渡辺 世祐先生のことは、前に書いた。もう一度、書いておく。
 少し前に、大河ドラマ「天地人」を見ていて、「石田三成」(小栗 旬)が、太閤秀吉(笹野 高史)の意を察して、関白秀次の制裁をひそかに決心するシーンが出てきた。それを見たとき、まるで関係のない渡辺 世祐先生のことを思い出した。

 戦後、大学の授業が再開されたとき、世祐先生は定年で東大を退いて、明治に移られたばかりだった。私たちは「ヨスケ先生」と呼んでいた。
 小柄で、痩せていらした先生は、いつも左手に分厚い本や資料をかかえて、本郷からお茶の水に出ていらした。風が吹くと吹き飛ばされそうなお姿は、いまでも私の眼に残っている。
 ひどく細身で短い縞模様のズボンをツンツルテンにはいていらした。ズボンの裾から白い靴下が10センチ以上も見えていた。そんな恰好でせかせかと歩いていらした。

 私は歴史学専攻の学生ではなかったが、先生を見かけると足をとめて頭をさげた。
 先生は片手で頭の帽子のまんなかをつかむと、ヒョイっと上にあげる。そのまま、せかせかと歩きつづける。帽子をチョコンともとの位置にもどす。なんともユーモラスで、活動写真のスラップスティック喜劇を見るようだった。

 ずっと後年、渡辺博士のご著書を読むようになった。

    思ふに太閤、既に、秀次を失ふの意ありしかば、三成、その耳目となりて、巨細
    となく、秀次の乱行を太閤に報告するが如きは、あり得べき事なれども、自ら進
    んで秀次を陥ゐれんとせしが如き形跡は、終(つい)に認むる事能はず。吾人は
    、この事件に就て、一般に三成をのみ非難して、秀次の行為に考へ及ばざるは、
    未だ公平なる見解なりと信ずる能はざるなり。 (「稿本 石田三成」」)

 秀次の死罪は大きな影響をおよぼした。
 たとえば、菊亭 晴季(右大臣)は、越後に流されている。
 大名の、最上 義光、伊達 政宗、浅野 幸長、細川 忠興なども譴責されている。
 こうした武将が叱責されたのは、三成の讒言による、とする説が多い。しかし、世祐先生は、その説の根拠となった「松井家譜」、「浅野家譜」、「前田家譜」などは、すべて徳川時代に書かれたものなので、三成に関しては信じがたい、とする。

 大河ドラマ「天地人」を見ていて、敗戦直後の荒れはてた大学の坂道でお見かけした老先生の姿を思い出したのは、自分でも意外だった。

 私は、直接、渡辺 世祐先生の教えをうけたわけではない。しかし、『稿本 石田三成』を読んで、この武将に対する見方が一変した。その後、世祐先生の歴史学に傾倒したというわけではないが、先生のお仕事に少しでも近づきたいという思いがうまれた。

 もの書きの人生には、しばしば先人との不思議な出会いがある。
 私ごときが世祐先生の仕事に啓発された、というのは僣越だが、私がのちにルネッサンスの世界に向かって行ったのは、花田 清輝の『復興期の精神』を読んだからだった。が、一方で、世祐先生の本を読んだことが遠因になっている、といえるような気がする。

 自分でも不思議な気がするのだが。

2009/11/05(Thu)  1115
 
 私は、戦時中に、明治大学の文科文芸科に入学した。

 文芸科では、いろいろな先生の授業を受けた。それまで何も知らなかった私は、おびただしい知識を身につけるだけで、せいいっぱいだったと思う。
 しかし、教授たちのなかに、軍国主義的な言説を説く人はいなかった。

 音楽について田辺 尚雄先生が教えてくれたのだが、ジャズについて語った。むろん、初歩的な知識だったが、先生は教室にポータブルをもち込んで、ジャズのレコードをかけてくれた。戦争のまっ最中に、ジャズが大学の教室から流れるというのは、それこそ破天荒なことだったに違いない。そのとき私が耳にした曲は、「アリグザンダー・ラグタイム・バンド」だった。
 はじめに、アメリカのジャズバンドの一枚、つづいて芸者が三味線でひいた一枚。赤坂の「美ち奴」の演奏だったと記憶している。
 飯島 正先生は、教室にいた私たちにむかって、
 「現在、こういう内容の講義をすることは禁止されていますが、きみたちに必要な知識として、ここでとりあげておきます」
 と断って、1920年当時のロシア映画、とくにプドフキン、エイゼンシュタインなどついて、わかりやすく解説してくれた。まだ、ビデオもDVDもない時代だから、映画を見るわけにはいかなかったが、分厚な研究書に出ている写真を見せてくれた。
 もし学生の誰かが警察に密告すれば、田辺先生も、飯島先生も、ただちに謙虚されたはずである。私は、大学にはこういう勇気のある先生がいるのだ、ということを知った。
 後年の私は、ジャズ、ロック、はてはアジアポップスまで聞くようになったが、その原点に、田辺先生の講義があったと思っている。後年の私は継続的に映画批評を書くようになったが、試写室で飯島さんと会うことがあると、かならず挨拶をするようになった。植草 甚一さん、双葉 十三郎さんといった先輩の映画評論家に紹介してくださったのも飯島さんだった。
 植草 甚一さんから、アメリカの小説のことをいろいろ教えていただいたが、飯島さんからは、ハンガリーの作家、ラヨシュ・ジラヒをはじめ、いろいろな作家のことをうかがうことができた。

 私は、いろいろな先生の教えを受けたことに感謝している。たとえば、小林秀雄の教えを直接に受けた最後の学生のひとりだった。このことは未決定の将来に向かって歩き出したばかりの私に大きな影響をあたえた。

 入学して間もなく、教室での授業はすべて廃止され、川崎の「三菱石油」の工場で労働させられたが。当時、学部長だった作家の山本 有三先生が、おびただしい蔵書を工場に寄贈してくださった。そればかりか、豊島 与志雄先生、小林 秀雄先生を工場に派遣して下さった。工場側と折衝して事務室を借りて、応急の教室で先生が学生たちの質問に直接答えるという授業をなさった。
 ヨーロッパ戦線ではドイツが最後にアルデンヌで、連合軍に反撃していた時期だった。学生のひとりが、ドイツはどうなるのでしょうか、と訊いた。小林先生は、言下に、
 「ドイツは負けるだろう」
 といい放った。それを聞いた私は、ほんとうにふるえたといってよい。
 このときの小林先生の話は、私の内面にしっかり刻みつけられた。

2009/10/31(Sat)  1114 Revised
 
 ある日の私は気ままな旅をつづけている。
 明治初年の日本人労働者の苦闘をしのばせるケニヨン・ロードを通って、バギオに着いたのは夕方だった。人口、五、六万の小さな都会で、標高1500メートルの高原にあるだけに、日本の秋に似て、少し肌寒いほどの季節だった。

 バギオに着いてから、自分の迂闊さに気がついた。マニラからノン・ストップの高速バスに乗ったのだが、その日遅く着いたので、マニラに戻る手段がなかった。
 当時のフィリッピンは、マルコス大統領の緊急立法によって、深夜12時から朝まで、外出禁止時間(カーフュウ・タイム)がきめられている。悪いことに、私はマニラのホテルにパスポートを預けたままで、気まぐれにバスに飛び乗ってしまったのだった。

 夕闇がひろがっている。
 かすかな不安をおぼえながら、とりあえずホテルをさがそうと思った。見知らぬ町で、ホテルをさがす私は、おのれの孤独と寄り添うような姿だったにちがいない。

 バーナム公園の近くで、ふたりの少年に会った。
 ひとりは、まるで中南米の黒人を思わせる顔つき、肌の色で、もうひとりは、華僑のような少年だった。私はこの少年たちをつかまえて、しばらく話をした。
 黒人に似た少年は、アートゥロ、13歳。もう一人は、ジェリー、11歳。意外なことに、ふたりは従兄弟どうしだという。
 ジェリーははしっこい感じで、少し話しただけで、利発な少年だとわかった。
 私は、少年たちと話をしているうちに、「パインズ・ホテル」という
 「どこでもいい、落ちついた、上品なホテルにつれて行ってくれないか」
 と頼んだ。

 少年たちがつれて行ってくれたのは、どう見ても、けばけばしくていかがわしい雰囲気の安ホテルだった。というより、娼家(ボルデッロ)だった。

 少年たちには、この娼家(ボルデッロ)が、いちばんいいホテルに見えたのだろう。あるいは、異国人の私を見て、あてどもなくさまよう旅人とみたか。
 まだ、反日感情がつよく残っていた時期のこと。

 私は、その夜、バギオ高原の山の中で、タクシーをひろった。外出禁止時間(カーフュウ・タイム)を過ぎていたから、タクシーをひろったのはまったくの偶然だった。
 老人の運転手が、自宅につれて行ってくれた。妻に先立たれ、ひとり暮らしで、タクシーの運転手をやっているという。60代の後半か、70代になっていたか。

 老人は、私が空腹と見て、パンとバタ、紅茶を出してくれた。

 その夜、私は、マニラから脱出して北方に敗走した旧日本軍の惨状と、追撃するアメリカ軍の話を聞いた。
 夜がしらじら明けてから、私は誰も歩いていないバギオの町を歩いて、少年たちが案内してくれたボルデッロに戻った。
 ボーイが眠そうに眼をこすりながら、ドアを開けてくれた。

2009/10/28(Wed)  1113
 
 歌舞伎の大名題が先人の名を継ぐのはわかるのだが、俳人が、先人とおなじ名を継ぐのはいかがなものか。
 たとえば、天野 桃隣の様な例がある。

 初代の桃隣は、元禄四年、芭蕉に入門したらしい。その後、三十年におよんで、俳句を詠んだ。

    三日月や はや手にさわる草の露
    白桃や 雫も落ちず 水の色
    昼舟に 乗るや 伏見の 桃の花

 などが佳句とされる。

 宵に、ふと三日月を見ている。むろん、満月の趣きはない。しかし、その月のかけを見ていれば、いつしか、つぎの満月を待ち望む心も生まれよう。気がついてみると、手にふれた草も露を置いているではないか。
 しっとりと落ちついた句だが、中、「はや」が小さい。前の切れ字「や」と重ねたのも趣向と見るべきだろうが、私にはあざとく見える。

 「白桃」の句はいい。芭蕉も褒めたという。

 「昼舟」は一幅の絵を見るようで、私の好きな句。

 桃隣の、芭蕉追憶の句も、先師に対する思いがうかがえる。

    真直(まっすぐ)に霜を分ケたり 長慶寺

 これは、芭蕉三回忌の作。

    初秋や 庵 覗けば 風の音

 これは、元禄八年の作。

    片庇 師の絵を掛けて 月の秋

 これは、元禄九年の作。

 ただし、桃隣の句は、これ以外、あまり見るべきものがない。

    ななくさや ついでにたたく鳥の骨
    七癖や ひとつもなくて 美人草
    盂蘭盆や 蜘(くも)と鼠の 巣にあぐむ

 どうして、こうもつまらない句ばかり詠むことになったのだろう?
 考えられることは・・・桃隣は、芭蕉を失ったあと、蕉門の人々とも交渉がなくなったのではないか、ということ。
 あるいは自分の資質をあやまって、談林派の人々のあいだに身を投じたのではないか、ということ。
 桃隣は、途中で「桃翁」と称する。これもややこしい名前で、元禄に別人の「桃翁」がいて、享保にも、これまた別人の「桃翁」がいる。だから、私がここにとりあげた桃隣の句も、ほんとうは誰の句なのかわからない。

 いずれにせよ、俳句を読んでいるうちに思いがけない人とめぐり会う。私にとっては、桃隣との出会いも楽しいのである。

2009/10/25(Sun)  1112
 
 若い頃に読んだ本を読み返している。
 私は何を理解したつもりでいたのか。苦い思いがこみあげてくる。
 たとえば、モンテーニュ。

 はじめてモンテーニュを読んだのは戦後すぐだったが、当時の私は何も理解しなかったはずである。はじめから理解できなかった。まるで、おもしろくなかった。

    ひとりごとをいうことが気違いの態度でなければ白状するが、私は自分に向かっ
    て、「このバカやろう」とどならない日は一日だってない。けれども、これが私
    を定義するなどというつもりはない。

 今の私なら、自分に向かって、青二才のくせにモンテーニュを読んで、おもしろくなかったなどとホザきやがって「このバカやろう」とどなってもいいところだが。
 40代になってから、もう一度、モンテーニュを読みはじめた。
 ほんのわずかだが、モンテーニュのいうことがわかりそうな気がしてきた。

 今頃になって読み返してみると、モンテーニュの偉大さが、昔よりもずっとよくわかってくる。
 中田 耕治なんて、まったくどうしようもないアホウだなあ。

    神様は、われわれに引っ越しの用意をする暇をお与えくださっているのだから、
    その準備をしよう。早くから友人たちに別れを告げておこう。

 いつの日にかこんなことばが、ごく自然にいえるようになりたいと思う。

2009/10/23(Fri)  1111
 
 ある人生相談。

    テレビタレントになりたくて養成所に通っているのに、舞台の台本を読まされたり、発表会で舞台に出なくてはなりません。先生もテレビの人ではなく舞台の人です。出なくてはいけないのでしょうか。
           ――プロダクション系養成所 18歳 女

 失礼ですが、きみがテレビタレントになれる可能性は絶無といっていいでしょう。
 一日も早くその養成所をやめて、別の仕事(アルバイト)でもさがしたほうがいい。

 テレビタレントになりたくて養成所に通っているのに、舞台の台本を読まされた、とこぼしているきみは、まったく不適格です。テレビタレント志望者に読ませるテレビ台本など、あるはずがない。バラエテイの構成台本など、いくら読んでもテレビタレントにはなれないのです。

 発表会などの舞台に出ても仕方がない、と考えるだけで、きみがテレビタレントになれないことがわかります。どんなに小さな役でも、舞台を見ているひとには、きみの容姿、歩きかた、息づかい、手のつかいかた、ファッション・センス、健康、生理、きみに魅力があるかどうか、すべて一瞬で見届けるのです。
 指導する先生がテレビ関係者ではなく舞台の人だそうですね。
 現役のテレビの演出家が、そんな養成所できみたちを指導することなど考えられないでしょう。現場のADか何かがきみたちを指導するとして、何を指導するのでしょうか。

 きみはどんな養成所に通ったところで、けっしてテレビタレントにはなれない。
 もしタレントになれるとすれば、インチキな芸能プロダクションの「面接」をうけて、あられもないシーンを撮影されて、AVの女優になることぐらいでしょう。
 こういう女の子を、ギョーカイではバッタというようですが。

 もし私が相談を受けたら、こんなふうに答えるだろうな。

2009/10/21(Wed)  1110
 
(つづき)
 荒唐無稽なデマがながれる。
 ソ連兵が新潟に上陸、農業倉庫をさしおさえた。日本の女たちは慰安婦にされ、男たちは全員が去勢される。無数のデマがひろがったため、笑えない喜劇が全国で起きた。どうせ接収されてしまうのなら、という理由で、各地の倉庫の品物を分配した村々。
 アメリカ兵は肉食だから、という理由で、飼育している家畜をみんなで食べてしまった村々。中国兵がニンニクやタマネギを好む、という理由で、貯蔵してある野菜をすべて放出したり、焼き捨てたり。
 混乱のなかで、各地の航空隊から、残存した戦闘機が飛来してビラをまいた。戦争継続を訴えるためだった。すさまじい爆音が都民を威圧したが、もう戦争気分は消えていた。

 一方、戦争が終わって、また戦前の暮らしに戻れるというので温泉に出かけたり、のんびり木曽の御嶽さんに登る連中もいた。

 灯火管制が正式に解除されたのは八月二十日からだが、敗戦の当日の夜の街も住宅もいっせいに明るさをとり戻しはじめていた。
 映画館も、22日に再開されたが、実際には敗戦の三日後には、それまで上映していた映画のかわりに、どこからか見つけてきた戦前のフィルムや、無声映画を上映した映画館が出てきた。とにかくアナーキーな、やけのヤンパチといった気分が渦巻いていた。

 虚脱感。絶望感。怒り。やけっぱちのなかで、バカバカしさを笑いとばすような、あっけらかんとした明るさ。敗戦直後からの1週間のバカバカしさってなかった。
 たちまち、戦後のすさまじい荒廃がつづいてゆくのだが。

 「週刊朝日」(1945年3月18日号)。おなじく「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
 現在の私は、偶然に入手した週刊誌を手にして、東京大空襲と、敗戦後のてんやわんや、やっさもっさを思い起こしている。

2009/10/18(Sun)  1109
 
(つづき)
 敗戦直後の「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。
 まず興味をもったのは、織田 作之助のエッセイ、「永遠の新人 大阪人は灰の中より」というエッセイだった。
 なぜか。
 この1945年3月14日に、大阪が大空襲をうけた。織田 作之助は、(私がとりあげた)「3月18日号」のつぎの号に、戦災の体験を発表している。そして、この合併号に執筆を依頼されたのは、敗戦直後の8月17日。

    既に大阪には新しい灯(ひ)が煌々と輝き初めたではないか。旧人よ去れ。親に似ぬ子は鬼子といふが、新人はつねに旧人に似ぬ鬼子だ。

 という。織田 作之助の気概を思うべきだろう。
 この作家は、戦後、流行作家として知られたが、1947年1月に死去。

 敗戦直後の「週刊朝日」に、周 作人の「明治文学の追憶」というエッセイが掲載されている。これもまた、私には驚きがあった。(ここではふれない。)
 前号(つまり、戦争終結)まで続いた岩田 豊雄の『女将覚書』が完結した。日露戦争の時代に、横須賀で艶名をとどろかせた料亭の女将の半生記。海軍の話なので、急遽、打ち切られたのだろう。
 岩田 豊雄は『海軍』を書いたため、戦後、公職追放処分をうけたが、獅子 文六の名で、『てんやわんや』、『自由学校』、『やっさもっさ』などを書く。
 岩田にかわって、阿部 知二の『新浪人伝』の連載が予告されている。(私はこの作品を知らなかった。)

 この号の定価、六十銭。敗戦直後のインフレーションの最初のあらわれ。
 そして、デマが流れ、すさまじい食料難がおそいかかってくる。
 敗戦の翌日には、有楽町、新橋の焼け跡に、闇屋がひしめき、あやしげな蒸しパン、雑炊、ふかしたサツマイモの切れっぱしが並んだ。飢えた人たちが、そんな食いものに押し寄せる。 
   (つづく)

2009/10/15(Thu)  1108
 
 最近、見つけた「週刊朝日」(1945年9月2日/9日号)。A4判、32ページ。定価、六十銭。(3月18日号)が、20銭だったのに、この号は60銭にあがっている。敗戦直後から、狂乱物価が庶民の生活を直撃する。

 表紙は、佐藤 敬。何かの植物を背にして、ワンピースを着た女性。それほど若くはない。バスケットをかかえている。表情はうつろ。バスケットの中にはリンゴが数個並んでいる。「リンゴは何にもいわないけれど、リンゴの気もちはよくわかる」ということなのか。
 この号が、9月2日/9日の合併号になっていることからも、敗戦後の混乱が読みとれる。アメリカ軍の第一次進駐部隊の一番機が、厚木基地に着陸し、マッカーサー元帥が日本本土に降り立ったのを見届けて――緊急に編集会議が開かれて、それまでの戦時色を一掃する編集方針がきまったのだろう。
 巻頭論文は、第一高等学校校長、安倍 能成の「日本の出発」。

    一億玉砕といふ恐ろしい詞がつい今しがたまで軽易に繰返された。併し日本は敗れて敵の申出を受諾した。それも屈辱を極めた受諾であった。

 という書き出し。安倍 能成は、これより後、「平和日本」の出発にかかわってゆく。

 つぎのぺージは、「この悲劇乗り越えん」と題した社説のごとき文章。

    終戦議会――我々国民が嘗て夢想だにしなかった運命的な日はやってきた。

 という書き出し。
 清瀬 一郎のエッセイは、

    わが国は新しき政治に進発しなければなりませぬ。しかもそれは極めて根本的の出直しであることが必要であります。

 なぜ敗戦したか、まずふかく反省せよ、という論旨。そして、このなかで、原子爆弾の使用は戦争犯罪なり、とする。このエッセイを書いた清瀬 一郎は、やがて日本の戦争指導者をさばく東京裁判で弁護人をつとめる。
    (つづく)

2009/10/12(Mon)  1107
 
(つづき)
 「週刊朝日」(1945年3月18日号)。定価、二十銭。

 短歌の選者は、斉藤 瀏。戦時中に威勢がよかった歌人。

    自転車の姑娘続くうららかさ北京の春は今さかりなり

 これは中支派遣軍の兵士が寄せたもの。

    隊長の机の上に戦友等つぎつぎ置き去る遺言の包

 これは傷病兵が詠んだもの。
 俳句の選者は、富安 風生。

    菊咲いて日本晴のビルマかな

 これも傷病兵が詠んだ俳句。

 連載小説は、山岡 壮八の『寒梅賦』。南方の前線基地で、航空隊の特攻を指揮した海軍の提督、有馬 正文中将伝。見開き、2ページ。

 この号の映画広告は、2本。
 黒沢 明の「続 姿三四郎」。前作、「姿三四郎」とキャストはおなじだが、比較すべくもない凡作だった。広告の大きさは、タテ 4センチ2ミリ、ヨコ 6センチ6ミリ。
 もう1本は、佐々木 康監督の「乙女のゐる基地」。松竹映画。近日封切。
 笠 智衆、佐野 周二、東野 英治郎、原 保美、水戸 光子ほか。
 「大空の下 愛機の整備に打込む 戦ふ女性の凛烈の気迫! 決戦女性の生活指標を描く!」
 広告のサイズは、タテ 6センチ、ヨコ 8センチ。

 私はこの映画を見ていない。3月10日の空襲で焼け出されたため、まったく無一物のまま、学徒動員で川崎の工場に通わなければならなかった。生きるのがやっとという状況で映画を見るどころではなかった。

 紙質がひどくわるい週刊誌を手にする。ひたすら敗戦にむかって崩れ落ちてゆく時期の日本の姿が透けてみえる。
 この週刊誌を手にする私の内面には、けっして消えることのない思いがえぐりつけられている。

2009/10/11(Sun)  1106
 
 最近、ある週刊誌を見つけた。2冊。いずれも戦時中の「週刊朝日」。わざわざこんなものを見つけ出して読むのは、私だけだろう。

 1冊は「週刊朝日」(1945年3月18日号)。A4判、22ページ。

 表紙は、小磯 良平。若い飛行兵ふたりが手紙か何かを見ている。題は「基地出発」。当時の読者は、特攻として出撃する予科練の若人を想像したはずである。
 戦後の小磯 良平が、若い女性の姿を描きつづけたことを知っている人は、このデッサンに深い感慨をもよおすだろう。
 ことわっておくが、私は小磯 良平が戦争に協力したなどというのではない。まして彼を非難するつもりはない。

 1945年3月10日、東京の下町はアメリカ空軍による空襲で壊滅した。この空襲による死者は十万人を越えた。

 この「週刊朝日」は、大空襲の直後に出た週刊誌だろう。というのは、前号(3月11日号)が無事に出たとしても、3月18日号は、編集の途中で3月10日の大空襲にぶつかったはずである。これほどの大空襲に見舞われるとは編集部の誰も予想していなかったと思われる。
 小磯 良平の表紙も、おそらく空襲より前に依頼されて描かれたものと見ていい。

 3月18日号に掲載されている時局に関する記事。
 当然ながら、国民の戦意昂揚を目的とするものばかりだが、西田 直二郎(京都帝国大教授、文学博士)の、「今ぞ戦争完遂の神機 大化改新・祖先の功業に偲ぶ」というエッセイが巻頭をかざっている。

    今や昭和の大御代(おおみよ)となり、大東亜聖戦のただ中に大化改新より一千三百の歳月をここに向へたのである。大化改新の精神は長い歴史を経て却って強くも此の年に際りて輝きて生き来ったと言へる。

 こういう空疎な文章が氾濫していた時代だった。

 陸軍航空本部、森 正光中佐が、「敵の航空作戦を暴く 夜間の大編隊都市爆撃は必至」という論文を書いている。厚生省の医師、瀬木 三雄は「集団疎開 本土戦力の急速強化ヘ」をとなえる。
 「週評」というコラムでは、「敵機何するものぞ 見よ焼跡に不屈の闘魂」といさましい記事。

 「決戦大臣あれこれ談義」というインタヴューでは、大達内相の「頼もしきかな 罹災者の戦意」という記事。記者は、津村 秀夫。なにしろ、娯楽用の映画フィルムがなくなって、ろくに映画も公開されなくなったため津村 秀夫がこんなインタヴューを担当したらしい。
 
 今の読者に教えておけば――津村 秀夫は、戦後も「Q」というサインで映画批評を書いていた映画批評家。著書も多い。
(つづく)

2009/10/09(Fri)  1105
 
(つづき)
 ゲイリー・クーパーについて・・・・

    日本流に数へて二十九歳の好青年。とはいつても昔風な優男一点張りでないことは勿論。情があって、それでゐて男らしい。身長だって六尺二寸といふ大男だ。
    たとへば皆さんの中でもこの青年を嫌ひだといふキネマ・ファンは絶対にないと思ふのですが、いかがですか? 髪は褐色、瞳は清澄な青色。
    まだ独身です。舞台経験はない。出演映画の主なものは「つばさ」、「ライラック・タイム」等等。

 まだ「モロッコ」が封切られていなかったことがわかる。

 ゲイリー・クーパーは、1926年、「バーバラ・ウォースの勝利」に、エキストラとして出演してから、1960年、アカデミー賞、特別賞を受け、翌年亡くなっている。
 戦前の代表作は、「モロッコ」(30年)だが、{武器よさらば」(32年)、「生活の設計」(34年)、「マルコ・ポーロの冒険」(38年)など。
 私たちは、戦後になってあらためて、「誰が為に鐘は鳴る」(43年)、「サラトガ特急」(44年)から「真昼の決闘」(52年)まで、ハリウッドを代表する大スター、ゲイリー・クーパーを見直すことになったのだった。

 彼は、いつも「平均的なアメリカ人・ジョー」を演じつづけた。ミスター・ジョン・ドウの典型である。彼の信条は、じつに単純なものだった。
 アーサー・ミラーの『セールスマンの死』について、

    たしかに、ウィリー・ローマンみたいなやつはいるよ。だけど、そんな連中のことを芝居にする必要はないさ。

 アドルフ・マンジュウ、ジャッキー・クーガン、ジョン・ギルバート、ゲイリー・クーパー、バスター・キートン、リチャード・アーレン、マリア・ヤコビニ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイ、ビリー・ダヴ、ドロレス・デル・リオ、クライヴ・ブルック、メリー・ブライアン。

 この顔ぶれは、昭和初年の日本女性に人気があったスターだったのだろう。いずれも「天分と容姿」に恵まれたスターたちだが、現在、彼、彼女たちの映画を見ている人がいるだろうか。
 この時期、中国では「上海摩登」(モダン)が登場する。チーパオを着たクーニャンが颯爽と歩いていた。日本で公開されない映画も上海では見られた。

 小さな投書から、私の連想はつぎつぎにひろがってゆく。ときどき、自分でも収拾がつかなくなるのだが。

2009/10/07(Wed)  1104
 
 こんな投書を見つけた。ある婦人雑誌(昭和4年12月号)から。

    今年四月高女を卒業したもの、映画女優志願。家にいて手続できますか。金は沢山入用ですか。会社は。   (滋賀県、京子)

 「婦人立身相談」。回答者は答えている。

    本欄としては初めての御質問です。これは天分と容姿の問題で、私が会社側の立場としていへば、身長五尺二寸以上、容姿普通以上、健康にして労働を厭はず演芸に趣味を有し研究心ある者ならば合格線に近いわけです。ただ単なる憧憬なら不賛成。家人によく相談して御覧なさい。会社にして堅実なるものは日活、松竹共に第一流ですが入社は困難でせう。かうした会社で時々臨時雇を募集することあり、その節テストに応じて見こみがなかったら諦めることです。

 映画スターを夢見た京子さんは、きっと美人だったのだろう。ただし、「天分と容姿」ということになれば、ごくありきたりの「美人」では通用しない。
 京子さんは「家人によく相談した」のだろうか。「ただ単なる憧憬なら不賛成」どころか、その不心得を説諭されたにちがいない。

 容姿に関して、身長五尺二寸というのも、当時の女性の平均をこえていたレベルなのだろう。体重は? 私としては知りたいところだが。
 さて――日活、松竹のその後を知っている私たちには、露槿すでに秋を傷(かな)しむ思いがある。
 金は沢山入用ですか。これには返答のしようがない。だから答えていないのだろう。

 この1929年、サイレント映画はまさにトーキーと交代しようとしていた。
 一つの芸術の決定的な消滅と、別の表現形式の登場だったが、その衝撃の大きさにまだ誰も気がつかない。
 当時、最高の人気を誇っていたメァリ・ピックフォード、コリーン・ムーア、グローリア・スワンソン、ビリー・リリー、クララ・ボウといったスターたちも、はげしい運命の転変を経験しようとしている。

 「婦人世界」は、ハリウッドのスターたち、13名を紹介している。

 アドルフ・マンジュウ、ジャッキー・クーガン、ジョン・ギルバート、ゲイリー・クーパー、バスター・キートン、リチャード・アーレン、マリア・ヤコビニ、ジャネット・ゲイナー、フェイ・レイ、ビリー・ダヴ、ドロレス・デル・リオ、クライヴ・ブルック、メリー・ブライアン。                   (つづく)

2009/10/05(Mon)  1103
 
 ある晩、私は酒場「あくね」で飲んだあと、お茶の水に向かっていた。たまたま明治大学の正面前から歩いてきたふたり連れがいた。ふたりとも、いいご機嫌のようだった。
 作家の田中 小実昌と、翻訳家の山下 諭一だった。

 「中田さん、マリリン・モンローのスリー・サイズをおしえてください」
 田中 小実昌がいった。

 こういう質問には警戒してかかる必要がある。
 田中 小実昌は、すっかり出来あがっていて、いいご機嫌だったから、私を見かけて、たちまちとっぴょうしもないことを切り出して、困らせてやれと思ったのかもしれない。
 だから、悪意があってのことではない。

 マリリン・モンローのスリー・サイズは、
       39 24 37
       37 23 38
       36 26 36
 どれも、よく知られている。

 女性の人生の時期によってスリー・サイズが変化するのは当然だろうが、私はマリリン・モンローのスリー・サイズに関心はなかった。そんなことはどうでもいい。ある時代、ある場所にひとりの女が生きたということは、それだけで孤立してとらえるわけにはいかない。
 女のスリー・サイズを知ったところで、その女の美しさをどれほども説明できるものでもない。

 田中 小実昌が、いきなりそんなことをいい出したのは、私がマリリン・モンローの評伝めいたものを書いていたからである。そんな仕事をしながら、身すぎ世すぎのために雑文などを書いている。
 田中 小実昌は、ミステリーの翻訳家として知られていたが、この頃からすぐれた短編を書きはじめていた。作家として知られてきただけに、マリリン・モンローなどに入れあげている私をからかってやろうとしたのだろう。
 山下 諭一はニヤニヤしていた。

 私は、「36 26 36だと思います」
 そう答えた。

 そのまま、ふたりと別れたが――あとになって、田中 小実昌と、山下 諭一がいっしょになって、私のことを大笑いしているだろうな、と思った。

 なんでもない話である。しかし、私の内部には何か澱のような気分が残った。

2009/10/03(Sat)  1102
 
 歴史上、すぐれた業績をのこした人は、ほとんど例外なく読書家だったという。
 そうだろうなあ。

 なかには、常識では考えられないほど大量の書物を読みこなしている人もいる。
 トーマス・アルバ・エディスンは、自分の読んだ本を1冊、2冊と数えなかった。本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といっていたとか。

 少年時代に、沢田 謙という人が書いた『エジソン伝』(新潮文庫)を読んだ。
 これがじつにおもしろかった。小学生向きに書かれた伝記ではなかったが、なによりもまず、少年時代のエディスンの生きかたに心を奪われた。少年なのに、新聞を創刊したり、無線電信の技手になって、州議会の投票の電化を考えたり、なんでも「発明」したり。
私は、はじめて伝記のおもしろさに夢中になった。
 沢田 謙の『エジソン伝』は、愛読書になった。私は何度も何度もくり返して読んだ。

 その後、つとめて沢田 謙の書いたものを探すようになった。世界の感動美談といった、いまでいうノン・フィクションを書いていたが、『エジソン伝』ほどおもしろいものではないので、夢中になって読むこともなかった。
 おなじ伝記でも、ただおもしろいだけでなく、もっと深く人間性を追求しているものがあることに気がつきはじめた。

 沢田 謙や、野村 愛正、加川 豊彦、吉田 甲子太郎(朝日 壮吉)といった人の書く伝記ものは、どこかウソっぽい感じがあった。
 あまり才能のない、たいして想像力に恵まれていないもの書きでも、偉人や、有名な人物の伝記でも書いていれば、けっこう文学者のような顔をしていられるらしい。そんなことをぼんやり考えたような気がする。

 エディスンは、自分の読んだ本をならべて、今日は1フィート読んだ、2フィート読んだ、といったという。偉人伝にありがちな伝説と見てもいいが、実際にエディスンは、多読を可能にする速読法を身につけていたのかも知れない。
 若い頃の私だって、読みやすくて、内容もさしてむずかしくない新書版、文庫程度なら、毎日5冊、10冊と読みとばしていた。別にむずかしいことではない。

 モームが嘆いていた。若い頃に、読書についてきちんとした指導を受けていたらずいぶんよかったに違いない、と。けっきょく、自分にはあまり役に立たなかった本に多くの時間をついやしたことを思うと、ためいきが出る、という。
 私は、モームのような読書家ではないので、くだらない本にあまりにも多くの時間をついやしたことを後悔しない。ただ、ある国の社会を理解するには、おびただしい、二流、三流のミステリー、三文小説を読むのがいちばんいい、と思ってきた。
 私は、博学多識など、すこしも敬意をもたない。
 京都町奉行の神沢 与兵衛の『翁草』正続二百余巻よりは、上田 秋成の『癇癖談』、平賀 源内の『放屁論』一巻のほうが、はるかにおもしろい、と思っている。

 まだ、読んでいない本のことを考えると、ためいきが出る。

 ただし、あわれなことに、いまや、私の読書のスピードは落ちている。というより、早く読む必要がなくなっている。気ままに本を読み散らしているので、昔読んだ本をもう一度読み直してみたり。
 若い頃に読んですごい傑作だと思ったものが、いま読んでみると、たいしたものではなかったり、逆に、若いときにはよく見えなかったものが、老いぼれて、やっと見えてきた、なんてこともあったりして。(笑)

2009/10/01(Thu)  1101
 
 ある劇作家がいう。

    先輩の劇作家で、人気が衰えてからも劇作をつづけた例をあまりにも多く見てき
たものだ。時代が変わったことに少しも気づかず、気の毒にも、おなじような芝
    居をくり返し書いているのを見てきた。また、当世ふうの好みをなんとかとらえ
    ようと必死にがんばり、その努力を物笑いにされて、しょげている先輩を見た。
    以前は、芝居を書いてくれと支配人に懇願されていた人気の劇作家が、おなじ支
    配人に脚本をわたしても、相手にされなかったのも見たものだ。
    俳優たちがそういう先輩たちを軽蔑的に、あれこれとあげつらうのも聞いてきた。
先輩たちが、今の観客が自分たちを見限ったことに、やっと気がついて、戸惑い、
呆れ、くやしがるのを見てきた。
    かつては、有名な劇作家だったアーサー・ピネロ、それに、ヘンリー・アーサー
    ・ジョーンズが、だいたい似かよったことばで、「おれはご用ずみらしい」とつ
    ぶやいた。ピネロは、むっつり皮肉をきかせて、ジョーンズは、途方にくれなが
    らも、ムカッ腹をたてて、そういった。

 サマセット・モームの回想。
 さすがにいうことがちがうなあ、一流作家は。

 私にしても、いろいろな先輩の作家や、評論家の生きかたを見てきたものだ。
 1950年(昭和25年)、岸田 国士の提唱で、文壇と演劇界が大同団結して、あたらしい運動を起こすことになった。具体的には、「雲の会」の発足になった。
 私は芝居に関してはまったく無縁で、どこの劇団にも関係はなかったし、将来、自分が劇作、演出などを手がける可能性など考えもしなかった。それでも、このとき、矢代 静一といっしょに、最年少のメンバーとして参加したのだった。

 「雲の会」のメンバーは、半数以上が文学者だったが、メンバーにならなかった人たちは強い反感をもって見ていたと思われる。

 ある日、私は、たまたま、先輩の演劇評論家、劇評家、戯曲専門の翻訳家たちの集まりに同席した。このとき、その席にいたのは、茨木 憲、西沢 揚太郎、遠藤 慎吾、尾崎 宏次ほか数名。
 ひとしきり各劇団のレパートリー、俳優、女優の誰かれの話題で盛り上がっていたが、やがて若い劇作家、演出家の月旦に移った。当然ながら、私はこの人たちの話に興味をもった。
 当時、すでに劇作家として登場していた福田 恆存、三島 由紀夫、加藤 道夫、中村 真一郎、矢代 静一、八木 柊一郎の仕事などに対して、みなさんの手きびしい批評がつづいて、黙って聞いていた私はおぞけをふるった。はっきりいえば、ふるえあがったといっていい。
 劇評にはけっして書かないような、激烈なフィリピックスが、ごく内輪の、こういう場所では、辛辣、無遠慮におもしろおかしく語られているのか。

 このとき私は考えたのだった。
 このひとたちが、後輩に対してこれほどきびしい批判を浴びせるのは――じつは、自分たちが、いつの間にか、劇壇の主流からはずれて、いまや、むっつり皮肉をきかせて後輩を語るか、途方にくれ、ムカッ腹をたてて、そんなふうに当たりちらしているのではないか、と。

 時代がすっかり変わったことに気づかず、いつもおなじような主題をくり返し書くようになってから、後輩に対してきびしい批判を浴びせるようなことがあってはならない。自分がみじめになるだけだ。
 いまも、この考えは変わらない。

2009/09/29(Tue)  1100
 
 いくらいい翻訳論を読んでも、翻訳がうまくならないように、演出論といったものを読んでも、実際の演出にはあまり役に立たない。

 何かの本で読んだ、ジョン・ウェインのエピソードを思い出す。

 彼は、顔を洗いながら、セリフを一行いうことになっていた。そのセリフは――「あんたの行くところなら、どこだってついて行くよ」という一行。
 ところが、顔の洗いかたが、監督の気に入らなくて、何度も撮り直しになった。ジョン・ウェインは、監督の気に入るように、いろいろとやってみた。
 ところが、監督は承知しない。
 とうとう、最後に、監督が、

    顔をピシャピシャやるな。顔を洗うこともできんのか!

