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中田耕治を語る

タクサンノコトバ

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『私の好きな海外ミステリー・ベスト5』より

 
 四月の桜満開のある土曜日、大学時代の恩師の葬儀が三浦半島の葉山の古寺であった。
そこでたまたま、中田耕治氏にお会いし、帰りの逗子行きのバスのなかで,<ハヤカワ・
ミステリ・シリーズ>創刊のころの翻訳者たちの”おしん物語”を聞くことができた。四
十年前の貧乏話は、まるで落語の長屋噺のようにおもしろかったが、当時の現実のことと
してみれば、そうとうに悲惨な内容である。ちなみに中田氏は、シリーズ・5番バッター
のスピレイン『裁くのは俺だ』の名訳者でもあった。
 通称<ポケ・ミス>が創刊されたのは一九五三(昭和二八)年。その四十周年にあたる
昨年八月、総点数が一五〇〇点を越え、番号が一六〇〇番台に入ったことを記念して、全
点の総解説目録が発行されたことは周知のとおり。その誕生期にいかなドタバタ劇があっ
たにしろ――海外ミステリ(早川流では、音引きが脱落する)の翻訳でメシが食える時代
ではなかった当時を考えれば、なおさらのこと――四十年以上、いちどの切れめもなく
継続出版されてきたのは、驚嘆すべきことであろう。いま改めて総解説目録に目を通して
みながら、そのうちのわずか数点に編集者として、わずか数点に訳者としてかかわった身
として、感慨なきにあらずといったところである。
 (中略)じつをいうと、四月に他界された恩師というのは、モンティエ『かまきり』の
翻訳者でもあった斉藤正直氏なのだ。

    矢野浩三郎 『私の好きな海外ミステリー・ベスト5』
    メタローグ リテレール・ブックス 安原 顕 編 1994年7月刊

2009/05/19

中田先生のこと

 タカのように眼光鋭い人が入ってきた。
 これまでの人生で見たことのない眼だった。
 なぜ先生の眼が鋭いかを、授業が進むにつれ知ることになる。人を見通す眼なのだ。
 だから怖いはずなのに(そして実際に考えの足りなさや表現の貧しさばかりか、小さな枠から出られないでいる心の成長度合いまで見抜かれて、身の縮む思いをするのだが)、それでも先生に見てもらいたいと願う自分がいる。
 それは先生の人間を見る眼が温かいからだ。いろんなものが足りない人間であることを見抜かれているとわかっていても、安心感があるのだ。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     城福 真紀

2007/12/21

中田先生とわたし

 わたしがかくも貴重な時間を持つことができたのは、そして、いまも先生を恩師と呼ぶことができるのは、ひとえに中田先生の人間としての大きさ、度量の広さによる。先生の周囲にいらっしゃる人たちは百花繚乱――当時もいまも、じつに多彩で、多能だ。これこれこういうタイプ、とひと括りにすることはできない。とはいえ、各人が中田先生との縁(えにし)を唯一無二のものと思い定め、それぞれの道で日々精進されていることは想像に難くない。しかも、その活躍の場はどうやら日本だけにはとどまらないようだ。中田先生はそんなきら星のような人たちの中心で、燦然と輝いていらっしゃるのである。
     ―(中略)―
 舞台演出家としての先生も忘れてはならない。二〇〇二年のネクサス公演(三島由紀夫作『卒塔婆小町』、テネシー・ウイリアムズ作『浄化』)を観させていただいたとき、ふだんは「訳者」であるはずの人たちが、「役者」に変身されているのを目の当たりにして、驚きもし、感心もしたものだ。だが、そもそも中田先生のもとで翻訳を学んだ「訳者」なら――「ひたすらテキストを読むことで、テキストのうしろから、ひとりの人間が立ち上がってくる。それが「役」なのだ」という先生の授業を受けてきた生徒なら――「役者」がつとまっても、さほど不思議ではないのかもしれない。

(『nexus』No.46より抜粋)

