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久生 十蘭

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五木寛之

若き日の回想

 

 

 

 

■ 私の好きなヒロインたち Date: 2005-07-28 (Thu) 


「好きなヒロインをあげよ」といわれても困惑する。そんなことは考えたこともないから。
 たとえば、マリア・カラス、ビルギット・ニルッソン、レナータ・テバルディ、カバイヴァンスカ、カザルノフスカヤ、誰がいちばん好きかと聞かれたら、答えるけれど。
 あるいは、チェ・ジウと、ソン・イェジンと、イ・ナヨンで誰がいちばん好きか、といった質問なら答えられそうな気がする。
 それにしても、どれほど多くのヒロインたちにめぐりあってきたことか。「ナスターシャ」や「ソーニャ」たち、「エマ」や「ジャンヌ」たちにめぐりあうことがなかったら、私の人生はどう変わっていたか。彼女たちひとりひとりは、けっして私の期待を裏切らない恋人たちだった。
 私が好きになったヒロインたちは――現実の恋愛とはなんのかかわりもないもので、いわば夢の造形のようなものだった。もとより映画のヒロインたちにたいする関心は、女優たちにたいするあこがれと切り離せなかったけれど。

 私が思い出すのは、だいいちに『不良青年』のダニエル・ダリュー。
 ダニエルは戦前のフランスを代表する美女だった。『不良青年』は彼女のもっとも初期の映画で、はじめての主演作ではなかったか。内容はつまらないロマンスものでほとんどおぼえていないのだが、まだ十七、八の彼女がパリのアパッシュふうに男もののスーツを着こなしていた。ディートリヒの男装も見たことがなかった時期で、妖しい魅力に思わず息をのんだ。
 後年、私が「男装の女性史」を書いたのも、このときのダニエルの姿が心に刻まれたからだったと思う。ほんの一カットだが、シガレットを口にくわえて、こちらを見るまなざし。その彼女を思い出すと、いつも心がふるえた。
 戦後のダニエルは、ワキにまわったが、人生でさまざまな経験をかさねてきた女でなければ出せない何かが輝いていた。その意味で、彼女はまさに、フランス映画を代表する女優といってよい。
 せっかく美女をあげたのだから、グレタ・ガルボをあげておこうか。ただし、私のあげるのは『ニノチカ』のグレタ・ガルボなのだ。
 あまりに美貌で、非のうちどころのない美女を見ると笑い出したくなる。ブリギッテ・ニールセンのように、北欧的なブロンド、長身、おもざしのととのいすぎた女優には関心がない。だからガルボにも関心はなかった。『クリスティナ女王』や『椿姫』のガルボを見ると、いつも美人として生きなければならない女優さんは不幸だなあ、などと思ってしまう。
『ニノチカ』は違う。ジャック・ドヴァルの原作は、ソビエトの体制、官僚主義、どうしようもないオプスキュランティスムを風刺したものだったが、映画でほとんど笑ったことのないガルボが、この映画で不意に笑いはじめるシーンがすばらしかった。コメディエンヌとしての資質をもっていた女優だが、ガルボはまもなく映画から去ってしまった。映画だけではなくアメリカという「現実」からも。
 ガルボがはじめて主演した映画は、G・W・パプストの『喜びなき街』だった。第一次大戦の「戦後」の暗い世相を描いた映画だった。この映画に、まったく無名のマルレーネ・ディートリヒが出ていて、一瞬、ガルボとすれ違うシーンがある。これを「発見」したとき思わず目を疑ったことを思い出す。

 ディートリヒなら『鎧なき騎士』を選ぶことにしよう。『モロッコ』は映画史に残る作品だが、マルレーネがもっとも美しかったのはフェーデルの『鎧なき騎士』だと思う。革命が起きて、内戦にまきこまれた貴族の令嬢が農民の娘に身をやつして脱出をはかるといった映画だが、後年の『ドクトル・ジバゴ』や『帰郷』よりもずっと緊迫感がみなぎっていた。私はフェーデルを尊敬している。『舞踏会の手帳』のジュリアン・デュヴィヴィエが好き。ジャン・ルノワールにはそれほど感心しないのだが。
 さて、きみは私がそろそろマリリン・モンローをあげるだろうと思っているに違いない。マリリンについてはさまざまな機会に書いてきたが、ヒロインとしてのマリリンには記憶に足りるほどの映画がない。こんなことを書くと私の読者はおどろくだろうなあ。
 私がマリリンをあげるとすれば、『人生模様』、『アスファルト・ジャングル』のマリリンだろう。イノセントなフレグランスを感じさせるから、この時期のマリリンが好きなのである。