 と、どなりつけた。
 ジョン・ウェインは、自分ではきちんと顔を洗う演技をしているつもりだったので、監督に怒鳴られたことにいささかおかんむりだったらしい。

 あとになって、ジョン・ウェインは考えたという。

 このシーンのつぎのカットは、その映画のいちばん大事な、いわばハイライト・シーンになっている。監督はそのハイライト・シーンを撮影する前に、俳優を緊張させるために、さして大事ではないシーンで、叱りとばしたのではないか、と気がついた。
 そのハイライト・シーンの撮影では、まるで赤んぼうのように、やさしくあつかわれたらしい。

 この監督は、いうまでもなく、ジョン・フォード。

 こういう演出は、まともに語られることがない。まして、こムズかしい旧ソヴィエトの映画論、演出論などには絶対に出てこない。
 ジョン・ウェインは、ハリウッドの黄金期の大スターだったが、役者としてはたいしてうまいひとではない。まして、名優などといえたものではなかった。
 それでも、西部劇では不朽の名声を得た。はじめて、ジョン・フォードに出会った「駅馬車」、彼自身がはじめてプロデュースした「拳銃の町」、大スターになってからの「リオ・グランデの砦」などを見ておけば、ジョン・ウェインの「いい映画」はひとわたり見たことになる。「グリーン・ベレー」などは見る必要がない。

 ジョン・フォードは、ジョン・ウェインがたいしてうまい俳優ではないことを知っていた。しかし、自分の映画に出てもらう以上、誰よりもいい俳優に見えなければならぬ。そういう、きわめてプラグマティックな計算から、さして大事ではないシーンなのに叱りとばしたのではないか。
 ただし、その「演出」に気がついただけジョン・ウェインは名優かも。

2009/09/27(Sun)  1099
 
 ’09年3月30日、日本の人口は、1億2707万6183人。前年比、1万5人増。増加は、2年連続。
 5人というところがうれしいね。両親と、若いカップルと、子どもがひとり。そんな家族を想像して。

 海外からの転入、帰化などにともなう社会増加数は、昨年、4万1826人。今年は、5万5919人。してみると、1万4093人の増加ということになる。
 ところが、出生者数から死亡者を引いた自然増加数は、4万5914人。
 過去最大の減少という。人口の落ち込みがはっきりしてきた。
 そして、帰化した人が、1万数千。

 出生者数は、108万8488人。前年比、7977人減。この減少は、3年ぶり。

 死亡者数は、113万4402人。過去最高。

 以上、総務省の発表(’09年8月11日)による。

 私が、酔狂にも、こんなことを記録しておくのは――ここに、亡国の翳りを見るからである。
 社会増加数が、1万4093人も増加している、といって、喜んではいられない。海外に進出した企業が、世界的な不況でぞくぞくと撤退している事態が見えてくる。

 帰化した人が1万数千というのははたして喜ばしいことなのか。

 新聞記事の引用だけでは気がきかない。ついでに、おもしろい統計を並べておく。
 亨保17年、日本の人口統計。

    武家人数  2億3698万7950人
      内 女 16万1610人
    男 惣合  2億3606万6827人
    女 惣合  109万4948人
    男女惣合  2億3716万1775人

 凄いね。おなじ統計で、江戸の町人数は、52万5700人

      内 男 30万5110人
      内 女 22万0590人

      坊主   2万6000人
      山伏     3075人
      弥宜(神主)   90人
      比丘尼    6750人
      川原者    3250人
      新吉原人数  8960人
      内 男    2962人
      内 女    5998人

 『甲子夜話』(文化12年)の統計では、

      江戸町人数  53万2710人
        出家   2万6090人
        山伏     3081人
        新吉原人数  8480人
        総数  57万4261人
      武家人数  2億3658万0390人

 こいつはいいや。’09年3月、日本の人口が、1億2707万6183人。江戸の武家人数が、2億3千万というのだから、ノーテンキな話さね。

 時代遅れの Cranky GGとしては、総務省の統計を見て膚に粟を生ずる思いだった。江戸の統計を書きとめておくのはショックアブザーヴの冗談。(笑)

2009/09/25(Fri)  1098
 
 こんなことは書かなくてもいいのだが――ひょっとして、気がつく人がいるかも知れない。

 評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた頃、私はジャーナリズムから離れていた。ごくたまに原稿を書いたが、それもルイ・ジュヴェのことを書く程度だった。

 「キネマ旬報」に頼まれてエッセイを書いたが、これも、もはや忘れられている俳優、ルイ・ジュヴェについて書いたものだった。
 編集部が「女だけの都」(ジャック・フェデル監督/1935年)の写真を掲載したが、ルイ・ジュヴェは出ていない。どうやら「太公」のジャン・ミュラーと、ジュヴェの「従軍僧」を間違えたらしい。
 私は、訂正を申し込むこともしなかった。高級な映画雑誌の編集者でさえ、ジュヴェを知らないのだから、訂正したところで意味はない。

 『ルイ・ジュヴェ』が出版された頃、「映画史100年ビジュアル大百科」というムックが、継続的に出版された。たとえば、1910年は、フローレンス・ローレンスという女優が、カール・レムルのトリックで、アメリカ映画最初のスターになった、とか、1917年は、女優セダ・バラが大作「クレオパトラ」に出演、バスター・キートンがスクリーンに登場、といった記事が満載されている。
 出版社は、こういうシリーズをつぎからつぎに企画しては出してゆく、「デアゴスティーニ」。

 その1920年号に、ヴィクトル・シェーストレームの映画、「霊魂の不滅」がとりあげられている。この原作は、セルマ・ラーゲルレフで、山室 静さんが訳していたはずである。
 この映画の1シーンが出ている。

 よく見ると、ヴィクトル・シェーストレームの「霊魂の不滅」ではない。
 ジュリアン・デュヴィヴィエがリメークした「幻の馬車」(1939年)の1シーンで、主人公のダヴィツド(ピエール・フレネー)が事故で倒れて、魂が離脱している。その幽体離脱を凝視している「馭者」は、なんとルイ・ジュヴェなのである。

 編集者は、ヴィクトル・シェーストレームの「霊魂の不滅」も、デュヴィヴィエの「幻の馬車」も見たことがなくて、ステイル写真を見て、1920年号の「霊魂の不滅」と思い込んだに違いない。

 こんな間違いはどうでもいいのだが、将来、この「映画史100年ビジュアル大百科」を信頼して、ルイ・ジュヴェの「馭者」をヴィクトル・シェーストレームの「馭者」と間違える人が出てくるかも知れない。

 それに対して、私が異議を申し立てていたことは記録しておこう。
    

2009/09/22(Tue)  1097

 この夏、アメリカの「リーダーズ・ダイジェスト」が、16億ドルの債務を株式化することで、主な債務者と合意した。つまり、連邦破産法の適用を申請することになった。(’09,8.18)

 ようするに、広告収入や、販売部数の落ち込みがつづいて、経営の建て直しができなくなったらしい。

 戦後、日本でも「リーダーズ・ダイジェスト」日本語版が発行された。薄い雑誌なのに、そのときそのときのベストセラーや、いろいろな雑誌、新聞の記事の要約などが満載されていた。
 はじめのうちはものめずらしさもあって驚異的な売り上げを見せたが、やがては飽きられて、1986年に日本語版は廃刊された。
 私はこの雑誌をほとんど読まなかった。
 どのページを読んでも、まったくおなじレベルで、ごく平均的な、わかりやすい文章がならんでいる。したがって、嫌悪の眼をむけていたといっていい。
 「リーダーズ・ダイジェスト」なのだから、読者は、日頃、多忙な生活を送っていて、本を読む時間のない人なのか。そういう人が、その時その時に読まれている本の内容を手っとり早く理解できるようにダイジェストしてある。
 そのかわり、その文章に、いきいきした感じ、あるいは真実味といったものは、まったくない。
 どんな本も、のっぺらぼうな顔つきで、せっかくいいことが書いてあっても、それぞれの内容に感動することがなかった。
 どのページを読んでも、アメリカの低いレベルのプラグマティズムを見せつけられるような気がした。そして、これまた低い次元の、保守主義の偽善がどのページにも立ち込めている。

 21世紀のアメリカは、アフガニスタン攻撃から、イラク戦争、そしてこの「戦後」を経験してゆくなかで、「リーダーズ・ダイジェスト」が読まれなくなって行ったのは当然ともいえるだろう。そのイデオロギーが、時代の流れとズレてきた雑誌は、かならず没落してゆく。

 日頃、多忙な生活を送っていて、本を読む時間のない人に、そのときどきに読まれている本を紹介する。これは必要なことかも知れない。
 しかし、「リーダーズ・ダイジェスト」のように、ダイジェストしたものを読む必要はない。
 もし、「リーダーズ・ダイジェスト」を読むのとおなじ程度の時間的な余裕がある人は、本屋に行って、ベストセラーを手にとって、1ページでもいいから、立ち読みすることをすすめる。

 「リーダーズ・ダイジェスト」には申しわけないが、ダイジェストされた本からは、ほんとうのおもしろさはすべて落ちていると思ったほうがいい。ベストセラーは、かならずおもしろいことが書いてある。そして、著者は、読者の興味をそそったり、効果的な要点をみごとにとらえている。
 ベストセラーの作者はいきいきした書きかたをしている。活気がある。

 だから、書き出しの数行を読むだけでもよい。その本のおもしろさは、冒頭の数行を読めばわかる。つぎつぎに、ベストセラーを手にとって、数行を読むだけでは、まったく意味がないけれど――その数行を、それぞれ比較してみるだけでも、頭の訓練になる。

 そうすれば、きみは、さしあたって読む必要のある本か、読まなくてもいい本なのか、自分で判断できるようになる。

 そして、ベストセラーは、少なくとも一年以上経ってから読む。

 「リーダーズ・ダイジェスト」破産のニューズから、私が考えたこと。

2009/09/19(Sat)  1096
 
(つづき)
 戦後の日本で、いちばん最初に公開された映画が、「春の序曲」と「キューリー夫人」だった――というのは、じつは正しくない。

 戦後の大変動のなかで、各地の映画館も混乱していたのではないか。
 戦後すぐの浅草で、サイレント映画の「喜びなき街」(G・W・パプスト)を見ているが、六区(浅草)の映画館は、どういうルートから流れてきたのか、いっせいに古いフィルムをかけていた。キートン、ハロルド・ロイド、ローレル・ハーデイの喜劇もあったし、戦前に公開されたソヴィエトの喜劇、はては誰が出ているのかわからないサイレント映画までがあふれていた。
 戦後、私がいちばん先に知った化粧品は、ヘリオトロープの香水だったが――実物を見たわけではない。トーキー初期のミステリーには、きまってヘリオトロープの香水をつけた美女が出てくるからだった。
 敗戦直後の浅草に氾濫した映画のなかには、川田 芳子主演の、大楠公桜井の別れ、などという文部省推薦の珍品もあった。無声映画のスターだった川田 芳子は、この映画で「楠 正行」の母親役だったが、すっかり老女になっていた。やはり、無声映画のスターだった英 百合子や浦辺 粂子が、戦後まで女優として生きぬいたことを思いあわせると、そぞろ哀れをもよおす。
 もっとも、当時の私は何も知らずにひたすら映画を見ていただけだった。

 敗戦直前に動員先の工場が空襲で焼けてから、毎日あてどもなく東京を歩いていた。友人たちは、みんな応召していた。大学に学生の姿はなかった。
 東京じゅうどこも、焼け跡、疎開跡ばかりで、真昼も廃墟と化していた。
 古本屋を探したが、そんなものがあるはずもなかった。まだ焼けていない住宅地では、空襲の被害を少なくするために、密集した家屋のなかから何軒か間引く作業が続けられていた。撤去の指定を受けた不運な家族は、急いで引っ越さなければならない。
 その家の蔵書や家具などが、道に投げ出されている。すぐに、人だかりがして、本をひろってゆく人もいた。私も思いがけない本を見つけることがあった。

 そして、戦争が終わった。戦後の激動と狂乱のさなか、「ユーコンの叫び」(1938年)という映画が公開されている。(1945年12月)
 戦前に封切られる予定だったのが、戦争でオクラ入りになったのだろう。「リパブリック」のアラスカもので、画面がひどく荒れていた。主演は、戦前に人気のあったリチャード・アーレン。
 私は焼け残った場末の映画館で見たが観客がつめかけて超満員だった。

 つづいて、翌年のお正月に「ターザン」が出た。これも、戦前(1935年)のストックもので、ターザンもジョニー・ワイズミュラーではなかった。
 それでも、ターザン映画なので、観客がひしめいていた。戦争が終わった、という気分と、アメリカという国を理解しようという気もちもあったのだろう。巷では、「日米会話手帳」という、ペラペラの小冊子が、とぶように売れていた。
 ターザン映画なのに、観客に子どもたちの姿はまったくなかった。戦争の被害を避けて強制的に、田舎に疎開させられていたためだろう。

 そして、その2月に、戦後の日本で、最初に「春の序曲」と「キューリー夫人」が公開された――ということになる。これが歴史的な事実。

 例によって、私の「あおとく」。つまらないトリヴィア。

2009/09/17(Thu)  1095
 
(つづき)
 戦前、「オーケストラの少女」でディアナ・ダービンを見た。可愛い少女スターだった。(当時、室生 犀星が随筆で、ディアナ・ダービンの舌について書いていた。それを読んだ子どもの私は、この作家の眼に驚愕したことがある。)戦後の「春の序曲」で、ディアナはすっかり成熟した美少女に変身していた。

 ケーキのシーンも忘れられないが、もう一つ、この映画の1シーン。これも、忘れられない。

 ディアナ・ダービンがたずねて行ったのは、年齢の離れている兄。さる富豪の豪邸で、執事をやっている。演じたのは、パット・オブライエン。
 ふとい葉巻をくわえたパット・オブライエンが、ひろい部屋に入って、口から、まるく輪になった煙を吐き出す。別にめずらしい場面ではない。
 煙はそのまま前方の壁にむかってまっすぐ進んでゆく。壁までの距離は数メートル。

 煙はそのまま少しづつワッカの大きさをひろげて、前方の壁にむかって進んでゆく。
 カメラは、部屋のまんなかに固定されていて、このシーンを撮っている。

 ここまできて、(映画の観客は)タバコの煙がどこまで飛んで行くのか、興味をもつ。煙は空中でわずかに揺らぎ、ワッカの大きさをひろげながらも、そのまま部屋の壁にむかって進んでゆく。
 2メートル。そして3メートル。

 恰幅のいい俳優だったパット・オブライエンは、よほど肺活量が大きいのだろう。葉巻の煙はほとんどもとのかたちのまま空中で揺れ、からみあい、少しづつ崩れて、大きくなってくるけれど、それでもそのままの勢いで進んでゆく。
 4メートル。ついに、5メートル。
 (映画の観客は)息をのんで、このスタントを見つめている。

 最後に、タバコの煙は直径1メートル程の大きさのまま、壁につき当たって、空中に消えてしまう。その距離は、7、8メートルはゆうにあるだろう。
 これが、ワン・カットで撮影されていた。

 「春の序曲」は、戦時中のアメリカとロシア(当時は、むろんソヴィエト連邦だが)の協調がたくみにアピールされているのだが、こうしたテーマとかかわりのない、パット・オブライエンの葉巻のシーンに私は驚かされた。
 戦後、最初に公開されたハリウッド映画にこんなシーンがあったことなど、もう誰も知らない。誰も知らないことをいつまでもおぼえている、というのもおかしな話だが。

 タバコの煙でワッカを作る。これはすぐにできるようになったが、私の吐き出す煙は、せいぜい数十センチしか飛ばない。いくら練習しても、パット・オブライエンの葉巻のシーンのようにはいかないのだった。
  (つづく)

2009/09/15(Tue)  1094
 
 戦後になって、最初に見たアメリカ映画は、「春の序曲」His Butler’s Sister(フランク・ボゼージ監督/1943年)だった。アメリカ占領軍が対日占領政策の手段として、ハリウッド映画の公開を押し進めたからである。
 当時の私は、アメリカ映画が見られるというだけでうれしくなって、占領軍の占領政策の一環などということは考えもしなかった。

 「春の序曲」といっしょに公開された映画は、「キューリー夫人」Madame Curie(マーヴィン・ルロイ監督/1943年)だった。原作は、キューリー夫人の娘、イーヴ・キューリーが書いた伝記。
 グリアー・ガースン、ウォルター・ピジョンの主演で、私たちは、戦後、はじめてグリアー・ガースンという美女を見たのだった。

    アイルランド生まれで赤髪とくれば気が強いのが通り相場だが、その気の強さを
    内に秘めての演技が努力して初志をつらぬく女性の役にぴったりだったわけで、
    同じアイルランド産の赤髪で強気を表面に出して人気をえたモーリーン・オハラ
    といい対照である。

 と、双葉 十三郎が書いている。(「美男美女変遷史」1976年)

 この2本の映画は、1946年2月28日に同時に公開された。

 アメリカ占領軍の指令が、つぎつぎに軍国主義国家「日本」を解体して行った時期で、治安維持法、特高警察が廃止され、兵役法も消えた。女性解放、学校教育の民主化。とにかく、ありとあらゆるものが激動にさらされていた。
 そういう時期に、アメリカ映画の「春の序曲」と「キューリー夫人」が公開されたのだから、娯楽に飢えた民衆が殺到したのも当然だろう。
 「春の序曲」と「キューリー夫人」については、当時、じつにたくさんの人が感想を書いている。

 「春の序曲」のなかで、ディアナ・ダービンが、ショートケーキを食べる。そのケーキのデコレーションの綺麗なこと、ケーキの大きさに、観客は息をのんだ。
 当時の観客たち誰ひとり見たこともない種類の食べものだった。
 そのケーキを若い娘がペロリと食べている。劇場じゅうがどよめいた。

 私たちは娯楽に飢えていた。が、それ以上に食料に飢えていた。
 敗戦国民の哀れな姿を――きみたちは想像できるだろうか。
 (つづく)

2009/09/13(Sun)  1093
 
 この夏、私はまるで勉強しなかった。ろくに勉強しないのではない。まったく勉強しなかった。もっとも、いまさら勉強したって遅いせいもある。

 いつしか秋となりにけり。自分で勉強したわけではないことをとりあげておく。はじめから、私の理解のおよばないことだから、わかったような顔をしてもはじまらない。

 現在の「ブルーレイ」の25倍以上の記憶容量をもつ、次世代光ディスクの開発をめざして、2012年に実用化が計画されている。
 この記憶容量は、1テラ・バイト。すなわち、1000ギガ。

 この次世代光ディスクは、特殊なレーザー光線で立体画像を記録、再生するホログラム技術を応用する。これは、おもしろい(だろうと思う)。

 次世代光ディスクの実用化で、消費電力の削減効果も見込まれるという。

 さて、ここからが私の意見。ただし、はじめから、何ひとつ理解てきないボケGサンのいうことだから、何の意味もないのだが。

 この次世代光ディスクは、この日本において必ず実現する。
 これは期待ではない。私たちが近い将来、確実に成果を手にすると見ていい。
 ただし、これだけはいっておく必要がある。

 この研究、開発の途中で、それが実現できると判断できたとき、ただちに世界各国の特許の許認可を、しらみつぶしに徹底的に申請して、その全部を確実に国際法上の保護のもとに置くこと。
 それこそ、巾着切りのような連中が、虎視眈々と、横どりを企んでいるのだから。

 かつてのトロン開発をはじめ、携帯電話、ベータとVHS、DVDにいたるまで、日本が先鞭をつけた技術的な「発明」や「発見」は、例外なく外国の思惑にふり回され、模倣され、プライオリティーを奪われてきたではないか。

 戦前、日本の科学者が、世界ではじめてテレビの送受信の実験に成功したが、誰の理解も得られなかった。数カ月後に、アメリカは、テレビ放送に成功し、定時放送を始めている。
 日本の科学技術がどれほど優秀であっても、研究者、研究機関がいつも孤立無援で、結果としては、後発の外国に煮え湯を飲まされてきた。今後は、おなじようなことを許してはならない。

 2004年、すべての国立大学は「国立大学法人」に移行した。教育への市場原理の導入によって、「産官学」三位一体のシステムができあがったように見える。その結果、いちばんたいせつな基礎研究が、まるっきり冷や飯をくわされることになった。
 こうした事態を招いた原因は、ことごとく政府の無知、無責任、そして経済、産業、財政当局の無理解と怠慢によるものではなかったか。

 私は次世代光ディスクについて何も知らない。私の仕事は、クラウド・コンピューティングなどとはまったく関係のないものだから。
 それでも、「空白の十年」と呼ばれた時期から、科学の分野にかぎらず、世界経済、外交、すべての分野で、日本の対応がいつも後手々々にまわったことを見せつけられてきた。はじめはおくれをとっていた巾着切りどもに最後になってマンマとアブラゲをさらわれる。
 すぐれた「発明」が、他国の巾着切りどもによってむざむざ漁夫の利をさらわれる光景を見せられるのは、日本人として腹にすえかねるのである。

2009/09/11(Fri)  1092
 
 この夏いろいろと読み散らしていて、こんな記事を見つけた。

    東京音楽学校の主任教授たるアウグスト・ユンケル氏は、今回、普国政府よりプ
    ロフェッサーの称号を授与せられたり。王国楽長が、氏の日本に於ける功績に対
    し此の表彰をなしたるは、真に其の当を得たるものにして、元来ユンケル氏は、
    独逸音楽を日本に紹介し、之が普及に与(あずかっ)て力ある人にて、今現日本
    に於ける外国音楽中、独逸音楽が最も流行せるは、全の氏の功績という謂はざる
    べからず。而(しか)して吾人の見る所にすれば、殆ど見込なき日本人の音量を
    助成し、且つ彼らに難解なる独逸音楽を巧に教授せる技倆は、実に驚嘆に値すべ
    きことなり。目下、東京音楽学校には氏の外に、尚ほ二名の独逸人、及び一名の
    独逸婦人、教鞭を執り居り、彼等の催す声楽、並に器楽演奏会は、啻に日本在留
    の外人に歓迎せらるるのみならず、実に我独逸本国に於ても模範的のものに匹儔
    せるものなり。猶ほ近時数名の日本人は音楽研究のため独逸国に留学し、多くは
    伯林(ベルリン)に滞在して、吾人には殆ど音楽と認むること能はざる日本音楽
    と欧州音楽、特に独逸楽譜とを結合して、両国人に興味を以て迎へらるべき和洋
    折衷楽を構成せんと企てつつあり、ユンケル教授も之れに関し大に貢献する所あ
    りたり。

 原文は、ドイツの新聞記事。明治44年9月。

 普国政府とあるのは、プロシャの政府。
 「吾人には殆ど音楽と認むること能はざる日本音楽」というあたりに、アジアに対するヨーロッパの侮蔑が響いているだろう。ここでは不問に付してやるが――ユンケル教授や、当時、音楽研究のため独逸国に留学した「数名の日本人」たちが、今年の夏、小沢征璽の音楽塾のプロジェクトを聞いたら卒倒するかも。

 小沢 征璽は、この夏、音楽塾のプロジェクトとして、フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』を各地で巡演した。
 彼自身も、はじめてこのオペラを指揮したらしい。
 おなじ、この夏、「サイトウ・キネン・フェステイヴァル」では、ベンジャミン・ブリテンの『戦争レクィエム』をふった。この曲を指揮したのは24年ぶりという。

 明治44年(1911年)から百年。日本人の音楽家が外国の曲を指揮して、いささかも遜色を見せない。私たちも、そのことをすこしも不思議に思わない。
 そんな現実が、私にとってはたいへんにありがたいことに思える。

2009/09/10(Thu)  1091
 
 指揮者の小沢 征璽は、オペラの指揮をつづけて、今年で40年になるという。2002年から、ウイーン国立歌劇場の音楽監督をつとめていることは誰でも知っている。
 この9月からのシーズンが、最後になるとか。
 チャイコフスキーの『スペードの女王』、『エフゲニー・オネーギン』をつづけて指揮する。
 来年には、『フィガロの結婚』を上演してから、また『エフゲニー・オネーギン』を指揮して、ウイーンに別れを告げるとか。
 最近のインタヴューで、

    ウイーンは大変だけれど、オペラはすごくおもしろい。もっと早く始めれはよか
    ったと後悔している。

 と語っている。
 なんでもないことばだが、私は感動した。

 ウイーン国立歌劇場の音楽監督という仕事が、どんなに「たいへん」なものか、私たちの想像を絶しているだろう。そのことに感動したのではない。
 ウイーン国立歌劇場の音楽監督として、「オペラはすごくおもしろい」といい切っている。はじめて、ザルツブルグでオペラをふって、すでに40年のキャリアーをもっている。「もっと早く始めればよかったと後悔している」ということばに、「思想」の成熟を読むことはできよう。しかし、あれほどの成果を実現しつづけた大芸術家が、(たとえ、半分ふざけていたとしても)「もっと早く」おのれの資質に気がついていたら、と慨嘆している。小沢 征璽のことばに、きみは何を見るだろうか。

 小沢 征璽は語っている。

    オペラの指揮は、とにかく勉強。チェコ語など得意でない言語のオペラをふると
    きは、数カ月前から、毎朝、30分から1時間は歌詞を勉強する。

 やっぱり、本当の芸術家は違うなあ。

 私の感想だが――こんなふうにいいかえることができるかも知れない。小沢 征璽とは何か。

 小沢 征璽、音楽のすべてをオペラに収斂する思想。

2009/09/08(Tue)  1090

 自分でも気がついているのだが、最近、私の書くもののサイズが長くなってきている。

 老人性言語下痢症のあらわれ。なるべく短くしよう。

 古今のことを付会して、時世(ときよ)違いの話をすることを、青特というらしい。江戸の俳諧の宗匠の俳名から。たいしてえらい宗匠ではない。

 ほんとうの読みは「せいとく」だが、私流に、これは「あおとく」にしよう。何かの、青い特別チケットみたいに聞こえるところがいい。
 「あ」はアナクロニズム。「お」は烏滸の沙汰。「と」はとんでもない。「く」はくだらない。いいねえ。(笑)

 昔の梅幸の「戻り橋」で――常磐津の松尾太夫は、「西へまわりし月の輪の」というひとくさり、「ほととンす」と結んだという。
 「ほととンす」は、ホトトギス。
 ほんの一字のいい替えで、唄が、イキになったり、ヤボになったり。これは、翻訳だっておなじこと。

 「コンカツ」などというゲスなことばがはやる世の中。
 アチシは、今後とも「あおとく」で参りやしょう。

2009/09/06(Sun)  1089
 
 早川 麻百合さん。お手紙、ありがとう。うれしかった。
 つぎつぎに、新しい翻訳を出しているきみから、手紙をいただくと恐縮する。
 ところで、手紙のなかで、きみは書いている。

 「毎日のように先生の「コージートーク」の更新をたのしみに、拝見しております。が……先生の書かれた内容が時々、ムツカシクてついてゆけず……などと言ったら、しかられそうですね。」

 え、「コージートーク」の内容がムツカシいって。
 まいったナ。ムツカシいことなんか、1コも書いてないんだけど。
 しかし、きみのような才女に、「コージートーク」の内容がむずかしいといわれると困っちゃうナ。
 むずかしい内容のものを、できるだけやさしく書く。もの書きとしては、たいせつな心得だね。とくに、私の「コージートーク」のように、一方的に勝手なことを書いている場合は。

 いつも自分の読者を考えて書いているつもり。これは、長年、ものを書いてきた習性というか、経験にもとずいているんだ。
 むずかしい、てノは、そんなものを書いたヤツの頭がわるいせいだよ。中田 耕治がヤボでアホだから。やつぱし、文章技術がなってないせいだヨなあ。(笑)

 老人性言語下痢症(ロゴレア)がひどくなってきて。だから、くだらねえことばかり書いているんだヨ。おまけに、ひねくれている、ときた。
 古今のことを付会して、時世(ときよ)違いの話をすることを、青特(せいとく)というそうな。さる俳諧の宗匠の俳名から。
 なるべく「あおとく」で行こうとおもっているんだ。「あ」はあきれる。「お」はおっちょこちょい。「と」はとんま。「く」はくだらない。あるいは、娃、汚、妬、苦でもいいや。(笑)

 心に浮かぶよしなしごとを気ままに書いている。書いておく価値もないこと、書く必要もないことばかり。しかし、つまらないことでも書いておけば、誰かの心に届くかも知れない。ずっと時間が経ってから――そういえば、あの頃、中田 耕治が、あんなことをいっていたっけ、と思い出してくれるかも知れないよね。

 きみが毎日のように、「コージートーク」を読んでくれている。私のいいたいことをきちんと聞いてくれる人がいる、と思うとうれしくなった。
 むろん、私は読者の顔色をうかがって書くことはない。何か質問してくれれば、できるだけ答えるつもりだけど。
 以前、男親ひとりで息子さんを育てあげ、その子が無事に高校を卒業、就職して、社会に出たことを知らせてくれた人がいる。なんでもない報告だったが、私は感動した。息子さんを育てあげ、実社会に出したという無量の思いが、短いメールの文面にあふれていたから。私は返事も書かなかったが、この父子の幸福をおのれの身とひき較べて、わが身のいたらなさを考えないわけにはいかなかった。

 ブログのような自由な形式だからこそ、そんな身辺のことも気がるに知らせてもらえる。私が本や雑誌に何か書いても読者の顔が見えないのとちがって、「コージートーク」では自分でも思いがけないアンティームな交流がうまれるようだった。
 こんな「あおとく」であっても、お互いに心を通わせることができる――ような気がする。

 ところで、きみの手紙を読んで、ふと、私の内部に思いがけないことが浮かびあがってきた。
 何だと思う? 作家の晩年というムツカシいテーマなんだ。ギャハハ。(笑)

2009/09/04(Fri)  1088
 
 鴈治郎の話が出たのだから、ことのついでに団十郎といこう。

 「悪七兵衛景清」を演じた。
 大太刀に鎖帷子(くさりかたびら)、顔は渥丹(あか)、おそろしい憤怒の形相で、舞台に出るところだった。

 たまたま、見物にきていた、ひとりの巨漢が、どういうわけかにわかに発狂した。腰の刀をぬき放ち、舞台めがけて駆け上がり、舞台に出ている誰かれなく、ただただ無性(むしょう)に斬りかかろうとした。
 見物席は総立ちになって、あれよこれよと大さわぎ。

 団十郎も不意のこととて、せん術(すべ)もなかったが、すぐさま舞台にあらわれて、
 「おのれ、推参者、ござんなれ。目にもの見せてくれようぞ」
 大声あげて、呼ばわった。
 その眼を怒らせ、ハッタと睨みつけた。
 このため、乱心者は、ヒョロヒョロとあとずさりして、その場に悶絶した。

 見物人は、舞台の状況を見て、割れんばかりの拍手を送った。

 二代目、団十郎の話。

 こういう話は、時代をへだてた私にしてもおもしろい。ただし、この種のアネクドットでは、この乱心者がどうなったのかわからない。どうして乱心したのか、私としては知りたいところだが。
 さらには、この乱心者が巨漢だったことはわかるのだが、その身分、住所、収入、係累なども知りたい。

 もっとも、何もわからないほうが想像をたくましくすることができる。この話から、たちどころに芝居の一本、二本は書けるだろう。

2009/09/02(Wed)  1087
 
 秋の夜更け、昔の芸談を読むのが好きである。
 自分が見ることのできなかった名優の、在りし日を偲ぶには、残された芸談を読むしかない。わずかでも残されている芸談から見えてくるものは、意外に大きい。

 鴈治郎は、高齢になってから、せがれの長三郎や、扇雀と、おなじ着付け、おなじ袴をあつらえて、親子三人どこにでも出かけたという。
 狎妓(おうぎ)のひとりが、
 「いっしょに来やはるのはええけど、これが別々やァったら、息子はんのん借りてやはるようで、いきまへんえ」
 と皮肉をいった。
 すかさず鴈治郎が、こういった。
 「役者に年はおまへん」

 鴈治郎はいつまでもわかくて、艶聞がたえなかった。

 この話の成駒屋は、1935年(昭和10年)に他界しているので、私は見たことがない。私の知っている鴈治郎は(いまの鴈治郎の父に当たるわけだから)、この話の「扇雀」ということになるだろうか。

 役者に年はない。しかし、作家には年がある。
 作家が年齢を重ねて、やっと人生が少しわかりかけてきたとたんに、冥途からお呼びがかかる。オレみたいな作家がくたばったところで、「そんなもの、美学でも何でもなくて、ただ貧乏と依怙地をこじらせて死んでいくだけだぜ。」か。
 アハハ、こいつァいいや。(笑)

2009/09/01(Tue)  1086
 
 この夏、女優の大原 麗子が急死した。(’09.8.5.)
 遺体の状況から、死後、二週間が経過していると見られ、警察の調べでは病死の可能性が高いという。
 これが大原 麗子ほど有名な女優の死でなかったら、ジャーナリズムの反応はどうだったろうか。
 この女優の死を知ったとき、しばらく前に亡くなった夏目 雅子や、飯島 愛の病死を思い出した。それからそれとひとつらなりの連想で、ハリウッドのサイレント映画の女優だったマートル・ゴンザレスが、スペイン風邪で思わぬ死を遂げたこと、あるいは、これもサイレント映画の女優だったマリー・プレヴォが、トーキー以後まったく忘れられて、悲惨な孤独のうちに死んだことなどを思いうかべた。

 私は、女優の大原 麗子をほとんど見ていない。私の知っている範囲では――テレビの大河ドラマで、「勝 海舟」、「獅子の時代」、「春日局」などを見ている。ただし、見ていたというだけで、この美人女優にほとんど関心がなかった。二、三年つづけて、テレビで好感度ナンバーワンに選ばれていた程度のことだった。
 大原 麗子とは関係なく、ある芸能人のことばを思い出した。
 まったくの無名か、ごくかぎられた仲間うちだけで知られている役者たちが、誰にも気づかれないままにひっそりと死んでゆく。別にめずらしいことではない。

    浅草にいたときはサ、身を滅ぼして死んで行く芸人てノが、周りにもいっぱいいたけど、でもそれは、美学でも何でもなくて、ただ売れないから破滅していくんだからさ。

 「てめェのやっていることが、どんどん時代の感覚に合わなくなって、どんどんおいてけ堀を食らっていってさ。時代が悪い、客が悪いってひとのせいにして、ついには当たるモンがねえから、てめぇのカミさんや子供に当たったりしてさ。
  挙げ句の果てはアル中になって、誰も面倒を見る者がいなくなって、孤独に死んでいくという、そういうパターンの芸人がたしかにいたんだよ。そんなもの、美学でも何でもなくて、ただ貧乏と依怙地をこじらせて死んでいっただけだぜ。」

 北野 たけしの「たけしくん・ハイ!」、「青春貧乏編」の前口上。

 まさか大原 麗子が貧乏だったとか、女優の依怙地をこじらせて死んでいったはずはない。だが、難病というか、つらい病気をかかえていた。しかも、もはや若くない。ドラマに出演できる可能性もなくなっていたとすれば、いくら有名な女優であっても、みずからの運命のつたなさを考えなかったはずはない。
 大原 麗子の急死は、私の内部に痛ましい思いを喚び起したのだった。戦前のルーペ・ベレスの死や、戦後のマリリン・モンローの死のような悲劇ではないにしても、自らは望まなかった死だったにちがいない。
 マイケル・ジャクスンの死がいたましいものだったように、私は、大原 麗子という女優のいたましさに心を動かされたのだった。

 合掌。

2009/08/30(Sun)  1085
 
 こんな詩がある。
 明代の短編集、『清平山堂話本』のうち、「合同文字記」の入話(オープニング)の詩を、私が勝手にパラフレーズしたもの。

    食事には お塩と お酢をひかえめに
    顔を出さずにすむ場所は うっかり出かけないように

    人に知られたかったら 「学問のすすめ」でも書きとばす
    人目につきたくなかったら せいぜい 何もしないこと

 最後の一行は、漢の枚乗が、呉王をいさめたときのことば、「人に聞かれたくなければ言わぬこと、人に知られたくなくばなさぬこと」にもとずいているという。

 おもしろい。
 これからしばらく、暑さしのぎに中国詩の自由訳でも試みようか。

2009/08/29(Sat)  1084
 
 若い頃一度見ただけで、それっきり見る機会のなかった映画がビデオになっている。
 熱心に探していたわけでもない。掘り出しものといえるほどの作品でもない。それでも、見つけたときはうれしい。そういう経験は誰にもあるだろう。

   少年時代に神田の「シネマパレス」で見た外国映画
   を、いまここでDVDで見る。米、独、仏の名作映
   画です。これは不思議きわまることだし、また大き
   な楽しみでもある。

 詩人の加島 祥造が書いていた。『老子までの道』(「幽霊坂の話」)

 私も、神田の「シネマパレス」で外国映画を見たひとりだが、加島 祥造の書いていることが実感としてよくわかる。ただし、私が見た映画は、ほとんどDVD化されていないような気がする。残念なことだが。

 戦後まもなく、(「シネマパレス」で見たわけではなかったが)「拳銃無宿」 Angel and the Badman(47年)を見た。主演、ジョン・ウェイン。共演は、ゲイル・ラッセル。

 ジョン・ウェインは、いうまでもなく、西部劇の大スター。この「拳銃無宿」に出た当時は、まだ大スターではなかった。映画も「リパブリック」だったから、B級もいいところ。ただし、ジョン・ウェインはじめてのプロデュース作品。
 まあ、そんなことより、ゲイル・ラッセルを見ただけで、私にとっては貴重な映画になった。

 ゲイル・ラッセルは、戦後になってはじめて見た女優だった。この映画と前後して、「桃色の旅行鞄」Our Hearts Were Young and Gay(44年)を見たが、これで彼女にイカれた。
 容貌はアイダ・ルピノに近い。美貌といっていいが、アイダのように「妖婦」的、ヴァンプ的なところがない。どこか、もろい(フラジャイル)ものを感じさせた。眼に特徴があって、ずっと後年のオルネラ・ムーテイが、ゲイルのまなざしに近かった。

 おなじ時期に、ゲイル・ストームという新人が登場する。「五番街の出来事」という喜劇に出ていた。しかし、ゲイル・ストームの映画はほとんど見る機会がなかった。50年代後半から、TVのコメデイ・シリーズや「ゲイル・ストーム・アワー」などで人気があった。
 わざわざ「五番街の出来事」のビデオを探して見直したが、私が好きだった女優はこういう女優だったのか、と思った。はっきりいえば失望したのだった。

 そして、もうひとり。グローリア・デ・ヘヴン。
 グローリアは映画にはほとんど出なかった。ブロードウェイの舞台から、やがて、ラス・ヴェガスなどのショーで成功する。だから、映画のグローリアをほとんど見ていない。後年、「ゴッドファーザー」で、アル・パチーノが、ヴェガスに乗り込むシーンに、グローリア・デ・ヘヴン出演の大きな看板が出ていて、なつかしい気がした。グローリアは、ラス・ヴェガスきっての大スターになっていた。

 はるか後年、私はゲイル・ラッセルについて短いモノグラフィーを書いた。
 ある日、虫明 亜呂無が私をつかまえて、
 「ゲイル・ラッセルとは、なつかしいですねぇ」
 といった。
 私は、虫明 亜呂無が私の雑文を読んでくれたことがうれしかった。そして、私以外にもゲイル・ラッセルをおぼえている人がいたことが、何よりもうれしかった。
 ゲイル・ラッセル、私の内部に暗い輝きを放っていた女。そして、彼女もみずから悲劇的な死を選んだスターのひとり。

2009/08/28(Fri)  1083
 
 一度だけ、外科手術を受けたことがある。手術というほどのものではなく、わずか1センチ幅のオデキを切徐してもらっただけ。
 医師が患部にメスを入れると、皮膚が綺麗にきれて、一瞬あとに、ひとしずくの血がもりあがってきた。部分麻酔の注射をしているので痛みはない。手術も、ほんの30秒くらいで終わった。手術が成功(!)して、うれしかった。

 メスがじつによく切れる。こんなものを誰が「発明」したのだろうか。うっかり医師に質問しそうになったが、われながらアホウな質問に思えた。人類学者に誰がナイフを「発明」したのかと質問しても答えに窮するだろう。だから私は黙っていた。

 ほどなく、この疑問はとけた。

 メスを「発明」したのは、誰あろう、かのベンヴェヌート・チェッリーニである。

 チェッリーニは、イタリア・ルネッサンスに登場した。ルネッサンスについて何か知る必要があれば、彼の『自伝』を読むといい。
 『自伝』(46節)に、こんなエピソードが出てくる。

 若者だったチェッリーニが、ある工房で働いていたとき、主人の娘が右手を傷めた。小指、薬指の二本の指の骨が腐るという病気だった。いまなら、指の傷からバイキンが入って炎症が化膿したと見ていいだろう。
 ヤブ医者の診察では――娘は、右腕が麻痺するかもしれないが、それ以上は進行しない、という。父親は、腕のいい外科医に手術を依頼した。
 この先生の診断は、右手はじゅうぶんに使えるようになる。ただし、右手の小指、薬指の二本は、いくらか弱くなるかも知れない。それでも日常生活に支障はきたさない、という。
 数日後に、骨の腐った部分を少し削りとることになった。外科医の先生は、何やら大きな鉄の器具で手術をしたが、娘はものすごく痛がった。
 見るに見かねたチェッリーニは、八分の一時間ばかり待ってくれないか、と頼んで、大急ぎで、工房に駆け込んだ。
 そして、反りを打った、ひどく薄くて、小さな鉄の器具を作った。

 外科の先生のところに戻ると、こんどは、とてもやさしく手術ができた。娘は少しも痛がらず、手術もじきに終わった。

 これだけの話である。どうやら――ベンヴェヌート・チェッリーニが、メスを「発明」したのは、まず間違いがない。

 ただし、こんなことをさも大発見か何かのように、れいれいしくブログに書いている私はアホウである。(笑)

2009/08/27(Thu)  1082
 
 ナタリー・ウッドは、(子役のときから、将来を期待されて、いくつもの試練に耐え抜いて、最後まで残った)スター女優だった。チャイルド・スターから、トップスターになったという意味で、ジュデイ・ガーランド、エリザベス・テイラーに似ている。
 しかし、子役としてのキャリアーは、ジュデイや、エリザベスほど、恵まれていたとはいえない。

 十代の彼女は、「理由なき反抗」(55年)でジミー・ディーンの相手役に抜擢されて、やっとスターレットとして認められたような印象がある。
 それだけに、「初恋」(58年)のナタリーは、ひそかに期するところがあったに違いない。
 原作は、当時、流行作家だったハーマン・ウォークのベストセラー小説、『マージョリー・モーニングスター』。

