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中田耕治を語る

タクサンノコトバ

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中田先生とは……

 そうおっしゃって先生は翻訳以外の勉強を先生がお作りになった私塾『SHAR』でやってこられた。芝居をやった。何人かで話し合いながら小説、絵本を書いた。そして今は俳句に挑戦している。
 なかでも「芝居をやる」と聞いたときはたまげた。ド素人の大人たちが『不思議な国のアリス』を演じるという。「なんで芝居?」みんなそう思っただろう。わたしたちの戸惑う顔を見て先生はニンマリとした。わたしたちに考えさせる。舞台はどう作るの? 間のとりかたは? 台詞、衣装、動きは? 
     ―(中略)―
 「このごろは物忘れがひどくなってね、アハハ」と先生は笑う。しかし、背筋とぴっと伸ばし前を見据えるように歩く姿は先生と出会うことができた十年前と少しもお変わりにならない。それどころか、先生のエネルギーは静かに燃えている。先生は十年という年月をかけて、フランスの俳優であり演出家のルイ・ジュヴェの評伝を書きあげた。ジュヴェの生涯に迫りながら二十世紀という時代を描いた大作『ルイ・ジュヴェとその時代』。ページをめくるとそこにみなぎる先生のパワーに圧倒される。

(『nexus』No.46より抜粋)

     笠井 英子

2007/12/21

中田先生にお会いしてからのこと

 忘れもしない、神田猿楽町のビルの急な階段、緊張の面持ちで翻訳学校の初授業に向かっていたわたしは、途中で眼光鋭い紳士とすれ違った。目が合った瞬間、いや、実は階段の上から降りてこられる姿を目にしたときからわかっていた。あっ、中田耕治先生だ、と。わたしの運命が決まった瞬間。だからわかったのだ。写真でさえ拝見したことはないけれど、今降りてこられたのは間違いなく、あの中田耕治先生だと(降りてこられた≠フだから、なんだかすごい)。
     ―(中略)―
 でもなぜか、いなくなろうとは考えなかった。毎回毎回、ダメはダメなりに必死に訳したものを提出しては、見事玉砕して逃げて帰った。中田先生が映画の大魔神に見えたものだ。小さい頃ほんの数分垣間見ただけなのに、なぜか心に焼き付いていたあのモノクロの巨像そのものだった。ものすごく大きくて、重くてとにかくすごい。怖いどころのさわぎじゃない。ぶちあたってもぶちあたっても、小人のわたしはそのたびに跳ね返されて吹っ飛ばされる。自分の理解の足りなさを思い知らされる。でもなぜか、毎週金曜日には「ええ〜い!」とばかり、威勢よく走って教室に向かうのだ。悔しいけれど授業が受けたくてたまらなかった。認めたくないけれど、ひきつけられていた。すごい。やはりそういう運命だったのだ。

(『nexus』No.46より抜粋)

     谷 泰子

2007/12/21

ある夏

 今でも思い出す。
 まいったなあ。こてんぱんにやられて、家に帰ってから、当時飼っていた猫を抱いて泣いた。サマースクールは二日のピンポイントである。通学の人たちはあんな恐怖に耐えながら勉強しているのか? めそめそと泣きながら猫にあれこれ訴えつつ、心のどこかで不思議に思ったのを覚えている。なぜか翌年も先生の講義を受け、やがて先生の私塾に参加させてもらうようになり、今日まで来た。
 どれほど先生に教えていただき、どれほど得がたい友人たちと出会っただろう。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     堤 理華

2007/12/21

中田先生とわたし

 ただ、翻訳の糧としてやらせてくださることが半端ではなかった。戯曲のコピーを配られたときは、ホールを借りてドーランを塗って上演するなんて、想像もしなかった。小説を読んでいると、すっかりその世界にはまって、登場人物の表情や動きが鮮やかに目の前に浮かんでくることはあるが、それを自分で演じるとなると、話は別。さらに掘り下げて、翻訳のセリフや描写に躍動感を与える糧とするなんて、私にはハードルが高いどころか、棒高跳びだった。
 その二。先生なくして、先生の彼女たちに出会えなかったから。会社人間にとって、職場外の人々との交流の場は貴重だ。ウチの会社は男性が九割以上を占めているので、先生を取り巻く女性たちは、まぶしい存在だった。いろいろな職業や趣味の人がいて、考え方も生き方も違うけれど、先生を中心に集まって、仲良く切磋琢磨している。職場仲間にありがちな、派閥とかやっかみがない。肩の力を抜いて話ができることが嬉しくて、いつも楽しみだ。