     立石 光子

2007/12/21

中田耕治先生の教室

 いま思うと、信じるに足る師について学んでいる時間というのは、人生で至福の時なのではあるまいか。学ぶ側はめざすべき山を見上げ、一歩一歩あゆんでいけばいい。その一歩ごとに踏まれる道をつけておいてくれた山の気持ちなど思わない。決して追いつかれてはならず、のぼる者以上の速さで虚空へ伸びていかなければならない、教える側の苦しみと孤独も知らない。
 わたしたちはあの教室で毎回九十分間、じっと座っていた。花の中を、街の中を、ころころと笑いながらそぞろ歩いた。それでいながら、大きな山をのぼっていた。その幸福を、この頃しみじみと思い返す。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     青木 悦子

2007/12/21

中田耕治先生とわたし −−2007年 夏−−

 中田耕治先生には、人間に対する偏見がない。当然、好き嫌いはおありになると思うが、その個人がどのような時代に、どのような人間関係のなかで、どのように生き、なにを考え、なにを創りあげてきたのかを鋭い洞察力と観察眼で見抜いてゆく。厳しさと優しさを巧みに操りながら、人物の短所をあげつらうのではなく、華となり得る長所を探りだし、その根拠を論理的に解析していく。特に、さまざまな時代における女性たちの立場、生き方、恋愛感、性生活に関しては、あくまでフェミニストであり、女性に対する愛情と理解の深さには、いつも感動させられる。不遇な時代背景にありながら、果敢に文章を書きつづけた女流作家たちの生き様を見せつけられるにつけ、何ら制約のない現代という時代に生き、何もできていない自分が腹立たしく思えてくる。とはいえ、自分の身体(精神)に鞭打ってまで、という厳しい修行ができないところが、私の甘いところだろう。
     ―(中略)―
 アナイス・ニンという作家を深く知ることができたのも、私の人生観にとっては大きなことだった。知性的な作家でありながら、女でありつづけ、自由な恋愛感をつらぬいた生き方は、私の理想であり、憧れである。そして、アナイスもまた、人間に対する偏見がなく、他者を見る目はあくまで優しい。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     野澤 玲子

2007/12/21

中田先生とわたし

 何冊か訳書を出させていただくようになってからも、そうした記憶は、まるで魔女にかけられた呪いのように(失礼。『ハウルの動く城』を観た直後なもので)、私から離れない。原書に向きあうたび、何かあるたび、ふとした折りに、先生の言葉は、どうやら私の心の奥底に棲みついているらしく、むくむくっと頭をもたげてくる。

 もし、そうした記憶がなかったら、と思うと、正直怖い。東京を離れ、定期的に会う仲間もなく、右も左もわからないまま訳者の世界に飛び込み、必死で突っ走っていた数年間。もし、東京で勉強を始めていなかったら。もし、先生のクラスに入っていなかったら。もし、そこで前を行く人たちに出会っていなかったら。紆余曲折、いろいろあったけれど、それでもトータルで考えればどうにかこうにか今まで続けてこられたのは、そうした記憶があったから。それらの記憶の数々は無二の財産なのだと、あらためて思う。地球にいま生命があふれているのは数度の氷河期を乗り越えたことや木星との距離などいくつもの偶然の重なりによるものだと聞いたが、それに近いくらいの(ちょっとオーバー?)偶然性を感じたりする。訳者として持つべき姿勢。人の輪の大切さ。大阪のサマーセミナーで、先生を介して知りあった彼女は、今、得がたい友人のひとりになっている。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     野津 智子

2007/12/21

「中田耕治」という現象学

 今、中田先生の著作をアマゾンで探してみると、たちまち膨大な数の作品がヒットする。だけどそのうちのほとんどの作品が「No Image」になっている。本の画像が登録されていないのだった。
 先生はご自身の著書を愛しているとともに、いったん自分の手を離れた作品にまったく執着なさらない。作ることのみに全力を尽くすからこそ、出来あがった本を記念してコレクションなさるような趣味はまったく持っていない。忘れられればそれまでよ、そうとでもいってみたいに。
     ―(中略)―
 ただでさえインターネットという無機的な表現手段は、海を泳ぐ魚のように原稿用紙の隅々まで縦横無尽に表現されてきた先生のような方にはとても不便だと思う。でも、そのときそのときにそれさえも楽しんでいらっしゃるかのように見える。先生はご自身の内面で今という時代を実感し、その肌に刻みつけて生きている人なのだ。時にきびしい代償を払いながらも新しいなにかにつねに感動し、昇華しようと前を見つづけている。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     吉永 珠子 