 演劇志望の女子大生「マージョリー」は、友だちの「マーシャ」といっしょに旅行している。美しい湖畔で、演出家、作曲家の「ノエル」(ジーン・ケリー)と、アシスタントの「ウォーリー」(マーティ・ミルナー)と会う。
 いかにも知的で、芸術家の「ノエル」に夢中になった「マージョリー」は、舞台の照明をてつだいながら、清純な慕情を育ててゆく。
 しかし、「マージョリー」の想いを知りながら、「ノエル」は以外にも、冷たく突っ放す。はげしく傷ついた「ノエル」をいたわるのは、「ウォーリー」だった。……

 大学を卒業した「マージョリー」の前に、また「ノエル」が戻ってきた。一方、「ウォーリー」は劇作家として輝かしく成功していた。以前にもまして心を寄せる「ウォーリー」に対して、何者でもない自分を恥じた「マージョリー」は姿を消す。

 やがて、友だちの「マーシャ」は、富裕なプロデューサーと結婚する。その式場で、「ノエル」と再会した「マージョリー」は、「ノエル」がブロードウェイで失敗したことを知る。彼女は、「ノエル」を力づけ、またショーの演出にもどらせようとする。その初日がすんだら、彼と結婚しようと決心するのだが……。

 ジーン・ケリーがミス・キャスト。ダンスの名手だったジーン・ケリーは、「錨を上げて」(45年)、「三銃士」(48年)、「私を野球に連れてって」(49年)、「巴里のアメリカ人」(51年)、「雨に唄えば」(52年)などの作品で、一流のスターだった。
 これに対して、ナタリー・ウッドは、「三十四丁目の奇跡」(47年)の子役から、「理由なき反抗」のティーンネージャー、「捜索者」(56年)のインディアンに育てられる白人の少女といった役のあと、シャーリー・テンプルや、デイアナ・ダービンとおなじように、女優として成熟した女性の魅力を出せるかどうかという「問題」に直面していたように見える。
 ナタリーは、「草原の輝き」まで、もうしばらく混迷をつづける。

 1958年、日本では、「悲しみよこんにちは」が公開され、ジーン・セバーグのセシール・カットが流行した。小津 安二郎の「彼岸花」に、山本 富士子が出て、有馬 稲子、久我 美子と共演した。三島 由紀夫の『金閣寺』が市川 雷蔵の「炎上」として、映画化された。石原 慎太郎が「若い獣」を監督している。

2009/08/25(Tue)  1081
 
 少年はいう。

 「わかってくれるかい。今朝起きてみると、太陽が輝いていて、なにもかもがきらめいているみたいで、すっごく気もちがいいんだ。そして、いちばんはじめに会ったのが、きみなんだ。で、思ったのさ、今日は素晴らしい日になるぞ、きっと。こんな日は、思いっきり生きなきゃ。明日なんて、ないかも知れないから。
  わかるだろ、オレは、すんでのところで、明日をフイにしちまうところだったんだよ。」

 映画、「理由なき反抗」の、ジェームズ・ディーンのセリフ。チキン・レースのあと。
 チキン・レースは、二台の車を並べて、同時に崖に向かって走らせる。断崖の近くまで疾走するのだが、おじけづいて、早く車から飛び下りたほうが負け。「チキン」は、臆病者という意味だろう。
 映画では、競争相手が死んだあと、「ジム」(ジェームズ・ディーン)が「ジュデイ」(ナタリー・ウッド)にいう。
 つぎの日の夜、ふたりは、荒れた廃屋の庭で会う。

   ジュデイ 愛するって、こういうものかしら。
   ジム  オレにもわからない。
   ジュデイ 女って、どんな人をもとめると思う。
        おだやかで、自分がやさしくしてあげ
        られるひと。
        こっちがもとめるときに、肩透かしを
        くわせないひと。
   ジム  オレたち、きみもぼくも、もうさびしがら
       なくて、いいんだよな。
   ジュデイ あたし、愛しているのよ。いつも、あたし、
        愛してくれる人を探してたけど、いまは
        あたしのほうから愛してる。
        それが不思議なくらい。やさしくできるの。
        なぜかしら。
   ジム  オレ、わかんないよ。オレだって、そう
       なんだもの。

 ジェームズ・ディーン(1931−1955)は、戦後アメリカの伝説的なスターだった。彼の出た映画としては、「エデンの東」、「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」の3本だけだが、この3本だけで映画史、映画スター史に残るだろう。
 彼が登場した時代は、映画産業が圧倒的な優位に立っていた時代だが、TVが普及して、時代に変化があらわれはじめていた。かんたんに要約すれば、暴力、犯罪、ドラッグ、セックスなどに、絶大な関心が寄せられることになる。当時のスキャンダラスな世相は、当時のエクスプロイテーション・マガジンの驚異的な隆盛からも想像できるだろう。

 ジェームズ・ディーンの死は悲劇的だった。ナタリー・ウッド(1938−1981)の死もまた。

 「理由なき反抗」は、それほどすぐれた映画ではない。しかし、それだけで時代を表現するセリフがあったればこそ、私たちの心に残った。
 「ジム」と「ジュデイ」の、ちょっと舌ッ足らずな、愛のことばのやりとり、ヴァーバル・ウーイングが新鮮に聞こえた。ジェームズ・ディーンもナタリー・ウッドも、時代の一瞬の輝きとして、私たちの心に残ったということなのだ。

2009/08/24(Mon)  1080
 
 岡場所。
 江戸にあった官許の場所以外の、深川、築地、品川、新宿などの私娼窟をさす。
 そのくらいは知っているのだが、なぜ「おか」なのか。いつから「おか」なのか。

 古語の「おか」、つまり陸の連想はわかる。「岡へあがったカッパ」というふうに。
 傍目八目のように、わき、横、はたから見る動き。これもわかる。

 江戸でいう岡場所を大阪では「外町」といったらしい。あるいは、「島場所」とも。

 このあたりにも、関東、関西の、トポス的な違いが見えてくる。「岡場所」と「島場所」、どちらでもいいが、吉原ではない私娼窟を「ほかの場所」としたのは、公娼を中心とした集娼制度に対する暗黙の異議申し立てではなかったろうか。
 金一歩の揚げ代の「金見世」(かねみせ)、銭一貫文の「銭見世」(ぜにみせ)、さらに、昼六百、夜四百に切り売りする「四六見世」、それ以下の「六寸」、「五寸」、「四寸」と区別した江戸の庶民のふところ具合も「ほかの場所」というカテゴライズに見えるような気がする。

 「島場所」は、私娼窟を別世界、何か極楽浄土に似た別の「島」として、とらえているような気がする。

 江戸でいう、「じごく」は、当然ながら極楽浄土とはまったく反対のものだが、これとても、江戸の庶民が「地の女」の「極上」という意味で使っていたとすれば、やはり違った解釈が出てくる。

 ほんとうは江戸の庶民の造語、暗喩、synthetic slang にも眼をむけるべきところだが、残念ながら、私にはその能力、学問がない。

2009/08/23(Sun)  1079
 
 『聖アントワーヌの誘惑』を書いていた時期のフローベールは、さまざまな打撃と挫折に見舞われている。
 自分のよき理解者だったサント・ブーヴ、デュプラン、ジュール・ド・ゴンクールといった友人たちがつぎつぎに亡くなって、ほとんど孤立無援といった状況に追い込まれる。
 しかも、この時期に愛する母を失った。つらいことが重なって、さすがのフローベールも、しばらく立ち直れない。

 当時、代表作の『感情教育』を出版したが、批評はかならずしも芳しくなかった。自分では圧倒的な自信があったのに、悪評も多かった。しかも、小説のモデルにされたということで、それまで親しかったボスケという女性から絶交をいいわたされる。
 出版社と対立する。
 作家としては八方ふさがりといっていい。

 しかも、ここにきて普仏戦争が起きている。緒戦のフランス軍の弱体ぶりに落胆したが、それよりも国運が傾いていることに、フローベールの苦悩が重なってくる。もともとひどくペシミスティックな観念にとり憑かれていたせいもある。しょせん、この世はのっぺらぼうにひろがっている地獄に過ぎない。こういう思いが、彼の魂にひろがっている。

 さまざまな苦難、困難に見舞われながら、少しづつ憂愁のいろを深めていった作家に私は関心をもつ。
 ただし、フローベールは大作家で、クロワッセに隠棲していた。私は作家というより、ただのもの書き、pot boiler に過ぎない。はじめからクロワッセとは違う地獄で生きている。

2009/08/21(Fri)  1078
 
 わざわざ映画館に行って映画を見る。そんなこともなくなってしまった。

 映画が斜陽産業化した原因はいろいろとあるはずだが、いつ行っても映画が見られる場所ではなくなったことも観客の減少を招いたのではないか、と思う。
 ちょっと時間ができた。どこかで時間をつぶす。そんなとき、近くの映画館に飛び込んで、もう始まっている映画の途中から見る。
 途中から見るのだから、映画のストーリーもよくわからない。あれよあれよという間に、映画か終わって、休憩時間をおいてから、もう1度、最初から見直す。やっと映画の内容がわかってくる。頭のなかで、ストーリーをつなぎあわせて、けっこう満足して映画館を出る。もう、あたりはとっぷり暮れている。
 そんな経験は誰にもあったはずである。

 いまは、映画を見ようと思うと、上映時間前にチケットを買って、10分ばかり前から館内に入れられる。席がきめられているので、押しあいへしあいして席をとりあう必要はない。しかし、映画館で映画を見るときの、うきうきした気分はあまりない。
 映画館ですわれるのはいいが、ガラガラにすいているのは哀れとしかいいようがない。

    だから、映画言うものは、家族中で見に行ったものです。小僧さんたちは仕事が
    あって行けない。八百屋さんもいかれないけれども、家をしめたら、九時から映
    画見に行こうといったものですよ。お風呂へ行くみたいなつもりで。だからお風
    呂屋のバケツを持って見にいきましたよね、「一本見られるでえ。今から」言う
    て。それに九時からは割引きがあったんですね。バケツに手拭い入れて見にいき
    ましたなァ。そのくらい、みんなに映画というものが親しかったんですね。

 淀川 長治さんの少年時代。私の少年時代でもこれはおなじ。こうしたアンチミテは、もはやどこの映画館にもない。思えば、幸福な時代でしたナァ。(笑)

 「エー、おせんにキャラメル。ラムネにイカはいかが」

2009/08/20(Thu)  1077
 
 老人なのだから、ボケたことしか書かない。書けない。現実の動きについて行けなくなっているせい。

 たとえば、GMが破産法の適用を申請した事態は、私の想像を越えていた。むろん、アメリカの産業の推移を見ていれば、1970年代から、テレビ、ビデオ、冷蔵庫といった家電メーカーが、つぎつぎに姿を消して行った。
 ところが、80年代の日本がぐずぐずしているうちに、アメリカの、インターネット、パソコンを軸にして展開した情報技術産業が、世界を制覇した。日本は、これが「空白の10年」と重なって、惨憺たる状況に追い込まれた。アメリカは、これで世界経済の主導権をにぎったが、やがてIT産業はつまづいたし、金融、保険などの分野も、昨年の金融危機でおおきな打撃をうけた。

 北朝鮮の核実験、さらには核攻撃の現実的な脅威、新型インフルエンザの登場、やがて冬季に於けるヴィールスの変化、どれひとつとして私などの理解できる現象ではない。
 こうした「現実の動き」は、私などにとっては、ほとんど理解を越えている。

 私に考えられるのは、それぞれが無関係な事象であっても、ここにきて、私たちはいやおうなく歴史的な曲がり角にさしかかっている、という認識が私の内部にも生まれつつある、ということ。

 ある研究者の説くところでは――現在、あの世を信じる、または奇跡を信じる20代の若者が、2003年から8年間で、
    あの世を信じる若者は、15パーセントから23パーセントに、
    奇跡を信じる若者は、30パーセントから36パーセントに、
 ふえたという調査結果を示している。
 そして、若者は「脱呪術化」ではなく「再呪術化」されている、という。

 この調査結果を見て、自分はどう答えるだろうか、と考える。

 あの世を信じるか。私は信じたいと思う。しかし、信じうべき理由が見つからない。
 私は奇跡を信じるか。これは、答えられない。どういう事象をもって、奇跡と見るべきなのか。具体的に語ることができないからだ。
 さりとて、いまや、若者たちのあいだで、進歩、夢、未来といった価値観が融解している、などと見るわけはない。

 私がボケたことしか書かないし、書けないことを少しも恥じてはいない。わからないことはわからないと見ているだけである。わからないことが多すぎるけれど。

2009/08/18(Tue)  1076
 
 前から探していたものを偶然見つける。これはうれしい。古書なら、掘り出しものを見つけたとき。
 つい最近、香港映画のビデオを見つけた。いまはもう誰も見ないようなビデオなので、掘り出しものといえるほどではない。作品もいわゆるB級、あまり自慢にはならないが、それでもこれを見つけて、内心ひそかに掀舞した。

 かなり前に、神保町のアジア映画専門のビデオ屋で見つけたときは、じつに法外な値がついていた。驚きあきれたが、同時に怒りさえおぼえた。いらい、この店には二度と足を向けなかった。

 たかが、古本1冊、古ビデオ1本、人の一生に何ほどのかかわりがあろうか。その1冊を読まなかったからといって、おのれの生きようが変わるはずもない。古ビデオ1本見たからといって、自分が見てきた映画に、どれほどのプラスになるだろうか。

 だが、そう思う人はついに私の友ではない。

 私が見つけた映画は、今はもう誰も知らない香港映画の1本。徐 克(ツイ・ハーク)の旧作、「刀馬旦」(1986年)。
 主演は・・・「夢中人」、「恋する惑星」の林 青霞(ブリジット・リン)、「プロテクター」、「上海ブルース」の葉 倩文(サリー・イップ)、「五福星」のチェリー・チャン。
 清国が崩壊して、軍閥政権がつぎつぎに交代するなかで、軍閥の将軍の娘の身ながら革命運動に身を挺する娘、革命さわぎに巻き込まれる京劇の一座の経営者の娘、何も考えずに北京に出てきて、予想もしなかった危険に見舞われる娘たち。

 この香港映画を何度も見ている。香港映画が、奔放なエネルギーにあふれ、全編スピードとサスペンスで、あたらしい世界を切り開いた。若い女優たちも、キラキラした明るい声の光をスクリーンの中からふりまいていた。
 私はこの映画で、林 青霞(ブリジット・リン)のファンになったのだった。

 そういえば、この映画が作られて10年後、一条 さゆりが、この映画に出た林 青霞(ブリジット・リン)の妖しい魅力にふれていたことを思い出す。そのエッセイを読んでから、さらに10年がたっている。
 そのブリジットも、もう引退している。

 古ビデオ1本。またブリジット・リンにめぐりあえたような気がしてうれしかった。

2009/08/17(Mon)  1075
 
 暑い日がつづく。げっそりする。どうしても食欲がなくなる。

 ふと、蓼太の一句を思い出した。

      冷飯に 夏大根のおろしかな         蓼太

 大根は冬の季語だが、夏大根と断っているので、いくぶん小ぶりで、味のからい大根なのだろう。
 冷飯に、大根おろしをかけて食べる。いかにも貧しい食事だが、食欲が進まないときでも、これなら食べられそうな気がする。

 ところで、ふと、という言葉は外国語にはないらしい。冷飯に、大根おろしをかけて食べる、などという趣向も外人にわかるはずないヨナ、と、ふと考える。

2009/08/16(Sun)  1074
 
 向井 去来(1651−1704)は、まじめな人だった。芭蕉門下でも、君子人として知られている。
 元禄4年、野沢 凡兆とともに『猿蓑』の編纂にあたった。

 あるとき、去来が一句を詠んだ。

    戀すてふ おもへば年の敵かな        去来

 この句の意味は――恋愛をしてしまった。ところが、自分はもういい年なので、恋愛沙汰などというのは、どう考えても、身命にかかわる、年甲斐もないことなのだなあ。
 そんな心境を詠んだものらしい。ただし、あまりいい句ではない。

 初五の「戀すてふ」が、どうもすわりがわるい。
 「恋をするということ」は、という意味が、「年の敵かな」にうまく対応していない。もっとよくないのは、この句には「季」がない。
 つまりは、俳句ではない、ということになる。まじめな去来は、自分でも、どういうふうにしていいのかわからなくなってしまった。

 たまたま、大先輩の俳人、伊藤 信徳に見てもらった。信徳は、この初五を変えた。

    戀さくら おもへば年の敵かな

 信徳は「花は騒人のおもふ事切なり」という。ようするに、桜は、昔から詩人たちが美しいと愛でてきた。戀もおなじことで、年齢を忘れて人を恋うることの、切なさ、やるせなさも「さくら」をひきあいに出せるのではないだろうか。
 去来は、信徳の手直しにしたがわなかった。

 元禄3年、芭蕉は、長旅を終えて、京に戻ってきた。去来は、芭蕉にこの句を見せた。

 芭蕉は答えた。「戀すてふ」を「戀さくら」に変えたところで、別にいい句になったわけでもない。「そこらは信徳程度の俳人が知るところにあらず」と。

 その後、野沢 凡兆が、この句の初五を変えて、

    大歳を おもへバ年の敵かな        凡兆

 「大歳」は、大晦日。つまり、一年が過ぎようとしている。いよいよ、大つごもり。考えてみると、こうして年の瀬を過ごしていると、ほんとうに過ぎこしかた、行く末を思う、自分の年齢にはかたきのようなものだなあ。
 芭蕉は、「まことにこの一日、千年の敵なり。いしくも(いみじくも)置きたるものかなと、大笑し給ひけり」と、いった。

 私も凡兆の改作をよしとする。しかし、凡兆の手直しに、去来としては不本意だったのではないか、と思う。
 「そこらは信徳程度の俳人が知るところにあらず」というあたりに、芭蕉の大きさをみていいが、芭蕉が大笑いしたのは、どういじっても、いい句にならないのに、こだわりつづけた去来をあわれんでのことではなかったか、と思う。
 だが、私はこの芭蕉にあえて異を唱える。

 去来が詠みたかったのは、自分はもういい年なのに、恋愛沙汰などを考えている。そういう年甲斐もないことにかかずらうおのれの卑小、つたなさではなかったか。

      大歳をおもへバ としの敵哉       凡兆

 などという感慨は、この去来にはかかわりがない。
 私にいわせれば、芭蕉には去来のみじめさが見えていないのだ。俳句としても、この句ははじめから無季でいい。この句にふれた人が、それぞれの季節を心において読めばこの句の情趣は成立する。それでいいではないか。この芭蕉をわたしはひそかに憐れむ。
 去来は気まじめな人だったが、ときには、

      稲妻や どの傾城と かり枕

 といった洒脱な句を詠んだほどの人ではなかったか。

2009/08/14(Fri)  1073
 
 一茶の『おらが春』を読む。
 文政2年(1819年)、一茶、57歳の句文集。

 一茶は、東北地方に旅行をしようと思い立って、わが家を出る。乞食袋を首にかけ、小風呂敷をせなかにかけた恰好は、西行法師に似て殊勝だが、ほんとうは似ても似つかぬ心境で旅立っている。
 二、三里も歩いてから、一茶は考える。

    久しく寝馴れたる庵をうしろになして二三里も歩みしころ、細杖をつくづく思ふに、おのれすでに六十の坂登りつめたれば、一期の月も西山にかたぶく命又ながらへて帰らんことも、白川の関をはるばる越る身なれば……

 もう、わが家に戻れないのではないか、と心細くなってくる。鶏が時をつげる鳴き声を聞いても、帰ったほうがいい、と呼んでいるように聞こえる。麦畑にそよぐ風も、戻っておいで、とさしまねく。また歩き出しても、あまり先に進まない。

    とある木陰に休らひて痩脛(やせすね)さすりつつ詠るに柏原はあの山の外、雲のかかれる下あたりなどおしはかられて、何となく名残おしさに、
    思ふまじ見まじとすれど我家哉  一茶

 私は一茶の句に親しんできたわけではない。しかし、文政2年、この年が一茶にとっては苦しみのはじまりだったことを思えば、一茶の哀しみは、私にもよくわかるような気がする。

2009/08/12(Wed)  1072
 
 敗戦直後の日々。日本人が、どのように敗戦の痛苦をうけとめたか。もはや、思い出すこともむずかしい。
 敗戦から一年。まだ、日本は惨憺たる状況にあった。食糧難が、生活をおびやかしていた。当時の短歌を読んでみた。
 その優劣を問わず、いくつかをここにあげてみよう。すべて、1946年夏までに詠まれたもの。

    山峡にひそと棲みつつ国々に散りたる友をおもふ今宵も    橋本 徳寿

    幾度か防空壕に出入りせし去年の夜半の想ひたへ難し     瀬頭 聡子

    戦いの激しかりし世に生きあひてわれは十九の命つなげり   南 晴彦

    荒地野菊たけて荒れたる疎開跡終戦の日に此処は毀たれぬ   小川 初枝

    ほしいままに草たけし原に木製の戦車の残骸見るに堪へなく  伊東 良平

    友に逢ひて話すは友の事なりき彼の友も亦彼の友も亦無駄死をしき 松本 清

    爆破されし工場の細部映りゆくかく見る既に感傷もなく    小暮 政次

    ためらはず兵器毀つに明治三十七八年の鹵獲銃もあり     大久保福太郎

    陸にありて米国製レーション海にして英国船レーションに命つなぎき 新海 五郎

    つつがなく食ひて生きゆく事の外今の我は何も考へず     吉田 正三

    乏しきに堪へむと思へど幾日かも主食の糧はつきはててけり  岡田 花明

    サイゴンの米を食ひたり復員の伯父が持ち来し細長き米    南 一郎

    四年ぶり復員したる吾が兄は父の墓辺に黙し立ちたる     大野 文也

    闇市に偶然遇ひし我が友は戦闘帽かぶり古靴を売る      加藤 信夫

    石鹸を並べし下の大き箱に紙幣うずたかし反故のごとくに   茅上 史郎

    難民とはかくの如きか犇めきて人はここにも列車に迫る    町山 正利

    満員の電車の中に横ざまになりたるままに終点に来ぬ     高橋 治純

    焼跡に残る家居のくろぐろとひとくぎりあり麦は生ひ立つ   新田 澄子

    土手外の一劃焼けず残りたり映画館ありて人の群がる     斉藤 広一

    焼け跡の日でりの中を歩み来て映画にいたく昂りて居り    増方 作次良

    東京の女の身なり派手なるを見つつぞおもふ何食ひてゐむ   大石 逸策

    兵舎跡に学ぶ女医専生徒らは下駄ばきのまま授業受けおり   国崎 行夫

    新しき教に障る書物焼きぬ汗ばむ胸に焔迫りて        市毛 豊備

    あまりにも貧しき装幀を打ち見つつ敗れし国のうつつをぞ識る  橋本 堯

    焼けし町焼け残る町つらぬきて広き舗道の夕映え明し     斉藤 正二

    中庭に麦のみのりし昼過ぎの日比谷公園に我は来て見つ    御船 昭

    戦の終りたる日の近づきて暑き日暮に蜩なくも        渡辺 清

 敗戦後、一年の凄まじい様相が、こうした短歌からいくらか想像できる。

 現在の私にしても、これらの短歌を読んでさまざまなことに気がつく。たとえば、原爆に関して誰ひとり言及していないこと。これは、おそらく、検閲による。なぜなら、このテーマ(原爆)は、アメリカ占領軍がもっとも警戒して問題だったはずである。
 そしてまた、思想上の論点としての、核の廃絶など、まったく歌詠む人たちの意識になかったこと。
 少なくとも、敗戦直後に、清瀬 一郎が原爆投下を人倫上の戦争犯罪と見た視点などは、これらの戦後詠にはまったく存在していない。

 ついでにふれておくが――これらの名もなき民草の短歌は、『昭和万葉集』なるものに一首も収録されていない。

2009/08/10(Mon)  1071
 
 1921年、ルイ・ジュヴェは、恩師のジャツク・コポオと対立したため劇団内部で孤立、舞台に立つことが許されず、もっぱら裏方にまわり、髀肉の嘆をかこっていた。ようするに、師にうとまれて冷遇されたのである。
 師弟対立の原因はいろいろあるのだが、劇団の創立メンバーでありながら、経済的に恵まれなかったことも遠因と見ていい。

 そのへんのことは評伝『ルイ・ジュヴェ』で暗示しておいた。ただし、評伝を書く場合、調べてわかったことを全部並べても意味はない。私の『ルイ・ジュヴェ』はなにしろ長い評伝だったし、この時期のフランスの小劇団の財政状態など、くわしくとりあげる余裕がなかった。

 けっきょく、出版にあたってカットしたし、原稿も全部焼き捨てた。

 その頃の日本の俳優の収入はどういうものだったのか。こちらの資料だけが残っている。焼き捨ててもいいのだが、何かの参考になるかも知れない。

    歌舞伎の大名題の月給は、7円80銭。6円80銭。5円80銭。
    少しさがって、中堅から、3円20銭。2円20銭。90銭。
    「帝劇」の座付きが、6円、5円80銭。3円80銭。1円50銭。60銭。
    「明治座」の左団次が、4円50銭。3円80銭。3円30銭。1円90銭。
    1円90銭。1円50銭。60銭。
    「市村座」が、4円80銭。4円40銭。3円60銭。2円20銭。1円90銭。1円70銭。1円60銭。1円10銭。90銭。
    これに、権十郎、小団次などの小芝居がならぶ。

 その頃の物価を比較すれば、なんとなく当時の俳優の生活が見えてくる。

2009/08/08(Sat)  1070

  藤田 嗣治の「私の夢」(1947年)を見た。
 「日本の美術館 名品展」に出品されていたが、画面いっぱいに、片腕を頭にあげて、まどろむ美女の裸身。そのベッドをとり囲むように、ネコ、オオカミ、ウサギ、サルなどが十数尾。半分ばかりは、人間そっくりの衣装をつけている。

 美しい女のヌードと、鳥獣戯画の組み合わせだが、フジタはどうしてこんな絵を描いたのか。

 1947年、この画家は、はげしい攻撃にさらされていた。戦争画を描いて、戦争に協力したという理由だった。

 戦後のフジタは、まったく沈黙していたが、この「私の夢」が、戦後の最初の作品になった。その後、フジタは、日本を去って、フランスに永住し、レオナール・フジタと改名して生き、フランス人として死ぬ。

 この絵をよく見ると、ベッドの下側にネコが3匹いて、サル2匹と争っている。左のネコは、サルの攻撃をふせいだらしく、サルはホエ面をかいて、となりのウスノロのトリにしがみついている。画面中央のネコは、赤い衣裳のサルに襲われて、思わずシリモチをついたかっこう。
 一方、ベッドの上側には、イヌ、オオカミが、何やらよからぬ相談をしている。中央の3匹はタヌキかもしれない。

 この絵が何を寓意しているか、忖度できないが、この動物たちが、いずれ魑魅魍魎のたぐいと見ていいだろう。
 フジタは、そのなかでネコだけは、最後まで信頼していたと見ていい。

2009/08/06(Thu)  1069
 
 8月6日、広島で、原爆犠牲者追悼の催しが行われる。

 私もまた、この日、かならず黙祷をささげる。

 別して、ある人びとに心からの哀悼を捧げる。ここに、そのひとりの女性を偲んで、ありし日の写真を掲げておく。

 生きる時代を異にしたため、私はわずかに彼女の映画を1本見ることを得ただけで、ついに舞台を見ることがなかった。しかし、彼女のおもざしは私の内面に深く刻みつけられている。

 園井 恵子という女優である。戦争末期、移動演劇の一隊に属して、広島に巡演して、原爆死を遂げた。ここにかかげるのは、まだ、戦禍を知るよしもなかった「宝塚」在籍中の写真である。

 合掌。


2009/08/05(Wed)  1068
 
 マリリン・モンローの初期作品、「ふるさと物語」(アーサー・ピアソン監督/1951年)は日本では公開されなかった。
 DVDで出ているので、はじめて見た。愚作。

 カヴァーに――マリリン・モンロー出演、日本未公開作品! と出ている。

 ストーリーを紹介するのもバカバカしいが――州議会選挙に敗れて上院議員をやめた「ブレイク」は、故郷の小さな町に戻ってくる。婚約者は、小学校の先生をやっている。
「ブレイク」は、彼女の伯父がやっていた小さな新聞「ヘラルド」の編集長になる。

 故郷の町では、軍需産業で成功した地元企業が、廃水を川にたれ流しているため、汚染がひろがっている。「ブレイク」は新聞に書きたてて、企業の責任を追求しはじめる。
 たまたま、小学校の先生に引率されてこの企業の銅山の廃坑を見学に行った「ブレイク」の幼い妹が、落盤事故にぶつかって・・

 主演のジェフリー・リンは、戦前に登場したB級スターで、「すべてこの世も天国も」(40年)、戦後は「三人の妻への手紙」(49年)などに出ている。タイプとしては、フランチョット・トーンにちょっと似ているし、レイ・ミランドにもなんとなく似ている。しかし、この映画のジェフリーはまるで冴えない。
 婚約者になる女優さんはジーナ・ローランズ・タイプ。むろん、ジーナほどの迫力も演技力もない。
 地元企業の経営者は、ドナルド・クリスプ。「我が谷は緑なりき」(41年)、「ナショナル・ヴェルヴェット」(44年)などで、私たちにも知られている。この映画でもさすがにクリスプらしい味は見せているが、それでもたいした映画ではない。

 さて、マリリン・モンローだが、この映画のマリリンもまるで魅力がない。
 出ているシーンは5カット。
 マリリンになぜ魅力がないのか。それは、監督がマリリンの、特徴にまったく気がついていないため。マリリンに何ひとつ芝居をさせなかった。セリフもあるにはあるのだが、田舎の新聞社につとめている女の子というだけで、何ひとつ「しどころ」がない。ようするに、演出家が凡庸で、マリリンをただ平凡にしか見せていない。つまり、この監督は何ひとつ見ていないのだ。

 この時期のマリリンは、すでに「アスファルト・ジャングル」(50年/ジョン・ヒューストン監督)に出ている。映画監督は(検閲をたくみにかわしながら)マリリンに初老の実業家の「情婦」を演じさせていた。そして「イヴの総て」(50年)のマリリンは、まるっきり才能のない女優を演じていた。この2本のマリリンは、若い女優らしい香気(フレグランス)を放っているが、「ふるさと物語」のマリリンは、ただの平凡な女の子にしか見えない。
 才能のない映画監督に使われる女優ほどかわいそうなものはない。

 この映画に出たあとのマリリンは、「夜のうずき」(52年)、「人生模様」(52年)、「モンキー・ビジネス」(52年)、「ノックは無用」(52年)などに出ている。
 マリリンは、チャールズ・ロートンを相手に娼婦を演じた「人生模様」がもっとも美しいが、全体としては、「ナイアガラ」(52年)までの、さまざまなトライヤル、試練の年だったはずである。

 ある女優にとって、まだ無名の頃に出た映画はどういう意味をもつものなのか。無名のマレーネ・ディートリヒは、グレタ・ガルボのはじめての主演映画、「喜びなき街」にガヤとして出たことに終生ふれなかった。だが、私はこの「喜びなき街」に出た無名のディートリヒの姿をけっして忘れない。

 「ふるさと物語」の映画監督、出演者、スタッフのだれひとり、わずか5ケ所のシーンに出ただけの女優が、1年後に世界的なスターへの道を歩みはじめるとは思っても見なかったにちがいない。

 このへんに、当の女優たちもまともに考えなかった問題があるのではないだろうか。

2009/08/04(Tue)  1067
 
(つづき)
 この1927年、レナード・シルマンが、ブロードウェイ・ミュージカルに登場する。シルマンは、前年、バサデナのショーをプロデュースしていた。
 彼は、リー・シューバートの推挽で、ブロードウェイに進出する。(リー・シューバートは「シューバート劇場」の経営者、大プロデューサー。女優、エルジー・ジャニス、映画スター、メァリ・ピックフォードのパトロンだった。)

 いろいろな曲折があって、レナード・シルマンが、ブロードウェイで「ニュー・フェイシズ」New Faces というショーを出す。

 キャストは、24人。
 主演の一人に、イモージェン・コカ。彼女は、1925年に登場しているので、「ニュー・フェイス」ではなかったが、「エルフィン」(小妖精)の「役」がぴったりだった。

 ほかの出演者は、作曲、シンガーの、ジェームズ・シェルトン、ダンサーのチャールズ・ウォルターズなど。
 さらには、歌手のルイーズ・テデイ・リンチ。のちに作家になった女優、ナンシー・ハミルトン。(彼女は、この時期、キャサリン・ヘップバーンの『戦士の夫』のアンダースタデイをやった。だから、この「ニュー・フェイシズ」では、キャサリン・ヘップバーンのモノマネをやってみせる。)

 オーディションを受けにきた役者で、最後の最後まで残ったふたりの若者がいた。ふたりとも、才能はあるし、役柄もぴったりだった。
 どちらを残すかきめかねたプロデューサー、レナード・シルマンは、とうとう、ふたりにコイン投げで、採用、不採用をきめることにした。

 結果は――ヘンリー・フォンダが採用された。
 落ちたのは、ジェームズ・スチュアート。

 ヘンリー・フォンダは、『水曜日にきみを愛した』というドラマで、ハンフリー・ボガートのアンダースタデイをやったあと、まっすぐにこの「ニュー・フェイシズ」のオーディションを受けたのだった。

 後年、このふたりはハリウッドの大スターになる。

 つい最近、トニー賞の受賞式の中継(’09.6.28)を見ながら、ふと、そんなことを思いうかべていた。

2009/08/03(Mon)  1066
 
 ときどき思いがけない話を知って驚くことがある。

 1927年、作曲家のヴァージル・トムスンが、ガートルード・スタインに訊いた。

    オペラの台本を書いてみる気はありませんか。

 ガートルード・スタインは、すぐに強い関心をもって、オペラの台本を書いた。アビーラの聖テレーザ、聖イグナチゥス・ロヨラが登場するオペラで、『四人の聖人』4 Saints という台本だった。
 当時、ガートルード・スタインはスペインに旅行して、すっかりスペインに魅了されたらしい。ガートルードのスペイン熱は、友人のピカソの影響や、ヘミングウェイの『日はまた昇る』に刺激されたせいかも知れない。

 ヴァージル・トムスンは、宗教音楽を書いてみたかったので、「聖人」が祈りをささげ、聖歌を歌い、奇跡を起こしながら、各地を遍歴するというドラマが気に入った。
 第四幕、エピローグの、「聖人」たちが「汝、これを見て我を思い出すべし」という合唱曲を書いた。
 このミュージカルは(ヴァージルのアイデイアで)オール黒人キャストで、上演された。

 「ヘラルド・トリビューン」の劇評家が書いている。

    ヴァージル・トムスンはバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)であるマンネンロ
    ウ(ローズマリー)であるアリス・B・トクラスであるトクラス、トクラス、ト
    ック、ガートルード・聖スタインの三、四、五幕のいい、きよらな楽しみきよら
    な楽しみきよらな楽しみの最後で最後ではない・・・というのが事実である。

 むろん、ガートルード・スタインの「バラはバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)であるバラ(ローズ)である」のパロデイ。つまり、ヴァージル・トムスンの作曲は、ガートルード・スタインふうだが、うまくいっていない、という意味。アリス・B・トクラスは、ガートルード・スタインの秘書で「恋人」だったレズビアンの女性。
 意地のわるい劇評家が、せいぜいキイたふうなことをヌカしたつもりだったのだろう。

 私はガートルード・スタインをあまり読んでいない。ガートルードの書くものはむずかしいので読めなかった、というのがほんとうのところ。
 ガートルードがオペラを書いたと知って、ほんとうに驚いた。
 この驚きは――ガートルード・スタインに対する驚きと、同時に、この時期のブロードウェイ・ミュージカルが、新しい方向性を模索していたことに対する驚き、これが重なりあっている。
     (つづく)

2009/08/02(Sun)  1065
 
 あるテレビ・ドラマ。高校2年の「飛鳥」は、周囲からは「男の中の男」と一目置かれている。ところが、ほんとうは女性的な趣味をもった「オトメン」(乙男)だった。
 ある日、「飛鳥」のクラスに、愛らしい転校生、「りょう」があらわれる。ところが、彼女は……

 最近のテレビ・ドラマには、こうした性的なトランスフューズ、あるいは、トランスマイグラントをテーマにするものが良く見られる。
 その基底には、おそらく美少年、美少女に関する私たちの観念の変化がひそんでいる。
「イケメン」などといういい加減な概念がうごめいている。

 ふと、大正期の美少女を思いうかべた。

    環は不思議にも妖しき美しさをもつ少女だった。母を幼くして失ったまま、後は父と子とたたぜふたのありのみの境遇のせいか、環そのひとには世の常の少女と異なって、どこかに雄々しい凛々しさが、姿形の中に現れていた。眉の濃く秀でたのも、眼に張りのあるのも、口許の締め方も、すべてが、そして美しく快い・・・・級の誰かが戯れて言うた。「環さんは、まるで早川雪州とモンロー・ソルスベリーと伊井蓉峰を臼の中でつき混ぜて、お団子にして、その上へ福助の女形の柔らか味の黄粉を仄かに振りかけたような感じのする方ね」と。その評のもし的を射たものとすれば、環は美少年といふのが、ふさわしいかも知れない、けれども、ああけれども、やはりどこまでもどこまでも、環は少女だった、少女だった。

 吉屋 信子の『花物語』、その一編「日陰の花」の少女の紹介である。

 「早川雪州」と「伊井蓉峰」は私も見ている。しかし、私の見た雪州は、せいぜいが「戦場にかける橋」だったし、伊井にしても、喜多村、小堀につきあっての舞台を見た程度だから話にならない。「モンロー・ソルスベリー」という映画スターはまるで知らない。
「福助」も見ているが、まさか『花物語』に出てくる「福助」ではないだろう。

 しかし、ここには、作家のレズビアニズムがほの見えるのと、美少年に見まがう美少女の登場が語られている。

 けれども、ああけれども、やはりどこまでもどこまでも、美少女は美少女だった、美少女だった。
 というようなナレーションは、すでに死に絶えてしまった。「イケメン」ということばも、いずれ死に絶えるだろう。

2009/07/31(Fri)  1064
 
 あなたはイヌ派。それとも、ネコ派。
 よく、そんなことを訊かれた。

 私の場合はひどく簡単で、人生の前半分はイヌ派。後半は、ネコ派。

 最後に飼ったイヌが思わぬ事故にあってから、ネコを飼った。その頃から、小説を書くようになった。当時、ハヴァナに住んでいたヘミングウェイが23尾のネコを飼っていると知って、23尾はとても無理だが、2、3匹なら飼ってみよう、と思った。
 ある日、小川 茂久につれられて、中村 真一郎のところに行ったことがある。そろって大柄で美しいネコが、たくさんいたので羨ましい気がした。
 そのうちにネコがふえて、最後には13尾も飼うことになってしまった。半分は、和ネコの雑種。半分はアメリカ産だった。

 作家志望者はネコを飼ったほうがいい。オルダス・ハックスリがそういっている。私は、オルダスの意見に賛成する。
 ネコというやつが、毎日、どういうふうに生きているか。というより、どういうふうに寝てばかりいるか。なぜ、そんなに眠ってばかりいるのか。とにかく、毎日、あきれながら、見ていてあきない。

 動物学者の日高 敏隆先生が書いている。

  「しかし、最近は、いってみれば「猫」を通じて環境を知ろうと言うような研究や教育のアプローチが盛んだ。それでいいのだろうか。大事なことはまず、猫はどんな動物か、犬とどう違うかを具体的に知ることではないだろうか。」

 そこで、ネコはどうして「ネコ」なのか、そこが知りたかった。

  「ねこまノ下略。寝高麗ノ義ナドニテ、韓国トライノモノカ、上略シテ、こまトモイヒシガ如シ。或云、寝子ノ義、まハ助詞ナリト、或ハ如虎(ニョコ)ノ音転ナドイフハ、アラジ」

 大槻 文彦先生の「言海」から。

  「猫(鳴き声に接尾語コを添えた語。またネは鼠の意とも)」

 これは「広辞苑」による。在来種の和ネコは、奈良時代に中国から渡来したとされる。なるほど、これでは、日高先生のいうように、「猫はどんな動物か、具体的に知ること」が必要だなあ。
 大槻先生の「言海」の説明によると、

  「古ク、ネコマ、人家ニ畜フ小キ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠を捕フレバ畜フ、然レドモ、窃盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁等種種ナリ、其睛、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ」

 私はこういう漢文体の文章に畏敬の念をもっている。明治時代に、猫の研究をした人の本をぜひにも探して読みたいのだが。

2009/07/29(Wed)  1063
 
 ブリジット・バルドー。
 1952年、ある雑誌の表紙に登場したのをきっかけに、映画にデビューした。
 代表作に「素直な悪女」(56年)、「裸で御免なさい」(56年)、「可愛い悪魔」(58年)、「私生活」(61年)など。

