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中田耕治を語る

タクサンノコトバ

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中田耕治を語る

              1

 「ある時期わたしは、おにぎりとカレーライスしか食べられなかった」
 わたしに翻訳とは何かを教えて下さった恩師が、懐かしそうにそう語ったことがある。
恩師は評論家であり、作家であり、一時は劇作家としても活躍し、もちろん翻訳家として
も名訳を多数残し、現在も精力的に筆をふるっておられる。(中略)
 なぜおにぎりとカレーライスかというと、左手片方だけで食べられるメニューというこ
とだった。右手はその間何をしているかというと、原稿用紙の上をさらさらと走っている
のである。締め切りに追われ、徹夜を続け、編集者をドアの外に待たせながら、原稿を仕
上げたことも珍しくなかったという。
 そんな苦労を重ねて、さぞかし大変だったろうと思ったが、当時を振り返って語る恩師
の顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
 たとえおにぎりとカレーライスしか食べられなくても、どんなにハード・スケジュール
であっても、好きな仕事であればこそ続けることができて、今日に至った。恩師の笑みを
わたしはそう解釈した。
 ほんとうに好きな仕事を見つけると、人は苦労を何とも思わなくなるらしい。そんな仕
事を見つけることができれば、幸いである。

      (1997年2月)


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 何年前のことだろうか。翻訳家になろうかと思っていた私が、中田耕治先生の翻訳講座
を受講した日、先生の顔を見る前からとにかく怖くて仕方がなかった。いまだに何故なの
かわからないが、講座案内に載っている先生の写真を見ただけで、胸がざわざわする不穏
な気分に捕らわれた。
 案の定、最初の授業で、課題文を訳した私の訳文は滅多切りにされ、辞書を引いて横の
もの(英単語)を縦のもの(日本語)に置き換えただけの悪い例といわれてしまった。
 それが、私の出発点となったことは言うまでもない。
 ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」を翻訳した中田耕治先生は、日本近代文学史
に名を連ね、小説、評伝、翻訳、戯曲、俳句とあらゆるジャンルに精通した作家・評論家
であり、メディチ家の歴史に詳しいイタリア・ルネッサンスの大家でもありながら、私は
その偉大さも知らぬままに受講生となった。おかげで翻訳の苦しさと楽しさを知り、また
小説を書く機会も与えていただき、すべてが私にとっては血となり肉となったと思う。(後略)
     (2005年7月)

竹本 祐子 

2011/07/08

手紙

 (前略) お手紙を書こうと思ったのは、この間、小さな講座や翻訳のワークショップをやったりするたびに「そういえば、あのとき中田先生は……」と思い出すことが多々あったのですが、去年から和光大学で女性学の授業をもつようになり、たくさんの若い人とつき合うようになって、ホントによく”中田教室”のことを思い出したのです。それはとても教訓に富んでいて、そうしてちょっぴりノスタルジック(あれから十何年たったなんて……)で。(中略)
 それはそれとして、実はもっと大切なことがあるんだな、とオソマキながら気がつきました。それは”肯定”ということ。若い人はホントにすごく才能があって、いいものいっぱい持っていて、そしてそれと正に反比例するように自信がない。自分はダメだと思っている……「昔の私」が重なりました。私も、あんなに才能や力を持ってたのにどうしてあんなにも”自分はダメだ”と思い込んでいたのだろう?……と。
 そんなときに必要なのは”肯定”なのだ、だから中田先生はあんなにいつも”君はすばらしい”といっていてくれたんだ、と。ホント、オソマキでお恥ずかしいですが、そんなことがやっと分かりました。それまで、私も親や教師に”もっと頑張れ”とばかり言われて”否定観”ばかり育っていて、そういう意味では中田先生が、きっと初めて私を”肯定”してくれたのでしょう。
 その後、私はフェミニズムに係わるようになり、イギリスではホントにいい体験をたくさんして、ちょっと翻訳とはそれてしまったのですが、気がつくと私もいつの間にか”肯定”を与える側になっているんですね。若い人たちに、”今時の女の子”はホント、力や才能をもってるなあーと、遊んでもらいながら思います。そういえば、中田先生はいつもそんなことおっしゃっていたっけなあ、とも。おもしろいですねえ。(後略)