(『nexus』No.46より抜粋)

     入江 美穂

2007/12/21

中田先生とわたし

 シャールや文学講座に参加して、中田先生やみんなから刺激を受けたいのはやまやまだけれど、それもなかなかできずにいる。しかし今は、ブログのおかげで、一方的にではあるが、先生を身近に感じられる。ほぼ毎日『コージートーク』を読んで、先生のお考えを知ることができる。わたしなどが一生かかっても知り得ないような厖大な量の情報がそこにはある。一日のなかで、子育てや家事から離れて、広い世界を覗くことのできる貴重な時間だ。
 仕事をするときにも、つい楽なほうに流れそうになると、先生のお顔を思い出して、気を引き締めている。こんな訳をしたら先生に怒られるという思いが、常にいい訳を目指そうとする原動力になっている。

 
(『nexus』No.46より抜粋)

     大友 香奈子

2007/12/21

拝啓 中田 耕治先生

 先生の授業はとてもきびしくて、教室がピリッとした緊張感に包まれていたことを、なつかしく思い出します。
 そのきびしさがわたしたちへの愛情に裏打ちされていたことも、今ではよくわかります。
「きみは今、逸脱の時期に来ているね」
「きみがここまで訳せるようになったことに僕は感動する」
 先生は、ひとりひとりの成長を、しっかりと見つめてくださっていましたね。それぞれの訳文の変化を見きわめながら、その人がその時に必要としているアドバイスをずばりと与える――そんな講義だったからこそ、これほどまでにたくさんの翻訳家たちが、先生のクラスから巣立っていったのでしょう。
 先生はよく、教師になるつもりなどなかった、自分は教師に向いていないなどとおっしゃるけれど、とんでもありません。先生は人を導き、育てていく、特別な才能をもっていらっしゃるのだと思います。
 だからこそ、先生のまわりにはいつも教え子たちがにぎやかに集っているのです。

 (『nexus』No.46より抜粋)
 
     田栗 美奈子

2007/12/21

「似顔絵」

2007.9.22 水彩画   

 谷泰子(翻訳家)

2007/11/02

「中田耕治」という現象学

  ある日、何気なく見ていたテレビで出会ったのがその人だった。
 「女子美術大学教授 マリリン・モンロー研究家 中田耕治」
 自分の通っている大学に、こん著名なひとがいたとは。この偶然に私は驚いた。
 無知な私は、その時はまだその人が自分の愛読書の翻訳者であることに少しも気がついてはいなかった。

 それから1年ばかりたったと思う。助手として残った母校の2階窓から、何気なく中庭を眺めていると、母校を飾る勝利の女神「ニケ像」のわきをトコトコ歩いている男性のうしろ姿を見つけた。
 「ああっ!、あの人だ」
 そのころにはいくら無知な私でも、中田耕治先生が私の人生にどのような(ちょっとした)悪戯を仕掛けたか気づいていたので、やっと見つけた、というよりめぐりあえたその人が視界から消えてしまわないように祈りながらいっきに階段を駆けおりた。
 呼びとめた時なんと声をかけたのだろうか。まったく覚えていない。ただ先生はちょっと驚いたように私の顔を見て、「どうもありがとう」と仰った。私が「マリリン・モンローの真実」を夢中になって読みふけったと申しあげたからだったと思う。それから「きみ、名刺をもっている?」といわれたのを覚えている。