 いつか、作家の結城 昌治が書いていた。

  「アメリカ映画のほうでは、一足早くM・モンローがセックス・シンボルにまつりあげられて、その演じた役は無邪気でセクシーな可愛い女にちがいなかったけれど、私にはピントが合わなかった。彼女のコケットリー(媚態)、つまり男を異性として意識するポーズが気にさわっていた。意識された部分にハリウッド的な商業主義の匂いがした。
    そういうモンローとの対比においても、バルドーの出現はショッキングで、すばらしかった。彼女は可愛い女などではないし、悪女とかどうとかいう世間のモラルの範疇を越えて、存在自体が官能の美しさを誇示していた。」

 バルドーの出現がほかの女優にましてショッキングで、すばらしかったことも知っている。彼女と同時代のヨーロッパの美女たち、ジーナ・ロロブリジーダや、ミレーヌ・ドモンジョ、ロッサナ・ポデスタたちと比較しても、バルドーの存在自体が、際立って官能的な美しさを誇示していたと見ていい。私は結城 昌治と違って、ブリジットにあまり関心がなかった。
 たしかに、可愛い女などではないし、はじめから悪女とかどうとかいう世間のモラルの範疇を超越していたことも、じゅうぶんに認める。
 マリリンは、いわゆる「モンロー・デスヌーダ」の写真のモデルになったことと、最後の「女房は生きていた」のプールサイドで、ヌードになっただけなので、バルドーのように映画でフル・ヌードを堂々と見せることはなかった。

 バルドーのような女優をひとことでどう表現したらいいのだろうか。
 むろん、私などにはとても表現できないのだが、ある本でバルドーをさして、
 Pulchritudinous French Actress と紹介していたので、感心したおぼえがある。こういう表現はマリリンには似合わない。

 画家のヴァン・ドンゲンが、晩年にブリジット・バルドーを描いている。ヴァン・ドンゲンの芸術家としての衰えがはっきりわかるのだが、バルドーのような女優をカンバスでどう表現したらいいのだろうか、という迷いが見えた。こんなに、いたましい絵はめずらしい。逆にいえば、ブリジット・バルドーは、老大家のヴァン・ドンゲンを混迷させるほどの魅力にあふれていた、と見てもいい。

 私の好きな映画は、「私生活」(61年)、「軽蔑」(64年)、「ビバ! マリア」(65年)のバルドー。あとは、まあ、どうでもいい。

 私の好きなバルドーのことば。

    どんな年代になったって、その年齢に生きてれば、うっとりするわ。

 若かったブリジット・バルドーだからこそ、いえることば。

2009/07/27(Mon)  1062
 
 恋文。

    愛するおまえに。
    たった今、お前の手紙をうけとった。
    おれが書いた何通かの手はもう届いたと思う。
    いつもいつもお前を愛している。
    おまえのすべては、おれのものだ。おまえのため、ふたりの愛のためなら
    どんな犠牲も払うつもりだ。
    愛している。
    ひとときだって忘れない。
    おれがのぞむかたちで、おまえのものになれないのがつらい。
    モナムール、モナムール、モナムール・・

 こんなにせつない手紙があるだろうか。そして、こんなにも美しい手紙を書いたのは誰だったのか。

 これは、1936年、「恋人」のマリーテレーズ・ワルテルに送ったピカソの手紙。

 およそ虚飾のない手紙で、この短い内容に、ピカソの天衣無縫な姿と、男としての純粋な欲望、支配欲(リビドー・ドミナンデイ)が脈打っている。

 ピカソとマリーテレーズの出会いは偶然だった。
 ある日、彼は地下鉄の入り口で、可愛らしい十代の女の子とすれ違った。ピカソは、声をかけて呼びとめた。

 彼はたまたま手にしていた日本の美術雑誌を見せて、自分を画家だと紹介した。当時、ピカソは40代だったが、すでに世界的な名声を得ていた。その女の子は、どうして画家が声をかけてきたのかわからずに、まぶしそうな瞳をむけた。この少女が、マリーテレーズ・ワルテル、十七歳だった。
 ピカソはこの少女を愛するようになって、それまでの作風が大きく変わった。「青の時代」と呼ばれる暗鬱な世界から、ピンクを基調とする「桃色の時代」に入ってゆく。ピカソはマリーテレーズを愛した。マリーテレーズはピカソを愛した。そして、ピカソと結婚しないまま、ピカソの子どもを生んだ。この娘はマヤと名づけられた。

 私は『裸婦は裸婦として』を書くために、マルセーユにしばらく滞在した。マヤに毎日会ってインタヴューをつづけた。
 そのとき、この手紙を見せてもらったのだった。
 この手紙はそれまで一度も公開されなかった。私は、マヤの許可を得て、この「恋文」を引用した。

 マヤの話はとてもおもしろいものばかりだった。たとえば、マヤが娘だったころ、ピカソにつれられて、闘牛を見に行ったとき、ある映画スターがマヤに夢中になった。マヤは追いかけられてずいぶん困ったという。
 このスターは私も映画を見て知っていた。だから、それほど驚きはしなかったが、まるでフランス映画を見ているような気がした。

 後年、マリーテレーズ・ワルテルは自殺している。はじめてマヤからその事実を聞いて、私は衝撃をうけた。
 マヤの許可を得て自分の作品に書いた。それまで知られていない事実だった。

2009/07/25(Sat)  1061
 
 フランス。
 パリの国立ピカソ美術館から、ピカソのデッサンがはいったスケッチブックが盗まれたという。(’09.6.9.)
 被害は約800万ユーロ(約11億円)相当。

 新聞に小さく出ていた記事なので、くわしくはわからないが、1917年から24年にかけて、鉛筆で描かれたデッサン、33点。

 私はピカソを主人公にした読みもの、『裸婦は裸婦として』を書いたことがある。
 このときの取材で、毎日、ピカソのお嬢さん、マヤにインタヴューした。マヤは気さくな女性で、私が聞くことに対して、じつにいろいろなことを話してくれた。
 このときの話で、国立ピカソ美術館ができた裏話を聞いた。なにしろ莫大なピカソの遺産相続をめぐっていろいろと問題はあった。そして遺族に莫大な税金がかかることを考慮して、国家に現物の絵画を納付するかたちで、国立ピカソ美術館が建設された。このとき、残された作品が分配されたのだが、マヤは、ピカソの陶器のほとんどを相続したのだった。ここにも、ある理由があった。

 たいへん興味のある話だったが、私はいっさい書かなかった。『裸婦は裸婦として』は、新聞の読者にピカソという画家の生涯をわかりやすく書くことを目的としていたからだった。

 ある日、マヤはウイリアム・ペンローズ編の「ピカソ・デッサン集」を見せてくれた。
 ウイリアム・ペンローズは、ピカソ研究の権威として知られる美術評論家。

 その1ページに、ピカソ自身の手ではげしい斜線が書きなぐってあった。
 ピカソは、怒りにまかせて、そのデッサンに「ニセモノ!」と書いていた。この絵を抹殺しようとするかのように。
 若い女性の美しいヌードだった。

 そのデッサンには見おぼえがあった。戦前の美術雑誌「アトリエ」で見た。解説は、当時の美術評論家、外山 卯三郎。そればかりではなく、戦後もそのデッサンを別の有名な美術雑誌で私は見ている。

 マヤの説明では――「ペンローズはおれの研究家などとヌカしていながら、ホンモノとニセモノの見分けもつかないのか!」
 とピカソは怒っていたという。
 この話をしながら、マヤはいたずらっぽく笑ってみせた。

 いつか、この「ニセモノ」を見つけたら、私のHPに掲載したいものだ。まさか著作権侵害にはならないだろうから。
 万一、トラブルになったら、マヤのもっているペンローズ編の「ピカソ・デッサン集」を拝借しよう。さて、そうなると、こんどは、あのはげしい斜線が果してピカソのご真筆がどうか、鑑定しなければならなくなって……
 やめとこう。

 パリの国立ピカソ美術館から盗まれたデッサンのなかに――ウイリアム・ペンローズの選んだデッサンの1枚が入っていないことは確実だが。

2009/07/24(Fri)  1060
 
 いまでは広く一般化しているけれど、いわゆる「ラ抜き」ことばを、私は使ったことがない。
 どうやら、東京の下町ことばにはない表現らしい。

 はじめて聞いたのは、戦時中で、私より少し年上の友人が、「見レナイ」ということばを使った。それまで一度も聞いたことのないいいかただった。そのうちに、彼が「食ベレナイ」、「起キレナイ」、「来レナイ」といった表現をすることに気がついた。彼は大連で育ったので、「外地」の人は、こういういいかたをするのだろうかと思った。

 動詞、二段活用の変化をもたらした原因がどこにあるのか。私にはわからない。

 ただ、文章を書く上で、私は絶対に「ラ抜き」ことばを使わないことにきめた。

 この「ラ抜き」ことばは、やがて、<xx・レル>型の用法に変化して行く。
 たとえば――起キレル、受ケレル、見レル、逃ゲレル といった表現が、圧倒的に増殖してきた。

 小説を書く人たちのなかにも、こうした傾向がひろがってきたのには驚いた。

 私は、かなり長い期間、小さな文学賞の審査をしてきたので、おびただしい応募作を読んできた。それで、この傾向の拡大を憂慮するようになった。ただし、この審査を辞退してからは、文学表現の「ラ抜き」ことば、あるいは、<xx・レル>型の動詞がどんなにひろがってもあまり気にならなくなった。黙って見て居レル。(笑)

 江戸ことばから東京ことばへの変化が、いまや21世紀型のことばへの変化の過程にある、と見るべきなのか。あたらしいコロキアリズムの成立と見るなら、「ラ抜き」ことばを絶対に書かないというのはナンセンスになる。

 ただし――稗節 伝奇 架空のこと。ただ情態を写し得て。且(かつ) 善を勧め悪を懲すを 作者の本意となせるなり。などと書くお江戸の曲亭老人のものを。たまに読みふけっては楽しんでいる。私もまた老們だから。いまどきのものが見レネエとしても。知ったことじゃねえ。(笑)

2009/07/23(Thu)  1059
 
 伏羲、神農の時代以前に戦争はまったくなかった。
 軒轅・黄帝の御世に、乱が起きた。黄帝は風 后をさしむけて、これを破った。これより、はじめて兵戈(へいか)をもちいることになった。

 五帝の頃には征戦があった。
 三代、春秋の時代には、互いに取りつ取られつ。

 東夷西戎(とうい・せいじゅう)、南蛮北狄(なんばん・ほくてき)>
 なかでも、匈奴(きょうど)は、その人馬の勇猛をもって知られる。
 しばしば、中原に進入してくる。
 秦の始皇帝は、万里の長城をきずいて、胡をふせいだ。

 だが、秦はほろびた。

 漢が興って、文帝の御世となる。この帝は二十三年、帝位にあったが、いつもいつも匈奴(きょうど)に攻められつづけた。
 その十四年目、数十万の匈奴(きょうど)が攻め込み、国運ここに急を告げる。

 文帝、ついに詔を発して、軍勢を募る。……

 長くなるので、ここでとめよう。
 じつはこれ、明代の小説集、『雨窓欷枕集』の、「漢の李広 世に飛将軍と号せらるること」のオープニングを、私流に書き出したもの。
 この短編集の成立は、西紀1541=1551年頃。日本では、種子島に鉄砲が伝来した頃。マキャヴェッリの『君主論』(1532年)、ラブレーの『ガルガンチュア 第一之書』(1534年)の時代。

 最近、新彊ウィグル自治区、ウルムチで発生した大規模な暴動(’09.7.7)は、中国の民族間の対立、抗争をまざまざと見せつけている。

 こんな歴史があるのだから、かんたんにケリがつくはずはない。

2009/07/22(Wed)  1058
 
 いささか、艶冶な詩だが、あいも変わらず私流の自由訳で。
 原題は「半睡」。私の訳では、「夢うつつ」。

    きみは眉をひそめている
    もはや消えそうな 灯(ともしび)に

    ふさやかな髪の毛の片方を
    枕のかどに 沈めつつ

    からだごと 思いきり 私にあずけて
    いまはただ 声を殺してしのび泣き

    つやのある 綾絹にみだれて
    うつつと知らず 夜具をもみしだく

 晩唐の詩人の作。
 青楼の老鴇子舍に屏居して、夏の天明を迎えるような気分になってくる。

 どんな民族も、長い歳月をかけて、ゆっくりと、その女性像のひとつの原型 archetype を作りあげてゆく。これも、中国の美女の一つの典型。

2009/07/20(Mon)  1057
 
 佐藤 紅緑の長編、『愛の巡礼』(「危機」)に、こんな一節があった。

  「昔は髪の毛の長さで女の美醜を判別したものだが、いまでは髪が短いほどモダーンとして愛賞される。其れと同じく貞操なるものも今では何人(なんぴと)も価値を認めなくなった。」

 断髪。短く切った女の髪形。肩のあたりで切りそろえたり、後頭部を刈り上げにしたタイプもある。
 ボブ・ヘアー。

 女優、ルイーズ・ブルックスが、断髪美人の先がけと思われている。ほんとうは、コリーン・ムーアのほうが、ずっと早く断髪にしていた。コリーン・ムーアの自伝、『サイレント・スター』(’68年)に、そのあたりのことが書いてある。

 ルイーズ・ブルックスの映画が日本にはじめて紹介されたのは、1926年だが、コリーン・ムーアは、エドナ・ファーバーのベストセラー、「ソー・ビッグ」(1926年)に主演している。(日本では、1934年に<バーバラ・スタンウィック主演のリメイクが公開されている。)
 この1926年には、コメデイー、「微笑の女王」が公開されているので、コリーン・ムーアが、大スターだったことがわかる。

 佐藤 紅緑は、いうまでもなく、詩人のサトウ ハチロー、作家の佐藤 愛子の父にあたる。私が読んだ『愛の巡礼』は、活動写真から「映画」になった時代の映画界のインサイド・ストーリーとして読める。ただし、あくまで通俗小説。
 『愛の巡礼』といっしょに、『半人半獣』という、やや短い長編が入っている。

 佐藤 紅緑は、ある時期まで演劇人といっていい経歴をもっている。この『半人半獣』も、大正時代の「新劇珍劇トンチンカン劇」という芝居の世界のインサイド・ストーリーといってよい。
 この『半人半獣』という題名に、大正時代初期の岩野 泡鳴あたりの影響を見てもいいのだろうか。そんなことを考えた。
 たまたま、この1926年に、キング・ヴィダーの「半人半獣の妻」という活動写真が公開されているので、案外、そんなあたりから着想したのではないか。

 例によって、私の当てずっぽうに過ぎないのだが。

 一つの死語。たちまち思いもよらない連想に私をさそい込む。

2009/07/18(Sat)  1056
 
 飯沢 匡(いいざわ ただす)という劇作家がいた。内村 直也先生と同年だから、私にとっては先輩の作家である。

 戦時中、「文学座」が上演した『北京の幽霊』(昭和18年初演)、『鳥獣合戦』(昭和19年初演)を見ている。
 はるか後年、飯沢 匡のご指名で、「文学座」のパンフレットにエッセイを書いた。その程度のご縁だった。

 飯沢さんの人形劇、『赤・白・黒・黄』を見た。新宿/紀伊国屋ホール。作/演出・飯沢 匡。1969年(昭和44年)12月。
 人形劇団「指座」の旗揚げ公演で、もう1本、江戸川 乱歩作・筒井 敬介脚色の『芋虫』の二本立て。演出・古賀 伸一。

 開幕前に私は挨拶したが、こういうときの演出家の忙しさ、そして、芝居がうまく行くかどうか、じりじりするような不安と焦燥は、私もよく知っていたから、すぐに失礼したが、このときの飯沢さんのことばはいつまでも心に残った。

    やあ、中田さん。この芝居、じつはあなたのご本の盗作です。

 飯沢さんは笑った。私も笑った。たったこれだけのやりとりだったが、お互いにそれだけでじゅうぶんだった。私は飯沢さんの優しさを感じたし、飯沢さんも私の心からの敬意を受けとってくれたのではないかと思う。
 当時、私は『忍者アメリカを行く』というアホらしい時代小説を書いていた。幕末、ひとりのサムライがアメリカに渡って……というストーリー。こういうゲテものは、アイディア勝負というか、アイディアにプライオリティーがあるので、誰かに先をこされると、あとから似たようなものを書けばどうしても二番煎じになる。
 ところが、飯沢さんは私の作品を読んだ上で、あえて、幕末、ひとりのサムライがアメリカに渡って……というストーリーを芝居にしたのだった。
 なまなかな自信では書けるはずがない。

 私は、飯沢さんがわずかでも私を意識して芝居を書いたことをうれしくおもった。と同時に、私も芝居を書けばよかったなあ、と思った。

 この『赤・白・黒・黄』は、人形劇でなくても、りっぱに舞台にかけられる芝居だったが、その後、どこかで上演された話をきかない。

 「指座」は、筒井 敬介、川本 喜八郎、古賀 伸一たちが結成した人形劇団だったが、その後の活動は知らない。1971年、私は、テネシー・ウィリアムズの芝居の衣裳デザイナーに、この劇団にいた古賀 協子を起用した。
 このときの公演は、新宿の小さな洋風居酒屋のフロアで、ノー・セット、ノー・カーテンで演出した。衣裳デザインを担当してくれた彼女は、その後フランスにわたって、フランス人と結婚した。

 飯沢さんは私がいつか喜劇を書けばいいと思っていたのではないか。そんな気がする。
 あいにく、私には戯曲を書く才能がなかった。

 いまでもひそかに感謝している先輩作家のひとりが、飯沢さんだった。
 もうひとりは和田 芳恵。和田さんのことも、いつか書いてみようか。

2009/07/16(Thu)  1055
 
 ファラ・フォーセットの訃報につづいて、カール・マルデンの訃がつたえられた。
 本名、ムラーデン・セクロヴィチ。1913年生まれ。享年、97歳。老衰で亡くなったという。

 まるっきり美男ではない。何かの球根をくっつけたような鼻。どこといって特徴のない顔。しかし、俳優としていつも真摯な演技をつづけてきた。演技、存在感、それだけでもすばらしい役者。まさに名優といっていい数少ない役者だった。

 映画俳優(または、本職は舞台だが、映画に出る俳優、女優)の場合、そのスクリーン上の「役」に、俳優としての内面をさぐるとか、俳優術の進化のようなものを見届けることは――ほとんどが無意味だろう。しかし、それでも、ごく少数の俳優、女優にあっては、いつもおなじような発現――へんなことばだが、まあ、presenceとか、ある種の bliss ぐらいのつもりで使っている――を見せる。演技の原型ともいうべき状態を確実に身につけていることがわかる。
 最近のいい例では――フランク・ランジェラ。リタ・ヘイワースの遺作になった「サンタマリア特命隊」(72年)などの愚作に出たあと、「ドラキュラ」(79年)に主演しただけで、ブロードウェイに戻った。いまや老齢に達した彼は、舞台の名優になっている。

 もっと具体的にこれこれと指摘するのはむずかしい。たとえば、「ピアノ・レッスン」のハーヴェイ・カイテルと、「パルプ・フィクション」のハーヴェイ・カイテル。まったく違った「役」なのに、ある瞬間に全身から発する「迫力」。これは、おなじ「パルプ・フィクション」でも、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・トラボルタ、ましてブルース・ウィリスなどがまったくもたないもの。
 いい俳優は、その生涯のほんの一時期、ほかの誰も見せない「芝居」をやっている。

 カール・マルデンはいい俳優だった。いろいろな「役」を演じてきたが、それぞれの「役」を演じわけるのではなく、いつもおなじような発現の仕方をする、「人間」のある状態、ときには抑圧に内訌しながらはげしい怒りとしてあらわれる「動き」を見せる。
 ある役者が、ドラマで、怒りをぶちまける。そんな場面は、いくらでもある。たいていの役者が、そんな演技はらくらくとやってのける。しかし、カール・マルデンの芝居はそんな程度のものではなかった。
 もっとも初期の「マドレーヌ街13番地」(46年)、「ブーメラン」(47年)、「ガンファイター」(50年)といった映画に端役で出ていたが、「欲望という名の電車」(52年)の「ミッチ」は、俳優、カール・マルデンの存在をアピールした。彼の芝居が、どんなにマーロン・ブランドを、そしてヴィヴィアン・リーを引き立てていたか。
 こういう役者はめずらしい。(比較するわけにはいかないが、「パン屋の女房」でレイミュが、若いジネット・ルクレルクを引き立てていた。)

 いろいろな「役」を演じて、けっしてミス・キャスティングにならない。それだけに、ハリウッドは、いつもカール・マルデンの使いかたに困っていたように見える。あるいは、使いこなせなかった、というべきか。

 「波止場」(54年)、「ベビードール」(56年)、「シンシナティ・キッド」(65年)。どの映画でもカール・マルデンが出てくれば、その場面はかならずいきいきとしてくる。しかし、どの映画もカール・マルデンという個性的な俳優を決定的に使いこなしていたとはいえない。
 ここに、カール・マルデンの悲劇があった。

 私はすぐれた俳優の栄光と孤独といったものを、いつもカール・マルデンに見ていた。カール・マルデンのような役者がほんとうに輝くとすれば、ウディ・アレンの「ブロードウェイのダニー・ローズ」のような映画だろう。むろん、ウディがカール・マルデンを使うはずもないけれど。

 マイケル・ダグラスと共演したTVシリーズ、「ストリート・オヴ・サン・フランシスコ」(72―76年)は見ていない。マイケル・ダグラスなんか、見る必要もない。
 カール・マルデンは名優といっていいほどの役者だが、ほんとうはもっと違う映画に出てほしかった。どういう映画に? といわれても困るけれど、私の勝手な空想では、フランク・キャプラのコメディーとか、マイケル・ダグラスよりも、ステイシー・キーチか、ジーン・ハックマンあたりといっしょにブロンクスを歩きまわるしがない刑事とか。

 1989年から92年まで、アメリカ映画アカデミーの会長をつとめた。
 「ドライビング・ミス・デイジー」、「ダンス・ウィズ・ウルヴス」、「羊たちの沈黙」、「許されざる者」の時代。カール・マルデンは、どんな思いでこうした映画を見ていたのだろうか。

 俳優は死ぬのではない。ある場面に出ていて、ふっとどこかに消えるのだ。マイケル・ジャクソンが、得意のムーンウォークで、どこか遠くのネヴァーランドに消えて行ったように。たまたま、スポットが消えて、その出口にぼうっとライトがついて EXIT と出ているだけなのだろう。
 そんな思いが、はかない無常のなかにただよっている。

2009/07/15(Wed)  1054
 
 マイケル・ジャクソンが亡くなった日に、女優のファラ・フォーセットが亡くなった。(’09.6.25.)1947年生まれ。「戦後」の女優だった。

 ファラ・フォーセットも、もう、誰もおぼえていないだろう。

 いちばん最初にファラ・フォーセットを紹介したのは、私だった。その頃、「日經」が出していた雑誌にエッセイを連載していたので、たまたまアメリカでいちばん人気のある女優としてとりあげた。たしか、1973年頃ではなかったか。
 TVの「グレート・アメリカン・ビューティー・コンテスト」あたりの評判を聞きつけて、この女優に関心をもったのだろう。いまでは、自分でもわからなくなっている。

 当時の彼女は、ファラ・フォーセット・メジャーズだったが、私はあえて「ファラ・フォーセット」で紹介したのだった。このあたりの意味、理由はわかってもらえるだろう。私は――遠からず、いずれ彼女は離婚するものと見たのだった。

 ファラは美貌だった。あまりに美貌の女優は、どうも成功しないもので、たとえば、「薔薇のスタビスキー」で登場したシドニー・ロームのような美女も、一時期スターにはなったが、女優としての生命は長くなかった。
 同じように、ファラと前後して登場したイスラエルの女優、ブリジット・バズレン(1944―)も、セシル・B・デミルの「キング・オブ・キングス」では「サロメ」を演じ、リチャード・ソープの「ガール・ハント」(ともに1961年)では、スティーヴ・マックイーンと共演して、圧倒的な美しさを見せながら、すぐに消えている。
 サイレント映画の、マッジ・ベラミー、メァリー・ブライアン、エラ・ホール。
 みんな美貌の女優たちだったが、いずれも途中で消えている。

 ファラ・フォーセットも、後年「チャーリーズ・エンジェルズ」のめざましい成功で注目されたが、残念ながら女優としてはほとんど記憶に残らなかった。

 今年の5月、末期ガンと闘うファラのドキュメントがアメリカで放映された。
 あれほど美貌だった女性が見るかげもなく衰えながら、必死に病気と闘っている姿に誰もが感動した。日本では放送されていない。かりに放送されても、私は見ないだろう。むしろ、ファラが輝いていた「2300年未来への旅」(Logan’s Run)(76年)を見たい。この映画のヒロインは若いジュニー・アガターで、ファラは残念ながらワキにまわっているのだが。
 しかし、美しさではジュニーをはるかに越えていたと思う。

 俳優のライアン・オニールとは男の子をもうけたが、やがて関係を清算した。その後も友人として交際をつづけ、死ぬ3日前にライアンの求婚を受け入れたという。

 胸を打たれた。

2009/07/14(Tue)  1053
 
(つづき)
 たとえば、富田 孝司先生は、現在の金融危機について――

    金融危機で日本はダメージを受けたが、実は良い処が顕在化した。国内企業や大学の高度な技術と品質は日本の特長で断トツである。これは再生可能エネルギーや電力等の分野にも当てはまる。実は日本の材料技術と民族性が基礎となって、
    優れた変換効率の発電装置を生む。仕事の基本が出来ているので結果的に大きな成果につながる。世界が気付かないこの基本を我々は再認識しないといけない。

 こういう一節から、いろいろなことを考えることができるだろう。
 富田 孝司先生は、東大の先端科学技術研究センターの客員教授。ご専門は「超効率太陽電池」という分野の権威。
 この先生のエッセイのおもしろいところは、さらに別のところにあらわれる。国際化(グローバリゼーション)に関して、

    確かに日本の発電機、省エネ機器は最高水準である。しかし国や地域間を連絡する送電線網は極めて脆弱である。当然、電力マネージメント技術は発展しない。
    競争原理の中で商品の水準を追求するのはいいが、日本の携帯電話のようにガラパゴス島化する危険性がある。ジャパラゴスだ。むしろ渋谷のデコデンの方が国際的かもしれない。

 私はここから、別のことを類推する。日本の文学なども、いまやJ・ブンガクなどという範疇で考える人があらわれている。つまり、現代文学などは、すでにガラパゴス島化している。私などは、もはや死滅寸前の大トカゲ化しているもの書きなので、富田先生のエッセイからいろいろな示唆をうける。
 富田先生は寿司についても、きわめてユニークな発想を展開している。

    銀座の寿司もいい。欧米でも凄い寿司ブームである。回転寿司も普及している。
    だが並んでいるものは趣向や感性が違う。従来のように日本の寿司チェーンの全国展開もいい。だがいっそ寿司のレーティングする機構をつくってもいいのではないか。伝統の寿司文化を守り、ユーザに高い品質を提供するためを名目に世界寿司認証機構を設立してはどうか。工業製品の国際標準化も重要だが、文化や必需品の分野も日本の得手とする処である。

 これは、おもしろい。

 私が、「先端研ニュース」のエッセイが好きなのは、こういう部分に、私なりに文学的な問題を重ねあわせて考えるのが楽しいからでもある。

2009/07/13(Mon)  1052
 
 毎月、愛読している雑誌がある。
 「先端研ニュース」という。

 科学専門の小冊子を頂戴している。東大の先端科学技術研究センターが発行している雑誌で、現在の日本の、まさに先端的な科学技術の専門家が、それぞれの研究の一端を要約したり、紹介している。
 それぞれの研究室の公開テーマを見ただけで、レベルの高さが想像できるのだが、私にはまったくわからない分野の研究ばかり。
 たとえば、「MEMSとバイオナノを綜合した製造技術」とか、「イメージングとエビゲノム創薬」とか、「低炭素社会構築にむけたエネルギー技術」といったテーマは、私などにわかるはずがない。

 こういうむずかしい雑誌がどうして私のような、無学なもの書きに送られてくるのか、わからない。だいいち、どなたのご好意によるものなのか、見当もつかない。
 ところで、私はただの読者として、毎号、熱心に眼を通している。むろん、ここに掲載されている個々のテーマに関して、私は全く理解できないのだが。
 たとえば――ディペンダブルネットワークオンチッププラットフォームの構築。
 私の頭では、理解できるはずがない。

 太陽電池の研究開発。タンデム・無機系・有機系の太陽電池の開発の現況。
 こんなテーマが、私にわかるはずがない。

 ところが、私は毎月、この雑誌を愛読している。
 じつは、毎号きまって、みごとなエッセイが掲載されているからである。

 たとえば――「先端研」でイスラム思想史を研究する。池内 恵先生の報告。

 こういうエッセイは、私のまったく知らない分野の専門家が、現在、何をめざしているかを想像させてくれる。
 ときには、ご専門を離れて先生がたが気楽に書いていらっしゃるエッセイもあるので、私などにもよくわかる。そういう先生のお考えをたどることから、私なりにその考えを検討してみることもできる。これが、なかなか楽しい。 
   (つづく)

2009/07/12(Sun)  1051
 


 古い雑誌を見つけた。1950年、「映画世界」。
 50年代の私には読む機会がなかった。こんな雑誌が出ていたことも知らなかった。
 この雑誌の観客世論調査という記事。外国人気男女優ベストテン。(1950年11月15日号)。

   1. ゲイリー・クーパー    ・ 1. イングリッド・バーグマン
   2. ジャン・ギャバン     ・ 2. グリア・ガースン
   3. クラーク・ゲイプル    ・ 3. ジューン・アリソン
   4. タイロン・パワー     ・ 4. テレサ・ライト
   5. ロバート・テイラー    ・ 5. エリザベス・テイラー
   6. ジョン・ウェイン     ・ 6. マーナ・ロイ
   7. ジャン・マレー      ・ 7. ラナ・ターナー
   8. ヴィクター・マチュア   ・ 8. キャスリン・ヘッブバーン
   9. ルイ・ジュヴェ      ・ 9. ゲイル・ラッセル
   10.スペンサー・トレイシー  ・ 10.ヴィヴィアン・リー

 このベストテン、俳優の9位にルイ・ジュヴェ、女優の9位にゲイル・ラッセルが入っている。いやぁ、驚きましたね。
 ルイ・ジュヴェは、この時期、「犯罪河岸」(ジョルジュ・クルーゾー監督)、「真夜中まで」(アンリ・ドコワン監督)が公開されたため、このリストに入ったと思われる。
 ゲイル・ラッセルが入っているのは、おそらく「桃色の旅行鞄」が当たったせいだろう。いまでも、彼女をおぼえているファンがいるだろうか。

 個人的なことで恐縮だが――後年の私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いた。1950年、映画の観客世論調査で、ベストテンに入っているとは知らなかった。
 女優のゲイル・ラッセルについても、短いモノグラフィー(「エロスの眼の下に」(桃源社/所収)を書いている。彼女がこんなベストテンに入っていることも知らなかった。

 1949年から50年にかけて、それまでの空隙を埋めるように、優れた外国映画がぞくぞくと公開された。
 ベストテンにあげられている映画を列挙してみよう。

    「大いなる幻影」(ジャン・ルノワール監督/37年)
    「戦火のかなた」(ロベルト・ロッセリーニ監督/48年)
    「ママの想い出」(ジョージ・スティーヴンス監督/48年)
    「恐るべき親達」(ジャン・コクトオ監督/48年)
    「ハムレット」(ローレンス・オリヴィエ監督/48年)
    「平和に生きる」(ルイジ・ザンパ監督/47年)
    「裸の町」(ジュールズ・ダッシン監督/48年)
    「犯罪河岸」(ジョルジュ・クルーゾー監督/47年)
    「しのび泣き」(ジャン・ドラノア監督/45年)
    「黄金」(ジョン・ヒューストン監督/48年)

 このほか、このリストには入らなかったが、「ニノチカ」、「らせん階段」、「ミニヴォー夫人」、「子鹿物語」、「バラ色の人生」といった映画が公開されていた。

 こうした映画を思いうかべるだけで、たちまち戦後のさまざまな風俗や事件が重なってくる。ゲイル・ラッセルをおぼえているファンがいないように、こんな映画のリストから戦後の風俗や事件をまざまざと思い出す世代も消え去っている。

2009/07/11(Sat)  1050
 
 トーキー初期の、ジャック・フェーデルの名作といわれる「ミモザ館」(1935年)を見た。ビデオで。むろん、これまでに何度も見ている。

 少年時代に母がよくフランソワーズ・ロゼェの話をしていたので、なぜか「ミモザ館」という題名をおぼえた。
 私がこの映画を見たのは戦後になってからで、フェーデルの作品は、「外人部隊」(1933年)、「ミモザ館」(1934年)、「女だけの都」(1935年)と見ることができた。

 評伝『ルイ・ジュヴェ』のなかで、マリー・ベル、ジョルジュ・ピトエフに関連して「外人部隊」をとりあげた。ジュヴェのもっとも初期の出演作品として「女だけの都」をくわしく論じている。しかし、「ミモザ館」についてはふれなかった。

 なぜ「ミモザ館」を見直す気になったのか。なつかしさもある。昔の活動写真を見たいのだが、なかなか見る機会がない。そこで、トーキー初期の映画を見るのだが、記憶力の減退がひどいので、これまで何を見てきたのかという思いもあった。

 1930年代のフランス映画がもっていた独特の雰囲気、あるいはその時代に漂っていた空気、そしてそういう時代に生きていた女の匂い。フランソワーズ・ロゼェを見ながら、あらためてそうしたものをさぐろうとしていたのかも知れない。

 この映画にリーズ・ドラマールが出ている。当時、「コメデイ・フランセーズ」の女優で、「ラ・マルセイエーズ」(ジャン・ルノワール監督)で、「マリー・アントワネット」を演じていた。「背信」(ジャック・ドヴァル監督)では、借金のせいで、東洋人に暴行されそうになる女性。ついでに説明しておくと、この「背信」は、ダニエル・ダリューの「背信」(マルセル・レルビエ監督)とは別の映画。
 「ミモザ館」のリーズは、やや豊満な肉体で、ギャングのボスの情婦をやっている。

 ちょっと驚いたのは、この「ミモザ館」に、若き日のアルレッテイが出ていることだった。いうまでもなく、「天井桟敷の人々」(マルセル・カルネ監督)の「ガランス」である。まだ、スターになる前のアルレッテイ。

 この映画はスタヴィスキー事件のあとで作られている。
 この年代のフランス映画がもっていた独特の雰囲気、あるいは時代に漂っていた空気が、「ミモザ館」に直接、反映しているわけではない。しかし、この映画を見ながら、スタヴィスキー事件や、左翼とフランス・ファッショの激突を重ねあわせてみると、やはりこの時代に漂っていた空気に、暗いものがまつわりついていたことがわかる。
 この映画を見直してよかった。少なくとも、この時代に生きていた女の匂いは、まぎれもなくフランソワーズ・ロゼェ、リーズ・ドラマール、アルレッテイに見られるような気がするから。

 フェイデルの映画を見たついでに、「戦後」のデュヴィヴィエを見よう。私が見たのは「アンリエットの巴里祭」。残念ながら、デュヴィヴィエの才能の枯渇をまざまざと見せつけられた。ダニー・ロバンも、「娘役」としては、「恋路」(ギー・ルフラン監督)のほうがずっといい。おなじ、アンリ・ジャンソンのシナリオなのに、「アンリエットの巴里祭」にない厚味がある。
 この映画はルイ・ジュヴェの遺作だが、ジュヴェの様な俳優が出ているのと出ていない差が、若い女優の魅力にも影響しているのか。

 このあたり、うまく説明するのはむずかしいのだが。

2009/07/10(Fri)  1049
 
(つづき)
 キミの愛しているカレがキミに見せていない、つまり隠された性格を知って、キミは悩んでいるわけだ。なるほど。だけど、キミ、恋愛しているとき、カレの弱点を知るってノはとてもたいせつだよ。それにサ、カレシィのほうだって、キミの気もちを理解しているようだけど、ときどき、思いがけないことをするだろ。それで、キミは幸福になったり、不幸になったり。そんなんじゃ、とても結婚したって、うまくいかないヨ。

 こんなことをしゃべるわけ。女の子はすっかり信用して聞いてくれる。むろん、別のいいかただってできる。

 カレの愛しているキミがカレに見せていない、つまり隠していることがある。カレがこれを知ったらどうなる? カレ、悩むだろうなあ。だけど、恋愛しているとき、キミの弱点、というか、キミの過去のモニャモニャを知ってムニャムニャなんてノは許せないんだろ。だけどサ、キミだって、カレの気もちを理解してあげなきゃ。キミが思いがけないことをする。それで、カレは幸福になるかねえ。不幸になるだけだヨ。とても恋愛なんて、うまくいかないヨ。

 ごらんの通り、こうしたロジスム、ブラガドッチオ、ないしはレトリックを使いわければ、「銀座のオバサン」や「新宿のお母さん」なみに通用する。

 私にいわせれば――手相を見てほしい女の子は、自分自身にとってあらまほしい自分を見たいのだ。つまり、おのれの正当化をもとめている。
 恋愛にあこがれている、あるいは、げんに恋愛している女の子たちは、性をふくめて自分の行動をほかの女の子の行動、方法に準じて、それに適合させようとする。
 アンジェラ・アキの「旅立ちの歌」のなかに、
    自分の心を信じて行けばいい
 という一節があるが、「銀座のオバサン」や「新宿のお母さん」たちの占いだって、その程度の人生観、おのれの正当化をもとにして、女たちの期待に答えているにすぎない。
 古代中国、天下に最初の王たる、伏犠(フウシィ)は、民に佃漁の法をおしえて犠牲をやしなわしめた。犠牲というのは家畜をさす。
 この皇帝は、犠牲を養いて包厨食膳(ほうちゅう/しょくぜん)に充つることをおしえた。そして、左右二相を立て、初めて八卦(はっけ)を畫(かく)したという。
 私は易の歴史を思った。
 その後、ルネサンスを勉強しているうちに、占星術の勉強もするようになった。やがて、都市国家の支配者たちが占星術によっておのれの生きている時代の運命を占ったのも当然という気がしてきた。

 ことわっておくが、女子学生相手の人生相談は無料だった。食事をする時間がなくなって困ったけれど。

 最近は暇になったのでまた易者をはじめようか。ただし、女性にかぎる。(笑)
 見料はコーヒー一杯。おれがおごるんじゃない。キミにおごってもらうんだヨ。(笑)

2009/07/08(Wed)  1048
 
 ある時期、ある女子大の先生だった。けっこう人気のある先生だったらしい。
 昼休みに女子学生の「人生相談」にのってやった。「人生相談」というより、相談にきた女の子の手相や人相を占った。
 たまたま二、三人を占ってやったのだが、これが評判になって、昼休みの学食で、ひとりで食事をとっていると、女の子が寄ってくる。私の前に立って、
 「あのう、お願いがあるのですが……」
 もじもじしながら、声をかけてくるのだった。

 私の占いはじつに単純な思想にもとづいている。
 キミの運命は変わらない。ならば、姿勢を変えること。

 女子学生の相談は、兆域にいたらず、ことごとく現在進行形の恋愛か、または近い将来の婚姻の吉凶にかぎられているので、こんなに楽な卜占(ぼくせん)はない。
 門前雀羅(もんぜんじゃくら)をなす。中田先生の昼食時間は、易者の出張所になってしまった。ことわっておくけれど、私は相術をよくするものではない。ただ、私の卜定(ぼくてい)は、よろしきことしかつたえなかった。
 評判がいいのもあたりまえだろう。           

 私が見てやった女の子は、二百人以上。
 (つづく)

2009/07/07(Tue)  1047
 
 (つづき)
 進 一男の「行ってしまうんですか愛する人よ」という1編は、島唄の、

     行きゅんにゃ 加那
     吾(わ)きゃくぅとぅ忘(わし)りてぃ
     行きゅんにゃ 加那
     う立ちゃ う立ちゅてぃ
     行き苦しゃ
     ハレ 行き苦しゃ
 
 詩人はこれを訳して、

    行ってしまうのですか 愛する人よ
    私たちのことを忘れて
    行ってしまうのですか 愛する人よ
    いいえ 出発するには しようとするのですが
    どうにも行きにくいのです
    本当に 行き苦しくてならないのです

 さらに、詩人はこの本歌の変奏をつづける。

    私たちのことを忘れて
    行ってしまうのですか 愛する人よ
    とは 私は言いませんよ
    元気で行っていらっしゃい 私のことなど忘れて
    私たち家族のことも 何もかも打ち捨てて
    体に気をつけて 行っていらっしゃい 
    でも 島のことだけは 決して忘れてはいけませんよ

    あなたの行く所は いい所で
    人たちも皆 いい方ばかりとのことですから
    私が心配するようなことは何もないと思いますが
    昔 私が居た頃は まだまだ差別意識の特に強い所でしたけど
    今の時代 まさか そのようなことはないのでしょうね
    どんなことがあっても シゴトレと歯を食いしばって
    決して負けないように キバランバ不可ませんよ