 (2002年1月7日)
     初出 「NEXUS」No.33号

堀田 碧

2011/07/08

『私の好きな海外ミステリー・ベスト5』より

 
 四月の桜満開のある土曜日、大学時代の恩師の葬儀が三浦半島の葉山の古寺であった。
そこでたまたま、中田耕治氏にお会いし、帰りの逗子行きのバスのなかで,<ハヤカワ・
ミステリ・シリーズ>創刊のころの翻訳者たちの”おしん物語”を聞くことができた。四
十年前の貧乏話は、まるで落語の長屋噺のようにおもしろかったが、当時の現実のことと
してみれば、そうとうに悲惨な内容である。ちなみに中田氏は、シリーズ・5番バッター
のスピレイン『裁くのは俺だ』の名訳者でもあった。
 通称<ポケ・ミス>が創刊されたのは一九五三(昭和二八)年。その四十周年にあたる
昨年八月、総点数が一五〇〇点を越え、番号が一六〇〇番台に入ったことを記念して、全
点の総解説目録が発行されたことは周知のとおり。その誕生期にいかなドタバタ劇があっ
たにしろ――海外ミステリ(早川流では、音引きが脱落する)の翻訳でメシが食える時代
ではなかった当時を考えれば、なおさらのこと――四十年以上、いちどの切れめもなく
継続出版されてきたのは、驚嘆すべきことであろう。いま改めて総解説目録に目を通して
みながら、そのうちのわずか数点に編集者として、わずか数点に訳者としてかかわった身
として、感慨なきにあらずといったところである。
 (中略)じつをいうと、四月に他界された恩師というのは、モンティエ『かまきり』の
翻訳者でもあった斉藤正直氏なのだ。

    矢野浩三郎 『私の好きな海外ミステリー・ベスト5』
    メタローグ リテレール・ブックス 安原 顕 編 1994年7月刊

2009/05/19

中田先生のこと

 タカのように眼光鋭い人が入ってきた。
 これまでの人生で見たことのない眼だった。
 なぜ先生の眼が鋭いかを、授業が進むにつれ知ることになる。人を見通す眼なのだ。
 だから怖いはずなのに(そして実際に考えの足りなさや表現の貧しさばかりか、小さな枠から出られないでいる心の成長度合いまで見抜かれて、身の縮む思いをするのだが)、それでも先生に見てもらいたいと願う自分がいる。
 それは先生の人間を見る眼が温かいからだ。いろんなものが足りない人間であることを見抜かれているとわかっていても、安心感があるのだ。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     城福 真紀

2007/12/21

中田先生とわたし

 わたしがかくも貴重な時間を持つことができたのは、そして、いまも先生を恩師と呼ぶことができるのは、ひとえに中田先生の人間としての大きさ、度量の広さによる。先生の周囲にいらっしゃる人たちは百花繚乱――当時もいまも、じつに多彩で、多能だ。これこれこういうタイプ、とひと括りにすることはできない。とはいえ、各人が中田先生との縁(えにし)を唯一無二のものと思い定め、それぞれの道で日々精進されていることは想像に難くない。しかも、その活躍の場はどうやら日本だけにはとどまらないようだ。中田先生はそんなきら星のような人たちの中心で、燦然と輝いていらっしゃるのである。
     ―(中略)―
 舞台演出家としての先生も忘れてはならない。二〇〇二年のネクサス公演(三島由紀夫作『卒塔婆小町』、テネシー・ウイリアムズ作『浄化』)を観させていただいたとき、ふだんは「訳者」であるはずの人たちが、「役者」に変身されているのを目の当たりにして、驚きもし、感心もしたものだ。だが、そもそも中田先生のもとで翻訳を学んだ「訳者」なら――「ひたすらテキストを読むことで、テキストのうしろから、ひとりの人間が立ち上がってくる。それが「役」なのだ」という先生の授業を受けてきた生徒なら――「役者」がつとまっても、さほど不思議ではないのかもしれない。

(『nexus』No.46より抜粋)

     立石 光子

2007/12/21

中田耕治先生の教室

 いま思うと、信じるに足る師について学んでいる時間というのは、人生で至福の時なのではあるまいか。学ぶ側はめざすべき山を見上げ、一歩一歩あゆんでいけばいい。その一歩ごとに踏まれる道をつけておいてくれた山の気持ちなど思わない。決して追いつかれてはならず、のぼる者以上の速さで虚空へ伸びていかなければならない、教える側の苦しみと孤独も知らない。
 わたしたちはあの教室で毎回九十分間、じっと座っていた。花の中を、街の中を、ころころと笑いながらそぞろ歩いた。それでいながら、大きな山をのぼっていた。その幸福を、この頃しみじみと思い返す。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     青木 悦子