 ぜったいにあげておきたいのは、『望郷』のミレイユ・バラン。
 わが国では『望郷』以外、ほとんど知られていない女優である。しかし、シャリアピンの映画『ドン・キホーテ』に十七歳で登場した彼女は、ダニエル・ダリューより前の世代――ルネ・サン・シール、イヴォンヌ・プランタン、エドウィージュ・フゥイエールなどの世代のスターと見てよい。
『望郷』のラスト、ミレイユはマルセーユにむけて出航する汽船の甲板からアルジェを眺めている。恋人のペペ・ル・モコの叫びに汽笛の音がかさなって、思わず耳をおおってしまう一瞬のミレイユ。彼女の姿は私の心から永遠に消え去ることはない。

 おびただしい映画を見てきた。つまり、さまざまな女の愛の姿を見届けてきたような気がする。『獲物の分け前』のジェーン・フォンダ。息苦しいほどエロティックな愛。『巴里祭』のアナ・ベラ。可憐な花売り娘の愛。あるいは、『殺意の夏』のイザベル・アジャーニの狂気の愛。『天井桟敷の人々』のマリア・カザレスの報われない愛。
 もうひとり、あげるとすれば、『男と女』のアヌーク・エイメだろうか。
いつか私は書いたのだった。ひとはときとして愛するひとのなかに永遠をもとめる、と(「フリッツィ・シェッフ」)。 愛はある情緒(エモーシォン・パルティキュリエール)のなかに永遠をかいま見ることにほかならない。だから、ほんとうの愛がいつまでもつづくことを心のどこかで、ほんのわずか信じたとしても無理からぬことだろう。
だが、『男と女』のアヌーク・エイメとトランティニアンの恋のように、そうした愛がつづくことはない。男と女の関係が終わったとき、彼や彼女は――長くつづく真実の感情がもてないのかもしれないと思わなかったのだろうか。そんな疑問が胸をかすめる。つまり、自分の無能力になぜか罪の意識をおぼえてしまうようなことはないのだろうか。そこからもう少し先には、相手がほんとうに自分を愛してくれていたのか、という疑いが待ちうけていることにならないのだろうか。

 イザベル・アジャーニなら『カミーユ』か『アデルの恋の物語』をあげてもいい。どちらも、はげしい狂気にも似た愛の傷みを描いているから。アナベラなら『夜間飛行』の彼女が好きだが、「ヒロイン」としては『地の果てを行く』の「アイシャ」をあげるだろう。異国の女のはげしい愛の姿を見せてくれたから。

 アメリカ映画から選ばないわけにはいかないだろう。『死の谷』のヴァージニア・メイヨ、『ファウル・プレイ』のゴールディー・ホーン、『約束』のジャクリーヌ・ビセット、『ネイキッド・タンゴ』のマチルダ・メイ。
 こうしてあげてくると、とてもあげきれなくなってくる。同時に、ほんとうにあげたいのは別の女たちなのだという気がしてくる。
 オースン・ウェルズが出ていた『フェイク』で、ピカソの「恋人」の役で出ていた女優さん。名前は忘れた。異様な存在感のある女優だった。ずっと注意しているのだが、もう二度とめぐり会えない。
『ロリ・マドンナ戦争』のシーズンズ・フューブリー。
 もともとはモデル出身で、映画女優としてはうまくいかなかったらしい。ずっとあとになって、カート・ラッセルの近未来SFに端役で出ていた。私は胸を衝かれた。
『ダウンタウン物語』のフロリー・ダガー。それに、『セイ・エニシング』のアイオン・スカイ。もっとも誰も知らないだろう。とくにフロリー・ダガーは――いっしょに出ていた少女、ジョディ・フォスターがスターにのしあがって行っただけに、私としてはフロリーが伸びなかったことが残念なのだ。共演したスコット・バイオでさえ、今でもテレビ映画でたまに見かけることがあるのだが、ゆたかな才能に恵まれながらフロリーは少女のまま消えていった。果たしてどういう道を選んだのか。
『セイ・エニシング』のアイオン・スカイも知らないひとが多いだろう。監督は『リッチモンド・ハイ』や、若い女性のセックスへの強烈な関心を描いた『シングルズ』のキャメロン・クロウ。この映画では、若い俳優だったジョン・キューザックとアイオン・スカイが共演していた。アイオンはサリー・フィールズ系の美少女だが、思春期の少女らしいみずみずしさが印象的だった。その後しばらくロマンスものの映画に出ていたが、やはり消えてしまったのかも知れない。そういえば、『小さな唇』のカティア・バーガーもその後の消息を聞かない。


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