    でも もしも どうしても我慢てきないことになったら
    前に一度 私が話して聞かせたことがあったように
    諸肌脱いで とまでは言いませんが お上品振ることはありません
    片肌位は脱いだっていつ公にかまいませんよ
    チヂンを打ち鳴らして 相手に分かろうが分かるまいが
    シマグチでなく しっかりしたシマユムタで
    ユミちらしてやりなさい
    泣きを見せてはなりません それでも我慢てきない時は
    思い出すことです どの様なときでも あなたには
    あなたを優しく受け入れてくれる島のあることを

    しかし何と言っても あくまでも大切なことは
    あなたの周りのすべての人に 心から優しくすることです
    私は思うのですが 平和とは一人一人の優しさなのですから 
    でも 本当に行ってしまうんですね 私のいとしい子よ

 私はこの1編に心から感動した。人間の愛別離苦、そして母と子の愛が語られている。こういう純乎たることばを口にするとき、私のような「ミンキラウワア」の内面にも詩を読むことのありがたさがあふれてくる。

 
 −−この詩集を読みたいと思うひとのために−−

注) 進 一男著  詩集『見ることから』(詩画工房/09.3刊・2200円)
 〒894−0027 鹿児島県奄美市名瀬 末広町10−1

2009/07/06(Mon)  1046
 
(つづき)
 進 一男の詩集、『見ることから』の30編、どの一編も、私にはみごとなものに思われるのだが、進 一男は別にむずかしいことを考えているわけではない。
 格調の高い詩ばかりが並んでいるわけではない。詩人の夢と、いまは亡き父や、死者たちのこと、ハワイに行くよりも天国に行きたい、という少女や、部屋に飾った小品の「少女裸像」という絵のこと、(おそらく奄美の伝承だろうが)耳が切れた豚、「ミンキラウワア」のことが、美しいことばで、やさしく語られている。
 「ミンキラウワア」は、ある種の妖怪で、こいつに股をくぐられると、たちどころに死んでしまうらしい。だから、詩人は、子どもの頃、そこを通るときは股をすぼめて、口をきかずに、急ぎ足で歩け、といわれたという。

    しかし 股を潜られた人の話は 一度も聞いたことはない
    まして潜られて死んだ人の話も まだ一度も聞かない

 という。
 きっと詩人も私も、誰も知らない「ミンキラウワア」に股をくぐられた人間なのだ。ほんとうは、たちどころに死んでしまうはずだったのだが、必死にことばを吐き散らして、なんとか遠い道と遙かな時をひたすら歩き続けているのだろう。私も股をすぼめて、口をきかずに、急ぎ足で歩いてきたのではないか。

 私もまた、この詩人のように・・「遠い道のりを歩いてきた」のだ。そして「遙かな時間を通り過ぎてきた」(「旅の途中で」)ひとり。
 さりながら・・・「過去が忌まわしい過去でないような」ありかたは、私にはない。
 戦争という、くそいまいましい「ミンキラウワア」に股をくぐられたために、どうあがいても詩人にはなれない、哀れな人間なのだ。         (つづく)

2009/07/05(Sun)  1045
 
(つづき)
 進 一男は、17歳のときはじめてリルケを知る。『マルテの手記』に、

    僕はまずここで見ることから学んでゆくつもりだ。なんのせいかしらぬが、すべてのものが僕の心の底に深く沈んでゆく」

 まず見ることから学んでゆく。このリルケの信条告白を、少年はそれを自分の内面で忠実に発展させてゆく。「まず見ることから」という詩人のみずみずしい決意が、80歳の詩人に結晶していることに私は感動する。

    私には何時も過去だけがあったと私は書いた
    今日も明日もすぐに昨日になってしまう
    生きようと思うこと生きていることは
    すぐに 生きたこと になってしまう
    考えてみると すべてはそういうことになる
    過去が忌まわしい過去でないような有り方

 私が、みずみずしいと思うのは、こういう感性なのだ。
 私たちが過去を思いうかべるとき、「今日も明日もすぐに昨日になってしまう」からだが、過去はぜったいにもとら戻らない。やがて年老いて死ぬことも、そのひと連なりの先にある。だから、過去をふり帰るときには、楽しいことも悲しいことも、いずれ感傷 をともなうだろう。詩人にはいつも過去だけがあった。
 だが、「過去が忌まわしい過去ではない」というとき、そこには、やはり、勁い意志がはたらく。
 いまの17歳たちは、いわば不安と抑圧から自由になっている。進 一男や私たちがその年齢だった頃、「過去が忌まわしい過去」だった時代には、まず、ぜったいにあり得なかったこと、まるで「生きようと思うこと生きていること」の、どうしようもない乖離(アンコンパティビリテ)のなかで、進 一男が詩をめざしたことに、私はかぎりない共感をもつ。
 自分の「生きようと思う」世界から拒絶されていた少年のことを思うと、まず見ることから学んでゆこうとしたことがどんなにむずかしいことだったか、きみたちにも想像できるだろう。
 当時の私もまた「まず見ることから学んでゆく」ことからはじめたような気がする。ただし、私が、現在の若者たちよりも、より多くを見てきたり、より多くを経験したのは、ただ馬齢を重ねてきたからではない。誰だって年を食えば、より多くを見たりより多くを経験する、というのは誤りなのだ。老人はより多く経験するどころか、むしろ何も見なくなるのが普通だろう。だが……

    私は遠い道と
    遙かな時を
    ひたすら歩き続けている
     (「旅の途中で」)
 
  (つづく)

2009/07/04(Sat)  1044
 
 日米戦争が開始される昭和16年、詩を書き始めた少年がいる。
 その後、じつに70年にわたって詩を書きつづけた。
 私家版の第一詩集を出したのは、大学を卒業した昭和23年。第二詩集を出すまで、14年かかったが、昭和43年に第三詩集を出してからは、順調に詩集を出してきた。
 2009年、31冊目の詩集、『見ることから』(詩画工房/’09.3刊・2200円)が出た。
 その詩は・・・・

    見渡す限り 周囲は峨々たる岩山で
    何らかの力が働いているらしく 少しずつ
    岩は削り取られるかのようで その中から
    何か形あるものが現れてくるようである
    もちろん今は決して明確な形ではない

 というオープニングをもつ。その「形」とは何なのだろう? 詩人はすぐにつづける。

    得体の知れないその形ではない形は
    日に少しづつ形を変えながら あるいは
    形を明らかにする気配を感じさせながら
    現れてきてはいるようなのであるが
    何時になったらその形が明らかになるのか
    一向に予想はつきそうにないのである

 誰が彫っているのか、誰も見たことがない。詩人はつづけて、

    具象的な何か あるいは 抽象的な何か
    果して形象なのか それとも文字なのか
    それらを見ていると感じさせられるのだが
    それはこれまでには存在しなかったところの
    ある何か新しいものでもあるのだろうか
    しかしそれを言い現すべきことばも今は無い

 詩人は、ここで、私たちにひとつの疑問を投げかける。

    それならば私たちは 形と同時に言葉もまた
    新しく発見し創造しんくてはならないのか
    私の 私たちの 前に投げかけてくる この
    磨崖の 何ものかである その何ものかよ
 
これが、「磨崖」という詩。
 詩人は進 一男。奄美大島の詩人である。
 彼の詩句の一行の真実は、読む人の胸にただちにひびく様な性質のものである。
 近作の詩集、『見ることから』を読んで、私はこの詩人が、孤高といってよい詩境に達していることをよろこんだ。いや、むしろ驚きをもって見たといってよい。
   (つづく)

2009/07/03(Fri)  1043
 
 ある作家の回想。

 彼がとても幼かった頃、年老いた料理女が、眼に涙をいっぱいうかべて、部屋に飛び込んできた。たまたま、その日、有名な女優が亡くなったと聞いて、悲しみのあまり、主人たちの部屋に走り込んできたらしい。
 この料理女は、半分文盲で、一度もその女優の出ていた劇場に行ったこともなかった。つまり、名女優、シャルロッテ・ヴィンターを見たことがなかった。
 シャルロッテは、偉大な国民的な女優としてよく知られていた。ウィーンでは、まるでウィーン全体の、ウィーン市民のたからものになっていた。だから、この女優の舞台を見たことのない人にとっても、その死は破局的(カタストロフィック)な事態としてうけとめられたらしい。

 これはステファン・ツヴァイクの『昨日の世界』の、最初のほうに出てくる。このささやかなエピソードを読むたびに、一人の女優をこれほど愛したかつてのウィーンの市民たちに私は心を動かされた。

 私たちの文化でも、一人の人気歌手や、芸術家が去って行くとき、しばしば国民的な悲しみが生まれる。例えば、明治期の団十郎、左団次の死や、戦争中の羽左衛門の死など。
 だが、その女優の舞台を見たことのない人にとってさえ、女優の死が、とり返しのつかないカタストロフとしてうけとめられたことがあるだろうか。
 つまりは、シャルロッテ・ヴィンターや、サラ・ベルナールほどの女優が存在したことがあったのか。

 「ブルグ劇場」がとりこわされたときは、ウィーン全体の社交界が、まるでお葬式のような感動におそわれて、桟敷に集まった。最後の幕が下りるか下りないうちに、観客は我がちに舞台にかけあがって、それぞれがひいきにしていた芸術家の踏んだフロアの一片を、形見として家に持ち帰った。
 何十年か後になっても、ある市民の家には、そんな、見ばえのしない木片が、りっぱな小箱におさめられて、たいせつにとってあったという。

 作家は学生時代に、ベートーヴェンが臨終をむかえた由緒のある家がとり壊されることに反対して、請願や、デモや、新聞に投書したり、学生としてできるかぎりのことをして戦ったという。

  「ウィーンのこれらの歴史的な建物のどれもが、私たちのからだから剥ぎとられる魂の一片だった。」

 私は、女優、シャルロッテ・ヴィンターを見たことはない。ブルグ劇場も知らない。
 しかし、私たちは、震災、戦災という二度の受難のあと、あまりにも多くの「魂の一片」を剥ぎとられなかったか。ただ利便性のためだけに、由緒ある地名がいとも無造作に変更された。もはや名もない道や坂に見えながら、じつはおびただしい歴史が残っていたはずの地域をブルトーザーが押しつぶしてしまったことを、あまりにも多く見てきたではないか。これをしも、文化の扼殺といわずして何か。

 私はときどきツヴァイクを読み返す。敬意をもって。
 同時に、彼の最後のいたましい姿を思い出しながら。

 ウィーン、パリ、サンクト・ペテルブルグが、もっとも美しい都市として知られているように、東京が世界でもっとも醜い都市だったことを思い出したほうがいい。
 永井 荷風の嘆きは現在の私たちの悲しみでもある。
 もはやとり返しがつかないのだが、わずかながら、今からでも遅くないことがある。

2009/07/02(Thu)  1042
 
 自分では想像もつかない「発見」に胸をおどらせる。私の悪癖。

 中国/周口店の地層が、これまで考えられていたよりも、20万年から30万年も古く、約78万年前までさかのぼれる、という。南京師範大学と、アメリカのパーデュー大学の研究でわかった。
 中国/周口店の地層が、約78万年前までさかのぼれるということは、いわゆる北京原人が、これまで考えられていたよりも、ずっと早い段階から、中国の北方に生息していたことになる。

 北京原人の頭骨が発掘された場所の地層から、石英や、石英質の石器を最終して、宇宙線の照射で生じた放射性元素の含有量を調べる。そして、地中に埋もれていた年代を割り出した。
 研究の結果は、「ネイチャー」に発表された。(’09.3.12)

 78万年前という「時間」は私には想像もつかない。なにしろ、ほんの78時間前のことさえもおぼえていないのだから。
 しかし、このニューズは、私に不思議な感動をもたらした。すごい話だ。人類の歴史がいつからはじまったのか知らないけれど、これまで考えられていたよりも、約78万年前からはじまっている!

 なんだかすごく、とくしたような気になった。

 もっとも、別のことも考えた。
 これまでの計算よりも約78万年前に、人類の歴史がはじまっているとすれば、そろそろ滅亡してもおかしくない。そう思えば、最近、つづいている暗いニュースなど、どうってこともないやね。
 なにしろ、いまよか78万年も前に、人間は人間になったってンだからなあ。(笑)

2009/07/01(Wed)  1041

 女優のアン・トッドは、1940年代から「戦後」にかけて、イギリス映画の大スターだった。
 彼女の文章を見つけた。みじかいものなので紹介してみよう。

    この本に出てくる映画の題名、たくさんの名前、写真にたくさんの思い出がまつわりついていますし、たくさんの喜びを思いうかべます。
    30年代、40年代、50年代の初期――映画の魔法のような時代に生きた女たちなら――身につまされる涙や、ロマンスのスリルを誰が楽しまずにいられたでしょうか。
    感情に無害な「はけぐち」としての「女性映画」は、おもて向きは私たちの大多数にとっての精神的な癒し、抵抗できないものでしたが、もっと重要なことは、社会的な慣習、経済的な抑圧にあった多数の女たちにとって、こうした映画はいっとき現実を逃避する源泉だったことでした。
    傑作、凡作を問わず、こうした映画は、最近の数年を通じて、ふつうの女性の立場の大いなる前進のペースをたもってきたものなのです。
    現在の女性映画は、めずらしい現象です。
    私の仕事だけにかぎっても、かつてのベテイ・デイヴィスや、キャサリン・ヘップバーン、私の出た「第七のヴェール」、「情熱の友」のような大いなる役をあげましょうか。観客のみなさんが私たちを通じてこうした役を生きたのです。
    女優の役柄や、役の内面をつき動かした感情は、消しがたい思い出になって残るのです。40年もたっているのに、私は「第七のヴェール」の有名なシーンが人々の心に深く刻まれていることを思いしらされてきました。私がピアノを演奏しているシーンで、ジェームズ・メースンが、手にした杖を私の両手めがけてたたきつける・・ 一瞬のシーンですが、観客のみなさんはけっして忘れませんでした。
    最近、テレビでこの映画を見てくれたタクシーの運転手はタクシー料金を受けとりませんでした。料金をもらったりしたら、あの映画のイメージが消える、と説明してくれました。
    これが「女性映画」のパワーなのです。
    女性のための映画の黄金期、こうした瞬間に心をときめかしたみなさん・・今でもテレビでごらんになるみなさんがたは――この本が喚び起す歴史、時間に、共感とよろこびをおぼえるものと存じます。
    そして、ここにとりあげられた昔の映画にどっぷりつかっている著者を心から祝福したいと思います。

 アン・トッド。40年代から50年代にかけて、イギリスのトップ・リーディング・アクトレス。後年は、ドキュメンタリー映画の演出をしていた。ただし、私はアン・トッドの映画をそれほど見ていない。なにしろ、イギリス映画はあまり輸入されなかったので。
 マーガレット・ロックウッドや、パトリシア・ロックも。
 残念としかいいようがない。

2009/06/28(Sun)  1040
 
 私は筈見 恒夫を非難しているのではない。むしろ、いいたいことを心おきなく書いていた先輩の映画批評家に羨望の眼を向けている。

 こんな一節がある。

    十三歳のダニエル・ダリューが、デビューしたのはアナベラなどと殆ど同時代のことである。「ル・バル」というのが、その作品だ。(中略)この少女は、しかし、「ル・バル」以後めきめきと美しくなった。一作ごとに磨きをかけられて行った。その美しさに目をみはったのは巴里人だけではなかった。アメリカの製作者が、この巴里美人に目をつけて、ユニヴァーサルが契約した。(中略)巴里へ帰ると、ドコアンの監督で「背信」と「暁に帰る」をとつた。巴里へ帰つたダリューは、アメリカ映画に見られない美しさだが、(中略)爺くさく婆くさかつたフランス映画も、この時代になると、すつかり若返つてくる。美男美女はフランスから、とでも云いたいくらいだ。フランス中の美人たちが、自信をもつてスクリーンの前に立つようになつた。こうなると、土くさいアメリカの比ではない。女優発掘の名手として、まずデュヴィヴィエがあげられるだろう。

 アナベラは、アベル・ガンスのサイレント映画、「ナポレオン」(1927年)のラストにまったく無名の少女としてデビューしている。ダニエル・ダリューの「ル・バル」(1932年)はトーキー映画なので、私にはこのふたりが同時代にデビューしたという認識はない。たかが5年の違いだから、ほとんど同時代には違いないのだが。
 アナベラは先輩女優。ダニエル・ダリューは、アナベラを越えた女優。
 しかし、「爺くさく婆くさかつたフランス映画も、この時代になると、すつかり若返つてくる」というとき、胸をときめかせていたこの批評家の表情がうかがえよう。

 私は、先輩の批評家たちが残した映画批評にいつも敬意を払ってきた。(例外はある。津村 秀夫にはあまり敬意をもっていない。)その敬意には、こちらの知らない映画について書いているという羨望、くやしさが重なりあっている。
 先輩の映画評論家が書いている(書かれてしまった)ことの証明の不可能性もある。
 だからこそ、いろいろな映画史や、へんぺんたる映画批評までもありがたいものに思える。映画批評というものは、そこに書かれたこと、書かれなければならなかったことにおいてはじめて意味をもつジャンルなのだから。

2009/06/26(Fri)  1039
 
 筈見 恒夫が書いている。

    余談だが、私にはジェーン・ワイマンという女優のよさがてんで理解できない。牝ガマめいた容貌もさることながら、その演技だって巧いと思ったことはいちどもない。容貌が悪くても芸の巧い女優はいるが、容貌が悪いから必ず芸が巧いとはかぎつていない。ワイマンの人気には、こういう錯覚があるのではないだろうか。いや、こういうことは稿をあらためて書かなくては納得してもらえまい。

 『女優変遷史』にジェーン・ワイマンが登場するのは、この部分だけである。
 私がハリウッド映画を見るようになったのは戦後だが、ジェーン・ワイマンはBUSUの女優さんの代表で、「ガマグチ」ワイマンなどというニックネームで呼んでいた。
 こういう女優は、ジェーン・ワイマンにかぎらない。ほかに「容貌が悪くても芸の巧い女優」としては、サイレントのマリー・ドレスラーから、ザス・ピッツ、トーキーになってからの名女優、フローラ・ロブソン、エルザ・ランチェスター、ドロシー・マッガイアー、いくらでも思い出せる。むろん、「容貌が悪いから必ず芸が巧い」わけではない。

 だが、ジェーン・ワイマンという女優の「演技だって巧いと思ったことはいちどもない」といい切ってしまうのは、ワイマンに気の毒な気がする。
 「失われた週末」(45)、「夜も昼も」(46)から注目してきたが、「ジョニー・ベリンダ」(46)、そしてアカデミー主演女優賞をとった「イヤリング」などは、今見ても、ジェーン・ワイマンの落ちついた演技が眼にうかんでくる。とくに「イヤリング」は、いつもドヘタなグレゴリー・ペックが、ワイマンのサポートのおかげで少しはましに見えたし、全体に子役のクロード・ジャーマン・ジュニアが場面をさらっていたため、ジェーンはめだたなかった。しかし、ジェーンは、きびしい自然のなかで孤独に生きていながら、妻として愛情に飢えている女を見せていた。
 アメリカ開拓期のプロヴィンシャリズムを、ひとりの映画女優がこれほどみごとに表現したのははじめてとさえ見えた。(私のいうアメリカ開拓期のプロヴィンシャリズムは、サイレントのメァリ・マイルズ・ミンター、戦前の「麦秋」や、「シマロン」において、ひとつのピークに達する。戦後では「シェーン」で牧場主の妻をやったジーン・アーサーが、この開拓期プロヴィンシャリズムを見せていた。「帰らざる河」のマリリン・モンローもその例。ただし、オットー・プレミンジャーか開拓期プロヴィンシャリズムにまるで関心がないため、この映画のマリリンはただの淪落の女というイメージに終わっている。

 筈見 恒夫が『女優変遷史』を書いた時期のジェーン・ワイマンから、後期のジェーン・ワイマンは大きく変化する。現在、韓国の崔 智充(チェジウ)が「流涕女王」だが、50年代からのジェーン・ワイマンも、アメリカの「流涕女王」だった。
 たとえば、「All That Heaven Allows」(55年)や、「Miracle in the Rain」(56年)など。
 「イヤリング」からの発展としては「ポリアンナ」(60年)をあげておく。

 資料を読むときは、こういう――誤解とはいえないけれど、筈見 恒夫が見なかったことにも眼をくばる必要がある。

2009/06/25(Thu)  1038
 
 筈見 恒夫の映画女優史の一節に、ふと胸を打たれた。

    (前略)「アンリエットの巴里祭」にダニイ・ロバンの母親役として、マリー・グローリイが出ていた。このマリーは、デュヴィヴィエの出世作の一つになった「商船テナシチー」の可憐なヒロイン、テレーズである。港の雨は寂しい、あのアーヴルの波止場から、失意のセガールを旅立たして、バスチャンとの恋に失踪した宿屋の女中だ。サイレントの末期から、ゾラ原作の「金」や、「巖窟王」の娘役で売出していた女優だったが、テレーズの役は、彼女として一世一代の思い出の役であろう。二十年の歳月は初々しかったテレーズを、あんなに老いさせてしまったのであろうか。
    (『女優変遷史』1956年刊)

 私にしても、おなじ思いで映画を見てきた……かも知れない。
 歳月はあれほど初々しかった「彼女」を、あんなにも老いさせてしまったのか。つぎの瞬間に、自分もすっかり年老いてしまったことに気がつく。
 筈見 恒夫の一節に胸を打たれたのは、そういう感慨だけによるものではない。
 じつは――ここに書かれた内容が、もはや誰にも共有できないことなのだ。

 私はたまたま「商船テナシチー」を見ている。デュヴィヴィエの初期(サイレント時代から考えれば、中期)の作品。原作は、ヴィルドラック。舞台では、コポオの演出、ジュヴェの照明で、ヴァランティーヌ・ティッシェがヒロイン、「テレーズ」をやっていた。 映画では――浜辺で、マリー・グローリイがアルベール・プレジャンの「バスチャン」と抱きあって波打ち際にたおれ込むシーンがあって、いまでも鮮明に思い出すことができる。

 残念なことに、「金」や、「巖窟王」のマリー・グローリイを見ていない。こうした映画を見た世代ではなかったからである。
 だから、マリー・グローリイの「テレーズ」が一世一代のものだったといわれても、そうだろうなあ、と思うだけで、批評的に検証できない。ひとりの映画評論家がそう書いているというだけのことになる。これがさびしいというか、残念というか。

 「アンリエットの巴里祭」だって、もう誰もおぼえていないだろう。「戦後」はあまり高い評価が得られなかったデュヴィヴィエだが、晩年の傑作の一つ。この映画に、フランスの「戦後」を代表する美女、ダニイ・ロバンが出た。しかし、これももう見る機会はないだろう。

 私が、マリー・グローリイを知らないように、今の人たちがダニイ・ロバンを知らなくても仕方がない。
 たとえば、松井 須磨子の「サロメ」や、河村 菊江(「帝劇」の女優)の「サロメ」も知らないし、アラ・ナジモヴァ、セダ・バラの「サロメ」も知らない。
 「文学座」の「サロメ」、三島 由紀夫演出の岸田 今日子は見ているが、フランス映画(クロード・タナ/85年)のバメラ・サレムも、イギリス映画(ケン・ラッセル/87年)のグレンダ・ジャクソン)も見ていない。両方とも輸入されなかったから。

 それでも、私の内部に「サロメ」が生きていることは疑いをいれない。

 私たちは、それぞれの時代に生きていた俳優や女優たちに、そのときそのとき一瞬々々に別れをつげているのだ。
 映画女優史の一節を読んで、そんなことを思うのはあまりに奇矯だろうか。

2009/06/24(Wed)  1037
 
 私は夏が好きだった。どうして、夏が好きなのか考えてみると、この季節は女が美しく見えるせいで、暑さが好きというわけではない。

 あまり見かけなくなったが、面長で、目鼻だちのあざやかな明るい顔。すらりとした背丈、昔でいう小股の切れあがった女。浮世絵で見る江戸の美人の典型。
 最近の女優では、水川 ナントカ。 ご本人は和装したこともないらしいが、ほんとうはああいう女性が浴衣を着れば最高の美女になる。

 夏の美人といえば、髪あげをした襟あしの美しさ、薄衣の裾からもれる素足の美しさ。

 古い劇作家の木村 錦花が、こういう美人こそ夏の風物詩なのだという意味のことを書いていて、共感したことをおぼえている。

 江戸の芸者は、寒中でも、足袋をはかず、素足に紅をさしていたらしい。こうした江戸前の粋で、辰巳芸者が侠名をうたわれた。

 今の世の中では、足の指にまでネイルアートという女の子もめずらしくない。しかし、江戸前の粋なぞは、あり得ようはずもない。

 いまの私は夏があまり好きではなくなっている。

2009/06/23(Tue)  1036
 
 ルイ・ジュヴェが亡くなったのは、1951年だった。
 この俳優=演出家は、戦後すぐに、ドゴール大統領の要請をうけて、コメデイ・フランセーズの改革に尽力し、大きな足跡を残した。
 しかし、ジュヴェが亡くなって8年後、ドゴール派のアンドレ・マルローが文化相に就任して、またまたコメデイ・フランセーズの改革に着手した。これは、ジュヴェの改革を否定するものだった。

 かんたんにいえば−−「リシュリュー劇場」、「リュクサンブール劇場」の二つに別れている「コメデイ・フランセーズ」の、それぞれの役割をはっきり区別しようとした。これが、ルイ・ジュヴェの「改革」だった。

 ところがマルローは、この二劇場分割制をやめることにした。そして、「コメデイ・フランセーズ」の総支配人に、チェコ駐在大使だったクロード・ボワサンジュを任命した。
 「リュクサンブール劇場」は、戦前からあった、もとの「オデオン劇場」にもどして、ジャン=ルイ・バローの劇団の常打ち小屋にする。
 一方、「国立民衆劇場」をひきいるジャン・ヴィラール、それに、作家のアルベール・カミュに、それぞれ劇場を引き受けてもらって、国立劇場に、新人作家の登場を促し、ヴィラールには、古典を中心に演出をしてもらう、という構想だった。

 当時、この改革に対して、賛否両論が活発に出されたが、ロベール・ケンプなどは、「コメデイ・フランセーズ」の一座統括に反対した。レパートリーに制約を生じて、新作の登場がむずかしくなる、という論点だった。

 誰も指摘しないことだが、後年のパリ革命の遠因の一つに、このときの強引な「コメデイ・フランセーズ」改革があったのではないか、という思いが私にはある。

2009/06/22(Mon)  1035
 
 享年。
 年ヲウケル。簡野 道明の『字源』には、郭有道碑『稟命不融、享年四十有二』という例文が出ている。
 おなじ意味の、行年を調べてみると――行は歴。経過せしよはひ。荘子の「天道」から、「行年七十」という例が出ている。

 私は、『ルイ・ジュヴェ』のなかで、

    一九五一年八月十六日午後八時十五分、ジュヴェは死んだ。享年、六十三歳。

 と書いた。
 このとき、「享年」と「歳」が重なるのではないか、と注意された。そんなことを考えたこともなかった私はそのままで押し通したが、ひょっとして「享年・・歳」といういいかたは誤りなのだろうか、と内心、疑懼した。

 ずっとたって、馬琴の『絲桜春蝶奇縁』を読んでいて、

    享年、ここに廿三歳。

 という表現をみつけた。
 馬琴が書いているのだから、間違いではなかろう。ホッとした。

2009/06/21(Sun)  1034
 
(つづき)
 3万5千年前のクロマニョン人の男の見たものは何だったのか。

 彼は、自分が彫りあげた女の乳房、その下に刻みつけた性器を、さまざまな方向から眺める。それは鑑賞というよりも、崇拝だったかも知れない。対象とするものが、たいらではない。単純であっても、プロポーションを無視したほどおおきな乳房や、性器をしめす大きな亀裂は、生きた光と影がたわむれあっている。
 それを見る角度や、季節、時間によって、彼のまなざしには、けっしておなじフォルムにはならない。これは、立体だけがもっている特有の美しさなのだ。

 この変化にとんだフォルムを、古代人の彼は自分の手の触感や、眼を通して、いつも存在している実態としてとらえていた。だからこそこのペンダントの女の乳房は大きく、その性器の刻みは深かったにちがいない。

 彼は、自分の部族、いや、もっと小さい単位で、出会った女たちや子どもたちのために狩猟をする。
 何日も獲物を追って、仲間たちと地の果てまでも歩きつづけたかもしれない。そのときどきに、自分の胸にかけたペンダントをまさぐって勇気を得た。

 まだ、ことばはなかった。だが、感動は彼をうごかす。
 彼の発する叫び、彼の喜びも悲しみも、いつもこの「ヴィーナス」像が受けとめてくれる。そのつややかな肌は、女のうめきであり、彼のオーガズムだったはずである。そして、何千年という果てしのない時間が流れてゆく。

 この「ヴィーナス」像は呪術に使われたかも知れない。呪術であれ何であれ、この偶像(アイドル)は、「彼」が生きるという問題を見る時の新しい観点であり、その解決におけるモーティヴであり、おのれが選択し得る様々な反応のありかたをもっているにちがいない。

 考古学者は、土器、陶器の破片から文明を発見する。わずかな破片の数個から、もはや失われた文化の日常生活の様式や、その技術のレベル、あるいは制度までも見ぬくという。私にはそんな能力はない。
 まったくちがう思いが、私の胸をかすめる。

 私は「彼」なのだ。3万5千年前のクロマニョン人は、はるかに悠久の時間をへだてながら、現在の私として生きている。そのことに私は感動する。

2009/06/20(Sat)  1033
 
 子どもの頃、海辺でひろった貝殻をたいせつにしていた。道で拾った小石をてのひらににぎりしめて、家に戻ってから、ためつすがめつ眺めた。そんな経験はだれにもあるだろう。
 道みち、ちぎった木の葉や、小枝でさえ、いろいろな角度から眺めて、思いがけない美しさに気がついたりする。ただし、そんな小さな心の動きはすぐに忘れてしまうけれど。

 ある男が、たまたまマンモスの角のかけらを掌にうけた。その美しさに心がときめいた。そして、尖った石をひろって、そこに愛するものの姿を刻みつけた。

 ドイツのチュービンゲン大学の考古学研究チームが、ホーレ・フェルス洞窟で、3万5千年前のものとみられる「ヴィーナス」像を発見した。
 高さ、約6センチ、幅、約3.5センチ、重さ、約33グラム。マンモスの牙を彫ったもので、人類最古の彫刻作品という。(「ネイチャー」’O9年5月14日号)

 これまで、私たちに知られている「ヴィーナス」像とよく似ている。人体のプロポーションを無視したような巨大な乳房、ずんぐりした胴の下に、性器をしめす大きな亀裂が彫りつけられている。
 この頃、ヨーロッパに進出していたクロマニョン人が作ったペンダントとされる。

 これまで、最古の彫刻作品とされてきたのは、おなじ洞窟から発見された水鳥や、馬の頭で、3万年から3万3千年程前のものという。

 これを作った男は、自分の手で石器を動かし、乳房や、それをかかえる両腕や、胴や、性器、手に比較すれば異様に短い両脚を彫りながら、よろこびを感じ、何ものにも換えがたい女体の美しさに感動していたのだろう。
 うつくしいものを現実に存在するものとして表現しようとする。そこに、彫刻の原初的な情動がある。
  (つづく)

2009/06/18(Thu)  1032
 
 毎日見かけたものだが、戦時中からまったく見かけなくなったシーン。今では、そんなものがあったことさえ知らない人が多い。

 私が子どもの頃は、近在の農家の人が牛車や、馬車を引いてやってきた。どこの家庭でも糞尿の始末をこの人たちにまかせていた。農民は市民の排泄する糞尿を、大きなヒシャク(肥えビシャク)で汲み上げ、黒いタールを塗った木のタルにつめて、牛車や、馬車にのせて運搬する。これが、オワイ屋さん。
 農家の栽培する野菜の肥料にするのだった。

 アスファルトの道路でも、未舗装の道路でも、朝から晩までたえずオワイ屋さんの車が往来していた。ちょっと買い物に出れば、オワイ車の二、三台にぶつからないことはなかった。

 タルには固くフタをしてあるので、糞尿がいっぱいつまっていれば音はしない。しかし、中身がいっぱいになっていないと、車の揺れで、タプンタプンと音がする。
 フタが緩んでいたりすると、車の動きにつれて、中身が路上にまき散らされたりする。あわや落花狼藉(じゃないが)、道路はクソマミレになる。

 オワイ車は臭いがひどい。
 女、子どもは、オワイ車を見かけると、急いで逃げ出したり、わざわざ大回りをして、なるべく近づかないようにしていた。

 1937年(昭和12年)、火野 葦平が芥川賞を受けた『糞尿譚』はオワイ屋さんを描いた名作。
 おなじ年から書きはじめられた島木 健作の『生活の探究』にもオワイ車の描写が出てくる。誰かの心ないイタズラで、空気銃の弾丸が命中して穴の開いた木樽から、黄色い液体が放物線を描いて迸っているシーンがある。

 日中戦争がはじまった年。

 ねえ、忘れちゃいやよ。前年、渡辺 はま子の歌が大流行したが、この歌手の「ねえ」という、鼻声がひどくエロティックに聞こえる、とう理由で発禁になった。
 この年、淡谷 のり子の「ああ、それなのに」が流行している。

 戦前の日本がそんな国だったことを、ねえ、忘れちゃいやよ。
 ああ、それなのに。(笑)

2009/06/17(Wed)  1031
 
 私たちは、はたして自分が何者なのか知らない。自分に何ができるのか、それがはっきり見えるまでは。

 長い歳月ものを書いてきて、やっとこんなことに気がついた。気がつくのが遅かったけれど。

 まあ、気がつかないより、ましだろうて。(笑)

2009/06/15(Mon)  1030
 
 私の周囲には、とても才能のある女性たちがいっぱいいる。
 そのひとり、森山 茂里は小説を書いている。すでに、長編を出して一部では注目されている。

 茂里に新作の進捗状況を訊く。彼女は、いつもおなじことをいう。

 あたし、書けないんです。どうしたら、いいんでしょう?

 あまり困った顔をしていない。だから私も心配しない。書けない書けないといいながら、きっちり作品を仕上げて、しっかり編集者にわたすタイプの作家なのだ。

 作家どうしのあいだで、こういう話題が出ることは少ない。だいたい、自分を隠して、内面的にどういうことを考えているか、めったに他人にうかがわせない人が多い。
 私が周囲にいる才能のある女性たちに、しょっちゅう新しい仕事や、新作の進捗状況を訊くのは、理由がある。この種の話題について、みんなが率直に話してくれるから。
 むろん、たぶん安全な話題だと思っているせいだろう。危険と感じられる話題については慎重であったり、話をそらせたりするはずである。
 ところが、私たちの場合、個人の親密さの深度がほとんどおなじなので、お互いに気楽に冗談をいいあったり、からかいあったりできるらしい。

 私がたまに何かを書くと、女の子のひとりは「先生、カッコイーイ」と声をかけてくれる。
 その「カッコイーイ」は、ほんものの「カッコイーイ」ではないらしい。「おっさん、ようやりまンな、ええ年して」といった、老作家に対する、かるい揶揄、かすかな嘲弄と、いささかのいたわりをこめた「カッコイーイ」だったにちがいない。

 こうしたひとりが、先日、私に手紙をくれたが、封筒の宛て名に、
    へんな作家  中田 耕治先生
 と書いてきた。郵便配達はびっくりしたにちがいない。私はうれしくなった。こういういたずらが大好きなのである。(笑)。

 森山 茂里は私のクラスで、長いこといっしょにいろいろなテキストを読んできたので、お互いに親しみをこめた、いわば知的なアフェクションといっていいものが流れている。

 書けないんです。私には、不可能なんだわ。

 どんなことだって可能だよ。それが、不可能だと証明されるまでは。だからさ、不可能なことって、不可能なだけなんだから、きみは可能なことをやればいいんだよ。
 つまり、書くしかない。
 むろん、彼女もそんなことは承知している。

 森山 茂里は、目下、4作目の長編にとりかかっている。

2009/06/13(Sat)  1029
 
 テオフィル・ゴーチェの娘、ジュディット・ゴーチェはたいへんな才女だったらしい。その才女ぶりについては、残念ながらジュディットの書いたものを読んだことがないので、ここに書くことができない。
 ジュディットには中国の詩を訳した著作があるというので、どういう詩人を訳したのか知りたいと思ってきた。どなたかご存じではないだろうか。

 1869年、コジマ・ワグナーが食事に招いている。このとき、コジマに招かれたのは、詩人のカチュール・マンデス、夫人のジュディット・ゴーチェ。同席したのは、ヴィリエ・ド・リラダン。眼がくらむような顔ぶれである。
 カチュール・マンデスは、作家、批評家。雑誌、「ルヴュー・ファンテジスト」の創立メンバー。ヴイリエ・ド・リラダンは、詩人、作家。
 ジュディットは、芳紀まさに19歳。カチュール・マンデスと結婚して、二年になっている。

 ホストは、ワグナーと、コジマ。

 食卓でどんな話題がかわされたのか。私のような想像力のとぼしいもの書きには見当もつかない。
 ジュディットは、異常なほど才能にめぐまれていた。言語に関して造形が深く、世界の文学を読破していた。中国詩を訳したほど外国語に精通していた。
 横顔がギリシャ彫刻を思わせる美貌で、ボードレールが、「ギリシャの美少女」と呼んだほどだった。
 ワグナーは、彼女がくるとすっかりご機嫌になって、自分の庭園のいちばん高い樹木の幹から、枝に足をかけて登ってみせた。家の高窓を越えるほどの高さだった。

 コジマは日記に書きとめている。

 「彼女(ジュディット)には常軌を逸したところがあって、突拍子もないふる舞いは私も手を焼いた――そのくせ、とても気立てがよくて、ひどく熱狂的。リヒ(ワグナー)にせがんで、ワルキューレや、トリスタンを歌わせた。」
 この記述は、1969年7月16日。

 翌日、コジマは日記でジュディットを「あの女」と書いている。

 その日のワグナー家の食卓でどんな話題がかわされたのか。私には見当もつかない。ただし、私は考えた。

 コジマのような女と出会わなくてよかった。コジマのような女を見かけたら、すぐに逃げ出したほうがいい。

2009/06/12(Fri)  1028
 
 新型インフルエンザの世界的な流行。
 1918年、ドイツのルーデンドルフ将軍は、「われわれは戦争に負けたのではない。スペイン風邪に負けたのだ」といった。

 その後も、新型インフルエンザは、10年から数十年おきに、人間におそいかかってくる。
 私たちの免疫は、それまで経験したことのない新しい病原体に対応できないため、大流行するらしい。

 そんな中で、役者の市川 海老蔵が、大阪松竹座で「にらみ」をやったという。
 この「にらみ」、襲名披露などでしか見せない。先年のパリ公演で、団十郎がやってみせたが、市川家伝来の芸である。

 劇場には、

    新型インフルエンザ蔓延につき、急遽、市川 海老蔵 にらみ相勤め申し候

 という看板が出た。(’09.5.3=10日まで)

 海老蔵が口上を申し述べて、ハッタと観客をにらみつけ、大見得を切って見せる。
 いいなあ。
 新型インフルエンザも、これで退散。

 外国の芝居には、こういう睨みのパーフォーマンスはおそらくあり得ないだろう。個人間のインターパーソナル・コミュニケーションにおいても、日本人には、睨みのパーフォーマンスがある。

2009/06/10(Wed)  1027
 
 小学校まで歩いて5分。土樋から荒町まで。

 通学の途中、かならず眼にするものがあった。活動写真のポスターである。横町の角の壁にとりつけられた木枠のなかに、その週に上映されている映画のポスターが映画館の数だけ貼られている。外国映画が2館。日本映画が4館。
 毎週、貼り変えられる。ポスターのうえに新しいポスターが貼りつけられるので、それぞれがかなりの厚みになっている。
 雨に濡れて、今週のポスターが剥がれて、前のポスターが見えたりする。
 行き帰り、毎日、おなじポスターを見ているわけだから、活動写真の題名や出演者の名前もおぼえてしまう。

 実際にはその活動写真を見たことがないのに、ポスターに描かれているシーンや、男女の姿が心に残った。
 大河内 傳次郎、阪東妻三郎、嵐 寛寿郎といったスターだけでなく、浅香 新八郎、ハヤブサ ヒデトといった名前や、伏見 直江、入江 たか子、山路 ふみ子、森 静子といった女優の名前もおぼえてしまった。

 昭和6年、満州事変が起きた。翌年、上海事変。その二月に、井上 準之助、三月に、団 啄麿、五月に犬養 毅首相が暗殺されている。
 私は何ひとつ知らずに、毎日、活動写真のポスターを見ていたのだろう。