2007/12/21

中田耕治先生とわたし −−2007年 夏−−

 中田耕治先生には、人間に対する偏見がない。当然、好き嫌いはおありになると思うが、その個人がどのような時代に、どのような人間関係のなかで、どのように生き、なにを考え、なにを創りあげてきたのかを鋭い洞察力と観察眼で見抜いてゆく。厳しさと優しさを巧みに操りながら、人物の短所をあげつらうのではなく、華となり得る長所を探りだし、その根拠を論理的に解析していく。特に、さまざまな時代における女性たちの立場、生き方、恋愛感、性生活に関しては、あくまでフェミニストであり、女性に対する愛情と理解の深さには、いつも感動させられる。不遇な時代背景にありながら、果敢に文章を書きつづけた女流作家たちの生き様を見せつけられるにつけ、何ら制約のない現代という時代に生き、何もできていない自分が腹立たしく思えてくる。とはいえ、自分の身体(精神)に鞭打ってまで、という厳しい修行ができないところが、私の甘いところだろう。
     ―(中略)―
 アナイス・ニンという作家を深く知ることができたのも、私の人生観にとっては大きなことだった。知性的な作家でありながら、女でありつづけ、自由な恋愛感をつらぬいた生き方は、私の理想であり、憧れである。そして、アナイスもまた、人間に対する偏見がなく、他者を見る目はあくまで優しい。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     野澤 玲子

2007/12/21

中田先生とわたし

 何冊か訳書を出させていただくようになってからも、そうした記憶は、まるで魔女にかけられた呪いのように(失礼。『ハウルの動く城』を観た直後なもので)、私から離れない。原書に向きあうたび、何かあるたび、ふとした折りに、先生の言葉は、どうやら私の心の奥底に棲みついているらしく、むくむくっと頭をもたげてくる。

 もし、そうした記憶がなかったら、と思うと、正直怖い。東京を離れ、定期的に会う仲間もなく、右も左もわからないまま訳者の世界に飛び込み、必死で突っ走っていた数年間。もし、東京で勉強を始めていなかったら。もし、先生のクラスに入っていなかったら。もし、そこで前を行く人たちに出会っていなかったら。紆余曲折、いろいろあったけれど、それでもトータルで考えればどうにかこうにか今まで続けてこられたのは、そうした記憶があったから。それらの記憶の数々は無二の財産なのだと、あらためて思う。地球にいま生命があふれているのは数度の氷河期を乗り越えたことや木星との距離などいくつもの偶然の重なりによるものだと聞いたが、それに近いくらいの(ちょっとオーバー?)偶然性を感じたりする。訳者として持つべき姿勢。人の輪の大切さ。大阪のサマーセミナーで、先生を介して知りあった彼女は、今、得がたい友人のひとりになっている。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     野津 智子

2007/12/21

「中田耕治」という現象学

 今、中田先生の著作をアマゾンで探してみると、たちまち膨大な数の作品がヒットする。だけどそのうちのほとんどの作品が「No Image」になっている。本の画像が登録されていないのだった。
 先生はご自身の著書を愛しているとともに、いったん自分の手を離れた作品にまったく執着なさらない。作ることのみに全力を尽くすからこそ、出来あがった本を記念してコレクションなさるような趣味はまったく持っていない。忘れられればそれまでよ、そうとでもいってみたいに。
     ―(中略)―
 ただでさえインターネットという無機的な表現手段は、海を泳ぐ魚のように原稿用紙の隅々まで縦横無尽に表現されてきた先生のような方にはとても不便だと思う。でも、そのときそのときにそれさえも楽しんでいらっしゃるかのように見える。先生はご自身の内面で今という時代を実感し、その肌に刻みつけて生きている人なのだ。時にきびしい代償を払いながらも新しいなにかにつねに感動し、昇華しようと前を見つづけている。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     吉永 珠子 

2007/12/21

中田耕治先生へ

 一つだけはっきりとしていることがあります。中田先生にしごかれたことです。先生にいろいろ教えていただいたことは、わたしの中にちゃんと生きています。先生はいつも授業のときに「翻訳のことはきみたちには何も教えていない」とおっしゃっていました。でも、わたしは、そして先生の授業を受けたみんなも、先生から実にさまざまなことを教わり、翻訳家としての心構えをたっぷり叩きこまれました。それがわたしの中で、小さな自信につながっているのです。『翡翠の家』を翻訳していたとき、先生の声が常に聞こえたのは、わたしの中で先生の教えがしっかり息づいていたからです。だから今は、いつでも、どこにいても、仕事の依頼がきてもいいように、常に精進するしかない。地方にいるから翻訳ができないなどという甘っちょろい言い訳はせず、前向きにひたすらがんばるしかないと考えています。

 (『nexus』No.46より抜粋)

     高橋 まり子

 

2007/12/21

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