 後日、突然私の研究室に一人でお見えになった先生が、ご自分のサインの入った『ルクレツィア・ボルジア』を私にプレゼントしてくださった。私はルクレツィアについては何も知らなかった。ただ、先生がわざわざ階下の研究室まで足を運んでくださったことがうれしかった。簡単な立ち話をしたあと先生は研究室を後になさった。私と同じ研究室の助手で、大学中のアイドルだった寝占(ねじめ)優紀さんが机の引き出しから読みさしの本を出してきた。
「吉永さん、今の先生って・・」
 緊張した彼女が遠慮がちに差し出してみせたのは『パパ・ヘミングウェイ/翻訳中田耕治』だった。 なんという偶然だろう。偶然につづく偶然に私たちは思わず声をあげて驚いたものだったけれども、あとになって先生の著作の多さを知ってみれば、私が『マリリン・モンローの真実』を読み、寝占さんが『パパ・ヘミングウェイ』を読んでいたこともべつに不思議ではないのだった。

  (『nexus』No.46より抜粋)

吉永 珠子(ミュージシャン)

2007/08/31

「亀忠夫句集」より

 戦後暫くは食料事情も出版事情もよくなかった。阿部みどり主宰の俳誌「駒草」が復刊されたのは何時の頃か、詳らかにしない。虚脱状態の続く中で、私は俳句でも作ろうかという気持ちになって、「駒草」の読者になり、投句したり、たまには吟行にも参加した。
  (中略)
 ところが俳句界に驚天動地の議論が湧き起こったのである。それはフランス文学者桑原武夫氏の「第二芸術――現代俳句について」(後に「第二芸術論」と通称された。)(一九四六年雑誌「世界」十一月号)
   (中略)
 私は当時十代の終わりだったが、すでに評論家としてデビューしていた小学校の同級生、中田耕治氏の影響で、ドストエフスキーやカミュなど西洋文学をよく読んでいたせいもあって、桑原氏の論旨に賛同し、俳句から離れることになった。

  「亀忠夫句集」亀 忠夫著 序「俳句と私」平成19年3月刊

亀 忠夫

2007/05/30

登山

 いわゆる学校での勉強が親切に道路標識の備わった舗装された道路を自動車ですいすい行くとしたら、翻訳は山あり谷ありの細い道を自分の足を頼りに辿るもの。
 さらに創作となったら、その道すらない。見渡す限りの原野か山の中、自分で行く先も方向も決めなくてはならない。
 こんなふうに考えるのは、中田先生が登山が趣味だという話を聞いたからだろう。有名な山には登らず、わざわざ多摩の無名な山を選んで、途中から登山ルートを逸れて頂上を目指すという。
 しばしば夜や低気圧の近づいているときを選んで登ったと聞いたときには、運動が苦手で、登山にまったく無知なわたしでさえ唖然とした。
 自分で目的地を定めて、あえて困難な道を選んで、ひたすら登っていく。予想もつかない事態に備えて緻密な準備と計画、強い意志、その場に応じた判断力、体力が必要だろう。
なぜ、そこまでして山に登るんだろう。そんな登山の魅力って何なのだろう。
登山のできないわたしには絶対に理解できないと思っていた。
ただその話を聞いて以来、登山に、先生の行き方や創作姿勢を重ねあわせるようになった。
 そういえば、十年以上前、バベルの講義が終わってから、神保町へむかって早足で歩いていく先生の後ろ姿を見ながら、登山をしておられる先生を思い浮かべたものだ。見慣れた神保町の町並みが山に変わる。目的地にむかってひたすら山を登っていく先生を想像すると、物書きってなんて孤独で、業の深い人間なんだろうと思ったものだ。
 自分で二作、時代小説を書いて、ますますその思いを強くした。
    大まかなルートを決めたものの、目的地まで辿りつくためのエネルギーと意志と労力。その登る途中で出会うさまざまな風景。わたしにとっては創作過程は、まぎれもない登山だった。
 またわたしに登山(創作)ができるかどうかわからない。でも、小説を書いたことで、ちょっぴり山に登るひとの気持ちがわかったような気がする。

 

森 茂里 (作家・森山 茂里)

2007/03/25

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