 その頃に見た映画。内容もまったくおぼえていないのだが、最後に男と女が心中する悲劇を見た。題名もわからない。塩釜の活動写真館で見たことだけはおぼえている。
 幼い私には映画の内容も理解できなかったのだが、なぜか暗い気分になったことだけはおぼえている。男は河津 清三郎、女は高津 慶子。

 おなじ頃、私にとって、どうにも理解できないポスターがあった。「メトロポリス」という映画のポスターだった。
 金属製の巨大なアンドロイドが、無表情に私を見つめている。その人形が女だということはわかるのだが、そのまなざしに見られるだけで死んでしまうような気がした。それは、はじめて知った実存的な恐怖ともいうべきもので、自分が死にいたる存在なのだということを知らされたような気がした。

 そのポスターを見るのがこわくて、その学期、わざわざ遠回りをして、学校に行くようにした。電車の停留所ひとつぶんだけ遠くなるのだった。
 こうして、「メトロポリス」という題名が心に刻みつけられた。
 ずっと後年になって、これがF・W・ムルナウの無声映画で、1926年の作品だったことを知った。私がこのポスターを見たのは1930年の後半だったから、当然、リヴァイヴァル上映だったに違いない。
 このポスターに幼い私は恐怖をおぼえたのだった。

 はるか後年、DVDで「メトロポリス」を見た。少しも怖くなかった。

2009/06/09(Tue)  1026
 
 ある人生相談。

     20代男子学生。アルバイトで知り合い、2年前から付き合っている彼女がいます。彼女は学校を卒業し、地元に帰りました。私はもう1年、学生の身。
     「1年後に再会し将来は絶対に結婚しよう」と約束しました。
     ところが、私は、彼女の代わりにきたアルバイトの女性に一目惚れしてしまいました。これまで女性との出会いが少なかったので、今の彼女が一番だと思っていたのです。でも、新しく来た女性のほうが、彼女より好きになってしまいました。
     約束を破るのは私の性に合いません。それに今でも彼女は私のことを好きでいてくれます。そんな彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
     女性に会うたびにすぐにほれてしまうようでは、将来、結婚しても長続きしないでしょう。そう思うと結婚が怖くなりますが、一生独身でいるのもいやです     。
     ほれっぽいこの性格を直すのには、どうしたらいいでしょう。今後、彼女や、一目ぼれした女性とはどのように接していけばいいのでしょうか。

 ある大学教授の回答。

     恋愛関係で動きがあれば、誰かが傷ついてしまうことになります。
     まず、申し訳ないという理由で付き合いを続けるのはやめましょう。いい人であるというあなたの自己イメージは守られるかもしれませんが、このまま彼女と付き合い続けるのは彼女にとってかえって酷です。直接会って、あなた自身の気持ちを確かめてください。やはり彼女が自分にとって必要だと感じればそれでよいし、彼女に会っても新しい女性のほうが好きだという思いが強ければ、関係を解消したほうがふたりのためです。
     身近にいる女性がすてきに見えるのは自然です。ほれっぽいのがいけないのではなく、「ほれる」という感情に振り回されるのがいけないのです。ほれても元の相手が大切だと思えばその感情を表に出さない。ほれるほうに賭けるならアタックする。ただ、あなたが好きでも、相手があなたを好きになるかわかりません。その時は、潔く、寂しさを味わってください。

 さすがだね。この先生のソツのないお答えには、おもわず笑ったぜ。

 この学生は、自分を「惚れっぽい」という。好きな彼女ができて幸福だった。ところが、彼女は故郷に帰って行った。きみの前に別な女性があらわれた。きみは、たちまちその女性が好きになってしまった。そんなノは、「惚れっぽい」とか「惚れっぽくない」といった話ではなく、ごく当たり前のことなのだ。
 「惚れっぽい」というノは、自分のまわりにいる女たち、自分の前に姿を表した女たちに、たちまち反応して、すぐにおネツをあげる、言い寄る、そういう男のことで、きみのように、「2年前から付き合っている彼女」がいなくなったとたんに、新しい女が好きになる程度の男は「惚れっぽい」などというほどのモノじゃない。

 アーヴィング・シュールマンの青春小説に、そういうハイ・スクール・バブーンが登場する。やたら「惚れっぽい」若者で、テレビ・シリーズでも、毎週、違う女の子にいい寄ってはフラれていたっけ。

 ただし、この学生は、自分が「惚れっぽい」という。そういう自意識をもっているのはいい。

 私は「人生相談」を読むのが好きだ。私が回答者になったとして、いつも相談者の悩みに対して、あたたかいまなざしをもつかどうか。心理学でいう、相手の立場に立つ態度、カウンセリング・マインドなどは、はじめから私にはない。
 なにしろ、モンテーニュ、ラ・ロシュフーコーから、オスカー・ワイルド、サマセット・モーム、ヘンリー・ミラーなど、手あたり次第に読みふけってきたせいで、私なりの人生観ができあがってきた。だから、「人生相談」を読むのが好きなのは、えらい先生の「人生相談」を読むのが好きだということになる。
 笑えるから。

2009/06/07(Sun)  1025
 
 ある調査。6歳から89歳の男女、3000人のアンケート。

 昨年4月から、今年の3月まで、テレビで流されたCMは、総計、1万7765本。
 このなかで、好感をもったCMを、最大五つまで記入してもらったという。

 2019社のCM、1万147本は、まったく記載されなかった。このなかには、年間
、最大、905回もCMを流していた企業もあった。
 笑ったね。これでは、CMを流しても、ほとんど成果がないことになる。

 この調査で、いちばん広く評価されたのは、ソフトバンクのCM。お父さんが白いワン
ワン、お母さんが女優の樋口 加奈子。兄が黒人のモデル、妹が上戸 彩。
 つぎが、コーヒーの「BOSS」。
 そのつぎが「任天堂」。

 せっかく有名タレントや、クリエーターを使っても、見ている側の意識、認識に、何も
変化が見られないのでは、企業としてはたまらないだろう。
 この調査を行った「CM研究所」の代表も、
 「CMと販売二は関連性があり、印象に残らないCMは企業に貢献せず、日本経済のロ
スですらある」
 とコメントしている。  (「読売」’09.5.15)

 またまた笑った。それなら、みんなCMなんかやめてしまえばいいじゃないか。

 この記事を読んで笑ったが、自分はどうなのかと考えた。

 なにしろボケているので、テレビで流されたCMのほとんどをおぼえていない。しかし
、心に残ったCMは、ある。
 ただし、私の心に残ったCMは、おそらくほかの人にまったく印象が残っていないもの
ばかりだと思う。

 たとえば、昨年、こんなCMがあった。
 若い芸者(半玉)がふたり、相対してすわり、アッチ向いてほい。明るい部屋だが、な
んとなく雪洞めいた感じの照明で、部屋は四畳半。着飾った半玉ふたりが、やわらかい座
布団にくつろいで、お互いに、無心に遊んでいる。だが、最後に、そのひとりがキャッキ
ャッと嬌声をあげて、顔をこちらに向ける。
 この美少女の顔がじつによかった。うき川竹の、流れを汲んで、人となりしか、そのま
なざしに無量の愛嬌。未通女のあやうい美しさがかがやいた。こんなCMはめったに見ら
れない。私は感嘆した。

 このCMは、わずか数週間つづいた。やがて、趣向も演出もほとんどおなじだが、別の
ふたりのCMと差し替えられた。やはり、若い半玉がふたり、相対してすわり、アッチ向
いてほい。
 しかし、これはまったく魅力のないCMで、じきに消えてしまった。

 片々たるCMだって、誰かの心に深く刻みつけられることはあるのだ。
 すぐれた掌編小説が心に深く刻みつけられるように。

2009/06/06(Sat)  1024
 
 ときどき、江戸の小説を読む。
 テナことを書いているが――じつは私、あまり教養のない、スカタンなのだ。
 恋川 春町、朋誠堂喜三二なども、ほんの少し読んだだけ。山崎 北華はなんとか読んだが、芝 全交、市場 通笑、伊庭 可笑の青本にいたっては、まるで読む機会がない。
 馬琴はいちおう読んでいる。しかし、山東 京伝はほとんど読んでいない。これもむずかしくて読めない。
 『雙蝶記』のような勧善懲悪ものはまだしも(わかるから)いいが、深川の岡場所を書いた『大磯風俗 仕懸文庫』とか、色里の風俗をあつかった『通言総籬』、これも廓の女のあつかいようを描いた『艶話雑話 志羅川夜船』など、どうもおもしろくない。
 よくわからないので。
 山口 剛先生が『仕懸文庫』について、「一寸、黄表紙風のところがあっておもしろい」と書いているが、その黄表紙ふうのところが、やつがれにはおもしろくない。
 『通言総籬』にいたっては、「微に入り、細に渉って、息をもつかせぬ面白味がある」と仰せられているが、こういう批評がどうして出てくるのかまるで見当がつかない。
 先生は『志羅川夜船』の「西岸の世界」がおもしろいといわれるのだが、廓にあがったヤボ天の「武左の初會」のほうがおもしろかったのは、私がすかたんなせいだろう。

    さふしたきぎくとしら菊のおなじ流れの身じゃとてもコレむすこもなんぞうたは ツセエだまりんでありくと犬かほへるぜ

 「素見高慢」の書き出し。以下は、私の訳。

    そういう黄菊、白菊の、おなじ苦界にいきる女だからさ、(そんなつまらない顔をしていないで)ねえ、あなたも何か歌って頂戴な。(廓を)黙って歩いていると、犬に吠えられますよ。

 「ナニ公などは。本ぎょうが通だから唄を習ふよりちりからにすればいい。月見などはよし原へ行とがうてきに色ごとができるぜ」

「がうてきに」は、豪的に、だろう。こんなノはやさしいほうで、一度読んだだけでは、すっきり頭に入ってこないのだから、話にならない。

 近頃は聞かなくなったが、悪口に「すかたん」ということばがある。京伝は「すこたん」と書いている。
 これからは「すこたん」ということばを使おうか。

2009/06/04(Thu)  1023
 
 私は一茶をかなり読んだ はずである。
 ただし、読んでもすぐに忘れてしまう。

    雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
    門の蝶 子が這へば飛び 這へば飛び

 こんな句ばかり思い出すのはわれながらあきれる。
 おなじ一茶の、おなじ蝶でも、

    蝶が来てつれて行きけり 庭の蝶

 といった句のほうが自然でいい。

    蝶 見よや 親子三人寝て暮らす

 この句、あまり好きではないが、何度か声にのせて読んでみると、一茶のふてぶてしさ、哀れさが見えてくる。おなじ蝶でも、丈草の

    大原や 蝶の出てまふ朧月

 こうなると一茶にはない趣向。おぼろ月夜に蝶が舞うかどうか、そんな詮索はヤボの骨頂。花のファンタジーとして読んでもいい。

2009/06/03(Wed)  1022
 
 いろいろ資料を読んでいるうちに飽きてくる。
 気分転換に散歩する。雨が降っていると、散歩もおっくうなので、ビデオを見たりDVDを見たり。途中まで見て、おや、これは前に見たような気がするなあ、と思いはじめる。しかし、最後まて見ることもあれば、別のものを見たり。
 それにも疲れると、適当に本をひろってきて、読み始める。

 一茶の日記を読んでいて、

    太田屋仕出屋に入中食
    ワンワン喜太郎ト云者来
    仙台侯の舟ニ大竿
    千人塚 イカイ根に有

 という記述が出てきた。ざっと読んで、さて、何のことかわからない。
 一茶は、銚子の俳人、大里 桂丸を訪れて、いっしょに浜の見物に出かけた。「太田屋」という割烹旅館でお昼を食べた。桂丸は気をきかせて、芸者を呼んだらしい。
 千人塚は、銚子の、飯貝根(いがいね)にある。これはわかったが、「仙台侯の舟ニ大竿」というのがわからない。
 「ワンワン喜太郎」という芸者の名がおもしろい。「ワンワン」はイヌを連想させるのだが、客がワンワン(いっぱい)くるという含みもあるのか。田舎芸者なので、こんな名がついたものだろうが、別のことも想像させる。

 一茶はこの日記に、

    丘釣を女もす也 夕涼み
    釣竿を川にひたして 日傘かな
      浄国寺村に入
    下闇や 精進犬のてくてくと
    松の木に 蟹も上りて 夕涼
    涼涼や 汁の実を釣る せどの海

 といった句を書きとめている。さすがに、いい句が多い。
 精進犬という語もはじめて見た。犬が「てくてくと」歩いているのもいい。涼涼は、どう読むのだろうか。ほら、わからないことが出てきた。
 そんな詮索はどうでもいい。
 こういう句から、昔の房総の風景を思いうかべる。銚子の海辺を散歩しているような気がして楽しい。私の気分転換法。

2009/06/01(Mon)  1021
 
 (つづき)
 つい最近、テレビで、カザフスタンの若い女子学生たちの、日本語による弁論大会を見た。(’09・4・23。4チャンネル/8:45 P.M.)

 カザフスタン、アルマテイの国際関係外国語学校、東洋語学、日本語科の生徒たち、42名が、日本語を勉強している。
 (この大学では、17ケ国の語学科コースがあるという。)

 いうまでもなく・・・日本は、かなり長期にわたって、鎖国をつづけてきた。鎖国がよかったかどうか、これは問わないとして、結果的には、いちおう一国家、一民族、一言語、一文化という、まとまりのいい等質的な状態を保持してきた。
 このため、お互いに何もいわなくても、阿吽の呼吸で、暗黙に理解しあえるような、いわばラコニック(寡黙)なものを身につけてきた。
 そういう態度は、mutual dependence ともいうべきもので、外国人、とくにアメリカ人のような self−reliance は、私たちがもたないもの、とされてきた。だが、もはや、そんな概括は成立しない。

 このアルマテイの、日本語科の生徒たちが、弁論大会で選んだテーマは、 「子供の教育」、「(現代人の)将来をおびやかすこと」、「私が大学を作るとしたら」、「私はカザフ人」、「ほほえみの秘密」、「父の教えに」、「カザフスタンの教師(のおかれた)状況」、「ことば(自国語)をなくしたら自分もなくなる」、「流行と伝統のバランス」……
 いずれも20歳から22歳の、若い女子学生のスピーチで、日本語の学習歴は、2、3年。そのスビーチの論理的な展開に、彼女たちのしなやかな感性が裏打ちされていた。
 むろん、今の私たちもさまざまな外国語も勉強しているし、戦後は、外国の圧倒的な影響をうけて、かつてのように、それほど「まとまりのいい等質的な状態」を維持しているわけではない。

 ただ、テレビで、外国人で日本語を勉強している若い人たちを見ると、ありがたいと思う反面、ひどくむずかしい未来を選択したのではないか、という懸念もおぼえる。

 カザフスタンの女子学生たちが、近い将来、日本語に関係のある職業について、いっそう日本に親しみをおぼえてくれますように。
 彼女たちの self−reliance は美しい。

2009/05/31(Sun)  1020
 
 小学校5年、6年から、英語の学習が必修になる。小学校から英語の勉強にとり組む。わるいことではない。
 私などの場合、中学時代から英語教育にはほとんど無縁だった。その後、英語にかぎらず、他の外国語も学習したが、いつも独学だったから、現在の学校教育には基本的に賛成する。
 「外国語を読む」ことから、「外国語を話す」教育への転換は、21世紀のグローバルな社会への適応として、社会の needs を反映したものと見ていい。

 しかし、私はこうした教育に大きな懸念をもっている。

 「外国語を読む」には辞書さえあればいい、いちおう意味がわかればいい。「外国語を話す」ためには、ネイティヴの発音からしっかり身につけたほうがいい、という考えかたに、私は危険なものを感じる。

 こういう考えかたは――確実に外国語の読解力を退化させる。

 書物ばかりではなく、インターネットなどによる思想、知識、情報等の伝達手段としての「ことば」の機能をスポイルすることになる。

 じっくりと本を読むことで身につくものがあるのだ。

 「外国語を話す」教育が何をもたらすか。
 ほとんどの人が、カタコトながら外国語を話せるようになる。それはいい。しかし、ほんとうに、外国の人と心からの会話をかわすことはできないだろう。コミュニケーションによる意志伝達の機能としての言語は、たかが、小学校5年、6年からの英語の学習で身につくものではない。

 もし、外国語をほんとうに理解し、ほんとうにコミュニケートが可能な教育をのぞむなら、別のコースを想定すべきだろう。

 私は、その具体的な例を外国、たとえばカザフスタンの日本語教育に見る。
        (つづく)

2009/05/29(Fri)  1019
 
 人生の出会いのありがたさは知っているつもりである。現在の私が在るのは、けっして数多くはないけれど、人生のそれぞれの時期に、いろいろな人に出会えたからだった。

 もの書きとしては、荒 正人、埴谷 雄鷹、佐々木 基一、本多 秋五、山室 静、平田 次三郎といった先輩批評家たち。野間 宏、安部 公房たち。

 芝居の世界では、内村 直也、原 千代海といった劇作家たち。この人たちのことを、書いてみようか。
 そして、たくさんの役者たち、女優たち。これは書けないだろう。

 年をとってからは、やはり出会いはなくなってくる。
 まして、刎頸の友というほどの友だち、知友は少なくなってくる。もはや、幽明境を異にしてしまった友だちが多い。

 エディット・ピアフは、アメリカに行ったとき、たくさんの有名人と知り合ったが、そのなかで、ただひとり、マルレーネ・ディートリヒとは、一目見たときからすっかり意気投合して、親友になったという。
 こういう出会いは、運命的なものかも知れない。

 私は、芸術家どうしの反目、確執に興味がない。そうではなく、死友というべきかかわりをもつ芸術家どうしの出会いに関心をもつ。
 そういうかかわりを『ルイ・ジュヴェ』で書いたが、いま書き続けている仕事でも、それがひとつのテーマになる(と思う)。
 いつ完成するのかわからないのだが。

2009/05/28(Thu)  1018
 
 ジャニス・ジョプリンは、27歳で亡くなっている。
 パッツィ・クライン、享年、31歳。
 マリリン・モンロー、享年、36歳。
 ダイナ・ワシントン、享年、39歳。
 ヘレン・モーガン、享年、42歳。
 ベッシー・スミス、享年、44歳。

 みんな、若くして亡くなっているなあ。可哀そうな女たち。
 彼女たちは、それぞれが輝かしい栄光のなかに生きた。だが、そういう人生が、現実には、悲惨といっていいほどの苦しみにさいなまれて、それぞれの人生を終えている。

 私は思いがけず長寿にめぐまれている。長生きできたことは幸運としかいいようがないが、いのちをながらえたことがかならずしも幸福だとは考えられない。むろん、不幸とはいえないだろうけれど。

 長生きしたおかげで見えてきたこともある。
 しばらく前から、ある仕事にとりかかっているのだが――若くして亡くなった女たちに対するレクィエムになるだろう。

 私はペシミストなのだ。しかし、彼女のことを書こうとしているときは、はっきりオプティミストになる。

2009/05/26(Tue)  1017
 
    人の貧富は天なり命なり、よしや生涯 薪(たきぎ)を樵(こり)て世をわたるとも、心清くは、朱買臣(しゅばいしん)にも耻(はづ)べからず、死灰(しかい)の人に愛せられんは愛せられざるにしかず

 馬琴を読んでいて、こんな一節にぶつかった。(「三勝半七」)
 江戸時代の作家が「愛」ということばを使っていたことがわかる。

 もつとも私のように無教養なもの書きには、江戸時代の作家のものはなかなかにむずかしい。引用した部分でも、朱買臣(しゅばいしん)の話が出てくる。
 前漢の人。家が貧しいため、薪(たきぎ)を切って売ったが、いつもふところに本を入れて歩きながら読んだ。妻は愛想をつかして、去った。
 のちに、会稽の太守として、故郷の町を通ったとき、前妻はこれを見て恥じ、みずから縊れて死んだという。
 死灰(しかい)がわからない。簡野 道明先生の『字源』には、死灰復然(しくわいまたもゆ)が出ている。
 「韓長儒伝」に・・・
 蒙の獄吏、田甲が、安国をはずかしめた。安国はいう。「死灰ひとり、また燃えずや。」甲いわく、「燃ゆるは すなわちこれに溺る」と。

 江戸時代の読者にはこれでわかったのだろう。「然」は、「燃」の正字という。これも、はじめて知った。
 とにかく無教養な私は、馬琴先生の学識の深さはわかるけれど、「死灰(しかい)の人に愛せられんは」がよくわからない。

 ついでに、馬琴の書いたエロティックなシーンを。

    さてなん、淫婦(たおやめ)密夫(みそかお)は折を得て、終(つい)に膠漆(こうしつ)の思ひをなしぬ。     (「お旬傳兵衛」)

 これだけ。
 江戸時代に生まれなくてよかった。(笑)

2009/05/25(Mon)  1016
 
 水上 滝太郎の随筆を読む。

     大ざっぱな言方だが、吾々の父母の時代迄は、他を評しおのれを語ることをいやしみさげすむ風が強かった。それが何時の間にか、男も女も、老も若きも、地位職業の別無く、口を以て筆を以て、他を評しおのれを語るに暇なきが如き時代相を現出するに至った。よりて来るところの社会的原因の存することはいふ迄も無いが、狭く文筆の方面に限り、直接の誘引を求むれば、随筆の流行を数へることが出来る。彼(か)の自然主義の運動が現実暴露を引っ提唱し、平面描写を推奨し、やがて崩れて日本独得の心境小説の発達をみるに及んで、作家は各自日常身辺の雑事を綴ることになづみ、その傾向の赴くところ、随筆の流行を招来し、この文学の形式は、最も自由に手軽に他を評しおのれを語るに適するため、専門文学の士にあらざる人にも筆を執ることを容易ならしめた。

 むずかしい文章ではない。それに、こんなみじかい一節からも、大正から、昭和初年にかけての作家たちは、みんな早くから老成していたことがわかる。それは認めなければなるまいが、いまでは、やはり、読みにくい。
 たしかに、ネコもシャクシも、馬の骨も牛の糞も、随筆という表現形式になづむようになった。昭和初年には、森田 たまのような随筆専門のもの書きが登場する。

 久しぶりで、昭和初年から戦後にかけての森田 たまの随筆を読んでみたが、これはもう論外だった。
 日中戦争のさなかに、従軍作家として中国に行く。このときの「揚子江」、「支那服」、「一角二角」などという文章を読むと、戦前の日本の女のバカさかげんが、悲しくなる。(この「悲しくなる」は、森田 たまのお使いになることばのパロデイ。)

 水上 滝太郎の随筆には、おのれを持することのきびしい気骨が感じられるのだが、森田 たまの文章には大和撫子といった気韻などはない。生きながら死臭をあげているような感じで、読めたものではなかった。

 私が大嫌いな女もの書きは、森田 たま、芝木 好子のふたり。いや、まだほかにもいるのだが、いずれあとでとりあげるつもり。

2009/05/23(Sat)  1015
 
 若いくせに年寄りじみたことをいう人間を見ると、片腹痛く思うが、年寄りのくせに若がっているのを見ても、しばしばキザに感じる。

 私の意見ではない。四十代になった水上 滝太郎が書いていた。(昭和8年)

      同じ四十代になってみると、いずれも頭髪は薄くなり、白髪もちらちらまじり、或者は持病に悩み、或者は下腹や頸の廻りに無用な脂肪の溜った年寄型となり切って、前途の夢は乏しくなり、……(後略)

 水上 滝太郎は年齢とともに、食物の嗜好がいちじるしく変わり、「西洋料理はつとにいやになり、支那料理さへも嬉しくなくなり、まぐろの刺身に箸が向かず、混合酒の技巧が鼻について来たが……」と書いて、文学の好みまでも変化してきたと書いている。

 作家はさらにつづける。
 年齢は人の性質をやわらげることもあるが、ときには、人を頑固にし、融通をきかなくさせる。多年努力して築きあげた自分の立場から、一歩も外に出たがらなくなる。個性の違いがはっきりしてきて、合唱がへたになり、人真似ができなくなる。

 私は水上 滝太郎を尊敬している。彼の意見におおむね賛成する。ただし、いささかの憫笑をもって見ているといわざるを得ない。(私は舞い舞いの古狐に魅いられた老いぼれの、しれ者。相手が水上 滝太郎だろうと何だろうと気にならない。)

 水上 滝太郎がこれを書いた当時、やっと40代の半ばだったはずである。
 「はなやかな夢想はけしとんだが、四十代には四十代の人生があり、活動があり、努力があり、文学があると思つている。感覚は鈍り、花火のやうな感激はなくなつたが、者を見る眼は深く広く、社会人事に関して総合的に考える力は加つた。人生を短編小説的見方では見ず、長編小説的に見る能力は、次第に恵まれて来るやうである。」
 やっぱり、大作家はいうことが違うなあ。(笑)
 いささか皮肉をこめて、こういう人生観、文学観で、社会人事に関して総合的に考える力をたくわえた作家を尊敬したくなる。
 私などは、アメリカの金融危機が日本の産業を直撃するなど、どう考えても理解できないことばかりだし、社会人事に関しても、大きく緩和された労働市場の規制、雇用の悪化、ハウジング・プアと呼ばれる人々があふれている現実を長編小説的に見る能力などまったくない。いじめ、不登校、自殺、そんな子どもたちの人生を長編小説的に見るどころか、短編小説的見方でも見られない。

 私ぐらいの年齢になれば、前途の夢どころではなくなるが、四十代になって頭髪が薄くなったり、白髪まじり、なかには持病に悩み、下腹はメタボといった中年になり切ってしまうのは早すぎる。そこのところだけ、水上 滝太郎に賛成。

2009/05/22(Fri)  1014
 
 去年の9月。ロシアが急速な経済発展をつづけ、まさに世界経済を牽引するとみられてきた時期。日本とロシア間に、光海底ケーブル(RJCN)が開通した。

 このRJCNは、新潟の直江津と、ロステレコムのナホトカをむすぶ大容量の光海底ケーブル。南北の2ルート。それぞれの長さ、約900キロメートル。伝送容量は、それぞれのルートが、640Gbpsという。

 これまで使われてきたインド洋経由、ないしはアメリカ経由のルートに較べて、新ルートでは、東京=ヨーロッパ間を最短ルートでむすぶことになる。

 光海底ケーブルについて何も知らない私がこんなことを記録しておくのは、なんともおかしいことに違いない。遠い将来、誰かがこれを読んで思うかも知れない。
 なんだ、21世紀の老作家はこんなことぐらいに驚いていたのか、と。

 私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』(第二部/第1章)で、1925年にルイ・ジュヴェが書いたエッセイをとりあげた。ほんの少し前の1923年という時代を、ジュヴェがどう見ていたか。
 その一節に・・・・

    ドイツでは「カリガリ博士」、ロシアでは「戦艦ポチョムキン」。チャーリー・チャプリンは栄光のさなかにある。(中略)真空管ラジオを発明したマルコーニは無線電信網が世界をおおうと宣言し、あまり知られていない学者、ポール・ランジュヴァンの海底通信の研究。
    オランダのニールス・ボーアは核の構造についての研究でノーベル章を受けた。ジャーナリズムは、ツタンカーメンの発掘、ヴァルター・ラテナウの暗殺、レーニンの引退、ムッソリーニのローマ進軍の報道に忙殺されている。

 と書いている。

 ジュヴェが、こういうふうに「過去」を回想したことは一度もない。1923年、彼はコポオと別れ、自分の劇場で旗揚げをする。なんでもない事実の羅列に、じつはジュヴェの痛切な感慨、自負が秘められている(と、私は見たのだった。)
 私が光海底ケーブルについて書きとめておくのは、そんな意味はない。ただし、こんなことまでブログに書いておく。ある人への深い感謝の想いをこめて。

2009/05/21(Thu)  1013
 
 私の「宝塚」。
 淀 かほる、明石 照子、毬 るい子たち。もっともっとたくさんのスターたちをおぼえているけれど、名前だけははっきりおぼえていながら、顔や姿は記憶が薄れている。

 へんなことだが――春日野 八千代、越路 吹雪までさかのぼったほうが、かえって忘れていない。

久慈 あさみ、淡島 千景、南 悠子、寿美 花代あたりの時代になると(久慈、淡島、寿美の映画はおぼえているけれど)、どういうものか那智 わたる、深山 しのぶなどの舞台のほうが鮮明に思い出せる。
 いい舞台だったかどうかよりも、おそらくその頃に見た回数の多寡によるのだろう。

 されば――これより女護の島にわたりて、つかみどりの女を見せん、といきたいところだが。
 本城 珠喜は美女だったなあ。ああ、去年の雪、いまいずこ。
 ほかにもたくさんの美男美女がいた。……
 美山 しぐれ、緑 八千代、星空 ひかる、平 美千代、小文字 まり、大路 三千緒、都路 のぼる……
 桜も散るに嘆き、月はかぎりありて入佐山……
 名前が出てきても、それぞれがどんな女の子だったか、目鼻だちさえよく思い出せない。中村 光夫のセリフではないけれど、年はとりたくないものです。(笑)

 奥山は六区(浅草)のコメディアンたち、新派(新劇)の舞台役者ともなれば、まだしもおぼえている。おかしな話だが。

 かなりボケがきている作家がおかしなことを書いても、「コージートーク」の読者のみなさん、どうかお咎めなさいませんように。なにせ、認知症直前作家なのだからお見逃しあれ。(笑)

 テレビで宝塚音楽学校の入学式にのぞむ女の子たちを見た。たまたま、安蘭 けい、遠野 あすかの最後の公演を見て、この新入生たちから、やがては安蘭 けいや、遠野 あすかたちが出てくることを考えて、なんとなく感動した。
 つまり、私はそんなミーハーなのである。

2009/05/20(Wed)  1012
 
 つい最近、トウコさん(安蘭 けい)の退団公演、ミュージカル、「My dear New Orleans 愛するわが街」を見た。
 舞台に感動したばかりではなく、もはや二度とこのふたりを見ることがないと思うと、悲哀が胸に迫ってくる。

 安蘭 けいがすばらしかったのは当然だが、遠野 あすかは、この前の「スカーレット・ピンパーネル」よりもずっといい。もともと芸域のひろい女優さんだが、「マルグリート」が清純な役というだけでよかったのに、今回の「ルル」には、あだっぽさ、あえていえば、淪落の女といった翳りまで、みごとに演じてみせた。

 このミュージカルの台本と演出のレベルの高さ。そして、ショー「ア・ビアント」を見て、現在の「宝塚」が、どれほど大きく発展してきたか、あらためて感慨をおぼえた。

 おなじ、星組で思い出すのだが、明石 照子、淀 かおるたちと、安蘭 けい、柚希 礼音の違いの大きさを思う。(なにしろ、古いね。)

 ショー「ア・ビアント」は、あくまで安蘭 けいの「さよなら」仕様のショーに仕立てられているが、かつてのグランド・レヴュー「シャンソン・ダムール」(高木 史郎/構成・演出)とは、やはり比較にならないほど高度の洗練を見せている。
 演出上、かつての「シャンソン・ダムール」には、宝塚に独特のスペキュタキュラーな要素や、戦前のノスタルジックなレリッシュ(風味)があった。シャンソンにしても、「サ・セ・パリ」、「シャンソン・ダムール」、「パレレ・モア・ダムール」あたり。
 ところが「ア・ビアント」では、たとえピアフや、「パダム・パダム」などがメロディーとしてちりばめられていても、かつてのパリ、たとえばモンマルトルを連想させない。
 私などが知っているシャンソンは、音楽的なレリック(遺物)にすぎない。
 ここにあるものは、まったくあたらしい感覚の音楽なのである。

 時代は「宝塚」においても、はげしい変貌を迫っているのだ。

 このミュージカルを見た数日後、たまたまテレビで宝塚音楽学校の入学式を見た。(’09・4・18)
 なんといっても宝塚の入学式なので、若くて可愛い女の子たちがたくさん出てきた。97期生。40人。27倍の難関を突破した選り抜きの才媛ばかり。
 グレイの真新しい制服もまぶしいばかり。

 彼女たちの姿に――かつて私の胸をときめかせた美女たち、美少女たち――星空 ひかる、畷 克美、南城 明美、槇 克己といった遠い日の美しいカップルズ、さらには、本城 珠喜や、天城 月江たちのまぼろしが重なってくるようだった。

 いつの日にか、97期生たちのなかから、安蘭 けい、遠野 あすかたちが、そのときのファンの心をときめかせ、そのイメージは朽ちることなく、ファンの内面に棲みつくだろう。

 やがて人々の熱狂的な支持をえるはずの人も、今はまだ誰にも知られずに、ようやく地平の彼方に姿あらわしている。
 私はそのことに感動していた。

2009/05/19(Tue)  1011
 
 ある政治家のことば。

 1981年、日本の首相が、アメリカの議会で演説をした。

    日本は吠えるライオンであるよりも、ハリネズミであるべきだと思います。

 まだ冷戦が続いていた時代、日本の覇権主義といったものを、中国などがしきりに気にしていた。これに対して、日本はもっぱら専守防衛の姿勢をとっていた。
 そこで、この首相は「吠えるライオンであるよりも、ハリネズミ」という政治的信条を表明したのだろう。

 なぜ、ハリネズミなのか。この当時、政治学者、アイザイア・バーリンの著作、『キツネとハリネズミ』が読まれていたため、外務官僚の誰かが「ライオンとハリネズミ」という比喩を思いついたのではないか。私はそんなことを想像した。
 演説の原稿を棒読みにした首相が、まさかアイザイア・バーリンを読んだとは考えられなかった。

 ここからファルスになる。
 通訳が「ハリネズミ」を「賢いネズミ」と訳したという。
 ネズミは誰でも知っている動物だが・・・ハリネズミはあまり一般によく知られている動物ではない。「ミッキー・マウス」は可愛いネズミだが、ふつう、アメリカ人のネズミに対する観念は、薄汚い、狡猾な、いやしい動物であって、あまりいい印象をもっていない。スラングでも、ネズミといえば、密告者とか裏切りを意味する。
 (ジェームズ・キャグニーのギャング映画でつかわれていた。ネズミに対する反感は、ウデイ・アレンの映画、「ギター弾きの恋」を見ればわかるだろう。)

 せっかくの演説も、こんな誤訳のおかげで、列席のアメリカ人に驚き、あるいは不快感をあたえた。もっとも本人は何も気がつかなかったらしい。
 この首相のお名前は、鈴木 善幸という。
 われらが世紀末、「失われた10年」のかぎりなく無能に近い宰相のおひとり。

2009/05/18(Mon)  1010
 
 作家のことば。

     恋には二つのことしかない。からだとことば。

 ジョイス・キャロル・オーツ。
 いいことば。Bodies と Words は複数。

     まったく知らないヤツがキスしてくれるなんていいわねえ。まったく知らないヤツなら。

 ウン?
 こういうノも、うっかりすると意味がよくわからない。ただし、こっちの頭がわるくても、シチュエーションはわかるような気がする。(笑)
 さすが、メエ・ウェスト。

2009/05/16(Sat)  1009
 
 ときどき、誰かのことばを読む。たいしたことばでなくても、読んだときに、何かしら考える。たいていはそのまま忘れてしまうけれど。

    本当のエレガンスというものは、あくまで内面のものです。もし、それが身につけば、あとはそこからつづくのです。

 ダイアナ・ヴリーランド。どういう女性なのか知らない。
 いいことばだよね。しかし、よくよく考えると、少しわからなくなってくる。「本当のエレガンスというものは、あくまで内面のものです」といわれても、内面からにじみ出てくるエレガンスなんて、なかなか見えるものではない。まして、かんたんに身につくものでもないだろう。
 文学上の鍛練(ディシプリン)とおなじで、あくまで内面のものだが、それが身につくまでがたいへんで、鍛練したあとはそこから書けるといわれても得心できない。

    優しさはハートの優雅さです。スタイルがマインドの優雅さであるように……

 これはメイ・サートンのことば。
 これもいいことばだが、ほんとうは意味がよくわからない。なんとなくわかるような気はするのだが。こっちの頭がわるいせいだろう。(笑)

2009/05/15(Fri)  1008
 
(つづき)
 当時の女優たちのアンケート。テーマは「私淑する俳優」。これもおもしろい。

 浦辺 粂子 → 尾上 菊五郎、中村 翫右衛門、フランソワズ・ロゼエ、アドルフ・マンジュウ。
 霧立 のぼる → ゲーリー・クーパー、ジーン・アーサー、クローデット・コルベール。
 高山 広子 → 田中 絹代、徳大寺 伸、佐分利 信、飯田 蝶子、浅香 新八郎。
 椿 澄枝  → 小杉 勇、三宅 邦子、ミリアム・ホプキンス、ベット・ディヴィス、アナベラ、ハーバート・マーシャル。ツアラ・レアンダー。
 真山 くみ子 → マーナ・ロイ。
 三浦 光子 → 田中 絹代、ジーン・アーサー。
 水戸 光子 → クローデット・コルベール。
 三宅 邦子 → シャルル・ポワイエ、ポール・ムニ、マルセル・シャンタル、シルヴィア・シドニー、ベッテイ・ディヴィス。
 村田 知英子 → 小杉 勇、三宅 邦子、ベット・ディヴィス、ハーバート・マーシャル。
 山田 五十鈴 → 尾上 菊五郎、中村 翫右衛門、田中 絹代、吉川 満子。
 山路 ふみ子 → 岡田 時彦。
 森川 まさみ → エリザベート・ベルクナー、クローデット・コルベール、マーゴ。
 若原 春江 → ベット・ディヴィス。

 高山 広子、三浦 光子、山田 五十鈴が、田中 絹代をあげている。
 田中 絹代は「マダムと女房」、「花ある雑草」、「愛染かつら」から、戦後、「不死鳥」で失敗したあと、「好色一代女」、「サンダカン八番娼館」まで、長いキャリアーを積み重ねて行った名女優だった。
 日本の女優たちが「私淑」したハリウッドの俳優、女優たち。ベット・ディヴィス、クローデット・コルベールのふたりがリーディング・レイデイだったらしい。
 クローデットは、アカデミー賞の「或る夜の出来事」の余波だけではなく、「淑女と拳骨」が公開されたせいたろう。
 椿 澄枝がツアラ・レアンダーを、三宅 邦子がマルセル・シャンタルを、森川 まさみが、エリザベート・ベルクナー、マーゴをあげていることに驚かされる。

 日米戦争はまだ少し先のことだが、外国のスターたちの誰が人気があったのか。なぜ、人気があったのか。その理由は何だったのか。そんなことを考えながら、このリストを見ていると、もう誰も知らない俳優、女優たちの顔や姿があざやかに浮かんでくる。
 当時、フランス映画「格子なき牢獄」が公開されようとしていた。雑誌の表紙に、美しいコリンヌ・リュシェールの写真が出ている。
 その裏は「光と影」の宣伝。島津 保次郎/「東宝」入社第一回作品。原 節子、佐分利 信の写真が出ている。
 1939年。数年後に日本が壊滅するとは誰ひとり考えもしなかった時代。

2009/05/14(Thu)  1007
 
 戦前の映画雑誌を見ていて(読んでいたわけではない)小さなアンケートを見つけた。 「松竹」、「東宝」、「大都」のスターたちがめいめい「私淑する俳優」をあげているのだが、「私淑する」というあたりがなんとも奥ゆかしい。

 大川 平八郎 → ポール・ムニ、スチュワート・アーウィン、ハーバート・マーシャル。
 大日向 伝 → ゲーリー・クーパー、スペンサー・トレイシー、小杉 勇。
 岡  譲二 → コンラッド・ファイト、ヴェルナァ・クラウス、ポール・ムニ。
 斉藤 達雄 → アレクサンダー・モイッシ。
 佐伯 秀男 → クラーク・ゲーブル、ゲーリー・クーパー、フランチョット・トーン、スペンサー・トレイシー。
 菅井 一郎 → ルイ・ジューヴェ、小杉 勇、原 節子。
 丸山 定夫 → 井上 正夫、曾我廼家 五郎、藤原 鎌足。
 見明 凡太郎 → 小杉 勇、河村 黎吉、スペンサー・トレイシー、ベット・ディヴィス。
                                        
 丸山 定夫は、移動演劇で公演した広島で原爆死した俳優。
 藤原 鎌足は、黒沢 明の「七人の侍」に出たから知っている人も多いと思う。ほかの俳優たちはもう誰もおぼえていないだろう。
 戦前、小杉 勇の演技が高く評価されていたことがわかる。「土」や、「裸の町」、「五人の斥候兵」といった映画が代表作。戦後はまったく姿を見せなくなった。一度、何かのコマーシャルで見たけれど。
 ハリウッド映画では、スペンサー・トレイシーをあげている人が多い。
 女優をあげているのは見明 凡太郎の、ベット・ディヴィス。菅井 一郎が原 節子。 私としては、斉藤 達雄がアレクサンダー・モイッシをあげていること、菅井 一郎がルイ・ジュヴェをあげていることに驚かされた。  (つづく)

