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第3章 鼻 1-2

 
 柳亭 種彦が、江戸でせっせと春本を書いていたとき、サンクト・ペテルスブルグを、十四等官の「鼻」がうろついていた。
 世界の作家のなかで、鼻にもっとも関心を持っていたのは、ニコライ・ゴーゴリだろう。彼は作品のなかで、かならずといっていいほど鼻に関する言及がある。私は、「ゴーゴリ論」のなかで、彼の自意識を「鼻意識」としてカリカチュアライズして論じたことがあるのだが、ゴーゴリほど鼻にこだわりつづけた作家はめずらしい。
 鼻に関するゴーゴリの表現は、多彩、かつ、いきいきとしたもので、鼻の表現だけをとってみれば、『シラノ・ド・ベルジュラック』の表現(つらね)におとらない。

 二葉亭 四迷は、ロシア語の専門家だった。その四迷の翻訳に、「鼻」に関する訳語はあっても、彼の創作には、ついに鼻、その表現はまったく見られない。
 むろん、彼の創作にも、「後髪」、「息気」、「溜息」といった、なまなましく官能的な語が使用されているのだが、おもしろいことに、こうした表現は翻訳では使われない。二葉亭 四迷の創作では、ただ一か所、「鼻も口も一つに寄ったやうな」という表現があるにすぎない。
 四迷の創作では、「目の覚めたやうな」に類する表現は翻訳では5例、創作では4例ある。

 このことは、あきらかに二葉亭 四迷の翻訳と創作に対する態度の違いを物語っているだろう。近代日本の文学が、四迷によって、はじめて肉感性への志向をもったとしても、四迷が「鼻」にまったく関心がなかったらしいのは、残念としかいいようがない。
 ゴーゴリを尊敬していたとされる宇野 浩二は、鼻、嗅覚に関しては、ほとんど見るべきところがない。このことは、宇野 浩二は、あれほど鼻にこだわりつづけたゴーゴリに関心がなかったと見ていいだろう。
 むしろ、芥川 龍之介が、わが国ではめずらしく「鼻意識」のつよい作家だった。彼が「鼻」で文壇に登場したのは、ほとんど象徴的なことなのだが、この作家の鼻に対する偏愛、少なくともなみなみならぬ関心を物語っているように思える。

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2007年08月09日 09:29に投稿されたエントリーのページです。

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