2007/12/21

中田耕治先生へ

 一つだけはっきりとしていることがあります。中田先生にしごかれたことです。先生にいろいろ教えていただいたことは、わたしの中にちゃんと生きています。先生はいつも授業のときに「翻訳のことはきみたちには何も教えていない」とおっしゃっていました。でも、わたしは、そして先生の授業を受けたみんなも、先生から実にさまざまなことを教わり、翻訳家としての心構えをたっぷり叩きこまれました。それがわたしの中で、小さな自信につながっているのです。『翡翠の家』を翻訳していたとき、先生の声が常に聞こえたのは、わたしの中で先生の教えがしっかり息づいていたからです。だから今は、いつでも、どこにいても、仕事の依頼がきてもいいように、常に精進するしかない。地方にいるから翻訳ができないなどという甘っちょろい言い訳はせず、前向きにひたすらがんばるしかないと考えています。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     高橋 まり子

 

2007/12/21

中田先生とは……

 そうおっしゃって先生は翻訳以外の勉強を先生がお作りになった私塾『SHAR』でやってこられた。芝居をやった。何人かで話し合いながら小説、絵本を書いた。そして今は俳句に挑戦している。
 なかでも「芝居をやる」と聞いたときはたまげた。ド素人の大人たちが『不思議な国のアリス』を演じるという。「なんで芝居?」みんなそう思っただろう。わたしたちの戸惑う顔を見て先生はニンマリとした。わたしたちに考えさせる。舞台はどう作るの? 間のとりかたは? 台詞、衣装、動きは? 
     ―(中略)―
 「このごろは物忘れがひどくなってね、アハハ」と先生は笑う。しかし、背筋とぴっと伸ばし前を見据えるように歩く姿は先生と出会うことができた十年前と少しもお変わりにならない。それどころか、先生のエネルギーは静かに燃えている。先生は十年という年月をかけて、フランスの俳優であり演出家のルイ・ジュヴェの評伝を書きあげた。ジュヴェの生涯に迫りながら二十世紀という時代を描いた大作『ルイ・ジュヴェとその時代』。ページをめくるとそこにみなぎる先生のパワーに圧倒される。

(『nexus』No.46より抜粋)

     笠井 英子

2007/12/21

中田先生にお会いしてからのこと

 忘れもしない、神田猿楽町のビルの急な階段、緊張の面持ちで翻訳学校の初授業に向かっていたわたしは、途中で眼光鋭い紳士とすれ違った。目が合った瞬間、いや、実は階段の上から降りてこられる姿を目にしたときからわかっていた。あっ、中田耕治先生だ、と。わたしの運命が決まった瞬間。だからわかったのだ。写真でさえ拝見したことはないけれど、今降りてこられたのは間違いなく、あの中田耕治先生だと(降りてこられた≠フだから、なんだかすごい)。
     ―(中略)―
 でもなぜか、いなくなろうとは考えなかった。毎回毎回、ダメはダメなりに必死に訳したものを提出しては、見事玉砕して逃げて帰った。中田先生が映画の大魔神に見えたものだ。小さい頃ほんの数分垣間見ただけなのに、なぜか心に焼き付いていたあのモノクロの巨像そのものだった。ものすごく大きくて、重くてとにかくすごい。怖いどころのさわぎじゃない。ぶちあたってもぶちあたっても、小人のわたしはそのたびに跳ね返されて吹っ飛ばされる。自分の理解の足りなさを思い知らされる。でもなぜか、毎週金曜日には「ええ〜い!」とばかり、威勢よく走って教室に向かうのだ。悔しいけれど授業が受けたくてたまらなかった。認めたくないけれど、ひきつけられていた。すごい。やはりそういう運命だったのだ。

(『nexus』No.46より抜粋)

     谷 泰子

2007/12/21

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