2009/05/13(Wed)  1006

 ドイツ語がわからないため、ヘルマン・ケステンの作品はほとんど読んだことがない。それでも「現代ドイツ作家論」という評論は、何度も繰り返して読んだ。
 原題は「わが友/詩人たち」。
 作家論というよりも自分の知っている19人の作家、詩人たちについての回想というべきもので、ホフマンシュタール、ツヴァイク、トーマス・マン、ハインリヒ・マンといった著名な作家たち、トラー、ヨーゼフ・ロートといった、あまり知られていない劇作家、詩人たちがとりあげられている。

 この19人のなかで、ツヴァイクはブラジルで、トラーはニューヨークで、クラウス・マンはカンヌで、ヴァイスはパリで自殺している。そのほかにも、ロートはパリの施療院で、カイザーはスイスで窮死している。
 ツヴァイクは、日米戦争が始まって、日本軍がシンガポールを攻撃したことを知って自殺しているし、エルンスト・ヴァイスは、ドイツ軍がパリを占領したとき、浴槽のなかでいのちを絶っている。
 ほかの作家たちも、ドイツから亡命しなければならなかった人々ばかりだった。
 ドイツの文学者たちの、きびしい生きかたに較べれば、私などは、まるっきりのほほんと「戦後」をかいくぐってきたもの書きにすぎない。

 人並みに戦争で苦労はしたが、戦後になってから活動しはじめたため、ドイツの亡命作家たちの言語に絶する辛酸を知らない。だから、私はドイツの亡命作家について語る資格はない、といううしろめたさがある。それでいて、こんな悲惨な時代に生きた作家、おそろしく陰惨な時代にまつわっている苦難は、忘れてはならない。そういう思いから『ルイ・ジュヴェ』を書いた。私なりの決着のつけかただった。
 スターリンが死んだとき、わざわざ狸穴のソヴィエト代表部に出かけて、備え付けのノートに、「最も高潔な人の名に、人類の記憶よ、ながくとどまれ」などと、ベタベタに感傷的な弔辞を書きつけた中野 重治のような決着のつけかたではなかった。私は中野 重治に対して冷たい侮蔑しかおぼえない。

 いま、私がヘルマン・ケステンを読むのは、ドイツの作家たちに対する敬意を忘れないためと――自分の「戦後」をあらためてたしかめるつもりで読む。むろん、自分をケステンと比較するつもりはまったくない。もとより自虐の思いではない。

2009/05/12(Tue)  1005
 
 ヘルマン・ケステンのことば。

   すぐれた散文家かどうかは、書き出しの1ページを読めばわかる、わるい散文家かどうかも。

 これは本当のことだ。

 私のクラスから、かなり多数の翻訳家たち、けっして多くはないが、エッセイスト、作家が出た。自分のキャリアーについては語るべきこともないが、このことだけはうれしく思っている。
 私がクラスでいい続けてきたのは、じつに平凡なことだった。

     いい翻訳かどうかは、書き出しの1ページを読んだだけでわかる、おもしろくない翻訳かどうかも。原作者は、たぶん自分の作品をおもしろいと思って書いているのだから、きみもおもしろく訳さなきゃ。

 こういう私の考えかたは、

     いいか、きみの演じる人物には、劇場の色彩ゆたかな幕、脂粉の匂いが感じられなきゃ。お客は、自分が芝居小屋にいるっていうイリュジォンを味わうために金を払っている。……観客からその幻想を奪うってノは、間違いもいいところだぜ。

 ということばを私なりに(つまりは勝手に)発展させたものだった。
 ルイ・ジュヴェのことば。映画「俳優入門」から。

2009/05/11(Mon)  1004
 
 絶世の美女を見たことがある。至近距離で。「パリ・ソワール」の横の坂道に出たとき、車が坂を登ってきた。私は車をよけた。バック・シートの女性が顔をあげた。ダニエル・ダリューだった。まさか、こんな場所でフランスの美女とすれ違うとは予想もしなかった。一瞬、私の顔に驚きがひろがっていたに違いない。
 彼女はちらっと私を見ただけだった。車は私の横を通りすぎて行った。
 それだけのこと。私は茫然自失して彼女を見送っていた。
 ひょっとすると、あのダニエル・ダリューは白日夢だったのか。それとも、私の妄想だったのか。

 日本でもダニエル・ダリューはよく知られていたが、実際にはわずかな映画しか輸入されなかった。

 戦前の「うたかたの恋」(36年)も、日本では公開されず、戦後になってから見ることができた。戦後、「輪舞」(50年)などでダニエルの健在を知ることができた。

 私は「不良青年」(1931年)を、戦後すぐの池袋で見た。この映画は、戦後の混乱のさなか、突然単館で公開されたもので、わずか一週間で消えた。この映画を見たのは偶然だったが、私にとっては幸運としかいいようがない。
 だが、ダニエル・ダリューが、ハリウッドで撮った「パリの怒り」(38年)も、パリでとった戦争直前の「心のきず」(39年)、戦時中の「はじめてのランデヴ」(44年)などは見ることができなかった。
 こうした映画は、フランスではビデオにもなっていない。
 つまり、もっとも美しかった時期のダニエルを私たちは知らない。

 私たちの外国文化に対する理解はいつも偏頗なものなのだ。ダニエル・ダリューのことにかぎらないが、私の外国文化に対する理解が偏っているという自覚は、いつも私の心から離れない。

2009/05/09(Sat)  1003
 
 「私の愛した男たちは、みんな天才ばかり。これこそは、私が主張するただひとつのこと」と、イサドラ・ダンカンはいう。
 すごいね。さすがだなあ。こういうイサドラを私は尊敬する。と同時に、いささかあきれる。

 ロダンは、イサドラをモデルに彫刻を作った。このとき、イサドラのあられもない姿態を水彩で描いた。ロダンは終生、このデッサンを筐底に秘めていた。それはきわめてエロティックなものだったが、ポルノグラフィックなものではなかった。ロダンはほかの女たち、たくさんの貴族の女性たちや、下層の娼婦たちまで、ほんとうにエロティックなヌード・デッサンをたくさん描いている。
 20世紀の最後になって、ようやくこのデッサンは発表されたが、芸術家として女の本質をとらえようとしたロダンのすさまじい執念を見ることができる。

2009/05/07(Thu)  1002
 
 あきれ返ってものもいえねえ。そんな話を書いておこう。

 東京都の下水局が制服、20000着を新調した。やがて、できあがってきた。
 ところが、胸につけるワッペンが違っている。
「東京都下水局」という文字の下に添える水色の波線が、内規と違ったらしい。それを削ったという。
 この作り直しの費用が、3400万円。

 このニュースは、「読売」(’09・4・14)に出ていた。

 えらい! 「東京都下水局」を褒めてつかわす。
 現在、非常な危機といわれる経済危機のさなかにあって、よくぞ、ここまでアホウなことを仕出かした。「東京都下水局」、あっぱれである!

 東京都の「下水局」なのだから、所管の長は、石原 慎太郎ということになる。石原君が、これをどう処分するか。

 私が東京都知事なら、以下のように裁定する。

 胸につけるワッペンのデザインをしたヤツに、報償金、100円をさしつかわす。
 理由は「東京都下水局」という文字の下に添える波線などという、まぎらわしいものをつけた功績に対して。その氏名、身分を公表して、その功績を表彰しよう。

 つぎに、このワッペンを発注した係の者に、報償金、50円を与える。水色の波線というごとき内規を忠実にまもったコッパヤクニンの典型として表彰に値する。

 さて、このワッペンをつけた制服ができあがったとき、この水色の波線が内規と違ったことに気がついたコッパに、監督不行き届きとして、3千万円の罰金、または、それに該当する給与削減を行う。「下水局」だから水色などという発想がよろしくない。むしろ、ドロ水色をもって波線とすべきである。

 さてつぎに、このワッペンを取り替えるよう命令したコッパの上司に対して、3400万円に該当する額の退職金削減をもって、即日、ご退職をお願いする。これほどの輝かしい退職者として、その氏名を公表、都庁前に「下水局」全員が整列し、お見送り申しあげる。これは最高の栄誉礼である。

 最後に、「東京都下水局」局長に、在職中、ずっとこの制服の着用を命じる。デザインはいいし、綺麗なワッペンはついているし、どこに出てもはずかしくない。
 この制服の着用をこのうえなき名誉と心得るべし。

 石原都知事も、今後、せいぜいこの制服の着用に相つとめられるべきこと。

2009/05/05(Tue)  1001
 
 「コージートーク」は、その日そのとき、何かを見たり読んだりして、ふと心に浮かぶよしなしごとを書きとめてきたもの。書く材料はいくらでもある。ただし、自分ひとりでおもしろがっているようなことも多い。
 落花、紛々として、やや多きをおぼえ、美人、酔わんと欲して顔を赤く染める。そんな一日、「コージートーク」の1001本目を書く。(’09・5・5)

     君起舞   きみ 立ちて舞え
     日西夕   日 西に 夕づく

 うろおぼえの李白の一節を口ずさんで、一杯をもって咽喉をうるおす。

 思いがけず長生きしたおかげで、いろいろな人や、ものごとに接してきた。私なりに感動したこと、おもわず見とれてしまった女人のこと、あるいは、あきれたことなど、いろいろとある。
 今後もそんなことを書いてみようか。
 あるいは、もう少し別な工夫をしてみようか。格別、何も思いつかないのだが。

 感動したことを書く。もとよりもの書きとしての願いだが、自分が感動したことを書いて、人さまに感動してもらうなどという了見はもたない。そもそも不可能なことだから。「仕事をしている日が、自分には最高の日なのだ」と、ジョージァ・オキーフがいう。私は感動する。しかし、こういうことばはジョージァ・オキーフだからカッコいいのであって、私などがいうと冗談にもならない。

     胡姫貌如花   ハリウッド・スターの美貌 花のごとし
     笑春風     春風に ほほえみ
     羅衣舞     うすぎぬの舞

 こんな女人のことを書いてみたら、さぞ楽しいだろうと思う。これがなかなかにむずかしい。日本の狂言のように――美人に恋をするという趣向は、枕物狂いの老人が美少女に恋いこがれて、孫たちに心配をかける。
 もう一つ――天下に名を得た画工の金岡が、大内の女房を恋して、自分の妻君の顔に彩色してみるが、どうにも似た顔にならない。
 狂言には、せいぜいこのふたつのプロットしかない。
 私が女人のことを書いたら、おそらくファルスにしかならない。いっそ、芝居仕立てで書きたいものだが、そんな余力も残ってはいない。

 さて、これから「コージートーク」はどう変わるだろうか。
 感動したこと。女人のこと。あきれたこと。なんでもない瞬間のこと。白日夢であれ妄想であれ、日頃はすっかり忘れていながら、どうかして心のなかにまざまざとよみがえってきたことども。
 しばらくはそんなことを書きつづけよう。

 「コージートーク」を読んでくださる方々には感謝している。そして、田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに、心からの感謝をささげよう。きみたちのおかげで、「コージートーク」は1001本目、つまり今日を迎えることができた。ありがとう。

2009/05/02(Sat)  ☆1000☆
 
(つづき)
 ノエル・カワ−ドの“Shadows of the Evening”。幕切れ。
 「ジョ−ジ」は、愛人と妻の前で語る。

ジョ−ジ 人生は神さまがくれるすばらしい贈りもの、というならそうかも知れない。それに、人間はその発明の才や勇気、いとおしいまでの優しさで、さまざまな奇跡を起こしてきたかも知れないし、それが違うとはいわない。
     ただ、おれは嘆かわしいんだ。そうやってどんなに奇跡を起こそうと、理不尽なまでの冷酷さ、強欲、恐怖心やうぬぼれとかのせいで、どんどん帳消しにされてしまう。
     おれのいいぶんが100パ−セント正しいなんていってるわけじゃない。
     天国のどこかから、世界のあやまちを匡せ、なんて特命を受けているわけじゃない。
     おれなんざ、ただ、そこそこに注意深い男ってだけさ。
     もうじき死ぬけど、やれ神秘だのロマンティックな絵空事なんかにはぐらかされるのは、まっぴら御免、そう思っているだけの男だよ。

リンダ  そうとは言い切れないわ。神秘としかいえなかったことが、ある日、突然はっきりするかも知れないし、ロマンティックな絵空事が現実になることだってあるのよ。

ジョ−ジ そうかも知れない。天国、地獄、煉獄、わるい鬼とかサンタクロ−ス、お伽ばなしの夢ものがたり、みんなそうだ。
     何でもわかる人間だとは思っていない。何もわかっていないってことはわかっている。
     それにこの説明不可能なナゾの前に立てば、世界じゅうのどんな司祭だの哲学者、科学者、いや、手相見だって、おれとおなじくらい何もわかっちゃいない。
     結論の出ない憶測にかまけている時間なんか、ますますなくなる。だから、残された日々、ひたすら恐怖に負けないような心を鍛えて過ごそうと思っている。
     歴史を見てごらん、おれよかりっぱな連中は、みんな、勇気とユ−モアをわすれず、冷静沈着に、迫りくる死と向きあってきた。
     だから、おれも、せいぜい意志の力をつよくして、たぐいまれなご一統さまのひとりとして死ねればと思っている。
     臨終の床で悔恨にくれる、そんな甘ったれたことはしないさ。
     ごめんなさいをいう前に、忘れちまうさ。
     ひれ伏したり、すがりついてまで、魂の救済を祈りたい、とは思わないね。
     おれの魂ってったって、ナニ、核だの、染色体だの、遺伝子だの、もしかしたら霊魂みたいに実態のないものが、ゴニャゴニャまざりあっただけのものかも知れないさ。とにかく、いちかばちか、賭けてみるっきゃない。くたばってゆくこのからだだって、五十年も、ずっといちかばちか、賭けつづけてきたんだ。
     子どものとき、いよいよ夏休みがおしまい、って日がくる。今のおれが、そんな感じなんだ。
     まだ時間はある、楽しかったことをちょっとふり返ってみる。前にピクニックに行った入江に、もう一度行ってみてもいい。クラゲが浮いていた洞窟まで泳いでみるか。木の枝にぶら下げたブランコをこいだり、砂のお城を作ったり。
     今のうちに、食ったり飲んだり、そこそこいい気分になってみようか。
     バカラで大当たり、色とりどりのチップスをごっそり、なんていうのもいい。きみたちふたりが、ほんのちょっと力を貸してくれるだけでいい。
     どうしたって気弱になっちまう瞬間てのがあるだろうから、そいつを乗り越える手助けをしてほしいんだ。

     (外の湖から、サイレンが三回きこえる)

     汽船が出る。何時も出航10分前に鳴るんだ。乗り遅れないように合図する。さあ、二人とも、パスポ−トはもってるね。おれのもある。まだ期限切れじゃない。

    ジョ−ジはアンがコ−トを着るのを手つだってやる。それぞれ持ち物をたしかめて、三人が出てゆく、同時に 幕が下りる

 私の訳だからあまりうまくないが、これを読んでくださった方は、自分の声にのせて、このセリフを全部読んでみてほしい。
 役者ではないのだからうまく声に出せなくていい。ヘタでもいいのだ。

 私の「コージー・トーク」は、今日で1000回に達した。つたない私の「一千一夜ものがたり」を、今後ともつづけるべきや否や。
 江戸の作者の口まねをしようか。

 中田 耕治これを稿じ終わるの夕(ゆうべ)、灯(ともしび)を掲げ、案を拊(ふ)し、ひとり嘆じていわく、
 才の長短と、ものの巧拙は旦(しばら)くいわず、HPに雅俗あり、また流行あり。そり流行は人にあるか、はた我にあるか。われいまだこれをしらず。呵々。

 このブログをはじめるに当たって、いつも私を励まし、書きつづけさせ、あわせて管理の労をとってくれた田栗 美奈子、吉永 珠子のおふたりに心から感謝している。また、私の「文学講座」を推進してくれている安東 つとむ、真喜志 順子、竹迫 仁子、私を中心にしたグループ「NEXUS」と、私塾「SHAR」のみなさんには、どれほど感謝していることか。
 そして、これまで私のブログを読んでくれた人々、いろいろ連絡してくれた方々、老いのくりごとにつきあって下さったみなさんにあらためてお礼を申しあげよう。

 ほんとうにありがとう。

2009/04/30(Thu)  999
 
 少し前に、私のクラスで、ノエル・カワ−ドの戯曲、“Shadows of the Evening”を読んだ。
 いろいろなテキストを読んできたが、カワードをとりあげたのは今回がはじめて。
 いかにもカワードらしい手だれの劇作で、底の浅い芝居。いわゆるウェル・メイド・プレイだが――ラストで、観客はつよい感銘を受けるだろうなあ、と思う。劇作家の技巧もさることながら、やはり年輪というか、成熟を物語っているだろう。幕切れに近く、ぐっと感動がやってきて、観客は、いい芝居を見たことに満足して劇場を出るだろう。
 こういうところ、ある時期の劇作家はみごとに見せている。私はみんなにこまかく説明してやる。わかってもらえたかどうか。この幕切れは、もうチェホフだよ。

 第二場の「トガキ」だけを引用してみよう。

     第一場から1時間が過ぎている。窓の外に夕闇がひろがっている。湖の対岸にちらほら明かりがともり始めている。高い山の彼方の空だけが、まだわずかに明るい。

    召使が、シャンパンの壜を入れたアイスペ−ル、グラスをのせたトレイをもって、ドリンクテ−ブルの仕度をととのえる。
    ややあって、寝室からリンダが出てくる。イヴニング・ドレス。腕にイヴニング・コ−ト、白い手袋。

 こんな「トガキ」だけでは、何も見えてこないだろうが――湖畔の避暑地、「リンダ」は、まさにノエル・カワ−ド・ヒロインである。そして、ジョ−ジが登場する。タキシ−ド。胸に赤いカ−ネ−ション。

 「リンダ」は、リリー・パーマー。「ジョン」は、レックス・ハリソン。
 これだけで舞台にぐっと立ちこめてくるものが想像できる。    (つづく)

2009/04/28(Tue)  998
 
 ビョーキの話。

 文化9年(1812年)、小林 一茶は、茨城から、下総(千葉県)流山に入った。途中の部落で、若い娘を見かける。

    十二日、まれの晴天なれば、籠山を出てあたご町といふ所を過るに、いまだ廿にたらぬと見ゆる女の、荒布(あらめ)のやうなるものを身にまとひ、古わらじ、馬の沓(くつ)のたぐひ、いくつともなく腰にゆひつけつ、黒髪に箸あるひはきせるなどさして、かくす所もかくさず、あらぬさましてさまよふ者あり。人にとへば、おすが気違ひとて、此里のものなるとぞ。何として仏紙に見はなされたるや、盛りなる菖蒲(あやめ)の泥をかぶりて折る人さへもなく思はれて哀也。汝、父やあらん。母やあらん。

 これに説明の必要はないだろう。
 一茶は、父母の愛を知らずに育った人だった。その一茶が、若い狂女をどういう思いで見たのか。年端もゆかない哀れな狂女をとらえた一節に、一茶のまなざしのきびしさ、やさしさが、まるでミニマリズムの短編でも読むような緊張を感じる。

 ここで、十七、八の若い狂女がヒロインの、中村 吉蔵の喜劇、『檻の中』を思い出した。たしか大正末期か、昭和2、3年頃の作品だったはずである。喜劇というよりファルスといっていい芝居だが、劇中のあらわな女性蔑視、「キチガヒ」に対する無理解など、その眼の低さは隠すすべくもない。
 中村 吉蔵は、いっとき真山 青果と並び称された劇作家だったが。

 一茶は、この文化9年、二度故郷を訪れる。二度目は冬であった。

    これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺

 あまりにも有名な句だが、ただの慨嘆、自嘲を見るべきではないだろう。

 翌年1月、父の法要をすませ、異母弟と和解する。故郷に帰ってちょうど一年目に、皮膚にできものができて、6月から75日も病臥した。
 このときの皮膚病は、文化13年(1816年)の「ひぜん」とは違うだろう。私は、なんとなく帯状疱疹ではなかったかと想像している。一茶の「ひぜん」は、おそらく、栄養失調によるもので、敗戦後の私たちも苦しんだ「カイカイ」ではないかと思う。皮膚科の専門の先生にお尋ねしたいことなのだが。

 私はめったにビョーキの話をしないのだが――つい最近、帯状疱疹になったのでビョーキの話を書く気になった。一茶さんに同情をこめて。(笑)

2009/04/26(Sun)  997
 
 若き日の尾崎 咢堂が、福沢 諭吉に会いに行った。大先輩のご意見を伺うつもりだったらしい。

    そのとき、先生は、毛抜きで鼻毛を抜きながら、変な目つきで斜めに私の顔を見て、『おめえさんは、誰に読ませるつもりで、著述なんかするんかい』と問われた。私は、その態度やことばづかいにおもわずムッとしたが、つとめて怒気をおさへ、エリを正して厳然と『大方の識者にみせるためです』と答へた。すると、先生は、『馬鹿! サルにみせるつもりで書け! おれなどは、いつもサルにみせるつもりで書いてゐるが、世の中は、それでちょうどいいのだ』と道破したのち、例の先生一流の、人をひきつけるやうな笑いかたをされた。私はしかられたのかほめられたのか、なんだかわからなかったが、その後はなるべく先生を訪問しないやうにした。だが、これは私の誤りで、先生は、このとき、実用的著述の極意を示されたのであった」

 という。
 おもしろい話だ。さすがは、福沢 諭吉、おサツに印刷されるほどの大人物である。
 私たちも「サルにみせるつもりで」書かかなければならない。
 だが、ひるがえって考えてみれば、尾崎 咢堂と福沢 諭吉のどちらが、奇人、変人に見えるだろうか。私には、ふたりともごくふつうのお人柄のように見える。もっとも、私がサル並みの平凡なもの書きだからだろう。

    世間ではよく<音楽家は誰しも少しばかり頭がいかれている>という。これを、正規のドイツ語でいうと、一般社会で、奇人、変人といわれる連中が、音楽史にはうじゃうじゃいるということだろう――そして、こんにちまで、誰ひとり、音楽史におけるこの方面の研究をしたひとはいない。

 これは、W・H・リールという人のことば。

 最近は、リール先生のいう「音楽史におけるこの方面の研究」もけっこう多く書かれているような気がする。おなじように俳句の世界の奇人、変人の研究も多い。
 私が俳句が好きなのも、俳句の世界にかなり奇人、変人が多いせいかも知れない。そのくせどこにでもいる程度の奇人、変人には、あまり関心を惹かれない。
 その程度に私も奇人、変人に近いのかも。いや、サルに近いのかも。(笑)

2009/04/24(Fri)  996
 
 ふたりの中国人留学生(女性)に中国語の初歩を教えてもらった。
 そのおひとりは、イギリス人と結婚して、現在ロンドンに住んでいる。
 もうひとりの彼女は、日本の国立大の工学部で、コンピューターの最先端の研究をしていた。在学中に発表した論文で、工学博士号をとったほどの女性だった。
 ある日、彼女が浮かぬ顔で、
 「大学の図書館が、私の専門分野の雑誌の講読をやめたんですよ」
 といった。
 彼女の話によると、その専門誌を読まないと、世界の研究のレベルにとても追いついてゆけないらしい。私は訊いた。
 「大学の学生たちも読むの?」
 彼女の説明によれば、高度な内容の学術雑誌なので、実際に読めるのは10人程度。
 個々の論文を完全に理解できるのは、ほんの数人にかぎられるというのだった。
 大学当局は、利用者がきわめて少ない学術雑誌なので講読を打ち切ったらしい。
 彼女は、ちょっと悲しそうな表情で、
 「日本の研究は、これで遅れますね」
 といった。
 このことばが私の心に重く沈んで行った。

 せっかくこんな優秀な女性に教えてもらったのに、私の中国語の勉強は途中で挫折してしまった。彼女がある研究所に入ったため、中国語を教えるどころではなくなったから。
 つい最近、(09.2.1)知ったのだが、理論物理学の論文を掲載する雑誌に、「プログレス・オヴ・セオリティカル・フィジックス」という学術雑誌がある、そうな。
 この雑誌は、敗戦の翌年、湯川 秀樹博士が呼びかけて創刊されたもので、ノーベル物理学賞の小林 誠、益川 敏英先生の論文も発表されたことがあるという。しかし、現在は赤字がつづいている。そのため、存続できるかどうかというところまで追つめられているらしい。

 一方、国内の科学研究者の論文の8割までが、外国の雑誌に発表されているという。国立大学で最先端科学の雑誌さえ、講読を打ち切ってしまうような国の教育に、はたして未来はあるのだろうか。
 20年後、30年後に、小林 誠、益川 敏英先生のような俊英があらわれなくなる可能性があると考えるだけで、この国のみじめさ、憐れさがひしひしと感じられてくる。

2009/04/22(Wed)  995
 
 私は、もはや「死とか病気とかを超えている」つもりなので、1931年に亡くなった人のことを調べてみた。別に理由はない。ただ、おもしろそうなので。
 ディヴィッド・ベラスコが78歳で亡くなっている。ほう。おなじ年に、ロン・チャニー、フランク・ハリス。
 ロン・チャニーの映画は何本か見ている。
 フランク・ハリスは作家。彼の本も読んでいる。
 チャールズ・E・マンチェス。この人のことはあまり知られていない。アイスクリーム・コーンを発明した人。あのコーンは、じつはコニー・アイランドの象徴、ってご存じでしたか。まさか、知らないよね。(笑)

 DVDで、古い映画を見る。「巨星ジーグフェルド」を見ていて、フローレンツ・ジーグフェルドの亡くなった年のことが気になった。
 映画でも、彼の生涯のアップス&ダウンズがえがかれているが、大不況で、ショー・ビジネスと、ウォール・ストリート、両方の富を失った。当時の金額で、200万ドル。
 最後の公演、「ハッチャ!」HotーCha! が失敗したため、急遽、以前に出した「ショー・ボート」にさし替えた。これで、破産はまぬかれたが、1932年7月、ジーグフェルドは失意のうちに亡くなっている。

 おなじ年に、ウィリアム・モリスが、没。(イギリスの思想家、ウィリアム・モリスとは別人)。ブロードウェイの、それもヴァラィエティーの世界で、終生の敵、E.F.オールビーと戦いつづけた、ショー・ビジネスの雄。「ブロードウェイ最高、もしくは最高でないにしても、最高のエージェント、マネージャー」といわれた。享年、59歳。
 私は、モリスvsオールビーの争いをを書いてみようと思ったことがある。

 この年、女優のフィスク夫人(ミニー・マダーン・フィスク)が67歳で亡くなっている。チョーンセイ・オルコットが71歳、ビリー・ミンスキーが41歳、ジョージ・イーストマンが77歳で。イーストマンは、「イーストマン・コダック」の創業者。

 作家の、エドガー・ウォーレスが56歳で亡くなっている。
 その生涯に、長編が200冊。戯曲が23曲。
 残念ながら、エドガー・ウォーレスは読んだことがない。たしか、私の先生だった吉田 甲子太郎がミステリーを1冊、訳していたはずだが。

2009/04/20(Mon)  994
 (つづき)
 ある雑誌で、大槻ケンジがファンキー末吉と対談している。(「週刊アスキー」’09.2.24号)私は、作家としての大槻 ケンジに敬意をもっている。
 ところが、ふたりの話は病気のことばかり。
 大槻 ケンジは、ライブに出演したとき、ヒザの調子が悪くて楽屋でひっくり返っていたという。ファンキー末吉は、病院で診察を受けたが、ある有名な病気……というか、バイ菌がみつかった。

  大槻  え、菌!?
  ファンキー  ピロリ菌が! 「この世の中にピロリ菌をもってる人なんているんだ!」と思ったら、実は大人の3分の2はもってたりするんだって。
  大槻  へえー! もともとなにか、ピロリ菌が原因の不調があったんですか? 
  ファンキー  うーん、飲みすぎると胃が痛いなとか。(後略)

 ふたりは楽しそうに病気談義を続けているが、最後の部分で、

  大槻  こないだムッシュかまやつさんや、マチャアキさんがトークしている番組を見たんだけど、70代になると、また違いますよね。なにかを超越してるというか、霊界の話みたいになってました。
  ファンキー  ハハハ!
  大槻  雲の上の会話のよう。
  ファンキー  50でだれそれが死んだっていう話になるんなら、60、70ではまたいろいろあるんでしょうね。もう、死とか病気とかを超えているんだね。

 これには笑ったね。

 40代になった大槻 ケンジが、ファンキー末吉といっしょになって楽しそうに病気の話をしている。
 大槻 ケンジでさえこうなのだから、もっとご高齢のデーモン小暮閣下なんかも、病気の話をしてくれるといいのに。
 病気の話もヤッパおもしろくなきゃ。

 私も「死とか病気とかを超えているんだ」よなあ、きっと。(笑)

2009/04/19(Sun)  993
 
 私がとりあげなかったテーマは、食べものと病気。
 そこで病気の話。

 その前に――なぜ病気の話をしなかったか。私なりの理由があった。

 ずいぶん昔のことだが・・・・「近代文学賞」というささやかな文学賞をいただいたことがある。
 受賞式に、先輩批評家のみなさんが集まってくださった。私が30代だったのだから、みなさん50代で、いちばん若い荒 正人さんも、やっと50代に入ったばかりではなかったか。
 この賞は藤枝 静男さんの援助によるものだったので、藤枝さんも出席なさった。
 この席でみなさんが話題になさったのは、もっぱら病気の話ばかり。藤枝さんは有名な眼科の先生だったから、みなさんも気軽に医学的なことを相談なさったのだろうと思う。
 平野 謙が藤枝さんをつかまえて、いろいろな病気の話をはじめたが、たちまち話題は病気のことに集中した。みんな、楽しそうに自分の病気の話をする。
 いろいろな病気の話が出た。

 本多 秋五さん、佐々木 基一さんまでが、病気の話をひどくたのしそうに話しあっている。「最近、階段の上り下りがつらくてねえ」といえば、「ぼくも、膝にヒビがはいっちゃって、走れないんだよ」とか、「それゃあ、オスグッド・シュラッター病だよ」とか、「最近になって、どうもアレルギーじゃないかという気がしてきた」とか、「いやぁ、ツーフーってノは、痛いモンだねぇ」とか。
 当時はまだ、バイアグラは出現していなかったが、もし、バイアグラが実用化されたとして、埴谷 雄高さんはじめ先輩の方々が、それを話題になさったかどうか。
 おそらく話題にもならなかったに違いない。

 私は先輩の方々から受賞理由なり、講評なりを聞かされて、かなり突っ込んだ批判を受けるものと覚悟していたが、まったく話題に出なかった。最初から最後まで、和気あいあいといった雰囲気でひとしきり病気の話で盛り上がってから、山室 静さんが、
 「はい、これ、副賞です」
 といって、見事な堆朱のタバコ入れを下さった。

 ある世代、またはある年齢になると、病気はけっこう社交的に有効な話題になり得るだろう。その場合、いくら病気を話題にしたところで、あるいは生きることに対してシニックに、自虐的になるわけのものでもない。
 現在なら、自分がホモセクシュアル、またはレズビアンなどとカミングアウトしても、非難されることはない。それとおなじことだろう。
 まして、平野さん、本多さん、藤枝さんはお互いに親しい友人だから、いくら病気の話をしたところでかまわない。

 しかし、私は決心したのだった。自分からはけっして病気の話をしないこと。

     (つづく)

2009/04/17(Fri)  992
 
 登山の帰り。やっと山から下りて麓にたどりつく。とっぷり日が暮れている。
 ラーメン屋か一膳飯屋があれば、ビールを一本飲む。無事に下山できた自分を祝福する意味もあった。
 ラーメン屋もない土地。しばらく歩いていれば豆腐屋ぐらいは見つかる。そこで豆腐を一丁、地酒を一本買って、誰も通らない道ばたで、湯ドーフを作る。

 トーフの水切りは、ガーゼにくるんでマキスで巻くのがいいのだが、非常用のガーゼではなく、登山用に持っている三角巾でくるむ。
 だしコンブは15センチばかり、非常食としてザックに投げ込んである。
 アメリカ軍の放出品のフライパンにだしコンブをしいて、最後まで残しておいた水を張る。登山用のアルミカップに、醤油、ダシ汁、ミリン、削りブシのツケ醤油を入れて、フライパンに据える。
 このとき、カタクリコをほんのひとツマミ、ふたツマミ入れておくと、おトーフが固くならない。

 日本酒のお燗もできるけれど、フライパンが小さいので冷やで飲む。お燗の火加減もむずかしいので。

 湯ドーフが煮えてくる。
 真っ暗ななかで、ガスコンロの炎を見つめながら、その日の登山ルートを思い出したり、つぎはどこの山に登ろうかなどと考えながら、グビリグビリ。まっくらな山裾で、湯ドーフで一杯、われながらオツなものだった。

2009/04/16(Thu)  991
 
 私がとりあげなかったテーマは、食べものと病気。
 たまには食いものの話もしないといけないね。ただし、お惣菜の話。

 きんぴらごぼう。

 ゴボウを片手でつかんで、タワシでごしごしやる。綺麗になったヤツを、斜めにササ切り。歯がわるくなってきたから、タテに細切り。そいつをしばらく水にひたして、アクを抜く。

 ニンジンも、おなじ。

 フライパンでいい。お鍋にアブラをしいて、熱をくわえる。熱くなったら、水気をとったゴボウを放り込む。しんなりしてくる。そこで、ニンジンも投げ込む。いためているうちに、こっちもしんなりしてくる。

 お砂糖をひと振り、ふた振り。ちょいと息をととのえて、ミリンを少々、お醤油、だし汁、まあ大さじに2杯ってところか。

 シャキシャキしなきゃ、キンピラじゃない。だから、弱火でトロトロはいけない。
 山に登っていた頃、アメリカ軍の放出品のフライパンでキンピラを作った。時間をかけずに豪快にいためる。ゴボウは前の晩にタワシでみがいたヤツ。雪に突っ込んで、アクを抜く。だしのミリン、醤油、だし汁は、フィルムのプラスチック容器にいれておく。歩いているうちに、よくまざって、味もねれてくる。

 飯盒でメシを炊いていたから、このキンピラがお惣菜。飯盒の蓋でお湯をわかして、インスタント・ラーメンを1/3ばかり放り込む。これがスープ。七味をブチ込む。

 コンニャクを刻み込むのもいいが、時間がないので2品ですませた。お砂糖のかわりに、ミソをまぜてキシメンを放り込めば、キシメンのミソ煮になるが、これは別のお惣菜。 ブタ肉のこまぎれ、トリのささみ、何を放り込んでもいい。雪の中から頭を出しているフキノトウもいいけれど、アク抜きがちょっとむずかしい。

 雪山のきんぴらごぼうのおいしかったこと!

2009/04/14(Tue)  990
 
 好きなことば。

  ぼくはことばを音楽的に見るだけだ。ことばを歌うものとして見るだけだ。ことばが歌いだされるのは曲があるからなんだ。ぼくが歌をつくるのは、何か歌うものが必要だからだよ」
――ボブ・ディラン。

 うっかり読めば、このことばはほとんど何も意味していない。しごく当たりまえのことばに聞こえるだけだ。しかし、「ジョン・ウェスリー・ハーディング」の直後(1968年2月)に語られているこのことばに、私はひとりのシンガーの、じつに明快、率直な確信を聞きとる。
 ことばを歌うものとして見るだけだ、という無類に単純ないいかたには、なぜ、山に登るのかと聞かれて、そこに山があるからだ、と答えた登山家のことばに近い、あふれるような自負さえ感じられる。

 ほんとうのアーティストたちは、その発展の折りふしに、私たちの心にきざみつけられる、なぜかわからないけれど、間違いなくその時代にふさわしいイメージをもつ。
 当の本人が風のように転身すると、あとに残された映像は、たちまち明確な像をむすばなくなり、やがては拡散して、やがてばらばらな記憶になってしまう。
 たとえば、ビートルズ。

 ジョージ・ハリソンは語っている。
 「大衆が変わろうとしているとき、ぼくたちが出てきただけさ」と。
おなじ時期に、ジョン・レノンはいった。
 「ぼくたちの音楽をほんとうに理解してくれるやつなんて、百人もいないさ」と。
 ビートルズは大衆を変えた。彼らの音楽をほんとうに理解したのは、百人ではなかったからだろう。
 おなじことは、ボブ・ディランだっていえたはずだ。だが、ジョージとジョンの言葉のあいだにある深淵にも似た距離は、ジョージとボブ、ジョンとボブのあいだにもあったはずなのだ。

 ボブが歌を作るのは、なにか歌うものが必要だからだった。ボブの「風に吹かれて」は、いま青春をまっとうに生きている若い人たちに、なんらか痛切な思いを喚び起さずにいない。それはやがて「ジョアンナのヴィジョン」になってボブにまつわりつく。一瞬ののち、私たちもまた風からめざめるのだろうか。

2009/04/12(Sun)  989
 
 私は大学、その他で講義したり、いまも「文学講座」のようなものをつづけている。しかし、一度も自分を教育者だと思ったことはない。
 私のようにずぼらで、いいかげんな人間は、教育者としては不適格だろう。
 最近の教育改革の論議を見ていて、大きな問題になっているのは、教える側に不適格者が多いということだ。
 私の教えた人たちからも、教育の現場にいる教師が多い。その人たちからいろいろと話を聞くのだが、教師のなかには、精神的に追いつめられて鬱に陥る人が少なくないという。それとは別に、教員としての素質も、適性もない人物が、生徒に教えている。だから、これからは、教員の教育能力を向上させなければならない。
 ひろく検定試験を実施したり、少なくとも何年かごとに研修をさせよう。こういう議論が出てくる。

 私は疑問をもっている。何かの事態が起きると、きまってこういう「正論」が出てくる。私はこういう「正論」に反対はしないが、こうした対症療法がはたして有効なのか、と疑う。こういう「正論」にぶつかると、歩いていてうっかり犬のクソを踏みつけたような気分になる。

 私は小学校から、ひとりも「わるい」先生に出会わなかった。私の出会った先生は、例外なく「いい」先生だった。

 小学生たちは、はっきり見ているのだ。どの先生が、人格、識見に秀でているか。どの先生は表面は「よくできる」ように見えて(見せて)いるが、実際には、校長先生にとり入ろうとしてこそこそしている、とか、あの先生はどの生徒をヒイキにしている。vv先生は、ww先生とは仲がよくない。xx先生とyy先生はzz先生をめぐって鞘当てしている。
 子どもたちは、かなり正確に「教育喜劇」を見届けている。

 個人的な資質、教育に対する熱意、その程度のことは、教師よりも生徒のほうがはっきり見ている。そして、教師の才能はかならず生徒の成績の向上、低下に反映する。(だから、研修、検定が必要なのだ、という議論は、短絡的であり、かつは誤りである。)
 教員たちの個人的なレベル・アップをはかることに反対するのではない。しかし、そんなことで、ほんとうに教育の荒廃はあらたまるだろうか。
 問題は、教員たちの個人的な資質や、努力にはない。
 現在の教育システムの破綻にあるのだ。

たとえば――ジャック・ラカン。

     教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所につれてこられると、少なくとも見かけ上、 誰でもいちおうそれなりの役割は果たせます。(中略)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねにじゅうぶんに知っているのです。
       「教える者への問い」

 これは、教育について私がこれまで読んだ言葉の中でもっとも正しい言葉である。
(内田 樹/「教育に惰性を」 「本」07/2月号)

2009/04/11(Sat)  988
 
 子規の批判いらい、談林の俳句はあまり高く評価されない。なにさま貞門の句の低俗な趣きはあまり歓迎されないが、私はいっこうにこだわらない。
 談林の句にもいい句はいくらでもころがっている。もしや、談林の句がおもしろくないのは、こちらに教養がないせいでもあって、私は近代の写実ばかりを俳句の王道とは思わない。

    花むしろ 一見せばやと存じ候       宗因

 お花見。花を見るのにいい場所は、先にとられて、幔幕などで隠されている。そのなかに、どんな美人がきているのだろうか。ひとつ、ぜひにも見たいものだ。
 そんなところだろう。
 むろん、お花見の客にまざって、私も一緒に花を賞でよう、ということでもいい。しかし、この句には、男なら誰でももっている、いたずらな voyeurism めいた、うきうきした気分がある。むろん、「一見せばやと存じ候」は謡曲のパクリだが、これだけで、花にうかれ、いささか酒に酔った男の、かすかないたずら心まで見えてくる。

 近代俳句が身につけなかった遊び。

2009/04/10(Fri)  987
 
 雨が降っている。春雨。
 昔の映画のDVDを見ている。

     春雨や 火燵の外へ足を出し         小西 来山

 おなじ来山に、

     春雨や 降とも知らず牛の目に

 という句がある。昔、春雨が降る道路を、牛のひくオワイ屋の車が通って行くと、タプンタプンと音がしていた。その牛の大きな目が、霧のような雨滴に濡れていたことを思い出す。もう、こんな風景は日本のどこにもなくなっているだろう。
 ところで春雨といえば、やはり蕪村をあげなければならない。

     春雨や 小磯の小貝ぬるるほど

 こういう詩情も、もはや私たちが失ったものかも知れない。

     春雨や 暮れなんとして今日もあり

 昔の映画などを見て過ごしていると、この句にはなぜか別種の趣きが感じられる。

 1926年。
 スウェーデンからきたグレタ・ガルボという女優が、「メトロ・ゴールドウィン」で、第一回作品として、ブラスコ・イヴァニェズの原作の映画化「激流」The Torrent(モンタ・ベル監督)に出た。
 まだ、誰ひとり知らない。グレタ・ガルボが、ハリウッドの黄金期を作ることを。

2009/04/08(Wed)  986
 
 ときどき、俳句のようなものが頭をかすめる。
 たいてい、すぐに忘れてしまう。俳句ともいえない駄句ばかりだから、忘れてもいい。
 歳末、小雨の午後、何も仕事をしない一日。

       さし迫る用事もなしに師走かな

       落雷はげし 年の瀬の夜明け前

 そういえば、歳末に山に登ったことがある。ほかに登山者がいなかった。疲労しきって、やっと下山したのだが、ほとんど客のいないランプの宿で。

       山の湯は大つごもりの薄明り

 そういえば、病気で寝正月ということもあった。

       つごもりをつたなく病んで薄き粥

 最近の私は登山もできなくなっている。哀れというべきか。
 桜が咲いたが、お花見もしなくなった。

2009/04/06(Mon)  985
 
 古い小説をよんでいると、「細君」ということばにぶつかる。
 「妻君」という意味だということはわかる。どうして、「細君」なのだろうか。

 「広辞苑」では・・・・「細」は、小の意。「妻君」と書くのは当て字。
1) 他人に対して、自分の妻をいう語。
2) 転じて、他人の妻をいう語。

 ようするに、妻、奥さん。
 しかし、ほんらいは違うことばだったらしい。

 漢の武帝は、強大な匈奴の侵入に悩まされていた。そこで、烏孫(うそん)の王、昆莫(こんばく)に、姪の細君をつかわすことにした。兄の劉建の女(むすめ)で、後世、烏孫(うそん)公主として知られる女性である。もとより政略結婚であった。
 烏孫は今の新彊ウィグル地区という。

 清の歴史官、齊 召南の『歴代帝王年表』には、わずかに一行、
     元封六年 宗室の女を以て烏孫に嫁せしむ。
 と出ている。名前の記載もない。キリスト紀元前104年。
 昆莫(こんばく)は、しばらく公主と親しんだが、孫の岑陬(しんすう)に与えた。「細君」の名のように、ほっそりした美少女だったのだろう。

 烏孫公主の詩がつたえられている。「悲愁の歌」という。

     居常 土思(どし)して 心内 傷(いた)む
     願わくば 黄鵠(こうこく)となり 故郷へ帰らむ

 いつもいつも、漢土を思って、私の心は悲傷がこみあげる。願わくば、おおとりになって、遙かな故郷に帰りたい。

 いまでは、妻、奥さんの意味の細君は死語となった。しかし、こんなことばにも、女の歴史が秘められている。

2009/04/04(Sat)  984
 
 マリリン・モンローの出た「王子と踊り子」は、アーサー・ミラーと結婚したマリリンが、はじめて外国で撮影した映画だった。
 公開当時は、イギリスを代表する俳優、ローレンス・オリヴィエの重厚な演技に、マリリンの演技は拙劣に見えるという批評が出た。
 ところが、この映画では、ローレンス・オリヴィエの芝居がへんに重ったく見えるのに、マリリンの演技は、とても自然で、終始、オリヴィエを圧倒していることがわかってくる。
 これには、いろいろと考えさせられたものだった。

 ところで、この「王子と踊り子」は、ヨーロッパの(架空の国の)王子さまと、しがない劇場の踊り子の恋物語だが、なんとなくハプスブルグ的な雰囲気がただよっていた。
 むろん、なんとなくそんな気がしただけのことである。

 最近になって、昔のドイツ映画におなじ「王子と踊り子」Der Prinz und die Tanzerin という活動写真があることを知った。
 レオ・ビリンスキー原作。リヒアルト・アイヒベルク監督。主演は、ウィリー・フリッチュ、ルツィー・ドレイン。1926年の作品。

 レオ・ビリンスキーは、この時期に「私はこの女を買った」というメロドラマの原作者だったという以外何も知らない。リヒアルト・アイヒベルクという監督についても何も知らない。
 ルツィー・ドレインという女優さんも知らないのだが、ウィリー・フリッチュなら私も見ている。

 マリリン・モンローの「王子と踊り子」が、活動写真の「王子と踊り子」のリメイクだったかどうか、にわかに断定できないが、おそらくそういうことだったのだろう。
 植草 甚一さんに伺いたいところだが。

2009/04/02(Thu)  983
 
(つづき)
 野村先生はこの質問を三人の中国人俳優に投げかけてみたが、「ノー」と答えなかったのは秋 夢子だけだった。
 「やめたいと思ったんです。もう使える物は全部使っちゃったという感じになって。これから充電しないとだめかなと思って……」
 そこをどう乗り越えたのだろう。
 「なんとなく乗り越えた気がする。そう、何となく乗り越えましたね」
 自分に言い聞かせるように言った。

 野村先生はいう。

    彼女の『キャッツ』への出演は、すでに七百回を超えている。三百回から七百回へ至るまでのあいだに、新しい革袋にはいった新酒が徐々に発酵して行くような時が流れたのかもしれない。

 さて、ここから私の「問題」になる。

 舞台に立つ俳優にとってロングランとは何か。上演回数が、三百回に達したとき、秋 夢子は語っている。

 「もう頭の中に何もなくなった」と思ったことがある、と。

 俳優が、もう、やりたくなくなった、と思った舞台が、はたして観客にとって最高の舞台といえるかどうか。

 ロングランの舞台に立つ俳優が、いつも安定した演技を見せる。これはすばらしいことだと思う。しかし、上演回数が三百回を越える舞台におなじ役で立ちつづけるというのは、かならずしもいい結果をもたらさない。
 ルイ・ジュヴェは、ジロドゥーの『シャイヨの狂女』で大当たりをとったが、まだいくらでも続演できるのに、あえて打ち切った。ジュヴェはいう。

    まだ当たっている最中だが、『シャイヨの狂女』を引っ込めるつもり。成功に溺れてはならないし、芝居は脚本(ほん)によって歪められてはならないと思う。それに、一年もおなじセリフをしゃべりつづけ、あえておなじ言葉を響かせる俳優というものを、どういったらいいのか。彼はどうなってしまうのか。それに、劇場はいつもおなじ芝居を演じるものなのか。それでは、<劇場>という一つの楽器であることをやめてしまう。

 「劇団四季」の俳優、女優たちの交代を見ていると、その後の、それぞれの身のふりかたが気になる。
 俳優、女優は、けっして expendable ではないのだ。

2009/03/31(Tue)  982
 
 「本」(2009年2月号)の野村 進が、劇団「四季」のミュージカル、『キャッツ』に出ている女優について書いている。
 野村 進は、ジャーナリストで、拓殖大の国際学部の教授という。

 この人は、劇団「四季」に在籍している中国人の俳優が多いことから、彼らがどうして日本の舞台に立つことになったのか、に関心を抱いた。どういう困難に直面し、それをどのように乗り越えてきたのか。いま、何を考え、どんな夢をみているのか。

 私は、大きな興味をもってよんだが、じつは野村先生のテーマとは少しズレた論点で、少し考えさせられた。それを説明するために、先生のエッセイの一部分を私なりに要約しながら引用させていただく。

 「秋 夢子」という女優さんがいる。本名、鄭夢秋(ジェン・モンチュウ)。

 2007年3月、「四季」入団わずか三年半で、ミュージカル『アイーダ』の主役に抜擢された。もともと広東省で、少女歌手として数々のコンテストに優勝して、中央戯劇学院にすすみ、ミュージカルを専攻した。

 このエッセイでは、秋 夢子の経歴や、その後の「役」への取り組みが、要領よく紹介されている。

 私も、今回の取材中、幾度か疑問に思ったものだ。『キャッツ』や、『ライオンキング』のようなロングランでは、同じ役を何百回も舞台で演じる俳優がざらにいる。単純に言って、飽きないのだろうか。
  (つづく)

2009/03/29(Sun)  981
 私は、トウ子さんのファンである。
 トウ子こと、宝塚歌劇団。星組トップ・スター、安蘭 けい。おなじ宝塚のトップ・スターのなかでも、現在、もっとも注目すべき男役スターだと思っている。

 その安蘭 けいが、星組を退団するという。
 ファンとしては、かねて覚悟はしていたものの、実際に発表されてみるといささかショックであった。

 彼女の代表作は、「雨に唄えば」、「王家に捧ぐ歌」(03年)、トップになってからの「エル・アルコン」(07年)、さらには「スカーレット・ピンパーネル」(08年)あたり。ブロードウェイ作品としての「スカーレット・ピンパーネル」は、昨年度の各紙でもとりあげられ、「読売」演劇賞を受けている。

 安蘭 けいの特質は、なんといっても抜群の歌唱力である。宝塚のトップ・スターなのだから歌がうまいのは当たり前だが、いろいろな過去や現在を背負って、いろいろなー役」をこなしてきたスターらしい存在感をもったひとは少ない。

 たとえば、今のブロードウェイに出て、即戦力として通用するミュージカル女優が「宝塚」にいるだろうか。大半の女優は、オーディションの段階で落ちるだろう。ブロードウェイ・ミュージカルどころか、地方のコミュニテイ・シアターあたりにも、タカラジェンヌ程度の女優は掃いて捨てるくらいいる。

 しかし、安蘭 けいなら、このままブロードウェイに出ても、圧倒的な存在感を見せるだろう。それほどにも器量は大きいのである。
 たとえば、「王家に捧ぐ歌」の「アイーダ」の可憐さ。
 エチオピアの王女として、敵将、「ラダメス」への愛、祖国への愛、親子の情の揺れる心を、華麗に歌いあげた。男役としての声域なのに、ほんらいの女性としてのソプラノをみごとに歌った。(私は、ゼフィレッリ演出の、マリア・グレギナを思い出しながら、これを書いている。)
 「スカーレット・ピンパーネル」では、彼女の声を聞いた作曲家、ワイルド・ホーンがわざわざ新曲を書いた。その一つ、「ひとかけらの勇気」は、観客の心にまっすぐ届くひたむきな歌声とともに、このミュージカルの名曲になった。

 むろん、彼女にも欠点はある。
 はっきりいって、安蘭 けいのセリフ、エロキューション、それも発声、ディクションに難がある。もっともっと、ことばをたいせつに、かつ、正確につたえてほしい。
 歌ではまったく気にならないが、セリフになると関西のアクセントが見え隠れする。以前よりは、ずいぶんよくなっているとはいえ、それでもそのアクセンチュエーションが耳ざわりである。
 「エル・アルコン」の「ティリアン」では、クールで冷酷な役柄のせいか、静かなモノローグが多く、正確さがもとめられる場面では、アクセント、エルキューションの弛緩は、どうしても気になる。感情の激発でこの欠点がはっきりしてくる。
 彼女自身は何も気がついていないかも知れない。演出家も、トップ・スターには何もいえないのかも知れない。しかし、この難点を克服できれば、もともとすぐれた資質にめぐまれているのだから、ミュージカルの名女優として記憶されるだろう。

 私たちは、あまりに多くの宝塚スターたちが、ついにおのれの欠点に気づくことなく、舞台を去って行ったのを見てきたのである。

2009/03/27(Fri)  980
 
 日本で、シャルル・デュランが知られたのはいつ頃だったのか。私は評伝『ルイ・ジュヴェ』を書いていた時期から、このことはずっと気になっていた。

 最近になって、ようやく、デュランに関して、もっとも早い記述と思われるものを見つけた。題も「Charles Dullin」である。

    サロスに入つたアンリ・デ、ブュイ・マジェル原作、レエモン・ベルナアル作品「狼の奇蹟」は大なる歴史物で知名の名優が雑然と入り亂れて沢山に出てゐる。がその混然たる中で一番よかったのは路易十一世である。これはまた他と比較して段違ひに巧い。それもその筈、路易十一世を演つたのは、別人ならずシャルル・デュランその人なのである。
    と云つた丈で合点が行かないのならもう一言云ひ添へやう。ジャック・コポオのヴィユウ・コロムビエ座の没落以来、新劇運動の為めに活躍してゐる唯一の劇団とも称す可き「アトリエ劇団」の総大将こそシャルル・デュランなのである。即ちデュランなのである。即ちデュランは座長並俳優として此の劇団をひつさげ、八面六臂の勇を振って、佛劇壇に悪戦苦闘を続けてゐる男なのだ。そこらにもゐる有象無象とは理が違ふ。

 わずかこれだけだが、おそらくこれが最初の記述だろう。(「キネマ旬報」大正15年2月15日号)

2009/03/25(Wed)  979
 
 日本に、ルイ・ジュヴェの名がつたえられたのはいつ頃だったのか。

 昭和初年の「英語研究」という思いがけない雑誌に、フランス演劇の紹介記事で、ルイ・ジュヴェの名前を見つけて驚いたことがある。
 大正時代の映画雑誌、「キネマ旬報」を読んでいるうちに、飯島 正の「ジャック・フエエデに就いて」(「キネマ旬報」大正15年11月1日号)のエッセイで、

    これは又話の別になるが、今年の春、一夕、森 岩雄氏、内田君、佐藤君がわたくしの宅を訪れられた時のことを思ひ出す。森 岩雄氏の話は多岐に渉った。ミスタンゲットのこと、ガストン・バティのこと、ルイ・ジュウヴェのことなど。その時、話が「面影」に言及されたとき、「あの映画のよさが日本の見物にしつくりと分るだらうか少し怪しい」といふ意味のことを云はれた。

 という一節をみつけた。筆者は、飯島 正。
 エッセイに出てくる森 岩雄はプロデューサー、のちに「東宝」の重役、晩年は仏門に帰依した。内田は「キネマ旬報」同人の内田 岐三雄、佐藤はおそらく佐藤 雪夫だろう。ともに、戦前から戦後にかけての映画評論家である。
 このとき、バティ、ジュヴェの話が出たのだから、おそらくコポオ、デュランも話題になったのではないか。
 ミスタンゲットが、まだ少年のジャン・ギャバンを「若いツバメ」にした頃かも知れない。(私は、この頃のギャバンのシャンソンをたいせつにもっている。)

 飯島 正がルイ・ジュヴェの名をあげても不思議ではないが、私はこのことを知ってうれしかった。きわめて短い期間だったが、戦時中に、私は飯島さんの講義を聞いた学生だった。
 去年、「彷書月刊」という雑誌の「私の先生」という特集で私は飯島先生のことを書いたのだった。
 はるか後年、私は映画批評を書くようになって、試写室や、いろいろなホールで、飯島さんにおめにかかることがあった。
 私にとっては、なつかしい先生のおひとり。

2009/03/23(Mon)  978
 
  きぬぎぬや あまりかぼそくあてやかに  芭蕉
   かぜひきたまふ 声のうつくし     越人

 こういう情緒は、いまの私たちには想像もつかない。私は戦前の吉原を見ているし、戦中の吉原も知ってはいる。だが、こういう情緒は知らない。
 きぬぎぬは「後朝」と書く。「あてやか」は、貴やか。「あでやか」というと、いささかなまめいた匂いがたちこめるが、貴やかとなれば、上品でみやびやかな感じになる。
 私などは、つい、古川柳を思い出す。

   京は君 大阪は嫁 江戸は鷹

 (むろん、こんな古川柳も、いまでは通用しないよね。)。
 京都の四条、大阪の道頓堀ときて、いまの東京なら、新宿か渋谷、いや、原宿か。まさか、上野、浅草をあげる人はいないだろう。となれば、秋葉原だなあ。

 浅草。伝法院通り。この2月、東商店街のビルの壁や、店の屋根などに、大きな人形が出現したという。見に行きたいと思った。

 人形は、白浪五人男。
 河竹 黙阿彌が、この近辺に住んでいたことにちなんで。

2009/03/21(Sat)  977
 
 DVDで、イギリス映画「銀の靴」Happy Go Lovely(H・ブルース・ハンバーストーン監督/51年)を見た。主演、ヴェラ・エレン、デヴィッド・ニーヴン。

 国際演劇芸術祭で知られているエジンバラ。プロデューサー、「フロスト」はここの劇場で、つまらないミュージカルを上演しようとしている。
 稽古に遅れそうになった女優の「ジャネット」は、偶然、富豪「ブルーノ」の車に乗せてもらった。
「フロスト」は「ジャネット」を、大富豪の情婦とカン違いして、資金をださせようとする。一方、富豪「ブルーノ」は、新聞記者になりすまして、「ジャネット」に接近する。……

 「活動写真」時代の喜劇を見せられているような気になる。ヴェラ・エレンのダンス・ナンバー、「ピカデリー」はおもしろい。(ジーン・ケリーが、シド・チャリシー相手のダンス・シーンで、おなじテーマを発展させている。)

 ヴェラ・エレンは小柄で、大した美人ではないが、いつもキビキビした動き、ひきしまった体型で、「戦後」のミュージカルのトップだった。代表作は「On The Town」(49年)だろうか。
 50年代に入って、きゅうに出演作がなくなる。この「銀の靴」がイギリス・ミュージカルだったように、最後の「Let’s Be Happy」も、イギリス・ミュージカルだった。
 MGM相手に大ゲンカ。さっさと大富豪と結婚して、映画から去って行った。

 後年のデヴィッド・ニーヴンはそれこそ名優だが、この映画ではもっぱらヴェラ・エレンを引き立てている。ほんとうにいい役者だった。

 「彼は、それはそれは大根だった。しかし、そう演じることを絶対的に愛していた。」
 ニーヴン自身がそう語っている。

2009/03/19(Thu)  976
 
 アメリカの金融システム不安が再燃して、世界じゅうの株式市場が混乱した。
 ニューヨークで、ダウ平均が、いっきに7000ドルの大台を割り込み、一時、前週末から307・76ドル安。6755ドル・17ドルまで値下がり。(’09.3,3)  こういうシーンをテレビで見ていると、ワクワクしてくる。
 東京市場でも、みるみる大幅に下落して、一時、7088円47銭まで下がった。
 アジア市場もおなじ。香港のハンセン指数が、前日終値比、2・84パーセント安。シンガポールの指数が、1・56パーセント安ではじまり、いずれも、今年の最安値。
 韓国の指数は、2・45パーセント安で、取引がはじまり、一種の基準値である1000ポイントを下回った。

 株式に無関係(つまり貧乏)な私が――こういうことを記録しておくのは、将来、誰かがこれを読んで、何か感じることがあるかも知れないと思うから。
 テレビで見ていてワクワクした。自分が、現実に大不況を見届けているような気がしてきた。こんな機会はそうそうあるものではない。

 12年ぶりに記録的な安値をつけたニューヨーク、その余波を受けている東京、アジア市場。ここに見られるのは、「この金融危機がいつになったら終わるのかわからない」という不安だろう。
 オバマ新大統領が登場して、AIG、シティーグルーブ、GMなどに、巨額の政府援助をあたえた。しかもなお、支援をうけた企業の低迷はとまらない。

 世界の市場で、消費の落ち込み、雇用の悪化、実態経済が雪崩をうってくずれ、しかも金融システムへの不安がからんでくる。
 日本の文学などどうでもいい。こういう時代に、アメリカ、ロシア、中国で、どういう作家が登場してくるか、つよい関心をもっている。

 こういう時代だからこそ、新しい作家の登場につよい期待が私の内部にはある。
 これまた老いぼれのたわごと、これまたなんとも滑稽な図柄ですが。(笑)

 

2009/03/17(Tue)  975
 
 シュテファン・ツヴァイク。もし、彼の作品を読まなかったら、私はずいぶん違った仕事をしていたと思う。つまり、私はツヴァイクを尊敬していた。
 彼の作品から影響を受けたわけではない。
 彼の「ジョゼフ・フーシェ」や、「メァリ・スチュワート」といった評伝を読んで、自分もいつかこういうジャンルのものを書いてみたいと思うようになった。むろん、はじめから関心をもつ対象が違うし、私にはツヴァイクのような知性、教養もなかった。ただ、どこか一点でもいい、ツヴァイクの評伝を越えようとおもった。
 私の『ルイ・ジュヴェ』で、シュテファン・ツヴァイクに何度もふれているのは、そういう思いがあったからだった。

 ツヴァイクは、第二次大戦に日本が参戦してから自殺している。
 自分の生涯は精神的なことのみにささげられた、と彼はいう。そして、自分の信じたヨーロッパの文明が崩れさる音を聞いたのだろう。
 最後にとりかかっていたのはモンテーニュの評伝だったが、これは完成しなかった。私たちの文学史にとって、ほんとうに残念なことのひとつ。

 ヘルマン・ケステンにあてた手紙で、ツヴァイクは

     あの神秘的な「のちの世界」にたどりつくまで、忍耐に変わらざるをえないあの勇気、私はもともと、その「のちの世界」を体験したいものとせつに願っているのですが・・

 と書いた。
 ケステンは、この「のちの世界」は死後の世界ではなく、戦後の世界をさしていたと考える。そうとすれば、神秘的と訳すよりは、「ミステリアスな世界」と訳したほうかいいだろう。あれほど明晰なツヴァイクが、何やら神秘主義的な作家のように見えてはよくない。

 いつか、ツヴァイクの『昨日の世界』を読み返してみよう。

2009/03/14(Sat)  974
 
(つづき)
 私が「劇団」を出たあと、彼女も別の有名劇団に移った。この主宰は、私もよく知っている人だった。(彼のことも、いつか書いてみよう。)
 その週刊誌の記事には、

    T.F.(劇団の主宰)も、これからよくなる役者と期待していたんです。テレビの脇役にも出ていた。ところが、ご主人がヒモみたいな人で、彼女、食べるために役者をやめて銀座に出たんです。(劇団員)
    銀座のクラブ「S」での彼女、「知的な会話が売り物」とかで、月収五〇万円。「Y.I.サンは、Sを働かせて自分はゴルフ、クルマ、釣りの遊び人。普段はペアルックなんか着て、年がいもなくべたべたしていたが、ひどいヤキモチ焼きでね。彼女が店の客と食事で遅くなるだけでバカヤローとどなる。Sが愛想をつかすのも当然」
    そして愛人ができた。Y.I.サンにバレて連日の大ゲンカ。そして<女優>は自ら人生の幕を下ろした。

 下品な記事だったが、これを読んだ私は、ほんとうに胸が痛んだ。

 研究生だったS.Y.を、はじめて舞台に出したのは、私だった。八木 柊一郎の『三人の盗賊』という芝居だった。このとき、彼女がなかなか勉強していることを知った。どことなく、さびしそうな翳りがあった。おそらく、貧しい生活をしていたに違いない。
 そのあと、劇団員に昇格したのも、S.Y.がいちばん早かった。
 私は、テネシー・ウィリアムズの『浄化』という芝居で使った。その後、レスリー・スティーヴンスの『闘牛』という芝居で、大きな役をふったのだが、S.Y.は辞退した。ここには書く必要はないが、ひどく恥ずかしそうに理由を語った。これも私にはショックだった。
 私が、小さな劇団をはじめ、S.Y.を誘いたかったのだが、いまさら弱小劇団で苦労するよりも、もっと大きな劇団のオーディションを受けたほうがいい。私はそう思った。だから、私はS.Y.を誘わなかった。

 その後、S.Y.は、NHKのテレビで子ども番組にレギュラーで出演していた。私は、彼女のためによろこんだ。生活も安定しているらしく、表情もいきいきとしていた。
 彼女の舞台も何度か見たおぼえがある。

 S.Y.の死は、ほんとうにショックだった。これから、かなりいい女優になれたはずだった。その彼女が、突然、こんなかたちで人生に見切りをつけるなんて、ぜったいあってはならない。私の胸にあったのはそういう悲しみだったのだろう。
 ひとかどの才能に恵まれて、美貌で、自分でもずいぶん努力してきたはずの、だが、それほど有名ではなかった女優が、おもいがけないことで死を選んだ。
 もし、あのとき私がS.Y.を誘っていたら、という思いもあった。

 もう25年も前の3月14日のこと。

2009/03/11(Wed)  973
 
 その当時、私はもう演出の仕事から離れていた。雑誌に短編を書いたり、ある新聞に評伝小説のようなものを連載したり、翻訳をしながら明治の文学部と、ある女子大で講義をつづけ、翻訳家養成センターで実践的な指導をつづけていた。

 そんな多忙ななかで、ある週刊誌に、こんな記事を見つけた。

    「女房とケンカした。生きがいがないから死ぬ」と、酔った男の声が一一〇番に入ったのは、先月末の夜十一時。警察官が中野区中央のアパートヘ駆けつけると、室内では首を切った女性がフトンの上で失血死。やはり首を切った男性が倒れていた。
 女性は<元女優>のS.Y.。男性は自称シナリオライターのY.I.サン。ふたりは十五年前から内縁関係に。
    警察は当初、S.Y.の男性関係に悩んだY.I.サンが無理心中をはかったものとみた。ところが調べてみると、事実は逆で、新しい愛人とY.I.サンとの三角関係を清算するためにS.Y.が、登山ナイフで、Y.I.サンを刺したが、結局、自分だけ死んでしまった。

 この記事を読んで、胸を衝かれた。驚きがあった。こともあろうに、あのS.Y.が愛人と無理心中をくわだてて、自分だけが死んでしまうなんて。

 私は彼女を知っていた。演出家と女優というだけの関係だから、親しいとまではいえないにしても、ある程度まで知っていた。小さな劇団で一つ釜のメシを食った仲間、といった感じといえばわかってもらえるだろうか。
 はじめは研究生のとき、つぎには劇団員に昇格した彼女を芝居で使った。稽古場で会えば、いつも明るい声で挨拶する女の子だった。短い台本をとりあげて、稽古をつづけたこともある。したがって、ある時期まで、彼女を見まもってきたといっていい。
 やがて、劇団の内紛にまき込まれて「劇団」を離れた私は、自分で小さな小さな劇団をひきいることになった。経済的な基盤が何もないのだから、なにもかも私の肩にのしかかってくる。この時期の私は、芝居の公演をつづけるために、ただひたすら雑文を書き、小説を書きとばしていた。
 S.Y.の自殺の記事といっしょに当時の私のメモが残っている。

    「五木寛之全集」田近さん、「SES」本田さん、督促。
    川久保さん、「ボルジア家」問い合わせ。私あての礼状。
    五木寛之氏に、豆本「風に吹かれて」の礼状。
    「集英社」からジャニーヌ・ワルノー。
    「北沢書店」からパトリックの『ピカソ』。グィツチャルディーニ、18万円。
   「週刊XX」今夜、12時まで。北原君、くる。

 私が連載を書いていた週刊誌に、S.Y.の事件が出たのだった。
     (つづく)

2009/03/09(Mon)  972
 
 いまの女性は、19世紀から20世紀にかけての女性たちとは、比較にならないほどの自由を獲得している。
 クラフト・エービングは、女が個人としての存在になることを期待していた。その当時は(20世紀初頭)まだ、女性の社会的な地位は男性よりもはるかに低いものであっても、次第に女としての権利をもち、自立的に行動できるようになれば、自分から求めるのでなければセックスをしなくなる。そうなってはじめて、性生活は洗練された発達を見るようになる、と考えた。

 現実に、いまの女性は性的にも自由を獲得している。クラフト・エービングの希望、期待は果たされたと見ていい。
 だが、論理的にいえば、ここにもう一つの論点が生じる。
 男におけるマゾヒズムという問題である。なぜなら、男が自分の動物的な情動・・・リビドーといっていいかも知れない・・・が女によって抑えつけられる場面を演じたいという、コンパルシヴな欲求が、まさにこのクラフト・エービング原理をささえるからである。つまり、女性は性的にも自由を獲得した状況は、マゾヒスト(男)にとっては、願ってもない場所ではないか。

 ジョン・K・ノイズの『マゾヒズムの発明』を読んで、私は、あらためてドストエフスキー、ザッヘル・マゾッホ、谷崎 潤一郎などについて考えはじめている。
 (女のマゾヒズムについては、ある映画女優の生涯にふれて書くつもり。)

2009/03/07(Sat)  971
 
 あるとき、芝居の劇評を書いた。雑誌の「テアトロ」に書いたのだが、雑誌の劇評なので、芝居を見てから、しばらく時間的な猶予があった。
 当時、私は週刊誌や雑誌でいろいろな仕事をしていたので、けっこう忙しかった。毎日、仕事に追われていたので、いつしか自分の見た芝居の印象が薄れてしまった。締め切りがきたので、あるホテルのロビーまで編集者にきてもらって、その場で書いた。
 うっかり、主役の名前を書き間違えた。劇評で出演者の名前を間違えるなど、言語道断だろう。
 編集者は、その場で私の誤りに気がついたが、そのまま掲載したのだった。締め切りをすぎていたので、時間がなかったということになる。
 私の劇評が出た翌月、その俳優が抗議文を投書してきた。
 私は、すぐに編集部に電話をかけて、謝罪文を載せてほしいとお願いした。そして、その俳優に対する謝罪の文章を書いた。

 私と関係がないエピソードを思い出す。
 明治時代の作家、翻訳家だった森田 思軒が、「宮戸座」の劇評を読んで、『縮屋新助』を見に行った。九蔵(七世・團蔵)の「新助」、栄次郎の「美代吉」だった。
 栄次郎が、桟敷に挨拶にきた。

 思軒が栄次郎に向かって、
「美代吉がハンケチを持って居るのは変だと言った評を見たがハンケチじゃないね」
 というと、栄次郎は、
 「あんな無茶な評を書く先生があるから、口惜しう御座います。私は此の役をするので辰巳(深川)の芸妓のことをいろいろと聞きました。縮みの汗鳥を持って居たと聞きましたから、それを使ったのをハンケチと見られたのは弱りました。」
 と答えたという。

 鶯亭 金升の資料に、こんなエピソードが出ていた。
 栄次郎は、いっとき五代目(菊五郎)の養子になった役者。
 これを読んで、私は劇評など書かなくてよかったと思うようになった。

 その後、劇評はいっさい書かなくなった。
 私の原稿を読んでカン違いにすぐ気がつきながら、おもしろがってその原稿を載せた編集者に対する不信は心にくすぶっている。私は自分の非をじゅうぶん認めるけれど、その編集者が私をはずかしめようとしたことを忘れない。
 もう何十年も昔のこと。

2009/03/05(Thu)  970
 
 前に書いたことがある。
 もう一度、くり返しておこう。
 「俳優という職業はつらいものだ」と、サマセット・モームはいう。モームがいっているのは、自分が美貌だからという理由だけで女優になろうとする若い女性や、ほかにこれといった才能もないので俳優になろうと考えるような若者のことではない。

     「私(モーム)がここでとりあげているのは、芝居を天職と思っている俳優のことである。(中略)それに熟達するには、たゆまぬ努力を必要とする職業なので、ある俳優があらゆる役をこなせるようになったときは、しばしば年をとり過ぎて、ほんのわずかな役しかやれないことがある。それは果てしない忍耐を要する。おまけに絶望をともなう。長いあいだの心にもない無為も忍ばなければならぬ。名声をはせることは少なく、名声を得たにしてもじつにわずかばかりの期間にすぎない。報われるところも少ない。俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気にいられなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら大衆の偶像に祭りあげられていたことが、なんの役にも立たない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。これを考えるとき、私は俳優たちが波の頂上にあるときの、気どった態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、バカをつくそうと、
    勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。」

 私はモームに賛成する。だから俳優や女優のスキャンダルを書きたてる芸能ジャーナリズムにはげしい嫌悪をおぼえる。

 ある女優(というより、タレントといったほうがいい)の不審死。
 名優といわれていた俳優の死。
 それぞれの死に対する、私の思いはここに書く必要はない。ただ、この女優の死に、私たちの時代をおおっている何か忌まわしいものを重ねた。そして、この俳優の死を悼みながら、ほんらい舞台人だった彼が、映画やテレビに力をふり向けなければならなかったのは、私たちにとって不幸なことではなかったか、と思った。

 俳優や女優の死は、本人の不幸というよりも、私たちにとって不幸なのだ。

2009/03/03(Tue)  969
 
 『出世景清』のなかで、獄につながれた「景清」を「十蔵」がおとしめる。「景清」はあまりの雑言(ぞうごん)に「二言と吐かば掴み挫いで捨てんず」と睨みつける。

    十蔵かんらかんらと笑ひ、「其の縛(いましめ)にあひながら某(それがし)をつかまんと。腕無しのふりづんばい、片腹痛し事をかし。幸ひ此の比(ごろ)ケンピキ痛きに、ちつとつかんでもらひたし」と空うそぶいてぞ居たりける。

 ケンピキの「ケン」は、病だれに玄。「ピキ」は、癖。肩凝りという。「十蔵」は、小手も固く縛(いましめ)られている「景清」を嘲っている。
 古語を知らぬかなしさ、この「ふりづんばい」がわからない。

 けれども、かんらかんらと笑うとか、「片腹痛い」とあざけるといった表現は、私の内部に生きている。少年時代に読みふけった講談や落語、あるいは歌舞伎のおかげで、そんなことばが心に残ったらしい。

 若い頃は他人の批評が気になるもので――自作があしざまに批評されたとき――かんらかんらと打ち笑ひ、よくもよくも、腕無しのふりづんばいが、某(それがし)の作を罵りおったナ。片腹痛い、とはこのことだわ。
 と、空うそぶいているうちに悪評など気にならなくなった。

 残念ながら、自作に使ったことは一度もない。作中人物がかんらかんらと笑いつつ、「うぬめら、片腹痛いわ」とドスのきいたセリフを吐くや、腥血淋漓、悪人輩(バラ)をバラリンズンとまっこうからたけわり。

 もう、遅すぎるか。ムフフフ。(笑)

2009/02/28(Sat)  968
 
 近所の古本屋の棚に、岩田 豊雄の『フランスの芝居』があった。昭和18年2月20日発行。生活社。定価。二圓。つまり、戦時中に出た本で、初版、1500部。
 なつかしいので買ったのだが、150円。

 この本が出た当時、私は明治大学の文科に入ったばかりで、著者が、作家、獅子 文六だということも知らなかった。ただ、この本で、はじめて現代フランス演劇を知ったのだった。何度もくり返して読んだ。空襲で焼いてしまったので、戦後になって買い直した。この本もくり返して読んだ。

 私の内部に、この本に出てくる多数の演劇人の名前とその仕事が重なっていた。

    巴里の前衛劇場と目すべきものに、ルイ・ジュウヴエの劇団、シャルル・デュランのアトリエ座、ガストン・バチイのモンパルナス座、ジョルジュ・ピトエフの劇団の四つがある。
    ジュウヴエの一座はコメデイ・シャンゼリゼエに立籠り、舞台と座員の充実せる点で、一歩を抽ん出てる観がある。この一座の特徴は、純粋に、仏蘭西的な新興舞台芸術を示すことで、ジュウヴエはただ一回ゴオゴリの『検察官』を採用したのみで、嘗て外国戯曲に手を触れたことはない。また彼自身の手になる舞台装置も、意匠に於て色調に於て、独露のそれと全然別種の近代性を持ってゐる。それは彼の明朗な、快活な、多彩な演出法についても窺はれる特色である。彼はいかなる国外の影響すらも免れた。ただ、仏蘭西劇壇の二大恩人の一人ジャック・コポオの理論は、多分に彼の芸術のなかに享け継いだ。彼はコポオのヴイウ・コロンビエ座で共に働き、やがて現在の一座をつくった。ファンテェジイと機智(エスプリ)を、彼ほど巧みに舞台に生かす演出者はあるまい。

 当時の私は16歳。はるか後年、評伝『ルイ・ジュヴエ』を書いた。
 はじめて、岩田 豊雄を読んだときとは比較にならないほど多くの知識を身につけていたが、私の書いた評伝は、岩田 豊雄が書いた部分からそれほど遠いものではなかった。
 私の評伝の出版がきまったとき、女の子たちといっしょに岩田 豊雄の墓に詣でた。
 生前の岩田さんの知遇を受ける機会はなかったが、自分なりに感謝をこめて挨拶したのだった。

2009/02/25(Wed)  967
 
(つづき)

 ところで――

 「わたしはいったいどうしたらいいんでしょう?」

 チェホフの「退屈な話」に出てくる老いぼれの大学教授は、養女で「恋人」のカーチャの問いに、ただ、
 「私は知らない」
 と答える。

 私にはこのシーンがすばらしくドラマティックなものに見える。悲しいセリフだなあ。しかし、いいセリフだなあ。私が演出したら、どういうふうに演出するだろう。

 きみからメールをもらって、こんなことを考えた。
 またいつか私を思い出したらメールをくれないか。

2009/02/23(Mon)  966
 
(つづき)

 八木 柊一郎の『三人の盗賊』のときは大川を演出助手に起用した。
 『闘牛』のときは、舞台監督に使った。
 きみも知っての通り、芝居の世界は稽古に入ったときから思いもかけないことの連続で、トチリや、失敗、仲間どうしのねたみや嫉妬、ときには日常では起きることのない昂揚、<Sternstunden>(たまゆらのいのちのきわみ)、それこそ笑ったり泣いたりをくり返してきた。
 この芝居の稽古中にも、いくつも奇事、奇ずいめいたおもしろいことが重なって、みんなの泣き笑いのなかで、芝居の成功を確信した。芝居者の迷信に近いものだが、とにかく大川がいてくれたおかげで、この芝居はいつもと違うものになると思った。
 そして成功した。それもこれも、大川がいてくれたおかげだった。

 また別の芝居だったが、劇中のラヴシーンで、大川は、「先生、舞台いっぱいに綺麗な花を飾りましょう」という。それはいい。しかし、「キエモノ」の経費を考えただけで、はじめから不可能な話だった。
 そこで考えたのは、費用をかけずに花がつくれないか、ということになる。大川といっしょに考えた。そして、考えたのは――現在の物価でも、せいぜい1500円程度で――それこそ百花繚乱のシーンだった。
 われながらとてつもないアイディアで、大川とふたりで大笑いした。そうときまれば、こっちのもんだ。ソレっとばかりに役者たちを督励しながら「花作り」に精を出した。
 舞台いっぱいとはいかなかったが、タテに5メートル、幅は2メートルの花のタワーを作ったのだった。
 この芝居もなんとかうまく行った。

 「木地のままの縁台(トントオ)が一つあれば、それでいいのだ」
 と、コポオはいった。私は、このコポオを尊敬していた。
 だから私はほとんどすべての舞台で、まったく赤字を出さなかった演出家だった。

 大川というと、いつも元気に舞台を作っていた姿を思い出す。
 その彼が、きみの土地でバレエの台本を書いていたことは知っていたが、一度も見に行けなかった。残念というより、おのれの不実がくやまれてならない。
 村上君
 きみが市民演劇のために戯曲を書きつづけていたことは知らなかった。
 戯曲は、上演されないかぎり、人の眼にふれることはない。活字として発表されることが少ないため、残念ながら、そのまま忘れ去られることが多い。
 いつか、私にきみの戯曲を読ませてくれないだろうか。

 楽しみにしているよ。
 
 (つづく)

2009/02/21(Sat)  965
 
 村上君
 
 きみから思いがけないメールがあってうれしかった。ありがとう。

 こんなかたちで、とりとめもない文章を書いていると、ときどき思いがけない人からメールをいただく。ほとんどが未知の人からのものだが、きみのようにずっと消息がとだえていた人からのメールは、なつかしさと同時に、遠く離れた土地で私のブログを読んでくれる人がいることがわかってうれしいのだった。

 「私のことをおぼえておいででしょうか」と、きみは書いている。

 私が富山を去るとき、きみはわざわざ深夜の駅まで見送りにきてくれたね。夜行列車だったから、プラットフォームにはもう誰もいなかった。ただの旅行者といっていい私を、わざわざ駅まで見送ってくれたきみの好意は忘れるはずもなかった。
 あれから、おびただしい歳月が過ぎてしまった。

 お互いに共通の友人だった桜木 三郎も亡くなっている。大川 三十郎も。
 自分の人生でめぐりあった貴重な友人たち。
 大川は、私の小さな劇団で、演出助手、舞台監督をやってくれた。私のように空想家で、実際の舞台ではとてもできそうもないことばかり考える演出家にとって、彼ほど有能で実際的な助手はいなかった。
 私もそうだったが、彼も芝居のことしか頭になかった。しかも、じつにいろいろな本を読んでいた。いちばん好きな作品は、ドリュ・ラ・ロシェルの『ジル』だった。ドリュは、当時ひどく評判の悪い作家だったから、私は驚いたおぼえがある。
 『ルイ・ジュヴェ』のなかで、しばしばドリュについてふれたのも、じつは大川を思い出して書いたのだった。
 大川は、私の訳した『闘牛』が気に入っていた。登場人物が、30名。小劇団ではできそうもない台本だった。「先生、あのホン、ぜひやりましょうよ」といいつづけた。
 私は、彼の熱意にほだされて演出を決意したのだった。   (つづく)